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2014.08.24(日) [A] 天の川の西岸と東岸の定義
 梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』に、七夕伝説の原型と見られるが、その中に「天河之東有織女」そして「嫁河西牽牛郎」という文がある。
 一見、夜空を見上げると織女(ベガ)が東に、牽牛(アルタイル)が西に並んでいるように読み取れるが、話はそんなに単純ではない。 東京で、8月15日午後9時には、天頂を挟んで、ベガはやや北西側、アルタイルは南東にある。 また、10月15日午後9時には、両方とも西の空の、ほぼ同じ高度(40°)にあり、ベガが北、アルタイルが南に並んでいる。 このように、地上から見てベガがアルタイルの東にあるとは限らず、季節、時刻によって変化する。
 地上の方位は地軸(自転軸)で決まり、北は北極星の向きである。しかし、古代中国の星座ではそれとは別に、黄道面自体の中に東西南北が定義されている。

黄道と白道
 黄道は、天球上の太陽の通り道である。太陽は一年かかって黄道を一周する。そこで、西洋では黄道が通る12の星座を定めた。 なお、「12星座」と「12宮」とは異なるものである。星座そのままではそれぞれの星座を通過する日数は一定しないので、黄道を12等分して、12星座からそれぞれに近くにあるものを結びつけたものを「12宮」とし、ちょうど同じ日数ずつで通過するようにする。
 また、月の通り道を白道といい、約27日かけて一回りする。白道面は、黄道面に対して約5.8度の傾斜角がある。
 さて、古代中国では、白道に沿って28の星を決め、それぞれを「宿」という。月の公転周期は27日9時間なので、月は大体1夜ごとに隣の宿に移動する。 本来の黄道または白道上の方位は、右ねじを北極星に向けて進める時、回転する方向が東である。 しかし、古代中国式星座では、白道自体を4か所で区切り、7宿ごとにグループ化して東・西・南・北と定める。しかしこのグループは、地上の方位とは別物である。 それぞれのグループの星の並びは、4つの神獣の形を描くとされる。
青竜東方七宿角宿・亢宿・氐宿・房宿・心宿・尾宿・箕宿
玄武北方七宿斗宿・牛宿・女宿・虚宿・危宿・室宿・壁宿
白虎西方七宿奎宿・婁宿・胃宿・昴宿・畢宿・觜宿・参宿
朱雀南方七宿井宿・鬼宿・柳宿・星宿・張宿・翼宿・軫宿


歴史
 中国のウェブ百科『百度百科』で「天文図」を見ると、
<百度百科|天文図>1978年、考古工作者在湖北省隨県戦国前期曽侯乙的古墓中、発現了我国和世界上現存最早的一張具有二十八宿名名称的天文図。</百度百科>
 すなわち、1978年、最古の28宿図が戦国時代前期の「曽侯乙の古墓」に発見された。
 また、同百科の「二十八星宿図」掲載の各宿の名称は、わが国で現在用いられているものと全く同じである。  わが国にも古来から伝わり、高松塚古墳・キトラ古墳の彩色図が有名である。 わが国には二十七宿のものが伝わってきたが、江戸時代の1685年、貞享暦の採用と同時に中国式に改めたという。
(ja.wikipedia.org)
 その伝統は、生活の様々なところに及ぶ。右の写真は国技館の土俵上のつり屋根である。辞書によれば、
<デジタル大辞泉|スポーツ用語>(ふさ)…大相撲で、つり屋根の四隅に垂れ下がる4色の房。東は青色、西は白色、北は黒色、南は赤色。</デジタル大辞泉>
 なお、伝統的な「青」は、現在のみどり色である。

東西が逆転か
 28宿図を見ると、地図とは東西が逆になっているように思えるが、これは天球を地上から見上げた図だからである。 天球を外側から見たとすれば図を裏から見ることになり、通常の東西南北の関係になる。

天の川と黄道
 天の川も天球を一周し、黄道とは、いて座のあたりと、おうし座のあたりの2か所で交差する。 そして、天の川の両岸のうち、東方七宿側は東岸、西方七宿側を西岸であるから、確かに織女は東岸に、牽牛は西岸にある。

まとめ
 以上から、天の川の東岸・西岸は、28宿で定義された東西に従ったものと考えられる。


2015.02.11(水) [B] 太歳による紀年法
※ 黄道は、現代の星図を用いている。漢代においては、黄道の秋分の位置は円のやや内寄りに縮め、黄道の春分の位置はやや外寄りに広げるなどの修正が必要である。 また、漢代の北極星は現代の北極星とは別の星である。
 十二次(じ)とは、黄道を12等分し、各部分に天の北極から見下ろして反時計回りに、星紀(せいき)、玄枵(げんきょう)、娵訾(しゅし)、降婁(こうろう)、大梁(たいりょう)、実沈(じっちん)、鶉首(じゅんしゅ)、鶉火(じゅんか)、鶉尾(じゅんび)、寿星(じゅせい)、大火(たいか)、析木(せきぼく) の名称をつけたものである。太陽がどのにあるかによって、二十四節気が定まる。また、歳(木星)は一年でほぼ1次ずつ移動するので、年紀法(干支による年の表し方)を導く。
 『漢書』(前漢の歴史をまとめた書)には、各次を二十八宿(天の赤道帯に沿った主な恒星)の位置によって表している。
《『漢書』律暦志下》
星紀、初斗十二度、大雪。中牽牛初、冬至。終於婺女七度。
玄枵、初婺女八度、小寒。中危初、大寒。終於危十五度。
諏訾、初危十六度、立春。中營室十四度、驚蟄。終於奎四度。
降婁、初奎五度、雨水。中婁四度、春分。終於胃六度。
大梁、初胃七度、穀雨。中昴八度、清明。終於畢十一度。
實沈、初畢十二度、立夏。中井初、小滿。終於井十五度。
鶉首、初井十六度、芒種。中井三十一度、夏至。終於柳八度。
鶉火、初柳九度、小暑。中張三度、大暑。終於張十七度。
鶉尾、初張十八度、立秋。中翼十五度、處暑。終於軫十一度。
壽星、初軫十二度、白露。中角十度、秋分。終於氐四度。
大火、初氐五度、寒露。中房五度、霜降。終於尾九度。
析木、初尾十度、立冬。中箕七度、小雪。終於斗十一度。
角十二。亢九。氐十五。房五。心五。尾十八。箕十一。東七十五度。斗二十六。牛八。女十二。虛十。危十七。營室十六。壁九。北九十八度。奎十六。婁十二。胃十四。昴十一。畢十六。觜二。參九。西八十度。井三十三。鬼四。柳十五。星七。張十八。翼十八。軫十七。南百一十二度。

 星紀は、始点が斗星から十二度で大雪。中点は牽牛の開始点で冬至。於婺女の七度で終わる。
 玄枵は、始点が婺女八度で小寒。中点は危の開始点で大寒。危の十五度で終わる。

(中略)
 角12。亢9。氐15。房5。心5。尾18。箕11。東の七宿は計75度。
 斗26。牛8。女12。虚10。危17。営室16。壁9。北の七宿は計98度。
 奎16。婁12。胃14。昴11。畢16。觜2。参9。西の七宿は計80度。
 井33。鬼4。柳15。星7。張18。翼18。軫17。南の七宿は計112度。

《漢書における十二次》
【歳差運動】 地軸は少しずつその向きを変え、25800年で一周する。これを歳差運動という。
 冬至の太陽の位置を、現代と『漢書』の時代とで比較する。 平気法では24節気は黄道を一周する時間を等分するので、冬至は春分から4分の3年後である。平均太陽年(365.2422日)の4分の3=273.93日。 2000年を例にとると春分は3月20日07:35UTCで、その4分の3太陽年後は12月19日05:57UTCにあたり、その位置は黄経267°38'15"である。 『漢書』律暦志では、冬至は牽牛星(アルタイル、☆印)の位置である。 太陽がアルタイル(赤径19h50m47s)に来たときの黄経は295°42'51"。差引28°04'36"(=28.077°)が『漢書』の時代から2000年までの歳差である。 *…それに対して、黄道を長さで等分する方法を定気法と言う。定気法では二十四季の本来の目的である、閏月を正しく定める機能が損なわれる。
 「度」がいかなる単位であるかは、各七宿の度数を更に合計してみると解る。75+98+80+112=365。 つまり、黄道を365等分したものが一度、よって一度は太陽が1日に移動する長さである。
 12次は、黄道の12等分点を、代表的な星の位置(28宿)によって示すもので、 玄枵の始点は、婺女星から東へ8度進んだ点。中点は危星ジャスト。終点は危星から東へ15度進んだ位置である。 もう1度進んで、危星から東へ16度の位置が、諏訾の始点である。
 十二次は黄道を12等分するものなので、黄道12宮(12星座のままだと長さが不均等なので、均等割りしたものを12宮と言う)と同じ性質のものである。 星紀の中点に太陽が来たときが冬至で、人馬宮(いて座)と磨羯宮(やぎ座)の境目にあたる。現代においては、冬至点はさそり座といて座の境界付近であるが、歳差運動によって移動している。 太陽太陰暦では、冬至=星紀の中点を太陽が通った瞬間を含む月を11月と定めている。そして次は大寒を含む月が12月、というように、各12次の中点にあたる節気(24節気を一つ飛ばしにしたもので、「中季」と言う。)によって月が定める。
 1か月は新月から満月を経て、次の新月の直前まで29.4日である。しかし十二次の長さは365.2422…日÷12≒30.4日なので、30か月に1回ぐらいの割合で、中季を含まない月が出現する。 その月を閏月とする。例えばある年、4月30日が小満に当たり、次の夏至が翌々月の1日にあたる場合は、4月の次の月が閏4月、その次が5月となる。
《『漢書』の時代の星空》
 『漢書』律暦志の牽牛星の位置に基づいて計算すると、右の図のように冬至の位置は、『漢書』以来黄道上を28°ほど移動している。歳差運動の周期は25800年なので、この区間は25800年×28.077÷360≒2012年に相当する。
 この約2000年間の黄道移動速度の変化も考えなければならない。地球軌道(楕円)の近日点移動11.45秒/年を考慮すると、2000年で6.36°。この区間の黄道移動速度への影響を計算したところ、0.01%程度だったので無視しうる。
 誤差として考えられるのは、まず牽牛星の位置測定の誤差で、これを±0.5度(前述のように、黄道一周が365度)とすると、±35年。歳差運動の周期28500年の誤差を50年とすると、±4年。 従って、計算上律暦志の星空は、紀元2000年の、2012±39年前で、紀元前51~後27年(前漢後期~後漢初期)である。劉歆(りゅうきん)が太初暦を補修して三統暦を作ったのは西暦5年なので、このタイミングかも知れない。
 別の仮定として、天文学的な冬至が基準日だった場合(黄経270°0’0”)に同様に計算すると、律暦志の星空は西暦157年(班固の死後)となる。2000年の例で見ると、天文学的な冬至は12月21日13:37UTCとなり、春分基準の平気法による冬至と2日7時間40分の差ができる。 この差は、律暦志における「度」で表せば2.3度のずれに相当し、十二次を1度単位で記していることから見て誤差が大きすぎる。太初暦(前104年)(と、それを補修した三統暦)では、確かに冬至を含む月を11月に固定したが、これは実測の冬至を基準点にしたことを意味せず、実測の春分を基準点にして、冬至は平気法で定めた可能性が高い。 (太陽の運行データは『お星様とコンピュータ ★彡』から月,太陽,惑星の位置を使用しました。)

【晋書】
 『晋書』には、巻11「天文上」に「十二次」があり、そこに十二次と十二辰(黄道上の子・丑・寅・卯…)の対応が載っている。 原文から一部を抜き出す。
「十二次。班固取十二次配十二野、其言最詳。又有費直說、蔡邕所言頗有先後。魏太史令陳卓更言郡國所入宿度、今附而次之。」 〈十二次。班固は十二次を取り十二野に配し、その言は最も詳しい。また費直の説があり、蔡邕の言う所は先の後に頗(やや)有る〔班固への、一部異説を含む〕。 魏の太史令〔=官僚の役職〕陳卓、更に郡国の宿度に入る所を言い、今、これを附し次(つ)ける。〉 〔班固(32年―92年)は後漢の学者で『漢書』の著者、費直は前漢の易学者、蔡邕(133年―192年)は後漢の文学者、書家。〕 「郡國所入宿度」とは、『百度百科』によれば「将天上星空区域与地上的国州互相対応,称作分野。(天上星空の区域と地上の国州を対応づけ、これを「分野」と称する)で、国造りや占いに用いる。
 最初に壽星について、 「自軫十二度至氐四度為壽星、于辰在辰、鄭之分野、屬兗州。費直、壽星起軫七度、蔡邕、壽星起軫六度。」 〈軫の十二度より氐の四度までを壽星とし、十二辰において辰にある。 鄭が分野で、兗州に属す。費直によれば、壽星では軫の七度にを始点とし、蔡邕では壽星は起軫の六度を始点とする。〉と書かれる。 以下同じ形式で、鶉尾まで書かれる。
壽星大火析木星紀玄枵諏訾降婁大樑實沈鶉首鶉火鶉尾
 右表は、『晋書』から十二次と十二辰の対応を抜き出したものである。なお、 Wikisource(ウィキペディアの原文資料)では丑が醜になっているが、これは醜の簡体字が丑であるため、丑を機械的に醜に置き換えた結果だと思われる。

【十二辰】
 十二支の起源は、戦国時代(前403~前221)をはるかに遡るという。「子は孳(気が生じる)、丑は紐(生命の結合)、…」などの説明は漢代に後付されたもので、本当の起源は不明とされる。 十二支はまた地上の方位を表し、子が真北で、そこから東に向かって丑、寅、卯と続き、真南は午である。これは太陽の日周運動の向きと一致している。その向きをそのまま地平線に投影したと思われる。 冬至の一カ月後、即ち一月には子の刻=午前0時に、太陽は子の方位=北にあり、二時間後の丑の刻には方位は丑にある。つまり、一月は時刻と太陽の方位が一致する。 その後、時刻と太陽の方位との関係は毎日少しずつずれていき、一カ月後には子の刻の太陽の位置は亥となる。これは天球の年周運動による。
 歳(木星)は、1年かけて辰(しん)一つ分だけ移動するが、その移動は太陽の日周運動とは逆向きなので、十二辰を逆進してしまう。そこで、木星の動きを鏡に映したように反対方向にすすむ仮想の惑星「太歳」を想定し、子→丑の向きに進むようにしたとされる。

まとめ
 太陽が黄道上を進む速さは一定ではなく、現在の最大値は、12月下旬で、平均値の3.5%増、最小値は6月中旬で、平均値の3.0%減である。 これは地球の公転軌道が楕円であるのを、真円に投影したためである。その結果、天文学上の冬至と二十四節気(平気法)の冬至とが一致しない。 ただ、現在の我が国の旧暦は、天保暦に改訂(1844)して以来の定気法によるので、二十四節気の冬至は天文学上の冬至と一致する。しかし月名が合理的につけられなくなり、2033年には月名が定まらないという問題が起こる。 もともと二十四節気は、閏月を合理的に設定するための時間的な目印に過ぎない。それを我が国の文化は、意味のある名称と受け止めたから、特に冬至・秋分・夏至を天文現象と一致させようとしたのである。
 『漢書』に書かれた十二次については、前漢時代に春分を観測上の基準にしたと仮定すると計算結果がうまく合うので、仮定は正しいのではないかと思う。
 十二辰については、古代の日常生活では実際に木星の位置を見て、今年が十二支の何番目かを判断していたのであろう。 その後文明の進歩により紙の、そして電子機器上のカレンダーが広く普及したので、直接木星の位置を頼りにすることはなくなった。
※…私の個人的意見だが解決は簡単で、二十四節気を二本立てにして、月名の決定に限り平気法を用いることにすればよい。

2015.05.22(金) [C] 神武・綏靖の日付に元嘉暦を適用する試み
 ここでは、神武紀・綏靖紀にしばしば書かれる日付が、元嘉暦を遡って適用して作られたものであることを実証する。

【元嘉暦】
 元嘉暦は、中国・南北朝時代の宋の天文学者、何承天(370~447年)が考案した暦法で、太陽太陰暦のひとつである。 一太陽年を608分の222070日(=365.24671…日)、一朔望月を752分の22207日(=29.5306…日)とする。 この数値によれば、19太陽年が235朔望月に一致する。すなわち、ある年の冬至が11月1日だとすると、19年後に再び11月1日が冬至になる。 ただし、一太陽年は、実際には365.242189日なので、天文現象としての一年よりも0.00452日長い。 これが積み重なると、冬至は約221年で1日ずれる。因みにこのずれは、ユリウス暦の「128年で一日」より小さく、グレゴリオ暦の「3215年で一日」より大きい。
 太陽太陰暦は朔(新月)を月の先頭日とするので、12か月は354~355日となり、一太陽年には10日ほど不足する。 さて、太陽太陰暦では一太陽年を時間的に等分して24節季を定め、その奇数番を抜き出して中気とし、最初の中気である雨水を含む月を1月、次の春分を含む月を2月…のように月名を決める。 すると、中気を含まない月が19年に7回現れ、これを閏月とする。
 一方日付は月の変わりに無関係に十干十二支を60日周期で繰り返す。
 以上のルールに従い、通し日の初期値を任意に設定することにより、暦を作成することができる。この初期値を、本稿では暦定数と呼ぶこととする。 暦定数の意味は分かりにくいが、実際の暦に必ず存在する実数の定数である。この値に経過日数を加えた値から、月日が一義的に定まる。 年は相対値であるが、ある年を実際の干支に結び付けることによって一義的になる。
 暦定数には条件が一つあり、それは235か月の間に、必ず朔日が冬至に一致する日が一日存在するようにすることである。 その日を「朔旦冬至」と言い、朔旦冬至を含む年を19年周期(章という)の最初の年という意味で「章首」という。 朔旦冬至は目出度い日として盛大に祝われた。

【暦の模擬製作】
 元嘉暦の定義に従って、暦表の作成を試みた。計算にはエクセルを用いた。以下セルごとに詳しく説明する。
《概略》
ピンク色のセル…元嘉暦で定義された定数。
灰色のセル…見出し。
二重線の枠…計算式。
一重線の枠…計算式。入力後、下にドラッグする。これで暦を表示する範囲を決める。
黄色のセル…暦定数と、開始月(通し月)。任意の値を入力することにより、さまざまな時期の暦が設定できる。
黄色のセル…メモとして入力する。数値化した太歳(甲子=1)など。

222070=$A$1/$A$2
608
22207
752
《A1~A4》
 元嘉暦で定義された一太陽年と一朔望月。A1、A2は太陽年の分子と分母。A3,A4は朔望月の分子と分母。
《B1》
 一太陽年の実数表現。各セルの実際の計算にはこの値を使用する。
《A7~34、C7~34》

10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
1=(A7*2-1)*$A$1/$A$2/24雨水
2春分
3穀雨
4小満
5夏至
6大暑
7処暑
8秋分
9霜降
10小雪
11冬至
12大寒
13

22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
1=(A7*2-1)*$A$1/$A$2/24立春
2啓蟄
3清明
4立夏
5芒種
6小暑
7立秋
8白露
9寒露
10立冬
11大雪
12小寒
13
 24節季の名称を示す。この文字自体は計算には使用しない。
《B7~19、B22~34》
 24節季のうち、中気は12節気の中間点である。つまり、一太陽年=365.24…日を24等分し、その奇数番を取り出したもの。 年頭からの通算日数(H列)で表した各月の朔日と、次の月の朔日がこの表のどれかの値を挟んでいれば、1~12月が定まる。該当する値がなければ閏月となる。 B7に入力したあとセルの右下にマウスを持っていき、カーソルの形がになったポイントからB19までドラッグすると、その範囲に数式が自動作成される。
 12節気は24節季から偶数番を取り出したもの。この値は暦の決定には不必要であるが、参考のために示す。 太陽太陰暦の決定には節気は不要だが、素朴な感覚としてその基本位置をまず月初めに置いたのであろう。 すると中気の基本位置は月半ばであるが、月が巡ると共にずれていって遂に中気のない月が現れ、それを閏月としたのである。
 地球の公転は楕円軌道なので、その運行速度は一定ではない。従って春分・秋分・冬至・夏至を天文学的な位置(角の等分による)とすべて一致させることはできない。 24節季を時間等分によって求めるのが平気法、角等分によって求めるのが定気法である。太陽太陰暦には平気法を用いるのが合理的であるのは、その決定の仕組みから明らかである。 だが、その割り切りができず暦に定気法に持ち込みたいと主張する人が改暦の度に現れたようである。幕末の1844に採用された天保暦は、珍しく定気法が勝利した。
《D3》
 開始月を設定する。0のときは、暦定数、k(>=1)のときは(暦定数+朔望月の長さ(A3/A4)×k)から暦表を開始する。
《D4~Dn》
 D3を始点として、下に向かって整数1を増加する。必要な区間だけ下方へドラッグする。
《E2》
 暦定数を入力するセル。適当な数値を設定し、目的とする暦を探す。
《E3~En》
 列Eに(暦定数+D列の整数×朔望月)を計算して書き込む。これが、通算日数となる。必要な区間だけ下方へドラッグする。
《F3~Fn》

356.739
0=D3*$A$3/$A$4+$E$2=INT(E4)-INT(E3)0=E3-INT(E3/$B$1)*$B$1
=D3+1=IF(H4>=H3,0,$B$1)
 列Eから、一か月あたりの日数を求める。実数で表された列Eの数列の整数部分の差をとる。 平気法では、必ず29(小の月)と30(大の月)のどちらかになる。 必要な区間下方にドラッグする。
《G3、G4~Gn》
 G3=0、G4は0またはB1の値をとる式で、必要な区間下方にドラッグする。H列の値を循環値と見做すために、この列の数値が必要である。
《H3~Hn》
=IF(AND(H3<=$B$7,$B$7<H4+G4),1, IF(AND(H3<=$B$8,$B$8<H4+G4),2, IF(AND(H3<=$B$9,$B$9<H4+G4),3, IF(AND(H3<=$B$10,$B$10<H4+G4),4, IF(AND(H3<=$B$11,$B$11<H4+G4),5, IF(AND(H3<=$B$12,$B$12<H4+G4),6, IF(AND(H3<=$B$13,$B$13<H4+G4),7, IF(AND(H3<=$B$14,$B$14<H4+G4),8, IF(AND(H3<=$B$15,$B$15<H4+G4),9, IF(AND(H3<=$B$16,$B$16<H4+G4),10, IF(AND(H3<=$B$17,$B$17<H4+G4),11, IF(AND(H3<=$B$18,$B$18<H4+G4),12, IF(AND(H3<=$B$19,$B$19<H4+G4),1, 0)))))))))))))
 通算日数を太陽年の日数で割った剰余。すなわち、太陽暦におけるその年の1月1日からの日数を示す。 H3から必要な区間下方にドラッグする。 この値と中気表(B7~B13)から、月名を求める。
《I3~In》
 HnとH(n+1)に挟まれた範囲内の値が、B7:B13のどれかにあれば、数値1~12を返す。これが月名となる。 B7:B13の範囲のどの値も入らないときは、0を返す。これは閏月であることを示す。 I3から必要な区間下方にドラッグする。
《J3~Jn》
 年ごとに、各月の日数を累計する。J3から必要な区間下方にドラッグする。
《K3~Kn》
 J列から1年の合計日数だけを抜き出す。K3から必要な区間下方にドラッグする。
《L3~Ln》
 E列の通算日数を十干十二支に直す。L列は甲子=1としたときの数値で表現し、各月朔日の干支に相当する。 L3から必要な区間下方にドラッグする。
《M3~Mn》
 各月の大小を表す。M3から必要な区間下方にドラッグする。
《N3~Nn》
=IF(I3=1,F3,F3+J2)=IF(J4<J3,J3,"")=MOD(INT(E3),60)+1=MID("小大",F3-28,1)=IF(I3=0,CONCATENATE("閏",I2,"月"),CONCATENATE(I3,"月"))
 I列を月名で表現する。N3から必要な区間下方にドラッグする。
《O3~On》
=CONCATENATE(MID("甲乙丙丁戊己庚辛壬癸",MOD(L3-1,10)+1,1),MID("子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥",MOD(L3-1,12)+1,1))
 L列を干支で表現する。O3から必要な区間下方にドラッグする。
《P1》
 P3:P9999の範囲の数値を合計する。これは、Q列に干支を書き込み、O列と一致・不一致を調べるために使用する。 P1には、不一致な個所の個数が表示される。
《P3~Pn》

=SUM(P3:P9999)

=IF(OR(Q3="",O3=Q3),0,1)
 Q列に調べたい日の干支を書き込み、O列と比較し、一致=0、不一致=1を返す。P3から必要な区間下方にドラッグする。 その合計値はP1に書き込まる。即ちP1に不一致の件数の合計である。
《Q3~Qn》
 ここに参照したい干支を書き込むとO列と比較し、P列に一致または不一致の結果が書き込まれる。
《R3~Rn》
 Q列の干支の数値を書き込むと、便利である。
《S3~Sn》
=IF(T3<>"",CONCATENATE(MID("甲乙丙丁戊己庚辛壬癸",MOD(T3-1,10)+1,1),MID("子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥",MOD(T3-1,12)+1,1)),"")
 T列に干支を数値表現で入力すると、干支に直してS列に表示する。P3から必要な区間下方にドラッグする。
《T3~Tn》
 T列に干支を数値表現で入力すると、干支に直してS列に表示する。参考のためにその年の太歳を表すことができる。
《U3~Un》
 朔旦冬至を含む年を1としたときの各年の番号を書き込むとよい。

神武天皇・綏靖天皇
干支通算月
神武天皇
即位前
甲寅51十月丁巳5471
十一月丙戌2372-1
十二月丙辰5373
乙卯52三月甲寅5177
戊午55二月丁酉34113
三月丁卯4114
四月丙申33115
五月丙寅3116
六月乙未32117-1
八月甲午31119-1
九月甲子1120
十月癸巳30121-1
十一月癸亥60122
十二月癸巳30123+1
己未56二月壬辰29125
三月辛酉58126
庚申57八月癸丑50144
神武元年辛酉58正月庚辰17149
二年壬戌59二月甲辰41162
四年甲子1二月壬戌59187-1
三十一年辛卯28四月乙酉22523
四十二年壬寅39正月壬子49656
七十六年丙子13三月甲午311076
明年辛未14九月乙卯521097
己卯年己卯16十一月1111
綏靖元年庚辰17正月壬申91126
二十五年甲辰41正月壬午191423
三十三年壬子49五月1526
Ⅰ:E2=356.739による結果。
Ⅱ:モデルⅡによる結果。
(2019.10.25)
Ⅳ:モデルⅣによる結果。
(2022.08.11)
【神武紀・綏靖紀に現れる日付】
 右の表は、神武紀・綏靖紀に出てくる朔日である。神武2~76年、綏靖25~33年は太歳の明記がないが、それぞれ元年の太歳から計算して求めたものである。 セルD3(通算月)、セルE2(暦定数)に勘を働かせて値を書き込み、Q列の適当な位置に右表の朔日の干支を書き込み、合うパターンを探す。 もしぴったり一致する組み合わせが見つかれば、神武紀・綏靖紀の中の日付は正確な元嘉暦を参照したことが分かる。
 まず暦定数に適当な値を設定し、最初の3つについて、類似のパターンを探すことにした。試しにD3=0、E2=360の値を設定したところ、通算71~73か月に、3~4日のずらせば10~12月に該当する箇所が見つかった()。 翌年3月の甲寅(52)は一か月ずれるが、この問題は保留し、E3を357に変えて10~12月の一致を目指した。
《甲寅十月~乙卯三月》
 その結果、十月丁巳と十二月丙辰について一致した。十一月丙戌は、惜しくも1日違いである。 さらに驚くべきことに閏12月が出現し、翌年三月の朔が甲寅ということになり、もう一つの課題が同時に解決された()。 一般にある仮説が正しい時は、新しいデータは仮説を増強する方向に作用し、仮説に誤りがあるときは芋づる式に仮説の追加が必要になり、やがて破綻するという法則がある。 その一般則に照らして、別の問題まで予期せずに解決されたのはよい兆しである。
《甲寅十月~十二月》
《十一月丙戌》
 さて、E2=357の段階で不一致は右表の日付26個中7個である。 そのうち十一月の乙酉は、10月と11月の大小を逆転させれば丙戌に直すことができる。そこで、通算月71~73のE(通算日)に注目する。 これを見ると、すべて0.3を引くと72通算月のEだけを1減らし、大小を逆転させることができる。
 そこで、E2=356.7にした結果、11月は丙戌が朔日となり()、全体の不一致も一気に26個中1個に減少した。 残った一か所は、戊午年十二月癸巳朔が前日の壬辰になっているところである。
《不一致の全面解消》
 通算123番の月は、通算日が現在3988.9619…日である。そこで暦定数(E2)に0.039日を加えれば、通算日を繰り下げられる。 そのために、E2=356.739としたところ、新たに他の日に不一致が出現することもなく、不一致をすべて解消することができた。
《朔旦冬至の存在》
 後は、この暦定数によって朔旦冬至さえ存在すればOKである。 探すと、表の先頭から12年目が相当する。先頭年を甲寅とすれば、乙丑の年である()。 この年の11月1日は太陽暦元日から319.44日、冬至日が319.59日である。 差の0.15日は、計算上の冬至の瞬間が3時間36分ずれるという意味で、ほぼこの日が冬至だと言ってよい。
 因みに、この差は経度にして54°である。余談であるが、太陽太陰暦においては小数部分の時間差により、同じ暦を使っていても、中国と日本の朔日が一日ずれることが稀にある。

【神武・綏靖の事跡記事が暦に一致する意味】
 元嘉暦が作られたのは445年、日本に入ってきたのは554年とされる。 従って書紀の執筆者は、元嘉暦を何らかの方法で逆算し、 そのデータを見ながら事跡の想像上の日付を決めていったと考えられる。
 理屈の上では、神武のころ元嘉暦と同程度の精度をもつ別の暦が存在し、それを元嘉暦に換算したという考えも成り立つ。 しかし、魏志倭人伝(280年ごろまでの記録)に裴松之の注には「魏略曰其俗不正歳四節」があり、 中国の四分暦(85年)、景初歴(237年)に匹敵する暦が使われていた気配はない。
 また、太陽太陰暦のレベルを表記するには絶対的に文字が必要なので、漢字移入の歴史を調べる。 隋書には「文字唯刻木結繩、敬仏法於百済求得仏教、始有文字〔もともと倭国に文字は存在せず、木に記号を彫ったり綱の結び目によってことを記録していたが、百済からの仏教伝来に伴い、その経典によって文字が移入された〕とされる。 仏教伝来は一般に538年とされるが、漢字の移入については471年ころの金錯銘鉄剣(稲荷山古墳出土)に、既に和化漢文が用いられている。それ以前に社会の上層部には漢字が伝わっていたと考えられる。
 しかし、初期古墳の3世紀後半から更に100~200年遡った神武天皇の時代に、太陽太陰暦に類する暦があり、さらにそれを使った記録が文字で残されたとは到底考えられない。
 書紀の記述自体は、その年月日は暦法に厳密に従っており、決していい加減なものではない。 ただし書紀の前半については、その日付は物語の上で創作されたものであるのは明らかである。

まとめ
 その後、676年ごろ「儀鳳暦」が伝わりしばらく元嘉暦と併用した後、697年ごろ儀鳳暦に統一したとされる。 儀鳳暦は、定朔法の導入などに伴い計算が複雑化すると予想される。
 この研究の目的は、実際に暦が使用される前の出来事に、後からどのように暦を当てはめたかを探ることである。
 今回は綏靖天皇までであるが、次の安寧天皇以後、ある程度本当の記録があると思われる頃まで、この方法を延長して探ってみようと思う。

【モデルⅡを適用した場合】2019.10.25付記[H]参照
 E2=356.739のモデルでは、開化天皇以後誤差が大きくなることが分かった。 そこで、後日開化天皇~継体天皇の範囲の誤差を最小化する値を新たに求めたところ(モデルⅡ)、E2=356.922を得た。 ところが、これを遡って神武天皇即位前~孝安天皇に適用すると逆に誤差が大きくなる。
 恐らくは、途中で別個に作られた暦表に切り替えたためではないかと思われる。


2015.05.28(木)―2016.02.03(水) [D] (続)日付に元嘉暦を適用する試み
安寧天皇懿徳天皇孝昭天皇
天皇太歳朔日通算月
綏靖
三十三年
壬子49五月1526
七月癸亥601528
安寧元年癸丑50十月丙戌231543
三年乙卯52正月戊寅151559-1
十一年癸亥60正月壬戌591658
三十八年庚寅27十二月庚戌472003
天皇太歳朔日通算月
懿徳元年辛卯28二月己酉462005
八月丙午432011
九月丙子132012
二年壬辰29正月甲戌112016
二月癸卯402017-1
二十二年壬子49二月丁未592264
三十四年甲子01九月甲子472420
天皇太歳朔日通算月
乙丑02十月戊午552434
孝昭元年丙寅03正月丙戌232437
四月乙卯522440
二十九年甲午31正月甲辰412783
六十八年癸酉10正月丁亥243266
八十三年戊子25八月丁巳543451
孝安天皇孝霊天皇孝元天皇
天皇太歳朔日通算月
孝安元年己丑26正月乙酉223463
八月辛巳183471
二十六年甲寅51二月己丑263774
三十八年丙寅03八月丙子133921+1
七十六年甲辰41正月己巳064391
百二年庚午07正月戊戌354713
天皇太歳朔日通算月
孝安
百二年
庚午07九月甲午314721
十二月癸亥604724
孝霊元年辛未08正月壬辰294725
二年壬申09二月丙辰534738
三十六年丙午43正月己亥365158
七十六年丙戌23二月丙午435654
天皇太歳朔日通算月
孝元元年丁亥24正月辛未085665
四年庚寅27三月甲申215704×+1正月
六年壬辰29九月戊戌365735
七年癸巳30二月丙寅035740
二十二年戊申45正月己巳065925
五十七年癸未20九月壬申096366
開化天皇崇神天皇垂仁天皇
天皇太歳朔日通算月
孝元
五十七年
癸未20九月壬申096366
十一月辛未086368
開化元年甲申21正月庚午076370
十月丙申336379
五年戊子25二月丁未136421×
六年己丑26一月辛丑386432
六十年癸未20四月丙辰537103
十月癸丑507109
天皇太歳朔日通算月
崇神元年甲申21正月壬午197112
二月辛亥487113
四年丁亥24十月庚申577159±30
七年庚寅27二月丁丑177187
八月癸卯407194
十一月丁卯47197-5-5-5
八年辛卯28四月庚子377202
十二月丙申337210
九年壬辰29三月甲子17213+1
四月甲午317214
十年癸巳30七月丙戌237230+1
九月丙戌237232+1
十月乙卯527233
十一年甲午31四月壬子497239
十二年 乙未32三月丁丑147250
九月甲辰417256±30+1甲戌
十七年庚子37七月丙午437316
四十八年辛未8 正月己卯167693
六十年癸未20七月丙申337848
六十二年乙酉22七月乙卯527873
六十八年辛卯28十二月戊申457952+1
明年壬辰29八月甲辰417960
天皇太歳朔日通算月
垂仁元年壬辰29正月丁丑147953
十月癸卯407962
十一月壬申97964-29
二年癸巳30二月辛未87967+1
四年乙未32九月丙戌237999-29
五年丙申33十月己卯168012
七年戊戌35七月己巳68034
十五年丙午43二月乙卯528127
二十三年甲寅51九月丙寅38233八月
十月乙丑28235閏十
十一月甲午318236
二十五年丙辰53二月丁巳548251
三月丁亥248252
二十六年丁巳54八月戊寅158270
(丁巳年)十月(丁丑)148272
二十七年戊午55八月癸酉108282
二十八年己未56十月丙寅38296
十一月丙申338297
三十年辛酉58正月己未568312+1
三十二年癸亥60七月甲戌118343
三十四年乙丑2三月乙丑28363
三十七年戊辰5正月戊寅158398
八十七年戊午55二月丁亥249018
八十八年己未56七月己酉469035
九十年辛酉58二月庚子379055
九十九年庚午7七月戊午559171+13+13+13
十二月癸卯409177+1
明年辛未8三月辛未89180
【安寧天皇】2015.05.28
 前回[C]に引き続き、安寧紀の日付について調べた。右の表で「通算月」は前回で示したエクセル表のD列の値、一致したものは「結果」欄に○印がつく。「朔」が明示された日について、すべて一致した。

【懿徳天皇】2015.05.30
 懿徳天皇紀の8つの日付を確認した。赤い字の太歳は、書紀に明記されたもの。

【孝昭天皇】2015.06.17
 孝昭天皇紀の6つの日付を確認した。

【孝安天皇】2015.07.02
 孝安天皇紀の6つの日付を確認した。

【孝霊天皇】2015.07.05
 孝霊天皇紀の6つの日付を確認した。

【孝元天皇】2015.08.18
 孝元天皇紀の6つの日付のうち、4年3月に不一致が生じた。計算上は癸未で、甲申の前日である。当面、このまま確認を続けることにする。

【開化天皇】2015.09.14
 開化天皇5年2月朔日の「丁未」は、計算上は1月朔日の干支に当たる。前年の最終月=閏12月を、誤って1月としたのかも知れないが、確かなことは分らない。

【崇神天皇】2015.10.05
 結果の欄は、計算上の暦と一致する場合は○印、一致しない場合は、計算上の暦からのずれの日数を示す。
 計算との不一致は5か所あり、次の3通りのパターンに分類される。
《一か月前後する》
 4年10月「庚申」は、計算上の暦ではその前月の閏9月が庚申である。 12年9月「甲辰」は、計算上の暦ではその翌月の10月が甲辰である。なお、その翌月は閏10月である。 両方とも閏月に近いが、閏月の間隔はほぼ一定(33または34か月)なので、閏月を前後にずらして、この2件を同時に解決することはできない。
《1日のずれ》
 10年9月と68年12月の2か所がある。暦定数を356.739から356.809に直すと2か所とも解消するが、他の代で新たなずれが発生するはずである。
《その他》
 「七年十一月丁卯朔己卯」は、計算では壬申朔でマイナス5日のずれがある。ここでは「冬十一月」とあるべきところの、「冬」が落ちている。 近くで卯朔を探すと、八年九月がある。最終稿に近づき暦と照合して点検を終えた段階で、暦法に無知な何物かによって雑な書き換えがなされた可能性がある。 この部分の岩波文庫版の校異には、熱田本・北野本・穂久邇本は「朔己卯」がないとあり、なかなか怪しい部分である。

【垂仁天皇】2016.02.02
 結果の欄は、計算上の暦と一致する場合は○印、一致しない場合は、計算上の暦からのずれの日数を示す。
《閏月の位置》
 元年11月、4年9月、23年9月の-29日のずれは、1か月に相当する。
・壬辰年(垂仁元年):10月癸卯⇒閏10月壬申⇒11月壬寅NG⇒12月辛未
・乙未年(垂仁四年):7月丁亥⇒閏7月丙辰⇒8月丙戌⇒9月乙卯NG
・甲寅年(垂仁二十三年):7月丙寅⇒閏7月丙申⇒8月丙寅⇒9月乙未NG⇒10月乙丑OK⇒11月甲午OK
・壬辰年(垂仁元年):10月癸卯⇒11月壬申OK⇒12月壬寅⇒閏12月辛未
・乙未年(垂仁四年):7月丁亥⇒8月丙辰⇒9月丙戌OK⇒閏9月乙卯
・甲寅年(垂仁二十三年):7月丙寅⇒8月丙申⇒9月丙寅OK⇒閏9月乙未⇒10月乙丑OK⇒11月甲午OK

 「計算上の暦」の朔日は、のようになっている。そこから 閏月を、系統的に2か月後ろにずらすとのようになり、書紀の朔日に一致させることができる。
《1日のずれ》
 垂仁天皇の100年の間に、1日のずれが3か所ある。暦定数の微調整で解消できるかも知れない。
《太歳表記の年》
 垂仁天皇26年の10月(表の※)。「一云」に一か所「取丁巳年冬十月甲子」の表現があるところで、この表現は異例である。 計算上、丁巳年十月の朔は丁丑であるが、その場合甲子は48日となり、有り得ない日付である。
 また、日付を「取」の目的語にすることも通常は有り得ない。何らかの誤りではないだろうか。
《13日のずれ》
 99年の「七月戊午朔天皇崩於纏向宮」の朔は計算上「乙巳」で13日ずれており、全く説明がつかない事例である。

【モデルⅡ】2019.10.25[H]参照
 安寧天皇~考安天皇では、モデルⅠの方が適合している。開化天皇・垂仁天皇については、モデルⅡによって若干改善される。 崇神天皇については、閏月の移動による効果が表れている。「一日のずれ」については一長一短がある。
 垂仁天皇二十三年は、閏月がモデルⅠ:閏七月、モデルⅡが閏十月である。垂仁天皇紀はモデルⅡで、「閏十月」の「閏」が脱落したと見るのがもっとも合理的である。
 崇神天皇七年十一月「丁卯」と垂仁天皇九十九年七月「戊午」については、完全な誤りと見られる。


2016.09.26(月)―2016.10.01(土) [E] (続々)日付に元嘉暦を適用する試み
景行天皇成務天皇
天皇太歳朔日通算月
景行元年辛未8三月辛未69180
七月己巳69184
二年壬申9三月丙寅39192+1+1
三年癸酉10二月庚寅279202
四年甲戌11二月甲寅519216
十一月庚辰179225
十二年壬午19八月乙未329321
九月甲子19322+1
十二月癸巳309325
十七年丁亥24三月戊戌359378
十八年戊子25四月壬戌599391
五月壬辰299392+1
六月辛酉589393
七月辛卯289394
十九年己丑26九月甲申219409八月
二十年庚寅27二月辛巳189414
二十五年乙未32七月庚辰179481
二十七年丁酉34二月辛丑389500
十月丁酉349509閏九月
二十八年戊戌35二月乙丑29513
四十年庚戌47七月癸未209666
十月壬子499669+1
五十一年辛酉58正月壬午199796
八月己酉469803
五十二年壬戌59五月甲辰419813
七月癸卯409815
五十三年癸亥60八月丁卯49828
五十四年甲子1九月辛卯289841
五十五年乙丑2二月戊子259847
五十八年戊辰5二月辛丑389884
六十年庚午7十一月乙酉229918
天皇太歳朔日通算月
成務元年辛未8正月甲申219920
二年壬申9十一月癸酉109942
三年癸酉10正月癸酉109945+29
四年甲戌11二月丙寅39958
四十八年戊午55三月庚辰1710503
六十年庚午7六月己巳610655
仲哀天皇
天皇太歳朔日通算月
成務六十翌辛未8九月壬辰2910670
仲哀元年壬申9正月庚寅2710674
九月丙戌2310682
十一月乙酉2210684十月
閏十一月乙卯5210685十一月十二月
二年癸酉10正月甲寅5110687
二月癸未2010688
三月癸丑5010689
六月辛巳1810692
七月辛亥4810693
八年己卯16正月己卯1610761
九月乙亥1210769
九年庚辰17二月癸卯4010774
【景行天皇】2016.09.26
 引き続き、景行紀の日付について調べた。
 [C]の計算をこれまで「計算上の暦」と呼んできたが、名前があった方が便利である。 暦定数として、356.739を用いたから、今後は「739モデル」と呼ぶことにする。
 739モデルでは、景行天皇についても1か月のずれが2か所にある。 いずれも閏月がからみ、景行十九年九月は直前に閏七月がある。これがなければ景行紀通り「九月甲申」となる。 また、景行二十七年十月は、739モデルの閏九月に一致している。これが閏月でなければ景行紀通り「十月丁酉」となる。
 そのほか、739モデルより朔が一日早いものが3か所ある。概ね垂仁天皇紀以前と同じペースで推移している。

【成務天皇】2016.10.01
 「三年正月癸酉」が739モデルと合わない。モデルでは、二年十一月と三年正月の間に閏月があり、正月朔日は壬寅になる。 正月癸酉朔にするには、この閏月を取り除き、さらに11・12月をともに大の月にしなければならない。

【仲哀天皇】2017.01.18 
 739モデルでは、9月・閏9月・10月・11月と並ぶ。それが仲哀天皇紀では、 それぞれ9月・10月・11月・閏11月となり、閏月が入るところが2か月ずれている。 それ以外すべて、朔は一致している。

【モデルⅡ】2019.10.25[H]参照
 景行天皇から仲哀天皇までは、モデルⅡが優位となっている。
 仲哀天皇元年閏十一月については、二十四節季点の繰り上げを2.43日にすると閏十一月にすることができるが、 そうやった場合、安閑天皇元年の「閏十二月」が「十二月」になってしまう。 この二つの閏月を両立させようとして繰り上げ値を2.4315455160347日まで突き詰めたたが、 それでも「仲哀天皇閏十一月」と「安閑天皇閏十二月」は両立しなかった。



2017.02.14(火)―2017.10.04(水) [F] (続3)日付に元嘉暦を適用する試み
神功皇后応神天皇仁徳天皇
天皇太歳朔日通算月
仲哀九年庚辰17三月壬申910775
四月壬寅3910776
九月庚午710781+1
十月己亥3610782
十二月戊戌3510785-30
摂政元年辛巳18三月丙申3310788
十月癸亥6010795
二年壬午19十一月丁亥2410808
三年癸未20正月丙戌2310810
五年乙酉22三月癸卯4010837
十三年癸巳30二月丁巳5410935
四十六年丙寅3三月乙亥1211344
五十二年壬申9九月丁卯411425
六十九年己丑26四月辛酉5811630
十月戊午5511636
天皇太歳朔日通算月
応神元年庚寅27正月丁亥2411639
二年辛卯28三月庚戌4711653+30四月甲辰
三年壬辰29十月辛未811673
五年甲午31八月庚寅2711696
十五年甲辰41八月壬戌5911819
十九年戊申45十月戊戌3511871
二十二年辛亥48三月甲申2111901
九月辛巳1811907
三十七年丙寅3二月戊午5512109+1
四十年己巳6正月辛丑3812121+1
四十一年庚午7二月甲午3112135
天皇太歳朔日通算月
仁徳元年癸酉10正月丁丑1412171
二年甲戌11三月辛未812185+1
四年丙子13二月己未5612209
三月己丑2612210
七年己卯16四月辛未812248
八月己巳612252
十一年癸未20四月戊寅1512298三月
十二年甲申21七月辛未812313+1五月
八月庚子3712314
十六年戊子25七月戊寅1512363-29五月
三十年壬寅39九月乙卯5212538
十月甲申2112539
三十一年癸卯40正月癸丑5012542
三十七年己酉46十一月甲戌1112626+1
三十八年庚戌47正月癸酉1012628+1
四十三年乙卯52九月庚子3712699八月
五十年壬戌59三月壬辰2912779
八十七年己亥36正月戊子2513235閏十二月
十月癸未2013244
【神功皇后】2017.02.14
 仲哀天皇9年9月朔日は、計算上の己巳より一日後になっている。
 12月朔日の戊戌は、739モデルでは11月朔日にあたる。 739モデルでは10月と11月の間に閏10月がある。書紀では12月から3月までの間に閏月が移っている。 これまでの例から見て、書紀の暦では閏12月であったと考えられる。

【応神天皇】2017.05.03
 2年3月の庚戌は、739モデルでは次の4月にあたる。 閏月がやってくるのはその年の5月の次で、これまでの例だと書紀の暦の閏月は7月になるから、いつものパターンでは説明できない。 ここでは本来の庚辰を「庚戌」に誤写した可能性がある。
 739モデルでは37年2月朔は、丁巳(54)、40年1月朔は庚子(37)で、時々現れる1日の差である。

【仁徳天皇】2017.10.04
 11年4月、16年7月、43年9月、87年正月は、それぞれ直前に閏12月、閏5月、閏7月、閏12月がある。 7月を除いて、仮に書記の暦では閏月があと4か月後ろだとすれば、辻褄が合う。 7月は「+1」のパターンと重なっていると見られる。

【モデルⅡ】2019.10.25[H]参照
 神功皇后から仁徳天皇は、モデルⅡが優位となっている。
 応神天皇二年三月「庚戌朔」は誤りと見られる。


2017.11.11(土)―2019.02.10(水) [G] (続4)日付に元嘉暦を適用する試み
履中天皇反正天皇允恭天皇
天皇太歳朔日通算月
履中元年庚子37二月壬午1913248+1
四月辛巳1813250+1
七月己酉4613253
二年辛丑38正月丙午4313259
三年壬寅39十一月丙寅313282+1
四年癸卯40八月辛卯2813291
五年甲辰41三月戊午5513298
九月乙酉2213305
十月甲寅5113306
六年乙巳42正月癸未2013309
二月癸丑5013310+1
三月壬午1913311
十月己酉4613318
天皇太歳朔日通算月
反正元年丙午43正月丁丑1413321
八月甲辰4113328
五年庚戌47正月甲申2113371十二月
天皇太歳朔日通算月
允恭元年壬子49
二年癸丑50二月丙申3313406
三年甲寅51正月辛酉5813420
四年乙卯52九月辛巳1813442
五年丙辰53七月丙子1313451
十一月甲戌1113455
七年戊午55十二月壬戌5913481
十一年壬戌59三月癸卯4013521
十四年乙丑2九月癸丑5013564
二十三年甲戌11三月甲午3113669
四十二年癸巳30正月乙亥1213902+1
十月庚午713912
十二月己巳613914
安康天皇雄略天皇清寧天皇
天皇太歳朔日通算月
安康元年甲午31二月戊辰513916
二年乙未32正月癸巳3013927
三年丙申33八月甲申2113947+1+1+1
十月癸未2013949+1
十一月壬子4913950
天皇太歳朔日通算月
雄略元年丁酉34三月庚戌4713954
二年戊戌35十月辛未813974閏九月
四年庚子37八月辛卯2813996+1+1六月
五年辛丑38六月丙戌2314007閏五月
六年壬寅39二月壬子4914015+1
三月辛巳1814016
七年癸卯40七月甲戌1114032+1
九年乙巳42二月甲子114052
七月壬辰2914057
十年丙午43九月乙酉2214071
十月乙卯5214072
十一年丁未44五月辛亥4814080
十二年戊申45四月丙子1313914
十月癸酉1014097
十四年庚戌47正月丙寅314113+1
四月甲午3114116
十七年癸丑50三月丁丑1414152
十八年甲寅51八月己亥3614169
十九年乙卯52三月丙寅314177二月
二十二年戊午55正月己酉4614212
二十三年己未56七月辛丑3814230+1
八月庚午714231
十月己巳614233
天皇太歳朔日通算月
清寧元年庚申57正月戊戌3514236
十月癸巳3014246
三年壬戌59正月丙辰5314261
四月乙酉2214264
九月壬子4914269
十月壬午1914270
十一月辛亥4814271
四年癸亥60正月庚戌4714273
八月丁未4414281
九月丙子1314282
五年甲子1正月甲戌1114286
十一月庚午714296+1
【履中天皇】2017.11.11
 履中天皇においては、「1日のずれ」が13回中4回(31%)出現する。これまでの平均11%に比べて出現率が大きい。 もうしばらく739モデルを続けて、様子を見たい。

【反正天皇】2017.12.06
 五年正月は、モデルでは前年十二月に相当する。その前に閏十月があり、閏月がその3か月後ならモデルに一致する。

【允恭天皇】2018.01.29
 允恭天皇においては、「1日のずれ」が11回中1回に減少した。

【安康天皇】2018.03.10
 安康天皇においては、「1日のずれ」は3回中1回である。

【雄略天皇】2018.11.25
 十九年三月は、モデルで前年十二月の閏月がなかったとすると、モデルも三月になる。 二年、五年も含めて閏月がモデルから3か月後ろにずれるとずれは解消する。 「1日のずれ」は19回中5回(26%)である。

【清寧天皇】2019.02.10
 清寧天皇においては、「1日のずれ」は12回中1回(8%)である。

【モデルⅡ】2019.10.25[H]参照
 履中天皇~清寧天皇は、モデルⅡが優位である。


2019.04.21(sun)―[H] (続5)日付に元嘉暦を適用する試み
顕宗天皇仁賢天皇武烈天皇
天皇太歳朔日通算月
顕宗元年乙丑2正月己巳614298
二月戊戌3514299
四月丁酉3414301
二年丙寅3八月己未5614318
十月戊午5514320
三年丁卯4二月丁巳5414324+1
四月丙辰5314326+1
天皇太歳朔日通算月
仁賢元年戊辰5正月辛巳1814335
二月辛亥4814336
十月丁未4414345九月
三年庚午7二月己巳614361
五年壬申9二月丁亥2414386
六年癸酉10九月己酉4614405+1
七年甲戌11正月丁未4414410-2
十一年戊寅15八月庚戌4714466
十月己酉4614468
十一月戊寅1514469○※
天皇太歳朔日通算月
武烈元年己卯16三月丁丑1414473+1
六年甲申21九月乙巳4214541+1
八年丙戌23十二月壬辰2914569+1
継体天皇安閑天皇宣下天皇
天皇太歳朔日通算月
継体元年丁亥24正月辛酉5814570
二月辛卯2814571+1
三月庚申5714572
二年戊子25十月辛亥4814592
六年壬辰29四月辛酉5814635+1
七年癸巳30八月癸未2014652+1
十一月辛亥4814655
十二月辛巳1814656+1
九年乙未32二月甲戌1114670
十二年戊戌35三月丙辰5314708
二十年丙午43九月丁酉3414814八月
二十一年丁未44六月壬辰2914823
二十二年戊申45十一月甲寅5113914
二十三年己酉46四月壬午1914846三月
二十四年庚戌47二月丁未4414856
二十五年辛亥48二月辛丑3814868
十二月丙申3314878
天皇太歳朔日通算月
安閑元年甲寅51三月癸未2014906
四月癸丑5014907
七月辛巳1814910
十月庚戌4714913
閏十二月己卯1614916
二年乙卯52正月戊申4514917
四月丁丑1414920
五月丙午4314921
八月乙亥1214924
九月甲辰4114925
十二月癸酉1014928
天皇太歳朔日通算月
宣化元年丙辰53二月壬申914930
三月壬寅3914931
五月辛丑3814933
二年丁巳54十月壬辰2914951
四年己未56二月乙酉2214967
十一月庚戌4714976
十二月庚辰1714977
欽明天皇敏達天皇用明天皇
天皇太歳朔日通算月
欽明元年庚申57七月丙子1314985
九月乙亥1214987
四年癸亥60十一月丁亥2415026
七年丙寅3正月甲辰4115053
六月壬申915058
九年戊辰5正月癸巳3015077
四月壬戌5915080
六月辛酉5815082
閏七月庚申5715084七月
十年己巳6六月乙酉2215095
十一年庚午7二月辛巳1815103
四月庚辰1715105
十三年壬申9五月戊辰513914
十四年癸酉10正月甲子115139
五月戊辰515143+6+6+6
七月辛酉5815145
八月辛卯2815146
十月庚寅2715148
十五年甲戌11正月戊子2515152
三月丁亥2415154
五月丙戌2315156
十六年乙亥12七月己卯1615170
十七年丙子13七月甲戌1115182
十八年丁丑14三月庚子3715191
二十三年壬午19七月己巳615257
三十年己丑26正月辛卯2815337
三十一年庚寅27三月甲申2115351
四月甲申2115353+1+1
七月壬子4915356
三十二年辛卯28三月戊申4515364
四月戊寅1515365
八月丙子1315369
 天皇 太歳  朔日  通算月
敏達元年壬辰29四月壬申915377
五月壬寅3915378
二年癸巳30五月丙寅315391
七月乙丑215393
八月甲午3115394
三年甲午31五月庚申5715403
七月己未5615405
十月戊子2515408
四年乙未32正月丙辰5315411
二月壬辰2915412+6+6+6
四月乙酉2215414
五年丙申33三月己卯1615426
六年丁酉34二月甲辰4113914
五月癸酉1015439
十一月庚午715440
七年戊戌35三月戊辰515450
十年辛丑38閏二月辛巳1815487二月
十二年癸卯40七月丁酉3415516
十三年甲辰41二月癸巳3015524
十四年乙巳42二月戊子2515536
三月丁巳5415537
八月乙酉2215542
 天皇 太歳  朔日  通算月
敏達十四年乙巳42九月甲寅5115543
用明元年丙午43正月壬子4915547
二年丁未44四月乙巳4215563
七月甲戌1115566
崇峻天皇
天皇太歳朔日通算月
用明二年丁未44六月甲辰4115565
八月癸卯4015567
崇峻元年戊申45
二年己酉46七月壬辰2915591
四年辛亥48四月壬子4915612
八月庚戌4715616
十一月己卯1615619
五年壬子49十月癸酉1015631
十一月癸卯4015632
【顕宗天皇】2019.04.21
 顕宗天皇においては、「1日のずれ」が7回中2回出現する。

【仁賢天皇】2019.05.07
 仁賢天皇においては、「1日のずれ」が9回中1回ある。
 元年十月は、739モデルにはその前の閏7月があり、これが10月以後にずれると解消する。
 七年正月は、739モデルでは直前に閏十二月があるが、その朔日は丙午で閏月を移しても解消しない。通常は、このパターンはない。
 ※…十一年十一月は、武烈天皇即位前期。

【武烈天皇】2019.08.23
 武烈天皇即位後は、「一日のずれ」が3回中3回である。

【継体天皇】2019.10.16
 全部で17回。なお、二十五年二月は安閑天皇紀による。 「一日のずれ」が4回、閏月の位置の違いによると思われる月のずれが2回ある。

【モデルⅡ】2019.10.25
 系統的な不一致の原因となっている閏月の位置の修正について検討した。その他の不一致もなるべく減らす暦定数を改めて求めた。 従来のモデルによる結果を、新モデルによる結果をで示す。
 暦定数:開化天皇~安閑天皇の範囲の不一致を最小化する暦定数を求め、356.922の値を求めた。
 二十四節季点:二十四節季全体の位置を2.44日繰り上げた。 この値は、純粋な数学モデルとしては、任意の値が可能であるが、 自然現象としての地球・太陽との位置関係によって結果的に定まるものである。 この値の設定によって、閏月の位置のずれによるモデルと書紀との不一致がほぼ解消された。

【安閑天皇】2019.10.25
 モデルⅡの適用結果は良好である。

【宣化天皇】2020.03.04
 モデルⅡの適用結果は良好である。
 ※…四年十二月は欽明天皇即位前期。

【欽明天皇】2020.04.10
 十四年五月戊辰朔は、モデルⅡの「壬戌朔」では七日にあたる。あるいは「十三年五月戊辰朔」との混同されたか。
 九年六月と閏七月は、モデルⅡ「六月・閏六月・七月」が、欽明紀では「六月・七月・閏七月」となっている。
 三十一年四月は、直前に「閏三月」がある点はモデルⅡと一致するが、モデルⅡの「閏三月=小、四月=大」の大小が欽明紀では入れ替わっている。

【敏達天皇】2020.06.15
 四年二月壬辰朔は、モデルⅡでは「丙戌」から六日ずれている。何らかの混乱があると思われる。

【モデルⅢ】2020.09.15
 モデルⅡでは、欽明天皇・敏達天皇において、閏月の一か月のずれが発生していた。
 暦定数:モデルⅡの356.922は変更しない。
 二十四節季点:二十四節季全体の位置の繰り上げを2.74日に変更した。 その結果、
 欽明天皇九年:(Ⅱ)閏六月⇒(Ⅲ)閏七月。
 敏達天皇十年:(Ⅱ)閏一月⇒(Ⅲ)閏二月。
となり、書紀と一致した。

【用明天皇・崇峻天皇】2020.12.20
 モデルⅢの適用結果は良好である。

【推古天皇】2021.01.28 04.28
 二回ある閏月は、モデルⅢでも閏月になっている。
 二年二月:儀鳳暦による進朔の可能性がある。
 二年五月戊午:「三年」が脱落した可能性がある。
 二十七年十二月:何らかの誤りか。
 三十二年岩崎本は「卅一年」に「二イ」(朱筆)を傍書。 岩崎本の正字に合致。
 三十三年岩崎本は「卅二年」に「三イ」を傍書。 岩崎本の正字に合致。
 三十四年岩崎本は「卅三年」に「四イ」を傍書。 ここは岩崎本の傍書に合致。
 三十六年四月・九月:何らかの誤りか。

【舒明天皇】2022.03.22
 三年二月:モデルⅢでは庚寅。
 十一年正月:モデルⅢでは甲辰。

2022.08.16(tue)―[Ⅰ] (続6)日付に元嘉暦を適用する試み
推古天皇舒明天皇
 天皇 太歳  朔日  通算月
崇峻五年壬子49十二月壬申915633
推古元年癸丑50正月壬寅3915634
四月庚午715637
二年甲寅51二月丙寅315647+1
五月戊午5515650三年三年
五年丁巳54四月丁丑1415686
十一月癸酉1015694
六年戊午55八月己亥3615703
十月戊戌3515705
七年己未56四月乙未3215711
九月癸亥6015716
九年辛酉58三月甲申2115735
九月辛巳1815741
十一月庚辰1713914
十年壬戌59二月己酉4615746
四月戊申4515748
六月丁未4415750
閏十月乙亥1215755
十一年癸亥60二月癸酉1015759
四月壬申915761
七月辛丑3815764
十月己巳615767
十一月己亥3615768
十二月戊辰515769
十二年甲子1正月戊戌3515770
四月丙寅315773
十三年乙丑2四月辛酉5815785
閏七月己未5615789
十四年丙寅3四月乙酉2215798
五月甲寅5115799
十五年丁卯4二月庚辰1715808
七月戊申4515813
十六年戊辰5六月壬寅3915825
八月辛丑3815827
九月辛未815828
十七年己巳6四月丁酉3415835
五月丁卯415836
十八年庚午7十月己丑2615853
二十年壬申9正月辛巳1815869
二月辛亥4815870
二十一年癸酉10十二月庚午715893
二十二年甲戌11六月丁卯415899
二十三年乙亥12十一月己丑2615899
二十六年戊寅15八月癸酉1015950
二十七年己卯16四月己亥3615959
十二月庚寅2715967-5-5
二十九年辛巳18二月己丑2615981
三十二年甲申21四月丙午4316020三十一年三十一年
九月甲戌1116026三十一年三十一年
十月癸卯4016027三十一年三十一年
三十三年乙酉22正月壬申916046三十二年三十二年
三十四年丙戌23五月戊子2516046
三十六年戊子25二月戊寅1516068
三月丁未4416069
四月壬午1916070+5+5
九月己巳616075乙巳乙巳
 天皇 太歳  朔日  通算月
舒明元年己丑26
二年庚寅27正月丁卯416092
三月丙寅316094
八月癸巳3016099
九月癸亥6016100
十月壬辰2916101
三年辛卯28二月辛卯2816105+1
三月庚申5716106
九月丁巳5416112
十二月丙戌2316115
四年壬辰29十月辛亥4816126
五年癸巳30正月己卯1616129
七年乙未32六月乙丑213914
七月乙未3216160
八年丙申33正月壬辰2916166
七月己丑2616172
九年丁酉34二月丙辰5316179
三月乙酉2216180
十年戊戌35七月丁未4416197
十一年己亥36正月乙巳4216203+1
十一月庚子3716213
十二月己巳616214
十二年庚子37二月戊辰516216
四月丁卯416218
五月丁酉3416219
十月乙丑216224
十三年辛丑38十月己丑2616237
皇極天皇
 天皇 太歳  朔日  通算月
皇極元年壬寅39正月丁巳5416240
二月丁亥2416241
三月丙辰5316242
四月丙戌2316243
五月乙卯5216244
六月乙酉2216245
七月甲寅5116246
八月甲申2116247
九月癸丑5016248
十月癸未2016249
十一月壬子4916250
十二月壬午1916251
二年癸卯40正月壬子4913914
二月辛巳1816253
三月辛亥4816254
四月庚辰1716255
五月庚戌4716256
六月己卯1616257
七月己酉4616258
八月戊申4516260
九月丁丑1416261
十月丁未4416262
十一月丙子1316263
三年甲辰41正月乙亥1216265
六月癸卯4016270
四年乙巳42四月戊戌3516280
六月丁酉3416282
【モデルⅣ】
 これまでの書記における元嘉暦のモデル化について、概略を振り返る。
《モデルⅠ》
 元嘉暦では、朔望月=22207/752とされる。割り切れないので、おそらくある桁で丸めた値を用いたと思われるが、 どの桁で丸めたか不明なので、ひとまず小数点以下12桁まで用いた。〔略称St〕 すなわち St=22207÷752=29.530585106383
 そして、累積朔望月の初期値〔略称Rs〕を356.739とすると、開化天皇のあたりまではよく一致することが分かった。
《モデルⅡ》
 その後、不一致が増えてきたので、Rs=356.922に修正した。St=29.530585106383は変えない。 また新たに閏月の調整数〔二十四節気を系統的にずらす;略称Ud〕ー2.44を導入した。
《モデルⅢ》
 閏月を欽明・敏達に合わせるために、Ud=ー2.74 とした。
《モデルⅣ:朔望月の小数点以下の桁数》
想定される春分の移動と閏月調整数〔Ud〕の範囲
 モデルⅢでは推古2年2月、舒明三年2月、同十一年正月に不一致を生じている。
 ところが、『日本暦日原典』〔内田正男;雄山閣1981〕の計算ではこの三カ所とも不一致は生じていない。 推古元年の累積朔望月を見ると、モデルⅢで462038.089553192、同書では462038.1170となっている。
 同書はStにある桁で丸めた値を用いていると思われるので、 試しにモデルⅠのRs=365.739に戻し、同書の462038.1170を累積月数15634で割って、St=29.5305869115002 を得た。
 これを使うと、確かにモデルⅢを用いた時の推古・舒明の三か所の不一致は解消する。
 そこで、朔望月「752分の22207」は、実際には小数第五位を四捨五入した値を用いたものと考え、St=29.5306とする。 そして、Rsは推古元年正月の462038.1170から逆算してRs=356.7166としたものをモデルⅣとする。すると、神武天皇から大体合うようになった。 恐らく日本書紀が用いた暦は、これを使ったものだと考えられる。
 ここで問題になるのは、Udをすべての期間についてー2・74のままにすると、景行以前で通常月のうち6回が閏月になってしてしまうことである。 例えば神武即位前の二個の閏月を解消しようとすると、Udをー2.11より大きく(絶対値は小さく)する必要があるが、推古以後の閏月を維持するには、Udはー2.52が限界である。
 なお、このUdは推古の2回の閏月とともに、皇極二年「七月己酉朔」と「八月戊申朔」の間にある「閏七月戊寅朔」をも保つ値である。
 このようにUdを一定値に決められない原因としては、冬至日を天体観測によって天文現象における冬至に合わせる修正が、ある時点において行われたことが考えられる。
《モデルⅣ:Udの調整》
 元嘉暦による冬至が、なぜ実際の冬至点とずれていくかというと、元嘉暦での太陽年の日数が実際の太陽年と異なるからである。
 元嘉暦において一太陽年は(22207÷752)日とされ、朔望月と同様に10ー4の桁まで用いたと仮定すると、365.2467日となる。 これは、実際の一太陽年=365.2422日より0.0045日長い。これが蓄積すると、約222年で1日に達する〔1÷0.0045〕
 つまり、222年後の天文学的な春分は、暦の「春分」よりも一日前になる。朔望月では、約2749か月に相当する。
 のグラフで、累積月数と春分移動日数を、赤色線で表した。なお、数値は日付を遡らせる方向を正としている。 青色線は、それぞれの天皇紀において閏月は確実に閏月に、非閏月は確実に非閏月になる場合のUd〔の絶対値〕の範囲である。 閏月が存在しない場合でも、閏月の隣に非閏月があれば、それが閏月にならない範囲としてUdを求めることができる。
 これを見ると、雄略あたりから以後、すべてを満たす値はー2.7≧Ud≧ー2.9である。 仁徳までは、概ねー1.5>Ud>ー2.5である。すると、仁徳から雄略の間にここでいうUdの改定があり、24節季をすべて1日程度前倒ししたと想定される。
 神武から景行までは、根拠となり得るデータがごく少ないので何とも言えないが、神功皇后のあたりを表した暦を、そのまま遡らせて用いたと見るのが妥当であろう。 この時期は実際の文書記録による日付はほぼ皆無で、基本的に空想上の日付と考えられるからである。
 元嘉暦そのものについては、南朝宋の元嘉二十年〔443〕成立とされる。〈持統紀〉四年十一月に「始行元嘉暦与儀鳳暦」とはあるが、 実際にはそれ以前から僧が持ちこむなどして記録に用いられ、それが書紀執筆のための資料に用いられたのは明らかである。 元嘉暦成立の西暦443年に、安康天皇の454年〔甲午〕(弘仁私記序[6])が近いことは興味深い。 その時期は、「ー2.7≧Ud≧ー2.9」に切り替わった頃で、従って元嘉暦の成立時からこの値に相当する偏差が織り込まれていたと思われる。
 ちなみに元嘉暦を編んだ何承天は、「景初暦の冬至が後漢四分暦の観測値に従っていたため、実際の冬至より3日もずれていることを指摘し、天体観測のやり直しを行っている。」と言われる 〔wikipediaに依る。出典は未確認。実際のずれは2.15日〕。 そして、元嘉暦のスタートにあたって直前の月を26日に減らすような処理は行わず、単に冬至の日を観測結果に合わせたと見られる。太陽太陰暦においては冬至はもともと毎年移動するから、それほどの違和感はないと思われる。 ただ、来るべき朔旦冬至(十一月朔日が冬至になる)にあたる年がずれることになる。
《モデルⅣ:元嘉暦以前》
 仁徳以前の「ー1.5>Ud>ー2.5」の部分については、2.8日から約1日ずれているだけだから、四分暦よりも後の暦〔仮にX暦と呼ぶ〕で一定の冬至の移動が行われた結果と見るのが妥当であろう〔この裏付けとなる文献調査は今後の課題とする〕。 しかし、日付については元嘉暦のまま遡らせた日に一致するので、X暦から元嘉暦へは連続性がある。暦が変わっても、恒星年・朔望月の端数部分の変更は、それほどの影響を与えるものではなかったのかも知れない。 ただ、この期間は元嘉暦による日付の創作も相当混ざっていると考えられるので、X暦による記録と元嘉暦の混合と見るのが妥当であろう。
 このように実際にどのように暦が適用されたかを正確に突き止めることは難しいが、 モデルⅣにおいては、雄略以後はUd=ー2.8神武から允恭まではUd=ー1.7とする。 これでともかくは、書紀とモデルⅣとで閏月の出現を一致させることができる。

2023.05.09(tue)―[J] (続7)日付に元嘉暦を適用する試み
孝徳天皇斉明天皇天智天皇
 天皇 太歳  朔日  通算月
大化元年乙巳42七月丁卯416283
八月丙申3316284-1
九月丙寅316285
十一月乙丑216287
十二月乙未3216288
二年丙午43正月甲子116289
二月甲午3116290
三月癸亥6016291
八月庚申5716297
三年丁未44正月戊子2516302
四月丁巳5416305
十月甲寅5116311
四年戊申45正月壬午1913914
二月壬子4916315
四月辛亥4816317
五年己酉46正月丙午4316327
三月乙巳4216329
四月乙卯5216330乙亥乙亥
五月癸卯4016331-1-1
白雉元年庚戌47正月辛丑3816339
二月庚午716340
二年辛亥48三月甲午3116353
三年壬子49正月己未5616364
三月戊午5516366
四月戊子2516367
四年癸丑50五月辛亥4816380
五年甲寅51正月戊申4516388
七月甲戌1116395
十月癸卯4016398
十二月壬寅3916400
 天皇 太歳  朔日  通算月
斉明元年乙卯52正月壬申916401
五月庚午716405
七月己巳616407
八月戊戌3516408
十月丁酉3416410
二年丙辰53八月癸巳3016420
三年丁巳54七月丁亥2416432
四年戊午55正月甲申2116438
七月辛巳1816444
十月庚戌4716447
十一月庚辰1716448
五年己未56正月己卯1616450
三月戊寅1513914
七月丙子1316456
閏十月甲戌1116460
六年庚申57正月壬寅3916463
五月辛丑3816467
七月庚子3716469
九月己亥3616471
十二月丁卯416474
七年辛酉58正月丁酉3416475
三月丙申3316477
五月乙未3216479
七月甲午3116481
八月甲子116482
十月癸亥6016484
十一月壬辰2916485
 天皇 太歳  朔日  通算月
天智元年壬戌59正月辛卯2816487
三月庚寅2716489
六月己未5616492
十二月丙戌2316499
二年癸亥60二月乙酉2216501
五月癸丑5016504
八月壬午1916507
九月辛亥4816508
三年甲子1二月己卯1616513
五月戊申4516516
十月乙亥1216521
十二月甲戌1116523
四年乙丑2二月癸酉1013914
三月癸卯4016526
九月庚午716533
十月己亥3616534
十一月己巳616535
十二月戊戌3516536
五年丙寅3正月戊辰516537
六月乙未3216542
十月甲午3116546
六年丁卯4二月壬辰2916550
三月辛酉5816551
七月己未5616555
十一月丁巳5416559
潤十一月丁亥2416560
七年戊辰5正月丙戌2316562
二月丙辰5316563
四月乙卯5216565
九月壬午1916570
十一月辛巳1816572
八年己巳6正月庚辰1716574
三月己卯1616576
五月戊寅1516578-1
八月丁未4416581
九月丁丑1416582
十月丙午4316583
九年庚午7正月乙亥1216586
三月甲戌1116588
四月癸卯4016589
九月辛未816594
十年辛未8正月己亥3616599
二月戊辰516600
三月戊戌3516601
四月丁卯416602
五月丁酉3416603
六月丙寅316604
七月丙申3316605
八月乙丑216606
十月甲子116608
十一月甲午3116609
十二月癸亥6016610
【孝徳天皇】2023.05.09
 モデルⅣでは、大化元年八月朔日は丁酉(34)となっていて、〈孝徳紀〉の丙申(33)はモデルⅣより一日早い。 同じく大化五年五月朔日は甲辰(41)で、〈孝徳紀〉の癸卯(40)はモデルⅣより一日早い。 これらの不一致が生じた原因は、今のところ不明である。
 試しにモデルⅢを用いると、元年八月のみ丙申(33)となり〈孝徳紀〉と一致する。
 モデルⅣでは、大化元年四月朔日は乙亥(12)で、〈孝徳紀〉の乙卯(57)は確実に誤写であろう。

【斉明天皇】2023.11.23
 斉明天皇紀における朔日の干支は、すべてモデルⅣに一致する。
 …五年七月条の「伊吉連博徳書曰…」の文中に、「己未年〔斉明五年〕潤十月一日」とある。 『旧唐書』でも、この年〔高宗顕慶四年〕に閏十月が存在したことが示されている。 モデルⅣでも己未年閏十月が存在するので、[I]で設定したUd=ー2.8はまだ有効である。

【天智天皇】2024.06.29
 モデルⅣでは、八年五月が己卯で一日ずれる。
 試しに、他のパラメータは変えずRsのみを変更して、Rs=356.7100としたところ、このずれは解消された。 推古~斉明の結果はモデルⅣと変化なかった。
 そこで、これをモデルⅤとする。