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[243]  下つ巻(敏達天皇4)

2020.08.14(fri) [244] 下つ巻(用明天皇1) 

弟橘豐日命坐池邊宮治天下參歲
弟(おと)橘豊日命(たちばなとよひのみこと)、池辺宮(いけのへのみや)に坐(ましま)して、天下(あめのした)を治(をさ)めたまふこと、参歳(みとせ)。


弟の橘豊日命(たちばなとよひのみこと)は、池辺(いけのへ)の宮にいらっしゃり、三年の間天下を治められました。


【真福寺本】




 真福寺本は、「弟橘豊日王坐池邊宮治天下三歲」。
 すなわち、(みこと)⇒(みこ)、
欽明天皇紀
即位前~即位
元年正月
元年五月
二年四月二日
二年四月九日~七月

【書紀―即位前~即位】
用明1目次 《橘豐日天皇》
…[名] (古訓) みち。のり。つね。ことはる。
神道…〈汉典〉①墓前的道路。②自然造化的道理。泛指天理、天道。③神祇。
 〈内閣文庫本〉タウトヒ玉フ
 〈北野本〉玉フ-道
橘豐日天皇、天國排開廣庭天皇第四子也、
母曰堅鹽媛。
天皇信佛法尊神道。
十四年秋八月。
渟中倉太珠敷天皇崩。

橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)〔用明〕は、天国排開広庭天皇(あまくにおしはらきひろにはのすめらみこと)〔欽明〕の第四(だいし、よはしら)の子(みこ)也(なり)、
母(みはは)は堅塩媛(きたしひめ)と曰(い)ひたまふ。
天皇、仏法(ほとけののり)を信(う)けたまひて神道(かみののり、かみのみち)を尊(たふと)びたまふ。
十四年(ととせあまりよとせ)秋八月(はつき)。
渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらふとたましきのすめらみこと)〔敏達〕崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。



池辺双槻宮…〈甲本〉雙槻ナミツキ。   
〈内閣文庫本〉池邊雙槻ナミツキノ
〈北野本〉池邊〔イケ?〕ノヘノ
…〈内閣文庫本〉モトノ
九月甲寅朔戊午。
天皇卽天皇位。
宮於磐余、名曰池邊雙槻宮。
以蘇我馬子宿禰爲大臣
物部弓削守屋連爲大連
並如故。

九月(ながつき)甲寅(きのえとら)を朔(つきたち)として戊午(つちのえうま)〔五日〕
天皇(すめらみこと)、天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。
宮を磐余(いはれ)に於(お)きて、名を池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)と曰ふ。
蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)を以ちて大臣(おほまへつきみ)と為(し)て、
物部弓削守屋連(もののべのゆげもりやのむらじ)を大連(おほむらじ)と為(し)たまふこと、
並(な)べて故(もと)の如し。

酢香手姫皇女…葛城直磐の女、広子との間の皇女(次回)。
日神…天照大神。
炊屋姫天皇紀…「炊屋姫天皇紀」というが、〈推古天皇紀〉に酢香手姫皇女の記事は見当たらない。
壬申。
詔曰、云々。
以酢香手姬皇女、拜伊勢神宮奉日神祀。
【是皇女。
自此天皇時逮乎炊屋姬天皇之世、奉日神祀。
自退葛城而薨。見炊屋姬天皇紀
或本云。
卅七年間奉日神祀、自退而薨。】

壬申〔十九日〕
詔(みことのり)、云々(しかしか)と曰(のり)たまひて、
酢香手姫(すかでひめ)の皇女(みこ)を以ちて、伊勢神宮(いせのかむみや)を拝(おほ)して日神(ひのかみ)の祀(まつり)を奉(たてまつ)らしめたまふ。
【是の皇女(みこ)。
此の天皇の時自(より)[乎]炊屋姫天皇(かしきやひめのすめらみこと)〔推古〕之(の)世(みよ)に逮(いた)りて、日神(ひのかみ)の祀(まつり)を奉(たてま)つりき。
自(みづから)葛城(かつらき)に退(しりぞ)きて[而]薨(こうず、みまかる)。炊屋姫天皇紀(かしきやひめのすめらみことのふみ)を見よ。
或本(あるもとつふみ)に云ふ。
三十七年(みそとせあまりななとせ)の間(ま)日神(ひのかみ)の祀(まつり)を奉(たてま)つりて、自(みづから)退(しりぞ)きて[而]薨(こうず、みまかりき)。】

《堅塩媛》
〈北野本
-用明〉
(同左)コントラスト強調
〈甲本
-欽明〉
 堅塩媛は、記では「岐多斯比売」(第239回)。
・〈欽明紀〉二年三月には、原注に「岐拕志〔きたし〕
・〈甲本-欽明〉は「キタシホ」。〈北野本-用明〉は「カタシヲ」。
・〈倭名類聚抄〉「黑鹽:今案呼黑鹽爲堅鹽日本紀私記云堅鹽木多師是也〔今案ずるに、黒塩を呼び堅塩につくる。日本紀私記に堅塩をキタシと云ふは、是なり〕
 私記〈甲本〉が、原注と相違することは戸惑わせるが、転写を重ねるうちに「」が加わったのかも知れない。
 〈北野本-用明〉の「カタシヲ〔ホ〕」は、欽明紀を読んでいればあり得ない。 平安の古訓にはこのレベルが混ざっていることに、注意を払う必要がある。
 一方、(万)0892 堅塩乎 かたしほを」のように「かたしほ」ともいったようである。 〈時代別上代〉は「かたしほ:精製していない固形の塩。」とするとともに、 「きたし」も同じ意味の語として見出し語に立てる。
 記の表記「岐多斯比売」を見れば、妃の名がキタシヒメであったことは明らかで、 書紀が「堅塩」の字をあてたのは、「かたい塩」がキタシと呼ばれていたことによると見られる。 ところが、〈欽明紀〉が原注を添えたのは、カタシホという語も存在したからだと思われる。
《神道》
 中国語としての神道は、〈汉典〉を見ると汎神論的な神〔天体の運行など、自然の中で感じ取られる「神」〕を指すようである。 しかし、この段では仏法の対立概念として現れるから、倭国古来の神を指す。すなわち、古事記上巻や神代記に描かれた天照大神などの神祇である。
 「みち」ついては、万葉集では圧倒的に通行する「道」の意味で使われるが、中には「(万)0892 可久婆可里 須部奈伎物能可 世間乃道 かくばかり すべなきものか よのなかのみち」のように、世間のしきたりの意味でも使われる。 また、漢字「」の古訓には「のり」もある。
 「のり」は、法律あるいは道徳的な規範、方法や技術などに幅広く使われる語である。宗教における教典も「のり」である。 〈時代別上代〉はノリは「ルの名詞形に由来するものであろうか。ノルは重々しく重要な事柄を宣言すること。 宣言されたノリは規則であり、また結局慣習であった。転じて典型・方法の意にも及ぶ」と述べる。
 よって、仏法が「ほとけの〔み〕のり」と訓読されるのは至極当然で、神道もまた「かみののり」であろう。 しかし、古訓では属格の助詞「」が入っているから訓読みで、かつ傍訓がないから普通にカミノミチと訓んだと思われる。
《酢香手姫皇女》
 妃と皇子・皇女のリストは元年正月朔日条でまとめて示されるが、酢香手姫皇女の話はそれに先行している。 妃の納を特定の日に集約するのは、全くの形式である。
 書紀は、〈継体紀〉元年の原注において 「雖有先後而…占-択良日初拝後宮文。他皆効此。〔実際に納めた日には後先があるが、占いで良い日を決め、その日に初めて後宮を拝すと文につくる。他の代の天皇でも同様である〕 と包み隠さず述べる。
《拝伊勢神宮奉日神祀》
 伊勢神宮に皇女を奉り、祭祀を担わせる「斎王」の制度が確立したのは、天武天皇のときである。 天武天皇は神道の復興を期し、天照大神を祀る伊勢神宮をその中核と位置付けたと見られる。
 天武朝以前から時折見られた皇女の派遣は、斎王を古くから伝統の如く描くために、過去に投影した可能性がある。 〔〈垂仁〉第116回、 〈雄略〉元年、 〈継体〉231回
 しかし、日神月神への祭祀の再構築は〈顕宗紀〉三年にあったから、 天照大神を中心とする神道はずっと底流をなしていたと見た方がよいだろう。 敏達の直前まで続いてきた前方後円墳という墳形も、そのひとつの現れであろう。
 そうして見ると、伊勢への皇女の派遣は天武以前にも時にはあったと見るのが妥当であろう。
 〈用明紀〉冒頭にあるように天皇が仏法を信じ、神道も尊ぶ人物であったのならば、バランスをとるために皇女に伊勢神宮を拝したと読める。 しかし、推古朝に至り、そこにある「自退」という表現は重い。朝廷は仏教に浸っていて、 神道は見向きもされなくなったのであろう。そして伊勢神宮の酢香手姫皇女は、あわれ放置されたのである。 祭礼の日を迎えても使者は来ず、奉納の品も届かなくなり、かと言って神宮奉斎の任を解くとも言わない。 仕方なく自分の判断で故郷に帰ることにした。それが「自退葛城」の四文字である。
 ところが、「見よ」と言われて〈推古紀〉をいくら探しても、酢香手姫皇女の話は出てこない。 あまり芳しくない話だから、省かれたのであろうか。
 ただ〈推古紀〉に入らなかった本当の理由は、この伝説が史実として確認できなかったためかも知れない。 しかし仮に伝説であったとしても、朝廷の関心が仏教に遷ったという一般の感じ方を反映したものであろう。
《大意》
 橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)〔用明〕は、天国排開広庭(あまくにおしはらきひろには)の天皇〔欽明〕の第四子で、 母は堅塩媛(きたしひめ)です。 天皇は仏法を信じ、神道を尊ばれました。
 〔敏達〕十四年八月(はつき)、 渟中倉太珠敷(ぬなくらふとたましき)の天皇〔敏達〕は崩じました。
 九月五日、 天皇は、天皇に即位されました。 宮を磐余(いわれ)に置き、その名を池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)といいます。
 蘇我馬子宿祢(そがのうまこのすくね)を大臣(おおまえつきみ)、 物部弓削守屋連(もののべのゆげもりやのむらじ)を大連(おおむらじ)として、 ともに元のままとされました。
 十九日、 詔を云々され、 酢香手姫(すかでひめ)の皇女(ひめみこ)を、伊勢神宮に拝し、日神〔=天照大神〕を奉祭させました。 【この皇女(ひめみこ)は、 この天皇の時より炊屋姫(かしきやひめ)の天皇〔推古〕の御世に至り、日神を奉祭し、 自ら葛城に退き薨じた。炊屋姫天皇紀を見よ。 或る出典によると、三十七年間日神を奉祀し、自ら退いて薨じたという。】


【池辺双槻宮】
 池辺双槻いけのへのなみつきのについては、継体天皇の磐余高穂宮(第231回)のところで既に考察したところである。 磐余池は人工的に堤を築いて作ったダムであったことが確認されている〔東池尻・池之内遺跡〕。 これまでにその畔に置かれたと見られる宮として、 稚櫻宮(神功皇后・履中)、甕栗宮(清寧)、玉穂宮(継体)があり、稚桜神社御厨子神社などが伝承地となっている。
 ここで、複数の天皇の宮が同じところに置かれた例を見ると、雄略武烈欽明泊瀬地域があり、脇本遺跡に大規模な宮殿跡が検出されている。
 同じく難波にも大隅宮(応神)、高津宮(仁徳)、難波大蔵省(副都;天武)、長柄豊崎宮(孝徳)、難波京(副都;聖武)が置かれた。
 また飛鳥京として、遠飛鳥宮(允恭)、近飛鳥八釣宮(顕宗)、小墾田宮(推古・皇極)、飛鳥飛鳥浄御原宮(天武・持統)がある。
 難波京は、三韓や中国との外交の窓口で、交通の拠点だから、どの天皇のときにも継続的に副都として機能していたと考えられる。 一般的に複数の天皇の宮殿と書かれた場所は、基本的に掘立柱建造物群が継続的に管理され、政治的に機能し続けていたと考えられる。
 ならば、磐余の宮においても、小さな宮がその都度建ったというよりも、 一定の場所に掘立柱建物群が継続的に存在していたと考えるべきであろう。
東池尻・池之内遺跡案内板(上が北) 〈同左〉稚桜神社周辺を拡大(下が北)
《小字名から探る》
 東池尻・池之内遺跡現地案内板の地図には、 小字名が詳しく書かれている。これを見ると、その宮殿跡の候補地がすぐに見つかる。
 それは、若櫻神社の小字名「宮地」、「○垣内」、「宮ノ下」、「大門」である。 「宮地」には中心的な建物としての「宮」があり、「垣内」は建物群を囲う垣の存在を伝えたと見ることができる。
 ところが、「宮地」は山城跡のようにも見える。 すると「垣内」全体は城郭、「大門」は大手門で、もしそうだとすれば戦国時代だから、「宮殿跡」説はもろくも瓦解する。 試しに、城郭放浪記ニッポン城めぐり を見ると、この地域に近いのは 「大和・雷ギヲン城」「大和・奥山城」であるが、若櫻神社のところに城跡はない。
 立地が適するから砦程度があった可能性は残るが、あっても一時的なもので、城郭が「垣内」と地名化するほどの永続的な城はなかったと考えてよいだろう。
 ひとまずは安心だが、次には「垣内」の地名が飛鳥・奈良時代まで遡り得るのかという問題が立ちはだかる。
《垣内》
 『奈良県史14』(奈良県史編纂委員会、名著出版;1985)によると、 「垣内カイトはカキのウチの義…民部カキベ〔部曲〕 のカキも区画するということで、古代豪族の下に区画された集団を意味した。 カイトはカイウチ→カイチの転訛したもので、記録に至っては奈良朝以降、各時代にみられる」、 「カイトに「垣外」の文字を充用し、カイゲと読み、「戒外」の嘉字を使用した例もみられた」という。 「磐余池」想定域の中央を流れる川の名も「戒外川」である。
 同書はさらに、「いわゆる「垣内」という概念は古くから存していたわけで、…神武紀に…「玉内国」…、 崇神紀…瑞垣は三輪山麓の俗称水垣内として今なお神聖視されている。 また『万葉集』にも「吾妹児もこが家の垣内かきつ佐由理花由理……」」などと述べる。
 〈時代別上代〉は、「かきつ[垣内]」の項で「カキ=ウツ(ウチの交替形)とも、 またトは場所を示し、カキ=トがカキツに転じたとも考えられる」と述べる。
 これらを見ると、「垣内〔上代はカキツ〕・「宮地〔ミヤトコロ〕という地名が上代まで遡ることもあながちないとは言えない。 もともとは、中垣内東垣内西垣内北垣内上垣内戌亥〔=北西、乾とも〕垣内が宮殿の「垣の内」であったことが伺われる。
《堤の東側部分》
 案内図で赤色の点線で示された範囲は、磐余池を堰き止めたの東側部分にあたると理解される。 小字大納言西垣内には小山状の等高線があるから、点線範囲は自然地形が堤として利用されたと見られる。 それは、幅100mの細長い台地で、ちょうどこの点線のところに「」があったとすれば「垣内」なる地名がうまく説明できる。 メインとなる宮殿は「宮地」のところであろうが、「○垣内」全体に付属する殿や邸宅が散在していたと想像される。 小字「大納言」にはまさに大納言の邸宅があったのではないか。 〔大納言は、職員令で太政官のひとりとして規定されている。(資料[24])〕宮地」は山の上であるから、天皇執務用の施設ではなく祭祀場だったのかも知れない。
 つまりは、人工ダムである磐余池の堤の東半分として利用された土地には、同時に宮殿と関連建物が並んでいたわけである。
 その垣の中の建物のどれかを継体帝や用明帝が宮として使用したと考えてもよいのではないだろうか。 この「垣内」全体の広さは、東西約170m、南北約260mに及ぶ。 ただ、この区域の遺跡調査報告書は今のところ見つからない。
 一般的に発掘調査のきっかけは、道路工事などの事前調査として(秋津遺跡など)、あるいは建築工事による偶然の発見(鴨都波一号墳など) が多い(第105回)。
《履中天皇稚櫻宮》
 小字名「稚桜」は、〈履中紀〉の桜花伝説及び稚櫻神社に由来すると見られる。 この伝説を負う稚桜部の発祥はこの辺りであろうと思われるが、 〈姓氏家系大辞典〉は「若狭」国造が起源ではないかと述べる (〈履中紀〉三年)。
 履中天皇の「稚櫻宮」は、その地に継続的に宮殿が存在していたからこそ、桜花伝説から延長してそこを稚櫻宮を当てはめたようにも思える。 つまり、有数の宮殿が建っていたという記憶に、桜花伝説が後付けで結びついたのではないだろうか。
 神功皇后に至っては架空の人物であるが、履中朝の三韓外交を神功皇后に移したのに伴って稚櫻宮もくっついていったと考えられる (〈神功皇后紀〉三年)。

まとめ
 第115回〈履中紀〉三年において、 履中紀の桜花伝説の「市磯池」は磐余池の一部分の名称ではないかと考えた。 磐余池の堤工事がいつ行われたかは明らかではないが、やはり第115回において 「依網池」の最初の工事は仁徳朝まで遡る可能性を見た。 仁徳朝では積極的に治水や水利のための土木工事を行い、農業生産力を高めた時期と性格付けられている。 大仙陵古墳〔伝仁徳天皇陵〕などを見れば、土木作業担当集団の実力は十分だから、一概に伝説とは片づけられないと考えて来た。
 そうなると、磐余池についてもその後拡充があったとしても、少なくとも最初の工事は履中朝の頃まで遡ると考えることが可能となる。 履中天皇の稚櫻宮が、実際に磐余池のところにあったかどうかはなかなか判断し難いが、 継体・用明については今回磐余池の自然堤部分に宮殿があった可能性を見るに至った。 磐余に宮殿が置かれたようになった時期や変遷については、磐余池の造営との関係のもとに検討するのが有意義であろうと思われる。



2020.08.27(thu) [245] 下つ巻(用明天皇2) 

此天皇娶稻目宿禰大臣之女意富藝多志比賣
生御子多米王【一柱】

此の天皇(すめらみこと)稲目宿祢大臣(いなめのすくねのおほまへつきみ)之(の)女(むすめ)意富芸多志比売(おほきたしひめ)を娶(めあは)せて、
御子(みこ)多米王(ためのみこ)を生みたまふ【一柱(ひとはしら)】。


又娶庶妹間人穴太部王
生御子上宮之厩戸豐聰耳命
次久米王
次植栗王
【四柱】

又、庶妹(ままいも)間人穴太部王(はしひとのあなほべのみこ)を娶せて、
[生]御子(みこ)上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやどのとのとみみのみこと)、
次に久米王(くめのみこ)、
次に植栗王(ゑくりのみこ)、
〔次に茨田王(まむたのみこ)を〕うみたまふ【四柱(よはしら)】。


又娶當麻之倉首比呂之女飯女之子
生御子當麻王
次妹須加志呂古郎女

又、当麻之倉(たいまのくら)の首(おびと)比呂(ひろ)之(の)女(むすめ)飯女之子(いひめ)を娶せて、
[生]御子(みこ)当麻王(たいまのみこ)、
次に妹(いも)須加志呂古郎女(すかしろこのいらつめ)をうみたまふ。


 この天皇(すめらみこと)は稲目宿祢大臣(いなめのすくねのおおまえつきみ)の娘、意富芸多志比売(おおきたしひめ)を娶り、 多米王(ためのみこ)をお生みになりました【一柱】。
 また、異腹の妹、間人穴太部王(はしひとのあなほべのみこ)を娶り、 上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやどのとよとみみのみこと)、 次に久米王(くめのみこ)、 次に植栗王(えくりのみこ)、 〔次に茨田王(まむたのみこ)〕をお生みになりました【四柱】。
 また、当麻之倉(たいまのくら)の首(おびと)比呂(ひろ)之(の)女(むすめ)飯女之子(いひめのいらつめ)を娶り、 当麻王(たいまのみこ)、 次に妹、須加志呂古郎女(すかしろこのいらつめ)をお生みになりました。


上宮之厩戸豊聡耳命…〈氏庸本〉上宮ウハツミヤノ厩_戸ムマヤト豊_聡_耳トヨミゝトシノ
當麻之倉首…〈氏庸本〉當麻タヘマノ倉首クラノヲム
当麻…〈倭名類聚抄〉{大和国・葛下郡・當麻【多以末】〔たいま〕}。 〈姓氏家系大辞典〉は、「當麻 タギマ タイマ:」。 〈履中天皇段〉歌謡には「當藝麻知袁能流〔たぎまちをのる〕(第177回)。

【真福寺本】
氏庸本
真福寺本
《茨田王》
 真福寺本では「茨田王」が脱落している。また、〈氏庸本〉でも脱落している。 『上宮正徳法王定説』では「次 久米王 次殖栗王 次茨田王」、書紀では「其四曰茨田皇子」で、 これらを見れば「茨田王」を補うのは当然であろう。
《飯之子王》
 「飯女之子」が、真福寺本では「飯之子王」となっている。
 〈氏庸本〉は、「比呂之ムスメイヒ-女之。生御-子當-麻王 次_妹須賀志召古郎_女イラツメ〔…比呂の女(むすめ)、飯女(いひ〔め〕)の之を娶て、御子當麻の子王〔ひこみこ?〕、次の妹須賀志召古の郎女(いらつめ)生〔あれます?〕〕

【間人穴太部王】
 間人穴太部王は、欽明天皇段では名は「三枝部穴太部王。亦須売伊呂杼」で、母は蘇我稲目の女小兄比売である。 〈用明紀〉では「穴穂部間人皇女」、〈欽明紀〉では「泥部穴穂部皇女」で、母は蘇我稲目の女小姉君である。
 間人穴太部王は一時期、丹波国間人(たいざ)に住んだという伝説がある。 『丹波旧事記』によれば、兄の間人穴太部王(書紀では弟で泥部穴穂部皇子)が蘇我馬子に殺されたので、 身の危険を感じた穴太部王(穴穂部間人皇女)は丹波国間人に避難したという設定になっている (第239回)。
 名前につく「穴穂部」は、安康天皇の御名代が地名化し、その土地に宮殿があったことに由来すると見た(第239回)。 さらに「三枝部」、「泥部」という氏族名を負い、その謂れは今のところ不明であるが、 皇位を狙う穴穂部皇子と共に、広範な地方勢力を束ねていたことも考えられる。 穴穂部皇子〈敏達紀〉十四年八月に、「天下」と書かれている。
 結局、純粋な名前の部分はハシヒトである。

【當麻之倉首比呂之女飯女之子】
 「当麻之倉首比呂之女飯女之子」は書紀と相違し、 また「飯女之子」も名前らしくない名前で、何かと問題をはらんでいる。
 『上宮聖徳法王帝説』(以下〈帝説〉)では、対応する部分は 「又天皇娶葛木當麻倉首名比里古女子伊比■郎女.生児乎麻呂古王、次須加弖古女王」となっている。
《當麻之倉首》
 記では父の名は「當麻之倉首比呂」だが、 書紀では「比呂〔広〕を娘の名前の方に持ってきて「葛城直磐村女廣子」となっている。 〈帝説〉は、「当麻之倉首」と「葛城」が合体して記紀をミックスした形になっている。
上宮聖徳法王帝説
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「女」と仮定したときの推定→
 〈帝説〉では「比里古」だから、記の「比呂」は、「比呂古」から""が脱落したものか。
 一方、書紀ではこれが娘の名「広子」に遷されて、父の名は「磐村」とする。 広子〔ひろこ〕も、比里古〔ひりこ〕と同一と見られる。
《飯女之子》
 娘の名を、岩波『日本古典文学体系』は「飯女之子」とし、一応これが標準とされているが、普通に読めば一つの人名とは言い難い。
 真福寺本は「飯之子王」、氏庸本は「飯女之」で、ともに不審である。 ここは早々に破損した箇所で、様々に補って解釈されてきたのであろう。
 〈帝説〉は「伊比郎女」としていて、これが最も名前らしい名前である。 だとすれば、記の原型は「飯■王」であったかと思われる。が「女」だとすると比較的うまく収まるのだが、読み取れる部分の形は〈帝説〉の他の多数の「」とは、明らかに異なっている。 と訓み得る字には、()、()。字形から考えられる形は、など。
 もしかしたら他にもあるのかも知れないが、今挙げたものはどれも当てはまらない。 一度は「」を棄てたのだが、実はやはり「」かも知れない。左縦線を勢いで伸ばし過ぎ、上に戻してから曲げたように見えないこともない()。 他の文字候補よりはましのようにも思える。
 本サイトでは最初に誤写される前の形が「飯女郎女」であったと仮定して、「いひめのいらつめ」と訓読しておく。

【書紀―元年正月】
用明2目次 《立穴穗部間人皇女爲皇后》
元年春正月壬子朔。
立穴穗部間人皇女爲皇后。
是生四男。

元年(はじめのとし)春正月(むつき)壬子(みづのえね)の朔(つきたち)。
穴穂部(あなほべ)の間人(はしひこ)の皇女(みこ)を立たして皇后(おほきさき)と為(し)たまひて、
是(ここに)四男(よはしらのみこ)を生みたまふ。

北野本
豊耳聡聖徳…〈甲本〉厩戸豊聡耳ウマヤトノトヨハヤキミゝノウマゝトノトヨホミゝノ
 〈釈紀-秘訓〉豊耳聡聖徳トヨミゝトシヤウトク豊聡耳法大王トヨキゝミゝノリノオホキミ。【私記曰。愚案。豊浦寺旧記為馬屋戸皇子。】法王ノリノオホキミ
 〈北野本〉マタノ-名豊-ミゝ-トシ聖-德或豊-聡 トシ -耳法大-キミト或云法-主-王ノヌシノミコ 〔またの名 とよみみとしの聖徳 或は とよとしみみのりのおほきみ 或に云ふ のりのぬしのみこ〕
 〈丈六光銘等与刀禰々〔弥々〕大王〔とよとみみのおほきみ〕
上宮…〈北野本〉上-宮カミツミヤニ ノチニハ斑-鳩イカルカヲ
 〈内閣文庫本〉マシマシテ 上宮カムツミヤニ
其一曰廐戸皇子
【更名豐耳聰聖德、或名豐聰耳法大王、或云法主王】、
是皇子初居上宮、後移斑鳩、
於豐御食炊屋姬天皇世、位居東宮、
總攝萬機、行天皇事、語見豐御食炊屋姬天皇紀、

其の一(ひとはしら)は[曰]廐戸皇子(うまやどのみこ)
【更名(またのは)は豊耳聡聖徳(とよみみとのしやうとく)、或名(あるな)は豊聡耳法大王(とよとみみのりのおほきみ)、或(ある)に云はく法主王(ほうしゆわう)】といふ。
是の皇子(みこ)初(はじめに)上宮(かみつみや)に居(ましま)して、後(のち)に斑鳩(いかるが)に移りたまいて、 [於]豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)の天皇(すめらみこと)の世(みよ)、位(くらゐ)東宮(まうけのきみ)に居(ましま)して、
万機(よろづのまつりごと)を総(すべて)摂(と)りて、天皇事(すめらごと)を行ふ。語(かたりごと)豊御食炊屋姫天皇の紀(ふみ)を見よ。

其二曰來目皇子。
其三曰殖栗皇子。
其四曰茨田皇子。

其の二(ふたはしら)は来目皇子(くめのみこ)と曰ふ。
其の三(みはしら)は殖栗皇子(ゑくりのみこ)と曰ふ。
其の四(よはしら)は茨田皇子(まむたのみこ)と曰ふ。

石寸名…〈甲本〉石寸名イシウナ
…[名] ①よめ。②ひめ。身分の高い人の妻で、正室に次ぐ。③奥で天子のそば近くで使える女性。 〈内閣文庫本〉ミメト
立蘇我大臣稻目宿禰女石寸名爲嬪、
是生田目皇子、更名豐浦皇子。

蘇我大臣(そがのおほまへつきみ)稲目(いなめ)の宿祢(すくね)の女(むすめ)石寸名(いしきな)を立たして嬪(みめ)と為(し)たまひ、
是(ここに)田目皇子(ためのみこ)、更名(またのな)は豊浦皇子(とゆらのみこ)を生みたまふ。

当麻此當麻公之コノタヘマノキミノ
葛城直磐村女廣子、
生一男一女。
男曰麻呂子皇子、此當麻公之先也。
女曰酢香手姬皇女、歷三代以奉日神。

葛城直(かつらきのあたひ)磐村(いはむら)の女(むすめ)広子(ひろこ)、
一男(ひとはしらのみこ)と一女(ひとはしらのひめみこ)を生みたまふ。
男(ひこ)は麻呂子皇子(まろこのみこ)と曰ひて、此(これ)当麻公(たぎまのきみ)之(の)先(さき)也(なり)。
女(ひめ)は酢香手姫皇女(すかてひめのみこ)と曰ひて、三代(みつのみよ)を歴(めぐ)りて以ちて日神(ひのかみ)を奉(たてまつ)る。

《石寸名》
 「石寸名為嬪」は、一見分かりにくいが、構文は「立○○為嬪」であるから、""は名前の綴りの中の文字ということになる。 書紀における宮中の女性の格は「后>妃>夫人」と見られるが、「」は「」と同格と見ていいだろう。
 「石寸」はイハレと訓む例もあるが〔石寸山口神社〕、書紀では一般にイハは""と表記し、""はイシと訓む(第237回)。 「」をと訓むのは、長さの助数詞〔十分の一尺〕の場合である。
 通常は「娶石寸名姫(また、)」であり、「~為嬪」は異例である。 「()」がつかないのは、単純に「()」ではなかったからであろう。 つまり、「~()」は貴人の女性につく尊称で、天皇が娶る相手は通常は既に貴人となっている女性から選ばれた。 例外的に「石寸名」の身分は低かったから、まず「~()」がつく身分に取り立てて、その上で娶ったようだ。 この手続きを経たことを「石寸名を立てて嬪とす」と表したと見られる。
 この""の使い方により、書紀によく出てくる「立~為皇太子」、「立~為皇后」の「」も「取り立てる」意味であることが確定する。
 それにしても、名前の綴りの最後が「」で、次に""があるのは紛らわしい。 〈帝説〉では、対応する文は、 「天皇娶蘇我伊奈米宿祢女子名伊志支那郎女児多米王」という疑問の余地のない用字になっており、 この「伊志支那郎女〔いしきなのいらつめ〕によって、「石寸名」が名前〔いしきな〕であることが確定する。
 記の「意富芸多志比売〔おほきたしひめ〕は、イシキナの別名だと思われる。オホがついているのは、 「岐多斯比売(堅塩媛)」〔欽明天皇の妃;やはり蘇我稲目の子〕と区別するためと思われる。
《廐戸皇子》
 廐戸皇子の別名豊耳聡聖徳の""の訓みについては、北野本にトシ〔「するどい」「さとりがはやい」の意〕が見えるが、 どちらかと言えば〈六丈光銘〉の「等与刀弥弥大王」の""〔ト〕に信頼性があると思われる。 この""を「」にしたのは崇高化による用字で、平安の訓読者は〈六丈光銘〉を考慮せずに〔ひょっとして知らなかった?〕トシと訓んだ。 という経過が想定し得る。
 〈甲本〉の「ハヤキ」はトシの同意語だから""への意訓であろう。また、「トヨホミゝ」の""は「」の誤写か。
《此皇子初居上宮
 太子が初めに居(ましま)したとされる上宮については、〈推古紀〉元年に、 「父天皇愛之令宮南上殿。故称其名上宮廐戸豊聡耳太子〔父天皇〔用明〕、之〔=太子の天才的な能力〕を愛(め)で、宮の南の上(へ)の殿に居(ましま)さ令(し)めたまひき。故(かれ)其の名(みな)を称(なづ)けて上宮(かみつみやの)廐戸豊聡耳太子(うまやどのとよとみみのひつぎのみこ)と謂(い)ふ〕 とある。
 「上宮」の比定地の候補として上之宮遺跡が注目を集めているが、用明天皇の磐余双槻宮が磐余池周辺にあったと見れば、位置は大幅に異なる。 上宮の比定地については、別項で改めて検討する。
《斑鳩宮》
 斑鳩宮については、〈推古紀〉九年〔601〕に「春二月、皇太子初興宮室于斑鳩」とあるように造宮に着手し、 さらに同十三年〔605〕に「冬十月、皇太子居斑鳩宮。」、即ち聖徳太子は斑鳩宮に遷った。
 〈五畿内志-平群郡〉の【仏刹】「法隆寺」の項には 「推古天皇九年皇太子初興宮室於斑鳩今東院即此」とあるように、 斑鳩宮は法隆寺頭院にあったと伝承されてきた。昭和九年〔1934〕からの調査によって、その実在が確信されるに至った(別項)。
《大意》
 元年正月朔日、 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひこのひめみこ)を皇后(おおきさき)とされ、 四男をお生みになりました。
 その一は、廐戸皇子(うまやどのみこ) 【別名は豊耳聡聖徳(とよみみとのしょうとく)、ある名は豊聡耳法大王(とよとみみのりのおおきみ)、あるいは法主王(ほうしゅおう)という】といわれます。 この皇子(みこ)は最初上宮にいらっしゃり、 後に斑鳩(いかるが)に移られ、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)天皇〔推古〕の御世、東宮の位につかれ、 万機を総摂され、天皇の事を行いました。物語は豊御食炊屋姫天皇紀を見よ。
 その二は、来目皇子(くめのみこ)といいます。
 その三は、殖栗皇子(えくりのみこ)といいます。
 その四は、茨田皇子(まんだのみこ)といいます。
 蘇我大臣(そがのおおまえつきみ)稲目(いなめ)の宿祢(すくね)の娘、石寸名(いしきな)を立たして嬪(きさき)とされ、 田目皇子(ためのみこ)、別名は豊浦皇子(とゆらのみこ)をお生みになりました。
 葛城直(かつらきのあたい)磐村(いわむら)の娘、広子は、 一男一女をお生みになりました。
 皇子は麻呂子皇子(まろこのみこ)といわれ、当麻公(たいまのきみ)の先祖です。
 皇女は酢香手姫皇女(すかてひめのひめみこ)といわれ、三代にわたり日の神〔伊勢神宮〕に奉斎されました。


【上宮】
上之宮遺跡の位置 上之宮遺跡 園地遺構レプリカ 上之宮遺跡 園地遺構
 上之宮遺跡は現在は埋め戻され、住宅地の一角の小公園に園地遺構レプリカが設置されている。 グーグルマップへのクチコミには、この辺りにはかつて群集墳があったがすべて潰されて新興住宅になったという証言が載る。 〔群集墳は基本的に古墳時代後期から終末期のものという〕 『聖徳太子の遺跡―斑鳩宮造営千四百年』橿原考古学研究所附属博物館特別展図録 第55集;2001
 上宮は、ウハツミヤともカミツミヤとも訓読し得るが、〈北野本〉〈内閣文庫本〉の古訓ではカミツミヤである。 一方、記『氏庸本』は「ウハツミヤ」と訓を振る。
 このように伝統訓は必ずしも一定しないが、 上之宮遺跡〔奈良県桜井市上之宮(大字)〕を「上宮」跡とする一つの〔というか、唯一の〕理由が、現在地名=上之宮(うえのみや)にあるのは明らかである。
 地名「上宮」が飛鳥時代に遡る可能性自体はあり得る。何しろイキ・ツシマは魏志倭人伝まで遡るのである。 また本来はカミツミヤであったとしても、地元の人が「上宮」なる表記を見ていつしかウヘノミヤと呼ぶようになるのも、自然であろう。
《上之宮遺跡》
 奈良県桜井市観光協会公式によると、 上之宮遺跡は「1986年桜井市上之宮の寺川西岸の、河岸段丘上の土地」で 「検出された6世紀末頃の遺構は、聖徳太子の上宮(かみつみや)である可能性が高いと発表され」 「6世紀末に大邸宅として整備されていた事」がわかり、 「庭園部分から日本最古の木簡が出土しています。鼈甲や木器の他、果実の種なども出土し、桃やスモモの核が多量に出土したことから、周囲には花園があったとみられ」ているという。
 その一方、「周辺に拠点を持つ阿部氏にかかわる遺跡ではないかとの説も」あると述べる。
 近くにある安倍文珠院(奈良県桜井市阿部645)は、「大化元年(645)安倍倉梯麻呂が創建した安倍寺(崇敬寺)は、現在の寺の南西約300mの地に法隆寺式伽藍配置による大寺院として栄えていました。(東大寺要録末寺章)」という (安倍文珠院公式)。 その安倍寺について 「桜井市観光協会公式」は、 「安倍寺の創建時期は、出土した瓦等から山田寺(641-678年)とほぼおなじ時期で、法隆寺式伽藍配置に属するもので中央官人の阿倍氏の氏寺として建立されたと考えられ」るという。 さらに「東接する文殊院西古墳をはじめとする阿部丘陵の7世紀の古墳とのかかわり」と述べる。 すなわち古墳は恐らく阿部氏のもので、一族ががっちりと根を張った土地であろうとの趣旨が読み取れる。
《磐余双槻宮南上殿》
 一方、前述の〈推古紀〉では上宮の位置は用明天皇の磐余双槻宮の南だから、 上之宮遺跡は上宮ではなく、恐らく阿倍氏の邸宅ということになる。
 この点に関して、現地案内板(桜井市教育委員会設置)はなかなか冷静で、 「一辺が約百メートルの方形区画の中に収まってしまうところから、古墳時代末期から飛鳥時代初期の豪族居館と考えることができる」、 「地名や建物の時期、貴重な出土嬪などから、聖徳太子の上宮かみつみやの可能性もある。」と述べるに留まる。
 仮に上之宮遺跡が上宮だとすれば、聖徳太子が阿倍氏の丸抱えだった印象を受ける。 もし阿倍氏の統領の女妃を娶っていれば、その可能性が強まる。 太子の妃については〈帝説〉に書かれており、そこでは三人の妃の間に十四人の子を設けたとある。
膳部加多夫古臣女子、菩岐ゝ美郎女との間に八人の子。
蘇我馬子女子、刀自古郎女との間に四人の子。
尾治王女子、位奈部橘王との間に二人の子。
 これを見る限り、太子は阿部氏の娘婿ではない。 むしろ、蘇我馬子との結びつきが強かったのは明白である。 したがって、もし娘婿だとすれば、蘇我氏の居住地に近いと見た方が現実性がある。
《蘇我馬子邸宅》
 「明日香村公式-島庄遺跡(第18次)調査」によれば、 蘇我馬子邸宅跡は、島庄遺跡にあったとされ、 「蘇我本宗家の滅亡後、邸宅のあった嶋の地は官の没収となったよう」だと述べる。
 〈推古紀〉三十四年には、蘇我稲目稲目大臣が崩じて馬子が大臣となり、 「大臣則稻目宿禰之子也…家於飛鳥河之傍、乃庭中開小池、仍興小嶋於池中、故時人曰嶋大臣」とある。
 その後〈天武紀上〉では壬申の乱の前、天智四年十月に大海人皇子は吉野宮に入った。そのとき蘇我赤兄などを送り、菟道(うぢ)から吉野宮に帰る途中で「嶋宮〔嶋宮に滞在〕したとある。 また、壬申の乱で勝利後、天武元年九月には伊勢から「于倭京而御嶋宮〔倭京〔飛鳥〕に入る途中で嶋宮に滞在〕した。
 さらに万葉集では、四首(すべて二巻)に「嶋宮 しまのみや」が詠まれている。
 このように、上宮が「磐余池の畔の宮」ならば、蘇我馬子の邸宅とも遠く離れている。
《厩戸皇子の上宮》
 厩戸皇子が、阿部氏の娘婿として抱え込まれたことはないと断じてよいだろう。 かと言って、蘇我馬子の娘婿でもない。
 厩戸皇子は推古天皇らとともに独立的に宮廷一族を構成し、蘇我一族とは一線を画していたのだろう。 共に仏教振興に尽力したが、両者の関係はむしろライバルと見た方がよいようである。

【斑鳩宮】
東院下層遺構図
『橿原考古学研究所附属博物館特別展図録 第55冊 聖徳太子の遺跡―斑鳩宮造営千四百年―』より
 「文化遺産オンライン」の 法隆寺夢殿のページには、 「この地は太子の住居であった斑鳩宮の跡地と伝えられていたが、昭和九年以降の修理工事にともなう発掘調査で、当時の掘立柱建物数棟を発見し、そのことが確認された。また、この調査では東院創立当初の回廊や南門の規模も判明した」、 夢殿は「創立を天平十一年(七三九)とする『法隆寺東院縁起』には多少の疑問ももたれるが、天平宝字五年(七六一)の『法隆寺東院資財帳』には夢殿以下各堂宇の記録があるから、少なくともそれ以前の建立であることはまちがいない」と述べる。
 やや詳しくは、鈴木嘉吉氏の講演(2014年法隆寺夏期大学)によると、 〔「大和&伊勢志摩散歩」より〕 昭和九年〔1934〕から始まった法隆寺昭和大修理の際、 「夢殿の北にある舎利殿、絵殿、伝法堂の下から奈良時代以前の斑鳩宮の複数の掘立柱建物の柱穴」、 「中央西寄りに桁行3間以上、梁行3間で東に東西1間、南北1間の附属施設をもつ南北棟建物」、「その北に桁行6間以上、梁行3間の東西棟」、 「東側には北に桁行8間、梁行3間の南北棟」が発見されたという。
《法隆寺東院の発掘調査》
 古墳時代から飛鳥時代の宮殿は、一般に掘立柱建築物の柱穴として残る。
 『聖徳太子の遺跡―斑鳩宮造営千四百年―』(橿原考古学研究所附属博物館特別展図録 第55冊;2001)によると、 「東院の下層から発見された遺構郡は、出土遺物の年代や火災を受けている点から、『法隆寺東院縁起』の伝える斑鳩宮の跡と考えられた」という。 〈皇極紀〉二年〔643〕十一月に「蘇我臣入鹿、遣小徳巨勢徳太臣(等)」て、「巨勢徳太臣等、焼斑鳩宮」とある。
 同図録によると、「東院の地下から発見された掘立柱建物群は比較的規模の小さな建物を主体に構成される時期右図緑色〕と、 かなり大きな東西棟と南北棟を整然と配する時期右図黄色〕の二つの時期に大別される」、 「この調査によって斑鳩宮は最低一町以上の規模をもつことが判明した」という。 なお、図の赤色部分は夢殿と東院伽藍である。

まとめ
 「聖徳太子」という呼び名の初出は懐風藻にあるというので、調べると『懐風藻序』〔群書類従巻第百二十二による〕に「聖徳太子設爵分官肇制礼儀…」の文言があった。 序の末尾に日付「天平勝宝三年歳在辛卯冬十一月〔751〕がある。書紀の「更名」として「豊耳聡聖徳」があるから「聖徳太子」は突然出現したものではなく、 書紀〔720〕から三十年間の間に様々な呼び名が整理された結果であろう。
 さて、前回に磐余池は履中天皇の頃から厳然として存在し、その畔に恒常的に宮殿が存在した可能性を見た。 その立場から見れば、用明天皇の宮殿の南に上宮があったという〈推古紀〉の記述から、その宮殿郡の一角に上宮があったイメージが強く心に浮かぶ。上之宮遺跡説は、もはや問題にならないように思えてくる。 むしろ、後世の聖徳太子崇高化に伴って、各地の人々が身近な場所に太子伝説を描きたい心理の一つの現れとして位置づけるべきか。
 その上宮から斑鳩宮に遷ることの政治的意義の検討も、今後の課題のひとつである。