古事記をそのまま読む―資料5 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2019.05.21(tue) [37] 物部氏 ▼▲ |
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石上神宮は物部氏の氏神で、布都御魂大神(神剣韴霊)を主祀神とし、配饒速日命の御子で物部氏の始祖とされる宇摩志麻治命などを配祀神とする。
物部氏を構成する諸氏や、〈天孫本紀〉(『先代旧辞本紀』第五巻)に書かれたことを見る。
【石上朝臣】 『新撰姓氏録』(以下〈姓氏録〉)に載る物部系の氏族は、宗家と見られる石上朝臣を中心に多数ある。
〈姓氏録〉に載る「石上朝臣」は1氏のみだが、「石上同祖」「石上朝臣同祖」が18氏ある。 一見すると、宗家だけが「石上朝臣」を名乗り、分流は必ず別名とする統制が効いているように見える。 だが、物部朝臣が石上朝臣に改称するのは、早くとも天武天皇十三年〔684〕で(後述)、多くの氏族の創氏はそれ以前であろうから、「石上」を名乗らせなかったわけではない。 しかし、「物部」を名乗る氏も殆どないのだから、「物部」だった時期でも宗家以外には名乗らせなかった可能性はある。 「石上朝臣」から「氷宿祢」までは連続しており、「神饒速日命五世孫伊香色雄命之後也」は氷宿祢まで共有されるものと思われる。 また「曽根連」から「物部」までも連続しており、ここにも暗黙の「神饒速日命…後也」があると想定される。 さらに石川同祖とは書かないが、饒速日命を祖とする氏が15氏ある。 これらの氏族が、「神饒速日命…後也」で統一されているのは、これまた宗家のコントロールが効いていることを伺わせる。 〈姓氏録〉に載る後継氏のほとんどは、宇摩志麻治命の系列である。 【天孫本紀】 『先代旧事本紀』(九世紀)の巻五〈天孫本紀〉には、物部氏系の諸氏の系譜が詳しく記されている。 〈天孫本紀〉が用いる「天孫」という語は、冒頭でこそ饒速日尊を指すが、 磐余彦東征の場面では、専ら磐余彦を指す。 〈姓氏録〉で石上朝臣同祖の諸族に書かれた人名のうち、「味饒田命」は饒速日尊の孫、「出雲醜大臣命」は三世孫、「大水口宿祢」は五世孫、「伊香色謎命」は六世孫、「大新河命」は七世孫として登場する。 〈天孫本紀〉によれば、六世から十六世の間に31人が「奉斎神宮」したように、代々神宮に神職を派遣した。 その石上神宮は、物部氏の同族意識を固める宗教施設として護持されていたわけである。 《石上神宮》 〈天孫本紀〉は、石上神宮の「遷建」について、次のように述べる。 ――崇神天皇が「詔二大臣一為レ班二神物一。定二天社国社一」〔大臣に詔し、神の諸々の宝物を分類し、天神・国祇の社を定めさせ〕て、 「以二物部八十手一所レ作祭神之物。祭二八十万群神一之時」〔物部の多くの人手を用いて祭神の宝物を、八十万の群神を祭らせた時〕、 「遷二-建布都大神社於大倭国山辺郡石上邑一。 則天祖授二饒速日尊一自レ天受來天璽瑞宝同共蔵斎。号曰二石上大神一」 〔布都(ふつ)の大神の社を大和国山辺郡石上邑に遷(うつ)し建て、 天祖が饒速日尊に授けて天より受け来たる天璽瑞宝(あまつしるしみづたから)を同じく共に蔵斎〔謹んで蔵に収めること〕し、 石上大神と号す〕。 即ち、崇神天皇のとき、布都大神〔=神剣〕を石上邑に移して祀り、新たに石上大神と呼び、天璽瑞宝を併蔵した。 《遷建以前》
〈天孫本紀〉を「磐余彦尊」が「都二橿原宮一」したときまで遡ると、 ア「尊皇妃姫踏鞴五十鈴姫命立為皇后。即大三輪神女也。 宇摩志麻治命先献二天瑞宝一。亦豎二神楯一以斎矣。謂二五十櫛一。亦云:今木刺二-繞於布都主剣一大神奉二-斎殿内一。」 〔皇妃、姫踏鞴五十鈴姫命を尊びて、立たせて皇后とす。即ち大三輪神の女(みむすめ)なり。 宇摩志麻治命の先に献(たてまつ)りし天〔璽〕瑞宝、また神楯(かむたて)を豎〔=立〕てて以て斎(いは)ひまつりて、五十櫛(いくし)と謂ふ。亦云ふ、今、木、布都主剣に刺繞(さしめぐ)りて、大神(おほみわ)、殿(みあらか)の内に奉斎(いはひまつる)。〕 とのべる。ここで「刺繞」の「さし-」は接頭語で、「繞」は「纏」・「廻」と同義。 ある本の註釈によれば、この「五十櫛」は「(万)3229 五十串立 神酒座奉 神主部之 いくしたて みわすゑまつる はふりべが」の「五十串」とする。 「いくし」は、一般的には〈時代別上代〉「木竹の細枝をはらって作った矛の類の小さいものと察せられる」などと言われる。 この歌は大神神社の神主を詠んだもので、また「宇摩志麻治命」云々は「大三輪神の女なり」の直後にあるから、 天璽瑞宝と布都主剣は、かつて大神神社に蔵斎されていたということであろう。 遷建した後なら、神社名は「布都大神社」「石上大神」であるから、「大神」とは布都主剣のことである。 しかし、「遷建」以前に遡ると、必ずしも神剣とは言えない。 というのは、〈天孫本紀〉の神武天皇二年に「物部連等祖宇摩志麻治命与大神君祖天日方奇日命。並拝為申食国政大夫也」 〔物部連等祖・宇摩志麻治命と大神君祖・天日方奇日命は、並んで申食国政大夫〔後の大臣大連にあたる〕を拝する〕、 「凡厥奉斎瑞宝而祈鎮寿祚,兼崇韴霊剣而治護国家如此之事。裔孫相承。奉斎大神」 〔その瑞宝を奉斎して寿祚を鎮め、兼ねて韴霊剣を崇拝して国家を治護、かくなる事を裔孫に相承し大神を奉斎する〕と書かれるからである。 つまり、宇摩志麻治命は大三輪君と横並びで「申食国政大夫」(をすくにのまつりごとをまをすきみ?)を担うのだから、この段階で奉斎する「大神」は「おほみわ」即ち大物主神ということになる。 けれども、上記アの文の中で、「布都主剣大神」と文字を続けるのは、明らかに「大神=布都主剣」と誤読させるトリックを仕掛けている。これは、まことに不愉快である。 続く欠史八代の期間は、宇摩志麻治命の子孫が代々三輪山で「奉斎大神」の役割を担う。 次項で示すように、饒速日命は皇祖瓊瓊杵尊とも同格であった。物部連の祖は常に、時々の最高実力者の隣にいて、それに並び立つ地位を誇るのである。 《饒速日命》 〈天孫本紀〉には、饒速日尊は次のように書かれている。 ――「天照国照彦火明櫛玉饒速日尊。天道日女命為レ妃。天上誕二-生天香語山命一。 御炊屋彦姫為レ妃。天降誕二-生宇摩志摩治命一。」 〔天照国照彦火明櫛玉饒速日尊、天道日女命、妃に為(し)て、天上に天香語山命を誕生(う)みたまふ。 御炊屋彦姫、妃に為て、天降りして宇摩志麻治命を誕生(う)みたまふ〕。 天香語山命の別名が、高倉下(たかくらじ)命とされる。記紀では、高倉下命は夢の中で高皇産霊神・天照大神からお告げを受け、神剣「布都御魂」を発見した。 そして、その四世孫瀛津世襲命(おきつよそのみこと)が尾張連の祖であるとする。天香語山命系の氏族名が〈新撰姓氏録〉に殆どないのは、姓氏録が収める氏の本貫が畿内〔山城・大和・河内・泉・摂津〕限定だから、 子孫は皆尾張に移ったのであろう。 〈姓氏家系大辞典〉によれば、尾張氏は初めは大和国葛城を本拠とし、 崇神帝・垂仁帝の頃美濃に遷り、さらに尾張国造となったとされる。 同辞典は、〈天孫本紀〉が天火明命が饒速日尊の別名であるとする点を厳しく否定する。 ただその一方で、「此の伝も古くよりありしにあらざるか。即ち尾張氏は物部氏として至大の関係を有する」 「〔尾張氏が〕その神剣を奉斎するも、物部氏が不都の御霊の神剣を奉祀するに同じきか」と述べる。 これらの論旨はやや不明確だが、「物部・尾張の両氏は親しく、また神剣を祀るという共通性から両者を混同する古伝もあったかも知れない」という意味と読み取れる。 〈天孫本紀〉は饒速日尊の「亦名」として、「天火明命」「天照国照彦天火明尊」)あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと)「胆杵磯丹杵穂命」(いきそにきほのみこと)を列挙する。 天火明命は、書紀の本文及び一書の多くでは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の子であるが、 記と一書8においては、瓊瓊杵尊(邇邇芸命)の兄である (第87回)。 《饒速日尊の祖》 饒速日尊の祖は、 「天照孁貴太子正哉吾勝勝速日天押穗耳尊。高皇產靈尊女-萬幡豐秋津師姬栲幡千千姬命為妃。 誕生天照國照彥天火明櫛玉饒速日尊矣。天照太神高皇產靈尊相共所生。故謂天孫。亦稱皇孫矣。」 〔天照孁貴(あまてらすむち)の太子(ひつぎのみこ)正哉吾勝勝速日天押穂耳尊、高皇産霊尊の女、萬幡豊秋津師姫栲幡千千姫命を妃として、 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を誕生(う)みましき。天照太神、高皇産霊尊より相(あひ)共に所生(あ)れましき。故(かれ)天孫(あめみま)と謂(い)ひて、亦(また)皇孫(すめみま)と称(よ)びまつる。〕と書く。 寛永二十一年〔1644〕刊の木版本では「天照貴靈〔=霊〕太子」となっていて「高皇産霊」(たかみむすび)が混合している。 しかし直後に「天照太神」とあり、 〈上代紀〉では天照大神の別名が大日孁貴(おほひるむち)であるから、「天照孁貴」が正しいことは明らかである。 『国史大系』七巻〔経済雑誌社;1901〕でも「天照孁貴」としている。 「天照」の血筋だから天孫、「皇産霊」の血筋だから皇孫とするのは語呂合わせである。 だが、この呼び名に真に該当するのは瓊瓊杵尊であり、饒速日尊に用いるのは僭越であろう。 書紀は、饒速日命については「嘗有二天神之子一乗二天磐船一自レ天降止。号曰二櫛玉饒速日命一。」 〔嘗(むかし)天つ神の子有りて、天磐船に乗りて天より降り止(とど)まりき。号(なづ)けて櫛玉饒速日命とまをす。〕として (第99回)、 もしかしたら高皇産霊尊からの血筋を引くのかも知れないが明言せず、単に「天神」とする。 ただ、「此物部氏之遠祖〔とほつおや〕也」として、物部氏の祖神であることだけは公認する。 《天火明命》
〈天孫本紀〉はこの天火明命が饒速日尊と同一であると規定することを、「亦名天火明命」によって示す。 さらに〈先代旧辞本紀巻三-天神本紀〉に遡ると、 「太子正哉吾勝勝速日天押穗耳尊。高皇產靈尊女萬幡豐秋津師姬命亦名栲幡千千姬命為妃。誕生二男矣。 兄天照國照彥天火明櫛玉饒速日尊。弟天饒石國饒石天津彥彥火瓊瓊杵尊。」 〔〔天照太神の〕太子・正哉吾勝勝速日天押穂耳尊は、高皇産霊尊の女(みむすめ)・万幡豊秋津師姫命・亦の名は栲幡千千姫命を妃として、二男(ふたはしらのみこ)、 兄:天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、弟:天饒石国饒石天津彦彦火瓊瓊杵尊を誕生(う)みたまふ。〕とあり、 神武天皇の直系の曽祖父である瓊瓊杵尊と、系図上横並びにする。 「皇孫」は正式には瓊瓊杵尊を指す語であるが、〈天孫本紀〉は饒速日"尊"を皇孫、天孫と呼び、あたかも瓊瓊杵尊と同等であるかの如く描く。 《天璽瑞宝》 そして、「天祖」は瓊瓊杵尊に先だち、饒速日尊に天降りを命じた。 ――「天祖以二天璽瑞宝十種一授二饒速日尊一。則此尊稟二天神御祖詔一乗二天磐船一而天二-降-坐於河内国河上哮峰一。則牽二-坐於大倭国鳥見白庭山一。」 〔天祖(あまつみおや)天璽瑞宝十種を以て饒速日尊に授けたまひき。則(すなは)ち此の尊〔饒速日尊〕天神(あまつかみ)の御祖(みおや)の詔を稟(うけたまは)りて天磐船(あまのいはふね)に乗りて河内国の河上の哮峰(たけるがみね)に天降り坐(ま)して、則ち大倭国の鳥見白庭山に牽(ひ)き坐(ましま)しき。〕 ここで、詔を発した神を「天神御祖」とぼかすが、文脈から高皇産霊尊〔或いは、高皇産霊尊と天照太神〕のことであろう。 そして、降った後、鳥見白庭山を本拠地にしたと述べる。 饒速日尊がなかなか帰ってこなかったので、高皇産霊尊は速飄神を降ろして調べさせたところ、 既に死んだことを知り、哀泣した。この部分は高皇産霊尊が、天稚彦に天鹿児弓と天羽羽矢を持たせて天降りさせた件と類似する。 天稚彦は裏切って帰らず、結局高皇産霊尊によって殺されたが、「哭泣悲哀」したのは「天稚彦之妻、下照姫」である (第72回~第75回)。 その後「饒速日尊以レ夢教二於妻御炊屋姫一云『汝子如吾形見物。』」 〔饒速日尊は妻・御炊屋姫に夢で教へて云はく、「汝(いまし)の子は吾が形見の物の如し」〕と言って、 「即授二天璽瑞宝矣。亦天羽羽弓天羽羽矢。復神衣帯手貫三物一。葬二-斂於登美白庭邑一。以レ此為レ墓者也。」 〔即ち、天璽瑞宝・天羽羽弓・天羽羽矢・神衣帯手貫(かみのみそおびたすき)を賜り、登美白庭邑に葬斂(はぶりまつ)る〕。
書紀によれば磐余彦が中洲を攻撃したとき、饒速日命は存命で長髄彦を殺すが、〈天孫本紀〉によれば既に死亡している。 《哮峰》 哮峰は、一般にタケルガミネと読まれている。 大阪府南河内郡河南町平石484に磐船大神社(いわふねだいじんじゃ)があり、古くは哮峰を神体としたと言われている。 現地の案内板には「境内には豊かな伝説を持つ天磐船、浪石、燈明石などの奇岩怪石が多く、社後にそびえたつ峰は古来「哮峰」と呼ばれ」 「「神奈備」の様式をとっていたようで、山全体がご神体とされている」と書かれる。 神社を建てる時代以前は、磐座(いわくら)と呼ばれる巨石を神の座として祀るのが古い信仰の形態であった (第84回、第112回)。 「磐船大神社」は、<wikipedia>「明治初年、神仏分離により、高貴寺と分離」したときからの名前のようである。 「天磐船」に擬せられた石によるものであろう。 〈天孫本紀〉には、「河内国」とあるから、この天磐船を磐座として崇拝する中から天磐船伝説が生まれた可能性も皆無ではないだろう。 《磐余彦への服属》 〈天孫本紀〉は、宇摩志麻治命が長髓彦に見切りをつけ磐余彦尊に寝返る様を次のように記す。
――「本推二饒速日尊兒宇摩志麻治命一。為レ君奉焉。至此乃曰:天神之子豈有両種乎。吾不レ知レ有他。」 〔もともと饒速日尊の児、宇摩志麻治命は長髓彦を推して主君と奉ってきたが、ここに至り、天つ神の子は二種類もあるか。そんなことがあり得るとは思わない〕 と言って、磐余彦に帰順した。 〈神武天皇即位前紀〉によれば、磐余彦(いはれびこ)〔神武天皇〕が倭に来る前に天磐船に乗って天降りし、中洲〔=大和盆地〕を占拠していたのが、饒速日命であった。 長髄彦は饒速日命に仕えて、神武天皇の来襲から領土を守るために戦った。 しかし、肝心の饒速日命が磐余彦に本物の神性を認め、徹底抗戦を主導する長髄彦を殺して帰順した (神武即位前・戊午年十二月)。 そして可美真手命(うましまてのみこと)は、饒速日命と長髄彦の妹、長髄媛との間に生まれた子である。 〈天孫本紀〉はこの部分について、宇摩志麻治命〔=可美真手命〕が「不拠舅計率軍帰順」〔舅(長髄彦)の計画に拠らず、軍を率いて帰順する〕と言って宇摩志麻治命の功績として、 「授以神剣。答其大勲。」〔神剣を授けてその大勲に応える〕と述べる。 前項で述べたように、饒速日命は、磐余彦が攻撃した時点では既に死亡していた。 従って、磐余彦に歯向かったのは長髓彦の独断であり、饒速日命に責任はないものとする。 それどころか、饒速日命は瓊瓊杵尊に先立ち、高皇産霊尊の詔によって天降りしたことになっている。 つまり〈天孫本紀〉によれば、饒速日尊が磐余彦に歯向かった部分は抹消され、先に天降りしたのも高皇産霊尊の詔によるものだから1ミリもやましいところはない。 韴霊劍は、神武天皇が宇摩志麻治命の功績を称えて賜ったものとして、 宇摩志麻治命の功績を前面に押し出す。 饒速日命は途中で悔い改めたとは言え、一度でも天孫に不服従だったとされるのは、物部氏族にとっては面白くないのだろう。 物部氏にとっては、その始祖の行いに一点の曇りも我慢できず、そのために祖神の神話さえも書き換えたのである。 《対応する歴史的事実》
饒速日命の抵抗から服従に至る神話に対応する歴史的事実は、 その祖である「鳥見山王朝」〔本サイトによる造語〕の王が桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳に眠るところにあるのではないかと考えた(第115回)。 この一族は天照族の侵入と戦ったが、やがて服属して物部〔武器管理の職業部〕となって石上に遷ったというものではないかと想定した。 石上神宮が兵器庫を起原とすることは、既に明らかである(第116回【石上神宮】)。 また、メスリ山古墳は竪穴式の副石室を備え、武器ばかりが大量に納められていることが注目される (第115回)。 さて、さらに遡って物部氏の始祖〔饒速日族と仮称する〕の畿内への到来について考えると、最初に天磐船が降りたとされる「河内国の河上哮峰」が注目される。 饒速日族も、河内国河上哮峰に降りたとされるから、西方から波状的に畿内にやってきた諸族の一つである。瀬戸内海を通り、難波から上陸して河を上り「哮峰」を仰ぐ土地に定住したのだろう。 その後、鳥見山の麓に進出して栄えたのではないだろうか。 【布留宿祢】 〈姓氏録〉神別には、石上朝臣とは別に「布留宿祢」がある。
また、「布都努斯神社」という神社名が出てくる。これについては〈延喜式-神名帳〉に{大和国/山辺郡/石上坐布都御魂神社【名神大。月次相甞新甞。】}はあるが「布都主神社」はないから、「布都努斯神社」は「布都御魂神社」の別名かも知れない。 そこで〈天孫本紀〉を見ると、神剣の別名が列挙されている。
すると、倭に達(みたし?)〔行幸の意味か〕された仁徳天皇が「賀す」=「祝う」ことには「建立」の意味を伴わず、 「訪問して祝賀した」だけにしないと辻褄が合わない。何故なら、布都御魂神社は神武天皇のときに既に遷建されていたからである。 さて、曽我蝦夷大臣は、当時権勢を誇って国政を支配していた。〈姓氏録〉の記事は、武蔵臣が何らかの不祥事により宗我蝦夷の怒りを買い、懲罰的に臣姓を剥奪されて首(おびと)姓に落とされたと読める。 この布留宿祢の起源は、この地を本貫とした和爾氏族であろう。多くは既に各地に分散したが(第105回)その残存勢力か。 布留宿祢は布都努斯神社の「神主」家だが、その布都御魂神社は物部氏が代々奉斎していた。そして、布留宿祢は、かつて「物部首」であった。 これを見ると、石上・布留を本拠とした両族は、単なる共存ではなく融合してほぼ一体であったように思われる。 この現実について〈姓氏家系大辞典〉は「此の〔石上氏・布留氏という〕二流の物部氏は血族を異にすれど、相提携して各地の経営に従事す」と表現したと見られる。 さて天武朝の頃から、朝廷に仕える諸族へのポスト配分の根拠として朝廷との関わりの濃淡を定義しようとしていたと見られる。そのために、各家は系図を確立する必要に迫られた。 高橋氏文は、その身上書の一例と見られ、また古事記の重要な役割のひとつもここにあると言える。 ところが物部氏族の系図を精査したところ、天足彦国押人命系と饒速日命系の混在が判明したのである。 氏族の融合が伺われる例としては、鴨氏と大三輪氏の例がある(第206回)。 物部氏族は天武朝のときに血筋によって二系統に峻別され、それに伴って「物部首」の名を「布留宿祢」に改め、 同時に「物部朝臣」が「石上朝臣」に改められたと理解すると、大いに納得がいくのである。 《天武天皇紀に見る物部氏》 物部が布留・石上に分化する詳しい経過は、〈天武天皇紀〉に示される。
遡って天武天皇十二年〔683〕九月、物部首は連姓を賜る。 その後布留連に改め、同十三年十二月に、布留連は宿祢姓を賜る。 ところが、〈天武紀〉には布留宿祢がまだ物部首だった頃の五年二月、「物部連摩呂」の名が見える。よって「摩呂」の「物部連」は、物部首とは別の氏である。 なお、物部連摩呂は石上朝臣麻呂と同一人物と見られ、 〈天孫本紀〉には「十七世孫:物部連公麻侶」と表記され、 「淨御原朝〔天武天皇〕御世。天下万姓改二-定八色一之日改二連公一賜二物部朝臣姓一。同朝御世。改賜二石上朝臣姓一。」 とある。これは〈天武天皇紀〉と合致する。 天武十二年九月になると物部首が連姓を賜るから、それから一定期間は二氏の「物部連」が並存したことになる。 それでは紛らわしいから、まず以前物部首だった方を布留連に改め、次いで物部朝臣も石上朝臣に改めたのは自然の成り行きであろう。 単に区別するだけならどちらか一方に「物部」の名を残すこともできるが、それでは揉めたであろう。 それなら「布留物部・石上物部」ならどうかとも思われるのだが、むしろこの機会に「物部」の文字そのものを意識的に除いたように見える。 それはやはり、氏族を正確な系図によって峻別する動きに伴うものであろう。 それまでの「物部」は石上・布留地域で起原を異とする諸族の統合体の、比較的緩い名称だったのかも知れない。 【先代旧辞本紀の評価】 《偽書説》 〈姓氏家系大辞典〉によると、 「徳川時代、旧辞記〔=先代旧辞本紀〕の偽作なるを発見して以来 (旧辞記偽撰考等)、此書の価値は俄かに減じて学者によりては 「無をまされりとす」〔=この書は存在しない方がまだ良い〕(久米博士)とまで極限する人あるに至りし」 というまでに酷評された。 〈天孫本紀〉(第三巻)を見た限りではあるが、饒速日尊を天孫に祭り上げたり、神剣韴霊が大神神社の大神であるかの如く錯覚させたりして、 確かに我田引水と他力本願により物部氏を高めている。記紀を改竄してでっち上げた、もっともらしい古文書にも見える。 だが、〈姓氏家系大辞典〉は、他の史書との比較研究が進み、 「漸く其の信用は復活して、今日にては多数の学者其の説を採用せられるが如し」と述べ、太田亮自身もその一人であると自認する。 《記から書紀への間に見られる深化》 書紀のみを唯一神聖とする立場から見れば、『先代旧辞本紀』における捻じ曲げは冒涜である。 しかし、その書紀自身が流動的な形成過程の中にある。 これまで、古事記と日本書紀の不一致点のいくつかは、諸族の系図の蒐集や、神学の研究の深化によるものであると考えた。 特徴的なのは、皇祖を天照大神から高皇産霊神に移したことである。 これは、素材の中心を淡路島起原から対馬壱岐起源の神話に移した結果ではないかと考えた。 あるいは、天武天皇の伊勢氏族への肩入れへの反動が、崩後に起きたことも考えられる。 また、記の孝霊天皇段(第107回)の「大吉備津日子命は上道臣の祖、若日子建吉備津日子命は下道臣の祖」の修正が、書紀の「御友別」の件に見られる。 書紀では、上道・下道の分割は、応神朝まで降る。 そこでは「書紀が改めて諸族の起源を調査した結果、吉備国の分割は稲建別の時代まで下ることが判明した。 その調査結果に基づいて、孝霊朝まで遡って書き直したということではないだろうか。」 と考察した(応神天皇紀二十二年)。 さらに饒速日尊については、古事記では天孫が降りたことを後から聞き、追いかけて降りてきた。 ――「邇芸速日命」(にぎはやひのみこと)は「聞二天神御子天降坐一故追参降来」 〔天神(あまつかみ)の御子天降(あもり)坐(ま)せりと聞きて、故(かれ)追ひ参降(まゐくだ)り来(き)〕。 それに対して書紀では、天孫より先に天磐船に乗って降り畿内を占拠している。 これは、物部氏内部で伝えられてきた始祖伝説〔天磐船に乗って天降りして云々〕を書紀が追認したと思われる。 《書紀と同根》 書紀の記述の中に、『先代旧辞本紀』独自の記述の足掛かりになる箇所は確かにある。 まず、饒速日尊を天孫と規定することに関しては、記と「一書8」(前述)の「天火明命」を饒速日尊と同一とすれば、細い糸で繋がっている。 また、〈天孫本紀〉は天孫を地上に送った神を「天神御祖」「天祖」などと表現する。 一方、記が畿内で戦う場面で磐余彦を表現する語は「天神御子」で、書紀も「天神子」を用いる。 その天神が高皇産霊神であろうが天照大神であろうが、そのような神学上の規定はこの場面では些末なことなのである。 だから、この場面に限れば、饒速日尊に天降りを命じた神への「天神」「天祖」という表現は、記紀も同じようなものである。 そもそも先に述べたように、饒速日尊も西方から波状的に畿内に到来した諸族の一つと見られる。 各氏の間には恐らく交流があり、天降り神話の骨子は共有されており、それを氏族毎にカスタマイズしたバージョンを持っていたと考えられる。 天照族は天磐座を押し分けて登場し、饒速日族は天磐船に乗って降りた。 どちらも始祖が天降りするとき、磐座から登場するのである。 だから、書紀を絶対視すると饒速日尊の描き方は異端に見えるが、基本的に同類型である。氏族毎にその始祖として固有の人格神を定め、そこから始まる精密な系図を制作した段階に至って、初めて差が生じるのである。 《書紀成立後の我田引水》 ただ、八田皇女を「印葉連公の妹山無媛が応神天皇の妃」となって誕生した子とする点に関しては、物部氏がその時点で天皇の外戚として存在した如き印象を与えるための細工であろう(第170回)。 欠史八代の時期に大神神社に奉斎した如き描く部分も大三輪氏に便乗したものと言える。 これらを含め、書紀成立後になってから我田引水的に書き加えた部分が見られる。 しかし、前項の饒速日尊が天孫であると主張する部分、そして〈新撰姓氏録〉にも登場する名前の部分については、やはり「物部朝臣」そして「石上朝臣」を賜る時期の提出文にあったのではないかと思われる。 後に上記の我田引水部分を書き加えて、後の『先代旧辞本紀』になったのではないかと思われる。 《天孫本紀成立の背景》 各氏ごとの祖神の規定と系図の確立は、天武天皇の頃から進んだと見られる。 その結果明らかになったことにより、記から書紀の間に諸族の系図の部分の変化が生じたのである。 天武天皇は中央集権を強め、かつての曽我氏の勃興のような、力による進出を防ごうとした。 そのために始祖の身上書としての家系図を要求し、それを根拠とする一定の枠の中に氏族を収め、統制する。 物部連の場合、恐らく原形になり得る伝承〔または古文書〕があった。それを基にして、朝臣姓を賜わった時期に〈天孫本紀〉の部分の概略を書き上げたと見られる。 しかしそれは、天足彦国押人命を祖とする和珥氏系の「物部首」の系図とは相容れないものだったから、もはや宇摩志麻治命を祖とする氏とは分離せざるを得なかった。 それが、石上朝臣と布留宿祢の分化の原因であろう。 想像するに、石上朝臣は〈天孫本紀〉という立派な文書を整えて提出することができたから朝臣となり、 布留宿祢はあまりしっかりした文書を作ることができなかったから、宿祢に留まったのではないだろうか。 【先代旧辞本紀の成立】 『先代旧辞本紀』第十巻の〈国造本紀〉の最終記事は、弘仁十四年〔823年〕である(後述; 第109回《国造本紀の読み方》)。 国造本紀の「国造」には、(1)律令国成立以前の概ね郡レベルの行政区域としての「国造」、(2)奈良時代以後の律令国の変遷が混在している。 さらに(1)の「国造」は、中央政権の支配域が畿内と北九州だった時代の「県主」に対応する(資料[26])。 『先代旧辞本紀』全体の成立も823年以後であろう。 「先代旧辞本紀序」によると、「大臣蘇我馬子宿祢等」が、 聖徳太子から「〔推古天皇〕即位廿八年歳次庚辰〔620〕」に勅旨を受けて撰録したものとされ、「卅年歳次壬午〔622〕」の日付がある。 この「序」が全くの創作であるのは明らかである。 第五巻の〈天孫本紀〉全体と、第三巻〈天神本紀〉の一部に物部氏に関わる部分が大幅に書かれるが、それ以外の内容は記紀を元にしたように見える。 『先代旧辞本紀』は次のようにして成立した文書ではないかと思われる。 ① 天武天皇のときに朝廷に提出された"物部氏文"(仮称)ともいうべき文書が存在した。 ② ①の前後に、記紀〔及び、若干の他の史料〕から得た内容を書き足して通史の体裁に整え、九巻にまとめる。 ③ 書紀に付属していた系図一巻に物部氏関係を書き足して、系図巻とする〔いずれも逸書〕。 ④ 飛鳥時代から残されていた国造本紀の原型に、奈良時代の律令国の遷移を付け加えて第十巻とする。 ⑤ 序文を付して、聖徳太子のときに蘇我馬子が撰録したように装う。 しかし、〈国造本紀〉「賀我国造」に「弘仁十四年〔823〕」に越前国を分割して加賀国が成立した記事が載る。これは後世の書き足しも疑われるが、 それなら「丹後国造:諾良朝御世。和銅六年〔713〕。割丹波国」はどうだろうか。 もしこの何れかでも最初から書かれていたとすれば、果たして推古天皇三十年などという、すぐに嘘がバレる序文を付けるだろうか。 第九巻が聖徳太子の薨で終了する点は序文に合致するから、〈国造本紀〉を追加したのはその後かも知れない。 何れにしても、この序文を付けた者の思惑はどこにあったのだろう。 そもそも全十巻からなる歴史書を私的に撰録したとすれば、大変な労力である。 その動機としては、石上麻呂の子孫が引き続き石上朝臣の地位を維持するために、 "物部氏文"(仮称)を発展させて歴史書に仕立てたと考えるのが自然であるように思われる。 そのときに、聖徳太子の時代の歴史書を秘蔵していましたとでも言って献上したのであろうか。 まとめ そもそも書紀の編纂は、天武天皇が日本の中央集権化を図る一環であった。 白村江の戦い〔663年〕は、百済の再興を援助しようとして、倭が軍を渡海させてて戦ったものだが、敗北して半島への足掛かりを完全に失った。 以後唐による攻撃に備えて、北九州に防衛線を引くことになる。 壬申の乱〔672〕に勝利して即位した天武天皇は、唐からの圧迫感により日本の中央集権化を急ぐ。 精神面の統合のためには、日本も中国に匹敵する歴史書を編纂し、 またその書によって天皇家が国を治める正当性を証明しなければならない。 そのため、天武天皇十年〔681〕三月庚午朔丙戌〔17日〕「詔二川嶋皇子忍壁皇子〔他十名〕一令レ記二-定帝紀及上古諸事一」 〔川嶋皇子・忍壁皇子ら十二名に、帝紀及び上古諸事を記定させた〕。 それが、後に〔720〕日本書紀に結実したと見られる。 内政面では、かつての蘇我氏の台頭のようなことを防がなくてはならない。 並みいる豪族を統制するために、それぞれの始祖の朝廷との関係を明確にして、 その関わりの濃淡による縛りをかけて朝廷内の地位・役割を規定しようとしたと見られる。 そのため、諸氏に系図の提出を急がせた。 物部の石上朝臣と布留宿祢への峻別は、その過程で起こったと位置づけることができる。 こうして、680年頃から720年頃までの期間に、諸族の祖と系図の研究が深まっていったと思われる〔《記から書紀への間に見られる深化》;前述〕。 その過程で書紀は記にはない天磐船伝説を加え、「一書8」として天孫と天火明命との兄弟関係を認めたのではないだろうか。 これらは物部氏の独自の伝承に基づく主張に対して、幾分かの譲歩を見せたように思われる。 このように、天武朝の頃は、記紀も〈天孫本紀〉の元になった文書も未だ流動していた。 〈天孫本紀〉を含む『先代旧辞本紀』が単純に偽書とは言えない所以である。 |
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2019.10.31(thu) [38] 天孫本紀―尾張連 ▼▲ |
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『姓氏家系大辞典』によれば尾張連の発祥の地は葛城で、乎止与のときに尾張国に移ったとされる。
一方、〈天孫本紀〉(『先代旧辞本紀』第五巻)によれば、尾張連もまた饒速日命の子孫である。
〈天孫本紀〉によれば、饒速日命は、尾張連と物部連(石上朝臣)の共通の祖神である。 饒速日命は、天上で天香語山命を生み、天降りして宇摩志摩治命を生み、 それぞれ尾張連と物部連(石上朝臣)の祖となる。 〈天孫本紀〉の構成は、①饒速日尊の天降り。②天香語山命についてと、そこから十八世孫の尾治乙訓与止連に到る系図。 ③宇摩志摩治命と、そこから十七世孫の石上朝臣麻侶に到る系図の三部からなる。 ①では、饒速日尊(「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊。亦名天火明命。亦名。天照國照彦天火明尊。亦名饒速日命。亦名膽杵磯丹杵穗命」)が、天璽瑞宝をもって天降りしたことなどを述べている。 ②は、天香語山命(「天降リテ名ハ手栗彦命。亦名高倉下命」)が、窮地に陥った神武天皇を布都御魂の剣によって助けたこと(資料[37]、第97回)を述べ、 その子孫の系列を示している。 ここでは、その系列を図式化する。 天香語山命からの系列を表す部分には不確かな点が若干あるが、特に矛盾や混乱は見られず、概ね一義的に図式化することが可能であった。 原文は、『国史大系』第七巻(明治三十一年〔1898〕経済雑誌社)によった(国立国会図書館デジタルコレクション/『国史大系』第七巻で閲覧可能)。 ここに作成した図を示す。
【親子間の接続の読み取り】 N世孫に複数の人物が列記された場合、(N+1)世孫がN世孫のどの人物に接続するか明示されていない場合〔下記第三項以下〕がある。 ●N世孫が一子のみ、あるいは男子が一子のみの場合、(N+1)世孫がその子であるのは明らかである。 ●「○○之子」と明示されていた場合は、それに従った。 ●「A ○○之子 次B 次C」のように書かれた場合は、「○○之子」がB、Cまで及ぶと判断した。 ●N世孫のうちの一名Aだけから子が生まれた場合は、(N+1)世孫はすべてAの子とした。 ●九世孫は、二番目に書かれた子のみが女子なので、谷上刀婢が生んだ一男一女に始めの二人、大伊賀姫が生んだ四男に次の四人を割り振った。 ●以上のどれにも当てはまらない十一世孫・十五世孫は、ひとまず十六世孫~十八世孫に倣って筆頭に書かれた者の子とした。 【世襲足姫命】 世襲足姫命は孝昭天皇の皇后となって、天足彦国押人命と孝安天皇を生む。 この部分は記紀と同じである(第105回)。 世襲足姫命は、記では「尾張連之祖奧津余曽之妹。名ハ余曽多本毘売」とされる。 書紀でも「世襲足媛。尾張連遠祖瀛津世襲之妹也。」(孝安天皇―第106回)とされる。 したがって、〈天孫本紀〉の世襲足姫命の記述は、記紀に沿ったものと言える。 孝昭天皇の宮は「掖上」の「池心宮」、陵は「掖上博多山上陵」で、どちらの伝承地も葛城にある。 〈天孫本紀〉で、瀛津世襲命の亦名を「葛木彦命」とすることも、瀛津一族の本拠が葛城であることを意味し、 この地で孝昭天皇を戴いたことを示している。 これにより大王持ち回り制(第162回)をこの時代に遡らせ、孝昭天皇が皇子であったときに婿に招き、諸族の合議により孝昭天皇を大王に推戴したという筋書きを想定することができる。 あるいは、葛城氏族に伝わる古代王朝の言い伝えを重んじ、欠史八代の一代に組み込んだという見方もできる(第102回)。 この孝昭天皇の件を例によって〈天孫本紀〉流の我田引水により、天香語山命系列に組み込んだものであろう。 【大海姫命】 大海姫命は七代孫。記では崇神天皇は「尾張連之祖ノ意富阿麻比売」を娶り、 「大入杵命。次ニ八坂之入日子命。次ニ沼名木之入日賣命。次ニ十市之入日売命。」の四子を生む(第110回)。 書紀では「尾張大海媛」を妃として、「八坂入彦命・淳名城入姫命〔異本に「淳中城入姫」あり(北野本)〕・十市瓊入姫命」を生むとあり、書紀の方と一致している。 大海姫も「尾張連の祖」と言われていたことから、天香語山命系列に組み込んだのであろう。 【金田屋野姫命】 金田屋野姫命は、品陀真若王との間に高城入姫命以下の三姉妹を生み、仁徳天皇の妃となる。 こうして、仁徳天皇をも尾張連の先祖の閨閥に取り込むのである。これも〈天孫本紀〉流の我田引水のひとつと言える。 「品陀真若王」の名は記にはあるが、書紀にはない (第148回)。 〈天孫本紀〉で三姉妹が生んだとされる皇子皇女のリストは書紀に近い。ただ書紀の「大原皇女」は弟姫の子に移り、「澇來田皇女」がなくなる。一方書紀にない滋原皇女の名が加わっている (第148回【記紀の比較】)。 品陀真若王は、河内国志紀郡誉田荘のあたりの氏族であろうと考えられる(第148回《品陀真若王》)。 〈天孫本紀〉では、品陀真若王の父を五百城入彦とする。五百城入彦は景行天皇の皇子で、三人の皇太子の一人である(第122回)。 十二世孫~十三世孫の範囲で、記との対応が見える(⇒の右が記)。 ★建稲種命⇒建伊那陀宿祢(尾張連之祖)。 ★尾綱真若刀婢命⇒志理都紀斗売。★五百城入彦命⇒五百木之入日子命。 ★品陀真若王⇒品陀真若王。 ★金田屋野姫命⇒(記載なし)。 これに対して書紀では、高城入姫姉妹のことを「五百城入彦皇子之孫」と述べ、品陀真若王をすっ飛ばしている。当然真若王の母方の「尾綱真若刀婢―志理都紀斗売」に相当する人物も出てこない。 従って、十二世孫から十三世孫の部分は記と合致している。この部分は〈天孫本紀〉が記を利用したのかも知れないが、 逆に尾張連の伝承を記が取り入れた可能性もある。 一方、景行天皇段・紀で示した系図(第122回)を見ると、 ●書紀では「尾張大海媛―八坂入彦皇子―八坂入媛―五百城入彦皇子」 ●記では「意富阿麻比売(尾張連之祖)―八尺入日子命―八坂之入日売―五百木之入日子命」 の血筋が見え、ここにも尾張大海媛〔崇神天皇の妃〕から微かな繋がりがある。 〈天孫本紀〉は、さらに「品陀真若王」を二代前の「尾張連の祖」から生ぜしめて、 天香語山命系かつ尾張系の人物に仕立て上げるのである。 【允恭天皇御世】 天皇の表記には、「~宮御宇」、和風諡号、漢風諡号が混在する。 「腋上池心宮御宇天皇御世」(孝昭)「磯城瑞籬宮御宇天皇」(崇神)は、それぞれ坐した宮による。 「誉田天皇御世」(応神)、「大雀朝御世」(仁徳)、「去来穂別朝御世」(履中)は和風諡号。 両者を合わせた「腋上池心宮御宇観松彦香殖稲天皇」もある。 ところが、「允恭天皇御世」に限っては漢風諡号である。 ここで、漢風諡号の成立時期を探ってみよう。 〈釈紀〉巻九「述義五」に、 「神武天皇:私記曰。師説。神武等諡名者。淡海御船奉勅撰也。」〔神武など諡名(おくりな)は、淡海御船、勅撰奉る〕とある。 淡海三船は地方への赴任が多かった。以下〈続紀〉によって経歴を見ると、 天平宝字六年〔762〕正月「従五位下淡海真人三船為文部少輔。」から 天平宝字八年〔764〕八月「従五位下淡海真人三船為美作守。」の期間は都にいた。 宝亀二年〔771〕七月「正五位上淡海真人三船為刑部大輔。」以後は基本的に都にいたと見られ、 宝亀三年〔772〕に「文章博士」。 延暦元年〔782〕八月に「為二兼因幡守一。文章博士如レ故。」〔如故=「以前のまま」〕で因幡守になるが、 延暦三年〔784〕四月に「為二刑部卿一。大学頭因幡守如レ故。」 とあるから、都にいたまま勤めた名目上の因幡守かも知れない。 そして、延暦四年〔785〕七月庚戌〔十七日〕に「淡海真人三船卒。」即ち死去する。 漢風諡号の制定が、「文章博士」としての仕事と見れば、漢風諡号の成立は775年から785年の間、 「文部少輔」としての仕事と見れば、762年から764年の間となる。 従って「允恭天皇」を用いた部分は、奈良時代後半以降の書き込みということになる。 現在目にすることができる〈天孫本紀〉には、後世の人の書き込みが紛れ込んでいるのである。 ならば、天孫本紀全体そのものが古い書を装っているが、実は奈良時代後半に書かれたとする意見も予想される。 しかし古い書を装うのなら、むしろ「允恭天皇」のことも「遠飛鳥宮御宇天皇」と書いて統一を図るであろう。 資料[37]で述べたように、〈天孫本紀〉の原形は天武朝に提出した物部連の「氏文」にあり、 その内容が一部書紀に取り入れられ、のちに完成した記紀の内容に沿って整えられたとするのが本サイトの立場である。 【乎止与命】 同じ『先代旧事本紀』でも、巻十〈国造本紀〉には「志賀高穴穗朝。以二天別天火明命十世孫小止與命一。定二-賜國造一。」と述べる。 これは、〈天孫本紀〉の「十一世孫:乎止與命。此命。尾張大印岐女子真敷刀婢為レ妻。生二一男一。」とは趣が異なる。 〈国造本紀〉の「天別天火明命」という表記は、饒速日命のことなど我関せずである。もともと〈天孫本紀〉などとは別に作られていた〈国造本紀〉を『先代旧事本紀』に加えたのであろう。 〈天孫本紀〉の「尾張大印岐」の「いみき」は、天武天皇の八色の姓では第四位の忌寸であるが、 恐らくはイミキは地方氏族の長の姓として古くから存在していたものであろう。 〈国造本紀〉では尾張の在地氏族の町の娘「真敷刀婢」〔"とべ"は人名の接尾語。神代紀の石凝戸邊など〕を娶ることによって、尾張国に下ったと解釈できる。 なお、十世孫までは兄弟からの分岐を含み複雑であるが、十一世孫以後は長子以外からの分岐は省かれていて単純である。 また、十一世孫乎止与命は十世孫の誰の子であるかが不明確である。 ここからは、十世以前と十一世以後は、もともと別の系図であったものを接続した気配が見える。 〈国造本紀〉の「乎止与=国造」は別説であるが、乎止与命を尾張連の起点とするところは〈天孫本紀〉と共通している。 【尾張連と尾治連】 十三世孫尾綱根命のところに「品太天皇御世。賜二尾治連姓一」と記されていて、 次の十四世からの名前は揃って「尾治○○連」となる。 「〈氏〉〈人名〉〈姓〉」は、「〈氏〉〈姓〉(の)〈人名〉」と同義である。書紀には「大伴大連金村」と「大伴金村大連」がほぼ同数である(前者10、後者9)。 従って、「尾張連」の最初の人物は尾治弟彦連である。 ところが、それから遥かに遡る四世孫瀛津世襲命の分注に「尾張連等祖」とある。 瀛津世襲命からの系図はこれ以後途切れるから、このまま読めば 「瀛津世襲命を始祖とする尾張連」と「乎止与命を始祖とする尾治連」が共存するという意味不明なこととなる。 実際には四世孫孫瀛津世襲命の「尾張連等祖」は後世の校訂者が加えたもので、それが書紀の「尾張連遠祖瀛津世襲」〔記は尾張連之祖奧津余曽〕によるものと見れば、 理解可能である。 しかし、このような注記は混乱の元なので、書くとすれば「日本紀云此命尾張連遠祖」とすべきであろう。 記紀の「孫瀛津世襲命本家」説と〈天孫本紀〉の「建斗命本家」説は別伝の関係と位置付けられ、 大きく見れば葛城地域の天火明命を祖神に祭る一族の末裔が、尾張連〔=尾治連〕とする点は同じである。 さて、今述べたように瀛津世襲命「尾張連等祖」は後世の書き加えだが、 「尾張大印岐女子真敷刀婢為妻」は建稲種命の妻として系図の一部をなすから、原文の段階で書かれていたものであろう。 この系図全体を見ると「尾張」は地名、「尾治」は人名に使い分けられている。 十三世以前には、尾張・尾治の入った名前が出てこない。 だから、「『尾張氏』を名乗っていた一族が移住してきた結果、その地名が『尾張』になった」とする考えは、成り立たないであろう。 乎止与命が移る前、尾張は既に「尾張」という地名であって、その在地氏族であった尾張大忌寸が乎止与命を迎え入れ、娘の真敷刀婢を嫁がせてこの地を与えたと読むのが妥当だと考えられる。 姓の表記として敢て「尾治連」を用いたことには、理由があったと思われる。というのは、乎止与命の一族は移り住んだ土地の地名から「尾張連」あるいは「尾張国造」を賜ったのであるが、 一族には移り住んだ先の地名を氏族名にするのは、先祖をないがしろにされたようで不愉快だったのではないだろうか。 そのために、敢て「尾治」の表記を用いたと考えられる。しかし、周囲から見れば尾張も尾治も同じで、当たり前のようにして「尾張連」と呼ばれたのであろう。 それでは、神武天皇紀の葛城「高尾張邑」(第99回)とは何であろうか。 これについては、①その地が尾張連の本貫であったから、後にそれに因んで「高尾張」と呼ばれるようになった。 ②古く尾張地域出身の一族が葛城に移住した地域が「高尾張」と呼ばれた。などが考えられる。 まとめ 「天火明命=饒速日命」説は〈天孫本紀〉による我田引水であるから、これがなかったことにすれば、 尾張連自身の系図として成り立ち得るものである。 さらに原形に近づけるには、同じく我田引水と見られる「天香語山命=高倉下命」の件も取り除いた方がよいであろう。 世襲足姫命・大海姫命・品陀真若王・高城入姫命については、 記紀で「尾張連之祖」と書かれた名前を系図に組み込んだものと見られるが、 一部は逆に、原型となった尾張連の伝承から記紀に取り入れられたと見られないこともないから、 さらに精密な検証が求められよう。 以下は、尾張連の成り立ちについての本サイトによる仮説である。
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2020.05.12(tue) [39] 天孫本紀―宇摩志摩治命系列 ▼▲ |
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前回述べたように、〈天孫本紀〉の構成は、①饒速日尊の天降り。②天香語山命から十八世孫の尾治乙訓与止連に到る系図。
③宇摩志摩治命と、そこから十七世孫の石上朝臣麻侶に到る系図の三部からなる。
ここでは、③を図式化する。
まとめ 物部氏の系図の成立については、[37]で考察した。 代ごとの人数がその勢いを表すとすると、十四代で最も隆盛を極めたことになる。 時は敏達朝で、物部弓削守屋大連が廃仏派として辣腕を振るった。 |
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2020.05.21(thu) [40] 後漢書―挹婁国 ▼▲ |
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斉明天皇紀などに記された「肅慎」は、『後漢書』に「挹婁。古肅慎之國也。」とある。
『後漢書』は後漢〔25年~220年〕の史書で、 そのうち本紀十巻、列伝八十巻は范曄(はんよう)が著した。 范曄は、南朝宋〔420年~479年〕の人。 また、志三十巻も後漢書に含まれているが、本来は西晋〔265年~316年〕に、司馬彪が『続漢書』の志として著したものである。 「挹婁」(ゆうろう)条は、列伝の「東夷列伝」に収められている。 【東夷列伝】 「東夷列伝」に挙げられた国々から、それぞれの位置関係を述べた部分を抜き出して、図示する。
「北沃沮」は「南の界、挹婁に接す」とあるのは「挹婁」の「南は北沃沮と接す」と辻褄が合わない。 「挹婁の人は乗船して寇抄し、北沃沮はこれを畏れる」とあるから、「界南接挹婁」は「北界」の誤りであろう。 「濊」・「濊貊」については「濊、南は辰韓と接する」かつ「辰韓、北は濊貊と接する」とあるから、同一であろう。 ただ、濊と貊が別々の国である可能性もなくはない。 ここまでは、上記のうち「界南接挹婁」さえ「北」に修正すれば、相互の配置に矛盾はない。これらの国々は、ほぼ実在したと考えられる。 ところが、島々の国に移ると打って変わって伝説風になる。「州胡国」については「馬韓の西」にそれらしい島はないが、「馬韓の南」でよければ済州島がある。 なお、済州島は「耽羅国」として、『旧唐書』列伝「劉仁軌」の白村江の戦いのところなどに出てくる。 「倭」が、漢の南東の大海上にあるとされるところは実在感がある。現実の交流を反映したものであろう。 ところが、「倭」が会稽東冶の東にあるとする部分は伝説である。朱崖・儋耳と習俗が似ることとともに、魏志と同じようなことが書かれる。 東方千余里の現実には存在しない島は、魏志にも「倭種」の島と書かれる(魏志倭人伝[65])。 後漢書はこれを狗奴国とするところは、魏志と異なっている。 朱儒国・裸国・黒歯国は伝説の国で、これも魏志と共通である(同[66]、[67])。 「東鯷人」は、琉球かも知れない。 「夷洲及澶洲」には徐福伝説が添えられている。 「百度百科」には、夷洲は「大多数学者認為夷洲即当代台湾。」〔現代の台湾と認める〕などと書かれる。 また澶洲については、「按二地理位置一推四-断亶洲応三-該就二是日本一。」 〔地理位置を按ずるに、亶洲は日本に就けるべしと推断する〕と書かれている。 『呉書』呉主伝に「夷洲及亶洲」なる語句があり、「亶洲在海中。」、「求二蓬萊神山及仙薬一。止二此洲一不レ還。」との記述がある。 ここでは深入りしないが、目指す蓬莱には辿りつけなかったが、その途中の島に定住した人々がいると述べているようである。 それが台湾か沖縄か、あるいは九州などかは別として、現実に存在した島であることを伺わせる。 このように、大陸内部については、後漢書東夷伝の配置は概ね信頼がおけるから、 挹婁は現在のロシアの沿海州にあたると見てよいだろう。 【挹婁国】
魏志はまとめて「大家深九梯」とする。 後漢書以外で九梯という語が発見できたのは、 『太平御覧』、『三国志-魏書(挹婁伝)』のみである。 太平御覧は後漢書挹婁国の引用、魏書は後漢書挹婁国と同一内容だから、実質的には後漢書が唯一の用例である。 この「九梯」の意味は想像するしかないのだが、住民は家族ごとに山腹に「穴居」すると書かれている。 山の奥へ奥へと、階段をいくつも登って行き着く果て貴人の住居があると読めば、一応意味は通る。 《作廁於中》 作廁於中の部分を、魏志は「作溷在中央」とする。「溷」も厠(かわや)の意で、 「於中」を家の中央と解釈する。魏志で表現が異なる箇所はいずれも後漢書よりも解りやすく、ひとつの解釈を示すものと言える。 なお後漢書の成立は三国志より新しいので、両書ともに参照した古文献があり、後漢書は原形に近く、魏志では手が加えられたということであろう。 《種衆雖少而多勇力処山険》 「処山険」は「居二山険一」の意味であろうが、やや読みにくい。 魏志は「其人衆雖少所在山険」として「多勇力」を省き、 場所を移して「人多勇力」を「無大君長」の前に置いている。 また「種」→「其人」、「処山険」→「所在山険」として読みやすくなっている。 《能入人目》 能入人目を「人の目を射る」と読むととても奇妙である。「よく目にする」意か。 ただ、魏志が「善射。射人皆入」〔上手に射る。人を射れば皆あたる〕に直したのは、やはり「矢が人の目を刺す」としか読めなかった為かも知れない。 《唯挹婁獨無法俗最無綱紀者》 魏志はこれを「唯挹婁不法俗最無綱紀也」に直した。 後漢書の書き方では「無二法俗一最二無綱紀者一」という 構文に取られかねないからであろう〔返り点は和訓のための符号だが、文法的な説明のために便宜的に用いた〕。 魏志は「~独無。法俗~」と区切って「(東夷扶余は皆、飲食類皆用俎豆を用いるが、)ただ挹婁だけは用いない」と読み取り、 誤読を防ぐために「無」を「不」に置き換えたと見られる。 《大意》 挹婁:古くは、肅慎の国である。 扶余の東北千余里にあり、東海岸は大海、南と北は沃沮に接する。 その北限は不明。土地の多くは山が険しい。 人の外見は扶余に似るが、言語はそれぞれ異なる。 五穀、麻布を生産し、赤玉〔宝石の一種〕を産出し、貂を好む。 君・長などの首長はおらず、村落にそれぞれ「大人」がいる。 山林の間に居住し、気候は極寒である。 常に穴居し、山深いほど貴人が住み、大家には九つの梯子〔階段〕を通ってやっと接近できる。 養豚を好み、その肉を食し、その皮を衣とする。 冬は豚脂〔ラード〕を身体に塗り、その厚さは数分〔1~2cm〕に及び、風と寒さを防ぐ。 夏は裸になり、一尺ほどの布でその前後を隠す。 人は臭く穢れて不潔で、住居の真ん中に厠を作り、その周囲で生活する。 漢が興って以来、扶余に臣属する。 種族の人数は少ないが多く勇力があり、山の険しい所に住む。 また弓射に優れ、よく人目に入る〔意味不明〕。 弓長四尺、威力は弩の如きである。 矢には楛〔植物名〕を用い、長さ一尺八寸。青石〔サファイアなど〕を鏃とし、鏃にはすべて毒を施し、人に当たれば即死する。 そして船に乗り、好んで国境を越えて略奪する。隣国は畏れ悩み、兵卒を服従させることができない。 東夷全体や扶余の飲食の類は、みな俎豆〔まな板や高坏〕を用いるが、 唯一挹婁は用いず、法俗〔生活習慣〕はもっとも綱紀〔規律〕を欠く。 【太平御覧、魏志】 『太平御覧』、『三国志』(魏書三十。挹婁伝)では、次のようになっている。
「所レ謂二挹婁貂一是」〔挹婁を貂と謂ふは是なり〕は、 伝わっている『後漢書』からは脱落したのであろう。この文は、貂が挹婁の別名であったことを示す。 《土氣寒劇於扶余》 「劇於扶余」は魏志のみ。寒さの程度を扶余と比べて言う。 《扶余責其租賦重》 「扶余責二其租賦重一以黄初中叛レ之。扶余数伐レ之。」 〔扶余その税賦の重きを責(せき)し、黄初を以ち之(こ)に叛(そむ)く。扶余数(しばしば)之を伐つ」〕も、魏志のみ。 「黄初」は三国時代の魏の年号。220年~226年。 「責」は、ここでは過酷な税を課す意。 【肅慎】 それでは、挹婁が肅慎であったのはいつの頃であろうか。「肅慎」は古い文献には、次の例が見える。 《山海経》 伝説としては、『山海経』〔戦国;前475~前220〕の「大荒北経」に、 「有二肅慎氏之国一。有二悲蛭四翼一。有レ虫、獣首蛇身、名曰二琴虫一。」とある。 《竹書紀年》 史書には、『竹書紀年』に「肅慎氏」がある。 『竹書紀年』は、西晋の咸寧5年〔279〕に墓から竹簡として発見。夏~戦国の編年体の史書。 本体は散逸し、現在まで残る輯本〔断片を収拾して原形の復元を試みた本〕は偽書と言われる。 ・周武王〔在位前1046~前1043〕「十五年。肅慎氏来賓。」 ・成王〔在位前1042~前1021〕「九年。肅慎氏来朝。王使二栄伯錫一肅慎氏命。」 《漢書》 『漢書』に、次の記述が見える。
漢書に「昔。武王」のときと書かれるわけだから、周代には「肅慎」で、 遅くとも前漢〔前220~〕の時代には「挹婁」になっていたわけである。 また、楛矢は肅慎以来の伝統的な特産物であった。 まとめ 『後漢書』東夷伝には「倭」も書かれるが、その位置については「韓の南東」と「会稽東冶の東で朱崖儋耳に近い」という二重性がある。 後者は、東鯷人・夷洲・澶洲と位置が重なる点を見てもリアルさを欠くもので、全くの伝説であろう。 それに比べて韓・高句麗・扶余などの実在は明白で、このように東夷伝において大陸の国は歴史で、東シナ海から太平洋の島々は伝説である。 倭については、「韓の南東の倭」は歴史の側だが、「会稽東冶の東の倭」は、伝説の側である。 そして朱崖儋耳と同類とする見方がどうやって生まれたかは、興味深いテーマである。 さて、挹婁国は歴史の側と見られる。そして日本海に船を漕ぎだして、海賊行為をはたらいていた。 その被害はもっぱら北沃沮のところに書かれているが、近いから頻繁だったのだろう。 |
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2020.08.16(sun) [41] 称号「天皇」の開始時期 ▼▲ |
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記紀においては神武天皇から「天皇」であるが、これは実際にはオホキミなどと呼ばれていた国家の主に対して「天皇」を遡って用いたものである。
これは、あまりにも明白であるが、それでは実際に「天皇」と称されるようになったのはいつのことだろうか。
『日本古代の典籍と宗教文化』〔増尾伸一郎著。吉川弘文館;2015。以下〈増尾論文〉〕によると、 「津田左右吉は法隆寺金堂の薬師如来像光背銘に「池辺大宮治天下天皇」〔用明〕とあるのに基づき、 推古期から始まり徐々に公式な称号になったとみたが、この点については批判的研究が相次いだ」とされる。 この「薬師如来像光背銘」については〈元興寺伽藍縁起并流記資財帳をそのまま読む〉のページの第三回で論ずるが、 「天皇」号を用いるようになった時期に追刻されたものであることは確実である。 中国側の歴史書「二十四史書」後述では、日本国の国家主としての「天皇」に言及されるのは平安時代になってからで、 それ以前には全く出てこないから資料としては使えない。 日本国内の「天皇」の考古学的資料としては、1998年に出土した木簡が最古である。 〈増尾論文〉はその木簡と、唐で唯一「天皇」称号を用いた高宗との関連に注目している。 今回は、日本国で「天皇」号の開始がいつ頃であったかを探る。 【木簡】 まず、1998年出土の「天皇」木簡がどのようなものかを見る。
藤原京には二件あるが、そのうち一件は実際には「天王」である。 ●「飛鳥・藤原宮発掘調査出土木簡概報(十六)」(2002) 七条大路北・朱雀大路東の115次調査。藤原宮期前半の「SG501区」の「■〔四?〕天王」。天皇ではなく四天王(仏教における四神)のように思われる。 残る一件が確実に「天皇」である。 ●飛鳥池遺跡〔飛鳥寺の南東の工房跡〕北地区から出土。 右の画像は、〈木簡庫〉から得た画像のコントラストを強調したもの。 〈木簡庫〉によれば「天皇衆■〔露カ〕弘寅■」と読み取られ、 「上端・左辺削り、下端折れ、右辺割れ。上端は左角を削り落とし、裏側を面取りする。「露」は雨冠の他字の可能性もある。」 と解説されている。 「飛鳥・藤原宮発掘調査出土木簡概報(十三)」(奈良国立文化財研究所;1998) によると、この木簡が採取された溝(SD05区)は幅6~7m、深さ0.7~1mで、 3450点が採取され、うち三点には「庚午年」〔670〕、「丙子年」〔676〕、 「丁丑年」〔677〕の年記があるという。この区の木簡に見えるサトの表記はすべて「五十戸」で、 「里」は一点もないから「木簡に関しては天武朝におさまるかも知れない」という。
また、「五十戸」が最後に現れるのは、持統天皇元年〔687〕「若狭小丹評木津五十戸」である。 したがって、SD05区出土木簡群の文字は、およそ670年頃~687年の範囲で書かれたもので、 その期間は天武天皇の在位期間〔673年~686年〕とほぼ重なる。 この木簡の時代の「天皇」は天武だから、 ①直接天武天皇の御事績を「露を衆(あつ)め、寅■に弘(ひろ)む」と称えたもの。 ②中国古代にあった言葉で、この頃中国で復活した「天皇」〔天帝〕を論じたもの。 などが考えられる。 何れにしても、唐の高宗が「天皇」を称してからこの言葉が唐に広がり、 それが倭国内に持ち込まれた状況を物語るものではないかと思われる。詳しくは【唐高宗】の項で述べる。 【遣隋使】 『隋書』大業三年〔607〕に「其王多利思比孤遣使朝貢。其國書曰「日出処天子致書日没処天子無恙」云云。」とある。 それに対応するのが、〈推古紀〉十五年〔607〕の「秋七月戊申朔庚戌、大礼小野臣妹子遣二於大唐一、以鞍作福利為通事。」である。 書紀は、『隋書』の「国書」には触れていない。『隋書』は636年本紀・列伝が、656年に志が成立した。 書紀が〈神功皇后紀〉で『三国志』を参照しているのを見れば、『隋書』も既に入手していたと考えられる。 もし〈推古紀〉に「国書」の内容を書くのなら「日出処」の「天子」を「天皇」に直さなければならないが、さすがに『隋書』の記述そのものはいじれないので、「国書」そのものに触れなかったと考えることができる。 その代わりということだろうか、十六年に裴世清の帰国に小野妹子が同行して再訪したときの「辞」として 「東天皇敬白西皇帝。…」を載せている。 裴世清が帰国した際、倭の使が同行したこと自体は、隋書にも「復令三使者隨レ清来貢二方物一」 〔復(また)使者をして〔裴世〕清に隨(したが)ひ、来たりて方物を貢がしめき;再び使者を帰国する裴世清に同行させ、朝貢した〕と述べている。 しかし、そのとき二回目の「国書」が提出されたとは書いていない。 書紀は国書になかった「天皇」の語句を入れたかったと思われる。 そこで文章を作り直して「日出処天子致書日没処天子」を「東天皇敬白西皇帝」に置き換えた。それを実際には存在しない二回目の国書※1として書いたことが考えられる。 このことが、推古朝の頃には「天皇」の呼称はなかったことの、傍証になるかも知れない。
なお、書紀は隋の時期についても、唐への名称である「大唐」を用いている。 《隋書》 ここで、『隋書』の関連部分をもう少し見ておこう。 開皇二十年〔600〕「倭王姓阿毎。字多利思北孤。號阿輩雞彌。」〔倭王姓:あめ。字:たりしひこ。号:おほきみ。「天帯日子大王」か〕 「北孤」は、「比孤」であろう。また、 「王妻號二雞彌一」ともあるから、雞〔鶏〕彌=キミであろう。 「阿輩」はそのまま読めばアヘであるが、a)倭語のオホが古くアフだったのか、 b)隋の人にそのように書き取られたのかは分からない。金錯銘鉄剣の「意富比垝」はオホヒコと考えられるが、 こちらの方が時代が古いのに「意富」は万葉仮名そのものだから、 b)であるように思われる。 「新羅百濟皆以レ倭為二大國一。多二珍物一。並敬二-仰之一恆通レ使往來。」 の「以レ倭為二大國一」〔倭を大国と思い〕は、おそらく遣隋使の国書などによる倭の主張に基づくものであろう。 「無二文字一唯刻レ木結レ繩。敬二佛法一。於百濟求二-得佛經一。始有二文字一。」 〔仏法を敬い百済に仏法を求め得て〕が事実に合うのは明らかである。 その仏典を通して大量の文字の流入があったのも確かであろうが、 それ以前のことを「無二文字一唯刻レ木結レ繩。」 〔文字はなく、木に記号を刻み縄の結び方で情報を伝えた〕とするのは極端な段差があり、おそらく中国で古くから受け継がれてきた来た倭に関する伝承を、直接くっつけたものであろう。 『隋書』には、さらに「名二太子一為二利歌彌多弗利一。」とある。 少し深入りすると、『翰苑』に 「今案其王姓阿每。其國號為二阿輩雞彌一。華言二天兒一也。父子相二-傳王一」 「王長子號二和哥彌多弗利一。華言二太子一」 〔アメを姓、オホキミを国号〔ここでは「王号」の意か〕として、中国では天児の意味である。 王は父子相伝で、王の長子をワカミタフリと言い、中国の太子の意味である〕とある。 これを見ると『隋書』の「利歌…」は「和哥(歌)…」の誤りの可能性が高い。 だがミは美称として、タフリの意味は不明である。 理屈でいえば、アメタラシヒコは推古天皇となる。 〔アメタラシヒコは、孝昭天皇の皇子に天押帯日子命、大倭帯日子国押人命があるように(第105回)、 確かに伝統的な名前である。アマテラスもアマタラシと同根であろう。〕 しかし、~ヒコは男子名であるからかなり不審である。 何かの事情がありそうだが、差し当たっては保留しておく。 このように表記上の細かい問題は残るが、この他に裴世清が倭に派遣されたときの旅程も含め(魏志倭人伝をそのまま読む(5))、隋書は全体の流れについて概ね事実を述べていると思われる。 以上から、実際の「国書」の中では、倭国王を表す語として「天子」を使い、「天皇」を使っていなかったことは事実と見てよいだろう。 【唐高宗】 〈増尾論文〉は、 「道教を中心とした中国宗教思想の展開過程のなかで醸成された「天皇」の概念に基づき、 これを日本古代の新たな君主号とする契機になったのは、やはり唐の高宗が…咸亨五年(674)八月に皇帝を天皇と称し」たことだろうと述べる。 また、新羅の金石文「唐新羅文武王陵残碑」に「天皇大帝」の文字があり、 その成立時期は「碑の建立年代を文武王の没年の681年」または「682年六月以後」と見られているという。 そして「唐の最新情報は、唐から新羅経由で帰国した留学生や留学僧らに加えて、遣新羅使によってもたらされたものも大きかったことは想像に難くない。」 と述べている。 〈増尾論文〉のこの部分の論旨は、唐の高宗が674年に初めて「天皇」を称し、倭もその影響を受けて「天皇」を用いるようになり、 新羅も同様に「天皇大帝」を称したと受け止められる。 本サイトの原文直接参照主義に基づき、ここでも『旧唐書』から関係箇所の原文を見る。 《旧唐書》 高宗冒頭文: 「高宗天皇大聖大弘孝皇帝、諱〔いみな〕治、太宗第九子也。」 咸亨五年〔674〕: 「秋八月壬辰。追二-尊宣簡公一為二宣皇帝一。 懿王為二光皇帝一。 太祖武皇帝為二高祖神堯皇帝一〔618~626〕。 太宗文皇帝為二文武聖皇帝一〔626~649〕。 太穆皇后為二太穆神皇后一〔高祖の皇后〕。 文徳皇后為二文徳聖皇后一〔太宗の皇后〕。 皇帝称二天皇一。皇后称二天後一。」 旧唐書全体を見渡しても、高宗の前にも後にも「天皇」の称号を用いた皇帝はなく、「高宗天皇」は全く孤立している。 他の王朝では、梁の太祖「大聖大明神烈天皇帝」〔907~926〕が一代限りの「天皇帝」である。 『旧五代史』〔975年頃〕-「荘宗紀三」には『契丹国志』の引用に「天皇」がある。他にも散在するも知れないが、今のところ調べ切れていない。 一方古代の伝説的な帝としての「天皇」は、漢代の文献などに見える。 一例として、『潜夫論』〔後漢〕五徳志。 ――「世伝二三皇五帝一、多以為伏羲…未可知也。 我聞三古有二天皇・地皇・人皇一、以為或及此謂、亦不二敢明一。」 〔世に三皇五帝として伝わる。多くは伏羲〔古代の皇帝名〕…などと思われるが不明。 古く天皇・地皇・人皇があるが、由来や謂れは敢て明らかにされない〕 また〈汉典〉には、「①天帝。②古帝名。伝説中国遠古三皇(天皇、地皇、泰皇)之首。」とある。 高宗は、古代の天帝の名称「天皇」を何らかの思想によって、復古的に称号としたがそれ以後は定着せず、 結局高宗一代に留まったと思われる。 《日本の「天皇」》 『新唐書』列伝第一百四十五「東夷」は 「日本、古倭那也」「彦瀲子神武立、更以二天皇一為レ号」とし、 「皇極天皇」までの漢風諡号を列記する。『新唐書』の成立は1060年とされる。 『宋史』〔1343〕は、さらに「守平天皇〔円融天皇;在位969~984〕」をもって「即今王也」とする。 これらは平安以後の書で、当然日本から伝わった資料による。 いわゆる「二十四史」〔中国王朝の正史として列挙された書〕の『隋書』以前には、日本国の「天皇」は全く出てこない。 したがって倭または日本の奈良時代以前に、「天皇」という呼び名が存在したかどうかは、中国の文献を見てもわからない。 おそらくは実際に存在しなかったのだろうが、仮にもし倭で「天皇」が唐高宗以前に用いられていたとするなら、 中国の漢代の頃の文献に埋もれていた呼称を、倭の学者が独自に引っ張り出したことになる。 しかし、それは非常に考えにくい。漢代以後の諸文献を見ると「天皇・地皇・人皇」がワンセットとなっていて、 伝説上の皇帝名だが実際には天体名として出てくることが多い。頭に染み付いた「天皇」の語感を消去してフラットに読めば、「天皇」は飛び抜けて卓越した存在ではない。 古墳時代から飛鳥時代前半の倭人がそれを読んだとしても、そこから「天皇」だけを特別のものとして取り立てるような発想は出てこないと感じる。 また、倭の学問僧や留学生が中国文献に本格的に接して大量に持ち帰ったのは、遣隋使以後と見られる。 これらを見れば、高宗が称号「天皇」を宣言したことを新羅や倭が知り、 それを早速真似たと考えた方がはるかに自然であろう。そして三国をのうち、倭のみが「天皇」号を代々受け継いだわけである。 【すめらみこと】 万葉集は、もっぱら天皇への伝統的な呼称「おほきみ」を用いている。 古くは〈金錯銘鉄剣〉の「獲加多支鹵大王」〈銀象嵌銘鉄剣〉の「獲加■■鹵大王」。 7世紀になり、『上宮記』における継体天皇の表記は「伊波礼宮治天下乎富等大公王」である。 『元興寺縁起并流記資財帳』では、推古天皇を「大大王」と呼ぶ。 『隋書』の「阿輩雞彌」は「オホキミ」の音写と見られている。 これらのことから、4世紀~7世紀半ばまでの呼称は基本的にオホキミであったと察せられる。 一方、スメラミコトは、漢字表記「天皇」と同じタイミングで、新しく創出された訓ではないかと想像される。 スメラの"ラ"は、〈時代別上代〉「アカラ〔赤ら・明ら〕のなどのラと同じく接尾語」と説明されている。 スメは「皇祖」または「天皇」にほぼ限定して使われる語である。 その語源は直感的にはスブ〔下二、統合する〕のようにも思えるが、スブの連用形はスベ乙なので、スメ甲とは甲乙違いである。
精神のまとまりもまた、至上課題だったと見られる。 ひとつは唐に肩を並べるために歴史書を持とうとして、書紀編纂の詔を発する。天武十年〔681〕三月「令レ記二定帝紀及上古諸事一」がそれだと見られている。 官民の精神の統合のためには外来の仏教ではなく、国独自の神学を再構築して古来の神を蘇らせる。 古事記上巻や神代紀で天上のアマの物語に改めて光を当てたことが、それであろう。 天武三年〔674〕には伊勢神宮に大来皇女を送り祖神への祭祀を復興した。 そして天武天皇は、中央集権的な新しい形の国の息吹を表そうとして国号を「日本」に、元首号を「天皇」に改めた。 「天皇」称号は肩を並べる国であろうとして、早速取り入れたものであろう。 同時にその倭称として、神からの系図を押し出す「スメラ」を使用し始めたと考えられる。 まとめ 「○年○月。詔改大王号為天皇号」という記述でもあれば、日付が確定するはずであるが、 記紀では神武天皇から「天皇」だから、仮にそのような詔があったとしても載るわけがない。 だから、記紀以外のよほどの文書の発見でもなければ、状況から推定するしかない。 何らかの文献があったとしても、後から直せるわけだからその直し方が不自然であることの見極めが重要となる。 その中で、〈釈紀〉所引の『上宮記』逸文に「天皇」号がないことは、かなり有力な手掛かりになる。 「天皇」と書かれた木簡も注目に値するが、その単品で決定できるはずもなく、 そのときの歴史状況からめて総合的に判断することになる。 書紀についても書かれた文章そのものに留まらず、ある語句を書いたときの筆者は何を思い、どういう細工をしたかを推察しなければならない。 歴史とは結局人の心の積み重ねであるから、 その時その立場にある人は、きっとこういう考え方をするだろうという、心の洞察によってやっと謎が解けることもあると思われる。 今回は、多くの部分がその手法に依存している。 |
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2020.11.18(wed) [42] 斜め方向から撮影した建物の画像の実寸 ▼▲ |
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『山陵考』〔幕末;谷森全臣〕によれば、崇峻天皇陵に縁の金福寺観音堂は「台石垣」の上にあり、建屋は一辺「一丈一尺」の正方形だという。 その寸法一丈一尺〔=3.33m;ここではqとする〕は、航空写真と正面写真を参照することによって、ほぼ確認できた(第248回)。 また同書によれば、「台石垣」の高さhは「二尺余」とされるので、これについても実寸を求めたい。 建物の正面の左斜め方向から撮影された画像が入手できたので、そこからほぼ実寸を読み取ることができた。その数学的な根拠を述べる。 正方形の建物を斜めから撮影すると、二面が隣り合って映る。そこで、短かく映る面の横幅a、と二面の幅の合計bの比率によって、 カメラを建物に向けたのが、垂直方向からどのくらいの角度であったかを知る事ができる。 a、bの長さ[画像の水平また垂直に隣り合うピクセル間の距離を1とする単位;以下「ピクセル数」]によってa/bを求めれば、 三角関数を用いて処理することにより撮影角θが確定し、それと一辺の実測値〔この場合は一尺一寸。これをqとする〕の値から任意の部分の実寸を求めることができる。 そのための数学的処理について、ここにまとめる。
pによってkが定まり、式 q=(1/√(2))k×b によってq[ピクセル数]を求め、そこから
【k=f(p)】 k=f(p)を、具体的な数式で表す。
a=0.5の場合は、建物を斜め45°から見たから、b=r、すなわちk=1.0である。 a=0の場合は。建物を正面から見たことになるから、b=√(2)rとなり、それぞれ理屈に合っている。 【石垣の高さ】
画像のピクセル数は、 a=92、b=235。 よって、 k=1.023 よって、 q[ピクセル数]=1.023÷√(2)×235=170.0 画像から「台石垣」の二か所を実測する。 h1=50[ピクセル数]: 1丈1寸×(50÷170)=3尺2寸4分 h2=49[ピクセル数]: 1丈1寸×(49÷170)=3尺1寸7分 すなわち『山陵考』の「高さ二尺余なる台石垣」よりも、一尺程度高い。 恐らくは、江戸時代には石垣の周囲に土が厚さ一尺程度積もっており、 明治以後に「崇峻天皇倉梯岡陵」の拝所を整備したときに取り除かれたと考えられる。 まとめ この手法は、対象が正四角柱の場合に限定される。底面が長方形の場合は、底面の縦横比が予め分かっている必要がある。 |
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2020.12.15(tue) [43] 孫子算経 ▼▲ |
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『孫子算経』は、中国で古くから伝わる計算述の書である。成立は南北朝の頃と考えられている。 【Ⅰ:除法の例】 『孫子算経』の計算は、「算木」を用いて行うものである。算木とは拍子木のような直方体で、1~6本を用いて一桁の数を表す。 そして、それを適宜格子の升目に置いて、様々な計算を実現する。 『孫子算経』の原文には、にわかには解釈困難な語句が多かった。 実際の『孫子算経』の構成は、算木について⇒乗法の概説⇒除法の概説⇒乗法の例⇒除法の例の順になっている。 その中では、除法の例「6561÷9=729」についての解説が比較的理解しやすかったので、まずこの部分を精読した。
除算「A÷B=C…D」において、A(被除数)を実、B(除数)を法という。 D(余り)は「実の余」などと表現される。 ●除算には3段を用い、実を「中位」(上から2段目)、法を「下位」(上から3段目)に置き、商は「上位」(最上段)に得られる。 ●Ⅱ(下述)によると、法は最初に実の最も左の桁に合わせて置き、図の「六」の真下に「九」を置いても「六」より大きいので、「五」の下まで位置をずらす。これは「六十五を九で割る」という意味である。(②) ●65÷9の答「七」を「五」の上に置く。そのときの算木の状態を図③に表した。 ●700×9=6300を実から引く(④)。 ●法を一マス右に送る(⑤)。 ●26÷9の答「二」を「六」の上に置き、同様に操作する(⑥~⑧)。 ●81÷9の答「九」を「一」の上に置き、同様に操作する(⑨~⑩)。 ●法の「九」を取り除くと、最上列に商729が残る。 《用語》 法「9」の位置を1マス右に動かす動作を、「一等退く」と表すようである。 「退下位一等」は「下位に向けて一等退く」とも読めるが、「上位」「中位」はそれぞれ段を指すから、 「最下段〔法〕を一等退く」意味と見られる。 「上位」は最上段のことであるが、「頭位」と表記した写本もある。 また、あるマスから掛け算する相手のマスを指定することを「呼ぶ」という。 【Ⅱ:除法の概略】 例題(Ⅰ)を先に見たことによって、むしろ意味のはっきりした箇所がある。
例えば、100÷6のとき、①100と6の末尾を揃えて置く。②次に6を百の位に移す。 ③1の中に6はないから1マス右に動かして十の位に置けという。 これは理念的な説明であって、実際には、誰もが最初から直感的に十の位に6を置くだろう。 そして、10÷6の答え1は、その6に縦に揃えて置く。 《法の移動》 次に、④で、実の100から10×6を引いて40にし、そのときに6を1マス右に移す。 本当は法の位置をずらす必要はないのだが、これを敢て動かすのは法の一の位がある位置に、最上列に数を置く位置を指定させる役割を負わせるためと思われる。 《上位有空絶者》 商の途中に0が入る場合には、法をさらにもう一桁右に移動させなければならない〔例えば、図⑤の場合〕。 これは、筆算における割り算を考えれば容易に理解される。 《余法皆如乗時》 「余法皆如乗時」は理解しにくいが、「余〔者〕、法皆如レ乗レ〔商〕時」〔余は、法を皆商に乗じたる時に〕の意か。 「命」は「命名」の意か。すなわち割り切れずに残った余りは分数で表し「法を分母、実の余りを分子と名付ける」という意味のようである。 つまり、「商…剰余」の書法は用いていない。 《用語》 法の移動は、左方向には「進(む)」、右方向には「退(く)」と表している。 移動量への助数詞を、Ⅰでは「等」(一等)としていたが、Ⅱでは「位」(二位)を用いている。 また、その絶対位置には「十位」「百位」を用いている。 これらの「位」は数値の桁位置を表す語で、段を表す「上位」「中位」「下位」とは使い方が異なっている。 【Ⅲ:乗法の例】 Ⅱのはじめに、除法は乗法と全く異なり、乗法が答えを中央列に得るのに対して、除法では最上列に答えを得ると述べている。 それによって、乗法も使用するのは三列で、一列目と三列目に掛けあわせる2個の数を置いて、二列目に一桁同士の掛け算の結果を加えていくことが分かる。 よって、二列目に値を「下す」とは、「現在の二列目の値に新しく得られた値を加える」意味である。
「重置其位」は、上下の列に置く二つの数の両端を、縦に揃えて置けと読める。 この例の場合は両者の桁数が同じで、かつ両者とも整数であるからこれでよい。しかし、桁数が異なる整数の場合は、揃えるのは右端である。 さらに、値が小数(分、厘、毛、糸…)に及ぶ場合は、 「二つの数値とも正しく一の位は一の位の位置に、十の位は十の位の位置に…合わせて置け」と理解しなければならない。 十の位同士の積は2マス左に、百の位同士の積は4マス左…に、それぞれずらして置かなければならないからである。 よって一般的なケースについて読む場合は、この「位」は数値における一の位、十の位、百の位…を表すことになる。 《用語》 ここでも、乗算の相手の桁を指定することを「呼(ぶ)」、下位〔上から三段目〕を右のコマに移動させることを「退(く)」と表す。 桁×桁の値を中位〔上から二段目〕に加算することを「下(す)」という。 計算済みの算木はその都度取り除き、この操作を「収(む)」という。 《退下位一等》 ④にある「退下位一等」においては、右への移動桁数のための助数詞に「等」を用いる。 なお、この「退下位一等」という操作は実質的には無意味なので、誤って入った文かも知れない。 【Ⅳ:算木】 算木には、縦方向・横方向の二種類の置き方がある。 「凡算之法」は、結局その使い分けを説明したものである。
従…〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉「從:通「縦」」。 僵…[動] たおれる。 相望…お互いに相手を見る。ここでは「相当」と同じ。 つまり、「一従十横。百従千横。千従万横。」と書いてあるに等しいが、 趣を醸し出すために表現を変えたのである。この手法は、古事記の序文で多用されていた。 要するに、奇数の位には縦型、偶数の位には横型を用いる(図)。 《位》 「先識其位」の「位」が、数値の桁の名、即ち一、十、百、千、万…を指すことに疑問の余地はない。 『諸橋大漢和』は、「位」のこれを日本語用法としているが、 れっきとした中国由来の用法である。 『孫氏算経』の成立は、南北朝時代〔439~589〕と見られている。 《ユニコード》
まとめ 算木による計算術を調べようとした出発点は、上代において「位」を数字の桁の名称とする使い方があったかどうかを知りたかったところにある。 というのは、「位」のこのつかい方はいくつかの漢和辞典を見た限りでは近代になってからの、しかも日本独自の用法のようにも思えたからである。 そこで中国古典を探ると、『孫氏算経』が見つかった。その中に「上位」という語句が見つかるには見つかったが、これは盤上並べた算木の上段を指す語であって、数値の桁の名称ではなかった。 しかし、乗法の項に「重置其位」があり、これが当てはまるかもと思われた。 これが数値の桁の名称として使われたことを確実にするためには、結局文の関係部分全体を精読しなければならない。 その結果、上記Ⅱの「十位」、「百位」、「法退二位」の意味が明確となり、これらから数値の桁の名称として使われたことは確実になった。 この用法が、飛鳥時代までに倭にも伝わり、上代の倭文献にもこの意味で使われた可能性はあると思われる。 |