古事記をそのまま読む―資料8
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2021.09.11(sat) [52] 太子執筆と言われる三経義疏 

【三経義疏】
 「三経義疏さんぎょうぎしょ」は、上宮王聖徳太子私集として伝わる『勝鬘経しょうまんぎょう義疏』・『法華ほっけ義疏』・『維摩ゆいま経義疏』の総称である。 このうち、勝鬘経法華経については上宮王が講じた件が、〈推古十四年〉に載る。
 つまり、上宮王は三経義疏について研究してその成果を講じ、また「義疏」を著したと考えられてきた。
引用文献略称
〈法隆寺資材帳〉…『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』――『寧楽遺文』〔竹内理三編;東京堂出版1943/1962〕に収録。
〈魚住〉…『「書」と漢字』〔魚住和晃;講談社;1996〕
〈法華義疏複製〉…『御物法華義疏』聖徳太子奉讃会1927。1970再刊〔吉川弘文館〕
〈宝治板勝鬘疏〉…『花山信勝校訳 勝鬘経義疏』;吉川弘文館1977。巻末の宝治板勝鬘経義疏(影印)
〈花山〉…同上。巻末解説。
〈岩波花山〉…『岩波文庫 法華義疏』〔花山信勝校訳;上下巻1975〕巻末解説。
〈早島勝鬘疏〉…『聖徳太子 勝鬘経義疏・維摩経義疏(抄)』〔中村元・早島鏡正訳;中央公論新社2007〕の「勝鬘経義疏」現代語訳〔早島鏡正訳〕
〈田村〉…同上。冒頭解説〔田村晃祐著〕
〈国訳勝鬘経〉『国訳大蔵経 経部第三巻』〔国民文庫刊行会1918〕(国立国会図書館デジタルコレクション)
〈勝鬘経本義〉…『聖徳太子集 日本思想大系2』〔家永三郎他;岩波書店1975〕集録「勝鬘経疏本義」敦煌本。
 〈法隆寺資材帳〉には、三経義疏が「上宮聖徳王御製」としてリストアップされている。
《法隆寺文書》
『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』天平二十年〔748〕六月十七日
合論疏玄章伝記惣壹拾参部拾壹巻【八部卌巻人々坐奉者】
 法華経疏三部【各四巻】
 維摩経疏壹部【三巻】
 勝鬘経疏壹巻
  右上宮聖徳王御製者
 智度論壹部【一百巻】
  右奉為 天朝天平二年歳次庚午 宝蔵知識敬造者
『法隆寺縁起并資財帳』天平宝字五年〔761〕十月一日
合経疏捌巻
 法華経疏肆巻【正本者 帙一巻着牙 律師法師行信覓求奉納者】
 維摩経疏参巻【正本者 帙一巻着牙】
 勝鬘経疏壹巻【帙一巻着牙】
  右上宮聖徳王御製者
 鉄鉢壹口【後錣】
  右上宮聖徳王御持物【矣】天平九歳次丁丑二月廿日律師法師行信推覓奉納賜者
 新様錫杖壹枝
  右上宮聖徳王御持物【矣】大僧都行信推覓奉納賜者
肆巻…「四」の大字。…[名] ふみづつみ。
…象牙の札が現存(〈魚住〉)。天平九〔年〕歳次丁丑…737年。
 『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』は「北浦定政手沢本」として残るもので、 僧綱からの指令〔天平十八年十月十四日付〕によって、天平十九年二月十一日付で「牒」として提出され、 天平二十年〔748〕六月十七日付で僧綱によって承認された文書 (「元興寺伽藍縁起并…」Ⅳ)。
 「合」は、リストの細目ごとに頭につける文字。「玄章」はおそらく深遠な文書の意。 所蔵する歴史的文書類が、全部で13部11巻ある。また、8部40巻が人々からの寄贈と読める。 部数、巻数のカウントの仕方はよくわからない。
 この中に、法華経疏維摩経疏勝鬘経疏が、「上宮聖徳王御製」として含まれている。
 『法隆寺縁起并資財帳』は「大和法隆寺文書」として残る。天平宝字五年十月一日の日付と、寺主法師隣信を筆頭に6名の署名があるが、 提出先は記されていない。
 三疏とも「」で包まれ「」を着け、二疏には「正本」と書かれている。これについて〈魚住〉は、 「当時、法華義疏には正本と副本の区別があり、現存する法華義疏には巻物を収める簀巻すまき型のちつと牙〔象牙〕製のせん(ふだ)が備わっていることから、 現存の法華義疏が正本そのものであることが推定される」と述べる(p.14)。
 奥書に「紛失之後不幾年。 于時保安〔1121〕二年三月廿六日。自-従僧源朝之手始伝」 とあり、しばらく行方不明だったようである。初めの部分は欠けている。
 上宮聖徳王御持物の鉄鉢も、天平九年〔737〕に行信が奉納した。その肩書は「律師法師」である。 天平二十年〔748〕になると行信の肩書は、大僧都である。 よって、行信はまだ律師法師だった時期に『法華経疏』四巻の「正本」を入手して法隆寺に奉納し、 その後写本が二部加わり、その計三部の所蔵が748年の資材帳に記され、さらに761年の資材帳にも「正本」が記されたということになる。 なお、行信の没年は750年といわれる。
《遺文献》
 『法華経疏』については、 〈田村〉によれば「奈良時代から法隆寺に所蔵され明治時代に皇室に献上された草稿本」(いわゆる〈御物本〉)があり、 7世紀前半の遺品とされている。〈岩波花山〉には「明治十一年〔1878〕二月十八日献納御裁可となり」、「只今〔1975年〕は京都の御所内に奉安されている」という。
 題字の「法華義疏第一」の下に、 「此是 大委上宮王私集非海彼本〔これ、大倭〔=日本〕の上宮王の私集にて、海の彼〔方〕の本に非ず〕と書き加えられているが、 「本文と別筆で、おそらく行信という奈良時代の僧によって書かれたものと見られている」(〈田村〉)という。 行信は、奈良時代の玄蕃寮〔僧を管理する官庁〕で次席を務めた(「元興寺伽藍縁起…」Ⅳ)。
 『維摩経疏』、『勝鬘経疏』については、原本は残っていないとされる。
 『勝鬘経疏』は、〈田村〉によれば宝治元年〔1147;鎌倉〕の版本(〈宝治板勝鬘疏〉)が最古だという。
〈法華義疏複製〉  一誠堂書店

【法華義疏】
 〈田村〉によると、書家の西川やすしは、異体字の使用から見て「隋に相応する時代の作」とする。 また、石田茂作は「『法華義疏』に用いられている横幅がまちまちであり〔四巻それぞれで紙のサイズが異なっている〕、 「奈良時代に写経に用いられた用紙の幅は一定であるから、おそらく小野妹子が何回かにわたって中国から持ち帰ったものではないか、とする」という。
 これらをつき合わせると、『法華義疏』は隋代の中国で書かれて渡来したということになる。
 一方、〈田村〉は『法華義疏』には後に多くの訂正が加えられ、平均して2.5行に一か所に及んでいる。また訂正されない誤字が多数あるとする。 そして、「素人が書いたものは最初は丁寧な字で書いていても後ではどうしても乱れてくるが、この書は終始一貫しており筆者の専門家の書」と見られる。 よって、もともとかなり「乱雑な草稿」であったものを筆者の専門家に筆写させたが、筆写者は仏教の知識を欠く人物であっただろうと推定する。
 ただし〈田村〉自身は、この書が書かれた国については中立的である。
《御物本》
 〈御物本〉そのもののつくりは質素だが、保存状態は極めて良好だという。
 〈魚住〉が『「書」と漢字』で挙げた御物本の形態的な特徴のうち、主なものを拾うと、
●「軸があたかも麺棒を補足したような一本棒」である。普通は、軸木の両端に紫檀・黒檀や象牙・水晶で作った軸頭を嵌めているが、 『法華義疏』にはそれがない。
●「本紙に裏打ちの保護」が加えられず、書き込んだ紙をつぎつぎと繋いだものである。
●行頭はきれいに揃っているが、揃えるための折跡がない。しかし、実物を見たところ「へらのようなものによる押跡の罫が施されていた」ので、それを基準線にしたらしい。
●「料紙の色は薄茶褐色であるが」、年月による退色ではない。なぜなら「巻頭から巻末まで、まったく色が変わらないからである」。保存はみごとで虫食い一つない。
《書体》
法華義疏の書体〈魚住〉p.20
 また、書体について〈魚住〉は次の特徴を挙げる。
●基本的に楷書に一部草書を交え、一文字ずつを分離する。
●筆使いは直線ではなく、大体右カーブの曲線。
●「極力簡便な字が用いられている」。など。
 以上から、「簡便さを優先し、速書することを主眼となす」が、「まったく文字を連綿させ」ない〔=続け書きをしない〕ことについては、 「判読が煩わしくなることを避けるための配慮」と見ている。
 類似の書法として、「李柏文書りはくもんじょ」の例を挙げる。 これは、「今世紀初頭…シルクロードの楼蘭ろうらん古址で発掘」された李柏の手紙で、 李柏が晋書に登場する人物で、王義之おうぎし在世の時代と重なるので、年代は厳密に絞り込めるという〔328年頃という〕。 この「常用筆記体とでもいうべき書き方が、六朝時代〔222~589年〕から隋代に至るかなり長きにわたって用いられ」たという。
 また、『法華義記』〔敦煌文書〔次項参照〕;曇延許536年の書写〕は、「書法としての時代感覚は」『法華義疏』より新しい 〔=仮に義疏が義記より新しかったとしても、その書体は義記より古い〕と述べる。
 さらに、『野中寺弥勒菩薩像銘文』(丙寅年〔666〕と記される)については、 「法華義疏の書法に類似するものとして知られる」が、「弥勒菩薩像のみごとさ…に比べ、銘文がいかにも格式を欠く」とのべ、さらに文章における和習を指摘している。 このように、〈魚住〉は7世紀の倭の書のレベルは中国に劣ると見て、中国の書と共通性が高い『法華義疏』は中国のものという考えを匂わせている。
 本サイトでは、「元興寺伽藍縁起…Ⅲ」【光背・造像記の線刻】において、 像の制作からは年月を隔て、674年以後に線刻されたと見た。 
 〈魚住〉は、『法華義疏』は中国で書かれたものとする。その見解を要約すると、端的に言って次の二点である。
文中で「外国語」は梵語〔サンスクリット語〕、「漢語」は中国語を表すが、当時の日本人が正しく理解して両者を使い分けることができていたとは思えない。
弥勒寺弥勒菩薩像銘文(部分)〈魚住〉p.25
十七条憲法のぎこちなさに表れた「当時の日本人の〔文章力の〕水準を考えれば〔『法華義記』は〕あまりにかけ離れた高度なものである」。
 これらに対する本サイトの見解は、後に述べる。
《本義》
 〈花山〉によると、『法華義疏』には『本義』から引用されている。 さらに『法華義疏』の『本義』は「梁朝の広宅寺法雲〔467~529〕の講経〔=経を解説する講〕の筆録〔口演を文字起こししたもの〕 を集成した『法華義記』八巻(大正大蔵経三十三巻収録)であることは明らかである」という。
 そして、『法華義疏』『勝鬘経義疏』(後述)と同じく『本義』を底本として、「自由な選択と批判の態度」をもって私集されたものとし、 三経義疏ともに上宮王の作であるとする考えを滲ませている。
《筆録》
 ここで、仏教書籍への注釈書が作成された環境を想像してみよう。
 一般的に講において、その口述発表を筆録としてまとめるのは、どの時代にも普通のことであったと思われる。 例えば、弘仁の日本紀講筵のスタイルは、経義の講筵と同様と考えられ、その筆録に付されたものが「弘仁私記序」である。 もし、口演者が発表に向け準備したメモが提供されれば、筆録作成の作業の助けになろう。 〔自分がシンポジュームなどで、集録を編集する立場になったことを考えれば理解できよう〕
 〈推古紀〉十四年には、太子による「法華経」と載る。記録者はその内容を速記して、発表者が用意した発表原稿が借用できれば利用し、 それを筆者専門家が清書したのが、今日まで残る『義疏』だと考えることもできる。
 ただ、『法華義疏』の「総字数は約87,500字…四百字詰め原稿用紙にして、約220枚」に及ぶというから(〈魚住〉)、一回の講の記録にはとどまらない労作と見るべきであろう。 複数による合作を否定し、個人の著述とする意見もある。
 〈田村〉は、「法雲の『法華義記』に真っ向から対立する説を立てながら 「悪の心は及び難し、ゆえにことごとくは記さず」…という。もし複数の著者がおり、 その中の一人の主張がここに用いられていたら「愚の心」という言葉は出てこないだろう」(pp.6~7) と述べ、著者は単数とする。
 孔子の言葉を弟子が「論語」として遺したように、継続的に上宮王の口述、若しくは走り書きしたことをスタッフが書にまとめたことは十分に考え得る。
 仏教の導入は国家的事業であった。そのハードウェアとしての大寺院の造営は、間違いなく組織的に行われている。 同様に、ソフトウェアとしての経典の研究も、サポートする学問僧とともに組織的に行われていたと見るのが自然であろう。
 そこに浄書専門家も加わっていたが、当時はまだ日本仏教の草創期なので、あまり仏教を知らなかったのかも知れない。 よって『法華義疏』が誤字だらけになったのは、当然の帰結と思われる。 これについては、〈岩波花山〉も「仏教知識のまだ幼稚な時代の著作であったがため」と見ている。 後世に、見直して訂正がなされたのだろう。
 『法華義疏』などの研究組織の中心に上宮王がいたとすれば、これが太子の『法華義疏』として早い時期から大切に保存されてきたことも頷ける。
《書かれた国》
 多数の誤字は、仏書の蓄積のある中国では考えられないから、倭国で書かれたと考えざるを得ない。
 前述した〈魚住〉の①②の主張に関しては、『本義』という土台があったのだから、この程度の文章の構築は可能ではないだろうか。 百済僧、高句麗僧による助けも考えられる。
 については、十七条憲法は実際には大化の改新の時期に作られ、権威づけのために太子の名を冠した可能性を本サイトは論じた (推古十二年)〔ただ、骨格は太子の時代を作られ、後に肉付けされたことも考え得る〕
 考古学的に『法華義疏』を調べるなら、紙の繊維を調べればその原料植物の産出国を特定できよう。 最近はその研究手法が確立しつつあるようで、ウェブサイトを検索すると 「 前近代の和紙の混入物分析にもとづく「古文書科学」の可能性探索」などが見える。 また、「 東北メディカル・メガバンク機構」には 「ミイラや化石の中にも、DNAは残っています。さらに動植物そのものではなく、加工した物、たとえば毛織物や木工品にだってDNAは含まれている」とある。 さらに、C14法を用いれば、年代も特定できる。
 もし紙の繊維が7世紀初めの国内産なら、『法華義疏』国内のオリジナルか、少なくとも国内で模写したものである。 ただ、その調査のためには紙から小片を採取しなければならない。しかし、宮内庁も法隆寺も当分許可することはないであろう。
《結び》
 7世紀初頭から大寺院が次々と建立されたのを見れば、仏教の導入は新たな国家の骨格作りともいうべき大事業であった。 ならば、その教義についての研究も、国作りの精神的基盤に資すための研究が国家事業として推進されたと考えるべきであろう。 その研究が特定の知力に優れた個人に大きく依存したとしても、それを支える学問僧や渡来僧、書記などのスタッフがいたと見るのが自然である。
 もしその内容が仏典を主体的に自国のものにしようとする息吹に溢れ、かつ実際にそれを指針とした国作りがなされたなら、 この書は倭で書かれたものとなろう。
 結局は、その内容こそが、倭のオリジナル文書であるかどうかの判断基準になるわけである。

【勝鬘経義疏】
《勝鬘経》
 勝鬘経(一巻)は、原題『勝鬘師子吼一乗大方便方広経』。
 「宋の求那跋陀羅(ぐなばつだら)訳。勝鬘夫人(しょうまんぶにん)が仏陀の威神力を受けて一乗真実の道理と如来蔵法身について説き、仏陀が賞賛してそれを是認する形をとる経典」 である(デジタル大辞泉;小学館)。
《勝鬘経義疏》
 〈花山〉は、その解説において『勝鬘経義疏』が中国で作られたとする説を否定する。 その根拠として挙げるのは、「中国における数多の章疏のなかに〔『勝鬘経義疏』についての〕何らの言及がな」いということである。 つまり、中国文献の中に『勝鬘経義疏』を引用したり、話題として取り上げた例が全く見られない。
 その一方で、奈良の智光が「上宮王〔=聖徳〕撰として三経義疏を五十数回におよんで引挙言及」することなどは、 本邦で書かれたことの裏付けとなり、正倉院の「天平年間の記録のなかに「上宮聖徳法王御製」としての 三経義疏の幾種かが存在したことを示している」と述べる(pp.274~275)〔原文は上述〕
 また、三経義疏の「太子執筆」は名目であって、実際には他の人物が著したものだろうという考えについては、 「その内容がきわめて専門的で、摂政皇太子〔中略〕のものではなかろうと考えたいのが常識だが、 凡人の常識をもって計られないもののあるところに「大聖」、「聖徳」または「法皇」という呼び名が自然に生まれた」のではないかと述べ、 太子の真筆とする印象を抱いている(p.274)。
 『勝鬘経義疏』は、中国の「敦煌写本群」から発見された『勝鬘経本義』(p.248)を 「底本として、その他いくつかの注疏を参考として私集されたもの」であると見る。
《本義》
 続けて〈花山〉による。
 「最近〔1969〕京都大学人文科学研究所の敦煌写本研究班によって、『勝鬘義疏本義』なるものが敦煌写本群のなかに存在することが発見」された 〔東方学報、京都、第四十冊、1969〕。 この『本義』と上宮王の勝鬘経義疏を比べると、勝鬘経義疏が『本義』を誤写したと見られるものが11箇所ある。 もともとの『本義』敦煌写本の誤写は28箇所ある。よっていくつかある『本義』の写本のうち 「一写本がわが国にも伝えられて、上宮王の『義疏』に『本義』として採用されることになった」と推定する。
《引用態度》
 〈花山〉によれば、「「本義云」とも、「一云」ともことわらないで、完全に『本義』の解釈をそのまま採用しているところも少なくなく、 僅かに修正を加えたり、文章を簡略にしたり、改めたりしたところもかなり多く、『本義』の散説〔=あちこちに分散して書かれたもの〕を集約したものや、 また足らざるところは加上追加したところもある」という。つまり、上宮王義疏は『本義』を理解して記す作業を土台としているという。
《経典への理解》
 〈花山〉によれば、義疏において「自説を述べるに当たっては、私懐者、今所須者」などとことわっている。 また、上宮王義疏が『本義』への同意を表す場合は、「亦好」「随欲可用〔欲しきままに用ゐるべし〕、 「好則好矣」などと表現する。これらの書法は『法華義疏』と共通するという。
 そして「ようするに」、「上宮の『勝鬘経義疏』は『本義』を底本として、その他いくつかの注疏を参考として私集したものであって、 最初からの独自の撰者でないことは、経典注釈疏としての当然のことである。 それだからといって、その価値が失われるものでは決してない。その中に見られる自由な選択と批判の態度とは、 『法華義疏』における場合と同様であって、きわめて高く評価されてよい」と結論付けている。
《義疏と本義》 
 『勝鬘経義疏』は、要するに注釈書『勝鬘経本義』を学んで作成したノートを基にして、文書として整えたということのようだ。 〈推古天皇〉十四年の「講」の筆録がもとになったかも知れないが、『義疏』の分量を「三日」で言い尽くせるかという疑問もある。 筆録以外の内容を追加したことも考えられる。

【勝鬘経義疏-真子章】
 【法華義疏】の《結び》で述べたように、三義疏が倭国のオリジナル文書であるかどうかの判断は、 結局書かれた内容による。
 それにはこれらの全部を読解しなければならないが、簡単には終わりそうにない。 ここでは、さわりだけを見ておきたい。
 〈推古紀〉では最初に講じたのは勝鬘経となっているので、経の研究の入り口は勝鬘経であったと考えてみる。 そして、勝鬘経の中核は「如来蔵説」にあり、「真子章」にはその内容がよく書かれているので、この部分を抜き出してみる。
 なお、「如来蔵説」は大乗仏教の思想で、人は皆、仏〔=如来〕になる可能性を内包〔=蔵〕するという考え方を指す。
《略明真子》
巻末の〈宝治板勝鬘疏〉影印 『勝鬘経』該当部分 訓読
從「如是二法」以下
第二※1)能信定〔理〕※2)
上 勝鬘既言定 此如來亦言
卽 爲信无據所 以擧能信人勧信莫疑也
中有
第一 惣明深解者能信 諸凡難
第二 從「若我弟子」以下正出能信人
即 是信順二忍菩薩
第三從「此五種巧便」以下※3)能信
「如是二法」従(よ)り以下(しもつかた)、
第二(つぎてのふたつ)の能(よ)く定め難き〔理(り)〕を信(う)くる人を出(い)づ。
上(かみ)に勝鬘(しようまむ)既(すで)に定め難しと言ひ、此(これ)如來(によらい)亦(また)定め難しと言ふ。
即(すなはち)信(うくること)拠所(よるところ)を无(な)きが為(ため)に、以ちて能(よ)く信(う)くる人を挙げ、信(う)けて莫(な)疑ひそと勧めむ[也]。
中に就(つ)きて三(みつ)有り。
第一(つぎてのひとつ)、惣(すべて)明(あきらけきこと)を深く解(さと)る者(ひと)は能く信(う)け、諸(もろびと)は凡(おほよそ)信け難し。
第二(つぎてのふたつ)、「若我弟子」従(よ)り以下(しもつかた)、正(まさ)しく能く信くる人出ず。
即ち是(これ)信(うくること)順(したがふこと)二つの忍(にむ)の菩薩(ぼさつ)なり。
第三(つぎてのみつ)、「此五種巧便」従り以下は能く信くこと有りと結ぶ。
如此二法汝及成就大法菩薩魔訶薩
乃能聽受諾諸餘聲聞唯信佛語

〈眞子章第十四〉

若我弟子 随信増上者 依明信已随順法智
而得究竟随順法智者
 觀察施設根意解境界
 觀察業報
 觀察阿羅漢眼
 觀察心自在樂禪定樂
 觀察阿羅漢辟支佛大力菩薩聖自在通
此五種巧便 觀成就於我滅後未來世中
我弟子随信増上 依我明信 隋順法智
自性清浄心彼爲煩悩染汚 而得究竟
是究竟者 入大乘道因
信如来者有是大利益不謗深義

敦煌本 『勝鬘経本義』 訓読
 第四 述其推崇与仏 従「如此二法」已下是
「二法」者 仏性之理及善悪之心 其向明唯仏証知 今押解
在已師及弟子 互相讃成也

 就第十四真子章 又分為二
 第一 仏略説真子 但明信順二忍也 又分為三
  第一 章門 又分為二
   第一 明信忍章門 従「若我弟子」已下是
「信増上者」者謂登住之信 信中之上也 又云此信
信仏性増上之法也
   第二 明順忍章門 〔従〕「依明信已」已下是
  第二 正出忍体 以釈上章門 此中正明順忍兼明信忍
若五種観成則是順忍 観若不成則是信忍 故不別明信忍也
五種巧便観者也
   第一観 十八界 「観察施設根」者謂五根仮施設也
「意」者謂意根也 「解」者謂六識也 「境界」者謂六塵也
   第二観 因果 「観察業報」此句是也
   第三観 阿羅漢眠 「阿羅漢眠」謂无明住地惑也
   第四観 知禅 「観察心自在楽」者謂智恵照境
任放為楽也 「禅楽」者禅定楽也
   第五観 三乗神通 従「観察阿羅漢辟支仏」已下是也
  第三 結 従「於我滅後」已下是 言此人於仏滅後
能秉行大乗也
「而得究竟」者美其解不染而染義也
「入大乗道因」者言大乗道 為仏作因也
又云 八地是大乗道 信順二忍 是大乗道因也
※1)…「第二」は、前段で「勝鬘夫人」について述べた二つの事柄のうち二つ目を受けたもの。
※2)…この前の段に「能信此難定理人」とあるから、ここでも「理」が補われるべきであろう。
※3)…後の段で詳述される。
 
第二※1)正出中 卽二有
第一 直出二忍章門※2)
第二 從「随順法智者」以下 釋順忍※3)
「若我弟子從信信増上」者々信々※4)忍章門
「信増上」者謂登住之信々中之上
「依明信已随順法智而得究竟」者順忍章門
而 疑※5)只是順忍章門
「随信信増上」者只是擧順本也
第二(つぎてのふたつ)正(まさ)しくを出でし中に就(つ)け、即ち二(ふたつ)有り。
第一(つぎてのひとつ)は、直(ただ)二(ふたつの)忍(にむ)の章門(しやうもむ)を出(い)づ。
第二(つぎてのふたつ)は、「随順法智者」従(よ)り以下(しもつかた)順忍(じゅむにむ)を釈(と)く。
「若我弟子従信信増上」者(は)、「信」者(は)信忍(しむにむ)の章門なり。
「信増上」者(は)、「登住(とうぢゆう)之(の)信」を謂ひ、「信」の中(うち)之(の)上(かみ)也(なり)。
「依明信已随順法智而得究竟」者(は)、順と忍との章門なり。
而(しかれども)只(ただ)是(これ)順忍の章門なるを疑へり。
「随信信増上」者(は)只(ただ)是(これ)「順」の本(もと)を挙(あ)ぐるなり[也]。
※1)…「就第二」は、上で「第二」とする「若我弟子~菩薩聖自在通」の部分をさらに詳しく説明するという意味。 次の「第二釋」も同様。
※2)…章門:「真子章第十四」のように、『勝鬘経』は「章」に分割されている。「章門」はさらにその下位と見られる。
※3)…信忍と順忍。「忍」は心の安定。「信」は信じる。「順」は法理に順うこと。
※4)…〈宝治板勝鬘疏〉には「者者信信」。「者〃信〃」への宝治年間〔鎌倉時代〕の解釈。上代は「者信者信」を表す。
※5)…これを信忍・順忍の並列と読むことは疑わしく、「信が高まることにより順を獲得する」という順序性を述べたものではないかという。
第二釋 唯釋順忍※1)
一觀「觀察施設根」者謂五根※2)假施設
「意解」者謂六識※3)
「境界」者謂六塵※4) 此是十八界※5)
二觀「觀察業報」者謂因果二觀
三觀「觀察阿羅漢眠」者謂无明住地惑觀
四觀「觀察心自在樂禪定樂」者謂知禪二觀
智慧照境住〔任〕※6)
五觀〔「〕〔察阿羅漢辟支佛」者謂※7)
三乘※8)神通力〔一〕
第二(つぎてのふたつ)に釈(と)く。唯(ただ)順忍を釈(と)く。
一観(いちくわむ)の「観察施設根」者(は)五根(ごこむ)の仮(かり)の施設(まうけ)を謂ふ。
「意解」(いげ)者(は)六識(ろくしき)を謂ふ。
「境界」(きやうがい)者(は)六塵(ろくぢむ)を謂ふ。此(ここ)に、是(こ)は十八界(じふはちけ)の観(くわむ)なり。
二(に)観の「観察業報」者(は)因果(いむぐわ)二(ふたつの)観(くわむ)を謂ふ。
三(さむ)観の「観察阿羅漢眠」者(は)住む地(ところ)を明(あき)らむこと无(な)く惑(まと)ふ観(くわむ)を謂ふ。
四(し)観の「観察心自在楽禅定楽」者(は)知(ち)と禅(ぜむ)との二(ふたつの)観を謂ふ。
智恵(ちゑ)、境(きやう)を照らし任放(ほしきまにまに)楽(げう)と為(す)。
五(ご)観の「観察阿羅漢辟支佛」者(は)
三乗(さむじよう)の神通力(じむずうりき)の観(くわむ)を謂ふ。
※1)…「順忍」の前段階の「信忍」のうちは、五観はまだ未分化である。
※2)…五根は、目・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官。
※3)…六識は、六つの感覚器官による認識作用(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)。
※4)…六塵は、悟りの妨げとなる欲望(色・声・香・味・触・法)。
※5)…十八界=六根〔五根+意根〕+六境〔内容は六塵と同じ〕+六識。
※6)…任放:礼法にとらわれず思うままに行動すること。
※7)…〈宝治板勝鬘疏〉における脱落と見られる。
※8)…声聞乗・緑覚乗・菩提乗。乗は人間を悟りの世界に運ぶ乗り物(教え)。
從「此五種」以下 第三結 有能信
[八]※1)「大乘道因」者明大乘道佛作国
又云八地※2)以上是「大乘道」 信順二忍是大乘因
「信如※3)來者有如是大利益不謗深義」者
此人前能信佛語
故 得是五種觀之利益
所以因此五觀之力
今亦 能信二上此難定之理
「此五種」従り以下、第三(つぎてのみつ)に結ぶ。能く信(うくこと)有り。
「大乗道因」者(は)、大乗(だいじよう)の道を明(あき)らめて仏の作れる国と為(す)。
又云(い)へらく八地(やぢ)の以上(かみつかた)是(これ)大乗の道なりといへり。信順二つの忍、是(これ)大乗の因(たね)なり。
「信如来者有如是大利益不謗深義」者(は)
これ言へらく、此の人、前(さき)に能(よ)く仏(ほとけ)の語(かたり)を信(う)け、
故(かれ)如是(かくのごとき)五種(いつくさ)の観(くわむ)之(の)利益(りやく)を得(え)て、
所以(ゆゑ)に此の五(いつつ)の観(くわむ)之(の)力(ちから)に因(よ)りて、
今亦(また)能く此の難定之(さだまりがたき)理(ことわり)を信(う)くといへり[也]。
※1)…「八」は誤記と見られる。 ※2)…敦煌『本義』に「又云八地是大乗道」。 ※3)…釈迦の尊名のひとつ。他に世尊、仏陀。
《引用における書法》
 『勝鬘経』からの引用箇所には「従~以下」の書式を用いる。 『本義』では「従~已下」を用いている〔「已下」は「以下」と同じ〕
 また、ネスティングされた〔=入れ子の〕箇条書きが用いられるところも共通し、 『義疏』は、『本義』などの一般的な注釈書の書き方に倣ったものと言えよう。
《「若我弟子」の主語》
 「若我弟子」以下は、誰が話した言葉かを押さえておく。 『本義』に「仏略説真子」とあるから、「仏」=釈迦が話した言葉と見て間違いないだろう。
《依明信已随順法智》
 『勝鬘経』〈真子章第十四〉冒頭の「依明信已随順法智」を、 『本義』が簡単に「『順忍章門』を明らかにした」で片づけたことに対して、 『義疏』は不満を表明している。
 それは〔感情としての信〕が増上して〔法理を理解した順〕に至るという、 順序性に触れていない点である。
 この箇所は、『義疏』が自分の頭で勝鬘経を読解する態度を示す一例と言えよう。
《煩悩染汚》
 「染汚」の解釈は『本義』にはあるが、『義疏』ではこの部分にはなく、 後段『勝鬘白仏』の「更有餘大利益」の項に回されている。
《大意》
 「如是二法」以下は、第二の定め難い理(ことわり)を信ずる人を示す。 上で勝鬘(しょうまん)は既に定め難いといい、ここで如來〔釈迦〕も定め難いという。 すなわち、信の拠り所がないため、信できる人の資質を挙げ、信じよ疑うなかれと勧める。
 その中に次の三項がある。
 第一;総明を深解する者は信ずることができ、諸の凡人は信じ難い。
 第二;「若我弟子」以下は、正に信じ得る人を示す。 すなわち、これは信と順の二忍の菩薩である。
 第三;「此五種巧便」以下は、信じ得ることありと結ぶ。
 この「第二」については、中に二項がある。
  第一;単純に二忍の章門ありという。
  第二;「随順法智者」以下は、順と忍を釈す。
  「若我弟子従信信増上」において、「信」は信忍の章門、 「信増上」は、「登住(とうじゅう)の信」をいい、「信」のうち上位にある。 「依明信已随順法智而得究竟」は、順と忍の章門を述べる。
 しかし、これを順忍の章門を単に並べたものと読んで済ませるのは疑わしい。 「随信信増上」の一文は、「信は順の元である」という関係を示すものである。
 「第二」の釈は、ただ順忍を釈す。
  一観(いちかん)の「観察施設根」は、五根が仮に受け取る〔感覚器による受容〕ことをいう。 「意解」(いげ)は、六識(ろくしき)をいう。 「境界」(きょうがい)は、六塵(ろくじん)をいう。ここまでに、十八界(げ)の観(かん)を述べる。
  二観の「観察業報」は、因果の二観をいう。
  三観の「観察阿羅漢眠」は、住地が明らかでなく惑う観をいう。
  四観の「観察心自在楽禅定楽」は、知禅の二観をいう。 智恵は境(きょう)〔感覚器官の外界〕を照らし、恣(ほしいまま)に楽(ぎょう)を生み出す。
  五観の「観察阿羅漢辟支佛」は、三乗〔三つの教え〕の神通力の観をいう。
 第三;「此五種」以下は結びで、よく信ずることについて述べる。
 「大乗道因」は、大乗の道を明らかにして仏の作る国とする。 又いう。八地以上は、これは大乗の道であると。信順の二忍、これは大乗の因である。
 「信如来者有如是大利益不謗深義」はいう。このような人は先によく仏の言葉を信じ、 よってこのような五種の観の利益(りやく)を得、 ゆえにこの五観の力に因って、 今またよくこの定まり難い理を信じると。

《広明真子》
影印〈宝治板勝鬘疏〉 『勝鬘経』該当部分 訓読
從「爾時勝鬘」以下正躰中之第三※1)
眞子一章 明御乘人
乘躰乘境已竟
故 此擧眞子一章
三忍※2)菩薩受此乘而行
「爾時勝鬘〔白佛〕」従り以下(しもつかた)正(まさしき)体(み)の中(なか)之(の)第三(つぎてのみつ)に、
「真子」の一つの章を挙げ、御乗(ぎよじよう)の人を明(あき)らむ。
乗体(じようたい)と乗境(じようきやう)と、已(すで)に竟(を)ふ。
故(かれ)、此(ここに)真子の一章を挙げ、
三忍(さむにむ)の菩薩(ぼさつ)此の乗を受けて[而]行(ゆ)くことを明(あき)らむ[也]。
爾時勝鬘白佛言
更有餘大利益
我當承佛威神復説斯義
佛言更説
勝鬘白佛言
三種善男子善女人於甚深義
離自毀傷生大功徳入大乘道
何等為三謂
若善男子善女人自成就甚深法智
若善男子善女人成就随順法智 
若善男子善女人於諸深法不自了知
仰推如來非我境界唯佛所知
是名善男子善女子仰推如來
除此諸善男子善女人已

〈勝鬘章第十五〉

諸餘衆生 於諸深法堅著妄説
違背正法習諸外道腐敗種子者
當以王力及天龍鬼神力而 調伏之
爾時勝鬘與諸眷属 頂禮佛足
佛言 善哉善哉
勝鬘於甚深法方便守護降伏非法
善得其宜
汝已親近百千億佛能説此義
敦煌本 『勝鬘経本義』 訓読
 第二 勝鬘広説真子 備明三忍也 又分為二
  第一 勝鬘正説真子 又分為五
   第一 総唱三種善人 従「爾時勝鬘」已下
是「離自毀傷」者能不誹謗
   第二 列无生忍 従「何等為三」已下是
   第三 列順忍 「成就随順法智」此句是也
   第四 列信忍 従「於諸深法」已下是
   第五 明調伏悪人 従「除此諸善男子」已下是
  第二 如来述成 勝鬘諸説真子也
従「佛言善哉」已下是
「降伏非法」者偏述其五段 調伏悪人也
※1)…その次にいう「乗体」が第一、「乗境」が第二か。 ※2)…無性法忍における喜忍・悟忍・信忍。
『本義』云「從「若我弟子」以下入眞子章
中有
第一※1) 如來但擧信順二忍 故名爲略明眞子
此下 勝鬘備-擧三忍 故名爲廣明眞子
而 如來欲此經※2)功於勝鬘
故 但「略明〔眞子〕」信順二忍合 爲「勝鬘眞子章」
随欲可※3)
『本義』云へらく、「「若我弟子」従り以下(しもつかた)「真子章」に入(い)る。
中に就け、二(ふたつ)有り。
第一(つぎてのひとつ)に、如来(によらい)但(ただ)信と順との二つの忍(にむ)を挙げ、故(かれ)名づけて「略明真子」と為(す)。
此(ここ)従(よ)り下(しもつかた)、勝鬘、三忍を備(まう)け挙げ、故(かれ)名づけて「広明真子」と為(す)」といへり。
而(しかくありて)、如来、此の経(きやう)を以ちて功(いさみ)を[於]勝鬘に推(お)さむと欲(おもほ)し、
故(かれ)、但(ただ)「略明真子」の信と順との二忍を合はせて、「勝鬘真子章」と為(す)[也]。
随欲(ほしきまにまに)用(もちゐ)る可(べ)し。
※1)《略明真子》の段全体。
※2)…「信順二忍」は釈迦の言葉である。しかし『本記』はこの部分は勝鬘の思いを代弁したことにして、 そうやって勝鬘の功を推し広げたのではないかという。
※3)…「真子章」の起点を「若我弟子」とするか「爾時勝鬘」とするかは、読み手が自由に決めればよい。
中 初開爲
第一 勝鬘請説※1)
第二 如來命説
第三 從「白〔佛〕言」以下正説
〔就第一請説〕「更有餘大利益」者
上 已明乘躰及境 而未乘人※2)
故 言「更有餘大利益」
亦可
如來擧能信染不※3)人利益
故 仍言更有餘通行此經人利益
中に就け、初めに開(ひら)きて三(みつ)と為(す)。
第一(つぎてのひとつ)は勝鬘説くことを請(こ)ふ。
第二は如来、説けと命(おほ)す。
第三は「白仏言」従り以下(しもつかた)に正(まさ)しく説く。
〔第一の請説に就け〕「更有餘大利益」者(は)、
上(かみつかた)に已(すで)に乗(じよう)の体(たい)及(と)境(きやう)とを明(あき)らめ、而(しかれども)未(いまだ)乗に行(ゆ)く人を明らめず。
故(かれ)「更有余大利益」(さらにあまれるおほきりやくあり)と言へり。
亦(また)上(のぼ)る可(べ)し。
如来能(よく)〔義を〕信(う)け染まりて〔汚に〕不染(そまらざる)人の利益(りやく)を挙ぐ。
故(かれ)仍(すなはち)言へらく、更に余りて通(あまねく)此の経(きやう)を行(おこなひ)する人に利益有りといへり。
※1)…第一は「勝鬘白佛言」。第二は「佛言更説」。第三は「勝鬘白佛言」。
※2)…乗に向かう主体としての人について、未だ触れられていないという。
※3)…《略明真子》の『勝鬘経』下から3行目の「煩悩染汚」以下に対応。 『本義』では、「其解不染而染義」〔義に染まらない状態から解く〕と解釈される。 「信染不染」は「信-染義汚」と解するべきであろう。
第三正説開爲
第一〔從「三種善男子」以下〕-唱三種人
第二 從「何等爲三」以下※) 別-列三種人 三種人「若」爲
第三 從「除此諸善男子」以下 明調-伏悪人
 勝鬘自能以王力及天龍力而 調-伏之
第四 從「爾時勝鬘」以下 明説竟致
第五〔從「佛言善哉」以下〕佛述嘆
 即是有二 第一嘆其調-伏悪人
 第二從「汝已親近」以下嘆説非
今「此義」者 通擧躰境及行乘人諸義也
第三(つぎてのみつ)に就(つ)け、正(まさし)説(とくこと)を開き、五(いつつ)と為(す)。
第一(つぎてのひとつ)〔「三種善男子」従(よ)り以下(しもつかた)〕に、三種(みくさ)の人を惣(す)べ唱(とな)ふ。
第二(つぎてのふたつ)「何等為三」従り以下に、三種人(みくさのひと)を別(わ)け列(な)ぶ。三種人は「若」を別(わけ)と為(す)。
第三(つぎてのみつ)「除此諸善男子」従り以下に、悪人(あしきひと)を調(ととの)へ伏(ふ)する言(こと)を明(あき)らむ。
 勝鬘(しようまむ)自(みづから)能(よく)王力(わうりき)及(と)天龍(てむりゆう)の力との如きを以(もち)ゐて[而]、之(こ)を調へ伏す[也]。
第四(つぎてのよつ)「爾時勝鬘〔予与〕」従り以下に、明らけく説き竟(を)へて敬(ゐやまひ)を致(いた)す。
第五(つぎてのいつつ)〔「佛言善哉」従り以下〕に、仏(ほとけ)の述べ歎(なげくこと)を明らむ。
 即(すなはち)是(ここに)二つ有り。第一は、其の悪しき人を調(ととの)へ伏(ふ)することを歎く。
 第二は「汝已親近」従り以下、を歎き説くことに適(かなふ)に非(あら)ず。
今「此義」者(は)、通(あまねく)体(たい)境(きやう)より乗(じよう)に行く人に及びて諸(もろもろ)の義(ぎ)を挙(あ)ぐ[也]。
※)…『本義』の第二「何等為三」・第三「成就随順法智」を『義疏』は「第二」にまとめ、 それ以後の番号が繰り上がっている。
《正躰中之第三》
 「正体中の第三」は、難解である。 正体は「正説」と同じ意味だと解釈し、爾時勝鬘」以下の章が「第三」だとすれば、第一・第二はその前のどれかの章となるはずである。しかし、直接には示されていない。 ちなみに〈早島勝鬘疏〉は、「第一」を「第六から第九章」、「第二」を「第十から第十三章」と解釈している。
 あるいは、直後に「乗体乗境已竟乗体乗境については既に言い終えた〕とあるから、「第一:乗体」、「第二:乗境」ということかも知れない。
 乗体乗境を「略明真子」の「一観観察察施設意解境界」における「」="乗体"と「境界」="乗境"と読むことは可能であろう。 「一観」のところではこれについて、五根=感覚器官、六識=外界からの刺激を感覚器に受容するはたらき、六塵=体の外の環境を意味すると述べている。 つまり、=感覚器官を持つ体が「第一」、=外界が「第二」である。 それぞれに乗~がついているのは、「悟りの彼岸に向かって乗っていく教えでいうところの」の意を添えるものであろう。
 そして、感覚器()、外界()に、その主体として「乗に行く人」を加えるのである。
 この段の結び「今此義者通挙体境及行乗人諸義也」でも「(肉体)」・「(環境)」・「行乗(修行)」を並べている。
《略明真子と広明真子》
 『義疏』は「爾時勝鬘」から真子章とするが、 〈本義〉〔敦煌本 『勝鬘経本義』〕は遡って「若我弟子」から真子章としている。
 「若我弟子」の部分は二忍(順忍と信忍)を挙げるが、行を積んで楽(ぎょう)の心境に達する部分に触れてない。 そこで、「爾時勝鬘」以下がそれを述べたものとする。
 「若我弟子」章は真子についての略された記述だから「」で、「爾時勝鬘」章は行によって高まる部分を広く詳述するから「」と呼ぶ。
 これは、〈本義〉が述べた「第一仏略説真子」・「第二勝鬘広説真子〔釈迦は真子を略説し、勝鬘は真子を広説した〕を受けたものである。
 『義疏』は、もし「若我弟子」から一章とするなら、その理由は第一の部分についても勝鬘の功を推すためだとする。 その場合、合体した章号として「勝鬘真子章」を提唱するのは、「勝鬘の提唱する真子の章」と名付けるべきだという意味であろう。
 自説を提起しておきながら、「随欲可〔すなわち章の区切りをどうするかは読み手のご自由に〕と言われても困るが、 ことの本質に及ぶような重大な問題とは見ていないのだろう。
《三種の人》
 『勝鬘経』は、善男子善女に次の「三種の人」を挙げる。
 自ら、甚だ深い法智を成就する人。
 法智を理解して従うことにより、成就する人。 
 これが深い法智に沿うものと自覚しないまま、既に成就している人。
 は、師から学ぶことによって法智を身に着ける。これが普通のタイプであろう。 は、経典の読解力があり独力で学ぶことができる。 は、法智のことはあまり知らないのだが、その振る舞いがまさに法智に適っている人をいう。 の終端がどこまでかという判断は難しい。「不自了知。」までで止めて、単純に法智のことをまだ知らない人と割り切る方法もあるが、 「(みづから)」があるから、「自分では気づかぬうちに出来上がっていて、仏はそれを知っている」ということであろう。
 この何れかがすべての善男子善女人に備わっているという。これがまさに、如来蔵説の神髄であろう。
 『義疏』は、これらについては説明を加えていない。 『勝鬘経』の原文だけで、意味は明瞭だからであろう。
《二忍と三忍》
 二忍・三忍は〈本義〉の用いた語である。『義疏』は基本的に〈本義〉に触れた部分で使い、『義疏』自身は積極的に定義していない。
 二忍が「信忍」「順忍」を意味するのは明らかであるが、「三忍」におけるもう一つの「忍」は何であろうか。 〈本義〉における三忍の定義は、どうやら无忍〔=無忍〕順忍信忍である。〈本義〉は、それぞれに対して「三種の人」から語句を拾っている。
 无忍…①から「何等為三謂…自成就甚深法智」。〈本義〉では未だ信忍も順忍も持たない状態。
 順忍…②から「成就随順法智」。『勝鬘経』によれば、信忍から増上し、ついに法智に達した忍。
 信忍…③から「於諸深法不自了知仰推如来非我境界唯仏所知」。『勝鬘経』によれば、自然発生的な感情。
 しかし、これらの拾い出し方は、必ずしも『勝鬘経』のいう各タイプの説明文(前項)とかみ合わず、適切とは言えない。 正しくは、①②は信忍から増上して順忍に達する二通りの道筋であり、 は无忍だが、仏からみればすでに法智を得ている。
《第一》
 第一・第二…の対応に厳密性を欠くのは、一種の和習であろう。
 〈本義〉にも第一・第二…の箇条書きが数多く見られる。更に二層、三層のネスティングがあるが、 層を下げるところには必ず「又分為n」を入れて構造を明確にしている。
 正直に言って、『義疏』はその点が甘い。この特徴は『義疏』が倭人によって書かれたことの、有力な裏付けになる。
 一般に漢籍においては、「」で引用を区切る、「」で主部を区切る、「」で文末を示す、「」の反復で文頭を明確にするなどして抜かりがない。 ラテン語のように格変化や人称変化のある言語ならそれによって文のまとまりが分かるのだが、 漢文にはそれがないから特定の文字を区切りとして用いるのである。
《勝鬘章第十五》
 国訳大蔵経版では、「第三従「除此諸善男子」以下」の部分は、章目〈勝鬘章第十五〉をまたがっている。
 章目「第十五章」は、「除此諸善男子善女人已」と「諸余衆生」の間にある。 しかし、「此諸善男子善女人已諸余衆生〔此の諸(もろもろ)の善男子善女人を除くことを已(お)へて諸の余れる衆生は〕は、 「今述べた三種の善男子善女人以外の衆生は…〔調伏すべし〕」という意味で、したがって〈勝鬘章第十五〉はこの文章を途中で切断していてあまりに不自然である。
 同版は第一章のところに「此章以下至第十五章俱並無章目〔この章から十五章まで章目〔章の題名〕なし〕なる頭注を付けているので、 章目は後から付加したもののようである。
《大意》
 「爾時勝鬘」以下は正体の中の第三として、 「真子」一章を挙げ、御乗(ぎょじょう)の人を明らかにする。 〔第一の〕乗体(じょうたい)と〔第二の〕乗境(じょうきょう)は、既に正説を終えた。
 そこで、ここに真子の一章を設け、 三忍の菩薩がこの乗を受けて乗に行くことを明らかにする。
 『本義』は、「「若我弟子」以下が「真子章」に入る。 その中には、二つの部分がある。 第一は、如来〔釈迦〕がただ信・順の二忍を挙げ、よって「略明真子」〔略して真子を明かす〕と名付ける。 〔第二は〕ここから下で、勝鬘が三忍を備えて挙げ、よって「広明真子」〔広く真子を明かす〕と名付ける。」という。
 こうして、如来はこの経(きょう)をもって功を勝鬘に推そうと欲し、 ただ「略明真子」のこの信・順の二忍を併せ、「勝鬘真子章」としたものである。 どちらを用いるかは、任意にするがよい。
 「広明真子」の中については、初めに三つの部分に開く。
 第一は、勝鬘が説くことを請(こ)う。
 第二は、如来が説けと命じる。
 第三は「白仏言」以下で、勝鬘による正説である。
 第一の部分の「更有餘大利益」は、 上〔「若我弟子」の章〕で既に乗(じょう)の「体(たい)」及び「境(きょう)」を明らかにしたが、しかし未だ乗(じょう)に行く人のことを明らかにしない。 よって、「更有余大利益」〔"さらに"余れる大きな利益有り〕と言うのである。
 また遡ると、 如来はよく義に信じ染まり、汚れに染まらない人の利益(りやく)を挙げる。 よって言う、更に余して遍(あまね)くこの経を行う人に利益があると。
 第三の部分については正説を開き、次の五項がある。
  第一は「三種善男子」以下で、三種の人をまとめていう。
  第二は「何等為三」以下で、三種の人を分けて並べる。三種の人は「若」の文字で区切られる。
  第三は「除此諸善男子」以下で、悪人を調伏することを明らかにする。 勝鬘(しょうまん)は自らよく王の力及び天の竜の力などを用いて、これを調伏することができる。
  第四は「爾時勝鬘」以下で、明説を終えて敬意を払う。
  第五は「佛言善哉」以下で、仏の述嘆を明らかにする。即ちここには二つあり、その第一は、その悪人を調伏することを述嘆する。 第二は「汝已親近」以下で、嘆説には入らない〔嘆説はすでに終わり、これは勝鬘を褒める文である〕。
 今「此義」は、体・境及び乗に行く人の諸々の義の全体を通していうものである。


【勝鬘経】
 勝鬘経の該当部分を訓読する。
 ここでは上宮太子の時代に本義が読まれたと想定して、上代語を用いる。 ただし、仏教語については、この時代は外来語だから音読かも知れない。もし、一定程度和訓が試みられていたとたとしても、 その訓みは不明だから、ここでは音読で統一する。
 学究的には不完全だが、理解の助けとするための便法とする。
如此二法 汝及-就大法菩薩魔訶薩
乃能聽受-諾諸餘聲 聞唯信佛語
此(かく)の如き二法、汝(いまし)大法菩薩魔訶薩を成就(じやうじゆ)するに及ぶ。
乃(すなはち)能(よ)く受諾せし諸(もろもろの)余れる声を聴き、唯(ただ)仏(ほとけ)を信ずる語(かたり)を聞く。

〈眞子章第十四〉

若我弟子 随信増上者
明信 已随順法智
而得究竟 随-順法智
 觀-察施-設根意解境界
 觀-察業報
 觀-察阿羅漢眼
 觀-察心自在樂禪定樂
 觀-察阿羅漢辟支佛大力菩薩聖自在通
阿羅漢…[梵]arhatの主格=arhan。①小乗仏教で最上の聖者。②阿羅漢果〔阿羅漢の位〕。③仏の別称のひとつ。
辟支仏(びゃくしぶつ)…[梵]pratyeka-buddha。仏の教えによらず、ひとり悟りを開いてそれを楽しむ仏。
大力菩薩…大力ある菩薩。

〈眞子章第十四〉

若(も)し我が弟子(てし)随(したが)ひて信(しん)増上(ぞうじやう)せ者(ば)、
明(あきらか)なる信に依り、已(すでに)順(じゆん)随(したが)ひ法智(ほふち)す。
而(しかくありて)究竟(きうきやう)を得て順に随ひ法智せ者(ば)、
 根(こん)意解(いげ)境界(きやうがい)を施設(せせつ)することを観察(くわんさつ)す。
 業報(ごふほう)を観察す。
 阿羅漢(あらかん)の眼を観察す。
 心(しん)自在(じざい)の楽(げう)と禅定(ぜんぢやう)の楽とを観察す。
 阿羅漢・辟支(へきし)仏・大力菩薩の聖(ひじり)自在に通(とほ)すことを観察す。
此五種巧便 觀成就於我滅後未來世中
我弟子随信増上 依我明信 隋順法智
自性清浄心 彼爲煩悩染汚而得究竟
是究竟者 入大乘道
信如来者有是大利益不謗深義
巧便(ぎょうべん)…仏・菩薩が衆生救済において、相手の能力に応じて巧みにさまざまな方法を用いること。
究竟(きゅうきょう)…ことを極めて最高に達すること。
(ぎょう)…[動] このむ。ねがう。
此の五種(いつくさ)を巧便(げうべん)し、[於]我が滅びし後(のち)の未来(みらい)の世の中に成就(じやうじゆ)することを観(み)よ。
我が弟子(ていし)信(しん)の随(まま)に増上(ぞうじやう)し、我が明(あきらか)なる信(しん)に依り順に隋(したが)ひ法智す。
自性(じしやう)清浄心(しやうじやうしん)なれど、彼(かれ)煩悩(ぼんなう)に染汚(ぜんま)為(し)て[而]究竟(きうきやう)を得(う)。
是の究竟者(は)、大乗(だいじよう)に入(い)る因(いん)なり。
如来を信(う)くる者(もの)に是の大(おほきなる)利益(りやく)有り、深義(じんぎ)を不謗(そしらじ)」といへり。
爾時勝鬘佛言
更有餘大利益
我當承佛威神復説斯義
佛言更説
勝鬘白佛言
巧便(ぎょうべん)…仏・菩薩が衆生救済において、相手の能力に応じて巧みにさまざまな方法を用いること。
威神(いじん)…不思議な、人には計り知れない徳。
爾(その)時勝鬘(しようまん)仏に白(まを)して言はく
「更に余りて大きなる利益(りやく)有り。
我当(まさに)仏の威神(ゐじん)を承り、復(また)斯(その)義(ぎ)を説くべし。」といひ、
仏「更に説け」と言へり。
勝鬘仏に白(まを)して言へらく。
三種善男子善女人於甚深義
自毀傷 生大功徳 入大乘道
何等為三謂
若善男子善女人自成就甚深法智
若善男子善女人成就随順法智 
若善男子善女人於諸深法不自了知
-推如來 非我境界唯佛所知
是名善男子善女子 仰-推如來
了知(りょうち)…はっきりとしること。
「三種(みくさ)の善男子(ぜんなんし)善女人(ぜんによにん)[於]甚(はなはだし)き深義(しんぎ)に、
毀(こぼ)ちし傷(きづ)自(よ)り離(か)り、大(おほきなる)功徳(くどく)を生(な)し、大乗(だいじよう)の道に入(い)る。
何等(いづれら)を三(みつ)と為(な)すと謂ふか。
若(もしや)善男子善女人自(みづから)甚(はなはだ)しき深法(しんほふ)の智(ち)を成就するか、
若(もしや)善男子善女人の成就、法智に随順(したが)ふか、
若(もしや)善男子善女人[於]諸(もろもろの)深法、不自了知(みづかられうちせざ)りて、
如来を仰(あふ)ぎ推(お)しまつるに、我が境界(きやうがい)に非ず、唯(ただ)仏(ほとけ)の知る所なり。
是(これ)善男子善女子と名づけ、如来に仰ぎ推しまつる。
除此諸善男子善女人已

〈勝鬘章第十五〉

諸餘衆生 於諸深法堅著妄説
-背正法 習諸外道腐敗種子
王力及天龍鬼神力而調二上-伏之
調伏(ちょうぶく)…祈祷してその力で怨敵を降伏させる。
此の諸(もろもろの)善男子善女人を除き已(を)へて、

〈勝鬘章第十五〉

諸(もろもろの)余れる衆生(しゆじやう)、[於]諸(もろもろの)深法(ふかきのり)に堅く妄説(まうせつ)を著(つ)け、
正法(しやうほふ)に違背(そむ)き、諸(もろもろの)外道(ぐゑだう)腐敗(ふはい)の種子(たね)を習(なら)へ者(ば)、
当(まさに)王力(わうりき)及び天竜(てんりゆう)鬼神(くゐじん)の力を以て[而]之(こ)を調伏(てうぶく)すべし。」といへり。
爾時勝鬘與諸眷属 頂-禮佛足
佛言 善哉善哉
勝鬘於甚深法方便守護降-伏非法
善得其宜
汝已親近百千億佛 能説此義
眷属(けんぞく)…仏に就き仏に親しくつきあう者。また仏のそばにいる菩薩。
頂礼(ちょうらい)…古代インドの最高の敬礼。頭を地面につけて相手の足元にお辞儀をする。
方便(ほうべん)…仏が衆生を導くために用いる仮の手段。
降伏(ごうぶく)…悪魔を威力で従わせること。
親近(しんごん)…親しみ近づくこと。
爾(その)時、勝鬘諸(もろもろの)眷属(くゑんぞく)と与(とも)に、仏足(ぶつそく)を頂礼(ちやうらい)す。
仏言ひしく「善哉(よきかな)善哉。
勝鬘甚(いと)深き法(のり)の方便(はうべん)に於きて守護し、非法(ひほふ)〔の者〕を降伏(ごうぶく)し、
善く其(そ)の宜(よろしき)を得(う)。
汝(いまし)已(すでに)百千億(ひやくせんおく)の仏(ほとけ)に親近(しんごん)し、能(よ)く此の義(ぎ)を説く。」といひき。
《大意》
如是二法 〔釈尊は〕「…このような二法で、あなたは大法菩薩魔訶薩を成就する。 そしてよく受諾した諸々の他の声を聴き、ただ仏信の語を聞く。
〈眞子章第十四〉
若我弟子 もしわが弟子が随信し増上ぞうじょうすれば、 明信に依存し、随順して法智の人となろう。 こうして究竟きゅうきょうを得て随順し法智になれば、 ①根・意解いげ境界きょうがい施設せせつすることを観察する、 ②業報ぎょうほうを観察する、 ③阿羅漢あらかんの眼を観察する、 ④心自在のぎょう禅定ぜんじょうの楽を観察する、 ⑤阿羅漢・辟支仏・大力菩薩の聖上が自在に通じるすことを観察する、 この五種を巧便ぎょうべんし、私が滅した後の未来の世の中に成就することを観よ。
 私の弟子は、信ずるままに増上し、私の明信により法智に隋順である。 自性じしょう〔生まれついて〕の清浄心があるが、彼は煩悩に染汚ぜんまして究竟きゅうきょうを得、 この究竟が、大乗に入るいんである。 如来を信ずる者にこの大いなる利益りやくが与えられるのであって、深義じんぎを誹謗してはならない。
爾時勝鬘 その時、勝鬘しょうまんは釈尊に、 「更に加えて大いなる利益りやくが有ります。 私が仏〔=釈尊〕の威神いじんを承り、またその義を説きたいと存じます。」と申し上げ、 それを聞いた釈尊は「よろしい。更に説きなさい」と仰った。
 勝鬘は釈尊に仏に申し上げた。 「三種の善男子ぜんなんし善女人ぜんにょにん甚深じんしんの義に、 毀損した傷から離れ、大なる功徳を生み、大乗道に入ります。 三種とは如何なる人でしょうか。
  若しや、善男子・善女人が自ら甚深の法のを成就します。
  若しくは、善男子・善女人の法智に随順して成就します。
  若しくは、善男子・善女人が諸々の深い法を自ら気付かぬまま 如来を仰ぎ推し、自分の境界にはなくただ仏のみが知ります。
 これらを善男子・善女子と名付けて、如来〔=釈尊〕を仰ぎ推奨させていただくものでございます。 これらの諸々の善男子・善女人を除き、
〈勝鬘章第十五〉
 その他の諸々の衆生しゅじょうは、諸々の深法に対して頑なに妄説に捉われています。 正法に違背し、諸々の外道・腐敗の種子を習う者は、 まさに王力・天竜・鬼神の力を用いて調伏ちょうぶくすべきです。」
 このように申し上げ、勝鬘は諸々の眷属けんぞく〔同門の者たち〕と共に、仏足に頂礼ちょうらい〔釈尊の足元に深々と座礼〕した。
 釈尊は言った。「よろしい、まことによろしい。 勝鬘はごく深い法によりさまざまな方便を用いて守護し、非法の者を降伏ごうぶくできよう。 よくその宜(ぎ)を得たのである。 あなたは既に百千億の仏に親近しんごんしし、よくこの義を説いてくれた。」


【勝鬘義疏本義】
 『勝鬘義疏本義』敦煌本を訓読する。 ここでも上宮王の時代に読まれたことと想定して、仏教用語は音読し、その他は上代語として訓む。
 第四其推崇与仏 従「如此二法」已下是
「二法」者 仏性之理及善悪之心 其向唯仏証知 今押解
在已師及弟子 互相讃成也

 就第十四真子章 又分為
 第一 仏略-説真子 但明信順二忍也 又分為
  第一 章門 又分為
   第一 明信忍章門 従「若我弟子」已下是
「信増上者」者謂登住之信 信中之上也
又云此信 信仏性増上之法也
   第二 明順忍章門 〔従〕「依明信已」已下是
仏性(ぶつしょう)…すべての生き物が生まれながらもつ、仏になれる性質。
 第四 其の推崇を仏に与(あたふる)ことを述(の)ぶ。 「如此二法」従(よ)り已下(いか)是(これ)なり。
「二法」者(は) 仏性(ぶつしやう)之(の)理(り)及び善悪之(の)心にて、其(それ)唯(ただ)仏証(ぶつしよう)の知を明らむことに向かひ、今押し解き、
師及び弟子(ていし)に在り已(を)へ、互相(ごそう)〔=相互〕に讃成〔=賛成〕す[也]。

 第十四真子章(しんししやう)に就(つ)け、又分(わか)ちて二と為(な)す。
 第一:仏(ほとけ)真子を略説し、但(ただ)信順二忍を明らむ[也]。又分ちて三と為(な)す。
  第一:章門(しやうもん)。又分ちて二と為す。
   第一:信忍(しんにん)が章門を明らむ。「若我弟子」従り已下是なり。
「信増上者」者(は)登住(とうぢゆう)之(が)信(しん)を謂ひ、信の中之(の)上(じやう)也(なり)。
又此の信を云ふ。信は仏性(ぶつしやう)増上(ぞうじやう)之(が)法(ほふ)也(なり)。
   第二:順忍(じゆんにん)が章門を明らむ 。「依明信已」従り已下是なり。
  第二 正出忍体 以釈上章門 此中正明順忍兼明信忍
若五種観成則是順忍 観若不成則是信忍
故不別明信忍也 五種巧便観者也
   第一観 十八界 「観察施設根」者謂五根仮施設
「意」者謂意根也 「解」者謂六識也 「境界」者謂六塵
   第二観 因果 「観察業報」此句是也
   第三観 「阿羅漢眠」 「阿羅漢眠」謂住地
   第四観 知禅 「観察心自在楽」者謂智恵照境 任放為一レ楽也
「禅楽」者禅定楽也
   第五観 三乗神通 従「観察阿羅漢辟支仏」已下是也
  第三 結 従「於我滅後」已下是
此人於仏滅後 能秉-行大乗
「而得究竟」者 美其解不染而染上レ義也
「入大乗道因」者 言大乗道 為仏作因
又云 八地是大乗道 信順二忍 是大乗道因
不染…「染」は「染汚」、「染義」の両方の意味で使うようである。ここでは「解く」の目的語だから、「染汚」。
…「たのしむ」「よろこぶ」の意味では、二種類の発音、ラク・ゲフ(ぎょう)がある。 「不染汚」の意味となる。
  第二:正(まさ)に忍体(にんたい)を出(い)づ。以て釈(と)きて章門を上げ、此の中の正に順忍を明(あき)らめ、兼ねて信忍を明らむ。
若(も)し五種(いつくさ)の観(かん)成らば則ち是(これ)順忍(じゆんにん)にて、 観若(も)し不成(ならざら)ば則ち是信忍(しんにん)なり。
故(かれ)不別(わかたざる)は信忍(しんにん)なるを明らめ[也]、五種の巧便(げうべん)は「観」者(なり)[也]。
   第一の観:十八(じふはち)界(がい)は、「観察施設根」者(は)五根(ごこん)の仮(かり)の施設(せせつ)を謂ふ[也]。
「意(い)」者(は)意根(いこん)を謂ふ[也]。「解(げ)」者(は)六識を謂ひ[也]、「境界(きやうがい)」者(は)六塵(ろくじん)を謂ふ[也]。
   第二の観:因果(いんぐわ)は、「観察業報」此の句是(これ)也
   第三の観:「阿羅漢眠」、「阿羅漢眠」は住地(ぢゆうぢ)を明(あきらむ)こと无(な)く惑(まど)ふを謂ふ[也]。
   第四の観:知禅(ちぜん)、「観察心自在楽」者(は)智恵(ちゑ)照境(せうきやう)し、任放(ほしきまにまに)楽(げう)を為すを謂ふ[也]。
「禅楽」者(は)禅定(ぜんぢやう)の楽(げう)也(なり)。
   第五観:三乗(さんじよう)神通(じんずう)は、「観察阿羅漢辟支仏」従り已下是也(なり)。
  第三:結ぶ。「於我滅後」従り已下是なり。
此の人に、[於]仏滅(ぶつめつ)の後(のち)、能く大乗を秉(にぎ)り行(おこな)へと言ふ[也]。
「而得究竟」者(は)、其(その)不染(ふぜん)を解き、而(しかるがゆゑに)義に染まりしことを美(ほ)む[也]。
「入大乗道因」者(は)、大乗道(だいじようだう)仏と作(な)る因(いん)を為すと言ふ[也]。
又云はく、「八地(やぢ)是(これ)大乗道なり、信順二忍是(これ)大乗道の因なり」といふ[也]。
 第二 勝鬘広説真子 備明三忍也 又分為
  第一 勝鬘正説真子 又分為
   第一 総唱三種善人 従(よ)り「爾時勝鬘」已下なり。
是「離自毀傷」者 能不誹謗
   第二 列忍 従「何等為三」已下是
   第三 列順忍 「成就随順法智」此句是也
   第四 列信忍 従「於諸深法」已下是
   第五 明調-伏悪人 従「除此諸善男子」已下是
  第二 如来述成 勝鬘諸説真子也
従「佛言善哉」已下是
「降伏非法」者 偏述其五段調-伏悪人
列无生忍…第二~第四にわたって、①無忍②順忍③信忍を列挙する。
順忍…「成就随順法智」を、法理を学んで理解して達した「順忍」であると読んでいる。
信忍…『勝鬘経』でいう第三類型は、深法を知らぬまま、既に如来を仰推する境地に達している人を指す。 これを、「本義」は「信忍」〔理知的になる前の感情としての信仰〕の人と解釈している。
偏述…いくつかある中から、ある事項に限定して述べる。
 第二 勝鬘広く真子(しんし)を説く。備(つぶさに)三忍を明(あき)らめ[也]、又分(わか)ちて二と為(な)す。
  第一:勝鬘正(まさ)しく真子を説く。又分ちて五と為(な)す。
   第一:総(すべ)て三種(みくさ)の善人(ぜんにん)を唱(とな)へ、「爾時勝鬘」従り已下(いか)なり。
是(ここ)に「離自毀傷」者(は)不誹謗(ひばうせざること)を能(あた)ふ。
   第二:忍(にん)を生(な)すこと无(な)きを列(な)ぶ、「何等為三」従り已下是(これ)なり。
   第三:順忍を列ぶ、「成就随順法智」此の句是也(なり)。
   第四:信忍を列ぶ、 「於諸深法」従り已下是なり。
   第五:悪人(あくにん)を調伏(てうぶく)することを明らむ、「除此諸善男子」従り已下是なり。
  第二:如来、勝鬘が諸(おほよそ)真子を説きしことを述べ成せり[也]。
「佛言善哉」従り已下是なり。
 「降伏非法」者(は)偏(ひとへに)其の五段(いつつのきだ)の悪人を調伏することを述ぶ[也]。
《大意》
 第四:その崇拝を仏に与えることを述べる。 如是二法以下がこれである。 「二法」は仏性の理と善悪の心で、それはただ仏証ぶっしょうの知を明らかにすることに向かい、今押し解き 師弟の関係を結び、相互に賞讃する。
 第十四、真子章しんししょうについては、さらに二つに分ける。
 第一:職損は真子を略説し、ただしんじゅんの二つのにんを明らかにし、さらに三つに分ける。
  第一:章門しょうもん。さらに二つに分ける。
   第一:信忍の章門を明らかにする。「若我弟子」以下がこれである。 「信増上者」は、登住とうじゅうの信をいい、信の中の上である。 またこの信をいい、信は仏性増上の法である。
   第二:順忍の章門を明らかにする 。「依明信已」以下がこれである。
  第二:正しく忍体を出す。釈して章門を上げ、この中に正しく順忍を明らかにし、兼ねて信忍を明らかにする。 もし、五種のかん成れば、これが順忍であり、 観がもし成らなければ、これが信忍である。 よって、区別がないうちは信忍を示すに過ぎず、五種の巧便ぎょうべんが「観」なのである。
   第一観:十八界(がい)は、「観察施設根」は五根の仮の施設せせつをいい、 「意」は意根いこんをいい、「」は六識をいい、「境界きょうがい」は六塵ろくじんをいう。
   第二観:因果は、「観察業報」の句がこれである。
   第三観:「阿羅漢眠」は住地じゅうちを明らかにならず困惑することをいう]。
   第四観:知禅(ちぜん)。「観察心自在楽」は智恵が照境しょうきょうし、ほしいままぎょうをなすという。 「禅楽」は禅定ぜんじょうぎょうである。
   第五観:三乗・神通は、「観察阿羅漢辟支仏」以下がこれである。
  第三:結びとする。「於我滅後」以下がこれである。 この人に、仏滅〔釈尊の没〕の後、よく大乗をにぎって行えという。 「而得究竟」は、その不染ふぜんを解き、義染したことを褒める。 「入大乗道因」は、大乗道が仏となる因となるという。 また「八地やぢは大乗道で、信・順の二忍は大乗道の因である」という。
 第二:勝鬘は真子しんしを広説し、つぶさに三忍を明らかにする。さらに二つに分ける。
  第一:勝鬘は正に真子を説く。さらに五つに分ける。
   第一:三種の善人を総称し、爾時勝鬘以下である。 ここで「離自毀傷」は、誹謗しないことができる。
   第二:忍を未だ挙げない段階を示す。「何等為三」以下がこれである。
   第三:順忍を示す。「成就随順法智」という句がこれである。
   第四:信忍を示す。「於諸深法」以下がこれである。
   第五:悪人を調伏することを示す。「除此諸善男子」以下がこれである。
  第二:如来〔=釈尊〕が、勝鬘が概ね真子を説いたことを述べる。 「佛言善哉」以下がこれである。 「降伏非法」は、ひとえに上の第五段で悪人を調伏することを取り出して述べる。


【義疏は勝鬘経をどう読んだか】
《信忍と順忍》
 信順の二忍の相互関係について、「信忍が増上して順忍に至る」という順序性を見落とすなという。 〈本義〉がそれに触れず、単に並列していることを批判したと見られる。
《広明真子》
 『義疏』は「更有余大利益」に注目する。これは「善男子善女人」すなわち幅広い範囲の人々に利益が及ぶと解釈しているようである。 「行乗人」は信忍・順忍の主体となる人のことで、《略明真子》はそこまでは触れていないという。 『義疏』が真子章を《広明真子》に限定するのは、そこだけに書かれた「人」を重視しているからであろう。
 このことから、『義疏』の関心は、仏教の幅広い普及に向けられていることが分かる。
 この部分について、〈本義〉は「三忍」を述べた部分とするが比較的素っ気ない。 『義疏』は〈本義〉に縛られることなく、主体的に意味を読み取ろうとするのである。
《独自性》
 『義疏』の筆者は〈本義〉を参考にするが、決して〈本義〉に毛の生えた程度のものではなく『勝鬘経』を自分の頭で納得いくまで理解しようとする態度に溢れている。 その背景には、国家が仏教を導入するにあたって、その経典に書かれた思想の神髄を理解し切った上で取り組もうとする姿勢があったと感じられる。
 また、少なくとも真子章においては、庶民のレベルまで法智への理解を広めようとする意欲が読み取れるのである。 実際にそれを行おうとすれば、様々な既存の宗教勢力との衝突が避けられない。「調伏悪人」の部分は、その問題意識によって取り上げられたものであろう。

まとめ
 推古朝において、本格的に仏教国家に向けて舵を切ったのは、現実に建立された寺院を見れば歴史的事実として疑う余地はない。 その際、仏教思想を根底まで理解して臨もうとする真摯さが、『勝鬘経義疏』など三経義疏の執筆を促したとするのも、また自然な見方であろう。 その中心に上宮王がいたことは、確実であろう。義疏の執筆が朝廷の部署による組織的な仕事であったの当然であろうが、 少なくとも清書前の執筆が上宮王自身だったとしても、それほど無理のある想像ではないと感じられる。 ごく僅かな部分を見ただけだが、『義疏』と経典を照合して深く読むほど、その感が強まるのは事実である。 少なくとも『義疏』が、経典を真剣に読み解いて成し遂げられた偉大な著作であることは間違いない。
 さて、三経義疏の執筆者に関して、外形的な特徴に拠る議論と、仏教思想からのアプローチとの間には深い断絶がある。
 前者がしばしば中国製を主張するのは、その形態的な特徴が中国文化の内にあると見做されるからである。 一方、後者においては、なんといっても我が国の仏教の著作が「聖徳太子の著作」を出発点として発展してきたからである。
 しかし前者については、金錯銘鉄剣以来の筆法・書法の交流の蓄積が軽視されているように思える。 また後者については、純粋な科学の対象に信仰のフィルターがかかっていないとは言い切れない。 双方の研究手法に、ともに深く通じた研究者の出現が望まれる。
 ただ、大局的に見てこの時代の国家の大規模な仏教化は否定のしようもなく、その要に上宮王がいたこともまた確かであろう。 だから、少なくとも三経義疏の製作には、太子が一定程度の関与があったと見てよいと思われる。
 



2021.10.06(wed) [53] 岡本宮 
 〈推古紀〉十四年によれば、上宮皇子は法華経を講じた。それでは、その講の会場とされる「岡本宮」はどこにあったのであろうか。 一般には、その岡本宮跡に創建されたのが法起寺であるとされている。ここでは、諸文献を追ってその真相を探る。
   引用文献略称
〈礼記〉…『礼記らいき』は周代から漢代の儒学者による礼に関する書第95回【崩】〕
〈天皇号〉…「天皇」号は680年代から用いられたと見られる(資料[41])。
〈法隆寺縁起資材帳〉…『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』〔747〕。『奈良遺文』(改訂版;中p.344)竹内理三編〔東京堂出版1943/改訂版1962〕。
〈造東大寺諜案〉〔750〕『大日本古文書』巻之十一(正倉院文書、p.167) 「東京帝国大学文科大学史料編纂掛1917〔覆刻/東京大学史料編纂所1998。奈良時代古文書フルテキストデータベース
〈霊異記〉…日本国現報げんぼう善悪ぜんなく霊異記りよういき〔一説に822年〕(資料[51])。
〈七代記〉…「現在明確にこの書名で伝存する書物はないが、中世の諸書に「七代記」「天王寺障子伝」として引用され、 宝亀二年〔771〕四天王寺僧敬明らが撰したといわれる太子伝の逸文が、江戸時代末に黒川春村によって影写された書名不明の太子伝〔『異本上宮太子伝』・広島大学本『太子伝』〕と一致する」(〈国史大辞典〉)。
〈天王寺秘訣〉…『障子伝』か。「中世の諸書に「天王寺障子伝」として引用され」たのが、「宝亀二年〔771〕四天王寺僧敬明らが撰したといわれる太子伝の逸文」かという(〈国史大辞典〉)。 その断片が障子絵の中にあったのではないかという。
〈上宮聖徳法王帝説〉…『上宮聖徳法王帝説』平安中期以前。690年ごろの文書の筆写を含むと思われる(第249回)。
〈太子伝暦〉…『聖徳太子伝暦』〔著者不明。平安中期。917年説など〕全二巻。 太子に関する説話・奇談を集大成したような性格の伝記で、後世に大きな影響を及ぼし、人々の太子観は本書を通じて形成された(〈国史大辞典〉)。 〔室町後期の写本;国立国会図書館デジタルコレクション(以下NDL)id2544997コマ29〕
〈聖徳太子伝私記〉〔顕真;1238~1242年(〈會津〉による)〕。『聖徳太子伝私記』奈良美術研究会;北光社1929〔"https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188670" title="外部リンク"NDL〕。『大日本仏教全書』112〔仏書刊行会1912;NDL〕。
〈新抄格勅符抄〉…平安時代の法制書。冒頭に『新抄格勅符 第十巻抄 神事諸家封戸』とある。現在に残るのは十巻の抄本のみ。『新訂増補/国史大系第二十七巻』〔吉川弘文館1933年〕など。
〈會津〉…會津八一「法起寺塔婆露盤銘文考」;『東洋美術9』〔東洋美術研究会1931〕など。
〈平安遺文9〉…『平安遺文』古文書編第九巻 竹内理三〔東京堂出版1964〕
〈上宮太子拾遺記〉…『上宮太子拾遺記』。「『聖徳太子絵伝』の解説書七巻。鎌倉時代末期、橘寺の僧法空の撰」(〈国史大辞典〉)。『大日本仏教全書』112に収録。
〈太鏡鈔〉…『太鏡鈔』〔聖云;南北朝時代〕。「(『太鏡鈔』は)『太鏡底容鈔』『太鏡百錬鈔』と三部作をなす聖云の太子伝暦の口伝書」、 「聖云は鎌倉末南北朝初期の人で、橘寺の法空の流れを受けたものと推定される。」(『慶応義塾図書館蔵和漢書善本解題』〔1958〕p.56)。
〈玉林抄〉…『太子伝玉林抄』〔訓海1448;資料[50]
〈和州旧跡幽考〉…『和州旧跡幽考』〔林宗甫;1681〕
〈大和志〉…『五畿内志』(『日本輿地通志畿内部』〔1734〕)のひとつ。
〈関野貞〉…「法起寺・法輪寺両三重塔の建築年代を論ず」関野貞;『歴史地理』1905年7巻(8)。また『日本の建築と芸術 下』〔岩波書店1999〕p.235。
〈奈文研70〉…『奈良国立文化財研究所年報』〔1970〕p.26「法起寺旧境内の発掘」村上訒一。
〈条里復元図〉…『奈良県史』第十巻付図「大和国条里復元図」〔奈良県史編集委員会;1974〕
〈国史大辞典〉…『国史大辞典』(昭和)〔吉川弘文館1979~1993〕
〈大橋一章〉…『早稲田大学大学院文学研究科紀要 第49輯 第3分冊』〔2003〕
〈大山誠一〉…『「法起寺露盤銘」の成立について』大山誠一〔弘前大学国史研究111;弘前大学国史研究会2001〕

【法起寺】
〈奈文研70〉p.26
 〈奈文研70〉は、「法起寺旧境内の発掘」と題して、1968~1969年の発掘調査の記事を載せる。 それによると、 「西面築地の西側では、南北棟建物2・南北柵1を検出した。このうち建物の1棟と柵とは、磁北に対し、北で西に約20度振れている。 この傾きは、1960年の調査で金堂下層から検出された、玉石溝の方向の傾きと一致するものであって、 ともに法起寺創建に先立つ機構と考えられる。 塔露盤銘にいう、岡本宮の遺構である可能性が強い」という。
 この金堂下層の建物の「真北から20度西」は、創建法隆寺とされる若草伽藍(資料[51])の「真北から24度西」の傾きに近いことが注目される。
 ここでいう「塔露盤銘」とは、顕真〔法隆寺の僧〕が著した〈聖徳太子伝私記〉〔鎌倉時代〕の巻末に載せられた引用が初出とされる。

【法起寺塔露盤銘】
 法起寺の「塔露盤銘」は法隆寺僧の顕真が鎌倉時代に著した〈聖徳太子伝私記〉に載る。〈會津〉によると、 これが「〔の〕銘文の最も古い、比較的完好の記録」で、それが〈玉林抄〉や〈和州旧跡幽考〉に引用されたと見られるという。 全文は、次の通りである。
〈聖徳太子伝私記〉
 岡本寺
永保元年〔1081〕【辛巳】〔1041〕二月七日 岡本寺官使下 塔露盤銘文書取京【云云】
    別當威儀師能算
    其露盤銘文別註注之

 法起寺塔露盤銘文

上宮太子聖德皇壬午年〔622〕【[傍朱]推古天皇三十〔622〕】二月二十二日臨崩之時
於山代兄王𠡠御願旨
此山本宮殿宇卽處專爲作寺
及大倭國田十二町 近江國田卅町
至于戊戌年【[傍朱]舒明天皇十年〔638〕】福亮僧正聖德御分敬造彌勒像一軀構立金堂
至于乙酉年〔685〕【[傍朱]白鳳十四】
恵施僧正將竟願構立堂塔
而丙午年〔706〕三月露盤營作
 最初の部分は前置きで、この露盤銘文は官使が書き写したものを京に持ち帰ったものだと述べる。
 前置きと「永保元年二月七日…」は、おそらく和文である。永保四年は1041年だが、辛巳は(1081±60n)年である。 純正漢文なら、「官使岡本寺 書写露盤銘文 齎之於京」などとなろう。
 ここでは万葉歌風に「岡本寺に官使下り、塔露盤銘の文を書き取り京〔に還りき〕」と訓むと思われる。 この文からは、少なくとも「岡本寺」の所在地が、平安京から離れていたことが分かる。 この文によって、「此山本宮」が「岡本寺」の誤記であることが裏付けられる(後述)。
 〈會津〉によると、『法隆寺別当次第』にも 「永保元年辛酉二月七日岡本寺塔基官使下塔露盤銘文書宣旨下取」とある。顕真の文は、おそらくこれに依ったと見られる。 「文書宣旨下取」〔文書を宣旨下りて取りき〕の語順も和風で、また「書取」を誤写したようにも思える。 なお、この引用の出典を探しているが、今のところ見つからない。
 「永保元年辛酉」は「露盤銘文」では「辛巳」だが、永保元年〔1081〕は辛酉が正しい。〈會津〉が「勿論〔もちろん〕顕真の誤記にちがひない」と言う通りだろう。 〈大橋一章〉は、塔露盤銘に対して〈會津〉によってなされた解釈を紹介している。
 ここで〈會津〉の原文から、その解釈の一部を見る。
〈會津〉『東洋美術9』(p.6、pp.11~13)
〈岩崎本〉推古十四年
 この「法起寺塔婆露盤銘文」は、『聖徳太子伝拾遺記』(〈上宮太子拾遺記〉)、〈玉林抄〉、〈和州旧跡幽考〉などに載るが、 すべて〈聖徳太子伝私記〉〔1238~1241年〕を基にしたと見られるという。
 字の解釈については次の7項目を挙げる。
(A) 」は意味が通らないのだが、これはもともとは乃・入が合体したもので、「乃入大倭國田十二町 近江國田卅町〔乃(すなは)ち大倭国十二町…を入る〕だという。 その根拠として『大安寺縁起資材帳』〔『寧楽遺文』に収録〕の「九百九十町墾入賜」などの例を挙げ、「「入」という字を「寄進」「施入」の意味に使ふことは周知の慣例」とする。
(B) 爲作寺」・⑦「將竟御願」は、「將作寺」・「爲竟御願」である。「作ント」、「竟ンカ」とあるのは顕真以前からの「捨仮名」で、 「將作〔マサニツクラントス〕」、「為竟〔ヲヘンガタメニ〕」の痕跡ではないか。
(C) 此山」はもともとの「岡」が誤って二字に分けられた。  それによると、ものと推定している。もともと鎌倉時代前後までの「岡」の字は上が"罒"、下が"山"であった。 下が"止"になった形の"𦊆"もあり、ともに一般的だったという。〔右図は〈岩崎本〉(10世紀)〕
(D) 」は「傳」(伝)である。「傳〔ツタヘテ〕のテが誤ってラと読まれ、「専」と解釈された。
(E) 卽處(即処)」は、「処(ところ)に即(つ)き」または「即処(そくしょ)」(ソノママの意)。
(F) 聖德御分」は、「聖徳皇御分」または「聖皇御分」。
(G) 堂塔」は「寶塔」(宝塔)であろう。で「構立金堂」と述べているから、ここでは金堂と三重塔を併せた「堂塔」ではなく「塔」のみのはずである。
 (A)、(C)、(G)で、転写誤りとする点は同意できる。 特に(C)については、前置きに「岡本寺」とあるから、「岡本」でなくてはならない。 (A)、(G)も氏のいうように転写の誤りであろう。
 (D)は、「」だとしてもその位置が不適当である。置くなら「此山本宮〔岡本宮〕」の前であろう。
 (E)は考えにくい。「即(つ)く」相手は一般に具体的だが〔即位=位に即くなど〕、 単に「」ではあまりにも漠然としているからである。 また、「即-処」の並びは「中国哲学書電子化計画」による検索では一例もない。ただ朝鮮語にあり、 "즉처"〔jeugcheo〕とよまれ「決で分する」を意味するという(WORDROWによる)。 この語が古語で、百済から来たことも考えられないではないが、実際には現代語のように思える。
 (F)については、「」の脱落の有無にかかわらず、聖徳王のことであろう。
 (B)については、〈會津〉説を採用しても文意が通りにくい。 同説は「将作寺」とするので、これを前から繋ぐと「岡本宮殿宇即処伝将作寺」となるが、それでも不自然さは否めない。正しく書くなら「俗云于岡本宮殿処将一レ」であろう。 氏の言うとおりに直したところで「寺を作らんとす」と「倭国田十二町…を入れ」は文として直接には繋がらない。〔「将」が「入」までかかるとすれば文法的には成り立つが、寺領の場所と広さまでを事前に予定することなどあり得ないであろう。〕 さらに、「専為」は宮殿の土地を寺に転用する意味の言葉として、外せないと思われる。
 また(B)で「為竟願構立堂塔」に直そうとする点については、「」は「願っていることを成就するために」という意味である。 それならわざわざ直さなくとも、もとの「〔願いを成就しようとして〕のままでも意味は通る。
《福亮僧正》
 〈孝徳紀〉大化元年〔645〕八月の仏教興隆の詔に「沙門狛大法師福亮恵雲常安…而為十師」、「此十師等 宜能教-導衆僧修行教 要使二上如法」などとあり、 福亮は「十師」に任じられた。〈国史大辞典〉によると、呉国人とも言われ、 「『元亨釈書』には、斉明天皇四年〔658〕中臣鎌足より山科陶原家(京都市山科区)の精舎に請ぜられ、『維摩詰経』を講じたと記す」という。
 「僧正」という地位の初出は〈推古紀〉三十二年〔614〕にある。同年、観勒が最初の僧正となり、三十三年には高句麗から招いた僧恵灌が僧正に任じられた。 なお、「大僧正」の初出は、天平十七年〔745〕の行基である(〈続紀〉)。 以上から、638年の時点で「僧正」という地位が存在していたことに問題はない。
《御分敬造》
 「聖徳御分敬造彌勒像」とはどのような意味であろうか。
 「聖徳御分」の御分(みわけ)は、622年に薨じた太子の遺品の一部を賜ったように読める。ところが、次の「敬造」は福亮僧正が造ったと読め、意味が通じない。 これがもし「敬祀」の誤写だったとすれば、話は簡単である。 または、「敬造彌勒像」はある程度熟語化した語で、「太子が敬造なされた彌勒像」だとすれば一応意味が通るが、確実ではない。
 〈會津〉所引の喜田貞吉「法起寺及法輪寺塔婆建築年代考」では、「聖徳皇御分トシテ」とする。 ここに付された「トシテ」は、彌勒仏をかたどった太子の分身を敬造したと読んだと思われる。
 菩薩像によって太子の姿を表した例としては、法隆寺聖霊院の秘仏「如意輪観音菩薩半跏像」などがあり、 「聖徳太子は少なくとも平安時代には観音菩薩の化身(けしん)・生まれ変わりとして信仰されるように」なったという (東京国立博物館/1089ブログ)。
 それでは、634年の時点ではどうであろうか。太子が自身を弥勒菩薩の化身だと思っていたわけがなく、菩薩像は崇拝の対象であっただろう。 634年に人々の記憶に残るのは、まだ現実に生きた人としての太子だから、太子と菩薩とを同一視するのはまだ早いだろう。 仮に太子像だったとして、それなら「御分」ではなく「御影みかげ」「御身みみ」「御形みすがた」などの方が適切だろう。
 さらに別の考え方としては、「聖徳御分」という聖徳太子に付き従う役職があったとすれば意味は通るが、今のところそのような言い方は見えない。
《平安時代の文章か》
 「即処専為作寺」は、このままでは漢文として体をなさない。だから誤字としての解釈が試みられるわけだが、最初から和文だったとしたらどうであろうか。
 倭語として発音順に漢字を置く書法は万葉歌や宣命体に見られ、奈良時代中頃から一般化したようである下述の〈法隆寺縁起資材帳〉の文もそうなっている〕。 平安の和文として「岡本宮殿宇即処専為作寺」を訓めば、「岡本宮の殿宇に、即ち処を専(もはら)為(な)して寺を作(つく)れり」〔=岡本宮の土地をもっぱら寺にした〕と訓むことができる。 また「即処」=「其処(そこ)」であった可能性も否定できない。 平安時代なら、前項「御分」が御姿の意味で使われたこともあったかも知れない。 なお、「殿宇」はれっきとして存在した語で〔壮大な宮殿の意〕、特に問題はない。
 また、を太子に用いられてことは一つの問題を提起する。初めは、平安時代になって用語法の厳格さを失った結果ではないかと考えた。 ところが、調べてみると「」については飛鳥時代から太子のために用いられている(次項)。
 さらに飛鳥時代に和習がなかったとも言い切れず、 例えば飛鳥時代と見られる野中寺の金銅弥勒菩薩半跏像銘文の「中宮天皇 大御身労坐之時」における「坐(ましま)す」は、和語である。 なお、半跏像銘文の年代は〈天皇号〉が用いられるようになった頃と見られる。 同時代の古事記では語彙に和語を含むが、語順は漢文規則に従う。
 一方「」は野中寺半跏像銘文にはなく、『天寿国繍帳』(次項)には一か所出てくるが主語は天皇である。
《勅・崩》
 が上宮太子に使われた問題を、さらに掘り下げる。
 「上宮太子~専為作寺」は、上宮太子がその崩に臨んで〔遺言として〕岡本宮を寺にせよとの勅を、山代兄王に発したという意味である。 本来は、「」の主語は推古天皇のはずだが、太子にまだ息があるうちに推古天皇がこれを言うとは考えられない。 太子に「」を用いているのだから、「勅」も太子が主語であろう。
 書紀においてはの主語は、天皇のみである〔僅かな例外として、神功皇后の「勅」、日本武尊・神功皇后・飯豊皇女の「崩」が見られる〕。 こと上宮太子については、〈推古紀二十九年〉に「厩戸豊聡耳皇子命薨于斑鳩宮」とあるから、書紀では通常の皇子の扱いである。
 遺言から堂塔の建造まで64年もの間が空くのも不自然で、「聖徳太子の遺言によって」の部分はおそらく伝説であろう。
 〈會津〉の論文には参考資料のひとつに『中宮寺天寿国繍帳銘』の一部が添えられていて、その中に「太子崩」の文字がある。
中宮寺天寿国繍帳(部分)乎阿尼乃弥己等為后生名孔部間人公主斯帰斯麻天皇之子
ja.widipedia.org
 「天寿国繍帳」は、太子が上った天寿国を刺繍で描いたとばりで、現在は断片のみが遺っている。 その銘文からは、現在は20文字ほどが読み取れるという。その全文の筆写が、〈上宮聖徳法王帝説〉に載る。 その中に、「辛巳十二月廿一癸酉日入孔部間人母王崩明年二月廿二日甲戌夜半太子崩〔辛巳〔推古二十一;621〕十二月二十一日に入りて孔部間人(あなほべのはしひと)母王(ははきみ)崩ず。明年二月二十二日夜半(よは)太子崩ず〕とある。
 「天寿国繍帳」には、繍帳に散りばめた亀をかたどったイラストに、銘文を4文字ごとに分割したものが書き込まれている。 〈上宮聖徳法王帝説〉によれば、銘文の書き始めは「斯帰斯麻宮治天下天皇名阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等〔敷島宮に天下を治(しろしめたま)ひし天皇、名(みな)はアメクニオシハルキヒリニハ〔天国押開広庭〕の尊〕なので、 〈天皇号〉が使われるようになった時代の作である。
 ここでは太子のみならず、太子の母孔部間人王あなほべはしひとのみこにまでも「」が使われ、〈礼記〉の規定には無頓着である。 後に書紀においてはじめて〈礼記〉に沿った整理を行ったことが考えられる。 「法起寺塔露盤銘」が平安時代なら、再び厳格な用法が崩れていたことになる。
 一方「」においては「天皇聞〔=太子の崩〕…勅諸采女等繡帷二張」とあり、その主語は明確に推古天皇である。 この時代に太子「勅」の言い方をしたかどうかは、「天寿国繍帳」では分からない。
《銘文の成立時期》
 銘文の製作時期は文中の丙午年〔706年〕から官使が筆写した永保元年〔1081〕までの間だが、それ以上は絞り込めない。 それでも、前述したように平安時代だとすれば「御分」を太子像と解釈することは可能で、無理に「誤写」とせずとも平安時代の文として解釈できる箇所がいくつかある。 平安後期ならカナ交じりであってもよいが、露盤銘という性質上漢字のみにしたと考えられる。
 前述したように、「山代兄王が上宮太子の遺言を受けて…」という64年も前の漠然とした話を持ち出すのは、ずいぶん時代を経てから伝説を基にして組み立てた文章のように思われる。 本当に706年に書かれたのなら、それに近い年からの経過〔文武朝の勅とか、当時の僧の発願とか〕がもう少し具体的に書かれて当然ではないだろうか。
 1081年以前の記録にこの露盤銘文が見出されないのは、露盤銘はそもそも平安時代に線刻されたからだと思えるのである。

【岡本寺】
《新抄格勅符抄》
 〈大橋一章〉は、 「岡本寺の寺号は奈良朝の半ばまでは遡ることができる。正倉院文書の天平勝宝二年〔750〕から天平宝字五年〔761〕(七六一)に至る写経関係の文書には岡本寺のほかにも、 岡本禅院、岡本院の名が見えるが、おそらく岡本寺という寺号のバリエーションと思われる。 また『新抄格勅符抄』には宝亀二年岡本寺に封戸百戸の施入があったことを記している。こうしてみると、奈良時代の後半には岡本寺という名の寺が活発な寺院活動をおこない、封戸百戸を施入されるほどの寺格であっ たことが想像できよう。」と述べる。
 〈新抄格勅符抄〉は、大雑把にいえば社寺に与えられた封戸数のリストを、『新抄格勅符』第十巻から抜き出したものである。そのうち、「宝亀十一年十二月十日騰勅符」として、 二十四寺の封戸の実施年・戸数・国などが載る。二十四寺の内訳は、太宰観音寺・西大寺・法花〔法華〕寺・知識寺・ 豊浦寺・葛水〔葛木〕寺・岡本寺・小治田寺・●師寺・角院寺・妙見寺・招提寺・神通寺・陳城寺・橘寺・大安寺・ 飛鳥寺・川原寺・薬師寺・荒陵寺〔四天王寺〕・山階寺・法隆寺・崇福寺・東大寺である。
 そのうち岡本寺については「岡本寺 百戸【宝亀二年〔771〕五十戸 因幡五十戸】 白壁天皇〔=光仁天皇;在位770~781〕」とある。
《造東大寺司諜案》
 東京大学史料編纂所の「データベース検索」を用いて、古文書から「岡本寺」を探した。
 天平勝宝二年〔750〕付けの〈造東大寺諜案〉という文書に、「岡本寺」が出てくる。
〈造東大寺諜案〉『大日本古文書』11巻(p.176)
造東大寺司 牒※1岡本寺
 奉請法花経壱佰玖拾部【千部之内者 橡※2表黄紙漆塗軸】
  帙壱佰玖拾枚【百卅二枚千部内 五十八枚以宮一切経料借用】
   竹帙百卅二枚千部内【錦縁緋裏八十六枚拾組緒卅六枚紫緒】
   繍帙五十八枚〔一〕切経料借着【錦縁緋紫緒】
牒 依紫微中台※3今月二日諜旨 奉請前 故牒
       天平勝宝二年〔750〕三月三日主典従八位下美努連(奥麻呂)※4
             判官正七位下田辺史(真人)
※1…互いに所管・被管関係のない官司、または官司に準ずる所の間でとりかわす文書。(〈国史大辞典〉)
※2…橡〔クヌギ〕から作る染料。また、転じて薄茶色の色合いを表す。
※3…光明皇太后は、その甥藤原仲麻呂と謀って垂簾の政を行い、天皇の大権を代行した。 その最高官庁として「紫微中台」という令外官〔大宝令、養老令に定められた以外の官〕を創設し、 それによって本来の最高官庁である太政官は形骸化した。(〈国史大辞典〉による)
※4…『大日本古文書』巻11の編者が、他の文書になされた署名によって補ったもの。
 「造東大寺司 牒岡本寺」は、造東大寺司が岡本寺に出す牒。 内容を見ると、法華経190部に帙〔カバー〕190枚(竹帙132枚と繡帙58枚)をつけて貸し出すことを岡本寺に依頼したものらしい。
 最後のところに、「牒。依紫微中台今月二日諜旨奉請前。故牒。〔牒。紫微中台の今月二日の諜旨に依り、奉(つつし)みて如前(さき)の如く請(まう)す。故(ゆゑ)に牒す。〕とあり、 造東大寺司が岡本寺に発する牒の原案を示し、「これでよろしいでしょうか」とお伺いを立てる文書のようである。
 「千部之内」は、そのまま読めば「岡本寺が所蔵する1000部のうち」であるが、単に「所蔵している経典」と見るのが妥当かも知れない。 これを見ると、岡本寺は大量の経典を所蔵して必要に応じて貸し出すという、特別の役割を負った寺のようである。
《日本霊異記》
 〈霊異記〉(822年と言われる)に「岡本尼寺」が見える。
〈霊異記〉中巻:「観音銅像反化鷺形示奇表縁 第十七」
大倭国平群郡鵤村岡本尼寺 觀音銅像 有十二体【昔 少墾田宮御宇天皇世 上宮皇太子所住宮也 太子發請願以成尼寺者也】
〔大倭国〔大和国〕平群郡鵤村の岡本尼寺。観音銅像十二体有り。【昔、小墾田宮に御宇(しろしめす)天皇〔推古〕の御世、上宮皇太子の住みたまひし宮なり。太子請願を発(た)て、以て尼寺と成せたまへるものなり。〕
 「上宮皇太子所住宮」は、〈推古天皇紀〉十四年の「岡本宮」をこのように解釈したと思われる。ここでは発起寺・池後寺の名前はなく、岡本宮から岡本尼寺に直結している。
 鵤(いかるが)は斑鳩の別字なのでこれこそ法起寺かと思えるが、この問題については下で詳しく論ずる。
《興福寺雑役免西諸郡》
 「岡本寺田」という語句が、〈平安遺文9〉補遺ノ二(延久二年〔1070〕)の「興福寺雑役免西諸郡」(p.3622)に見える。
 これも東京大学史料編纂所の「データベース検索」によって見つけ、刊本を図書館で閲覧した。 「岡本寺田」だけを見ると地名のようにも見えるが、薬師寺田・元興寺田・法華〔花〕寺田などと横並びになっており、「岡本寺の田」であるのは明らかである。 なお、岡本寺"はいくつかヒットするが、"法起寺"が全くヒットしないことが注目される。
不輸免田畠本願施入田畠
国議不輸免田畠
雑役免田畠神社仏寺諸司要劇田畠
公田畠
(町)
1101.104722
302.406944444.90694444
257.5
798.6977778248.6080556
550.0897222
〈平安遺文9〉補遺ノ二[p.3622]
興福寺
 大和国庄〃田畠二千三百五十七町九段三十五歩
 内西諸郡添下平群下十市高市葛下忍海葛上宇智
 吉野広瀬并十箇群田畠坪付
合千百一町一段十七歩
 不輸免田畠三百一町四段二十五歩
  四十四町九段二十五歩 本願施入田畠
  二百五十七町五段   国議不輸免田畠
 雑役免田畠七百九十八町六段三百五十二歩
  二百卌八町六段廿九歩 神社仏寺諸司要劇田畠
  五百五十町三百廿三歩 公田畠
興福寺〔所属の田畠〕:
 大和国の庄々の田畠、2357町9段35歩〔約2801.4ha〕
 の内、西の諸郡:添下・平群〔・城〕下・十市・高市・葛下・忍海・葛上・宇智・
 吉野・広瀬、併せて十カ郡の田畠の坪付け。
合せて1101町1段17歩〔約1308.2ha〕
 不輸免田畠301町4段25歩〔約358.1ha〕
  44町9段25歩〔約53.1ha〕 本願施入田畠
  257町5段〔約305.9ha〕   国議不輸免田畠
 雑役免田畠798町6段352歩〔約948.9ha〕
  248町6段29歩〔約295.4ha〕 神社仏寺諸司要劇田畠
  550町323歩〔約653.6ha〕 公田畠
 これを見ると、興福寺管理下の田畠の所在地は大和国の全十五群のうち、添上・宇陀・城上・城下・山辺を除く十郡に及ぶ。 実際には城下郡も含まれる(下述)ので、「平群下」は「平群城下」かも知れない。
 1町〔面積。109m四方〕=10段=3600歩である。計算すると右上のように分類されていることが確かめられる。 また、不輸免田畠の「三百一町」は「三百二町」の誤りであることがわかる。
 不輸は荘園領主が国家への租を免除されること、免田は年貢や労役が免除されることなので、不輸免田は同意語反復的である。
 雑役免田とは、年貢だけを朝廷に収め、労役を免除された田とされる。 ただし、不輸免田にしろ雑役免田にしろ、耕作民にとっては収穫物や労役の上納先が、国衙から荘園領主に変わっただけである。
 「要劇」は仕事が重要で忙しいこと。「諸司要劇田」とは、本来官員の仕事への禄は現物支給だったのだが、それが難しくなったので代わりに供与された田である。 「神社仏寺諸司要劇田畠」は「神社田畠仏寺田畠諸司要劇田畠」の総称と見られる。 また、神社・仏寺の田畠は、国家が護持するために田を供与するものだから、 結局三者は同じ性格をもつということでまとめられたのであろう。
 結局、興福寺の荘園内における「神社仏寺諸司要劇田畠」は、収穫物の上納分をすべて寺社や諸司に納め、労役が興福寺に提供される存在という理屈になる。
 この「神社仏寺諸司要劇田畠」の中に、岡本寺田の項がある。
〈条里復元図〉
坪割〈始点北東隅;折り返し型〉   段の配置を二通り仮定した図
〈平安遺文9〉補遺ノ二(延久二年〔1070〕)[p.3624]
一神社仏寺諸司要劇田畠
…〈中略〉…
 三段百八十歩 岡本寺田【狭竹庄】 
〈〃〉[p.3638]
城下郡西郷田畠百廿三町二段三百廿四歩
…〈中略〉…
 狭竹庄十二町二段三百歩
   不輸祖田三段百八十卜
   公田畠十一町九段百廿卜
  岡本寺田三段百八十卜 十一条四里廿三~二段半 廿六~一反
  公田畠
   一条三里十~一反 廿二~三反 廿四~一反 …〈以下略〉
・公田畠「一条」は「十一条」の誤りであろう。次が十二条で、以後十六条まで連続しているからである。
・明らかに「卜」は「歩」と同じ、「反」は「段」と同じ。
 このように岡本寺田は2か所に出てくるが、一か所目は「神社仏寺諸司要劇田畠」のリスト、二か所目は地域ごとのリストの中にあり、同じ田を指すと見られる。 後者には「城下郡」とあるが、冒頭「大和国庄〃」内の「西諸郡」には城下郡が含まれていない点が不審である。「平群下郡」という郡はないから、「平群城下」から""が脱落したと見ると辻褄が合う。 なお、「西郷」という「郷」は倭名類聚抄には載らない。恐らく「西部の諸郷」の意味であろう。
 佐竹庄12町2段300歩〔12.183町〕=不輸祖田〔岡本寺田〕3段180歩〔0.35町〕+公田畠11町9段120歩〔11.93町〕 の計算は正しい。どちらも「雑役免田畠」の範疇に属するので、
●不輸祖田・公田畠ともに、労役は興福寺に提供する。
●公田畠では一般の田畠と同じく官物〔租税〕を納める。ところが岡本寺田では、それを丸ごと岡本寺に納める。
 ということのようだ。
 〈条里復元図〉を見ると、城下郡の西部には確かに岡本寺田の「十一条四里」が含まれる。また、狭竹庄の内訳として、岡本寺田と公田畠が挙げられている。
 岡本寺田の「11条4里23里の2.5段。26里の1段。」の位置を推定して、右図に示した。
…里の番号は、〈条里復元図〉の太線の両側に対称に振られている。この太線は平城京の朱雀通の延長である。よって、十一条には「東四里」と「西四里」があるが、 東四里は山辺郡で、城下郡に属するのは、十一条西四里のみである。
《狭竹庄》
 ここには狭竹庄の田畠の条里と坪番号が列挙されているので、その位置を〈条里復元図〉上に図示してみる。
狭竹庄
1条〔11条〕3里10(1反)、22(3反)、24(1反)、26(1反半)※1、35(8反)
4里8(1反)、15(1反)、17(310歩)、18(半)、19(2反)、20(2反半)、22(1反半)、27(半)、30(240卜)、35(2反)
12条4里3(1反小)※2、23(2反)、24(3反)
13条4里6(1反半)
14条4里18(3反)、19(3反)、25(4反小)、8〔28〕(4反)、33(5反)、34(6反)
15条1里1(2反半)
3里22(1反小)、31(6反)、32(3反)
4里4(5反)、5(5反)、6(1反)、7(2反60卜)、8(1反小)、9(1反大)、10(5反)、14(3反半)、 19〔16〕(大)、17(小)、18(5反)、19(5反)、20(6反)、21(1反)、23(小)、25(半)
16条3里36(1反)
※1…「半」は180歩。※2…「小」は120歩、「大」は240歩とされる。
 小=120歩、大=240歩として数値を合計してみると、計11町7段190歩で「11町9段120歩」に満たない。 小=180歩、大=360歩とすると、計11町9段70歩でやや近づく。 数値には若干の誤読、脱落が考えられるので誤差はそれによると思われるが、確定的なことは言えない。
 これを見ると、実際に公田畠に割り振られているのは、各坪の1~8割である。 これについて、それ以外の部分は森林や竹藪、池・河川等で未開拓、もともと雑役免田は国司との契約のもとに細かく虫食い状に定められたもの、 が考えられる。だとすれば、庄園は厳格に境界を設けた私領ではなく、公田と庄田が入り混じっていることになる。
 この中で注目されるのは、「16条3里36坪」である。〈条里復元図〉を見ると、16条3里は下城郡ではなく十市郡に属することになっている。 この条里は十市郡だが、北西隅の僅かな部分が城下郡にかかっており、そこは15条4里にある狭竹庄の続きであろう。 ということは「36坪」は条里の北西隅である。このことから条里内の坪割は、始点を北東隅とする折り返し型であることが分かる。 折り返し型であることは、さらに岡田寺田および公田畠の11条4里内の坪番号の並びから見てほぼ確実である。
 この狭竹庄の公田畠の確認はあまりに大きな脱線と感じられるかも知れないが、 記述全体の厳密性を検証することがこの公文書を確かなものとして、ひいては「岡本寺田」の記述への信頼性を高めるのである。

【法起寺】
〈関野貞〉『日本の建築と芸術』(下)p.243
法隆寺蔵『太子伝大鏡抄』にいわく、
 秘決曰七代記曰上宮太子造立寺舎八所
  天王寺障子伝同之
 四天王寺【俗号荒陵寺】   法隆寺【時人名為鵤僧寺】
 法興寺【時俗号鵤尼寺】   法起寺【時人号為池後寺】
 菩提寺【時人呼為橘尼寺】  定林寺【世人為立部寺】
 妙安寺【世人名為葛木尼寺】 広隆寺【時俗号蜂岡寺】
 巳上八ケ寺者 伝教大師付法縁起中  引明伝之処有之 至注文一字無差
 〈関野貞〉は、『太子伝大鏡抄』(おそらく〈太鏡鈔〉)から上宮太子の造立八寺の部分を引用している。 孫引きを極力避けるのが本サイトのポリシーであるが、『太鏡鈔』の原文にはなかなか辿りつけないので、 やむを得ず〈関野貞〉による引用を用いる。
 『太子伝大鏡抄』の「太子造立寺舎八所」も、「秘訣曰七代記」から引用したものという。 結局この部分は、本サイト←〈関野貞〉←〈大鏡抄〉←〈天王寺秘訣〉←〈七代記〉なる玄孫引きである。
 〈関野貞〉はさらに「法起寺をもって太子の建立とせる諸書はなはだ多」しと述べ、 〈大和志〉から、「法起寺(中略)正堂一宇、三級宝塔、伝云山背大兄王建、按諸書所載池後寺亦太子所造云、山背大兄王建者恐誤〔…、伝に山背大兄王建てりと云ふ、按ずるに諸の書に載せたる池後寺また太子造れりと云ふ、山背大兄王建てるは恐らく誤りなり〕 を引用する。
 つまり、法起寺「塔露盤銘」が上宮太子崩の後に山背大兄王が建立したと書くのは誤りで、四天王寺、法隆寺と同様太子が造立したものという。 〈七代記〉は771年頃の成立とされ、逸文のみが残る。
 これらのうち蜂岡寺(広陵寺)については、『広陵寺縁起』によれば秦造河勝が建立した(資料[45])。 そこには聖徳太子が「誰かこの尊い仏像を恭敬する者はいないか」と問うたところ河勝が申し出てもらい受け、蜂岡寺を建てて祀ったという話が載る。 この伝説通りなら、大まかに「太子が建立した寺」と言っても特に差し支えない。
 法起寺の場合も、山背大兄王が建立したとしても、太子の遺言によるわけだから太子が建てたと言ってよいだろう。 〈大和志〉は、ちょっと了見が狭い。
〈法隆寺縁起資材帳〉天平十九年〔747〕(抜粋)
天皇并東宮上宮聖徳法王
法隆学問寺 并四天王寺 中宮尼寺 橘尼寺 蜂岳寺 池後尼寺 葛城尼寺 敬造仕奉
 「乎」は宣命体の格助詞で「を」。「敬造仕奉」は「ゐやまひつくりて、つかへまつる」。
聖徳太子伝私記コマ48
太子建立寺 四天王寺 法隆寺 法起寺池後 法興寺 菩提寺  妙安寺葛城 定林寺【已上七ヶ伽藍也】
 元興寺 百済寺大安 蜂岡寺広隆〔以下略〕
太子伝暦コマ29
三宝-発二諦※1始起
四天王寺【時俗号荒陵寺】  法隆寺【時人名為鵤僧寺
元興寺【或説不入】 中宮寺【上云皇后崩後以宮為誤也 太子為建】
橘樹寺【時人名菩提寺】 蜂岡寺【又云広隆寺 并宮賜秦造川膳 上云宮為一レ寺誤也※2
池後寺【又名法起寺】 葛城寺【又名妙安寺 賜蘇我葛木臣
日向寺【或説不入】 定林寺【世人名為立部寺 又説此寺二上太子※3
法興寺【又鵤尼寺 已上二寺※4入 此本捜求記此也】
合十一院【本九院云云】
※1…真諦(教義上の真理)と俗諦(世俗的な真理)。
※2…「皇后の宮跡は蜂岡寺が正しく、中宮寺が宮跡というのは誤り」の意か。
※3…「世の人は立部寺と呼び、また太子のための寺と説く。」
※4…「定林寺・法興寺は入っていないが、その出典を探し求めてここに記す。」
 「法興寺(いかるが尼寺)」は、〈霊異記〉に「平群郡鵤村岡本尼寺」とあるから、法起寺のことか。 ところが、別の寺として「池後寺いけじりでら(法起寺)」があるので、これは何だろうということになる。これについては下で考察する。 なお、〈崇峻紀元年〉では「法興寺」は元興寺〔現飛鳥寺。平城京に移転〕の別名と見られる。
 このように幾らかの混乱が見える。「上宮太子造立寺舎」のリストは早くても〈七代記〉の771年だから、既に伝説化していたことを漠然と述べたものと見るべきであろう。
 元興寺は、書記では曽我馬子が建立したから入れにくいのは確かである。
 なお、法起寺の別名を池後寺といったことについては信用できそうに思える。
 〈聖徳太子伝私記〉にも同じように太子建立寺が載るが、ここでは「七寺」で、 〈七代記〉八寺のうち「広隆寺(蜂岡寺)」を欠くが、法起寺・法興寺は同じである。
 〈太子伝暦〉は、「太子造立寺舎八所」に元興寺・中宮寺・日向寺の三寺が加えて「十一院」とする。 「法興寺(鵤尼寺)」と「池後寺(法起寺)」は、依然として別寺として書かれている。 法興寺については、「もともと入っていなかったが、資料を探索したらあったから入れた」とわざわざ書いている。ここでも「池後寺(法起寺)」は、鵤尼寺ではない。
 よって、法興寺・法起寺が別寺で法興寺が鵤尼寺であることは、筆写ミスではなく確信をもって書かれたことである。
 一方、〈法隆寺縁起資材帳〉には「池後尼寺」のみが挙げられている。〈七代記〉〈聖徳太子伝私記〉〈太子伝暦〉のいずれよりも古く、 史料としての確実性がある。よって、〈七代記〉などに出て来る「法興寺」「法起寺」は年月によって不純な要素が紛れ込んだものとして無視し、池後尼寺が岡本寺に直結するとの考え方は、一応可能である。

【法起寺:岡本寺説】
 〈奈文研70〉は、法起寺地下の建物跡は「岡本宮の遺構である可能性が強い」という。そこで、法起寺を岡本寺が同一であるとする根拠を調べた。
 検索して最初にヒットしたのは〈大山誠一〉論文であった。そこには、 「『正倉院文書』では岡本禅院とか岡本院とも呼ばれており、『新抄格勅符抄』では、奈良期末に封百戸を有し、造東大寺司に多くの仏典を貸与するほどの有力な寺院であった」と述べる。 そして「禅院」は単なる寺院以上に、「僧侶の禅定と仏典の収蔵」などの役割を負った施設で、岡本禅院は舒明朝に始まる「岡本宮の付属施設と考えるのが適当であろう」と見做す。 舒明朝の岡本宮は「小墾宮の北」説が有力なので(下述)、岡本寺はその周辺にあったということであろう。
 そして書紀が編纂された時代には 「岡本宮が実在し、付属の岡本寺とともに…仏教施設として機能していたから…聖徳太子が法華経を講ずるにふさわしい場所として考えられたからと思われる」、 すなわち、書記が法華経を講じた場所「岡本宮」をしたのは全くのフィクションだと主張する。 よって、法起寺の「塔露盤銘」は法起寺によって11世紀に偽作されたもので、そのおもな狙いは倭国・近江の寺領を持つことの根拠とするためであるとする。 このように、岡本寺と法起寺は別の存在と見ている。 そもそも〈大山誠一〉は、「聖徳太子」を書紀編纂の段階で創作された人物とする立場に立っているので、 〈大山誠一〉説には、太子非実在説のバイアスがかかっていることに注意する必要があるが、「岡本寺」の性格については傾聴すべきものがある。
 一方、明治時代に仏教建築を中心に研究した〈関野貞〉は、 「この〔〈推古十四年〉にいう〕岡本宮は異説あれども、『霊異記』には、「皇太子居-住鵤岡本宮時、」と載せ、 『玉林抄』・『和州旧跡幽考』、みなこれをもって鵤の岡本宮となせり。この説従うべし」と述べる。
 それらに対して〈大橋一章〉は、岡本寺が法起寺であると言い始めたのは賢真だという。すなわち、 「文献上では、賢真の『聖徳太子伝私記』ではじめて法起寺・池後寺・岡本寺の三つの寺号が結びつく」、 「岡本寺の方は現実的で存在感がある。…正倉院文書の天平勝宝二年から天平宝字五年にかけての写経関係文書には、岡本禅院・岡本院の名称があて先として何度も書かれている。」 「法起寺の名称は、…露盤銘全文を『聖徳太子私記』に紹介してから一般化したのではあるまいか」 と述べる。氏は法起寺を岡本寺と同一視したのは賢真が初めてだと言い切っている。恐らく文献を当たり尽くした上で述べたものであろう。
《議論の評価》
 少なくとも750年から1070年の間に、「岡本寺」が存在していたのは確実である。 また、奈良時代には大量の経典を所蔵し、必要に応じて諸寺に貸し出す施設であったことが見える。
 一方、斑鳩には聖徳太子の生前あるいは直後から、法隆寺と対をなす尼寺が存在したと見られる。 僧寺・尼寺のセットは、(飛鳥の)元興寺・豊浦寺に見られ、〈七代記〉でも法隆寺を「時人名為鵤僧寺」、法興寺を「時俗号鵤尼寺」とするところに、それが表れている。 また後に諸国に国分寺・国分尼寺がセットで建立する。 『勝鬘経義疏』では、善男子・善女人が分け隔てなく仏法に信することが推奨され(資料[52])、それが僧寺・尼寺を対で設置することに繋がったと見られる。
 ここで問題となるのは、奈良・平安の公文書に「法起寺」や「池後寺」の名称が全く見えないことである。
 これを素直に受け止めるなら、岡本寺と法起寺は別の寺だったとするのが妥当であろう。 しかし、もし法起寺が鵤村だとすれば、岡本寺はどこにあったかという難問にぶつかる。 これは斉明天皇の岡本宮の跡地に建てられたとすれば、解決するはずである。 それでは、「岡本宮」と想定される場所にそれらしい寺はあったのだろうか。 岡本宮の位置は一説には小墾宮の北で大官大寺の西と言われる〔資料[54]で見る〕。すると、その大官大寺が岡本寺だろうか。
 大官大寺は百済大寺から移転したもので、これが建ったのは天武天皇二年〔672〕である。そして、『扶桑略記』によれば和銅四年〔711〕に焼失した(〈日本歴史地名大系〉)というから、平安時代まで存在感を示した岡本寺には全く該当しないであろう。
 一方、822年頃に「岡本尼寺」が存在したことが〈霊異記〉に書かれ、 その所在地が「大倭国平群郡いかるが」とされていることは重い。 奈良時代から平安時代の公的文書の「岡本寺」も、まさにこの寺であろう。
 また、〈造東大寺諜案〉の「岡本寺田」が狭竹庄の北西の端にあるのは、斑鳩村に最も近いところに設けられたからだと考えることもできる。
 思うに、斑鳩村の現法起寺の名前は、平安時代の終わりごろまでは「岡本寺」(または「岡本尼寺」)のみであって、「法起寺」は当時どこにも存在していなかった。 その岡本寺に「法起寺」の名前が加えられたのは、〈聖徳太子私記〉の1240年に近くなってからではないだろうか。 そもそも露盤銘や〈霊異記〉には「岡本(尼)寺」しか出てこないのである。
 聖徳太子創建の寺の一つ「法起寺」は長らく伝承されてきたものが書かれたのであって、その真の所在地は不明だったのではないか。 だから、奈良・平安両時代の公式文書には全く「法起寺」が出てこないのである。
 〈七代記〉の「八寺」の記述は概念的ではあるが、その「上宮太子造立寺舎」には難波の四天王寺や葛城の妙安寺が含まれるからその範囲は畿内一円に広がっていて、法起寺が鵤村にあったとは読めない。 むしろ法起寺とは別に挙げられた「法興寺(鵤村)」こそが岡本(尼)寺だとするのが、素直な読み方であろう。〈聖徳太子伝私記〉・〈太子伝暦〉でも同様である。
 それでも「鵤村」があるから、「法興寺」は岡本寺のことで、〈奈文研70〉が検出した北20°西向きの地下の建造物はやはり岡本宮で、その跡に建ったのが岡本寺かも知れない。 斑鳩村は上宮太子の崩後に聖地となり、法隆寺と岡本寺が組み合わさって仏教隆盛の拠点になったとする考え方は魅力的である。 法隆寺は僧たちのアクトの中枢であり、岡本寺は大量の経典を所蔵するインテリジェンスの中枢であったと考えてよいだろう。岡本寺の初め時期の名前は法興寺だったかも知れない。
 その岡本寺に法起寺の名が冠されたのは実は鎌倉時代のころで、賢真とは限らないが当時の誰かが初めて唱えた説かもしれない。 「太子造立寺舎八所」(〈七代記〉)のうち「法興寺【時俗号鵤尼寺】 法起寺【時人号為池後寺】」を恣意的に混合して「法起寺【時俗号鵤尼寺 亦号為池後寺】」と解釈したのではないか。それによって「太子造立寺舎八所」が「聖徳太子建立七寺」になったわけである。 ただ〈法隆寺縁起資材帳〉も七寺だから、一般的に言われていた「太子創建七寺」の言葉に合わせた面もあろう。
 それでは太子が創建した真の法起寺は、一体どこにあったのだろうか。 ここで聖徳法王創建の七寺(八寺)に関する記述のうち、唯一信頼を置けるのが〈法隆寺縁起資材帳〉だと考えてみよう。 鵤村の岡本寺が経典の所蔵などを担う重要な尼寺として、確固とした存在感を発揮していたとすれば、それが〈法隆寺縁起資材帳〉の七寺に含まれないはずはないのである。それに該当する寺は、池後尼寺しかない。 したがって、池後尼寺と岡本尼寺が同一であった可能性は高い。
 それでは、「法起寺」はどうか。実際に法起寺を名乗る寺は、顕真が岡本寺と同一視する鎌倉時代まで長らく存在しなかったと考えたい。 ただ、太子の存命中に法起寺と称する寺がどこかに創建されたからこそ、その伝説上の名前が〈七代記〉などに残ったのであろう。それが、池後寺に一致する可能性もなくはない。 しかし、奈良時代に入る以前に廃寺または改名によって本来の「法起寺」は消滅し、伝説上のみの存在となっていた。だから〈七代記〉では、法起寺のはずなのに法興寺が紛れ込むような混乱が起こるのである。
 その後鎌倉時代になって初めて、岡本寺と法起寺の同一視が沸き上がってきたということではないだろうか。

まとめ
 これまで考察したところでは、法起寺は結果的に岡本宮の跡地である。ただし、平安時代までは法起寺ではなく岡本寺と呼ばれていた。 上宮太子が創建した真の「法起寺」は飛鳥時代に消滅し、恐らく岡本寺とは無関係だろう。この視点で〈法隆寺縁起資材帳〉、〈七代記〉、〈造東大寺諜案〉、〈霊異記〉、「塔婆露盤銘文」などの内容を整理すると、結構見通しがよくなる。 もし、太子創建の真の「法起寺」が遺跡の発見などにより特定できれば、この説は実証されよう。
 結局、現在の斑鳩の法起寺が、岡本宮跡であるという点では通説通りであるが、その名称は平安時代までは「岡本寺」であって「法起寺」と呼ばれるのは鎌倉時代まではなかったというのが、本サイトの見解である。 ただ、池後尼寺だけは岡本尼寺の奈良時代の通称として認められよう。
 さて、奈良時代から平安時代にかけて著された聖徳太子の伝記の類は膨大である。しかし、それはすべて二次史料であって、そこから太子の生涯のありのままを見いだすことはほぼ不可能である。 しかしだからと言って、聖徳太子は実在せず書記が捏造した人物だとするのは暴論であろう。 三大義疏は日本人が仏法の理論を深く学んでまとめた書であり、それによって確信をもって国家の仏教化を進められたと考えてよい。 その中心に才気に溢れた人物の存在がなければ、絶対成し得なかったことであろう。その人物は上宮太子以外に考えられない。 さらにはその家系図までが丸ごと捏造されたとの考えは、全く現実的ではない。 また、その業績が生存した、あるいは直後の時代の人の記憶に鮮明だったからこそ、後世まで末永く聖人として讃えられているのである。
 なお、岡本宮の可能性のある建物と若草伽藍は同じ方向を向いている。これは筋違い道の向きでもあるから、 この地に太子の小都としての条坊が存在したのではないかと思わせるものがある。これについては、何か裏付ける材料が出てくれば報告したい。