古事記をそのまま読む―資料4 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2018.05.10(thu) [29] ヒトの目の角分解能 ▼▲ |
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ヒトの目は、どれだけ細かいところまで見分けることができるだろうか。 この問いを言い換えれば、ごく近くにある2つの点が溶けあって1つにならずに、2つに見える最小距離はいくらかということである。 その距離を分解能という。 当然のながら、同じ物体でも遠くにあるときより、眼の近くに近づけたときの方が分解能は大きくなる。 ただ、目と2つの点のそれぞれを結ぶ直線が作る角度(図4のα) の最小値は一定である。これを、ここでは「角分解能」と呼ぶ。 角分解能の値は、一般に鳥の目の方がヒトの目より小さい〔=細かいところまでよく見える〕。 それは、鳥の方が、網膜上の視細胞の密度が大きいからである。 このように、眼の角分解能はひとえに隣り合う視細胞の間の距離で決まる。 それでは、ヒトの目の分解能は、具体的にどのくらいであろうか。 【ヒトの目の角分解能】 眼は網膜上に実像を結び、視細胞がその光を信号に変えて脳に送る。 従って大雑把に言えば、実像の上の2個の間隔が、隣り合った2個の視細胞の間隔※より狭ければ見分けることができない。 視細胞には、僅かな光を敏感に感じる(=暗いところでも見える)が色を判別できない桿体と、 十分な光が必要だが(=明るい所だけで見える)が色別に感じ取る錐体の二種類がある。 網膜上には特に、視細胞が密集して像を微細に判別できることができる部分あり、これを中心窩と言う。 中心窩には錐体が高密度に存在するが、桿体はほとんど存在しないという。 錐体にはR、G、Bの三種類があり、それぞれ赤・緑・青の波長の光だけに反応する。従って、3個の錐体の組によって色のついた点一個を見る。 従って、上述の※は、正確には「RGBの3個の錐体を一組としたときの、2組の間隔」と表現しなければならない。 以上から、網膜の画素の密度から受け取る画像の分解能を考える。
眼球一個の視野(図1のx)を求める。 x=両眼視野+(全視野-両眼視野)/2=166度 …(1) 《画素の間隔》 網膜が受け止める画素の間隔を求める(図2)。 中心窩の錐体の密度は、16万個/mm2。 R、G、Bの錐体の組で一つの画素を構成すると考えると、1mmの線上に並ぶ画素の個数は、 √16万/3=230.9個 …(2) 《像を結ぶ網膜の広さ》 外界の166度の間の入射光を受け止める網膜の寸法を求める。 眼球を完全な球体として、その4分の3(図3の水色部分)の範囲で光を受けるものと仮定する。 網膜の受光面の横幅は、 2πr×(四分の三)=24×π×3÷4=56.55mm …(3) 《受光画素数》 中心窩の錐体と同じ密度で、全受光範囲に受光画素が分布すると仮定する(図3)とその個数は(2)×(3)で、 230.9×56.55=13060 …(4) 《角分解能》 入射光(1)が受光画素に均等に広がると仮定すると、画素間の角分解能は(1)÷(4)で、 166度÷13060=1.271×10-2度=2.183×10-4ラジアン …(5) まとめ 眼球から距離dの位置での分解能は、眼球の角分解能がα(ラジアン)とすると、αdとなる(図4)。 αの値は(5)のように、α=約0.00022 である。 従って、d=1mのときは、約0.22mm。 つまり、最大限ピントが合った場合でも、眼から1m離れた位置で横に並ぶ2点は、その間隔が0.22mmより短いと、見分けることができない。 d=10kmのときは、約2.2mとなる。 |
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2018.07.04(wed) [30] 「むしろ」への試論 ▼▲ |
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雄略天皇紀五年二月条の「安野而好獣無乃不可乎」の「無乃」は伝統的に「むしろ」と訓まれるが、
これには違和感がある。その理由を考察する。
【無乃】
〈時代別上代〉所引の『類聚名義抄』に「無乃【ムシロ】」がある。 また〈漢辞海〉は、「無乃」について「定型化した副詞句として『むしろ~せんか』と訓読してもよい」〔ということは、しなくてもよい〕と述べる。 だから、この古訓は、書紀だけのことではないようだ。 しかし副詞「むしろ」の機能は、既に命題Aが提示された状態で、Aと二項対立する命題Bを提示し、かつ話者はBを選択しようとする(右ア)。 だから、「むしろ」の後には必ず、Aと別種で、話者が真に主張したいBが来ることが期待させる。 ところが、Bが単に「非A」であった場合は、Bの独自性がないから肩透かしを食らう(右イ)。これが、この箇所の伝統訓が〔少なくとも私には〕分かり難い理由である。 【二重否定】 二重否定形の場合「むしろ」構文に置き換えると、必然的に「B=非A」となるから、常に肩透かし状態となる。 だが〈時代別上代〉は、「それが反語の表現をとっていることもある」とする。 雄略天皇紀の「無乃不可」はまさしくこの例であるが、その古訓が原文のニュアンスを正しく表すかどうかは、また別問題である。 【万葉集】 ただ、これまでに述べたことは「むしろ」に対する現代の感覚であって、上代にはあり得たのかも知れないのだから、もう少し幅広く調べる必要がある。 まずは万葉集を見たが、残念ながら副詞「むしろ」は一例もなかった。 このことは、ことによると「むしろ」は漢文訓読から生まれた新造語ではないかという疑念を生む。 【現代語古語類語辞典など】 〈現代語古語類語辞典〉の「むしろ」の項は面白い。 近代:かへって[却]。 近世:いっかう[一向]。けく[結句]。けくで[結句]。よしか。とてものことに。いっそのこと。 中世:いっそ。けっく[結句]。 中古:いかう[一向]。 上代:なかなか(に)。むしろ[寧/無乃]。 いずれも「Aと別種の話者の主張の方向に沿ったBを提示する」に沿っている。 上代語「むしろ」についても、同辞典の編者は現代の「むしろ」の意味で受け止めていることが分かる。 学習用古語辞典(大修館書店など)には、見出し語「むしろ」自体がない。これは、古文の「むしろ」は現代語の「むしろ」と同意であることは自明であると考えられているからだろう。 【寧】 「寧」も「むしろ」と訓読するので、ここで漢籍の「寧」について調べる。 「寧」は、「むしろ」の他に「いずくんぞ」とも訓読される。「いずくんぞ~」は、「何とこんなことが」という、意外感を添える副詞である。 神代記上に、「寧可以口吐之物、敢養我乎。」〔「むしろ」口から吐いたものによって、我をもてなすか。〕があった (第44回【一書十一】)。 これは月読尊(つくよみのみこと)が、保食神(うけもちのかみ)が食物を口から吐き出して饗の用意をしているのを見つけて驚き、罵った言葉である。 伝統訓では「寧可」を「むしろ」と訓む(『仮名日本書紀』、〈時代別上代〉など)。 この例では食物を得る異常な手段をBとする。これもしっくりこないのだが、しっくりこない原因は話者がBを進んで是とするというより、むしろ非難の対象だからであろう。 多くの場合、BはAへの話者による対案として、肯定的な意志を伴う。 この場合の「寧」に対しては、むしろもう一つの訓:「いずくんぞ」の方が相応しい。 『史記』-「蘇秦列伝」の「寧為鶏口、無為牛後」〔寧ろ鶏口となるも、牛後となるなかれ〕は、「寧」にもっとも期待される用法であろう。 この文例のように、漢文では一般に「寧B、非A」の順に組み立てる。和文の感覚で見ると、逆順である。 〈時代別上代〉所引『西大寺本最勝王経古点』の「寧身命ヲバ捨ツトモ、非法ノ友ニハ随ハズアリ」も「寧B、非A」; A=「非法の友に随ふ」、B=「身命を捨つ」で、漢文の語順に沿っている。 原文は「寧捨身命。不随非法之友。」が想定される。 同じく〈時代別上代〉所引『山田本法華経古点』の 「我寧法ヲバ説キタマハズシテ、疾ク涅槃ニヤ入リタマヒナマシトオモホシキ」 〔我「寧ろ法をば説き賜はずして、疾く〔とく;=はやく〕涅槃には入リ賜ひなまし」と所念しき〕。 「なまし」はためらいのある希望。~してしまおうかしら。「賜ふ」は自敬表現だから、かなりの高僧の言葉か。 恐らく「私は法を説くよりも、さっさと涅槃に入りたい」の意味だと思われる。 この場合はA=「法をば説き賜ふ」、B=「涅槃にや入り賜ひなまし」で、「寧、非A、B」の語順なので和文的である。 通常の語順による漢文を想定すると「我以為。寧欲疾入涅槃。不説法。」となる。 これら西大寺本・山田本の場合は、BはAと二項対立し、話者はBを志向するから、和語「むしろ」本来の意味に合致する。 まとめ 結論的には、漢籍や訓点本には本来の「むしろ」の意味を表す「寧」が含まれる。 しかし書紀の古訓などには、本来「むしろ」とすべきではないときの「寧」や「無乃」に対しても、機械的に「むしろ」と訓んだ場合もあると見られる。 特に二重否定文においては、「むしろ」への置き換えは、原理的に誤用であるはずである。 ただ、本来不適切な訓であってもそれが一旦使用されてしまうと、伝統を信頼する読み手〔私のような者を除く〕はそれに適応しようとする。 むしろ文脈に合わせて「飛んでもないことに」とか、「強い否定の強調」、「敢て」などに「むしろ」の意味を拡張していくのである。 |
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2018.07.26(thu) [31] 『北史』百済伝を読む ▼▲ |
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『北史』は、北朝の魏書・北斉書・周書・隋書を要約してまとめたもの。全百巻。
唐の李延寿撰で659年成立。その巻九十四(列伝八十二)は、高麗・百済・新羅などの諸国伝である。
「百済伝」は、百済が高麗との紛争にあたって、北魏に支援を求めた部分を含む。 その部分を精読する。 このうち「臣與高麗源出」以下は、『三国史記』巻二十五(百済本記第三)の蓋鹵王十八年条に、ほとんどそのまま載っている。 【北史巻九十四。百済伝】
魏の延興二年〔472〕、その王 余慶(よけい)は、初めて冠軍将軍駙馬都尉 弗斯侯、 長史 余礼、龍驤将軍帯方太守司馬 張茂等を遣わし、上表させて自ら通じた〔=自ら朝貢国となることを申し出た〕。 上表に云わく。 「臣〔=余慶王〕と高麗は夫余を源として出ました。 先の世の時は、旧款〔=旧来のまこと〕を篤く崇しました。その祖 釗(しょう)は、隣好を軽んじて廃し、臣の〔国〕境を陵践しました〔=踏みにじった〕。 臣の祖 須(しゅ)は、旅団(軍)を整え電邁(電撃)し、〈三国史記:機に応じて馳せ撃ち、矢石を暫く交え〉釗を斬って梟首〔=さらし首に〕しました。 これ以来、敢て南〔=百済〕を顧ることはありませんでした。 〔北燕の〕馮(ひょう)氏が命数を終えたのち〔=運命が尽きてから〕〔436年〕、余燼(よじん)奔竄(ほんざん)し〔=残り火がくすぶり〕、醜類(しゅうるい)は漸(ようや)く盛(さか)り〔=奴らは次第に勢力を盛り返し〕、 遂に陵逼され〔=攻撃され〕、怨みを構えて禍(わざわい)を連ねること、三十年余り。 もし天の慈(めぐみ)ををいただければ、曲げて矜〔=憐〕みを遠く無外〔=遠隔地〕まで及ぼして、速かに一将を遣わして臣の国を救いに来させてください。 当(まさ)に〔=お返しに〕鄙の女をお送りし、後宮の掃いを執らせ、 並びに子弟を遣わして、外の厩(うまや)に馬飼いをつとめさせます。 尺壌〔=わずかな土地〕も、疋夫(ひっぷ)〔=余慶王。遜っていう〕が敢て自ら所有することはありません。 去る庚辰年〔440〕の後、臣は西界の海中に屍を十体余り見つけ、 並びに衣類・器具・鞍・勒(ろく)を得ました。 これを見ると、高麗の物ではありません。 後に聞いたところでは、ここの王〔北魏の諸侯?〕の使人が臣の国に来降し、 長蛇に路を隔てて、海に阻(はば)まれました〔=遭難しました〕。 今、得た鞍一つを献上いたしますので、 実矯〔=真偽の判定〕をなされてください。」 文(ふみ)の献上にあたり、その僻遠の危険を冒(おか)して北魏に入り、献上したことを 礼遇優厚し、使者邵安(しょうあん)を遣わして、使者の帰国に伴わせた。 詔(しょう)に曰く。 「〔上〕表を得て、恙(つつが)ないと聞く〔と聞き、悦ばしい〕。 卿〔=貴方;百済王に対して〕は、高麗と睦まじくせず、陵犯〔=みだりに侵犯〕を被るに至った。 いやしくも、よく義に順じ、仁を以ってこれを守れば、果たして寇讎(こうしゅう)〔=敵対して攻撃すること〕を憂える必要があろうか。 以前に遣わした使者は、荒ぶる外の国を鎮撫するるために海路ででかけたが、 それ以来積年、往ったまま帰らず、存亡・達否は未だに詳らかに尽くされることはない。 〔このようなことがあったのは確かだが〕卿から送られた鞍は、旧く乗馬に用いられたものと比べ校(かんが)える〔=比較検討する〕に、中国の物に非ず。 必然の過ちを生むので〔=決めつけてしまうと誤るので〕、疑似の事を用いるべからず〔=疑わしいことを採用してはならない〕。 その経略権要は既に別旨を具(そな)える〔調査結果は別紙に添えておいた〕。」
「高麗は藩〔=冊封国〕を称し、以前から朝(ちょう)して職を供し〔=朝貢して〕日は久しい。 かの国に昔からの釁(きず)〔=多少の過失〕はあるが、〔高麗〕国に未だ令を犯すような愆(あやまち)〔=決定的な錯誤〕はない。 卿〔=貴方〕は使命を初めて通じ〔=朝貢国になりたいと申し出て〕、便(すなわ)ち〔暗に「都合よく」〕征伐することを求めた。事を合わせて尋討〔=検討〕したが、〔貴方の〕理〔=理屈〕は未だに周(めぐ)らない〔不完全である〕。 〔ただ〕献上された錦布・海の物、悉く達してはいない〔=全部はまだ到着していない〕が、卿の心が至る〔=仕える気持ちが十分ある〕ことは明らかである。 今、雑物〔=返貢の品〕を別の如く〔=別紙の通り〕賜る。」 そして〔高麗王〕璉に詔を発して安等を護って送るように命じた。 〔ところが〕高麗に至ったところで、璉は昔余慶と讎(あだ)があった〔=昔、余慶と敵対した因縁がある〕と称して東過〔東に通過〕させなかった。 〔止むを得ず〕安(あん)等(ら)〔=邵安と百済使の一行〕は皆還ってきた。 ただちに詔を下して、これ〔高麗王による妨害〕を切責〔=叱責〕した。 〔延興〕五年〔上記※印〕に、安等を遣わして東萊より海路を行かせ、余慶に璽書を賜り、その誠節を褒めた。 安等は海浜に至ったが、〔暴〕風に遇って飄蕩し〔=さまよい〕、遂に〔百済に〕達せなかった。そして〔北魏の都に〕還ってきた。 まとめ 「便求レ致レ伐」の「便」は、 「すなはち」と訓読するが、「便利」「便宜」の意味を残している。この字に「やっと朝貢してきて、都合よく要求するものだ」という皮肉が込められている。 北魏の返事は、①高句麗は、朝貢国として長年の友好関係があるのに対し、百済は、初めて朝貢を申し出た。 ②高句麗の侵攻は、道理を尽くせば解決できるから心配するな。 ③百済が「昔、北魏が遣わしてくれたらしい使者の遺物が出てきた」 と主張することについては、昔外国に鎮撫使を派遣したことはあるが、証拠物件という鞍は、中国のものではない。 ④とは言え、朝貢国になっていただいたことには感謝する。返貢として種々の品を用意した。 というものである。なお、「所献錦布海物雖不悉達」〔献上の品は、まだ一部届いていないが〕は、その献上品の少なさを見て「まだこれから届く分があるよね」という嫌味と見られる。 確かに、上表書は中国冊封体制の礼儀を弁えないものであるが、 それだけ百済が切羽詰まった状況に陥っていたとも言える。なりふり構わず、周辺国の応援を求めたのであろう。 同様の親書は、宋にも送られていたのかも知れないのである。 百済使に北魏の使者を付き添わせ、敢えて高句麗にその行程の安全を保証するように詔したのは、 それなりに高句麗・百済に仲介の労を執ろうとしたものであろう。 ところが、命じたことを高句麗は守らず、北魏の面子は潰された。 叱責はしたが高句麗の態度を変わらず、次は海路を取らざるを得なかった。 高句麗がこれだけ強気に出ることができたのは、当時の高句麗が破竹の勢いであったからであろう。 だが、その後百済は高句麗を押し返し、〈三国史記〉部寧王二十一年〔521〕十一月条には、 「遣レ使入レ梁朝貢。先レ是為二高句麗所破一。衰弱累レ年。至レ是上表。称下。累破二高句麗一。始与二通好一。而更為二上強国一」 〔梁に使者を遣わして朝貢。これまでに、高句麗は破られて衰弱して年を重ねた。上表文に、高句麗を重ねて破ってきた。初めて通好に与り、更に強国とならんとすと述べる〕と書かれる。 |
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2018.08.24(fri) [32] 「任那日本府」考 ▼▲ |
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任那国についての最初の言及は、崇神天皇紀にある。
以後任那国が諸文献でどのように現れるかは、神功皇后三十九年条【三韓地域の国々】【書紀における任那】で見た。
日本府については、雄略天皇紀八年条が初出だが、同紀にはその一か所のみである。他に巻十九の欽明天皇紀に繰り返し現れるが、他の巻にはない。 【欽明天皇紀二年~十三年】 欽明天皇紀における「日本府」の記述は、興味深い。まず注目されるのは、「任那日本府」とは別に、「安羅日本府」が存在し、二年七月条に「安羅日本府河内直通二-計新羅一」 〔安羅日本府河内直、新羅に通じ計〔=謀〕る〕、即ち安羅日本府の河内直が新羅に内通していると述べる。 任那日本府については、 「百済国遣レ使。召二任那執事与日本府執事一。」〔百済国、使を遣わして、任那執事と日本府執事とを召(よ)びき〕のように、「任那執事」と「日本府執事」を常に並列する形で記述される。 「任那旱岐(かんき)」と「日本府卿」という書き方もある〔旱岐は官職名と考えられている〕。 また、二年七月条では、百済の聖明王は、「謂二任那一曰『昔我先祖速古王貴首王〔云々〕』。聖明王更謂二任那日本府一曰『天皇詔称二任那若滅〔云々〕一』」のように、二者に対して別々に話をしている。 二者の関係は、属国の現地政権と、宗主国から派遣された顧問団に譬えられよう。 【任那旱岐】
任那旱岐というが、列記された名前を見ると「任那国の旱岐」がないのは、意外である。 「任那旱岐」の内訳は、欽明天皇紀二年〔541〕四月条に列記されている。 曰く。 「安羅次旱岐夷呑奚大不孫久取柔利 加羅上首位古殿奚卒麻旱岐散半奚旱岐兒多羅下旱岐夷他斯二岐旱岐兒子他旱岐等。 与二任那日本府吉備臣【闕名字】一。往二-赴百済一倶聴二詔書一」 〔安羅次旱岐夷呑奚……等与(と)日本府吉備臣【名字を闕〔=欠〕く】と、百済に往き赴き倶(とも)に詔書を聴く〕 「安羅次旱岐夷呑奚……等」は人名を列挙したもので、「任那旱岐」に対応するが、この人名の羅列はどう区切るのであろうか。 このうち、少なくとも安羅・加羅・多羅は国名だと考えられる。 それは、神功皇后四十九年条に「比自㶱・南加羅・㖨国・安羅・多羅・卓淳・加羅七国」とあるからである。 欽明二年四月条によれば、このうち㖨己呑国・南加羅国・卓淳国は、既に滅亡しているから、旱岐を派遣することはない。 曰く:
一方、欽明二十三年条の原注「【一本云。廿一年任那滅焉。総言二任那一。別言二加羅国。安羅国。斯二岐国。多羅国。卒麻国。古嗟国。子他国。散半下国。乞飡国。稔礼国合十国一。】」を併せて見れば、 「任那旱岐」として列記された名の区切りは、
その理由を考えてみると、卒麻国・散半奚国は加羅国内の半独立地域で、その首長が加羅国によって旱岐に取り立てられたことにより、個人名の代わりに呼ばれたものかも知れない。 同様に、斯二岐国・子他国も多羅国内の半独立地域か。 このように考えれば欽明二十三年条原注のうち、神功皇后四十九年条に出てこない国のいくつかは、 神功皇后紀の安羅・多羅・加羅の域内国となり、ある程度統一的に理解することができる。 何れにしても、これらの旱岐たちを「任那旱岐」と総称しながら、"任那国の旱岐"そのものは見えない。 だから、欽明紀原注が「総言」と述べるように、ここで言う「任那」は多数の小国を包含した地域名である。 すると、日本が再建しようとしている「任那」は地域名としての任那とは概念が異なり、あくまでも小国群を統合して倭国に事(つか)える国なのである。 《日本からの要求》 欽明四年十一月条に、 「遣二津守連一詔二百濟一曰。在二任那之下韓一百濟郡令城主。宜附二日本府一。」 〔〔天皇は〕津守連を遣わし、百済に詔した。曰く「任那の下韓にある百済の郡令・城主を日本府に附けよ」〕と要求している。 併せて、詔書で「爾須早建」〔任那国を必ず早く建てよ〕と述べる。 つまり、百済が支配権をもっている「下韓」地域を引き渡せと要求するのである。 しかし、百済はこの要求を拒絶し、その返答を伝えるために任那執事と日本府執事を呼ぶが、彼らは四年十二月以後の再三の呼び出しにも応じない。 五年三月になり、百済側は事態の打開を期して「奈率阿乇得文。許勢奈率奇麻。物部奈率歌非等」の使者を天皇に遣わした。 なお、ここで百済の人名なのに"許勢"、"物部"を名乗るのは不思議であるが、書紀は二年七月条の原注で 【紀臣奈率者。蓋是紀臣娶二韓婦一所生。因留二百濟一。爲二奈率一者也。未レ詳二其父一。他皆效レ此也。】 〔紀臣奈率は、紀臣が韓の婦を娶って生まれ、百済に留まったのだと思われる。父のことは詳らかでない。他も皆、これに倣う〕と解釈している。 これらの使者は十月に帰国し、十一月に天皇から手渡された詔書を一緒に読んで相談しようという理由をつけて、日本府臣・任那執事を呼び出した。 任那執事と日本府臣はやっと呼び出しに応じ、彼らに対して聖明王は次の「三策」を提案した。 その三策とは: ① 「三千兵士毎レ城充。以二五百一并二我兵士一勿レ使レ作レ田而逼悩者。 久禮山之五城庶自投レ兵降レ首。 卓淳之國亦復当レ興。 所レ請兵士吾給二衣粮一。」 〔天皇の軍を城ごとに三千名を充ててほしい。百済も五百名を出し、ともに田の耕作を妨害して悩ませれば、 久礼山の五城は自ら投降するだろう。そうやって卓淳国を〔独立させて〕復興させよう。 日本が派遣した兵士には、百済国から衣類・食料を提供しよう。〕 ②その上で、「猶於南韓置二郡令城主一者。豈欲違二-背天皇一遮二-断貢調之路一。」 〔南韓の郡令城主は猶(今のまま)置く。だからと言って天皇に違背し貢調の路を遮断することなどあり得ようか。〕と言って、 郡令城主を日本府に引き渡すことを、改めて明確に拒絶する。ただ、城の「修理防護」は防御のために不可欠だから手伝ってほしいという。 ③「吉備臣。河内直。移那斯。麻都一猶在二任那国一者。天皇雖レ詔レ建二-成任那一不レ可レ得也。 請下移二此四人一各遣二上-還其本邑一。」 〔吉備臣・河内直・移那斯・麻都が任那国に在るままでは、天皇の詔があっても任那の建成は不可能である。 この四人を、それぞれ元の村に還してほしい。〕 これは、地方の戦力の増強を口実として、実質的に日本府の解体を要求していると読むことができる。 ここには「在二任那国一」とあるが、任那「国」は存在しないから、吉備臣らが昔の任那国の場所、例えば加羅国に設けた拠点を指す。 または、四人は「任那国」に拘るが何もしていない、本気で再建を目指したいなら各地に分散して活動せよという意味であろう。 百済王が提示した三策に対して、〔任那日本府の〕吉備臣と〔任那の〕旱岐は「諮二日本〔府〕大臣一」、 「可下不二深思一而熟計上歟。」〔日本府の大臣に諮りたい。深く考えない状態で答えることは避け、熟計したい。〕と言って、 即答を避けている。 《百済聖明王の思惑》 三策の②では、また「若下不置二南韓郡領城主一修理防護上。不レ可三以禦二此強敵一。亦不レ可三以制二新羅一。」 と言う。城の修理防護への援助を求めるのは、百済自身にとって新羅からの防衛ラインの強化が必須だからである。 しかし、郡令・城主を倭に譲り渡すことは、認められない。 任那地域に倭が実効支配する国ができることまでは、望まないのである。 ただ、この見方に反するように見えるのが、百済王からの上表文である。そこでは倭の要望への賛意を最大限に表現している。 例えば、二年四月条に「図レ建二任那一旦夕無レ忘。」、「今寡人与レ汝戮力。并心翳頼二天皇一。任那必起。」 〔任那の建国を図ることを、朝夕忘れたことはない。 今寡人〔=私〕はあなたと戮力〔=協力〕し、併せて心翳〔=影〕に天皇を頼みにすれば、任那は必ず起(た)つだろう。〕 と述べる。 これは、書紀による粉飾という見方もできるのだが、 外交文書においては、相手国の王を形式上最大限に持ち上げる書き方がなされたのは事実だと思われる。 例えば、魏志倭人伝の女王宛ての詔書や、 宋書升明二年〔478〕の倭の上表文にその形が見られる。 百済王の本音は、新羅に備えて任那の防衛を強化するために、利用できることは利用しようとする。 そして再建した任那国が、倭への名目上の朝貢国になる程度のことは差し支えない。 しかし、倭の総督が直接統治する形は、決して認められないのである。 【三策の結果】 百済王提案の三策については、持ち帰って相談すると述べたきり実行したか否かは書かれていない。 その後は、どうなったのだろうか。 八年後の十三年五月条を見ると、「百済。加羅。安羅。 遣二〔使者〕一奏曰。高麗与新羅。通レ和并レ勢謀レ滅二臣国与任那一。故謹求レ請二救兵一。」 〔百済・加羅・安羅は使者を遣わして奏上する。 高麗と新羅は和を通じ、軍勢を合わせてわが国と任那を滅ぼそうと謀っている。よって謹んで救援の兵を求む。〕 として、高麗新羅連合の攻撃に対するために、倭に援助を求めている。 遣使は相変わらず「百済・加羅・安羅」から行われていて、 「任那国」からではない。 結局、任那国の再建は成らなかった。 この条に「日本府臣」とあるのを最後に、これ以後書紀からは「日本府」は消える。 【最後の「任那」】 任那の名は、欽明天皇紀の後にも時々現れるが、その最後は孝徳天皇紀大化元年〔645〕七月条である。 そこには「高麗百済新羅。並遣レ使進レ調。百済調使兼二-領任那使一。進二任那調一。」という興味深い書き方がされる。 つまり、この時点で半島に実在する国は高句麗・百済・新羅の三国であるが、 百済使が任那使を兼任したと装って、百済の調の一部を任那産と称して納める様子が見える。 同条には、続けて「始我遠皇祖之世以二百済国一為二内官家一。 譬如二三絞之綱一。 中間以任那国属二-賜百済一。 後遣二三輪栗隈君東人一観二-察任那国堺一。 是故。百済王隨勅悉示二其堺一。而調有レ闕。由是却二-還其調一。任那所レ出物者、天皇之所明覧。」 〔遠く皇祖の世は、百済国を内官家として、半ばに任那国を百済に属させた。 後に三輪栗隈君東人を遣わしてかつて存在した任那国の境界を調べさせ、百済王はその境界を了承した。 ところが、任那国の調を欠くので、百済国の貢調を一部返却して任那国による名目上の貢調として納め、天皇の御覧に供した。〕 とあることが、その工作を物語っている。 遡って推古天皇紀でも、出迎えの飾り船を新羅に二隻仕用意させ、一隻を名目上の任那の船に仕立てる工作が見えた (神功皇后紀4《形式としての任那使の同席》)。 国としての「任那国」は、既に欽明朝には消滅済みで、欽明天皇紀では地域名として扱われていた。 しかし、虚構の任那国を描くことは、書紀から始まったことではない。 既に聖徳太子の時代から「任那国」が存在するが如く演出することが、百済や新羅との外交儀式の一部になっていたのである。 古代に存在したとされる任那国の伝説が、飛鳥時代にいかに大切であったかを物語っている。 【日本府の実像】 書紀には南韓に置いた「内官家(みやけ、うちつみやけ)」が、あちこちに出てくる。そのうち孝徳天皇紀では、「以二百済国一為二内官家一」と表現するがこれは比喩であって、 実際には、朝廷の出先の機関若しくは居館を意味すると思われる。そこには一定の耕地と農民を所有していたかも知れない。 国内の官家については、宣化天皇紀元年「修二-造官家那津之口一」などがあり、一般的に朝廷の直轄地と解釈されている。 「安羅日本府」という表現、そして「移二此四人一各遣二上-還其本邑一。」という言葉から見て、恐らくは「日本府」は、事実上南韓の小国群の国ごとに置かれた内官家ではないかと思われる。 それぞれの小国に滞在していた吉備臣・河内直・移那斯・麻都などは、欽明朝のときは集結して行動していて、欽明紀ではこの臣たちのグループが「任那日本府」と書かれたと想像される。 「任那日本府」と書くと、あたかも任那国に大宰府の如き機関が存在したかのような印象を与える。 しかし、任那"国"としての実体はなく、任那は地域名に過ぎない。「日本府」の本拠も居館程度かも知れない。 さらには「郡令・城主」の譲渡を認めさせることができなかったことは、それだけのプレッシャーを与え得る規模の軍勢も持たなかったことを物語る。 この臣たちの行動は、むしろ百済からは嫌がられ、解散を促されるような代物である。 そもそも「任那日本府」は、書紀による造語である。 国号「日本」は天武朝の678年ごろに制定されたと考えられており、 欽明朝の頃の表記なら、 「倭司」あるいは「倭官」である。 欽明天皇紀をありのままに読めば、その二年~五年の時期に倭朝廷は任那国の再興を試みたが実現せず、 そのために現地で活動していた倭の臣のグループを、後の世に「日本府」と呼んだということである。 〈釈紀〉巻十八-「秘訓三」が、日本府を「【ヤマトノミコトモチ】」と訓むのは、 「日本府」という言葉がもつイメージに影響されたものであろう。 「みこともち」は大宰府の宰にあたり、「府」は〈倭名類聚抄〉では一般的に「豆加佐(つかさ)」である。 日本府は、「やまとのつかさ」と訓む方が字にも実体にも合っている。 まとめ 日本は、1910年から1945年まで朝鮮を統治下に置いた。 当時の歴史教育においては、時代背景が絡んで任那日本府の機能を高度に描き、 日本書紀がその根拠にされたように見える。 だが肝心の日本書紀には、任那日本府に大宰府のような統治機関としての機能は全く描かれていない。 そこにあるのは、欽明天皇の時代において、神功皇后以前の伝説に描かれた任那国にノスタルジーを抱き、現地でその「再建」をめざして行動した臣たちを「日本府」と呼んだことのみである。 「日本府」の語を用いたのは、書紀作者に漠然とした「古代の任那国」の幻影があったからだろう。その幻影の片鱗は、唯一雄略天皇紀に見える。 明治以後、がっちりとした任那日本府の実在を信じた人は、書紀作者が抱いた幻影を共有しているに過ぎない。 |
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2018.10.20(sat) [33] 〈続紀〉阿保朝臣 ▼▲ |
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雄略天皇紀十八年条の「青墓」は、阿保村の近くであろうと論じた(雄略天皇紀十八年)。
そのことに関係して、〈続紀〉延暦三年〔784〕条に、阿保村を本拠とした阿保朝臣についての記事がある。
ここでその部分を精読する。
延暦三年〔784〕十一月二十一日、 武蔵の介(すけ)従五位上建部(たけべ)朝臣人上(ひとかみ)により言上。 「臣らの始祖、息速別(おきはやわけ)皇子は、 伊賀国の阿保(あほ)村に就いて侍っておりました。 遠飛鳥朝〔允恭天皇の御世〕に至り、 皇子の四世孫、須禰都斗(すねつと)王に詔あり、 地名によって阿保君の姓を賜り、 その嫡子、意保賀斯(おおかし)は 武芸は常人を超え、 後世に示すに足るものでした。 それにより、長谷朝倉朝〔雄略天皇の御世〕、健部(たけべ)君に改賜されました。 これは、功績を労い恩寵される意味を高く掲げられたものですが、 土地を胙(めぐ)み給うものという本来の則(のり)には非ざるものです。 望み願わくば、 元の正名に戻して、阿保朝臣の姓を蒙むらせ賜りたく願い申し上げます。」と言上し、 詔を発してこれを許された。 このようにして、 人上らは阿保朝臣を賜り、 健部君(たけべのきみ)黒麻呂(くろまろ)らは、阿保公を賜る。 【胙土】 「胙土」という珍しい語句は、阿保朝臣が改姓を申し出た動機に関わるので、 その出典を厳密に調べた。 『後漢書』光武十王列伝に「光武十子胙土分王」がある。 これは、「光武帝は、十人の子に領地を封じ、王に分けた」意と見られる。 また、『春秋左伝』穏公八年に「胙之土而命之氏」〔之に土をめぐみ、之に氏を命ず〕がある。 この語句の意味は、「領地を与えて創氏させる」だと思われるが、さらに前後の関係の中で正確な意味を確認したい。
〈汉典〉には、胙:「1.古代祭祀時供的肉。」「4.~土(帝王以二土地一賜二-封功臣一、酬二其勲績一)。」とある。 「胙」のもとの意味は、神を祀るときに重ねて供える肉。 天子から封じられた土地では早速「胙」を供えて祭祀しただろうから、そこから「封土」の意味に転じたと想像される。 《胙土彜倫》 このように意味を取れば、〈続紀〉の場合「封土之法」などで十分意を尽くすことができると思われるのだが、敢て難解な字を用いた理由は何だろう。 その事情として、一人の臣が改姓を願い出るのはとても畏れ多いことなので、学識僧に命じて上奏文を慎重に作成させたことが考えられる。 そして、漢籍から格調高い語句「胙土彜倫」を見つけ出したのであろう。 そこには「封じられた地名を姓とすることこそが、古今東西で重んじられてきた原理原則である」ことを強調する狙いもあったと思われる。 雄略天皇から賜った「建部」を覆そうとすれは、これぐらいの気合を要したのであろう。 そしてこのときの上奏文の一部が、そのまま続紀に引用されたものと思われる。 まとめ 書紀の雄略天皇紀では、物部目連らが攻め入って朝日郎を斬る。 一方、意保賀斯は以前から存在した阿保君に属し、雄略帝のときに存在した人物である。 すると、阿保の地域に意保賀斯派と朝日郎派の二族がいて、意保賀斯派が官軍に与したことになる。 積年の「青君」と「阿保君」の対立かも知れない。 または、中央政権の圧迫により、阿保君が妥協派と徹底抗戦派に内部分裂したか。 その可能性もないことはないのだが、仮に朝日郎と意保賀斯が同一人物だとしたらどうなるだろうか。 そもそも建部と言えば倭建命の子孫であるが、倭建命は中央政権に与した尾張氏によって暗殺された節がある (第134回)。 よって建部は、反逆した英雄が殺されたとは言え、その武勇を称えて子孫に与えられた称号であろう。 ならば、「弓の名手である朝日郎」=「武芸に秀でた意保賀斯」も殺されたが、その一族は「建部」の名で存続が許されたと考えることができる。 とは言え、否、だからこそ建部なる呼称は不本意で、「阿保」を回復することが代々の悲願であった。 時は人上の代に至り、もうそろそろいいだろうと「阿保」の復活を願い出た。 朝廷側も、「雄略天皇=大悪天皇」と書記で公式に評価するくらいだから、事情を理解して申し出を受け入れたと見られる。 このような筋書きが成り立つと思われるのだが、どうであろうか。 |
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2019.01.27(sun) [34] 歌垣 ▼▲ |
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清寧段に「歌垣」の場面があり、武烈即位前紀の訓注に「歌場。此云二宇多我岐一」がある。
〈時代別上代〉によれば、歌垣とは「①男女が一所(神聖な山や市などが選ばれた)に集まって、飲食・歌舞し、性的開放を行った行事。」
「②のちには宮廷などの一種の風流遊芸」であるという。
万葉集には「歌垣」という語はなく「嬥歌(かがひ)」が一首(1759)にある。 嬥歌は〈時代別上代〉によれば、「一年の中に適当な日を定めて、市場や高台など一定の場所に集まり、飲食・歌舞に興じ、性的解放を行った。」 とありほぼ歌垣①と同内容である。 〈古典基礎語辞典〉は、動詞「かがふ」を、 「カキ(懸き)アフ(合ふ)の約。男女が互いにかけ合いで歌をうたい、踊る意」、 そして「一般には東国で」「カガヒ(名詞)、カガフ(動詞)といったもの。」と説明する。 カガヒが東国の言葉だといわれるのは、万葉歌が「嬥歌は東俗語」と注記したからであろう。 以下、万葉集・風土記・続紀の原文から嬥歌・歌垣の実像、及び当時の人がこれをどう見ていたかを探る。 【万葉集巻九】 万葉集巻九-第1759歌は、筑波山の嬥歌を詠んだものである。
《裳羽服津》 裳羽服津(もはきつ)は、普通に読めば山の中のある個所の地形を比喩的に「津」と表現したように取れる。 それは、どのような場所であろうか。 『万葉集古義』〔鹿持雅澄、1844年〕には、 「湖ノあれば、其ノ津をかく名付るならむ、故シ〔しかし〕其ノ津のうへにともよめり、 契沖云〔ふ〕、裳羽服津は、著レ裳津 と云〔ふ〕心にて名付たる所の名か、心は、 女の筑波山にもうづるに、こゝにして衣装をあらためて、裳を著ると云心にや」 〔もし湖があれば、その津の名前であろう。しかし、その津の「上に」という言葉もあるから、契沖曰く、女が筑波山に詣でるときに着替えた場所を「もはきつ」と言ったらしい〕と書かれる。 雅澄は、「津」の本来の意味に従って「湖の津」と読もうとしたが「湖」は見つからなかったようである。 契沖説では「ツ」は単に着替えをする「場所」で、船着き場の意味は消え、人の活動の拠点を船着き場にたとえたものである。 しかし万葉歌にでてくる地名「~津」を見ると、すべてが現実の海岸・川岸に由来すると見られ、その他のことに譬えた例は見いだせない。 《桜川》 そこで、「津」を敢て本当の船着き場だと考えてみる。 津になりそうな場所を筑波山付近に探ると、桜川という幅広の川がある。この川は霞ヶ浦に流れ込んでいる。 すると、嬥歌の参加者の少なくとも一定部分は霞ヶ浦から桜川を船で遡り、 「裳羽服津」から上陸したという見方ができるが、どうであろうか。 「裳羽服津の、その津の上に率ひて」とは、裳羽服津から上陸した男女の群れが、 「その津の上に」聳え立つ筑波山に向かって、ぞろぞろ歩いて行く様を描写したもののように読めるのである。 禊橋の上から筑波山と桜川を眺めた画像を見ると、その光景が目に浮かぶのだが…。 《嬥歌》 中国語の「嬥歌」(ちょうか)に関しては、『広韻』〔1007~1008〕に「韓詩云。嬥歌巴人歌也」が見える。 また〈百度百科〉は、 「嬥歌:古代巴人相互牽手辺跳辺唱的一種民歌。 『後漢書』礼儀下:羽林孤児。巴俞擢歌者六十人為六列。」と説明する。
「嬥歌」は、中国の文献を通して倭国に流入し、カガヒを表記するために用いられたものと思われる。
【常陸国風土記】 『常陸国風土記』「筑波郡 筑波山」の項に、嬥歌の様子が載る。
『常陸国風土記』総記に 「古者自二相模国足柄岳坂一以東諸県惣称二我姫国一」 〔古(いにしへ)は相模国足柄岳(あしがらのやま)の坂より以東(ひむがし)の諸県(もろもろのこほり)、総(すべて)我姫(あづま)の国と称(い)ふ〕。 記は、倭建命が「足柄之坂」に登り「阿豆麻波夜(あづまはや)」と三度嘆いたことを地名の由来とする。 書紀ではその場所を「碓氷峠」〔長野・群馬の県境〕とする (第130回)。 何れも創作的地名譚であるが、風土記にもある「足柄岳」の方が一般的であったと見られる。主要な交通路が、東海道だったからであろう。 関東地方の別名を「坂東」(ばんどう)というのは、「柄岳坂以東」→「自坂以東」→「坂東」ということだろう。 《阿須波気牟》 角川ソフィア文庫『風土記上』は、結句の「阿須波気牟」〔あすは(ば)けむ〕を「不明な句」とする。 ただし、同書は原文も収めているが、そこには「阿波須気牟」になっていて一貫しない。 どちらが正しいか確かめるために、『群書類従』〔1793~1819年刊本〕を調べると、その「巻四百九十九」に常陸国風土記があり、そこでは「阿須波気牟」となっていた。 現代のある解説本は「あはずけむ」を採用して「逢えなかった」と解釈している。 「阿波須気牟」が成り立つためには「須」は濁音「ず」でなければならない。 「けむ」は連用形から接続する助動詞で、「ず」の連用形は「ず」だからである。 「須」は万葉では清音「す」は600例以上に使われ圧倒的に多いが、 濁音「ず」として否定の助動詞に用いる例も数例ある。「(万)4384 己枳尓之布祢乃 他都枳之良須母 こぎにしふねの たづきしらずも〔漕ぎにし船のたづき〔手がかり〕知らずも〕」など。 もし「あすばけむ」だとすると、句全体の文意は自然である。 《解釈》 筑波山では、花が咲きほこる春と紅葉の秋に、集団で食物や酒をもって登った。ピクニックのようなものだが飲酒を伴い、 大宴会をして歌を楽しむ。ただ添えられた歌謡を見ると、必ず相手が見つかるとは限らないことが分かる。 やはり、気の利いた歌を返して座を盛り上げる技量の持ち主がもてたのである。だから嬥歌を通して歌の技巧は高まり、 〈続紀〉に書かれた芸能としての歌垣(後述)に発展したのだろう。 辞書の「性的開放」という言い方には奇異なものを見るような目が感じられるが、その感覚を生ぜしめたのは明治政府が上から強制した道徳である。 歌謡による応答は高い精神文化と言え、交歓の場で親密になった男女がしかるべく夜を過ごすのも、また自然な生活の一場面と言えよう。 【肥前国風土記逸文】
『肥前国風土記』逸文の「杵島」条は、その三巻第0385歌のところで引用されたものである。 ――(万)0385 霰零 吉志美我高嶺乎 險跡 草取可奈和 妹手乎取 あられふり きしみがたけを さがしみと くさとりかなわ いもがてをとる この歌について「此歌、肥前國風土記ニ見タリ」として、肥前国風土記を引用する。 〈先覚抄〉のこの部分を複数のソースで比べると、不一致が目立つ。ソースは次の通り(〈…〉は略号)。 ・『仙覚全集』(佐々木信綱編。古今書院1926)⇒〈全〉 ・『萬葉集註釋 20巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)〔筆記年代不明〕⇒〈デ〉 ・『風土記下』(角川ソフィア文庫)⇒〈角〉 〈角〉は、参考文献に『仁和寺蔵万葉集註釈』(臨川書店1891)、『金沢文庫本万葉集巻第十八 中世万葉学』(朝日新聞社1994)を挙げている。 〈角〉は新字体を用いていて、他の本にも新字体(発刊・筆写の時代では異体字)が混じるが、 ここでは原文を旧字体、読み下し文を新字体に統一した。 差異は、〈仙覚抄〉を筆写する段階で生じたことになる。 南西から北東に並ぶ三山」が、そのうちどれを指すかははっきりしない。 山地全体は、むしろ巽(たつみ、南東)から乾(いぬゐ、北西)の向きである。 さて、万葉の「未通女・壮士」、常陸国風土記の「男・女」に、ここの「士・女」を並べれば、 年頃の男女が交歓するという、これらの集いの性格がよく分かる。 【万葉集巻十二】 海柘榴市(つばきいち)は古代の市。比定地は、一般に山の辺の道が大和川に達した仏教伝来碑の辺りとされる。 ここでも歌垣が行われたといわれ、万葉歌3101は、歌垣で逢った女性との問答歌とされる。
この歌だけでは、海石榴市で歌垣が行われたかどうかは分からない。 海柘榴市と歌垣を直接的に結びつける文章は、武烈天皇即位前紀にある。 関係する部分を抜き出し、精読してみる。
媒人が訪れたとき影媛は取り込み中であったが、何とか海柘榴市の歌垣に行くことだけは了承させたのだろう。 媒人が太子のところに戻ったとき、とても本当のことは言えず、このように報告するしかなかったのである。 この物語の舞台が海柘榴市になっているのは、現実に海柘榴市で歌垣が行われていたからであろう。 また「巷」と書くのは万葉歌の「八十街」と同じで、方々からの街道が交わるところに市が立ち、 かつそのような場所で歌垣が行われたことを物語っている。 【摂津国風土記逸文】 〈釈紀〉巻第十三、「歌場衆」の項目に、摂津国風土記からの引用がある。
さて、雄伴郡は、八部郡の旧名である (仁徳天皇紀三十八年【菟餓野鹿】 )。 〈大日本地名辞書〉は「風土記「雄伴郡夢野」資財帳「雄伴郡宇治郷伊米野」とあるを考えれば八部〔やたべ〕の前名である事明白なり」とする。 その「宇治郷」については、〈倭名類聚抄〉に{摂津国・八田部郡・宇治郷}とある。 『続日本後記』天長十年〔833〕七月に、「○癸巳〔8日〕。天下諸國。人民姓名及郡郷山川等號。有觸諱者。皆令改易。」 〔天下諸国、人民姓名及び郡郷山川等の号、諱に触れば皆改易せしむ〕とあるので、このとき淳和天皇の諱「大伴」に類似する「雄伴」を改称したと見られる。 八部郡とは別に、大阪府能勢町倉垣に「歌垣山」(553m)がある。これが筑波・杵島と並ぶ「日本三大歌垣」のひとつと呼ばれ、能勢町の手によって山上に「歌垣山公園」が整備されている。 この山について〈大日本地名辞書〉は、「倉垣:今歌垣村と改む、田尻村の北に接す、 摂津国風土記雄伴郡に歌垣山あれど、此に非ず」と一蹴している。 現在の能勢町は〈倭名類聚抄〉の{摂津国・能勢郡}の範囲とほぼ重なり、 能勢町の「歌垣山」が雄伴郡の歌垣山でないことは明らかである。 ただ、歌垣そのものがどの土地にでもある風習だったとすれば、その一つがここにもあったと考えることはできる。 それでは八部郡の歌垣山はどこにあったのだろう。 それを求めた研究はなかなか見つからず、八部郡と重なる神戸市の公式ページにも取り上げられていない。 【続日本紀】 〈続紀〉に書かれた「歌垣」は、民衆の間で行われていた歌垣を昇華して芸能化したものである。 全部で三例が載る。 《天平六年二月》
芸能としての歌垣では、恐らく「頭」の一人が難波曲などのメロディーに乗せて即興的に歌を詠み、その一節毎を区切って詠み手が歌い、 一節毎に衆が合唱して反復するといった形式であろうと思われる。舞踊を伴ったことも考えられ、なかなかの壮観であっただろう。 「唱和」と「為~音」の書き分けについては、唱=人声、音=楽器の音で、管絃打による伴奏を伴ったのだろう。 肥前国風土記には、杵島山に琴を抱えて上ったと書かれている。 「而罷」は別に書く必要はないが敢えて書いたのは、民衆行事では「その後、男女が相手を見つけて結ばれ…」となるが、 芸能ではそれがないことを示すためかも知れない。 《宝亀元年三月》
・葛井(ふぢゐ)氏は、「藤井連:百済族にして、河内国藤井より起る。」。 ・船(ふね)氏は、「船 フナ フネ:船舶を掌りしより起り」、「船史:百済族中の大族にして、かつ名族たり」。 ・津(つ)氏は、「津連:津史(百済族船史より分かる)の連姓〔むらじのかばね〕を賜へる者にして」、 「大宝令に「東西文部」とある東は大倭〔大和〕にして、西とは河内を云ふ」。 ・文(ふひと)氏は、「史 フビト:もと官職名にして、フビトと訓ず」。 ・武生(たけふ)氏は、「武生連:博士王仁の後(西文〔かふちのあや〕氏族)にして」。 ・蔵(くら)氏は、「内蔵 クラ:古来単にクラと訓ずるを例とす。此の氏は、上古・三蔵の一なる内蔵の職員たりし職名より来りし」 となっている。 文氏・蔵氏は、古語拾遺によれば、阿知使主を祖とする東漢の子孫であった(資料[25]【内蔵・大蔵の名を負う氏族】)。 以上から六氏は何れも、百済系から分岐した氏族であると言える。 同系の氏族が多人数集まって芸能を見せるのは、その存在感を見せつけるデモンストレーションのように思える。 《宝亀元年四月》
まとめ 高橋虫麻呂の筑波山の歌には、確かに「性的解放」を思わせるものがある。 このシチュエーションでは、一夜の自由な性交渉は起こり得るものであろう。 しかし、パートナーの目を気にするなと神が言ったとする部分は大胆過ぎる。 そこに、辺境を訪れた都の人が抱く偏見:「鄙は道徳的に乱れている」を見るのは考え過ぎであろうか。 常陸国風土記を見ると、実際には折角のチャンスを生かせず相手を得られなかった嘆きも歌になっているから、 男女が親密になるなる過程そのものは常識の範囲内と見られる。 決して、酒の力を借りて本能に身を任せた無軌道な性典ではない。 やはり、歌垣・嬥歌のメインは歌を交わし合って楽しむ文化活動であるという、当たり前の結論に行き着くのである。 歌垣・嬥歌は何れも山の上または、市で行われた。それぞれ山の神、巷の神が男女を結び付けるという意識が働いていたと思われる。 社会的な機能としては、多数の男女が出会う機会を確保することは、子孫繁栄に繋がる。市で催す場合は「巷」であることが強調されるように、 多くの地方の人が往来するから、歌垣を催す意義は大きい。 山上は日常的な人の往来はないが、逆に春秋の気候のよい時期に日を決めておけば、同じ日に観光を兼ねて広い地域から男女が集まる。 そのためにも交通の便のよさは欠かせない。 この観点から見ても万葉1759歌の「裳羽服津」は、各地から大量に集まってくる男女の船着き場ではないかという思いは強まるのである。 なお、能勢郡の歌垣山が、摂津国風土記に言う歌垣山ではないことは明らかである。 これがいつ、どのようにして「日本三大歌垣」と言われるほど有名になったのか、その経緯を知りたいところであるが、 今のところ調べ切れていない。 |
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2019.03.03(sun) [35] 五色の賤 ▼▲ |
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律令によれば、人民には良民・賤民という身分がある。
そのうち賤民については、陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢の五種類があり、 これを一般に「五色の賤」と言う。 そう言われる根拠を調べたところ、その根拠は〈令義解〉-「戸令」条の次の記述にあることが分かった。
これを読むと、賤民の内部に上下関係があり、「陵戸=官戸=家人>公奴婢>私奴婢」であることが分かる。 そして、身分の異なる者が夫婦となり、その間に生まれた子の身分は低い方になる。 例外的に、父が公奴婢または私奴婢であっても、母が陵戸・家人の場合は、生まれた子は母と同じ身分になる。 だが、父が公奴婢または私奴婢で母が官戸の場合は、生まれた子は父と同じ身分となると読み取れる。 まとめ 「家人」は、雄略紀九年五月条《家人》の項で考察した。 それによると、課税の対象にならない「不課」には「家人」「奴隷」が含まれる。すると、五色の賤のうち陵戸と官戸は課税されていたことになる。 また〈姓氏家系大辞典〉によると、家人と奴婢とでは「氏を有せざるゝ」ことが共通するが、「売買するを得ざる」点などは奴婢と異なるという。 このように、五色の賤は同じ賤民といってもそれぞれ細かな点に違いがあったようである。 |
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2019.04.05(fri) [36] 新莽嘉量 ▼▲ |
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――「量者、龠、合、升、斗、斛也。所以量多少也。本起於黃鐘之龠。用度數審其容。 以子穀秬黍中者千有二百實其龠。以井水準其概。 合龠為合。十合為升。十升為斗。十斗為斛。而五量嘉矣。」 〔量は龠〔やく〕、合、升、斗、斛〔こく〕である。量の多少の故は、本は黄鐘〔音程の一つ(第14回)〕 の龠〔ふえの一種〕に起こる。度数を用いてそのさまを審らかにする。 子穀の〔実った〕秬黍〔くろきび〕を用いれば中には千二百粒の実がその龠に入り、井〔升〕の水を以って粒を均した量に準える。 2龠を合わせて1合とし、10合を1升とし、10升を1斗とし、10斗を1斛とし、このようにして五つの量嘉とする。〕 ――「其法用銅。方尺而、圜其外旁有庣焉。其上為斛。其下為斗。左耳為升。右耳為合龠。」 〔その法は銅を用い、一辺を1尺とする正方形にして、円は其の外傍に庣〔隙間〕有り。その上が1斛となり、その下が1斗となり、左の耳が1升となり、右の耳が1合・1龠となる。〕 「新莽嘉量(しんもうかりょう)」という計量器具が現在まで残っており、その形状は律暦志の説明によく合う(右図)。 新莽嘉量は、新の皇帝王莽が西暦9年に劉歆に命じて製作させたものという。 新は西暦8年、王莽が前漢の皇太子の孺子嬰から禅譲を受けて建てた王朝。その後23年に亡び、後漢となった。 新莽嘉量の説明に合うものが漢書に載るということは、同じ形をした「律嘉量」が前漢の時代に存在していたことになる。 他の考え方としては、漢書が書かれたのは後漢の章帝〔75~88年〕のときだから、 度量衡については新の時代まで含めて書かれたのかも知れない。 なお、新莽嘉量は<wikipeddia>によると4世紀頃から行方不明となり、清朝の18世紀に発見された。その後中華民国に引き継がれ、 現在は台湾の国立故宮博物院に収蔵されている。 《劉注九章算術》 その新莽嘉量を実測して書いたと思われる文章が、『説文解字注』にある。 『説文解字注』は『説文解字』(100年成立)への注釈書。著者は段玉裁で清代の1815年に成立し、 「劉注九章算術曰:晉武庫中所作銅斛。其篆書字題斛旁云:律嘉量斛。方一尺而圜…」とある。 つまり、この文章はさらに古くから伝わる『劉注九章算術』からの引用である。 『九章算術』は、周~漢の時代に作られた数学問題が収められているから、漢以前の書といわれる。 それに劉徽が注釈を加えた書が『劉注九章算術』で、263年の書。従って『九章算術』はそれ以前ということになる。 『説文解字注』によって引用された部分はこの『劉注九章算術』原文とほぼ同文で、以下は、『劉注九章算術』から引用したものである。
∴内径=7.071寸+0.095寸=7.166寸。 ∴底面積=7.1662π平方寸=161.33平方寸。 計算結果は「一百六十二〔平方〕寸」とは多少異なる。 その原因は円周率として、3.1415…とは異なる値が用いられたためと考えられている。 (10√2÷2)寸の値の精度は、7.071寸に留まるものとし、162平方寸は四捨五入の結果と考えると、底面積S平方寸は161.5≦S<162.5の範囲である。 ここから逆算して得られる「円周率」[π]の範囲は、「3.144<[π]<3.165」となる。 漢代の一寸と言われる2.31cmを用いて正確な円周率を用いて体積を求めると、1613.3×2.313=19886(cm3)。 また、『劉注九章算術』に「積」と書かれた1620立法寸を用いた場合は、19969cm3となる。 一般に1斛=20000cm3〔=20000mL=20L〕と言われている。
新莽嘉量を実測した値があれば、漢代における1尺や1斛の値が求まることになる。 そこで実測値を捜したところ、「中国百科網」内の「新莽嘉量」のページに見つかった(右表)。 その表の値を使って斗・斛の口径・深さから求めると一寸は2.27~2.29cm程度だが、容積から求めると1寸は約2.32cmほどで、そのずれは比較的大きい。 計測結果は1000分の1mm単位で示されているが、内径は測定器具を差し渡す位置によって多少なりとも異なるはずだから、複数個所の測定結果が示されなければいくら数値の桁数が多くてもさほどの価値はない。 3つの数値の矛盾をなくすひとつの方法は、真円柱ではなく楕円柱だと仮定することである。 楕円柱の体積をVとすると、V=πabhであるから、斛に於ける「口径」の位置が仮に短径ならば、長径a=16.961cm、即ち口径の最大値は33.922cmとなり、短径と0.974cmもの差が生じる。 正確に短径の箇所を求めて計ったとは考えにくいから〔それなら、長径の値も記録するであろう〕、差はさらに大きくなる。 また、底板が水平でなかったとすれば、測る場所によって深さが異なる。仮に真円だったとして直径と容積から深さを求めると、 斛の平均の深さは20097.5cm3/((32.948cm/2)2)π=23.572cm。22.895cmが一番浅い位置だとしても、反対側は24.249cmとなってしまい、この傾きはあり得ない。 何れにしても一か所のみしか測らなかったのであれば、いくら小数点以下の桁数が大きくても科学的な測定とは言えない。 それでも比較的信頼できるものがあるとすれば、容積であろう。 まとめ 何とか実測値を見つけることができたが、その数値には疑問が残る。しかし掲載されたウエブページには出典が示されていないので、これ以上の追究は不可能である。 今後、さらに実測資料が発見できればと思う。
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