宋書夷蛮倭国伝をそのまま読む
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2015.12.31(木) [01] 倭の五王

 日本書紀で、任那が最初に登場するのは崇神天皇紀である。以後任那国、そして任那日本府がしばしば登場する。
 「任那日本府」は、第2次世界大戦以前の日本の歴史教育で、植民地の総督府にあたるものとされてきた。 戦後はその存在が再検討され、加羅地域における半島南部の人々自身の機構だという説もある。 このように、「任那日本府」は現代の国際政治と生々しい関係がある。
 『古事記をそのまま読む』サイトでは、精密な読解を目標とするが、そのために日本書紀の読解は避けられず、そこに書かれた古代の朝鮮半島における倭の検討も避けられない。 ところが、戦前の皇国史観は特定の国家目標に学問を従属させるもので、もちろん悪質であるが、その否定論もまた反対側で政治目的に従属する「学説」のように見える。 この問題に染みついた政治的な垢をきれいに洗い流し、客観的・実証的に捉えることはできないものだろうか。
 そのような立場から、まずは「任那国」の実在を検証したいと考えた。そのために一次資料である、宋書の原文から該当部分を読み込んでみた。

【方法論】
 すると、5世紀の朝鮮半島の情勢が浮かび上がって来た。さらに「任那日本府」についても、国際情勢の流れから、 その果たした役割を推定し、書紀の記述と照合すればよいのである。 そうすれば、「これは起り得た」「これは粉飾である」と、自ずから類別されてくるであろう。
 さて、『宋書』では倭の五王が有名である。一般には五王に対応する天皇を確定することに興味が持たれているが、 精読してみると、そんなことよりも、当時の半島の政治情勢を知る貴重な資料としての意義があることが分かる。
 重要な一次資料としては、他に好太王碑がある。これは、日本陸軍による改竄が疑われたことがあり、これまた政治的なので、 建造時の文字を確定させるという、やっかいな手続きが必要である。
 これらの資料は研究し尽くされてきたとは思うのだが、半島における倭の評価にはいまだ極端なぶれがあるので、 何度でも一次資料に立ち返ることの意義は大きいと考える。

【宋書など】
 倭との外交関係を描いた部分を中心に、梁書なども併せて読解を試みる。 下の表で、左側が原文、右側が解釈である。
〈1〉 『宋書〔488年成立〕 …南朝宋〔420~479〕を書いた歴史書。沈約著。
 ――巻五 本紀第五 文帝
元嘉十五年〔438〕四月己巳、以倭国王安東将軍
 ――巻九十七 列伝第五十七 夷蛮
倭國、在高驪東南大海中、世修貢職〔代々朝貢した〕
《東晋―安帝》
義熙九年〔413〕、璉為使持節都督営州諸軍事征東将軍高句驪王・楽浪公  高句麗王の璉を「征東将軍」兼「楽浪公」とした。 営州は、先秦時代の九州のひとつで、およそ山東半島から遼東半島の地域と言われている。
義熙十二年〔416〕、以百済王余映使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王  倭王に先だって、百済王の余映を「鎮東将軍」とした。
《高祖(武帝)》
高祖践阼〔420〕、進号〔百済王〕鎮東大将軍  百済王に「鎮東大将軍」を進号した。
永初二年〔421〕、詔曰「倭萬里修貢、遠誠宜甄、可除授。」 〔倭王賛は、遠方より献貢した。よろしく甄(けん)し〔=取り立て〕、位を授けるべし。〕
」は、官職を変更すること。官位を廃すことを「開除」、これまでの官位を除き、別の官位を与えることを「除授」という。
《太祖(文帝)》
元嘉二年〔425〕、太祖詔之曰「皇帝問使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百濟王…」  倭王に最初に与える「安東将軍」より、既に格上である。後になって、倭が「百済…安東大将軍」を主張することに、文帝は明らかに不快感を持っている。
太祖元嘉二年〔425〕又遣司馬曹達、奉表献方物 「司馬曹達を遣わし、再び方物〔地方の産物、ここでは朝貢の意味〕を献上した。」
奉表…〈汉典〉進呈奉表。
仁徳天皇崩:丁卯年〔427〕
死。
立、遣使貢献
自称 使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭國王。表求除正
安東将軍倭國王
又求-正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國将軍。詔並聴

使を遣はし貢献せしむ。
 倭王は、自身を百済を含む6か国を治める将軍に任ずるよう要求した。
表求除正〔正式な除官(=爵位の授与)を求めた。〕
詔除〔除すことを詔した〕
詔並聴〔すべて聴き入れ、そのように詔した〕⇒随臣に称号が欲しいという要望には、そのまま応じた。
平西以下は、4種の職名。
履中天皇崩:壬申年〔432〕
反正天皇崩:丁丑年〔437〕
二十年〔443〕、倭國王使奉獻
復以為安東将軍倭國王
二十八年〔451〕、加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東将軍如故。
并除所上二十三人軍、郡。
死。
世子使貢献
 文帝は、倭の支配地に百済を加えることを拒絶した。
如故…ふるきごとくす。(以前と同じにする)
上記13名と同様、23名に授官した。
允恭天皇崩:甲午年〔454〕
《世祖(孝武帝)》
世祖大明六年〔462〕、詔曰
「倭王世子、奕世載忠、作籓外-海、稟化寧境、恭修貢職。新嗣辺業
宜授爵号、可安東将軍倭國王。」
奕世(えきせい)…代々。(まがき)…垣。籓国…諸侯の領土。稟化(ひんか)…政府が扶持米を支給すること。…安んじる。貢職…みつぎもの(職は細工物)。
…つぐ。
奕世忠を戴き、外海に籓を作り、稟化し境を寧(やすん)じ、恭(うやうや)しく貢職を修む。新たに辺業を嗣ぐべく、宜く爵号を授く。
〔代々辺境を治め朝貢してきた。代替わりにあたり、新たに辺境の統治を引き継げ。〕
死。
立。
自称使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大将軍倭國王
 倭は百済を支配下に加えることを、再び要求した。
《順帝》
升明二年〔478〕、遣使上表曰
「封國偏遠,作籓於外,自昔祖禰,躬擐甲胄,跋涉山川,不遑寧處。 東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國, 王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。 臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道遙百濟,裝治船舫, 而句驪無道,圖欲見吞,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。 雖曰進路,或通或不。臣亡考濟實忿寇仇,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激, 方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒暗,不動兵甲,是以偃息未捷。 至今欲練甲治兵,申父兄之志,義士虎賁,文武效功,白刃交前,亦所不顧。 若以帝德覆載,摧此彊敵,克靖方難,無替前功。 竊自假開府儀同三司,其餘咸各假授,以勸忠節。」  〔⇒読み下しは別項
詔除使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭王  再び、百済を加えることを拒絶した。
雄略天皇崩:甲午年〔489〕
〈2〉 『梁書〔629〕…梁〔502~557〕を書いた歴史書。姚思廉著。
 ――巻第二 本紀第二
天監元年〔502〕夏四月(中略)
戊辰、
車騎将軍、高句驪王高雲進号車騎大将軍
鎮東大将軍、百済王余大進号征東大将軍
安西将軍、宕昌王梁弥進号鎮西将軍
鎮東大将軍、倭王進号征東大将軍
鎮西将軍、河南王吐谷渾休留代進号征西将軍
 将軍の称号には格があり、安東鎮東征東の順に進号〔昇格〕したことがわかる。
 かつて魏が、東の親魏倭王と西の親魏大月氏王の称号を同時期に授与したように、 東西のバランスをとって外交関係を深める伝統があった(一万二千余里の項)。
 梁の武帝蕭衍も即位早々、西の宕昌王と河南王、東の百済王と倭王に将軍・大将軍の爵位を授け、東西対称構造を定義した。 それぞれ複数の国を互いに牽制させることによって、必要以上の力を持たせないようにする意図があったと推察される。
 なお、高句麗王は、既に別格の「車騎大将軍」になっている。
 ――巻第五十四列伝第四十八 諸夷海南諸国 東夷 西北諸戎
倭者、自云太伯之後、俗皆文身、去帯方万二千余里、大抵〔おおよそ〕会稽之東
(中略)
正始中、卑彌呼死、更立男王、国中不服、更相誅殺、復立卑弥呼宗女台与王。
〔ここまでは魏志倭人伝を踏襲する〕
其後復立男王、並受中国爵命
晋安帝時、有倭王死、立死、立死、立死、立
建元〔479~482〕中、除持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大将軍
高祖〔=武帝、蕭衍;しょうえん〕即位〔502〕、進征東将軍
・新魏倭王卑弥呼、壹与の後、代々の男子王が職貢し、爵命が継続されてきたと梁書は見ている。
・建元年間〔479~482〕安東大将軍鎮東大将軍の進号があったことになる。
〔502〕「征東将軍」となっているが、おそらく「征東将軍」が正しい。
〈3〉翰苑〔660以前〕…張楚金によって書かれた類書。唐代に対句練習用の幼学書として書かれたとされる。
 ――『南斉書』からの引用(南斉は〔479~502〕)
今訊新羅耆老云「加羅任那昔為新羅所滅、其故今並在國南七八百里、此新羅有辰韓卞辰廿四國及任那加羅慕韓之地也」 〔加羅・任那、昔新羅の滅ぼす所なる。そのゆゑ今並びて国南七八百里に在り、此の新羅に〔かつての〕辰韓・弁韓二十四国及び任那・加羅・慕韓の地有り。〕
S為A所V…「SはAのVする所なる」つまり、「SはAによってVされる」の意味。
…「A有B」は、Bが実質的な主語で、「AにB有り。」
…「A在B」は、Aが主語で「AはBに在り。」

【「使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭國王」なる称号】
《使持節・都督》
 まず、持節・都督について〈汉典〉で調べる。
持節  古代使臣奉命出行,執符節以為憑証,故称出使為「持節」。
〔古代、使臣が命を受け出かけるとき、符節を持っていき証明とする。よって、使者を「持節」と称した。〕
都督 職官名。漢末始有此称。三国時置都督諸州軍事、或領刺史、以大都督及都督中外諸軍権位最重。(以下略)
〔漢代末より、この称号が始まる。三国時代は都督を諸州に置き、軍事あるいは刺史〔しし、地方長官〕を務める。以って大都督と都督は軍権の最重位となる。〕
 つまり、「①使持節②都督」とは、①朝貢の使者を遣わし、②州を預かる王という意味である。 これは従属的に見えるが、周辺国との外交関係の、形式上の表現である。これは、卑弥呼を親魏倭王の称号を与えた場合と同様である。なお、「王」とは皇帝支配下で、諸侯に与えられた地位を意味する。
 「安東大将軍」は、文字通り東方を安んずる〔治める〕将軍で、ここでは六か国を列挙し、「その諸国の軍事を倭国王に委ねる」が称号の意味である。 「鎮東」「征東」も「安東」と言葉の意味は同じだが、安⇒鎮⇒征の順にランクアップする。「将軍⇒大将軍」のランクアップもあるから、全部で6階級ということになる。
 宋との対立の焦点は、倭の支配域に「百済」を加えるかどうかである。

【交渉の経過】
《427年~451年》
 427年、日本側は倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓の6国を支配域として認めよと要求している。 しかし、結果的に国名に触れず「安東将軍」のみとしたのは、対象国を保留し交渉が続いていることを示している。 451年になり「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓」の国名が追記された。 宋側は、百済を含めることをあくまで拒否し、小さな「加羅」を加えることで「六国」の数だけを認める妥協案を示し、 倭側は不本意ながらそれに従ったようである。
《454年》
 称号は、安東将軍倭国王に戻っている。再び交渉の時代に入ったと見られる。
《~478年》
 倭国は再び百済を加え、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の7か国にすることを要求した。 478年、倭国は上表文を提出し、高句麗の攻撃に敗れ、意気消沈している百済に、練兵を派遣することが必要で、まさに倭がそれを担うべきだと説いた。 上表文を読み下し、大意を示す。
封ぜらるる国偏(ひとへに)遠く、籓(かき)を外に作り、昔より祖祢(そでい)〔父の廟、ここでは先祖〕、躬(みづから)甲胄を擐(つらぬき)〔甲冑に頭を通し〕、山川を跋渉(ばっしょう)し〔苦難のうちに山河を越え渡り〕、寧処(ねいしょ)〔安らげる場所〕に不遑(いとまなし)。 東に毛人五十五国を征(う)ち、西に衆夷〔群がる蝦夷〕六十六国を服さしめ、渡りて海北〔=三韓〕九十五国を平げ、 王道融泰〔融和+安泰〕、廓土(かくど)遐畿(かき)〔都を遥かに離れた国〕より、朝宗を累葉し〔皇帝への朝見を代々重ね〕、歳(としごとに)〔毎年〕不愆(あやまたず)。 臣(やつがれ)〔臣下が君主に遜って言う〕下愚と雖も、忝(うやま)ひ先の緒(を)〔=神武天皇〕を胤(つ)ぎ、所統(すべるところ)〔=統治〕に駆け率(ひきゐ)る。 天極〔北極星、天道のおおすじ〕に帰崇し〔たかきにかえり〕、道遙か百済に、船舫(ふね)を装治(ととの)ふ。
而(しかるに)[高]句麗に道無く、欲見吞(けんのんせむと)図り、辺隸〔あたりのしもべ〕を掠抄し〔かすめとり〕、虔劉(けんりう)〔殺害〕不已(やまず)、毎(つねに)稽滞(けいたい)〔延滞、稽留〕に致り、以って良風を失ふ。 進路、或いは通じ或いは不(ならず)、臣(やつがれ)、考(ちち)を亡くせし[百]済(くだらのひと)実(まことに)寇仇(こうきう)〔敵人〕を忿(いか)ると雖曰(いへども)、天の路を壅塞(ふさ)ぎ、弦を百万控へれば、義声に感激し、
方(まさ)に大挙するを欲す。〔百済の人は〕奄(あまねく)父兄を喪(うしな)ひ、垂成之功を使ひ一簣(き)を不獲(えず)〔多大な労力を使うも竹箕一盛の成果なし〕。居、諒暗〔喪に服す室〕に在り、兵甲を不動(うごかさず)、是以って偃息(えんそく)〔息をひそめる〕し未捷〔=未勝〕(いまだかちをえず)。 今に至り甲を練り兵を治むを欲し、父兄之志を申(の)べ、義士虎賁(こふん)〔=勇士〕、文武効功〔功の効を発揮〕し、白刃を前(さき)に交(まじ)へ、亦(また)所不顧(かへりみざるところなり)。
若し帝徳、覆載(ふくざい)〔天地;『礼記』に「天之れ覆ふ所、地之れ載する所」〕に以(もち)ゐれば、此の彊敵〔=強敵〕を摧(くだ)き、靖(やす)きに克(か)ち難(かた)きを方(やぶ)り、前功に替(かは)ること無し。
窃(ひそかに)〔謙遜して私見を述べるときの言葉〕開府の儀を仮す三司〔三種官職の合称〕自(よ)り同じく、其の余、咸(みな)各(おのおの)仮授せられば、以って忠節を勤(つと)めむ。
遠隔地にあり、皇帝に封じられた我国は、倭と三韓を平定しました。その間一貫して皇帝に臣従し、違えることは有りませんでした。
しかるに朝貢のため百済経由の海路をとったときころ、高句麗に妨げられました。高句麗は百済を攻め殺戮し、人民は息をひそめ全く戦えなくなっています。 〔高句麗の妨害を、航海の困難さに例えている〕
今、百済の解放のために勇兵が求められているのです。
天地に満ちた皇帝の徳をもってすれば、倭国は百済でも強敵を打ち破り、以前と変わらず手柄を立てることができるでしょう。
畏れながら、これまで各国に与えられた我が国の役所を、同様に百済に設置させていただければ、忠節を務めましょう。
 しかし、宋は相変わらず百済への支配権は認めず、6か国のままであった。わずかに「将軍」から「大将軍」に進号することだけが認められた。
《479~482年》
 この間に「安東大将軍」から「鎮東大将軍」に進号された。
《502年》
 梁の初代皇帝蕭衍は、即位早々に倭王武・百済王余大を、共に「鎮東大将軍」から「征東大将軍」に進号する。 結局、三韓地域は東西に分割し、それぞれ倭と百済に与えることによって、互いに牽制させるのが宋の外交政策の基本で、梁もそれを継承したのである。

【交渉の経過と、百済の立場】
 宋書が書かれた時期はそんなに遅れず、その同時代性により、事実を比較的正確に記録していると評価されている。
 ここでは百済の帰属を認めよと要求する倭国をなだめるために、加羅を加えるとか、将軍を大将軍に進号させるとかの小さな譲歩を見せているところに、 交渉の細部が見える。
 三韓地域を百済・倭に分治させる方針に逆らう倭に対するいらだちが、倭のくどい要求をそのままくどく記録したところに表われている。
 現実には、倭は百済に対してもどんどん派兵を進めていたと見られる。 百済は、北からは高句麗の攻撃にさらされ、南からは倭軍が領土に進出し、 西からは宋・梁が征東大将軍としてがんばれとプレッシャーがかかる。三方からの板挟みで、大変苦しい立場にある。

【いわゆる「空白の世紀」】
 中国の史書への倭国の登場は、『晋書』帝紀3「世祖武帝」泰始二年〔266〕11月の「倭人来献方物」 以来である。宋書の「永初二年(421)」までは155年の間隔が開くので、4世紀は「空白の世紀」と呼ばれ、その間倭国の動きが見えなくなる。
 逆に、中国の歴史書に出てくるときは、書かれるべき必然性があるのだろう。 魏書では、朝鮮半島南部地域(以下「三韓」と表す)の制圧に苦労し、倭国の難升米に挟撃するよう命じている。 一方宋書では、高麗国が三韓に攻撃を加えていて、この地域を防衛に倭国の力を借りるが、必要以上の台頭を抑えたいという複雑な情勢があった。 つまり、歴史書に倭国が浮上するのは、三韓地域を舞台に倭国との外交交渉が重要になったときである。 逆に言えば、空白の世紀はこの地域に目立った動きのない、平穏な時代だったのである。
 秦韓は辰韓の別名とされる。辰韓は三国志の時代の三韓のひとつで、魏志の時代から存続している。 また慕韓は馬韓の別名で、後の百済の地域とほぼ重なると言われる。 百済の名が初めて現れるのは晋書で、4世紀半ばである。
 安東将軍による統治の対象に、百済と慕韓が併記されているということは、この時期、馬韓地域に百済が育ちつつあったという理屈になる。
 恐らく、三韓への倭国の影響は魏の末期から4世紀を通して徐々に強まり、 421年には東半分を倭国の属国として、宋も承認していた。そして、百済・倭と協調して朝鮮半島南部への高句麗の進出を食い止める政策を用いたと思われる。 それが、宋書の「句麗無道」という語句に現れている。 しかし、三韓全部が倭の勢力圏となるのは避けたかった。倭を強大にしたくなかったのである。 西方でも同じ意図で、宕昌王・河南王の双方に征(鎮)西将軍を爵命したことが見て取れる。

【倭-百済関係】
七支刀
 しかし、朝鮮半島南部の前方後円墳は5世紀後半から6世紀前半とされ、百済だけに存在する。 これは、百済への進出が478年の時点で認められていなかったにも拘わらず、倭国が人を送り実力で支配下に置いたことを意味する。 新羅・加羅に前方後円墳がないのは、古墳時代の前から友好関係があり、交流が当たり前に行われていたから、 倭国の豪族が塊として征圧にでかけることがなかったからと想像される。
 4世紀または5世紀に、百済による倭国への七支刀の献上がある。
《七支刀》
 七支刀は天理市の石上(いそのがみ)神宮に伝わり、「泰■四年」「未有此刀百済」などが読み取れる(右図)。全長74.8cm。 「泰■四年」については、東晋の太和四年(369)、西晋の泰始四年(268)、南朝宋の泰始四年(468)の説がある。
 神功皇后紀には、神功皇后52年、百済王肖古と王子貴須は久氐を遣わし、「七枝刀一口七子鏡一面及種々重宝」を献上したとある。 百済には、第5代肖古王と第13代肖古王(~375)があり、区別のために13代目は近肖古王という。時期からみて、神功皇后紀の肖古王は近肖古王と考えられている。
 5世紀後半に倭が宋の制止を無視して百済に進出した流れから見れば、七支刀の日付は宋の泰始四年(468)が妥当である。 泰は太であるとする説があり、現在は一般にそのように解説されている。地名であれば異字同音があり得るが、皇帝が定める年号の場合はどうであろうか。 そこで「泰和」と書かれた元号を探すと、金の1201~1208年の一例ある。しかし、これは時代が違う。 同時代のものとしては、『録尚書』に引用された『晋中興書』(宋時代)に、「泰和元年」がある。すぐ後の段落に「元興元年」(402)とあり、 元興は「太和」の6つ後の元号だから、泰和=太和説には一定の根拠がある。
 好太王碑文によれば、391年に倭は一度百済を支配下に置き、古事記によれば、百済国照古王から馬一つがいの献上を受けた応神天皇の崩年が394年だから、 369年に作られ大切に祀られてきた百済の宝刀を、献上した可能性はある。
 しかし、まずは「泰」のまま受け取るべきではないか。
《百済国》
 ところで、神功皇后紀では肖古王の没年は神功皇后55年(機械的な西暦化で255年)とされる。 三国史記からは、西暦214年と計算されている。 ところが、魏書には「百済国」の条はないから、西暦200年当時、百済国の存在は疑わしい。 馬韓を構成する54の国邑のひとつとして、「伯済国」の名前は魏書にもあり、百済が国邑名「伯済」を引き継いでいる可能性はある。
 日本書紀の記述については、同書が魏書を読み込んでいるのと同様に、他の資料にも当たっていると思われるので、 どこかから肖古王の名を引っ張り出して物語を創作した疑惑は消すことができない。 例えば、隋書の列伝(後述)は、636年に成立したので、参考にされた可能性はある。 古事記では、応神天皇段に「百済国主照古王」が馬一番(つがい)を献上した記事がある。
 一方、『隋書巻81列伝第46』には百済の祖先は高麗国出身で、扶余と行動を共にして高麗国から離れ、公孫度の女を妻とし、その後勢いを強め帯方郡に百済を建国したとある。 公孫度の没年は201年である。『三国史記』(巻第23百済本記第1)は別伝として隋書の説を収める。 百済は自らの建国を太古に遡らせるために、他の古代の国の伝説を接ぎ木したのかも知れない。

広開土王碑拓本 第Ⅰ面(部分)
<お茶の水大学所蔵>全面図
高麗古碑拓本の一部
(東京国立博物館提供画像より)
【好太王碑】
 現在の集安市街を見下ろす丘に広開土王の陵が作られ、その近くに好太王碑が作られた。 碑文には、甲寅年〔414〕九月廿九日に陵を遷し、碑を立て勲績を銘記するとあり、高さ6.3m、幅1.5m。 1880年頃に発見された。
 その「拓本」を、当地を訪れた軍人酒匂景信が持ち帰り、明治21年(1888)に内務省に献上された(以下「献上拓本」、右図)。
 この「拓本」は「双鉤加墨本」(石碑に紙を当てて字の輪郭をなぞり、周囲に墨を塗ったものという方法で作られたと推定されている。
 これとは別に、お茶の水大学所蔵の拓本が2012年に再発見され、 新資料として発表された。 その拓本(以下「お茶大拓本」)は、 「碑面に塗布された石灰が、はがれつつある時期のものであるため、建造当時の元の字が読める状態にある」(同ページより)ということで、 これと見比べると、献上拓本における人工的な処理は歴然としている。
 お茶大拓本の画像を詳細に見ると、
 …不明瞭だが「」と読める。
 …「耒卯年」と読める。その後に「六年丙申」とあり、その元年は「辛卯」に当たるので「辛」を 意味するのは明らかだが、「」になっている理由は不明である。
 …同じ行の9文字上「由来朝貢」の「来」とほぼ同じである。中央の水平線が不鮮明なのは、拓本用紙の繋ぎ目と重なったためと見られる。
 の文字は、右図()。「渡」は、他に2例()あり、何れも""が明瞭だが、の""は不明瞭である。また""と"广"の部分が7行目の「」()と類似する。 しかし、麗の下の""の部分は、では""である。重ねてみるとの""の下部及び""がとぴったり合う。従って、は「渡」と判断できる。
 …「海」と読むのは苦しい。他の二例の「」とは類似しない。
 …「破」の旁(つくり)""は明瞭だが、石偏は""のみである。しかし、7行目「至鹽水上破」の「破」とはほぼ一致する。
 …もともと欠落している。
 …不明瞭だが、「躬」の旁の""の形は、7行目「躬率往討」と似、""もおぼろげながら見える。 続く2文字を「率水」と読むのは困難である。
 …全く読めない。百残の「百」と解釈するのが妥当であろう。
のような特徴がある。
 このように、献上拓本は解釈を含むので一次資料とは言えず、拓本自体が歴史資料というべきである。 しかし、お茶大拓本と比較すると読みとりは概ね妥当であり、 特定の意図による改竄は見えない。
 さて、の欠字2字については、その前後には国名として百済・新羅しかでてこないから、ここに第3の国名(例えば加羅)が入って 「破百済□□新羅以為臣民〔百済・□□・新羅を破り、もって臣民となす〕の可能性は低い。  百済を重ねて「破百済百済新羅以為臣民〔百済を破り、百済新羅もって臣民となす〕は、あり得る。 仮に「渡海」が渡海でなかったとしても、倭が百済新羅に軍を進めていたこと自体は間違いない。
《「百済新羅旧是…」の読み下し》
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年来渡■破百殘■■■羅以爲臣民六年丙申王躬率水軍討■殘國軍
〔百殘新羅、旧(ふる)く是、民を属し、由来朝貢す。而(しか)るに倭、以って辛卯年来、■を渡り百殘を破り、■■■羅以って臣民と為す。 以って六年丙申、王躬(みづか)ら水軍を率ゐ■殘国軍を討つ。〕
《好太王の正式な諱》
 碑文には、國岡上廣開土境平安好太王また、永楽太王とある。
西暦事項の骨子
甲寅年414碑、銘-記勲績以永後世
永楽五年歳在乙未395躬(みづから)率(ひきゐ)往
辛卯年391倭、…来渡■破百残
六年丙申396王躬率水軍■残国軍
八年戊戌398-遣〔=派遣〕偏師〔=軍勢の一部〕
九年己亥399新羅遣使、白〔=言上〕王云「倭人満其國境
十年庚子400-遣歩騎五万…倭賊退
十四年甲辰404倭不軌侵-入帯方
〔欠文〕~406倭寇、潰敗斬-殺無数
十七年丁未407-遣歩騎五万
廿年庚戌410東夫余…叛不貢、王躬率-往討

《以後の経過》
 その後高句麗は百済を攻め、百済は生口(奴婢)1000名、細布千匹(ひつ)を差し出し和睦した。 結局、百済は高句麗に朝貢する関係になったが、その後も新羅を舞台に高句麗は倭と戦いを続けた。 倭との戦闘の最後の記事は、407年直前である。
《「日本軍による改竄」説》
 もともと碑文は、高句麗と倭が百済・新羅の争奪戦を続ける様子を描いている。 倭が百済・新羅に進出していたことを認めているのから、 特に「倭がこの地域を支配した」と捻じ曲げる必要はない。それどころか、倭が劣勢になっている場面もそのままにされている。 当時の関係者に、数文字を書き換えて巧妙に文意を変える能力があったとも思えない。あるとすれば読み取りの誤りで、改竄する意図はなかったであろう。
 むしろもともと「来渡海破」であった部分は、逆に読みにくくなっている。

【4~6世紀の三韓】
 『三国志』魏書弁辰伝には、「瀆盧国与倭接界〔瀆盧国、倭と[境]界を接す〕と書き、 弁韓の沿岸には、倭人が住んでいたことを示す。そのまま4世紀中盤まで、弁韓・辰韓地域に倭人の浸透が進んだと思われる。 しかし、この地域に前方後円墳はないから、大集団ではなく、小さなグループが時々上陸して住み着いたというところではないだろうか。
 倭軍が組織的に侵攻したのは4世紀終盤で、391年に百済に乗り込んだところで俄然百済軍が抵抗に立ち上がった。 5世紀初頭には高句麗が百済地域を攻撃し、倭との間で百済・新羅の争奪戦が繰り広げられた。
 その後新羅・加羅まで倭が支配下に納め、宋は451年、安東将軍としてその範囲までの支配権を認めた。 しかし、百済だけは宋がテコ入れし、倭に対する防波堤とした。とは言え、百済は高句麗の攻撃には弱かったようである。
 5世紀後半からは、宋・梁による牽制をものともせず、南西岸から倭軍を上陸させ、百済を蚕食して植民地としていった。 百済へは、倭の豪族が集団の秩序を維持した形で上陸したので、王が死ぬと前方後円墳を築いて葬った。 また倭・百済の関係は、倭の圧力下だが友好的となる。だから、七支刀の日付は、468年が第一候補だと考えるのである。
 これが、好太王碑から宋書・梁書を繋いで想定した筋書きである。 

【任那の存続期間】
 任那国は4世紀に始まり、6世紀半ばに終わったと思われる。
 任那を加羅と同一とする説もあるが、宋書の「6か国」あるいは「7か国」とするには、加羅・任那を別々の国として数えなければならない。 『南斉書』には、古老の話として、加羅・任那は新羅の南端に"並び"存在したとある。「並び」だから、2か国である。
 加羅・任那共に6世紀半ばに新羅に吸収されたとされる。加羅国は三韓時代の辰韓十二国のひとつ、狗邪国に由来すると言われる。 任那国の起源は確かな説はないが、魏志の三韓の国邑には含まれないから、少なくとも3世紀半ばまでは「任那国」は存在しなかった。
 日本書紀では雄略天皇紀に任那日本府の設置があり、欽明天皇紀を中心に孝徳天皇まで任那が頻出する。 古事記では神功皇后段に新羅侵攻が載り、応神天皇段に百済との外交関係が載るが、任那への言及はない。
 任那国の終わりについては、<wikipedia>『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。</wikipedia>とされる。 梁職貢図は、542年頃梁に各国から朝貢する使節の姿を図示したもの。 その百済国使条には「旁小國有叛波卓多羅前羅斯羅止迷麻連上巳文下枕羅等附之〔旁(かたはら)に小国、叛波・卓・多羅・前羅・斯羅・止迷麻連・上巳文・下枕羅等有り、之に附す。〕 とある。国名の区切りは榎一雄氏による。「附す」とは、「附庸国」のことで、中国への朝貢国に更に従属する小国を指す。 太陽系に例えれば、朝貢国は惑星で、附庸国は衛星である。 このうち新羅=斯羅と思われるが、それ以外の「任那・加羅・秦韓・慕韓」は見つけられない。
斜字体の数字は、宋書に書かれた日付及び、古事記の天皇の崩御年の太歳表記から西暦を推定したもの。

【倭の五王と天皇の関係】
 宋書・梁書からは、5世紀の倭国は、王朝が安定して存在し、世襲が維持されていたことが分かる。 倭の五王と宋との交渉の時期は、古事記の15~21代の天皇崩年の太歳が比較的よく噛み合う。 また、この時期の皇位継承が、皇子あるいは兄弟間に限られるという特徴が一致している。
 しかし、記紀の側には宋との外交に関わる記述がないので、これ以上のことを突き止めるのは困難である。

まとめ
 まず押えなければならないのは、「移民」と「国の支配者の交代」の区別である。 前者は移民先の国の支配に服し、後者は新しい勢力による支配に、先住民が従う。前者の形での半島への浸透は、弥生時代からあっただろう。
 しかし、宋から梁の時期の、高句麗と倭による百済の争奪戦は、明らかに後者を巡っての戦いである。
 それでは、百済以外の6か国についてはどうかと言うと、この諸国が倭への朝貢国(属国)であることを、宋・梁は認めている。 しかし、一般的に属国といっても完全な支配権を有する場合から、名目に過ぎないものまでその実質は様々である。 現代においても、カナダなどは形式的には英連邦の一員で、現在でも元首に英国王を戴いているが、実態としては完全な独立国である。 中国の外交関係において「朝貢国」と位置づけるのも、多くは名目である。ただし中華思想により、一方的な心理として相手を下位に置いた面はあっただろう。
 三韓地域については、<wikipedia>中華人民共和国の外務省は、同省のホームページの日本史介欄で、「5世紀はじめ、大和国が隆盛した時期にその勢力が朝鮮半島の南部にまで拡大した」と記述していたが、韓国政府からの抗議を受け、日本紹介欄から第二次世界大戦以前の日本歴史部分を全て削除した。</wikipedia> とされるように、倭に従属していたと見るのが中国の感覚のようだ。それを認めないのは韓国である。
 天武天皇の時代は、薩摩や奄美さえ日本への朝貢国と見做していたようで、三韓へもその程度の距離感であったと考えられる。
 5~6世紀、少なくとも法制度上は、百済を除いて倭の属国であった。 百済については、前方後円墳の分布から見て、実力で倭の属国とされる道を歩んだと見るのが妥当であろう。 ただ、「属国」のレベルがどの程度であったかは、詳細な研究が必要だろう。
《任那国の実在》
 任那国が加羅とは別国であり、半島南端の小国群の一つとして、一定の時期実在したのは間違いないだろう。
《任那日本府》
 国号が「日本」となったのは678年頃だから、「日本府」は後世に名付けた呼び名である。 倭名類聚抄によれば「府」は「つかさ」だから、存在した時期の名称は「やまとのつかさ」などが考えられるが、 古事記にも登場しないから、確認のしようがない。日本書紀がその時代の外交を研究した結果、独自にその存在を想定するに至ったものであろう。
 一般的には、外交関係において大使館のような施設を設けることはあり得る。 魏志倭人伝には、九州北部の伊都国は「郡使往来常所駐〔帯方郡使が往来し、常に駐まる〕とされ、魏国が大使館のような施設を置いた例である。
 もし任那に倭の代表が滞在した遺跡が発掘されれば、一番確かである。現状ではその実態については、書紀の該当部分を精読し、他の資料を併せて外交の実態に迫らなければならない。