古事記をそのまま読む―資料11 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2022.09.30(fri) [66] 歳差運動 ▼▲ |
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【歳差運動】
歳差運動の周期の正確な値は25,772年と言われる。ただし、理科年表(1999年版)には 「36525日」〔1ユリウス世紀〕あたりの「黄経〔単位:°〕の一般歳差」は、「5029"0966」とあり、この値と、1太陽年=365.2422日を用いて計算すると、 360÷(5029.0966÷3600÷36525×365.2422)=25,770.586…〔年〕となる。 ここでは、ひとまず一般に言われる25,772年を用いる。 【恒星の座標の変化】 地球の赤道の位置は、ほぼ不変と考えてよい。ところが、赤道を天球に投影した天の赤道の位置は、歳差運動によって波を打つ。 時々の天の赤道を直線にした星図では、各恒星ごとに赤緯赤経が変化する。 その場合、すべての恒星の位置を動かして図を作り直さねばならず、これはなかなか大変な作業なので、ここでは現在の星図のままで天の赤道の変化を示すことを考える。 図2は、歳差による地軸を四分の一回転(6443年に相当)ごとに示し、時々の天の赤道を現在の星図の上に概念的に示したものである。 [P0]で、天の赤道上の恒星を四方向に仮定し、赤経0hにある恒星をA、同じく6hをB、12hをC、 18hをDとする。 [P0]の地軸の向きは冬至のものである。 このとき、B、Dの向きは黄道面から黄道傾斜角だけ傾いている。 A、Cは黄道面上にある。 [P90]は、最近の動きによる計算上では約6443年後であるが、実際には前後があると思われる。 ただ、恒星との位置関係は[P0]と同じなので、少なくとも恒星年の整数年後である。しかし、自転軸の向きは春分まで進んでいる。 すなわち、ここまでをn恒星年とすると、太陽年では(n+1/4)年となる。 このとき、天の赤道はA、Dよりも南に下がり、 B、Cよりも北に上がる。 [P180]は、[P0]からここまでをn恒星年とすると、(n+1/2)太陽年となる。 地軸の向きは夏至である。 A、Cは再び天の赤道上に重なり、 B、Dは天の赤道と黄道傾斜角の二倍離れる。 [P270]は、[P0]からここまでをn恒星年とすると、(n+3/4)太陽年となる。 地軸の向きは秋分である。 以上から、天の赤道は波を打ち、その振幅は[P180]で最大で、黄道傾斜角の二倍に達する。 その位相は、歳差90°につき[P0]における赤経で-3hの割合で移動していく。 【変動の定量化】 [P90]、[P180]、[P270]における天の赤道は、正弦曲線で表現できるように見える。 図3は、前項で述べた定性的な特徴に基づいて数式化を試みたものである。 歳差は地軸の回転の中心角θで表す。xは[P0]における赤経をラジアン単位で表したもの。 yの単位は、黄道傾斜角〔標準は23.4°〕を1とする。 なお、y=f(x)のグラフは右を正とするのが自然なので、星図とは左右が反転する。
【"正弦曲線"の検証】 直感的に正弦曲線としたが、その妥当性について検証を試みる。 この関数の形を求める問題は、結局天球に平面がある角度をもって交わってできる円の、赤経と赤緯の関係を求めるということである。 ここで、平面が赤道面に対して角度をもって交わり、大円となる場合について考える。赤道と黄道も同じ関係である。
図4で、球の中心Oを中心とする直交座標をxyz、 xy面を赤道面とする。 ここで、D(1,θ,α)からxy面に落とした垂線の足をAとすると、 OA=cosα そしてAをyz面に投影した点をBとすると、 OB=OAsinθ=cosα sinθ Bからz軸に平行な直線をひき、その交差面との交点をCとすると、 BC=cosα sinθ tanφ BCは、俯瞰図のAD=sinαをyz面に投影したものだから、 BC=AD=sinα ∴ sinα=cosα sinθ tanφ ∴ tanα=sinθ tanφ ∴ α=tan-1(sinθ tanφ) ① これが、天球に平面を交差させてできる円の赤経赤緯を、幾何学的に表した式となる。 〔赤経(h)=θ/15〕 この式は歳差運動における天の赤道の変化を示すことが目的だったが、黄道にも適用できる。 この関数の形は、予想したα=φ sinθ ②とは異なるが、 ①②のグラフを比較すると、両者はかなり近い。 26,000年のスパンでは黄道傾斜角の値も変化することを考えれば、ここで行っている考察はそもそも概念的である。 その中では、①の近似式として、②を用いても差し支えないであろう。 【一般式】 【変動の定量化】の項では、代表的な位置においての天の赤道の形を考察した。 また、【"正弦曲線"の検証】では、関数としてsinを用いることの妥当性を検討した。 ここでは歳差運動の中心角をθとしたときの、天の赤道の一般式を求める。 θの正弦関数として、振幅をa、位相をbとすると、経度x、緯度yの関係を表す一般式は、 y=a sin(x—b) と表すことができる。 図5で、それを具体化する過程を示す。 まず、bについては、恒星Aにおける天の赤道の南北変化〔Eq[A](θ)と表す〕により、 恒星Aにおける位相によって判断される。 すでに【変動の定量化】の項で述べたように、b=π/2-θ/2である。 aについては、x=0のときy=-sin(θ)=-acos(θ/2)になることから求めることができる。 最終的に一般式は、 y=ー2sin(θ/2)cos(x+θ/2) [Ⅰ] となる。 赤緯、赤経の単位を用い、黄道傾斜角をφとした式は、[Ⅱ]である。 【黄道高度】 一般式[Ⅰ]によって、θ(歳差)をπ/4(45°)刻みで天の赤道を示したのが、図7の左列である。 中央列は、さらに黄道を記入した図である。図は、すべてθ=0の天の赤道を基準にしているため、黄道はすべての図において同じ位置である。 歳差運動によって地軸の向きが変わっても、黄道の恒星図上の位置は変化しないからである。 右列は、時々の天の赤道を基準としたときの黄道の緯度(赤緯)〔θ=0における黄道高度-各θの天の赤道の高度〕である。 その値が最大のとき夏至、最小のとき冬至、0に等しいときは春分・秋分である。 これを見ると、春分点はθだけx軸上の負の方向に移動していくことが確かめられる。 赤経で表せば、歳差45°〔約26000年の8分の1〕あたり、ー3hの移動となる。南を向いたとき西が0h、東が24hであるから、 歳差運動による春分点の移動は、東から西である。 【星空の見える範囲の変化】 現在、九州以北では南十字星全体を見ることができない。
一例として南十字星の見え方を取り上げる。 一番南のα星(赤緯-63°06’)まで見える北限は、北緯26度54分で与論島(北緯27度02分)と沖縄本島北端(北緯26度52分)の間にあたる。 さらに南方にある石垣島〔北緯24度20分〕では沖縄本島よりも高い位置に見え、2019年7月には石垣市の「市の星」が南十字星に定められた。 その「選定理由」には「12月頃から6月頃にかけて観測可能であり、日本全国の中で最も高い位置に見え、完全な十字の形での観測が可能である。」とある (石垣市公式/市長公務日記2019年)。 みなみじゅうじ座α星は赤経12h27mで、秋分点に近い。従って、見える時期は春分ごろを中心とした半年程度の期間となる。 さて、この南十字星の赤緯は歳差運動によって、今後変化する。 歳差45°〔3222年後〕の、赤経(2000年)12h27mの天の赤道の位置は、 y=-2sin(θ/2)cos(x+θ/2)=-2×sin(45°/2)×cos((12+27/60)*15°/2+45°/2)=0.66778 この値に23.4°をかけて得た、15.6°が天の赤道の位置である。 よって、このときのα星の赤緯は、-63.1°+15.6°=-47.5°となり、 みなみじゅうじ座αが見える北限は、90°-47.5°=42.5°となる。この位置は、大体苫小牧〔北緯42度36分〕である。 このように、歳差運動によって天球上の恒星を見られる範囲も変動する。
まとめ 歳差運動モデルを厳密化しようとすれば、黄道傾斜角の、26000年の間の変化を盛り込む必要がある。 黄道傾斜角の観測式は「(84381.406-46.836769T-0.00059T2+0.001813T3)秒;Tはユリウス世紀〔36525日〕」とされる。 しかし、これにT=260を代入すると、28.9°となり、現実的ではない。現在の諸解説が示す図は、26000年の間黄道傾斜角を変化させていない。 n次の多項式による近似式 Σaⅰxⅰ は、一般に外挿し得る範囲に限界があることによると思われる。 黄道傾斜角を数万年のスパンで一定方向に継続的に変化させる材料もなさそうなので、幾分かの変動を伴いながら、平均的には一定であると見てよさそうである。 歳差運動によって変動する天の赤道を現在の星図に書き込む場合、その形は概ね正弦曲線であろうと予想したが、角〔赤緯〕を角〔赤経〕の単純な三角関数で表そうとするところに不自然さを感じた。 そこで、念のためにその関数の形を求めたところ、sinxに近いが幾分ずれることが分かり、興味深かった。 その形は、「tan-1(sinθ tanφ)」で、tanφは定数であるから、θの正弦関数の逆正接関数である。 角yと角xとの関係がy=g(f(x))で表わされるとき、fが三角関数、gが逆三角関数であることは自然である。 |
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2022.10.24(mon) [67] 『漢書』律暦志下にいう十二次 ▼▲ |
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既に参考[B]のページで見たが、ここではその内容の正確性についてさらに検証する。
【十二次】 〈律暦下〉には、十二次について右表のように記されている。 すなわち、星紀は斗宿の十二度にあたる「大雪」を始点として、牽牛宿の初めが中央で「冬至」、そして婺女七度を終点とする。 以下同様に二十四節季の太陽の位置と、十二次の名称を列挙している。 〈律暦志〉は、黄道上の太陽の位置を述べているから、「○宿○度」は、黄道座標における経度と読むのが妥当ではないかと思われる。 十二次の説明に続けて、二十八宿とそれぞれのサイズを述べている。 東西南北とは黄道一周を四等分した部分の呼び名で、地球や天球における方位とは無関係である。 「度」については、(東)75度+(北)98度+(西)80度+(南)112度=365度となるので、365度が360°にあたる。すなわち、一度は黄道上をおおよそ太陽が1日にすすむ距離を表す。 そこで、まず各宿の主星の現在の赤道座標を黄道座標に換算する。本稿は「主星」を用いるが、〈中国の星座〉は 「各宿の中ではまず目に立つ明るい星」を「距星」と呼び、「各宿の初点として選ばれた恒星」と見做し、 「それが西洋の何座の何星にあたるかと同定することは、実はなかなかむずかしい問題である」と述べた上で、 「明末・清初の時代に西洋から渡来し、天文学的知識によって中国王朝のRoyal astronomerに任命された耶蘇会士によって同定された星を、 その後天文学者に検討された星」を、一覧表にして示している(p.4~5)。 本稿でも、ひとまずその同定を用いる。ただ、本稿が用語として「距星」ではなく「主星」を用いる理由は、後述する。 赤道座標は、春分点を0hとして、一周360°を24hで表す。 歳差運動により赤道座標の0hの位置は時代とともに移動する。現在は2000年の値が用いられている〔元期2000.0という〕が間もなく2050.0になるかも知れない。
【赤道座標と黄道座標】 さて、黄道座標への変換は資料[62]で作成したマクロ関数を用いる(図1)。
図2は、赤道座標から黄道座標への変換を示したものである。 黄道座標を直交座標とすると、赤道〔正式には"天の赤道"〕は波を打つ 〔赤道座標の経度の単位はhmsであるが、degree単位で表す〕。 直感的には、地球儀を傾けて黄道が水平な直線になる向きから見ると、赤道が波打って見えることに相当する。 なお、天球の経度は右から左に向って増加する向きなので、ここで示すグラフは、すべて右⇒左の向きを用いる。 アは、赤道と、+23.4°ラインに沿った、黄道座標の大まかな様子を示したものである。 イは、秋分点周辺における赤道座標が黄道座標にどう投影されるか、ウは同じく夏至点について示したものである。 《各宿の主星の黄道座標》 図3は〈律暦志〉にある20の宿で推定されている主星について赤道座標を黄道座標に換算したものである。 表では、赤経をh単位、赤緯を°単位とし、その下の端数桁は小数で表した。 例えば、斗宿の主星とされるいて座φは、赤経18h45m39.4s赤緯-26°59’26.8”で、 換算すると18.76194444h、-26.99055559°となる。
その換算の結果をプロットすると、各宿の主星は比較的黄道に近い位置にある。 【主星を始点とした場合】 歳差運動により漢代の赤緯赤経の値は現代とは異なるが、天球における黄道の位置は原理的にほぼ不変である。 よって、恒星の黄道座標は、春分点移動による経度さえずらせば基本的に変化しない。 「初」は、宿の最も目立つ星である主星の黄経を基準にするのが自然だと考えられる(図5A)。 前述したように〈中国の星座〉もその見解を示している。〈律暦下〉の「初…度」がそれに沿ったものになっているかどうかを検証してみよう。 その「度」については、「零度」という概念があったとは考えにくいので、「初」=「一度」と推定する。 その前提でそれぞれの節季の位置を計算し、2000年の位置との差をθとすれば、「θ÷360×25772」が、歳差の年数である。 ところが、実際に検証してみると図4のグラフのようになり、θの範囲は32°から43°と幅広く、これはBC290年からBC1080に相当し、全体に漢代よりかなり古くばらつきも大きくて、率直に言ってまともな検証には値しない。
だとすれば、歳差角θは必ず最小値32.7°より小さいはずである。 そこで、前漢が始まったのがBC206年であるから、〈律暦志〉の二十四節季は紀元-200年〔BC201〕のものだと仮定してみる。 2000年を基準とすれば歳差は2200年に相当し、このときの歳差角θは、θ=2200÷25772×360≒30.73〔°〕である〔資料66参照〕。 そこで、次のようにして節季から逆に宿境界を求める。 ① 30.73°よりも区切りのよい30.75°〔歳差2h05m;-201年=BC202年に相当〕を用いる。 ② そのときの二十四節季の黄道経度を計算し、そこから逆に「度」の値を差し引いて「宿」の「初」境界と黄道の交差点の座標を求める。 ③ ②の交差点の黄道座標を赤道座標2000に換算して星図に記入し、宿主星との位置関係を見る。 二十四節季は、太陽年を24等分するもので、それぞれの太陽の位置は黄道を24等分点のはずである。 但し、厳密にいえば地球は楕円軌道であるから公転の角速度には伸び縮みがあり、一年の時間の等分点とは多少ずれる。 太陽太陰暦の二十四節季は、時間等分で基準は冬至だから、春分・夏至・秋分は幾何学的な位置とは一致しない。 しかしここではひとまず公転の中心角の等分点を用いて計算する。(図6) 元期2000.0の黄経において0°の春分から、二十四節季は15°刻みである。 cは、-201年における二十四節季の黄道座標で、現在の各節季の黄経に-(-2201÷25772×360)°を加えたものである(資料[66]参照)。
各節季の黄経から「度」をさし引いた位置が、宿初となる。 「度」表記の値をdとすると、x=(d-1)×360/365 の式で求めたxが宿初までの黄経距離である。 そしてs=c-xが宿初の黄経となる。それぞれのsを星図に記入するために、赤道座標2000に換算した。 図7は、星図にそれらの計算結果による位置を記入したもので、 +マークは宿の境界である。 当時の歳差による赤道[-201]を、資料[66]によって計算して描いた。 y=ー2φsin(θ/2)cos(x+θ/2) φ:黄道傾斜角(23.4°)、θ:歳差角(30.75°)。① 但し、これは近似式で、幾何学的な関係を表す式は、 y=tanー1(cos(x+θ/2)tan(ー2φsin(θ/2))) ② である。 ちなみに図7上の星図では②、下の説明図では①を用いている。これらの図のサイズでは両者の差はほぼ無視できる。 黄道と赤道[-201]の交点は、春分と秋分にあたり、両者が最も離れる位置が夏至と冬至である。
宿初黄経…黄道を二十四等分して得た各節季の黄道経度から、「度」を差し引いて各宿の初位置の黄経を計算する。 黄経幅…十二次にでてくる二十宿の初位置同士の間隔を黄経で表したもの。 度換算…「黄経幅」の単位を一周360°から365度に換算したもの。 度計…二十八宿の「度幅」のうち、十二次に登場しない宿の度幅を十二次にでてくる宿の度に加えたもの。 度幅…〈律暦下〉に示された二十八宿の度幅。 このように整理して見ると、度換算の端数部分を適宜丸めた値が度計となっており、 「初=零度」ではなく「初=一度」であることも、この計算によって明らかになる。 各節季の度と宿の度幅との関係も、全く矛盾なく辻褄が合っている。 さらに、井、危、張の同一の宿を起点の節季の間隔も15度となっている点も正当である。このようによく辻褄が合っており、 これらは〈律暦下〉の述べる数値が、正確な実測の結果であることを物語っている。 【宿の初点】 前項の考察により、各宿については「主星が初」ではなく、 宿として定められた領域のうち黄道付近にある特定の星が「初」と定義されていた可能性が高い。 それについて、具体例から探ってみる。 《井宿》
そこで、井宿として定められた領域と、参宿として定められた領域との境界線と黄道との交点が井宿の「初」だと考えられる。 ただ、現代のように経度・緯度によって境界線を設定したのではなく、 ほぼ黄道上にある恒星で適当なものを選び、各宿の「初」にしたように思われる。前述した「距星」の語を用いない理由は、ここにある。 そこであてはまる位置に恒星を探すと、ちょうどふたご座1〔赤経06h 04m 07.22s,赤緯+23°15′49.1″、4.16等級〕がある(図9)。 BC202年の小満、芒種、夏至から逆算した井宿初の位置は、このふたご座1を中心とする「一度」の範囲に収まっている。 他の宿についても、同じように主星とは異なる位置の恒星を選んだのかも知れない。 《心宿》 図7の+マークで示した宿境界を見ると、それぞれほどよい位置に主星があり、ほぼ矛盾はない。 しかし、一か所ある例外が、心宿である。(図10) 隣の房宿の主星とされるのがさそり座πだが、その位置は心宿との境界にある。 また心宿の主星とされるさそり座σは、むしろ尾宿にある。 歳差角を0.1h(1.5°)ずらせばこの部分に関しては解決できる。 しかし、歳差角1.5°は107年間に相当し〔1.5÷360×25772〕、BC309年の春秋戦国時代まで遡らせなければならなくなる。 BC202年ならば、張宿に大暑と立秋がぎりぎりで収まり、また「冬至牛初」にも合致し、これらは捨てがたい。 だから、房宿と心宿の宿初の位置は動かさない方がよい。 ひとつの考え方としては、さそり座のβ、δ、πが房宿と心宿に分かれて、 それぞれが西方と東方に五度のサイズをとるとする。こうすると理屈には合うが、心宿はこれまで言われてきた位置ではなくなる。 しかし、さそり座σとα(アンタレス)の存在感は大きく、これらはやはり心宿のように思える。
【十二次の別名】
これまでの考察から、「十二次」の範囲は、ほぼ確定した。 この十二次以外にも、天球上の領域を示す名称があるようである。〈新唐書天文〉を見ると、 「有二星孛〔=ほうき星〕于鶉首一。秦分也。」とある。この「秦分」に類似した「斉分」、「「衛分」、「燕分」も出て来る。 それでは「○分」とは、何であろうか。 調べてみると、「斉分」、「魯分」については、〈漢書五行志〉に 「是歳歳在玄枵、齊分野也。」〔この年、歳〔=木星〕玄枵に在り。斉分野なり〕。 「是歳歳在壽星、其衝降婁。降婁、魯分野也。」〔この歳、歳寿星に在り、その衝〔=向かい合う位置〕降婁。降婁、魯分野なり〕。 「正月、日在星紀、厭在玄枵。玄枵、齊分野也。」〔正月、日星紀に在り、厭※)玄枵に在り。玄枵、斉分野なり〕。 という文章があった。
※…「厭」は、太陽に逆行する不吉な仮想の天体かと思われるが、まだ確定していない。 また、「鶉火,周分野也」ともある。 よって〈新唐書天文〉の「鶉首。秦分也。」は、秦分が鶉首の別名だと述べたものであることがわかる。 〈呂氏春秋〉には「心者、宋之分野也」とあり、心は心宿で、すなわち大火=宋分である。 〈律暦志〉には「歳在鶉火、則我有周之分野也。」とある。 また〈漢書賈鄒枚路伝〉には 「太白〔=金星〕食昴。昭王疑之【…太白為之食昴。昴、趙分也。】」とあり、 趙分は昴の属する大梁である。 それらの全体像は、〈漢書地理志〉(右表)にある。 これを見ると、「○分」は基本的に十二次と一対一で対応するが、星紀については、呉分・粵分に二分しているように読める。 「秦地」、「魏地」などは春秋戦国時代〔前770~前221〕の諸侯国の名称と結びついてはいるが、ここでは地名である。 ちなみに、「春秋十二列国」と呼ばれるのが、秦・呉・斉・魯・燕・蔡・曹・衛・宋・晋・楚・鄭・陳、 「戦国七雄」と呼ばれるのが、秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓である 〔太字は右表にあるもの〕。 この中に周が出てこないが、周は前770に王朝として途絶えた後も、諸侯国レベルの国として存続している。
《十二次との関係》
こうして各地域ごと黄道の一部が割り当てられ、「分野」と呼ばれている。それぞれの分野における惑星の運行のようすなどによって、各地域の運勢を占ったようである。 十二分野のうち四つについては、黄道上の範囲が宿によって具体的に示されている。 ところが、その範囲が〈律暦下〉と一致しないことは、戸惑わせる。その位置は、右表で示したように、系統的に西方に概ね6度ずれている。 図7には、これも書き込んでいる。 このずれは『漢書』の原書における〈律暦下〉と〈漢書地理志〉の間の不一致であり、ここでの計算における誤差の影響はない。 この不一致の原因を求めることは困難であるが、試しに時の経過によって位置の修正があったと考えてみよう。 〈律暦下〉では、十二次は二十四節季と結びつけられており、〈漢書地理志〉でも二十四節季と一致するように動かしたとすれば、その不一致は歳差に基づくものである。 その場合、6度の歳差は25772年×6/365=424年に相当する。〈漢書地理志〉のデータが100年の現実、〈律暦下〉が前300年頃の古いデータによるとすれば成り立たないことはない。 だが、これまでに見たように前201年頃とすることには、かなりの確実性がある。400年の差は不自然であろう。 もうひとつの考え方は、十二次は木星の運行に関わる用語であるとするものである。 もともと「次」は「歳次」で、語源は「歳〔=木星〕の次(やど)る」位置である。 木星は、黄道に沿って12年かけて天球を一周する。その移動の向きは西から東で、例えば今年木星が玄枵に位置する場合、来年は諏訾に位置する。そして、十二年後に玄枵に戻る。 この十二年周期が、十二支の生まれる基になったのではないかと言われている。 ところが、木星の公転周期は正確には11.86年なので、12年後の位置は実際には最初の位置より少し東に進んでいる。木星が12年間に黄道上を実際に進む距離は360×12/11.86=364.2°で、 すなわち現在から12年後の木星は、4.2°=4.1度=0h17m現在より東の位置にある。〈律暦下〉と〈漢書地理志〉の差6度は、約18年に相当する。 すると、〈漢書地理志〉の十二次の位置は〈律暦下〉が用いたデータよりも18年前のデータによるもので、〈律暦下〉のデータは、実際の木星の位置の観測により修正されたものだとすれば、 ひとつの理屈として成り立つ。〈漢書地理志〉が参照したのが古い時代の記録であった故に、十二次のすべてが揃わず誤写が起こったのかも知れない。 これはひとつの推定ではあるが、少なくとも歳差による400年の幅を根拠とするよりは現実味がある。
すでに、「宿=距星」なる考えについては、「ばらつきも大きく率直に言ってまともな検証には値しない。」と一刀両断にしたが、 ここではもう少し丁寧に検討してみる。これまでは、宿の位置を黄道に投影するにあたって、黄道に垂直な向きに投影したとしたが、これを赤道に垂直な向きに投影したとすれば、ばらつきは緩和されるかも知れない。 すなわち、赤道座標の緯度線に沿って黄道に投影した可能性も考えてみる。 それを調べるには、まず-201年における星図を再現する必要がある。とは言っても全体を描くには膨大な労力を要するので、 ここでは〈律暦下〉で十二次に関係して挙げられた二十の宿と、黄道を示す。 《-201年の星図》 座標変換関数で、黄道傾斜角φ、歳差角θとして、(N1,E1)=(0,θ/2)、(NX0,EX0)=(-2tan-1(sin(-θ/2)tan(φ),-θ/2)を設定する。 そしてφ=23.4°、-201年~2000年の歳差角θ°=30.75°として、 2000年の赤道座標(N2,E2)を、-201年の赤道座標に換算する。この変換の根拠は、後述する。 一方、黄道は歳差には基本的に無関係で、常に一定の経路を通る。 黄道は球面に緯度0°の大円を描き、E1=90°、NX0=23.4°として座標変換する。 各宿と黄道との位置関係は2000年(図7)と変わらず、ただ黄道上を春分点のみが移動している。
図13アは、ひとまず-201年における宿主星の位置〔黄経〕を宿の起点としたときの「節季」の位置(A)と、黄道を12等分して得られる節季の位置(B)を並べた表である。 Aは°〔degree〕単位なので、A/15-B(グラフイ)が、実際の節季からの偏差を表す。 前述したように、偏差0.1が歳差107年に相当するから歳差のばらつきが大きすぎるが、 よく見ると、この偏差は黄緯の値〔黄道からの乖離量〕(グラフウ)との相関が窺われる。 すると、宿主星から黄道への垂線を落として考えたが、他のライン、例えば赤道座標の経線に沿って黄道と結べばばらつきが小さくなるかもしれない。 《赤道座標に沿った投影》
Aは、宿主星から黄道に垂線を引く。 図では、尾宿と胃宿について垂線で結んでいる。垂直に見えないが、これはグラフの縦横比によるもので、 実際の天球上では垂直になっている。 Bは、赤道座標の経線に沿って宿主星を黄道に投影する。 両者は、宿主星が黄道上にあるときは重なり、黄道から遠いほど離れる。 また、両者は冬至・夏至のときは重なり、春分・秋分において乖離は最大になる。 例えば、女宿・牛宿・柳宿については冬至点に近いので両者は近接する。 また、井宿はほぼ黄道上にあるので、ほとんど一致する。尾宿・胃宿は黄道から離れ、夏至点・冬至点からも離れているので両者は離れる。 図15は、図14を得るための計算の内容である。 まず、宿主星◆の赤経を経度とする黄道上の点△がBとなる。 そして、◆を黄道座標に変換し、その経度を0とした点●がAとなる。
図16は、赤経を黄道投影ラインとした場合について、投影点から宿初を逆算して節季との偏差を求める。 計算方法は、まず宿主星の赤経と同じ経度Pをもつ黄道上の点Rを求める。 次にRを黄道座標に変換し、その経度Rに、 Dを°〔degree〕に換算した値〔(D-1)×360/365〕を加えて、 これをAとする。そして、節季をBとするとA/15-Bが偏差である。 いよいよ、こうして求めた偏差をグラフ化して、黄道直交方向の偏差と比較する。 ここで、単位「度」の分解能を考えておく必要がある。「1度」の幅は、このグラフの「偏差」の、24÷365=0.066に相当する。 したがって、赤道座標経線沿い(青線)上の、例えば尾宿・房宿・氐宿の偏差はいずれも1度で、それ以上細かな偏差の違いは意味を持たない。 斗宿・箕宿の偏差は2度である。 全体的には概ね±2度の範囲に収まり、確かに黄道経線に沿った投影(赤線)よりはばらつきが小さくなっている。 また、赤線では、散らばりは正の方向ばかりであったが、青線では、正負に大体均等に散らばっているところが注目される。 よって、宿主星から黄道を結ぶ直線は、大体赤道座標の経線に沿っていると見られるが、そのラインの向きはそれほど厳密ではない。 実際には各宿ごとに、主星から黄道まで赤経に近い傾きでラインを結び、その交点付近にある恒星を選んで、宿の初点に定めた可能性が高い。 ただし、井宿では黄道にごく近いが、それでも主星とのずれがあるからこの場合は主星が基準ではないと思われる。 【歳差による座標変換】 恒星の赤道座標の歳差の変化は、球面座標の変換によって得た(図12)。 ここでは、その変換がどのようにして導びかれたかを述べる。これまで述べてきたように、変換は次の二段階で行った。 第1変換:(中心角,偏角)=変換1(N1,E1,N2,E2) 第2変換:(NX,EX)=変換2(中心角,偏角,NX0,EX0) 歳差角をθとし、黄道傾斜角をφとする。φは、終始23.4°を保つ。 基本的に、座標変換後も黄道波形は振幅を変えず、位相のみが変化する。 ● -205年をθ=0として、そのの座標に黄道を描く(図17①)。 歳差角θにおける赤道については、資料[66]【一般式】で得た公式 y=-2sin(θ/2)cos(x+θ/2) から、赤道波形の振幅=2×23.4×sin(歳差角θ÷2)となる。 θ=90°の場合の振幅は12.408となり、その×(ー1)をNX0とし、また歳差角90°×(ー1)をE1、N1=0とする。 ①の黄道の各点の座標(N2,E2)を変換してみる。ところが、これでは全然うまくいかない(②)。 ● そこで、第1変換のE1を-θ/2=-45°としてみると、黄道の振幅を保つことができた(③)。 ● さらに、春分点がE=0になるように位相を調節して、EX0=45°とする(④)。
これに、-201年~2000年に相当する歳差角θ=30.75°を適用してみたところ、やはり結果は良好である。 ここで、E1=-θ/2は、赤道の一般式 y=-2sin(θ/2)cos(x+θ/2) の位相+θ/2に対応する。 また、EX0=θ/2は、資料[66]図7で移動する春分点を基準位置に据える操作に対応する。 ● ただ、細かく見ると黄道傾斜角が23.23°で、23.4°とは差があり、立夏もわずかにずれる(⑤)。 ● そこで、NX0に、赤道の振幅を幾何学的に表した式 -2tanー1(sin(θ/2)tan(φ)) を用いてみる。 するとNX0=13.0903…となる。これを用いると、黄道傾斜角=23.4°、夏至=6.0hが厳密に成り立つ(⑥)から、適切であろう。 他のいくつかの歳差角でもこの式でうまくいくことが確かめられた。 このように、パラメータE1,NX0,EX0に値を設定することによって黄道が振幅を保ち、春分点が歳差角によって正しく動くことが示された。 これらのパラメータによる変換は、当然あらゆる恒星の赤道座標の変換に適用できる。 まとめ 実際の二十四節季の位置を参照すると、〈律暦下〉・〈漢書地理志〉に見える「○宿○度」の表現は、決して感覚的なものではなく何らかの方法で実測されたものと思われる。 その実測の方法を想像すると、太陽が南中したときに二本の尖ったポールを立て、太陽と反対方向から見てそれらの先端がともに太陽と重なるように調節する。 そして、12時間後に同じ位置に見える恒星を記録すれば、それが半年後の太陽の位置となる。 問題は、その場合12時間を正確に測定する時計が必要となることである。恐らく漏刻の類だと思われるが、それなりの精度の時計が存在したと考えざるを得ない。 さらに、宿ごとに黄道の境界の目印となる恒星が定められていたに違いない。 本稿は、黄道は殆ど動かないから、初めは元期2000.0の星図に漢代の赤道を書き込むことで様子を掴んで済まそうとした(図7)。 しかし、さらに黄道の宿境界をどのようにして決めたのかを知りたくなり、そのために古代の星図の再現が必要となった。 結局、歳差によって変化した恒星の赤道座標を、数値的に表現しようとする方向に向かった。 すると、資料[62]で開発した座標変換関数が再び役立ち、 資料[66]の赤道波形をサインカーブで表した簡略表現と併せて、それらしいシミュレーションに到達した。 実際には地球が楕円軌道であるのに円軌道としたことや、摂動が考慮されていないからもとより正確ではないが、大体の動きは基本的に表現できると思われる。 |
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2022.11.03(thu) [68] 『新唐書』天文志に見る客星と彗星 ▼▲ |
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『新唐書』〔1060〕天文志には、「○孛彗」の項に武徳九年〔626〕から天祐二年〔905〕までの、彗星や客星の記録が載る。 ここでは、そのうち太和二年〔828〕以後の部分を読み、文中に登場する星座名がどのように同定されているかを見る。 ※A【凡彗星晨出則西指↑】 「凡彗星晨出…」は「凡そ」として、彗星の性質に総括的に述べる文である。 「彗星晨出則西指、夕出則東指、乃常也…」は、彗星が朝と夕だけ出るという意味ではなく、「彗星が朝に見える場合は…」という文である。 晨出〔朝に出る〕・夕出からは、内惑星である金星の見え方が連想される。ここでは、彗星が地球の軌道の内側に来たときの見え方を述べたものであろう。 そして、彗星が朝東の空に見えるときは尾は西を指し、夕べ西の空に見えるときは尾は東を指すという。彗星の尾は常に太陽と反対方向に伸びるから、 この文は実際の現象に合っている。 「未有遍指四方」は、彗星の尾には定まった向きがあり、四方を満遍なく指すことは未だないという意味で、 「凌犯如此之甚者」は、「もしそのようなことがあれば凌犯〔=逸脱〕甚だしい」と読める。 ※B【孛↑/蚩尤旗↑/天攙↑】 孛:孛は、〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉では「彗星出現時光芒四射的現象」とされ、彗星の形容の語と位置付ける。 しかし、乾寧元年七月の「非彗非孛」では、彗星の類を指す名詞である。また「星孛」は明らかに名詞熟語だが、「孛星」としない理由はよくわからない。 武徳九年には「孛与彗皆非常悪気所生、而災甚於彗。」、すなわち孛星と彗星はどちらも悪気を生むが彗星よりも孛星の方がより甚だしいとして、悪質度の差で区別している。 だとすれば占ってみないと区別できず、自然現象としての区別はない。 なお、この文の「災甚於彗」を「災、彗に於いて甚だし」と訓むと災害の程度は「彗>孛」となる。 しかし、「於」は比較の文では"than"として使われ、文の冒頭が"孛"であるから、"災"は"孛の災"と読むべきであろう。 よって、災の程度は孛>彗と読むのが妥当だと思われる。 蚩尤:古代の伝説の豪族の名。乱暴で好戦的で黄帝に滅ぼされた。転じて蚩尤または蚩尤旗は、戦乱を暗示する星。彗星の一種。 天攙:攙は〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉によれば、刺す、挿入。「通「欃」。彗星名,即天攙。」という。「欃槍」も彗星。 長星:大暦七年(資料[69])の項には、「長星、彗属」〔長星は彗星の一種である〕とある。 彗星にいくつも異称があるのは、それだけ彗星への関心が高かったのだろう。占いの重要な要素であったようだ。 ※C【枵耗名也↑】 「枵」は中国においても珍しい字で、「枵耗名也」は「耗」と同じ意味だと解説したものと思われる。「名」には「意を表す」意味がある。 ※D【漏↑】 「漏」は、水時計、転じて漏が示す時刻をも表す。「刻」はその単位で一日あたり100刻。夏至は昼60刻・夜40刻に分け、冬至はその逆という(〈学研新漢和〉)。 ※E【陳匡↑/孫儒↑】 ・陳匡は、『資治通鑑』〔1084〕巻八十五に名前が見える。ここでは「近々乱が起こる。それに備えて、私を宮廷に入れるべし」と言ったと読める。 ・孫儒は、〈zh.wikipedia.org〉には、「中国唐朝末年軍閥之一」で、 「景福元年〔892〕,孫儒率二全軍一圍二楊行密于宣州一、楊行密則堅壁清野以抵抗。不レ久孫儒軍粮尽而潰、孫儒被レ俘后処死。」 〔孫儒は全軍を率い、楊行密を宣州で包囲し、楊行密は堅壁清野〔城内に全軍が籠り郊外を焼く〕して抵抗。久しからず孫儒軍は食料が尽き潰え、孫儒は捕えられて皇帝は死に処した〕とある。 〈en.wikipedia.org〉には「beheaded Sun and sent his head to the imperial capital Chang'an」 〔斬首し、首を帝都長安に送った〕とある。 ここでは、大きな暗雲が孫儒の軍営の上に降りて来る様子が、あたかもその建物を潰すように見えたと、直接には彗星や客星に無関係のことを述べる。 「頭上星也」は、軍営の真上の星が運命を暗示するとの意味か。 楊行密は、唐朝末期に南部に事実上の独立国を建て、五代十国時代の呉に繋がる。 ※F【乾寧三年十月有客星三↑】 乾寧三年の「客星三」が新星・超新星だとすれば「東行」することはあり得ないので、太陽系内の天体かと思われる。彗星の場合核が分裂することがあるが、「彗星」ではなく「客星」と書かれているのでその正体の判断は難しい。 ※G【天復元年五月有三赤星↑】 天復元年五月、東西南北四方の空にそれぞれ赤星が3個出現し、やがてそれぞれ一個ずつ増えて計16個になったという。 これは到底事実の記録とは信じられず、言い伝えであろう。しかし、他の多くの記録については日付や位置を具体的に述べていて、実際の観測記録だと見られる。 中には、このような迷信が紛れ込んでいる。 ※H【機星↑】 「機星」は、占星術における星の性格付けと見られる。ここでは、「機」の意味のひとつ「謀略」に近いと想像される。 ※Ⅰ【三垣↑】 紫微垣は、北極星を中心とする領域に帝、太子などの星がある。 その領域を囲む右垣、左垣が紫微垣の語源と見られるが、実際にはその周囲も紫微に含まれるようである。 紫微垣に隣接して、北斗七星より外側の領域が太微垣と呼ばれている。 太微垣は軫宿に向って黄道近くまで突き出している。境界とされる星の並びが右垣と左垣で、その内部に五帝座、五諸侯、九卿、三公などが見える。 天市垣は、房宿、心宿、尾宿、箕宿、斗宿に向って黄道近くまで突き出している。 やはり、右垣、左垣を境界として、その内側に帝座、宦者、宗正、候、帛度などが見える。
「端門星」は、〈中国の星座〉にも載らず、他の文献にもなかなか見つからなかった。 その中で、「紫禁城、故宮与故宮博物院」と題された解説文〔執筆:周乾〕に、 ・「太微垣南側有二端門星一、端門星両側有二左掖門星(左執法星)、右掖門星(右執法星)一。」、 ・「紫禁城対応南側有二端門一、端門両側分別為二左掖門(東)、右掖門(西)一。」〔紫禁城は、(天球上の)太微垣に対応して、端門とその両側に左掖門(東)右掖門(西)がある〕 とある(「人人焦點)。 〔同サイトには文章の出典は示されていないが、執筆者の周乾氏は故宮博物院〔北京〕故宮学研究所に名前があり、実際に執筆した文の引用と思われる。〕 つまり、紫禁城の南側に端門、その両サイドに掖門があり、これが太微垣の星座に准えられているという。 紫禁城の南には三門があり、南から順に天安門・端門・午門という(右図a)。 端門には五本の通路があり、中央以外が「掖門」であろう(右図b)。 〈中国の星座〉によれば、太微垣に次の星座がある。
さらに探すと、『和漢三才図会』〔1712〕巻第一/天部に、ただ一か所「端門」が見つかった。 それは、「内屏:四星在二端門ノ内帝座之南ニ一近二右執法ニ一」なる文である。 そこには、太微垣の図が添えられており(右図d)、その星々の名前や配置は〈中国の星座〉、〈恒星の図〉に合致する。 ただし、『和漢三才図会』の太微垣の図の中ではこれを「瑞門」としているが、作図者〔または筆写者〕による誤りであることは明らかである。 これを見ると、「端門」・「掖門」は星の名前ではなく、二つの星の間隙につけられた名称であることが分かる。 ※K【並州分↑/徐州分↑】 並州という州名はなかなか見えないが、百度百科に「并州(並州)的意思」とあるから、「并州」の別名である。 「○州分」については、『太平御覧』〔北宋977~984〕職官部三十七/雑号将軍上に「南斗、揚州分、而熒惑〔=火星〕守之」とあるから、 漢代以前の各州を黄道上に割り振ったもので、地理志の燕分・魯分・斉分などと同じ発想と見られる。 春秋戦国時代には、中国の行政区画は「九州」と言われ、 『尚書』〔春秋;前772~前476〕の夏書/禹貢には、冀州・兗州・青州・徐州・揚州・荊州・豫州・梁州・雍州とある。 『周礼』〔戦国;前476~前221〕夏官司馬「乃弁九州之国」の項には、禹貢から徐州・梁州が除かれ、幽州・并州が加わる。
その十三の州名をまとめて書いた部分は『漢書』や『後漢書』にはなかなか見つからないが、『漢書』地理志上に次の一文がある。 「至二武帝一攘二-卻[攘却]胡越一、開レ地斥レ境。南置二交阯一、北置二朔方之州一、兼二徐梁幽并夏周之制一、改レ雍曰レ涼、改レ梁曰レ益。凡十三郡」 〔武帝に至りて胡〔北の辺境〕越〔南の辺境〕を攘却〔はらいしりぞける〕して、地を開きて境を斥けて南に交阯[州]、北に朔方の州を置きて、徐梁幽并の夏・周の制を兼ねて、雍を改めて涼と曰ひ、梁を改めて益と曰ふ。凡そ十三郡〕。 武帝は、前漢の7代皇帝〔在位前141~前87〕。この文は、『尚書』及び『周礼』を混合した11州のうち、雍州を涼州、梁州を益州に改名し、交阯・朔方を加えて計13州にしたと読める。 すなわち、十三州=冀州・兗州・青州・徐州・揚州・荊州・豫州・ 益州〔梁州を改名〕・涼州〔雍州を改名〕・幽州・并州・交阯州・朔方州となる。 ただ、司隷を司州として十三州に含める説も見られる〔例えば〈百度百科〉は朔方州を省き司州を加える〕。 しかし「司隷校尉」は本来首都周辺の官僚から奴隷までを監視する役職名で、後漢に行政区画の名称に転じ、司州と呼ばれるのは魏になってからである。 交阯州・朔方州を除く十一州は、うまく右表の「州分」に対応するから、少なくとも前漢の段階ではまだ「司州」を入れるべきではないだろう。 右表は『漢書』天文志の、州分の包括的な記載である。 以上から、「並州分」=并州分・衛分・娵眥、 「徐州分」=魯分・降婁である。 ※L【中国所経也↑】 「天闕」は天の宮闕〔=宮殿〕、あるいはそれに准えた星座名。「中国所経也」は、「中国古代の経にある」と読める。 ただ、『山海経』や『周易』などの経典文献には見えず、 むしろ『史書』天官書に、「東井為二水事一。其西曲星曰レ鉞53)。鉞北、北河。南、南河。兩河、天闕閒為二關梁一。」 〔東井、水の事をなす。その西の曲星を鉞といふ。鉞の北は北河、南は南河にて、両河の間は関梁〔交通路〕を為す〕とある。 ほぼ同文が『漢書天文志』にもある。 まとめ 『新唐書』天文志には、彗星と客星の記録がまとめて収められている。これを見ると、彗星と客星は明確に区別されていることがわかる。 客星が新星・超新星と解釈されているのは、基本的に妥当だと思われる。 彗星は、咸通五年〔869〕に突然占いに結び付けられるようになる。 唐末を迎えて政情不安定となり、各地で戦乱が相次ぐようになったこととの関係がうかがわれる。やはり彗星は不吉の前兆であった。 黄道は十二の分野、あるいは州分に分けられ、それぞれの部分での天体の異常現象を、対応する地域の異変と結びつけて占われたようである。 彗星や客星が出現した位置は、星座あるいは星の名によって示されている。それらの多くは容易に特定することができたが、 端門と並州分については比較的見つけにくかった。 こられについては、探求の過程でいろいろと知識が広がったので、結論だけではなく到達までの経過も記した。 中国の星の名前の同定にあたって参考にしたのが〈恒星の図〉だが、これは幕末の書で現代の星図と大差ない。 同図の縦線は、二十八宿の距星を通る子午線である。しかし、その向きは漢代とは異なるから、不適切である。 星空は、歳差運動により時代で様子が異なるので、正確な同定のためにはそれも考慮しなければならない。 この点の理解を深めようと努めた結果は、資料[66]と[67]にまとめた。 今回、太和二年〔828〕以後に限ったのは、「客星」がこの範囲にあったからである。 もともと、〈皇極天皇紀〉元年に出て来る「客星」がどのようなものかを知ろうしたのが出発点であった。 |
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2022.11.09(wed) [69] 『新唐書』天文志に見る客星と彗星(その2) ▼▲ |
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資料[68]では、『新唐書』天文志「○孛彗」の後半を読んだ。ここでは、前半部分を読む。 なお、この範囲に「客星」の記述はない。
※M【摂提↑】 摂提について、〈汉典〉は「仏教教義中的三仮設:即有関法(事物)、受(感受)、名(名称)的仮設。又作“波羅聶提”。"摂提格”簡称。即寅年。」と説明する。 ここにある「攝提格」は、『淮南子』天文訓に「歳名曰二攝提格一」とあるように、木星の別名である。 星座名としての右摂提・左摂提は、寿星にある。 『晋書』巻十一志第一天文上には「析木、於辰在寅」〔析木は辰(十二支)でいえば寅にあたる〕・「壽星、于辰在辰」とあるので、〈汉典〉が「即寅年」とする根拠は今のところ見出せない。 仏教用語がどのようにして星座名になったか、その経過を知りたい。また、左右の摂提は木星の格納基地かとも想像されるが、実際のところはよく分からない。 典籍を探しているが、現時点ではいずれも見いだせていない。 ※N【将相位↑】 中台・文昌は将相(大将と大臣)の位であると説明されている。 文昌については、〈中国の星座〉に「黄帝の子で揮という。死後、星と化して、天帝によって文昌府の長官を命じられ、功名、禄位をつかさどった」(p.185)とある。 「将相位也」が「将相の位を司る」意味だとすれば、それに合っている。 中台(帝星に仕える最高官の第二位)も、諸官の地位や禄を定める役割を担ったということなのかも知れない。 ただし、説明をそのまま読めば、中台・文昌は天帝を取り巻く官たちの職名である。 ※O【開耀元年↑】 『新唐書』本紀第三/高宗/開耀元年に「九月…乙丑〔三十日〕。改元」とある。 つまり、この年は九月二十九日まではまだ永隆二年である。 しかし、『新唐書』は方針として、改元前であっても元日に遡らせて「開耀元年」としたようである。
肉眼で半月形と判別し得る星は、金星のみである。「西の空に見ゆ」とあるのは、宵の明星ではないかと思わせる。 天体観測の部署の人や占星術師なら太白星〔金星〕を知らないはずはないから、「星」は超人的な視力の持ち主である一般人が見つけて言った言葉かも知れない。 金星が半月形に見えるときの地球・金星・太陽の位置関係は右図の通りである。その視直径は、 太陽金星間の距離:平均1.08億km、金星の直径:1.21万km、太陽地球間の距離:平均1.50億kmを用いると、次の式で計算できる。 1.21×104/(√1.502-1.082 ×108)=1.16×10-4(rad)=0.400’ このように、半月形のときの金星の直径の視角はざっと見積もって0.4分である。 視力については、ランドルド環(右図)の隙間を見わけることができた視角がx分のとき、その逆数1/xが視力として定義されている。 分解能が0.4分の場合、視力は2.5となるが、半月形として識別するには概ねその3倍以上の視力を必要とすと思われる。 遠くを見る生活をする遊牧民には、視力6.0程度の人もいると言われる。唐代の星空は今よりも鮮やかで、視力6.0以上の人も一定程度いたかも知れない。 占いでは、半月形の星の出現は月=陰の隆盛を示すものだと判定している。 ※Q【胡分↑/唐分↑/京師分↑】 胡は、北の辺境の地名で、武帝のとき朔方州を置いた。ここには畢宿が書かれていないので、大梁の西半分を「胡分」にあてたのかも知れない (【並州分/徐州分】参照)。 唐州は、唐代に河南省の地域に設置されたという。 『新唐書』志第三十地理四「泌州淮安郡」の項に、「武徳五年〔622〕以二唐城山一更名二唐州一」とある。 觜觿宿・參宿は実沈にあたり、益州分に重なっている。 京師〔=首都〕は、唐代には長安であるが、洛陽もまた東の中心として栄えた。 京師分の東井宿・輿鬼宿は鶉首にあたり、涼州分に重なる。 まとめ この範囲では、占いの結果が書かれた部分は少ない。 ただ、彗星の現れた星座に付された「唐星也」、「胡分也」などの添え書き見ると、彗星がその地域の禍を暗示するものと受け止められたことが窺われる。 宋分・燕分などは春秋戦国時代に遡ると思われる。その後、漢代に十三州を定めたことに伴い「~州分」が定められ、唐代には唐州ができたことから唐州分が加わったと見られる。 このように、「~分」は、それぞれの時代の地理を反映したもので、重複も見られる。 「○孛彗」に名前のある星座名・恒星名の殆どは、『平天儀図解』に載っている。同書の元になったのは、基本的に『欽定儀象考成』〔清代/乾隆十七年〔1752〕〕であろう。 〈中国の星座〉を見ると、『欽定儀象考成』の星座名は、『開元占経』〔瞿曇悉達〔718~726に唐に滞在〕撰〕から概ね継承している。 結局、『新唐書』天文志に出てきた星座名・星名は、『開元占経』によって定められたものと見てよい。 |
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2022.11.19(sat) [70] 参宿同定の歴史 ▼▲ |
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資料[67]~資料[69]では、歳差運動に伴う座標変換を行うために、単純化したモデルを用いて数値計算した。
その過程で付随するいくつかの問題に出会ったので、ここではそれらについて考察する。 特に、表題の参宿同定の歴史的経過について、三つ目の項で詳しく述べる。
【中国の伝統的な黄道座標系】 資料[67]の【宿主星の黄道への投影】の項で、 二十四節季の太陽の位置の表現「○宿の~度」について、黄道座標ではなく赤道座標の緯度線に沿って黄道に投影した可能性を考えた。 〈中国の星座〉の中(p.14)にそれを裏付けるような解説を見つけた。 その出典である〈中国の天文暦法〉は、次のように述べられている(p.296)。 ――「中国の黄道座標系は黄道と赤道極によって組織されたもので」、 「第三十図〔図1〕において天体の黄経をλ、黄緯をβとするとき、中国の黄道座標系は赤道極(P)を通る大円と黄道とによって天体の位置を表示するもので、 第三十図のλ'、β'を、λ、βの代わりに使用する」、「いまこうした黄道座標を極黄経(λ')、極黄緯(β')と呼ぶことにする」。 この表し方の一例として、資料[67]図14の-201年の胃宿を見る。 ・図14Aは西洋の黄道座標を用い、資料[67]図13により、λ=13.57°、β=+11.34°となっている。 ・図14Bが「極黄経」「極黄緯」を表すもので、λ'=8.65°、β'=15.78°ー3.42°=12.36°となる。 〔λ'=資料[67]図15のR。β'=同「-201年の赤緯」)ー(資料[67]図16のQ)〕 〈中国の天文暦法〉はこの「中国の黄道座標系」について、「前二世紀半ばのギリシアの有名な天文学者ヒッパルコスがこのような特殊な黄道座標を使用した」例があり、 「中国で長い期間にわたって使用された特殊な黄道座標も実はギリシアやインドで行われていた」と述べ、東西文明の交流の可能性を示唆する。 その原因を想像するに、北極星を天帝の座と位置付ける考えから離れられなかったから、座標の中心をP〔赤道座標系〕をP’〔黄道座標系〕に移す柔軟な転換ができなかったのではないだろうか。 【ー201年の二十八宿の位置】 資料[67]図12は、二十四節季の基準となる20宿のみに限定したが、ここでは28宿全部についての-201年の星図を作成した。
黄道傾斜角θの近似式は、 θ(秒)=84381.406-46.836769t-0.0001831t2+0.0020034t3-0.000000576t4-0.0000000434t5 (tの単位はユリウス世紀〔=36525日〕) とされ、これを-201年に適用すると23.719701°となる。 ただ、歳差運動による黄道傾斜角の変動は月や太陽の重力などの影響を基にして理論化されているが、本質的にはたかだか最近100年程度の観測式ではないかと思われる。 そのまま-201年まで外挿できるかどうかは分からないが、資料[70]ではこの式を用いることにする。 【参宿の同定の問題】 二十八宿について調べる中で、参宿の距星の同定について異説があることが分かった。参宿は、いわゆるオリオン座の三ツ星を含み、 〈中国の星座〉は「参」について、「数のみっつ。三つ星」と載せる(p.163)。 三ツ星の名は西から順にδOri、εOri、ζOriで、現在は一番東にあるζOriが距星に同定されている。 〈中国の星座〉も基本的にζOriとし、異説として中央星のεOriを添えている(p.332)。 《参宿δOri同定説》 ところが、参宿は本来δOri〔三ツ星の一番西〕であったとする説がある。 能田忠亮は、〈東洋天文学史〉のpp.467~470において、「星図歩天歌」〔『欽定儀象考成績編』(清道光年間〔1821~50〕)に収録〕には、 「参 距在中東自古標 ζ Orionis」〔西洋名は能田による付記〕とあることを述べた上で、 「明志に見えたるものは、参宿の最西星、即ち中央星の西側に在るδOriなり。 固より参宿の西方に位せるδOriを以て参宿の距星と為すこそ天文学上合理的なるものにして、 此の距星δOriにして始めて明史に見えたる如く(ア)、参宿が觜宿と交代して、参前み觜後るるの状を呈し得べし。 而も此のδOriにして始めて歴代図る所の觜参各宿の星宿度を満たし得べし。」と述べる。 〈東洋天文学史〉は星図歩天歌に関連して、『欽定儀象考』〔乾隆九年;1744〕を引用している。その中に、次の一文がある。
觜宿の距星λOriとδOriの東西の位置関係の変化を見ると、-201年から2000年の間に逆転している(図2ア)。 さて、下線部(ア)「始めて明史に見えたる如く」は、『明史』において初めて、觜宿と参宿の逆転を述べたという意味であろう。 それを裏付ける文を探したところ、〈明史〉天文志一に次の一文があった。
ただし、「唐代に参宿の前三度」、「元代に前五分」は不審である。 図2イで示したように、計算上は唐〔618~907〕の800年において「前0.5度」、 1270年頃に赤経が等しくなり、元代〔1271~1368〕にはすでに逆転している。
図3を見ると唐書においてはζOriが距星であったとも考えられる。 しかし、〈明史〉や『欽定儀象考』の書きっぷりを見ると、「距星=δOri」にそれほどの揺らぎがあったとは考えにくい。 〈明史〉の「唐代に前三度」「元代に前五分」には、やはり何らかの文献的根拠があったと考えられる。 ここで、中国の史書における天文志、律暦志から宿度を述べた部分を精査してみる。 《宿度一覧》 〈漢書〉、〈後漢書〉、〈旧唐書〉、〈新唐書〉、〈元史〉、〈明史〉から二十八宿の宿度を抜き出して、表にまとめた。
《旧唐書における觜の宿度》 〈旧唐書〉の畢、觜の宿度の部分に、右のことが書かれている。
なお、〈中国の天文暦法〉には「黄道去極度は90°ーβ’を意味する」(p.296)とあるが誤りで、正しくは「90°ー弧AS」である(図1)。 この関係を用いてλOriの去極度を計算すると、 ・305年⇒84.0度。 ・945年⇒82.9度。 ・1514年⇒82.0度。 となる。 よって、「今八十二度」は、「今八十三度」が正しく、測定誤差または誤写と見るのが順当であろう。
「天正」は日本では信長の頃の年号であるが、中国にはこの年号はなく、単純に「天の正しい姿」の意と見られる。 よって、現在の実測値では畢17度半、觜半度と明確に述べている。「半度」は、計算上の「800年において0.49度」(図2)と、よく合致している。 しかし、〈新唐書〉は〈旧唐書〉以前に戻り「畢16度、觜2度」を踏襲している。 〈明史〉の「唐測在参前三度」では、〈旧唐書〉の「觜觿半度」は無視されている。〈旧唐書〉に、これまでは「黄道三度」だったとあるから、この時代の何かの書に書かれていたもの用いたのかも知れない。 《元史における觜の宿度》
元代の天文観測については、〈中国の天文暦法〉によれば「暦法制定の実務にあたった郭守敬は、至元一三年〔1276〕に経歴の命を受けるや、ただちに天文儀器の製作に着手したが、その簡儀、仰儀などの新儀はいずれも精妙をきわめた」という(p.143)。 そして、「郭守敬伝によると、その実数を測り考正するところのもの、凡そ七事」、そのうち「第六事は二十八宿の距度を測定」したとある。 よって元代にも実測が行われていたはずだが、觜-参の位置関係については測定の誤差としてなかったことにされ、以前からの「半度」が継承されたように思われる。 あるいは、郭守敬の実測によって数値の正確化は進んでいたが、何かの事情で〈元史〉には残されていた古い数値が用いられたのかも知れない。 《明史における觜・参の逆転》 〈明史〉に至り、測定値が俄然細かくなり、度の単位も西洋式の360度、1度=60分が用いられるようになった。 〈中国の天文暦法〉は「明代の回々天文学〔回々暦=イスラム暦〕も元初のそれからほとんど進歩がなく」、 「明代の暦法は、西洋天文学の東漸によって大きな影響を受けるようになった」と述べる(p.146)。 また、「郭守敬が作った渾天儀」の木の模型「を北京に運んで銅製の渾天儀を作」り、「この製作は正統年間〔1436~49〕に行われ、現存」するという(図6)。 このような西洋化に伴い、度の単位も360°を用いるようになったのだろう。 〈明史〉では觜・参の順番を逆転させ、「赤道度:参二十四分」としている。 先に見たように〈明史〉は「今参を先にして觜を後とせざるを得ず」と述べていて、その言葉通り実行している。従って「不可強」は、 「これまで言われてきた順番を、今後は強いるべきではない」との意味となる。 ここで注目されるのは、参-觜の黄道度「一度二十一分」が赤道度「二十四分」の三倍以上になっていることである。 これは、黄道度として西洋の黄道座標を用いたためとしか考えられない。 そこで、赤道度二十四分という数値について厳密に検討してみる。 この参-觜の赤道度差が24分ジャストとなるのは、1646.04年である(図5)。 明史を編纂するために明史館が設置されたのは、1645年5月のことだという。 これで、〈明史〉天文史の宿度には明末の実測データが用いられた可能性が浮かび上がってきた。 さらこの参-觜の赤道度を黄道座標に変換してしてみると、1度20分47秒になる〔図のKδ-Kλ〕。 これは〈明史〉の「黄道度:一度二十一分」と見事に一致する。やはり、これらの数値は明末の実測に基づくものであろう。 もし、黄道度を中国伝統の黄道座標系によるものなら22分になる〔図のHδ-Hλ〕。 〈明史〉では、これを改めて西洋の黄道座標系を用いるようになったと見てよいであろう。
唐代の800年、漢代のー201年においては、西洋式黄道座標では、すでに觜-参は逆転している(図7)。 したがって觜-参の順はもともと赤道度によるものであり、また黄道度であっても中国伝統の黄道座標を用いる限り逆転しない。 《乾隆年間の操作》 〈明史〉が觜-参の逆転を問題にしたのは、実測とともに西洋の黄道座標を導入したことにもよると思われる。 このように、一度は觜-参を逆転したのだが、結局定着しなかった。 というのは、清代乾隆年間に至り、参宿の距星をδOriからζOriに変更するという力技によって、觜-参の順番を古来からの伝統通りに戻したからである。 現代ではこれが定着し、したがって〈中国の星座〉でも、距星をζOriとすることに迷いはないのである。 2000年現在、黄経度においてもλOri:83.71°、ζOri:84.68°で順序は維持されている(図8)。 【曾候乙墓出土二十八宿漆箱】 二十八宿は相当古い時代に遡り、年代が特定できる最古の二十八宿図が「曾候乙墓出土漆箱」にある。 以下、「曽候乙墓二十八宿漆箱五面図新発現」〔文/李守力〕による。 ――1978年に、中国の河北省随県擂鼓墩で戦国時代の古墓が出土し、隨県擂鼓墩一号墓と名付けられ、また埋葬主の名により曾候乙墓という。 副葬品に楽器、青銅礼器、木器、竹器と竹簡等七千点以上あった。副葬品の中に一つの木箱があり、長方形で間口82.8cm、奥行き47cm、高さ44.8cmであった。 蓋面中央に篆文で「斗」と大書され、それを囲んで時計回りに二十八宿の名称が並び、『史記』天官書の二十八宿と基本的に同じである。 蓋の両側には、青龍と白虎が描かれている。亢宿の下に「甲寅三日」の四字がある。 その時期については〈李守力〉によれば「曾侯乙墓が葬られた時期は一般に起源前433年、或いはやや後と認められる」という。 図9の写真の右に示した二十八宿の文字は、いくつかのサイトの図を参照して書き取ったもの。 文字の同定は、〈中国の星座〉が「王建民・梁柱・王勝利「曽候乙墓出土的二十八宿青龍白虎図象」『文物』1979-7」から引用したものに従った。 ただし、「畢」についていた糸偏をここでは除いた。 《文字の解釈》 後の二十八宿の名称とは、幾分相違がある。いくつかは、曽候乙墓漆箱の宿に字画が加えられた形になっている。 ・亢は、「堕」の右上を亢にした字とされる。ただし、この字はユニコードにも見えない。 ・方は、房の一部。 ・縈は周りを巡らす意味で、營(営)〔兵営など〕に意味が通じる。発音も同じ。 ・圭は、奎の一部で発音も同じ。 ・矛、昴とともに音はボウ。昴は辞書に載るのは宿名のみで、ホコの意味があったかどうかは分からない。 ・此隹は、一字にまとまって変形したか。 ・酉が、柳になった理由は不明。 ・張は、この字が張であるかどうか分からない。 ・車は、軫の一部。 まとめ 乾隆年間には、勅命により古典籍の叢書『四庫全書』が編纂された。経・史・子・集四部からなり、計三万六千冊に及ぶという。 この歴史的文献を集大成しようとする乾隆帝の意欲が、天文・暦法に向けられたのが勅撰の『欽定儀象考成』であろう。 乾隆帝の姿勢からすれば、【曾候乙墓出土二十八宿漆箱】で見たような古い歴史をもつ二十八宿の順序を入れ替えるなど、あり得ないことだったと想像される。 よって、〈明史〉が提唱した宿の順序変更を否定し、距星を三ツ星の西星から東星に変更することによって対応したと思われる。 また、この経過が逆に、西星が本来の距星として長く定着していたことを物語っている。 さて、本サイトの歳差運動モデルには相当な単純化がある。実際の歳差運動は限りなく奥が深く、より精密な形での計算は手に負えない。 しかし、この単純なモデルでも平均的状態を概ね表現できるようで、史書に記載された觜-参の宿度の歴史的変化とは、なかなかうまく噛み合っている。 これは、偶然とは思われないのである。 |