古事記をそのまま読む―資料1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2015.11.24(火) [01] 萬歳 ▼ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『続日本紀』〈天平十七年〔745〕五月戊午朔、癸亥〔6日〕〉に、「車駕到恭仁京泉橋。于時、百姓、遥望車駕、拝謁道左、共称万歳。是日、到恭仁宮。」
〔車駕、恭仁京の泉橋に到る。時に、百姓(=人民)、車駕を遥かに望み、道の左より拝謁し、共に万歳を称ふ。是の日、恭仁宮に到る。〕
とある。それでは、このときの民衆が「萬歳を唱ふ」とはどのような声であろうか。
【明治時代】 バンザイは、<wikipedia>1889年(明治22年)2月11日に青山練兵場での臨時観兵式に向かう明治天皇の馬車に向かって万歳三唱したのが最初だという</wikipedia>。 【中国】 「<wikipedia>元々は中国に於て使用される言葉で「千秋万歳」の後半を取ったもの</wikipedia>」 と言われるが、『百度百科』では「千年万年 形容歳月長久」として、単に長い年月を指すと解釈されている。 『中国哲学書電子化計画』で古典を広く検索すると「千秋万歳」はなく、「萬歳」は一例だけヒットする。 『太平平記』(北宋:977~984)〈神仙一・黄安〉 黄安、代郡人也。……坐一亀、広長三尺。時人問「此亀有幾年矣」。 曰「昔伏義始造網罟。得此亀以授吾,其亀背已平矣。此虫畏日月之光、二千年則一出頭。我生、此虫已五出頭矣。」行則負亀而趨。世人謂安萬歳矣。 〔黄安は代郡(郡のひとつ)の人。亀に座し、大きさは三尺。ある時人が「この亀は何歳か。」と聞き、 答えて言うには「昔、伏義が初めて網を造り、この亀を得て私に授けた。その亀の背は既に平らであった。 この亀は太陽・月の光を恐れ、二千年に一回だけ頭を出す。私が生まれてから、この亀はこれまでに5回頭を出した。」 そう言って亀に背負われて、去って行った。ゆえに世の人は、黄安は万歳であると言う。〕 罟…あみ。虫…動物全般も「虫」という。 日本では鶴は千年、亀は万年などと言うが、中国古代に亀は一万年生きるという伝説があったことがわかる。 【万歳楽】 雅楽の曲。舞がついている。世に賢い王が現れたとき、鳳凰(ほうおう、伝説上の鳥)が飛来して「賢王万歳」とさえずり、その声を楽器で、翔ぶ姿を舞で表したと伝えられる。 〈倭名類聚抄〉には「曲調類第四十九」の「平調曲」に、「萬歳樂」が載っている。 まとめ 少なくとも奈良時代には、民衆が帝を称えるとき「万歳を唱う」ことがあったことが分かる。 それは、言葉を叫んだのか、あるいは歌を歌ったのかも知れないが、具体的にどのようなものなのか、今のところ見出すことはできない。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2015.11.25(水) [02] 鎮守府 ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鎮守府の和名は何だろう。
まず、〈倭名類聚抄〉官名第五十一を見る。 「府 軄員令云、近衛府・兵衛府・衛門府【由介比乃豆加佐】、大宰府【於保美古止毛知乃司】、鎮守府。」 このように、近衛府などはユケヒノツカサ、大宰府はオホミコトモチノツカサという和名が書いてあるのに対し、鎮守府には和名が書いてない。 ここで、「靱部〔ゆけひ〕」は、もともと靱(ゆき、矢入れ)を背負い、朝廷を守護する職能部の名称。 「宰〔みこともち〕」は、地方官吏を意味し、「詔を持ち、地方に赴く役」が語源である。 鎮守府についても語源を探ってみよう。 類するものの初見として、『続日本紀』養老六年(722)に「鎮所」が見える。 その文は 「用兵之要、衣食為本。鎮無儲糧、何堪固守。募民出穀、運輸鎮所。」 〔用兵の要は衣食をもって元とする。糧の儲(たくわえ)なしに鎮(しづ)めようとして、どうやって固守に堪えるのか。民を募り出穀を促し、鎮所に運輸せよ。〕 以下、『続日本紀』から鎮守府について書かれた例を見る。 ・神亀元年(724)に「陸奥国鎮守軍卒」。軍卒〔いくさ〕は、兵士。これは、「軍卒らが故郷に帰ることを申し出て、許可される」という文の主語である。 ・天平元年(729)「陸奥鎮守将軍従四位下大野朝臣東人」〔陸奥鎮守将軍・従四位下の大野朝臣東人〕大野東人は人名。 ・天平十一年(739)「陸奥国按察使兼鎮守府将軍大養徳守従四位上勲四等大野朝臣東人〔他二名〕為参議」 〔陸奥国按察使、そして鎮守府将軍・大養徳守(やまとのかみ)を兼ねる従四位上勲四等の大野朝臣東人ら三名は、参議となった。〕 蝦夷を制圧する拠点は、はじめは「鎮所」と言った。その訓みについては、万葉集に、(万)0190「此吾心 鎮目金津毛 このあがこころ しづめかねつも」があるので、鎮所は恐らく「しづめどころ」であったと思われる。 その名称は次第に長くなり、最終的ににその将軍は「陸奥国鎮守府将軍」と呼ばれる。名前が長くなるのと同時進行で、役所としての体裁も整っていったと思われる。 鎮守は漢籍である。〈汉典〉を見ると「駐軍防守」。 〈中国哲学書電子化計画〉を検索すると、中国古典には百例以上ある。例えば『魏書二十三/趙儼伝』宜遣将軍詣大営、請旧兵鎮守関中。〔よろしければ将軍を大営に行かせ、旧兵に関中(地名、陝西省の渭河平原)を鎮守させてください。〕など。 鎮守府の和名を想像すれば「しづめのつかさ」となるが、「倭名類聚抄に和名がない」事実は直視しなければならない。脱落したのかも知れないし、実際に和名がなかったのかも知れない。 改めて「ゆけひ」「みこともち」に目を向けると、それらが和語として飛鳥時代以前から存在したと見られるのに対し、「鎮守」は 奈良時代の724年頃に初めて、漢籍を用いて役所の名称を決めたので、最初から音読みだったかも知れない。つまり「ちむじゆのつかさ」あるいは「ちむじゆふ」が公式だったとしても不思議はない。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2016.02.18(thu) [03] 佐保山南陵 ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
江戸時代の『名所図会』は、精密な図を添え諸国の名所について紹介した書である。
そのうち『大和名所図会』(以下〈図会〉)は六巻から成り、 著者は秋里籬島、画工は浪花の春朝斎竹原信繁で、
奥付に「寛政三年辛亥五月発行」〔1791年〕とある。
その「巻之二添上郡」に、多聞山城址・眉間寺・聖武天皇陵についての紹介がある。 これを糸口として、佐保の地と朝廷との関係、および地名「佐保」の範囲を探りたい。
《 ![]() 変体仮名は概ね確認できたが、「 ![]() しかし、 ![]() そうこうするうちに、石上布留社(石上神宮)の蛇之麁正について述べた文中に、読み仮名がついたものを発見した(右図)。 「とも號(ごう)す。抑(そもそも) ![]() 結局、 ![]() 《薨し ![]()
![]() ![]() すると「 ![]() ![]() ![]() なお、沽間泉にも「につたえたり」がある。 ![]() ![]() 《大表 ![]() ![]() ![]() ![]() 大石の項、「大表」の下の判読は難しかった。結局「 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「ゑ」は、「盂蘭盆会(うらぼんゑ)」の「会(ゑ)」で、会合のこと。 上代にはまだ見られず、中古(平安時代中期)以後の語である。
【応天門】 「大石」の項には、南陵から見て北西方向の陵に4つの隼人像があり、また隼人が応天門を警備したことに触れている。延喜式(927年)に、その記述が見つかった。 延喜式には、隼人司〔隼人を司る役所〕の、元日・即位・蕃客(外国使節)入朝の儀に行う仕事として、 「番上隼人廿人。今来隼人廿人。白丁隼人一百卅二人。分陣応天門外之左右。」とある。 なお〈倭名類聚抄〉「司」の項に、「隼人司【波夜比止乃豆加佐】」がある。 応天門は、朝堂院の正面の大門。朝堂院は平安京大内裏の中の政庁で、その奥に大極殿が建っている。 延喜式には続けて「今来隼人発吠声三節」、「番上隼人著当色横刀」、「自余隼人皆〔残りの隼人以下、皆〕著大横布衫〔上着を着用する〕」 と書かれる。その書きっぷりから、今来・番上・白丁は氏族名ではなく、役割分担であることがわかる。 今来隼人は文字通り「今来たぞ」と、犬の吠え声を擬して発声したのであろう。 そして、番上隼人は帯刀する。白丁隼人などは「着衣する」と書いているので、番上は着衣せず褌姿で恐らく派手な飾りを纏っていたのだろう。白丁は帯刀しない。 「番上」は「お上を番する=警護する」意味であろうか。 書紀には、隼人は吠える犬に代わって宮殿の警備をしたと書かれる(第93回【一書2】)。 「是以、火酢芹命苗裔、諸隼人等、至今不離天皇宮墻之傍、代吠狗而奉事者矣」 〔海幸彦の末裔である幾流かの隼人は、現在は天皇の宮殿の垣で、吠える犬に代えて警備を担っている〕 【大石】
続紀には、神亀4年(728)11月2日「新誕皇子。宜立為皇太子。」、 同5年9月13日「皇太子薨。」、同19日「葬於那富山。時年二。」とあり、満10か月の命であった。那富山=奈保山であろう。 「隼人石」と呼ばれるのは、人身獣頭の像を線刻した石である。動物は、鼠、牛、犬、兎で、十二支に含まれる。 この4石を隼人石と名付けたのは江戸時代の藤原貞幹(1732~1797)で、犬頭人像から書紀の「吠狗」を連想したことによるとされる (『奈良歴史漫歩』―41)。 〈図会〉は藤原説に引きずられて、隼人が重要儀式の時に応天門に集うことを書き添える。もちろん隼人石は、隼人とは無関係である。 頭が動物・体が人の十二支像は、キトラ古墳壁画に描かれたものが有名である。「隼人石」はそれとモチーフを同じくするから、もともとは12体が揃ってどこかに円周上に並べて置かれていたはずである。 十二支の筆頭の子は統率者として描かれ、他は恭順のポーズをとっている。絵の描きっぷりには、鳥獣戯画に通ずる趣がある。 子像に「北」、卯像に「東」と書いてある方位は正しい。しかし、那富山墓に置かれた位置は正しくない。 【元明天皇陵】 元明天皇陵の場所は中世にはわからなくなっていたが、幕末に現在の場所に決定された。 続紀では「椎山陵」、延喜式では「奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)」とされる。 後述するように、「なほ」の地は現在の「奈保山東陵」を含む。 元明天皇陵の拝所からは、自然丘陵が墳丘のように見える。ただ、本人が「山の表面で火葬してそのまま喪処とし、丘体を掘って石室を作るようなことをするな」と遺詔し、その通り実行されたから、墳丘は決して造営されなかった。 元明天皇は、715年に退位し太政天皇になった。続日本紀は元明天皇の葬儀について、次のように書く。
1734年の『五畿内志』には、佐紀盾列古墳群の宇和奈辺古墳(後述)、 1791年の〈図会〉の時点では、那富山墓が元明天皇陵だと想像されているから、少なくともそれまでは、現在の元明天皇陵の位置ではなかった。
また、続紀からは墳丘は作られなかったと読める。 幕末に治定※した「元明天皇陵」は、まずは自然地形から墳丘に相応しい場所を選び、周囲に道を巡らせて形を整え、前面に拝所を設置したようだ。 ※…実証資料が十分・不十分にかかわらず、幕府あるいは政府が陵の埋葬者を決定すること。 その上には「刻字之碑」と目される「函石」を置いた。 その辺りの事情は、宮内庁書陵部による『書陵部紀要51号』(2000年)に詳しい。かいつまんで示すと、 ① 明和6年(1769)、その数十年前に函石谷から出土し、奈良豆比古神社に置かれていた「函石」(直方体の石、66cm×46cm×93cm)を、続紀の「刻字之碑」と断定した。 ② 函石は、幕末の修陵の際に、「陵」の上に建てた覆屋内に移され、明治32年(1899)に覆屋の東側に模造碑が造られた。 ③ 函石から読み取れる文字は、「之」・「五」・「次辛酉」の五文字である。 従って、治定された元明天皇陵は函石の発掘地ではなく、後からそこに置いただけである。 初めに函石を置いていた奈良豆比古神社は、式内社〔神名帳:〖大和国/添上郡/奈良豆比古神社〗〕である。「ならつ彦」は、恐らくこの地の古代氏族の英雄であろう。 また函石谷という谷の名が、函石の発見に因むのは明らかである。そこで付近の谷らしい地形を探すと、神社の西方230m辺りが谷になっている。 刻字之碑がこの谷に転げ落ちたと想定すると、初めにあった場所はその北西側(治定陵)、東側、南側が考えられる。 そのうち治定陵については、その等高線は美しい形をした丘陵を示すので、墳丘に準えるには都合がよい。 しかし、気になるのは続紀の「就山作竈」という表現である。もし頂上ならば「作竈于山上」のように書くのではないか。 「就」の中心的な意味は、「ある場所に近づく」、「ある所にひっつく」であるから、竈(=陵)は山の麓で、頂を仰ぐ場所に作られたように思える。 ともあれ、これで陵の候補地は治定陵から奈良豆比古神社の辺りに絞られたと言える。 ただし、これは函石が本物の「刻字之碑」であることが前提でなる。函石の「辛酉」が日付だとすると、養老五年12月1日の癸酉から(48+60n)日後または、(12+60n)日前(nは0または正の整数)となる。 すると「五」は「養老五年」ではなく、翌年五月かも知れないが、これだけでは何とも言えない。 いつの日か、加熱痕のある岩組みや霊廟の木材が埋まった、本物の遺跡が見つかることを期待したい。 【多聞山城址】
松永久秀(1510~1577)は三好長慶に仕え、弾正少弼。将軍足利義輝を自害に追い込んだが、信長に降伏し領地大和を安堵された。 後に信長に背き、信貴山城を攻められて滅亡した。 多聞山城は<『日本城郭大系10』、以下〈大系〉>那羅山(佐保山)丘陵の東南隅にあり、現在、主要部は若草中学校、 西部は仁正皇后〔光明皇后〕陵・聖武天皇陵となっている。南端に佐保川が流れ</大系>る。 築城は1560年、その四重天守は安土城に先行し、権力の象徴としての天守の先駆けとされる。 1576年には廃城となり土塁・空堀を残すのみである。この丘上には〈大系〉もと眉間寺があったが、 松永久秀の築城時に聖武天皇陵の西側〔"南"の誤り?〕に移された〈/大系〉という。 とすれば、〈図会〉に描かれた眉間寺は、移築後のものである。 眉間寺が「移された」とする〈大系〉の見解は、何かの根拠に基づくのか、あるいは推定なのかは判らないが、 後述するように、本堂や多宝塔などは初めから聖武天皇陵の前にあったと考える方が自然である。 〈図会〉では、多聞山城は破却された場所の山が描かれ、「城趾」と記されている。 【眉間寺】 眉間寺は聖武天皇の御願により、奈良時代の7世紀前半に創建された。創建時は眺望寺と称した。 聖武天皇は、災害や疫病の多発を憂え、仏教に帰依し743年に東大寺大仏(盧舎那仏)を建立の詔を発し、749年に退位、752年に大仏開眼供養、756年に崩御した。 仏教を篤く信仰したことから、眉間寺は聖武天皇の菩提寺となり、寺域に陵を置き永く祀ったのは当然だと思われる。
〈図会〉には、眉間寺の姿が精密に描かれていて、「太子(堂)」、「観せ音〔観世音〕(観音堂)」、「本堂」、「しゆろう〔しょうろう〕(鐘楼)」と書き添えられている。 本堂からは崖に舞台がせり出し、その南東に多宝塔がある(右図、図クリックで拡大)。 【佐保山南陵・佐保山東陵】 《続日本紀》 続日本紀(797)では「南」「東」がついていない。また、3天皇、1妃が「佐保山陵」に葬られたとされる。
延喜式(927)は、佐保山の五陵を続紀の時系列に沿って書いている。 延喜式までに新たな陵の名称が定着したようで、『五畿内志』(1734年。以下〈志〉)でも同じ名称が使われている。
その数値で換算すると、兆域はDが西760m・東43m、Eが西43m・東320mとなるので、佐保山南陵と佐保山東陵は東西に近接して作られ、その間隔は86mであったことが分かる。 また、皇后名に藤原氏を前面に押しだしている。皇后陵は天皇陵と同格に扱われ、藤原氏は閨閥として権力を誇っている。 その中でも藤原宮子には太皇大后の称号が与えられ、兆域が飛びぬけて広いことが注目される。 宮廷内で、太皇大后が荘厳に祀られ、連動して光明皇后の存在感が高まっていったのだろう。 その太皇大后の佐保山西陵(C)は、黒髪山にあったといわれる。黒髪山の名は万葉集に歌われ、那富山墓の北西には黒髪山稲荷神社がある。 ――(万)1241 黒玉之 玄髪山乎 朝越而 山下露尓 沾来鴨 ぬばたまの くろかみやまを あさこえて やましたつゆに ぬれにけるかも ※ ぬばたまの…「黒」にかかる枕詞。 《五畿内志》 『五畿内志』(1734年。以下〈志〉)には、A元明天皇は「奈保山東陵:在二法華寺村北一呼曰二大奈辺一」、 B元正天皇は「奈保山西陵:在二元明帝陵西一呼曰二小奈辺一」とある。 小奈辺古墳は、佐紀盾列古墳群に属する。小奈辺の東にある「宇和奈辺古墳」は、〈志〉の「大奈辺」と同じであろう。 しかし、元正天皇・元明天皇は既に前方後円墳の時代ではないので、全く当てはまらない。またその位置は、〈図会〉(1791)にも引き継がれていない。 Aについては【元明天皇陵】の項で考察した通りだが、元正天皇陵も、幕末に自然丘陵を墳丘に見立てて治定されたと見られる。 これらの本当の場所はどこか。それを考えるためには、まずその時代の陵の大きさを推定しなければならない。そこで埋葬者が確定した陵として、天武・持統合葬陵を調べると、五段の八角形墳、東西58m・南北45m・高さ9mで、この時代では大規模とされている。 また〈図会〉の眉間城図に書かれた聖武天皇陵を見ると、直径20m程度か。従ってBについては、同程度の大きさの塚が、佐保丘陵のどこかにあったのだろう。 Aは、墳丘自体がなかった。 その奈保山の場所を確定するために、倭名類聚抄を見ると{大和国・添上郡・猶中}がある。この郷の訓みは「なほなか」とされる。 『大日本地名辞書』(吉田東伍、1907)には「猶中(ナホナカ)郷」の項目があり、「今佐保村及び奈良坂村に渉る」とされる。 地図を参照すると、元正天皇陵・元明天皇陵は確かにこの範囲内である。この辺りには周濠付きの前方後円墳は見あたらないので、奈良時代の小型の墳丘、あるいは墳丘自体を欠く陵がいくつかあり、それらにA・Bも含まれると思われる。
一方、D聖武天皇陵の場合は、眉間寺と一体になって奈良時代以来継続して祀られてきたと考えられ、〈図会〉の位置には信憑性がある。 また光明皇后のE佐保山東陵は、〈志〉では「眉間寺東北」とする。しかし、〈図会〉の絵にはないから、多聞山城築城の際に破壊されたのだろう。 『日本城郭体系10』の実測図を見ると、DE間は88mで、延喜式による86mと、大体一致する。幕末に延喜式から位置を求めて、塚を再建したと見られる。 多聞城と聖武天皇陵の間には空堀がある。これは、築城の際に掘られたと考えられる。 ということは、陵と眉間寺は城の縄張りの外として、保存されたのである。 となれば、〈図会〉の「松永が城中と雖も霊験ある故、破却なし。」という言い伝えは、がぜん信憑性を帯びてくる。 光明皇后陵の方は恐らく朽ち果てていて、躊躇なく毀されたのだろう。それに対して聖武天皇陵は 眉間寺の霊域として、篤く祀られ続けてきた。だから周辺住民の信仰心により、そして恐らく松永久秀自身の信仰心によって守られたと言える。 ところが、幕末の修陵において、眉間寺は破却された。拝所から鳥居を通した視界に仏教寺があるのは、天皇陵のイメージに合わなかったのだろう。 しかし菩提寺を破却する行為は、長年陵を守ってきた伝統と、何よりも仏教を厚く信奉した聖武天皇自身の思いを踏みにじるものである。 まとめ 《佐保山と奈保山、そして椎山》 続紀によると、持統天皇と文武天皇は飛鳥岡(あすかのおか)で火葬された。 元明天皇は蔵宝山(さほやま)雍良岑(よらのみね)で火葬され、葬られる。別名は椎山(ならやま)陵という。 文武妃で聖武天皇の母である藤原宮子は佐保山に火葬された。元正天皇は佐保山で火葬された後、奈保山陵に改葬される。 聖武天皇、光明皇后は佐保山に葬られた。 このように平城京への遷都(710)に伴い、葬送の地は飛鳥から平城京の北に移った。 新たな葬送の地には、奈保山、佐保(蔵宝)山、椎(なら)山という地名がでてくる。それらは、いかなる位置関係にあるのだろうか。 まず「佐保山」は、一般的に佐保川以北、JR関西本線以東の奈良市内だとされる。ただ眉間寺の山号が佐保山なので、特に佐保山南陵付近を指すかも知れない。 次に「奈保」は佐保の一部で、倭名類聚抄の猶中郷の辺り(現在の奈良坂町・奈保町)と思われる。最後に「平城山」は佐紀盾列古墳群まで含む広い地域だが、佐保の中にもピンポイントで椎山があったかも知れない。 このようにそれぞれ重なり合っているが、続紀・延喜式では那富山墓辺りより北を奈保山、南を佐保山と呼んでいるようだ。 《幕末の修陵について思うこと》 さて、幕末の天皇陵の治定と修陵は、天皇中心の国の形を近代に再構築しようとする動きの一環である。 背景には、欧米の帝国主義による東アジアへの進出に対抗するために、中央集権国家の確立を急務としたことがある。そのために、日本人の心は一律に日本らしくあらねばならないとした。 思想における「日本らしさの確立」については、江戸時代中期に興った国学では、万葉集・古事記の文学的な心が本来の日本らしさとされた。 そして、儒教・仏教は外来のお仕着せであるとしたが、その感覚をもって天皇陵修陵運動を推進すると、伝統ある仏教寺院を破壊するような極端なことが起こってしまうのである。 正しいことに向かってむきになって突き進むことの持つ、危うさであろうか。 しかし、古来の自然神道は自然界のあらゆるところに八百万の神がいて、外来の仏教とも習合できる、寛容なものであった。その寛容こそが「日本らしさ」であったはずだが、「国家神道」なるものは、皮肉にもそれを捨て去った。 そして寛容の精神を失った偏狭な国家神道を精神的基盤とする政治が推し進められた結果、大御宝〔=人民〕の生命と暮しを蔑にし、国民を無謀な戦争に引っ張って行ったのである。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2016.03.03(thu) [04] 万葉集の歌が刻まれた木簡が物語ること ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〈奈良文化財研究所木簡データベース〉から検索すると、 出土地は、石上遺跡(奈良県高市郡明日香村飛鳥)。 形状は羽子板状の木製品で、99mm×55mm×6mm。 右図は、〈木簡字典〉(奈良文化財研究所)の画像から、 刻まれたと見られる線を示したもので、「阿」の阝と、?は読み取れないが、筆跡から次のように読み取れる。 留之良奈?ゝ麻久/阿佐奈伎尓伎也 〔ルシラナ?ゝマク/アサナキニキヤ〕 『飛鳥の木簡』は左の行を先に読み、?は弥(ミ)とし、 更に「也」は古くヨと読まれたとする研究により、「アサナキニキヤルシラナミミマク」と訓み、 万葉集の歌に一致することを見出した。その歌は第7巻の、 (万)1391 朝奈藝尓 来依白浪 欲見 吾雖為 風許増不令依 あさなぎに きよるしらなみ みまくほり われはすれども かぜこそよせね。 にあたる。 ただ、同書で「弥」と読むが、この字はどう見ても人偏である。また「也は古くヨと読まれた」とする説は、一般的とは言えない。 とは言え、木簡に刻まれたこの歌が、万葉集に収められる前の形なのは明らかである。 つまり、万葉集に収められている歌は、もともとは万葉集とは異なる字を使って書かれていた。 これは万葉集を編むときに、字が改められたことを示している。 万葉集の訓に共通する字の使い方として、次のような指針が見て取れる。 ・推量の助動詞「む」に「将」を用い「当」は用いない。 ・接続助詞「て」は常に「而」、格助詞「を」は常に「乎」。 ・係助詞「は」と接続助詞「ば」は「者」である。 ・格助詞「の」は、乃、能、之、あるいは省略の4通りを用いる。 ・「所+動詞」は連体形であるが、特定の動詞に対して自発、使役、尊敬の意味を加える場合もある。 ≪漢字表記の用例集としての万葉集≫ このように助詞・助動詞の書き方には一貫性が見られるので、奈良時代までの万葉集は、日本語のオール漢字表記の際の手本とされたと思われる。 しかし、それは十三巻までと十九巻であり、 十四巻~十八巻はほぼ音仮名である。二十巻は基本的に音仮名だが、なぜか歌いだしだけが訓になっている歌がある。 だから、十三巻を編集した時代までは、漢字による日本語表記を標準化する努力を払っていた。 しかし、結局この方法は読み方に完全な再現性がないので、後に助詞・助動詞、そして動詞の活用語尾に小さな字の音仮名を補うようになった。 例えば、続日本紀(797年完成)の天皇の宣明文は、 此乃食国天下乎調賜比平賜比天下乃公民乎恵賜比撫賜牟止奈母 〔此の食(をす)国天下を調(ととのへ)賜(たま)ひ天下の公民を恵(あはれび)賜(たま)ひ撫(やす)め賜(たまは)むとなも〕 (文武天皇元年(697)8月17日条の一部)と書かれる。 おそらくこのような書き方から発展して漢字を崩して平仮名、漢字の一部分を取り出して片仮名が創造される。 よって、7世紀末頃にはオール漢字文+一部レ点方式による標準化は廃れ、仮名を使った完全な再現性のある表記になる。その境目が十三巻編纂と十四巻編纂の間であろうと想像される。 十四巻は特別に東歌を集めたので発音を正確に書き取るために、音仮名にせざるを得なかったとも思われるが、以後も音仮名方式が続くのである。 結局、十四巻の時期以後は、オール漢字表記参考例集の性格を失い、純粋に和歌集になった。 なお、「万葉集」は平安中期より前の文献には登場しないとされるが、それはやっとその頃になって「万葉集」という名前がつき、それまでは名前がなかったからだと想像される。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2016.03.12(sat) [05] 寛治三年七月越後絵 ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〈新潟県歴史博物館のページ〉 によれば、「現在の新潟平野の部分に大きく海が入り込んでいる様子を表現していることが特徴」で、 康平三年〔1060〕と寛治三年〔1089〕のものがあるが、 「これらの図は平安時代に作成されたものではなく、近世に創作された絵図であるという考え方が一般的」と言う。 しかし、一定の信憑性を感じさせる要素もある。例えば、新津・古津はもともと河口の左側に港(古津)があったが、後に河口の右側に新たな港(新津)が作られたことを物語っている。 また、現在の日本海に出っ張った砂州が存在し飛山・砂山の地名があり、 また、沈んだ島にも榎島、沼芝などの名が記されている。これらが想像上の命名であるとすれば、そこまで捏造せざるを得ない事情はどこにあったのであろう。 むしろ、何らかの古地図が継承されていて、それを見て作成したとする方がよほど自然に思える。 その真偽を突き止めるためにも、まずはこの図を細部まで丁寧に見ていくことが必要である。 【寛治三年七月越後絵】 《現代の地名との対応》 まず、寛治三年図を見る。図の地名は、現代に通ずるものが多いのが特徴である。 そこで図の地名や川名と対応しうる現代の地名を拾うと、北から順に 村上市、関川村、加治川、阿賀野市、新潟市秋葉区新津、同古津、弥彦村、三条市、守門岳、見附市、 駒ヶ岳、小千谷、信濃川、八海山、春日山城跡、妙高山がある。 これらの地名と、等高線によって山地・平野の境界を見出すことによって、ほぼ海岸線を特定することができる。 《平安時代の地名》
平安時代の蒲原郡の地名を倭名類聚抄で見ると、 {蒲原郡【加牟波良】〔かむはら〕}に {日置【比於木】櫻井【佐久良井】勇禮【以久礼】青海【安乎美】〔あをみ〕小伏}の各郷がある。 図に見られるのは、郡名と同じ蒲原と、青海郷のみである。図は、海岸沿いのみの地名を示し、内陸部の地名は書かれなかったと思われる。 それ以外に{魚沼郡/那珂}〔なか〕に類する地名として、図の信ノ川沿いの中山があるが、関連は微妙である。 《現代に通ずる地名》 それにしても、倭名類聚抄の地名は非常に少なく、現代の地名に通ずるものが多い。 特に、山の名前はほぼ現代と同じなので、多くの地名は江戸時代、ことによると明治時代であろう。 従って、平安時代から伝わる図が土台にあったとしても、近代の地名を書き加えたと考えざるを得ない。 ただ、水没した島や砂州の名は、過去の記録を用いたと思われる。 【田園地帯・越後平野の形成】 《潟の開発》 平安時代に越後平野が完全な海であったかどうかは別として、江戸時代までは低湿地であったことは間違いない。 明治元年(1868)の越後新発田藩の町村リストを見ると、2町193村のうち、「~新田」が100村(51%)を占める。 〈潟のデジタル博物館〉によると、 「弥彦のご祭神古代から中世中頃まで、越後平野のほとんどの地域は、低湿地」で、その後戦国時代末期から江戸時代前期にかけ、 「氾濫原の水抜きのための瀬替え〔せがえ、河川の付け替え〕に始まり、潟の干拓を目的とした分水路を整備」することにより、 「水田の面積が増加し更には米の石高を増やすことができた」と言う。 《「寛治三年七月越後絵」創作は可能か》 かつての低湿地を開発して新田にしたことから、低湿地の範囲を海にして描けばそれらしい図を作り出すことは可能であろう。 しかし、それだけで日本海に突き出た砂州を思いついたとすれば、神業である。それが水没した事実を示す、何らかの記録が存在したと見るのが妥当である。 また、古津・新津という地名は、実際に海に面していたことを物語る。 さらに、「新潟」は海底に土砂が堆積し、北東に向かって新しく伸びた土地のことだと思われる。 《寛治六年の水没》
この海域は、冬には季節風により激しい波浪がある。また、稀に強力な台風が勢力を保ったまま対馬海峡を通り、日本海を通過することもある。 しかし、海食崖は年月を経て浸食が進むものだから、この半島と島々を一気に沈めるような「大波」の正体は大地震に伴う津波であったと思われる。 当時は、津波によって崩壊したと考えたのだろうが、実際には大地震本体の揺れによって沈んだのではないだろうか。 「寛治三年七月越後絵」によれば新潟は半島の先であったが、その半島に沿って「長岡平野西縁断層帯」がある (『新潟県の活断層と海溝について』)。 この地層は、西側が隆起する(『長岡平野西縁断層帯』)。 だから、断層のずれによって沈んだのではなく、比較的新しい堆積物が揺れによって崩壊したのかも知れない。しかし、実証するには専門的な調査が必要である。 【康平三年図】 《両図の地名の比較》 康平三年図で現在の地名につながるのは、妙高山、八海山、駒ケ岳、弥彦ぐらいで、寛治三年図に比べて大幅に減少する。 古津は「津」になっていて、新津はない。つまり、後の世に新津が開かれたことによって、津は古津となったわけである。 青海については、青海野・青海岳があり、それらを含む広い範囲が「青海」であることを示している。
さらに寛治三年図にある「春日山」の名称が有名になったのは、長尾景虎が春日山城に入った16世紀以後ではないかと思われる。康平三年図では「国府」となっている。 <wikipedia>南北朝時代〔1336~1392〕に越後国守護である上杉氏が越後府中の館の詰め城として築城した</wikipedia>とされるので、 平安時代の「国府」の呼称を守護の館に宛てたのかも知れない。だから国府の記入は平安時代ではなく、その約200年後である。 興味深いのが関川の左側の干潟で、寛治三年図は「紫雲寺」の脇に「カタ」と書いてある。この潟は閉じていて、外部への水路は繋がっていない。 同じ潟が、康平三年図では「塩津潟」となっていて、荒川河口に開いている。 これは、寛治三年図が何らかの原図を見て作成したもので、原図の汚れのために紫雲寺の寺域と読んだ後に誤りに気付き、潟に訂正したように見える。 康平三年図は、別系統の原図から作成したと見られ、こちらは疑問の余地なく潟と読み取ることができたと考えられる。 総じて、康平三年図には寛治三年図と比べて古い地名が若干多く、新しい地名が少ない。だから、寛治三年図は、より大規模に改変されたものであることが分かる。
《海岸線の比較》 水没範囲については、地名・海岸線が全く同じように書かれている。 それ以外の地域でも、地名を取り除けば、海岸線と河川の流路はほぼ一致している。 従って、これらには共通の原図があったと想定される。 まとめ 地名を近代のものに置き換えて原図を書き改めることが、果たして偽作なのだろうか。 これは例えて言えば、縄文時代の日本の地形推定図に、後の東京、横浜、名古屋などの位置を書き込んで分かり易くするようなものであろう。 それと同じ感覚をもって、古くから伝わる地図の海岸線に、江戸時代の地名を記入した図を作成したと見られる。 それは歴史を偽ることとは真逆で、むしろ伝統を重んじ、継承しようとする試みと言える。 これは江戸時代が初めてではなく、越後国の古い伝統かも知れない。前述したように、春日山が康平三年図では国府となっている。 春日山城が国府と呼ばれた鎌倉時代に、平安時代の康平三年図を元にしつつ、地名を鎌倉時代のものに置き換えた図が作られたのかも知れない。現存する「康平三年図」は、江戸時代に鎌倉時代の系統の図を見て作成したものであろう。 つまり、平安時代の海岸線図を基礎に、その時代の地名を記入した図が幾度も作られたのである。 その原動力は、郷土への愛着だと思われる。平安時代という遥か昔にリアルに作られていた海岸線図を、文化遺産としてずっと誇りに思っていたのである。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2016.04.27(wed) [06] 先代旧事本紀―景行天皇の81子 ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『先代旧辞本紀』には、景行天皇の子は81名あり、そのうち56の名が挙げられている。
記紀には景行天皇の子の人数は80名とされ、それぞれ約20の名が挙げられている。
ここに、それらの対照表を示す。
先代旧事本紀(以後〈本紀〉)の序文には、 「于時小治田豊浦宮御宇豊御食炊屋姫天皇【推古】即位廿八年。 歳次庚辰春二月甲午朔戊戌【二月之二誤作三。拠日本長歴正之。按長歴此年二月甲子朔】攝政上宮厩戸豊聡耳聖徳太子尊命、大臣蘇我馬子宿禰等奉敕撰定。」とある。 即ち本書の編纂は、推古天皇28年・歳次庚辰〔620〕とあるが、序文は偽作とされている。 本体部分の成立は9世紀と推定され、記紀を基本にいくつかの失われた書が用いられたと考えられている。 【先代旧事本紀における子の名】 記紀ともに、景行天皇は80子を生んだとされ、そのうち20子ほどの名を載せる。 旧事本紀は、50男子、25女子とし、さらに国郡に封じられなかった皇子として5男、1女を併せ81子とする。 そのうち前者は50男子全員、後者は6名全員の名前を載せる。 《日本書紀から》 ・書紀にある男子はそのまま載せるが、女子(8・9・11・13・14・15・16)は載せない。 例外的に、五百城入姫皇女だけは載る。 ・日本書紀21・22の別名が、〈本紀〉では別人とされる。 ・〈本紀〉{30・18}{12・28}{10・22}はもともと同一人物かも知れない。 ・武国凝別命は、〈本紀〉10の「筑紫水間君主」は、書紀では21乳別皇子を祖とするところが不一致であり、 「君主」という表現が他にないところも疑問が残る。 《古事記から》 ・記にあって書紀にない1・(14)・19・20も〈本紀〉に収められる。 ・記の14若木之入日子王と〈本紀〉の20稚屋彦命が同一であるかどうかは、判断が難しい。 ・a、bは、記では大碓命の子だが、〈本紀〉では景行天皇の子とする。 ・21大枝王だけは、〈本紀〉から漏れる。20若木之入日子王と同一だと解釈したのかも知れない。 ・〈本紀〉の豊国別命は二か所にある(③・13)。 まとめ 〈本紀〉は、書紀にある名前はすべて挙げ、そのうち記紀の両方にある名前は書紀の方の字が用いられる。 次に、記だけにある名前や、「三野之宇泥須別」などはそのまま写す。 ただ系図や派生氏族については、若干の変更がなされる。 その上で、記紀に挙げられない名前を補い、人数をそろえようと務めたようだ。追加された名前には一部重複があるように思われる。 こうして、景行天皇〈本紀〉は記紀の完成後に書かれたと見られる。 なお、女子名が省略されている。 ここには、女子は表に出ないものという感覚がある。 〈本紀〉が書かれたと思われる平安時代初期が、男子中心の社会になりつつあった表れであろう。 また、「~之始祖」に出てくる「別」「君」「直」は古い姓だが、奈良時代末になっても残っていたらしい。 それを実証する一例として、「費」〔あたひ〕を直に改めてほしいという申し出の記録がある。 『続日本紀』の、神護景雲元年〔767〕三月乙丑に「阿波国板野名方阿波等三郡百姓言曰『己等姓。庚午年籍被記凡直。唯籍皆著費字。』」 〔阿波国の板野・名方・阿波三郡の住民は「我らの姓は、庚午年籍ですべて直となったはずだが、戸籍にはまだすべて費の字が書かれている。」と申し出た。〕 だから、「~直」という呼び名は、平安時代始めにはまだ、そんなに古くなってはいない。 始祖の名は伝説だが、各氏族の存在そのものは現実だったと思われる。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2016.05.15(sun) [07] 高橋氏文【1】 【2】 ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
景行天皇紀の五十三年条に、磐鹿六鴈(いわかむつかり)が膳大伴部を賜った記事がある。
『高橋氏文』(たかはしうじぶみ)に、その詳細な内容がある。
『高橋氏文』は、〈時代別上代〉によれば「延暦十一年〔792〕、朝廷神事の御膳のことに奉仕してきた高橋氏が、 同職の安曇氏とその席次を争って、自己を主張するために、自らの家の記録(氏の文)を奉ったもの。 『本朝月令』『政事要略』『年中行事秘抄』などに引用された逸文しか存じない」という。 磐鹿六鴈の話は、『本朝月令』に引用されて残っている。 さらに『本朝月令』は、塙保己一が江戸時代に編した『群書類従』(第五輯公事部・本朝月令巻八十一)に収められている。 【群書類従】 塙保己一(1746~1821)は34歳の時、各地に散在している歴史書・文学書をまとめて後世に資料として供することを決意し、全670冊からなる『群書類従』を文政二年〔1819〕に完成した。 その版木は現在まで残っている。『群書類従』は、次の二点が〈国立国会図書館デジタルコレクション〉によってネットに公開されている。 ① 『群書類従』〔木刻本〕 ⇒群書類従. 第111-113 コマ番号32。 ② 『再翻刻 群書類従』(経済雑誌社、明治31年〔1898〕)には、返り点や注記が加えられている。 ⇒群書類従. 第五輯 コマ番号56。 【高橋氏文-景行天皇五十三年】 原文は、書紀にほぼ準じた和風漢文と、続日本紀で使われた宣命体が混ざっている。 明治時代の経済雑誌社版には、注釈の他、返り点と一部によみ仮名が加えられている。 その返り点のつけ方には、一部同意できない箇所があるので、ここでは採用していない。 以下、原文と読み下し文を示す。なお、宣命体や「御座」(おはす)という語から、訓読は平安時代のスタイルを用いた。
![]() ![]() ![]() ![]() 《阿西山》 経済雑誌社版は、「通證」〔=一般的な解釈〕河曲山とする。〈倭名類聚抄〉に{安房国・安房郡・河曲【加波和】郷}〔かはわのさと、現在の館山市内〕がある。 しかし阿西山を河曲山の誤記と見るのは、なかなか苦しい。 ここでは、一応万葉仮名で「あせ」と訓んでおくが、千葉県の現代地名には見つからない。 安房神社の御由緒には、「吾谷山(あづちやま)」に遷宮したとあるので、「あぜつやま」だったのかも知れない。 《栬・梔》 経済雑誌社版では「柂」の字を用い、「梔一本」〔=ある出典では梔〕と注記をつける。神代紀下には「梔」に訓注「はじ」が示される。 「柂」だとすれば、シナノキ。江戸時代の塙保己一はこの字を「栬」と読み、風流にモミヂと訓んだのかも知れないが、モミヂに「栬」を宛てた例は万葉集・記紀にはない。 《御雑物》 雑の音読み「ざふ-」は雑事、雑仕など、平安時代以後には多くなる。書紀には、 仁徳紀十七年条の「種々雑物」を「くさはひのもの」があるが、「雑物」だけの例がないので訓は不明。 「雑」の古訓「まじふ」を用いれば「まじふるもの」だが、これでは「御」がつけられない。 《六百六十九歳》 桁数の多い数値をやまとことばで訓むのは、平安時代であってもあまり現実的ではなく、普通に音読みが用いられたと思われる。 飛鳥時代には、公式には漢音が奨励されたが、現代になっても「ろっぴゃくろくじゅうく」と読まれるので、民衆レベルでは呉音が根付いていたと思われる。 仮に漢音だとすると「りくはくりくじつきふ」となる。 【文体の特徴と作成された時代】 冒頭「五十三年八月」から「冬十月到于上総国」までは、景行天皇紀五十三年条を和風漢文体のまま、 一字一句違えずに写している。 景行天皇紀から、続く部分を要約して示すと、
高橋氏文では、この部分が大幅に脚色され、その書法として宣命体が用いられる。 但し、磐鹿六獦が鳥を追ううちに、カツオの群れに遭遇した部分だけは宣命体ではないので、 古い伝承を原文のまま取り込んだのかも知れない。 宣命体で書かれた部分は、磐鹿六獦の昇格に皇后の力添えがあったこと、大多毛比・天上腹のそれぞれの地方氏族を配下に置く力があったこと、 天皇が物部意富売布連の太刀を取り上げて磐鹿六獦に賜ったことなど、総じて磐鹿六獦を高く持ち上げている。 この部分が、奈良時代末の創作ということだろう。ただ全くの創作ではなく、元になる伝承があったかも知れない。 【カツオ漁】 江戸時代に「カツオ漁業が盛んだったと思われる地方は、 現代と同様に薩摩・土佐・紀伊・豆相(小田原~熱海)•房総」とされる(『かつお節塾』)。 奈良時代から房総半島はカツオの漁場で、「今以レ角作二釣柄一釣二堅魚一」とあるので、既に一本釣り漁法があったと思われる。 カツオの魚群を知らせるカツオドリは、当然古くからから知られていたのだろう。 カツオドリは、現在は鳥の種類のひとつ(ペリカン族カツオドリ科)を意味するが、もともとは魚群を知らせる鳥一般を指した。 このことを背景として、鳥を追っていった結果カツオの群れに遭遇する場面が、神話の要素になったのであろう。 白蛤の話と共に、カツオ漁の伝説が書き加えられた結果、料理の材料は「件二種之物」と書かれることになった。 【八尺の白蛤】 実寸で八尺(2.4m)の蛤がいれば怪物であるから、「八尺の」は物理量から離れて、「神聖な」を意味する形容詞であったことがわかる。「八尺の勾玉」と同じである。 【高橋氏の祖先を大きく見せる】 《太后八坂媛》 鳥の声を異として姿を見たいと思ったのは、書紀では天皇だが、高橋氏文では皇后である。 天皇は狩にでかけて、留守にしていた。皇后はカツオとウムギを気に入り、料理にすることを所望し、 六獦がそれに応えた。 天皇が戻ったとき、数々の豪華な料理が用意されたことに驚き、「これを料理したのは誰か」と聞かれ、 皇后が「磐鹿六獦が作ったのよ。」と教えたのであった。 《東国の二族を喚して手伝わせる》 武蔵国の祖と、秩父国の祖を喚して、一緒に食器を作り様々な料理をした。 料理人のスタイルは、神聖な植物の葉を使い、かずら・みずらで頭を飾り、たすきをかけ、足まといする。 このスタイルは、天の窟屋の前で踊った天宇受売命を想起させる(第49回)。 御食を天皇に供することは神に食物を捧げることと一体であり、祭祀と同じであった。 安房国〔当時は上総国の一部であった〕の磐鹿六獦は、東国の二族を手伝いに動員できるだけの実力があったことを誇っている。 《太刀の授与》 景行天皇は、六獦の料理の腕が大いに気に入り、物部意富売布連の代まで伝わっていた宝剣を召し上げて六獦に授けた。 つまり、物部意富売布連の権威は削がれつつあった。 《六獦の地位の向上》 「大倭国は行へる事を以って負ほす国なり」、つまり血筋ではなく実力さえあれば取り立てるのが我が国の伝統であると天皇は言った。 ここでは、音仮名倍留(へる)によって完了の助動詞「り」を明示し、実際に業績を上げたことの意義を強調している。 ということは、磐鹿六獦は名のある血筋ではなく、東国の中小氏族に過ぎなかったのである。 それが「磐鹿六獦命は朕が王子等にあれ」、即ち皇子と同格に取り立てられ、その子孫は末永く代々の天皇の御食を担うこととなった。 「王子等」が王子の「伴」〔とも、=仕える者〕ではなく、王子と同格であるのは、後で出てくる「朕が王子磐鹿六獦命」という呼びかけによって明らかである。 【「又諸氏人東方諸国造十七氏の枕子」以下の解釈】 この部分は、読み取りが難しいが、何とか文章の意味を理解したいところである。以下、いくつかのポイントについて検討する。 《「枕子」とは何か》 「枕子」は記紀に用例を見ず、辞書にも載っていないが、少なくとも東国の国造に、子を一人ずつ朝廷に送らせ、磐鹿六獦の配下に置いたと読める。 それでは、単なる「子」ではなく「枕子」と表現するところには、いかなる意味があるのか。 万葉集では、「枕」は寝具の枕を原義としながら、当然のことながら男女が寝ることを象徴する。 また、腕を「巻く」動作も表す。 例えば、(万)2071 君之手毛 未枕者 きみがても いまだまかねば。 (万)2089 妻手枕迹 つまのてまくと。 その情景に由来する言葉だとすれば、枕子は「国造が正妻との間に設けた、大切な子」という意味となる。 「御子」「王」は天皇の子を意味し、尊い子を意味するとしても国造には使えないから、代わりに「枕子」としたものか。ただ、他に用例が見つからないから確かなことは言えない。 《天皇の言葉の範囲》 「朕」は天皇専用の一人称代名詞だから、その前後は天皇の言葉(以下「お言葉」)である。それでは、「お言葉」はどこからどこまでであろうか。 まず、お言葉の終わりは、「仕奉止……依賜岐」の形から見て、「…仕奉」であるのは確定的である。 これは「…使へ奉れ』と……依(よ)せ賜ひき。」と訓み、「仕奉」は命令形であろう。 その三行上の「如是依賜事波」も当然お言葉の中。その中の「賜う」も本人の言葉で、いわゆる自敬表現である。 ここで「依賜」の中身を確認すると、十七子を預かり、さらに御雑物等を供えさせ、総じて諸友諸人等に催(うなが)し率い、慎んで勤めることまで含まれる。 問題は、お言葉の始点を示す「勅久」〔のたまはく〕がないことである。 本来上代の会話文は、その前後を「云」〔の類の語〕でがっちり挟む習慣があり、出雲風土記が典型的である。 〔例:大原郡・来次郷「所造天下大神命詔八十神者不置青垣山裏詔而」〕 お言葉の始点を探すと、「山野海河者」から祝詞風の古風な定型句が始まり、その直前の「依賜支」〔よせたまひき〕とは趣が変わる。 だから、お言葉の始点はここだろう。さらに、「依賜」の対象は十七子に限定されず、御食の事の掌り全体であった。 「依賜」は「のたまう」意味を含み、書紀の書法なら「依曰」だろうと思われる。 とすれば、その「依り賜ひき。」は、その前を受けるものではなく、本当はその次のお言葉を導く「依り賜はく、」ではないだろうか。 つまり、「久を誤読して支と読んだ」と見る。宣命体の小さい字だから、字形が似ていて草書だとすればありそうなことである。原書から江戸時代の版本に到るまでに、 〈原文⇒宣命体による清書(小文字の付加)⇒一回以上の筆写⇒塙保己一による清書⇒職人による版刻 〉の段階を経ているから、そのどこかで生じた誤読ではないかと想像される。 他の可能性としては、「山野海河者」の直前に、本当は「天皇仰賜久」があったのだが、脱落したと考えることもできる。 《役割の移り変わり》 注釈の「但」は、今〔=高橋氏文の時代〕は、磐鹿六獦・豊日連の時代から変化したこと意味する。 それでは、何が変わったのか。精読すると、
《大伴部と大伴造の区別》 大伴部は、磐鹿六獦の下に置かれた部を指すとされる。 ただ、磐鹿六獦・豊日連は大伴として並び立つよう命じられたとも書かれるので、大伴部は始めは両者に共有された気配がある。 後に磐鹿六獦・豊日連は後に分離し、磐鹿六獦の子孫は膳臣として大膳職を拝命し、豊日連の子孫は令鑚忌火大伴造となる。 大伴は一般名詞であったらしい。それを特定するために、大伴造に「令鑚忌火」という連体修飾語をつけたと見られる。 【「以同年十二月乗輿従東還」の段落】 膳臣・大伴造の始祖の時代に書かれた祭事の扮装と、「今」の祭事の扮装が一致しない箇所について、そのいきさつを律儀に説明している。 また、磐鹿六獦が膳を務めるようになった景行天皇の時代から、「今」までの代数及び年数を詳細に計算している。 『高橋氏文』の目的を達成するためには、文章は隅々まで正確でなければならない。 【安房】
そして「上総国安房大神を御食都神として祭る」と書かれる。それでは、安房大神はどの辺りにあったのだろうか。 神明帳に{安房国/安房郡/安房坐神社【名神大】}がある。現在の安房神社は旧安房国安房郡にあるので、 当然これが安房坐神社の比定社で、また安房大神ではなかったかと想像されるところである。 しかし、祭神に御食都神はなく、御由緒にも磐鹿六獦・膳大伴連のことは全く触れられていない。 この問題については、<wikipedia>確かな史料の上では、古代安房地方は食膳(特にアワビ)の供給地としての性格が強く、安房神もまた古くから朝廷の「御食都神」としての性格を持った</wikipedia> と書かれるように、安房神社と膳大伴連との関連を想定する考えは根強い。 よって、おおまかには膳大伴連の本貫は安房国であったとしてもよいだろう。 その地で船を出し、黒潮のカツオを一本釣りしていたのである。 そして注目されるのは、書紀・高橋氏文では、伊勢・安房間の往来に海路が用いられていることである。 古代、街道が整備される以前は海路が中心だったと想像される。それが東海道の古称「うみつみち」の謂れであろう。 さらに遡ると、市原市の神門5号墳(千葉県市原市惣社字神門)は、出現期(3世紀中旬)の前方後円墳だと考えられている。 だから、纏向政権の時代、三河・遠江・駿河・伊豆・武蔵をすっ飛ばして、倭の民が海路で直接安房地域に達し、それを橋頭保として 東国進出を開始した可能性が浮かび上がる。 それがまた、安房神社のご由緒の「神武天皇の時代、肥沃な地を求めて天富命が安房に上陸した」という記述に反映したと見ることができる。 【大意】 高橋氏文(たかはしのうじぶみ)に云く。 巻向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)の御世、 大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしわけすめらみこと)五十三年癸亥、八月に、 群臣に仰りました。 「朕の真子(まなご)を思い出されてならない、これが止むのはいつだろうか。 小碓王(おうすのみこ)【またの名、倭武王(やまとたけるのみこ)】が平定した国を巡ってみたい。」と。 同月、伊勢に行幸し、転じて東国に入りました。 十月、上総国の安房の浮島宮に到ったとき、 磐鹿六獦命(いわかむつかりのみこと)は天皇に従い、仕え奉(たてまつ)りました。 天皇は葛飾の野に行幸し、狩をされました。 太后、八坂媛(やさかひめ)は行宮に残られました。 磐鹿六獦命もまた、留まり侍りました。 この時皇后は、磐鹿六獦命に 「この浦に異なる鳥の声を聞きました。 それは、かくがくと鳴いていました。 その形を見たいものです。」と仰りました。 そこで磐鹿六獦命は船に乗り、鳥のところに着いたとき、 鳥は驚いて他の浦に飛んで行ってしまいました。 なお、追って行きましたが、遂に捕えられませんでした。 ここに磐鹿六獦命は、 「な〔お前〕鳥や、その声が気に入り姿を見たかったが、 他の浦に飛び移り、その姿は見えぬ。 今より後は、陸に上がってはならぬ。 もし大地に降りれば、必ず死ぬ。 海の真ん中を住処(すみか)にし続けよ。」と呪って帰るとき、 舳先(へさき)の方を振り返ると、魚が多数追って来ました。 そこで磐鹿六獦命は、角弭(つのはず)の弓〔弓の端を鹿の角で作った弓〕によってあちこちを泳ぐ魚に当てました。 すると弭(はず)によって魚を釣り出すことができ、たちどころに多くの魚を獲ました。 それを名付けてかた魚といい、今は訛って 堅魚(かつお)と言います。 【今、角(つの)で釣竿を作り、堅魚を釣るのは、この謂れによります。】 船は干潮に遇い、渚の上に乗ってしまいました。 砂を掘って船を出そうとしたところ、八尺(やさか)の白蛤(うむき)一つを得ました。 磐鹿六獦命は件(くだん)の二種類の物を捧げ、太后に献上しました。 すると太后誉め悦ばれて、 「この味わい、すこぶるすがすがしいぞ。料理してほしいものだ。」と仰りました。 磐鹿六獦命は、 「この六獦が、料理して供え奉りましょう。」と申して 使者を送り、無邪志〔武蔵〕の国造(くにのみやつこ)の上祖、大多毛比(おおたもい)、 知々夫〔秩父〕国造の上祖、天上腹(あめのうわはら)を呼びました。 天上腹の配下の物が、膾(なます)、煮物、焼物を交えて盛り、 阿西山(あせのやま)に梔(はじ)の葉を見つけて、 高坏(たかつき)八杯を削り作り、 槙(まき)の葉を見つけて、枚次(ひらすき)〔皿〕八枚を作り、 日陰鬘(ひかげのかずら)を取って縵(かずら)〔頭の装飾品〕とし、 蒲の葉で鬟(みずら)を巻き、 真樹鬘(まさきのかずら)を採って襷(たすき)がけして帯とし、 足纏(あしまとい)を結び、そのような姿の人で、供えた御雑物(みぞうもつ)を飾り、 天皇の狩りからのお帰りに、備えました。 お帰りになった天皇は、「誰がこの進物を造ったのか」と尋ねられました。 その時、大后は申し上げられました。 「これは磐鹿六獦命がお作りし進ぜたものにござります。」と。 天皇は、それを歓ばれ誉められ、仰りました。 「これは磐鹿六獦命が一人で為しえたことではない。 これは天に坐します神が行ったものである。 大倭(おおやまと)の国は、行った事によって地位が与えられる国である。 磐鹿六獦命は、朕の王子たちの一員であれ。 その子孫は代々、遠く長く 天皇の天津御食(あまつみけ)を斎(いつ)き取り持ち仕え奉れ」と命じられました。 そして、若湯坐連(わかゆえのむらじ)の始祖、物部意富売布連(もののべのおおめふのむらじ)が 腰にした太刀を外して置かせ、磐鹿六獦命に与えられました。 さらに「このようにしたのは、 二人が大伴としてに並び立ち、仕え奉るべきものとするからである。」と詔され、 東西、山陽の諸国から人を分けて移住させ、 大伴部(おおともべ)と名付けて磐鹿六獦に与えられました。 また、諸族の人、そして東方諸国の国造十七氏から子を 各一人ずつ進上させ、 平次(ひらすき)・領巾(ひれ)を与えられて磐鹿六獦の元に、このように言って託されました。 「山・野・海・川は、谷蟆(たにぐく)のさ渡る極(きわ)み、 櫂の通う極み、〔国の隅々まで行って捕えた〕 鰭(はた)の広物鰭の狭物(さもの)〔大小の獣〕、 毛の荒物毛の柔(にこ)物〔大小の魚〕、御雑物(みぞうもつ)などを供え、 そのすべてを取り持って仕へ奉れと託すものである。 このように託すのは、朕一人の思いのみではない。 天に坐します神の命(めい)なるぞ。 朕の皇子たる磐鹿六獦命よ、同僚の皆、仕える者の皆を 促し率い、慎んで仕え奉れ」と 仰られ、誓(うけひ)され託されました。 この時、上総国(かずさのくに)の安房(あわ)の大神を 御食都神(みけつかみ)として奉り、 若湯坐連(わかゆえのむらじ)の始祖、意富売布連 の子、豊日連(とよひのむらじ)に火鑚(ひきり)させ、 これを忌火(いみひ)として斎(いつき)し御食(みけ)を供え、 併せて大八洲(おほやしま)〔全国〕にこの形を広めて八男・八乙女を定め、 神の斎(いつき)、大甞(おおなめ)などに仕え奉ることを始めました。 【但し安房大神を食神(みけつかみ)としましたが、 今は大膳職が祭る神とされます。 現在忌火(いみひ)の鑚(ひきり)を命じられている大伴造(おおとものみやつこ)は、物部豊日連(もののべのとよひのむらじ)の子孫です。】 もって、同年十二月、天皇は東国より帰り、 伊勢国の綺(かにはた)宮に滞在されました。 五十四年甲子、九月に伊勢国から帰り、 大和国の纏向(まきむく)宮にお着きになりました。 五十七年丁卯、十一月、 武蔵国の知々夫〔秩父〕の大伴部(おほともべ)の祖三宅連意由(みやけのむらじおゆ)、 木綿(ゆう)を用いて蒲(かま)の葉に代え、鬟(みずら)を巻き、 それ以来木綿を用い、日陰葛(ひかげのかずら)にとともに、用いられます。 纏向の朝廷から歳次〔としまわり〕癸亥、初めて称号を与えられ、 膳臣(かしわでのおみ)の姓(かばね)を賜るとする詔勅(みことのり)が発せられました。 天都御食(あまつみけ)を斎(いつき)し、 今の朝廷の歳次壬戌まで、併せて三十九代に仕え奉り来、 積年六百六十九年です【延暦十九年】。 職員令に云うところの大膳職に、二人を奉ります。 【御膳のことを惣(ことごと)く知り御食を進上し、古くから伝わる大嘗祭のことを掌ります。】 国史〔六国史〕に云く… まとめ 「朕が王子等に阿礼」は、 景行天皇は磐鹿六獦命の功績を称え、血縁関係はないが皇子にしたと読める。 極めて異例なことと感じられるが、他にも表には出ない形でこのようなことがあったのだろうか。 記に「~王は、○○の祖」と書かれた裏に、このような取り立てがあったのかと疑わせるような事例である。 次に、「東方諸国の国造十七氏の枕子を各一人進め令む」は、 事柄としては、天皇が皇女の一人を斎王に定め、伊勢神宮に派遣したことに似ている。 また、秀吉や家康の元に諸大名から人質を集められたことを連想させる。 実際に、統制の手段としての人質だったかも知れない。東国はまだ服従して間がなく、警戒されていたと思われる。 六獦はその管理を任されたのだから、相当の信頼を得ていたことになる。 さて、安房神社の御由緒によれば、地名「安房」は、一族が四国の阿波の国から移ったことによるという。 後世に地名から後付けされた印象を受けるが、実際のところはどうであろうか。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2016.06.12(sun) [08] 日高見国 ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
景行天皇紀で、天皇征西から期間後、武内宿祢に北陸・東国を視察させ、その復命の中で「日高見国」の様子が報告される。
「東夷之中、有日高見国、 其国人、男女並椎結文身、為人勇悍、是総曰蝦夷。 亦土地沃壤而曠之、撃可取也。」 『釈日本紀』巻十、述義六、第七〔景行天皇〕、「日高見国」の項にその関連資料が示されるので、 訓読して内容を検討する。 原文は、『国史大系』8(吉川弘文館、1999)による。 【釈日本紀-日高見国】
《日高見国》 中臣祓文では、日高見国は、確かに大和国または、倭国全体の美称である。 従って、矢田部公望は日高見国は一般的に高遠の地を意味すると言う。 ただ、書紀や風土記の文脈では、その日高見国が常陸国信太郡の地を指すことは明らかである。 天書によれば、日高見国は倭国の当時の国境に隣接していて、豊かな土地であるから多大な租を供出できるはずであるが、 その利益を独り擅(ほしいまま)にするという。すぐそばまで迫った朝廷勢力が、更にこの地を呑み込もうとする意図が滲み出た文章である。 《習俗》 黥面文身の習慣があり、着るものは皮衣である。また、後ろの髪を上向きに縛るという特徴のある髪型をしている。 この時代、関東までアイヌ人が南下していたと言われる由縁である。 ただ、日高見国にいたのは畿内と異なる文化をもつ倭人の一族かも知れず、判断しがたい。 【大意】 公望私記に曰く。 ――案ずるに、常陸国(ひたちのくに)風土記に、信太郡(したのこほり)云々とある。 「古老(おきな)が言うには、 孝徳天皇の御世、癸丑(きちゅう、みずのとうし)年〔653年〕、 小山物部河内(おやまのもののべのかわち、人名)、大乙上(だいおつじょう、冠位)物部会津(もののべのあいず、人名)、惣領の高向大夫(たかむけのたいふ、人名)らは、 筑波茨城郡の七百戸を分け、信太郡を置きました。 この地は、元の日高見国(ひたかみのくに)です、云々。」 また景行天皇の時、日本武尊は蝦夷を征討した時に云々とあり、 「蝦夷(えみし)を既に平げ、日高見国と経て還られました。 西南に常陸を巡り甲斐国(かいのくに)に到り、 酒折宮(さかおりのみや)に滞在されました。」 また中臣祓の文〔祝詞のひとつ〕に云々とあり、 「四方の国の中と大倭の日高見国を 安国(やすくに)と定め奉(たてまつ)る」と云々。 恐れながら公望の案ずるに、 四方に高遠の地を望んで日高見国と言うべきで、 似たところを指し、一か所を称して言ふべきではないと考えるものである。 天書(あまつふみ)第六に曰く。 ―― 景行天皇の二十七年二月十二日、 巡察将軍の武内宿祢は、東海道・北陸道を巡り、 こう復命しました。「日高見は所謂(いわゆる)天府、天然の穀倉地帯です。 この地は、沃壌(土地が肥え)、上場の租賦を期待できます。 今倭の国と領土を接し、独り東国の利を欲しいままにしています。 身体・顔に入れ墨をし、皮衣を着て髪を結んでいます。 自ら蝦夷(えみし)と称しております」と。 まとめ 公望が言うように、もともと「日高見国」は国名でなく、「高遠の豊かな国」を意味する形容語句として用いられたと思われる。 常陸国風土記では、信太郡を「もとは日高見国」と書くから、そのまま国名となったのであろう。ただ、この名称は、律令国の国名・郡名には引き継がれていない。 アイヌが常陸国まで南下していたことは疑問だが、 アイヌの知識が影響を与え、伝説としてここに混ざった可能性はある。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2016.07.08(fri) [09] 糜・鹿 ▼ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||