| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
[248] 下つ巻(崇峻天皇2) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2021.01.18(mon) [249] 下つ巻(推古天皇1) ▲ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() 治天下參拾漆歲 妹(いも)豊御食炊屋比売命(とよみけかしやひめのみこと)は小治田宮(をはりたのみや)に坐(ましま)して 天下(あめのした)を治(をさ)めたまふこと、参拾漆歳(みそとせあまりななとせ)。 妹の豊御食炊屋比売命(とよみけかしやひめのみこと)は小治田宮(をはりたのみや)にいらっしゃり、 三十七年間、天下を治められました。 【小治田宮】
『古代の大和』〔奈良県教育委員会;1988〕は、「明日香村教育委員会が、昭和62年7月、雷丘東方遺跡の発掘調査を実施したところ、 平安時代初頭の井戸から「小治田宮」と書かれた多数の墨書土器が出土した」と述べる。 〈続紀-天平宝字四年〔760〕八月〉に「○辛未〔十四日〕。転二播麻国糒一千斛。備前国五百斛。備中国五百斛。讃岐国一千斛一。以貯二小治田宮一。」 〔糒(ほしいい)を播磨国・備前・備中・讃岐から尾治田に移した〕、 そして「乙亥〔十八日〕。幸二小治田宮一。」とある。 行幸したのは廃帝〔明治三年〔1870〕に淳仁天皇を追号〕である。 このときは、小治田宮の施設が糒の備蓄庫として利用されたようである。 「明日香村埋蔵文化財展示室」〔明日香村大字飛鳥225-2〕に墨書土器と井戸が展示され、 「年輪年代測定法によって、井戸枠材の伐採年代が758年+αと判明」、「材質はヒノキ」との解説が添えられている。 廃帝行幸の760年に近い。
遺構のうち飛鳥時代のものについては、以下が挙げられる(※は図に対応)。 ● 飛鳥村教育委員会による2次調査(1986)が検出した「貼石護岸の池跡(飛鳥初頭)※1」〔明日香村埋蔵文化財展示室説明板〕。 ● 「雷内畑遺跡(明日香村1994-11次、1995-15次)では7世紀中頃以降の 庭園遺構※2や掘立柱※3などが見つかっている。」という〔『奈良文化財研究所-紀要2006』〕。 ● 「7世紀前半の遺構であるSD3100※4は掘割的な様相を示しており、推古天皇の小墾田宮との関連を検討すべきである」、 また「7世紀後半の遺構としてSB3020※5・SB3050※6の2棟の長大な建物」が確認された。〔『奈良国立文化財研究所年俸1994』〕 ● 飛鳥村教育委員会による7次調査(1997)が検出した「大形柱穴(7世紀後半)※1」〔明日香村埋蔵文化財展示室説明板〕。 推古天皇以後に小治田宮が天皇の宮殿として使われた記事が、〈皇極天皇紀〉にある。 ――〈皇極天皇紀〉元年〔642〕十二月壬寅〔二十一日〕に「天皇遷移於小墾田宮。【或本云、遷於東宮南庭之権宮。】」 二年四月丁亥〔二十八日〕に「自権宮移幸飛鳥板蓋新宮。」 このときは「権宮」〔一時的な宮〕として約四か月間坐ましただけである。 全体としてみると、雷丘東方遺跡・雷畑遺跡の遺構は飛鳥時代初頭から始まり、奈良時代後期以後に「小治田宮」の墨書土器が存在する。 皇極天皇が仮宮を置いたり糒の貯蔵施設として使われ、またこの期間の時々に建造物があることを見ると、 一貫して朝廷の官署として機能していたと見られる。 よって、推古天皇の遷都(十一年〔603〕)の頃から墨書土器の時期に至るまで、この宮殿には連続性があると言える。 よって推古朝の「小治田宮」は、ここであったと考えてよいだろう。
【書紀―即位前~元年四月】 1目次 《豐御食炊屋姬天皇》
橘豊日(たちばなのとよひ)〔用明〕の天皇の同母妹(いろど)[也]なり。 幼(わか)くは額田部皇女(ぬかたべのみこ)と曰ひたまひて、姿色(みすがた)端麗(きらきら)しくありて、進止(みふるまひ)軌制(のりををさめたまふ)。
立たして渟中倉太玉敷天皇(ぬなくらふとたましきのすめらみこと)〔敏達〕之(の)皇后(おほきさき)と為(な)りたまふ。 三十四歳(みそとせあまりよとせ)。 渟中倉太珠敷天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 三十九歳(みそとせあまりここのとせ)。 [于]泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)五年(いつとせ)十一月(しもつき)に当たりて、 天皇、大臣(おほまへつきみ)馬子宿祢(うまこのすくね)の為に見殺(ころしまつらゆ)。
群臣(まへつきみたち)渟中倉太珠敷天皇之(の)皇后(おほきさき)額田部皇女(ぬかたべのみこ)に請(ねが)ひまつりて、以ちて[将]践祚(ひつぎ)せ令(し)めまつらむとす。 皇后辞(いな)びて之(こ)を譲(ゆづ)りたまひき。 百寮(ももつかさ)表(ふみ)を上(たてまつ)りて勧進(すすめまつること)[于]三(みたび)に至りて、乃(すなはち)之(こ)に従(したが)ひたまひて、因以(よりて)天皇の璽印(みしるし)を奉(たてま)つりき。
皇后豊浦宮(とゆらのみや)に於(ましまして)天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。
仏舎利(ほとけのしやり)を以ちて[于]法興寺(ほふこうじ)の刹柱(さつはしら)の礎(つみし)の中(なか)に置く。 丁巳(ひのとみ)〔十六日〕。 刹柱(さつはしら)を建(た)てり。
厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)を立たして皇太子(ひつぎのみこ)と為(し)て、仍(すなはち)政(まつりごと)を録(しる)し摂(と)らせて、 万機(よろづのまつりごと)を以ちて悉(ことごとく)委(ゆだ)ねたまひき[焉]。 橘豊日(たちばなのとよひ)の天皇(すめらみこと)〔用明〕の第二(だいにの、つぎてのふたはしらにあたりたまふ)子(みこ)也(なり)。 母(みはは)の皇后(おほきさき)は穴穂部間人(あなほべのはしひと)の皇女(みこ)と曰ひたまふ。 皇后(おほきさき)、懐妊(はらみ)て開胎之(みこみ-せまりましし)日、禁中(みやのうち)を巡行(めぐり)まして諸司(つかさつかさ)を監察(み)たまふ。 [于]馬官(うまのつかさ)に至りて、乃(すなはち)廐戸(うまやど)に当たりて[而]不労(たしなまざ)りて忽(たちまち)に之を産(う)みたまふ。
壮(をとこざかり)に及びて、一(ひとたび)に十人(とたり)の訴(うるたふること)を聞こして、以ちて勿失(うしなふことなく)能(よ)く弁(わきた)めて、未(いまだ)然(しからざること)を兼ね知りたまふ。 且(また)内教(うちつのり)を[於]高麗僧(こまのほふし)慧慈(ゑじ)に習ひて、 外典(とつふみ)を[於]博士覚哿(はかせかくか)に学(まな)び乙て、 並(な)べて悉(ことごとく)達(さと)りたまひつ[矣]。 父の天皇(すめらみこと)〔用明〕之(こ)を愛(め)でたまひて宮(おほみや)の南の上(へ)の殿(との)に令居(すまはしめ)たまひき。 故(かれ)其の名(みな)を称(たた)へて上宮廐戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやどのとよとみみのひつぎのみこ)と謂(まを)す。 《年譜》 ここに書かれた御食炊屋姫の年譜と、〈欽明紀〉以後の記述との対応を見る。
皇后になった年齢について、〈敏達紀〉では「敏達五年」〔576〕だが、皇后に昇格する五年前に既に妃でなっていたと読めば、何とか辻褄を合わせることができる。 年齢の妥当性については、「十八歳で結婚」、「用明元年〔三十五歳のとき〕に穴穂部皇子に姦(おそ)われそうになる」、「七十五歳で崩」は、不自然ではない。 〈元興寺縁起〉〔『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』〕では、戊午年〔538〕に百済から太子像・灌仏器・仏起書が渡来した。 欽明天皇が「大大王」(御食炊屋姫)に、その後宮を分けて仏殿に提供せよと告げたのはそれから一年以内である。 また、〈元興寺縁起〉には癸酉年〔613〕に大大王が生誕百歳を迎えたとあるから、御食炊屋姫の生誕は514年で、仏法が渡来した538年には既に二十五歳になっていた。 書紀では仏法の渡来は〈欽明十三年〉〔553〕であるが、それでも御食炊屋姫はまだ生まれていない。 したがって、〈元興寺縁起〉が用いた年譜は、〈欽明天皇紀〉とは全く異なっている。 一方、敏達以後の年の干支表示については書紀を参照して書き加えたと考えるのが妥当で、〈元興寺縁起〉の成り立ちの複雑さが伺われる。 《第二子》 〈用明天皇紀〉における皇子のリストは、穴穂部間人皇女の生んだ子から始まり、筆頭は聖徳である。 したがって、厩戸豊聡耳皇子は第一子である。 〈帝説〉〔『上宮聖王帝説』〕でも、七子の順番そのものは書紀と一致している。 しかし、〈帝説〉には「聖王ノ庶兄多米王ハ」とも書かれ、つまり多米王は厩戸皇子の腹違いの兄とする。
したがって、「第二子」は〈定説〉及び古事記の皇子リストにおける順番と一致している。 《宮》 「宮」を〈図書寮本〉は「オホミヤ」、〈釈紀〉は「ヲホミヤ」と訓む。前者は平安時代、後者は鎌倉時代の用字と見られる。 〈北野本〉の訓点は殆ど〈図書寮本〉に準じており(下述)、ここでも「オホミヤ」である。 《宮南上殿》 「南上殿」の比定地については、〈用明元年〉で詳しく考察した。 まず、第244回で用明天皇の「池辺双槻宮」を、磐余池畔の稚櫻神社付近と考えた。 だとすれば、上之宮遺跡が「宮"南"上殿」に該当しないのは明白である。 用明天皇は、皇子の幼い頃からの聡明さを知り、「愛レ之」〔これをめでて〕住まわせた。 だから近くに置いたと読むのが自然である。従って、「南上殿」は「池辺双槻宮」に隣接していたはずである。 但し「上宮皇子」が皇子の名前として早期に定着していれば、新しい宮に遷ったとしてもそこが「上宮」と呼ばれた可能性はある。 《上宮廐戸豊聡耳太子》 「上宮廐戸豊聡耳太子」は、記も「上宮之厩戸豊聡耳命」(第245回)を用い、記紀の時代における公式名称と見られる。 この名前からは、いろいろ興味深い意味が伺われる。 ●上宮…皇子を宮殿名で呼ぶのは一般的である。 ●厩戸…生誕伝説による呼び名。キリスト生誕伝説との共通性は偶然ではなく、 神性をもつ人物が馬屋で生まれたとする伝説は、シルクロード文化圏に広く伝播していたと思われる。 ●豊…美称。〈元興寺縁起―丈六光銘〉の時点で、既に「等与」がついている。 ●聡耳…十人が同時に訴える言葉を弁別した伝説に繋がる語だが、 この伝説は、逆にこの用字によって作られたように思われる。 〈丈六光銘〉に「刀禰々」〔恐らく刀彌彌〕があるので、トミミなる発音が先にあったと思われる。 名前につくミミについては、カムヌカハミミ(綏靖天皇)(第102回)、古くは魏志倭人伝において投馬国の官ミミ、副官ミミナリが出てくる ([23])。 耳成山という山もある。ミの意味に関して〈時代別上代〉は、「み[神]:心霊。接尾語的に用いられる。」として、ワタツミ、ヤマツミの例を挙げている。 ●太子…皇太子に定められていたが、天皇即位に至らぬまま薨じたと解釈するのが自然である。 《図書寮本と北野本》
●「見殺」: 図書寮本の筆写者は、右の「シメラレタ■ヒヌ」では意味不明だから「シセラレタマヒヌ」の誤りだろうと判断した。 それでも訂正前の形も敢て残し、その上で、筆写者の見解による訓を左側に書き加えたと見られる。そこには研究者としての学究的な態度が見える。 北野本は、マの字体が異なる〔二本の横棒で、下の方を短く書く形〕が、図書寮本をそのまま写した。 ●「巡行」: 図書寮本の筆写者は、「メクリオハシマス」の別訓としてそこから「めぐり」を除いた「オハシマ〔ス〕」を提案したと見られる。 北野本では、右側ではヲを用いて「メクリヲハシマス」だが、 左側は「オハシマ」のままなのが興味深い。スがないから「御座します」であるとの確信が持てず、とにかくそのまま筆写したのかも知れない。 なお、こちらはマの書体に「T」を使っている。 ところで、『釈日本紀』〔鎌倉時代〕では、オが専らヲになっている。 ここではその区別について深入りは避けるが、奈良時代にはオ=[o]とヲ=[wo]が固定し、 平安時代には一旦区別がなくなったが、その後イントネーションの区別として再定義され、その後再び区別が消えたようである。 この区別に関しては、北野本の方が無頓着だから、大雑把に見て図書寮本の訓点は平安時代でも早期で、 北野本は平安後期~鎌倉の時代になって図書寮本〔またはその写本〕から筆写したのではないかと思われる。 《大意》 豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)の天皇(すめらみこと)は、天国排開広庭(あまくにおしはらきひろにわ)の天皇〔欽明〕の中間の姫で、 橘豊日(たちばなのとよひ)〔用明〕の天皇の同母の妹です。 若いときは額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)といわれ、容姿端麗で、進止軌制でいらっしゃいました〔節度ある振舞をなさりました〕。 十八歳にして、 渟中倉太玉敷天皇(ぬなくらふとたましきのすめらみこと)〔敏達〕の皇后(おおきさき)となられました。 三十四歳のとき、 渟中倉太珠敷天皇は崩じました。 三十九歳、 泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)〔崇峻〕五年十一月のとき、 天皇は、大臣(おおまえつきみ)馬子宿祢(うまこのすくね)のために殺され、 位を嗣(つ)ぐ人は、既にいなくなりました。 群臣は渟中倉太珠敷天皇の皇后であられた額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)に要請して、践祚していただこうとしましたが、 皇后は、辞して譲られました。 百寮(ももつかさ)たちは上表して勧進すること三度に至りやっと従われ、よって天皇の璽印(みしるし)を奉りました。 十二月八日、 皇后は豊浦宮(とゆらのみや)で天皇(すめらみこと)の即位されました。 元年正月十五日、 仏舎利を法興寺(ほうこうじ)の刹柱(さっちゅう)の礎の中に置きました。 十六日、刹柱を建てました。 四月十日、 厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)を立て皇太子(ひつぎのみこ)とされ、政(まつりごと)を録摂され、 万機〔すべての政務〕を悉く委ねられました。 橘豊日(たちばなのとよひ)の天皇(すめらみこと)〔用明〕の第二子です。 母は皇后(おおきさき)で、穴穂部間人(あなほべのはしひと)の皇女(ひめみこ)といわれます。 皇后は、懐妊開胎の〔まさに生まれようとする〕日、禁中を巡行して諸(もろもろ)の司を監察されました。 馬官(うまのつかさ)に至り、廐戸(うまやど)のところで労せずして忽(たちま)ちにお産みになりました。 生まれながらにして言葉をよく話し、聖の智恵がありました。 壮年に及び、一度に十人の訴えを聞き、聞き落とすこともなくよく聞き分けて、まだ話していないことも兼ねて理解されました。 また、内〔内面〕の教えを高麗の僧、慧慈(えじ)に習い、 外典〔法律など〕を博士の覚哿(かくか)に学び、 どちらも悉く悟られました。 父の天皇〔用明〕は太子を愛でて、大宮の南の上の宮殿に住まわせました。 そこでその御名を称え、上宮廐戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやどのとよとみみのひつぎのみこ)とお呼びします。 【書紀―十一年十月~十二年正月】 7目次 《遷于小墾田宮》
[于]小墾田宮(をはりたのみや)に遷(うつ)りたまふ。
皇太子(ひつぎのみこ)、諸(もろもろ)の大夫(まへつきみ)に謂(のたま)ひて曰(のたま)はく 「我(あれ)尊(たふとき)仏像(ほとけのみかた)を有(も)ちたまふ。誰(た)そ是(こ)の像(みかた)を得て、以ちて恭(ゐやまひ)拝(をろが)みまつるか。」とのたまふ。 時に、秦造(はたのみやつこ)河勝(かはかつ)進みて曰(まを)ししく、 「臣(やつかれ)之(こ)を拝(をろが)みまつらむ。」とまをしき。 便(すなはち)仏像(ほとけのみかた)を受けたまはりて、因以(よ)りて蜂岡寺(はちをかのてら)を造りまつりき。
皇太子(ひつぎのみこ)[于]天皇(すめらみこと)に請(ねが)ひて、 以ちて大楯(おほたて)及(と)靫(ゆき)【靫此(これ)由岐(ゆき)と云ふ】とを作りて、 又(また)[于]旗幟(はた)に絵(ゑ)かきたまへり。
[始行]冠位(くわむゐ)。 大徳(だいとく)小徳(せうとく)大仁(だいにむ)小仁(せうにむ) 大礼(だいらい)小礼(せうらい)大信(だいしむ)小信(せうしむ) 大義(だいぎ)小義(せうぎ)大智(だいち)小智(せうち) 并(あは)せて十二階(としなあまりふたしな)をはじめておこなひて、 並(な)べて色に当たりし絁(あしきぬ)を以(もちゐ)て之(こ)を縫(ぬ)ひて、 頂(うなじ)に撮(と)り総(す)べて囊(ふくろ)の如くして[而]縁(はた)に着(つ)けり[焉]。 唯(ただ)元日(むつきのつきたち)に、髻花(うず)を着(つ)く。 【髻花、此(こ)を于孺(うず)と云ふ。】
始めて冠位[於]諸(もろもろの)臣(まへつきみ)に賜(たまは)りて、各(おのもおおも)差(しな)有り。 《うやひ》
「ゐやまふ」が「ゐやぶ」+動詞語尾「ふ」〔反復・継続〕から派生した語だとすれば、「ゐやぶ」は四段となる。 《蜂岡寺》 蜂岡寺は後に広隆寺となり、現在に至る。 『広隆寺縁起』〔836年〕によれば、旧地は「九条河原里」 と「同条荒見社里」にあり、後に「五条荒蒔里」〔現在地と見られる〕に遷った。 秦造河勝が仏像を賜ったのは推古十一年だが、同書では「壬午」〔推古三十年〕建立となっている。 筆頭署名者が「檀越〔=檀家〕大秦公宿祢永道」とあるので、秦氏の氏寺であったと考えられる (資料[45])。 現在地は京都市右京区太秦蜂岡町32。「旧地」は平野神社(京都府京都市北区平野宮本町1)の南の辺りではないかと言われる。 〈推古三十一年七月〉には新羅から使者が来朝し、「貢二仏像一具及金塔并舎利〔他〕一」し、 そのうち仏像が、「仏像居二於葛野秦寺一」とある。 この「葛野秦寺」が広隆寺であることは明らかである。 同寺には、宝冠弥勒菩薩像と宝髻 ※…以下弥勒菩薩像に関する部分は、大矢良哲講演記録(2017.6.24)による。 そのうち、宝冠弥勒菩薩像はアカマツ材である〔一部にクスノキに似た広葉樹が使用〕。朝鮮半島では木造にアカマツが用いられるので、朝鮮半島で製作されたという説と、 朝鮮半島からもたらされたアカマツを用いて倭国で製作されたという説がある。 宝髻弥勒像はクスノキ材である。 《隋書》 『隋書』に「開皇二十年〔600;推古八年〕」に倭の使者が訪れ、倭の様子を問われて答えた文章内に、冠位十二階のことが載る。
《冠位十二階》
〈時代別上代〉の「古代冠位制変遷表」によれば、大化三年の改定で 「大徳・小徳⇒大錦、大仁・小仁⇒小錦、大礼・小礼⇒大青、大信・小信⇒小青、 大義⇒大黒、小義⇒小黒、大智・小智⇒建武」となっており、錦・黒・青の色指定が伺われる。 錦の語源は「二色 大化三年の改定では、大錦の上に新しく〔上位から〕大(小)織、大(小)繍、大(小)紫が定められていて、紫色や、刺繍付きの紫などがあったと想像される。 十二階の段階では大徳が紫だったのが、その改定の際に「小紫」位以上に移されたことも考え得る。 もし本気で推定しようとするなら、当時使い得た染料の種類を具体的に考えあわせる必要があろう。 《冠》 「如シレ囊ノ」は、巾子 隋書を見ると、それまで頭に被り物をする習慣のなかった倭人が、始めて冠を用いたことが注目されている。 そのこともあって、書紀のこの部分の執筆を担当した中国人が比較的詳細にその冠の形状を著したのかも知れない。 《大意》 十月四日、 小墾田宮(おはりたのみや)に遷られました。 十一月一日、 皇太子〔聖徳〕は、諸(もろもろ)の大夫(まえつきみ)〔大臣〕に、 「私は、尊い仏像(ほとけのみかた)を持っている。誰ぞこの像を受け取り、恭拝する者はいないか。」と仰りました。 その時、秦造(はたのみやつこ)の河勝(かわかつ)が進み出て、 「私めが拝します。」と申し上げました。 そこで仏像を受け賜わり、これによって蜂岡寺が造られました。 同じ月、 皇太子は天皇に願い出て、 大楯及び靫(ゆき)〔背負う矢差し〕を作られ、 また旗幟(きし)に絵を描かれました。 十二月五日、 冠位を開始し、 大徳(だいとく)・小徳(しょうとく)・大仁(だいにん)・小仁(しょうにん)・ 大礼(だいらい)・小礼(しょうらい)・大信(だいしん)・小信(しょうしん)・ 大義(だいぎ)・小義(しょうぎ)・大智(だいち)・小智(しょうち)の、 合わせて十二階を定めました。 総じて色に当る絁(あしぎぬ)を用いてこれを縫い、 頂(うなじ)に取りまとめて袋のようにして縁(へり)に着け、 ただし、元日には髻花(うず)をつけました。 十二年正月一日、 始めて冠位を諸臣に賜り、それぞれに差がありました。 【上宮聖徳法王定説】 平安中期の以前の写本と見られる『上宮聖徳法王定説』は法隆寺勧学院の文庫に入っていたが明治維新の頃持ち出され、持主の没後に知恩院の所蔵になったと見られるという。 明治三十六年〔1903〕には国宝に指定された。〔下記影印本の解説による〕。 これまでも折に触れて参照してきたが、今回は冒頭の系図部分を精読した (国立国会図書館デジタルコレクションにより閲覧)。
訓の付けられた時期は平安半ばかと思われる。 例えば、蘇我稲目足尼(すくね)をタリニと訓んでいるところに、上代からの時の隔たりを感じさせるのである。 原文そのものの成立は、記紀と重なる690年以後と思われる。〈元興寺縁起〉〔『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』〕とは対照的に、天皇の表記法が安定しているからである。 ただし「他田宮治天下天皇怒那久良布刀多麻斯支天皇」については、一つ目の「天皇」は不要である。これは、恐らく誤写であろう。 名前の音仮名表現は書紀に比べると相当古風に感じられるが、記紀の間も音仮名は異なり、ひとつの物語の中でさえしばしば異なる。 このように当時は音仮名はその都度選択されるもので、〈定説〉の表記も同時代における多様性の範囲内であろう。 しかし、用いた材料そのものには古くから伝わるものが含まれると思われる。 《上宮聖徳法王からの系図》 中でも注目されるのは上宮聖徳法王の子孫の系図である。これは記紀には載っていない。 その理由は記紀の書かれた頃には太子の聖人化が急速に進んでいたところにあると考えられる。 既に、信仰の対象として太子個人にスポットライトが当たっており、子孫の系図にはあまり注意が払われなかったと思われる。 〈定説〉がこれを載せたのは、聖人化される以前の感覚が残っていたということであろう。 〈元興寺縁起〉においては後に加筆されたと見られるが、最初の姿が色濃く残っており、そこにはまだ聖徳太子の神聖化は見えず、むしろ御食炊屋姫(推古天皇)を偉大化している。 それは、650年頃の状況を反映したものであろう。それを起点として、 ①推古天皇崩後暫くは推古天皇が偉大化され、豊聡耳皇子の役割は従である⇒〈元興寺縁起〉。 ②厩戸豊聡耳皇子の摂政として立場が強調され、子孫の系図も天皇に準ずる形になる⇒『上宮聖徳法王定説』の系図部分。 ③単なる摂政を超越した聖人となり、系図はむしろ気にとめられなくなる⇒書紀。 という経過が考えられる。 《上宮聖徳法王》 和訓は、聖:ひじり、徳:いきほひである。 法=仏法で、法王が仏教界の王を意味するのは明らかである。 つまりは「聖徳」は法王への美称である。 「廐戸豊聡耳太子」は朝廷で政 まとめ 〈推古即位前紀〉によって計算すると、穴穂部皇子が姦 具体的な記述はないが、御食炊屋姫という名前からは天皇の御食を整える炊屋に容姿端麗な十八歳の女性がいて、敏達天皇に見初められたという出逢いが想像される。 もっとも「欽明帝の皇女」であったとすれば、采女ではなく炊屋を仕切る立場であろう。 推古の母の堅塩媛は蘇我稲目の娘で、〈推古二十年〉の改葬された際に「皇太夫人」の称号を得ている(欽明三十二年【丸山古墳】)。 蘇我稲目の娘の堅塩媛は用明・推古の両天皇を、小姉姫は崇峻天皇・穴穂部間人皇女を産み、蘇我氏は閨閥としての影響力を発揮している。 稲目は欽明三十一年に薨じ、蘇我馬子の代になった。その馬子は穴穂部皇子を殺し、 穴穂部間人皇女は一時丹後国に避難したとも言われ、最後は崇峻帝を殺す。 どうも小姉姫の系統との折り合いは悪かったようである。 親族としての関係が深いほど、一度関係がこじれると対立は抜き差しならなくなるのが世の法則である。 厩戸豊聡耳皇子は父が用明、母が穴穂部間人皇女だから馬子との関係は何とも言えないが、 推古帝・厩戸豊聡耳皇子と蘇我馬子宿祢大臣との間には、一定の緊張関係があったと見た方がよいように思われる。 |