古事記をそのまま読む―資料9 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2021.10.20(wed) [54] 斉明天皇の後飛鳥岡本宮 ▼▲ |
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また天皇の宮殿としての岡本宮については、〈舒明天皇記〉・〈斉明天皇記〉に記述がある。 その所在地を考察する。
【岡本宮(舒明天皇・斉明天皇)】 岡本宮の推定地については、〈歴史地名大系〉に 「位置については、古くから大字岡付近に求める説があるが、飛鳥寺の北に求める考えもある。 後者は、神護景雲元年〔767〕一二月一日付太政官符(類聚三代格)に、 大安寺施入田のうち「大和国二町一町路東十一橋本田、一町路東十二岡本田、在高市郡高市里専古寺地西辺」とあるものによる。 路東二八条三里(高市里)の一一坪・一二坪に比定、古寺すなわち大官大寺(本大安寺)西の大字小山付近を岡本と称したことは明らかである。」 とある。 まず、この中にある「大官大寺の東」説について調べた。 【岡本田】 岡本田は、〈類聚三大格〉巻十五「寺田事」の中に出て来る。
〈伊藤寿和〉によると、 「大安寺に施入された大和国の「一町路東十一橋本田。路東十二岡本田。」の2町の地は、 同寺の前身である大官大寺の故地に隣接する、後の「高市郡路東二十八条四里の十一坪と十二坪」に相当すると考えられ」るという。 但し、〈条里復元図〉によれば大官大寺の所在地は東二十八条三里である。また、この位置は新益京〔藤原京〕の十条東四坊にあたる。 この時期の地理表記については、「条里呼称法が導入・整備された後も、条里呼称法による表記・記載が使用されず、 所在地の表記に旧来の郡・郷などの地名を使用した関連史料が散見される」という。 大官大寺は平城京遷都に伴い、諸寺とともに移転した。その移転先は左京六条四坊で、名称は大安寺となった。 〈続紀〉大宝二年〔702〕に「以二正五位上高橋朝臣笠間一 為二造大安寺司一」とある。 「移転年は、和銅三年〔710〕説、霊亀二年〔716〕説がある」、 旧寺は「「扶桑略記」によると、和銅四年旧寺は藤原宮とともに焼亡」し、1973年以後の調査により焼亡跡が発見されたという(〈歴史地名大系〉)。 坪割りについては、左京は北東隅が始点の折り返し型と考えられるので(前回)、 それと対称を為す右京は、北西隅が始点で十一坪・十二坪は図の位置ではないかと思う。 なお、「小字データベース」によると、十一坪・十二坪の小字名は竹ノ内・アラボリ・サコツメ・フケノツボ・大柳で岡本田・橋本田はない。因みに、大官大寺付近には講堂・阿弥陀堂がある。 他の文献にはなかなか見えないので、ここが「岡本田」と呼ばれた期間も人々に知られた範囲も限定的ではないかと思われる。また、この場所で大宮殿の跡を検出したとの情報も見いだせない。 【岡本宮(舒明天皇・斉明天皇)】 書記に岡本宮が出てくるのは、〈推古天皇紀〉の聖徳太子の講を除けば〈舒明天皇紀〉と〈斉明天皇紀〉である。 いずれも、飛鳥板蓋宮とされてきた付近に重なって存在したと推定されている。 〈飛鳥宮解説〉によると、飛鳥宮跡は重層的な宮殿跡で、下層から順にⅠ期・Ⅱ期・ⅢA期・ⅢB期と名付けられている。 Ⅰ期は「舒明天皇の飛鳥岡本宮と考えられ」、「南東から北西の方角に合わせ」「中国において南北方向の正方位に合わせて宮殿が造営されていたこととは異なって」いるという。 また「柱を抜き取った跡の穴には、焼けた土や炭が入って」いたという。 Ⅱ期は「皇極天皇の飛鳥板蓋宮と考えられ」、「東西193m、南北 198m以上の掘立柱で構成される回廊によって囲まれ」、「南北の方向に沿って建てられ」、 その整地のために大規模な削平が行われたことが、「Ⅰ期遺構の柱穴〔として残っている部分が〕が非常に浅」いことから窺われるという。 ⅢA期の遺構は「斉明天皇と天智天皇が使用した後飛鳥岡本宮と考えられ」、 「南北197m、東西152mの柱列で囲まれた部分が、宮殿中枢部を成す内郭」であると述べる。 「内郭北区東北部には井戸が設けられ」、「現在の遺跡で復元」されている。復元井戸の画像は岡本宮宮の代表的な施設として、しばしば紹介されている。 ⅢB期の遺構は「天武・持統天皇が使用した飛鳥浄御原宮と考えられ」、 内郭は概ねⅢA期を継承し、「エビノコ郭が設けられた」ときを区切りとしてその後がⅢB期とされる。 飛鳥板蓋宮は皇極天皇が元年に造営を命じたもので、二年四月に権宮(仮宮)から「飛鳥板蓋新宮」に移った。天皇は一度退位するが重祚して斉明天皇として再び板蓋宮を宮としたが、その年のうちに火災に遭い川原宮に移っている。 板蓋宮は「岡本」がないのは場所が違うからだとも考えられるが、茅葺や瓦葺とは異なり屋根に厚い板を用いたことが当時大変珍しく、その特徴による名前と考えるのが妥当か。 「板蓋新宮」とあるのは、この段階では「板蓋宮」はまだ固有名詞ではなく、普通名詞を連ねて「板葺きの新たな宮」と書いたのであろう。 こうして見ると、舒明二年から八年までをⅠ期、皇極二年から斉明元年までをⅡ期、斉明二年以後をⅢA期に対応させることは可能である。 《舒明天皇の岡本宮》 天皇の宮としての岡本宮の初出は〈舒明天皇紀〉である。
《後飛鳥岡本宮》 飛鳥後岡本宮の位置を探るために、〈斉明天皇紀〉の関連部分を読む。
さらに吉野宮も建てた。 "災"への古訓「ヒツケリ」も、平安時代に放火を意味するものとして読まれたことを示している。 「於飛鳥岡本更定宮地」の「岡本」は普通名詞だから、宮の名前は「飛鳥の岡の本〔丘から下ったところ〕」にあったことに由来することが分かる。 後飛鳥岡本宮と「後」がつくのは、舒明天皇の岡本宮と同じところに建てられたからであろう。 最後に「災岡本宮」とあるのは、土木工事が大好きだった斉明天皇によって多大な負担を強いられた民の怒りによって放火されたことを暗示していると見てよいだろう。 ここに「後」がないのは、単に省略か。ただ、〈舒明〉八年のことが誤ってここにも紛れ込んだ可能性がある。 誤りでないとすれば、〈飛鳥宮解説〉にはⅢA期の焼け跡のことには触れていないから、火災は局所的であったことになる。 《酒船石遺跡》
〈相原04〉によると、1992年の石垣の発見により、「酒船石が単独の遺物ではなく、石垣に囲まれた遺跡の一部という認識が生まれ」、 よってその遺跡全体が「酒船石遺跡」と呼ばれるようになった。 石垣全体を表すのに「酒船石遺跡」の名称はあまり適当ではないように思われるが、他の名称もないので本サイトもひとまずこれを用いておく。 石垣は第1次、3次、24次、20次、17次の調査の結果、「総延長は700m以上続くことが判明した」という。 石垣の構造は、第1次調査の結果「版築によって堅固な盛土造成を施」した上に、「平坦に加工した80~100cm程の飛鳥石(石英閃緑岩)を〔一層の〕基礎石として」、 「30×20×15cm程の煉瓦状に加工した凝灰岩質細粒砂岩の切石(天理市豊田山近郊で採石)を積み上げ」、 その段数は「良い部分では4段目まで残っており、さらに裏込土の状況からは7~8段分(約1m)以上の高さまであったことが推測される」という。 また、石垣の前に柱穴の遺構はないので、「防御を目的としたものではなく、視覚を意識した構造」 〔建物の付属というよりは、景観として石垣のみを設置したこと〕が伺われるという。 第3次調査では、第1次の標高よりも低いところに列石(「飛鳥石の巨石」)を3列検出したという。 よって、「少なくとも丘陵西側については砂岩石垣を含めて、石垣・列石が四重にめぐることが判明した」という。 つまり、石垣は第1次・24次・20次・17次の調査地点を通る閉曲線をなし、さらにその外側を列石が三重に囲んでいたと見られる。 《亀形石造物》 「丘陵の北側の谷底」は、第12・13・14・16次調査が実施された。 東西の斜面の石垣に挟まれた部分は石敷きで、「その南橋に亀形と舟形をした石造物と砂岩湧水施設が設置されている」。 第14次調査によって、7世紀中ごろから9世紀後半まで5つの時期の変遷があり、「10世紀初頭には埋没」したことが明らかになった。 Ⅱ期〔7世紀後半〕には砂岩湧水施設をかさ上げし、「これに伴って、亀形石槽・船型石槽も現在の高さ・位置に据え直されたものと推定」されるという。 「現在整備されている姿は最も整ったⅡ・Ⅲ期の景観」だという(以上、〈相原04〉p.175から要約)。 亀形石造物の円形の部分には意味が感じられ、ここに入れた水の様子によって何らかの占いをしたのではないかと想像される。 《西側・東側》 西側の「第9・10次調査で検出した掘立柱建物」は、「飛鳥地域でも大型のものである」が、「周辺の地形を考慮すると、住居建物ではなく入口(門)である可能性がある」という(〈相原04〉p.175)。 もし大型の門があったとすれば、石垣の内部にはやはり建造物があったのではないだろうか。 東側については、「丘陵の東側の谷では二本の流路が途中、第25次調査区付近で合流し丘陵裾を北上していく」。 第4・11・23次調査によると、人工的に手を加えた形跡はないという(〈相原04〉pp.175~176)。 《狂心渠》 狂心渠が、石上神宮の地域と酒船石遺跡を繋ぐ長大な運河であったとすれば、その労働力として大量の役丁(えのよほろ)を徴発したはずである。 動員数や謗る言葉、そして宮殿への放火を伺わせる記述はそれに見合うものである。
ただ運河が実際に石上まで伸びていたかどうかは考古学的には未確認で、ただその石材が天理市の豊田山産と考えられたことから実在したと想像される。 《飛鳥東垣内遺跡》 飛鳥東垣内遺跡は、飛鳥坐神社の西にある。〈東垣内遺跡調査〉によると1998年に調査が行われ、調査地は「明日香村大字飛鳥小字東垣内705-2・796」である。 調査によると、次の「3時期の変遷がみえる」。 「A期 溝幅10m、深さ1.3mの地山を彫り込んだ素掘溝である。7世紀中ごろ。 B期 溝幅8m、深さ90cmで西岸に杭と石積みで護岸を行っている。7世紀後半。 C期 水幅6m、深さ60cmで西岸に石積みの護岸を行っている。8世紀前半。」 柱穴が1.8m間隔3基あり、「南北塀になる可能性が考えられる」という。 検出された溝は、「規模からみて灌漑用ではなく、物資の運搬用」と考えられ、 「溝の上流は酒船石遺跡の東麓まで伸びていた可能性が高い」、 「酒船石遺跡の石垣工事と一連の事業で掘削されたと推定される」という。 なお、亀形石造物の検出は、第12次調査〔1999年〕のときである(〈相原04〉p.172)。 従って、右図を作成した時点では未発見で、亀形石造物はまだ当時の健民グラウンドの地下に埋もれていたようである。 《奥山久米寺西方》 〈奈文研77〉によると、調査地は「奥山久米寺の塔心礎の西約60mにあたり、旧寺域の西限を画する位置」にあたる。 調査の結果、「奈良時代以前に遡る南北大溝を検出し」、 「東岸の肩には護岸用の玉石が残る」。溝の西岸は発掘範囲の外なので「溝幅は20m以上になる」、 出土した土器の破片から、「古代末~中世頃にはこの溝が埋められたと推定でき」、 この溝は、「田村吉永氏が大官大寺の東側で「狂心渠」と推定した幅50m程の南北方向の落ち込みの南延長部」にあたるという。 《田身嶺》 書紀は「田身」に、訓注「大務」を付す。"大"にはダ(呉音)・タ(漢音)の両方があるが、語頭の"田"が濁音であるわけがないから、ここではタであろう。 身(ミ)は〈雄略紀〉の身狭村主(むさのすぐり)と牟佐神社の例のように、しばしばムと発音される。よって、田身をタムと訓むのは確実である。 現在の桜井市「大字多武峰」〔トウノミネ、タムノミネの訛り〕はその遺称と考えられている。それは、古い歴史をもつ多武峯妙楽寺〔現在は談山神社〕の存在からも確実である。 しかし、酒船石遺跡の地域とは相当の離れていて、現在は多武とは呼ばれない土地だからここまで田身嶺を伸ばすのは難しい。 よって「累石為垣」の文は、両槻宮の文とは切り離されたと読むべきかも知れない。 これについては〈相原04〉も、砂岩切り石を「積極的に修復した痕跡はみられず、…当遺跡を「両槻宮」と見た場合、持統10年の行幸記録や文武2年の修繕記録とは合致しない。」、 よって「現段階における考古学的な成果からは、別の場所とみるべきであろう」との見解を示す。 ここにいう「持統10年の行幸記録」は、〈持統紀〉「十年〔696〕三月癸卯朔乙巳 幸二槻宮」かと思われる。〈相原04〉は、 砂岩石垣の倒壊土から7世紀後半の土器が出土したことから、「天武13年〔684〕の白鳳南海地震による倒壊」であろうと推定している。 この文意は、持統天皇が壊れるまま放置されていた宮に行幸するわけがないということであろう。 もうひとつの「文武2年の修理記録」については、少なくとも〈続紀〉にはそのような記録は見えない。〈続紀〉文武二年には2件の修理の記事、 八月「修二-理高安城一」と十二月「令二越後国一修二-理石船柵一」〔越後国にあった蝦夷に備える防御柵〕があるが、田身嶺の石垣は出てこない。 このように〈相原04〉は別の場所だと述べるのだが、酒船石遺跡の山を囲む石垣が確認されたからには、これがまさに「於田身嶺 冠以レ周レ垣」であると読むことも、また自然に思える。 そもそも石列・石垣で囲まれた内側に、祭祀のための建物が一つもなかったとは考えられない。前述したように〈相原04〉は、西側の掘立柱が門である可能性に触れているが、 もし門であれば大きな門だけがあって建物がないのは変だから、なおさら宮殿の存在が考えられる。 酒船石も、その建物に付随したものではないだろうか。 いずれは未調査の場所に、建物の痕跡が見つかる可能性が高いと思われる。それが「両槻宮」だと考えてもよいのではないか。 したがって、以前は酒船石遺跡の辺りまで田身嶺と呼ばれていたと考えたとしても、それほどの無理はない。 《談山神社》 妙楽寺は、現在談山(たんざん)神社となっている。同社の「謂われ」によると、 「多武峰はこの後、談峯」などと呼ばれたとある。この「談」は公式には清音であるが、これはかつて「談」をタムに当てたことの名残であろう。 「謂われ」は、またここが大化の改新に向けた談合の地だとする伝説を紹介しているが、恐らく「談」の字による後付けであろう。 さらに十三重塔や講堂をそなえた妙楽寺は678年頃、鎌足の神像を安置した神殿は701年の建立という。 その後、「後花園上皇〔1464~1471〕の時には談山大明神の神号を得」、 「明治維新後の神仏分離に際して仏教色を除き、明治二年〔1969〕」に「談山神社」となったという(〈歴史地名大系〉)。 《両槻宮》 〈続紀〉には神護景雲元年〔767〕に「双槻宮」があるが、これは「池辺双槻宮御宇橘豊日天皇」で、用明天皇の呼び名〔池辺双槻宮にしろしめす橘豊日天皇〕の一部である。 こちらは「ナミツキ」と訓まれ、磐余池の畔にあったと思われる(第244回)。 「両槻宮」に近い語は、書紀ではこの〈用明紀〉の双槻宮と、〈持統紀〉の二槻宮である。後者は〈斉明紀〉の両槻宮であろう。 《石上山》 「廼使水工穿渠自香山西至石上山 以舟二百隻載石上山石順流控引 於宮東山累石為垣」の「石上山」は、 古訓でイソノカミノヤマと訓まれるように、古くから石上神宮の地域にある山と捉えられてきた。 〈相原04〉も、石垣砂岩を「凝灰岩質細粒砂岩の切石(天理市豊田山近郊で採石)」であると述べる。 そこで、豊田山産の岩石を調べたところ、天理市の豊田山に砂岩の層がある(〈桜井地質01〉)。
このテーマを正面から扱ったのが〈講座天理の石〉〔天理大学の特別講座〕で、その報告記事では「豊田山付近には地形的にみて採石された痕跡と考えられる〔藤原層群豊田累層の〕地点が特定でき、採石地の有力候補であることを強く示唆」し、 「酒船石遺跡以外の遺跡で出土した黄色砂岩はいずれも再利用された可能性が高く、 黄色砂岩は酒船石遺跡の石垣築造のためだけに、 天理の豊田山付近で 採石され、 飛鳥へ運ばれたことはほぼ確実」と結論づけている。 いくつかのサイトを見ても、豊田山産の砂岩が酒船石遺跡に使用されたという認識は、一般的のようである。 ただこの説を立証するためには、両者の岩石の組成を厳密に比較することが欠かせない。この検証を科学的手法で行った論文を探しているが、今のところ見つけることができない。 《宮東山》 「宮東山累レ石爲レ垣」〔"宮"の東の山に石を累(かさ)ね垣とす〕とあるが、両槻宮は石垣の内側の楼台と見られるから、 この"宮"が、両槻宮だとは考えにくい。おそらく"宮"とは岡本宮で、つまり飛鳥宮跡である。 ただし、飛鳥宮跡から見た船石遺跡の方向は、正確には北東(うしとら)である。 ここの現在の地名は「岡(大字)」で飛鳥川東岸までを含むが、もともと岡寺を中心とする丘の部分であろう。 飛鳥宮跡はその岡の「本」(下りたところ)なのである。 「於飛鳥岡本更定宮地」〔飛鳥の岡の本を改めて宮の場所に定めた〕の文中では"岡本"と"宮"が分離しているから、「岡(の)本」はまだ普通名詞である。 次に「時 高麗百濟新羅並遣使進調 爲レ張二紺幕於此宮地一而饗焉」とあり、宮地が更地だったので、紺幕を張って饗宴したのである。 〔なお、"為"は接続詞「ために」と訓まれているが、理由・原因を説明する"為"は本来前置詞で、必ず目的語を伴っている。古訓からの訓み誤りであろう〕 そして「遂起二宮室一」〔遂に宮室が完成し〕、「天皇乃遷」〔天皇はそこに移り〕、「号曰二後飛鳥岡本宮一」〔後飛鳥岡本宮と名付けた〕。 この段階に至り、やっと「後飛鳥岡本宮」が固有名詞となる。 《後飛鳥岡本宮》 これまでの検討から、酒船石遺跡の場所がかつて田身嶺と呼ばれ、かつ後飛鳥岡本宮がその西の麓にあたる「飛鳥宮跡」にあったすれば、〈斉明紀〉二年は筋の通る文章として読むことができる。 実証する材料としては、酒船石遺跡の亀形石造物と石垣、東垣内遺跡と奥山久米寺西方の溝跡の検出はかなり力強い。 豊田山の砂岩と石垣のレンガ状の石の組成の一致が科学的に確認できていれば、証拠に加えてよいだろう。 さらに望まれるのは、飛鳥宮跡のⅡ期とⅢA期の絶対年代測定である。柱穴に残る燃えカスに含まれる炭素を、C14法で調べることはできないだろうか。 大気中では、宇宙線によって放射性元素であるC14が常に生成している。それが光合成によって生物体に固定され、以後は減衰する。その原子核崩壊モデルによる理論値として求めた化石等の年代を、14C BP〔(1950-x)年のxの値で表す〕という。 実際には諸条件による変動があるので、樹木の年輪のパターンによって得た「較正曲線」によって、修正する。 最近求められた較正曲線(「国立歴史民俗博物館/IntCal20較正曲線…」)によると、 西暦600~700年は「14C BP」1450~1250に対応している。 「放射性炭素年代測定データベース」を見るとその期間の奈良時代の出土物のデータは数件あり、 誤差は±30年程度と比較的大きい。それでも、もし飛鳥宮跡のⅡ期、ⅢA期が斉明天皇の時代頃であれば、ⅢA期が後飛鳥岡本宮であった可能性は高まる。 まとめ 書紀の記述、酒船石遺跡の石垣の発見、そして遺称「大字岡」によって、飛鳥の「岡」が岡寺の周囲の丘陵を指し、「岡本」が岡の西の飛鳥川東岸であるのは明らかである。 それに対して大官大寺西に「岡本田」が存在したのは確かだが、地名としてはかなり限定的である。 仮にここに宮殿があったなら、地名ははるかに大々的に残ったであろう。また、岡本田から見て酒船石遺跡は南方にあり、とても「東山」とは言えない。 細かいことを言えば、酒船石遺跡を田身嶺とすることの是非、その石垣と豊田累層産砂岩の比較、ⅢA期の精密な年代測定などが詰め切れていないが、 大局的に見て岡本宮・飛鳥板蓋宮・後飛鳥岡本宮が岡本宮跡に属することは揺るがないであろう。 なお亀形石造物などや石垣などの施設には、いたく興味をそそられる。酒船石を含めると水の流れに特別な意味を見出す宗教があったと見られるが、それはいかなるものであったのだろうか。 また、既に仏教が隆盛だった時代に、異教としての緊張は生じなかったのだろうか。謎は尽きない。 |
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2022.02.07(mon) [55] 先代旧事本紀序をそのまま読む ▼▲ |
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『先代旧事本紀』の序文の成立時期、およびを本文との関係を探る。
【出典】 国立国会図書館デジタルコレクション〔pid:2563305〕を用いた。江戸時代の版本。 第五冊の奥付に「寛永廿一甲申歳〔1644〕孟夏〔=四月〕吉辰〔=吉日〕 洛陽書林 前川茂右衛門開板」とある。 版本に用いられた写本の奥付は「巻九」に添えられ、「安貞二年〔1228〕二月十九日…下書写之即比校畢〔=終〕」、 「貞永元年〔1232〕閏九月十四日重合佗本〔=異本を照合〕畢判」、 「大永二年〔1522〕正月七日書写畢 正位卜部兼永」などとある。 よって、第十巻「国造本紀」は、別系統かと思われる。 【訓読】
推古二十八年の「歳次庚辰」は正しい。ところが、その「三月甲午朔」は誤りである。 本サイトの元嘉暦モデルでは、推古二十八年三月は「甲子朔」である。 同年二月は「甲午朔」である。考え得る直し方は二通りある。 ア 「三月甲午朔」は「二月甲子朔」の誤りとする。〔二を誤って三とした〕 イ 「三月甲午朔」は「三月甲子朔」の誤りとする。〔子を誤って午とした〕 イの場合、「戊戌」=35日というあり得ない日付になる。アなら「戊戌」=5日で問題ない。よって、アが妥当となる。 《三十年歳次壬午春二月朔己丑》 推古三十年の「歳次壬午」は正しい。ところが「二月朔己丑」とあるが、二月の朔は「癸丑」である。 そこでまず、本来の「二月癸丑朔己丑」から"朔"の前の二文字が脱落したと考えてみる。ところが、この場合37日というあり得ない日付になるからこれではない。 次に、この時期の前後から「己丑朔」になる月を探す。 まず、「二十九年歳次辛巳二月己丑朔」があるが、これは太子が薨じた月であるから不適当である。 次に「三十四年歳次丙戌三月己丑朔」がある。これなら時期の不都合はないが、「三十四年から"四"が脱落」と、「二月⇒三月」の二か所も直さなければならないから、 決定的ではない。一般的には、「三十年二月」をはそのまま維持して「己丑」を「癸丑」に直した例が見られる。 《十巻の構成》
①の中では、「上古国紀」の性格が不明である。 「上古」というので、一応神代の部分の総称として扱った。 ②の「先代国記」は、「神皇本紀」区分けされているから、やはり神代と解釈した。 すると、①の「上古国紀」と一致する。 ところが②のうち「臣連伴造本紀」は、 ③の今回含まれない分にも、④の最終的な十巻のどちらにも入らず、浮いている。 ③は、『先代旧事本紀』に入らない部分である。 ④のうち第五巻の「天孫本紀」は、その題名から予想される内容は第六巻「皇孫本紀」に回され、 実際には、尾張氏と物部氏の全家系を詳述する異質な巻となっている。その中身は資料[38]および資料[39]で詳細に見た。 《尊命》 聖徳太子に付けられた「尊命」が尊称だとすればかなり特異で、恐らくこの序文ぐらいであろう。閲覧した「前川茂右衛門開版」本には手書きの訓点が加えてあり、 「尊-命二大臣…」 とある。これは、A「聖徳太子尊命・大臣蘇我馬子等、勅を奉り」と、 B「聖徳太子尊勅を奉り、大臣蘇我馬子等に命せて」 との二種類の訓読がなされたことを示している。 書紀では、"尊"は天皇レベル、"命"はそれ以外と使い分けているから、"尊命"の形はあり得ない。だから、「太子尊」が、 馬子に「命す」と訓むBが合理的である。 実際、「帝皇本紀」中ではこの書き方である(後述)。 〔但し、書紀では「太子」は敬称として完結した語で、更に尊をつけることすらない〕 ところが、表題に「大臣蘇我馬子宿祢等奉レ勅修撰」〔蘇我馬子が勅を承って修撰したもの〕と書き添えられている。 Bだとすると、勅を奉ったのは太子なのに、別人物が自分が勅を奉ったことにして勝手に作業して献上するという傍若無人の振る舞いになってしまう。 整合性を維持するためには、「太子薨。…不レ続」の次に「故大臣蘇我馬子宿祢亦奉レ勅而撰録…」などを挿入する必要がある。 結局、A・Bともに不適切である。 《聖徳太子》 その「序文の稚拙さ」は見かけ上のもので、〈推古朝〉の時期には尊・命の使い方はまだ雑然としていたのだとする反論も予想される。 ところが、「聖徳太子」という呼び名は、書紀の頃にはまだない。書紀において「聖徳」は太子の為の美称または別名として〈敏達紀〉〈用明紀〉に各一か所ある。 また、〈推古紀〉における呼称は「皇太子」である。聖徳+太子の結合は書紀にはない。 〈推古朝〉と記紀によって挟まれた期間の呼称としては、「等己刀弥弥乃弥己等」(『上宮聖徳法王帝説』)、「等與刀彌々の大王」(『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』)、 「有麻移刀等與彌々乃彌己等」(同『塔露盤銘』)などが見られる。 したがって、この「序文」が〈推古朝〉に蘇我馬子によって書かれたことなど、全くないと断じてよいであろう。 《奉敕》 「命大臣蘇我馬子宿祢等、奉敕、」でも意味は通るが、 本来は「奉レ敕、命二大臣蘇我馬子宿祢等一。」とすべきである。 「敕」は必ず天皇が発するものだから、時間的順序に合わせた方が分かりやすい。 但し、これは序文の責任ではない。この部分は「帝皇本紀」によるからである(後述:推古天皇《二十七年二月》)。 《諸皇王子・百八十部公民本紀》 「拠二勅旨一因脩二古記一」、すなわち勅旨をうけ、古記を修めようとしたが、 「諸王本紀・百八十部公民本紀」については提出に及んでいない。これについては後の勅を待つという。 ところが、勅は既になされているから、もし部下がこのような物言いをしたら上司はふざけるなと一喝するところだろう。 なお、「臣連本紀・伴造本紀」も十巻には含まれていないから、 本来は「其諸皇王子臣連伴造百八十部公民本紀者更待…」と書くべきところであろう。 《題目顕録如右》 国立国会図書館デジタルコレクションの「前川茂右衛門」版本では、「題目顕録如右」の"右"が朱筆で左に訂正されている。 これは、「右」のままでよいのではないか。その前に書かれた「神皇系図一巻・先代国記・神皇本紀・臣連伴造国造本紀十巻」を指すのであろう。 左に書かれた系図一巻と十巻のリストは、後から書き加えられたのではないだろうか。 【先代旧事本紀の性格】 《国造本紀》 「国造本紀」の前書きには、 神武天皇が「勅。褒二其功一能寄賜國造。誅二其拒逆者一亦定縣主。即是其縁也。」 〔勅たまふ。其の功を褒め、能く寄に国造を賜る。其の拒逆者は誅し、亦県主を定めたまふ。即ち是其の縁也〕 とあるが、無論神話的な起源で、朝廷に対する態度による区別ではない。 「国造本紀」に実際に書かれるのは、律令郡の前身としての飛鳥時代の県のレベルと、奈良時代の律令国のレベルが共存している。 例えば、国造本紀に「和泉国造:元河内国。霊亀元年、割置二茅野監一。則改為レ国。元珍努官。」 〔元河内国。霊亀元年に割(わか)ちて茅野監を置く。則ち改め、国とす。はじめ珍努宮〕がある。 以上は、資料[37]において考察したことである。 〈続記〉によると、和泉国は「(霊亀二年〔716〕三月)珍努宮⇒(同年四月)和泉監⇒(740)和泉監廃止・河内国に統合⇒(757)分割して和泉国」の経過をたどる。 (〈允恭十年〉)。 このように、「和泉国造」については、757年までをカバーしている。 さらに「賀我国造」〔加賀国〕が載るが、これは弘仁十四年〔823〕成立である。 実は大宝令以後にも「国造」は存続し、 〈続日本紀〉大宝二年〔702〕四月に「詔。定二諸国国造之氏一。其名具二国造記一。」 〔諸国の国造の氏を定め、その名は『国造記』につぶさにす〕とある。その直前の二月には「馳駅」(早馬使)を送って諸国の国造を藤原京に召集している。 〈延喜式(巻二十二)〉には「国造田」があり、隠岐などに確認されている。〈延喜式(巻三:臨時祭)〉に「賜二出雲国造に負幸物を一」る項があり、 出雲国造の就任儀式は「神祇官庁」で行われるとある。「出雲国造神賀詞」が〈延喜式(巻八:祝詞)〉にあり、「出雲国造」は現代まで存続して出雲大社の権宮司を担う家である。 このように、いわゆる「律令国造」は既に宗教活動の範疇にあり、現実の地方政治において律令国を国守が支配する体制はもはや揺るがない。 ただ,郡レベルでは未だに国造家が地方行政を担うところも残っていたようである。 この大宝二年の『国造記』が「国造本紀」の直接の出典になった可能性はかなり高いと思われる。 そこに、賀我国造までを書き加えたわけだから、結局平安時代に成立した書ということになる。 『先代旧事本紀』は、それを〈推古二十八年〉の勅の諸書に含まれた「国造本紀」であるかの如く装うが、これにはかなりの無理がある。 《天孫本紀》 「天孫本紀」につては、資料[37]において考察した。その要点をまとめる。 天孫本紀の最後に載るのはは、物部朝臣の石上朝臣への改称である。 その時期は〈天武朝〉十三年〔684〕から朱鳥元年〔686〕の間である。 当時、朝廷の研究によって物部連と物部朝臣が別族であると決定され、それぞれの氏の名称を布留宿祢と石上朝臣に改められたと見られる。 〈天武朝〉においては、「氏文」の提出させ、それぞれの出自を定型化したようである。 その目的は、中央集権化の一環として、各氏族からの官僚の取り立てをコントロールするためと思われる。 つまり、その根拠として先祖の朝廷への貢献度を測って格付けしたようである。 その一つである物部連の「氏文」を原型として、後に『先代旧事本紀』がまとめられたと考える。 そのうち物部氏の家系をまとめた巻が「天孫本紀」(第五巻)であろう。 なお、「天孫本紀」には、物部連と共通の祖をもつ氏族として尾張連の家系も収められている。 両族が、ごく親しい関係にあったことの現れであろう。 《皇孫本紀以後》 「皇孫本紀」・「天皇本紀」・「神皇本紀」・「帝皇本紀」(第六巻~第九巻)には、書紀に内容に物部氏人名が付け加えられた部分が目立つ。まさに我田引水である。 ただ、始祖の饒速日尊の伝説については、逆に書紀が公認して取り入れたと見られる。 『先代旧事本紀』の性格については、やはり資料[37]で 「その動機としては、石上麻呂の子孫が引き続き石上朝臣の地位を維持するために、 "物部氏文"(仮称)を発展させて歴史書に仕立てたと考えるのが自然である」と述べた通りである。 《成立時期》 物部氏は〈天武朝〉朱鳥元年〔686〕までに石上朝臣となり、〈続記〉和銅元年〔708〕には、「右大臣正二位石上朝臣麻呂為左大臣」とあり、石上麻呂は左大臣に上り詰めた。 子の石上乙麻呂は、天平勝宝元年〔748〕に中納言に上った。 このように、石上朝臣は奈良時代中頃に絶頂期を迎えたから、『先代旧事本紀』〔以後"旧事"〕は、「国造本紀」を除いてこの頃には形が整えられたと考えるのが順当であろう。 一方、大同二年〔807〕成立の『古語拾遺』〔以下"拾遺"〕の方が先だとする説も見る。 その根拠のひとつとして、拾遺の「又令二天富命一率二斎部諸氏一作二種々神宝鏡玉矛楯木綿麻等一也。復櫛明玉命二-之孫一造二新玉一古語美保伎玉是謂二祈祷一也」と、 旧事の「復天留命率二斎部諸氏一作二種々神宝鏡玉矛楯木綿麻等一也。復櫛明玉命レ孫造二新玉古語一。美保伎玉是謂二祈祷一矣。」と同文であることを挙げる。 これは、旧事が拾遺を引用したとされる。ただ旧事に「古語拾遺曰…」と明記されたわけではないから、逆に拾遺が旧事を引用したこともあり得る。 他の箇所で目を引くのは、〈神武〉が畝傍橿原に宮殿を構えた件である。ここは両書で表現は多少異なるが、内容は一致する。 ①前半 その宮殿は、千木が高天原に達し、宮柱が底津磐根に達すると述べる。 拾遺:「構二-立正殿一所謂底都磐根宮柱布都之利立高天乃原爾搏風高之利天」 〔正殿を構立り、所謂底つ磐根に宮柱ふとしり立ち高天原に搏風高しりて〕。 旧事:「太二-立宮柱於底磐根一峻二-峙搏風於高天原一」 〔宮柱を底つ磐根に太しき立て、搏風を高天原に峻峙りて〕。 書紀:「古語称之曰:於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇…」。 ②後半 宮を建てた忌部の子孫は、木を採った忌部は紀伊国名草郡の御木郷に、御殿を造った忌部は麁香郷にいる。 拾遺:「御戸排弖、皇孫命乃美豆乃御殿乎造奉仕也。故其裔今在二紀伊国名草郡御木麁香二郷一古語正殿謂二麁香一 採レ材斎部所レ居謂二之御木一、造レ殿斎部所レ居謂二之麁香一是其証也」 〔御戸を排きて、皇孫命の美豆の御殿を造り奉仕る。故其裔今紀伊国名草郡御木・麁香の二つの郷にあり。【古語に正殿をば麁香と謂ふ。】 材を採る斎部の居る所、こを御木と謂ひ、殿を造る斎部の居る所、こを麁香と謂ふ、是其の証なり〕。 旧事:「始馭二天下一之天皇草二-創天基一之日也。因皇孫命之瑞御殿造供奉矣。其裔孫忌部所レ居紀伊国名御木麁香二郷。 其採レ材忌部所レ居謂二之御木一。造レ殿忌部所レ居謂二之麁香一是其縁矣。古語正殿謂二麁香一」 〔始めて天下を馭し天皇の天基を草創日なり。因りて皇孫命の瑞の御殿を造り供奉る。其の裔孫の忌部の居る所は紀伊国の名〔草郡〕の御木・麁香の二郷なり。 其の材を採る忌部の居る所、こを御木と謂ひ、殿を造る斎部の居る所、こを麁香と謂ふ、是其の縁なり。古語に正殿をば麁香あらかと謂ふ〕。 ②の地名譚は書記にない。 拾遺と旧事で内容は完全に一致する。仮に一方が他方を基にして書いたとしても、どちらが先に書かれたかは決め難い。 さらに、この伝説が9世紀に拾遺が突然創作したものとは思えない。 忌部の中に残っていた古い時代の文献を用いたもので、一方で旧事もそれを独立して用いていたと見るべきではないか。 始めに挙げた「美保伎玉」の段についても、「引用」と言われる部分は全体から見れば僅かで、両者がたまたま同じ古い文献の同じ個所を見て書いたのではないだろうか。 ①は書記にも書かれているが、拾遺ではこの箇所が宣命体になっている。平安に入り原文のままでは読むことが困難になったのかも知れない。 一方、旧事は拾遺よりも書紀の時代に近く、宣命体が余り広まっていない時代〔奈良時代前半か〕だったかも知れない。こう考えてみると「順番は旧事→拾遺」とする説に、少し近づく。 さて、旧事の母体は〈天武朝〉の氏族調査に伴って提出された、「物部氏文」(仮称)まで遡ると思われる。 それに肉付けして『天孫本記』を編むうちに、「帝皇本紀」を執筆していた頃に〈推古二十八年〉の「天皇記及国記」を装おうとする野心が生まれ、 よって推古二十九年で終わりにしたと感じられる。 「天孫本紀」はもともとは尾張氏と物部氏の家系のまとめだったが、はじめは『先代旧事本紀』に加える予定はなく、 後の「皇孫本紀」こそが本来の「天孫本紀」だったのだろうと思われる。 石上乙麻呂は、天平十一年〔739〕に久米連若売と姦通事件を起こし、土佐に流されている。その後恩赦を賜り、巡察使・国守として各地を回った後、 天平十八年〔746〕に右大弁として中央政界に返り咲いている。どうやら人生に貪欲で立ち回りも巧妙な人物だったと感じられるが、それと「天皇記及国記」の偽装的撰録と結びつくかどうかはまだ分からない。 【推古天皇】 《物部論姫大刀自連公》 第七巻~第九巻は、〈神武〉以後のことが編年体で収められている。その最後は帝皇本紀(第九巻)の〈推古〉二十九年(太子の薨)である。 〈推古〉十六年条では、小野妹子が再び「大唐」に遣わされる。 ここでも、妹子の一行の中に「物部論姫大刀自連公刀自」が「参政」として我田引水に加えられている。 「論姫大刀自」は「天孫本紀」十五代孫条の「物部鎌足姫大刀自連公」と同一と見なされている。 トジは、〈時代別上代〉「普通年配の女を指すが、若年でも尊敬して称することがある」という。 《二十七年》
内容は、十種の冠位を定めるものである。初めに儒教道徳を縷々述べた後で、 「八義」は「孝悌忠仁礼儀智信」で、 また「人倫に重き所」は「天地日月星辰聖賢神祇」であるとまとめる。それを受けて、 「故此准二八義一宜レ制二爵位一:其孝者天也。紫冠。為レ一…」 〔故、八義に准へて爵位を制す。その孝は天なり。紫を冠リ、一つとす…〕と述べる。 その内容は右表のとおりである。 最後に、 「今已後永為二恒式一」〔今よりのち、永く恒の式とせよ〕と締めくくる。 冠位十二階〔十一年制定;大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智〕とは不一致である。 冠位十二階が俗説化し、かつ変形したものかも知れない。それでも『先代旧事本紀』は書紀のみではなく、他の史料も用いた独自の書であることが実証される。 《二十八年三月》 書紀の「二十八年是歳」の部分は、『先代旧事本紀』では「二十八年二月」なっている(次項)。 その翌月の二十八年三月に、「春三月甲子朔。制曰:奉レ為二君后一謂二不忠一者。亦奉レ為二考妣一称二不孝一者。若不二挙達し一而隠之者。同二-処其罪一重科二刑法一也」 〔君・后のために奉り不忠を謂ふ者、また考〔=亡父〕妣〔=亡母〕のために奉り不孝を称す者、もし挙げ通さず隠せる者は、其の罪に同じく処き、重く罪の法を科せよ〕と載せる。 二十八年三月の「甲子朔」は、本サイトの元嘉暦モデルに一致する。これも書紀にはなく、『先代旧事本紀』独自の部分である。 《二十八年二月》 天皇記・国記等の撰録については、書紀ほぼ同じであるが、やや異なる点がある。ここで両者を並べて比較する。
書紀のこの部分には天皇が命じたことを示す詔または勅と、太子が馬子に命じたことを示す命がない。よって、 ●先代旧事本紀:推古天皇(勅)⇒(承)上宮厩戸豊聡耳皇太子⇒(命)大臣蘇我馬子宿祢。 ●日本書紀:皇太子・嶋大臣「共議」。 となる。つまり、先代旧事本紀では太子が元請けで、馬子が孫請けである。それに対して、書紀では太子と馬子は勅によらず自発的に、共同で事業を行っている。 また帝皇本紀には「先代旧事」が付け加えられている。序文が述べる『先代旧事本紀』の成り立ちは、帝皇本紀のこの部分に基づいている。 よって、序文の「尊命」は分離すべきであることが、ここで確定する。 ということは、序文には、天皇が太子に発出した勅に対して、馬子が太子の頭越しに応えたという不遜なことになってしまっている。 《二十九年》 二十九年二月五日に、太子は薨じた。この部分は、太子の名前の表記と誤写と見られる少数の文字を除けば書紀と一言一句異なる所がない。 太子の表記は、「日本書紀:厩戸豊聡耳皇子命」、「先代旧事本紀:皇太子上宮尊」である。 ここからも序文の「尊・命」は分けられ、尊が太子への敬称であることが分かる。 推古二十九年で終わるのは、〈二十八年〉の「天皇記及国記臣連…等本紀」が、まさにこの『先代旧事本紀』であることにするためであろう。 したがって、既に「序」を付す前の「帝皇本紀」を執筆する時点で、これが意識されていたことになる。 しかし、上で見たように「国造本紀」は天武朝、「天孫本紀」は平安時代始めまでを含み、推古二十九年を越えることに無頓着である。 ただ、「国造本紀」と題する巻を加えた動機は、二十八年の記述に一層近づけるためであったと考えられる。 まとめ 序文が書かれたと推定される時期の上限は、加賀国成立の823年とみてよいだろう。既に「聖徳太子」の呼称が一般化した時期である。 序文自体には、各巻の構成の一貫性のなさ、太子と馬子の役割の記述の混乱がみられ、「太子尊」という表記も書紀を多少でも理解していればあり得ないものである。 一言で表せば、駄文である。 但し、「帝皇本紀」の最後を推古二十九年で止めているのは、少なくとも〈推古紀二十八年〉の「録二天皇記及国記…一」が、まさにこの『先代旧事本紀』であると言いたいがためである。 そのように装おうとする意図は明白である。 結局、平安時代になって後継者が「国造本紀」・「天孫本紀」を加えたとき、「帝皇本紀」までの細心の偽装は無意味になった。 それでも、物部氏による我田引水による潤色を除けば、独自に集めた素材も盛り込み誠実に編纂が行われたようで、 〈姓氏家系大辞典〉も「漸く其の信用は復活して、今日にては多数の学者其の説を採用せられるが如し」と述べている (資料[37])。 |
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2022.04.07(thu) [56] 高橋氏文【2】 【1】 ▼▲ |
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『高橋氏文』(たかはしうじのふみ)については、資料[07]で取り上げ、
『本朝月令』に引用された逸文を見た。
ここでは、『政事要略』に引用された逸文を見る。
内容は、景行天皇七十二年に磐鹿六鴈が薨じ、勅によって高橋氏を代々膳職を担う氏族とし、上総国・安房国を冊封し、また若狭国を一族の居住地とすることを約束したものである。 その逸文のひとつが載る『政事要略』は、130巻の法制書〔現存は26巻〕で、成立は1002年頃〔平安中期〕と考えられている。 ここでは原文の出典は、『新訂増補国史大系28』政事要略〔吉川弘文館1964〕を用いた(以下〈大系〉)。 また、人間文化研究機構/国文学研究資料館/静岡県立中央図書館 葵文庫(「明治写、広隆寺牛祭文・安芸国神名帳と合」と注記) による画像データを参照した(以下〈葵文庫本〉)。 研究書として、『高橋氏文考注』〔伴信友;天保十三年〔1842〕〕がある(以下〈考注〉)。 この書の影響は大きく、各種文献での引用には〈考注〉によって修正された形が主に使われている。 【高橋氏文/政事要略逸文】
聞食迷之(きこしめす)、賜(たま)ふ、賜(た)ぶ、大坐(おほましま)すなど、 すべてにおいて自敬表現がもちいられている。ただし、これは宣命における通常の形である。 詔勅は、実質的には大臣や大納言を中心として合議によって定める政令であるが、形式上は天皇の一人称の書として発布するから、 こうなる。文案を練る過程では、天皇を主語とする場合は尊敬表現を用いるだろう。 また、天皇が口頭で言ったことでも、文章として整える段階で尊敬表現にならざるを得ない。 ところがこれを現代語に翻訳しようとすると、とても悩ましいことになる。 やってみると分かるが、一人称の文章で動詞にいちいち尊敬表現を用いると、著しく奇妙な日本語になる。 実際には、ところどころに尊敬の雰囲気を残しつつ、基本的に通常表現とせざるを得ない。 《卒上》 ここでは、六獦命の死を表す語として「薨」と「卒」が混ざっている。 〈続紀〉での用法は、天皇・皇后・太政天皇クラスの死=崩、親王〔天皇の子、兄弟〕および大臣クラスの死=薨、それ以外の王、臣の死=卒である。 この用語法は、周代の『礼記』に起源をもつ(第95回【崩】)。 「歴史記録上では六獦命は「卒」」という考えもなくはないだろうが、実際にはこの宣命自体が奈良時代の創作と見られる(下述)ので、これはなさそうである。 宣命に「卒」を探すと、第47詔に「卒爾爾」が見える。これは「卒然爾」の誤りと解されている。 第47詔は称徳天皇の遺詔とされているもので、天皇自身が卒然と〔=突然に〕崩じたから、白壁王〔光仁天皇〕を後継とすると定めたものである。 〔生前に相談したことを受けて、崩後に詔勅の形が整えられたとも考えられていて、これはこれで興味深いが、ここではこの程度に留める。 参考文献:藤原永手について(2);木本好信〕 「卒」=「俄に」ではあるが、身分の高い人の死を婉曲に表す忌み言葉としても使われるので「卒(にはかに)」と訓みつつ「突然の死を迎え」の意を内包する。 ここの「卒」も、その用法であろう。 《准親王式》 「准親王式」、すなわち親王〔=皇子;天皇の子と兄弟〕に準じた形式で葬礼を行ったと述べる。 『本朝月令』所引の逸文の部分に「磐鹿六獦命は朕が王子等にあれ」とはあるが、 これは真正の親王にしたわけではなく、あくまでも皇子並みの待遇を与えたという意味となろう。 《膳職》 『令義解』によると、宮内省の下に「職一。寮四。司十三。」が置かれ、その職一が「大膳職」である。 人員構成は、 「大夫一人、亮一人、大進一人、少進一人、大属一人、少属一人、主医〔旧字体"醫";醤であろう〕二人、 主菓餅二人、膳部一百六十人、使部卅人、直丁二人、駈使丁八十人、雑供戸【謂鵜飼江人網引等之類也】」 となっている。 「膳職」は、令に基づく用語だと考えられる。 《神財》 〈時代別上代〉は「御神体として置かれている鏡や宝剣」は「神の御魂のより所なのであって」、 だから、「〔高橋氏文〕のように「御魂を神財と仕へ奉る」とも言えるわけである」と述べる。 つまり、カムダカラは単なる財宝ではなく、神と拝礼者を結ぶ精神的なものだから、御魂をもカムダカラと言い得るとする。 その見地から、ここの「神財」は神六獦命の御魂を指すと解釈している。 「六獦命の御魂の御前に神財を供えよ」と受け止めた方が分かりやすいのだが、文章は確かに御魂を神財にせよというものである。 《淡国》 〈姓氏家系大辞典〉の「高橋」の項の中に、「淡路の高橋」はない。 また同辞典は「膳臣」の項で、高橋氏文を引用して「子孫等をば、長世の膳職の長とも、上総国の長とも、淡国の長とも定めて」と書く。 さらに、「房総の膳臣:膳臣は其の祖六鴈命・上総及び安房の国の長とするの勅を賜はりたりと称す。 何処まで事実なりや否やは容易に決し難きも、此の地方に其の配下の民・膳大伴部の多きを思へば、 或る程度まで之を認めざるべからず」と述べる。 すなわち、同辞典が読んだ逸文に載っていたのは「淡国」で、さらにこれは完全に「安房国」のことだと受け止めていることが分かる。 《■介佐麻子乎》 〈高橋氏文考注〉は、「■介佐麻子」を「万介太麻波天」〔任け給はで〕に直す。 直した後の「未然形+接続助詞デ」の形は、平安時代からとされる。 『高橋氏文』は延暦十一年〔792〕頃の文書とされる。『本朝月令』の逸文の末尾には「符到奉行。延暦十一年三月十八日」とあり、 『国史大辞典』〔吉川弘文館;1988〕によると、高橋氏文は「延暦八年〔789〕上申した『家記』に、同十一年の高橋氏の優位を認めた太政官符を添えたもの」である。 さて、「未然形+説獄助詞"デ"」の辞書に載る文例は、更科日記〔1020~1059〕、源氏物語〔~1008〕、枕草子〔996~1008〕などがある。 すると「万介太麻波天」はその先行例ということになるのだが、だとすればそこから200年の間見出されていないことになる。 これでは不自然すぎるので、〈高橋氏文考注〉による修正は誤りというべきである。 ところが、〈時代別上代〉も〈姓氏家系大辞典〉も、高橋氏文からの引用としてこの「太麻波天」を用いていたので、 高橋氏文が偽書ではないかという疑惑が生じ、かなり悩まされることになった。 "佐"は恐らく"太"で、判読不能な■もあるから、この五文字の辺りには相当の破損があったと見られる。 ひとつの考え方として、「子」を訓仮名ネとして生かし、"波"を二つ加えて「萬介太麻波子波」〔任け給はねば;ネはズの已然形〕とするのはどうだろうか。 ただ二字も増やすのは、相当大きな破損があったとしなければならない。それが無理なら、子が不・受・須であったとしても意味は通る。 続くヲサメが音仮名表記であることも、この箇所への後世の大幅な書き加えも想像し得るのだが、宣命には時々音仮名が混じるから、そんなに問題はないだろう。 ただ、「乎佐女」はもともとは大文字であっただろう。 《若し膳臣等の継あらざりて》 「若し膳臣等の不二継在一朕が王子等をして他氏の人等を相交ては乱らしめじ」は、 やや意味が取りにくいが、「王子等」を「六鴈命の子孫一族」と捉えれば意味が通る。 つまり、「膳職を継ぐ者が不足して他の氏族の者を混ぜるようなことは、あってはならない」である。 これは次段の「和加佐の国は六鴈命に永久子孫等が遠世の国家とせよ」に繋がる。 即ち、六鴈命一族は若狭国に住まわせるから、その地で子孫を絶やさず、永久に膳職のための人材を輩出せよというのである。 《和加佐》 「和加佐」はたまたま〈倭名類聚抄〉の表記に一致している。「淡」〔安房〕ともに、 敢えて「若狭」のために古い表記を用いることにより、景行天皇の宣命という雰囲気を出そうとするが如くである。 〈姓氏家系大辞典〉は、「若狭の高橋氏:当国は古代膳氏の栄えし地にして、此の一族多し」、 「又後世、当国発祥と云ふ高橋氏多し」、「又芸藩通史に「広島府左官町刀工冬広。先祖高橋源次兵衛冬広は若狭の人」」と載せる。 《奈無》 〈葵文庫本〉は、「奈無」を「奈毛」に代えている。 〈時代別上代〉によれば「上代のナモは…主語、述語から構成された句全体につくもの、たとえば引用において~トナモ」などに集中するという。 『古代語基礎語辞典』〔角川学芸出版;2011〕によれば「係助詞ナムの古形。用例はほとんどが『続日本紀』宣命にある」。 〈続紀〉の宣命では「奈毛」である。 《給太戸度奈無思食止》 〈大系〉によると、度は大文字でもともとあったが〈考注〉では小文字で、〈大系〉はそれを採用したという。 〈葵文庫本〉では、どちらとも取れるような微妙な書き方をしている。 大文字の"度"の場合、〈続紀宣命〉に「度」はあまり多くないが、第42詔の「人乎度導牟止云爾」〔人を度導むと云ふに〕など、 仏の道で得度する意味で使われている。ここでは文脈上あり得ないから、大文字だったとすれば、衍字であろう。 小文字の場合、助詞ト乙が考えられるが、すべて「止」〔ト乙〕である。 ところが、「度」はド甲である。オ段の甲乙の消失は8世紀後半から始まるというから、 混用が考えられなくもないが、他の同様の箇所ではすべて「止」である。 「太戸」〔タベ〕については、賜ブの命令形のように思われる。 しかし、戸は「へ乙」で、 四段活用においてエ乙段は已然形、エ甲は命令形であるから、甲乙違いである。 これらと前項を併せてみると、高橋氏文の時代なら「太部止奈毛」となるべきものが、ここでは「太戸度奈無」になっているということだろう。 ならば、この部分は平安以後に書き足されたのではないだろうか。 なお、タマヒ-タベは「給賜」であるが、"給"は六鴈命子孫に提供する意、"賜"は尊敬の補助動詞〔次代以後の天皇に向けたもの〕であるから、「タマヒ-タべ」と作ること自体は妥当である。 「~となもおもふ」という言い回しも、〈続紀宣命〉に「在止奈毛念」(第6詔)など数多くあるから、タベ甲ト乙ナモを補うこと自体はあってもよいと思われる。 【大意】 六鴈命(むつかりのみこと)は、 〔景行天皇〕七十二年八月、病となり、同じ月に薨じました。 天皇(すめらみこと)はこれをお聞きになり、大変悲しまれ、親王のための典礼方式に準じて葬儀を行いました。 そして、宣命(せんみょう)の使者として、藤河別命(ふじかわわけのみこと)と武男心命(たけおこころのみこと)を派遣なされました。 宣命にいいます。 ――天皇(すめらみこと)の大御言(おおみこと)に宣(のたま)う。 王子(みこ)六獦命(むつかりのみこと)が、思いもよらず突然に上られたと聞き、 昼夜悲しみ、愁えている。 天皇として在位して以来ずっと平穏で、 互いに会いたいと思っている間に、別れゆくこととなった。 しかし、今思い出すのは、 十一月の新嘗祭も御膳のことも、 六鴈命の労力によって始めて成されたことである。 これにより、六鴈命の御魂(みたま)を膳職(かしわでのつかさ)に祀り、 春秋〔=年月を重ね〕永遠に神宝として仕えまつらせよ。 子孫は永世に膳職(かしわでのつかさ)の長(おさ)と定め、 上総(かみつふさ)の国の長と、安房の国の長に定めて、 その他の氏は任につけないことにしたから、このように収める。 よもや、膳臣等の継承者が途絶えて、朕の王子らに、 他の氏人等を交えて乱れるようなことにはさせない。 若狭の国は六鴈命から長く続く子孫の、 永遠の家とせよと定め、授ける。 この事は、〔以後の天皇も〕代々誤らず違えず、 この志を知り、よく膳職の内外を守護し、 家のことの憂慮のないようにしてやれと、このように考えていらっしゃると宣(のたま)う。 天皇の大御命(おおみこと)を、空の御魂も聞きたまえと申し上げると、宣う。 まとめ 書紀古訓に出て来る「見る」の尊敬語「みそなはす」が、いつごろから使われるようになったかを調べようとした。 すると、古語辞典に「みそなはす」の文例として、792年頃成立した『高橋氏文』が用いられていた。その原文を探したところ、『政事要略』の逸文があり、そこに「見曽奈波佐牟」があることが確認できた。 ところが、同じ逸文の中には「任け賜はで」という語句もあった。これは平安時代になるまで出てこない形である。 その時点で、『高橋氏文』は後世に書かれた偽書かも知れないという疑惑が心に生じた。よこで更に調べたところ、タマハデの古文献における形は「佐麻子」であったことが分かった。 このままでは意味をなさない言葉だから全くの誤写なのだが、これを「太麻波天」に直したのは、実は天保年間に書かれた『高橋氏文考注』であった。 結局、江戸時代において、上代の文献中の文字を中古の言葉を使って修正したわけである。 これで原文中の語ではないことが分かり、偽書疑惑は氷解したから一安心である。 しかし、この江戸時代に直した形のままで、信頼している辞書類に引用されていることには、複雑な思いがする。 一般的には公認された辞書類でも、微細な点については玉石混交であり、資料の一つとして批判的に見る必要があることが分かる。 今回は、結局『政事要略』が『国史大系』第28巻にあることを見つけ、そこから高橋氏文の逸文を探し出し、 その頭注を解読し、また属紀の原文を見て宣命の書法を調べ、「奈毛」の意味を複数の古語辞典で調べ、『姓氏家系大辞典』から高橋氏や膳氏の地域分布を調べ、 これら諸々の作業から、やっと一応の確信を持てる読み取りに到達できた。 結論的には、大体は792年に成立した形と見てよい。ただ、宣命体の小文字の一部に平安時代に書き加えられたと判断し得る箇所がある。 しかし『高橋氏文考注』については、無批判に依存することは避けた方がよいということである。 |
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2022.04.28(wed) [57] 『和州五郡神名帳大略註解』治田神社 ▼▲ |
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式内治田神社は岡寺の西に比定されている。『五畿内志』高市郡に「治田神社:在岡村今称八幡」とあり、江戸時代には八幡と呼ばれたようである。
その一方で、治田神社は豊浦にあったとも言われ、調べて見るとその説は『五郡神社記』にあることがわかった。
ここでは、その「○治田神社」の項を精読する。
【和州五郡十市高市宇智吉野宇陀神社神名帳大略註解巻四捕闕】 『五郡神社記』の正式名称は「和州五郡十市高市宇智吉野宇陀神社神名帳大略註解巻四捕闕」といい、十市郡と高市郡の式内社について調査した書である。 以下、〈五郡神社記〉と略す。 「治田神社」を精読する前に、その概略を見る。 《版本》 〈五郡神社記〉の版本としては、『日本庶民生活史料集成 第二十六巻』〔三一書房;1983〕に納められたもの(pp.591~600)がある。 その解題に「『神祇全書』第三輯〔1907〕に収められたものを再録した」とある。 《成立時期》 奥書の最後に「文安第三丙寅之歳黄鐘上旬」とある。 「文安三年丙寅」は、1446年。「黄鐘」は十一月(第十四回参照)。 後述するように、この時期には疑問がある。 ただ、多神宮註進状の「久安五年」〔1149〕は信用でき、中書きの「永享五年」〔1433〕もそれほど疑う必要はないと思われる。 《中書き》 〈五郡神社記〉の最初の部分は、「意富六所神社」の引用である。 最初に、「○ 意富六所神社 神名帳曰 大和国十市郡多坐弥志理都比古神社二座… 」と簡単に述べた後、 「多神宮註進状草案」と「多神宮註進状裏書」を丸ごと録している。 その次に、筆者による次の文が挿入されている(ここでは〈中書き〉と呼ぶ)。
このうち「記」は動詞を置くような位置ではないから、名詞「載記」〔部分的な歴史書、また広く書籍〕であろう。問題になるのは「全部」と「抄」が矛盾するところである。 確かに『社司多神命秘伝』の数カ所に「云云」があるから抜き書きとも思えるが、「多常丸手書」と書き添えられるように、もともとが個人の研究ノートのようなものであるから、最初から「云云」だったと見た方がよさそうである。 「抄」には単に「書き写す」意味もあるので、ここではそれかと思われる。 書き添えられた日付「永享五年仲冬七日」は、通常なら『社司多神命秘伝』の最後である。 しかし、「註進状」表の「久安五年」〔1149〕から永享五年〔1433〕までに、284年もの隔たりがある。表が書かれてから284年も後になって裏を利用するのは考えにくいから、 〈中書き〉に付けられた日付であろう。実際に「社司多神命秘伝」が書かれた時期は、「註進状」の時期から遠くないと思われる。 《多神宮註進状裏書》 「多神宮註進状裏書」は①「上代旧国府在高市郡…」(短文)と、②「社司多神命秘伝 多常丸手書」(長文)の二つの部分からなる。 「註進状」〔表〕は最後に「已上註進状草案書写」とあるように、提出する前に検討するために作成した下書きである。 ①は、「註進状草案」の最後に書かれた提出先「謹上新国府守藤原朝臣殿」の「新」の意味を説明するための、いわばメモ書きである。後から「草案」の裏に書き加えられたと見られる。 ②は、裏にはまだ大きな空白が残っていたから、「社司多神命秘伝」研究のための個人ノートとして利用したと思われる。 従って、「註進状裏書」とはいうが、清書した註進状の裏に書き添えたものではなく、註進状の下書きに使った紙の裏に書かれていたものである。 名称はより正確に、「多神宮註進状草稿裏書」とすべきであろう。 《奥書》 〈五郡神社記〉の題名は、〈中書き〉では「大和国五郡神社略解」だが、奥書は「大和国神名帳略解」となっていて不統一である。 ここで、奥書を精読すると、
●『大和国神名帳略解』と題された「旧本」が以前から存在していて、少なくとも四巻以上からなる書であった。 ●その「巻四」が燃えて失われていたので、それに相当する部分を書き上げた。 ということである。 既に〈中書き〉において、「愚僕歴年欲レ編二-集大和国五郡神社略解一」 〔私は長年大和国五郡神社略解を編集したいと思っていた〕と動機が書かれているが、奥書にはそれとは異なる事情が書かれていることになる。 この「旧本」なるものが後世まで残っていたなら、当然どこかで取り上げられているはずであるが、それらしいものは見つけられない。 また②は解釈に苦労するが、に類似した表現を漢籍から探すと「蓋聞君子不棄義以為利」〔けだし、君子は義を棄てず以て利となす〕(『太平御覧』-征伐下)という言い回しがある。これは一種の言葉のあやである。 奥書でも「俗人のアイディアでも、見るべき人が見れば拾ってくれるに違いない」という信念を語り、これを自分への励ましとして編集に勤しんだわけである。 ただ、自分の研究を謙遜するにしても「巷の雑談」という譬えはあまり適切ではない。 このように「旧本」の存在は不確かで、文章の意味が通りにくい箇所があることを見ると、偽作のような印象を受ける。 但し、これは奥書のみについてのことであって、奥書を除けばまともな研究書と見てよい。 《宮道君》 「宮道君」については〈姓氏家系大辞典〉「宮道 ミヤヂ」の項に 「大和の宮道君 宮道氏系図(五郡神社記所引)に「宮道君は日本武尊の児稚武王より出づる也。稚武王の後葉・近江国志賀郡に居り、淡海村部君と為る。 延暦年間中に及び、遷りて大和国武市郡に住す。淡海村部君陳義に詔して、牟佐神社の祝部と定め、宮道君の姓を賜ふ。 是より先、祝部牟佐村主・平安城左京に貫すれば也」と見ゆ。なお、その系図が載るのは〈五郡神社記〉「牟佐神社」である。 永享文安の際、禰宜散位正六位上宮道述之とあり、即ち五郡神社記の作者なり(大和志料)と。(恐らくは非か)。」とある。 古事記では、「倭建命―建貝児王(宮首之別等之祖)」、宮首は概ね宮道と同一視されるが、建貝児王〔書紀:武卵王〕は「若建王〔書紀:稚武王〕」とは別の子である。 ここでいう『大和志料』〔奈良県編;1915〕からの引用箇所は、「高市郡/神社/牟佐坐神社/社職」(p.417)にある。 《作者・時期の真偽》 〈姓氏家系大辞典〉の「恐らくは非か」は、宮道君が「五郡神社記の作者」とされていることを指して言ったものであろう。 署名には「宮道君○○述之」と責任をもって名前まで書くのが本来なので、「宮道君」だけなのは不審である。 ただ、本文は研究成果を誠実にまとめたもので、筆者名だけを権威付けもしくは古い書に見せかけるために借りたと考えられる。 前述したように奥書には疑義があるから、著者名までを含めて偽作かも知れない。さらには、〈中書き〉の日付に小さい字で添えられた著者名も、後からの付け加えかも知れない。 すると、「文安三年」〔1446〕も不確かになってくる。 但し、〈中書き〉の「永享五年〔1433〕11月7日」については日付まで書かれ、文章の内容も妥当であるから本物と見るべきであろう。 【治田神社】 「旧記曰」の部分の訓読には、古い時代の伝承が含まれていると見られるので上代語を用いた。
小治田臣は武内宿祢系で、蘇我石河宿祢を祖とする(第108回) 〈天武紀十三年〉で朝臣姓を賜る。〈新撰姓氏録〉〖小治田朝臣/祖:同上〔武内宿祢五世孫稲目宿祢之後也〕〗とあり、蘇我稲目の子孫とされる。 《石川楯》 〈雄略紀二年七月〉に、 「石河股合首の祖楯」とあり、百済から天皇に献上された池津媛と、楯が姦通した事件が載る。 そこでは、天皇の怒りをかって二人とも焼き殺された。 「有故」とするのは、書紀に載る事件を婉曲に書いたと思われるが、書紀とは異なり遠国への追放となっている。 「俣合」は、書紀の「股合」の別表記であろう。両者ともに、モモアヒ・マタアヒの両方の訓みが考えられる。 石川宿祢は武内宿祢系の氏族であるが、同じ系列の蘇我氏族と概ね一体化していたと思われる。 《蘇我韓子宿祢》 甘樫丘の北側〔豊浦寺跡周辺〕から石川廃寺までの一帯が、蘇我蝦夷の家地と考えられている。 よって、その祖先とされ、書紀に出て来る蘇我韓子宿祢の伝説が、この地を舞台にして形成されたであろう。 (万葉歌)1557「明日香河 逝廻丘」により、逝回丘は甘樫丘が飛鳥川に面する部分を指すと思われる。 〈五郡神社註解〉「甘樫丘神社」の項に「在二逝回郷甘樫丘前一」とあるので、この一帯もまた「逝回郷」であった。 《剥牛食肉》 この伝説の背景に、肉食の禁忌があったのだろう。 肉の禁食については、〈天武-四年〉〔675〕四月に諸国に詔を発して「四月朔以後九月三十日以前…莫食牛馬犬猨鶏之宍」 〔四月一日から九月三十日までは、牛馬犬猿鶏の肉を食べてはならない〕と定められた。 一般には、仏教による禁忌とされている。但し、牛については田を耕すための大切な動物なので、それを食するなどもってのほかという感覚があったかも知れない。
「小治田神社」が今「豊浦神社」というから、「小治田神社」は豊浦地域にあった。 「甘樫丘神社」と同一社かとも思われたが、〈五郡神社註解〉のために別項を設けているから小治田神社とは別社と見られる。 〈持統-即位前紀〉で「無遮大会」を開催したと書かれる五寺の一つの名称が「小墾田豊浦」となっており〔この寺は豊浦寺に間違いない〕、 ここでは小治田と豊浦は重なっている。 現在では、雷付近の古地名が小治田であったことは、「小治田宮」の墨書土器という物質的根拠が得られている(第249回)。 《豊浦神社》 現在、豊浦神社に比定し得る独立した神社は、豊浦・雷地域には見当たらない。 豊浦地域を見ると、「豊浦神社」の立地としては、実際には甘樫坐神社のところが相応しい。 〈五郡神社記〉によると、甘樫坐神社の社家もまた小治田臣で、祭神は「八十禍津日命、大禍津日命、神直毘命、大直毘命」の四神である。 豊浦神社(治田神社)の祭神は大地主神一座というから、既に甘樫坐神社の境内社になっていたと考えることもできる。 《小治田村と豊浦村》 〈五郡神社註解〉の筆者は、 「愚僕来二逝回郷一尋二小治田村一无二此名村一 有二豊浦村一」〔私は逝回郷に来て小治田村を尋ねたがこの名前はなく、あるのは豊浦村であった〕と述べ、 その理由を考察していた結果「昔之小治田村後云二豊浦村一有レ拠歟」 〔以上のように、昔の小治田村が後の豊浦村である根拠である〕と結論付ける(別項)。 《小治田神社と治田神社》 文章の流れを見ると、「旧記」のいう「小治田神社」は、神名帳の「治田神社」と同じものとして扱われている。 《大意》 延喜式神名帳に言う。 治田(はるた)神社一座、逝回(ゆきき)の郷(さと)の小墾田(おはりた)村今の豊浦(とよら)村にある。 社家の人小治田(おはりた)の臣の説くところでは、 治田神社は一座、大地主(おおところぬし)の神大己貴命(おほなむちのみこと)の異名を祀る。 旧記にいう。 古(いにしえ)の神代(かみよ)、大地主神は、始めて田地を開墾して、稲を田に植えさせた。 それ故、大地主神を墾田(はりた)神とお呼びした。 そして、安康天皇の御世、 武内宿禰(たけうちのすくね)の曽孫で石川俣合(またあい)の先祖、楯(たて)は、 甘樫丘を開墾して、大きな田地を営み耕種をさせた。 その農民は田の中で、牛を剥ぎ肉を食べた。 その時、イナゴが苗を食い荒らし荒地となった。 楯は神代の故事を慮(おもんばか)り、御歳(みとし)神に祈祷して水口祭(みなくちまつり)を行った。 人々が祭に戯れたところ絶妙な神力を得て、苗が分かれ葉は次々と茂り、秋にはついに五穀が実った。 世俗の人は、楯の成せる小治田(おはりた)と呼んだ。 その後、楯は神殿を水田の辺りに建立し、 大地主(おおところぬし)の神を奉斎し、小治田(おはりた)神社と名付けた。 今の豊浦神社がこれである。 雄略天皇の御世に到り、楯は故あって遠国に退去させられ、 以来、家地と田戸を蘇我韓子宿禰(そがのからこのすくね)に賜った。 【尋小治田村】 〈五郡神社記〉の筆者は、式内社ごとの考察をすべて終えた後に、「小治田村」が存在しないことへの考察を述べている。
もともと、豊浦は推古天皇の都、小治田は蘇我氏の家であった。蘇我稲目は小治田に建興寺を建立した。 推古天皇の勅によって、推古と蘇我馬子宿禰は領地を交換し、旧小治田〔新豊浦〕の建興寺は有司が壊して宮殿が建ち、旧豊浦〔新小治田〕に新たに建興寺(別名元興寺、豊浦寺)が建立された。 その結果、村名「小治田村」は「豊浦村」に上書きされて消滅した。 《葛上郡》 「葛上郡に豊浦あり」という説は他に見ない。〈倭名類聚抄〉の郷名や、『五畿内志』の村里なども調べたが、いずれにも見えない。 葛下郡・忍海郡に広げても同様であった。分注の「葛上郡」はそのままにしておかないと文意は通じないが、実際には元興寺が高市郡にあることは言うまでもない。 「葛上郡」を除いてしまえば、推古が豊浦宮から小治田宮に移りその跡に豊浦寺を建てたこと自体は、書紀及び『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』と合致する。 《大意》 私は逝回の郷を訪れ、小治田村を探したがこの名の村はなく、豊浦村があった。 伝え聞くところでは、豊浦村は葛上郡にあり〔ママ〕、今も存続しているという。 けれども、小治田の臣が説くには、小治田神社は、今の豊浦神社だという。 これによって考察すると、先代旧事本紀、日本書紀、続日本紀、三代実録、類聚国史がいうには、 小治田は、蘇我氏の居住地である。大臣稲目宿禰は仏閣を小治田に造営した。 物部氏が乱を起こし燃やされたが、その後、稲目宿禰は再び建興寺をここに建立した。 推古天皇の御世となり、大臣馬子宿禰に勅して「私の都である葛城の豊浦宮の地と、お前の小治田の建興寺の地を交換せよ」と命じた。 馬子は勅命に従い、諸司は建興寺を破却し、豊浦宮を小治田の寺院の地に移し、豊浦小治田宮高市郡にあると名付けられた。 また、建興寺を豊浦宮の地に造営し、名を改めて元興寺と曰ひ、亦豊浦寺と曰ふ葛上郡〔ママ〕にある。 かくの如く、昔の小治田村の後を豊浦村とすることには、根拠がある。 まとめ 〈五郡神社記〉は、奥書を除けば学究的な調査結果と見てよいと思われる。 治田神社の所在地に関する著者の論理構成は、小治田村は豊浦村の場所の旧地名だから、現存する豊浦神社は元の小治田神社であったとするものである。 ただ、それに加えて社家とされる小治田臣の中に、豊浦神社はもともと我らの氏寺であると代々伝承されてきたようにも思われる。 「旧記」には、書紀・風土記によく見られるタイプの地名命名譚が含まれているから、伝承は飛鳥時代に遡るかも知れない。 「小治田神社」と神名帳の「治田神社」の名前の違いは問題にならず、全く同一視されたようである。 神社名が神の名前や特別ないわれによるものなら重んじられるべきだが、地名に基づく場合は二文字にすべきと考えたのかも知れない。 背景には、好字令があったように思える。 前述したように、雷の古地名が小治田であったことは実証されているので、 この地域に小治田臣の氏神がいて、神名帳には「治田神社」の名前で収められたという筋書きは自然である。 対照的に、比定社のある岡寺近くに「治田」なる氏族が居住していたことを示す資料はなかなか見つけられない。 〈姓氏家系大辞典〉が治田を見出しているのは、近江、尾張、伊勢、伊賀、丹波などである。 ただ、現在「豊浦神社」と見られる神社は豊浦の地にはない。もともと甘樫坐神社のところにあったが、 隣に盟神探湯伝説に因んだ甘樫坐神社ができ、そちらが主流になったという考えはどうであろうか。 「立石」と呼ばれる岩石が、古くからあった神社の姿を残しているようにも思える。 |
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2022.05.01(sun) [58] 『和州五郡神名帳大略註解』牟佐神社 ▼▲ |
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『和州五郡十市高市宇智吉野宇陀神社神名帳大略註解巻四補闕』〔以後〈五郡神社記〉〕から、「牟佐神社(高市郡)」の項を精読する。
【牟佐神社】
〈倭名類聚抄〉には{大和国・高市郡・久米郷}とされる。 『五畿内志』高市郡には、「郷名:…久米【方廃村存】〔すでに廃す。村あり〕」、 「村里:久米 三瀬【属邑二】」、 「牟佐坐神社:大月次新嘗貞観元年正月授二従五位上一○在二三瀬村一今称二境原天神一天武紀所レ謂生雷神即此」と載る。 〈五郡神社記〉での地名表記の階層は、「郡>郷>村>称ナシ」となっている。例えば御県神社は、「高市郡・雲梯郷・高市村・川辺」。 久米村と三瀬村は、概ね現在の橿原市久米町と見瀬町。「久米郷」は比較的広域で、その中心地が「久米村」になったこともありそうである。 牟佐神社の所在地は、現在も見瀬町である。ミセはムサが訛った可能性が高い。 『五畿内志』に江戸時代の名称「境原天神」がある。参道に〈孝元天皇〉の「軽之堺原宮」の碑が建つ(第108回)。 書紀以前から、この辺りは境原だったのだろうか。それとも、「堺原宮」がここに比定されたことによって地名になったのだろうか。 《謹稽日本書紀》 〈天武天皇元年七月〉〔庚寅朔〕壬子〔二十三日〕に、牟佐社の記事がある。 この日、大友皇子が追い詰められて自死して壬申の乱に決着がついた。 遡って、軍が金綱井に滞在していたときのこと。 「高市郡大領高市県主許梅 儵忽口閉而不レ能レ言也 三日之後 方レ着レ神以言下 吾者高市社所レ居 名事代主神 又身狭社所レ居 名生雷神者也上」 〔許梅(こめ)、突然口がきけなくなって三日後。神憑りして言うに「我は高市社にいます事代主神、また身狭〔本によって牟佐;次項〕社にいます生雷神なり」〕。 そして、神武天皇陵に馬と各種兵器を奉れ、さらに西道から軍が押し寄せるから用心せよと告げた。するとその言葉通りに近江将軍の壱伎史韓国(いきのふひとのからくに)〔人名〕の軍が攻め寄せた。 当時の人は、牟佐社の神が事前にこれを言い当てたと評価し、その結果神階を登進して祀られた。 《牟佐・身狭》 なお、この数行後にも、もう一か所「身狭(牟佐)社」がある。ともに写本による表記の不統一があり「身狭」、「牟佐」、「牟狭」がある。 〈北野本〉と〈伊勢本※)〉は2か所とも「身狭」、 〈天理図書館蔵兼右本※)〉は2か所とも「牟佐」である。 〈内閣文庫本〉は一箇所目が「牟狭」、二箇所目が「身狭」となっている。 ※)…岩波文庫版「校異」による。(次項も) なお、〈雄略天皇〉八年・十四年については、どの本も「身狭村主」で、不一致はない。 実は、音仮名「身」は、基本的にミ乙である。 また「狭」は、基本的にサである。 よって、書紀が書かれた時期には基本的にミサ神社〔またはミセ神社;下述〕と呼ばれていた可能性が高い。 それが平安時代にはムサ神社に変化し、表記は専ら「牟佐神社」となったと考えられる。 それによって、書紀の一部の写本にも牟佐が用いられたのではないだろうか。 さらには、「瀬」をセと訓んだ可能性もある。 「(万)2522 恨登 思狭名盤 在之者 うらめしと おもふせなは ありしかば」では、「狭」はセ〔親しい男性への呼びかけ;ナは接尾語〕の仮訓として使われている。 狭いところを意味するセに「狭」の字を当てることはあったようである。 神社名はミセからムサに変化したが、地名はミセのままだったとすれば、三瀬村との繋がりは一層強まる。 《生雷神》
そもそも社の周辺地域で古くから「雷の神」が強く伝わっていて、それが〈五郡神社記〉の記述に反映したのだとすれば、生霊神を用いるのは妥当ではない。 《陰火与影水令剋化為雷》 剋は「克服」の"克"と同義。火と水が対になっているから、「与」は"and"であろう。 よって「陰火与影水。令剋化為雷」とは、 「火の秘めた霊(チ)と、水の秘めた霊とが競り合ううちに、激烈な反応が起きて雷を発生する」ということのようである。 雷を発生させるのは、積乱雲(かなとこ雲)内の上部と下部の雲粒の分極である。「火」を熱エネルギーだと捉えれば、太陽からのエネルギーが大気の対流を生じ、水を蒸発させることによって積乱雲は高く成長するから、 この自然のメカニズムを直感的に掴み取ったものと言うことができる。 《呉使主青》 使主(おみ)は、帰化人に与えられる姓のひとつ。〈五郡神社記〉は、青が呉国から帰化して、安康朝に牟佐の村主に任じられたと述べる。 スグリは、「朝鮮語のスキ(村の意)に基づく語とする説が有力」(〈時代別上代〉)とされる。 書紀では、雄略八年に呉国へ遣わされた記事が初出。 「呉」は、呉(三国時代)が滅びた後も、習慣的に中国の呼称として安康・雄略の時代に使われたと見られる。 ここでは書紀に書かれない事項を含む「旧記」が存在したことが分かり、重要である。 《村屋神社・雲梯神社》 生雷神と時を同じくして、雲梯神と村屋神にも「正六位上」が授けられた。 このうち「村屋神」については、 〈天武〉元年七月条に「村屋神着レ祝曰 今自二吾社中道一 軍衆将レ至 故宜レ塞二社中道一」 〔村屋神が祝(神職)に神憑りして、村屋社の中道に敵が迫ることを予言した〕とあり、予言の通り廬井鯨の軍が攻め寄せ、撃退した。 雲梯神については、〈五郡神社記〉に「雲梯神社:神名帳曰 大和国高市郡御県坐鴨事代主神社 在雲梯村神森」とあり、 前記〈天武元年七月〉に出てきた事代主神を、〈五郡神社記〉は雲梯神社に比定している。よって、雲梯神も牟佐神と同時に神階を授かったのである。 《神階》 天武天皇の即位は、正式には二年二月である。 しかし、ここで「天武天皇即位元年」とするのは、壬申の乱の勝利をもって事実上の即位とし、謝意を示すために直ちに三社に位階を授けたということであろう。 但し、位階の名称が「正一位上…」になったのは養老令〔718〕のときで、〈天武元年〉の時点では「大織」や「大錦上」などが使われた。 神階は官位と別とは言え、〈天武元年〉の時点で「正六位上」が用いられていたとは到底思えないので、この記述は伝説的である。 書紀では壬申の乱の決着がついたところで、将軍たちが生雷神・村屋神・事代主神の功に報いることを進言し、「勅下登二-進三神之品一以祠上」 〔勅して品(神階)※)を登進させて祀る〕となった。 〈五郡神社記〉の「奉レ授二正六位上一」は、これを基にして潤色したようにも思われる。 ※)…位階「品」の例は、三国魏~隋初の官吏の一品~九品。大宝令の親王の一品(ほん)~四品。 〈天武元年〉の時点で、神階の有無や階級の名称は明らかでないが、書紀が用いた史料が確かなら「品」が用いられていたことになる。 因みに記録に残る神階名としては、〈時代別上代〉「天平十八年〔746〕、聖武天皇の不予に際して、八幡大神を三位に叙したのが(東大寺要録)史伝の初見であるという」。 《村部君》 部(べ)には、皇族が私的に所有する御名代(みなしろ)・御子代(みこしろ)や、豪族が所有する部曲(かきべ)、専門技術をもつ職業部などがある。 しかし、「村部」という語は他には見えない。 君は姓のひとつで、 〈続紀〉には、天平宝字三年〔759〕十月に詔「天下諸姓著君字者。換以公字」〔姓の"君"字は今後"公"字に換える〕を発し、それ以前の天平勝宝三年〔751〕十月にはまだ「布勢真虫賜二君姓一」が見える。 「~村部」が実際にどの程度存在したかは不明だが、ひとまず村政の実務を担う部と考えておく。 そのキミという立場は、実質的にスグリ(村主)、ムラキミ(邑君)と同じである。だから「村部君」もムラキミと訓んだかも知れない。 しかし、ここではひとまず字に忠実に、ムラベノキミと訓んでおく。 ここでは、「~部」にはノを挟まず(「神主部(カムヌシベ)」など)、姓にはノを挟む(「大伴連(オホトモノムラジ)」など)ことに倣った。 《先是》 延暦年間になり、稚武王の子孫である淡海村部君が移ってきて、牟佐社祝部となり宮道君の姓を賜った。 それに伴い、これまで代々祝部を務めていた、青村主の子孫は左京に移った。 《大意》 ○牟佐(むさ)の神社(かむやしろ) 〔延喜式神名〕帳にいう。 牟佐坐神社(むさにますかみやしろ)は、久米の郷の牟佐(むさ)村の築田(つきた)にある。 ――当家に古くから伝わる社記にいう。 謹んで日本書紀を照合して申し上げる。 牟佐社にまします、その名は生雷神(いくいかづちのかみ)という。 古い翁(おきな)の口訣(こうけつ)にいうには、 大雷(おおいかずち)の神は、火中の陰にある火で、 闇罔象(くらみつは)は水中の陰にある水である。 けだし、陰の火と陰の水を、 闘わせると雷(いかずち)に変わり、 これを、陽中の火(ほ)の気といい、 火雷(ほのいかづち)いわゆる生雷(いくいかずち)がこれである。 ――旧記のいうには、 安康天皇は勅によって、呉(くれ)の使主(おみ)青(あお)を、牟佐(むさ)の村主(すぐり)とされた。 まさにこの時、霊が夢に現れ、そのお告げによって、 生雷(いくいかずち)の神を牟佐村の築田に奉斎し、 その子孫を祝部(ほうり)とされた。 天武天皇の即位元年七月、 無位の生雷神に正六位上を授かった この日、無位雲梯(うなて)の神、村屋(むらや)の神も揃って正六位上を授かった。 ――系図では、 宮道君(みやじのきみ)は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の御子、稚武王(わかたけるのみこ)から出て、 稚武王から後の代に、近江国の滋賀郡に居住して淡海の村部の君となった。 延暦年間になり、大和国高市郡に移住し、 詔され、淡海村部の君陳義を、 牟佐社の祝部(ほうり)と定め、宮道君(みやじのきみ)の姓(かばね)を賜った。 これまでの祝部であった牟佐村主〔青の子孫〕は、平安京の左京に本貫を移した。 まとめ 現在の牟佐坐神社の北は山田道と下ツ道が交わる「軽の衢」の推定地である。 また近くには「軽寺」があり、「軽境原宮」伝承地もある。 「檜隈坂合陵」として有力視される丸山古墳もあり、「久米郷」に含まれる。 ムサの地名は、江戸時代の「三瀬」、現在の「見瀬」に繋がると見てよいであろう。 このように様々な時代にいくつかの地名が重なり合い、それだけ重要な土地であったことが分かる。 また、村主の青が外交で重要な役割を果たし、生雷神が天武元年に登場し、神にまつわる伝承がしっかり残り存在感がある。 式内社の比定には随分疑問な例も多い中で、以上を総合的に考えると、こと牟佐坐神社に関してはこの位置はほぼ確実だと思われる。 「大社」であり、「軽境原宮趾」碑も参道沿いにあったと思われ、参拝者も多くかなり賑わったと想像される。 社殿は孤立的な小山の上にあるので、祭神の名前どおり落雷も多かったのではないだろうか。 |