| 古事記をそのまま読む―資料6 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2021.01.09(sat) [44] 地図上で正確な実距離を求める ▼▲ |
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もし、二点それぞれの緯度が分かっていれば、それぞれの緯線の間の実距離を計算し、地図に表示された長さ〔画像データの場合はピクセル数〕との比率を得ることができる。 ただ、その距離を緯度から正確に求めるには、やや複雑な数学的処理を必要とする。 というのは、地球は球体ではないからである。しかし、楕円体モデルを用いることによりかなり正確な値に近づけることができる。 【同一子午線上の二点の距離】 楕円体モデルにおいては、子午線は楕円となる。同一の子午線上で二点の実距離(右図L)は、次の方法によって求めることができる。
手元の理科年表は古いが、この手の数値はあまり変化しないであろう。近いうちに最新版を確認する。 ・赤道半径 a=(6378.136±0.001)km ・扁平率f 1/f=(298257±1)×10-3 ・子午線長 10001.96km (理科年表1999年版より)
楕円の潰れ具合を示す表すには、扁平率と離心率がある。理科年表の扁平率から離心率を求める**)。 離心率k: k=√f(2-f)=0.08181922 【計算例】
《画像上の寸法》 子午線上二点間のピクセル数を求めるには、地理院地図を"PrtScr"ボタンなどでクリップボードに入れ、例えばペイントソフトを用いて[キャンパス右クリック]/[張り付け]を実行すると、画像の編集に入る。 右図は、①Aに+マークを合わせて緯度・経度を記録してスクリーンショット一回目。②Bに+マークを合わせて緯度・経度を記録してスクリーンショット二回目。 ③二枚の画像を合成して作成した。 そしてAB二点を頂点とする長方形を「選択」すると、縦横のピクセル数が表示される。 右図の例では、縦方向の238ピクセルが得られた。 この場合、隣り合うピクセル間の距離は1.85275…km÷238px=約7.785m/pxということになる。 【参考事項】 《海里》 この例では一分の距離は約1.8533kmとなる。もともとはこれが「海里」(nortical mile)であった。 ただ、このままでは緯度によって値が変わるので、正式には1852mジャストに定められた。 これは、地球を子午線10000kmの球体と仮定し、そのときの一分の距離10000km÷90÷60=1.85185…kmを丸めた値である。 かつてイギリスにおいては、一海里=1853mとされたこともあったという。 《子午線》 子午線は、十二支によって方角を表すときの、真北=子(ね)、真南=午(うま)を用いた用語。 まとめ 仮に子午線10000kmの球体モデルで計算すると、AB間の緯度差は0.016662度だから1.85133mとなり、楕円体モデル1.85276mからのずれは0.077%程度である。 これは、例えば条里五里分=5×6町=30町=3270mでは2.5m程度の差となる。もし一町109mに50cm程度の誤差があれば30町では10数mとなり、それに比べれば誤差は僅かである。 しかしたとえこの程度の誤差であったとしても、何かの境界を考える場合などに重要な意味を持つことがあるかもしれない。 |
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2021.01.14(thu) [45] 広隆寺縁起 ▼▲ |
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〈推古天皇紀十一年〉には、「蜂岡寺」創建についての話が載る。
蜂岡寺は後には広隆寺と呼ばれ、『広隆寺縁起』が 『大日本仏教全書』〔仏書刊行会編纂;1915〕119巻に収められている。 ここでその全文を精読する。 【広隆寺縁起全文】
それでは、施された寺領は現在どうなっているかを、最後のところで次のように三分して述べている。 ①既に開墾済みの部分。この部分については図面を添える。 ②未だ開墾されず、まだ荒れ地のまま。 ③平安京建都のために接収された部分。この部分は、未だに替地を賜っていない。 ③により、広隆寺が移転したのは、平安京遷都〔794年〕以前であったことがわかる。 《大秦公宿祢永道》 前述したように、秦氏が広隆寺のオーナーであったのは確実である。 「永道」は、おそらく儀礼上奉られた戒名と思われ、だとすれば音読みであろう。 太宰府が職員令では「大宰府」(資料11)、延喜式では「太宰府」(〈宣化元年〉《鴻臚館》)と表記されるように、 もともと「大-」と「太-」との区別はあまりなかった。「大秦」も「太秦」と同じであろう。 「太秦」は、秦の宗家に「太」をつけたものである。ウヅマサは、本貫のもともとの地名を訓みにあてたものであろう。 献上品の絹を朝廷に「うつもりまさ」に積み上げたからウツマサと命名されたというのは、後付けの伝説と見られる(第152回)。 《法頭朝屋宿祢明吉》 「法頭」(ほふづ)は、〈推古紀〉、〈孝徳紀〉に見える。〈孝徳紀〉大化元年八月に「今、拝二寺司等与寺主一。巡二-行諸寺一、験二僧尼、奴婢、田畝之実一、而尽顕奏。」 とあり、諸寺を巡行して監察・報告する役職と見られる。 僧ではないから、名前には氏姓がつく。ただ、ここに名を連ねるということは僧の世界にかなり入り込んでいるから、「明吉」は法名かも知れない。 《朝屋宿祢》 〈姓氏家系大辞典〉に「朝屋」という姓氏は載っていない。 『日本歴史地名大系』―「石川県」〔平凡社;1991〕で探すと「朝屋」が石川郡にあり、 「鎌倉期までに」「朝屋庄(現美川町)…などが確認され」るという。 美川町は石川県白山市の南西部、日本海沿いの町である。 また同書の多太神社の項に、 「「平家物語」巻七によれば、寿永二年〔1183〕木曽義仲が 「多田の八幡」へ「てうやの庄」(蝶屋庄または朝屋庄)を寄進した」とある。 確認すると、平家物語七巻「篠原合戦」に
このように、平安時代には越前国に「朝屋」とも表記し得る「てふや」が存在したことが確認できる。 この朝屋という氏族が姓「宿祢」を賜って、存在していたことになる。 【葛野郡の条里】 《九条・五条》 『広隆寺縁起』は移転前の所在地を「九条河原里」及び「同条荒見社里」、移転後は「五条荒蒔里」としている。 そのうち、五条荒蒔里は現在の広隆寺がある場所と考えて間違いないだろう。 「九条荒見社里」は現在の衣笠荒見町の辺りと思われ、その近くに平野神社〔京都府京都市北区平野宮本町1〕がある。 平野神社は式内社で、延喜式-神名帳に{山城国/葛野郡/平野祭神四者/並名神大。月次新嘗}。 後述するように、「九条荒見西河里廿四坪」が平野神社の社地に充てられた記録があり、 その東限は「荒見河」とあるので、荒見川は現在の天神川のことである。 そして、平野神社の南の北野白梅町の「北野廃寺」を移転前の広隆寺と見る説がある。 《北野廃寺説》 論文「北野廃寺と広隆寺」〔連続講座『京都の飛鳥・白鳳寺院』第3回;鈴木久史〕によれば、 「史料にある荒見とは紙屋川のこと指しており」、 「紙屋川の西側に位置する平野神社〔中略〕の南側に位置する北野上白梅町付近には、飛鳥時代の瓦が出土する北野廃寺があり」 ことにより、「北野廃寺が広隆寺の前身寺院である意見が強い」という。 また、蜂岡寺という名前は「いくつもの丘があったことに由来するが」、 平安時代以降は「野寺」と呼ばれており、「「丘」を想像させる蜂岡の由来と一致しない」、 また「現広隆寺が北野廃寺から移転したとするにも関わらず、北野廃寺と同笵瓦が出土していないこと、 移転したはずの北野廃寺が中世まで寺院として、機能を維持していること」と述べる。 このように、同論文は北野廃寺を移転前の広隆寺と見ることには懐疑的である。 北野廃寺は、1936年に発見され、1958年の調査で「飛鳥時代の十葉素弁蓮華文軒丸瓦を含む多量の遺物が発見され」たという。 また1974~5年の調査により、「「鵤室」(いかるがむろ)と墨書された平安時代前期の施釉陶器が四点発見され、この寺に聖徳太子信仰にかかわる建物が存在した」ことが確認され、 ている。さらに1979年に「「野寺」と墨書した土器が発掘された」という。 〔『歴史地名大系』―京都市;1981〕。 よって、北野廃寺は飛鳥時代には存在しており、聖徳太子が創建に関わった可能性もある。 《荒見西河里廿四坪》 『平安京―京都』には、「九条の荒見西河里」とあるが、これは『広隆寺縁起』の「河原里」・「荒見社里」とはやや表記が異なる。 この呼び名は、『類聚三代格』巻第一にある。 『類聚三代格』は11世紀頃、法令(弘仁格・貞観格・延喜格)を分野別に編集した書である。
「四至」は、〈汉典〉 [the four boundaries of a piece of land]〔土地の一区画の四方の境界〕。
《条里プラン》 同書には、 葛野郡の「条里プラン」が示されている。 その条里(図左)を図右の地図上の全く同じ位置に写し、赤枠で示した。 一町は一般に109mとされるが、その5条から9条までの距離を資料[44]の方法によって調べると4.686kmで、実際には一町=111.6mで格子が引かれている。 条里の基準値としての一町の実際の長さを知るためには、明瞭な条里の実例を調べる必要がある。 ●滋賀県守山市…条里が広範に見られる滋賀県守山市笠原町付近について、資料[44]の方法で調べたところ、110.5~110.9mで、109mより長い。 ●大和平野…一方、大和平野においては、郡山市中城町付近で108.0~108.4m、田原本町唐古・鍵遺跡付近で108.0~108.8mであった。これは、正倉院尺が平均30.1cm(第116回)であることに合致する点が興味深い〔1町=36尺〕。 それでは、山城国葛野郡の条里はどうか。ところが平安京内の条里は条坊で上書きされて見えなくなっている。 平安京の外も市街地が多く、格子状の道の地域もあるが条里のサイズとは一致しない。 このように京都盆地において、典型的な条里はなかなか見えてこない。 条里制の成立が大和国と同時代と見れば、一町は大和平野と同じサイズかも知れないので、仮に108.4mとしてみる。 すると、5条の西端から9条の西端までの距離は『条里と村落』の図より77mほど縮み*)、「二十四坪」の位置は荒見川から100mほど離れることになる。 〔*…(112.6m-108.4m)×6×4=76.8m〕 「九条河原里」の坪割を見ると、川は二十三里・二十四里のどこかを流れていたように思われるが、具体的な流路は分からない。
《条のスライス方向》 ただ、条は、通常東西ラインでスライスされている。大和国はすべて東西方向で、 山城国北部は『平安京―京都』の図に示されているが、愛宕郡、紀伊郡、乙訓郡はともに東西ラインである。 その中で、唯一葛野郡のみが南北ラインでスライスされている。 よって、これにはもう少し確実な根拠が欲しいところである。 そこで注目されるのは、『条里と村落』で「この〔条里プランの〕復元は広隆寺資材帳にみえる五條市川里の小字地名的な名称である「松本田・荒木田・川所田」 が小字地名「松本町・荒木町・川所町」とも一致することにより傍証される」と述べているところである。 確認のために『広隆寺資材校替実録帳』〔『大日本仏教全書』(119巻)仏書刊行会編纂;1915〕を見ると、 「水陸田章」のところに所有田が里別にまとめられている。その順番は、「四条郊田里」、「同条殖槐里」、「五条荒蒔里」、「同条立屋里」、「同条市川里」…となっている。 その市川里の中に「松本田」、「荒木田」、「川所田」が含まれる。 現代地名としては、京都市西京区に太秦松本町、太秦荒木町、太秦川所町があり、 その位置は広隆寺の南方である(右図)。 つまり「五条」に属する里は「荒蒔里→立屋里→市川里」の順に書かれ、その市川里に属する小字が荒蒔里より南にあるから、葛野郡の「条」は南北に長いといえる。 《物的痕跡》 『条里と村落』によると、山城国でも「条里プランによる土地表示も…中世に至るまで長く使用された」という。 ただ、物質的な痕跡としては大和国のように明瞭ではなく、どちらかというと文書記録から概念的に求めた配置のようである。 条里のサイズは近江国・大和国・播磨国ではかなり定量的に見出され、越前国・讃岐国・肥前国もそれに準ずる。 条里の残存については、〈安閑天皇二年五月〉の二十六屯倉においてかなり多くの具体例を見た。 しかし、山城国では定性的な推定に留まる。 前述したように、条里が明瞭な大和国と近江国を比べても「一町」の実寸に若干の相違があるので、山城国では細かいところまでは値が定まらないことになる。 葛野郡でもひとつの里の寸法の推定には一定の誤差を考えなければならないのだが、それでも一町108~112mの範囲であれば荒蒔里が五条、荒見西河里が九条から外れることはないと見られる。 《条里の成立時期》 前述したように、広隆寺の移転は平安遷都以前と見られる。つまり、その時点において葛野郡の条里は存在していたわけである。 葛野郡の条里が定まった時期について、 『条里と村落』は「久世郡の条里プランは」、「天平十五年〔743〕の弘福寺田数帳に見られるように」、 「この時点までに一応の完成をみていたと考えられる。同じ山城国の葛野郡の場合も、これに近い時期を考えて大過ないだろう」と述べる(p.216)。 まとめ 北野廃寺は飛鳥時代から平安前期まで存在したことが確認できるという。 だから論文「北野廃寺と広隆寺」(前述)のように、移転前の広隆寺と見ることに難色を示す向きもあるが、 平城遷都のときに「移転」した諸寺においては、移転前の寺も結構残っている。 だから、広隆寺が「移転」した後も引き続き寺が存続し、新たに伽藍が建つことはあり得ると思われる。 さて、移転後の蜂岡寺=広隆寺は、秦氏が氏寺として丸抱えにした。 これは、署名者の筆頭が「檀越大秦公宿祢」であることからも明らかである。 太秦は奈良時代までは政治の中枢地から離れた辺境であって、そこに在地の勢力として秦氏が存在したわけである。 飛鳥時代にここに寺が建ったのは、かなり先進的であったと考えられる。 しかし、秦氏の宗家がそれまで荒見地域に住んでいて、蜂岡寺と一緒に移転したことは考えにくい。 『新撰姓氏録』を見れば、秦氏宗家の本貫は始祖伝説の応神天皇の頃からウツマサであったとするのが自然であろう (第152回)。 蘇我馬子や厩戸豊聡耳太子〔聖徳太子〕による国家の仏教化の波に乗って秦氏も仏教に帰依したと見られる。 そのために僧侶組織を丸ごと荒見社里・河原里にあった寺院から勧請して、太秦に蜂岡寺を創建したことが、「遷二五條荒蒔里一」と表現されたのではないかと思うのである。 2021.01.22(fri) [46] 太陰太陽暦から西暦への変換 ▼▲
【日本書紀の暦からグレゴリオ暦へ】
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四年に一度の閏年を組み込んだユリウス暦は紀元前46年に成立し、その後暦と季節とのずれが顕著になったので、1582年に改定してグレゴリオ暦が成立した。 中国文化圏では基本的に太陰太陽暦が用いられ、日本書紀の暦もその例に漏れない(資料[C])。 書紀のいくつかの事象の日付をユリウス暦に直した例をしばしば見る。ここでは、その変換の基本を見る。
2021年元日の干支は己酉である。まずここから遡って、西暦元年の元日の干支を求めてみよう。 現在一般的に使われるグレゴリオ暦においては、4で割り切れる年は基本的に閏年だが、100で割り切れかつ400で割り切れない年は平年となる。 365日を60で割ると、「365÷60=6…5」だから、干支は平年には5日遡る。 閏年の場合は「366÷60=6…6」なので、6日遡る。 なお、"÷"は以後すべて整数除算〔商は整数とし、割り切れない部分は余りとする〕を意味するものとする。 よって西暦元年~2020年の間に閏年が何回あるかを求めればよいわけである。 この期間の閏年の回数は、 「4で割り切れる年の数-100で割り切れる年の数+400で割り切れる年の数」だから、 「2020÷4-(2020÷100)×4+(2020÷400)=490」。 すなわちこの期間に遡る干支日は、 「2020×5+490=10590。10590÷60=176…30」。 すなわち元年元日の干支は2001年元日から30日繰り上がる。 干支は60年で一巡するので、{1,2,3,…,60}、または{0,1,2,…,59}の整数のセットで表すことができる。 甲子=0としたとき、己酉=45で、そこから30日遡ると15=己卯である。 本サイトでは、これまでは甲子=1の系列を用いていたが、加減算の対象とする場合は甲子=0を起点とする。この方が「aからb日後=(a+b)mod 60」〔mod は剰余〕が使えるから計算が楽になる。 《一般的な年の初日の干支》 この考え方により、一般的な年の元日の干支を求めることができる。 ここで干支をE(=0~59)とする。Gを任意のグレゴリオ暦の年〔G≧1※)〕、 グレゴリオ暦元年元日の干支をEg0とすると、1~G年の期間にある閏年の回数uおよびG年元旦の干支Egは、 u=(G-1)÷4-(G-1)÷100+(G-1)÷400 Eg=((G-1)×5+u+Eg0)mod 60 となる。前項により、Eg0=15である。 エクセルを用いた例が、右図である。ここでは見やすくするために、計算を細分化して示している。 ※)…紀元前の場合は、"(4n-1)年B.C."〔n≧0〕などとなるが、ここでは除外する。 《西暦年月日の干支》 一例として〈推古天皇紀〉三十六年三月〔丁未朔〕戊申〔二日に〕我が国最古とされる日食の記事がある。 推古三十六年は戊子年で(参考資料[H])、これが西暦628年であることに疑問の余地はない。 グレゴリオ暦628年元日の干支は乙未(1)。2月1日はその31日後だから丙申(32)。 この年は閏年だから3月1日はその29日後で、乙丑(1)。そして4月1日は丙申(32)。よって〈推古〉三月二日戊申(44)は、グレゴリオ暦の628年4月13日戊申(44)にあたる。 しかし、この日は一般に西暦4月10日といわれている。それは、ユリウス暦によるからである。 【ユリウス暦】 《ユリウス暦への変換》
ユリウス暦についても任意の年の元日の干支を、同様に求めてみる。 ユリウス暦においては、4の倍数年は例外なく閏年とする。 グレゴリオ暦との関係については、ユリウス暦の1582年10月5日をグレゴリオ暦の10月15日と定めたという。 この年はどちらも平年だから、ユリウス暦1582年1月1日はグレゴリオ暦の1月11日となる。 グレゴリオ暦1582年元日の干支は丁亥(23)だから、同11日=ユリウス暦1月1日は丁酉(33)。 Jを任意のユリウス年〔J≧1〕、ユリウス暦元年元日の干支をEj0とすると、1~J年の期間にある閏年の回数u、J年の干支Ejは、 u=(F-1)÷4 Ej=((F-1)×5+u+Ej0)mod 60 1582年のEj=33だから、Ej0=13となる。 前項〈推古〉三月二日戊申(44)の場合は、628年は、1月1日戊辰(4)、2月1日己亥(35)、3月1日戊辰(4)、4月1日己亥(35)。 よって、この日はユリウス暦628年4月10日戊申(44)となり、一般に言われる日付と一致する。 まとめ 実際には、hosi.orgというまことによくできたサイトがあり、 古今東西の暦を相互に変換することができる。このようなブラックボックスを用いることは、有益である。 ただ、今回エクセルを使って試したように、 定義から手作りで演繹して結果を導く過程は、拙いものではあるが納得感がある。この試みの結果は、紹介したサイトとも合致した。 さて、わが国で初めて日食が記載されたとされる〈推古〉戊子年三月七日を、多くのサイトでユリウス暦の4月10日に直して紹介されているが、これには疑問がある。 この変換自体は正しいのだが、ユリウス暦自体が歴史的なもので、結局ある古い暦を、もう一つの古い暦に置き換えるに過ぎないからである。 日食は天文学の事象であるから、統一的な時間軸で捉えようとするならグレゴリオ暦を用いるべきである。 すると〈推古〉戊子年三月七日は、628年4月13日となる。 2021.03.11(thu) [47] 日食の予測について ▼▲
【過去と未来の皆既日食帯・金環帯の想定位置】
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《サロス周期》
そのサロス周期の小数点以下の部分は経度の移動として表現され、その大きさは360度×0.3212=115.6度ということになる。 つまり、ある日にP地点で皆既日食が観測されたとすると、6585日後にも皆既日食が観測されるが、それはP点から基本的に115.6度西に行った地点である。 右の図は、サロス周期によって対応する2回の日食、2002年12月4日と2020月12月14日の皆既日食帯を示したものである。 実際には後述するようにサロメ周期を繰り返すうちに、皆既日食帯(または金環食帯)は北または南方向にも少しずつ移動していくが、いずれにしても天体の力学的運動なので、基本的に予測可能である。 《計算上の位置と実測位置との不一致》 ところが古い時代の日食の記録では、サロス周期などで予測したA点で皆既日食が観測されるはずの日時に、 実際にはA点と離れた点皆既日食が観測されている(B点とする)。
位置Aは、自転速度が昔も今と同じだったときの位置である。 しかし、過去の自転速度が現在より早ければ、A点はこれよりも西向きにさかのぼった位置に移る。 1日あたりのずれはごくわずかだが、それが長い年月に積み重なって、図の角θとなる。 その結果、自転速度が不変だと仮定して求めた地点Aのところに、 実際にはB点に来ている(図Ⅱ)。 θは経度の差だが、S=239.34θの関係によって秒数に換算することができる。 〔60秒×60(分)×24(時間)÷360.99度〕 このSが、ウェブサイト「中国・日本古代日食によるΔTの検証(推古天皇36年の日蝕は皆既か?)」 におけるΔTだと理解される。 同サイトでは、日本と中国の古記録から回帰的にΔTを求めたもので、推古紀の628年の日蝕においてはΔT=4457秒と推定されている。 《1日の長さの平均的な減少ペース》 1日の長さは略してLOD〔length of day〕と呼ばれる。 前項のΔT=4457秒は、628年から現在までの毎日のLODの変化の累積値である。それでは、この累積値を生み出した1日の長さの変化の割合はどれくらいであろうか。
まず、現代の基準日を設定する。 現在の1秒の定義は、1967年に定められた。
自転速度の実測により、この定義による86400.000秒にほぼ等しい年は、最近では2004年なので、 これを基準日とする。 すると、
平均すると、LODは100年あたり0.0177367秒×(100/1376)=1.289ミリ秒増加したことになる。 一般的には「過去数世紀では、100年あたり約1.4~1.7ミリ秒増加している」(en.wikipedia.org "Leap second")というから、 大体同じようなペースで増加し続けているといえよう。 ただし、最近の短い期間を見ると、1972年の+3msをピークにして逆にLODは減少する傾向にある。 恐らく、一時的であろう 《サロス周期の意味》 サロス周期についてもう少し詳しく見てみよう。
試しに、1967年11月12日の日食の54年1か月後を見る。皆既日食帯を360°-115.6°×3=13.2°西にずらした位置を記入した。 すると、2020年12月4日に実際に起こった日食は、それよりもさらに西北西に移動した位置になっている。 つまり、サロス周期の端数部分による東西方向の偏差に限らず、その定義自体を原因とする変位が生じていることになる。 そもそもサロス周期とは、223朔望月=6585.3212日と、19食年=6585.782日が極めて近いことによるものである。 なお、「食年」とは、黄道(太陽の通り道)と白道(月の通り道)の交点の一方を太陽が通り、同じ点を次に通るまでの期間で、1食年=346.62日である。 黄道・白道の交点を、太陽と月が接近して通るときが日食となる。〔二つある公転の一方に太陽、他方に月があるときが月食である〕。 ほとんど同じ通り方が6585.3212日後に現れ、 そのとき再び日食となり、これがサロス周期である。 しかし、見てわかるように223朔望月と19食年の間には0.46日の差があり、結局それが日食ライン※が少しずつずれていく原因である。※…月が太陽光による本影または擬本影を落とす範囲。皆既日食帯と金環帯。 このずれによって、月の影は日食一回ごとに北〔または南〕に移動し、いずれ地球にかからなくなる。ひとつのサロス系列で、日食を起こすのは69回~84回であるという。 なお、ここでいう「サロス系列」とは、「今月と、今月から223×(±n)月〔n=1,2,3,…〕後の月」の集合を意味する。 よって、「今月と、k月後の月〔0≦k<223〕を起点とする223個のサロス系列」が存在する。 現在日食を起こしているサロス系列はいつかは日食を起こさなくなるが、逆に日食を起こしていない他のサロス系列が、日食を起こすサロス系列に転ずることが起こる。 《月の公転周期の変化》
ケプラーの第三法則によれば、天体の公転周期の二乗は軌道の長径の3乗に比例する。 その関係によって、右のようにして公転周期の変化および、その累積を求める。 これにより、1000年前の月の位置は、公転周期が昔から今の値だったと仮定する場合に比べ、3分〔時刻〕だけ西に進んだ位置にあった。それによって起こる日食ラインのずれは、経度0.75°ぐらいである。 ΔTは帰納的に1000年あたり数千秒となっているが、実際には月の公転周期の変化による月の位置のずれを含んだ値になっていると思われる。ただ、その寄与はわずかである。 《一年の日数と一日の長さ》 天体の運動としての公転周期は、地球の場合「恒星年」という。 一方、暦で使う一年は「太陽年」と言い、恒星年より20分ぐらい短い。つまり360°回りきらないうちに一年が終わる。 太陽年は一年を春分から次の春分までと決めたもので、地軸の歳差運動により春分点が公転と逆向きに移動するからである。 この平均太陽年は、100年〔厳密にはユリウス世紀=36525日〕ごとに0.532秒ずつ短くなっているという。 それに対して恒星年は、100年〔同前〕に0.01秒長くなっている。 後者の変化は前者の変化から見ればほとんど無視できるから、恒星年はほとんど変化しない。 よって太陽年の長さの減少とは、結局1太陽年に太陽が移動した跡の孤の長さの、全円周に対する割合が小さくなる現象である。 原因としては、黄道傾斜角(約23度26分21.406秒)が減少傾向〔-46.8秒/1ユリウス世紀〕にあることや、 歳差運動における地軸の回転の角速度が微妙に変動していることが考えられるが、 本サイトの筆者がその定量的な理解に達するには、まだ相当な勉強を要するから今回はこれ以上深めることはあきらめる。 LODとの関係でいうと、太陽年の日数の変化とは公転1周に対する孤の長さの割合が減少するだけだから、LODの変化とは無関係である。 しかし恒星年の日数の増加はLODを減少させる。 それは次の事情による。 自転周期はおよそ23時間56分で24時間より短いが、その理由は今日の太陽の南中から自転1回1回だけでは南中に達せず、翌日の南中までには更に4分ほどを要することである 〔一日のうちに公転が進み、太陽と地球を結ぶ直線の向きが変わるから〕。 恒星年の日数が増えると、この「4分ほど」という時間は短くなる。ただその変化は僅かで、計算してみると1万年間のLODの変化への寄与は、-7.5×10-6秒ほどに過ぎない。 自転の角速度によるLODの変化量、約2m秒/100年とは五桁の違いがあり、ほぼ埋没している。 まとめ 黄道上と白道上の太陽・月の運行により、日食日と時刻、その場所は完全に予測可能なはずである。 しかし、非常に長い時間を隔てると位置のずれが大きくなっていく。 その原因としては、LODが増加〔=自転の角速度は減少〕しつつあることと、月が地球から離れつつあることであろうと思われる。 それに対して、地球の公転周期の変化はほぼ無関係と見られる。 ただ、これは現時点での筆者の理解であり、もう少し勉強を進めていくと誤りが見つかるかも知れない。 もし誤りがあれば、その時点で訂正する。 2021.05.23(sun) [48] 豊浦寺跡 ▼▲
現在の向原寺周辺で発掘された遺跡が、豊浦寺跡であったと考えられている。
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ここでは、これまでに明らかになった伽藍配置を中心に考察する。 【豊浦寺】
これらのうち、向原の家、桜井寺、桜井道場、豊浦寺はほぼ同じところを指すと考えてよいと思われる。 ただ、その後もともとは御食炊屋姫〔推古〕の別業であり、一定の広がりがあったと考えると、 それぞれの施設が隣接、もしくは別業内に分散していたと考えた方がよいかも知れない。 蘇我馬子の「仏殿」は二か所にあるが、そのうち「東方」とされる方は、豊浦寺かも知れない(敏達十三年)。 一方、書紀においてはこの地域は蘇我馬子の別業に包含され、即位前の御食炊屋姫の姿は見えない。 そして、即位した時点ではじめて豊浦宮に坐すとする。 また、海石榴市の別業の存在については書かれている(用明元年)から、御食炊屋姫が独立的存在として一定の領地をもっていたことを認めている。 それを考えると、書紀は御食炊屋姫の豊浦の別業の存在を伏せている印象を受ける。 結局、即位前の御食炊屋姫は書紀が矮小化したのか、〈元興寺縁起〉が崇高化したのかのどちらかである。
「明日香村公式/文化財」は、 「江戸時代建立された向原寺(真言本派本願寺派)」が豊浦寺の後継とされ、 「門前や境内に多くの礎石がみられ、寺跡であることを裏づけている。昭和32年〔1957〕、昭和45年〔1970〕の発掘調査でも塔、金堂、講堂などが検出され、 平成5年〔1993〕には金堂が南北15メートル、東西17メートルの規模であることが判明した」と述べる。 その一帯の遺称が豊浦であることや、向原寺が残ることから見てこの礎石は豊浦寺のものと考えてよいであろう。 〈明日香16〉は、この地域の調査について総括的に述べている。
【金堂】
そのA区からB区に上辺のある「SB01は金堂跡の基壇と推定され」、 今回〔1994年〕はその北西と東辺の一部を検出した。「基壇は東西17.0m、南北6.4m以上」、「南北については南側に民家があり、調査することができなかったが、 5×4間の規模を想定すると14m程度と復元できよう」、 そして「建物の方位は北で西に約20°の振れをもつ。」、「SX02は基壇の外側をめぐる石敷」で「高さを基壇基底石より約10cm低く揃え」 「外側を見切りとして2列に」並び、その外側を巡るSX03は、SX02よりさらに「約10cm低い」。 その瓦は「ⅡA、ⅡB形式が主体」で、ⅡE形式は「7世紀初頭とみてよ」いものだという。 【講堂】 〈奈国研86〉によれば、 その調査域の上層は豊浦寺創建期の遺構、下層は創建前の掘立柱建物とされる。 基壇(SB400)は「東西30m以上、南北15m以上」、 「飛鳥時代の通有の基壇規模と比較すると、金堂とするよりは講堂にふさわ」しく、 「造営年代については、廃絶に伴う瓦堆積層出土の軒丸瓦ⅢA型式の年代観から7世紀第Ⅱ四半期〔626~650年〕とみなされる」という。 上層については、「豊浦寺の創建期に遡る礎石建物SB400と、雨落溝SD405、雨落溝の南を画する石列SX404、 石敷SX403、バラス敷SX401、礎石落とし込み穴SK406などを検出した。礎石建物SB400は」 東西22m以上で、方位は北から西へ19度振れているという。 このように豊浦寺創建期の建物の南辺に沿う、雨水を受ける溝の石列が確認された。
《下層》 講堂の下層については、 「豊浦寺創建前に遡る掘立柱建物SB450」は「桁行3間以上、梁行3間」、「北及び東西に丁寧な石敷をめぐらす高床式の南北棟建物」で、 「桁行1.56m等間、梁行1.83m等間」、「建物方位は北で西へ30°前後触れて」いて、 「飛鳥地域でいくつか検出されている宮殿建物遺構との類似性を指摘すること」ができるという。 〈橿文研94〉は、 「周囲を石敷で舗装する工法が飛鳥地域で検出される宮殿建物遺構と共通すること、7世紀初頭を下限とする時期から、 推古天皇の豊浦宮の一部である可能性が指摘され」 「豊浦寺造営以前におけるこの地域の空間的、時間的なひろがりが想定できる」と述べる。 【塔】 〈花村00〉は、C区には1936年に石田茂作が「塔心礎」と見做した礎石がある〔以後「C区大石」〕。このC区大石は 「差し渡し約1.5m、上面には、下径で1.1mの円形柱座を作り出し、柱座中央には、径20cm・深さ12cmの 円孔がある」と述べた上で、 〈石田36〉の、 「四天礎並周囲の柱礎は見られぬが、其処に往時塔のあった事は、この一礎石の存する事からも十分推知し得られる」 に反論する。 すなわち、奥山廃寺で見つかった礎石は直径1.2m、高さ50cmの円柱で円孔があり、大きさと形が類似するが、 奥寺廃寺の礎石は講堂のもので「円柱礎石」は必ずしも塔のものではないとする。 また、塔の礎石の例として、法起寺三重塔の心礎である高さ1.7cmの低い八角形の柱座を挙げ、 「なによりも、円形の高い柱座をもった飛鳥時代の塔心礎の例を、我々は知らない」と述べ、 C群大石を塔心礎と見做すことに強い疑問を呈する。 《金堂の南説》 〈花村00〉は、「飛鳥寺では回廊内の堂塔がいずれも75高麗尺〔約26.7m〕の心々距離をとること、などからみて、 金堂の南75高麗尺の位置に塔を想定しても、現状では大きな不都合はない」などと述べる。 「講堂―金堂―塔」は四天王寺式伽藍配置である。ただし、まだ発掘は行われていない。 《昭和三十二年の調査》
――トレンチ(ウ)、(ク)、(ヤ)の地下に敷石を検出し、 「西側トレンチ(ツ)でも東西約3.6mの敷石のあることを知った。」 それらの礎石の上に堆積した土に「含まれる瓦は鎌倉か室町頃の中世的な平瓦」であるから、 「礎石は中世に於ける再建以前のものであることが考えられる」。 東の(ウ)、(ク)、(ヤ)の敷石と西の(ツ)の敷石の「間に基壇と思われる黄褐色土層が存在」し、 「トレンチ(ノ)の東端部ではこの基壇の隅角と思われるような状態が検出された」。 「礎石」の位置はこの「基壇」の中央ではなく端にあるので、 「以前から存在する礎石は古老の語るごとく原位置より移動しているものと思われる」。 基壇の中央に「根石群」があり、「東西の礎石のほぼ中央に径約1.8mほどの掘り込みがあり、 その中に数十個に及ぶ根石群の存在を確認した」。―― すなわち、C区の建物〔同書はそれが塔であるとは言わない〕の周囲の敷石の、 東の辺が(ク)-(ヤ)のライン、西の辺が(ツ)を通り、両者の中央に根石群があるという。 C群大石はもともと根石群の穴にはまっていた如くに読めるが、〈奈教委57〉は実際にはそのようには言っていない。 しかし、「根石」の意味は、「礎石の下に敷く石」で、 〈奈教委57〉は石田茂作が塔跡と提唱したことを、当然意識していたと思われる。 根石群の掘り込みの直径1.8mに内接する正方形の一片は1.27mだから、C群大石(一辺1.5m)は収まらないが、 C群大石は正方形の角が丸まっているのでちょうど入る大きさだと考えることも可能である。
――「恰〔あたか〕も両寺〔西念寺・向原寺〕の中間の畑地には塔中心礎と思われる大石」があり、 「塔心柱礎と思はれる大石は、原型では方五尺〔1.52m〕位のものと見られ、中に径三尺六寸四分〔110.3cm〕の造り出しがあり、 其の中央に径六寸九分〔20.9cm〕深四寸〔12.1cm〕の穴を穿っている。 火に焼けてゐる為、造出しの表面の石膚は荒れ、穴の縁は欠け損じて最初の形は知りがたいが、 …枘〔ほぞ〕入れ式のものではなかつたらうか」。―― 「塔」が講堂―金堂の中心線上から外れていることについては、 ――「而してその堂舎址と塔址並に金堂址との位置的関係が、飛鳥時代の伽藍配置の制約で説明できないのも亦困つた問題である。」 「葢〔けだ〕し、当寺は仏教渡来して間もない時代の建立であれば、未だ一定の制約によらず、その堂塔は地形に従って、散文的に配されたものではなかつたらうか。」―― と述べる。 《C区の大石》 〈石田36〉は、堂塔の配置は「散文的」、すなわち、仏教伝来して間もない頃は、堂塔の配置は厳格ではなかったと推定する。 しかし、講堂と金堂だけの配置は飛鳥寺と同様に厳格である。塔だけが大きく外れているのはやはり奇妙というべきであろう。 塔跡ならば正方形の格子状に柱の礎石が配列するはずだが、仮にC区にあったとしても失われている。 さらには、建物の南北の境界は検出されていないから、正方形なのかどうかは判断がつかない。 また、C区大石が塔心礎と断定できないのは、〈花村00〉のいう通りでああろう。
実は飛鳥寺にも、単独の灯篭台石が中金堂と塔を結ぶ参道の中央にある。その下部は方形、上部は円形で円形の孔を穿ち、C区大石とよく似ている。 その底辺は1.25m、孔の内径は49cm、孔の深さは24.5cmである(図右)。 C区大石のサイズの諸元を灯篭台石と比べると、底辺が20%増し、孔は内径57%減、深さは102%増しで同じ種類のものに見え、 よってC区大石も灯篭台ということになる。 ところが前項までに考察したように、C区大石は根石群の上に据えられていた可能性が高い。 そこで、逆に飛鳥寺の灯篭台石も、本当は塔の心礎であったと考えてみる。 飛鳥寺には既に心礎が確認されているのだが、これは基壇面から2m以上掘り下げた地下である。 この心礎の中央に舎利を納めたと考えられるが、さらにその真上にもう一つの礎石を置いて塔の心柱を受けた※ことは、十分に考えられる。 〔※…心柱は上からぶら下がり、礎石と接していないことが法隆寺などで確認されて耐震工法だとも言われたが、法隆寺の場合は建立した時点では礎石に接していたことは明らかとなっている(次回《基壇下の空洞》〕 なお、飛鳥寺は建久七年〔1196〕に焼失し、その後で舎利容器を心礎から取り出し、改めて石櫃に納めて埋められている。 そのとき焼け残っていた塔心礎を、参道に置いたのが「灯篭台石」となったと考えられる。 《二重礎石説の問題点》 ただ、この飛鳥寺の二重礎石説には難点がある。法隆寺五重塔を見ると、礎石と心柱下端の周囲は中空にして風通しをよくしているからである。 飛鳥寺の地中礎石には十字型に溝が掘られていて、上からの流水を逃がすためだと考えられる。 すると、飛鳥寺塔の場合も地中の礎石の上は中空で、心柱がそこまで降りてきていたとも考えられる。この構造だとすると、上部のもう一つの礎石の存在は考えられない。 ただ、地中礎石の深さは2mもあり、そこまで中空にするには心柱の周囲を取り囲むようにして塔の重量を支える支え棒が絶対に必要であるが、 地中礎石の写真を見る限りではそれを立てた跡は見えない。やはり地中礎石の上は土で満たされていたのであろうか…。 というわけで、容易には結論が得られそうにない。 《止由良佐岐》 それでも飛鳥寺塔の二重礎石構造を仮定すると、C区と飛鳥寺塔跡を統一的に捉えることができる。すると、 C区大石はやはり塔心礎だということになる。 しかし、再び伽藍配置が問題になる。 ひとつの考え方として、C区の塔は豊浦寺が建つ前に造られてすぐに壊され、その後でA区B区の豊浦寺が新しい塔とともに建てられたと考えてみたらどうだろうか。 ここで注目されるのが、〈敏達十四年〉二月十五日「起塔於大野丘北」 三月三十日に「斫倒」される。 〈元興寺縁起〉(e)では、 大会の日に直ちに「斫伐」されたと描かれる。 敏達十四年〔585〕と、飛鳥寺の塔が竣工した推古四年〔596〕との差は僅か十年なので、塔心礎の様式が類似していても不思議はない。 ただ、仏舎利を納めた場所については、飛鳥寺は「刹柱礎中」〔礎石の中〕、大野丘は「蔵二塔柱頭一」〔塔の先端部〕とする違いがある。 後者については、一般に塔の相輪の最上部である宝珠が、仏舎利を納めるところとされる。 前者については、法隆寺でも仏舎利が心礎に納められていて、どちらも根拠がある。 C区なら、大会を開催した場所として〈元興寺縁起〉のいう「止由良佐岐」〔豊浦の"先"か〕にも合致すると見てよいだろう。 豊浦寺の塔は、豊浦寺を充実する過程でもう一度建てられたのではないだろうか。 そして、これこそが〈花村00〉が推定する位置なのかも知れない。 まとめ 塔には、正方形の格子状の礎石が伴う(第152回【百済大寺】)から、これが検出されれば塔の基壇であることが確定する。 しかし、C区の遺跡は格子状の部分が失われているから、塔跡であるかどうかの論議を呼ぶことになる。 C区大石を「塔心礎」とする確証がないのは当然であるが、独立的に存在し根石の上に嵌りそうなことを考えると、塔心礎でないとも断定できない。 その判断のカギになるのが、飛鳥寺の「灯篭台石」が本当は何であるかということである。 できたらその時期を知りたい。飛鳥寺は焼失しているから、大石に微量に残った煤は得られないだろうか。 煤は堂塔の燃えカスであるから、C14法によって堂塔の建材を切り出した年代がわかるはずである。 C区大石にも焼け跡があるというから同様である。それらによって堂塔の建造時期が具体的に見えてくれば、得られるものは大きいだろう。 さて、〈敏達十四年〉の「大野丘北塔」がどこなのか、そもそも史実かどうかも疑問であったが、C区がその塔跡だとすれば説明がつきそうに思える。 ただ、その年代が分からなければ何とも言えない。〈奈教委57〉には、C区の東西の敷石が「中世における再建以前」のもので、 1個の素弁蓮華文丸瓦片が出土し、これは複弁への過渡期のもの〔複弁は7世紀後半から〕とある程度で、 これだけではまだ建物の年代は分からない。 2021.06.06(sun) [49] 法隆寺五重塔 ▼▲
法隆寺五重塔は、現存する最古の塔建築とされている。ここではその心礎・舎利孔・心柱について知ろうとする。
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というのは、資料[49]で飛鳥寺の塔の心礎が二重礎石であった可能性に触れたが、 それを検証するには、同時代の他の塔についても調べることが必要だからである。 法隆寺五重塔については、それがかなり解明されていることが分かったので、見出だしたことをここにまとめる。 【塔とは】 一般に、寺院には五重塔、三重塔、多宝塔などが付随するが、これらはいかなる性格の建造物であろうか。 塔の起源は、舎利〔釈迦の骨〕を納める卒塔婆〔サンスクリット語:स्तूप (Stūpa)〕とされる。 〈日本の美術〉によると、「経説〔経書が解く説〕によれば、釈迦の死後、その遺骨すなわち舎利をめぐって、 印度の八大国王はそれぞれ自国に持ち帰ろうとして」争ったが、結局舎利を八等分して持ち帰ることになり、 「それぞれ自国に塔を建てた」ものという。 仏教が伝わった周辺国にはそれぞれ塔があり、アンコールワット(カンボジア)やパゴダ(ミャンマー)が有名である。 中国には石塔、木塔がある。 中国の木塔には心柱がなく、各階に上がる階段を備えた楼閣の構造であるという(〈なぜ倒れないか〉)。 一方百済の塔には心柱があり、その様式が日本に伝わったとされる。 舎利は、相輪〔塔の屋根から突き出た部分〕の先端の宝珠または、心礎に納められる。 〈日本の美術〉によると、「奈良時代以降、舎利に二様の解釈がなされるようになり、釈迦の遺骨と伝える仏舎利は肉舎利、仏教経典は釈迦の精神を伝えるものゆえ法舎利と称され」たという。 「肉舎利」についても、実際には宝石であった。真正の釈迦の遺骨・遺灰は多くの寺院に分けられ、当の昔に払底したからである。 〈敏達十三年〉には、蘇我馬子たちが舎利を手に入れたときの幻想的な伝説が載る。 ここでは、釈迦の遺骨であることには触れられていないから、既に特別に神秘的な宝石として伝来していたということである。
【心柱】 《柱根の位置》 〈日本の美術〉は、日本の塔の「心柱は地中の掘立式より次第に地上式へ移行したことと、心礎に舎利奉安施設のあるのとないのと二様」の類型があるという。 掘立柱形式については、古墳時代の宮殿や神殿は一般的に掘立柱で、伊勢神宮は復古的には掘立柱が用いたと見られる。「心礎に舎利奉安施設」がない場合は、相輪〔塔の先端部〕の宝珠に納められたと見られる。 〈なぜ倒れないか〉は、掘立柱を「和魂」の表現と見る。記紀神代の「黄泉の国」などは「日本人の原郷」で、 宮殿には「底つ岩根に宮柱太しり」〔大国主段(第60回)など〕と述べるように「地底の世界の精を保ちえない…地霊信仰」があり、 ゆえに「飛鳥から白鳳時代の半ば」まで「五重塔には、皆掘立柱」であった。 しかし、白村江の戦いで日本軍が敗れてからは「塔の文化がぞくぞくとはいってきて、国風が衰えた」、よって 「神は地上に移って」きて、礎石柱や宙に浮いた心柱になったという(p.26)。
ただ心柱の柱根に上昇傾向があったことは確かで、鎌倉時代の「海住寺塔を初例」として、「初重〔=一階〕天井上に立つ例」が増え、それは初重に「本尊を祀る場合に真中に安置することができる利点がある」という。 また、日光東照宮五重塔〔江戸末期〕では「心柱が四重の繋秘肘木から…釣り下げられ」、「心柱の底面は浮いていて…枘が心礎の枘穴に入って揺れ止めになっている」という。 一般に心柱は宙吊りが否かにかかわらず周囲の構造物には密着しておらず、地震のときは周囲の部分と心柱の固有振動数が異なることにより、振動を打ち消し合って免振効果を発揮したらしい。 飛鳥時代に科学的に耐震を意図したとは考えにくいので、宗教的な意識によってこの構造を用いたことが、結果的に耐震性を高めたのかも知れない。 さて、法隆寺五重塔に話を戻すと、て同書は「建立当初心礎が地下2.5m(基壇上から)にあって心柱は掘立になっていた」とする。 この文からは、柱根は礎石に立っていて、腐って失われた部分が空洞になったと読める。 《法隆寺五重塔の心柱》 法隆寺五重塔の礎石と心柱の位置関係を突き詰めるために資料を探すと、いくつかの本に見つかった。 ①(〈顛末〉)は②(〈秘宝調査〉)の南北断面である。
心柱の柱根の直径は基壇面の石が柱を囲む穴より大きく、したがって心柱は基壇に立っている。 だとすれば、基壇下の空洞の意味が問題になる。 《基壇下の空洞》 〈秘宝調査〉によると、この空洞は、大正十五年〔1926〕1~2月に発見された(p.1)。 同年4月5日に調査が行われ、同日中には現状復旧して蓋を加え粘土で封じ、「誌」〔石板に刻んだ記録〕が納められた。 昭和八・九年頃には蓋の上をコンクリートで覆ったという(p.40~41)。 大正十五年以前にも侵入者があったかも知れないが、幸いにして舎利容器は幸いにして無事であった。 〈法隆寺のものさし〉は、心柱下の空洞は仏舎利と「地上の心柱との間はふさがないほうがよいと考えから」意図的に設けたられた空洞だとする。 一方、〈保存工事報告〉は「先ず腐朽せる心柱付近の基壇表面築土を掘起した上、心柱中心部を残したまま周囲より腐朽部を除去し、 埋土をしながら凝灰岩の切石やその他の自然石を四周から挿入補強したものと考えられる」とする。 そして、空洞の内部に八割方飛び出して宙に浮いていたり、既に内部に転落した石のあったことは、このように修理したと考えることによってのみ理解できるという。 心礎の「上面は上のみ切〔ママ〕程度に平滑に仕上げられて居り、ほぼ水平に据え付けられて」いることが 「その上に直接心柱を建てることを意図していたものであるのは明らかである」とする。 右図上は同書による実測図で、最初からこれを見つけていれば諸文献の図の解釈に悩まされる必要はなかった。 右図下は、心柱周囲の四天柱とその礎石で、心柱を取り除いた後に撮影したと見られる。 写真の説明によれば基壇面の下は土だけで満たされ、詰石はないという。 したがって、舎利孔上の空洞の周囲は土である。 基壇面の心柱の下の石は大きさも形も一定しないから、後から挿入したとする〈保存工事報告〉の見解は妥当であろう。 もし先に石を敷いて心柱を立てたのなら、石の形はもっと規則的なはずである。 よって、創建時には心柱は舎利孔の上に直接置かれていたと見るのが妥当で、もともと空洞は存在しなかったわけである。 【五重塔の年代】 《書紀》 書紀に「法隆寺」への言及は一か所のみである。 〈天智九年〉〔670〕に 「夏四月癸卯朔壬申〔三十日〕夜半之後、災二法隆寺一、一屋無レ余。」 すなわち、この年に法隆寺が焼失したとある。続けて「大雨雷震」とあるから、落雷によるものであろう。 ただし、それより古い時期に「斑鳩寺」が出てくる。 〈推古十四年〉〔605〕七月に 「天皇…、播磨国水田百町施二于皇太子一、因以二納于斑鳩寺一。」 〔推古天皇は聖徳太子に播磨国水田百町を寄進し、太子は斑鳩寺に納めた〕 とある。 太子は十三年に斑鳩宮に移ったから、寺はその付属施設であっただろう。 現法隆寺が創建以来のものか、670年の火災の後に建て替えられたものかというのはずっと議論になっていたが、 昭和十四年〔1939〕の若草伽藍の発見によって(〈若草伽藍07〉)、再建説が大勢を占めるに至った。 《心柱の年代測定》 〈奈文研01〉によると、法隆寺五重塔は、1941年~1952年の期間の解体修理工事において、 「地中深く埋められていた心柱は、下部が大きく腐朽していたため、その基部を切断し、新材を根継ぎした。このとき、 切断した上端部から厚さ約10cmの円盤標本が作成された」。 その断面は八角形で、そのうちもっとも樹皮に近くまで残る方向の年輪を調べた結果、 「ヒノキの暦年標準パターン(前37年~838年)との照合は高いt値(11.7)で合致し、その〔最も外側の〕年輪年代は591年と確定した。」、 「さらに外側下方に3層分の年輪が残存していることを確認したので、最終的な年輪年代は591年+3層分で594年と確定した」という。
図右は、心柱のソフトX線撮影写真(50mV、2mA、照射時間60秒、フィルムX線焦点間距離1.2m)、 図左が暦年標準パターンと心柱を重ねたものである。 標準パターンとしては「宮町遺跡出土の柱根の年輪年代の確定にその威力を発揮したヒノキの暦年標準パターン(A)(紀元前37年~838年) と別のヒノキの暦年標準パターン(B)(512年~1322年)とを用いた」という。 〈奈文研01〉は、「1941年の若草伽藍の発掘や、堂塔の解体修理、その後の防災工事に伴う発掘調査によって、 現伽藍は再建伽藍であることがほぼ通説となっている」が、「今回の年輪年代は約100年も古いことが判り、考古学、建築史、美術史、文献史学などの関連分野に与える影響は大きい」 と述べ、大きな問題を投げかけている。
〈若草伽藍07〉は塔の他の部分の年数についての結果も併せて示す(右表)。 これを見ると、再利用は心柱のみであろう。それ以外の部分には670年前後に伐採した木材が使われていて、書紀の「670年焼失」との整合性がある。 なお、金堂は650~669年、中門は678~699年となっている。 《南朝尺》 〈法隆寺のものさし〉は、この心柱の年代を有力な根拠として、法隆寺移築説および九州独立王朝説を展開する。 同書によると、法隆寺の金堂・五重塔の柱間隔が「1材」〔材は助数詞〕の整数倍となっていて、 1材は、南朝尺の1尺1寸に正確に一致するという(p.38)。 諸資料を見ると、南朝尺は24.5cmであることが確定していて、1尺1寸は26.95cmとなる。 南朝劉宋の標準尺が245mmで、これがその後も南朝が滅ぶまで標準尺として維持された。 「南朝」とは、420年~589年に中国南半部に順番に存在した、宋・斉・梁・陳の四王朝の総称である。 『隋書』巻十六志第十一「律暦上」に「此宋代人間所用尺。伝二-入斉、梁、陳一」 〔この宋代に一般に用いられた尺は、斉・梁・陳に伝わった〕、 祖孝孫云:「平レ陳後。廃二周玉尺律一。便用二此鉄尺律一。以二一尺二寸一即為二市尺一。」 〔〔隋が〕陳を平定したのち、周の玉尺律を廃し、すなわちこの鉄尺律を用い、一尺二寸を以て一般の尺とする〕とある。 〈法隆寺のものさし〉が、法隆寺の造営にこの南朝尺が使われていたことを実証したのは一つの成果である。 陳の存続期間は557年~589年で、五重塔心柱の594年に近い。 そこで〈法隆寺のものさし〉は、九州に大宰府を中心とした独立王朝が存在し、南朝とのつながりが深く、 その尺を用いて建てた大寺「X寺」が存在し、法隆寺はそれを移築したものだと提唱する。 この説にはいろいろ突っ込みどころがある。まず「大宰府」は宰(みこともち)の府(つかさ)で、中央政権が七道ごとに設けたものである。 そのうち西海道のものだけが残った。つまりこの名称は筑紫地域の倭政権への服属を前提にしている。 大宰府の前身は、「那津之口官家」と見られる(宣下元年)。 岩井の乱を平定して以後、筑前・豊前に屯倉を設置して中央集権を強めていった流れのなかに那津之口官家、そして大宰府の設置が位置付けられるのは史実として動かしようがない。 次に、崇峻朝から推古朝前半の大寺院草創期においては、寺工を百済から招いて建造に当らせている(崇峻元年是歳)。 法隆寺再建〔670年以後〕の頃も、まだ百済出身の寺工の役割は大きかったであろう。 仮に陳出身の寺工がいたとしても、それは百済経由で渡来したものであろう。 さらに、心柱以外の建材は670年前後に伐採されたことは科学的に信頼できるから、「隋滅亡〔589年〕以前に作られた大寺の移築」は成り立たない。 総じて、筑紫の大寺移築説は荒唐無稽というべきであろう。 因みに百済と陳との外交関係を見ると、『三国史記-百済本紀』の威徳王十四~三十三年〔567~586〕に「遣レ使入レ陳朝貢」が4回ある。 この期間、隋への朝貢は2回である。ちなみに、同三十六年〔589〕に「隋平レ陳」〔隋は陳を平定〕し、するとすかさず隋に「遣使奉表。賀レ平レ陳」〔陳を平定したことを祝賀〕とあり、変わり身は早い。 よって、造営を指揮した百済の寺工の用いた単位が、陳由来の可能性は否定できない。
結局、同じ単位長26.9cmは、「1.1南朝尺」とも「0.75高麗尺」とも言い得る。 この「1.1」が「0.75」に比べて特に妥当性があるとも思えないから、法隆寺=南朝尺基準説、 法隆寺=高麗尺基準説のどちらも大した意味はない。 かといって、「0.75高麗尺」を用いる理由も不明である。 【心礎】 《舎利孔》 〈秘宝調査〉(p.13)は、次のように述べる。 「中心の礎石の上面にこのように舎利納置の穴を穿つことはよく見受ける方式で、 従来知られたその類に就いては今一々実例等挙げるまでもなかろう。 従って、それは一般の方式に依ったものと解される。ただ空洞下に深く位置して、目立った造り出しや、 柱受け等の加工のない心礎に穿たれた同様のものとしては、その後明らかになった近接した法輪寺の心礎のあることを此の場合つけ加えて置こう」。 「納置穴」〔舎利孔〕の形状については、概ね円錐形だが「その形は整った均整なものではなくて、底部に若干の突出した所や、 凹んだ所などが見受けられて、可なり凹んで居り、内面の彫琢またさまで入念でない。」、 「上部の縁辺に蓋を受ける為のやゝ広い段を作っていて」上辺の口径=九寸二分〔27.9cm〕、段の深さ=一寸三分〔3.94cm〕、段の下端の口径=七寸五分〔22.8cm〕とする。 舎利穴の内部については、多くの知られた例ではよく「彫琢」され、舎利容器底面と合うように作られているが、それらとは「趣を異としている」〔=きちっと嵌るようになっていない〕。〈引用終わり〉 心礎に「造り出しや、柱受けの加工のない」と述べている点は、飛鳥寺の心礎と同じである。 ただ、若草伽藍の塔礎石には「柱受け加工」があり舎利孔がない〔資料[51]で述べる〕。 言われるように若草伽藍が焼失前の法隆寺であったとすると、問題を投げかける。 《舎利容器一具》 舎利孔の中心は心柱の中心から「北に二寸四五分〔7.3~7.6cm〕片寄った位置に」あったという。 その位置関係は、図左のようになっている。図右は心柱の記図である。 〈顛末〉は、「舎利容器一具は、…径約6寸〔18.27cm〕のサワリ大碗の中に径約4寸〔12.1cm〕の合子、 径3寸〔9.1cm〕の白道鏡及び多数の真珠・瑠璃玉などと共に納められていて、 合子を開くと高さ3寸2分〔9.7cm〕強の卵形透彫銀器があり、これを縦に二つに分割すると同じ形の金の卵形容器があり、 さらにその中に銀栓の緑色美しい瑠璃瓶が安置してあった。 そして合子の内外に数百の真珠・瑠璃珠・金片・香木が入れてあり、なぜか礎石の穴に八部方水が溜っていたため、 金銀器とともに、燦然として1200年前の荘厳を保っていた」と述べる。 なお、鏡は「禽獣葡萄鏡」と呼ばれ、〈秘宝調査〉(pp.25~26)によると陜西省〔古代の長安一帯〕出土の「五獣五鵲葡萄鏡」と同じ鋳型で作られた、舶載品であるという。 調査を終えた舎利容器一具は、昭和三十四年〔1959〕十月二十八日に舎利穴に再納して封印された。 舎利容器一具は硝子外容器に入れて舎利穴に納め、その上に大正十五年の銘文石板と昭和の銘文硝子板を重ねて置き、 円柱の下部を刳り貫いた石蓋を被せ、モルタル・防水モルタルで封じ、上方の空洞は4尺〔1.21m〕まで粘土で埋められた。(p.12,pp.45~47) これから当分の間は、開けられることはないだろう。 なお、舎利容器一具を舎利穴に納める前に模造品が作られ、東京国立博物館に「法隆寺塔心礎納置品 模造」として所蔵されている。 【考察】 《舎利孔の雑な仕事》
時代故の未熟さとの考えもあるかも知れないが、礎石の上面は水平に仕上げられ、舎利孔の入口には正確な円孔を刻んでいる。 さらに、飛鳥寺の舎利孔は底まで直方体で精緻に仕上げられていることを考えあわせれば、決して石加工技術が未熟な時代ではない。 そこに見えるのは、舎利容器製作者と石工との間のコミュニケーションの齟齬である。 また、舎利孔の外側には枘穴の窪みはない。 しかし、数々の今に残る心礎を見ると、若草伽藍を初めとして殆どに枘穴が彫り込まれている(逆に石側が枘になっているものもある)〔資料[51]で見る〕。 思うに、当初の石刻は舎利孔の蓋を置いた段までの浅いもので、実は心柱を差し込む枘穴ではなかっただろうか。 そして、心柱には枘の造り出しがあったのではないだろうか。 穴の口径=9.2寸、心柱の径は八角形の頂点間で2.7尺、向かい合う辺の間では〔2.7cos(360°/8/2)=〕2.5尺で、 枘は幾分細目であるが、不自然というほどではない。心柱の中心と舎利孔の中心がややずれているが、枘穴に使うことをやめて蓋をした後の作業なら、多少ずれることもあろう。 当初の予定では、舎利は先端の宝珠または心礎の更に下に納める予定だったのが、途中で変更になったのではないだろうか。 急なことで専門の石工の手配が間に合わず、未熟な者の手で不器用に穿たれたように感じられるのである。 《心柱だけが古い》
〈推古紀九年〉〔601〕「春二月。皇太子初興二宮室于斑鳩一。」 即ち、斑鳩宮の建造開始がこの年とされる。この頃、斑鳩寺の建造も始まったと考えてよいだろう。その塔の心柱の伐採年が594年だったことは十分あり得ると思われる。 〈保存工事報告〉に、心柱が三重付近の「落雷による焼損」の写真がある。但し、これは「建長四年〔1252〕の落雷によるもので、当時辛うじて消〔し〕止めたという記録がある」という(p.63)。 670年の火災も落雷によるかも知れないが、「災二法隆寺一」の次に「大雨」とあるから、比較的軽度のうちに消えたかも知れない。 さすがに大部分は使い物にならなかったが、心柱だけは比較的無事だったということも、可能性としては考えられる。 もしそういうことなら心柱の神威は絶大となり、間違いなく再利用されたであろう。 《付記》 2021.10.21 一方、上述したように斑鳩寺という寺名が〈推古天皇紀〉十四年に出て来る。これは一般的には法隆寺の別名であろうと言われているが、 〈天智天皇紀〉をよく読むと、八年十二月に「災斑鳩寺」、九年四月に「災法隆寺 一屋無余」とあり、これを正確な記録だと捉えれば斑鳩寺は法隆寺と別寺ということになる。 すると、若草伽藍、再建法隆寺以外の創建法隆寺を見つけなければならない。 しかし、ここで若草伽藍が斑鳩寺であったと考えてみよう。 法隆寺が「一屋無余」〔一屋も余すことなく〕燃えたのに、塔の心柱だけが残っていたという仮説は、やはり不自然である。 一方、斑鳩寺の方は燃えるには燃えたが「一屋無余」とは書いてないから、塔への延焼は免れていたのかも知れない。 ならば、若草伽藍の五重塔はしばらく残っていて、法隆寺再建のときに解体して心柱のみを転用したとするのが最も自然な筋書きであろう。 そして、創建法隆寺は再建法隆寺と同じ場所に建てられていたと考えるべきではないだろうか。 創建法隆寺跡は完全に整地されて燃焼痕は残っていないかも知れないが、もし熱が加わった柱跡や礎石の類が一か所でも検出されれば、実証できるだろう。 まとめ 心柱の下の空洞の図はいくつかの文書に見えたが、それが創建時から存在したか否かについての納得できる答は、結局〈保存工事報告〉の精読によって初めて得られた。 また舎利孔と舎利についての資料は、現在では〈秘宝調査〉のみである。「舎利容器一具」は調査後に舎利孔に納められ、完全密封されたからである。 〈保存工事報告〉(昭和三十年)〔1955〕、〈秘宝調査〉(昭和二十九年)〔1954〕ともに新字体施行(昭和二十一年)〔1946〕後であるが、 旧字体を用いている。古文書の時代からの歴史・文化の継続性を重視した故であろう。 これらは既に歴史的文書であるが、これによって初めて納得できることも多く、できる限り一次資料に当ることの大切さを改めて感じた。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||