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2022.08.17(wed) [252] 書紀巻二十三 舒明天皇 ▼▲ |
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このうち、智奴王(茅渟王)と舒明天皇を除いては書紀には載らない。 これを、一時は日子人太子を天皇とする案があった名残ではないかと見た(第242回)。 記におけるこのような扱いは、上宮家系列ではなく、彦人皇子系列にこそ皇位継承の正統性があることを強調するものになっている。 古事記が執筆された時代に仏教を排斥することは、既に全く現実的ではないが、それでも高天原神学的な世界観を再興する役割を古事記執筆陣は自覚していたと見られる。 蘇我氏と上宮家については、仏教派として無視されたと見ることもできよう。 【書紀ー舒明天皇記】 目次 まとめ 〈舒明天皇記〉では、その前半を即位前の山背大兄王との皇位継承争いに割いている。 結論としては、推古帝の遺詔を根拠として彦人皇子系列に正統性があるとする。 古事記においては、押坂彦人大兄皇子-舒明天皇の家系を書くことによってその正統性を表現したと見ることができる。 後に〈天武天皇〉は覇王として皇位を奪取するが、家として見れば押坂彦人王朝の内輪もめである。 よって〈舒明〉即位の正統性の確保は欠かせない。 書紀の出発点は、その〈天武〉が大国唐に対抗し得る国造りが急がれた中で、その一環としての国史編纂であった。 宗教面では伊勢神宮の復興など、民族の意識の原点としての神道への回帰を重視する。古事記の役割は、その要請に応えるところにあった。 ただ、国の仏教化は既に後戻りができず、〈舒明〉は仏教を蘇我氏から切り離した形で官寺百済寺を建立した。 〈天武〉も仏教の弾圧へは向わず、むしろ「大二-設-斎於飛鳥寺一、以読二一切経一」(六年)と述べるように仏教振興に積極的である。 国際情勢を見れば、国を二分する争いをしているときではない。 その点は古事記にとっては痛しかゆしで、天皇系列は〈舒明〉で止め、物語として書く内容は、既に〈継体天皇〉からなくなった。 だから、題名も国が仏教化する前の「古事」の「記」となったのである。 |
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2022.08.18(thu) [253] 書紀巻二十四 皇極天皇 ▼▲ |
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皇極1目次 《天豐財重日足姫天皇》
【重日、此(こ)を伊柯之比(いかしひ)と云ふ。】 足姫天皇(たらしひめのすめらみこと)、 渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらたましきのすめらみこと)〔敏達〕の曽孫(ひひこ)、 押坂彦人大兄(おしさかのひこひとおほえ)の皇子(みこ)の孫(ひこ)、 茅渟王(ちぬのみこ)の女(むすめ)なり[也]。 母(みはは)は吉備姫王(きびひめのみこ)と曰ひたまふ。 天皇(すめらみこと)古(いにしへ)の道の順考(まにまにかむが)へて[而]政(まつりごと)を為(し)たまふ[也]。
立たして皇后(おほきさき)と為(な)したまふ。 十三年(ととせあまりみとせ)十月(かむなづき)。 息長足日廣額天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 《皇極天皇》
宝皇女〔皇極〕は、押坂彦人大兄皇子の孫かつ舒明の皇后として、彦人皇子王朝の一員であった。 その後継のエースとして開別皇子〔天智〕が予定されていたが、まだ若年なので〈皇極〉が中繋ぎとして即位したと読める。 後に〈持統〉〔〈天武〉の皇后〕が文武天皇までの間を繋いだのと、同じパターンと見られる。 《吉備姫王》 この項 2023.02.06改 御母の吉備姫王については、『本朝皇胤紹運録』〔1426〕の『群書類従』版国立国会図書館デジタルコレクションは、 「母吉備姫女王。欽明孫。桜井皇子女也」、 欽明天皇の箇所には「欽明天皇ー櫻井皇子ー吉備姫女王(伊斎。茅渟王妻。皇極母)」とある。 また、「文亀壬戌林鐘中旬」〔二年六月中旬[「林鐘」は第14回];1502〕の写本国立国会図書館デジタルコレクションは、 皇極天皇のところでは「母曰吉備姫王」、欽明天皇のところに「欽明天皇ー櫻井皇子ー日吉備姫王 」とある。 「日吉備姫王」の"日"は誤りであろう。 桜井皇子は確かに欽明天皇の皇子で、母は堅塩媛で〈用明〉・〈推古〉の同腹弟にあたる(〈欽明二年〉) 《王》 「王」の訓みは天皇の子ならミコ、代を重ねるとオホキミに転ずる。 その境目は、〈履中紀六年〉の《鯽魚磯別王・鷲住王》の項で論じたように曖昧である。 田村皇子(舒明天皇)は、天皇の孫だがミコである。田村王と表記された場合も「タムラノミコ」と訓まれるべきものであろう。 一方、茅渟王は田村皇子と同じく敏達天皇の孫だが、こちらの古訓はオ〔ホキミ〕である。 王の古訓においては、子の代はミコ、孫以降はオホキミ、ただし孫でも天皇の候補の場合はミコという基準がうっすら見えて来る。 しかし、ミコはもともと御子であるから、天皇からの直接的な結縁を意識する場合はミコで差し支えないと思われる。 なお、吉備姫王にこれを適用すると、古訓「キビヒメノヒメミコ」となるが、不自然なのでキビヒメノミコで十分であろう。 《彦人皇子王朝》 太子の上宮家はもともと蘇我氏の身内であったが、蘇我蝦夷はバランス感覚により勢力図を見て敢えて舒明天皇を擁立した。 だから蝦夷は山背大兄王にも丁寧な態度で接したわけだが、その子蘇我入鹿は近視眼的で、上宮家を敵対勢力と考えて亡ぼしたようである。 彦人皇子王朝から見ればこれは蘇我氏の内輪もめだから、蘇我氏を潰すための絶好のチャンスである。 そこから入鹿の殺害に至ったのであろう。 概ねこの流れであろうが、〈皇極紀〉を読み進む中で、朝廷と蘇我氏との関係を細かく読み解いていきたい。 《かむがふ》 「かむがふ」は、裁判などにおける査問を意味する。 また、学問における探求の意味に使われる。現代語の「考える」に繋がるのは明らかである。 〈時代別上代〉は「上代にこの語の存在した確証はないが、次期において法制関係の使用例ははなはだ多い」 〔上代では仮名書きがないから確かなことは言えないが、平安時代に裁判関係で大変多く使われているのを見ると、あるいは上代から存在したかも知れない〕 と述べる。 古訓のカゝヘは、平安時代の表記では撥音のンが省かれたことによると思われる。 《順考古道》
〈孝徳天皇〉の「尊二仏法一。軽二神道一」とは対照的に、皇極天皇の「順二-考古道一」は、神道寄りかと思われる。 ただ、〈斉明天皇〉〔皇極の重祚〕 の時代の亀形石造物や酒船石遺跡の石垣を見ると(資料[54])、〈皇極〉は神道とも異質な宗教に惹かれていたように見える。 また蘇我入鹿の誅殺を絡めると、蘇我氏憎しが昂じて仏教への反発に及んだようにも思えるが、これの検討はこれから書紀を読み進む中の一つのテーマである。 《大意》 天豊財重日 足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)は、 渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらたましきのすめらみこと)〔敏達〕の曽孫であり、 押坂彦人大兄(おしさかのひこひとおほえ)の皇子(みこ)の孫であり、 茅渟王(ちぬのみこ)の娘です。 母は吉備姫王(きびひめのみこ)といわれます。 天皇(すめらみこと)は、古(いにしえ)の道に順じて考え、政(まつりごと)をなされました。 息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)〔舒明〕の二年、 皇后となられました。 十三年十月、 息長足日広額天皇は崩じました。 まとめ 古事記が描く時代は終了した。しかし、記が最後とした舒明天皇の後も、仏教と神道との相克は続く。 記は伊勢神宮の再興とも関りが深く、仏教は脇に置いて神道に新たな光を当てた書であった。 記のカバーする期間は終わったが、ここから太安万侶が記の執筆に勤しんだ頃までの時代環境を知ることは、記をより深く理解することに資するであろう。 よって、書紀の残りの部分を精読することもまた、記の内容を探求する活動の構成部分となる。 ひとまず第251回で「古事記をそのまま読む ―完―」を謳ったが、その精神を生み出した土壌の掘り下げはまだ続く。 |
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2023.02.13(mon) [254] 書紀巻二十五 孝徳天皇 ▼▲ |
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孝徳1目次 《天萬豐日天皇》
天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)の同母弟(いろど)なり[也]。 仏法(ほとけのみのり)を尊(たふと)びて、神道(かみのみち)を軽(あなづ)りたまふ 【生国魂(いくくにたま)の社(やしろ)の樹(き)を斮(き)りたまひし[之]類(たぐひ)は是(これ)なり[也]】。 為人(ひととなり)柔(やはらかに)仁(めぐみ)ましまして儒(はかせ)を好みたまふ。 貴賤(たふときいやしき)を不擇(えらびたまはず)て、 頻(しばしば)恩(めぐみ)の勅(みことのり)を降(たまは)る。
天万豊日天皇〈孝徳〉は、天豊財重日足姫天皇〈皇極〉の同母の弟と述べる。 父は茅渟王、母は吉備姫王である。 《生国魂社》 「生国魂社」は式内社であるが、記紀には、この原注以外には出てこない。 主祭神は生嶋神(いくしまのかみ)、足嶋神(たるしまのかみ)の二柱で、『五畿内志』には、摂津国東生郡に「難波坐生國國魂神社」とあり、 現在の「生国魂(いくくにたま)神社」〔大阪市天王寺区生玉町13〕に繋がる。 神功皇后あるいは天照大神荒魂は副祭神にもなく、その点住吉大社などとは趣が異なる(神功皇后紀9)。
移転前の所在地は難波宮に近いから、神域の樹林を伐採して宮を建てたのかも知れない。 《好儒》 儒は、「国際電脳漢字及異体字知識庫」は主な意味として、(ア)「旧時対学者、読書人的称呼。」、(イ)「孔子創立的一種学術流派。」を挙げる。 ここでは、(イ)を含みつつ、幅広く(ア)を指すと考えられる。 訳語ハカセについてはもともと「博士」ではあるが、学識を備えた人から儒教に意味が重点化する過程は漢語の儒と似ている。 大化年間に発せられた一連の詔は詳細にわたり、法制度の明文化として後の令〔浄原令、大宝令、養老令〕の端緒に位置づけられる。 その法体系の裏付けとなる論理を学ぼうとする態度が、「好儒」と表現されたと見られる。 法体系明文化の推進者として想定されるのは中大兄〔後の天智天皇〕であるが、〈孝徳〉もまた同じ姿勢をもっていたと見るべきであろう。 仏法もまた、長い年月の間に形成された学問体系をもっていたから「尊仏法」なのであろう。 決して仏教界の権益に甘いという意味ではない。というのは、十師や法頭の任命に、統制の側面が見られるからである。 それに対して、神道は非合理的と見做されたが故に「軽神道」であったと見られる。 総じて理知的な人物と見られていたであったのだろう。 《柔仁》 『漢書』元帝紀〔前漢第11代皇帝〕に、「柔仁好儒」があるが、用例はかなり少ないから、 「柔仁」の熟語として特殊化した意味は確立せず、柔・仁単独の意味のままと思われる。 〈北野本〉には、「柔仁」に「ヤハラカニ」、「メクミマシマシ」の二通りの訓が付されている。 ヤハラカニは、〈時代別上代〉は『日本霊異記』〔平安初め〕中巻二十七などの訓点を用例に挙げる。 『類聚名義抄』には「柔:ヤハラカナリ」のほか、和・諧・諴にもヤハラカナリの訓みがある。 動詞ヤハスについては、(万)4465「麻都呂倍奴 比等乎母夜波之 まつろはぬ ひとをもやはし」がある。 こうして見ると、ヤハラカニ/ナリは少なくとも平安には一般的であり、もともと語根ヤハがあったから、上代には形容動詞の語幹ヤハラカも生じていたと考えてよいのではないか。 また、もうひとつの古訓「メグミマシマス」は、メグム+尊敬の補助動詞なので、上代語と見做してよい。 漢籍では二文字が独立しているから、和訓でも柔(ヤハラカニ)・仁(メグム)として別々に訓めばよいと思われる。 《頻降恩勅》 一連の勅により、人による恣意的な支配を脱し法による政を目指したことが「頻降恩勅」と表現される。 政が明文化されたルールに従って行われ個人による暴政を防ぐ意味では「恩」であるが、結果的に重税となれば必ずしも「恩」ではない。 その意味では「恩勅」は、書紀による美化であろう。 「降勅」は漢籍には少ない。例えば『旧唐書』では一か所のみだが、ただし同書には同じ意味の「降詔」が多数ある。 《大意》 天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)〔孝徳〕は、 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)〔皇極〕の同母の弟です。 仏法を尊ばれ、神道を軽んじました 【生国魂(いくくにたま)社の樹木を伐採した類いのことが、これである】。 為人(ひととなり)は柔にして仁で、儒〔儒教、または理知〕を好まれました。 貴賤を選り分けることなく、 しばしば恩勅(おんちょく)を下されました。 まとめ 〈孝徳天皇〉の人物像の記述は儀礼的なものとはいえ、 統一国家としての法制度の確立に向かったことを簡潔に表現するものとなっている。 詔の法制的な内容は、上でも述べたように大宝律令制定への歩みの第一歩である。 諸族の集合体からの脱皮志向の萌芽は、〈安閑〉二年による二十六屯倉設置で見た。 大化年間の法制度の整備は、その新たな画期となった。 その前に蘇我蝦夷臣、入鹿臣による政の私物化は、どうしても克服しなければならなかったのである。 |
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2023.09.09(sat) [255] 書紀巻二十六 斉明天皇 ▲ |
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斉明1目次 《天豐財重日足姬天皇(重祚)》
初(はじめに)[於]橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)〔用明〕之(が)孫(みまご)高向王(たかむこのみこ)に適(みあひ)て[而] 漢皇子(あやのみこ)を生(う)みたまふ。 後(のちに)[於]息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)〔舒明〕に適(みあひ)て[而] 二(ふたはしらの)男(ひこ)一(ひとはしらの)女(ひめ)を生みたまふ。
立たして皇后(おほきさき)と為(な)したまふ。 息長足日広額の天皇の紀(ふみ)に見ゆ。 十三年(ととせあまりみとせ)冬十月(かむなづき)。 息長足日広額の天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
皇后(おほきさき)天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。 四年六月(よとせのみなづき)に改元(かいぐゑん)したまひて、 位(くらゐ)を[於]天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)に譲(ゆづ)りたまふ。 天豊財重日足姫の天皇を称(なづ)けたまひて 皇祖母尊(すめみおやのみこと)と曰(い)ふ。 天万豊日の天皇、後(のち)の〔白雉〕五年(いつとせ)十月(かむなづき)に崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
「初適」の記事が〈皇極天皇記〉にはなく、ここで初めて出て来るのはなぜだろうか。 単純に〈皇極紀〉を執筆し終えたたあとで資料が発見されたことはあり得る。 しかし、二年九月の「時人謗曰狂心渠」や、「災岡本宮」〔放火を匂わす〕などの記述を見ると、〈斉明天皇〉への筆致は厳しい。 重祚以後の評価は否定的で、それが〈皇極紀〉では伏せたことを〈斉明紀〉には敢えて書こうと思わせたとも感じられる。 《漢皇子》 漢皇子の父は「橘豊日天皇之孫高向王」、すなわち系図は「用明天皇-A皇子ー高向王」(右図)。 A皇子は理屈の上では〈用明天皇〉皇后泥部穴穂部皇女を母とする厩戸皇子、来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子の何れかとなる。 しかしこれらのうちの一人ならおそらく名前が書かれるだろうから、皇后以外にも記述されない妃がいて、その妃の子と見るのが穏当か。 《見息長足日広額天皇紀》 「見二息長足日広額天皇紀一」の該当箇所は、舒明天皇紀(第二十三巻)の〈舒明〉二年。 《改元》 改元を和読しようと思えば「はじめのとしにあらたむ」となり、古訓もそうしているるが、これでは言葉足らずである。 改元とは年号を改めることだから、その意味を表すには「たいくわ(大化)のはじめのとしにあらたむ」と訓むか、または音読すべきであろう。 《大意》 天豊財重日足姫(あめとよたからいかひたらしひめの)天皇(すめらみこと)は、 最初に橘豊日(たちばなのとよひの)天皇〔用明〕の御孫高向王(たかむこのみこ)に嫁がれ、 漢皇子(あやのみこ)を生みなされました。 後に息長足日広額(おきながたらしひひろぬかの)天皇〔舒明〕に嫁がれ、 二男一女を生みなされました。 〔舒明天皇〕二年に、 皇后(おおきさき)に立てられました。 息長足日広額天皇紀〔舒明〕に見えます。 十三年十月、 息長足日広額天皇が崩じました。 明年正月、 皇后は天皇(すめらみこと)に即位されました。 四年六月に改元〔大化〕して、 天万豊日(あめよろずとよひの)天皇〔孝徳〕に譲位されました。 天豊財重日足姫天皇は 皇祖母尊(すめみおやのみこと)と称されました。 天万豊日天皇は、後の〔白雉〕五年十月に崩じました。 まとめ 初婚で漢皇子を生んだ件はここだけだが、それ以外は〈舒明紀〉・〈皇極紀〉・〈孝徳紀〉を踏襲していて矛盾はない。 ただ、譲位と改元の順序が逆で、また年号(大化・白雉)が欠落している点で、文章は雑である。 |