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2021.11.24(wed) 隋書倭国伝(1) ▼ |
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〈推古天皇紀〉十五年~十六年に、遣隋使のことが載る。その事実の推移は『隋書』と基本的には噛み合うと見てよいが、重要な相違点もある。
両者を適切に突き合わせるためには、隋書についても記述の信憑性の程度を評価する必要があり、そのためには部分的な引用にとどまらず、
倭国について書かれた全体を正確に読解することが欠かせない。
そこで、ひとまず隋書の関連部分を精読する。 【隋書】 隋は、楊堅(初代皇帝文帝)が581年に北周の静帝から禅譲されて成立、589年に南朝最後の王朝陳を倒して中国の分裂に終止符を打つ。 618年に煬帝が殺されて隋は滅び、唐が建国された。 『隋書』は清の乾隆帝によって中国の正史と規定された「二十四史」の第十三に位置づけられ、本紀5巻、志30巻、列伝50巻からなる。 唐太宗の勅撰で、636年に魏徴によって本紀5巻、列伝50巻が完成。志30巻は高宗の656に長孫無忌によって完成された。 列伝第四十六「東夷」に、 高麗・百済・新羅・靺鞨・琉求に続いて倭国が載り、この部分が「隋書倭国伝」と呼びならわされている。 《北史》 『北史』は、北朝(北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋)を通した歴史書。659年に正史として公認された。 その巻九十四=列伝八十二が東夷で、倭を含む(いわゆる倭国伝)。 その多くは、隋書をそのまま写した部分なので、誤字の訂正などにかなり役立つ。
上代語あるいは古訓体〔平安〕を用いることも可能であるが、漢籍であるからその必然性は全くない。 かと言っていきなり現代口語を用いることも違和感があり過ぎるので、室町~江戸頃の文語体を用いることにする。 【倭国在百済新羅東南】
隋書においては倭国の地理は東西に長いと認識し、「在二会稽之東一与二儋耳一相近」説は古い時代の伝説として、そこからは脱却している。 魏志の時代でも実は既に邪馬台国は筑紫の東方にあったとは認識されていたが、結局古来の「会稽之東」なる伝説と一貫性を保とうとして「東至邪馬台国」を敢えて「南至邪馬台国」に変える細工をしたと考えられる。 《邪馬臺國》 「中国哲学書電子化計画」にある隋書の影印本ではどれも「魏志所謂邪馬臺」〔臺=台〕となっており、魏志にもともと「邪馬臺國」と書かれていたことはここからも明らかである。 よって、紹興本・紹煕本の「邪馬壹國」が筆写誤りであるのは確実である(魏志倭人伝をそのまま読む)。 《魏志・後漢書との関係》 ここまでの内容は、多くの部分が魏志を踏襲していると見られる。但し、安帝・桓帝・霊帝の名は魏志にはなく、後漢書にある。 後漢書の編纂は三国呉のときに始まったとされるが、現在の『後漢書』は、「志」を西晋〔265~316〕の司馬彪、「本紀」「列伝」を南朝宋〔420~479〕の范曄が著したもの。 よって、安帝と桓霊の記事は後漢書によったのだろう。ただ、魏志に書かれずとも『魏略』にはあったかも知れない。 《斉梁代》 南朝宋は420~479年。斉は479~502年。梁は502~557年。 『宋書』巻九十七 列伝第五十七 夷蛮:「倭国」によれば、〔425〕安東将軍倭國王→〔451〕使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東将軍 →〔478〕使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭王。 『梁書』卷五十四 列傳第四十八 諸夷:「倭」の項には、 斉の建元年間〔479~482〕に「持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大将軍」への進号、 梁建国の年〔502〕に「征東将軍」への進号が載る (倭の五王)。 この時期のことは隋書ではほとんど省略され、「与二中国一相通」と書かれるのみである。 《大意》 倭国は百済・新羅より東南に水陸三千里行ったところにあり、大海の中に山島に依って居住する。 魏の時代、中国に訳を通ずる国三十余国、皆王を自称する。 夷(ひな)の人は里数を知らず、ただ日数を用いて計る。 その国境は、東西五月行、南北三月行で、それぞれ海に至る。 その地勢は東が高く西に向かって下る。 都を邪靡堆(やまたい)に置き、すなわち三国志魏志に邪馬台と記すものである。 古(いにしえ)に云ふ。 楽浪(らくろう)の郡境から、または帯方(たいほう)郡から一万二千里にあり、会稽(かいけい)の東にあり儋耳と相近い。 漢の光武帝〔在位〔以下同〕25~57〕の時、遣使が入朝し大夫を自称した。 安帝〔106~125〕の時、また遣使朝貢し、これを倭奴国(わのなのくに)という。 桓帝(かんてい)〔146~168〕霊帝〔168~189〕の間、その国に大乱があり互いに相攻伐し歴年主を欠いた。 女子がいて名前を卑弥呼といい、鬼道をもってよく衆を惑わし、そこで国の人は王として共立した。 男弟がいて卑弥呼を補佐し国を統治した。 女王は、侍婢千人を有し、その顔を見る者は希であった。 ただ男子が二人いて、女王の飲食を給し言葉を間接的に伝えた。 女王は宮室、楼観、城柵を有し、皆武器を持って守衛し、規律は甚だ厳格であった。 魏から斉〔479~502〕梁〔502~557〕の代に至り、中国と相通じた。 【開皇二十年倭王遣使】
阿每多利思比孤=アマタラシヒコ、アメタラシヒコ〔天帯日子〕、雞弥=キミ〔王、君〕は確実であろう。 「阿輩」は一般にオホと解釈されている。これに関しては、〈稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣〉の「意富比垝」(オホヒコであろう)の方が発音が近い。 金錯銘鉄剣の文字は中国人が音写して書いたものではあろうが、倭に在住していたからより実際の発音に近いと思われる。 それに対して隋人にとっては「オホ」は初めて聞く言葉だから、「阿輩」〔アヘ〕と聞き取ったと考えることができる。 ただ、氏の名としてアヘは実際に存在していたから、ここでは個人名のアヘかも知れない。 それでもこれはやはりオホキミで、なぜなら隋の人はこの言葉を初めて聞いたからだとも考えられる。 そして、倭王阿每多利思比孤の号〔個人名〕だと誤解したのかも知れない(下述)。 《天未明時出聴政》 「天未明時出聴政…」はかなり意味が取りにくい。それでも何とか解釈を試みると、
天皇が昼間に政務にあたることを避ける必然性はなかなか見いだせないので、 実際の言葉はどちらかというと②に近かったと見るべきか。 これを通訳がうまく訳しきれなかったために意が伝わらなかったと考えるのが、妥当かと思われる。 《此太無義理》 皇帝楊堅は所司から「天未明時出聴政…」なる言葉を伝え聞いて、「此太無義理」=言っていることの意味が分からないから、「訓令改之」=もう一度聞き直して来いと命じたのであろう。 指示詞「之」は、所司が使者から聴取することを指すと見られる。この部分は、倭使の言の正式な記録というよりは、ひとつのエピソードの紹介と読み取るべきだろう。 《阿每多利思比孤》 遣使した開皇二十年及び大業三年は推古天皇だったのに、阿每多利思比孤〔天帯日子〕が男子名であることは悩ましく、様々な解釈がなされてきた。 中には、中国では皇帝は男子であるから倭王も男子でないと相手にされないと思い性別を偽ったのではないかという説も見る。 ここでその真実を探ってみよう。まず、倭王に関する記述は三か所にある。 A:(開皇二十年)姓阿每氏多利思比孤号阿輩雞弥 B:(同上)王妻号雞弥 C:(大業三年)其王多利思比孤 注目されるのは、「阿輩雞弥」が口頭で発せられたと見られたことである。文書中では倭王の表現は「日出処天子」であり、「大王」が出てこなかったのは確実である。もしこの字が文書中に書かれていれば、阿輩雞弥とは書かないだろう。 当時の隋の人は「オホキミ」と聞いてもその意味が「大王」〔the King of kings〕であることを知らず個人名だと受け止め、そのまま音写したと見られる。 倭使は口頭で「天帯日子の妻君(ツマギミ)が大王(オホキミ)となり…」のように説明し、通訳はオホキミを倭語のままにしたと考えられる。 もしこう言ったとすれば、阿每多利思比孤は敏達天皇である。 そして、隋の人は 「王阿每多利思比孤 其妻雞弥 号阿輩雞弥」のように記録したのではないだろうか。 上記《天未明時出聴政》の項で、倭使の言葉が誤って伝わったことを見た。ここでも倭使の言葉が正確に伝わらなかった可能性がある。 後年隋書を編纂する際、執筆者はこの記録を参照して、倭王の号が阿輩雞弥であると読み取ったのではないか。 そして執筆にあたって、A:「倭王号阿輩雞弥」、B:「王妻号雞弥」に文を分けた。 Cに関しては、記録では「倭王」だが、執筆者が既に倭王=多利思比孤だと思い込んでいたのなら、ここでこのように書くのは自然である。 要するに、当時の隋の人はオホキミの意味を知らず、記録もメモ程度だったからこうなったのではないかと想像される。 《多利思比孤「比」原作「北」》 wikisourceの注釈は、隋書には「多利思北孤」とあるが、北史・通典・通鑑の「多利思比孤」が正しいと述べる。それぞれ確認すると、 ●『北史』〔北朝(北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋)の通史。659年に正史として公認〕列伝九十四「倭」 「大業三年、其王多利思比孤遣朝貢。」 ●『通典』〔766~801〕卷一百八十五:「邊防一 東夷上」/倭 「隋文帝開皇二十年。倭王。姓阿每。名多利思比孤。其國號二阿輩雞彌一。華言天兒也。遣レ使詣レ闕。」 〔…名は多利思比孤。その国「阿輩雞彌」と号(なづ)くは、華言〔中国語〕の天児〔=天子〕なり。…〕 ここでは「阿輩雞彌」が中国の天子〔=皇帝〕に相当すると付記するから、「阿輩雞彌」をオホキミの音写と捉えているのは確実である。 ●『資治通鑑』〔1084成立〕 「煬皇帝上之下大業四年。三月壬戌。倭王多利思比孤遣使入貢。」 また、新唐書にもある。 ●『新唐書』〔1060成立〕列伝第一百四十五「東夷」/日本 「用明。亦曰目多利思比孤。直隋開皇末。始與中國通。」 「目」は誤りであろう。『新唐書』は書記も資料として用い、ヒコ問題の解決策として遣隋使の派遣を用明朝に繰り上げたと見られる。 《後宮有女六七百人》 これは、倭使が少し昔の敏達天皇の時代〔572~585年〕について述べたものと考えることができる。 敏達天皇は14年間在位し、4人の皇后・妃との間に16人の皇子皇女を設けている。 ただ、「六七百人」は、使者が隋の宮殿の壮大さを見て驚き、見栄を張るために大袈裟に言った可能性もある。 敏達天皇の幸玉宮の候補地とされる他田(をさだ)庄あたりで(第240回)、 いつか宮殿・後宮の柱穴が発掘されることもあるかも知れない。 一方、次項で見るように、池辺双槻宮(用明)付属の後宮も考えられる。 《利歌弥多弗利》 "リ"から始まる上代語はひとつもないので、一般的に「利」は「和」の誤りであろうと言われている。「和歌弥多弗利」(わかみたふり)は、 源氏物語の「わかむどほり〔ワカンドホリとも〕の兵部大輔」(末摘花)、「わかむどほり〔ワカンドホリ、ワカウドホリとも〕腹」(乙女)との同一性が指摘されている。 この「わかみどほり(稚御通)」は貴人の血筋を意味するから、隋書のワカミタフリも皇子もしくは皇太子を指していたと言われる。 〔ワカは「王家」(ワウケ)の変という説も見るが、初期の天皇の名前などを見ると、祖にオホ、後継にワカの接頭辞が広く見られるので、こちらであろう。〕 ただ、隋書と源氏物語との間には400年の隔たりがあり、同一の語とは断定し難い。 もし、その期間の未発見資料から一例でも見つかれば可能性は高まるだろう。 太子の件の前後には妃・後宮・城郭・内官が述べられ、宮廷のことを書いた部分の間にあるから皇太子は倭王の宮廷に住んでいたと読み取れる。 〈推古〉元年の「父天皇愛レ之令レ居二宮南上殿一。」(245回)は、 用明天皇が厩戸豊聡耳命〔=聖徳太子〕を愛で、皇居の南隣に宮殿を建てて身近に置いたと読めるので、多利思比孤=用明、和歌弥多弗利=聖徳という解釈も成り立つ。 用明の池辺双槻宮は磐余池の畔で、履中・清寧・継体も宮としたので恒常的な宮殿があったと想定される。 そこに、大規模な後宮も付属していたのかも知れない。 この場合、「妻」は穴穂部間人皇女ということになる。 《無城郭》 この時期に検出される建物跡は掘立柱建造物で、城郭はないというのは実際に合っている。「十伊尼翼属一軍尼」までは、一応「使者言」の言葉の続きと思われ、「無城郭」もその中にある。 《内官十二等》 冠位十二階がここに出て来るということは、隋書倭国条に推古帝の時代の歴史書としての現実性があることを物語っている。 したがって、「阿毎多利思比孤」の名も決して現実から遠いものではなく、一定の確実さを見なければならない。 ただし順序が異なり、〈推古紀〉十一年では「徳仁礼信義智」であるのに対して、隋書では「徳仁義礼智信」である。 《軍尼・伊尼翼》 「軍尼」は郡(クニ)だと言われている。また「伊尼翼」は伊尼冀の誤りで、稲置(イナキ)であろうと言われる。 稲置は姓となったが、古くは地方を治める職名である。〔起源は、納税のために稲を置く邸宅の意味だと思われる。〕 里長の倭訓はサトヲサで、表記は中国と共通である。大宝令以前はサトを五十戸と書き、「八十戸」に似た規模である。 だからもともとの稲置の支配域は郷程度であろう。 〈倭名類聚抄〉を見ると、一つの郡は十郷前後だから、「郡—郷」の階層は「軍尼-伊尼冀」に対応すると言える。 畿内五国の郡を合計すると53郡だから、大和朝廷のころの国土の範囲なら「一百二十軍尼」はありそうな数だがやや少なめである。 「今里長」と書き添えるから、この部分はまだ「稲置」と呼ばれた古い時代の話かも知れない。 《大意》 開皇(かいこう)二十年。 倭王、姓(せい)阿每(あめ)、字(あざな)多利思比孤(たりしひこ)、名前は阿輩雞彌(おおきみ)は、遣使して闕(けつ)〔宮殿〕を訪れさせた。 皇帝は所司に上令し、その風俗を尋ねさせたところ、 使者はこのように言った。 「倭王は天を兄とし、日を弟とする。 天は未明の時に出て政(まつりごと)を行い、跏趺坐(かふざ)〔禅坐〕していて、日が出れば政務をやめ私の弟に委ねるという」 高祖は「これは、義や理のないこと甚だしい〔理解不可能である〕」と言い、 改めて聴取せよと訓令した。 王妻は雞弥(きみ)と号し、後宮には女が六七百人がいる。 太子の名は和歌弥多弗利(わかみたふり)という。 城郭は無い。 内官には十二等があり、 第一に大徳(だいとく)、続けて小徳(しょうとく)、大仁(だいにん)、小仁、大義、小義、大礼(だいらい)、 小礼、大智、小智、大信、小信といい、 員数は定まっていない。 軍尼(くに)一百二十人があり、中国の牧宰(ぼくさい)のようなものである。 八十戸に一人の伊尼冀(いねき)を置き、今の里長(さとおさ)にあたる。 十人の伊尼冀(いねき)が一人の軍尼に属す。 【天多利思比孤とは誰か】 天多利思比孤(アメタラシヒコ)は男子名である。 孝昭天皇の皇子に天足彦国押人命〔記は天推帯日子命〕が見える。タラスは、四段の「垂る」の未然形+軽い尊敬の動詞語尾「す」と見られる。 天孫降臨の意と見られ、しばしば別名または接頭辞として用いられていたと考えられる。よって、敏達天皇または用明天皇の別名にアメタラシヒコがあったとしてもそれほど不自然ではない。 この人物と天皇との関係について、これまで考えて得られた可能性は、
これらのうち④は、実際に太子が「天皇」として統治していた痕跡を見出すのは難しい。 記紀では摂政に留まっている。 記紀より古い時代の認識を反映すると考えられる『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』でも推古が「天皇」で、太子は一貫して皇子である。 〔なお、同書で御食炊屋姫を大大王と呼ぶのは、厩戸皇子=大王を越えた存在であったためと考えられるが、この場合の大王は皇子への呼称である。 王(キミ、皇子の意)への美称として、オホを付け加えてオホキミと呼ぶ場合がある〕 『上宮聖徳法王定説』には記紀が無視した詳細な系図が載り現実性があるが、ここにも「天皇」を匂わせる雰囲気はない。 このように、「厩戸皇子=実は「天皇」」説を示唆する材料はなかなか見出せない。 さらに④説では、和歌弥多弗利は山代大兄王となるが、 ここの王妻と太子は穴穂部間人皇女と厩戸皇子を特筆したと見た方がよさそうである。 さて、もし⑦だったとすれば、完全に解決する。『新唐書』の判断はこれに近いようである。 同書は「開皇二十年」の「二十年」を省くが「末」とするから、書紀側にも年代誤りがあると考えたようである。 しかし、年が誤っていたか否かは他に確実な資料がない限り検証のしようがない。 ③⑥については、さすがに「多利思比孤」が個人名であったのは確かだと思われるので除外したい。 そもそも、「阿毎多利思比孤」(天帯日子)も「阿輩雞彌」(大王)も音写なので上表文に書かれた文字ではなく、使者の口頭の言葉である。 隋人にとっては初めて聞くことが多く、オホキミが倭王を意味する認識もなかったと思われる。 高祖が「義理無し」と言ったように、使者の語ったことが正確に伝わっていたとは限らないのである。 よって、実際には使者がどういう言葉を述べたのかは分からないが、それを聞き誤ったと見た①または②がよさそうである。 とりわけ、王妻・後宮・太子の件は用明の時代に親和性が感じられるので、②が妥当ではないかと思う。大した根拠にはならないが、皇后の間人穴太部王〔記の表記〕を「はしひとあなほべきみ」と読めば、「妻号雞弥(きみ)」に一致する。 ただ、形式上用明「天皇」の御世の続きとする⑤もあり得るかも知れない。 これなら御食炊屋姫(推古)については最高権力者の立場は維持されるし、聞き間違えを前提とする必要もなくなる。 まとめ 推古天皇であるべき倭王の名が、「姓阿每氏多利思比孤号阿輩雞弥」になっている。これには著しい違和感があり、隋書倭国伝全体が異国から空想的に書いた書だと感じてしまうのも無理はない。 しかし、一字一句漏らさないようにして全体を精読すると、それなりに現実に噛み合っている。 まず、文章にはいくつかの音写を含むから、使者の言葉を聞き、しかしそれを必ずしも正確に理解しない状態で文章が組み立てられた可能性が見えてくる。 ただ、開皇二十年〔とは限らないが、その頃〕の倭王からの遣使自体は史実だと見てよいだろう。 冠位十二階についても、順序はともかくそれぞれの冠位名は正しいから、倭のことは全般において概ねありのままに伝えられたと見てよい。 実際の遣使の時期は用明在位中かも知れないし〔上記⑦〕、崩じた後の正式には誰も即位していない時期だったかも知れないし〔⑤〕、 用明から現在のオホキミ(推古)に継承されたと使者が言ったことが正しく伝わらなかった〔②〕のかも知れない。 しかし、逆に言えばこの三通りにまで絞り込むことができたのだから、上出来と言ってよいであろう。 また、宮殿について書かれているのは上述したように用明天皇が磐余池の畔の宮殿で執政した時期のことで、 そこは恒久的な宮殿の地であり大規模な後宮が付属し、隣接して厩戸皇子が生まれてからしばらく過ごした宮殿があったと考えておきたい。 |
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2021.12.03(fri) 隋書倭国伝(2) ▼▲ |
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【服飾/畳/武器/音楽】
大まかに言えば、裙はスカートのように腰を包む衣、襦は短衣。 『令義解』巻六 衣服令(以下〈衣服令〉)には、 位階によって色がきめ細かく定められているが、「无位【謂庶人服制亦同也】」の項が一般的な制服であろう。 ――「皆皂〔くろ〕𦄡頭巾 黄袍【謂裁縫体制如朝服也】 烏油〔黒色の塗料〕腰帯 白襪」
漆については、岩多箸店のブログによると、 「縄文・弥生時代は、土器や農耕具、漁具など生活するための道具に漆を使用」し、 「飛鳥・奈良時代になると、仏教の伝来により、仏具や寺院などにたくさんの漆が使用される」。 履(くつ)に使われるようになったのは、世界大百科事典によれば「近世になると紙を張り合わせて漆を塗り、…ものが使われ」 とされ、飛鳥時代の履に漆が塗られたものがあったかどうかは不明である。 《履》 〈令義解-衣服令〉には、 朝服:「一品以下五位以上…鳥皮履」 制服/无位:「…皮履。朝廷公事則服レ之。尋常通得レ着二草鞋一」〔朝廷公事には皮履、通常は草鞋でよい〕 などとある。 《垂髮於両耳上》 「髪を両耳の上に垂らす」とは、美豆良(ミヅラ)のことであろう。
正倉院には、奈良時代の御床畳が残る(右図)。この御床畳とサイズが一致する、「御床」(寝台)に敷いて使われたと見られる。 『第66回正倉院展図録』〔奈良国立博物館;2014〕によると、御床は 「現在も二基が伝わっており」、「聖武天皇、光明皇后それぞれの所用に宛て」「使用する見解もある」という。 御床畳は、「マコモ製の筵三枚を二つ折りにし、重ねて六重にしたものを芯とし、 イを編んでこしらえた一枚の藺筵で表から裏面の縁まで包み、裏面には麻布を張って全体を構成しており」、 「長側面の縁及び小口には、白絁で裏打ちした茶紫地錦が付いていた痕跡が残って」いるという。 畳の起源は「確実には弥生時代まで遡り」、「古墳時代に入ると西日本にも広がり」、それぞれ筵の残片が出土しているという。 「草為薦雜皮為表緣以文皮」はこの説明によく合うから、6世紀初めにはこのような製法による畳が存在したと見て、よいであろう。 《奏其国楽》 「その国の楽を奏す」と訓読してしまうと賓客の国の音楽を奏して歓迎したようにもとれるが、文章全体で「其」は「倭」の意味で使われるのでここでも「倭の音楽」であろう。 《大意》 その服飾(ふくしよく)は、 男子は裳と短衣を着て、袖は短い。履物は植物を編んで屨(くつ)の形にしてその上に漆を塗り、脚に紐でくくり付ける。 庶民は跣足(せんそく)〔はだし〕が多く、金銀を用いて飾りとすることもしない。 昔は、衣の橫を結んで繋ぎ、縫うことをしなかった。 また、頭には冠をかぶらず、ただ髪を両耳の上に垂らした。 隋に至り、倭王は初めて冠制を定め、錦に彩りしてこれを作り、金銀の花細工で飾る。 婦人は髮を後ろに束ね、また裳と短衣を着る。裳には皆布飾り〔フリル〕がつく。 竹を削って櫛を作る。 草を編んで蓆(むしろ)を作り、さまざまな表皮をつけ、縁には文様のある皮を用いる。 弓、太刀、長矛、弩(ど)〔機械仕掛けの弓〕、短矛、斧があり、 漆を塗った皮を甲冑とし、骨を鏃(やじり)とする。 兵はいるが、戦に遠征しない。 倭王が朝廷で外国の賓客と会見するときは必ず儀仗が整列し、倭国の音楽を奏する。 戸数は約十万ある。 【刑罰/性質/風習】
鋸には金床(かなとこ)の意味もあるが、拷問具として考えるならノコギリの方であろう。 「鋸びき」は弓の弦を当てることの比喩かとも思えたが、弓の弦では拷問として何の効果もない。 しかし、ノコギリだとして、この時代に実際に存在したのだろうか。 ノコギリは、細かい刃を切り出し、それぞれを研いで「あさり」をつける精密な加工を必要とするから、中世までの普及は少なかったといわれるが、 最古の出土品は古墳時代とされる(右図)。 よって、隋代の倭には実際に存在し、やはり拷問に使われたのであろう。 問題は、弓の弦と鋸との物理的関係である。構文としては、「鋸」を動詞化し〔鋸をひく〕、これに弦を用いるとしか読みようがない。 何らかの機械仕掛けが考えられるが、今のところその具体的な構造を示す資料は得られていない。 《置小石於沸湯中令所競者探之》 「置二小石於沸湯中一令二所レ競者探一レ之…」 これすなわち、盟神探湯(くがたち)である。書紀には、〈允恭紀〉四年 〈応神紀〉九年、 〈継体紀〉二十四年にある。 本当に行われたかどうかは疑問だったが、盟神探湯を室町時代に復活させた「湯起請」の記録があるというので、調べた。 それは、『看聞日記』永享三年〔1431〕に盗みの「嫌疑之輩」を取り調べた記事である。 六月五日に「地下※盗人猶嫌疑者三四人。今日令レ書二湯起請一、一人ハ逐電云々。 三人於御香宮書レ之、一番に書〔ける〕物、則〔ち〕手焼損、則搦捕縛レ之〔を〕。 次二人書〔けり〕下無二其失一無上レ為也」とある。 ※…京都御所の清涼殿殿上間に上がれない階位の者。中世には官位を持たない者。 実際に無傷で済んだ者もいたわけで、記録はリアルである。すると、似たようなことが飛鳥時代以前にも実際に行われていたと考えてよさそうである。 《競者》 「競者」は、民事訴訟において、互いに主張を譲らない二者を指すと思われる。 《黥臂點面文身没水捕魚》 黥臂點面文身没水捕魚は、魏志の「男子無大小皆黥面文身」なる言い伝えを継承したものと見られる。 そこでは、潜水漁における害を避けるまじないと解釈されている (「魏志倭人伝をそのまま読む」第30回~第34回)。 《求得仏経始有文字》 「求二-得仏経一始有二文字一」すなわち仏経を得て初めて文字をもったというが、少なくとも朝廷の外交部門では漢字を使いこなしていたと思われる。 もちろん、主に渡来人の子孫である史人が担ったのだろうが、代を重ねれば倭人化する。 宋書には、478年に倭使が持参した上表文が載る(倭の五王)。 もう少し遡ると、記には応神天皇の時代に和邇吉師(王仁)によって文字が伝えられたとあり、また一般的に史(ふひと)は朝廷に仕えたフミヒトベの子孫の姓である。 また、〈敏達紀〉元年に王辰爾(おうしんに)が登場する。その祖である辰孫王が、応神朝がリアルに存在した時期〔4世紀後半〕に史として招かれたとする伝承を見た。 王仁、阿知使主、秦酒公の伝説もそれに類するものである(敏達元年)。 資料[41]で「中国で古くから受け継がれてきた来た倭に関する伝承を、直接くっつけたものであろう」 〔刻木結縄の記号による情報伝達の時代から、帰化人が史として朝廷に仕えるようになった時代を飛び越して、仏教経典移入の時期に繋いだ〕と見た通りである。 《棋》 棋〔棊は異体字〕は、囲碁である。現在の囲碁団体の名称は「日本棋院」で、その試合を「棋戦」という。 「将棋」は派生語である。
隋書に載るから、それ以前からあったことは確定的である。 《槊》 槊は双六(すぐろく)。〈時代別上代〉は、「「雙」の字は江韻に属し、中古音ɔŋの音を表すはずなのに、スグとuŋの形でとり入れられたのは、 江韻の形でとり入れられたのは、江韻がɔŋとなる以前の東冬鐘の韻と通用であった六朝中期以前の音を反映したものと考えられ、 そこからスグロクの渡来の古さが想像される。」 〔雙(双)の発音は、広韻(1008年の漢字発音の解説書)によれば「江」(k+オグ)※のグループに入るからs+オグのはずだが、s+ウグとなっているから六朝〔222~589〕中期より古い発音である。 スグロクが倭に入って来た時期はそれぐらい古いのだろう〕と述べる。 ※…kを声母、オグを韻母という。〈魏志倭人伝をそのまま読む〉第18回を参照。 双六による賭博は盛んだったようで、持統天皇は双六禁止令を出している。すなわち〈持統紀〉三年「十二月己酉朔丙辰〔八日〕。禁斷雙六。」。 《樗蒲之戯》 「樗蒲之戯」の戯が動詞の場合、この位置に置かれた「之」は、動詞—目的語の倒置を表す。すなわち「樗蒲之戯」=「戯二樗蒲一」。 したがって、「握レ槊」と区切られる。「にぎる」には、現代の俗語では金銭を賭ける意味があるが、 「握槊」もそれかも知れない。ただ、ゲームで賽を握ることによるかも知れない。だがそれでは「棋博」とつり合わなくなる。 ともあれ、倭の俗は囲碁も双六も賭博だらけであった。 《大意》 その俗、 殺人・強盗及び強姦は皆死刑とする。 盗みは盗物によって没収物を計算して酬いとする。財の無い者は奴婢に身分を堕とす。 その他は軽重があり、ある場合は流刑、ある場合は杖打ちである。 つねに訴訟の追及に承引しない者は、 木で膝を圧し、あるいは強弓を張り弦によってその頭頂部を鋸引きする。 あるいは小石を沸湯の中に置き、係争する者にこれを探らせ、理を曲げて言う者は、手が爛れる。 あるいは蛇を甕の中に置きこれを取らせ、曲げて言う者は、手に毒牙を刺す。 人はすこぶる物静かで、訴訟は希で盗賊は少ない。 音楽は五弦琴・笛がある。 多くの男女は腕・顔・体に入れ墨し、水に潜って魚を捕る。 文字はなく、ただ木を刻み縄を結んだ。 仏法を敬い、百済より仏経を求めて、初めて文字を持った。 亀甲や筮竹による卜占を知るが、最も男女の巫(かんなぎ)を信ずる。 正月一日になる毎に、必ず射に戯れ酒を飲み、その他は概ね中華と同じである。 囲碁で賭け、双六で賭け、賭博に戯れる。 【気候/婚/葬/他】
「気候温暖草木冬青」は、魏志の「倭地温暖冬夏食生菜」と類似する。海南島に近いところにあるとする古代の地理観が、ここにも顔を出す (魏志倭人伝(41))。 青は基本的にblueであるが、青松・青苗・青林・青山などの語があり、時にgreenである。 日本においては、上代語のアヲは、〈時代別上代〉「黒と白の中間的性質を持つ範囲の広い色名で、おもに、青・緑・藍など」を指した。 次第に blue ときに green に収斂したのは、漢字「青」の影響によると思われる。 《以小環挂鸕鷀項令入水捕魚》 鵜飼漁は、記紀にもしばしば出て来る。 記の神武天皇段には「阿陀之鵜飼之祖」(第98回)とあり、 「鵜飼部」という職業部(職能集団)があったことが示唆される。 隋書における表現「以二小環一挂二鸕鷀項一令二入レ水捕一レ魚」は、説明的である。 鵜飼の説明的表現としては〈雄略紀〉にも「使二鸕鷀没レ水捕一レ魚」〔鸕鷀(う)をして没水捕魚せしむ〕がある(三年)。 記を見れば、倭人には「鵜飼」で十分通じたにも拘わらずである。 〈雄略紀〉(第十四巻)はα群(第193回《α群》)の最初の巻で、 執筆にあたったと見られる中国人は初めは倭国の伝統に対する理解が不十分で、執筆を進める間に認識を深めていったことを伺わせる例がいくつか見られた (継体四年《璽符》、宣下即位前《奏上剣鏡》)。 鵜飼漁は中国にもあったと言われるが、魏志や〈雄略紀〉を見ると少なくとも中国の都の人には知られず、倭の風習として興味を惹き、その結果説明的な書き方になったと推定される。 《檞葉》 檞=カシハは日本語用法であって、中国で檞が実際にどの植物種を指すかは不明である。だが、膳部(かしはべ)〔=料理人〕の由来は、食物を載せるのに使ったカシハの葉であるから、 檞がカシハだとすれば意味に合う。すると日本でカシハに檞の字を当てたことが先にあり、それが中国に伝わったことになるが、そんなことがあり得るのだろうか。 日本語のカシハ〔学名Quercus dentata〕の中国名は「槲樹」だから、「槲」こそが正真正銘のカシハである。日本の漢和辞典でも、槲の方は完全にカシワとしている。 そこで、「檞」は「槲」の誤写ではないかと考え、〈中国哲学書電子化計画〉で数種類の影印本を見たが、皆「檞」であった。 しかし、更に北史(次項)を見たところ「藉以槲葉」であった(影印:右図)。 よって、隋書の「檞」が誤りであるのは確実となった。 誤写だとすれば、隋書の版本はすべて誤写された写本に基づいたことになる。原本から既に誤っていた可能性もある。
一方、〈倭名類聚抄〉の「槲:槲【和名加之波】柏【名同上】木名也」は真っ当である。〈時代別上代〉はこれを引用するのだが、「檞加之波、柏和名同上、木名也」になっている。 日本では、誤用の方がごく一般的になっていることの現れであろうが、このミスは私が編者ならばきっと恥ずかしいだろうと思う。 結局、中国と日本でそれぞれ別個に誤りが生じたのであろう。ただ、日本で誤られた要因の一つに隋書の影響があるように思われる。 また〈倭名類聚抄〉は平安時代中期であるから、誤用が生じたのはそれ以後ではないだろうか。 《北史倭国伝「犬」作「火」》 〈wikisource〉の注記は「犬」を隋書の誤写と見て、北史により「火」に正す。 〔なお、前項の檞〔北史:槲〕はスルーしている〕 確認すると、「婦入夫家必先跨犬」は、北史では「婦入夫家必先跨火」となっている。 北史は誤写される前の本を用いたと考えられるが、誤写ではなく北史編者が独自の判断で直したことも考えられる。 《棺槨》 魏志では「有棺無槨」、すなわち一重棺であったが(魏志倭人伝(43))、隋書では二重棺になっている。 「親賓就屍歌舞」については、魏志の「他人就歌舞」と同じ光景である。 《貴人/庶人》 貴人=うまひと、庶人=もろびとと訓むと語調がよいが、これらは上代語である。 《殯》 モガリは上代語であるが、中古以後は死語となるから特別な時代の習慣を表す語として、モガリと訓んでもよいだろう。 《阿蘇山》 二十四史〔中国の王朝の正史〕の史書から新唐書の範囲で検索してみたが、阿蘇山が出て来るのは隋書と上述のように隋書を写した北史のみである。 〈汉典〉には見出し語に「阿蘇山」があるが、説明は一字もなかった。(2021/11/30現在) 書紀は〈景行紀〉十七年に「阿蘇国」〔〈倭名類聚抄〉{肥後国阿蘇郡}の前身と見られる〕の地名譚とともに「阿蘇山」がある。 〈景行紀〉は九州行幸伝説の体裁を借りて、肥後国・日向国・肥前国・筑後国の事実上の地誌となっている。 〈神武紀〉三十一年《磯輪上秀真国の別解》の項で見たように、アソはポリネシアからインドネシア方面の言語に由来すると考えられている。 それが中国にも伝わり、中国語となった可能性はどうだろう。そう思って〈中国哲学書電子化計画〉で検索した結果は、隋書・北史以外には阿蘇(人名)が一例あるのみで、火山などを意味する中国語になったとはとても言えない。 〈汉典〉が見出し語のみで中身がないのは、わずかに隋書にこの字があるが、それ以上は何も書かれていないという現実を反映したものであろう。 結局、隋書の「阿蘇山」は倭が知らせた字を記したと見るのが順当であろう。 《其石無故》 「其石無故火起接天者」は、「無故火起其石接天者」の誤りと見るべきであろう。「接レ天」の主語が火だとすると、「その石から火が起こり」となり、意味が通らないことはないが苦しい。 現在でも阿蘇山が噴火すると、噴石の飛散が激しい。 《魚眼精》 「夜則有レ光云二魚眼精一也」は、〈汉典〉には載らず〈中国哲学書電子化計画〉の検索にかからないので、隋書だけにある語である。当然、石の種類は判らない。 関連事項は次の通り。 ・魚眼石…種々のケイ酸塩鉱物。ガラス光沢ないしは真珠光沢。 ・蓄光…ある種の物質において、電磁波を蓄え、光照射をやめても発光する性質。 ・蛍石(ほたるいし)…主成分はフッ化カルシウム。不純物の種類によっては、紫外線を照射すると紫色の蛍光を発する。 《新羅百済皆以倭為大国》 新羅百済を倭の衛星国とするのは、遣隋使の話によるもので誇張があるかも知れない。 しかし、魏志にも「諸韓国…使」の語があり、独自に交流はあった(魏志倭人伝(58))。 さらに、梁が倭王武に除した〔=授与した〕称号「持節督 倭 新羅 任那 伽羅 秦韓 慕韓 六国諸軍事鎮東大将軍」(梁書)も、南韓諸国が倭に朝貢する関係を反映したものと見られる。 〔倭はこれに百済を加えることをしきりに要求し、常に拒否されている〕(倭の五王)。 書紀には百済・新羅・任那による倭への遣使が幾たびも記されているが、概ね史実を反映したものと言えそうである〔ただし、任那については虚偽的である〕。 よって、当時の東アジアには中国に加えて、もう一つの極として倭が存在していたと言ってよいだろう〔それも白村江の戦いまでであるが〕。 《多珍物》 文中の「多珍物」の位置づけは難しい。「並」は「新羅・百済ともに」の意味ととるのが相応しい。 ところが、その場合「以為大国」と「新羅百済、並べて敬ゐ仰ぐ」の間に「倭国に珍物多し」が入ってしまい、意味が通じない。 真相は、「多珍物」はもともと「有如意宝珠」の前にあったが、筆写を重ねるうちに誤ったと考えるのが妥当であろう。 しかし、文章が現在の形になっている以上、文意と矛盾しないようにするには「多珍物」を受事主語として、「多くの珍物を並べた(が並んだ)」と読むしかない。 「珍物」は、倭に朝貢する宝物・特産品である。 《大意》 気候は温暖で草木は冬も青く、土地は肥沃(ひよく)である。 水が多く陸は少ない。 小さな環を鵜の首筋に掛け、水に入れ魚を捕えさせ、日に百尾余りを得る。 人々に盤(ばん)〔大皿〕や俎板(まないた)はなく、皿の代わりに柏の葉を用い、食事は手を使って食べる。 性質は素直で、雅な風情をもつ。 女が多く、男は少ない。 嫁ぐ相手を同じ姓から取らず、男女が出会って喜びがあれば、結婚する。 妻が夫の家に入るときは、必ずまず火を跨ぎ、それから夫と相まみえる。 婦人は淫らではなく、嫉妬もしない。 死者を斂(おさ)めるのに棺槨(かんかく)を用い、親しい客は遺体に寄り添い歌い舞う。 妻子兄弟は白布により服装を整える。 貴人は、三年間家の外で殯(もがり)をする。 庶民は、卜(うらない)で日を定めて埋葬する。 葬儀に及び、遺体を船上に置き陸地から牽引し、あるいは小さな輿(こし)を用いる。 阿蘇山があり、 その石は、前触れもない噴火によって天に達する。 人々は異変と思い、祭りを行い祈祷する。 如意宝珠(にょいほうじゅ)があり、色は青、大きさは鶏卵ほどある。 夜になると光を発し、これを魚眼精(ぎょがんせい)という。 新羅(しらぎ)百済(くだら)は皆、倭を大国と見做し、 多くの珍物〔宝物・特産品〕を並べ〔て朝貢し〕、仰ぎ見て敬い、常に通使が往来する。 まとめ 今回読んだ部分は、開皇二十年の使者の話から得た内容も含むだろうが、これまでに倭の俗について知られていたことが主であろう。 気候や葬儀の様子や人の慎み深い性質、手食の習慣などは、魏志と似る。 それは海南島とも混同されるような、古来の伝統的な倭国観を引き摺るものであろう。それと隣り合わせに、使者の言を含む新たな知見が書かれているのである。 そのうち意味が取りにくい部分として、「強弓の弦によって鋸引きする」、「阿蘇山あり。石故なく」、「珍物多し」の箇所が挙げられる。 これらが書かれているのは隋書〔及び、そのまま写した北史〕のみなので、他の書と比較することもできない。 「石無故」と「珍物」についてはひとまず誤写と見たが、前回は使者の言葉がうまく伝わらず高祖に「此太無義理」と言われてしまっている。 ここも使者の言による部分で、その翻訳の拙さ故かも知れない。 |
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2021.12.04(sat) 隋書倭国伝(3) ▼▲ |
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【北史との比較】 北史倭国伝は、隋書倭人伝からその大部分を取り入れているが、若干の省略がある。また、その他に梁書や魏志も用いている。 ここでは、北史が隋書と異なる箇所を見る。 《古云去楽浪郡境及帯方郡》 ●去楽浪郡境及帯方郡
次に、帯方郡から邪馬台国への経由国と道程を述べる。これは魏志と同内容で、梁書とほぼ一致する。 〔相違点:朝鮮國→韓國、邪馬臺國→祁馬臺國など〕 国名及び方位・距離は魏志と一致し、明らかに魏志から抜き出したものである(魏志倭人伝(3)~(24))。 但し、「始度一海又南千餘里度一海」が「始度一海南千餘里至對馬國又度一海」の誤りであるのは明らかである。 なお、梁書ではさらに北史から「又南千餘里度一」を欠き、「始度一海海」となっている。 魏志はやや読み取りにくいので、北史は読み取りの助けになる。なお、梁書や北史の書き方では、絶対に放射説には読めない。 北史では「一支國」「邪馬臺〔台〕國」なので、『魏志』紹興本・紹煕本の「一大國」「邪馬壹國」の誤りが、ここからも明らかになる。 隋書がこの部分を採用しなかったのは、おそらく後の「明年」段のところで裴世清の経路として、島々と国の配置が示されるからであろう。 魏志の時代の言い伝えによる配置はそれとは異質で、これを載せると一貫性を損なう。 隋書においては、南に会稽郡の東まで伸びるような倭国は遥か昔の伝説なのである。 北史はそれを知ってか知らでか、魏志の配置を復活させている。 ●倭国大乱
『北史』倭国伝〔巻九十四列伝第八十二〕には、隋書倭国伝とが丸々用いられるが、実はさらに梁書がミックスされていることが分かった。 隋書では期間が長く戦国時代のようなイメージであるが、梁書の通りだとすれば王の交代に伴う短期間の混乱である。 ●唯有男子二人
《開皇二十年》 ●卑弥呼以後
すなわち、北史倭人伝は隋書の他に梁書を取り入れて作られた。なお、卑弥呼の宗女「壱与」は、梁書・北史では「台与」である〔魏志倭人伝(84)参照〕。 《其王与裴世清相見》 ●既至其都
倭王と裴世清の対面から帰国までの部分が、北史では丸ごとなくなっている。 もともと北史の巻物に毀損があり、その状態で写本もしくは版本が作成されたとも考えられるが、 もし意図的に省略したのなら北史編者がこの部分に書かれた内容に疑問を感じていた可能性もある。 隋書が「清」、北史が「世清」であるのは、隋書のみが避諱によって、「裴世清」から「世」を除いたため。 これは、李世民〔唐二代皇帝太宗〕の「世」の使用を遠慮したものである。 「明年…」の段でも、隋書:「上遣文林郎裴清使於倭國」、北史:「上遣文林郎裴世清使於倭國」である。 なぜ隋書は避諱を用い、北史は用いなかったのかという問題は、次回で検討する。 まとめ 北史、隋書ともに現在の本は武英殿二十四史〔清の乾隆年間(1736~1795)〕として刊行されたものが基本になっている。 武英殿本同士では年代の比較はできないのだが、その刊行に用いられた写本を比べてみると、北史の方が誤字が少なかったようである〔これまで見た「北孤→比孤」、「檞→槲」など〕。 唐代の隋書・梁書・三国志の写本は当然清代よりも誤字が少なかったが、その唐代に隋書などをひき写した北史は、比較的誤りを生じないままで残っていたということであろう。 「對馬國」の脱落は残念であるが、それでも北史の表記はひとつの標準になり得るものと言え、そこに北史の重要性があるわけである。 |
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2021.12.14(tue) 隋書倭国伝(4) ▲ |
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【大業三年】
大業三年(丁卯)は607年。〈推古紀〉十五年〔607〕に、「秋七月戊申朔庚戌。大礼小野臣妹子遣於大唐」とあり書記と一致する。 但し、書紀が隋書を参照してこの年にした可能性もある。 『資治通鑑』〔1084成立〕には、 「煬皇帝上之下大業四年。三月壬戌。倭王多利思比孤遣使入貢。遺帝書曰日出處天子致書…」 とあり、年が不一致である。 〈推古紀〉では、小野妹子は十六年〔大業四年〕四月に帰国した。 《倭王多利思比孤》 大業三年の記録に残っていた文字は「倭王」のみだったが、 隋書の編者の判断により開皇二十年の記録に合わせて、ここに名前「多利思比孤」を書き加えたのではないだろうか。 《兼沙門数十人来学仏法》 倭は国家の仏教化を推し進め、遣隋使の派遣もその政策の一環である。それが隋側の文書によっても裏付けられているところが、興味深い。 倭国は仏教をこれまでは専ら百済から導入してきたが、隋代になって仏教の隆盛を知り乗り込んできたわけである。 『日本大百科全書』によると、「文帝〔在位581~604〕は仏教保護政策をとり、煬帝〔在位604~618〕も仏教を篤信したので、仏教界は生気を取り戻して興隆した」という。 上宮太子〔聖徳〕が三経義疏を自ら執筆したかどうかはともかくとして、倭国の仏教化を熱烈に推進する中心にいたことは間違いないから、 遣隋使の派遣を主導した可能性は高いと思われる。 《日出処天子》 国書の件は、一見すると「倭=日の出の勢いの国、隋=斜陽の国」と言ったことを皇帝が怒った印象を受ける。 しかし、現在一般には、ことの本質は倭王を天子と表現したところにあり、日出の国・日没の国は取り立てて問題視されなかったと考えられている。 中華思想では天子〔天帝の子の意;=皇帝〕は中国のみの存在で、周辺は蛮夷戎狄、すなわち未開の地域であり、各地の王は天子から領土を冊封される存在である。 さて「崩」は天子の死に用いられる語で、諸侯の死は「薨」である。朝鮮半島ではそれを受け入れ、三国史記では新羅や百済の王の死は「薨」と表現される。 ところが、記紀では天皇の死を表す語として「崩」を用いる。その用語法は恐らく飛鳥時代からであろう。 倭の感覚では、中国には西の天子、倭にはそれに合い向かうように東の天子が立つのである。 そしておそらく太子は、そのままの認識を国書をしたためて遣隋使に持たせたわけである。 《勿復以聞》 "勿"〔なかれ〕は、禁止の意を表す語で、辞書には副詞とするものと、動詞とするものがある。 以は基本的に接続詞「~だから」、動詞として「~を用いる」、前置詞として手段「~を用いて」であるが、 何れもうまく入らない。ただし、単純に並列する場合にも用いる〔=而〕。"復"には動詞として「ふたたびする」〔同じことを繰り返す〕もあるので、 以を2個の動詞復・聞を繋ぐ接続詞として、「復以聞」が名詞化して「勿」の目的語〔または、副詞「勿」が2個の動詞にかかる〕と位置付けるのがよいだろう。 訓読はあっさりと「ふたたびきくことなかれ」でよいとして、文法の問題には決着をつけておきたい。 さて、「勿復以聞」は個人の感想であるが、皇帝がこれを口にすれば臣下にとっては「この言葉を二度と聞かせないように手を打て」と命令を受けるに等しい。 実際この言葉が具体化され、裴世清を派遣して倭に正しい道を教えるに至ったわけである。 《大意》 大業(たいぎょう)三年、 倭王多利思比孤(たりしひこ)は遣使朝貢した。 使者は、 「海の西の天子は菩薩となり、重ねて仏法を興されたとお聞きしました。 故に使者を遣して朝拝させるとともに、 沙門(さもん)数十人を仏法を学ばせるためにともに送りました。」と申し上げた。 その国書には、 「日出る処の天子、書を日没む処の天子に致す。恙がなく云々」と書かれていた。 皇帝はこれを見て不機嫌になり、鴻臚卿(こうろきょう)に 「蛮夷(ばんい)の書にこれほどの無礼があるとは。決して再び聞くことがないようにせよ。」と仰った。 【遣文林郎裴世清】
〈wikipedia中国語版〉「隋開皇六年〔586〕始置二文林郎一職一。為二従九品上一。隋煬帝大業三年廃除。唐武徳七年〔624〕又復置…」 このように、文林郎は大業三年に廃された職名であるが、習慣的に呼称されたか。 《避諱》 前回《其王与裴世清相見》の項で見たように、「裴清」は「裴世清」から李世民の「世」を避諱したものである。 ところが、北史では避諱は行われず、隋書をコピーした部分でも「裴世清」が復元されている。
『唐会要』※に載る武徳九年〔626〕の太宗令は、避諱に関する令である。 曰く「其官号人名及公私文籍。有世及民两字不連続者。并不須諱」 〔その官号人名及び公私文籍については、世と民のふたつの字が続いていない場合は、それぞれを単独で避諱する必要はない〕。 これにより、「裴世清」の"世"を避諱する必要はなくなった。 この太宗令が厳密に守られたとすれば、隋書の成立は626年の太宗即位後から太宗令が出るまでのごく限られた期間となる。 ただ実際には太宗令が出た後でも、避諱するものだという心理は根強く、習慣的に続いたことも考えられる。 北史には、この太宗令の効力が見える。北史の正史としての公認は659年というから、時期に矛盾はない。 ※…『唐会要』(とうかいよう)〔会要は歴史書の一種。二十四正史の不足を補う〕は、王溥〔922~982〕撰。北宋の太祖〔初代皇帝〕の建隆二年〔961〕に完成。 《百済》 538年に遷都してから、百済が滅亡するまで都は泗沘である (安閑元年《百済の位階》)。 海から泗沘に通ずる川は錦江〔クムガン;금강〕である。錦江を上って都の玄関港に一旦停泊したことも、考えられる。 裴世清が倭国に遣わされて百済国を経由したことは、『三国史記』にも載る。
但し、三国史記が書かれた頃は既に書紀が存在していたから、書紀に書かれた時期から推定して書いたこともあり得る。 ところが、避諱による「裴清」を用いているから、書紀は用いずに隋書によったとも考えられる。 その場合、隋書には「三月」とは書いてないから、「三月」は百済の国内資料に拠ったのかも知れない。 なお、「奉」は倭を尊敬するようにも見えるが、おそらく「使」の主語である隋への尊敬語として、隋書の文に付け加えたのであろう。 《竹島》
地図上で推定航路を引いてみると珍島〔チンド;진도〕が最適であるが、現在の珍島に"竹島"という地名は見えない。 《耽羅》 〈神功皇后紀〉四十九年の「忱弥多礼」は、耽羅であろう。 〈継体紀〉二年に「南海中耽羅人 初通二百済国一」とあり、また北史には隋の戦船が「海東」の「耽牟羅国」に漂着した記録が載る。 よって、耽羅国が済州島であることは確実である。 また劉仁軌伝にもあり(旧唐書巻八十八)、曰く「麟徳二年。封二泰山一。仁軌領二新羅及百済耽羅倭四国酋長一赴会。高宗甚悦。擢二-拝大司憲一」 〔麟徳二年〔645〕劉仁軌は泰山に冊封された。仁軌は新羅・百済・耽羅・倭の酋長を引き連れ高宗〔唐第三代皇帝〕に面会させた。高宗は大いに喜び大司憲に抜擢した〕。 《都斯麻国》 ツシマは倭語のツ(津)シマ(島)で、都斯麻がその音写であるのは間違いないから、古くからずっとツシマであったと思われる。 隋書より300年以上前に書かれた魏志では、「對馬」と表記されている。『太平御覧』でも一般的に「對馬」で、これがツシマ島への一般的な表記であったと思われる。 書紀は「對馬」としている。 国造本記の「津島」は多少疑念もあるが、まず對馬のことだろう(顕宗三年【高皇産霊神と日神・月神】)。 これらから日本には両方の表記が存在し、また対馬がツシマと訓まれていたことを実証する。 〈倭名類聚抄〉では{對馬島}なので、平安以後は対馬が定着したようである。 〈神功皇后紀〉を見ると、書記が三国志(魏志)を読み込んだ上で書かれたのは明らかだから、書紀は三国志の表記を用いた可能性もある。 〈学研新漢和〉によると対の上古音(周・秦)は[tuəd]なので、「ツシマ」が漢代以前に音写によって「對馬」になっていたと想像される。 しかし、中古音(隋唐)は[tuəi]なので、隋代にはもうタイマと発音されていただろう。世清が通ったツシマが「対馬」であることを知らなかったとも思えないが、 結果的には都斯麻というリアルな音写を用いているのは事実である。 《一支国》 一支は〈倭名類聚抄〉では{壱岐島}である。支は音仮名キ甲に用いられ、上古音[kieg]〔学研新漢和による〕によると見られる。 隋代の中国ではもうイシと発音されていたと思われるが、こちらは一支をそのまま使い、 「都斯麻」との一貫性のなさには戸惑わされる。 応神八年では、地名「支侵」(シシム)の直後に、人名「直支」(トキ)があり一定しない。百済で実際にどう発音されたかは分からないが、音仮名にシもキもあったことが伺える。 一方、〈継体二年十二月〉の「久羅麻致支弥」がクラマチキミであるのは明らかである 〔マチキミはマヘツキミ(臣)の転〕。 これは書紀所引の『百済本記』の中の文字で、よって百済人が倭語が音写した字と見られる。継体朝〔507~531〕のころの百済の古記録にこの字があったとすれば、その頃にはkiが残っていたと思われる。 隋代の中国においても、一部にはまだkiが残っていたかも知れず、また少なくともかつてkiと発音されたという共通認識が当時の中国人にあれば、イキを「一支」と表すことを比較的許容する感覚があったのかも知れない。 《竹斯国》 竹は中古音でも閉音節の[tɪuk]なので、 竹斯がチクシ(筑紫)の音写であるのは明らかである。魏志には末盧國・伊都国・奴国・不弥国だけなので、筑紫国が立ったのはその後かと思われる。 隋代の表玄関は、糟屋郡だと思われる。 糟屋郡は筑紫君の支配範囲だったが、磐井の乱〔527年〕の戦後処理において朝廷に明け渡され、糟屋屯倉が置かれた(第232回)。 三韓に往来する船は筑紫君によって糟屋郡の港(香椎宮のあたりか)に誘導され、通行税を私的に課していたと想像される。 その邪な権益を奪うために朝廷が接収して、糟屋屯倉を置いたと見られる。やがて、那津之口官家に繋がったようである。 那津之口官家に比定されるのは比恵遺跡群〔福岡県福岡市博多区〕で、近くに鴻臚館跡〔1987年発見〕がある (宣化天皇元年【那津之口官家】)。 裴世清の船も、ここに立ち寄ったのだろう。 《秦王国》 秦王国の後、さらに東に十数国云々と述べるから、秦王国は筑紫国の東隣りの九州内または山口県であろう。 発音が近いのは周防なので、検索してみると秦王国=周防説は確かにあった。 周防国は瀬戸内海側だから、難波津までの海路の途中にあたる。 周防は、『国造本紀』に「周防国造」がある。〈倭名類聚抄〉には{周防【須波宇】}とある。 防は呉音では濁音、漢音では清音であるが、〈時代別上代〉によると音仮名は清音のみなので、スハウであろう。 「秦王」はスハウの音写かとも思えるが、逆に漢字の秦王(シンワウ)が先にあり、スハウはその訛りだと考えることもできる。 魏志がわざわざ秦王の表記を用いて「夏華と同じ」と書くのは、当時の住民が秦王の子孫だと自認していたからだろう。 この国だけに取り立てて説明を加えたのは、隋書が特に関心を抱いたことの現れと見られる。 裴世清一行が周防の港に立ち寄ったときに、住民が船を訪れて「我らは始皇帝の血筋で、華夏の出身である」と告げたようなことがあったのかも知れない。 しかし、そうは言っても裴世清には俄かには信じられる話ではないから「其人同二於華夏一以二-為夷洲一疑不レ能レ明也」 〔華夏と同一というが、夷洲とも思え疑わしい。実際のところはよくわからない〕と書いたわけである。 書紀によれば応神朝に百済から大量の住民が弓月王に率いられて来帰し、その氏族は「秦」(はた)を名乗る(第152回)。 〈新撰姓氏録〉によれば、秦氏は帰化したのち各地に分散した。 そのうち大きな塊が周防の地に住み着き、秦王国を名乗ったのかも知れない。 「波多」は彼らが賜った倭姓で、一定時期までは並行して音読みのシンも使われていたと思われる。 秦の始皇帝の末裔と称する弓月王が「秦王」と呼ばれ、「秦王の国」が国名になったことは、容易に考え得る。 また、上述したように「都斯麻」は音写であるから、秦王国もシンワウに近い発音だったと推定される。 それでは、隋代に秦氏の有力な分流が周防にも住んでいたことが実証できるのだろうか。 そこで、秦氏の渡来から各地への分布を調べた結果を調べてみた結果、 周防国にも秦氏が存在し、氏寺として玖珂郡に二井寺を建てたらしいことまで分かった (別項)。もう一押しである。 《華夏/夷洲》 華夏は、文明の進んだ中国の中心地域を意味する。"華"も"夏"も盛大なさまを表す。 夷洲は台湾の古名とされているが〔資料40〕、 ここでは華夏の反対語としての夷(えびす、ひな)の洲、則ち周辺地域であろう。 秦王国の人は華夏出身族を自称するが、その身なりや住居にはそのような高貴さは見えないからこれを疑い、中国出身だとしても周辺地域ではないかと考えたのであろう。 《経十余国達於海岸》 「達二於海岸一」した先は、〈推古紀〉十六年によれば難波津である。 「十余国」という国々の規模は恐らく国造並みで、大まかには律令郡に移行したと考えられる。 「経十余国」は山陽道沿いの諸国と考えられる。 それらの「国」の広さは、およそ〈国造本記〉の国造程度ではないかと想定した。 〈国造本記〉には県(あがた/こほり)〔概ね律令郡に移行〕のほかに、律令国に対応するものも含まれる。 後者を除外して、山陽道における国造と律令郡との対応を、別項で調べた。 その結果、その数は13となり、「経十余国」に見合っている。 よって、この「十余国」は周防と難波津の間の山陽道沿いにあった国を指すと見てよいと思われる。 《自竹斯国以東》 ここで「自竹斯国以東」という。「以東」というから、漢書・魏志に描かれた倭国が南に伸びる地理観は、もはや過去のものである。 裴世清の旅程によって、倭国の正しい地理が遂に中国にも実証的に認識されたわけである。 こうして、隋書では「南水行十日陸行一月」・「会稽之東」は姿を消し、隋書以後は「東西五月行南北三月行」と書かれることになる。 《皆附庸於倭》 中国は、倭がもう一つの中華であることを認めないから、附庸という表現になる。 これは一面、山陽道沿いの各国には一定の独立性が見えたということである。 直接統治の範囲内なら、このような言い方はしないであろう。倭国は、まだ小国連合の性格を残している。 「軍尼一百二十」を隋書倭国伝(1)で見たが、倭名類聚抄では畿内は53郡、山陽道が69郡、山陰道52郡、東海道128郡、東山道(陸奥を除く)66郡、北陸道31郡などがあり、「百二十」を遥かに上回るから 畿内と隣接地域に限られるのだろう。ひとつの想像としては、東西のオハリ、則ち東は尾張国、西は{備前国・於保久郡・尾張郷}がその境か (第116回【派生氏族】)。 すると山陽道のクニの多くはまだ独立性が強く、クニではあっても「軍尼」ではなかったと考えられる。 このように考えてみると、奈良時代初期〔または飛鳥時代末?〕山陽道に桁外れの大道の工事を急いだ意味が見えて来る (安閑二年【婀娜国の屯倉】《山陽道古道》)。 そこには日本が今や中央集権の国であることを、山陽道諸国に見せつける狙いがあったのである。 《大意》 翌年、 皇帝は文林郎裴世清を上遣(じょうけん)し、倭国を訪れさせた。 百済(くだら)に渡り竹島(ちくとう)に至り、南に耽羅国(ちんらこく)を望み、 都斯麻国(つしまこく)を経てぐるっと回り大海に出て、 東に一支国(いきこく)に至り、 竹斯国(ちくしこく)に着いた。 また東に行き秦王国(しんのうこく)に着いた。その国の人は華夏(かか)と同じ〔中国の先進地域出身族の末裔〕というが、夷洲〔鄙の土地〕とも思われ疑わしい。ただはっきりしたことはわからない。 さらに十余国を経て海岸(かいがん)に達した。 竹斯国以東は、皆倭に附庸(ふよう)している。 倭王は小徳(しょうとく)阿輩台(あわたい)を派遣し、 数百人を従え儀仗の隊列を組み、鼓・角笛を鳴らして出迎えた。 十日後、再び大礼(だいらい)哥多毗(かたび)を派遣し、 二百余の騎馬隊を従えて郊外で出迎え慰労した。 【其王与清相見】
「其王与世清」は、これだけを見ると「其王and世清」だが、其王は「曰『我聞海西有…』」の主語でもあるから、 「其王with世清」である。 《我夷人僻在海隅不聞礼義》 倭王は「我らは鄙の人で海を隔てた隅に住み、今まで礼儀はこうあるべしと学んだことがない」という。 これは国書で「日出国之天子」と言ったことを詫びた言葉だが、遜り過ぎた印象を受ける。 この倭王の言葉は、創作もしくは脚色の可能性が高い。 隋書が記録通り記すことを重んじたとすれば、世清が皇帝に忖度して報告を盛ったのかも知れない。 しかし、どちらにしても倭人は礼儀知らずの夷人だというのが隋による見方だったわけである。 〈推古紀〉十六年六月に、小野妹子は帰路、皇帝の親書を盗まれたと述べるが、その謎を解くカギは案外この辺りかも知れない。 北史がこの対話の部分を除いたのがもし意図的だったとすれば、その編者は隋書よりも公平な感覚の持ち主だったと言える。 ただそれはそれとして、口語に訳して読んでみると、倭王の言葉には、相手の気持ちに寄り添うしなやかな物腰が感じられる。 ただ、本心は保留していたのであろう。これは推古帝ならではの物言いで、上宮太子ならこのようには言わないとも思える。 《遣行人来此宣諭》 「遣行人来此宣諭」は、意味は分かるが文法的には奇異な印象を受ける。 「遣行」は間違いではなく、他に用例がある。 ただこの場合は「遣」に「ツカハス」意味は弱まり、単なる使役動詞〔~しむ〕になる。 「遣行人」については、①「遣行」が「人」を連体修飾する〔=行かせた人〕、②「人」を「行」の目的語とする〔=人を行かせて〕が考えられるが、どちらも可能と思われる。 ただ、「まず人を派遣して」の方にウェイトを置くなら、②の方がよいだろう。この場合「来」(動詞)の主語は省略されたことになる。 「此」については、「諭す」の目的語にするには語順が不正なので、接続詞「ここに」であろう。これは「即」に置き換えることのできる用法として、ちゃんと辞書に載っている。 「諭」は、目的語「人民」を暗黙の裡に含む。また、事実上使役動詞「遣」がここまで及んでいる。 熟語にすると意味が通じない場合は、一字ごと独立的に意味を深めて読むとうまくいく一例であるが、 普通は「遣人行来而宜諭民」となど書くように思われる。もしかしたら、世清の復命書のままなのかも知れない。 《世清答》 世清は「中国皇帝の徳は天地に及ぶ。その徳を未開の地に及ぼし、周辺国の王は感化されるべきである。 だから倭は中国に人を送り、帰ったらそれを教え諭すようにせよ」と促した。 これ以上考えようもない尊大な物言いであるが、実際には朝貢にはそれに倍する回賜を与えていた。 古くは、魏志に卑弥呼からの使者に莫大な回賜を与えた話が載る。 朝貢する国にとっては、自国では作れない貴重な産品や、漢字書籍が得られるという実利があったのは確かである。 いわばモノを与えるのと引き換えに、形だけの従属関係を相手に受け入れてもらうのが、中国外交の伝統であった。 さて、隋は中国国土に長らく続いた分裂状態を終わらせ、統一を勝ち取った。 この際、周辺国との本来の関係を腰を据えて再定義しようとしていたことは、十分あり得るだろう。 それが倭国伝のストーリーの組み立てに表れていると言えよう。 開皇二十年の時点では、倭国は対等の関係を主張していたが、 大業四年に至り、遂に朝貢国としての立場を受け入れさせることに成功した。 実際には上で述べたように、倭王と裴世清とのやり取りの言葉はフィクションの可能性が高いが、 それが裴世清が報告を盛ったにせよ、隋書編者による創作にせよ、ともかく倭が中華思想を受け入れたと描く。 《此後遂絶》 ところが「来貢方物此後遂絶」とある。 隋にとっては不本意なので、「然而倭国不朝貢」をやや緩和して書いたようにも読める。 なお、『隋書』巻三〈煬帝上〉を見ると、煬帝大業四年〔608〕に「百済、倭、赤土、迦羅舎国並遣使貢方物。」とあり、これは小野妹子らの二回目の派遣に一致する。 ところが、同六年〔610〕「倭国遣使貢方物。」とあり、噛み合わない。 一方、〈推古紀〉二十二年〔614〕六月には「遣二犬上君御田鍬、矢田部造闕名於大唐一」とあり、 これらを見ると、必ずしも「来貢方物此後遂絶」ではないようである。 唐代になると遣唐使が〈舒明〉二年〔630〕(旧唐書・新唐書は「貞観五年」〔631〕)以後何回も〔諸説あるが十回以上〕送られている。 《大意》 既にその都に至り、倭王は世清と相まみえは大いに喜んで言った。 ――「私は海の西に隋という大いなる礼義の国があるとお聞きし、 よって朝貢の使者を遣わしました。 わが夷(ひな)の人は、海の隅のはずれにいて、礼義とは何かを聞かずにきました。 そのため境界の内に留まり、貴国に付き合い相まみえることがありませんでした。 今、その故に道を清め、館(むろつみ)を飾り、大使をお待ちしました。 冀(こいねがわ)くば、大国の惟新の教化の言葉をお聞かせくださいませ。」 世清は、その言葉に応えて言った。 ――「〔中国〕皇帝の徳は〔天地〕二儀に並んで及び、恩沢は四海に流れ出、〔夷の〕王は慕化します〔感化されます〕。 故に、人を中国に行かせ、帰ったら国の人を諭すように計らうべきです。」 この後、世清は退出して、館(むろつみ)に到着した。 その後、倭王に人を送り、 「朝命は既に果たしましたので、戒塗(かいと)〔帰国の途〕につきたいと願います。」と伝達させた。 そこで宴享〔朝廷を挙げての宴席〕を設け、そして世清を帰国の途につかせた。 再び使者を世清に随行させた。 隋に来て方物を貢ぐことは、この後は遂ぞ絶えている。 【秦氏】 『新撰姓氏録』によれば、秦(はた)氏は応神朝に帰化したのち各地に散り、雄略天皇のときに再び組織化された。その代表としての地位を与えた一族を特に太秦と呼んだという 〔居住地ウヅマサが、その訓みに転じたと見られる〕(第152回【秦氏】)。 これは伝説ではあるが、一定程度は史実を反映していると見てもよいだろう。 《秦氏》 秦氏はずば抜けて大きな氏族で、各地に広がる。〈新撰姓氏録〉では太秦公・秦忌寸・秦造など秦系の氏族の約半数が秦の始皇帝の末裔を明記する。 また、秦をハタと訓むのは、太秦公が応神帝のとき「賜二姓波多一」とされたことに起因する。 これについては152回【秦氏】の項で 「弓月王は始皇帝の四世の孫とされるが、…始皇帝の子から弓月王までの四代を600年以上に引き延ばしており、「始皇帝の四世孫」は完全に神話である」と述べた。 書紀では、弓月君が大人数を連れて応神十六年に来帰している (十四年・十六年)。 〈姓氏家系大辞典〉は 「秦氏の大部隊が来たと云ふ事件を」仲哀8年、応神14年または16年のことというが、 「応神朝を〔皇紀〕千年代の上半期と云ふ〔西暦340~390年※1〕」、「予輩〔=太田亮〕の調査に拠れば、仲哀朝は一千二年〔342〕に始まり、 応神朝は一千四十八年〔388〕に終って居る※2」。「それは新羅が初めて支那〔=中国〕(の東晋)と交通を始め」た頃で、 「これより前、西晋時代には辰韓が支那と交通して居たのに、此の時代になって、辰韓の一国なる新羅が交通を始めると云ふ事は、新羅が勃興し、辰韓が衰弱となった事を表はし※3」、 「然らば、秦韓諸国の一大変動、それが秦氏の来朝と一大関係があると考へねばならない」などと述べる。
さて、弓月王の一族が、始皇帝の末裔かどうかの判断は難しい。年数から見て「四世孫」こそあり得ないが、始皇帝が祖であると先祖代々伝わっていたと思われる。 長く続く氏は珍しくなく、その中でも最長と思われる紀伊国造家においては、現当主で第81代である。国造本紀によれば、始祖天道根命が定め賜るのは橿原朝〔神武天皇〕で、 最初の方は伝説であろうが、庚午年籍の「紀直」からでも1350年以上になる。それに比べれば、始皇帝から弓月王までの600年は短い。 《周防の秦氏》 各地の秦氏について〈姓氏家系大辞典〉は、京師・大宰府の他、 (畿内)山城・大和・河内・和泉・摂津、(東海道)伊勢・志摩・遠江・駿河・甲斐・相模・武蔵・常陸、(東山道)近江・美濃・上野・下野・陸奥・出羽、 (北陸道)若狭・備前・越中・佐渡、(山陰道)丹波・出雲、(山陽道)播磨・美作・周防・長門、(南海道)紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐、 (西海道)筑後・肥前・肥後・豊前・薩摩・対馬の各国から拾い、ほぼ全国を網羅している。
一方、〈国造本紀〉は「周防国造:軽島豊明朝〔=応神〕茨城国造同祖 加米乃意美〔=臣〕定賜国造」と述べる。 加米乃意美命は建許呂命の子とされ秦氏とは関係なさそうだが、スタートが弓月王が来帰した応神朝である点は注目される。 周防国には他に「波多岐国造」があるが、「波多」は基本的に「秦」とは別族である。 〈姓氏家系大辞典〉には「波多岐 ハタキ:越後国に波多岐庄あり」とあるが、詳しいことは分からない。 《俗説》 なお、八幡神に秦氏が関わっているという説も見るが、根拠となる具体的な資料は今のところ見つからない。 対照的に、寺院についてはいくつかの文献や具体的な伝承がある。例えば、秦河勝の蜂岡寺創建が『広隆寺縁起』に記される。 周防の二井寺については上で述べた。また、秦楽寺(じんらくじ)は、所在地の奈良県磯城郡田原本町「秦庄」(はたのしょう)という名称が秦氏の居住地域を表し、縁とする伝承がある。 八幡信仰の本格的な始まりは725年の宇佐神宮(大分県宇佐市)の創建と見られ、 八幡神はまた応神天皇と習合した(第142回)。 豊後国にも恐らく秦氏はいただろうが、上で見たように秦氏の始めは4世紀ぐらいまで遡る。 そこに古くから住んでいた住民として寄進したことはあり得ようが、 自らの氏神として神殿を建てたのとは意味が異なる。 裏付けも不明まま宇佐神宮を秦氏の氏神だと唱え、果てはここが秦王国であったいうのでは論として粗雑であろう。 他にも秦氏=景教徒〔中国に伝わったキリスト教の一派〕という荒唐無稽な説もあり、秦氏に関しては様々な俗説が入り乱れている。 【山陽道の国造】 『国造本記』によると、山陽道には次の十九国造がある。
それぞれの始祖については「〇〇朝御世、○○定賜国造」に定型化されているが、各県にいた氏族の伝承から適宜始祖を求め、天皇が「定め賜る」形に揃えたと見られる。 よって、始祖や創始時期の確かさの度合いは様々だと思われる。 《国造の原型;隋代の頃》 ここで、国造〔郡レベル〕の原型が隋書に書かれたクニ(「軍尼」)だったと考えてみる。 そこからは、律令国レベルの穴門国造(長門国)、美作国造、針間国造は除外する。 ただ、周防国造〔言わば"秦王国造"?〕だけは、二井寺のある玖珂国造に読み替えることにする。 また、波多岐国造(吉敷郡)・都怒国造(都濃郡)は玖珂郡より西にあるので除外する。 すると、周防国造より西の山陽道の国造は、大島・阿岐・品治・穴・中県・笠臣・加夜・下道・三野・上道・大伯・明石・播磨鴨の十三国造となり、 隋書の「十余国」に見合う数となる。 ただし、国造の分布にはかなりの粗密がある。 たとえば吉備の地域には国造が細かく集中するが、これは実は書記に御友別の諸県が詳しく書かれたことに基づくのは明らかである。 一方、諸文書に記述がない地域は空白のままである。 このようなばらつきがあるにしろ、隋書の「十余国」の平均的な規模は国造程度であろうから、もし国造〔律令郡レベルに限る〕の数も「十余」なら隋書の「東十余国」は山陽道諸国と読んでもよいことになる。 具体的な引き継がれ方は求め難いが、国造は律令国を宛てたものを除いて律令郡の前身の県に対応し、一定程度は隋書の「国」(軍尼)からの継続性があると見てよいのではないだろうか。 まとめ 大業三年からのストーリーは、「日出づる国の天子」などと言い放つ身の程知らずの夷族を、華夏に遜る国に調教してやったということである。 一般には隋書について、推古帝または太子〔恐らく太子だろう〕が送った強気の国書ばかりが強調され、 それに対して煬帝が人を送り中華思想をひけらかして、遂に倭王を屈服させたと描く部分はあまり取り上げられていない。 とは言え、推古朝の間は以後遣使が絶えたのは事実だから、使者に謁見したときの倭王の言葉は隋によって都合よく創作されたという疑義が残る。 北史はそれを見抜いたからこそ、敢えてこの部分を省略したようにも感じられる。 太子が隋に使者を送った目的は、倭国内の仏教振興のために仏典の提供や学問僧の現地での修行などを通して、力を貸してほしいと要請するためであった。 〔このことは隋書もちゃんと書いているから、確かである。〕 ところが、隋は倭に対して朝貢国になれと言うのみで、最初から両者の思惑はすれ違っていた。 推古帝と太子はこれ以上使者を送っても無駄だと悟って、遣使を止めたのであろう。 今回、各小国の名前の発音や秦王国と秦氏との関係、「十国余」の中身、また倭国に関する地理観の転換などの諸点を深く検討した。 あまりに細かな問題に分け入っていると感じられるかも知れないが、それぞれの部分で現実を反映する度合いの評価は、結局文章全体が史実としてどの程度信頼できるのかを決めるから、 決してゆるがせにできない。真実は細部に宿るといわれる通りである。 |