古事記をそのまま読む―資料2
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2016.07.08(fri) [09] 糜・鹿 

 景行天皇段の「糜鹿」を「ただれしか」と訓む可能性を探った。結局「おほじか」が妥当であるという結論に達したが、その過程で調べたことをここに納める。

【糜】
 …[名] 粥(かゆ)。[動] 爛(ただ)れる。(古訓) かゆ。たたる。〔類聚名義抄観智院本、11世紀〕
 上代に「ただる」という語はあったのだろうか。 竹取物語に「泣くこと限なし。この事を歎くに、髪も白く腰も屈り目もたゞれにけり。」 竹取物語は、大和物語(951以前)に言及があるので、平安時代成立と言われるが、その時代の原文から「たゞれ」があったかどうかは分からない。 〈時代別上代〉に「ただる」の項はないが、「目」の項に「ただれ目」を載せる。 一方、『現代語古語類語辞典』(芹生公男編)は、上代語として「ただる」を見出している。

【鹿】
 上代に「鹿」がどう訓まれたかを改めて調べるために、万葉集の全例を調べる。
 最も多いのが借訓「」で、 (万)0083 何時鹿越奈武 いつかこえなむ。 など57例。
 「しし」が6例。 (万)0019 鹿自物 ししじもの。 シシは食肉を意味し、「猪(ゐ)のしし」の語もそうやって生まれた。
 「壮鹿」で「しか」と読まれ、42例。「男鹿」2例、「雄鹿」1例も「しか」。 その多くはサオシカ(狭男壮鹿、竿壮鹿;シカの美称)で、地名「勝壮鹿」(かつしか)もある。
 鹿を「しか」と訓むのは20例、そのうち動物名「しか」が10例ある。 (万)3884 今日良毛加 鹿乃伏良武 けふらもか しかのふすらむ
 それ以外は借訓。 (万)0513 何時鹿跡 いつしかと
 万葉集には「か」がすべて借訓であることから、鹿は古くは一音節語の「か」であったが、万葉集の時代には概ね「しか」と呼ばれたようである。 これは、同じく馴染みの深い野生動物「猪」がもともとは、これも一音節の「ゐ」であったことを想起させる。 〈倭名類聚抄〉には、「牝鹿曰麀【和名米加】〔めか〕其子曰麑【和名加呉】〔かご〕とあり、 〈時代別上代〉は、もともとは雄の「か」が「しか」であったと推定している。


2016.08.16(tue) [10] 尾津神社二坐 

【特選神名牒】
 『特選神名牒』は、延喜式神名帳に記載された各社について詳しく調べた書である。明治九年〔1876〕にひとまず完成していたが、大正十四年〔1925〕に磯部甲陽堂から刊行された。 その中の「尾津神社二座」に、尾津と戸津・小山・御衣野の地名や社寺を考察している。 明治時代とはいえ、句読点なしで江戸時代風である。さすがに漢文ではない。
 まず原文に句読点と送り仮名を補って読みやすくした上で、現代語訳を試みる。

【尾津神社二座】


祭神 <空欄>
祭日 <空欄>
社格 <空欄>
所在
 今按本社所在御衣野村八劔社なりとも云ひ戶津村なりとも小山村の社とも云て一定せず 御衣野村にては夫木集に伊勢島やみぞのの濱の松か枝に年經て立る大刀もかしこしとみえ 書紀に書紀に日本武尊向東之歳停尾津濱而進 食是時解一劔遂忘而去今至於此劔猶在とある 即此地にて神社を建しなりと云ひ古事記傳にもこの八劔宮を尾津神社なりと云へど 此村は肱江川の東に在て上世上野代と稱すと云へば野代郷に屬すべくして尾津郷に隷すべき地にあらず 故に從ひ難し戶津村なるは神名帳考證式社案内記古谷草紙等にも此村ありと云れど こはもと八幡社なるが五十年前に小社を造り尾津神社として八幡に合せ祭るにて 人まどはせるを以て北勢古志に尾津神社ならぬことを論じたり さて戶津の名は尾津を訛りたること明なり里人今もトツとは云はずトウツと呼は尾津を遠津と かきたるをとほづとよみたるか後に戶津と書しなりとぞ 戶津村の地は尾津の地さきの漸開けゆきて一村となりし新地なれば式社あるべき地ならずと云ひ 小山村なるは尾津郷の内にありて祭神倭建命足鏡別命俚俗尾津宮と云 此社地小山の麓にて字を尾津宮【里人訛りてごうつの宮と云ふ】と云ふ この麓續の南に尾津山と云寺ありごうづ宮と云より今牛頭天皇の流行神を祭れるごとくなれり 彼尾津前の舊跡なり小山はもと多度の大山に對へたる名なるべく尾津は小山の尾津にて 海上尾張に直にむかひしが漸開行けむ地勢古のさま見るが如しと云り されど戶津村彌與八所藏の古過去帳に勢州横之郡増田庄尾津郷戶津村住人尾津源八郎藤原薫定 改名證玄正應三年三月十七日去世と載せ小山村圓正寺の山號を尾津山と稱するによる時は 尾津を後世に富津或は戶津に訛れるはあらずそもそも尾津は十一ケ村に冠すべし されど戶津も小山もみな尾津郷なれば此二村の内なることは著けれど今何れとも決めがたし
 今あんずるに、 本社は御衣野村みそのむらに所在せる八劔社なりとも云ひ、 戸津村なりとも小山村の社とも云ひて一定せず。
 御衣野村にては夫木集に 「伊勢島やみぞのの濱の松か枝に年経てたてる大刀もかしこし」とみえ、 書紀に書紀に「日本武尊向東之歳停尾津濱而進 食是時解一劔遂忘而去今至於此劔猶在」とある 即ち此の地にて、神社を建てしなりと云ひ、古事記伝にもこの八劔宮を尾津神社なりと云へど、 此の村は肱江ひじえ川の東に在りて、 上世じょうせい〔おおむかし〕上野代(かみのしろ)と称すと云へば、野代郷に属すべくして尾津郷にぞくすべき地にあらず 故に、従ひ難し。
 戸津村なるは『神名帳考證』『式社案内記』『古谷草紙』等にも此の村ありと云れど、 こはもと八幡社なるが、五十年前に小社を造り尾津神社として八幡にあはせ祭れるにて、 人まどはせるを以て『北勢古志』に尾津神社ならぬことを論じたり。
 さて戸津の名は尾津を訛りたること明らかなり。 里人今もトツとは云はずトウツと呼ぶは、尾津を遠津とかきたるを、「とほづ」とよみたるか。 後に戸津と書しなりとぞ。 戸津村の地は尾津の地さきの漸(やうや)く開けゆきて一村となりし新地なれば、 式社あるべき地ならずと云ひ。 小山村なるは尾津郷の内にありて、祭神倭建命・足鏡別命、俚俗〔=卑俗に〕尾津宮と云ふ。 此の社地小山の麓にて、字を尾津宮【里人訛りてごうつの宮と云ふ】と云ふ
 この麓続きの南に尾津山と云ふ寺あり、ごうづ宮と云ふより、 今牛頭天皇の流行神を祭れるごとくなれり。 彼の尾津さきの旧跡なり。 小山はもと多度の大山にむかへたる名なるべく、尾津は小山の尾津にて 海上尾張に直にむかひしが、漸(やうや)く開け行けむ。地勢いにしへのさま見るが如しと云へり。
 されど戸津村彌與八みよはち所蔵の古き過去帳に「勢州〔=伊勢国〕横之郡 増田庄 尾津郷 戸津村住人 尾津源八郎藤原薫定 改名 證玄 正應三年三月十七日去世」と載せ、小山村圓正寺の山号を尾津山と称するによる時は、 尾津を後世に富津或は戸津に訛れるはあらず。 そもそも尾津は十一ケ村に冠すべし。 されど戸津も小山もみな尾津郷なれば、此の二村の内なることはいちじるしけれど、今いずれとも決めがたし。

 本社は御衣野村みそのむら所在の八剣社であると言われ、 また戸津村、小山村の社とも言われて定まらない。
 御衣野村説については、『夫木和歌抄』〔ふぼくわかしょう、鎌倉時代後期の私撰和歌集。1310成立〕に収録された歌に 「伊勢島やみぞのの濱の松か枝に年経て立る大刀もかしこし」が見え、 書紀に日本書紀に「日本武尊向東之歳停尾津濱而進 食是時解一劔遂忘而去今至於此劔猶在」とある、 この地に神社を建てたと言い、古事記伝もこの八剣宮を尾津神社だと言うが、 御衣野村は肱江ひじえ川の東にあって 昔の上野代(かみのしろ)、野代郷に属していて尾津郷には属さないので、 従い難い。
 戸津村の尾津神社は、『神名帳考證』『式社案内記』『古谷草紙』等にもこの村ありと言うが、 ここの社はもともと八幡社で、五十年前に小社を造り尾津神社として八幡に併せて祭り、 人を惑わせているので『北勢古志』は尾津神社ではないと論じている。
 さて戸津の名は尾津を訛ったのは明らかである。 村人は今もトツとは云はずトウツと呼ぶのは、尾津を遠津と書いたものを「とほづ」と読んだのだろうか。 後に、戸津となった。
 戸津村は、尾津の地の先を徐々に開いて一つの村になった新地なので、 式内社がある場所ではない。
 小山村の尾津神社は尾津郷の内にあり、祭神は倭建命・足鏡別命で、俗に尾津宮と言われる。 この社地は小山のふもとにて、小字名を尾津宮【村人は訛って「ごうつの宮」と言う】と言う。
 この麓の続く南側にあった尾津山という寺が、ごうづ宮と呼ばれるようになり、 現在は牛頭天王〔ごすてんのう。日本独自の神仏習合の神〕のような流行神を祭る。 例の〔古事記にある〕「尾津さき〔=崎〕」にある旧跡である。
 小山はもと多度の大山に対する名前で、尾津は小(を)山による尾(を)津である。 かつては海上を、尾張に直接向かって行った。徐々に開いていく地形は、昔の海を彷彿とさせる。
 けれども、戸津村の彌与八みよはちという人が所蔵する古い過去帳に「勢州〔=伊勢国〕横之郡 増田庄 尾津郷 戸津村住人 尾津源八郎 藤原薫定 改名 證玄 正應三年三月十七日〔1290年4月27日〕去世」と載せ、小山村の圓正寺の山号を尾津山と称するようになった時点では、 まだ尾津は富津、あるいは戸津に訛っていなかった。訛ったとすれば、その後世のことである。 そもそも尾津は戸津など十一ケ村を包含していたのである。 〔だから、戸津は尾津が訛ったものではなく、初めから尾津の一村として存在していたのではないか。〕
 しかし、戸津も小山もともに尾津郷なので、この二村の社のどちらかであることははっきりしているが、それ以上は今は何とも言えない。

考察
 小山という地名は、自然地形によるもので、大山=多度山に対するものだとするのは堅実である。 『新撰姓氏録』にある「小山連」の一部がここを本拠にしたという説には触れていない。 しかし、小山の「を」から尾津(をづ)が派生したとする点はどうだろうか。それなら「をやまづ」になるように思える。
 戸津なる地名については最初に戸津は尾津の訛りであると断定しながら、最後に戸津は尾津郷の一村である資料を示し、初めから「とづ」だった可能性も匂わせている。 この点については論旨が一貫しない。
 戸津の尾津神社は、『北勢古志』に書かれた「50年前に八幡社に小さな社を建てて尾津神社と称して、人々を惑わせた」ことを重視している。 さらにその地は新開拓地であるから、式内社があるはずはないと駄目を押している。 八幡社の小社は、幕末の伝統回帰運動の一環として観念的に復活させたものであろう。 その点、『特選神名牒』は新政府による研究でありながら、復古主義の熱風に影響されない冷静さが注目される。
 なお、小山の社には神倭建命・足鏡別命を祭ると書いているが、現在の戸津の社にも同じ祭神が掲示されていた。
 祭神祭日社格が空欄になっているのは、延喜式神名帳以後、尾津神社の由緒を伝える古文書が見つかっていないからであろう。 「尾津」の地名については、少なくとも1290年には「尾津郷」が存在したが、現代地名には僅かに小字名に残る程度なので、 結局代表的な旧家も神社も途絶えたわけである。
 「尾津神社」があった場所だけは、村落の氏神が祀られるようになって現在に至るかも知れない。 あるいはそれすらもなく完全に消滅し、新たに氏神が祀られた場所が、江戸時代に論社となったのかも知れない。


2016.11.03(thu) [11] 倭名類聚抄―職名 

 【〈倭名類聚抄〉巻五。軄名第五十。】
 「職名」と題された部分には、大政大臣を頂点とする官僚の職名が示される。
 省、あるいは省に相当する組織は、その中核に長官・次官・判官・主典を定め、これを四等官という。 それぞれの漢字表記は各省(及び相当する組織)によって異なるが、倭名類聚抄では、長官クラスはすべて「かみ」、次官クラスはすべて「すけ」、 以下、判官は「まつりことひと」、佑官は「さかん」と訓むことになっている。
 ここでは、長官の項目にについて、原文の区切りを確定して読み取る。
長官 本朝軄員令二方品員等所載神 祇曰伯省曰卿弾正曰尹勘解由 使曰長官鑄錢司同勘解由使軄 曰大夫寮曰頭司曰正【主膳監同】内膳 司曰奉膳【今案令有奉膳二人後停奉膳一人爲正】署 曰首近衞府曰大將兵衞衞門等 四府曰督内侍司曰尚侍大宰府 曰帥鎭守府曰將軍國曰守郡曰 大領家曰令【已上皆加美】
 本朝職員令・二方品員所載。
 神祇曰伯。
 省曰卿。
 弾正曰尹。
 勘解由使曰長官。
 鋳銭司同勘解由使
 職曰大夫
 寮曰頭。
 司曰正。
 【主膳監同。】
 内膳司曰奉膳
 【今案。令有奉膳二人。後停。奉膳一人為正。】
 署曰首。
 近衛府曰大将
 兵衛衛門等四府曰督。
 内侍司曰尚侍
 大宰府曰帥。
 鎮守府曰将軍
 國曰守。
 郡曰大領
 家曰令。
 【已上。皆加美。】
神祇官…天皇の下に、祭祀を担当する神祇官と、国政を統括する太政官が置かれた(二官)。
…四等官(長官・次官・判官・主典)の一で、神祇官の第一位。
…大宝律令以後、太政官の下に、「二官八省一台五衛府」が置かれた。
…四等官で、省の第一位。
弾正台…監察・警察機構。
…弾正台の長官。
鋳銭司…銭貨の鋳造をつかさどった。
勘解由使…国司の交代が正しく行われるように監視する。
…大職と小職がある。省・職・寮・司は、倭名類聚抄によれば、いずれも「つかさ」と訓む。
大職…中宮職、修理職、春宮坊。四等官は、大夫(従四位下)・亮(従五位下)など。
小職…大膳職、左右京職。摂津職。四等官は、大夫(正五位上)・亮(従五位下)など。
大夫…職の長官。
…大寮:図書寮、内匠寮など。小寮:陰陽寮、主殿寮など。長官は
…職・寮よりも格が低く、現業部門とされる。長官は
…春宮坊(皇太子の家政機関)に属す。主馬署、主殿署など。長官は
近衛府…左近衛府と右近衛府。それぞれに長官大将がいる。
兵衛府(へやうえふ)…御所警備、行幸供奉など。左右二府。長官は
衛門府(えもんふ)…宮城諸門の警備など。衛士府に統合後、再び分離して左右衛門府。長官は
内侍司(ないしのつかさ)…天皇に近似する女官。礼式、秘書。長官は尚侍(ないしのかみ)。
大宰府…大宰(おほみこともち)は、諸国のブロックを統括したが、後に九州の大宰府以外は廃止。長官は大宰帥
鎮守府…陸奥国において軍政を司った。長官は将軍
国司…四等官の(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の総称。
大領…郡司のうち、最高位。
家令…親王・内親王・上位の公卿で家務を統括する地位。
已上…=以上。

【本朝職員令・二方品員】
 職員令(しきいんりょう)は、養老律令〔757〕に含まれ、全80条。 「本朝」は「我が国の」の意味。養老律令は、大宝律令〔701〕を改正して作られた。
 倭名類聚抄「職名」の、もうひとつの出典『二方品員』を検索したが、ネット上では、研究論文が引用した倭名類聚抄中の語句であった。 国立国会図書館のサイトに検索をかけると一件ヒットしたが、これも「倭名類聚抄の中の語句」であった。 よって、これがどのような書かは全く分からない。題名の「二方」は神祇官と太政官を指すか。また「品」には官位の等級の意味がある。


2016.11.22(tue) [12] 新羅国使金三玄の来朝 

 続紀には、宝亀五年条に新羅国との関係の変化を示す記述がある。その綿密な読み取りを試みる。
【続日本紀より】
《宝亀五年〔774〕三月庚子朔癸卯〔四日〕
是日、新羅国使礼府卿沙飡金三玄
已下二百卅五人到泊大宰府。
遣河内守従五位上紀朝臣広純、
大外記外従五位下内蔵忌寸全成等、
問其来朝之由。
三玄言曰
「奉本国王教『請修旧好毎相聘問』并将国信物
及在唐大使藤原河清書来朝。」
問曰、
「夫『請修旧好毎相聘問』者乃似亢礼之隣、
非是供職之国。
且改貢調称為国信、変古改常、其義如何。」
対曰、
「本国上宰金順貞之時、舟楫相尋常脩職貢。
今其孫邕、継位執政。追尋家声係心供奉。
是以、請修旧好毎相聘問。又三玄本非貢調之使。
本国便因使次聊進土毛。
故不称御調、敢陳便宜。自外不知。」
於是、勅問新羅入朝由使等曰。
「新羅元来称臣貢調、古今所知。
而不率旧章。妄作新意、
調称信物、朝為修好。
以昔准今。
殊無礼数。宜給渡海料、早速放還。」
沙飡(ささん/サチャン)…骨品制※1十七等級中、8位。
礼府…新羅国の官司※2
…府の次官。長官は令という。
已下…=以下
紀広純〔~780〕…きのひろずみ
あそみ(朝臣)…八色の姓の第2位。
内蔵全成〔生没年不明〕…くらのまたなり
いみき(忌寸)…八色の姓の第4位。
聘問(へいもん)…贈り物をもって人をたずねる。
…(古訓) とふ。とふらふ。
…[副] いつも。(古訓) つねに。
旧好…古いよしみ。=旧誼
国信物…〈釈日本紀巻十九-秘訓推古〉【クニツモノ】
藤原河清〔~777〕…遣唐大使。帰国しなかった。
亢礼…対等の資格で礼をする。
もとつくに…[名] 本国。
宰相…天子を補佐して政治を行う大臣。
職貢…地方から中央に差し出す貢物。
…今しばらく。(古訓) いささかに。しはらく。
…[動] つぐ。
土毛…野菜や穀物。
くにつもの(土毛)…[名] 土地の産物※3
便宜…その場の都合に合わせてものごとをすすめること。
勅問(ちょくもん)…臣下に対する天子の質問。
※1…血統・家系による身分制度。百済・高句麗の占領後は、その住民にも適用した。
※2…他に兵部、位和府、調府、執事部、倉部、理方府など。
※3…「土毛」は、国造が買い求めて献上した名産物。
是の日、新羅国の使(つかひ)、礼府(れいふ)卿(けい)の沙飡(ささむ)金三玄(きむさむげむ)
已下(よりした)二百卅五人(ふたももたりあまりみそたりあまりいつたり)、大宰府(おほみこともちのつかさ、だざいふ)に到り泊る。
河内守(かふちのかみ)従五位上(じゆごいじやう)紀(き)の朝臣(あそみ)広純(ひろずみ)、
大外記外(だいげきげ)従五位下(じゆごいげ)内蔵(くら)の忌寸(いみき)全成(またなり)等(ら)を遣(つか)はし、
其の来朝之(まゐきし、らいてうの)由(よし)を問はしむ。
三玄言(こと)曰(まを)さく
「本国(もとつくに)の王(わう)の教(のり)『旧(ふる)き好(よしみ)を修(をさ)めて毎(つねに)相(あひ)聘問(とぶら)ふを請(ねが)ふ』と奉(たてまつ)りて、并(あは)せて国信物(くにつもの)
及び在唐大使(からにあるおほつかひ)藤原(ふぢはら)の河清(かはきよ)の書(ふみ)を将(もたら)して来朝(まゐきたり)。」
問ひて曰はく、
「夫(それ)『請修旧好毎相聘問』者(は)乃(すなはち)亢礼(かうれい)之(の)隣(となり)に似て、
是(これ)供職之(みつきまつる)国に非ず。
且(また)貢調(みつき)の称(なづけ)を改めて国信(くにつもの)と為(し)て、古(いにしへ)を変へて常(つね)を改む、其の義(よし)や如何(いかに)。」
対(こた)へて曰(まを)さく、
「本国(もとつくに)の上宰(じやうさい)金順貞(きむじゅむてい)之時、舟楫(ふねかぢ)相(あひ)尋(たづ)ねて常に職貢(みつき)を脩(をさ)めき。
今其の孫(むまご)邕(よう)、位(くらゐ)を継ぎ政(まつりごと)を執(と)る。家(いへ)の声(こゑ)を追ひ尋ねて供奉(そなへたてまつること)に心を係(か)けり。
是以(こをもちて)、修旧好毎相聘問を請ふ。又三玄本(もともと)貢調(みつき)之使(つかひ)に非ず。
本国(もとつくに)便(すなは)ち因(かさね)使(つかひ)を次(つ)ぎ聊(しまらく)土毛(くにつもの)を進(すす)む。
故(かれ)御調(みつき)と不称(なのらず)て、敢(あへ)て便宜(たやすき)を陳(まを)せり。自(おのづから)外(ほか)は不知(しらず)。」
於是(ここに)、新羅の入朝(まゐりし、にふてうの)由(よし)を使(つかひ)等(ら)に勅問(とひたま)ひて曰(のたま)はく
「新羅元来(もとより)臣(おみ)を称(なの)りて貢調(みつきたてまつ)るは、古今(いにしへよりいまに)所知(しれり)。
而(しかれどもも)旧(ふる)き章(のり)を不率(ひかず)て、妄(みだりに)新たなる意(こころ)を作りて、
調(みつき)を信物(くにつもの)と称(なの)りて、朝(みかどのをろがみ、てう)を修好(よしみををさむ、しうかう)と為(す)。
昔(いにしへ)を以(もちゐ)て今に准(なら)へ。
殊(ことに)無礼(ゐやなき)こと数(あまた)なり。宜(よろし)く渡海料(とかいれう、わたらひのしろ)を給はりて、早速(すみやかに)放(はな)ち還(かへ)すべし。」
《金三玄などのよみ》
 音読を用いる。平安時代には「ん」がないので、(万)3827 さむ、続日本紀巻二/注音に倣って「」と表記する。
《来朝・入朝》
 三玄は朝貢の使ではないから、来朝を、ここでは一般的な「来日」の意味にとるべきである。 〈現代語古語類語辞典〉(芹生公男編)では「らいてう」を上代語として認めている。おそらく「入朝(にふてう)」も可か。
 また、貴人のもとに来る意味の「まゐく(参来)」「まゐる(参入)」と訓んでもよいかも知れない。

【藤原清河】
 ふぢはらのきよかは(ふじわらのきよかわ)。遣唐大使。
・天平勝宝四年〔752〕に入唐。
・天平勝宝五年〔753〕一月の朝賀で、新羅が日本より上席だったことに抗議、交代させる。
・同年十二月、鑑真と共に出国するも、現在のベトナムに漂着。鑑真の乗った第二船は無事に帰国。
・天平勝宝七年〔755〕長安に到着。河清に改名して唐に出仕。
・宝亀九年〔778〕唐にて客死。
《藤原河清の「書」》
 三玄は、新羅国王からの親書及び国信物と共に、藤原河清の書状を持参した。 その内容にはついては何も書かれていないが、 新羅は日本による反発を予想して、予め藤原河清に力添えを頼んだと思われる。 藤原河清は唐から客観的に見た国際情勢により、新羅を対等の相手として友好を深めた方がよい勧める趣旨を、 書状にしたためたと想像される。

【追尋家声係心供奉】
 金順貞は日本との関係を重んじて、日本の面子を立てて朝貢貿易の形式を用いていたが、 一族の中には、いつまで朝貢国の立場を続けるのだという声が燻っていたようである。
 の代になったのを契機に、一族の声に耳を傾けて供奉〔=職貢〕の関係を再検討した。 それが、「追尋家声係心供奉」の意味である。

【便因使次】
 これ以後、朝貢使という名称は廃止するが、名目にこだわらず〔=便(たや)すく〕 これまで通り〔=因(かさ)ねて〕使者の派遣〔=使〕を継続する〔=次ぐ〕という意味。
 字数が極端に少ないが、日本としては腹が立つことだから、あまり字数を費やしたくなかったのかも知れない。

【陳便宜】
 「陳曰以便宜非貢調為国信物〔便宜をもって貢調にあらずて国信物にすとぶ。〕 を簡略化した文である。の主語は、新羅皇帝または親書そのものである。

【大意】
 この日、新羅国の使者、礼府卿(れいふきょう)の沙飡(ささん)金三玄(きんさんげん) 以下二百三十五人が、大宰府に到着して滞在した。
 河内守(かわちのかみ)従五位上(じゅごいじょう)、紀(き)の朝臣(あそん)広純(ひろずみ)、 大外記外(だいげきげ)従五位下(じゅごいげ)、内蔵(くら)の忌寸(いみき)全成(またなり)らを派遣し、 その来朝の理由を聞き取らせた。
 三玄の申すには、 「本国の王の『旧好を修(おさ)めて毎(つねに)相(あい)聘問(へいもん)するを請う』とする親書を携え、また国信(こくしん)の物 と在唐大使の藤原河清の書状を持参して来朝いたしました。」という。
 それに対して、こう質問した。 「『請修旧好毎相聘問』は、隣国の亢礼(こうれい、=対等の礼)のようなもので、 職貢の国ではない。 また、貢調という名称を改めて国信として、古きを変え常を改める、その義は何か。」
 その答えは、 「本国の上宰(じょうさい)、金順貞の時は舟で互いに訪ね、常に職貢を納めていました。 今はその孫、邕(よう)が、その地位を継いで執政しております。邕は一族の家内に意見を求め、供奉のことに心を懸けました。 その結果、『旧好を修め毎(つね)に相(あい)聘問するを請う』こととなりました。また、三玄は元より貢調の使者ではなく、 本国は便宜上使者の派遣を継続し、取りあえずは国信物を進呈するものです。 よって、名目を御調(みつき)とせず、敢えて便宜的に国信物と呼ぶものです。それ以上のことは存じ上げません。」であった。
 天皇は、新羅の入朝の理由を、紀広純らに勅問してこのように仰った。
 「新羅は元来、臣下として貢調してきたのは、古今に知られたことである。 にも拘わらず、従来の決め事に従わず、みだりに新たなる考えをもち、 御調(みつき)を国信物と称し、朝(ちょう)を修好とする。昔の決め事を用いて、今もそれに倣え。 特別に無礼なこと甚だしい。渡海料を与えて、すみやかに追放して本国へ帰せ。」


考察
 『隋書』によれば、 600年に遣隋使が派遣された。その頃の様子は、 「新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來〔新羅・百済は倭を大国と思い、多くの珍物をみつぎ、並んで敬い仰ぎ、常に通使が往来する〕 と書かれる。中国側の文献であるから、真実であろう。 ただ、さすがに「貢于倭」とは表現されない。 朝貢を受ける国は、中国以外にはあり得ないからである。 「多珍物」には動詞がないから、ことによると「貢多珍物」からが削除されたのかも知れない。
 好太王碑文の5世紀はじめまで遡ると、新羅・百済に倭国軍が侵攻したが、その頃から新羅・百済は倭国に従属する関係が続いたと考えられる。 663年の白村江の戦いに倭が敗北してからは、大筋において新羅が勢力を増して半島を統一し、 7世紀の末までに、半島からの倭国の放逐が完了する。
 唐は、一貫して新羅をバックアップしていたと考えられる。 一方、唐は日本が恐れたような侵攻は考えておらず、実際には新羅・日本の双方に友好的な態度を見せることにより、 羅・日を互いに牽制させる政策を取ったと思われる。753年の朝賀における日・羅の席次争いは、まさに唐の思惑通りにことが進んだことを示している。 これは伝統的な中国の政策で、倭の五王の時代にも、百済だけは倭の勢力圏に置くことを頑として認めず、国を並立させようとした (〈倭の五王〉【交渉の経過】)。
 新羅が奈良時代後半に到るまで形式とは言え朝貢国だったのは、6世紀前半までの従属関係の名残であろう。 実態としては、奈良時代の初めには両国はすで対等で、朝貢国の立場が破棄されるのは時間の問題であったと言える。
 したがって、774年の新羅国王の親書で対等の関係にしようと伝えたのは、むしろ遅かったように感じられる。 金順貞には、依然として伝統を重んじる気持ちがあったのだろうか。 あるいは、宗主国となっていた唐を牽制するための、政治的な判断によるものであろうか。 とすれば、新羅国内に親唐派と自主独立派の勢力争いがあったことになる(現代における台湾を想起させる)。
 この時代の日羅関係ついて、興味は尽きない。


2016.11.30(wed) [13] 風土記言上の詔 

 和銅六年の勅により、諸国で風土記を編纂し提出するよう命じたとされる。 続日本紀の記事を読み、出雲国風土記との対応を調べる。

【續日本紀巻第六 元明天皇】
《和銅六年〔七一三〕五月癸亥朔甲子〔二日〕
○五月甲子 畿内七道諸国郡郷名着好字 其郡内所生銀銅彩色草木禽獸魚虫等物具録色目
及土地沃塉 山川原野名号所由又古老相伝旧舊聞異事 載于史籍亦宜言上

畿内…山城・大和・河内・和泉・摂津の五国。
七道…東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道。
色目…=種目。
…やせた土地。
史籍…〈汉典〉記載歷史的書籍。
畿内七道(きないしちだう)の諸(もろもろの)国(くに)郡(こほり)郷(さと)の名に好(よ)き字を着(つ)け、 其の郡の内に所生(おふる)銀(しろがね)銅(あかがね)彩色(いろどりのもの)草木禽(とり)獣(けもの)魚(いを)虫(むし)等(ら)の物具(つぶさ)に色目(くさ、しきもく)を録(しる)して、
土地の沃塉(ゆたかなるか)、山川(やまかは)原野(はらの)の名(な)の号(なづけし)所由(ゆゑ)に及びて、又古老(おきな)相(あひ)伝(つた)へし旧(ふる)き聞こえ、異(け)なる事を史籍(ふみ)に載せ、亦宜(よろしく)言(こと)上ぐべし。

※…国史大系第二巻に、次の頭注がある。 「甲子、此下當有制字、宣長云當有詔字(玉勝間十四)〔甲子、この下に「制」の字あるべし、宣長は「詔」の字あるべしと云ふ〕
《畿内七道》
 畿内の訓「うちつくに」は、一般に認められている。
 しかし七道については、「ななつのみち」を見出し語とするかどうかは古語辞典によってばらつきがあり、『時代別上代』にはない。 同書は使用例の実在を重視しているから、この場合仮名書きの実例がないのであろう。 それでも「ななつのみち」と訓むのは常識的であるが、「七道」という語が使われ始めたのが比較的遅く、最初から音読み「しちだう」だった可能性もある。 音よみをとる場合は、バランス上「畿内」も「きない」とよむことになる。

【指示された項目】
 勅から、各国の地誌に盛り込む内容として次の五点を読み取ることができる。
 諸国郡郷の名に好字をつける。
 郡に産出する銀・銅・彩色・草・木・禽・獸・魚・虫の色目を記録。
 土地の沃〔ゆたかな土地〕〔やせた土地〕
 山川原野の名を号す所由〔由縁〕
 古老が相伝する旧聞・異事。
 以上を各国の史籍〔歴史書〕に載せ、言上すべしと勅した。

【出雲国風土記との対応】
 風土記は指示された項目に応えたと思われるが、それを出雲国風土記によって確認してみる。
 の例:大原郡斐伊郷。
 「斐伊郷属郡家樋速日子命㘴此䖏故云樋【神亀三年改字斐伊】
〔斐伊(ひ)の郷(さと)郡家(こほりのみやけ)を属(つ)けて、樋速日子命(ひはやひこのみこと)此の処(ところ)に坐(ま)し、故(かれ)樋(と)云ふ。【神亀三年〔726〕字を斐伊に改む】〕
 他にも多くの郷名が「神亀三年改字」とされ、改字前は一文字あるいは三文字のものもある。神亀三年は、和銅六年の勅から14年目にあたる。 神門郡の「多吉」→「多伎」は、「好字」になったようには思えないが、占いによって得た「よき字」なのかも知れない。
 の例:神門郡。
 「神門水海〔…略…〕裏則有鯔魚鎮仁須受枳鮒玄蠣也
〔神門(かむど)の水海(みづうみ)…裏は鯔魚(なよし)鎮仁(ちに)須受枳(すずき)鮒(ふな)玄蠣(かき)有り。〕
 この例は湖なので水産物であるが、多くは山野に自生する草木と野生の鳥獣が書かれる。水産物には、魚介類の他に海藻類も見られる。
 の例:出雲郡。
 「此則所謂斐伊河下也河之両辺或圡地豊沃圡殻桒麻…
〔此(こ)は所謂(いはゆる)斐伊河(ひのかは)の下(しも)也(なり)。河の両辺(ふたつへ)或(ある)は土地(つち)豊沃(こ)え、土殻(たなつもの)桑(くは)麻(あさ)…〕
 出雲国風土記に「豊沃」と書かれた土地は少なく、全部で5例である。
 の例:意宇郡(おうのこほり)宍道郷(ししぢのさと)。
 「追猪犬像 其形為石無異猪犬至今猶在故云宍道
〔猪(ゐ)追ふ犬の像(かた);其の形(かたち)石に為(し)て猪(ゐ)犬(いぬ)と異(こと)なれること無く今に至りて猶(なほ)在り。故(かれ)宍道と云う〕
 もともと、宍(しし)は肉という意味で、猪の訓みはであるが、この文は「しし」が「ゐ」を指す語として転用されることがあったことを示している。 この例は地名を自然物によって説明したものであるが、多くは須佐能袁命や所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)などの神話にまつわるものである。
 の例:楯縫郡。
 「古老傳云阿遅須枳高日子命之后天御梶日女命来坐多忠村産給多伎都比古命…
〔古老(おきな)伝へて云はく「阿遅須枳高日子命(あちすきたかひこのみこと)の后(きさき)天御梶日女命(あめのみかぢひめのみこと)多忠村(たただむら?)に来坐(きま)して多伎都比古命(たきつひこのみこと)を産み給(たま)ひて…〕
 以上から、出雲国風土記の内容は和銅6年の勅に対応していることが分かる。 各国の「風土記」も、この勅によって作成されたものと思われる。 ただ、出雲国風土記においては、各郡ごとに郡内の社が網羅されているが、 これは勅に挙げられた項目の外である。

【風土記という名称】
 和銅6年の勅には風土記という語はない。 また、ほぼ原形を保っていると言われる常陸国風土記の書き出しは、 「常陸國司解 申古老相伝旧舊聞異事…」となっているから、「風土記」は俗称であろう。
 ただ、出雲国風土記の書き出しは「出雲國風圡記 国之大體首震尾坤…」となっている。 これは、写本を重ねるうちにどこかの段階で加えられたと思われる。
 『新編会津風土記』という書もあるが、その編纂は時代が下った江戸時代の1803~9年である。 江戸時代後期に、『新編武蔵風土記』『新編相模国風土記』『紀伊属風土記』も作られた。 また、『筑前国続風土記』は1709年に完成した。
 このように、 奈良時代の風土記は勅命によって編まれた報告書の俗称であったが、江戸時代の地誌に復古的に「~風土記」の名称を用いるようになったと見られる。

解 釈
 まずは、国・郡・郷の地名表記を漢字二文字に統一することによって、中央集権的な国郡郷制を目に見える形にすることが第一の狙いであったと思われる。 また、土地の豊かさとは直接的には米の生産力のことであり、後世において石高を分国の経済力の指標としたことに通ずる。 また、報告すべき産物として「銀・銅・彩色(絹織物)」を先頭に挙げるから、統一国家としての財政的基盤の確立を狙ったと思われる。 「金(くがね)」がないのはすでに掌握済みで、また国家機密であったからであろう。
 併せて古老の伝承を盛り込むよう命じたのは、 書紀で推進した国民意識の統一を、さらに各地の物語によって豊かにする狙いもあったと思われる。 もちろん、各地の地理を詳細にまとめさせること自体が、国家の重要な事業である。
 実際に成立した風土記では、全国津々浦々の地名の標準化という狙いは達成された。 また、地方の歴史、伝承、特産物を盛り込む興味深い読み物にはなったが、 各地から貢ぐことができる租の量・調の種類を明確化させて国の経済的な基盤を確立する観点からは、不十分である。
 に「草木禽獣魚虫」を加えたことが、全体として地誌の作成を命じる印象を強めたと思われる。


2016.12.06(tue) [14] 『続日本紀』東大寺の会(天平勝宝元年) 

 東大寺大仏は、天平勝宝四年〔752〕に開眼法要を迎えるが、 それに先立つ天平勝宝元年〔749〕に宇佐神宮から禰宜尼の大神杜女(おおみわのもりめ)らを招き、 盛大な会(え)が開催される。
 この日の記事が、続日本紀にある。

天平勝宝元年〔己丑〕〔749〕十二月辛酉朔
むらさき…むらさき(植物名)。また、むらさきから作った染料。
紫輿…おそらく、天皇クラスが乗る輿。
太上天皇…だじょうてんのう、だいじょうてんのう。和訓「おほきすめらみこと」
呉楽(くれがく、くれのうたまひ)…①伎楽の別称。②仏教の音楽。
伎楽(ぎがく)…野外仮面劇。推古天皇紀二十年〔612〕に「百済人味摩之帰化 曰 学于呉 得伎楽儛〔百済の人味摩之(みまし)が帰化し、呉で学び伎楽の舞いを習得したという。〕
大唐渤海呉楽…  <雅楽の歴史奈良時代になると、唐楽(中国)、林邑楽(ベトナム)、渤海楽(満州)、渡羅楽(済州島)などが伝来した</雅楽の歴史>という。
五節田舞… <wikipedia>大嘗祭や新嘗祭に行われる豊明節会で大歌所の人が歌う大歌に合わせて舞われる、4~5人の舞姫によって舞われる舞。</wikipedia>
久米舞…  神武天皇紀で、久米部の歌った「久米歌」に由来。奈良時代に笛と和琴の伴奏による舞いとなった。
一品・二品…「品位(ほんい)」は、親王・内親王の位階。神に与えられた例は少ない。
賜へ(連用形)…「たまふ」は尊敬語では四段活用だが、下一段活用の場合は謙譲語。
なも…[助] 強調。「~こそ」。続紀の宣命に多用される。
○丁亥 八幡大神禰宜尼大神朝臣杜女其輿紫色一同乗輿拝東大寺
天皇太上天皇皇太后同亦行幸
是日百官及諸氏人等咸会於寺
請僧五千礼仏読経
作大唐渤海呉楽五節田舞久米舞
因奉大神一品比咩神二品
左大臣橘宿禰諸兄奉詔白神曰
天皇御命坐 申賜
去辰年河内国大県郡智識寺坐盧舍那仏礼奉
則朕欲奉造登毛、得不為
豊前国宇佐郡坐広幡八幡大神申賜
神我天神地祇率伊左奈比必成奉
事立不有銅湯
我身草木土
障事無奈佐牟止勅賜奈我良奴礼波
美奈毛念食
然 猶止事不得為、恐家礼登毛
御冠献事美毛申賜久止
尼杜女授従四位下主神大神朝臣田麻呂外従五位下
施東大寺封四千戸奴百人婢百人又預造東大寺人随労叙位有差

○丁亥〔27日〕。八幡大神(やはたのおほかみ)禰宜(ねぎ)尼(あま)大神(おほみわ)の朝臣(あそみ)杜女(もりめ) 【其の輿(こし)紫色。一同(みな)輿に載る。】東大寺を拝(をろが)む。
天皇(すめらみこと)〔孝謙天皇〕、太上天皇(おほきすめらみこと)〔聖武上皇〕、皇太后(おほきさき)〔光明皇太后〕同じく亦(また)行幸(みゆき)たまふ。
是の日、百官(もものつかさ)より諸(もろもろの)氏人(うぢひと)等(ら)に及び、咸(みな)[於]寺(てら)に会(つど)ひぬ。
僧(そう)五千(いつちたり)を請(まね)き、仏を礼(おろが)みて経(きやう)を読みまつる。
大唐(たいたう)渤海(ぼつかい)の呉楽(くれがく)、五節田舞(ごせちのまひ)、久米舞(くめのまひ)を作(まう)く。
因(よ)りて大神(おほかみ)は一品(ひとしな、いちほむ)、比咩神(ひめかみ)は二品(ふたしな、にほむ)を奉(たてまつ)る。
左の大臣(おほまへつきみ)橘の宿祢(すくね)諸兄(もろえ)詔(みことのり)を奉(たてまつ)りて神に白(まを)し曰(まを)さく、
天皇が御命(おほせごと)に坐(まし)、申賜(まをしたまへ)と申(まをさ)く
去(いにし)辰年(たつのとし) 河内国(かふちのくに)大県郡(おほがたのこほり)の智識寺(ちしきてら)に坐(います)盧舍那仏(るしやなほとけ)を礼(をろがみ)奉(まつり)て
[則(すなはち)]朕(われ)も欲奉造(つくりたてまつらむ)と思(おもへ)とも 得(え)不為(なさざり)し間(ま)に、豊前国(とよのみちのくちのくに)宇佐郡(うさのこほり)に坐(います)広幡(ひろはた)の八幡大神(やはたのおほかみ)に申(まをし)賜(たま)へ勅(のりたまは)く
神、我(わが)天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)を率(ゐ)伊(い)左(ざ)奈(な)比(ひ)て必(かならず)成(なし)奉(まつら)む。
事(こと)立(たたること)不有(あらざらば)、銅(あかがね)の湯(ゆ)を水(みづ)と成(なし)、
我(わが)身(み)を草(くさ)木(き)土(つち)に交(まじへ)て、
障(さはる)事無(な)く奈(な)佐(さ)む」
と勅(のり)賜(たまはり)ながら成(なり)ぬれば、
歓(よろこ)み貴(とほと)みなも念食(おもほ)す。
然(しかれども)猶(なを)止(やむ)事不得為(えなさずし)て恐(かしこまり)けれとも、
御(み)冠(かがふり)献(たてまつらむ)事を恐(かしこ)み恐(かしこ)みも申(まをし)賜(たまは)く」
と申(まをしき)。」
とまをす。
尼(あま)杜女(もりめ)は従四位下(じゆしゐげ)を授(さづ)く。主神(かみづかさ)大神(おほみわ)の朝臣(あそみ)田麻呂(たまろ)は外従五位下(げじゆごゐげ)。
東大寺に施(ほどこ)して四千戸(よちへ)奴(やつこ)百人(ももたり)婢(めやつこ)百人(ももたり)を封(かた)む。又(また)東大寺を造ることに預(あづか)れる人、労(いとなみ)の随(まま)に叙位(じよゐ)差(たがひ)有り。

《太上天皇の訓》
 「太上天皇」は書紀にはなく、続紀での初出は、大宝元年〔701〕(持統上皇)である。 〈時代別上代〉は、天平元年〔729〕の宣命(No.6)の「我皇太上天皇」に「我がオホキミおほきスメラミコト」の訓をつけているが、 その訓を得た資料が示されていない。が、一般にも広くおほきすめらみことが和訓とされている。
《天皇・太上天皇・皇太后》
 天平勝宝元年〔749〕7月2日に「皇太子受禅即位於大極殿〔皇太子は禅譲され、大極殿で即位した〕とあり、 孝謙天皇が即位し、聖武天皇は上皇に、光明皇后は皇太后になった。
 光明皇后は藤原不比等の娘で、不比等の息子四兄弟とともに事実上政権を掌握していた。 聖武天皇も母宮子が不比等の娘なので不比等一族ではあるが、たびたび遷都を試み、仏教に厚く帰依し、 また早く譲位してしまった行動を見ると、政治の実権を奪われていることに対する疎外感があったように感じられる。
 譲位した年の10月24日に鋳造が終了し、未完成ながら周囲の土を取り除いて遂に大仏の姿を現したと想像される。 そのタイミングでいよいよ12月27日、八幡大神宮から杜女らを迎えて盛大な会(え)を開催した。
 …<Wikipedia>所引『東大寺要録』所引「大仏殿碑文」による。
《天皇の宣命》
 宣命を述べる部分は引用文が三重の入れ子となっており、宣命の本体は二層目に当たる。 天皇は、橘諸兄が宣命を代読するように詔した。
 宣命は形式上は孝謙天皇の言葉だが、内容を見ると「朕は、8年前に智識寺の廬舎那仏を参拝し、自分も大仏を建立したいと思った…」なので、 実際には聖武前天皇の言葉である。
 それでは上皇の言葉が詔として扱われることがあるのだろうか。それを他の個所から探すと、 天平十五年〔743〕5月5日条に、次の例があった。
  「太上天皇曰〈」 ・「是太上天皇詔報曰〈
  〔太上天皇にまをさく〕・〔これに、太上天皇のりこたへたまはく〕
 この一往復のやり取りは、①②の言葉が共に宣命体で書かれる。 だから、太上天皇から詔が発せられる場合があるのは確かである。
東大寺廬舎那仏
 とすれば、「諸兄奉詔[A]白神曰天皇ガ御命ニ坐[B]申賜[C]ト申ク」がかなり回りくどい文に見えるのは理由があり、 の詔の発行者は孝謙天皇、の発言者は聖武上皇、の主語は孝謙天皇に、使い分けた結果かも知れない。 の「天皇ガ御命ニ坐」は、「聖武天皇が在位していたときに発した詔」の意味であろうか。
《銅湯ヲ水ト成》
 水は、聖なる水のことだと考えられる。は銅が融解した液体で、 これを流し込んで大仏の本体を造る(正確に言うと銅と錫の合金)。現代語でも、高温で液体になった金属を「湯」という。
《我身ヲ草木土ニ交テ》
 大仏の鋳造のために、周囲に土を積み上げ、その上に銅を溶かす炉を設ける。その燃料として、草木を使う。 土は、銅を流し込む鋳型として用いる。 日本においては、すべての自然物には神が存在するが、今回は使用する草木土の神として八幡神自身が宿ることにすると言っている。
《御冠献事》
 八幡神に神階一品、比咩神に二品を叙位したことを指す。叙位のことを「かうぶる」という。これは上代の「かがふる」の音便である。 一品と二品の差は、そのまま宇佐神宮内での格付けを示したものであろう。
 比咩神について、<wikipedia>宇佐神宮ほかではこれは宗像三神のことであるとしているが、八幡社の比売大神の正体については卑弥呼をはじめとして諸説ある</wikipedia> という。宗像三神は、古事記では須佐之男命と天照大神の間に生まれた三女神である。
《大意》
 二十七日、八幡大神宮の禰宜(ねぎ)尼(に)大神(おおみわ)の朝臣(あそん)杜女(もりめ)【其の輿(こし)紫色 一同乗輿。】が、東大寺に参拝した。 天皇、太上天皇、皇太后も同じく行幸された。
 この日、官僚及び諸氏人らは、皆寺に会堂した。
 僧五千人を招き、仏に拝礼して読経した。 大唐・渤海の呉楽(ごがく)、五節田舞(ごせちのまい)、久米舞(くめのまい)を用意した。 このようにして、八幡大神に一品(いっぽん)、比咩神(ひめかみ)に二品(にほん)を奉じた。
 左大臣、橘の宿祢(すくね)諸兄(もろえ)は詔を奉じ、神に申し上げるに、
「天皇より勅を奉り、申し上げよと命じられたことを申し上げるに、
『去る辰年〔741〕、河内国大県郡の智識寺に鎮座する廬舎那仏を参拝し、朕も造営しようと思ったのですが、 できずにいたところ、宇佐郡の広幡八幡大神に申し上げ、勅をいただくに、
“神〔私〕は、天神地祇を仲間に誘って必ず成し遂げよう。 もしことが成りそうになくとも、溶けた銅を聖なる水として、私の身を草木土に込めて、障害を乗り越えて成功させよう” との勅をいただきながら、とうとう成し遂げたので、喜び、尊く思われます。 ただ、まだ未完成のところもあり畏れ多いことですけれども、 神階を献ずることを、畏みて申し上げるように』とのこと、申しあげます。」 と、諸兄は申し上げた。
 尼杜女には従四位下、神司の大神の朝臣田麻呂には外従五位下を与えた。
 東大寺には、寺封四千戸を与え、使用人男子百名、女子百名を封じ、 さらに東大寺造営に関わった人には、貢献度に応じて各級の叙位を行った。


【智識寺】
 石(いわ)神社(大阪府柏原市太平寺2-19-23)に、智識寺の東塔の礎石が残る。 大和川に近く、柏原市役所の北東500m。 柏原市の公式ページによると、「東西に高さ50mに及ぶ二つの塔を持ち、中心の北側に金堂、講堂が並ぶ薬師寺式の伽藍配置で、 東塔跡は調査されて一辺16.8mの重成基壇が確認され、礎石は石神社の境内に移されていた」という。
 <wikipedia>によると、智識寺は、7世紀後半の創建と伝えられ、広く人々の信仰を集めていたが11世紀終わりごろに衰退・荒廃し、鎌倉時代に太平寺に統合されたという。

【宇佐神宮】
 宇佐神宮公式ページによると、 「御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地にご示顕にな」り、 「725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされ」「これが宇佐神宮の創建」だとされ、 「731年(天平3年)に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神をお祀り」したという。
 この「宇佐国造」については、7世紀はすでに国造は廃されて国司の時代なので、宇佐神宮の宮司家として存続していたことになる。 宇佐国造は「宇佐氏の伝承では宇佐都彦命を祖とし、当初は大神氏と共に宮司に補せられてたが、大神氏が衰えた後は大宮司を世襲し、代々、宇佐八幡宮の神主家として存在した」(「日本辞典」)という。

解 釈
 宇佐大神の「銅湯を水と成、我身を草木土に交て障事無くなさむ」という言葉 は、人間の世界においては宇佐神宮による、費用や人の援助という形で実体化される。 大仏が姿を現したタイミングで、篤く援助を賜ったお礼として、宇佐大神宮の最高位かそれに準ずると思われる禰宜尼らを招待して、盛大な会(え)を催した。 天皇クラスが使う紫輿を許すほどの気遣いを示したのは、それだけ莫大な援助を受けたことを示す。 また、「我が天神地祇を率ゐ誘ひて」という言葉から、各地の八幡宮を初めとする全国の社寺に援助を呼び掛けたと思われる。 当時の宇佐大神宮には、かなりの経済力と政治力があったのだろう。


2016.12.08(thu) [15] 「五臓の欝結を写さんとする」山上憶良の歌三首 

 山上憶良は、726年に筑前国司に赴任し、732年に帰京した。 万葉集五巻の08680870の3首はその時期に歌ったもので、題詞が添えられている。 歌の前に書かれた歌についての説明を詞書(ことばがき)といい、そのうち漢文によるものを題詞という。

0868-題詞】
…おそれる。
頓首…ぬかつく。頭を地につけて礼拝する。
方岳…「四方の山」から転じて「諸国」。
都督刺史…都督・刺史ともに、中国で州を監督する官職。日本では「おほみこともち(大宰府)」長官の唐風表現として「都督」を用いる。
並依典法…「みな、典法に従って」
部下…本来「被統率的人」(汉典)だが、ここでは「巡行」する対象だから「管轄する域内」の意味であろう。
くぬち…国内。「くにのうち」の短縮。
風俗…〈現代語古語類語辞典-上代〉ふうぞく。
意内…意(こころ)の内。
多端…こまごましたことが多く忙しい。
意内多端口外難出…ここでは「腹立たしいことが多すぎて言いつくせない。」
鄙歌…田舎風の歌。ここでは田舎のことを詠んだ歌。
五蔵…五臓。〈倭名類聚抄〉五蔵肝心脾肺腎也。
はらわた…〈時代別上代所引『華厳音義私記』〉腸腎肝脯【訓胎和多】〔はらわた〕〔「脯」は干し肉という意味なので、「肺」の誤りか〕
欝結…鬱憤。
いきどほる…心の中に不満や憤懣がくすぶる。
憶良誠惶頓首謹啓 憶良聞
方岳諸侯都督刺史 並依典法巡行部下察其風俗 
意内多端口外難出
謹以三首之鄙歌欲寫五蔵之欝結 其歌曰

憶良誠(まこと)に惶(かしこ)み頓首(ぬかつ)き謹(つつし)みて啓(まを)す。憶良聞きまつらく、
方岳諸侯(もろもろのくに)の、都督(おほみこともちのつかさ)刺史(くにのつかさ)、並(な)めて典法(のり)に依(よ)り、部下(くぬち)を巡り行きて、其の風俗(ふうぞく)を察(み)るさまをききまつりて、
意(こころ)の内(なか)多端(さはにわづらひ)て口の外(ほか)に出(いで)難(かた)くして、
謹みて三首(みうた)之(の)鄙歌(ひなうた)を以(も)て五蔵之欝結(はらわたのいきどほり)を欲写(うつさむとす)。其の歌(うたよみ)して曰(うたはく)。

〔 大宰府・国司がみな慣例通りに行っていた国情の視察の様子を聞き、 思うことが多すぎて言い尽くせず、 謹んで三首の鄙歌をもって五臓の欝結(腹の中のもやもや)を発露いたします。 〕

0868
麻都良我多 佐欲比賣能故何 比列布利斯 夜麻能名乃尾夜 伎〃都〃遠良武

まつらがた さよひめのこが ひれふりし やまのなのみや ききつつをらむ

〔松浦県佐用姫の子が領巾振りし 山の名のみや聞き乍居らむ〕
《佐用姫伝説》
(0871)の題詞に、佐用姫伝説が紹介されている。
…停泊させる。
…[動] 顔を向ける。顔をそむける。
悵然…〈汉典〉憂思失意的様子。
黯然…〈汉典〉①陰暗、黒暗的様子。②心神沮喪的様子。
銷魂…〈汉典〉心迷神惑。亦作「消魂」。
…さしまねく。
大伴佐提比古郎子 特被朝命奉使藩國
艤棹言歸稍赴蒼波
妾也松浦佐用嬪面
嗟此別易歎彼會難
即登高山之嶺遥望離去之船
悵然断肝黯然銷魂
遂脱領巾麾之傍者莫不流涕
因号此山曰領巾麾之嶺也

大伴佐提比古郎子(おほとものさてひこいらつこ)特(ことに)朝命(おほせこと)を被(おほ)して藩(となり)の国に使はされ奉(まつ)りて、
艤棹(ふねさををよせ)言(こと)帰(かへ)りて稍(やや)ありて蒼波(あをなみ)に赴(おもぶ)けり。
妾(をむなめ)[也]、松浦佐用嬪(まつらさよひめ)面(かほをそむけ)て、
此(この)別(わかれ)易(やす)きを嗟(なげ)きて、彼(かの)会(あ)ひ難(かた)きを歎(なげ)きて、
[即]高き山之(の)嶺(みね)に登りて遥かに離去之(さかりぬる)船を望みて、
悵然断肝黯然銷魂(ちやうぜんだんかんあむぜんせうこんにして、こころまとひにまとひて)、
遂に領巾(ひれ)を脱(と)き之(これ)を麾(ふ)りて、傍(ほとり)の者(ひと)莫不流涕(なみたをながさざることなし)。
因(しかるがゆゑに)此の山を号(なづ)けて領巾麾之嶺(ひれふりのみね)と曰ふ[也]。

〔大伴の佐提比古郎子は、朝廷の特命により外国〔新羅〕に派遣されました。 佐提比古は船を着岸し、その旨を告げに帰り、間もなく青波に船を出して赴きました。 恋人の松浦佐用姫は、顔を背けて別れの容易さと再会の困難さを嘆き、 高い山の嶺に登って遥かに遠ざかる船を望み、暗澹たる気持ちでありました。 遂に纏っていた領巾を脱いで振り回し、傍らにいて涙を流さない者はいませんでした。 よってこの山は領巾麾嶺(ひれふりのみね)と名付けられました。〕

 大伴佐提比古は、宣化天皇紀二年〔537?〕に登場する。
 「二年冬十月壬辰朔 天皇以新羅アダシ於任那大伴金村大連オホムラジ其子磐狭手彦 以助任那
 〔新羅が任那に侵攻したので、大伴金村大連に命じてその子、磐と狭手彦を任那に派遣した〕
 領巾振山は、現在も鏡山(佐賀県唐津市)の別名として残る。
《歌意》
 松浦佐用姫伝説のある領巾振山の名を聞くのみで、行ったことはないであろう。

0869
多良志比賣 可尾能美許等能 奈都良須等 美多〃志世利斯 伊志遠多礼美吉 一云阿由都流等

たらしひめ かみのみことの なつらすと みたたしせりし いしをたれみき あるいはく あゆつると

〔足日女神の命の魚釣らすと(または「年魚釣ると」) 御立たしせりし石を誰見き〕 
《御立た・し・せ・り・し…》
 …軽い尊敬「」の連用形(名詞化)。 …「」の命令形(「り」への接続形)。 …完了「」の連用形。 …完了「」の連体形。
 すなわち「お立ちになったところの」。
《垂綸石》
 足日女(神功皇后)が、その上に立って鮎釣りしたと伝わる石は、垂綸石などと呼ばれる。 垂綸とは「綸(いと)を垂(た)れる」、即ち魚釣りの事。
 伝説の地は、末羅県(あがた)玉嶋里。玉島神社(佐賀県唐津市浜玉町南山)の付近と言われる。 そのすぐ近くの万葉垂綸石公園に垂綸石が置かれている。
《歌意》
 足日女が魚(あるいは鮎)を釣ろうとして立った石を、誰が見たか。

0869-左注】
天平二年七月十一日 筑前國司山上憶良謹上
〔730年8月28日〕
 国司は、律令において国造を廃止して定められた諸国の行政機構。〈倭名類聚抄〉には、 国守(かみ;長官クラス)、 国介(すけ;次官クラス)、 国掾(まつりことひと;判官クラス)、 国目(佐官;佑官クラス) が挙げられ、これらが国司を構成したとされる。

0870
毛〃可斯母 由加奴麻都良遅 家布由伎弖 阿須波吉奈武遠 奈尓可佐夜礼留

ももかしも ゆかぬまつらぢ けふゆきて あすはきなむを なにかさやれる

〔百日しも行かぬ松浦道今日行きて 明日は来なむを何か障れる〕
《歌意》
 百日も要しない松浦路を、今日は行っても明日行かないのは、何か差障りがあると言うのか。

解 釈
 三首は「都督・刺史」への怒りを詠んだ歌である。 都督(とどく)は、三国時代の魏に始まり、もともと軍を統率する役職。また、刺史(しし)は朝廷が州に派遣した監察官であったが、後漢の時代には事実上地方を直接統治する。 唐代には、都督は刺史を兼ねていた。日本においては、大宰府(おほみこともち)長官の大宰帥(だざいのそち)の唐風表現が「都督」である。 また、「刺史」は国守の唐風表現とされる。
 三首のうち二首目までは伝説を取り入れ、まだ風雅の歌を装っているが、三首目に到りとうとう直接話法で非難している。
 山上憶良は、<wikipedia>神亀3年〔726〕筑前守に任ぜられ任国に下向。神亀5年〔728〕頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人とともに、筑紫歌壇を形成した。 天平4年〔732〕頃に筑前守任期を終えて帰京</wikipedia>した。
 憶良は旅人と切磋琢磨して歌詠みに勤しんでいた。旅人が大宰帥として着任し、管内の視察をサボっていることを当てこすったと読めなくもない。 しかし、憶良は旅人の妻の死に際してはその心情に深い思いを寄せ(0793以下)、旅人への友情は篤い。だから、旅人に向かって言っているのだとすれば、言葉が厳しすぎる。
 「並依典法…」の「」は「歴代の」都督・刺史を指していると読むことができる。 「典法」即ち「慣例通りにやってきたのではあろうが」と、不満を表している。 憶良は貧窮問答歌(0892)において人々の生活の有様を直視し、民の心情を自分のことのように受け止める感覚がある。 だから、歴代の大宰帥、あるいはその配下の者が地域に足を運ぶことをせず、世情を行政に反映する姿勢を欠いていたことに対して 「五臓の欝結」というほどの怒りを感じていたと理解すべきであろう。


2016.12.19(mon) [16] 地名「住吉」考 

 現在、大阪市には住吉区と住之江区がある。 <wikipedia>現在、住吉、住之江、墨江は、別な地域名となっているが、元は住吉の読みの「すみのえ」の異表記だった と言われる。
 〈倭名類聚抄〉には{摂津国・住吉【須三与之】郡〔すみよし〕で、 日本書紀に書かれた「住吉」は、一般的に「すみのえ」と訓まれている(岩波文庫版など)。 ここでは地名スミヨシ、スミノエについて探った。

【釈日本紀所引の『摂津国風土記』】
 釈日本紀〔卜部兼方編、13世紀末〕には、住吉大神について書かれた『摂津国風土記』の逸文が引用されている。 その部分について考察する。
 なお、原文は『新訂増補 国史大系8』(吉川弘文館、1999)による。 同書は、「前田侯爵家所蔵本」により、後世の加筆(句読点、ヲコト点)まで含めているが、 ここでは、加筆部分を取り除いて示す。

【釈日本紀-神功皇后】
 『釈日本紀』巻十一〈述義七〉の「宜居大津渟中倉之長峡」の項には、 延喜式神名帳と摂津国風土記からの引用がある。
宜居大津渟中倉之長峡住吉和魂
 神名帳曰摂津国住吉郡住吉坐神社四座〈並名神大 月次相甞新甞〉
 攝津國風土記曰住吉大神現出向而巡行天下覔可住國時至於沼名椋之長岡之前〈前者今神宮南辺〉仍定神社
《神名帳》
神名帳曰はく、摂津国住吉郡、住吉坐(すみよしにます)神社、四座(よくら)。並(みな)名神〔=有力な神〕。大〔=大社〕。月次。相甞。新甞。
 延喜式神名帳を、正確に写している。現在の主祭神は筒男三神と神功皇后で、神名帳に言う「四座」もその四神であったと思われる。
《摂津国風土記逸文》
 神代上「住吉大神」の項(次項)から、 「所以稱住吉者昔息長足比売天皇同世」「其地」 「乃謂斯實可住之國遂讃稱之云眞住吉々々國」「今俗略之直稱須美乃叡」 の字を省くと、この文になる。恐らくそこから抜き出したものであろう。

【釈日本紀-神代上】
 『釈日本紀』巻六〈述義二〉の「住吉大神」の項の中にも「摂津国風土記曰」とする引用がある。 以下は、摂津国風土記から引用した部分。
住吉大神
攝津國風土記曰所以稱住吉者 昔息長足比売天皇世 住吉大神現出向而巡行天下覔可住國時至於沼名椋之長岡之前【前者今神宮南辺其地】 乃謂斯實可住之國遂讃稱之云眞住吉々々國 仍定神社今俗略之直稱須美乃叡
摂津国風土記に曰はく 住吉と称(なづ)ける所以(ゆゑ)は、 昔息長足比売天皇(おきながたらしひめのすめらみこと)の世(みよ)に、 住吉大神(おほみかみ)現れ出で向ひて天下(あめのした)を巡り行きて、 住むべき国を覓(もと)めし時、沼名椋之長岡之前(ぬなくらのながをかのさき)に至りて【前(さき)は今神宮(かみむや)の南の辺(ほとり)其の地(ところ)なり】、 乃(すなは)ち謂(のたま)はく斯(これ)実(まこと)に住むべき国とのたまひて、 遂に讃(ほ)めこれを称(なづけ)て真住吉(ますみよし)住吉国(すみよしのくに)と云(のたま)ひて、 仍(すなは)ち神社(かむやしろ)に定めり。今俗(くにのひと)こを略(はぶ)きて直(ただ)須美乃叡(すみのえ)と称(とな)ふ。
 住吉大神が地名を定めた時点では「すみよし」であったというのは、神話上のことに過ぎないが、 少なくとも風土記が書かれた時点で、「住吉」と書いて「すみのえ」と訓まれていたことがわかる。
 なお、ここで神功皇后が「天皇」と呼ばれているのが目を惹く。書紀においては、神功皇后は 摂政であり、決して天皇とは書かれてはいないのだが、当時の人々の意識は国の統治者=天皇という漠然としたものであったらしい。 倭建命についても、『常陸国風土記』行方郡などに「倭武天皇」の表記がある。

【記-伊邪那岐命段】
 伊邪那岐命の禊のときに筒男三神が現れた(第43回)。 曰く「其底筒之男命中筒之男命上筒之男命三柱神者墨江之三前大神也」。
 神功皇后紀の「大津渟中倉之長峡」を、記の「墨江」と同じ場所だと読むためには、 摂津国風土記の記述が必要である。 

【万葉集に書かれた「住吉」】
 万葉集では、住吉=28例、墨吉=6例、墨江=3例、墨之江・清江が各一例、 そして万葉仮名が二例(須美乃延、須美乃江)である。 そのうちの一首から部分を抜き出して示す。
(万)4408 須美乃延能 安我須賣可未尓 奴佐麻都利 伊能里麻乎之弖 奈尓波都尓 船乎宇氣須恵
 すみのえの あがすめかみに ぬさまつり いのりまをして なにはつに ふねをうけすゑ
 須美乃延すみのえの吾が皇神に幣祭り 祈り申して難波津に船をうけ居ゑ〕
※…各地の地祇または、皇祖神。
 文脈から見て、この「すみのえ」が住吉を指すのは明白である。 万葉集の「住吉」が一般にスミノエと訓まれているのは、この歌や「墨之江」などの表記によるものだろう。 語源は、澄み切った水の入り江を意味する「清江」かも知れない。
《「長皇子の歌》
 万葉集一巻から長皇子作の一首を示す。
(万)0064 霰打 安良礼松原 住吉乃 弟日娘与 見礼常不飽香聞  あられうつ あられまつばら すみのえの おとひをとめと みれどあかぬかも
 長皇子は、生年不明で、持統天皇7年〔693〕に三品相当の冠位を受け、和銅8年〔715〕没。 そのひとつ前の歌に慶雲三年〔706〕という日付があるから、その頃に詠まれた歌であろう。
《「住吉」が使われ始めた時期》
 それでは、「住吉」という表記になったのはいつであろうか。
 和銅六年〔713〕に風土記言上を命じた詔が発せされ、摂津国風土記もそれに応えて編纂されたと見られる。 その詔の中に、国・郡・郷の名に「好字」を用いよとある。 出雲国風土記では、国内の諸郷の改名が神亀三年〔726〕に行われたと書かれる。 摂津国の地名も、その前後に「好字」に改定され、そのタイミングで 「住吉」の字が当てられたと考えうる。
 ただ、書紀〔720〕に「住吉」があるので、713年からの僅か7年間で、 「摂津国での相談⇒朝廷への報告⇒書紀への反映」を行ったことになる。 畿内では、713年以前から好字化への動きが始まっていた可能性もあるが、何とも言えない。
 仮に、改称が713年以後だとすれば、 706年ごろの長皇子の歌に「住吉」があるのは辻褄が合わないが、 実は、万葉集に収められている歌はもともとは万葉集とは異なる字を使って書かれていた (資料[04])。 したがって、万葉集〔成立は759年以後〕を編纂した時点で、 収めた歌の中にあった「すみのえ」に、遡って「住吉」の字を当てたと考えることもできる。

【摂津国風土記における地名譚】
 摂津国風土記では、神功皇后の時代に住吉大神がこの地を気に入って「住み良し」と言ったのがはじめで、 地元の人が略して「すみのえ」となったとする。
 しかし、これまで見てきたように事実は、もともと「すみのえ」であったから、 この地名譚は、"好い字"のために頭をひねって「住吉」を考え出したとき、創作された可能性が高い。
 しかし「地元の人は略してスミノエと称する」と書いていることから、相変わらずその地は「すみのえ」だったことが分かる。

【倭名類聚抄】
 後に〈倭名類聚抄〉には{摂津国・住吉【須三与之】郡〔すみよし〕とあるから、 倭名類聚抄が編纂された承平年間〔931~938〕には、「すみよし」が公式になっていた。 それでも、地元では依然として「すみのえ」という呼び名が残り、そのまま現代に到ったと言える。

まとめ
 以上を、時系列に沿って整理する。
 6世紀以前…おそらく「すみのえ」と呼ばれる江(え)が存在した。
 712年…古事記に筒男三神を祭る地として「墨江」が載る。
 713年…国郡郷名に「好字」を命じる詔。
 720年頃…「住吉」の表記が定まる。訓みは「すみのえ」。
 720年…日本書紀に「住吉」の表記、「大津渟中倉之長峡」の記事。
 同上…摂津國風土記に、沼名椋之長岡之前が「住吉」であるとする。
 759年ごろまで…「すみのえ」を歌った古い歌に、万葉集の編者は「住吉」の字を当てた。
 930年代…倭名類聚抄に、「すみよし」。
 同上…現地では「すみのえ」も失われなかった。
 2000年代…「住吉」「住之江」「墨江」の地名が並存する。
 大雑把に言って、720までに「住吉」の表記が生まれたが、しばらくは「すみのえ」と訓まれた。 「すみよし」が浸透し始めたのは早くても8世紀後半で、10世紀ごろに、やっと「住吉」を「すみよし」と訓むようになったらしい。


2016.12.28(wed) [17] 日本書紀の「難波」 

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 倭名類聚抄の国郡郷に難波はないが、書紀の記事中に度々登場する。 そこで、歴史から難波という地名を拾ってみる。

【難波大郡と難波小郡】
 難波大郡が欽明天皇紀・推古天皇紀・舒明天皇紀に見え、難波小郡が天武天皇紀上に見える。 <wikipedia>上町台地の東部(河内湖沿い)を「難波大郡」、西部(大阪湾沿い)を「難波小郡」と称した</wikipedia>と言われる。 この難波大郡が東生郡(後に東成郡)、難波小郡が西成郡になったといわれる。
 難波小郡はもともと上町台地西のごく細い海岸地帯だったと思われる。 その後大阪湾が陸地化するのに伴い、西に向かって拡大していったことになる。 また、東の河内湖にも土砂が堆積して陸地化し、難波大郡も面積を広げる。 それぞれ、西に向けて新しい陸地が成ったから西成で、東向きにも土地が生まれたから東生だと想像される。

【難波之碕】
 神武前紀に「難波之碕奔潮太急 因以名爲浪速國〔難波の碕で激しい潮流に翻弄されたので、浪速国の名がついて〕とあるように、 潮流の速いところである。記は「浪速之渡」と書く。上町台地が河内湾に突き出した岬だったとき、その先端と対岸に挟まれた海峡は、干満のときの潮流が速かったと思われる。 神武前紀における地名譚は、河内湖が大阪湾に繋がっていた弥生時代から記憶が受け継がれていたように思える (第96回【旧河内湾】)。

【難波高津宮】
 仁徳天皇紀に「大鷦鷯尊卽天皇位…都難波 是謂高津宮」とある。 高津宮(こうづぐう、大阪府大阪市中央区高津1-1-29)の〈由緒〉に、 「貞観8年〔866〕勅命により難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったことに始まる」とある。
 また、仁徳天皇紀三十八年七月条の「天皇與皇后居高臺而避暑 時毎夜自菟餓野有聞鹿鳴〔天皇と皇后は高台にいて避暑したとき、毎夜兎我野から鹿の鳴くを聞く〕 の記事により、現在の「兎我野」の地に近い上町台地の北端とする説もある。
 さらに、前期難波宮と同じところとする説も見られる。

【難波の堀江】
 仁徳天皇紀十一年十月条に「宮北之郊原南水以入西海 因以號其水堀江〔宮の北の郊(=城の外)の原を堀り、南の水を引き西の海に入れ、その水を堀江と名付けた〕 とある。
 これは、既に潟になっていた河内湖と大阪湾を繋ぐ運河を掘ったもので、それが現在の大川のところだと解釈されている。 ただ、この文を正確に読むと、宮の北に既に存在していた川の途中を北に分岐させ、その先を大阪湾まで繋ぐラインを掘ったことになる。 現代の地図からは、それに該当する場所は決め難い。
 堀が掘削された時期については、仁徳天皇の崩年は5世紀初めと推定されるが(倭の五王)、 史実としては仁徳朝より後ではないかと言われる。

【法円坂遺跡】
法円坂遺跡 復元倉庫
 法円坂遺跡は5世紀後半に作られた倉庫の跡で、 現在はその上に大阪歴史博物館(大阪府大阪市中央区大手前4丁目1-32)が建ち、博物館前に復元倉庫が建っている(右図)。
 倉庫は2列16棟からなり、平均90mの面積をもつ高床式の建物である。 西方からの物資の集積場と思われる。 この施設が堀江から引き込まれた難波津に面していたことは、十分に想像できる。

【難波津】
 難波津の遺跡は未発見であるが、難波津の歌が存在する。「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」。この歌は、飛鳥時代に手習いのために広く用いられたらしく、多数の木簡が出土している。 一例として、〈木簡データベース〉(奈良文化財研究所)石神遺跡の「奈尓波ツ尓佐児矢己乃波奈」がある。
 万葉集には「なにはつ」を詠んだ歌が四首ある。その一首に (万)4330 奈尓波都尓 余曽比余曽比弖 氣布能比夜 伊田弖麻可良武 美流波〃奈之尓  なにはつに よそひよそひて けふのひや いでてまからむ みるははなしに。がある。 〔難波津に装ひ装ひて今日の日や 出でて罷らむ見る母なしに〕=「難波から任地に旅立つが、見送る母の姿はない」。
 このように役人がここから任地に赴いたり、水揚げされた物資が集積されるわけだから、西日本への重要な玄関口であったわけである。

【前期難波宮】
 天武朝の難波宮と聖武朝の難波宮は同じ場所で、考古学ではそれぞれ前期難波宮・後期難波宮と呼ぶ。 前期難波宮には、天武天皇紀に、火災の記録 「〔朱鳥元年〔686〕春正月壬寅朔〕乙卯酉時 難波大藏省失火 宮室悉焚」がある。 そして朱雀門の柱穴〔中央区上町一丁目〕に激しい火災の痕跡、朝堂院東第4堂〔中央区法円坂町1丁目〕に焼け壁が発見された。 前期難波宮は孝徳紀に「難波長柄豊碕宮」と書かれ、白雉二年〔651〕の大晦日に遷都した。同五年〔654〕に孝徳帝が崩じて飛鳥板蓋宮に遷都されたが、 天武紀の「難波大蔵省〔なにはのおほくらのつかさ〕という呼び名を見ると、首都機能が分散配置され、依然としてその一翼を担っていたように読める。
難波宮 大極殿跡

【後期難波宮】
 聖武天皇天平十六年〔744〕に遷都。しかし、翌年1月1日には紫香楽宮に遷都してしまう。 昭和29年〔1954〕大極殿跡〔中央区法円坂1丁目難波宮史跡公園内〕が初めて発掘された。

まとめ
 現代地名の難波は、中央区の南部の難波一~五丁目、そして難波千日前。 さらに、その南西に浪速区(なにわく)がある。 飛鳥時代には、それより少し北の、大阪城の南ぐらいが難波の中心地だったようである。 難波津の場所は未だ確定していないようだが、いずれ難波宮遺跡一帯のどこかにに石積みの埠頭などが見つか るかも知れない。 そうすれば、万葉集4330が詠まれた現場がそこであろうということになる。


2017.1.3(wed) [18] 「朝臣とアソ」試論 

 書紀、神功皇后元年三月五日条に
――いざ吾君あぎ 五十狭茅宿祢 たまきはる 内のアソが くぶつちの 痛手負はずは 鳰鳥にほどりかづきせな
 という歌がある。
 また、記では仁徳天皇段に、
――たまきはる 内のアソ こそは 世の長人ながひと 虚見そらみつ 倭の国に 雁卵産かりこむと聞くや
 がある。なお、期の仁徳天皇紀にも類似の歌がある。
 この「アソ」には一般に「朝臣」の字を当てるが、 朝臣が略された語なのだろうか。 あるいは、起源を異とするアソが存在したのだろうか。 ここで、朝臣とアソの繋がりの探求する。

【万葉集の戯れ歌】
 万葉集でアソを朝臣を詠った歌が、万葉集巻十六の3840以下の四首に見られる。 これらは、「朝臣」が互いに「嗤う」歌である。
《池田朝臣vs大神朝臣》
 まず、38403841において池田朝臣(名を失す)と、大神〔おほみわ〕朝臣奥守が貶し合う。
3840 池田朝臣嗤大神朝臣奥守歌一首【池田朝臣名忘失也】
 寺〃之 女餓鬼申久 大神乃 男餓鬼被給而 其子将播  てらでらの めがきまをさく おほみわの をがきたばりて そのこうまはむ
3841 大神朝臣奥守報嗤歌一首
  佛造 真朱不足者 水渟 池田乃阿曽我 鼻上乎穿礼  ほとけつくる まそほたらずは みづたまる いけだのあそが はなのうへをほれ
 まそほ〔真朱〕…辰砂(水銀朱の鉱石)。
《大意》
 池田朝臣が大神朝臣奥守を嗤(わら)う歌。
――寺々の女餓鬼像は言う。大神神社の男餓鬼像はあちこちの女餓鬼像をだまして子を産ませている。
 大神朝臣奥守が仕返しに〔池田朝臣を〕嗤う歌
――仏像を造る辰砂が足らず、水が溜まっている。池田朝臣の鼻の上を掘れ。

 女餓鬼・男餓鬼は、使用人を指す解釈もありうるが、だとすれば風紀の乱れは笑いごとでは済まなくなる。 仏像の餓鬼像を貶すことに通して、大神神社を管理する大三輪氏をからかうのであろう。
 おそらく池田朝臣某は、鼻が赤かったのだろう。名前を忘れたというが、 本当はからかわれた者の名前を伏せたものと思われる。
《平群朝臣vs穂積朝臣》
 続いて、次の二首がある。
3842 或云 平群朝臣嗤歌一首
  小兒等 草者勿苅 八穂蓼乎 穂積乃阿曽我 腋草乎可礼  わらはども くさはなかりそ やほたでを ほづみのあそが わきくさをかれ
3843 穂積朝臣和歌一首
  何所曽 真朱穿岳 薦疊 平群乃阿曽我 鼻上乎穿礼  いづくぞ まそほほるをか こもたたみ へぐりのあそが はなのうへをほれ
 やほたでを…[枕] 穂積にかかる。
《大意》
平群朝臣が〔穂積朝臣を〕笑う歌一首。
――こどもたちよ、草を刈るな。穂積朝臣の脇草〔=腋毛〕を刈れ。
穂積朝臣の〔平群朝臣を笑う〕歌一首。
――どこの辰砂〔赤色の鉱石〕を掘るのか。平群朝臣の鼻の上でも掘っておれ。

《四首の性格》
 この四首は戯れ歌の類でが、 池田朝臣・大三輪朝臣・平群朝臣・穂積朝臣は、いずれも天武天皇が朝臣を賜姓したリストに含まれている〔天武紀13年11月〕
 これら四首の歌に付された題詞は、歌に詠まれた「阿曽」が朝臣を意味することを明確にする。

【続日本紀】
 宝亀四年五月七日の記事に「阿曽美為朝臣」がある。まず、この文はどのような文脈中にあるのだろうか。
――宝亀四年〔773〕五月乙亥朔。○辛巳〔七日〕
阿波国勝浦郡領長費人立言。
庚午之年 長直籍皆著費之字
因茲 前郡領長直救夫 披訴改注長直
天平宝字二年 国司従五位下豊野真人篠原 以無記験更為長費
官判依庚午籍為定
又其天下氏姓
青衣為采女 耳中為紀 阿曾美為朝臣 足尼為宿禰
諸如此類 不必従古
阿波国勝浦郡領、長費人立、言ふ。
「庚午之年〔670〕。長直の籍、皆『費』の字著きき。
ここに、前郡領、長直救夫、訴を披きて、改めて「長直」と注す。
天平宝字二年、国司従五位下豊野真人篠原は、記された験(ためし)無きを以て、更に改め長費とす。
官(つかさ)、庚午籍に依り判(さだ)め、定として、
またその天下(あめのした)の氏姓(うじかばね)
青衣を采女として、耳中を紀として、阿曾美を朝臣として、足尼を宿禰として、
もろもろこの類の如くして、必ずしも古(いにしへ)に従はず。」
〔長費人立は、長費(をさのあたひ)を長直に変えることを求めた。曰く、 「庚午籍〔670〕では、長費であったのを、 前郡領の長直救夫によって一度は、「長直」とする注を書き足したが、 天平宝字二年〔758〕に国司の豊野篠原は、その注には証拠がないと言って長費に戻した。 官は庚午籍を判断基準にするようだが、天下(世間)は 青衣を采女とし、耳中を紀とし、阿曾美を朝臣とし、足尼を宿禰に(勝手に)変えたように、 必ずしも古いまま(庚午籍)に従ってはいない。」〕
《アソミと呼ばれた時期》
 この記事から、朝臣はまた、阿曽美と書かれて一定の時期アソミであったことが分かる。
 天武天皇紀では、十三年〔684〕に朝臣・宿祢を含む八色の姓(やくさのかばね)を制定し、同年11月に、52氏に一挙に朝臣を、 また12月に五十氏に宿祢を賜姓したことになっている。 庚午年籍〔670〕に「阿曽美」があったとすれば、 八色の姓を定める以前から「阿曽美」「足尼」の賜姓が始まっていたことになる。
 しかし、天武天皇が壬申の乱に勝利して実権を握ったのが672年、即位はその翌年だから、 670年以前に賜姓があったとは考えにくい。
 しかし、続紀をよく読むと「不必従古」であり、 「不必従庚午籍」ではない。だから、ここは庚午年籍から離れてその後のある時点での 戸籍を意味するともとれるが、 庚午年籍は現存していないので、確かめようがない。

の不記載】
 万葉集の時代は、「ん」を表す文字が存在しない。 新潮文庫「ん」(山口謡司)から鴨長明〔1155~1216〕に触れた部分を引用する。曰く。
 鴨長明『無名抄』の「仮名序事」に 「撥ねたる文字、入声の文字の書きにくきをば、皆捨てて書くなり。 万葉集では新羅(しんら)をば『しら』と書けり。」
 (中略) 「ん」は、表記しないのが和歌を書くときの原則
 (中略) 『万葉集』の時代には仮名書きで「ん」を表す方法がなく、その伝統が和歌に残っていた。

(引用終わり)
 だから、万葉集の題詞で朝臣と見做された阿曽は、実際には「」が発音されていた可能性がある。

【八色の姓以前のアソン】
 以上から確認できる事実は、
 庚午年籍〔670〕における姓(かばね)の表記は、しばしば安易に変えてはならないものとされた。
 書紀〔720〕の神功天皇紀の歌謡に「于知能阿曾餓」〔内のアソが〕の語句がある。
 〔759以降〕万葉集の題詞の筆者は、歌に詠まれた「あそ」を朝臣と見做した。
 〔759以後〕万葉集の「阿曽」には、文字にされない「ん」がついていた可能性がある。
 宝亀四年〔773〕以前の一定の時期まで「阿曽美」という姓が存在していた。
 宝亀四年の時点では、「阿曽美」は「朝臣」と書かれるようになっていた。
 これだけである。
 一方、漢籍の語としての「朝臣」が存在する。〈汉典〉には「朝臣 朝廷的各級官員 韓非子。〔用例〕三守:國無臣者、豈郎中虚而朝臣少哉?」とある。 韓非〔前280?~前233〕は戦国時代の人だから、「朝臣」という語はその時代にすでに存在した。
 八色の姓において、この語を直接朝廷を支える重要官僚の姓として取り入れあそみ〔アサ-オミの母音融合〕と訓じたと思われる。 それが訛って「あそん」になり、万葉仮名表記では「」を書かないから、 万葉集で「あそ」と書かれたのはあそんであろう。
 それだけなら納得できるが、問題は書紀〔720〕に歌謡が載った時点で、すでに「あそみ」ではなく「あそん」だったとすると、八色の姓制定年〔684〕 から見て音韻変化の時間が短すぎることである。
 ならば、「あそん」は、もともと八色の姓制定以前から存在していた語であると考えた方がよい。 もっとも一般にはアソンではなく、語源を異とするアソという語であったと言われ、 〈時代別上代〉も「アソは吾兄(アセ)の転か」と述べる。 しかし、アソミが極めて短い期間にアソンとなったことを考えると、 それまでに八色の姓の「あそみ」に意味が似る語として、「アソン」が存在していたように思われる。

解 釈
 以上から、次の筋書きが想定される。
 まず、「朝臣」は早ければ古墳時代に我が国に流入し、 一度一族の王に仕える「臣」の呼称として使用された。その際、直訳の「あそみ〔あさ-おみの母音融合〕」という訓みが用いられ、 それが訛って「あそん」になっていた。(第Ⅰ期)
 八色の姓を制定するときに改めて「朝臣」を制定し、 それまでの慣習における呼称「あそん」と区別して「あそみ」と呼ぶことにした。(第Ⅱ期)
 しかし、人々は既に「あそん」に馴染んでいたから、急速に混同され八色の姓における朝臣も 「あそん」が当たり前になった。(第Ⅲ期)
 そして、
・書紀・記の歌謡は第Ⅰ期の歌で、「」を書かないから「阿曽」と表記される。
・第Ⅱ期は7世紀末から8世紀初めまでで、「阿曽美」の表記はこの時期のものである。
・第Ⅲ期には万葉集の「穂積乃阿曽」・「平群乃阿曽」などが該当し、再び「」が書かれなくなった。
 この筋書きなら、上記とは矛盾しないと思われる。 しかし、平安時代なら、〈倭名類聚抄〉の「蟹幡【加無波多】〔かむはた=カンバタ〕、 「丹波【太邇波】〔たには=タンパ、タンバ〕のように、ンを写し取ろうとしたと思われる文字が見られるが、 万葉集以前に「ン」に対応した文字を見つけることは不可能である。 だから、第Ⅰ期が「アソン」であった直接証拠は得られない。
 ただ、以前に存在した語が「アソン」ではなく「アソ」だとしたら、 アソミ→アソンの音韻変化には、もっと年月を要したのではないかと思われる。
 もう一つの可能性として、第Ⅱ期も実はアソンであって、そのを「美」で 表したということもあり得る。しかし、「」を表記した文字は「(無、牟など)」「(爾など)」「〔冷泉家など〕であり、 「ミ」で表した例を見ない〔あったとしても例外的であろう〕。 臣はもともと「おみ」であるから、敢えて「」と 訓ませることにより、それまでの「アソン」に対して八色の姓「アソミ」の差別化を図ったように思えるのである。


2017.04.11(tue) [19] 摂津職と摂津国 

 摂津国は、天武天皇の時代から摂津職が治める特別の国であったが、平安遷都のときに普通の国になった。その経過を文献に見る。

【国造本紀】
 国造本紀は、先代旧事本紀〔9世紀に成立〕の第十巻で、律令国成立以前の「国造」(くにのみやつこ)の時代の諸国を列記するが、 律令国以後の歴史も混在している。摂津国については次のように書かれている。
――「攝津國造。據-准法攝津職。初為京師。柏原帝代改職為國。
〔法令に準拠して摂津職と言う職があった。初めは京師であった。柏原帝(桓武天皇)の御代に職は廃されたが、国名となって残った〕
 「京師」は都を意味するが、遷都の前の都は平城京であり摂津国は都ではないから、辻褄が合わないように見える。 ここで、摂津国がどのような国であったかを見てみよう。

【天武天皇紀】
 天武天皇紀には、 六年〔677〕十月条で、丹比公麻呂を「攝津職大夫」に任ずる。
――「冬十月庚寅朔癸卯 内小錦上河邊臣百枝爲民部卿 内大錦下丹比公麻呂爲攝津職大夫 〔十月十四日、内小錦上の河辺臣百枝を民部卿とし、内大錦下の丹比公麻呂を摂津職大夫とした。〕
 冠位26階において、「小錦上」は第十位、「大錦下」は第九位。「」(内位)は本来の官僚組織内の階級を意味する。それに対して「外位」は外部の者に名誉として与えられるものである。 「職」がつく官名には他に、中宮職、左右の京職などがある。
 本ページ [17]「日本書紀の『難波』」で示したように、朱鳥元年正月条に
――「〔朱鳥元年〔686〕春正月壬寅朔〕乙卯酉時〔14日午後6時〕 難波大藏省失火 宮室悉焚
 があり、難波宮に大蔵省が存在していたことがわかる。
 これらの記述から、天武天皇のとき難波宮に首都機能を置き、それを仕切る役職として摂津職を定めたことが分かる。

【日本後記】
 桓武天皇は、長岡京遷都〔784〕、さらにその十年後に平安京遷都〔794〕を行った。 平安遷都に伴い難波宮も廃止され、必然的に摂津職も消滅した。
 正式に摂津職が廃止されたのは、〈日本後記〉に
――「延暦十三年。三月丁亥〔9日〕。改攝津職
 とあるから延暦十三年〔793〕である。国造本紀はこの表現に倣ったと見られる。
 「摂津職」とは、もともとは「津(難波津)を摂(と)る職」を意味したと見られる。難波津自体が既に国の中枢に直結する機構であるが、 同時旧難波宮に置かれた官署群の長で、さらに国全体を取り仕切っていた。
 「攝津職を改め国とす」とは、それまで摂津国は「摂津職」が中枢を兼ねる特別の国であったが、 それが国司を中枢とする普通の国になったという意味だと思われる。
 〈日本後記〉逸文には、直接国司を任命した記事は見えないが、
――延暦十六年〔797〕二月辛未〔15日〕に「從五位下平群朝臣廣道爲攝津介〔平群広道を「摂津の(すけ)」とした〕
 とあり、
――延暦二十三年〔804〕十月辛亥〔10日〕に「和泉攝津二國司郡司」、「攝津守從三位藤原朝臣雄友正三位
 に「国司」と「摂津守」が見える。
 国司とは、四等官;上から「」(かみ)、「」(すけ)、「」(じょう、まつりことひと)、「」(さかん)の総称である。

まとめ
 以上から、天武朝において難波の地は首都機能を担い、摂津職が置かれていた。 摂津職はまた摂津国そのものの司を兼ねた。
 国造本紀は、その実態から難波もまた「京師」であったと書いたわけである。
 平安遷都により首都機能は平安京に統合され、摂津職は廃止されて普通の国のように国司が配置されたが、 国の名称は「摂津国」のままとされた。確実に摂津職が置かれていた期間は677年から793年までとなる。


2017.05.22(mon) [20] 上宮記逸文 

 応神天皇の皇子、若野毛二俣王から数えて5代目が継体天皇とされるが、記紀にはその間の詳しい系図は書かれない。 その部分を埋める文章が『上宮記』にあり、その部分が逸文として『釈日本紀』(卜部兼方、1274年頃)の、巻十三「述義九」の第十七(継体天皇)の項に収められている。
 兼方は、「兼方案之。繼躰天皇之祖考。上宮記之外。更無所見。仍就彼記之。〔兼方こを案じ、継体天皇の祖を考(かんが)ふ。上宮記(じやうぐうき、かみつみやのふみ)のほか、更に見ゆるところ無し。仍(すなは)ち、かの記に就(つ)けこを注す。〕 と書き添えている。ただ、兼方の注は、必ずしも適切なものではない。ここでは、原文から直接読み方を探る。

【釈日本紀所引上宮記逸文】




上宮記曰
一曰 
凡牟都和希王 
俣那加都比古女名弟比賣麻和加
生兒 若野毛二俣王
凡牟都和希王〔記〕品陀和氣命(ほむたわけのみこと)に対応。
〔音〕チ。〈諸橋大漢和〉うるほす。
俣那加都比古〔記〕咋俣長日子王(くひまたながひこのみこ)、〔書紀〕河派仲彦(かはまたなかつひこ)に対応。
弟比売麻和加〔記〕息長眞若中比賣(おきながまわかなかひめ)、〔書紀〕弟媛(おとひめ)に対応。
若野毛二俣王〔記〕若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)、〔書紀〕稚野毛二派皇子(わかのけふたまたのみこ)に対応。
上宮記(かみつみやのふみ)に曰(い)ふ。
一曰(あるにいはく)、 
凡牟都和希王(おほむつわけのおほきみ)、
俣那加都比古(かはまたなかつひこ)の女(むすめ)名は弟比売麻和加(おとひめまわか)を娶(めあは)しまして、
生(あ)れましし児(みこ)、若野毛二俣王(わかのけふたまたのみこ)は、
娶母々恩己麻和加中比賣
生兒大郎子一名意富々䓁王
妹踐坂大中比弥王
弟田中比弥
弟布遲波良己等布斯郎女四人也
母々恩〔=思?〕己麻和加中比売〔記〕百師木伊呂辨(ももしきいろべ)に対応。
大郎子一名意富々䓁王〔記〕大郎子(おほのいらつこ)、亦の名は意富富杼王(おほほどのみこ)」に対応。
…(古訓) ふむ。
踐坂大中比弥王〔記〕忍坂之大中津比売命(おしさかのおほなかつひめのみこと)に対応。
田中比弥〔記〕田井之中比賣(たゐのなかつひめ)に対応か。
布遅波良己等布斯郎女〔記〕藤原之琴節郎女(ふぢはらのことふしのいらつめ)に対応。
母々恩己麻和加中比売(ももしこわかなかつひめ)を娶(めあは)せまして、
生れましし児(みこ)は、大郎子(おほのいらつこ)、一名(あるな)は意富々䓁王(おほほどのみこ)、
妹(いも)、践坂大中比弥王(ふみ〔おし?〕さかおほなかつひめのみこ)、
弟(おと)、田中比弥(たなかつひめ)、
弟(おと)、布遅波良己等布斯郎女(ふぢはらことふしのいらつめ)、
四人(よたり)也(なり)。


意富々䓁王
娶中斯知命
生兒 乎非王
此の意富々䓁王(おほほどのみこ)、
中斯知命(なかつしちのみこと)を娶(めあは)しまして、
生れましし児、乎非王(をひのみこ)は、

娶牟義都國造名伊自牟良君女子名久留比賣命
生兒 汙斯王
牟義都国造(むぎつのくにのみやつこ)、名は伊自牟良君(いじむらのきみ)の女子(むすめ)、名は久留比売命(くるひめのみこと)を娶(めあは)しまして、
生れましし児(みこ)、汙斯王(うしのみこ)、

伊久牟尼利比古大王兒
偉波都久和希兒
伊波己里和氣兒
麻加和介兒
阿加波智君兒
乎波智君
娶余奴臣祖名阿那尒比弥
生兒都奴牟斯君
妹布利比弥命也
牟義都国造
…美濃国武儀郡の辺りと考えられている。

布利比売命
〔継体天皇紀〕母曰振媛。振媛、活目天皇七世之孫也。
娶(めあは)せまさく、
伊久牟尼利比古大王(いくむにりひこのおほきみ)の児(みこ)、
偉波都久和希(いはつくわけ)の児(こ)、
伊波己里和気(いはこりわけ)の児、
麻加和介(まかわけ)の児、
阿加波智君(あかはちのきみ)の児、
乎波智君(をはちのきみ)、
余奴臣(よなのおみ)の祖(おや)、名は阿那尒比弥(あなにひめ)を娶せて、
生れましし児、都奴牟斯君(つぬむしのきみ)の、
妹(いも)布利比弥命(ふりひめのみこと)を、めあはせましき[也]。



汙斯王坐弥乎國高嶋宮時
聞此布利比賣命甚美女
遣人召上自三國坂井縣而娶
生 伊波礼宮治天下 乎富䓁大公王
弥乎国高嶋宮(みをのくに)
…〈倭名類聚抄〉{近江国・高島郡・三尾郷}。 〈神名帳〉{近江国/高嶋郡/水尾神社二座【並名神大 月次新嘗】}。比定社は「水尾神社」(滋賀県高島市拝戸716)。

三国坂井県
…現在の福井県坂井市三国町付近。〈神名帳〉{越前国/坂井郡/三国神社}。

伊波礼宮
…倭の磐余の宮。磐余池周辺と見られる。 〔記〕坐伊波禮之玉穗宮。〔継体天皇紀〕廿年秋九月丁酉朔己酉、遷都磐余玉穗。
汙斯王(うしのおほきみ)、弥乎国(みをのくに)の高嶋宮(たかしまのみや)に坐(ま)しし時、
此の布利比売命(ふりひめのみこと)甚(いと)美(うるはしき)女(をみな)と聞こし、
人を遣(つか)はして三国(みくに)の坂井県(さかゐのあがた)自(よ)り召上(めさ)げて[而]娶(めあは)せて、
伊波礼宮(いはれのみや)に天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ乎富䓁大公王(をほどのおほきみのみこ)を生みましき[也]。
父汙斯王崩而後
王母布利比弥命曰
我獨持抱王
无親族部之國
唯我獨難養育比陁斯奉
之云
尒將下去於祖三國命坐多加牟久村也
ひたす…[他]サ四 養育する。

多加牟久村
…〈倭名類聚抄〉{越前国・坂井郡・高向【多加無古】郷〔たかむこ〕。 越前国坂井郡高椋(たかぼこ)村か。現坂井市。
父汙斯王崩(ほうじ、かむあがりたまひ)て[而]後(のち)、
王(みこ)の母、布利比弥命(ふりひめのみこと)曰(まをさく)
「我(われ)独り王(みこ)を持ち抱(むだ)きて、
親族(うから)の部(べ)之(の)国无(な)くして、
唯(ただ)我独り養育(やしなひ)比陁斯(ひたし)奉(たてまつ)ること難し。」
と[之]云(まを)して、
尒(ここに)[将][於]祖(みおや)三国命(みくにのみこと)の坐(ま)す多加牟久村(たかむくむら)に下(くだ)り去らむとす[也]。
《弥の音価》

 記紀および万葉集を初めとして、「」はすべてである。
 しかし、この上宮記逸文では、「比売」に替えて「比弥」が多用されている。「姫」をヒミと発音することもあるのかと思われたが、 「布利比弥」を別のところで「布利比売」と書いている。これは複数の伝承を繋いだ結果とも考えられるが、 ここでは、女性名の中の弥は、であると解釈した方が適切であろう。
 しかし、これにより「卑弥呼」は実はヒメコかも知れないという、重大な事項に繋がる。
《汙斯王以下の構文》
 主語は「汙斯王」、動詞は「」、目的語は「布利比弥命」(同格)で、 伊久牟尼利比古大王〔垂仁天皇〕から都奴牟斯君妹までの長い部分は、「布利比弥命」を連体修飾する。
 すなわち、
汙斯王、めあはセキ伊久牟尼利比古大王-兒偉波都久和希-兒伊波己里和氣兒麻加和介-兒阿加波智君 -兒乎波智君セテ余奴臣祖・名阿那尒比弥 レマシシ兒・都奴牟斯君ナル布利比弥命也。
と訓読する。「」こそが、この長い文の文末を示す区切りの文字である。
 また、主語の「汙斯王」にも長い連体修飾節
意富々䓁王セテ中斯知命レマシシ兒・ 乎非王セテ牟義都國造・名伊自牟良君女子・名久留比賣レマシシナル
が掛る。
 「A児B児C」が「Aの子はB。Bの子はC」を意味することは、 『新撰姓氏録』で、直系の親子関係を「―男―」で表していることから類推できる。 ここではさらに、継体天皇紀の「振媛、活目天皇七世之孫」によって裏付けられる。但し、この「七世之孫」の部分は、上宮記で数えると「六世」である。
 なお、A・B・Cが兄弟関係の場合は、「生児A弟B弟C」と表している。
《釈日本紀による訓読》
 『釈日本紀』では、汙斯王を乎非王と兄弟関係と解釈している。 それは、意富々䓁王が一夫多妻で、「娶中斯知命」「娶牟義都國造…」「娶余奴臣祖…」の主語がすべて意富々䓁王であると解釈した結果である。
 右の写真は、兼方が作成した系図である。この系図では布利比弥命は汙斯王の妹となるので、 兼方は、「母后。如古事記者。彦主人王之妹也。〔振媛を古事記では継体天皇の母后であるかの如く書いているが、上宮記では振媛(布利比弥命)は彦主人王(汙斯王)である。〕と書き添えている。  なお、この文中に「古事記」とあるのは誤りで、正しくは「日本書紀」である。
 兼方は、「娶伊久牟尼利比古大王…」の部分については何も触れていないが、後世の刊本においては[]を補い、 …〔中略〕… と訓読する。しかし、これでは「意富々䓁王は伊久牟尼利比古大王〔=垂仁天皇〕を娶り、偉波都久和希以下の五子を生んだ」というあり得ないこととなり、当然誤りである。 少なくとも、「比古」は「彦」で、また万葉集でしばしば天皇を「大王」と表す程度の知識があれば、この誤りは生じ得ない。
 前項で述べたように、「兒~」はあくまでも「伊久牟尼利比古大王」から続く子孫の系図であり、「」の対象は「布利比弥命」である。
 また、古事記では複数の妃をもつ場合は「又娶」と書くことによってどの主語から繋がるかを明確にしている。 上宮記でも、「」などがないところを見ると「娶」の上に直接する人物が主語であろう。 以上に留意して訓読すれば、必然的に布利比弥命は乎富䓁大公王の母となり、書紀との食い違いはなくなる。
《妹・弟の書き分け》
 若野毛二俣王の子に、の表現が混在するのは不思議である。「弟」には妹という意味もあるから、 なぜ全部弟にしないのかと思わせる。 しかし、夫婦や兄妹など男女のペアには、男に(兄)、女にいも(妹)を用いる習慣がある。 すると、「兄の下は妹、姉の下は弟」という書き分けが成立する。 よって「妹―弟―弟―」と書けば、兄弟の構成が「男女女女」であることが確定する。 このことからは更に、「比弥」が「比売」と同じであることがわかる。
《汙斯"王"の訓み》
 「」の訓には、ミコキミオホキミがある。ミコは「王子」、オホキミは「大王」を意味する。
 汙斯王については文中で「崩」が使われているから、汙斯王はこの地方ではオホキミで、 難波の中央政権に服従している意識はなかったようである。
 またウシだけで既に統治者の意味があるから、オホキミの方が意味が合うことになる。
《伊波礼宮治天下乎富䓁大公王》
 「伊波礼宮治天下」は、記の「坐師木水垣宮治天下也」(崇神天皇)という表現に類似する。 ただ、オホキミを「大公」と表し、さらに「」が付くから固有名詞の一部になっている。 さらに「坐」が脱落しているところからは、「坐○○宮治天下○○大王」なる言い方にあまり馴染んでいないことを感じさせる。 「天皇」ではなく「オホキミ」なので、『上宮記』はまだ天皇という呼び名がなかった時代の文書ではないだろうか。
《大意》
 上宮記(かみつみやのふみ)に曰く。
 ある言い伝えに曰く、  凡牟都和希王(おほむつわきのみこ)は、 俣那加都比古(かわまたなかつひこ)の娘、名は弟比売麻和加(おとひめまわか)を娶り、 生まれた御子である若野毛二俣王(わかのけふたまたのみこ)が、 母々恩己麻和加中比売(ももしこわかなかつひめ)を娶って 生まれた御子は、大郎子(おおのいらつこ)、別名、意富々䓁王(おおほどのみこ)、 その妹・践坂大中比弥王(ふみ〔おし?〕さかおおなかつひめのみこ)、 その妹・田中比弥(たなかつひみ)、 その妹・布遅波良己等布斯郎女(ふじわらことふしのいらつめ)の 四人です。
 このうち意富々䓁王(おおほどのみこ)が 中斯知命(なかつしちのみこと)を娶って 生まれた皇子、乎非王(おひのみこ)が、 牟義都国造(むぎつのくにのみやつこ)で名を伊自牟良君(いじむらのきみ)という人の娘、久留比売命(くるひめのみこと)という姫を娶って 生まれた御子は、汙斯王(うしのおおきみ)でした。
 汙斯王が娶った姫は、 伊久牟尼利比古大王(いくむにりひこのおおきみ〔垂仁天皇〕)の皇子である 偉波都久和希(いわつくわけ)の子である 伊波己里和気(いわこりわけ)の子である 麻加和介(まかわけ)の子である 阿加波智君(あかわちのきみ)の子である 乎波智君(おわちのきみ)が 余奴臣(よなのおみ)の祖で名を阿那尒比弥(あなにひめ)という姫を娶って 生まれた子・都奴牟斯君(つぬむしのきみ)の 妹であるところの、布利比弥命(ふりひめのみこと)です。
 汙斯王が弥乎国(みおのくに)の高嶋宮(たかしまのみや)にいらっしゃった時、 この布利比売命(ふりひめのみこと)はとても美しい女性であると聞かれ、 人を遣わして三国(みくに)の坂井県(さかいあがた)から宮中に召し上げて娶られ、 伊波礼宮(いわれのみや)で天下を治められた乎富䓁大公王(おほどのおほきみのみこ)を生みなされました。
 父汙斯王が崩(ほう)じた後、 御子の母、布利比弥命は、こう申し上げました。
「私は独りで御子を抱きかかえて、 親族の御名代(みなしろ)の国もないので、 私がたったひとりで養育して差し上げるのは困難でございます。」 と。
 そして宮から下り、親の三国命(みくにのみこと)のいらっしゃる多加牟久村(たかむくむら)に去りました。


【一族の独立性】
 汙斯王(うしのおほきみ)の「うし」は一族の首長を敬って呼んだものである。 神代において日本海側は、大国主が支配していた。主(ぬし)は、一般に「~のうし」の母音融合だと考えられている。 持統天皇紀には、「布勢御主人(みうし)」が登場した。これらは僅かな例に過ぎないが、山陰・北陸においては首長をウシと呼ぶことが多かったのかも知れない。
 さて、上で述べたように汙斯王の死に「」が用いられた当時は、 畿内政権の大王に服属しているという意識は、希薄だったと思われる。
 さらに、記紀に描かれた仁徳天皇即位前の混乱を見れば、近江から越に一定の強大な勢力が存在し、宇治川を挟んで畿内政権と争う関係にあったことは、 隠しようがない。
 ここで一つ問題になるのは、宋書・梁書に描かれた相手は、明らかに畿内政権の方であることである。 日本海側にも朝鮮半島との交易ルートがあったのは間違いないと思われるが、独自に使者を送ることまでは無かったのかも知れない。

まとめ
 古事記が大国主の系図を詳しく書いたことを思えば、若野毛二俣王から継体天皇に至る系図ももっと書かれてよいように思われる。 しかし、応神天皇~継体天皇は既に人代であり、日嗣の系列は純粋な一本のラインとして確立済みでなければならない。 山陰~北陸の独立王国は神代の大国主を最後にして封印したので、今更この地方に別の政権があってはならないのである。 だから、記紀はこの地方権力の存在を極力伏せ、最小限の記述:「継体天皇は応神天皇の五世の孫」に留めたのであろうと思われる。
 さて、上宮記は「天皇」の呼称を使わず「治天下…大公王」などとと表現しているところから、7世紀半ば以前の書ではないかと想像される。 特に注目されるのは、「比賣」を「比弥」と書くところで、ことによると「卑弥呼」から続き、後に絶えた記法かも知れない。 「卑弥呼」が倭人自ら選択した漢字によると考えられるのは、[ko]に「」を宛てるからである (『魏志倭人伝をそのまま読む』―第62回参照)。
 釈日本紀が書かれた13世紀後半には、まだ『上宮記』(恐らく写本)が存在していたのである。 以後、釈日本紀の校訂の仕方を見ても研究レベルは低下していったと思われるから、 やがて『上宮記』などの古代文献は埋没し、多くは失われたのであろう。


2017.09.22(fri) [21] 日本書紀における「春分」の訓読 


 仁徳天皇紀六十二年条 の「春分」を、『仮名日本書紀』は「きさらぎ」と訓読する。〈時代別上代〉も岩波文庫版もそのまま「きさらぎ」と訓むように、これが伝統訓である。 そもそも春分は二十四節季のひとつで、太陽太陰暦において月名を定めるための目印として、太陽の運行に基づいて設定された日である 魏志倭人伝をそのまま読む(51))。 そして、「春分」を含むことになった月を、ニ月と定義する。従って春分は必ず如月の中にあるが、それは結果である。月の満ち欠けに基づく「月」と、 太陽と地球との位置関係で決まる「春分」とは自ずから概念が異なる。
 それでは、本来の春分の意味をやまと語で正確に表そうとすれば、どうすればよいのだろうか。

【暦法の導入】
 二十四節季〔以下単に「節季」〕による太陽太陰暦は、中国から導入したものである。 暦に関する最初の記録は、欽明天皇十四年〔553〕六月に百済に使者を送り「医博士易博士暦博士等宜番上下」、「卜書暦本種々薬物可付送」、 即ち暦博士などの〔任期による〕上下番の交代と、歴本の送付を要請している。 その後大化改新〔645〕で、天文・暦法に関する役所「陰陽寮」で定められたとされる。
 「春分」は暦法における基本中の基本であり、陰陽寮の博士によって正確に理解されていたことは間違い。〔でなければ、とても暦は扱えない〕 それでは、節季は一般にはどの程度広まったのであろうか。万葉集を手掛かりにして、調べる。

【万葉集に見る節季】
 万葉集に「立春」を題材にした歌がある。
――1819 打霏 春立奴良志 吾門之 柳乃宇礼尓 鸎鳴都  うちなびく はるたちぬらし わがかどの やなぎのうれに うぐひすなきつ 〔春が立ったらしい。私の家の門前の柳の枝先に鶯が鳴いた〕
 「うちなびく」は春にかかる枕詞。「春立つ」は他にも数例あるが、「春が来た」或いは「春が際立つ」の意味で使われ、暦における立春を直接指すものではない。 しかし、「春立つ」という言い回しに、節季「立春」の影響が伺われる。 「秋立つ」も同様である。 立夏については、題詞には「立夏」がよく出てくるが、歌には「夏立つ」は出てこない。
 他に節季に一致する語としては「白露」(しらつゆ)が大量に使われ、 さらに「大雪」(おほゆき)、「清明」(さやけし)、「霜降」(しもふる)もあるが、 これらは節季というよりも、一般的な言葉としての使用である。 ただ、漢字表記化に勤しむ万葉集編者の脳裏に時々節季の文字が浮かび、そのまま使用した可能性は否定できない。
 〈倭名類聚抄〉には十巻本・二十巻本共に、節季は収められていないので、少なくとも節季に対応する倭語のセットは揃えられず、 必要なときは音読みされたのだろう。 結局、二十四節季から生まれたやまと語は、「春立つ」「秋立つ」に限ると見られる。

【音読み】
 〈現代語古語類語辞典〉は「冬至」に対して、上代語として「とうじ」の存在を認めている。「陰陽寮」内部では、節季はすべて音読みしていたと思われる。 よって、飛鳥時代に「春分」の字面を見て「きさらぎ」とは訓むことはありそうもない。
 平安時代になり、書記の訓読研究家が音読みを避けたい一心で、月の呼び名に置き換えたものと考えざるを得ない。 その結果、もともと正確な定義を伴う科学用語が、情緒語に変質した。

まとめ
 日本紀私記〈甲本〉に春分の訓はなく、今のところ「きさらぎ」なる訓の起点は不明である。 注目されるのは、この「春分」が『釈日本紀』の「述義」「秘訓」には取り上げられていないことである。 著者の卜部兼方は、「春分」は春分以外の何物でもないと考えたのではないだろうか。
 どうも「きさらぎ」は、かなり俗っぽい訓ではなかったかと思われる。
 これがいくら広く残っているからと言って、無批判に現代に引き継ぐことには、疑問を感ぜざるを得ない。