| 古事記をそのまま読む―資料7 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2021.06.08(tue) [50] 飛鳥寺跡 ▼▲ |
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飛鳥寺は、江戸時代以来現在まで安居院〔奈良県高市郡明日香村飛鳥682〕となっている。 昭和三一~三二年度〔1956~1957〕に奈良国立文化財研究所によって発掘調査が行われ、 調査報告が『奈良国立文化財研究所学報5:飛鳥寺発掘調査報告』としてまとめられている。 ここでは同報告を中心にその後の調査結果も含めて、飛鳥大仏、伽藍配置、塔跡などについて見る。
〈奈文研58〉は「序言」(p.1)で、「仏教伝来当初の仏寺を考える場合、法隆寺と四天王寺がその代表的なものとされてきた」。 ところが法隆寺は「純粋に飛鳥時代の姿を伝えたものではな」く、四天王寺は「数次の災害にあって遺構の大略を知るに過ぎない状態であった。」 その中で「創建年代の明確な飛鳥寺の発掘調査が要望されていた」と述べる。
その根拠について「調査経過」の章で、大仏像下の煉石の下に中金堂の基壇が見いだされ、 その上の「凝灰岩台石」(図左)は「周囲を焼損しているが上面は平らに仕上げられ、 仏像両側に裳裾が当ったと思える凹みと、後方にそれに外接して径9寸〔27.3cm〕、深9寸の穴とがほぼ対称に掘られている。 前者は像が直接この面上に安置されたことを示し、後者は脇侍の心〔しん〕をはめこんだ枘〔ほぞ〕穴かと思えるが類例がないので断定し難い」、 「いずれにしてもこれが当初のものであることは確実である」と述べる(p.7)。 脇侍〔きょうじ・わきじ;脇立(わきだち)とも〕が両側に立つ様子は、法隆寺釈迦三尊(右)に見える。(本)元興寺〔飛鳥寺〕でも、ほぼこれと同様の姿であっただろう。 〈玉林抄〉によれば、文安4年〔1447〕の時点で飛鳥寺の本尊は野外にあったという。 つまり、現在の安居院は中金堂の位置に建っていて、飛鳥大仏は最初に置かれた位置から動いていないと見られる。 《創建》 飛鳥寺の創建に関する書紀の記述が、〈明日香97〉にまとめられている(p.20)。
《寺域》 飛鳥寺の寺域について、〈奈文研58〉は薬師寺が二町四方に収まることを参考として、 飛鳥寺の「西門の跡の見出された所は旧街道の路上に当つており、これから東方約2丁のあたりにも南北に旧街道が通じている」 「南北については、遺跡の南門からのびる参道のつきる所を南端と仮定し、これから北へ2町をとると、 元伊勢といわれる飛鳥坐神社門前の古くからの街道に達」し、「石敷の溝や…瓦堆積地点塔から見て、この2町四方に…納まりそうである」と述べる。 そして「伽藍の南北中軸線はこの東西にある旧街道線間の西より3分の1の所に来る。 つまり東方に本薬師寺における大衆院のようなものをおく余地を生ずる」との考えを示す(p.38)。 その「2丁四方」の四隅を航空写真に黄色で示した。 『元興寺縁起』の「符」に「堂地東西二町。南北四町」とある。これは天竺の伽藍についての記述ではあるが、「二町」に共通性がある。 〈明日香97〉は、 「飛鳥寺では、旧寺域を画する四辺のうち、北・西・南辺では、道路或いは水田畦が残されている。 北辺では東西道路が八釣まで直線に伸びており、寺辺に沿っての道が残されたものと考えられる。 西辺も同様である。南面大垣の位置は水田畦であるが、 さらに南の斜めの石敷道路位置には、現在でも斜めの道路が残存する」と述べる(p.33)。 この道路の向きは、は次項の石敷広場に沿っている。 〈奈文研83〉は、北東隅の発掘成果を示す(右図)。 東面内濠SD601は、「北で西へ8度振れており」、「東西溝SD602は、…東で北へ2度振れている」 「今回の調査により、飛鳥寺寺域東北隅を画する施設(堀と濠)は、 内濠から出土する土器や瓦の年代から飛鳥寺創建時まで遡り、藤原宮期にもなお存続していたことが明らかとなった」という。
《石敷道路》 この「石敷道路」または「石敷広場」は〈奈文研58〉によると、 「南門前の参道がゆるやかに上つて真南へ90尺〔27.3m〕程続いた先に、丁度その南に当る 巾12尺〔3.64m〕程を残して東西対称に広がる石敷広場がある」 「東西280尺〔84.8m〕、南北100尺〔30.3m〕以上の相当大きなものと推定」され、 「現在の処では建築と無関係の単なる広場」で、 「実は…参道の南に当時の道路を発見することを期待したのであったが、 そのかわりに現れたこの遺跡委は従来他にも全く例を見ないもので、方位の振れが大」きいという。 〈奈文研09〉によると、第152-5次調査〔2008年〕で「石敷広場の東延長上にあたる位置で」、 「石敷広場の東北隅部と判断できる」縁石と石の抜き取り穴を検出した(p.91。右図)。 その「縁石は人頭大よりやや大きめの花崗岩を用い、外側の面を揃えて据える」という。 つまり、飛鳥寺東回廊の真南のあたりまで石敷広場が達していたことがわかる。 《伽藍》 以下〈奈文研58〉(pp.15~23)による。「これらの遺跡〔=伽藍〕は伽藍中軸線をよく真北に通しているにもかかわらず。 塔および仏殿〔三つの金堂か〕を除いてはいずれも多少の方位の振れ〔30分~1度33分程度〕を持つており… 全く仕事のにごり〔=雑さ〕と理解される性質のものである」という。 中金堂は、「焼土層の下には雨落溝の中に飛鳥〔時代〕及び奈良〔時代〕の軒瓦、垂瓦等があって建久焼亡まで創建以来の建物が続いていたことをあきらかにした」。 残存状態がよいのは中門と南門で、中門は「礎石一箇を抜取られている他は、基壇・礎石共ともに完存」し、 「北側には軒が崩れたままの瓦堆積状態が認められ、火災にあった様子がなく、自然崩壊」と見られるという。 南門も「よく残存し」、火災にあった様子もないという。 講堂は、「基壇の大きさは東西130尺〔39.4m〕、南北76尺〔23.0m〕と推定」され、「〔崩壊した後〕堆積した瓦には火災にあった痕跡はなく、 軒瓦で飛鳥時代のもの14、奈良時代のもの28、平安のもの1」で、その時期は伽藍の他の部分と「本質的な差は認められない」という。 【塔】 《塔跡》
● 基壇の階段は南北二方のみに設けられている(図1(1a)(1b))。 ● 南階段の一段目の石は失われて、「凝灰岩据付痕跡」のみという。 ● 基壇は2寸以上の高さがあったと推定されるが、「上部は全く削られ、さらに近年の土採りや瓦溜〔かわらだめ〕で荒らされていた」。 したがって、「礎石跡を一つも見出し得なかった」〔=基壇の上にあったであろう方形格子状に並んだ礎石跡は全く残っていない〕という。 ● 中心部の「南北6.5尺、東西7.0尺」〔1.97m×2.12m〕の漏斗状の孔(②)の底に石櫃(⑨)があり、2個の石を合わせた石櫃の中に木箱があった(⑩)。 ● 舎利容器外箱は、「桧の厚さ1.4cmの板製で10.8cm角、現存高8.5cm」という(p.27)。 ● 木箱の中に金堂舎利容器と少量の玉類があり(⑪)、「木箱と〔石櫃〕円錐孔の空隙を玉類・瓔珞〔ようらく〕で充填していた」という。 《埋蔵物》 ● 発掘時の木箱の中と、木箱の内外の舎利容器と玉類の一部を同書の写真から示した(図2)。 ● 石櫃の下は木炭、埋土が堆積し「当初予期した心柱痕跡の発見などは望むべくもなかった」という(④)。 ● 心礎の上には東辺に桂甲(⑫)、西壁・北壁に接して馬具、金環などがあり、これらは「創建時の埋葬状態」のままという。 また、木炭に混ざって金銀の延べ板、勾玉、管玉などが散乱していたという。 〈奈文研58〉は、「創建当初の舎利埋蔵物の一部も発見され、それが後期古墳時代の副葬品と 関係が深いことが明らかにされたことは、既知の法隆寺その他の舎利荘厳具など飛鳥寺より後に建立された寺のそれと異なる点が特色といえよう」(p.47)と述べる。 すなわち、初期の舎利孔の埋蔵物は、古墳の副葬物に見られる文化を引き継いでいるという。 《木箱墨書》
――「此本元興寺 依二建久七年歳次丙申六月十七日罹一レ火焼失畢 御庄司入阿 寺僧玄昭 明暁 隆圓 賢賀 行円 玄暁」 「庄司」は、荘園領主の命を受けて、年貢の徴収や上納・治安維持などの諸務を行った役人。また荘官。 「入阿」はその名前。 「本元興寺」は、元興寺が710年に平城京に移転(「符」)したことによる、「本の元興寺」の意味である。 すなわち、飛鳥寺は〈推古紀元年〉の「法興寺」、〈同十四年〉の「元興寺」と同一で、 移転後も長く「本元興寺」と呼ばれていたことが確定する。 「建久舎利容器」は、「総高3.3cm金堂製で、径2.8cm。複弁四弁の蓮華座の上に卵型の塔身を容れ、 底で両者を胴釘でかしめている。蓋は現在錆着いているが、宝珠に蓮華座をつけた栓状のものである」。 名称からは創建時のものではなく、建久の時代に改めて作られたものと読めるが、〈奈文研58〉にはその根拠は示されていない。 建久七年〔1196〕の火災の後、舎利孔内や心礎の上の舎利や珠は木箱に入れて石櫃に納めた。 さらに心礎の上を木炭・土で埋めて、その上に石櫃を置いたわけである。 《建久舎利容器》 図3は、建久舎利容器。 〈奈文研58〉によれば、「複弁四弁の蓮華座の上に卵形の塔心を容れ、底で両者を銅釘でかしめている。 蓋は現在錆着いているが、宝珠に蓮華座をつけた栓状のもので」(p.27)、ミニ宝塔である。 「建久」がつくのは、飛鳥~奈良とは様式が異なるからであろう。 法隆寺、太田廃寺、当麻時寺塔の例では、金、銀、銅、瑠璃、大理石などでできた容器が三~四重の入れ子になっている(資料[51]で見る)。 かといって、石櫃に納められた木箱の内外の珠類が建久のものというわけではない、 全体に飛鳥時代はじめのものであるのは、間違いないだろう。 《舎利孔蓋片》 〈奈文研58〉は、礎石の上のこの石片について、 「本来この方孔には石蓋が用いられたらしく、心礎上面に朱の付着した断面凸字型の石片が存した。落し蓋で内部を方形に挎〔ク;=刳〕つたものであったらしい」 と述べる。図4右のような意味かと思われる。 二重心礎(下述)でなければ、この上に直接心柱が接したことになる。 《心礎》 ● 心礎(⑤⑦)は概ね方形で、「東西8.6尺南北8.0尺」〔2.61m×2.42m〕、東端の厚さ1.7尺〔51.5cm〕、 「中央の5.2尺×5.4尺」〔1.58m×1.64m〕を平らにし、周囲は「自然面を山脈状に〔=加工せずに〕残している」(p.18)。 ● 舎利孔(⑥)は縦・横・深さとも「0.4尺」〔12.1cm〕で内面には水銀朱が付着し、 「龕※状部分に建久に埋納した灯明皿一枚があったのみで何等の遺物を残していなかった」という(⑧)。 〔※龕…仏像や物品を置くために壁面に小規模に造成したくぼみ。〕 心礎と周囲との隙間は礫・砂が固く突き固められ、舎利孔の上に心柱を立て、その周囲に「2~3寸の茶褐色砂質粘土」を水平に重ねていったという 〔心柱は失われているから、同書の推定である〕。 【飛鳥大仏】 木箱の墨書により、建久七年の火災が知れる。その火災の跡として、 〈奈文研58〉(p.16)では、中金堂の「基壇周りには南と東側で薄い焼土層が認められ、建久の火災を裏付けた」、 〈同〉(p.17)では塔の「周辺に焼層が見られ」「創建の塔が建久焼失まで残っていたことを示していた」と述べる。 飛鳥大仏はどうなったのだろうか。 《鎌倉時代》 〈岩城99〉は〈太子拾遺記〉によると「寺は全焼したと思われ、鳥仏師作の日本最初の金堂釈迦像は現在でもわかるように非常に傷んだのであった」と述べる。 〈太子拾遺記〉第二「十四歳」の段には、
〈玉林抄〉巻十三「推古天皇十三年【乙丑】太子三十四歳」、 「天皇常納太子妙説又日本紀云 十三年夏四月辛酉朔 始造二銅繍丈六仏像各一躯一…」のなかに、訓海の私見が述べられている。 訓海は文安四年〔1447〕十月に「本元興寺」を訪れた。 その私見に曰く。
「腰に破られた跡がある」というから 〈太子拾遺記〉の「頭と手だけが残った」と述べるが、鎌倉時代には修復がなされていたと思われる。 また、盗賊は像の芯まで金だと勘違いしたようだから、鍍金も残っていたのだろう。 《江戸時代》 時代が下って江戸時代になると、宣長が紀行した際飛鳥寺に立ち寄ったことが、〈菅笠日記〉(下)に書かれる。
「聖徳太子の像」については、現在「聖徳太子孝養像」があり、「木造 室町時代」と表示されている。 「入鹿が塚」は、蘇我入鹿の墓のことである。 宣長が訪れた時点では「かりそめなる堂」と描かれる。 現在の本堂は、文政年間〔1818~30〕の建立と言われる(〈歴史地名大系〉)。 現在は鳥形山安居院といい、真言宗豊山に属する。 《成分分析の報告》 現代に至り、この釈迦像にどの程度オリジナルな部分が残るかに関心を集め、科学的な成分分析が行われている。 崇峻天皇4でも述べたが、「早稲田大学文学学術院の大橋一章教授(文学部)らは、…飛鳥大仏(重要文化財)について、Ⅹ線分析調査を行」った結果、 「造立当初の箇所(左鼻梁、右手第二指甲)と鎌倉時代以降に補修したとされる箇所(鼻下、左襟、左膝上)の銅などの金属組成には際立った差異がみられず、 仏身のほとんどが飛鳥時代当初のままである可能性が高いことが判明した」という。 産経新聞/「「飛鳥大仏」、国宝に返り咲くか―2018/10/27」には、「藤岡〔穣〕教授の研究チームは平成28年〔2016〕に蛍光エックス線を用い、 飛鳥大仏の約150カ所で含まれる金属の割合を調査した。…「顔はほぼオリジナルとみていい」と話す。 顔の補修したような跡は、鋳造時にできた穴などを埋めた跡とみられるという。このほか、右の手のひらの上半分もオリジナルの可能性があることが分かった。 体の成分構成も顔と似ていたが、完全には一致しなかった。藤岡教授は「鎌倉時代に、元の素材を再利用して造り直したのでは」とみている。」とある。 「早稲田大学公式/ニュース」(2012.10.20)によると、 美術史的な観点による類型では、顔は飛鳥時代と見られている。 頭部などを除く部分については、鋳つぶされて再造形されたと見るのが妥当かも知れない。 それでも当時の造仏師は、飛鳥時代の姿を忠実に再現するために最大限の努力が払ったであろう。 【本元興寺の別名】 前出の〈太子拾遺記〉「泉高父私記云」にはまた、 「本元興寺西門額西各異也 西門元興寺 南門飛鳥之寺 東門品幡寺 北法興寺 云々」と書かれる 〔「本元興寺之門額其各異也…」か〕。 〈天王寺秘決〉にも、「法隆寺檜殿事:…元興寺有二四面門銘一 東門幡寺 南門飛鳥寺 西方元興寺 北門法興寺云々」とある(2024.7.27付記)。 関連して〈玉林抄〉巻第八には、 「仲範※1云 法興寺【本元興寺也、非二中宮寺法興寺一※2】四門在レ之。東【法満寺】。南【元興寺】北【大宮寺】南【法興寺】」とある。 ※1…仲範は鎌倉佐助ケ谷に住した学者で、儒仏の道に通じていた(『日本古典文学全集』太平記1注)。 ※2…「中宮寺は法隆寺を中心とする奈良仏教系の聖徳宗の門跡尼寺。山号を法興山という」(日本大百科全書〔小学館〕)。 このように四方の門に別々の寺名額があったようだが、その割り振りは両者で異なっていて、どれほど確かかは分からない。 ただ、書紀に出てくる「法興寺」、「元興寺」が、同じ寺の別名と考えられていたことに基づいて、それをさらに四寺名に拡張したものかも知れない。 別名に関しては、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(ⅰ)段には、 別名の「建興寺」「建通寺」「法師寺」が示されるが、書紀の「法興寺」はない。 従って、四つの「門額」の名前の出発点は、おそらく書紀であろう。 書紀のものか、元興寺伽藍縁起のものかは分からないが、東西中の三金堂にはそれぞれ固有の寺名をもっていたことも考えられる。 伽藍配置には、四天王寺式、法隆寺式、薬師寺式、東大寺式などがあるがすべて金堂は一つで、 三金堂のある飛鳥寺式は特殊だからである。各金堂ごとに、固有の役割〔国家の祈願、教育など〕があったか。あるいは本元興寺は三宗派の連合体が運営する寺で、各派がそれぞれの金堂をもっていたとも考えられる。 なお〈皇龍寺考察21〉によると、飛鳥寺式配置は中国の「一正二配」(中央に正殿、その両脇に配殿)を起源として、 「高句麗青岩里廃寺において、塔を中心に置き、北、東、西に仏殿を配した」の系譜のうちにあるという。 飛鳥寺のモデルとよく言われる新羅の皇龍寺は、西金堂―中金堂―東金堂が直線状に並びパターンが異なるようである。 飛鳥寺式伽藍配置が東アジアの文化伝搬に位置付けられるのは間違いないだろうが、詳しくは別の機会に検討したい。
資料[48]で見た豊浦寺の南の字コンドウに残る礎石は、塔の心礎だと一般に考えられている。 その形と大きさは、飛鳥寺の「灯篭台石」とよく似ていた。 よって、灯篭台石が元興寺の心礎だったとすれば、字コンドウの遺跡C区に波及してその石が塔の心礎であった確率を高めることになる。 右図は、試しに舎利孔を設けた心礎の上に、向きと大きさを合わせて直接灯篭台石を置いてみた図である。 これを見ると無理なく置けそうだが、既に心礎がある上に更に他の種類の心礎を重ねるようなことが、果たしてあり得るのだろうか。 因みに〈法隆寺のものさし〉を読んだところ、飛鳥寺の塔に二重礎石説を採用し「仏舎利を納めるために埋められた礎石」への「仏舎利奉納の儀式のあと、その深い穴を埋めて塔の基壇を構築し、 地上にも礎石を置いて心柱を立てたものと思われる」と書かれていた。 これを読んで援軍を得た思いだが、同書には論拠が薄いままで仮説を押し出される傾向があるので、痛し痒しである。 一般的には資料[49]【心柱】で見たように、心柱の柱底が基壇上まで上がって来るのはもう少し後の時代になる。
《昭和三十三年発掘調査》 この心礎にも見える石を「灯篭台石」と呼んだのは〈奈文研58〉である。中金堂と塔の間の「巾9.5尺の石敷き参道」の中央にあった。 「上部には(右図上)蓮弁を彫ったと思える痕跡があるが、石全体の風化が激しくはっきりしない。」 参道の敷石は「中央の巾5.5尺の部分が古」いので、その両側に2尺ずつ「後に広げられたのかも知れない」。 よって「灯篭台石の据え付け」の際に〔デザイン上〕広げたのかもしれないが、 「灯篭周囲を掘っても変った点はなく」〔=その場所から参道の敷石を除いたような形跡はなく〕、 灯篭台石の設置が創建以来であることも否定できないという。 ただ、灯篭にあるはずの竿・中台・火袋・笠・宝珠のことには触れていないから、これらはどうやら見つかっていないようである。 しかし、〈奈文研58〉はこの石に対して、灯篭台以外の発想はなかったようである。 同書がいうように参道の敷石が後から広げられたとすれば、灯篭台石をそこに置いたのは建久火災の後であろうか。 だとすれば、基壇下から発掘したものをここに移したのかも知れない。 《当麻寺の灯篭》 日本最古といわれる石灯籠は、当麻寺の八角形石灯籠(右図下)で、奈良時代前期とされる(〈歴史地名大系〉)。 幾つかのサイトで高さ227cmとされることから、写真によって推定すると、基礎の直径は70cm、正八角形または円形と見られる。 他にもいくつかの古い灯篭の写真を見る限りでは、「灯篭台石」の一片4寸〔1.2m〕、厚さ2寸〔60cm〕はかなり大きく感じられる。 《心柱》 資料[49]で見たように、心柱には地中礎石に立つもの、地上礎石に立つもの、そして礎石から離れたものがある。 そこで法隆寺について詳しく見たが、心柱は創建時には地中礎石に立っていて、後に腐食して空洞になったものである。 よって、二重礎石ではなかった。 「二重礎石仮説」の可能性を探るためには、舎利容器の納め方についてもう少し幅広く当たるべきである。 資料[51]では、舎利孔と心柱の位置関係について、意味も含めて探る。 まとめ 飛鳥寺の塔の心礎の細工は際立っている。特に、舎利孔の仕上げの精緻さを見るとき、およそ70年後の法隆寺五重塔の舎利孔は技術的な退行が著しい。 また、心柱を受ける枘孔がなく、舎利孔周りから排水する溝が四方に伸びるつくりは、一般的な心礎には見られないようである。 二重礎石仮説の是非を論考する手掛かりになるかも知れない。 さて、『飛鳥寺発掘調査報告』は奈文研が昭和33年に発行したものを古書店サイトから入手し、 際立って貴重な発掘成果を知ることができた。 |
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2021.07.21(wed) [51] 塔心礎と仏舎利埋納孔 ▼▲ |
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飛鳥寺(本元興寺)の「灯篭台石」はもう一つの心礎ではないかと直感された。
その直感の妥当性を探る材料として、様々な塔心礎と舎利容器埋納の状況を見て検討した。
「現実に舎利一具〔いちぐ〕が納置当初の状況を保つて見出された例としては、 早く摂津の太田廃寺の塔の場合が挙げられるのであって、これは舎利を金銀の二重の小箱に納め、 それを銅の合子〔ごうし〕に入れて、更に大理石の小櫃内に置いてあった。 これに対して著しい近江崇福寺阯の例では、地下に据えられた礎石の側面に穿つた横口の穴内に納置してあつて、 それは銀と金とで作つた二つ重ねの箱のうち、金箱の内底にある金の花形座に舎利三粒を容れた緑の波瑠壺を置き、 更に是等を有台の銅篋〔どうきょう〕に納めたものである。 そしてそれに刺玉、南京玉、水晶、香泥の外、鉄地金銅脊の鏡一面、小銅鈴二個、 銀銭十二枚等の荘厳具が添えられていたのである。」(pp.34~35) ここに出てくる太田廃寺(摂津国)、崇福寺(近江国)についそのて詳細を調べた。 すると、関連して高麗寺(山城国)、縄生廃寺(伊勢国)なども注目すべき存在であることが判った。 さらに、相輪に舎利容器が納められた塔として、当麻寺西塔(大和国)があった。 また、塔心礎についても舎利埋納孔のあるものとないものがあり、石田茂作や岩井隆次による資料から幅広く考察を深めることができる。 法隆寺と関連して、若草伽藍の塔心礎も重要な判断材料である。 以下、それぞれについてあらましを学んだ上で、最後の項で飛鳥寺の二重礎石説の妥当性を再度検討する。 【太田廃寺】目次
現地案内板(茨木市教育委員会)には
この文中にある太田連(大田連)について〈姓氏家庭大辞典〉は、「(中臣)大田連:中臣氏より出でて大田を掌りし氏なり。」と述べ、 姓氏録、神名帳の記事を挙げる。 ●〈新撰姓氏録〉:〖摂津国/神別/中臣大田連/同神〔天児屋根命〕十三世孫御身宿祢之後也〗 ●〈延喜式-神名帳〉:{嶋下郡/太田神社/鍬靫}、{豊嶋郡/多太神社}。 周辺からは瓦が出土し、そのうち「法隆寺式軒丸瓦は、法隆寺出土の37B形式と同笵〔同一の瓦型〕ではないかと考えられる」(〈仏舎利埋納〉)という。 法隆寺の37B形式自体は「どんなに遡っても天武朝〔673~686年〕であろう」が、法隆寺で37Bと組み合う「216Cは、西院伽藍〔760年以降〕の創建期の瓦」だという(〈山崎20〉)。 従って、太田寺の創建も再建法隆寺〔670年以降〕と同時期であろう。 太田神社の比定社は「太田神社」〔大阪府茨木市太田3丁目15-1〕である。 隣接する太田茶臼山古墳は、継体帝「三嶋藍野陵」に治定されているが、真陵は一般的に今城塚古墳と考えられている(第233回)。 すると、太田茶臼山古墳の埋葬主はこの地の有力氏族、すなわち大田連の祖である可能性がある。 継体天皇はこの地域を拠点とすることにより百済との交易の利益を独占して、大伴金村に対抗したと見た(継体紀十三年)。 中臣氏は継体帝を支えてこの地へも支族を送り、それが中臣大田連ではないだろうか。その祖の墓が太田茶臼山古墳、氏神が太田神社、さらに仏教の時代になると太田廃寺が氏寺として建立されたと考えられる。 《呉勝》
※…賀美=カミ甲、上=カミ甲。 難波津から上陸した渡来族は、西成郡の淀川北の各地にコロニーを形成したと思われる。 近くの新池遺跡からは新羅土器が出土している(欽明二十三年十一月)。 呉勝は三島郡大田村で中臣氏と融合し、大田連となったという説も見えるがそれもあり得そうである。渡来した寺工や僧の手で、大田廃寺が建ったことも考えられる。 案内板に「古代の山陽道沿い」の諸寺を挙げている点も注目に値する。〈安閑紀〉の二十六屯倉の設置においては、山陽道に沿って数々の屯倉を置き、中央集権を強めた(安閑二年)。 時代が下り仏教が国教化すると、大寺の建立が中央集権の表現となったと見られる。 これらの四寺の位置を、地図に見る(右)。 《山陽道沿いの四廃寺》
〈古代の道09〉も述べているように、〈釈紀〉天平十六年〔744〕二月○戊午〔24日〕に「取二三嶋路一。行二-幸紫香楽宮一。」とあり、 太田廃寺・梶原廃寺・芥川廃寺を通る区間は、「三嶋路」と呼ばれていたようである。 平安期に入ると平安京と筑紫を結ぶ山陽道の一部になったが、その後は摂津国内区間の交通路としての機能はむしろ衰退した。 〈古代の道09〉はこのことについて、「大同二年〔807〕の駅場減省の官符によれば、〔摂津国には〕五駅があって各駅35疋から20疋に減らしている」、 「特に摂津国の諸駅の駅馬数の減省が多いのは、貢納物の輸送に淀川の水運が用いられたからではなかろうか」と推定している。 太田廃寺・梶原廃寺・芥川廃寺設置の性格に関しては、むしろ飛鳥時代における難波宮から近江国方面への中央政権の進出を伺わせる。 なお、太田廃寺塔心礎は、その後「愛知県名古屋市東区の岡谷氏邸にある」との情報をサイトで見た。 岡谷家の邸宅は、現在は庭園「百花百草」として公開されているので、 同所(愛知県名古屋市東区白壁四丁目91番地)を訪れてみたが、それらしいものは見当たらなかった。 《太田廃寺塔心礎》
「心礎は直〔長〕径180cm、短径170cmで、中央に縦30cm、横21cm、深さ15cmの長方形の舎利埋納孔」があり、 四重の舎利容器が埋納されていた。 見取り図(図左)によると、外側容器は蓋を含めて高さ19.0cmである。 それに対して、埋納孔の深さは15cmなので、埋納容器は上にはみ出ていたことになる。 よって、心柱をその上に立てたとすれば、中心部が削り取られて凹んでいたことになる。 但し、埋納物に覆せる石蓋があったと考えた方が適切かも知れない。心柱はさらにその上に立つわけで、つまりは二重心礎である。 崇福寺の埋納孔も、円盤状の石蓋で塞がれていたことに留意したい。 別の可能性もあり、舎利容器が納められていたときは実は三重で、外側の石容器は三重容器が転げ出ていたのを見つけた人が惜しみ、保存のために改めて作られたというようなこともあったかも知れない。 【崇福寺】目次 さて、崇福寺は近江国志賀郡にあり、現代地名は滋賀県大津市志賀郷町甲。 〈近江古代89〉によると、「この付近は山丘が谷によってV字状に深く切り込まれ、 その丘陵部を平坦にならして寺地は造られてい」て、 昭和三年〔1928〕と十三年〔1938〕に「大々的に発掘操作がなされた」という。 崇福寺の創建の伝説が、〈扶桑略記〉の天智天皇六~七年に納められている。 扶桑略記は肥後阿闍梨皇円(平安末)著で、「巻末が1094年(嘉保1)で終わり,以降の成立である」(世界大百科事典〔平凡社2014〕)と考えられている。 そのうち、崇福寺について述べた部分は以下の通りである。内容は明らかに伝説で実証的資料として耐えうるとは言い難いが、興味深いことが書かれているので全文を読み下す。
〈扶桑略記〉に戻ると、六年二月三日に夢に出てきた僧の言葉に従って北西方向の山を見ると、不思議な「火光」が昇って周囲を広く照らしていた。 その光のところに行ってみると、優婆塞が念誦しながら通りかかり、聞いてみるとその山には昔仙人が身を潜めた霊窟があり、名を楽浪(ささなみ)ナガラ山という。 優婆塞はそのまま姿を消し、そこには人骨があったという。 その場所は樹木が茂り谷深く岩山は険しく、流水清涼な静寂なところだった。 崇福寺は大津宮錦織遺跡から見て北西だから、確かに「乾(いぬゐ)の山」である。 七年〔668〕一月十二日に、滋賀郡に崇福寺の造営に着手した。整地すると1.65mの大きな宝鐸〔銅鐸であろう〕と、 15cmの夜光の白石が出土した。天皇は左手の薬指を切断して灯炉の下の唐石臼の中に奉納して祈願したという〔この時代にこのような行為が一般的にあったかどうかは不明。祈願の深さを表す伝説か。〕。 そして弥勒仏などを安置し、その後長く霊験あらたかで帰依する人が絶えなかったという。 《崇福寺縁起》 〈扶桑略記〉は、続いて『崇福寺縁起』から引用している。 そこに書かれた堂塔のいくつかは現在の伽藍跡と対応するから、『縁起』は実際に「牒」として提出されたものではないだろうか。 天平二十年には、平城京の弘福寺・法隆寺・大安寺などから一斉に提出された「諜」がある(元興寺伽藍縁起并流記資財帳[4])。 『崇福寺縁起』ではどの伽藍も「檜皮葺」となっているが、実際には白鳳期の瓦が出土している。 「檜皮葺」とされていることについては、昭和十三年の調査を受けて「後世の実情を伝えたものと解された」という(〈近江古代89〉)。 「小金堂三間」は実際の小講堂の礎石配置に合う。 「金堂五間」については、現在の「金堂跡」は4間×5間である。 ただ「金堂」には「彌勒丈六」があったとされ、現在の「弥勒堂跡」は3間×5間なので、こちらが『縁起』のいう「金堂」かも知れない。 「講堂五間」については、現在の「講堂跡」は5間×6間である。 そこには「三重宝塔」とあるから、現存の「塔跡」は三重塔ということになる。 〈仏舎利埋納89〉によると、「崇福寺跡は1928年に肥後和男氏によって、はじめて発掘調査が行われ」、 「これらの堂塔が、『扶桑略記』や『延暦僧録』等の文献の記載とよく一致することから、 これら三尾根上の建物群を崇福寺跡に比定した」という(p.26)。 さらに、「これまでの調査で、南尾根の建物群からは、平安時代以降の遺物しか出土しないことが明らかになっているため、 北・中尾根の建物群を崇福寺跡に、南尾根の建物群を梵釈寺跡に比定する考えが一般的となっている」という(p.28)。 《塔跡》
そして「心礎は東西約1.82m、南北約1.52mの不整形の自然石の表面を平らにし、 その中央に直径53cm、深さ10cmの柱受けの凹座を設けたもの」、 「心礎の凹座の周囲にはその縁より約15cm隔てて栗石の層があったが、これは心柱の根固め石かと察せられ、これから心柱の直径は90cm前後かと推定された」 という(p.172)。 〈仏舎利埋納89〉によると、 「1938年から1940年にかけて柴田実氏によって調査が行われ」、 「1940年5月17日、中央尾根の堂跡の地下1.2mから、心礎が検出され、側面に開けられた舎利埋納孔から、 創建当初の舎利容器や舎利荘厳具が検出された」という(p.27~28)。 《建立時期》 石田茂作が舎利容器製作時期が奈良後期以後と唱えたことに端を発し、 崇福寺と梵天寺をからめて、建立時期を巡る論争が勃発したという(後述)。 〈近江古代89〉によると、現在では、中尾根・北尾根の寺院は「崇福寺跡とする考えに殆ど異論はないが」、 「白鳳期の瓦がきわめて少なく、同じ白鳳期創建で平安時代を通じて存在していた南志賀廃寺の白鳳期瓦の出土量とは比べ物にならない」 ことから、なお断定することは「躊躇せざるを得ない」と述べている(p.182)。 《舎利埋納孔》
なお、舎利孔を側面に穿つのは特異ではあるが、孤立例ではない。京都府木津川市の高麗寺の心礎にも、同様の例がある(次項)。 《舎利容器》 以下〈近江古代89〉(pp.177~178)による。 ●金銅製外箱…長さ10.61cm、幅7.9cm、高さ7.6cm。格狭間の台脚。かぶせ蓋。前後に留め金。 ●銀製中箱…長さ7.9cm、幅5.8cm、高さ3.9cm。かぶせ蓋。前後に留め金。 ●金製内箱…長さ6.1cm、幅4.2cm、高さ3.3cm。金製の透かし彫り八稜の請け花(瑠璃壺の載せ台)。 ●瑠璃壺…高さ3cm、口径1.7cm。金製蓋付き。舎利(水晶粒3、紫水晶2、ガラス小玉14)を納入。 これらの舎利容器の制作時期について、石田茂作は延暦五年〔786〕頃ではないかと述べる(〈考古仏塔77〉pp.235~238)。 その理由について、石田は銀製中箱と金製内箱が「正倉院中倉御物の楩楠箱の姿に最も近似」し、それは 「大仏開眼会のものとおもわれる」から早くとも天平勝宝期〔749~757〕だという。 また、金堂外箱の「葉状形の香様」〔台の足の格狭間〕からも「天平勝宝頃ぐらいは上ぼせ得るが、それ以前のものと考えることは実証的には不可能である」と述べる。 そのほか、鏡は「天智天皇御代まで上ぼせることは困難」、鈴の形も後世のものであろうという。 この説の提唱に端を発して、梅原末治との間でいわゆる「崇福寺論争」が展開したという(〈近江古代89〉p.178)。
後述するように高麗寺の側面舎利孔は飛鳥時代初めと見られ、心礎埋納孔自体が白鳳期までであることを考えると、 舎利容器はやはり白鳳期に作られて埋納されたのではないかと思われる。 仮に舎利容器が奈良時代以後のものだとした場合、舎利容器だけを取り換えることは可能である。 ただ、その時代には既に仏舎利から法舎利に移行している。だとすれば、わざわざ仏舎利容器を作って納める行為は復古的に行われたことになる。 それに至る特殊事情があったのかも知れないが、真相は不明である。 一方〈仏舎利埋納89〉を見ると、百済、新羅からも様々な形をした舎利容器が出土していて、中には台の足に格狭間のある「仏国寺出土舎利容器」〔大韓民国慶尚北道慶州市〕、 「伝慶尚道出土舎利仏塔」も含まれている。 よって白鳳期にそのようなデザインが伝わっていたとしても特に不思議はないと思われる。 【高麗寺】目次 〈考古仏塔77〉には、「雑類」として、「山城 高麗寺塔心礎」の写真を載せている。 『奈良新聞』(2015年10月23日)の記事に 「京都府木津川市教育委員会は22日、同市山城町上狛の高麗寺(こまでら)跡の発掘調査を終了したと発表した。塔の心礎は埋め戻され、新たに複製を設置する予定」、 「上面中央に直径約70センチ、深さ10センチの柱穴があり、南側面には「舎利孔」の入り口が設けられてい」て、 「発掘調査では飛鳥寺(596年創建)と同じ瓦が出土しているという。」とある。
〈倭名類聚抄〉には、{山城国・相楽郡・大狛郷}とある。同郡に{下狛【之毛都古末】〔しもつこま〕}もあるから、「大狛」は「上狛(かみつこま)」の誤りかも知れない。 この場所には、一時恭仁京が置かれた。恭仁京は聖武天皇の天平十二年〔740〕に造営を開始し、同十五年〔743〕に放棄された(第113回)。 〈霊異記〉中巻-「砦読法花経僧」の段に 「去天平年中 山背国相楽郡部内 有二一白衣一 姓名未レ詳也 同郡高麗寺僧栄常 常誦二-持法華経一」 とあり、霊異記の書かれた822年頃に「高麗寺」と呼ばれる寺が存在したことがわかる。〈霊異記〉によれば、天平年間〔729~749〕から同じ名で存在していたことになる。 出土瓦によれば飛鳥寺と同時期らしい。飛鳥寺にも高麗尺が見られるから、その時期高麗出身の寺工のウェイトが高かったことが伺われる。 《側面の埋納孔》 飛鳥寺と同時期に、既に塔心礎側面の埋納孔の形式があったことがわかる。すると、崇福寺も奈良末以後ではなく、白鳳期に遡ってもよいと思える。 後述するように、埋納孔付きの礎石は白鳳期が中心で、奈良時代には見えなくなる。 【当麻寺】目次 飛鳥寺、法隆寺、太田廃寺、崇福寺では、舎利容器は地下の心礎に埋納された。 飛鳥時代に舎利が礎石の舎利孔から発見されていることについて、〈仏舎利埋納89〉は、 「地中の場合に後世に残る確率が最も高いことを考えれば当然である。」しかし、 「礎石の位置が地下から地表に移るにつれ、塔基に納められた舎利も多い。又日本書紀、 大野丘北塔のように刹柱の頂上部に納められた例もあるし、塔の初層あるいはその上の何層目かに置かれたこともあったに違いない」と述べる。 また、「記録によれば天武天皇2年(673)に心柱が立てられた山田寺(奈良県桜井市)の五重塔の心礎には、 瑠璃・金・銀・金銅の四重容器が納められた。 飛鳥時代後期(白鳳期)には、金・銀・銅の三重容器をはじめ、入れ子式の舎利容器がしばしば造立されたことがうかがえる。 しかし、奈良時代以降は舎利を塔に埋納することが減り、作例及び記録上でも金・銀・銅の三重容器は確認できていない。」という。 相輪から舎利容器が発見された例として、当麻寺西塔がある。 〈当麻寺18〉によると、「明治44年から大正3年にかけて〔1911~1914〕 天沼俊一を監督技師として西塔が修理されているが、その際に心柱頂部から舎利容器が発見されたこととそれを再度納入したことが『考古学雑誌』第3巻第1号および『史跡と美術』84号に記されている」という。 《ご由緒》
當麻寺公式ページ「ご由緒」によると、 推古十二年に、麻呂古王(用明天皇第3皇子)が建立した「万法蔵院」(太子町かと言われる)が起源とされる。 麻呂古王は夢のお告げによって万法蔵院を移転し、白鳳九年〔天武十年;681〕に二上山の東麓に現在の當麻寺がはじまったという。 はじめにあったのは金堂と講堂で、東塔・西塔は奈良時代のものという。 〈当麻寺18〉は「鎌倉時代に撰述された『建久御巡礼記』によれば、當麻寺は白鳳九年(天武天皇10年〔681〕)に現在の地に移されたといい、 実際白鳳期にさかのぼる国宝・弥勒仏坐像、重文・四天王立像」などを伝えてると述べる。 そして、「国宝当麻寺西塔」は平安前期とみられている。 〈当麻寺18〉は、「心柱と心礎の形状の不一致から現西塔が」再建されたとの説は「否定されるものではない」という。 ただ、舎利容器は、その形状から見て白鳳時代のもので、 舎利容器が平安前期まで無事に残っていて、塔に納める文化が途絶えた時代に塔に埋め込んだのは不自然である。 塔の創建も、同じく白鳳時代だとする方が自然である。 それでも、平安時代に焼失または倒壊し、残った舎利容器を伝統として尊重して再建塔に再び納めたことは考え得る。
〈当麻寺18〉によると、平成29年〔2017〕7月10日、相輪の上部を解体したところ、 心柱の頂部に木製の蓋が嵌め込まれていた。 蓋の下は心柱の深さ17cmまで掘りこまれ、「その中に直径12.2cm、高さ14.2cmの銅筒が納められていた」という。 銅筒の中には、三重の入れ子になった舎利容器が納められていた。 〈当麻寺18〉によると、 ①金製舎利容器…総高1.2cm、最大径1.38cm。内部に舎利一粒を神に包んで納入。Au8割、Ag2割。 ②銀製舎利容器…総高3.1cm、身径2.97cm。ほぼ純銀。三重県朝日町縄生廃寺のの塔心礎発見の「滑石製有蓋壺」と似る(後述)。 ③金銅製舎利容器…総高9.06cm、身径10.14cm。 ③には、平安「皇朝十二銭」10個、 建保七年〔1219〕の水晶六角五輪塔(舎利納入)・奉納書・宋銭、明和四年〔1767〕の心柱木蓋・寛永通宝・文書類、 大正三年〔1914〕の心柱木蓋・奉納通貨・奉納書などが、②とともに納められている。 〈当麻寺18〉は、「金製、銀製、銅製の三重容器のセットが揃う飛鳥時代後期(白鳳期)の貴重な舎利荘厳美術の作例」で、 崇福寺、法隆寺の「舎利容器と並び、わが国の舎利荘厳美術の劈頭を飾る貴重な作品と言うことができよう。」と評価する。 なお、舎利容器は「再奉籠せずに保管し」、複製品が「2セット作製られ、1セットは西塔奉籠用とし、もう1セットは奈良国立博物館において原品とともに保管される」という。
【山田寺】目次 〈山田寺発掘02〉によると、『上宮聖徳法王帝説』の〈裏書〉には「八つの部分に記事が書写されている」。 各記事は独立していて内容の関連はなく、そのうち6つ目が「山田寺造営の事」である。 また、各記事の表記には統一性がないから、原資料をそのまま筆写した可能性が高いという。 〈山田寺発掘02〉が引用した〈裏書〉のうち、舎利容器納入の部分を読む。
「瓶」は首の長い容器のことで、法隆寺の瑠璃容器が典型的である。 「金銅壺―銀壺―金壺―瑠璃瓶」の四重の入れ子は、法隆寺の舎利容器と類似していて興味深い。 心礎は、「上面は四天柱上面より約1.3m下」、「南北1.72m、東西推定1.8m、厚さ0.84mの花崗岩」で、 「下面に直径約1mの円柱座を造り出しており、転用材のようである」という。 舎利容器埋納孔は「直径3cm・深さ3cm、下段の穴は直径23cm・深さ15cmで、底部は椀状を呈し、内面に赤色の顔料が残る」という。 孔の内側の段は、「石田式分類」(下述)第一類と同様に蓋をかけるためと見られる。ただ、写真を見る限りでは心柱を嵌めるための外側の刳り込みは見えない。 【縄生廃寺】目次 縄生廃寺跡(三重県三重郡朝日町縄生)から、舎利容器が出土した。 「三重県三重郡朝日町」公式ページによると、 「縄生廃寺は、江戸時代から「金光寺跡」として知られ、戦前には土取りの際に瓦片が多量に出土」していて、 「昭和61年〔1986〕9月から翌年3月に行われた発掘調査で、その出土した軒丸瓦などから、7世紀末から8世紀初頭に造営」された。 「塔は東西10m、南北10.2mの基壇上に建てられ、基壇部分は地面を削りだし、 瓦を積んだ「基壇化粧」とよばれる建築方法」を用い、 「心柱は、上面から1.5m程掘り下げて置かれた心礎の上に建てられた「地下式心礎」となっている」、 「縄生廃寺から出土した3種類の軒丸瓦のA種は大和山田寺、B種は大和川原寺の軒丸瓦によく似たもので、 創建時期の判断の決め手と」なったという。
〈奈文研17〉「縄生廃寺出土唐三彩の化学分析」(pp.60~61)によると、「三重県朝日町縄生廃寺で舎利容器に使われた唐三彩がみつかったのは1986年のことである。 唐三彩は細かく破砕して」いたという。 同報告は蛍光X線分析によって黄冶窯・白河窯などの類型と、比較研究したものである。その結果「類例が素焼き品であるが黄冶窯〔中華人民共和国河南省鞏義市〕から出土し」、 細かい意匠、大きさや器形などから、「7世紀後半から8世紀初頭とする年代観と整合的である」と述べている。 《縄生廃寺の立地》 縄生廃寺は東海道沿いで、尾張国に近い位置にある。 〈倭名類聚抄-高山本〉には「東海駅:朝明【在〃郡】〔同郡に在り〕」が載る。
いずれにしても、東海道の朝明駅に近いと思われ、太田廃寺の項で述べた山陽道沿いの諸寺と併せて見ると興味深い。 朝明は壬申の乱において、大海人皇子が伊勢を望拝した地である(第11回/〈天武元年六月丙戌〉)。 《氏寺》 〈新撰姓氏録〉〖未定雑姓/朝明史/高麗帯方国主氏韓法史之後也〗がある。 〈姓氏家系大辞典〉は「伊勢朝明郡にありし史ならむ。薩戒記※応永三十三年〔1425〕三月廿九日条に「太政官謹奏、伊勢国従七位朝明史寛政、尾張権大目従七位上朝明史光敏」の見ゆるにより証するを得む」と述べる。 ※…藤原北家の公卿中山定親の日記〔1418~1443〕。 15世紀とは相当後の時代であるが、少なくとも姓氏録の時代から存続している。 また「史」の姓を有するから、祖が古く応神朝の時代に帰化した可能性はある。 高句麗もまた僧の供給元であるから、飛鳥時代に高麗僧が渡来してこの地の朝明史に合流し、氏寺として縄生廃寺を建立したことも考えられる。 一方、中央集権化の視点で見ると、7世紀後半の段階において西は摂津国から東は伊勢国までを基盤的な勢力圏として、その中の各地に大寺院を設置したと思われる。 【塔心礎】目次 《石田式分類》 『仏教考古学論攷』(全六巻)は、石田茂作〔1894~1977〕の業績の集大成となっている。 その第四巻「佛塔編」(〈考古仏塔77〉)は仏塔を幅広く論じてるが、塔心礎については全116例を6類型に分類している。
●第一類(3段式)〔13例〕 内孔は「法隆寺五重塔法観寺五重塔の例から仏舎利奉安のところ」〔舎利孔〕、中穴は法隆寺などの例から「蓋をするひっかかりのため」と考えられる。 一段目は柱が嵌るが、「其の柱は、礎石の円形刳込み一ぱいのものであった」とは限らないだろうという。 「大穴」〔外孔〕の径は、17.5~34.0寸〔平均28.21寸(12例)〕 うち、法起寺のみ八角形である。 この類型は「飛鳥白鳳期にかけて流行した」ものと思わせ、「近畿以外あまり広く及ばず、 それが飛鳥時代仏教文化圏と大体一致しているのは深く味うべきである」という。 ●第二類(2段式A)〔18例〕 内孔は「舎利を納めた穴であろう」と思われ、「美濃山田寺心礎の中央小穴中から銅椀中に仏舎利を納めたものを発見し」、「摂津三島村廃寺」の例〔上述〕がある。 「大穴」〔外孔〕の径は、18.0~38.0寸〔平均26.10寸(18例)〕 その時代は、比曽寺が飛鳥末期、壺坂寺など九寺は白鳳期、加賀宮地廃寺など三寺は奈良時代の瓦を出土し、 「大体に於て白鳳期に於て流行し」、奈良期のものは僻地に限られ「地理的の関係上流行の時間的に遅れたと見て説明がつこう」という。 ●第三類(2段式B)〔9例〕 第二類に比べて内孔が広く、外孔と内孔の幅は狭い。内孔に柱の端を枘にして入れたとすると、外孔の意味が分からないという。 「中央刳込穴」〔内孔〕の径は、12.0~28.5寸〔平均18.32寸(9例)〕、 「古瓦が、揃いも揃って白鳳期と認むべきものである事は特別な注意を要する」という。 ●第四類(1段式A〔32例〕,B〔17例〕) 「第一類第二類礎石の舎利奉安の穴を省略した形と見なす事が出来る」と述べる。 第四類のうち国分寺の心礎は孔の径が9.8寸~30寸で、第五類第六類の柱座の径40.8寸~56.0寸に比べて小さい。 これは、前者は「柱の下端に枘を作り、その礎石の刳込みにはめ入れた」ことを示すと想像する。 第四類の下位分類として、心柱をそのまま嵌めたと思われるものをA、枘を作って嵌めたと思われるものをBとする。 Aの径は11.0~29.0寸〔平均20.10寸(31例)〕、Bの径は3.0~23.5寸〔平均10.17寸(16例)〕である。 ●第五類(柱座付入枘式)〔7例〕 造出柱座は、径22.0~44.9寸、高さ0.4~4.0寸。穴は、径6.0~19.5寸、深さ2.5~9.4寸となっている。 何れも奈良朝古瓦の出土を見るので、「奈良朝塔心礎に顕著な様式ともみられはすまいか」と述べる。 ●第六類(柱座式出枘式)〔20例〕 いわば出臍式。造出柱座は、径29.2~56.0寸、高さ0.25~4.5寸。枘は、径6.0~20.5寸〔11.4寸(15例)〕、高さ0.7~5.0寸となっている。 ほとんど奈良朝建立の寺だが、唯一本薬師寺西塔のみ白鳳時代だという。 分布は畿内が九例、その他十例で、播磨から上野の範囲という。 第五類の分布とは「互いに相齟齬する〔=排他的な関係の〕分布にある」という。
すなわち、白鳳時代までは塔は舎利殿として釈迦の遺骨を拝む意義をって金堂と並び立っていたが、奈良時代には伽藍の装飾物に変質した。 それに伴って、礎石の舎利埋納孔は奈良時代に消失したという。なお、「概説」は法舎利への移行を「塔の内に経を納めたこと、即ち塔と経との握手」と表現している。 《心柱の径》 第一類の外孔、第二類の外孔、第三類の内孔、第四類Aの穴の径が、それぞれの心柱の直径を反映すると考えられる。 それぞれの「平均±標準偏差」は、(23.20±4.91)寸、(26.10±4.66)寸、(18.32±5.10)寸、(20.10±6.37)寸となっている。 第六類の出枘式の場合は、枘の径は(11.44±4.54)寸で、心柱を刳り貫いて差し入れる部分として理屈に合うサイズである。 第三類の内孔の径がやや小さいのは、いくつかは第二類に入るべきものを含むからかも知れない。 それを除くと約14寸~31寸が標準偏差の範囲だから、これが心柱の径の標準だと見てよいであろう。 第六類の枘径は概ねその半分程度で、妥当であろうと思われる。 心柱の径の実測値としては、法隆寺五重塔の27.0寸がある(資料49)。 《岩井隆次寄贈資料》 〈岩井寄贈03〉の序文によれば、岩井隆次は全国の塔心礎の研究を重ね、立正大学考古学研究室に寄贈された資料が同大第一回企画展〔2003年7~8月〕で展示された。 写真(右)は、その図録に収められたもの。 ①③④には枘孔があり、心柱を受けたと思われる。
②は「元興寺式」で、中央の突出部は「枘」で、逆に心柱側に枘孔を開けたと思われる。 元興寺の五重塔は、江戸時代に焼失した。 石田式分類(では第六類である。 ③は、石田式分類では第五類〔柱座付入枘式〕である。 ④は、石田式分類では第一類〔3段式〕である。二段目は舎利孔の蓋を嵌めたと考えられ、その上に心柱が接している。 《埋納孔の有無》 仏舎利埋納孔のある第一類・第二類は白鳳期と見られ、〈考古仏塔77〉は、奈良時代のものは周辺地域に伝播した時間差によって理解できるとする。 国分寺の心礎は第五類・第六類の多くを占め、埋納孔はない。 国分寺は、〈続紀〉聖武天皇天平十三年正月丁酉に「施二-入諸国国分寺一」が見える。 『類聚三代格』には、同年二月十四日付で発せられた国分寺建立の詔、 「宜レ令二天下諸国各敬造七重塔一区一…朕又擬二-写金字金光明勝王経一 毎レ塔各令レ置二一部一」が載る。 〈仏舎利埋納89〉は「諸国国分寺のそれぞれの塔に、金光明最勝王経が納められたという記録が示すように、 釈迦の遺骨である身骨舎利ではなく、遺法(法頭舎利)つまり教理に信仰の重点をおく傾向が強く見られるようになる」と述べる。 国分寺の心礎に仏舎利埋納孔がないのは、その傾向に合致する。 なお、飛鳥時代であっても相輪に仏舎利を納める場合は、心礎に埋納孔は不要なはずである。 【若草伽藍】目次 若草伽藍の塔心礎は、石田式分類では第一類~第六類のどれにも属さない「雑類(2)」で、「添木座付塔心礎」と名付けられている。 「添木」とは、心柱の周囲に添えられた3~4本の柱のことである。〈考古仏塔77〉には、他に河内・西淋寺塔心礎(添木4柱)、河内・野中寺塔心礎(添木三柱)の写真が載っている。 《塔心礎》
「結語」において、 「金堂の瓦葺き工程終了後の状況」を示す〔=瓦葺終了後に捨てられた〕と見られる溝の中の多数の瓦は、 「単弁蓮華文軒丸瓦(3Bb型式、3C型式)、手彫り唐草文軒平瓦(206A型式、206C型式、206D型式、207A型式、210A型式)、 そして多量の丸瓦・平瓦が出土している。 これらの瓦は、斑鳩宮の造営が開始された601年前後の年代を与えることができる」と述べる。 そして結論的に、「若草伽藍こそこの焼亡したとされる法隆寺であることは動かない」、 「西院伽藍五重塔心礎の伐採年代が594年に限りなく近いことが判明」 「この年代は若草伽藍造営以前にさかのぼるものであることから、 若草伽藍と西院伽藍を結ぶ資料となる可能性が高い」と述べる(pp.249~250)。 しかし、「塔部分において、塔心礎の据え付け痕跡は検出されなかった」という。 現在の塔礎石の位置は、塔基壇の推定位置の中心から北にずれている。 心礎を据えた本来の場所は埋まっていて、心礎のために掘った穴の底と、後で埋めた土との境目が分からなかったという意味だと思われる。 《心柱》 心柱だけ塔の他の部分より古いので、推古の創建法隆寺〔または斑鳩寺→資料[49]付記〕のものを再利用したのではないかと考えた。 すると、再建法隆寺の心柱は、若草伽藍の塔心礎に立っていたのかも知れない。 そこで、それぞれの実測図に記入された寸法により、縮尺を合わせて重ね合わせた図を作成した。 《石田式分類》の項で見た結果、一般的に礎石の刳り込みの径は心柱の径と一致していると見てよいことが判る。 すると、再建心柱の寸法は若草伽藍塔礎石の刳り込みにかなり近いのは確かだが、正確には3寸ほど大きい。それを理解するためには、次のいくつかの可能性を考えることができる。 ●実測図は手書きなので、心柱の辺の位置は実物とのずれがある。 ●図は正しく、心柱下端に枘を造り出していた。 ●図は正しく、心柱は根元に向かって少しずつ細く削りこまれていた。 ところが、塔心礎の刳り込みの四隅の出っ張りに注目すると、これについては添え木の位置と非常によく一致する。 すると、上記の何れであったとしても、若草伽藍の塔の心柱が再建法隆寺五重塔の心柱として再利用された可能性はかなり高いように感じられる。 これで心柱の年代測定の結果は、一層生きてきたと言える。
柱受けの中央に埋納孔は見えない。いくつかの写真を見ても崇福寺のような、礎石側面の孔もなさそうである。 〈若草伽藍07〉によれば、「露出している範囲においてはこの心礎には舎利孔は確認できない」(p.60)。 すると、舎利容器は当麻寺西塔のような相輪格納タイプであろうか。 以下、前項で見た心柱再利用説を前提として考えを進める。 まず、〈法隆寺保存工事〉によると心柱の先端は斜めに切り取られ、新材に取り換えられていた。 もちろん、若草伽藍の塔と再建法隆寺五重塔の高さが同じとは限らないのだが、仮に大体同じで、 さらに格納位置が当麻寺西塔と同様だったとする。 すると、新材に取り換える前は、刳り貫かれて舎利容器が納められていたとする想像が可能となる。 それでは、標準的な舎利容器を納めるだけの太さがあっただろうか。 法隆寺の心柱先端の補修材の舎利容器を納めたと思われる部分の寸法は、〈法隆寺保存工事〉の実測図によると直径8.3~5.7寸〔25.1~17.3cm〕となっている。 それは創建法隆寺のものと同じ太さとは限らないが、近い値であろう。 すると、法隆寺の心礎の埋納容器の直径5寸9分〔17.9cm〕、当麻寺西塔の舎利容器の直径10.14cmの何れも、納めるのに可能な太さである。 よって、若草伽藍では舎利容器が相輪に納められていたとの考えは、合理的であろう。 《二重心礎の可能性》 それ以外の可能性としては、若草伽藍の塔心礎のさらに下に第二の礎石があり、上部に埋納孔を空けて舎利容器を納めたことも考えられる。 塔心礎が置かれていたと思われるところは、「据え付け痕跡は検出されなかった」というからよく分からないままになっており、 その下に第二の礎石が埋もれている可能性も皆無ではない。
ここで(再建)法隆寺五重塔の埋納孔のことを、改めて考える。 気になるのは、埋納孔の刳り込み作業の雑さであった。資料[49]の【考察】では、本来心柱の枘穴のつもりで作ったのではないかと考えた。 それなら、はじめは再建前に倣って舎利容器を相輪に納める予定であったのが、変更されたという考えが成り立つ。 しかし、それにしては枘が細すぎ、蓋置きの段を見るとやはり最初から埋納孔だったとした方がよいのかも知れない。 すると、舎利容器が最初の打ち合わせより高く作られ、舎利孔に入らなかったので、掘り増しされた。 しかし、急なことで優秀な工人が呼べず、不器用な仕事になったことが考えられる。 ひとつの筋書きとしては、創建塔の相輪に納められていた舎利容器の大きさに合わせて埋納孔を穿った。 しかし、急遽舎利容器を作り直すことになったが、届いたものが入らなかったとも想像される。 【飛鳥寺塔心礎】目次 白鳳時代になると、心柱を受ける窪みの中心位置に埋納孔を設ける形式が標準化されていたようである。 しかし、埋納孔を心礎の側面に設けることもあった。 これを見ると、飛鳥時代前半には、まだ多様性が溢れていたように思われる。 法隆寺五重塔はそろそろ白鳳期であるが、埋納孔の雑さからは、まだ揺れ動いていた様子が感じられる。 そのためであろうか、数々の心礎の例と比べて飛鳥寺の心礎はかなり特異である。排水溝については他にも例がある。 柱に沿った刳り込みがない。この点については山田寺にもないから、皆無ではない。 〈仏舎利埋納89〉は、飛鳥寺の心礎について「心礎の加工痕跡からみると一片1.5mの巨大な方形柱であったと思われる」と述べる。 【塔心礎】の項で見たように、心柱は円柱または八角形柱で、径は凡そ14寸~31寸〔約42~93cm〕の範囲である。 一辺1.5mの方形柱は標準サイズから極端に離れているから、そんな心柱はないと考えた方がよいであろう。 しかし、同書の著者の目にも、方形の大きなものが置かれていたと映った点は注目される。 そこに「灯篭台石」がどんと載っていたとすれば納得がいくのである。 《灯篭台石》 舎利を埋納した上に、そんな重々しいもので塞いでもよいのかという疑問は払拭できないが、 この置き方も、飛鳥時代初期における多様性のひとつだと考えてみたらどうだろうか。 塔心礎の排水溝が中央まで及んでいることについては、「灯篭台石」の下部には当然細かな凹凸があり、水が奥まで浸みていくだろうということもあり得る。 建久年間の舎利容器の再埋納では、木箱が上下の石櫃に納められた。その石櫃は、上下の石が二重心礎の形式を引き継いだ可能性もある。
ただ、第四類A・第五類は奈良時代中心だから、この形が飛鳥時代初頭に遡るのかという疑問も湧くが、豊浦寺の塔心礎とされるものもこの形である。 参道の敷石には灯篭台を置いたことにより、バランスをとるために幅を広げた形跡があるという。建久の火災後に発掘して、初めて参道に置かれたのかも知れない。 そうは言っても他に二重心礎の例がないのが痛いが、再建法隆寺の舎利埋納方式が若草伽藍の方式を引き継いでいたとすれば、若草伽藍の心礎が本来置かれていた位置の下には、舎利孔を穿った礎石があったことも考えられなくはない。 まとめ 数多くの塔心礎と見比べてみると礎飛鳥寺の塔心礎は相当ユニークで、創始期の寺院の多様性を表すものと見てよいだろう。その礎石上には通常のサイズの心柱ではなく、一辺が1.数メートルの大きな方形のものが置かれていたのは間違いないと思われる。 ただし、それが何であるかは特定できない。事実として言えるのは、ここまでである。 今回、幅広く塔心礎と埋納舎利容器に当ってみて、得るところは大きかった。 埋納された仏舎利は、釈迦の遺骨片を象徴する宝石という意味では定型であるが、個々の容器のデザインに関する共通ルールはない。 それぞれの職人が厚い信仰心をもって、持てる最高の技を駆使して丹精込めて生み出した作品であったことが分かる。だから、舎利容器はどれも個性的である。 塔心礎は、国分寺の時代になると一定の型に収斂してくるが、飛鳥時代初頭では基本的に個別の仕事であったようである。 また、寺院建築には、とりわけ高句麗からの建造技術に濃厚に依存していたことが伺える。 政治的には、寺院造営は朝廷による中央集権化の一環であり、古街道沿いの寺については安閑朝の屯倉設置が飛鳥時代には形を変えて寺院造営になった印象である。 屯倉の田は、寺領に対応する。 さて、飛鳥時代には仏舎利=釈迦の遺骨への信仰であったが、奈良時代の仏教は遺骨を有難がる宗教から脱して、経典によって精神を高める哲学に昇華する。 また、舎利とともに宝飾品を埋納する習慣は、古墳に副葬品を納める感覚の延長線上で受け入れていたと言える。奈良時代は、遂にその古代的精神を断ち切ったわけである。 |
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