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[248]  下つ巻(崇峻天皇2)

2021.01.18(mon) [249] 下つ巻(推古天皇1) 
妹豐御食炊屋比賣命坐小治田宮
治天下參拾漆歲

妹(いも)豊御食炊屋比売命(とよみけかしやひめのみこと)は小治田宮(をはりたのみや)に坐(ましま)して
天下(あめのした)を治(をさ)めたまふこと、参拾漆歳(みそとせあまりななとせ)。


 妹の豊御食炊屋比売命(とよみけかしやひめのみこと)は小治田宮(をはりたのみや)にいらっしゃり、 三十七年間、天下を治められました。


【小治田宮】
 『続日本紀』に見る「糒」
 ほしいい〔炊いた米を天日で乾燥させた保存食糧〕に関しては、宝亀四年〔773〕二月に「下野国災。焼正倉十四宇。穀糒二万三千四百余斛」、 宝亀十一年〔780〕五月に「勅曰。機要之備不闕乏。宜仰坂東諸国及能登。越中。越後。令糒三万斛〔欠乏への備えは不可欠である。東国と北陸に糒三万斛を備蓄させよ〕。 「糒」の字はここから急に増え、780年~791年に計6件ある。〔ざっと見てそのうち5件は東国兵士の食糧、一件は飢餓への備え〕
 飢饉に備えた大量の糒を備蓄する政策の最初が760年で、その視察の為に天皇が行幸したと考えることができる。 全国的な大飢饉は763年が断然多いが、760年以前にも759年五月の「勅曰。頃聞。至于三冬間。市辺多二上餓人」を始めとして、この時期に飢餓の記事は多い。 糒は、飢餓そのものへの対応とともに、天候不順により東国を中心として反乱が頻発し、鎮圧にあたる軍のためにも用意されたようである。
 小治田宮の書紀における表記は「小墾田宮」。これまでに、雷丘にあったことが確定していると述べた(第253回《小墾田宮》、 允恭五年)。
 『古代の大和』〔奈良県教育委員会;1988〕は、「明日香村教育委員会が、昭和62年7月、雷丘東方遺跡の発掘調査を実施したところ、 平安時代初頭の井戸から「小治田宮」と書かれた多数の墨書土器が出土した」と述べる。
 〈続紀-天平宝字四年〔760〕八月〉に「○辛未〔十四日〕。転播麻国糒一千斛。備前国五百斛。備中国五百斛。讃岐国一千斛。以貯小治田宮〔糒(ほしいい)を播磨国・備前・備中・讃岐から尾治田に移した〕、 そして「乙亥〔十八日〕。幸小治田宮」とある。 行幸したのは廃帝はいたい〔明治三年〔1870〕に淳仁天皇を追号〕である。
 このときは、小治田宮の施設が糒の備蓄庫として利用されたようである。
 「明日香村埋蔵文化財展示室」〔明日香村大字飛鳥225-2〕に墨書土器と井戸が展示され、 「年輪年代測定法によって、井戸枠材の伐採年代が758年+αと判明」、「材質はヒノキ」との解説が添えられている。 廃帝行幸の760年に近い。
『奈良文化財研究所-紀要2006』(p.82)に「明日香村埋蔵文化財展示室」説明版、 『奈良国立文化財研究所年報1994』により加筆。
ピンク色は飛鳥時代に該当。
墨書土器 ja.wikipedia.org
《飛鳥時代の遺構》
 遺構のうち飛鳥時代のものについては、以下が挙げられる(は図に対応)。
● 飛鳥村教育委員会による2次調査(1986)が検出した「貼石護岸の池跡(飛鳥初頭)※1〔明日香村埋蔵文化財展示室説明板〕
● 「雷内畑遺跡(明日香村1994-11次、1995-15次)では7世紀中頃以降の 庭園遺構※2や掘立柱※3などが見つかっている。」という〔『奈良文化財研究所-紀要2006』〕
● 「7世紀前半の遺構であるSD3100※4は掘割的な様相を示しており、推古天皇の小墾田宮との関連を検討すべきである」、 また「7世紀後半の遺構としてSB3020※5・SB3050※6の2棟の長大な建物」が確認された。〔『奈良国立文化財研究所年俸1994』〕
● 飛鳥村教育委員会による7次調査(1997)が検出した「大形柱穴(7世紀後半)※1〔明日香村埋蔵文化財展示室説明板〕
 推古天皇以後に小治田宮が天皇の宮殿として使われた記事が、〈皇極天皇紀〉にある。
――〈皇極天皇紀〉元年〔642〕十二月壬寅〔二十一日〕に「天皇遷移於小墾田宮。【或本云、遷於東宮南庭之権宮。】」 二年四月丁亥〔二十八日〕に「自権宮移幸飛鳥板蓋新宮。
 このときは「権宮〔一時的な宮〕として約四か月間坐ましただけである。
 全体としてみると、雷丘東方遺跡・雷畑遺跡の遺構は飛鳥時代初頭から始まり、奈良時代後期以後に「小治田宮」の墨書土器が存在する。 皇極天皇が仮宮を置いたり糒の貯蔵施設として使われ、またこの期間の時々に建造物があることを見ると、 一貫して朝廷の官署として機能していたと見られる。
 よって、推古天皇の遷都(十一年〔603〕)の頃から墨書土器の時期に至るまで、この宮殿には連続性があると言える。 よって推古朝の「小治田宮」は、ここであったと考えてよいだろう。
推古天皇紀
即位前~元年四月
元年九月~是年
二年~七年
八年
九年~十年六月
十年十月~十一年四月
十一年十月~十ニ年正月
十二年四月
十二年九月~十四年四月
10十四年五月~十五年二月
11十五年七月~十六年六月
12十六年八月
13十六年九月
14十七年
15十八年
16十九年~二十年正月
17二十年ニ月~是歳
18二十一年
19二十ニ年~二十五年
20二十六年~二十八年
21二十九年
22三十一年
23三十一年即年
24三十ニ年四月
25三十ニ年九月~十月
26三十三年~三十五年
27三十六年
中女…〈釈紀-秘訓〔以下釈〕〉〈内閣文庫本〔以下閣〕
 中女也ナカニアタリタマフミコナリナカラニアタリタマフミコナリ
 〈図書寮本〔以下図〕ミコ
なかつひめ…[名] 応神天皇段の皇女に中日売〔書紀は仲姫〕(第148回)。
 また、その皇子若野毛二俣王の子に大中津比売など(159回)。
 女子の中間子を意味する一般名詞が固有名詞に転じたのは明らかである。
同母妹…〈北野本〔以下北〕母妹ハラノイロト。 〈閣〉ハラノイモト
幼曰…〈北〉幼日ワカクマシマス。 〈閣〉幼日ワカクマシマストキ
…[形] (古訓) をさなし。わかし。いとけなし。
姿色端麗…〈図〉姿-色ミカホ 端-麗キラゝシク ・進-止 ミフルマヒ軌-制 ヲサ〔メ〕
進止…①進むことと止まること。②立ち振る舞い。
軌制…〈汉典〉法則制度。
見殺…「見」は受け身の助動詞。 〈図〉〈北〉見殺シメラシタウヒヌ/シセラシタマヒヌ

【書紀―即位前~元年四月】
目次 《豐御食炊屋姬天皇》
豐御食炊屋姬天皇、天國排開廣庭天皇中女也、
橘豐日天皇同母妹也。
幼曰額田部皇女、姿色端麗、進止軌制。
豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)の天皇(すめらみこと)は、天国排開広庭(あまくにおしはらきひろには)の天皇〔欽明〕の中女(なかつひめ)[也]にありて、
橘豊日(たちばなのとよひ)〔用明〕の天皇の同母妹(いろど)[也]なり。
幼(わか)くは額田部皇女(ぬかたべのみこ)と曰ひたまひて、姿色(みすがた)端麗(きらきら)しくありて、進止(みふるまひ)軌制(のりををさめたまふ)。

年十八歲。
立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后。
卅四歲。
渟中倉太珠敷天皇崩。
卅九歲。
當于泊瀬部天皇五年十一月。
天皇爲大臣馬子宿禰見殺。
年(よはひ)十八歳(ととせあまりやとせ)。
立たして渟中倉太玉敷天皇(ぬなくらふとたましきのすめらみこと)〔敏達〕之(の)皇后(おほきさき)と為(な)りたまふ。
三十四歳(みそとせあまりよとせ)。
渟中倉太珠敷天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
三十九歳(みそとせあまりここのとせ)。
[于]泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)五年(いつとせ)十一月(しもつき)に当たりて、
天皇、大臣(おほまへつきみ)馬子宿祢(うまこのすくね)の為に見殺(ころしまつらゆ)。

…〈閣〉マウスシテ
将令践祚…〈北・閣〉将令踐祚アマツヒキシラセム
辞譲…〈図・北・閣〉辞譲イサヒ
百寮…〈図〉百- ツカヒ ツカサ。 〈北〉百- ツカサ ツカサ。 〈閣〉百-寮ツカサ\/
至于三…〈図・北・閣〉至于ミタヒ
璽印…〈図・北・閣〉璽印ミシルシ
嗣位既空。
群臣請渟中倉太珠敷天皇之皇后額田部皇女、以將令踐祚。
皇后辭讓之。
百寮上表勸進至于三、乃從之、因以奉天皇璽印。
嗣位(ひつぎのくらひ)既(すで)に空(むな)し。
群臣(まへつきみたち)渟中倉太珠敷天皇之(の)皇后(おほきさき)額田部皇女(ぬかたべのみこ)に請(ねが)ひまつりて、以ちて[将]践祚(ひつぎ)せ令(し)めまつらむとす。
皇后辞(いな)びて之(こ)を譲(ゆづ)りたまひき。
百寮(ももつかさ)表(ふみ)を上(たてまつ)りて勧進(すすめまつること)[于]三(みたび)に至りて、乃(すなはち)之(こ)に従(したが)ひたまひて、因以(よりて)天皇の璽印(みしるし)を奉(たてま)つりき。

冬十二月壬申朔己卯。
皇后卽天皇位於豐浦宮。
冬十二月(しはす)壬申(みづのえさる)を朔(つきたち)として己卯(つちのとう)〔八日〕
皇后豊浦宮(とゆらのみや)に於(ましまして)天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。

刹柱礎中…〈釈〉柱礎中ハシラノツミシノナカニ私記曰。刹音読〔せつはしらの積石の中に〕
 〈岩崎本〉刹柱セツ ハシラ礎中 ツミシノ 
 〈図〉礎中ツミイシノナカ〔※…「刹」に声点〔即ち音読〕〕。 〈北〉礎中ツミシノナカ
元年春正月壬寅朔丙辰。
以佛舍利置于法興寺刹柱礎中。
丁巳。
建刹柱。
元年(はじめのとし)春正月(むつき)壬寅(みづのえ)を朔(つきたちとして)丙辰(ひのえたつ)〔十五日〕
仏舎利(ほとけのしやり)を以ちて[于]法興寺(ほふこうじ)の刹柱(せつはしら)の礎(つみし)の中(なか)に置く。
丁巳(ひのとみ)〔十六日〕
刹柱(せつはしら)を建(た)てり。

録摂政…〈図・北・閣〉録-攝-政マツリコトゝリフサネカハラシム
万機委…〈図・北〉ユタヌ。 〈閣〉ユタエヌ
懐姙開胎…〈図・北〉懐-妊開胎ミコミセマサムトスル。 〈閣〉懐-妊-開-胎ミコミセマサムトスル之日
こむ…[自]マ四 子を産む。コ-ウムの母音融合。
巡行禁中監察…〈図〉巡行メクリオハシマス禁中ミヤノウチ監-察ミタマフ諸司ツカサ\/。 〈北〉巡行メクリヲハシマス禁中ミヤノウチ監-察ミタマフ諸司ツカサ\/
馬官…〈閣〉馬官ウマノ ツカサニ
不労…〈図〉不-勞ナヤミタマハス。 〈閣〉ナヤミタマハス
夏四月庚午朔己卯。
立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子、仍錄攝政。
以萬機悉委焉。
橘豐日天皇第二子也。
母皇后曰穴穗部間人皇女。
皇后、懷姙開胎之日、巡行禁中監察諸司。
至于馬官、乃當廐戸而不勞忽産之。
夏四月(うづき)庚午(かのえうま)を朔(つきたち)として己卯(つちのとう)〔十日〕
厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)を立たして皇太子(ひつぎのみこ)と為(し)て、仍(すなはち)政(まつりごと)を録(しる)し摂(と)らせて、
万機(よろづのまつりごと)を以ちて悉(ことごとく)委(ゆだ)ねたまひき[焉]。
橘豊日(たちばなのとよひ)の天皇(すめらみこと)〔用明〕の第二(だいにの、つぎてのふたはしらにあたりたまふ)子(みこ)也(なり)。
母(みはは)の皇后(おほきさき)は穴穂部間人(あなほべのはしひと)の皇女(みこ)と曰ひたまふ。
皇后(おほきさき)、懐妊(はらみ)て開胎之(みこみ-せまりましし)日、禁中(みやのうち)を巡行(めぐり)まして諸司(つかさつかさ)を監察(み)たまふ。
[于]馬官(うまのつかさ)に至りて、乃(すなはち)廐戸(うまやど)に当たりて[而]不労(たしなまざ)りて忽(たちまち)に之を産(う)みたまふ。

生而能言…〈図〉生而ウマレマシナカラ/アレマシナカラ。 〈閣〉生而アレマシナカラ
聖智…〈図・北・閣〉聖-智サトリ
…〈図・北〉ヲトコサカリ。 〈閣〉ヲトコサカリニ
勿失…〈図・北・閣〉勿-失アヤマチタマハス〔〝〕
未然…〈図・北・閣〉未-然ユクサキノコト
内教…〈閣〉内-教ノリ
慧慈…〈釈〉高麗僧惠慈コマノホウシエジ
まなぶ…[自]バ上二 〈時代別上代〉上代には上二段に活用したらしい。
外典…〈図・閣〉外典トツフミ
覚哿…〈釈〉博士覺哿カクカ
並悉達…〈図・北〉達矣サトリタマヒヌ
令居宮南上殿…〈釈〉シメタマフ スヘマツラ 宮南上殿ヲホウチノカムツミヤニ。 〈図・北〉ハムヘラオホミヤノ南上殿。 〈閣〉ハムヘラ/スヘマツラヲホミヤ-南上殿
はんべり…[動・補動]ラ変 「はべり」と同じ。ハムヘリは古訓に見える。
称其名…〈釈・北〉タゝヘ/タトヘ。 〈閣〉タトヘテ。 たたふ…[他]ハ下二 ほめていう。
豊聡耳皇子…〈釈〉上宮カミツミヤ廐戸ウマヤノトヨミゝノ太子ヒツキノミコ
生而能言、有聖智。
及壯、一聞十人訴以勿失能辨、兼知未然。
且習內教於高麗僧慧慈、
學外典於博士覺哿、
並悉達矣。
父天皇愛之令居宮南上殿、
故稱其名謂上宮廐戸豐聰耳太子。
生而(うまれながらにして)能(よく)言(ものい)ひたまひて、聖(ひじり)の智(さとり)有り。
壮(をとこざかり)に及びて、一(ひとたび)に十人(とたり)の訴(うるたふること)を聞こして、以ちて勿失(うしなふことなく)能(よ)く弁(わきた)めて、未(いまだ)然(しからざること)を兼ね知りたまふ。
且(また)内教(うちつのり)を[於]高麗僧(こまのほふし)慧慈(ゑじ)に習ひて、
外典(とつふみ)を[於]博士覚哿(はかせかくか)に学(まな)びて、
並(な)べて悉(ことごとく)達(さと)りたまひつ[矣]。
父の天皇(すめらみこと)〔用明〕之(こ)を愛(め)でたまひて宮(おほみや)の南の上(へ)の殿(との)に令居(すまはしめ)たまひき。
故(かれ)其の名(みな)を称(たた)へて上宮廐戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやどのとよとみみのひつぎのみこ)と謂(まを)す。

《年譜》
 ここに書かれた御食炊屋姫の年譜と、〈欽明紀〉以後の記述との対応を見る。
欽明紀~推古紀推古即位前紀:年譜
甲戌〔554〕欽明十五年〔一歳:〕
辛卯〔571〕欽明三十二年十八歳: 渟中倉太玉敷天皇〔敏達〕皇后。
壬辰〔572〕敏達元年〔十九歳:〕
丙申〔576〕敏達五年:豊御食炊屋姫尊皇后〔二十三歳:〕
乙巳〔585〕敏達十四年三十四歳〔ママ〕〔三十二歳〕渟中倉太珠敷天皇〔敏達〕崩。
丙午〔586〕用明元年:穴穂部皇子 欲炊屋姫皇后〔三十三歳:〕
丁未〔587〕用明二年〔三十四歳:〕
戊申〔588〕崇峻元年〔三十五歳:〕
壬子〔592〕崇峻五年:
     十二月。皇后即天皇位於豊浦宮
三十九歳: 十一月。〔崇峻〕天皇為大臣馬子宿祢殺。
 
癸丑〔593〕推古元年:是年也。太歳癸丑。〔四十歳:〕
戊子〔628〕推古三十六年:三月癸丑。天皇崩之。時年七十五。七十五歳:
 「三十四歳:敏達天皇崩」と「三十九歳:崇峻天皇被」の間には、実際には7年の隔たりがあるからどちらかが誤りということになる。 そのうち〈推古三十六年〉の「崩之。時年七十五。」と計算が合うのは三十九歳の方なので、「三十四歳」は「三十二歳」に訂正されるべきであろう。 原文製作者が用明天皇の存在を失念していたのかも知れない。
 皇后になった年齢について、〈敏達紀〉では「敏達五年〔576〕だが、皇后に昇格する五年前に既に妃でなっていたと読めば、何とか辻褄を合わせることができる。
 年齢の妥当性については、「十八歳で結婚」、「用明元年〔三十五歳のとき〕に穴穂部皇子に姦(おそ)われそうになる」、「七十五歳で崩」は、不自然ではない。
 〈元興寺縁起〉〔『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』〕では、戊午年〔538〕に百済から太子像・灌仏器・仏起書が渡来した。 欽明天皇が「大大王」(御食炊屋姫)に、その後宮を分けて仏殿に提供せよと告げたのはそれから一年以内である。 また、〈元興寺縁起〉には癸酉年〔613〕に大大王が生誕百歳を迎えたとあるから、御食炊屋姫の生誕は514年で、仏法が渡来した538年には既に二十五歳になっていた。
 書紀では仏法の渡来は〈欽明十三年〔553〕であるが、それでも御食炊屋姫はまだ生まれていない。 したがって、〈元興寺縁起〉が用いた年譜は、〈欽明天皇紀〉とは全く異なっている。 一方、敏達以後の年の干支表示については書紀を参照して書き加えたと考えるのが妥当で、〈元興寺縁起〉の成り立ちの複雑さが伺われる。
《第二子》
 〈用明天皇紀〉における皇子のリストは、穴穂部間人皇女の生んだ子から始まり、筆頭は聖徳である。 したがって、厩戸豊聡耳皇子は第一子である。 〈帝説〉〔『上宮聖王帝説』〕でも、七子の順番そのものは書紀と一致している。 しかし、〈帝説〉には「聖王庶兄多米王」とも書かれ、つまり多米王は厩戸皇子の腹違いの兄とする。
 また、記ではリストの最初が意富芸多志比売が生んだ多米王で、 その次が間人穴太部王(穴穂部間人皇女)の生んだ厩戸豊聡耳命である。
 したがって、「第二子」は〈定説〉及び古事記の皇子リストにおける順番と一致している。
《宮》
 「」を〈図書寮本〉は「オホミヤ」、〈釈紀〉は「ヲホミヤ」と訓む。前者は平安時代、後者は鎌倉時代の用字と見られる。 〈北野本〉の訓点は殆ど〈図書寮本〉に準じており(下述)、ここでも「オホミヤ」である。
《宮南上殿》
 「南上殿」の比定地については、〈用明元年〉で詳しく考察した。 まず、第244回で用明天皇の「池辺双槻宮」を、磐余池畔の稚櫻神社付近と考えた。 だとすれば、上之宮遺跡が「宮""上殿」に該当しないのは明白である。
 用明天皇は、皇子の幼い頃からの聡明さを知り、「〔これをめでて〕住まわせた。 だから近くに置いたと読むのが自然である。従って、「南上殿」は「池辺双槻宮」に隣接していたはずである。
 但し「上宮皇子」が皇子の名前として早期に定着していれば、新しい宮に遷ったとしてもそこが「上宮」と呼ばれた可能性はある。
《上宮廐戸豊聡耳太子》
 「上宮廐戸豊聡耳太子」は、記も「上宮之厩戸豊聡耳命」(第245回)を用い、記紀の時代における公式名称と見られる。 この名前からは、いろいろ興味深い意味が伺われる。
上宮…皇子を宮殿名で呼ぶのは一般的である。
厩戸…生誕伝説による呼び名。キリスト生誕伝説との共通性は偶然ではなく、 神性をもつ人物が馬屋で生まれたとする伝説は、シルクロード文化圏に広く伝播していたと思われる。
…美称。〈元興寺縁起―丈六光銘〉の時点で、既に「等与」がついている。
聡耳…十人が同時に訴える言葉を弁別した伝説に繋がる語だが、 この伝説は、逆にこの用字によって作られたように思われる。
 〈丈六光銘〉に「刀禰々〔恐らく刀彌彌〕があるので、トミミなる発音が先にあったと思われる。 名前につくミミについては、カムヌカハミミ(綏靖天皇)(第102回)、古くは魏志倭人伝において投馬国の官ミミ、副官ミミナリが出てくる ([23])。 耳成山という山もある。の意味に関して〈時代別上代〉は、「[神]:心霊。接尾語的に用いられる。」として、ワタツミヤマツミの例を挙げている。
太子…皇太子に定められていたが、天皇即位に至らぬまま薨じたと解釈するのが自然である。
《図書寮本と北野本》
北野本図書寮本
 北野本の古訓は、図書寮本と大変よく一致する。ここでは、そのうち2か所について精査する。
●「見殺」:
 図書寮本の筆写者は、右の「シメラレタ■ヒヌ」では意味不明だから「シセラレタマヒヌ」の誤りだろうと判断した。 それでも訂正前の形も敢て残し、その上で、筆写者の見解による訓を左側に書き加えたと見られる。そこには研究者としての学究的な態度が見える。
 北野本は、の字体が異なる〔二本の横棒で、下の方を短く書く形〕が、図書寮本をそのまま写した。
●「巡行」:
 図書寮本の筆写者は、「メクリオハシマス」の別訓としてそこから「めぐり」を除いた「オハシマ〔ス〕」を提案したと見られる。
 北野本では、右側ではヲを用いて「メクリヲハシマス」だが、 左側は「オハシマ」のままなのが興味深い。がないから「御座します」であるとの確信が持てず、とにかくそのまま筆写したのかも知れない。 なお、こちらはの書体に「」を使っている。
 ところで、『釈日本紀』〔鎌倉時代〕では、が専らになっている。 ここではその区別について深入りは避けるが、奈良時代にはオ=[o]ヲ=[wo]が固定し、 平安時代には一旦区別がなくなったが、その後イントネーションの区別として再定義され、その後再び区別が消えたようである。
 この区別に関しては、北野本の方が無頓着だから、大雑把に見て図書寮本の訓点は平安時代でも早期で、 北野本は平安後期~鎌倉の時代になって図書寮本〔またはその写本〕から筆写したのではないかと思われる。
《大意》
 豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)の天皇(すめらみこと)は、天国排開広庭(あまくにおしはらきひろにわ)の天皇〔欽明〕の中間の姫で、 橘豊日(たちばなのとよひ)〔用明〕の天皇の同母の妹です。
 若いときは額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)といわれ、容姿端麗で、進止軌制でいらっしゃいました〔節度ある振舞をなさりました〕。
 十八歳にして、 渟中倉太玉敷天皇(ぬなくらふとたましきのすめらみこと)〔敏達〕の皇后(おおきさき)となられました。
 三十四歳のとき、 渟中倉太珠敷天皇は崩じました。
 三十九歳、 泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)〔崇峻〕五年十一月のとき、 天皇は、大臣(おおまえつきみ)馬子宿祢(うまこのすくね)のために殺され、 位を嗣(つ)ぐ人は、既にいなくなりました。
 群臣は渟中倉太珠敷天皇の皇后であられた額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)に要請して、践祚していただこうとしましたが、 皇后は、辞して譲られました。
 百寮(ももつかさ)たちは上表して勧進すること三度に至りやっと従われ、よって天皇の璽印(みしるし)を奉りました。
 十二月八日、 皇后は豊浦宮(とゆらのみや)で天皇(すめらみこと)の即位されました。
 元年正月十五日、 仏舎利を法興寺(ほうこうじ)の刹柱(さっちゅう)の礎の中に置きました。
 十六日、刹柱を建てました。
 四月十日、 厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)を立て皇太子(ひつぎのみこ)とされ、政(まつりごと)を録摂され、 万機〔すべての政務〕を悉く委ねられました。
 橘豊日(たちばなのとよひ)の天皇(すめらみこと)〔用明〕の第二子です。 母は皇后(おおきさき)で、穴穂部間人(あなほべのはしひと)の皇女(ひめみこ)といわれます。 皇后は、懐妊開胎の〔まさに生まれようとする〕日、禁中を巡行して諸(もろもろ)の司を監察されました。 馬官(うまのつかさ)に至り、廐戸(うまやど)のところで労せずして忽(たちま)ちにお産みになりました。
 生まれながらにして言葉をよく話し、聖の智恵がありました。 壮年に及び、一度に十人の訴えを聞き、聞き落とすこともなくよく聞き分けて、まだ話していないことも兼ねて理解されました。
 また、内〔内面〕の教えを高麗の僧、慧慈(えじ)に習い、 外典〔法律など〕を博士の覚哿(かくか)に学び、 どちらも悉く悟られました。
 父の天皇〔用明〕は太子を愛でて、大宮の南の上の宮殿に住まわせました。 そこでその御名を称え、上宮廐戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやどのとよとみみのひつぎのみこ)とお呼びします。


【書紀―十一年十月~十二年正月】
目次 《遷于小墾田宮》
小墾田宮…〈図〉小墾田ヲハタ
冬十月己巳朔壬申。
遷于小墾田宮。
冬十月(かむなづき)己巳(つちのとみ)を朔(つきたち)として壬申(みづのえさる)〔四日〕
[于]小墾田宮(をはりたのみや)に遷(うつ)りたまふ。

恭拝…〈図・北〉恭拝ウヤヒ。 〈閣〉ウヤヒ-拝
うやぶ…[他] 「ゐやぶ」という類似の動詞がある(別項)。
河勝…〈図・北・閣〉カツ
拝之…〈北〉拝之ヲカミマツラル。 〈閣〉ヲカミマウラス/ヲカミマツラム
蜂岡寺…〈図・北・閣〉ハチ岡寺
十一月己亥朔。
皇太子、謂諸大夫曰
「我有尊佛像、誰得是像以恭拜。」
時、秦造河勝進曰、
「臣拜之。
便受佛像、因以造蜂岡寺。」
十一月(しもつき)己亥(つちのとゐ)の朔(つきたち)。
皇太子(ひつぎのみこ)、諸(もろもろ)の大夫(まへつきみ)に謂(のたま)ひて曰(のたま)はく
「我(あれ)尊(たふとき)仏像(ほとけのみかた)を有(も)ちたまふ。誰(た)そ是(こ)の像(みかた)を得て、以ちて恭(ゐやまひ)拝(をろが)みまつるか。」とのたまふ。
時に、秦造(はたのみやつこ)河勝(かはかつ)進みて曰(まを)ししく、
「臣(やつかれ)之(こ)を拝(をろが)みまつらむ。」とまをしき。
便(すなはち)仏像(ほとけのみかた)を受けたまはりて、因以(よ)りて蜂岡寺(はちをかのてら)を造りまつりき。

大楯…[名] 〈時代別上代〉見出し語「おほたて」あり。
…〈図・北〉ヱカク
旗幟…〈図・北〉旗-幟ハタ
是月。
皇太子請于天皇、
以作大楯及靫【靫此云由岐】、
又繪于旗幟。
是の月。
皇太子(ひつぎのみこ)[于]天皇(すめらみこと)に請(ねが)ひて、
以ちて大楯(おほたて)及(と)靫(ゆき)【靫此(これ)由岐(ゆき)と云ふ】とを作りて、
又(また)[于]旗幟(はた)に絵(ゑ)かきたまへり。

冠位…〈図・北・閣〉大德師説云今之四位也五位也六位也七位也小義之八位也小智之初位也〔以上養老令〔718〕による〕 〈閣〉「大」「仁」「信」「義」「智」に声点。ライ
十二階…〈図・北〉十二階トシナアマリフタシナ
絁縫…〈図〉絁縫キヌヌイ。 〈北〉絁縫キヌヌヘリ。 〈閣〉絁縫キヌヲヌヘリ
…[名] 組みひも織り。目のあらいつむぎ。〈倭名類聚抄〉「:和名阿之岐沼〔あしきぬ〕」。
頂撮…〈図・北〉撮総トリスヘ如囊而着緣ツケタリモトホリ元日ムツキノツイタチノ。 〈閣〉撮-総トリスヘテツケタリ ノトメリニ焉唯元日ムツキノツヒタチノヒ
…[名] (古訓) うなし。
…[名] (古訓) はた。へり。
着髻花…〈図・閣〉キヌ髻-花ウス。 〈北〉サス髻-花ウス
うず…[名] 木の花、枝葉また金銀の細工を頭につけて飾りとしたもの。
十二月戊辰朔壬申。
始行冠位。
大德小德大仁小仁
大禮小禮大信小信
大義小義大智小智
幷十二階。
並以當色絁縫之、
頂撮總如囊而着緣焉。
唯元日、着髻花。
【髻花、此云于孺。】
十二月(しはす)戊辰(つちのえたつ)を朔(つきたち)として壬申(みづのえさる)〔五日〕
[始行]冠位(くわむゐ)。
大徳(だいとく)小徳(せうとく)大仁(だいにむ)小仁(せうにむ)
大礼(だいらい)小礼(せうらい)大信(だいしむ)小信(せうしむ)
大義(だいぎ)小義(せうぎ)大智(だいち)小智(せうち)
并(あは)せて十二階(としなあまりふたしな)をはじめておこなひて、
並(な)べて色に当たりし絁(あしきぬ)を以(もちゐ)て之(こ)を縫(ぬ)ひて、
頂(うなじ)に撮(と)り総(す)べて囊(ふくろ)の如くして[而]縁(はた)に着(つ)けり[焉]。
唯(ただ)元日(むつきのつきたち)に、髻花(うず)を着(つ)く。
【髻花、此(こ)を于孺(うず)と云ふ。】

十二年春正月戊戌朔、
始賜冠位於諸臣、各有差。
十二年(ととせあまりふたとせ)春正月(むつき)戊戌(つちのえいぬ)の朔(つきたち)、
始めて冠位[於]諸(もろもろの)臣(まへつきみ)に賜(たまは)りて、各(おのもおおも)差(しな)有り。

《うやひ》
広隆寺:宝冠弥勒 アカマツ材・7世紀
 ja.wikipedia.org
 「恭拝」または「」にイヤヒという古訓が付されている。 「うやぶ」は「ゐやぶ」と同じと見られる。その「ゐやぶ」の活用について、 〈時代別上代〉は、詔38〔天平神護元年十一月庚辰〕為夜〔ビ末都利」から上二段、 〈崇神紀七年〉〈神功紀四十九年〉の古訓「ヰヤブコト」からは四段になるので、決めかねている 〔もし上二段ならヰヤブルコトになる〕
 「ゐやまふ」が「ゐやぶ」+動詞語尾「〔反復・継続〕から派生した語だとすれば、「ゐやぶ」は四段となる。
《蜂岡寺》
 蜂岡寺は後に広隆寺となり、現在に至る。 『広隆寺縁起』〔836年〕によれば、旧地は「九条河原里」 と「同条荒見社里」にあり、後に「五条荒蒔里〔現在地と見られる〕に遷った。 秦造河勝が仏像を賜ったのは推古十一年だが、同書では「壬午」〔推古三十年〕建立となっている。 筆頭署名者が「檀越〔=檀家〕大秦公宿祢永道」とあるので、秦氏の氏寺であったと考えられる (資料[45])。
 現在地は京都市右京区太秦蜂岡町32。「旧地」は平野神社(京都府京都市北区平野宮本町1)の南の辺りではないかと言われる。
 〈推古三十一年七月〉には新羅から使者が来朝し、「仏像一具及金塔并舎利〔他〕」し、 そのうち仏像が、「仏像居於葛野秦寺」とある。 この「葛野秦寺」が広隆寺であることは明らかである。
 同寺には、宝冠弥勒菩薩像と宝髻ほうけい弥勒像の二体の弥勒菩薩像がある※)
 ※…以下弥勒菩薩像に関する部分は、大矢良哲講演記録(2017.6.24)による。
 そのうち、宝冠弥勒菩薩像はアカマツ材である〔一部にクスノキに似た広葉樹が使用〕。朝鮮半島では木造にアカマツが用いられるので、朝鮮半島で製作されたという説と、 朝鮮半島からもたらされたアカマツを用いて倭国で製作されたという説がある。 宝髻弥勒像はクスノキ材である。
《隋書》
 『隋書』に「開皇二十年〔600;推古八年〕」に倭の使者が訪れ、倭の様子を問われて答えた文章内に、冠位十二階のことが載る。
●内官有十二等。一曰大德。次小德。次大仁。次小仁。次大義。次小義。次大禮。次小禮。次大智,次小智。次大信。次小信。員無定數
●至隋。其王始制冠。以錦綵之。以金銀鏤花飾。
●〔官の内に十二等有り。一に大徳と曰ふ。…員(かず)に定まりし数無し。〕
●〔随に至り、其の王始めて冠を制す。錦綵〔華美な糸織物〕を以て之とし、金銀鏤花〔彫刻花紋〕を以て飾りとす。〕
 〈推古紀〉が"徳仁礼信義智"の順であるのに対して、〈隋書〉では"徳仁義礼智信"の順になっている点が相違する。
《冠位十二階》
平安のかうぶり(冠)
『古語林』(大修館1997)より
上代に纓(えい)があったかどうかは不明
 「並以当色」とあるから、階位を冠の色で区別したのは確かであろう。 具体的な色彩の推定については、ネットで画像検索すると様々な色が想像されていて楽しいが、すべて無根拠である。
 〈時代別上代〉の「古代冠位制変遷表」によれば、大化三年の改定で 「大徳・小徳⇒大錦、大仁・小仁⇒小錦、大礼・小礼⇒大青、大信・小信⇒小青、 大義⇒大黒、小義⇒小黒、大智・小智⇒建武」となっており、の色指定が伺われる。 の語源は「二色ニシキ」なので、単色に限らなかったと思われる。「大黒・小黒」は冠のサイズ差とも、色の濃淡とも考えられる。
 大化三年の改定では、大錦の上に新しく〔上位から〕大(小)織、大(小)繍、大(小)紫が定められていて、紫色や、刺繍付きの紫などがあったと想像される。 十二階の段階では大徳が紫だったのが、その改定の際に「小紫」位以上に移されたことも考え得る。
 もし本気で推定しようとするなら、当時使い得た染料の種類を具体的に考えあわせる必要があろう。
《冠》
 「」は、巾子こじの部分かと思われる。 冠位十二階の時点でえいがあったかどうかは不明。 「」には組みひもの意味もあり、「」は「頭の後ろに回して縛る組みひもを縫い付けた」意味かも知れない。
 隋書を見ると、それまで頭に被り物をする習慣のなかった倭人が、始めて冠を用いたことが注目されている。 そのこともあって、書紀のこの部分の執筆を担当した中国人が比較的詳細にその冠の形状を著したのかも知れない。
《大意》
 十月四日、 小墾田宮(おはりたのみや)に遷られました。
 十一月一日、 皇太子〔聖徳〕は、諸(もろもろ)の大夫(まえつきみ)〔大臣〕に、 「私は、尊い仏像(ほとけのみかた)を持っている。誰ぞこの像を受け取り、恭拝する者はいないか。」と仰りました。 その時、秦造(はたのみやつこ)の河勝(かわかつ)が進み出て、 「私めが拝します。」と申し上げました。
 そこで仏像を受け賜わり、これによって蜂岡寺が造られました。
 同じ月、 皇太子は天皇に願い出て、 大楯及び靫(ゆき)〔背負う矢差し〕を作られ、 また旗幟(きし)に絵を描かれました。
 十二月五日、 冠位を開始し、 大徳(だいとく)・小徳(しょうとく)・大仁(だいにん)・小仁(しょうにん)・ 大礼(だいらい)・小礼(しょうらい)・大信(だいしん)・小信(しょうしん)・ 大義(だいぎ)・小義(しょうぎ)・大智(だいち)・小智(しょうち)の、 合わせて十二階を定めました。
 総じて色に当る絁(あしぎぬ)を用いてこれを縫い、 頂(うなじ)に取りまとめて袋のようにして縁(へり)に着け、 ただし、元日には髻花(うず)をつけました。
 十二年正月一日、 始めて冠位を諸臣に賜り、それぞれに差がありました。


【上宮聖徳法王定説】
 平安中期の以前の写本と見られる『上宮聖徳法王定説』は法隆寺勧学院の文庫に入っていたが明治維新の頃持ち出され、持主の没後に知恩院の所蔵になったと見られるという。 明治三十六年〔1903〕には国宝に指定された。〔下記影印本の解説による〕
 これまでも折に触れて参照してきたが、今回は冒頭の系図部分を精読した (国立国会図書館デジタルコレクションにより閲覧)。
『上宮聖徳法王定説』知恩院蔵本の影印本。〔発行:古典保存会;1928年〕――冒頭の系図部分
上宮聖徳法王定説
伊波礼池邊雙槻ナミツキノ治天下橘豊日天皇
マイテ庶妹穴穂部間人為大后
メル兒厩サト聖徳法王ナリ
次久
ウヱ
次茨スイ田王
又天皇娶蘇我伊奈宿祢大臣女子名伊志支那郎女
生兒多
又天皇娶葛木當麻倉首クラヘ比里古女子 伊比■郎女
生兒麻呂古王
次須加弖古テコ女王
【此王拝祭伊勢神前于三天皇■■】
合聖王兄[弟七]王也
上宮聖徳法王(かみつみやのしやうとくほふわう)の定説(ぢやうせち)
伊波礼池(いはれいけ)の辺(へ)の双槻宮(なみつきのみや)に天下を治(しろしめたま)ひし橘豊日(たちばなのとよひ)の天皇(すめらみこと)、
庶妹(ままいも)穴穂部間人(あなほべのはしひと)の王(みこ)を娶(めあは)せて大后(おほきさき)と為(し)たまひて、
生児(あれまししみこ)は、厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)の聖徳法王(しやうとくほふわう)、
次に久米王(くめのみこ)、
次に殖栗王(うゑくりのみこ)、
次に茨田王(まむたのみこ)。
又、天皇、蘇我(そが)の伊奈米(いなめ)の宿祢(すくね)の大臣(おほまへつきみ)が女子(むすめ)、名は伊志支那郎女(いしきなのいらつめ)を娶(めあは)せたまひて、
生児は、多米王(ためのみこ)。
又、天皇、葛木当麻(かつらきのたぎま)の倉(くらべ)の首(おびと)、名は比里古(ひりこ)が女子(むすめ)、伊比■郎女(いひめのいらつめ)を娶せたまひて、
生児は、乎麻呂古王(をまろこのみこ)、
次に須加弖古女王(すかてこのみこ)
【此の王(みこ)は伊勢神(いせのおほかみ)の前(みまへ)に拝(をろが)み祭りて、三はしらの天皇(すめらみこと)の御世に至れり】。
合はせて聖王の兄弟(えおと)は七(ななはしら)の王(みこ)也(なり)。
聖徳法王娶膳部カシハテ加多臣女子名菩岐々美ホキゝミ郎[女]
[生]兒舂米ツイシネ女王
長谷ハセ
久波太クハタ女王
波止利ハトリ女王
次三枝王
伊止志古イトシコ
次麻呂古王
次馬屋古女王
【已上八人】
又聖王娶蘇我馬古マコ叔尼シクニ大臣女子名負古フコ郎女
生兒山代大
【此王有賢尊志棄身命而愛スル人民也後人與父聖王相濫トイフ非也】
タカ■
日置ヒオキ
カタ女王
【已上四人】
又聖王娶尾治王女子位奈部ヰナヘ橘王
生兒白髪部シラカヘ
次手嶋女王
合聖王兒十四王子也
舂米女王…「舂」の訓点ツイは、ツキの音便。シネは、イネ(稲)と同じ。
長谷王…上代はハツセ(泊瀬)。
三枝…サイグサ(三枝)は、上代はサキクサ。
…呉音はスク。
聖徳法王(しやうとくほふわう)、膳部(かしはで)の加多夫古(かたぶこ)の臣(おみ)が女子(むすめ)、名は菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ)を娶(めあは)せたまひて、
生(あ)れましし児(みこ)は、舂米女王(つきしねのみこ)、
次に長谷王(はつせのみこ)、
次に久波太女王(くはたのみこ)、
次に波止利女王(はとりのみこ)、
次に三枝王(さきくさのみこ)、
次に伊止志古王(いとしこのみこ)、
次に麻呂古王(まろこのみこ)、
次に馬屋古女王(うまやこのみこ)
【已上(かみつかた)八人(やはしら)】。
又、聖王、蘇我の馬古(まこ)の叔尼(すくに)の大臣(おほまへつきみ)の女子(むすめ)、名は負古郎女(ふこのいらつめ)を娶せたまひて、
生児は山代大兄王(やましろのおほえのみこ)
【此の王(みこ)は賢(さと)く尊(たふと)き志(こころざし)有りて、身命(いのち)を棄(う)ちて人民(おほみたから)を愛(うつくしび)す。後(のち)の人父聖王与(と)相濫非也】
次に財王(たからのみこ)、
次に日置王(ひおきのみこ)、
次に片岡女王(かたをかのみこ)、
【已上四人(よはしら)】。
又、聖王、尾治王(をはりのみこ)の女子(むすめ)位奈部(ゐなべ)の橘王(たちばなのみこ)を娶せたまひて、
生児は白髪部王(しらかべのみこ)、
次に手嶋女王(てじまのみこ)。
合はせて聖王の児(みこ)十四(とはしらあまりよはしら)の王子(みこ)也(なり)。
山代大兄王娶庶妹舂米
生兒難波麻呂古王
次麻呂古王
次弓削王
佐々サゝ女王
次三嶋女王
甲可カムカ
治王
山代大兄王(やましろのおほえのみこ)、庶妹(ままいも)舂米王(つきしねのみこ)娶(めあは)せて
児(みこ)、難波麻呂古王(なにはのまろこのみこ)、
次に麻呂古王(まろこのみこ)、
次に弓削王(ゆげのみこ)、
次に佐々女王(ささのみこ)、
次に三嶋女王(みしまのみこ)、
次に甲可王(かふかのみこ)、
次に尾治王(をはりのみこ)を生みたまひき。
聖王庶兄多王其父池辺天皇崩後
娶聖王母穴太部間人王
生兒佐冨サトミ女王也
聖王(しやうわう)の庶兄(ままえ)多米王(ためのみこ)は其の父池辺天皇(いけべのすめらみこと)崩(ほうじし、かむあがりしたまひし)後(のち)に、
聖王の母(いろは)穴太部間人王(あなほべのはしひとのみこ)を娶せて、
児佐冨女王(さとみのみこ)を生みたまひき。
斯貴嶋宮治天下阿久爾於志波留支 ハ天皇【聖王祖父也】
檜前ヒノクマ天皇女子伊斯比女命ヒメノミコ
生兒他田オサタ治天下天皇怒那久良布刀フト多麻斯支シキ天皇ナリ【聖王伯叔也】
又娶蘇我稲タリ大臣女子支多斯比賣ヒメミコ
生兒伊波礼イハレ池邊宮治天下橘豊日天皇【聖王父也】
妹少治田宮治天下止余美氣加志支夜比賣トヨミケカシキ ヒメ天皇【聖王姨母也】
又娶支多斯比賣ヒメ同母弟乎阿尼ヲアニ
生兒倉橋宮治天下長谷部天皇ナリ【聖王伯姉也】
姉穴太部間人王【聖王母也】
右五天皇無雑他人治天下也【但倉梯弟四小治田弟五也】
斯貴嶋宮(しきしまのみや)に天下(あめのした)を治(しろしめしたま)ひし阿米久爾於志波留支広庭天皇(あめくにおしはるきひろにはのすめらみこと)〔欽明〕【聖王(しやうわう)の祖父(おほぢ)也(なり)】、
檜前天皇(ひのくまのすめらみこと)の女子(みむすめ)伊斯比女命(いしひめのみこと)を娶せたまひて、
生児(あれまししみこ)は他田宮(おさたのみや)に天下を治(しろしめたま)ひし天皇(すめらみこと)怒那久良布刀多麻斯支天皇(ぬなくらくふとたましきのすめらみこと)〔敏達〕【聖王の伯叔(をぢ)也(なり)】、
又、蘇我稲目足尼(そがのいなめのすくね)の大臣(おほまへつきみ)の女子(むすめ)支多斯比売命(きたしひめのみこと)を娶せて、
生児は伊波礼(いはれ)の池の辺(へ)の宮に天下を治(をさめたま)ひし橘豊日天皇(とよひのすめらみこと)〔用明〕【聖王の父也(なり)】、
妹、少治田宮(をはりたのみや)に天下を治(しろしめたま)ふ止余美氣加志支夜比売天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)〔推古〕【聖王の姨母(をば)也】
又、支多斯比売(きたしひめ)の同母弟(いろど)乎阿尼命(をあねのみこと)を娶せて、
生児は倉橋宮(くらはしのみや)に天下を治(しろしめたま)ひし長谷部天皇(はつせべのすめらみこと)〔崇峻〕【聖王の伯姉〔父〕(をぢ)也(なり)】、
姉(あね)穴太部間人王(あなほべのはしひとのみこ)【聖王の母也(なり)】。
右の五(いつはしら)の天皇(すめらみこと)は他人(あたしひと)を雑(まじ)ふること無く天下(あめのした)を治(しろしめたま)ひき【但し倉梯は弟(おと)四(よはしら)、少治田(をはりた)は弟五(いつはしら)也(なり)】。
 用明天皇の皇子の部分は、記紀と全く一致している。欽明天皇以下五代の天皇から上宮聖徳法王までの血縁関係も記紀と一致する。
 上宮聖徳法王の妃と子の部分は記記には載らない。
《写本の時期と成立年代》
 訓の付けられた時期は平安半ばかと思われる。 例えば、蘇我稲目足尼(すくね)タリニと訓んでいるところに、上代からの時の隔たりを感じさせるのである。
 原文そのものの成立は、記紀と重なる690年以後と思われる。〈元興寺縁起〉『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』とは対照的に、天皇の表記法が安定しているからである。 ただし「他田宮治天下天皇怒那久良布刀多麻斯支天皇」については、一つ目の「天皇」は不要である。これは、恐らく誤写であろう。
 名前の音仮名表現は書紀に比べると相当古風に感じられるが、記紀の間も音仮名は異なり、ひとつの物語の中でさえしばしば異なる。 このように当時は音仮名はその都度選択されるもので、〈定説〉の表記も同時代における多様性の範囲内であろう。 しかし、用いた材料そのものには古くから伝わるものが含まれると思われる。
《上宮聖徳法王からの系図》
 中でも注目されるのは上宮聖徳法王の子孫の系図である。これは記紀には載っていない。 その理由は記紀の書かれた頃には太子の聖人化が急速に進んでいたところにあると考えられる。 既に、信仰の対象として太子個人にスポットライトが当たっており、子孫の系図にはあまり注意が払われなかったと思われる。
 〈定説〉がこれを載せたのは、聖人化される以前の感覚が残っていたということであろう。 〈元興寺縁起〉においては後に加筆されたと見られるが、最初の姿が色濃く残っており、そこにはまだ聖徳太子の神聖化は見えず、むしろ御食炊屋姫(推古天皇)を偉大化している。 それは、650年頃の状況を反映したものであろう。それを起点として、
推古天皇崩後暫くは推古天皇が偉大化され、豊聡耳皇子の役割は従である⇒〈元興寺縁起〉。
厩戸豊聡耳皇子の摂政として立場が強調され、子孫の系図も天皇に準ずる形になる⇒『上宮聖徳法王定説』の系図部分。
単なる摂政を超越した聖人となり、系図はむしろ気にとめられなくなる⇒書紀
 という経過が考えられる。
《上宮聖徳法王》
 和訓は、ひじりいきほひである。 =仏法で、法王が仏教界の王を意味するのは明らかである。 つまりは「聖徳」は法王への美称である。
 「廐戸豊聡耳太子」は朝廷でまつりごとる立場、「聖徳法王」は仏教界で法を説く立場による名前である。 同一人物だが、その人物を語る間口の広さが名前の多様さに現れている。

まとめ
 〈推古即位前紀〉によって計算すると、穴穂部皇子がおかそうとしたのは豊御食炊屋姫が三十三歳のときになる。 推古天皇は姿色端麗と描かれるから、話として不自然ではない。ただ、実際にこのようなことがあったかどうかは別である。
 具体的な記述はないが、御食炊屋姫という名前からは天皇の御食を整える炊屋に容姿端麗な十八歳の女性がいて、敏達天皇に見初められたという出逢いが想像される。 もっとも「欽明帝の皇女」であったとすれば、采女ではなく炊屋を仕切る立場であろう。
 推古の母の堅塩媛は蘇我稲目の娘で、〈推古二十年〉の改葬された際に「皇太夫人」の称号を得ている(欽明三十二年【丸山古墳】)。 蘇我稲目の娘の堅塩媛は用明・推古の両天皇を、小姉姫は崇峻天皇・穴穂部間人皇女を産み、蘇我氏は閨閥としての影響力を発揮している。
 稲目は欽明三十一年に薨じ、蘇我馬子の代になった。その馬子は穴穂部皇子を殺し、 穴穂部間人皇女は一時丹後国に避難したとも言われ、最後は崇峻帝を殺す。 どうも小姉姫の系統との折り合いは悪かったようである。 親族としての関係が深いほど、一度関係がこじれると対立は抜き差しならなくなるのが世の法則である。
 厩戸豊聡耳皇子は父が用明、母が穴穂部間人皇女だから馬子との関係は何とも言えないが、 推古帝・厩戸豊聡耳皇子と蘇我馬子宿祢大臣との間には、一定の緊張関係があったと見た方がよいように思われる。



2021.03.17(wed) [250] 下つ巻(推古天皇2) 
【戊子年三月十五日癸丑日崩】
御陵在大野崗上後遷科長大陵也

【戊子年(つちのえねのとし)三月(やよひ)十五日(とかあまりいつか)癸丑日(みづのとうしのひ)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。】
御陵(みささき)は大野岡上(おほののをかのへ)に在り。後(のちに)科長大陵(しながのおほきみささき)に遷(うつ)しまつりき[也]。


【戊子年〔628〕三月十五日癸丑の日に崩ず。】
 御陵(みささぎ)は大野の岡の上にあり、後に科長大陵(しながのおおみささぎ)に遷(うつ)されました。


【戊子年三月十五日癸丑日】
 推古三十六年は、戊子年である。 それゆえ、「戊子年三月」と「癸丑日」は書紀と一致している。
 ところが、十五日は癸丑ではない。 戊子年三月は「丁未朔」なので七日が癸丑で、十五日は辛酉である。
 したがって、 もともとは、書紀とは異なる資料によって「十五日」と書かれていたが、 後になってから、別の人の手によって書紀に合わせて「癸丑日」が書き加えられたと見られる。 数字表記と干支の照合という初歩的な作業を怠ったか、気付いていたなら分注を加えるべきであろう。どちらにしても、書き加えた人は学問的に未熟である。

【陵】
《大野岡》
 「大野丘北」の塔が〈敏達紀十四年二月〉に出てくる。この塔は曽我馬子が建てたもので、物部守屋が倒した。
 和田町に「大野塚」と呼ばれる遺跡がある。 和田廃寺の塔の基壇の西半分にあたることが明らかになっている。
 これが「大野塚」と呼ばれるようになったのは、書紀よりも後のことではないだろうか。 〈敏達紀十四年〉の項で、書紀を知る人が塔跡を見て「これが『大野丘北』塔の跡である」と思ったためであろうと推定した。 しかし、和田廃寺が存在したのは7世紀後半~8世紀後半であることが明らかになっており、敏達十四年〔585〕には和田廃寺は存在しなかった。
 よって、大野丘北塔の本当の位置は不明で、「大野」がどの辺りかも決められない。 ただ、馬子の時代に建立された豊浦寺(向原寺)・馬子の宅東方経営した仏殿(石川廃寺または向原寺か)・石川精舎(本明寺)の配置を見ると、 雷丘西から石川池北西にかけての一帯が馬子の勢力圏であったと見ることができる。
 だから、和田廃寺が建つ前から、そのあたりが「大野」であった可能性はある。 ただ、「古墳マップ」などのサイトによれば、この地域にはそもそも古墳そのものがほとんど存在しない。
《大野岡上陵》
 一方、近年になって改葬前の推古帝と竹田皇子の合葬陵ではないかと言われるようになったのが、植山古墳である。 その理由は二本ある羨道のうち、一本が後から追加したように見えること、また遺された石室・石棺の様子に整然とした移動が伺われるからという。 詳細は別項で述べる。
 その位置は丸山古墳の東方数百メートルである。地形は「岡上」と言い得るだろう。 和田廃寺は未だ建つ前だったとしても、大野丘北塔はやはり馬子の勢力圏であるその辺りの地域とするのが妥当か。
 「大野」は、〈倭名類聚抄〉に{美濃国・大野【於保乃】郡}をはじめとして14個あるように、 各地に自然発生し得る地名である。 とすれば、和田地域と植山古墳の双方に別々の「大野」があったかも知れないし、 両者を包む広い地域が「大野」かも知れない。
《科長大陵》
〈延喜式-諸陵寮〉における"磯長"の陵墓
 1 河内磯長中尾陵(敏達天皇)。第243回
 2 河内磯長原陵(用明天皇)。第246回
 3 磯長山田陵(推古天皇)。
 4 大坂磯長陵(孝徳天皇)。
 5 磯長原墓(石姫皇女/敏達天皇陵内)。
 6 磯長墓(用明天皇の皇太子;聖徳)。
 〈延喜式-諸陵寮〉には、 {磯長山田陵/小治田宮御宇推古天皇。【在河内国石川郡。兆域東西二町。南北二町。陵戸一烟。守戸四烟。】}とある。
 科長、磯長ともに訓みはシナガであろう。ただし、古くはシナナガであった可能性はある。 〈延喜式-諸陵寮〉で「磯長」を称する陵墓は六基あり、 左の表のとおりである。これらはすべて、現在の大阪府南河内郡太子町の「磯長谷古墳群」の古墳である。
 書紀には、推古天皇の改葬は載らない。 「改葬」の語句があるのは、書紀全体で〈推古天皇紀〉の二か所のみである〔敏達天皇と堅塩媛〕
 現在は「山田高塚古墳」が、宮内庁によって磯長山田陵に治定されている。別項で詳述する。
《竹田皇子》
 書紀によれば、推古天皇は竹田皇子(記は竹田王、別名小貝王)の墓に合葬された。 竹田皇子は敏達天皇を父、推古天皇を母としてその第二子。男子は計二人おり、弟は尾張皇子である (第241回)。
 竹田皇子は物部守屋大連を征討する軍に加わった五人の皇子の一人である (用明二年四月崇峻即位前)。 他は
・敏達天皇の皇子:難波皇子春日皇子
・欽明天皇の皇子:泊瀬部皇子〔崇峻天皇〕
・用明天皇の皇子:厩戸皇子〔聖徳太子〕
 である。
 これらのうち、太子彦人皇子竹田皇子については、中臣勝海連が像を作って「〔=呪う〕というから、 用明天皇二年の時点では、この二人が皇位継承レースのトップを走っていたのは間違いないであろう。 〈推古天皇紀〉においては皇太子に厩戸皇子〔聖徳〕を立て、竹田皇子への言及はない。 竹田皇子はその前に夭折したか、あるいは厩戸皇子の能力が卓越していたために皇太子が差し替えられたことも考えられる。
 仮に竹田皇子を皇太子からは降ろしたとしても母として愛情は変わらず、遺詔により合葬を指示するに至ったと思われる。 また、この時期、石姫―敏達天皇、穴穂部間人皇后―聖徳太子のように、母子合葬が通例になっていたことも背景であろう。 磯長谷古墳群に見える双方墳という墳形も、その故かと思われる。

【山田高塚古墳】
 宮内庁が「磯長山田陵」に治定する古墳は、考古学名を山田高塚古墳といい、磯長谷古墳群に属し、方墳である 〔大阪府南河内郡太子町大字山田3320〕
 『王陵の谷・磯長谷古墳群』〔太子町教育員会;1984〕は次のように述べる〔抜粋〕
山田高塚古墳―推古天皇磯長山田陵
  • 陵は東西50m、南北30m、高さ11mあり、更に墳丘南部尾前庭部状の地を含めると東西73m、南北72mに達します。
  • 埴輪はな」く、「空ぼりを除く平面プランは」、「用明陵とまったく同一に築かれています。
  • 末永雅雄博士は、本墳3段目が長方形を呈するのは墳丘に2石室をならべて築造しているためと説かれています」。
  • 地元には古くから」山田高塚古墳の200m東方にある「二子塚古墳こそ真の推古陵だとする伝えもあります」。
     文中の「二子塚古墳」は、双方墳〔二基の方墳が接続した形〕である 第243回
     同書によれば、「規模は全長61m、幅23m、高さは東墳丘4.6m、西墳丘6.0m」、 石棺はともに「家形石棺の系統に属して」いるが、 「本来の家形古墳がもっている縄掛突起を全くもっていない退化した形式で」で、 「7世紀中頃」という。規模は山田高塚古墳に匹敵し、双方墳という形式から推古帝陵・竹田皇子墓がイメージされたと思われる。
     また、山田高塚古墳について『天皇陵古墳』〔大匠社1996;森浩一〕から抜粋する。
    推古天皇磯長山田陵之図 竹田皇子墓
    陵墓地形図集成 学生社;1999
    (荒蕪)(成功)
    文久山陵図-磯長山田陵
    ●「江戸時代の山陵考定では「推古陵」とすることで一定している。
    ●「谷森善臣『諸陵説』(1863)では近江の田中貞昭の記として「…〔こう〕〔広〕さ方一丈五六尺〔2.7~2.88m〕〔ばかり〕上下四方盤石ヲ以テ〔たた〕メリ。中に石棺二ツ〔なら〕ベリ。其棺磨石ニテ至テ精工ナリ。右ハ推古帝、左は竹田皇子なり」」。
    ●「近在の二子塚古墳の墳丘西側の石室の玄室は長さが4.40mで、同規模の石室をもつ例として参考となろう。
    ●「1990年には宮内庁の墳丘調査」が行われ、「現況の墳丘は従来の指摘どおり三段構成」であった。
    ●「墳丘第三段南面には、東西に3.5m離れて並行する花崗岩の石材が検出」、 「西側の石は幅3.1m以上、高さ50cm以上」、東側の石は「幅2.9m以上、高さ50cm以上」、 〔これが二本の羨道と見られるから〕一墳丘二石室をもつ長方形の方墳になる可能性は高くなった」。
    ●文久山陵図の「成功図」では「段築の明確化ないしは新造、墳形の方形化が顕著である」。
    ●「墳丘規模、墳丘側辺が方位にそろう点、…全長15m程度の大型横穴式石室が想定される点などを考慮すると、 7世紀第二四半期前半〔626~638〕に築造時期をおけるものと考えたい。
     二子塚古墳・葉室古墳第243回は、二基の方墳が接続するイメージ石室が二つあるイメージだが、 山田高塚古墳は、一つの墳丘に二本の羨道が比較的近い距離で並行し、植山古墳のイメージに近い。
     ただ、谷森善臣が二棺が並んでいたと述べることと、現在二つの石室が考えられこととは、どう折り合いをつけたらよいのだろう。 山田高塚古墳の内部の詳細な調査が望まれる。

    【植山古墳】
     植山古墳は、東西2つの石室からなり、東石室には家形石棺が遺されている。 この石棺は、ピンク凝灰岩で作られ、阿蘇の西地域が磐井の乱以後も石棺材の供給地として存続していることを示している (第233回【阿蘇溶結凝灰岩】)。
     植山古墳は、2002年に国の「史跡」に指定されている。 文化庁の「国指定文化財等」のページには、 「石室の特徴、墳丘と石室との切り合い関係から、これらの石室には築造に時期差があり、 東石室は6世紀末に築造され,その後西石室が7世紀初頭に追加されたと考えられる」とある。
    《橿原市調査報告》
     橿原市教育委員会が2001~2012年に行った四次にわたる調査の結果が、 『橿原市文化財調査報告 第9冊 史跡植山古墳』〔奈良県橿原市教育委員会;2014。以下〈植山古墳報告〉〕 にまとめられている全国遺跡報告総覧からダウンロード可能〕
     その結果、「検出した墳丘の規模は東西(長辺)約40m、南北(短辺)約30mである」という。
     第Ⅳ章総括-第4節「植山古墳の評価」(p.141以下)には、次のように書かれている。
    ――「当初から墳丘が横長に造られており(東石室は墳丘の東に偏した位置に築かれる)、後に西石室を造り足す空間がすでに確保されていた点である。 植山古墳の築造当初から、二つの石室を東西に並べることが計画されていたことが窺える」、 そして「7世紀前半には西石室が造り足される」という。 このように、東石室が横長に作られた墳丘の真ん中ではなく東に偏っているから、 西側に石室を追加することが最初からプランに入っていたと見ている。
    植山古墳;『史跡植山古墳』〔奈良県橿原市教育委員会2014〕
    植山古墳航空写真(p.143) 墳丘平面図(p.17)に加筆
    西石室 閾石(p.181) 八咫烏神社 踏み石(p.168) 東石室 家型石棺(p.168)
     その「植山古墳の評価」の内容から、次の四点について抜粋する。
    :西石室の向きが墳丘の向きに対して斜めであることと、「石材の積み方が東石室と比較してやや乱雑である」ことについては、 「急いで構築しなくてはならない何らかの理由に起因する」かも知れないが、「判断は難しい」という。
    : 西石室には「玄門部に石製扉が存在していたと考えられる点」は「他の横穴式石室には見られない構造」という。
     玄室入口にはしきみ石があり、扉の両サイドの壁石をはめ込んだ溝と、 扉の回転軸をはめ込んだ円形の窪みが見える。
     植山古墳から300m以内の3つの神社に、その壁と扉の石材が残るという(p.137)。 「素盞嗚命神社」が「社殿前の踏み石として」、「西側の方立〔扉の両側の壁〕を転用」し、 「八咫烏神社」の社殿前の階段下の石は扉で、「南側木口面の端には突起物を削り取った痕跡」があるという。 その「突起」とは、扉の回転軸の両端である。
    :「両石室ともに改葬が行われている可能性が指摘できる」と述べている。 東石室は「石棺内からは埋葬行為に伴うと考えられる遺物は出土していない」が、 「排水溝内からは丁寧に入れ込まれたような形で歩揺付飾金具や三輪玉を始めとする遺物が出土している」ことから、 「石室・石棺内の片付けが行われたことが窺える〔=埋葬遺物が乱雑に散らばっているわけではなく、遺物は排水溝に詰め込まれていて、整然と片づけた跡が見える〕。  「ことによると、石棺の蓋が大きく動かされている点も、改葬行為に起因すると捉えられる要素である〔=改葬のために遺体を取り出すために蓋をずらし、そのままになっているのではないか〕と述べる。
    : 「少なくとも西石室構築よりも後に、両石室の入口は石室閉塞土によって塞がれ、」 「墳丘前面の非常に広い範囲に土を盛ることで、外観から石室入口の正確な位置を判断できなくなっている。」 そこには「石室には二度と立ち入ることは無いという意思が感じられる」という。
     つまり、報告者は:突然合葬が決まり、急いで作業した結果羨道がカーブして石積みが雑になり、 :西石室の扉は近い将来に改葬することを予定していたことを意味し、 :その跡はきれいに片づけられているから盗掘ではなく、意図的な改葬であり、 :ここはもう陵として使わないことにしたとする。
     このように〈植山古墳調査〉の解釈には、「植山古墳=推古天皇の改葬前の陵」説に寄せたい気持ちが滲む。
     もう少しニュートラルに考察すべきではないかとと思うが、 それでも西玄室のみが棺ごと取り出された点には注意を払うべきであろう。
    《改葬》
    東石室家型石棺と羨道・玄室との大きさとの比較 同上() 朱書は本サイトによる。
     まず、東石室に石棺が遺されている理由を考える。〈植山古墳報告〉の石棺の図(p.58)と東の玄室と羨道の図(p.52)の縮尺を合わせてみると、 石棺は羨道を通れないことがわかる。つまり、石棺の運び入れは羨道を整える前に終了していて、 その時点では改葬されることは全く予想されなかったと思われる。
     ところが、副葬者とワンセットで改葬されることになり、棺は羨道を通れないのだから棺の蓋を開けて遺体を取り出すしかない。
     次に、西の玄室口に石扉を設けた意図について。
     石室に扉を設置するのは、通常は後に二つ目の棺を合葬するためである。 ところが、西の棺の大きさを東石室の石棺と同サイズだと仮定して、西玄室に納めてみると〔図に赤色表示〕ここに第二の更に棺を運び入れるスペースはない。 従って、扉の設置は棺を運び出すときのためとなる。
     ところが、西石室の図(p.68)を見るとその石扉を開いても棺は通らない。閾石の扉の左右の溝に、石板をはめ込まれて両側が壁になっているからである。 だから、棺を運び出すときには、扉と左右の壁石ともども取り除いたはずである。その扉と壁が再び戻されることはなく、陵の外に置かれた。 なぜなら、改葬後は上記で述べられたように土が盛られて、陵であったことも、羨道の入口もわからなくされたからである。 それらが周辺の神社で再利用されたのは、目に触れる場所に放置されていたからである。
     石棺を通せないのに石扉を設置した〔当然石棺を運び入れた後である〕のは、ひとえに儀礼のためであろう。 被葬者は高貴な人であるから玄室への入場には、盗掘と見紛うような入り方は許されない。 石棺を通し得るかどうかは無関係で、礼儀正しく入室するための設備を整えなければならないのである。
     一方、羨道の広さを見ると、石棺を容易に運び出すことができる(右図)。断面図の左下に一部石が見えるが、羨道の側壁から崩れ落ちたものであろう。
     ということは、最初に東石室に埋葬する時点で、改葬は既に予定されていたのである。 ところが第一の埋葬者を東石室に納めた時には、将来このようなことがあるとは思いもよらなかった。 だから、東石室からは遺体を取り出して運ぶしかなかったのである。
     それでも、結果的にワンセットで改葬されたのは、両者が極めて親密な関係にあったことを示す。 その関係は、磯長谷のいくつかの合葬墳が母子の関係にあることから見て、母子である可能性は高い。
    《遺詔の解釈》
     西石室の被葬者が推古天皇だったとすれば、その遺詔の意味を改めて考察する必要がある。 遺詔は、「比年五穀不登百姓大飢。其為朕興陵以勿厚葬。便宜于竹田皇子之陵〔人民が不作で飢餓している時期だから朕のための築陵・厚葬を控え、竹田皇子陵に合葬せよ〕という。 しかし、「五穀不登百姓大飢」の前に「比年このごろ」があるから、 「この状況を脱した後には必ず築陵せよ」という、政治家の言葉のような読み方も可能である。 既に埋葬の時点に改葬が予定されていたとすれば、少なくとも大臣オホマヘツキミたちはそのように解釈したのである。
     このように考えれば、植山古墳の東石室に竹田皇子が安置されているところに、推古天皇のために西石室を一時的に設けて納め、後に両者そろって改葬されたという筋書きは、確かに成り立つ。
     ただ、竹田皇子を葬るときから西側を空け、既に被葬者を予定していた。予定されたのが推古天皇だったとすれば、わざわざ改葬する必要はない。 しかし、「遺詔」によれば竹田皇子墓への合葬程度は「厚葬」ではないわけだから、竹田皇子墓は規模またにおいて大王陵としての条件を欠いていたと考えられる。 しかし、墳丘の規模は、山田高塚古墳=50m×30m、植山古墳=40×30mで、それほどの差はない。 すると、天皇と皇族の陵墓は磯長谷に置くべしという、曽我馬子のプランがあったことも考えられる。
     なお、当初西石室の埋葬者として予定されていたのは、竹田皇子の妃あたりなのかも知れない。

    【書紀―三十六年】
    27目次 《天皇臥病而崩之》
    臥病…〈図書良本〔以下図〕・内閣文庫〔以下閣〕〉臥病ノミヤマヒシタマフ
    卅六年春二月戊寅朔甲辰、
    天皇臥病。
    三十六年(みそとせあまりむとし)春二月(きさらき)戊寅(つちのえとら)を朔(つきたち)として甲辰(きのえたつ)〔二十七日〕
    天皇(すめらみこと)病(みやまひ)に臥(ふ)したまふ。

    蝕尽…〈図〉ハエ 尽之ツキタル。 〈閣〉日有蝕-盡之ハヘ ツキタルコトはゆ…[自]ヤ下ニ 日蝕・月蝕がおこる。
    三月丁未朔戊申。
    日有蝕盡之。
    三月(やよひ)丁未(ひのとみ)を朔(つきたち)として戊申(つちのえさる)〔二日〕
    日(ひ)蝕(は)え有り[之]尽きてあり。

    痛甚…〈閣〉コト痛交本〔やむことはなはだしかりて〕〔交本:「本にまじる」か〕
    …[動] 口に出さないようにする。(古訓) いむ。ないふ。かくる。
    天位…〈図〉天位タカミクラヰ。 〈閣〉天位タカミクラヒニ
    経綸…〈汉典〉①整理過的蚕糸。②比-喩籌画〔=計画〕治理国家大事
    鴻基…〈汉典〉宏大建築物的基礎。偉大的基業。多指王業
    …[名] (古訓) もとゐ。
    万機…〈図〉マツリコト。 〈閣〉經-綸ヲサメ 鴻基アマツヒツキシリマツリコトヲ
    亭育黎元…〈図〉亭-育ヤシナフ黎元 オ〔ホムタカラ〕。 〈閣〉亭育ヤシナフコト黎元〔ホムタカラ〕
    輙言…〈図〉タヤスク
    不可軽言…〈図〉輕カロ\/シク輙交本■之言。
    …[動] (古訓) たふとぶ。
    肝稚…〈図・閣〉キモ稚之 ワカシ.
    勿諠言…〈図〉勿-諠言トヨキソ.。 〈閣〉若雖心ヲモフト勿-諠言ナトヨキソ ナトヨキイウソ 〔もしおもふとも、なとよき[いう]そ〕
    とよく…[自]カ四 =トヨム。
    …[動] やかましくさわぐ。
    待群…〈閣〉マチキミタチノ
    壬子。
    天皇、痛甚之不可諱、
    則召田村皇子謂之曰
    「昇天位而經綸鴻基
    馭萬機以亭育黎元、
    本非輙言、恆之所重。
    故、汝愼以察之、不可輕言。」
    卽日召山背大兄教之曰
    「汝肝稚之。
    若雖心望、而勿諠言。
    必待群言以宣從。」
    壬子(みづのえね)〔六日〕
    天皇(すめらみこと)、痛(いたきこと)之(これ)甚(はなはだ)しくありて不可諱(えかくしたまはず)。
    則(すなはち)田村皇子(たむらのみこ)を召して之(こ)に謂(のたま)ひて曰(のたま)はく
    「天位(あまつたかみくら)に昇りて[而]鴻基(おほきもとゐ)を経綸(はか)り、
    万機(よろづのまつりごと)を馭(しらし)め、以ちて黎元(おほみたから)を亭育(やしな)ふは、
    本(もとより)輙(たやすく)言(いふこと)に非(あら)ざりて、恒(つね)に之(これ)所重(おもきとなさゆ)。
    故(かれ)、汝(いまし)慎(つつし)み以ちて[之(こ)を]察(み)て、軽(かるかるしく)言ふ不可(べからず)。」とのたまふ。
    即(おなじき)日。山背大兄(やましろのおほえ)を召して之(こ)を教(をし)へ曰(のたま)ひしく
    「汝(いまし)が肝(きも)[之]稚(をさ)なし。
    若(もし)や心に望(のぞみ)あれ雖(ど)、而(しかれども)勿(な)諠言(とよみ)そ。
    必ず群(まへつきみたち)の言(こと)を待(ま)ち、以(も)ちて従(よ)る宣(べ)し。」とをしへき。

    …〈図〉モカリス於南オホニハ.
    癸丑。
    天皇崩之。
    時年七十五。
    卽殯於南庭。
    癸丑〔七日〕
    天皇[之]崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
    時に年(よはひ)七十五(ななそとせあまりいつとせ)。
    即(すなは)ち[於]南の庭(には)に殯(あらき)しまつる。

    …〈図〉雹零アラレ フル.大如桃子モゝノ.。 (万)4370 阿良例布理 可志麻能可美乎 伊能利都〃 あられふり かしまのかみを いのりつつ
    …[名] 植物の実、種。動物の卵。
    …[名] (古訓) すもも。
    …〈図〉自春至夏之.〔自春至ヒデリス〕
    夏四月壬午朔辛卯。
    雹零、大如桃子。
    壬辰。
    雹零、大如李子。
    自春至夏、旱之。
    夏四月(うづき)壬午(みづのえうま)を朔(つきたち)として辛卯(かのとう)〔十日〕
    雹(あられ)零(ふ)り大(おほ)きなること桃子(もも)の如し。
    壬辰(かのえたつ)〔十一日〕
    雹零り大きなること李子(すもも)の如し。
    春自(よ)り夏に至り[之]て旱(ひで)りてあり。

    喪礼…〈図〉コト.。 〈閣〉喪礼モノコト
    …〈図〉シノヒコトマウス
    遺詔…〈図〉遺-ノチノ
    不登…〈図〉五穀不ミノラ
    いつつのたなつもの…[名] 五穀。
    為朕…あがため。「(万)0892 安我多米波 あがためは」。
    秋九月己巳朔戊子。
    始起天皇喪禮。
    是時、群臣各誄於殯宮。
    先是、天皇遺詔於群臣曰
    「比年五穀不登、百姓大飢。
    其爲朕興陵以勿厚葬、
    便宜葬于竹田皇子之陵。」
    壬辰。
    葬竹田皇子之陵。
    秋九月(ながつき)己巳(つちのとみ)を朔(つきたち)として戊子(つちのえね)〔二十日〕
    始めて天皇の喪礼(ものゐや)を起こす。
    是の時、群臣(まへつきみたち)各(おのもおのも)[於]殯宮(あらきのみや)に誄(しのひこと)まをす。
    先是(このさき)、天皇(すめらみこと)[於]群臣(まへつきみたち)に遺詔(のちのみことのり)曰(のたま)ひしく
    「比年(このころ)五穀(いつつのたなつもの)不登(みのらざ)りて、百姓(おほみたから)大(はなはだし)く飢(う)う。
    其(それ)朕(あが)為(ため)に陵(みささき)を興(おこ)して以ちて勿厚葬(あつくなはぶりそ)。
    便(すなはち)宜(よろしく)[于]竹田皇子(たけたのみこ)之(の)陵(みささき)に葬(はぶ)るべし。」とのたまひき。
    壬辰(みづのえたつ)〔二十四日〕
    竹田皇子(たけたのみこ)之(の)陵(みささき)に葬(はぶ)りまつる。

    《之》
     「」には、直前の文字が動詞であることを示すために形式的目的語として添える用法がある。 この段では、この使い方が多用されている。
    NASA Eclipse Web Site
    《日蝕》
     「卅六年三月丁未朔戊申〔二日〕は、グレゴリオ暦では628年4月13日。 ユリウス暦で628年4月10日にあたる(資料[46])。 この日が、日本における最古の日蝕の記録と言われている。
     「NASA Eclipse Web Site」 によって、過去と未来の日食のデータを得ることができる。
     それによると、628年4月10日の皆既日食帯は伊豆諸島を通り、飛鳥のいかずち南遺跡の位置(北緯34.484°東経135.8155°)では部分日食(89.8%)となっている(右図)。 最大時刻は00:14:29.6UTC〔日本標準時は+9:00=午前9時14分29.6秒〕である。
     「有蝕尽之」なる表現が、が89.8%あるいはそれ以下のやや皆既に達しない状態を「」と表現したものか、実際には皆既であったのに計算の誤差によって位置がずれたものかという疑問が生じる。
     一般に、力学的モデルを用いた計算値と実際に観測された日食のずれが生ずる原因としては、自転速度や地軸の微細な変化が考えられる。 これについては、別項で論ずる。
    《田村皇子》
     〈推古天皇紀〉においては、ここが田村皇子の初出である。 遡ると、記には「田村王」、書紀には「田村皇女」が出てきて紛らわしいが、 結論を言えば、「田村皇子の母=田村王(田村皇女)」という関係である。なお、田村皇子は即位して舒明天皇になる。
     書紀には、
    ●〈敏達紀四年〉に「次采女伊勢大鹿首小熊女曰菟名子夫人、生…糠手姫皇女【更名、田村皇女】」。
    ●〈欽明天皇紀〉に「息長足日広額天皇、渟中倉太珠敷天皇孫、彦人大兄皇子之子也。母曰糠手姫皇女
     とある。
     また記には、
    ●〈敏達天皇段〉「日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比賣命御子坐岡本宮治天下之天皇
     とある。
     田村皇子への遺詔は、〈舒明即位前紀〉に再録される。 再録というよりはむしろ、舒明紀の記述が先にあり、それを遡って推古紀にも加えたのであろう。だから、推古紀では田村皇子の名が説明なしに突然出てくるのである。
     推古帝が話した内容は、田村皇子が次の天皇になろうと思うなら軽々しく喋らず、慎重に構えよと助言したものである。
    《天位》
     天位を字のままに訓めば「あまつくらゐ」だが、古訓はタカミクラヰとする。
     高御座については、万葉に、
    (万)4098 多可美久良 安麻乃日嗣等 天下 志良之賣師家類 須賣呂伎乃 可未能美許等能 可之古久母 波自米多麻比弖  たかみくら あまのひつぎと あめのした しらしめしける すめろきの かみのみことの かしこくも はじめたまひて
    がある。
     これは大伴家持が芳野離宮への行幸にお供したときに詠んだ歌で、この部分はすべて芳野離宮にかかる。
     「高御座」、「天の日嗣」、「天下あめのした所知食しらしめす」「皇神祖之すめろきの」と、天皇位への呼称が網羅されている。 この歌では「しらしめける」は過去形だから、吉野宮を創建した「神の尊=皇祖」にかかる。
     〈延喜式-中臣氏祝詞〉(大殿祭)には、たかみくらひつぎが見える。
    ●「天津高御座〔あまつたかみくら〕
    ●「食国天下登。天津日嗣所知食須皇御孫命乃御殿乎。
     〔おすくにのあめのしたと、あまつひつぎのしろしめすすめみまのみことのみあらかを〕
     祝詞では「」の字はもっぱら「官位」に使われ、「天位」という言い方はしない。一方、「あまつひつぎ」「あまつたかみくら」が慣用の形と見られる。 つまり、万葉や祝詞からは、「あまつくらゐ」という言い方は見いだせない。
     古訓「たかみくらゐ」は、「位」に寄せている。ただ「たかみくら」には既に「くらゐ」の意味が含まれているから、祝詞のように「たかみくら」が普通であろう。 古訓が「あまつ」の部分を省いたのは、これを「鴻基」に回して「あまつひつぎ」と訓んだためと思われる。
     「鴻基」の訳語は本来の「〔国の〕偉大な礎」の意味に戻し、「天位」は「あまつたかみくら」と訓んだほうがよいように思える。
    《山城大兄》
     山城大兄王は、一般に聖徳太子の子とされる。 ところがその記述は『上宮聖徳法王定説』によるもので、記紀にはそのようには書いていない。
     記紀には、山代皇子は二人見える。
     一人は推古天皇の同母弟で、書紀では「山背皇子〔記では「山代王」〕と表記される。
     もう一人の「山代王」は、父は忍坂日子人太子〔押坂彦人大兄皇子〕、母は桜井玄王〔桜井弓張皇女〕で、記のみに見える。 押坂彦人大兄皇子からの詳しい系図は、書紀にはない。 教えの言葉には「汝肝稚之」と若いが故の未熟さを指摘するから、世代から見て「山代大兄王」に合うのは後者であろう。 同腹の二人のうち、山代王は兄にあたるから「大兄王」とは矛盾しない。
     書紀には、山城大兄王の出自は書いてない。記によれば、山代王も押坂彦人大兄皇子の子で敏達天皇の直系の孫だから、血筋に問題はない。 むしろ、田村皇子とは異母兄弟の関係だから、ライバルとして相応しい立ち位置にある。
     だから、『上宮聖徳法王定説』がなければ、山代王が山城大兄王だと判断されるであろう。
     推古帝の教えの中身は、心に望みがあってもごちゃごちゃ言わずに群臣の意見に従えというものである。 つまり、山代王は皇位に即くことを望んでいたが、推古帝に今のお前では無理だと言われたのである。
    《喪礼》
     喪礼の古訓「モコト」は「喪のこと」、すなわち喪に関わるもろもろの儀式を意味すると思われるが、 〈時代別上代〉をはじめとして古語辞典にはモコトは出てこない。
     ただ「」自体については、「」が訓仮名に使われることから考えて、死を悼む期間または行事がモと呼ばれたのは間違いない。
     よって、上代語としては、喪礼を「ものゐや」と訓むのが安全であろう。
    《殯宮》
     〈時代別上代〉は、「古事記や万葉題詞の「大殯」「殯宮」などの「殯」がアラキと訓まれているが、 日本書紀古訓ではモガリとある」と述べる。
     万葉を調べると、次の歌がある。
     (万)0441〔題詞〕神亀六年己巳。左大臣長屋王賜死之後、倉橋部女王作歌一首
     大皇之 命恐 大荒城乃 時尓波不有跡 雲隠座 おほきみの みことかしこみ おほあらきの ときにはあらねど くもがくります
     題詞にあるように、倉橋部女王が長屋王の死を悼んで詠んだ歌である。
     「ときにはあらねど〔時には有らねど〕は、まだ死ぬときではないのにという無念の言葉であろう。 「おほあらき」はアラキ(殯宮)への美称である。
     万葉歌にはモガリはなく、アラキばかりであるから、実際に上代に使われたのは主にアラキであったと思われる。 殯にモガリをあてたのは、平安院政期の書紀古訓学者であろう。 〈時代別上代〉に「喪屋モヤ・モガリの語は主として日本書紀古訓に見えるが、後にはない」とある通りである。
    《改葬》
     推古天皇の改葬が載るとすれば、〈舒明紀〉以後であろう。 しかし、実際には書紀にその記述はない。ちなみに、書紀に「改葬」がでてくるのは、〈推古天皇紀〉の用明天皇と堅塩媛の二件である (それぞれ二年、二十二年)。
     〈継体天皇紀〉において、ピンク石製石棺の運び入れは、大王がその威光を誇る一大イベントであろうと推察した (第233回)。 それを考えれば、改葬のために横大路を通る石棺の行列はさぞ盛大であっただろうと想像される。
     それが書かれないということは、書紀の時代には推古帝の威光はすっかり忘れ去られたようだ。 聖徳太子信仰の盛り上がりに隠れて、すっかり影が薄れてしまったのかも知れない。 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の最初の形が書かれた当時は大大王として称えられていたのだが、これが時の移り変わりというものであろうか。
    《大意》
     三十六年二月二十七日、 天皇(すめらみこと)は病に臥されました。
     三月二日、 日蝕があり、尽くされました。
     六日、 天皇は痛み甚しく、言葉を諱(い)むことができませんでした〔=話すことが我慢できなくなりました〕。
     そこで田村皇子を召して仰りました。
    ――「天位に昇り、鴻基を経綸し〔=国の礎を計り〕、 万機を馭し〔=よろずの政を治め〕、黎元を亭育する〔=人民を養育する〕ことは、 元より容易く言葉にできず、常に重くなされるものです。 故に、あなたは慎んで察し、軽々しくものを言ってはなりません。」
     その日のうちに、山背大兄(やましろのおおえ)を召して教えられました。
    ――「あなたは、肝が未熟です。 もしや心に望みがあったとしても、喚(わめ)いてはなりません。 必ず群臣の言葉を待ち、従うべきです。」
     七日、 天皇は崩じました。 時に七十五歳。 そして、南庭で殯(もがり)がなされました。
     四月十日、 霰(あられ)が降り、その大きさは桃ぐらいありました。
     十一日、 霰が降り、その大きさは李(すもも)ぐらいありました。
     春から夏にかけて旱魃がありました。
     九月二十日、 天皇の喪礼が始まりました。
     この時、群臣それぞれが殯宮(ひんきゅう)に誄(るい、しのびごと)を申し上げました。
     以前に、天皇は群臣に遺詔されていました。
    ――「近年は五穀不稔で、百姓はひどく飢えている。 そこに、朕のために陵(みささぎ)を築いて厚葬してはならない。 すなわち、竹田皇子(たけたのみこ)の陵に葬るべし。」
     二十四日、 竹田皇子の陵に埋葬されました。


    【628年日食についての推定】
     推古紀の日蝕を論考したサイト 「中国・日本古代日食によるΔTの検証(推古天皇36年の日蝕は皆既か?)」 を見る(以下〈古代ΔT〉)。
     ここでは力学的モデルで想定される日食と、中国・日本の古文献による実際の観測位置の差を表現する変数ΔTを、帰納的に求めるものである。 〈古代ΔT〉によると、「ΔT:力学関係だけで計算した結果と実際に日食の影が落ちた場所の差」である。 ΔT=0は、当時の自転速度が現在と同じであった場合である。 一日の長さを略してLODという。ある時点から現在まで、毎日少しずつ変化したLODの変化量の積分がΔTであると理解される。 そして、地球の自転量は、24時間に360.99°だから、ΔT=239.34秒が、経度のずれ1度として表現される。 資料[47]で詳述〕
     〈古代ΔT〉によると、ΔT=0の場合、皆既日食帯は朝鮮半島を通る。 〈古代ΔT〉では、628年4月10日〔ユリウス暦〕においてΔT=4473秒とする。この値は、Stephenson;1997の推定曲線(後述)によるものという。
     結論的には、〈古代ΔT〉は〈推古紀〉の日食を部分日食と見ている。 この皆既日食帯の位置は、〈NASA〉の図とほぼ一致しているので、類似した手法を用いていると思われる。
    《628年の日食》
    :LODの変化率 [ミリ秒/100年] "Historical Eclipses And Earth's Rotation"(p.504)
     資料[47]においては、ΔTの意味、特にLODの変化率との関係について考察した。 それによると、〈推古紀〉の日食のΔT=4473秒の場合、LODは1.289ミリ秒/100年の割合で減少したことになる。 もしLODの変化量が一定なら、ΔTは指定した期間の年数の二乗に比例する。そのグラフは図左青線のようになる。 サイト〈古代ΔT〉が古文書をまとめて推定したデータでは、-548年の日食が、ΔT=16150~21620秒、同じく-708年が20160~21080秒、-600年が21070~21870秒となっている 〔「-A年」=紀元前(A+1)年〕。グラフ青線よりやや上方だが大体見合っている。
     〈古代ΔT〉によると、飛鳥地方が628年の日食の皆既日食帯に入るようにした値は、ΔT=2840秒である。 そのときのLODの平均変化量は0.821ミリ秒で、グラフは図左ピンクとなる。 これを見ると、前記-600年前後の3件のΔTをかなり下回る。
     「Historical Eclipses And Earth's Rotation」〔F Richard Stephenson著;Cambridge Universty Press刊1997〕推定曲線において、西暦500~-800年にほぼ一致するのは、LODの平均変化量=1.490ミリ秒のときである(図左)。 このときは、628年のΔT=5152秒となる。すると皆既日食帯の経度はさらに2.8度東にずれる。ただ、この場合でも食は85.5%ある。
     Stephensonによれば、LOD曲線は放物線〔破線〕に比べて、300年をピークに5%程度上方にずれ、1200年を谷に25%程度下方にずれる(図右)。 古文書から統計的に求めた曲線と思われるが、周期1000年程度の振動が生ずる天文学的な根拠は不明で、今のところ元データの存在の偏りによる見かけの凹凸ではないかと思われる。 ただ、まだ同書を精査中なので、もう少し明確になれば追記する。
     このようなデータのぶれを考慮しても、628年の皆既日食帯は関東地方の南東方にあり、飛鳥では80~90%程度の部分日食であったことは揺るがないと思われる。

    まとめ
     「三十六年三月丁未朔戊申」の日食の記事については、突き詰めて信憑性を探った。 その結果分かったことは、書紀における元嘉暦とユリウス暦の対応は確かであり、この日に倭国の広い地域で部分日食が観測されたことはまず間違いないということである。 これによって、書紀には荒唐無稽なフィクションが載る一方、史実の正確な記録を記した部分があることが明確になった。 一般的に、文脈に無関係に挿入された簡潔な記述は、史実だと見てよいと思われる。
     一方、推古天皇の改葬については、少なくとも植山古墳において改葬を行うことを前提として貴人の埋葬が行われ、 実際に埋葬主2名の改葬をセットで行ったことが確実になった。 これについては、記のみ「遷科長大陵」と書かれる。 こちらは逆に、史実として確実なのに書紀には書かれていない。その理由として、 聖徳太子の偉大化が推古の影を薄くしたと一応解釈したが、実は隠された理由があるのかも知れない。
     書紀については、細かい断片に砕いていちいち史実なのか、もし曲げられたものならそれは何故かを洗い出しすことによって得られるものは多いであろう。 それは、特に欽明天皇紀において感じられたことである。 なお書紀の扱われてきた歴史を振り返れば、そこには不当な政治利用が付きまとうが、書紀自体は民族の財産として学際的にすべてを汲み尽くすべきである。
     さて、今回で古事記を読み終えた。終わりに近づくに従って書紀の熟読のようになったが、古事記に書かれた中身を正確に汲み取るためには、書紀との照合は欠かせないのである。 次回は最終回として古事記を総括し、ひとまず締めくくりとしたい。



    2021.04.07(wed) [251] 古事記の精読を終えて
    【古事記の誕生】
     古事記は、どのように誕生したかを考察する。
    《序文》
     序文は純正漢文で書かれている。 その中では、天武天皇への賛辞が注目される。 本文は推古天皇までであるが、序文では事実上天武天皇段を付け加えている。
     記をまとめるにあたっての、稗田阿礼の功績は大である。これについては後に述べる。
    《帝紀旧辞》
     序文には「-録帝紀-覈旧辞」という語句がある (第18回)〔「討」は〈汉典〉:検討、併せて総合考査〕。 「帝紀及本辞」という表現もあるが、「本辞」と「旧辞」は同じ意味であろう(第17回)。 「帝紀」・「旧辞」(本辞)は特定の書物の名ではなく、記録一般をさすものであろう。 というのは、「諸家之所賷帝紀及本辞」すなわち、「諸家のそれぞれに伝えられてきた帝紀と本辞」と書かれるからである。 「帝紀」は「帝記」ではないから、口承伝説を含むかも知れないが、確かなことはわからない。一方、「辞」の原意は音声だが、それを書きとめたものも指すと思われる。
     しかし、少なくとも代々の天皇〔実際には大王オホキミの名前と家系については文字記録があったと考えられる。 稲荷山金錯銘鉄剣(資料[27])を見れば、既にワカタケル大王〔雄略天皇〕の頃には文字による記録が存在していたことは明らかである。 つまり、文字も含む資料から幅広く取捨選択して、正伝を定めよと命じたのであろう。
     一方『日本書紀』にも、〈天武紀十年〔681〕三月〉に川嶋皇子など十二人に命じて「-定帝紀及上古諸事」とある。 これは、720年になって日本書紀に結実したようだ。
     しかし、記も敢えて「帝紀旧辞」という言葉に言及したのは、我々の書こそが正当であるとの自負が見える。 すなわち、記のスタッフは書紀の書き方に同意できない気持ちがあったと思われる。
    《最初は書紀のために蒐集した資料》
     太安万侶は稗田阿礼とともに、書紀の編纂にも関わっていたのは確実である。
     書紀は大まかには、前半が口承や一部文字による伝説の集約、後半が文字記録が充実した時期以後の記録まとめである。 ここでいう「前半」は安康天皇までに顕宗・仁賢の即位前を加えた部分で、かなり記と重なっている。 本稿ではこの部分を「書紀-S〔Story〕と呼び、それ以外の文字資料が充実してきた部分を「書紀-H〔History〕と呼ぶことにする。 よって、記の出発点は「書紀-S」のための基礎資料(口承と文字)の蒐集であったと考えられる。
     資料ではあったが、口述文学のもつ豊かさと、安万侶の文筆力が相まって、それ自体が魅力ある文章となった。 しかし、その資料は書紀では細切れになり、また神代巻においては異伝と横並びの「一書」として相対化される。
     逆に、書紀に用いられなかった部分もあり、それは特に大国主神の部分に目立つ。 これについては、第55回のところで、 因幡の白兎をはじめとして、「古代に国土を支配していたころの大国主の足跡は、必要な部分(天照や天孫に関わる部分)以外は、すべて取り除かれた」と述べた通りである (第79回)。 国譲りにおいても、記は大神殿を賜ればという条件を示すが、書紀では有無を言わさず接収される。 すなわち、書紀は出雲国を特別扱いせず、律令国として他と横並びにした。 ただし、そこに大国主を厚遇した「一書」を加える配慮を見せる。ただ「一書」はあくまでも参考資料である。
    《次第に膨れる違和感》
     一方、神武段においては省略した部分を「如此かく-向-平-和やはし荒夫琉神等退-払不伏人等」 と述べる。しかし、〈神武紀〉はその中身を細かく並べ、大幅に拡大する。 記において倭建命は相模国を制圧して手引き返したが、書紀の日本武尊は陸奥まで足を延ばす。 神功皇后紀には、履中朝から三韓との外交の部分を移している。
     そして、書紀は神武天皇から編年体を開始している。
     記に馴染んだ目で読むと、神武天皇や日本武尊の編年は極めて作為的に感じられる。 神武元年の辛酉は、辛酉革命説に依ったと考えられているが、だとしても60年に一度巡ってくる辛酉年のうちなぜこの年かという問題が依然として残る。 中国の歴史書は既に春秋左伝〔戦国;BC400頃〕から編年体だから、背伸びして対抗したようにも思える。 「書紀-S」期間に添えられた年月日は、単なる形式である。 そこには何らかの神聖な意味があるかも知れないが、そもそも倭の古伝に編年を加えるのは木に竹を接ぐようなものである。 伝承は民族の宝であり、その味わいを損なうことなく遺されるべきであろう。
     記のスタッフにもこの思いがあったのではないだろうか。 蒐集した資料は必ずしも納得がいく形で使われなかったから、ここに独立した書を成さしめる動機があったと考える。
     こうして『古事記』を編むことを元明天皇に願い出て、勅許されたと推察される。 古事記は書紀〔720〕に先んじて、和銅四年〔711〕に献上された。

    【文字資料】
     前項で述べたように、書紀の雄略以後は基本的に文字記録に基づいて書かれた。 書紀が参照した文書自体は殆ど残らないが、文字記録がいつごろからどのような形で蓄積されたかは、ある程度推定することができる。
    《百済資料》
     まず、本サイトが「百済資料」と呼ぶ文書群の存在が推定される。それは、百済が滅亡して倭に亡命した王族がもたらしたと考えられる文書群である (〈欽明十五年〉十二月)。 〈欽明天皇紀〉における聖王からの上表と、そこに引用された天皇の詔が、その中に含まれたと考えられる。 ただし、その内容には朝廷を高める方向への潤色がなされている。 その理由は、亡命王族が「百済王氏」として、倭の中枢に食い込もうとしていたためと考えられる。 しかし、上表で書き直されたと思われる部分はかなり拾い出すことができ、 その結果大筋においては原型が保たれていると判断するに至った (欽明二年七月前後)。
     また、書紀には『百済本記』『百済記』『百済新撰』からの引用がある。その原書は失われたが、 これも「百済資料」の範疇に属すと思われる。本サイトは、亡命百済人の学問僧に提出させたものと考えている。
     『百済本記』は〈継体紀〉と〈欽明紀〉に引用され、 『百済記』は〈神功皇后紀〉〈応神天皇紀〉〈雄略天皇紀〉に、『百済新撰』は雄略紀に引用されている。 これらにも「聖王」上表文と同様、倭の朝廷におもねる潤色がある。 それらの潤色でもっとも目立つのが、「任那国」に実在感を与えることである(別項)。
     一方、倭国古来の文字記録としては、〈欽明紀二年〉に『帝王本紀』を引用している。 これも実体は不明であるが、「多有古字。伝写既多。前後失次。兄弟参差」などと述べることから、古くから伝わる文書記録だったと考えられる。
     同じ表現が記の序文にも、「帝紀及本辞。既違正実。多加虚偽」とある(第17回)。 これを見ると、記のいう「帝紀及本辞」も、主に文字記録のように思える。
    《付記された崩年》
     さて、記には〈崇神〉以後の多くの天皇に、崩年が付記されている (第43回の表)。 これらは『帝王本紀』を含む帝記を、出典としたと見てよいだろう。
     記に記された雄略天皇までの崩年は、「書紀-S」の編年よりも信頼性が高い。それは崩年から得られた在位年数が現実的であり、 かつ書紀の編年は過去に向かって大幅に引き延ばされ、実記録としての真実性が期待できないからである (第160回)。
     実際、宋書の「倭の五王」の年代は概ね記に合致する(182回)。 記では、最初に崩年が添えられるのは崇神天皇で、垂仁・景行を飛ばして成務以後から多くなる。
     しかし、成務以後でも顕宗・仁賢の前後は崩年を欠く。二王子発見伝説に史実性がないことと併せると、伝説のみかも知れず、興味深い。 しかし、ならばその間実際には誰が大王だったのかということになり、謎は謎を生む。実は飯豊大王―白香媛大王だったのかも知れない。
    《史の祖》
     さて、応神段では、和邇吉師〔書紀は王仁〕が「論語十巻千字文一巻」をもたらした。 加えて、秦氏や工人たちが渡来したことが書かれる。 そのうち一定人数は、職業部のフヒトとして、朝廷や諸族に取り立てられたと考えられる。
     というのは、〈釈紀〉延暦九年にも、王辰爾の祖先の辰孫王が、やはり応神朝に入朝したとの記事があるからである(敏達元年)。
     政務天皇の崩「乙卯〔355〕は応神天皇の崩「甲午〔394〕の少し前だから、 応神帝の頃に史の手によって本格的な文字記録が始まったと考えることができる。
     興味深いのは、同時期の375年、『三国史記』の「博士高興が百済に漢字を伝えた」とする記述である (第152回【和邇吉師】)。 この時期に王仁が直接中国から、または王仁が百済で高興から得た漢字をもって倭に来帰したことが考えられる。
     すると、〈釈紀〉で辰孫王が来帰した「軽嶋豊明朝御宇応神天皇」の年代は記の方に合致する。 つまり〈続紀〉の記事は、書紀が実記録の年を大きく動かしたことを実証するものと言える。
    《α群》
     書紀で、より正確な漢文で書かれたα群は十四巻(雄略)から始まる(第193回《α群》)。
     雄略朝には、「稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣〔辛亥年:471か〕(資料[27])や、 「江田船山古墳出土銀象嵌銘鉄剣〔雄略帝の時代〕(資料[28])を見ると、 この頃には漢文で倭語を表記する一定のルールができていたようである。 前項のように、文字資料は応神天皇から蓄積が始まり、670年頃に前述の「百済資料」が追加されたと見られる。 そして、雄略帝の辺りから、中国人スタッフが文章として読める程度の記録があったと考えられる。その部分が「書紀-H」であろう。
     それに対して「書紀-S」は、古事記スタッフがいくらかの古記録と口承から蒐集した資料に依存して書紀が書かれたと思われる。 興味深いのは、「書紀-H」の最初にあたる〈雄略天皇〉段・紀において、両者の重複が突然少なくなることである。 〈雄略天皇〉段・紀で共通する話は、一言主、葛城山の猪、三吉野の蜻蛉あきづの三話に限られる。
     雄略段のそれ以外の内容は、〈雄略紀〉と重複しない範囲でいくつかの伝説のみを拾った印象である。
     清寧以後になると、記の実質的な内容は顕宗に雄略陵に破却を命じられた仁賢が、端っこを形だけ壊すのに留めた話程度である。 最後は、磐井の乱(継体段)である。
     雄略陵の破却は、袁祁王・意富祁王伝説の後日譚である。 つまり、記のスタッフが書紀から負わされた役割は、袁祁王・意富祁王までの資料蒐集であった。
     しかし、その担当範囲を過ぎても代々の天皇の家系だけが、舒明天皇まで続く。 この件については別項で述べる。
    《記から書紀への発展》
     書紀の方向性に違和感を抱いたのは、書紀の執筆の初期からだろうと思われる。
     かく推定したのは、神宮皇后段の「此時其三柱大神之御名者顕也」の書き込みを見たときである (第140回)。 もともとは「底筒男中筒男上筒男」は伊邪那岐命の禊で登場したが、これを神宮皇后に移す修正があったと見た。 記の執筆が既に始まっていたからこの書き込みがなされたわけである。
     一方、吉備上道臣、上毛野君の祖については、記の後の研究の進展が見られる。 これについては天武天皇以後、各氏の「氏文」の提出を求めて各氏の先祖の功績に応じて八色の姓やくさのかばねを賜ったり、諸臣まへつきみたち有官つかさつかさを取り立てる根拠にしたと考えた(資料[37])。 それによって得られた新たな知見が、書紀に取り入れられたと見られる。
     吉備上道臣については、記では吉備上道臣の直系の祖を孝霊天皇の皇子大吉備津日子命とするが、 書紀では稚武彦命を上道臣・下道臣の共通の祖として、上下の分割は応神朝のこととする (応神天皇紀3〉【御友別一族】)。
     また上毛野君については、記では崇神天皇の皇子豊木入日子を祖とするが、書紀は彦狭嶋王(あるいはその子御諸別王)を祖とする。 記がこれらの部分を執筆した時点で手に入れていたのは、古い伝承のみだったと思われる。
     その他細かい点として、大物主神と大国主の同一化、天孫の天降りの主導者を天照大神から高皇産霊神に移したことが見られる。

    【任那国】
     記には、「任那国」に関する記述が全くないことが目を惹く。それは、ミマナの名称がないばかりか、内容もである。
    《書紀が記す「任那国」》
     任那国が実在したのは確実である。但し、それは5世紀頃までで加羅地域の小国群の一国としてである 神功皇后記4。 この名称を借りて、書紀は「任那」が古代に倭の直轄する国として存在したかの如く見せる。
     そして〈欽明紀〉の前半では、滅びた任那国の再建を求める文書をしきりに百済に送っている。 しかし、実際には「任那国」の再建が実現しなかったことは、他ならぬ書紀自体を精読することによって明らかである。
    《継体紀以前》
     〈継体天皇紀〉では、「任那国」は加羅国の一地方、または加羅国の別称と読み取れる (二十三年)。
     例えば、原注の「己能末多このまたと言ふは、けだ阿利斯等ありしと〔=加羅王子〕なり」がそれを示している。
     遡って〈雄略天皇紀〉では、八年に任那王と膳臣が新羅を救った話が載る。倭人が渡海して新羅を攻撃した史実はあるようだが、戦闘場面は『魏書』武帝紀の一部を利用した創作である。 「任那」の初出は〈崇神天皇紀〉六十五年で、「鶏林〔=新羅〕之西南」と紹介される。 崇神天皇は記では「所知初国之はつくにしらしめす御真木みまき天皇」で、 暗黙のうちに実在した最初の天皇とする。書紀はそこに、最初の「任那」を記したのである。
     〈崇神紀〉はまだ「書紀-S〔古事記を素材とする範囲〕の中だが、記の崇神段には「任那」はない。
     この点で興味深いのは〈神功皇后〉段・紀である。詳しくは第147回の【神功皇后紀の形成】の項で論じたが、 書紀が付け加えたのは、渡海前に筑紫を統治した期間と、帰国後に摂政として稚桜宮で新羅・百済との外交を司った期間で、それ以外は記紀で共通する。 書紀は神功皇后の実在を印象付けるのに役立つ伝説を求めて拾い上げているが、集めた伝説に「任那」は見出せなかった。 〈神功皇后記4〉で「神功皇后の存在自体は虚像であったが、 それを真実らしく見せるためには、逆に実在資料を広く用いる必要がある。 その結果、任那国の記述がなくなってしまった」と述べた通りである。
     記は〈神功皇后〉段に任那を入れず、書紀が付け加えた部分にもないから、結局「任那国」が最も出てきて欲しいはずの〈神功皇后紀〉の中に、その影も形もないのである。 古事記のスタッフは始めは書紀と一体であったから、書紀の中心メンバーの任那国への執着を知らぬはずがない。 記が、意図的に任那を拒否した可能性は高い。

    【古事記の文体】
     さらに古事記の文体を見る。
    《稗田阿礼》
     記の特に上巻はまことに味わい深く、口承文学はこのような姿だったかと思わせるものがある。 稗田氏は、天宇受売命を祖とする語り部だったと考えられている。
     『姓氏家系大辞典』の「稗田」項には、 「弘仁私記序に「是より先、浄御原天皇〔天武〕御宇の日、 舎人あり、姓は稗田、名は阿礼」とある本註󠄀に「阿礼は天鈿女命の後也」と見え」るとある。さらに、 「西宮記に「猿女を貢する事。…薭田海子が死闕の替と為さんと……猿女三人死闕の替を差進めしむと云ふ」など見ゆるにより、猿女君なる事疑なし」という。
     「田原本町公式」に 「大和郡山市稗田町にある賣太神社は、稗田阿礼を主祭神として祭」り、 「今も「語り部の里」として童話や民話が語り継がれています。」とあるように、稗田氏は語り部の一族と考えられている。
     阿礼自身も語り部であったと思われるが、序文ではむしろ解読困難な古文書をすらすらと読みこなす才能が評価されている。 それでも古事記の味わい深さは、語り部として育った阿礼の表現力に由来すると考えてもよいのではないだろうか。
    《多氏古事記》
     〈釈紀〉巻十二の述義八:「一言主神」の項に「多氏古事記」からの引用がある(第206回)。 『多氏古事記』という名前からは、太安万侶の『古事記』の基礎に、多氏〔=太氏〕が蓄積した伝承をまとめた『多氏古事記』があった印象を受ける。
     ただ、〈釈紀〉所引の一言主伝説は書紀より後に書かれた気配がある。 それでも、本物の『多氏古事記』は存在し、後世にそれを装った偽作かも知れない。
    《文体》
     文体は、和風漢文体である。しかし、 万葉集、祝詞、宣命体が語順の逆転を伴わないのに対し、古事記は返り点が必要なSVO型で、純正漢文方式である。
     初めの方には、「云はく『~』と云ふ」という書法や、「(と)」、「許曽(こそ)」(第48回)などの助詞が明示され、倭語であることを強く示唆する。 後ろの方にはだんだんと見られなくなっていくが、初めの部分で例示して以後は同様に読めということであろう。
     尊敬表現でも、第166回では仁徳天皇の妃黒日売を主語に「献御歌曰」とあり、次の歌は「又歌曰」である。 つまり最初に「みうたよみまつりていはく」と訓むように指示し、以後同じということである。
     このように、古事記は書紀とは異なり、完全に倭語の文章である。

    【古事記の神】
    《神話の泉源》
     伊邪那岐伊邪那美は淡路島の神である。 御柱めぐりや生み損ないについては、先島諸島から東南アジアにいくつかのパターンがあるという(第34回)。 『日本神話の比較研究』〔大林太良編;法政大学出版局1974〕は、セレベス島や北ボルネオの部族神話の例を挙げる(p.162~)。 そして「兄妹始祖型の洪水神話の分布が、南中国―東南アジア―台湾―インドネシアに広がって」いることから 「イザナギ・イザナミ神話の前半は実に洪水神話の断片ではなかろうか」と述べる。
     高御産巣日神(高皇産霊神)・天照大神・月読命は壱岐対馬から伝来した(顕宗天皇二年十月)。
     山幸彦・海幸彦は大隅地域の伝説だが、『日本神話の比較研究』によれば、「インドネシア」「中国、朝鮮、東南アジア特にインドシナやオセアニアに分布し、更に北アメリカインディアンにも知られ」るという。
     大国主神が出雲の神であるのは言うまでもない。
     これらの神話をうまく繋いで、皇孫の根拠となる神代の系図を構成するのである。 幅広い地域からの神話は読み物として新鮮であるが、同時に諸族の国家への帰属意識を高めることに寄与しよう。 こうして神を共有することによって形成される諸族の精神的な統合も、また天武政権の詔に応えるものであろう。
    《仏教》
     書紀においては、仏教は〈欽明紀〉以来、主要な柱の一つとなっている。
     ところが、記には仏教のことは全く出てこない。 もともと、記スタッフの役割は書紀-Sの基礎資料の収集だから、書紀-Hの範囲の話がないのは当然である。 それでも少しぐらいは載ってもよいのではと思うのだが、その片鱗もないのは意図的に仏教を忌避したと感じられる。 欽明天皇以後は、どうしても仏教との繋がりがでてきてしまうからであろう。
     その反面、儒教には寛容である。和邇吉師が論語をもたらしたことはちゃんと書いている。 また、記は僧の帰化を書かないが、秦氏らの帰化は書く。
     結局、古事記はまた仏教へのアンチテーゼ〔=反対論〕の性格を有すると考えられる。 現実的には、〈天武紀〉には仏教活動が描かれ、天武天皇自身が仏教を排斥した気配は見られない 飛鳥時代の今、仏教を排除するのは不可能だし、その存在は認められる。 それでも、天神地祇は民族の精神の中核の位置を占めなければならない。
     これはもともと、天武天皇による国造りの一環である。膨張する唐の脅威に直面し、対抗するための国づくりを急いだ。 具体的には、藤原京建都、律令の整備、国号日本及び天皇号の制定、「庚寅年籍」(戸籍)による税の確保、 八色の姓に象徴される諸氏への支配の徹底、伊勢神宮の事実上の創建、日本書紀の編纂など多岐に渉る。 天武天皇は、前述したように仏教を排斥するわけではないが、 諸族や人民の精神面の統合のために高天原神学(次項)の確立を求めた。
     古事記の編纂は、それに正面から答える事業となった。 記において高天原神学の純粋化は徹底している。 書紀のスタッフには、高天原神学派と仏教受容派が混在していたと思われるが、
     古事記スタッフが前者に属するのは明らかで、仏教の些細な影も意図的に忌避したと見られる。
    《高天原神学》
     「高天原神学」は、本サイトによる造語である。 日本の宗教は、すべての自然物に神が宿るのが特徴で、もっぱら汎神論のイメージがあるが、 『古事記』上巻及び『日本書紀』神代巻は、れっきとした神学体系と言える。
     そこには神々相互の血縁関係が定義され、また天孫を降ろすまでの神代の出来事が語られる。 その体系を、神の世界の名をとって「高天原神学」と呼ぶことにする。
     その形成の過程を想像すると、古墳時代の始めには、三角縁神獣鏡に表現される道教思想も関係していたと考えられ、 前方後円墳という墳形の意味も語られていたかも知れない。
     そこに、顕宗天皇の時期に、対馬壱岐の高皇産霊神・天照大神・月読神が取り入れられたと見られる。
     以来「高天原神学」は、朝廷の精神的基盤として、強固に存在し続けたようである。 百済聖王が目指した倭の仏教化は、実際には推古朝になってやっと成し遂げられた。 それが簡単には進まなかったのは、高天原の神が立ちはだかったためで、 実際〈用明朝〉には仏教への弾圧として描かれている。
     高天原神学は近代に蘇り、幕末の尊王運動から第二次世界大戦期の思想統制にまで影響を及ぼした。 このように強力なイデオロギーとして存在し続けているから、まだまだ研究が深められるべきであろう。

    【天皇の系図】
     「天皇」号は、680年前後に使用が開始されたと見られる(資料[41])。 それまでの呼称は基本的にオホキミである。オホキミは万葉歌に多く残るが、皇太子にも用いられることに留意しなければならない。
     『上宮記』では、まだ「大公王」である。 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』は、 もともとの文章に、後から「天皇」号を加えたと思われる。 その付け方には、まだ一貫性がないので、天皇号が生まれて間もない時期と推察した。
     過去の大王オホキミに対して、天皇号追号する作業は古事記においてと思われる。 その表記は、和風諡号と宮殿名、陵がワンセットになっている。 「天皇」を追号した対象の選択は書紀と完全に一致しているから、記スタッフと書紀製作グループが一体となり真剣に議論して定めたと思われる。
     倭建命は記では「太子」の一人で、書紀も日本武""と表記し、一時は天皇寸前まで行ったようである。 書紀が日本武尊の人物像を否定的に描くのは、天皇から外したことを合理化するためかも知れない。
     地方に「倭武天皇」、「倭建天皇」の表記も見られるのは、天皇認定の議論の痕を示すものかも知れない (第131回第134回)。 神功皇后は、書紀に一巻が当てられるなど天皇並みである。 筑紫のたらし姫と履中天皇の時期の事績を材料として創作された、複合人格である。 天皇にしなかったのは、天皇をも超越していたということだろうか。 飯豊女王、押坂彦人大兄皇子も、天皇を追号することが検討された気配が感じられる。
     聖徳太子は太子であるが、天皇を追号しようとした気配は感じられず、太子のまま仏教界の聖人として崇められる方向に進む。
    《氏族の始祖との血縁関係》
     さて、清寧天皇から推古天皇までは、ほとんど事績なしで加えられたものである。 その意味は、系図そのものにあろう。いわゆる欠史八代も系図のみだったが、その意味では人皇の時代は対称形となっている。
     皇子には、「~の祖」と書かれるものが多い。 そこに書かれた氏族は、それぞれの系図の始点にその皇子の名を置くことが公認されたものと言える。 朝廷が氏族との協力関係を築くために、始祖との擬制的な親族関係を定義することは中国でも見られ、一般的である(魏志倭人伝第32回)。 各天皇段ごとに記された「娶~姫。生子~…。」の部分は読むには退屈であるが、氏族の系図の正当性を保証する大切な記述である。 事績を欠く天皇も、これだけは欠かさない。記を論ずるときにはあまり注目されない部分だが、古事記の重要な要素である。
     諸族を朝廷の支配下に統合するところに、記の意義がある。 これまで述べてきた「諸族の伝説を取り入れることによって国家に親近感を抱かさせる」ことに加えて、 「氏族の祖を天孫の構図に位置付ける」ことによっても統合を図ったのである。
     書紀の系図は記より少ないが、これは書紀が系図を軽視していたわけではなく、失われた『系図巻』一巻に集約したのであろう。
    《皇祖》
     高天原の神からの血筋こそが、まさに天皇を天皇たらしめるものである。 たとえ天皇個人の思想や文化が高天原神学と相いれなくなっても、神の血を受け継いでいること自体が天皇であることを規定する。 注目されるのは、敏達天皇から舒明天皇までの系図である。これが書紀には載らず、古事記のみが明示するのが、そのことをよく示している。 舒明天皇以後の血縁関係は明白だから、これでやっと古事記は責任を果たしたのである。
     しかし、系図の継続が危うい部分が2箇所にある。一か所目は清寧天皇で途切れたときである。 このときは履中天皇の孫の意祁・袁祁兄弟を発見して、顕宗天皇仁賢天皇として継承したと描かれる。 しかし、皇女には「雄略帝―春日大郎女―手白髪郎女(手白香皇女)」のラインが存在している。
     二か所目は武烈天皇で王朝が廃されたときである。 このときは、応仁天皇の五代孫といわれる継体天皇を選んだが、実質的には仁賢天皇の女の手白香皇女を通して欽明天皇に継承される。
     これらから、記紀が手白香皇女を経由を正式な継承ラインとして位置づけたのは明らかである。 もしそうでなければ、応神天皇から継体天皇までの「五代」全員を揃えて示したはずである。 実際、『上宮記』はそれを実行した(資料[20])。 記紀がこの系図を採用しなかったのは、既に手白香皇女系列が固まっていたからである。
     しかし、古事記を確定する直前になって男子継承が決定された。だから、神宮皇后も摂政に留められた。 歴代天皇を定式化する議論の段階では、女性の「飯豊天皇」も提起されたと推定される。 『扶桑略記』が「飯豊天皇」、「神功天皇」とするのは、その議論の残滓であろう。飯豊姫の陵墓は現在でも「飯豊天皇陵」と称されている (212回)。
     このように、事実上「手白髪天皇」が固まった後になって男子継承が決まったから、辻褄が合わなくなったのである。

    まとめ
     古事記には「何が書かれているのか」というより、むしろ「書かれていないものは何か」という視点で見ることによって、逆にその本質が際立つのである。
     書かれなかったのは結局仏教と任那国で、その拒絶ぶりは徹底している。
     任那を書かなかったのは、記が集めた伝説のどこにも出てこなかったからであろう。 伝説はフィクションであるが、伝説をフィクションにはしない。 つまり、古来の伝承はあるがままの姿で置き、もともとなかったものを加えることをしない。いわば、学究的な態度を貫いている。
     仏教を除外したのは、高天原神学とは根底から折り合わないからであろう。 混沌から天地が分離し、やがて高皇産霊神が天孫を降ろして国が歩み始めたというストーリーに、 仏教の輪廻転生や解脱は折り込みようがない。
     こうして古事記は、民族の心のふるさととも言うべき精神世界を、純粋な結晶体として残そうとしたのである。
      

    古事記をそのまま読む ―完―