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2021.11.24(wed) 隋書倭国伝(1) 
 〈推古天皇紀〉十五年~十六年に、遣隋使のことが載る。その事実の推移は『隋書』と基本的には噛み合うと見てよいが、重要な相違点もある。 両者を適切に突き合わせるためには、隋書についても記述の信憑性の程度を評価する必要があり、そのためには部分的な引用にとどまらず、 倭国について書かれた全体を正確に読解することが欠かせない。
 そこで、ひとまず隋書の関連部分を精読する。

【隋書】
 は、楊堅(初代皇帝文帝)が581年に北周の静帝から禅譲されて成立、589年に南朝最後の王朝陳を倒して中国の分裂に終止符を打つ。 618年に煬帝が殺されて隋は滅び、唐が建国された。
 『隋書』は清の乾隆帝によって中国の正史と規定された「二十四史」の第十三に位置づけられ、本紀5巻、志30巻、列伝50巻からなる。 唐太宗の勅撰で、636年に魏徴によって本紀5巻、列伝50巻が完成。志30巻は高宗の656に長孫無忌によって完成された。
 列伝第四十六「東夷」に、 高麗百済新羅靺鞨琉求に続いて倭国が載り、この部分が「隋書倭国伝」と呼びならわされている。
隋書(武英殿二十四史)
(乾隆四年〔1739〕校刊)
中国哲学書電子化計画
《訓読》
 上代語あるいは古訓体〔平安〕を用いることも可能であるが、漢籍であるからその必然性は全くない。 かと言っていきなり現代口語を用いることも違和感があり過ぎるので、室町~江戸頃の文語体を用いることにする。

【倭国在百済新羅東南】
隋書〔太宗〔李世民〕の勅撰。636年完成〕卷八十一;列傳第四十六 東夷/俀国
俀國
俀國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山島而居
魏時譯-通中國三十餘國皆自-稱王
夷人不里數但計以
其國境東西五月行南北三月行各至於海
其地勢東高西下
都於邪靡堆則魏志所邪馬臺者也
倭国
倭国は百済・新羅の東南水陸三千里に在り、[於]大海之中に山島に依りて[而]居す。
魏の時中国に訳通するは三十余国、皆王を自称す。
夷人里数を知らず、但(ただ)計るに日を以(もち)ゐる。
其の国境、東西五月行、南北三月行、各(おのおの)[於]海に至る。
其の地勢東に高く西に下る。
都を邪靡堆(やまたい)に於(お)き則(すなは)ち魏志に邪馬台と謂ふ所の者(もの)也(なり)。
俀國…もともと写本の一つによるものか。「倭国」とする刊本も多い。
古云
去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里會稽之東儋耳相近
漢光武時遣使入朝自-稱大夫
安帝時又遣使朝貢謂之俀奴國
桓靈之間其國大亂遞相攻伐歷年無
女子卑彌呼能以鬼道眾於是國人共立為
男弟卑彌〔呼〕
其王有侍婢千人罕有其面
唯有男子二人王飲食-傳言語
其王有宮室樓觀城柵皆持兵守衞為法甚嚴
魏至于齊梁代中國相通
古(いにしへ)に云ふ。
楽浪郡(らくろうぐん)の境を去り帯方郡(たいほうぐん)に及び一万二千里に並べて会稽之(の)東に在り儋耳与(と)相近し。
漢光武の時、遣使入朝し大夫を自称せり。
安帝の時又遣使朝貢し、之を倭奴国(わのなこく)と謂ふ。
桓霊之間其の国大きに乱れ逓(たがひ)に相(あひ)攻め伐ち年を歴(めぐ)りて主無し。
女子有り卑弥呼と名(なづ)け能(よ)く鬼道を以て衆を惑はし、於是(ここに)国の人共に立て王と為(な)せり。
男弟有り卑弥呼を佐(たす)け国を理(をさ)む。
其の王、侍婢千人を有(ゆう)し、罕(まれ)に其の面(かほ)を見る者有り。
唯男子二人有り、王の飲食を給し言語を通し伝ふ。
其の王宮室、楼観、城柵を有し、皆兵(つはもの)を持ち守衛し、法(のり)甚(はなはだ)厳(きびし)と為す。
魏自(より)[于]斉梁の代に至り、中国与(と)相通ず。
●北史のこの部分には、魏志・隋書を参照しての書き加えがある(【北史との比較】1)
会稽…北緯24~30度の東シナ海沿岸(「魏志倭人伝をそのまま読む」第40回)。
儋耳…現在の海南島に、耳郡・珠崖郡が置かれていた(「魏志倭人伝をそのまま読む」第40回)。
安帝時…『後漢書』巻85倭「建武中元二年〔57〕。倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。
桓霊…後漢書にいう桓帝・霊帝の時代〔146~189〕(「魏志倭人伝をそのまま読む」第61回)。
逓()…[副] たがいに。
…[形] まれ。
…三国の魏。
斉梁…南北朝時代〔439~589〕、南朝には宋・斉・梁・陳が興亡した。
《東西五月行南北三月行》
 隋書においては倭国の地理は東西に長いと認識し、「会稽之東儋耳相近」説は古い時代の伝説として、そこからは脱却している。 魏志の時代でも実は既に邪馬台国は筑紫の東方にあったとは認識されていたが、結局古来の「会稽之東」なる伝説と一貫性を保とうとして「東至邪馬台国」を敢えて「南至邪馬台国」に変える細工をしたと考えられる。
《邪馬臺國》
 「中国哲学書電子化計画」にある隋書の影印本ではどれも「魏志所謂邪馬臺〔臺=台〕となっており、魏志にもともと「邪馬臺國」と書かれていたことはここからも明らかである。 よって、紹興本・紹煕本の「邪馬壹國」が筆写誤りであるのは確実である(魏志倭人伝をそのまま読む)。
《魏志・後漢書との関係》
 ここまでの内容は、多くの部分が魏志を踏襲していると見られる。但し、安帝桓帝霊帝の名は魏志にはなく、後漢書にある。 後漢書の編纂は三国呉のときに始まったとされるが、現在の『後漢書』は、「志」を西晋〔265~316〕の司馬彪、「本紀」「列伝」を南朝宋〔420~479〕の范曄が著したもの。 よって、安帝と桓霊の記事は後漢書によったのだろう。ただ、魏志に書かれずとも『魏略』にはあったかも知れない。
《斉梁代》
 南朝は420~479年。は479~502年。は502~557年。
 『宋書』巻九十七 列伝第五十七 夷蛮:「倭国」によれば、〔425〕安東将軍倭國王〔451〕使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東将軍〔478〕使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭王
 『梁書』卷五十四 列傳第四十八 諸夷:「倭」の項には、 の建元年間〔479~482〕に「持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大将軍」への進号、 建国の年〔502〕に「征東将軍」への進号が載る (倭の五王)。
 この時期のことは隋書ではほとんど省略され、「中国相通」と書かれるのみである。
《大意》
 倭国は百済・新羅より東南に水陸三千里行ったところにあり、大海の中に山島に依って居住する。 魏の時代、中国に訳を通ずる国三十余国、皆王を自称する。
 夷(ひな)の人は里数を知らず、ただ日数を用いて計る。 その国境は、東西五月行、南北三月行で、それぞれ海に至る。 その地勢は東が高く西に向かって下る。 都を邪靡堆(やまたい)に置き、すなわち三国志魏志に邪馬台と記すものである。
 古(いにしえ)に云ふ。 楽浪(らくろう)の郡境から、または帯方(たいほう)郡から一万二千里にあり、会稽(かいけい)の東にあり儋耳と相近い。 漢の光武帝〔在位〔以下同〕25~57〕の時、遣使が入朝し大夫を自称した。 安帝〔106~125〕の時、また遣使朝貢し、これを倭奴国(わのなのくに)という。 桓帝(かんてい)〔146~168〕霊帝〔168~189〕の間、その国に大乱があり互いに相攻伐し歴年主を欠いた。
 女子がいて名前を卑弥呼といい、鬼道をもってよく衆を惑わし、そこで国の人は王として共立した。 男弟がいて卑弥呼を補佐し国を統治した。 女王は、侍婢千人を有し、その顔を見る者は希であった。 ただ男子が二人いて、女王の飲食を給し言葉を間接的に伝えた。 女王は宮室、楼観、城柵を有し、皆武器を持って守衛し、規律は甚だ厳格であった。
 魏から斉〔479~502〕〔502~557〕の代に至り、中国と相通じた。


【開皇二十年倭王遣使】
開皇二十年
俀王姓阿每字多利思比孤※1號阿輩雞彌遣使詣
-令所司其風俗
使者言
俀王以天為兄以日為弟
天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務我弟
高祖曰此太無義理
於是訓令改
開皇(かいこう)二十年。
俀王、姓(せい)阿每、字(あざな)多利思比孤(たりしひこ)、号(がう)阿輩雞彌(あへきみ)遣使し闕(けつ)に詣(いた)す。
所司に上令し其の風俗を訪(たづ)ねしめ、
使者言はく。
「倭王天(あめ)を以て兄と為(し)日(ひ)を以て弟(おと)と為(す)。
天未(いまだ)明らざる時に出(い)で聴政(ちやうせい)に跏趺坐(かふざ)し、日出でて便(すなはち)理務(まつりごと)を停(や)め我が弟に委(ゆだ)ぬと云ふ」といひて、
高祖「此(これ)太(はなはだしく)義理無し」と曰ひて、
於是(ここに)訓令し之(こ)を改ましむ。
※1 多利思比孤 「比」原作「北」,據北史倭國傳、通典一八五、通鑑大業四年改。下同。 wikisourceによる注釈〕
●北史のこの部分には、隋書による書き加えがある(【北史との比較】2)
開皇…隋朝最初の年号。二十年〔西暦600〕は、推古八年。
…[名] 宮門。転じて宮殿。
上令…〈汉典〉 国君的政令。
跏趺…〈汉典〉 ①仏教中修禅者的坐法:両足交叉置于左右股上…。②泛(あまねく)指静坐、端坐。
高祖…隋の初代皇帝楊堅の廟号〔先祖に列するときの称号〕
王妻號雞彌後宮有女六七百人
太子利歌彌多弗利
城郭
內官有十二等
一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮
次小禮次大智次小智次大信次小信
員無定數
軍尼一百二十人中國牧宰
八十戶置一伊尼翼如今里長也
十伊尼翼屬一軍尼
王の妻雞弥(きみ)と号し、後宮に女六七百人有り。
太子を名づけ利〔和〕歌弥多弗利(わかみたふり)と為す。
城郭無し。
内官に十二等有り。
一(はじめに)大徳と曰ひ、次に小徳(せうとく)、次に大仁(だいにん)、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大礼(だいらい)、
次に小礼、次に大智、次に小智、次に大信、次に小信といひ、
員に定まりたる数無し。
軍尼(くに)一百二十人有り、猶(なほ)中国の牧宰(ぼくさい)のごとし。
八十戸に一(ひとりの)伊尼翼〔冀〕(いねき)を置き、今の里長(さとをさ)の如し[也]。
十伊尼翼〔冀〕、一軍尼に属(つ)く。
牧宰…〈汉典〉「泛〔あまねく〕指州県長官。州官称牧、県官称宰。」 すなわち、州牧(州長官)と県宰(県長官)の総称。
《姓阿每氏多利思比孤号阿輩雞弥》
 阿每多利思比孤アマタラシヒコアメタラシヒコ〔天帯日子〕雞弥キミ〔王、君〕は確実であろう。
 「阿輩」は一般にオホと解釈されている。これに関しては、〈稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣〉の「意富比垝」(オホヒコであろう)の方が発音が近い。 金錯銘鉄剣の文字は中国人が音写して書いたものではあろうが、倭に在住していたからより実際の発音に近いと思われる。 それに対して隋人にとっては「オホ」は初めて聞く言葉だから、「阿輩〔アヘ〕と聞き取ったと考えることができる。
 ただ、氏の名としてアヘは実際に存在していたから、ここでは個人名のアヘかも知れない。
 それでもこれはやはりオホキミで、なぜなら隋の人はこの言葉を初めて聞いたからだとも考えられる。 そして、倭王阿每多利思比孤の号〔個人名〕だと誤解したのかも知れない(下述)。
《天未明時出聴政》
 「天未明時出聴政…」はかなり意味が取りにくい。それでも何とか解釈を試みると、
 天皇〔この時代はまだオホキミ〕は未明に政務をとり、日の出前に終える習慣になっている。
 天地開闢以来しばらくは暗黒で天の神が支配していたが、太陽神である天照大神が出現して支配者の座を譲った。
 などが考えられる。「聴政跏趺坐」「理務」の語からはが、「以天為兄以日為弟」からはが思い浮かぶが、どちらも文全体に適用するとうまくいかない。
 天皇が昼間に政務にあたることを避ける必然性はなかなか見いだせないので、 実際の言葉はどちらかというとに近かったと見るべきか。 これを通訳がうまく訳しきれなかったために意が伝わらなかったと考えるのが、妥当かと思われる。
《此太無義理》
 皇帝楊堅は所司から「天未明時出聴政…」なる言葉を伝え聞いて、「此太無義理」=言っていることの意味が分からないから、「訓令改之」=もう一度聞き直して来いと命じたのであろう。 指示詞「」は、所司が使者から聴取することを指すと見られる。この部分は、倭使のげんの正式な記録というよりは、ひとつのエピソードの紹介と読み取るべきだろう。
《阿每多利思比孤》
 遣使した開皇二十年及び大業三年は推古天皇だったのに、阿每多利思比孤〔天帯日子〕男子名であることは悩ましく、様々な解釈がなされてきた。 中には、中国では皇帝は男子であるから倭王も男子でないと相手にされないと思い性別を偽ったのではないかという説も見る。
 ここでその真実を探ってみよう。まず、倭王に関する記述は三か所にある。
 :(開皇二十年)姓阿每氏多利思比孤号阿輩雞弥
 :(同上)王妻号雞弥
 :(大業三年)其王多利思比孤
 注目されるのは、「阿輩雞弥」が口頭で発せられたと見られたことである。文書中では倭王の表現は「日出処天子」であり、「大王」が出てこなかったのは確実である。もしこの字が文書中に書かれていれば、阿輩雞弥とは書かないだろう。 当時の隋の人は「オホキミ」と聞いてもその意味が「大王〔the King of kings〕であることを知らず個人名だと受け止め、そのまま音写したと見られる。
 倭使は口頭で「天帯日子の妻君(ツマギミ)が大王(オホキミ)となり…」のように説明し、通訳はオホキミを倭語のままにしたと考えられる。 もしこう言ったとすれば、阿每多利思比孤は敏達天皇である。 そして、隋の人は 「王阿每多利思比孤 其妻雞弥 号阿輩雞弥」のように記録したのではないだろうか。 上記《天未明時出聴政》の項で、倭使の言葉が誤って伝わったことを見た。ここでも倭使の言葉が正確に伝わらなかった可能性がある。
 後年隋書を編纂する際、執筆者はこの記録を参照して、倭王の号が阿輩雞弥であると読み取ったのではないか。 そして執筆にあたって、:「倭王号阿輩雞弥」、:「王妻号雞弥」に文を分けた。 に関しては、記録では「倭王」だが、執筆者が既に倭王=多利思比孤だと思い込んでいたのなら、ここでこのように書くのは自然である。
 要するに、当時の隋の人はオホキミの意味を知らず、記録もメモ程度だったからこうなったのではないかと想像される。
《多利思比孤「比」原作「北」》
 wikisourceの注釈は、隋書には「多利思北孤」とあるが、北史・通典・通鑑の「多利思比孤」が正しいと述べる。それぞれ確認すると、
●『北史』〔北朝(北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋)の通史。659年に正史として公認〕列伝九十四「倭」
 「大業三年、其王多利思比孤遣朝貢。
●『通典』〔766~801〕卷一百八十五:「邊防一 東夷上」/倭
 「隋文帝開皇二十年。倭王。姓阿每。名多利思比孤。其國號阿輩雞彌。華言天兒也。遣使詣闕。〔…名は多利思比孤。その国「阿輩雞彌」と号(なづ)くは、華言〔中国語〕の天児〔=天子〕なり。…〕
 ここでは「阿輩雞彌」が中国の天子〔=皇帝〕に相当すると付記するから、「阿輩雞彌」をオホキミの音写ととらえているのは確実である。
●『資治通鑑』〔1084成立〕
 「煬皇帝上之下大業四年。三月壬戌。倭王多利思比孤遣使入貢。
 また、新唐書にもある。
●『新唐書』〔1060成立〕列伝第一百四十五「東夷」/日本
 「用明。亦曰目多利思比孤。直隋開皇末。始與中國通。
 「目」は誤りであろう。『新唐書』は書記も資料として用い、ヒコ問題の解決策として遣隋使の派遣を用明朝に繰り上げたと見られる。
《後宮有女六七百人》
 これは、倭使が少し昔の敏達天皇の時代〔572~585年〕について述べたものと考えることができる。 敏達天皇は14年間在位し、4人の皇后・妃との間に16人の皇子皇女を設けている。
 ただ、「六七百人」は、使者が隋の宮殿の壮大さを見て驚き、見栄を張るために大袈裟に言った可能性もある。
 敏達天皇の幸玉宮の候補地とされる他田(をさだ)庄あたりで(第240回)、 いつか宮殿・後宮の柱穴が発掘されることもあるかも知れない。
 一方、次項で見るように、池辺双槻宮(用明)付属の後宮も考えられる。
《利歌弥多弗利》
 ""から始まる上代語はひとつもないので、一般的に「」は「」の誤りであろうと言われている。「和歌弥多弗利」(わかみたふり)は、 源氏物語の「わかむどほり〔ワカンドホリとも〕の兵部大輔」(末摘花)、「わかむどほり〔ワカンドホリ、ワカウドホリとも〕」(乙女)との同一性が指摘されている。 この「わかみどほり(稚御通)」は貴人の血筋を意味するから、隋書のワカミタフリも皇子もしくは皇太子を指していたと言われる。 ワカは「王家」(ワウケ)の変という説も見るが、初期の天皇の名前などを見ると、祖にオホ、後継にワカの接頭辞が広く見られるので、こちらであろう。〕
 ただ、隋書と源氏物語との間には400年の隔たりがあり、同一の語とは断定し難い。 もし、その期間の未発見資料から一例でも見つかれば可能性は高まるだろう。
 太子の件の前後には妃・後宮・城郭・内官が述べられ、宮廷のことを書いた部分の間にあるから皇太子は倭王の宮廷に住んでいたと読み取れる。 〈推古〉元年の「父天皇愛之令宮南上殿」(245回)は、 用明天皇が厩戸豊聡耳命〔=聖徳太子〕を愛で、皇居の南隣に宮殿を建てて身近に置いたと読めるので、多利思比孤=用明和歌弥多弗利=聖徳という解釈も成り立つ。
 用明の池辺双槻いけのへのなみつきの宮は磐余池の畔で、履中・清寧・継体も宮としたので恒常的な宮殿があったと想定される。 そこに、大規模な後宮も付属していたのかも知れない。
 この場合、「」は穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこということになる。
《無城郭》
 この時期に検出される建物跡は掘立柱建造物で、城郭はないというのは実際に合っている。「十伊尼翼属一軍尼」までは、一応「使者言」の言葉の続きと思われ、「無城郭」もその中にある。
《内官十二等》
 冠位十二階がここに出て来るということは、隋書倭国条に推古帝の時代の歴史書としての現実性があることを物語っている。 したがって、「阿毎多利思比孤」の名も決して現実から遠いものではなく、一定の確実さを見なければならない。
 ただし順序が異なり、〈推古紀〉十一年では「徳仁礼信義智」であるのに対して、隋書では「徳仁義礼智信」である。
《軍尼・伊尼翼》
 「軍尼」は郡(クニ)だと言われている。また「伊尼翼」は伊尼の誤りで、稲置(イナキ)であろうと言われる。 稲置はかばねとなったが、古くは地方を治める職名である。〔起源は、納税のために稲を置く邸宅の意味だと思われる。〕 里長の倭訓はサトヲサで、表記は中国と共通である。大宝令以前はサト五十戸と書き、「八十戸」に似た規模である。 だからもともとの稲置の支配域は程度であろう。
 〈倭名類聚抄〉を見ると、一つの郡は十郷前後だから、「郡—郷」の階層は「軍尼-伊尼冀」に対応すると言える。 畿内五国の郡を合計すると53郡だから、大和朝廷のころの国土の範囲なら「一百二十軍尼」はありそうな数だがやや少なめである。 「里長」と書き添えるから、この部分はまだ「稲置」と呼ばれた古い時代の話かも知れない。
《大意》
 開皇(かいこう)二十年。
 倭王、姓(せい)阿每(あめ)、字(あざな)多利思比孤(たりしひこ)、名前は阿輩雞彌(おおきみ)は、遣使して闕(けつ)〔宮殿〕を訪れさせた。 皇帝は所司に上令し、その風俗を尋ねさせたところ、 使者はこのように言った。
 「倭王は天を兄とし、日を弟とする。 天は未明の時に出て政(まつりごと)を行い、跏趺坐(かふざ)〔禅坐〕していて、日が出れば政務をやめ私の弟に委ねるという」
 高祖は「これは、義や理のないこと甚だしい〔理解不可能である〕」と言い、 改めて聴取せよと訓令した。
 王妻は雞弥(きみ)と号し、後宮には女が六七百人がいる。 太子の名は和歌弥多弗利(わかみたふり)という。 城郭は無い。
 内官には十二等があり、 第一に大徳(だいとく)、続けて小徳(しょうとく)、大仁(だいにん)、小仁、大義、小義、大礼(だいらい)、 小礼、大智、小智、大信、小信といい、 員数は定まっていない。
 軍尼(くに)一百二十人があり、中国の牧宰(ぼくさい)のようなものである。 八十戸に一人の伊尼冀(いねき)を置き、今の里長(さとおさ)にあたる。 十人の伊尼冀(いねき)が一人の軍尼に属す。


【天多利思比孤とは誰か】
 天多利思比孤(アメタラシヒコ)は男子名である。 孝昭天皇の皇子に天足彦国押人命〔記は天推帯日子命〕が見える。タラスは、四段の「垂る」の未然形+軽い尊敬の動詞語尾「」と見られる。 天孫降臨の意と見られ、しばしば別名または接頭辞として用いられていたと考えられる。よって、敏達天皇または用明天皇の別名にアメタラシヒコがあったとしてもそれほど不自然ではない。
 この人物と天皇との関係について、これまで考えて得られた可能性は、
 はじめに、使者は倭王を「天帯日子(敏達天皇)の妃であった大王〔推古〕」だと話し、それが誤解されたと見た。
 一方、用明天皇とする考えも成り立ちそうである。
 これは厩戸皇子を天皇の近くに置いたことに合致し、磐余池の畔に常設されていた宮殿に大規模な後宮が付属されたと考えることができると見た。 この場合、「天帯日子(用明天皇)のが大王〔推古〕」と言ったことが誤解されたことになる。
 である。さらには、
 より単純に「天帯日子(降臨した天孫)の血統の大王」と言ったことが、「姓アメ字タリシヒコ号オホキミ」と歪曲されたとも考えられる。
 一方、実際には聖徳太子が「天皇」〔当時の呼称はオホキミであったから、しばらく括弧付きとする〕とすると辻褄が合いそうである。
 実際にはオホキミは空位で、推古「天皇」は代行者であった〔飯豊女王による臨朝秉政のようなもの(顕宗天皇即位前)〕。 そこで外交においては、形式上の「天皇」として用明天皇を用いた。
 そもそも「天帯日子」は「天皇」の神性を示す称号で、「天皇」の性別を超えたものであった。よって、多利思比孤は推古「天皇」である。
 「開皇二十年」は誤りで、実際に遣隋使が来たのは用明天皇が在位した開皇五~七年〔585~587〕である。
 などが考えられる。
 これらのうちは、実際に太子が「天皇」として統治していた痕跡を見出すのは難しい。 記紀では摂政に留まっている。 記紀より古い時代の認識を反映すると考えられる『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』でも推古が「天皇」で、太子は一貫して皇子である。 〔なお、同書で御食炊屋姫を大大王と呼ぶのは、厩戸皇子=大王を越えた存在であったためと考えられるが、この場合の大王は皇子への呼称である。 王(キミ、皇子の意)への美称として、オホを付け加えてオホキミと呼ぶ場合がある〕
 『上宮聖徳法王定説』には記紀が無視した詳細な系図が載り現実性があるが、ここにも「天皇」を匂わせる雰囲気はない。
 このように、「厩戸皇子=実は「天皇」」説を示唆する材料はなかなか見出せない。 さらに説では、和歌弥多弗利は山代大兄王となるが、 ここの王妻と太子は穴穂部間人皇女厩戸皇子を特筆したと見た方がよさそうである。
 さて、もしだったとすれば、完全に解決する。『新唐書』の判断はこれに近いようである。 同書は「開皇二十年」の「二十年」を省くが「末」とするから、書紀側にも年代誤りがあると考えたようである。 しかし、年が誤っていたか否かは他に確実な資料がない限り検証のしようがない。
 ③⑥については、さすがに「多利思比孤」が個人名であったのは確かだと思われるので除外したい。
 そもそも、「阿毎多利思比孤」(天帯日子)も「阿輩雞彌」(大王)も音写なので上表文に書かれた文字ではなく、使者の口頭の言葉である。 隋人にとっては初めて聞くことが多く、オホキミが倭王を意味する認識もなかったと思われる。 高祖が「義理無し」と言ったように、使者の語ったことが正確に伝わっていたとは限らないのである。
 よって、実際には使者がどういう言葉を述べたのかは分からないが、それを聞き誤ったと見たまたはがよさそうである。 とりわけ、王妻・後宮・太子の件は用明の時代に親和性が感じられるので、が妥当ではないかと思う。大した根拠にはならないが、皇后の間人穴太部王〔記の表記〕を「はしひとあなほべきみ」と読めば、「妻号雞弥(きみ)」に一致する。
 ただ、形式上用明「天皇」の御世の続きとするもあり得るかも知れない。 これなら御食炊屋姫(推古)については最高権力者の立場は維持されるし、聞き間違えを前提とする必要もなくなる。

まとめ
 推古天皇であるべき倭王の名が、「姓阿每氏多利思比孤号阿輩雞弥」になっている。これには著しい違和感があり、隋書倭国伝全体が異国から空想的に書いた書だと感じてしまうのも無理はない。 しかし、一字一句漏らさないようにして全体を精読すると、それなりに現実に噛み合っている。
 まず、文章にはいくつかの音写を含むから、使者の言葉を聞き、しかしそれを必ずしも正確に理解しない状態で文章が組み立てられた可能性が見えてくる。 ただ、開皇二十年〔とは限らないが、その頃〕の倭王からの遣使自体は史実だと見てよいだろう。
 冠位十二階についても、順序はともかくそれぞれの冠位名は正しいから、倭のことは全般において概ねありのままに伝えられたと見てよい。
 実際の遣使の時期は用明在位中かも知れないし〔上記、崩じた後の正式には誰も即位していない時期だったかも知れないし、 用明から現在のオホキミ(推古)に継承されたと使者が言ったことが正しく伝わらなかったのかも知れない。 しかし、逆に言えばこの三通りにまで絞り込むことができたのだから、上出来と言ってよいであろう。
 また、宮殿について書かれているのは上述したように用明天皇が磐余池の畔の宮殿で執政した時期のことで、 そこは恒久的な宮殿の地であり大規模な後宮が付属し、隣接して厩戸皇子が生まれてからしばらく過ごした宮殿があったと考えておきたい。



2021.12.03(fri) 隋書倭国伝(2) 

【服飾/畳/武器/音楽】
其服飾
男子衣裙襦其袖微小履如屨形其上之於脚
人庶多跣足金銀上レ
故時衣橫幅結束相連而無
頭亦無冠但垂髮於兩耳上
隋其王始制冠以錦綵之以金銀鏤花
婦人束髮於後亦衣裙襦皆有
其の服飾(ころものさま)は、
男子(だむし)裙襦(くんじゆ)を衣(き)て其の袖(そで)微小(みぢか)し。履(はきもの)屨(くつ)の形の如く其の上に漆(うるし)ぬり、之(これ)を[於]脚(あし)に繫(つな)ぐ。
人庶(もろもろのひと)跣足(せんそく)多し。金銀を用ゐて飾りと為(す)ることを不得(えず)。
故(ふる)き時、衣の橫幅を結束し相連ねて[而]縫(ぬ)ふこと無し。
頭(かしら)に亦(また)冠(かうぶり)無く、但(ただ)髪を[於]両(ふたつ)の耳の上に垂(た)れき。
隋に至りて、其の王(わう)始めて冠を制(さだ)め、錦綵(めんさい)を以て之と為し、金銀鏤花(るか)を以て飾りと為(す)。
婦人髮を[於]後ろに束(つか)ねて、亦(また)裙襦を衣(き)る。裳(しやう)に皆襈(せん)有り。
裙襦…〈汉典〉 ①裙子与短襖。 ②借指婦女
…〈汉典〉 「一種囲在腰以下的服裝〔一種の腰を囲む、以下のような服装〕:~子。~釵。筒~。連衣~。百褶~。[英]skirt,apron,petticoat
…〈汉典〉 襦、短衣也《説文》。
…[名] わらや麻を編んだくつ。
跣足…素足。
…[名] 染め模様の美しい絹。あやぎぬ。
…[動] 散りばめる。きざむ。
…[名] 長いスカート上の衣服。も。
(せん)…[名] 袖口や裾につけるフリル。
竹為
草為薦雜皮為表緣以文皮
弓矢刀矟弩䂎斧
漆皮為甲骨為矢鏑
兵無
其王朝會必陳-設儀仗其國樂
戶可十萬
竹を攕(けづ)り梳(くし)に為(つく)る。
草を編み薦(むしろ)を為(つく)り、雑皮(ざふひ)を表(おもて)と為(な)し、縁(ふち)に文皮(あやかは)を以(もち)ゐる。
弓矢(ゆみや)刀(たち)矟(さく)弩(ど)䂎(さん)斧(をの)有り。
漆皮を甲と為し、骨を矢鏑(やさき)と為す。
[雖]兵(いくさ)あれど戦(たたかひ)に征(ゆ)こくと無し。
其の王(わう)朝(みかど)に会ひて必ず儀仗(ぎぢやう)を陳設(ちんせつ)し、其の国の楽(がく)を奏(そう)す。
戸(こ)十万可(ばか)りなり。
…[動] 細く削る。
…[名] くし。
雑皮…「雑帛」は、さまざまな布。
(ど)…[名] 〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉一種利-用機械力量箭的弓〔機械仕掛けで矢を射る弓〕
(さく)…[名] ほこ。1丈8尺の柄の長いほこ。槊とも。
(さん)…[名] 短い矛。
…[名] ①矢の先端。鏃。(古訓) やさき。やしり。②かぶらや。
陳設…ものを並べて置く。
…[副] ばかり。
《裙襦》
 大まかに言えば、裙はスカートのように腰を包む衣、襦は短衣。
 『令義解』巻六 衣服令(以下〈衣服令〉)には、 位階によって色がきめ細かく定められているが、「无位【謂庶人服制亦同也】」の項が一般的な制服であろう。
――「〔くろ〕𦄡頭巾 黄袍【謂裁縫体制如朝服也】 烏油〔黒色の塗料〕腰帯 白襪
 御床()
間口237.5cm 奥行118.5cm
高さ38.5cm
《漆》
 については、岩多箸店のブログによると、 「縄文・弥生時代は、土器や農耕具、漁具など生活するための道具に漆を使用」し、 「飛鳥・奈良時代になると、仏教の伝来により、仏具や寺院などにたくさんの漆が使用される」。
 履(くつ)に使われるようになったのは、世界大百科事典によれば「近世になると紙を張り合わせて漆を塗り、…ものが使われ」 とされ、飛鳥時代の履に漆が塗られたものがあったかどうかは不明である。
《履》
 〈令義解-衣服令〉には、 
朝服:「一品以下五位以上…鳥皮履
制服/无位:「…皮履。朝廷公事則服之。尋常通得ハククトヲ草鞋ワラクツヲ〔朝廷公事には皮履、通常は草鞋でよい〕
 などとある。
《垂髮於両耳上》
 「髪を両耳の上に垂らす」とは、美豆良(ミヅラ)のことであろう。
 御床畳残欠() 幅118cm 厚6cm
…第66回正倉院展図録〔奈良国立博物館;2014〕
《草為薦雜皮為表緣以文皮》
 正倉院には、奈良時代の御床畳ごしょうたたみが残る(右図)。この御床畳とサイズが一致する、「御床」(寝台)に敷いて使われたと見られる。 『第66回正倉院展図録』〔奈良国立博物館;2014〕によると、御床ごしょうは 「現在も二基が伝わっており」、「聖武天皇、光明皇后それぞれの所用に宛て」「使用する見解もある」という。
 御床畳は、「マコモ製のむしろ三枚を二つ折りにし、重ねて六重にしたものを芯とし、 イを編んでこしらえた一枚のむしろで表から裏面の縁まで包み、裏面には麻布を張って全体を構成しており」、 「長側面の縁及び小口には、しろあしきぬで裏打ちした茶紫地錦が付いていた痕跡が残って」いるという。
 畳の起源は「確実には弥生時代まで遡り」、「古墳時代に入ると西日本にも広がり」、それぞれ筵の残片が出土しているという。
 「草為薦雜皮為表緣以文皮」はこの説明によく合うから、6世紀初めにはこのような製法による畳が存在したと見て、よいであろう。
《奏其国楽》
 「その国の楽を奏す」と訓読してしまうと賓客の国の音楽を奏して歓迎したようにもとれるが、文章全体で「」は「」の意味で使われるのでここでも「倭の音楽」であろう。
《大意》
 その服飾(ふくしよく)は、 男子は裳と短衣を着て、袖は短い。履物は植物を編んで屨(くつ)の形にしてその上に漆を塗り、脚に紐でくくり付ける。 庶民は跣足(せんそく)〔はだし〕が多く、金銀を用いて飾りとすることもしない。 昔は、衣の橫を結んで繋ぎ、縫うことをしなかった。 また、頭には冠をかぶらず、ただ髪を両耳の上に垂らした。
 隋に至り、倭王は初めて冠制を定め、錦に彩りしてこれを作り、金銀の花細工で飾る。
 婦人は髮を後ろに束ね、また裳と短衣を着る。裳には皆布飾り〔フリル〕がつく。
 竹を削って櫛を作る。
 草を編んで蓆(むしろ)を作り、さまざまな表皮をつけ、縁には文様のある皮を用いる。
 弓、太刀、長矛、弩(ど)〔機械仕掛けの弓〕、短矛、斧があり、 漆を塗った皮を甲冑とし、骨を鏃(やじり)とする。
 兵はいるが、戦に遠征しない。 倭王が朝廷で外国の賓客と会見するときは必ず儀仗が整列し、倭国の音楽を奏する。
 戸数は約十万ある。


【刑罰/性質/風習】
其俗
殺人強盜及姦皆死
盜者計贓酬物無財者沒身為
自餘輕重或流或杖
每訊-究獄訟承引
木壓膝或張強弓弦鋸其項
或置小石於沸湯中競者探一レ之云理曲者即手爛
或置蛇甕中之云曲者即螫手矣
其の俗(ならひ)。
殺人(さつじん)強盗(がうたう)及び姦(がうかん)皆死(ころ)す。
盗(ぬすみ)者(は)贓(ざうぶつ)を計り物を酬(むくい)せしむ。財(ざい)無き者(もの)は身を没(しづ)め奴(ど)と為す。
自余(ほか)は軽(かろき)重(おもき)あり、或(ある)は流(なが)し、或(ある)は杖(つゑう)つ。
毎(つね)に獄訟(ごくしよう)の訊究(じんきう)に[不]承引せざる者は、
木を以て膝(ひざ)を圧(おさ)へ、或は強弓(こはゆみ)を張りて弦を以て其の項(いただき)を鋸(のこぎり)びく。
或は小石を[於]沸湯(わきたるゆ)の中に置きて、競(きほ)ふ所の者に之(こ)を探(さぐ)ら令(し)め、理(ことわり)に曲がりたることを云ふ者は即ち手爛(ただ)る。
或は蛇(へみ)を甕(かめ)の中に置きて、之(こ)を取ら令(し)め、曲(まがり)たることを云ふ者は即ち手に螫(どくがさ)す[矣]。
…盗んだもの。
自余…その他。=爾余。
…[動] 訊問(=尋問)。訊検(罪人を取り調べる)。訊獄(裁判で取り調べる)。訊鞠など。
…①[動] 裁判。②[名] ひとや。
獄訟(ごくしよう)…訴訟。
承引…納得する。
…[名] ①かなとこ。②のこぎり。
…[動] 毒虫がさす。毒蛇が毒牙でかむ。(古訓) さす。
人頗恬靜罕爭訟盜賊
樂有五弦琴笛
男女多黥臂點面文身沒水捕
文字唯刻木結
佛法於百濟求佛經始有文字
卜筮尤信巫覡
正月一日必射戲飲酒其餘節略與華同
棊博槊樗蒲之戲
人頗(すこぶ)る恬静(てんせい)にて、争訟(そうしよう)罕(まれ)にて盗賊(たうぞく)少なし。
楽(がく)に五弦の琴(こと)笛(ふえ)有り。
男女(だむぢよ)多く黥臂(げいひ)點面(てむめん)文身(ぶんしん)し水に没(い)り魚(うを)を捕(とら)ふ。
文字(もんじ)無く唯(ただ)木を刻(きざ)み縄(なは)を結(ゆ)へり。
仏法を敬(うやま)ひ[於]百済(ひやくさい)に仏経(ぶつきやう)を得(う)ることを求めて、始めて文字を有(も)てり。
卜筮(ぼくぜい)を知り、尤(もとも)巫覡(ふげき)を信ず。
正月(しやうぐわつ)一日(いちじつ)に至る毎(ごと)に、必ず射(ゆみい)に戯(たはぶ)れ酒を飲み、其の余(ほか)節略(おほむね)華(くわ)与(と)同じ。
棋博(きばく)を好み、槊(さく)に握り、樗蒲(ちよぼ)をば之(これ)戯(たはぶ)る。
…[副] すこぶる。
…[形] やすらか。しずか。
…[名] (刑罰としての)いれずみ。
…[名] ひじ。上腕から手首までの部分。
…[名] 〈汉典〉 細小的痕跡或物体。
文身…〈学研新漢和〉針や小刀で皮膚にきずつけ、そこに墨や朱をさして、文字や絵を描くこと。
卜筮…〈汉典〉卜、以亀甲-断吉凶。筮、以蓍草-断吉凶。卜筮泛〔あまねく〕占卜
巫覡(ふげき)…かんなぎ。(古訓) かむなき。〈汉典〉古代称女巫為巫、男巫為覡、合称"巫覡"
 後亦泛指〔よそおう〕神弄〔もてあそぶ〕一レ鬼替人祈祷為上二職業的巫師
…[動・名] (古訓) あまる。のこる。ほか。
節略…〈汉典〉 ①網要・摘要。②簡要・簡略。
…戯の異体字。
射戯…諸辞書に見出し語なく、固定的な熟語にはなっていない。
…棋〔=囲碁〕の異体字。
…[名] ばくち。
…[名] ①ほこ。②すごろく。
双六…〈倭名類聚抄〉俗云須久呂久。
すぐろく…[名] すごろく。
樗蒲…ばくち。〈倭名類聚抄〉和名加利宇知
拡大
 栃木県小川町那須八幡塚古墳出土 古墳時代  (東京国立博物館)
《張強弓以弦鋸其項》
 には金床(かなとこ)の意味もあるが、拷問具として考えるならノコギリの方であろう。 「鋸びき」は弓の弦を当てることの比喩かとも思えたが、弓の弦では拷問として何の効果もない。 しかし、ノコギリだとして、この時代に実際に存在したのだろうか。
 ノコギリは、細かい刃を切り出し、それぞれを研いで「あさり」をつける精密な加工を必要とするから、中世までの普及は少なかったといわれるが、 最古の出土品は古墳時代とされる(右図)。
 よって、隋代の倭には実際に存在し、やはり拷問に使われたのであろう。
 問題は、弓の弦と鋸との物理的関係である。構文としては、「」を動詞化し〔鋸をひく〕、これに弦を用いるとしか読みようがない。 何らかの機械仕掛けが考えられるが、今のところその具体的な構造を示す資料は得られていない。
《置小石於沸湯中令所競者探之》
 「小石於沸湯中競者探一レ…」 これすなわち、盟神探湯(くがたち)である。書紀には、〈允恭紀〉四年 〈応神紀〉九年、 〈継体紀〉二十四年にある。
 本当に行われたかどうかは疑問だったが、盟神探湯を室町時代に復活させた「湯起請ゆきしょう」の記録があるというので、調べた。 それは、『看聞日記』永享三年〔1431〕に盗みの「嫌疑之輩」を取り調べた記事である。 六月五日に「地下〔ぢげ〕盗人猶嫌疑者三四人。今日令湯起請、一人ハ逐電云々。 三人於御香宮書之、一番に書〔ける〕物、則〔ち〕手焼損、則搦捕〔からめとり〕〔しばる〕〔を〕。 次二人書〔けり〕其失〔そのしつ〕上レ為也」とある。 …京都御所の清涼殿殿上間に上がれない階位の者。中世には官位を持たない者。
 実際に無傷で済んだ者もいたわけで、記録はリアルである。すると、似たようなことが飛鳥時代以前にも実際に行われていたと考えてよさそうである。
《競者》
 「競者」は、民事訴訟において、互いに主張を譲らない二者を指すと思われる。
《黥臂點面文身没水捕魚》
 黥臂點面文身没水捕魚は、魏志の「男子無大小皆黥面文身」なる言い伝えを継承したものと見られる。 そこでは、潜水漁における害を避けるまじないと解釈されている (「魏志倭人伝をそのまま読む」第30回~第34回)。
《求得仏経始有文字》
 「-得仏経始有文字」すなわち仏経を得て初めて文字をもったというが、少なくとも朝廷の外交部門では漢字を使いこなしていたと思われる。 もちろん、主に渡来人の子孫である史人ふみとが担ったのだろうが、代を重ねれば倭人化する。 宋書には、478年に倭使が持参した上表文が載る(倭の五王)。
 もう少し遡ると、記には応神天皇の時代に和邇吉師(王仁)によって文字が伝えられたとあり、また一般的に史(ふひと)は朝廷に仕えたフミヒトベの子孫のかばねである。 また、〈敏達紀〉元年に王辰爾(おうしんに)が登場する。その祖である辰孫王が、応神朝がリアルに存在した時期〔4世紀後半〕に史として招かれたとする伝承を見た。 王仁、阿知使主、秦酒公の伝説もそれに類するものである(敏達元年)。
 資料[41]で「中国で古くから受け継がれてきた来た倭に関する伝承を、直接くっつけたものであろう〔刻木結縄の記号による情報伝達の時代から、帰化人が史として朝廷に仕えるようになった時代を飛び越して、仏教経典移入の時期に繋いだ〕と見た通りである。
《棋》
 〔棊は異体字〕は、囲碁である。現在の囲碁団体の名称は「日本棋院」で、その試合を「棋戦」という。 「将棋」は派生語である。
〈倭名類聚抄〉圍碁〔囲碁〕圍碁【亦作棊世間云五】〔中略〕圍碁堯舜以〔て〕愚子也。
 囲碁の起源については、日本棋院のページに、 「山海経、坐隠談叢、博物誌、史記、論語・孟子など古い文献には囲碁のことや故事などが書かれています」、 「現存する最古の棋書は、「忘憂清楽(ぼうゆうせいらく)集」 でその中に呉の孫策と呂範が打ったとされる囲碁の記録(=棋譜)があります」 とある。日本への伝来については「はっきりとはわかっていません」という。
 隋書に載るから、それ以前からあったことは確定的である。
《槊》
 は双六(すぐろく)。〈時代別上代〉は、「「雙」の字は江韻に属し、中古音ɔŋの音を表すはずなのに、スグとuŋの形でとり入れられたのは、 江韻の形でとり入れられたのは、江韻がɔŋとなる以前の東冬鐘の韻と通用であった六朝中期以前の音を反映したものと考えられ、 そこからスグロクの渡来の古さが想像される。〔雙(双)の発音は、広韻(1008年の漢字発音の解説書)によれば「江」(k+オグ)のグループに入るからs+オグのはずだが、s+ウグとなっているから六朝〔222~589〕中期より古い発音である。 スグロクが倭に入って来た時期はそれぐらい古いのだろう〕と述べる。
 …kを声母、オグを韻母という。〈魏志倭人伝をそのまま読む〉第18回を参照。
 双六による賭博は盛んだったようで、持統天皇は双六禁止令を出している。すなわち〈持統紀〉三年「十二月己酉朔丙辰〔八日〕。禁斷雙六。」。
《樗蒲之戯》
 「樗蒲之戯」のが動詞の場合、この位置に置かれた「」は、動詞—目的語の倒置を表す。すなわち「樗蒲之戯」=「戯樗蒲
 したがって、「」と区切られる。「にぎる」には、現代の俗語では金銭を賭ける意味があるが、 「握槊」もそれかも知れない。ただ、ゲームで賽を握ることによるかも知れない。だがそれでは「棋博」とつり合わなくなる。
 ともあれ、倭の俗は囲碁も双六も賭博だらけであった。
《大意》
 その俗、 殺人・強盗及び強姦は皆死刑とする。 盗みは盗物によって没収物を計算して酬いとする。財の無い者は奴婢に身分を堕とす。 その他は軽重があり、ある場合は流刑、ある場合は杖打ちである。
 つねに訴訟の追及に承引しない者は、 木で膝を圧し、あるいは強弓を張り弦によってその頭頂部を鋸引きする。 あるいは小石を沸湯の中に置き、係争する者にこれを探らせ、理を曲げて言う者は、手が爛れる。 あるいは蛇を甕の中に置きこれを取らせ、曲げて言う者は、手に毒牙を刺す。
 人はすこぶる物静かで、訴訟は希で盗賊は少ない。
 音楽は五弦琴・笛がある。
 多くの男女は腕・顔・体に入れ墨し、水に潜って魚を捕る。
 文字はなく、ただ木を刻み縄を結んだ。
 仏法を敬い、百済より仏経を求めて、初めて文字を持った。
 亀甲や筮竹による卜占を知るが、最も男女の巫(かんなぎ)を信ずる。
 正月一日になる毎に、必ず射に戯れ酒を飲み、その他は概ね中華と同じである。
 囲碁で賭け、双六で賭け、賭博に戯れる。


【気候/婚/葬/他】
氣候溫暖草木冬青土地膏腴
水多陸少
小環鸕鷀項水捕一レ魚日得百餘頭
俗無盤俎藉以〔槲〕食用手餔
性質直有雅風
女多男少
嫁不同姓男女相悅者即為
婦入夫家必先跨※1乃與夫相見
婦人不淫妬
気候(きこう)温暖(をんだん)草木冬も青(あを)く土地(とち)膏腴(かうゆ)にて、
水(みづ)多(おほ)く陸(をか)少(すこし)きなり。
小(ちひさ)き環(わ)を以て鸕鷀(う)の項(うなじ)に挂(か)け、水に入れ魚を捕(とら)へ令(し)め、日(ひ)に百余頭(ひやくとうあまり)を得(う)。
俗(ぞく)は盤(おほざら)俎(まないた)無く、藉(し)くに槲葉(かしはば)を以(もち)ゐ、食(くら)ふに手を用ゐて之を餔(くら)ふ。
性質(せいしつ)直(ちよく)なりて雅風(がふう)有り。
女(をみな)多く男(をのこ)少(すくな)し。
婚嫁(こんか)に同じき姓(せい)を不取(とらず)、男女(だむぢよ)相(あひ)悦(よろこ)べ者(ば)即ち婚(とつぎ)を為(な)す。
婦(め)、夫(をひと)の家に入るに、必ず先(ま)ず火を跨(また)ぎて乃(すなは)ち夫与(と)相見(まみ)ゆ。
婦人(ふじん)不淫妬(みだりならずねたまず)。
※1 必先跨犬 北史倭國傳,「犬」作「火」。〔wikisourceによる注〕
膏腴之地(こうゆのち)…よく肥えて作物のよく育つ土地。
…[動] かける。=掛。
…[名] 〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉一種敞口扁浅的盛器。〔平たく浅い食器〕
…[名] (古訓) うなし。〈汉典〉 頸的後部。
…[名] (古訓) まないた。
…[動] ①むしろなどをしく。②かりる。よる。
…[名] 木の名。また松樠。姿はニレ、心は松に似るという。現在の名前は不明。[日本語用法] かしわ。
…[動] くらう。
…[副] ただ。
婚嫁…嫁入り・婿入りすること。
死者斂以棺槨親賓就屍歌舞
妻子兄弟以白布製服
貴人三年殯於外
庶人卜日而瘞
葬置屍船上陸地牽之或以小輿
死者(ししや)を斂(をさ)むるに棺槨(かんかく)を以(もち)ゐ、親(した)しき賓(まれびと)屍(かばね)に就(つ)きて歌ひ舞ふ。
妻子(さいし)兄弟(はらから)白布(しろきぬの)を以て製服(みなりをさだむ)。
貴人(きじん)は、三年[於]外(そとに)殯(もがり)す。
庶人(しよじん)は、日(ひ)を卜(うらな)ひて[而]瘞(うづ)む。
葬(はぶり)に及びて屍(かばね)を船の上に置き、陸地(りくち)より之(こ)を牽(ひ)き、或(ある)は小輿(ちひさきこし)を以(もち)ゐる。
(れん)…集める。おさめる。死体を棺におさめる。(古訓) をさむ。
棺槨…二重棺において内側を棺、外側を槨という。
…[動・名] 埋葬する前に、棺に入れたまましばらく安置する。書記古訓はモガリ。
…[動] 地中にうめる。
阿蘇山
其石無故火起接天者
俗以-為異因行禱祭
如意寶珠其色青大如雞卵
夜則有光云魚眼精
新羅百濟皆以倭為大國
多珍物並敬-仰之恒通使往來
阿蘇山(あそさん)有り。
其の石故(ゆゑ)無く火起こり天(てん)に接(つ)け者(ば)、
俗(ぞく)に異(あや)しと以為(おも)ひ、因(よ)りて禱(いのり)の祭(まつり)を行ふ。
如意宝珠(によいほうじゆ)有り、其の色青(あを)く大(おほ)きさ鶏(にはとり)の卵(たまご)の如し。
夜に則(すなは)ち光有り、魚眼精(ぎよがんせい)と云ふ[也]。
新羅(しんら)百済(ひやくさい)皆倭を以て大国(たいこく)と為(おも)へり。
多(おほ)く珍物(ちんぶつ)を並べ、之(これ)を敬(うやま)ひ仰(あふ)ぎ、恒(つね)に通使(つうし)往来(わうらい)す。
無故…理由なしに。
如意…〈汉典〉 [as one wishes]:符-合心意。万事如意。
如意宝珠…[仏] 如意輪観音にょいりんかんのんが手に持つ玉。民衆の願望を意のままに成就させるという。
《気候温暖草木冬青》
 「気候温暖草木冬青」は、魏志の「倭地温暖冬夏食生菜」と類似する。海南島に近いところにあるとする古代の地理観が、ここにも顔を出す (魏志倭人伝(41))。
 は基本的にblueであるが、青松青苗青林青山などの語があり、時にgreenである。 日本においては、上代語のアヲは、〈時代別上代〉「黒と白の中間的性質を持つ範囲の広い色名で、おもに、青・緑・藍など」を指した。 次第に blue ときに green に収斂したのは、漢字「青」の影響によると思われる。
《以小環挂鸕鷀項令入水捕魚》
 鵜飼漁は、記紀にもしばしば出て来る。 記の神武天皇段には「阿陀之鵜飼之祖(第98回)とあり、 「鵜飼部」という職業部(職能集団)があったことが示唆される。
 隋書における表現「小環鸕鷀項水捕一レ」は、説明的である。
 鵜飼の説明的表現としては〈雄略紀〉にも「使鸕鷀没水捕一レ〔鸕鷀(う)をして没水捕魚せしむ〕がある(三年)。 記を見れば、倭人には「鵜飼」で十分通じたにも拘わらずである。 〈雄略紀〉(第十四巻)はα群(第193回《α群》)の最初の巻で、 執筆にあたったと見られる中国人は初めは倭国の伝統に対する理解が不十分で、執筆を進める間に認識を深めていったことを伺わせる例がいくつか見られた (継体四年《璽符》宣下即位前《奏上剣鏡》)
 鵜飼漁は中国にもあったと言われるが、魏志や〈雄略紀〉を見ると少なくとも中国の都の人には知られず、倭の風習として興味を惹き、その結果説明的な書き方になったと推定される。
《檞葉》
 =カシは日本語用法であって、中国でが実際にどの植物種を指すかは不明である。だが、膳部(かしはべ)〔=料理人〕の由来は、食物を載せるのに使ったカシハの葉であるから、 がカシハだとすれば意味に合う。すると日本でカシハにの字を当てたことが先にあり、それが中国に伝わったことになるが、そんなことがあり得るのだろうか。
 日本語のカシハ〔学名Quercus dentataの中国名は「」だから、「」こそが正真正銘のカシハである。日本の漢和辞典でも、の方は完全にカシワとしている。
 そこで、「」は「」の誤写ではないかと考え、〈中国哲学書電子化計画〉で数種類の影印本を見たが、皆「」であった。
 しかし、更に北史(次項)を見たところ「藉以」であった(影印:右図)。 よって、隋書の「」が誤りであるのは確実となった。 誤写だとすれば、隋書の版本はすべて誤写された写本に基づいたことになる。原本から既に誤っていた可能性もある。
北史
 日本の漢和辞典は「カシワ」を日本語用法とする。 〈諸橋大漢和〉は、「:①まつやに。②やどり木。[邦] かしは。の誤用。字形の似たるによって誤る。」 とし、「」の項には「我が国では又は柏の字をあてる」とある。
 一方、〈倭名類聚抄〉の「:槲【和名加之波】柏【名同上】木名也」は真っ当である。〈時代別上代〉はこれを引用するのだが、「加之波かしは、柏和名同上、木名也」になっている。 日本では、誤用の方がごく一般的になっていることの現れであろうが、このミスは私が編者ならばきっと恥ずかしいだろうと思う。
 結局、中国と日本でそれぞれ別個に誤りが生じたのであろう。ただ、日本で誤られた要因の一つに隋書の影響があるように思われる。 また〈倭名類聚抄〉は平安時代中期であるから、誤用が生じたのはそれ以後ではないだろうか。
《北史倭国伝「犬」作「火」》
 〈wikisource〉の注記は「」を隋書の誤写と見て、北史により「火」に正す。 〔なお、前項の〔北史:〕はスルーしている〕
 確認すると、「婦入夫家必先跨」は、北史では「婦入夫家必先跨」となっている。 北史は誤写される前の本を用いたと考えられるが、誤写ではなく北史編者が独自の判断で直したことも考えられる。
《棺槨》
 魏志では「有棺無槨」、すなわち一重棺であったが(魏志倭人伝(43))、隋書では二重棺になっている。 「親賓就屍歌舞」については、魏志の「他人就歌舞」と同じ光景である。
《貴人/庶人》
 貴人=うまひと庶人=もろびとと訓むと語調がよいが、これらは上代語である。
《殯》
 モガリは上代語であるが、中古以後は死語となるから特別な時代の習慣を表す語として、モガリと訓んでもよいだろう。
《阿蘇山》
 二十四史〔中国の王朝の正史〕の史書から新唐書の範囲で検索してみたが、阿蘇山が出て来るのは隋書と上述のように隋書を写した北史のみである。 〈汉典〉には見出し語に「阿蘇山」があるが、説明は一字もなかった。(2021/11/30現在)
 書紀は〈景行紀〉十七年に「阿蘇国〔〈倭名類聚抄〉{肥後国阿蘇郡}の前身と見られる〕の地名譚とともに「阿蘇山」がある。 〈景行紀〉は九州行幸伝説の体裁を借りて、肥後国・日向国・肥前国・筑後国の事実上の地誌となっている。 〈神武紀〉三十一年《磯輪上秀真国の別解》の項で見たように、アソはポリネシアからインドネシア方面の言語に由来すると考えられている。
 それが中国にも伝わり、中国語となった可能性はどうだろう。そう思って〈中国哲学書電子化計画〉で検索した結果は、隋書・北史以外には阿蘇(人名)が一例あるのみで、火山などを意味する中国語になったとはとても言えない。 〈汉典〉が見出し語のみで中身がないのは、わずかに隋書にこの字があるが、それ以上は何も書かれていないという現実を反映したものであろう。
 結局、隋書の「阿蘇山」は倭が知らせた字を記したと見るのが順当であろう。
《其石無故》
 「其石無故火起接天者」は、「無故火起其石接天者」の誤りと見るべきであろう。「」の主語が火だとすると、「その石から火が起こり」となり、意味が通らないことはないが苦しい。 現在でも阿蘇山が噴火すると、噴石の飛散が激しい。
《魚眼精》
 「夜則有光云魚眼精」は、〈汉典〉には載らず〈中国哲学書電子化計画〉の検索にかからないので、隋書だけにある語である。当然、石の種類は判らない。 関連事項は次の通り。
魚眼石…種々のケイ酸塩鉱物。ガラス光沢ないしは真珠光沢。
蓄光…ある種の物質において、電磁波を蓄え、光照射をやめても発光する性質。
蛍石(ほたるいし)…主成分はフッ化カルシウム。不純物の種類によっては、紫外線を照射すると紫色の蛍光を発する。
《新羅百済皆以倭為大国》
 新羅百済を倭の衛星国とするのは、遣隋使の話によるもので誇張があるかも知れない。
 しかし、魏志にも「諸韓国…使」の語があり、独自に交流はあった(魏志倭人伝(58))。 さらに、梁が倭王武に除した〔=授与した〕称号「持節督 倭 新羅 任那 伽羅 秦韓 慕韓 六国諸軍事鎮東大将軍」(梁書)も、南韓諸国が倭に朝貢する関係を反映したものと見られる。 〔倭はこれに百済を加えることをしきりに要求し、常に拒否されている〕(倭の五王)。 書紀には百済・新羅・任那による倭への遣使が幾たびも記されているが、概ね史実を反映したものと言えそうである〔ただし、任那については虚偽的である〕
 よって、当時の東アジアには中国に加えて、もう一つの極として倭が存在していたと言ってよいだろう〔それも白村江の戦いまでであるが〕
《多珍物》
 文中の「多珍物」の位置づけは難しい。「」は「新羅・百済ともに」の意味ととるのが相応しい。 ところが、その場合「以為大国」と「新羅百済、並べて敬ゐ仰ぐ」の間に「倭国に珍物多し」が入ってしまい、意味が通じない。 真相は、「多珍物」はもともと「有如意宝珠」の前にあったが、筆写を重ねるうちに誤ったと考えるのが妥当であろう。
 しかし、文章が現在の形になっている以上、文意と矛盾しないようにするには「多珍物」を受事主語として、「多くの珍物を並べた(が並んだ)」と読むしかない。 「珍物」は、倭に朝貢する宝物・特産品である。
《大意》
 気候は温暖で草木は冬も青く、土地は肥沃(ひよく)である。 水が多く陸は少ない。
 小さな環を鵜の首筋に掛け、水に入れ魚を捕えさせ、日に百尾余りを得る。
 人々に盤(ばん)〔大皿〕や俎板(まないた)はなく、皿の代わりに柏の葉を用い、食事は手を使って食べる。
 性質は素直で、雅な風情をもつ。
 女が多く、男は少ない。 嫁ぐ相手を同じ姓から取らず、男女が出会って喜びがあれば、結婚する。 妻が夫の家に入るときは、必ずまず火を跨ぎ、それから夫と相まみえる。
 婦人は淫らではなく、嫉妬もしない。
 死者を斂(おさ)めるのに棺槨(かんかく)を用い、親しい客は遺体に寄り添い歌い舞う。 妻子兄弟は白布により服装を整える。
 貴人は、三年間家の外で殯(もがり)をする。 庶民は、卜(うらない)で日を定めて埋葬する。
 葬儀に及び、遺体を船上に置き陸地から牽引し、あるいは小さな輿(こし)を用いる。
 阿蘇山があり、 その石は、前触れもない噴火によって天に達する。 人々は異変と思い、祭りを行い祈祷する。
 如意宝珠(にょいほうじゅ)があり、色は青、大きさは鶏卵ほどある。 夜になると光を発し、これを魚眼精(ぎょがんせい)という。
 新羅(しらぎ)百済(くだら)は皆、倭を大国と見做し、 多くの珍物〔宝物・特産品〕を並べ〔て朝貢し〕、仰ぎ見て敬い、常に通使が往来する。


まとめ
 今回読んだ部分は、開皇二十年の使者の話から得た内容も含むだろうが、これまでに倭の俗について知られていたことが主であろう。
 気候や葬儀の様子や人の慎み深い性質、手食の習慣などは、魏志と似る。 それは海南島とも混同されるような、古来の伝統的な倭国観を引き摺るものであろう。それと隣り合わせに、使者の言を含む新たな知見が書かれているのである。
 そのうち意味が取りにくい部分として、「強弓の弦によって鋸引きする」、「阿蘇山あり。石故なく」、「珍物多し」の箇所が挙げられる。 これらが書かれているのは隋書〔及び、そのまま写した北史〕のみなので、他の書と比較することもできない。 「石無故」と「珍物」についてはひとまず誤写と見たが、前回は使者の言葉がうまく伝わらず高祖に「此太無義理」と言われてしまっている。 ここも使者の言による部分で、その翻訳のつたなさ故かも知れない。



2021.12.04(sat) 隋書倭国伝(3) 

【北史との比較】
 北史倭国伝は、隋書倭人伝からその大部分を取り入れているが、若干の省略がある。また、その他に梁書や魏志も用いている。
 ここでは、北史が隋書と異なる箇所を見る。
《古云去楽浪郡境及帯方郡》
去楽浪郡境及帯方郡
隋 書古云 去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里 在會稽東 與儋耳相近
北 史 又云 去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里 在會稽東 與儋耳相近 俗皆文身 自云太伯之後帶方二上倭國 循海水行 歷朝鮮國乍南乍東七千餘里 始度一海又南千餘里  度一海闊千餘里名瀚海 至一支國  又度一海千餘里 末盧國  又東南陸行五百里 至伊都國 又東南百里 至奴國 又東行百里 至不彌國  又南水行二十日 至投馬國 又南水行十日陸行一月 至邪馬臺國即倭王所 又云ふ。楽浪郡境及び帯方郡を去り並びに一万二千里、会稽の東に在り儋耳与(と)相近し。 俗皆文身し、自ら太伯の後と云ふ。 帯方従(よ)り至倭国に至るを計るに、海を循(めぐ)り水行し、朝鮮国を歴(めぐ)り乍(あるいは)南乍(あるいは)東に七千余里。始めて一海を度(わた)ること[又]南に千余里〔対馬国に至る。又〕。一海闊(はるか)千余里、名は瀚海を度り一支国に至る。又一海千余里を度り、名は末盧国。 又東南へ陸行五百里、伊都国に至る。又東南へ百里、奴国に至る。又東行百里、不弥国に至る。 又南へ水行二十日、投馬国に至る。又南へ水行十日陸行一月、邪馬台国に至り、即ち倭王の都する所なり。
 北史には、まず自称「太伯之後〔=末裔〕」が載る。これは魏略に従ったもので、魏志では「大夫〔官の身分の名〕になっている(魏志倭人伝(31))。 「自云太伯之後」までは、梁書と大体同内容だが順番が異なる。 〔梁書:倭者 自云太伯之後 俗皆文身 去帶方萬二千餘里 大抵在會稽之東 相去絕遠
 次に、帯方郡から邪馬台国への経由国と道程を述べる。これは魏志と同内容で、梁書とほぼ一致する。 〔相違点:朝鮮國→韓國、邪馬臺國→祁馬臺國など〕 国名及び方位・距離は魏志と一致し、明らかに魏志から抜き出したものである(魏志倭人伝(3)~(24))。 但し、「始度一海又南千餘里度一海」が「始度一海南千餘里至對馬國又度一海」の誤りであるのは明らかである。 なお、梁書ではさらに北史から「又南千餘里度一」を欠き、「始度一海海」となっている。
 魏志はやや読み取りにくいので、北史は読み取りの助けになる。なお、梁書や北史の書き方では、絶対に放射説には読めない。
 北史では「一支國」「邪馬臺〔台〕」なので、『魏志』紹興本・紹煕本の「一大國」「邪馬壹國」の誤りが、ここからも明らかになる。
 隋書がこの部分を採用しなかったのは、おそらく後の「明年」段のところで裴世清の経路として、島々と国の配置が示されるからであろう。 魏志の時代の言い伝えによる配置はそれとは異質で、これを載せると一貫性を損なう。 隋書においては、南に会稽郡の東まで伸びるような倭国は遥か昔の伝説なのである。
 北史はそれを知ってか知らでか、魏志の配置を復活させている。
倭国大乱
隋 書桓靈之間其國大亂・桓帝〔在位146年~168年〕 ・霊帝〔在位168年~189年〕
北 史靈帝光和中其國亂・光和〔178年~184年〕
 「光和」は後漢霊帝の年号で、7年間である。桓帝・霊帝の時代とする随書に比べると、かなり期間が絞り込まれている。 これは梁書を写したものである。
 『北史』倭国伝〔巻九十四列伝第八十二〕には、隋書倭国伝とが丸々用いられるが、実はさらに梁書がミックスされていることが分かった。 隋書では期間が長く戦国時代のようなイメージであるが、梁書の通りだとすれば王の交代に伴う短期間の混乱である。
唯有男子二人
隋 書男弟卑彌〔呼〕國 其王有侍婢千人 罕有其面 唯有男子二人
北 史夫 有二男子
 この部分は、北史において逆に簡略化されている。 ただ、隋書にない「夫無し」が北史にはある。
《開皇二十年》
卑弥呼以後
隋 書魏至于齊梁代中國相通 開皇二十年
北 史魏景初三年公孫文懿誅後 卑彌呼始遣使朝貢 魏主假金印紫綬 正始中 卑彌呼死更立男王 國中不服更相誅殺 復立卑彌呼宗女臺與王 其後復立男王 並受中國爵命 江左 歷晉宋齊梁 朝聘不絕 及陳平 至開皇二十年 魏、景初三年公孫文懿〔淵〕誅(ころ)しし後、卑弥呼始めて遣使朝貢し、魏主金印紫綬を仮す。 正始中〔240~249年〕、卑弥呼死に更に男王を立てり。国中服さず更に誅殺し、復(また)卑弥呼の宗女台与を立てて王と為(す)。其の後復(また)男王を立てり。並べて中国の爵命を受く。 江左〔長江の南;南朝〕に晋・宋・斉・梁を歴(めぐ)り、朝聘〔=朝貢〕絶えず。 陳平〔陳の平定〕に及び、開皇二十年に至り…
 この箇所も、梁書を基本的にはそのまま採用している。但し、「其後復立男王並受中国爵命江左歷新宋斉梁朝聘不絶」の部分だけは、簡略化である。 梁書のその部分は、倭王の名前()と、称号「持節督 倭 新羅 任那 伽羅 秦韓 慕韓 六国諸軍事鎮東大将軍」を具体的に示している
倭の五王参照〕。
 すなわち、北史倭人伝は隋書の他に梁書を取り入れて作られた。なお、卑弥呼の宗女「壱与」は、梁書・北史では「台与」である魏志倭人伝(84)参照〕
《其王与裴世清相見》
既至其都
隋 書既至彼部 其王與清 相見大悅曰 我聞海西有大隋禮義之國…〔中略〕… 於是設宴享以遣清 復令使者隨清 來貢方物 此後遂絕
北 史既至彼都 其王與世清 來貢方物 此後遂絕
 隋書「既至彼部」のであることは明らかである。北史では正されている。
 倭王と裴世清の対面から宴までの部分が、北史では丸ごとなくなっている。 文が通じなくなっているから、もともと北史の書かれていた巻物に毀損があり、その状態で写本もしくは版本が作成されたと思われる。 もし意図的に省略したのなら、意味が繋がるように文を修正したはずである。
 隋書が「」、北史が「世清」であるのは、隋書のみが避諱ひきによって、「裴世清」から「世」を除いたため。 これは、李世民〔唐二代皇帝太宗〕の「」の使用を遠慮したものである。 「明年…」の段でも、隋書:「上遣文林郎裴清使於倭國」、北史:「上遣文林郎裴世清使於倭國」である。 なぜ隋書は避諱を用い、北史は用いなかったのかという問題は、次回で検討する。

まとめ
 北史、隋書ともに現在の本は武英殿二十四史〔清の乾隆年間(1736~1795)〕として刊行されたものが基本になっている。 武英殿本同士では年代の比較はできないのだが、その刊行に用いられた写本を比べてみると、北史の方が誤字が少なかったようである〔これまで見た「北孤→比孤」、「檞→槲」など〕
 唐代の隋書・梁書・三国志の写本は当然清代よりも誤字が少なかったが、その唐代に隋書などをひき写した北史は、比較的誤りを生じないままで残っていたということであろう。 「對馬國」の脱落は残念であるが、それでも北史の表記はひとつの標準になり得るものと言え、そこに北史の重要性があるわけである。