古事記をそのまま読む―資料3 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2017.09.25(mon) [22] 蛟龍 ▼▲ |
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仁徳天皇紀六十七年条には、川の水に住む「虬」という怪物が登場し、「みつち」と訓まれている。
倭の「みつち」には、「蛟」または「蛟龍」(こうりゅう)が対応するとされる。
【「龍の幼生」説】 蛟は、中国の伝説では水中に住み、龍になって天に上る直前の姿とされる。 <wikipedia>にも「姿が変態する竜種の幼生」とある。 龍には七種あり、上位から龍⇒蛟⇒虹・蜺⇒應(蜃)⇒虬(虯)⇒螭⇒蟠と格付けられるという。 しかし、その出典はなかなか見つからない。 辛うじて康熙字典〔清;1710~1716〕の〈龍部〉に、
同じ『広雅』のさらに古い引用としては、藝文類聚〔唐;624〕巻九十六〈龍〉に
広雅にはない虹蜺は、虹(にじ)のことで内側にできる主虹を"虹"、外側にできる副虹を"蜺"(ゲイ)と言い、 それぞれを雄の龍、雌の龍に見立てたものである。『広雅』が列挙する6種の龍とは、語の由来が異なる。 「七種の竜」とは『広雅』の五種に虹蜺を挿入し、最上位に龍を置いた上で、 節足動物や両生類の幼生の変態に準える考え方で、 比較的新しいものではないかと思われる。 古い文献では、「蛟竜」に龍の幼生の生育段階としての位置づけはなく、蛟竜自体についての説明に限られている(次項)。 【虬と蛟】 〈倭名類聚抄〉には、「虬龍」および「蛟」の項目がある。
そのうち『説文解字』〔後漢;100~200年〕巻十四に、倭名類聚抄引用が引用した一節がある。 また『大戴禮記』〔後漢100~200年〕〈易本命〉にも関連する記述がある。
ただし、ここで「虬を」と言ってしまうと、書紀の用字誤りをあからさまに指摘することになるから、 遠慮して「大虬の二字を」にしたと見られる。 【みつち】 「みつち」は、「み甲〔水〕+つ〔="の"〕+ち〔霊〕」とする説と、 「み乙〔巳〕+つ〔="の"〕+ち〔霊〕」とする説がある。 万葉集は、「(万)3833青淵尓 鮫龍取将来 あをふちに みつちとりこむ」の一例のみで、これだけでは甲乙不明である。 倭名類聚抄では「美」であるが、既に甲乙の区別が失われた時代の表記である。 〈時代別上代〉は「水=ツ=霊と解する説もあるが、民間語源的解釈〔あれこれ言われる俗説のひとつ〕で、おそらく無理であろう」とする。 とは言え、仮に語源が「蛇」だったとしても、万葉歌ではミツチが住むのは「淵」で、魚編の「鮫」が用いられているからミツチは間違いなく水中の怪物で、そこに含まれる「み」の音からは、確実に水が連想されたであろう。 先に述べたように、蛟竜が龍の幼生だとする考えは後世のものなので、書紀が書かれた時代においては全く考慮する必要はない。 〈魏志倭人伝〉では、「夏后少康之子…断髪文身以避二蛟龍之害一」とあるから、 蛟龍は魚の長であるが、人に危害を与える怪物でもある。 その点では、仁徳天皇紀で人に毒気を負わせる「みつち」と同等と見てよい。 更には、中国から渡来した人によって倭に持ち込まれた蛟竜が、「みつち」の元になったという考えさえ可能である。 まとめ 「夏后少康之子」の文を見ると、蛟龍とは鮫のことではないかとも思えるが、 山海経以来、蛟竜には足があって龍の範疇に入れられているので、一応鮫とは区別すべきだと思われる。 虬龍の定義は「角がある」ことなので、蛟竜でも角が生えていれば、同時に虬龍と言ってもよいことになる。 従って、〈倭名類聚抄〉ほど潔癖に、虬と蛟を峻別する必要はないのかも知れない。 |
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2017.10.01(sun) [23] 木が作る長い影 ▼▲ |
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そこで、ここでは高い木はどこまで影を達し得るかを考察する。
夕日を背に受けたとき、自分の影が随分長く伸びるのは誰しもが経験することである。 もし、地表面が仮に平面であったとすれば、地平線に太陽が沈む瞬間には影の長さは無限大になる。 しかし、地球は球面であるから、影の長さが無限大になることはない。それでは、影はどこまで伸びるのだろうか。 まず、地球は完全な球体で、凹凸はないとしたモデルで考える。そのとき、影は球面上の弧となる。 昼間は一般的に、右図のⅠである。 太陽の高度が0°に近づくと影はだんだんと長くなっていき、 その先端は地球の太陽の光が届かない側〔=夜の世界〕との境界Pに達する(Ⅱの位置)。 それより太陽の高度が低くなると、木の先端の影は宇宙空間に伸びるが、 また地球の夜の半球は光が届かないから、地上には木の末の部分の影自体が存在しなくなる(Ⅲの位置)。 従って、影の最大長はⅡ、すなわち木の先端の影が図のP〔その時に日没となる地点〕 に達したときである。 【木の高さと最大影長との関係】
r+h=rsec α αを求める式は、 α=sec-1(1+h/r) 〔エクセルを用いる場合は逆sec関数がないので、α=ACOS(1/(1+h/r))に変形する。〕 また、影は球面上の弧となる。その長さをsとすると、 s=αr 〔単位ラジアン。「度」を用いる場合は、s=(π/180)αr〕 αはまた、木の立っている地点Wにおける太陽高度と等しい。 また、太陽光が面に垂直に当たるときの照度をQとすると、太陽高度αのときの地点Wの地面の照度cは、 c=Qsinα 【値の計算と評価】 地球の半径をr=6366km、水平面への直射日光の照度Q=133700lx(ルクス)として、 木の高さを10mから100mまで10m刻みで計算した結果が、上の表である。 それによると、高さ10mの木でも、最長11kmの影を作り得ることになる。 そのときの太陽高度は0.10°で、日没まで紙一重である。それでも地面への照度は240 lxある。 月の光が0.2 lxとされるので、木に近い部分の影は十分に見えるはずである。 しかし、実際には影の先端に近づくほど照度は小さくなり、 また観測者が影を遠くまで見ようとするほど、分厚い大気が分散光を放って邪魔をするので、 どのあたりまで影が見えるかは、実際に見てみないと分からない。 【高安山を越ゆ】
高安山の標高は488mである。それでは、木の影が高安山を越えるためには木の高さは何m必要だろうか。 ひとまず、高い木の位置が式内等乃伎(とのぎ)神社だとすると、高安山までの直線距離は19.7kmである。 19.7kmの弧に対応する中心角は0.00309(ラジアン)である。また、R=6366km+0.488kmなので、山の高さは無に等しい。 hを求める公式は、やはり「R+h=Rsecα」で表され、 この場合のhの意味は、(木の高さ-山の高さ)である。計算結果は、「h=31.7m」である。 よって、木の高さは488m+31.7m≒520m以上となる。 まとめ 世界の巨木を検索すると、現存する世界最大の木はアメリカ合衆国レッドウッド国立州立公園のセコイア「ヒュペリオン」で、 高さ115mである。従って「520m以上」の木は、神話の中のものである。 このように全く架空の話かも知れないが、一定の史実があり東西に長い影を伸ばしたことが、伝説では誇張されたとも考えられる。 |
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2017.11.17(fri) [24] 職員令をそのまま読む ▼▲ |
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大宝律令〔701年〕は、日本初の律令(体系的な法律書)とされる。
しかし、それを改定したとされる養老律令〔757年施行〕とともに、現物は散逸して残っていない。
しかし、「令」の部分については、『令義解』(りょうのぎげ)〔833年〕のほとんどの部分が現存している。 これは、令の本文に割注の形で解釈を書き加えた解説書である。 これによって、大宝令、あるいは養老令の概略を知ることができる。 養老律令は、720年までの期間に大宝律令から撰修(改正)されたものとされる。 令のうち「職員令」(しきいんりょう)は、官僚組織の構成と人員を具体的に述べている。 職員令は、神祇官(じんぎかん)、太政官(だじょうかん)、八省及び各省の下部組織である職・寮・司、省外の諸組織、国・郡・軍団の順番にまとめられている。 ここでは、見通しをよくするために細部を省略し、骨子のみを抜き出す。 【神祇官・太政官】 神祇官と太政官のそれぞれを構成する職名と員数、一部の職については職務内容が書かれている。ここでは、職務内容を一部省略(「…」表記)する。
神祇官は、四等官制による。四等官制とは各組織に共通する形態で、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(まつりごとひと)・佑官(さかん)からなる。 それらの訓みをもつ漢字表記は、組織ごとに独自で、神祇官の場合は伯・副・祐・史である。 太政官のうち「大臣」(おほいまうちきみ)は、「おほ[き]まへつきみ」(大前つ君)が平安時代までに訛ったものと考えられる。 それに「おほまつりごと」がつくと「太政大臣」になる。 大・少は、「おほい」「すない」(それぞれ「おほき」「すなき」のイ音便)と訓まれている。 神祇官・太政官は同格だが、太政官が現実政治における多様性を反映して複雑化しているのに対して、 神祇官の組織は比較的小さく、省並みである。 太政官の下に、さらに八省が置かれる。直接の指揮命令系統は、左大弁・右大弁が、省を四つずつ管轄している。 掌・管は、ともに「つかさどる」と訓むが、「掌」は職務内容、「管」は従属する組織名を表す動詞として使い分けられている。 『国史大系』(経済雑誌社版)の送り仮名を見ると、「掌」を「つかさどる」、「管」を「すぶ」(下二段)に訓みわけている。 「すぶ」はもともと「束ねる」という意味で、「統ぶ」とも書く。 【省】 八つの省は、それぞれ付属官署として職・寮・司を備えている。それぞれの人員構成は膨大なのでここではすべて省略し、組織だけを抜き出しそれぞれの訓を示す。
他にも〈倭名類聚抄〉に挙げられた名と職員令との間に不一致があることから、 大宝令が発布されたのちに、機構改革が重ねられていたことが分かる。諸陵寮は、そのひとつの例であろう。 〈倭名類聚抄〉の引用元のひとつ「本朝式職員令」による名は職員令にはないので、職員令よりも後になってから改めて発布されたものであることがわかる。 「本朝」は日本のことを指すから、「本朝式」は唐の令を日本に合わせ、改正または補充したという性格を表すものである。 「司」については、〈倭名類聚抄〉における記載は少なくなっている。載らないものには「采女」のようにごく一般的だから載せるまでもない語と、 はじめから音読みであったものがあると思われる。 なお、「ふねのつかさ」(主船司)などはありそうな訓みではあるが、 〈時代別上代〉に載らないということは上代の文献に見つかった訓みではなく、よって後世における俗な訓であり、本当は上代には別の訓みがあった可能性は残る。 「うねめのつかさ(采女司)」など訓読みであることが確実なものを除き、奈良時代に既に音読みが併用されていたのは確実なので、不明なものは音読みを用いるのが安全である。 【省外】 省に所属しない官署は、台が1所、職が3所、府が6所、寮が2所、司が3所、庫が1所である。
〈倭名類聚抄〉の「鎮守府」に訓がないのは、最初から音読みだったからと思われる。 平安時代の表記に倣えば、「ちむしゆふ」あるいは「ちむしゆのつかさ」か。 摂津職は、養老令施行のときには存在したが、『令義解』が書かれた時にはもう存在しない。 にも拘わらず、『令義解』には摂津職の人員構成が載り、その中の語句「祠社」について、祠・社の区別に関する用語解説まで載せる。 【国・郡】 職員令には、また国・郡と、軍団の組織が収められている。
【養老令】 養老律令の成立の過程を見る。 続紀「天平宝字元年〔757〕五月戊申朔丁卯〔二十日〕」に、 「去養老年中。朕外祖故太政大臣。奉レ勅刊二-脩律令一。宜告二所司一早使二施行一。」 〔去(い)にし養老年中、朕(わが)外祖、故太政大臣、勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて律令を刊(けづ)り脩(をさ)む。 宜(よろ)しく所司に告げて早(すみやかに)施行せしむべし〕 とある。 時に、孝謙朝〔在位749~758〕、 天皇の母の光明皇后は藤原不比等の女で、後述するように、不比等は太政大臣を追贈されたから、 「朕外祖〔母方の祖〕故太政大臣」とは不比等のことである。 なお「所司」は、この時代においては「担当官」という程度の意味である。 不比等は大宝律令の撰定に尽力し、さらに養老律令に向けて改定作業を続けていた。 ところが、 〈続紀〉養老四年〔720〕八月辛巳朔癸未〔三日〕: 「是日。右大臣正二位藤原朝臣不比等薨。帝深悼惜焉。」〔藤原不比等薨ず〕となり、 十月庚辰朔壬寅〔二十三日〕:「贈二太政大臣正一位一。」 〔不比等は「太政大臣正一位」を追贈された〕。 この経緯から見て、不比等は生前に養老律令を献上することはできず、未完〔完成間近?〕のまま757年まで放置されていたと思われる。 前述の「諸陵寮」などで見たように、大宝律令は757年までに既に事実上の改定があったものの養老令には反映されず、 720年時点の内容のままで757年に施行されたことになる。 さらに『令義解』は833年だが、これも720年に凍結した『令』から作成されたことになる。 まとめ 「鋳銭司」発足は大宝令発表直前だから間に合わないとしても、養老令には反映することが可能である。 また「諸陵寮」への昇格、および鎮守府は養老令施行までに余裕があるから、直すことは可能である。 しかし職員令の内容を見ると、大宝年代の状態のままで固定されている。 これを見る限り、一度令を確定させるとその語句の改定は容易ではなかったと思われる。 恐らく、律令の改定は執筆者の権威を損なうという感覚があり、人の世界における秩序が絡む大仕事にならざるを得なかったのであろう。 藤原不比等が薨じた後、誰も律令の改定作業を引き継がなかったのは、恐れ多くて手を出せなかったためと思われる。 一方『令義解』においては、既に存在しない摂津職には「延暦十三年廃之」などと書き添えることは可能であったのに書かれず、 逆にあたかも組織が現存しているかの如くに注釈がなされる。 だから、令義解は令の運用を容易にするための実用書というよりは、学問的な「古文書研究」ともいうべき性格のものになっている。 その一方で、運用上は令の事実上の改定を躊躇なく重ねているから、文書としての『律令』自体は発布後間もなく化石化したと言える。 |
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2017.11.26(sun) [25] 古語拾遺の「三蔵」とは ▼▲ |
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履中天皇紀六年の「蔵職」について、「履中朝に内蔵、雄略朝に大蔵を立てた」という解説を見る。
ところが、雄略天皇紀に大蔵を立てた記述はない。調べていくと、これは古語拾遺に依るものであることがわかった。
『古語拾遺』は斎部広成が著した書(全一巻)で、「大同二年〔807〕二月十三日」の日付がある。 その原文から内蔵・大蔵に関する部分を原文から抜き出し、履中天皇紀への解説の妥当性を検証する。 【斎蔵】
当時はまだ天皇と神は遠くなく、斎蔵(いみくら)を建てて神の宝と帝の宝を共に納めた。 《忌部》 忌部の祖、太玉命は「天兒屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命、并五伴緖矣支加而天降也。」、 すなわち天孫と共に地上に降りた (第49回)。 忌部について、 〈姓氏家系大辞典〉は 「忌部氏は其のカバネ・首に過ぎざりしも、財政権の一部を握りしが為に、 秦漢両氏と同様、実際上の勢力が甚だ大なりし事は之を認めざるべからず。 しかるに中古に入り諸種の制度改まり、且つ中臣氏の勢復興して、 神祇界に於ける勢力を握りしより、斎部廣成は憤慨して古語拾遺を顕せしものと愚考す。」 と述べるが、「財政権の一部を握る」とは、斎蔵を管理した故事拾遺を根拠にして述べたものである。 同辞典は、忌部の記述の多くを故事拾遺に拠っている。 令には、 「凡践祚之日。中臣奏二天神之壽詞一。忌部上二璽之鏡劒一。」とあり、 践祚〔天皇即位〕において中臣が祝詞、忌部が神器を担当することになっている。 《璽》 『令義解』は、璽之鏡劒を「謂レ璽信也。猶レ云二神明之徴信一。此即以一鏡劒一稱レ璽。」 〔璽と謂ふは信なり。神明の徴信と云ふが猶(ごと)し。此れ即ち鏡剣を以て璽と称(とな)ふ。〕と解説する。 つまり、「璽」は"徴"(しるし)を意味し、「鏡剣」が天位の徴であるという。 《斎蔵》 「斎蔵」は記紀には見えない。〈倭名類聚抄〉にも載らず、〈時代別上代〉はこの語の存在を無視している。 『古語拾遺』以外の文献に「斎蔵」はないかと思って探したところ、 『先代旧辞本紀』第八巻天皇本紀の神武天皇に、ほぼ同文 「帝與神其際未遠。同殿共床。以此為恒。故神物官物亦未分別矣。復宮內立藏。號曰齋藏。令齋部氏永任其職矣。」があった。 ただ、この段の上には「下段據二古語拾遺之文一」〔下段は古語拾遺の文による〕という注記がある。 他の個所に付けられた注記には「按〔案ずるに〕古語拾遺之文」とあるので、注記は後世の研究者の手によるものである。 注記した人は天皇本紀が古語拾遺を引用したものと判断しているが、逆もあり得る。 何れにしてもこの部分は一方が他方の写しであるから、これをもって「他の文献にも"斎蔵"があった」とは言い難い。 とことん検索したが、今のところはこれ以外の出典は見つからない。 それでも一般には定着してと見られ、中には「斎蔵は入試問題に出しやすいから要注意」と述べるサイトまであった。 祭礼用品や宝物を入れる蔵を、忌部が実際に「斎蔵」と呼んでいた可能性はある。しかし、 記〔712年〕、書紀〔720年〕になく、平安時代の809年になって突然登場した語だから、古語拾遺による造語という疑いは消せない。 なお、少なくともその創始に関しては、神武朝ということだから完全に神話である。 【内蔵・大蔵】
《足可褒賞》 「足可褒賞」は、「可足褒賞」と書くのが正しいように思われるが、何れにしてもこれだけでは意味不明である。 しかし、〈新撰姓氏録〉「秦忌寸」には「率百廿七県伯姓帰化 并献金銀玉帛種々宝物等 天皇嘉之」とあるから、 多くの民を連れてやって来て種々の宝物を献上したことを、歓迎したという意味であろう。 ただし、彼らはこのときはまだ自ら持ってきた神を祭ることを専らとし、倭国の神に幣帛を納める風習には馴染んでいないという。 《履中天皇》
これまで斎蔵に神の物と司の物が混在していたのをこの際分離し、新しく内蔵を建てて司の物専用にしたと述べている。 阿知使主については、履中天皇段に「阿知直始任二蔵官一」とある (第180回)。 一方王仁を祖とする内蔵は、後述するように〈新撰姓氏録〉にはないが、〈姓氏家系大辞典〉は「内蔵首」を挙げる。 《雄略天皇》
「纏祭神剣首」は、「神に拝礼するとき、帯びている剣の束の部分に被せる(袋状の布)」 以外に読みようがない。ただ、「剣首」という語は、種々の漢和辞典や汉典にもない。また、祭礼のときにこのような布を剣に被せる習慣があったかどうかも不明である。 《雄略天皇紀十五年条》 ここに書いてあることは、〈雄略天皇紀〉十五年条の 「 秦民、分二-散臣連等一、各隨欲(ほしきまにまに)二駈使一、勿レ委二秦造一。 由レ是秦造ノ酒、甚以二-爲憂一而仕二於天皇一。 天皇愛寵之、詔聚二秦民一、賜二於秦酒公ニ公ヲ一。仍領二-率百八十種勝一、奉二-獻庸調絹縑一、 充二-積朝庭二、因賜二姓一曰二禹豆麻佐一」 とほぼ同じである。 なお、ここでは雄略天皇紀の「百八十種勝」の次に「部」が補われていることが注目される (第152回)。 《斎蔵・内蔵・大蔵》
書紀は〈雄略天皇紀〉十五年条で秦酒が秦の公(きみ)を賜り、 姓氏録(秦忌寸)ではさらに長谷朝倉宮に大蔵を建て、酒を大蔵のつかさの長官に任じたとする。 《三蔵検校》 蘇賀満智宿祢による三蔵検校は、古語拾遺の特徴的な記述として一般によく取り上げられている。 史実としては疑問があるが、曽我氏が財政を握ったことを表すのではないかとも言われる。 【秦酒公】 秦の酒公は、雄略天皇に願い出て、諸国に分散していた秦氏を再結集した。 秦氏は養蚕業を営み、織りあげた絹を朝庭に積み上げてうずめたので、「うずまさ(太秦)」の名を賜わった。 そして、 「役二諸秦氏一搆二八丈大蔵於宮側一納二其貢物一。故名二其地一曰二長谷朝倉宮一。 是時始置二大蔵官員一。以酒為二長官一」 (第152回)。 こうして大蔵官員が創設され、酒が長官に任ぜられたのだが、姓氏録は秦忌寸自身に伝わる由来を納めたと思われるから、酒公は当然偉大化される。 恐らく漢の氏も同様にアピールしたと思われるから、古語拾遺は諸氏の主張を横並びにして考えた結果、 漠然と「秦漢二氏は内蔵大蔵の鍵の司となった」と表現することになったと思われる。 《大蔵秦》 〈新撰姓氏録〉で、「大蔵」がつく氏族名を見えると、 〖漢/秦忌寸/太秦公宿祢同祖/融通王四世孫大蔵秦公志勝之後也〗に、 「大蔵秦公」がある。「秦公志勝」は「秦公酒」の何代目かの子孫ではないかと思われる。「大蔵」は称号であるが、一種の姓と言えないことはない。 〈姓氏家系大辞典〉は「大蔵直」について、河内の文〔あや〕氏説は確かとは言えず、「大和の漢〔あや〕氏」であるとする。 「大蔵秦」については、酒公の子孫が「秦酒公(大蔵長官)…大蔵秦公志勝…秦大津父(大蔵卿)…秦大蔵造…秦大蔵連」のように繋がるだろうと見ている。 【内蔵・大蔵の名を負う氏族】 〈新撰姓氏録〉に「内蔵」があるが、古語拾遺が言う「姓(かばね)」ではなく氏(うじ)である。 「諸蕃」のひとつに、 〖漢/内蔵宿祢/坂上大宿祢同祖/都賀直四世孫東人直之後也〗がある。その坂上大宿祢については、 〖漢/坂上大宿祢/出三自二後漢霊帝-男-延王一也〗と書かれている。 《坂上大宿祢》 、 この坂上大宿祢は、〈続日本紀〉延暦四年〔785〕六月甲子朔癸酉〔十日〕条によると、 「右衞士督從三位兼下総守坂上大忌寸苅田麻呂等上表言。臣等本是後漢霊帝之曾孫阿智王之後也。」 〔坂上苅田麻呂らは上表した。いわく「私共は後漢霊帝之曽孫阿智王の子孫である…」〕、 そして帰化して倭国(大和国)の漢人(あやびと)となった経過を述べ、姓を忌寸から宿祢に昇らして欲しいと申し出た。 その結果、 「輙〔すなはち〕奉レ表以聞。詔許レ之。坂上。内蔵。平田。大蔵。文。調。文部。谷。民。佐太。山口等忌寸十一姓十六人賜二姓宿禰一。」 〔坂上・内蔵・平田・大蔵・文・調・文部・谷・民・佐太・山口の姓が忌寸から宿祢になった〕。 〈新撰姓氏録〉には、坂上大宿祢と同祖、かつ都賀直の子孫として、 檜原宿祢・内蔵宿祢・山口宿祢・平田宿祢・佐太宿祢・谷宿祢・畝火宿祢・桜井宿祢・文忌寸があり、 いくつかが続日本紀と重なる。 《文宿祢》 〈新撰姓氏録〉では、坂上大宿祢系の文忌寸はなぜか忌寸のままで、別項に文宿祢がある。 ところが姓氏録・続紀では、文宿祢は王仁系で、坂上大宿祢の上表「阿智王の後」には合わない。 ここで少し寄り道して、文宿祢を見ると、
東漢の文忌寸と西漢の文宿祢の問題は興味深いが、その検討は別の機会に譲る。 《内蔵宿祢・大蔵宿祢》 ここで寄り道から戻る。よって阿知使主を祖とする東漢に、内蔵宿祢・大蔵宿祢が含まれるのは確実である。 【西漢の内蔵】 〈姓氏家系大辞典〉によれば、内蔵は「ウチクラなれど、古来単にクラと訓ずるを例とす」。 そのうち、「内蔵首」は内蔵宿祢とは別族で、「西文氏〔河内の文(あや)氏〕の族にて、王仁の後裔」とする。 一時姿を消すが、中古〔平安時代〕に再び見え、忌寸→宿祢→朝臣姓となったという。 【古語拾遺への評価】 「大蔵省」と「内蔵寮」は、あくまでも人の組織であることに留意したい。 令〔令義解による解釈ではなく、その原文〕において内蔵寮は、大蔵省から中務省に割り当てられた財についての業務を行う、従属的な部署として位置づけられている。 おそらく「蔵」に関する業務が増大したから、新たに全体を取り仕切る組織「大蔵のつかさ」を発足させ、 その下で限られた範囲のの業務を担う組織を「内蔵のつかさ」と呼ぶようになったのであろう。 ただし、大蔵のつかさが財物を保管する蔵が「大蔵」と呼ばれ、内蔵のつかさが財物を保管する蔵が「内蔵」と呼ばれたことは考えられる。 それにしても、大蔵ができる前に蔵が「内蔵」と呼ばれたとは考えにくく、その名は単に「蔵」で、 大蔵ができたからこそ、区別するために「内蔵」となったのである。 最初に内蔵ができたという話は、「内蔵」を頭の中で遡らせたものであろう。 古語拾遺は、令に書かれた人の組織「大蔵省」と「内蔵寮」を、ものとしての格納庫「大蔵・内蔵」に置き換えた俗論で、 さらに斎蔵を加えて「三蔵の体裁を整えた」と見られる。 はじめに書いたように、「斎蔵」の実在性からして疑念が残る。 そして「最初に内蔵があった」不条理をものともせず、書紀や姓氏録から〔ことによると天皇本紀からも〕様々な内容を引っ張ってきて再構成したものと考えられる。 さて、蘇我氏・秦・西漢・東漢は、すべて祖が内蔵・大蔵を差配したとする由来譚を持っていたと思われる。国家の蔵を預かるほどの権力があったと、どの氏族も自慢したのであろう。 その現実に合わせて、 蘇賀満智宿祢・阿知使主・博士王仁・秦公酒がすべて蔵の管理に関わったことにして、適当に役割を分担させたが、見るからに拡散し過ぎている。 これは独自の確たる神話に基づいて書かれたものではないことの、一つの現れではないだろうか。 以上の考察から、古語拾遺は二次資料として捉えるべきものと考える。 まとめ 履中天皇段では「藏官」、履中天皇紀では「藏職」であって、この時期に「内藏」が出てこないことを重視したい。 「蔵」そのものは時代と共に拡大・複雑化したと思われ、そのある段階で「大蔵」を起こし、その時期は姓氏録の通り長谷朝倉朝〔雄略天皇〕かも知れない。 「内蔵」の名称は、大蔵ができた時に組織が階層化してできたものと思われる。 すると氏「内蔵」は、「内蔵」の呼称が始まってから奉職した一族のものであろうか。 ただ、もともと「蔵」「椋」「倉」「久良」などと書かれていたものが、訓は「くら」のまま表記のみ「内蔵」に変わった可能性もあるから、一概には言い切れない。 807年の『古語拾遺』は、701年の大宝令の現実性や720年の書紀の原資料探求精神〔その上で歪めた箇所も多数あるが〕を失った、情緒的な書であるように思われる。 そんな古語拾遺を拠り所にして「内蔵は履中朝に創始され、大蔵は雄略朝に創始された」とする、 履中天皇六年条への解説を受け入れることは到底できない。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2017.12.29(fri) [26] 県主と国造 ▼▲ |
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記の成務天皇段の「定賜二大國小國之國造一。亦定二賜國々之堺及大縣小縣之縣主一」
からは、国造は律令国レベル、県主は律令郡レベルを想定していると読みとれる。
記の県主は、高市縣主・師木縣主(志幾之大縣主)・十市縣主・旦波之大縣主が載る。 また、書紀には 猛田縣主・磯城縣主・春日縣主・ 十市縣主・水沼縣主・岡縣主・ 伊覩縣主・沙麼縣主・筑紫嶺縣主・ 茅渟縣主・河內三野縣主・壹伎縣主が載る。 一方、国造については一例を上げると、記上巻に、 「建比良鳥命此出雲國造、无邪志國造、上菟上國造、下菟上國造、伊自牟國造、津嶋縣直、遠江國造等之祖也」 とある。このうち出雲・无邪志〔武蔵〕・遠江は律令国レベルであるが、上菟上國造と伊自牟國造は上総国内の、下菟上國造は下総国内の郡レベルである。 なお、対馬島のみ国造ではなく「県直(あがたのあたひ)」に格落ちしているところが興味深い。 また〈国造本紀〉では、上総国一国に須惠國造・馬來田國造・ 上海上國造・伊甚國造・武社國造・ 菊麻國造がある。このように、東国では細分化が目立ち、畿内の県主のレベルに相当する。 この地域差は注目に値する。そこで律令国68か国について、諸文献に現れる「県主」、国造本紀に載る「国造」の数を集計する。 県主の個数については、『天璽瑞宝』-県・県主一覧、<wikipedia>『県主の一覧』を資料に用いた。 国造の数は、〈国造本紀〉による。 【県主・国造の個数の比較】
またそれらの個数から見て、畿内の県主・東国の国造の規模は、何れも概ね律令郡のレベルではないかと思われる。 【解釈】 大和政権は大和国付近が発祥で、次第に周辺に勢力を広げたと考えられる。 景行天皇段・紀の日本武尊伝説は、畿内→西国→東国の順に服属したとする歴史観に従っている。 この順番が史実を反映したものだとすれば、律令郡レベルの行政区画は、初期は「県」(あがた)で、その統率者として「県主」(あがたぬし)を承認し、 後に服属した地域については「国」で、統率者を「国造」(くにのみやつこ)と呼んだと見られる。 その後、律令国の前身としての「国」のレベルにも「国造」が転用されるようになったたことが、記紀の「出雲国」などにも反映したと考えられる。 【県主⇒国造(郡レベル)⇒国造(国レベル)】 それでは、県主から国造への名称の切り替えは、何によって起ったのであろうか。 ひとつの可能性としては、古墳時代における漢字の流入が考えられる。 「国」の発音は、中古音(隋・唐)までは[kuək]で、それを受けて呉音・漢音は「コク」である。 漢字は、それより古い古墳時代のうちに既に入っていて、「国」が、訛ってクニとなって倭語に定着したことが考えられる (「郡[gɪuɘn]⇒クニ」説もある)。 それによって従来の「あがた」に代わって「くに」が使われるようになり、東国進出はその後ではないだろうか。 九州北部の筑紫国・肥の国には「県主」「国造」が共に多く、ちょうどこの地域の大和政権の進出は、その過渡期にあたったとする想像も可能である。 東国では国造は律令郡につながっていくが、西国では新たに律令国レベルの「国」に国造が定められたようである。 まとめ 倭政権のある時期における勢力圏は、東は尾張、西は吉備までであったと考えられる。 〈倭名類聚抄〉の備前国邑久郡にも「尾張郷」があり、東西の「尾張」には勢力圏の果てを思わせるものがある。 また、美濃国の「比奈守神社」については<wikipedia>にも「大和朝廷の最前線の守りの場所」〔夷守〕という説が載り、 ここが古代の夷守跡だと考えるのは決して本サイトの独自説ではない。 さらに草彅の剣も東国に睨みを効かせるために、熱田神宮に置かれた。 この夷守・尾張を境界とする範囲と「県主圏」が一致するのは決して偶然ではないように思える。 筑紫地方の県主圏には、また独自の勢力があったようにも思われる。この地域は漢代には倭国の先進地域であったと見られる。 日向国は、西都原古墳群(宮崎県西都市)・志布志湾の古墳群に見られるように、初期の大和政権の植民地であったと本サイトでは考えている。 その最前線にもまた、夷守の地名が残る(宮崎県小林市)。 |
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2018.04.09(mon) [27] 稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣 ▼▲ |
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稲荷山古墳から出土した鉄剣から、金象嵌された文字が発見された。
そこに記された115文字について検討する。
【稲荷山古墳】 埼玉県行田市埼玉に、崎玉古墳群がある。稲荷山古墳はそのうち二番目の大きさで、墳丘長120m、高さ10.7mである。 古墳群全体が「さきたま古墳公園」として整備され、 隣接する「埼玉県立さきたま史跡の博物館」に金錯銘鉄剣などを展示している。
【鉄剣】 『鉄剣銘一一五文字の謎に迫る―埼玉古墳群』(新泉社、2005)によれば、1978年7月27日、 稲荷山古墳出土鉄剣のサビ除去のために、「ブラシで土を落としていると、サビの中に金色に輝く光が見えた。」 そして9月11日、レントゲン撮影を行い、「現像すると文字が写し出された。」という。 鉄剣の年代については、稲荷古墳から出土した須恵器が 「TK23形式ないしTK47形式の特徴を示」し、 「六世紀初頭に噴火したと考えられている群馬県榛名山二ツ岳の火山灰」層より 「下層で出土していることから、少なくても六世紀初頭を下ることはなく」 「こうした点からも、辛亥年を四七一年とする説は支持できる」と述べる。 【文字】 文字はかなり明瞭である。既に通説はあるが、ここでは改めて一文字ずつを見る。 2…亥とは書体が異なるが、十二支の中でなべぶた(亠)があるのは、「亥」のみなので、その異体字であろう。 9…獲は、漢音=「かく」、呉音(概ね隋以前)=「わく」とされる。 10…「獲居」は四人の名前に含まれるので、姓かも知れない。 「居」は、万葉・書紀で「こ」と発音するが、もし「け」ならば「わけ」となる。 11…「乎獲居」は大王を補佐したから、「臣」であろう。 12…この時代、既に「おほ(大、多)」を「意冨」で表していた。 18…垝は漢音・呉音とも「クヰ」だが、「こ」だとすると「大彦」となる。 24…姓「足尼(宿祢)」は、この時代から存在していた。 41…万葉では「し」。兄弟を列挙するとき「次」(つぎ)を挟むことがある。 62…差のエがヒとなった書体。「左=㔫」の類であろう。 63…「按」にも見えるが、「女」の横棒が見えないからやはり「披」か。 68…不明瞭だが、8の「乎獲居」と同一人物であろうから、「乎」。 73…この同音記号は不明瞭だが、「世」と「為」の間隔は広い。また「世々」は「代々」と同じだから同音記号とする妥当性はある。 74…好太王碑の「為」とよく似ている。 80…事の異体字「亊」と見られるが、下が「木」になっている。 83…102の「令」と似るが、今の旧書体(𠆢の下のラがテ)と見るのが妥当。 「令二獲加多支鹵大王一」の構文(大王を非命令者とした使役文)はあり得ない。また「至レ今」は自然な言い回しである。 87…支は万葉では「キ甲」。魏略の「一支国」も「イキ(壱岐)」と解釈されている。
110…不明瞭だが97の「吾」を少し横に広げると、主なラインが一致する。 113…通説では「根源」と読まれている。 114…がんだれ(厂)の左のラインが見えないのが気になるが、異体字か。 他の候補としては、「渞」。これも「みなもと」の意味である。 【訓読】 銘文は中国人が作成したもので倭人にはまったく読めなかったから、訓読自体が無意味であるという考えもあり得る。 しかし、人物名は音仮名によると見られ、 「臣」「意富」「足尼」「大王」「奉-」の語句は記紀などと共通なので、 倭語を漢字表記したものと考えても、それほど無理はないと思われる。 ただ、471年と見られる辛亥年から記紀編纂期までには200年以上の隔たりがあり、その間の倭語の変化は分からない。 しかし現代に当てはめれば、200年前は幕末で、言語の変化もその程度に収まると思われる。 さらに、当時の社会の変化は最近ほど急激ではないので、主な語の変化もそれほどは大きくはないだろう。 よって、記紀の時代の方式によって訓読を試みる。 なお、ここでは、獲居は「わけ」、比垝は「ひこ」と訓むことにする。
倭語「ふみづき」がいつまで遡るかは不明である。 《乎獲居臣》 ヲワケは、『姓氏家系大辞典』に「雄別 ヲワケ: ○雄別宿禰 大同類聚方六十四に「大和國雄別宿禰道成」など云ふ者見ゆ。」とある。 乎獲居臣がいかなる氏族であったか、これ以上のことは分からない。 《臣》 記紀には「臣(おみ)」、その上位の「大臣(おほみ)」が出てくるが、 大王に仕える臣が、この時代すでに「おみ」と呼ばれていた可能性はある。 《意富比垝》 大毘古命は、孝元天皇段には孝元天皇の皇子で、阿倍臣・膳臣の祖であると書かれ (第108回)、 崇神天皇のとき高志道に派遣された。 また、大彦命は孝元天皇紀において、阿閉臣・狭々城山君などの祖とされ、 崇神天皇紀では北陸道を制圧するために派遣された (第113回)。 乎獲居臣の頃には、まだ「孝元天皇-大彦」という系図上の定式化こそなかっただろうが、 家系図の出発点に据えるからには、「大彦」は伝説上の重要人物だったのだろうと思われる。 さらには後世に記が描く系図の原型が若建大王の宮廷に存在し、 その始祖近くの王子「大彦」があり、 これを祖に戴くことによって大王家との擬制的な同族関係が設定されていたことも考え得る。 《足尼》 宿祢を古くは「足尼」と表記したことを実証する記事が、続紀(宝亀四年五月〔773〕)にある (資料18)。 《次》 「獲居」が姓であれば「獲居」だけで名前になる可能性は少ないから「次」は名前の一部であろう。 《杖刀人首》 記紀に馴れた目で「杖刀人」を見ると、「太刀を杖(た)てる人」と読め、近衛兵のような職制もしくは職業部が思い浮かぶ。 「杖刀」に類する表現としては、神功皇后段に「其御杖衝二-立新羅國主之門一」、 神功皇后紀に「皇后所杖矛」(第141回)がある。 また、安康天皇段「大長谷王以矛爲杖」(第195回)の表現があり、「杖」には「矛をどんと突き立てて威嚇する」意味があるととれる。 一方、職制の表現としては「共食者(あひたげひと)」(雄略天皇紀十四年)など、 「動詞+"ひと"」で表した形が見える。 太刀を立てる役職と言えば、近衛兵として門前の警備に当たる姿が想像される。 すると、「寺」は「掌管門禁的官」(後述)との関連で用いられた語かも知れない。 ただ、記紀とは時代の隔たりがあるから確実ではないが、少なくとも軍事的な役割を与えられた部署(または部)であろう。 「首(おびと)」はその長である。 《刀》 刀は、たち、かたなとも訓まれる。 その区別は、〈倭名類聚抄〉では「大刀【和名太知】 小刀【和名加太奈】」として、大きさによるとされる。 《奉事》 事は「つかへる」。魏志倭人伝に「名曰二卑彌呼一事レ鬼道能惑レ衆」 〔名を卑弥呼と曰ひ、鬼道につかへよく衆を惑わす〕という文がある。 奉は補助動詞「~たまふ」で、漢文では助動詞の位置に置かれた例がよく見られる。 《来》 「来(く)」でもよいが、「奉事来」は動詞が続くと見るよりも、助動詞と見るのが妥当かも知れない。 「来」は音仮名「き甲」なので、完了の助動詞「き甲」かも知れないが、 万葉集では文末に「来」があるときは、いつも「けり」と訓む。しかし、時代が離れすぎているので何とも言えない。 《獲加多支鹵》 雄略天皇は、記に「大長谷若建命」、書紀に「大泊瀬幼武天皇」と表記される。大は美称で長谷・泊瀬は「長谷朝倉宮」に坐したことによって付加されたものである。 獲の呉音は「わく」であるから、「獲加多支鹵大王」は「わかたけるおほきみ」=雄略天皇を指すと解釈されて、著しく注目されている。 《大王》 天皇という呼称は天武天皇の頃に定められたとされるが、万葉集には「大王(おほきみ)」という呼び方が根強く残っている。 金錯銘文の時点において、国の統治者が「おほきみ」と呼ばれていたことがわかる。 《寺》 現在、寺は一般に仏教寺院を指す。仏教が中国に伝来したのは後漢の明帝の永平十年〔67〕とされ、 それ以前の「寺」は、宮廷や役所、あるいはその官を指したようである。 「寺」の古い用例を求めると、『儒家』礼記〔前475~前221〕に「男子居外。女子居内。深宮固門。閽寺守之」がある。 「閽寺」は〈百度百科〉「閽人和寺人、古代宮中掌管門禁的官。」〔閽人(門番)と寺人。古代宮中で門の禁を掌管する官。〕 寺人は〈汉典〉「古下-称宮内供二-使令一的小臣上。即後世所称的宦官、太監」〔古くは宮廷内の小間使いを称したが、後世は宦官、太監(位の高い宦官)を称す。〕という意味。 〈諸橋大漢和〉は、「①つかさ。やくしょ。②九卿の成務を執る官署。③やかた。④てら。」 として、第一義に司・役所を持ってきて、仏教寺院はやっと④項目めである。 さらに①の文例に「[説分]寺、廷也。[一切経音義]寺、治也、官舎也。」があるので、 「寺」は仏教伝来以前から、宮廷・官署を指す語として存在したことは明らかである。 さて、仏教が倭国に正式に伝来したのは538年とされる。 それ以前から、渡来民が自ら信仰する仏教のために、私的に寺を設けることもあっただろうと考えられている。 しかし、雄略天皇が公的に仏教のために寺を設置することはなかったであろう(書紀に、それらしい記事は見えない)。 よって、宮は一定の広がりのある領域(建物群、あるいは都)を表し、その中に建った政庁が寺だと解釈するのが、もっとも合理的であろう。 《斯鬼宮》
長谷朝倉宮を銘文で「斯鬼宮」と呼ぶのは、「長谷朝倉」という地名は局地的過ぎて遠方に住む人には馴染みがないのに対して、 「斯鬼」は都の地名として広く知れ渡っていたからであろう。 《吾》 われの「-れ」は人称代名詞・指示代名詞につく接尾辞。 万葉集0001には「われ」が使われ、題詞はこの歌を雄略天皇の御歌とする。それが真実であれば、 その時代から「われ」が使われていたことになる。 《左治天下》 左は「佐」に通じ、補佐することを意味する。 魏志倭人伝には、卑弥呼の弟を述べた「有男弟佐治国」という一節がある。 倭語は「すく」、またそれに接頭辞をつけた「たすく」である。 治については、万葉に「あめのしたをさめたまふ」がよく出てくる。同じ意味で「しらしめす」もあるが、 前者は「治」、後者は「知食」で表すのが、万葉集の用字法である。 これまでは先祖代々、下級官僚の杖刀人として門番などの宮廷警備に当たってきたが、至レ今、吾、乎獲居の代になって獲加多支鹵大王によって初めて臣に取り立てられ、 天下の政を佐治する立場まで出世したと、誇らしげに語るのである。 《百練利刀》 上代語に、「ねりかね」(鉄)がある。「ねる」は「錬成する」で、 「よく錬成した鋼で作った」という意味の「ももねり」という語の存在は十分考えられる。 あるいは、枕詞かも知れない。 利刀は「ときたち」で、切れ味の鋭い太刀を指すかと思われる。 《根源》 「根源」とは、先祖代々を意味すると思われる。 倭語を漢字表記したものだとすると、「根源」はいかなる倭語に宛てたものか。 それを決定することは不可能であるが、例えば「みなもと」なら古い格助詞「な」を含むから古くから存在したと考えることができる。 まとめ 文意を子細に検討すると、乎獲居臣は自分の代に大出世したことを非常に喜んでいることが分かる。 その感情は、それまでの「事」(仕える)から、今の「左治天下」(国の政を補佐する)への、言葉の使い分けに表れている。 その名誉は自分のみならず、その根源の祖先までも及ぶものとして、 代々の名前を永久に残すために金錯銘鉄剣を作らせたのである。 乎獲居は、その宮廷警護の仕事ぶりが獲加多支鹵大王の目にとまり、臣に取り立てられたと読める。 昇進に伴って与えられた領地と部曲(かきべ)によって富を得て、大きな古墳を作る身分になったという筋書きが想像される。 ただ、何代も前の祖先から武蔵国に本拠を置いたまま、代々遠距離の畿内に出仕していたとするのは不自然なので、 もともとは畿内にいた一族が、乎獲居臣の昇進と同時に東国に封じられたのかも知れない。 また、昇進は獲加多支鹵を支援して覇権の獲得に資したことへの論功行賞の可能性もあるが、何れも想像に過ぎない。 さて、5世紀後半に記紀に通ずる書法による倭語の記述が実証されたのは、極めて重要である。 応神天皇紀によれば、王仁が漢字を持ち込んだのは405年ということになるが(第152回)、 遅くとも471年までには漢字が流入し、かつ漢字による倭語の表記に一定程度成功していたことになる。 それでは太安万侶は古事記を書くにあたって、何に苦労したのであろうか。 既に、漢字を使って倭語を表すことは概ねできていた。 しかし、序文において「因訓述者詞不逮心」〔訓によりて述べば、詞(ことば)心をとらへず〕と述べる。 第26回で考察したように、例えば「吐」の字があれば「はく」と訓む人があり、それでも意味は伝わる。 しかし、味わいを表現するために、どうしても特殊な言葉の「たぐる」と訓んでほしいこともある。そのような場合のために、 「部分的に音仮名を導入し、その箇所は音仮名であることが分かるように注をつける」手法を編み出したのである。 だから安万侶は、倭語の漢字表現が極端に未熟な状態から出発したわけではない。 既に、相当の蓄積があったのである。 |
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2017.04.13(fri) [28] 江田船山古墳出土銀象嵌銘鉄剣 ▼▲ |
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同書によれば、銀象嵌銘の大王名を、 昭和八年〔1933〕に「𤟱■■■歯」と読み、反正天皇にあてた※。 その後、昭和五十三年〔1978〕に稲荷山古墳出土の鉄剣(以後「稲荷山鉄剣」)に銘文があり、 その大王名「獲加多支鹵」と同時代で類似することから、江田船山古墳出土大刀も獲加多支鹵とする説が有力になった。 ※…記に「蝮之水歯別命」(第161回)。 【江田船山古墳】 江田船山古墳は、熊本県玉名郡和水町にある前方後円墳で、墳丘長62m、高さ10m、 5世紀末~6世紀初頭の築造と推測されている。
副葬品として刀剣類、銅鏡、玉類、金鐶、耳飾、冠帽類、金銅具、甲冑、馬具、須恵器などが多数出土し、 一括して国宝に指定されている。 【銀象嵌銘鉄剣】 〈国博報告〉によれば、鉄剣は現存長90.9cm、現存刀身長85.3cm、最大幅4.0cm、最大厚1.0cmなどとされている。 根元近くに馬形文様(A)、花形文様(B)、魚形文様・鳥形文様(C)の象嵌がある。 花形文様の中央には窪みが見えるが貫通せず、私は玉がはまっていたのではないかと想像する。 銘文は鉄剣の細い背面に記されている。したがって各文字は多かれ少なかれ、腐食によって両サイドが失われている。 【文字】
4…𤟱(たぢひ)にも類似するが、旁(つくり)の下の又は「獲」であることを裏付ける。 5…断片のみだが、「獲加多支鹵」と矛盾しない。 6~7…完全に失われている。 8…「歯」を、完全には排除しきれない。 11…「也」に似るが、第三画の直角によって、58・75の「也」と区別される。
15…「曹」は下級の役人を意味する。 18…「无」が多いが、「旡」第二画の入りの縦棒は、エミシオグラフィでも明確である。 19…「刊」が多いが、左下の一画はエミシオグラフィでも明確である。 26…「鐡」(鉄)の書体のひとつか。 31…古墳から出土する延べ板状の鉄を鉄鋌(てつてい)といい、朝鮮半島から輸入されたものと考えられている。 「廷」は「鋌」に通ずる。 36…「九」が多いが、「八十・九十」の数の並びは考えにくい。 エミシオグラフィでも横線二本で、一~九までのうち可能性があるのは「二」「三」「五」である。 38…「拝」に近いが、旁の縦線がかなり傾いていて、右下に何かがあった可能性は高い。 40…「三十」が自然であるが、エミシオグラフィでも「寸」は明確である。
45…刀を身に着けることを「佩(は)く」というが、「服」も意味が似る。 48…左上の傷は、「者」の土の部分から銀が剥落した痕跡と思われる。 49…これも、銀が剥落痕が「長」に見える。 50…右下が寸のように見えるから、「壽」か。書体は不明。 53…同じ字を反復するサンズイの字は「洋々」ぐらいだから「洋」であろう。羊の棒の下が最初から出ない書体なのか、銀の剥落なのかは決め難い。 56…「三」に見えるが、「三恩」という熟語は、漢籍にもなかなか見つからない。「主恩」なら、孟子〔戦国、前340~前250〕に五件ある。 57…心の右端の点は、珍しくエミシオグラフィのみに検出される。 59~60…「不失」であることを妨げない。 62…恐らく「所」の異体字で、風土記にも類似の書体が見えるが、右側が「乍」になっている書体はなかなか見ない。 63…綂は「統」の異体字。 70…〈国博報告〉の解読者一覧では「於」「加」が僅かに見られる以外は、多くがギブアップしている。「禾」にも見えるが、中心軸がずれている。 【銀象嵌銘の特徴】 稲荷山鉄剣には「辛亥年」があるが、こちらには記年がなく「八月中」のみであることが気にかかる。 他の例を見ると三角縁神獣鏡には記年銘をもつものがあり、 あまたある石碑の碑文にも「年がなく月のみ」の例はまず見ない。 銘文は、「この一本」に思い入れを込めたものではなく、過去の銘文を流用したように思われる。 いわば装飾に過ぎないから、製作年の有無など気に留められなかったか。 あるいは以前作られた韻文を使い回すために、年を抜いたのかも知れない。象嵌職人が年を入れられなかったのは、干支年を知らなかったためか。 この観点からすると、獲の旁(下図4)、鐡の金編(26)、書(71)・張の旁(73)の横線の数の不足も気になる。これも稲荷山鉄剣には見られないことである。 「鐡」、「廷」のエンニョウ、「練」の糸偏の簡略化も、何本も象嵌した雰囲気を感じさせる。 同時代の好太王碑の字は全体に丁寧で整っており、「羅」の糸偏の簡略化もない。 銘文が剣の背の細い面に象嵌されることと、全体の形からこの剣が実用に供するものであることが伺われる。 稲荷山鉄剣はこれとは対照的に側面の中央に字が金錯銘され、儀式用であることは明らかである。 このことから、銀象嵌銘鉄剣は何本か作られたうちの一本であったかと思われる。 【訓読】 「書者」として中国人名「張安」が明記され、「典曹人」「洋々」は倭語の漢字表現とは思われないので、 中国語であろう。 しかし、飛鳥時代には「天下」を「あめのした」と訓むなど、中国から伝わった言葉に新しい倭語を対応させる。 また、「奉事」は、もとからあった倭語「つかへまつる」に対応させたと思われる。 この銘文は、一般の倭人にはとても読めなかっただろう。 しかし、一部には倭語を受け入れた上で、漢字で表現しようとしたと思われる部分もある。 中国文を見て直ちに倭語で訓む才能をもった人物が、稀にはいたかも知れない。 ここでは、ひとまず全面的に上代語による訓読を試みるとともに、その語釈の根拠を述べる。
典はずっしりとした書物、曹人は下級役人を意味する。 倭語の「ふみひと」は当時、私的集団である部が担っていたと見られているが、 実質的には「典曹」と同じように勤めたと見られる。 「ふみひと」は応神朝で渡来人がこの役を担ったときからの名称だと想像される。 《并》 一般的には、「廷刀」を刀の一種と見る。ところが「釜と刀を用いて」では意味が通じないから、 并は「四尺の刀と併せて『此の刀』を作った」という解釈になる。 しかしながら、多くの人は「用A并」まで見たところで「Aと、(次に来る)何かを并せ用いて」と予測するであろう。 《四尺廷刀》 仮に「四尺廷刀」の代わりに「四廷」と書いてあれば、 間違いなく「大鉄釜と、四本の鉄鋌を併せて用いて」と読まれたであろう。 「并」の次の語が「用」の目的語になろうとする志向性は強いから、「用~四尺廷刀」とは、古くなった四尺刀を鋳つぶし、 新しくこの刀を作ったという意味ととるのが妥当であろう。 通常は鉄廷を使うところを、その代わりに古くなった刀を用いたから、「廷の刀」というのである。 《八十練★十振三寸》 八十練は稲荷山鉄剣の「百練」と同じく、「繰り返し練った(精錬した)」意味であろう。 振を「振」とする解釈は確定的ではないが、刀の製造には「大槌で打って鍛接」する工程があり「槌を振(ふる)う」(古語は「ふく」)なら意味は通る。 数字については特に古事記の上巻において、八・五がしきりに使用された。 大きな数を漠然と表す語に「やそ(八十)」「やほ(八百)」がある。 天照大神と須佐之男命との間には、男神五柱・女神三柱・計八柱が出現した。 また、伊邪那岐命(伊弉諾尊)が迦土紙(軻遇突智)を斬った話で、「八段」「五段」「三段」に斬った (第38回)。 記と書紀の本文、「一書」にある複数の類話ごとに8段・5段・3段という異なる数が書かれる。 これらの数を重んじる習慣が5世紀まで遡るとすれば、★は「五」である可能性が高く、その痕跡も「五」を妨げない。 こうして八十・五十とくれば、「三寸」が実は「三十」である可能性が高まる。ところが、エミシオグラフィによれば「寸」は揺るがない。 しかし、そもそも「三寸」〔当時は7.4~8.9cm〕がここにあること自体が不可解だから、 「三寸」は「三十寸」から象嵌職人が「十」を見落とした結果ではないかと思えるのである。 「三十寸」ならば、理由は十分ある。 5~6世紀の中国は南北朝で、北朝は一尺24.5cm、南朝は一尺29.6cmとされる(中国の度量衡)。 よって、実寸85.3cmは3尺4寸8分、または2尺8寸8分となり、約3尺と言ってよい。 三尺=三十寸である。「八十練五十振三十寸」とすれば語呂がよいから、これなら納得がいく。 先に述べたように、職人が字の意味もあまり知らずに何本も象嵌したとすれば、たまには間違うこともあるだろう。 なお「八十練五十振三十寸」の意味は「十分に精錬し、十分に鍛接して、長さ三尺に作り」となる。 《上》 第一文の主語は「典曹人の旡利弖」である。動詞を見出さずに終わる訓読も見る※が、 唯一動詞になり得るのは「上」である。そのように見ると文の構成はしっかりする。 ※…例えば〈国博報告〉は、「刊刀」を「刊刀なり」と訓み、繋辞「也」の省略、または「刊刀」を動詞化している。 上は言うまでもなく「あげる」であるが、「たてまつる」「ささげる」「いただく」が派生する。 ここでは主人に「たてまつる」、すなわち私の工房で作った刀を献上する意であろう。 《洋々》 「洋々」は倭語を訳したとは考えられない。漢籍ではさまざまな場面で「豊かであるさま」を表現する。 《所統不失》 所は、動詞を名詞化する。 万葉集では自発の意味を帯びるが、本来の中国語では英語のto不定詞の名詞的用法や、動名詞(~ing)に相当する。 ここでは、主人の統(す)べたまふことが不滅であることを願うものである。 《名伊太和》 張安には「名」の字がない。あるのは、伊太和・旡利弖である。 倭人の名を表記するとき、名前であることを判別し易くするために「名」を頭につけたと思われる。 このことから見ても、銘文は中国語である。 まとめ 鉄刀銘文のいくつかの文字に見られる簡略化は、同時代の好太王碑には決して見られない。 そこには銘文を考える中国人と、銀象嵌に従事する倭人との分業が伺われる。 倭人である職人が漢字をあまり知らなければ、うっかり飛ばすこともあるかも知れない。 さて、「八十練」は中国語の文中ではあるが、倭人が「やそねり」と発する言葉の意味を理解して、 倭語に歩みよったと見られる。 記紀の原文を見てきた経験からは、 漢文として意味不明な個所にぶつかったときは、倭語を表そうとしているものと仮定し、 また文脈から何を語ろうとしているかを先に考えて字の意味を決めていくとうまく行く。 なお、人名の一音節に漢字一文字を宛てるところは、後世の音仮名に通じる。 「八十練」は訓よみ、「伊太和」は音よみとして、倭語の漢字表現の萌芽を示すといえよう。 稲荷山鉄剣では、さらに一歩進んでいると思われる。 |