古事記をそのまま読む―資料12
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2023.02.10(fri) [71] 生国魂社 

【生国魂社】
 生国魂神社は神武天皇が創始したといわれるが、記紀にはそのような記述はない。 記紀にあるのは、〈孝徳天皇記〉の原注の「生国魂社」のみである。
 現在の「生国魂神社(いくくにたまじんじゃ、いくたまじんじゃ)」の所在地は、大阪市天王寺区生玉町13、祭神は生嶋神(いくしまのかみ)・足嶋神(たるしまのかみ)の二柱とされる (大阪市公式/生国魂神社) 
《摂津志》
 摂津志(『五畿内志』摂津国)は、「難波坐生國國魂神社」の項で、次のように述べる。
『日本輿地通志畿内部』卷第五十一 攝津國之三 東生郡 (ndl/日本古典全集刊行会/昭和5)
難波坐生國國魂神社
並名神大月次嘗新嘗。三代實錄作生國魂神。又祈雨祭式稱難波大社。 
貞観元年春正月。奉従四位下。秋九月。奉幣風雨祈焉。
𦾔事記曰。生島是大八洲之靈。今生島御巫齊祀矣。
祝詞式曰。生島御巫辭竟奉皇神等前爾白久生國足國登御名者白氐辭竟奉。是也。
孝徳天皇。輕神道斮生國魂社樹之類。卽此。
○𦾔在府城地。明應中。釋蓮如欲毀而建仏刹。屢示神異如恐怖而止。
天正。豊太閤築府城時。遷祠郡戸カウツ南。加其祭田。」
難波坐生国国魂(なにはにますいくくにくにたまの)神社(じんじや、かむやしろ):
並名神大。月次嘗。新嘗。『三代実録』〔901〕、生国魂神に作る。また祈雨祭式〔延喜式/祈雨神祭〕に、難波大社と称す。
貞観元年〔859〕春正月、従四位下を奉る。秋九月、幣を奉(たてまつ)り風雨の祈りす。
旧事記〔先代旧事本紀〕に曰ふ。生島は、是大八洲の霊。今生島の御巫(みかんなぎ)を斉祀す。
祝詞式〔延喜式/祝詞〕に曰ふ。「生島(いくしま)の御巫(みかむなき)の辞(こと)竟(を)へて奉(たてまつ)る皇神(すめかみ)らの前に白(まう)さく生国(いくくに)足国(たるくに)と御名(みな)は白(まう)して辞(こと)竟(を)へ奉る」は是なり。
孝徳天皇「軽神道斮生国魂社樹之類」即ち此なり。
○旧(ふる)くは府城〔=大阪城〕の地。明応〔1492~1501〕中、釈蓮如※1)、毀(こぼ)ちて仏刹を建てんとす。屡(しばしば)神異を示し、蓮如恐怖して止む。
天正〔1573~1592〕、豊太閤が府城を建てる時、祠(ほこら)を郡戸南に遷す。其の祭田を加へり。
※1…「釈蓮如」は、蓮如〔1415~1499〕と同じ。『歎異鈔』の奥書に、自ら「釈蓮如」と署名している。
生国魂神社の旧地(大阪城)と現在の位置。(郡界は1871年)
《延喜式》
 『延喜式』〔927〕には、生国魂神社に比定される神社名が、三種類でてくる。
 まず巻第三の〈名神祭二百八十五座〉の項に「難波生国魂神社二座」、〈祈雨神祭〉の項に「難波大社二座」とあり、 また巻第九「神名帳」には{摂津国/東生郡/難波坐生国咲国魂神社二座。並名神大。月次相甞新甞。}とある。
 〈神名帳〉の「」は、音サクをあてたとすれば、避(さ)く=この世を去る意かも知れない。だとすれば、「イク」との対応はよい。 しかし、「」は『類聚名義抄』では、まだワラフヱムである。やはり「」は「」の誤写なのかもしれない。 〈摂津志〉は、これを衍字えんじと見たようである。
《先代旧事本紀》
 『先代旧事本紀』から〈摂津志〉が用いた部分の原文は、次の通りである。
『先代旧事本紀』巻第七 天皇本紀 (ndl/前川茂右衛門.寛永21) 〔訓は本サイト〕
辛酉為元年。春正月庚辰朔。みやことす橿原宮はじめて つきたまふ皇位〔中略〕 また高皇産靈たかみむすび神皇産靈かみむすび魂留産靈たまるむすび生産靈いくみたま足産靈たるみたま大宮賣おほみやめ神。事代主ことしろぬし神。御膳みけつ神。今御巫みかんなぎ齋祭 いはひまつる矣。 〔中略〕 また生島いくしま大八洲之靈おほやしまのみたまなり。今生島いくしま御巫みかんなぎ齋祀 いはひまつる矣。
 「天皇本紀」によると、神武天皇は、辛酉年に践祚したときに伊邪那岐神伊邪那美神の神籬(ひもろぎ)に祀ることを始めとして、大量の神を神社や大宮地(おほみやどころ)に祀った。ここに引用したのはその一部である。 これを見ると、生産霊(いくむすび)・足産霊(たるむすび)二柱と、生嶋の神(大八洲之霊)は別神の扱いになっている。
 しかし、一般に「生国魂神社は神武天皇が創祀した」といわれるのは、これらの記述に基づいたものであることが分かる。
 なお、これらの記述が宮中の祭祀の起点を、神武天皇まで遡らせた伝説であるのは明らかである。

まとめ
 現在の祭神は生嶋神(いくしまのかみ)・足嶋神(たるしまのかみ)だが、〈延喜式〉には「足国魂神」という名前は出てこない。 しかし祝詞には生国・足国が対となっており、 また〈神名帳〉信濃国に{信濃国/小県郡/生嶋足嶋神社二座}があり、生嶋神・足嶋神の組み合わせもまた自然である。
 想像ではあるが、もともと古くから地名イクシマがあり、それは八島(八洲)の総称でイクシマニマスカミがその地神であった。 そこに祝詞の生国・足国が二柱の神名に転じて、生嶋神に習合したのではないだろうか。
 別の考え方としては、古くは半島であった上島台地の周りの海にイク島とタル島があり、それぞれに神がいた可能性もある。そして半島から陸が繋がった。 祝詞のイククニ・タルクニという言い回しの方が後で、これらの島の名から生まれたのかも知れない。
 


2023.10.11(wed) [72] 郡の推移~陸奥国及び出羽国 

【陸奥国と出羽国の郡】
 延喜式や倭名類聚抄に載るのうちには、近代までそのままの名が残っている郡も多い。
 一方、陸奥国出羽国の北部には、延喜式後に新たにいくつかの郡が置かれた。そこはもともと国外の地で、蝦夷と呼ばれた。 また、延喜式当時の郡でもその後隣接する郡に吸収されて消滅したり、分割により新たに生まれた郡もある。
 ここで、陸奥出羽両国の郡の推移を概観する。とくにその北辺については、蝦夷地域の国内化の過程を明らかにする点で意義がある。
   引用文献出典
〈大日本地名辞書〉…『大日本地名辞書』吉田東伍(著)第二版〔冨山房;1907〕/国立国会図書館デジタルコレクション。 引用にあたって基本的に新字体に直した。
〈増補版〉…『増補 大日本地名辞書』〔冨山房;1971〕。著者の遺稿による増補。新字体化。
〈青森県史〉…『青森県の歴史』第2版/長谷川成一他〔山川出版社;初版2000/2版2012〕
〈倭名類聚抄〉…那波道円校訂の活版本〔元和三年〕『倭名類聚鈔』の復刻本〔風間書房;1962〕。
〈延喜式〉…「延長五年十二月二十六日〔928/02/01:ユリウス〕」/『国史大系』第十三巻〔経済雑誌社;1900〕(国立国会図書館デジタルコレクション)。 句読点、読み仮名などは省いた。

【岩代国】
 陸奥国は〈延喜式〉で全三十五郡〔倭名類聚抄では三十六郡〕あり数が多いので、 便宜的に明治元年に分割された国名により項目を区分した。
 1869年※)に陸奥国を分割し、岩代国・磐城国・陸前国・陸中国・陸奥国が設置された。 出羽国は、羽前国・羽後国に分割された。
 ※)…明治元年十二月七日(天保暦)=1869年1月19日(グレゴリオ暦)。
 なお、明治四年には廃藩置県によって府県制が成立し、行政区分として意味をもった期間は短い。 しかし、陸中海岸国立公園、陸前高田市など地域名として幅広く使われている。
〈大日本地名辞書〉
会津郡 会津:分ちて南会津、大沼、河沼、北会津、耶麻の五郡とす」、 「和名抄に…「今、分大沼、河沼二郡」と云ひ、又、耶麻郡の下に「分会津郡云々」※)」。 ※)…〈倭名類聚抄〉の耶麻郡の下には見いだせない。
伊達郡 和名抄、信夫郡の下に「国分為伊達郡」とあれば、信夫郡より伊達を分かちしは、延長年以前※)」という。 ※)…『倭名類聚抄』成立以前の時代。
 耶麻郡、大沼郡、沼田郡の〈倭名類聚抄〉の記述には、いくらかの混乱がある。
〈倭名類聚抄〉
伊達郡  「陸奥国〔の郡郷〕第九十四」項〔以下〈郡郷〉〕に{信夫郡【志乃不〔しのぶ〕。国分為伊達郡】}として、分注で信夫郡から分割して伊達郡としたと述べるが、 「伊達郡」そのものは収められていない。分注は後の写本における書き足しかも知れない。 〈延喜式〉にも伊達郡はない。
信夫郡 東山〔国の〕郡第六十二」項〔以下〈陸奥国〉〕にはあるが、〈郡郷〉にはない。 おそらく脱落。〈延喜式〉にあり。
耶麻郡  〈陸奥国〉{耶麻郡【山】}に、「会津から分かれた」記述はない。 〈郡郷〉には重複がある:{耶麻郡【津部 量足】}、{耶麻郡【分会 津部 日量】}。 後者は大沼郡の誤りかも知れない。〈延喜式〉にあり。
大沼郡 〈陸奥国〉に{大沼【於保奴万】}とあるが、第九十四にはない。〈延喜式〉になし。
沼田郡  〈陸奥国〉の白河郡に{白川【之良加波国分為高野郡今分為大沼河沼郡二郡】}。 「今分為大沼河沼郡二郡」は、会津郡の分注が紛れ込んだと見られる。 沼田郡は〈陸奥国〉、〈郡郷〉ともに載らない。

【磐城国】
 磐城国は、1869年に陸奥国を分割して設置された。
〈大日本地名辞書〉
田村郡 もと安積郡の地なり。中世…田村荘と為す。…郡号に建てられしは…文禄、慶長〔1592~1615〕以降に似たり」。
石川郡 古郡号に非ず、建武中〔1334~1336〕の文書に、石川荘と云ひ、延元四年〔1339〕に至りて、初めて郡と云ふ」。
白川郡 高野郡:大略、今の東白川郡にあたれど、其境域は〔すこぶる〕変遷あり。 …和名抄、已に白川郡の下に註して、「国分為高野郡」と云へば、延長〔923~931〕以前に分置せらる」。
磐前郡 近世正保図に岩崎、楢葉の郡名見え、寛文〔1661~1673〕中、岩崎を磐前に改書す、今之に〔よ〕」。
楢葉郡 磐城郡より分たれし時代、旧史に記載なし。 〔けだし〕、和名抄、白田、楢葉二郷の地を分かちし者にして、磐前の分割と同時ならん」。
 日理亘理であろうが、日理をワタリと訓むのは理解し難い。
 白河郡から高野郡が分離したのは〈倭名類聚抄〉に近い時期と見られる。その他の分立は中世以降。 
〈倭名類聚抄〉
高野郡  〈陸奥国〉に{白河【之良加波郡分為高野郡】}とある。 〈郡郷〉には{白川郡・高野郷}が見える。分注のみに見える郡名で、〈陸奥国〉、〈郡郷〉に「高野郡」は載らない。 白河郡から分割されてできた高野郡が、後の「白川郡」と見られる。
日理郡  〈倭名類聚抄〉では〈陸奥国〉に{亘理【和多理】}、〈郡郷〉に{日理郡}で一貫性を欠く。 同郡に載る郷名{日理【利多利】}の訓注は、「和多利」の誤りであろう。 『延喜式』写本には、日理曰理が見え、『国史大系』はいずれも亘理に作る。

【陸前国】
 陸前国は、1869年に陸奥国を分割して設置された。
〈大日本地名辞書〉
苅田郡 和名抄、延喜式、共に、刈、苅混用す、…養老五年〔721〕〔続紀〕「陸奥国、分柴田郡、置苅田郡」と見え、もと、柴田の南西を割きしに由る」。
長岡郡 宝亀十一年、陸奥国言、正月廿六日、賊入長岡、焼百姓家、云々」、 「今長岡の村名は栗原郡に残り、沼木の村名は、遠田郡に残る」。 長岡村は、現在の宮城県大崎市古川長岡
小田郡 後世廃して、其地は遠田郡へ入る」。
磐城郡 本吉郡:桃生郡の分地にして、蓋、和名抄、磐城郷にあたる」、 「初め庄名なり。中世、何の頃よりか、私に郡と称す」、 「仁平三年〔1153〕…既に本良郡を置かたる、正保図、元良に作る、寛文以降、復本吉に改む」。
登米郡 (延暦)十八年〔799〕、一旦廃して小田郡に入り、後復之のちまたこれを分置して、延喜式に明記す」。
新田郡 今、登米郡並びに栗原郡(小部分は遠田郡)へ入る。…大崎足利家兼、陸奥探題として新田郡に下向し〔1354〕、 其郡名の、讎〔=仇〕敵(新田氏)と同きを忌み、遂に郡名を廃す」。
色麻郡 加美郡:…賀美は、後世、色麻郡の地を合す。大略、西北小野田川宮崎川の山谷を賀美郡の旧域とし、 東南、志田郡、黒川郡に連接するを色麻郡の旧域とす」。
 〈延喜式〉〈倭名類聚抄〉の時点で色麻郡、長岡郡、新田郡、小田郡が存在していたが、その後周囲の郡に吸収された。 〈延喜式〉〈倭名類聚抄〉の賀美郡、志太郡は、それぞれ加美郡、志田郡と見られる。
《続紀》  
 色麻郡などについて、続記に次の記事を見る。
〈続記〉
天平九年〔737〕四月戊午 …以使旨慰喩、鎮撫之。…四百五十九人分配玉造等五柵。…鎮多賀柵。…鎮玉造柵。…鎮新田柵。…鎮牡鹿柵。…当国兵五千人。 帰服狄俘二百四十九人、従部内色麻柵発。即日、到出羽国大室駅。」。
延暦八年〔789〕八月己亥 勅。陸奥国入軍人等。今年田租。宜皆免之。兼給復二年。其牡鹿。小田。新田。長岡。志太。玉造。富田。色麻。賀美。黒川等一十箇郡。与賊接居。不可同等。故特延復年」。
 天平九年に蝦夷制圧軍を派遣し、多賀(宮城郡)、玉造新田牡鹿の城柵を拠点とした。制圧後、兵五千人は俘虜249人と共に「部内」の色麻郡に集結して帰還した〔「部内」は「軍営内」の意か〕
 延暦八年の勅では「田祖免」の対象郡のうち「富田郡」は、延喜式以前の平安初めに色麻郡に吸収された。〈後紀〉延暦十八年〔799〕三月辛亥「陸奧国富田郡併色麻郡。讃馬郡併新田郡。登米郡併小田郡」。 「登米郡」もこのとき小田郡に吸収されたが、〈延喜式〉までに再び分離した。「讃馬郡」も一時期存在したらしい。
 しかし、登米郡讃馬郡は延暦八年「田祖免」の対象ではないから、まだの設置は名目に過ぎず、実質(租税・戸籍の機能)を伴っていなかったと考えられる。 また、さらに北にあるはずの栗原郡桃生郡の名が見えないことにも注意を払わなければならない。 このニ郡はまだ存在しなかったのだろう。つまり、朝廷の国の北限は玉造郡長岡郡新田郡小田郡牡鹿郡のラインにあったことが浮かび上がってくる。
 その防衛ラインは、天平九年時点の玉造柵-新田柵ー牡鹿柵から一歩も進展していない。 延暦八年に「田祖免」された十郡は日本軍と蝦夷が入り乱れて戦い、田畑が踏み荒らされたのであろう。 つまり、十郡はむしろ防衛ラインを突破されて、戦場になってしまったと考えられる。少なくとも軍営が置かれて、耕作に立ち入れなかったのであろう。
 なお、このラインは当時のアイヌ人の居住境界としては南に過ぎ、「蝦夷」は統制のとれた軍隊組織であったことが伺われるので、倭人の反中央勢力かも知れない。
 延暦八年の戦争は「巣伏の戦い」と呼ばれ、蝦夷側の首謀者は「阿弖流為」であった(〈続紀〉延暦八年六月甲戌)。このときの「蝦夷」アイヌ人説、倭人説の論争の決着はついていない。

【陸中国】
 陸中国は、1869年に陸奥国を分割して設置された。
〈大日本地名辞書〉
和賀郡
稗貫郡
紫波郡
日本後記「弘仁二年〔811〕正月、置和我蘇縫斯波三郡」。「蘇は薭の誤り」、「(縫は)ヌキを、音便にヌイといひしが転れるか」。
巌手郡 延喜式神名帳、斯波の郡名を録すれど、岩手を載せず」。
閇伊郡 古郡にあらず、延喜式、和名抄に之を載せず。…弘仁二年〔811〕、 文室錦麻呂の征伐の日に、幣伊ヘイ村と称せられし者、即是なり」。
九戸郡 或は古の幣伊の部内かと疑はる。〔そもそも〕、九戸郡は、近世の更定に由り、額部の九戸に、久慈郡を合せたるものとす」、 「久慈の郡号を廃し、九戸郡の名を建てしは、近世寛文〔1661~1673〕の事」なり。 額部ぬかべについては、【陸奥国(明治)】項参照。
 斯波郡は、〈延喜式-神名帳〉に{斯波郡/一座小/志賀理和気神社}と載せながら、 〈延喜式-民部〉にはこの郡の記載を欠く唯一例である。【延喜式】項参照。
 〈後紀〉の原文を見る。
〈後紀〉巻廿一正月丙午
弘仁二年〔811〕正月丙午 於陸奧国。置和我。蘇縫。斯波三郡」。
弘仁二年三月甲寅 勅陸奧出羽按察使正四位上文室朝臣綿麻呂〔はじめ四名〕…。去二月五日奏称。請発陸奧出羽両国兵合二万六千人。征爾薩体。幣伊二村者。依数差発。早致襲討」。
 弘仁二年に紫波郡など三郡や閉伊郡の地域を制圧し、一旦「和我蘇縫斯波三郡」を置いたが、その後に起こった反乱によって統治権を失ったのであろう。 延喜式の時点では斯波郡は消滅していたが、志賀理和気神社はその旧地にあったと思われる。 この地域に再び郡が置かれたのは、延喜式よりも後であろう。だとすればもともと「蘇縫」だったところが、二回目は「稗貫」になることもあろう。誤写や音韻変化の結果などとして、無理に一致させる必要はなかろう。
 そもそも蝦夷を退けて得た領地は、一路拡大とする方が不自然である。時代の経過につれて進んだと思えば、後退もあった。 前述の陸前国の玉造郡-桃生郡ラインについても、そのはるか北方に前方後円墳が存在した(角塚古墳;6C初頭、丹沢郡〔岩手県奥州市胆沢南都田〕))。 一時朝廷勢力が占拠したとしても、その後反朝廷勢力に転じたり、あるいはアイヌの居住域に置き換わることなど、いくらでもあったであろう。

【羽前国】
 羽前国は、1869年に出羽国を分割して設置された。
〈大日本地名辞書〉
出羽郡 中世夙く其名を失ひ、其地大泉庄に混し、或は其北偏に餘部の汎称を立て、 又、櫛引の私称あり、近代に至り、悉く其地を田川郡に合す」。
田川郡 越後磐船柵を築くこと見えたれば、…田川郡を磐船の北に置かれたるを知るなり。 当時、越後国に属す。和銅五年、出羽国を建てらるるや、田川、出羽、飽海の三郡、蓋之に隷す」。
 出羽国の成立について、〈続記〉を見る。
〈続記〉
和銅元年〔708〕九月丙戌 越後国言。新建出羽郡。許之」。
和銅五年〔712〕九月己丑 其北道蝦狄。…凶賊霧消。…於是、始置出羽国」。
同十月丁酉朔 割陸奥国最上置賜二郡、隷出羽国焉」。
 磐舟柵については、大化四年〔648〕に磐舟柵を作り、蝦夷に備えた。 文武二年〔698〕に修築。岩船郡が対蝦夷の前線であった。 その後越後国が北方に拡張して、和銅元年〔708〕には出羽郡を設置した。 和銅五年〔712〕には広がった領域を出羽国として分離し、最上郡と置賜郡を陸奥国から割いて出羽国に加えた。
 よって、和銅五年の時点では蝦夷を田川郡〔あるいは飽海郡〕と最上郡の北に押し出したようである。 再び阿弖流為一族アイヌ説について考えると、出羽国成立から約70年後になっても、対アイヌラインが最上郡と同緯度の玉造郡に留まっているのはやはり疑問である。

【羽後国】
 羽後国は、1869年に出羽国を分割して設置された。
〈大日本地名辞書〉
鹿角郡 陸奥路は、即今、陸中岩手郡より直径〔=直行〕して鹿角に入り、 賊〔=蝦夷〕の後背を襲撃するの謂れなり。 後建てて鹿角郡という、蓋、平安朝時代の末にして、比内郡と同時歟。旧史〔欠〕けて明徴なし」。
由利郡 中世に及び一郡号に建てらる、蓋、和名抄、飽海郡雄波、由理、余戸の三郷、
〔なら〕びに河辺郡中山、河合、邑知以下、五六郡を合せた者とす
」。
仙北郡 今の仙北郡は、寛文中〔1661~1673〕の改定に属し、古の山本郡の地なり。山本は、其建置の始を知らず、 元慶年中〔877~885〕の紀文に見え、延喜式又之を録す。蓋、天平宝字以後、延暦に至るの間〔757~806〕に在り」、 「元慶中、雄勝平鹿山本の三郡を、汎称山北センホクといへるより、 後世郡号を失ひ、専山北を以て之を呼ぶ。近世に至り、正保図〔1644~〕、初めて三郡の郡堺を復し、山本郡を標示す」。
比内郡 秋田以北賊地〔=蝦夷地〕十二村の名は、上津野、火内、椙淵、野代云々…上津野は即鹿角郡なれば、火内、椙淵は、北秋田に擬すべし。 …東鑑、文治五年〔1189〕七月比内郡、同九月肥内郡と云えば、之よりさきすでに建置せられしなり」、 「鎌倉府の時、津軽、比内、鹿角等は、出羽の部属を離れて、已に陸奥の所管となりし」。 「天正十八年〔1590〕、秋田の郡号を以て之に被及す。而も、…方俗、私に比内といへること、旧の如し」。
 すなわち、比内郡は1189年には既に存在し、1890年には秋田郡の一部となるが、相変わらず比内郡と呼ぶ人がいる。
飽田郡 「(斉明四年)既に飽田渟代津軽、三郡の権置〔=朝廷による設置〕ありしなり。然るに、王師〔=朝廷軍〕西北海表に敗れ、形勢一変、 権置の諸郡、皆〔しづ〕みて夷地と為る。…既にして寧楽の朝政〔=奈良時代〕に及び、東北の開拓年々に進み、 天平五年〔733〕を以て、秋田村高清水岡に城柵を創む、出羽の鎮守にして治府を兼ねたり…当時、雄勝山北の路未だ通ぜず、専ら、由利の海路を以て、秋田保持の大幹と為せり。 〔しかれど〕も…秋田河の北は蝦夷の勢猶盛にして、之を馴服するに難かりしを知る。… 元慶中〔877~885〕、野代、上津野、津軽島の蝦夷乱を作し、秋田城陥り、河北全く賊地と為る。 藤原保則、小野春風、伐ちて之を平定す」。
 すなわち、〈斉明朝〉における齶田(あいた)郡、渟代(ぬしろ)郡、津軽郡の存在は一時的で、基本的には蝦夷地の時代が続いた。朝廷勢力の北限は秋田城だったが、その秋田城さえ元慶年間には一時的に敵の手に堕ちた(津軽郡項参照)。
山本郡 古の渟代郡にあたる。…寛文〔1666~1673〕中、秋田藩、幕府の命を奉し、山本郡と為す。 而も、古の山北三郡の一なる山本に非ず、同名異境と為す。是れ古号を復するの盛意に出でしに似たりと雖も、指示其実を失ふ」、 すなわち桧山郡を山本郡に改称したのは古号を復活しようとしたらしいが、山本郡は仙北郡の古称だから誤りであると言って非難している。 また、「有間浜、恐らくは津軽郡の西浦なりけん。当時の渟代郡は、齶田と津軽の間の山海を包有するなれば、桧山(今山本)、比内(今北秋田)、鹿角の総名なりと知るべし」という。
 〈増補版〉「【補】(山本郡は)古の野代郡にて延喜式和名抄に所見の地なり(ア)。中世は桧山郡と曰ふ」。 下線部(ア)は明らかに誤りである。〈増補版〉は吉田東伍の遺稿を取り入れたというが、東伍本人が不適切だと判断して採用しなかった原稿も含むようである。
《続紀》
 出羽柵秋田城について、〈続紀〉に次の記述を見る。
〈続紀〉
天平五年〔733〕十二月己未 出羽柵遷置於秋田村高清水岡。又於雄勝村建郡居民焉」。 この出羽柵が、秋田城と呼ばれるようになったと考えられている。また、この年に雄勝郡が建郡される。
宝亀十一年〔780〕八月乙卯 出羽国鎮狄将軍安倍朝臣家麻呂等言…秋田城者。前代将相僉議所建也。禦敵保民。久経歳序。一旦挙而棄之。甚非善計也。宜且遣多少軍士。為之鎮守。…又由理柵者。居賊之要害」。 すなわち、〔鎮狄将軍安倍家麻呂は言上した。曰く秋田城は前の時代に皆で議論して置き、敵を防御して民を守った。これを一朝にして放棄するのは計略としてよくない。賊への要害だから軍士を置いて守るべし〕という。
 秋田郡は、9世紀末になっても蝦夷に攻め込まれたりしているから、朝廷の国の北限はやはり〈延喜式〉に載る通りであろう。 秋田郡も、比内郡を除く範囲であったと思われる。
 このことから見て、〈斉明朝〉における齶田郡はともかくとして、渟代郡、津軽郡の存在については極めて特異な事象というべきで、その実態については慎重な検討が必要である。

【陸奥国(明治)】
 陸奥国(明治)は、1869年に陸奥国を分割して成立した。
〈大日本地名辞書〉
津軽郡 元慶二年〔878〕、秋田城下の俘囚乱を作し、上津野カツノ火内ヒナイ以下の十二村賊地と為るや、 津軽夷狄又賊に応したりやの疑あり。…其実、津軽夷狄は反乱に与せず。
 即、奏状に「津軽、渡島俘囚等、所請之事、以夷襲夷、古之上計、随便進止」とあり。 元慶三年紀には「渡嶋夷首百三人、率種類三千人、詣秋田城、与津軽俘囚不連賊者百余人、同共帰慕聖化」云々。 藤原保則伝に「公撫納余種、自津軽至渡島、雑種夷人、前代未曾帰附者、皆尽内属」と述べたり。
 而も延喜式、和名抄には、津軽郡を収めず、出羽の部下なりしと雖も、荒服の地真郡に非ず
」。
〔元慶二年に、秋田城下の俘囚〔服従していた元賊〕が反乱を起こし、上津野、火内〔=比内〕が敵となったとあるが、 津軽蝦夷がすべて賊であったというのには疑問がある。
 奏状〔=報告書〕に「夷を以て夷を討つは古くから言う上計で、これを作戦に用いた」、 『三代実録』元慶三年条には「渡嶋夷の首魁103人は一族3000人を率いて秋田城に参上して朝廷に服従することを申し出た」、 『藤原保則伝』には「朝廷は種々の者を慰撫した。津軽から渡島まで種々の夷人は、前代には未だかつて帰順しなかったが、皆尽く服従した」とある。
 しかし、延喜式・倭名類聚抄には津軽郡を収めていないから、出羽国に属するとはいうが荒服の地〔=辺境〕であって真郡〔=朝廷が統治した郡〕ではない。〕
糠部郡 南部家譜曰、文治五年〔1189〕七月、光行陸奥国糠部五郡を賜ふ、按、海上を分ち、又、二戸、三戸、九戸となり、共に四郡なり」、 「糠部は、後世に至て、其北方を割きて、海上郡を置き、(或は階上、後、北郡と称す)、 其残部を二分して、三戸、九戸の二郡を置けり、(永禄天正〔1558~1592〕の頃ならむ)…二戸郡は、元禄年中〔1688~1704〕…更に九戸郡を割きて置きし所なり」。
 「元慶三年紀」は『三代実録』第四巻/元慶三年条のことで、『国史大系第四巻』〔経済雑誌社1897〕国立国会図書館デジタルコレクションなどで参照できる。 藤原保則〔825~895〕は、元慶二年に乱の鎮圧を命じられ、夷俘を慰撫して収束させた。
 渡島は、後の時代には北海道南西部を指すが、平安時代には津軽の先の本州最北端「外浜」を指すと考えられている。 この津軽、北浜地域は〈延喜式〉の時点では律令郡ではない。依然として蝦夷の独立地域であり、藤原保則はうまく国境紛争を収め、講和したと見られる。 三代実録の「帰慕聖化」は、その「講和」を朝廷に服属した如くに表現したものであろう。 平和共存して交易もある関係ならば、「帰順した」と言っておけばよいのである。
 ただ、一定の実利と引き換えに、実際に名目的な服属を誓わせた可能性もある。中国が周辺国を形式上の冊封国としたのと同じである。
 しかし、真の行政区画としてのの成立は、鎌倉時代を待たねばならない。 〈青森県史〉は次のように述べる。
〈青森県史〉pp.98~99
源頼朝は、…守護・地頭の制を整えた」。 「(青森)県下の地には津軽平賀郡・津軽田舎郡(・津軽山辺郡)・津軽鼻和郡・西浜・外浜・糠部郡がおかれたが、 これらは鎌倉時代を通じて最終的に北条の得宗領となった」。
 得宗は北条一門のトップをなし、ほぼ執権と重なる。

【延喜式】
 〈延喜式〉巻第二十二「民部上」に載る郡名と、同巻第十「神名下」の郡名とを対比する。「ー」は郡名なし、すなわち式内社の存在しない郡。
◎陸奥国
延喜式/民部上 白河磐瀬会津耶麻安積安達信夫刈田柴田名取菊多磐城標葉行方宇多伊具日理※1宮城
延喜式/神祇下 白河郡磐瀬郡会津郡瑘磨郡安積郡信夫郡苅田郡柴田郡名取郡磐城郡標葉郡行方郡宇多郡伊具郡曰理郡※2宮城郡
 ※1…『国史大系』13〔1900〕p.690は「亘理」。頭注に「亘、林本作日〔"亘"、林本で"日"に作る〕
 ※2…同じくp.353は「亘理郡」。頭注に「亘、林貞ニ本作日、蓋曰之誤〔"亘"、林・貞両本で"日"に作る、けだし"曰"の誤り〕。林本、貞亨本ともに慶長本系の写本。
延喜式/民部上 黒川賀美色麻玉造志太栗原磐井江刺膽澤長岡新田小田遠田登米桃生気仙牡鹿
延喜式/神祇下 黒川郡賀美郡色麻郡玉造郡志太郡栗原郡磐井郡江刺郡膽澤郡新田郡小田郡桃生郡気仙郡牡鹿郡斯波郡
 〈倭名類聚抄〉の陸奥国には、これらに加えて「大沼(郡)」が含まれる。
◎出羽国
延喜式/民部上 最上村山置賜雄勝平鹿山本飽海川邊田川出羽秋田
延喜式/神祇下 平鹿郡山本郡飽海郡田川郡

まとめ
 出羽国側(日本海沿岸)の朝廷国家の進出については、708年に越後国を広げて出羽郡とし、さらに712年に田川郡のあたりまで進出したところで出羽国として分離した。 780年の時点では、秋田城を蝦夷に備えて増強するから、秋田郡が北限である。 878年には、秋田郡で大人しくしていた蝦夷が津軽以北の蝦夷と一体になって乱を起こしたが、なんとか鎮撫した。 以後、延喜式(928年)になっても最北ライン=秋田郡に変化はなく、それより北に郡を置くのはようやく鎌倉時代になってからである。
 陸奥国側(太平洋沿岸)では、737年には玉造柵ー牡鹿柵ラインが朝廷国家の北限である。 しかし、789年にはこの防御ラインを越えて攻め込まれている。 811年には斯波郡、蘇縫郡、和我郡を設置したが、その後失われ、延喜式の時点では丹沢郡ー気仙郡ラインが北限である。 陸奥国側の北限は、出羽国側よりかなり南なので「蝦夷」はアイヌではなく、和人の反朝廷勢力のように思える。 和賀・閉伊以北の郡の設置は、おそらく12世紀以後であろう。
 〈斉明朝〉の「齶田郡、渟代郡、津軽郡」は、朝廷が管轄する「郡」を設置した如く装うが、 実際には現地の蝦夷と友好関係を結んだ程度のことではないかと思われる。しかし、さらに精密な検討を期したい。



2024.04.15(mon) [73] 野中寺弥勒菩薩半跏像銘文を読む 
『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』
〔奈良国立文化財研究所飛鳥資料館1979〕(p.10)
野中寺 塔跡 朝日百科 日本の国宝3
〔朝日新聞社1999〕(p.151)
野中寺の位置
 野中寺弥勒菩薩半跏像銘文は、その日付「丙寅年四月八日癸卯」が666年に特定できる点が注目された(元興寺伽藍縁起…[3])。 半面、文章の内容には謎が残されてきた。
 今回、これまでの説に捉われることなく、原点に戻ってその読み方を求めた。

【野中寺】
 銘文のある弥勒菩薩半跏金銅像は、野中寺(やちゅうじ)〔大阪府羽曳野市野々上5丁目〕は、 「聖徳太子が建立した46寺院のひとつで、太子の命により蘇我馬子が造ったと伝えられ」るという(羽曳野市公式/野中寺)
 『朝日百科 日本の国宝3』〔朝日新聞社1999〕によると、 右側に金堂、東側に三重塔を置く法隆寺式の伽藍配置が明らかになっている(p.151)。
 また、野中寺や治部省担当者と船連との間には深い繋がりが伺われ、野中寺はこの地に住む「船連」の氏寺であったと考えられる(推古十一年《船氏》)。
《弥勒菩薩半跏像》
 野中寺には「弥勒菩薩半跏像」は金堂像で、高さ18.5cmである。 その台座を一周して縦書きで各行2文字を31行、全六十二文字が刻字されている。 そこに記された「丙寅年四月」の「八日癸卯」が〈天智〉天皇五年〔666〕に該当することから、 同年に作られたものと一般に考えられている。
 また、銘文中の「中宮天皇」が果たして誰を指すかは、議論の的となっている。
 ここでは、その銘文の読み方を検討する。

【弥勒菩薩半跏像銘文】
 まず、銘文の字そのものを確認しよう。
 下図は銘文の写真を画像処理して、その線刻跡がはっきり分かるようにコントラストと明度を調節したものである。
『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』〔同上〕/野中寺弥勒菩薩半跏像銘文(p.10)に画像処理
 この銘文の文字は、ひとまず次のように読むことができる。
丙寅秊四月大旧八日癸卯開記栢寺智識之等詣中宮天皇大御身勞坐之時請願之奉弥勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也
 議論があるのは「」、「」の二文字で、それ以外の文字については疑問の余地はないであろう。
 ●「」は「𦾔」の新字体であるが、この時代に「𦾔」として用いることはないだろう。 他に「」説も見るが、鍍金のめくれを見れば明らかに縦線一本で、サンズイとは言えない。 「」の字体は、むしろ「」に近い。
 これを、の略字とする説を多く見る。これは、確かに考え易い。 このときの丙寅年の四月は大の月で、「大の月の朔から八日」と取れないことはないからである。 しかし、「四月大朔八日」という表し方は、他に例を見ないので、なお確信はもてない。
 とは言え、この問題は保留してもこの日が「四月八日」であることに間違いはないだろう。 この日は、灌仏会かんぶつえ〔釈尊の誕生日〕にあたる。
「旧」と読める字の拡大 「栢」と読める字の拡大
 ●「」は、画像処理すると線刻による鍍金のめくれも鮮やかで筆順が明瞭に分かり、 これが「」でなければ何だろうというレベルである。しかし、問題は畿内に「栢寺」が見えないことである。
 ただ、岡山県総社市南溝手に「栢寺廃寺跡」があり、「白鳳時代に創建」とされる(岡山県公式/栢寺廃寺跡)。 備中国の寺院から高僧118人が野中寺を訪れたとしても、それを一概に否定する理由はないだろう。
 もちろん、畿内にかつて同名の寺があったことも十分考えられる。

【中宮天皇】
 一般には、この銘文は「栢寺智識〔=智識をもつ高僧〕」が「中宮天皇」の病気の平癒を請願してこの「弥勒御像」を奉ったと解されている。 しかし「中宮天皇」の不自然さは否めない。まずは「中宮」の本来の意味を探ろう。
《記紀》
 記紀には、皇后、太后、夫人を「中宮」と呼ぶことはおろか、「中宮」という語そのものが見えない。
《令義解》
 『令義解』では、「中務省」に 「中宮職:大夫一人。亮一人。大進一人。少進二人。大属一人。少属二人。舎人四百人。使部卅人。直丁三人」となっている。 『令義解』が付した「中宮」への解説は「皇后宮其太皇大后皇大后宮亦自中宮〔皇后の宮を謂ふ。其の太皇大后・皇大后宮、またおのづから中宮なり
 すなわち、中宮とは皇后や太后などが居住する宮殿のことで、そこに仕えるのが中宮職であるという。 〔ツカサ〕は、の下部組織のひとつ。 大夫・亮・進・属における四等官の表記で、〈倭名類聚抄〉によれば、それぞれカミ・スケ・マツリゴトヒト・サクワンと訓む。
《続紀》
 「中宮」の〈続紀〉での初出は、養老七年〔723〕正月丙子「天皇御中宮」である。 当時の〈元正〉天皇は女帝であるが、皇后になったことはない。
 〈聖武〉が即位した後の初出は、神亀元年〔724〕十一月庚申「賜宴於中宮」である。 以後、僧に読経させたり、冠位を授けたり、饗したり、恩赦を発したりしているから、中宮は公的行事のための施設である。 よって、これらの文中における「中宮」は、皇后の宮殿とは言えない。
 中宮職については、中宮大夫の初出は天平九年〔737〕中宮大夫兼右兵衛率正四位下橘宿祢佐為卒〔佐為(人名)の死去〕である。
 天平勝宝六年〔754〕大皇大后崩中宮」の場合は、大皇大后〔藤原宮子、〈文武〉夫人〕の居住域である。
 天応元年〔781〕五月乙亥「始置中宮職」がある。これについては、天平九年の「中宮大夫」との関係をどう見るかという問題がある。
 延暦三年〔781〕十一月甲寅「皇后遭母氏憂。不車駕中宮復留-在平城」。ここでは「中宮」は人の呼称で、桓武天皇の母の高野新笠を指す。皇太夫人。薨じた後に贈太皇太后。 この文章では皇后中宮とは呼ばれず、中宮皇太夫人を指す。
 「日本上代の「中宮」について」〔寺田恵子〕によると、 宮子については一周忌の花籠銘に「「中宮齋會花莒天平勝宝七歳七月十九日東大寺」(圓形花籠・底裏墨書)」と記されていたとある。 上記〈続紀〉天平勝宝六年にも宮子が「中宮」と呼ばれていたのは間違いないだろう。
 よって、皇后とは無関係で宮殿内の施設としての中宮と、太后の居住域としての中宮があったと見られる。 そして、人への呼称としての「中宮」は8世紀半ばから太后に用いられたと見てよい。
《人への呼称》
 宮殿の名称が、その主をも表すようになるのは自然である。高貴な人に対しては、直接その名を口にすることを憚る心理的な機構によると思われる。 (ミカド)が「御門」に由来することはよく知られている。
 8世紀後半には太后中宮と呼ばれたようだが、『令義解』〔833〕では基本的に「皇后の宮」となっているから、 9世紀には皇后中宮と呼ばれたと見られる。
 しかし、天皇が中宮と呼ばれることは決してなかった()のは明らかである。

【銘文の読み方】
《銘文成立時期》
 「中宮」が人への呼称になったのは8世紀半ばだから、 弥勒菩薩半跏像銘文が線刻されたのは8世紀半ば以後と見られる。
 「丙寅年」は、昔から言い伝えられていたことをこの時期になって刻んだことになる。 もちろん天皇号も、666年にはまだ存在しない。
《中宮天皇の読み方》
 上述によって、「中宮天皇」を一語として読むことは著しく不自然である。 よって、「中宮」と「天皇」と切り離すと、次のように読むことができる。
丙寅年四月大旧八日癸卯開記。
栢寺智識之等詣。
中宮、天皇大御身労坐之時、
請願之、奉弥勒御像也。
友等人一百十八。
是依六道四生人等此教可之也。
丙寅年四月大旧八日癸卯に開き記す。
栢寺の智識(ちしき)之(の)等(ともども)詣(まゐ)る。
中宮、天皇(すめらみこと)大御身(おほんみ)労坐之(わづらひませる)時、
[之を]請ひ願ひて、弥勒御像(みろくのみかた)を奉(たてまつ)れり[也]。
友等(ともども)の人の数一百十八なり。
是に依りて六道四生(りくだうししやう)の人等(ひとたち)、此の教(をしへ)[之を]相(み)る可し[也]。
智識…高徳の僧。六道…死後に輪廻する6つの世界。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上。四生…胎生・卵生・湿生・化生の四つの生まれ方。 六道四生人…「すべての人が」の雅言であろう。
 丙寅年間人大后が薨じた翌年にあたるから、「天皇」は〈孝徳〉天皇、「中宮」は間人大后とすると、 皇后が天皇の平癒を願って弥勒御像を造らせたこととなり、これは実に納得できる。
 また、奈良時代半ばには、中宮太后を指したと考えられるから、 その時期に作成された銘文において、間人太后を「中宮」と表現した可能性は十分ある。
 銘文をこのように読んた場合、次のストーリーが想定される。
 〈孝徳〉天皇が病を患ったとき、間人皇后はその平癒を請願してこの弥勒御像を作らせた。 大后が薨じて、野中寺はその遺徳を称える大寺となった。 薨じた翌年の丙寅年四月八日〔灌仏会〕に、栢寺の智識118名を招いて盛大な供養が行われ、その時大后が身近に置いていた弥勒御像が野中寺に安置、公開されたことと考えられる。
 弥勒菩薩半跏像銘文が、以上の経緯を記したものだとすれば、何ら抵抗感なく読むことができる。
 「開記」は、間人皇后を記念する寺として改めて野中寺が開かれたこと、あるいは弥勒菩薩半跏像が初めて公開された経緯を記すという意味に読むことができる。 「」は、まさに栢寺智識の一行118名が詣でたということであろう。 通説は、この「」と「」を見過ごしたように見える。
 野中寺が間人大后を記念する大寺になったことは、かつて无子の皇后のために御子代が設置されたことに通ずるものがある (第170回の八田部)。 間人大后も无子であった。
 〈天智〉四年三月条の「間人大后、度三百三十人」は、まさに野中寺の僧の増員を指すと思われる。

【残された問題】
 一般には野中寺弥勒菩薩半跏像は666年に作られたとされている。 しかし、それを疑問視して、製作年代はもっと下り7世紀末~8世紀初頭とする意見がある 「野中寺弥勒菩薩半跏像の再検討」〔礪波恵昭〕。 〈孝徳〉の崩は654年で、間人皇后の快癒祈願によるとすれば製作時期はさらに12年以上遡るので、乖離はより大きくなる。
 銘文中には666年とあっても、実際に刻字されたのは8世紀半ばであろうから、 その弥勒菩薩像に請願云々の言い伝えがあったとしても、実は別の像である可能性は否定できない。
 仮に654年頃に作られたとものだとしても、そもそも仏像製作は個人の技である。 様式の移行は年表に定規で線を引くような単純なものではなく、同時期に新旧の様式が共存するのが当然である。 たまたま一人の工人が周囲と異なる技法を用い、結果的に未来の様式を先取りしていることもあり得よう。

まとめ
 藤原宮子の一周忌の花籠銘において、宮子が「中宮」と表記されていたことを見ると、8世紀半ばにおいて上后・皇太后を「中宮」と表現することはかなり一般的であったと考えられる。 よって当時の人が「中宮天皇」という字の並びを眼にしたとき、中宮と天皇の間に暗黙の句読点が見えたのは共通感覚ではないだろうか。 試しにそのように区切ってみたところ、結果的にとてもうまく読むことができたのである。
 弥勒菩薩半跏像の寸法18.5cmも、間人皇后が身近に置いて祈るのに相応しい大きさである。 通説のように118人もの高僧が天皇の為に奉納したのなら、もっともっと大きな像になるのではないだろうか。
 銘文などを読むとき、字面だけではなくその背景にある人の営みの息吹を描いてみると、自ずから見えて来ることは多いと思われる。



2024.05.20(mon) [74] 高安城の探索 
 高安城の実際の姿は、あまり明らかになっているとは言えない。ここでは、その探求の歴史を辿る。その際過去の研究については、なるべく原著作物を参照するよう努めた。
 高安城については、〈天智紀〉六年〔667〕に築城の記事があり、最後の記録は〈続紀〉和銅五年〔712〕である。 江戸時代には、『五畿内志』河内国/高安郡は「高安故城:在服部川村上方続呼信貴出城」と載せる。 よって、かつて松永久秀の信貴山城の出城が高安山にあったという認識はあったようである。
 外郭線の推定は大正時代になってから始まり、その嚆矢こうし関野貞による探査であった。
   引用文献略称
〈幻の高安城3〉…『夢ふくらむ幻の高安城』第3集〔高安城を探る会;1978〕
〈幻の高安城5〉…『夢ふくらむ幻の高安城』第5集/近畿の古代山城〔高安城を探る会;1980〕
〈幻の高安城6〉…『夢ふくらむ幻の高安城』第6集/高安城跡範囲確認調査(大阪府)〔高安城を探る会;1982〕
〈幻の高安城7〉…『夢ふくらむ幻の高安城』第7集/礎石発掘から10年〔高安城を探る会;1992〕
〈関野18〉「天智天皇の高安城タカヤスノキ関野貞:『奈良県史蹟勝地調査会報告書 第五回』〔1918〕(pp.1~17)
〈古川36〉…『日本城郭考』〔古川重春;巧人社書店1936〕〔復刻版/名著出版1974〕
〈榑松79〉…「朝鮮式山城の高安城に関する軍事地理学的研究」榑松静江:『奈良女子大学地理学研究報告』〔奈良女子大学文学部地理学教室;1979〕(pp.16~37)
〈大阪府概要81〉…『高安城跡範囲確認調査概要・Ⅰ―八尾市服部川所在―』〔大阪府教育委員会1981〕
〈奈良県概報81〉…「高安城跡」(『奈良県遺跡調査概報 1981年度』〔奈良県立橿原考古学研究所1983〕第2分冊 pp.383~393 付図版1~6)
〈奈良県概報82〉…「高安城跡」(『奈良県遺跡調査概報 1982年度』〔奈良県立橿原考古学研究所1983〕第2分冊 pp.277~284 付図版1~3)
〈奈良県概報85〉…「高安城跡」(『奈良県遺跡調査概報 1985年度』〔奈良県立橿原考古学研究所1986〕第1分冊 pp.89~97 付図版1~13)
〈本邦高土堰堤誌〉『本邦高土堰堤誌』〔農業土木学会1934〕
〈柏原市史〉…『柏原市史』第二巻 本篇(1)〔柏原市編纂委員会1973〕
〈日本ダム台帳〉…『日本ダム台帳』〔日本大ダム会議1979〕
〈さらさ13〉かわの情報誌 さらさ(2013秋/NO.83)国土交通省 近畿地方整備局
〈古代の道と駅〉…『事典 日本古代の道と駅』〔木下良;吉川弘文館2009〕
〈奥田99〉…「高安城の外郭線について」〔奥田尚・米田敏幸〕『古代学研究 第148号』〔古代学研究会;1999〕(pp.40~44)
〈奥田00〉…『高安城の外郭線―探索一年を終えて―』〔奥田尚・米田敏幸2000〕
〈向井17〉『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』〔向井一雄;吉川弘文館2017〕
〈小字データベース〉奈良盆地地理データベース〔奈良女子大学 古代学・聖地学研究センター〕/小字データベース
目 次
1.礎石建物群の発見まで
2.書紀・続紀に見える高安城
3.関野貞説
4.古川重春説
5.榑松静江説
6.外郭線の規模
7.地名からのアプローチ
8.外郭線の探索(1)
9.外郭線の探索(2)
10.奥田尚・米田敏幸説
  まとめ

【礎石建物群の発見】
 その後、外郭線説は時々見られたが、基本的に地形や地名などによる推定であった。 始めて高安城が存在した物質的根拠が得られたのは、礎石倉庫群の発見によるものであった。 先にその経過を見る。
《朝鮮式山城》
 〈天智〉二年〔663〕、王を失った百済遺民が再興を期し、倭国はその救軍として船師が派遣し、白村江で唐軍と合戦に及び完敗した。
 百済の王族は倭国に亡命し、恐らくその進言もあって唐・新羅の渡海攻撃に備えるべく西日本各地に城が築かれ、百済の築城術を用いたと見られることから朝鮮式山城と呼ばれる。
 書紀、続紀には大野城及び基肄(きい)(筑前)、長門の城金田城(対馬)、屋島城(讃岐)、高安城(大和)などが見える。 そのうち高安城については、大野城や金田城のような明瞭な石垣が発見されず、その実像は長らく謎のままであった。
 その探求については、〈榑松79〉が「高安城の研究史は意外に貧しく、正攻法で問題にした論説は関野貞(大正7年)〔1918〕、京谷康信(昭和7年)〔1932〕」そして榑松静江自身〔1978〕程度であった。
《礎石建物の発見》
 そのような状況下で、1976年に設立された大阪府八尾市の市民グループ「高安城を探る会」は、1978年の探索会で規則正しく並んだ石を発見し、それは明らかに礎石建物の跡であった。 全部で六棟発見され、その後の奈良県の「高安城跡調査委員会」による調査により、これらの建物は奈良時代に建ったことが明らかになったが、高安城の実在を初めての物質的に裏付けたものであった。
〈奈良県概報81〉
第一次調査遺構図/2号礎石建物(p.386) 〈上〉礎石列[南東から](図版1)
〈下〉中央礎石遺物[南から](図版3)
 同会が発行した〈幻の高安城7〉によると、「昭和五十一年度〔1976〕から市民グループの私たち「高安城〔ママ〕探る会」が、山歩きによって高安城の遺構・遺物を探索することを始め、 二年余の探索の結果、高安山中、奈良県生駒郡平群町久安寺の山中で、高安城の倉庫と考えられる礎石群六棟分を発見した。 九州大野城、基肄城などの古代山城の倉庫址礎石とほぼ同一のものであった」(p.5)。
《2号建物》
 〈奈良県概報81〉によると、2号建物の規模は「3間×4間で中間寸法は梁行7尺(210cm)、桁行は東西の両側1間分が230cm、中央2間分が210cm」という(p.386)。 ただし、桁行については、後の調査で3号建物が「2.2mの等間隔であることが確かになった」ので、 「第2号棟でも再度確認したところ2.2mの等間隔としても妥当である」と考えられるに至った(〈奈良県概報82〉p.283)。
 〈奈良県概報81〉に戻ると「建物中央礎石据え付け穴からは、土師器の杯、皿、鉢、羽釜などが出土」し、「礎石据え付けの経過」は 「①地面に礎石据え付け穴が掘られ、穴の底にあつさ約10cmほど土が入れられる。②礎石が穴に据えられる。③礎石据え付け穴は大量の土器と、土とで埋め戻される」というものであった(p.387)。 出土遺物は、「平城京左京一条三坊十五坪、十六坪で…和銅6年〔713〕から養老7年〔723〕の木簡とともに出土する土器」 などに類似することから、遺物は奈良時代前期に比定され、2号建物は「奈良時代前期に築造されたと考えられる」という。
 その出土遺物の意味については、中央礎石を「据え付けた後、いまだ掘り方内を埋め戻す前に大量の土器を入れているので」、「地鎮に関するものとみても大過ないであろう」との見方を示す(p.389)。
《3号建物》
〈奈良県概報82〉
倉庫想像図
〈幻の高安城7〉(p.22)所引『朝日新聞』〔1983年6月2日〕
3号礎石建物(p.282) 建物礎石と掘立て柱痕跡(図版3)
 3号建物では、「〔20個の〕礎石の周囲から掘立て柱の据付穴の列…十八個」が見つかり、 「二号では見逃していたことが後でわかった」。3号建物からもやはり「多数の土師器が出土」し「奈良時代前期のもの」であった(〈奈良県概報82〉p.18)。
 新聞記事には、その掘立て柱について、橿原考古学研究所は「大きく張り出した屋根を持ち、それを支えるために…礎石柱の外側に掘っ立て柱を備えた」との見立てを示したと述べ、その想像図が示されている(同p.22)。 〈奈良県概報82〉には「我々はこの掘立柱遺構について…①縁の杷柱〔縁側のようなつくりの足〕、②庇〔ひさし〕の支柱、③甲倉の柱」について検討したとある。 その結果、については「倉庫の四方に縁が付くことは常識外…杷柱とするにはあまりにも柱が太く、深く埋め込まれている」。 だとすれば「庇がかなり深かった」ことになる。その理由は「高安山中のように高所で山の深いところでは雨が多く、湿気も多い。また冬等でが雪等が多かった」から、「長い庇を支える柱が必要になった」のであろう。 甲倉は「二重倉」、すなわち「礎石を使用した倉建物の外側に掘立柱の覆屋を立てた」とするもので、これも「湿気から守るためのもの」、すなわちまたはを推している。
 〈天武紀〉には、高安城の倉を「秋税倉」と表現していることを見ると、税として集めた大量の米を万全な状態で保管する必要があったのは確かである。 を実際に作って米の保管状態を調べる実験をしてみるとよいかも知れない。
《礎石建物群の位置》
 〈幻の高安城3〉の図に示された礎石建物群の位置を、地理院地図と赤色立体地図の上に落とした。 高安山古墳群(後述)も併せて示した。
(拡大)
礎石建物群(〈幻の高安城3〉p.30) 国土地理院地図上の位置 赤色立体地図上の位置
〈奥田00〉(pp.6~9)が用いた5000分の1地形図 は礎石建物群
 〈奈良県概報81〉によると、発掘調査の契機は「『高安城を探る会』の探索によって1978年4月2日、 奈良県生駒郡平群町久安寺字金ヤ塚において同じ尾根に6棟の礎石建物が発見されたことによる」 と述べ、礎石建物群の所在地を金ヤ塚とする(p.385)。 しかし、礎石建物群の実際の位置は、金ヤ塚とは異なる。 〈小字データベース〉や〈奥田00〉で用いられた5000分の1地形図で見ると、6棟すべてが北隣の字クズレ川にある(右図)。
 しかし、〈奈良県概報81〉は他の箇所でも「2号建物と1号建物の間には、この場所の小字名となっている金ヤ塚がある。規模は径15m、 高さは1号建物の平坦面から0.6m、2号建物の平坦面から1.2mである」と述べている(p.386)。 近代の字の境界では金ヤ塚古墳は字クズレ川の中にあるが、古い時代には古墳「金ヤ塚」に由来する地名金ヤ塚の範囲は、今より広かったのであったのだろう。
 さて、現在のところ高安城の存在を確実に裏付ける物証はこの礎石建物群のみである。 大野城で明瞭に見える石塁・土塁のようなものは、高安城には見えない。

【書紀・続紀に見える高安城】
 石塁・土塁の探索の歴史を見る前に、まず書紀と続日本紀に出て来る高安城を見ておく。
書紀 ●〈天智天皇〉六年〔667〕十一月。「是月。築倭国高安城…
●〈天武天皇〉元年〔672〕七月〔庚寅朔〕壬子〔二十三日〕。 「是日、坂本臣財等次于平石野。時聞近江軍在高安城而登之。乃近江軍、知財等来、以悉焚秋税倉、皆散亡。 仍宿城中。会明臨-見西方、自大津丹比両道軍衆多至、顕見旗旘
この日、坂本の臣財(たから)等、平石野に次(やど)る。時に近江軍高安城にありと聞きて登りつ。すなはち近江軍、財等の来たるを知りて、以て悉く秋の税(ちから)の倉を焚(や)きて皆散り亡(う)す。 仍(よ)りて城中に宿(い)ぬ。会明(あさけ)に西の方を臨み見れば、大津丹比両(ふたつの)道自(よ)り軍衆(いくさびと)多(さは)に至りて、顕(あきらか)に旗旘(はた)を見ゆ。
続紀 ●文武二年〔698〕八月。丁未〔二十日〕。「-理高安城
●文武三年〔699〕九月。丙寅〔十五日〕。「-理高安城
●大宝元年〔701〕八月。丙寅〔二十六日〕。「高安城。其舎屋、雑儲物、移-貯于大倭河内二国
●和銅五年〔712〕正月。壬辰〔二十三日〕。「河内国高安烽。始置高見烽及大倭国春日烽。以通平城也。
●和銅五年〔712〕八月。庚申〔二十三日〕。「-幸高安城
 〈幻の高安城7〉は、「〔礎石建物群〕の二号・三号とも、火災による消失の跡がないので、天智天皇時代のもの、 つまり壬申の乱で焼けた高安城の倉庫は、また別の所に眠っている可能性が高くなった」と言って残念がっている(p.20)。
 〈日本の道と駅〉は、「難波大道が南北に通り、これに直行して東西方向に、北から…磯歯津路に比定した近世の八尾街道、…大津路に比定した近世の長尾街道、…多比路に比定した竹内街道などがある」(p.74) 「高安城は城名に河内国高安郡を負うが、大阪湾岸からの侵攻に備えたもので、河内平野を見下ろす地点に在り、 壬申の乱でここに大和側から攻めて占拠した大海人皇子軍は、大津・丹比糧道を進む近江軍を望見している」と述べる(p.75)。 その大津道の経路は、右図の位置と見られる。 したがって、「高安城」は、高安山を含むと考えられる。
 701年に廃されながら、712年に〈元明〉天皇行幸の記事がある。 これについては、礎石建物の地鎮祭遺物と見られる土器が〈元明〉行幸の頃であることを考えると、701年には軍事的脅威が薄らいで軍備機能を一旦廃止したが、新たに徴収米貯蔵倉庫群としての再利用されるようになったということではないだろうか。

【関野貞説】
 〈幻の高安城5〉は、高安城外郭線について関野貞説、 古川重春説、そして榑松静江説を並べて比較検討している(pp.156~164)。 そこで、三説それぞれの出典にあたり、現在の地図上にその位置を示した。また、大野城では城壁線が明確に稜線に沿っているので、 地形との関係を見るために赤色立体地図〔〈天智記〉《築城於長門国》項参照〕上に表した。
〈関野18〉付図 地図上の位置 赤色立体地図 拡大
 関野貞(せきのただし、1867~1935)は明治後半から昭和初めの時期に活躍した建築家で、また文化財研究者。
 〈関野18〉(大正七年〔1918〕の奈良県史蹟勝地調査会報告)によると、関野貞は 「大野肄屋嶋の諸城址を調査して〔その〕形式の全く古代朝鮮式なるを知りたり機会あらば当時最後の防禦地なる高安城の址跡を 探検せんこ〔と〕を企て」て、高安城跡の調査を実施した(p.4)。
 河内志、通証などには、「従来高安城の位置に関し深く研究せしもの無く其址跡亦随て確かならず」というのが、当時の状況であった(p.10)。
 踏査は、王寺駅から出発し、途中「今大門と称するよしを村民より聞きたり」、そこから本堂を経て谷川沿いに下り、「上池の上流」に達した。 その地点は「地形上防御線が此〔の〕谷の口を〔やく〕するに最適当と思はるゝ処」で、現在のとっくりダムの辺りを指すと見られる。 最終的に「城壁の如き者を発見せず」、その理由は「大野城椽城の如き皆城壁が谷を横断せる所は城の最弱点に当たれるにより必ず石築の城壁を以て之を防護したれども 此谷川は両眼狭隘にして断崖をなせる所多く到底多数の兵を通すべからず自然の険隘に拠り自ら城をなしたれば彼等の如く 石築の城壁を設くることは必ずしも緊要ならざりし」故と解釈している。
 踏査の結果、「余の当初の予想防備線は〔もと〕より朝鮮式山城の形式を見へたれども少しく広きに過ぐるが如し」、 「大宰府の大野城は大規模なれども東西径及び南北径約十六町〔1744m〕 …最初の予想防備線に依れば東西径約二十一町〔2289m〕南北径約十六町となり… 数万の大軍を以てするにあらざれば守禦却て困難となるべし」、よって「修正防備線」とすれば、大野城とほぼ同じとなると述べる。
 谷門古門という字名については、「昔時城門の立ちし処なるが為めなるべし 地形上決して朝護孫子寺若しくは信貴山城の門のありし処とは想像すること能はざるなり」と見る(p.8)。
 敵が筑紫、屋嶋の防御を突破して難波堺から「大和中原」を目指した場合、 「高安山は厳然として其〔生駒・高安の鞍部と竹内峠方面の〕中間に〔そびえた〕ち西南敵に対する 方面は山勢急峻にして登攀し易からず而るに河内の平野を距てゝ大阪より境に至る海岸並びに瀬戸内海の一部を俯瞰することを得べく内には広き溪谷を包容して兵舎倉庫を置き 且大軍を屯するに適し四周の峯巒〔=峯〕廻合して自然の城郭をなせり」という(p.9)。
 結論的には「単に修正防備線の僅少なる一部分に〔とど〕まり且時恰〔かつときあたか〕も盛夏に際し草樹繁茂充分の調査をなすこと能はざりしにより余等は終に城壁に類似せる者を発見せざりしも 其有無は更に実地に就き充分の調査を遂ぐるにあらざれば断言すべからず他日幸に城壁の遺址を発見するに至らば余の比定は始めて具体的に正確なりしことを証明せらるべし」、 「而も終に発見すること能はざる場合ありと仮定せば如何に之を解すべきや思ふに当初単に低き土壁を設けしが為め長年月の間に攘夷するに至りしか若しくは 或事情の下に唯自然の地形に頼りて直ちに防備線となし〔しばら〕く城壁を築かざらしならんと想像するなり〔調査は単に修正した城壁ラインのごく一部分に過ぎず、盛夏の草木繁茂により充分にできず、城壁に類するものは終に発見できなかった。 将来城壁遺跡が発見できれば、私の予想ラインは実証されよう。 しかし、遂に発見されなかったとすれば、当初は低い土塁が設けたが長い年月の間に破壊されたか、 何らかの事情により差し当たっては自然の地形で充分と考えられ、すぐには城壁を築かなかったものと想像される〕と述べている。
 結局、石垣土塁は発見されなかった。 関野貞の描いた城壁ラインは、ただ軍事上有利な地点である高安山と、大門谷門古門という小字名の残る地点を結ぶ稜線を想定して描いたものである。
 また、後日発見された礎石建物群が、関野貞説の示す外郭線の外側にあることに留意せねばならない。

【古川重春説】
 古川重春〔1882~1966〕は建築家で、大阪城復興天守を設計した(大阪市公式/昭和六年大阪城天守閣復興に係わる設計原図等関係資料)。
〈古川36〉 地図上の位置 赤色立体地図 拡大
 〈古川36〉は、高安山について「西は河内摂津の平野、東は大和平野を俯瞰し、寧楽ならてうの初期、対外国交の危急に備へ、京畿の住民が有事の際に立籠る、唯一の城塞として此地が絶好の位置であったことは首肯し得られる」と述べる。
 しかし、「高安城の今日までの調査では、築城当時〔〈天智〉六年〕の土壁や、石塁らしいものも未だ発見されていない」、 「現に遺されてゐる高安山の土塁、からな〔「ぼ」の誤り〕などの形跡は、天正五年に落城した信貴山城しぎさんじやうの遺址とも見られてゐる。 推定された古の高安城の城域は、長径約〔=凡〕そ十五町である、 その城内に古門、谷門、大門、大門池、馬場、北矢倉、南矢倉の地名を遺していゐるが、之れを悉く古の高安城に因んだ名前とも考えられない。 例へば北矢倉、とか南矢倉、谷門などの名は松永の信貴山城に因んだものと解されぬこともない」と述べる。
 とは言え「土塁、石塁の存しないのは、年代が永いため消滅してしまつたか、左もなくば初より築かれなかつたのであるか確言は出来ないが、 他の山城に土石塁が築かれた以上、…構想近似の城塞と見れば土石塁の築造は当初より存在してゐたものと信じられる」との見解を述べる。
 なお、城域内を通る「信貴山電鉄」は1930年に開業、1944年に休止、営業の再開なく1957年に廃止された。現在は道路に転用され、信貴生駒スカイラインの南端区間となっている。

【榑松静江説】
〈榑松79〉 地図上の位置 赤色立体地図 拡大
 〈榑松79〉は、畿内に限らず紀伊国伊勢国にも、社寺が戦略上重要な地に置かれていたことから、これら全域を覆う「壮大な帝都防衛計画があったものと判断」している。 「その中枢と予測される高安城」は、大阪湾和歌浦〔紀伊国〕伊勢という様々な方面から攻め寄せる敵に備えるものであり、 その立地については「信貴山・高安山を包含する生駒山地の南端こそ、唯一無二の場所である」とする(pp.26~28)。 その「外郭防禦線」としては、西:「高安山撓曲〔=ほぼ褶曲〕断層崖」、:「本堂断層崖」、:「久安寺断層崖」、 :「竜田川や大和側に流入する本支流」が作る「深いV字谷」のラインを設定している。
 その外郭防禦線で囲まれた内部には、「哨戒台・烽台」、「倉庫群」、「」兵舎群」、「正門」を想定し(pp.28~32)、さらに入れ子になった城郭として「内郭」があり、その中心は信貴山雄岳の頂上」であるという。 但し、そのほとんどが地名や地理的条件によって推定した候補地を挙げたのみで、実際に確認されているのは礎石建物群のみである。 なお、正門は本堂〔江戸時代の本堂村〕とし、小字名「古門ふるかど」、「谷門ふるかど」は、内郭に伴うものとする(pp.32~33)。
 このようにして設定された外郭防禦線は広大であるが、未だ石垣・土塁が発見されていない。その点については、「高安城のように障壁性、要害性が強い地形構造であれば補強の必要がない」と述べる(p.17)。 但し、部分的には石垣が考えられ、「浸食谷には必ず水門があり、石垣が残存しているはず」で、 これについては「近傍の郡山城が建設され、大規模な石狩りが実施されているので、この時破壊された可能性が十分ある」と説明する(p.17)。
 石垣・土塁がない多くの部分については単に「障壁性、要害性が強い地形構造」であり、そこに人工的な城壁が何も築かれなければ、単に自然の稜線に過ぎない。それは、戦闘の際に軍を配置する際の重要な条件ではあるが、単に地形をもって「山城の外壁」とは言わないだろう。 よって〈榑松79〉のいう「外郭防禦線」なるものは、長年切望されてきた大野城金田城に類する石塁土塁とは本質が異なることに留意しなければならない。

【外郭線の規模】
 諸説による高安城の外郭線の規模を、城壁の形状が明瞭な金田城大野城と比較する。関野貞説は、大野城のサイズを参考にしたように思われる。 古川重春説では、大野城よりやや広めとなっている。
 榑松静江説は更に広いが、それは「外郭防禦線」であって、石塁・土塁とは同一視できないことは前項で見た通りである。

【地名からのアプローチ】
《小字名》
特徴的な名称をもつ小字 諸説による外郭線内の南部 想定域の外 榑松説における外郭線内の北部
 大門古門谷門という地名を、城郭に由来すると捉える点は、諸説に共通している。
 しかし、実際には朝護孫子寺あるいは「本堂」に地名を残す廃寺の門とも考え得るので、慎重に考えるべきである。 ここでは、古い寺院、宮殿や屯倉に関わると考えられる地名まで拾い上げてみる。
 右図では、城域想定地域周辺の小字名から、垣内を含むものを示した 〔〈小字データベース〉による〕
《垣内》
 図中、の範囲は、東部にが存在したことを思わせる。 中央部には、垣内が注目される。 垣内(カイト)は、上代はカキツといい、語源はカキの内側だが派生して「開発された田地や山野を含んだ地域」で、「田や池や谷などを含むかなり広大な地域をさしたようである」と考えられている(〈時代別上代〉)。 「民俗学では、開墾予定地を垣で囲んで示したのが最初の形で、村落共同体の最小単位の地域であった」という(同)。
 ではを伴うので、宮を中心にして開墾した土地が垣内ではないかと想像される。 後の荘園ならば「~庄」となると思われるので、〈安閑〉朝に列挙された屯倉みやけではないだろうか。 戌亥については、その屯倉から見て北西方向の農地が、そう呼ばれたのではないかと思われる。
 これらの屯倉としての古い起源が考えられる農耕地は、高安城ができた後は軍の維持や貯蔵のための食糧供給を担っていたと考えられる。
 北矢倉は高安城の施設かも知れないが、戦国時代も考えられる。
《字大門》
〈さらさ13〉(p.17)
 字大門には、大門池がある。 これについて〈本邦高土堰堤誌〉に「大門池:生駒郡三郷村。【工期】伝安政年間」が見える(p.23)。 一方、〈日本ダム台帳〉には「大門池:1128年。大和川水系大門川。奈良県生駒郡三郷町立野」とある。 正確なことは分からないが、「安政年間」に行われたのは修復かも知れない。
 国土交通省近畿地方整備局が2013年発行に発行した〈さらさ13〉に大門ダム完成の記事があり、 そこには「ダム本堤から約100m上流のところに、約880年前に築造されたと言い伝えのある大門池が」あったとある。 その「堤体の老朽化が著しく…震度5弱の地震で破堤の可能性が指摘」されたことにより、新たなダムが築かれた。 断面図には「旧大門池堤体」は「搬去」とあるので、取り除かれたようである。
 「1128年」とする根拠はまだ見つけられないが、その時から「大門池」と呼ばれたとすれば、この池が作られた時期の周辺地名は既に「大門」であったことになる。
 〈榑松79〉は「高安城の構築に当って、〔農業用水と〕城堀との兼用もねらい大英断を振って大門川をせきとめ、大門池が構築された」と述べ、 すなわち高安城の時期まで遡るとの説を述べる(p.33)。 大門が、高安城の石塁・土塁の大門に由来するかどうかについては、《大門の由来》の項で改めて検討する。
《本堂》
 一般に、大字本堂は、〈倭名類聚抄〉{河内国・大県【於保加多】郡・巨麻郷}の比定地と考えられている。 〈五畿内志〉下-河内国之六(大県郡)が「郷名:巨麻【已廃存本堂村」については、 「大狛神社:在本堂村今称山王」とある。 すなわち、その地に大狛神社があることによって、巨麻郷本堂村に比定したようである。 〈柏原市史〉が「巨麻郷:旧堅上郡に属した本堂である」と述べるのは、〈五畿内志〉に拠るものか。
 〈大日本地名辞書〉は「巨麻郷:今堅上村大字本堂及鴈多尾畑なるべし、延喜式、大狛神社その本堂の生土〔うぶすな〕神なれば也」と述べ、 やはり大狛神社の所在地という一方、大字本堂の南に接する大字鴈多尾畑までを広く巨麻郷に含めている。
 〈続紀〉養老四年〔720〕に「十一月。乙亥〔二十七日〕。河内国堅下堅上二郡。更号大県郡〔訓みはカタノカミノコホリ・カタノシモノコホリと見られる〕とある。 オホ-がつくのは両郡を併せた意味で、かつ美称であろう。
 〈柏原市史〉は「生駒山地は西に急傾斜であるが東は比較的なだらかでよく拓け」、「南北に分散する」小集落はどれも「谷間水田、畑作が主業」であるというのは、現在の信貴南畑一丁目の地域を指したものであろう。 ところが「本堂は極めて条件が悪」く、「一般的な歴史通念からすれば凡そ難解な諸条件の山上に一郷が建てられていることに少なからず興味を覚える」、 その上で「ここに一つ思い当たる事柄がある」、「宏大な」「高安城が築かれた」ことに注目する。 すなわち「外的侵攻に対して四天王を祀り祀願したと伝えられるが、これこそ信貴山朝護孫子寺の前身であろう。 このことは本堂と名付けられた集落名と無関係ではなかろう。本堂には「信貴山毘沙門天は、もと本堂にあった」と古くからの伝えがある」と述べる。
   すなわち、朝護孫子寺はもとは本堂の地にあり、敢えて険しい山中に建てたのは外縁から高安城を守護するためであり、 その「本堂」が地名に転じたと見る。
 ただし、その廃寺跡はまだ見つかっていない。柏原市公式ページ柏原市内の遺跡・文化財マップには、この付近の遺跡はない。
《その他の「堂」》
 「」のつく小字名がいくつかあり、これらも本堂との関係が伺われる。 ただ、堂ノ裏堂の谷については、現在の朝護孫子寺に関係するものであろう。
 一方、堂前堂ノ下本堂坂については朝護孫子寺とは離れ過ぎなので、廃寺のものであろう。 〈柏原市史〉が挙げた「朝護孫子寺の本尊の毘沙門天がかつて本堂の地にあった」という言い伝えを認めるなら、廃寺は移転前の朝護孫子寺ということになる。 その位置は堂ノ下本堂坂という小字名によれば、そこから坂を上ったところなので、 大県郡との境界の嶺上が想定される(右図)。前出「遺跡・文化財マップ」には載らないが、未発見かも知れない。
 古門谷門高安城の外郭ではなく、廃寺付属設備と考えるのが自然に思える。 ただ、だとすれば廃寺の外回廊は一辺数百mとなり、大きすぎる感もある。古門谷門は城の石塁・土塁のもので、そこを出ると嶺上に本堂が見えるという景色も想像し得る。 比較的狭い字「本堂坂」の名は示唆的である。
《大門の由来》
 〈日本ダム台帳〉説を認めるとすれば大門池ができたのは1128年だから、それ時点では周辺の地名が「大門」であったことになる。 小字「大門下」は大門から相当離れたところにあるので、大門は広域の地名であったと考えられる。 字名のもとになった「大門」については、次の2通りが考えられる。
 :朝護孫子寺の山門。
 :谷川(大門川)の出口が石垣で塞がれ、水路は暗渠となっており、その隣にあった門〔基肄城の水門と南門が隣接していることに倣った推定〕。 もし、ならここから出た官道が龍田道まで続いていと考えられる。 〈古代の道と駅〉はそのような道は想定していないが、高安城の倉庫に繋がる運搬路がないはずがない。 ただ広い道であったかどうかは分からない。
 だとする場合、朝護孫子寺の北側は信貴山への上りだから、大門は必ず南にあったはずである。 現在「赤門」があるが、それと同じところであったかどうかは分からない。

【外郭線の探索(1)】
〈大阪府概要81〉
高安山古墳・土塁調査位置図(p.6) 墳丘図(p.8) 〈上〉2号墳開口部(図版8)
〈下〉2号墳遺物出土状況(図版9)
↑第1地点土層図(p.23)
第2地点土層図(p.24)→
 石塁・土塁の探索については、高安山古墳群付近でその有無が調べられた。
 〈大阪府概要81〉によると、 高安山古墳群の位置は高安山(標高488m)の「南方150m」の「生駒山系の稜線上」で、「すぐ北側には、高安山気象レーダーが存在」する(p.6)。
 「高安山古墳群は現在3基で構成され」、「うち2基の古墳について今回…発掘調査を実施した」結果、 「従来武器庫ではないかと考えられていた2基の石室」は、「古墳時代末期につくられた横穴式石室であることが判明」したという(p.4)。 そして、判明した1号墳2号墳の石室の図面を載せている。
《高安山1号墳》
 高安山1号墳は、「一辺10m前後の方墳と推定」され、「北側および西側が高地形にあるため、この部分のみL字状に空濠を掘削」することにより、方墳としての形を整えたという。 その挿図を見ると、「空濠」の部分は現在は「褐色粘質土(砂まじり)」で埋まっている(pp.8~9)。 「1号墳、2号墳出土の蓋杯を比較すると、1号墳出土のものの方が…先行的な特徴を持ち、少し古い時期であることがわかる」という(p.22)。
《高安山2号墳》
 高安山古墳群出土物については、1号墳は盗掘を受け須恵器片が若干出土したのみであったが、「2号墳からは、ほぼ埋葬時のままで須恵器・土師器が出土し」たと述べ、その出土状況の写真を添えている(図版第九、第十)。
 また、高安山2号墳は「石室の横幅に比べ全長が極端に長」く、「2体埋葬(合葬)を目的として計画・設計されたと推定される」。 予め合葬を目的とした横穴式石室が同時期に見られ、「この種の合葬が多様性ある終末期古墳の一端を示すものと理解される」と述べる(pp.24~25)。
《高安城との関係》
 1号墳2号墳から出土した須恵器の年代は「7世紀第3四半期〔650年~674年〕にあたるという。 その年代は〈天智六年〉の高安城築造記事と一致することから、「推定高安城域の内側にあたることは明らかであり、 その年代とあいまって高安城と無関係なものとしてとらえることは不可能であろう。…あるいは高安城造営に関わった人物の墳墓であるかも知れない」と推察する(p.25)。
 薄葬令(大化二年)を参照すると、一辺10mの方墳は、下臣の「外域方五尋〔9.0m〕に相当する。
《土塁部分》
 〈大阪府概要81〉によると、土塁推定地二カ所の断面観察が実施された。第2地点は「『夢ふくらむ高安城第1集』(高安城を探る会 昭和52年〔1977〕)p34の土塁推定地第3地点にあたる」(p.26)。
第1地点…「高安山古墳群が所在する丘陵が南へのびる地形の尾根筋に直交してトレンチを設置」、 「地形に沿って地山〔=自然地形〕の高まりが認められたのみ」で「土塁施設」は「存在しない」。
第2地点…「高安山駅の北方200mにかかる開運橋の西側露頭面」、 「土塁上の高まり」は「地山の可能性が高く、人工的なものとは判断できません」。ただ、「その西側に人為的に地山を掘削したV字状の溝」があるが、 「溝の最下層から中世期の土器群が出土」、よって「〔松永久秀の〕信貴山城に関連した遺構と考えられ」る。
 よって、どちらからも高安城の土塁は見いだせなかった。

【外郭線の探索(2)】
 〈奈良県概報85〉によって、1985年~1986年に行われた5次8次の発掘調査結果を見る。
〈奈良県概報85〉
調査点(数字は次数)(p.89) 左図の第8次調査点付近に加筆 第8次(p.95)
第8次-土塁の現況(図版13) 第2トレンチ北壁断面(p.96) 着色は本サイトによる(原図)
《第5次》
 調査点は、「span class="ebi">かねてより高安城の南限と考えられてきた」尾根上である。第1トレンチには「遺物の出土・遺構の検出は認められなかった」(p.90)。 第2トレンチには「〔烽火跡と考えられる〕焼土壙」を検出し、「埋土の最下層に隅を含むが出土遺物はなかった」という(p.91)。
 関野貞以来想定されてきた外郭線の南辺だが、石塁・土塁の存在は期待できなさそうである。
《第6次》
 久安寺の調査点。〈奈良県概報85〉が「この地点で焼米が採集されるという事であった」(p.91)と述べるのは、壬申の乱の「秋税倉を焚いた」記事との関連が期待されていたためであろうか。 結果は「調査地内には七倉という小字名がみえることから高安城に関する遺構の検出が期待されたが、結果は建物等の遺構は存在しなかった」という。 ただ「岩の間から無数の米状土製品と焼米が検出され」たことについては「中世末の一種の水口祭のような祭祀場である」と考えられるという(p.90~91)。
《第7次》
 「奈良県遺跡地図に記載が無い」3基の古墳が調査され、「ボウジ1号、2号、3号」と名付けられた。 「高安城に直接関係する遺構は存在しなかった」という(p.92)。
 これら3基の古墳は「7世紀中頃までの築造」だが、追葬を含めれば「7世紀末までと推定され、古墳に埋葬されるという行為は高安城存続時と重複する」、 「城の内で墓を作らない埋葬しないという前提にたてばこの地点は城外であった」と言い切っていることは注目される。
《第8次》
 調査地は「奈良県生駒郡久安寺字1752-1」で、「高安山頂から東南方へ約300m下った尾根稜線上に幅10m高さ1~1,5m長さ100mにわたる土塁上の高まり」が認められていた(p.95)。 「断面観察したところ、明らかに人為的な盛り土が認められた」という)。 右図で、人工的と見られる構築物(黄色に着色)では、「土塁の東壁が垂直にたちあがっていた」。 「第Ⅱ層」は、その上に積った旧地表面までの層、「第Ⅰ層」は旧地表面から現地表面の間に積もった層をいう。 「土塁の残存状況」は、「第1トレンチでは幅1.6m、高1.1m、第2トレンチでは幅1.3m、高0.6m、第3トレンチでは幅2,2m、高さ0.3m」という。
 その時期については、「この土塁が東西に長く延びるものではなく、約100mばかり続くだけであって鞍部上地形にあることから土橋的なものと考えられ」るという(pp.95~97)。
 これを〈幻の高安城7〉は、「この付近は中世信貴山城とその高安出城を結ぶ線に当たっていて、中世の土橋状の遺構も見られるので、中世の土塁の可能性も残っている」と読み取っている(pp.32~33)。 しかし、〈奈良県概報85〉はその一方で「かなり丁寧な版築状の積土であることからして古い時代のものであると考えられるが高安城にかかわるか否かについては今後の調査が必要である」とも述べ、 高安城土塁の可能性を保留している。3箇所の高さがまちまちであることから、作られた時点では版築の高さは少なくとも1.3m以上あり後に上部が欠けたことが考えられる。
 なお、これに加えて「調査地の東方約150mには6棟の礎石建物が存在するが、其の他にも調査地周辺には2カ所の平場が確認できた」という(p.93)。 壬申の乱で「悉焚秋税倉」(上述)とされる倉跡であることが期待される。
《評価》
土塁延長線の想定 は第8次調査点

 〈大阪府概要81〉で調査された空堀土塁は、中世に作られた可能性が高いと思われる。 《第7次》で見たように城内には埋葬しないとの前提に建てば、高安山古墳群に高安山城時代の土塁は存在しないと判断するのが妥当となる。 《第5次》の高安城南限に稜線上に石塁・土塁が存在しないことも、ボウジの古墳の外にあることを考えれば当然となる。
 《第8次》で見られた土塁の版築工法は、〈天智朝〉の古代山城の時代に特徴的である。 高安城に伴う可能性がある土塁の検出はここぐらいだから、重視すべきである。 仮に中世の土橋であったとしても、古代山城に由来する版築土塁の上に積み上げられたこともあり得よう。 また、この部分の稜線は確かに信貴山城方向に向かっているが、実際には途中で途切れている。
 試しに土塁のラインを稜線に沿って、礎石建物群を中心として描いてみたのが右図である。 東側は谷川を越えるので、もし基肄城の水門のような石垣跡が見つかれば、この土塁ラインは実証される。
 ただし、関野貞説や榑松静江説が唱える外郭線に比べると著しく狭い。 これでは、敵に攻められたときに広大な周辺地域から人民を収容して籠城するのが古代山城の機能だとするなら、この規模ではとても果たせない。

【奥田尚・米田敏幸説】
 1999年、高安城西の尾根の突出部6箇所に、人口の石垣と思われるものが見いだされた。 〈奥田99〉によると、「海抜380~410mの主稜線に近い山腹の尾根部を利用して突出部を持つように、 自然地形を十分に生かした状態で石塁が築造されている」ことが観察された(p.40)。
〈奥田99〉付図 現在の地形図による位置 E地点の石垣〈奥田99〉(p.42) 〈奥田00〉(pp.6~9)に加筆
(原図)
 〈奥田00〉から、その観察記録の一部を示す。
 地点では、土塁A1において「土塁の中には石が詰まっている(石塁か)」、 張り出し部A2では「(集石・平坦部の)北側の張り出し部のは〔ママ〕何らかの構造物があったと推定される」という。
 地点では「巨石であるため露岩と考えられがちであるが、北側でこの端部が見られ、地山に続く様相はない。 長径が3mを超すものもあるが、運ばれてきた石である〔=地山の一部ではなく、後から置かれたものである〕。 この場所では高く石垣が積み上げられた状態で残っている」と述べる(p.12)。
 そして「後記」で、石塁は「従来、尾根の稜線に築かれていたと考えられていた」が、高安城の塁の探索結果によれば 「斜面に設けられた城壁は石垣とその上方のテラスの探索」が基本であろうとまとめている。
《評価》
G地点〈奥田00〉(p.42)に加筆
 この探索結果については、〈向井17〉で「高さ10m以上の石垣が尾根と谷にあるだけで、その正体は枝尾根先端の 岩盤や露岩を石垣と誤認したものだった」と述べるように、今日では石垣テラス説は一般に否定されている。 〈向井17〉はさらに「誤報から十数年経ってもインターネットなどではこの"偽石垣"が堂々と紹介されており、敢えて再度注意を促したい」とまで言って酷評している(p.60)。
 だが、石垣が実際には自然地形だったからと言って、その報告全体を一顧だにせず葬り去るのも行き過ぎではないだろうか。
 内容を精読すると、こと地点についての解釈には見るべきものがある。
 〈奥田99〉は「G地点」について、「この地点の石垣については高安城を探る会の人々により以前から確認されていた。 位置的には信貴山城の郭の石垣と解釈されていた。しかし、報告者の一人である奥田は、信貴山城の石垣であることに疑問を感じていた」という(p.43)。
 〈奥田00〉によると、 図のG1については「急斜面の中腹に平坦地がある」、「谷川に異様に大きな堰があり、使用されている石が大きい。水門跡?」、 G2については「この谷には石がこの付近だけ多く見られ」、 「残っている土塁、谷を遮るように築かれている。塁の上面が平坦で斜面の残りもよい」と述べる。
 また、S1は「石垣、信貴山城の廓輪のこの部分にのみ石垣があると言われている」、 S2は「信貴山城の廓輪跡」と見られると述べる(p.34)。
 G3の集石は、G2と同様谷川の出口にあたる。 G2G3は松永久秀の信貴山城からは谷を隔てた西側、すなわち城の外なので、G1G3の土塁・石垣のラインがあったとすれば、高安城の時期まで遡るように思われる。
 谷の出口に集中して見られる石群は、基肄城の水門に見られる石垣と谷川の水を通す暗渠と同じものの名残かも知れない。 金田城大野城で石垣の原型が残っているのは、 その後の文永弘安の役〔元寇〕や文禄慶長の役〔秀吉〕を考えれば戦略上重要な城として、当然度々石塁が補修されたからであろう。 それなしに原形を保つことは希ではないだろうか。
 それでも、石塁がもし作られていたのなら、何らかの痕跡はあるように思える。谷の出口の石群がまさにそれかも知れない。 高安城にも少なくとも部分的には石塁があった可能性は、なお留保すべきであろう。
 さらにA~Fでも、石垣が仮に自然石を誤認したものだったとしても、戦闘の際にはその石垣状自然石テラスが防禦ラインとして十分機能したとは考えられないだろうか。 【榑松静江説】では、自然地形のままの稜線でも外郭防禦線として位置づけていた。 それなら、石垣状自然石テラスを結んだラインについても外郭防禦線と認めてよいことになろう。 自然地形を「誤認」した一点をあげつらって、観察と論考を全面的に葬り去るのは偏狭過ぎるように思える。 議論すべきは、石垣様のものが人工物か否かではなく、それが軍事上の防禦機構として機能し得たかどうかではないだろうか。

まとめ
 関野貞、榑松静江が唱えた外郭線の南辺は明瞭な稜線になっているが、調査の結果石塁土塁が存在しないことが明らかになった。 ただ、「焼土壙」が烽火跡であることは十分考えられ、軍事上の重要ラインである。
 高安山古墳群を通る西の稜線にも、石塁土塁はなかったと見るべきであろう。但し、自然地形による石垣的テラスは防御線として機能したであろう。 これらを高安城の外郭線の南辺、西辺と定義してしまえば形式的には城郭と言えないこともない。しかし、実際には自然地形そのままで、朝鮮式山城の外郭の石塁とは似ても似つかない。 南辺・西辺は軍事的に重要な防禦線ではあるが、冷静に見て山城の外郭と呼ぶべきものではないだろう。
 ただ、高安"城"と言うからには、大規模な軍営や付属施設がこの範囲のいくつかの場所に置かれていたと見るべきであろう。そのうち唯一遺跡が確認された礎石建物群〔米の貯蔵庫〕は、日常的に軍を維持するため、また非常時に収容した民のために食料を貯蔵する重要施設である。 その礎石建物を守るためには、土塁で囲んで厳重に警備したことは当然であろう。〈奈良県概報85〉《調査8》項で想定したのがそのラインであるが、 その内部には食糧貯蔵庫のみではなく軍営も置かれ、これが真の「高安城」であったのかも知れない。
 ただこの土塁内では、やはり狭すぎる感が拭えない。関野貞以来の地名の考察や奥田尚らの観察によれば、南東部に限り大門まで突き出して土塁が築かれ、谷川の口には石垣が積まれた基肄城型の水門があった可能性も残る。 後の時代に貯水量を増すために、その上に土を積み挙げて提を築いたのが、大門池なのかも知れない。
 さらに、南畑の字に「宮ノ下」、「宮山」が見える。その宮がこの辺りにあり、朝廷から送られた将軍の司令部が置かれたり、天皇が行幸したことも考えられる。 南辺の稜線までを「城」の中と見做すこと自体は難しいが、その範囲内に軍事関連施設が散在していて、その主要部が「高安城」と呼ばれたのではないかと思われる。 ただ、その全域を包み込む石塁土塁は遂に作られなかった。
 しかし、その石塁土塁によって、全域を囲い尽くす計画のみは一時期存在したと考えることもできる。
 というのは、〈天智六年二月〉に「我奉皇太后天皇之所勅、憂-恤万民之故、不石槨之役」とあるからである。 この言葉は、高安城などの築城のために「石槨之役」を命じられた人民に激しい不満が起こり、遂には妥協して労役を取りやめざるを得なかったと読みとることができる。 「〈斉明〉天皇の遺詔に従って」と言うのは、格好をつけるための名目であろう。
 さらに〈天智八年六月〉には、「天皇登高安嶺、議修城、仍民疲止而不作。〔天皇は高安の嶺に登り、修城したいと諮ったが、民の疲れを思いやって取りやめて作らなかった〕とある。 これは、実際には城郭線を廻る石塁がほぼ作られなかったことを、直接物語るものとして読むことができる。 (2024/06/28加筆)
 各地の山城の新築には、税や労役の多大な負担を強いたはずである。対馬や筑紫では白村江の役での敗戦は身近な出来事で、その結果人民も築城に伴う負担に一定の理解を示して、実際に築かれたと見られる。 しかし、畿内の人民にはそれほどの切迫感はない。それなのに一方的に「石槨之役」を強いられた人民は黙ってはおらず、各地の宮や寺への放火も続出したと考えられる。 よって、石塁土塁には部分的に手をつけたところで中止されたと考えてみてもよいのではないか。
 一般に「朝鮮式山城」とひとくくりにされるが、実際には地域ごとの事情によってその態様は異なっていただろうから、きめ細かく考えるべきであろう。



2024.10.11(fri) [75] 粟原寺三重塔伏鉢銘文をそのまま読む 

【大和国粟原寺三重塔伏鉢】
 「粟原寺三重塔伏鉢」銘文には、粟原おうはら寺の造営に関する記録が具体的に残されている。
 ここでは、その銘文を精読する。
《粟原寺》
粟原寺の位置
『奈良県に於ける指定史蹟 第二輯』
 桜井市公式ページ/『さくらい』によると、 「粟原寺跡は、奈良県桜井市粟原」にあり、「粟原集落南端の天満神社境内とその隣接地に、塔・金堂跡が残る。長野県清水寺の仏像(重文)や市内忍阪の石位寺の薬師三尊石仏(重文)などは、かつてこの粟原寺に存していたものと考えられている」。
 国宝三重塔伏鉢談山神社所蔵だが「奈良帝室博物館に出陳」(下述)され、現在も奈良国立博物館に預けられているという。
《粟原寺調査報告》
 粟原寺については、調査報告書 『奈良県に於ける指定史蹟 第二輯(史蹟調査報告第四)』〔内務省1928〕がある。 以下、同報告から抜粋する。
 粟原寺は「磯城郡多武峯村大字粟原の地籍に属し、村社天満社の境内及び其〔の〕接続地域を包括して居る寺阯」、 「幸に別格官幣社談山神社に本寺に属する三十塔の伏鉢を所蔵し其銘文に依て創立の事情を明〔らか〕にすることが出来る」。
 三重塔については、「遺跡に於て比較的完全な設計を観得るものは塔阯」、「土壇と認むべきものなく」、 「塔の平面は方ニ十尺〔=6.1m〕の建築で〔おほむね〕法輪寺の三重塔のプランに比較し三重塔としては大形の部に属する」、 「四点柱礎は…位置も固定して居る」という。
 塔心礎は「傍らにあった記念碑の台石」に転用されていたもので、「直径六尺〔1.8m〕」、地上に出た部分の高さ「二尺三寸〔69.7cm〕」、 その「中央に直径二尺七寸三分〔82.7cm〕、深さ一寸二分〔3.64cm〕の円柱孔があり底面の中央は少しく隆起して居る周縁の一部を缺いて円柱孔から外方に湿気を抜く溝を造ってある」という。
 金堂については「塔阯の西約五十尺〔15.2m〕の位置」の建築礎石が「金堂阯」と見られると述べる。
 伏鉢については「談山神社の所蔵にて現今奈良帝室博物館に出陳せられて居る伏鉢は鋳銅の表面に鍍金を施したもので其下径二尺五寸〔75cm〕上径一尺五寸〔45cm〕高さ一尺一寸四分〔34.2cm〕」 と述べる。
 伏鉢は、相輪の最下部をいう。
《伏鉢銘文》
此栗原寺者仲臣朝臣大嶋惶惶誓願
奉為大倭國浄美原宮治天下天皇時
日並御宇東宮敬造伽藍之尓故比賣
朝臣額田以甲午年始至於和銅八年
合廿二年中敬造伽藍而作金堂仍造
釋迦丈六尊像
和銅八年四月敬以進上於三重寶塔
七科鑪盤矣
仰願籍此功德
皇太子神霊速證无上菩提果
  願七世先霊共登彼岸
  願大嶋大夫心得佛果
  願及含識俱成正覺
寺壹院四至
限東竹原谷東峯 限南大峯
限樫村谷西峯 限北忍坂川
粟原寺三重塔伏鉢
『奈良国立博物館だより』第96号〔奈良国立博物館2016〕
 銘文は、『奈良県に於ける指定史蹟 第二輯』による読み取りや、ネットに挙げられた画像によるとのようになっている。
寺壹院四至
 限東竹原谷東峯 限南大峯
 限樫村谷西峯 限北忍坂川
此栗原寺者
仲臣朝臣大嶋
惶惶誓願
奉為大倭国浄美原宮治天下天皇時日並御宇東宮
敬造伽藍之爾
故比賣朝臣額田
甲午年始至於和銅八年合廿二年中
-造伽藍
而作金堂
仍造釈迦丈六尊像
和銅八年四月
敬以進-上於三重寶塔七科鑪盤
仰願此功德
皇太子神霊速証無上菩提果
七世先霊共登彼岸
大嶋大夫心得仏果
含識俱成正覚
寺の壱院(いちゐん)の四至(しし)は、
 限(かぎり)の東(ひむがし)は竹原谷の東の峯、限の南は大峯、
 限〔の西〕は樫村谷の西の峯、限の北は忍坂川。
此の栗原寺は、
仲臣(なかとみ)の朝臣(あそみ)大嶋(おほしま)
惶惶(おそりまつりて)誓ひて願ひまつりて、
奉(たてまつ)りて大倭国(おほやまとのくに)の浄美原(きよみはら)の宮に治天下(あめのしたしらす)天皇(すめらみこと)の時、日並(ひなみし)の御宇(あめのしたしらさむ)東宮(まうけのきみ)が為(みため)に
敬(ゐやま)ひ造りまつらむとせし伽藍(がらむ)之(すなはち)爾(これ)なり。
故(かれ)比売(ひめ)の朝臣額田(ぬかた)
甲午(きのえうま)の年〔694〕を以て始めて和銅(わどう)八年(やとせ)〔715〕至(まで)合はせて廿二年(はたとせあまりふたとせ)の中(うち)に、
伽藍(がらむ)を敬ひ造りまつれり。
而(しかるがゆゑに)金堂(こむだう)を作りまつりて、
仍(よ)りて釈迦丈六(ぢやうろく)の尊(たふと)き像(みかた)を造りまつれり。
和銅八年四月(うづき)、
敬ひて以て三重宝塔(さむぢうのほふたふ)に七科(ななしな)の鑪盤(ろばん)を進上(たてまつ)る。
仰(あふ)ぎて願(ねが)はくは此の功徳に籍(よ)りて、
皇太子(ひつぎのみこ)の神霊(くすしきみたま)の速(すみや)かに無上菩提(むじやうぼだい)の果(ぶつくわ)を証(あか)したまはむとねがひまつる。
願はくは、七世(ななよ)の先霊(さきつみたま)共に彼岸(ひがん)に登りまつらむとねがひまつる。
願はくは、大嶋の大夫(まへつきみ)が心の仏果(ぶつくわ)を得まつらむとねがひまつる。
願はくは、含識(がんじき)に及びて俱(とも)に正覚(しやうかく)を成しまつらむとねがひまつる。
仲臣(中臣)大嶋…〈天武〉十年に「帝紀」「旧辞」の記定を命じられた十二人中の一人。〈持統〉七年〔693〕に薨。
浄美原宮…浄御原宮は、〈天武〉二年~〈持統〉八年。
日並東宮…草壁皇子。〈持統〉三年〔689〕薨。
無上菩提果…無上菩提の仏果。
仏果…修行の成果として得た境地。
含識…生きとし生けるもの。
《奉為》
 は、助動詞(あるいは副詞)として直後の動詞に尊敬の意を加える。 よって「」はここでも「~のために」と訓読するが、文法的には動詞〔=ためとしまつる〕である。
 「」の目的語は「日並御宇東宮」であるが、「大倭~時」が挿入されているために読み取りにくくなっている。これは和習であろう。
《日並御宇東宮》
 御宇〔あめのしたしろしめす〕天皇位と同意なので、普通は東宮にはつかない。 次代の天皇であることをより確定的に示すためであろうか。
《…之爾》
 「此栗原寺者…敬造伽藍」の文意が「この栗原寺は、中臣朝臣大嶋が…敬造した〔あるいはしようとした〕伽藍である」であるのは明らかだが、 文末の「之爾」とは一体何であろうか。
 これらの字の意味のうち使えそうなものを探すと、
 ●…動詞〔"往く"から転じて〕「為す」、語気詞〔特に意味を持たない〕、代名詞〔これ〕、接続詞の「則(すなわち)」。
 ●…近称の代名詞〔これ〕、文末の強調の語気詞〔のみ〕
 がある。 要するに「…敬造せし伽藍、すなわちこれである」と念押しするものだが、ここで挙げた意味の何れかを組み合わせて訓読すればよいだろう。
《比売朝臣額田》
 比売朝臣額田について、〈姓氏家系大辞典〉は「比売は名にして額田が氏か」という。ただし、朝臣姓額田は、同辞典には載らない。
《浄御原宮治天下天皇》
 草壁皇子が薨じた〈持統〉三年〔689〕には都は浄御原宮である。 よって、大嶋が草壁皇子を悼んで粟原寺の敬造を請願したとすれば、「浄御原宮治天下天皇」は〈持統〉天皇となる。
 しかし、〈続紀〉慶雲四年〔707〕七月壬子条に「藤原宮御宇倭根子天皇」とあり、 養老六年〔722〕十二月庚戌条に「勅奉為浄御原宮御宇天皇弥勒像。藤原宮御宇太上天皇釈迦像」とあるので、 〈持統〉天皇は「藤原宮御宇天皇」であり、かつ「浄御原宮治天下天皇」が〈天武〉天皇を指すのは明らかである。 「~宮御宇天皇」は完全に固有名詞なのである。
 ということは、〈天武〉朝のとき既に栗原寺建立構想が存在した。 だが、中臣朝臣大嶋の生前には栗原寺建立は実現せず、その死後に比売朝臣額田が遺志を継いで初めて造営に取り掛かった。 それを後押ししたのは、草壁皇子を悼む強い思いであろう。
 すると草壁皇子は早くから自分の寺院の建立を望んでいて、大嶋はその意を汲んで〈天武〉に誓願したと読むのが正しいと思われる。 ところが実際にはなかなか建立されなかった。ということは、「日並御宇東宮」という表現は、東宮草壁尊が「即位した暁には」という意味かも知れない。
 草壁皇子は既に689年に薨じ、中臣朝臣大嶋が薨じた翌年の甲午年〔694〕にあたって、比売朝臣額田が両者を偲ぶ寺として改めて栗原寺の造立を決意し、二十二年の歳月をかけて成し遂げたと読むことは、理に適っている。 当然〈持統〉天皇による勅命があったと思いたいところだが、〈持統〉の名が見えないから私的に建立したものか。22年もの年月を要したのは、公の事業ではなかった故かも知れない。 そこには、比売朝臣額田の切ない思いが感じられる。

まとめ
 粟原寺が亡き草壁皇子を偲んで造立されたとすること自体は、概ね妥当である。 しかし、一般に「中臣朝臣大嶋が草壁皇子をしのび創立を誓願した」と言われる点については、恐らく誤りであろう。 この伏鉢銘文を正確に読めば、中臣朝臣大嶋が造立を誓願したのは草壁皇子の生存中に遡ると思われる。
 〈持統〉天皇は軽皇子(草壁皇子の子、文武天皇)の帝王教育に忙しく、草壁皇子を偲ぶ寺造立への意欲は既に薄らいでいたのではないだろうか。 従って、粟原寺の建造に熱心だったのは、草壁皇子に仕えていた一族〔改新詔の以前なら御名代と呼ばれたであろう〕ではないかと想像するのである。



2024.11.07(thu) [76] 宮勝木実と大領神社 
ja.wikipedia.org〈式内社調査13〉(p.30)
大領神社 岐阜県不破郡垂井町宮代765-1
 〈続紀〉には、宮勝木実が不破郡大領として登場する。 また、三重県美濃郡垂井町には木実を祭神とする大領神社がある。
 ここでは、それらの関係資料を精読して、壬申の乱における不破郡家の位置づけを探る基礎資料とする。
   引用文献略称
〈式内社調査13〉…『式内社調査報告』第十三巻/東山道2〔式内社研究会/皇學館大学出版部1986〕
〈古代道と駅〉…『事典 日本古代の道と駅』〔木下良;吉川弘文館2009〕
〈古典基礎語辞典〉…『古典基礎語辞典』〔大野晋;角川学芸出版2011〕
〈八木充〉『ヒストリア』(19)〔1957;大阪歴史学会〕/「カバネ勝とその集団」〔八木充〕
〈井上通泰〉『播磨国風土記新考』〔井上通泰;大岡山書店1931〕

【大領神社】
 〈式内社調査13〉によると、「延喜式の写本類には振り仮名がない。度会延恒の『美濃国式内神社祭神記』などは「タイリャウ」と訓み」、 「伴信友の『神名帳考証』に「式社考」を引いて「在宮代村南林中。去垂井駅南九町許。」と記すごとく、 不破郡垂井町宮代(旧宮代村)森下七六五番地に鎮座」、「当社は円墳の墳丘上とみる説」もあるという。
《交通路から見た立地》
 垂井町公式/」宮代史跡マップ には、「壬申の乱で功績のあった不破郡の大領、宮勝木実を祀っています」とある。 そのマップの「宮代古道」には、南に向って「牧田へ 伊勢へ」と記されている。 美濃国府と伊勢方面を結ぶ街道が通っていたと考えられる。

【太政天皇〈持統〉の美濃国行幸】
 〈持統〉天皇は十一年〔697〕に文武天皇に譲位して、太政天皇となった。太政天皇は大宝二年〔702〕に参河国に行幸したのち、壬申の乱縁の地を巡って藤原宮に帰った。 その途中、美濃国で「不破郡大領宮勝木実」に「外従五位下」を賜った。 その紀行は、〈続紀〉に次のように書かれる。
〈続紀〉大宝二年〔702〕
十月甲辰。
太上天皇〔持統〕参河国。令諸国無出今年田租。
十一月丙子。
-至尾張国
尾治連若子麻呂。牛麻呂。賜姓宿禰。
国守従五位下多治比真人水守封一十戸
庚辰。
-至美濃国
不破郡大領宮勝木実外従五位下
国守従五位上石河朝臣子老封一十戸
乙酉。
-至伊勢国
国守従五位上佐伯宿禰石湯賜封一十戸
丁亥。
伊賀国
行所経過尾張。美濃。伊勢。伊賀等。国郡司及百姓。
叙位賜禄各有差。
戊子。
車駕至自参河。
十月甲辰〔十日〕
太上天皇参河国に幸(いでま)す。諸(もろもろ)の国の今年の田租(たちから)を出だすこと無(な)から令(し)む。
十一月丙子〔十三日〕
尾張国(をはりのくに)に行(いでま)し至ります。
尾治連(をはりのむらじ)若子麻呂(わくごまろ)、牛麻呂(うしまろ)に姓(かばね)宿祢を賜ふ。
国守(くにのかみ)従五位下、多治比真人(たぢひのまひと)水守(みづもり)に封一十戸(ふこ〔封戸〕とへをたまふ)。
庚辰〔十七日〕
美濃国(みののくに)に行(いでま)し至ります。
不破の郡大領(こほりのかみ)、宮勝木実に外従五位下を授けたまふ。
国守(くにのかみ)従五位上、石河朝臣子老に封一十戸(ふことへをたまふ)。
乙酉〔二十二日〕
伊勢国(いせのくに)に行(いでま)し至ります。
国守(くにのかみ)従五位上、佐伯宿祢(さへきのすくね)石湯(いはゆ)に封一十戸(ふことへをたまふ)。
丁亥〔二十四日〕
伊賀国(いがのくに)に至ります。
行(いで)まして経過(す)ぎし尾張、美濃、伊勢、伊賀等の国郡司(くにこほりのつかさ)及びに百姓(ひやくせい)に、
位(くらゐ)に叙(つ)けて禄(もの)を賜(たま)ふ、各(おのおの)有差(しなあり)。
戊子〔二十五日〕
車駕(しやか)参河(みかは)自(よ)り至ります。
 〈持統〉太政天皇は、各地で国守を昇位させ、封戸を賜った。封戸の加増はそれぞれに僅か十戸なので、行路で世話をかけたことに対する返礼であろう。
《参河国行宮》
参河国の古代交通路〈古代の道と駅〉(p.96) 小坂井町渡津駅比定地。赤坂町宮地駅比定地。
 〈持統〉太政天皇は参河国には一か月間滞在したので、その地に行宮があったと考えられる。その資料を探したところ、「愛知県豊川市御津町下佐脇御所」(地名)にまつわる伝承が見つかった。 御津町商工会のページに、 「行在所の跡と伝えられている所があります。それは下佐脇字御所で、後世の人がこの神聖な場所をけがされることを恐れて、行在所の跡に小さな祠を建て、御所宮と称し崇敬を集めました。このお宮は現在下佐脇の佐脇神社境内に移され御所大明神としてお祀りしています」という。
 また、渥美半島の官道については、〈古代道と駅〉は「上陸点の伊良湖崎から渥美半島を通る駅路があった筈であるが、その路線や駅については全く不明である」(p.97)といい確認されていないので、 〈持統〉行幸には三河湾の奥まで海路を用いたと考えるのが妥当か。
 同書は「渡津駅は宝飫郡駅家郷または渡津(和多無都)郷に比定され、…小坂井町小坂井に比定されている」、 「宮地駅は宝飫郡宮道(美也知)郷にあったと思われ…赤坂に比定される」という〔()内は〈倭名類聚抄〉の仮名書き〕(p.96)。
《不破郡大領宮勝木実》
 大領は、郡における四等官制の首席で、〈倭名類聚抄〉では「加美〔カミ〕と訓む。
 〈続紀〉大宝二年条により、大宝二年の時点で宮勝木実が不破郡大領であったことがわかる。 同条で国守以外に名前が出て来るのは尾治連と郡大領宮勝木実だけなので、壬申の乱の特別の功績を認めてのことであろう。
《外従五位下》
 授与された位階が「」であるのは、朝廷の正規の官職ではなかったことを示す。 改新詔(其二曰)で明らかなように郡領は中央から派遣するのではなく、現地在住の有力氏族から登用された。 木実もこの例に漏れないと思われる。
 〈式内社調査13〉は、この従五位下について「各牟郡〔=各務郡〕少領各牟勝小牧が務〔ママ〕正七位上、同郡主帳勝牧夫が正七位下であることに較べても、郡司としては破格の待遇」で壬申で「格別奮戦した功労に対する行賞」と見ている。 ただし「大領〔カミ〕が四等官制の首席にあたるのに対して、「少領〔スケ〕は第二位、「主帳〔サカン〕は第四位であるから差がつくのは当然か。それでも隔たりが大きすぎるとは言えるかも知れない。
《車駕至自参河》
 二十四日に伊賀を出発して逆順に参河まで戻り、そこから藤原京に帰ったのが二十五日ということは日数的にあり得ないので、 「車駕至参河」の「参河」とは、参河から始まる一連の行幸全体を指すと考えられる。 主な目的地は参河の宮であって、尾張-美濃-伊勢-伊賀は帰り道に経由したということなのであろう。

【不破家寿麻呂家譜】
 〈式内社調査13〉は、「大領神社」の由緒について、次の文献資料を載せる。 なお、訓読は江戸時代頃を想定した。ただ敢えて古風に言った部分もあろうかと思われるので、適宜上代語を交えた。
   『不破家寿麻呂家譜』・『不破家系譜』  (〈式内社調査13〉p.31所引。以後〈家譜〉)
宮勝木実
美濃国当芸郡野上郷仲山麓生
宮勝(みやのすぐり、みやかつの)木実(このみ)は、
美濃の国の当芸郡(たきのこほり)の野上郷(のがみさと)の仲山(なかやま)の麓(ふもと)に生まれり。
 実際には「不破郡野上郷」であろう。
天武天皇美濃国行幸之時 天武天皇(てんむてんわう)の美濃の国に行幸之(いでましし)時、  〈天武紀〉上。
-信仲山金山彦大神宮
軍神聖運之祈念
木実蒙勅為代官大夫奉幣
仲山の金山彦(かなやまひこ)の大神宮(おほきかむむや)を崇(あが)め信(う)けたまひて、
軍(いくさ)の神聖(くすしきひじり)の運(めぐり)有れと[之]祈念(いのりたま)ひて
木実、勅(みことのり)を蒙(かうぶ)りて代官(しろのつかさ)大夫(たいふ)と為りて奉幣(みてぐらをたてま)つれり。
 〈家譜〉独自。 
同年七月庚寅朔辛卯日 同じき年の七月(ふみづき)庚寅(こういん)朔(さく)の辛卯(しんぼう)の日  〈天武紀〉上。 
木実率十七人之勇将村国連男依
-守不破関敵之不関討
数破近江之兵
木実、十七人之(の)勇(いさを)し将(しやう)を率ゐて村国連(むらくののむらじ)男依(をより)に属(つ)きて、
不破(ふは)の関を堅く守りて、敵(あた)之(の)不意(おもはざる)を計りて関を開(あ)け之(これ)を討ちて、
数(あまた)近江(あふみ)之(の)兵(つはもの)〔大友皇子軍〕を破りつ。
 〈家譜〉独自。
 但し村国連男依は〈天武紀〉上にあり。
同八月庚申朔丙戌日
-勅諸有勲功而顕寵賞之時
同じき〔年〕八月(はつき)庚申(こうしん)朔の丙戌(へいじゆつ)の日の、
諸(もろもろ)の有勲功(いさをしき)者に恩(めぐみ)の勅(みことのり)したまひて[而]寵賞(めぐみのたまもの)を顕(あらは)しし[之]時に、
 〈天武紀〉上。
 「勲功」は書紀には「功勲」。
天皇之軍不破而以有勝利之故
当芸郡之地不破郡
木実以武功之抜群賞賜不破一郡
後因居改姓不破云々
天皇之軍(てんわうのみくさ)〔大海皇子軍〕[不]破れずして[而]以ちて勝利(かち)有りし[之]故(ゆゑ)に、
当芸郡(たきのこほり)之(の)地(ところ)を分かちて不破郡(ふはのこほり)と為(な)したまひて、
木実、武功(いくさのいさを、ぶこう)之(の)抜群(ひいでしこと、ばつぐん)を以て不破の一郡を賞(ほ)めて賜(たまは)りつ。
後に居(すまひ、きよ)に因(よ)りて姓を不破に改む、云々(しかしか)。
 〈家譜〉による潤色であろう。
大宝二年太政天皇十一月庚辰
-至美濃国外従五位下云々
大宝二年、太政天皇(たいじやうてんわう)、十一月(しもつき)庚辰(こうしん)、
美濃の国に行至(いでま)して外(ぐゑ)従五位下(じゆごゐげ)を授く、云々(しかしか)。
 〈続紀〉。
霊亀元年乙卯年於仲山麓卒
後祭
従一位大領大神
霊亀元年乙卯(いつぼう)年〔716〕[於]仲山の麓(ふもと)に卒(みまか)る。
後(のち)に霊(みたま)を祭りて、
従一位(じゆいちゐ)大領(だいりやう)大神(おほかみ)。
 〈家譜〉独自。史実か。
《宮勝》
 後述するように、は渡来系氏族の姓(かばね)で、スグリと訓まれた可能性がある。
《当芸郡野上郷》
   …本来は「當藝」であるが、ここでは新字体に統一する。
 倭建命段に「到当芸野上之時」とある(第132回)。 これが、多芸郡に野上という地名があったとされる由縁であろう。
 ところが、(万)1035田跡河之 滝乎清美香 従古 官仕兼 多芸乃野之上尓 たどかはの たぎをきよみか いにしへゆ みやつかへけむ たぎのへに」がある。 この「田跡河之滝」は一般に養老の滝と解されている。ただし〈時代別上代〉はタキは「急流・奔流をいい、 今日われわれがタキと言っている瀑布は当時タルミとよんで区別があったらしい」という。 ただ〈古典基礎語辞典〉は(万)3233三芳野 滝動〃 落白浪 留西 みよしのの たぎもとどろに おつるしらなみ とまりにし」に、 上代語のタキに垂直に落下する滝の意を見出している。もし(万)1035のいう「」が養老ノ滝だとすれば、多岐神社の場所に近い。
 万葉1035の「多芸乃野之上」は、倭建命段の「当芸野上」と同じだと考えられるので、「野上」は固有名詞ではなくなる。 『大日本地名辞書』は「一書にこの野上をば、不破郡野上郷に引きあつるは誤れり」と断言する。 また、同書は古事記伝から「〔当芸の〕野上という野は、養老滝に近きあたりときこゆ、今もこの野ありて広しき」を引用する(中巻p.2152)。
 これらを見ると、〈家譜〉が「当芸郡野上郷」と述べるのは、野上が当芸郡にあったと信じてこれを出発点とし、演繹して不破郡は当芸郡から分離したと結論付けたものであろう。
《不破郡野上郷》
 〈倭名類聚抄〉に{美濃国・不破郡・野上郷}とあり、多芸郡には野上郷はない。 現代地名の「関ヶ原町野上」がその野上郷かと思われるが、大領神社とはやや離れていることが気にかかる。 野上(大字)は、『旧高旧領取調帳』によると明治初年時点で「野上村」。古代の野上は、それより東に長く伸びた範囲の地名だった可能性もあるが、確かなことは判らない。
《仲山金山彦神社》
 〈延喜式/神名〉に{美濃国/不破郡/仲山金山彦神社/名神大}。 現「南宮大社」」〔岐阜県不破郡垂井町宮代1734-1〕
《仲山》
 仲山は、現在の南宮山と見られる。 南宮山は、関ヶ原の役で毛利輝元が布陣したことで有名である。
 式内仲山金山彦神社は、美濃国府(次項)の南方にあることから「南宮」という呼ばれたと言われる。 それに伴い、「仲山」が「南宮山」になったのであろう。
《美濃国府跡》
 それでは、美濃国府はどこにあったのだろうか。
美濃国府跡建物模式図
現地案内板「国史跡 美濃国府跡」より
(岐阜の旅ガイド/国史跡 美濃国府跡 掲載写真から一部を切り取り画像編集)
 国府跡と見られる遺跡が岐阜県不破郡垂井町府中にある。
 垂井町教育委員会が設置した現地案内板〔2007年〕によると、 「美濃国府は8世紀前葉に造営され、その後200年ほど機能」し、 「平成3年〔1992〕から行われた発掘調査によって、美濃国府の主要な施設の配置関係が判明」、 「政庁は東西約67m、南北約73mの長方形」、「正殿、南北に長い建物の脇殿など」からなると述べる。
《天武天皇》
 「天武天皇」という表現は、かなり時代が下った文書〔江戸時代?〕であることを伺わせる。 古い時代には、専ら「浄御原宮御宇天皇」が用いられている。
《太政天皇十一月庚辰行至美濃国》
 太政天皇が主語だから、動詞は「」を用いるべきである。しかしここで「行至」となっているのは、〈続紀〉から機械的に抜き出した故と見られる。 〈続紀〉では最初の十月甲辰条に「幸参河国」があり、以後の行程が「行至」となっているのは全体に「」がかかるからである。 よって部分的な引用では「太政天皇十一月庚辰幸美濃国」と書くべきである。 ここに〈家譜〉の著者の教養の限界を見る。
 日付を含めて〈続紀〉に完全に一致するので、〈家譜〉は〈続紀〉が定着した後になって書かれたものであることが分かる。
《率十七人之勇将》
 「十七人之勇将」とある。木実が率いたのが十七人のようにも読めるが、それでは少な過ぎるから、それぞれの「勇将」が配下を率いていたと見るべきか。 だとすれば、宮勝の一族は小氏族の集合体である。
《分当芸郡之地為不破郡》
 〈家譜〉は「当芸郡之地不破郡」という。 すなわち、野上の地はもともと当芸郡に属し、郡の分割によって不破郡の一部となったという。 しかし、上述したように倭建命段の「当芸野上」は「当芸の野の上」で、その位置は現在の当芸郡の多岐神社周辺と見た。
 加えて、分割した郡の名前は〈倭名類聚抄〉「式上【之岐乃加美】郡式下【之岐乃之毛】郡」のように、旧郡名にカミ・シモを付ける形が通常である。 「当芸郡⇒当芸郡+不破郡」は、この流儀に合わない。
 また、〈天武紀〉上の「天皇…入不破このころ郡家」なる書き方は、その時点で「不破郡家」が存在していたことを意味する。一方「当芸郡」は全く出てこない。 書紀は、記録がもし「当芸郡家」となっていればそのまま書いても問題ないだろうから、わざわざ「不破郡家」に直して書く理由が分からない。
 このように考えると、当芸郡が分割されて不破郡になったという説は、あまり信じられない。 万万が一分割が事実だったとしても壬申の後ではなく、それよりもずっと前の時代のことであろう。 〈家譜〉は、倭建命段の「当芸野上」を地名だと信じて、そこからもっともらしくストーリーを組み立てたように思われる。
 さらに、「木実以武功之抜群賞-賜不破一郡〔その分割した不破郡を木実の武功が抜群であったから賜った〕とまで言う。 偉大化もここに極まれりである。
 実際には、「不破郡家」は壬申の乱の前からこの地に置かれていて、宮勝木実は壬申以前から大領であった()のだろう。 ただ、そうするとの恩賞はゼロとなってしまうので、 木実はこのときの功績によって初めて大領に任じられたのだろうか。 しかし、肝心の「拝大領」という記述がなく、「不破郡を賜った」と書かれているのが不審である。
 やはり、説を採るべきか。宮勝は大化以前からこの地を支配する豪族で、その首魁が改新詔により大領に取り立てられ、木実はその何代か目だと見る方がすっきりする。 乱の直後には恩賞から漏れ、〈持統〉行幸の際の「外従五位下」が初めての恩賞かも知れない。
 一方、③⑤については、史実と見てもそれほどの不自然さはないので、古来の伝承をそのまま書いたものと考えたい。
《改姓不破》
 〈姓氏録〉に〖諸蕃/不破勝/百済国人渟武止等之後也〗とあり、不破勝は渡来氏族である。 宮勝から改姓したと書かれている点については、 〈持統〉行幸の大宝二年〔702〕の時点でまだ「宮勝」である。
 不破勝の氏人は〈後紀〉延暦二十三年〔803〕伝燈大法師位善謝卒。法師。俗姓不破勝。美濃国不破郡人也」が所見。 もし「改姓不破」が事実とするなら、702年以後803年以前となる。 〈姓氏家系大事典〉に「宮宿祢:前項 諸氏〔宮首・宮勝〕の後なるべし」とある。 宮宿祢の氏人は、 『類聚符宣抄』第九「延長三年〔925〕二月一日」付け文書に「宮宿祢春来」と「宮宿祢忠来」がある。 もし宮宿祢が宮勝の後継なら、宮勝・不破勝は共存していたことになる。
 穏やかに考えれば宮宿祢は宮勝の後継ではなく宮首の後継で、不破勝宮勝の別称だったが、次第に主な呼び名になったのかも知れない。
《勝》
 〈八木充〉によると、は姓で、その訓みは村主と同じくスグリであるという。 村主なる表記の違いについては、村主は「渡来の先達」で「官司制的品部」として「宮廷の手工業生産に従事」していたのに対して、 は「新米の…一団」で、「渡来者の技術奴隷」の役割を継承できず「農業社会における共同体」に埋没したものと推定している。
 なお、〈八木充〉はスグリと訓読することについて、いくつかの先行研究を挙げる。 その一番目に挙げられた〈井上通泰〉説を見ると、 「聖護院道興准后の廻国雑記に「スグといへる所に至て名に聞えし薄など尋てよめる云々」 とあり。こは所謂スグロノススキ〔スグロは末黒。燃えて末端が黒くなったススキ〕をいへるなり」と述べる(p.254)。 〈井上通泰〉は、これを「」がスグリと訓まれた傍証としている。
《於仲山麓卒》
 霊亀元年乙卯年〔716〕に没したという。 ただ、「」については〈天武紀〉下には「外位」の死に「」が用いられた(大分君稚臣)から、「」は潤色か。ただ任官か否かの境界は微妙かも知れない。 〈家譜〉は木実が「仲山麓」で生まれ、「仲山麓」で卒したと書くから、一貫して地付きの氏族の首長であったと見られる。
《後祭霊》
 不破郡大領となった宮勝木実の死後、宮勝木実命を祀る為に造立したのはその通りであろう。 この一帯は宮勝氏族の居住地であったと見られる。
 ただ、大領神社の創建年が書かれていないことは画竜点睛を欠く。 実際にはずっと以前から宮勝の氏神社があり、そこに大領宮勝木実を合祀し、 それ以来名称が「大領神社」になったか。 あるいは、宮勝の氏神はもともと南宮大社の金山彦神であって、その広大な社地の一角に大領宮勝木実を祀り、それが「大領神社」に発展したとも考えられる。

まとめ
 〈家譜〉は、書紀の〈天武紀上〉(②④⑥)、『続日本紀』()から抜き出し、その間に独自部分を挟む形になっている。
 ③⑤は、恐らく不破勝家で長年語り継がれた事象であろう。特にには「十七名の勇将」や「計(はかりごと)」などの具体性が見えるので、一定の史実性を考えてもよいかも知れない。
 その一方で、は当芸郡野上郷説を前提としている。 本居宣長が強く否定しているところを見ると、この説は江戸時代には相当根強かったと思われる。 その大本は、古事記の倭建命〔日本武尊〕段の一つの読み方にあったようだ〔ただ、万葉歌によって否定されるもの〕
 その根強さが、の想像上のストーリーを生み出したとは考えられないだろうか。 特に「拝大領」と書くべきところが、いつの間にか「賜不破一郡」になってしまったところに、頭で考えた故の曖昧さが感じられるのである。
 とは言え、〈家譜〉は大領神社と南宮大社のある宮代の地に宮勝〔後に不破〕一族が住んでいて、その首魁が不破郡大領に取り立てられていたことを確実に示すものと言える。 よって、不破郡家は宮代地区にあったと断言することができよう。