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[248]  下つ巻(崇峻天皇2)

2021.01.18(mon) [249] 下つ巻(推古天皇1) 
妹豐御食炊屋比賣命坐小治田宮
治天下參拾漆歲

妹(いも)豊御食炊屋比売命(とよみけかしやひめのみこと)は小治田宮(をはりたのみや)に坐(ましま)して
天下(あめのした)を治(をさ)めたまふこと、参拾漆歳(みそとせあまりななとせ)。


 妹の豊御食炊屋比売命(とよみけかしやひめのみこと)は小治田宮(をはりたのみや)にいらっしゃり、 三十七年間、天下を治められました。


【小治田宮】
 『続日本紀』に見る「糒」
 ほしいい〔炊いた米を天日で乾燥させた保存食糧〕に関しては、宝亀四年〔773〕二月に「下野国災。焼正倉十四宇。穀糒二万三千四百余斛」、 宝亀十一年〔780〕五月に「勅曰。機要之備不闕乏。宜仰坂東諸国及能登。越中。越後。令糒三万斛〔欠乏への備えは不可欠である。東国と北陸に糒三万斛を備蓄させよ〕。 「糒」の字はここから急に増え、780年~791年に計6件ある。〔ざっと見てそのうち5件は東国兵士の食糧、一件は飢餓への備え〕
 飢饉に備えた大量の糒を備蓄する政策の最初が760年で、その視察の為に天皇が行幸したと考えることができる。 全国的な大飢饉は763年が断然多いが、760年以前にも759年五月の「勅曰。頃聞。至于三冬間。市辺多二上餓人」を始めとして、この時期に飢餓の記事は多い。 糒は、飢餓そのものへの対応とともに、天候不順により東国を中心として反乱が頻発し、鎮圧にあたる軍のためにも用意されたようである。
 小治田宮の書紀における表記は「小墾田宮」。これまでに、雷丘にあったことが確定していると述べた(第253回《小墾田宮》、 允恭五年)。
 『古代の大和』〔奈良県教育委員会;1988〕は、「明日香村教育委員会が、昭和62年7月、雷丘東方遺跡の発掘調査を実施したところ、 平安時代初頭の井戸から「小治田宮」と書かれた多数の墨書土器が出土した」と述べる。
 〈続紀-天平宝字四年〔760〕八月〉に「○辛未〔十四日〕。転播麻国糒一千斛。備前国五百斛。備中国五百斛。讃岐国一千斛。以貯小治田宮〔糒(ほしいい)を播磨国・備前・備中・讃岐から尾治田に移した〕、 そして「乙亥〔十八日〕。幸小治田宮」とある。 行幸したのは廃帝はいたい〔明治三年〔1870〕に淳仁天皇を追号〕である。
 このときは、小治田宮の施設が糒の備蓄庫として利用されたようである。
 「明日香村埋蔵文化財展示室」〔明日香村大字飛鳥225-2〕に墨書土器と井戸が展示され、 「年輪年代測定法によって、井戸枠材の伐採年代が758年+αと判明」、「材質はヒノキ」との解説が添えられている。 廃帝行幸の760年に近い。
『奈良文化財研究所-紀要2006』(p.82)に「明日香村埋蔵文化財展示室」説明版、 『奈良国立文化財研究所年報1994』により加筆。
ピンク色は飛鳥時代に該当。
墨書土器 ja.wikipedia.org
《飛鳥時代の遺構》
 遺構のうち飛鳥時代のものについては、以下が挙げられる(は図に対応)。
● 飛鳥村教育委員会による2次調査(1986)が検出した「貼石護岸の池跡(飛鳥初頭)※1〔明日香村埋蔵文化財展示室説明板〕
● 「雷内畑遺跡(明日香村1994-11次、1995-15次)では7世紀中頃以降の 庭園遺構※2や掘立柱※3などが見つかっている。」という〔『奈良文化財研究所-紀要2006』〕
● 「7世紀前半の遺構であるSD3100※4は掘割的な様相を示しており、推古天皇の小墾田宮との関連を検討すべきである」、 また「7世紀後半の遺構としてSB3020※5・SB3050※6の2棟の長大な建物」が確認された。〔『奈良国立文化財研究所年俸1994』〕
● 飛鳥村教育委員会による7次調査(1997)が検出した「大形柱穴(7世紀後半)※1〔明日香村埋蔵文化財展示室説明板〕
 推古天皇以後に小治田宮が天皇の宮殿として使われた記事が、〈皇極天皇紀〉にある。
――〈皇極天皇紀〉元年〔642〕十二月壬寅〔二十一日〕に「天皇遷移於小墾田宮。【或本云、遷於東宮南庭之権宮。】」 二年四月丁亥〔二十八日〕に「自権宮移幸飛鳥板蓋新宮。
 このときは「権宮〔一時的な宮〕として約四か月間坐ましただけである。
 全体としてみると、雷丘東方遺跡・雷畑遺跡の遺構は飛鳥時代初頭から始まり、奈良時代後期以後に「小治田宮」の墨書土器が存在する。 皇極天皇が仮宮を置いたり糒の貯蔵施設として使われ、またこの期間の時々に建造物があることを見ると、 一貫して朝廷の官署として機能していたと見られる。
 よって、推古天皇の遷都(十一年〔603〕)の頃から墨書土器の時期に至るまで、この宮殿には連続性があると言える。 よって推古朝の「小治田宮」は、ここであったと考えてよいだろう。
推古天皇紀
即位前~元年四月
元年九月~是年
二年~七年
八年
九年~十年六月
十年十月~十一年四月
十一年十月~十ニ年正月
十二年四月
十二年九月~十四年四月
10十四年五月~十五年二月
11十五年七月~十六年六月
12十六年八月
13十六年九月
14十七年
15十八年
16十九年~二十年正月
17二十年ニ月~是歳
18二十一年
19二十ニ年~二十五年
20二十六年~二十八年
21二十九年
22三十一年
23三十一年即年
24三十ニ年四月
25三十ニ年九月~十月
26三十三年~三十五年
27三十六年
中女…〈釈紀-秘訓〔以下釈〕〉〈内閣文庫本〔以下閣〕
 中女也ナカニアタリタマフミコナリナカラニアタリタマフミコナリ
 〈図書寮本〔以下図〕ミコ
なかつひめ…[名] 応神天皇段の皇女に中日売〔書紀は仲姫〕(第148回)。
 また、その皇子若野毛二俣王の子に大中津比売など(159回)。
 女子の中間子を意味する一般名詞が固有名詞に転じたのは明らかである。
同母妹…〈北野本〔以下北〕母妹ハラノイロト。 〈閣〉ハラノイモト
幼曰…〈北〉幼日ワカクマシマス。 〈閣〉幼日ワカクマシマストキ
…[形] (古訓) をさなし。わかし。いとけなし。
姿色端麗…〈図〉姿-色ミカホ 端-麗キラゝシク ・進-止 ミフルマヒ軌-制 ヲサ〔メ〕
進止…①進むことと止まること。②立ち振る舞い。
軌制…〈汉典〉法則制度。
見殺…「見」は受け身の助動詞。 〈図〉〈北〉見殺シメラシタウヒヌ/シセラシタマヒヌ

【書紀―即位前~元年四月】
目次 《豐御食炊屋姬天皇》
豐御食炊屋姬天皇、天國排開廣庭天皇中女也、
橘豐日天皇同母妹也。
幼曰額田部皇女、姿色端麗、進止軌制。
豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)の天皇(すめらみこと)は、天国排開広庭(あまくにおしはらきひろには)の天皇〔欽明〕の中女(なかつひめ)[也]にありて、
橘豊日(たちばなのとよひ)〔用明〕の天皇の同母妹(いろど)[也]なり。
幼(わか)くは額田部皇女(ぬかたべのみこ)と曰ひたまひて、姿色(みすがた)端麗(きらきら)しくありて、進止(みふるまひ)軌制(のりををさめたまふ)。

年十八歲。
立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后。
卅四歲。
渟中倉太珠敷天皇崩。
卅九歲。
當于泊瀬部天皇五年十一月。
天皇爲大臣馬子宿禰見殺。
年(よはひ)十八歳(ととせあまりやとせ)。
立たして渟中倉太玉敷天皇(ぬなくらふとたましきのすめらみこと)〔敏達〕之(の)皇后(おほきさき)と為(な)りたまふ。
三十四歳(みそとせあまりよとせ)。
渟中倉太珠敷天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
三十九歳(みそとせあまりここのとせ)。
[于]泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)五年(いつとせ)十一月(しもつき)に当たりて、
天皇、大臣(おほまへつきみ)馬子宿祢(うまこのすくね)の為に見殺(ころしまつらゆ)。

…〈閣〉マウスシテ
将令践祚…〈北・閣〉将令踐祚アマツヒキシラセム
辞譲…〈図・北・閣〉辞譲イサヒ
百寮…〈図〉百- ツカヒ ツカサ。 〈北〉百- ツカサ ツカサ。 〈閣〉百-寮ツカサ\/
至于三…〈図・北・閣〉至于ミタヒ
璽印…〈図・北・閣〉璽印ミシルシ
嗣位既空。
群臣請渟中倉太珠敷天皇之皇后額田部皇女、以將令踐祚。
皇后辭讓之。
百寮上表勸進至于三、乃從之、因以奉天皇璽印。
嗣位(ひつぎのくらひ)既(すで)に空(むな)し。
群臣(まへつきみたち)渟中倉太珠敷天皇之(の)皇后(おほきさき)額田部皇女(ぬかたべのみこ)に請(ねが)ひまつりて、以ちて[将]践祚(ひつぎ)せ令(し)めまつらむとす。
皇后辞(いな)びて之(こ)を譲(ゆづ)りたまひき。
百寮(ももつかさ)表(ふみ)を上(たてまつ)りて勧進(すすめまつること)[于]三(みたび)に至りて、乃(すなはち)之(こ)に従(したが)ひたまひて、因以(よりて)天皇の璽印(みしるし)を奉(たてま)つりき。

冬十二月壬申朔己卯。
皇后卽天皇位於豐浦宮。
冬十二月(しはす)壬申(みづのえさる)を朔(つきたち)として己卯(つちのとう)〔八日〕。
皇后豊浦宮(とゆらのみや)に於(ましまして)天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。

刹柱礎中…〈釈〉柱礎中ハシラノツミシノナカニ私記曰。刹音読〔さつはしらの積石の中に〕
 〈図〉刹礎中ツミイシノナカ〔※…「刹」に声点〔即ち音読〕〕。 〈北〉刹礎中ツミシノナカ
元年春正月壬寅朔丙辰。
以佛舍利置于法興寺刹柱礎中。
丁巳。
建刹柱。
元年(はじめのとし)春正月(むつき)壬寅(みづのえ)を朔(つきたちとして)丙辰(ひのえたつ)〔十五日〕。
仏舎利(ほとけのしやり)を以ちて[于]法興寺(ほふこうじ)の刹柱(さつはしら)の礎(つみし)の中(なか)に置く。
丁巳(ひのとみ)〔十六日〕。
刹柱(さつはしら)を建(た)てり。

録摂政…〈図・北・閣〉録-攝-政マツリコトゝリフサネカハラシム
万機委…〈図・北〉ユタヌ。 〈閣〉ユタエヌ
懐姙開胎…〈図・北〉懐-妊開胎ミコミセマサムトスル。 〈閣〉懐-妊-開-胎ミコミセマサムトスル之日
こむ…[自]マ四 子を産む。コ-ウムの母音融合。
巡行禁中監察…〈図〉巡行メクリオハシマス禁中ミヤノウチ監-察ミタマフ諸司ツカサ\/。 〈北〉巡行メクリヲハシマス禁中ミヤノウチ監-察ミタマフ諸司ツカサ\/
馬官…〈閣〉馬官ウマノ ツカサニ
不労…〈図〉不-勞ナヤミタマハス。 〈閣〉ナヤミタマハス
夏四月庚午朔己卯。
立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子、仍錄攝政。
以萬機悉委焉。
橘豐日天皇第二子也。
母皇后曰穴穗部間人皇女。
皇后、懷姙開胎之日、巡行禁中監察諸司。
至于馬官、乃當廐戸而不勞忽産之。
夏四月(うづき)庚午(かのえうま)を朔(つきたち)として己卯(つちのとう)〔十日〕。
厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)を立たして皇太子(ひつぎのみこ)と為(し)て、仍(すなはち)政(まつりごと)を録(しる)し摂(と)らせて、
万機(よろづのまつりごと)を以ちて悉(ことごとく)委(ゆだ)ねたまひき[焉]。
橘豊日(たちばなのとよひ)の天皇(すめらみこと)〔用明〕の第二(だいにの、つぎてのふたはしらにあたりたまふ)子(みこ)也(なり)。
母(みはは)の皇后(おほきさき)は穴穂部間人(あなほべのはしひと)の皇女(みこ)と曰ひたまふ。
皇后(おほきさき)、懐妊(はらみ)て開胎之(みこみ-せまりましし)日、禁中(みやのうち)を巡行(めぐり)まして諸司(つかさつかさ)を監察(み)たまふ。
[于]馬官(うまのつかさ)に至りて、乃(すなはち)廐戸(うまやど)に当たりて[而]不労(たしなまざ)りて忽(たちまち)に之を産(う)みたまふ。

生而能言…〈図〉生而ウマレマシナカラ/アレマシナカラ。 〈閣〉生而アレマシナカラ
聖智…〈図・北・閣〉聖-智サトリ
…〈図・北〉ヲトコサカリ。 〈閣〉ヲトコサカリニ
勿失…〈図・北・閣〉勿-失アヤマチタマハス〔〝〕
未然…〈図・北・閣〉未-然ユクサキノコト
内教…〈閣〉内-教ノリ
慧慈…〈釈〉高麗僧惠慈コマノホウシエジ
まなぶ…[自]バ上二 〈時代別上代〉上代には上二段に活用したらしい。
外典…〈図・閣〉外典トツフミ
覚哿…〈釈〉博士覺哿カクカ
並悉達…〈図・北〉達矣サトリタマヒヌ
令居宮南上殿…〈釈〉シメタマフ スヘマツラ 宮南上殿ヲホウチノカムツミヤニ。 〈図・北〉ハムヘラオホミヤノ南上殿。 〈閣〉ハムヘラ/スヘマツラヲホミヤ-南上殿
はんべり…[動・補動]ラ変 「はべり」と同じ。ハムヘリは古訓に見える。
称其名…〈釈・北〉タゝヘ/タトヘ。 〈閣〉タトヘテ。 たたふ…[他]ハ下二 ほめていう。
豊聡耳皇子…〈釈〉上宮カミツミヤ廐戸ウマヤノトヨミゝノ太子ヒツキノミコ
生而能言、有聖智。
及壯、一聞十人訴以勿失能辨、兼知未然。
且習內教於高麗僧慧慈、
學外典於博士覺哿、
並悉達矣。
父天皇愛之令居宮南上殿、
故稱其名謂上宮廐戸豐聰耳太子。
生而(うまれながらにして)能(よく)言(ものい)ひたまひて、聖(ひじり)の智(さとり)有り。
壮(をとこざかり)に及びて、一(ひとたび)に十人(とたり)の訴(うるたふること)を聞こして、以ちて勿失(うしなふことなく)能(よ)く弁(わきた)めて、未(いまだ)然(しからざること)を兼ね知りたまふ。
且(また)内教(うちつのり)を[於]高麗僧(こまのほふし)慧慈(ゑじ)に習ひて、
外典(とつふみ)を[於]博士覚哿(はかせかくか)に学(まな)びて、
並(な)べて悉(ことごとく)達(さと)りたまひつ[矣]。
父の天皇(すめらみこと)〔用明〕之(こ)を愛(め)でたまひて宮(おほみや)の南の上(へ)の殿(との)に令居(すまはしめ)たまひき。
故(かれ)其の名(みな)を称(たた)へて上宮廐戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやどのとよとみみのひつぎのみこ)と謂(まを)す。

《年譜》
 ここに書かれた御食炊屋姫の年譜と、〈欽明紀〉以後の記述との対応を見る。
欽明紀~推古紀推古即位前紀:年譜
甲戌〔554〕欽明十五年〔一歳:〕
辛卯〔571〕欽明三十二年十八歳: 渟中倉太玉敷天皇〔敏達〕皇后。
壬辰〔572〕敏達元年〔十九歳:〕
丙申〔576〕敏達五年:豊御食炊屋姫尊皇后〔二十三歳:〕
乙巳〔585〕敏達十四年三十四歳〔ママ〕〔三十二歳〕渟中倉太珠敷天皇〔敏達〕崩。
丙午〔586〕用明元年:穴穂部皇子 欲炊屋姫皇后〔三十三歳:〕
丁未〔587〕用明二年〔三十四歳:〕
戊申〔588〕崇峻元年〔三十五歳:〕
壬子〔592〕崇峻五年:
     十二月。皇后即天皇位於豊浦宮
三十九歳: 十一月。〔崇峻〕天皇為大臣馬子宿祢殺。
 
癸丑〔593〕推古元年:是年也。太歳癸丑。〔四十歳:〕
戊子〔628〕推古三十六年:三月癸丑。天皇崩之。時年七十五。七十五歳:
 「三十四歳:敏達天皇崩」と「三十九歳:崇峻天皇被」の間には、実際には7年の隔たりがあるからどちらかが誤りということになる。 そのうち〈推古三十六年〉の「崩之。時年七十五。」と計算が合うのは三十九歳の方なので、「三十四歳」は「三十二歳」に訂正されるべきであろう。 原文製作者が用明天皇の存在を失念していたのかも知れない。
 皇后になった年齢について、〈敏達紀〉では「敏達五年〔576〕だが、皇后に昇格する五年前に既に妃でなっていたと読めば、何とか辻褄を合わせることができる。
 年齢の妥当性については、「十八歳で結婚」、「用明元年〔三十五歳のとき〕に穴穂部皇子に姦(おそ)われそうになる」、「七十五歳で崩」は、不自然ではない。
 〈元興寺縁起〉〔『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』〕では、戊午年〔538〕に百済から太子像・灌仏器・仏起書が渡来した。 欽明天皇が「大大王」(御食炊屋姫)に、その後宮を分けて仏殿に提供せよと告げたのはそれから一年以内である。 また、〈元興寺縁起〉には癸酉年〔613〕に大大王が生誕百歳を迎えたとあるから、御食炊屋姫の生誕は514年で、仏法が渡来した538年には既に二十五歳になっていた。
 書紀では仏法の渡来は〈欽明十三年〔553〕であるが、それでも御食炊屋姫はまだ生まれていない。 したがって、〈元興寺縁起〉が用いた年譜は、〈欽明天皇紀〉とは全く異なっている。 一方、敏達以後の年の干支表示については書紀を参照して書き加えたと考えるのが妥当で、〈元興寺縁起〉の成り立ちの複雑さが伺われる。
《第二子》
 〈用明天皇紀〉における皇子のリストは、穴穂部間人皇女の生んだ子から始まり、筆頭は聖徳である。 したがって、厩戸豊聡耳皇子は第一子である。 〈帝説〉〔『上宮聖王帝説』〕でも、七子の順番そのものは書紀と一致している。 しかし、〈帝説〉には「聖王庶兄多米王」とも書かれ、つまり多米王は厩戸皇子の腹違いの兄とする。
 また、記ではリストの最初が意富芸多志比売が生んだ多米王で、 その次が間人穴太部王(穴穂部間人皇女)の生んだ厩戸豊聡耳命である。
 したがって、「第二子」は〈定説〉及び古事記の皇子リストにおける順番と一致している。
《宮》
 「」を〈図書寮本〉は「オホミヤ」、〈釈紀〉は「ヲホミヤ」と訓む。前者は平安時代、後者は鎌倉時代の用字と見られる。 〈北野本〉の訓点は殆ど〈図書寮本〉に準じており(下述)、ここでも「オホミヤ」である。
《宮南上殿》
 「南上殿」の比定地については、〈用明元年〉で詳しく考察した。 まず、第244回で用明天皇の「池辺双槻宮」を、磐余池畔の稚櫻神社付近と考えた。 だとすれば、上之宮遺跡が「宮""上殿」に該当しないのは明白である。
 用明天皇は、皇子の幼い頃からの聡明さを知り、「〔これをめでて〕住まわせた。 だから近くに置いたと読むのが自然である。従って、「南上殿」は「池辺双槻宮」に隣接していたはずである。
 但し「上宮皇子」が皇子の名前として早期に定着していれば、新しい宮に遷ったとしてもそこが「上宮」と呼ばれた可能性はある。
《上宮廐戸豊聡耳太子》
 「上宮廐戸豊聡耳太子」は、記も「上宮之厩戸豊聡耳命」(第245回)を用い、記紀の時代における公式名称と見られる。 この名前からは、いろいろ興味深い意味が伺われる。
上宮…皇子を宮殿名で呼ぶのは一般的である。
厩戸…生誕伝説による呼び名。キリスト生誕伝説との共通性は偶然ではなく、 神性をもつ人物が馬屋で生まれたとする伝説は、シルクロード文化圏に広く伝播していたと思われる。
…美称。〈元興寺縁起―丈六光銘〉の時点で、既に「等与」がついている。
聡耳…十人が同時に訴える言葉を弁別した伝説に繋がる語だが、 この伝説は、逆にこの用字によって作られたように思われる。
 〈丈六光銘〉に「刀禰々〔恐らく刀彌彌〕があるので、トミミなる発音が先にあったと思われる。 名前につくミミについては、カムヌカハミミ(綏靖天皇)(第102回)、古くは魏志倭人伝において投馬国の官ミミ、副官ミミナリが出てくる ([23])。 耳成山という山もある。の意味に関して〈時代別上代〉は、「[神]:心霊。接尾語的に用いられる。」として、ワタツミヤマツミの例を挙げている。
太子…皇太子に定められていたが、天皇即位に至らぬまま薨じたと解釈するのが自然である。
《図書寮本と北野本》
北野本図書寮本
 北野本の古訓は、図書寮本と大変よく一致する。ここでは、そのうち2か所について精査する。
●「見殺」:
 図書寮本の筆写者は、右の「シメラレタ■ヒヌ」では意味不明だから「シセラレタマヒヌ」の誤りだろうと判断した。 それでも訂正前の形も敢て残し、その上で、筆写者の見解による訓を左側に書き加えたと見られる。そこには研究者としての学究的な態度が見える。
 北野本は、の字体が異なる〔二本の横棒で、下の方を短く書く形〕が、図書寮本をそのまま写した。
●「巡行」:
 図書寮本の筆写者は、「メクリオハシマス」の別訓としてそこから「めぐり」を除いた「オハシマ〔ス〕」を提案したと見られる。
 北野本では、右側ではヲを用いて「メクリヲハシマス」だが、 左側は「オハシマ」のままなのが興味深い。がないから「御座します」であるとの確信が持てず、とにかくそのまま筆写したのかも知れない。 なお、こちらはの書体に「」を使っている。
 ところで、『釈日本紀』〔鎌倉時代〕では、が専らになっている。 ここではその区別について深入りは避けるが、奈良時代にはオ=[o]ヲ=[wo]が固定し、 平安時代には一旦区別がなくなったが、その後イントネーションの区別として再定義され、その後再び区別が消えたようである。
 この区別に関しては、北野本の方が無頓着だから、大雑把に見て図書寮本の訓点は平安時代でも早期で、 北野本は平安後期~鎌倉の時代になって図書寮本〔またはその写本〕から筆写したのではないかと思われる。
《大意》
 豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)の天皇(すめらみこと)は、天国排開広庭(あまくにおしはらきひろにわ)の天皇〔欽明〕の中間の姫で、 橘豊日(たちばなのとよひ)〔用明〕の天皇の同母の妹です。
 若いときは額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)といわれ、容姿端麗で、進止軌制でいらっしゃいました〔節度ある振舞をなさりました〕。
 十八歳にして、 渟中倉太玉敷天皇(ぬなくらふとたましきのすめらみこと)〔敏達〕の皇后(おおきさき)となられました。
 三十四歳のとき、 渟中倉太珠敷天皇は崩じました。
 三十九歳、 泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)〔崇峻〕五年十一月のとき、 天皇は、大臣(おおまえつきみ)馬子宿祢(うまこのすくね)のために殺され、 位を嗣(つ)ぐ人は、既にいなくなりました。
 群臣は渟中倉太珠敷天皇の皇后であられた額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)に要請して、践祚していただこうとしましたが、 皇后は、辞して譲られました。
 百寮(ももつかさ)たちは上表して勧進すること三度に至りやっと従われ、よって天皇の璽印(みしるし)を奉りました。
 十二月八日、 皇后は豊浦宮(とゆらのみや)で天皇(すめらみこと)の即位されました。
 元年正月十五日、 仏舎利を法興寺(ほうこうじ)の刹柱(さっちゅう)の礎の中に置きました。
 十六日、刹柱を建てました。
 四月十日、 厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)を立て皇太子(ひつぎのみこ)とされ、政(まつりごと)を録摂され、 万機〔すべての政務〕を悉く委ねられました。
 橘豊日(たちばなのとよひ)の天皇(すめらみこと)〔用明〕の第二子です。 母は皇后(おおきさき)で、穴穂部間人(あなほべのはしひと)の皇女(ひめみこ)といわれます。 皇后は、懐妊開胎の〔まさに生まれようとする〕日、禁中を巡行して諸(もろもろ)の司を監察されました。 馬官(うまのつかさ)に至り、廐戸(うまやど)のところで労せずして忽(たちま)ちにお産みになりました。
 生まれながらにして言葉をよく話し、聖の智恵がありました。 壮年に及び、一度に十人の訴えを聞き、聞き落とすこともなくよく聞き分けて、まだ話していないことも兼ねて理解されました。
 また、内〔内面〕の教えを高麗の僧、慧慈(えじ)に習い、 外典〔法律など〕を博士の覚哿(かくか)に学び、 どちらも悉く悟られました。
 父の天皇〔用明〕は太子を愛でて、大宮の南の上の宮殿に住まわせました。 そこでその御名を称え、上宮廐戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやどのとよとみみのひつぎのみこ)とお呼びします。


【書紀―十一年十月~十二年正月】
目次 《遷于小墾田宮》
小墾田宮…〈図〉小墾田ヲハタ
冬十月己巳朔壬申。
遷于小墾田宮。
冬十月(かむなづき)己巳(つちのとみ)を朔(つきたち)として壬申(みづのえさる)〔四日〕。
[于]小墾田宮(をはりたのみや)に遷(うつ)りたまふ。

恭拝…〈図・北〉恭拝ウヤヒ。 〈閣〉ウヤヒ-拝
うやぶ…[他] 「ゐやぶ」という類似の動詞がある(別項)。
河勝…〈図・北・閣〉カツ
拝之…〈北〉拝之ヲカミマツラル。 〈閣〉ヲカミマウラス/ヲカミマツラム
蜂岡寺…〈図・北・閣〉ハチ岡寺
十一月己亥朔。
皇太子、謂諸大夫曰
「我有尊佛像、誰得是像以恭拜。」
時、秦造河勝進曰、
「臣拜之。
便受佛像、因以造蜂岡寺。」
十一月(しもつき)己亥(つちのとゐ)の朔(つきたち)。
皇太子(ひつぎのみこ)、諸(もろもろ)の大夫(まへつきみ)に謂(のたま)ひて曰(のたま)はく
「我(あれ)尊(たふとき)仏像(ほとけのみかた)を有(も)ちたまふ。誰(た)そ是(こ)の像(みかた)を得て、以ちて恭(ゐやまひ)拝(をろが)みまつるか。」とのたまふ。
時に、秦造(はたのみやつこ)河勝(かはかつ)進みて曰(まを)ししく、
「臣(やつかれ)之(こ)を拝(をろが)みまつらむ。」とまをしき。
便(すなはち)仏像(ほとけのみかた)を受けたまはりて、因以(よ)りて蜂岡寺(はちをかのてら)を造りまつりき。

大楯…[名] 〈時代別上代〉見出し語「おほたて」あり。
…〈図・北〉ヱカク
旗幟…〈図・北〉旗-幟ハタ
是月。
皇太子請于天皇、
以作大楯及靫【靫此云由岐】、
又繪于旗幟。
是の月。
皇太子(ひつぎのみこ)[于]天皇(すめらみこと)に請(ねが)ひて、
以ちて大楯(おほたて)及(と)靫(ゆき)【靫此(これ)由岐(ゆき)と云ふ】とを作りて、
又(また)[于]旗幟(はた)に絵(ゑ)かきたまへり。

冠位…〈図・北・閣〉大德師説云今之四位也五位也六位也七位也小義之八位也小智之初位也〔以上養老令〔718〕による〕 〈閣〉「大」「仁」「信」「義」「智」に声点。ライ
十二階…〈図・北〉十二階トシナアマリフタシナ
絁縫…〈図〉絁縫キヌヌイ。 〈北〉絁縫キヌヌヘリ。 〈閣〉絁縫キヌヲヌヘリ
…[名] 組みひも織り。目のあらいつむぎ。〈倭名類聚抄〉「:和名阿之岐沼〔あしきぬ〕」。
頂撮…〈図・北〉撮総トリスヘ如囊而着緣ツケタリモトホリ元日ムツキノツイタチノ。 〈閣〉撮-総トリスヘテツケタリ ノトメリニ焉唯元日ムツキノツヒタチノヒ
…[名] (古訓) うなし。
…[名] (古訓) はた。へり。
着髻花…〈図・閣〉キヌ髻-花ウス。 〈北〉サス髻-花ウス
うず…[名] 木の花、枝葉また金銀の細工を頭につけて飾りとしたもの。
十二月戊辰朔壬申。
始行冠位。
大德小德大仁小仁
大禮小禮大信小信
大義小義大智小智
幷十二階。
並以當色絁縫之、
頂撮總如囊而着緣焉。
唯元日、着髻花。
【髻花、此云于孺。】
十二月(しはす)戊辰(つちのえたつ)を朔(つきたち)として壬申(みづのえさる)〔五日〕。
[始行]冠位(くわむゐ)。
大徳(だいとく)小徳(せうとく)大仁(だいにむ)小仁(せうにむ)
大礼(だいらい)小礼(せうらい)大信(だいしむ)小信(せうしむ)
大義(だいぎ)小義(せうぎ)大智(だいち)小智(せうち)
并(あは)せて十二階(としなあまりふたしな)をはじめておこなひて、
並(な)べて色に当たりし絁(あしきぬ)を以(もちゐ)て之(こ)を縫(ぬ)ひて、
頂(うなじ)に撮(と)り総(す)べて囊(ふくろ)の如くして[而]縁(はた)に着(つ)けり[焉]。
唯(ただ)元日(むつきのつきたち)に、髻花(うず)を着(つ)く。
【髻花、此(こ)を于孺(うず)と云ふ。】

十二年春正月戊戌朔、
始賜冠位於諸臣、各有差。
十二年(ととせあまりふたとせ)春正月(むつき)戊戌(つちのえいぬ)の朔(つきたち)、
始めて冠位[於]諸(もろもろの)臣(まへつきみ)に賜(たまは)りて、各(おのもおおも)差(しな)有り。

《うやひ》
広隆寺:宝冠弥勒 アカマツ材・7世紀
 ja.wikipedia.org
 「恭拝」または「」にイヤヒという古訓が付されている。 「うやぶ」は「ゐやぶ」と同じと見られる。その「ゐやぶ」の活用について、 〈時代別上代〉は、詔38〔天平神護元年十一月庚辰〕為夜〔ビ末都利」から上二段、 〈崇神紀七年〉〈神功紀四十九年〉の古訓「ヰヤブコト」からは四段になるので、決めかねている 〔もし上二段ならヰヤブルコトになる〕
 「ゐやまふ」が「ゐやぶ」+動詞語尾「〔反復・継続〕から派生した語だとすれば、「ゐやぶ」は四段となる。
《蜂岡寺》
 蜂岡寺は後に広隆寺となり、現在に至る。 『広隆寺縁起』〔836年〕によれば、旧地は「九条河原里」 と「同条荒見社里」にあり、後に「五条荒蒔里〔現在地と見られる〕に遷った。 秦造河勝が仏像を賜ったのは推古十一年だが、同書では「壬午」〔推古三十年〕建立となっている。 筆頭署名者が「檀越〔=檀家〕大秦公宿祢永道」とあるので、秦氏の氏寺であったと考えられる (資料[45])。
 現在地は京都市右京区太秦蜂岡町32。「旧地」は平野神社(京都府京都市北区平野宮本町1)の南の辺りではないかと言われる。
 〈推古三十一年七月〉には新羅から使者が来朝し、「仏像一具及金塔并舎利〔他〕」し、 そのうち仏像が、「仏像居於葛野秦寺」とある。 この「葛野秦寺」が広隆寺であることは明らかである。
 同寺には、宝冠弥勒菩薩像と宝髻ほうけい弥勒像の二体の弥勒菩薩像がある※)
 ※…以下弥勒菩薩像に関する部分は、大矢良哲講演記録(2017.6.24)による。
 そのうち、宝冠弥勒菩薩像はアカマツ材である〔一部にクスノキに似た広葉樹が使用〕。朝鮮半島では木造にアカマツが用いられるので、朝鮮半島で製作されたという説と、 朝鮮半島からもたらされたアカマツを用いて倭国で製作されたという説がある。 宝髻弥勒像はクスノキ材である。
《隋書》
 『隋書』に「開皇二十年〔600;推古八年〕」に倭の使者が訪れ、倭の様子を問われて答えた文章内に、冠位十二階のことが載る。
●内官有十二等。一曰大德。次小德。次大仁。次小仁。次大義。次小義。次大禮。次小禮。次大智,次小智。次大信。次小信。員無定數
●至隋。其王始制冠。以錦綵之。以金銀鏤花飾。
●〔官の内に十二等有り。一に大徳と曰ふ。…員(かず)に定まりし数無し。〕
●〔随に至り、其の王始めて冠を制す。錦綵〔華美な糸織物〕を以て之とし、金銀鏤花〔彫刻花紋〕を以て飾りとす。〕
 〈推古紀〉が"徳仁礼信義智"の順であるのに対して、〈隋書〉では"徳仁義礼智信"の順になっている点が相違する。
《冠位十二階》
平安のかうぶり(冠)
『古語林』(大修館1997)より
上代に纓(えい)があったかどうかは不明
 「並以当色」とあるから、階位を冠の色で区別したのは確かであろう。 具体的な色彩の推定については、ネットで画像検索すると様々な色が想像されていて楽しいが、すべて無根拠である。
 〈時代別上代〉の「古代冠位制変遷表」によれば、大化三年の改定で 「大徳・小徳⇒大錦、大仁・小仁⇒小錦、大礼・小礼⇒大青、大信・小信⇒小青、 大義⇒大黒、小義⇒小黒、大智・小智⇒建武」となっており、の色指定が伺われる。 の語源は「二色ニシキ」なので、単色に限らなかったと思われる。「大黒・小黒」は冠のサイズ差とも、色の濃淡とも考えられる。
 大化三年の改定では、大錦の上に新しく〔上位から〕大(小)織、大(小)繍、大(小)紫が定められていて、紫色や、刺繍付きの紫などがあったと想像される。 十二階の段階では大徳が紫だったのが、その改定の際に「小紫」位以上に移されたことも考え得る。
 もし本気で推定しようとするなら、当時使い得た染料の種類を具体的に考えあわせる必要があろう。
《冠》
 「」は、巾子こじの部分かと思われる。 冠位十二階の時点でえいがあったかどうかは不明。 「」には組みひもの意味もあり、「」は「頭の後ろに回して縛る組みひもを縫い付けた」意味かも知れない。
 隋書を見ると、それまで頭に被り物をする習慣のなかった倭人が、始めて冠を用いたことが注目されている。 そのこともあって、書紀のこの部分の執筆を担当した中国人が比較的詳細にその冠の形状を著したのかも知れない。
《大意》
 十月四日、 小墾田宮(おはりたのみや)に遷られました。
 十一月一日、 皇太子〔聖徳〕は、諸(もろもろ)の大夫(まえつきみ)〔大臣〕に、 「私は、尊い仏像(ほとけのみかた)を持っている。誰ぞこの像を受け取り、恭拝する者はいないか。」と仰りました。 その時、秦造(はたのみやつこ)の河勝(かわかつ)が進み出て、 「私めが拝します。」と申し上げました。
 そこで仏像を受け賜わり、これによって蜂岡寺が造られました。
 同じ月、 皇太子は天皇に願い出て、 大楯及び靫(ゆき)〔背負う矢差し〕を作られ、 また旗幟(きし)に絵を描かれました。
 十二月五日、 冠位を開始し、 大徳(だいとく)・小徳(しょうとく)・大仁(だいにん)・小仁(しょうにん)・ 大礼(だいらい)・小礼(しょうらい)・大信(だいしん)・小信(しょうしん)・ 大義(だいぎ)・小義(しょうぎ)・大智(だいち)・小智(しょうち)の、 合わせて十二階を定めました。
 総じて色に当る絁(あしぎぬ)を用いてこれを縫い、 頂(うなじ)に取りまとめて袋のようにして縁(へり)に着け、 ただし、元日には髻花(うず)をつけました。
 十二年正月一日、 始めて冠位を諸臣に賜り、それぞれに差がありました。


【上宮聖徳法王定説】
 平安中期の以前の写本と見られる『上宮聖徳法王定説』は法隆寺勧学院の文庫に入っていたが明治維新の頃持ち出され、持主の没後に知恩院の所蔵になったと見られるという。 明治三十六年〔1903〕には国宝に指定された。〔下記影印本の解説による〕
 これまでも折に触れて参照してきたが、今回は冒頭の系図部分を精読した (国立国会図書館デジタルコレクションにより閲覧)。
『上宮聖徳法王定説』知恩院蔵本の影印本。〔発行:古典保存会;1928年〕――冒頭の系図部分
上宮聖徳法王定説
伊波礼池邊雙槻ナミツキノ治天下橘豊日天皇
マイテ庶妹穴穂部間人為大后
メル兒厩サト聖徳法王ナリ
次久
ウヱ
次茨スイ田王
又天皇娶蘇我伊奈宿祢大臣女子名伊志支那郎女
生兒多
又天皇娶葛木當麻倉首クラヘ比里古女子 伊比■郎女
生兒麻呂古王
次須加弖古テコ女王
【此王拝祭伊勢神前于三天皇■■】
合聖王兄[弟七]王也
上宮聖徳法王(かみつみやのしやうとくほふわう)の定説(ぢやうせち)
伊波礼池(いはれいけ)の辺(へ)の双槻宮(なみつきのみや)に天下を治(しろしめたま)ひし橘豊日(たちばなのとよひ)の天皇(すめらみこと)、
庶妹(ままいも)穴穂部間人(あなほべのはしひと)の王(みこ)を娶(めあは)せて大后(おほきさき)と為(し)たまひて、
生児(あれまししみこ)は、厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)の聖徳法王(しやうとくほふわう)、
次に久米王(くめのみこ)、
次に殖栗王(うゑくりのみこ)、
次に茨田王(まむたのみこ)。
又、天皇、蘇我(そが)の伊奈米(いなめ)の宿祢(すくね)の大臣(おほまへつきみ)が女子(むすめ)、名は伊志支那郎女(いしきなのいらつめ)を娶(めあは)せたまひて、
生児は、多米王(ためのみこ)。
又、天皇、葛木当麻(かつらきのたぎま)の倉(くらべ)の首(おびと)、名は比里古(ひりこ)が女子(むすめ)、伊比■郎女(いひめのいらつめ)を娶せたまひて、
生児は、乎麻呂古王(をまろこのみこ)、
次に須加弖古女王(すかてこのみこ)
【此の王(みこ)は伊勢神(いせのおほかみ)の前(みまへ)に拝(をろが)み祭りて、三はしらの天皇(すめらみこと)の御世に至れり】。
合はせて聖王の兄弟(えおと)は七(ななはしら)の王(みこ)也(なり)。
聖徳法王娶膳部カシハテ加多臣女子名菩岐々美ホキゝミ郎[女]
[生]兒舂米ツイシネ女王
長谷ハセ
久波太クハタ女王
波止利ハトリ女王
次三枝王
伊止志古イトシコ
次麻呂古王
次馬屋古女王
【已上八人】
又聖王娶蘇我馬古マコ叔尼シクニ大臣女子名負古フコ郎女
生兒山代大
【此王有賢尊志棄身命而愛スル人民也後人與父聖王相濫トイフ非也】
タカ■
日置ヒオキ
カタ女王
【已上四人】
又聖王娶尾治王女子位奈部ヰナヘ橘王
生兒白髪部シラカヘ
次手嶋女王
合聖王兒十四王子也
舂米女王…「舂」の訓点ツイは、ツキの音便。シネは、イネ(稲)と同じ。
長谷王…上代はハツセ(泊瀬)。
三枝…サイグサ(三枝)は、上代はサキクサ。
…呉音はスク。
聖徳法王(しやうとくほふわう)、膳部(かしはで)の加多夫古(かたぶこ)の臣(おみ)が女子(むすめ)、名は菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ)を娶(めあは)せたまひて、
生(あ)れましし児(みこ)は、舂米女王(つきしねのみこ)、
次に長谷王(はつせのみこ)、
次に久波太女王(くはたのみこ)、
次に波止利女王(はとりのみこ)、
次に三枝王(さきくさのみこ)、
次に伊止志古王(いとしこのみこ)、
次に麻呂古王(まろこのみこ)、
次に馬屋古女王(うまやこのみこ)
【已上(かみつかた)八人(やはしら)】。
又、聖王、蘇我の馬古(まこ)の叔尼(すくに)の大臣(おほまへつきみ)の女子(むすめ)、名は負古郎女(ふこのいらつめ)を娶せたまひて、
生児は山代大兄王(やましろのおほえのみこ)
【此の王(みこ)は賢(さと)く尊(たふと)き志(こころざし)有りて、身命(いのち)を棄(う)ちて人民(おほみたから)を愛(うつくしび)す。後(のち)の人父聖王与(と)相濫非也】
次に財王(たからのみこ)、
次に日置王(ひおきのみこ)、
次に片岡女王(かたをかのみこ)、
【已上四人(よはしら)】。
又、聖王、尾治王(をはりのみこ)の女子(むすめ)位奈部(ゐなべ)の橘王(たちばなのみこ)を娶せたまひて、
生児は白髪部王(しらかべのみこ)、
次に手嶋女王(てじまのみこ)。
合はせて聖王の児(みこ)十四(とはしらあまりよはしら)の王子(みこ)也(なり)。
山代大兄王娶庶妹舂米
生兒難波麻呂古王
次麻呂古王
次弓削王
佐々サゝ女王
次三嶋女王
甲可カムカ
治王
山代大兄王(やましろのおほえのみこ)、庶妹(ままいも)舂米王(つきしねのみこ)娶(めあは)せて
児(みこ)、難波麻呂古王(なにはのまろこのみこ)、
次に麻呂古王(まろこのみこ)、
次に弓削王(ゆげのみこ)、
次に佐々女王(ささのみこ)、
次に三嶋女王(みしまのみこ)、
次に甲可王(かふかのみこ)、
次に尾治王(をはりのみこ)を生みたまひき。
聖王庶兄多王其父池辺天皇崩後
娶聖王母穴太部間人王
生兒佐冨サトミ女王也
聖王(しやうわう)の庶兄(ままえ)多米王(ためのみこ)は其の父池辺天皇(いけべのすめらみこと)崩(ほうじし、かむあがりしたまひし)後(のち)に、
聖王の母(いろは)穴太部間人王(あなほべのはしひとのみこ)を娶せて、
児佐冨女王(さとみのみこ)を生みたまひき。
斯貴嶋宮治天下阿久爾於志波留支 ハ天皇【聖王祖父也】
檜前ヒノクマ天皇女子伊斯比女命ヒメノミコ
生兒他田オサタ治天下天皇怒那久良布刀フト多麻斯支シキ天皇ナリ【聖王伯叔也】
又娶蘇我稲タリ大臣女子支多斯比賣ヒメミコ
生兒伊波礼イハレ池邊宮治天下橘豊日天皇【聖王父也】
妹少治田宮治天下止余美氣加志支夜比賣トヨミケカシキ ヒメ天皇【聖王姨母也】
又娶支多斯比賣ヒメ同母弟乎阿尼ヲアニ
生兒倉橋宮治天下長谷部天皇ナリ【聖王伯姉也】
姉穴太部間人王【聖王母也】
右五天皇無雑他人治天下也【但倉梯弟四小治田弟五也】
斯貴嶋宮(しきしまのみや)に天下(あめのした)を治(しろしめしたま)ひし阿米久爾於志波留支広庭天皇(あめくにおしはるきひろにはのすめらみこと)〔欽明〕【聖王(しやうわう)の祖父(おほぢ)也(なり)】、
檜前天皇(ひのくまのすめらみこと)の女子(みむすめ)伊斯比女命(いしひめのみこと)を娶せたまひて、
生児(あれまししみこ)は他田宮(おさたのみや)に天下を治(しろしめたま)ひし天皇(すめらみこと)怒那久良布刀多麻斯支天皇(ぬなくらくふとたましきのすめらみこと)〔敏達〕【聖王の伯叔(をぢ)也(なり)】、
又、蘇我稲目足尼(そがのいなめのすくね)の大臣(おほまへつきみ)の女子(むすめ)支多斯比売命(きたしひめのみこと)を娶せて、
生児は伊波礼(いはれ)の池の辺(へ)の宮に天下を治(をさめたま)ひし橘豊日天皇(とよひのすめらみこと)〔用明〕【聖王の父也(なり)】、
妹、少治田宮(をはりたのみや)に天下を治(しろしめたま)ふ止余美氣加志支夜比売天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)〔推古〕【聖王の姨母(をば)也】
又、支多斯比売(きたしひめ)の同母弟(いろど)乎阿尼命(をあねのみこと)を娶せて、
生児は倉橋宮(くらはしのみや)に天下を治(しろしめたま)ひし長谷部天皇(はつせべのすめらみこと)〔崇峻〕【聖王の伯姉〔父〕(をぢ)也(なり)】、
姉(あね)穴太部間人王(あなほべのはしひとのみこ)【聖王の母也(なり)】。
右の五(いつはしら)の天皇(すめらみこと)は他人(あたしひと)を雑(まじ)ふること無く天下(あめのした)を治(しろしめたま)ひき【但し倉梯は弟(おと)四(よはしら)、少治田(をはりた)は弟五(いつはしら)也(なり)】。
 用明天皇の皇子の部分は、記紀と全く一致している。欽明天皇以下五代の天皇から上宮聖徳法王までの血縁関係も記紀と一致する。
 上宮聖徳法王の妃と子の部分は記記には載らない。
《写本の時期と成立年代》
 訓の付けられた時期は平安半ばかと思われる。 例えば、蘇我稲目足尼(すくね)タリニと訓んでいるところに、上代からの時の隔たりを感じさせるのである。
 原文そのものの成立は、記紀と重なる690年以後と思われる。〈元興寺縁起〉『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』とは対照的に、天皇の表記法が安定しているからである。 ただし「他田宮治天下天皇怒那久良布刀多麻斯支天皇」については、一つ目の「天皇」は不要である。これは、恐らく誤写であろう。
 名前の音仮名表現は書紀に比べると相当古風に感じられるが、記紀の間も音仮名は異なり、ひとつの物語の中でさえしばしば異なる。 このように当時は音仮名はその都度選択されるもので、〈定説〉の表記も同時代における多様性の範囲内であろう。 しかし、用いた材料そのものには古くから伝わるものが含まれると思われる。
《上宮聖徳法王からの系図》
 中でも注目されるのは上宮聖徳法王の子孫の系図である。これは記紀には載っていない。 その理由は記紀の書かれた頃には太子の聖人化が急速に進んでいたところにあると考えられる。 既に、信仰の対象として太子個人にスポットライトが当たっており、子孫の系図にはあまり注意が払われなかったと思われる。
 〈定説〉がこれを載せたのは、聖人化される以前の感覚が残っていたということであろう。 〈元興寺縁起〉においては後に加筆されたと見られるが、最初の姿が色濃く残っており、そこにはまだ聖徳太子の神聖化は見えず、むしろ御食炊屋姫(推古天皇)を偉大化している。 それは、650年頃の状況を反映したものであろう。それを起点として、
推古天皇崩後暫くは推古天皇が偉大化され、豊聡耳皇子の役割は従である⇒〈元興寺縁起〉。
厩戸豊聡耳皇子の摂政として立場が強調され、子孫の系図も天皇に準ずる形になる⇒『上宮聖徳法王定説』の系図部分。
単なる摂政を超越した聖人となり、系図はむしろ気にとめられなくなる⇒書紀
 という経過が考えられる。
《上宮聖徳法王》
 和訓は、ひじりいきほひである。 =仏法で、法王が仏教界の王を意味するのは明らかである。 つまりは「聖徳」は法王への美称である。
 「廐戸豊聡耳太子」は朝廷でまつりごとる立場、「聖徳法王」は仏教界で法を説く立場による名前である。 同一人物だが、その人物を語る間口の広さが名前の多様さに現れている。

まとめ
 〈推古即位前紀〉によって計算すると、穴穂部皇子がおかそうとしたのは豊御食炊屋姫が三十三歳のときになる。 推古天皇は姿色端麗と描かれるから、話として不自然ではない。ただ、実際にこのようなことがあったかどうかは別である。
 具体的な記述はないが、御食炊屋姫という名前からは天皇の御食を整える炊屋に容姿端麗な十八歳の女性がいて、敏達天皇に見初められたという出逢いが想像される。 もっとも「欽明帝の皇女」であったとすれば、采女ではなく炊屋を仕切る立場であろう。
 推古の母の堅塩媛は蘇我稲目の娘で、〈推古二十年〉の改葬された際に「皇太夫人」の称号を得ている(欽明三十二年【丸山古墳】)。 蘇我稲目の娘の堅塩媛は用明・推古の両天皇を、小姉姫は崇峻天皇・穴穂部間人皇女を産み、蘇我氏は閨閥としての影響力を発揮している。
 稲目は欽明三十一年に薨じ、蘇我馬子の代になった。その馬子は穴穂部皇子を殺し、 穴穂部間人皇女は一時丹後国に避難したとも言われ、最後は崇峻帝を殺す。 どうも小姉姫の系統との折り合いは悪かったようである。 親族としての関係が深いほど、一度関係がこじれると対立は抜き差しならなくなるのが世の法則である。
 厩戸豊聡耳皇子は父が用明、母が穴穂部間人皇女だから馬子との関係は何とも言えないが、 推古帝・厩戸豊聡耳皇子と蘇我馬子宿祢大臣との間には、一定の緊張関係があったと見た方がよいように思われる。