古事記をそのまま読む―資料4
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2018.05.10(thu) [29] ヒトの目の角分解能 

 ヒトの目は、どれだけ細かいところまで見分けることができるだろうか。
 この問いを言い換えれば、ごく近くにある2つの点が溶けあって1つにならずに、2つに見える最小距離はいくらかということである。 その距離を分解能という。
 当然のながら、同じ物体でも遠くにあるときより、眼の近くに近づけたときの方が分解能は大きくなる。 ただ、目と2つの点のそれぞれを結ぶ直線が作る角度(図4のα) の最小値は一定である。これを、ここでは「角分解能」と呼ぶ。
 角分解能の値は、一般に鳥の目の方がヒトの目より小さい〔=細かいところまでよく見える〕。 それは、鳥の方が、網膜上の視細胞の密度が大きいからである。 このように、眼の角分解能はひとえに隣り合う視細胞の間の距離で決まる。
 それでは、ヒトの目の分解能は、具体的にどのくらいであろうか。

【ヒトの目の角分解能】
 眼は網膜上に実像を結び、視細胞がその光を信号に変えて脳に送る。 従って大雑把に言えば、実像の上の2個の間隔が、隣り合った2個の視細胞の間隔より狭ければ見分けることができない。
 視細胞には、僅かな光を敏感に感じる(=暗いところでも見える)が色を判別できないかんと、 十分な光が必要だが(=明るい所だけで見える)が色別に感じ取るすいの二種類がある。
 網膜上には特に、視細胞が密集して像を微細に判別できることができる部分あり、これを中心と言う。 中心窩には錐体が高密度に存在するが、桿体はほとんど存在しないという。
 錐体にはR、G、Bの三種類があり、それぞれ赤・緑・青の波長の光だけに反応する。従って、3個の錐体の組によって色のついた点一個を見る。 従って、上述の※は、正確には「RGBの3個の錐体を一組としたときの、2組の間隔」と表現しなければならない。
 中心窩に結ぶ像の分解能を大雑把に計算するために、左の値を用いる (『眼』の値を使用)。
 以上から、網膜の画素の密度から受け取る画像の分解能を考える。
眼球の直径 24mm
中心窩の錐体密度 16万体/1mm
両眼視野 124度
全視野  208度
《視野の広さ》
 眼球一個の視野(図1のx)を求める。

  x=両眼視野+(全視野-両眼視野)/2=166度 …(1)

《画素の間隔》
 網膜が受け止める画素の間隔を求める(図2)。
 中心窩の錐体の密度は、16万個/mm。 R、G、Bの錐体の組で一つの画素を構成すると考えると、1mmの線上に並ぶ画素の個数は、

  √16万/3=230.9個 …(2)

《像を結ぶ網膜の広さ》
 外界の166度の間の入射光を受け止める網膜の寸法を求める。 眼球を完全な球体として、その4分の3(図3の水色部分)の範囲で光を受けるものと仮定する。
 網膜の受光面の横幅は、

  2πr×(四分の三)=24×π×3÷4=56.55mm …(3)

《受光画素数》
 中心窩の錐体と同じ密度で、全受光範囲に受光画素が分布すると仮定する(図3)とその個数は(2)×(3)で、

  230.9×56.55=13060 …(4)

《角分解能》
 入射光(1)が受光画素に均等に広がると仮定すると、画素間の角分解能は(1)÷(4)で、

  166度÷13060=1.271×10-2度=2.183×10-4ラジアン …(5)

まとめ
 眼球から距離の位置での分解能は、眼球の角分解能がα(ラジアン)とすると、αdとなる(図4)。 αの値は(5)のように、α=約0.00022 である。
 従って、d=1mのときは、約0.22mm。 つまり、最大限ピントが合った場合でも、眼から1m離れた位置で横に並ぶ2点は、その間隔が0.22mmより短いと、見分けることができない。
 d=10kmのときは、約2.2mとなる。



2018.07.04(wed) [30] 「むしろ」への試論 
 雄略天皇紀五年二月条の「安野而好獣無乃不可乎」の「無乃」は伝統的に「むしろ」と訓まれるが、 これには違和感がある。その理由を考察する。

【無乃】
…ミカンを食べようと誘われた()とき、 「私はむしろリンゴが食べたい()」と答える。これが本来の「むしろ」である。
…ミカンを食べようと誘われたときに、「私はむしろミカンは食べたくない()」と答える。 このような返事をされれば「では、何が食べたいかはっきりしろ」と反応する人は多いだろう。

 〈時代別上代〉所引の『類聚名義抄』に「無乃【ムシロ】」がある。
 また〈漢辞海〉は、「無乃」について「定型化した副詞句として『むしろ~せんか』と訓読してもよい〔ということは、しなくてもよい〕と述べる。 だから、この古訓は、書紀だけのことではないようだ。
 しかし副詞「むしろ」の機能は、既に命題が提示された状態で、と二項対立する命題を提示し、かつ話者はを選択しようとする(右ア)。 だから、「むしろ」の後には必ず、と別種で、話者が真に主張したいが来ることが期待させる。 ところが、が単に「」であった場合は、の独自性がないから肩透かしを食らう(右イ)。これが、この箇所の伝統訓が〔少なくとも私には〕分かり難い理由である。

【二重否定】
 二重否定形の場合「むしろ」構文に置き換えると、必然的に「」となるから、常に肩透かし状態となる。 だが〈時代別上代〉は、「それが反語の表現をとっていることもある」とする。 雄略天皇紀の「無乃不可」はまさしくこの例であるが、その古訓が原文のニュアンスを正しく表すかどうかは、また別問題である。

【万葉集】
 ただ、これまでに述べたことは「むしろ」に対する現代の感覚であって、上代にはあり得たのかも知れないのだから、もう少し幅広く調べる必要がある。
 まずは万葉集を見たが、残念ながら副詞「むしろ」は一例もなかった。
 このことは、ことによると「むしろ」は漢文訓読から生まれた新造語ではないかという疑念を生む。

【現代語古語類語辞典など】
 〈現代語古語類語辞典〉の「むしろ」の項は面白い。
 近代:かへって[却]。
 近世:いっかう[一向]。けく[結句]。けくで[結句]。よしか。とてものことに。いっそのこと。
 中世:いっそ。けっく[結句]。
 中古:いかう[一向]。
 上代:なかなか(に)。むしろ[寧/無乃]。

 いずれも「と別種の話者の主張の方向に沿ったを提示する」に沿っている。 上代語「むしろ」についても、同辞典の編者は現代の「むしろ」の意味で受け止めていることが分かる。
 学習用古語辞典(大修館書店など)には、見出し語「むしろ」自体がない。これは、古文の「むしろ」は現代語の「むしろ」と同意であることは自明であると考えられているからだろう。

【寧】
 「」も「むしろ」と訓読するので、ここで漢籍の「」について調べる。 「」は、「むしろ」の他に「いずくんぞ」とも訓読される。「いずくんぞ~」は、「何とこんなことが」という、意外感を添える副詞である。
 神代記上に、「寧可以口吐之物、敢養我乎。〔「むしろ」口から吐いたものによって、我をもてなすか。〕があった (第44回【一書十一】)。 これは月読尊(つくよみのみこと)が、保食神(うけもちのかみ)が食物を口から吐き出して饗の用意をしているのを見つけて驚き、罵った言葉である。
 伝統訓では「寧可」を「むしろ」と訓む(『仮名日本書紀』、〈時代別上代〉など)。 この例では食物を得る異常な手段をとする。これもしっくりこないのだが、しっくりこない原因は話者がを進んで是とするというより、むしろ非難の対象だからであろう。 多くの場合、への話者による対案として、肯定的な意志を伴う。
 この場合の「」に対しては、むしろもう一つの訓:「いずくんぞ」の方が相応しい。
 『史記』-「蘇秦列伝」の「寧為鶏口、無為牛後〔寧ろ鶏口となるも、牛後となるなかれ〕は、「」にもっとも期待される用法であろう。 この文例のように、漢文では一般に「」の順に組み立てる。和文の感覚で見ると、逆順である。
 〈時代別上代〉所引『西大寺本最勝王経古点』の「寧身命ヲバ捨ツトモ、非法ノ友ニハ随ハズアリ」も「寧」; =「非法の友に随ふ」、=「身命を捨つ」で、漢文の語順に沿っている。 原文は「寧捨身命。不随非法之友。」が想定される。
 同じく〈時代別上代〉所引『山田本法華経古点』の 「我寧法ヲバ説キタマハズシテ、疾ク涅槃ニヤ入リタマヒナマシトオモホシキ〔我「寧ろ法をば説き賜はずして、疾く〔とく;=はやく〕涅槃には入リ賜ひなまし」と所念しき〕「なまし」はためらいのある希望。~してしまおうかしら。「賜ふ」は自敬表現だから、かなりの高僧の言葉か。
 恐らく「私は法を説くよりも、さっさと涅槃に入りたい」の意味だと思われる。 この場合は=「法をば説き賜ふ」、=「涅槃にや入り賜ひなまし」で、「寧、」の語順なので和文的である。 通常の語順による漢文を想定すると「我以為。寧欲疾入涅槃。不説法。」となる。
 これら西大寺本・山田本の場合は、と二項対立し、話者はを志向するから、和語「むしろ」本来の意味に合致する。

まとめ
 結論的には、漢籍や訓点本には本来の「むしろ」の意味を表す「寧」が含まれる。 しかし書紀の古訓などには、本来「むしろ」とすべきではないときの「寧」や「無乃」に対しても、機械的に「むしろ」と訓んだ場合もあると見られる。 特に二重否定文においては、「むしろ」への置き換えは、原理的に誤用であるはずである。
 ただ、本来不適切な訓であってもそれが一旦使用されてしまうと、伝統を信頼する読み手〔私のような者を除く〕はそれに適応しようとする。 むしろ文脈に合わせて「飛んでもないことに」とか、「強い否定の強調」、「敢て」などに「むしろ」の意味を拡張していくのである。



2018.07.26(thu) [31] 『北史』百済伝を読む 
 『北史』は、北朝の魏書・北斉書・周書・隋書を要約してまとめたもの。全百巻。 唐の李延寿撰で659年成立。その巻九十四(列伝八十二)は、高麗・百済・新羅などの諸国伝である。
 「百済伝」は、百済が高麗との紛争にあたって、北魏に支援を求めた部分を含む。 その部分を精読する。
 このうち「臣與高麗源出」以下は、『三国史記』巻二十五(百済本記第三)の蓋鹵王十八年条に、ほとんどそのまま載っている。

【北史巻九十四。百済伝】
魏延興二年。其王余慶始遣其冠軍將軍駙馬都尉弗斯侯。
長史余禮。龍驤將軍帶方太守司馬張茂等上表。自通。
駙馬…天使の輿のための予備の馬。 故事により、天使の娘婿の意味に転じた。
駙馬都尉…駙馬を管理する役職。
冠軍将軍龍驤将軍…漢の将軍には、多様な称号が被さっている。 朝貢の使者に中国の称号を賜る例が、魏志倭人伝に出てくる。
魏の延興二年〔472〕。其の王余慶よけい、始めて其の冠軍将軍駙馬都尉ふばとい弗斯ふつし侯、
長史余礼よれい龍驤りゆうしやう将軍帯方太守司馬張茂ちやうぼう等を遣はし上表せしめて自ら通ず。
云。
臣與高麗源出夫餘
先世之時篤崇舊款。其祖釗。輕-廢鄰好。陵-踐臣境
臣祖須整旅電邁。〈應機馳擊。矢石暫交。〉梟斬釗首。
自爾以來。莫敢南顧。
夫余…夫余国は中国東北部にあり、494年に滅亡。
…[名] まこと。こまやかな心。
陵践…「陵+○」の形のときは「しのぐ」意味と見られる。 陵辱、陵虐など。
…[名] 旅団。周代は一組500人。
…稲妻のように。
梟首…さらし首。
〈 〉内は、三国史記のみにある。
云ふ。
しん/われ高麗、源は夫余を出づ。
先の世時、篤崇旧款。其の祖せう、隣好を軽んじ廃し、わが境を陵践す。
わがしゆいくさを整へ電邁でんぐうし、〈機に応じ馳せ撃ち、矢石やうやく交へ〉斬りし釗の首をきゅうす。
ここり以来敢へて南をかへりみることし。
馮氏數終。餘燼奔竄。醜類漸盛。
遂見陵逼。構怨連禍。三十餘載。
若天慈曲矜。遠及無外。速遣一將。來-救臣國
當奉鄙女執掃後宮。
並遣子弟外廄
尺壤疋夫,不敢自有。
馮氏…北燕。407年:馮跋が建国407。
 436年:馮弘のときに滅亡。
…命数。
…燃え残り。
奔竄…逃げ隠れ。
…[動] あわれむ。
無外…非常に遠方。
…[名] ひとや。牢。[動] 御す。飼う。
圉人…周礼の官名。馬の飼育を掌る。
…[名] 大地。
尺土(尺地)…わずかな土地。
疋夫…とるに足らない男。
ひよう氏数を終へたるり、余燼よじん奔竄ほんざんし、みにくやからやうやくさかり、
遂に見陵逼しへたげせまられうらみを構へてわざはひを連ぬること、三十余載みそとせあまり
し天のめぐみたまはらば、曲げてあはれみ、遠く無外に及ぼし、すみやかに一将を遣はしわが国に救はしめたまへ。
まさ鄙女ひなめを送りたてまつり後宮のはらひを執らしめ、
並びに子弟を遣はし外のうまやふことを収めしめまつらん。
尺壌せきじやう疋夫ひきふ、敢へて自らゆうせず
去庚辰年後臣西界海中見屍十餘
並得衣器鞍勒
之非高麗之物
後聞乃是王人來-降臣國
長蛇隔路以阻於海。
今上所得鞍一。
以爲實矯。
…[名] うつわ。道具。
…[名] 馬の頭につけて御す革紐。
長蛇…長いものの譬え。
…[動] いつわる。
去る庚辰年〔440〕の後、臣西界の海中にしかばね十余見え、
また衣器いき鞍勒あんろく
を看るに、高麗物にあらず。
後に聞けるはすなはここの王の〔仕へ〕人わが国に来降らいかうし、
長蛇に路を隔て、以て[於]海にはばまれり。
所得えし鞍一つをたてまつり、
以て実矯じつけうしたまへ。」
文。以其僻遠冒險獻。
禮遇優厚。遣使者邵安與其使俱還。
ふみたてまつるに、其の僻遠にけはしきをかすを以て、入り献りき。
礼遇優厚し、使者邵安せうあんを遣はし其の使つかひともかへらしむ。
詔曰。
表聞之無一レ恙。
卿與高麗睦。至陵犯
苟能順義。守仁。亦何憂於寇讎也。
…[名] ①ツツガムシ。②やまい。
無恙…無事で過ごすこと。漢・六朝から手紙の常用語。
…[人称代] 二人称の人称代名詞。貴方。
 秦・漢以後は天子が重臣を尊んで呼ぶ。
…[副] かりそめに。いやしくも。しばらく。
…[名] 外から攻め込んで荒らす族。
…[名] あだ。[動] むくいる。
せうに曰ふ。
「表を得てつつがなきことを聞く。
なむぢ高麗むつまざりて、陵犯をかうぶるに至る。
いやしくもく義にしたがひ、仁を以てを守らば、またなんぞ[於]寇讎こうしううれ
前所使。浮荒外之國
從來積年往而不反。存亡達否未審悉
卿所送鞍。比-校舊乘非中國之物。
-似-之-事。以レ上必然之過
經略權要已具別旨。」
…[動] つくす。
経略…天下を経営する。ここでは「経緯の概略」か。
権要…物事の重要な部分。
…〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉過失、罪過、錯過。
さき所遣つかはさるる使つかひあらぶる外国をさんとするを以て海をきて、
り来たること積年。きて[而]かへらず、存亡達否たつひ未だつまびらかくすことあたはず。
卿に所送おくられたるくらふるく乗りたるものとくらかむがふに、中国之物に非ず。
必然之あやまちを生むを以て、疑似事をもちゐべからず
経略権要くえんえうすでに別旨にそなふ。」
又詔曰。
高麗稱藩先朝供職。日久。
於彼雖昔之釁。于國未令之愆
卿使命始通。便求伐。
-討事會。理亦未周。
獻錦布海物。雖悉達。明卿至一レ心。
今賜雜物如一レ別。
…[名] 諸侯の領土。
…[名][動] 朝見。
…[名][動] 職貢。〔諸侯から天子への貢物〕
…[動] ちぬる。動物の血で鋳物(祭器・武器)の
 すきまを埋める。[名] きず。欠点。
又詔に曰ふ。
「高麗藩を称し先にてふし職をたてまつりて日久し。
於彼そこにきず有れも、[于]国に未だ令を犯せる[之]あやまち有らず。
なむぢが使命始めて通じ、便すなはちつこといたしたまへと求めき。
はせて尋討たづね、理また未だめぐらず。
所献たてまつられし錦布海物、[不]みな達せざれも、卿の心至れること明らかなり。
今雑物別の如くたまはる。」
又詔璉護-送安等
高麗。璉稱昔與余慶上レ讎。不東過
安等於是皆還。
乃下詔切-責之
五年。使安等東萊海。賜余慶璽書其誠節
安等至海濱風飄蕩。竟不達而還。
…山東半島東部。
蓬莱…神仙思想における、東の海上の島。
飄蕩(ひょうとう)…あてもなくさまようこと。流浪。
切責…きびしく叱る。
※ 三国史記は「五年」を「後」に変える。
れんせうして安を護り送らしむ。
高麗に至り、璉、昔余慶あだ有りととなへて東過せしめず
安等於是ここにかへりき。
すなはち詔を下して之を切責す。
五年。安等を使はし東萊り海をき、余慶に璽書を賜り其の誠節を褒む。
安等海浜に至り風に遇ひ飄蕩へうたうし、つひたつせずしかうして還りき。
《大意》
 魏の延興二年〔472〕、その王 余慶(よけい)は、初めて冠軍将軍駙馬都尉 弗斯侯、 長史 余礼、龍驤将軍帯方太守司馬 張茂等を遣わし、上表させて自ら通じた〔=自ら朝貢国となることを申し出た〕。
 上表に云わく。
「臣〔=余慶王〕と高麗は夫余を源として出ました。 先の世の時は、旧款〔=旧来のまこと〕を篤く崇しました。その祖 釗(しょう)は、隣好を軽んじて廃し、臣の〔国〕境を陵践しました〔=踏みにじった〕。 臣の祖 須(しゅ)は、旅団(軍)を整え電邁(電撃)し、〈三国史記:機に応じて馳せ撃ち、矢石を暫く交え〉釗を斬って梟首〔=さらし首に〕しました。 これ以来、敢て南〔=百済〕を顧ることはありませんでした。
 〔北燕の〕馮(ひょう)氏が命数を終えたのち〔=運命が尽きてから〕〔436年〕、余燼(よじん)奔竄(ほんざん)し〔=残り火がくすぶり〕、醜類(しゅうるい)は漸(ようや)く盛(さか)り〔=奴らは次第に勢力を盛り返し〕、 遂に陵逼され〔=攻撃され〕、怨みを構えて禍(わざわい)を連ねること、三十年余り。 もし天の慈(めぐみ)ををいただければ、曲げて矜〔=憐〕みを遠く無外〔=遠隔地〕まで及ぼして、速かに一将を遣わして臣の国を救いに来させてください。
 当(まさ)に〔=お返しに〕鄙の女をお送りし、後宮の掃いを執らせ、 並びに子弟を遣わして、外の厩(うまや)に馬飼いをつとめさせます。
 尺壌〔=わずかな土地〕も、疋夫(ひっぷ)〔=余慶王。遜っていう〕が敢て自ら所有することはありません。
 去る庚辰年〔440〕の後、臣は西界の海中に屍を十体余り見つけ、 並びに衣類・器具・鞍・勒(ろく)を得ました。 これを見ると、高麗の物ではありません。 後に聞いたところでは、ここの王〔北魏の諸侯?〕の使人が臣の国に来降し、 長蛇に路を隔てて、海に阻(はば)まれました〔=遭難しました〕。 今、得た鞍一つを献上いたしますので、 実矯〔=真偽の判定〕をなされてください。」
 文(ふみ)の献上にあたり、その僻遠の危険を冒(おか)して北魏に入り、献上したことを 礼遇優厚し、使者邵安(しょうあん)を遣わして、使者の帰国に伴わせた。
 詔(しょう)に曰く。
「〔上〕表を得て、恙(つつが)ないと聞く〔と聞き、悦ばしい〕。 卿〔=貴方;百済王に対して〕は、高麗と睦まじくせず、陵犯〔=みだりに侵犯〕を被るに至った。 いやしくも、よく義に順じ、仁を以ってこれを守れば、果たして寇讎(こうしゅう)〔=敵対して攻撃すること〕を憂える必要があろうか。
 以前に遣わした使者は、荒ぶる外の国を鎮撫するるために海路ででかけたが、 それ以来積年、往ったまま帰らず、存亡・達否は未だに詳らかに尽くされることはない。 〔このようなことがあったのは確かだが〕卿から送られた鞍は、旧く乗馬に用いられたものと比べ校(かんが)える〔=比較検討する〕に、中国の物に非ず。 必然の過ちを生むので〔=決めつけてしまうと誤るので〕、疑似の事を用いるべからず〔=疑わしいことを採用してはならない〕。 その経略権要は既に別旨を具(そな)える〔調査結果は別紙に添えておいた〕。」
420年~479年
 また詔に曰く。
「高麗は藩〔=冊封国〕を称し、以前から朝(ちょう)して職を供し〔=朝貢して〕日は久しい。 かの国に昔からの釁(きず)〔=多少の過失〕はあるが、〔高麗〕国に未だ令を犯すような愆(あやまち)〔=決定的な錯誤〕はない。 卿〔=貴方〕は使命を初めて通じ〔=朝貢国になりたいと申し出て〕、便(すなわ)ち〔暗に「都合よく」〕征伐することを求めた。事を合わせて尋討〔=検討〕したが、〔貴方の〕理〔=理屈〕は未だに周(めぐ)らない〔不完全である〕。 〔ただ〕献上された錦布・海の物、悉く達してはいない〔=全部はまだ到着していない〕が、卿の心が至る〔=仕える気持ちが十分ある〕ことは明らかである。 今、雑物〔=返貢の品〕を別の如く〔=別紙の通り〕賜る。」
 そして〔高麗王〕璉に詔を発して安等を護って送るように命じた。 〔ところが〕高麗に至ったところで、璉は昔余慶と讎(あだ)があった〔=昔、余慶と敵対した因縁がある〕と称して東過〔東に通過〕させなかった。 〔止むを得ず〕安(あん)等(ら)〔=邵安と百済使の一行〕は皆還ってきた。 ただちに詔を下して、これ〔高麗王による妨害〕を切責〔=叱責〕した。
 〔延興〕五年〔上記※印〕に、安等を遣わして東萊より海路を行かせ、余慶に璽書を賜り、その誠節を褒めた。 安等は海浜に至ったが、〔暴〕風に遇って飄蕩し〔=さまよい〕、遂に〔百済に〕達せなかった。そして〔北魏の都に〕還ってきた。


まとめ
 「便求」の「便」は、 「すなはち」と訓読するが、「便利」「便宜」の意味を残している。この字に「やっと朝貢してきて、都合よく要求するものだ」という皮肉が込められている。
 北魏の返事は、高句麗は、朝貢国として長年の友好関係があるのに対し、百済は、初めて朝貢を申し出た。 高句麗の侵攻は、道理を尽くせば解決できるから心配するな。 百済が「昔、北魏が遣わしてくれたらしい使者の遺物が出てきた」 と主張することについては、昔外国に鎮撫使を派遣したことはあるが、証拠物件という鞍は、中国のものではない。 とは言え、朝貢国になっていただいたことには感謝する。返貢として種々の品を用意した。
 というものである。なお、「所献錦布海物雖不悉達〔献上の品は、まだ一部届いていないが〕は、その献上品の少なさを見て「まだこれから届く分があるよね」という嫌味と見られる。
 確かに、上表書は中国冊封体制の礼儀を弁えないものであるが、 それだけ百済が切羽詰まった状況に陥っていたとも言える。なりふり構わず、周辺国の応援を求めたのであろう。 同様の親書は、宋にも送られていたのかも知れないのである。
 百済使に北魏の使者を付き添わせ、敢えて高句麗にその行程の安全を保証するように詔したのは、 それなりに高句麗・百済に仲介の労を執ろうとしたものであろう。 ところが、命じたことを高句麗は守らず、北魏の面子は潰された。 叱責はしたが高句麗の態度を変わらず、次は海路を取らざるを得なかった。
 高句麗がこれだけ強気に出ることができたのは、当時の高句麗が破竹の勢いであったからであろう。
 だが、その後百済は高句麗を押し返し、〈三国史記〉部寧王二十一年〔521〕十一月条には、 「使入梁朝貢。先是為高句麗所破。衰弱累年。至是上表。称。累破高句麗。始与通好。而更為二上強国〔梁に使者を遣わして朝貢。これまでに、高句麗は破られて衰弱して年を重ねた。上表文に、高句麗を重ねて破ってきた。初めて通好に与り、更に強国とならんとすと述べる〕と書かれる。



2018.08.24(fri) [32] 「任那日本府」考 
 任那国についての最初の言及は、崇神天皇紀にある。 以後任那国が諸文献でどのように現れるかは、神功皇后三十九年条【三韓地域の国々】【書紀における任那】で見た。
 日本府については、雄略天皇紀八年条が初出だが、同紀にはその一か所のみである。他に巻十九の欽明天皇紀に繰り返し現れるが、他の巻にはない。

【欽明天皇紀二年~十三年】
 欽明天皇紀における「日本府」の記述は、興味深い。まず注目されるのは、「任那日本府」とは別に、「安羅日本府」が存在し、二年七月条に「安羅日本府河内直通-計新羅〔安羅日本府河内直、新羅に通じ計〔=謀〕る〕、即ち安羅日本府の河内直が新羅に内通していると述べる。
 任那日本府については、 「百済国遣使。召任那執事与日本府執事。」〔百済国、使を遣わして、任那執事と日本府執事とを召(よ)びき〕のように、「任那執事」と「日本府執事」を常に並列する形で記述される。 「任那旱岐(かんき)」と「日本府卿」という書き方もある〔旱岐は官職名と考えられている〕。 また、二年七月条では、百済の聖明王は、「任那曰『昔我先祖速古王貴首王〔云々〕』。聖明王更謂任那日本府曰『天皇詔称任那若滅〔云々〕」のように、二者に対して別々に話をしている。
 二者の関係は、属国の現地政権と、宗主国から派遣された顧問団に譬えられよう。

【任那旱岐】
神功皇后紀四十九年に載る小国群(位置は推定)。

 任那旱岐というが、列記された名前を見ると「任那国の旱岐」がないのは、意外である。 「任那旱岐」の内訳は、欽明天皇紀二年〔541〕四月条に列記されている。 曰く。
 「安羅次旱岐夷呑奚大不孫久取柔利 加羅上首位古殿奚卒麻旱岐散半奚旱岐兒多羅下旱岐夷他斯二岐旱岐兒子他旱岐等。 与任那日本府吉備臣【闕名字】。往-赴百済倶聴詔書
 〔安羅次旱岐夷呑奚……等与(と)日本府吉備臣【名字を闕〔=欠〕く】と、百済に往き赴き倶(とも)に詔書を聴く〕
 「安羅次旱岐夷呑奚……等」は人名を列挙したもので、「任那旱岐」に対応するが、この人名の羅列はどう区切るのであろうか。
 このうち、少なくとも安羅・加羅・多羅は国名だと考えられる。 それは、神功皇后四十九年条に「比自㶱・南加羅・㖨国・安羅・多羅・卓淳・加羅七国」とあるからである。
 欽明二年四月条によれば、このうち㖨己呑国・南加羅国・卓淳国は、既に滅亡しているから、旱岐を派遣することはない。 曰く:
㖨己呑。居加羅与新羅境際而被連年攻敗。 任那無救援。由是見亡。
南加羅。叢爾狭小。不卒備。不託。由是見亡。
卓淳。上下携貮。主欲自附-應新羅。由是見亡。
斯而観。三國之敗。良有以也。
㖨己呑:加羅と新羅の境にあって毎年のように攻撃されて敗北した。その故に亡びた。
南加羅:狭い土地に密集していて軍備ができず対策が立てられなかった。その故に亡びた。
卓淳:上下がいがみ合い、自分こそが新羅に内応しようとした。その故に亡びた。
こうして見ると、三国の敗北には、もっともな理由がある。〕
携弐…仲たがいする。 有以…理由がある。
 従って、よく分からないのは、比自㶱国だけである。
 一方、欽明二十三年条の原注「【一本云。廿一年任那滅焉。総言任那。別言加羅国。安羅国。斯二岐国。多羅国。卒麻国。古嗟国。子他国。散半下国。乞飡国。稔礼国合十国。】」を併せて見れば、 「任那旱岐」として列記された名の区切りは、
※〈釈紀〉は「夷呑奚大不孫」を一人の名とする。
安羅:次旱岐の夷呑奚。大不孫。久取柔利。
加羅:上首位古殿奚。
卒麻:旱岐。
散半奚:旱岐の児。
多羅:下旱岐夷他。
斯二岐:旱岐の児。
子他:旱岐。
 であることが確定する。 しかし、卒麻旱岐・散半奚旱岐・斯二岐旱岐・子他旱岐は「国名+旱岐」で、個人名を欠く。
 その理由を考えてみると、卒麻国散半奚国加羅国内の半独立地域で、その首長が加羅国によって旱岐に取り立てられたことにより、個人名の代わりに呼ばれたものかも知れない。 同様に、斯二岐国子他国多羅国内の半独立地域か。
 このように考えれば欽明二十三年条原注のうち、神功皇后四十九年条に出てこない国のいくつかは、 神功皇后紀の安羅・多羅・加羅の域内国となり、ある程度統一的に理解することができる。
 何れにしても、これらの旱岐たちを「任那旱岐」と総称しながら、"任那国の旱岐"そのものは見えない。 だから、欽明紀原注が「総言」と述べるように、ここで言う「任那」は多数の小国を包含した地域名である。
 すると、日本が再建しようとしている「任那」は地域名としての任那とは概念が異なり、あくまでも小国群を統合して倭国に事(つか)える国なのである。
《日本からの要求》
 欽明四年十一月条に、 「津守連百濟曰。在任那之下韓百濟郡令城主。宜附日本府〔〔天皇は〕津守連を遣わし、百済に詔した。曰く「任那の下韓にある百済の郡令・城主を日本府に附けよ」〕と要求している。 併せて、詔書で「爾須早建〔任那国を必ず早く建てよ〕と述べる。
 つまり、百済が支配権をもっている「下韓」地域を引き渡せと要求するのである。
 しかし、百済はこの要求を拒絶し、その返答を伝えるために任那執事日本府執事を呼ぶが、彼らは四年十二月以後の再三の呼び出しにも応じない。
 五年三月になり、百済側は事態の打開を期して「奈率阿乇得文。許勢奈率奇麻。物部奈率歌非等」の使者を天皇に遣わした。
 なお、ここで百済の人名なのに"許勢"、"物部"を名乗るのは不思議であるが、書紀は二年七月条の原注で 【紀臣奈率者。蓋是紀臣娶韓婦所生。因留百濟。爲奈率者也。未其父。他皆效此也。】 〔紀臣奈率は、紀臣が韓の婦を娶って生まれ、百済に留まったのだと思われる。父のことは詳らかでない。他も皆、これに倣う〕と解釈している。
 これらの使者は十月に帰国し、十一月に天皇から手渡された詔書を一緒に読んで相談しようという理由をつけて、日本府臣任那執事を呼び出した。 任那執事と日本府臣はやっと呼び出しに応じ、彼らに対して聖明王は次の「三策」を提案した。 その三策とは:
 三千兵士毎城充。以五百我兵士使田而逼悩者。 久禮山之五城庶自投兵降首。 卓淳之國亦復当興。 所請兵士吾給衣粮〔天皇の軍を城ごとに三千名を充ててほしい。百済も五百名を出し、ともに田の耕作を妨害して悩ませれば、 久礼山の五城は自ら投降するだろう。そうやって卓淳国を〔独立させて〕復興させよう。 日本が派遣した兵士には、百済国から衣類・食料を提供しよう。〕
 その上で、「猶於南韓置郡令城主者。豈欲違-背天皇-断貢調之路〔南韓の郡令城主は猶(今のまま)置く。だからと言って天皇に違背し貢調の路を遮断することなどあり得ようか。〕と言って、 郡令城主を日本府に引き渡すことを、改めて明確に拒絶する。ただ、城の「修理防護」は防御のために不可欠だから手伝ってほしいという。
 吉備臣。河内直。移那斯。麻都猶在任那国者。天皇雖-成任那得也。 請此四人各遣二上-還其本邑〔吉備臣・河内直・移那斯・麻都が任那国に在るままでは、天皇の詔があっても任那の建成は不可能である。 この四人を、それぞれ元の村に還してほしい。〕 これは、地方の戦力の増強を口実として、実質的に日本府の解体を要求していると読むことができる。 ここには「任那国」とあるが、任那「」は存在しないから、吉備臣らが昔の任那国の場所、例えば加羅国に設けた拠点を指す。 または、四人は「任那国」に拘るが何もしていない、本気で再建を目指したいなら各地に分散して活動せよという意味であろう。
 百済王が提示した三策に対して、〔任那日本府の〕吉備臣と〔任那の〕旱岐は「日本〔府〕大臣」、 「深思而熟計歟。〔日本府の大臣に諮りたい。深く考えない状態で答えることは避け、熟計したい。〕と言って、 即答を避けている。
《百済聖明王の思惑》
 三策のでは、また「不置南韓郡領城主修理防護。不以禦此強敵。亦不以制新羅」 と言う。城の修理防護への援助を求めるのは、百済自身にとって新羅からの防衛ラインの強化が必須だからである。 しかし、郡令・城主を倭に譲り渡すことは、認められない。 任那地域に倭が実効支配する国ができることまでは、望まないのである。
 ただ、この見方に反するように見えるのが、百済王からの上表文である。そこでは倭の要望への賛意を最大限に表現している。 例えば、二年四月条に「任那旦夕無忘。」、「今寡人与汝戮力。并心翳頼天皇。任那必起。〔任那の建国を図ることを、朝夕忘れたことはない。 今寡人〔=私〕はあなたと戮力〔=協力〕し、併せて心翳〔=影〕に天皇を頼みにすれば、任那は必ず起(た)つだろう。〕 と述べる。
 これは、書紀による粉飾という見方もできるのだが、 外交文書においては、相手国の王を形式上最大限に持ち上げる書き方がなされたのは事実だと思われる。
 例えば、魏志倭人伝の女王宛ての詔書や、 宋書升明二年〔478〕の倭の上表文にその形が見られる。
 百済王の本音は、新羅に備えて任那の防衛を強化するために、利用できることは利用しようとする。 そして再建した任那国が、倭への名目上の朝貢国になる程度のことは差し支えない。 しかし、倭の総督が直接統治する形は、決して認められないのである。

【三策の結果】
 百済王提案の三策については、持ち帰って相談すると述べたきり実行したか否かは書かれていない。 その後は、どうなったのだろうか。
 八年後の十三年五月条を見ると、「百済。加羅。安羅。 遣〔使者〕奏曰。高麗与新羅。通和并勢謀臣国与任那。故謹求救兵〔百済・加羅・安羅は使者を遣わして奏上する。 高麗と新羅は和を通じ、軍勢を合わせてわが国と任那を滅ぼそうと謀っている。よって謹んで救援の兵を求む。〕 として、高麗新羅連合の攻撃に対するために、倭に援助を求めている。
 遣使は相変わらず「百済・加羅・安羅」から行われていて、 「任那国」からではない。 結局、任那国の再建は成らなかった。
 この条に「日本府臣」とあるのを最後に、これ以後書紀からは「日本府」は消える。

【最後の「任那」】
 任那の名は、欽明天皇紀の後にも時々現れるが、その最後は孝徳天皇紀大化元年〔645〕七月条である。 そこには「高麗百済新羅。並遣使進調。百済調使兼-領任那使。進任那調」という興味深い書き方がされる。 つまり、この時点で半島に実在する国は高句麗・百済・新羅の三国であるが、 百済使が任那使を兼任したと装って、百済の調の一部を任那産と称して納める様子が見える。
 同条には、続けて「始我遠皇祖之世以百済国内官家。 譬如三絞之綱。 中間以任那国属-賜百済。 後遣三輪栗隈君東人-察任那国堺。 是故。百済王隨勅悉示其堺。而調有闕。由是却-還其調。任那所出物者、天皇之所明覧。〔遠く皇祖の世は、百済国を内官家として、半ばに任那国を百済に属させた。 後に三輪栗隈君東人を遣わしてかつて存在した任那国の境界を調べさせ、百済王はその境界を了承した。 ところが、任那国の調を欠くので、百済国の貢調を一部返却して任那国による名目上の貢調として納め、天皇の御覧に供した。〕 とあることが、その工作を物語っている。
 遡って推古天皇紀でも、出迎えの飾り船を新羅に二隻仕用意させ、一隻を名目上の任那の船に仕立てる工作が見えた (神功皇后紀4《形式としての任那使の同席》)。
 国としての「任那国」は、既に欽明朝には消滅済みで、欽明天皇紀では地域名として扱われていた。 しかし、虚構の任那国を描くことは、書紀から始まったことではない。 既に聖徳太子の時代から「任那国」が存在するが如く演出することが、百済や新羅との外交儀式の一部になっていたのである。
 古代に存在したとされる任那国の伝説が、飛鳥時代にいかに大切であったかを物語っている。

【日本府の実像】
 書紀には南韓に置いた「内官家(みやけ、うちつみやけ)」が、あちこちに出てくる。そのうち孝徳天皇紀では、「百済国内官家」と表現するがこれは比喩であって、 実際には、朝廷の出先の機関若しくは居館を意味すると思われる。そこには一定の耕地と農民を所有していたかも知れない。
 国内の官家については、宣化天皇紀元年「-造官家那津之口」などがあり、一般的に朝廷の直轄地と解釈されている。
 「安羅日本府」という表現、そして「此四人各遣二上-還其本邑」という言葉から見て、恐らくは「日本府」は、事実上南韓の小国群の国ごとに置かれた内官家ではないかと思われる。 それぞれの小国に滞在していた吉備臣・河内直・移那斯・麻都などは、欽明朝のときは集結して行動していて、欽明紀ではこの臣たちのグループが「任那日本府」と書かれたと想像される。
 「任那日本府」と書くと、あたかも任那国に大宰府の如き機関が存在したかのような印象を与える。 しかし、任那""としての実体はなく、任那は地域名に過ぎない。「日本府」の本拠も居館程度かも知れない。 さらには「郡令・城主」の譲渡を認めさせることができなかったことは、それだけのプレッシャーを与え得る規模の軍勢も持たなかったことを物語る。 この臣たちの行動は、むしろ百済からは嫌がられ、解散を促されるような代物である。
 そもそも「任那日本府」は、書紀による造語である。 国号「日本」は天武朝の678年ごろに制定されたと考えられており、 欽明朝の頃の表記なら、 「倭司」あるいは「倭官」である。
 欽明天皇紀をありのままに読めば、その二年~五年の時期に倭朝廷は任那国の再興を試みたが実現せず、 そのために現地で活動していた倭の臣のグループを、後の世に「日本府」と呼んだということである。
 〈釈紀〉巻十八-「秘訓三」が、日本府を「【ヤマトノミコトモチ】」と訓むのは、 「日本府」という言葉がもつイメージに影響されたものであろう。 「みこともち」はにあたり、「」は〈倭名類聚抄〉では一般的に「豆加佐(つかさ)」である。 日本府は、「やまとのつかさ」と訓む方が字にも実体にも合っている。

まとめ
 日本は、1910年から1945年まで朝鮮を統治下に置いた。 当時の歴史教育においては、時代背景が絡んで任那日本府の機能を高度に描き、 日本書紀がその根拠にされたように見える。
 だが肝心の日本書紀には、任那日本府に大宰府のような統治機関としての機能は全く描かれていない。 そこにあるのは、欽明天皇の時代において、神功皇后以前の伝説に描かれた任那国にノスタルジーを抱き、現地でその「再建」をめざして行動した臣たちを「日本府」と呼んだことのみである。
 「日本府」の語を用いたのは、書紀作者に漠然とした「古代の任那国」の幻影があったからだろう。その幻影の片鱗は、唯一雄略天皇紀に見える。 明治以後、がっちりとした任那日本府の実在を信じた人は、書紀作者が抱いた幻影を共有しているに過ぎない。



2018.10.20(sat) [33] 〈続紀〉阿保朝臣 
 雄略天皇紀十八年条の「青墓」は、阿保村の近くであろうと論じた(雄略天皇紀十八年)。 そのことに関係して、〈続紀〉延暦三年〔784〕条に、阿保村を本拠とした阿保朝臣についての記事がある。 ここでその部分を精読する。
延暦三年十一月戊午。
武蔵介従五位上建部朝臣人上等言
臣等始祖息速別皇子。
伊賀国阿保村居焉。
すけ(介)…四等官制の第二位。 四等官制は、諸官司共通に中核的な官制。 国の四等官は守、介、掾、目と表記する。(資料[24])
息速別皇子…垂仁天皇の皇子の一人。書紀:池速別命、記:伊許婆夜和気王。(第116回)
…[動] ①ある物事・人物につき従う。②その場所までいく。(古訓) つく。むかふ。
をり(居り)…[自]ラ変 〈時代別上代〉単に動かずに居るというのではなく、何かをするために一つ所に待機している意の例が多い。
延暦三年十一月(しもづき)〔戊戌朔〕戊午〔二十一日〕。
武蔵(むさし)の介(すけ)従五位上(じゆごいのじやう)建部朝臣(たけるべのあそみ)人上(ひとかみ)等(ら)言(まを)ししく
「臣(やつかれ)ら始めの祖(おや)息速別(おきはやわけ)の皇子(みこ)、
伊賀の国の阿保(あほ)村に就(つ)きて居(を)り。
於遠明日香朝廷
皇子四世孫須禰都斗王
地錫阿保君之姓
遠明日香朝廷…允恭天皇の遠飛鳥宮(第184回)。
…[名] すず(金属元素名)。[動] たまう。「賜」にあてた用法。
遠明日香(とほつあすか)の朝廷(みかど)〔允恭朝〕に逮(いた)りて、
皇子の四世の孫(ひこ)須禰都斗王(すねつとのみこ)に詔(のたま)はく、
地(ところ)に由(よ)りて阿保君(あほのきみ)之(の)姓(かばね)を錫(たまは)りて、
其胤子意保賀斯。
武芸超倫。
後代
是以長谷旦倉朝廷改-賜健部君
胤子…(古訓) たね。
超倫…ひとよりひときわ優れている。「倫」は同列に並んだ仲間。
長谷旦倉朝廷…雄略天皇(第198回)。
其の胤子(たね)意保賀斯(おほかし)、
武芸(ぶげい)倫(ひと)を超(こ)ゆること、
後代(のちのよ)に示すに足れり。
是(こ)を以(も)て長谷旦倉(はつせあさくら)の朝廷(みかど)〔雄略朝〕に健部君(たけるべのきみ)に改(あらた)め賜(たまは)りき。
是旌庸恩意。
土彜倫
望請
本正名二上-賜阿保朝臣之姓
…[名] はた。[動] あらわす。
…[動] ねぎらう。
…[動] めぐむ。[名] しあわせ。ひもろぎ。
…[名] つね。のり。
彜倫(いりん)…人としてつねに守るべき道理。
…(古訓) かうふる。
かがふる…[自]ラ四 こうむる。頭にかぶる意が、上からの言葉を受けるなどの意に転じたもの。 のちに「かうぶる」に変化する。
是(これ)庸(ね)ぎ恩(めぐみ)たまえる意(こころ)を旌(あらは)して、
土(つち)を胙(めぐ)みたまふ彜倫(のり)に非(あら)ず。
望み請(ねが)はくは、
本の正名(まさな)に返(かへ)して、阿保朝臣(あほのあそみ)の姓(かばね)を蒙(かが)ふらせ賜(たま)はむことをねがひまつる。」とまをしき。
詔許之。
於是。
人上等賜阿保朝臣
健部君黒麻呂等阿保公。
詔(みことのり)したまひて之を許したまふ。
是(ここ)に、
人上ら阿保朝臣を賜りて、
健部君(たけべのきみ)黒麻呂(くろまろ)ら阿保公(あほのきみ)をたまはる。
《大意》
 延暦三年〔784〕十一月二十一日、 武蔵の介(すけ)従五位上建部(たけべ)朝臣人上(ひとかみ)により言上。
「臣らの始祖、息速別(おきはやわけ)皇子は、 伊賀国の阿保(あほ)村に就いて侍っておりました。 遠飛鳥朝〔允恭天皇の御世〕に至り、 皇子の四世孫、須禰都斗(すねつと)王に詔あり、 地名によって阿保君の姓を賜り、 その嫡子、意保賀斯(おおかし)は 武芸は常人を超え、 後世に示すに足るものでした。 それにより、長谷朝倉朝〔雄略天皇の御世〕、健部(たけべ)君に改賜されました。
 これは、功績を労い恩寵される意味を高く掲げられたものですが、 土地を胙(めぐ)み給うものという本来の則(のり)には非ざるものです。 望み願わくば、 元の正名に戻して、阿保朝臣の姓を蒙むらせ賜りたく願い申し上げます。」と言上し、 詔を発してこれを許された。
 このようにして、 人上らは阿保朝臣を賜り、 健部君(たけべのきみ)黒麻呂(くろまろ)らは、阿保公を賜る。


【胙土】
 「胙土」という珍しい語句は、阿保朝臣が改姓を申し出た動機に関わるので、 その出典を厳密に調べた。
 『後漢書』光武十王列伝に「光武十子胙土分王」がある。 これは、「光武帝は、十人の子に領地を封じ、王に分けた」意と見られる。
 また、『春秋左伝』穏公八年に「胙之土而命之氏〔之に土をめぐみ、之に氏を命ず〕がある。 この語句の意味は、「領地を与えて創氏させる」だと思われるが、さらに前後の関係の中で正確な意味を確認したい。
無駭卒。羽父請諡与族。公問族於衆仲
衆仲対曰
「天子建徳因生以賜姓胙之土而命之氏。
諸侯以字為諡因以為族。
官有世功則有官族邑亦如之。」
公命字為展氏
<維基百科>(wikipedia中国版)は、「衆仲」の項で、
魯隠公八年(前715年)、在無駭去世后、衆仲解-釈-説-明-了諸侯和卿大夫姓氏的起源
〔無駭は世后〔死後の世界〕に去り、衆仲は諸侯と卿・大夫の姓氏の起源を解釈・説明した。〕
 と説明している。
〔 無駭、卒〔大夫レベルの死を称す〕す。 羽父は諡号と族〔名〕を求め、〔羽父〕公は衆仲に問う。
 衆仲はこのように答えた。
「天子〔皇帝〕は徳のある者を諸侯に建て、生〔生き方、或いは性(さが)か〕によって姓を賜り、これに土〔領地〕を胙(めぐ)み、これに氏を拝命させる。 諸侯は字〔あざな、生前に賜った姓〕を諡号とし、族名もそのようにする。 官は功績によって諡号を与え、その族・邑〔領地〕もそのようにするものです。」
 公は、字(あざな)をもって命じ、展氏とした。 〕
 文脈から見ると「胙土」とは、新たに諸侯を任命するときに「領地を封ずる」意味である。
 〈汉典〉には、:「1.古代祭祀時供的肉。」「4.~土(帝王以土地-封功臣、酬其勲績)。」とある。
 「胙」のもとの意味は、神を祀るときに重ねて供える肉。 天子から封じられた土地では早速「胙」を供えて祭祀しただろうから、そこから「封土」の意味に転じたと想像される。
《胙土彜倫》
 このように意味を取れば、〈続紀〉の場合「封土之法」などで十分意を尽くすことができると思われるのだが、敢て難解な字を用いた理由は何だろう。
 その事情として、一人の臣が改姓を願い出るのはとても畏れ多いことなので、学識僧に命じて上奏文を慎重に作成させたことが考えられる。 そして、漢籍から格調高い語句「胙土彜倫」を見つけ出したのであろう。 そこには「封じられた地名を姓とすることこそが、古今東西で重んじられてきた原理原則である」ことを強調する狙いもあったと思われる。 雄略天皇から賜った「建部」を覆そうとすれは、これぐらいの気合を要したのであろう。 そしてこのときの上奏文の一部が、そのまま続紀に引用されたものと思われる。

まとめ
 書紀の雄略天皇紀では、物部目連らが攻め入って朝日郎を斬る。 一方、意保賀斯は以前から存在した阿保君に属し、雄略帝のときに存在した人物である。
 すると、阿保の地域に意保賀斯派と朝日郎派の二族がいて、意保賀斯派が官軍に与したことになる。 積年の「青君」と「阿保君」の対立かも知れない。 または、中央政権の圧迫により、阿保君が妥協派と徹底抗戦派に内部分裂したか。 その可能性もないことはないのだが、仮に朝日郎と意保賀斯が同一人物だとしたらどうなるだろうか。
 そもそも建部と言えば倭建命の子孫であるが、倭建命は中央政権に与した尾張氏によって暗殺された節がある (第134回)。 よって建部は、反逆した英雄が殺されたとは言え、その武勇を称えて子孫に与えられた称号であろう。
 ならば、「弓の名手である朝日郎」=「武芸に秀でた意保賀斯」も殺されたが、その一族は「建部」の名で存続が許されたと考えることができる。 とは言え、否、だからこそ建部なる呼称は不本意で、「阿保」を回復することが代々の悲願であった。 時は人上の代に至り、もうそろそろいいだろうと「阿保」の復活を願い出た。 朝廷側も、「雄略天皇=大悪天皇」と書記で公式に評価するくらいだから、事情を理解して申し出を受け入れたと見られる。
 このような筋書きが成り立つと思われるのだが、どうであろうか。



2019.01.27(sun) [34] 歌垣 
 清寧段に「歌垣」の場面があり、武烈即位前紀の訓注に「歌場。此云宇多我岐うたがき」がある。 〈時代別上代〉によれば、歌垣とは「①男女が一所(神聖な山や市などが選ばれた)に集まって、飲食・歌舞し、性的開放を行った行事。」 「②のちには宮廷などの一種の風流ふりゅう遊芸」であるという。
 万葉集には「歌垣」という語はなく「嬥歌(かがひ)」が一首(1759)にある。 嬥歌は〈時代別上代〉によれば、「一年の中に適当な日を定めて、市場や高台など一定の場所に集まり、飲食・歌舞に興じ、性的解放を行った。」 とありほぼ歌垣①と同内容である。 〈古典基礎語辞典〉は、動詞「かがふ」を、 「カキ(懸き)アフ(合ふ)の約。男女が互いにかけ合いで歌をうたい、踊る意」、 そして「一般には東国で」「カガヒ(名詞)、カガフ(動詞)といったもの。」と説明する。
 カガヒが東国の言葉だといわれるのは、万葉歌が「嬥歌は東俗語」と注記したからであろう。 以下、万葉集・風土記・続紀の原文から嬥歌・歌垣の実像、及び当時の人がこれをどう見ていたかを探る。

【万葉集巻九】
 万葉集巻九-第1759歌は、筑波山の嬥歌を詠んだものである。
(万)1759
〔題詞〕筑波嶺嬥歌會日作歌一首 并短歌
鷲住 筑波乃山之 裳羽服津乃 其津乃上尓 率而 未通女壮士之 徃集 加賀布嬥歌尓 他妻尓 吾毛交牟 吾妻尓 他毛言問 此山乎 牛掃神之 従来 不禁行事叙 今日耳者 目串毛勿見 事毛咎莫
〔注記〕嬥歌者東俗語曰賀我比
〔題詞〕筑波嶺(つくはね)に登りて嬥歌(かがひ)の会(つどひ)を為(せ)し日に作りし歌一首(ひとうた)。短歌を并(あは)す。
わしのすむ つくはのやまの もはきつの そのつのうへに あどもひて をとめをとこの ゆきつどひ かがふかがひに ひとづまに あれもまじらむ おのづまに ひともこととへ このやまを うしはくかみの むかしより いさめぬわざぞ けふのみは めぐしもなみそ こともとがむな
〔注記〕嬥歌者(は)東(あづま)の俗(くにひと)の語(こと)に賀我比(かがひ)と曰へり。
〔鷲の住む 筑波の山の もはき津の その津の上に 誘(あども)ひて 娘子壮男の 往き集ひ かがふ嬥歌に 人妻に 吾も交らむ 己妻に 他人も言問へ 此の山を 領(うしは)く神の 昔より 諫めぬ業ぞ 今日のみは 目くしもな見そ 事も咎むな〕
筑波山 (左)男体山 (右)女体山
わしのすむ…[枕] 「(万)1344 真鳥住 卯名手之神社之 まとりすむ うなてのもり」の枕言葉「まとりすむ」 の「まとり」は、しばしば「鷲」を意味するので、その類型かと思われる。
うしはく…[自]カ四 領有する。「牛掃」という表記は、牛が隅々まで歩くという語源の俗解を表したものか。
なみそ…助詞「」+見るの連用形「」+助詞「」の形で、禁止を表す。
めぐし…「めぐし」という形容詞〔いとおしい、きがかりだの意〕もあるが、ここでは「目串」という表記通り「突き刺すような視線」を意味すると見られる。
歌意
 筑波山の裳羽服津の上に引き連れて、男女が行き集う嬥歌(かがい)に、人妻に私も交わろう、我妻に他人も声をかけよ。この山を治めた神の世の昔から諫めぬ行いだ。今日だけは目くじらを立てるな。ことを咎めるな。
県道214号線の禊橋(地図の)から見る
 反歌1760とともに、高橋虫麻呂歌集の中の歌である。 高橋虫麻呂については、浦嶋子[4]【墨江】で述べたところである。 虫麻呂は地方官として常陸国に滞在したときに、その地の嬥歌の風習を題材として作歌したものと思われる。
《裳羽服津》
 裳羽服津(もはきつ)は、普通に読めば山の中のある個所の地形を比喩的に「津」と表現したように取れる。 それは、どのような場所であろうか。
 『万葉集古義』〔鹿持雅澄、1844年〕には、 「あれば、其津をかく名付るならむ、故〔しかし〕津のうへにともよめり、 契沖云〔ふ〕裳羽服津モハキツは、ハキ裳津モツ と云〔ふ〕心にて名付たる所の名か、心は、 女の筑波山にもうづるに、こゝにして衣装をあらためて、裳を著ると云心にや〔もし湖があれば、その津の名前であろう。しかし、その津の「上に」という言葉もあるから、契沖曰く、女が筑波山に詣でるときに着替えた場所を「もはきつ」と言ったらしい〕と書かれる。
 雅澄は、「」の本来の意味に従って「湖の津」と読もうとしたが「湖」は見つからなかったようである。 契沖説では「ツ」は単に着替えをする「場所」で、船着き場の意味は消え、人の活動の拠点を船着き場にたとえたものである。
 しかし万葉歌にでてくる地名「~津」を見ると、すべてが現実の海岸・川岸に由来すると見られ、その他のことに譬えた例は見いだせない。
《桜川》
 そこで、「」を敢て本当の船着き場だと考えてみる。
 津になりそうな場所を筑波山付近に探ると、桜川という幅広の川がある。この川は霞ヶ浦に流れ込んでいる。 すると、嬥歌の参加者の少なくとも一定部分は霞ヶ浦から桜川を船で遡り、 「裳羽服津」から上陸したという見方ができるが、どうであろうか。
 「裳羽服津の、その津の上に率ひて」とは、裳羽服津から上陸した男女の群れが、 「その津の上に」聳え立つ筑波山に向かって、ぞろぞろ歩いて行く様を描写したもののように読めるのである。 禊橋の上から筑波山と桜川を眺めた画像を見ると、その光景が目に浮かぶのだが…。
《嬥歌》
 中国語の「嬥歌」(ちょうか)に関しては、『広韻』〔1007~1008〕に「韓詩云。嬥歌巴人歌也」が見える。
 また〈百度百科〉は、 「嬥歌:古代巴人相互牽手辺跳辺唱的一種民歌。 『後漢書』礼儀下:羽林孤児。巴俞擢歌者六十人為六列。」と説明する。
※1…「巴人」は〈百度百科〉によると、商〔=殷〕周の時期〔前16世紀~前256〕に現在の四川重慶などの地域で活躍したが、秦国〔前778~前206〕によって滅ぼされたという。
※2…「羽林」は、皇帝直属部隊。「羽林孤児」は、羽林が戦死者の遺児を引き取って養育し、兵としたもの。
 〔古代、巴人※1が相互に手をひき、辺境の舞踊、辺境の歌唱をする一種の民歌。 『後漢書』礼儀下:羽林孤児※2は、巴俞(歌舞の名称)を擢歌する者、六十人を六列にする。〕
 「嬥歌」は、中国の文献を通して倭国に流入し、カガヒを表記するために用いられたものと思われる。
(万)1760
〔題詞〕反歌
男神尓 雲立登 斯具礼零 沾通友 吾将反哉
〔左注〕右件歌者高橋連蟲麻呂歌集中出
〔題詞〕反歌
をかみに くもたちのぼり しぐれふり ぬれとほるとも われかへらめや
〔左注〕右の件(くだり)の歌者(は)高橋連(たかはしのむらじ)の虫麻呂(むしまろ)歌集の中(うち)に出(い)づ。
〔男神に 雲騰ち昇り 時雨降り 濡れ通るとも 吾帰らめや〕
男神(をかみ)…[固名] 異訓に「をのかみ」。男体山を男神、女体山を女神と称したと見られる。
とほる…[自]ラ四 しみとおる。すっかり~する。 (万)3711 和我袖波 多毛登等保里弖 奴礼奴等母 わがそでは たもととほりて ぬれぬとも
とも…[接助] 終止形から接続し、強い逆接を表す。
かへらめや…「かへる」の未然形+「む」(推量・意志)の已然形+終助詞「や」。
…[終助] 終助詞としては疑問・反語・詠嘆。已然形から接続する場合は反語。
歌意
 男体山に雲が立ち昇り、時雨で濡れ衣を染み通っても、私が帰ることなどあろうか。
 途中で雨が降ってきてずぶ濡れになったとしても、帰るものかと詠う。嬥歌はそれほど楽しいのである。 常陸国風土記によれば嬥歌は春と秋に行われるが、時雨を詠うからこの歌の季節は春である。
 
【常陸国風土記】
 『常陸国風土記』「筑波郡 筑波山」の項に、嬥歌の様子が載る。
夫筑波岳 高秀于雲最頂
西峯崢嶸 謂之雄神不上レ登臨
但東峯四方磐石 昇-降坱圠
其側流泉 冬夏不
坂已東諸國男女
春花開時 秋葉黄節
相携駢闐 飲食齎賷
騎歩登臨 遊樂栖遲其唱曰
【都久波尼爾 阿波牟等伊比志 古波多賀己
等岐氣波加彌尼 阿須波氣牟 也
 都久波尼爾 伊保利弖都麻奈志 爾和我尼牟
欲呂波々夜母 阿氣奴賀母 也】
詠歌甚多不勝載車
俗諺云
筑波峯之會不得娉財兒女不爲矣
夫(それ)筑波岳(つくはのやま)、高く[于]雲に最(もとも)の頂(いただき)を秀(ひづ)。
西の峯(ね)崢嶸(けはし)、之(こ)を謂はく、雄神(をかみ)登り臨(のぞ)ま不令(しめず)といふ。
但(ただ)東の峯四方(よも)の磐石(いは)に、坱圠(くぼ)を昇り降(くだ)れり。
其の側(ほとり)に流るる泉(いづみ)冬夏も不絶(たへず)
坂(さか)自(よ)り已東(ひむがし)の諸(もろもろ)の国の男女(をのこをみな)、
春に花開ける時、秋に葉(は)黄(もみ)てる節(ふし、とき)、
相(あひ)携(たづさは)りて駢(なべ)闐(み)ちて、飲食(くらひもの)齎賷(もちき)て、
騎(またこ)え歩(あゆ)みて登り臨(のぞ)みて、遊び楽しびて栖遅(ゆる)しき。 
其の唱(うた)曰はく。
【「都久波尼爾(つくはねに) 阿波牟等伊比志(いはむといひし) 古波多賀己等(こはたがこと)
岐氣波加彌尼(きけばかみね) 阿須波気牟(あすはけむ)」也(なり)。
 「都久波尼爾(つくはねに) 伊保利弖(いほりて) 都麻奈志爾(つまなしに)
和我尼牟(わがねむ) 欲呂波々夜母(よろははやも) 阿気奴賀母(あけぬかも) 」也。】
詠(よ)める歌甚(いと)多(おほ)くありて載車(のする)に不勝(たへず)。
俗(くにひと)の諺(ことわざ)に云ふ。
筑波峯(つくはね)之(が)会(つどひ)に娉(よば)ふ財(たから)を不得(えず)、児(をのこ)女(めのこ)に不為(なさず)[矣]。
…[名] 嶺。〈時代別上代〉「〔ネ〕単独の用法もいくつかあるが、それはすべて東歌〔あずまうた〕の中にある。万葉のころには、ミネの形が普通だったのであろう。
崢嶸(そうこう)…山が乱れ立つ。山道が折れ巡る。
登臨…高所に上って低い所を見渡すこと。
坱圠(おうあつ)…でこぼこで地勢が平らかでないさま。深く底が見えないさま。
自坂已東…坂東。
もみつ…[自] 紅葉する。
…[動] 並べる。
…[動] みちる。
…[動] もたらす。
…[動] もたらす。もともとは齎の俗字。
…[動] 馬に乗る。馬に限らずものにまたがる。
またこゆ…[自]ヤ下二 またぐ。
筑波山の紅葉
栖遅(せいち)…官職につかず、自宅でゆったり過ごすこと。
ゆるす…[他]サ四 ゆるやかにする。
…[名] (古訓) うた。
いほる…[自]ラ四 いほり(庵、=仮の小屋)に泊る。(万)1029 河口之 野邊尓廬而 夜乃歴者 かはくち〔川口〕の のへ〔野辺〕にいほりて よのふれば
よろ…夜+接尾語「ろ」
…[助] 未然形につけて、話者の希望を表す。
たふ…[他]ハ下二 こらえる。
…(古訓) あつまる。あふ。
…[動] 問う。女性の名を問う。転じて嫁にまねく。(古訓) とふ。とつく。もとむ。よはふ。
児女…男児と女児。子女。
〔  筑波山は、高く雲から頂上を突き出す。 西の峰は急峻で、男神が登り眺めることをさせないのだという。
 ただ、東の峰には四方から磐の窪み伝いに昇り降りする。 その傍らに流れ出る泉は、夏冬に絶えず。 坂東〔足柄山坂以東〕諸国の男女は、 春の開花のとき、秋の紅葉のとき、 手を相携えて並び満ちて、飲食の物を持ち、 山を跨いで歩き、登り眺め、遊び楽しんで緩やかに過ごす。 
 その歌は。
――筑波峯に 言はむと云ひし 子は誰が言 聞けばか 峰あすはけむ
――筑波峯に 庵りて 妻なしに 吾が寝む 夜ろは早も 明けねかも
 詠まれた歌は大変多く、掲載しきれなかった。
 俗の諺に言う。
――筑波峰(つくばね)の集いでは求婚の財を得ず、子女としない。 〔筑波峰の集いで結ばれても求婚の財物は手に入らないから、娘を嫁がせるな〕 〕


第一歌:筑波の嶺で、言うだろうといった子は、誰の言葉を聞いたのだろうか、峰で〔逢えなかった〕
――「言はむと云ひし」とは、誰かが自分に声を掛けてくれることを期待したという意味であろうか。 「あすはけむ」が「あはずけむ」の誤りだとすれば、せっかく筑波峯の嬥歌に参加したのに誰も声を掛けてくれず、結局出会えなかったと読める。
第二歌:筑波の嶺で仮泊する小屋で、妻なしで私は寝る。夜など、早く明けてほしい。
――相手を見つけられず一人で夜を過ごすことになった無念さを語る。
《自坂已東》
 『常陸国風土記』総記に 「古者自相模国足柄岳坂以東諸県惣称我姫国〔古(いにしへ)は相模国足柄岳(あしがらのやま)の坂より以東(ひむがし)の諸県(もろもろのこほり)、総(すべて)我姫(あづま)の国と称(い)ふ〕
 記は、倭建命が「足柄之坂」に登り「阿豆麻波夜(あづまはや)」と三度嘆いたことを地名の由来とする。 書紀ではその場所を「碓氷峠〔長野・群馬の県境〕とする (第130回)。 何れも創作的地名譚であるが、風土記にもある「足柄岳」の方が一般的であったと見られる。主要な交通路が、東海道だったからであろう。
 関東地方の別名を「坂東」(ばんどう)というのは、「柄岳坂以東」→「自坂以東」→「坂東」ということだろう。
《阿須波気牟》
 角川ソフィア文庫『風土記上』は、結句の「阿須波気牟〔あすは(ば)けむ〕を「不明な句」とする。 ただし、同書は原文も収めているが、そこには「波須気牟」になっていて一貫しない。 どちらが正しいか確かめるために、『群書類従』〔1793~1819年刊本〕を調べると、その「巻四百九十九」に常陸国風土記があり、そこでは「須波気牟」となっていた。
 現代のある解説本は「あはずけむ」を採用して「逢えなかった」と解釈している。 「阿波須気牟」が成り立つためには「」は濁音「」でなければならない。 「けむ」は連用形から接続する助動詞で、「ず」の連用形は「」だからである。 「須」は万葉では清音「す」は600例以上に使われ圧倒的に多いが、 濁音「ず」として否定の助動詞に用いる例も数例ある。「(万)4384 己枳尓之布祢乃 他都枳之良須母 こぎにしふねの たづきしらずも〔漕ぎにし船のたづき〔手がかり〕知らずも〕」など。
 もし「あすばけむ」だとすると、句全体の文意は自然である。
《解釈》
 筑波山では、花が咲きほこる春と紅葉の秋に、集団で食物や酒をもって登った。ピクニックのようなものだが飲酒を伴い、 大宴会をして歌を楽しむ。ただ添えられた歌謡を見ると、必ず相手が見つかるとは限らないことが分かる。 やはり、気の利いた歌を返して座を盛り上げる技量の持ち主がもてたのである。だから嬥歌を通して歌の技巧は高まり、 〈続紀〉に書かれた芸能としての歌垣(後述)に発展したのだろう。
 辞書の「性的開放」という言い方には奇異なものを見るような目が感じられるが、その感覚を生ぜしめたのは明治政府が上から強制した道徳である。 歌謡による応答は高い精神文化と言え、交歓の場で親密になった男女がしかるべく夜を過ごすのも、また自然な生活の一場面と言えよう。

【肥前国風土記逸文】
肥前国 杵島郡 杵島山
 『肥前国風土記』逸文に、嬥歌の記述がある。 その逸文は、『萬葉集註釋』(仙覚著)に引用されたもの。 仙覚は鎌倉時代の学問僧で、文永三年~文永六年〔1266~1269〕『萬葉集註釋』(「萬葉集抄」「仙覚抄」とも;以後〈仙覚抄〉)を著した。
 『肥前国風土記』逸文の「杵島」条は、その三巻第0385歌のところで引用されたものである。
――(万)0385 霰零 吉志美我高嶺乎 險跡 草取可奈和 妹手乎取  あられふり きしみがたけを さがしみと くさとりかなわ いもがてをとる
 この歌について「此歌、肥前國風土記ニ見タリ」として、肥前国風土記を引用する。
 〈先覚抄〉のこの部分を複数のソースで比べると、不一致が目立つ。ソースは次の通り(〈…〉は略号)。
・『仙覚全集』(佐々木信綱編。古今書院1926)⇒〈全〉
・『萬葉集註釋 20巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)〔筆記年代不明〕⇒〈デ〉
・『風土記下』(角川ソフィア文庫)⇒〈角〉
 〈角〉は、参考文献に『仁和寺蔵万葉集註釈』(臨川書店1891)、『金沢文庫本万葉集巻第十八 中世万葉学』(朝日新聞社1994)を挙げている。 〈角〉は新字体を用いていて、他の本にも新字体(発刊・筆写の時代では異体字)が混じるが、 ここでは原文を旧字体、読み下し文を新字体に統一した。
 差異は、〈仙覚抄〉を筆写する段階で生じたことになる。
杵島郡 縣南二里有一孤山
坤指艮三峰相連
是名曰杵嶋
坤者曰比古神
中者曰比賣神
艮者曰御子神
【一名軍神動則兵興矣】
閭士女 提酒抱
毎歳春秋 携手登臨
樂飲歌舞 曲盡而帰 歌詞云
婀邏禮符縷 耆資熊加多塏塢 嵯峨紫彌占
區縒刀理我泥底 伊母我提塢刀縷
【是杵島曲】
杵島郡(きしまのこほり)。県(こほり)の南二里(ふたさと)に一孤(ひとつの)山有り。
坤(ひつじさる)従(よ)り艮(うしとら)を指して三(みつ)の峰(みね)相(あひ)連(つら)ぬ。
是(これ)名(なづ)けて杵嶋(きしま)と曰(い)ふ。
坤(ひつじさる)者(は)比古神(ひこがみ)と曰ひて、
中者(は)比売神(ひめかみ)と曰ひて、
艮(うしとら)者(は)御子神(みこがみ)と曰ふ。
【一(ある)は軍神(いくさかみ)と名づけり。動(うご)きて則(すなはち)兵(いくさ)興(おこ)る[矣]】
閭(むれつど)へる士女(をとこをみな)、酒を提(もちき)て琴を抱(むだ)きて、
毎(つねに)歳(とし)の春秋、手を携(たづさは)りて登り臨(のぞ)みて、
楽(たの)しび飲みて歌ひ舞(まひ)すること、曲(つぶさ)に尽(つ)くして[而]帰る。歌の詞(こと)に云はく。
婀邏礼符縷(あられふる) 耆資熊加多塏塢(きしまがたけを) 嵯峨紫弥占(さかしみと)
区縒刀理我泥底(くさとりかねて) 伊母我提塢刀縷(いもがてをとる)
【是(これ)杵島曲(きしまぶり)なり】
…[名] ひつじさる(未申)。南西。
…[名] うしとら(丑寅)。北東。
…[動] 連なって集まる。
曲尽…細かいところまで言い尽くす。委曲を尽くす。
…(古訓) つふさに。
あられふる…[枕] 杵島にかかる。
さかしみ…形容詞「さかし」(シク活用)の語幹+接尾語「み」による名詞化。「草取りかぬ」の理由を表す。
杵島山曲…「曲」の訓「ぶり」については、【続日本紀】の項参照。
<不一致個所>
杵島郡…〈角〉「杵島縣」。一般的には「縣」も同義だが、風土記という性質上「郡」が正しい。
閭士女…〈角〉「郷閭士女」。
樂飲歌舞…〈全〉「樂飯奇無」。
一名軍神動則兵興矣…〈デ〉「一名耳子神靭則兵與矢」。
…〈デ〉「阿」。
耆資熊加多塏塢…〈全〉「耆資熊多塏塢」。〈デ〉「耆資加多塏塢」。〈角〉「耆資麼多塏塢」。
〔U+3DF1〕。「」は「」の異体字。
…仮名「マ」に用いる例は他に見ない。
伊母我提塢…〈デ〉「伊母我提鴎」。
〔杵島郡(きしまのこおり)。県(こおり)〔郡衙の意か〕の南二里に、一つの孤山があり、南西から北東に向かって三峰が相連なる。 その名を杵嶋(きしま)という。南西は比古神といい、中央は比売神(ひめかみ)といい、北東は御子神(みこがみ)という。 【別名は軍神(いくさかみ)といい、揺れると戦が起る】 男女が集い、酒を運び琴を抱き、 毎年の春秋、手を携えて登り眺めて、 楽しく酒を飲み、歌い舞うことを極め尽くして帰る。歌の言葉に言う。
――霰降る 杵島が岳を 険(さか)しみと 草取りかねて 妹が手を取る【これを杵島曲(きしまぶり)という】〕

杵島岳は険しくて草を取れないから、かわりに愛しい乙女の手を取ろう。
――座興の歌である。このレベルの駄洒落で相手に気に入ってもらうのは現代では難しいが、 当時はどうだっただろうか。
 現在は、図の東西3km、南北9kmほどの山地全体を杵島山といい、標高300m前後のいくつかの山からなる。 文中の「南西から北東に並ぶ三山」が、そのうちどれを指すかははっきりしない。 山地全体は、むしろ巽(たつみ、南東)から乾(いぬゐ、北西)の向きである。
 さて、万葉の「未通女壮士」、常陸国風土記の「」に、ここの「」を並べれば、 年頃の男女が交歓するという、これらの集いの性格がよく分かる。

【万葉集巻十二】
 海柘榴市(つばきいち)は古代の市。比定地は、一般に山の辺の道が大和川に達した仏教伝来碑の辺りとされる。 ここでも歌垣が行われたといわれ、万葉歌3101は、歌垣で逢った女性との問答歌とされる。
 北に石上・春日・山城・近江、西に河内・難波・紀伊、南に飛鳥、東に伊勢に向かう交通の要になっている。
(万)3101
〔題詞〕問答歌
紫者 灰指物曽 海石榴市之 八十街尓 相兒哉誰
むらさきは はひさすものぞ つばきちの やそのちまたに あへるこやたれ
〔紫は 灰差すものぞ 海石榴市(つばきち)の 八十の巷に 逢へる子や誰〕
むらさき…[名] (植物名) ムラサキ科の多年生草本。根を薬用、染料に用いる。
むらさき…[名] (染料) <wikipedia>「色を染めるには、乾燥した紫根を粉にし、微温湯で抽出して灰汁で媒染して染色する。
はひ…[名] 灰。「椿灰捌拾伍斛弐斗〔八十五石二斗〕」(〈時代別上代〉所引『正倉院文書巻24天平六年』)
ちまた…[名] 道の分かれるところ。道俣(ちまた)の神が坐す。「-棄御褌所成神。名道俣」(第42回)。
歌意
 紫は灰汁を差して鮮やかな色を放つもの。灰取るつばき―海石榴市の多くの道に連なる巷で出逢ったあなた。名乗ってください。
 「紫は灰差すものぞ」は、一般的に焼いて灰を取る「椿」を導く序詞と考えられている。
 この歌だけでは、海石榴市で歌垣が行われたかどうかは分からない。 海柘榴市と歌垣を直接的に結びつける文章は、武烈天皇即位前紀にある。
 関係する部分を抜き出し、精読してみる。
武烈天皇即位前―仁賢天皇十一年八月
太子思物部麁鹿火大連女影媛
媒人向影媛宅期一レ會。
影媛會姧眞鳥大臣男鮪【鮪。此云茲寐】。
太子所一レ期。
。妾望上レ-待海柘榴市巷
〔中略〕
〔太子〕果之所期。
歌場衆【歌場此云宇多我岐】。
影媛袖
太子(ひつぎのみこ)〔=武烈天皇〕[欲]物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の大連(おほむらじ)の女(むすめ)影媛(かげひめ)を聘(むか)へむと思(おもほ)して、
媒人(なかだち)を遺(つかは)して影媛の宅(いへ)に向かはしめて会(あ)ふこと期(ちぎ)らしめたまひき。
影媛会(たまさかに)真鳥(まとり)の大臣(おほまへつきみ)の男(こ)鮪(しび)と姦(たは)けり【鮪、此を茲寐(しび)と云ふ】。
太子の所期(こころざし)に違(たが)へるを恐りて、
報(かへりごとまをししく)「「妾(やつかれ)海柘榴市(つばきち)の巷(ちまた)にて待ち奉(まつ)らむと望みまつる。』と曰(まを)す。」とまをしき。
〔中略〕
〔太子〕之(この)所期(こころざし)を果たしたまひて、
歌場(うたがき)の衆(むらがるひとのなか)に立たして【歌場、此(これ)宇多我岐(うたがき)と云ふ。】、
影媛の袖を執(と)りたまひき。
〔 皇太子(武烈天皇)は、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の大連(おおむらじ)の娘、影媛(かげひめ)を妃に迎えようと思われ、 媒酌人を立てて影媛の家に向かわせ、婚約を申し入れさせました。
 影媛は、たまたま真鳥(まとり)の大臣(おおまえつきみ)の子息、鮪(しび)と姦淫の真っ最中でした。
 媒酌人は、太子の意向に違うことを恐れ、 「影媛は『私は、海柘榴市(つばきいち)の巷でお待ちししたいと存じます。』と申しております。」と報告しました。
〔中略=平群大臣が言を左右にして馬を出さないトラブルがあったが〕
 皇太子は、何とか志を果たされ、 歌垣の衆の中に立たれ、 影媛の袖をお取りになりました。〕
 「報曰妾臨…」は、“媒人報曰「影媛奏曰『妾臨…”を簡略化したものである。 だから、「海柘榴市の巷でお待ちしとう存じます」は影媛の言葉で、太子・影媛・鮪の三者が「海柘榴市巷」の「歌場うたがき」に行ったことは明白である。
 媒人が訪れたとき影媛は取り込み中であったが、何とか海柘榴市の歌垣に行くことだけは了承させたのだろう。 媒人が太子のところに戻ったとき、とても本当のことは言えず、このように報告するしかなかったのである。
 この物語の舞台が海柘榴市になっているのは、現実に海柘榴市で歌垣が行われていたからであろう。
 また「」と書くのは万葉歌の「八十街」と同じで、方々からの街道が交わるところに市が立ち、 かつそのような場所で歌垣が行われたことを物語っている。

【摂津国風土記逸文】
 〈釈紀〉巻第十三、「歌場衆」の項目に、摂津国風土記からの引用がある。
攝津國風土記曰
雄伴郡波比具利岡
此岡西有歌垣山
男女集-登此上
歌垣
因以-爲名
摂津国(せつつのくに)風土記に曰ふ。
雄伴郡(をとものこほり)の波比具利岡(はひぐりのをか)。
此の岡の西に歌垣山有り。
男女此の上に集ひ登りて
[当]歌垣を為せるべし。
因りて名(なづ)けきと以為(おも)へり。
〔  摂津国風土記にいう。
 雄伴(おとも)郡、波比具利岡(はいぐりおか)。
 この岡の西に歌垣山がある。 男女がこの上に集い登り、 歌垣を行ったのだろう。 よって、名付けられたと思われる。 〕
 この摂津国風土記逸文を正確に読むと、推量の助動詞「べし」が入っているから、歌垣は実際に見聞したことではなく山の名前から想像したものである。 だから、「以為」も「おもふ」であろう。
 さて、雄伴郡は、八部郡の旧名である (仁徳天皇紀三十八年【菟餓野鹿】 )。 〈大日本地名辞書〉は「風土記「雄伴郡夢野」資財帳「雄伴郡宇治郷伊米野」とあるを考えれば八部〔やたべ〕の前名である事明白なり」とする。 その「宇治郷」については、〈倭名類聚抄〉に{摂津国・八田部郡・宇治郷}とある。 『続日本後記』天長十年〔833〕七月に、「○癸巳〔8日〕。天下諸國。人民姓名及郡郷山川等號。有觸諱者。皆令改易。〔天下諸国、人民姓名及び郡郷山川等の号、諱に触れば皆改易せしむ〕とあるので、このとき淳和天皇の諱「大伴」に類似する「雄伴」を改称したと見られる。
 八部郡とは別に、大阪府能勢町倉垣に「歌垣山」(553m)がある。これが筑波・杵島と並ぶ「日本三大歌垣」のひとつと呼ばれ、能勢町の手によって山上に「歌垣山公園」が整備されている。 この山について〈大日本地名辞書〉は、「倉垣:今歌垣ウタカキ村と改む、田尻村の北に接す、 摂津国風土記雄伴郡に歌垣山あれど、此に非ず」と一蹴している。 現在の能勢町は〈倭名類聚抄〉の{摂津国・能勢郡}の範囲とほぼ重なり、 能勢町の「歌垣山」が雄伴郡の歌垣山でないことは明らかである。 ただ、歌垣そのものがどの土地にでもある風習だったとすれば、その一つがここにもあったと考えることはできる。
 それでは八部郡の歌垣山はどこにあったのだろう。 それを求めた研究はなかなか見つからず、八部郡と重なる神戸市の公式ページにも取り上げられていない。

【続日本紀】
 〈続紀〉に書かれた「歌垣」は、民衆の間で行われていた歌垣を昇華して芸能化したものである。 全部で三例が載る。
《天平六年二月》
天平六年〔734〕○二月癸巳朔〔一日〕
天皇御朱雀門。覧歌垣男女二百卌余人
五品已上有風流者。皆交雑其中。
正四位下長田王。
従四位下栗栖王。門部王。
従五位下野中王等為頭。
以本末唱和。
難波曲。倭部曲。浅茅原曲。広瀬曲。八裳刺曲之音
都中士女縦観。極歓而罷。
歌垣男女等禄有差。
天皇朱雀門(すざくもむ)に御(ましま)して歌垣の男女(をとこをみな)二百(にひやく、ふたほたりあまり)四十余人(よそたりあまり)を覧(め)す。
五品(ごほむ)已上(いじやう)の風流(みやび)有る者(ひと)皆其の中(うち)に交雑(まじ)はりて、
正四位下(しやうしいのげ)長田王(ながたわう、ながたのおほきみ)、
従四位下(じゆしいのげ)栗栖(くるす)王、門部(かどべ)王、
従五位下(じゆごいのげ)野中(のなか)王等(たち)頭(かみ)と為(な)りて、
以て本末(もとすゑ)唱(うた)ひ和(あ)ひて、
難波曲(なにはぶり)、倭部曲(やまとべぶり)、浅茅原曲(あさぢはらぶり)、広瀬曲(ひろせぶり)、八裳刺曲(やつもさすぶり)之(の)音(ね)を為(な)しまつりき。 都中(みやこのうち)の士女(をとこをみな)をして縦(ほしきまにまに)観(み)令(し)めて、歓(よろこび)を極(きは)めて而(しか)くして罷(を)ふ。歌垣を奉(たてま)つりし男女等(をのこをとめたち)に賜(たま)はりし禄(もの)、差(しな)有り。
朱雀門…ここでは、平城宮の南正面の門。〈釈紀-秘訓五(孝徳)〉朱雀門【シユシヤクモン】。
五品…「已上」というから官位の「品」のことだと思われるが、〈令義解〉「官位令」によれば「四品(しほむ)」までしかない。
風流…訓は、「(万)0721 風流無三 みやびなみ」など。
…(古訓) かみ。
難波曲…「難波曲」など「~曲」の訓は、上代紀の「夷曲」が記の「夷振」(ひなぶり)に対応することから、音楽における「~曲」は「~ぶり」と訓むと思われる。 (第76回)。 〈古事記伝略〉巻五「此時阿遅志貴高日子根神」段: 「難波曲ナニハブリ倭部曲ヤマトベブリ浅茅原曲アサヂハラブリ広瀬曲ヒロセサス〔ママ〕八裳刺曲ヤツモサスブリ」。
…[名] (古訓) をのこ。おとこ。
〔 天皇は朱雀門に御座し、歌垣の男女二百四十余人をご覧になった。 五品以上の風流な人は皆その中に交わり、 正四位下長田(ながた)王、従四位下栗栖(くるす)王と門部(かどべ)王、従五位下野中王らが音頭をとり、 本から末に唱和し、難波曲(なにわぶり)・倭部曲(やまとべぶり)、浅茅原曲(あさじはらぶり)・広瀬曲(ひろせぶり)、八裳刺曲(やつもさすぶり)を歌った。 都中の男女に自由に観覧させ、歓喜を極め、こうして終えた。歌垣を披露した男女らには、それぞれに応じて禄を賜った。 〕
 「~曲(ぶり)」は、前項「杵島曲」のように、土地柄を織り込んだ座興的な歌であったと思われる。
 芸能としての歌垣では、恐らく「頭」の一人が難波曲などのメロディーに乗せて即興的に歌を詠み、その一節毎を区切って詠み手が歌い、 一節毎に衆が合唱して反復するといった形式であろうと思われる。舞踊を伴ったことも考えられ、なかなかの壮観であっただろう。
 「唱和」と「為~音」の書き分けについては、唱=人声、音=楽器の音で、管絃打による伴奏を伴ったのだろう。 肥前国風土記には、杵島山に琴を抱えて上ったと書かれている。
 「而罷」は別に書く必要はないが敢えて書いたのは、民衆行事では「その後、男女が相手を見つけて結ばれ…」となるが、 芸能ではそれがないことを示すためかも知れない。
《宝亀元年三月》
宝亀元年〔770〕三月〔甲子朔〕○辛卯〔二十八日〕。葛井。船。津。文。武生。蔵六氏男女二百卅人供奉歌垣。 葛井(ふぢゐ)、船(ふね)、津(つ)、文(ふひと)、武生(たけふ)、蔵(くら)六氏(むつのうじ)の男女二百三十人、歌垣を供奉(たてまつ)る。
 天平6年の歌垣とほぼ同じ人数である。六氏がそれぞれが唱和者を連れて集まった。 六氏のそれぞれについて、〈姓氏家系大辞典〉から搔い摘まんで示すと、
葛井(ふぢゐ)氏は、「藤井連:百済族にして、河内国藤井より起る。」。
(ふね)氏は、「船 フナ フネ:船舶を掌りしより起り」、「船史:百済族中の大族にして、かつ名族たり」。
(つ)氏は、「津連:津史(百済族船史より分かる)の連姓〔むらじのかばね〕を賜へる者にして」、 「大宝令に「東西文部」とある東は大倭〔大和〕にして、西とは河内を云ふ」。
(ふひと)氏は、「史 フビト:もと官職名にして、フビトと訓ず」。
武生(たけふ)氏は、「武生連:博士王仁の後(西文〔かふちのあや〕氏族)にして」。
(くら)氏は、「内蔵 クラ:古来単にクラと訓ずるを例とす。此の氏は、上古・三蔵の一なる内蔵の職員たりし職名より来りし」 となっている。
 文氏蔵氏は、古語拾遺によれば、阿知使主を祖とする東漢の子孫であった(資料[25]【内蔵・大蔵の名を負う氏族】)。 以上から六氏は何れも、百済系から分岐した氏族であると言える。 同系の氏族が多人数集まって芸能を見せるのは、その存在感を見せつけるデモンストレーションのように思える。
《宝亀元年四月》
宝亀元年四月〔癸巳朔〕○丁酉〔五日〕。率奉歌垣。 歌垣を率(ひきゐ)奉(まつ)る。
 回数を追って記述は簡略化されるが、大体同じ規模であろう。 天平六年の歌垣についてのみ内容が詳細に書かれているから、それが宮廷行事として初めて開催された画期的な催しであったのだろうと推察される。

まとめ
 高橋虫麻呂の筑波山の歌には、確かに「性的解放」を思わせるものがある。 このシチュエーションでは、一夜の自由な性交渉は起こり得るものであろう。 しかし、パートナーの目を気にするなと神が言ったとする部分は大胆過ぎる。 そこに、辺境を訪れた都の人が抱く偏見:「鄙は道徳的に乱れている」を見るのは考え過ぎであろうか。
 常陸国風土記を見ると、実際には折角のチャンスを生かせず相手を得られなかった嘆きも歌になっているから、 男女が親密になるなる過程そのものは常識の範囲内と見られる。 決して、酒の力を借りて本能に身を任せた無軌道な性典ではない。 やはり、歌垣・嬥歌のメインは歌を交わし合って楽しむ文化活動であるという、当たり前の結論に行き着くのである。
 歌垣・嬥歌は何れも山の上または、市で行われた。それぞれ山の神、巷の神が男女を結び付けるという意識が働いていたと思われる。
 社会的な機能としては、多数の男女が出会う機会を確保することは、子孫繁栄に繋がる。市で催す場合は「巷」であることが強調されるように、 多くの地方の人が往来するから、歌垣を催す意義は大きい。
 山上は日常的な人の往来はないが、逆に春秋の気候のよい時期に日を決めておけば、同じ日に観光を兼ねて広い地域から男女が集まる。 そのためにも交通の便のよさは欠かせない。 この観点から見ても万葉1759歌の「裳羽服津」は、各地から大量に集まってくる男女の船着き場ではないかという思いは強まるのである。
 なお、能勢郡の歌垣山が、摂津国風土記に言う歌垣山ではないことは明らかである。 これがいつ、どのようにして「日本三大歌垣」と言われるほど有名になったのか、その経緯を知りたいところであるが、 今のところ調べ切れていない。



2019.03.03(sun) [35] 五色の賤 
 律令によれば、人民には良民賤民という身分がある。
 そのうち賤民については、陵戸官戸家人公奴婢私奴婢の五種類があり、 これを一般に「五色の賤」と言う。 そう言われる根拠を調べたところ、その根拠は〈令義解〉-「戸令」条の次の記述にあることが分かった。
凡陵戸官戸家人公私奴婢皆当色為
【謂凡此五色相当為一レ婚。
則異色相娶者律無罪名
並当違令
既乖本色亦合正之。
若異色相娶所生男女則知情者自合重。
其官戸陵戸家人是三色者官戸為軽。二色為重。
亦公賤為軽私賤為重。
但陵戸家人所生者従母為定也。】
〔凡(おほよ)そ陵戸・官戸・家人・公私奴婢、皆当色に婚す。
【凡そ此の五色、相当に婚すと謂ふは、則(すなは)ち異色に相娶るは「律」に罪名無く、
並べて違令に当たれり。
既に本の色を乖(はな)れ、亦正しきに合はす。
若し異色に相娶りて生(な)りし男女、則ち情を知らば、自ら重きに従へ。
其れ、官戸・陵戸・家人、是の三色は官戸に軽きとし、二色を重きとす。
亦、公賤〔=公奴婢〕を軽きとし、私賤〔=私奴婢〕を重きとす。
但し陵戸・家人に生まれし〔子〕は、母に従ひて定む。】〕
 すべて、陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢は、同じ身分同士で結婚すること。
【「すべてこの五種類の相当に結婚する」と言うのは、すなわち異なる身分で結婚することは「律」に罪名はないが、 「令」への違反に当たり、 結婚した時点で既に元の身分から離れ、〔以下で定義する〕正しい身分となる。
 もし異なる身分で結婚して生まれた男女は、物心ついたときに両親の身分のうち、自ら重い方〔低い方の身分〕に従え。
 その軽重は、官戸・陵戸・家人は官戸と同等として軽く、公奴婢・私奴婢が重い。 また、公私の奴婢同士では、公奴婢が軽く、私奴婢が重い。
 但し、陵戸・家人から生まれた子は、母の元の身分に従うものとする。】
 【】内は、〈令義解〉の編者が養老令に割り注の形で書き足した解説。ここでは、実際の運用で用いられた規則を書き足したものと見られる。
 これを読むと、賤民の内部に上下関係があり、「陵戸=官戸=家人>公奴婢>私奴婢」であることが分かる。 そして、身分の異なる者が夫婦となり、その間に生まれた子の身分は低い方になる。 例外的に、父が公奴婢または私奴婢であっても、母が陵戸・家人の場合は、生まれた子は母と同じ身分になる。 だが、父が公奴婢または私奴婢で母が官戸の場合は、生まれた子は父と同じ身分となると読み取れる。

まとめ
 「家人」は、雄略紀九年五月条《家人》の項で考察した。 それによると、課税の対象にならない「不課」には「家人」「奴隷」が含まれる。すると、五色の賤のうち陵戸と官戸は課税されていたことになる。 また〈姓氏家系大辞典〉によると、家人と奴婢とでは「氏を有せざるゝ」ことが共通するが、「売買するを得ざる」点などは奴婢と異なるという。 このように、五色の賤は同じ賤民といってもそれぞれ細かな点に違いがあったようである。



2019.04.05(fri) [36] 新莽嘉量 

新莽嘉量
ja.wikipedia.org
 『漢書』巻二十一「律暦志」に、度量衡の「量」、即ち体積の単位について次の記述がある。
――「量者、龠、合、升、斗、斛也。所以量多少也。本起於黃鐘之龠。用度數審其容。 以子穀秬黍中者千有二百實其龠。以井水準其概。 合龠為合。十合為升。十升為斗。十斗為斛。而五量嘉矣。
 〔量は龠〔やく〕、合、升、斗、斛〔こく〕である。量の多少の故は、本は黄鐘〔音程の一つ(第14回)〕 の龠〔ふえの一種〕に起こる。度数を用いてそのさまを審らかにする。 子穀の〔実った〕秬黍〔くろきび〕を用いれば中には千二百粒の実がその龠に入り、井〔升〕の水を以って粒を均した量に準える。 2龠を合わせて1合とし、10合を1升とし、10升を1斗とし、10斗を1斛とし、このようにして五つの量嘉とする。〕
――「其法用銅。方尺而、圜其外旁有庣焉。其上為斛。其下為斗。左耳為升。右耳為合龠。〔その法は銅を用い、一辺を1尺とする正方形にして、円は其の外傍に庣〔隙間〕有り。その上が1斛となり、その下が1斗となり、左の耳が1升となり、右の耳が1合・1龠となる。〕
 「新莽嘉量(しんもうかりょう)」という計量器具が現在まで残っており、その形状は律暦志の説明によく合う(右図)。 新莽嘉量は、新の皇帝王莽が西暦9年に劉歆に命じて製作させたものという。 新は西暦8年、王莽が前漢の皇太子の孺子嬰から禅譲を受けて建てた王朝。その後23年に亡び、後漢となった。
 新莽嘉量の説明に合うものが漢書に載るということは、同じ形をした「律嘉量」が前漢の時代に存在していたことになる。 他の考え方としては、漢書が書かれたのは後漢の章帝〔75~88年〕のときだから、 度量衡については新の時代まで含めて書かれたのかも知れない。
 なお、新莽嘉量は<wikipeddia>によると4世紀頃から行方不明となり、清朝の18世紀に発見された。その後中華民国に引き継がれ、 現在は台湾の国立故宮博物院に収蔵されている。
《劉注九章算術》
 その新莽嘉量を実測して書いたと思われる文章が、『説文解字注』にある。 『説文解字注』は『説文解字』(100年成立)への注釈書。著者は段玉裁で清代の1815年に成立し、 「劉注九章算術曰:晉武庫中所作銅斛。其篆書字題斛旁云:律嘉量斛。方一尺而圜…」とある。 つまり、この文章はさらに古くから伝わる『劉注九章算術』からの引用である。
 『九章算術』は、周~漢の時代に作られた数学問題が収められているから、漢以前の書といわれる。 それに劉徽が注釈を加えた書が『劉注九章算術』で、263年の書。従って『九章算術』はそれ以前ということになる。 『説文解字注』によって引用された部分はこの『劉注九章算術』原文とほぼ同文で、以下は、『劉注九章算術』から引用したものである。
新莽嘉量は、斛、斗、升、合、龠の五種類の容積の標準器。 斗・龠には上下を逆転して用いる。
晉武庫中有漢時王莽所作銅斛。其篆書字題斛旁云:
律嘉量斛。方一尺。而圓其升庣旁九釐五毫。冪一百六十二寸。而一尺。積一千六百二十寸。容十斗。
及斛底云律嘉量斗。方尺。而圓其外庣旁九釐五毫。冪一百六十二寸。積一百六十二寸。容一斗。
〔 西晋の武庫が作った銅斛の篆書字題、斛の側面にあるにいう:
律嘉量の斛は、一辺一尺の正方形の外側に九厘五毛を足した円の面積は162平方寸。深さ一尺で体積は1620立法寸。この容積は10斗。
そして斛の底側は、律嘉量の斗。一辺一尺の正方形の外側に九厘五毛を足した円の面積は162平方寸。体積は162立法寸。容積は1斗。〕
武庫…魏・西晋の政治家、杜預(222~228)の別名。
…おさめる。あたえる。ここでは「厘」の意と思われる。
(ちょう)…くぼんだ容器。
(べき)…数学用語としては、Xの演算。2乗(自乗)、3乗…のこと。 この例のように数学用語「冪」はもともと面積を意味し、正方形の面積は一辺の2乗であることから拡張されたと見られる。
…10-1:分、10-2:厘、10-3:毛。
 この計算を追って行くと、 一辺10寸の正方形の外接円の半径は対角線の半分となり、10√÷2=7.071寸。 「其升庣旁」の「」とは、円筒の円周と、中央に置いた一辺1尺〔=10尺〕の正方形の頂点との間の隙間の寸法のことだと思われる。
 ∴内径=7.071寸+0.095寸=7.166寸。
 ∴底面積=7.166π平方寸=161.33平方寸。
 計算結果は「一百六十二〔平方〕」とは多少異なる。 その原因は円周率として、3.1415…とは異なる値が用いられたためと考えられている。 (10√÷2)寸の値の精度は、7.071寸に留まるものとし、162平方寸は四捨五入の結果と考えると、底面積S平方寸は161.5≦S<162.5の範囲である。 ここから逆算して得られる「円周率」[π]の範囲は、「3.144<[π]<3.165」となる。
 漢代の一寸と言われる2.31cmを用いて正確な円周率を用いて体積を求めると、1613.3×2.31=19886(cm)。 また、『劉注九章算術』に「」と書かれた1620立法寸を用いた場合は、19969cmとなる。 一般に1斛=20000cm〔=20000mL=20L〕と言われている。
新莽嘉量
量別\項目口径(厘米)
〔cm〕
深(厘米)
〔cm〕
容量(水)
(毫升)
〔mL〕
3.2311.286510.65
3.292.416521.125
6.4945.7795191.825
32.56452.26752012.5
32.94822.89520097.5
実測によるcm/寸
cm/寸
(口径から)※1
cm/寸
(深さから)
面積※2容積
(口径・深さから)※3
cm/寸
(容積から逆算)※4
2.27212.2675832.871888.52.3192
2.29892.2895852.61195212.3182
※1 (10/√+0.095)X=2R〔2R:直径の実測値〕
  の関係からX(cm/寸)を求める。
※2 実測値2Rによる、πRの値。
※3 (※2の値)×(深さの実測値)。
※4 3V/(π(10/√+0.095)²h)  の式によってVcmから求めた値。
  (V:容積の実測値。h:斗では1、斛では10。)
《実測値》
 新莽嘉量を実測した値があれば、漢代における1尺や1斛の値が求まることになる。
 そこで実測値を捜したところ、「中国百科網」内の「新莽嘉量」のページに見つかった(右表)。 その表の値を使って斗・斛の口径・深さから求めると一寸は2.27~2.29cm程度だが、容積から求めると1寸は約2.32cmほどで、そのずれは比較的大きい。
 計測結果は1000分の1mm単位で示されているが、内径は測定器具を差し渡す位置によって多少なりとも異なるはずだから、複数個所の測定結果が示されなければいくら数値の桁数が多くてもさほどの価値はない。
 3つの数値の矛盾をなくすひとつの方法は、真円柱ではなく楕円柱だと仮定することである。 楕円柱の体積をVとすると、V=πabhであるから、斛に於ける「口径」の位置が仮に短径ならば、長径a=16.961cm、即ち口径の最大値は33.922cmとなり、短径と0.974cmもの差が生じる。 正確に短径の箇所を求めて計ったとは考えにくいから〔それなら、長径の値も記録するであろう〕、差はさらに大きくなる。
 また、底板が水平でなかったとすれば、測る場所によって深さが異なる。仮に真円だったとして直径と容積から深さを求めると、 斛の平均の深さは20097.5cm/((32.948cm/2))π=23.572cm。22.895cmが一番浅い位置だとしても、反対側は24.249cmとなってしまい、この傾きはあり得ない。
 何れにしても一か所のみしか測らなかったのであれば、いくら小数点以下の桁数が大きくても科学的な測定とは言えない。 それでも比較的信頼できるものがあるとすれば、容積であろう。

まとめ
 何とか実測値を見つけることができたが、その数値には疑問が残る。しかし掲載されたウエブページには出典が示されていないので、これ以上の追究は不可能である。 今後、さらに実測資料が発見できればと思う。
 その後、劉復による論文「新嘉量之校量及推算」〔『考古学論叢』(東亜考古学会・東方考古学協会編;昭和3~5〔1928~1930〕)に掲載〕が見つかった。 同論文に掲載された値は、本ページの表「新莽嘉量」の値〔「中国百科網」から検索して見つかったウェブページに掲載されていたデータ〕と、完全に等しかった。 したがって、は、劉復による論文を出典を示さずに利用したものと見られる。 (2020年8月16日に記す)
 なお、新莽嘉量には篆書体による銘文があり「嘉量銘」と呼ばれるが、内容にそれほどの重要性はない。 『劉注九章算術』に「所作銅斛其篆書字題斛旁云」とあるのは、「律嘉量斛方一尺而圓…」が その〈律嘉量〉の側面に篆書で刻まれていると確かに読めるのだが、同じ文章は「嘉量銘」の中にはない。 従って、『劉注九章算術』の筆者が見た〈律嘉量〉は、新莽嘉量とほぼ同じ形だが別物なのであろう。