古事記をそのまま読む―資料7
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2021.06.08(tue) [50] 飛鳥寺跡 
現在の飛鳥大仏(安居院)
【飛鳥寺】
 飛鳥寺は、江戸時代以来現在まで安居院あんごいん〔奈良県高市郡明日香村飛鳥682〕となっている。 昭和三一~三二年度〔1956~1957〕に奈良国立文化財研究所によって発掘調査が行われ、 調査報告が『奈良国立文化財研究所学報5:飛鳥寺発掘調査報告』としてまとめられている。
 ここでは同報告を中心にその後の調査結果も含めて、飛鳥大仏、伽藍配置、塔跡などについて見る。
引用文献略称
〈太子拾遺記〉…『上宮太子拾遺記』全七巻。〔法空;鎌倉末〕/『日本思想史伝全集 第一巻』〔東方書院1929〕
〈玉林抄〉…『太子伝玉林抄』〔訓海;文安五年(1448)〕〔法隆寺蔵尊英本1978〕
〈菅笠日記〉…『菅笠日記』〔本居宣長;1772〕/『有朋堂文庫/日記紀行集』〔有朋堂書店;1927〕
〈奈文研58〉…『奈良国立文化財研究所学報5:飛鳥寺発掘調査報告』〔奈良国立文化財研究所;1958〕
〈日本の美術4〉…『日本の美術 全25巻』4巻 法隆寺〔水野清一;平凡社1965〕
〈日本の美術-塔〉…『日本の美術第77号 塔 卒塔婆・スツーパ』〔至文堂1972〕
〈歴史地名大系〉…『日本歴史地名大系/奈良県』〔平凡社1981〕
〈奈文研83〉…『奈良国立文化財年報1983』〔奈良国立文化財研究所;1983〕
〈明日香97〉…『明日香村文化財調査研究紀要第6号』〔明日香村教育委員会;1997〕
〈岩城99〉…『元興寺の歴史』〔岩城隆利;吉川弘文館1999〕
〈法隆寺のものさし〉…『法隆寺のものさし 隠された王朝交代の謎』〔川端俊一郎;ミネルヴァ書房2004〕
〈若草伽藍07〉…『奈良文化財研究所学報76冊/法隆寺若草伽藍発掘調査報告』〔奈良文化財研究所2007〕
〈奈文研09〉…『奈良国立文化財研究所紀要2009』〔奈良国立文化財研究所;2009〕
〈皇龍寺考察21〉…『皇龍寺建立と運営に関する考察』〔李恩碩;奈良文化研究所学術情報リポジトリ:第100冊(2021)日韓文化財論集Ⅳ : [13]/010;2021〕
《中金堂と飛鳥大仏》
 〈奈文研58〉は「序言」(p.1)で、「仏教伝来当初の仏寺を考える場合、法隆寺と四天王寺がその代表的なものとされてきた」。 ところが法隆寺は「純粋に飛鳥時代の姿を伝えたものではな」く、四天王寺は「数次の災害にあって遺構の大略を知るに過ぎない状態であった。」 その中で「創建年代の明確な飛鳥寺の発掘調査が要望されていた」と述べる。
本尊台座〈奈文研58〉PL.7-2 法隆寺釈迦三尊
〈日本の美術4〉p.19
 同「結語」(p.48)では、「飛鳥大仏とよばれる金銅釈迦像が、間違いなく飛鳥寺中金堂の本尊であって、 旧位置に安置されている点が明らかになった」と述べる。
 その根拠について「調査経過」の章で、大仏像下の煉石の下に中金堂の基壇が見いだされ、 その上の「凝灰岩台石」(図左)は「周囲を焼損しているが上面は平らに仕上げられ、 仏像両側に裳裾が当ったと思える凹みと、後方にそれに外接して径9寸〔27.3cm〕、深9寸の穴とがほぼ対称に掘られている。 前者は像が直接この面上に安置されたことを示し、後者は脇侍の心〔しん〕をはめこんだ枘〔ほぞ〕穴かと思えるが類例がないので断定し難い」、 「いずれにしてもこれが当初のものであることは確実である」と述べる(p.7)。
 脇侍〔きょうじ・わきじ;脇立(わきだち)とも〕が両側に立つ様子は、法隆寺釈迦三尊()に見える。(本)元興寺〔飛鳥寺〕でも、ほぼこれと同様の姿であっただろう。
 〈玉林抄〉によれば、文安4年〔1447〕の時点で飛鳥寺の本尊は野外にあったという。
 つまり、現在の安居院あんごいんは中金堂の位置に建っていて、飛鳥大仏は最初に置かれた位置から動いていないと見られる。
《創建》
 飛鳥寺の創建に関する書紀の記述が、〈明日香97〉にまとめられている(p.20)。
用明2 (587) 蘇我馬子が飛鳥寺造営を発願崇峻3
崇峻元 (588) 飛鳥衣縫造祖樹葉の家を壊して造営開始崇峻6
  3 (590) 材をとる崇峻6
  5 (592) 仏堂・歩廊起工崇峻8
推古元 (593) 舎利を心礎に納める推古1
  4 (596) 塔の竣工推古3
  13(605) 仏像をつくりはじめる〔十三年「夏四月辛酉朔。始造銅繡丈六仏像各一躯。乃命鞍作鳥仏之工」〕
  14(606) 仏像安置〔十四年夏四月乙酉朔壬辰〔八日〕「銅繡丈六佛像並造竟。」〕
 樹葉の家を接収してから仏像安置まで至るそれぞれの出来事の時間の間隔は自然なので、 これらの年は、比較的史実のままを表しているのではないかと思われる。

〈奈文研58〉-PLAN2 発掘全域実測図
黄色…〈奈文研58〉が推定した寺域。 ピンク色…〈明日香97〉による寺域。
【寺域と伽藍】
《寺域》
 飛鳥寺の寺域について、〈奈文研58〉は薬師寺が二町四方に収まることを参考として、 飛鳥寺の「西門の跡の見出された所は旧街道の路上に当つており、これから東方約2丁のあたりにも南北に旧街道が通じている」 「南北については、遺跡の南門からのびる参道のつきる所を南端と仮定し、これから北へ2町をとると、 元伊勢といわれる飛鳥坐神社門前の古くからの街道に達」し、「石敷の溝や…瓦堆積地点塔から見て、この2町四方に…納まりそうである」と述べる。 そして「伽藍の南北中軸線はこの東西にある旧街道線間の西より3分の1の所に来る。 つまり東方に本薬師寺における大衆院のようなものをおく余地を生ずる」との考えを示す(p.38)。 その「2丁四方」の四隅を航空写真に黄色で示した。
 『元興寺縁起』の「符」に「堂地東西二町。南北四町」とある。これは天竺の伽藍についての記述ではあるが、「二町」に共通性がある。
 〈明日香97〉は、 「飛鳥寺では、旧寺域を画する四辺のうち、北・西・南辺では、道路或いは水田畦が残されている。 北辺では東西道路が八釣まで直線に伸びており、寺辺に沿っての道が残されたものと考えられる。 西辺も同様である。南面大垣の位置は水田畦であるが、 さらに南の斜めの石敷道路位置には、現在でも斜めの道路が残存する」と述べる(p.33)。
 この道路の向きは、は次項の石敷広場に沿っている。
 〈奈文研83〉は、北東隅の発掘成果を示す(右図)。 東面内濠SD601は、「北で西へ8度振れており」、「東西溝SD602は、…東で北へ2度振れている」 「今回の調査により、飛鳥寺寺域東北隅を画する施設(堀と濠)は、 内濠から出土する土器や瓦の年代から飛鳥寺創建時まで遡り、藤原宮期にもなお存続していたことが明らかとなった」という。
北東隅〈奈文研83〉
第152-5次調査〈奈文研09〉p.90
 このようにその後の調査によって得られた実際の寺域は〈奈文研58〉が想定した寺域よりも北寄りで、かつ南北に長い。
《石敷道路》
 この「石敷道路」または「石敷広場」は〈奈文研58〉によると、 「南門前の参道がゆるやかに上つて真南へ90尺〔27.3m〕程続いた先に、丁度その南に当る 巾12尺〔3.64m〕程を残して東西対称に広がる石敷広場がある」 「東西280尺〔84.8m〕、南北100尺〔30.3m〕以上の相当大きなものと推定」され、 「現在の処では建築と無関係の単なる広場」で、 「実は…参道の南に当時の道路を発見することを期待したのであったが、 そのかわりに現れたこの遺跡委は従来他にも全く例を見ないもので、方位の振れが大」きいという。
 〈奈文研09〉によると、第152-5次調査〔2008年〕で「石敷広場の東延長上にあたる位置で」、 「石敷広場の東北隅部と判断できる」縁石と石の抜き取り穴を検出した(p.91。右図)。 その「縁石は人頭大よりやや大きめの花崗岩を用い、外側の面を揃えて据える」という。
 つまり、飛鳥寺東回廊の真南のあたりまで石敷広場が達していたことがわかる。
《伽藍》
 以下〈奈文研58〉(pp.15~23)による。「これらの遺跡〔=伽藍〕は伽藍中軸線をよく真北に通しているにもかかわらず。 塔および仏殿〔三つの金堂か〕を除いてはいずれも多少の方位の振れ〔30分~1度33分程度〕を持つており… 全く仕事のにごり〔=雑さ〕と理解される性質のものである」という。
 中金堂は、「焼土層の下には雨落溝の中に飛鳥〔時代〕及び奈良〔時代〕の軒瓦、垂瓦等があって建久焼亡まで創建以来の建物が続いていたことをあきらかにした」。 残存状態がよいのは中門と南門で、中門は「礎石一箇を抜取られている他は、基壇・礎石共ともに完存」し、 「北側には軒が崩れたままの瓦堆積状態が認められ、火災にあった様子がなく、自然崩壊」と見られるという。 南門も「よく残存し」、火災にあった様子もないという。
 講堂は、「基壇の大きさは東西130尺〔39.4m〕、南北76尺〔23.0m〕と推定」され、「〔崩壊した後〕堆積した瓦には火災にあった痕跡はなく、 軒瓦で飛鳥時代のもの14、奈良時代のもの28、平安のもの1」で、その時期は伽藍の他の部分と「本質的な差は認められない」という。

【塔】
《塔跡》
図1
 〈奈文研58〉(pp.17~18)による。
● 基壇の階段は南北二方のみに設けられている(図1(1a)(1b))。
● 南階段の一段目の石は失われて、「凝灰岩据付痕跡」のみという。
● 基壇は2寸以上の高さがあったと推定されるが、「上部は全く削られ、さらに近年の土採りや瓦溜〔かわらだめ〕で荒らされていた」。
 したがって、「礎石跡を一つも見出し得なかった〔=基壇の上にあったであろう方形格子状に並んだ礎石跡は全く残っていない〕という。
● 中心部の「南北6.5尺、東西7.0尺〔1.97m×2.12m〕の漏斗状の孔()の底に石櫃()があり、2個の石を合わせた石櫃の中に木箱があった()。
● 舎利容器外箱は、「桧の厚さ1.4cmの板製で10.8cm角、現存高8.5cm」という(p.27)。
● 木箱の中に金堂舎利容器と少量の玉類があり()、「木箱と〔石櫃〕円錐孔の空隙を玉類・瓔珞〔ようらく〕で充填していた」という。
《埋蔵物》
● 発掘時の木箱の中と、木箱の内外の舎利容器と玉類の一部を同書の写真から示した(図2)。
● 石櫃の下は木炭、埋土が堆積し「当初予期した心柱痕跡の発見などは望むべくもなかった」という()。
● 心礎の上には東辺に桂甲()、西壁・北壁に接して馬具金環などがあり、これらは「創建時の埋葬状態」のままという。 また、木炭に混ざって金銀の延べ板勾玉管玉などが散乱していたという。
図2
 建久舎利容器(総高3.3cm 径2.8cm)
 (左から)硬玉製勾玉(長さ3.12cm) 硬玉製丁字頭勾玉(〃2.13cm) 瑪瑙メノー製勾玉(〃2.72cm)
 金環(2.60~3.01cm)
 馬齢(径4.5cm、青銅製)
 円形金具(径3.03~3.90cm)
 〈奈文研58〉は、「創建当初の舎利埋蔵物の一部も発見され、それが後期古墳時代の副葬品と 関係が深いことが明らかにされたことは、既知の法隆寺その他の舎利荘厳具など飛鳥寺より後に建立された寺のそれと異なる点が特色といえよう」(p.47)と述べる。 すなわち、初期の舎利孔の埋蔵物は、古墳の副葬物に見られる文化を引き継いでいるという。
《木箱墨書》
 木箱の外側面に墨書があり、それは西面→北面→東面→南面にぐるっと一周して、2行で書かれている。 このデータは〈奈文研58〉(p.28)のほか、 〈木簡庫〉(奈良文化財研究所)にもあるが、 どちらも同じ文字として解読されている。
――「此本元興寺 依建久七年歳次丙申六月十七日罹一レ火焼失畢 御庄司入阿 寺僧玄昭 明暁 隆圓 賢賀 行円 玄暁
図3 建久舎利容器「寸」は「分」の誤り。〈奈文研58〉p.27 PL.59
図4 舎利孔蓋片・槌型
〈奈文研58〉PL.63-4
 「庄司」は、荘園領主の命を受けて、年貢の徴収や上納・治安維持などの諸務を行った役人。また荘官。 「入阿」はその名前。
 「本元興寺」は、元興寺が710年に平城京に移転(「符」)したことによる、「本の元興寺」の意味である。 すなわち、飛鳥寺は〈推古紀元年〉の「法興寺」、〈同十四年〉の「元興寺」と同一で、 移転後も長く「本元興寺」と呼ばれていたことが確定する。
 「建久舎利容器」は、「総高3.3cm金堂製で、径2.8cm。複弁四弁の蓮華座の上に卵型の塔身を容れ、 底で両者を胴釘でかしめている。蓋は現在錆着いているが、宝珠に蓮華座をつけた栓状のものである」。 名称からは創建時のものではなく、建久の時代に改めて作られたものと読めるが、〈奈文研58〉にはその根拠は示されていない。
 建久七年〔1196〕の火災の後、舎利孔内や心礎の上の舎利や珠は木箱に入れて石櫃に納めた。 さらに心礎の上を木炭・土で埋めて、その上に石櫃を置いたわけである。
《建久舎利容器》
 図3は、建久舎利容器。  〈奈文研58〉によれば、「複弁四弁の蓮華座の上に卵形の塔心を容れ、底で両者を銅釘でかしめている。 蓋は現在錆着いているが、宝珠に蓮華座をつけた栓状のもので」(p.27)、ミニ宝塔である。
 「建久」がつくのは、飛鳥~奈良とは様式が異なるからであろう。 法隆寺、太田廃寺、当麻時寺塔の例では、金、銀、銅、瑠璃、大理石などでできた容器が三~四重の入れ子になっている(資料[51]で見る)。
 かといって、石櫃に納められた木箱の内外の珠類が建久のものというわけではない、 全体に飛鳥時代はじめのものであるのは、間違いないだろう。
《舎利孔蓋片》
 〈奈文研58〉は、礎石の上のこの石片について、 「本来この方孔には石蓋が用いられたらしく、心礎上面に朱の付着した断面凸字型の石片が存した。落し蓋で内部を方形に挎〔ク;=刳〕つたものであったらしい」 と述べる。図4右のような意味かと思われる。
 二重心礎(下述)でなければ、この上に直接心柱が接したことになる。
《心礎》
● 心礎(⑤⑦)は概ね方形で、「東西8.6尺南北8.0尺〔2.61m×2.42m〕、東端の厚さ1.7尺〔51.5cm〕、 「中央の5.2尺×5.4尺〔1.58m×1.64m〕を平らにし、周囲は「自然面を山脈状に〔=加工せずに〕残している」(p.18)。
● 舎利孔()は縦・横・深さとも「0.4尺〔12.1cm〕で内面には水銀朱が付着し、 「状部分に建久に埋納した灯明皿一枚があったのみで何等の遺物を残していなかった」という()。
 〔※ガン…仏像や物品を置くために壁面に小規模に造成したくぼみ。〕
 心礎と周囲との隙間は礫・砂が固く突き固められ、舎利孔の上に心柱を立て、その周囲に「2~3寸の茶褐色砂質粘土」を水平に重ねていったという 〔心柱は失われているから、同書の推定である〕

【飛鳥大仏】
 木箱の墨書により、建久七年の火災が知れる。その火災の跡として、 〈奈文研58〉(p.16)では、中金堂の「基壇周りには南と東側で薄い焼土層が認められ、建久の火災を裏付けた」、 〈同〉(p.17)では塔の「周辺に焼層が見られ」「創建の塔が建久焼失まで残っていたことを示していた」と述べる。
 飛鳥大仏はどうなったのだろうか。
《鎌倉時代》
 〈岩城99〉は〈太子拾遺記〉によると「寺は全焼したと思われ、鳥仏師作の日本最初の金堂釈迦像は現在でもわかるように非常に傷んだのであった」と述べる。 〈太子拾遺記〉第二「十四歳」の段には、
泉高父私記云 
〔中略〕 建長七年丙辰六月十七日亥時 為雷火炎上了 寺塔無残 但仏頭与手残 云々
〔建長七年六月十七日亥時〔午後9~11時〕、雷火のために炎上せしめき。寺塔残すところ無し。但し仏頭と手と残れり。〕
とある。
 〈玉林抄〉巻十三「推古天皇十三年【乙丑】太子三十四歳」、 「天皇常納太子妙説又日本紀云 十三年夏四月辛酉朔 始造銅繍丈六仏像各一躯」のなかに、訓海の私見が述べられている。 訓海は文安四年〔1447〕十月に「本元興寺」を訪れた。
 その私見に曰く。
私云訓海四ヶ現文大旨一同之 丈六尺迦像今本元興寺
愚僧去年文安四年丁卯十月之以尋彼本元興寺之舊跡之處伽藍形一切无之丈六尺迦像ハカリ在
彼處云 近マテハ
一間四面瓦フキノ堂アリケルヲ只先キノ武家入
堂舎ヲハ破りて佛ハカリ御ノコリ候ヲ 其上四方小柱
ヌレ給ハヌヤウワラニテフケリ
言語道断ヰタマシキ風情也
彼處 此佛ニテアルトテ
盗人夜フヰカハヲ御背フキヤフリケレハ
此御佛高聲尺迦殺スヤウト御トヨミアルニ依捨去卒ヌトイヘリ
レハ御腰ホトフキ破タルアトアリ
時節當来御マチアル歟冥慮難ハカリ
わたくしに云ふ。四か現文〔右に引用した書紀・元興寺縁起など〕概ね一つにこれを同じくし、丈六釈迦像は今は本元興寺にこれ在り。 愚僧、昨年(文安四年〔1447〕丁卯十月)にかの本元興寺の旧跡を尋ねし処に、伽藍の形は一切無く丈六釈迦像ばかりこれ在り。 彼処そこの人の云ふ、近き頃までは 一間〔1.8m〕四面の瓦ぶ〔葺〕きの堂ありけるを、只先の武家入りの時、 堂舎をば破りて仏ばかりさぶらふを、其の上に四方に小柱を立て、 仏のぬ〔濡〕れ給はぬやうにわら〔藁〕にてふ〔葺〕けり云々。 言語道断いたましき風情なり。 彼処そこの人の云ふ、此の仏は金にてあるとて、 盗人が有る夜ふいかはを以て御背を吹き破りければ、 此の御仏、高声に釈迦殺すやうと御とよ〔響〕みあるに依て驚きて捨て去卒ぬといへり。 見れば誠に御腰のほど破りたるあとあり。 時節当来を御まちある冥慮めいりょ計り難きなり。〕
※「ふいかは」…〈倭名類聚抄〉「:【漢語抄云。鞴袋、布岐加波〔ふきかは〕」。
 すなわち1196年に焼失した跡には、釈迦像を納める一間四方の小さなお堂が立てられていて、これも「近頃」兵によって壊されたという。 1447年に訓海が訪れた時点では、雨除けの藁ぶき屋根が仮設されていたという。
 「腰に破られた跡がある」というから 〈太子拾遺記〉の「頭と手だけが残った」と述べるが、鎌倉時代には修復がなされていたと思われる。 また、盗賊は像の芯まで金だと勘違いしたようだから、鍍金も残っていたのだろう。
《江戸時代》
 時代が下って江戸時代になると、宣長が紀行した際飛鳥寺に立ち寄ったことが、〈菅笠日記〉(下)に書かれる。
 飛鳥寺あすかでらさとのかたはしに、わづかにのこりて、 門などもなくて、たゞかりそめなるだうに、大佛だいぶつと申して、 大きなる佛のおはするは、丈六ちやうろく釈迦さかにて、すなはちいにしへの本尊なりといふ。げにいとふるめかしく、たふとく見ゆ。 かたへに聖徳しやうとく太子のみかたもおはすれど、これはいと近きの物と見ゆ。 又いにしへのだうの瓦とてあるを見れば、三四寸ばかりのあつさにて、げにいとふるし。 此寺のあたりの田のあぜに、入鹿いるかつかとて、五輪ごりんなる石、なからはうづもれてたてり。 されどさばかり古き物とはみえず。
飛鳥大仏(頭部) 〈日本の美術4〉p.49
 菅笠日記は、明和九年〔1772〕、宣長四十三歳の紀行文。 三月五日に出発し、飛鳥寺を訪れたのは十日。
 「聖徳太子のみかた」については、現在「聖徳太子孝養像」があり、「木造 室町時代」と表示されている。 「入鹿が塚」は、蘇我入鹿の墓のことである。
 宣長が訪れた時点では「かりそめなる堂」と描かれる。 現在の本堂は、文政年間〔1818~30〕の建立と言われる(〈歴史地名大系〉)。 現在は鳥形山安居院あんごいんといい、真言宗豊山に属する。
《成分分析の報告》
 現代に至り、この釈迦像にどの程度オリジナルな部分が残るかに関心を集め、科学的な成分分析が行われている。
 崇峻天皇4でも述べたが、「早稲田大学文学学術院の大橋一章教授(文学部)らは、…飛鳥大仏(重要文化財)について、Ⅹ線分析調査を行」った結果、 「造立当初の箇所(左鼻梁、右手第二指甲)と鎌倉時代以降に補修したとされる箇所(鼻下、左襟、左膝上)の銅などの金属組成には際立った差異がみられず、 仏身のほとんどが飛鳥時代当初のままである可能性が高いことが判明した」という。
 産経新聞/「「飛鳥大仏」、国宝に返り咲くか―2018/10/27」には、「藤岡〔穣〕教授の研究チームは平成28年〔2016〕に蛍光エックス線を用い、 飛鳥大仏の約150カ所で含まれる金属の割合を調査した。…「顔はほぼオリジナルとみていい」と話す。 顔の補修したような跡は、鋳造時にできた穴などを埋めた跡とみられるという。このほか、右の手のひらの上半分もオリジナルの可能性があることが分かった。 体の成分構成も顔と似ていたが、完全には一致しなかった。藤岡教授は「鎌倉時代に、元の素材を再利用して造り直したのでは」とみている。」とある。
 「早稲田大学公式ニュース」(2012.10.20)によると、
 美術史的な観点による類型では、顔は飛鳥時代と見られている。 頭部などを除く部分については、鋳つぶされて再造形されたと見るのが妥当かも知れない。 それでも当時の造仏師は、飛鳥時代の姿を忠実に再現するために最大限の努力が払ったであろう。

【本元興寺の別名】
 前出の〈太子拾遺記〉「泉高父私記云」にはまた、
 「本元興寺西門額西各異也 西門元興寺 南門飛鳥之寺 東門品幡寺 北法興寺 云々」と書かれる 〔「本元興寺之門額其各異也…」か〕
 関連して〈玉林抄〉巻第八には、
 「仲範※1云 法興寺【本元興寺也、非中宮寺法興寺※2】四門在之。東【法満寺】。南【元興寺】北【大宮寺】南【法興寺】」とある。
 ※1…仲範は鎌倉佐助ケ谷に住した学者で、儒仏の道に通じていた(『日本古典文学全集』太平記1注)。
 ※2…「中宮寺は法隆寺を中心とする奈良仏教系の聖徳宗の門跡尼寺。山号を法興山という」(日本大百科全書〔小学館〕)。

 このように四方の門に別々の寺名額があったようだが、その割り振りは両者で異なっていて、どれほど確かかは分からない。 ただ、書紀に出てくる「法興寺」、「元興寺」が、同じ寺の別名と考えられていたことに基づいて、それをさらに四寺名に拡張したものかも知れない。
 別名に関しては、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(ⅰ)段には、 別名の「建興寺」「建通寺」「法師寺」が示されるが、書紀の「法興寺」はない。 従って、四つの「門額」の名前の出発点は、おそらく書紀であろう。
 書紀のものか、元興寺伽藍縁起のものかは分からないが、東西中の三金堂にはそれぞれ固有の寺名をもっていたことも考えられる。 伽藍配置には、四天王寺式法隆寺式薬師寺式東大寺式などがあるがすべて金堂は一つで、 三金堂のある飛鳥寺式は特殊だからである。各金堂ごとに、固有の役割〔国家の祈願、教育など〕があったか。あるいは本元興寺は三宗派の連合体が運営する寺で、各派がそれぞれの金堂をもっていたとも考えられる。
 なお〈皇龍寺考察21〉によると、飛鳥寺式配置は中国の「一正二配」(中央に正殿、その両脇に配殿)を起源として、 「高句麗青岩里廃寺において、塔を中心に置き、北、東、西に仏殿を配した」の系譜のうちにあるという。 飛鳥寺のモデルとよく言われる新羅の皇龍寺は、西金堂―中金堂―東金堂が直線状に並びパターンが異なるようである。 飛鳥寺式伽藍配置が東アジアの文化伝搬に位置付けられるのは間違いないだろうが、詳しくは別の機会に検討したい。

【二重心礎仮説】
 資料[48]で見た豊浦寺の南の字コンドウに残る礎石は、塔の心礎だと一般に考えられている。 その形と大きさは、飛鳥寺の「灯篭台石」とよく似ていた。 よって、灯篭台石が元興寺の心礎だったとすれば、字コンドウの遺跡C区に波及してその石が塔の心礎であった確率を高めることになる。
 右図は、試しに舎利孔を設けた心礎の上に、向きと大きさを合わせて直接灯篭台石を置いてみた図である。
 これを見ると無理なく置けそうだが、既に心礎がある上に更に他の種類の心礎を重ねるようなことが、果たしてあり得るのだろうか。
 因みに〈法隆寺のものさし〉を読んだところ、飛鳥寺の塔に二重礎石説を採用し「仏舎利を納めるために埋められた礎石」への「仏舎利奉納の儀式のあと、その深い穴を埋めて塔の基壇を構築し、 地上にも礎石を置いて心柱を立てたものと思われる」と書かれていた。
 これを読んで援軍を得た思いだが、同書には論拠が薄いままで仮説を押し出される傾向があるので、痛し痒しである。 一般的には資料[49]【心柱】で見たように、心柱の柱底が基壇上まで上がって来るのはもう少し後の時代になる。
灯篭台石 北から見る
〈奈文研58〉PL.20-2
当麻寺石灯籠
 その妥当性の有無はともかくとして、これをひとまず「二重心礎仮説」と呼ぶことにする。
《昭和三十三年発掘調査》
 この心礎にも見える石を「灯篭台石」と呼んだのは〈奈文研58〉である。中金堂と塔の間の「巾9.5尺の石敷き参道」の中央にあった。 「上部には(右図上)蓮弁を彫ったと思える痕跡があるが、石全体の風化が激しくはっきりしない。」 参道の敷石は「中央の巾5.5尺の部分が古」いので、その両側に2尺ずつ「後に広げられたのかも知れない」。 よって「灯篭台石の据え付け」の際に〔デザイン上〕広げたのかもしれないが、 「灯篭周囲を掘っても変った点はなく〔=その場所から参道の敷石を除いたような形跡はなく〕、 灯篭台石の設置が創建以来であることも否定できないという。 ただ、灯篭にあるはずの竿・中台・火袋・笠・宝珠のことには触れていないから、これらはどうやら見つかっていないようである。
 しかし、〈奈文研58〉はこの石に対して、灯篭台以外の発想はなかったようである。 同書がいうように参道の敷石が後から広げられたとすれば、灯篭台石をそこに置いたのは建久火災の後であろうか。 だとすれば、基壇下から発掘したものをここに移したのかも知れない。
《当麻寺の灯篭》
 日本最古といわれる石灯籠は、当麻寺の八角形石灯籠(右図下)で、奈良時代前期とされる(〈歴史地名大系〉)。 幾つかのサイトで高さ227cmとされることから、写真によって推定すると、基礎の直径は70cm、正八角形または円形と見られる。
 他にもいくつかの古い灯篭の写真を見る限りでは、「灯篭台石」の一片4寸〔1.2m〕、厚さ2寸〔60cm〕はかなり大きく感じられる。
《心柱》
 資料[49]で見たように、心柱には地中礎石に立つもの、地上礎石に立つもの、そして礎石から離れたものがある。 そこで法隆寺について詳しく見たが、心柱は創建時には地中礎石に立っていて、後に腐食して空洞になったものである。 よって、二重礎石ではなかった。
 「二重礎石仮説」の可能性を探るためには、舎利容器の納め方についてもう少し幅広く当たるべきである。 資料[51]では、舎利孔と心柱の位置関係について、意味も含めて探る。

まとめ
 飛鳥寺の塔の心礎の細工は際立っている。特に、舎利孔の仕上げの精緻さを見るとき、およそ70年後の法隆寺五重塔の舎利孔は技術的な退行が著しい。 また、心柱を受ける枘孔がなく、舎利孔周りから排水する溝が四方に伸びるつくりは、一般的な心礎には見られないようである。 二重礎石仮説の是非を論考する手掛かりになるかも知れない。
 さて、『飛鳥寺発掘調査報告』は奈文研が昭和33年に発行したものを古書店サイトから入手し、 際立って貴重な発掘成果を知ることができた。