古事記をそのまま読む―資料13
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2024.11.14(thu) [77] 不破郡の成立時期 

【不破郡】
 美濃国不破郡〔当時は不破評〕が、壬申の乱の後に当芸〔當藝〕から分離して成立したとする説について、資料[76]では否定的に論じた。 この説については幾つかの見方があるので、改めて検討する。
   引用文献略称
〈式内社調査13〉…『式内社調査報告』第十三巻/東山道2〔式内社研究会/皇學館大学出版部1986〕
〈家譜〉…〈式内社調査13〉所引の『不破家寿麻呂家譜』または『不破家系譜』(資料[76])。
〈関ヶ原町史〉…『関ヶ原町史 通史編上巻』〔関ヶ原町1990〕
〈新修垂井〉…『新修 垂井町史』〔垂井町1996〕
《〈家譜〉説への複数の見方》
 〈家譜〉は、壬申の乱の後に「当芸郡之地不破郡」と書く。
 これについて〈関ヶ原町史〉は、 「…分当して不破郡となす」という理解の方がかなり確率が高いように思われる」、 「不破評(郡)の成立は壬申の乱以後―天武朝と解するのが妥当であろう」と見ている(pp.148~149)。
 一方〈新修垂井〉は、 「壬申の乱以後、当芸郡が分割されて不破郡が成立したと断定したとするには問題が多すぎるが、 先述の全国的な郡(評)の分割の過程から見ると、ある程度歴史を反映していると言えないこともない」と見る。 は、改新詔と大宝令の相違を較べたもので、その最大の相違点は、 郡のランクが改新詔〔646〕は大・中・小の三段階、大宝令〔701〕は大・上・中・下・小の五段階で、「この間において全国的に郡(評)の分割があった」はずだと見ている(pp.112~113)。 改めて両者の記述を比較する。
改新詔其二 凡郡:以四十里為大郡、三十里以下四里以上為中郡、三里為小郡
令義解 凡郡:以廿里以下十六里以上大郡、十ニ里以上為上郡、八里以上為中郡、四里以上為下郡、二里以上為小郡
 すなわち、〈関ヶ原町史〉は〈家譜〉の記述を信頼できると見ているのに対して、〈新修垂井〉は懐疑的である。 ただ壬申後とは限らないが、分割された歴史を反映している可能性自体はあると述べる。
《郡分割の時期》
 「改新詔其二」の《以四十里為大郡》項で、「旧名+[]or[]」の命名方式による分割の多くは、大宝令以前に行われたと見た。 仮に不破郡が当芸郡を分割して成立したとした場合はこの方式ではないから、これよりずっと古い時期ではないかと思われる。
《好字令》
 いわゆる「好字令〔和銅六年〔713〕五月甲子の詔〕(資料[13])により地名が好字二字となった。 しかし明日香⇒飛鳥哿須我⇒春日好字令に先行している。古事記の成立〔712年〕は好字令前であるのにも拘わらず、序文・本文共に「明日香」は見えず「飛鳥」に統一されている。 書紀〔720年成立〕については、まさにその編集の間に「飛鳥」に揃える作業が進んでいたと考えられる(第180回)。
《フハ評の表記》
 〈新修垂井〉は、「「不破家譜」に「天皇之郡不破而以有勝利之故」とあるように、表記(漢字)は壬申の乱に起因すると考えてよいであろう」、 「もともと「フワ〔歴史的仮名遣いはフハ〕」(表記は不明)の地名があって、壬申の乱以降「不破」の文字を用いたとするのが妥当だと思われる」と述べている(pp.113~114)。
 フハという地名が乱以前からあったとした場合、「不破」の字を初めて用いたのは「明日香」が「飛鳥」になったのと同じ時期〔712年頃〕なのだろうか。 しかし、書紀や万葉には「明日香」、「安宿」が混ざっているのに対して、フハには異表記が見えない。 だとすれば「不破」の表記になったのは古い時代のことで、壬申直後の可能性も考えられる。
《不破郡家》
 大海皇子が不破に到着した場面で、書紀が郡名なしで「郡家」とするのは、その少し前に「不破郡」という語句があるから省かれたのである。これを「不破郡家」以外に読むことは不可能であろう。
 同様の例に「朝明郡」段の「郡家」があった。これも「朝明郡家」であることは明らかである。
《不破郡成立の時期》
 仮に不破郡当岐郡から分かれたものだとしても、実際は壬申以前のことではないだろうか。 そう考える理由は、資料[76]《分当芸郡之地為不破郡》項で 「書紀は、記録がもし「当芸郡家」となっていればそのまま書いても問題ありとは思えないので、わざわざ「不破〔郡の〕郡家」に直して書く理由が分からない」からだと述べた通りである。

まとめ
 〈家譜〉は、木実が乱の勝利に貢献したが故に「当芸郡から不破郡を分離して宮勝木実に賜った」が如くに潤色した。それはひとえに大領神社の祭神となった大領宮勝木実を偉大化するためと考えるのが順当と思われる。
 私家の内輪の書である〈家譜〉には一般的に粉飾が施される傾向があることは否めず、その確実性を書紀と同等まで引き上げることにはやはり無理があろう。



2024.11.15(fri) [78] 桃配山伝説 

【「桃配山」命名の由来伝説】
野上行宮伝承関連地 「徳川家康最初陣地」登り口
2015年5月 同左:説明板 2017年12月 2018年8月
ストリートビューより ©google
 関ヶ原町歴史民俗学習館公式ページ壬申の乱」では桃配山について、 「語源は壬申の乱の際に大海人皇子が兵を励ますために桃を配ったという逸話から付いたものです。 しかし、「日本書紀」等で記述はなく、その根拠については未だ謎に包まれています」と述べる。
《壬申の乱で桃を配った伝説》
 その話は、「徳川家康最初陣地」看板のある登り口(右図)の説明板に記されていた。
 ところが、説明版には設置者も日付も記されず、出典不明であった。 その出典を探すために、この文章の一部を使って検索をかけてみたが、すべてがこの説明板自体を紹介したものであった。 関ヶ原町、垂井町、岐阜県の公式ページにもこの話についての説明は見つからなかった。
 『大日本地名辞書』の「桃配山」の項も家康の陣の話のみで、この逸話はない。 古文献にも現在のところ見出せない。
 ただ『日本歴史地名大系』には「〔桃配山は〕大海人皇子が壬申の乱に桃を配った所という」とあるが、これも出典を欠く。
《説明板のその後》
 さて、その説明板だが、現在はもうなくなっている。 グーグルのストリートビューで過去の映像を見ると、2015年5月には確かに存在した。2017年12月は新装工事中、 そして工事を経た後の2018年8月にはもうない。
 現在、この場所に代わっておかれた「徳川家康最初陣地」案内板の中では、「ここは、天智天皇元(672)年の壬申の乱に勝利した大海人皇子が、兵士に山桃を配ったと伝えられる縁起の良い地とされる」と、簡潔に書かれるのみである。 関ヶ原の役そのものの説明を中心とする、現在の案内板の方が適切なのは確かであろう。
 かつての説明版の文章が継承されなかった本当の事情は分からないが、まことしやかに書かれている割には出典が不確かだったためかも知れない。 結局、以前の説明板を、誰の責任で何を出典に用いて設置したたかは謎のままである。
《説明文》
 現在は幾つかのサイトにその画像や文章が残されているが、ここでも全文を納めておく。
  桃 配 山
 天下を分ける壬申の大いくさは千三百年ほどまえであっ
た。吉野軍をひきいた大海人皇子は、不破の野上に行宮を
おき、わざみ野において、近江軍とむきあっていた。急ご
しらえの御所に、皇子がはいったのは、六月の二十七日で
ある。野上郷をはじめ、不破の村びとたちは、皇子をなぐ
さめようと、よく色づいた山桃を三方にのせて献上した。
「おお、桃か。これはえんぎがいいぞ!」皇子は、行宮に
つくがはやいか、桃のでむかえにあって、こおどりしてよ
ろこんだ。くれないのちいさな山桃を口にふくむと、あま
ずっぱい香りが、口のなかいっぱいにひろがる。皇子は、
はたとひざをたたき、不破の大領をよんだ。「この不破の
地は、山桃の産地であるときく。なかなかあじもいい。ど
うだろう。わたしはこの桃を、軍団兵士みんなに一こずつ
配ってやりたい。戦場における魔よけの桃だ。これをたべ
て戦場にでれば、武運百ばい。もりもりとはたらいてくれ
よう。大領、この近郷近在の山桃をすべて買いあげ、軍団
兵士みんなに、わたしからの桃だといって、配ってくれ。」
大領、宮勝木実は、胸をうたれて平伏した。木実は行宮所
在地の大領(郡長)として、御所をたて、皇子をおまもり
している。「ありがたいことでございます。戦勝につなぐ
えんぎのいい桃。兵士のいのちを守る魔よけの桃。天子さ
まからたまわった尊い桃。全軍の兵士はもちろん、村のも
のたちも、涙をながしてよろこび存分のはたらきをしてく
れるでありましょう。」このとき、木実が確信したとおり、
この桃をおしいただいた数萬の将兵の士気は、いやがうえ
にもたかまり、連戦連勝、ついに大勝を果たしたのであっ
た。この桃の奇縁により、この桃を配ったところを桃配山
とか、桃賦野とよんで、いまにつたわっている。九百年の
あと、徳川家康は、この快勝の話にあやかって桃配山に陣
をしき、一日で、天下を自分のものとした。

まとめ
 この説明文には、相当の脚色が伺われる。また、普通は漢字で書かれる語句の多くが気まぐれに仮名書きされた印象を受け、とても個性的である。 しかし設置者と設置の日付がなく、誰がどのような思いで設置したか分からないのは残念である。これでは出典の捜しようがないから、破棄されたのもやむを得ないだろう。
 内容としては、不破郡大領の宮勝木実が登場する点は『不破家寿麻呂家譜』(資料[75]参照)に沿っている。 また関ヶ原の役の時点で「桃配山」の名称が存在したことは既に確かで、これらには特に問題はない。
 だが、この話が『大日本地名辞書』にさえ載らないのは極めて不審で、明治以後に「桃配山」の地名譚として創作されたものではないかという疑いまで生じる。
 仮に、この伝説が十分古い時代から存在したとするなら、行基南方六坊や宮勝木実の話に、さらに別種の伝説が加わることになる。 それなら、この地域に実際に野上行宮があった可能性を高めるのに資することとなろう。 ある土地に沢山の伝説が残っていれば、その地にもとになる何らかの事象が実在したと考えてよいからである。



2024.12.08(sun) [79] 野上行宮跡 

「野上行宮跡」伝承地 撮影位置 矢印は撮影方向
道しるべ() 「野上行宮跡」案内板()
伊富岐神社古絵図
『垂井の歴史と文化財Ⅱ』
古絵図の範囲を本サイトが推定したもの。
【野上行宮跡伝承地】
 「野上行宮跡」という案内板〔以下〈案内板〉〕が、岐阜県不破郡大字野上にある。
 大海人皇子が設置したとされる野上行宮が、なぜこの位置に特定されたのだろうか。
 そう思ってこの〈案内板〉の文章の出典を探したところ、『不破郡史』〔不破郡教育会1926〕に内容の近い文章が見つかった。 また、『新修 垂井町史』〔垂井町1996〕の挙げる野上行宮の位置の説明は、〈案内板〉の場所にあてはまる。
 右の地図上の位置は、現地を訪れて特定したものである。その位置は、国土地理院地図によると北緯35度22分3.3秒・東経136度29分58.6秒付近にあたる。
《不破郡史》
 そこで、まず『不破郡史』を見る。
 『不破郡史』〔不破郡教育会1926〕
  〔〈天武紀上〉に野上行宮の記事があるから〕野上に行宮を興し給ひしことは事実なれども、今はその址詳かならず、 後世伝ふる伝説には野上の西端桃配山とすれど、関原合戦に於ける徳川家康の如く、 一時的の陣営となすに於ては可ならんも、三箇月間に亘り且後度々復興されたる行宮址としては適地にあらず、 又先輩にして野上の中央長者屋敷を擬す者あれど、これ亦拠り所はなかるべし。 慶長年間の宮橋文書によれば、行宮遺木の廃朽を惜み、行基来て南形六方を建立せりと記し、 慶長十三年伊富岐神社古図によれば、現野上村南墓地※1)付近を社寺屋敷として記せり。 此の付近は高燥濶達※2)の地にして朝鮮式土器破片も稀に見ることあれば或はこの地は行宮址ならんと思はるゝも猶後考を待つべきなり」
※1)…「野上行宮跡」案内板の南側の、現在も墓地となっている場所と見られる。
※2)…濶達(かったつ)」は、普通「自由闊達」としてものごとにこだわらない大らかさを意味するが、 ここでは広大さを意味するようである。
 「後度々復興」については、元正天皇の不破行宮行幸〔717〕、聖武天皇の不破頓宮行幸〔740〕が見える(別項)。
 「野上の中央長者屋敷」は、中山道沿いの市街地であろう。
 「南形六坊」については、行基は、飛鳥時代から奈良時代の僧〔668~749〕。 野上行宮が朽ち果てていることを惜しみ、その廃材などを使って「南形六坊」という寺院あるいは道場を建てたと読める。 その伝説は、宮橋家に伝わる慶長年間の文書に載っているという。
 「六坊」の例については、行基が天平六年〔734〕に建立したと伝わる福岡県の「宇佐弥勒寺」が見える (福岡県築上郡吉富町公式/宇佐弥勒寺支配下の鈴熊寺文化)。 その六坊とは、教心坊・練計坊・行深坊・経因坊・円覚坊・経心坊だという。
 野上の「南形六坊」についても踏み込んで知りたいところだが、今のところ「宮橋文書」に関する資料が見つけられないので、話はここまでである。
 一方「古図」については、「伊富岐神社古絵図〔町重要文化財;1960年指定〕が、 『垂井の歴史と文化財Ⅱ』〔垂井町教育委員会 タルイピアセンター 歴史民俗資料館;2023〕に掲載されていた。
 同書によると、古絵図は「縦105.3cm、横77cmの紙本著色」である。 ただ「制作時期は不明。伊富岐神社の古絵図は、ほかにもいくつか確認されており、 『不破郡史』に引かれているものは、天平20年〔748〕の絵図を慶長13年〔1608〕に書写したものであるという」(p.34)として、 『不破郡史』のいう「古図」そのものとは断定していない。
 その古絵図には確かに「寺社遺跡」が記入されているが、〈案内板〉が立つ位置よりもずっと北である。 その南にある「藍川」は、現在の相川と見られる。さらに南の「野上村」と書かれた道は、明らかに旧中山道である。 〈案内板〉のある場所は、それらよりも更に南方にあたるのである。
 よって、「現野上村南墓地」を「寺社屋敷」とする『不破郡史』は、古絵図の「社寺屋敷」の位置を誤認したと思われる。
 〈案内板〉がその場所を「寺社屋敷」と称するのは、『不破郡史』の誤りを引き継いだものと言える。
《〈元正〉天皇、〈聖武〉天皇の行幸》 この項2024.12.14
 ●〈続紀〉養老元年〔717〕〈元正〉十一月癸丑「朕以今年九月。到美濃国不破行宮。留連数日。因覧当耆郡多度山美泉。自盥手面。皮膚如滑。亦洗痛処。無愈。 …〔若返りの効能ありと述べる〕…改霊亀三年養老元年」 すなわち〈元正〉天皇は不破行宮に数日間滞在し、当耆郡〔=当芸郡〕多度山の美泉に出かけ、長寿の効能ありと知った。それを機に養老の心に目覚め、改元して養老元年とした。
 ●天平十二年〔740〕〈聖武〉「不破郡不破頓宮」。
 これらの不破行宮不破頓宮は、もともと尾治宿祢大隅の私邸が提供されて始まった野上行宮を改築、または近くに移転したものと見るのが自然である。 だとすれば、行基〔668~749〕が朽ち果てた野上行宮を惜しんで云々という伝説は実際の経過とはあまり合わない。
《〈案内板〉との関係》
 〈案内板〉の文章にある「高操〔ママ〕にして、…朝鮮式土器も出土しています」、 「乱後行基が行宮廃材で南方六坊を建てたという」、「ここ別通称寺社屋敷が、行宮跡」の部分は、 それぞれ『不破郡史』の「高燥濶達の地にして朝鮮式土器破片も稀に見る」、 「行宮遺木の廃朽を惜み、行基来て南形六方を建立せり」、「社寺屋敷として記せり」によったもだろうと思われる。
石垣() 遠景() 『新修 垂井町史』(p.127)
《新修垂井町史》
 次に『新修垂井町史』〔垂井町1996〕を読むと、「現在関ヶ原町野上の山の中腹に平地があって、地元では野上行宮の跡地と言われている。 山の中腹から北部一帯が見渡せる地で、行宮としての適地ではある」として、 「野上の行宮跡推定地より遠景」とする写真を載せている(p.127)。 〈案内板〉のうち「眺望良く」という意味の言葉は『不破郡史』にはないので、『新修垂井町史』によったものか。 同書の「遠景」の写真は〈案内板〉の近くから見た景観(写真)と似ているから、同書のいう位置はここかも知れない。 しかし、同書は漠然と「山の中腹」の「平地」とするのみで、地点がピンポイントで示されていない点が残念である。
《石垣》
 〈案内板〉のすぐ横に、石垣で囲まれた土壇がある。積まれた石は整形されず野面のづらみに近いので、古い時代のものと思われる。 この土壇に、誰かが南形六坊が建っていたと推定して〈案内板〉の位置を決めたことも考えられるのだが、今のところ確かめるすべが見つからない。

まとめ
 結局この〈案内板〉設置の根拠を知るには、「慶長年間の宮橋文書」を見つける、その野上行宮の位置をここに定めた根拠を知ることが不可欠である。
 しかし、については一般的な検索の他、岐阜県・関ヶ原町・垂井町の公式ページ内検索などでも見つからず、国立国会図書館デジタルコレクションで検索をかけても、出て来たのは『不破郡史』そのものとそれを引用した『日本歴史地理序説』のみであった。 経験上、ここまでやれば何とかなることが多かったが、今回はお手上げである。
 は関ヶ原町公式サイトを検索してみても、その経緯についての資料はなかなか見つからないが、地元の郷土史家などが唱えた説なのかも知れない。 今後もし進展があれば、報告したい。



2025.03.13(thu) [80] 676年の彗星 

【天武五年七月に出現した彗星】
 〈天武〉五年七月条に、「是月。…有星出于東、長七八尺至九月〔星あり、東に出づ。長さ七八尺。九月に至り天に竟(わた)る〕とある。 〈天武〉五年は、西暦676年にあたる。
《新唐書》
 この「」に対応する記録が、『新唐書』天文志にある。
 『新唐書』天文志 (資料[69])
〔(高宗)上元〕三年七月丁亥〔二十一〕:有彗星於東井。指北河。 長三尺餘。東北行、光芒益盛、長三丈。掃中臺、指文昌 〔676/9/7〕:〔彗星、東井に有り。北河を指して、長三尺余。東北行して、光芒益々盛りて、長さ三丈。中台を掃きて、文昌を指す。〕
九月乙酉〔二十〕:不見。 〔11/4〕:〔見えず〕
 この七月二十一日から九月二十日という期間は、書記の「七月」に出て「九月」と一致している。
 記述にある星については、一般的に東井ふたご座μ北河ふたご座σ中台おおくま座ι文昌おおくま座υに推定されている。
《太陽の赤道座標》
図1 黄道沿いのニ十宿距星と、彗星経路の星
 図1は、西暦676年の黄道沿いのニ十宿の距星と、『新唐書』で彗星の経路として示された星の位置を示す。 参考のために西暦2000年の位置を併せて示した。
 図2は、本サイトの元嘉暦モデル(参考[C]以後)による〈天武〉五年〔676〕の二十四節季の基準日〔年間通算日〕である。 それによると、この年の春分は、二月末である。七月二十一日〔出現日〕九月二十日〔消滅日〕の黄道上の太陽の位置は、春分からの通算日数(ア)によって求めることができる。 (ア)を太陽年の日数で割り(イ)、その値に360°をかけた角度(ウ)が黄道上の位置を表す。
 なお、ここから、
  彗星出現日白露から0.29日後〔ほぼ白露当日〕
  彗星消滅日霜降から12.70日後。
 にあたることが分かる。
 それぞれの太陽の一の黄道座標を赤道座標に変換したのが、図3である。 変換には、エクセルのマクロ関数sph1d()sph2d()(資料[62]で自作)を用いる。
 計算式は、
 中心角=sph1d(N1,E1,N2,E2,0)
 偏角=sph1d(N1,E1,N2,E2,1)
 NX=sph2d(NX0,EX0,中心角,偏角,0)
 EX=sph2d(NX0,EX0,中心角,偏角,1)
 である。
 図3で、7/21のE2および9/20のE2が図2で求めた(ウ)である。 なお、NX0は黄道傾斜角で、公式(資料[70])により、676年は23.61023°、2000年は23.43928°を用いた。
 図1で、7/21と9/20の位置はで表されている。
 出現日の彗星の位置とされる「」星は、日周運動において太陽より約6時間先行する。 したがって、彗星は真夜中に東の空から昇り、日の出のころにほぼ南中する。よって、夜中から明けるまでずっと彗星は東の空に見えることになり、書紀の「星。出于東」に合致する。
図2 春分から彗星出現日および消滅日までの日数図3 一年間の太陽の位置の赤道座標 
図4 676年赤道座標への変換

《676年の赤道座標への変換》
 黄道沿いのニ十宿の距星、および彗星の経路とされる星の赤道座標を、2000年から676年に変換する。 図4は、その計算を示したもの。ここで行った変換の手順は次の通り。
 ① いくつかの定数を用意する。
  θ…歳差角。(2000-676)÷25772×360=18.4945°
  φ…赤道傾斜角。676年では23.43928°
  β…変換後の座標の基準点。β=-2tan-1(sin(θ/2)tanφ)
 ② 赤道座標を球面座標(N1、E1)に変換。
 ③ 変換Ⅰ。
  パラメータ0=sph1d(0,θ/2,N2,E2,0)
  パラメータ1=sph1d(0,θ/2,N2,E2,1)
 ④ 変換Ⅱ。球面座標(NX,EX)。
  NX=sph2d(β,-θ/2,パラメータ0,パラメータ1,0)
  EX=sph2d(β,-θ/2.パラメータ0,パラメータ1,1)
 ⑤ 球面座標(NX,EX)を赤道座標に変換。
 こうして得られた676年の赤道座標が、図1で示されている。

まとめ
 『新唐書』天文志に載る、高宗の上元三年七月の彗星の記録をもとにして調べると、 彗星は676年9月7日〔グレゴリオ暦〕に赤緯+21.8°赤経4.93h付近に出現し、 11月4日〔同〕に赤緯+64.5°赤経7.88h付近で見えなくなった。
 それぞれ太陽との位置関係を含め、実際の動きに近い様子を得ることができたと見てよいだろう。 用いたのは、元嘉暦モデル〔エクセル〕、黄道傾斜角の計算式、歳差運動の周期、赤道座標変換モデル〔エクセル+自作マクロ関数〕である。



2025.05.17(sat) [81] 680年の金環日食 2025.06.04 一部修正 
出典:NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700※)
【天武九年十一月の日食】
 〈天武〉九年十一月一日に、「日蝕之」とある。
 この日は、グレゴリオ暦680年11月30日、ユリウス暦11月27日にあたる。
《この日の日食のデータ》
 [NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700]※)から、この日の日食のデータを見る。
 ・ユリウス暦680年11月27日
・TD〔食が最大となる力学時〕4時24分53秒〔日本標準時は13時…〕
・サロス番号82
・種別〔金環食〕
・前後の月食前:なし。後;部分月食。
・Magnitude〔日食の大きさ;月が太陽を覆う割合の最大値〕0.9133
・中央点北緯37度 東経144度
・最大食度の太陽高度29度
・最大食継続時間10分8秒
※)…クレジット表示(要請):Eclipse map/figure/table/predictions courtesy of Fred Espenak, NASA/Goddard Space Flight Center, from eclipse.gsfc.nasa.gov.
《定数の推定》
 前項のデータを使って、この日の地球-月の距離、および月の角速度を推定することができる。
 まず、楕円の方程式は\(\frac{x^{2}}{a^{2}}+\frac{y^{2}}{b^{2}}=1\)であるが、ここでは簡単に楕円のつぶれ具合だけを考え、\(b=1\)に固定する。
 焦点F、F’の座標は\((\pm\sqrt{a^{2}-1},0)\)である。
 惑星、衛星の軌道は楕円で、中心星はその一方の焦点にある。したがって近点:\(a-\sqrt{a^{2}-1}\)遠点:\(a+\sqrt{a^{2}-1}\)となる。
\begin{align} Q&=\frac{a+\sqrt{a^{2}-1}}{a-\sqrt{a^{2}-1}}\\ Qa-Q\sqrt{a^{2}-1}&=a+\sqrt{a^{2}-1}\\ (Q+1)\sqrt{a^{2}-1}&=Qa-a\\ (Q+1)^{2}(a^{2}-1)&=(Qa-a)^{2}\\ a^{2}+2a^{2}Q+a^{2}Q^{2}-1-2Q-Q^{2}&=a^{2}Q^{2}-2a^{2}Q+a^{2}\\ 4a^{2}Q&=Q^{2}+2Q+1\\ &=(Q+1)^{2}\\ a&=\pm\frac{Q+1}{2\sqrt{Q}} \end{align}
 そこで、「遠点÷近点」の値〔Q〕のみを用いて、\(a\)の値を求めることを試みたところ、 その結果、 \(a=\pm\frac{Q+1}{2\sqrt{Q}}\) という簡単な式が得られた()。
 これを使って、近点・遠点での月の公転の角速度(それぞれ \(\omega_{mx},\omega_{mn}\) とする)を求めてみる。
 ここで問題になるのは、月の公転の角速度の基準値( \(\overline{\omega}\) をどうするかである。
 ケプラーの第二法則によれば角速度は中心星からの距離に反比例するから、\(\overline{\omega}\)のときの中心星からの距離が分かればよい。
 ケプラーの第二法則は面積速度一定の法則とも呼ばれ、よって角速度を全周分積分した値は楕円の面積に比例する。 その楕円の等積真円を考え、その角速度と半径の関係を基準とすればよい。月の場合はその基準の角速度(deg/h)は360°÷27.28925日÷24時間である。これを\(\overline{\omega}\)とする。
 楕円 \(\frac{x^{2}}{a^{2}}+y^{2}=1\) の面積は直径1の円の面積=\(\pi\)×1の\(a\)倍で\(\pi a\)。すなわち等積真円の半径は\(\sqrt{a}\)となる。
 面積速度等積真円の半径×基準の角速度〕は一定値を保つ。その値をとすると、 \(S=\overline{\omega}(\sqrt{a})^{2}=\overline{\omega}a\) となる。
 以上から、\(\omega_{mx},\omega_{mn}\)は次のようにして求められる。
月の公転周期: 27.2892544日
近点: 356445km
遠点: 406712km \[\overline{\omega}=360/27.2892544/24=0.549666905(deg/h)\] \[Q=\frac{406712}{356445}=1.141023159\] \[a=\frac{Q+1}{2\sqrt{Q}}=1.002176327\] \[S=\overline{\omega}a=0.55086316\] \[\omega_{mx}=\frac{S}{a-\sqrt{a^{2}-1}}=0.588424787(deg/h)\] \[\omega_{mn}=\frac{S}{a+\sqrt{a^{2}-1}}=0.515699249(deg/h)\]
 次に、月-地球間の任意の距離\(d\)における角速度\(\omega\)は、\(\omega=S/d\)。 この計算は、実際の楕円軌道の短径=1としたものであるから\(d\)は実距離\(L\)を定数\(k\)で割る必要がある。
 近点の実距離から、\(k=356445/(a-\sqrt{a^{2}-1})\)。また遠点の実距離から、\(k=406712/(a+\sqrt{a^{2}-1})\)。いずれも、\(k=380749.8639\)となる。
\[\omega=\frac{S}{d}\] \[d=\frac{L}{380749.8639}\]
《680年11月27日の日食の場合》
\begin{align}p&=x-\sqrt{a^{2}-1}\\ R&=\sqrt{y^{2}+p^{2}}\\ &=\sqrt{1-\frac{x^{2}}{a^{2}}+(x-\sqrt{a^{2}-1})^{2}}\\ cos\theta&=\frac{p}{R} \end{align}
 遠点:152,097,701km、近点:147,098,074km。前項から\(a=\)1.000139645。
 近点における地球公転の角速度=360°÷365.2422日÷\((a-\sqrt{a^{2}-1})\)=1.002397616°/日。
 近点から12日後は∠\(\theta\)≒12.2°。Rは∠\(\theta=0\)のときのRの約1.00037倍。
 この日食の"Magnitudes of Solar Eclipses〔日食の大きさ〕"の値0.9133は1未満だから金環食である。 太陽までの距離とこの値があれば、月までの距離を求めることができる。
 太陽との距離については、この日は近日点に近い。 [国立天文台/…/近日点の移動]によれば、 近日点移動は物理的には「約11万年周期」だが歳差の2万6000年周期と合成されて、実質「2万1000年周期」だという。 13世紀にはほぼ冬至点にあり、その移動方向は冬至点から春分点への方向という。2025年の近日点は1月4日というから、680年には23日遡り12月12日〔グレゴリオ暦〕。ユリウス暦では12月9日で、11月27日との差は12日である。
 この日の太陽-地球間の距離を概算すると近点距離の0.04%増し程度である()。
 太陽の視直径〔rad〕=太陽の直径÷太陽までの距離で、×180/\(\pi\)でに換算できる。
 これに日食の大きさをかけたものが、月の視直径月までの距離=月の実直径÷視直径〔rad〕である。 その値から、前項で求めた関係により月の公転の角速度を求めることができる。
表1
太陽の直径(km)太陽までの距離(km)太陽の視直径(°)日食の大きさ月の視直径(°)月の直径(km)距離(km)短径=1に換算角速度(°/h)÷基準値
\(R\)\(D\)\(s\)\(V=R/D_{s}\)\(G\)\(v_{deg}=VG\)\(r\)\(L=r/v_{rad}\)\(d=L/k\)\(\omega=S/d\)\(\omega/\overline{\omega}\)
1,392,600147,150,0000.5422365110.91330.4952246053,474401929.82321.0556269650.5218350590.949365979
 日食の大きさ(Magnitudes of Solar Eclipses)は、実際には当時の地球や月の軌道を計算で求め、そこから計算した結果と思われる。 ここでは、その値から逆算して軌道データを求めたことになる。

【月の影の経路のシミュレーション】
《太陽・月・地球についての定数》
太陽地球間距離(km)147150000
月地球間距離(km)R=401788
地球半径(km)r=6366
R/r=63.11467169
(倍数)0.94937(deg/h)
月公転角速度(rad/h)ωm=0.0091041940.521631868
地球公転角速度(deg/h)ωe=7.168E-04
90-仰角(deg)β60.7
地球自転角速度(rad/h)φ15.04106864
(半径)
太陽の視直径(deg)2Rs0.5424279220.271213961
月の視直径(deg)2Rm0.4953994210.24769971
表2
"
図1図2
 使用した定数は、表2の通りである。
 太陽地球間、及び月地球間の距離は前項で求めた値を用いる。
 月公転角速度は標準値×(倍数)で表現した。
 地球公転角速度=360°÷365.2422(日)÷24(時間)。
 βは、太陽高度の余角。
 地球自転角速度は、地球の公転により翌日の南中は自転一回の360°にややプラスした値となる。それを24時間で割った値となる。
 ここでは、太陽、月の視直径や角速度、地球からの距離に前項で求めた値を用いることにより、 計算モデルをより精密化するように試みた。
《月の影の移動ラインを地表の座標で表すための数学的処理》
 皆既日食点または金環日食点の経路を求める計算の仕組みを振り返る。
 地球表面に落とされた月の影の経路は、基本的に球体に平面が交わってできる小円〔稀に大円;太陽高度90°のとき〕
 それを、第一次座標変換〔白道傾斜角5.1°〕、第二次座標変換〔太陽高度及び地軸の傾斜〕によって、地球上の北緯東経に変換する(図1)。
 [NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700](上記)では太陽高度29°、中央点の緯度が北緯37°になっている。太陽高度29.3°とすると中央点が北緯37.4°付近となって四捨五入した値に合わせることができる。 経路を簡単なグラフで表してみると、この時の日食は昇交点型であったことが分かる。 計算によって得られた時刻ごとの位置をまとめたのが図2である。 中央点より±0.979877時間の範囲の外では、計算結果はエラーとなる。これは、太陽と月が地平線より下にある状態に対応している。
 東西方向の時刻位置は、地球の自転の位相を表す値で現象自体には影響を与えない。ここでは333.5°を用いたが、それはこの値が[NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700]のいう中央点「東経144°」に合ったからである。

【食分】
《各地の食分の時刻ごとの推移》
動画1 金環日食時間帯における食分分布の推移
図3 日食中央点における食分分布
 図3は、日食中央点のときの様子を表したものである。日の出-日没曲線は時刻と共に東から西に移動し、その北側は太陽光が当たらない範囲である。
 それぞれの時刻の等食分線を、0から0.8まで0.2間隔で示した。例えば0.6の曲線上の地点から見たときの部分日食の食分は、0.6にである。 各地点の食分を求める基礎理論は、資料[59]資料[60]で述べた。 等食分線は、球面への投影なのでもともと北極方向に広がる。メルカトル図法を用いた場合、北方に向かうほどさらに大幅に誇張される。
 金環日食の開始から終了までの等食分曲線の推移を表したのが、動画1である。 計算した時刻は図2に示した。それぞれの時刻の太陽直下点は地球の自転に伴い、南緯21.273°のライン上〔オーストラリア北部〕を東から西に向って移動する。
《飛鳥》
 〈天武〉天皇浄御原みよみはらがあったと推定される明日香村における食分の推移は、下のグラフ(図4)のようになった。
 食分を求める方法は、資料[60]図3において、 z軸上の値Bと、ABを半径とする円周上のy座標pを適当に決めて入力し、その地点〔34.47N135.82E〕に合う組み合わせを見つけ、その点の食分を得る。
 こう書くと思い付きでランダムに入力を繰り替えしてたまたま合うもの見つけるような印象を与えるが、実際には適当な2つの値の組からスタートして案分比例を繰り返すことによって急速に該当地点に到達することができる。
 その結果、例えば時刻-0.97988h〔中心点の時刻を0とする〕において、(B,p)=(7701.09937028423,0.111509430684526)が得られ、その地点は34.46999999661361E35.820004427191Nとなる。それによって計算される食分は、0.606617260864538である 〔なお、この桁数の多さは数値演算法自体の精度を示すために記したもので、実際的にはおおよそ小数点3桁以下の部分は意味を持たない。〕
 この-0.9798766…h、すなわち中心点から58分47.56秒前は、北緯64.56°東経107.48°付近の地点で太陽高度0.04°。すなわち今回の日食において、この瞬間に地球上で初めて金環食が昇るのを見た。
 この時点で、明日香村では食分が既に0.61になっている。日本時間では、中心点の4:25は13:25JST〔日本時間〕にあたるので、およそ12:26JSTとなる。
図4 直下点より南では上が欠ける
図5 食分0.85
グラフ1
 明日香村は直下点(図4)より南側()にあるので、欠けるのは北側である。
 明日香村における食分の推移は、グラフ1のようになる。中心点から58分47.56秒後に金環食が観測できる地点が地球上から消滅する。 そのときの明日香村の食分は0.31となる。 明日香村の食分が最大値になるのは、中心時刻の約20分前〔13:05JST〕で、値は0.85となっている。 この食分0.85」とMagnitude9.133」を用いて日食の形を描いたのが図5である。
《飛鳥における日食の開始と終了》
動画2 前後の部分日食を含む
 地上に金環日食が出現する前にも、またその消滅後でも部分日食のみが見える地域が存在する。
 その時間帯の等食分線については、資料[64]【外挿】項で検討してモデルを作成した。
 今回もそのモデルによって計算したところでは、明日香村では部分日食が中心時刻の約2時間10分前から始まり、同じく約1時間35分後に終了している(グラフ1)。 グラフの形に不自然さは見られないので、恐らくこの外挿モデルは有効だと思われる、
 食分の推移をこの外挿を含めた全体に広げたものが、動画2である。

まとめ
 日食については、資料[59]~[60]を復習して今回のシミュレーションにおいても基本とした。
 ただ、出発点となる諸定数を再検討し、一般的に公表された資料によってなるべくリアルな値に近づけるよう努めた。
 サイト内の表現について、今回2つのソフトを試した。ひとつは、MathJaxである。これは数式をWebサイト上で表現するためのソフトウェアで、案外簡単に使えることが分かった。 ただ外部リンクを用いる形では永続性に不安があるので、一度出力したものをスクリーンショットして画像化すれば安全かと思われた。 しかし、全世界での利用件数は既に膨大だと見られ、将来に渡って何らかの形で維持されることが期待できそうなので生のままで用いることにした。
 もう一つは、gifによるパラパラ動画である。今回gimpというソフトウェアを入手して、その機能の初歩的な部分を使ってみた。 でき上ったファイルサイズは個々の画面のgifのサイズの合計よりも小さいので、変化しない部分を自動的に透明化してくれていると思われる。

2025.05.20(tue) [82] 新唐書の日食記事の検証 2025.06.14 改 
【新唐書/永隆元年十一月朔の日食】
 〈天武〉八年十一月一日の「日蝕」に対応する記事が『新唐書』に見える。
グラフ1 680年の20宿の距星の位置と黄道
表1 680年の尾の赤道座標
表2
ps(尾宿距星)u(p-s)/u-1
h(赤経)hh/度
11/01の太陽16.4290174915.293194350.06575342516.27397686
箕宿距星16.5666952215.293194350.06575342518.36782566
 『新唐書』天文志 (資料[69])
永隆元年十一月壬申朔。
食之。在尾十六度
 ここでは、その記述の妥当性を検証する。
 日食は太陽と月が重なる現象だから、「尾十六度」はこの日の黄道上の太陽の位置そのものである。
 680年〔グレゴリオ暦〕における宿の位置と、24節季の黄道上の太陽の位置は、グラフ1のようになる 〔説明は資料[80]参照〕
《尾十六度》
 尾宿距星はさそり座πと推定されている。その赤道座標の計算結果を、表1に示した。 「」は、一日当たりの角なので、赤径に直すと、一度=24÷365=0.0658hとなる。
 よって、「尾十六度」の赤経は15.29+0.0658×16=16.34h()である。
《680年の太陽の推定位置》
 次に、この日の太陽の赤経を求める。 十一月一日は、表3により小雪から8.34日後にあたる。春分からは通算251.83日で、この日の太陽の赤径は 表416.43hとなっている()。
 この値による単純計算では、尾から17.3度になるが、「一度」を起点とすると考えられるので尾十六.三度に相当すると思われる(計算は表2まとめ参照)。
表3 永隆元年十一月一日の春分、小雪からの日数 表4 永隆元年十一月一日の太陽の赤道座標
まとめ
 当初は尾宿の起点〔距星〕を0度とした結果、太陽の位置は17.3度となった。 その時点〔5月20日〕では、「1.3度の相違は測定誤差かも知れないが、よりはっきりさせるには他の日食の記録についても調べる必要がある。 その全体像によって、はじめて唐代の観測の精度が見えてくるであろう。」と述べた。
 その後、681年の日食(資料[83])を調べたところ、その日の太陽の位置は距星を0度とすると5.8度となるが、「在尾四度」と記されていた。 両者を併せれば、距星は「零度」ではなく「一度」と表されたと見るべきである。
 グラフ1を見ると、天文志の太陽の位置は680年の星空のシミュレーションに概ね一致している。



2025.06.14(sat) [83] 681年の金環日食 
図1
出典:NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700(上述)
【天武十年十月の日食】
 〈天武〉十年十月一日に、「日蝕之」とある。
 この日は、グレゴリオ暦681年11月19日、ユリウス暦11月16日にあたる。
《この日の日食のデータ》
 [NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700](上述)から、この日の日食のデータを見る。
 ・ユリウス暦681年11月16日
・TD〔食が最大となる力学時〕3時27分16秒〔日本標準時は12時…〕
・サロス番号92
・種別〔金環食〕
・前後の月食ともに半影月食。
・Magnitude〔日食の大きさ;月が太陽を覆う割合の最大値〕0.9264
・中央点南緯9度 東経145度
・最大食度の太陽高度79度
・最大食継続時間9分29秒
《諸定数》
 資料[81]の方法を用いて計算した結果、表1の諸値を得た。
表1
太陽の直径(km)太陽までの距離(km)太陽の視直径(°)日食の大きさ月の視直径(°)月の直径(km)距離(km)短径=1に換算角速度(°/h)÷基準値
\(R\)\(D\)\(s\)\(V=R/D_{s}\)\(G\)\(v_{deg}=VG\)\(r\)\(L=r/v_{rad}\)\(d=L/k\)\(\omega=S/d\)\(\omega/\overline{\omega}\)
1,392,600147,290,0000.5417211120.92640.5018504383,474396623.22271.041689730.5288169250.962067973
表2
太陽地球間距離(km)147290000
月地球間距離(km)R=396623.2227
地球半径(km)r=6366
R/r=62.30336518
(倍数)0.962067973(deg/h)
月公転角速度(rad/h)ωm=0.0092259640.528608776
地球公転角速度(deg/h)ωe=7.168E-04
90-仰角(deg)β11
地球自転角速度(rad/h)φ15.04106864
(半径)
太陽の視直径(deg)2Rs0.5417211120.270860556
月の視直径(deg)2Rm0.5018504380.250925219
動画1
 これにより、表2のパラメータを用いる。
 球面上の座標変換のために用いた値は
白道傾斜 5.1°
 月の交点面と地球の公転面が交わる角度。昇交点日食は5.1°、降交点日食はー5.1°を用いる。ここでは前者が合う。
地軸方向 304°
 (360―秋分からの日数×360÷365.24)°
黄道傾斜 23.4°
自転位置 358°
 中央点の座標9°S145°Eに合う値。
 その結果、金環日食のラインはインド北東部から始まり、フィリピンを通りニューギニア島で中央位置となり、ハワイの南に達している。
《飛鳥での食分》
 動画1は、飛鳥におけるかけ始め直前からかけ終わり直後までの食分分布の推移。等食分線は0.2間隔。
 グラフ1は、このシミュレーションによる飛鳥における食分の推移。
 ●かけ始め:(中央時刻ー2時間15分)〔日本時間10時12分〕頃。
 ●最大:食分0.21(図2)。(中央時刻ー1時間20分)〔同11時7分〕頃。
 ●かけ終わり:(中央時刻-18分)〔同12時9分〕頃。
グラフ1図2
動画2
《全経過》
 動画2金環食ライン及び職分分布推移の全経過を示す。中央付近では食分分布がほぼ同心円となる。これは高度が79°でかなり垂直に近いことの結果である。 日本で部分日食が観察されるのは、金環食観察可能点が出現する前から始まり、金環食ラインの前半で終わる。

【新唐書/開耀元年十月朔の日食】
図1 春分・霜降からの日数
図2 十月一日の太陽の位置 
 『新唐書』天文志に、この日の日食の記録がある。
 『新唐書』天文志 (資料[69])
開耀元年十月丙寅朔。
食之。在尾四度
 「尾四度」は、この日の太陽の位置そのものである。 〔厳密にいうと、黄道上にある太陽を通る赤道座標の経線〕
 太陽の黄道座標は、(春分からの日数÷一年の日数×360)度である(図1)。
 その黄道座標赤道座標に直し、さらに1hあたりの度数で割ることにより尾宿距星からの「」に直すことができる。 計算結果は「5.84度」で、天文志のいう「四度」より1.8度大きい。 資料[82]でも、同じく得られた「17.3度」は「十六度」より1.3度大きかった。 これらは、起点が「零度」ではなく「一度」と定められたためと推定し得る。だとすれば、「」は、単純な割り算によって得られた値から1を減じたものとなる(図2)。
 なお、小雪の太陽の赤緯と赤経は資料[82]と比べると微妙に異なっている。これは歳差運動によるものである。

まとめ
 このシミュレーションによると、飛鳥において食分が最大になるのは11時過ぎで、最大0.21程度となっている。
 食分の大きさは〈天武〉九年十一月の日食ほどではないが、中国の暦法による予測に基づき待ち構えて実際に観測できたことも考え得る。
 〈天武〉四年には占星台を作った記事があり、天体観測は陰陽寮によって継続的に行われるようになっていたと思われる。