古事記をそのまま読む―資料4
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2018.05.10(thu) [29] ヒトの目の角分解能 


 ヒトの目は、どれだけ細かいところまで見分けることができるだろうか。
 この問いを言い換えれば、ごく近くにある2つの点が溶けあって1つにならずに、2つに見える最小距離はいくらかということである。 その距離を分解能という。
 当然のながら、同じ物体でも遠くにあるときより、眼の近くに近づけたときの方が分解能は大きくなる。 ただ、目と2つの点のそれぞれを結ぶ直線が作る角度(図4のα) の最小値は一定である。これを、ここでは「角分解能」と呼ぶ。
 角分解能の値は、一般に鳥の目の方がヒトの目より小さい〔=細かいところまでよく見える〕。 それは、鳥の方が、網膜上の視細胞の密度が大きいからである。 このように、眼の角分解能はひとえに隣り合う視細胞の間の距離で決まる。
 それでは、ヒトの目の分解能は、具体的にどのくらいであろうか。

【ヒトの目の角分解能】
 眼は網膜上に実像を結び、視細胞がその光を信号に変えて脳に送る。 従って大雑把に言えば、実像の上の2個の間隔が、隣り合った2個の視細胞の間隔より狭ければ見分けることができない。
 視細胞には、僅かな光を敏感に感じる(=暗いところでも見える)が色を判別できないかんと、 十分な光が必要だが(=明るい所だけで見える)が色別に感じ取るすいの二種類がある。
 網膜上には特に、視細胞が密集して像を微細に判別できることができる部分あり、これを中心と言う。 中心窩には錐体が高密度に存在するが、桿体はほとんど存在しないという。
 錐体にはR、G、Bの三種類があり、それぞれ赤・緑・青の波長の光だけに反応する。従って、3個の錐体の組によって色のついた点一個を見る。 従って、上述の※は、正確には「RGBの3個の錐体を一組としたときの、2組の間隔」と表現しなければならない。
 中心窩に結ぶ像の分解能を大雑把に計算するために、左の値を用いる (『眼』の値を使用)。
 以上から、網膜の画素の密度から受け取る画像の分解能を考える。
眼球の直径 24mm
中心窩の錐体密度 16万体/1mm
両眼視野 124度
全視野  208度
《視野の広さ》
 眼球一個の視野(図1のx)を求める。

  x=両眼視野+(全視野-両眼視野)/2=166度 …(1)

《画素の間隔》
 網膜が受け止める画素の間隔を求める(図2)。
 中心窩の錐体の密度は、16万個/mm。 R、G、Bの錐体の組で一つの画素を構成すると考えると、1mmの線上に並ぶ画素の個数は、

  √16万/3=230.9個 …(2)

《像を結ぶ網膜の広さ》
 外界の166度の間の入射光を受け止める網膜の寸法を求める。 眼球を完全な球体として、その4分の3(図3の水色部分)の範囲で光を受けるものと仮定する。
 網膜の受光面の横幅は、

  2πr×(四分の三)=24×π×3÷4=56.55mm …(3)

《受光画素数》
 中心窩の錐体と同じ密度で、全受光範囲に受光画素が分布すると仮定する(図3)とその個数は(2)×(3)で、

  230.9×56.55=13060 …(4)

《角分解能》
 入射光(1)が受光画素に均等に広がると仮定すると、画素間の角分解能は(1)÷(4)で、

  166度÷13060=1.271×10-2度=2.183×10-4ラジアン …(5)

まとめ
 眼球から距離の位置での分解能は、眼球の角分解能がα(ラジアン)とすると、αdとなる(図4)。 αの値は(5)のように、α=約0.00022 である。
 従って、d=1mのときは、約0.22mm。 つまり、最大限ピントが合った場合でも、眼から1m離れた位置で横に並ぶ2点は、その間隔が0.22mmより短いと、見分けることができない。
 d=10kmのときは、約2.2mとなる。



2018.07.04(wed) [30] 「むしろ」への試論 

 雄略天皇紀五年二月条の「安野而好獣無乃不可乎」の「無乃」は伝統的に「むしろ」と訓まれるが、 これには違和感がある。その理由を考察する。

【無乃】
…ミカンを食べようと誘われた()とき、 「私はむしろリンゴが食べたい()」と答える。これが本来の「むしろ」である。
…ミカンを食べようと誘われたときに、「私はむしろミカンは食べたくない()」と答える。 このような返事をされれば「では、何が食べたいかはっきりしろ」と反応する人は多いだろう。

 〈時代別上代〉所引の『類聚名義抄』に「無乃【ムシロ】」がある。
 また〈漢辞海〉は、「無乃」について「定型化した副詞句として『むしろ~せんか』と訓読してもよい〔ということは、しなくてもよい〕と述べる。 だから、この古訓は、書紀だけのことではないようだ。
 しかし副詞「むしろ」の機能は、既に命題が提示された状態で、と二項対立する命題を提示し、かつ話者はを選択しようとする(右ア)。 だから、「むしろ」の後には必ず、と別種で、話者が真に主張したいが来ることが期待させる。 ところが、が単に「」であった場合は、の独自性がないから肩透かしを食らう(右イ)。これが、この箇所の伝統訓が〔少なくとも私には〕分かり難い理由である。

【二重否定】
 二重否定形の場合「むしろ」構文に置き換えると、必然的に「」となるから、常に肩透かし状態となる。 だが〈時代別上代〉は、「それが反語の表現をとっていることもある」とする。 雄略天皇紀の「無乃不可」はまさしくこの例であるが、その古訓が原文のニュアンスを正しく表すかどうかは、また別問題である。

【万葉集】
 ただ、これまでに述べたことは「むしろ」に対する現代の感覚であって、上代にはあり得たのかも知れないのだから、もう少し幅広く調べる必要がある。
 まずは万葉集を見たが、残念ながら副詞「むしろ」は一例もなかった。
 このことは、ことによると「むしろ」は漢文訓読から生まれた新造語ではないかという疑念を生む。

【現代語古語類語辞典など】
 〈現代語古語類語辞典〉の「むしろ」の項は面白い。
 近代:かへって[却]。
 近世:いっかう[一向]。けく[結句]。けくで[結句]。よしか。とてものことに。いっそのこと。
 中世:いっそ。けっく[結句]。
 中古:いかう[一向]。
 上代:なかなか(に)。むしろ[寧/無乃]。

 いずれも「と別種の話者の主張の方向に沿ったを提示する」に沿っている。 上代語「むしろ」についても、同辞典の編者は現代の「むしろ」の意味で受け止めていることが分かる。
 学習用古語辞典(大修館書店など)には、見出し語「むしろ」自体がない。これは、古文の「むしろ」は現代語の「むしろ」と同意であることは自明であると考えられているからだろう。

【寧】
 「」も「むしろ」と訓読するので、ここで漢籍の「」について調べる。 「」は、「むしろ」の他に「いずくんぞ」とも訓読される。「いずくんぞ~」は、「何とこんなことが」という、意外感を添える副詞である。
 神代記上に、「寧可以口吐之物、敢養我乎。〔「むしろ」口から吐いたものによって、我をもてなすか。〕があった (第44回【一書十一】)。 これは月読尊(つくよみのみこと)が、保食神(うけもちのかみ)が食物を口から吐き出して饗の用意をしているのを見つけて驚き、罵った言葉である。
 伝統訓では「寧可」を「むしろ」と訓む(『仮名日本書紀』、〈時代別上代〉など)。 この例では食物を得る異常な手段をとする。これもしっくりこないのだが、しっくりこない原因は話者がを進んで是とするというより、むしろ非難の対象だからであろう。 多くの場合、への話者による対案として、肯定的な意志を伴う。
 この場合の「」に対しては、むしろもう一つの訓:「いずくんぞ」の方が相応しい。
 『史記』-「蘇秦列伝」の「寧為鶏口、無為牛後〔寧ろ鶏口となるも、牛後となるなかれ〕は、「」にもっとも期待される用法であろう。 この文例のように、漢文では一般に「」の順に組み立てる。和文の感覚で見ると、逆順である。
 〈時代別上代〉所引『西大寺本最勝王経古点』の「寧身命ヲバ捨ツトモ、非法ノ友ニハ随ハズアリ」も「寧」; =「非法の友に随ふ」、=「身命を捨つ」で、漢文の語順に沿っている。 原文は「寧捨身命。不随非法之友。」が想定される。
 同じく〈時代別上代〉所引『山田本法華経古点』の 「我寧法ヲバ説キタマハズシテ、疾ク涅槃ニヤ入リタマヒナマシトオモホシキ〔我「寧ろ法をば説き賜はずして、疾く〔とく;=はやく〕涅槃には入リ賜ひなまし」と所念しき〕「なまし」はためらいのある希望。~してしまおうかしら。「賜ふ」は自敬表現だから、かなりの高僧の言葉か。
 恐らく「私は法を説くよりも、さっさと涅槃に入りたい」の意味だと思われる。 この場合は=「法をば説き賜ふ」、=「涅槃にや入り賜ひなまし」で、「寧、」の語順なので和文的である。 通常の語順による漢文を想定すると「我以為。寧欲疾入涅槃。不説法。」となる。
 これら西大寺本・山田本の場合は、と二項対立し、話者はを志向するから、和語「むしろ」本来の意味に合致する。

まとめ
 結論的には、漢籍や訓点本には本来の「むしろ」の意味を表す「寧」が含まれる。 しかし書紀の古訓などには、本来「むしろ」とすべきではないときの「寧」や「無乃」に対しても、機械的に「むしろ」と訓んだ場合もあると見られる。 特に二重否定文においては、「むしろ」への置き換えは、原理的に誤用であるはずである。
 ただ、本来不適切な訓であってもそれが一旦使用されてしまうと、伝統を信頼する読み手〔私のような者を除く〕はそれに適応しようとする。 むしろ文脈に合わせて「飛んでもないことに」とか、「強い否定の強調」、「敢て」などに「むしろ」の意味を拡張していくのである。



2018.07.26(thu) [31] 『北史』百済伝を読む 

 『北史』は、北朝の魏書・北斉書・周書・隋書を要約してまとめたもの。全百巻。 唐の李延寿撰で659年成立。その巻九十四(列伝八十二)は、高麗・百済・新羅などの諸国伝である。
 「百済伝」は、百済が高麗との紛争にあたって、北魏に支援を求めた部分を含む。 その部分を精読する。
 このうち「臣與高麗源出」以下は、『三国史記』巻二十五(百済本記第三)の蓋鹵王十八年条に、ほとんどそのまま載っている。

【北史巻九十四。百済伝】
魏延興二年。其王余慶始遣其冠軍將軍駙馬都尉弗斯侯。
長史余禮。龍驤將軍帶方太守司馬張茂等上表。自通。
駙馬…天使の輿のための予備の馬。 故事により、天使の娘婿の意味に転じた。
駙馬都尉…駙馬を管理する役職。
冠軍将軍龍驤将軍…漢の将軍には、多様な称号が被さっている。 朝貢の使者に中国の称号を賜る例が、魏志倭人伝に出てくる。
魏の延興二年〔472〕。其の王余慶よけい、始めて其の冠軍将軍駙馬都尉ふばとい弗斯ふつし侯、
長史余礼よれい龍驤りゆうしやう将軍帯方太守司馬張茂ちやうぼう等を遣はし上表せしめて自ら通ず。
云。
臣與高麗源出夫餘
先世之時篤崇舊款。其祖釗。輕-廢鄰好。陵-踐臣境
臣祖須整旅電邁。〈應機馳擊。矢石暫交。〉梟斬釗首。
自爾以來。莫敢南顧。
夫余…夫余国は中国東北部にあり、494年に滅亡。
…[名] まこと。こまやかな心。
陵践…「陵+○」の形のときは「しのぐ」意味と見られる。 陵辱、陵虐など。
…[名] 旅団。周代は一組500人。
…稲妻のように。
梟首…さらし首。
〈 〉内は、三国史記のみにある。
云ふ。
しん/われ高麗、源は夫余を出づ。
先の世時、篤崇旧款。其の祖せう、隣好を軽んじ廃し、わが境を陵践す。
わがしゆいくさを整へ電邁でんぐうし、〈機に応じ馳せ撃ち、矢石やうやく交へ〉斬りし釗の首をきゅうす。
ここり以来敢へて南をかへりみることし。
馮氏數終。餘燼奔竄。醜類漸盛。
遂見陵逼。構怨連禍。三十餘載。
若天慈曲矜。遠及無外。速遣一將。來-救臣國
當奉鄙女執掃後宮。
並遣子弟外廄
尺壤疋夫,不敢自有。
馮氏…北燕。407年:馮跋が建国407。
 436年:馮弘のときに滅亡。
…命数。
…燃え残り。
奔竄…逃げ隠れ。
…[動] あわれむ。
無外…非常に遠方。
…[名] ひとや。牢。[動] 御す。飼う。
圉人…周礼の官名。馬の飼育を掌る。
…[名] 大地。
尺土(尺地)…わずかな土地。
疋夫…とるに足らない男。
ひよう氏数を終へたるり、余燼よじん奔竄ほんざんし、みにくやからやうやくさかり、
遂に見陵逼しへたげせまられうらみを構へてわざはひを連ぬること、三十余載みそとせあまり
し天のめぐみたまはらば、曲げてあはれみ、遠く無外に及ぼし、すみやかに一将を遣はしわが国に救はしめたまへ。
まさ鄙女ひなめを送りたてまつり後宮のはらひを執らしめ、
並びに子弟を遣はし外のうまやふことを収めしめまつらん。
尺壌せきじやう疋夫ひきふ、敢へて自らゆうせず
去庚辰年後臣西界海中見屍十餘
並得衣器鞍勒
之非高麗之物
後聞乃是王人來-降臣國
長蛇隔路以阻於海。
今上所得鞍一。
以爲實矯。
…[名] うつわ。道具。
…[名] 馬の頭につけて御す革紐。
長蛇…長いものの譬え。
…[動] いつわる。
去る庚辰年〔440〕の後、臣西界の海中にしかばね十余見え、
また衣器いき鞍勒あんろく
を看るに、高麗物にあらず。
後に聞けるはすなはここの王の〔仕へ〕人わが国に来降らいかうし、
長蛇に路を隔て、以て[於]海にはばまれり。
所得えし鞍一つをたてまつり、
以て実矯じつけうしたまへ。」
文。以其僻遠冒險獻。
禮遇優厚。遣使者邵安與其使俱還。
ふみたてまつるに、其の僻遠にけはしきをかすを以て、入り献りき。
礼遇優厚し、使者邵安せうあんを遣はし其の使つかひともかへらしむ。
詔曰。
表聞之無一レ恙。
卿與高麗睦。至陵犯
苟能順義。守仁。亦何憂於寇讎也。
…[名] ①ツツガムシ。②やまい。
無恙…無事で過ごすこと。漢・六朝から手紙の常用語。
…[人称代] 二人称の人称代名詞。貴方。
 秦・漢以後は天子が重臣を尊んで呼ぶ。
…[副] かりそめに。いやしくも。しばらく。
…[名] 外から攻め込んで荒らす族。
…[名] あだ。[動] むくいる。
せうに曰ふ。
「表を得てつつがなきことを聞く。
なむぢ高麗むつまざりて、陵犯をかうぶるに至る。
いやしくもく義にしたがひ、仁を以てを守らば、またなんぞ[於]寇讎こうしううれ
前所使。浮荒外之國
從來積年往而不反。存亡達否未審悉
卿所送鞍。比-校舊乘非中國之物。
-似-之-事。以レ上必然之過
經略權要已具別旨。」
…[動] つくす。
経略…天下を経営する。ここでは「経緯の概略」か。
権要…物事の重要な部分。
…〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉過失、罪過、錯過。
さき所遣つかはさるる使つかひあらぶる外国をさんとするを以て海をきて、
り来たること積年。きて[而]かへらず、存亡達否たつひ未だつまびらかくすことあたはず。
卿に所送おくられたるくらふるく乗りたるものとくらかむがふに、中国之物に非ず。
必然之あやまちを生むを以て、疑似事をもちゐべからず
経略権要くえんえうすでに別旨にそなふ。」
又詔曰。
高麗稱藩先朝供職。日久。
於彼雖昔之釁。于國未令之愆
卿使命始通。便求伐。
-討事會。理亦未周。
獻錦布海物。雖悉達。明卿至一レ心。
今賜雜物如一レ別。
…[名] 諸侯の領土。
…[名][動] 朝見。
…[名][動] 職貢。〔諸侯から天子への貢物〕
…[動] ちぬる。動物の血で鋳物(祭器・武器)の
 すきまを埋める。[名] きず。欠点。
又詔に曰ふ。
「高麗藩を称し先にてふし職をたてまつりて日久し。
於彼そこにきず有れも、[于]国に未だ令を犯せる[之]あやまち有らず。
なむぢが使命始めて通じ、便すなはちつこといたしたまへと求めき。
はせて尋討たづね、理また未だめぐらず。
所献たてまつられし錦布海物、[不]みな達せざれも、卿の心至れること明らかなり。
今雑物別の如くたまはる。」
又詔璉護-送安等
高麗。璉稱昔與余慶上レ讎。不東過
安等於是皆還。
乃下詔切-責之
五年。使安等東萊海。賜余慶璽書其誠節
安等至海濱風飄蕩。竟不達而還。
…山東半島東部。
蓬莱…神仙思想における、東の海上の島。
飄蕩(ひょうとう)…あてもなくさまようこと。流浪。
切責…きびしく叱る。
※ 三国史記は「五年」を「後」に変える。
れんせうして安を護り送らしむ。
高麗に至り、璉、昔余慶あだ有りととなへて東過せしめず
安等於是ここにかへりき。
すなはち詔を下して之を切責す。
五年。安等を使はし東萊り海をき、余慶に璽書を賜り其の誠節を褒む。
安等海浜に至り風に遇ひ飄蕩へうたうし、つひたつせずしかうして還りき。
《大意》
 魏の延興二年〔472〕、その王 余慶(よけい)は、初めて冠軍将軍駙馬都尉 弗斯侯、 長史 余礼、龍驤将軍帯方太守司馬 張茂等を遣わし、上表させて自ら通じた〔=自ら朝貢国となることを申し出た〕。
 上表に云わく。
「臣〔=余慶王〕と高麗は夫余を源として出ました。 先の世の時は、旧款〔=旧来のまこと〕を篤く崇しました。その祖 釗(しょう)は、隣好を軽んじて廃し、臣の〔国〕境を陵践しました〔=踏みにじった〕。 臣の祖 須(しゅ)は、旅団(軍)を整え電邁(電撃)し、〈三国史記:機に応じて馳せ撃ち、矢石を暫く交え〉釗を斬って梟首〔=さらし首に〕しました。 これ以来、敢て南〔=百済〕を顧ることはありませんでした。
 〔北燕の〕馮(ひょう)氏が命数を終えたのち〔=運命が尽きてから〕〔436年〕、余燼(よじん)奔竄(ほんざん)し〔=残り火がくすぶり〕、醜類(しゅうるい)は漸(ようや)く盛(さか)り〔=奴らは次第に勢力を盛り返し〕、 遂に陵逼され〔=攻撃され〕、怨みを構えて禍(わざわい)を連ねること、三十年余り。 もし天の慈(めぐみ)ををいただければ、曲げて矜〔=憐〕みを遠く無外〔=遠隔地〕まで及ぼして、速かに一将を遣わして臣の国を救いに来させてください。
 当(まさ)に〔=お返しに〕鄙の女をお送りし、後宮の掃いを執らせ、 並びに子弟を遣わして、外の厩(うまや)に馬飼いをつとめさせます。
 尺壌〔=わずかな土地〕も、疋夫(ひっぷ)〔=余慶王。遜っていう〕が敢て自ら所有することはありません。
 去る庚辰年〔440〕の後、臣は西界の海中に屍を十体余り見つけ、 並びに衣類・器具・鞍・勒(ろく)を得ました。 これを見ると、高麗の物ではありません。 後に聞いたところでは、ここの王〔北魏の諸侯?〕の使人が臣の国に来降し、 長蛇に路を隔てて、海に阻(はば)まれました〔=遭難しました〕。 今、得た鞍一つを献上いたしますので、 実矯〔=真偽の判定〕をなされてください。」
 文(ふみ)の献上にあたり、その僻遠の危険を冒(おか)して北魏に入り、献上したことを 礼遇優厚し、使者邵安(しょうあん)を遣わして、使者の帰国に伴わせた。
 詔(しょう)に曰く。
「〔上〕表を得て、恙(つつが)ないと聞く〔と聞き、悦ばしい〕。 卿〔=貴方;百済王に対して〕は、高麗と睦まじくせず、陵犯〔=みだりに侵犯〕を被るに至った。 いやしくも、よく義に順じ、仁を以ってこれを守れば、果たして寇讎(こうしゅう)〔=敵対して攻撃すること〕を憂える必要があろうか。
 以前に遣わした使者は、荒ぶる外の国を鎮撫するるために海路ででかけたが、 それ以来積年、往ったまま帰らず、存亡・達否は未だに詳らかに尽くされることはない。 〔このようなことがあったのは確かだが〕卿から送られた鞍は、旧く乗馬に用いられたものと比べ校(かんが)える〔=比較検討する〕に、中国の物に非ず。 必然の過ちを生むので〔=決めつけてしまうと誤るので〕、疑似の事を用いるべからず〔=疑わしいことを採用してはならない〕。 その経略権要は既に別旨を具(そな)える〔調査結果は別紙に添えておいた〕。」
420年~479年
 また詔に曰く。
「高麗は藩〔=冊封国〕を称し、以前から朝(ちょう)して職を供し〔=朝貢して〕日は久しい。 かの国に昔からの釁(きず)〔=多少の過失〕はあるが、〔高麗〕国に未だ令を犯すような愆(あやまち)〔=決定的な錯誤〕はない。 卿〔=貴方〕は使命を初めて通じ〔=朝貢国になりたいと申し出て〕、便(すなわ)ち〔暗に「都合よく」〕征伐することを求めた。事を合わせて尋討〔=検討〕したが、〔貴方の〕理〔=理屈〕は未だに周(めぐ)らない〔不完全である〕。 〔ただ〕献上された錦布・海の物、悉く達してはいない〔=全部はまだ到着していない〕が、卿の心が至る〔=仕える気持ちが十分ある〕ことは明らかである。 今、雑物〔=返貢の品〕を別の如く〔=別紙の通り〕賜る。」
 そして〔高麗王〕璉に詔を発して安等を護って送るように命じた。 〔ところが〕高麗に至ったところで、璉は昔余慶と讎(あだ)があった〔=昔、余慶と敵対した因縁がある〕と称して東過〔東に通過〕させなかった。 〔止むを得ず〕安(あん)等(ら)〔=邵安と百済使の一行〕は皆還ってきた。 ただちに詔を下して、これ〔高麗王による妨害〕を切責〔=叱責〕した。
 〔延興〕五年〔上記※印〕に、安等を遣わして東萊より海路を行かせ、余慶に璽書を賜り、その誠節を褒めた。 安等は海浜に至ったが、〔暴〕風に遇って飄蕩し〔=さまよい〕、遂に〔百済に〕達せなかった。そして〔北魏の都に〕還ってきた。


まとめ
 「便求」の「便」は、 「すなはち」と訓読するが、「便利」「便宜」の意味を残している。この字に「やっと朝貢してきて、都合よく要求するものだ」という皮肉が込められている。
 北魏の返事は、高句麗は、朝貢国として長年の友好関係があるのに対し、百済は、初めて朝貢を申し出た。 高句麗の侵攻は、道理を尽くせば解決できるから心配するな。 百済が「昔、北魏が遣わしてくれたらしい使者の遺物が出てきた」 と主張することについては、昔外国に鎮撫使を派遣したことはあるが、証拠物件という鞍は、中国のものではない。 とは言え、朝貢国になっていただいたことには感謝する。返貢として種々の品を用意した。
 というものである。なお、「所献錦布海物雖不悉達〔献上の品は、まだ一部届いていないが〕は、その献上品の少なさを見て「まだこれから届く分があるよね」という嫌味と見られる。
 確かに、上表書は中国冊封体制の礼儀を弁えないものであるが、 それだけ百済が切羽詰まった状況に陥っていたとも言える。なりふり構わず、周辺国の応援を求めたのであろう。 同様の親書は、宋にも送られていたのかも知れないのである。
 百済使に北魏の使者を付き添わせ、敢えて高句麗にその行程の安全を保証するように詔したのは、 それなりに高句麗・百済に仲介の労を執ろうとしたものであろう。 ところが、命じたことを高句麗は守らず、北魏の面子は潰された。 叱責はしたが高句麗の態度を変わらず、次は海路を取らざるを得なかった。
 高句麗がこれだけ強気に出ることができたのは、当時の高句麗が破竹の勢いであったからであろう。
 だが、その後百済は高句麗を押し返し、〈三国史記〉部寧王二十一年〔521〕十一月条には、 「使入梁朝貢。先是為高句麗所破。衰弱累年。至是上表。称。累破高句麗。始与通好。而更為二上強国〔梁に使者を遣わして朝貢。これまでに、高句麗は破られて衰弱して年を重ねた。上表文に、高句麗を重ねて破ってきた。初めて通好に与り、更に強国とならんとすと述べる〕と書かれる。



2018.08.24(fri) [32] 「任那日本府」考 

 任那国についての最初の言及は、崇神天皇紀にある。 以後任那国が諸文献でどのように現れるかは、神功皇后三十九年条【三韓地域の国々】【書紀における任那】で見た。
 日本府については、雄略天皇紀八年条が初出だが、同紀にはその一か所のみである。他に巻十九の欽明天皇紀に繰り返し現れるが、他の巻にはない。

【欽明天皇紀二年~十三年】
 欽明天皇紀における「日本府」の記述は、興味深い。まず注目されるのは、「任那日本府」とは別に、「安羅日本府」が存在し、二年七月条に「安羅日本府河内直通-計新羅〔安羅日本府河内直、新羅に通じ計〔=謀〕る〕、即ち安羅日本府の河内直が新羅に内通していると述べる。
 任那日本府については、 「百済国遣使。召任那執事与日本府執事。」〔百済国、使を遣わして、任那執事と日本府執事とを召(よ)びき〕のように、「任那執事」と「日本府執事」を常に並列する形で記述される。 「任那旱岐(かんき)」と「日本府卿」という書き方もある〔旱岐は官職名と考えられている〕。 また、二年七月条では、百済の聖明王は、「任那曰『昔我先祖速古王貴首王〔云々〕』。聖明王更謂任那日本府曰『天皇詔称任那若滅〔云々〕」のように、二者に対して別々に話をしている。
 二者の関係は、属国の現地政権と、宗主国から派遣された顧問団に譬えられよう。

【任那旱岐】
神功皇后紀四十九年に載る小国群(位置は推定)。

 任那旱岐というが、列記された名前を見ると「任那国の旱岐」がないのは、意外である。 「任那旱岐」の内訳は、欽明天皇紀二年〔541〕四月条に列記されている。 曰く。
 「安羅次旱岐夷呑奚大不孫久取柔利 加羅上首位古殿奚卒麻旱岐散半奚旱岐兒多羅下旱岐夷他斯二岐旱岐兒子他旱岐等。 与任那日本府吉備臣【闕名字】。往-赴百済倶聴詔書
 〔安羅次旱岐夷呑奚……等与(と)日本府吉備臣【名字を闕〔=欠〕く】と、百済に往き赴き倶(とも)に詔書を聴く〕
 「安羅次旱岐夷呑奚……等」は人名を列挙したもので、「任那旱岐」に対応するが、この人名の羅列はどう区切るのであろうか。
 このうち、少なくとも安羅・加羅・多羅は国名だと考えられる。 それは、神功皇后四十九年条に「比自㶱・南加羅・㖨国・安羅・多羅・卓淳・加羅七国」とあるからである。
 欽明二年四月条によれば、このうち㖨己呑国・南加羅国・卓淳国は、既に滅亡しているから、旱岐を派遣することはない。 曰く:
㖨己呑。居加羅与新羅境際而被連年攻敗。 任那無救援。由是見亡。
南加羅。叢爾狭小。不卒備。不託。由是見亡。
卓淳。上下携貮。主欲自附-應新羅。由是見亡。
斯而観。三國之敗。良有以也。
㖨己呑:加羅と新羅の境にあって毎年のように攻撃されて敗北した。その故に亡びた。
南加羅:狭い土地に密集していて軍備ができず対策が立てられなかった。その故に亡びた。
卓淳:上下がいがみ合い、自分こそが新羅に内応しようとした。その故に亡びた。
こうして見ると、三国の敗北には、もっともな理由がある。〕
携弐…仲たがいする。 有以…理由がある。
 従って、よく分からないのは、比自㶱国だけである。
 一方、欽明二十三年条の原注「【一本云。廿一年任那滅焉。総言任那。別言加羅国。安羅国。斯二岐国。多羅国。卒麻国。古嗟国。子他国。散半下国。乞飡国。稔礼国合十国。】」を併せて見れば、 「任那旱岐」として列記された名の区切りは、
※〈釈紀〉は「夷呑奚大不孫」を一人の名とする。
安羅:次旱岐の夷呑奚。大不孫。久取柔利。
加羅:上首位古殿奚。
卒麻:旱岐。
散半奚:旱岐の児。
多羅:下旱岐夷他。
斯二岐:旱岐の児。
子他:旱岐。
 であることが確定する。 しかし、卒麻旱岐・散半奚旱岐・斯二岐旱岐・子他旱岐は「国名+旱岐」で、個人名を欠く。
 その理由を考えてみると、卒麻国散半奚国加羅国内の半独立地域で、その首長が加羅国によって旱岐に取り立てられたことにより、個人名の代わりに呼ばれたものかも知れない。 同様に、斯二岐国子他国多羅国内の半独立地域か。
 このように考えれば欽明二十三年条原注のうち、神功皇后四十九年条に出てこない国のいくつかは、 神功皇后紀の安羅・多羅・加羅の域内国となり、ある程度統一的に理解することができる。
 何れにしても、これらの旱岐たちを「任那旱岐」と総称しながら、"任那国の旱岐"そのものは見えない。 だから、欽明紀原注が「総言」と述べるように、ここで言う「任那」は多数の小国を包含した地域名である。
 すると、日本が再建しようとしている「任那」は地域名としての任那とは概念が異なり、あくまでも小国群を統合して倭国に事(つか)える国なのである。
《日本からの要求》
 欽明四年十一月条に、 「津守連百濟曰。在任那之下韓百濟郡令城主。宜附日本府〔〔天皇は〕津守連を遣わし、百済に詔した。曰く「任那の下韓にある百済の郡令・城主を日本府に附けよ」〕と要求している。 併せて、詔書で「爾須早建〔任那国を必ず早く建てよ〕と述べる。
 つまり、百済が支配権をもっている「下韓」地域を引き渡せと要求するのである。
 しかし、百済はこの要求を拒絶し、その返答を伝えるために任那執事日本府執事を呼ぶが、彼らは四年十二月以後の再三の呼び出しにも応じない。
 五年三月になり、百済側は事態の打開を期して「奈率阿乇得文。許勢奈率奇麻。物部奈率歌非等」の使者を天皇に遣わした。
 なお、ここで百済の人名なのに"許勢"、"物部"を名乗るのは不思議であるが、書紀は二年七月条の原注で 【紀臣奈率者。蓋是紀臣娶韓婦所生。因留百濟。爲奈率者也。未其父。他皆效此也。】 〔紀臣奈率は、紀臣が韓の婦を娶って生まれ、百済に留まったのだと思われる。父のことは詳らかでない。他も皆、これに倣う〕と解釈している。
 これらの使者は十月に帰国し、十一月に天皇から手渡された詔書を一緒に読んで相談しようという理由をつけて、日本府臣任那執事を呼び出した。 任那執事と日本府臣はやっと呼び出しに応じ、彼らに対して聖明王は次の「三策」を提案した。 その三策とは:
 三千兵士毎城充。以五百我兵士使田而逼悩者。 久禮山之五城庶自投兵降首。 卓淳之國亦復当興。 所請兵士吾給衣粮〔天皇の軍を城ごとに三千名を充ててほしい。百済も五百名を出し、ともに田の耕作を妨害して悩ませれば、 久礼山の五城は自ら投降するだろう。そうやって卓淳国を〔独立させて〕復興させよう。 日本が派遣した兵士には、百済国から衣類・食料を提供しよう。〕
 その上で、「猶於南韓置郡令城主者。豈欲違-背天皇-断貢調之路〔南韓の郡令城主は猶(今のまま)置く。だからと言って天皇に違背し貢調の路を遮断することなどあり得ようか。〕と言って、 郡令城主を日本府に引き渡すことを、改めて明確に拒絶する。ただ、城の「修理防護」は防御のために不可欠だから手伝ってほしいという。
 吉備臣。河内直。移那斯。麻都猶在任那国者。天皇雖-成任那得也。 請此四人各遣二上-還其本邑〔吉備臣・河内直・移那斯・麻都が任那国に在るままでは、天皇の詔があっても任那の建成は不可能である。 この四人を、それぞれ元の村に還してほしい。〕 これは、地方の戦力の増強を口実として、実質的に日本府の解体を要求していると読むことができる。 ここには「任那国」とあるが、任那「」は存在しないから、吉備臣らが昔の任那国の場所、例えば加羅国に設けた拠点を指す。 または、四人は「任那国」に拘るが何もしていない、本気で再建を目指したいなら各地に分散して活動せよという意味であろう。
 百済王が提示した三策に対して、〔任那日本府の〕吉備臣と〔任那の〕旱岐は「日本〔府〕大臣」、 「深思而熟計歟。〔日本府の大臣に諮りたい。深く考えない状態で答えることは避け、熟計したい。〕と言って、 即答を避けている。
《百済聖明王の思惑》
 三策のでは、また「不置南韓郡領城主修理防護。不以禦此強敵。亦不以制新羅」 と言う。城の修理防護への援助を求めるのは、百済自身にとって新羅からの防衛ラインの強化が必須だからである。 しかし、郡令・城主を倭に譲り渡すことは、認められない。 任那地域に倭が実効支配する国ができることまでは、望まないのである。
 ただ、この見方に反するように見えるのが、百済王からの上表文である。そこでは倭の要望への賛意を最大限に表現している。 例えば、二年四月条に「任那旦夕無忘。」、「今寡人与汝戮力。并心翳頼天皇。任那必起。〔任那の建国を図ることを、朝夕忘れたことはない。 今寡人〔=私〕はあなたと戮力〔=協力〕し、併せて心翳〔=影〕に天皇を頼みにすれば、任那は必ず起(た)つだろう。〕 と述べる。
 これは、書紀による粉飾という見方もできるのだが、 外交文書においては、相手国の王を形式上最大限に持ち上げる書き方がなされたのは事実だと思われる。
 例えば、魏志倭人伝の女王宛ての詔書や、 宋書升明二年〔478〕の倭の上表文にその形が見られる。
 百済王の本音は、新羅に備えて任那の防衛を強化するために、利用できることは利用しようとする。 そして再建した任那国が、倭への名目上の朝貢国になる程度のことは差し支えない。 しかし、倭の総督が直接統治する形は、決して認められないのである。

【三策の結果】
 百済王提案の三策については、持ち帰って相談すると述べたきり実行したか否かは書かれていない。 その後は、どうなったのだろうか。
 八年後の十三年五月条を見ると、「百済。加羅。安羅。 遣〔使者〕奏曰。高麗与新羅。通和并勢謀臣国与任那。故謹求救兵〔百済・加羅・安羅は使者を遣わして奏上する。 高麗と新羅は和を通じ、軍勢を合わせてわが国と任那を滅ぼそうと謀っている。よって謹んで救援の兵を求む。〕 として、高麗新羅連合の攻撃に対するために、倭に援助を求めている。
 遣使は相変わらず「百済・加羅・安羅」から行われていて、 「任那国」からではない。 結局、任那国の再建は成らなかった。
 この条に「日本府臣」とあるのを最後に、これ以後書紀からは「日本府」は消える。

【最後の「任那」】
 任那の名は、欽明天皇紀の後にも時々現れるが、その最後は孝徳天皇紀大化元年〔645〕七月条である。 そこには「高麗百済新羅。並遣使進調。百済調使兼-領任那使。進任那調」という興味深い書き方がされる。 つまり、この時点で半島に実在する国は高句麗・百済・新羅の三国であるが、 百済使が任那使を兼任したと装って、百済の調の一部を任那産と称して納める様子が見える。
 同条には、続けて「始我遠皇祖之世以百済国内官家。 譬如三絞之綱。 中間以任那国属-賜百済。 後遣三輪栗隈君東人-察任那国堺。 是故。百済王隨勅悉示其堺。而調有闕。由是却-還其調。任那所出物者、天皇之所明覧。〔遠く皇祖の世は、百済国を内宮家として、半ばに任那国を百済に属させた。 後に三輪栗隈君東人を遣わしてかつて存在した任那国の境界を調べさせ、百済王はその境界を了承した。 ところが、任那国の調を欠くので、百済国の貢調を一部返却して任那国による名目上の貢調として納め、天皇の御覧に供した。〕 とあることが、その工作を物語っている。
 遡って推古天皇紀でも、出迎えの飾り船を新羅に二隻仕用意させ、一隻を名目上の任那の船に仕立てる工作が見えた (神功皇后紀4)。
 国としての「任那国」は、既に欽明朝には消滅済みで、欽明天皇紀では地域名として扱われていた。 しかし、虚構の任那国を描くことは、書紀から始まったことではない。 既に聖徳太子の時代から「任那国」が存在するが如く演出することが、百済や新羅との外交儀式の一部になっていたのである。
 古代に存在したとされる任那国の伝説が、飛鳥時代にいかに大切であったかを物語っている。

【日本府の実像】
 書紀には南韓に置いた「内官家(みやけ、うちつみやけ)」が、あちこちに出てくる。そのうち孝徳天皇紀では、「百済国内官家」と表現するがこれは比喩であって、 実際には、朝廷の出先の機関若しくは居館を意味すると思われる。そこには一定の耕地と農民を所有していたかも知れない。
 国内の官家については、宣化天皇紀元年「-造官家那津之口」などがあり、一般的に朝廷の直轄地と解釈されている。
 「安羅日本府」という表現、そして「此四人各遣二上-還其本邑」という言葉から見て、恐らくは「日本府」は、事実上南韓の小国群の国ごとに置かれた内宮家ではないかと思われる。 それぞれの小国に滞在していた吉備臣・河内直・移那斯・麻都などは、欽明朝のときは集結して行動していて、欽明紀ではこの臣たちのグループが「任那日本府」と書かれたと想像される。
 「任那日本府」と書くと、あたかも任那国に大宰府の如き機関が存在したかのような印象を与える。 しかし、任那""としての実体はなく、任那は地域名に過ぎない。「日本府」の本拠も居館程度かも知れない。 さらには「郡令・城主」の譲渡を認めさせることができなかったことは、それだけのプレッシャーを与え得る規模の軍勢も持たなかったことを物語る。 この臣たちの行動は、むしろ百済からは嫌がられ、解散を促されるような代物である。
 そもそも「任那日本府」は、書紀による造語である。 国号「日本」は天武朝の678年ごろに制定されたと考えられており、 欽明朝の頃の表記なら、 「倭司」あるいは「倭官」である。
 欽明天皇紀をありのままに読めば、その二年~五年の時期に倭朝廷は任那国の再興を試みたが実現せず、 そのために現地で活動していた倭の臣のグループを、後の世に「日本府」と呼んだということである。
 〈釈紀〉巻十八-「秘訓三」が、日本府を「【ヤマトノミコトモチ】」と訓むのは、 「日本府」という言葉がもつイメージに影響されたものであろう。 「みこともち」はにあたり、「」は〈倭名類聚抄〉では一般的に「豆加佐(つかさ)」である。 日本府は、「やまとのつかさ」と訓む方が字にも実体にも合っている。

まとめ
 日本は、1910年から1945年まで朝鮮を統治下に置いた。 当時の歴史教育においては、時代背景が絡んで任那日本府の機能を高度に描き、 日本書紀がその根拠にされたように見える。
 だが肝心の日本書紀には、任那日本府に大宰府のような外交機関としての機能は全く描かれていない。 そこにあるのは、欽明天皇の時代にかつて存在した任那国へのノスタルジーを抱き、現地で行動した臣たちを「日本府」と呼んだことのみである。
 ただ、「日本府」の語を用いたのは、書紀作者に漠然とした「古代の任那国」の幻影があったからだろう。その幻影の片鱗は、唯一雄略天皇紀に見える。 明治以後、がっちりとした任那日本府の実在を信じた人は、書紀作者が抱いた幻影を共有しているに過ぎない。