古事記をそのまま読む―資料5
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2019.05.21(tue) [37] 物部氏 

 石上いそのかみ神宮物部氏の氏神で、布都御魂大神(神剣韴霊ふつのみたま)を主祀神とし、配饒速日命の御子で物部氏の始祖とされる宇摩志麻治命などを配祀神とする。 物部氏を構成する諸氏や、〈天孫本紀〉(『先代旧辞本紀』第五巻)に書かれたことを見る。

【石上朝臣】
 『新撰姓氏録』(以下〈姓氏録〉)に載る物部系の氏族は、宗家と見られる石上朝臣を中心に多数ある。
新撰姓氏録天孫本紀
石上朝臣〖左京/神饒速日命之後也〗〔神武天皇〕二年春二月。物部連〔後の石上朝臣〕等祖宇摩志麻治命与〔と〕大神君祖天日方奇日命。並拝為申-食国政大夫也。
穂積朝臣〖左京/石上同祖/神饒速日命五世孫伊香色雄命之後也〗〔五世〕大水口宿祢命。穂積臣。采女臣等祖。
阿刀宿祢〖左京/石上同祖〗孫味饒田命。阿刀連等祖。
若湯坐宿祢〖左京/石上同祖〗〔七世〕大咩布命。若湯坐連等祖。
舂米宿祢〖左京/石上同祖〗
小治田宿祢〖左京/石上同祖/欽明天皇御代。依開小治田鮎田。賜小治田大連〔四世〕弟六見宿禰命。小治田連等祖。
弓削宿祢〖左京/石上同祖〗十三世孫物部尾輿連公。〔欽明天皇御世〕大連-斎神宮。弓削連祖。
氷宿祢〖左京/石上同祖〗十一世物部大前宿禰連公。冰連等祖。〔安康天皇御世〕元為大連。次為宿祢。奉-斎神宮
曽祢連〖左京/石上同祖〗
越智直〖左京/石上同祖〗
衣縫造〖左京/石上同祖〗
軽部造〖左京/石上同祖〗〔九世玉勝山代根古命。山代水主雀部連。軽部造。蘇宜部首等祖。
物部〖左京/石上同祖〗
采女朝臣〖右京/石上朝臣同祖/神饒速日命六世孫大水口宿祢之後也〗〔五世〕大水口宿祢命。穂積臣。采女臣等祖。
阿刀宿祢〖山城国/石上朝臣同祖/饒速日命孫味饒田命之後也〗孫味饒田命。阿刀連等祖。
佐為連〖大和国/石上朝臣同祖/神饒速日命十七世孫伊己止足尼之後也〗〔十世〕物部石持連公。佐為連等祖。
長谷山直〖大和国/石上朝臣同祖/神饒速日命六世孫伊香我色男命之後也〗
若湯坐宿祢〖摂津国/石上朝臣同祖/神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也〗〔七世〕大咩布命。若湯坐連等祖。
氷連〖河内国/石上朝臣同祖/饒速日命十一世孫伊己灯宿祢之後也〗〔十一世〕物部大前宿禰連公。冰連等祖。〔安康天皇御世〕元為大連。次為宿祢。奉-斎神宮
以下、「石川同祖」を明示しないが「饒速日命」を祖とする諸氏。
依羅連〖左京/饒速日命十二世孫懐大連之後也〗
真神田曽祢連〖左京/神饒速日命六世孫伊香我色乎命男気津別命之後也〗
宇治宿祢〖山城国/饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也〗〔七世〕多弁宿祢命。宇治部連。交野連等祖。〔崇神〕天皇御世。為宿祢供奉。
真髪部造〖山城国/神饒速日命七世孫大売大布乃命之後也〗
筑紫連〖山城国/饒速日命男味真治命之後也〗
秦忌寸〖山城国/神饒速日命之後也〗
矢田部〖山城国/饒速日命七世孫大新河命之後也〗〔十世〕矢田皇女〔仁徳天皇皇后〕。不皇子之時。為皇子代后号為氏。使氏造。改賜矢田部連公姓。(第170回)
長谷部造〖山城国/神饒速日命十二世孫千速見命之後也〗
阿刀連〖山城国/神饒速日命之後也〗孫味饒田命。阿刀連等祖。
物部依羅連〖河内国/神饒速日命之後也〗〔十三世〕物部呉足尼連公。依羅連等祖。
日下部〖河内国/神饒速日命孫比古由支命之後也〗
勇山連〖河内国/神饒速日命三世孫出雲醜大使主命之後也〗
采女臣〖和泉国/神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也〗〔五世〕大水口宿祢命。穂積臣。采女臣等祖。〔六世孫〕伊香色雄命。〔五世〕大綜杵大臣子。
志貴県主〖和泉国/饒速日命七世孫大売布之後也〗〔七世〕大咩布命。若湯坐連等祖。【神名帳云。攝津国河辺郡高売布神社。売布神社】
若桜部造〖和泉国/饒速日命七世孫止智尼大連之後也/履中御世。採桜花之。仍改物部連。賜姓若桜部造
※…天香語山命系列。他の〔○世〕は、すべて宇摩志麻治命系列。

 〈姓氏録〉に載る「石上朝臣」は1氏のみだが、「石上同祖」「石上朝臣同祖」が18氏ある。 一見すると、宗家だけが「石上朝臣」を名乗り、分流は必ず別名とする統制が効いているように見える。 だが、物部朝臣が石上朝臣に改称するのは、早くとも天武天皇十三年〔684〕で(後述)、多くの氏族の創氏はそれ以前であろうから、「石上」を名乗らせなかったわけではない。 しかし、「物部」を名乗る氏も殆どないのだから、「物部」だった時期でも宗家以外には名乗らせなかった可能性はある。
 「石上朝臣」から「氷宿祢」までは連続しており、「神饒速日命五世孫伊香色雄命之後也」は氷宿祢まで共有されるものと思われる。 また「曽根連」から「物部」までも連続しており、ここにも暗黙の「神饒速日命…後也」があると想定される。
 さらに石川同祖とは書かないが、饒速日命を祖とする氏が15氏ある。 これらの氏族が、「神饒速日命…後也」で統一されているのは、これまた宗家のコントロールが効いていることを伺わせる。 〈姓氏録〉に載る後継氏のほとんどは、宇摩志麻治命の系列である。

【天孫本紀】
 『先代旧事本紀』(九世紀)の巻五〈天孫本紀〉には、物部氏系の諸氏の系譜が詳しく記されている。 〈天孫本紀〉が用いる「天孫」という語は、冒頭でこそ饒速日尊を指すが、 磐余彦東征の場面では、専ら磐余彦を指す。
 〈姓氏録〉で石上朝臣同祖の諸族に書かれた人名のうち、「味饒田命」は饒速日尊の孫、「出雲醜大臣命」は三世孫、「大水口宿祢」は五世孫、「伊香色謎命」は六世孫、「大新河命」は七世孫として登場する。 〈天孫本紀〉によれば、六世から十六世の間に31人が「奉斎神宮」したように、代々神宮に神職を派遣した。 その石上神宮は、物部氏の同族意識を固める宗教施設として護持されていたわけである。
《石上神宮》
 〈天孫本紀〉は、石上神宮の「遷建」について、次のように述べる。
――崇神天皇が「大臣神物。定天社国社〔大臣に詔し、神の諸々の宝物を分類し、天神・国祇の社を定めさせ〕て、 「物部八十手作祭神之物。祭八十万群神之時〔物部の多くの人手を用いて祭神の宝物を、八十万の群神を祭らせた時〕、 「-建布都大神社於大倭国山辺郡石上邑。 則天祖授饒速日尊天受來天璽瑞宝同共蔵斎。号曰石上大神〔布都(ふつ)の大神の社を大和国山辺郡石上邑に遷(うつ)し建て、 天祖が饒速日尊に授けて天より受け来たる天璽瑞宝(あまつしるしみづたから)を同じく共に蔵斎〔謹んで蔵に収めること〕し、 石上大神と号す〕
 即ち、崇神天皇のとき、布都大神〔=神剣〕を石上邑に移して祀り、新たに石上大神と呼び、天璽瑞宝を併蔵した。
《遷建以前》
 それでは布都大神社を石上の地に「遷建」する前は、どこにあったのだろうか。
 〈天孫本紀〉を「磐余彦尊」が「橿原宮」したときまで遡ると、 尊皇妃姫踏鞴五十鈴姫命立為皇后。即大三輪神女也。 宇摩志麻治命先献天瑞宝。亦豎神楯以斎矣。謂五十櫛。亦云:今木刺-繞於布都主剣大神奉-斎殿内〔皇妃、姫踏鞴五十鈴姫命を尊びて、立たせて皇后とす。即ち大三輪神の女(みむすめ)なり。 宇摩志麻治命の先に献(たてまつ)りし天〔璽〕瑞宝、また神楯(かむたて)を豎〔=立〕てて以て斎(いは)ひまつりて、五十櫛(いくし)と謂ふ。亦云ふ、今、木、布都主剣に刺繞(さしめぐ)りて、大神(おほみわ)、殿(みあらか)の内に奉斎(いはひまつる)。〕 とのべる。ここで「刺繞」の「さし-」は接頭語で、「」は「」・「」と同義。
 ある本の註釈によれば、この「五十櫛」は「(万)3229 五十串立 神酒座奉 神主部之 いくしたて みわすゑまつる はふりべが」の「五十串」とする。 「いくし」は、一般的には〈時代別上代〉「木竹の細枝をはらって作った矛の類の小さいものと察せられる」などと言われる。 この歌は大神神社の神主を詠んだもので、また「宇摩志麻治命」云々は「大三輪神の女なり」の直後にあるから、 天璽瑞宝と布都主剣は、かつて大神神社に蔵斎されていたということであろう。
 遷建した後なら、神社名は「布都大神社」「石上大神」であるから、「大神」とは布都主剣のことである。 しかし、「遷建」以前に遡ると、必ずしも神剣とは言えない。
 というのは、〈天孫本紀〉の神武天皇二年に「物部連等祖宇摩志麻治命与大神君祖天日方奇日命。並拝為申食国政大夫也〔物部連等祖・宇摩志麻治命と大神君祖・天日方奇日命は、並んで申食国政大夫〔後の大臣大連にあたる〕を拝する〕、 「凡厥奉斎瑞宝而祈鎮寿祚,兼崇韴霊剣而治護国家如此之事。裔孫相承。奉斎大神〔その瑞宝を奉斎して寿祚を鎮め、兼ねて韴霊剣を崇拝して国家を治護、かくなる事を裔孫に相承し大神を奉斎する〕と書かれるからである。
 つまり、宇摩志麻治命は大三輪君と横並びで「申食国政大夫」(をすくにのまつりごとをまをすきみ?)を担うのだから、この段階で奉斎する「大神」は「おほみわ」即ち大物主神ということになる。 けれども、上記の文の中で、「布都主剣大神」と文字を続けるのは、明らかに「大神=布都主剣」と誤読させるトリックを仕掛けている。これは、まことに不愉快である。
 続く欠史八代の期間は、宇摩志麻治命の子孫が代々三輪山で「奉斎大神」の役割を担う。
 次項で示すように、饒速日命は皇祖瓊瓊杵尊とも同格であった。物部連の祖は常に、時々の最高実力者の隣にいて、それに並び立つ地位を誇るのである。
《饒速日命》
 〈天孫本紀〉には、饒速日尊は次のように書かれている。
――「天照国照彦火明櫛玉饒速日尊。天道日女命為妃。天上誕-生天香語山命。 御炊屋彦姫為妃。天降誕-生宇摩志摩治命〔天照国照彦火明櫛玉饒速日尊、天道日女命、妃に為(し)て、天上に天香語山命を誕生(う)みたまふ。 御炊屋彦姫、妃に為て、天降りして宇摩志麻治命を誕生(う)みたまふ〕
 天香語山命の孫が、高倉下(たかくらじ)とされる。記紀では、高倉下命は夢の中で高皇産霊神・天照大神からお告げを受け、神剣「布都御魂」を発見した。 そして、その四世孫津世襲命(おきつよそのみこと)が尾張連の祖であるとする。天香語山命系の氏族名が〈新撰姓氏録〉に殆どないのは、姓氏録が収める氏の本貫が畿内〔山城・大和・河内・泉・摂津〕限定だから、 子孫は皆尾張に移ったのであろう。 〈姓氏家系大辞典〉によれば、尾張氏は初めは大和国葛城を本拠とし、 崇神帝・垂仁帝の頃美濃に遷り、さらに尾張国造となったとされる。 同辞典は、〈天孫本紀〉が天火明命が饒速日尊の別名であるとする点を厳しく否定する。 ただその一方で、「此の伝も古くよりありしにあらざるか。即ち尾張氏は物部氏として至大の関係を有する」 「〔尾張氏が〕その神剣を奉斎するも、物部氏が不都の御霊の神剣を奉祀するに同じきか」と述べる。 これらの論旨はやや不明確だが、「物部・尾張の両氏は親しく、また神剣を祀るという共通性から両者を混同する古伝もあったかも知れない」という意味と読み取れる。
 〈天孫本紀〉は饒速日尊の「亦名」として、「天火明命」「天照国照彦天火明尊」)あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと)「胆杵磯丹杵穂命」(いきそにきほのみこと)を列挙する。 天火明命は、書紀の本文及び一書の多くでは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の子であるが、 記と一書8においては、瓊瓊杵尊(邇邇芸命)の兄である (第87回)。
《饒速日尊の祖》
 饒速日尊の祖は、 「天照孁貴太子正哉吾勝勝速日天押穗耳尊。高皇產靈尊女-萬幡豐秋津師姬栲幡千千姬命為妃。 誕生天照國照彥天火明櫛玉饒速日尊矣。天照太神高皇產靈尊相共所生。故謂天孫。亦稱皇孫矣。〔天照孁貴(あまてらすむち)の太子(ひつぎのみこ)正哉吾勝勝速日天押穂耳尊、高皇産霊尊の女、萬幡豊秋津師姫栲幡千千姫命を妃として、 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を誕生(う)みましき。天照太神、高皇産霊尊より相(あひ)共に所生(あ)れましき。故(かれ)天孫(あめみま)と謂(い)ひて、亦(また)皇孫(すめみま)と称(よ)びまつる。〕と書く。
 寛永二十一年〔1644〕刊の木版本では「天照貴〔=霊〕太子」となっていて「高皇産霊」(たかみむすび)が混合している。 しかし直後に「天照太神」とあり、 〈上代紀〉では天照大神の別名が大日(おほひるむち)であるから、「天照」が正しいことは明らかである。 『国史大系』七巻〔経済雑誌社;1901〕でも「天照貴」としている。
 「天照」の血筋だから天孫、「皇産霊」の血筋だから皇孫とするのは語呂合わせである。 だが、この呼び名に真に該当するのは瓊瓊杵尊であり、饒速日尊に用いるのは僭越であろう。 書紀は、饒速日命については「嘗有天神之子天磐船天降止。号曰櫛玉饒速日命〔嘗(むかし)天つ神の子有りて、天磐船に乗りて天より降り止(とど)まりき。号(なづ)けて櫛玉饒速日命とまをす。〕として (第99回)、 もしかしたら高皇産霊尊からの血筋を引くのかも知れないが明言せず、単に「天神」とする。 ただ、「此物部氏之遠祖〔とほつおや〕」として、物部氏の祖神であることだけは公認する。
《天火明命》
 ここで、〈天孫本紀〉が饒速日尊のまたの名とする天火明命について考察しよう。 天照国照彦火明命(天火明命)は、一書8(第84回)、 記(第81回)で見たように 「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊」と「高皇産霊尊之女、天万栲幡千幡姫」の間に生まれ、火瓊瓊杵尊の兄である。
 〈天孫本紀〉はこの天火明命が饒速日尊と同一であると規定することを、「亦名天火明命」によって示す。
 さらに〈先代旧辞本紀巻三-天神本紀〉に遡ると、 「太子正哉吾勝勝速日天押穗耳尊。高皇產靈尊女萬幡豐秋津師姬命亦名栲幡千千姬命為妃。誕生二男矣。 兄天照國照彥天火明櫛玉饒速日尊。弟天饒石國饒石天津彥彥火瓊瓊杵尊。〔〔天照太神の〕太子・正哉吾勝勝速日天押穂耳尊は、高皇産霊尊の女(みむすめ)・万幡豊秋津師姫命・亦の名は栲幡千千姫命を妃として、二男(ふたはしらのみこ)、 兄:天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、弟:天饒石国饒石天津彦彦火瓊瓊杵尊を誕生(う)みたまふ。〕とあり、 神武天皇の直系の曽祖父である瓊瓊杵尊と、系図上横並びにする。 「皇孫」は正式には瓊瓊杵尊を指す語であるが、〈天孫本紀〉は饒速日""を皇孫天孫と呼び、あたかも瓊瓊杵尊と同等であるかの如く描く。
《天璽瑞宝》
 そして、「天祖」は瓊瓊杵尊に先だち、饒速日尊に天降りを命じた。
――「天祖以天璽瑞宝十種饒速日尊。則此尊稟天神御祖詔天磐船而天-降-坐於河内国河上哮峰。則牽-坐於大倭国鳥見白庭山〔天祖(あまつみおや)天璽瑞宝十種を以て饒速日尊に授けたまひき。則(すなは)ち此の尊〔饒速日尊〕天神(あまつかみ)の御祖(みおや)の詔を稟(うけたまは)りて天磐船(あまのいはふね)に乗りて河内国の河上の哮峰(たけるがみね)に天降り坐(ま)して、則ち大倭国の鳥見白庭山に牽(ひ)き坐(ましま)しき。〕
 ここで、詔を発した神を「天神御祖」とぼかすが、文脈から高皇産霊尊〔或いは、高皇産霊尊と天照太神〕のことであろう。 そして、降った後、鳥見白庭山を本拠地にしたと述べる。
 饒速日尊がなかなか帰ってこなかったので、高皇産霊尊は速飄神を降ろして調べさせたところ、 既に死んだことを知り、哀泣した。この部分は高皇産霊尊が、天稚彦に天鹿児弓と天羽羽矢を持たせて天降りさせた件と類似する。 天稚彦は裏切って帰らず、結局高皇産霊尊によって殺されたが、「哭泣悲哀」したのは「天稚彦之妻、下照姫」である (第72回~第75回)。
 その後「饒速日尊以夢教於妻御炊屋姫云『汝子如吾形見物。』〔饒速日尊は妻・御炊屋姫に夢で教へて云はく、「汝(いまし)の子は吾が形見の物の如し」〕と言って、 「即授天璽瑞宝矣。亦天羽羽弓天羽羽矢。復神衣帯手貫三物。葬-斂於登美白庭邑。以此為墓者也。〔即ち、天璽瑞宝・天羽羽弓・天羽羽矢・神衣帯手貫(かみのみそおびたすき)を賜り、登美白庭邑に葬斂(はぶりまつ)る〕
磐船大神社の磐座のひとつ
大阪府南河内郡河南町公式ページより
 この部分だけ見ると、天璽瑞宝を饒速日尊の墓に副葬したとも、宇摩志麻治命の所有としたとも読めるが、後に宇摩志麻治命は天璽瑞宝を磐余彦に献上したとあるから、後者であろう。 また、一部サイトによれば「地元では、鳥見山山麓の桜井茶臼山古墳に饒速日の尊が埋葬されている」と言われている。
 書紀によれば磐余彦が中洲を攻撃したとき、饒速日命は存命で長髄彦を殺すが、〈天孫本紀〉によれば既に死亡している。
《哮峰》
 哮峰は、一般にタケルガミネと読まれている。 大阪府南河内郡河南町平石484に磐船大神社(いわふねだいじんじゃ)があり、古くは哮峰を神体としたと言われている。
 現地の案内板には「境内には豊かな伝説を持つ天磐船、浪石、燈明石などの奇岩怪石が多く、社後にそびえたつ峰は古来「哮峰」と呼ばれ」 「「神奈備」の様式をとっていたようで、山全体がご神体とされている」と書かれる。
 神社を建てる時代以前は、磐座(いわくら)と呼ばれる巨石を神の座として祀るのが古い信仰の形態であった (第84回第112回)。 「磐船大神社」は、<wikipedia>「明治初年、神仏分離により、高貴寺と分離」したときからの名前のようである。 「天磐船」に擬せられた石によるものであろう。 〈天孫本紀〉には、「河内国」とあるから、この天磐船を磐座として崇拝する中から天磐船伝説が生まれた可能性も皆無ではないだろう。
《磐余彦への服属》
 〈天孫本紀〉は、宇摩志麻治命が長髓彦に見切りをつけ磐余彦尊に寝返る様を次のように記す。
弟宇摩志麻治命【亦云味間見命。亦云可美真手命】。
天孫天津彥火瓊瓊杵尊孫磐余彥尊。
天下。興師東征。
往往逆命者。蜂起未伏。
中州豪雄長髓彥。本推饒速日尊兒宇摩志麻治命君奉焉。
此乃曰。天神之子豈有兩種乎。吾不他。
遂勒兵距之。天孫軍連戰不戡也。
于時宇摩志麻治命不舅謀誅殺佷戻。
率衆帰順之時。天孫詔宇摩志麻治命曰。
長髓彥為性狂迷。兵勢猛銳。至於敵戰誰敢堪勝。
而不舅計軍帰順遂欽官軍。朕嘉其忠節
特加褒寵授以神劍。答其大勳
凡厥神劍韴靈劍刀。亦名布都主神魂刀。亦云佐土布都。
亦云豐布都神是矣。
復宇摩志麻治命。
天神御祖授饒速日尊天璽瑞寶十種
而奉獻於天孫
天孫大喜特增寵異矣。
復宇摩志麻治命率天物部而翦夷荒逆
亦率師平-定海內而奏也。
〔〔饒速日尊の子、生天香語山命の〕弟(おと)、宇摩志麻治命(うましまぢのみこと)【亦、味間見命(うましまみのみこと)と云ふ。亦、可美真手命(うましてのみこと)と云ふ】
天孫(あめみま)天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)の孫(みま)磐余彦尊(いはれひこのみこと)、
天下(あめのした)を馭(をさ)めむと欲(おもほ)して、師(いくさ)を興(おこ)して東征(ひむがしにうちたまひき)。
往往(ゆくゆくに)命(おほせごと)に逆(さか)ふる者(ひと)蜂起(た)ちて未(いまだ)伏(ふ)せたまはざりき。
中州(なかす)の豪雄(たける)長髓彦(ながすねひこ)をば、本(もとより)饒速日尊の児(みこ)宇摩志麻治命推して君(きみ)と為(して)奉(たてまつ)りき[焉]。
此(こ)に至り、乃(すなは)ち曰はく「天神(あまつみこ)之(の)子(みこ)豈(あに)両種(ふたくさ)有り乎(や)、吾(われ)他(ほか)の有ること不知(しらず)。」といひて、遂(つひ)に兵(つはもの)を勒(をさ)めて之を距(こば)む。天孫(あまつみま)の軍(いくさ)連(つら)なる戦(いくさ)に戡(ころすこと)不能(あたはず)[也]。
[于]時に宇摩志麻治命、舅(しひとを)の謀(はかりごと)に従はざりて誅殺(ころ)し佷(そむ)きて戻りき。
衆(いくさびと)を率(ゐ)て帰(かへ)り順(したが)ひし[之]時、天孫宇摩志麻治命に詔(のたま)ひて曰はく、
「長髓彦為性(ひととなり)狂(くる)ひ迷(まと)へり。兵(いくさびと)勢(いきほひ)猛(たけ)りて鋭(と)し。[於]敵(あた)の戦(いくさ)に至りて誰(たそ)敢(あへて)堪(た)へて勝つか。
而(しかれども)舅(しひとを)の計(はかりごと)に不拠(よらざ)りて、軍(みくさ)を率(ゐ)て帰り順(したが)ひて、遂に官軍(すめらみくさ)を欽(うやま)ひき。朕(われ)其の忠節(まこと)を嘉(よろこ)びたまふ。」とのたまひて、
特(こと)に褒(ほまれ)寵(うつくび)を加へて神剣を以て授(さづ)けて、其の大勲(おほきいさみ)に答へたまへり。
凡(おほよそ)厥(そ)の韴霊剣刀(ふつのつるぎたち)、亦のは名布都主神魂刀(ふつぬしかみのみたまのたち)、佐土布都(さぢふつ)と云ふ、
亦(また)豊布都神(とよふつのかみ)と云ふは是(これ)なり[矣]。
復(また)宇摩志麻治命、
天神(あまつかみ)の御祖(みおや)の饒速日尊に授けたまひし天璽瑞宝(あまつしるしみづたから)十種(とをくさ)を以ちて、
而(しか)くして[於]天孫に奉献(たてまつ)りき。
天孫大(はなはだ)喜びたまひて特(こと)に増(ますます)寵(うつくしび)たまはること異(めづら)し[矣]。
復(また)宇摩志麻治命、天物部(あまつもののべ)を率(ゐ)て[而]、夷(えみし)の荒き逆(さかしま)を翦(き)りて、
亦(また)師(みくさ)を率(ゐ)て海内(うちつくに)〔=畿内〕を平(たひら)げ定めて[而]奏(たてまつ)りき[也]。〕
 ――「天孫天津彦火瓊瓊杵尊孫磐余彦尊。欲天下。 興師東征。往往逆命者蜂起未伏。中州豪雄長髓彦」とあるから、 磐余彦尊(神武天皇)が東征してきたとき、中州の地を占有して従わなかったのは長髓彦であった。
 ――「本推饒速日尊兒宇摩志麻治命。為君奉焉。至此乃曰:天神之子豈有両種乎。吾不有他。〔もともと饒速日尊の児、宇摩志麻治命は長髓彦を推して主君と奉ってきたが、ここに至り、天つ神の子は二種類もあるか。そんなことがあり得るとは思わない〕 と言って、磐余彦に帰順した。
〈神武天皇即位前紀〉によれば、磐余彦(いはれびこ)〔神武天皇〕が倭に来る前に天磐船に乗って天降りし、中洲〔=大和盆地〕を占拠していたのが、饒速日命であった。 長髄彦は饒速日命に仕えて、神武天皇の来襲から領土を守るために戦った。 しかし、肝心の饒速日命が磐余彦に本物の神性を認め、徹底抗戦を主導する長髄彦を殺して帰順した (神武即位前・戊午年十二月)。 そして可美真手命(うましまてのみこと)は、饒速日命と長髄彦の妹、長髄媛との間に生まれた子である。
 〈天孫本紀〉はこの部分について、宇摩志麻治命〔=可美真手命〕が「不拠舅計率軍帰順〔舅(長髄彦)の計画に拠らず、軍を率いて帰順する〕と言って宇摩志麻治命の功績として、 「授以神剣。答其大勲。〔神剣を授けてその大勲に応える〕と述べる。
 前項で述べたように、饒速日命は、磐余彦が攻撃した時点では既に死亡していた。 従って、磐余彦に歯向かったのは長髓彦の独断であり、饒速日命に責任はないものとする。 それどころか、饒速日命は瓊瓊杵尊に先立ち、高皇産霊尊の詔によって天降りしたことになっている。
 つまり〈天孫本紀〉によれば、饒速日尊が磐余彦に歯向かった部分は抹消され、先に天降りしたのも高皇産霊尊の詔によるものだから1ミリもやましいところはない。 韴霊劍は、神武天皇が宇摩志麻治命の功績を称えて賜ったものとして、 宇摩志麻治命の功績を前面に押し出す。 
 饒速日命は途中で悔い改めたとは言え、一度でも天孫に不服従だったとされるのは、物部氏族にとっては面白くないのだろう。 物部氏にとっては、その始祖の行いに一点の曇りも我慢できず、そのために祖神の神話さえも書き換えたのである。
《対応する歴史的事実》
 書紀は、長髄媛の別名を鳥見屋媛、地名「鳥見」は鵄邑(とびむら)の訛ったものとする。現代地名の桜井市の大字外山(とび)であろうと思われる。
 饒速日命の抵抗から服従に至る神話に対応する歴史的事実は、 その祖である「鳥見山王朝〔本サイトによる造語〕の王が桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳に眠るところにあるのではないかと考えた(第115回)。 この一族は天照族の侵入と戦ったが、やがて服属して物部〔武器管理の職業部〕となって石上に遷ったというものではないかと想定した。 石上神宮が兵器庫を起原とすることは、既に明らかである(第116回【石上神宮】)。 また、メスリ山古墳は竪穴式の副石室を備え、武器ばかりが大量に納められていることが注目される (第115回)。
 さて、さらに遡って物部氏の始祖〔饒速日族と仮称する〕の畿内への到来について考えると、最初に天磐船が降りたとされる「河内国の河上哮峰」が注目される。 饒速日族も、河内国河上哮峰に降りたとされるから、西方から波状的に畿内にやってきた諸族の一つである。瀬戸内海を通り、難波から上陸して河を上り「哮峰」を仰ぐ土地に定住したのだろう。 その後、鳥見山の麓に進出して栄えたのではないだろうか。

【布留宿祢】
 〈姓氏録〉神別には、石上朝臣とは別に「布留宿祢」がある。
〖大和国/天足彦国押人命七世孫米餅搗大使主命之後也/ 男木事命。男市川臣。大鷦鷯天皇御世。達倭賀布都努斯神社於石上御布瑠村高庭之地。 以市川臣神主。四世孫額田臣。武蔵臣。斉明天皇御世。宗我蝦夷大臣。 号武蔵臣物部首并神主首。因茲失臣姓。為物部首。 男正五位上日向。天武天皇御世。依社地名布瑠宿祢姓。日向三世孫邑智等也。 〗
〔天足彦国押人命の七世孫、米餅搗大使主命の男、木事命の男、市川臣。 大鷦鷯天皇〔仁徳〕御世。倭に達(いで)まして布都努斯(ふつぬし)神社を石上御布瑠村高庭の地に賀(いは)ひまつりたまふ。 市川臣を以て神主にして、四世孫額田臣、武蔵臣〔に至る〕。 斉明天皇の御世宗我〔曽我〕蝦夷大臣、武蔵臣を物部首を物部首(おびと)併せて神主首と号(なづ)けり。因(よ)りて茲(ここ)に臣の姓を失ひ、物部首と為(な)りき。 男、正五位上日向、天武天皇の御世に社地の名に依りて布瑠宿祢姓に改む。日向の三世孫、邑智等なり。〕
 ここに出てくる「米餅搗大使主命」「八原木事臣」「市河臣」の名は駿河浅間大社の大宮寺家所蔵の和爾氏系図にあり、「孝昭天皇―天足彦国押人命―和爾日古押人命―(六代)―米餅搗大使主命―八原木事臣・(弟)市河臣」となっている (第105回。和爾氏系図)。
 また、「布都努斯神社」という神社名が出てくる。これについては〈延喜式-神名帳〉に{大和国/山辺郡/石上坐布都御魂神社【名神大。月次相甞新甞。】}はあるが「布都主神社」はないから、「布都努斯神社」は「布都御魂神社」の別名かも知れない。
 そこで〈天孫本紀〉を見ると、神剣の別名が列挙されている。
  〔神武天皇〕特加褒寵授。以神剣答其大勲。凡厥神剣韴霊剣刀。亦名布都主神魂刀。亦云佐土布都。亦云豊布都神是矣。
〔特(こと)に加へて褒め寵(あはれ)びて、神剣(かむつるぎ)を以てその大勲(おほきいさみ)に答へたまひき。 凡(おほよそ)厥(その)神剣、韴霊剣刀(ふつみたまのつるぎたち)、亦の名は布都主神魂刀(ふつぬしのかむたまのたち)、亦云はく佐土布都(さぢふつ)、亦云はく豊布都神(とよふつのかみ)是なり〕
 つまりは、「フツミタマの剣刀」の別名に「フツヌシ神の刀」があるから、その剣を祀る「布都努斯神社」もまた「石上坐布都御魂神社」の別名ではないかと思われる。
 すると、倭に達(みたし?)〔行幸の意味か〕された仁徳天皇が「賀す」=「祝う」ことには「建立」の意味を伴わず、 「訪問して祝賀した」だけにしないと辻褄が合わない。何故なら、布都御魂神社は神武天皇のときに既に遷建されていたからである。
 さて、曽我蝦夷大臣は、当時権勢を誇って国政を支配していた。〈姓氏録〉の記事は、武蔵臣が何らかの不祥事により宗我蝦夷の怒りを買い、懲罰的に臣姓を剥奪されて首(おびと)姓に落とされたと読める。 この布留宿祢の起源は、この地を本貫とした和爾氏族であろう。多くは既に各地に分散したが(第105回)その残存勢力か。 布留宿祢布都努斯神社の「神主」家だが、その布都御魂神社は物部氏が代々奉斎していた。そして、布留宿祢は、かつて「物部首」であった。 これを見ると、石上・布留を本拠とした両族は、単なる共存ではなく融合してほぼ一体であったように思われる。
 この現実について〈姓氏家系大辞典〉は「此の〔石上氏・布留氏という〕二流の物部氏は血族を異にすれど、相提携して各地の経営に従事す」と表現したと見られる。
 さて天武朝の頃から、朝廷に仕える諸族へのポスト配分の根拠として朝廷との関わりの濃淡を定義しようとしていたと見られる。そのために、各家は系図を確立する必要に迫られた。 高橋氏文は、その身上書の一例と見られ、また古事記の重要な役割のひとつもここにあると言える。 ところが物部氏族の系図を精査したところ、天足彦国押人命系と饒速日命系の混在が判明したのである。 氏族の融合が伺われる例としては、鴨氏と大三輪氏の例がある(第206回)。
 物部氏族は天武朝のときに血筋によって二系統に峻別され、それに伴って「物部首」の名を「布留宿祢」に改め、 同時に「物部朝臣」が「石上朝臣」に改められたと理解すると、大いに納得がいくのである。
《天武天皇紀に見る物部氏》
 物部が布留・石上に分化する詳しい経過は、〈天武天皇紀〉に示される。
五年十年十一月十二年九月十三年十一月十三年十二月朱鳥元年
物部連摩呂物部連麻呂―(物部連)物部朝臣――――――――石上朝臣麻呂
―――――(物部首)物部連――――(布留連)布留宿祢――――――――
 天武天皇十三年〔684〕十一月、「物部連」は「朝臣」姓を賜った。 その後、朱鳥元年〔686〕九月に天武天皇が崩じ、その葬儀の「誄法官事〔法官を代表して誄(しのびごと:生前の功績を称える言葉)した〕 を担当したのが「直広参〔冠位;四十八位中十四位〕石上朝臣麻呂」である。 だから十三年十一月から朱鳥元年九月までの間に「物部朝臣」が「石上朝臣」に改名したことになる。
 遡って天武天皇十二年〔683〕九月、物部首姓を賜る。 その後布留連に改め、同十三年十二月に、布留連宿祢姓を賜る。 ところが、〈天武紀〉には布留宿祢がまだ物部首だった頃の五年二月、「物部連摩呂」の名が見える。よって「摩呂」の「物部連」は、物部首とは別の氏である。 なお、物部連摩呂は石上朝臣麻呂と同一人物と見られ、 〈天孫本紀〉には「十七世孫:物部連公麻侶」と表記され、 「淨御原朝〔天武天皇〕御世。天下万姓改-定八色之日改連公物部朝臣姓。同朝御世。改賜石上朝臣姓」 とある。これは〈天武天皇紀〉と合致する。
 天武十二年九月になると物部首姓を賜るから、それから一定期間は二氏の「物部連」が並存したことになる。 それでは紛らわしいから、まず以前物部首だった方を布留連に改め、次いで物部朝臣石上朝臣に改めたのは自然の成り行きであろう。
 単に区別するだけならどちらか一方に「物部」の名を残すこともできるが、それでは揉めたであろう。 それなら「布留物部・石上物部」ならどうかとも思われるのだが、むしろこの機会に「物部」の文字そのものを意識的に除いたように見える。 それはやはり、氏族を正確な系図によって峻別する動きに伴うものであろう。
 それまでの「物部」は石上・布留地域で起原を異とする諸族の統合体の、比較的緩い名称だったのかも知れない。

【先代旧辞本紀の評価】
《偽書説》
 〈姓氏家系大辞典〉によると、 「徳川時代、旧辞記〔=先代旧辞本紀〕の偽作なるを発見して以来 (旧辞記偽撰考等)、此書の価値は俄かに減じて学者によりては 「無をまされりとす」〔=この書は存在しない方がまだ良い〕(久米博士)とまで極限する人あるに至りし」 というまでに酷評された。
 〈天孫本紀〉(第三巻)を見た限りではあるが、饒速日尊を天孫に祭り上げたり、神剣韴霊が大神神社の大神であるかの如く錯覚させたりして、 確かに我田引水と他力本願により物部氏を高めている。記紀を改竄してでっち上げた、もっともらしい古文書にも見える。
 だが、〈姓氏家系大辞典〉は、他の史書との比較研究が進み、 「漸く其の信用は復活して、今日にては多数の学者其の説を採用せられるが如し」と述べ、太田亮自身もその一人であると自認する。
《記から書紀への間に見られる深化》
 書紀のみを唯一神聖とする立場から見れば、『先代旧辞本紀』における捻じ曲げは冒涜である。 しかし、その書紀自身が流動的な形成過程の中にある。
 これまで、古事記と日本書紀の不一致点のいくつかは、諸族の系図の蒐集や、神学の研究の深化によるものであると考えた。 特徴的なのは、皇祖を天照大神から高皇産霊神に移したことである。 これは、素材の中心を淡路島起原から対馬壱岐起源の神話に移した結果ではないかと考えた。 あるいは、天武天皇の伊勢氏族への肩入れへの反動が、崩後に起きたことも考えられる。
 また、記の孝霊天皇段(第107回)の「大吉備津日子命は上道臣の祖、若日子建吉備津日子命は下道臣の祖」の修正が、書紀の「御友別」の件に見られる。 書紀では、上道・下道の分割は、応神朝まで降る。 そこでは「書紀が改めて諸族の起源を調査した結果、吉備国の分割は稲建別の時代まで下ることが判明した。 その調査結果に基づいて、孝霊朝まで遡って書き直したということではないだろうか。」 と考察した(応神天皇紀二十二年)。
 さらに饒速日尊については、古事記では天孫が降りたことを後から聞き、追いかけて降りてきた。
――「邇芸速日命」(にぎはやひのみこと)は「聞天神御子天降坐故追参降来〔天神(あまつかみ)の御子天降(あもり)坐(ま)せりと聞きて、故(かれ)追ひ参降(まゐくだ)り来(き)〕
 それに対して書紀では、天孫より先に天磐船に乗って降り畿内を占拠している。 これは、物部氏内部で伝えられてきた始祖伝説〔天磐船に乗って天降りして云々〕を書紀が追認したと思われる。
《書紀と同根》
 書紀の記述の中に、『先代旧辞本紀』独自の記述の足掛かりになる箇所は確かにある。
 まず、饒速日尊を天孫と規定することに関しては、記と「一書8」(前述)の「天火明命」を饒速日尊と同一とすれば、細い糸で繋がっている。
 また、〈天孫本紀〉は天孫を地上に送った神を「天神御祖」「天祖」などと表現する。 一方、記が畿内で戦う場面で磐余彦を表現する語は「天神御子」で、書紀も「天神子」を用いる。 その天神が高皇産霊神であろうが天照大神であろうが、そのような神学上の規定はこの場面では些末なことなのである。 だから、この場面に限れば、饒速日尊に天降りを命じた神への「天神」「天祖」という表現は、記紀も同じようなものである。
 そもそも先に述べたように、饒速日尊も西方から波状的に畿内に到来した諸族の一つと見られる。 各氏の間には恐らく交流があり、天降り神話の骨子は共有されており、それを氏族毎にカスタマイズしたバージョンを持っていたと考えられる。 天照族は天磐座を押し分けて登場し、饒速日族は天磐船に乗って降りた。 どちらも始祖が天降りするとき、磐座から登場するのである。
 だから、書紀を絶対視すると饒速日尊の描き方は異端に見えるが、基本的に同類型である。氏族毎にその始祖として固有の人格神を定め、そこから始まる精密な系図を制作した段階に至って、初めて差が生じるのである。
《書紀成立後の我田引水》
 ただ、八田皇女を「印葉連公の妹山無媛が応神天皇の妃」となって誕生した子とする点に関しては、物部氏がその時点で天皇の外戚として存在した如き印象を与えるための細工であろう(第170回)。 欠史八代の時期に大神神社に奉斎した如き描く部分も大三輪氏に便乗したものと言える。 これらを含め、書紀成立後になってから我田引水的に書き加えた部分が見られる。
 しかし、前項の饒速日尊が天孫であると主張する部分、そして〈新撰姓氏録〉にも登場する名前の部分については、やはり「物部朝臣」そして「石上朝臣」を賜る時期の提出文にあったのではないかと思われる。 後に上記の我田引水部分を書き加えて、後の『先代旧辞本紀』になったのではないかと思われる。
《天孫本紀成立の背景》
 各氏ごとの祖神の規定と系図の確立は、天武天皇の頃から進んだと見られる。 その結果明らかになったことにより、記から書紀の間に諸族の系図の部分の変化が生じたのである。
 天武天皇は中央集権を強め、かつての曽我氏の勃興のような、力による進出を防ごうとした。 そのために始祖の身上書としての家系図を要求し、それを根拠とする一定の枠の中に氏族を収め、統制する。
 物部連の場合、恐らく原形になり得る伝承〔または古文書〕があった。それを基にして、朝臣姓を賜わった時期に〈天孫本紀〉の部分の概略を書き上げたと見られる。 しかしそれは、天足彦国押人命を祖とする和珥氏系の「物部首」の系図とは相容れないものだったから、もはや宇摩志麻治命を祖とする氏とは分離せざるを得なかった。 それが、石川朝臣と布留宿祢の分化の原因であろう。
 想像するに、石川朝臣は〈天孫本紀〉という立派な文書を整えて提出することができたから朝臣となり、 布留宿祢はあまりしっかりした文書を作ることができなかったから、宿祢に留まったのではないだろうか。

【先代旧辞本紀の成立】
 『先代旧辞本紀』第十巻の〈国造本紀〉の最終記事は、弘仁十四年〔823年〕である(後述第109回《国造本紀の読み方》)。 国造本紀の「国造」には、(1)律令国成立以前の概ね郡レベルの行政区域としての「国造」、(2)奈良時代以後の律令国の変遷が混在している。 さらに(1)の「国造」は、中央政権の支配域が畿内と北九州だった時代の「県主」に対応する(資料[26])。
 『先代旧辞本紀』全体の成立も823年以後であろう。 「先代旧辞本紀序」によると、「大臣蘇我馬子宿祢等」が、 聖徳太子から「〔推古天皇〕即位廿八年歳次庚辰〔620〕」に勅旨を受けて撰録したものとされ、「卅年歳次壬午〔622〕」の日付がある。
 この「」が全くの創作であるのは明らかである。 第五巻の〈天孫本紀〉全体と、第三巻〈天神本紀〉の一部に物部氏に関わる部分が大幅に書かれるが、それ以外の内容は記紀を元にしたように見える。 『先代旧辞本紀』は次のようにして成立した文書ではないかと思われる。
 天武天皇のときに朝廷に提出された"物部氏文"(仮称)ともいうべき文書が存在した。
 の前後に、記紀〔及び、若干の他の史料〕から得た内容を書き足して通史の体裁に整え、九巻にまとめる。
 書紀に付属していた系図一巻に物部氏関係を書き足して、系図巻とする〔いずれも逸書〕
 飛鳥時代から残されていた国造本紀の原型に、奈良時代の律令国の遷移を付け加えて第十巻とする。
 序文を付して、聖徳太子のときに蘇我馬子が撰録したように装う。
 しかし、〈国造本紀〉「賀我国造」に「弘仁十四年〔823〕」に越前国を分割して加賀国が成立した記事が載る。これは後世の書き足しも疑われるが、 それなら「丹後国造:諾良朝御世。和銅六年〔713〕。割丹波国」はどうだろうか。 もしこの何れかでも最初から書かれていたとすれば、果たして推古天皇三十年などという、すぐに嘘がバレる序文を付けるだろうか。
 第九巻が聖徳太子の薨で終了する点は序文に合致するから、〈国造本紀〉を追加したのはその後かも知れない。 何れにしても、この序文を付けた者の思惑はどこにあったのだろう。
 そもそも全十巻からなる歴史書を私的に撰録したとすれば、大変な労力である。 その動機としては、石上麻呂の子孫が引き続き石上朝臣の地位を維持するために、 "物部氏文"(仮称)を発展させて歴史書に仕立てたと考えるのが自然であるように思われる。 そのときに、聖徳太子の時代の歴史書秘蔵していましたとでも言って献上したのであろうか。

まとめ
 そもそも書紀の編纂は、天武天皇が日本の中央集権化を図る一環であった。
 白村江の戦い〔663年〕は、百済の再興を援助しようとして、倭が軍を渡海させてて戦ったものだが、敗北して半島への足掛かりを完全に失った。 以後唐による攻撃に備えて、北九州に防衛線を引くことになる。
 壬申の乱〔672〕に勝利して即位した天武天皇は、唐からの圧迫感により日本の中央集権化を急ぐ。 精神面の統合のためには、日本も中国に匹敵する歴史書を編纂し、 またその書によって天皇家が国を治める正当性を証明しなければならない。 そのため、天武天皇十年〔681〕三月庚午朔丙戌〔17日〕川嶋皇子忍壁皇子〔他十名〕-定帝紀及上古諸事〔川嶋皇子・忍壁皇子ら十二名に、帝紀及び上古諸事を記定させた〕。 それが、後に〔720〕日本書紀に結実したと見られる。
 内政面では、かつての蘇我氏の台頭のようなことを防がなくてはならない。 並みいる豪族を統制するために、それぞれの始祖の朝廷との関係を明確にして、 その関わりの濃淡による縛りをかけて朝廷内の地位・役割を規定しようとしたと見られる。 そのため、諸氏に系図の提出を急がせた。
 物部の石上朝臣と布留宿祢への峻別は、その過程で起こったと位置づけることができる。 こうして、680年頃から720年頃までの期間に、諸族の祖と系図の研究が深まっていったと思われる〔《記から書紀への間に見られる深化》;前述
 その過程で書紀は記にはない天磐船伝説を加え、「一書8」として天孫と天火明命との兄弟関係を認めたのではないだろうか。 これらは物部氏の独自の伝承に基づく主張に対して、幾分かの譲歩を見せたように思われる。
 このように、天武朝の頃は、記紀も〈天孫本紀〉の元になった文書も未だ流動していた。 〈天孫本紀〉を含む『先代旧辞本紀』が単純に偽書とは言えない所以である。