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[248] 下つ巻(崇峻天皇2) |
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2021.01.18(mon) [249] 下つ巻(推古天皇1) ▼▲ |
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![]() 治天下參拾漆歲 妹(いも)豊御食炊屋比売命(とよみけかしやひめのみこと)は小治田宮(をはりたのみや)に坐(ましま)して 天下(あめのした)を治(をさ)めたまふこと、参拾漆歳(みそとせあまりななとせ)。 妹の豊御食炊屋比売命(とよみけかしやひめのみこと)は小治田宮(をはりたのみや)にいらっしゃり、 三十七年間、天下を治められました。 【小治田宮】
『古代の大和』〔奈良県教育委員会;1988〕は、「明日香村教育委員会が、昭和62年7月、雷丘東方遺跡の発掘調査を実施したところ、 平安時代初頭の井戸から「小治田宮」と書かれた多数の墨書土器が出土した」と述べる。 〈続紀-天平宝字四年〔760〕八月〉に「○辛未〔十四日〕。転二播麻国糒一千斛。備前国五百斛。備中国五百斛。讃岐国一千斛一。以貯二小治田宮一。」 〔糒(ほしいい)を播磨国・備前・備中・讃岐から尾治田に移した〕、 そして「乙亥〔十八日〕。幸二小治田宮一。」とある。 行幸したのは廃帝〔明治三年〔1870〕に淳仁天皇を追号〕である。 このときは、小治田宮の施設が糒の備蓄庫として利用されたようである。 「明日香村埋蔵文化財展示室」〔明日香村大字飛鳥225-2〕に墨書土器と井戸が展示され、 「年輪年代測定法によって、井戸枠材の伐採年代が758年+αと判明」、「材質はヒノキ」との解説が添えられている。 廃帝行幸の760年に近い。
遺構のうち飛鳥時代のものについては、以下が挙げられる(※は図に対応)。 ● 飛鳥村教育委員会による2次調査(1986)が検出した「貼石護岸の池跡(飛鳥初頭)※1」〔明日香村埋蔵文化財展示室説明板〕。 ● 「雷内畑遺跡(明日香村1994-11次、1995-15次)では7世紀中頃以降の 庭園遺構※2や掘立柱※3などが見つかっている。」という〔『奈良文化財研究所-紀要2006』〕。 ● 「7世紀前半の遺構であるSD3100※4は掘割的な様相を示しており、推古天皇の小墾田宮との関連を検討すべきである」、 また「7世紀後半の遺構としてSB3020※5・SB3050※6の2棟の長大な建物」が確認された。〔『奈良国立文化財研究所年俸1994』〕 ● 飛鳥村教育委員会による7次調査(1997)が検出した「大形柱穴(7世紀後半)※1」〔明日香村埋蔵文化財展示室説明板〕。 推古天皇以後に小治田宮が天皇の宮殿として使われた記事が、〈皇極天皇紀〉にある。 ――〈皇極天皇紀〉元年〔642〕十二月壬寅〔二十一日〕に「天皇遷移於小墾田宮。【或本云、遷於東宮南庭之権宮。】」 二年四月丁亥〔二十八日〕に「自権宮移幸飛鳥板蓋新宮。」 このときは「権宮」〔一時的な宮〕として約四か月間坐ましただけである。 全体としてみると、雷丘東方遺跡・雷畑遺跡の遺構は飛鳥時代初頭から始まり、奈良時代後期以後に「小治田宮」の墨書土器が存在する。 皇極天皇が仮宮を置いたり糒の貯蔵施設として使われ、またこの期間の時々に建造物があることを見ると、 一貫して朝廷の官署として機能していたと見られる。 よって、推古天皇の遷都(十一年〔603〕)の頃から墨書土器の時期に至るまで、この宮殿には連続性があると言える。 よって推古朝の「小治田宮」は、ここであったと考えてよいだろう。
【書紀―即位前~元年四月】 1目次 《豐御食炊屋姬天皇》
橘豊日(たちばなのとよひ)〔用明〕の天皇の同母妹(いろど)[也]なり。 幼(わか)くは額田部皇女(ぬかたべのみこ)と曰ひたまひて、姿色(みすがた)端麗(きらきら)しくありて、進止(みふるまひ)軌制(のりををさめたまふ)。
立たして渟中倉太玉敷天皇(ぬなくらふとたましきのすめらみこと)〔敏達〕之(の)皇后(おほきさき)と為(な)りたまふ。 三十四歳(みそとせあまりよとせ)。 渟中倉太珠敷天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 三十九歳(みそとせあまりここのとせ)。 [于]泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)五年(いつとせ)十一月(しもつき)に当たりて、 天皇、大臣(おほまへつきみ)馬子宿祢(うまこのすくね)の為に見殺(ころしまつらゆ)。
群臣(まへつきみたち)渟中倉太珠敷天皇之(の)皇后(おほきさき)額田部皇女(ぬかたべのみこ)に請(ねが)ひまつりて、以ちて[将]践祚(ひつぎ)せ令(し)めまつらむとす。 皇后辞(いな)びて之(こ)を譲(ゆづ)りたまひき。 百寮(ももつかさ)表(ふみ)を上(たてまつ)りて勧進(すすめまつること)[于]三(みたび)に至りて、乃(すなはち)之(こ)に従(したが)ひたまひて、因以(よりて)天皇の璽印(みしるし)を奉(たてま)つりき。
皇后豊浦宮(とゆらのみや)に於(ましまして)天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。
仏舎利(ほとけのしやり)を以ちて[于]法興寺(ほふこうじ)の刹柱(せつはしら)の礎(つみし)の中(なか)に置く。 丁巳(ひのとみ)〔十六日〕。 刹柱(せつはしら)を建(た)てり。
厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)を立たして皇太子(ひつぎのみこ)と為(し)て、仍(すなはち)政(まつりごと)を録(しる)し摂(と)らせて、 万機(よろづのまつりごと)を以ちて悉(ことごとく)委(ゆだ)ねたまひき[焉]。 橘豊日(たちばなのとよひ)の天皇(すめらみこと)〔用明〕の第二(だいにの、つぎてのふたはしらにあたりたまふ)子(みこ)也(なり)。 母(みはは)の皇后(おほきさき)は穴穂部間人(あなほべのはしひと)の皇女(みこ)と曰ひたまふ。 皇后(おほきさき)、懐妊(はらみ)て開胎之(みこみ-せまりましし)日、禁中(みやのうち)を巡行(めぐり)まして諸司(つかさつかさ)を監察(み)たまふ。 [于]馬官(うまのつかさ)に至りて、乃(すなはち)廐戸(うまやど)に当たりて[而]不労(たしなまざ)りて忽(たちまち)に之を産(う)みたまふ。
壮(をとこざかり)に及びて、一(ひとたび)に十人(とたり)の訴(うるたふること)を聞こして、以ちて勿失(うしなふことなく)能(よ)く弁(わきた)めて、未(いまだ)然(しからざること)を兼ね知りたまふ。 且(また)内教(うちつのり)を[於]高麗僧(こまのほふし)慧慈(ゑじ)に習ひて、 外典(とつふみ)を[於]博士覚哿(はかせかくか)に学(まな)び乙て、 並(な)べて悉(ことごとく)達(さと)りたまひつ[矣]。 父の天皇(すめらみこと)〔用明〕之(こ)を愛(め)でたまひて宮(おほみや)の南の上(へ)の殿(との)に令居(すまはしめ)たまひき。 故(かれ)其の名(みな)を称(たた)へて上宮廐戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやどのとよとみみのひつぎのみこ)と謂(まを)す。 《年譜》 ここに書かれた御食炊屋姫の年譜と、〈欽明紀〉以後の記述との対応を見る。
皇后になった年齢について、〈敏達紀〉では「敏達五年」〔576〕だが、皇后に昇格する五年前に既に妃でなっていたと読めば、何とか辻褄を合わせることができる。 年齢の妥当性については、「十八歳で結婚」、「用明元年〔三十五歳のとき〕に穴穂部皇子に姦(おそ)われそうになる」、「七十五歳で崩」は、不自然ではない。 〈元興寺縁起〉〔『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』〕では、戊午年〔538〕に百済から太子像・灌仏器・仏起書が渡来した。 欽明天皇が「大大王」(御食炊屋姫)に、その後宮を分けて仏殿に提供せよと告げたのはそれから一年以内である。 また、〈元興寺縁起〉には癸酉年〔613〕に大大王が生誕百歳を迎えたとあるから、御食炊屋姫の生誕は514年で、仏法が渡来した538年には既に二十五歳になっていた。 書紀では仏法の渡来は〈欽明十三年〉〔553〕であるが、それでも御食炊屋姫はまだ生まれていない。 したがって、〈元興寺縁起〉が用いた年譜は、〈欽明天皇紀〉とは全く異なっている。 一方、敏達以後の年の干支表示については書紀を参照して書き加えたと考えるのが妥当で、〈元興寺縁起〉の成り立ちの複雑さが伺われる。 《第二子》 〈用明天皇紀〉における皇子のリストは、穴穂部間人皇女の生んだ子から始まり、筆頭は聖徳である。 したがって、厩戸豊聡耳皇子は第一子である。 〈帝説〉〔『上宮聖王帝説』〕でも、七子の順番そのものは書紀と一致している。 しかし、〈帝説〉には「聖王ノ庶兄多米王ハ」とも書かれ、つまり多米王は厩戸皇子の腹違いの兄とする。
したがって、「第二子」は〈定説〉及び古事記の皇子リストにおける順番と一致している。 《宮》 「宮」を〈図書寮本〉は「オホミヤ」、〈釈紀〉は「ヲホミヤ」と訓む。前者は平安時代、後者は鎌倉時代の用字と見られる。 〈北野本〉の訓点は殆ど〈図書寮本〉に準じており(下述)、ここでも「オホミヤ」である。 《宮南上殿》 「南上殿」の比定地については、〈用明元年〉で詳しく考察した。 まず、第244回で用明天皇の「池辺双槻宮」を、磐余池畔の稚櫻神社付近と考えた。 だとすれば、上之宮遺跡が「宮"南"上殿」に該当しないのは明白である。 用明天皇は、皇子の幼い頃からの聡明さを知り、「愛レ之」〔これをめでて〕住まわせた。 だから近くに置いたと読むのが自然である。従って、「南上殿」は「池辺双槻宮」に隣接していたはずである。 但し「上宮皇子」が皇子の名前として早期に定着していれば、新しい宮に遷ったとしてもそこが「上宮」と呼ばれた可能性はある。 《上宮廐戸豊聡耳太子》 「上宮廐戸豊聡耳太子」は、記も「上宮之厩戸豊聡耳命」(第245回)を用い、記紀の時代における公式名称と見られる。 この名前からは、いろいろ興味深い意味が伺われる。 ●上宮…皇子を宮殿名で呼ぶのは一般的である。 ●厩戸…生誕伝説による呼び名。キリスト生誕伝説との共通性は偶然ではなく、 神性をもつ人物が馬屋で生まれたとする伝説は、シルクロード文化圏に広く伝播していたと思われる。 ●豊…美称。〈元興寺縁起―丈六光銘〉の時点で、既に「等与」がついている。 ●聡耳…十人が同時に訴える言葉を弁別した伝説に繋がる語だが、 この伝説は、逆にこの用字によって作られたように思われる。 〈丈六光銘〉に「刀禰々」〔恐らく刀彌彌〕があるので、トミミなる発音が先にあったと思われる。 名前につくミミについては、カムヌカハミミ(綏靖天皇)(第102回)、古くは魏志倭人伝において投馬国の官ミミ、副官ミミナリが出てくる ([23])。 耳成山という山もある。ミの意味に関して〈時代別上代〉は、「み[神]:心霊。接尾語的に用いられる。」として、ワタツミ、ヤマツミの例を挙げている。 ●太子…皇太子に定められていたが、天皇即位に至らぬまま薨じたと解釈するのが自然である。 《図書寮本と北野本》
●「見殺」: 図書寮本の筆写者は、右の「シメラレタ■ヒヌ」では意味不明だから「シセラレタマヒヌ」の誤りだろうと判断した。 それでも訂正前の形も敢て残し、その上で、筆写者の見解による訓を左側に書き加えたと見られる。そこには研究者としての学究的な態度が見える。 北野本は、マの字体が異なる〔二本の横棒で、下の方を短く書く形〕が、図書寮本をそのまま写した。 ●「巡行」: 図書寮本の筆写者は、「メクリオハシマス」の別訓としてそこから「めぐり」を除いた「オハシマ〔ス〕」を提案したと見られる。 北野本では、右側ではヲを用いて「メクリヲハシマス」だが、 左側は「オハシマ」のままなのが興味深い。スがないから「御座します」であるとの確信が持てず、とにかくそのまま筆写したのかも知れない。 なお、こちらはマの書体に「T」を使っている。 ところで、『釈日本紀』〔鎌倉時代〕では、オが専らヲになっている。 ここではその区別について深入りは避けるが、奈良時代にはオ=[o]とヲ=[wo]が固定し、 平安時代には一旦区別がなくなったが、その後イントネーションの区別として再定義され、その後再び区別が消えたようである。 この区別に関しては、北野本の方が無頓着だから、大雑把に見て図書寮本の訓点は平安時代でも早期で、 北野本は平安後期~鎌倉の時代になって図書寮本〔またはその写本〕から筆写したのではないかと思われる。 《岩崎本》
「殺」の右下のシセは、左側の訓に繋がり「シセラレタマヘリ」となっている。 才のように見えるのもセである。 シセ・ラレ・タマヘ・リ=他動詞[下二段]の未然形+受け身の助動詞の連用形+尊敬の補助動詞の命令形+完了の助動詞である。 赤字のナの鏡文字のようなものも「セ」である。 太いタは、タマハルの一文字目である。 なお、岩崎本の訓については、 赤字の方が古いとされる〔京都国博編の影印本2013「解説」〕。 完了の助動詞はリで、ヌを用いた北野本・図書寮本とは系統が異なるようである。 ●「巡行」: 巡行は、黒字・赤字ともに「メグリオハシマシ」である。 黒字「ル」の左隣に「ハ」を書き添え訂正したことを示し、右隣りの「ニ」は返り点の数字である。オハシマシは連用形で、終止形のオハシマスを用いた北野本・図書寮本と異なる。 ここからも、写本の系統の違いがあることが分かる。 《大意》 豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)の天皇(すめらみこと)は、天国排開広庭(あまくにおしはらきひろにわ)の天皇〔欽明〕の中間の姫で、 橘豊日(たちばなのとよひ)〔用明〕の天皇の同母の妹です。 若いときは額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)といわれ、容姿端麗で、進止軌制でいらっしゃいました〔節度ある振舞をなさりました〕。 十八歳にして、 渟中倉太玉敷天皇(ぬなくらふとたましきのすめらみこと)〔敏達〕の皇后(おおきさき)となられました。 三十四歳のとき、 渟中倉太珠敷天皇は崩じました。 三十九歳、 泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)〔崇峻〕五年十一月のとき、 天皇は、大臣(おおまえつきみ)馬子宿祢(うまこのすくね)のために殺され、 位を嗣(つ)ぐ人は、既にいなくなりました。 群臣は渟中倉太珠敷天皇の皇后であられた額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)に要請して、践祚していただこうとしましたが、 皇后は、辞して譲られました。 百寮(ももつかさ)たちは上表して勧進すること三度に至りやっと従われ、よって天皇の璽印(みしるし)を奉りました。 十二月八日、 皇后は豊浦宮(とゆらのみや)で天皇(すめらみこと)の即位されました。 元年正月十五日、 仏舎利を法興寺(ほうこうじ)の刹柱(さっちゅう)の礎の中に置きました。 十六日、刹柱を建てました。 四月十日、 厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)を立て皇太子(ひつぎのみこ)とされ、政(まつりごと)を録摂され、 万機〔すべての政務〕を悉く委ねられました。 橘豊日(たちばなのとよひ)の天皇(すめらみこと)〔用明〕の第二子です。 母は皇后(おおきさき)で、穴穂部間人(あなほべのはしひと)の皇女(ひめみこ)といわれます。 皇后は、懐妊開胎の〔まさに生まれようとする〕日、禁中を巡行して諸(もろもろ)の司を監察されました。 馬官(うまのつかさ)に至り、廐戸(うまやど)のところで労せずして忽(たちま)ちにお産みになりました。 生まれながらにして言葉をよく話し、聖の智恵がありました。 壮年に及び、一度に十人の訴えを聞き、聞き落とすこともなくよく聞き分けて、まだ話していないことも兼ねて理解されました。 また、内〔内面〕の教えを高麗の僧、慧慈(えじ)に習い、 外典〔法律など〕を博士の覚哿(かくか)に学び、 どちらも悉く悟られました。 父の天皇〔用明〕は太子を愛でて、大宮の南の上の宮殿に住まわせました。 そこでその御名を称え、上宮廐戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやどのとよとみみのひつぎのみこ)とお呼びします。 【書紀―十一年十月~十二年正月】 7目次 《遷于小墾田宮》
[于]小墾田宮(をはりたのみや)に遷(うつ)りたまふ。
皇太子(ひつぎのみこ)、諸(もろもろ)の大夫(まへつきみ)に謂(のたま)ひて曰(のたま)はく 「我(あれ)尊(たふとき)仏像(ほとけのみかた)を有(も)ちたまふ。誰(た)そ是(こ)の像(みかた)を得て、以ちて恭(ゐやまひ)拝(をろが)みまつるか。」とのたまふ。 時に、秦造(はたのみやつこ)河勝(かはかつ)進みて曰(まを)ししく、 「臣(やつかれ)之(こ)を拝(をろが)みまつらむ。」とまをしき。 便(すなはち)仏像(ほとけのみかた)を受けたまはりて、因以(よ)りて蜂岡寺(はちをかのてら)を造りまつりき。
皇太子(ひつぎのみこ)[于]天皇(すめらみこと)に請(ねが)ひて、 以ちて大楯(おほたて)及(と)靫(ゆき)【靫此(これ)由岐(ゆき)と云ふ】とを作りて、 又(また)[于]旗幟(はた)に絵(ゑ)かきたまへり。
[始行]冠位(くわんゐ)。 大徳(だいとく)小徳(せうとく)大仁(だいにん)小仁(せうにん) 大礼(だいらい)小礼(せうらい)大信(だいしん)小信(せうしん) 大義(だいぎ)小義(せうぎ)大智(だいち)小智(せうち) 并(あは)せて十二階(としなあまりふたしな)をはじめておこなひて、 並(な)べて色に当たりし絁(あしきぬ)を以(もちゐ)て之(こ)を縫(ぬ)ひて、 頂(うなじ)に撮(と)り総(す)べて囊(ふくろ)の如くして[而]縁(はた)に着(つ)けり[焉]。 唯(ただ)元日(むつきのつきたち)に、髻花(うず)を着(つ)く。 【髻花、此(こ)を于孺(うず)と云ふ。】
始めて冠位[於]諸(もろもろの)臣(まへつきみ)に賜(たまは)りて、各(おのもおおも)差(しな)有り。 《うやひ》
「ゐやまふ」が「ゐやぶ」+動詞語尾「ふ」〔反復・継続〕から派生した語だとすれば、「ゐやぶ」は四段となる。 《蜂岡寺》 蜂岡寺は後に広隆寺となり、現在に至る。 『広隆寺縁起』〔836年〕によれば、旧地は「九条河原里」 と「同条荒見社里」にあり、後に「五条荒蒔里」〔現在地と見られる〕に遷った。 秦造河勝が仏像を賜ったのは推古十一年だが、同書では「壬午」〔推古三十年〕建立となっている。 筆頭署名者が「檀越〔=檀家〕大秦公宿祢永道」とあるので、秦氏の氏寺であったと考えられる (資料[45])。 現在地は京都市右京区太秦蜂岡町32。「旧地」は平野神社(京都府京都市北区平野宮本町1)の南の辺りではないかと言われる。 〈推古三十一年七月〉には新羅から使者が来朝し、「貢二仏像一具及金塔并舎利〔他〕一」し、 そのうち仏像が、「仏像居二於葛野秦寺一」とある。 この「葛野秦寺」が広隆寺であることは明らかである。 同寺には、宝冠弥勒菩薩像と宝髻 ※…以下弥勒菩薩像に関する部分は、大矢良哲講演記録(2017.6.24)による。 そのうち、宝冠弥勒菩薩像はアカマツ材である〔一部にクスノキに似た広葉樹が使用〕。朝鮮半島では木造にアカマツが用いられるので、朝鮮半島で製作されたという説と、 朝鮮半島からもたらされたアカマツを用いて倭国で製作されたという説がある。 宝髻弥勒像はクスノキ材である。 《隋書》 『隋書』に「開皇二十年〔600;推古八年〕」に倭の使者が訪れ、倭の様子を問われて答えた文章内に、冠位十二階のことが載る。
《冠位十二階》
〈時代別上代〉の「古代冠位制変遷表」によれば、大化三年の改定で 「大徳・小徳⇒大錦、大仁・小仁⇒小錦、大礼・小礼⇒大青、大信・小信⇒小青、 大義⇒大黒、小義⇒小黒、大智・小智⇒建武」となっており、錦・黒・青の色指定が伺われる。 錦の語源は「二色 大化三年の改定では、大錦の上に新しく〔上位から〕大(小)織、大(小)繍、大(小)紫が定められていて、紫色や、刺繍付きの紫などがあったと想像される。 十二階の段階では大徳が紫だったのが、その改定の際に「小紫」位以上に移されたことも考え得る。 もし本気で推定しようとするなら、当時使い得た染料の種類を具体的に考えあわせる必要があろう。 《冠》 「如シレ囊ノ」は、巾子 隋書を見ると、それまで頭に被り物をする習慣のなかった倭人が、始めて冠を用いたことが注目されている。 そのこともあって、書紀のこの部分の執筆を担当した中国人が比較的詳細にその冠の形状を著したのかも知れない。 《大意》 十月四日、 小墾田宮(おはりたのみや)に遷られました。 十一月一日、 皇太子〔聖徳〕は、諸(もろもろ)の大夫(まえつきみ)〔大臣〕に、 「私は、尊い仏像(ほとけのみかた)を持っている。誰ぞこの像を受け取り、恭拝する者はいないか。」と仰りました。 その時、秦造(はたのみやつこ)の河勝(かわかつ)が進み出て、 「私めが拝します。」と申し上げました。 そこで仏像を受け賜わり、これによって蜂岡寺が造られました。 同じ月、 皇太子は天皇に願い出て、 大楯及び靫(ゆき)〔背負う矢差し〕を作られ、 また旗幟(きし)に絵を描かれました。 十二月五日、 冠位を開始し、 大徳(だいとく)・小徳(しょうとく)・大仁(だいにん)・小仁(しょうにん)・ 大礼(だいらい)・小礼(しょうらい)・大信(だいしん)・小信(しょうしん)・ 大義(だいぎ)・小義(しょうぎ)・大智(だいち)・小智(しょうち)の、 合わせて十二階を定めました。 総じて色に当る絁(あしぎぬ)を用いてこれを縫い、 頂(うなじ)に取りまとめて袋のようにして縁(へり)に着け、 ただし、元日には髻花(うず)をつけました。 十二年正月一日、 始めて冠位を諸臣に賜り、それぞれに差がありました。 【上宮聖徳法王定説】 平安中期の以前の写本と見られる『上宮聖徳法王定説』は法隆寺勧学院の文庫に入っていたが明治維新の頃持ち出され、持主の没後に知恩院の所蔵になったと見られるという。 明治三十六年〔1903〕には国宝に指定された。〔下記影印本の解説による〕。 これまでも折に触れて参照してきたが、今回は冒頭の系図部分を精読した (国立国会図書館デジタルコレクションにより閲覧)。
訓の付けられた時期は平安半ばかと思われる。 例えば、蘇我稲目足尼(すくね)をタリニと訓んでいるところに、上代からの時の隔たりを感じさせるのである。 原文そのものの成立は、記紀と重なる690年以後と思われる。〈元興寺縁起〉〔『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』〕とは対照的に、天皇の表記法が安定しているからである。 ただし「他田宮治天下天皇怒那久良布刀多麻斯支天皇」については、一つ目の「天皇」は不要である。これは、恐らく誤写であろう。 名前の音仮名表現は書紀に比べると相当古風に感じられるが、記紀の間も音仮名は異なり、ひとつの物語の中でさえしばしば異なる。 このように当時は音仮名はその都度選択されるもので、〈定説〉の表記も同時代における多様性の範囲内であろう。 しかし、用いた材料そのものには古くから伝わるものが含まれると思われる。 《上宮聖徳法王からの系図》 中でも注目されるのは上宮聖徳法王の子孫の系図である。これは記紀には載っていない。 その理由は記紀の書かれた頃には太子の聖人化が急速に進んでいたところにあると考えられる。 既に、信仰の対象として太子個人にスポットライトが当たっており、子孫の系図にはあまり注意が払われなかったと思われる。 〈定説〉がこれを載せたのは、聖人化される以前の感覚が残っていたということであろう。 〈元興寺縁起〉においては後に加筆されたと見られるが、最初の姿が色濃く残っており、そこにはまだ聖徳太子の神聖化は見えず、むしろ御食炊屋姫(推古天皇)を偉大化している。 それは、650年頃の状況を反映したものであろう。それを起点として、 ①推古天皇崩後暫くは推古天皇が偉大化され、豊聡耳皇子の役割は従である⇒〈元興寺縁起〉。 ②厩戸豊聡耳皇子の摂政として立場が強調され、子孫の系図も天皇に準ずる形になる⇒『上宮聖徳法王定説』の系図部分。 ③単なる摂政を超越した聖人となり、系図はむしろ気にとめられなくなる⇒書紀。 という経過が考えられる。 《上宮聖徳法王》 和訓は、聖:ひじり、徳:いきほひである。 法=仏法で、法王が仏教界の王を意味するのは明らかである。 つまりは「聖徳」は法王への美称である。 「廐戸豊聡耳太子」は朝廷で政 まとめ 〈推古即位前紀〉によって計算すると、穴穂部皇子が姦 具体的な記述はないが、御食炊屋姫という名前からは天皇の御食を整える炊屋に容姿端麗な十八歳の女性がいて、敏達天皇に見初められたという出逢いが想像される。 もっとも「欽明帝の皇女」であったとすれば、采女ではなく炊屋を仕切る立場であろう。 推古の母の堅塩媛は蘇我稲目の娘で、〈推古二十年〉の改葬された際に「皇太夫人」の称号を得ている(欽明三十二年【丸山古墳】)。 蘇我稲目の娘の堅塩媛は用明・推古の両天皇を、小姉姫は崇峻天皇・穴穂部間人皇女を産み、蘇我氏は閨閥としての影響力を発揮している。 稲目は欽明三十一年に薨じ、蘇我馬子の代になった。その馬子は穴穂部皇子を殺し、 穴穂部間人皇女は一時丹後国に避難したとも言われ、最後は崇峻帝を殺す。 どうも小姉姫の系統との折り合いは悪かったようである。 親族としての関係が深いほど、一度関係がこじれると対立は抜き差しならなくなるのが世の法則である。 厩戸豊聡耳皇子は父が用明、母が穴穂部間人皇女だから馬子との関係は何とも言えないが、 推古帝・厩戸豊聡耳皇子と蘇我馬子宿祢大臣との間には、一定の緊張関係があったと見た方がよいように思われる。 |
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2021.03.17(wed) [250] 下つ巻(推古天皇2) ▼▲ |
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![]() 御陵在大野崗上後遷科長大陵也 【戊子年(つちのえねのとし)三月(やよひ)十五日(とかあまりいつか)癸丑日(みづのとうしのひ)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。】 御陵(みささき)は大野岡上(おほののをかのへ)に在り。後(のちに)科長大陵(しながのおほきみささき)に遷(うつ)しまつりき[也]。 【戊子年〔628〕三月十五日癸丑の日に崩ず。】 御陵(みささぎ)は大野の岡の上にあり、後に科長大陵(しながのおおみささぎ)に遷(うつ)されました。
【戊子年三月十五日癸丑日】 推古三十六年は、戊子年である。 それゆえ、「戊子年三月」と「癸丑日」は書紀と一致している。 ところが、十五日は癸丑ではない。 戊子年三月は「丁未朔」なので七日が癸丑で、十五日は辛酉である。 したがって、 もともとは、書紀とは異なる資料によって「十五日」と書かれていたが、 後になってから、別の人の手によって書紀に合わせて「癸丑日」が書き加えられたと見られる。 数字表記と干支の照合という初歩的な作業を怠ったか、気付いていたなら分注を加えるべきであろう。どちらにしても、書き加えた人は学問的に未熟である。 【陵】 《大野岡》 「大野丘北」の塔が〈敏達紀十四年二月〉に出てくる。この塔は曽我馬子が建てたもので、物部守屋が倒した。 和田町に「大野塚」と呼ばれる遺跡がある。 和田廃寺の塔の基壇の西半分にあたることが明らかになっている。 これが「大野塚」と呼ばれるようになったのは、書紀よりも後のことではないだろうか。 〈敏達紀十四年〉の項で、書紀を知る人が塔跡を見て「これが『大野丘北』塔の跡である」と思ったためであろうと推定した。 しかし、和田廃寺が存在したのは7世紀後半~8世紀後半であることが明らかになっており、敏達十四年〔585〕には和田廃寺は存在しなかった。 よって、大野丘北塔の本当の位置は不明で、「大野」がどの辺りかも決められない。 ただ、馬子の時代に建立された豊浦寺(向原寺)・馬子の宅東方に経営した仏殿(石川廃寺または向原寺か)・石川精舎(本明寺)の配置を見ると、 雷丘西から石川池北西にかけての一帯が馬子の勢力圏であったと見ることができる。 だから、和田廃寺が建つ前から、そのあたりが「大野」であった可能性はある。 ただ、「古墳マップ」などのサイトによれば、この地域にはそもそも古墳そのものがほとんど存在しない。
一方、近年になって改葬前の推古帝と竹田皇子の合葬陵ではないかと言われるようになったのが、植山古墳である。 その理由は二本ある羨道のうち、一本が後から追加したように見えること、また遺された石室・石棺の様子に整然とした移動が伺われるからという。 詳細は別項で述べる。 その位置は丸山古墳の東方数百メートルである。地形は「岡上」と言い得るだろう。 和田廃寺は未だ建つ前だったとしても、大野丘北塔はやはり馬子の勢力圏であるその辺りの地域とするのが妥当か。 「大野」は、〈倭名類聚抄〉に{美濃国・大野【於保乃】郡}をはじめとして14個あるように、 各地に自然発生し得る地名である。 とすれば、和田地域と植山古墳の双方に別々の「大野」があったかも知れないし、 両者を包む広い地域が「大野」かも知れない。 《科長大陵》
書紀には、推古天皇の改葬は載らない。 「改葬」の語句があるのは、書紀全体で〈推古天皇紀〉の二か所のみである〔敏達天皇と堅塩媛〕。 現在は「山田高塚古墳」が、宮内庁によって磯長山田陵に治定されている。別項で詳述する。 《竹田皇子》 書紀によれば、推古天皇は竹田皇子(記は竹田王、別名小貝王)の墓に合葬された。 竹田皇子は敏達天皇を父、推古天皇を母としてその第二子。男子は計二人おり、弟は尾張皇子である (第241回)。 竹田皇子は物部守屋大連を征討する軍に加わった五人の皇子の一人である (用明二年四月 、崇峻即位前)。 他は ・敏達天皇の皇子:難波皇子、春日皇子。 ・欽明天皇の皇子:泊瀬部皇子〔崇峻天皇〕。 ・用明天皇の皇子:厩戸皇子〔聖徳太子〕。 である。 これらのうち、太子彦人皇子と竹田皇子については、中臣勝海連が像を作って「厭レ之」〔=呪う〕というから、 用明天皇二年の時点では、この二人が皇位継承レースのトップを走っていたのは間違いないであろう。 〈推古天皇紀〉においては皇太子に厩戸皇子〔聖徳〕を立て、竹田皇子への言及はない。 竹田皇子はその前に夭折したか、あるいは厩戸皇子の能力が卓越していたために皇太子が差し替えられたことも考えられる。 仮に竹田皇子を皇太子からは降ろしたとしても母として愛情は変わらず、遺詔により合葬を指示するに至ったと思われる。 また、この時期、石姫―敏達天皇、穴穂部間人皇后―聖徳太子のように、母子合葬が通例になっていたことも背景であろう。 磯長谷古墳群に見える双方墳という墳形も、その故かと思われる。 【山田高塚古墳】 宮内庁が「磯長山田陵」に治定する古墳は、考古学名を山田高塚古墳といい、磯長谷古墳群に属し、方墳である 〔大阪府南河内郡太子町大字山田3320〕。 『王陵の谷・磯長谷古墳群』〔太子町教育員会;1984〕は次のように述べる〔抜粋〕。
同書によれば、「規模は全長61m、幅23m、高さは東墳丘4.6m、西墳丘6.0m」、 石棺はともに「家形石棺の系統に属して」いるが、 「本来の家形古墳がもっている縄掛突起を全くもっていない退化した形式で」で、 「7世紀中頃」という。規模は山田高塚古墳に匹敵し、双方墳という形式から推古帝陵・竹田皇子墓がイメージされたと思われる。 また、山田高塚古墳について『天皇陵古墳』〔大匠社1996;森浩一〕から抜粋する。
ただ、谷森善臣が二棺が並んでいたと述べることと、現在二つの石室が考えられこととは、どう折り合いをつけたらよいのだろう。 山田高塚古墳の内部の詳細な調査が望まれる。 【植山古墳】 植山古墳は、東西2つの石室からなり、東石室には家形石棺が遺されている。 この石棺は、ピンク凝灰岩で作られ、阿蘇の西地域が磐井の乱以後も石棺材の供給地として存続していることを示している (第233回【阿蘇溶結凝灰岩】)。 植山古墳は、2002年に国の「史跡」に指定されている。 文化庁の「国指定文化財等」のページには、 「石室の特徴、墳丘と石室との切り合い関係から、これらの石室には築造に時期差があり、 東石室は6世紀末に築造され,その後西石室が7世紀初頭に追加されたと考えられる」とある。 《橿原市調査報告》 橿原市教育委員会が2001~2012年に行った四次にわたる調査の結果が、 『橿原市文化財調査報告 第9冊 史跡植山古墳』〔奈良県橿原市教育委員会;2014。以下〈植山古墳報告〉〕 にまとめられている〔全国遺跡報告総覧からダウンロード可能〕。 その結果、「検出した墳丘の規模は東西(長辺)約40m、南北(短辺)約30mである」という。 第Ⅳ章総括-第4節「植山古墳の評価」(p.141以下)には、次のように書かれている。 ――「当初から墳丘が横長に造られており(東石室は墳丘の東に偏した位置に築かれる)、後に西石室を造り足す空間がすでに確保されていた点である。 植山古墳の築造当初から、二つの石室を東西に並べることが計画されていたことが窺える」、 そして「7世紀前半には西石室が造り足される」という。 このように、東石室が横長に作られた墳丘の真ん中ではなく東に偏っているから、 西側に石室を追加することが最初からプランに入っていたと見ている。
このように〈植山古墳調査〉の解釈には、「植山古墳=推古天皇の改葬前の陵」説に寄せたい気持ちが滲む。 もう少しニュートラルに考察すべきではないかとと思うが、 それでも西玄室のみが棺ごと取り出された点には注意を払うべきであろう。 《改葬》
ところが、副葬者とワンセットで改葬されることになり、棺は羨道を通れないのだから棺の蓋を開けて遺体を取り出すしかない。 次に、西の玄室口に石扉を設けた意図について。 石室に扉を設置するのは、通常は後に二つ目の棺を合葬するためである。 ところが、西の棺の大きさを東石室の石棺と同サイズだと仮定して、西玄室に納めてみると〔図に赤色表示〕ここに第二の更に棺を運び入れるスペースはない。 従って、扉の設置は棺を運び出すときのためとなる。 ところが、西石室の図(p.68)を見るとその石扉を開いても棺は通らない。閾石の扉の左右の溝に、石板をはめ込まれて両側が壁になっているからである。 だから、棺を運び出すときには、扉と左右の壁石ともども取り除いたはずである。その扉と壁が再び戻されることはなく、陵の外に置かれた。 なぜなら、改葬後は上記Ⅳで述べられたように土が盛られて、陵であったことも、羨道の入口もわからなくされたからである。 それらが周辺の神社で再利用されたのは、目に触れる場所に放置されていたからである。 石棺を通せないのに石扉を設置した〔当然石棺を運び入れた後である〕のは、ひとえに儀礼のためであろう。 被葬者は高貴な人であるから玄室への入場には、盗掘と見紛うような入り方は許されない。 石棺を通し得るかどうかは無関係で、礼儀正しく入室するための設備を整えなければならないのである。 一方、羨道の広さを見ると、石棺を容易に運び出すことができる(右図)。断面図の左下に一部石が見えるが、羨道の側壁から崩れ落ちたものであろう。 ということは、最初に東石室に埋葬する時点で、改葬は既に予定されていたのである。 ところが第一の埋葬者を東石室に納めた時には、将来このようなことがあるとは思いもよらなかった。 だから、東石室からは遺体を取り出して運ぶしかなかったのである。 それでも、結果的にワンセットで改葬されたのは、両者が極めて親密な関係にあったことを示す。 その関係は、磯長谷のいくつかの合葬墳が母子の関係にあることから見て、母子である可能性は高い。 《遺詔の解釈》 西石室の被葬者が推古天皇だったとすれば、その遺詔の意味を改めて考察する必要がある。 遺詔は、「比年五穀不レ登百姓大飢。其為レ朕興レ陵以勿二厚葬一。便宜レ葬二于竹田皇子之陵一。」 〔人民が不作で飢餓している時期だから朕のための築陵・厚葬を控え、竹田皇子陵に合葬せよ〕という。 しかし、「五穀不登百姓大飢」の前に「比年 このように考えれば、植山古墳の東石室に竹田皇子が安置されているところに、推古天皇のために西石室を一時的に設けて納め、後に両者そろって改葬されたという筋書きは、確かに成り立つ。 ただ、竹田皇子を葬るときから西側を空け、既に被葬者を予定していた。予定されたのが推古天皇だったとすれば、わざわざ改葬する必要はない。 しかし、「遺詔」によれば竹田皇子墓への合葬程度は「厚葬」ではないわけだから、竹田皇子墓は規模またにおいて大王陵としての条件を欠いていたと考えられる。 しかし、墳丘の規模は、山田高塚古墳=50m×30m、植山古墳=40×30mで、それほどの差はない。 すると、天皇と皇族の陵墓は磯長谷に置くべしという、曽我馬子のプランがあったことも考えられる。 なお、当初西石室の埋葬者として予定されていたのは、竹田皇子の妃あたりなのかも知れない。 【書紀―三十六年】 27目次 《天皇臥病而崩之》
天皇(すめらみこと)病(みやまひ)に臥(ふ)したまふ。
日(ひ)蝕(は)え有り[之]尽きてあり。
天皇(すめらみこと)、痛(いたきこと)之(これ)甚(はなはだ)しくありて不可諱(えかくしたまはず)。 則(すなはち)田村皇子(たむらのみこ)を召して之(こ)に謂(のたま)ひて曰(のたま)はく 「天位(あまつたかみくら)に昇りて[而]鴻基(おほきもとゐ)を経綸(はか)り、 万機(よろづのまつりごと)を馭(しらし)め、以ちて黎元(おほみたから)を亭育(やしな)ふは、 本(もとより)輙(たやすく)言(いふこと)に非(あら)ざりて、恒(つね)に之(これ)所重(おもきとなさゆ)。 故(かれ)、汝(いまし)慎(つつし)み以ちて[之(こ)を]察(み)て、軽(かるかるしく)言ふ不可(べからず)。」とのたまふ。 即(おなじき)日。山背大兄(やましろのおほえ)を召して之(こ)を教(をし)へ曰(のたま)ひしく 「汝(いまし)が肝(きも)[之]稚(わか)し。 若(もし)や心に望(のぞみ)あれ雖(ど)、而(しかれども)勿(な)諠言(とよみ)そ。 必ず群(まへつきみたち)の言(こと)を待(ま)ち、以(も)ちて従(よ)る宣(べ)し。」とをしへき。
天皇[之]崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 時に年(よはひ)七十五(ななそとせあまりいつとせ)。 即(すなは)ち[於]南の庭(には)に殯(あらき)しまつる。
雹(あられ)零(ふ)り大(おほ)きなること桃子(もも)の如し。 壬辰(かのえたつ)〔十一日〕。 雹零り大きなること李子(すもも)の如し。 春自(よ)り夏に至り[之]て旱(ひで)りてあり。
始めて天皇の喪礼(ものゐや)を起こす。 是の時、群臣(まへつきみたち)各(おのもおのも)[於]殯宮(あらきのみや)に誄(しのひこと)まをす。 先是(このさき)、天皇(すめらみこと)[於]群臣(まへつきみたち)に遺詔(のちのみことのり)曰(のたま)ひしく 「比年(このころ)五穀(いつつのたなつもの)不登(みのらざ)りて、百姓(おほみたから)大(はなはだし)く飢(う)う。 其(それ)朕(あが)為(ため)に陵(みささき)を興(おこ)して以ちて勿厚葬(あつくなはぶりそ)。 便(すなはち)宜(よろしく)[于]竹田皇子(たけたのみこ)之(の)陵(みささき)に葬(はぶ)るべし。」とのたまひき。 壬辰(みづのえたつ)〔二十四日〕。 竹田皇子(たけたのみこ)之(の)陵(みささき)に葬(はぶ)りまつる。 《之》 「之」には、直前の文字が動詞であることを示すために形式的目的語として添える用法がある。 この段では、この使い方が多用されている。
「卅六年三月丁未朔戊申」〔二日〕は、グレゴリオ暦では628年4月13日。 ユリウス暦で628年4月10日にあたる(資料[46])。 この日が、日本における最古の日蝕の記録と言われている。 「NASA Eclipse Web Site」 によって、過去と未来の日食のデータを得ることができる。 それによると、628年4月10日の皆既日食帯は伊豆諸島を通り、飛鳥の雷 「有蝕尽之」なる表現が、が①89.8%あるいはそれ以下のやや皆既に達しない状態を「尽」と表現したものか、②実際には皆既であったのに計算の誤差によって位置がずれたものかという疑問が生じる。 一般に、力学的モデルを用いた計算値と実際に観測された日食のずれが生ずる原因としては、自転速度や地軸の微細な変化が考えられる。 これについては、別項で論ずる。 《田村皇子》
書紀には、 ●〈敏達紀四年〉に「次采女伊勢大鹿首小熊女曰菟名子夫人、生…糠手姫皇女【更名、田村皇女】」。 ●〈欽明天皇紀〉に「息長足日広額天皇、渟中倉太珠敷天皇孫、彦人大兄皇子之子也。母曰二糠手姫皇女一」 とある。 また記には、 ●〈敏達天皇段〉「日子人太子娶二庶妹田村王亦名糠代比賣命一生二御子坐岡本宮治天下之天皇一」 とある。 田村皇子への遺詔は、〈舒明即位前紀〉に再録される。 再録というよりはむしろ、舒明紀の記述が先にあり、それを遡って推古紀にも加えたのであろう。だから、推古紀では田村皇子の名が説明なしに突然出てくるのである。 推古帝が話した内容は、田村皇子が次の天皇になろうと思うなら軽々しく喋らず、慎重に構えよと助言したものである。 《天位》 天位を字のままに訓めば「あまつくらゐ」だが、古訓はタカミクラヰとする。 高御座については、万葉に、
これは大伴家持が芳野離宮への行幸にお供したときに詠んだ歌で、この部分はすべて芳野離宮にかかる。 「高御座」、「天の日嗣」、「天下 〈延喜式-中臣氏祝詞〉(大殿祭)には、たかみくら、ひつぎが見える。
古訓「たかみくらゐ」は、「位」に寄せている。ただ「たかみくら」には既に「くらゐ」の意味が含まれているから、祝詞のように「たかみくら」が普通であろう。 古訓が「あまつ」の部分を省いたのは、これを「鴻基」に回して「あまつひつぎ」と訓んだためと思われる。 「鴻基」の訳語は本来の「〔国の〕偉大な礎」の意味に戻し、「天位」は「あまつたかみくら」と訓んだほうがよいように思える。 《山城大兄》 山城大兄王は、一般に聖徳太子の子とされる。 ところがその記述は『上宮聖徳法王定説』によるもので、記紀にはそのようには書いていない。 記紀には、山代皇子は二人見える。 一人は推古天皇の同母弟で、書紀では「山背皇子」〔記では「山代王」〕と表記される。 もう一人の「山代王」は、父は忍坂日子人太子〔押坂彦人大兄皇子〕、母は桜井玄王〔桜井弓張皇女〕で、記のみに見える。 押坂彦人大兄皇子からの詳しい系図は、書紀にはない。 教えの言葉には「汝肝稚之」と若いが故の未熟さを指摘するから、世代から見て「山代大兄王」に合うのは後者であろう。 同腹の二人のうち、山代王は兄にあたるから「大兄王」とは矛盾しない。 書紀には、山城大兄王の出自は書いてない。記によれば、山代王も押坂彦人大兄皇子の子で敏達天皇の直系の孫だから、血筋に問題はない。 むしろ、田村皇子とは異母兄弟の関係だから、ライバルとして相応しい立ち位置にある。 だから、『上宮聖徳法王定説』がなければ、山代王が山城大兄王だと判断されるであろう。 推古帝の教えの中身は、心に望みがあってもごちゃごちゃ言わずに群臣の意見に従えというものである。 つまり、山代王は皇位に即くことを望んでいたが、推古帝に今のお前では無理だと言われたのである。 《喪礼》 喪礼の古訓「モコト」は「喪のこと」、すなわち喪に関わるもろもろの儀式を意味すると思われるが、 〈時代別上代〉をはじめとして古語辞典にはモコトは出てこない。 ただ「モ」自体については、「喪」が訓仮名モに使われることから考えて、死を悼む期間または行事がモと呼ばれたのは間違いない。 よって、上代語としては、喪礼を「ものゐや」と訓むのが安全であろう。 《殯宮》 〈時代別上代〉は、「古事記や万葉題詞の「大殯」「殯宮」などの「殯」がアラキと訓まれているが、 日本書紀古訓ではモガリとある」と述べる。 万葉を調べると、次の歌がある。
「ときにはあらねど」〔時には有らねど〕は、まだ死ぬときではないのにという無念の言葉であろう。 「おほあらき」はアラキ(殯宮)への美称である。 万葉歌にはモガリはなく、アラキばかりであるから、実際に上代に使われたのは主にアラキであったと思われる。 殯にモガリをあてたのは、平安院政期の書紀古訓学者であろう。 〈時代別上代〉に「喪屋 《改葬》
〈継体天皇紀〉において、ピンク石製石棺の運び入れは、大王がその威光を誇る一大イベントであろうと推察した (第233回)。 それを考えれば、改葬のために横大路を通る石棺の行列はさぞ盛大であっただろうと想像される。 それが書かれないということは、書紀の時代には推古帝の威光はすっかり忘れ去られたようだ。 聖徳太子信仰の盛り上がりに隠れて、すっかり影が薄れてしまったのかも知れない。 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の最初の形が書かれた当時は大大王として称えられていたのだが、これが時の移り変わりというものであろうか。 《大意》 三十六年二月二十七日、 天皇(すめらみこと)は病に臥されました。 三月二日、 日蝕があり、尽くされました。 六日、 天皇は痛み甚しく、言葉を諱(い)むことができませんでした〔=話すことが我慢できなくなりました〕。 そこで田村皇子を召して仰りました。 ――「天位に昇り、鴻基を経綸し〔=国の礎を計り〕、 万機を馭し〔=よろずの政を治め〕、黎元を亭育する〔=人民を養育する〕ことは、 元より容易く言葉にできず、常に重くなされるものです。 故に、あなたは慎んで察し、軽々しくものを言ってはなりません。」 その日のうちに、山背大兄(やましろのおおえ)を召して教えられました。 ――「あなたは、肝が未熟です。 もしや心に望みがあったとしても、喚(わめ)いてはなりません。 必ず群臣の言葉を待ち、従うべきです。」 七日、 天皇は崩じました。 時に七十五歳。 そして、南庭で殯(もがり)がなされました。 四月十日、 霰(あられ)が降り、その大きさは桃ぐらいありました。 十一日、 霰が降り、その大きさは李(すもも)ぐらいありました。 春から夏にかけて旱魃がありました。 九月二十日、 天皇の喪礼が始まりました。 この時、群臣それぞれが殯宮(ひんきゅう)に誄(るい、しのびごと)を申し上げました。 以前に、天皇は群臣に遺詔されていました。 ――「近年は五穀不稔で、百姓はひどく飢えている。 そこに、朕のために陵(みささぎ)を築いて厚葬してはならない。 すなわち、竹田皇子(たけたのみこ)の陵に葬るべし。」 二十四日、 竹田皇子の陵に埋葬されました。 【628年日食についての推定】 推古紀の日蝕を論考したサイト 「中国・日本古代日食によるΔTの検証(推古天皇36年の日蝕は皆既か?)」 を見る(以下〈古代ΔT〉)。 ここでは力学的モデルで想定される日食と、中国・日本の古文献による実際の観測位置の差を表現する変数ΔTを、帰納的に求めるものである。 〈古代ΔT〉によると、「ΔT:力学関係だけで計算した結果と実際に日食の影が落ちた場所の差」である。 ΔT=0は、当時の自転速度が現在と同じであった場合である。 一日の長さを略してLODという。ある時点から現在まで、毎日少しずつ変化したLODの変化量の積分がΔTであると理解される。 そして、地球の自転量は、24時間に360.99°だから、ΔT=239.34秒が、経度のずれ1度として表現される。 〔資料[47]で詳述〕。 〈古代ΔT〉によると、ΔT=0の場合、皆既日食帯は朝鮮半島を通る。 〈古代ΔT〉では、628年4月10日〔ユリウス暦〕においてΔT=4473秒とする。この値は、Stephenson;1997の推定曲線(後述)によるものという。 結論的には、〈古代ΔT〉は〈推古紀〉の日食を部分日食と見ている。 この皆既日食帯の位置は、〈NASA〉の図とほぼ一致しているので、類似した手法を用いていると思われる。 《628年の日食》
〈古代ΔT〉によると、飛鳥地方が628年の日食の皆既日食帯に入るようにした値は、ΔT=2840秒である。 そのときのLODの平均変化量は0.821ミリ秒で、グラフは図左ピンクとなる。 これを見ると、前記-600年前後の3件のΔTをかなり下回る。 「Historical Eclipses And Earth's Rotation」〔F Richard Stephenson著;Cambridge Universty Press刊1997〕推定曲線において、西暦500~-800年にほぼ一致するのは、LODの平均変化量=1.490ミリ秒のときである(図左緑)。 このときは、628年のΔT=5152秒となる。すると皆既日食帯の経度はさらに2.8度東にずれる。ただ、この場合でも食は85.5%ある。 Stephensonによれば、LOD曲線は放物線〔破線〕に比べて、300年をピークに5%程度上方にずれ、1200年を谷に25%程度下方にずれる(図右)。 古文書から統計的に求めた曲線と思われるが、周期1000年程度の振動が生ずる天文学的な根拠は不明で、今のところ元データの存在の偏りによる見かけの凹凸ではないかと思われる。 ただ、まだ同書を精査中なので、もう少し明確になれば追記する。 このようなデータのぶれを考慮しても、628年の皆既日食帯は関東地方の南東方にあり、飛鳥では80~90%程度の部分日食であったことは揺るがないと思われる。 まとめ 「三十六年三月丁未朔戊申」の日食の記事については、突き詰めて信憑性を探った。 その結果分かったことは、①書紀における元嘉暦とユリウス暦の対応は確かであり、②この日に倭国の広い地域で部分日食が観測されたことはまず間違いないということである。 これによって、書紀には荒唐無稽なフィクションが載る一方、史実の正確な記録を記した部分があることが明確になった。 一般的に、文脈に無関係に挿入された簡潔な記述は、史実だと見てよいと思われる。 一方、推古天皇の改葬については、少なくとも植山古墳において改葬を行うことを前提として貴人の埋葬が行われ、 実際に埋葬主2名の改葬をセットで行ったことが確実になった。 これについては、記のみ「後二遷科長大陵一」と書かれる。 こちらは逆に、史実として確実なのに書紀には書かれていない。その理由として、 聖徳太子の偉大化が推古の影を薄くしたと一応解釈したが、実は隠された理由があるのかも知れない。 書紀については、細かい断片に砕いていちいち史実なのか、もし曲げられたものならそれは何故かを洗い出しすことによって得られるものは多いであろう。 それは、特に欽明天皇紀において感じられたことである。 なお書紀の扱われてきた歴史を振り返れば、そこには不当な政治利用が付きまとうが、書紀自体は民族の財産として学際的にすべてを汲み尽くすべきである。 さて、今回で古事記を読み終えた。終わりに近づくに従って書紀の熟読のようになったが、古事記に書かれた中身を正確に汲み取るためには、書紀との照合は欠かせないのである。 次回は最終回として古事記を総括し、ひとまず締めくくりとしたい。 |
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2021.04.07(wed) [251] 古事記の精読を終えて ▼▲ |
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【古事記の誕生】
古事記は、どのように誕生したかを考察する。 《序文》 序文は純正漢文で書かれている。 その中では、天武天皇への賛辞が注目される。 本文は推古天皇までであるが、序文では事実上天武天皇段を付け加えている。 記をまとめるにあたっての、稗田阿礼の功績は大である。これについては後に述べる。 《帝紀旧辞》 序文には「撰二-録帝紀一 討二-覈旧辞一」という語句がある (第18回)〔「討覈」は〈汉典〉:検討、併せて総合考査〕。 「帝紀及本辞」という表現もあるが、「本辞」と「旧辞」は同じ意味であろう(第17回)。 「帝紀」・「旧辞」(本辞)は特定の書物の名ではなく、記録一般をさすものであろう。 というのは、「諸家之所賷帝紀及本辞」すなわち、「諸家のそれぞれに伝えられてきた帝紀と本辞」と書かれるからである。 「帝紀」は「帝記」ではないから、口承伝説を含むかも知れないが、確かなことはわからない。一方、「辞」の原意は音声だが、それを書きとめたものも指すと思われる。 しかし、少なくとも代々の天皇〔実際には大王 一方『日本書紀』にも、〈天武紀十年〔681〕三月〉に川嶋皇子など十二人に命じて「令レ記二-定帝紀及上古諸事一」とある。 これは、720年になって日本書紀に結実したようだ。 しかし、記も敢えて「帝紀旧辞」という言葉に言及したのは、我々の書こそが正当であるとの自負が見える。 すなわち、記のスタッフは書紀の書き方に同意できない気持ちがあったと思われる。 《最初は書紀のために蒐集した資料》 太安万侶は稗田阿礼とともに、書紀の編纂にも関わっていたのは確実である。 書紀は大まかには、前半が口承や一部文字による伝説の集約、後半が文字記録が充実した時期以後の記録まとめである。 ここでいう「前半」は安康天皇までに顕宗・仁賢の即位前を加えた部分で、かなり記と重なっている。 本稿ではこの部分を「書紀-S」〔Story〕と呼び、それ以外の文字資料が充実してきた部分を「書紀-H」〔History〕と呼ぶことにする。 よって、記の出発点は「書紀-S」のための基礎資料(口承と文字)の蒐集であったと考えられる。 資料ではあったが、口述文学のもつ豊かさと、安万侶の文筆力が相まって、それ自体が魅力ある文章となった。 しかし、その資料は書紀では細切れになり、また神代巻においては異伝と横並びの「一書」として相対化される。 逆に、書紀に用いられなかった部分もあり、それは特に大国主神の部分に目立つ。 これについては、第55回のところで、 因幡の白兎をはじめとして、「古代に国土を支配していたころの大国主の足跡は、必要な部分(天照や天孫に関わる部分)以外は、すべて取り除かれた」と述べた通りである (第79回)。 国譲りにおいても、記は大神殿を賜ればという条件を示すが、書紀では有無を言わさず接収される。 すなわち、書紀は出雲国を特別扱いせず、律令国として他と横並びにした。 ただし、そこに大国主を厚遇した「一書」を加える配慮を見せる。ただ「一書」はあくまでも参考資料である。 《次第に膨れる違和感》 一方、神武段においては省略した部分を「如此 そして、書紀は神武天皇から編年体を開始している。 記に馴染んだ目で読むと、神武天皇や日本武尊の編年は極めて作為的に感じられる。 神武元年の辛酉は、辛酉革命説に依ったと考えられているが、だとしても60年に一度巡ってくる辛酉年のうちなぜこの年かという問題が依然として残る。 中国の歴史書は既に春秋左伝〔戦国;BC400頃〕から編年体だから、背伸びして対抗したようにも思える。 「書紀-S」期間に添えられた年月日は、単なる形式である。 そこには何らかの神聖な意味があるかも知れないが、そもそも倭の古伝に編年を加えるのは木に竹を接ぐようなものである。 伝承は民族の宝であり、その味わいを損なうことなく遺されるべきであろう。 記のスタッフにもこの思いがあったのではないだろうか。 蒐集した資料は必ずしも納得がいく形で使われなかったから、ここに独立した書を成さしめる動機があったと考える。 こうして『古事記』を編むことを元明天皇に願い出て、勅許されたと推察される。 古事記は書紀〔720〕に先んじて、和銅四年〔711〕に献上された。 【文字資料】 前項で述べたように、書紀の雄略以後は基本的に文字記録に基づいて書かれた。 書紀が参照した文書自体は殆ど残らないが、文字記録がいつごろからどのような形で蓄積されたかは、ある程度推定することができる。 《百済資料》 まず、本サイトが「百済資料」と呼ぶ文書群の存在が推定される。それは、百済が滅亡して倭に亡命した王族がもたらしたと考えられる文書群である (〈欽明十五年〉十二月)。 〈欽明天皇紀〉における聖王からの上表と、そこに引用された天皇の詔が、その中に含まれたと考えられる。 ただし、その内容には朝廷を高める方向への潤色がなされている。 その理由は、亡命王族が「百済王氏」として、倭の中枢に食い込もうとしていたためと考えられる。 しかし、上表で書き直されたと思われる部分はかなり拾い出すことができ、 その結果大筋においては原型が保たれていると判断するに至った (欽明二年七月前後)。 また、書紀には『百済本記』『百済記』『百済新撰』からの引用がある。その原書は失われたが、 これも「百済資料」の範疇に属すと思われる。本サイトは、亡命百済人の学問僧に提出させたものと考えている。 『百済本記』は〈継体紀〉と〈欽明紀〉に引用され、 『百済記』は〈神功皇后紀〉〈応神天皇紀〉〈雄略天皇紀〉に、『百済新撰』は雄略紀に引用されている。 これらにも「聖王」上表文と同様、倭の朝廷に阿 一方、倭国古来の文字記録としては、〈欽明紀二年〉に『帝王本紀』を引用している。 これも実体は不明であるが、「多有二古字一。伝写既多。前後失レ次。兄弟参差」などと述べることから、古くから伝わる文書記録だったと考えられる。 同じ表現が記の序文にも、「帝紀及本辞。既違二正実一。多加二虚偽一」とある(第17回)。 これを見ると、記のいう「帝紀及本辞」も、主に文字記録のように思える。 《付記された崩年》 さて、記には〈崇神〉以後の多くの天皇に、崩年が付記されている (第43回の表)。 これらは『帝王本紀』を含む帝記を、出典としたと見てよいだろう。 記に記された雄略天皇までの崩年は、「書紀-S」の編年よりも信頼性が高い。それは崩年から得られた在位年数が現実的であり、 かつ書紀の編年は過去に向かって大幅に引き延ばされ、実記録としての真実性が期待できないからである (第160回)。 実際、宋書の「倭の五王」の年代は概ね記に合致する(182回)。 記では、最初に崩年が添えられるのは崇神天皇で、垂仁・景行を飛ばして成務以後から多くなる。 しかし、成務以後でも顕宗・仁賢の前後は崩年を欠く。二王子発見伝説に史実性がないことと併せると、伝説のみかも知れず、興味深い。 しかし、ならばその間実際には誰が大王だったのかということになり、謎は謎を生む。実は飯豊大王―白香媛大王だったのかも知れない。 《史の祖》 さて、応神段では、和邇吉師〔書紀は王仁〕が「論語十巻千字文一巻」をもたらした。 加えて、秦氏や工人たちが渡来したことが書かれる。 そのうち一定人数は、職業部の史 というのは、〈釈紀〉延暦九年にも、王辰爾の祖先の辰孫王が、やはり応神朝に入朝したとの記事があるからである(敏達元年)。 政務天皇の崩「乙卯」〔355〕は応神天皇の崩「甲午」〔394〕の少し前だから、 応神帝の頃に史の手によって本格的な文字記録が始まったと考えることができる。 興味深いのは、同時期の375年、『三国史記』の「博士高興が百済に漢字を伝えた」とする記述である (第152回【和邇吉師】)。 この時期に王仁が直接中国から、または王仁が百済で高興から得た漢字をもって倭に来帰したことが考えられる。 すると、〈釈紀〉で辰孫王が来帰した「軽嶋豊明朝御宇応神天皇」の年代は記の方に合致する。 つまり〈続紀〉の記事は、書紀が実記録の年を大きく動かしたことを実証するものと言える。 《α群》 書紀で、より正確な漢文で書かれたα群は十四巻(雄略)から始まる(第193回《α群》)。 雄略朝には、「稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣」〔辛亥年:471か〕(資料[27])や、 「江田船山古墳出土銀象嵌銘鉄剣」〔雄略帝の時代〕(資料[28])を見ると、 この頃には漢文で倭語を表記する一定のルールができていたようである。 前項のように、文字資料は応神天皇から蓄積が始まり、670年頃に前述の「百済資料」が追加されたと見られる。 そして、雄略帝の辺りから、中国人スタッフが文章として読める程度の記録があったと考えられる。その部分が「書紀-H」であろう。 それに対して「書紀-S」は、古事記スタッフがいくらかの古記録と口承から蒐集した資料に依存して書紀が書かれたと思われる。 興味深いのは、「書紀-H」の最初にあたる〈雄略天皇〉段・紀において、両者の重複が突然少なくなることである。 〈雄略天皇〉段・紀で共通する話は、一言主、葛城山の猪、三吉野の蜻蛉 雄略段のそれ以外の内容は、〈雄略紀〉と重複しない範囲でいくつかの伝説のみを拾った印象である。 清寧以後になると、記の実質的な内容は顕宗に雄略陵に破却を命じられた仁賢が、端っこを形だけ壊すのに留めた話程度である。 最後は、磐井の乱(継体段)である。 雄略陵の破却は、袁祁王・意富祁王伝説の後日譚である。 つまり、記のスタッフが書紀から負わされた役割は、袁祁王・意富祁王までの資料蒐集であった。 しかし、その担当範囲を過ぎても代々の天皇の家系だけが、舒明天皇まで続く。 この件については別項で述べる。 《記から書紀への発展》 書紀の方向性に違和感を抱いたのは、書紀の執筆の初期からだろうと思われる。 かく推定したのは、神功皇后段の「此時其三柱大神之御名者顕也」の書き込みを見たときである (第140回)。 もともとは「底筒男中筒男上筒男」は伊邪那岐命の禊で登場したが、これを神功皇后に移す修正があったと見た。 記の執筆が既に始まっていたからこの書き込みがなされたわけである。 一方、吉備上道臣、上毛野君の祖については、記の後の研究の進展が見られる。 これについては天武天皇以後、各氏の「氏文」の提出を求めて各氏の先祖の功績に応じて八色の姓 吉備上道臣については、記では吉備上道臣の直系の祖を孝霊天皇の皇子大吉備津日子命とするが、 書紀では稚武彦命を上道臣・下道臣の共通の祖として、上下の分割は応神朝のこととする (応神天皇紀3〉【御友別一族】)。 また上毛野君については、記では崇神天皇の皇子豊木入日子を祖とするが、書紀は彦狭嶋王(あるいはその子御諸別王)を祖とする。 記がこれらの部分を執筆した時点で手に入れていたのは、古い伝承のみだったと思われる。 その他細かい点として、大物主神と大国主の同一化、天孫の天降りの主導者を天照大神から高皇産霊神に移したことが見られる。 【任那国】 記には、「任那国」に関する記述が全くないことが目を惹く。それは、ミマナの名称がないばかりか、内容もである。 《書紀が記す「任那国」》 任那国が実在したのは確実である。但し、それは5世紀頃までで加羅地域の小国群の一国としてである 神功皇后記4。 この名称を借りて、書紀は「任那」が古代に倭の直轄する国として存在したかの如く見せる。 そして〈欽明紀〉の前半では、滅びた任那国の再建を求める文書をしきりに百済に送っている。 しかし、実際には「任那国」の再建が実現しなかったことは、他ならぬ書紀自体を精読することによって明らかである。 《継体紀以前》 〈継体天皇紀〉では、「任那国」は加羅国の一地方、または加羅国の別称と読み取れる (二十三年)。 例えば、原注の「己能末多 遡って〈雄略天皇紀〉では、八年に任那王と膳臣が新羅を救った話が載る。倭人が渡海して新羅を攻撃した史実はあるようだが、戦闘場面は『魏書』武帝紀の一部を利用した創作である。 「任那」の初出は〈崇神天皇紀〉六十五年で、「鶏林〔=新羅〕之西南」と紹介される。 崇神天皇は記では「所知初国之 〈崇神紀〉はまだ「書紀-S」〔古事記を素材とする範囲〕の中だが、記の崇神段には「任那」はない。 この点で興味深いのは〈神功皇后〉段・紀である。詳しくは第147回の【神功皇后紀の形成】の項で論じたが、 書紀が付け加えたのは、渡海前に筑紫を統治した期間と、帰国後に摂政として稚桜宮で新羅・百済との外交を司った期間で、それ以外は記紀で共通する。 書紀は神功皇后の実在を印象付けるのに役立つ伝説を求めて拾い上げているが、集めた伝説に「任那」は見出せなかった。 〈神功皇后記4〉で「神功皇后の存在自体は虚像であったが、 それを真実らしく見せるためには、逆に実在資料を広く用いる必要がある。 その結果、任那国の記述がなくなってしまった」と述べた通りである。 記は〈神功皇后〉段に任那を入れず、書紀が付け加えた部分にもないから、結局「任那国」が最も出てきて欲しいはずの〈神功皇后紀〉の中に、その影も形もないのである。 古事記のスタッフは始めは書紀と一体であったから、書紀の中心メンバーの任那国への執着を知らぬはずがない。 記が、意図的に任那を拒否した可能性は高い。 【古事記の文体】 さらに古事記の文体を見る。 《稗田阿礼》 記の特に上巻はまことに味わい深く、口承文学はこのような姿だったかと思わせるものがある。 稗田氏は、天宇受売命を祖とする語り部だったと考えられている。 『姓氏家系大辞典』の「稗田」項には、 「弘仁私記序に「是より先、浄御原天皇〔天武〕御宇の日、 舎人あり、姓は稗田、名は阿礼」とある本註󠄀に「阿礼は天鈿女命の後也」と見え」るとある。さらに、 「西宮記に「猿女を貢する事。…薭田海子が死闕の替と為さんと……猿女三人死闕の替を差進めしむと云ふ」など見ゆるにより、猿女君なる事疑なし」という。 「田原本町公式」に 「大和郡山市稗田町にある賣太神社は、稗田阿礼を主祭神として祭」り、 「今も「語り部の里」として童話や民話が語り継がれています。」とあるように、稗田氏は語り部の一族と考えられている。 阿礼自身も語り部であったと思われるが、序文ではむしろ解読困難な古文書をすらすらと読みこなす才能が評価されている。 それでも古事記の味わい深さは、語り部として育った阿礼の表現力に由来すると考えてもよいのではないだろうか。 《多氏古事記》 〈釈紀〉巻十二の述義八:「一言主神」の項に「多氏古事記」からの引用がある(第206回)。 『多氏古事記』という名前からは、太安万侶の『古事記』の基礎に、多氏〔=太氏〕が蓄積した伝承をまとめた『多氏古事記』があった印象を受ける。 ただ、〈釈紀〉所引の一言主伝説は書紀より後に書かれた気配がある。 それでも、本物の『多氏古事記』は存在し、後世にそれを装った偽作かも知れない。 《文体》 文体は、和風漢文体である。しかし、 万葉集、祝詞、宣命体が語順の逆転を伴わないのに対し、古事記は返り点が必要なSVO型で、純正漢文方式である。 初めの方には、「云はく『~』と云ふ」という書法や、「登(と)」、「許曽(こそ)」(第48回)などの助詞が明示され、倭語であることを強く示唆する。 後ろの方にはだんだんと見られなくなっていくが、初めの部分で例示して以後は同様に読めということであろう。 尊敬表現でも、第166回では仁徳天皇の妃黒日売を主語に「献御歌曰」とあり、次の歌は「又歌曰」である。 つまり最初に「みうたよみまつりていはく」と訓むように指示し、以後同じということである。 このように、古事記は書紀とは異なり、完全に倭語の文章である。 【古事記の神】 《神話の泉源》 伊邪那岐伊邪那美は淡路島の神である。 御柱めぐりや生み損ないについては、先島諸島から東南アジアにいくつかのパターンがあるという(第34回)。 『日本神話の比較研究』〔大林太良編;法政大学出版局1974〕は、セレベス島や北ボルネオの部族神話の例を挙げる(p.162~)。 そして「兄妹始祖型の洪水神話の分布が、南中国―東南アジア―台湾―インドネシアに広がって」いることから 「イザナギ・イザナミ神話の前半は実に洪水神話の断片ではなかろうか」と述べる。 高御産巣日神(高皇産霊神)・天照大神・月読命は壱岐対馬から伝来した(顕宗天皇二年十月)。 山幸彦・海幸彦は大隅地域の伝説だが、『日本神話の比較研究』によれば、「インドネシア」「中国、朝鮮、東南アジア特にインドシナやオセアニアに分布し、更に北アメリカインディアンにも知られ」るという。 大国主神が出雲の神であるのは言うまでもない。 これらの神話をうまく繋いで、皇孫の根拠となる神代の系図を構成するのである。 幅広い地域からの神話は読み物として新鮮であるが、同時に諸族の国家への帰属意識を高めることに寄与しよう。 こうして神を共有することによって形成される諸族の精神的な統合も、また天武政権の詔に応えるものであろう。 《仏教》 書紀においては、仏教は〈欽明紀〉以来、主要な柱の一つとなっている。 ところが、記には仏教のことは全く出てこない。 もともと、記スタッフの役割は書紀-Sの基礎資料の収集だから、書紀-Hの範囲の話がないのは当然である。 それでも少しぐらいは載ってもよいのではと思うのだが、その片鱗もないのは意図的に仏教を忌避したと感じられる。 欽明天皇以後は、どうしても仏教との繋がりがでてきてしまうからであろう。 その反面、儒教には寛容である。和邇吉師が論語をもたらしたことはちゃんと書いている。 また、記は僧の帰化を書かないが、秦氏らの帰化は書く。 結局、古事記はまた仏教へのアンチテーゼ〔=反対論〕の性格を有すると考えられる。 現実的には、〈天武紀〉には仏教活動が描かれ、天武天皇自身が仏教を排斥した気配は見られない 飛鳥時代の今、仏教を排除するのは不可能だし、その存在は認められる。 それでも、天神地祇は民族の精神の中核の位置を占めなければならない。 これはもともと、天武天皇による国造りの一環である。膨張する唐の脅威に直面し、対抗するための国づくりを急いだ。 具体的には、藤原京建都、律令の整備、国号日本及び天皇号の制定、「庚寅年籍」(戸籍)による税の確保、 八色の姓に象徴される諸氏への支配の徹底、伊勢神宮の事実上の創建、日本書紀の編纂など多岐に渉る。 天武天皇は、前述したように仏教を排斥するわけではないが、 諸族や人民の精神面の統合のために高天原神学(次項)の確立を求めた。 古事記の編纂は、それに正面から答える事業となった。 記において高天原神学の純粋化は徹底している。 書紀のスタッフには、高天原神学派と仏教受容派が混在していたと思われるが、 古事記スタッフが前者に属するのは明らかで、仏教の些細な影も意図的に忌避したと見られる。 《高天原神学》 「高天原神学」は、本サイトによる造語である。 日本の宗教は、すべての自然物に神が宿るのが特徴で、もっぱら汎神論のイメージがあるが、 『古事記』上巻及び『日本書紀』神代巻は、れっきとした神学体系と言える。 そこには神々相互の血縁関係が定義され、また天孫を降ろすまでの神代の出来事が語られる。 その体系を、神の世界の名をとって「高天原神学」と呼ぶことにする。 その形成の過程を想像すると、古墳時代の始めには、三角縁神獣鏡に表現される道教思想も関係していたと考えられ、 前方後円墳という墳形の意味も語られていたかも知れない。 そこに、顕宗天皇の時期に、対馬壱岐の高皇産霊神・天照大神・月読神が取り入れられたと見られる。 以来「高天原神学」は、朝廷の精神的基盤として、強固に存在し続けたようである。 百済聖王が目指した倭の仏教化は、実際には推古朝になってやっと成し遂げられた。 それが簡単には進まなかったのは、高天原の神が立ちはだかったためで、 実際〈用明朝〉には仏教への弾圧として描かれている。 高天原神学は近代に蘇り、幕末の尊王運動から第二次世界大戦期の思想統制にまで影響を及ぼした。 このように強力なイデオロギーとして存在し続けているから、まだまだ研究が深められるべきであろう。 【天皇の系図】 「天皇」号は、680年前後に使用が開始されたと見られる(資料[41])。 それまでの呼称は基本的にオホキミである。オホキミは万葉歌に多く残るが、皇太子にも用いられることに留意しなければならない。 『上宮記』では、まだ「大公王」である。 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』は、 もともとの文章に、後から「天皇」号を加えたと思われる。 その付け方には、まだ一貫性がないので、天皇号が生まれて間もない時期と推察した。 過去の大王 倭建命は記では「太子」の一人で、書紀も日本武"尊"と表記し、一時は天皇寸前まで行ったようである。 書紀が日本武尊の人物像を否定的に描くのは、天皇から外したことを合理化するためかも知れない。 地方に「倭武天皇」、「倭建天皇」の表記も見られるのは、天皇認定の議論の痕を示すものかも知れない (第131回・第134回)。 神功皇后は、書紀に一巻が当てられるなど天皇並みである。 筑紫の帯 聖徳太子は太子であるが、天皇を追号しようとした気配は感じられず、太子のまま仏教界の聖人として崇められる方向に進む。 《氏族の始祖との血縁関係》 さて、清寧天皇から推古天皇までは、ほとんど事績なしで加えられたものである。 その意味は、系図そのものにあろう。いわゆる欠史八代も系図のみだったが、その意味では人皇の時代は対称形となっている。 皇子には、「~の祖」と書かれるものが多い。 そこに書かれた氏族は、それぞれの系図の始点にその皇子の名を置くことが公認されたものと言える。 朝廷が氏族との協力関係を築くために、始祖との擬制的な親族関係を定義することは中国でも見られ、一般的である(魏志倭人伝第32回)。 各天皇段ごとに記された「娶~姫。生子~…。」の部分は読むには退屈であるが、氏族の系図の正当性を保証する大切な記述である。 事績を欠く天皇も、これだけは欠かさない。記を論ずるときにはあまり注目されない部分だが、古事記の重要な要素である。 諸族を朝廷の支配下に統合するところに、記の意義がある。 これまで述べてきた「諸族の伝説を取り入れることによって国家に親近感を抱かさせる」ことに加えて、 「氏族の祖を天孫の構図に位置付ける」ことによっても統合を図ったのである。 書紀の系図は記より少ないが、これは書紀が系図を軽視していたわけではなく、失われた『系図巻』一巻に集約したのであろう。 《皇祖》 高天原の神からの血筋こそが、まさに天皇を天皇たらしめるものである。 たとえ天皇個人の思想や文化が高天原神学と相いれなくなっても、神の血を受け継いでいること自体が天皇であることを規定する。 注目されるのは、敏達天皇から舒明天皇までの系図である。これが書紀には載らず、古事記のみが明示するのが、そのことをよく示している。 舒明天皇以後の血縁関係は明白だから、これでやっと古事記は責任を果たしたのである。 しかし、系図の継続が危うい部分が2箇所にある。一か所目は清寧天皇で途切れたときである。 このときは履中天皇の孫の意祁・袁祁兄弟を発見して、顕宗天皇・仁賢天皇として継承したと描かれる。 しかし、皇女には「雄略帝―春日大郎女―手白髪郎女(手白香皇女)」のラインが存在している。 二か所目は武烈天皇で王朝が廃されたときである。 このときは、応仁天皇の五代孫といわれる継体天皇を選んだが、実質的には仁賢天皇の女の手白香皇女を通して欽明天皇に継承される。 これらから、記紀が手白香皇女を経由を正式な継承ラインとして位置づけたのは明らかである。 もしそうでなければ、応神天皇から継体天皇までの「五代」全員を揃えて示したはずである。 実際、『上宮記』はそれを実行した(資料[20])。 記紀がこの系図を採用しなかったのは、既に手白香皇女系列が固まっていたからである。 しかし、古事記を確定する直前になって男子継承が決定された。だから、神功皇后も摂政に留められた。 歴代天皇を定式化する議論の段階では、女性の「飯豊天皇」も提起されたと推定される。 『扶桑略記』が「飯豊天皇」、「神功天皇」とするのは、その議論の残滓であろう。飯豊姫の陵墓は現在でも「飯豊天皇陵」と称されている (212回)。 このように、事実上「手白髪天皇」が固まった後になって男子継承が決まったから、辻褄が合わなくなったのである。 まとめ 古事記には「何が書かれているのか」というより、むしろ「書かれていないものは何か」という視点で見ることによって、逆にその本質が際立つのである。 書かれなかったのは結局仏教と任那国で、その拒絶ぶりは徹底している。 任那を書かなかったのは、記が集めた伝説のどこにも出てこなかったからであろう。 伝説はフィクションであるが、伝説をフィクションにはしない。 つまり、古来の伝承はあるがままの姿で置き、もともとなかったものを加えることをしない。いわば、学究的な態度を貫いている。 仏教を除外したのは、高天原神学とは根底から折り合わないからであろう。 混沌から天地が分離し、やがて高皇産霊神が天孫を降ろして国が歩み始めたというストーリーに、 仏教の輪廻転生や解脱は折り込みようがない。 こうして古事記は、民族の心のふるさととも言うべき精神世界を、純粋な結晶体として残そうとしたのである。 |
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古事記をそのまま読む ―完― |
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⇒ [252] 日本書紀(巻二十三) |