古事記をそのまま読む―資料6
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2021.01.09(sat) [44] 地図上で正確な実距離を求める 
 地図から二点間の距離を求めるためには、 地図の隅に示されている距離表示を用いることができるが、それでは精度の要求を満たせないことがある。
 もし、二点それぞれの緯度が分かっていれば、それぞれの緯線の間の実距離を計算し、地図に表示された長さ〔画像データの場合はピクセル数〕との比率を得ることができる。 ただ、そのの距離を緯度から正確に求めるには、やや複雑な数学的処理を必要とする。 というのは、地球は球体ではないからである。しかし、楕円体モデルを用いることによりかなり正確な値に近づけることができる。

【同一子午線上の二点の距離】
 楕円体モデルにおいては、子午線は楕円となる。同一の子午線上で二点の実距離(右図)は、次の方法によって求めることができる。
 楕円の弧の長さは、「第二種不完全楕円積分」によって求めることができる。
   E(x,k)=0x(1-k²t²)/(1-k²)dt
 ここで、kは離心率で、長径a、短径b(a>=b)のとき、次の式で定義される。
   k=√1-b²/a²
 また、中心角は正弦に変換する。
   x=sin(θ)

● 真円(a=b)の場合にk=0、完全につぶれて線分となるときがk=1である。
● E(x,k)の値は、長径を1としたときの相対値であるから、弧の実長はEにaを乗算したものになる。 地球の子午線長〔北極から赤道までの距離〕のように、0~90°の弧の実長Lが分かっている場合は、E(x,k)に(L/E(sin(π/2),k))〔=L/E(1,k)〕の値をかければ、実長が求まる。
● E(x,k)は、0からsin(θ)までを範囲とする定積分である。
● 弧ABの長さを求めるためには、本当はsin(θ)~sin(θ)の区間を積分すればよいのだが、 提供されているデータ*)は「0~x」の範囲の積分値なので、0~θの積分値から0~θの積分値を引いて求めることになる。
 *)…2021年1月9日現在、「Ke!san/第2種不完全楕円積分 E(x,k)」に計算機能が提供されている。

**) 扁平率と離心率との関係
・扁平率f=1-b/a=(a-b)/a
・離心率k=√1-b²/a²
 k²=1-b²/a²=(a²-b²)/a²=((a-b)/a)×((a+b)/a)
 ここで (a+b)/a=(2a-(a-b))/a=2-f
 よって k²=f(2-f) ∴ k=√f(2-f)
【地球を楕円体と見たときの諸元】
 手元の理科年表は古いが、この手の数値はあまり変化しないであろう。近いうちに最新版を確認する。
赤道半径 a=(6378.136±0.001)km
扁平率 1/f=(298257±1)×10-3
子午線長 10001.96km
       (理科年表1999年版より)
なお、GRS80(地球楕円体モデルの一つ)の定義値は以下の通り。
・赤道半径a: a=6378.137km
・扁平率f: 1/f=298.257222101
《離心率》
 楕円の潰れ具合を示す表すには、扁平率離心率がある。理科年表の扁平率から離心率を求める**)
 離心率k: k=√f(2-f)=0.08181922

【計算例】
 地理院地図では、中心点の緯度・経度が常に表示される。 ほぼ1分離れた南北の2点について、緯度・経度を読み取った(右図)。 それらの値から、 「Ke!san/第2種不完全楕円積分 E(x,k)」 を用いてE(x,k)を求め、地表面上の距離AB=1.85275…kmを得た。
地点緯度〔°〕θ〔radian〕x=sin(θ)E(x,k)赤道からの弧長〔km〕
34.999980.6108648890.5735761500.6106287973894.671898217(ウ)
35.0166420.6111556960.5738143410.6109192833896.524655698(ウ)
北極点901.57079632711.568164139(ア)10001.96(イ)
 計算には、エクセルを用いた。エクセルはラディアン単位なので、度からラディアンに直すにはπ/180をかける〔*PI()/180〕(ア)は、真円ならπ/2=1.57…になるべき値である。(イ)は赤道-北極点の子午線長。(ウ)は、E(x,k)(イ)(ア)をかけて得た値。
《画像上の寸法》
 子午線上二点間のピクセル数を求めるには、地理院地図を"PrtScr"ボタンなどでクリップボードに入れ、例えばペイントソフトを用いて[キャンパス右クリック]/[張り付け]を実行すると、画像の編集に入る。
 右図は、マークを合わせて緯度・経度を記録してスクリーンショット一回目。マークを合わせて緯度・経度を記録してスクリーンショット二回目。 二枚の画像を合成して作成した。
 そしてAB二点を頂点とする長方形を「選択」すると、縦横のピクセル数が表示される。 右図の例では、縦方向の238ピクセルが得られた。
 この場合、隣り合うピクセル間の距離は1.85275…km÷238px=約7.785m/pxということになる。

【参考事項】
《海里》  
 この例では一分の距離は約1.8533kmとなる。もともとはこれが「海里」(nortical mile)であった。 ただ、このままでは緯度によって値が変わるので、正式には1852mジャストに定められた。 これは、地球を子午線10000kmの球体と仮定し、そのときの一分の距離10000km÷90÷60=1.85185…kmを丸めた値である。 かつてイギリスにおいては、一海里=1853mとされたこともあったという。
《子午線》
 子午線は、十二支によって方角を表すときの、真北=(ね)、真南=(うま)を用いた用語。

まとめ
 仮に子午線10000kmの球体モデルで計算すると、AB間の緯度差は0.016662度だから1.85133mとなり、楕円体モデル1.85276mからのずれは0.077%程度である。 これは、例えば条里五里分=5×6町=30町=3270mでは2.5m程度の差となる。もし一町109mに50cm程度の誤差があれば30町では10数mとなり、それに比べれば誤差は僅かである。 しかしたとえこの程度の誤差であったとしても、何かの境界を考える場合などに重要な意味を持つことがあるかもしれない。



2021.01.14(thu) [45] 広隆寺縁起 
 〈推古天皇紀十一年〉には、「蜂岡寺」創建についての話が載る。
 蜂岡寺は後には広隆寺と呼ばれ、『広隆寺縁起』が 『大日本仏教全書』〔仏書刊行会編纂;1915〕119巻に収められている。 ここでその全文を精読する。

【広隆寺縁起全文】
廣隆寺緣起 字秦公寺 一名蜂岡寺

-検日本書紀
推古天皇十一年冬十一月己亥
皇太子上宮王謂大夫曰
我有尊佛像 誰得此像 將以恭敬
時秦造河勝進曰臣拜[之]
便受佛像
広隆寺縁起(えんぎ) 字(あざな)は秦公寺(はたきみのてら)。一名(あるな)は蜂岡寺(はちをかでら)。

日本書紀を謹み検(あなぐ)りて云はく。
推古天皇(すいこてんわう)十一年(ととせあまりひととせ)冬(ふゆ)十一月(かむなつき)己亥(つちのとゐ)〔朔日〕。
皇太子(くわうたいし)上宮王(うはつみやのみこ)、大夫(たいふ)に謂(のたま)ひて曰(のたま)はく
「我尊(たふと)き仏像(ぶつざう)を有(も)ちたまふ。誰(た)そ此の像(みかた)を得て、将(まさ)に以(も)ちて恭(つつし)みて敬(うやま)ひまつらむや」とのたまふ。
時に秦造(はたのみやつこ)河勝(かはかつ)進みて曰(まう)さく「臣(やつこ)拝(をが)みまつらむ」とまうして、
便(すなは)ち仏像を受けたまはりき。
小墾田宮天下御宇推古天皇卽
壬午之歳
聖德太子
大花上秦造河勝 所建立廣隆寺者
壬午…622年。〈推古〉三十年に当たる。
大花…大化五年〔649〕制定の冠位。上・下に分かつ。天地三年〔664〕の改定で「大錦」(上・中・下)になる。
小墾田宮に天下を御宇(しろし)めす推古天皇の位(くらゐ)に即(つ)きたまひて、
壬午(みづのえうま)之(の)歳(とし)。
聖徳太子(しやうとくたいし)の為に奉(たてまつ)りて、
大花上(だいけのじやう)秦造(はたのみやつこ)河勝(かはかつ)の建立(こんりふ)しまつりし所(ところ)の広隆寺は。
但本舊寺家地
九條河原里
一坪二坪十坪十一坪十三坪十四坪
廿三坪廿四坪廿六坪卅四坪
同條荒見社里
十坪十一坪十四坪十五坪
合拾肆町也
条里…「里」は一辺六町〔約109m〕の区画。一町ごとの区画を「坪」といい、一~三十六の番号が振られている。 割り振り方には、並行式と千鳥式がある。始点は、向きは南北方向と東西方向が考えられる。
 図は、始点・東西方向・千鳥式の場合。
つぼ…[助数詞] 正方形の個数を数える。特定の値をもつ度量衡の単位ではない。 
但(ただ)本(もとの)旧(ふる)き寺家(てらいへ)の地(ところ)は、
九条河原里(かはらさと)の
一坪(ひとつぼ)二坪(ふたつぼ)十坪(とつぼ)十一坪(とあまりひとつぼ)十三坪(とあまりみつぼ)十四坪(とあまりよつぼ)
廿三坪(はたあまりみつぼ)廿四坪(はたあまりよつぼ)廿六坪(はたあまりむつぼ)卅四坪(みそあまありよつぼ)、
同じき条荒見社里(あらみやしろさと)の
十坪十一坪十四坪十五坪、
合はせて十四町(とまちあまりよまち)也(なり)。
而彼地狹隘也
仍遷五條荒蒔里
八坪九坪十坪十五坪十六坪十七坪
幷六箇坪之内
卽施-入水陸地肆拾肆町肆段壹佰玖拾貮步
五条荒蒔里
 
而(しかれども)彼(か)の地(ところ)狭隘也(すこぶるせまし)。
仍(すなはち)五条荒蒔里(あらまきさと)の、
八坪(やつぼ)九坪(ここのつぼ)十坪(とつぼ)十五坪(とあまりいつつぼ)十六坪(とあまりむつぼ)十七坪(とあまりななつぼ)
并(あはせて)六箇坪(むつぼ)之(の)内(うち)に遷(うつ)しき。
即(すなはち)水陸の地(ところ)四十四町(よそまちあまりよまち)四段(よきだ)一百九十二歩(ももあしあまりここのそあしあまりふたあし)を施(ほどこ)し入れき。
又去延曆年中
別當法師秦鳳 竊-取流記資財帳等逃亡
又去弘仁九年
非常之災 堂塔步廊緣起雑公文等悉燒亡
或散失
雖然或地沼開付圖帳
或地常荒未開發
或地入京未其替
延暦…延暦は、782~806年。
…推定される読み。
別当…[仏] 大寺院に置かれた寺務統括の僧官。
弘仁…弘仁は、810~810年。
くもん(公文)…[名] 律令制で、諸官庁が出す公文書。
又(また)、去る延暦(えんりやく)の年(とし)の中(うち)、
別当(べつたう)法師(ほふし)秦鳳(しんほう)、流記資財帳(るきしざいちやう)等(ら)を窃(ぬす)み取りて逃亡(にげさ)りき。
又、去る弘仁(こうにん)九年(ここのとし)〔818〕
非常之(つねにあらざる)災(わざはひ)に逢ひて、堂塔(だうたふ)歩廊(ほらう)縁起(えんぎ)雑(ぞふ)公文(くもん)等(ら)悉(ことごとく)焼亡(やけほろ)びて、
或(ある)は散り失(う)せり。
雖然(しかれども)或(ある)地沼(つちぬま)は開(ひら)けりて図帳(ゑのふみ)に付けり。
或(ある)地(ところ)は常に荒れて、未(いまだ)開発(ひら)かず。
或(ある)地(ところ)は京(みやこ)に入(い)れたまひて、未(いまだ)其の替(みかへ)を入れたまはず。
今爲後代-註其由
-置寺家以爲累劫龜鏡

承和三年十二月十五日
   檀越大秦公宿禰永道
   大別當傳燈大法師位壽寵
   法頭朝屋宿禰明吉
   少別當傳燈大法師位道昌
   都維那傳燈滿位僧惠最
   上座傳燈滿位僧賢禎
   寺主傳燈滿位僧安惠
…推定による訓読み。
…[動] しるす。まをす。
累劫…〈汉典〉連続数劫。謂時間極長:梵語kalpa之音訳「劫波」的略称。
亀鏡…模範。手本。
承和…834~848年。
檀越(だんをつ)…寺や僧に布施をする信者。檀家。
伝灯大法師位(でんとうだいほっしい)…僧の位のうち最上位。僧の位は「伝灯法師位→伝灯満位→伝灯住位→伝灯入位」。
都維那(ついな)・上座(じょうざ)・寺主(じしゅ)…あわせて「三綱」。上座が全般の統括、寺主が寺務、都維那が寺衆との直接的なコミュニケーションを担当。
伝灯満位(でんとうまんい)…僧の第三位。
今、後代(のちのよ)の為に其の由(ゆゑ)を粗(あら)く註(まう)す。
寺家(てらいへ)に留(と)め置きて、以て累劫(るいごふ)〔=末永く〕亀鏡(ききよう)〔=手本〕と為(せ)よ。

承和(じようわ)三年(みとせ)〔836〕十二月(しはす)十五日(とかあまりいつか)
 檀越(だんをち)大秦公宿祢(うつまさのきみのすくね)永道(えいだう)
 大別当(だいべつたう)伝灯大法師位(でんとうだいほふしゐ)寿寵(じゆちよう)
 法頭(ほうず)朝屋(てうや)の宿祢明吉(みやうきち)
 少別当(せうべつたう)伝灯大法師位(でんとうだいほふしゐ)道昌(だうしやう)
 都維那(ついな)伝灯満位僧(でんとうまんゐそう)恵最(ゑさい)
 上座(じやうざ)伝灯満位僧賢禎(けんてい)
 寺主(じしゆ)伝灯満位僧安恵(あんくえい)
《字秦公寺》
 (あざな)は、本名とは別にもつ名前のことである。普通は個人のものであるが、ここでは寺の別名となっている。
 「秦公」については、〈雄略紀〉に「秦酒公」が「」を賜ったとあり(雄略十五年)、 秦氏が一般に姓「」をつけて呼ばれていたことが、寺の俗称に反映したと見られる。
 末尾の署名の筆頭には、「檀越大秦公宿祢永道」とある。その肩書は「檀越〔=寺の後援者〕であるが、事実上のオーナーとして寺の運営の中心にいたと見られる。 このように、広隆寺はまさに秦公の寺なのである。
《条里》
 条里については、大和国十市郡、高市郡の例を〈敏達紀四年是歳〉で詳細に見た。 そこでは坪付けの向きとして、南北方向を想定していたが、葛野郡では東西方向である。
 また、坪付の始点は北西角で、坪並は千鳥式と見られる。 というのは、『平安京―京都 都市図と都市構造』〔金田章裕編;京都大学学術出版会2007〕(以後『平安京―京都』)の「葛野郡の条里プラン」(p.43)はでそうなっているからである。
 なお、「九条河原里」、「同条荒見社里」、「五条荒蒔里」の"九条"・"五条"は平安京における条坊とは別である。 広隆寺(京都市右京区太秦蜂岡町32)は平安京の域外なのである。
 現代地名「衣笠荒見町」(京都市北区)は「荒見社里」に由来すると思われ、また広隆寺の北東方向にある。
 よって、葛野郡の条里は南が一条で北に向かってカウントされていると思われる。これでも大和国と逆なので異例に感じられるが、 『平安京―京都』によれば、葛野郡のみ「」はなんと縦にスライスされ、西から東に向かってカウントされている(詳しくは下述)。
《施入水陸地》
 「施入水陸地」は、 44町4段192歩〔=(44+4/10+192/3600)町=44.453町〕に及ぶ。
一町=10段=3600歩。(一辺108m)
面積 ( )内は正倉院尺による
一歩=6尺平方。(一辺1.8m)
一段=360歩。(10.8m×108m)
 移転した理由は、「十四町」が狭隘だったからだと言う。ところが、「荒蒔里六町」は逆に移転前より狭い。 よって、次の「施入〔=寺に施された〕分四十四町余を併せて、移転前より広くなったということであろう。
 それでは、施された寺領は現在どうなっているかを、最後のところで次のように三分して述べている。
既に開墾済みの部分。この部分については図面を添える。
未だ開墾されず、まだ荒れ地のまま。
平安京建都のために接収された部分。この部分は、未だに替地を賜っていない。
 ③により、広隆寺が移転したのは、平安京遷都〔794年〕以前であったことがわかる。
《大秦公宿祢永道》
 前述したように、秦氏が広隆寺のオーナーであったのは確実である。 「永道」は、おそらく儀礼上奉られた戒名と思われ、だとすれば音読みであろう。
 太宰府が職員令では「大宰府」(資料11)、延喜式では「太宰府」(〈宣化元年〉《鴻臚館》)と表記されるように、 もともと「大-」と「太-」との区別はあまりなかった。「大秦」も「太秦」と同じであろう。 「太秦」は、秦の宗家に「」をつけたものである。ウヅマサは、本貫のもともとの地名を訓みにあてたものであろう。 献上品の絹を朝廷に「うつもりまさ」に積み上げたからウツマサと命名されたというのは、後付けの伝説と見られる(第152回)。
《法頭朝屋宿祢明吉》
 「法頭」(ほふづほうず)は、〈推古紀〉、〈孝徳紀〉に見える。〈孝徳紀〉大化元年八月に「今、拝寺司等与寺主。巡-行諸寺、験僧尼、奴婢、田畝之実、而尽顕奏。」 とあり、諸寺を巡行して監察・報告する役職と見られる。 僧ではないから、名前には氏姓がつく。ただ、ここに名を連ねるということは僧の世界にかなり入り込んでいるから、「明吉」は法名かも知れない。
《朝屋宿祢》
 〈姓氏家系大辞典〉に「朝屋」という姓氏は載っていない。 『日本歴史地名大系』―「石川県」〔平凡社;1991〕で探すと「朝屋」が石川郡にあり、 「鎌倉期までに」「朝屋ちょうや庄(現美川町)…などが確認され」るという。 美川町は石川県白山市の南西部、日本海沿いの町である。
 また同書の多太ただ神社の項に、 「「平家物語」巻七によれば、寿永二年〔1183〕木曽義仲が 「多田の八幡」へ「てうやの庄」(蝶屋庄または朝屋庄)を寄進した」とある。
 確認すると、平家物語七巻「篠原合戦」に
木曽どのやがてそこにてしよしやへじんりやうをよせらる。ただのやはたへはてふやのしやう、 すがふのやしろへはのみのしやう、けひのやしろへははんばらのしやう、はくさんのやしろへはよこえ、みやまるにかしよのしやうをきしんす。
〔木曽殿、やがて其処にて諸社へ神領を寄せらる。多太の八幡へは"てふ"の庄、菅生の社へは能見の庄、気比の社へは飯原〔葉原〕の庄、白山の社へは横江、宮丸二か所の庄を寄進す。〕
とある。 複数のサイトによると、多太神社(石川県小松市上本折町72)に「多太社之神領蝶屋荘十三町」の寄進状が大切に保管されている。
 このように、平安時代には越前国に「朝屋」とも表記し得る「てふや」が存在したことが確認できる。 この朝屋という氏族が姓「宿祢」を賜って、存在していたことになる。

【葛野郡の条里】
《九条・五条》
 『広隆寺縁起』は移転前の所在地を「九条河原里」及び「同条荒見社里」、移転後は「五条荒蒔里」としている。 そのうち、五条荒蒔里は現在の広隆寺がある場所と考えて間違いないだろう。
 「九条荒見社里」は現在の衣笠荒見町の辺りと思われ、その近くに平野神社〔京都府京都市北区平野宮本町1〕がある。 平野神社は式内社で、延喜式-神名帳に{山城国/葛野郡/平野祭神四者/並名神大。月次新嘗}。 後述するように、「九条荒見西河里廿四坪」が平野神社の社地に充てられた記録があり、 その東限は「荒見河」とあるので、荒見川は現在の天神川のことである。 そして、平野神社の南の北野白梅町の「北野廃寺」を移転前の広隆寺と見る説がある。
《北野廃寺説》
 論文「北野廃寺と広隆寺」連続講座『京都の飛鳥・白鳳寺院』第3回;鈴木久史〕によれば、 「史料にある荒見とは紙屋川のこと指しており」、 「紙屋川の西側に位置する平野神社〔中略〕の南側に位置する北野上白梅町付近には、飛鳥時代の瓦が出土する北野廃寺があり」 ことにより、「北野廃寺が広隆寺の前身寺院である意見が強い」という。
 また、蜂岡寺という名前は「いくつもの丘があったことに由来するが」、 平安時代以降は「野寺」と呼ばれており、「「丘」を想像させる蜂岡の由来と一致しない」、 また「現広隆寺が北野廃寺から移転したとするにも関わらず、北野廃寺と同笵瓦が出土していないこと、 移転したはずの北野廃寺が中世まで寺院として、機能を維持していること」と述べる。
 このように、同論文は北野廃寺を移転前の広隆寺と見ることには懐疑的である。
 北野廃寺は、1936年に発見され、1958年の調査で「飛鳥時代の十葉素弁蓮華文軒丸瓦を含む多量の遺物が発見され」たという。 また1974~5年の調査により、「「鵤室」(いかるがむろ)と墨書された平安時代前期の施釉陶器が四点発見され、この寺に聖徳太子信仰にかかわる建物が存在した」ことが確認され、 ている。さらに1979年に「「野寺」と墨書した土器が発掘された」という。 〔『歴史地名大系』―京都市;1981〕。 よって、北野廃寺は飛鳥時代には存在しており、聖徳太子が創建に関わった可能性もある。
《荒見西河里廿四坪》
 『平安京―京都』には、「九条の荒見西河里」とあるが、これは『広隆寺縁起』の「河原里」・「荒見社里」とはやや表記が異なる。
 この呼び名は、『類聚三代格』巻第一にある。 『類聚三代格』は11世紀頃、法令(弘仁格・貞観格・延喜格)を分野別に編集した書である。
『類聚三代格』巻一「神社事」〔『国史大系』第十二巻。経済雑誌社1900(p.341)〕
太政官符
正一位平野神社地一町
山城国葛野郡上林郷九条荒見西河里廿四坪
四至 【東限荒見河 南限典薬寮園 西限社前東道 北限禁野地
〔中略〕
 貞観十四年十二月十五日
太政官符
正一位平野神社に地を充つる応(べ)き事。
山城国(やましろのくに)葛野郡(かどののこほり)上林郷(かむつはやしのさと)の九条荒見西河里廿四坪(はたつぼあまりよつぼ)に在り。
四至は、【東は荒見河に限り、南は典薬寮園に限り、西は社前の東の道に限り、北は禁野地に限る】。
〔中略〕
 貞観十四年十二月十五日〔870年1月9日〕
 「上林郷」は、〈倭名類聚抄〉に{山城国・葛野【加止乃】郡・上林【加無都波也之】郷〔かどののこほり・かむつはやしさと〕。 上林郷の位置が、これによって定まる。
 「四至」は、〈汉典〉 [the four boundaries of a piece of land]〔土地の一区画の四方の境界〕
山城国葛野郡の条里プラン『村落の歴史地理学研究』〔金田章裕;大明堂1985〕(p.217,部分) 荒見西河里・荒蒔里の条里
『村落の歴史地理学研究』〔左図〕及び『平安京―京都』〔金田章裕;京都大学学術出版会2007〕(p.2)による。
 『条里と村落の歴史地理学研究』〔金田章裕;大明堂1985、以後『条里と村落』〕は、 「「「平野神社の近接地に当たるべき九条荒見西河里の二十四坪が大体荒見川の西岸で」あるようにするのは妥当である」と述べる(p.216)。
《条里プラン》
 同書には、 葛野かたの郡の「条里プラン」が示されている。 その条里(図左)を図右の地図上の全く同じ位置に写し、赤枠で示した。 一町は一般に109mとされるが、その5条から9条までの距離を資料[44]の方法によって調べると4.686kmで、実際には一町=111.6mで格子が引かれている。
 条里の基準値としての一町の実際の長さを知るためには、明瞭な条里の実例を調べる必要がある。
滋賀県守山市…条里が広範に見られる滋賀県守山市笠原町付近について、資料[44]の方法で調べたところ、110.5~110.9mで、109mより長い。
大和平野…一方、大和平野においては、郡山市中城町付近で108.0~108.4m、田原本町唐古・鍵遺跡付近で108.0~108.8mであった。これは、正倉院尺が平均30.1cm(第116回)であることに合致する点が興味深い〔1町=36尺〕
赤枠は一町=108.4mとした場合(荒蒔里南西角を固定)。
 それでは、山城国葛野郡の条里はどうか。ところが平安京内の条里は条坊で上書きされて見えなくなっている。 平安京の外も市街地が多く、格子状の道の地域もあるが条里のサイズとは一致しない。 このように京都盆地において、典型的な条里はなかなか見えてこない。
 条里制の成立が大和国と同時代と見れば、一町は大和平野と同じサイズかも知れないので、仮に108.4mとしてみる。 すると、5条の西端から9条の西端までの距離は『条里と村落』の図より77mほど縮み*)、「二十四坪」の位置は荒見川から100mほど離れることになる。 〔*…(112.6m-108.4m)×6×4=76.8m〕九条河原里」の坪割を見ると、川は二十三里二十四里のどこかを流れていたように思われるが、具体的な流路は分からない。 また、当時の流路が現在と同じだったとは限らず、もっと西を流れていたのかも知れない。 なお、どちらの場合でも「平野社」の位置は「社前東道〔社の東側の道〕とあるから、その位置は二十四坪の西隣で、現在の平野神社の位置より200m程度南西にあったと思われる。
《条のスライス方向》
 ただ、は、通常東西ラインでスライスされている。大和国はすべて東西方向で、 山城国北部は『平安京―京都』の図に示されているが、愛宕郡、紀伊郡、乙訓郡はともに東西ラインである。 その中で、唯一葛野郡のみが南北ラインでスライスされている。 よって、これにはもう少し確実な根拠が欲しいところである。
 そこで注目されるのは、『条里と村落』で「この〔条里プランの〕復元は広隆寺資材帳にみえる五條市川里の小字地名的な名称である「松本田・荒木田・川所田」 が小字地名「松本町・荒木町・川所町」とも一致することにより傍証される」と述べているところである。
 確認のために『広隆寺資材校替実録帳』〔『大日本仏教全書』(119巻)仏書刊行会編纂;1915〕を見ると、 「水陸田章」のところに所有田が里別にまとめられている。その順番は、「四条郊田里」、「同条殖槐里」、「五条荒蒔里」、「同条立屋里」、「同条市川里」…となっている。 その市川里の中に「松本田」、「荒木田」、「川所田」が含まれる。
 現代地名としては、京都市西京区に太秦松本うずまさまつもと太秦荒木あらき太秦川所かわどころがあり、 その位置は広隆寺の南方である(右図)。
 つまり「五条」に属する里は「荒蒔里→立屋里→市川里」の順に書かれ、その市川里に属する小字が荒蒔里より南にあるから、葛野郡の「」は南北に長いといえる。
《物的痕跡》
 『条里と村落』によると、山城国でも「条里プランによる土地表示も…中世に至るまで長く使用された」という。 ただ、物質的な痕跡としては大和国のように明瞭ではなく、どちらかというと文書記録から概念的に求めた配置のようである。 条里のサイズは近江国・大和国・播磨国ではかなり定量的に見出され、越前国・讃岐国・肥前国もそれに準ずる。 条里の残存については、〈安閑天皇二年五月〉の二十六屯倉においてかなり多くの具体例を見た。
 しかし、山城国では定性的な推定に留まる。 前述したように、条里が明瞭な大和国と近江国を比べても「一町」の実寸に若干の相違があるので、山城国では細かいところまでは値が定まらないことになる。 葛野郡でもひとつの里の寸法の推定には一定の誤差を考えなければならないのだが、それでも一町108~112mの範囲であれば荒蒔里が五条、荒見西河里が九条から外れることはないと見られる。
《条里の成立時期》
 前述したように、広隆寺の移転は平安遷都以前と見られる。つまり、その時点において葛野郡の条里は存在していたわけである。
 葛野郡の条里が定まった時期について、 『条里と村落』は「久世郡の条里プランは」、「天平十五年〔743〕の弘福寺田数帳に見られるように」、 「この時点までに一応の完成をみていたと考えられる。同じ山城国の葛野郡の場合も、これに近い時期を考えて大過ないだろう」と述べる(p.216)。

まとめ
 北野廃寺は飛鳥時代から平安前期まで存在したことが確認できるという。 だから論文「北野廃寺と広隆寺」(前述)のように、移転前の広隆寺と見ることに難色を示す向きもあるが、 平城遷都のときに「移転」した諸寺においては、移転前の寺も結構残っている。 だから、広隆寺が「移転」した後も引き続き寺が存続し、新たに伽藍が建つことはあり得ると思われる。
 さて、移転後の蜂岡寺=広隆寺は、秦氏が氏寺として丸抱えにした。 これは、署名者の筆頭が「檀越大秦公宿祢」であることからも明らかである。 太秦は奈良時代までは政治の中枢地から離れた辺境であって、そこに在地の勢力として秦氏が存在したわけである。 飛鳥時代にここに寺が建ったのは、かなり先進的であったと考えられる。
 しかし、秦氏の宗家がそれまで荒見地域に住んでいて、蜂岡寺と一緒に移転したことは考えにくい。 『新撰姓氏録』を見れば、秦氏宗家の本貫は始祖伝説の応神天皇の頃からウツマサであったとするのが自然であろう (第152回)。
 蘇我馬子や厩戸豊聡耳太子〔聖徳太子〕による国家の仏教化の波に乗って秦氏も仏教に帰依したと見られる。 そのために僧侶組織を丸ごと荒見社里・河原里にあった寺院から勧請して、太秦に蜂岡寺を創建したことが、「五條荒蒔里」と表現されたのではないかと思うのである。



2021.01.22(fri) [46] 太陰太陽暦から西暦への変換 
【日本書紀の暦からグレゴリオ暦へ】
 四年に一度の閏年を組み込んだユリウス暦は紀元前46年に成立し、その後暦と季節とのずれが顕著になったので、1582年に改定してグレゴリオ暦が成立した。
 中国文化圏では基本的に太陰太陽暦が用いられ、日本書紀の暦もその例に漏れない(資料[C])。 書紀のいくつかの事象の日付をユリウス暦に直した例をしばしば見る。ここでは、その変換の基本を見る。
A22021
B2=A2-1
C2=INT(B2/4)
D2=INT(B2/100)
E2=INT(B2/400)
F2=C2-D2+E2
G2=B2*5+F2
H2=MOD(G2,60)
I2=MOD(H2+15,60)
J2=I2+1
K2P
L2=$K$2&J2
M2=INDIRECT(L2)

 3行目以下は、
B2~J2、L2~M2
のセルをコピー。
 太陽太陰暦をグレゴリオ暦に変換するためには、まずグレゴリオ暦の日付の干支を求めることがひとつの手掛かりになる。
 2021年元日の干支は己酉である。まずここから遡って、西暦元年の元日の干支を求めてみよう。
 現在一般的に使われるグレゴリオ暦においては、4で割り切れる年は基本的に閏年だが、100で割り切れかつ400で割り切れない年は平年となる。
 365日を60で割ると、「365÷60=6…5」だから、干支は平年には5日遡る。 閏年の場合は「366÷60=6…6」なので、6日遡る。 なお、"÷"は以後すべて整数除算〔商は整数とし、割り切れない部分は余りとする〕を意味するものとする。
 よって西暦元年~2020年の間に閏年が何回あるかを求めればよいわけである。 この期間の閏年の回数は、
 「4で割り切れる年の数-100で割り切れる年の数+400で割り切れる年の数」だから、
 「2020÷4-(2020÷100)×4+(2020÷400)=490」。
 すなわちこの期間に遡る干支日は、
 「2020×5+490=10590。10590÷60=176…30」。
 すなわち元年元日の干支は2001年元日から30日繰り上がる。
 干支は60年で一巡するので、{1,2,3,…,60}、または{0,1,2,…,59}の整数のセットで表すことができる。 甲子=0としたとき、己酉=45で、そこから30日遡ると15=己卯である。
 本サイトでは、これまでは甲子=1の系列を用いていたが、加減算の対象とする場合は甲子=0を起点とする。この方が「aからb日後=(a+b)mod 60〔mod は剰余〕が使えるから計算が楽になる。
《一般的な年の初日の干支》
 この考え方により、一般的な年の元日の干支を求めることができる。
 ここで干支を(=0~59)とする。を任意のグレゴリオ暦の年〔G≧1※)、 グレゴリオ暦元年元日の干支をg0とすると、1~G年の期間にある閏年の回数および年元旦の干支は、
  u=(G-1)÷4-(G-1)÷100+(G-1)÷400
  =((G-1)×5+u+Eg0)mod 60
 となる。前項により、g0=15である。 エクセルを用いた例が、右図である。ここでは見やすくするために、計算を細分化して示している。
  ※)…紀元前の場合は、"(4n-1)年B.C."〔n≧0〕などとなるが、ここでは除外する。
《西暦年月日の干支》
 一例として〈推古天皇紀〉三十六年三月〔丁未朔〕戊申〔二日に〕我が国最古とされる日食の記事がある。 推古三十六年は戊子年で(参考資料[H])、これが西暦628年であることに疑問の余地はない。
 グレゴリオ暦628年元日の干支は乙未(1)。2月1日はその31日後だから丙申(32)。 この年は閏年だから3月1日はその29日後で、乙丑(1)。そして4月1日は丙申(32)。よって〈推古〉三月二日戊申(44)は、グレゴリオ暦の628年4月13日戊申(44)にあたる。
 しかし、この日は一般に西暦4月10日といわれている。それは、ユリウス暦によるからである。

【ユリウス暦】
《ユリウス暦への変換》

 ユリウス暦についても任意の年の元日の干支を、同様に求めてみる。
 ユリウス暦においては、4の倍数年は例外なく閏年とする。 グレゴリオ暦との関係については、ユリウス暦1582年10月5日グレゴリオ暦10月15日と定めたという。 この年はどちらも平年だから、ユリウス暦1582年1月1日はグレゴリオ暦の1月11日となる。 グレゴリオ暦1582年元日の干支は丁亥(23)だから、同11日=ユリウス暦1月1日は丁酉(33)
 を任意のユリウス年〔J≧1〕、ユリウス暦元年元日の干支をj0とすると、1~J年の期間にある閏年の回数年の干支は、
  u=(F-1)÷4
  =((F-1)×5+u+Ej0)mod 60
 1582年の=33だから、j0=13となる。
 前項〈推古〉三月二日戊申(44)の場合は、628年は、1月1日戊辰(4)、2月1日己亥(35)、3月1日戊辰(4)、4月1日己亥(35)。 よって、この日はユリウス暦628年4月10日戊申(44)となり、一般に言われる日付と一致する。

まとめ
 実際には、hosi.orgというまことによくできたサイトがあり、 古今東西の暦を相互に変換することができる。このようなブラックボックスを用いることは、有益である。
 ただ、今回エクセルを使って試したように、 定義から手作りで演繹して結果を導く過程は、拙いものではあるが納得感がある。この試みの結果は、紹介したサイトとも合致した。
 さて、わが国で初めて日食が記載されたとされる〈推古〉戊子年三月七日を、多くのサイトでユリウス暦の4月10日に直して紹介されているが、これには疑問がある。 この変換自体は正しいのだが、ユリウス暦自体が歴史的なもので、結局ある古い暦を、もう一つの古い暦に置き換えるに過ぎないからである。 日食は天文学の事象であるから、統一的な時間軸で捉えようとするならグレゴリオ暦を用いるべきである。 すると〈推古〉戊子年三月七日は、628年4月13日となる。



2021.03.11(thu) [47] 日食の予測について 
【過去と未来の皆既日食帯・金環帯の想定位置】
《サロス周期》
NASA Eclipse Web Site」による図を合成
 日食は、太陽光の月による影が地球に落ちたときに起こる。月の公転面と地球の公転面は5.1°傾いて交差してそれぞれ運行しているが、たまたま太陽-月-地球が一直線上に並んだときに皆既日食または金環食が起こる。 その配置は基本的に6585.3212日周期で繰り返すことが分かっており、これをサロス周期という。 6585日は、18年+0か月+D日である。D=10日〔18年間に閏年を5回含み場合〕、または11日〔同じく4回の場合〕である。 仮にサロス周期が整数ならば、その周期の後に同じ経度付近で日食が観測されるが、小数点以下の部分がある。
 そのサロス周期の小数点以下の部分は経度の移動として表現され、その大きさは360度×0.3212=115.6度ということになる。 つまり、ある日にP地点で皆既日食が観測されたとすると、6585日後にも皆既日食が観測されるが、それはP点から基本的に115.6度西に行った地点である。
 右の図は、サロス周期によって対応する2回の日食、2002年12月4日と2020月12月14日の皆既日食帯を示したものである。
 実際には後述するようにサロメ周期を繰り返すうちに、皆既日食帯(または金環食帯)は北または南方向にも少しずつ移動していくが、いずれにしても天体の力学的運動なので、基本的に予測可能である。
《計算上の位置と実測位置との不一致》
 ところが古い時代の日食の記録では、サロス周期などで予測したA点で皆既日食が観測されるはずの日時に、 実際にはA点と離れた点皆既日食が観測されている(B点とする)。
 その主な原因は、地球の自転速度が少しずつ減少しつつあることである。
 位置Aは、自転速度が昔も今と同じだったときの位置である。 しかし、過去の自転速度が現在より早ければ、A点はこれよりも西向きにさかのぼった位置に移る。 1日あたりのずれはごくわずかだが、それが長い年月に積み重なって、図の角θとなる。
 その結果、自転速度が不変だと仮定して求めた地点Aのところに、 実際にはB点に来ている(図Ⅱ)。
 θは経度の差だが、S=239.34θの関係によって秒数に換算することができる。 〔60秒×60(分)×24(時間)÷360.99度〕
 このが、ウェブサイト「中国・日本古代日食によるΔTの検証(推古天皇36年の日蝕は皆既か?)」 におけるΔTだと理解される。
 同サイトでは、日本と中国の古記録から回帰的にΔTを求めたもので、推古紀の628年の日蝕においてはΔT=4457秒と推定されている。
《1日の長さの平均的な減少ペース》
 1日の長さは略してLOD〔length of day〕と呼ばれる。 前項のΔT=4457秒は、628年から現在までの毎日のLODの変化の累積値である。それでは、この累積値を生み出した1日の長さの変化の割合はどれくらいであろうか。
 ここで、基準日のLOD=86400.000秒として、基準日のLODとx日前のLODの差f(x)とする。
 〔例えば、基準日からx日前のLOD=86399.998秒だったとすると、f(x)=0.002秒=2ミリ秒〕
 すると、基準日からX日前におけるSは、基準日からX日前までf(x)を積分したものである。
 すべての瞬間のxについてf(x)が存在すると考えてよいから、xは実数とすることができる。すると、
 S=∫x=0f(x)dx
 である。ここで、単位はS[秒]f(x)[秒/日]x[日]
 f(x)は、概ねxが増加するに従って増加していくが、その割合は均等ではなく一時的に減少することもある。
 しかし、ここでは凹凸を均して正比例すると考えて、 f(x)=ax とする。
 すると、S=∫x=0axdx=(1/2)aX² となる。
 この式から、628年、S=4457秒の場合のaを求めてみよう。
 まず、現代の基準日を設定する。
 現在の1秒の定義は、1967年に定められた。
1960年~2020年の"LOD-86400秒"。赤はUTCに実施された閏秒の累積。
ja.wikipedia.org
セシウム133の原子の基底状態における2つの超微細遷移周波数に対応する放射の9 192 631 770周期の継続時間〔理科年表1999〕
簡単にいうと、セシウム原子が発する基本的なマイクロ波の、山または谷の数を一定数数える時間が一秒
 である。
 自転速度の実測により、この定義による86400.000秒にほぼ等しい年は、最近では2004年なので、 これを基準日とする。
 すると、
 年数は 2004-628=1376(年)
 よって X=1376×365.2422=502573.3(日)
 a=2×S÷X²=2×4457÷502573.3²=3.52918×10-8
 したがって、628年のLODは、2004年よりもaX=3.52918×10-8×(1376×365.2422)=0.0177367秒短かったことになる。
 平均すると、LODは100年あたり0.0177367秒×(100/1376)=1.289ミリ秒増加したことになる。 一般的には「過去数世紀では、100年あたり約1.4~1.7ミリ秒増加している」(en.wikipedia.org "Leap second")というから、 大体同じようなペースで増加し続けているといえよう。
 ただし、最近の短い期間を見ると、1972年の+3msをピークにして逆にLODは減少する傾向にある。 恐らく、一時的であろう
《サロス周期の意味》
 サロス周期についてもう少し詳しく見てみよう。
 上で述べたように、サロス周期によってある年の日食は6585日後に、西に115.6°西に移動した位置に再現される。 この角は120°にかなり近いから、三周期にあたる約54年1か月後に、同じ場所近くに日食が再現される。
 試しに、1967年11月12日の日食の54年1か月後を見る。皆既日食帯を360°-115.6°×3=13.2°西にずらした位置を記入した。 すると、2020年12月4日に実際に起こった日食は、それよりもさらに西北西に移動した位置になっている。 つまり、サロス周期の端数部分による東西方向の偏差に限らず、その定義自体を原因とする変位が生じていることになる。
 そもそもサロス周期とは、223朔望月=6585.3212日と、19食年=6585.782日が極めて近いことによるものである。 なお、「食年」とは、黄道(太陽の通り道)と白道(月の通り道)の交点の一方を太陽が通り、同じ点を次に通るまでの期間で、1食年=346.62日である。
 黄道・白道の交点を、太陽と月が接近して通るときが日食となる。〔二つある公転の一方に太陽、他方に月があるときが月食である〕。 ほとんど同じ通り方が6585.3212日後に現れ、 そのとき再び日食となり、これがサロス周期である。
 しかし、見てわかるように223朔望月と19食年の間には0.46日の差があり、結局それが日食ラインが少しずつずれていく原因である。※…月が太陽光による本影または擬本影を落とす範囲。皆既日食帯と金環帯。 このずれによって、月の影は日食一回ごとに北〔または南〕に移動し、いずれ地球にかからなくなる。ひとつのサロス系列で、日食を起こすのは69回~84回であるという。
 なお、ここでいう「サロス系列」とは、「今月と、今月から223×(±n)月〔n=1,2,3,…〕後の月」の集合を意味する。 よって、「今月と、k月後の月〔0≦k<223〕を起点とする223個のサロス系列」が存在する。 現在日食を起こしているサロス系列はいつかは日食を起こさなくなるが、逆に日食を起こしていない他のサロス系列が、日食を起こすサロス系列に転ずることが起こる。
《月の公転周期の変化》
公転周期をP、楕円の半長径をrとする。kは比例定数。
 P=kr3/2
 yを公転周期の一年あたりの変化率、Δrを直径の一年あたりの変化量とすると、
 P(1+y)=k(r+Δr)3/2
 ここで r+Δr=r(1+x) で表すと、
 P(1+y)=kr3/2(1+x)3/2≒kr3/2(1+(3/2)x)=P(1+(3/2)x)
 よって、y=(3/2)x
 ここで、月軌道の遠点は40万5495kmであるが、「3.8cm」は、平均距離においての値だと思われるので、
変化率xは「3.8cm/384403km」を用いる。
 x=3.8×10-5÷384403=9.9×10-11
 y=1.5×10-10
 よって、1年あたりの公転周期の増加量=27.32166181日×1.5×10-10=4.05×10-9日=3.5×10-4
 このペースが1000年続くとすると、増加量の累計は (1/2)×3.5×10-4×1000=180[秒]
 長い時間を隔てると日食ラインが計算からずれる原因としては、地球の自転の角速度の変化のほかに、月の公転周期の変化が考えられる。 というのは、月は地球から1年に3.8cmの割合で遠ざかっていることが観測されているからである。
 ケプラーの第三法則によれば、天体の公転周期の二乗は軌道の長径の3乗に比例する。
 その関係によって、右のようにして公転周期の変化および、その累積を求める。
 これにより、1000年前の月の位置は、公転周期が昔から今の値だったと仮定する場合に比べ、3分〔時刻〕だけ西に進んだ位置にあった。それによって起こる日食ラインのずれは、経度0.75°ぐらいである。 ΔTは帰納的に1000年あたり数千秒となっているが、実際には月の公転周期の変化による月の位置のずれを含んだ値になっていると思われる。ただ、その寄与はわずかである。
《一年の日数と一日の長さ》
 天体の運動としての公転周期は、地球の場合「恒星年」という。 一方、暦で使う一年は「太陽年」と言い、恒星年より20分ぐらい短い。つまり360°回りきらないうちに一年が終わる。 太陽年は一年を春分から次の春分までと決めたもので、地軸の歳差運動により春分点が公転と逆向きに移動するからである。
 この平均太陽年は、100年〔厳密にはユリウス世紀=36525日〕ごとに0.532秒ずつ短くなっているという。
 それに対して恒星年は、100年〔同前〕に0.01秒長くなっている。
 後者の変化は前者の変化から見ればほとんど無視できるから、恒星年はほとんど変化しない。 よって太陽年の長さの減少とは、結局1太陽年に太陽が移動した跡の孤の長さの、全円周に対する割合が小さくなる現象である。 原因としては、黄道傾斜角(約23度26分21.406秒)が減少傾向〔-46.8秒/1ユリウス世紀〕にあることや、 歳差運動における地軸の回転の角速度が微妙に変動していることが考えられるが、 本サイトの筆者がその定量的な理解に達するには、まだ相当な勉強を要するから今回はこれ以上深めることはあきらめる。
 LODとの関係でいうと、太陽年の日数の変化とは公転1周に対する孤の長さの割合が減少するだけだから、LODの変化とは無関係である。 しかし恒星年の日数の増加はLODを減少させる。 それは次の事情による。
 自転周期はおよそ23時間56分で24時間より短いが、その理由は今日の太陽の南中から自転1回1回だけでは南中に達せず、翌日の南中までには更に4分ほどを要することである 〔一日のうちに公転が進み、太陽と地球を結ぶ直線の向きが変わるから〕。 恒星年の日数が増えると、この「4分ほど」という時間は短くなる。ただその変化は僅かで、計算してみると1万年間のLODの変化への寄与は、-7.5×10-6秒ほどに過ぎない。 自転の角速度によるLODの変化量、約2m秒/100年とは五桁の違いがあり、ほぼ埋没している。

まとめ
 黄道上と白道上の太陽・月の運行により、日食日と時刻、その場所は完全に予測可能なはずである。 しかし、非常に長い時間を隔てると位置のずれが大きくなっていく。 その原因としては、LODが増加〔=自転の角速度は減少〕しつつあることと、月が地球から離れつつあることであろうと思われる。
 それに対して、地球の公転周期の変化はほぼ無関係と見られる。 ただ、これは現時点での筆者の理解であり、もう少し勉強を進めていくと誤りが見つかるかも知れない。 もし誤りがあれば、その時点で訂正する。



2021.05.23(sun) [48] 豊浦寺跡 
 現在の向原寺周辺で発掘された遺跡が、豊浦寺跡であったと考えられている。
 ここでは、これまでに明らかになった伽藍配置を中心に考察する。

【豊浦寺】
〈欽明紀十三年〉〔552〕蘇我稲目が向原を寺にした。
〈元興寺縁起/辛卯〉〔571〕豊御食炊屋姫〔推古〕牟久原後宮を譲って仏を祀ることとする。
〈元興寺縁起/敏達紀十二年〉〔583〕桜井道場に三尼を置く。
〈敏達紀十三年〉〔584〕蘇我馬子宅の東方に弥勒石仏を安置する仏殿を経営し、石川の宅に仏殿をつくる。
〈元興寺縁起/乙巳〉〔585〕止由良佐岐〔豊浦埼〕に刹柱を立てる。直後に倒される。
〈敏達紀十四年〉〔585〕大野丘北に塔を立てる。三月に倒される。
〈元興寺縁起/戊申〉〔588〕桜井寺金堂などの本格造営を開始。
〈崇峻紀三年〉〔590〕学問尼善信などが桜井寺に住んだ。
〈元興寺縁起/癸丑〉〔593〕等由良寺」と名付く。
〈推古紀十一年〉〔603〕小墾田宮に遷る。
〈推古紀二十年〉〔612〕桜井道場で少年に伎楽舞を習わせた。
〈続紀:光仁即位前〉わらべ歌に「豊浦寺の西に桜井」。
 235回【桜井】、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(以下〈元興寺縁起〉)から、 「豊浦寺」に関する部分を拾い出す(右表)。
 これらのうち、向原の家桜井寺桜井道場豊浦寺はほぼ同じところを指すと考えてよいと思われる。 ただ、その後もともとは御食炊屋姫〔推古〕別業なりどころであり、一定の広がりがあったと考えると、 それぞれの施設が隣接、もしくは別業内に分散していたと考えた方がよいかも知れない。
 蘇我馬子の「仏殿」は二か所にあるが、そのうち「東方」とされる方は、豊浦寺かも知れない(敏達十三年)。
 一方、書紀においてはこの地域は蘇我馬子の別業に包含され、即位前の御食炊屋姫の姿は見えない。 そして、即位した時点ではじめて豊浦宮にましますとする。 また、海石榴市の別業の存在については書かれている(用明元年)から、御食炊屋姫が独立的存在として一定の領地をもっていたことを認めている。 それを考えると、書紀は御食炊屋姫の豊浦の別業の存在を伏せている印象を受ける。
 結局、即位前の御食炊屋姫は書紀が矮小化したのか、〈元興寺縁起〉が崇高化したのかのどちらかである。
以下、引用文献については次の略称を用いる。
〈石田36〉:『飛鳥時代寺院址の研究』〔石田茂作;聖徳太子奉賛会1936〕
〈奈教委57〉:『奈良県文化財調査報告書 第2集』〔奈良県教育委員会;1957〕
〈飛鳥寺58〉:『飛鳥寺発掘調査報告』〔文化財保護委員会;1958〕
〈奈国研86〉:『飛鳥・藤原宮発掘調査概報16』〔奈良国立文化財研究所;1986〕――豊浦寺第3次調査〔1985年2~5月〕
〈橿文研94〉:『奈良県遺跡調査概報1994年度』〔奈良県立橿原文化財研究所;1995〕――第2分冊/明日香村飛鳥京跡発掘調査概報
〈花村00〉:『古代瓦研究Ⅰ―飛鳥寺の創建から百済大寺の成立まで―』〔奈良国立文化財研究所;2000〕――「付論 豊浦寺の伽藍配置」花村浩。
〈明日香16〉:『明日香村文化財調査研究紀要15』〔明日香村教育委員会文化財課;2016〕

〈奈国研86〉(p.57)に〈橿文研94〉(p.4)の内容を加えて加筆。
【豊浦寺跡】
 「明日香村公式/文化財」は、 「江戸時代建立された向原寺(真言本派本願寺派)」が豊浦寺の後継とされ、 「門前や境内に多くの礎石がみられ、寺跡であることを裏づけている。昭和32年〔1957〕、昭和45年〔1970〕の発掘調査でも塔、金堂、講堂などが検出され、 平成5年〔1993〕には金堂が南北15メートル、東西17メートルの規模であることが判明した」と述べる。
 その一帯の遺称が豊浦であることや、向原寺が残ることから見てこのこの礎石は豊浦寺のものと考えてよいであろう。
 〈明日香16〉は、この地域の調査について総括的に述べている。
〈明日香16〉より
 発掘調査では、主軸を地形に合わせて北で西に19度振れた方位の伽藍が確認されている。 南から塔・金堂・講堂が並び、講堂の西には回廊状の施設がある。 ただし、現在復元されているはやや南に離れ、方位も異なることから、金堂のすぐ南に想定する案もある(花谷2000)。 伽藍の中で最初に建てられるのは、17×15mの金堂で、600年前後に建立された。
 その後、第Ⅱ四半期〔626~650〕には塔と講堂が建てられる。 講堂は現在の向原寺境内にあり、東西30m以上、南北15m以上の規模である (明日香村2000a・橿考研1995)。
 講堂下層には、南北4間以上、東西3間の掘立柱建物がああり、周囲には石敷が施されている。 これらは5~6世紀の包含層の上に施工されており、飛鳥Ⅰの段階で廃絶することから、 寺院創建以前の建物で、石敷の存在や資料からみて豊浦宮の可能性がある (奈文研1986)。
 下層遺構は、金堂の下層にも柱穴やバラス敷が部分的に見つかっており、回廊下層にも6世紀後半の石組溝や柱穴がある。
花谷2000:〈花村00〉 /明日香村2000a:明日香村遺跡調査概報1998『明日香村遺跡調査概報 平成10年度』 /橿考研1995:〈橿文研94〉 /奈文研1986:〈奈国研86〉
 以下、この文で示された資料他に基づいて、豊浦寺の金堂・講堂・塔について見ていく。

【金堂】
金堂跡と推定される基壇(A区・B区)――『奈良県遺跡調査概報1994年度』
 〈橿文研94〉によると、「第1次調査は昭和32年、奈良県教育委員会」になされ、その結果 「向原寺境内(A区)とその南接地(B区)、および向原寺の南約100m、塔心礎のある大字金堂地区(C区)」、 「C区では周囲に石敷をもつ一辺約14mの塔跡と推定される基壇を確認した。
 そのA区からB区に上辺のある「SB01は金堂跡の基壇と推定され」、 今回〔1994年〕はその北西と東辺の一部を検出した。「基壇は東西17.0m、南北6.4m以上」、「南北については南側に民家があり、調査することができなかったが、 5×4間の規模を想定すると14m程度と復元できよう」、 そして「建物の方位は北で西に約20°の振れをもつ。」、「SX02は基壇の外側をめぐる石敷」で「高さを基壇基底石より約10cm低く揃え」 「外側を見切りとして2列に」並び、その外側を巡るSX03は、SX02よりさらに「約10cm低い」。 その瓦は「ⅡA、ⅡB形式が主体」で、ⅡE形式は「7世紀初頭とみてよ」いものだという。

【講堂】
 〈奈国研86〉によれば、 その調査域の上層は豊浦寺創建期の遺構、下層は創建前の掘立柱建物とされる。
 上層については、「豊浦寺の創建期に遡る礎石建物SB400と、雨落溝SD405、雨落溝の南を画する石列SX404、 石敷SX403、バラス敷SX401、礎石落とし込み穴SK406などを検出した。礎石建物SB400は」 東西22m以上で、方位は北から西へ19度振れているという。
〈奈国研86〉豊浦寺第3次調査
〈奈国研86〉第2次・第3次調査
 このように豊浦寺創建期の建物の南辺に沿う、雨水を受ける溝の石列が確認された。
 基壇(SB400)は「東西30m以上、南北15m以上」、 「飛鳥時代の通有の基壇規模と比較すると、金堂とするよりは講堂にふさわ」しく、 「造営年代については、廃絶に伴う瓦堆積層出土の軒丸瓦ⅢA型式の年代観から7世紀第Ⅱ四半期〔626~650年〕とみなされる」という。
 なお、SB480については「鎌倉時代初めに規模を縮小し旧基壇の東寄りに5×4間の仏堂が再建されるが、これも室町時代後半に焼失した」 という。
《下層》
 講堂の下層については、 「豊浦寺創建前に遡る掘立柱建物SB450」は「桁行3間以上、梁行3間」、「北及び東西に丁寧な石敷をめぐらす高床式の南北棟建物」で、 「桁行1.56m等間、梁行1.83m等間」、「建物方位は北で西へ30°前後触れて」いて、 「飛鳥地域でいくつか検出されている宮殿建物遺構との類似性を指摘すること」ができるという。
 〈橿文研94〉は、 「周囲を石敷で舗装する工法が飛鳥地域で検出される宮殿建物遺構と共通すること、7世紀初頭を下限とする時期から、 推古天皇の豊浦宮の一部である可能性が指摘され」 「豊浦寺造営以前におけるこの地域の空間的、時間的なひろがりが想定できる」と述べる。

【塔】
 〈花村00〉は、C区には1936年に石田茂作が「塔心礎」と見做した礎石がある〔以後「C区大石」〕。このC区大石は  「差し渡し約1.5m、上面には、下径で1.1mの円形柱座を作り出し、柱座中央には、径20cm・深さ12cmの 円孔がある」と述べた上で、 〈石田36〉の、 「四天礎並周囲の柱礎は見られぬが、其処に往時塔のあった事は、この一礎石の存する事からも十分推知し得られる」 に反論する。
〈奈教委57〉豊浦寺跡C区根石平面図(p.55) 豊浦寺跡C区平面図(p.52) 〈花村00〉(p.58)「推定塔:基壇規模は法起寺による」を合成したもの。
 すなわち、奥山廃寺で見つかった礎石は直径1.2m、高さ50cmの円柱で円孔があり、大きさと形が類似するが、 奥寺廃寺の礎石は講堂のもので「円柱礎石」は必ずしも塔のものではないとする。 また、塔の礎石の例として、法起寺三重塔の心礎である高さ1.7cmの低い八角形の柱座を挙げ、 「なによりも、円形の高い柱座をもった飛鳥時代の塔心礎の例を、我々は知らない」と述べ、 C群大石を塔心礎と見做すことに強い疑問を呈する。
《金堂の南説》
 〈花村00〉は、「飛鳥寺では回廊内の堂塔がいずれも75高麗尺〔約26.7m〕の心々距離をとること、などからみて、 金堂の南75高麗尺の位置に塔を想定しても、現状では大きな不都合はない」などと述べる。 「講堂―金堂―塔」は四天王寺式伽藍配置である。ただし、まだ発掘は行われていない。
《昭和三十二年の調査》
 昭和三十二年の調査をまとめた〈奈教委57〉は、「字コンドウに残る礎石の周囲」を調査区域「C区」としている。 その「C区」の調査結果について、同書は次のように述べる。
――トレンチ(ウ)、(ク)、(ヤ)の地下に敷石を検出し、 「西側トレンチ(ツ)でも東西約3.6mの敷石のあることを知った。」 それらの礎石の上に堆積した土に「含まれる瓦は鎌倉か室町頃の中世的な平瓦」であるから、 「礎石は中世に於ける再建以前のものであることが考えられる」。
 東の(ウ)、(ク)、(ヤ)の敷石と西の(ツ)の敷石の「間に基壇と思われる黄褐色土層が存在」し、 「トレンチ(ノ)の東端部ではこの基壇の隅角と思われるような状態が検出された」。 「礎石」の位置はこの「基壇」の中央ではなく端にあるので、 「以前から存在する礎石は古老の語るごとく原位置より移動しているものと思われる」。
 基壇の中央に「根石群」があり、「東西の礎石のほぼ中央に径約1.8mほどの掘り込みがあり、 その中に数十個に及ぶ根石群の存在を確認した」。――
 すなわち、C区の建物〔同書はそれが塔であるとは言わない〕の周囲の敷石の、 東の辺が(ク)-(ヤ)のライン、西の辺が(ツ)を通り、両者の中央に根石群があるという。
 C群大石はもともと根石群の穴にはまっていた如くに読めるが、〈奈教委57〉は実際にはそのようには言っていない。 しかし、「根石」の意味は、「礎石の下に敷く石」で、 〈奈教委57〉は石田茂作が塔跡と提唱したことを、当然意識していたと思われる。
 根石群の掘り込みの直径1.8mに内接する正方形の一片は1.27mだから、C群大石(一辺1.5m)は収まらないが、 C群大石は正方形の角が丸まっているのでちょうど入る大きさだと考えることも可能である。
 なお、図の緑色の破線は、同書「豊浦寺調査位置図(33図)」だけにあった破線を「C区平面図(37図)」に写し取ったもの。 〈花村00〉は、これを「トレンチ(ノ)の東端部」の「基壇の隅角」を示した線だと解釈したうえで、 その範囲が「黄褐色基壇基壇土層」の範囲より狭いことに疑問を呈している。
《石田説》
礎石概観
 〈石田36〉の「豊浦寺」の項には、次のように書かれている。
――「〔あたか〕も両寺〔西念寺・向原寺〕の中間の畑地には塔中心礎と思われる大石」があり、 「塔心柱礎と思はれる大石は、原型では方五尺〔1.52m〕位のものと見られ、中に径三尺六寸四分〔110.3cm〕の造り出しがあり、 其の中央に径六寸九分〔20.9cm〕深四寸〔12.1cm〕の穴を穿っている。 火に焼けてゐる為、造出しの表面の石膚は荒れ、穴の縁は欠け損じて最初の形は知りがたいが、 …枘〔ほぞ〕入れ式のものではなかつたらうか」。――
 「塔」が講堂―金堂の中心線上から外れていることについては、
――「而してその堂舎址と塔址並に金堂址との位置的関係が、飛鳥時代の伽藍配置の制約で説明できないのも亦困つた問題である。」 「〔けだ〕し、当寺は仏教渡来して間もない時代の建立であれば、未だ一定の制約によらず、その堂塔は地形に従って、散文的に配されたものではなかつたらうか。」――
 と述べる。 
《C区の大石》
 〈石田36〉は、堂塔の配置は「散文的」、すなわち、仏教伝来して間もない頃は、堂塔の配置は厳格ではなかったと推定する。
 しかし、講堂と金堂だけの配置は飛鳥寺と同様に厳格である。塔だけが大きく外れているのはやはり奇妙というべきであろう。 塔跡ならば正方形の格子状に柱の礎石が配列するはずだが、仮にC区にあったとしても失われている。 さらには、建物の南北の境界は検出されていないから、正方形なのかどうかは判断がつかない。 また、C区大石が塔心礎と断定できないのは、〈花村00〉のいう通りでああろう。
飛鳥寺灯篭台石〈飛鳥寺58〉
飛鳥寺中門跡〈飛鳥寺58〉
 ただ、C区大石は大きさと形状から、一般的な建物の礎石とは考えにくい。 たとえば、〈飛鳥寺58〉によると飛鳥寺の中門の礎石は大変よい保存状態で、 それを見ると直径は75~105cm程度で、上部は平坦でほぞ穴はない(図左)。 C区大石は単独で残るのみで、同じような大石が格子状に並んでいるようすは見られない。
 実は飛鳥寺にも、単独の灯篭台石が中金堂と塔を結ぶ参道の中央にある。その下部は方形、上部は円形で円形の孔を穿ち、C区大石とよく似ている。 その底辺は1.25m、孔の内径は49cm、孔の深さは24.5cmである(図右)。
 C区大石のサイズの諸元を灯篭台石と比べると、底辺が20%増し、孔は内径57%減、深さは102%増しで同じ種類のものに見え、 よってC区大石も灯篭台ということになる。
 ところが前項までに考察したように、C区大石は根石群の上に据えられていた可能性が高い。
 そこで、逆に飛鳥寺の灯篭台石も、本当は塔の心礎であったと考えてみる。 飛鳥寺には既に心礎が確認されているのだが、これは基壇面から2m以上掘り下げた地下である。 この心礎の中央に舎利を納めたと考えられるが、さらにその真上にもう一つの礎石を置いて塔の心柱を受けたことは、十分に考えられる。 〔※…実際には心柱は上からぶら下がり、礎石と接していないことが法隆寺などで確認されている。耐震工法だと言われる。〕
 なお、飛鳥寺は建久七年〔1196〕に焼失し、その後で舎利容器を心礎から取り出し、改めて石櫃に納めて埋められている。 そのとき焼け残っていた塔心礎を、参道に置いたのが「灯篭台石」となったと考えられる。
《二重礎石説の問題点》
 ただ、この飛鳥寺の二重礎石説には難点がある。法隆寺五重塔を見ると、礎石と心柱下端の周囲は中空にして風通しをよくしているからである。 飛鳥寺の地中礎石には十字型に溝が掘られていて、上からの流水を逃がすためだと考えられる。 すると、飛鳥寺塔の場合も地中の礎石の上は中空で、心柱がそこまで降りてきていたとも考えられる。この構造だとすると、上部のもう一つの礎石の存在は考えられない。
 ただ、地中礎石の深さは2mもあり、そこまで中空にするには心柱の周囲を取り囲むようにして塔の重量を支える支え棒が絶対に必要であるが、 地中礎石の写真を見る限りではそれを立てた跡は見えない。やはり地中礎石の上は土で満たされていたのであろうか…。 というわけで、容易には結論が得られそうにない。
《止由良佐岐》
 それでも飛鳥寺塔の二重礎石構造を仮定すると、C区と飛鳥寺塔跡を統一的に捉えることができる。すると、 C区大石はやはり塔心礎だということになる。 しかし、再び伽藍配置が問題になる。
 ひとつの考え方として、C区の塔は豊浦寺が建つ前に造られてすぐに壊され、その後でA区B区の豊浦寺が新しい塔とともに建てられたと考えてみたらどうだろうか。
 ここで注目されるのが、〈敏達十四年〉二月十五日「起塔於大野丘北」 三月三十日に「斫倒」される。
 〈元興寺縁起〉(e)では、 大会の日に直ちに「斫伐」されたと描かれる。
 敏達十四年〔585〕と、飛鳥寺の塔が竣工した推古四年〔596〕との差は僅か十年なので、塔心礎の様式が類似していても不思議はない。 ただ、仏舎利を納めた場所については、飛鳥寺は「刹柱礎中〔礎石の中〕、大野丘は「塔柱頭〔塔の先端部〕とする違いがある。 後者については、一般に塔の相輪の最上部である宝珠が、仏舎利を納めるところとされる。 前者については、法隆寺でも仏舎利が心礎に納められていて、どちらも根拠がある。
 C区なら、大会を開催した場所として〈元興寺縁起〉のいう「止由良佐岐〔豊浦の"先"か〕にも合致すると見てよいだろう。
 豊浦寺の塔は、豊浦寺を充実する過程でもう一度建てられたのではないだろうか。 そして、これこそが〈花村00〉が推定する位置なのかも知れない。

まとめ
 塔には、正方形の格子状の礎石が伴う(第152回【百済大寺】)から、これが検出されれば塔の基壇であることが確定する。
 しかし、C区の遺跡は格子状の部分が失われているから、塔跡であるかどうかの論議を呼ぶことになる。 C区大石を「塔心礎」とする確証がないのは当然であるが、独立的に存在し根石の上に嵌りそうなことを考えると、塔心礎でないとも断定できない。
 その判断のカギになるのが、飛鳥寺の「灯篭台石」が本当は何であるかということである。 できたらその時期を知りたい。飛鳥寺は焼失しているから、大石に微量に残った煤は得られないだろうか。 煤は堂塔の燃えカスであるから、C14法によって堂塔の建材を切り出した年代がわかるはずである。 C区大石にも焼け跡があるというから同様である。それらによって堂塔の建造時期が具体的に見えてくれば、得られるものは大きいだろう。
 さて、〈敏達十四年〉の「大野丘北塔」がどこなのか、そもそも史実かどうかも疑問であったが、C区がその塔跡だとすれば説明がつきそうに思える。 ただ、その年代が分からなければ何とも言えない。〈奈教委57〉には、C区の東西の敷石が「中世における再建以前」のもので、 1個の素弁蓮華文丸瓦片が出土し、これは複弁への過渡期のもの〔複弁は7世紀後半から〕とある程度で、 これだけではまだ建物の年代は分からない。



2021.06.06(sun) [49] 法隆寺五重塔 
 法隆寺五重塔は、現存する最古の塔建築とされている。ここではその心礎・舎利孔・心柱について知ろうとする。
 というのは、資料[49]で飛鳥寺の塔の心礎が二重礎石であった可能性に触れたが、 それを検証するには、同時代の他の塔についても調べることが必要だからである。
 法隆寺五重塔については、それがかなり解明されていることが分かったので、見出だしたことをここにまとめる。

【塔とは】
 一般に、寺院には五重塔三重塔多宝塔などが付随するが、これらはいかなる性格の建造物であろうか。
 塔の起源は、舎利〔釈迦の骨〕を納める卒塔婆〔サンスクリット語:स्तूप (Stūpa)〕とされる。 〈日本の美術〉によると、「経説〔経書が解く説〕によれば、釈迦の死後、その遺骨すなわち舎利をめぐって、 印度の八大国王はそれぞれ自国に持ち帰ろうとして」争ったが、結局舎利を八等分して持ち帰ることになり、 「それぞれ自国に塔を建てた」ものという。
 仏教が伝わった周辺国にはそれぞれ塔があり、アンコールワット(カンボジア)やパゴダ(ミャンマー)が有名である。 中国には石塔、木塔がある。
 中国の木塔には心柱しんばしらがなく、各階に上がる階段を備えた楼閣の構造であるという(〈なぜ倒れないか〉)。 一方百済の塔には心柱があり、その様式が日本に伝わったとされる。
 舎利は、相輪〔塔の屋根から突き出た部分〕の先端の宝珠または、心礎に納められる。 〈日本の美術〉によると、「奈良時代以降、舎利に二様の解釈がなされるようになり、釈迦の遺骨と伝える仏舎利は肉舎利、仏教経典は釈迦の精神を伝えるものゆえ法舎利と称され」たという。
 「肉舎利」についても、実際には宝石であった。真正の釈迦の遺骨・遺灰は多くの寺院に分けられ、当の昔に払底したからである。
 〈敏達十三年〉には、蘇我馬子たちが舎利を手に入れたときの幻想的な伝説が載る。 ここでは、釈迦の遺骨であることには触れられていないから、既に特別に神秘的な宝石として伝来していたということである。
以下、引用文献には次の略称を用いる。
〈秘宝調査〉…『法隆寺五重塔秘宝の調査』〔法隆寺国宝保存委員会;法隆寺1954〕※1
〈保存工事報告〉…『法隆寺国宝保存工事報告書 五重塔 第十三冊』〔法隆寺国宝保存工事事務所長竹島卓一;法隆寺国宝保存委員会1955〕※2
〈日本の美術〉…『日本の美術 第77号 塔』〔石田茂作編;至文堂1972〕
〈発掘概報83〉…『法隆寺発掘調査概報Ⅱ』〔法隆寺1983〕「Ⅴ付章 1.西院伽藍と若草伽藍の造営計画」(pp.91~106)〔岡田英男〕※3
〈仏舎利埋納89〉…『仏舎利埋納 飛鳥資料館図録第21冊』〔飛鳥資料館;1989〕
〈顛末〉…『月刊 文化財1990年12月号 通番317』〔第一法規出版1990〕「法隆寺五重塔秘宝調査の顛末」(pp.42~46)〔深見吉之助〕
〈なぜ倒れないか〉…『五重塔はなぜ倒れないか』〔上田篤;新潮社1996〕
〈奈文研01〉…『奈良文化財研究所紀要2001』〔奈良文化財研究所2001〕※3「法隆寺五重塔心柱の年輪年代」(pp.32~33)〔光谷拓実〕
〈法隆寺のものさし〉…『法隆寺のものさし 隠された王朝交代の謎』〔川端俊一郎;ミネルヴァ書房2004〕
〈若草伽藍07〉…『奈良文化財研究所学報76冊/法隆寺若草伽藍発掘調査報告』〔奈良文化財研究所2007〕※3
 ※1…奥付に「限定500部」とあり、愛知県図書館所蔵の同書には「第三四〇號」と記されている。 見開きに「法隆寺 氏寄贈」とあり、「愛知縣中央圖書館藏書印」朱印がある。
 ※2…「第十三冊」は、「五重塔」「五重塔 付図」の二冊セットである。奥付に「編集兼発行者:法隆寺国宝保存工事事務所長 竹島卓一」、 「昭和三十年三月二十五日発行 非売品」などとある。愛知県図書館所蔵の同書には「第228号」と通番が付されている。 戦前、戦後の「国宝保存工事報告書」全十九冊の復刻版が、文生書院から刊行されている(案内ページ)。 図面CD付きで、「セット価格412,000円」。
 ※3全国遺跡報告総覧からダウンロード可

【心柱】
《柱根の位置》
 〈日本の美術〉は、日本の塔の「心柱は地中の掘立式より次第に地上式へ移行したことと、心礎に舎利奉安施設のあるのとないのと二様」の類型があるという。 掘立柱形式については、古墳時代の宮殿や神殿は一般的に掘立柱で、伊勢神宮は復古的には掘立柱が用いたと見られる。「心礎に舎利奉安施設」がない場合は、相輪〔塔の先端部〕の宝珠に納められたと見られる。
 〈なぜ倒れないか〉は、掘立柱を「和魂」の表現と見る。記紀神代の「黄泉の国」などは「日本人の原郷」で、 宮殿には「底つ岩根に宮柱太しり〔大国主段(第60回)など〕と述べるように「地底の世界の精を保ちえない…地霊信仰」があり、 ゆえに「飛鳥から白鳳時代の半ば」まで「五重塔には、皆掘立柱」であった。 しかし、白村江の戦いで日本軍が敗れてからは「塔の文化がぞくぞくとはいってきて、国風が衰えた」、よって 「神は地上に移って」きて、礎石柱や宙に浮いた心柱になったという(p.26)。
①②③により、上から見た穴の形を推定した図。
〈五重塔顛末〉〈秘宝調査〉〈日本の美術〉
 ただし、同書は「心柱の立て方」の項(p.98)では、飛鳥・白鳳時代から「心礎を地上に据えたものがあって、早くから掘立式と地上式の両方の立て方」 があり、「掘立式では柱根が長持ちしないのでやがて廃れ、地上式に統一されていったものらしい」と述べ、やや一貫性を欠く。
 ただ心柱の柱根に上昇傾向があったことは確かで、鎌倉時代の「海住寺塔を初例」として、「初重〔=一階〕天井上に立つ例」が増え、それは初重に「本尊を祀る場合に真中に安置することができる利点がある」という。 また、日光東照宮五重塔〔江戸末期〕では「心柱が四重の繋秘肘木から…釣り下げられ」、「心柱の底面は浮いていて…ほぞが心礎の枘穴に入って揺れ止めになっている」という。
 一般に心柱は宙吊りが否かにかかわらず周囲の構造物には密着しておらず、地震のときは周囲の部分と心柱の固有振動数が異なることにより、振動を打ち消し合って免振効果を発揮したらしい。
 飛鳥時代に科学的に耐震を意図したとは考えにくいので、宗教的な意識によってこの構造を用いたことが、結果的に耐震性を高めたのかも知れない。
 さて、法隆寺五重塔に話を戻すと、て同書は「建立当初心礎が地下2.5m(基壇上から)にあって心柱は掘立になっていた」とする。 この文からは、柱根は礎石に立っていて、腐って失われた部分が空洞になったと読める。
《法隆寺五重塔の心柱》
 法隆寺五重塔の礎石と心柱の位置関係を突き詰めるために資料を探すと、いくつかの本に見つかった。 (〈顛末〉)は(〈秘宝調査〉)の南北断面である。
空洞実測図
〈保存工事報告〉(p.106)彩色は本サイトによる
側廻礎石 〔太い二本の柱が四天柱と見られる〕
「礎石は土壇築土の上に直接据えられているのみで詰石はなかった(北東隅)」
〈保存工事報告〉(第117図)
 一番整然とした図は〈日本の美術〉掲載(p.25)のものであるが、新柱の下は基壇レベルの石で塞がれているように見える。 にも拘わらず説明文には「CC三角形の口の一辺をなす。DDは他の一辺」と書いてあり、イメージが湧かない。 一方、①②の図では開口である。 「東西断面」の西側は石が三段あり、これがCCに対応しそうである。 こうして、左図の構造を解としてみると、すべての図の辻褄が合うことが分かった。
 心柱の柱根の直径は基壇面の石が柱を囲む穴より大きく、したがって心柱は基壇に立っている。 だとすれば、基壇下の空洞の意味が問題になる。
《基壇下の空洞》
 〈秘宝調査〉によると、この空洞は、大正十五年〔1926〕1~2月に発見された(p.1)。 同年4月5日に調査が行われ、同日中には現状復旧して蓋を加え粘土で封じ、「誌」〔石板に刻んだ記録〕が納められた。 昭和八・九年頃には蓋の上をコンクリートで覆ったという(p.40~41)。
 大正十五年以前にも侵入者があったかも知れないが、幸いにして舎利容器は幸いにして無事であった。 〈法隆寺のものさし〉は、心柱下の空洞は仏舎利と「地上の心柱との間はふさがないほうがよいと考えから」意図的に設けたられた空洞だとする。
 一方、〈保存工事報告〉は「先ず腐朽せる心柱付近の基壇表面築土を掘起した上、心柱中心部を残したまま周囲より腐朽部を除去し、 埋土をしながら凝灰岩の切石やその他の自然石を四周から挿入補強したものと考えられる」とする。
 そして、空洞の内部に八割方飛び出して宙に浮いていたり、既に内部に転落した石のあったことは、このように修理したと考えることによってのみ理解できるという。 心礎の「上面は上のみ切〔ママ〕程度に平滑に仕上げられて居り、ほぼ水平に据え付けられて」いることが 「その上に直接心柱を建てることを意図していたものであるのは明らかである」とする。
 右図上は同書による実測図で、最初からこれを見つけていれば諸文献の図の解釈に悩まされる必要はなかった。 右図下は、心柱周囲の四天柱とその礎石で、心柱を取り除いた後に撮影したと見られる。 写真の説明によれば基壇面の下は土だけで満たされ、詰石はないという。 したがって、舎利孔上の空洞の周囲は土である。
 基壇面の心柱の下の石は大きさも形も一定しないから、後から挿入したとする〈保存工事報告〉の見解は妥当であろう。 もし先に石を敷いて心柱を立てたのなら、石の形はもっと規則的なはずである。
 よって、創建時には心柱は舎利孔の上に直接置かれていたと見るのが妥当で、最初は空洞は存在しなかったわけである。

【五重塔の年代】
《書紀》
 書紀に「法隆寺」への言及は一か所のみである。 〈天智九年〉〔670〕
夏四月癸卯朔壬申〔三十日〕夜半之後、災法隆寺、一屋無余。
 すなわち、この年に法隆寺が焼失したとある。続けて「大雨雷震」とあるから、落雷によるものであろう。
 ただし、それより古い時期に「斑鳩寺」が出てくる。 〈推古十四年〉〔605〕七月に
天皇…、播磨国水田百町施于皇太子、因以納于斑鳩寺
 〔推古天皇は聖徳太子に播磨国水田百町を寄進し、太子は斑鳩寺に納めた〕 とある。
 太子は十三年に斑鳩宮に移ったから、寺はその付属施設であっただろう。
 現法隆寺が創建以来のものか、670年の火災の後に建て替えられたものかというのはずっと議論になっていたが、 昭和十四年〔1939〕若草伽藍の発見によって(〈若草伽藍07〉)、再建説が大勢を占めるに至った。
《心柱の年代測定》
 〈奈文研01〉によると、法隆寺五重塔は、1941年~1952年の期間の解体修理工事において、 「地中深く埋められていた心柱は、下部が大きく腐朽していたため、その基部を切断し、新材を根継ぎした。このとき、 切断した上端部から厚さ約10cmの円盤標本が作成された」。 その断面は八角形で、そのうちもっとも樹皮に近くまで残る方向の年輪を調べた結果、 「ヒノキの暦年標準パターン(前37年~838年)との照合は高いt値(11.7)で合致し、その〔最も外側の〕年輪年代は591年と確定した。」、 「さらに外側下方に3層分の年輪が残存していることを確認したので、最終的な年輪年代は591年+3層分で594年と確定した」という。
〈若草伽藍07〉p.224
〈若草伽藍07〉p.226 改
 〈若草伽藍07〉では、「年輪年代法による法隆寺西院伽藍の年代調査」としてまとめられている(pp.219~238)。 一枚の年輪の厚さは一年毎の形成層の細胞分裂の量を反映し、気象条件が一定の地域の植物の成長に系統的な影響を及ぼすので、その地域の木々の年輪パターンに共通性が現れる。 一番外側の年輪が伐採された年に対応するから、確実な記録のある年の建築物に用いられた木材を標準として用いることによって伐採した年が特定できる。 これが年輪年代法である。
 図右は、心柱のソフトX線撮影写真(50mV、2mA、照射時間60秒、フィルムX線焦点間距離1.2m)、 図左が暦年標準パターンと心柱を重ねたものである。 標準パターンとしては「宮町遺跡出土の柱根の年輪年代の確定にその威力を発揮したヒノキの暦年標準パターン(A)(紀元前37年~838年) と別のヒノキの暦年標準パターン(B)(512年~1322年)とを用いた」という。
〈若草伽藍07〉p.234改
〈若草伽藍07〉p.229
心柱594年
二重北西の隅行雲肘木673年
三重の垂木(南面 東から三十)663年
裳階の腰長押(東面内側)650年
心柱の腐朽破損(1)
底部の腐朽〈保存工事報告〉第46図
 〈奈文研01〉は、「1941年の若草伽藍の発掘や、堂塔の解体修理、その後の防災工事に伴う発掘調査によって、 現伽藍は再建伽藍であることがほぼ通説となっている」が、「今回の年輪年代は約100年も古いことが判り、考古学、建築史、美術史、文献史学などの関連分野に与える影響は大きい」 と述べ、大きな問題を投げかけている。
 合理的な解釈としては、五重塔の再建時に少なくとも心柱については、再利用したと考えるのが妥当であろう。 それでは、心柱以外の部分はどうか。
 〈若草伽藍07〉は塔の他の部分の年数についての結果も併せて示す(右表)。 これを見ると、再利用は心柱のみであろう。それ以外の部分には670年前後に伐採した木材が使われていて、書紀の「670年焼失」との整合性がある。 なお、金堂は650~669年、中門は678~699年となっている。
《南朝尺》
 〈法隆寺のものさし〉は、この心柱の年代を有力な根拠として、法隆寺移築説および九州独立王朝説を展開する。
 同書によると、法隆寺の金堂・五重塔の柱間隔が「1材〔材は助数詞〕の整数倍となっていて、 1材は、南朝尺の1尺1寸に正確に一致するという(p.38)。
 諸資料を見ると、南朝尺は24.5cmであることが確定していて、1尺1寸は26.95cmとなる。 南朝劉宋の標準尺が245mmで、これがその後も南朝が滅ぶまで標準尺として維持された。 「南朝」とは、420年~589年に中国南半部に順番に存在した、の四王朝の総称である。 『隋書』巻十六志第十一「律暦上」に「此宋代人間所用尺。伝-入斉、梁、陳〔この宋代に一般に用いられた尺は、斉・梁・陳に伝わった〕、 祖孝孫云:「陳後。廃周玉尺律。便用此鉄尺律。以一尺二寸即為市尺〔〔隋が〕陳を平定したのち、周の玉尺律を廃し、すなわちこの鉄尺律を用い、一尺二寸を以て一般の尺とする〕とある。
 〈法隆寺のものさし〉が、法隆寺の造営にこの南朝尺が使われていたことを実証したのは一つの成果である。
 陳の存続期間は557年~589年で、五重塔心柱の594年に近い。 そこで〈法隆寺のものさし〉は、九州に大宰府を中心とした独立王朝が存在し、南朝とのつながりが深く、 その尺を用いて建てた大寺「X寺」が存在し、法隆寺はそれを移築したものだと提唱する。
 この説にはいろいろ突っ込みどころがある。まず「大宰府」は宰(みこともち)の府(つかさ)で、中央政権が七道ごとに設けたものである。 そのうち西海道のものだけが残った。つまりこの名称は筑紫地域の倭政権への服属を前提にしている。 大宰府の前身は、「那津之口官家」と見られる(宣下元年)。 岩井の乱を平定して以後、筑前・豊前に屯倉を設置して中央集権を強めていった流れのなかに那津之口官家、そして大宰府の設置が位置付けられるのは史実として動かしようがない。
 次に、崇峻朝から推古朝前半の大寺院草創期においては、寺工てらたくみを百済から招いて建造に当らせている(崇峻元年是歳)。 法隆寺再建〔670年以後〕の頃も、まだ百済出身の寺工の役割は大きかったであろう。 仮に陳出身の寺工がいたとしても、それは百済経由で渡来したものであろう。
 さらに、心柱以外の建材は670年前後に伐採されたことは科学的に信頼できるから、「隋滅亡〔589年〕以前に作られた大寺の移築」は成り立たない。 総じて、筑紫の大寺移築説は荒唐無稽というべきであろう。
(〈秘宝調査〉図版第三 梅原末治作図)  五重塔心礎穴内の舎利一具納置図  (〈顛末〉p.45 深見吉之助 画)
舎利一具
〈秘宝調査〉巻首図版第1
(上)透彫銀容器(下)透彫金容器・銀栓・波瑠瓶
〈秘宝調査〉図版第23
法隆寺五重塔出土舎利容器(模造) (〈仏舎利埋納〉p.3)
 因みに百済と陳との外交関係を見ると、『三国史記-百済本紀』の威徳王十四~三十三年〔567~586〕に「使入陳朝貢」が4回ある。 この期間、隋への朝貢は2回である。ちなみに、同三十六年〔589〕に「隋平〔隋は陳を平定〕し、するとすかさず隋に「遣使奉表。賀〔陳を平定したことを祝賀〕とあり、変わり身は早い。
 よって、造営を指揮した百済の寺工の用いた単位が、陳由来の可能性は否定できない。
 一方、〈発掘概報83〉は金堂・五重塔は「高麗尺7寸5分がその単位となって計画されている」と述べる。 その他に、飛鳥寺の伽藍配置、橘寺の金堂・塔中心間の距離などに75尺を見出し、若草伽藍の北柵列を見ると75尺が基準寸法ではないかと述べる。 高麗尺は、正倉院尺〔29.9cm程度〕の1.2尺にあたると見られ〔35.9cm〕、その7寸5分〔26.93cm〕である。
 結局、同じ単位長26.9cmは、「1.1南朝尺」とも「0.75高麗尺」とも言い得る。 この「1.1」が「0.75」に比べて特に妥当性があるとも思えないから、法隆寺=南朝尺基準説、 法隆寺=高麗尺基準説のどちらも大した意味はない。 かといって、「0.75高麗尺」を用いる理由も不明である。

【心礎】
《舎利孔》
 〈秘宝調査〉(p.13)は、次のように述べる。
 「中心の礎石の上面にこのように舎利納置の穴を穿つことはよく見受ける方式で、 従来知られたその類に就いては今一々実例等挙げるまでもなかろう。 従って、それは一般の方式に依ったものと解される。ただ空洞下に深く位置して、目立った造り出しや、 柱受け等の加工のない心礎に穿たれた同様のものとしては、その後明らかになった近接した法輪寺の心礎のあることを此の場合つけ加えて置こう」。
 「納置穴〔舎利孔〕の形状については、概ね円錐形だが「その形は整った均整なものではなくて、底部に若干の突出した所や、 凹んだ所などが見受けられて、可なり凹んで居り、内面の彫琢またさまで入念でない。」、 「上部の縁辺に蓋を受ける為のやゝ広い段を作っていて」上辺の口径=九寸二分〔27.9cm〕、段の深さ=一寸三分〔3.94cm〕、段の下端の口径=七寸五分〔22.8cm〕とする。
 舎利穴の内部については、多くの知られた例ではよく「彫琢」され、舎利容器底面と合うように作られているが、それらとは「趣を異としている〔=きちっと嵌るようになっていない〕。〈引用終わり〉
 心礎に「造り出しや、柱受けの加工のない」と述べている点は、飛鳥寺の心礎と同じである。 ただ、若草伽藍の塔礎石には「柱受け加工」があり舎利孔がない〔資料[51]で述べる〕。 言われるように若草伽藍が焼失前の法隆寺であったとすると、問題を投げかける。
《舎利容器一具》
 舎利孔の中心は心柱の中心から「北に二寸四五分〔7.3~7.6cm〕片寄った位置に」あったという。 その位置関係は、図左のようになっている。図右は心柱の記図である。
 〈顛末〉は、「舎利容器一具は、…径約6寸〔18.27cm〕のサワリ大碗の中に径約4寸〔12.1cm〕の合子、 径3寸〔9.1cm〕の白道鏡及び多数の真珠・瑠璃玉などと共に納められていて、 合子を開くと高さ3寸2分〔9.7cm〕強の卵形透彫銀器があり、これを縦に二つに分割すると同じ形の金の卵形容器があり、 さらにその中に銀栓の緑色美しい瑠璃瓶が安置してあった。 そして合子の内外に数百の真珠・瑠璃珠・金片・香木が入れてあり、なぜか礎石の穴に八部方水が溜っていたため、 金銀器とともに、燦然として1200年前の荘厳を保っていた」と述べる。
 なお、鏡は「禽獣葡萄鏡」と呼ばれ、〈秘宝調査〉(pp.25~26)によると陜西せんせい〔古代の長安一帯〕出土の「五獣五鵲葡萄鏡」と同じ鋳型で作られた、舶載品であるという。
(たつみ)=南東 (うしとら)=北東 (いぬい)=北西 (ひつじさる)=南西
〈保存工事報告〉第93図
舎利孔()〈秘宝調査〉p.14
心柱()〈保存工事報告〉第93図
 調査を終えた舎利容器一具は、昭和三十四年〔1959〕十月二十八日に舎利穴に再納して封印された。 舎利容器一具は硝子外容器に入れて舎利穴に納め、その上に大正十五年の銘文石板と昭和の銘文硝子板を重ねて置き、 円柱の下部を刳り貫いた石蓋を被せ、モルタル・防水モルタルで封じ、上方の空洞は4尺〔1.21m〕まで粘土で埋められた。(p.12,pp.45~47) これから当分の間は、開けられることはないだろう。
 なお、舎利容器一具を舎利穴に納める前に模造品が作られ、東京国立博物館に「法隆寺塔心礎納置品 模造」として所蔵されている。
 
【考察】
《舎利孔の雑な仕事》
 大変気になるのが、舎利孔内部の壁の仕事の粗さである。内部には凹凸を残し、内面を舎利容器の外形に合わせることもない。
 時代故の未熟さとの考えもあるかも知れないが、礎石の上面は水平に仕上げられ、舎利孔の入口には正確な円孔を刻んでいる。 さらに、飛鳥寺の舎利孔は底まで直方体で精緻に仕上げられていることを考えあわせれば、決して石加工技術が未熟な時代ではない。 そこに見えるのは、舎利容器製作者と石工との間のコミュニケーションの齟齬である。 また、舎利孔の外側には枘穴の窪みはない。 しかし、数々の今に残る心礎を見ると、若草伽藍を初めとして殆どに枘穴が彫り込まれている(逆に石側が枘になっているものもある)〔資料[51]で見る〕
 思うに、当初の石刻は舎利孔の蓋を置いた段までの浅いもので、実は心柱を差し込むほぞ穴ではなかっただろうか。 そして、心柱には枘の造り出しがあったのではないだろうか。 穴の口径=9.2寸、心柱の径は八角形の頂点間で2.7尺、向かい合う辺の間では〔2.7cos(360°/8/2)=〕2.5尺で、 枘は幾分細目であるが、不自然というほどではない。心柱の中心と舎利孔の中心がややずれているが、枘穴に使うことをやめて蓋をした後の作業なら、多少ずれることもあろう。
心柱の腐朽破損(2)
三重井桁附近の落雷による焼損〈保存工事報告〉第47図。「心柱艮〔北東〕」(p.68)
 当初の予定では、舎利は先端の宝珠または心礎の更に下に納める予定だったのが、途中で変更になったのではないだろうか。 急なことで専門の石工の手配が間に合わず、未熟な者の手で不器用に穿たれたように感じられるのである。
《心柱だけが古い》
 前術したように(《心柱の年代測定》の項)、五重塔の心柱は594年のものの再利用で、他の部分は670年の火災前後に伐採した木材を用いたと見た。 心柱は他の寺のものだったかも知れないが、もし創建塔の心柱が使用可能な状態で残っていれば再び使われたであろう。
 〈推古紀九年〔601〕春二月。皇太子初興宮室于斑鳩」 即ち、斑鳩宮の建造開始がこの年とされる。この頃、斑鳩寺の建造も始まったと考えてよいだろう。その塔の心柱の伐採年が594年だったことは十分あり得ると思われる。
 〈保存工事報告〉に、心柱が三重付近の「落雷による焼損」の写真がある。但し、これは「建長四年〔1252〕の落雷によるもので、当時辛うじて消〔し〕止めたという記録がある」という(p.63)。 670年の火災も落雷によるかも知れないが、「法隆寺」の次に「大雨」とあるから、比較的軽度のうちに消えたかも知れない。 さすがに大部分は使い物にならなかったが、心柱だけは比較的無事だったということも、可能性としては考えられる。 もしそういうことなら心柱の神威は絶大となり、間違いなく再利用されたであろう。
 なお、若草伽藍が斑鳩寺(創建法隆寺)であるかどうかという問題については、資料[51]で論ずる予定である。

まとめ
 心柱の下の空洞の図はいくつかの文書に見えたが、それが創建時から存在したか否かについての納得できる答は、結局〈保存工事報告〉の精読によって初めて得られた。
 また舎利孔と舎利についての資料は、現在では〈秘宝調査〉のみである。「舎利容器一具」は調査後に舎利孔に納められ、完全密封されたからである。
 〈保存工事報告〉(昭和三十年)〔1955〕、〈秘宝調査〉(昭和二十九年)〔1954〕ともに新字体施行(昭和二十一年)〔1946〕後であるが、 旧字体を用いている。古文書の時代からの歴史・文化の継続性を重視した故であろう。
 これらは既に歴史的文書であるが、これによって初めて納得できることも多く、できる限り一次資料に当ることの大切さを改めて感じた。