古事記をそのまま読む―資料13
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2024.11.14(thu) [77] 不破郡の成立時期 

【不破郡】
 美濃国不破郡〔当時は不破評〕が、壬申の乱の後に当芸〔當藝〕から分離して成立したとする説について、資料[76]では否定的に論じた。 この説については幾つかの見方があるので、改めて検討する。
   引用文献略称
〈式内社調査13〉…『式内社調査報告』第十三巻/東山道2〔式内社研究会/皇學館大学出版部1986〕
〈家譜〉…〈式内社調査13〉所引の『不破家寿麻呂家譜』または『不破家系譜』(資料[76])。
〈関ヶ原町史〉…『関ヶ原町史 通史編上巻』〔関ヶ原町1990〕
〈新修垂井〉…『新修 垂井町史』〔垂井町1996〕
《〈家譜〉説への複数の見方》
 〈家譜〉は、壬申の乱の後に「当芸郡之地不破郡」と書く。
 これについて〈関ヶ原町史〉は、 「…分当して不破郡となす」という理解の方がかなり確率が高いように思われる」、 「不破評(郡)の成立は壬申の乱以後―天武朝と解するのが妥当であろう」と見ている(pp.148~149)。
 一方〈新修垂井〉は、 「壬申の乱以後、当芸郡が分割されて不破郡が成立したと断定したとするには問題が多すぎるが、 先述の全国的な郡(評)の分割の過程から見ると、ある程度歴史を反映していると言えないこともない」と見る。 は、改新詔と大宝令の相違を較べたもので、その最大の相違点は、 郡のランクが改新詔〔646〕は大・中・小の三段階、大宝令〔701〕は大・上・中・下・小の五段階で、「この間において全国的に郡(評)の分割があった」はずだと見ている(pp.112~113)。 改めて両者の記述を比較する。
改新詔其二 凡郡:以四十里為大郡、三十里以下四里以上為中郡、三里為小郡
令義解 凡郡:以廿里以下十六里以上大郡、十ニ里以上為上郡、八里以上為中郡、四里以上為下郡、二里以上為小郡
 すなわち、〈関ヶ原町史〉は〈家譜〉の記述を信頼できると見ているのに対して、〈新修垂井〉は懐疑的である。 ただ壬申後とは限らないが、分割された歴史を反映している可能性自体はあると述べる。
《郡分割の時期》
 「改新詔其二」の《以四十里為大郡》項で、「旧名+[]or[]」の命名方式による分割の多くは、大宝令以前に行われたと見た。 仮に不破郡が当芸郡を分割して成立したとした場合はこの方式ではないから、これよりずっと古い時期ではないかと思われる。
《好字令》
 いわゆる「好字令〔和銅六年〔713〕五月甲子の詔〕(資料[13])により地名が好字二字となった。 しかし明日香⇒飛鳥哿須我⇒春日好字令に先行している。古事記の成立〔712年〕は好字令前であるのにも拘わらず、序文・本文共に「明日香」は見えず「飛鳥」に統一されている。 書紀〔720年成立〕については、まさにその編集の間に「飛鳥」に揃える作業が進んでいたと考えられる(第180回)。
《フハ評の表記》
 〈新修垂井〉は、「「不破家譜」に「天皇之郡不破而以有勝利之故」とあるように、表記(漢字)は壬申の乱に起因すると考えてよいであろう」、 「もともと「フワ〔歴史的仮名遣いはフハ〕」(表記は不明)の地名があって、壬申の乱以降「不破」の文字を用いたとするのが妥当だと思われる」と述べている(pp.113~114)。
 フハという地名が乱以前からあったとした場合、「不破」の字を初めて用いたのは「明日香」が「飛鳥」になったのと同じ時期〔712年頃〕なのだろうか。 しかし、書紀や万葉には「明日香」、「安宿」が混ざっているのに対して、フハには異表記が見えない。 だとすれば「不破」の表記になったのは古い時代のことで、壬申直後の可能性も考えられる。
《不破郡家》
 大海皇子が不破に到着した場面で、書紀が郡名なしで「郡家」とするのは、その少し前に「不破郡」という語句があるから省かれたのである。これを「不破郡家」以外に読むことは不可能であろう。
 同様の例に「朝明郡」段の「郡家」があった。これも「朝明郡家」であることは明らかである。
《不破郡成立の時期》
 仮に不破郡当岐郡から分かれたものだとしても、実際は壬申以前のことではないだろうか。 そう考える理由は、資料[76]《分当芸郡之地為不破郡》項で 「書紀は、記録がもし「当芸郡家」となっていればそのまま書いても問題ありとは思えないので、わざわざ「不破〔郡の〕郡家」に直して書く理由が分からない」からだと述べた通りである。

まとめ
 〈家譜〉は、木実が乱の勝利に貢献したが故に「当芸郡から不破郡を分離して宮勝木実に賜った」が如くに潤色した。それはひとえに大領神社の祭神となった大領宮勝木実を偉大化するためと考えるのが順当と思われる。
 私家の内輪の書である〈家譜〉には一般的に粉飾が施される傾向があることは否めず、その確実性を書紀と同等まで引き上げることにはやはり無理があろう。



2024.11.15(fri) [78] 桃配山伝説 

【「桃配山」命名の由来伝説】
野上行宮伝承関連地 「徳川家康最初陣地」登り口
2015年5月 同左:説明板 2017年12月 2018年8月
ストリートビューより ©google
 関ヶ原町歴史民俗学習館公式ページ壬申の乱」では桃配山について、 「語源は壬申の乱の際に大海人皇子が兵を励ますために桃を配ったという逸話から付いたものです。 しかし、「日本書紀」等で記述はなく、その根拠については未だ謎に包まれています」と述べる。
《壬申の乱で桃を配った伝説》
 その話は、「徳川家康最初陣地」看板のある登り口(右図)の説明板に記されていた。
 ところが、説明版には設置者も日付も記されず、出典不明であった。 その出典を探すために、この文章の一部を使って検索をかけてみたが、すべてがこの説明板自体を紹介したものであった。 関ヶ原町、垂井町、岐阜県の公式ページにもこの話についての説明は見つからなかった。
 『大日本地名辞書』の「桃配山」の項も家康の陣の話のみで、この逸話はない。 古文献にも現在のところ見出せない。
 ただ『日本歴史地名大系』には「〔桃配山は〕大海人皇子が壬申の乱に桃を配った所という」とあるが、これも出典を欠く。
《説明板のその後》
 さて、その説明板だが、現在はもうなくなっている。 グーグルのストリートビューで過去の映像を見ると、2015年5月には確かに存在した。2017年12月は新装工事中、 そして工事を経た後の2018年8月にはもうない。
 現在、この場所に代わっておかれた「徳川家康最初陣地」案内板の中では、「ここは、天智天皇元(672)年の壬申の乱に勝利した大海人皇子が、兵士に山桃を配ったと伝えられる縁起の良い地とされる」と、簡潔に書かれるのみである。 関ヶ原の役そのものの説明を中心とする、現在の案内板の方が適切なのは確かであろう。
 かつての説明版の文章が継承されなかった本当の事情は分からないが、まことしやかに書かれている割には出典が不確かだったためかも知れない。 結局、以前の説明板を、誰の責任で何を出典に用いて設置したたかは謎のままである。
《説明文》
 現在は幾つかのサイトにその画像や文章が残されているが、ここでも全文を納めておく。
  桃 配 山
 天下を分ける壬申の大いくさは千三百年ほどまえであっ
た。吉野軍をひきいた大海人皇子は、不破の野上に行宮を
おき、わざみ野において、近江軍とむきあっていた。急ご
しらえの御所に、皇子がはいったのは、六月の二十七日で
ある。野上郷をはじめ、不破の村びとたちは、皇子をなぐ
さめようと、よく色づいた山桃を三方にのせて献上した。
「おお、桃か。これはえんぎがいいぞ!」皇子は、行宮に
つくがはやいか、桃のでむかえにあって、こおどりしてよ
ろこんだ。くれないのちいさな山桃を口にふくむと、あま
ずっぱい香りが、口のなかいっぱいにひろがる。皇子は、
はたとひざをたたき、不破の大領をよんだ。「この不破の
地は、山桃の産地であるときく。なかなかあじもいい。ど
うだろう。わたしはこの桃を、軍団兵士みんなに一こずつ
配ってやりたい。戦場における魔よけの桃だ。これをたべ
て戦場にでれば、武運百ばい。もりもりとはたらいてくれ
よう。大領、この近郷近在の山桃をすべて買いあげ、軍団
兵士みんなに、わたしからの桃だといって、配ってくれ。」
大領、宮勝木実は、胸をうたれて平伏した。木実は行宮所
在地の大領(郡長)として、御所をたて、皇子をおまもり
している。「ありがたいことでございます。戦勝につなぐ
えんぎのいい桃。兵士のいのちを守る魔よけの桃。天子さ
まからたまわった尊い桃。全軍の兵士はもちろん、村のも
のたちも、涙をながしてよろこび存分のはたらきをしてく
れるでありましょう。」このとき、木実が確信したとおり、
この桃をおしいただいた数萬の将兵の士気は、いやがうえ
にもたかまり、連戦連勝、ついに大勝を果たしたのであっ
た。この桃の奇縁により、この桃を配ったところを桃配山
とか、桃賦野とよんで、いまにつたわっている。九百年の
あと、徳川家康は、この快勝の話にあやかって桃配山に陣
をしき、一日で、天下を自分のものとした。

まとめ
 この説明文には、相当の脚色が伺われる。また、普通は漢字で書かれる語句の多くが気まぐれに仮名書きされた印象を受け、とても個性的である。 しかし設置者と設置の日付がなく、誰がどのような思いで設置したか分からないのは残念である。これでは出典の捜しようがないから、破棄されたのもやむを得ないだろう。
 内容としては、不破郡大領の宮勝木実が登場する点は『不破家寿麻呂家譜』(資料[75]参照)に沿っている。 また関ヶ原の役の時点で「桃配山」の名称が存在したことは既に確かで、これらには特に問題はない。
 だが、この話が『大日本地名辞書』にさえ載らないのは極めて不審で、明治以後に「桃配山」の地名譚として創作されたものではないかという疑いまで生じる。
 仮に、この伝説が十分古い時代から存在したとするなら、行基南方六坊や宮勝木実の話に、さらに別種の伝説が加わることになる。 それなら、この地域に実際に野上行宮があった可能性を高めるのに資することとなろう。 ある土地に沢山の伝説が残っていれば、その地にもとになる何らかの事象が実在したと考えてよいからである。



2024.12.08(sun) [79] 野上行宮跡 

「野上行宮跡」伝承地 撮影位置 矢印は撮影方向
道しるべ() 「野上行宮跡」案内板()
伊富岐神社古絵図
『垂井の歴史と文化財Ⅱ』
古絵図の範囲を本サイトが推定したもの。
【野上行宮跡伝承地】
 「野上行宮跡」という案内板〔以下〈案内板〉〕が、岐阜県不破郡大字野上にある。
 大海人皇子が設置したとされる野上行宮が、なぜこの位置に特定されたのだろうか。
 そう思ってこの〈案内板〉の文章の出典を探したところ、『不破郡史』〔不破郡教育会1926〕に内容の近い文章が見つかった。 また、『新修 垂井町史』〔垂井町1996〕の挙げる野上行宮の位置の説明は、〈案内板〉の場所にあてはまる。
 右の地図上の位置は、現地を訪れて特定したものである。その位置は、国土地理院地図によると北緯35度22分3.3秒・東経136度29分58.6秒付近にあたる。
《不破郡史》
 そこで、まず『不破郡史』を見る。
 『不破郡史』〔不破郡教育会1926〕
  〔〈天武紀上〉に野上行宮の記事があるから〕野上に行宮を興し給ひしことは事実なれども、今はその址詳かならず、 後世伝ふる伝説には野上の西端桃配山とすれど、関原合戦に於ける徳川家康の如く、 一時的の陣営となすに於ては可ならんも、三箇月間に亘り且後度々復興されたる行宮址としては適地にあらず、 又先輩にして野上の中央長者屋敷を擬す者あれど、これ亦拠り所はなかるべし。 慶長年間の宮橋文書によれば、行宮遺木の廃朽を惜み、行基来て南形六方を建立せりと記し、 慶長十三年伊富岐神社古図によれば、現野上村南墓地※1)付近を社寺屋敷として記せり。 此の付近は高燥濶達※2)の地にして朝鮮式土器破片も稀に見ることあれば或はこの地は行宮址ならんと思はるゝも猶後考を待つべきなり」
※1)…「野上行宮跡」案内板の南側の、現在も墓地となっている場所と見られる。
※2)…濶達(かったつ)」は、普通「自由闊達」としてものごとにこだわらない大らかさを意味するが、 ここでは広大さを意味するようである。
 「後度々復興」については、元正天皇の不破行宮行幸〔717〕、聖武天皇の不破頓宮行幸〔740〕が見える(別項)。
 「野上の中央長者屋敷」は、中山道沿いの市街地であろう。
 「南形六坊」については、行基は、飛鳥時代から奈良時代の僧〔668~749〕。 野上行宮が朽ち果てていることを惜しみ、その廃材などを使って「南形六坊」という寺院あるいは道場を建てたと読める。 その伝説は、宮橋家に伝わる慶長年間の文書に載っているという。
 「六坊」の例については、行基が天平六年〔734〕に建立したと伝わる福岡県の「宇佐弥勒寺」が見える (福岡県築上郡吉富町公式/宇佐弥勒寺支配下の鈴熊寺文化)。 その六坊とは、教心坊・練計坊・行深坊・経因坊・円覚坊・経心坊だという。
 野上の「南形六坊」についても踏み込んで知りたいところだが、今のところ「宮橋文書」に関する資料が見つけられないので、話はここまでである。
 一方「古図」については、「伊富岐神社古絵図〔町重要文化財;1960年指定〕が、 『垂井の歴史と文化財Ⅱ』〔垂井町教育委員会 タルイピアセンター 歴史民俗資料館;2023〕に掲載されていた。
 同書によると、古絵図は「縦105.3cm、横77cmの紙本著色」である。 ただ「制作時期は不明。伊富岐神社の古絵図は、ほかにもいくつか確認されており、 『不破郡史』に引かれているものは、天平20年〔748〕の絵図を慶長13年〔1608〕に書写したものであるという」(p.34)として、 『不破郡史』のいう「古図」そのものとは断定していない。
 その古絵図には確かに「寺社遺跡」が記入されているが、〈案内板〉が立つ位置よりもずっと北である。 その南にある「藍川」は、現在の相川と見られる。さらに南の「野上村」と書かれた道は、明らかに旧中山道である。 〈案内板〉のある場所は、それらよりも更に南方にあたるのである。
 よって、「現野上村南墓地」を「寺社屋敷」とする『不破郡史』は、古絵図の「社寺屋敷」の位置を誤認したと思われる。
 〈案内板〉がその場所を「寺社屋敷」と称するのは、『不破郡史』の誤りを引き継いだものと言える。
《〈元正〉天皇、〈聖武〉天皇の行幸》 この項2024.12.14
 ●〈続紀〉養老元年〔717〕〈元正〉十一月癸丑「朕以今年九月。到美濃国不破行宮。留連数日。因覧当耆郡多度山美泉。自盥手面。皮膚如滑。亦洗痛処。無愈。 …〔若返りの効能ありと述べる〕…改霊亀三年養老元年」 すなわち〈元正〉天皇は不破行宮に数日間滞在し、当耆郡〔=当芸郡〕多度山の美泉に出かけ、長寿の効能ありと知った。それを機に養老の心に目覚め、改元して養老元年とした。
 ●天平十二年〔740〕〈聖武〉「不破郡不破頓宮」。
 これらの不破行宮不破頓宮は、もともと尾治宿祢大隅の私邸が提供されて始まった野上行宮を改築、または近くに移転したものと見るのが自然である。 だとすれば、行基〔668~749〕が朽ち果てた野上行宮を惜しんで云々という伝説は実際の経過とはあまり合わない。
《〈案内板〉との関係》
 〈案内板〉の文章にある「高操〔ママ〕にして、…朝鮮式土器も出土しています」、 「乱後行基が行宮廃材で南方六坊を建てたという」、「ここ別通称寺社屋敷が、行宮跡」の部分は、 それぞれ『不破郡史』の「高燥濶達の地にして朝鮮式土器破片も稀に見る」、 「行宮遺木の廃朽を惜み、行基来て南形六方を建立せり」、「社寺屋敷として記せり」によったもだろうと思われる。
石垣() 遠景() 『新修 垂井町史』(p.127)
《新修垂井町史》
 次に『新修垂井町史』〔垂井町1996〕を読むと、「現在関ヶ原町野上の山の中腹に平地があって、地元では野上行宮の跡地と言われている。 山の中腹から北部一帯が見渡せる地で、行宮としての適地ではある」として、 「野上の行宮跡推定地より遠景」とする写真を載せている(p.127)。 〈案内板〉のうち「眺望良く」という意味の言葉は『不破郡史』にはないので、『新修垂井町史』によったものか。 同書の「遠景」の写真は〈案内板〉の近くから見た景観(写真)と似ているから、同書のいう位置はここかも知れない。 しかし、同書は漠然と「山の中腹」の「平地」とするのみで、地点がピンポイントで示されていない点が残念である。
《石垣》
 〈案内板〉のすぐ横に、石垣で囲まれた土壇がある。積まれた石は整形されず野面のづらみに近いので、古い時代のものと思われる。 この土壇に、誰かが南形六坊が建っていたと推定して〈案内板〉の位置を決めたことも考えられるのだが、今のところ確かめるすべが見つからない。

まとめ
 結局この〈案内板〉設置の根拠を知るには、「慶長年間の宮橋文書」を見つける、その野上行宮の位置をここに定めた根拠を知ることが不可欠である。
 しかし、については一般的な検索の他、岐阜県・関ヶ原町・垂井町の公式ページ内検索などでも見つからず、国立国会図書館デジタルコレクションで検索をかけても、出て来たのは『不破郡史』そのものとそれを引用した『日本歴史地理序説』のみであった。 経験上、ここまでやれば何とかなることが多かったが、今回はお手上げである。
 は関ヶ原町公式サイトを検索してみても、その経緯についての資料はなかなか見つからないが、地元の郷土史家などが唱えた説なのかも知れない。 今後もし進展があれば、報告したい。