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2022.08.17(wed) [252] 書紀巻二十三 舒明天皇 

 古事記には、日子人太子〔押坂彦人大兄皇子〕の王子の系図が明示されている(右図)。
 このうち、智奴王(茅渟王)と舒明天皇を除いては書紀には載らない。 これを、一時は日子人太子を天皇とする案があった名残ではないかと見た(第242回)。
 記におけるこのような扱いは、上宮家系列ではなく、彦人皇子系列にこそ皇位継承の正統性があることを強調するものになっている。
 古事記が執筆された時代に仏教を排斥することは、既に全く現実的ではないが、それでも高天原神学的な世界観を再興する役割を古事記執筆陣は自覚していたと見られる。 蘇我氏と上宮家については、仏教派として無視されたと見ることもできよう。

【書紀ー舒明天皇記】 目次

まとめ
 〈舒明天皇記〉では、その前半を即位前の山背大兄王との皇位継承争いに割いている。 結論としては、推古帝の遺詔を根拠として彦人皇子系列に正統性があるとする。
 古事記においては、押坂彦人大兄皇子-舒明天皇の家系を書くことによってその正統性を表現したと見ることができる。
 後に〈天武天皇〉は覇王として皇位を奪取するが、家として見れば押坂彦人王朝の内輪もめである。 よって〈舒明〉即位の正統性の確保は欠かせない。
 書紀の出発点は、その〈天武〉が大国唐に対抗し得る国造りが急がれた中で、その一環としての国史編纂であった。 宗教面では伊勢神宮の復興など、民族の意識の原点としての神道への回帰を重視する。古事記の役割は、その要請に応えるところにあった。
 ただ、国の仏教化は既に後戻りができず、〈舒明〉は仏教を蘇我氏から切り離した形で官寺百済寺を建立した。 〈天武〉も仏教の弾圧へは向わず、むしろ「-設-斎於飛鳥寺、以読一切経」(六年)と述べるように仏教振興に積極的である。 国際情勢を見れば、国を二分する争いをしているときではない。
 その点は古事記にとっては痛しかゆしで、天皇系列は〈舒明〉で止め、物語として書く内容は、既に〈継体天皇〉からなくなった。 だから、題名も国が仏教化する前の「古事ふること」の「ふみ」となったのである。



2022.08.18(thu) [253] 書紀巻二十四 皇極天皇 

皇極天皇紀
即位前
元年正月~二月二日
元年二月六日~二十七日
元年三月~六月
元年七月
元年八月
元年九月~十一月
元年十二月
元年是歳
10二年正月~六月
11二年七月~九月
12二年十月
13二年十一月(一)
14二年十一月(二)
15二年十一月(三)
16二年是歳
17三年正月(一)
18三年正月(二)
19三年三月
20三年六月
21三年七月
22三年十一月
23四年正月~四月
24四年六月八日
25四年六月十二日(一)
26四年六月十二日(二)
27四年六月十二日是日
28四年六月十三日
29四年六月十四日
【書紀―即位前】
皇極1目次 《天豐財重日足姫天皇》
足姫天皇… 〈岩崎本〔以下岩〕天豊財重日足姫アメ.トヨ.タカラ.イカシ.ヒタラシヒメ.ノ天皇
■太珠敷天皇[ノ]- ヒゝコ [切]押坂[ノ]■子[ノ][切]
[ノ][ナリ][句]
イロハ
〈北野本〔以下北〕トヨタカラ重日イカシヒ足姫タラシヒメ天皇クラフトタマ シキノ天皇
曽孫 ヒゝコ オシサカ ヒコ大兄オヒネ皇子孫茅渟チヌ王女也母曰吉備姫オホキミ

おほえ(大兄)…[名]
〈時代別上代〉「日本書紀古訓には」「オヒネ・オホヒネの訓がある。
順考… 〈岩〉-考カゝヘ[ノ][ニ]/ヲサメ \/タマフ シタマ [ヲ]
〈北〉-考カゝヘ〔カンガヘ〕古道而為政也ヲサメタマフ
〈内閣文庫本〔以下閣〕ヲサメタマフ
天豐財重日
【重日云此伊柯之比】
足姬天皇
渟中倉太珠敷天皇曾孫 押坂彥人大兄皇子孫
茅渟王女也。
母曰吉備姬王。
天皇順考古道而爲政也。
天豊財重日(あめとよたからいかしひ)
【重日、此(こ)を伊柯之比(いかしひ)と云ふ。】
足姫天皇(たらしひめのすめらみこと)、
渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらたましきのすめらみこと)〔敏達〕の曽孫(ひひこ)、
押坂彦人大兄(おしさかのひこひとおほえ)の皇子(みこ)の孫(ひこ)、
茅渟王(ちぬのみこ)の女(むすめ)なり[也]。
母(みはは)は吉備姫王(きびひめのみこ)と曰ひたまふ。
天皇(すめらみこと)古(いにしへ)の道の順考(まにまにかむが)へて[而]政(まつりごと)を為(し)たまふ[也]。
立為皇后… 〈岩〉息■■日廣額天皇二年[二][テ]タ フタマ皇后[ト][句]十三年[ノ]十月[二][切]息長足日廣額[ノ]天皇[切][ヌ]
息長足日廣額天皇二年。
立爲皇后。
十三年十月。
息長足日廣額天皇崩。
息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)〔舒明〕二年(ふたとせ)。
立たして皇后(おほきさき)と為(な)したまふ。
十三年(ととせあまりみとせ)十月(かむなづき)。
息長足日廣額天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。

《皇極天皇》
 皇極天皇〔宝皇女〕の祖父とされる押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の皇子で、 242回では、「麻呂古」、「太子」という呼称から皇太子並みの立場にあったと見た。 また、用明天皇2では、「成相墓〔延喜式諸陵寮〕の広大な兆域は直轄田を表すもので、 「この墓と兆域の規模には、実は大王ではなかったかと思わせるものが」あり、記紀による検討段階では天皇に挙げる案もあったのではないかと見た。 ただ、中央から離れた広瀬郡に宮を置いたことから皇位争いには超然として、広瀬郡においていわば独立王国を維持したようである。 それでも高貴な血筋は認められていたと見られ、王子である田村皇子〔舒明天皇〕が、大王〔天皇〕に推挙される条件は十分にあったと見てよいだろう。
 宝皇女〔皇極〕は、押坂彦人大兄皇子の孫かつ舒明の皇后として、彦人皇子王朝の一員であった。 その後継のエースとして開別皇子〔天智〕が予定されていたが、まだ若年なので〈皇極〉が中繋ぎとして即位したと読める。 後に〈持統〉〔〈天武〉の皇后〕が文武天皇までの間を繋いだのと、同じパターンと見られる。
《吉備姫王》 この項 2023.02.06改
 御母の吉備姫王については、『本朝皇胤紹運録』〔1426〕の『群書類従』版国立国会図書館デジタルコレクションは、 「母吉備姫女王。欽明孫。桜井皇子女也」、 欽明天皇の箇所には「欽明天皇ー櫻井皇子ー吉備姫女王(伊斎。茅渟王妻。皇極母)」とある。
 また、「文亀壬戌林鐘中旬」〔二年六月中旬[「林鐘」は第14回];1502〕の写本国立国会図書館デジタルコレクションは、 皇極天皇のところでは「母曰吉備姫王」、欽明天皇のところに「欽明天皇ー櫻井皇子ー日吉備姫王  斎宮 茅渟王女 皇極母」とある。 「日吉備姫王」の""は誤りであろう。
 桜井皇子は確かに欽明天皇の皇子で、母は堅塩媛で〈用明〉・〈推古〉の同腹弟にあたる(〈欽明二年〉)
《王》
 「」の訓みは天皇の子ならミコ、代を重ねるとオホキミに転ずる。 その境目は、〈履中紀六年〉の《鯽魚磯別王・鷲住王》の項で論じたように曖昧である。
 田村皇子(舒明天皇)は、天皇の孫だがミコである。田村王と表記された場合も「タムラノミコ」と訓まれるべきものであろう。 一方、茅渟王は田村皇子と同じく敏達天皇の孫だが、こちらの古訓は〔ホキミ〕である。
 の古訓においては、の代はミコ孫以降オホキミ、ただし孫でも天皇の候補の場合はミコという基準がうっすら見えて来る。 しかし、ミコはもともと御子であるから、天皇からの直接的な結縁を意識する場合はミコで差し支えないと思われる。
 なお、吉備姫王にこれを適用すると、古訓「キビヒメノヒメミコ」となるが、不自然なのでキビヒメノミコで十分であろう。
《彦人皇子王朝》
 太子の上宮家はもともと蘇我氏の身内であったが、蘇我蝦夷はバランス感覚により勢力図を見て敢えて舒明天皇を擁立した。
 だから蝦夷は山背大兄王にも丁寧な態度で接したわけだが、その子蘇我入鹿は近視眼的で、上宮家を敵対勢力と考えて亡ぼしたようである。 彦人皇子王朝から見ればこれは蘇我氏の内輪もめだから、蘇我氏を潰すための絶好のチャンスである。 そこから入鹿の殺害に至ったのであろう。
 概ねこの流れであろうが、〈皇極紀〉を読み進む中で、朝廷と蘇我氏との関係を細かく読み解いていきたい。
《かむがふ》
 「かむがふ」は、裁判などにおける査問を意味する。 また、学問における探求の意味に使われる。現代語の「考える」に繋がるのは明らかである。
 〈時代別上代〉は「上代にこの語の存在した確証はないが、次期において法制関係の使用例ははなはだ多い〔上代では仮名書きがないから確かなことは言えないが、平安時代に裁判関係で大変多く使われているのを見ると、あるいは上代から存在したかも知れない〕 と述べる。
 古訓のカゝヘは、平安時代の表記では撥音のが省かれたことによると思われる。
《順考古道》
敏達仏法而愛文史
用明仏法神道
皇極-考古道
孝徳仏法神道
天武よくす天文遁甲
 書紀では〈欽明〉以後の数人の天皇について、宗教の傾向を記している(右表)。
 〈孝徳天皇〉の「仏法。軽神道」とは対照的に、皇極天皇の「-考古道」は、神道寄りかと思われる。 ただ、〈斉明天皇〉〔皇極の重祚〕 の時代の亀形石造物や酒船石遺跡の石垣を見ると(資料[54])、〈皇極〉は神道とも異質な宗教に惹かれていたように見える。
 また蘇我入鹿の誅殺を絡めると、蘇我氏憎しが昂じて仏教への反発に及んだようにも思えるが、これの検討はこれから書紀を読み進む中の一つのテーマである。
《大意》
 天豊財重日 足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)は、 渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらたましきのすめらみこと)〔敏達〕の曽孫であり、 押坂彦人大兄(おしさかのひこひとおほえ)の皇子(みこ)の孫であり、 茅渟王(ちぬのみこ)の娘です。
 母は吉備姫王(きびひめのみこ)といわれます。
 天皇(すめらみこと)は、古(いにしえ)の道に順じて考え、政(まつりごと)をなされました。
 息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)〔舒明〕の二年、 皇后となられました。
 十三年十月、 息長足日広額天皇は崩じました。


まとめ
 古事記が描く時代は終了した。しかし、記が最後とした舒明天皇の後も、仏教と神道との相克は続く。
 記は伊勢神宮の再興とも関りが深く、仏教は脇に置いて神道に新たな光を当てた書であった。 記のカバーする期間は終わったが、ここから太安万侶が記の執筆に勤しんだ頃までの時代環境を知ることは、記をより深く理解することに資するであろう。 よって、書紀の残りの部分を精読することもまた、記の内容を探求する活動の構成部分となる。
 ひとまず第251回で「古事記をそのまま読む ―完―」をうたったが、その精神を生み出した土壌の掘り下げはまだ続く。



2023.02.13(mon) [254] 書紀巻二十五 孝徳天皇 

孝徳天皇紀
即位前
皇極四年六月十四日(一)
皇極四年六月十四日(二)
皇極四年六月十五~十九日
大化元年七月二~十日
大化元年七月十二~十四日
大化元年八月五日
大化元年八月五日是日
大化元年八月八日
10大化元年九月三~十二日
11大化元年九月十九日
12大化元年十二月
13大化二年正月
14大化二年二月
15大化二年三月二日
16大化二年三月十九日
17大化二年三月二十日
18大化二年三月二十二日
19大化二年八月
20大化二年九月~是歳
21大化三年正月~四月
22大化三年是歳(一)
23大化三年十月~十二月
24大化三年是歳(二)
25大化四年
26大化五年正月~二月
27大化五年三月十七~二十四日
28大化五年三月二十五日
29大化五年三月二十六~三十日
30大化五年三月是月
31大化五年四月~是歳
32白雉元年正月
33白雉元年ニ月九日
34白雉元年ニ月十五日
35白雉元年四月~是歳
36白雉二年
37白雉三年
38白雉四年五月
39白雉四年六月~七月
40白雉四年是歳
41白雉五年正月~七月
42白雉五年十月~是歳
【書紀―即位前】
孝徳1目次 《天萬豐日天皇》
天萬豊日…〈北野本〔以下北〕アメ ヨロツ トヨ ヒ天皇重日イカシ足姫天皇同/ハラ イロト
いろど…[名] 同母の弟や妹。
軽神道…〈北〉 尊佛ミノリ アナツリタマフ神道。 〈内閣文庫本〔以下閣〕
あなづる…[他]ラ四 あなどる。
生国魂社…〈北〉トリタマフイクタマ社樹
為人…〈北〉 ナリ柔仁ヤハラカメクミマシ\/ タマフ ハカマ。 〈内閣文庫本〔以下閣〕ハカセヲ
…[名] ①孔子の教えを広める人。②教養のある人。(古訓) はかせ。
はかせ…[名] ①博士。②儒学。学問。
不擇…〈北〉エラハ貴-賤 頻 タマフ メクミノ ミコトノリ
…[副] (古訓) しはしは。しきりなり。
しばしば…[副] (万)1919「數君麻 思比日 しばしばきみを おもふこのころ」。
天萬豐日天皇、
天豐財重日足姬天皇同母弟也。
尊佛法、輕神道
【斮生國魂社樹之類是也】。
爲人柔仁好儒。
不擇貴賤、
頻降恩勅。
天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)、
天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)の同母弟(いろど)なり[也]。
仏法(ほとけのみのり)を尊(たふと)びて、神道(かみのみち)を軽(あなづ)りたまふ
【生国魂(いくくにたま)の社(やしろ)の樹(き)を斮(き)りたまひし[之]類(たぐひ)は是(これ)なり[也]】。
為人(ひととなり)柔(やはらかに)仁(めぐみ)ましまして儒(はかせ)を好みたまふ。
貴賤(たふときいやしき)を不擇(えらびたまはず)て、
頻(しばしば)恩(めぐみ)の勅(みことのり)を降(たまは)る。

《天万豊日天皇》
 天万豊日天皇〈孝徳〉は、天豊財重日足姫天皇〈皇極〉の同母の弟と述べる。
 父は茅渟王、母は吉備姫王である。
《生国魂社》
 「生国魂社」は式内社であるが、記紀には、この原注以外には出てこない。
 主祭神は生嶋神(いくしまのかみ)、足嶋神(たるしまのかみ)の二柱で、『五畿内志』には、摂津国東生郡に「難波坐生國國魂神社」とあり、 現在の「生国魂(いくくにたま)神社〔大阪市天王寺区生玉町13〕に繋がる。
 神功皇后あるいは天照大神荒魂は副祭神にもなく、その点住吉大社などとは趣が異なる(神功皇后紀9)。
 もともとは大阪城の場所にあったが、築城のために移転したという (資料[71])。
 移転前の所在地は難波宮に近いから、神域の樹林を伐採して宮を建てたのかも知れない。
《好儒》
 は、「国際電脳漢字及異体字知識庫」は主な意味として、()「旧時対学者、読書人的称呼。」、()「孔子創立的一種学術流派。」を挙げる。 ここでは、()を含みつつ、幅広く()を指すと考えられる。 訳語ハカセについてはもともと「博士」ではあるが、学識を備えた人から儒教に意味が重点化する過程は漢語のと似ている。
 大化年間に発せられた一連の詔は詳細にわたり、法制度の明文化として後の令〔浄原令、大宝令、養老令〕の端緒に位置づけられる。 その法体系の裏付けとなる論理を学ぼうとする態度が、「好儒」と表現されたと見られる。 法体系明文化の推進者として想定されるのは中大兄〔後の天智天皇〕であるが、〈孝徳〉もまた同じ姿勢をもっていたと見るべきであろう。
 仏法もまた、長い年月の間に形成された学問体系をもっていたから「尊仏法」なのであろう。 決して仏教界の権益に甘いという意味ではない。というのは、十師や法頭の任命に、統制の側面が見られるからである。
 それに対して、神道は非合理的と見做されたが故に「軽神道」であったと見られる。 総じて理知的な人物と見られていたであったのだろう。
《柔仁》
 『漢書』元帝紀〔前漢第11代皇帝〕に、「柔仁好儒」があるが、用例はかなり少ないから、 「柔仁」の熟語として特殊化した意味は確立せず、柔・仁単独の意味のままと思われる。
 〈北野本〉には、「柔仁」に「ヤハラカニ」、「メクミマシマシ」の二通りの訓が付されている。 ヤハラカニは、〈時代別上代〉は『日本霊異記』〔平安初め〕中巻二十七などの訓点を用例に挙げる。
 『類聚名義抄』には「:ヤハラカ」のほか、にもヤハラカナリの訓みがある。 動詞ヤハスについては、(万)4465麻都呂倍奴 比等乎母夜波之 まつろはぬ ひとをもやはし」がある。
 こうして見ると、ヤハラカニ/ナリは少なくとも平安には一般的であり、もともと語根ヤハがあったから、上代には形容動詞の語幹ヤハラカも生じていたと考えてよいのではないか。
 また、もうひとつの古訓「メグミマシマス」は、メグム+尊敬の補助動詞なので、上代語と見做してよい。 漢籍では二文字が独立しているから、和訓でも(ヤハラカニ)・(メグム)として別々に訓めばよいと思われる。
《頻降恩勅》
 一連のにより、人による恣意的な支配を脱し法による政を目指したことが「頻降恩勅」と表現される。 政が明文化されたルールに従って行われ個人による暴政を防ぐ意味では「」であるが、結果的に重税となれば必ずしも「」ではない。 その意味では「恩勅」は、書紀による美化であろう。
 「降勅」は漢籍には少ない。例えば『旧唐書』では一か所のみだが、ただし同書には同じ意味の「降詔」が多数ある。
《大意》
 天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)〔孝徳〕は、 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)〔皇極〕の同母の弟です。
 仏法を尊ばれ、神道を軽んじました 【生国魂(いくくにたま)社の樹木を伐採した類いのことが、これである】。
 為人(ひととなり)は柔にして仁で、儒〔儒教、または理知〕を好まれました。 貴賤を選り分けることなく、 しばしば恩勅(おんちょく)を下されました。


まとめ
 〈孝徳天皇〉の人物像の記述は儀礼的なものとはいえ、 統一国家としての法制度の確立に向かったことを簡潔に表現するものとなっている。
 詔の法制的な内容は、上でも述べたように大宝律令制定への歩みの第一歩である。
 諸族の集合体からの脱皮志向の萌芽は、〈安閑〉二年による二十六屯倉設置で見た。 大化年間の法制度の整備は、その新たな画期となった。 その前に蘇我蝦夷臣、入鹿臣による政の私物化は、どうしても克服しなければならなかったのである。



2023.09.09(sat) [255] 書紀巻二十六 斉明天皇 

斉明天皇紀
即位前
元年
二年
三年
四年正月~五月
四年七月~十月
四年十一月
四年是歳
五年正月~三月
10五年七月三日
11五年七月十五日~是歳
12六年正月~三月
13六年五月
14六年七月
15六年九月
16六年十月~十二月
17六年是歳
18七年正月~五月
19七年六月~十一月
【書紀―即位前】
斉明1目次 《天豐財重日足姬天皇(重祚)》
天豊財重日足姫…〈北野本〔以下北〕アメトヨタカラ重-日 イカヒ 足姫 タラシ天皇。 〈内閣文庫本〔以下閣〕重日 イカシヒ イカ ヒ 足姬タラシ ヒメノ天皇
初適…〈北〉 ミアヒ ミマコアレマセリ皇子。 〈閣〉 サキ ニミアヒテ。 〈甲本〉ユク今曰嫁
息長足日広額天皇…〈舒明天皇〉。〈北〉 オキ ナカ足日 タラシ ヒ ヒロ ヌカアレマスフタハシラヒコミコ。 〈閣〉アレマス 二男フタハシラノヒコミコヒメミコヲ
橘豊日天皇…用明天皇。
ある…[自]ラ下二 うまれる。
天豐財重日足姬天皇、
初適於橘豐日天皇之孫高向王而
生漢皇子。
後適於息長足日廣額天皇而
生二男一女。
天豊財重日足姫(あめとよたからいかひたらしひめ)の天皇(すめらみこと)、
初(はじめに)[於]橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)〔用明〕之(が)孫(みまご)高向王(たかむこのみこ)に適(みあひ)て[而]
漢皇子(あやのみこ)を生(う)みたまふ。
後(のちに)[於]息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)〔舒明〕に適(みあひ)て[而]
二(ふたはしらの)男(ひこ)一(ひとはしらの)女(ひめ)を生みたまふ。
為皇后…〈北〉[テ] ナリタマフ ユ息長足日廣額天皇 ミマキ[ヲ][句]。 〈閣〉 ニ テ ナリタマウ
二年。
立爲皇后。
見息長足日廣額天皇紀。
十三年冬十月。
息長足日廣額天皇崩。
〔舒明天皇〕二年(ふたとせ)。
立たして皇后(おほきさき)と為(な)したまふ。
息長足日広額の天皇の紀(ふみ)に見ゆ。
十三年(ととせあまりみとせ)冬十月(かむなづき)。
息長足日広額の天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
明年…〈北〉 クル即-天-皇-位 アマツヒツキシロシメス[句][テ]元[ヲ][切]  ハシメノトシ アメ ヨロツ トヨ ヒ天皇[句] マウシ 豐 財重日足姫天皇曰皇スメミオヤノミコト -祖-母-尊。 〈閣〉 テ ハシメノトシヲ四年六月マウシテ天豐財重日足姬天皇[切]皇-祖-母 スメミオヤノ -ミコト五年十月
明年正月。
皇后卽天皇位。
改元四年六月、
讓位於天萬豐日天皇。
稱天豐財重日足姬天皇
曰皇祖母尊。
天萬豐日天皇後五年十月崩。
明年(あくるとし)正月(むつき)。
皇后(おほきさき)天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。
四年六月(よとせのみなづき)に改元(かいぐゑん)したまひて、
位(くらゐ)を[於]天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)に譲(ゆづ)りたまふ。
天豊財重日足姫の天皇を称(なづ)けたまひて
皇祖母尊(すめみおやのみこと)と曰(い)ふ。
天万豊日の天皇、後(のち)の〔白雉〕五年(いつとせ)十月(かむなづき)に崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。

《初適》
 「初適」の記事が〈皇極天皇記〉にはなく、ここで初めて出て来るのはなぜだろうか。
 単純に〈皇極紀〉を執筆し終えたたあとで資料が発見されたことはあり得る。
 しかし、二年九月の「時人謗曰狂心渠」や、「災岡本宮〔放火を匂わす〕などの記述を見ると、〈斉明天皇〉への筆致は厳しい。 重祚以後の評価は否定的で、それが〈皇極紀〉では伏せたことを〈斉明紀〉には敢えて書こうと思わせたとも感じられる。
《漢皇子》
 漢皇子の父は「橘豊日天皇之孫高向王」、すなわち系図は「用明天皇-A皇子ー高向王」(右図)。 A皇子は理屈の上では〈用明天皇〉皇后泥部穴穂部皇女を母とする厩戸皇子、来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子の何れかとなる。
 しかしこれらのうちの一人ならおそらく名前が書かれるだろうから、皇后以外にも記述されない妃がいて、その妃の子と見るのが穏当か。
《見息長足日広額天皇紀》
 「息長足日広額天皇紀」の該当箇所は、舒明天皇紀(第二十三巻)の〈舒明〉二年
《改元》
 改元を和読しようと思えば「はじめのとしにあらたむ」となり、古訓もそうしているるが、これでは言葉足らずである。 改元とは年号を改めることだから、その意味を表すには「たいくわ(大化)のはじめのとしにあらたむ」と訓むか、または音読すべきであろう。
《大意》
 天豊財重日足姫(あめとよたからいかひたらしひめの)天皇(すめらみこと)は、 最初に橘豊日(たちばなのとよひの)天皇〔用明〕の御孫高向王(たかむこのみこ)に嫁がれ、 漢皇子(あやのみこ)を生みなされました。
 後に息長足日広額(おきながたらしひひろぬかの)天皇〔舒明〕に嫁がれ、 二男一女を生みなされました。
 〔舒明天皇〕二年に、 皇后(おおきさき)に立てられました。 息長足日広額天皇紀〔舒明〕に見えます。
 十三年十月、 息長足日広額天皇が崩じました。
 明年正月、 皇后は天皇(すめらみこと)に即位されました。
 四年六月に改元〔大化〕して、 天万豊日(あめよろずとよひの)天皇〔孝徳〕に譲位されました。 天豊財重日足姫天皇は 皇祖母尊(すめみおやのみこと)と称されました。
 天万豊日天皇は、後の〔白雉〕五年十月に崩じました。


まとめ
 初婚で漢皇子を生んだ件はここだけだが、それ以外は〈舒明紀〉・〈皇極紀〉・〈孝徳紀〉を踏襲していて矛盾はない。
 ただ、譲位と改元の順序が逆で、また年号(大化・白雉)が欠落している点で、文章は雑である。



2024.02.14(wed) [256] 書紀巻二十七 天智天皇 

天智天皇紀
称制前
斉明七年七月是月~九月
斉明七年十二月~是歳
元年正月~六月
元年十二月~是歳
二年二月~三月
二年五月~六月
二年八月
二年九月
10三年ニ月
11三年三月~十月
12三年十ニ月~是歳
13四年
14五年
15六年二月~八月
16六年十月~潤十一月
17七年正月~二月
18七年四月~七月
19七年九月~是歳
20八年正月~九月
21八年十月~是歳
22九年
23十年正月
24十年二月~八月
25十年九月~十月
26十年十一月
27十年十ニ月~是歳
【書紀―称制前】
天智1目次 《天命開別天皇》
天命開別天皇…〈北野本〔以下北〕  アメ命開別天皇 ミコト ヒラカス ワケ スメラミコト 息長足日 オキ ナカ タラシ ヒ廣額天皇 ヒロ ヌカ舒明  ヒツキ子也 ミコトナリイロハ曰天豐財 マウス アメ トヨ タカラカシヒ-日足皇極タラシ ヒメ天皇
〈内閣文庫本〔以下閣〕太子也ヒツキノミコトナリ[句]イロハヲハ
天命開別天皇。
息長足日廣額天皇太子也。
母曰天豐財重日足姫天皇
天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)。
息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)〔舒明〕が太子(ひつぎのみこ)なり[也]。
母(みはは)は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)〔皇極/斉明〕と曰(い)ふ。
譲位…〈北〉位天○豊萬日天皇
天豐財重日足姫天皇四年。
讓位於天萬豐日天皇、
立天皇爲皇太子。
天豊財重日足姫天皇の四年(よとせ)。
位(くらゐ)を[於]天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)〔孝徳〕に讓(ゆづ)りたまひて、
天皇(すめらみこと)〔天智〕を立たして皇太子(ひつぎのみこ)と為(し)たまふ。
十月崩…〈北〉十月崩明 アカリマシヌクルツ皇-祖-母- スメミオヤノミコト卽-天-皇- アマツヒツキシロシメス。 〈閣〉五年 ニ[句]明年カムアカリマシヌ クルツ 
くるつ-…[連体詞] 年、月、日につけて「翌-」の意を加える。
天萬豐日天皇。
後五年十月崩。
明年。
皇祖母尊卽天皇位。
天万豊日天皇、
後(のち)の五年(いつとせ)十月(かむなづき)に崩(ほうず、かむあがりましぬ)。
明年(くるつとし)、
皇祖母尊(すめみおやのみこと)即天皇位(すめらみことのくらゐにつきたまふ、あめのしたしらす)。
称制…〈北〉 素服アマノミソタ/アサモノミソ-制キコシメス/タテマツリ  マツリコト
〈閣〉素-服アマノミソラ  アサモノミソタテマツリテ キコシメスマツリコト
…[名] 衣。
しろあさごろも…[名] 白麻衣。
称制…天子にかわって政務をとること。
七年七月丁巳。
崩。
皇太子素服稱制。
七年(ななとせ)七月(ふみづき)丁巳(ひのとみ)〔二十四日〕
崩(ほうず、かむあがりましぬ)。
皇太子(ひつぎのみこ)素服(しろあさのみそ)をたてまつりて称制(まつりごとをきこしめす)。

《素服》
 「」は白色である。素服の例としては、〈仁徳〉が菟道稚郎子が薨じたときに、 「大鷦鷯尊、素服為之発哀哭之甚慟」とある(〈仁徳〉(7)即位前)。
 『隋書』には「死者斂以棺槨…妻子兄弟以白布製服」(隋書倭国伝(2))とあり、 当時の習慣では喪服は白色であった。
 古訓は「アサモノタテマツリテ」で、「しろあさごろも(白麻衣)」(〈時代別上代〉)という語があるから、麻製の白服であろう。
《称制》
 他に「称制」という語は、〈持統紀〉で用いられる。 〈持統〉は〈天武〉が崩じた朱鳥元年〔686〕九月に「臨朝称制」し、正式に即位したのは四年〔690〕になってからである。
 称制の類語としては、摂政〔神功皇后〕秉政〔飯豊女王〕が見える。 なお、摂政は厩戸皇子が〈推古〉在位中の政務代行にも用いられ、以後はその意となる。
 飯豊女王は〈清寧〉と〈顕宗〉間の空白期間に「臨朝秉政」(顕宗即位前;清寧五年)。
 天皇空位の期間には〈応神〉四十二~四十三年があり、誰も称制せず全くの空位である(〈仁徳〉(7))。 〈継体〉二十六~二十七年も空白だが、書紀の記述における混乱と見られる(〈安閑〉(1))。
《大意》
 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)〔天智〕は、 息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)の「天皇〔舒明〕の太子(ひつぎのみこ)で、 母は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめ)の天皇〔皇極/斉明〕です。
 天豊財重日足姫天皇四年、 天万豊日(あめよろづとよひ)の天皇〔孝徳〕に譲位され、 天皇〔天智〕を皇太子(ひつぎのみこ)に立てられました。
 天万豊日天皇は、 後の五年十月に崩じました。
 翌年、 皇祖母尊(すめみおやのみこと)が天皇に即位され〔重祚して斉明〕、 七年七月二十四日に 崩じました。
 皇太子は素服〔白い麻の喪服〕を着て称制しました。


【書紀―七年正月~二月】
天智17目次 《皇太子卽天皇位》
即天皇位…〈北〉皇太子卽位/天皇。 〈閣〉即○天皇イ
歳次…太歳による年の表記。歳〔木星〕が星座を巡る意(資料[B])。
七年春正月丙戌朔戊子、
皇太子卽位
【或本云。
六年歲次丁卯三月卽位。】。
七年(ななとせ)春正月(むつき)丙戌(ひのえいぬ)を朔(つきたち)として戊子(つちのえね)〔三日〕
皇太子(ひつぎのみこ)即位(くらゐにつきたまふ)
【或本(あるふみ)に云ふ。
六年(むとせ)歳(ほし)丁卯(ひのとう)に次(やど)る。三月(やよひ)に位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。】。
内裏…〈北〉内-裏オホウチ
壬辰。
宴群臣於内裏。
壬辰(みづのえたつ)〔七日〕
群臣(おほまへつきみたち)を[於]内裏(おほうち)に宴(うたげしたまふ、とよのあかりたまはる)。
服命…〈北〉服命 カヘリコトマウ。 〈閣〉服-命カヘリコトマウス
戊申。
送使博德等服命。
戊申(つちのえさる)〔二十三日〕
送使(おくりつかひ)博徳(はかとこ)等(ら)服命(かへりことまをす)。
納四嬪…〈北〉四嬪 メシイル ヨハシラ ミメ
二月丙辰朔戊寅。
立古人大兄皇子女倭姫王、爲皇后。
遂納四嬪。
二月(きさらき)丙辰(ひのえたつ)を朔(つきたち)として戊寅(つちのえとら)〔二十三日〕
古人大兄皇子(ふるひとのおほえのみこ)の女(みむすめ)倭姫王(やまとひめのおほきみ)を立たして、皇后(おほきさき)と為(し)たまふ。
遂(つひ)に四(よはしら)の嬪(みめ)を納(をさ)めたまふ。
遠智娘…〈北〉遠智イラツキ。 〈閣〉イラツメト美濃子娘
鸕野女…〈北〉鸕野女タケル皇子オウシ語  マコトヲ
〈閣〉 ノ ト飛鳥浄御原タケルノ音讀  [句]オヲシテ不能マコトラコトマコトヲ
〈釈紀〉ス アタハ 語。マコト云コト
おふし…[名] ものが話せないこと。〈倭名類聚抄〉「瘖瘂:【於布之】不能言也」。
こととふ…[自]ハ四 言葉を交わす。
まこととふ…[自]ハ四 言葉を話す。〈時代別上代〉「否定の助動詞を伴った唖の例ばかりである」。 「真事登波受」(垂仁記;第119回)。
有蘇我山田石川麻呂大臣女曰遠智娘
【或本云美濃津子娘】、
生一男二女。
其一曰大田皇女。
其二曰鸕野女。
及有天下居于飛鳥淨御原宮、
後移宮于藤原。
其三曰建皇子、唖不能語。
蘇我(そが)の山田石川麻呂(やまだいしかはまろ)の大臣(おほまへつきみ)の女(むすめ)有りて遠智娘(をちのいらつめ)と曰ひ
【或本(あるふみ)に美濃津子娘(みのつこのいらつめ)と云ふ。】て、
一(ひとはしら)の男(をのこ)二(ふたはしら)の女(めのこ)を生みたまふ。
其の一(ひとはしら)は大田皇女(おほたのひめみこ)と曰ふ。
其の二(ふたはしら)は鸕野女(うのめ)〔持統〕と曰ひて、
天下(あめのした)を有(しろしめす)に及びて[于]飛鳥(あすか)の浄御原宮(きよみはらのみや)に居(ましま)して、
後(のち)に宮(おほみや)を[于]藤原(ふぢはら)に移したまふ。
其の三(みはしら)は建皇子(たけるのみこ)と曰ひて、唖(おふし)なりて語(まこととふこと)不能(あたはず)
鸕野皇女…〈北・閣〉鸕野皇女茅渟チヌ。 〈北〉茅渟チヌ
〈閣〉皇女
【或本云。
遠智娘生一男二女。
其一曰建皇子、
其二曰大田皇女、
其三曰鸕野皇女。
或本云。
蘇我山田麻呂大臣女曰茅渟娘、
生大田皇女
與娑羅々皇女。】。
【或本(あるふみ)に云ふ。
遠智娘、一男二女を生みたまふ。
其の一は建皇子と曰ふ。
其の二は大田皇女と曰ふ。
其の三は鸕野皇女(うののみこ)と曰ふ。
或る本に云ふ。
蘇我の山田麻呂の大臣の女、茅渟娘(ちぬのいらつめ)と曰ひて、
[生]大田皇女と
娑羅羅皇女(さららのひめみこ)与(と)をうみたまふ。】。
遠智娘…〈北〉 イロト ヒメ乃樂ナラ
〈閣〉チ私 イロト[切] メヒ ト[句]生御[ノ]皇女[切]阿陪皇女[句]阿陪皇女及天下  ビテ シロシメスニ天下 アメノシタヲ
…[名] めい。 〈倭名類聚抄〉「:兄弟之女為姪。…昆弟之女為姪是也。一云弟之女為姪。【和名米比】」。
めひ…姪。オヒ(甥)の対。
次有遠智娘弟曰姪娘、
生御名部皇女
與阿々陪々皇々女々
及有天下居于藤原宮
後移都于乃樂
【或本云
名姪娘曰櫻井娘。】。
次に遠智娘(をちのいらつめ)が弟(おと)有りて姪娘(めひのいらつめ)と曰ひて、
[生]御名部皇女(みなべのひめみこ)と
阿陪皇女(あへのひめみこ)与(と)ををうみたまふ。阿陪皇女〔元明〕
天下(あめのした)を有(しろしめす)に及びて[于]藤原宮(ふぢはらのみや)に居(ましま)して
後(のち)に都(みやこ)を[于]乃楽(なら)に移したまふ
【或本(あるふみ)に云ふ。
姪娘(めひのいらつめ)を名(なづ)けて桜井娘(さくらゐのいらつめ)と曰ふ。】。
倉梯麻呂…〈北〉倉梯磨大 呂イ 。 〈閣〉倉梯磨大臣
次有阿倍倉梯麿大臣女曰橘娘、
生飛鳥皇女
與新田部皇女。
次に阿倍(あべ)の倉梯麿(くらはしまろ)の大臣(おほまへつきみ)の女(むすめ)有りて橘娘(たちばなのいらつめ)と曰ひて、
[生]飛鳥皇女(あすかのひめみこ)と
新田部皇女(にひたべのひめみこ)与(と)をうみたまふ。
蘇我赤兄…〈北〉蘇-我大臣常陸 ヒタチ 。 〈閣〉常陸 ヒタチ  
次有蘇我赤兄大臣女曰常陸娘、
生山邊皇女。
次に蘇我(そが)の赤兄(あかえ)の大臣(おほまへつきみ)が女(むすめ)有りて常陸娘(ひたちのいらつめ)と曰ひて、
山辺皇女(やまのへのひめみこ)を生みたまふ。
宮人…〈北〉又有宮-人 メシヲムナ男女者四人 ヲ タツシココノ
忍海…〈倭名類聚抄〉{大和国・忍海【於之乃美】郡}。
みやひと…[名] 宮仕えする人。宮中に仕える女人。
みやおみな…[名] 宮中に仕える女人。(万)3791打氷刺 宮尾見名 刺竹之 舎人壮裳 うちひさす みやをみな さすたけの とねりをとこも」。
又有宮人生男女者四人。
有忍海造小龍女曰色夫古娘、
生一男二女。
其一曰大江皇女。
其二曰川嶋皇子。
其三曰泉皇女。
又宮人(みやひと)の男女(をのこをみな)を生みてある者(ひと)四人(よたり)有(あ)り。
忍海造(おしのみのみやつこ)小龍(をたつ)が女(むすめ)有りて色夫古娘(しこぶこのいらつめ)と曰ひて、
一(ひとはしら)の男(をのこ)二(ふたはしら)の女(めのこ)を生みたまふ。
其の一(ひとはしら)は大江皇女(おほえのひめみこ)と曰ふ。
其の二(ふたはしら)は川嶋皇子(かはしまのみこ)と曰ふ。
其の三(みはしら)は泉皇女(いづみのひめみこ)と曰ふ。
徳万女…〈北〉水-主 モムトリノ皇女。 〈閣〉 カ[句]曰黑媛 ト[句]水-主モ■トリ
モヒトリ…[名] 飲料水を掌ること。またその役職。
又有栗隈首德萬女曰黑媛娘、
生水主皇女。
又栗隈首(くりくまのおびと)徳万(とこま)が女(むすめ)有りて黒媛娘(くろひめのいらつめ)と曰ひて、
水主皇女(もひとりのひめみこ)を生みたまふ。
越道君…〈北〉越道君采女 ウネメ  ヤカ伊賀皇子。 〈閣〉又有道君[切][句]キノ音讀 [句]。 〈釈紀〉キノ皇子。私記曰。音讀。 ヤカコ 
又有越道君伊羅都賣、
生施基皇子。
又有伊賀采女宅子娘、
生伊賀皇子、後字曰大友皇子。
又越道君(こしのみちのきみ)の伊羅都売(いらつめ)有りて、
施基皇子(しきのみこ)を生みたまふ。
又伊賀(いが)の采女(うねめ)の宅子娘(かやこのいらつめ)有りて、
伊賀皇子(いがのみこ)を生みたまひて、後に字(あざな)を大友皇子(おほとものみこ)と曰ふ。

《送使博徳》
 六年十一月九日に上柱国(官名)司馬法聡が来倭し、筑紫都督府に滞在していた。十三日に百済〔既に唐の支配下〕に帰国し、 伊吉連博徳らは送使として〔おそらく対馬まで〕付き添った。
 ここでは博徳は任を終えて一月二十三日に復命している。 「服命」は「復命」の誤り。このように誤ったことから、書紀原文が書かれた時点では音読されていたことが伺われる。
《皇后・嬪・官人》
 〈天智〉七年に載る皇后・嬪・官人について、出身の皇族・氏族を見る。
古人皇子  〈舒明〉の皇子。母は蘇我蝦夷大臣の女の法提郎媛(〈舒明〉二年)。 即位を打診されたが断って僧籍に入り吉野に退く(〈皇極〉四年六月)。 後に謀反して亡びた(大化元年九月)。
蘇我倉山田麻呂  〈皇極〉三年正月に、中臣鎌子が中大兄(天智)に、山田麻呂の女を納めることを勧める。 〈皇極〉四年に右大臣就任。 大化五年に謀反を疑われて攻められ、自死。
 『公卿補任』に「孝徳天皇御世/右大臣/蘇我山田石河麿。…馬子大臣之孫。雄正子臣之子也」。
蘇我赤兄  〈天智〉八年に筑紫率。十年に左大臣。 『公卿補任』に「大臣馬子宿祢之孫。雄正子臣之〔子〕」。
阿倍倉梯麻呂大臣  「以阿倍内麻呂臣為左大臣」(〈皇極〉四年六月十四日(1))。 「以金策賜阿倍倉梯麻呂大臣」(〈皇極〉四年六月十四日(2))。 大化五年三月薨ず。
忍海造小龍  忍海造については、〈開化〉の皇子「建豊波豆羅和気王」が「忍海部造」の祖(第109回)。 『姓氏家系大辞典』に「大和国忍海郡名を負へる氏なり」、「飯豊青皇子…其の御名代として忍海部を残し給へり」。 「忍海部造と云ふに同じく、忍海部の民を率ゐし氏」とされる。
栗隈首徳万  栗隈氏の本貫は京都府宇治市大久保町(〈推古〉十五年)。
 山背大兄王が病気に臥す〈推古〉の許を訪ねた場面で、「栗隈采女黒女」が対応した(〈舒明〉即位前(六))。 黒媛娘はこのときの「黒女」とは当然別人だが〔40年も隔たっている〕、やはり栗隈首の女黒媛娘が采女として出仕していたと見られる。
越道君  〈姓氏家系大辞典〉は「越道 コシノミチ:北陸の大族。ミチ条を見よ」とする。そのミチの項には「道君:もと蝦夷族にて、大彦命に服従したるにより其の系を冒す」と述べつつも、「されど徴証なし、阿倍氏族とする方穏やかならん」として、 「最も栄えたるは加賀国…石川郡に味知郷…神名帳に味知神社」が見えると述べる。
 「伊羅都売」は郎女の音仮名だから、個人名抜きの「越道君のイラツメ」と呼ばれていたことになる。
伊賀采女  〈姓氏家系大辞典〉によれば「采女とは宮中に仕へし官女にて、京畿の貴族及び諸国国造が其の子女を奉り… 寵を得て皇子を生み奉りしものも〔すく〕なからず」という。
 伊賀采女宅子娘は伊賀臣が奉った采女だとすると読み易いが、 上に「生男女者四人」と書かれていて、この数は色夫古娘の三子と黒媛娘の一子で尽くされることが理解を困難にする。
 「生男女者四人」とあるから、計算上越道君伊羅都売伊賀采女宅子は、宮廷に仕えていなかったことになる。 しかし、この二人の采女の項はあとから判明したものを書き加えたとすれば、 本当は「生男女者六人」に直すべきところを、「四人」のままで放置された可能性がある。
 「忍海造小龍女曰色夫古娘」以下の四名の女は、全員が各地の地方氏族が奉った采女であったと見るのが自然であろう。
 〔すなわち、「宮人生男女者四人」〔宮人の男女を生みし者四人有り〕と訓む〕2024.9.2 加筆
《大田皇女》
 大田皇女は、〈斉明〉七年正月八日に皇女を産み、 さらに〈天智〉六年二月に葬られた。
 遡ってその母遠智娘を納めたのは、〈皇極〉三年正月(二)〔644年〕のことである。 〈天智〉七年〔668〕からは、24年前である。 したがって、実際に納めた時期とは無関係に、皇后、嬪、官人のリストを、形式的に七年二月二十三日の日付をつけて載せたのである。
 他の天皇紀でも同様であろうと見てきたが、ここではそれが極めて明瞭になっている。
《嬪と官人》 (※) :以下(※)は、2024.9.2 加筆。
 ここでは、「」は蘇我氏の娘なので〈天武紀〉では「夫人」に相当する。 そして、有力でない氏族出身の「宮人」は〈天武紀〉では無称である。 従って、ここでは後宮令の「皇后夫人」の序列に従っていない。
 この嬪たちのリストは、〈天智〉の時代から遺された史料に従って書かれたと見てよいであろう。この時代はまだ、夫人の区分けはまだ必ずしも一定していなかったようである。
《御名部皇女》 (※)
 〈続紀〉慶雲元年〔704〕正月「壬寅。…御名部内親王、石川夫人、益封各一百戸」。薨の記事なし。
《阿陪皇女》
 阿陪皇女は後に〈元明〉天皇となる。〈続紀〉には〈元明〉即位前のところに「日本根子天津御代豊国成姫天皇。小名阿閉皇女。天命開別天皇之第四皇女也。母曰宗我嬪。蘇我山田石川麻呂大臣之女也。適日並知皇子尊〔=草壁皇子〕。生天之真宗豊祖父天皇〔=文武〕」とある。 そして慶雲四年〔707〕七月十六日に即位して、 和銅三年〔710〕三月十日に「始遷都于平城」となる。

《飛鳥皇女》 (※)
 〈続紀〉文武四年〔700〕夏四月癸未。浄広肆明日香皇女薨。…天智天皇之皇女也」。
《山辺皇女》 (※)
 大津皇子は謀反の罪で死罪となった。〈持統〉朱鳥元年九月庚午「賜死皇子大津…。妃皇女山辺、被髮徒跣、奔赴殉焉…〔大津皇子は死を賜り、妃の山辺皇女は髪が体を覆い裸足の状態で、駆け出して殉死した〕
《川嶋皇子》 (※)
いわゆる
「吉野の盟約」
 〈天武〉八年五月。「吉野宮」において「皇后及草壁皇子尊、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子、忍壁皇子、芝基皇子」に「汝等倶盟于庭而千歳之後欲無事〔お前たちが共に祈りの庭で誓い、永き世の無事を願う〕と宣って、盟約させた。
 〈天武〉十年三月「川嶋皇子、忍壁皇子…〔他十名〕-定帝紀及上古諸事」。
 〈持統〉五年八月「浄大參皇子川嶋」。
《施基皇子》 (※)
 施基皇子〔芝基皇子〕は〈天武〉八年吉野の盟約に参加。 〈天武〉朱鳥元年八月辛巳「芝基皇子、磯城皇子各加二百戸」。 〈持統〉三年六月「皇子施基〔他五名〕…等撰善言司」。
 〈続紀〉和銅元年正月「四品志貴親王三品」。 和銅七年〔714〕二品長親王。舎人親王。新田部親王。三品志貴親王益封〔加封〕各二百戸」。 霊亀二年〔716〕八月甲寅「二品志貴親王薨。…親王天智天皇第七之皇子也。宝亀元年〔770〕、追尊。称御春日宮天皇」。
《泉皇女》 (※)
 〈続紀〉天平六年〔七三四〕庚子。二品泉内親王薨。天智天皇之皇女也」。
《水主皇女》 (※)
 〈続紀〉天平九年〔737〕辛酉。三品水主内親王薨。天智天皇之皇女也」。
《大意》
 七年正月三日、 皇太子(ひつぎのみこ)は即位されました 【ある書には、 六年歳次丁卯三月に即位したという。】。
 七日、 群臣と内裏で宴されました。
 二十三日、 送使の博徳(はかとこ)らが復命しました。
 二月二十三日、 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)の娘、倭姫王(やまとひめのおおきみ)を、皇后(おおきさき)に立てられました。
 そして、四嬪を納められました。
 蘇我(そが)の山田石川麻呂(やまだいしかわまろ)の大臣(おおまえつきみ)の娘、遠智娘(おちのいらつめ)がいて 【ある書には美濃津子娘(みのつこのいらつめ)という。】、 一男二女を生みました。
 一人目は大田皇女(おおたのひめみこ)といいます。
 二人目は鸕野女(うのめ)〔持統天皇〕といい、 天下を飛鳥の浄御原宮(きよみはらのみや)で治められ、 後に宮を藤原に移されました。
 三人目は、建皇子(たけるのみこ)といい、言葉が不自由でした 【ある書には、 遠智娘は一男二女を生み、 一人目は建の皇子、 二人目は大田皇女、 三人目は鸕野皇女(うののひめみこ)という。 ある書には、 蘇我の山田麻呂の大臣の娘、茅渟娘(ちぬのいらつめ)といい 大田皇女と 娑羅羅皇女(さららのひめみこ)を生んだ。】。
 次は遠智娘(をちのいらつめ)の妹、姪娘(めいのいらつめ)がいて、 御名部皇女(みなべのみこ)と 阿陪皇女(あへのみこ)を生みました。阿陪皇女〔元明天皇〕は、
天下(あめのした)を藤原宮(ふじわらのみや)で治められ、 後に都を乃楽(なら)に移されました 【ある書には、 姪娘(めひのいらつめ)の名は桜井娘(さくらいのいらつめ)だという。】。
 次は阿倍(あべ)の倉梯麿(くらはしまろ)の大臣(おおまえつきみ)の娘、橘娘(たちばなのいらつめ)がいて、 飛鳥皇女(あすかのひめみこ)と 新田部皇女(にひたべのひめみこ)を生みました。
 次は蘇我(そが)の赤兄(あかえ)の大臣(おおまえつきみ)の娘、常陸娘(ひたちのいらつめ)がいて、 山辺皇女(やまのへのひめみこ)を産みました。
 また、宮人〔=采女〕に、男子女子を生んだ者が四人がいます。
 忍海造(おしのみのみやつこ)小龍(おたつ)の娘、色夫古娘(しこぶこのいらつめ)がいて、 一男二女を生みました。
 一人目は大江皇女(おおえのひめみこ)といいます。
 二人目は川嶋皇子(かわしまのみこ)といいます。
 三人目は泉皇女(いずみのひめみこ)といいます。
 また、栗隈首(くりくまのおびと)徳万(とこま)の娘、黒媛娘(くろひめのいらつめ)がいて、 水主皇女(もひとりのみこ)を生みました。
 また、越道君(こしのみちのきみ)の伊羅都売(いらつめ)がいて、 施基皇子(しきのみこ)を生みました。
 また、伊賀采女(いがのうねめ)の宅子娘(かやこのいらつめ)がいて、 伊賀皇子(いがのみこ)を生み、後に字(あざな)を大友皇子(おおとものみこ)といいます。


まとめ
 中大兄はずっと称制を続け、七年になってやっと即位した。思えば過去何度も即位の機会がありながら、〈皇極〉、〈孝徳〉、〈斉明〉に天皇位を譲ってきた。 それは、その度に自ら即位を望んだが妨げられてきたようにも見える。 しかし、表向きは補佐役に徹して、改新詔から始まった国の改造に専念しようとしたのが実際のように思われる。
 中大兄は、さらに大宰府政庁(本来は京として計画)と大津宮という都の複数制を構想し、それは唐の西京(長安)と、東京(洛陽)を手本としたと考えられる。 併せて朝廷の形も従来の古びた天皇〔実際の呼称はオホキミ〕を否定して、新しいミカドの形を模索していたのではないだろうか。 ただ、その形で即位しようと考えているうちに年数が過ぎ、実際の即位は古い形で行われたと思われる。
 〈天智〉の目標は〈天武〉に引き継がれ、 従来の令を飛鳥浄御原令に発展させ、都を複数化する候補地を探し、オホキミに変わるミカドの称として「天皇」号を定めることに繋がったと考えられる。
 これが、現時点におけるサイト主による見通しであるが、今後妥当でないことが分かれば改めたい。



2024.08.11(sun) [257] 書紀巻二十八天武天皇上 

天武天皇紀上
即位前
天智七年~十年十月十七日
天智十年十月十九日~十二月
元年三月~五月
元年五月是月
元年六月二十二~二十四日
元年六月二十四日是日
元年六月二十四日即日
元年六月二十五日
10元年六月二十六日
11元年六月二十六日是日(一)
12元年六月二十六日是日(二)
13元年六月二十七日
14元年六月二十八日~三十日
15元年七月二日
16元年七月三~九日
17元年七月十三~二十二日
18元年七月二十三日
19元年七月二十三日是日
20元年七月二十三日先是
21元年七月二十四日~八月
22元年九月~十二月
【書紀―即位前】
天武上1目次 《天渟中原瀛眞人天皇》
天渟中…〈北野本〔以下北〕天- アマノハラ【渟中此云農難】 ハラ瀛眞-人 オキノマヒト天皇 ミコト開別 ヒラカス ワケ天皇同 ノ イロト
〈内閣文庫本〔以下閣〕 ハ【渟◱中◱此云農ミコト開別ヒラカスワケノ天智天皇也
〈兼右本〉渟-中テイ チウ[ヲ][ハ]農-儺ヌナイ乍
天渟中【渟中此云農難】
原瀛眞人天皇
天命開別天皇同母弟也。
天渟中(あまのぬな)【渟中、此をば農難(ぬな)と云ふ】
原瀛真人(はらおきのまひと)の天皇(すめらみこと)は
天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)が同母弟(いろど)なり[也]。
幼曰…〈北〉幼日 トキ ワカクマシゝオホ海- アマ サマ皇子 生 アレマシゝヨリ而有岐㠜 ナルミタイコヨカノ之姿 及ヲトナ雄-拔 ヲゝシク 神武 タケシ  シ天-文テンモン遁-甲トン カフ
〈閣〉 アマアマ -人/サマノ岐-ナルアリイコヨカノ イコヨカナル姿ミスカタ-文
イコヨカ…[形動] 〈時代別上代〉「イコはイカ、ヨカは接尾語ヤカと同じ」、 「イヤヤカ」、「イヨヨカと同様の意味」。
…幼いころから才知が人より優れていること。
…[形] (古訓) たかし。さかし。
雄抜…雄大で、軍を抜いて優れていること。
神武…神のような武力。
…(呉音)モン。(漢音)ブン。
幼曰大海人皇子。
生而有岐㠜之姿、
及壯雄拔神武、
能天文遁甲。
幼(をさ)なくありては大海人皇子(おほあまのみこ)と曰(い)へり。
生(あれながら)にありて[而]岐嶷之(さかき、ぎぎよくの)姿(みすがた)有り。
壮(をとこさかり)に及びて雄(おほし)く抜(ひいで)て神(くすし)く武(たけ)し、
能(よ)く天文(てんもん)遁甲(とんかふ)をしたまふ。
菟野皇女…〈北〉ミムスメ ウ正妃 ムカ ヒメ
むかひめ…[名]〈時代別上代〉「向ヒ=メ。ソバメの対」。
納天命開別天皇女
菟野皇女、
爲正妃。
[納]天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)が女(みむすめ)
菟野皇女(うののみこ)をめあはせて、
正妃(むかひめ)と為(し)たまふ。

《生而有岐嶷之姿》
 古訓のイコヨカイカヤカの訛りかも知れないが、何れにしても用例は書紀古訓のみである。
 もし平易に「生まれながらにして聡き姿あり」と訓んだとしても、「岐嶷」の意は尽くしている。
《能天文遁甲》
 古訓「天文遁甲ニ能(ヨ)シ」は文法的には正確とは言えない。「」は助動詞だからである。
《遁甲》
 日本では専ら忍術のことを遁甲というが、〈汉典〉には次の説明がある。
――「古代方士術数之一。起於『易緯乾鑿度』」、 「其法以十干的乙・丙・丁三奇、以戊・己・庚・辛・壬・癸六儀。 …而以甲統之、視其加臨吉凶、以為趨避、故称“遁甲”」。
 ここで、方士は神仙の術を行う人。『易緯乾鑿度』〔前漢末から後漢〕は易による未来予言の書。 「」は以下の「三奇六儀」の上位にあり、すなわちを占うことによって難を避けるから「遁甲」というと述べる。
《菟野皇女》
 鸕野皇女とも表記、別名娑羅々皇女、後に持統天皇。父は天智天皇、母は遠智姫(美濃津子)、姉は大田皇女
《大意》
 天渟中 原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)は、 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)〔天智〕の同母の弟です。
 幼いときは大海人皇子(おおあまのみこ)といいました。 生まれながらに岐嶷(ぎぎょく)の姿があり、 壮年に及んで雄抜、神武の人となり、 よく天文遁甲(とんこう)をなされました。
 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)の娘、 菟野皇女(うののみこ)をお納めになり、 正妃となされました。


まとめ
 大海皇子の振る舞いは、古人皇子そっくりである。 何れも旧体制の維持をよしとしない勢力にとって、神輿に担ぐ適材であった。 ともにリーダーに相応しい立派な識見、統率力の持ち主であったと考えられる。
 ただ、こと大海皇子の場合は、異例なことに反朝廷勢力による権力の奪取に成功した。 それだけ戦時体制を維持するために、人民を異常に搾取したのであろう。
 朝鮮式山城の築城は、西の地方に行くほど理解された。それは、人民が百済の悲劇を目の当たりにしていたからである。 しかし、畿内では一般人には切迫感がなく、不満は限りなく膨れ上がったと見られる。それは高安城の石塁工事の中止を余儀なくされたことにも現れている。 また、法隆寺の放火も、納入した税を高安城の倉庫に積み上げたことへの不満の現れとする文脈で語られている。いわば高安城は人民の怨嗟の象徴であった。
 さらに、大津京遷都は、その反発を決定的にしたのかも知れない。



2024.09.02(mon) [258] 書紀巻二十九天武天皇下 

天武天皇紀下
23二年正月~二月
24二年三月~閏六月
25二年八月~十二月
26三年
27四年正月
28四年二月~三月
29四年四月
30四年六月~十一月
31五年正月~四月
32五年五月~七月
33五年八月~九月
34五年十月~是歳
35六年正月~六月
36六年七月~十二月
37七年正月~九月
38七年十月~是歳
39八年正月~三月
40八年四月~五月
41八年六月~九月
42八年十月
43八年十一月~是歳
44九年正月~四月
45九年五月~六月
46九年七月~十月
47九年十一月
48十年正月~二月
49十年三月~四月
50十年五月~七月
51十年閏七月~九月
52十年十月~十二月
53十一年正月~三月
54十一年四月~六月
55十一年七月
56十一年八月
57十一年九月~十二月
58十二年正月~三月
59十二年四月~七月
60十二年八月~九月
61十二年十月~十二月
62十三年正月~四月
63十三年閏四月~五月
64十三年六月~十月
65十三年十一月~是歳
66十三年十二月
67十四年正月~三月
68十四年四月~六月
69十四年七月~八月
70十四年九月
71十四年十月
72十四年十一月~十二月
73朱鳥元年正月二日~十四日
74朱鳥元年正月十六日~三月
75朱鳥元年四月~五月
76朱鳥元年六月
77朱鳥元年七月
78朱鳥元年八月~九月二十四日
79朱鳥元年九月二十七日~三十日
【書紀―二年正月~二月】
天武下23目次 《卽帝位於飛鳥淨御原宮》
置酒…〈北野本〔以下北〕 メシ酒宴 オホミキ群臣
〈内閣文庫本〔以下閣〕宴群 トヨノアカリス-臣
置酒…酒宴。
二年春正月丁亥朔癸巳。
置酒宴群臣。
二年(ふたとせ)春正月(むつき)丁亥(ひのとゐ)を朔(つきたち)として癸巳(みづのとみ)〔七日〕
群臣(まへつきみたち)に置酒宴(みきのうたげ、とよのあかり)をたまふ。
二月…〈北〉二-月キサラキ
壇場…〈内閣文庫本/雄略〉「 テ タカミクラヲ於泊瀬朝倉即天皇位
〈北〉ミコトオホキ-司壇-タカトノ帝-位於飛-鳥浄-御-原宮
〈閣〉命有ミコトヲホタテ-司[切]壇-場タカトノヲ[切]即-帝-位アマツヒツキシロシメス
たかどの…[名] 楼閣。
二月丁巳朔癸未。
天皇命有司設壇場、
卽帝位於飛鳥淨御原宮。
二月(きさらき)丁巳(ひのとみ)を朔(つきたち)として癸未(みづのとひつじ)〔二十七日〕
天皇(すめらみこと)有司(つかさつかさ)に命(おほ)せて壇場(まつりのには)を設(まう)けしめて、
[於]飛鳥(あすか)の浄御原宮(きよみはらのみや)に帝(みかど)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。
生草壁皇子尊…〈北〉■マシテ。 〈閣〉アンマス 草壁皇子尊先納/交本當特殊貴故曰尊后姉
…[名] ①のち〔=後〕。②きみ〔王侯を呼ぶ〕。③きさき。
いろね…[名] 同腹の兄、姉。 。
立正妃爲皇后
々生草壁皇子尊。
正妃(むかひめ)を立たして皇后(おほきさき)と為(し)たまひて、
后(のち)に、草壁皇子(くさかべのみこ)の尊(みこと)を生みたまふ。
大来皇女…〈閣〉大來オホキノ私説皇女大津オホキノ私説皇子
〈釈紀〉大來オホキノ皇女ヒメミコ【弘仁私記。大來此云於保支
先納皇后姉大田皇女爲妃、
生大來皇女與大津皇子。
先(さき)に皇后(おほきさき)の姉(いろね)大田皇女(おほたのひめみこ)を納(めあは)せて妃(きさき)と為(し)て、
大来皇女(おほくのひめみこ)と大津皇子(おほつのみこ)与(と)を生みたまふ。
次妃…〈北〉次-妃
次妃大江皇女、
生長皇子與弓削皇子。
次の妃(きさき)大江皇女(おほへのひめみこ)は、
長皇子(ながのみこ)と弓削皇子(ゆげのみこ)与(と)を生みたまふ。
次妃…〈北〉-
次妃新田部皇女、
生舍人皇子。
次の妃新田部皇女(にひたべのひめみこ)は、
舎人皇子(とねりのみこ)を生みたまふ。
夫人藤原大臣…〈北〉夫-人 オトシ 。 〈閣〉夫人オフトシオトシ  
又夫人藤原大臣女氷上娘、
生但馬皇女。
又(また)夫人(おほとじ)藤原大臣(ふじはらのおほまへつきみ)が女(むすめ)氷上娘(ひかみのいらつめ)は、
但馬皇女(たじまのひめみこ)を生みたまふ。
五百重娘…〈北〉五-百-重-イホカヘ
次夫人氷上娘弟五百重娘、
生新田部皇子。
次の夫人(おほとじ)氷上娘(ひかみのいらつめ)が弟(おほ)五百重娘(いほへのいらつめ)は、
新田部皇子(にひたべのみこ)を生みたまふ。
次夫人…〈北〉夫-人 ヲフトシ 大臣女/ヲホ-- ヒメ ノ/子 。 〈閣〉 ヲホ ヌ
〈釈紀〉オホヒメ【私記曰。師説。蕤或爲殅々讀美。蕤汝誰反。説文草木華垂㒵也】〔㒵:貌の異体字〕
…[形] 草木の花が垂れ下がるさま。(呉音)ヌイ。(漢音)ズイ。
次夫人蘇我赤兄大臣女大蕤娘、
生一男二女。
其一曰穗積皇子。
其二曰紀皇女。
其三曰田形皇女。
次の夫人(おほとじ)蘇我赤兄大臣(そがのあかえのおほまへつきみ)が女(むすめ)大蕤娘(おほぬのいらつめ)は、
一男(ひとはしらのみこ)二女(ふたはしらのひめみこ)を生みたまふ。
其一(そのひとはしら)は穂積皇子(ほづみのみこ)と曰ひて、
其二(そのふたはしら)は紀皇女(きのひめみこ)と曰ひて、
其三(そのみはしら)は田形皇女(たがたのひめみこ)と曰ふ。
娶鏡王女…〈北〉娶イ女字イ无 カゝミノ王女額オホキミノムスメ 。 〈閣〉メシテ
天皇初娶鏡王女額田姬王、
生十市皇女。
天皇(すめらみこと)初(はじ)めに鏡王(かがみのおほきみ)が女(むすめ)額田姫(ぬかたひめ)の王(おほきみ)を娶(めあは)せたまひて、
十市皇女(といちのひめみこ)を生みたまふ。
胸形君…〈北〉𦙄-形凶イ月イムナ カタノキ ノト セムカ ムスメ尼子 ヲ
〈閣〉メシテ凶月形。 〈釈紀〉ムナカタノキミトクセカムスメアマヒメ
次納胸形君德善女尼子娘、
生高市皇子命。
次に胸形君(むなかたのきみ)徳善(とくぜん)が女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)を納(をさ)めたまひて、
高市皇子(たけちのみこ)の命(みこと)を生みたまふ。
宍人…〈北〉完人臣𣝅カチヒメ タキノ皇女ヒメミコ
〈閣〉完人臣カチ媛娘 └𣝅交本姫郎■字无之 磯城シキ。 〈釈紀〉𣝅カチヒメ
𣝅…〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉によると、の異体字。
…[動] はかる。なぞらえる。(呉音)ゴ。(漢音)ギ。
次宍人臣大麻呂女𣝅媛娘、
生二男二女。
其一曰忍壁皇子。
其二曰磯城皇子。
其三曰泊瀬部皇女。
其四曰託基皇女。
次に宍人臣(ししひとのおみ)大麻呂(おほまろ)が女(むすめ)𣝅媛娘(かぢひめのいらつめ)は、
二男(ふたはしらのみこ)二女(ふたはしらのひめみこ)を生みたまふ。
其一(そのひとはしら)は忍壁皇子(おさかべのみこ)と曰ひて、
其二(そのふたはしら)は磯城皇子(しきのみこ)と曰ひて、
其三(そのみはしら)は泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)と曰ひて、
其四(そのよはしら)は託基皇女(たきのひめみこ)と曰ふ。
勲功…〈北〉有-勳 イサヲシ -功人-等ヒト タチニ タマフコト カフリ アリシナ
いさをし…[形]シク 勇ましく雄々しい。
いさみ…[名] 奮闘すること。また奮闘して挙げた功績。
乙酉。
有勳功人等賜爵有差。
乙酉(きのととり)〔二十九日〕
勲功(いさみ)を有(も)てる人等(たち)に爵(かがふり)を賜(たま)ふ、差(しな)有(あ)り。

《壇場》
 〈雄略紀〉5《壇》項で見たように、 中国の天子が即位した「」を当てはめて、即位の儀式の表現としたもの。
 はもともと儀式を行う土を盛って場で、「天地の祭り、諸侯の会合、将相の任命など、すべて土の台上で行われた」(『学研新漢和』)という。 〈雄略〉紀では古訓「タカミクラ〔高貴な人の座の意味〕が用いられたが、ここでの古訓は「タカトノ」である。 タカドノ〔=楼閣〕は明らかに不適切で、タカミクラの方がまだましである。
 即位について、多くは有司に推戴されるが一度辞退し、再度推されて渋々受けたと書かれる。 通例に反して、あからさまに自ら壇場の設置を命じたと書かれたのは〈雄略〉帝と〈天武〉帝のみである (〈宣化紀〉《奏上剣鏡》参照)。
飛鳥宮遺跡第Ⅲ-B期
『飛鳥宮跡解説書』(p.10)所引『飛鳥京跡Ⅲ』(奈良県橿原考古学研究所2008)
《浄御原宮》
 浄御原宮は、〈斉明〉の後岡本宮を拡張整備したものと考えられている (資料[54]《飛鳥宮跡》項)。 考古学上は、飛鳥宮跡の〈天武〉帝以後と見られる層はⅢ-B期という。
 『飛鳥宮跡解説書』関西大学文学部考古学研究室編〔奈良県明日香村2017〕によると、 「Ⅲ―B期の遺構は天武・持統天皇が使用した飛鳥浄御原宮と考えられ」、 「後飛鳥岡本宮から改修される際に、エビノコ郭が設けられただけでなく、外郭の規模の拡大も行われたと考える意見も」あるという。 エビノコ郭は「出土する土器の年代から天智9〔670〕前後に造営が始まったと考えられ」、 「遺構の様子が内郭南区画の建物と類似するため、同様に政治や儀礼の場として使われていた」と考えられるという(p.10)。
 〈天武〉天皇は、もはや近江京を顧みることはなかった。仮に〈天武〉が近江京を引き継ごうとすれば、大海皇子を推戴した諸氏には到底受け入れられなかっただろう。 それだけ、諸氏が〈天智〉の治世に反感を募らせた要因として、近江京建都の負担が大くを占めたのであろう。
《立正妃為皇后》
菟野皇女  〈天武上〉で、菟野皇女正妃と規定した 〔鸕野皇女、娑羅々皇女とも〕。 「即帝位」に伴い、改めて皇后に立てられた。
《皇后々》
 「皇后」は「」の目的語として文章が完結しているので、改めて主語「」を立てるという考えは理解できる。 しかしこのような場合に書紀は完全な形で反復して誤解の余地をなくしているので、この場合は「皇后々々」、または「皇々后々」とされるはずである。
 よって、二つ目の「」は「のちに」と訓んで、後文の「皇后姉大田皇女」と対応させるのが正しいと見られる。
《生(あ)れます》
 への古訓アレマスは、アル〔下二〕を他動詞としたもの。 しかし、〈時代別上代〉によるとアル〔下二〕はおそらく「有り」に由来し、「生れ出る」、「出現する」意で、「神霊が現れる」意味として中世まで使われたという。 他動詞とする場合について同書は「アラシマス大泊瀬天皇」(允恭紀七年)の例を挙げる 〔アルの未然形+使役の動詞語尾ス(サ変)の連用形+尊敬の補助動詞〕
 上代にはアル〔下二〕が他動詞として使われることはなく、 使役形アラスは子を産む意味ではあるが、用例は限られている。
《草壁皇子尊》
草壁皇子  草壁皇子は、〈天武〉十年二月甲子に立太子。 〈持統〉三年四月乙未に「皇太子」として薨ず。 「」がつくのは、本来天皇となるべき皇子であったことを示す。 〈続紀〉〈文武〉即位前紀に「日並知皇子尊者、宝字二年有勅。追-崇尊号。称岡宮御宇天皇也。〔草壁皇子は、758年に「岡宮御宇天皇」が追号された〕とある。
 万葉集には、「日並皇子尊」の殯に柿本人麻呂が詠んだ歌や返歌など併せて四首(0167~0170)、舎人が悼む歌二十三首(0171~0193)が納められている。
 〈天武〉八年五月には吉野の盟約がなされ、草壁皇子は、皇子たちの筆頭に位置づけられた。 なお、盟約に参加したメンバーのうち、河嶋皇子芝基皇子は〈天智〉の皇子である。
《妃大田皇女:大来皇女、大津皇子》
大田皇女  大田皇女鸕野皇女の姉。母は遠智娘で、遠智娘の父は倉山田石川麻呂、 話は〈皇極紀〉三年正月条まで遡る。 〈天智〉六年〔667〕までに薨ず。墓は「越塚御門古墳」説が有力。
大来皇女  〈斉明〉西征の途上、「大伯海」で大田皇女大伯皇女を出産した話が載る(〈斉明〉七年正月)。 〈天武〉三年十月に伊勢神宮に侍る。〈続紀〉大宝元年〔701〕十二月乙丑「大伯内親王薨。天武天皇之皇女也」。
大津皇子  吉野の盟約の一人。〈天武〉十二年二月に「始聴朝政」。十四年正月「浄大弐位」。 朱鳥元年九月「-反於皇太子」。〈持統紀〉朱鳥元年十月「庚午。賜皇子大津於訳語田舎、時年廿四」。
《妃大江皇女:長皇子、弓削皇子》
大江皇女 忍海造小龍色夫古娘(〈天智〉の宮人)―大江皇女。〈続紀〉文武三年〔699〕浄広弐大江皇女薨」。
長皇子 〈持統〉七年「皇子長」に「浄広弐」を授く。〈続紀〉慶雲元年〔704〕二品長親王益封〔加増〕各二百戸」。 和銅七年〔714〕正月「二品長親王。…益封各二百戸」。 霊亀元年〔715〕六月「一品長親王薨。天武天皇第四之皇子也」。
弓削皇子〈持統〉七年「皇子弓削」に「浄広弐」を授く。〈続紀〉文武三年〔699〕浄広弐弓削皇子」。
 大宝令により、皇子⇒親王皇女⇒内親王に改称された。  長皇子および弓削皇子は、吉野の盟約に加わっていない。年少であったためか。
《妃新田部皇女:舎人皇子》
新田部皇女 阿倍倉梯麻呂大臣橘姫(〈天智〉の)―新田部皇女。〈続紀〉文武三年〔699〕九月「新田部皇女」。
舎人皇子 〈持統〉九年正月「皇子舎人」に「浄広弐」を授く。 〈続紀〉慶雲元年〔704〕二品…舎人親王…益封各二百戸」。 和銅七年〔714〕二品…舎人親王…益封各二百戸」。養老二年〔718〕一品。養老三年〔719〕八百戸を増し、これまでと併せて二千戸。 養老四年〔720〕五月癸酉「一品舎人親王修日本紀。至是功成奏上、紀卅巻系図一巻」。すなわち日本書紀を奏上した。 八月「知太政官事」。天平七年〔735〕」。 天平宝字三年六月庚戌「追皇舍人親王、宜称崇道尽敬皇帝」。
 『公卿補任』には「〔養老〕四年八月四日甲申為知太政官事(歳四十五准大臣)」。 「天平十七年:十一月十四日乙丑薨(年六十在官十六年)…贈太政大臣。天平宝字二年〔三年の誤り〕六月追崇道尽敬」。
 『公卿補任』から逆算すると、舎人皇子の生年は〈天武〉五年〔676〕。 〈天武〉天皇の親王というネームバリューは大きかったと思われるが、その中でも舎人皇子の地位は特筆される。『公卿補任』は、「知太政官事」を「列左大臣長屋王上〔左大臣より上位〕とし、薨じて「贈太政大臣」と書く。
 吉野の盟約〔679〕当時は、まだ四歳であった。
《夫人氷上娘:但馬皇女》
氷上娘 ここに書かれた「藤原大臣女氷上娘」が、氷上娘鎌足の娘と見做す根拠と見られる。〈天武〉十一年正月「」。赤穂に葬る。 (万)4479題詞「藤原夫人歌一首。浄御原宮御宇天皇〔天武〕之夫人也。字曰氷上大刀自」。
但馬皇女 〈続紀〉和銅元年〔708〕六月丙戌「三品但馬内親王薨。天武天皇之皇女也」。
第183回〈反正〉紀皇夫人」。ここではオホキサキ(皇后)と同義か。
〈雄略〉二年慕尼夫人」。百済国の呼称。
〈清寧〉即位前母夫人」。「吉備夫人」と呼ばれ得る
〈欽明〉二年九月青梅夫人」。「五妃」に含まれないので、に次ぐ地位か。
〈敏達〉四年老女子夫人」。「菟名子夫人」。は空席。
〈崇峻〉三年大伴狛夫人」。百済国の呼称。
〈推古〉二十年皇太夫人堅塩媛」。堅塩媛は、かつては皇后に次ぐ「」であった。
〈舒明〉二年十月夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛」。「蘇我夫人」とも呼ばれ得る。
〈斉明〉六年七月君大夫人」。百済国の呼称。
〈天智〉七年十月母夫人」。高句麗の伝説上の始祖の母。
○印はオホトジと訓まれ得ると考えられるもの┘
《夫人》
 夫人は職員令で定義された用語〔皇后・妃・夫人・嬪の一〕としては、音読〔ブニン〕が基本かと思われる。
 〈続紀〉を見ると、藤原夫人が五人いる。少し寄り道して具体的に見ると、次のようになっている。
 『続日本紀』に見る「藤原夫人」
正一位藤原夫人神亀元年〔724〕藤原不比等の女。宮子〈文武〉夫人
正三位藤原夫人神亀四年〔727〕藤原不比等の女。光明子〈聖武〉夫人
天平元年〔729〕  ⇒立皇后
正三位藤原夫人天平二十年〔748〕藤原武智麻呂の女。(藤原南夫人)〈聖武〉夫人
従二位藤原夫人天平宝字四年〔760〕藤原房前の女。(藤原北夫人)〈聖武〉夫人
正三位藤原夫人延暦二年〔783〕藤原良継の女。藤原乙牟漏〈桓武〉夫人⇒立皇后
 藤原氏に限らず、夫人が「出身氏族名+"夫人"」と呼ばれる習慣は一般的であったと考えられる。
 また上述、万葉集の題詞の「氷上大刀自」の例を見ると、夫人が宮中でオホトジと呼ばれていたと考えられる。 よって、夫人オホトジはかなり重なり合うと考えられ、これが夫人オホトジと訓み得る一定の根拠になると思われる。
 ここで、書紀に現れた「夫人」の全体像を見る()。
 堅塩媛を改葬する際の称「皇夫人」は、蘇我氏から納めたことによる名称「蘇我夫人」の夫人への敬意を高めたものと考えられる。 皇后オホキサキと呼ぶことに倣うと、本来は「皇夫人」はオホキオホトジ」と呼ばれたことも考えられるが、確証はない。
《妃と夫人》
 大宝令以後は「皇后夫人」の序列が確立された(〈推古〉二十年《夫人の地位》項)。 書紀の後ろの方になると、それを遡らせたと見られる用例が見える。
 〈天武〉紀では皇后夫人が明示され、額田姫尼子娘𣝅媛娘は、順序でばの地位にあたる。
 ここで見ると、「夫人」の地位にあるのは有力氏族である蘇我氏、藤原氏の娘に限られる。 その他の伊奈氏(鏡王)、宗像氏、宍人臣の娘は「夫人」が付かないので、これらは弱小氏族から供出された采女の中から美しい者が選ばれたのであろう。
 一方「」は〈天智〉の皇女である。このように夫人・無称(か)はくっきりと区分けされている。
 〈天智紀〉では、〈天武紀〉の「夫人」には「」が、無称には「宮人」が用いられていた(《嬪と官人》)。 よって、区別自体は明確に存在したが、〈天智〉の時代には夫人にあたるものをと呼ぶこともあったということになる。
《夫人五百重娘:新田部皇子》
五百重娘 鎌足の子、氷上娘の妹。 (万)1465題詞「明日香清御原宮御宇天皇之夫人也。〔あざな〕大原大刀自。即新田部皇子之母也」。 不比等〔異母兄と言われる〕と再婚して〔藤原京家の祖〕を生んだ(『尊卑分脈系譜』)。
新田部皇子 文武四年〔700〕正月「新田部皇子浄広弐」。 慶雲四年〔707〕十月「御装司」。 養老三年〔719〕十月「-封五百戸」。 養老四年〔720〕八月「知五衛及授刀舎人事」。神亀元年〔724〕二月「授一品」。 神亀五年〔728〕七月「三品大将軍新田部親王明一品」。 天平三年〔730〕十一月「始置畿内惣管、諸道鎮撫使。以一品新田部親王大惣管」。 天平七年〔735〕九月壬午「一品新田部親王」。
 新田部皇子は、同じく大宝年間以後に活躍した舎人皇子と同年代であろう。
《夫人大蕤娘:穂積皇子、紀皇女、田形皇女》
 蘇我赤兄大臣大蕤娘石川氏蘇我氏から改称したもので、その時期は〈天武〉十三年の朝臣姓を賜った頃と思われる。 常識的に考えて大蕤娘を娶ったのは壬申の乱より前、かつ大臣を拝する以前であったと思われる。 〈続紀〉で蘇我が見えるのは、「蘇我山田石川麻呂大臣」、「後岡本朝大臣大紫蘇我臣牟羅志」(〈天智〉三年《蘇我連大臣》)という歴史的氏名のみである。 〈天武〉朱鳥元年四月に「多紀〔託基〕皇女、山背姫王、石川夫人於伊勢神宮」。
 大蕤娘については、〈続紀〉神亀元年〔724〕七月庚午「夫人正三位石川朝臣大蕤比売薨。…贈正二位」。
穂積皇子  〈持統〉五年正月「増封…浄広弐穂積五百戸」。 〈続紀〉大宝二年〔702〕十二月「二品穂積親王…為作殯宮司」。 大宝三年〔703〕十月「太上天皇御葬司。以二品穂積親王御装長官」。 慶雲二年〔705〕九月「知太政官事」。 霊亀元年〔715〕正月「授二品穂積親王一品」。 七月丙午「知太政官事一品穂積親王」。
紀皇女  他に見えず。託基皇女の重出で、多紀皇女が脱落した可能性も考えられる。
田形皇女  〈続紀〉神亀元年〔724〕二月「授三品田形内親王…二品」。神亀五年〔728〕三月辛丑「二品田形内親王」。
 蕤の古訓メは、ヌの誤写か。  穂積皇子は、同じく大宝年間以後に活躍した舎人皇子と同年代であろう。
《娶額田姫王:十市皇女》
額田姫王  威奈鏡公には、三男に大村がいる。大村については『小納言正五位下威奈卿墓誌銘』が残る。 いわく「卿諱大村。檜前五百野宮御宇天皇之四世。後岡本聖朝〔斉明〕紫冠威奈鏡公之第三子也」。 〈釈紀〉大宝三年〔703〕十月「太上天皇御葬司。以二品穂積親王御装長官。…従五位下猪名真人大村為」。 慶雲三年〔706〕閏正月「従五位上猪名真人大村越後守」。
 額田王は、斉明天皇に仕えて伊予石湯に同行した際の歌が万葉に載る (〈斉明〉七年《熟田津》項)。少女時代は〈斉明〉の側に仕え、家族同然であったと思われる。
十市皇女  四年二月「十市皇女…参-赴於伊勢神宮」。七年正月、天皇が斎宮に行幸しようとしたその日の朝に「卒然病発、薨於宮中」。
《納尼子娘:高市皇子命》
尼子娘  宗像氏は、宗像地方と響灘西、玄界灘一帯の海洋豪族であった(第47回魏志倭人伝(34))。 胸形とも表記され、氏族名は胸の文身に由来すると言われる(魏志倭人伝(34))。 安曇氏が西進したのに対して、宗像氏はあまり他の地域への展開は見えない。 
 尼子娘はここだけ。
高市皇子  吉野の盟約のメンバーの一人。 草壁皇子」、高市皇子」の称の区別によって序列が示されている。
 壬申の乱にはその名が十一箇所に現れ軍事で大活躍したのに対して、草壁皇子の名前は一か所のみ。だが〈天武〉即位後は草壁皇子が序列一位となった。 草壁皇子が、鸕野皇女を母とした故か。
 高市皇子は〈持統〉七年「太政大臣」。十年六月庚戌「後皇子尊薨」。後皇子尊は〈持統〉三年に草壁皇子尊が薨じた後の高市皇子の呼び名と見られる。
《納𣝅媛娘:忍壁皇子、磯城皇子、泊瀬部皇女、託基皇女》
𣝅媛娘  宍人臣は、〈姓氏録〉〖皇別/完人朝臣/阿倍朝臣同祖/大彦命男彦背立大稲腰命之後也〗。 〈姓氏家系大辞典〉によると「宍人臣:安倍氏の族にして、宍人部の総領的伴造なり。膳部臣と同族」とし、 〈雄略〉二年膳臣長野」、〈崇峻〉二年宍人臣鴈」を挙げる。 同書はまた、〈続紀〉に越前の宍人臣「完人臣国持」(慶雲二年)、「擬主帳外初位勳十一等宍人臣」(宝亀十一年)を見出している。 宍人臣〈天武〉十三年に朝臣姓を賜る。 𣝅媛娘はここ以外に見えない。
忍壁皇子   吉野の盟約の一員。 〈天武〉三年八月「忍壁皇子於石上神宮」。十年三月「-定帝紀及上古諸事」(筆頭は川嶋皇子)。 〈続紀〉大宝三年〔703〕正月「詔三品刑部親王、知太政官事」。 慶雲二年〔705〕五月丙戌「三品忍壁親王薨。…天武天皇之第九皇子也」。
磯城皇子  磯城皇子芝基皇子と同一人物かとも思われたが、 朱鳥元年八月辛巳の「芝基皇子、磯城皇子各加二百戸」とある通り、二人は別人物である。 さらに、続紀では芝基皇子は明確に〈天智〉親王と書かれている。 よって、磯城皇子の記事は、朱鳥元年八月で終わる。一般には〈続紀〉の期間に入る前に、夭折したと考えられている。
泊瀬部皇女  〈続紀〉天平十三年三月「己酉。三品長谷部内親王薨。天武天皇之皇女也」。
託基皇女  慶雲三年〔706〕十二月「四品多紀内親王于伊勢大神宮」。 天平九年〔737〕二月戊午「四品…長谷部内親王、多紀内親王並授三品」。 天平勝宝三年〔751〕正月己酉「一品多紀内親王薨。天武天皇之皇女也」。
 𣝅への古訓「カチ」は、()にあてたものか。
 忍壁は、オサカベ(刑部忍坂部)と訓まれている(第186回【刑部】項)。
《大意》
 二年正月七日、 群臣とともに酒宴されました。
 二月二十七日、 天皇(すめらみこと)は有司に命じて壇場〔儀式の会場〕を設けさせ、 飛鳥の浄御原(きよみはら)の宮で帝位に即かれました。
 正妃を皇后(おおきさき)に立てられ、 後に草壁皇子(くさかべのみこ)の尊(みこと)を生みました。
 それに先んじて、皇后の姉大田皇女(おおたのひめみこ)を納めて妃となされ、 大来皇女(おおくのひめみこ)と大津皇子(おおつのみこ)を生みました。
 次の妃、大江皇女(おおえのひめみこ)は、 長皇子(ながのみこ)と弓削皇子(ゆげのみこ)を生みました。
 次の妃、新田部皇女(にいたべのひめみこ)は、 舎人皇子(とねりのみこ)を生みました。
 また夫人、藤原大臣(ふじはらのおおまえつきみ)の娘氷上娘(ひかみのいらつめ)は、 但馬皇女(たじまのひめみこ)を生みました。
 次の夫人、氷上娘の妹五百重娘(いほえのいらつめ)は、 新田部皇子(にいたべのみこ)を生みました。
 次の夫人、蘇我赤兄大臣(そがのあかえのおおまえつきみ)の娘、大蕤娘(おおぬのいらつめ)は、 一男二女を生み、 その一人目は穂積皇子(ほずみのみこ)、 二人目は紀皇女(きのひめみこ)、 三人目は田形皇女(たがたのひめみこ)といいます。
 天皇は、初めに鏡王(かがみのおおきみ)の娘、額田姫(ぬかたひめ)の王(おおきみ)を娶られ、 十市皇女(といちのひめみこ)を生みました。
 次に胸形君(むなかたのきみ)徳善(とくぜん)の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)を納められ、 高市皇子(たけちのみこ)の命(みこと)を生みました。
 次に宍人臣(ししひとのおみ)大麻呂(おおまろ)の娘、𣝅媛娘(かじひめのいらつめ)は、 二男二女を生み、 その一人目は忍壁皇子(おさかべのみこ)、 二人目は磯城皇子(しきのみこ)、 三人目は泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)、 四人目はは託基皇女(たきのひめみこ)といいます。
 二十九日、 勲功をあげた者等に、そのはたらきに応じて爵位を賜わりました。


まとめ
 〈天武〉朝は、大臣職を一切置かない稀有な時代であった。かつの大臣の政務を担ったのが草壁皇子、次に高市皇子である。 高市皇子は、〈持統〉朝で太政大臣になる。かつて諸族が左右大臣を務めていた頃は、政治は大臣と天皇との合議であったが、〈天武〉は諸族を、一切排除して治世を開始したと考えられる。 そこには、大友皇子に与していた諸族をまるごと排除したことが考えられる。
 この体制は、一般に皇親政治と呼ばれる。 諸族には八色の姓を与えて階層化し、朝廷に仕える立場であることを明確化した。
 〈文武〉朝以後の皇親政治は、知太政官事に刑部親王、穂積親王、舎人皇子が就いたことに象徴される〔それぞれ703~705年、705~715年、720~735年〕。 しかし、次第に藤原氏が台頭し、外戚として中枢に食い込んでくる。「夫人」はもともと有力氏族が送り込んだ娘への呼称であったが、この時代は「藤原夫人」が目立つ。
 ともあれ、〈天武〉の皇子皇女の活動はこれから始まり、〈持統紀〉そして〈続紀〉までその名が記される。