古事記をそのまま読む―資料9
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2021.10.20(wed) [54] 斉明天皇の後飛鳥岡本宮 
 発起寺…上宮皇子(聖徳)の岡本宮の跡といわれる。
 岡本田…舒明・斉明の岡本宮の候補地のひとつ。
 飛鳥板蓋宮…現在は複合遺跡「飛鳥宮」(舒明、斉明、天武)とされる。
 岡本宮は〈推古天皇紀〉十四年に上宮皇子は法華経を講じた場所とされ、一般には法起寺の場所といわれる(前回)。
 また天皇の宮殿としての岡本宮については、〈舒明天皇記〉・〈斉明天皇記〉に記述がある。 その所在地を考察する。
   引用文献略称
〈類聚三大格〉…『類聚三大格』第15巻「太政官符/神護景雲元年」。11世紀(平安時代)の法令集。弘仁格・貞観格・延喜格を分野別に再編した。 閲覧:『国史大系』第12巻 国立国会図書館デジタルコレクション[NDL]人文学オープンデータ共同利用センター日本古典籍ビューア
〈条里復元図〉…『奈良県史』〔同編集委員会;1974〕第十巻付図。(敏達四年))
〈奈文研77〉…『飛鳥・藤原宮発掘調査概報7』〔奈良国立文化財研究所;1977〕p.50「奥山久米寺西方の調査(狂心渠推定地)」
〈歴史地名大系〉…『日本歴史地名大系』30奈良県〔平凡社;1981〕
〈東垣内遺跡調査〉明日香村公式明日香村発掘調査報告会 平成10年度〔明日香村教育委員会;1999〕 より「飛鳥東垣内遺跡の調査」西光慎治。
〈桜井地質01〉…『地域地質研究報告 桜井地域の地質』西岡芳晴他〔経済産業省技術総合研究所 地質調査所;2001〕
〈相原04〉…「酒船石遺跡の発掘調査成果とその意義」相原嘉之。『日本考古学』第11巻18号〔日本考古学学会;2004〕pp.171~180[J-STAGE]
〈講座天理の石〉…『課外特別講座「飛鳥に運ばれた天理の石」の開催(活動紹介)』〔山本忠尚;2009〕天理大学学術情報リポジトリ
〈伊藤寿和11〉…「「条坊呼称法」と「条里呼称法」の導入・整備過程に関する基礎的研究」伊藤寿和。『日本女子大学紀要』文学部vol.60〔2011〕pp.149~169。
〈飛鳥宮解説〉…『飛鳥宮跡 解説書』関西大学文学部考古学研究室〔奈良県明日香村;2017〕
〈明日香村/酒船石遺跡〉…「明日香村公式/酒船石遺跡調査報告

【岡本宮(舒明天皇・斉明天皇)】
 岡本宮の推定地については、〈歴史地名大系〉に 「位置については、古くから大字岡付近に求める説があるが、飛鳥寺の北に求める考えもある。 後者は、神護景雲元年〔767〕一二月一日付太政官符(類聚三代格)に、 大安寺施入田のうち「大和国二町一町路東十一橋本田、一町路東十二岡本田、在高市郡高市里専古寺地西辺」とあるものによる。 路東二八条三里(高市里)の一一坪・一二坪に比定、古寺すなわち大官だいかん大寺(本大安寺)西の大字小山こやま付近を岡本と称したことは明らかである。」 とある。
 まず、この中にある「大官大寺の東」説について調べた。

【岡本田】
 岡本田は、〈類聚三大格〉巻十五「寺田事」の中に出て来る。
〈類聚三大格〉画像: [NDL] [ROIS-DS]
太政官符
 合田六町
  大和国二町【一町路東※1十一橋本田 一町路東十二岡本田 在高市郡高市里専古寺※2地西辺
   右修-理金堂内佛菩薩并歩廊中門文殊維摩羅漢等像※3
  摂津国二町【一町九条五里卅五大針田 一町九条六里二丈針田 在島上郡児屋里
   右修-理大門中門四〔天〕王并金剛力士像
  山背国二町【在久世郡牧野田寺庄北辺
   右修-理寺屋
以前被左大臣宜偁※4 奉勅件田並永献-入於大安寺
  神護景雲元年〔767〕十二月一日

合はせて田六町。
大和国の2町:1町は路東11の橋本田、1町は路東12の岡本田。高市郡高市里の専(もはら)の古い寺地の西辺。
 右は金堂内の仏・菩薩、歩廊、中門、文殊維摩羅漢等の像を修理する料なり。
摂津国の2町:一町は9条5里35大針田、一町は9条6里2丈の針田、島上郡児屋里に在り。
 右は大門中門四天王、并せて金剛力士像を修理する料なり。
山背〔山城〕国二町;久世郡牧野田寺庄の北辺に在り。
 右は寺屋を修理する料なり。
以前に左大臣の宜称(ぎしよう)を被(かうぶ)り、勅(みことのり)を奉(たてまつ)り件(くだり)の田並(な)べて永く大安寺に献入(たてまつ)る。
※1…平城京朱雀大路の延長線(上ツ道)の東側。 ※2…大官大寺。 ※3…䉼は「料」の異体字。 ※4…偁は「称」の異体字。「宜称」はよい名前。
…条里 〈大和国条里復元図〉による。…藤原京条坊。
 この太政官符は、大安寺のために六町の田を献入することを定めたもの。名目は、大安寺の仏像や寺屋の修理料とされている。
 〈伊藤寿和〉によると、 「大安寺に施入された大和国の「一町路東十一橋本田。路東十二岡本田。」の2町の地は、 同寺の前身である大官大寺の故地に隣接する、後の「高市郡路東二十八条四里の十一坪と十二坪」に相当すると考えられ」るという。
 但し、〈条里復元図〉によれば大官大寺の所在地は東二十八条三里である。また、この位置は新益京〔藤原京〕の十条東四坊にあたる。
 この時期の地理表記については、「条里呼称法が導入・整備された後も、条里呼称法による表記・記載が使用されず、 所在地の表記に旧来の郡・郷などの地名を使用した関連史料が散見される」という。
 大官大寺は平城京遷都に伴い、諸寺とともに移転した。その移転先は左京六条四坊で、名称は大安寺となった。 〈続紀〉大宝二年〔702〕に「正五位上高橋朝臣笠間 為造大安寺司」とある。 「移転年は、和銅三年〔710〕説、霊亀二年〔716〕説がある」、 旧寺は「「扶桑略記」によると、和銅四年旧寺は藤原宮とともに焼亡」し、1973年以後の調査により焼亡跡が発見されたという(〈歴史地名大系〉)。
 坪割りについては、左京は北東隅が始点の折り返し型と考えられるので(前回)、 それと対称を為す右京は、北西隅が始点で十一坪・十二坪は図の位置ではないかと思う。 なお、「小字データベース」によると、十一坪・十二坪の小字名は竹ノ内・アラボリ・サコツメ・フケノツボ・大柳で岡本田・橋本田はない。因みに、大官大寺付近には講堂・阿弥陀堂がある。
 他の文献にはなかなか見えないので、ここが「岡本田」と呼ばれた期間も人々に知られた範囲も限定的ではないかと思われる。また、この場所で大宮殿の跡を検出したとの情報も見いだせない。

【岡本宮(舒明天皇・斉明天皇)】
 書記に岡本宮が出てくるのは、〈推古天皇紀〉の聖徳太子の講を除けば〈舒明天皇紀〉と〈斉明天皇紀〉である。 いずれも、飛鳥板蓋宮とされてきた付近に重なって存在したと推定されている。
《飛鳥宮跡》
 〈飛鳥宮解説〉によると、飛鳥宮跡は重層的な宮殿跡で、下層から順にⅠ期Ⅱ期ⅢA期ⅢB期と名付けられている。
 Ⅰ期は「舒明天皇の飛鳥岡本宮と考えられ」、「南東から北西の方角に合わせ」「中国において南北方向の正方位に合わせて宮殿が造営されていたこととは異なって」いるという。 また「柱を抜き取った跡の穴には、焼けた土や炭が入って」いたという。
 Ⅱ期は「皇極天皇の飛鳥板蓋宮と考えられ」、「東西193m、南北 198m以上の掘立柱で構成される回廊によって囲まれ」、「南北の方向に沿って建てられ」、 その整地のために大規模な削平が行われたことが、「Ⅰ期遺構の柱穴〔として残っている部分が〕が非常に浅」いことから窺われるという。
 ⅢA期の遺構は「斉明天皇と天智天皇が使用した後飛鳥岡本宮と考えられ」、  「南北197m、東西152mの柱列で囲まれた部分が、宮殿中枢部を成す内郭」であると述べる。 「内郭北区東北部には井戸が設けられ」、「現在の遺跡で復元」されている。復元井戸の画像は岡本宮宮の代表的な施設として、しばしば紹介されている。
 ⅢB期の遺構は「天武・持統天皇が使用した飛鳥浄御原宮と考えられ」、 内郭は概ねⅢA期を継承し、「エビノコ郭が設けられた」ときを区切りとしてその後がⅢB期とされる。
 飛鳥板蓋宮は皇極天皇が元年に造営を命じたもので、二年四月に権宮(仮宮)から「飛鳥板蓋新宮」に移った。天皇は一度退位するが重祚して斉明天皇として再び板蓋宮を宮としたが、その年のうちに火災に遭い川原宮に移っている。 板蓋宮は「岡本」がないのは場所が違うからだとも考えられるが、茅葺や瓦葺とは異なり屋根に厚い板を用いたことが当時大変珍しく、その特徴による名前と考えるのが妥当か。 「板蓋新宮」とあるのは、この段階では「板蓋宮」はまだ固有名詞ではなく、普通名詞を連ねて「板葺きの新たな宮」と書いたのであろう。
 こうして見ると、舒明二年から八年までをⅠ期、皇極二年から斉明元年までをⅡ期、斉明二年以後をⅢA期に対応させることは可能である。
《舒明天皇の岡本宮》
 天皇の宮としての岡本宮の初出は〈舒明天皇紀〉である。
〈舒明天皇紀〉
二年
〔630〕
冬十月壬辰朔癸卯 天皇遷於飛鳥岡傍 是謂岡本宮 十月十二日。天皇、飛鳥岡の傍らに遷り、是をば岡本の宮と謂ふ。
八年
〔636〕
六月 災岡本宮 六月。岡本宮に災(やけるわざはひ)あり。

《後飛鳥岡本宮》
 飛鳥後岡本宮の位置を探るために、〈斉明天皇紀〉の関連部分を読む。
〈斉明天皇紀〉
元年
〔655〕
是冬 災飛鳥板蓋宮 故遷-居飛鳥川原宮 この冬、飛鳥の板蓋宮(いたふきみや)に災(やけるわざはひ)あり。故(かれ)飛鳥の川原宮(かははらみや)に遷り居(ま)しき。
二年
〔656〕
是歳 於飛鳥岡本更定宮地
時 高麗百濟新羅並遣使進調 爲紺幕於此宮地而饗焉。
遂起宮室 天皇乃遷 號曰後飛鳥岡本宮
於田身嶺冠 以周垣【田身山名此云大務】 
復於嶺上兩槻樹邊起觀 號爲兩槻宮亦曰天宮
時好事 廼使水工穿渠自香山西石上山
舟二百隻石上山石流控引 於宮東山累石爲
時人謗曰狂心渠
-費功夫三萬餘矣 費-損造垣功夫七萬餘矣 宮材爛矣 山椒埋矣
又謗曰作石山丘隨作自破
【若據成之時此謗乎】
又作吉野宮。〔中略〕災岡本宮
是の歳、飛鳥の岡本(をかもと)に、更(あらため)て宮地(みやどころ)を定めたまふ。
時に、高麗(こま)百済(くたら)新羅(しらき)並(な)べて使(つかひ)を遣(まだ)して進調(みつきた)てまつり、紺幕(こむまく、ふかきはなだのきぬがき)を此の宮地(みやどころ)張るを為(な)して饗(あへ)たまひき。
遂(つひ)に宮室(おほみや)を起(た)てたまひ、天皇(すめらみこと)乃(すなはち)遷りませり。号(なづ)けて後飛鳥岡本宮(のちのあすかのをかもとのみや)と曰ふ。
田身嶺(たむのみね)に冠(かがふ)るに周(めぐらせる)垣(かき)を以(もち)ゐて【田身は山の名、此を大務(たむ)と云ふ】、
復(また)嶺上(みねのうへ)の両(ふたつの)槻樹(つきのき)の辺りに観(たかどの)を起(た)てたまひ、号(なづ)けて両槻宮(ふたつきのみや)と為(し)、亦(また)天宮(あまつみや)と曰ふ。
時に事を興(おこす)ことを好みたまひ、廼(すなはち)水工(みなたくみ)をして渠(みぞ)を香山(かぐやま)の西自(よ)り石上山(いそのかみのやま)に至り穿(うか)た使(し)めて、
舟(ふね)二百隻(ふたももふな)を以(もちゐ)て石上山(いそのかみのやま)の石を載(の)せ流れに順(したが)ひ控引(ひきひ)かしめて、宮の東山(ひむかしのやま)に石を累(かさ)ね垣(かき)と為(し)たまふ。
時の人謗(そし)りて曰(まを)ししく、狂心渠(たぶれごころのみぞ)とまをしき。
功夫(えのよほろ)三万(みよろづたり)余(あまり)を損(そこな)ひ費(つひや)し、垣(かき)を造る功夫(えのよほろ)七万(ななよろづたり)余りを費し損ひ、宮の材(き)爛(ただ)れ、山の椒(ほそき)埋(うづも)れり。
又謗(そし)りて曰さく、「作れる石の山の丘(をか)、作る隨(まにま)に自(おのづから)破(こほ)れてむ」とまをしき。
【若(もしや)未だ成之(なさざりし)時に拠(よ)り、此の謗(そしり)を作(な)す乎(か)】
又吉野の宮を作りたまふ。〔中略〕岡本宮に災(やけるわざはひ)あり。
…[名] 古訓「フカキハナタ」。はなだ…[名] 色の名。淡い藍色。 …[名] ここでは楼観。 功夫…(古訓)ヒトチカラ〔チカラは税。すなわち税の一種としての労役〕。 〈斉明紀〉五年「役丁(えのよほろ)」と同義。丁(よほろ)は令では21歳から60歳の男子に課す賦役と定めている。 …[名] ここでは細い梢。
 後岡本宮に加えて、田身嶺多武峰か〕に冠状に垣を巡らし楼台を設け、両槻宮ふたつきのみや(またの名は天宮あまつみや)を建てる。 また石上山から運河を通して石を運ばせ、宮の東の山に積んで石垣を築いた。その労働力として多くの人を徴発したことにより、相当の反感をかったようである。 よって運河は誹謗して「狂心渠」と呼ばれた。「作石山丘、隨作自破」は、石を積んでも積んでも自然に崩れるだろうという悪口と見られる。 原注は、そのように言われるのは石垣が結局未完成に終わったからだろうと推定していると読める。
 さらに吉野宮も建てた。 ""への古訓「ヒツケリ」も、平安時代に放火を意味するものとして読まれたことを示している。
 「於飛鳥岡本更定宮地」の「岡本」は普通名詞だから、宮の名前は「飛鳥の岡の本〔丘から下ったところ〕」にあったことに由来することが分かる。 後飛鳥岡本宮と「」がつくのは、舒明天皇の岡本宮と同じところに建てられたからであろう。
 最後に「災岡本宮」とあるのは、土木工事が大好きだった斉明天皇によって多大な負担を強いられた民の怒りによって放火されたことを暗示していると見てよいだろう。 ここに「」がないのは、単に省略か。ただ、〈舒明〉八年のことが誤ってここにも紛れ込んだ可能性がある。 誤りでないとすれば、〈飛鳥宮解説〉にはⅢA期の焼け跡のことには触れていないから、火災は局所的であったことになる。
《酒船石遺跡》
:砂岩石垣〈明日香村酒船石遺跡〉 :「第一次調査平面図」〈相原04〉p.174
:亀形石造物 :「導水施設」〈相原04〉p.176
亀形石造物(拡大)
〈相原04〉p.173「坂舟遺跡調査位置図」より。丸数字は、第n次調査箇所。
 現代になり、酒船石の近くに石垣が発見されたことにより、〈斉明天皇紀〉の「冠周垣」「宮東山累石為垣」「石山丘」の記述に俄然現実味が出てきたようである。
 〈相原04〉によると、1992年の石垣の発見により、「酒船石が単独の遺物ではなく、石垣に囲まれた遺跡の一部という認識が生まれ」、 よってその遺跡全体が「酒船石遺跡」と呼ばれるようになった。 石垣全体を表すのに「酒船石遺跡」の名称はあまり適当ではないように思われるが、他の名称もないので本サイトもひとまずこれを用いておく。
 石垣は第1次、3次、24次、20次、17次の調査の結果、「総延長は700m以上続くことが判明した」という。 石垣の構造は、第1次調査の結果「版築によって堅固な盛土造成を施」した上に、「平坦に加工した80~100cm程の飛鳥石(石英閃緑岩)を〔一層の〕基礎石として」、 「30×20×15cm程の煉瓦状に加工した凝灰岩質細粒砂岩の切石(天理市豊田山近郊で採石)を積み上げ」、 その段数は「良い部分では4段目まで残っており、さらに裏込土の状況からは7~8段分(約1m)以上の高さまであったことが推測される」という。 また、石垣の前に柱穴の遺構はないので、「防御を目的としたものではなく、視覚を意識した構造〔建物の付属というよりは、景観として石垣のみを設置したこと〕が伺われるという。
 第3次調査では、第1次の標高よりも低いところに列石(「飛鳥石の巨石」)を3列検出したという。 よって、「少なくとも丘陵西側については砂岩石垣を含めて、石垣・列石が四重にめぐることが判明した」という。
 つまり、石垣は第1次・24次・20次・17次の調査地点を通る閉曲線をなし、さらにその外側を列石が三重に囲んでいたと見られる。
《亀形石造物》
 「丘陵の北側の谷底」は、第12・13・14・16次調査が実施された。 東西の斜面の石垣に挟まれた部分は石敷きで、「その南橋に亀形と舟形をした石造物と砂岩湧水施設が設置されている」。 第14次調査によって、7世紀中ごろから9世紀後半まで5つの時期の変遷があり、「10世紀初頭には埋没」したことが明らかになった。 Ⅱ期〔7世紀後半〕には砂岩湧水施設をかさ上げし、「これに伴って、亀形石槽・船型石槽も現在の高さ・位置に据え直されたものと推定」されるという。 「現在整備されている姿は最も整ったⅡ・Ⅲ期の景観」だという(以上、〈相原04〉p.175から要約)。
 亀形石造物の円形の部分には意味が感じられ、ここに入れた水の様子によって何らかの占いをしたのではないかと想像される。
《西側・東側》
 西側の「第9・10次調査で検出した掘立柱建物」は、「飛鳥地域でも大型のものである」が、「周辺の地形を考慮すると、住居建物ではなく入口(門)である可能性がある」という(〈相原04〉p.175)。 もし大型の門があったとすれば、石垣の内部にはやはり建造物があったのではないだろうか。
 東側については、「丘陵の東側の谷では二本の流路が途中、第25次調査区付近で合流し丘陵裾を北上していく」。 第4・11・23次調査によると、人工的に手を加えた形跡はないという(〈相原04〉pp.175~176)。
《狂心渠》
 狂心渠が、石上神宮の地域と酒船石遺跡を繋ぐ長大な運河であったとすれば、その労働力として大量の役丁(えのよほろ)を徴発したはずである。 動員数や謗る言葉、そして宮殿への放火を伺わせる記述はそれに見合うものである。
〈東垣内遺跡調査〉付図No.3 ※亀形石造物発見よりも前に作成された。
 少なくとも奥山久米寺西方から酒船石遺跡の区間については、この時期に運河が掘削されたことが、飛鳥東垣内遺跡や奥山久米寺西方の発掘によって実証されている。
 ただ運河が実際に石上まで伸びていたかどうかは考古学的には未確認で、ただその石材が天理市の豊田山産と考えられたことから実在したと想像される。
《飛鳥東垣内遺跡》
 飛鳥東垣内遺跡は、飛鳥坐神社の西にある。〈東垣内遺跡調査〉によると1998年に調査が行われ、調査地は「明日香村大字飛鳥小字東垣内705-2・796」である。 調査によると、次の「3時期の変遷がみえる」。
A期 溝幅10m、深さ1.3mの地山を彫り込んだ素掘溝である。7世紀中ごろ。
 B期 溝幅8m、深さ90cmで西岸に杭と石積みで護岸を行っている。7世紀後半。
 C期 水幅6m、深さ60cmで西岸に石積みの護岸を行っている。8世紀前半。

 柱穴が1.8m間隔3基あり、「南北塀になる可能性が考えられる」という。
 検出された溝は、「規模からみて灌漑用ではなく、物資の運搬用」と考えられ、 「溝の上流は酒船石遺跡の東麓まで伸びていた可能性が高い」、 「酒船石遺跡の石垣工事と一連の事業で掘削されたと推定される」という。
 なお、亀形石造物の検出は、第12次調査〔1999年〕のときである(〈相原04〉p.172)。 従って、右図を作成した時点では未発見で、亀形石造物はまだ当時の健民グラウンドの地下に埋もれていたようである。
《奥山久米寺西方》
 〈奈文研77〉によると、調査地は「奥山久米寺の塔心礎の西約60mにあたり、旧寺域の西限を画する位置」にあたる。 調査の結果、「奈良時代以前に遡る南北大溝を検出し」、 「東岸の肩には護岸用の玉石が残る」。溝の西岸は発掘範囲の外なので「溝幅は20m以上になる」、 出土した土器の破片から、「古代末~中世頃にはこの溝が埋められたと推定でき」、 この溝は、「田村吉永氏が大官大寺の東側で「狂心渠」と推定した幅50m程の南北方向の落ち込みの南延長部」にあたるという。
《田身嶺》
 書紀は「田身」に、訓注「大務」を付す。""には(呉音)・(漢音)の両方があるが、語頭の""が濁音であるわけがないから、ここではであろう。 身()は〈雄略紀〉の身狭村主(むさのすぐり)と牟佐神社の例のように、しばしばムと発音される。よって、田身タムと訓むのは確実である。 現在の桜井市「大字多武峰〔トウノミネ、タムノミネの訛り〕はその遺称と考えられている。それは、古い歴史をもつ多武峯妙楽寺〔現在は談山神社〕の存在からも確実である。 しかし、酒船石遺跡の地域とは相当の離れていて、現在は多武とは呼ばれない土地だからここまで田身嶺を伸ばすのは難しい。 よって「累石為垣」の文は、両槻宮の文とは切り離されたと読むべきかも知れない。
 これについては〈相原04〉も、砂岩切り石を「積極的に修復した痕跡はみられず、…当遺跡を「両槻宮」と見た場合、持統10年の行幸記録や文武2年の修繕記録とは合致しない。」、 よって「現段階における考古学的な成果からは、別の場所とみるべきであろう」との見解を示す。
 ここにいう「持統10年の行幸記録」は、〈持統紀〉「十年〔696〕三月癸卯朔乙巳 幸二槻宮」かと思われる。〈相原04〉は、 砂岩石垣の倒壊土から7世紀後半の土器が出土したことから、「天武13年〔684〕の白鳳南海地震による倒壊」であろうと推定している。 この文意は、持統天皇が壊れるまま放置されていた宮に行幸するわけがないということであろう。
 もうひとつの「文武2年の修理記録」については、少なくとも〈続紀〉にはそのような記録は見えない。〈続紀〉文武二年には2件の修理の記事、 八月「-理高安城」と十二月「越後国-理石船柵〔越後国にあった蝦夷に備える防御柵〕があるが、田身嶺の石垣は出てこない。
 このように〈相原04〉は別の場所だと述べるのだが、酒船石遺跡の山を囲む石垣が確認されたからには、これがまさに「於田身嶺 冠以」であると読むことも、また自然に思える。 そもそも石列・石垣で囲まれた内側に、祭祀のための建物が一つもなかったとは考えられない。前述したように〈相原04〉は、西側の掘立柱が門である可能性に触れているが、 もし門であれば大きな門だけがあって建物がないのは変だから、なおさら宮殿の存在が考えられる。 酒船石も、その建物に付随したものではないだろうか。 いずれは未調査の場所に、建物の痕跡が見つかる可能性が高いと思われる。それが「両槻宮」だと考えてもよいのではないか。
 また、上で多武峰は離れ過ぎているからここまで田身嶺を伸ばすのは難しいと述べたが、改めて検討してみると必ずしも否定しきれない。まず、「田身嶺」は文字通りミネであろう。 国土地理院の陰影起伏図を見ると、嶺は御破裂山〔607.4m〕から西に長く延び、「田身嶺」は、もともとその全体の名前だったかも知れない。 その後妙楽寺が繁栄し、「多武峯」が同寺の別の呼び名として盛んに用いられるうちに、妙楽寺周辺に局所化されたと考えることができる。
 したがって、以前は酒船石遺跡の辺りまで田身嶺と呼ばれていたと考えたとしても、それほどの無理はない。
《談山神社》
 妙楽寺は、現在談山(たんざん)神社となっている。同社の「謂われ」によると、 「多武峰はこの後、談峯」などと呼ばれたとある。この「談」は公式には清音であるが、これはかつて「談」をタムに当てたことの名残であろう。 「謂われ」は、またここが大化の改新に向けた談合の地だとする伝説を紹介しているが、恐らく「談」の字による後付けであろう。 さらに十三重塔や講堂をそなえた妙楽寺は678年頃、鎌足の神像を安置した神殿は701年の建立という。
 その後、「後花園上皇〔1464~1471〕の時には談山大明神の神号を得」、 「明治維新後の神仏分離に際して仏教色を除き、明治二年〔1969〕」に「談山神社」となったという(〈歴史地名大系〉)。
《両槻宮》
 〈続紀〉には神護景雲元年〔767〕に「双槻宮」があるが、これは「池辺双槻宮御宇橘豊日天皇」で、用明天皇の呼び名〔池辺双槻宮にしろしめす橘豊日天皇〕の一部である。 こちらは「ナミツキ」と訓まれ、磐余池の畔にあったと思われる(第244回)。
 「両槻宮」に近い語は、書紀ではこの〈用明紀〉の双槻宮と、〈持統紀〉の二槻宮である。後者は〈斉明紀〉の両槻宮であろう。
《石上山》
 「廼使水工穿渠自香山西至石上山 以舟二百隻載石上山石順流控引 於宮東山累石為垣」の「石上山」は、 古訓でイソノカミノヤマと訓まれるように、古くから石上いそのかみ神宮の地域にある山と捉えられてきた。
 〈相原04〉も、石垣砂岩を「凝灰岩質細粒砂岩の切石(天理市豊田山近郊で採石)」であると述べる。 そこで、豊田山産の岩石を調べたところ、天理市の豊田山に砂岩の層がある(〈桜井地質01〉)。
豊田累層…極細粒砂岩-シルト岩層からなる。
地理院地図に〈桜井地質01〉p.29の図を重ね合わせた
「狂心渠」に関連する場所
 それは、豊田とよだ累層といい、「奈良市鹿野園から藤原町,窪之庄町東部,虚空蔵町西部,豊田町東部に分布する」。 岩相は「極細粒砂岩-シルト岩層」からなり、層厚は150m以上、「有孔虫化石、貝化石などが多産」するという(p.33)。 そのp.29の図を見ると、この層は、高樋断層・和邇断層沿いに南北に連なっている。
 このテーマを正面から扱ったのが〈講座天理の石〉〔天理大学の特別講座〕で、その報告記事では「豊田山付近には地形的にみて採石された痕跡と考えられる〔藤原層群豊田累層の〕地点が特定でき、採石地の有力候補であることを強く示唆」し、 「酒船石遺跡以外の遺跡で出土した黄色砂岩はいずれも再利用された可能性が高く、 黄色砂岩は酒船石遺跡の石垣築造のためだけに、 天理の豊田山付近で 採石され、 飛鳥へ運ばれたことはほぼ確実」と結論づけている。 いくつかのサイトを見ても、豊田山産の砂岩が酒船石遺跡に使用されたという認識は、一般的のようである。
 ただこの説を立証するためには、両者の岩石の組成を厳密に比較することが欠かせない。この検証を科学的手法で行った論文を探しているが、今のところ見つけることができない。
《宮東山》
 「宮東山累石爲〔""の東の山に石を累(かさ)ね垣とす〕とあるが、両槻宮は石垣の内側の楼台と見られるから、 この""が、両槻宮だとは考えにくい。おそらく""とは岡本宮で、つまり飛鳥宮跡である。 ただし、飛鳥宮跡から見た船石遺跡の方向は、正確には北東(うしとら)である。
 ここの現在の地名は「岡(大字)」で飛鳥川東岸までを含むが、もともと岡寺を中心とする丘の部分であろう。 飛鳥宮跡はその岡の「」(下りたところ)なのである。
 「於飛鳥岡本更定宮地〔飛鳥の岡の本を改めて宮の場所に定めた〕の文中では"岡本"と""が分離しているから、「岡(の)本」はまだ普通名詞である。
 次に「時 高麗百濟新羅並遣使進調 爲紺幕於此宮地而饗焉」とあり、宮地が更地だったので、紺幕を張って饗宴したのである。 〔なお、"為"は接続詞「ために」と訓まれているが、理由・原因を説明する"為"は本来前置詞で、必ず目的語を伴っている。古訓からの訓み誤りであろう〕
 そして「遂起宮室〔遂に宮室が完成し〕、「天皇乃遷〔天皇はそこに移り〕、「号曰後飛鳥岡本宮〔後飛鳥岡本宮と名付けた〕。 この段階に至り、やっと「後飛鳥岡本宮」が固有名詞となる。
《後飛鳥岡本宮》
 これまでの検討から、酒船石遺跡の場所がかつて田身嶺と呼ばれ、かつ後飛鳥岡本宮がその西の麓にあたる「飛鳥宮跡」にあったすれば、〈斉明紀〉二年は筋の通る文章として読むことができる。 実証する材料としては、酒船石遺跡の亀形石造物と石垣、東垣内遺跡と奥山久米寺西方の溝跡の検出はかなり力強い。
 豊田山の砂岩と石垣のレンガ状の石の組成の一致が科学的に確認できていれば、証拠に加えてよいだろう。 さらに望まれるのは、飛鳥宮跡のⅡ期とⅢA期の絶対年代測定である。柱穴に残る燃えカスに含まれる炭素を、C14法で調べることはできないだろうか。
 大気中では、宇宙線によって放射性元素であるC14が常に生成している。それが光合成によって生物体に固定され、以後は減衰する。その原子核崩壊モデルによる理論値として求めた化石等の年代を、14C BP〔(1950-x)年のxの値で表す〕という。 実際には諸条件による変動があるので、樹木の年輪のパターンによって得た「較正曲線」によって、修正する。 最近求められた較正曲線(「国立歴史民俗博物館/IntCal20較正曲線…」)によると、 西暦600~700年は「14C BP」1450~1250に対応している。 「放射性炭素年代測定データベース」を見るとその期間の奈良時代の出土物のデータは数件あり、 誤差は±30年程度と比較的大きい。それでも、もし飛鳥宮跡のⅡ期、ⅢA期が斉明天皇の時代頃であれば、ⅢA期が後飛鳥岡本宮であった可能性は高まる。

まとめ
 書紀の記述、酒船石遺跡の石垣の発見、そして遺称「大字岡」によって、飛鳥の「岡」が岡寺の周囲の丘陵を指し、「岡本」が岡の西の飛鳥川東岸であるのは明らかである。
 それに対して大官大寺西に「岡本田」が存在したのは確かだが、地名としてはかなり限定的である。 仮にここに宮殿があったなら、地名ははるかに大々的に残ったであろう。また、岡本田から見て酒船石遺跡は南方にあり、とても「東山」とは言えない。
 細かいことを言えば、酒船石遺跡を田身嶺とすることの是非、その石垣と豊田累層産砂岩の比較、ⅢA期の精密な年代測定などが詰め切れていないが、 大局的に見て岡本宮・飛鳥板蓋宮・後飛鳥岡本宮が岡本宮跡に属することは揺るがないであろう。
 なお亀形石造物などや石垣などの施設には、いたく興味をそそられる。酒船石を含めると水の流れに特別な意味を見出す宗教があったと見られるが、それはいかなるものであったのだろうか。 また、既に仏教が隆盛だった時代に、異教としての緊張は生じなかったのだろうか。謎は尽きない。