古事記をそのまま読む―資料13
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2024.11.14(thu) [77] 不破郡の成立時期 

【不破郡】
 美濃国不破郡〔当時は不破評〕が、壬申の乱の後に当芸〔當藝〕から分離して成立したとする説について、資料[76]では否定的に論じた。 この説については幾つかの見方があるので、改めて検討する。
   引用文献略称
〈式内社調査13〉…『式内社調査報告』第十三巻/東山道2〔式内社研究会/皇學館大学出版部1986〕
〈家譜〉…〈式内社調査13〉所引の『不破家寿麻呂家譜』または『不破家系譜』(資料[76])。
〈関ヶ原町史〉…『関ヶ原町史 通史編上巻』〔関ヶ原町1990〕
〈新修垂井〉…『新修 垂井町史』〔垂井町1996〕
《〈家譜〉説への複数の見方》
 〈家譜〉は、壬申の乱の後に「当芸郡之地不破郡」と書く。
 これについて〈関ヶ原町史〉は、 「…分当して不破郡となす」という理解の方がかなり確率が高いように思われる」、 「不破評(郡)の成立は壬申の乱以後―天武朝と解するのが妥当であろう」と見ている(pp.148~149)。
 一方〈新修垂井〉は、 「壬申の乱以後、当芸郡が分割されて不破郡が成立したと断定したとするには問題が多すぎるが、 先述の全国的な郡(評)の分割の過程から見ると、ある程度歴史を反映していると言えないこともない」と見る。 は、改新詔と大宝令の相違を較べたもので、その最大の相違点は、 郡のランクが改新詔〔646〕は大・中・小の三段階、大宝令〔701〕は大・上・中・下・小の五段階で、「この間において全国的に郡(評)の分割があった」はずだと見ている(pp.112~113)。 改めて両者の記述を比較する。
改新詔其二 凡郡:以四十里為大郡、三十里以下四里以上為中郡、三里為小郡
令義解 凡郡:以廿里以下十六里以上大郡、十ニ里以上為上郡、八里以上為中郡、四里以上為下郡、二里以上為小郡
 すなわち、〈関ヶ原町史〉は〈家譜〉の記述を信頼できると見ているのに対して、〈新修垂井〉は懐疑的である。 ただ壬申後とは限らないが、分割された歴史を反映している可能性自体はあると述べる。
《郡分割の時期》
 「改新詔其二」の《以四十里為大郡》項で、「旧名+[]or[]」の命名方式による分割の多くは、大宝令以前に行われたと見た。 仮に不破郡が当芸郡を分割して成立したとした場合はこの方式ではないから、これよりずっと古い時期ではないかと思われる。
《好字令》
 いわゆる「好字令〔和銅六年〔713〕五月甲子の詔〕(資料[13])により地名が好字二字となった。 しかし明日香⇒飛鳥哿須我⇒春日好字令に先行している。古事記の成立〔712年〕は好字令前であるのにも拘わらず、序文・本文共に「明日香」は見えず「飛鳥」に統一されている。 書紀〔720年成立〕については、まさにその編集の間に「飛鳥」に揃える作業が進んでいたと考えられる(第180回)。
《フハ評の表記》
 〈新修垂井〉は、「「不破家譜」に「天皇之郡不破而以有勝利之故」とあるように、表記(漢字)は壬申の乱に起因すると考えてよいであろう」、 「もともと「フワ〔歴史的仮名遣いはフハ〕」(表記は不明)の地名があって、壬申の乱以降「不破」の文字を用いたとするのが妥当だと思われる」と述べている(pp.113~114)。
 フハという地名が乱以前からあったとした場合、「不破」の字を初めて用いたのは「明日香」が「飛鳥」になったのと同じ時期〔712年頃〕なのだろうか。 しかし、書紀や万葉には「明日香」、「安宿」が混ざっているのに対して、フハには異表記が見えない。 だとすれば「不破」の表記になったのは古い時代のことで、壬申直後の可能性も考えられる。
《不破郡家》
 大海皇子が不破に到着した場面で、書紀が郡名なしで「郡家」とするのは、その少し前に「不破郡」という語句があるから省かれたのである。これを「不破郡家」以外に読むことは不可能であろう。
 同様の例に「朝明郡」段の「郡家」があった。これも「朝明郡家」であることは明らかである。
《不破郡成立の時期》
 仮に不破郡当岐郡から分かれたものだとしても、実際は壬申以前のことではないだろうか。 そう考える理由は、資料[76]《分当芸郡之地為不破郡》項で 「書紀は、記録がもし「当芸郡家」となっていればそのまま書いても問題ありとは思えないので、わざわざ「不破〔郡の〕郡家」に直して書く理由が分からない」からだと述べた通りである。

まとめ
 〈家譜〉は、木実が乱の勝利に貢献したが故に「当芸郡から不破郡を分離して宮勝木実に賜った」が如くに潤色した。それはひとえに大領神社の祭神となった大領宮勝木実を偉大化するためと考えるのが順当と思われる。
 私家の内輪の書である〈家譜〉には一般的に粉飾が施される傾向があることは否めず、その確実性を書紀と同等まで引き上げることにはやはり無理があろう。



2024.11.15(fri) [78] 桃配山伝説 

【「桃配山」命名の由来伝説】
野上行宮伝承関連地 「徳川家康最初陣地」登り口
2015年5月 同左:説明板 2017年12月 2018年8月
ストリートビューより ©google
 関ヶ原町歴史民俗学習館公式ページ壬申の乱」では桃配山について、 「語源は壬申の乱の際に大海人皇子が兵を励ますために桃を配ったという逸話から付いたものです。 しかし、「日本書紀」等で記述はなく、その根拠については未だ謎に包まれています」と述べる。
《壬申の乱で桃を配った伝説》
 その話は、「徳川家康最初陣地」看板のある登り口(右図)の説明板に記されていた。
 ところが、説明版には設置者も日付も記されず、出典不明であった。 その出典を探すために、この文章の一部を使って検索をかけてみたが、すべてがこの説明板自体を紹介したものであった。 関ヶ原町、垂井町、岐阜県の公式ページにもこの話についての説明は見つからなかった。
 『大日本地名辞書』の「桃配山」の項も家康の陣の話のみで、この逸話はない。 古文献にも現在のところ見出せない。
 ただ『日本歴史地名大系』には「〔桃配山は〕大海人皇子が壬申の乱に桃を配った所という」とあるが、これも出典を欠く。
《説明板のその後》
 さて、その説明板だが、現在はもうなくなっている。 グーグルのストリートビューで過去の映像を見ると、2015年5月には確かに存在した。2017年12月は新装工事中、 そして工事を経た後の2018年8月にはもうない。
 現在、この場所に代わっておかれた「徳川家康最初陣地」案内板の中では、「ここは、天智天皇元(672)年の壬申の乱に勝利した大海人皇子が、兵士に山桃を配ったと伝えられる縁起の良い地とされる」と、簡潔に書かれるのみである。 関ヶ原の役そのものの説明を中心とする、現在の案内板の方が適切なのは確かであろう。
 かつての説明版の文章が継承されなかった本当の事情は分からないが、まことしやかに書かれている割には出典が不確かだったためかも知れない。 結局、以前の説明板を、誰の責任で何を出典に用いて設置したたかは謎のままである。
《説明文》
 現在は幾つかのサイトにその画像や文章が残されているが、ここでも全文を納めておく。
  桃 配 山
 天下を分ける壬申の大いくさは千三百年ほどまえであっ
た。吉野軍をひきいた大海人皇子は、不破の野上に行宮を
おき、わざみ野において、近江軍とむきあっていた。急ご
しらえの御所に、皇子がはいったのは、六月の二十七日で
ある。野上郷をはじめ、不破の村びとたちは、皇子をなぐ
さめようと、よく色づいた山桃を三方にのせて献上した。
「おお、桃か。これはえんぎがいいぞ!」皇子は、行宮に
つくがはやいか、桃のでむかえにあって、こおどりしてよ
ろこんだ。くれないのちいさな山桃を口にふくむと、あま
ずっぱい香りが、口のなかいっぱいにひろがる。皇子は、
はたとひざをたたき、不破の大領をよんだ。「この不破の
地は、山桃の産地であるときく。なかなかあじもいい。ど
うだろう。わたしはこの桃を、軍団兵士みんなに一こずつ
配ってやりたい。戦場における魔よけの桃だ。これをたべ
て戦場にでれば、武運百ばい。もりもりとはたらいてくれ
よう。大領、この近郷近在の山桃をすべて買いあげ、軍団
兵士みんなに、わたしからの桃だといって、配ってくれ。」
大領、宮勝木実は、胸をうたれて平伏した。木実は行宮所
在地の大領(郡長)として、御所をたて、皇子をおまもり
している。「ありがたいことでございます。戦勝につなぐ
えんぎのいい桃。兵士のいのちを守る魔よけの桃。天子さ
まからたまわった尊い桃。全軍の兵士はもちろん、村のも
のたちも、涙をながしてよろこび存分のはたらきをしてく
れるでありましょう。」このとき、木実が確信したとおり、
この桃をおしいただいた数萬の将兵の士気は、いやがうえ
にもたかまり、連戦連勝、ついに大勝を果たしたのであっ
た。この桃の奇縁により、この桃を配ったところを桃配山
とか、桃賦野とよんで、いまにつたわっている。九百年の
あと、徳川家康は、この快勝の話にあやかって桃配山に陣
をしき、一日で、天下を自分のものとした。

まとめ
 この説明文には、相当の脚色が伺われる。また、普通は漢字で書かれる語句の多くが気まぐれに仮名書きされた印象を受け、とても個性的である。 しかし設置者と設置の日付がなく、誰がどのような思いで設置したか分からないのは残念である。これでは出典の捜しようがないから、破棄されたのもやむを得ないだろう。
 内容としては、不破郡大領の宮勝木実が登場する点は『不破家寿麻呂家譜』(資料[75]参照)に沿っている。 また関ヶ原の役の時点で「桃配山」の名称が存在したことは既に確かで、これらには特に問題はない。
 だが、この話が『大日本地名辞書』にさえ載らないのは極めて不審で、明治以後に「桃配山」の地名譚として創作されたものではないかという疑いまで生じる。
 仮に、この伝説が十分古い時代から存在したとするなら、行基南方六坊や宮勝木実の話に、さらに別種の伝説が加わることになる。 それなら、この地域に実際に野上行宮があった可能性を高めるのに資することとなろう。 ある土地に沢山の伝説が残っていれば、その地にもとになる何らかの事象が実在したと考えてよいからである。



2024.12.08(sun) [79] 野上行宮跡 

「野上行宮跡」伝承地 撮影位置 矢印は撮影方向
道しるべ() 「野上行宮跡」案内板()
伊富岐神社古絵図
『垂井の歴史と文化財Ⅱ』
古絵図の範囲を本サイトが推定したもの。
【野上行宮跡伝承地】
 「野上行宮跡」という案内板〔以下〈案内板〉〕が、岐阜県不破郡大字野上にある。
 大海人皇子が設置したとされる野上行宮が、なぜこの位置に特定されたのだろうか。
 そう思ってこの〈案内板〉の文章の出典を探したところ、『不破郡史』〔不破郡教育会1926〕に内容の近い文章が見つかった。 また、『新修 垂井町史』〔垂井町1996〕の挙げる野上行宮の位置の説明は、〈案内板〉の場所にあてはまる。
 右の地図上の位置は、現地を訪れて特定したものである。その位置は、国土地理院地図によると北緯35度22分3.3秒・東経136度29分58.6秒付近にあたる。
《不破郡史》
 そこで、まず『不破郡史』を見る。
 『不破郡史』〔不破郡教育会1926〕
  〔〈天武紀上〉に野上行宮の記事があるから〕野上に行宮を興し給ひしことは事実なれども、今はその址詳かならず、 後世伝ふる伝説には野上の西端桃配山とすれど、関原合戦に於ける徳川家康の如く、 一時的の陣営となすに於ては可ならんも、三箇月間に亘り且後度々復興されたる行宮址としては適地にあらず、 又先輩にして野上の中央長者屋敷を擬す者あれど、これ亦拠り所はなかるべし。 慶長年間の宮橋文書によれば、行宮遺木の廃朽を惜み、行基来て南形六方を建立せりと記し、 慶長十三年伊富岐神社古図によれば、現野上村南墓地※1)付近を社寺屋敷として記せり。 此の付近は高燥濶達※2)の地にして朝鮮式土器破片も稀に見ることあれば或はこの地は行宮址ならんと思はるゝも猶後考を待つべきなり」
※1)…「野上行宮跡」案内板の南側の、現在も墓地となっている場所と見られる。
※2)…濶達(かったつ)」は、普通「自由闊達」としてものごとにこだわらない大らかさを意味するが、 ここでは広大さを意味するようである。
 「後度々復興」については、元正天皇の不破行宮行幸〔717〕、聖武天皇の不破頓宮行幸〔740〕が見える(別項)。
 「野上の中央長者屋敷」は、中山道沿いの市街地であろう。
 「南形六坊」については、行基は、飛鳥時代から奈良時代の僧〔668~749〕。 野上行宮が朽ち果てていることを惜しみ、その廃材などを使って「南形六坊」という寺院あるいは道場を建てたと読める。 その伝説は、宮橋家に伝わる慶長年間の文書に載っているという。
 「六坊」の例については、行基が天平六年〔734〕に建立したと伝わる福岡県の「宇佐弥勒寺」が見える (福岡県築上郡吉富町公式/宇佐弥勒寺支配下の鈴熊寺文化)。 その六坊とは、教心坊・練計坊・行深坊・経因坊・円覚坊・経心坊だという。
 野上の「南形六坊」についても踏み込んで知りたいところだが、今のところ「宮橋文書」に関する資料が見つけられないので、話はここまでである。
 一方「古図」については、「伊富岐神社古絵図〔町重要文化財;1960年指定〕が、 『垂井の歴史と文化財Ⅱ』〔垂井町教育委員会 タルイピアセンター 歴史民俗資料館;2023〕に掲載されていた。
 同書によると、古絵図は「縦105.3cm、横77cmの紙本著色」である。 ただ「制作時期は不明。伊富岐神社の古絵図は、ほかにもいくつか確認されており、 『不破郡史』に引かれているものは、天平20年〔748〕の絵図を慶長13年〔1608〕に書写したものであるという」(p.34)として、 『不破郡史』のいう「古図」そのものとは断定していない。
 その古絵図には確かに「寺社遺跡」が記入されているが、〈案内板〉が立つ位置よりもずっと北である。 その南にある「藍川」は、現在の相川と見られる。さらに南の「野上村」と書かれた道は、明らかに旧中山道である。 〈案内板〉のある場所は、それらよりも更に南方にあたるのである。
 よって、「現野上村南墓地」を「寺社屋敷」とする『不破郡史』は、古絵図の「社寺屋敷」の位置を誤認したと思われる。
 〈案内板〉がその場所を「寺社屋敷」と称するのは、『不破郡史』の誤りを引き継いだものと言える。
《〈元正〉天皇、〈聖武〉天皇の行幸》 この項2024.12.14
 ●〈続紀〉養老元年〔717〕〈元正〉十一月癸丑「朕以今年九月。到美濃国不破行宮。留連数日。因覧当耆郡多度山美泉。自盥手面。皮膚如滑。亦洗痛処。無愈。 …〔若返りの効能ありと述べる〕…改霊亀三年養老元年」 すなわち〈元正〉天皇は不破行宮に数日間滞在し、当耆郡〔=当芸郡〕多度山の美泉に出かけ、長寿の効能ありと知った。それを機に養老の心に目覚め、改元して養老元年とした。
 ●天平十二年〔740〕〈聖武〉「不破郡不破頓宮」。
 これらの不破行宮不破頓宮は、もともと尾治宿祢大隅の私邸が提供されて始まった野上行宮を改築、または近くに移転したものと見るのが自然である。 だとすれば、行基〔668~749〕が朽ち果てた野上行宮を惜しんで云々という伝説は実際の経過とはあまり合わない。
《〈案内板〉との関係》
 〈案内板〉の文章にある「高操〔ママ〕にして、…朝鮮式土器も出土しています」、 「乱後行基が行宮廃材で南方六坊を建てたという」、「ここ別通称寺社屋敷が、行宮跡」の部分は、 それぞれ『不破郡史』の「高燥濶達の地にして朝鮮式土器破片も稀に見る」、 「行宮遺木の廃朽を惜み、行基来て南形六方を建立せり」、「社寺屋敷として記せり」によったもだろうと思われる。
石垣() 遠景() 『新修 垂井町史』(p.127)
《新修垂井町史》
 次に『新修垂井町史』〔垂井町1996〕を読むと、「現在関ヶ原町野上の山の中腹に平地があって、地元では野上行宮の跡地と言われている。 山の中腹から北部一帯が見渡せる地で、行宮としての適地ではある」として、 「野上の行宮跡推定地より遠景」とする写真を載せている(p.127)。 〈案内板〉のうち「眺望良く」という意味の言葉は『不破郡史』にはないので、『新修垂井町史』によったものか。 同書の「遠景」の写真は〈案内板〉の近くから見た景観(写真)と似ているから、同書のいう位置はここかも知れない。 しかし、同書は漠然と「山の中腹」の「平地」とするのみで、地点がピンポイントで示されていない点が残念である。
《石垣》
 〈案内板〉のすぐ横に、石垣で囲まれた土壇がある。積まれた石は整形されず野面のづらみに近いので、古い時代のものと思われる。 この土壇に、誰かが南形六坊が建っていたと推定して〈案内板〉の位置を決めたことも考えられるのだが、今のところ確かめるすべが見つからない。

まとめ
 結局この〈案内板〉設置の根拠を知るには、「慶長年間の宮橋文書」を見つける、その野上行宮の位置をここに定めた根拠を知ることが不可欠である。
 しかし、については一般的な検索の他、岐阜県・関ヶ原町・垂井町の公式ページ内検索などでも見つからず、国立国会図書館デジタルコレクションで検索をかけても、出て来たのは『不破郡史』そのものとそれを引用した『日本歴史地理序説』のみであった。 経験上、ここまでやれば何とかなることが多かったが、今回はお手上げである。
 は関ヶ原町公式サイトを検索してみても、その経緯についての資料はなかなか見つからないが、地元の郷土史家などが唱えた説なのかも知れない。 今後もし進展があれば、報告したい。



2025.03.13(thu) [80] 676年の彗星 

【天武五年七月に出現した彗星】
 〈天武〉五年七月条に、「是月。…有星出于東、長七八尺至九月〔星あり、東に出づ。長さ七八尺。九月に至り天に竟(わた)る〕とある。 〈天武〉五年は、西暦676年にあたる。
《新唐書》
 この「」に対応する記録が、『新唐書』天文志にある。
 『新唐書』天文志 (資料[69])
〔(高宗)上元〕三年七月丁亥〔二十一〕:有彗星於東井。指北河。 長三尺餘。東北行、光芒益盛、長三丈。掃中臺、指文昌 〔676/9/7〕:〔彗星、東井に有り。北河を指して、長三尺余。東北行して、光芒益々盛りて、長さ三丈。中台を掃きて、文昌を指す。〕
九月乙酉〔二十〕:不見。 〔11/4〕:〔見えず〕
 この七月二十一日から九月二十日という期間は、書記の「七月」に出て「九月」と一致している。
 記述にある星については、一般的に東井ふたご座μ北河ふたご座σ中台おおくま座ι文昌おおくま座υに推定されている。
《太陽の赤道座標》
図1 黄道沿いのニ十宿距星と、彗星経路の星
 図1は、西暦676年の黄道沿いのニ十宿の距星と、『新唐書』で彗星の経路として示された星の位置を示す。 参考のために西暦2000年の位置を併せて示した。
 図2は、本サイトの元嘉暦モデル(参考[C]以後)による〈天武〉五年〔676〕の二十四節季の基準日〔年間通算日〕である。 それによると、この年の春分は、二月末である。七月二十一日〔出現日〕九月二十日〔消滅日〕の黄道上の太陽の位置は、春分からの通算日数(ア)によって求めることができる。 (ア)を太陽年の日数で割り(イ)、その値に360°をかけた角度(ウ)が黄道上の位置を表す。
 なお、ここから、
  彗星出現日白露から0.29日後〔ほぼ白露当日〕
  彗星消滅日霜降から12.70日後。
 にあたることが分かる。
 それぞれの太陽の一の黄道座標を赤道座標に変換したのが、図3である。 変換には、エクセルのマクロ関数sph1d()sph2d()(資料[62]で自作)を用いる。
 計算式は、
 中心角=sph1d(N1,E1,N2,E2,0)
 偏角=sph1d(N1,E1,N2,E2,1)
 NX=sph2d(NX0,EX0,中心角,偏角,0)
 EX=sph2d(NX0,EX0,中心角,偏角,1)
 である。
 図3で、7/21のE2および9/20のE2が図2で求めた(ウ)である。 なお、NX0は黄道傾斜角で、公式(資料[70])により、676年は23.61023°、2000年は23.43928°を用いた。
 図1で、7/21と9/20の位置はで表されている。
 出現日の彗星の位置とされる「」星は、日周運動において太陽より約6時間先行する。 したがって、彗星は真夜中に東の空から昇り、日の出のころにほぼ南中する。よって、夜中から明けるまでずっと彗星は東の空に見えることになり、書紀の「星。出于東」に合致する。
図2 春分から彗星出現日および消滅日までの日数図3 一年間の太陽の位置の赤道座標 
図4 676年赤道座標への変換

《676年の赤道座標への変換》
 黄道沿いのニ十宿の距星、および彗星の経路とされる星の赤道座標を、2000年から676年に変換する。 図4は、その計算を示したもの。ここで行った変換の手順は次の通り。
 ① いくつかの定数を用意する。
  θ…歳差角。(2000-676)÷25772×360=18.4945°
  φ…赤道傾斜角。676年では23.43928°
  β…変換後の座標の基準点。β=-2tan-1(sin(θ/2)tanφ)
 ② 赤道座標を球面座標(N1、E1)に変換。
 ③ 変換Ⅰ。
  パラメータ0=sph1d(0,θ/2,N2,E2,0)
  パラメータ1=sph1d(0,θ/2,N2,E2,1)
 ④ 変換Ⅱ。球面座標(NX,EX)。
  NX=sph2d(β,-θ/2,パラメータ0,パラメータ1,0)
  EX=sph2d(β,-θ/2.パラメータ0,パラメータ1,1)
 ⑤ 球面座標(NX,EX)を赤道座標に変換。
 こうして得られた676年の赤道座標が、図1で示されている。

まとめ
 『新唐書』天文志に載る、高宗の上元三年七月の彗星の記録をもとにして調べると、 彗星は676年9月7日〔グレゴリオ暦〕に赤緯+21.8°赤経4.93h付近に出現し、 11月4日〔同〕に赤緯+64.5°赤経7.88h付近で見えなくなった。
 それぞれ太陽との位置関係を含め、実際の動きに近い様子を得ることができたと見てよいだろう。 用いたのは、元嘉暦モデル〔エクセル〕、黄道傾斜角の計算式、歳差運動の周期、赤道座標変換モデル〔エクセル+自作マクロ関数〕である。



2025.05.17(sat) [81] 680年の金環日食 2025.06.04 一部修正 
出典:NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700※)
【天武九年十一月の日食】
 〈天武〉九年十一月一日に、「日蝕之」とある。
 この日は、グレゴリオ暦680年11月30日、ユリウス暦11月27日にあたる。
《この日の日食のデータ》
 [NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700]※)から、この日の日食のデータを見る。
 ・ユリウス暦680年11月27日
・TD〔食が最大となる力学時〕4時24分53秒〔日本標準時は13時…〕
・サロス番号82
・種別〔金環食〕
・前後の月食前:なし。後;部分月食。
・Magnitude〔日食の大きさ;月が太陽を覆う割合の最大値〕0.9133
・中央点北緯37度 東経144度
・最大食度の太陽高度29度
・最大食継続時間10分8秒
※)…クレジット表示(要請):Eclipse map/figure/table/predictions courtesy of Fred Espenak, NASA/Goddard Space Flight Center, from eclipse.gsfc.nasa.gov.
《定数の推定》
 前項のデータを使って、この日の地球-月の距離、および月の角速度を推定することができる。
 まず、楕円の方程式は\(\frac{x^{2}}{a^{2}}+\frac{y^{2}}{b^{2}}=1\)であるが、ここでは簡単に楕円のつぶれ具合だけを考え、\(b=1\)に固定する。
 焦点F、F’の座標は\((\pm\sqrt{a^{2}-1},0)\)である。
 惑星、衛星の軌道は楕円で、中心星はその一方の焦点にある。したがって近点:\(a-\sqrt{a^{2}-1}\)遠点:\(a+\sqrt{a^{2}-1}\)となる。
\begin{align} Q&=\frac{a+\sqrt{a^{2}-1}}{a-\sqrt{a^{2}-1}}\\ Qa-Q\sqrt{a^{2}-1}&=a+\sqrt{a^{2}-1}\\ (Q+1)\sqrt{a^{2}-1}&=Qa-a\\ (Q+1)^{2}(a^{2}-1)&=(Qa-a)^{2}\\ a^{2}+2a^{2}Q+a^{2}Q^{2}-1-2Q-Q^{2}&=a^{2}Q^{2}-2a^{2}Q+a^{2}\\ 4a^{2}Q&=Q^{2}+2Q+1\\ &=(Q+1)^{2}\\ a&=\pm\frac{Q+1}{2\sqrt{Q}} \end{align}
 そこで、「遠点÷近点」の値〔Q〕のみを用いて、\(a\)の値を求めることを試みたところ、 その結果、 \(a=\pm\frac{Q+1}{2\sqrt{Q}}\) という簡単な式が得られた()。
 これを使って、近点・遠点での月の公転の角速度(それぞれ \(\omega_{mx},\omega_{mn}\) とする)を求めてみる。
 ここで問題になるのは、月の公転の角速度の基準値( \(\overline{\omega}\) をどうするかである。
 ケプラーの第二法則によれば角速度は中心星からの距離に反比例するから、\(\overline{\omega}\)のときの中心星からの距離が分かればよい。
 ケプラーの第二法則は面積速度一定の法則とも呼ばれ、よって角速度を全周分積分した値は楕円の面積に比例する。 その楕円の等積真円を考え、その角速度と半径の関係を基準とすればよい。月の場合はその基準の角速度(deg/h)は360°÷27.28925日÷24時間である。これを\(\overline{\omega}\)とする。
 楕円 \(\frac{x^{2}}{a^{2}}+y^{2}=1\) の面積は直径1の円の面積=\(\pi\)×1の\(a\)倍で\(\pi a\)。すなわち等積真円の半径は\(\sqrt{a}\)となる。
 面積速度等積真円の半径×基準の角速度〕は一定値を保つ。その値をとすると、 \(S=\overline{\omega}(\sqrt{a})^{2}=\overline{\omega}a\) となる。
 以上から、\(\omega_{mx},\omega_{mn}\)は次のようにして求められる。
月の公転周期: 27.2892544日
近点: 356445km
遠点: 406712km \[\overline{\omega}=360/27.2892544/24=0.549666905(deg/h)\] \[Q=\frac{406712}{356445}=1.141023159\] \[a=\frac{Q+1}{2\sqrt{Q}}=1.002176327\] \[S=\overline{\omega}a=0.55086316\] \[\omega_{mx}=\frac{S}{a-\sqrt{a^{2}-1}}=0.588424787(deg/h)\] \[\omega_{mn}=\frac{S}{a+\sqrt{a^{2}-1}}=0.515699249(deg/h)\]
 次に、月-地球間の任意の距離\(d\)における角速度\(\omega\)は、\(\omega=S/d\)。 この計算は、実際の楕円軌道の短径=1としたものであるから\(d\)は実距離\(L\)を定数\(k\)で割る必要がある。
 近点の実距離から、\(k=356445/(a-\sqrt{a^{2}-1})\)。また遠点の実距離から、\(k=406712/(a+\sqrt{a^{2}-1})\)。いずれも、\(k=380749.8639\)となる。
\[\omega=\frac{S}{d}\] \[d=\frac{L}{380749.8639}\]
《680年11月27日の日食の場合》
\begin{align}p&=x-\sqrt{a^{2}-1}\\ R&=\sqrt{y^{2}+p^{2}}\\ &=\sqrt{1-\frac{x^{2}}{a^{2}}+(x-\sqrt{a^{2}-1})^{2}}\\ cos\theta&=\frac{p}{R} \end{align}
 遠点:152,097,701km、近点:147,098,074km。前項から\(a=\)1.000139645。
 近点における地球公転の角速度=360°÷365.2422日÷\((a-\sqrt{a^{2}-1})\)=1.002397616°/日。
 近点から12日後は∠\(\theta\)≒12.2°。Rは∠\(\theta=0\)のときのRの約1.00037倍。
 この日食の"Magnitudes of Solar Eclipses〔日食の大きさ〕"の値0.9133は1未満だから金環食である。 太陽までの距離とこの値があれば、月までの距離を求めることができる。
 太陽との距離については、この日は近日点に近い。 [国立天文台/…/近日点の移動]によれば、 近日点移動は物理的には「約11万年周期」だが歳差の2万6000年周期と合成されて、実質「2万1000年周期」だという。 13世紀にはほぼ冬至点にあり、その移動方向は冬至点から春分点への方向という。2025年の近日点は1月4日というから、680年には23日遡り12月12日〔グレゴリオ暦〕。ユリウス暦では12月9日で、11月27日との差は12日である。
 この日の太陽-地球間の距離を概算すると近点距離の0.04%増し程度である()。
 太陽の視直径〔rad〕=太陽の直径÷太陽までの距離で、×180/\(\pi\)でに換算できる。
 これに日食の大きさをかけたものが、月の視直径月までの距離=月の実直径÷視直径〔rad〕である。 その値から、前項で求めた関係により月の公転の角速度を求めることができる。
表1
太陽の直径(km)太陽までの距離(km)太陽の視直径(°)日食の大きさ月の視直径(°)月の直径(km)距離(km)短径=1に換算角速度(°/h)÷基準値
\(R\)\(D\)\(s\)\(V=R/D_{s}\)\(G\)\(v_{deg}=VG\)\(r\)\(L=r/v_{rad}\)\(d=L/k\)\(\omega=S/d\)\(\omega/\overline{\omega}\)
1,392,600147,150,0000.5422365110.91330.4952246053,474401929.82321.0556269650.5218350590.949365979
 日食の大きさ(Magnitudes of Solar Eclipses)は、実際には当時の地球や月の軌道を計算で求め、そこから計算した結果と思われる。 ここでは、その値から逆算して軌道データを求めたことになる。

【月の影の経路のシミュレーション】
《太陽・月・地球についての定数》
太陽地球間距離(km)147150000
月地球間距離(km)R=401788
地球半径(km)r=6366
R/r=63.11467169
(倍数)0.94937(deg/h)
月公転角速度(rad/h)ωm=0.0091041940.521631868
地球公転角速度(deg/h)ωe=7.168E-04
90-仰角(deg)β60.7
地球自転角速度(rad/h)φ15.04106864
(半径)
太陽の視直径(deg)2Rs0.5424279220.271213961
月の視直径(deg)2Rm0.4953994210.24769971
表2
"
図1図2
 使用した定数は、表2の通りである。
 太陽地球間、及び月地球間の距離は前項で求めた値を用いる。
 月公転角速度は標準値×(倍数)で表現した。
 地球公転角速度=360°÷365.2422(日)÷24(時間)。
 βは、太陽高度の余角。
 地球自転角速度は、地球の公転により翌日の南中は自転一回の360°にややプラスした値となる。それを24時間で割った値となる。
 ここでは、太陽、月の視直径や角速度、地球からの距離に前項で求めた値を用いることにより、 計算モデルをより精密化するように試みた。
《月の影の移動ラインを地表の座標で表すための数学的処理》
 皆既日食点または金環日食点の経路を求める計算の仕組みを振り返る。
 地球表面に落とされた月の影の経路は、基本的に球体に平面が交わってできる小円〔稀に大円;太陽高度90°のとき〕
 それを、第一次座標変換〔白道傾斜角5.1°〕、第二次座標変換〔太陽高度及び地軸の傾斜〕によって、地球上の北緯東経に変換する(図1)。
 [NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700](上記)では太陽高度29°、中央点の緯度が北緯37°になっている。太陽高度29.3°とすると中央点が北緯37.4°付近となって四捨五入した値に合わせることができる。 経路を簡単なグラフで表してみると、この時の日食は昇交点型であったことが分かる。 計算によって得られた時刻ごとの位置をまとめたのが図2である。 中央点より±0.979877時間の範囲の外では、計算結果はエラーとなる。これは、太陽と月が地平線より下にある状態に対応している。
 東西方向の時刻位置は、地球の自転の位相を表す値で現象自体には影響を与えない。ここでは333.5°を用いたが、それはこの値が[NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700]のいう中央点「東経144°」に合ったからである。

【食分】
《各地の食分の時刻ごとの推移》
動画1 金環日食時間帯における食分分布の推移
図3 日食中央点における食分分布
 図3は、日食中央点のときの様子を表したものである。日の出-日没曲線は時刻と共に東から西に移動し、その北側は太陽光が当たらない範囲である。
 それぞれの時刻の等食分線を、0から0.8まで0.2間隔で示した。例えば0.6の曲線上の地点から見たときの部分日食の食分は、0.6にである。 各地点の食分を求める基礎理論は、資料[59]資料[60]で述べた。 等食分線は、球面への投影なのでもともと北極方向に広がる。メルカトル図法を用いた場合、北方に向かうほどさらに大幅に誇張される。
 金環日食の開始から終了までの等食分曲線の推移を表したのが、動画1である。 計算した時刻は図2に示した。それぞれの時刻の太陽直下点は地球の自転に伴い、南緯21.273°のライン上〔オーストラリア北部〕を東から西に向って移動する。
《飛鳥》
 〈天武〉天皇浄御原みよみはらがあったと推定される明日香村における食分の推移は、下のグラフ(図4)のようになった。
 食分を求める方法は、資料[60]図3において、 z軸上の値Bと、ABを半径とする円周上のy座標pを適当に決めて入力し、その地点〔34.47N135.82E〕に合う組み合わせを見つけ、その点の食分を得る。
 こう書くと思い付きでランダムに入力を繰り替えしてたまたま合うもの見つけるような印象を与えるが、実際には適当な2つの値の組からスタートして案分比例を繰り返すことによって急速に該当地点に到達することができる。
 その結果、例えば時刻-0.97988h〔中心点の時刻を0とする〕において、(B,p)=(7701.09937028423,0.111509430684526)が得られ、その地点は34.46999999661361E35.820004427191Nとなる。それによって計算される食分は、0.606617260864538である 〔なお、この桁数の多さは数値演算法自体の精度を示すために記したもので、実際的にはおおよそ小数点3桁以下の部分は意味を持たない。〕
 この-0.9798766…h、すなわち中心点から58分47.56秒前は、北緯64.56°東経107.48°付近の地点で太陽高度0.04°。すなわち今回の日食において、この瞬間に地球上で初めて金環食が昇るのを見た。
 この時点で、明日香村では食分が既に0.61になっている。日本時間では、中心点の4:25は13:25JST〔日本時間〕にあたるので、およそ12:26JSTとなる。
図4 直下点より南では上が欠ける
図5 食分0.85
グラフ1
 明日香村は直下点(図4)より南側()にあるので、欠けるのは北側である。
 明日香村における食分の推移は、グラフ1のようになる。中心点から58分47.56秒後に金環食が観測できる地点が地球上から消滅する。 そのときの明日香村の食分は0.31となる。 明日香村の食分が最大値になるのは、中心時刻の約20分前〔13:05JST〕で、値は0.85となっている。 この食分0.85」とMagnitude9.133」を用いて日食の形を描いたのが図5である。
《飛鳥における日食の開始と終了》
動画2 前後の部分日食を含む
 地上に金環日食が出現する前にも、またその消滅後でも部分日食のみが見える地域が存在する。
 その時間帯の等食分線については、資料[64]【外挿】項で検討してモデルを作成した。
 今回もそのモデルによって計算したところでは、明日香村では部分日食が中心時刻の約2時間10分前から始まり、同じく約1時間35分後に終了している(グラフ1)。 グラフの形に不自然さは見られないので、恐らくこの外挿モデルは有効だと思われる、
 食分の推移をこの外挿を含めた全体に広げたものが、動画2である。

まとめ
 日食については、資料[59]~[60]を復習して今回のシミュレーションにおいても基本とした。
 ただ、出発点となる諸定数を再検討し、一般的に公表された資料によってなるべくリアルな値に近づけるよう努めた。
 サイト内の表現について、今回2つのソフトを試した。ひとつは、MathJaxである。これは数式をWebサイト上で表現するためのソフトウェアで、案外簡単に使えることが分かった。 ただ外部リンクを用いる形では永続性に不安があるので、一度出力したものをスクリーンショットして画像化すれば安全かと思われた。 しかし、全世界での利用件数は既に膨大だと見られ、将来に渡って何らかの形で維持されることが期待できそうなので生のままで用いることにした。
 もう一つは、gifによるパラパラ動画である。今回gimpというソフトウェアを入手して、その機能の初歩的な部分を使ってみた。 でき上ったファイルサイズは個々の画面のgifのサイズの合計よりも小さいので、変化しない部分を自動的に透明化してくれていると思われる。

2025.05.20(tue) [82] 新唐書の日食記事の検証 2025.06.14 改 
【新唐書/永隆元年十一月朔の日食】
 〈天武〉八年十一月一日の「日蝕」に対応する記事が『新唐書』に見える。
グラフ1 680年の20宿の距星の位置と黄道
表1 680年の尾の赤道座標
表2
ps(尾宿距星)u(p-s)/u-1
h(赤経)hh/度
11/01の太陽16.4290174915.293194350.06575342516.27397686
箕宿距星16.5666952215.293194350.06575342518.36782566
 『新唐書』天文志 (資料[69])
永隆元年十一月壬申朔。
食之。在尾十六度
 ここでは、その記述の妥当性を検証する。
 日食は太陽と月が重なる現象だから、「尾十六度」はこの日の黄道上の太陽の位置そのものである。
 680年〔グレゴリオ暦〕における宿の位置と、24節季の黄道上の太陽の位置は、グラフ1のようになる 〔説明は資料[80]参照〕
《尾十六度》
 尾宿距星はさそり座πと推定されている。その赤道座標の計算結果を、表1に示した。 「」は、一日当たりの角なので、赤径に直すと、一度=24÷365=0.0658hとなる。
 よって、「尾十六度」の赤経は15.29+0.0658×16=16.34h()である。
《680年の太陽の推定位置》
 次に、この日の太陽の赤経を求める。 十一月一日は、表3により小雪から8.34日後にあたる。春分からは通算251.83日で、この日の太陽の赤径は 表416.43hとなっている()。
 この値による単純計算では、尾から17.3度になるが、「一度」を起点とすると考えられるので尾十六.三度に相当すると思われる(計算は表2まとめ参照)。
表3 永隆元年十一月一日の春分、小雪からの日数 表4 永隆元年十一月一日の太陽の赤道座標
まとめ
 当初は尾宿の起点〔距星〕を0度とした結果、太陽の位置は17.3度となった。 その時点〔5月20日〕では、「1.3度の相違は測定誤差かも知れないが、よりはっきりさせるには他の日食の記録についても調べる必要がある。 その全体像によって、はじめて唐代の観測の精度が見えてくるであろう。」と述べた。
 その後、681年の日食(資料[83])を調べたところ、その日の太陽の位置は距星を0度とすると5.8度となるが、「在尾四度」と記されていた。 両者を併せれば、距星は「零度」ではなく「一度」と表されたと見るべきである。
 グラフ1を見ると、天文志の太陽の位置は680年の星空のシミュレーションに概ね一致している。



2025.06.14(sat) [83] 681年の金環日食 
図1
出典:NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700(上述)
【天武十年十月の日食】
 〈天武〉十年十月一日に、「日蝕之」とある。
 この日は、グレゴリオ暦681年11月19日、ユリウス暦11月16日にあたる。
《この日の日食のデータ》
 [NASA Eclipse Web Site/0601 to 0700](上述)から、この日の日食のデータを見る。
 ・ユリウス暦681年11月16日
・TD〔食が最大となる力学時〕3時27分16秒〔日本標準時は12時…〕
・サロス番号92
・種別〔金環食〕
・前後の月食ともに半影月食。
・Magnitude〔日食の大きさ;月が太陽を覆う割合の最大値〕0.9264
・中央点南緯9度 東経145度
・最大食度の太陽高度79度
・最大食継続時間9分29秒
《諸定数》
 資料[81]の方法を用いて計算した結果、表1の諸値を得た。
表1
太陽の直径(km)太陽までの距離(km)太陽の視直径(°)日食の大きさ月の視直径(°)月の直径(km)距離(km)短径=1に換算角速度(°/h)÷基準値
\(R\)\(D\)\(s\)\(V=R/D_{s}\)\(G\)\(v_{deg}=VG\)\(r\)\(L=r/v_{rad}\)\(d=L/k\)\(\omega=S/d\)\(\omega/\overline{\omega}\)
1,392,600147,290,0000.5417211120.92640.5018504383,474396623.22271.041689730.5288169250.962067973
表2
太陽地球間距離(km)147290000
月地球間距離(km)R=396623.2227
地球半径(km)r=6366
R/r=62.30336518
(倍数)0.962067973(deg/h)
月公転角速度(rad/h)ωm=0.0092259640.528608776
地球公転角速度(deg/h)ωe=7.168E-04
90-仰角(deg)β11
地球自転角速度(rad/h)φ15.04106864
(半径)
太陽の視直径(deg)2Rs0.5417211120.270860556
月の視直径(deg)2Rm0.5018504380.250925219
動画1
 これにより、表2のパラメータを用いる。
 球面上の座標変換のために用いた値は
白道傾斜 5.1°
 月の交点面と地球の公転面が交わる角度。昇交点日食は5.1°、降交点日食はー5.1°を用いる。ここでは前者が合う。
地軸方向 304°
 (360―秋分からの日数×360÷365.24)°
黄道傾斜 23.4°
自転位置 358°
 中央点の座標9°S145°Eに合う値。
 その結果、金環日食のラインはインド北東部から始まり、フィリピンを通りニューギニア島で中央位置となり、ハワイの南に達している。
《飛鳥での食分》
 動画1は、飛鳥におけるかけ始め直前からかけ終わり直後までの食分分布の推移。等食分線は0.2間隔。
 グラフ1は、このシミュレーションによる飛鳥における食分の推移。
 ●かけ始め:(中央時刻ー2時間15分)〔日本時間10時12分〕頃。
 ●最大:食分0.21(図2)。(中央時刻ー1時間20分)〔同11時7分〕頃。
 ●かけ終わり:(中央時刻-18分)〔同12時9分〕頃。
グラフ1図2
動画2
《全経過》
 動画2金環食ライン及び職分分布推移の全経過を示す。中央付近では食分分布がほぼ同心円となる。これは高度が79°でかなり垂直に近いことの結果である。 日本で部分日食が観察されるのは、金環食観察可能点が出現する前から始まり、金環食ラインの前半で終わる。

【新唐書/開耀元年十月朔の日食】
図1 春分・霜降からの日数
図2 十月一日の太陽の位置 
 『新唐書』天文志に、この日の日食の記録がある。
 『新唐書』天文志 (資料[69])
開耀元年十月丙寅朔。
食之。在尾四度
 「尾四度」は、この日の太陽の位置そのものである。 〔厳密にいうと、黄道上にある太陽を通る赤道座標の経線〕
 太陽の黄道座標は、(春分からの日数÷一年の日数×360)度である(図1)。
 その黄道座標赤道座標に直し、さらに1hあたりの度数で割ることにより尾宿距星からの「」に直すことができる。 計算結果は「5.84度」で、天文志のいう「四度」より1.8度大きい。 資料[82]でも、同じく得られた「17.3度」は「十六度」より1.3度大きかった。 これらは、起点が「零度」ではなく「一度」と定められたためと推定し得る。だとすれば、「」は、単純な割り算によって得られた値から1を減じたものとなる(図2)。
 なお、小雪の太陽の赤緯と赤経は資料[82]と比べると微妙に異なっている。これは歳差運動によるものである。

まとめ
 このシミュレーションによると、飛鳥において食分が最大になるのは11時過ぎで、最大0.21程度となっている。
 食分の大きさは〈天武〉九年十一月の日食ほどではないが、中国の暦法による予測に基づき待ち構えて実際に観測できたことも考え得る。
 〈天武〉四年には占星台を作った記事があり、天体観測は陰陽寮によって継続的に行われるようになっていたと思われる。



2025.07.31(thu) [84] 『土左日記』の海路を見る 
【土佐から畿内への海路】
 土佐国と畿内を結ぶ街道としては伊予国から南下する街道があるが、物資の陸路での輸送は相当困難で、上古から中古の物流には海路が大きな比重を占めていたと考えられる。
 紀貫之の『土左日記』は、当時の海路を知るために絶好の資料と言える。その経由地を見る。
  〈 は停泊地〔右図:( )は通過しながら眺めた沿岸の土地〔右図:を示す。
十二月二十七日 〈大津〉発、浦戸に向かう。
二十八日 〈浦戸〉発、〈大湊〉到着。
二十九日 大湊に留まる。
正月九日 早朝大湊を出発。
    (宇多の松原)通過。
十日  〈那波の泊〉に泊まる。
十一日 暁に出航、昼に(はね)を通過して、〈室津〉着。
十二日 維茂が遅れて(ならしつ)から室津着。
十七日 出航。天候急変で室津に戻る。
二十一日 卯の時〔7~9時〕、出航。
二十二日 〈よんべのとまり〉を発ち、〈ことどまり〉に向かう。
二十三日 「このわたり」で海賊に襲われないように神仏に祈る。
二十五日 日中は留まる。
     夜になって海賊を恐れ「夜はばかりより船をいだして漕ぎくる」。
二十六日 〈道にたむけする所〉で松明を灯し幣(ぬさ)を手向ける。
二十九日 出発。〈土佐のとまり〉に船を寄せる。
三十日  夜中に出航。(阿波のみと)を渡る。
     寅卯〔5~9時〕のとき、(ぬ島)通過、(たな川)を渡り、〈和泉の灘〉に至る。
二月一日 午の時〔11時~13時〕、和泉の灘出発。(黒崎の松原)を経ていく。
     (箱の浦)から「綱手〔沿岸から綱で引く〕
五日  〈小津のとまり〉に到着。
    (石津の松原)、(住吉のわたり)を通過
六日  (澪標)から出て、(難波)につき〈河尻〉に入る。
七日  河尻からのぼる。
九日  (和田の泊りあかれのところ)、(よねい)、(渚の院)を見ながら行く。
十一日 (八幡の宮)を見ながらいく。
十二日 〈山崎〉に泊まる。
十五日 人の家に移る。
《推定地》

大津

 『事典日本古代の道』〔木下良;吉川弘文館2009〕によると、 「〔土佐国の〕国津としては…「大津」が考えられ、…高知市に入る旧大津村が遺称地で、高知湾奥に流入する舟入川流域」。

那波の泊

 〈倭名類聚抄〉{土佐国・安芸郡・奈半}。 『大日本地名辞書』(以後〈辞書〉)「今奈半利村、田野村、北川村是なり」。

はね

 羽根については、〈辞書〉「奈半利村の東南二里、…羽根吉良川の二村此に在り」。

室津

 〈延喜式-神名〉{安芸郡/室津神社}。 〈倭名類聚抄〉{土佐国・安芸郡・室津郷}。〈辞書〉「室戸の浮津に接して室津の大字存ず」。

よんべのとまり

 前日(21日)は室津を卯の刻〔午前5~7時〕に出航した。 よって「よんべのとまり〔昨夜の泊〕には、21日の夕刻に着いた泊りだが、地名が書かれていない。

ことどまり

 「廿二日、よんべのとまりよりことゞまりをおひてぞ行く。」とある。 「おひて」は「追ひて」だが、他の個所で「おふ」は到着する意〔終ふか〕なので、「ことどまり」〔異泊。他の停泊地〕にその日のうちに着いたのだろう。
 ここにも地名がない。

道にたむけするところ

 前日は北風で出航しなかったが、夜になって海賊に襲われる危険を感じて急遽出航したと読める。「泊り」とは書いていないが、「道にたむけするところ」は陸上の祠であろうから、泊りに停泊したのであろう。
 「室津」を最後に泊りの地名が書かれず、海賊が跋扈するのでこの一帯はかなり辺鄙であったと思われる。

土佐のとまり

 土佐泊。〈辞書〉「大毛嶋:大鳴戸小鳴戸の間、南方なる乱形の島なり。…土佐泊と称する一村あり、今高島村と合同して鳴門村と改む」。

阿波のみと

 鳴門海峡と見られる。

ぬ島

 〈辞書〉「沼島(ぬまじま):三原郡に属し、灘村の海上に在り、…磤馭慮ヲノコロ島即此と為す」。 〈倭名類聚抄〉{淡路国・三原【美波良】郡}。

和泉の灘

 「五日、けふ辛くして和泉の灘より小津のとまりをおふ」とある。 〈辞書〉は「仙北郡」及び「摂津」などの項で、『土佐日記』のこの辺りを引用するが、そこに出てくる盛沢山の地名についていちいち特定することはしていない。
 ただ、和泉国の沿岸に配置されることは確かで、紀貫之がこの地域を相当詳しく知っていたことを伺わせる。四国東岸の地名が全く出てこないこととは対照的である。

住吉のわたり

 住吉済。住吉大社の西にあたることは確実。仁徳段【墨江之津】参照。

澪標

 澪標(みをつくし)は航路の標識。難波津に向かう航路の目印として立てられたと見られる。

難波

 難波津が法円坂遺跡の近くであったのは確実である(資料[17]、〈継体〉六年【難波館】項)。
 おそらく、同遺跡の1kmほど北西から上町台地西岸に沿って南へ2~3kmまでの範囲にいくつかの船着き場があり、その総称と見るのが現実的と思われる。

河尻

 〈辞書〉「大河尻:神崎川の旧委口にして…大略尼崎の東杭瀬梶島。…木津川口(西成郡)も或大河尻と称す同名異処なり」。

和田の泊り

 〈辞書〉「水路鳥飼と渚院ナギサノヰンの間なれば三島江若くは枚方駅に当る如し、今其名を失ふ」。

渚の院

 〈辞書〉「牧野村大字渚は古の渚宮(又渚院)の地なり」。牧野村は現在の枚方市の北部。

八幡の宮

 明らかに石清水八幡宮を指す。〈辞書〉「石清水八幡宮:八幡町男山の上に在り、…元禄年中将軍徳川綱吉の修理する所也」。 現代の地名表記は、京都府八幡市八幡高坊30。

山崎

 〈壬申〉紀の【山崎を巡る議論】「山前」で、木津川と宇治川の合流地点を中心とする地域と見た。 十二日から3日間山崎で停泊した。十四日に京に使者を送って車を呼び、十五日に車が来たという。 その日、「船のむつかしさに船より人の家にうつる。この人の家よろこべるやうにてあるじしたり」。すなわち、もう船上で過ごすことに耐えられなくなっていたところに、 船着き場の近くの人が来てどうか我が家でお休みくださいと招かれ、大変親切にしてくれたようである。


まとめ
 和泉国に達すると打って変わって多数の地名が並ぶようになる。 一月三十日に「和泉の国に来ぬれば海賊ものならず」とあるので、その安心感から急に景色に目が向くようになったと見られる。
 四国東岸の泊りに名前がないはずはないが、檝取に尋ねることもしていない。やはりこの地域を航行する間は不安感ばかりで、土地のことに目を向ける余裕がなかったのであろう。
 和泉から淀川を上るまでに挙げられた地名の多くは、現在は残っていない。しかし、いくつかは現代地名として存続し、不明の地名でもその間に並ぶことから大体の位置を判断することができる。
 ここでは、停泊地と経路に絞って考察した。『土左日記』そのものは興味深い記述が満載であるが、全文の読み取りは後日としたい。



2025.09.28(sun) [85] 辛亥年銘の観音菩薩立像 
【観音菩薩立像の台座側面に刻まれた銘文】
 この観音菩薩立像については元興寺伽藍縁起并流記資財帳をそのまま読む[3]で取り上げた。
 ここでは銘文の文字についてさらに検討する。
 刻まれた文字の細部まで読み取れる画像は、[e国宝](国立文化財機構所蔵 国宝・重要文化財)から得た。
銘文 (本サイトによりコントラスト強調)
台座:正面と右側面 銅造観音菩薩立像 N-165 [e国宝]
全身像 像高23.1cm
《文字の読み取り》
辛亥年七月十日記笠評君名大古臣辛丑日崩去辰時故児在布奈■利古臣伯在建古臣二人乞願
〔 辛亥年七月十日に記す。笠評君、名は大古臣。辛丑日に崩去(かむさ)りぬ。辰の時なり。故(もとより)児に布奈■利古臣在り。伯(をぢ)に建古臣在り。二人乞ひ願へり。〕
 「」の名は、一般に「布奈利古臣」と読まれているが、画像を見る限り「太」とは判断し難い。
 「」は和習なので、文章は倭人が作ったと思われる。 倭人がつくった文章だとすれば何らかの訓みがあったのではないかと考えられる。
《崩去》
 一応読み下したが、「崩去」がどう訓まれたかについての判断は難しい。 文章作成者にはここでは薨去または卒去を用いるべきだとする知識を欠いていたか、または評は朝廷の国家に隷属しているという意識があまりない時代だったのかもしれない。 もしカムサルと訓まれたのなら、評君に対して極めて高い敬意をもっていたことになる。
《笠評》
 「」は「」の大宝令以前の称である。しかるに〈倭名類聚抄〉所載の律令郡に「笠郡」はない。ただ、『国造本紀』に「笠臣国造」がある。
 〈姓氏録〉の〖笠臣〗には、〈応神〉天皇が吉備を巡行したとき鴨別命が「笠臣」の姓を賜ったときの逸話が載る(第107回笠臣)。 〈応神〉二十二年三月、吉備国を五つの県に分割して、鴨別命にはそのひとつ「波区芸県」を封じた。 近代以後の「笠岡村」は、その地域の遺称と考えられる。 笠岡村は備中国小田郡にあり、また浅口郡に隣接する(【御友別一族】)。
 よって、「波区芸県」は小田郡・浅口郡の辺りで、ここに潜在的な地名「」が継続していたとみてよい。
 なお、「」は評の首長の称と考えられる。律令郡では「大領」と称される。
《辛亥年》
 辛亥年には、591年、651年、711年などがある。711年以後は「」が「」になるから除外される。
 591年においては、郡レベルの統治単位の呼称は『隋書』倭国伝に出てくる「軍尼〔クニ〕と考えられる(隋書倭国伝(1))。 これが国造〔クニノミヤツコ〕クニにあたり、まだ「」という呼称はなかったと思われる。だとすれば、残るのは651年〔〈孝徳〉白雉二年〕のみとなる。
 銘文には和習が見られたが〈孝徳〉大化二年の改新詔の書法も和習なので、651年と見ることは可能である。
《七月十日》
 〈孝徳〉白雉二年の七月は壬辰朔なので、「辛丑」は十日にあたる(元嘉暦モデル/[J]による)。 つまり、「」という「七月十日」は「崩去」の当日である。
 崩去してから思い立って、その日のうちに像を完成させることは到底不可能だから、完成して刻まれた銘文とは言えそうもない。 通説ではこの日に造像を発願したというが、だとすれば完成した後に日付を「七月十日記」と偽って刻んだことになる。これは、常識的には考えられない。
 おそらく笠評君がまだ生きていたときに快癒を願って造像したものだということを、書いたのであろう。「」は、モトヨリイニシヘとも訓むことに留意したい。

まとめ
 〈天武〉紀朱鳥元年条には「諸王臣等、為天皇観世音像」とあり、観音菩薩像は生前に病気の回復を願って造られたことも多かったと思われる。
 この観音菩薩立像の像高23.1cmというサイズからも、私家において身近な人のために生前に作られた印象を受ける。



2025.11.10(mon) [86] 『阿不幾乃山陵記』をそのまま読む 
【阿不幾山陵記】
 〈天武〉〈持統〉合葬陵とされる「檜隈大内陵」は、江戸時代の山陵治定では丸山古墳とされていたが、明治十三年〔1880〕に『阿不幾山陵記』が発見されたことによって、明治政府はそれまでの丸山古墳を取り消し、 野口王墓古墳を〈天武〉〈持統〉合葬陵に治定し直した。
 『阿不幾乃山陵記』は「田中家旧蔵典籍古文書」に含まれていたもの。 その「田中家旧蔵典籍古文書」は田中教忠〔天保九年(1838)~昭和九年(1934)〕が蒐集した約1200点に及ぶ古文書群で私家の所有となっていたが、 孫によって昭和57年〔1981〕に国立歴史民俗博物館に寄贈された。
《影印》
阿不幾乃山陵記 写真銅板 『考古界』5(6)考古学会〔集成堂;1906〕
《原文の読み取り》
 字の判別は『Museum』(156)東京国立博物館 編〔東京国立博物館1964〕によったが、一部改めた。
 『阿不幾乃山陵記』
阿不幾陵記

里号野口

        

 盗人乱入事

文暦二年三月廿日癸  

處夜々方便智院

件陵形八角石檀一迊一町許歟
五重也是五重峯有森十余
株南面有石門々前有石橋此石
盗人等纔人一身通許切開
御陵有内外陣先外陣方
丈間許歟皆馬脳也天井高七尺
許此馬脳無継目一枚打覆
内陣広南北一丈四五尺東西一
丈許内陣有金銅妻戸広左右
扉各三尺五寸七分扉厚一寸五分
高六尺五寸左右腋柱広四寸五分
厚四寸フクサ三寸鼡走三寸冠木広
四寸五分厚四寸

已上

金物六内小

金銅

三寸五分

大二

四寸許

已上形如蓮花返

皆金

花古不形師子也内陣三方上下
皆馬脳歟朱漆也御棺張物也

以布張之

朱塗長七尺広二尺五寸許

入角也

深二尺五寸許也御棺蓋木也朱
塗御棺金銅厚五分互上
彫透左右八尻頭四クリカ歟

尻二

頭二

御骨首普通

ヨリスコシ

其色赤黒

大也

也御脛骨長一尺六寸肘長一尺四寸
御棺内紅御衣タル少々在之
盗人取残物等被移楠寺内石御
一筋其形以銀兵庫クサリ
ニシテ以種々玉餝之石二アリ形如
連銭表手石長三寸所包如水精似
玉帯御枕以金銀珠玉餝之似唐
物依難及言語不注之假令其形如
皷金銅桶一

納一斗

居床其形如礼

許歟

盤鏁少々クリカタ一在之
又此外御念珠一連在之三迊
珀御念珠以銅糸貫之而多武峯
法師取了
又彼御棺中銅カケネ十二在之
以上記如此

〔 盗人乱入の事【文暦二年〔1235〕三月二十日…】

 件(くだん)の陵形は一巡り約1町〔108m〕、五重〔五段の墳丘〕である。

 五重の峰に森十株余りがある。 南側に石門があり、門前に石橋があり、その石門を盗人は僅かに人一人が通れる分だけ切り開いた。 御陵の中には内外陣がある。

 まず外陣は一辺約一丈〔3.6m〕で、皆瑪瑙である。 天井高約7尺〔2.1m〕、これも瑪瑙で継ぎ目のない一枚板で覆うという。

 内陣の広さは南北約1丈4~5尺〔4.2~4.5m〕、東西約1丈〔3m〕、 内陣には金銅の妻戸があり、 広さは左右の扉は各3尺5寸7分〔1.07m〕、扉厚1寸5分〔4.5cm〕 高さ6尺5寸〔1.95m〕。左右の腋柱の幅は4寸5分〔13.5cm〕、 厚さ4寸〔12cm〕、フクサ〔袱紗〕3寸〔9cm〕、鼠走り3寸〔9cm〕、 冠木は幅4寸5分〔13.5cm〕厚さ四寸〔12cm〕【以上金銅製】、 扉の金物6点のうち、小4点【約3寸5分〔10.5cm〕】、大2点【約4寸〔12cm〕】、 形は蓮花返花の如くで、古くて形をなさないが獅子である。

 内陣は三方上下皆瑪瑙、朱塗り、御棺は張物【布張りし、角に入る】で 朱漆の長さ約7尺、幅約2尺5寸、深さ約2尺5寸。 御棺の蓋は木である。 朱塗の棺の床の金銅は厚さ5分、互いに上部に透かし彫りが、 左右に8点、足元と頭に4点、クリタ〔刳り型か〕が4点【足元に2点、頭に2点】ある。

 御骨は、首は普通より少し大きく、その色は赤黒い。 御脛の骨さ1尺6寸〔48cm〕、肘長1尺4寸〔42cm〕、 御棺の中に紅の御衣には汚れが少々ある。

 盗人が取り残した物等は、楠寺に移された。

 その内、石御帯(いしのみおび)が一筋、その形は銀の兵庫鎖で、 種々の玉を以て飾りとし、宝石二つがある。 形は連ねた銭の如くである。

 表の手石〔手首の宝石か〕は長さ3寸〔9cm〕包まれた水精〔=水晶〕の如くで、玉帯に似る。

 枕は金銀珠玉を以て飾る。

 唐の品に似るもの、 言葉で表すことは難しいから書ききれないが、 仮に言うとすれば、皷〔鼓〕の如き金銅の桶1個【容積は約1斗〔18リットル〕】で、 床に据えられた〔台の〕形は、礼盤の如くである。

 鎖が少々、刳り型が一つある。

 またこのほかに御念珠一連があり、3周巡らし、 その端は琥珀で御念珠を銅の糸を以て貫く。 そして、多武峯の法師が取り終えた。

 また、その御棺の中に銅カケネが十二点ある。

  以上、記すことかくの如し。 〕

《阿不幾乃山陵》
 「阿不幾乃山陵」が野口王墓だとする根拠はどこにあるのだろうか。
 これに関しては阿不幾の別表記と見られる「青木」について、 「阿不幾乃山陵記考証」田中教忠〔以下田中論文〕 (『考古界』5(6)考古学会〔集成堂;1906〕) は、 「御陵号諸陵雑事注文に大和青木御陵天武天皇御陵と見えたれば正治のころ〔1199~1201〕大内陵の号はすたれて青木御陵とぞいへりけむ」と述べる。 また、「永仁にかける比丘恵鏡が西大寺僧房別三室料田畠目録に高市郡三十一条二坪内御廟東辺二段字青木と見えたる」ことを示す。 『西大寺僧房別三室料田畠目録』は、その奥書に「永仁六年〔1298〕戊戌十二月五日 比丘鏡恵[花押]」とある([国書データベース]『西大寺三宝料田畠目録』)
 そして田中論文は「高市郡三十一条」について「昔の条里存らされば今処許とも弁知るべき由あらず」とは言え、 「五条野丸山古墳」の条里「五条」ではないから野口王墓古墳の方を大内陵とすべきという論理構成になっている。
 その「昔の条里はどこか分からない」点については、大和国の条里の復元は1980年までにほぼ成功しており(『大和国条里復原図』)、 それによると野口王墓古墳は実際に「高市郡東三十一条二里」の範囲内にある([小字データベース]による)。 ただ「字青木」は近代までに消失して、該当地は「字尾墓」となっている。
《里号野口》
 田中論文は「記文里号野口トアルハ今モ野口村ナル」と述べる。旧野口村にあたる大字野口はやはり「高市郡東三十一条二里」内にあり、その八割がたを占め、野口王墓古墳もその「大字野口」の中にある。
《盗人乱入事》
 すなわち、陵に盗人が乱入する事件があり、この文章はその現場検証の報告書である。 『阿不幾乃山陵記』という題名は、その報告書を一般に広めることを意図した人によって名付けられたものと見られる。
 したがって、この報告で述べられた陵が「阿不幾の山陵」に一致するかどうかは、 厳密に言えば野口大墓古墳の羨道・玄室の寸法を測定して同書の記述に一致するかどうかを調べる必要がある。
 なお、「この盗掘事件については、当時としても注目を集めたようで、『百錬抄』や『帝王編年紀』、『名月記』にその一部始終が記録されている。 また事件より58年後の1293年には盗掘者が領内に侵入し、頭骨を持ち出して捕えられたことが『実躬卿記』から窺える」 という(「飛鳥地域における古墳研究の軌跡(上)」辰巳俊輔『明日香村文化財調査研究紀要-第17号-』〔明日香村教育委員会文化財課;2018〕)
《文暦二年》
 文暦二年〔1235〕は鎌倉時代。
《八角石檀/五重》
 「野口大墓古墳」は「陸墓測量図では東西径38m、南北径45m、高さ9mの不定形な円墳に表現されている」が、 「南方の文武天皇の真陵とみられる中尾山古墳が発掘調査によって八角墳であることが確実になったことで、 本墳も『阿不幾山陵記』の記載どおり八角墳とみるのが一般的となった」という(『天皇陵古墳』〔森浩一;大巧社1996〕(p.352))。
 宮内庁は2013年5月24日に、1950年~1970年に調査した結果に基づく復元案を公表しており、 「墳形は最下段の一辺が約15メートル、対角辺約40メートルの正八角形。高さは約7.7メートル。表面は切り石で覆われ、5段構造の最上段は高さ約3メートルと他の段より高く、「ストゥーパ(仏塔)のような観を呈していた」と推定している」 という(『日本経済新聞』2013.5.25)。これは当時の新聞各紙で一斉に報道されている。
 「八角墳の再検討」辰巳俊輔(『明日香村文化財調査研究紀要-第14号-』〔明日香村教育委員会文化財課;2014〕)によると、 「一段目は高さ0.2m」で「基壇的な性格」、「二段目は1.7m、三段目は1.5m、四段目も同様に1.5m」、五段目は推定「3m」、 そして「角部の地覆石上面が135°の割り込みが施されている箇所がいくつか確認されている」という(p.8)。135°は、正八角形の一つの内角である。
《内外陣》
 「外陣」は羨道、「内陣」は玄室と見られる。
《馬脳》
 〈倭名類聚抄〉には「馬脳:俗音女奈宇」。瑪瑙は石英種で、特有の縞模様をもつ。しかし、石室や羨道の壁に使えるほどの巨大な瑪瑙が大量にあったのだろうか。 光沢のある岩石を比喩的に馬脳と呼んだことも考えられる。『天皇陵古墳』によると「白大理石使用の可能性も指摘されている」という(p.353)。
《朱漆/御棺張物/朱塗御棺》
 朱塗御棺夾紵棺きょうちょかんと見られる。 夾紵棺は乾漆棺とも呼ばれ、布を漆で張り重ねて固めて作ったもの (《夾紵棺》《阿武山古墳》)。
 なお、一つ目の「朱漆」も「朱塗」かも知れず、逆にこの文書は写本で元はすべて「朱漆」だったことも考えられる。 仮にすべて「朱塗」だったとしても、「御棺」が夾紵棺であったことは確実である。
《石御帯》
 石帯(せきたい)は、「束帯装束に用いる黒皮製の帯で、漆塗りの上に玉・瑪瑙・犀角さいかく鼈甲べっこうなどの飾り石を縫い付けてあるのでこの字を当てる」 という([浄土宗大辞典])。 以下「~似玉帯」までが石御帯を説明した部分と読める。
《銀兵庫クサリ》
 兵庫鎖ひょうごくさりは太刀を提げるのに用いる装飾的な鎖。
《似唐物》
 「唐物」とは、枕の飾りの金銀珠玉のことか。 ただ前文の「御枕以金銀珠玉」はひとまず「」で文が終わるので、 「似唐物」は、「金銅桶」にかかる長い連体修飾節のはじめと見るべきかも知れない。
《依難及言語不注之仮令其形如皷金銅桶一》
 「依難及言語」は、和化漢文では読めない。 「仮令」は漢文で用いられ、「もし~ならば」、「たとえ~ども」の意味である。 そこで、試しに純正漢文として読んでみると、 「言語注之。仮-令其形皷金銅桶一〔言語に及(し)くこと難(かた)きに依りて注(しる)さず。もし其の形をいはば、皷の如き金銅の桶一つ〕
 つまり、「言葉では言い表しにくいから書けないが、なんとか譬えるとすれば鼓に似た金銅の桶である」と読むことができる。
 『日本漢字全史』〔沖森卓也;筑摩新書2024〕によれば、鎌倉時代には、和化漢文、純正漢文、漢字仮名交じり文が並行して使われていたというから、 部分的に純正漢文の書法が混ざっていても特に不思議なことではない。
《金銅桶》
『続日本紀』
大宝二年〔702〕十二月甲寅〔23〕太上天皇崩。
大宝三年〔703〕十二月癸酉〔17〕。…謚曰大倭根子天之広野日女尊。是日。火葬於飛鳥岡。
壬午〔26〕合葬大内山陵
 明治時代にこの文書を発見したときに「金銅桶」は火葬された〈持統〉の遺骨が納められたものと読んだことから、確実に「檜隈大内陵」だと判断されたわけである。 「納一斗」はそれに相応しい容積であろう。その容器の姿は言葉で表すことが難しいというから、高度な彫刻が施された美術品だったのであろう。
 ただ『阿不幾乃山陵記』には、これが骨納器だということは一切書かれておらず、実際には読み手による解釈である。
 なお、〈持統〉太政天皇の火葬、合葬についての記事はの通り。
《礼盤》
 礼盤らいばんは、仏前の修行における導師の台座。 おそらく金銅骨納器の置かれた台が、それに似ていたのであろう。
《クリカタ》
 刳り型は、器物などのえぐった曲面。あるいは継ぎ目を覆う装飾部品をいう。

まとめ
 〈舒明〉陵、〈斉明〉陵、〈天智〉陵、〈天武〉〈持統〉合葬陵、〈文武〉陵が八角墳であったことはほぼ確実となっている。 そして、〈天武〉〈持統〉が合奏された檜隈大内陵には乾漆棺と骨納器が納められていたはずである。 『阿不幾乃山陵記』によれは八角墳の「内陣」に朱塗御棺と鼓型の一斗金銅器があったというから、これが檜隈大内陵であろう。
 明治時代に『阿不幾乃山陵記』の公表を直接の契機として檜隈大内陵を野口王墓古墳に治定し直したが、その根拠は本質的には「阿不幾山陵」と「青木」、「里号野口」と「野口村」の地名考証によるものであった。
 本当の意味で確定したのは2013年のことで、その年に宮内庁が実施した過去の調査の結果が明るみに出たことによる。 そこで初めて野口王墓古墳の「八角墳」と「五段構成」が確認され、『阿不幾乃山陵記』に記載された「陵形八角」そして「五重也」と一致することがやっと確かめられたのである。


2026.01.02(fri) [87] 『考課令』の概略 
【考課令】
 『令義解』は養老令の解説書で、養老令に逐条的に解説を加えた書。これによって養老令自体の文面が得られるが、その内容は概ね大宝令に近いと考えられている。
 ここでは、その中の「考課令」について、その概略を見る。
 「考課令」の書き始めは、次のようになっている。
凡内外文武官初位以上、毎年当司長官考其属官考者皆具録一年功過行能。…
  〔中略〕
凡官人景迹功過、応考者皆須実録…〔以下略〕
 考課は、「」、「」のポイントを組み合わせて人物のランクを定めるものである。 その優劣を議り九等のいずれかに定めよ、八月末日までに校定を終えて、畿内は十月一日、七道は十一月一日までに太政官に送るべしと規定されている。
 そして、人物の「景迹功過〔行状の功績と過失〕は事実に基づいて行うべし、その校定はその人の身分の昇降に直結するから功過を隠すなと付言されている。
《善》
 は、その人の人柄としての道徳性を評価するもの。次の4項目がある。
徳義有者、為一善
清慎顕著者、為一善
公平可者、為一善
恪勤匪懈者、為一善
恪勤…まじめに務めること。精勤とも。
匪懈…怠らないこと。
 これらはポイント制で、すべてを満たせば「四善」が得られる。
《最》
 については、それぞれの職務ごとに固有の判断基準が示される。
最条
神祇祭祀不常典、為神祇官之最
献替奏宣議務合理、為大納言之最
-付庶務処分不滞、為弁官之最
 ……
 いずれも、さもあらんと思われる。
 続けて、以下の職務についてどのようにすればが得られるかを列挙する。ここでは職名を挙げるにとどめる。
中務、式部、治部、民部、兵部、刑部、大蔵、宮内、弾正、主膳、衛府、雅楽、 玄蕃、主計、出税、馬寮、兵庫、侍従、監物、内舎人、次官以上、 考問、判官、諸官、主典、文史、内記、博士、方術、暦師、市司、解部、太宰、国司、国掾、 防司、関司
 これらのうち、特徴的な職務を拾うと、
・「於修置於出納、為大蔵之最」。 何といっても、出納は明白でなければならない。
・「-崇礼教-断盗賊、為京職之最」。 京職に与えられた重要な任務は、宗教活動の推進と犯罪取り締まりであったことがわかる。
・「音楽克諧不節奏、為雅楽之最」。 すなわち音楽を諧(かな)うことを身に着け、節と奏(舞うこと)を失敗しなければ「最」が得られる。
・「訪察精審庶事兼挙、為判官之最」。 裁判は「精審」でなくてはならない。
 また、特に「諸官之最」は職務の特殊性に関わらない一般的な最である。
・「公勤不怠職掌无闕、為諸官之最」。 これによって、職務固有の最とあわせて一人が複数の最をもつ場合があり得ることになる。
《九等評価》
 以上ののポイントによって、上上から下下までの九等に評価される。
一最以上有四善上上
一最以上有三善或无最而有四善上中
一最以上有二善或无最而有三善上下
一最以上有一善或无最而有二善中上
一最以上或无最而有一善中々
職事粗理善最弗中下
愛憎任情処断乖下上
公向私職務廃闕下中
官詔詐及貧濁有下々
〔一最以上で四善あれば、上上とせよ。
一最以上で三善ある、或いは最がなくとも四善あれば、上中とせよ。
一最以上で二善ある、或いは最がなくとも三善あれば、上下とせよ。
一最以上で一善ある、或いは最がなくとも二善あれば、中上とせよ。
一最以上、或いは〔最がなくとも〕一善あれば、中中とせよ。
職務を概ね行うが善・最を聞くことなければ、中下とせよ。
愛憎を心に任せ処断が理に背けば、下上とせよ。
公に背き私を優先し職務を廃し欠けば、下中とせよ。
官にありながら詔を欺き、貧じて濁ることあれば、下下とせよ。
最\善四善三善二善一善善无
一最以上上上上中上下中上中中
无最上中上下中上中中中下~下下
 まとめると、右の表になる。前述したように「諸官之最」があるから一人で二つの最をもつ場合があり得るが、 のポイントは1のみである。
 それに対して、は最大4ポイントをもつことができる。
 最・善がともに「〔=無〕のものは、その行状によって中中から下下のいずれかに定められる。

まとめ
 この判断基準によれば、とにかく真面目に落ち度なく勤めさえすれば、「諸官の最」または「恪勤匪懈の善」のいずれかは得られそうだから、ランクは中中以上となろう。
 また「下中」の「公向私職務廃闕」は、私事を優先して出仕しない日が多い意味と考えられる。 ここに〈持統〉四年詔が、五等~九等の範囲の判定基準を「上日〔出仕した日数〕とした名残が感じられる。