古事記をそのまま読む―資料13 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2024.11.14(thu) [77] 不破郡の成立時期 ▼▲ |
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【不破郡】 美濃国不破郡〔当時は不破評〕が、壬申の乱の後に当芸〔當藝〕郡から分離して成立したとする説について、資料[76]では否定的に論じた。 この説については幾つかの見方があるので、改めて検討する。
〈家譜〉は、壬申の乱の後に「分二当芸郡之地一為二不破郡一」と書く。 これについて〈関ヶ原町史〉は、 「…分当して不破郡となす」という理解の方がかなり確率が高いように思われる」、 「不破評(郡)の成立は壬申の乱以後―天武朝と解するのが妥当であろう」と見ている(pp.148~149)。 一方〈新修垂井〉は、 「壬申の乱以後、当芸郡が分割されて不破郡が成立したと断定したとするには問題が多すぎるが、 先述〔ア〕の全国的な郡(評)の分割の過程から見ると、ある程度歴史を反映していると言えないこともない」と見る。 アは、改新詔と大宝令の相違を較べたもので、その最大の相違点は、 郡のランクが改新詔〔646〕は大・中・小の三段階、大宝令〔701〕は大・上・中・下・小の五段階で、「この間において全国的に郡(評)の分割があった」はずだと見ている(pp.112~113)。 改めて両者の記述を比較する。
《郡分割の時期》 「改新詔其二」の《以四十里為大郡》項で、「旧名+[上]or[下]」の命名方式による分割の多くは、大宝令以前に行われたと見た。 仮に不破郡が当芸郡を分割して成立したとした場合はこの方式ではないから、これよりずっと古い時期ではないかと思われる。 《好字令》 いわゆる「好字令」〔和銅六年〔713〕五月甲子の詔〕(資料[13])により地名が好字二字となった。 しかし明日香⇒飛鳥、哿須我⇒春日は好字令に先行している。古事記の成立〔712年〕は好字令前であるのにも拘わらず、序文・本文共に「明日香」は見えず「飛鳥」に統一されている。 書紀〔720年成立〕については、まさにその編集の間に「飛鳥」に揃える作業が進んでいたと考えられる(第180回)。 《フハ評の表記》 〈新修垂井〉は、「「不破家譜」に「天皇之郡不レ破而以有勝利之故」とあるように、表記(漢字)は壬申の乱に起因すると考えてよいであろう」、 「もともと「フワ〔歴史的仮名遣いはフハ〕」(表記は不明)の地名があって、壬申の乱以降「不破」の文字を用いたとするのが妥当だと思われる」と述べている(pp.113~114)。 フハという地名が乱以前からあったとした場合、「不破」の字を初めて用いたのは「明日香」が「飛鳥」になったのと同じ時期〔712年頃〕なのだろうか。 しかし、書紀や万葉には「明日香」、「安宿」が混ざっているのに対して、フハには異表記が見えない。 だとすれば「不破」の表記になったのは古い時代のことで、壬申直後の可能性も考えられる。 《不破郡家》 大海皇子が不破に到着した場面で、書紀が郡名なしで「郡家」とするのは、その少し前に「不破郡」という語句があるから省かれたのである。これを「不破郡家」以外に読むことは不可能であろう。 同様の例に「朝明郡」段の「郡家」があった。これも「朝明郡家」であることは明らかである。 《不破郡成立の時期》 仮に不破郡が当岐郡から分かれたものだとしても、実際は壬申以前のことではないだろうか。 そう考える理由は、資料[76]《分当芸郡之地為不破郡》項で 「書紀は、記録がもし「当芸郡家」となっていればそのまま書いても問題ありとは思えないので、わざわざ「不破〔郡の〕郡家」に直して書く理由が分からない」からだと述べた通りである。 まとめ 〈家譜〉は、木実が乱の勝利に貢献したが故に「当芸郡から不破郡を分離して宮勝木実に賜った」が如くに潤色した。それはひとえに大領神社の祭神となった大領宮勝木実を偉大化するためと考えるのが順当と思われる。 私家の内輪の書である〈家譜〉には一般的に粉飾が施される傾向があることは否めず、その確実性を書紀と同等まで引き上げることにはやはり無理があろう。 |
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2024.11.15(fri) [78] 桃配山伝説 ▼▲ |
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【「桃配山」命名の由来伝説】
《壬申の乱で桃を配った伝説》 その話は、「徳川家康最初陣地」看板のある登り口(右図)の説明板に記されていた。 ところが、説明版には設置者も日付も記されず、出典不明であった。 その出典を探すために、この文章の一部を使って検索をかけてみたが、すべてがこの説明板自体を紹介したものであった。 関ヶ原町、垂井町、岐阜県の公式ページにもこの話についての説明は見つからなかった。 『大日本地名辞書』の「桃配山」の項も家康の陣の話のみで、この逸話はない。 古文献にも現在のところ見出せない。 ただ『日本歴史地名大系』には「〔桃配山は〕大海人皇子が壬申の乱に桃を配った所という」とあるが、これも出典を欠く。 《説明板のその後》 さて、その説明板だが、現在はもうなくなっている。 グーグルのストリートビューで過去の映像を見ると、2015年5月には確かに存在した。2017年12月は新装工事中、 そして工事を経た後の2018年8月にはもうない。 現在、この場所に代わっておかれた「徳川家康最初陣地」案内板の中では、「ここは、天智天皇元(672)年の壬申の乱に勝利した大海人皇子が、兵士に山桃を配ったと伝えられる縁起の良い地とされる」と、簡潔に書かれるのみである。 関ヶ原の役そのものの説明を中心とする、現在の案内板の方が適切なのは確かであろう。 かつての説明版の文章が継承されなかった本当の事情は分からないが、まことしやかに書かれている割には出典が不確かだったためかも知れない。 結局、以前の説明板を、誰の責任で何を出典に用いて設置したたかは謎のままである。 《説明文》 現在は幾つかのサイトにその画像や文章が残されているが、ここでも全文を納めておく。
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2024.12.08(sun) [79] 野上行宮跡 ▼▲ |
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「野上行宮跡」という案内板〔以下〈案内板〉〕が、岐阜県不破郡大字野上にある。 大海人皇子が設置したとされる野上行宮が、なぜこの位置に特定されたのだろうか。 そう思ってこの〈案内板〉の文章の出典を探したところ、『不破郡史』〔不破郡教育会1926〕に内容の近い文章が見つかった。 また、『新修 垂井町史』〔垂井町1996〕の挙げる野上行宮の位置の説明は、〈案内板〉の場所にあてはまる。 右の地図上の位置は、現地を訪れて特定したものである。その位置は、国土地理院地図によると北緯35度22分3.3秒・東経136度29分58.6秒付近にあたる。 《不破郡史》 そこで、まず『不破郡史』を見る。
「野上の中央長者屋敷」は、中山道沿いの市街地であろう。 「南形六坊」については、行基は、飛鳥時代から奈良時代の僧〔668~749〕。 野上行宮が朽ち果てていることを惜しみ、その廃材などを使って「南形六坊」という寺院あるいは道場を建てたと読める。 その伝説は、宮橋家に伝わる慶長年間の文書に載っているという。 「六坊」の例については、行基が天平六年〔734〕に建立したと伝わる福岡県の「宇佐弥勒寺」が見える (福岡県築上郡吉富町公式/宇佐弥勒寺支配下の鈴熊寺文化)。 その六坊とは、教心坊・練計坊・行深坊・経因坊・円覚坊・経心坊だという。 野上の「南形六坊」についても踏み込んで知りたいところだが、今のところ「宮橋文書」に関する資料が見つけられないので、話はここまでである。 一方「古図」については、「伊富岐神社古絵図」〔町重要文化財;1960年指定〕が、 『垂井の歴史と文化財Ⅱ』〔垂井町教育委員会 タルイピアセンター 歴史民俗資料館;2023〕に掲載されていた。 同書によると、古絵図は「縦105.3cm、横77cmの紙本著色」である。 ただ「制作時期は不明。伊富岐神社の古絵図は、ほかにもいくつか確認されており、 『不破郡史』に引かれているものは、天平20年〔748〕の絵図を慶長13年〔1608〕に書写したものであるという」(p.34)として、 『不破郡史』のいう「古図」そのものとは断定していない。 その古絵図には確かに「寺社遺跡」が記入されているが、〈案内板〉が立つ位置よりもずっと北である。 その南にある「藍川」は、現在の相川と見られる。さらに南の「野上村」と書かれた道は、明らかに旧中山道である。 〈案内板〉のある場所は、それらよりも更に南方にあたるのである。 よって、「現野上村南墓地」を「寺社屋敷」とする『不破郡史』は、古絵図の「社寺屋敷」の位置を誤認したと思われる。 〈案内板〉がその場所を「寺社屋敷」と称するのは、『不破郡史』の誤りを引き継いだものと言える。 《〈元正〉天皇、〈聖武〉天皇の行幸》 この項2024.12.14 ●〈続紀〉養老元年〔717〕〈元正〉十一月癸丑「朕以二今年九月一。到二美濃国不破行宮一。留連数日。因覧二当耆郡多度山美泉一。自盥二手面一。皮膚如レ滑。亦洗二痛処一。無レ不レ除レ愈。 …〔若返りの効能ありと述べる〕…改二霊亀三年一為二養老元年一」 すなわち〈元正〉天皇は不破行宮に数日間滞在し、当耆郡〔=当芸郡〕多度山の美泉に出かけ、長寿の効能ありと知った。それを機に養老の心に目覚め、改元して養老元年とした。 ●天平十二年〔740〕〈聖武〉「到二不破郡不破頓宮一」。 これらの不破行宮、不破頓宮は、もともと尾治宿祢大隅の私邸が提供されて始まった野上行宮を改築、または近くに移転したものと見るのが自然である。 だとすれば、行基〔668~749〕が朽ち果てた野上行宮を惜しんで云々という伝説は実際の経過とはあまり合わない。 《〈案内板〉との関係》 〈案内板〉の文章にある「高操〔ママ〕にして、…朝鮮式土器も出土しています」、 「乱後行基が行宮廃材で南方六坊を建てたという」、「ここ別通称寺社屋敷が、行宮跡」の部分は、 それぞれ『不破郡史』の「高燥濶達の地にして朝鮮式土器破片も稀に見る」、 「行宮遺木の廃朽を惜み、行基来て南形六方を建立せり」、「社寺屋敷として記せり」によったもだろうと思われる。
次に『新修垂井町史』〔垂井町1996〕を読むと、「現在関ヶ原町野上の山の中腹に平地があって、地元では野上行宮の跡地と言われている。 山の中腹から北部一帯が見渡せる地で、行宮としての適地ではある」として、 「野上の行宮跡推定地より遠景」とする写真を載せている(p.127)。 〈案内板〉のうち「眺望良く」という意味の言葉は『不破郡史』にはないので、『新修垂井町史』によったものか。 同書の「遠景」の写真は〈案内板〉の近くから見た景観(写真C)と似ているから、同書のいう位置はここかも知れない。 しかし、同書は漠然と「山の中腹」の「平地」とするのみで、地点がピンポイントで示されていない点が残念である。 《石垣》 〈案内板〉のすぐ横に、石垣で囲まれた土壇がある。積まれた石は整形されず野面積みに近いので、古い時代のものと思われる。 この土壇に、誰かが南形六坊が建っていたと推定して〈案内板〉の位置を決めたことも考えられるのだが、今のところ確かめる術が見つからない。 まとめ 結局この〈案内板〉設置の根拠を知るには、①「慶長年間の宮橋文書」を見つける、②その野上行宮の位置をここに定めた根拠を知ることが不可欠である。 しかし、①については一般的な検索の他、岐阜県・関ヶ原町・垂井町の公式ページ内検索などでも見つからず、国立国会図書館デジタルコレクションで検索をかけても、出て来たのは『不破郡史』そのものとそれを引用した『日本歴史地理序説』のみであった。 経験上、ここまでやれば何とかなることが多かったが、今回はお手上げである。 ②は関ヶ原町公式サイトを検索してみても、その経緯についての資料はなかなか見つからないが、地元の郷土史家などが唱えた説なのかも知れない。 今後もし進展があれば、報告したい。 |
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2025.03.13(thu) [80] 676年の彗星 ▼▲ |
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【天武五年七月に出現した彗星】 〈天武〉五年七月条に、「是月。…有レ星出二于東一、長七八尺至二九月一竟レ天」 〔星あり、東に出づ。長さ七八尺。九月に至り天に竟(わた)る〕とある。 〈天武〉五年は、西暦676年にあたる。 《新唐書》 この「星」に対応する記録が、『新唐書』天文志にある。
記述にある星については、一般的に東井はふたご座μ、 北河はふたご座σ、 中台はおおくま座ι、 文昌はおおくま座υに推定されている。 《太陽の赤道座標》
図2は、本サイトの元嘉暦モデル(参考[C]以後)による〈天武〉五年〔676〕の二十四節季の基準日〔年間通算日〕である。 それによると、この年の春分は、二月末である。七月二十一日〔出現日〕と九月二十日〔消滅日〕の黄道上の太陽の位置は、春分からの通算日数(ア)によって求めることができる。 (ア)を太陽年の日数で割り(イ)、その値に360°をかけた角度(ウ)が黄道上の位置を表す。 なお、ここから、 ● 彗星出現日:白露から0.29日後〔ほぼ白露当日〕。 ● 彗星消滅日:霜降から12.70日後。 にあたることが分かる。 それぞれの太陽の一の黄道座標を赤道座標に変換したのが、図3である。 変換には、エクセルのマクロ関数sph1d()、sph2d()(資料[62]で自作)を用いる。 計算式は、
図3で、7/21のE2および9/20のE2が図2で求めた(ウ)である。 なお、NX0は黄道傾斜角で、公式(資料[70])により、676年は23.61023°、2000年は23.43928°を用いた。 図1で、7/21と9/20の位置は□で表されている。 出現日の彗星の位置とされる「井」星は、日周運動において太陽より約6時間先行する。 したがって、彗星は真夜中に東の空から昇り、日の出のころにほぼ南中する。よって、夜中から明けるまでずっと彗星は東の空に見えることになり、書紀の「有レ星。出二于東一」に合致する。
《676年の赤道座標への変換》 黄道沿いのニ十宿の距星、および彗星の経路とされる星の赤道座標を、2000年から676年に変換する。 図4は、その計算を示したもの。ここで行った変換の手順は次の通り。 ① いくつかの定数を用意する。 θ…歳差角。(2000-676)÷25772×360=18.4945° φ…赤道傾斜角。676年では23.43928°。 β…変換後の座標の基準点。β=-2tan-1(sin(θ/2)tanφ) ② 赤道座標を球面座標(N1、E1)に変換。 ③ 変換Ⅰ。 パラメータ0=sph1d(0,θ/2,N2,E2,0) パラメータ1=sph1d(0,θ/2,N2,E2,1) ④ 変換Ⅱ。球面座標(NX,EX)。 NX=sph2d(β,-θ/2,パラメータ0,パラメータ1,0) EX=sph2d(β,-θ/2.パラメータ0,パラメータ1,1) ⑤ 球面座標(NX,EX)を赤道座標に変換。 こうして得られた676年の赤道座標が、図1の◆で示されている。 まとめ 『新唐書』天文志に載る、高宗の上元三年七月の彗星の記録をもとにして調べると、 彗星は676年9月7日〔グレゴリオ暦〕に赤緯+21.8°赤経4.93h付近に出現し、 11月4日〔同〕に赤緯+64.5°赤経7.88h付近で見えなくなった。 それぞれ太陽との位置関係を含め、実際の動きに近い様子を得ることができたと見てよいだろう。 用いたのは、元嘉暦モデル〔エクセル〕、黄道傾斜角の計算式、歳差運動の周期、赤道座標変換モデル〔エクセル+自作マクロ関数〕である。 |
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2025.05.17(sat) [81] 680年の金環日食 2025.06.04 一部修正 ▼▲ |
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〈天武〉九年十一月一日に、「日蝕之」とある。 この日は、グレゴリオ暦680年11月30日、ユリウス暦11月27日にあたる。 《この日の日食のデータ》 [NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700]※)から、この日の日食のデータを見る。
《定数の推定》 前項のデータを使って、この日の地球-月の距離、および月の角速度を推定することができる。 まず、楕円の方程式は\(\frac{x^{2}}{a^{2}}+\frac{y^{2}}{b^{2}}=1\)であるが、ここでは簡単に楕円のつぶれ具合だけを考え、\(b=1\)に固定する。 焦点F、F’の座標は\((\pm\sqrt{a^{2}-1},0)\)である。 惑星、衛星の軌道は楕円で、中心星はその一方の焦点にある。したがって近点:\(a-\sqrt{a^{2}-1}\)、遠点:\(a+\sqrt{a^{2}-1}\)となる。
これを使って、近点・遠点での月の公転の角速度(それぞれ \(\omega_{mx},\omega_{mn}\) とする)を求めてみる。 ここで問題になるのは、月の公転の角速度の基準値( \(\overline{\omega}\) をどうするかである。 ケプラーの第二法則によれば角速度は中心星からの距離に反比例するから、\(\overline{\omega}\)のときの中心星からの距離が分かればよい。 ケプラーの第二法則は面積速度一定の法則とも呼ばれ、よって角速度を全周分積分した値は楕円の面積に比例する。 その楕円の等積真円を考え、その角速度と半径の関係を基準とすればよい。月の場合はその基準の角速度(deg/h)は360°÷27.28925日÷24時間である。これを\(\overline{\omega}\)とする。 楕円 \(\frac{x^{2}}{a^{2}}+y^{2}=1\) の面積は直径1の円の面積=\(\pi\)×12の\(a\)倍で\(\pi a\)。すなわち等積真円の半径は\(\sqrt{a}\)となる。 面積速度〔等積真円の半径×基準の角速度〕は一定値を保つ。その値をSとすると、 \(S=\overline{\omega}(\sqrt{a})^{2}=\overline{\omega}a\) となる。 以上から、\(\omega_{mx},\omega_{mn}\)は次のようにして求められる。
近点の実距離から、\(k=356445/(a-\sqrt{a^{2}-1})\)。また遠点の実距離から、\(k=406712/(a+\sqrt{a^{2}-1})\)。いずれも、\(k=380749.8639\)となる。
太陽との距離については、この日は近日点に近い。 [国立天文台/…/近日点の移動]によれば、 近日点移動は物理的には「約11万年周期」だが歳差の2万6000年周期と合成されて、実質「2万1000年周期」だという。 13世紀にはほぼ冬至点にあり、その移動方向は冬至点から春分点への方向という。2025年の近日点は1月4日というから、680年には23日遡り12月12日〔グレゴリオ暦〕。ユリウス暦では12月9日で、11月27日との差は12日である。 この日の太陽-地球間の距離を概算すると近点距離の0.04%増し程度である(右)。 太陽の視直径〔rad〕=太陽の直径÷太陽までの距離で、×180/\(\pi\)で度に換算できる。 これに日食の大きさをかけたものが、月の視直径。月までの距離=月の実直径÷視直径〔rad〕である。 その値から、前項で求めた関係により月の公転の角速度を求めることができる。
【月の影の経路のシミュレーション】 《太陽・月・地球についての定数》
太陽地球間、及び月地球間の距離は前項で求めた値を用いる。 月公転角速度は標準値×(倍数)で表現した。 地球公転角速度=360°÷365.2422(日)÷24(時間)。 βは、太陽高度の余角。 地球自転角速度は、地球の公転により翌日の南中は自転一回の360°にややプラスした値となる。それを24時間で割った値となる。 ここでは、太陽、月の視直径や角速度、地球からの距離に前項で求めた値を用いることにより、 計算モデルをより精密化するように試みた。 《月の影の移動ラインを地表の座標で表すための数学的処理》 皆既日食点または金環日食点の経路を求める計算の仕組みを振り返る。 地球表面に落とされた月の影の経路は、基本的に球体に平面が交わってできる小円〔稀に大円;太陽高度90°のとき〕。 それを、第一次座標変換〔白道傾斜角5.1°〕、第二次座標変換〔太陽高度及び地軸の傾斜〕によって、地球上の北緯東経に変換する(図1)。 [NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700](上記)では太陽高度29°、中央点の緯度が北緯37°になっている。太陽高度29.3°とすると中央点が北緯37.4°付近となって四捨五入した値に合わせることができる。 経路を簡単なグラフで表してみると、この時の日食は昇交点型であったことが分かる。 計算によって得られた時刻ごとの位置をまとめたのが図2である。 中央点より±0.979877時間の範囲の外では、計算結果はエラーとなる。これは、太陽と月が地平線より下にある状態に対応している。 東西方向の時刻位置は、地球の自転の位相を表す値で現象自体には影響を与えない。ここでは333.5°を用いたが、それはこの値が[NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700]のいう中央点「東経144°」に合ったからである。 【食分】 《各地の食分の時刻ごとの推移》
それぞれの時刻の等食分線を、0から0.8まで0.2間隔で示した。例えば0.6の曲線上の地点から見たときの部分日食の食分は、0.6にである。 各地点の食分を求める基礎理論は、資料[59]~資料[60]で述べた。 等食分線は、球面への投影なのでもともと北極方向に広がる。メルカトル図法を用いた場合、北方に向かうほどさらに大幅に誇張される。 金環日食の開始から終了までの等食分曲線の推移を表したのが、動画1である。 計算した時刻は図2に示した。それぞれの時刻の太陽直下点は地球の自転に伴い、南緯21.273°のライン上〔オーストラリア北部〕を東から西に向って移動する。 《飛鳥》 〈天武〉天皇浄御原宮があったと推定される明日香村における食分の推移は、下のグラフ(図4)のようになった。 食分を求める方法は、資料[60]の図3において、 z軸上の値Bと、ABを半径とする円周上のy座標pを適当に決めて入力し、その地点〔34.47N135.82E〕に合う組み合わせを見つけ、その点の食分を得る。 こう書くと思い付きでランダムに入力を繰り替えしてたまたま合うもの見つけるような印象を与えるが、実際には適当な2つの値の組からスタートして案分比例を繰り返すことによって急速に該当地点に到達することができる。 その結果、例えば時刻-0.97988h〔中心点の時刻を0とする〕において、(B,p)=(7701.09937028423,0.111509430684526)が得られ、その地点は34.46999999661361E35.820004427191Nとなる。それによって計算される食分は、0.606617260864538である 〔なお、この桁数の多さは数値演算法自体の精度を示すために記したもので、実際的にはおおよそ小数点3桁以下の部分は意味を持たない。〕。 この-0.9798766…h、すなわち中心点から58分47.56秒前は、北緯64.56°東経107.48°付近の地点で太陽高度0.04°。すなわち今回の日食において、この瞬間に地球上で初めて金環食が昇るのを見た。 この時点で、明日香村では食分が既に0.61になっている。日本時間では、中心点の4:25は13:25JST〔日本時間〕にあたるので、およそ12:26JSTとなる。
明日香村における食分の推移は、グラフ1のようになる。中心点から58分47.56秒後に金環食が観測できる地点が地球上から消滅する。 そのときの明日香村の食分は0.31となる。 明日香村の食分が最大値になるのは、中心時刻の約20分前〔13:05JST〕で、値は0.85となっている。 この食分「0.85」とMagnitude「9.133」を用いて日食の形を描いたのが図5である。 《飛鳥における日食の開始と終了》
その時間帯の等食分線については、資料[64]【外挿】項で検討してモデルを作成した。 今回もそのモデルによって計算したところでは、明日香村では部分日食が中心時刻の約2時間10分前から始まり、同じく約1時間35分後に終了している(グラフ1)。 グラフの形に不自然さは見られないので、恐らくこの外挿モデルは有効だと思われる、 食分の推移をこの外挿を含めた全体に広げたものが、動画2である。 まとめ 日食については、資料[59]~[60]を復習して今回のシミュレーションにおいても基本とした。 ただ、出発点となる諸定数を再検討し、一般的に公表された資料によってなるべくリアルな値に近づけるよう努めた。 サイト内の表現について、今回2つのソフトを試した。ひとつは、MathJaxである。これは数式をWebサイト上で表現するためのソフトウェアで、案外簡単に使えることが分かった。 ただ外部リンクを用いる形では永続性に不安があるので、一度出力したものをスクリーンショットして画像化すれば安全かと思われた。 しかし、全世界での利用件数は既に膨大だと見られ、将来に渡って何らかの形で維持されることが期待できそうなので生のままで用いることにした。 もう一つは、gifによるパラパラ動画である。今回gimpというソフトウェアを入手して、その機能の初歩的な部分を使ってみた。 でき上ったファイルサイズは個々の画面のgifのサイズの合計よりも小さいので、変化しない部分を自動的に透明化してくれていると思われる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2025.05.20(tue) [82] 新唐書の日食記事の検証 2025.06.14 改 ▼▲ |
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【新唐書/永隆元年十一月朔の日食】
〈天武〉八年十一月一日の「日蝕」に対応する記事が『新唐書』に見える。
日食は太陽と月が重なる現象だから、「尾十六度」はこの日の黄道上の太陽の位置そのものである。 680年〔グレゴリオ暦〕における宿の位置と、24節季の黄道上の太陽の位置は、グラフ1のようになる 〔説明は資料[80]参照〕。 《尾十六度》 尾宿距星はさそり座πと推定されている。その赤道座標の計算結果を、表1に示した。 「度」は、一日当たりの角なので、赤径に直すと、一度=24÷365=0.0658hとなる。 よって、「尾十六度」の赤経は15.29+0.0658×16=16.34h(ア)である。 《680年の太陽の推定位置》 次に、この日の太陽の赤経を求める。 十一月一日は、表3により小雪から8.34日後にあたる。春分からは通算251.83日で、この日の太陽の赤径は 表4の16.43hとなっている(イ)。 この値による単純計算では、尾から17.3度になるが、「一度」を起点とすると考えられるので尾十六.三度に相当すると思われる(計算は表2、まとめ参照)。
当初は尾宿の起点〔距星〕を0度とした結果、太陽の位置は17.3度となった。 その時点〔5月20日〕では、「1.3度の相違は測定誤差かも知れないが、よりはっきりさせるには他の日食の記録についても調べる必要がある。 その全体像によって、はじめて唐代の観測の精度が見えてくるであろう。」と述べた。 その後、681年の日食(資料[83])を調べたところ、その日の太陽の位置は距星を0度とすると5.8度となるが、「在尾四度」と記されていた。 両者を併せれば、距星は「零度」ではなく「一度」と表されたと見るべきである。 グラフ1を見ると、天文志の太陽の位置は680年の星空のシミュレーションに概ね一致している。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2025.06.14(sat) [83] 681年の金環日食 ▲ |
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〈天武〉十年十月一日に、「日蝕之」とある。 この日は、グレゴリオ暦681年11月19日、ユリウス暦11月16日にあたる。 《この日の日食のデータ》 [NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700](上述)から、この日の日食のデータを見る。
資料[81]の方法を用いて計算した結果、表1の諸値を得た。
球面上の座標変換のために用いた値は ●白道傾斜 5.1° 月の交点面と地球の公転面が交わる角度。昇交点日食は5.1°、降交点日食はー5.1°を用いる。ここでは前者が合う。 ●地軸方向 304° (360―秋分からの日数×360÷365.24)° ●黄道傾斜 23.4° ●自転位置 358° 中央点の座標9°S145°Eに合う値。 その結果、金環日食のラインはインド北東部から始まり、フィリピンを通りニューギニア島で中央位置となり、ハワイの南に達している。 《飛鳥での食分》 動画1は、飛鳥におけるかけ始め直前からかけ終わり直後までの食分分布の推移。等食分線は0.2間隔。 グラフ1は、このシミュレーションによる飛鳥における食分の推移。 ●かけ始め:(中央時刻ー2時間15分)〔日本時間10時12分〕頃。 ●最大:食分0.21(図2)。(中央時刻ー1時間20分)〔同11時7分〕頃。 ●かけ終わり:(中央時刻-18分)〔同12時9分〕頃。
動画2は金環食ライン及び職分分布推移の全経過を示す。中央付近では食分分布がほぼ同心円となる。これは高度が79°でかなり垂直に近いことの結果である。 日本で部分日食が観察されるのは、金環食観察可能点が出現する前から始まり、金環食ラインの前半で終わる。 【新唐書/開耀元年十月朔の日食】
太陽の黄道座標は、(春分からの日数÷一年の日数×360)度である(図1)。 その黄道座標を赤道座標に直し、さらに1hあたりの度数で割ることにより尾宿距星からの「度」に直すことができる。 計算結果は「5.84度」で、天文志のいう「四度」より1.8度大きい。 資料[82]でも、同じく得られた「17.3度」は「十六度」より1.3度大きかった。 これらは、起点が「零度」ではなく「一度」と定められたためと推定し得る。だとすれば、「度」は、単純な割り算によって得られた値から1を減じたものとなる(図2)。 なお、小雪の太陽の赤緯と赤経は資料[82]と比べると微妙に異なっている。これは歳差運動によるものである。 まとめ このシミュレーションによると、飛鳥において食分が最大になるのは11時過ぎで、最大0.21程度となっている。 食分の大きさは〈天武〉九年十一月の日食ほどではないが、中国の暦法による予測に基づき待ち構えて実際に観測できたことも考え得る。 〈天武〉四年には占星台を作った記事があり、天体観測は陰陽寮によって継続的に行われるようになっていたと思われる。 |