古事記をそのまま読む―資料1
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2015.11.24(火) [01] 萬歳 
 『続日本紀』〈天平十七年〔745〕五月戊午朔、癸亥〔6日〕〉に、「車駕到恭仁京泉橋。于時、百姓、遥望車駕、拝謁道左、共称万歳。是日、到恭仁宮。〔車駕、恭仁京の泉橋に到る。時に、百姓(=人民)、車駕を遥かに望み、道の左より拝謁し、共に万歳を称ふ。是の日、恭仁宮に到る。〕 とある。それでは、このときの民衆が「萬歳を唱ふ」とはどのような声であろうか。
 
【明治時代】
 バンザイは、<wikipedia>1889年(明治22年)2月11日に青山練兵場での臨時観兵式に向かう明治天皇の馬車に向かって万歳三唱したのが最初だという</wikipedia>。 従って、現在の万歳三唱の習慣は、古代の習慣とは無関係である。

【中国】
 「<wikipedia>元々は中国に於て使用される言葉で「千秋万歳」の後半を取ったもの</wikipedia>」 と言われるが、『百度百科』では「千年万年 形容歳月長久」として、単に長い年月を指すと解釈されている。
 『中国哲学書電子化計画』で古典を広く検索すると「千秋万歳」はなく、「萬歳」は一例だけヒットする。
 『太平平記』(北宋:977~984)〈神仙一・黄安〉
黄安、代郡人也。……坐一亀、広長三尺。時人問「此亀有幾年矣」。 曰「昔伏義始造網罟。得此亀以授吾,其亀背已平矣。此虫畏日月之光、二千年則一出頭。我生、此虫已五出頭矣。」行則負亀而趨。世人謂安萬歳矣。

〔黄安は代郡(郡のひとつ)の人。亀に座し、大きさは三尺。ある時人が「この亀は何歳か。」と聞き、 答えて言うには「昔、伏義が初めて網を造り、この亀を得て私に授けた。その亀の背は既に平らであった。 この亀は太陽・月の光を恐れ、二千年に一回だけ頭を出す。私が生まれてから、この亀はこれまでに5回頭を出した。」 そう言って亀に背負われて、去って行った。ゆえに世の人は、黄安は万歳であると言う。〕

…あみ。…動物全般も「虫」という。
 日本では鶴は千年、亀は万年などと言うが、中国古代に亀は一万年生きるという伝説があったことがわかる。

【万歳楽】
 雅楽の曲。舞がついている。世に賢い王が現れたとき、鳳凰(ほうおう、伝説上の鳥)が飛来して「賢王万歳」とさえずり、その声を楽器で、翔ぶ姿を舞で表したと伝えられる。
 〈倭名類聚抄〉には「曲調類第四十九」の「平調曲」に、「萬歳樂」が載っている。

まとめ
 少なくとも奈良時代には、民衆が帝を称えるとき「万歳を唱う」ことがあったことが分かる。 それは、言葉を叫んだのか、あるいは歌を歌ったのかも知れないが、具体的にどのようなものなのか、今のところ見出すことはできない。


2015.11.25(水) [02] 鎮守府 
 鎮守府の和名は何だろう。
 まず、〈倭名類聚抄〉官名第五十一を見る。  「 軄員令云、近衛府・兵衛府・衛門府【由介比乃豆加佐】、大宰府【於保美古止毛知乃司】、鎮守府。
 このように、近衛府などはユケヒノツカサ、大宰府はオホミコトモチノツカサという和名が書いてあるのに対し、鎮守府には和名が書いてない。 ここで、「靱部〔ゆけひ〕」は、もともと靱(ゆき、矢入れ)を背負い、朝廷を守護する職能部の名称。 「〔みこともち〕」は、地方官吏を意味し、「持ち、地方に赴く役」が語源である。
 鎮守府についても語源を探ってみよう。 類するものの初見として、『続日本紀』養老六年(722)に「鎮所」が見える。 その文は
用兵之要、衣食為本。鎮無儲糧、何堪固守。募民出穀、運輸鎮所。〔用兵の要は衣食をもって元とする。糧の儲(たくわえ)なしに鎮(しづ)めようとして、どうやって固守に堪えるのか。民を募り出穀を促し、鎮所に運輸せよ。〕
 以下、『続日本紀』から鎮守府について書かれた例を見る。
・神亀元年(724)に「陸奥国鎮守軍卒」。軍卒〔いくさ〕は、兵士。これは、「軍卒らが故郷に帰ることを申し出て、許可される」という文の主語である。
・天平元年(729)「陸奥鎮守将軍従四位下大野朝臣東人〔陸奥鎮守将軍・従四位下の大野朝臣東人〕大野東人は人名。
・天平十一年(739)「陸奥国按察使兼鎮守府将軍大養徳守従四位上勲四等大野朝臣東人〔他二名〕為参議
〔陸奥国按察使、そして鎮守府将軍・大養徳守(やまとのかみ)を兼ねる従四位上勲四等の大野朝臣東人ら三名は、参議となった。〕
 蝦夷を制圧する拠点は、はじめは「鎮所」と言った。その訓みについては、万葉集に、(万)0190此吾心 鎮目金津毛 このあがこころ しづめかねつも」があるので、鎮所は恐らく「しづめどころ」であったと思われる。
 その名称は次第に長くなり、最終的ににその将軍は「陸奥国鎮守府将軍」と呼ばれる。名前が長くなるのと同時進行で、役所としての体裁も整っていったと思われる。
 鎮守は漢籍である。〈汉典〉を見ると「駐軍防守」。 〈中国哲学書電子化計画〉を検索すると、中国古典には百例以上ある。例えば『魏書二十三/趙儼伝』宜遣将軍詣大営、請旧兵鎮守関中。〔よろしければ将軍を大営に行かせ、旧兵に関中(地名、陝西省の渭河平原)を鎮守させてください。〕など。
 鎮守府の和名を想像すれば「しづめのつかさ」となるが、「倭名類聚抄に和名がない」事実は直視しなければならない。脱落したのかも知れないし、実際に和名がなかったのかも知れない。
 改めて「ゆけひ」「みこともち」に目を向けると、それらが和語として飛鳥時代以前から存在したと見られるのに対し、「鎮守」は 奈良時代の724年頃に初めて、漢籍を用いて役所の名称を決めたので、最初から音読みだったかも知れない。つまり「ちむじゆのつかさ」あるいは「ちむじゆふ」が公式だったとしても不思議はない。


2016.02.18(thu) [03] 佐保山南陵 
 江戸時代の『名所図会』は、精密な図を添え諸国の名所について紹介した書である。 そのうち『大和名所図会』(以下〈図会〉)は六巻から成り、 著者は秋里籬島、画工は浪花の春朝斎竹原信繁で、 奥付に「寛政三年辛亥五月発行」〔1791年〕とある。
 その「巻之二添上郡」に、多聞山城址・眉間寺・聖武天皇陵についての紹介がある。 これを糸口として、佐保の地と朝廷との関係、および地名「佐保」の範囲を探りたい。
松永久秀城趾まつながひさひでのしろあと
多門山にありだん正弼久秀は播州の人之摂州高槻たかつきすまい姓質せひしつ肝侫かんねい弁才べんさいにして享禄こうろくの頃 三好みよし長慶ちやうけいつかへ執権しつけんとなり 天文に至ッて和州播州に於いて廿余万石を領じ 多聞山に城を築くと云云
 多門山に在り。禅正弼久秀は播州〔播磨〕の人なり。摂州〔摂津〕高槻に住し 性質姦侫弁才にして享禄〔きょうろく、1528~1531〕の頃 三好長慶に仕へ執権となり、 天文〔1532~1555〕に至って和州〔大和〕播州に於いて二十余石を領じ 多聞山に城を築く。
眉間寺みけんし
同所にあり佐保山と号す律宗にして聖武帝の御願之長寛三年中 村上帝の御宇化人現れ眉間みけんより光明を放つ事数時をかけずして 化す其こに舎利二粒ありそれより勅して此号を賜ふ いにしへは眺望てうばうちといふ開基は行階仏都之
 同所にあり、佐保山と号す。律宗にして聖武帝〔第45代、在位724~749〕の御願なり。長寛三年〔1165〕中 村上帝の御宇〔みよ〕〔第62代、在位926~946〕、化人現れ眉間より光明を放つ事、数時(とき)をかけずして、 化す。そこに舎利〔=米粒〕二粒あり。それより勅してこの号を賜ふ いにしへ〔=昔〕は眺望寺〔ちょうぼうじ〕といふ。開基は行階仏都なり。
佐保さほやま みなみのみさゝき
眉間ちのうしろにあり聖武帝のみさゝきぞく御陵森みさゝきのもりといふ東大とうだい寺にへんある時 は鳴動めいどうすといふ松永が城中といへとも霊験あるゆへ破踋はきやくなしと云云
 眉間寺の後ろにあり、聖務天皇の陵なり。俗に 御陵森といふ。東大寺に変ある時 は鳴動すといふ。松永が城中と雖も霊験ある故、破却なし。
佐保さほやま ひかしのみさゝき
同所東の方にあり光明皇后の陵之それ不比等のむすめにして聖武帝の きさき之天平宝字四年六月乙丑に薨したまふ六十歳いみな天平應真正皇太后といふ
 同所東の方にあり、光明皇后の陵なり。それ不比等〔藤原不比等、659~720〕の女にして聖武帝の 后なり。天平宝四年六月乙丑に薨したまふ。六十歳。諱天平應真正皇太后といふ。
大石おほいし
南陵の乾にあり此所元明帝の陵と云伝ふ此石陵の四方に建し石なりその隼人像なる が猶考あるべし隼人應天門に陣し大表をゑまつる延喜式につたへたり
 南陵の乾〔いぬい、=北西〕にあり、この所元明帝の陵と云ひ伝ふ。この石陵の四方に建し石なり。その隼人像なる が、猶(なほ)考(かんがへ)あるべし。隼人應天門に陣し大表(おほおもて)を会〔ゑ、=集合〕まつる。延喜式に伝へたり。

【変体仮名の読み取り】

 変体仮名は概ね確認できたが、「」は見つからなかった。 この文字は、どうやら仮名ではなく漢字らしいが、ユニコード表にも漢和辞典にも見つからない。
 しかし、は、どれも「この」と訓むと意味が通ることが分かってきた。
 そうこうするうちに、石上布留社(石上神宮)の蛇之麁正について述べた文中に、読み仮名がついたものを発見した(右図)。 「とも號(ごう)す。抑(そもそも)(この)劔(みつるぎ)は素戔烏尊(そさのをのみこと)
 結局、は「此」の異体字らしい。
《薨しふ》
 もう一か所変体仮名に見つからない文字が、佐保山東陵の項の「薨しふ」である。 直感的に「たまふ」だと思ったが、漢字の「号を賜ふ」もあったので、なお慎重に検討した。
 すると「ふ」は〈図会〉の多くの箇所にあり(「沽間泉」の項など;)、すべて「たまふ」で意味が通る。 「賜」とは使い分けがあり、「賜ふ」は独立した動詞、「ふ」補助動詞である。 は「給」の草書体かも知れないが省略が過ぎるので、仮名2つの組み文字であろう。
 なお、沽間泉にも「につたえたり」がある。〔に〕は尓、〔を〕は越に由来する。
《大表(大表をゑまつる)》
 大石の項、「大表」の下の判読は難しかった。結局「」は松永久秀城跡の項の「廿余万石」と同じ。「」は、崩す前の「恵」の下心に 特徴があるから、縦長だが「」。「」は「真」に由来する。「」は問題なし。 「」は小丸に特徴がある。
 「」は、「盂蘭盆(うらぼん)」の「会(ゑ)」で、会合のこと。 上代にはまだ見られず、中古(平安時代中期)以後の語である。

【応天門】
 「大石」の項には、南陵から見て北西方向の陵に4つの隼人像があり、また隼人が応天門を警備したことに触れている。延喜式(927年)に、その記述が見つかった。
 延喜式には、隼人司〔隼人を司る役所〕の、元日・即位・蕃客(外国使節)入朝の儀に行う仕事として、 「番上隼人廿人。今来隼人廿人。白丁隼人一百卅二人。分陣応天門外之左右。」とある。 なお〈倭名類聚抄〉「司」の項に、「隼人司【波夜比止乃豆加佐はやひとのつかさ」がある。
 応天門は、朝堂院の正面の大門。朝堂院は平安京大内裏の中の政庁で、その奥に大極殿が建っている。 延喜式には続けて「今来隼人発吠声三節」、「番上隼人著当色横刀」、「自余隼人皆〔残りの隼人以下、皆〕著大横布衫〔上着を着用する〕」 と書かれる。その書きっぷりから、今来・番上・白丁は氏族名ではなく、役割分担であることがわかる。
 今来隼人は文字通り「今来たぞ」と、犬の吠え声を擬して発声したのであろう。  そして、番上隼人は帯刀する。白丁隼人などは「着衣する」と書いているので、番上は着衣せず褌姿で恐らく派手な飾りを纏っていたのだろう。白丁は帯刀しない。 「番上」は「お上を番する=警護する」意味であろうか。
 書紀には、隼人は吠える犬に代わって宮殿の警備をしたと書かれる(第93回【一書2】)。
是以、火酢芹命苗裔、諸隼人等、至今不離天皇宮墻之傍、代吠狗而奉事者矣〔海幸彦の末裔である幾流かの隼人は、現在は天皇の宮殿の垣で、吠える犬に代えて警備を担っている〕

【大石】
 〈図会〉には元明天皇陵と言い伝えられると書かれる。その墓は四隅に隼人石が立てられ、現在は「那富山墓」といい、聖武天皇の早世した皇子の墓とも言われている。
 続紀には、神亀4年(728)11月2日「新誕皇子。宜立為皇太子。」、 同5年9月13日「皇太子薨。」、同19日「葬於那富山。時年二。」とあり、満10か月の命であった。那富山=奈保山であろう。
 「隼人石」と呼ばれるのは、人身獣頭の像を線刻した石である。動物は、鼠、牛、犬、兎で、十二支に含まれる。 この4石を隼人石と名付けたのは江戸時代の藤原貞幹(1732~1797)で、犬頭人像から書紀の「吠狗」を連想したことによるとされる (『奈良歴史漫歩』―41)。
 〈図会〉は藤原説に引きずられて、隼人が重要儀式の時に応天門に集うことを書き添える。もちろん隼人石は、隼人とは無関係である。
 頭が動物・体が人の十二支像は、キトラ古墳壁画に描かれたものが有名である。「隼人石」はそれとモチーフを同じくするから、もともとは12体が揃ってどこかに円周上に並べて置かれていたはずである。 十二支の筆頭の子は統率者として描かれ、他は恭順のポーズをとっている。絵の描きっぷりには、鳥獣戯画に通ずる趣がある。 子像に「北」、卯像に「東」と書いてある方位は正しい。しかし、那富山墓に置かれた位置は正しくない。

【元明天皇陵】
 元明天皇陵の場所は中世にはわからなくなっていたが、幕末に現在の場所に決定された。
 続紀では「椎山陵」、延喜式では「奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)」とされる。 後述するように、「なほ」の地は現在の奈保山東陵を含む。 元明天皇陵の拝所からは、自然丘陵が墳丘のように見える。ただ、本人が「山の表面で火葬してそのまま喪処とし、丘体を掘って石室を作るようなことをするな」と遺詔し、その通り実行されたから、墳丘は決して造営されなかった。
 元明天皇は、715年に退位し太政天皇になった。続日本紀は元明天皇の葬儀について、次のように書く。
養老五年〔721〕十月乙亥朔丁亥〔13日〕。朕崩之後。宜於大和国添上郡蔵宝山雍良岑造竈火葬。莫改他処。
 〔朕の崩じた後、大和国添上郡蔵宝山(さほやま、=佐保山)雍良岑(よらのみね)に竈(かまど)を造り火葬せよ。他処に改葬するな。〕
庚寅〔16日〕。仍丘体無鑿。就山作竈。芟棘開場。即為喪処。又其地者。皆殖常葉之樹。即立刻字之碑。
 〔丘体を(ほ)らず、山に就(つ)けて竈を作り、棘(いばら)を芟(か)り開場し喪処とし、またその地には皆常葉の樹を殖え刻字した碑を立てよ。〕 おそらく13日から15日までの間に埋葬地が決定され、16日にさらに具体化するための指示をしたのであろう。
十二月癸酉朔己卯〔7日〕。崩于平城宮中安殿。時春秋六十一。
乙酉〔13日〕。太上天皇葬於大倭国添上郡椎山陵。不用喪儀。由遺詔也。
 〔太政天皇は大和国添上郡の椎山陵(ならやまのみささき)に葬(はぶ)り、喪儀を用いず。これは遺された詔に由(よ)る。〕
 この一帯は広くナラ山(平城山、那羅山、平山、楢山、椎山)と呼ばれるので、この記述だけでは位置は特定できない。
 1734年の『五畿内志』には、佐紀盾列古墳群の宇和奈辺古墳(後述)、 1791年の〈図会〉の時点では、那富山墓が元明天皇陵だと想像されているから、少なくともそれまでは、現在の元明天皇陵の位置ではなかった。
 続紀を読む限り、元明天皇の陵は常緑樹に囲まれた神籬のようなものである。 「刻字之碑」が特記されるから、それまでは陵に墓誌を遺す習慣がなかったのかも知れない。 古事記が献呈されたのも元明天皇だから、文字による記録を重視した天皇だったのだろう。 古事記序文には、天武天皇は武治の人、元明天皇は文治の人と書かれる。
 また、続紀からは墳丘は作られなかったと読める。
 幕末に治定した「元明天皇陵」は、まずは自然地形から墳丘に相応しい場所を選び、周囲に道を巡らせて形を整え、前面に拝所を設置したようだ。 …実証資料が十分・不十分にかかわらず、幕府あるいは政府が陵の埋葬者を決定すること。 その上には「刻字之碑」と目される「函石」を置いた。
 その辺りの事情は、宮内庁書陵部による『書陵部紀要51号』(2000年)に詳しい。かいつまんで示すと、
 明和6年(1769)、その数十年前に函石谷から出土し、奈良豆比古神社に置かれていた「函石」(直方体の石、66cm×46cm×93cm)を、続紀の「刻字之碑」と断定した。
 函石は、幕末の修陵の際に、「陵」の上に建てた覆屋内に移され、明治32年(1899)に覆屋の東側に模造碑が造られた。
 函石から読み取れる文字は、「」・「」・「次辛酉」の五文字である。
 従って、治定された元明天皇陵は函石の発掘地ではなく、後からそこに置いただけである。
 初めに函石を置いていた奈良豆比古神社は、式内社〔神名帳:〖大和国/添上郡/奈良豆比古神社〗である。「ならつ彦」は、恐らくこの地の古代氏族の英雄であろう。 また函石谷という谷の名が、函石の発見に因むのは明らかである。そこで付近の谷らしい地形を探すと、神社の西方230m辺りが谷になっている。 刻字之碑がこの谷に転げ落ちたと想定すると、初めにあった場所はその北西側(治定陵)、東側、南側が考えられる。 そのうち治定陵については、その等高線は美しい形をした丘陵を示すので、墳丘に準えるには都合がよい。
 しかし、気になるのは続紀の「就山作竈」という表現である。もし頂上ならば「作竈于山上」のように書くのではないか。 「就」の中心的な意味は、「ある場所に近づく」、「ある所にひっつく」であるから、竈(=陵)は山の麓で、頂を仰ぐ場所に作られたように思える。
 ともあれ、これで陵の候補地は治定陵から奈良豆比古神社の辺りに絞られたと言える。 ただし、これは函石が本物の「刻字之碑」であることが前提でなる。函石の「辛酉」が日付だとすると、養老五年12月1日の癸酉から(48+60n)日後または、(12+60n)日前(nは0または正の整数)となる。 すると「五」は「養老五年」ではなく、翌年五月かも知れないが、これだけでは何とも言えない。
 いつの日か、加熱痕のある岩組みや霊廟の木材が埋まった、本物の遺跡が見つかることを期待したい。

【多聞山城址】
『日本城郭体系10』、若草中学校校舎入口『多聞山城縄張推定図』などから作成。

 松永久秀(1510~1577)は三好長慶に仕え、弾正少弼。将軍足利義輝を自害に追い込んだが、信長に降伏し領地大和を安堵された。 後に信長に背き、信貴山城を攻められて滅亡した。
 多聞山城は<『日本城郭大系10』、以下〈大系〉>那羅山(佐保山)丘陵の東南隅にあり、現在、主要部は若草中学校、 西部は仁正皇后〔光明皇后〕陵・聖武天皇陵となっている。南端に佐保川が流れ</大系>る。
 築城は1560年、その四重天守は安土城に先行し、権力の象徴としての天守の先駆けとされる。 1576年には廃城となり土塁・空堀を残すのみである。この丘上には〈大系〉もと眉間寺があったが、 松永久秀の築城時に聖武天皇陵の西側〔"南"の誤り?〕に移された〈/大系〉という。 とすれば、〈図会〉に描かれた眉間寺は、移築後のものである。 眉間寺が「移された」とする〈大系〉の見解は、何かの根拠に基づくのか、あるいは推定なのかは判らないが、 後述するように、本堂や多宝塔などは初めから聖武天皇陵の前にあったと考える方が自然である。
 〈図会〉では、多聞山城は破却された場所の山が描かれ、「城趾」と記されている。

【眉間寺】
 眉間寺は聖武天皇の御願により、奈良時代の7世紀前半に創建された。創建時は眺望寺と称した。 聖武天皇は、災害や疫病の多発を憂え、仏教に帰依し743年に東大寺大仏(盧舎那仏)を建立の詔を発し、749年に退位、752年に大仏開眼供養、756年に崩御した。
 仏教を篤く信仰したことから、眉間寺は聖武天皇の菩提寺となり、寺域に陵を置き永く祀ったのは当然だと思われる。
 聖武天皇陵には霊験があったから、久秀が多門城を築くときに破却しなかったと書かれていることは、興味深い。
 〈図会〉には、眉間寺の姿が精密に描かれていて、「太子(堂)」、「観せ音〔観世音〕(観音堂)」、「本堂」、「しゆろう〔しょうろう〕(鐘楼)」と書き添えられている。 本堂からは崖に舞台がせり出し、その南東に多宝塔がある(右図、図クリックで拡大)。

【佐保山南陵・佐保山東陵】
《続日本紀》
 続日本紀(797)では「南」「東」がついていない。また、3天皇、1妃が「佐保山陵」に葬られたとされる。
 養老五年〔721〕十二月癸酉朔乙酉〔13日〕。太上天皇元明天皇葬於大倭国添上郡椎山陵。不用喪儀。由遺詔也。
 天平二十年〔748〕四月庚子朔丁卯〔28日〕。火葬太上天皇元正天皇於佐保山陵。天平勝宝二年〔750〕十月。太上天皇改葬於奈保山陵
 天平勝宝六年〔754〕八月甲子朔丁卯〔4日〕。謚曰千尋葛藤高知天宮姫之尊藤原宮子。文武天皇の妃・聖武天皇の生母〕。火葬於佐保山陵
 天平勝宝八歳〔756〕五月甲寅朔壬申〔19日〕。奉葬太上天皇聖武天皇佐保山陵。御葬之儀、如奉仏。
 天平宝字四年〔760〕六月己未朔癸卯〔存在しない日〕。葬仁正皇太后光明皇后於大和国添上郡佐保山
《延喜式》
 延喜式(927)は、佐保山の五陵を続紀の時系列に沿って書いている。
 延喜式までに新たな陵の名称が定着したようで、『五畿内志』(1734年。以下〈志〉)でも同じ名称が使われている。
 奈保山東陵。平城宮御宇(みよ)元明天皇。在大和国添上郡。兆域東西三町。南北五町。守戸五烟。
 奈保山西陵。平城宮御宇浄足姫天皇元正天皇。在大和国添上郡。兆域東西三町。南北五町。守戸四烟。
 佐保山西陵。平城朝太皇大后藤原氏藤原宮子。在大和国添上郡。兆域東西十二町。南北十二町。守戸五烟。
 佐保山南陵。平城宮御宇勝宝感神聖武天皇。在大和国添上郡。兆域東四段。西七町。南北七町。守戸五烟。
 佐保山東陵。平城朝皇大后藤原氏光明皇后。在大和国添上郡。兆域東三町。西四段。南北七町。守戸五烟。
 さて、陵ごとに兆域の広さが示されている。その単位「町」は、条里制においては6尺=1間。60間=1町。正倉院の紅牙撥鏤尺では当時の1尺はほぼ30cmだから、1町=108mである。 また、段(反)は面積、布の大きさ、距離を表す場合があるが、距離の単位としては6間=1段なので、(1/10)町である。
 その数値で換算すると、兆域はが西760m・東43m、が西43m・東320mとなるので、佐保山南陵と佐保山東陵は東西に近接して作られ、その間隔は86mであったことが分かる。
 また、皇后名に藤原氏を前面に押しだしている。皇后陵は天皇陵と同格に扱われ、藤原氏は閨閥として権力を誇っている。
 その中でも藤原宮子には太皇大后の称号が与えられ、兆域が飛びぬけて広いことが注目される。 宮廷内で、太皇大后が荘厳に祀られ、連動して光明皇后の存在感が高まっていったのだろう。
 その太皇大后の佐保山西陵()は、黒髪山にあったといわれる。黒髪山の名は万葉集に歌われ、那富山墓の北西には黒髪山稲荷神社がある。
――(万)1241 黒玉之 玄髪山乎 朝越而 山下露尓 沾来鴨 ぬばたまの くろかみやまを あさこえて やましたつゆに ぬれにけるかも  ※ ぬばたまの…「黒」にかかる枕詞。
《五畿内志》
 『五畿内志』(1734年。以下〈志〉)には、元明天皇は「奈保山東陵:在法華寺村北呼曰大奈辺」、 元正天皇は「奈保山西陵:在元明帝陵西呼曰小奈辺」とある。 小奈辺古墳は、佐紀盾列古墳群に属する。小奈辺の東にある「宇和奈辺古墳」は、〈志〉の「大奈辺」と同じであろう。
 しかし、元正天皇・元明天皇は既に前方後円墳の時代ではないので、全く当てはまらない。またその位置は、〈図会〉(1791)にも引き継がれていない。 については【元明天皇陵】の項で考察した通りだが、元正天皇陵も、幕末に自然丘陵を墳丘に見立てて治定されたと見られる。
 これらの本当の場所はどこか。それを考えるためには、まずその時代の陵の大きさを推定しなければならない。そこで埋葬者が確定した陵として、天武・持統合葬陵を調べると、五段の八角形墳、東西58m・南北45m・高さ9mで、この時代では大規模とされている。 また〈図会〉の眉間城図に書かれた聖武天皇陵を見ると、直径20m程度か。従ってについては、同程度の大きさの塚が、佐保丘陵のどこかにあったのだろう。 は、墳丘自体がなかった。
 その奈保山の場所を確定するために、倭名類聚抄を見ると{大和国・添上郡・猶中}がある。この郷の訓みは「なほなか」とされる。 『大日本地名辞書』(吉田東伍、1907)には「猶中(ナホナカ)郷」の項目があり、「今佐保村及び奈良坂村に渉る」とされる。 地図を参照すると、元正天皇陵・元明天皇陵は確かにこの範囲内である。この辺りには周濠付きの前方後円墳は見あたらないので、奈良時代の小型の墳丘、あるいは墳丘自体を欠く陵がいくつかあり、それらにも含まれると思われる。
『日本城郭体系10』掲載の実測図を使用
《聖武天皇陵》
 一方、聖武天皇陵の場合は、眉間寺と一体になって奈良時代以来継続して祀られてきたと考えられ、〈図会〉の位置には信憑性がある。 また光明皇后の佐保山東陵は、〈志〉では「眉間寺東北」とする。しかし、〈図会〉の絵にはないから、多聞山城築城の際に破壊されたのだろう。 『日本城郭体系10』の実測図を見ると、間は88mで、延喜式による86mと、大体一致する。幕末に延喜式から位置を求めて、塚を再建したと見られる。
 多聞城と聖武天皇陵の間には空堀がある。これは、築城の際に掘られたと考えられる。 ということは、陵と眉間寺は城の縄張りの外として、保存されたのである。 となれば、〈図会〉の「松永が城中と雖も霊験ある故、破却なし。」という言い伝えは、がぜん信憑性を帯びてくる。 光明皇后陵の方は恐らく朽ち果てていて、躊躇なく毀されたのだろう。それに対して聖武天皇陵は 眉間寺の霊域として、篤く祀られ続けてきた。だから周辺住民の信仰心により、そして恐らく松永久秀自身の信仰心によって守られたと言える。
 ところが、幕末の修陵において、眉間寺は破却された。拝所から鳥居を通した視界に仏教寺があるのは、天皇陵のイメージに合わなかったのだろう。 しかし菩提寺を破却する行為は、長年陵を守ってきた伝統と、何よりも仏教を厚く信奉した聖武天皇自身の思いを踏みにじるものである。

まとめ
《佐保山と奈保山、そして椎山》
 続紀によると、持統天皇と文武天皇は飛鳥岡(あすかのおか)で火葬された。 元明天皇は蔵宝山(さほやま)雍良岑(よらのみね)で火葬され、葬られる。別名は椎山(ならやま)陵という。 文武妃で聖武天皇の母である藤原宮子は佐保山に火葬された。元正天皇は佐保山で火葬された後、奈保山陵に改葬される。 聖武天皇、光明皇后は佐保山に葬られた。
 このように平城京への遷都(710)に伴い、葬送の地は飛鳥から平城京の北に移った。
 新たな葬送の地には、奈保山、佐保(蔵宝)山、椎(なら)山という地名がでてくる。それらは、いかなる位置関係にあるのだろうか。
 まず「佐保山」は、一般的に佐保川以北、JR関西本線以東の奈良市内だとされる。ただ眉間寺の山号が佐保山なので、特に佐保山南陵付近を指すかも知れない。 次に「奈保」は佐保の一部で、倭名類聚抄の猶中郷の辺り(現在の奈良坂町・奈保町)と思われる。最後に「平城山」は佐紀盾列古墳群まで含む広い地域だが、佐保の中にもピンポイントで椎山があったかも知れない。
 このようにそれぞれ重なり合っているが、続紀・延喜式では那富山墓辺りより北を奈保山、南を佐保山と呼んでいるようだ。
《幕末の修陵について思うこと》
 さて、幕末の天皇陵の治定と修陵は、天皇中心の国の形を近代に再構築しようとする動きの一環である。 背景には、欧米の帝国主義による東アジアへの進出に対抗するために、中央集権国家の確立を急務としたことがある。そのために、日本人の心は一律に日本らしくあらねばならないとした。 思想における「日本らしさの確立」については、江戸時代中期に興った国学では、万葉集・古事記の文学的な心が本来の日本らしさとされた。 そして、儒教・仏教は外来のお仕着せであるとしたが、その感覚をもって天皇陵修陵運動を推進すると、伝統ある仏教寺院を破壊するような極端なことが起こってしまうのである。 正しいことに向かってむきになって突き進むことの持つ、危うさであろうか。
 しかし、古来の自然神道は自然界のあらゆるところに八百万やほよろづの神がいて、外来の仏教とも習合できる、寛容なものであった。その寛容こそが「日本らしさ」であったはずだが、「国家神道」なるものは、皮肉にもそれを捨て去った。 そして寛容の精神を失った偏狭な国家神道を精神的基盤とする政治が推し進められた結果、大御宝〔=人民〕の生命と暮しをないがしろにし、国民を無謀な戦争に引っ張って行ったのである。

2016.03.03(thu) [04] 万葉集の歌が刻まれた木簡が物語ること 
 『飛鳥の木簡』(市大樹著、中公新書)によると、万葉集の歌が線刻された「7世紀後半ごろ」の木簡が発掘された。
 〈奈良文化財研究所木簡データベース〉から検索すると、 出土地は、石上遺跡(奈良県高市郡明日香村飛鳥)。 形状は羽子板状の木製品で、99mm×55mm×6mm。
 右図は、〈木簡字典〉(奈良文化財研究所)の画像から、 刻まれたと見られる線を示したもので、「阿」の阝と、?は読み取れないが、筆跡から次のように読み取れる。
留之良奈?ゝ麻久/阿佐奈伎尓伎也 〔ルシラナ?ゝマク/アサナキニキヤ〕
 『飛鳥の木簡』は左の行を先に読み、?は弥(ミ)とし、 更に「也」は古くヨと読まれたとする研究により、「アサナキニキヤルシラナミミマク」と訓み、 万葉集の歌に一致することを見出した。その歌は第7巻の、 (万)1391 朝奈藝尓 来依白浪 欲見 吾雖為 風許増不令依 あさなぎに きよるしらなみ みまくほり われはすれども かぜこそよせね。 にあたる。
 ただ、同書で「弥」と読むが、この字はどう見ても人偏である。また「也は古くヨと読まれた」とする説は、一般的とは言えない。 とは言え、木簡に刻まれたこの歌が、万葉集に収められる前の形なのは明らかである。 つまり、万葉集に収められている歌は、もともとは万葉集とは異なる字を使って書かれていた。 これは万葉集を編むときに、字が改められたことを示している。
 万葉集の訓に共通する字の使い方として、次のような指針が見て取れる。
推量の助動詞「む」に「将」を用い「当」は用いない。
接続助詞「て」は常に「而」、格助詞「を」は常に「乎」。
係助詞「は」と接続助詞「ば」は「者」である。
格助詞「の」は、乃、能、之、あるいは省略の4通りを用いる。
「所+動詞」は連体形であるが、特定の動詞に対して自発、使役、尊敬の意味を加える場合もある。
≪漢字表記の用例集としての万葉集≫
 このように助詞・助動詞の書き方には一貫性が見られるので、奈良時代までの万葉集は、日本語のオール漢字表記の際の手本とされたと思われる。 しかし、それは十三巻までと十九巻であり、 十四巻~十八巻はほぼ音仮名である。二十巻は基本的に音仮名だが、なぜか歌いだしだけが訓になっている歌がある。 だから、十三巻を編集した時代までは、漢字による日本語表記を標準化する努力を払っていた。 しかし、結局この方法は読み方に完全な再現性がないので、後に助詞・助動詞、そして動詞の活用語尾に小さな字の音仮名を補うようになった。
 例えば、続日本紀(797年完成)の天皇の宣明文は、
食国天下調賜平賜天下公民恵賜撫賜牟止奈母

〔此の食(をす)国天下を調(ととのへ)賜(たま)ひ天下の公民を恵(あはれび)賜(たま)ひ撫(やす)め賜(たまは)むとなも〕 (文武天皇元年(697)8月17日条の一部)と書かれる。
 おそらくこのような書き方から発展して漢字を崩して平仮名、漢字の一部分を取り出して片仮名が創造される。
 よって、7世紀末頃にはオール漢字文+一部レ点方式による標準化は廃れ、仮名を使った完全な再現性のある表記になる。その境目が十三巻編纂と十四巻編纂の間であろうと想像される。 十四巻は特別に東歌を集めたので発音を正確に書き取るために、音仮名にせざるを得なかったとも思われるが、以後も音仮名方式が続くのである。 結局、十四巻の時期以後は、オール漢字表記参考例集の性格を失い、純粋に和歌集になった。
 なお、「万葉集」は平安中期より前の文献には登場しないとされるが、それはやっとその頃になって「万葉集」という名前がつき、それまでは名前がなかったからだと想像される。


2016.03.12(sat) [05] 寛治三年七月越後絵 
 平安時代の越後の地図と言われるものが、何点かが存在する。右はその一つ 「寛治三年七月越後絵」で、『越後古代史之研究』(池田雨工著、大正14年)〔1925〕に収められている。
 〈新潟県歴史博物館のページ〉 によれば、「現在の新潟平野の部分に大きく海が入り込んでいる様子を表現していることが特徴」で、 康平三年〔1060〕と寛治三年〔1089〕のものがあるが、 「これらの図は平安時代に作成されたものではなく、近世に創作された絵図であるという考え方が一般的」と言う。
 しかし、一定の信憑性を感じさせる要素もある。例えば、新津・古津はもともと河口の左側に港(古津)があったが、後に河口の右側に新たな港(新津)が作られたことを物語っている。 また、現在の日本海に出っ張った砂州が存在し飛山・砂山の地名があり、 また、沈んだ島にも榎島、沼芝などの名が記されている。これらが想像上の命名であるとすれば、そこまで捏造せざるを得ない事情はどこにあったのであろう。 むしろ、何らかの古地図が継承されていて、それを見て作成したとする方がよほど自然に思える。
 その真偽を突き止めるためにも、まずはこの図を細部まで丁寧に見ていくことが必要である。

【寛治三年七月越後絵】
《現代の地名との対応》
 まず、寛治三年図を見る。図の地名は、現代に通ずるものが多いのが特徴である。
 そこで図の地名や川名と対応しうる現代の地名を拾うと、北から順に 村上市、関川村、加治川、阿賀野市、新潟市秋葉区新津、同古津、弥彦村、三条市、守門岳、見附市、 駒ヶ岳、小千谷、信濃川、八海山、春日山城跡、妙高山がある。 これらの地名と、等高線によって山地・平野の境界を見出すことによって、ほぼ海岸線を特定することができる。
《平安時代の地名》
 かつて海だった部分の多くは、蒲原郡内にある。
 平安時代の蒲原郡の地名を倭名類聚抄で見ると、 {蒲原郡【加牟波良】〔かむはら〕}に {日置【比於木】櫻井【佐久良井】勇禮【以久礼】青海【安乎美】〔あをみ〕小伏}の各郷がある。 図に見られるのは、郡名と同じ蒲原と、青海郷のみである。図は、海岸沿いのみの地名を示し、内陸部の地名は書かれなかったと思われる。
 それ以外に{魚沼郡/那珂〔なか〕に類する地名として、図の信ノ川沿いの中山があるが、関連は微妙である。
《現代に通ずる地名》
 それにしても、倭名類聚抄の地名は非常に少なく、現代の地名に通ずるものが多い。 特に、山の名前はほぼ現代と同じなので、多くの地名は江戸時代、ことによると明治時代であろう。 従って、平安時代から伝わる図が土台にあったとしても、近代の地名を書き加えたと考えざるを得ない。
 ただ、水没した島や砂州の名は、過去の記録を用いたと思われる。

【田園地帯・越後平野の形成】
《潟の開発》
 平安時代に越後平野が完全な海であったかどうかは別として、江戸時代までは低湿地であったことは間違いない。
 明治元年(1868)の越後新発田藩の町村リストを見ると、2町193村のうち、「~新田」が100村(51%)を占める。 〈潟のデジタル博物館〉によると、 「弥彦のご祭神古代から中世中頃まで、越後平野のほとんどの地域は、低湿地」で、その後戦国時代末期から江戸時代前期にかけ、 「氾濫原の水抜きのための瀬替え〔せがえ、河川の付け替え〕に始まり、潟の干拓を目的とした分水路を整備」することにより、 「水田の面積が増加し更には米の石高を増やすことができた」と言う。
《「寛治三年七月越後絵」創作は可能か》
   かつての低湿地を開発して新田にしたことから、低湿地の範囲を海にして描けばそれらしい図を作り出すことは可能であろう。 しかし、それだけで日本海に突き出た砂州を思いついたとすれば、神業である。それが水没した事実を示す、何らかの記録が存在したと見るのが妥当である。 また、古津・新津という地名は、実際に海に面していたことを物語る。 さらに、「新潟」は海底に土砂が堆積し、北東に向かって新しく伸びた土地のことだと思われる。
《寛治六年の水没》
康平三年図――後冷泉天皇康平三庚子年取調
 『越後古代史之研究』掲載の寛治三年図には、池田雨工による添え書きがある。曰く、 「寛治六年寺泊ノ下ヨリ角田古潟砂山飛山榎島等大波ニテ打崩シ海トナル」。 つまり、弥彦から伸びるY字型の半島のうち日本海側の突出部と、新潟の北東にあった島が、大波によって失われたということである。 また、「新潟」という地名は、水没する前の「古潟」という地名と一対であったことが分かる。 「飛山」は、「飛び地の山」つまり独立した島だったのだろう。それが砂山の海岸から砂州で繋がったと思われる。
 この海域は、冬には季節風により激しい波浪がある。また、稀に強力な台風が勢力を保ったまま対馬海峡を通り、日本海を通過することもある。 しかし、海食崖は年月を経て浸食が進むものだから、この半島と島々を一気に沈めるような「大波」の正体は大地震に伴う津波であったと思われる。 当時は、津波によって崩壊したと考えたのだろうが、実際には大地震本体の揺れによって沈んだのではないだろうか。
 「寛治三年七月越後絵」によれば新潟は半島の先であったが、その半島に沿って「長岡平野西縁断層帯」がある (『新潟県の活断層と海溝について』)。 この地層は、西側が隆起する(『長岡平野西縁断層帯』)。 だから、断層のずれによって沈んだのではなく、比較的新しい堆積物が揺れによって崩壊したのかも知れない。しかし、実証するには専門的な調査が必要である。

【康平三年図】
《両図の地名の比較》
 康平三年図で現在の地名につながるのは、妙高山、八海山、駒ケ岳、弥彦ぐらいで、寛治三年図に比べて大幅に減少する。 古津は「津」になっていて、新津はない。つまり、後の世に新津が開かれたことによって、津は古津となったわけである。 青海については、青海野・青海岳があり、それらを含む広い範囲が「青海」であることを示している。
紫雲寺潟と塩津潟春日山と国府
 また、康平三年図には、関川(上越市のところ)に〈倭名類聚抄〉の{頸城〔くびき〕郡/物部}があるが、寛治三年図の同じ位置は空白である。
 さらに寛治三年図にある「春日山」の名称が有名になったのは、長尾景虎が春日山城に入った16世紀以後ではないかと思われる。康平三年図では「国府」となっている。 <wikipedia>南北朝時代〔1336~1392〕に越後国守護である上杉氏が越後府中の館の詰め城として築城した</wikipedia>とされるので、 平安時代の「国府」の呼称を守護の館に宛てたのかも知れない。だから国府の記入は平安時代ではなく、その約200年後である。
 興味深いのが関川の左側の干潟で、寛治三年図は「紫雲寺」の脇に「カタ」と書いてある。この潟は閉じていて、外部への水路は繋がっていない。 同じ潟が、康平三年図では「塩津潟」となっていて、荒川河口に開いている。 これは、寛治三年図が何らかの原図を見て作成したもので、原図の汚れのために紫雲寺の寺域と読んだ後に誤りに気付き、潟に訂正したように見える。 康平三年図は、別系統の原図から作成したと見られ、こちらは疑問の余地なく潟と読み取ることができたと考えられる。
 総じて、康平三年図には寛治三年図と比べて古い地名が若干多く、新しい地名が少ない。だから、寛治三年図は、より大規模に改変されたものであることが分かる。
水没部の地名新津・古津(津)。青海(野、岳)。
 半面、海中に沈んだ部分については、両図で榎島・飛山・砂山などの名が一致している。 ただ康平三年図にも古潟はあるが、新潟は「𡈽生田」となっている。 この点には疑念が残るが、基本的に水没部分は、古い原図から引き継がれたものと思われる。
《海岸線の比較》
 水没範囲については、地名・海岸線が全く同じように書かれている。 それ以外の地域でも、地名を取り除けば、海岸線と河川の流路はほぼ一致している。 従って、これらには共通の原図があったと想定される。

まとめ
 地名を近代のものに置き換えて原図を書き改めることが、果たして偽作なのだろうか。 これは例えて言えば、縄文時代の日本の地形推定図に、後の東京、横浜、名古屋などの位置を書き込んで分かり易くするようなものであろう。
 それと同じ感覚をもって、古くから伝わる地図の海岸線に、江戸時代の地名を記入した図を作成したと見られる。 それは歴史を偽ることとは真逆で、むしろ伝統を重んじ、継承しようとする試みと言える。
 これは江戸時代が初めてではなく、越後国の古い伝統かも知れない。前述したように、春日山が康平三年図では国府となっている。 春日山城が国府と呼ばれた鎌倉時代に、平安時代の康平三年図を元にしつつ、地名を鎌倉時代のものに置き換えた図が作られたのかも知れない。現存する「康平三年図」は、江戸時代に鎌倉時代の系統の図を見て作成したものであろう。
 つまり、平安時代の海岸線図を基礎に、その時代の地名を記入した図が幾度も作られたのである。 その原動力は、郷土への愛着だと思われる。平安時代という遥か昔にリアルに作られていた海岸線図を、文化遺産としてずっと誇りに思っていたのである。


2016.04.27(wed) [06] 先代旧事本紀―景行天皇の81子 
 『先代旧辞本紀』には、景行天皇の子は81名あり、そのうち56の名が挙げられている。 記紀には景行天皇の子の人数は80名とされ、それぞれ約20の名が挙げられている。 ここに、それらの対照表を示す。
古事記日本書紀先代旧辞本紀
1櫛角別王茨田下連等之祖56櫛角別命茨田連祖
2大碓命守君・大田君・嶋田君之祖1大碓皇子身毛津君・守君大碓命守君等祖
(押黑之兄日子王)三野之宇泥須和氣之祖43兄彥命大分穴穗御埼別‧海部直‧三野之宇泥須別等祖
(押黑弟日子王)牟宜都君之祖53弟別命牟宜都君祖
小碓命(倭男具那命・倭建命)小碓尊(日本童男・日本武尊)小碓命(日本武尊)
4倭根子命(倭根子皇子)42稚根子皇子命
5神櫛王木國之酒部阿比古・宇陀酒部之祖17神櫛皇子讚岐國造之始祖11神櫛別命讚岐國造祖
若帶日子命稚足彥天皇稚足彥尊
五百木之入日子命五百城入彥皇子五百城入彥命
8押別命5忍之別皇子15忍足別命
9五百木之入日賣命10五百城入姬皇女五百野姬皇女命伊勢天照大神齋祠
10豐戸別王22國背別皇子(豐戸別皇子)火國別之始祖30豐門別命三島水間君‧奄智首‧壯子首‧粟首‧筑紫火別君祖
18豐門入彥命大田別祖
14國背別命水間君祖
21國乳別皇子(宮道別皇子)水沼別之始祖44宮道別命
17國乳別命伊與宇和合別祖
11沼代郎女8渟熨斗皇女
12沼名木郎女9渟名城皇女
13香余理比賣命11麛依姬皇女
14若木之入日子王20稚屋彥命
15吉備之兄日子王13吉備兄彥皇子9吉備兄彥命
16高木比賣命14高城入姬皇女
17弟比賣命15弟姬皇女
18豐國別王日向國造之祖23豐國別皇子日向國造之始祖豐國別命日向諸縣君等祖
13豐國別命喜備別祖
19眞若王23眞稚彥命
20日子人之大兄王21彥人大兄命
21大枝王
22銀王(姬)
6稚倭根子皇子7稚倭根子命
7大酢別皇子8大酢別命
12五十狹城入彥皇子19五十狹城入彥命三河長谷部直祖
16五百野皇女
18稻背入彥皇子播磨別之始祖12稻背入彥命播磨別祖
28大稻背別命御杖君祖
19武國凝別皇子伊豫國御村別之始祖10武國凝別命筑紫水間君主
22武國皇別命伊奧御城別‧添御杖君祖
20日向襲津彥皇子阿牟君之始祖16日向襲津彥命奄智君祖
24天帶根命目鯉部君祖
25大曾色別命
26五十河彥命讚岐直‧五十河別祖
27石社別命
29武押別命
31不知來入彥命
32曾能目別命
33十市入彥命
34襲小橋別命兔田小橋別祖
35色己焦別命
36熊津彥命
37息前彥人大兄水城命奄智白幣造祖
38熊忍津彥命日向穴穗別祖
39櫛見皇命讚岐國造祖
40武弟別命立知備別祖
41草木命日向君祖
45手事別命
46大我門別命
 数字……基本的にそれぞれの原文内の記載順。
  ※ 先代旧辞本紀は「皇子に定む六子」に若い番号を宛てる。
 古事記の③⑥⑦……特に「太子を負う」と書かれる。
 日本書紀の②③④……この三子を「除き、皆国郡に封ず」と書かれる。
 先代旧辞本紀の①②③④⑤⑥……「皇子に定む六子」として他の子と区別する。
 古事記のa、b……大碓命の子。先代旧辞本紀では景行帝の子とする。
 記載順……同一人物と見えるものを、同じ行に書く。
47豐日別命
48三川宿禰命
49豐手別命
50倭宿禰命三川大伴部直祖
51豐津彥命
52五百木根命
54大焦別命
55五十功彥命伊勢刑部君‧三川三保君祖
【先代旧事本紀】
 先代旧事本紀(以後〈本紀〉)の序文には、 「于時小治田豊浦宮御宇豊御食炊屋姫天皇【推古】即位廿八年。 歳次庚辰春二月甲午朔戊戌【二月之二誤作三。拠日本長歴正之。按長歴此年二月甲子朔】攝政上宮厩戸豊聡耳聖徳太子尊命、大臣蘇我馬子宿禰等奉敕撰定。」とある。 即ち本書の編纂は、推古天皇28年・歳次庚辰〔620〕とあるが、序文は偽作とされている。 本体部分の成立は9世紀と推定され、記紀を基本にいくつかの失われた書が用いられたと考えられている。

【先代旧事本紀における子の名】
 記紀ともに、景行天皇は80子を生んだとされ、そのうち20子ほどの名を載せる。 旧事本紀は、50男子、25女子とし、さらに国郡に封じられなかった皇子として5男、1女を併せ81子とする。 そのうち前者は50男子全員、後者は6名全員の名前を載せる。
《日本書紀から》
・書紀にある男子はそのまま載せるが、女子(8・9・11・13・14・15・16)は載せない。 例外的に、五百城入姫皇女だけは載る。
・日本書紀21・22の別名が、〈本紀〉では別人とされる。
・〈本紀〉{30・18}{12・28}{10・22}はもともと同一人物かも知れない。
武国凝別命は、〈本紀〉10の「筑紫水間君主」は、書紀では21乳別皇子を祖とするところが不一致であり、 「君主」という表現が他にないところも疑問が残る。
《古事記から》
・記にあって書紀にない1・(14)・19・20も〈本紀〉に収められる。
・記の14若木之入日子王と〈本紀〉の20稚屋彦命が同一であるかどうかは、判断が難しい。
a、bは、記では大碓命の子だが、〈本紀〉では景行天皇の子とする。
21大枝王だけは、〈本紀〉から漏れる。20若木之入日子王と同一だと解釈したのかも知れない。
・〈本紀〉の豊国別命は二か所にある(③・13)。 

まとめ
 〈本紀〉は、書紀にある名前はすべて挙げ、そのうち記紀の両方にある名前は書紀の方の字が用いられる。 次に、記だけにある名前や、「三野之宇泥須別」などはそのまま写す。 ただ系図や派生氏族については、若干の変更がなされる。
 その上で、記紀に挙げられない名前を補い、人数をそろえようと務めたようだ。追加された名前には一部重複があるように思われる。 こうして、景行天皇〈本紀〉は記紀の完成後に書かれたと見られる。
 なお、女子名が省略されている。 ここには、女子は表に出ないものという感覚がある。 〈本紀〉が書かれたと思われる平安時代初期が、男子中心の社会になりつつあった表れであろう。
 また、「~之始祖」に出てくる「別」「君」「直」は古い姓だが、奈良時代末になっても残っていたらしい。 それを実証する一例として、「費」〔あたひ〕を直に改めてほしいという申し出の記録がある。 『続日本紀』の、神護景雲元年〔767〕三月乙丑に「阿波国板野名方阿波等三郡百姓言曰『己等姓。庚午年籍被記凡直。唯籍皆著費字。』〔阿波国の板野・名方・阿波三郡の住民は「我らの姓は、庚午年籍ですべて直となったはずだが、戸籍にはまだすべて費の字が書かれている。」と申し出た。〕 だから、「~直」という呼び名は、平安時代始めにはまだ、そんなに古くなってはいない。 始祖の名は伝説だが、各氏族の存在そのものは現実だったと思われる。
 

2016.05.15(sun) [07] 高橋氏文【1】 【2】 
 景行天皇紀の五十三年条に、磐鹿六鴈(いわかむつかり)が膳大伴部を賜った記事がある。 『高橋氏文』(たかはしうじぶみ)に、その詳細な内容がある。
 『高橋氏文』は、〈時代別上代〉によれば「延暦十一年〔792〕、朝廷神事の御膳のことに奉仕してきた高橋氏が、 同職の安曇氏とその席次を争って、自己を主張するために、自らの家の記録(うじふみ)を奉ったもの。 『本朝月令』『政事要略』『年中行事秘抄』などに引用された逸文しか存じない」という。
 磐鹿六鴈の話は、『本朝月令』に引用されて残っている。 さらに『本朝月令』は、塙保己一が江戸時代に編した『群書類従』(第五輯公事部・本朝月令巻八十一)に収められている。

【群書類従】
 塙保己一(1746~1821)は34歳の時、各地に散在している歴史書・文学書をまとめて後世に資料として供することを決意し、全670冊からなる『群書類従』を文政二年〔1819〕に完成した。 その版木は現在まで残っている。『群書類従』は、次の二点が〈国立国会図書館デジタルコレクション〉によってネットに公開されている。
① 『群書類従〔木刻本〕群書類従. 第111-113 コマ番号32。
② 『再翻刻 群書類従』(経済雑誌社、明治31年〔1898〕)には、返り点や注記が加えられている。 ⇒群書類従. 第五輯 コマ番号56。

【高橋氏文-景行天皇五十三年】
 原文は、書紀にほぼ準じた和風漢文と、続日本紀で使われた宣命体が混ざっている。 明治時代の経済雑誌社版には、注釈の他、返り点と一部によみ仮名が加えられている。 その返り点のつけ方には、一部同意できない箇所があるので、ここでは採用していない。 以下、原文と読み下し文を示す。なお、宣命体や「御座」(おはす)という語から、訓読は平安時代のスタイルを用いた。
高橋氏文云
挂畏巻向日代宮御宇
大足彦忍代別天皇五十三年癸亥八月
詔群卿曰
愛子何日止乎
欲巡狩小碓王【又名倭武王】所平之國
かき-…[接頭] 動詞につき、意味を強めたり語調を整える。
…「顧」の異体字か。
巡狩…〈汉典〉旧称天子巡行諸国。
高橋氏文(たかはしのうじぶみ)に云(まう)さく、
挂(かき)畏(かしこみ)巻向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)の御宇(みよ)、
大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしわけすめらみこと)五十三年(いそとせあまりみとせ)癸亥(みづのとゐ)八月(はつき)、
群卿(まへつきみども)に詔曰(のたまはく)
「朕(われ)愛子(まなご)を顧(かへりみ)ること何日(いつ)止(や)む乎(や)。
小碓王(をうすのみこ)【又の名は倭武王(やまとたけるのみこ)】の平(たひら)げし国を巡狩(めぐりいでま)さむ。」とのたまふ。
是月行幸於伊勢轉入東國
冬十月到于上總國安房浮島宮
爾時磐鹿六獦命從駕仕奉矣
天皇行幸於葛餝野令御獦
…[動] 狩りをする。
葛餝…〈倭名類聚抄〉{下総国・葛餝【加止志加】郡}。葛飾(かつしか)。17世紀に一部が武蔵国葛飾郡に分割。
是の月、伊勢に行幸(みゆき)し、転(めぐ)りて東国(あづま)に入(い)る。
冬十月(かむなづき)。上総国(かみつふさのくに)の安房(あは)の浮島宮(うきしまのみや)に到り、
爾時(ときに)、磐鹿六獦命(いはかむつかりのみこと)駕(すめらみこと)に従ひ仕(つか)へ奉(たてまつ)る。
天皇(すめらみこと)葛餝(かとしか)野(の)に行幸(みゆき)し、御獦(みかり)せしめたまふ。
太后八坂媛借宮御座
磐鹿六獦命亦留侍
此時太后詔磐鹿六獦命
此浦聞異鳥之音
其鳴駕我久々
欲見其形
 (小文字)…平安時代初期に用いられた音仮名表記。宣命せんみょう体と呼ばれる。
かりみや(仮宮)…天皇の行幸中に、一時的に建てる宮。
います(座す)…[自] 上代の尊敬語。
おはす(御座す)…[自] 平安時代に盛んに使われた尊敬語。
太后(おほきさき)八坂媛(やさかひめ)は借宮(かりみや)に御座(おは)します。
磐鹿六獦命、亦(また)留(とど)まり侍(はべ)り。
此の時太后、磐鹿六獦命に詔(の)たまはく
「此の浦に異(あや)しき鳥の音(こゑ)を聞き、
其(それ)駕我久々(かくがく)と鳴く。
其の形を見(み)まく欲ほ)り。」とのたまふ。
即磐鹿六獦命乗船到于鳥許
鳥驚飛於他浦
猶雖追行遂不得捕
於是磐鹿六獦命詛曰
汝鳥戀其音欲見貌
飛遷他浦不見其形
自今以後不得登陸
若大地下居必死
以海中爲住處
還時舳魚多追來
わたなか(海中)…[名] 陸から離れた大海の上。
とも(舳)…[名] 船のへさき。
即(すなは)ち磐鹿六獦命、船に乗り鳥の許(ところ)に到れば、
鳥驚き他(ほか)の浦に飛ぶ。
猶(なほ)追ひ行け雖(ど)も、遂にえ捕へず。
是(ここ)に磐鹿六獦命詛(のろ)ひて曰(い)はく
「汝(な)鳥や、其の音(こゑ)に恋ひ、貌(すがた)を見まく欲り、
他の浦に飛び遷(うつ)り、其の形(すがた)見えず。
今より後(のち)、陸(くぬか)に登り得ず。
若(も)し大地(くぬか)の下に居(を)らば必ず死なむ。
以(も)て海中(わたなか)を住処(すみか)と為(せ)よ。」とのろひ、
還(かへ)る時、舳(とも)を顧(かへりみ)れば、魚(いを)ども多(さは)に追ひ来たり。
即磐鹿六獦命以角弭之弓當遊魚之中
即着弭而出忽獲數隻
仍號曰頑魚
此今諺曰堅魚
【今以角作釣柄釣堅魚此之由也】
つのはず(角弭)…[名] 角で作った弓や矢のはず。
(箇、頭、隻、枚…)…[助数詞] 魚介類も。
…(古訓) ことわさ。ことつたふ。
…(古訓) え。から。
即ち磐鹿六獦命、角弭(つのはず)の弓を以て遊ぶ魚(いを)の中に当つ。
即ち弭を着けて出(い)で、忽(たちまち)数隻(かず)を獲(う)。
仍(すなは)ち号(なづ)け頑魚(かたいを)と曰(い)ふ。
此(これ)今(いま)に諺(ことづた)ひ堅魚(かつを)と曰(まを)す。
【今角(つの)を以て釣柄(つりから)を作り堅魚を釣るは、此(こ)の由(よし)也(なり)。】
船遇潮涸天渚上
掘出得八尺白蛤一貝
磐鹿六獦命捧件二種之物獻於太后
即太后譽給悦給
甚味淸造欲供御食
しほひ(潮干)…[名] ここでは、干潮。
海蛤…〈倭名類聚抄〉海蛤【和名宇無木乃加比】。
船、潮涸(しほひ)に遇ひて、渚(なぎさ)の上(うへ)に居(す)ゑられぬ。
掘り出(い)でむと為(す)るに、八尺(やさか)の白蛤(うむきのかひ)一貝(ひとつ)を得(う)。
磐鹿六獦命、件(くだり)の二種(ふたくさ)の物を捧(ささ)げ、太后(おほきさき)に献(まつ)る。
即ち太后誉(ほ)め給(たま)ひ悦(よろこ)び給(たま)ひて詔(のたま)はく
「甚(いと)味(あぢはひ)清(すが)し。造りまつり御食(みけ)に供(そな)ふるを欲り。」とのたまふ。
爾時磐鹿六獦命申
六獦令料理將供奉
遣喚無邪國造上祖大多毛比
知々夫國造上祖天上腹
天上腹人等爲膾及煮燒雜造盛
…[他] 上代の間に、「まをす」から「まうす」に移行した。
無邪志国造…〈国造本紀〉志賀高穴穂朝世…兄多毛比命、定賜国造。今武蔵国。
知知夫国造…〈国造本紀〉瑞籬朝御世〔崇神天皇〕、八意思金命十世孫知知夫彦命、定賜国造。
なます(膾)…[名] 肉や魚貝を薄く切って生食する料理。
…(古訓) ましはる。かさぬ。
雑作…いろいろな仕事。もてなし。
もる(盛る)…[他] 器に食物をいっぱいに入れる。
爾時(ときに)磐鹿六獦命申(まう)さく
「六獦(むつかり)、令料理(つくらしめ)て、供へ奉らむ。」と白(まう)して、
遣(つか)はし、無邪志(むさし)の国造(くにのみやつこ)の上祖(かみつおや)、大多毛比(おほたもひ)、 知々夫(ちちふ)国造の上祖、天上腹(あめのうははら)を喚(めさ)ぐ。
天上腹の人等(ら)、膾(なます)に為(し)、及(および)煮(に)焼(や)き雑造(まじ)へ盛(も)りて、
見阿西山栬葉
高次八枚㓨作〖利〗
見眞木葉枚次八〖枚〗㓨作
取日影〖弖〗爲縵
以蒲葉美頭良
採麻佐氣葛多須岐加氣爲帶
足纏供御雜物
乗輿従御獦還御入坐時爲供奉
阿西山…一説に河曲山。
…[名] 小さな木のくい。[日本語用法] もみじ。
もみち…[名] もみじ。紅葉した葉。〈上代〉黄葉。〈平安時代〉紅葉。
…(古訓) クチナシ。
はじ(梔)…[名] ハゼノキ。(万)4465 須賣呂伎能 可未能御代欲利 波自由美乎 すめろきの かみのみよより はじゆみを。 〈神代紀下〉「手捉天梔弓天羽羽矢」「梔、此云波茸
ひかげ(蘿)…[名] ヒカゲノカズラ。茎は神事の際、かざし、鬘(かずら)とした。
かづら(縵)…[名] 植物のつるや緒に通した玉などを髪にさして飾りとするもの。
かま(蒲)…[名] ガマ。池沼に生え、剣状の厚い葉が叢生する。
まさきのかづら…[名] キョウチクトウ科の常緑のつる性植物。ツタの一種。
まつふ・まとふ(纏ふ)…[他] からみつける。しばる。
雑物…平安時代の税制などに「ざふもつ」がある。
阿西山(あせのやま)の梔(はじ)の葉を見て、
高次(たかつき)八枚(やひら)を㓨(けづ)り作り、
真木(まき)の葉を見て、枚次(ひらすき)八枚を作りて、
日影(ひかげ)を取りて縵(かづら)と為(し)、
蒲(かま)の葉を以(も)て美頭良(みづら)を巻き、
麻佐気葛(まさきのかづら)を採りて多須岐(たすき)にかけ、帯と為(し)、
足纏(あしまつひ)を結(むす)びて、供(そな)へし御雑物(みざふもつ)を飾りて、
乗輿(すめらみこと)、御獦(みかり)従(よ)り還(かへ)り御入坐(おはしま)しし時に供(そな)へ奉(たてまつ)らむと為(す)。
此時勅誰造所進物問給
爾時大后奏
此者磐鹿六獦命所獻之物也
即歡給譽賜
此者磐鹿六獦命獨非矣
斯天坐神倍留物也
大倭國者以行事負國奈利
磐鹿六獦命王子等阿禮
大倭国…通常は、律令国の大和国。 ここでは、豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)全域を指す。
…(古訓) とも。ともがら。
此の時に勅(のたま)はく「誰(た)ぞ進(すす)めし物を造りけるや。」と問はせ給ふ。
爾(この)時、大后(おほきさき)奏(まう)したまはく
「此(こ)は磐鹿六獦命の献(まつ)りし物也(なり)。」とまをしたまふ。
即ち歓び給ひ誉め賜はりて勅(のたま)はく
「此(こ)は磐鹿六獦命独(ひとり)が〔心〕には非(あら)じ。
斯(これ)天(あめ)に坐(ましま)す神の行(おこな)へる物也(なり)。
大倭国(おほやまとのくに)は行へる事を以て負(おほ)す国なり。
磐鹿六獦命は、朕(わ)が王子等(みこども)に阿(あ)礼(れ)。
子孫八十連屬
天皇天津御食齋忌取持仕奉負賜
則若湯坐連始祖物部意富賣布連
佩大刀令脱置副賜
又此行事者
大伴立雙應仕奉物
日堅日横陰面諸國人割移
大伴部賜於磐鹿六獦
ひのたて(日経)…[名] 東。
ひのよこ(日緯)…[名] 西。
かげとも(影面)…[名] 南側。山陽道。「影」には光の当たる面と、当たらない面の両方の意味場ある。
子孫(あなすゑ)の八十連属(やそつつき)に遠(とほ)く長く
天皇(すめらみこと)が天津御食(あまつみけ)を斎(いは)ひ忌(ゆまは)り取り持ちて仕(つか)へ奉(たてまつ)れ」と負(おほ)せ賜ひて、
則(すなは)ち若湯坐連(わかゆゑのむらじ)の始祖(はじめのおや)物部意富売布連(もののべのおほめふのむらじ)の
佩(は)ける大刀(たち)を脱(と)き置か令めて副(そ)へ賜(たまは)りき。
又、のたまはく「此の行へる事は、
大伴(おほとも)に立ち双(なら)びて応(まさ)に仕へ奉(たてまつ)るべき物と在り」と勅(のたま)ひて、
日堅(ひのたて)日横(ひのよこ)陰面(かげとも)の諸(もろ)国(くに)の人を割(さ)き移して、
大伴部(おほともべ)と号(なづ)けて磐鹿六獦に賜はる。
又諸氏人東方諸國造十七氏枕子
各一人令進
…久?
平次比例給依賜
山野海河者多邇久々佐和多流岐波美
加弊良加用布岐波美
波多廣物波多狭物
荒物毛和者供御雑物等
兼攝取持仕奉依賜
たにぐく(谷蟆)…[名] ヒキガエル。
たにぐくのさ渡る極み…「国内くまなく」を意味する慣用句。
かへら…[名] 櫂。櫂の平らな様。
鰭広物鰭狭物(はたのひろものはたのさもの)…大小の魚たち。
毛麁物毛柔物(けのあらものけのにこもの)…さまざまな獣たち。
又、諸(もろ)氏人(うぢひと)、東(あづま)の方(かた)の 諸(もろ)国造(くにのみやつこ)十七氏(とうぢあまりななうぢ)の枕子(まくこ)
各(おのおの)一人を進め令(し)めて、
平次(ひらすき)比例(ひれ)を給はりて依(よ)せ賜はりき。〔はく?〕
「山野海河(やまのうみかは)は、谷蟆(たにぐく)のさ渡る極(きは)み、
かへらの通ふ極み、
鰭(はた)の広物鰭の狭物(さもの)、
毛の荒物毛の柔(にこ)物、御雑物(みざふもつ)等(ら)を供(そな)へ、
兼攝(かね)取り持ちて仕へ奉(たてまつ)れと依(よ)せ賜ふ。
如是依賜事獨心非矣
是天坐神
王子磐鹿六獦命諸友諸人等
催率慎勤仕奉
抑賜誓賜依賜
是時上総國安房大神
御食都神〖坐〗奉
〖爲〗若湯坐〖連〗等始祖意富賣布連
之子豊日連令火鑚
忌火〖天〗伊波比由麻閇供御食
并大八洲八乎止古八乎止咩定
神齋大甞等仕奉始
【但云安房大神爲御食神
今大膳職祭神也
今令鑚忌火大伴造物部豊日連乃後也】
みけつかみ(御食都神)…御食〔みけ〕は高貴な人の食事。
…連体修飾または属格の古い格助詞〔=の〕
ひき(火鑚)…[名] ひきり臼・ひきり杵を用いて発火させること。
いみひ(忌火)…[名] 忌清めた火。
かたどる(像る)…[他] まねる。かたどる。物の形をうつしとる。
大膳職…〈倭名類聚抄〉【於保加之波天乃豆加佐】〔おほかしはてのつかさ〕
是(こ)の如く依せ賜ふ事は、朕(わ)が独(ひとり)の心のみに非ず。
是(これ)天(あめ)に坐します神の命(おほせこと)ぞ。
朕が王子(みこ)、磐鹿六獦命諸友(もろとも)諸人(もろひと)等(ら)を
催(うなが)し率(ゐ)て愼(つつし)み勤め仕へ奉れ」と
抑(おほ)せ賜ひ誓(うけひ)賜ひて依せ賜ひき。
是の時上総国(かみつふさのくに)の安房(あは)の大神(おほかみ)を
御食都神(みけつかみ)と〖坐(ま)さしめ〗奉りて、
若湯坐連(わかゆゑのむらじ)等(ら)の始祖(はじめのおや)、意富売布連(おほめふのむらじ)
の子(こ)豊日連(とよひのむらじ)を為(し)て火鑚(ひき)せ令(し)めて、
此(こ)を忌火(いみひ)と為(し)て斎(いは)ひ忌(ゆま)へて御食(みけ)を供へ、
并(あは)せて大八洲(おほやしま)に像(かたど)りて八(や)をとこ八をとめ定めて、
神の斎(いつき)大甞(おほにへ)等(ら)に仕へ奉り始めき。
【但(ただし)安房大神を食神(みけつかみ)と為すは、
今大膳職(おほかしはでのつかさ)の祭る神と云(まう)す也(なり)。
今忌火(いみひ)を鑚(ひき)令(し)むる大伴造(おほとものみやつこ)は物部豊日連(もののべのとよひのむらじ)の後也(なり)。】
以同年十二月乗輿從東還
坐於伊勢國綺宮
五十四年甲子九月自伊勢還
坐倭纏向宮
五十〔七〕年丁卯十一月
武藏國知々夫大伴部之祖三宅連意由
以木綿代蒲葉美頭良
從此以來用木綿副日影等葛爲用矣
自纏向朝廷歳次癸亥始奉貴
詔勅所賜膳臣姓
御食伊波比由麻波理
仕奉來迄于今朝廷歳次壬戌并卅九代
積年六百六十九歳【延暦十九年】
職員令云奉膳二人
【掌惣知御膳進食先甞掌事】
国史云…
歳次…十干十二支による年の表記。としまわり。太歳とも。
以(もて)同じき年十二月乗輿(すめらみこと)東(あづま)従(よ)り還(かへ)り、
伊勢国の綺宮(かにはたのみや)に坐(ま)します。
五十四年(いとせあまりよとせ)甲子(きのえね)九月(ながつき)伊勢自(よ)り還り、
倭(やまと)の纏向宮(まきむくのみや)に坐します。
五十七年(いとせあまりななとせ)丁卯(ひのとう)十一月(しもづき)、
武蔵国(むさしのくに)の知々夫(ちちふ)の大伴部(おほともべ)の祖(おや)三宅連意由(みやけのむらじおゆ)、
木綿(ゆふ)を以て蒲(かま)の葉に代へて、美頭良(みづら)を巻き、
此(これ)より以来(こしかた)木綿を用(もち)ゐ、日影(ひかげ)等(ら)の葛(かづら)に副へて、用ゐ為(な)す。
纏向(まきむく)の朝廷(みかど)自(よ)り歳次(さいじ、としのやどりの)癸亥(みづのとゐ)、始めて貴(たふと)び奉(たてまつ)り、
膳臣(かしはでのおみ)の姓(かばね)を賜(たまは)る所を詔勅(みことのり)たまふ。
〔天〕都御食(あまつみけ)を斎(いは)ひ忌(ゆまは)りて、
今に朝廷(みかど)に、歳次壬戌(みずのえいぬ)迄、并(あはせ)て三十九代(みそよあまりここのよ)、仕へ奉り来(き)、
積年(せきねむ、としをつむこと)六百六十九歳(ろくひやくろくじふくとせ、むほとせあまりむそとせあまりここのとせ)【延暦(えむりやく)十九年(ととせあまりここのとせ)】。
職員令(しきゐむりやう)に云はく、膳(おほかしはでのつかさ)二人を奉る。
【御膳(みかしはで)を惣(ことごと)く知り食(みけ)を進め先(さき)の甞(おほにへ)の事を掌(つかさど)る。】
国史云(くにのふみ〔六国史〕にいはく)…
 〖 〗…経済雑誌社版に、秘抄と注記された箇所。 〔『年中行事秘抄』。13世紀末成立。朝廷の年中行事次第の先例集。〕

 は辞書にない字である。 「本朝月令」は『高橋氏文』の他に、『日本書紀』も引用している。『日本書紀』(岩波文庫版)原文の、「朕愛子」が、引用されたものには「朕愛子」となっているので、 の異体字ということになる。
《阿西山》
 経済雑誌社版は、「通證」〔=一般的な解釈〕河曲山とする。〈倭名類聚抄〉に{安房国・安房郡・河曲【加波和】郷〔かはわのさと、現在の館山市内〕がある。 しかし阿西山を河曲山の誤記と見るのは、なかなか苦しい。
 ここでは、一応万葉仮名で「あせ」と訓んでおくが、千葉県の現代地名には見つからない。 安房神社の御由緒には、「吾谷山(あづちやま)」に遷宮したとあるので、「あぜつやま」だったのかも知れない。
《栬・梔》
 経済雑誌社版では「柂」の字を用い、「梔一本〔=ある出典では梔〕と注記をつける。神代紀下には「梔」に訓注「はじ」が示される。 「柂」だとすれば、シナノキ。江戸時代の塙保己一はこの字を「栬」と読み、風流にモミヂと訓んだのかも知れないが、モミヂに「栬」を宛てた例は万葉集・記紀にはない。
《御雑物》
 雑の音読み「ざふ-」は雑事、雑仕など、平安時代以後には多くなる。書紀には、 仁徳紀十七年条の「種々雑物」を「くさはひのもの」があるが、「雑物」だけの例がないので訓は不明。 「雑」の古訓「まじふ」を用いれば「まじふるもの」だが、これでは「御」がつけられない。
《六百六十九歳》
 桁数の多い数値をやまとことばで訓むのは、平安時代であってもあまり現実的ではなく、普通に音読みが用いられたと思われる。 飛鳥時代には、公式には漢音が奨励されたが、現代になっても「ろっぴゃくろくじゅうく」と読まれるので、民衆レベルでは呉音が根付いていたと思われる。 仮に漢音だとすると「りくはくりくじつきふ」となる。

【文体の特徴と作成された時代】
 冒頭「五十三年八月」から「冬十月到于上総国」までは、景行天皇紀五十三年条を和風漢文体のまま、 一字一句違えずに写している。 景行天皇紀から、続く部分を要約して示すと、
① 天皇は覚賀鳥の声を聞き、その姿を探しに海に出たところ白蛤を得た。
② 膳臣の磐鹿六鴈は蒲を襷にかけ、白蛤を膾に調理して提供した。
③ 磐鹿六鴈はその功により膳大伴部を賜った。
となっている。
 高橋氏文では、この部分が大幅に脚色され、その書法として宣命体が用いられる。
 但し、磐鹿六獦が鳥を追ううちに、カツオの群れに遭遇した部分だけは宣命体ではないので、 古い伝承を原文のまま取り込んだのかも知れない。
 宣命体で書かれた部分は、磐鹿六獦の昇格に皇后の力添えがあったこと、大多毛比・天上腹のそれぞれの地方氏族を配下に置く力があったこと、 天皇が物部意富売布連の太刀を取り上げて磐鹿六獦に賜ったことなど、総じて磐鹿六獦を高く持ち上げている。 この部分が、奈良時代末の創作ということだろう。ただ全くの創作ではなく、元になる伝承があったかも知れない。

【カツオ漁】
 江戸時代に「カツオ漁業が盛んだったと思われる地方は、 現代と同様に薩摩・土佐・紀伊・豆相(小田原~熱海)•房総」とされる(『かつお節塾』)。 奈良時代から房総半島はカツオの漁場で、「今以角作釣柄堅魚」とあるので、既に一本釣り漁法があったと思われる。 カツオの魚群を知らせるカツオドリは、当然古くからから知られていたのだろう。 カツオドリは、現在は鳥の種類のひとつ(ペリカン族カツオドリ科)を意味するが、もともとは魚群を知らせる鳥一般を指した。 このことを背景として、鳥を追っていった結果カツオの群れに遭遇する場面が、神話の要素になったのであろう。
 白蛤の話と共に、カツオ漁の伝説が書き加えられた結果、料理の材料は「件二種之物」と書かれることになった。

【八尺の白蛤】
 実寸で八尺(2.4m)の蛤がいれば怪物であるから、「八尺の」は物理量から離れて、「神聖な」を意味する形容詞であったことがわかる。「八尺の勾玉」と同じである。

【高橋氏の祖先を大きく見せる】
《太后八坂媛》
 鳥の声を異として姿を見たいと思ったのは、書紀では天皇だが、高橋氏文では皇后である。 天皇は狩にでかけて、留守にしていた。皇后はカツオとウムギを気に入り、料理にすることを所望し、 六獦がそれに応えた。
 天皇が戻ったとき、数々の豪華な料理が用意されたことに驚き、「これを料理したのは誰か」と聞かれ、 皇后が「磐鹿六獦が作ったのよ。」と教えたのであった。
《東国の二族を喚して手伝わせる》
 武蔵国の祖と、秩父国の祖を喚して、一緒に食器を作り様々な料理をした。 料理人のスタイルは、神聖な植物の葉を使い、かずら・みずらで頭を飾り、たすきをかけ、足まといする。 このスタイルは、天の窟屋の前で踊った天宇受売命を想起させる(第49回)。
 御食を天皇に供することは神に食物を捧げることと一体であり、祭祀と同じであった。
 安房国〔当時は上総国の一部であった〕の磐鹿六獦は、東国の二族を手伝いに動員できるだけの実力があったことを誇っている。
《太刀の授与》
 景行天皇は、六獦の料理の腕が大いに気に入り、物部意富売布連の代まで伝わっていた宝剣を召し上げて六獦に授けた。 つまり、物部意富売布連の権威は削がれつつあった。
《六獦の地位の向上》
 「大倭国は行へる事を以って負ほす国なり」、つまり血筋ではなく実力さえあれば取り立てるのが我が国の伝統であると天皇は言った。 ここでは、音仮名倍留(へる)によって完了の助動詞「」を明示し、実際に業績を上げたことの意義を強調している。 ということは、磐鹿六獦は名のある血筋ではなく、東国の中小氏族に過ぎなかったのである。 それが「磐鹿六獦命はが王子等にあれ」、即ち皇子と同格に取り立てられ、その子孫は末永く代々の天皇の御食を担うこととなった。
 「王子等」が王子の「伴」〔とも、=仕える者〕ではなく、王子と同格であるのは、後で出てくる「朕が王子磐鹿六獦命」という呼びかけによって明らかである。

【「又諸氏人東方諸国造十七氏の枕子」以下の解釈】
 この部分は、読み取りが難しいが、何とか文章の意味を理解したいところである。以下、いくつかのポイントについて検討する。
《「枕子」とは何か》
 「枕子」は記紀に用例を見ず、辞書にも載っていないが、少なくとも東国の国造に、子を一人ずつ朝廷に送らせ、磐鹿六獦の配下に置いたと読める。 それでは、単なる「子」ではなく「枕子」と表現するところには、いかなる意味があるのか。
 万葉集では、「」は寝具の枕を原義としながら、当然のことながら男女が寝ることを象徴する。 また、腕を「巻く」動作も表す。
例えば、(万)2071 君之手毛 未枕者 きみがても いまだまかねば。  (万)2089 妻手枕迹 つまのてまくと
 その情景に由来する言葉だとすれば、枕子は「国造が正妻との間に設けた、大切な子」という意味となる。
 「御子」「」は天皇の子を意味し、尊い子を意味するとしても国造には使えないから、代わりに「枕子」としたものか。ただ、他に用例が見つからないから確かなことは言えない。
《天皇の言葉の範囲》
 「朕」は天皇専用の一人称代名詞だから、その前後は天皇の言葉(以下「お言葉」)である。それでは、「お言葉」はどこからどこまでであろうか。
 まず、お言葉の終わりは、「仕奉……依賜」の形から見て、「…仕奉」であるのは確定的である。 これは「…使へ奉れ』と……依(よ)せ賜ひき。」と訓み、「仕奉」は命令形であろう。
 その三行上の「如是依賜事」も当然お言葉の中。その中の「賜う」も本人の言葉で、いわゆる自敬表現である。
 ここで「依賜」の中身を確認すると、十七子を預かり、さらに御雑物等を供えさせ、総じて諸友諸人等に催(うなが)し率い、慎んで勤めることまで含まれる。
 問題は、お言葉の始点を示す「〔のたまはく〕がないことである。 本来上代の会話文は、その前後を「〔の類の語〕でがっちり挟む習慣があり、出雲風土記が典型的である。 :大原郡・来次郷「所造天下大神命八十神者不置青垣山裏」〕
 お言葉の始点を探すと、「山野海河者」から祝詞風の古風な定型句が始まり、その直前の「依賜〔よせたまひき〕とは趣が変わる。 だから、お言葉の始点はここだろう。さらに、「依賜」の対象は十七子に限定されず、御食の事の掌り全体であった。 「依賜」は「のたまう」意味を含み、書紀の書法なら「依曰」だろうと思われる。
 とすれば、その「依り賜ひき。」は、その前を受けるものではなく、本当はその次のお言葉を導く「依り賜はく、」ではないだろうか。 つまり、「を誤読してと読んだ」と見る。宣命体の小さい字だから、字形が似ていて草書だとすればありそうなことである。原書から江戸時代の版本に到るまでに、 〈原文⇒宣命体による清書(小文字の付加)⇒一回以上の筆写⇒塙保己一による清書⇒職人による版刻 〉の段階を経ているから、そのどこかで生じた誤読ではないかと想像される。
 他の可能性としては、「山野海河者」の直前に、本当は「天皇仰賜」があったのだが、脱落したと考えることもできる。
《役割の移り変わり》
 注釈の「」は、今〔=高橋氏文の時代〕は、磐鹿六獦・豊日連の時代から変化したこと意味する。 それでは、何が変わったのか。精読すると、
始祖の時代 磐鹿六獦の膳(かしわで)と、豊日連の火鑚(ひきり)とは一体の神事であって、共同で安房の大神を斎(いは)ひ忌(ゆま)へていた。 磐鹿六獦は、やがて膳臣の姓を賜った。
 磐鹿六獦の子孫(膳臣)は大膳職を務め、単独で安房の大神を祭る。忌火の火鑚は膳とは切り離され、豊日連の子孫(大伴造)の役割となった。
 このように、読み取ることができる。総じてかつての物部意富売布連、現在の大伴造の役割は次第に削られ、膳臣の元に移行した。
《大伴部と大伴造の区別》
 大伴部は、磐鹿六獦の下に置かれた部を指すとされる。 ただ、磐鹿六獦・豊日連は大伴として並び立つよう命じられたとも書かれるので、大伴部は始めは両者に共有された気配がある。
後に磐鹿六獦・豊日連は後に分離し、磐鹿六獦の子孫は膳臣として大膳職を拝命し、豊日連の子孫は令鑚忌火大伴造となる。 大伴は一般名詞であったらしい。それを特定するために、大伴造に「令鑚忌火」という連体修飾語をつけたと見られる。

【「以同年十二月乗輿従東還」の段落】
 膳臣・大伴造の始祖の時代に書かれた祭事の扮装と、「今」の祭事の扮装が一致しない箇所について、そのいきさつを律儀に説明している。 また、磐鹿六獦が膳を務めるようになった景行天皇の時代から、「今」までの代数及び年数を詳細に計算している。 『高橋氏文』の目的を達成するためには、文章は隅々まで正確でなければならない。

【安房】
上総国から半島先端の四郡を割き、安房国となったのは718年のことであった。 従って、書紀の時代は安房はまだ上総国の一部だったので、「上総国海路淡水門」と表現している。 高橋氏文の頃には既に安房国が成立していたはずだが、書紀を踏襲して「上総国安房」と書かれたようだ。
 そして「上総国安房大神を御食都神として祭る」と書かれる。それでは、安房大神はどの辺りにあったのだろうか。
 神明帳に{安房国/安房郡/安房坐神社【名神大】}がある。現在の安房神社は旧安房国安房郡にあるので、 当然これが安房坐神社の比定社で、また安房大神ではなかったかと想像されるところである。 しかし、祭神に御食都神はなく、御由緒にも磐鹿六獦・膳大伴連のことは全く触れられていない。 この問題については、<wikipedia>確かな史料の上では、古代安房地方は食膳(特にアワビ)の供給地としての性格が強く、安房神もまた古くから朝廷の「御食都神」としての性格を持った</wikipedia> と書かれるように、安房神社と膳大伴連との関連を想定する考えは根強い。 よって、おおまかには膳大伴連の本貫は安房国であったとしてもよいだろう。 その地で船を出し、黒潮のカツオを一本釣りしていたのである。
 そして注目されるのは、書紀・高橋氏文では、伊勢・安房間の往来に海路が用いられていることである。 古代、街道が整備される以前は海路が中心だったと想像される。それが東海道の古称「うみつみち」の謂れであろう。
 さらに遡ると、市原市の神門5号墳(千葉県市原市惣社字神門)は、出現期(3世紀中旬)の前方後円墳だと考えられている。 だから、纏向政権の時代、三河・遠江・駿河・伊豆・武蔵をすっ飛ばして、倭の民が海路で直接安房地域に達し、それを橋頭保として 東国進出を開始した可能性が浮かび上がる。 それがまた、安房神社のご由緒の「神武天皇の時代、肥沃な地を求めて天富命が安房に上陸した」という記述に反映したと見ることができる。

【大意】
 高橋氏文(たかはしのうじぶみ)に云く。
 巻向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)の御世、 大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしわけすめらみこと)五十三年癸亥、八月に、 群臣に仰りました。
「朕の真子(まなご)を思い出されてならない、これが止むのはいつだろうか。 小碓王(おうすのみこ)【またの名、倭武王(やまとたけるのみこ)】が平定した国を巡ってみたい。」と。 同月、伊勢に行幸し、転じて東国に入りました。
 十月、上総国の安房の浮島宮に到ったとき、 磐鹿六獦命(いわかむつかりのみこと)は天皇に従い、仕え奉(たてまつ)りました。 天皇は葛飾の野に行幸し、狩をされました。
 太后、八坂媛(やさかひめ)は行宮に残られました。 磐鹿六獦命もまた、留まり侍りました。
 この時皇后は、磐鹿六獦命に 「この浦に異なる鳥の声を聞きました。 それは、かくがくと鳴いていました。 その形を見たいものです。」と仰りました。
 そこで磐鹿六獦命は船に乗り、鳥のところに着いたとき、 鳥は驚いて他の浦に飛んで行ってしまいました。 なお、追って行きましたが、遂に捕えられませんでした。
 ここに磐鹿六獦命は、 「な〔お前〕鳥や、その声が気に入り姿を見たかったが、 他の浦に飛び移り、その姿は見えぬ。 今より後は、陸に上がってはならぬ。 もし大地に降りれば、必ず死ぬ。 海の真ん中を住処(すみか)にし続けよ。」と呪って帰るとき、 舳先(へさき)の方を振り返ると、魚が多数追って来ました。 そこで磐鹿六獦命は、角弭(つのはず)の弓〔弓の端を鹿の角で作った弓〕によってあちこちを泳ぐ魚に当てました。 すると弭(はず)によって魚を釣り出すことができ、たちどころに多くの魚を獲ました。 それを名付けてかた魚といい、今は訛って 堅魚(かつお)と言います。 【今、角(つの)で釣竿を作り、堅魚を釣るのは、この謂れによります。】
 船は干潮に遇い、渚の上に乗ってしまいました。 砂を掘って船を出そうとしたところ、八尺(やさか)の白蛤(うむき)一つを得ました。 磐鹿六獦命は件(くだん)の二種類の物を捧げ、太后に献上しました。
 すると太后誉め悦ばれて、 「この味わい、すこぶるすがすがしいぞ。料理してほしいものだ。」と仰りました。 磐鹿六獦命は、 「この六獦が、料理して供え奉りましょう。」と申して 使者を送り、無邪志〔武蔵〕の国造(くにのみやつこ)の上祖、大多毛比(おおたもい)、 知々夫〔秩父〕国造の上祖、天上腹(あめのうわはら)を呼びました。 天上腹の配下の物が、膾(なます)、煮物、焼物を交えて盛り、 阿西山(あせのやま)に梔(はじ)の葉を見つけて、 高坏(たかつき)八杯を削り作り、 槙(まき)の葉を見つけて、枚次(ひらすき)〔皿〕八枚を作り、 日陰鬘(ひかげのかずら)を取って縵(かずら)〔頭の装飾品〕とし、 蒲の葉で鬟(みずら)を巻き、 真樹鬘(まさきのかずら)を採って襷(たすき)がけして帯とし、 足纏(あしまとい)を結び、そのような姿の人で、供えた御雑物(みぞうもつ)を飾り、 天皇の狩りからのお帰りに、備えました。
 お帰りになった天皇は、「誰がこの進物を造ったのか」と尋ねられました。
 その時、大后は申し上げられました。 「これは磐鹿六獦命がお作りし進ぜたものにござります。」と。
 天皇は、それを歓ばれ誉められ、仰りました。 「これは磐鹿六獦命が一人で為しえたことではない。 これは天に坐します神が行ったものである。 大倭(おおやまと)の国は、行った事によって地位が与えられる国である。 磐鹿六獦命は、朕の王子たちの一員であれ。 その子孫は代々、遠く長く 天皇の天津御食(あまつみけ)を斎(いつ)き取り持ち仕え奉れ」と命じられました。
 そして、若湯坐連(わかゆえのむらじ)の始祖、物部意富売布連(もののべのおおめふのむらじ)が 腰にした太刀を外して置かせ、磐鹿六獦命に与えられました。
 さらに「このようにしたのは、 二人が大伴としてに並び立ち、仕え奉るべきものとするからである。」と詔され、 東西、山陽の諸国から人を分けて移住させ、 大伴部(おおともべ)と名付けて磐鹿六獦に与えられました。 また、諸族の人、そして東方諸国の国造十七氏から子を 各一人ずつ進上させ、 平次(ひらすき)・領巾(ひれ)を与えられて磐鹿六獦の元に、このように言って託されました。 「山・野・海・川は、谷蟆(たにぐく)のさ渡る極(きわ)み、 櫂の通う極み、〔国の隅々まで行って捕えた〕 鰭(はた)の広物鰭の狭物(さもの)〔大小の獣〕、 毛の荒物毛の柔(にこ)物〔大小の魚〕、御雑物(みぞうもつ)などを供え、 そのすべてを取り持って仕へ奉れと託すものである。 このように託すのは、朕一人の思いのみではない。 天に坐します神の命(めい)なるぞ。 朕の皇子たる磐鹿六獦命よ、同僚の皆、仕える者の皆を 促し率い、慎んで仕え奉れ」と 仰られ、誓(うけひ)され託されました。
 この時、上総国(かずさのくに)の安房(あわ)の大神を 御食都神(みけつかみ)として奉り、 若湯坐連(わかゆえのむらじ)の始祖、意富売布連 の子、豊日連(とよひのむらじ)に火鑚(ひきり)させ、 これを忌火(いみひ)として斎(いつき)し御食(みけ)を供え、 併せて大八洲(おほやしま)〔全国〕にこの形を広めて八男・八乙女を定め、 神の斎(いつき)、大甞(おおなめ)などに仕え奉ることを始めました。 【但し安房大神を食神(みけつかみ)としましたが、 今は大膳職が祭る神とされます。 現在忌火(いみひ)の鑚(ひきり)を命じられている大伴造(おおとものみやつこ)は、物部豊日連(もののべのとよひのむらじ)の子孫です。】
 もって、同年十二月、天皇は東国より帰り、 伊勢国の綺(かにはた)宮に滞在されました。
 五十四年甲子、九月に伊勢国から帰り、 大和国の纏向(まきむく)宮にお着きになりました。
 五十七年丁卯、十一月、 武蔵国の知々夫〔秩父〕の大伴部(おほともべ)の祖三宅連意由(みやけのむらじおゆ)、 木綿(ゆう)を用いて蒲(かま)の葉に代え、鬟(みずら)を巻き、 それ以来木綿を用い、日陰葛(ひかげのかずら)にとともに、用いられます。
 纏向の朝廷から歳次〔としまわり〕癸亥、初めて称号を与えられ、 膳臣(かしわでのおみ)の姓(かばね)を賜るとする詔勅(みことのり)が発せられました。
 天都御食(あまつみけ)を斎(いつき)し、 今の朝廷の歳次壬戌まで、併せて三十九代に仕え奉り来、 積年六百六十九年です【延暦十九年】。 職員令に云うところの大膳職に、二人を奉ります。 【御膳のことを惣(ことごと)く知り御食を進上し、古くから伝わる大嘗祭のことを掌ります。】
 国史〔六国史〕に云く…


まとめ
 「朕が王子等に阿礼」は、 景行天皇は磐鹿六獦命の功績を称え、血縁関係はないが皇子にしたと読める。 極めて異例なことと感じられるが、他にも表には出ない形でこのようなことがあったのだろうか。 記に「~王は、○○の祖」と書かれた裏に、このような取り立てがあったのかと疑わせるような事例である。
 次に、「東方諸国の国造十七氏の枕子を各一人進め令む」は、 事柄としては、天皇が皇女の一人を斎王に定め、伊勢神宮に派遣したことに似ている。 また、秀吉や家康の元に諸大名から人質を集められたことを連想させる。 実際に、統制の手段としての人質だったかも知れない。東国はまだ服従して間がなく、警戒されていたと思われる。 六獦はその管理を任されたのだから、相当の信頼を得ていたことになる。
 さて、安房神社の御由緒によれば、地名「安房」は、一族が四国の阿波の国から移ったことによるという。 後世に地名から後付けされた印象を受けるが、実際のところはどうであろうか。


2016.06.12(sun) [08] 日高見国 
 景行天皇紀で、天皇征西から期間後、武内宿祢に北陸・東国を視察させ、その復命の中で「日高見国」の様子が報告される。
 「東夷之中、有日高見国、 其国人、男女並椎結文身、為人勇悍、是総曰蝦夷。 亦土地沃壤而曠之、撃可取也。
 『釈日本紀』巻十、述義六、第七〔景行天皇〕、「日高見国」の項にその関連資料が示されるので、 訓読して内容を検討する。 原文は、『国史大系(吉川弘文館、1999)による。

【釈日本紀-日高見国】

公望私記曰。

公望…矢田部公望(やたべのきんもち)は、平安時代中期の官人・学者。 延喜四年〔904〕に開催された日本紀講筵に尚復として参加し、『日本書紀私記』の一つである『延喜公望私記』を著す。
公望私記に曰はく

案。常陸国風土記云。
信太郡云々。

信太郡…〈倭名類聚抄〉{常陸【比太知】国・信太【志多】郡}〔ひたちのくに・したのこほり〕
「案(かうがふ)に常陸国(ひたちのくに)風土記に
信太郡(したのこほり)云々(しかしか)と云はく、

古老曰。
御宇難波長柄豊前宮之天皇御世。癸丑年。
小山物部河内。大乙上物部会津等。捴領高向大夫等。
筑波茨城郡七百戸信太郡
此地本日高見国云々。

御宇…頭注に「御宇、常陸風土記无」〔无=無〕とあるが、角川文庫版『風土記』には御宇がある。 同文庫は、釈日本紀を出典としたようである。御宇がない風土記の写本が当時存在していて、釈日本紀の校訂者がそれを参照したことになる。
大乙上(だいおつじょう)…649~685年に用いられた冠位。
『古老(おきな)曰はく、
[御宇]難波長柄豊前宮(なにはのながらのとよさきにみや)之天皇〔孝徳天皇〕の御世、癸丑年〔653年〕。
小山物部河内、大乙上物部会津等、捴領〔=惣領〕高向大夫等、
筑波茨城郡七百戸を分け、信太郡を置く。
此の地(ところ)本(もと)日高見国(ひたかみのくに)云々。』

又景行天皇之時。日本武尊征-討蝦夷之時云々。

以下、書紀からの引用。
又景行天皇之(の)時、日本武尊、蝦夷を征討之(うちし)時に云々

蝦夷既平。自日高見国還之。
西南歴常陸。到甲斐国
酒折宮

『蝦夷既に平(たひら)げ、日高見国自(ゆ)還之(かへりたまふ)。
西南(ひつじさる)に常陸を歴(めぐ)り甲斐国(かびのくに)に到り、
酒折宮(さかをりのみや)に居(ましま)す。』

又中臣解除文云々。

中臣解除文…中臣祓(なかとみのはらへ)は、現在も神道の祝詞集に収められている(神道資料集)。 中臣氏は古くから祭祀を司った氏族なので、祝詞にその名を残したと思われる。
又中臣解除文(なかとみのはらへのふみ)云々。

四方之国中大倭日高見国
安国定奉云々。

『四方(よも)之国の中と大倭日高見国を
安国(やすくに)と定め奉(たてまつる)』と云々。

公望窃案。
方歟高遠之地。可日高見国歟。
指似一処之称謂耳。

…[副] ひそかに。私見を述べる場合の謙遜の言葉。
大意:高遠の地を一般的に日高見国と言い、特定の所の呼び名ではないだろう。
公望窃(ひそかに)案(かうぶ)るに、
四方(よも)に[歟]高遠之(たかくしてとほき)地(ところ)を望みて日高見国と謂ふ可(べ)きか[歟]。
似たるところを指し、一処(ひとところ)を称(とな)へて言ふ不可(べからず)と謂(おも)ひまつる耳(のみ)。」

天書第六曰。

天書(あまつふみ):奈良時代末期に藤原浜成の撰とされる編年体の歴史書。 釈日本紀などに逸文が残る。また、十巻本もあり逸文のある部分は一致するが、全体は近世の偽書とする説がある。
天書第六に曰はく

景行廿七年春二月辛丑朔壬子。
巡察将軍武内宿祢殉海陸
来奏曰。日高見者所謂天府也。
其地沃壌。其賦上々。
今与倭接壌。独擅山東之利
身割面。被裘髺髪。
自称蝦夷

…頭注に「徇、原作殉、今意改〔殉〔=殉死〕は文意に合わないから徇〔=巡る〕に直した〕とあるが、 殉には徇にあてる用法もあるので戻した。
海陸…うみつみち(東海道)と、くぬかのみち(北陸道)。
天府…天然の要害で、地味が肥えていて産物の豊かな土地のこと。
尅身割面…文身(身体の入れ墨)と、黥面(顔の入れ墨)。
沃壌…地味が肥えた土地。
かが(利)…[名] 利益。〈倭名類聚抄〉{下野国・足利【阿志加々】郡}。
…きざむ。
きざむ(刻む、黥む)…①彫刻する。②入れ墨をする。
かはごろも(裘)…獣の皮で作った着物。
…髪を結んで束ねる。
「景行二十七年春二月(きさらぎ)辛丑(しむちう)朔(さく)壬子(じむし)〔十二日〕。
巡察将軍武内宿祢、海(うみつみち)陸(くぬかのみち)を殉(めぐ)りて、
来奏曰(かへりごとまうさく)『日高見者(は)所謂(いはゆる)天府(あまつくら)也(なり)。
其の地(つち)沃壌(こえ)、其の賦(みつき)上々(いとよし)。
今倭(やまと)与(と)壌(つち)を接(つ)け、独(ひとり)山東(あづま)之(の)利(かが)を擅(ほしきまにま)にす。
身(からだ)を剋(きざ)み面(かほ)を割(さ)きて、裘(かはごろも)を被(お)ひ髪を髺(ゆ)ふ。
自ら蝦夷(えみし)と称(なづ)く。』とまうす。」
《常陸国信太郡》
 常陸国風土記によれば、信太郡が日高見国の所在地である。
《日高見国》
 中臣祓文では、日高見国は、確かに大和国または、倭国全体の美称である。 従って、矢田部公望は日高見国は一般的に高遠の地を意味すると言う。 ただ、書紀風土記の文脈では、その日高見国が常陸国信太郡の地を指すことは明らかである。
 天書によれば、日高見国は倭国の当時の国境に隣接していて、豊かな土地であるから多大な租を供出できるはずであるが、 その利益を独り擅(ほしいまま)にするという。すぐそばまで迫った朝廷勢力が、更にこの地を呑み込もうとする意図が滲み出た文章である。
《習俗》
 黥面文身の習慣があり、着るものは皮衣である。また、後ろの髪を上向きに縛るという特徴のある髪型をしている。
 この時代、関東までアイヌ人が南下していたと言われる由縁である。 ただ、日高見国にいたのは畿内と異なる文化をもつ倭人の一族かも知れず、判断しがたい。

【大意】
 公望私記に曰く。
――案ずるに、常陸国(ひたちのくに)風土記に、信太郡(したのこほり)云々とある。
「古老(おきな)が言うには、 孝徳天皇の御世、癸丑(きちゅう、みずのとうし)年〔653年〕、 小山物部河内(おやまのもののべのかわち、人名)、大乙上(だいおつじょう、冠位)物部会津(もののべのあいず、人名)、惣領の高向大夫(たかむけのたいふ、人名)らは、 筑波茨城郡の七百戸を分け、信太郡を置きました。 この地は、元の日高見国(ひたかみのくに)です、云々。」
 また景行天皇の時、日本武尊は蝦夷を征討した時に云々とあり、
「蝦夷(えみし)を既に平げ、日高見国と経て還られました。 西南に常陸を巡り甲斐国(かいのくに)に到り、 酒折宮(さかおりのみや)に滞在されました。」
 また中臣祓の文〔祝詞のひとつ〕に云々とあり、
「四方の国の中と大倭の日高見国を 安国(やすくに)と定め奉(たてまつ)る」と云々。
 恐れながら公望の案ずるに、 四方に高遠の地を望んで日高見国と言うべきで、 似たところを指し、一か所を称して言ふべきではないと考えるものである。
 天書(あまつふみ)第六に曰く。
―― 景行天皇の二十七年二月十二日、 巡察将軍の武内宿祢は、東海道・北陸道を巡り、 こう復命しました。「日高見は所謂(いわゆる)天府、天然の穀倉地帯です。 この地は、沃壌(土地が肥え)、上場の租賦を期待できます。 今倭の国と領土を接し、独り東国の利を欲しいままにしています。 身体・顔に入れ墨をし、皮衣を着て髪を結んでいます。 自ら蝦夷(えみし)と称しております」と。


まとめ
 公望が言うように、もともと「日高見国」は国名でなく、「高遠の豊かな国」を意味する形容語句として用いられたと思われる。 常陸国風土記では、信太郡を「もとは日高見国」と書くから、そのまま国名となったのであろう。ただ、この名称は、律令国の国名・郡名には引き継がれていない。
 アイヌが常陸国まで南下していたことは疑問だが、 アイヌの知識が影響を与え、伝説としてここに混ざった可能性はある。


2016.07.08(fri) [09] 糜・鹿