| 古事記をそのまま読む―資料8 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2021.09.11(sat) [52] 太子執筆と言われる三経義疏 ▼▲ |
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【三経義疏】 「三経義疏」は、上宮王〔聖徳太子〕私集として伝わる『勝鬘経義疏』・『法華義疏』・『維摩経義疏』の総称である。 このうち、勝鬘経と法華経については上宮王が講じた件が、〈推古十四年〉に載る。 つまり、上宮王は三経義疏について研究してその成果を講じ、また「義疏」を著したと考えられてきた。
《法隆寺文書》
「合」は、リストの細目ごとに頭につける文字。「玄章」はおそらく深遠な文書の意。 所蔵する歴史的文書類が、全部で13部11巻ある。また、8部40巻が人々からの寄贈と読める。 部数、巻数のカウントの仕方はよくわからない。 この中に、法華経疏・維摩経疏・勝鬘経疏が、「上宮聖徳王御製」として含まれている。 『法隆寺縁起并資財帳』は「大和法隆寺文書」として残る。天平宝字五年十月一日の日付と、寺主法師隣信を筆頭に6名の署名があるが、 提出先は記されていない。 三疏とも「帙」で包まれ「牙」を着け、二疏には「正本」と書かれている。これについて〈魚住〉は、 「当時、法華義疏には正本と副本の区別があり、現存する法華義疏には巻物を収める簀巻型の帙と牙〔象牙〕製の籤(ふだ)が備わっていることから、 現存の法華義疏が正本そのものであることが推定される」と述べる(p.14)。 奥書に「紛失之後不レ知二幾年一。 于時保安〔1121〕二年三月廿六日。自二-従僧源朝之手一始伝レ得レ之」 とあり、しばらく行方不明だったようである。初めの部分は欠けている。 上宮聖徳王御持物の鉄鉢も、天平九年〔737〕に行信が奉納した。その肩書は「律師法師」である。 天平二十年〔748〕になると行信の肩書は、大僧都である。 よって、行信はまだ律師法師だった時期に『法華経疏』四巻の「正本」を入手して法隆寺に奉納し、 その後写本が二部加わり、その計三部の所蔵が748年の資材帳に記され、さらに761年の資材帳にも「正本」が記されたということになる。 なお、行信の没年は750年といわれる。 《遺文献》 『法華経疏』については、 〈田村〉によれば「奈良時代から法隆寺に所蔵され明治時代に皇室に献上された草稿本」(いわゆる〈御物本〉)があり、 7世紀前半の遺品とされている。〈岩波花山〉には「明治十一年〔1878〕二月十八日献納御裁可となり」、「只今〔1975年〕は京都の御所内に奉安されている」という。 題字の「法華義疏第一」の下に、 「此是 大委上宮王私集非海彼本」〔これ、大倭〔=日本〕の上宮王の私集にて、海の彼〔方〕の本に非ず〕と書き加えられているが、 「本文と別筆で、おそらく行信という奈良時代の僧によって書かれたものと見られている」(〈田村〉)という。 行信は、奈良時代の玄蕃寮〔僧を管理する官庁〕で次席を務めた(「元興寺伽藍縁起…」Ⅳ)。 『維摩経疏』、『勝鬘経疏』については、原本は残っていないとされる。 『勝鬘経疏』は、〈田村〉によれば宝治元年〔1147;鎌倉〕の版本(〈宝治板勝鬘疏〉)が最古だという。
【法華義疏】 〈田村〉によると、書家の西川寧は、異体字の使用から見て「隋に相応する時代の作」とする。 また、石田茂作は「『法華義疏』に用いられている横幅がまちまちであり」〔四巻それぞれで紙のサイズが異なっている〕、 「奈良時代に写経に用いられた用紙の幅は一定であるから、おそらく小野妹子が何回かにわたって中国から持ち帰ったものではないか、とする」という。 これらをつき合わせると、『法華義疏』は隋代の中国で書かれて渡来したということになる。 一方、〈田村〉は『法華義疏』には後に多くの訂正が加えられ、平均して2.5行に一か所に及んでいる。また訂正されない誤字が多数あるとする。 そして、「素人が書いたものは最初は丁寧な字で書いていても後ではどうしても乱れてくるが、この書は終始一貫しており筆者の専門家の書」と見られる。 よって、もともとかなり「乱雑な草稿」であったものを筆者の専門家に筆写させたが、筆写者は仏教の知識を欠く人物であっただろうと推定する。 ただし〈田村〉自身は、この書が書かれた国については中立的である。 《御物本》 〈御物本〉そのもののつくりは質素だが、保存状態は極めて良好だという。 〈魚住〉が『「書」と漢字』で挙げた御物本の形態的な特徴のうち、主なものを拾うと、 ●「軸があたかも麺棒を補足したような一本棒」である。普通は、軸木の両端に紫檀・黒檀や象牙・水晶で作った軸頭を嵌めているが、 『法華義疏』にはそれがない。 ●「本紙に裏打ちの保護」が加えられず、書き込んだ紙をつぎつぎと繋いだものである。 ●行頭はきれいに揃っているが、揃えるための折跡がない。しかし、実物を見たところ「へらのようなものによる押跡の罫が施されていた」ので、それを基準線にしたらしい。 ●「料紙の色は薄茶褐色であるが」、年月による退色ではない。なぜなら「巻頭から巻末まで、まったく色が変わらないからである」。保存はみごとで虫食い一つない。 《書体》
●基本的に楷書に一部草書を交え、一文字ずつを分離する。 ●筆使いは直線ではなく、大体右カーブの曲線。 ●「極力簡便な字が用いられている」。卒→卆、國→国、號→号、萬→万など。 以上から、「簡便さを優先し、速書することを主眼となす」が、「まったく文字を連綿させ」ない〔=続け書きをしない〕ことについては、 「判読が煩わしくなることを避けるための配慮」と見ている。 類似の書法として、「李柏文書」の例を挙げる。 これは、「今世紀初頭…シルクロードの楼蘭古址で発掘」された李柏の手紙で、 李柏が晋書に登場する人物で、王義之在世の時代と重なるので、年代は厳密に絞り込めるという〔328年頃という〕。 この「常用筆記体とでもいうべき書き方が、六朝時代〔222~589年〕から隋代に至るかなり長きにわたって用いられ」たという。 また、『法華義記』〔敦煌文書〔次項参照〕;曇延許536年の書写〕は、「書法としての時代感覚は」『法華義疏』より新しい 〔=仮に義疏が義記より新しかったとしても、その書体は義記より古い〕と述べる。 さらに、『野中寺弥勒菩薩像銘文』(丙寅年〔666〕と記される)については、 「法華義疏の書法に類似するものとして知られる」が、「弥勒菩薩像のみごとさ…に比べ、銘文がいかにも格式を欠く」とのべ、さらに文章における和習を指摘している。 このように、〈魚住〉は7世紀の倭の書のレベルは中国に劣ると見て、中国の書と共通性が高い『法華義疏』は中国のものという考えを匂わせている。 本サイトでは、「元興寺伽藍縁起…Ⅲ」【光背・造像記の線刻】において、 像の制作からは年月を隔て、674年以後に線刻されたと見た。 〈魚住〉は、『法華義疏』は中国で書かれたものとする。その見解を要約すると、端的に言って次の二点である。 ①文中で「外国語」は梵語〔サンスクリット語〕、「漢語」は中国語を表すが、当時の日本人が正しく理解して両者を使い分けることができていたとは思えない。
これらに対する本サイトの見解は、後に述べる。 《本義》 〈花山〉によると、『法華義疏』には『本義』から引用されている。 さらに『法華義疏』の『本義』は「梁朝の広宅寺法雲〔467~529〕の講経〔=経を解説する講〕の筆録〔口演を文字起こししたもの〕 を集成した『法華義記』八巻(大正大蔵経三十三巻収録)であることは明らかである」という。 そして、『法華義疏』『勝鬘経義疏』(後述)と同じく『本義』を底本として、「自由な選択と批判の態度」をもって私集されたものとし、 三経義疏ともに上宮王の作であるとする考えを滲ませている。 《筆録》 ここで、仏教書籍への注釈書が作成された環境を想像してみよう。 一般的に講において、その口述発表を筆録としてまとめるのは、どの時代にも普通のことであったと思われる。 例えば、弘仁の日本紀講筵のスタイルは、経義の講筵と同様と考えられ、その筆録に付されたものが「弘仁私記序」である。 もし、口演者が発表に向け準備したメモが提供されれば、筆録作成の作業の助けになろう。 〔自分がシンポジュームなどで、集録を編集する立場になったことを考えれば理解できよう〕 〈推古紀〉十四年には、太子による「講二法華経一」と載る。記録者はその内容を速記して、発表者が用意した発表原稿が借用できれば利用し、 それを筆者専門家が清書したのが、今日まで残る『義疏』だと考えることもできる。 ただ、『法華義疏』の「総字数は約87,500字…四百字詰め原稿用紙にして、約220枚」に及ぶというから(〈魚住〉)、一回の講の記録にはとどまらない労作と見るべきであろう。 複数による合作を否定し、個人の著述とする意見もある。 〈田村〉は、「法雲の『法華義記』に真っ向から対立する説を立てながら 「悪の心は及び難し、ゆえに尽くは記さず」…という。もし複数の著者がおり、 その中の一人の主張がここに用いられていたら「愚の心」という言葉は出てこないだろう」(pp.6~7) と述べ、著者は単数とする。 孔子の言葉を弟子が「論語」として遺したように、継続的に上宮王の口述、若しくは走り書きしたことをスタッフが書にまとめたことは十分に考え得る。 仏教の導入は国家的事業であった。そのハードウェアとしての大寺院の造営は、間違いなく組織的に行われている。 同様に、ソフトウェアとしての経典の研究も、サポートする学問僧とともに組織的に行われていたと見るのが自然であろう。 そこに浄書専門家も加わっていたが、当時はまだ日本仏教の草創期なので、あまり仏教を知らなかったのかも知れない。 よって『法華義疏』が誤字だらけになったのは、当然の帰結と思われる。 これについては、〈岩波花山〉も「仏教知識のまだ幼稚な時代の著作であったがため」と見ている。 後世に、見直して訂正がなされたのだろう。 『法華義疏』などの研究組織の中心に上宮王がいたとすれば、これが太子の『法華義疏』として早い時期から大切に保存されてきたことも頷ける。 《書かれた国》 多数の誤字は、仏書の蓄積のある中国では考えられないから、倭国で書かれたと考えざるを得ない。 前述した〈魚住〉の①②の主張に関しては、『本義』という土台があったのだから、この程度の文章の構築は可能ではないだろうか。 百済僧、高句麗僧による助けも考えられる。 ②については、十七条憲法は実際には大化の改新の時期に作られ、権威づけのために太子の名を冠した可能性を本サイトは論じた (推古十二年)〔ただ、骨格は太子の時代を作られ、後に肉付けされたことも考え得る〕。 考古学的に『法華義疏』を調べるなら、紙の繊維を調べればその原料植物の産出国を特定できよう。 最近はその研究手法が確立しつつあるようで、ウェブサイトを検索すると 「 前近代の和紙の混入物分析にもとづく「古文書科学」の可能性探索」などが見える。 また、「 東北メディカル・メガバンク機構」には 「ミイラや化石の中にも、DNAは残っています。さらに動植物そのものではなく、加工した物、たとえば毛織物や木工品にだってDNAは含まれている」とある。 さらに、C14法を用いれば、年代も特定できる。 もし紙の繊維が7世紀初めの国内産なら、『法華義疏』国内のオリジナルか、少なくとも国内で模写したものである。 ただ、その調査のためには紙から小片を採取しなければならない。しかし、宮内庁も法隆寺も当分許可することはないであろう。 《結び》 7世紀初頭から大寺院が次々と建立されたのを見れば、仏教の導入は新たな国家の骨格作りともいうべき大事業であった。 ならば、その教義についての研究も、国作りの精神的基盤に資すための研究が国家事業として推進されたと考えるべきであろう。 その研究が特定の知力に優れた個人に大きく依存したとしても、それを支える学問僧や渡来僧、書記などのスタッフがいたと見るのが自然である。 もしその内容が仏典を主体的に自国のものにしようとする息吹に溢れ、かつ実際にそれを指針とした国作りがなされたなら、 この書は倭で書かれたものとなろう。 結局は、その内容こそが、倭のオリジナル文書であるかどうかの判断基準になるわけである。 【勝鬘経義疏】 《勝鬘経》 勝鬘経(一巻)は、原題『勝鬘師子吼一乗大方便方広経』。 「宋の求那跋陀羅(ぐなばつだら)訳。勝鬘夫人(しょうまんぶにん)が仏陀の威神力を受けて一乗真実の道理と如来蔵法身について説き、仏陀が賞賛してそれを是認する形をとる経典」 である(デジタル大辞泉;小学館)。 《勝鬘経義疏》 〈花山〉は、その解説において『勝鬘経義疏』が中国で作られたとする説を否定する。 その根拠として挙げるのは、「中国における数多の章疏のなかに〔『勝鬘経義疏』についての〕何らの言及がな」いということである。 つまり、中国文献の中に『勝鬘経義疏』を引用したり、話題として取り上げた例が全く見られない。 その一方で、奈良の智光が「上宮王〔=聖徳〕撰として三経義疏※を五十数回におよんで引挙言及」することなどは、 本邦で書かれたことの裏付けとなり、正倉院の「天平年間の記録のなかに「上宮聖徳法王御製」としての 三経義疏の幾種かが存在したことを示している」と述べる(pp.274~275)〔原文は上述〕。 また、三経義疏の「太子執筆」は名目であって、実際には他の人物が著したものだろうという考えについては、 「その内容がきわめて専門的で、摂政皇太子〔中略〕のものではなかろうと考えたいのが常識だが、 凡人の常識をもって計られないもののあるところに「大聖」、「聖徳」または「法皇」という呼び名が自然に生まれた」のではないかと述べ、 太子の真筆とする印象を抱いている(p.274)。 『勝鬘経義疏』は、中国の「敦煌写本群」から発見された『勝鬘経本義』(p.248)を 「底本として、その他いくつかの注疏を参考として私集されたもの」であると見る。 《本義》 続けて〈花山〉による。 「最近〔1969〕京都大学人文科学研究所の敦煌写本研究班によって、『勝鬘義疏本義』なるものが敦煌写本群のなかに存在することが発見」された 〔東方学報、京都、第四十冊、1969〕。 この『本義』と上宮王の勝鬘経義疏を比べると、勝鬘経義疏が『本義』を誤写したと見られるものが11箇所ある。 もともとの『本義』敦煌写本の誤写は28箇所ある。よっていくつかある『本義』の写本のうち 「一写本がわが国にも伝えられて、上宮王の『義疏』に『本義』として採用されることになった」と推定する。 《引用態度》 〈花山〉によれば、「「本義云」とも、「一云」ともことわらないで、完全に『本義』の解釈をそのまま採用しているところも少なくなく、 僅かに修正を加えたり、文章を簡略にしたり、改めたりしたところもかなり多く、『本義』の散説〔=あちこちに分散して書かれたもの〕を集約したものや、 また足らざるところは加上追加したところもある」という。つまり、上宮王義疏は『本義』を理解して記す作業を土台としているという。 《経典への理解》 〈花山〉によれば、義疏において「自説を述べるに当たっては、私懐者、今所須者」などとことわっている。 また、上宮王義疏が『本義』への同意を表す場合は、「亦好」「随欲可用」〔欲しきままに用ゐるべし〕、 「好則好矣」などと表現する。これらの書法は『法華義疏』と共通するという。 そして「ようするに」、「上宮の『勝鬘経義疏』は『本義』を底本として、その他いくつかの注疏を参考として私集したものであって、 最初からの独自の撰者でないことは、経典注釈疏としての当然のことである。 それだからといって、その価値が失われるものでは決してない。その中に見られる自由な選択と批判の態度とは、 『法華義疏』における場合と同様であって、きわめて高く評価されてよい」と結論付けている。 《義疏と本義》 『勝鬘経義疏』は、要するに注釈書『勝鬘経本義』を学んで作成したノートを基にして、文書として整えたということのようだ。 〈推古天皇〉十四年の「講」の筆録がもとになったかも知れないが、『義疏』の分量を「三日」で言い尽くせるかという疑問もある。 筆録以外の内容を追加したことも考えられる。 【勝鬘経義疏-真子章】 【法華義疏】の《結び》で述べたように、三義疏が倭国のオリジナル文書であるかどうかの判断は、 結局書かれた内容による。 それにはこれらの全部を読解しなければならないが、簡単には終わりそうにない。 ここでは、さわりだけを見ておきたい。 〈推古紀〉では最初に講じたのは勝鬘経となっているので、経の研究の入り口は勝鬘経であったと考えてみる。 そして、勝鬘経の中核は「如来蔵説」にあり、「真子章」にはその内容がよく書かれているので、この部分を抜き出してみる。 なお、「如来蔵説」は大乗仏教の思想で、人は皆、仏〔=如来〕になる可能性を内包〔=蔵〕するという考え方を指す。 《略明真子》
『勝鬘経』からの引用箇所には「従~以下」の書式を用いる。 『本義』では「従~已下」を用いている〔「已下」は「以下」と同じ〕。 また、ネスティングされた〔=入れ子の〕箇条書きが用いられるところも共通し、 『義疏』は、『本義』などの一般的な注釈書の書き方に倣ったものと言えよう。 《「若我弟子」の主語》 「若我弟子」以下は、誰が話した言葉かを押さえておく。 『本義』に「仏略説真子」とあるから、「仏」=釈迦が話した言葉と見て間違いないだろう。 《依明信已随順法智》 『勝鬘経』〈真子章第十四〉冒頭の「依明信已随順法智」を、 『本義』が簡単に「『順忍章門』を明らかにした」で片づけたことに対して、 『義疏』は不満を表明している。 それは信〔感情としての信〕が増上して順〔法理を理解した順〕に至るという、 順序性に触れていない点である。 この箇所は、『義疏』が自分の頭で勝鬘経を読解する態度を示す一例と言えよう。 《煩悩染汚》 「染汚」の解釈は『本義』にはあるが、『義疏』ではこの部分にはなく、 後段『勝鬘白仏』の「更有餘大利益」の項に回されている。 《大意》 「如是二法」以下は、第二の定め難い理(ことわり)を信ずる人を示す。 上で勝鬘(しょうまん)は既に定め難いといい、ここで如來〔釈迦〕も定め難いという。 すなわち、信の拠り所がないため、信できる人の資質を挙げ、信じよ疑うなかれと勧める。 その中に次の三項がある。 第一;総明を深解する者は信ずることができ、諸の凡人は信じ難い。 第二;「若我弟子」以下は、正に信じ得る人を示す。 すなわち、これは信と順の二忍の菩薩である。 第三;「此五種巧便」以下は、信じ得ることありと結ぶ。 この「第二」については、中に二項がある。 第一;単純に二忍の章門ありという。 第二;「随順法智者」以下は、順と忍を釈す。 「若我弟子従信信増上」において、「信」は信忍の章門、 「信増上」は、「登住(とうじゅう)の信」をいい、「信」のうち上位にある。 「依明信已随順法智而得究竟」は、順と忍の章門を述べる。 しかし、これを順忍の章門を単に並べたものと読んで済ませるのは疑わしい。 「随信信増上」の一文は、「信は順の元である」という関係を示すものである。 「第二」の釈は、ただ順忍を釈す。 一観(いちかん)の「観察施設根」は、五根が仮に受け取る〔感覚器による受容〕ことをいう。 「意解」(いげ)は、六識(ろくしき)をいう。 「境界」(きょうがい)は、六塵(ろくじん)をいう。ここまでに、十八界(げ)の観(かん)を述べる。 二観の「観察業報」は、因果の二観をいう。 三観の「観察阿羅漢眠」は、住地が明らかでなく惑う観をいう。 四観の「観察心自在楽禅定楽」は、知禅の二観をいう。 智恵は境(きょう)〔感覚器官の外界〕を照らし、恣(ほしいまま)に楽(ぎょう)を生み出す。 五観の「観察阿羅漢辟支佛」は、三乗〔三つの教え〕の神通力の観をいう。 第三;「此五種」以下は結びで、よく信ずることについて述べる。 「大乗道因」は、大乗の道を明らかにして仏の作る国とする。 又いう。八地以上は、これは大乗の道であると。信順の二忍、これは大乗の因である。 「信如来者有如是大利益不謗深義」はいう。このような人は先によく仏の言葉を信じ、 よってこのような五種の観の利益(りやく)を得、 ゆえにこの五観の力に因って、 今またよくこの定まり難い理を信じると。 《広明真子》
「正体中の第三」は、難解である。 正体は「正説」と同じ意味だと解釈し、爾時勝鬘」以下の章が「第三」だとすれば、第一・第二はその前のどれかの章となるはずである。しかし、直接には示されていない。 ちなみに〈早島勝鬘疏〉は、「第一」を「第六から第九章」、「第二」を「第十から第十三章」と解釈している。 あるいは、直後に「乗体乗境已竟」〔乗体と乗境については既に言い終えた〕とあるから、「第一:乗体」、「第二:乗境」ということかも知れない。 乗体・乗境を「略明真子」の「一観:観察察施設根意解境界」における「根」="乗体"と「境界」="乗境"と読むことは可能であろう。 「一観」のところではこれについて、五根=感覚器官、六識=外界からの刺激を感覚器に受容するはたらき、六塵=体の外の環境を意味すると述べている。 つまり、体=感覚器官を持つ体が「第一」、境=外界が「第二」である。 それぞれに乗~がついているのは、「悟りの彼岸に向かって乗っていく教えでいうところの」の意を添えるものであろう。 そして、感覚器(根)、外界(境)に、その主体として「乗に行く人」を加えるのである。 この段の結び「今此義者通挙体境及行乗人諸義也」でも「体(肉体)」・「境(環境)」・「行乗(修行)」を並べている。 《略明真子と広明真子》 『義疏』は「爾時勝鬘」から真子章とするが、 〈本義〉〔敦煌本 『勝鬘経本義』〕は遡って「若我弟子」から真子章としている。 「若我弟子」の部分は二忍(順忍と信忍)を挙げるが、行を積んで楽(ぎょう)の心境に達する部分に触れてない。 そこで、「爾時勝鬘」以下がそれを述べたものとする。 「若我弟子」章は真子についての略された記述だから「略」で、「爾時勝鬘」章は行によって高まる部分を広く詳述するから「広」と呼ぶ。 これは、〈本義〉が述べた「第一:仏略説真子」・「第二:勝鬘広説真子」〔釈迦は真子を略説し、勝鬘は真子を広説した〕を受けたものである。 『義疏』は、もし「若我弟子」から一章とするなら、その理由は第一の部分についても勝鬘の功を推すためだとする。 その場合、合体した章号として「勝鬘真子章」を提唱するのは、「勝鬘の提唱する真子の章」と名付けるべきだという意味であろう。 自説を提起しておきながら、「随欲可レ用」〔すなわち章の区切りをどうするかは読み手のご自由に〕と言われても困るが、 ことの本質に及ぶような重大な問題とは見ていないのだろう。 《三種の人》 『勝鬘経』は、善男子善女に次の「三種の人」を挙げる。
この何れかがすべての善男子善女人に備わっているという。これがまさに、如来蔵説の神髄であろう。 『義疏』は、これらについては説明を加えていない。 『勝鬘経』の原文だけで、意味は明瞭だからであろう。 《二忍と三忍》 二忍・三忍は〈本義〉の用いた語である。『義疏』は基本的に〈本義〉に触れた部分で使い、『義疏』自身は積極的に定義していない。 二忍が「信忍」「順忍」を意味するのは明らかであるが、「三忍」におけるもう一つの「忍」は何であろうか。 〈本義〉における三忍の定義は、どうやら无忍〔=無忍〕・順忍・信忍である。〈本義〉は、それぞれに対して「三種の人」から語句を拾っている。 无忍…①から「何等為三謂…自成就甚深法智」。〈本義〉では未だ信忍も順忍も持たない状態。 順忍…②から「成就随順法智」。『勝鬘経』によれば、信忍から増上し、ついに法智に達した忍。 信忍…③から「於諸深法不自了知仰推如来非我境界唯仏所知」。『勝鬘経』によれば、自然発生的な感情。 しかし、これらの拾い出し方は、必ずしも『勝鬘経』のいう各タイプの説明文(前項)とかみ合わず、適切とは言えない。 正しくは、①②は信忍から増上して順忍に達する二通りの道筋であり、 ③は无忍だが、仏からみればすでに法智を得ている。 《第一》 第一・第二…の対応に厳密性を欠くのは、一種の和習であろう。 〈本義〉にも第一・第二…の箇条書きが数多く見られる。更に二層、三層のネスティングがあるが、 層を下げるところには必ず「又分為n」を入れて構造を明確にしている。 正直に言って、『義疏』はその点が甘い。この特徴は『義疏』が倭人によって書かれたことの、有力な裏付けになる。 一般に漢籍においては、「曰」で引用を区切る、「者」で主部を区切る、「也」で文末を示す、「其」の反復で文頭を明確にするなどして抜かりがない。 ラテン語のように格変化や人称変化のある言語ならそれによって文のまとまりが分かるのだが、 漢文にはそれがないから特定の文字を区切りとして用いるのである。 《勝鬘章第十五》 国訳大蔵経版では、「第三従「除此諸善男子」以下」の部分は、章目〈勝鬘章第十五〉をまたがっている。 章目「第十五章」は、「除此諸善男子善女人已」と「諸余衆生」の間にある。 しかし、「除二此諸善男子善女人一已諸余衆生」〔此の諸(もろもろ)の善男子善女人を除くことを已(お)へて諸の余れる衆生は〕は、 「今述べた三種の善男子善女人以外の衆生は…〔調伏すべし〕」という意味で、したがって〈勝鬘章第十五〉はこの文章を途中で切断していてあまりに不自然である。 同版は第一章のところに「此章以下至第十五章俱並無章目」〔この章から十五章まで章目〔章の題名〕なし〕なる頭注を付けているので、 章目は後から付加したもののようである。 《大意》 「爾時勝鬘」以下は正体の中の第三として、 「真子」一章を挙げ、御乗(ぎょじょう)の人を明らかにする。 〔第一の〕乗体(じょうたい)と〔第二の〕乗境(じょうきょう)は、既に正説を終えた。 そこで、ここに真子の一章を設け、 三忍の菩薩がこの乗を受けて乗に行くことを明らかにする。 『本義』は、「「若我弟子」以下が「真子章」に入る。 その中には、二つの部分がある。 第一は、如来〔釈迦〕がただ信・順の二忍を挙げ、よって「略明真子」〔略して真子を明かす〕と名付ける。 〔第二は〕ここから下で、勝鬘が三忍を備えて挙げ、よって「広明真子」〔広く真子を明かす〕と名付ける。」という。 こうして、如来はこの経(きょう)をもって功を勝鬘に推そうと欲し、 ただ「略明真子」のこの信・順の二忍を併せ、「勝鬘真子章」としたものである。 どちらを用いるかは、任意にするがよい。 「広明真子」の中については、初めに三つの部分に開く。 第一は、勝鬘が説くことを請(こ)う。 第二は、如来が説けと命じる。 第三は「白仏言」以下で、勝鬘による正説である。 第一の部分の「更有餘大利益」は、 上〔「若我弟子」の章〕で既に乗(じょう)の「体(たい)」及び「境(きょう)」を明らかにしたが、しかし未だ乗(じょう)に行く人のことを明らかにしない。 よって、「更有余大利益」〔"さらに"余れる大きな利益有り〕と言うのである。 また遡ると、 如来はよく義に信じ染まり、汚れに染まらない人の利益(りやく)を挙げる。 よって言う、更に余して遍(あまね)くこの経を行う人に利益があると。 第三の部分については正説を開き、次の五項がある。 第一は「三種善男子」以下で、三種の人をまとめていう。 第二は「何等為三」以下で、三種の人を分けて並べる。三種の人は「若」の文字で区切られる。 第三は「除此諸善男子」以下で、悪人を調伏することを明らかにする。 勝鬘(しょうまん)は自らよく王の力及び天の竜の力などを用いて、これを調伏することができる。 第四は「爾時勝鬘」以下で、明説を終えて敬意を払う。 第五は「佛言善哉」以下で、仏の述嘆を明らかにする。即ちここには二つあり、その第一は、その悪人を調伏することを述嘆する。 第二は「汝已親近」以下で、嘆説には入らない〔嘆説はすでに終わり、これは勝鬘を褒める文である〕。 今「此義」は、体・境及び乗に行く人の諸々の義の全体を通していうものである。 【勝鬘経】 勝鬘経の該当部分を訓読する。 ここでは上宮太子の時代に本義が読まれたと想定して、上代語を用いる。 ただし、仏教語については、この時代は外来語だから音読かも知れない。もし、一定程度和訓が試みられていたとたとしても、 その訓みは不明だから、ここでは音読で統一する。 学究的には不完全だが、理解の助けとするための便法とする。
如是二法 〔釈尊は〕「…このような二法で、あなたは大法菩薩魔訶薩を成就する。 そしてよく受諾した諸々の他の声を聴き、ただ仏信の語を聞く。 〈眞子章第十四〉 若我弟子 もしわが弟子が随信し増上すれば、 明信に依存し、随順して法智の人となろう。 こうして究竟を得て随順し法智になれば、 ①根・意解・境界を施設することを観察する、 ②業報を観察する、 ③阿羅漢の眼を観察する、 ④心自在の楽と禅定の楽を観察する、 ⑤阿羅漢・辟支仏・大力菩薩の聖上が自在に通じるすことを観察する、 この五種を巧便し、私が滅した後の未来の世の中に成就することを観よ。 私の弟子は、信ずるままに増上し、私の明信により法智に隋順である。 自性〔生まれついて〕の清浄心があるが、彼は煩悩に染汚して究竟を得、 この究竟が、大乗に入る因である。 如来を信ずる者にこの大いなる利益が与えられるのであって、深義を誹謗してはならない。 爾時勝鬘 その時、勝鬘は釈尊に、 「更に加えて大いなる利益が有ります。 私が仏〔=釈尊〕の威神を承り、またその義を説きたいと存じます。」と申し上げ、 それを聞いた釈尊は「よろしい。更に説きなさい」と仰った。 勝鬘は釈尊に仏に申し上げた。 「三種の善男子・善女人は甚深の義に、 毀損した傷から離れ、大なる功徳を生み、大乗道に入ります。 三種とは如何なる人でしょうか。 若しや、善男子・善女人が自ら甚深の法の智を成就します。 若しくは、善男子・善女人の法智に随順して成就します。 若しくは、善男子・善女人が諸々の深い法を自ら気付かぬまま 如来を仰ぎ推し、自分の境界にはなくただ仏のみが知ります。 これらを善男子・善女子と名付けて、如来〔=釈尊〕を仰ぎ推奨させていただくものでございます。 これらの諸々の善男子・善女人を除き、 〈勝鬘章第十五〉 その他の諸々の衆生は、諸々の深法に対して頑なに妄説に捉われています。 正法に違背し、諸々の外道・腐敗の種子を習う者は、 まさに王力・天竜・鬼神の力を用いて調伏すべきです。」 このように申し上げ、勝鬘は諸々の眷属〔同門の者たち〕と共に、仏足に頂礼〔釈尊の足元に深々と座礼〕した。 釈尊は言った。「よろしい、まことによろしい。 勝鬘はごく深い法によりさまざまな方便を用いて守護し、非法の者を降伏できよう。 よくその宜(ぎ)を得たのである。 あなたは既に百千億の仏に親近し、よくこの義を説いてくれた。」 【勝鬘義疏本義】 『勝鬘義疏本義』敦煌本を訓読する。 ここでも上宮王の時代に読まれたことと想定して、仏教用語は音読し、その他は上代語として訓む。
第四:その崇拝を仏に与えることを述べる。 如是二法以下がこれである。 「二法」は仏性の理と善悪の心で、それはただ仏証の知を明らかにすることに向かい、今押し解き 師弟の関係を結び、相互に賞讃する。 第十四、真子章については、さらに二つに分ける。 第一:職損は真子を略説し、ただ信・順の二つの忍を明らかにし、さらに三つに分ける。 第一:章門。さらに二つに分ける。 第一:信忍の章門を明らかにする。「若我弟子」以下がこれである。 「信増上者」は、登住の信をいい、信の中の上である。 またこの信をいい、信は仏性増上の法である。 第二:順忍の章門を明らかにする 。「依明信已」以下がこれである。 第二:正しく忍体を出す。釈して章門を上げ、この中に正しく順忍を明らかにし、兼ねて信忍を明らかにする。 もし、五種の観成れば、これが順忍であり、 観がもし成らなければ、これが信忍である。 よって、区別がないうちは信忍を示すに過ぎず、五種の巧便が「観」なのである。 第一観:十八界(がい)は、「観察施設根」は五根の仮の施設をいい、 「意」は意根をいい、「解」は六識をいい、「境界」は六塵をいう。 第二観:因果は、「観察業報」の句がこれである。 第三観:「阿羅漢眠」は住地を明らかにならず困惑することをいう]。 第四観:知禅(ちぜん)。「観察心自在楽」は智恵が照境し、恣に楽をなすという。 「禅楽」は禅定の楽である。 第五観:三乗・神通は、「観察阿羅漢辟支仏」以下がこれである。 第三:結びとする。「於我滅後」以下がこれである。 この人に、仏滅〔釈尊の没〕の後、よく大乗を秉って行えという。 「而得究竟」は、その不染を解き、義染したことを褒める。 「入大乗道因」は、大乗道が仏となる因となるという。 また「八地は大乗道で、信・順の二忍は大乗道の因である」という。 第二:勝鬘は真子を広説し、つぶさに三忍を明らかにする。さらに二つに分ける。 第一:勝鬘は正に真子を説く。さらに五つに分ける。 第一:三種の善人を総称し、爾時勝鬘以下である。 ここで「離自毀傷」は、誹謗しないことができる。 第二:忍を未だ挙げない段階を示す。「何等為三」以下がこれである。 第三:順忍を示す。「成就随順法智」という句がこれである。 第四:信忍を示す。「於諸深法」以下がこれである。 第五:悪人を調伏することを示す。「除此諸善男子」以下がこれである。 第二:如来〔=釈尊〕が、勝鬘が概ね真子を説いたことを述べる。 「佛言善哉」以下がこれである。 「降伏非法」は、ひとえに上の第五段で悪人を調伏することを取り出して述べる。 【義疏は勝鬘経をどう読んだか】 《信忍と順忍》 信順の二忍の相互関係について、「信忍が増上して順忍に至る」という順序性を見落とすなという。 〈本義〉がそれに触れず、単に並列していることを批判したと見られる。 《広明真子》 『義疏』は「更有余大利益」に注目する。これは「善男子善女人」すなわち幅広い範囲の人々に利益が及ぶと解釈しているようである。 「行乗人」は信忍・順忍の主体となる人のことで、《略明真子》はそこまでは触れていないという。 『義疏』が真子章を《広明真子》に限定するのは、そこだけに書かれた「人」を重視しているからであろう。 このことから、『義疏』の関心は、仏教の幅広い普及に向けられていることが分かる。 この部分について、〈本義〉は「三忍」を述べた部分とするが比較的素っ気ない。 『義疏』は〈本義〉に縛られることなく、主体的に意味を読み取ろうとするのである。 《独自性》 『義疏』の筆者は〈本義〉を参考にするが、決して〈本義〉に毛の生えた程度のものではなく『勝鬘経』を自分の頭で納得いくまで理解しようとする態度に溢れている。 その背景には、国家が仏教を導入するにあたって、その経典に書かれた思想の神髄を理解し切った上で取り組もうとする姿勢があったと感じられる。 また、少なくとも真子章においては、庶民のレベルまで法智への理解を広めようとする意欲が読み取れるのである。 実際にそれを行おうとすれば、様々な既存の宗教勢力との衝突が避けられない。「調伏悪人」の部分は、その問題意識によって取り上げられたものであろう。 まとめ 推古朝において、本格的に仏教国家に向けて舵を切ったのは、現実に建立された寺院を見れば歴史的事実として疑う余地はない。 その際、仏教思想を根底まで理解して臨もうとする真摯さが、『勝鬘経義疏』など三経義疏の執筆を促したとするのも、また自然な見方であろう。 その中心に上宮王がいたことは、確実であろう。義疏の執筆が朝廷の部署による組織的な仕事であったの当然であろうが、 少なくとも清書前の執筆が上宮王自身だったとしても、それほど無理のある想像ではないと感じられる。 ごく僅かな部分を見ただけだが、『義疏』と経典を照合して深く読むほど、その感が強まるのは事実である。 少なくとも『義疏』が、経典を真剣に読み解いて成し遂げられた偉大な著作であることは間違いない。 さて、三経義疏の執筆者に関して、外形的な特徴に拠る議論と、仏教思想からのアプローチとの間には深い断絶がある。 前者がしばしば中国製を主張するのは、その形態的な特徴が中国文化の内にあると見做されるからである。 一方、後者においては、なんといっても我が国の仏教の著作が「聖徳太子の著作」を出発点として発展してきたからである。 しかし前者については、金錯銘鉄剣以来の筆法・書法の交流の蓄積が軽視されているように思える。 また後者については、純粋な科学の対象に信仰のフィルターがかかっていないとは言い切れない。 双方の研究手法に、ともに深く通じた研究者の出現が望まれる。 ただ、大局的に見てこの時代の国家の大規模な仏教化は否定のしようもなく、その要に上宮王がいたこともまた確かであろう。 だから、少なくとも三経義疏の製作には、太子が一定程度の関与があったと見てよいと思われる。 |
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2021.10.06(wed) [53] 岡本宮 ▼▲ |
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〈推古紀〉十四年によれば、上宮皇子は法華経を講じた。それでは、その講の会場とされる「岡本宮」はどこにあったのであろうか。
一般には、その岡本宮跡に創建されたのが法起寺であるとされている。ここでは、諸文献を追ってその真相を探る。
【法起寺】
この金堂下層の建物の「真北から20度西」は、創建法隆寺とされる若草伽藍(資料[51])の「真北から24度西」の傾きに近いことが注目される。 ここでいう「塔露盤銘」とは、顕真〔法隆寺の僧〕が著した〈聖徳太子伝私記〉〔鎌倉時代〕の巻末に載せられた引用が初出とされる。 【法起寺塔露盤銘】 法起寺の「塔露盤銘」は法隆寺僧の顕真が鎌倉時代に著した〈聖徳太子伝私記〉に載る。〈會津〉によると、 これが「此〔の〕銘文の最も古い、比較的完好の記録」で、それが〈玉林抄〉や〈和州旧跡幽考〉に引用されたと見られるという。 全文は、次の通りである。
前置きと「永保元年二月七日…」は、おそらく和文である。永保四年は1041年だが、辛巳は(1081±60n)年である。 純正漢文なら、「官使岡本寺 書写露盤銘文 齎之於京」などとなろう。 ここでは万葉歌風に「岡本寺に官使下り、塔露盤銘の文を書き取り京〔に還りき〕」と訓むと思われる。 この文からは、少なくとも「岡本寺」の所在地が、平安京から離れていたことが分かる。 この文によって、「此山本宮」が「岡本寺」の誤記であることが裏付けられる(後述)。 〈會津〉によると、『法隆寺別当次第』にも 「永保元年辛酉二月七日岡本寺塔基官使下塔露盤銘文書宣旨下取」とある。顕真の文は、おそらくこれに依ったと見られる。 「文書宣旨下取」〔文書を宣旨下りて取りき〕の語順も和風で、また「書取」を誤写したようにも思える。 なお、この引用の出典を探しているが、今のところ見つからない。 「永保元年辛酉」は「露盤銘文」では「辛巳」だが、永保元年〔1081〕は辛酉が正しい。〈會津〉が「勿論顕真の誤記にちがひない」と言う通りだろう。 〈大橋一章〉は、塔露盤銘に対して〈會津〉によってなされた解釈を紹介している。 ここで〈會津〉の原文から、その解釈の一部を見る。
(D)は、「傳」だとしてもその位置が不適当である。置くなら「此山本宮〔岡本宮〕」の前であろう。 (E)は考えにくい。「即(つ)く」相手は一般に具体的だが〔即位=位に即くなど〕、 単に「処」ではあまりにも漠然としているからである。 また、「即-処」の並びは「中国哲学書電子化計画」による検索では一例もない。ただ朝鮮語にあり、 "즉처"〔jeugcheo〕とよまれ「即決で処分する」を意味するという(WORDROWによる)。 この語が古語で、百済から来たことも考えられないではないが、実際には現代語のように思える。 (F)については、「皇」の脱落の有無にかかわらず、聖徳王のことであろう。 (B)については、〈會津〉説を採用しても文意が通りにくい。 同説は「将作寺」とするので、これを前から繋ぐと「岡本宮殿宇即処伝将作寺」となるが、それでも不自然さは否めない。正しく書くなら「俗云二于岡本宮殿処将一レ作レ寺」であろう。 氏の言うとおりに直したところで「寺を作らんとす」と「倭国田十二町…を入れ」は文として直接には繋がらない。〔「将」が「入」までかかるとすれば文法的には成り立つが、寺領の場所と広さまでを事前に予定することなどあり得ないであろう。〕 さらに、「専為」は宮殿の土地を寺に転用する意味の言葉として、外せないと思われる。 また(B)で「為竟願構立堂塔」に直そうとする点については、「為レ竟レ願」は「願っていることを成就するために」という意味である。 それならわざわざ直さなくとも、もとの「将レ竟レ願」〔願いを成就しようとして〕のままでも意味は通る。 《福亮僧正》 〈孝徳紀〉大化元年〔645〕八月の仏教興隆の詔に「以二沙門狛大法師福亮恵雲常安…一而為二十師一」、「此十師等 宜下能教二-導衆僧修行一釈レ教 要使二上如法一」などとあり、 福亮は「十師」に任じられた。〈国史大辞典〉によると、呉国人とも言われ、 「『元亨釈書』には、斉明天皇四年〔658〕中臣鎌足より山科陶原家(京都市山科区)の精舎に請ぜられ、『維摩詰経』を講じたと記す」という。 「僧正」という地位の初出は〈推古紀〉三十二年〔614〕にある。同年、観勒が最初の僧正となり、三十三年には高句麗から招いた僧恵灌が僧正に任じられた。 なお、「大僧正」の初出は、天平十七年〔745〕の行基である(〈続紀〉)。 以上から、638年の時点で「僧正」という地位が存在していたことに問題はない。 《御分敬造》 「聖徳御分敬造彌勒像」とはどのような意味であろうか。 「聖徳御分」の御分(みわけ)は、622年に薨じた太子の遺品の一部を賜ったように読める。ところが、次の「敬造」は福亮僧正が造ったと読め、意味が通じない。 これがもし「敬祀」の誤写だったとすれば、話は簡単である。 または、「敬造彌勒像」はある程度熟語化した語で、「太子が敬造なされた彌勒像」だとすれば一応意味が通るが、確実ではない。 〈會津〉所引の喜田貞吉「法起寺及法輪寺塔婆建築年代考」では、「聖徳皇ノ御分トシテ」とする。 ここに付された「トシテ」は、彌勒仏を模った太子の分身を敬造したと読んだと思われる。 菩薩像によって太子の姿を表した例としては、法隆寺聖霊院の秘仏「如意輪観音菩薩半跏像」などがあり、 「聖徳太子は少なくとも平安時代には観音菩薩の化身(けしん)・生まれ変わりとして信仰されるように」なったという (東京国立博物館/1089ブログ)。 それでは、634年の時点ではどうであろうか。太子が自身を弥勒菩薩の化身だと思っていたわけがなく、菩薩像は崇拝の対象であっただろう。 634年に人々の記憶に残るのは、まだ現実に生きた人としての太子だから、太子と菩薩とを同一視するのはまだ早いだろう。 仮に太子像だったとして、それなら「御分」ではなく「御影」「御身」「御形」などの方が適切だろう。 さらに別の考え方としては、「聖徳御分」という聖徳太子に付き従う役職があったとすれば意味は通るが、今のところそのような言い方は見えない。 《平安時代の文章か》 「即処専為作寺」は、このままでは漢文として体をなさない。だから誤字としての解釈が試みられるわけだが、最初から和文だったとしたらどうであろうか。 倭語として発音順に漢字を置く書法は万葉歌や宣命体に見られ、奈良時代中頃から一般化したようである〔下述の〈法隆寺縁起資材帳〉の文もそうなっている〕。 平安の和文として「岡本宮殿宇即処専為作寺」を訓めば、「岡本宮の殿宇に、即ち処を専(もはら)為(な)して寺を作(つく)れり」〔=岡本宮の土地をもっぱら寺にした〕と訓むことができる。 また「即処」=「其処(そこ)」であった可能性も否定できない。 平安時代なら、前項「御分」が御姿の意味で使われたこともあったかも知れない。 なお、「殿宇」はれっきとして存在した語で〔壮大な宮殿の意〕、特に問題はない。 また、崩・勅を太子に用いられてことは一つの問題を提起する。初めは、平安時代になって用語法の厳格さを失った結果ではないかと考えた。 ところが、調べてみると「崩」については飛鳥時代から太子のために用いられている(次項)。 さらに飛鳥時代に和習がなかったとも言い切れず、 例えば飛鳥時代と見られる野中寺の金銅弥勒菩薩半跏像銘文の「中宮天皇 大御身労坐之時」における「坐(ましま)す」は、和語である。 なお、半跏像銘文の年代は〈天皇号〉が用いられるようになった頃と見られる。 同時代の古事記では語彙に和語を含むが、語順は漢文規則に従う。 一方「勅」は野中寺半跏像銘文にはなく、『天寿国繍帳』(次項)には一か所出てくるが主語は天皇である。 《勅・崩》 勅・崩が上宮太子に使われた問題を、さらに掘り下げる。 「上宮太子~専為作寺」は、上宮太子がその崩に臨んで〔遺言として〕岡本宮を寺にせよとの勅を、山代兄王に発したという意味である。 本来は、「勅」の主語は推古天皇のはずだが、太子にまだ息があるうちに推古天皇がこれを言うとは考えられない。 太子に「崩」を用いているのだから、「勅」も太子が主語であろう。 書紀においては勅・崩の主語は、天皇のみである〔僅かな例外として、神功皇后の「勅」、日本武尊・神功皇后・飯豊皇女の「崩」が見られる〕。 こと上宮太子については、〈推古紀二十九年〉に「厩戸豊聡耳皇子命薨于斑鳩宮」とあるから、書紀では通常の皇子の扱いである。 遺言から堂塔の建造まで64年もの間が空くのも不自然で、「聖徳太子の遺言によって」の部分はおそらく伝説であろう。 〈會津〉の論文には参考資料のひとつに『中宮寺天寿国繍帳銘』の一部が添えられていて、その中に「太子崩」の文字がある。
「天寿国繍帳」には、繍帳に散りばめた亀を模ったイラストに、銘文を4文字ごとに分割したものが書き込まれている。 〈上宮聖徳法王帝説〉によれば、銘文の書き始めは「斯帰斯麻宮治天下天皇名阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等」 〔敷島宮に天下を治(しろしめたま)ひし天皇、名(みな)はアメクニオシハルキヒリニハ〔天国押開広庭〕の尊〕なので、 〈天皇号〉が使われるようになった時代の作である。 ここでは太子のみならず、太子の母孔部間人王にまでも「崩」が使われ、〈礼記〉の規定には無頓着である。 後に書紀においてはじめて〈礼記〉に沿った整理を行ったことが考えられる。 「法起寺塔露盤銘」が平安時代なら、再び厳格な用法が崩れていたことになる。 一方「勅」においては「天皇聞レ之〔=太子の崩〕…勅二諸采女等一造二繡帷二張一」とあり、その主語は明確に推古天皇である。 この時代に太子「勅」の言い方をしたかどうかは、「天寿国繍帳」では分からない。 《銘文の成立時期》 銘文の製作時期は文中の丙午年〔706年〕から官使が筆写した永保元年〔1081〕までの間だが、それ以上は絞り込めない。 それでも、前述したように平安時代だとすれば「御分」を太子像と解釈することは可能で、無理に「誤写」とせずとも平安時代の文として解釈できる箇所がいくつかある。 平安後期ならカナ交じりであってもよいが、露盤銘という性質上漢字のみにしたと考えられる。 前述したように、「山代兄王が上宮太子の遺言を受けて…」という64年も前の漠然とした話を持ち出すのは、ずいぶん時代を経てから伝説を基にして組み立てた文章のように思われる。 本当に706年に書かれたのなら、それに近い年からの経過〔文武朝の勅とか、当時の僧の発願とか〕がもう少し具体的に書かれて当然ではないだろうか。 1081年以前の記録にこの露盤銘文が見出されないのは、露盤銘はそもそも平安時代に線刻されたからだと思えるのである。 【岡本寺】 《新抄格勅符抄》 〈大橋一章〉は、 「岡本寺の寺号は奈良朝の半ばまでは遡ることができる。正倉院文書の天平勝宝二年〔750〕から天平宝字五年〔761〕(七六一)に至る写経関係の文書には岡本寺のほかにも、 岡本禅院、岡本院の名が見えるが、おそらく岡本寺という寺号のバリエーションと思われる。 また『新抄格勅符抄』には宝亀二年岡本寺に封戸百戸の施入があったことを記している。こうしてみると、奈良時代の後半には岡本寺という名の寺が活発な寺院活動をおこない、封戸百戸を施入されるほどの寺格であっ たことが想像できよう。」と述べる。 〈新抄格勅符抄〉は、大雑把にいえば社寺に与えられた封戸数のリストを、『新抄格勅符』第十巻から抜き出したものである。そのうち、「宝亀十一年十二月十日騰勅符」として、 二十四寺の封戸の実施年・戸数・国などが載る。二十四寺の内訳は、太宰観音寺・西大寺・法花〔法華〕寺・知識寺・ 豊浦寺・葛水〔葛木〕寺・岡本寺・小治田寺・●師寺・角院寺・妙見寺・招提寺・神通寺・陳城寺・橘寺・大安寺・ 飛鳥寺・川原寺・薬師寺・荒陵寺〔四天王寺〕・山階寺・法隆寺・崇福寺・東大寺である。 そのうち岡本寺については「岡本寺 百戸【宝亀二年〔771〕五十戸 因幡五十戸】 白壁天皇〔=光仁天皇;在位770~781〕」とある。 《造東大寺司諜案》 東京大学史料編纂所の「データベース検索」を用いて、古文書から「岡本寺」を探した。 天平勝宝二年〔750〕付けの〈造東大寺諜案〉という文書に、「岡本寺」が出てくる。
最後のところに、「牒。依二紫微中台今月二日諜旨一奉請レ如レ前。故牒。」 〔牒。紫微中台の今月二日の諜旨に依り、奉(つつし)みて如前(さき)の如く請(まう)す。故(ゆゑ)に牒す。〕とあり、 造東大寺司が岡本寺に発する牒の原案を示し、「これでよろしいでしょうか」とお伺いを立てる文書のようである。 「千部之内」は、そのまま読めば「岡本寺が所蔵する1000部のうち」であるが、単に「所蔵している経典」と見るのが妥当かも知れない。 これを見ると、岡本寺は大量の経典を所蔵して必要に応じて貸し出すという、特別の役割を負った寺のようである。 《日本霊異記》 〈霊異記〉(822年と言われる)に「岡本尼寺」が見える。
鵤(いかるが)は斑鳩の別字なのでこれこそ法起寺かと思えるが、この問題については下で詳しく論ずる。 《興福寺雑役免西諸郡》 「岡本寺田」という語句が、〈平安遺文9〉補遺ノ二(延久二年〔1070〕)の「興福寺雑役免西諸郡」(p.3622)に見える。 これも東京大学史料編纂所の「データベース検索」によって見つけ、刊本を図書館で閲覧した。 「岡本寺田」だけを見ると地名のようにも見えるが、薬師寺田・元興寺田・法華〔花〕寺田などと横並びになっており、「岡本寺の田」であるのは明らかである。 なお、岡本寺"はいくつかヒットするが、"法起寺"が全くヒットしないことが注目される。
1町〔面積。109m四方〕=10段=3600歩である。計算すると右上のように分類されていることが確かめられる。 また、不輸免田畠の「三百一町」は「三百二町」の誤りであることがわかる。 不輸は荘園領主が国家への租を免除されること、免田は年貢や労役が免除されることなので、不輸免田は同意語反復的である。 雑役免田とは、年貢だけを朝廷に収め、労役を免除された田とされる。 ただし、不輸免田にしろ雑役免田にしろ、耕作民にとっては収穫物や労役の上納先が、国衙から荘園領主に変わっただけである。 「要劇」は仕事が重要で忙しいこと。「諸司要劇田」とは、本来官員の仕事への禄は現物支給だったのだが、それが難しくなったので代わりに供与された田である。 「神社仏寺諸司要劇田畠」は「神社田畠・仏寺田畠・諸司要劇田畠」の総称と見られる。 また、神社・仏寺の田畠は、国家が護持するために田を供与するものだから、 結局三者は同じ性格をもつということでまとめられたのであろう。 結局、興福寺の荘園内における「神社仏寺諸司要劇田畠」は、収穫物の上納分をすべて寺社や諸司に納め、労役が興福寺に提供される存在という理屈になる。 この「神社仏寺諸司要劇田畠」の中に、岡本寺田の項がある。
佐竹庄12町2段300歩〔12.183町〕=不輸祖田〔岡本寺田〕3段180歩〔0.35町〕+公田畠11町9段120歩〔11.93町〕 の計算は正しい。どちらも「雑役免田畠」の範疇に属するので、 ●不輸祖田・公田畠ともに、労役は興福寺に提供する。 ●公田畠では一般の田畠と同じく官物〔租税〕を納める。ところが岡本寺田では、それを丸ごと岡本寺に納める。 ということのようだ。 〈条里復元図〉を見ると、城下郡の西部には確かに岡本寺田の「十一条四里」が含まれる※。また、狭竹庄の内訳として、岡本寺田と公田畠が挙げられている。 岡本寺田の「11条4里23里の2.5段。26里の1段。」の位置を推定して、右図に示した。 ※…里の番号は、〈条里復元図〉の太線の両側に対称に振られている。この太線は平城京の朱雀通の延長である。よって、十一条には「東四里」と「西四里」があるが、 東四里は山辺郡で、城下郡に属するのは、十一条西四里のみである。 《狭竹庄》 ここには狭竹庄の田畠の条里と坪番号が列挙されているので、その位置を〈条里復元図〉上に図示してみる。
これを見ると、実際に公田畠に割り振られているのは、各坪の1~8割である。 これについて、①それ以外の部分は森林や竹藪、池・河川等で未開拓、②もともと雑役免田は国司との契約のもとに細かく虫食い状に定められたもの、 が考えられる。②だとすれば、庄園は厳格に境界を設けた私領ではなく、公田と庄田が入り混じっていることになる。 この中で注目されるのは、「16条3里36坪」である。〈条里復元図〉を見ると、16条3里は下城郡ではなく十市郡に属することになっている。 この条里は十市郡だが、北西隅の僅かな部分が城下郡にかかっており、そこは15条4里にある狭竹庄の続きであろう。 ということは「36坪」は条里の北西隅である。このことから条里内の坪割は、始点を北東隅とする折り返し型であることが分かる。 折り返し型であることは、さらに岡田寺田および公田畠の11条4里内の坪番号の並びから見てほぼ確実である。 この狭竹庄の公田畠の確認はあまりに大きな脱線と感じられるかも知れないが、 記述全体の厳密性を検証することがこの公文書を確かなものとして、ひいては「岡本寺田」の記述への信頼性を高めるのである。 【法起寺】
『太子伝大鏡抄』の「太子造立寺舎八所」も、「秘訣曰七代記」から引用したものという。 結局この部分は、本サイト←〈関野貞〉←〈大鏡抄〉←〈天王寺秘訣〉←〈七代記〉なる玄孫引きである。 〈関野貞〉はさらに「法起寺をもって太子の建立とせる諸書はなはだ多」しと述べ、 〈大和志〉から、「法起寺(中略)正堂一宇、三級宝塔、伝云山背大兄王建、按諸書所レ載池後寺亦太子所レ造云、山背大兄王建者恐誤」 〔…、伝に山背大兄王建てりと云ふ、按ずるに諸の書に載せたる池後寺また太子造れりと云ふ、山背大兄王建てるは恐らく誤りなり〕 を引用する。 つまり、法起寺「塔露盤銘」が上宮太子崩の後に山背大兄王が建立したと書くのは誤りで、四天王寺、法隆寺と同様太子が造立したものという。 〈七代記〉は771年頃の成立とされ、逸文のみが残る。 これらのうち蜂岡寺(広陵寺)については、『広陵寺縁起』によれば秦造河勝が建立した(資料[45])。 そこには聖徳太子が「誰かこの尊い仏像を恭敬する者はいないか」と問うたところ河勝が申し出てもらい受け、蜂岡寺を建てて祀ったという話が載る。 この伝説通りなら、大まかに「太子が建立した寺」と言っても特に差し支えない。 法起寺の場合も、山背大兄王が建立したとしても、太子の遺言によるわけだから太子が建てたと言ってよいだろう。 〈大和志〉は、ちょっと了見が狭い。
このように幾らかの混乱が見える。「上宮太子造立寺舎」のリストは早くても〈七代記〉の771年だから、既に伝説化していたことを漠然と述べたものと見るべきであろう。 元興寺は、書記では曽我馬子が建立したから入れにくいのは確かである。 なお、法起寺の別名を池後寺といったことについては信用できそうに思える。 〈聖徳太子伝私記〉にも同じように太子建立寺が載るが、ここでは「七寺」で、 〈七代記〉八寺のうち「広隆寺(蜂岡寺)」を欠くが、法起寺・法興寺は同じである。 〈太子伝暦〉は、「太子造立寺舎八所」に元興寺・中宮寺・日向寺の三寺が加えて「十一院」とする。 「法興寺(鵤尼寺)」と「池後寺(法起寺)」は、依然として別寺として書かれている。 法興寺については、「もともと入っていなかったが、資料を探索したらあったから入れた」とわざわざ書いている。ここでも「池後寺(法起寺)」は、鵤尼寺ではない。 よって、法興寺・法起寺が別寺で法興寺が鵤尼寺であることは、筆写ミスではなく確信をもって書かれたことである。 一方、〈法隆寺縁起資材帳〉には「池後尼寺」のみが挙げられている。〈七代記〉〈聖徳太子伝私記〉〈太子伝暦〉のいずれよりも古く、 史料としての確実性がある。よって、〈七代記〉などに出て来る「法興寺」「法起寺」は年月によって不純な要素が紛れ込んだものとして無視し、池後尼寺が岡本寺に直結するとの考え方は、一応可能である。 【法起寺:岡本寺説】 〈奈文研70〉は、法起寺地下の建物跡は「岡本宮の遺構である可能性が強い」という。そこで、法起寺を岡本寺が同一であるとする根拠を調べた。 検索して最初にヒットしたのは〈大山誠一〉論文であった。そこには、 「『正倉院文書』では岡本禅院とか岡本院とも呼ばれており、『新抄格勅符抄』では、奈良期末に封百戸を有し、造東大寺司に多くの仏典を貸与するほどの有力な寺院であった」と述べる。 そして「禅院」は単なる寺院以上に、「僧侶の禅定と仏典の収蔵」などの役割を負った施設で、岡本禅院は舒明朝に始まる「岡本宮の付属施設と考えるのが適当であろう」と見做す。 舒明朝の岡本宮は「小墾宮の北」説が有力なので(下述)、岡本寺はその周辺にあったということであろう。 そして書紀が編纂された時代には 「岡本宮が実在し、付属の岡本寺とともに…仏教施設として機能していたから…聖徳太子が法華経を講ずるにふさわしい場所として考えられたからと思われる」、 すなわち、書記が法華経を講じた場所「岡本宮」をしたのは全くのフィクションだと主張する。 よって、法起寺の「塔露盤銘」は法起寺によって11世紀に偽作されたもので、そのおもな狙いは倭国・近江の寺領を持つことの根拠とするためであるとする。 このように、岡本寺と法起寺は別の存在と見ている。 そもそも〈大山誠一〉は、「聖徳太子」を書紀編纂の段階で創作された人物とする立場に立っているので、 〈大山誠一〉説には、太子非実在説のバイアスがかかっていることに注意する必要があるが、「岡本寺」の性格については傾聴すべきものがある。 一方、明治時代に仏教建築を中心に研究した〈関野貞〉は、 「この〔〈推古十四年〉にいう〕岡本宮は異説あれども、『霊異記』には、「皇太子居二-住鵤岡本宮一時、」と載せ、 『玉林抄』・『和州旧跡幽考』、みなこれをもって鵤の岡本宮となせり。この説従うべし」と述べる。 それらに対して〈大橋一章〉は、岡本寺が法起寺であると言い始めたのは賢真だという。すなわち、 「文献上では、賢真の『聖徳太子伝私記』ではじめて法起寺・池後寺・岡本寺の三つの寺号が結びつく」、 「岡本寺の方は現実的で存在感がある。…正倉院文書の天平勝宝二年から天平宝字五年にかけての写経関係文書には、岡本禅院・岡本院の名称があて先として何度も書かれている。」 「法起寺の名称は、…露盤銘全文を『聖徳太子私記』に紹介してから一般化したのではあるまいか」 と述べる。氏は法起寺を岡本寺と同一視したのは賢真が初めてだと言い切っている。恐らく文献を当たり尽くした上で述べたものであろう。 《議論の評価》 少なくとも750年から1070年の間に、「岡本寺」が存在していたのは確実である。 また、奈良時代には大量の経典を所蔵し、必要に応じて諸寺に貸し出す施設であったことが見える。 一方、斑鳩には聖徳太子の生前あるいは直後から、法隆寺と対をなす尼寺が存在したと見られる。 僧寺・尼寺のセットは、(飛鳥の)元興寺・豊浦寺に見られ、〈七代記〉でも法隆寺を「時人名為二鵤僧寺一」、法興寺を「時俗号二鵤尼寺一」とするところに、それが表れている。 また後に諸国に国分寺・国分尼寺がセットで建立する。 『勝鬘経義疏』では、善男子・善女人が分け隔てなく仏法に信することが推奨され(資料[52])、それが僧寺・尼寺を対で設置することに繋がったと見られる。 ここで問題となるのは、奈良・平安の公文書に「法起寺」や「池後寺」の名称が全く見えないことである。 これを素直に受け止めるなら、岡本寺と法起寺は別の寺だったとするのが妥当であろう。 しかし、もし法起寺が鵤村だとすれば、岡本寺はどこにあったかという難問にぶつかる。 これは斉明天皇の岡本宮の跡地に建てられたとすれば、解決するはずである。 それでは、「岡本宮」と想定される場所にそれらしい寺はあったのだろうか。 岡本宮の位置は一説には小墾宮の北で大官大寺の西と言われる〔資料[54]で見る〕。すると、その大官大寺が岡本寺だろうか。 大官大寺は百済大寺から移転したもので、これが建ったのは天武天皇二年〔672〕である。そして、『扶桑略記』によれば和銅四年〔711〕に焼失した(〈日本歴史地名大系〉)というから、平安時代まで存在感を示した岡本寺には全く該当しないであろう。 一方、822年頃に「岡本尼寺」が存在したことが〈霊異記〉に書かれ、 その所在地が「大倭国平群郡鵤村」とされていることは重い。 奈良時代から平安時代の公的文書の「岡本寺」も、まさにこの寺であろう。 また、〈造東大寺諜案〉の「岡本寺田」が狭竹庄の北西の端にあるのは、斑鳩村に最も近いところに設けられたからだと考えることもできる。 思うに、斑鳩村の現法起寺の名前は、平安時代の終わりごろまでは「岡本寺」(または「岡本尼寺」)のみであって、「法起寺」は当時どこにも存在していなかった。 その岡本寺に「法起寺」の名前が加えられたのは、〈聖徳太子私記〉の1240年に近くなってからではないだろうか。 そもそも露盤銘や〈霊異記〉には「岡本(尼)寺」しか出てこないのである。 聖徳太子創建の寺の一つ「法起寺」は長らく伝承されてきたものが書かれたのであって、その真の所在地は不明だったのではないか。 だから、奈良・平安両時代の公式文書には全く「法起寺」が出てこないのである。 〈七代記〉の「八寺」の記述は概念的ではあるが、その「上宮太子造立寺舎」には難波の四天王寺や葛城の妙安寺が含まれるからその範囲は畿内一円に広がっていて、法起寺が鵤村にあったとは読めない。 むしろ法起寺とは別に挙げられた「法興寺(鵤村)」こそが岡本(尼)寺だとするのが、素直な読み方であろう。〈聖徳太子伝私記〉・〈太子伝暦〉でも同様である。 それでも「鵤村」があるから、「法興寺」は岡本寺のことで、〈奈文研70〉が検出した北20°西向きの地下の建造物はやはり岡本宮で、その跡に建ったのが岡本寺かも知れない。 斑鳩村は上宮太子の崩後に聖地となり、法隆寺と岡本寺が組み合わさって仏教隆盛の拠点になったとする考え方は魅力的である。 法隆寺は僧たちのアクトの中枢であり、岡本寺は大量の経典を所蔵するインテリジェンスの中枢であったと考えてよいだろう。岡本寺の初め時期の名前は法興寺だったかも知れない。 その岡本寺に法起寺の名が冠されたのは実は鎌倉時代のころで、賢真とは限らないが当時の誰かが初めて唱えた説かもしれない。 「太子造立寺舎八所」(〈七代記〉)のうち「法興寺【時俗号鵤尼寺】 法起寺【時人号為池後寺】」を恣意的に混合して「法起寺【時俗号鵤尼寺 亦号為池後寺】」と解釈したのではないか。それによって「太子造立寺舎八所」が「聖徳太子建立七寺」になったわけである。 ただ〈法隆寺縁起資材帳〉も七寺だから、一般的に言われていた「太子創建七寺」の言葉に合わせた面もあろう。 それでは太子が創建した真の法起寺は、一体どこにあったのだろうか。 ここで聖徳法王創建の七寺(八寺)に関する記述のうち、唯一信頼を置けるのが〈法隆寺縁起資材帳〉だと考えてみよう。 鵤村の岡本寺が経典の所蔵などを担う重要な尼寺として、確固とした存在感を発揮していたとすれば、それが〈法隆寺縁起資材帳〉の七寺に含まれないはずはないのである。それに該当する寺は、池後尼寺しかない。 したがって、池後尼寺と岡本尼寺が同一であった可能性は高い。 それでは、「法起寺」はどうか。実際に法起寺を名乗る寺は、顕真が岡本寺と同一視する鎌倉時代まで長らく存在しなかったと考えたい。 ただ、太子の存命中に法起寺と称する寺がどこかに創建されたからこそ、その伝説上の名前が〈七代記〉などに残ったのであろう。それが、池後寺に一致する可能性もなくはない。 しかし、奈良時代に入る以前に廃寺または改名によって本来の「法起寺」は消滅し、伝説上のみの存在となっていた。だから〈七代記〉では、法起寺のはずなのに法興寺が紛れ込むような混乱が起こるのである。 その後鎌倉時代になって初めて、岡本寺と法起寺の同一視が沸き上がってきたということではないだろうか。 まとめ これまで考察したところでは、法起寺は結果的に岡本宮の跡地である。ただし、平安時代までは法起寺ではなく岡本寺と呼ばれていた。 上宮太子が創建した真の「法起寺」は飛鳥時代に消滅し、恐らく岡本寺とは無関係だろう。この視点で〈法隆寺縁起資材帳〉、〈七代記〉、〈造東大寺諜案〉、〈霊異記〉、「塔婆露盤銘文」などの内容を整理すると、結構見通しがよくなる。 もし、太子創建の真の「法起寺」が遺跡の発見などにより特定できれば、この説は実証されよう。 結局、現在の斑鳩の法起寺が、岡本宮跡であるという点では通説通りであるが、その名称は平安時代までは「岡本寺」であって「法起寺」と呼ばれるのは鎌倉時代まではなかったというのが、本サイトの見解である。 ただ、池後尼寺だけは岡本尼寺の奈良時代の通称として認められよう。 さて、奈良時代から平安時代にかけて著された聖徳太子の伝記の類は膨大である。しかし、それはすべて二次史料であって、そこから太子の生涯のありのままを見いだすことはほぼ不可能である。 しかしだからと言って、聖徳太子は実在せず書記が捏造した人物だとするのは暴論であろう。 三大義疏は日本人が仏法の理論を深く学んでまとめた書であり、それによって確信をもって国家の仏教化を進められたと考えてよい。 その中心に才気に溢れた人物の存在がなければ、絶対成し得なかったことであろう。その人物は上宮太子以外に考えられない。 さらにはその家系図までが丸ごと捏造されたとの考えは、全く現実的ではない。 また、その業績が生存した、あるいは直後の時代の人の記憶に鮮明だったからこそ、後世まで末永く聖人として讃えられているのである。 なお、岡本宮の可能性のある建物と若草伽藍は同じ方向を向いている。これは筋違い道の向きでもあるから、 この地に太子の小都としての条坊が存在したのではないかと思わせるものがある。これについては、何か裏付ける材料が出てくれば報告したい。 |
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