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2022.08.17(wed) [252] 書紀巻二十三 舒明天皇 ▼▲ |
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このうち、智奴王(茅渟王)と舒明天皇を除いては書紀には載らない。 これを、一時は日子人太子を天皇とする案があった名残ではないかと見た(第242回)。 記におけるこのような扱いは、上宮家系列ではなく、彦人皇子系列にこそ皇位継承の正統性があることを強調するものになっている。 古事記が執筆された時代に仏教を排斥することは、既に全く現実的ではないが、それでも高天原神学的な世界観を再興する役割を古事記執筆陣は自覚していたと見られる。 蘇我氏と上宮家については、仏教派として無視されたと見ることもできよう。 【書紀ー舒明天皇記】 目次 まとめ 〈舒明天皇記〉では、その前半を即位前の山背大兄王との皇位継承争いに割いている。 結論としては、推古帝の遺詔を根拠として彦人皇子系列に正統性があるとする。 古事記においては、押坂彦人大兄皇子-舒明天皇の家系を書くことによってその正統性を表現したと見ることができる。 後に〈天武天皇〉は覇王として皇位を奪取するが、家として見れば押坂彦人王朝の内輪もめである。 よって〈舒明〉即位の正統性の確保は欠かせない。 書紀の出発点は、その〈天武〉が大国唐に対抗し得る国造りが急がれた中で、その一環としての国史編纂であった。 宗教面では伊勢神宮の復興など、民族の意識の原点としての神道への回帰を重視する。古事記の役割は、その要請に応えるところにあった。 ただ、国の仏教化は既に後戻りができず、〈舒明〉は仏教を蘇我氏から切り離した形で官寺百済寺を建立した。 〈天武〉も仏教の弾圧へは向わず、むしろ「大二-設-斎於飛鳥寺一、以読二一切経一」(六年)と述べるように仏教振興に積極的である。 国際情勢を見れば、国を二分する争いをしているときではない。 その点は古事記にとっては痛しかゆしで、天皇系列は〈舒明〉で止め、物語として書く内容は、既に〈継体天皇〉からなくなった。 だから、題名も国が仏教化する前の「古事」の「記」となったのである。 |
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2022.08.18(thu) [253] 書紀巻二十四 皇極天皇 ▼▲ |
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皇極1目次 《天豐財重日足姫天皇》
【重日、此(こ)を伊柯之比(いかしひ)と云ふ。】 足姫天皇(たらしひめのすめらみこと)、 渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらたましきのすめらみこと)〔敏達〕の曽孫(ひひこ)、 押坂彦人大兄(おしさかのひこひとおほえ)の皇子(みこ)の孫(ひこ)、 茅渟王(ちぬのみこ)の女(むすめ)なり[也]。 母(みはは)は吉備姫王(きびひめのみこ)と曰ひたまふ。 天皇(すめらみこと)古(いにしへ)の道の順考(まにまにかむが)へて[而]政(まつりごと)を為(し)たまふ[也]。
立たして皇后(おほきさき)と為(な)したまふ。 十三年(ととせあまりみとせ)十月(かむなづき)。 息長足日廣額天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 《皇極天皇》 宝皇女〔皇極〕は、押坂彦人大兄皇子の孫かつ舒明の皇后として、彦人皇子王朝の一員であった。 その後継のエースとして開別皇子〔天智〕が予定されていたが、まだ若年なので〈皇極〉が中繋ぎとして即位したと読める。 後に〈持統〉〔〈天武〉の皇后〕が文武天皇までの間を繋いだのと、同じパターンと見られる。 《吉備姫王》 この項 2023.02.06改 御母の吉備姫王については、『本朝皇胤紹運録』〔1426〕の『群書類従』版国立国会図書館デジタルコレクションは、 「母吉備姫女王。欽明孫。桜井皇子女也」、 欽明天皇の箇所には「欽明天皇ー櫻井皇子ー吉備姫女王(伊斎。茅渟王妻。皇極母)」とある。 また、「文亀壬戌林鐘中旬」〔二年六月中旬[「林鐘」は第14回];1502〕の写本国立国会図書館デジタルコレクションは、 皇極天皇のところでは「母曰吉備姫王」、欽明天皇のところに「欽明天皇ー櫻井皇子ー日吉備姫王 」とある。 「日吉備姫王」の"日"は誤りであろう。 桜井皇子は確かに欽明天皇の皇子で、母は堅塩媛で〈用明〉・〈推古〉の同腹弟にあたる(〈欽明二年〉) 《王》 「王」の訓みは天皇の子ならミコ、代を重ねるとオホキミに転ずる。 その境目は、〈履中紀六年〉の《鯽魚磯別王・鷲住王》の項で論じたように曖昧である。 田村皇子(舒明天皇)は、天皇の孫だがミコである。田村王と表記された場合も「タムラノミコ」と訓まれるべきものであろう。 一方、茅渟王は田村皇子と同じく敏達天皇の孫だが、こちらの古訓はオ〔ホキミ〕である。 王の古訓においては、子の代はミコ、孫以降はオホキミ、ただし孫でも天皇の候補の場合はミコという基準がうっすら見えて来る。 しかし、ミコはもともと御子であるから、天皇からの直接的な結縁を意識する場合はミコで差し支えないと思われる。 なお、吉備姫王にこれを適用すると、古訓「キビヒメノヒメミコ」となるが、不自然なのでキビヒメノミコで十分であろう。 《彦人皇子王朝》 太子の上宮家はもともと蘇我氏の身内であったが、蘇我蝦夷はバランス感覚により勢力図を見て敢えて舒明天皇を擁立した。 だから蝦夷は山背大兄王にも丁寧な態度で接したわけだが、その子蘇我入鹿は近視眼的で、上宮家を敵対勢力と考えて亡ぼしたようである。 彦人皇子王朝から見ればこれは蘇我氏の内輪もめだから、蘇我氏を潰すための絶好のチャンスである。 そこから入鹿の殺害に至ったのであろう。 概ねこの流れであろうが、〈皇極紀〉を読み進む中で、朝廷と蘇我氏との関係を細かく読み解いていきたい。 《かむがふ》 「かむがふ」は、裁判などにおける査問を意味する。 また、学問における探求の意味に使われる。現代語の「考える」に繋がるのは明らかである。 〈時代別上代〉は「上代にこの語の存在した確証はないが、次期において法制関係の使用例ははなはだ多い」 〔上代では仮名書きがないから確かなことは言えないが、平安時代に裁判関係で大変多く使われているのを見ると、あるいは上代から存在したかも知れない〕 と述べる。 古訓のカゝヘは、平安時代の表記では撥音のンが省かれたことによると思われる。 《順考古道》
〈孝徳天皇〉の「尊二仏法一。軽二神道一」とは対照的に、皇極天皇の「順二-考古道一」は、神道寄りかと思われる。 ただ、〈斉明天皇〉〔皇極の重祚〕 の時代の亀形石造物や酒船石遺跡の石垣を見ると(資料[54])、〈皇極〉は神道とも異質な宗教に惹かれていたように見える。 また蘇我入鹿の誅殺を絡めると、蘇我氏憎しが昂じて仏教への反発に及んだようにも思えるが、これの検討はこれから書紀を読み進む中の一つのテーマである。 《大意》 天豊財重日 足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)は、 渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらたましきのすめらみこと)〔敏達〕の曽孫であり、 押坂彦人大兄(おしさかのひこひとおほえ)の皇子(みこ)の孫であり、 茅渟王(ちぬのみこ)の娘です。 母は吉備姫王(きびひめのみこ)といわれます。 天皇(すめらみこと)は、古(いにしえ)の道に順じて考え、政(まつりごと)をなされました。 息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)〔舒明〕の二年、 皇后となられました。 十三年十月、 息長足日広額天皇は崩じました。 まとめ 古事記が描く時代は終了した。しかし、記が最後とした舒明天皇の後も、仏教と神道との相克は続く。 記は伊勢神宮の再興とも関りが深く、仏教は脇に置いて神道に新たな光を当てた書であった。 記のカバーする期間は終わったが、ここから太安万侶が記の執筆に勤しんだ頃までの時代環境を知ることは、記をより深く理解することに資するであろう。 よって、書紀の残りの部分を精読することもまた、記の内容を探求する活動の構成部分となる。 ひとまず第251回で「古事記をそのまま読む ―完―」を謳ったが、その精神を生み出した土壌の掘り下げはまだ続く。 |
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2023.02.13(mon) [254] 書紀巻二十五 孝徳天皇 ▼▲ |
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孝徳1目次 《天萬豐日天皇》
天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)の同母弟(いろど)なり[也]。 仏法(ほとけのみのり)を尊(たふと)びて、神道(かみのみち)を軽(あなづ)りたまふ 【生国魂(いくくにたま)の社(やしろ)の樹(き)を斮(き)りたまひし[之]類(たぐひ)は是(これ)なり[也]】。 為人(ひととなり)柔(やはらかに)仁(めぐみ)ましまして儒(はかせ)を好みたまふ。 貴賤(たふときいやしき)を不擇(えらびたまはず)て、 頻(しばしば)恩(めぐみ)の勅(みことのり)を降(たまは)る。 天万豊日天皇〈孝徳〉は、天豊財重日足姫天皇〈皇極〉の同母の弟と述べる。 父は茅渟王、母は吉備姫王である。 《生国魂社》 「生国魂社」は式内社であるが、記紀には、この原注以外には出てこない。 主祭神は生嶋神(いくしまのかみ)、足嶋神(たるしまのかみ)の二柱で、『五畿内志』には、摂津国東生郡に「難波坐生國國魂神社」とあり、 現在の「生国魂(いくくにたま)神社」〔大阪市天王寺区生玉町13〕に繋がる。 神功皇后あるいは天照大神荒魂は副祭神にもなく、その点住吉大社などとは趣が異なる(神功皇后紀9)。 移転前の所在地は難波宮に近いから、神域の樹林を伐採して宮を建てたのかも知れない。 《好儒》 儒は、「国際電脳漢字及異体字知識庫」は主な意味として、(ア)「旧時対学者、読書人的称呼。」、(イ)「孔子創立的一種学術流派。」を挙げる。 ここでは、(イ)を含みつつ、幅広く(ア)を指すと考えられる。 訳語ハカセについてはもともと「博士」ではあるが、学識を備えた人から儒教に意味が重点化する過程は漢語の儒と似ている。 大化年間に発せられた一連の詔は詳細にわたり、法制度の明文化として後の令〔浄原令、大宝令、養老令〕の端緒に位置づけられる。 その法体系の裏付けとなる論理を学ぼうとする態度が、「好儒」と表現されたと見られる。 法体系明文化の推進者として想定されるのは中大兄〔後の天智天皇〕であるが、〈孝徳〉もまた同じ姿勢をもっていたと見るべきであろう。 仏法もまた、長い年月の間に形成された学問体系をもっていたから「尊仏法」なのであろう。 決して仏教界の権益に甘いという意味ではない。というのは、十師や法頭の任命に、統制の側面が見られるからである。 それに対して、神道は非合理的と見做されたが故に「軽神道」であったと見られる。 総じて理知的な人物と見られていたであったのだろう。 《柔仁》 『漢書』元帝紀〔前漢第11代皇帝〕に、「柔仁好儒」があるが、用例はかなり少ないから、 「柔仁」の熟語として特殊化した意味は確立せず、柔・仁単独の意味のままと思われる。 〈北野本〉には、「柔仁」に「ヤハラカニ」、「メクミマシマシ」の二通りの訓が付されている。 ヤハラカニは、〈時代別上代〉は『日本霊異記』〔平安初め〕中巻二十七などの訓点を用例に挙げる。 『類聚名義抄』には「柔:ヤハラカナリ」のほか、和・諧・諴にもヤハラカナリの訓みがある。 動詞ヤハスについては、(万)4465「麻都呂倍奴 比等乎母夜波之 まつろはぬ ひとをもやはし」がある。 こうして見ると、ヤハラカニ/ナリは少なくとも平安には一般的であり、もともと語根ヤハがあったから、上代には形容動詞の語幹ヤハラカも生じていたと考えてよいのではないか。 また、もうひとつの古訓「メグミマシマス」は、メグム+尊敬の補助動詞なので、上代語と見做してよい。 漢籍では二文字が独立しているから、和訓でも柔(ヤハラカニ)・仁(メグム)として別々に訓めばよいと思われる。 《頻降恩勅》 一連の勅により、人による恣意的な支配を脱し法による政を目指したことが「頻降恩勅」と表現される。 政が明文化されたルールに従って行われ個人による暴政を防ぐ意味では「恩」であるが、結果的に重税となれば必ずしも「恩」ではない。 その意味では「恩勅」は、書紀による美化であろう。 「降勅」は漢籍には少ない。例えば『旧唐書』では一か所のみだが、ただし同書には同じ意味の「降詔」が多数ある。 《大意》 天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)〔孝徳〕は、 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)〔皇極〕の同母の弟です。 仏法を尊ばれ、神道を軽んじました 【生国魂(いくくにたま)社の樹木を伐採した類いのことが、これである】。 為人(ひととなり)は柔にして仁で、儒〔儒教、または理知〕を好まれました。 貴賤を選り分けることなく、 しばしば恩勅(おんちょく)を下されました。 まとめ 〈孝徳天皇〉の人物像の記述は儀礼的なものとはいえ、 統一国家としての法制度の確立に向かったことを簡潔に表現するものとなっている。 詔の法制的な内容は、上でも述べたように大宝律令制定への歩みの第一歩である。 諸族の集合体からの脱皮志向の萌芽は、〈安閑〉二年による二十六屯倉設置で見た。 大化年間の法制度の整備は、その新たな画期となった。 その前に蘇我蝦夷臣、入鹿臣による政の私物化は、どうしても克服しなければならなかったのである。 |
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2023.09.09(sat) [255] 書紀巻二十六 斉明天皇 ▼▲ |
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斉明1目次 《天豐財重日足姬天皇(重祚)》
初(はじめに)[於]橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)〔用明〕之(が)孫(みまご)高向王(たかむこのみこ)に適(みあひ)て[而] 漢皇子(あやのみこ)を生(う)みたまふ。 後(のちに)[於]息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)〔舒明〕に適(みあひ)て[而] 二(ふたはしらの)男(ひこ)一(ひとはしらの)女(ひめ)を生みたまふ。
立たして皇后(おほきさき)と為(な)したまふ。 息長足日広額の天皇の紀(ふみ)に見ゆ。 十三年(ととせあまりみとせ)冬十月(かむなづき)。 息長足日広額の天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
皇后(おほきさき)天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。 四年六月(よとせのみなづき)に改元(かいぐゑん)したまひて、 位(くらゐ)を[於]天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)に譲(ゆづ)りたまふ。 天豊財重日足姫の天皇を称(なづ)けたまひて 皇祖母尊(すめみおやのみこと)と曰(い)ふ。 天万豊日の天皇、後(のち)の〔白雉〕五年(いつとせ)十月(かむなづき)に崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 「初適」の記事が〈皇極天皇記〉にはなく、ここで初めて出て来るのはなぜだろうか。 単純に〈皇極紀〉を執筆し終えたたあとで資料が発見されたことはあり得る。 しかし、二年九月の「時人謗曰狂心渠」や、「災岡本宮」〔放火を匂わす〕などの記述を見ると、〈斉明天皇〉への筆致は厳しい。 重祚以後の評価は否定的で、それが〈皇極紀〉では伏せたことを〈斉明紀〉には敢えて書こうと思わせたとも感じられる。 《漢皇子》 漢皇子の父は「橘豊日天皇之孫高向王」、すなわち系図は「用明天皇-A皇子ー高向王」(右図)。 A皇子は理屈の上では〈用明天皇〉皇后泥部穴穂部皇女を母とする厩戸皇子、来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子の何れかとなる。 しかしこれらのうちの一人ならおそらく名前が書かれるだろうから、皇后以外にも記述されない妃がいて、その妃の子と見るのが穏当か。 《見息長足日広額天皇紀》 「見二息長足日広額天皇紀一」の該当箇所は、舒明天皇紀(第二十三巻)の〈舒明〉二年。 《改元》 改元を和読しようと思えば「はじめのとしにあらたむ」となり、古訓もそうしているるが、これでは言葉足らずである。 改元とは年号を改めることだから、その意味を表すには「たいくわ(大化)のはじめのとしにあらたむ」と訓むか、または音読すべきであろう。 《大意》 天豊財重日足姫(あめとよたからいかひたらしひめの)天皇(すめらみこと)は、 最初に橘豊日(たちばなのとよひの)天皇〔用明〕の御孫高向王(たかむこのみこ)に嫁がれ、 漢皇子(あやのみこ)を生みなされました。 後に息長足日広額(おきながたらしひひろぬかの)天皇〔舒明〕に嫁がれ、 二男一女を生みなされました。 〔舒明天皇〕二年に、 皇后(おおきさき)に立てられました。 息長足日広額天皇紀〔舒明〕に見えます。 十三年十月、 息長足日広額天皇が崩じました。 明年正月、 皇后は天皇(すめらみこと)に即位されました。 四年六月に改元〔大化〕して、 天万豊日(あめよろずとよひの)天皇〔孝徳〕に譲位されました。 天豊財重日足姫天皇は 皇祖母尊(すめみおやのみこと)と称されました。 天万豊日天皇は、後の〔白雉〕五年十月に崩じました。 まとめ 初婚で漢皇子を生んだ件はここだけだが、それ以外は〈舒明紀〉・〈皇極紀〉・〈孝徳紀〉を踏襲していて矛盾はない。 ただ、譲位と改元の順序が逆で、また年号(大化・白雉)が欠落している点で、文章は雑である。 |
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2024.02.14(wed) [256] 書紀巻二十七 天智天皇 ▼▲ |
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天智1目次 《天命開別天皇》
息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)〔舒明〕が太子(ひつぎのみこ)なり[也]。 母(みはは)は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)〔皇極/斉明〕と曰(い)ふ。
位(くらゐ)を[於]天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)〔孝徳〕に讓(ゆづ)りたまひて、 天皇(すめらみこと)〔天智〕を立たして皇太子(ひつぎのみこ)と為(し)たまふ。
後(のち)の五年(いつとせ)十月(かむなづき)に崩(ほうず、かむあがりましぬ)。 明年(くるつとし)、 皇祖母尊(すめみおやのみこと)即天皇位(すめらみことのくらゐにつきたまふ、あめのしたしらす)。
崩(ほうず、かむあがりましぬ)。 皇太子(ひつぎのみこ)素服(しろあさのみそ)をたてまつりて称制(まつりごとをきこしめす)。 《素服》 「素」は白色である。素服の例としては、〈仁徳〉が菟道稚郎子が薨じたときに、 「大鷦鷯尊、素服為之発哀哭之甚慟」とある(〈仁徳〉(7)即位前)。 『隋書』には「死者斂以棺槨…妻子兄弟以白布製服」(隋書倭国伝(2))とあり、 当時の習慣では喪服は白色であった。 古訓は「アサモノタテマツリテ」で、「しろあさごろも(白麻衣)」(〈時代別上代〉)という語があるから、麻製の白服であろう。 《称制》 他に「称制」という語は、〈持統紀〉で用いられる。 〈持統〉は〈天武〉が崩じた朱鳥元年〔686〕九月に「臨朝称制」し、正式に即位したのは四年〔690〕になってからである。 称制の類語としては、摂政〔神功皇后〕、秉政〔飯豊女王〕が見える。 なお、摂政は厩戸皇子が〈推古〉在位中の政務代行にも用いられ、以後はその意となる。 飯豊女王は〈清寧〉と〈顕宗〉間の空白期間に「臨朝秉政」(顕宗即位前;清寧五年)。 天皇空位の期間には〈応神〉四十二~四十三年があり、誰も称制せず全くの空位である(〈仁徳〉(7))。 〈継体〉二十六~二十七年も空白だが、書紀の記述における混乱と見られる(〈安閑〉(1))。 《大意》 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)〔天智〕は、 息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)の「天皇〔舒明〕の太子(ひつぎのみこ)で、 母は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめ)の天皇〔皇極/斉明〕です。 天豊財重日足姫天皇四年、 天万豊日(あめよろづとよひ)の天皇〔孝徳〕に譲位され、 天皇〔天智〕を皇太子(ひつぎのみこ)に立てられました。 天万豊日天皇は、 後の五年十月に崩じました。 翌年、 皇祖母尊(すめみおやのみこと)が天皇に即位され〔重祚して斉明〕、 七年七月二十四日に 崩じました。 皇太子は素服〔白い麻の喪服〕を着て称制しました。 【書紀―七年正月~二月】 天智17目次 《皇太子卽天皇位》
皇太子(ひつぎのみこ)即位(くらゐにつきたまふ) 【或本(あるふみ)に云ふ。 六年(むとせ)歳(ほし)丁卯(ひのとう)に次(やど)る。三月(やよひ)に位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。】。
群臣(おほまへつきみたち)を[於]内裏(おほうち)に宴(うたげしたまふ、とよのあかりたまはる)。
送使(おくりつかひ)博徳(はかとこ)等(ら)服命(かへりことまをす)。
古人大兄皇子(ふるひとのおほえのみこ)の女(みむすめ)倭姫王(やまとひめのおほきみ)を立たして、皇后(おほきさき)と為(し)たまふ。 遂(つひ)に四(よはしら)の嬪(みめ)を納(をさ)めたまふ。
【或本(あるふみ)に美濃津子娘(みのつこのいらつめ)と云ふ。】て、 一(ひとはしら)の男(をのこ)二(ふたはしら)の女(めのこ)を生みたまふ。 其の一(ひとはしら)は大田皇女(おほたのひめみこ)と曰ふ。 其の二(ふたはしら)は鸕野女(うのめ)〔持統〕と曰ひて、 天下(あめのした)を有(しろしめす)に及びて[于]飛鳥(あすか)の浄御原宮(きよみはらのみや)に居(ましま)して、 後(のち)に宮(おほみや)を[于]藤原(ふぢはら)に移したまふ。 其の三(みはしら)は建皇子(たけるのみこ)と曰ひて、唖(おふし)なりて語(まこととふこと)不能(あたはず)
遠智娘、一男二女を生みたまふ。 其の一は建皇子と曰ふ。 其の二は大田皇女と曰ふ。 其の三は鸕野皇女(うののみこ)と曰ふ。 或る本に云ふ。 蘇我の山田麻呂の大臣の女、茅渟娘(ちぬのいらつめ)と曰ひて、 [生]大田皇女と 娑羅羅皇女(さららのひめみこ)与(と)をうみたまふ。】。
[生]御名部皇女(みなべのひめみこ)と 阿陪皇女(あへのひめみこ)与(と)ををうみたまふ。阿陪皇女〔元明〕、 天下(あめのした)を有(しろしめす)に及びて[于]藤原宮(ふぢはらのみや)に居(ましま)して 後(のち)に都(みやこ)を[于]乃楽(なら)に移したまふ 【或本(あるふみ)に云ふ。 姪娘(めひのいらつめ)を名(なづ)けて桜井娘(さくらゐのいらつめ)と曰ふ。】。
[生]飛鳥皇女(あすかのひめみこ)と 新田部皇女(にひたべのひめみこ)与(と)をうみたまふ。
山辺皇女(やまのへのひめみこ)を生みたまふ。
忍海造(おしのみのみやつこ)小龍(をたつ)が女(むすめ)有りて色夫古娘(しこぶこのいらつめ)と曰ひて、 一(ひとはしら)の男(をのこ)二(ふたはしら)の女(めのこ)を生みたまふ。 其の一(ひとはしら)は大江皇女(おほえのひめみこ)と曰ふ。 其の二(ふたはしら)は川嶋皇子(かはしまのみこ)と曰ふ。 其の三(みはしら)は泉皇女(いづみのひめみこ)と曰ふ。
水主皇女(もひとりのひめみこ)を生みたまふ。
施基皇子(しきのみこ)を生みたまふ。 又伊賀(いが)の采女(うねめ)の宅子娘(かやこのいらつめ)有りて、 伊賀皇子(いがのみこ)を生みたまひて、後に字(あざな)を大友皇子(おほとものみこ)と曰ふ。 《送使博徳》 六年十一月九日に上柱国(官名)司馬法聡が来倭し、筑紫都督府に滞在していた。十三日に百済〔既に唐の支配下〕に帰国し、 伊吉連博徳らは送使として〔おそらく対馬まで〕付き添った。 ここでは博徳は任を終えて一月二十三日に復命している。 「服命」は「復命」の誤り。このように誤ったことから、書紀原文が書かれた時点では音読されていたことが伺われる。 《皇后・嬪・官人》
「忍海造小龍女曰色夫古娘」以下の四名の女は、全員が各地の地方氏族が奉った采女であったと見るのが自然であろう。 〔すなわち、「有下宮人生二男女一者四人上」〔宮人の男女を生みし者四人有り〕と訓む〕2024.9.2 加筆 《大田皇女》 大田皇女は、〈斉明〉七年正月八日に皇女を産み、 さらに〈天智〉六年二月に葬られた。 遡ってその母遠智娘を納めたのは、〈皇極〉三年正月(二)〔644年〕のことである。 〈天智〉七年〔668〕からは、24年前である。 したがって、実際に納めた時期とは無関係に、皇后、嬪、官人のリストを、形式的に七年二月二十三日の日付をつけて載せたのである。 他の天皇紀でも同様であろうと見てきたが、ここではそれが極めて明瞭になっている。 《嬪と官人》 (※) :以下(※)は、2024.9.2 加筆。 ここでは、「嬪」は蘇我氏の娘なので〈天武紀〉では「夫人」に相当する。 そして、有力でない氏族出身の「宮人」は〈天武紀〉では無称である。 従って、ここでは後宮令の「皇后>妃>夫人>嬪」の序列に従っていない。 この嬪たちのリストは、〈天智〉の時代から遺された史料に従って書かれたと見てよいであろう。この時代はまだ、妃・夫人・嬪の区分けはまだ必ずしも一定していなかったようである。 《御名部皇女》 (※) 〈続紀〉慶雲元年〔704〕正月「壬寅。…御名部内親王、石川夫人、益封各一百戸」。薨の記事なし。 《阿陪皇女》 阿陪皇女は後に〈元明〉天皇となる。〈続紀〉には〈元明〉即位前のところに「日本根子天津御代豊国成姫天皇。小名阿閉皇女。天命開別天皇之第四皇女也。母曰二宗我嬪一。蘇我山田石川麻呂大臣之女也。適二日並知皇子尊〔=草壁皇子〕一。生二天之真宗豊祖父天皇〔=文武〕一。」とある。 そして慶雲四年〔707〕七月十六日に即位して、 和銅三年〔710〕三月十日に「始遷二都于平城一」となる。 《飛鳥皇女》 (※) 〈続紀〉文武四年〔700〕「夏四月癸未。浄広肆明日香皇女薨。…天智天皇之皇女也」。 《山辺皇女》 (※) 大津皇子は謀反の罪で死罪となった。〈持統〉朱鳥元年九月庚午「賜死皇子大津…。妃皇女山辺、被髮徒跣、奔赴殉焉…」 〔大津皇子は死を賜り、妃の山辺皇女は髪が体を覆い裸足の状態で、駆け出して殉死した〕。 《川嶋皇子》 (※)
〈持統〉五年八月「浄大參皇子川嶋薨」。 《施基皇子》 (※) 施基皇子〔芝基皇子〕は〈天武〉八年吉野の盟約に参加。 〈天武〉朱鳥元年八月辛巳「芝基皇子、磯城皇子各加二二百戸一」。 〈持統〉三年六月「以二皇子施基…〔他五名〕…等一拝二撰善言司一」。 〈続紀〉和銅元年正月「授二四品志貴親王ニ三品ヲ一」。 和銅七年〔714〕「二品長親王。舎人親王。新田部親王。三品志貴親王、益封各二百戸」。 霊亀二年〔716〕八月甲寅「二品志貴親王薨。…親王天智天皇第七之皇子也。宝亀元年〔770〕、追尊。称二御春日宮天皇一」。 《泉皇女》 (※) 〈続紀〉天平六年〔七三四〕「庚子。二品泉内親王薨。天智天皇之皇女也」。 《水主皇女》 (※) 〈続紀〉天平九年〔737〕「辛酉。三品水主内親王薨。天智天皇之皇女也」。 《大意》 七年正月三日、 皇太子(ひつぎのみこ)は即位されました 【ある書には、 六年歳次丁卯三月に即位したという。】。 七日、 群臣と内裏で宴されました。 二十三日、 送使の博徳(はかとこ)らが復命しました。 二月二十三日、 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)の娘、倭姫王(やまとひめのおおきみ)を、皇后(おおきさき)に立てられました。 そして、四嬪を納められました。 蘇我(そが)の山田石川麻呂(やまだいしかわまろ)の大臣(おおまえつきみ)の娘、遠智娘(おちのいらつめ)がいて 【ある書には美濃津子娘(みのつこのいらつめ)という。】、 一男二女を生みました。 一人目は大田皇女(おおたのひめみこ)といいます。 二人目は鸕野女(うのめ)〔持統天皇〕といい、 天下を飛鳥の浄御原宮(きよみはらのみや)で治められ、 後に宮を藤原に移されました。 三人目は、建皇子(たけるのみこ)といい、言葉が不自由でした 【ある書には、 遠智娘は一男二女を生み、 一人目は建の皇子、 二人目は大田皇女、 三人目は鸕野皇女(うののひめみこ)という。 ある書には、 蘇我の山田麻呂の大臣の娘、茅渟娘(ちぬのいらつめ)といい 大田皇女と 娑羅羅皇女(さららのひめみこ)を生んだ。】。 次は遠智娘(をちのいらつめ)の妹、姪娘(めいのいらつめ)がいて、 御名部皇女(みなべのみこ)と 阿陪皇女(あへのみこ)を生みました。阿陪皇女〔元明天皇〕は、 天下(あめのした)を藤原宮(ふじわらのみや)で治められ、 後に都を乃楽(なら)に移されました 【ある書には、 姪娘(めひのいらつめ)の名は桜井娘(さくらいのいらつめ)だという。】。 次は阿倍(あべ)の倉梯麿(くらはしまろ)の大臣(おおまえつきみ)の娘、橘娘(たちばなのいらつめ)がいて、 飛鳥皇女(あすかのひめみこ)と 新田部皇女(にひたべのひめみこ)を生みました。 次は蘇我(そが)の赤兄(あかえ)の大臣(おおまえつきみ)の娘、常陸娘(ひたちのいらつめ)がいて、 山辺皇女(やまのへのひめみこ)を産みました。 また、宮人〔=采女〕に、男子女子を生んだ者が四人がいます。 忍海造(おしのみのみやつこ)小龍(おたつ)の娘、色夫古娘(しこぶこのいらつめ)がいて、 一男二女を生みました。 一人目は大江皇女(おおえのひめみこ)といいます。 二人目は川嶋皇子(かわしまのみこ)といいます。 三人目は泉皇女(いずみのひめみこ)といいます。 また、栗隈首(くりくまのおびと)徳万(とこま)の娘、黒媛娘(くろひめのいらつめ)がいて、 水主皇女(もひとりのみこ)を生みました。 また、越道君(こしのみちのきみ)の伊羅都売(いらつめ)がいて、 施基皇子(しきのみこ)を生みました。 また、伊賀采女(いがのうねめ)の宅子娘(かやこのいらつめ)がいて、 伊賀皇子(いがのみこ)を生み、後に字(あざな)を大友皇子(おおとものみこ)といいます。 まとめ 中大兄はずっと称制を続け、七年になってやっと即位した。思えば過去何度も即位の機会がありながら、〈皇極〉、〈孝徳〉、〈斉明〉に天皇位を譲ってきた。 それは、その度に自ら即位を望んだが妨げられてきたようにも見える。 しかし、表向きは補佐役に徹して、改新詔から始まった国の改造に専念しようとしたのが実際のように思われる。 中大兄は、さらに大宰府政庁(本来は京として計画)と大津宮という都の複数制を構想し、それは唐の西京(長安)と、東京(洛陽)を手本としたと考えられる。 併せて朝廷の形も従来の古びた天皇〔実際の呼称はオホキミ〕を否定して、新しいミカドの形を模索していたのではないだろうか。 ただ、その形で即位しようと考えているうちに年数が過ぎ、実際の即位は古い形で行われたと思われる。 〈天智〉の目標は〈天武〉に引き継がれ、 従来の令を飛鳥浄御原令に発展させ、都を複数化する候補地を探し、オホキミに変わるミカドの称として「天皇」号を定めることに繋がったと考えられる。 これが、現時点におけるサイト主による見通しであるが、今後妥当でないことが分かれば改めたい。 |
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2024.08.11(sun) [257] 書紀巻二十八天武天皇上 ▼▲ |
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天武上1目次 《天渟中原瀛眞人天皇》
原瀛真人(はらおきのまひと)の天皇(すめらみこと)は 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)が同母弟(いろど)なり[也]。
生(あれながら)にありて[而]岐嶷之(さかき、ぎぎよくの)姿(みすがた)有り。 壮(をとこさかり)に及びて雄(おほし)く抜(ひいで)て神(くすし)く武(たけ)し、 能(よ)く天文(てんもん)遁甲(とんかふ)をしたまふ。
菟野皇女(うののみこ)をめあはせて、 正妃(むかひめ)と為(し)たまふ。 《生而有岐嶷之姿》 古訓のイコヨカはイカヤカの訛りかも知れないが、何れにしても用例は書紀古訓のみである。 もし平易に「生まれながらにして聡き姿あり」と訓んだとしても、「岐嶷」の意は尽くしている。 《能天文遁甲》 古訓「天文遁甲ニ能(ヨ)シ」は文法的には正確とは言えない。「能」は助動詞だからである。 《遁甲》 日本では専ら忍術のことを遁甲というが、〈汉典〉には次の説明がある。 ――「古代方士術数之一。起二於『易緯乾鑿度』一」、 「其法以二十干的乙・丙・丁一為二三奇一、以二戊・己・庚・辛・壬・癸一為二六儀一。 …而以レ甲統レ之、視二其加臨吉凶一、以為二趨避一、故称二“遁甲”一」。 ここで、方士は神仙の術を行う人。『易緯乾鑿度』〔前漢末から後漢〕は易による未来予言の書。 「甲」は乙以下の「三奇六儀」の上位にあり、すなわち甲を占うことによって難を避けるから「遁甲」というと述べる。 《菟野皇女》 鸕野皇女とも表記、別名娑羅々皇女、後に持統天皇。父は天智天皇、母は遠智姫(美濃津子)、姉は大田皇女。 《大意》 天渟中 原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)は、 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)〔天智〕の同母の弟です。 幼いときは大海人皇子(おおあまのみこ)といいました。 生まれながらに岐嶷(ぎぎょく)の姿があり、 壮年に及んで雄抜、神武の人となり、 よく天文遁甲(とんこう)をなされました。 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)の娘、 菟野皇女(うののみこ)をお納めになり、 正妃となされました。 まとめ 大海皇子の振る舞いは、古人皇子そっくりである。 何れも旧体制の維持をよしとしない勢力にとって、神輿に担ぐ適材であった。 ともにリーダーに相応しい立派な識見、統率力の持ち主であったと考えられる。 ただ、こと大海皇子の場合は、異例なことに反朝廷勢力による権力の奪取に成功した。 それだけ戦時体制を維持するために、人民を異常に搾取したのであろう。 朝鮮式山城の築城は、西の地方に行くほど理解された。それは、人民が百済の悲劇を目の当たりにしていたからである。 しかし、畿内では一般人には切迫感がなく、不満は限りなく膨れ上がったと見られる。それは高安城の石塁工事の中止を余儀なくされたことにも現れている。 また、法隆寺の放火も、納入した税を高安城の倉庫に積み上げたことへの不満の現れとする文脈で語られている。いわば高安城は人民の怨嗟の象徴であった。 さらに、大津京遷都は、その反発を決定的にしたのかも知れない。 |
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2024.09.02(mon) [258] 書紀巻二十九天武天皇下 ▲ |
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天武下23目次 《卽帝位於飛鳥淨御原宮》
群臣(まへつきみたち)に置酒宴(みきのうたげ、とよのあかり)をたまふ。
天皇(すめらみこと)有司(つかさつかさ)に命(おほ)せて壇場(まつりのには)を設(まう)けしめて、 [於]飛鳥(あすか)の浄御原宮(きよみはらのみや)に帝(みかど)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。
后(のち)に、草壁皇子(くさかべのみこ)の尊(みこと)を生みたまふ。
大来皇女(おほくのひめみこ)と大津皇子(おほつのみこ)与(と)を生みたまふ。
長皇子(ながのみこ)と弓削皇子(ゆげのみこ)与(と)を生みたまふ。
舎人皇子(とねりのみこ)を生みたまふ。
但馬皇女(たじまのひめみこ)を生みたまふ。
新田部皇子(にひたべのみこ)を生みたまふ。
一男(ひとはしらのみこ)二女(ふたはしらのひめみこ)を生みたまふ。 其一(そのひとはしら)は穂積皇子(ほづみのみこ)と曰ひて、 其二(そのふたはしら)は紀皇女(きのひめみこ)と曰ひて、 其三(そのみはしら)は田形皇女(たがたのひめみこ)と曰ふ。
十市皇女(といちのひめみこ)を生みたまふ。
高市皇子(たけちのみこ)の命(みこと)を生みたまふ。
二男(ふたはしらのみこ)二女(ふたはしらのひめみこ)を生みたまふ。 其一(そのひとはしら)は忍壁皇子(おさかべのみこ)と曰ひて、 其二(そのふたはしら)は磯城皇子(しきのみこ)と曰ひて、 其三(そのみはしら)は泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)と曰ひて、 其四(そのよはしら)は託基皇女(たきのひめみこ)と曰ふ。
勲功(いさみ)を有(も)てる人等(たち)に爵(かがふり)を賜(たま)ふ、差(しな)有(あ)り。 《壇場》 〈雄略紀〉5《壇》項で見たように、 中国の天子が即位した「壇」を当てはめて、即位の儀式の表現としたもの。 壇はもともと儀式を行う土を盛って場で、「天地の祭り、諸侯の会合、将相の任命など、すべて土の台上で行われた」(『学研新漢和』)という。 〈雄略〉紀では古訓「タカミクラ」〔高貴な人の座の意味〕が用いられたが、ここでの古訓は「タカトノ」である。 タカドノ〔=楼閣〕は明らかに不適切で、タカミクラの方がまだましである。 即位について、多くは有司に推戴されるが一度辞退し、再度推されて渋々受けたと書かれる。 通例に反して、あからさまに自ら壇場の設置を命じたと書かれたのは〈雄略〉帝と〈天武〉帝のみである (〈宣化紀〉《奏上剣鏡》項参照)。
浄御原宮は、〈斉明〉の後岡本宮を拡張整備したものと考えられている (資料[54]《飛鳥宮跡》項)。 考古学上は、飛鳥宮跡の〈天武〉帝以後と見られる層はⅢ-B期という。 『飛鳥宮跡解説書』関西大学文学部考古学研究室編〔奈良県明日香村2017〕によると、 「Ⅲ―B期の遺構は天武・持統天皇が使用した飛鳥浄御原宮と考えられ」、 「後飛鳥岡本宮から改修される際に、エビノコ郭が設けられただけでなく、外郭の規模の拡大も行われたと考える意見も」あるという。 エビノコ郭は「出土する土器の年代から天智9〔670〕前後に造営が始まったと考えられ」、 「遺構の様子が内郭南区画の建物と類似するため、同様に政治や儀礼の場として使われていた」と考えられるという(p.10)。 〈天武〉天皇は、もはや近江京を顧みることはなかった。仮に〈天武〉が近江京を引き継ごうとすれば、大海皇子を推戴した諸氏には到底受け入れられなかっただろう。 それだけ、諸氏が〈天智〉の治世に反感を募らせた要因として、近江京建都の負担が大くを占めたのであろう。 《立正妃為皇后》
「皇后」は「為」の目的語として文章が完結しているので、改めて主語「后」を立てるという考えは理解できる。 しかしこのような場合に書紀は完全な形で反復して誤解の余地をなくしているので、この場合は「皇后々々」、または「皇々后々」とされるはずである。 よって、二つ目の「后」は「のちに」と訓んで、後文の「先納二皇后姉大田皇女一」と対応させるのが正しいと見られる。 《生(あ)れます》 生への古訓アレマスは、アル〔下二〕を他動詞としたもの。 しかし、〈時代別上代〉によるとアル〔下二〕はおそらく「有り」に由来し、「生れ出る」、「出現する」意で、「神霊が現れる」意味として中世まで使われたという。 他動詞とする場合について同書は「産 上代にはアル〔下二〕が他動詞として使われることはなく、 使役形アラスは子を産む意味ではあるが、用例は限られている。 《草壁皇子尊》
〈天武〉八年五月には吉野の盟約がなされ、草壁皇子は、皇子たちの筆頭に位置づけられた。 なお、盟約に参加したメンバーのうち、河嶋皇子と芝基皇子は〈天智〉の皇子である。
《妃新田部皇女:舎人皇子》
吉野の盟約〔679〕当時は、まだ四歳であった。 《夫人氷上娘:但馬皇女》
夫人は職員令で定義された用語〔皇后・妃・夫人・嬪の一〕としては、音読〔ブニン〕が基本かと思われる。 〈続紀〉を見ると、藤原夫人が五人いる。少し寄り道して具体的に見ると、次のようになっている。
また上述、万葉集の題詞の「氷上大刀自」の例を見ると、夫人が宮中でオホトジと呼ばれていたと考えられる。 よって、夫人とオホトジはかなり重なり合うと考えられ、これが夫人をオホトジと訓み得る一定の根拠になると思われる。 ここで、書紀に現れた「夫人」の全体像を見る(右)。 堅塩媛を改葬する際の称「皇夫人」は、蘇我氏から納めたことによる名称「蘇我夫人」の夫人への敬意を高めたものと考えられる。 皇后をオホキサキと呼ぶことに倣うと、本来は「皇夫人」はオホキオホトジ」と呼ばれたことも考えられるが、確証はない。 《妃と夫人》 大宝令以後は「皇后>妃>夫人>嬪」の序列が確立された(〈推古〉二十年《夫人の地位》項)。 書紀の後ろの方になると、それを遡らせたと見られる用例が見える。 〈天武〉紀では皇后・妃・夫人が明示され、額田姫、尼子娘、𣝅媛娘は、順序でば嬪の地位にあたる。 ここで見ると、「夫人」の地位にあるのは有力氏族である蘇我氏、藤原氏の娘に限られる。 その他の伊奈氏(鏡王)、宗像氏、宍人臣の娘は「夫人」が付かないので、これらは弱小氏族から供出された采女の中から美しい者が選ばれたのであろう。 一方「妃」は〈天智〉の皇女である。このように妃・夫人・無称(嬪か)はくっきりと区分けされている。 〈天智紀〉では、〈天武紀〉の「夫人」には「嬪」が、無称には「宮人」が用いられていた(《嬪と官人》)。 よって、区別自体は明確に存在したが、〈天智〉の時代には夫人にあたるものを嬪と呼ぶこともあったということになる。 《夫人五百重娘:新田部皇子》
《夫人大蕤娘:穂積皇子、紀皇女、田形皇女》
《娶額田姫王:十市皇女》
忍壁は、オサカベ(刑部、忍坂部)と訓まれている(第186回【刑部】項)。 《大意》 二年正月七日、 群臣とともに酒宴されました。 二月二十七日、 天皇(すめらみこと)は有司に命じて壇場〔儀式の会場〕を設けさせ、 飛鳥の浄御原(きよみはら)の宮で帝位に即かれました。 正妃を皇后(おおきさき)に立てられ、 後に草壁皇子(くさかべのみこ)の尊(みこと)を生みました。 それに先んじて、皇后の姉大田皇女(おおたのひめみこ)を納めて妃となされ、 大来皇女(おおくのひめみこ)と大津皇子(おおつのみこ)を生みました。 次の妃、大江皇女(おおえのひめみこ)は、 長皇子(ながのみこ)と弓削皇子(ゆげのみこ)を生みました。 次の妃、新田部皇女(にいたべのひめみこ)は、 舎人皇子(とねりのみこ)を生みました。 また夫人、藤原大臣(ふじはらのおおまえつきみ)の娘氷上娘(ひかみのいらつめ)は、 但馬皇女(たじまのひめみこ)を生みました。 次の夫人、氷上娘の妹五百重娘(いほえのいらつめ)は、 新田部皇子(にいたべのみこ)を生みました。 次の夫人、蘇我赤兄大臣(そがのあかえのおおまえつきみ)の娘、大蕤娘(おおぬのいらつめ)は、 一男二女を生み、 その一人目は穂積皇子(ほずみのみこ)、 二人目は紀皇女(きのひめみこ)、 三人目は田形皇女(たがたのひめみこ)といいます。 天皇は、初めに鏡王(かがみのおおきみ)の娘、額田姫(ぬかたひめ)の王(おおきみ)を娶られ、 十市皇女(といちのひめみこ)を生みました。 次に胸形君(むなかたのきみ)徳善(とくぜん)の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)を納められ、 高市皇子(たけちのみこ)の命(みこと)を生みました。 次に宍人臣(ししひとのおみ)大麻呂(おおまろ)の娘、𣝅媛娘(かじひめのいらつめ)は、 二男二女を生み、 その一人目は忍壁皇子(おさかべのみこ)、 二人目は磯城皇子(しきのみこ)、 三人目は泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)、 四人目はは託基皇女(たきのひめみこ)といいます。 二十九日、 勲功をあげた者等に、そのはたらきに応じて爵位を賜わりました。 まとめ 〈天武〉朝は、大臣職を一切置かない稀有な時代であった。かつの大臣の政務を担ったのが草壁皇子、次に高市皇子である。 高市皇子は、〈持統〉朝で太政大臣になる。かつて諸族が左右大臣を務めていた頃は、政治は大臣と天皇との合議であったが、〈天武〉は諸族を、一切排除して治世を開始したと考えられる。 そこには、大友皇子に与していた諸族をまるごと排除したことが考えられる。 この体制は、一般に皇親政治と呼ばれる。 諸族には八色の姓を与えて階層化し、朝廷に仕える立場であることを明確化した。 〈文武〉朝以後の皇親政治は、知太政官事に刑部親王、穂積親王、舎人皇子が就いたことに象徴される〔それぞれ703~705年、705~715年、720~735年〕。 しかし、次第に藤原氏が台頭し、外戚として中枢に食い込んでくる。「夫人」はもともと有力氏族が送り込んだ娘への呼称であったが、この時代は「藤原夫人」が目立つ。 ともあれ、〈天武〉の皇子皇女の活動はこれから始まり、〈持統紀〉そして〈続紀〉までその名が記される。 |