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[243] 下つ巻(敏達天皇4) |
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2020.08.14(fri) [244] 下つ巻(用明天皇1) ▼▲ |
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![]() 弟(おと)橘豊日命(たちばなとよひのみこと)、池辺宮(いけのへのみや)に坐(ましま)して、天下(あめのした)を治(をさ)めたまふこと、参歳(みとせ)。 弟の橘豊日命(たちばなとよひのみこと)は、池辺(いけのへ)の宮にいらっしゃり、三年の間天下を治められました。 【真福寺本】
真福寺本は、「弟橘豊日王坐池邊宮治天下三歲」。 すなわち、命(みこと)⇒王(みこ)、参⇒三。
【書紀―即位前~即位】 用明1目次 《橘豐日天皇》
母(みはは)は堅塩媛(きたしひめ)と曰(い)ひたまふ。 天皇、仏法(ほとけののり)を信(う)けたまひて神道(かみののり、かみのみち)を尊(たふと)びたまふ。 十四年(ととせあまりよとせ)秋八月(はつき)。 渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらふとたましきのすめらみこと)〔敏達〕崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
天皇(すめらみこと)、天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。 宮を磐余(いはれ)に於(お)きて、名を池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)と曰ふ。 蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)を以ちて大臣(おほまへつきみ)と為(し)て、 物部弓削守屋連(もののべのゆげもりやのむらじ)を大連(おほむらじ)と為(し)たまふこと、 並(な)べて故(もと)の如し。
詔(みことのり)、云々(しかしか)と曰(のり)たまひて、 酢香手姫(すかでひめ)の皇女(みこ)を以ちて、伊勢神宮(いせのかむみや)を拝(おほ)せて日神(ひのかみ)の祀(まつり)を奉(たてまつ)らしめたまふ。 【是の皇女(みこ)。 此の天皇の時自(より)[乎]炊屋姫天皇(かしきやひめのすめらみこと)〔推古〕之(の)世(みよ)に逮(いた)りて、日神(ひのかみ)の祀(まつり)を奉(たてま)つりき。 自(みづから)葛城(かつらき)に退(しりぞ)きて[而]薨(こうず、みまかる)。炊屋姫天皇紀(かしきやひめのすめらみことのふみ)を見よ。 或本(あるもとつふみ)に云ふ。 三十七年(みそとせあまりななとせ)の間(ま)日神(ひのかみ)の祀(まつり)を奉(たてま)つりて、自(みづから)退(しりぞ)きて[而]薨(こうず、みまかりき)。】 《堅塩媛》
・〈欽明紀〉二年三月には、原注に「岐拕志」〔きたし〕。 ・〈甲本-欽明〉は「キタシホ」。〈北野本-用明〉は「カタシヲ」。 ・〈倭名類聚抄〉「黑鹽:今案呼黑鹽爲堅鹽日本紀私記云堅鹽木多師是也」 〔今案ずるに、黒塩を呼び堅塩につくる。日本紀私記に堅塩をキタシと云ふは、是なり〕 私記〈甲本〉が、原注と相違することは戸惑わせるが、転写を重ねるうちに「ホ」が加わったのかも知れない。 〈北野本-用明〉の「カタシヲ〔ホ〕」は、欽明紀を読んでいればあり得ない。 平安の古訓にはこのレベルが混ざっていることに、注意を払う必要がある。 一方、(万)0892 堅塩乎 かたしほを」のように「かたしほ」ともいったようである。 〈時代別上代〉は「かたしほ:精製していない固形の塩。」とするとともに、 「きたし」も同じ意味の語として見出し語に立てる。 記の表記「岐多斯比売」を見れば、妃の名がキタシヒメであったことは明らかで、 書紀が「堅塩」の字をあてたのは、「かたい塩」がキタシと呼ばれていたことによると見られる。 ところが、〈欽明紀〉が原注を添えたのは、カタシホという語も存在したからだと思われる。 《神道》 中国語としての神道は、〈汉典〉を見ると汎神論的な神〔天体の運行など、自然の中で感じ取られる「神」〕を指すようである。 しかし、この段では仏法の対立概念として現れるから、倭国古来の神を指す。すなわち、古事記上巻や神代記に描かれた天照大神などの神祇である。 「みち」ついては、万葉集では圧倒的に通行する「道」の意味で使われるが、中には「(万)0892 可久婆可里 須部奈伎物能可 世間乃道 かくばかり すべなきものか よのなかのみち」のように、世間のしきたりの意味でも使われる。 また、漢字「道」の古訓には「のり」もある。 「のり」は、法律あるいは道徳的な規範、方法や技術などに幅広く使われる語である。宗教における教典も「のり」である。 〈時代別上代〉はノリは「宣ルの名詞形に由来するものであろうか。ノルは重々しく重要な事柄を宣言すること。 宣言されたノリは規則であり、また結局慣習であった。転じて典型・方法の意にも及ぶ」と述べる。 よって、仏法が「ほとけの〔み〕のり」と訓読されるのは至極当然で、神道もまた「かみののり」であろう。 しかし、古訓では属格の助詞「ノ」が入っているから訓読みで、かつ傍訓がないから普通にカミノミチと訓んだと思われる。 《酢香手姫皇女》 妃と皇子・皇女のリストは元年正月朔日条でまとめて示されるが、酢香手姫皇女の話はそれに先行している。 妃の納を特定の日に集約するのは、全くの形式である。 書紀は、〈継体紀〉元年の原注において 「雖有先後而…占二-択良日一初拝二後宮一為レ文。他皆効レ此。」 〔実際に納めた日には後先があるが、占いで良い日を決め、その日に初めて後宮を拝すと文につくる。他の代の天皇でも同様である〕 と包み隠さず述べる。 《拝伊勢神宮奉日神祀》 伊勢神宮に皇女を奉り、祭祀を担わせる「斎王」の制度が確立したのは、天武天皇のときである。 天武天皇は神道の復興を期し、天照大神を祀る伊勢神宮をその中核と位置付けたと見られる。 天武朝以前から時折見られた皇女の派遣は、斎王を古くから伝統の如く描くために、過去に投影した可能性がある。 〔〈垂仁〉第116回、 〈雄略〉元年、 〈継体〉231回〕 しかし、日神月神への祭祀の再構築は〈顕宗紀〉三年にあったから、 天照大神を中心とする神道はずっと底流をなしていたと見た方がよいだろう。 敏達の直前まで続いてきた前方後円墳という墳形も、そのひとつの現れであろう。 そうして見ると、伊勢への皇女の派遣は天武以前にも時にはあったと見るのが妥当であろう。 〈用明紀〉冒頭にあるように天皇が仏法を信じ、神道も尊ぶ人物であったのならば、バランスをとるために皇女に伊勢神宮を拝したと読める。 しかし、推古朝に至り、そこにある「自退」という表現は重い。朝廷は仏教に浸っていて、 神道は見向きもされなくなったのであろう。そして伊勢神宮の酢香手姫皇女は、あわれ放置されたのである。 祭礼の日を迎えても使者は来ず、奉納の品も届かなくなり、かと言って神宮奉斎の任を解くとも言わない。 仕方なく自分の判断で故郷に帰ることにした。それが「自退二葛城一」の四文字である。 ところが、「見よ」と言われて〈推古紀〉をいくら探しても、酢香手姫皇女の話は出てこない。 あまり芳しくない話だから、省かれたのであろうか。 ただ〈推古紀〉に入らなかった本当の理由は、この伝説が史実として確認できなかったためかも知れない。 しかし仮に伝説であったとしても、朝廷の関心が仏教に遷ったという一般の感じ方を反映したものであろう。 《大意》 橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)〔用明〕は、天国排開広庭(あまくにおしはらきひろには)の天皇〔欽明〕の第四子で、 母は堅塩媛(きたしひめ)です。 天皇は仏法を信じ、神道を尊ばれました。 〔敏達〕十四年八月(はつき)、 渟中倉太珠敷(ぬなくらふとたましき)の天皇〔敏達〕は崩じました。 九月五日、 天皇は、天皇に即位されました。 宮を磐余(いわれ)に置き、その名を池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)といいます。 蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)を大臣(おおまえつきみ)、 物部弓削守屋連(もののべのゆげもりやのむらじ)を大連(おおむらじ)として、 ともに元のままとされました。 十九日、 詔を云々され、 酢香手姫(すかでひめ)の皇女(ひめみこ)を、伊勢神宮に拝し、日神〔=天照大神〕を奉祭させました。 【この皇女(ひめみこ)は、 この天皇の時より炊屋姫(かしきやひめ)の天皇〔推古〕の御世に至り、日神を奉祭し、 自ら葛城に退き薨じた。炊屋姫天皇紀を見よ。 或る出典によると、三十七年間日神を奉祀し、自ら退いて薨じたという。】 【池辺双槻宮】 池辺双槻宮については、継体天皇の磐余高穂宮(第231回)のところで既に考察したところである。 磐余池は人工的に堤を築いて作ったダムであったことが確認されている〔東池尻・池之内遺跡〕。 これまでにその畔に置かれたと見られる宮として、 稚櫻宮(神功皇后・履中)、甕栗宮(清寧)、玉穂宮(継体)があり、稚桜神社、御厨子神社などが伝承地となっている。 ここで、複数の天皇の宮が同じところに置かれた例を見ると、雄略・武烈・欽明の泊瀬地域があり、脇本遺跡に大規模な宮殿跡が検出されている。 同じく難波にも大隅宮(応神)、高津宮(仁徳)、難波大蔵省(副都;天武)、長柄豊崎宮(孝徳)、難波京(副都;聖武)が置かれた。 また飛鳥京として、遠飛鳥宮(允恭)、近飛鳥八釣宮(顕宗)、小墾田宮(推古・皇極)、飛鳥飛鳥浄御原宮(天武・持統)がある。 難波京は、三韓や中国との外交の窓口で、交通の拠点だから、どの天皇のときにも継続的に副都として機能していたと考えられる。 一般的に複数の天皇の宮殿と書かれた場所は、基本的に掘立柱建造物群が継続的に管理され、政治的に機能し続けていたと考えられる。 ならば、磐余の宮においても、小さな宮がその都度建ったというよりも、 一定の場所に掘立柱建物群が継続的に存在していたと考えるべきであろう。
東池尻・池之内遺跡の現地案内板の地図には、 小字名が詳しく書かれている。これを見ると、その宮殿跡の候補地がすぐに見つかる。 それは、若櫻神社の小字名「宮地」、「○垣内」、「宮ノ下」、「大門」である。 「宮地」には中心的な建物としての「宮」があり、「垣内」は建物群を囲う垣の存在を伝えたと見ることができる。 ところが、「宮地」は山城跡のようにも見える。 すると「垣内」全体は城郭、「大門」は大手門で、もしそうだとすれば戦国時代だから、「宮殿跡」説はもろくも瓦解する。 試しに、城郭放浪記、ニッポン城めぐり を見ると、この地域に近いのは 「大和・雷ギヲン城」「大和・奥山城」であるが、若櫻神社のところに城跡はない。 立地が適するから砦程度があった可能性は残るが、あっても一時的なもので、城郭が「垣内」と地名化するほどの永続的な城はなかったと考えてよいだろう。 ひとまずは安心だが、次には「垣内」の地名が飛鳥・奈良時代まで遡り得るのかという問題が立ちはだかる。 《垣内》 『奈良県史14』(奈良県史編纂委員会、名著出版;1985)によると、 「「垣内はカキのウチの義…民部〔部曲〕 のカキも区画するということで、古代豪族の下に区画された集団を意味した。 カイトはカイウチ→カイチの転訛したもので、記録に至っては奈良朝以降、各時代にみられる」、 「カイトに「垣外」の文字を充用し、カイゲと読み、「戒外」の嘉字を使用した例もみられた」という。 「磐余池」想定域の中央を流れる川の名も「戒外川」である。 同書はさらに、「いわゆる「垣内」という概念は古くから存していたわけで、…神武紀に…「玉牆内国」…、 崇神紀…瑞垣は三輪山麓の俗称水垣内として今なお神聖視されている。 また『万葉集』にも「吾妹児が家の垣内佐由理花由理……」」などと述べる。 〈時代別上代〉は、「かきつ[垣内]」の項で「カキ=ウツ(ウチの交替形)とも、 またトは場所を示し、カキ=トがカキツに転じたとも考えられる」と述べる。 これらを見ると、「垣内」〔上代はカキツ〕・「宮地」〔ミヤトコロ〕という地名が上代まで遡ることもあながちないとは言えない。 もともとは、中垣内、東垣内、西垣内、北垣内、上垣内、戌亥〔=北西、乾とも〕垣内が宮殿の「垣の内」であったことが伺われる。 《堤の東側部分》 案内図で赤色の点線で示された範囲は、磐余池を堰き止めた堤の東側部分にあたると理解される。 小字大納言・西垣内には小山状の等高線があるから、点線範囲は自然地形が堤として利用されたと見られる。 それは、幅100mの細長い台地で、ちょうどこの点線のところに「垣」があったとすれば「垣内」なる地名がうまく説明できる。 メインとなる宮殿は「宮地」のところであろうが、「○垣内」全体に付属する殿や邸宅が散在していたと想像される。 小字「大納言」にはまさに大納言の邸宅があったのではないか。 〔大納言は、職員令で太政官のひとりとして規定されている。(資料[24])〕 「宮地」は山の上であるから、天皇執務用の施設ではなく祭祀場だったのかも知れない。 つまりは、人工ダムである磐余池の堤の東半分として利用された土地には、同時に宮殿と関連建物が並んでいたわけである。 その垣の中の建物のどれかを継体帝や用明帝が宮として使用したと考えてもよいのではないだろうか。 この「垣内」全体の広さは、東西約170m、南北約260mに及ぶ。 ただ、この区域の遺跡調査報告書は今のところ見つからない。 一般的に発掘調査のきっかけは、道路工事などの事前調査として(秋津遺跡など)、あるいは建築工事による偶然の発見(鴨都波一号墳など) が多い(第105回)。 《履中天皇稚櫻宮》 小字名「稚桜」は、〈履中紀〉の桜花伝説及び稚櫻神社に由来すると見られる。 この伝説を負う稚桜部の発祥はこの辺りであろうと思われるが、 〈姓氏家系大辞典〉は「若狭」国造が起源ではないかと述べる (〈履中紀〉三年)。 履中天皇の「稚櫻宮」は、その地に継続的に宮殿が存在していたからこそ、桜花伝説から延長してそこを稚櫻宮を当てはめたようにも思える。 つまり、有数の宮殿が建っていたという記憶に、桜花伝説が後付けで結びついたのではないだろうか。 神功皇后に至っては架空の人物であるが、履中朝の三韓外交を神功皇后に移したのに伴って稚櫻宮もくっついていったと考えられる (〈神功皇后紀〉三年)。 まとめ 第115回・ 〈履中紀〉三年において、 履中紀の桜花伝説の「市磯池」は磐余池の一部分の名称ではないかと考えた。 磐余池の堤工事がいつ行われたかは明らかではないが、やはり第115回において 「依網池」の最初の工事は仁徳朝まで遡る可能性を見た。 仁徳朝では積極的に治水や水利のための土木工事を行い、農業生産力を高めた時期と性格付けられている。 大仙陵古墳〔伝仁徳天皇陵〕などを見れば、土木作業担当集団の実力は十分だから、一概に伝説とは片づけられないと考えて来た。 そうなると、磐余池についてもその後拡充があったとしても、少なくとも最初の工事は履中朝の頃まで遡ると考えることが可能となる。 履中天皇の稚櫻宮が、実際に磐余池のところにあったかどうかはなかなか判断し難いが、 継体・用明については今回磐余池の自然堤部分に宮殿があった可能性を見るに至った。 磐余に宮殿が置かれたようになった時期や変遷については、磐余池の造営との関係のもとに検討するのが有意義であろうと思われる。 |
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2020.08.27(thu) [245] 下つ巻(用明天皇2) ▼▲ |
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![]() 生御子多米王【一柱】 此の天皇(すめらみこと)稲目宿祢大臣(いなめのすくねのおほまへつきみ)之(の)女(むすめ)意富芸多志比売(おほきたしひめ)を娶(めあは)せて、 御子(みこ)多米王(ためのみこ)を生みたまふ【一柱(ひとはしら)】。 又娶庶妹間人穴太部王 生御子上宮之厩戸豐聰耳命 次久米王 次植栗王 【四柱】 又、庶妹(ままいも)間人穴太部王(はしひとのあなほべのみこ)を娶せて、 [生]御子(みこ)上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやどのとのとみみのみこと)、 次に久米王(くめのみこ)、 次に植栗王(ゑくりのみこ)、 〔次に茨田王(まむたのみこ)を〕うみたまふ【四柱(よはしら)】。 又娶當麻之倉首比呂之女飯女之子 生御子當麻王 次妹須加志呂古郎女 又、当麻之倉(たいまのくら)の首(おびと)比呂(ひろ)之(の)女(むすめ)飯女之子(いひめ)を娶せて、 [生]御子(みこ)当麻王(たいまのみこ)、 次に妹(いも)須加志呂古郎女(すかしろこのいらつめ)をうみたまふ。 この天皇(すめらみこと)は稲目宿祢大臣(いなめのすくねのおおまえつきみ)の娘、意富芸多志比売(おおきたしひめ)を娶り、 多米王(ためのみこ)をお生みになりました【一柱】。 また、異腹の妹、間人穴太部王(はしひとのあなほべのみこ)を娶り、 上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやどのとよとみみのみこと)、 次に久米王(くめのみこ)、 次に植栗王(えくりのみこ)、 〔次に茨田王(まむたのみこ)〕をお生みになりました【四柱】。 また、当麻之倉(たいまのくら)の首(おびと)比呂(ひろ)之(の)女(むすめ)飯女之子(いひめのいらつめ)を娶り、 当麻王(たいまのみこ)、 次に妹、須加志呂古郎女(すかしろこのいらつめ)をお生みになりました。 上宮之厩戸豊聡耳命…〈氏庸本〉上宮之厩_戸豊_聡_耳命。 當麻之倉首…〈氏庸本〉當麻之倉首。 当麻…〈倭名類聚抄〉{大和国・葛下郡・當麻【多以末】〔たいま〕}。 〈姓氏家系大辞典〉は、「當麻 タギマ タイマ:」。 〈履中天皇段〉歌謡には「當藝麻知袁能流」〔たぎまちをのる〕(第177回)。
真福寺本では「茨田王」が脱落している。また、〈氏庸本〉でも脱落している。 『上宮正徳法王定説』では「次 久米王 次殖栗王 次茨田王」、書紀では「其四曰茨田皇子」で、 これらを見れば「茨田王」を補うのは当然であろう。 《飯之子王》 「飯女之子」が、真福寺本では「飯之子王」となっている。 〈氏庸本〉は、「比呂之女飯-女ノ之。生二御-子當-麻ノ子王 次ノ_妹須賀志召古ノ郎_女一」 〔…比呂の女(むすめ)、飯女(いひ〔め〕)の之を娶て、御子當麻の子王〔ひこみこ?〕、次の妹須賀志召古の郎女(いらつめ)生〔あれます?〕〕 【間人穴太部王】 間人穴太部王は、欽明天皇段では名は「三枝部穴太部王。亦の名は須売伊呂杼」で、母は蘇我稲目の女小兄比売である。 〈用明紀〉では「穴穂部間人皇女」、〈欽明紀〉では「泥部穴穂部皇女」で、母は蘇我稲目の女小姉君である。 間人穴太部王は一時期、丹波国間人(たいざ)に住んだという伝説がある。 『丹波旧事記』によれば、兄の間人穴太部王(書紀では弟で泥部穴穂部皇子)が蘇我馬子に殺されたので、 身の危険を感じた穴太部王(穴穂部間人皇女)は丹波国間人に避難したという設定になっている (第239回)。 名前につく「穴穂部」は、安康天皇の御名代が地名化し、その土地に宮殿があったことに由来すると見た(第239回)。 さらに「三枝部」、「泥部」という氏族名を負い、その謂れは今のところ不明であるが、 皇位を狙う穴穂部皇子と共に、広範な地方勢力を束ねていたことも考えられる。 穴穂部皇子は〈敏達紀〉十四年八月に、「欲レ取二天下一」と書かれている。 結局、純粋な名前の部分はハシヒトである。 【當麻之倉首比呂之女飯女之子】 「当麻之倉首比呂之女飯女之子」は書紀と相違し、 また「飯女之子」も名前らしくない名前で、何かと問題をはらんでいる。 『上宮聖徳法王帝説』(以下〈帝説〉)では、対応する部分は 「又天皇娶二葛木當麻倉首名比里古女子伊比■郎女一.生二児乎麻呂古王、次須加弖古女王一」となっている。 《當麻之倉首》 記では父の名は「當麻之倉首比呂」だが、 書紀では「比呂」〔広〕を娘の名前の方に持ってきて「葛城直磐村女廣子」となっている。 〈帝説〉は、「当麻之倉首」と「葛城」が合体して記紀をミックスした形になっている。
一方、書紀ではこれが娘の名「広子」に遷されて、父の名は「磐村」とする。 広子〔ひろこ〕も、比里古〔ひりこ〕と同一と見られる。 《飯女之子》 娘の名を、岩波『日本古典文学体系』は「飯女之子」とし、一応これが標準とされているが、普通に読めば一つの人名とは言い難い。 真福寺本は「飯之子王」、氏庸本は「飯女之」で、ともに不審である。 ここは早々に破損した箇所で、様々に補って解釈されてきたのであろう。 〈帝説〉は「伊比■郎女」としていて、これが最も名前らしい名前である。 だとすれば、記の原型は「飯■王」であったかと思われる。■が「女」だとすると比較的うまく収まるのだが、読み取れる部分の形は〈帝説〉の他の多数の「女」とは、明らかに異なっている。 メ甲と訓み得る字には、売(賣)、咩、弥(彌)。字形から考えられる形は、十、協、博など。 もしかしたら他にもあるのかも知れないが、今挙げたものはどれも当てはまらない。 一般的には「古」と読まれている。 だが、もし「古」なら第二画をもう少し左に撥ねるように思える。また「郎」のすぐ上にある墨跡は、「古」には存在しない。 一度は「女」を棄てたのだが、実はやはり「女」かも知れない。左縦線を勢いで伸ばし過ぎ、上に戻してから曲げたように見えないこともない(図下)。 他の文字候補よりはましのようにも思える。 本サイトでは最初に誤写される前の形が「飯女郎女」であったと仮定して、「いひめのいらつめ」と訓読しておく。 【書紀―元年正月】 用明2目次 《立穴穗部間人皇女爲皇后》
穴穂部(あなほべ)の間人(はしひこ)の皇女(みこ)を立たして皇后(おほきさき)と為(し)たまひて、 是(ここに)四男(よはしらのみこ)を生みたまふ。
【更名(またのは)は豊耳聡聖徳(とよみみとのしやうとく)、或名(あるな)は豊聡耳法大王(とよとみみのりのおほきみ)、或(ある)に云はく法主王(ほうしゆわう)】といふ。 是の皇子(みこ)初(はじめに)上宮(かみつみや)に居(ましま)して、後(のち)に斑鳩(いかるが)に移りたまいて、 [於]豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)の天皇(すめらみこと)の世(みよ)、位(くらゐ)東宮(まうけのきみ)に居(ましま)して、 万機(よろづのまつりごと)を総(すべて)摂(と)りて、天皇事(すめらごと)を行ふ。語(かたりごと)豊御食炊屋姫天皇の紀(ふみ)を見よ。
其の三(みはしら)は殖栗皇子(ゑくりのみこ)と曰ふ。 其の四(よはしら)は茨田皇子(まむたのみこ)と曰ふ。
是(ここに)田目皇子(ためのみこ)、更名(またのな)は豊浦皇子(とゆらのみこ)を生みたまふ。
一男(ひとはしらのみこ)と一女(ひとはしらのひめみこ)を生みたまふ。 男(ひこ)は麻呂子皇子(まろこのみこ)と曰ひて、此(これ)当麻公(たぎまのきみ)之(の)先(さき)也(なり)。 女(ひめ)は酢香手姫皇女(すかてひめのみこ)と曰ひて、三代(みつのみよ)を歴(めぐ)りて以ちて日神(ひのかみ)を奉(たてまつ)る。 《石寸名》 「石寸名為嬪」は、一見分かりにくいが、構文は「立○○為嬪」であるから、"名"は名前の綴りの中の文字ということになる。 書紀における宮中の女性の格は「后>妃>夫人」と見られるが、「嬪」は「妃」と同格と見ていいだろう。 「石寸」はイハレと訓む例もあるが〔石寸山口神社〕、書紀では一般にイハは"磐"と表記し、"石"はイシと訓む(第237回)。 「寸」をキと訓むのは、長さの助数詞〔十分の一尺〕の場合である。 通常は「娶石寸名姫(また、媛)」であり、「~為嬪」は異例である。 「姫(媛)」がつかないのは、単純に「姫(媛)」ではなかったからであろう。 つまり、「~姫(媛)」は貴人の女性につく尊称で、天皇が娶る相手は通常は既に貴人となっている女性から選ばれた。 例外的に「石寸名」の身分は低かったから、まず「~姫(媛)」がつく身分に取り立てて、その上で娶ったようだ。 この手続きを経たことを「石寸名を立てて嬪とす」と表したと見られる。 この"立"の使い方により、書紀によく出てくる「立~為皇太子」、「立~為皇后」の「立」も「取り立てる」意味であることが確定する。 それにしても、名前の綴りの最後が「名」で、次に"為"があるのは紛らわしい。 〈帝説〉では、対応する文は、 「天皇娶二蘇我伊奈米宿祢女子名伊志支那郎女一生二児多米王一」という疑問の余地のない用字になっており、 この「伊志支那郎女」〔いしきなのいらつめ〕によって、「石寸名」が名前〔いしきな〕であることが確定する。 記の「意富芸多志比売」〔おほきたしひめ〕は、イシキナの別名だと思われる。オホがついているのは、 「岐多斯比売(堅塩媛)」〔欽明天皇の妃;やはり蘇我稲目の子〕と区別するためと思われる。
廐戸皇子の別名豊耳聡聖徳の"聡"の訓みについては、北野本にトシ〔「するどい」「さとりがはやい」の意〕が見えるが、 どちらかと言えば〈六丈光銘〉の「等与刀弥弥大王」の"刀"〔ト〕に信頼性があると思われる。 この"刀"を「聡」にしたのは崇高化による用字で、平安の訓読者は〈六丈光銘〉を考慮せずに〔ひょっとして知らなかった?〕トシと訓んだ。 という経過が想定し得る。 〈甲本〉の「ハヤキ」はトシの同意語だから"聡"への意訓であろう。また、「トヨホミゝ」の"ホ"は「ト」の誤写か。 《此皇子初居二上宮一》 太子が初めに居(ましま)したとされる上宮については、〈推古紀〉元年に、 「父天皇愛レ之令レ居二宮南上殿一。故称二其名一謂二上宮廐戸豊聡耳太子一。」 〔父天皇〔用明〕、之〔=太子の天才的な能力〕を愛(め)で、宮の南の上(へ)の殿に居(ましま)さ令(し)めたまひき。故(かれ)其の名(みな)を称(なづ)けて上宮(かみつみやの)廐戸豊聡耳太子(うまやどのとよとみみのひつぎのみこ)と謂(い)ふ〕 とある。 「上宮」の比定地の候補として上之宮遺跡が注目を集めているが、用明天皇の磐余双槻宮が磐余池周辺にあったと見れば、位置は大幅に異なる。 上宮の比定地については、別項で改めて検討する。 《斑鳩宮》 斑鳩宮については、〈推古紀〉九年〔601〕に「春二月、皇太子初興二宮室于斑鳩一。」とあるように造宮に着手し、 さらに同十三年〔605〕に「冬十月、皇太子居斑鳩宮。」、即ち聖徳太子は斑鳩宮に遷った。 〈五畿内志-平群郡〉の【仏刹】「法隆寺」の項には 「推古天皇九年皇太子初興二宮室於斑鳩一今東院即此」とあるように、 斑鳩宮は法隆寺頭院にあったと伝承されてきた。昭和九年〔1934〕からの調査によって、その実在が確信されるに至った(別項)。 《大意》 元年正月朔日、 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひこのひめみこ)を皇后(おおきさき)とされ、 四男をお生みになりました。 その一は、廐戸皇子(うまやどのみこ) 【別名は豊耳聡聖徳(とよみみとのしょうとく)、ある名は豊聡耳法大王(とよとみみのりのおおきみ)、あるいは法主王(ほうしゅおう)という】といわれます。 この皇子(みこ)は最初上宮にいらっしゃり、 後に斑鳩(いかるが)に移られ、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)天皇〔推古〕の御世、東宮の位につかれ、 万機を総摂され、天皇の事を行いました。物語は豊御食炊屋姫天皇紀を見よ。 その二は、来目皇子(くめのみこ)といいます。 その三は、殖栗皇子(えくりのみこ)といいます。 その四は、茨田皇子(まんだのみこ)といいます。 蘇我大臣(そがのおおまえつきみ)稲目(いなめ)の宿祢(すくね)の娘、石寸名(いしきな)を立たして嬪(きさき)とされ、 田目皇子(ためのみこ)、別名は豊浦皇子(とゆらのみこ)をお生みになりました。 葛城直(かつらきのあたい)磐村(いわむら)の娘、広子は、 一男一女をお生みになりました。 皇子は麻呂子皇子(まろこのみこ)といわれ、当麻公(たいまのきみ)の先祖です。 皇女は酢香手姫皇女(すかてひめのひめみこ)といわれ、三代にわたり日の神〔伊勢神宮〕に奉斎されました。 【上宮】
このように伝統訓は必ずしも一定しないが、 上之宮遺跡〔奈良県桜井市上之宮(大字)〕を「上宮」跡とする一つの〔というか、唯一の〕理由が、現在地名=上之宮(うえのみや)にあるのは明らかである。 地名「上宮」が飛鳥時代に遡る可能性自体はあり得る。何しろイキ・ツシマは魏志倭人伝まで遡るのである。 また本来はカミツミヤであったとしても、地元の人が「上宮」なる表記を見ていつしかウヘノミヤと呼ぶようになるのも、自然であろう。 《上之宮遺跡》 奈良県桜井市観光協会公式によると、 上之宮遺跡は「1986年桜井市上之宮の寺川西岸の、河岸段丘上の土地」で 「検出された6世紀末頃の遺構は、聖徳太子の上宮(かみつみや)である可能性が高いと発表され」 「6世紀末に大邸宅として整備されていた事」がわかり、 「庭園部分から日本最古の木簡が出土しています。鼈甲や木器の他、果実の種なども出土し、桃やスモモの核が多量に出土したことから、周囲には花園があったとみられ」ているという。 その一方、「周辺に拠点を持つ阿部氏にかかわる遺跡ではないかとの説も」あると述べる。 近くにある安倍文珠院(奈良県桜井市阿部645)は、「大化元年(645)安倍倉梯麻呂が創建した安倍寺(崇敬寺)は、現在の寺の南西約300mの地に法隆寺式伽藍配置による大寺院として栄えていました。(東大寺要録末寺章)」という (安倍文珠院公式)。 その安倍寺について 「桜井市観光協会公式」は、 「安倍寺の創建時期は、出土した瓦等から山田寺(641-678年)とほぼおなじ時期で、法隆寺式伽藍配置に属するもので中央官人の阿倍氏の氏寺として建立されたと考えられ」るという。 さらに「東接する文殊院西古墳をはじめとする阿部丘陵の7世紀の古墳とのかかわり」と述べる。 すなわち古墳は恐らく阿部氏のもので、一族ががっちりと根を張った土地であろうとの趣旨が読み取れる。
一方、前述の〈推古紀〉では上宮の位置は用明天皇の磐余双槻宮の南だから、 上之宮遺跡は上宮ではなく、恐らく阿倍氏の邸宅ということになる。 この点に関して、現地案内板(桜井市教育委員会設置)はなかなか冷静で、 「一辺が約百メートルの方形区画の中に収まってしまうところから、古墳時代末期から飛鳥時代初期の豪族居館と考えることができる」、 「地名や建物の時期、貴重な出土嬪などから、聖徳太子の上宮の可能性もある。」と述べるに留まる。 仮に上之宮遺跡が上宮だとすれば、聖徳太子が阿倍氏の丸抱えだった印象を受ける。 もし阿倍氏の統領の女妃を娶っていれば、その可能性が強まる。 太子の妃については〈帝説〉に書かれており、そこでは三人の妃の間に十四人の子を設けたとある。 ・膳部加多夫古臣女子、菩岐ゝ美郎女との間に八人の子。 ・蘇我馬子女子、刀自古郎女との間に四人の子。 ・尾治王女子、位奈部橘王との間に二人の子。 これを見る限り、太子は阿部氏の娘婿ではない。 むしろ、蘇我馬子との結びつきが強かったのは明白である。 したがって、もし娘婿だとすれば、蘇我氏の居住地に近いと見た方が現実性がある。 《蘇我馬子邸宅》 「明日香村公式-島庄遺跡(第18次)調査」によれば、 蘇我馬子邸宅跡は、島庄遺跡にあったとされ、 「蘇我本宗家の滅亡後、邸宅のあった嶋の地は官の没収となったよう」だと述べる。 〈推古紀〉三十四年には、蘇我稲目稲目大臣が崩じて馬子が大臣となり、 「大臣則稻目宿禰之子也…家於二飛鳥河之傍一、乃庭中開二小池一、仍興二小嶋於池中一、故時人曰二嶋大臣一。」とある。 その後〈天武紀上〉では壬申の乱の前、天智四年十月に大海人皇子は吉野宮に入った。そのとき蘇我赤兄などを送り、菟道(うぢ)から吉野宮に帰る途中で「御二嶋宮一」〔嶋宮に滞在〕したとある。 また、壬申の乱で勝利後、天武元年九月には伊勢から「詣二于倭京一而御二嶋宮一」〔倭京〔飛鳥〕に入る途中で嶋宮に滞在〕した。 さらに万葉集では、四首(すべて二巻)に「嶋宮 しまのみや」が詠まれている。 このように、上宮が「磐余池の畔の宮」ならば、蘇我馬子の邸宅とも遠く離れている。 《厩戸皇子の上宮》 厩戸皇子が、阿部氏の娘婿として抱え込まれたことはないと断じてよいだろう。 かと言って、蘇我馬子の娘婿でもない。 厩戸皇子は推古天皇らとともに独立的に宮廷一族を構成し、蘇我一族とは一線を画していたのだろう。 共に仏教振興に尽力したが、両者の関係はむしろライバルと見た方がよいようである。 【斑鳩宮】
やや詳しくは、鈴木嘉吉氏の講演(2014年法隆寺夏期大学)によると、 〔「大和&伊勢志摩散歩」より〕 昭和九年〔1934〕から始まった法隆寺昭和大修理の際、 「夢殿の北にある舎利殿、絵殿、伝法堂の下から奈良時代以前の斑鳩宮の複数の掘立柱建物の柱穴」、 「中央西寄りに桁行3間以上、梁行3間で東に東西1間、南北1間の附属施設をもつ南北棟建物」、「その北に桁行6間以上、梁行3間の東西棟」、 「東側には北に桁行8間、梁行3間の南北棟」が発見されたという。 《法隆寺東院の発掘調査》 古墳時代から飛鳥時代の宮殿は、一般に掘立柱建築物の柱穴として残る。 『聖徳太子の遺跡―斑鳩宮造営千四百年―』(橿原考古学研究所附属博物館特別展図録 第55冊;2001)によると、 「東院の下層から発見された遺構群は、出土遺物の年代や火災を受けている点から、『法隆寺東院縁起』の伝える斑鳩宮の跡と考えられた」という。 〈皇極紀〉二年〔643〕十一月に「蘇我臣入鹿、遣二小徳巨勢徳太臣(等)一」て、「巨勢徳太臣等、焼二斑鳩宮一」とある。 同図録によると、「東院の地下から発見された掘立柱建物群は比較的規模の小さな建物を主体に構成される時期〔右図緑色〕と、 かなり大きな東西棟と南北棟を整然と配する時期〔右図黄色〕の二つの時期に大別される」、 「この調査によって斑鳩宮は最低一町以上の規模をもつことが判明した」という。 なお、図の赤色部分は夢殿と東院伽藍である。 まとめ 「聖徳太子」という呼び名の初出は懐風藻にあるというので、調べると『懐風藻序』〔群書類従巻第百二十二による〕に「聖徳太子設爵分官肇制礼儀…」の文言があった。 序の末尾に日付「天平勝宝三年歳在辛卯冬十一月」〔751〕がある。書紀の「更名」として「豊耳聡聖徳」があるから「聖徳太子」は突然出現したものではなく、 書紀〔720〕から三十年間の間に様々な呼び名が整理された結果であろう。 さて、前回に磐余池は履中天皇の頃から厳然として存在し、その畔に恒常的に宮殿が存在した可能性を見た。 その立場から見れば、用明天皇の宮殿の南に上宮があったという〈推古紀〉の記述から、その宮殿郡の一角に上宮があったイメージが強く心に浮かぶ。上之宮遺跡説は、もはや問題にならないように思えてくる。 むしろ、後世の聖徳太子崇高化に伴って、各地の人々が身近な場所に太子伝説を描きたい心理の一つの現れとして位置づけるべきか。 その上宮から斑鳩宮に遷ることの政治的意義の検討も、今後の課題のひとつである。 |
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2020.09.30(wed) [246] 下つ巻(用明天皇3) ▼▲ |
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![]() 御陵在石寸掖上 後遷科長中陵也 此の天皇(すめらみこと)【丁未年(ひのとひつじのとし)四月(うづき)十五日(とかあまりいつか)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)】。 御陵(みささき)は石寸(いはれ)の掖上(わきのかみ)に在(お)きて、 後(のち)に科長中陵(しながのなかつみささき)に遷(うつ)しまつりき[也]。 この天皇(すめらみこと)【丁未年〔587〕四月十五日崩】は、 御陵(みささぎ)は石寸(いわれ)の掖上(わきのかみ)にあり、 後に科長中陵(しながのなかつみささぎ)に遷されました。 在…[動] (古訓) おきて。 【石寸掖上陵】 《表記》
「掖上」は「池上」の諸写本以前の時期の誤写のようにも思える。 ただ誤写ではなく、ワキ・イケの一方が他方の訛りかも知れない。 《訓み》 「磐余池上陵」は古訓に「磐余ノ池ノカム〔ミ〕ノミササキ」が見える 「上陵」の訓は「~へのみささき」が一般的である。 〈内閣文庫本〉でも、例えば綏靖天皇の陵の訓みに「花鳥田丘上陵」〔安寧紀元年〕が見える。 〔ノウヘは、上代では通例母音融合によってノヘになった。〕 宮殿名「池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)」と合わせて見れば、「イハレノイケノヘノミササキ」が順当であろう。 しかし、次項以下で述べるように「掖上」の方が古い呼び名だったとすれば、 「ワキノカミ」の「カミ」が伝統的に書紀古訓の時代まで残った可能性もあり、一筋縄ではいかない。 《磐余地域の古墳》 推定磐余池に近い古墳には池之内古墳群があるが、これは初期古墳で用明天皇とは全く時代が異なる。 そこでワキが最初の呼び名だったと見て、求める範囲を磐余池周辺から広げてみよう。 近辺のメスリ山古墳は発生期古墳、兜塚古墳は中期古墳で、これらも用明天皇とは時期が合わない。 『国史大辞典』〔吉川弘文館;1979〕を見ると「奈良県桜井市阿部付近と考えられている」とあるので、 阿部(大字)の地域を見てみよう。 この地域には、文珠院西古墳、文珠院東古墳、艸墓(くさはか)古墳、谷首古墳などが見られる。 これらは用明天皇と時期は近いが、位置から考えると安倍氏の墓所であろう。 もし、この地域に磐余池上陵があったとすれば、安倍氏は用明天皇の閨閥であったことになる。 しかし、記紀の系図を見る限り、用明天皇が安倍氏が妃を送り込んで丸抱えにしたようには見えない。 それでは、実は「陵」は築かれなかったという考えはどうであろうか。実際には殯宮であったとすれば、理解しやすくなる。 しかし、敏達天皇には「起二殯宮於広瀬一」で磯長陵への合葬は六年後、すなわち殯宮なら殯宮とちゃんと書くので、 用明だけ築陵した如くに装う必要はないであろう。 在位期間二年は寿陵を造るには短い。にも拘わらず崩御三か月で葬られるから、陵は急ごしらえのごく小規模なものであったことが考えられ、 磐余池の畔にあったが未発見、もしくは後世に開平された可能性もある。
ここで改めて伝統的な陵の立地を見ると、常に宮殿からは離れている。それが大規模に集まったものが古市や百舌鳥の古墳群であると言える。 そこは冥界に通ずる土地とされたのではあろうが、穢れの意識があったことは否めず、陵戸の身分が賤民であったのはその現れと言えよう。 ならば、磐余池上陵も池辺双槻宮から離れているはずである。すると磐余池からは離れることになるから、記の「磐余掖上」こそが本来の名称かも知れない。 磐余池近くにそれらしい陵はなかなか見つからないから、阿部氏の墓所を借りて急ぎ小さな陵を築いたのが意外に真実かも知れない。 【科長中陵】 書紀には〈推古紀〉元年〔593、最初の埋葬から6年後〕に、「河内磯長陵」に改葬されたとある。 〈延喜式-神名帳〉には「河内磯長原陵 磐余池辺列槻宮御宇用明天皇。在河内国石川郡。兆域東西二町。南北三町。守戸三烟。」とある。 現在宮内庁治定の「河内磯長原陵」は、考古学名「春日向山古墳」(大阪府南河内郡太子町春日(大字)、太子町立中学校(春日1479)の西)である。 《春日向山古墳》 『王陵の谷・磯長谷古墳群-太子町の子墳墓-』〔太子町教育委員会;1984。以下〈王者の谷〉〕は、 次のように述べる。
《石舞台古墳》 石舞台古墳は、石舞台古墳解説書 によると、両袖式の横穴式石室で、「残存している墳丘の下段部分は、一辺約50m」で、空濠と外側の堤が確認されているという。 被葬者について、同書は「桃原墓との此の石舞台とを接近せしむ〔=同一と考える〕に十分有力なる証拠」という喜田貞吉説(『歴史地理』19巻4号;1912)を紹介しつつ、 嶋庄遺跡に近いことから「周辺が馬子の支配下にあったことがわかります」と述べるに留め、慎重である。
《築陵時期》 『天皇陵古墳』〔森浩一編、大巧社1996〕は、 「宮内庁の陵墓図からみて全長15~20m程度の大型横穴式石室をもつものとみられ」、 「石室、墳形とも正方位を意識したものと思われ、 その規模とともに考え合わすと本墳を七世紀第二四半期前半〔626~638年〕を中心とした時期にあると考えるのが妥当であろう」と述べる。 正方位を意識しない石舞台古墳と、意識する春日向山古墳との間には一定の年代の差があると考えるのは順当であろう。 ところが、蘇我馬子の薨年は〈推古紀〉によれば三十四年〔626〕で、石舞台古墳が馬子のものであったとすれば、 春日向山古墳はそれより更に年代が下ることになり、用明天皇陵と考えることが難しくなる。 《真陵》 春日向山古墳が用明天皇陵でないとすれば、その真陵はどれか、そして春日向山古墳が誰の埋葬主は誰かという二つの問題が発生する。 そもそも用明天皇がオホキミとしてまつり上げられるようになったのは、推古帝以後のことだと思われる。 『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』に用明天皇が快癒を願って仏像を発願したことを受けて、推古天皇が造像したと載り、 南淵坂田寺木丈六仏像の伝説など、類話が広がったと見られるからである (用明二年)。 恐らくは仏教化を進めようとした先人への尊敬とその病死への同情によって、 そして何よりも厩戸皇子(聖徳太子)の父であることによって存在感が高まったと考えられる。 用明天皇の改葬もその流れにあり、それが春日向山古墳であろうがなかろうが、推古帝のときに立派な陵を築いて改葬したわけである。 仮に春日向山古墳でなかったとしても、真陵が磯長谷にあったことは間違いないだろう。 一方、春日向山古墳への改葬は事実で、ただその記事だけが推古元年に遡って書かれたことも十分考えられる。 というのは〈推古紀〉には単に「改二-葬橘豊日天皇於河内磯長陵一」とあるのみで、その経緯が一切書かれないからである。 春日向山古墳が真陵ではなかったとしても、同じ土地、同時代の類似墳として思いをはせることができよう。 【書紀―二年四月九日~七月】 用明5目次 《二年四月九日~七月》
天皇(すめらみこと)[于]大殿(おほとの)に崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 秋七月(ふみづき)甲戌(きのえゐ)を朔(つきたち)として甲午(きのえうま)〔二十一日〕。 [于]磐余池上陵(いはれのいけのへのみささき、いはれのいけのかみのみささき)に葬(はぶ)りまつる。 《大意》 〔二年四月〕九日、 天皇(すめらみこと)は宮殿で崩じました。 七月二十一日、 磐余池上陵(いわれのいけのへのみささぎ)に葬りました。 【推古天皇紀―元年九月~是歳】 推古2目次 《改葬橘豐日天皇》
橘豊日天皇(とよひのすめらみこと)を[於]河内(かふち)の磯長陵(しながのみささき)に改(あらた)め葬(はぶ)りまつりる。 是の歳。 四天王寺(してむわうじ)を[於]難波(なには)の荒陵(あらはか)に始めて造る。 是の年は[也]、太歳(たいさい、おほとし)癸丑(みづのとうし)〔593〕。 《荒陵》 『伶人町遺跡現地説明会資料』 〔西近畿文化財調査研究所2005年7月16日〕によると、 「古墳時代後期の須恵器坏蓋、円筒埴輪片が出土しました。 古墳そのもの遺構を確認することはできませんでしたが、当地周辺には埴輪を持った古墳の存在が考えられます。」 という。 四天王寺は、本当に古墳を開平して作られたようである。 《四天王寺》 次に四天王寺がでてくるのは〈推古紀〉三十一年で、新羅から仏像他が献上され、 仏像を葛野秦寺に安置した他は、 「以余舎利金塔観頂幡等皆納于四天王寺」〔余(あたし)金塔、観頂幡等を以て皆四天王寺に納む〕とある。 《大意》 〔元年〕九月、橘豊日天皇〔用明〕を河内の磯長陵(しながのみささぎ)に改葬しました。 この年、 四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に初めて造りました。 この年は、太歳癸丑(きちゅう、みずのとうし)〔593〕でした。 まとめ 〈推古〉元年に四天王寺の建立と並べて用明天皇の改葬が書かれるのは、 両者をまとめて仏教の振興の芽として位置づけたものと見られる。 その前の用明二年には「朕思三-欲帰二三宝一」とあり、天皇の意志が仏教化にあったことを示す。 実は、生前には天皇〔当時はオホキミ〕に即位せず、天皇〔同前、以下も〕を追号したのは推古帝以後で、それは仏教化の先人としての栄誉を称えるためではないかと思われるのである。 というのは、穴穂部皇子が三輪逆を斬れと命じて、大連・大臣がそれをあたかも詔のように奉る場面では、天皇の存在が完全に無視されている。 これは無視ではなく、未だ誰も皇位に即いていなかったと見た方が理解しやすい。また、諸臣の議において「違詔」の発言を平気で行ったという書きっぷりも他に例を見ない。 このように、生前の用明「天皇」の影はあまりにも薄く、後世の追号であるように思えるのである。 磐余池上陵への埋葬は皇子としてであり、河内磯長陵への改葬が初めての天皇としての埋葬ではなかったか。 実際の政は、大連・大臣をトップとする合議制であろう。穴穂部皇子と大連の傍若無人な振舞も、天皇不在の故ではなかったか。 |
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2020.10.04(sun) [247] 下つ巻(崇峻天皇1) ▼▲ |
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![]() 坐倉椅柴垣宮治天下肆歲 弟(おと)長谷部若雀天皇(はつせべのわかさざきのすめらみこと)、 倉椅柴垣宮(くらはしのしばかきのみや)に坐(ましま)して、天下(あめのした)を治(をさめたまふこと)四歳(よとせ)。 弟、長谷部若雀天皇(はつせべのわかさざきのすめらみこと)は、 倉椅柴垣宮(くらはしのしばかきのみや)で天下を治められること、四年。 さざき…[名] みそさざい。〈時代別上代〉第二音節には清濁両形〔ささき・さざき〕があった。 【真福寺本】 肆歲→(真福寺本)四歲。 【倉椅柴垣宮】 《柴垣宮》 「柴垣」は、いくつかの天皇の宮殿の呼び名に現れる。その宮殿を廻る垣の美しさをもって美称としたと見られる。 ●反正天皇(第183回) ●顕宗天皇の歌垣で詠まれた歌(第216回)「夜幣能斯婆加岐 伊理多々受阿理」 ●欽明天皇(三十一年) 「幸泊二瀬柴籬宮一」 また「瑞籬」は、その美称を更に際立たせたものと言えよう。 ●崇神天皇の瑞垣宮(第110回) 《倉椅》 桜井市倉橋(大字)は、江戸時代の倉橋村地域を引き継いだものである。 〈五畿内志〉「十市郡」には、
・〈続紀〉慶雲二年〔705〕「○三月癸未〔四日〕。車駕幸二倉橋離宮一。」 とある。「車駕」は文武天皇のことである。 〈五畿内志〉が宮の蹟と述べる金福寺(きんぷくじ)は、崇峻天皇陵(宮内庁治定)の近傍にある。 『日本歴史地名大系』-奈良県(平凡社;1981) によれば、 「寺川西岸に所在。柴垣山と号する会所寺。本尊阿弥陀如来。」、 「明治二十年〔1887〕頃までは崇峻天皇陵比定地の南側にあったが、のち北側の現在地にあった会所の八講堂に移ったと伝える。 なお当寺近くにあった柴垣神社は俗に天皇の神といわれたが、現在は倉橋集落北方に遷座し、倉橋神社と称する。」という。
なお、小字名「天皇屋敷」は、なかなか確認できない。 また金福寺には崇峻天皇の位牌があったと言われる〔『山陵考』による;次回に詳述〕。 《宮の立地》 『天皇陵古墳』(森浩一編。大巧社1996)は、明治政府が治定した「倉椅岡陵」には否定的で、むしろ赤坂天王山古墳(方墳、一辺50m)を有力視している。 陵についての詳細は次回で検討するが、倉椅柴垣宮が金福寺にあったとする説は、天皇屋敷なる地名と位牌の存在に拠るらしい。 ところが前回の用明天皇陵のところで見たように、一般的に陵を宮殿の隣地に築くようなことはしない。 ならば、仮に倉椅柴垣宮を金福寺の場所とするならば、陵の方を遠ざけねばならない。 ただ、江戸時代の金福寺の位置は「倉椅岡陵」と寺川の間の狭い土地なので、宮殿を置く広さはない。 仮にこの近くだったとしてももう少し北で、それでも倉橋の盆地内であろう。 この場所は飛鳥、磐余池、泊瀬など宮殿が何度も置かれた地域ではないが、 寺川が運ぶ土砂による堆積平野で、農業生産力は高かったと思われる。おそらくは、古くから独立的な氏族がいたのだろう。 この地の氏族に関して〈姓氏家系大辞典〉は、 「椋椅部:御名代部の一にして又倉橋部とも、椋橋部ともあり」、 また「大和の椋椅部」について、 「倉椅柴垣宮は十市郡倉橋の地にありしなれば、この地は此の部の起源地と云ふべし。宮址は倉椅山の麓下居村にありと云ふ」と述べる。 ここにある「下居村」は、桜井市下居(大字)が対応するが、下居はすべてが寺川の西の斜面で、宮殿が存在したようには見えない。 その南西の461.8mの山頂が"倉椅山"となるが、いくつかの地図を見る限りではこの山には名前がない。 宮が置かれたことによって、土着の氏族が「椋椅部」として再編成されたように思われる。 宮への交通路としては寺川〔磐余川かと言われる(用明ニ年)〕 の水運が主で、「倉椅岡陵」の南西の辺りに船着き場があり、少し北へ行ったところが宮殿ではないかと想像される。 いつか、掘立柱の穴が見つかることを期待したい。
【書紀―即位前~即位】 崇峻1目次 《泊瀬部天皇》
母(みはは)は小姉君(をあねのきみ)と曰(い)ひたまふ。 【稲目宿祢(いなめすくね)の女(むすめ)也(なり)。已(すでにして)上文(かみつふみ)〔欽明天皇紀〕に見えてあり[也]。】 《大意》 泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)は、天国排開広庭天皇(あまくにおしはらきひろにわのすめらみこと)〔欽明〕の第十二子です。 母は小姉君(おあねのきみ)といいます。 【稲目宿祢(いなめすくね)の娘であることは、すでに上文〔欽明天皇紀〕で見た。】 【書紀―用明ニ年八月~元年三月】 崇峻5目次 《泊瀬部天皇卽天皇之位》
炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)与(と)群臣(まへつきみたち)、天皇(すめらみこと)に勧進(すすめまつりて)天皇之位(すめらみことのくらゐ)に即(つ)きたまはしむ。 蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)を以ちて大臣(おほまへつきみ)と為(し)たまひしこと、故(もと)の如し。 卿大夫(きみつかさたち)之(の)位(くらゐ)、亦(また)故(もと)の如し。 是の月、[於]倉梯(くらはし)に宮したまふ。
大伴糠手連(おほとものぬかてのむらじ)の女(むすめ)小手子(こてこ)を立たして妃(きさき)と為(し)たまふ。 是(ここに)蜂子皇子(はちのこのみこ)与(と)錦代皇女(にしきてのみこ)とを生みたまひき。 《小手子・蜂子》 『聖徳太子平氏伝雑勘文』-「上宮記下巻注云」に、 長谷部王〔泊瀬部天皇〕は「娶大伴奴加之古連女子名古氐古郎女一生二兒波知乃古王錦代王二王一也」 とあり、次の様に対応する。
●小手子:古氐古郎女〔こてこのいらつめ〕。 ●蜂子皇子:波知乃古王〔はちのこのみこ〕。 糠手は「ぬかしこ」とは訓みにくいので、「ぬかて」という別名があったか。あるいは、"之"は"弖"の誤写かも知れない。 「小」はヲと訓む方が多い印象を受けるが、万葉ではコスゲ(古須気)〔=小さい菅〕に「子菅」(万3323)、 「小菅」(万2772他)の表記があるので、「小」にはコという訓みもあったことが確認できる。 蜂子はハチコともハチノコとも訓めるが、ノを入れた方が古い形か。 記には、妃と皇子が載らない。書紀における二子の名前は、『聖徳太子平氏伝雑勘文』と一致する。 書紀には、一般に記の後の調査によると見られる進展がいくつかの個所に見られる。ここでも、記執筆の後に他の資料が見つかったと考えられる。 《妃》 小手子は皇后ではなく、「妃」とされるのが特徴的である。 皇后は原則一人だったようで、敏達天皇には皇后が二人いたが、一人目の広姫は一年も経ない間に三子※を儲けて夭折し、翌年に二人目の御食炊屋姫を迎えるというアクロバティックな筋書きとなっている (敏達紀四年~五年)。※…皇后に立てられる前に産んだ子だとすれば一応成り立つ。 この例のように、妃を皇后として認定するかどうかは重要な問題であった。 皇后の独立的な権力を伺わせる例は、安閑天皇の山田皇后(安閑二年)、 仁徳天皇の皇后八田皇女(第170回・三十一年)、 垂仁天皇の皇后日葉酢媛命(第121回に見られる。 小手子を皇后にしなかったのは、それに値する実績がなかったか。 もしくは、「妃小手子」の資料の発見が遅く、皇后に認定するか否かの結論が書記の完成までに間に合わなかったのかも知れない。 《大意》 〔用明二年〕八月二日、 炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)と群臣は、天皇(すめらみこと)に勧進して天皇に即位していただきました。 蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)を、引き続き大臣となされました。 卿や大夫たちの位もまた、元のままとされました。 同じ月、倉梯を宮とされました。 元年三月、 大伴糠手連(おおとものぬかてのむらじ)の娘、小手子(こてこ)を妃に立てられました。 そして、蜂子皇子(はちのこのみこ)と錦代皇女(にしきてのひめみこ)とをお生みになりました。 【上宮聖徳法王定説―磐余神前宮】 この項の追加:2022.02.22 『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』に「法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩」とある。 この線刻については、「元興寺伽藍縁起…[3]」【法隆寺金堂薬師如来像光背銘】の項で、「法隆寺再建時〔670年以後;資料[49]〕に追刻したと見た。 『上宮聖徳法王定説』〔詳しくは第249回〕の中で、この「鬼前太后」についてのひとつの解釈がなされている。その部分を訓読する。
石寸神前宮=倉椅宮だとすれば話は簡単であるが、倉椅宮は、恐らく「磐余の宮」とは呼ばれない。名前に「磐余」がつく宮はいくつかあったが、すべて磐余池の畔と見られるからである。従って、磐余神前宮もその範囲内であろう。 《遷都か》 〈崇峻紀〉には「八月…即天皇之位。…是月宮二於倉梯一。」〔八月に天皇の位に即き、同じ月に倉梯を宮にする〕とあるから、A宮で即位し、間もなく倉梯宮に遷都したとと読むことは可能である。 「A宮=磐余神前宮」だとすれば、一応辻褄は合わせられる。書記は「是月」とするが、実際にはもっと時期を置いたかも知れない。 「神前宮」は今のところ『上宮聖徳法王定説』にしか出て来ないが、同書の系図のうち記紀と共通する部分には齟齬はない。 よっていい加減な書ではないので、石寸神前宮のことも記紀に書かれていない事実のひとつと見るべきであろう。。 まとめ 崇峻天皇は、政治の中心である飛鳥や磐余から離れたところに宮を置いた。 中心地から離れた天皇の例としては、雄略帝は泊瀬に坐し、また継体帝は楠葉宮・筒城宮・弟国宮に坐した。 いずれも、大連・大臣を遠ざけ親政を志向したと見られる。 思うに、飛鳥や磐余の地には並みいる臣たちの邸宅が並んでいて、そこに居れば諸臣との関わりは煩わしいものがあろう。 特に崇峻の即位前は、物部室屋や蘇我馬子が皇子たちを巻き込んで騒乱の極みにあった。 そして勝利した馬子の鼻息は荒く、崇峻は御輿に祭り上げられていいように使われるのが目に見えている。 だから、馬子らの諸臣がうごめく飛鳥、嶋の庄、上の宮の近辺にはもう居たくない。 崇峻はそのような場所から離れて親政を目指そうとしたことが、倉椅への遷都から読み取れる。 今や独裁者たらんとする馬子はそれが許せず、結局暗殺したのであろう。 |
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2020.11.21(sat) [248] 下つ巻(崇峻天皇2) ▼▲ |
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![]() 御陵在倉椅岡上也 【壬子年(みづのえねのとし)十一月(しもつき)十三日(とかあまりみか)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)[也]。】 御陵(みささき)は倉椅岡上(くらはしのをかのへ)に在り[也]。 【壬子(みずのえね)年〔592〕「十一月(しもつき)十三日に崩じました。】 御陵(みささぎ)は倉椅岡上(くらはしのおかのえ)にあります。 【倉椅岡上陵】 「倉椅岡上」の陵は、書紀では「倉梯岡陵」と表記する。 《延喜式》 〈延喜式-諸陵寮〉は、
平安中期の〈延喜式〉〔927年〕の時点で、陵戸が実際に定められた通りに存在したかどうかは疑わしい。 というのは、〈延喜式〉は養老令の施行規則である『弘仁式』〔820〕、『貞観式』〔871〕を集約したとされるが、多分に復古的な性格の書と見られる。 「陵戸」は、令〔大宝令701年、養老令757年〕で「五色の賤」(資料[35])の一つとして規定されており、 大宝年間に定められていた陵戸の戸数が、そのまま〈延喜式〉に書かれているのだろうと推測される。 仮に崇峻天皇の埋葬後も、蘇我馬子は陵への拝礼を厳しく禁じていたものとして考えてみよう。 すると、蘇我氏の後継である石川氏が大宝年間にも一定の影響力を維持していて、陵の存在の明示と陵戸の設置を認めさせなかったことが考えられる。 《江戸時代》 〈五畿内志-大和国十市郡〉は、
『大和名所図会』は
《山陵考》 『山陵考』〔谷森善臣〕は、 慶応三年〔1876〕に幕府に提出された書。谷森が現地調査によって山城・大和両国の山陵の所在について考証し、四巻にまとめた書。 そこから、崇峻天皇陵の部分を抜粋する。
②では、赤坂天王山古墳が倉梯岡陵であることを否定しつつ、倉梯宮付近に大きな御陵が見当たらないから天王山古墳と言われてきたと述べる。 ③では、金福寺内の千手観音を納めた厨子の前に、「聖徳太子」および「崇峻天皇」と書かれた木製の位牌が並べて置かれているという。 前回見たように、金福寺の元々の位置は「〔宮内庁治定の〕倉埼岡陵」の南とされている。 その「観音堂」について、元禄年間に床板を外してみたが何もなかったと「書かれたもの」を谷森善臣が見たという。 「倉梯岡陵」の拝所に石垣の建物がある。航空写真で屋根の幅を見ると4.76mある(図右のW)。画像から建屋の幅と屋根の幅の比率 (図右のA/B)を計算すると、0.69である。よって建屋の幅=4.76m×0.69=3.28mと推定され、 文中の「一丈一尺」=3.33mに酷似する。ただ石垣の高さは、文中の「二尺余」に対して、写真左からは三尺二寸(約97cm)と算出され不一致である(資料[42])。 この差は、江戸時代には下部が埋もれていたと考えることができる。よって、この建物が『山陵考』のいう「観音堂」に当たると見られる。 谷森自身は赤坂天王山古墳説には懐疑的で、金福寺観音堂の位牌を根拠としてその近辺に倉梯岡陵があるべきだと考えたようである。 これは、次項の北浦定政の考えに通ずるもので、明治政府による治定に繋がっていくと見られる。
「金福寺」東の「崇峻天皇倉梯岡陵」の治定にあたって、 「幕府の代表的な陵墓の研究家北浦定政」は、「崇峻の位牌を祭る金福寺説をとり、「こは御陵の形はなけれど、正しく御陵なるべし」と断を下している」という (『天皇陵古墳』〔森浩一;大巧社1996〕)。 この「崇峻天皇倉梯岡陵」なるものは、『宮内庁書陵部陵墓地形図集成』(右図)を見れば自然地形であるのは明らかである。たまたま崇峻天皇の位牌のある金福寺観音堂の近くの小丘を、「陵」と呼ぶことにしたに過ぎない。 それが、現在に至るも宮内庁によって公的に引き継がれているのである。 《赤坂天王山古墳》 『近畿地方古墳墓の調査三』〔日本古文化研究所1938;(復刻)吉川弘文館1974〕によれば、 「大和赤阪〔ママ〕天皇山古墳」は、 「方形の平面は略ぼ方位の南北線と一致した線上に各辺を置いて、基底の長さは東西百五十尺〔45.5m〕に近く、 南北は約百四十尺〔42.4m〕あり、また高さは約三十尺〔9.1m〕あって、三段構成の形を明示」、 「葺石の形迹がなく、また埴輪円筒片も見当らない」と述べる。 するという。 また、石室については「大石の間隙には巧みに小石を併用してあって、現在なほすこしのくるひもなく」、 「若し、これが暴露しとなると、有名な島ノ庄石舞台に近い景観をなすことが考へられる」。
『天皇陵古墳』〔前出〕によれば、 「今日では、横穴式石室や家形石棺の変遷のあとが整理され、赤坂天王山古墳を六世紀後半に求めることは一致している」という。 《藤ノ木古墳》 もっとも、同書による崇峻陵の一押しは藤ノ木古墳(法隆寺西)で、「1679年(宝永七)の文書では、陵山として、それを崇峻天皇陵と注記」され、 また法隆寺文書の「庚凌寺ミササキ刀禰作 堂辺ニ有」などを挙げ、 藤ノ木古墳が崇峻帝のミササギである可能性を紹介する。そして、 〈延喜式〉で陵地も陵戸も無しとされるのは「その管理や祭祀が法隆寺にうつっていた」からではないかとの「一つの見通し」を述べる。 藤ノ木古墳は、『藤ノ木古墳と古代の河内』〔文化財講座(八尾市1990/9/23)記録集3;八尾市文化財調査研究会報告30〕〕によれば、「直径が47m位の円墳」で、石棺には二体納められている。 一体には頸椎・脊椎・腰椎・足の骨、もう一体は足首のみという。棺内には、鏡、首飾り、金環、金銅製靴、刀、筒型金銅製品などが 「整然と置かれていることから、明らかに内部は荒らされていない」という。 同書の中で、著者の泉森皎は、 ①法隆寺文書(鎌倉時代)に「陵」があるが、「「崇峻天皇陵」と書いてある記録は鎌倉時代の記録には無くて、江戸時代の記録にある」。 ②『紹運録』に「継体十四年辛丑〔520〕降誕天皇元年二月即位六十九、五年〔592〕十月崩七十二、為馬子宿祢技被殺、葬倉橋岡上陵、大和国十市即倉橋宮」とあり72歳で、 欽明・継体がだぶって在位していたという説によっても50歳ぐらい。 ところが藤ノ木古墳で合葬された二名のうち、「墓の主」と考えられる人物の遺体は「医学の上では18から24、5歳まで」。 以上の二点を示し、藤ノ木古墳=崇峻天皇陵説に対しては否定的である。
《寿陵》 もし、即日埋葬した陵が赤阪天王山古墳であったとすれば、既に寿陵として出来上がっていたことになる。 またその石棺について、『近畿地方子墳墓の調査三』は石棺の「大きさは身の長八尺を越え、幅五尺五寸、高さ四尺にも達すべく、これに蓋を加へると、 羨道からそれが運び込まれたかに疑念を生ずる」と述べるから、石室の天上を覆う前に既に石棺が置かれてたのかも知れない。 天皇が寿陵を築いていたと読み取れる例は、〈仁徳天皇〉(六十七年)を初めとして度々見られた。 用明天皇は実際に天皇であったとしても〔第246回で、即位への疑問を述べた〕崩じたときに寿陵は未着手、または未完成であっただろう。どこかの小墳に取り敢えず葬られ、推古元年の改葬が実は正式な葬儀であったと考えることができる。 ここで改葬後の「用明天皇陵」〔の候補とされた春日向山古墳〕と並べて見ると、 共に各辺が東西、南北に正しく沿った方墳で、南の羨口から羨道が北向きに玄室に通じ、埴輪はない。 終末期古墳においては、墳形が前方後円墳から方墳に切り替わると同時に埴輪も一瞬で廃れたと考えられており、両陵の墳形はこの時期として妥当である。 よって、崇峻天皇の在位中に双方の陵を、並行して新スタイルの二陵を築造したと考えることができる。 なお、仮に用明天皇が生前には即位しなかったとしても、崇峻天皇のとき追号されて築陵が始まったことが考えられる。 《群集墳》 赤阪天王山古墳の南北には、幾つかの小古墳が存在する。 倉梯には、倉梯柴垣宮のところに一定規模の都があったと想像される。 一般に、天皇陵が宮から離れた区画に築かれたことは、前回考察した。陵墓の地は、現世と黄泉の境と考えられていたのは間違いないだろう。 だから、日常生活の場所とは離されるわけである。 すると、この古墳群は崇峻天皇の親族や倉橋の地で仕えた氏族の墓所ではないだろうか。 その位置はたまたま倉梯宮から見て艮〔北東〕の方角にあたるが、この時代に鬼門という観念があったかどうかは不明である。
横穴式石室にはしばしば複数の棺が納められるようになり、基本的に出入りが想定されている。 例えば、赤坂古墳(熊本県球磨郡太良木町)の羨門〔羨道の入り口〕の「扉石の中央には装飾把手を丸彫に現している」(『歴史地名大系』平凡社)という。 扉の石は、一般的には「閉塞石」の語が使われるようで、相坂横穴墓群(福岡県北九州市八幡西区)では「閉塞石は一枚か、上下二枚の板石」(同)が見られる。 つまり、必要があれば開けられるものである。 ところが、赤阪天王山古墳の場合、随分閉鎖的に見える。 天王山古墳石室実測図では、羨門付近は土が積み上がっている。 これは、土砂が流入したもので、羨道の本来の底石は破線で示されている。 しかし、羨道に入った所は、不規則な形の大量の石材で塞がれているようで、これが大量の土砂の流入を抑制して入り口付近に積み上がり、奥に向かって下り斜面を作っている。 この石材は開くことを前提とせず、永続的な封鎖を期したと考えられる。 これは、死後も現世との関わりを一切許さないとする、殺害した側の強力な意志の現れと解釈し得る。 《真陵》 以上の考察により、崇峻天皇の埋葬に関しては次の筋書きが想定される。 ① 寿陵は倉梯宮の北東方の墓所〔赤阪天王山古墳のところ〕に方墳という最新の墳形で築陵され、石棺の設置を含めて既に概ね完成していた。 ② 崇峻天皇は倉梯宮(磐余、または飛鳥の宮かも)で弑逆された。 ③ 石棺を運び込む必要がないから、即日の埋葬は可能であった。 ④ その後一定の期間に、蘇我馬子の命令により、羨道に大量の石材を運び込んで入り口を完全に封鎖した。 結局、「赤阪天王山古墳=崇峻陵」という古い言い伝えに分があると思われる。 【書紀―五年】 崇峻8目次 《蘇我馬子宿禰聞天皇所詔恐嫌於己》
山猪(やまのゐ、たけきゐ)を献(たてまつ)りて有り。 天皇(すめらみこと)猪(ゐ)を指して詔曰(のたまはく) 「何時(いつか)、 此の猪(ゐ)之(の)頸(くび)を断(き)るが如く、朕(あが)所嫌之(きらひし)人を断(き)らむ。」とのたまひて、 多(さはに)兵仗(つはもの)を設(まうくること)、[於]常(つね)より異(こと)に有り。
蘇我(そが)の馬子宿祢(うまこのすくね)、天皇の所詔(のたまへるところ)を聞きまつりて、 [於]己(おのれ)を嫌(きら)ひたまふことを恐りて、 儻者(ともがら)を招(を)き聚(あつ)めて、天皇を弑(ころすこと)を謀(はか)りつ。
大法興寺(だいほふこうじ)の仏堂(ぶつだう)与(と)歩廊(ほらう)とを起(た)つ。
馬子宿祢(うまこのすくね)、[於]群臣(まへつきみたち)を詐(あざむ)きて曰(い)はく 「今日(けふ)、東国(あづまのくに)之(の)調(みつき)を進(たてまつ)る。」といひて、 乃(すなはち)東漢直(やまとのあやのあたひ)の駒(こま)をして[于]天皇を弑(ころ)さ使(し)めき。 【或本(あるもとつふみ)に云ふ。 東漢直(やまとのあやのあたひ)駒(こま)は、東漢直磐井(いはゐ)の子(こ)也(なり)。】 是(この)日、天皇(すめらみこと)を[于]倉梯岡(くらはしのをか)の陵(みささき)に葬(はぶ)りまつりき。
大伴(おほとも)の嬪(みめ)小手子(こてこ)、寵(めぐみ)之(の)衰(おとろへてあること)を恨(うら)みて、 [於]蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)に使人(つかひをつかは)して曰(い)はく 「頃者(このころ)山の猪(ゐ)献(たてまつ)りて有りて、 天皇(すめらみこと)猪を指して[而詔]曰(のたまひしく)、 『猪(ゐ)の頸(くび)を断(き)るが如く、何時(いつ)か朕(あが)思ふ人を断らむ』とのたまひき。 且(また)[於]内裏(おほうち)に大(はなはだ)兵仗(つはもの)を作れり。」といふ。 於是(ここに)、馬子宿祢(うまこのすくね)聴きて[而][之(こ)を]驚けり。】
駅使(はゆまづかひ)を[於]筑紫(つくし)の将軍(いくさのかみ)の所に遣(つか)はして曰(いは)く 「[於]内(うち)の乱(みだれ)に依(よ)りて、外事(とのこと)を莫怠(なおこたりそ)。」といふ。
東漢直(やまとのあやのあたひ)駒(こま)、偸(ひそかに)隠(かく)りて蘇我(そが)の娘(むすめ)嬪(みめ)河上娘(かはかみのいらつめ)を妻と為(す)。 【河上娘は、蘇我馬子宿祢の女(むすめ)也(なり)。】 馬子宿祢、忽(おこたりて)河上娘が駒の為(ため)に所偸(ぬすまえしこと)を不知(しらず)ありて、 而(しかるがゆゑに)死去(しにゆけり)と謂(おも)ひき。 駒、嬪(みめ)を汚(けが)してある事顕(あらは)れて、大臣(おほまへつきみ)の為に所殺(ころさゆ)。 《有献山猪》 「有献山猪」は「献二山猪一」が名詞化して事実上の主語となり、 直訳すれば「山猪を献ること有り」だが、「有」には「状態を保つ」意味があるので、助動詞タリに対応させることができる。 これには「(万)0028 衣乾有 ころもほしたり」などの例がある。 タリは、〈時代別上代〉「テ=アリの縮約形と考えられ」、「記紀にはまだ用例がな」いという。 万葉にも「0455 咲而有哉跡 さきてありやと」など縮約前の形が多く見られる。 「山猪」は、漢籍では「豪猪」の意。ヰノシシ〔猪の獣〕なる複合語は、上代でも可能だろう。 平安期の古訓ヰノシシは、「猪」に「獣」を重ねて荒々しさを表そうとしたか。 また漢籍の「猪」は既に「豚」を表すことが多く、イノシシであることを明確に示すために「山」をつけたことも考えられる。 《遣駅使》 朝廷は、事件後直ちに早馬を送って筑紫に集結した軍の動揺を戒めた。 これ自体は当然のことであるが、問題はこの使者を誰の名前で送ったかということである。 使者に持たせる符は、天皇が発行する形式をとるから、「遣レ使詔二于百済一曰」(欽明九年六月)などと表現される。 ここでは、「遣二駅使於筑紫将軍所一曰」と、「詔」の文字がない。 天皇が不在で、また皇太子も定まっていないからである。物部守屋大連亡き今、現在の最高権力者は蘇我馬子大臣だから、符の発行元は大臣となる。 この「遣駅使」は、使者の派遣に天皇名を用いない書紀では珍しい例となる。 《筑紫将軍》 前年十一月に任那再興のための二万余の軍勢を筑紫に集結させ、 巨勢猿臣、大伴囓連、葛城烏奈良臣が大将軍に任じられた (崇峻四年)。 そこに崇峻天皇の暗殺という事態が生じたので、将軍に対して「内乱に左右されずに外に備えよ」と通知を出した。 壬子年〔592〕は、新羅:真平王十四年、高句麗:嬰陽王三年、百済:威徳王三十九年に該当する。 この倭軍の遠征は、『三国史記』にはどのように記されていたのだろうか。
『三国史記』のこの時期の戦争に関する記述を拾い出したのが、右表である。 これを見ると、577年の百済・新羅紛争、603年の新羅・高句麗紛争については、当事国の双方の記録は概ね一致しているから大体は史実通りであろう。 ところが、崇峻天皇前後の時期の三国情勢は、予想に反して平穏な状態が続く。 そこで、筑紫への軍集結の記事をもう少し綿密に検討してみる。 すると、〈崇峻四年〉の二万の軍勢がその後どうしたが、すなわち実際に侵攻したか、それとも渡海せずに解散したかについて、書記にははっきりとは書かれていない。 〈推古八年〉にも新羅への攻撃が書かれ、そこには戦果も書かれる。しかし、〈崇峻四年〉には戦闘の様子や戦果については一切書かれていないから、筑紫に集まっただけで渡海はしなかったのであろう。 〈推古三年〉に「将軍等至レ自二筑紫一」とあるから、これが軍の解散だろう。あるいは、兵は既に帰郷して将軍だけが残っていたことも考えられる。 倭は軍勢の準備と同時に、吉士(きし)木蓮子(いたび)を遣わして「問二任那事一」というから、 交渉を有利に運ぶために、返事によっては軍を送る構えを見せたのであろう。このときに一定の言質を得て軍勢を解いたとすれば、その経過を矛盾なく理解することができる。 なお、〈推古八年〉の記事では、境部臣大将軍・穂積臣副将軍が一万余を率いて新羅を攻撃し、 多々羅、南加羅など含む六城の割譲を受けたとする。 この時期、新羅の北部戦線が騒がしくなったようで、603年には新羅王親征に至る。 その頃に南部では任那〔実際は加羅の地域;当時は新羅の支配下〕で反乱が起こり、それに乗じて倭が派兵した可能性はある。詳細は〈推古紀〉で考察する。 〔その結果、実際に派兵された可能性は低いと思われる(推古八年)。〕2021.03.28付記 《東国之調》 蘇我馬子は「東国之調」があると言って偽の朝貢の儀式を設定し、臨席した天皇を東漢直駒に殺させたわけである。 〈安閑二年〉の屯倉設置を見ると、緑野屯倉のある上毛国あたりまでが国内として直轄され、それより東は朝貢国として扱われていたことが、このことから伺える。 西に目を向けると、〈天武紀十一年〉に方物〔特産品の貢〕を献上するために隼人・多禰人・掖玖人・阿麻彌人〔鹿児島、種子島、屋久島、奄美大嶋〕が訪れて接待した記事があり、 この地域も朝貢国扱いであったことが参考になる。因みに〈安閑二年〉に記す最も西方の屯倉は、「火国春日部屯倉」(熊本市付近)である。 《東漢直駒》 天皇殺害を画策したのが馬子であることは既に明らかなのだが、計画では犯人不明にしておきたかったのかも知れない。 だとすれば東漢直駒を殺したのは、実行犯に口封じするためであろう。駒が馬子の娘と通じたとされることの真偽は分からないが、口実は何でもよいのである。 《大意》 五年十月四日、 山の猪(いのしし)が献上されました。 天皇(すめらみこと)は猪を指さし、 「いつか、 この猪の首を断つのと同じように、朕の嫌う人の首を断とう。」と仰り、 多くの兵仗を設け、異常な様子でした。 十日、 蘇我の馬子宿祢(うまこすくね)は、天皇のこのお言葉を聞き、 自分を嫌っておられることを恐れ、 仲間を招き集めて天皇を殺害せんと謀りました。 同じ月、 大法興寺(だいほうこうじ)の仏堂と歩廊(ほろう)を建てました。 十一月三日、 馬子宿祢は群臣を欺いて 「今日、東(あずま)の国から貢物を進上いたします。」と言い、 東漢直(やまとのあやのあたい)駒(こま)に、天皇を弑逆させました 【ある出典では、 東漢直駒は、東漢直磐井(いわい)の子である】。 同日、天皇(すめらみこと)を倉梯岡(くらはしのおか)の陵(みささぎ)に埋葬しました。 【ある出典にいう。 大伴が納めた姫、小手子(こてこ)は寵愛が衰えたことを恨み、 蘇我馬子宿祢に使人して 「最近、山の猪(いのしし)が献上され、 天皇(すめらみこと)は猪を指さして 『猪の首を絶つが如く、いつか朕が思う人を断とう』と仰られた。 重ねて、内裏に大兵仗を用意している。」と言った。 そして、馬子宿祢はこれを聞いて驚いた。】 五日、 早馬を筑紫の将軍の所に遣わして、 「内乱によって、外事を怠ってはならぬ。」と伝えました。 同月、 東漢直駒は、密かに隠れて蘇我の姫の河上娘(かわかみのいらつめ)を妻としました 【河上娘は、蘇我馬子宿祢の娘である】。 馬子宿祢は、うかつにも河上娘が駒に盗まれたことを知らず、 死んだと思っていました。 駒は姫を汚した事が露見し、蘇我馬子大臣(おおまえつきみ)によって殺されました。 まとめ 金福寺は確かに崇峻帝に縁の地であったと思われるが、だからそこが即崇峻陵だとするのは全く短絡的であろう。 歴代天皇の宮から陵が離れて置かれた伝統を考慮せず、そもそもその土地に陵と言い得るものがあるのかという論理的な考察を欠く、お粗末な判断と言わざるを得ない。 さて、赤坂天王山古墳が倉梯岡陵だと仮定してみると、用明陵と双子の古墳として崇峻帝在位期間に築陵されていたこと、 宮から陵までの距離、羨道の封鎖、陵戸が置かれなかったことなど数々の点において説明が可能となる。 崇峻帝が飛鳥や磐余から離れて倉梯を宮としたのは、蘇我氏の傀儡になることを拒否するためだと前回考察した。 埋葬後の陵に対する仕打ちが本当なら、独立志向を見せた崇峻に対する対する馬子の敵愾心が、並々ならなかったと感じさせる。 羨道の封鎖は、魂をも永遠に閉じ込める。また陵戸の未設置は祭祀の禁止を意味し、その結果所在地の伝承すら消滅するだろう。 その執念が時代を越えて幕末の人にまで作用を及ぼして、判断を誤らせたのかも知れない。 |
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⇒ [239] 下つ巻(推古天皇) |