古事記をそのまま読む―資料12 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2023.02.10(fri) [71] 生国魂社 ▼▲ |
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【生国魂社】 生国魂神社は神武天皇が創始したといわれるが、記紀にはそのような記述はない。 記紀にあるのは、〈孝徳天皇記〉の原注の「生国魂社」のみである。 現在の「生国魂神社(いくくにたまじんじゃ、いくたまじんじゃ)」の所在地は、大阪市天王寺区生玉町13、祭神は生嶋神(いくしまのかみ)・足嶋神(たるしまのかみ)の二柱とされる (大阪市公式/生国魂神社) 《摂津志》 摂津志(『五畿内志』摂津国)は、「難波坐生國國魂神社」の項で、次のように述べる。
『延喜式』〔927〕には、生国魂神社に比定される神社名が、三種類でてくる。 まず巻第三の〈名神祭二百八十五座〉の項に「難波生国魂神社二座」、〈祈雨神祭〉の項に「難波大社二座」とあり、 また巻第九「神名帳」には{摂津国/東生郡/難波坐生国咲国魂神社二座。並名神大。月次相甞新甞。}とある。 〈神名帳〉の「咲」は、音サクをあてたとすれば、避(さ)く=この世を去る意かも知れない。だとすれば、「イク」との対応はよい。 しかし、「咲」は『類聚名義抄』では、まだワラフ・ヱムである。やはり「咲」は「足」の誤写なのかもしれない。 〈摂津志〉は、これを衍字と見たようである。 《先代旧事本紀》 『先代旧事本紀』から〈摂津志〉が用いた部分の原文は、次の通りである。
しかし、一般に「生国魂神社は神武天皇が創祀した」といわれるのは、これらの記述に基づいたものであることが分かる。 なお、これらの記述が宮中の祭祀の起点を、神武天皇まで遡らせた伝説であるのは明らかである。 まとめ 現在の祭神は生嶋神(いくしまのかみ)・足嶋神(たるしまのかみ)だが、〈延喜式〉には「足国魂神」という名前は出てこない。 しかし祝詞には生国・足国が対となっており、 また〈神名帳〉信濃国に{信濃国/小県郡/生嶋足嶋神社二座}があり、生嶋神・足嶋神の組み合わせもまた自然である。 想像ではあるが、もともと古くから地名イクシマがあり、それは八島(八洲)の総称でイクシマニマスカミがその地神であった。 そこに祝詞の生国・足国が二柱の神名に転じて、生嶋神に習合したのではないだろうか。 別の考え方としては、古くは半島であった上島台地の周りの海にイク島とタル島があり、それぞれに神がいた可能性もある。そして半島から陸が繋がった。 祝詞のイククニ・タルクニという言い回しの方が後で、これらの島の名から生まれたのかも知れない。 |
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2023.10.11(wed) [72] 郡の推移~陸奥国及び出羽国 ▼▲ |
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延喜式や倭名類聚抄に載る郡のうちには、近代までそのままの名が残っている郡も多い。 一方、陸奥国、出羽国の北部には、延喜式後に新たにいくつかの郡が置かれた。そこはもともと国外の地で、蝦夷と呼ばれた。 また、延喜式当時の郡でもその後隣接する郡に吸収されて消滅したり、分割により新たに生まれた郡もある。 ここで、陸奥出羽両国の郡の推移を概観する。とくにその北辺については、蝦夷地域の国内化の過程を明らかにする点で意義がある。
【岩代国】 陸奥国は〈延喜式〉で全三十五郡〔倭名類聚抄では三十六郡〕あり数が多いので、 便宜的に明治元年に分割された国名により項目を区分した。 1869年※)に陸奥国を分割し、岩代国・磐城国・陸前国・陸中国・陸奥国が設置された。 出羽国は、羽前国・羽後国に分割された。 ※)…明治元年十二月七日(天保暦)=1869年1月19日(グレゴリオ暦)。 なお、明治四年には廃藩置県によって府県制が成立し、行政区分として意味をもった期間は短い。 しかし、陸中海岸国立公園、陸前高田市など地域名として幅広く使われている。
【磐城国】 磐城国は、1869年に陸奥国を分割して設置された。
白河郡から高野郡が分離したのは〈倭名類聚抄〉に近い時期と見られる。その他の分立は中世以降。
【陸前国】 陸前国は、1869年に陸奥国を分割して設置された。
《続紀》 色麻郡などについて、続記に次の記事を見る。
延暦八年の勅では「田祖免」の対象郡のうち「富田郡」は、延喜式以前の平安初めに色麻郡に吸収された。〈後紀〉延暦十八年〔799〕三月辛亥「陸奧国富田郡併色麻郡。讃馬郡併新田郡。登米郡併小田郡」。 「登米郡」もこのとき小田郡に吸収されたが、〈延喜式〉までに再び分離した。「讃馬郡」も一時期存在したらしい。 しかし、登米郡、讃馬郡は延暦八年「田祖免」の対象ではないから、まだ郡の設置は名目に過ぎず、実質(租税・戸籍の機能)を伴っていなかったと考えられる。 また、さらに北にあるはずの栗原郡、桃生郡の名が見えないことにも注意を払わなければならない。 このニ郡はまだ存在しなかったのだろう。つまり、朝廷の国の北限は玉造郡、長岡郡、新田郡、小田郡、牡鹿郡のラインにあったことが浮かび上がってくる。 その防衛ラインは、天平九年時点の玉造柵-新田柵ー牡鹿柵から一歩も進展していない。 延暦八年に「田祖免」された十郡は日本軍と蝦夷が入り乱れて戦い、田畑が踏み荒らされたのであろう。 つまり、十郡はむしろ防衛ラインを突破されて、戦場になってしまったと考えられる。少なくとも軍営が置かれて、耕作に立ち入れなかったのであろう。 なお、このラインは当時のアイヌ人の居住境界としては南に過ぎ、「蝦夷」は統制のとれた軍隊組織であったことが伺われるので、倭人の反中央勢力かも知れない。 延暦八年の戦争は「巣伏の戦い」と呼ばれ、蝦夷側の首謀者は「阿弖流為」であった(〈続紀〉延暦八年六月甲戌)。このときの「蝦夷」アイヌ人説、倭人説の論争の決着はついていない。
【陸中国】 陸中国は、1869年に陸奥国を分割して設置された。
〈後紀〉の原文を見る。
そもそも蝦夷を退けて得た領地は、一路拡大とする方が不自然である。時代の経過につれて進んだと思えば、後退もあった。 前述の陸前国の玉造郡-桃生郡ラインについても、そのはるか北方に前方後円墳が存在した(角塚古墳;6C初頭、丹沢郡〔岩手県奥州市胆沢南都田〕))。 一時朝廷勢力が占拠したとしても、その後反朝廷勢力に転じたり、あるいはアイヌの居住域に置き換わることなど、いくらでもあったであろう。 【羽前国】 羽前国は、1869年に出羽国を分割して設置された。
よって、和銅五年の時点では蝦夷を田川郡〔あるいは飽海郡〕と最上郡の北に押し出したようである。 再び阿弖流為一族アイヌ説について考えると、出羽国成立から約70年後になっても、対アイヌラインが最上郡と同緯度の玉造郡に留まっているのはやはり疑問である。 【羽後国】 羽後国は、1869年に出羽国を分割して設置された。
出羽柵、秋田城について、〈続紀〉に次の記述を見る。
このことから見て、〈斉明朝〉における齶田郡はともかくとして、渟代郡、津軽郡の存在については極めて特異な事象というべきで、その実態については慎重な検討が必要である。 【陸奥国(明治)】 陸奥国(明治)は、1869年に陸奥国を分割して成立した。
渡島は、後の時代には北海道南西部を指すが、平安時代には津軽の先の本州最北端「外浜」を指すと考えられている。 この津軽、北浜地域は〈延喜式〉の時点では律令郡ではない。依然として蝦夷の独立地域であり、藤原保則はうまく国境紛争を収め、講和したと見られる。 三代実録の「帰慕聖化」は、その「講和」を朝廷に服属した如くに表現したものであろう。 平和共存して交易もある関係ならば、「帰順した」と言っておけばよいのである。 ただ、一定の実利と引き換えに、実際に名目的な服属を誓わせた可能性もある。中国が周辺国を形式上の冊封国としたのと同じである。 しかし、真の行政区画としての郡の成立は、鎌倉時代を待たねばならない。 〈青森県史〉は次のように述べる。
【延喜式】 〈延喜式〉巻第二十二「民部上」に載る郡名と、同巻第十「神名下」の郡名とを対比する。「ー」は郡名なし、すなわち式内社の存在しない郡。 ◎陸奥国
※2…同じくp.353は「亘理郡」。頭注に「亘、林貞ニ本作日、蓋曰之誤」〔"亘"、林・貞両本で"日"に作る、けだし"曰"の誤り〕。林本、貞亨本ともに慶長本系の写本。
◎出羽国
まとめ 出羽国側(日本海沿岸)の朝廷国家の進出については、708年に越後国を広げて出羽郡とし、さらに712年に田川郡のあたりまで進出したところで出羽国として分離した。 780年の時点では、秋田城を蝦夷に備えて増強するから、秋田郡が北限である。 878年には、秋田郡で大人しくしていた蝦夷が津軽以北の蝦夷と一体になって乱を起こしたが、なんとか鎮撫した。 以後、延喜式(928年)になっても最北ライン=秋田郡に変化はなく、それより北に郡を置くのはようやく鎌倉時代になってからである。 陸奥国側(太平洋沿岸)では、737年には玉造柵ー牡鹿柵ラインが朝廷国家の北限である。 しかし、789年にはこの防御ラインを越えて攻め込まれている。 811年には斯波郡、蘇縫郡、和我郡を設置したが、その後失われ、延喜式の時点では丹沢郡ー気仙郡ラインが北限である。 陸奥国側の北限は、出羽国側よりかなり南なので「蝦夷」はアイヌではなく、和人の反朝廷勢力のように思える。 和賀・閉伊以北の郡の設置は、おそらく12世紀以後であろう。 〈斉明朝〉の「齶田郡、渟代郡、津軽郡」は、朝廷が管轄する「郡」を設置した如く装うが、 実際には現地の蝦夷と友好関係を結んだ程度のことではないかと思われる。しかし、さらに精密な検討を期したい。 |
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2024.04.15(mon) [73] 野中寺弥勒菩薩半跏像銘文を読む ▼▲ |
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今回、これまでの説に捉われることなく、原点に戻ってその読み方を求めた。 【野中寺】 銘文のある弥勒菩薩半跏金銅像は、野中寺(やちゅうじ)〔大阪府羽曳野市野々上5丁目〕は、 「聖徳太子が建立した46寺院のひとつで、太子の命により蘇我馬子が造ったと伝えられ」るという(羽曳野市公式/野中寺) 『朝日百科 日本の国宝3』〔朝日新聞社1999〕によると、 右側に金堂、東側に三重塔を置く法隆寺式の伽藍配置が明らかになっている(p.151)。 また、野中寺や治部省担当者と船連との間には深い繋がりが伺われ、野中寺はこの地に住む「船連」の氏寺であったと考えられる(推古十一年《船氏》)。 《弥勒菩薩半跏像》 野中寺には「弥勒菩薩半跏像」は金堂像で、高さ18.5cmである。 その台座を一周して縦書きで各行2文字を31行、全六十二文字が刻字されている。 そこに記された「丙寅年四月」の「八日癸卯」が〈天智〉天皇五年〔666〕に該当することから、 同年に作られたものと一般に考えられている。 また、銘文中の「中宮天皇」が果たして誰を指すかは、議論の的となっている。 ここでは、その銘文の読み方を検討する。 【弥勒菩薩半跏像銘文】 まず、銘文の字そのものを確認しよう。 下図は銘文の写真を画像処理して、その線刻跡がはっきり分かるようにコントラストと明度を調節したものである。
●「旧」は「𦾔」の新字体であるが、この時代に「𦾔」として用いることはないだろう。 他に「泪」説も見るが、鍍金のめくれを見れば明らかに縦線一本で、サンズイとは言えない。 「日」の字体は、むしろ「月」に近い。 これを、朔の略字とする説を多く見る。これは、確かに考え易い。 このときの丙寅年の四月は大の月で、「大の月の朔から八日」と取れないことはないからである。 しかし、「四月大朔八日」という表し方は、他に例を見ないので、なお確信はもてない。 とは言え、この問題は保留してもこの日が「四月八日」であることに間違いはないだろう。 この日は、灌仏会〔釈尊の誕生日〕にあたる。
ただ、岡山県総社市南溝手に「栢寺廃寺跡」があり、「白鳳時代に創建」とされる(岡山県公式/栢寺廃寺跡)。 備中国の寺院から高僧118人が野中寺を訪れたとしても、それを一概に否定する理由はないだろう。 もちろん、畿内にかつて同名の寺があったことも十分考えられる。 【中宮天皇】 一般には、この銘文は「栢寺智識〔=智識をもつ高僧〕」が「中宮天皇」の病気の平癒を請願してこの「弥勒御像」を奉ったと解されている。 しかし「中宮天皇」の不自然さは否めない。まずは「中宮」の本来の意味を探ろう。 《記紀》 記紀には、皇后、太后、夫人を「中宮」と呼ぶことはおろか、「中宮」という語そのものが見えない。 《令義解》 『令義解』では、「中務省」に 「中宮職:大夫一人。亮一人。大進一人。少進二人。大属一人。少属二人。舎人四百人。使部卅人。直丁三人」となっている。 『令義解』が付した「中宮」への解説は「謂二皇后宮其太皇大后皇大后宮亦自中宮一也」 〔皇后の宮を謂ふ。其の太皇大后・皇大后宮、亦自中宮也〕。 すなわち、中宮とは皇后や太后などが居住する宮殿のことで、そこに仕えるのが中宮職であるという。 職〔ツカサ〕は、省の下部組織のひとつ。 大夫・亮・進・属は職における四等官の表記で、〈倭名類聚抄〉によれば、それぞれカミ・スケ・マツリゴトヒト・サクワンと訓む。 《続紀》 「中宮」の〈続紀〉での初出は、養老七年〔723〕正月丙子「天皇御中宮」である。 当時の〈元正〉天皇は女帝であるが、皇后になったことはない。 〈聖武〉が即位した後の初出は、神亀元年〔724〕十一月庚申「賜宴於中宮」である。 以後、僧に読経させたり、冠位を授けたり、饗したり、恩赦を発したりしているから、中宮は公的行事のための施設である。 よって、これらの文中における「中宮」は、皇后の宮殿とは言えない。 中宮職については、中宮大夫の初出は天平九年〔737〕「中宮大夫兼右兵衛率正四位下橘宿祢佐為卒」〔佐為(人名)の死去〕である。 天平勝宝六年〔754〕「大皇大后崩二於中宮一」の場合は、大皇大后〔藤原宮子、〈文武〉夫人〕の居住域である。 天応元年〔781〕五月乙亥「始置二中宮職一」がある。これについては、天平九年の「中宮大夫」との関係をどう見るかという問題がある。 延暦三年〔781〕十一月甲寅「皇后遭母氏憂。不レ従二車駕一。中宮復留二-在平城一」。ここでは「中宮」は人の呼称で、桓武天皇の母の高野新笠を指す。皇太夫人。薨じた後に贈太皇太后。 この文章では皇后は中宮とは呼ばれず、中宮は皇太夫人を指す。 「日本上代の「中宮」について」〔寺田恵子〕によると、 宮子については一周忌の花籠銘に「「中宮齋會花莒天平勝宝七歳七月十九日東大寺」(圓形花籠・底裏墨書)」と記されていたとある。 上記〈続紀〉天平勝宝六年にも宮子が「中宮」と呼ばれていたのは間違いないだろう。 よって、皇后とは無関係で宮殿内の施設としての中宮と、太后の居住域としての中宮があったと見られる。 そして、人への呼称としての「中宮」は8世紀半ばから太后に用いられたと見てよい。 《人への呼称》 宮殿の名称が、その主をも表すようになるのは自然である。高貴な人に対しては、直接その名を口にすることを憚る心理的な機構によると思われる。 帝(ミカド)が「御門」に由来することはよく知られている。 8世紀後半には太后が中宮と呼ばれたようだが、『令義解』〔833〕では基本的に「皇后の宮」となっているから、 9世紀には皇后も中宮と呼ばれたと見られる。 しかし、天皇が中宮と呼ばれることは決してなかった(ア)のは明らかである。 【銘文の読み方】 《銘文成立時期》 「中宮」が人への呼称になったのは8世紀半ばだから、 弥勒菩薩半跏像銘文が線刻されたのは8世紀半ば以後と見られる。 「丙寅年」は、昔から言い伝えられていたことをこの時期になって刻んだことになる。 もちろん天皇号も、666年にはまだ存在しない。 《中宮天皇の読み方》 上述アによって、「中宮天皇」を一語として読むことは著しく不自然である。 よって、「中宮」と「天皇」と切り離すと、次のように読むことができる。
また、奈良時代半ばには、中宮は太后を指したと考えられるから、 その時期に作成された銘文において、間人太后を「中宮」と表現した可能性は十分ある。 銘文をこのように読んた場合、次のストーリーが想定される。
「開記」は、間人皇后を記念する寺として改めて野中寺が開かれたこと、あるいは弥勒菩薩半跏像が初めて公開された経緯を記すという意味に読むことができる。 「詣」は、まさに栢寺智識の一行118名が詣でたということであろう。 通説は、この「開」と「詣」を見過ごしたように見える。 野中寺が間人大后を記念する大寺になったことは、かつて无子の皇后のために御子代が設置されたことに通ずるものがある (第170回の八田部)。 間人大后も无子であった。 〈天智〉四年三月条の「為二間人大后一、度二三百三十人一」は、まさに野中寺の僧の増員を指すと思われる。 【残された問題】 一般には野中寺弥勒菩薩半跏像は666年に作られたとされている。 しかし、それを疑問視して、製作年代はもっと下り7世紀末~8世紀初頭とする意見がある 「野中寺弥勒菩薩半跏像の再検討」〔礪波恵昭〕。 〈孝徳〉の崩は654年で、間人皇后の快癒祈願によるとすれば製作時期はさらに12年以上遡るので、乖離はより大きくなる。 銘文中には666年とあっても、実際に刻字されたのは8世紀半ばであろうから、 その弥勒菩薩像に請願云々の言い伝えがあったとしても、実は別の像である可能性は否定できない。 仮に654年頃に作られたとものだとしても、そもそも仏像製作は個人の技である。 様式の移行は年表に定規で線を引くような単純なものではなく、同時期に新旧の様式が共存するのが当然である。 たまたま一人の工人が周囲と異なる技法を用い、結果的に未来の様式を先取りしていることもあり得よう。 まとめ 藤原宮子の一周忌の花籠銘において、宮子が「中宮」と表記されていたことを見ると、8世紀半ばにおいて上后・皇太后を「中宮」と表現することはかなり一般的であったと考えられる。 よって当時の人が「中宮天皇」という字の並びを眼にしたとき、中宮と天皇の間に暗黙の句読点が見えたのは共通感覚ではないだろうか。 試しにそのように区切ってみたところ、結果的にとてもうまく読むことができたのである。 弥勒菩薩半跏像の寸法18.5cmも、間人皇后が身近に置いて祈るのに相応しい大きさである。 通説のように118人もの高僧が天皇の為に奉納したのなら、もっともっと大きな像になるのではないだろうか。 銘文などを読むとき、字面だけではなくその背景にある人の営みの息吹を描いてみると、自ずから見えて来ることは多いと思われる。 |
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2024.05.20(mon) [74] 高安城の探索 ▼▲ |
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高安城の実際の姿は、あまり明らかになっているとは言えない。ここでは、その探求の歴史を辿る。その際過去の研究については、なるべく原著作物を参照するよう努めた。
高安城については、〈天智紀〉六年〔667〕に築城の記事があり、最後の記録は〈続紀〉和銅五年〔712〕である。 江戸時代には、『五畿内志』河内国/高安郡は「高安故城:在服部川村上方続呼信貴出城」と載せる。 よって、かつて松永久秀の信貴山城の出城が高安山にあったという認識はあったようである。 外郭線の推定は大正時代になってから始まり、その嚆矢は関野貞による探査であった。
【礎石建物群の発見】 その後、外郭線説は時々見られたが、基本的に地形や地名などによる推定であった。 始めて高安城が存在した物質的根拠が得られたのは、礎石倉庫群の発見によるものであった。 先にその経過を見る。 《朝鮮式山城》 〈天智〉二年〔663〕、王を失った百済遺民が再興を期し、倭国はその救軍として船師が派遣し、白村江で唐軍と合戦に及び完敗した。 百済の王族は倭国に亡命し、恐らくその進言もあって唐・新羅の渡海攻撃に備えるべく西日本各地に城が築かれ、百済の築城術を用いたと見られることから朝鮮式山城と呼ばれる。 書紀、続紀には大野城及び基肄(きい)城(筑前)、長門の城、金田城(対馬)、屋島城(讃岐)、高安城(大和)などが見える。 そのうち高安城については、大野城や金田城のような明瞭な石垣が発見されず、その実像は長らく謎のままであった。 その探求については、〈榑松79〉が「高安城の研究史は意外に貧しく、正攻法で問題にした論説は関野貞(大正7年)〔1918〕、京谷康信(昭和7年)〔1932〕」そして榑松静江自身〔1978〕程度であった。 《礎石建物の発見》 そのような状況下で、1976年に設立された大阪府八尾市の市民グループ「高安城を探る会」は、1978年の探索会で規則正しく並んだ石を発見し、それは明らかに礎石建物の跡であった。 全部で六棟発見され、その後の奈良県の「高安城跡調査委員会」による調査により、これらの建物は奈良時代に建ったことが明らかになったが、高安城の実在を初めての物質的に裏付けたものであった。
《2号建物》 〈奈良県概報81〉によると、2号建物の規模は「3間×4間で中間寸法は梁行7尺(210cm)、桁行は東西の両側1間分が230cm、中央2間分が210cm」という(p.386)。 ただし、桁行については、後の調査で3号建物が「2.2mの等間隔であることが確かになった」ので、 「第2号棟でも再度確認したところ2.2mの等間隔としても妥当である」と考えられるに至った(〈奈良県概報82〉p.283)。 〈奈良県概報81〉に戻ると「建物中央礎石据え付け穴からは、土師器の杯、皿、鉢、羽釜などが出土」し、「礎石据え付けの経過」は 「①地面に礎石据え付け穴が掘られ、穴の底にあつさ約10cmほど土が入れられる。②礎石が穴に据えられる。③礎石据え付け穴は大量の土器と、土とで埋め戻される」というものであった(p.387)。 出土遺物は、「平城京左京一条三坊十五坪、十六坪で…和銅6年〔713〕から養老7年〔723〕の木簡とともに出土する土器」 などに類似することから、遺物は奈良時代前期に比定され、2号建物は「奈良時代前期に築造されたと考えられる」という。 その出土遺物の意味については、中央礎石を「据え付けた後、いまだ掘り方内を埋め戻す前に大量の土器を入れているので」、「地鎮に関するものとみても大過ないであろう」との見方を示す(p.389)。 《3号建物》
新聞記事には、その掘立て柱について、橿原考古学研究所は「大きく張り出した屋根を持ち、それを支えるために…礎石柱の外側に掘っ立て柱を備えた」との見立てを示したと述べ、その想像図が示されている(同p.22)。 〈奈良県概報82〉には「我々はこの掘立柱遺構について…①縁の杷柱〔縁側のようなつくりの足〕、②庇〔ひさし〕の支柱、③甲倉の柱」について検討したとある。 その結果、①については「倉庫の四方に縁が付くことは常識外…杷柱とするにはあまりにも柱が太く、深く埋め込まれている」。 ②だとすれば「庇がかなり深かった」ことになる。その理由は「高安山中のように高所で山の深いところでは雨が多く、湿気も多い。また冬等でが雪等が多かった」から、「長い庇を支える柱が必要になった」のであろう。 ③の甲倉は「二重倉」、すなわち「礎石を使用した倉建物の外側に掘立柱の覆屋を立てた」とするもので、これも「湿気から守るためのもの」、すなわち②または③を推している。 〈天武紀〉には、高安城の倉を「秋税倉」と表現していることを見ると、税として集めた大量の米を万全な状態で保管する必要があったのは確かである。 ②と③を実際に作って米の保管状態を調べる実験をしてみるとよいかも知れない。 《礎石建物群の位置》 〈幻の高安城3〉の図に示された礎石建物群の位置を、地理院地図と赤色立体地図の上に落とした。 高安山古墳群(後述)も併せて示した。
しかし、〈奈良県概報81〉は他の箇所でも「2号建物と1号建物の間には、この場所の小字名となっている金ヤ塚がある。規模は径15m、 高さは1号建物の平坦面から0.6m、2号建物の平坦面から1.2mである」と述べている(p.386)。 近代の字の境界では金ヤ塚古墳は字クズレ川の中にあるが、古い時代には古墳「金ヤ塚」に由来する地名金ヤ塚の範囲は、今より広かったのであったのだろう。 さて、現在のところ高安城の存在を確実に裏付ける物証はこの礎石建物群のみである。 大野城で明瞭に見える石塁・土塁のようなものは、高安城には見えない。 【書紀・続紀に見える高安城】 石塁・土塁の探索の歴史を見る前に、まず書紀と続日本紀に出て来る高安城を見ておく。
〈日本の道と駅〉は、「難波大道が南北に通り、これに直行して東西方向に、北から…磯歯津路に比定した近世の八尾街道、…大津路に比定した近世の長尾街道、…多比路に比定した竹内街道などがある」(p.74) 「高安城は城名に河内国高安郡を負うが、大阪湾岸からの侵攻に備えたもので、河内平野を見下ろす地点に在り、 壬申の乱でここに大和側から攻めて占拠した大海人皇子軍は、大津・丹比糧道を進む近江軍を望見している」と述べる(p.75)。 その大津道の経路は、右図の位置と見られる。 したがって、「高安城」は、高安山を含むと考えられる。 701年に廃されながら、712年に〈元明〉天皇行幸の記事がある。 これについては、礎石建物の地鎮祭遺物と見られる土器が〈元明〉行幸の頃であることを考えると、701年には軍事的脅威が薄らいで軍備機能を一旦廃止したが、新たに徴収米貯蔵倉庫群としての再利用されるようになったということではないだろうか。 【関野貞説】 〈幻の高安城5〉は、高安城外郭線について関野貞説、 古川重春説、そして榑松静江説を並べて比較検討している(pp.156~164)。 そこで、三説それぞれの出典にあたり、現在の地図上にその位置を示した。また、大野城では城壁線が明確に稜線に沿っているので、 地形との関係を見るために赤色立体地図〔〈天智記〉《築城於長門国》項参照〕上に表した。
〈関野18〉(大正七年〔1918〕の奈良県史蹟勝地調査会報告)によると、関野貞は 「大野肄屋嶋の諸城址を調査して其形式の全く古代朝鮮式なるを知りたり機会あらば当時最後の防禦地なる高安城の址跡を 探検せんこ〔と〕を企て」て、高安城跡の調査を実施した(p.4)。 河内志、通証などには、「従来高安城の位置に関し深く研究せしもの無く其址跡亦随て確かならず」というのが、当時の状況であった(p.10)。 踏査は、王寺駅から出発し、途中「今大門と称するよしを村民より聞きたり」、そこから本堂を経て谷川沿いに下り、「上池の上流」に達した。 その地点は「地形上防御線が此〔の〕谷の口を扼するに最適当と思はるゝ処」で、現在のとっくりダムの辺りを指すと見られる。 最終的に「城壁の如き者を発見せず」、その理由は「大野城椽城の如き皆城壁が谷を横断せる所は城の最弱点に当たれるにより必ず石築の城壁を以て之を防護したれども 此谷川は両眼狭隘にして断崖をなせる所多く到底多数の兵を通すべからず自然の険隘に拠り自ら城をなしたれば彼等の如く 石築の城壁を設くることは必ずしも緊要ならざりし」故と解釈している。 踏査の結果、「余の当初の予想防備線は固より朝鮮式山城の形式を見へたれども少しく広きに過ぐるが如し」、 「大宰府の大野城は大規模なれども東西径及び南北径約十六町〔1744m〕 …最初の予想防備線に依れば東西径約二十一町〔2289m〕南北径約十六町となり… 数万の大軍を以てするにあらざれば守禦却て困難となるべし」、よって「修正防備線」とすれば、大野城とほぼ同じとなると述べる。 谷門、古門という字名については、「昔時城門の立ちし処なるが為めなるべし 地形上決して朝護孫子寺若しくは信貴山城の門のありし処とは想像すること能はざるなり」と見る(p.8)。 敵が筑紫、屋嶋の防御を突破して難波堺から「大和中原」を目指した場合、 「高安山は厳然として其〔生駒・高安の鞍部と竹内峠方面の〕中間に峙ち西南敵に対する 方面は山勢急峻にして登攀し易からず而るに河内の平野を距てゝ大阪より境に至る海岸並びに瀬戸内海の一部を俯瞰することを得べく内には広き溪谷を包容して兵舎倉庫を置き 且大軍を屯するに適し四周の峯巒〔=峯〕廻合して自然の城郭をなせり」という(p.9)。 結論的には「単に修正防備線の僅少なる一部分に止まり且時恰も盛夏に際し草樹繁茂充分の調査をなすこと能はざりしにより余等は終に城壁に類似せる者を発見せざりしも 其有無は更に実地に就き充分の調査を遂ぐるにあらざれば断言すべからず他日幸に城壁の遺址を発見するに至らば余の比定は始めて具体的に正確なりしことを証明せらるべし」、 「而も終に発見すること能はざる場合ありと仮定せば如何に之を解すべきや思ふに当初単に低き土壁を設けしが為め長年月の間に攘夷するに至りしか若しくは 或事情の下に唯自然の地形に頼りて直ちに防備線となし姑く城壁を築かざらしならんと想像するなり」 〔調査は単に修正した城壁ラインのごく一部分に過ぎず、盛夏の草木繁茂により充分にできず、城壁に類するものは終に発見できなかった。 将来城壁遺跡が発見できれば、私の予想ラインは実証されよう。 しかし、遂に発見されなかったとすれば、当初は低い土塁が設けたが長い年月の間に破壊されたか、 何らかの事情により差し当たっては自然の地形で充分と考えられ、すぐには城壁を築かなかったものと想像される〕と述べている。 結局、石垣や土塁は発見されなかった。 関野貞の描いた城壁ラインは、ただ軍事上有利な地点である高安山と、大門・谷門・古門という小字名の残る地点を結ぶ稜線を想定して描いたものである。 また、後日発見された礎石建物群が、関野貞説の示す外郭線の外側にあることに留意せねばならない。 【古川重春説】 古川重春〔1882~1966〕は建築家で、大阪城復興天守を設計した(大阪市公式/昭和六年大阪城天守閣復興に係わる設計原図等関係資料)。
しかし、「高安城の今日までの調査では、築城当時〔〈天智〉六年〕の土壁や、石塁らしいものも未だ発見されていない」、 「現に遺されてゐる高安山の土塁、隍などの形跡は、天正五年に落城した信貴山城の遺址とも見られてゐる。 推定された古の高安城の城域は、長径約〔=凡〕そ十五町である、 その城内に古門、谷門、大門、大門池、馬場、北矢倉、南矢倉の地名を遺していゐるが、之れを悉く古の高安城に因んだ名前とも考えられない。 例へば北矢倉、とか南矢倉、谷門などの名は松永の信貴山城に因んだものと解されぬこともない」と述べる。 とは言え「土塁、石塁の存しないのは、年代が永いため消滅してしまつたか、左もなくば初より築かれなかつたのであるか確言は出来ないが、 他の山城に土石塁が築かれた以上、…構想近似の城塞と見れば土石塁の築造は当初より存在してゐたものと信じられる」との見解を述べる。 なお、城域内を通る「信貴山電鉄」は1930年に開業、1944年に休止、営業の再開なく1957年に廃止された。現在は道路に転用され、信貴生駒スカイラインの南端区間となっている。 【榑松静江説】
その外郭防禦線で囲まれた内部には、「哨戒台・烽台」、「倉庫群」、「」兵舎群」、「正門」を想定し(pp.28~32)、さらに入れ子になった城郭として「内郭」があり、その中心は信貴山「雄岳の頂上」であるという。 但し、そのほとんどが地名や地理的条件によって推定した候補地を挙げたのみで、実際に確認されているのは礎石建物群のみである。 なお、正門は本堂〔江戸時代の本堂村〕とし、小字名「古門」、「谷門」は、内郭に伴うものとする(pp.32~33)。 このようにして設定された外郭防禦線は広大であるが、未だ石垣・土塁が発見されていない。その点については、「高安城のように障壁性、要害性が強い地形構造であれば補強の必要がない」と述べる(p.17)。 但し、部分的には石垣が考えられ、「浸食谷には必ず水門があり、石垣が残存しているはず」で、 これについては「近傍の郡山城が建設され、大規模な石狩りが実施されているので、この時破壊された可能性が十分ある」と説明する(p.17)。 石垣・土塁がない多くの部分については単に「障壁性、要害性が強い地形構造」であり、そこに人工的な城壁が何も築かれなければ、単に自然の稜線に過ぎない。それは、戦闘の際に軍を配置する際の重要な条件ではあるが、単に地形をもって「山城の外壁」とは言わないだろう。 よって〈榑松79〉のいう「外郭防禦線」なるものは、長年切望されてきた大野城・金田城に類する石塁・土塁とは本質が異なることに留意しなければならない。 【外郭線の規模】
榑松静江説は更に広いが、それは「外郭防禦線」であって、石塁・土塁とは同一視できないことは前項で見た通りである。 【地名からのアプローチ】 《小字名》
しかし、実際には朝護孫子寺あるいは「本堂」に地名を残す廃寺の門とも考え得るので、慎重に考えるべきである。 ここでは、古い寺院、宮殿や屯倉に関わると考えられる地名まで拾い上げてみる。 右図では、城域想定地域周辺の小字名から、宮、堂、垣内、倉を含むものを示した 〔〈小字データベース〉による〕。 《垣内》 図中、Aの範囲は、東部に門や堂が存在したことを思わせる。 中央部には、垣内、宮が注目される。 垣内(カイト)は、上代はカキツといい、語源はカキの内側だが派生して「開発された田地や山野を含んだ地域」で、「田や池や谷などを含むかなり広大な地域をさしたようである」と考えられている(〈時代別上代〉)。 「民俗学では、開墾予定地を垣で囲んで示したのが最初の形で、村落共同体の最小単位の地域であった」という(同)。 Aでは宮を伴うので、宮を中心にして開墾した土地が垣内ではないかと想像される。 後の荘園ならば「~庄」となると思われるので、〈安閑〉朝に列挙された屯倉ではないだろうか。 乾・戌亥については、その屯倉から見て北西方向の農地が、そう呼ばれたのではないかと思われる。 これらの屯倉としての古い起源が考えられる農耕地は、高安城ができた後は軍の維持や貯蔵のための食糧供給を担っていたと考えられる。 北矢倉は高安城の施設かも知れないが、戦国時代も考えられる。 《字大門》
国土交通省近畿地方整備局が2013年発行に発行した〈さらさ13〉に大門ダム完成の記事があり、 そこには「ダム本堤から約100m上流のところに、約880年前に築造されたと言い伝えのある大門池が」あったとある。 その「堤体の老朽化が著しく…震度5弱の地震で破堤の可能性が指摘」されたことにより、新たなダムが築かれた。 断面図には「旧大門池堤体」は「搬去」とあるので、取り除かれたようである。 「1128年」とする根拠はまだ見つけられないが、その時から「大門池」と呼ばれたとすれば、この池が作られた時期の周辺地名は既に「大門」であったことになる。 〈榑松79〉は「高安城の構築に当って、〔農業用水と〕城堀との兼用もねらい大英断を振って大門川をせきとめ、大門池が構築された」と述べ、 すなわち高安城の時期まで遡るとの説を述べる(p.33)。 大門が、高安城の石塁・土塁の大門に由来するかどうかについては、《大門の由来》の項で改めて検討する。 《本堂》 一般に、大字本堂は、〈倭名類聚抄〉{河内国・大県【於保加多】郡・巨麻郷}の比定地と考えられている。 〈五畿内志〉下-河内国之六(大県郡)が「郷名:巨麻【已廃存二本堂村一】」については、 「大狛神社:在二本堂村一今称二山王一」とある。 すなわち、その地に大狛神社があることによって、巨麻郷を本堂村に比定したようである。 〈柏原市史〉が「巨麻郷:旧堅上郡に属した本堂である」と述べるのは、〈五畿内志〉に拠るものか。 〈大日本地名辞書〉は「巨麻郷:今堅上村大字本堂及鴈多尾畑なるべし、延喜式、大狛神社その本堂の生土神なれば也」と述べ、 やはり大狛神社の所在地という一方、大字本堂の南に接する大字鴈多尾畑までを広く巨麻郷に含めている。 〈続紀〉養老四年〔720〕に「十一月。乙亥〔二十七日〕。河内国堅下堅上二郡。更号二大県郡一。」〔訓みはカタノカミノコホリ・カタノシモノコホリと見られる〕とある。 オホ-がつくのは両郡を併せた意味で、かつ美称であろう。 〈柏原市史〉は「生駒山地は西に急傾斜であるが東は比較的なだらかでよく拓け」、「南北に分散する」小集落はどれも「谷間水田、畑作が主業」であるというのは、現在の信貴南畑一丁目の地域を指したものであろう。 ところが「本堂は極めて条件が悪」く、「一般的な歴史通念からすれば凡そ難解な諸条件の山上に一郷が建てられていることに少なからず興味を覚える」、 その上で「ここに一つ思い当たる事柄がある」、「宏大な」「高安城が築かれた」ことに注目する。 すなわち「外的侵攻に対して四天王を祀り祀願したと伝えられるが、これこそ信貴山朝護孫子寺の前身であろう。 このことは本堂と名付けられた集落名と無関係ではなかろう。本堂には「信貴山毘沙門天は、もと本堂にあった」と古くからの伝えがある」と述べる。
ただし、その廃寺跡はまだ見つかっていない。柏原市公式ページの柏原市内の遺跡・文化財マップには、この付近の遺跡はない。 《その他の「堂」》 「堂」のつく小字名がいくつかあり、これらも本堂との関係が伺われる。 ただ、堂ノ裏、堂の谷については、現在の朝護孫子寺に関係するものであろう。 一方、堂前、堂ノ下、本堂坂については朝護孫子寺とは離れ過ぎなので、廃寺のものであろう。 〈柏原市史〉が挙げた「朝護孫子寺の本尊の毘沙門天がかつて本堂の地にあった」という言い伝えを認めるなら、廃寺は移転前の朝護孫子寺ということになる。 その位置は堂ノ下、本堂坂という小字名によれば、そこから坂を上ったところなので、 大県郡との境界の嶺上が想定される(右図)。前出「遺跡・文化財マップ」には載らないが、未発見かも知れない。 古門、谷門も高安城の外郭ではなく、廃寺付属設備と考えるのが自然に思える。 ただ、だとすれば廃寺の外回廊は一辺数百mとなり、大きすぎる感もある。古門・谷門は城の石塁・土塁のもので、そこを出ると嶺上に本堂が見えるという景色も想像し得る。 比較的狭い字「本堂坂」の名は示唆的である。 《大門の由来》 〈日本ダム台帳〉説を認めるとすれば大門池ができたのは1128年だから、それ時点では周辺の地名が「大門」であったことになる。 小字「大門下」は大門から相当離れたところにあるので、大門は広域の地名であったと考えられる。 字名のもとになった「大門」については、次の2通りが考えられる。 A:朝護孫子寺の山門。 B:谷川(大門川)の出口が石垣で塞がれ、水路は暗渠となっており、その隣にあった門〔基肄城の水門と南門が隣接していることに倣った推定〕。 もし、Bならここから出た官道が龍田道まで続いていと考えられる。 〈古代の道と駅〉はそのような道は想定していないが、高安城の倉庫に繋がる運搬路がないはずがない。 ただ広い道であったかどうかは分からない。 Aだとする場合、朝護孫子寺の北側は信貴山への上りだから、大門は必ず南にあったはずである。 現在「赤門」があるが、それと同じところであったかどうかは分からない。 【外郭線の探索(1)】
〈大阪府概要81〉によると、 高安山古墳群の位置は高安山(標高488m)の「南方150m」の「生駒山系の稜線上」で、「すぐ北側には、高安山気象レーダーが存在」する(p.6)。 「高安山古墳群は現在3基で構成され」、「うち2基の古墳について今回…発掘調査を実施した」結果、 「従来武器庫ではないかと考えられていた2基の石室」は、「古墳時代末期につくられた横穴式石室であることが判明」したという(p.4)。 そして、判明した1号墳と2号墳の石室の図面を載せている。 《高安山1号墳》 高安山1号墳は、「一辺10m前後の方墳と推定」され、「北側および西側が高地形にあるため、この部分のみL字状に空濠を掘削」することにより、方墳としての形を整えたという。 その挿図を見ると、「空濠」の部分は現在は「褐色粘質土(砂まじり)」で埋まっている(pp.8~9)。 「1号墳、2号墳出土の蓋杯を比較すると、1号墳出土のものの方が…先行的な特徴を持ち、少し古い時期であることがわかる」という(p.22)。 《高安山2号墳》 高安山古墳群の出土物については、1号墳は盗掘を受け須恵器片が若干出土したのみであったが、「2号墳からは、ほぼ埋葬時のままで須恵器・土師器が出土し」たと述べ、その出土状況の写真を添えている(図版第九、第十)。 また、高安山2号墳は「石室の横幅に比べ全長が極端に長」く、「2体埋葬(合葬)を目的として計画・設計されたと推定される」。 予め合葬を目的とした横穴式石室が同時期に見られ、「この種の合葬が多様性ある終末期古墳の一端を示すものと理解される」と述べる(pp.24~25)。 《高安城との関係》 1号墳と2号墳から出土した須恵器の年代は「7世紀第3四半期」〔650年~674年〕にあたるという。 その年代は〈天智六年〉の高安城築造記事と一致することから、「推定高安城域の内側にあたることは明らかであり、 その年代とあいまって高安城と無関係なものとしてとらえることは不可能であろう。…あるいは高安城造営に関わった人物の墳墓であるかも知れない」と推察する(p.25)。 薄葬令(大化二年)を参照すると、一辺10mの方墳は、下臣の「外域方五尋」〔9.0m〕に相当する。 《土塁部分》 〈大阪府概要81〉によると、土塁推定地二カ所の断面観察が実施された。第2地点は「『夢ふくらむ高安城第1集』(高安城を探る会 昭和52年〔1977〕)p34の土塁推定地第3地点にあたる」(p.26)。 ●第1地点…「高安山古墳群が所在する丘陵が南へのびる地形の尾根筋に直交してトレンチを設置」、 「地形に沿って地山〔=自然地形〕の高まりが認められたのみ」で「土塁施設」は「存在しない」。 ●第2地点…「高安山駅の北方200mにかかる開運橋の西側露頭面」、 「土塁上の高まり」は「地山の可能性が高く、人工的なものとは判断できません」。ただ、「その西側に人為的に地山を掘削したV字状の溝」があるが、 「溝の最下層から中世期の土器群が出土」、よって「〔松永久秀の〕信貴山城に関連した遺構と考えられ」る。 よって、どちらからも高安城の土塁は見いだせなかった。 【外郭線の探索(2)】 〈奈良県概報85〉によって、1985年~1986年に行われた5次~8次の発掘調査結果を見る。
調査点は、「span class="ebi">かねてより高安城の南限と考えられてきた」尾根上である。第1トレンチには「遺物の出土・遺構の検出は認められなかった」(p.90)。 第2トレンチには「〔烽火跡と考えられる〕焼土壙」を検出し、「埋土の最下層に隅を含むが出土遺物はなかった」という(p.91)。 関野貞以来想定されてきた外郭線の南辺だが、石塁・土塁の存在は期待できなさそうである。 《第6次》 久安寺の調査点。〈奈良県概報85〉が「この地点で焼米が採集されるという事であった」(p.91)と述べるのは、壬申の乱の「秋税倉を焚いた」記事との関連が期待されていたためであろうか。 結果は「調査地内には七倉という小字名がみえることから高安城に関する遺構の検出が期待されたが、結果は建物等の遺構は存在しなかった」という。 ただ「岩の間から無数の米状土製品と焼米が検出され」たことについては「中世末の一種の水口祭のような祭祀場である」と考えられるという(p.90~91)。 《第7次》 「奈良県遺跡地図に記載が無い」3基の古墳が調査され、「ボウジ1号、2号、3号」と名付けられた。 「高安城に直接関係する遺構は存在しなかった」という(p.92)。 これら3基の古墳は「7世紀中頃までの築造」だが、追葬を含めれば「7世紀末までと推定され、古墳に埋葬されるという行為は高安城存続時と重複する」、 「城の内で墓を作らない埋葬しないという前提にたてばこの地点は城外であった」と言い切っていることは注目される。 《第8次》 調査地は「奈良県生駒郡久安寺字1752-1」で、「高安山頂から東南方へ約300m下った尾根稜線上に幅10m高さ1~1,5m長さ100mにわたる土塁上の高まり」が認められていた(p.95)。 「断面観察したところ、明らかに人為的な盛り土が認められた」という)。 右図で、人工的と見られる構築物(黄色に着色)では、「土塁の東壁が垂直にたちあがっていた」。 「第Ⅱ層」は、その上に積った旧地表面までの層、「第Ⅰ層」は旧地表面から現地表面の間に積もった層をいう。 「土塁の残存状況」は、「第1トレンチでは幅1.6m、高1.1m、第2トレンチでは幅1.3m、高0.6m、第3トレンチでは幅2,2m、高さ0.3m」という。 その時期については、「この土塁が東西に長く延びるものではなく、約100mばかり続くだけであって鞍部上地形にあることから土橋的なものと考えられ」るという(pp.95~97)。 これを〈幻の高安城7〉は、「この付近は中世信貴山城とその高安出城を結ぶ線に当たっていて、中世の土橋状の遺構も見られるので、中世の土塁の可能性も残っている」と読み取っている(pp.32~33)。 しかし、〈奈良県概報85〉はその一方で「かなり丁寧な版築状の積土であることからして古い時代のものであると考えられるが高安城にかかわるか否かについては今後の調査が必要である」とも述べ、 高安城土塁の可能性を保留している。3箇所の高さがまちまちであることから、作られた時点では版築の高さは少なくとも1.3m以上あり後に上部が欠けたことが考えられる。 なお、これに加えて「調査地の東方約150mには6棟の礎石建物が存在するが、其の他にも調査地周辺には2カ所の平場が確認できた」という(p.93)。 壬申の乱で「悉焚二秋税倉一」(上述)とされる倉跡であることが期待される。 《評価》
〈大阪府概要81〉で調査された空堀や土塁は、中世に作られた可能性が高いと思われる。 《第7次》で見たように城内には埋葬しないとの前提に建てば、高安山古墳群に高安山城時代の土塁は存在しないと判断するのが妥当となる。 《第5次》の高安城南限に稜線上に石塁・土塁が存在しないことも、ボウジの古墳の外にあることを考えれば当然となる。 《第8次》で見られた土塁の版築工法は、〈天智朝〉の古代山城の時代に特徴的である。 高安城に伴う可能性がある土塁の検出はここぐらいだから、重視すべきである。 仮に中世の土橋であったとしても、古代山城に由来する版築土塁の上に積み上げられたこともあり得よう。 また、この部分の稜線は確かに信貴山城方向に向かっているが、実際には途中で途切れている。 試しに土塁のラインを稜線に沿って、礎石建物群を中心として描いてみたのが右図である。 東側は谷川を越えるので、もし基肄城の水門のような石垣跡が見つかれば、この土塁ラインは実証される。 ただし、関野貞説や榑松静江説が唱える外郭線に比べると著しく狭い。 これでは、敵に攻められたときに広大な周辺地域から人民を収容して籠城するのが古代山城の機能だとするなら、この規模ではとても果たせない。 【奥田尚・米田敏幸説】 1999年、高安城西の尾根の突出部6箇所に、人口の石垣と思われるものが見いだされた。 〈奥田99〉によると、「海抜380~410mの主稜線に近い山腹の尾根部を利用して突出部を持つように、 自然地形を十分に生かした状態で石塁が築造されている」ことが観察された(p.40)。
A地点では、土塁A1において「土塁の中には石が詰まっている(石塁か)」、 張り出し部A2では「(集石・平坦部の)北側の張り出し部のは何らかの構造物があったと推定される」という。 E地点では「巨石であるため露岩と考えられがちであるが、北側でこの端部が見られ、地山に続く様相はない。 長径が3mを超すものもあるが、運ばれてきた石である〔=地山の一部ではなく、後から置かれたものである〕。 この場所では高く石垣が積み上げられた状態で残っている」と述べる(p.12)。 そして「後記」で、石塁は「従来、尾根の稜線に築かれていたと考えられていた」が、高安城の塁の探索結果によれば 「斜面に設けられた城壁は石垣とその上方のテラスの探索」が基本であろうとまとめている。 《評価》
だが、石垣が実際には自然地形だったからと言って、その報告全体を一顧だにせず葬り去るのも行き過ぎではないだろうか。 内容を精読すると、ことG地点についての解釈には見るべきものがある。 〈奥田99〉は「G地点」について、「この地点の石垣については高安城を探る会の人々により以前から確認されていた。 位置的には信貴山城の郭の石垣と解釈されていた。しかし、報告者の一人である奥田は、信貴山城の石垣であることに疑問を感じていた」という(p.43)。 〈奥田00〉によると、 図のG1については「急斜面の中腹に平坦地がある」、「谷川に異様に大きな堰があり、使用されている石が大きい。水門跡?」、 G2については「この谷には石がこの付近だけ多く見られ」、 「残っている土塁、谷を遮るように築かれている。塁の上面が平坦で斜面の残りもよい」と述べる。 また、S1は「石垣、信貴山城の廓輪のこの部分にのみ石垣があると言われている」、 S2は「信貴山城の廓輪跡」と見られると述べる(p.34)。 G3の集石は、G2と同様谷川の出口にあたる。 G2、G3は松永久秀の信貴山城からは谷を隔てた西側、すなわち城の外なので、G1~G3の土塁・石垣のラインがあったとすれば、高安城の時期まで遡るように思われる。 谷の出口に集中して見られる石群は、基肄城の水門に見られる石垣と谷川の水を通す暗渠と同じものの名残かも知れない。 金田城・大野城で石垣の原型が残っているのは、 その後の文永弘安の役〔元寇〕や文禄慶長の役〔秀吉〕を考えれば戦略上重要な城として、当然度々石塁が補修されたからであろう。 それなしに原形を保つことは希ではないだろうか。 それでも、石塁がもし作られていたのなら、何らかの痕跡はあるように思える。谷の出口の石群がまさにそれかも知れない。 高安城にも少なくとも部分的には石塁があった可能性は、なお留保すべきであろう。 さらにA~Fでも、石垣が仮に自然石を誤認したものだったとしても、戦闘の際にはその石垣状自然石テラスが防禦ラインとして十分機能したとは考えられないだろうか。 【榑松静江説】では、自然地形のままの稜線でも外郭防禦線として位置づけていた。 それなら、石垣状自然石テラスを結んだラインについても外郭防禦線と認めてよいことになろう。 自然地形を「誤認」した一点を論って、観察と論考を全面的に葬り去るのは偏狭過ぎるように思える。 議論すべきは、石垣様のものが人工物か否かではなく、それが軍事上の防禦機構として機能し得たかどうかではないだろうか。 まとめ 関野貞、榑松静江が唱えた外郭線の南辺は明瞭な稜線になっているが、調査の結果石塁土塁が存在しないことが明らかになった。 ただ、「焼土壙」が烽火跡であることは十分考えられ、軍事上の重要ラインである。 高安山古墳群を通る西の稜線にも、石塁土塁はなかったと見るべきであろう。但し、自然地形による石垣的テラスは防御線として機能したであろう。 これらを高安城の外郭線の南辺、西辺と定義してしまえば形式的には城郭と言えないこともない。しかし、実際には自然地形そのままで、朝鮮式山城の外郭の石塁とは似ても似つかない。 南辺・西辺は軍事的に重要な防禦線ではあるが、冷静に見て山城の外郭と呼ぶべきものではないだろう。 ただ、高安"城"と言うからには、大規模な軍営や付属施設がこの範囲のいくつかの場所に置かれていたと見るべきであろう。そのうち唯一遺跡が確認された礎石建物群〔米の貯蔵庫〕は、日常的に軍を維持するため、また非常時に収容した民のために食料を貯蔵する重要施設である。 その礎石建物を守るためには、土塁で囲んで厳重に警備したことは当然であろう。〈奈良県概報85〉《調査8》項で想定したのがそのラインであるが、 その内部には食糧貯蔵庫のみではなく軍営も置かれ、これが真の「高安城」であったのかも知れない。 ただこの土塁内では、やはり狭すぎる感が拭えない。関野貞以来の地名の考察や奥田尚らの観察によれば、南東部に限り大門まで突き出して土塁が築かれ、谷川の口には石垣が積まれた基肄城型の水門があった可能性も残る。 後の時代に貯水量を増すために、その上に土を積み挙げて提を築いたのが、大門池なのかも知れない。 さらに、南畑の字に「宮ノ下」、「宮山」が見える。その宮がこの辺りにあり、朝廷から送られた将軍の司令部が置かれたり、天皇が行幸したことも考えられる。 南辺の稜線までを「城」の中と見做すこと自体は難しいが、その範囲内に軍事関連施設が散在していて、その主要部が「高安城」と呼ばれたのではないかと思われる。 ただ、その全域を包み込む石塁土塁は遂に作られなかった。 しかし、その石塁土塁によって、全域を囲い尽くす計画のみは一時期存在したと考えることもできる。 というのは、〈天智六年二月〉に「我奉二皇太后天皇之所勅一、憂二-恤万民一之故、不レ起二石槨之役一」とあるからである。 この言葉は、高安城などの築城のために「石槨之役」を命じられた人民に激しい不満が起こり、遂には妥協して労役を取りやめざるを得なかったと読みとることができる。 「〈斉明〉天皇の遺詔に従って」と言うのは、格好をつけるための名目であろう。
一般に「朝鮮式山城」とひとくくりにされるが、実際には地域ごとの事情によってその態様は異なっていただろうから、きめ細かく考えるべきであろう。 |
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2024.10.11(fri) [75] 粟原寺三重塔伏鉢銘文をそのまま読む ▼▲ |
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【大和国粟原寺三重塔伏鉢】 「粟原寺三重塔伏鉢」銘文には、粟原寺の造営に関する記録が具体的に残されている。 ここでは、その銘文を精読する。 《粟原寺》
国宝三重塔伏鉢は談山神社所蔵だが「奈良帝室博物館に出陳」(下述)され、現在も奈良国立博物館に預けられているという。 《粟原寺調査報告》 粟原寺については、調査報告書 『奈良県に於ける指定史蹟 第二輯(史蹟調査報告第四)』〔内務省1928〕がある。 以下、同報告から抜粋する。 粟原寺は「磯城郡多武峯村大字粟原の地籍に属し、村社天満社の境内及び其〔の〕接続地域を包括して居る寺阯」、 「幸に別格官幣社談山神社に本寺に属する三十塔の伏鉢を所蔵し其銘文に依て創立の事情を明〔らか〕にすることが出来る」。 三重塔については、「遺跡に於て比較的完全な設計を観得るものは塔阯」、「土壇と認むべきものなく」、 「塔の平面は方ニ十尺〔=6.1m〕の建築で略法輪寺の三重塔のプランに比較し三重塔としては大形の部に属する」、 「四点柱礎は…位置も固定して居る」という。 塔心礎は「傍らにあった記念碑の台石」に転用されていたもので、「直径六尺〔1.8m〕」、地上に出た部分の高さ「二尺三寸〔69.7cm〕」、 その「中央に直径二尺七寸三分〔82.7cm〕、深さ一寸二分〔3.64cm〕の円柱孔があり底面の中央は少しく隆起して居る周縁の一部を缺いて円柱孔から外方に湿気を抜く溝を造ってある」という。 金堂については「塔阯の西約五十尺〔15.2m〕の位置」の建築礎石が「金堂阯」と見られると述べる。 伏鉢については「談山神社の所蔵にて現今奈良帝室博物館に出陳せられて居る伏鉢は鋳銅の表面に鍍金を施したもので其下径二尺五寸〔75cm〕上径一尺五寸〔45cm〕高さ一尺一寸四分〔34.2cm〕」 と述べる。 伏鉢は、相輪の最下部をいう。 《伏鉢銘文》
奉は、助動詞(あるいは副詞)として直後の動詞に尊敬の意を加える。 よって「為」はここでも「~のために」と訓読するが、文法的には動詞〔=ためとしまつる〕である。 「為」の目的語は「日並御宇東宮」であるが、「大倭~時」が挿入されているために読み取りにくくなっている。これは和習であろう。 《日並御宇東宮》 御宇〔あめのしたしろしめす〕は天皇位と同意なので、普通は東宮にはつかない。 次代の天皇であることをより確定的に示すためであろうか。 《…之爾》 「此栗原寺者…敬造伽藍」の文意が「この栗原寺は、中臣朝臣大嶋が…敬造した〔あるいはしようとした〕伽藍である」であるのは明らかだが、 文末の「之爾」とは一体何であろうか。 これらの字の意味のうち使えそうなものを探すと、 ●之…動詞〔"往く"から転じて〕「為す」、語気詞〔特に意味を持たない〕、代名詞〔これ〕、接続詞の「則(すなわち)」。 ●爾…近称の代名詞〔これ〕、文末の強調の語気詞〔のみ〕。 がある。 要するに「…敬造せし伽藍、すなわちこれである」と念押しするものだが、ここで挙げた意味の何れかを組み合わせて訓読すればよいだろう。 《比売朝臣額田》 比売朝臣額田について、〈姓氏家系大辞典〉は「比売は名にして額田が氏か」という。ただし、朝臣姓の額田は、同辞典には載らない。 《浄御原宮治天下天皇》 草壁皇子が薨じた〈持統〉三年〔689〕には都は浄御原宮である。 よって、大嶋が草壁皇子を悼んで粟原寺の敬造を請願したとすれば、「浄御原宮治天下天皇」は〈持統〉天皇となる。 しかし、〈続紀〉慶雲四年〔707〕七月壬子条に「藤原宮御宇倭根子天皇」とあり、 養老六年〔722〕十二月庚戌条に「勅奉二為浄御原宮御宇天皇一造二弥勒像一。藤原宮御宇太上天皇釈迦像」とあるので、 〈持統〉天皇は「藤原宮御宇天皇」であり、かつ「浄御原宮治天下天皇」が〈天武〉天皇を指すのは明らかである。 「~宮御宇天皇」は完全に固有名詞なのである。 ということは、〈天武〉朝のとき既に栗原寺建立構想が存在した。 だが、中臣朝臣大嶋の生前には栗原寺建立は実現せず、その死後に比売朝臣額田が遺志を継いで初めて造営に取り掛かった。 それを後押ししたのは、草壁皇子を悼む強い思いであろう。 すると草壁皇子は早くから自分の寺院の建立を望んでいて、大嶋はその意を汲んで〈天武〉に誓願したと読むのが正しいと思われる。 ところが実際にはなかなか建立されなかった。ということは、「日並御宇東宮」という表現は、東宮草壁尊が「即位した暁には」という意味かも知れない。 草壁皇子は既に689年に薨じ、中臣朝臣大嶋が薨じた翌年の甲午年〔694〕にあたって、比売朝臣額田が両者を偲ぶ寺として改めて栗原寺の造立を決意し、二十二年の歳月をかけて成し遂げたと読むことは、理に適っている。 当然〈持統〉天皇による勅命があったと思いたいところだが、〈持統〉の名が見えないから私的に建立したものか。22年もの年月を要したのは、公の事業ではなかった故かも知れない。 そこには、比売朝臣額田の切ない思いが感じられる。 まとめ 粟原寺が亡き草壁皇子を偲んで造立されたとすること自体は、概ね妥当である。 しかし、一般に「中臣朝臣大嶋が草壁皇子をしのび創立を誓願した」と言われる点については、恐らく誤りであろう。 この伏鉢銘文を正確に読めば、中臣朝臣大嶋が造立を誓願したのは草壁皇子の生存中に遡ると思われる。 〈持統〉天皇は軽皇子(草壁皇子の子、文武天皇)の帝王教育に忙しく、草壁皇子を偲ぶ寺造立への意欲は既に薄らいでいたのではないだろうか。 従って、粟原寺の建造に熱心だったのは、草壁皇子に仕えていた一族〔改新詔の以前なら御名代と呼ばれたであろう〕ではないかと想像するのである。 |
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2024.11.07(thu) [76] 宮勝木実と大領神社 ▼▲ |
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ここでは、それらの関係資料を精読して、壬申の乱における不破郡家の位置づけを探る基礎資料とする。
【大領神社】 〈式内社調査13〉によると、「延喜式の写本類には振り仮名がない。度会延恒の『美濃国式内神社祭神記』などは「タイリャウ」と訓み」、 「伴信友の『神名帳考証』に「式社考」を引いて「在二宮代村南林中一。去二垂井駅一南九町許。」と記すごとく、 不破郡垂井町宮代(旧宮代村)森下七六五番地に鎮座」、「当社は円墳の墳丘上とみる説」もあるという。 《交通路から見た立地》 垂井町公式/」宮代史跡マップ には、「壬申の乱で功績のあった不破郡の大領、宮勝木実を祀っています」とある。 そのマップの「宮代古道」には、南に向って「牧田へ 伊勢へ」と記されている。 美濃国府と伊勢方面を結ぶ街道が通っていたと考えられる。 【太政天皇〈持統〉の美濃国行幸】 〈持統〉天皇は十一年〔697〕に文武天皇に譲位して、太政天皇となった。太政天皇は大宝二年〔702〕に参河国に行幸したのち、壬申の乱縁の地を巡って藤原宮に帰った。 その途中、美濃国で「不破郡大領宮勝木実」に「外従五位下」を賜った。 その紀行は、〈続紀〉に次のように書かれる。
《参河国行宮》
また、渥美半島の官道については、〈古代道と駅〉は「上陸点の伊良湖崎から渥美半島を通る駅路があった筈であるが、その路線や駅については全く不明である」(p.97)といい確認されていないので、 〈持統〉行幸には三河湾の奥まで海路を用いたと考えるのが妥当か。 同書は「渡津駅は宝飫郡駅家郷または渡津(和多無都)郷に比定され、…小坂井町小坂井に比定されている」、 「宮地駅は宝飫郡宮道(美也知)郷にあったと思われ…赤坂に比定される」という〔()内は〈倭名類聚抄〉の仮名書き〕(p.96)。 《不破郡大領宮勝木実》 大領は、郡における四等官制の首席で、〈倭名類聚抄〉では「加美」〔カミ〕と訓む。 〈続紀〉大宝二年条により、大宝二年の時点で宮勝木実が不破郡大領であったことがわかる。 同条で国守以外に名前が出て来るのは尾治連と郡大領宮勝木実だけなので、壬申の乱の特別の功績を認めてのことであろう。 《外従五位下》 授与された位階が「外位」であるのは、朝廷の正規の官職ではなかったことを示す。 改新詔(其二曰)で明らかなように郡領は中央から派遣するのではなく、現地在住の有力氏族から登用された。 木実もこの例に漏れないと思われる。 〈式内社調査13〉は、この従五位下について「各牟郡〔=各務郡〕少領各牟勝小牧が務〔ママ〕正七位上、同郡主帳勝牧夫が正七位下であることに較べても、郡司としては破格の待遇」で壬申で「格別奮戦した功労に対する行賞」と見ている。 ただし「大領」〔カミ〕が四等官制の首席にあたるのに対して、「少領」〔スケ〕は第二位、「主帳」〔サカン〕は第四位であるから差がつくのは当然か。それでも隔たりが大きすぎるとは言えるかも知れない。 《車駕至自参河》 二十四日に伊賀を出発して逆順に参河まで戻り、そこから藤原京に帰ったのが二十五日ということは日数的にあり得ないので、 「車駕至レ自二参河一」の「参河」とは、参河から始まる一連の行幸全体を指すと考えられる。 主な目的地は参河の宮であって、尾張-美濃-伊勢-伊賀は帰り道に経由したということなのであろう。 【不破家寿麻呂家譜】 〈式内社調査13〉は、「大領神社」の由緒について、次の文献資料を載せる。 なお、訓読は江戸時代頃を想定した。ただ敢えて古風に言った部分もあろうかと思われるので、適宜上代語を交えた。
後述するように、勝は渡来系氏族の姓(かばね)で、スグリと訓まれた可能性がある。
※…本来は「當藝」であるが、ここでは新字体に統一する。 倭建命段に「到当芸野上之時」とある(第132回)。 これが、多芸郡に野上という地名があったとされる由縁であろう。 ところが、(万)1035「田跡河之 滝乎清美香 従古 官仕兼 多芸乃野之上尓 たどかはの たぎをきよみか いにしへゆ みやつかへけむ たぎの乙の甲の乙へに」がある。 この「田跡河之滝」は一般に養老の滝と解されている。ただし〈時代別上代〉はタキは「急流・奔流をいい、 今日われわれがタキと言っている瀑布は当時タルミとよんで区別があったらしい」という。 ただ〈古典基礎語辞典〉は(万)3233「三芳野 滝動〃 落白浪 留西 みよしのの たぎもとどろに おつるしらなみ とまりにし」に、 上代語のタキに垂直に落下する滝の意を見出している。もし(万)1035のいう「滝」が養老ノ滝だとすれば、多岐神社の場所に近い。 万葉1035の「多芸乃野之上」は、倭建命段の「当芸野上」と同じだと考えられるので、「野上」は固有名詞ではなくなる。 『大日本地名辞書』は「一書にこの野上をば、不破郡野上郷に引きあつるは誤れり」と断言する。 また、同書は古事記伝から「〔当芸の〕野上という野は、養老滝に近きあたりと聞ゆ、今も此野ありて広しき」を引用する(中巻p.2152)。 これらを見ると、〈家譜〉が「当芸郡野上郷」と述べるのは、野上が当芸郡にあったと信じてこれを出発点とし、演繹して不破郡は当芸郡から分離したと結論付けたものであろう。 《不破郡野上郷》 〈倭名類聚抄〉に{美濃国・不破郡・野上郷}とあり、多芸郡には野上郷はない。 現代地名の「関ヶ原町野上」がその野上郷かと思われるが、大領神社とはやや離れていることが気にかかる。 野上(大字)は、『旧高旧領取調帳』によると明治初年時点で「野上村」。古代の野上は、それより東に長く伸びた範囲の地名だった可能性もあるが、確かなことは判らない。 《仲山金山彦神社》 〈延喜式/神名〉に{美濃国/不破郡/仲山金山彦神社/名神大}。 現「南宮大社」」〔岐阜県不破郡垂井町宮代1734-1〕。 《仲山》 仲山は、現在の南宮山と見られる。 南宮山は、関ヶ原の役で毛利輝元が布陣したことで有名である。 式内仲山金山彦神社は、美濃国府(次項)の南方にあることから「南宮」という呼ばれたと言われる。 それに伴い、「仲山」が「南宮山」になったのであろう。 《美濃国府跡》 それでは、美濃国府はどこにあったのだろうか。
垂井町教育委員会が設置した現地案内板〔2007年〕によると、 「美濃国府は8世紀前葉に造営され、その後200年ほど機能」し、 「平成3年〔1992〕から行われた発掘調査によって、美濃国府の主要な施設の配置関係が判明」、 「政庁は東西約67m、南北約73mの長方形」、「正殿、南北に長い建物の脇殿など」からなると述べる。 《天武天皇》 「天武天皇」という表現は、かなり時代が下った文書〔江戸時代?〕であることを伺わせる。 古い時代には、専ら「浄御原宮御宇天皇」が用いられている。 《太政天皇十一月庚辰行至美濃国》 太政天皇が主語だから、動詞は「幸」を用いるべきである。しかしここで「行至」となっているのは、〈続紀〉から機械的に抜き出した故と見られる。 〈続紀〉では最初の十月甲辰条に「幸参河国」があり、以後の行程が「行至」となっているのは全体に「幸」がかかるからである。 よって部分的な引用では「太政天皇十一月庚辰幸美濃国」と書くべきである。 ここに〈家譜〉の著者の教養の限界を見る。 日付を含めて〈続紀〉に完全に一致するので、〈家譜〉は〈続紀〉が定着した後になって書かれたものであることが分かる。 《率十七人之勇将》 「率二十七人之勇将一」とある。木実が率いたのが十七人のようにも読めるが、それでは少な過ぎるから、それぞれの「勇将」が配下を率いていたと見るべきか。 だとすれば、宮勝の一族は小氏族の集合体である。 《分当芸郡之地為不破郡》 〈家譜〉は「分二当芸郡之地一為二不破郡一」という。 すなわち、野上の地はもともと当芸郡に属し、郡の分割によって不破郡の一部となったという。 しかし、上述したように倭建命段の「当芸野上」は「当芸の野の上」で、その位置は現在の当芸郡の多岐神社周辺と見た。 加えて、分割した郡の名前は〈倭名類聚抄〉「式上【之岐乃加美】郡・式下【之岐乃之毛】郡」のように、旧郡名にカミ・シモを付ける形が通常である。 「当芸郡⇒当芸郡+不破郡」は、この流儀に合わない。 また、〈天武紀〉上の「天皇…入二不破一。比及二郡家一」なる書き方は、その時点で「不破郡家」が存在していたことを意味する。一方「当芸郡」は全く出てこない。 書紀は、記録がもし「当芸郡家」となっていればそのまま書いても問題ないだろうから、わざわざ「不破郡家」に直して書く理由が分からない。 このように考えると、当芸郡が分割されて不破郡になったという説は、あまり信じられない。 万万が一分割が事実だったとしても壬申の後ではなく、それよりもずっと前の時代のことであろう。 〈家譜〉⑦は、倭建命段の「当芸野上」を地名だと信じて、そこからもっともらしくストーリーを組み立てたように思われる。 さらに、「木実以武功之抜群賞二-賜不破一郡一」〔その分割した不破郡を木実の武功が抜群であったから賜った〕とまで言う。 偉大化もここに極まれりである。 実際には、「不破郡家」は壬申の乱の前からこの地に置かれていて、宮勝木実は壬申以前から大領であった(ア)のだろう。 ただ、そうすると⑥の恩賞はゼロとなってしまうので、 木実はこのときの功績によって初めて大領に任じられたのだろうか。 しかし、肝心の「拝二大領一」という記述がなく、「不破郡を賜った」と書かれているのが不審である。 やはり、ア説を採るべきか。宮勝は大化以前からこの地を支配する豪族で、その首魁が改新詔により大領に取り立てられ、木実はその何代か目だと見る方がすっきりする。 乱の直後には恩賞から漏れ、〈持統〉行幸の際の「授二外従五位下一」が初めての恩賞かも知れない。 一方、③⑤については、史実と見てもそれほどの不自然さはないので、古来の伝承をそのまま書いたものと考えたい。 《改姓不破》 〈姓氏録〉に〖諸蕃/不破勝/百済国人渟武止等之後也〗とあり、不破勝は渡来氏族である。 宮勝から改姓したと書かれている点については、 〈持統〉行幸の大宝二年〔702〕の時点でまだ「宮勝」である。 不破勝の氏人は〈後紀〉延暦二十三年〔803〕「伝燈大法師位善謝卒。法師。俗姓不破勝。美濃国不破郡人也」が所見。 もし「改姓不破」が事実とするなら、702年以後803年以前となる。 〈姓氏家系大事典〉に「宮宿祢:前項 諸氏〔宮首・宮勝〕の後なるべし」とある。 宮宿祢の氏人は、 『類聚符宣抄』第九「延長三年〔925〕二月一日」付け文書に「宮宿祢春来」と「宮宿祢忠来」がある。 もし宮宿祢が宮勝の後継なら、宮勝・不破勝は共存していたことになる。 穏やかに考えれば宮宿祢は宮勝の後継ではなく宮首の後継で、不破勝は宮勝の別称だったが、次第に主な呼び名になったのかも知れない。 《勝》 〈八木充〉によると、勝は姓で、その訓みは村主と同じくスグリであるという。 村主・勝なる表記の違いについては、村主は「渡来の先達」で「官司制的品部」として「宮廷の手工業生産に従事」していたのに対して、 勝は「新米の…一団」で、「渡来者の技術奴隷」の役割を継承できず「農業社会における共同体」に埋没したものと推定している。 なお、〈八木充〉は勝をスグリと訓読することについて、いくつかの先行研究を挙げる。 その一番目に挙げられた〈井上通泰〉説を見ると、 「聖護院道興准后の廻国雑記に「勝呂といへる所に至て名に聞えし薄など尋てよめる云々」 とあり。こは所謂スグロノススキ〔スグロは末黒。燃えて末端が黒くなったススキ〕をいへるなり」と述べる(p.254)。 〈井上通泰〉は、これを「勝」がスグリと訓まれた傍証としている。 《於仲山麓卒》 霊亀元年乙卯年〔716〕に没したという。 ただ、「卒」については〈天武紀〉下には「外位」の死に「死」が用いられた(大分君稚臣)から、「卒」は潤色か。ただ任官か否かの境界は微妙かも知れない。 〈家譜〉は木実が「仲山麓」で生まれ、「仲山麓」で卒したと書くから、一貫して地付きの氏族の首長であったと見られる。 《後祭霊》 不破郡大領となった宮勝木実の死後、宮勝木実命を祀る為に造立したのはその通りであろう。 この一帯は宮勝氏族の居住地であったと見られる。 ただ、大領神社の創建年が書かれていないことは画竜点睛を欠く。 実際にはずっと以前から宮勝の氏神社があり、そこに大領宮勝木実を合祀し、 それ以来名称が「大領神社」になったか。 あるいは、宮勝の氏神はもともと南宮大社の金山彦神であって、その広大な社地の一角に大領宮勝木実を祀り、それが「大領神社」に発展したとも考えられる。 まとめ 〈家譜〉は、書紀の〈天武紀上〉(②④⑥)、『続日本紀』(⑧)から抜き出し、その間に独自部分を挟む形になっている。 ③⑤は、恐らく不破勝家で長年語り継がれた事象であろう。特に⑤には「十七名の勇将」や「計(はかりごと)」などの具体性が見えるので、一定の史実性を考えてもよいかも知れない。 その一方で、⑦は当芸郡野上郷説を前提としている。 本居宣長が強く否定しているところを見ると、この説は江戸時代には相当根強かったと思われる。 その大本は、古事記の倭建命〔日本武尊〕段の一つの読み方にあったようだ〔ただ、万葉歌によって否定されるもの〕。 その根強さが、⑦の想像上のストーリーを生み出したとは考えられないだろうか。 特に「拝二大領一」と書くべきところが、いつの間にか「賜二不破一郡一」になってしまったところに、頭で考えた故の曖昧さが感じられるのである。 とは言え、〈家譜〉は大領神社と南宮大社のある宮代の地に宮勝〔後に不破〕一族が住んでいて、その首魁が不破郡大領に取り立てられていたことを確実に示すものと言える。 よって、不破郡家は宮代地区にあったと断言することができよう。 |