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[238]  下つ巻(欽明天皇1)

2020.04.05(sun) [239] 下つ巻(欽明天皇2) 

天皇娶檜垧天皇之御子石比賣命
生御子八田王
次沼名倉太玉敷命
次笠縫王【三柱】

天皇、檜垧(ひのくま)の天皇之(の)御子(みこ)石比売命(いしひめのみこと)を娶(めあは)せて、
[生]御子(みこ)八田王(やたのみこ)、
次に沼名倉太玉敷命(ぬなくらふとたましきのみこと)、
次に笠縫王(かさぬひのみこ)をうみたまふ【三柱(みはしら)】。


又娶其弟小石比賣命
生御子上王【一柱】

又、其の弟(おと)小石比売命(をいしひめのみこと)を娶せて、
御子、上王(かみのみこ)を生みたまふ【一柱(ひとはしら)】。


又娶春日之日爪臣之女糠子郎女
生御子春日山田郎女
次麻呂古王
次宗賀之倉王【三柱】

又、春日之日爪臣(かすかのひつめのおみ)之(の)女(むすめ)、糠子郎女(ぬかこのいらつめ)を娶せて、
[生]御子春日山田郎女(かすかのやまだのいらつめ)、
次に麻呂古王(まろこのみこ)、
次に宗賀之倉王(そがのくらのみこ)をうみたまふ【三柱(みはしら)】。


又娶宗賀之稻目宿禰大臣之女岐多斯比賣
生御子橘之豐日命
次妹石垧王
次足取王
次豐御氣炊屋比賣命
次亦麻呂古王
次大宅王
次伊美賀古王
次山代王
次妹大伴王
次櫻井之玄王
次麻奴王
次橘本之若子王
次泥杼王【十三柱】

又、宗賀之稲目宿祢(そがのいなめのすくね)大臣(およまへつきみ)之(の)女(むすめ)、岐多斯比売(きたしひめ)を娶せて、
[生]御子橘之豊日命(たちばなのとよひのみこと)、
次に妹(いも)、石垧王(いはくまのみこ)、
次に足取王(あとりのみこ)、
次に豊御気炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)、
次に亦(また)、麻呂古王(まろこのみこ)、
次に大宅王(おほやけのみこ)、
次に伊美賀古王(いみかこのみこ)、
次に山代王(やましろのみこ)、
次に妹、大伴王(おほとものみこ)、
次に桜井之玄王(さくらゐのゆばりのみこ)、
次に麻奴王(まぬのみこ)、
次に橘本之若子王(たちばなのもとのわくごのみこ)、
次に泥杼王(ねどのみこ)をうまたまふ【十三柱(とをはしらあまりみはしら)】。


又娶岐多志比賣命之姨小兄比賣
生御子馬木王
次葛城王
次間人穴太部王
次三枝部穴太部王亦名須賣伊呂杼
次長谷部若雀命【五柱】

又、岐多志比売命(きたしひめのみこと)之(の)姨(いも)、小兄比売(をえひめ)を娶せて、
[生]御子馬木王(まきのみこ)、
次に葛城王(かつらきのみこ)、
次に間人穴太部王(はしひとのあなほべのみこ)、
次に三枝部穴太部王(さきくさべのあなほべのみこ)、亦の名は須売伊呂杼(すめいろど)、
次に長谷部若雀命(はつせべのわかさざきのみこと)をうみたまふ【五柱(いつはしら)】。


凡此天皇之御子等幷廿五王
此之中沼名倉太玉敷命者治天下
次橘之豐日命治天下
次豐御氣炊屋比賣命治天下
次長谷部之若雀命治天下也
幷四王治天下也

凡(おほよそ)此の天皇之(の)御子等(たち)は并(あは)せて二十五(はたはしらあまりいつはしらの)王(みこ)ありて、
此之中(このなか)の、沼名倉太玉敷の命者(は)天下(あめのした)を治(をさ)めたまひて、
次に橘之豊日の命は天下を治めたまひて、
次に豊御気炊屋比売(とよみけかしきやひめ)の命は天下を治めたまひて、
次に長谷部之若雀(わかさざき)の命は天下を治めたまひき[也]。
并せて四王(よはしらのみこ)、天下を治めたまひき[也]。


 天皇は、檜垧(ひのくま)の天皇〔宣化天皇〕の御子、石比売(いしひめ)の命(みこと)を娶られ、 御子に八田王(やたのみこ)、 次に沼名倉太玉敷命(ぬなくらふとたましきのみこと)、 次に笠縫王(かさぬいのみこ)をお生みになりました【三名】。
 また、その妹の小石比売命(おいしひめのみこと)を娶られ、 御子、上王(かみのみこ)〔石上皇子か〕をお生みになりました【一名】。
 また、春日之日爪臣(かすかのひつめのおみ)の)娘、糠子郎女(ぬかこのいらつめ)を娶られ、 御子春日山田郎女(かすかのやまだのいらつめ)、 次に麻呂古王(まろこのみこ)、 次に宗賀之倉王(そがのくらのみこ)をお生みになりました【三名】。
 また、宗賀之稲目宿祢(そがのいなめのすくね)の大臣(おおまえつきみ)の娘、岐多斯比売(きたしひめ)を娶られて、 御子、橘之豊日命(たちばなのとよひのみこと)、 次にその妹、石垧王(いわくまのみこ)、 次に足取王(あとりのみこ)、 次に豊御気炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)、 次にふたたび、麻呂古王(まろこのみこ)、 次に大宅王(おおやけのみこ)、 次に伊美賀古王(いみかこのみこ)、 次に山代王(やましろのみこ)、 次にその妹、大伴王(おおとものみこ)、 次に桜井之玄王(さくらゐのゆばりのみこ)、 次に麻奴王(まぬのみこ)、 次に橘本之若子王(たちばなのもとのわくごのみこ)、 次に泥杼王(ねどのみこ)をお生みになりました【十三名】。
 また、岐多志比売命(きたしひめのみこと)の妹、小兄比売(おえひめ)を娶られ、 御子、馬木王(まきのみこ)、 次に葛城王(かつらきのみこ)、 次に間人穴太部王(はしひとあなほべのみこ)、 次に三枝部穴太部王(さきくさべのあなほべのみこ)、別名は須売伊呂杼(すめいろど)、 次に長谷部若雀命(はつせべのわかさざきのみこと)をお生みになりました【五名】。
 全体でこの天皇の御子等を併せて二十五名の王(みこ) のうち、沼名倉太玉敷命が天下を治められ、 次に橘之豊日命が天下を治められ、 次に豊御気炊屋比売命が天下を治められ、 次に長谷部之若雀命が天下を治められました。 併せて四柱の王が、天下を治められました。


さきくさ(三枝)…[名] 植物名。
穴太部…あなほべ。穴穂部(雄略十九年)など参照。
…[名] ①妻の姉妹。②母の姉妹。③花嫁につきそっていく女(諸侯に嫁ぐときに伴った妹から)。 (古訓) いもしうとめ。こしうとめ。をは。ははかたのをは。
はし…[名] あいだ。事態の交錯するとき。

【真福寺本】
八田王…真福寺本は「八次田王」。
名倉太玉敷命…「沼」は「治」と区別がつかない。「治天下」参照。
沼名倉玉敷命…真福寺本・氏庸本ともに「太」が「大」。
生御子…真福寺本は「生」が一個多い。
…「奴」が、真福寺本は「恕」。氏庸本は「妹」。
間人穴太部王…氏庸本は「マヒトアナフトヘ」とルビを振る。一般には「ハシフト(ウド)アナホベ」。
間人穴部王…真福寺本は「太」が「大」。

【娶石比売命】
 石比売(いしひめ、書紀は石姫)は、宣化天皇の第一子(第237回)。
 みこの名前のいくつかは、宮の置かれた地名に由来する。 地名は、一般的に居住したの名称と結びついている。
八田王…八田部(第170回)。
沼名倉太玉敷命…敏達天皇。ヌナクラは〈倭名類聚抄〉に見えない。ヌナについては 沼河比売(ぬなかはひめ)は大国主伝説に登場し、越後国の沼川に因む(第63回)。 神渟名川耳尊は綏靖天皇。クラは倉(蔵、庫)やイハクラ(磐座)などに見られる。
笠縫王…笠縫邑(笠縫神社(磯城郡田原本町秦庄)、第111回)が見える。笠縫部に因む。

【娶小石比売命】
 小石比売命は、書紀では「稚綾姫皇女」。
上王…「上」一文字の名前はなかなか考えにくい。 書紀は「石上皇子」。筆写の際、が脱落したか、あるいは書紀が補ったか。

【娶糠子郎女】
春日山田郎女…春日山田皇后(宣化帝皇后)と同名。 その母についても、かなり類似する〔日爪は、和邇から春日に移行する途上にある―第226回
 したがって、同一の女性について、その嫁ぎ先を異とする異種の記録(または伝承)が存在したということである。 すなわち、「春日和珥日爪臣の娘の糠君娘(糠子)は仁賢天皇、別説では欽明天皇に嫁ぎ、春日山田皇女を生んだ」とまとめることができる。
麻呂古王マロコは男子への一般的な愛称継体七年十二月など)。
宗賀之倉王…書紀では、日影皇女(意志姫のもう一人の妹)が生んだ子に移されている。 蘇我氏の本貫地とされるソガについては、〈延喜式〉に{大和国/高市郡/宗我坐宗我都比古神社【二座並大。月次新甞】〔比定社は宗我坐宗我都比古そがにますそがつひこ神社。奈良県橿原市蘇我町1196〕とある。

【娶岐多斯比売】
 岐多斯比売(堅塩媛)の父、宗賀之稲目宿祢(蘇我稲目宿祢)は、大臣おほまへつきみに留任した(即位前紀)。
橘之豊日命…橘は「橘寺」の所在地か(第121回)。
●妹石垧王…「」はクマ(前回)。書紀は「磐隈皇女」と表記するから「」は性別を明示するためにつけたと見られる。
足取王…鳥の名による愛称か。地名に「あとり」はなかなか見えないが、それでも消失した地名かも知れない。
豊御気炊屋比売命…天皇になったときの正式名(推古天皇)。トヨは美称。ミケは神・貴人の食物。宮廷の炊飯所に由来する可能性はある。
●亦麻呂古王…書紀は「椀子まるこ皇子」。よって「」は接続詞。糠子郎女に同名の子がいるからだろう。
大宅王大宅おほやけの原義は宮殿や屯倉。しばしば地名化した。〈倭名類聚抄〉{河内国・河内郡・大宅郷}、{播磨国・揖保郡・大宅【於保也介】郷}など。
伊美賀古王イミガコは「忌部イミ」か。 〈姓氏家系大辞典〉は「高市郡に忌部村あり〔現橿原市忌部町〕とする。 また書紀は「石上部皇子」なので、イソカミの仮名書き("伊蘇乃賀美"など)が変形したのかも知れないが、確かなことは不明。
●亦山代王…山代(山城)国の宮殿が想像される。 山城国の宮としては菟道稚郎子の「桐原日桁宮」(宇治郡、第153回)、 八田皇女の筒木宮(綴喜郡、第167回)が見える。
●妹大伴王…書紀は「大伴皇女」だから、「妹」は名前の一部ではない。大伴氏の本貫は鳥坂神社辺り(宣化六年)。 また「(万)0063 大伴乃 御津乃濱松 おほともの みつのはままつ」の大伴は御津への枕詞だが、もともと〈時代別上代〉「いまの大阪の辺をひろくさす地名」と言われる。
桜井之玄王…〈倭名類聚抄〉{河内國・河内郡・櫻井}。「」を「ゆばり」と訓む説がある(別項)。
麻奴王…地名マヌには、〈倭名類聚抄〉{近江国・滋賀郡・真野【末乃】郷〔野はヌ、乃はヌであるが、倭名類聚抄〔平安〕は甲乙の区別が消滅している〕
橘本之若子王…〈姓氏家系大辞典〉「橘本 キツモト:石清水八幡社家にあり。参司の一」。〈倭名類聚抄〉にはないから、上代にはキツモトと訓まなかったと見られる。
泥杼王…書紀は「舎人皇女」。ネドトネリヒトの転と見たか。
《桜井之玄王》
 玄王は一般に「ゆばりのみこ」と訓まれるが、これには理由がある。
 というのは、敏達紀に豊御食炊屋媛皇后〔後に推古天皇〕が産んだ「櫻井弓張皇女」という同名の皇女があり、 この皇女が、敏達段では「櫻井玄王」と書かれるのである。 これに倣えば、欽明段の「桜井之玄王」は弓張皇子と書き得る。 弓張ゆばりとは「弦月」(半月)のことで、 〈時代別上代〉はさらにユバリには「上弦カミツユバリ」と「下弦シモツユバリ」があると解説する。
 つまり「」は、「」から弓偏を省いたもので、 持統紀八年に「毎年正月上玄読之〔毎年正月の上弦月の日に之〔金光明経〕を読め〕という例がある。
 なお同じ名前である「桜井之玄王」と「桜井玄王」については、春日山田郎女の例と同じく、異なる伝承によるものかも知れない。 書紀は、欽明段の方の「之玄」を取り除く整理をしている。

【娶小兄比売】
 小兄比売は、「岐多志比売命」であると書かれている。諸侯が妃を娶るとき妹を添えることがあり、これも「」という。 記紀において姉妹をセットで娶わす例は、垂仁天皇の日葉酢媛命三姉妹、応神天皇の高城入姫三姉妹、反正天皇の津野媛姉妹に見られる。
 ここでも小兄比売が岐多志比売の妹なのは明らかなので、書紀は皇后の「同母弟」と表現している。
 天皇あるいは嫡子から見れば、この「姨」も姨である。決して、岐多志比売命にとっての姨=宗賀之稲目宿祢の妻の妹ではない。
馬木王マキは「槙」か。その木に因む宮名または地名も考えられる。
葛城王葛城の宮といえば、飯豊女王の「角刺宮」があった(第212回)。
間人穴太部王アナホベは氏族名および地名である。「間人」はハシヒト、あるいは音便してハシウドと訓み習わされている。
三枝部穴太部王(須売伊呂杼)…亦名の「スメイロド」は、書紀の住迹(スミト)皇子と類似する。
長谷部若雀命…「小長谷若雀命」(武烈天皇)と実質的に同名である。

【間人穴太部王】
 欽明紀では「泥部穴穗部皇女」だが、用明紀では「穴穂部間人皇女」と書かれ、用明天皇の皇后となる。 間人はハシヒトと訓み倣わされている。
《間》
 に「ハシ」という訓みは、確かに存在する。
 『播磨国風土記』(賀毛郡/端鹿里)に  「昔神於諸村班菓子此村足故乃云間有故号端鹿〔昔、神もろもろの村に菓子を班(あか)ちてこの村に至り足らざりて、すなはち間有(はしなり)と云ひき。故(かれ)、端鹿(はしか)と号(なづ)く〕。 つまり、「間(ハシ)-菓(か)」が「端鹿」となったという地名譚だから、菓子の配布から漏れた村がハシと表現され、 よって、ハシには「間」の字が当てられたことになる。 なお、菓子は音読みでないと意が通じない。「(万)4111 菓子 このみ」は特別の訓みらしい(第121回)。
間人皇后母子像
京丹後市観光協会パンフレット[2013]より
《丹後国竹野郡間人》
 用明天皇紀元年に「穴穗部間人皇女皇后」とあるのは、欽明紀の「泥部穴穂部皇女」と同一人物ということになる。 〈倭名類聚抄〉に{丹後国・竹野郡・間人郷}。
 〈姓氏家系大辞典〉に「間人 ハシビト ハシウト ハシフト マムト:御名代部の一種か」、そして 「丹後の間人氏:丹後旧事記に拠るに「用明帝の時、穴穂部王・蘇我馬子の忌む所となり、竹野郡間人浦に匿る」と。 間人皇后の湯沐〔ゆかはあみ〕なればなり。」という。※…「トウモクのユウ」。天子から王女に与えられた特別の領地。
 なお、竹野郡「間人」はタイザと訓まれる。 この地名について、鵲森宮〔大阪府大阪市森之宮中央1丁目〕 の公式ページには、このように書かれている。
――「皇后は乱を避けて、当時大浜の里と呼ばれていたこの地に滞在されました。当時ここに彼女の領地があったと言います。 やがて争いが鎮まり奈良の斑鳩の宮へ帰られる時、里人の手厚い持てなしに感謝して、
 大浜の里に昔をとどめてし間人(はしうど)村と世々につたへん
 という歌を詠まれました。皇后から戴いた御名をそのまま地名に使うことは恐れ多いとし、 この大浜の里を「ご退座」されたことに因んで「はしうど」ではなく、「たいざ」と読み伝えることになりました。

 間人たいざの竹の川河口の「立岩」近くには、間人はしうど皇后厩戸うまやど皇子(聖徳太子)の母子像があり、観光資源となっている。
 書紀の「泥部」については、〈姓氏家系大辞典〉によれば「泥部 ハツカシベ ヌリベ」は職業部。 地名に〈倭名類聚抄〉{山城国・乙訓郡・羽束【波豆賀之】郷〔はつかしのさと〕がある。 また「埿部 ハツカシベ ヒヂベ ヌリベ」とある。 「土師」はハニシ、またはハジ。「土師部」はハニシベ、ハジベ。 泥はハニと意味が近いと言えないことはないが、「泥部」をハシヒトと訓むのはかなりきつく、記と用明紀があればこそである(で考察)。
《丹波旧事記》
 丹後半島の間人皇女伝説の出典は、『丹後旧事記』の中の「穴穂部尊」の項かと思われる。 その写本(天理大学附属天理図書館所蔵)には、「…誤不少、依改正之…其白天明中揆之/国康文明七年改変〔誤り少なからず、之を改正するに依り…それ天明中〔1781~1789〕にこれを興すとまうし、国康文化七年〔1810〕に改変す〕という奥書があると、朱筆で書き添えられている。
 関係する部分は次の通り。
穴穗部尊
本朝歴史傳曰人皇三十二代┘丙午用明天皇元年穴穗部皇子通炊屋カシヤ三輪逆君サカキミ 【聖徳弟馬子黨推古媱ス後人別テ穴太ノ皇子ト云フ】
同二年馬子穴穂シイス 【崇峻弟推古兄馬子ニ忌レテ弑セラルゝナリ穴穗皇子ト穪ス 此代穴穗皇子二人アリ】
穴穗旦波走竹野間人 【当国間人タイザ里ハ聖徳母間人マニン皇后ノ領ナリ 依テ里名トス】
竹野神記曰旦波竹野郡竹野村竹野宮女住㕝ヲニスムコト年久 【鬼ニ非ス女ナリ】
凶賊是一味仕間人皇后領奪
穴穗麿古飄零而此郷凶賊征伐本領
〔以下割愛〕
穴穂部尊
本朝歴史伝に曰ふ。用明天皇元年、穴穂部皇子は炊屋姫に通じ、三輪の逆君を殺す
聖徳弟馬子党(とう)し推古媱(よう)す[1]。後の人別けて穴太(あなほ)の皇子と云ふ】
同二年、馬子、穴穂を弑(しい)す
崇峻弟推古兄馬子[2]に忌(うら)まれて殺せらるるなり。穴穂皇子[3]と称す。此の代穴穂皇子二人あり。】
穴穂旦波〔=丹波〕に走り竹野の間人に隠る
【当国間人(たいざ)の里は聖徳の母間人(まにん)皇后[4]の領なり。依りて里名とす】
竹野神記に曰ふ。旦波竹野(たかの)郡竹野村竹野宮に女(をに)住むこと久し
【鬼(をに)に非ず。女なり。】
凶賊是の一味仕へ、間人皇后の領を奪ふ。
穴穂麿古飄零して此の郷に入り凶賊を征伐し本領を返せり。
…〈汉典〉「【説文】曲肩行貌。一曰戯也美好也。[日語]MIMEYOI TAHAMURERU〔見目好い、戯れる〕」 なお、筆記された文字は「女偏+揺の旁」である。
飄零…おちぶれる。零落。
 ※ 下線部については原文のままでは意味が通らないので、次のように読み替える必要がある。
[1]…聖徳太子と蘇我馬子が推古天皇を推したてて政を握ったことは確かである。 弟→與、媱→擁に直すと、一応意味は通る。
[2]…穴穂部皇子が蘇我馬子に殺されたのは書紀に合致。「弟」と「兄」を入れ替えて、 「崇峻の兄、推古の弟〔である穴穂部皇子〕は馬子に忌まれて殺せらるる」とすると、一応意味は通る。
[3]…「部」抜きで「穴穂皇子」と書くと安康天皇のことで、紛らわしい。
[4]…他の写本(「国文学研究資料館総合目録データベース:三井文庫旧蔵資料」)では「間人ハシフト」のルビを振る。
 ここで「此代穴穂皇子二人」というのは、泥部穴穂部皇子、及び泥部(間人)穴穂部皇女のことだと見られる。 「間人皇后領」以下は、始めの部分の「穴穂部皇女が逃げてきて隠れた」から繋ぐにはひと工夫が必要で、もともと異説だったものを併記した可能性もある。
 『丹後旧事記』は江戸時代の書で、間人皇后伝説がさらにどこまで遡るかは不明である。記紀にも〈釈紀〉にも『丹後国風土記』逸文にもこの話はない。 もし鎌倉時代の丹後国風土記逸文にこの話が残っていれば、必ず〈釈紀〉に載せたと思われる。〔浦嶋子は載っている〕
 「退座」という語が使われるようになった時代を探ると、古くは鎌倉時代の訴訟制度〔1235年〕に見えるが、それより遡ると〈時代別上代〉にも載らないので、上代にはタイザという語は見出されていないようである。 よって、「間人皇女が"退座"されたから云々」は後世の附会であろう。
 ただ、間人皇女が間人に一時坐したこと自体は考え得る。 だとすれば、その土地の地名は古くからタイザで、そこに間人皇女が訪れたことによって別名ハシヒト〔訛ってハシウド〕が加わり、後に伝説において地名発生の順序が逆転したことが考えられる。
《間人穴穂部皇女》
 書紀には「泥部穴穗部皇女」と「泥部穴穗部皇子」が並べて書かれる。『丹後旧事記』が「穴穂皇子二人アリ」と書くのはこのことであろう。
 泥部穴穗部皇女は、以後「穴穗部間人皇女」と書かれ、用明天皇の皇后になる。 記の「間人穴太部王」にも対応するから、泥部穴穗部皇女は「間人穴穗部皇女」と書くべきであろう。 間人皇女の名前に関しては、記の方が一貫性がある。 ただ、欽明紀は分注でも「泥部穴穗部皇女」に統一されているから、もし誤りならば確信をもって書いたものが系統的に誤っていることになる。 すると最も完全な形は「泥部穴穗部間人皇女」で、欽明紀ではここから「間人」の方が省略されたのかも知れない。もし「其三曰泥部穴穗部皇女【更名間人皇女】」とでも書いてあれば、完璧なのだが。
 「穴穂部」は安康天皇の御名代であったが(雄略天皇十九年)、ここでは地名であろう。 「間人皇女」が個人名ではあるが、「穴穂部の皇女〔穴穂部と呼ばれる土地に設けた宮に坐した皇女〕とも呼ばれたわけである。
 泥部穴穗部皇子は、以後「穴穗部皇子」と書かれ、問題行動の果てに用明天皇のときに殺される。 この皇子も同じく穴穂部の宮に坐し、天香子皇子住迹皇子須売伊呂杼王という個人名をもち、 間人皇女と二人で泥部はつかしべを私有していたと考えられる。

【書紀―元年正月】
欽明5目次 《有司請立皇后》
箭田珠勝大兄…〈甲本〉箭田ヤタノ珠勝タマカツノ大兄オゝヒ禾。禾〔=ワ〕はネの誤写か。
渟中倉太珠敷…〈甲本〉渟中ヌナカ倉太珠敷クラフトタマシキ
をさ(訳語)…[名] 通訳。
…〈時代別上代〉の「ナカチコ茨田皇女スナキヲ馬来田皇女」(継体紀)」 の古訓スナキは、スクナキ〔スクナシの連体形〕が平安期にスナキに転じたもの。
元年春正月庚戌朔甲子。
有司請立皇后、
詔曰
「立正妃武小廣國押盾天皇女石姬爲皇后。」
是生二男一女。
長曰箭田珠勝大兄皇子、
仲曰譯語田渟中倉太珠敷尊、
少曰笠縫皇女。更名狹田毛皇女。

元年(はじめのとし)春正月(むつき)庚戌(かのえいぬ)を朔(つきたち)として甲子(きのえね)〔十五日〕。
有司(つかさ)たち皇后(おほきさき)を立たせままふことを請(ねが)ひまつりて、
詔(みことのり)して曰(のたまはく)
「正妃(むかひめ)武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)の女(みむすめ)石姫(いしひめ)を立たせて皇后と為したまはむ。」とのたまひき。
是(ここ)に二男(ふたはしらのみこ)と一女(ひとはしらのひめみこ)を生みたひき。
長(このかみ)は箭田(やた)の珠勝大兄皇子(たまかつのおほえのみこ)と曰ひて、
仲(なかつこ)は訳語田(をさた)の渟中倉太珠敷尊(ぬなくらふとたましきのみこと)と曰ひて、
少(おと)は笠縫皇女(かさぬひのみこ)、更名(またのな)狭田毛皇女(さたけのみこ)と曰ひたまふ。

《大意》
 元年十五日、 官僚たちは皇后(おおきさき)を立てていただくことよう要請し、 詔して 「正妃の武小広国押盾天皇(たけおひろくにおしたてのすめらみこと)の御娘、石姫(いしひめ)を皇后に立てる。」と仰りました。
 そして二男一女を生みました。
 すなわち長子は箭田(やた)の珠勝大兄皇子(たまかつのおおえのみこ)といい、 中子は訳語田(をさた)の渟中倉太珠敷尊(ぬなくらふとたましきのみこと)といい、 末子は笠縫皇女(かさぬいのひめみこ)、別名を狭田毛皇女(さたけのひめみこ)といいます。


【書紀―二年三月】
欽明8目次 《納五妃》
二年春三月。
納五妃。
元妃、皇后弟、曰稚綾姬皇女。
是生石上皇子。

二年(ふたとせ)春三月(やよひ)。
五妃(いつはしらのきさき)を納(をさ)めたまふ。
元(はじめ)の妃(きさき)は、皇后(おほきさき)の弟(おと)にありて、稚綾姫皇女(わかあやひめのみこ)と曰ひて、
是(ここに)石上皇子(いそのかみのみこ)を生みたまひき。

かむがふ…[他]ハ下二 かんがえる
 (允恭天皇四十二年)。
次有皇后弟、曰日影皇女
【此曰皇后弟、明是檜隈高田天皇女。
而列后妃之名、不見母妃姓與皇女名字。
不知出何書、後勘者知之】。
是生倉皇子。

次に皇后(おほきさき)の弟(おと)有りて、日影皇女(ひかげのみこ)と曰ひて
【此(これ)皇后の弟と曰ひたれば、明(あきらけく)是(これ)檜隈高田天皇(ひのくまのたかたのすめらみこと)の女(みむすめ)なり。
而(しかれども)列(な)めたる后(おほきさき)妃(きさき)之(の)名(みな)に、母妃(ははみめ)の姓(せい)与(と)皇女(みこ)の名(みな)との字(じ)を不見(みず)。
何(いづく)の書(ふみ)に出づずるや不知(しれず)ありて、後(のちに)に勘(かむが)へむ者(ひと)之(こ)を知るべし。】、
是(これ)倉皇子(くらのみこ)を生みたまひき。

其一…〈釈紀〉
 其一曰ソノヒトリヲマウス大兄皇子オホエノミコト
 ○其二ソノフタリヲ。【自餘効之。】
 ○其十一ノトヲアマリヒトリヲ

堅塩媛…〈甲本〉堅塩キタシホ
臘嘴鳥皇子…〈甲本〉臘嘴鳥アトリ
豊御食炊屋姫…〈甲本〉トヨ御_食ミケカシキ屋姫ヤヒメ
橘本稚皇子…〈甲本〉橘_本タチハナモトノ ワカ_皇_子ミコ
次蘇我大臣稻目宿禰女曰堅鹽媛
【堅鹽、此云岐拕志】。
生七男六女。
其一曰大兄皇子、是爲橘豐日尊。
其二曰磐隈皇女【更名夢皇女】
初侍祀於伊勢大神、後坐姧皇子茨城解。
其三曰臘嘴鳥皇子。
其四曰豐御食炊屋姬尊。
其五曰椀子皇子。
其六曰大宅皇女。
其七曰石上部皇子。
其八曰山背皇子。
其九曰大伴皇女。
其十曰櫻井皇子。
其十一曰肩野皇女。
其十二曰橘本稚皇子。
其十三曰舍人皇女。

次に蘇我大臣稲目宿祢(そがのおほむらじいなめのすくね)の女(むすめ)、堅塩媛(きたしひめ)と曰ひて
【堅塩、此を岐拕志(きたし)と云ふ】、
七男(ななはしらのみこ)と六女(むはしらのひめみこ)とを生みたまひき。
其の一(ひとはしら)は大兄皇子(おほえのみこ)と曰ひて、是(これ)橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)と為(な)りたまひき。
其の二(ふたはしら)は磐隈皇女(いはくまのみこ)【更名(またのな)は夢皇女(いめのみこ)】と曰ひて、
初(はじめ)[於]伊勢大神(いせのおほみかみ)に侍(はべ)り祀(まつ)りて、後(のち)皇子(みこ)茨城(いばらき)と姦(たはけ)を坐(つみ)して解(と)けり。
其の三(みはしら)は臘嘴鳥皇子(あとりのみこ)と曰ふ。
其の四(よはしら)は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしやのひめのみこと)と曰ふ。
其の五(いつはしら)は椀子皇子(まりこのみこ)と曰ふ。
其の六(むはしら)は大宅皇女(おほやけのみこ)と曰ふ。
其の七(ななはしら)は石上部皇子(いそのかみべのみこ)と曰ふ。
其の八(やはしら)は山背皇子(やませのみこ)と曰ふ。
其の九(ここのはしら)は大伴皇女(おほとものみこ)と曰ふ。
其の十(とをはしら)は桜井皇子(さくらゐのみこ)と曰ふ。
其の十一(とはしらあまりひとはしら)は肩野皇女(かたののみこ)と曰ふ。
其の十二(とはしらあまりふたはしら)は橘本稚皇子(たちばなのもとのわかみこ)と曰ふ。
其の十三(とはしらあまりみはしら)は舎人皇女(とねりのみこ)と曰ふ。

泥部穴穗部…〈甲本〉渥_部ハセツカヒノ_穴_穂_部アナホヘ 〔泊瀬部皇子と混合、あるいはハツカシヘが変形したか〕
次堅鹽媛同母弟曰小姉君。
生四男一女。
其一曰茨城皇子。
其二曰葛城皇子。
其三曰泥部穴穗部皇女。
其四曰泥部穴穗部皇子
【更名天香子皇子。一書云、更名住迹皇子】
其五曰泊瀬部皇子。

次に堅塩媛の同母弟(いろど)小姉君(をあねのきみ)と曰ひて、
四男(よはしらのみこ)と一女(ひとはしらのひめみこ)とを生みたまひき。
其の一は茨城皇子(いばらきのみこ)と曰ふ。
其の二は葛城皇子(かつらきのみこ)と曰ふ。
其の三は泥部(はつかしべの)穴穂部皇女(あなほべのみこ)と曰ふ。
其の四は[曰]泥部(はつかしべの)穴穂部皇子
【更名(またのみな)は天香子皇子(あまつかこのみこ)。一書(あるふみ)に云ふ、更名は住迹皇子(すみとのみこ)】といふ。
其の五は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と曰ふ。

…[名] (古訓) たい。
のちひと…[名] 後世の人。〈時代別上代〉「後人習読」(欽明紀)の「後人」を古訓にノチノヒトと訓む。
…[動] (古訓) きさむ。けつる。きる。
…[動] くいちがう。(古訓) たかふ。「舛誤」誤り。「舛錯」いりまじる。
…[動] (古訓) ましふ。
参差…①長短入り混じる。唐代は「たぶん」。(古訓) かたちかひ。かたたかふ。
…[動] しらべる。(古訓) あなくる。
考覈…考えた上に、調べて明らかにする。
【一書云
其一曰茨城皇子。
其二曰泥部穴穗部皇女。
其三曰泥部穴穗部皇子、更名住迹皇子。
其四曰葛城皇子。
其五曰泊瀬部皇子。 一書云
其一曰茨城皇子。
其二曰住迹皇子。
其三曰泥部穴穗部皇女。
其四曰泥部穴穗部皇子、更名天香子。
其五曰泊瀬部皇子。
帝王本紀、多有古字、
撰集之人、屢經遷易。
後人習讀、以意刊改、傳寫既多、
遂致舛雜、前後失次、兄弟參差。
今則考覈古今、歸其眞正、
一往難識者、且依一撰而註詳其異。
他皆效此。】

【一書(あるふみ)に云ふ。
「其一曰茨城皇子。
其二曰泥部穴穂部皇女。
其三曰泥部穴穂部皇子、更名(またのみな)は住迹皇子。
其四曰葛城皇子。
其五曰泊瀬部皇子。」
一書(あるふむ)に云ふ。
「其一曰茨城皇子。
其二曰住迹皇子。
其三曰泥部穴穂部皇女。
其四曰泥部穴穂部皇子更名は天香子。
其五曰泊瀬部皇子。」
帝王(たいわう)の本紀(もとつふみ)、多(おほ)く古き字(じ)有りて、
撰集之(えりあつめし)人、屢(しばしば)遷(うつ)り易(やす)きを経(ふ)。
後人(のちのひと)習ひ読めるに、意(こころ)を以ちて刊(けづ)り改めて、伝へ写すこと既(すで)に多(おほ)くありて、
遂(つひに)舛雑(たがひまじはる)に致(いた)りて、前後(まへしり)次(つげること)を失ひて、兄弟(あにおと)参差(かたたが)へり。
今則(すなはち)古今(いにしへといま)とを考覈(かむがへあなぐ)りて、其の真正(まこと)に帰(よ)りて、
一(ひとつ)往(ゆ)けるに識(し)り難(かた)き者(は)、且(また)一つの撰(えらひ)に依(よ)りて[而]詳(つまひら)かに其の異(こと)にあることを註(しる)す。
他(ほか)皆(みな)此(ここ)に効(なら)ふ。】

次春日日抓臣女曰糠子。
生春日山田皇女
與橘麻呂皇子。

次に春日日抓臣(かすかのひつめのおみ)の女(むすめ)糠子(ぬかこ)と曰ひて、
[生]春日山田皇女(かすかのやまだのみこ)
与(と)橘麻呂皇子(たちばなのまろのみこ)をうみたまふ。

《列后妃之名不見》
 歴代の皇后・妃を集成した文書〔「帝王本紀」(下記)などか〕があり、書紀の原文の執筆にあたってはそれを参照していたことが読み取れる。
 皇后の妹が日影皇女が倉皇子を生んだという伝承はあるが、その集成には「日影皇女」の名がないというのである。 「何書後勘者知〔将来何らかの文書が発見され、後世の校訂者が知る事もないとは言えない〕という。
《原注》
 〈釈紀〉による訓読は次の通りである。
帝王本紀多注スメラミコトフミニサハニアリ/アリテ古字フルキミナトモ
撰集之人エラヒサタ/定也/ムヒトシハ/\ヘタリ遷易ウツリヤスキコトヲ
後人習讀ノチノヒトナラヒヨムトキモテコゝロヲ刊改ケツリアラタム傳寫既ツタヘウツスコトステニオホクシテ/サハニシテ
遂致ツヒニイタス舛雜タカヒマヨフコトヲ
前後失サキノチウシナヒテツイテヲ兄弟參差アニヲトナカタカヒナリ
今則イマスナハチカムカヘ-アナクリテ古今イニシヘイマヲカヘス其眞正ソノマコトニ
一往難ヒトタヒカタキヲシリ者。且依マタヨリテヒトツニヱランテ註-シルス其異ソノケナルコトヲ
他皆效アタシモミナナスラヘコレニ
帝王(すめらみこと)本紀(ふみ)多(さは)に古き字(みな)ども有り[て]、
撰(えら)び定む人しばしば遷り易きことを経たり。
後の人習ひ読むとき、意(こころ)を以て刊(けづ)り改む。伝へ写すことを既に多(おほく、さはに)して、
遂に舛雑(たがひまよふ)ことを致す。
前後(さきあと)次(ついで)を失ひて、兄弟(あにをと)参差(なかたがひ)なり。
今則ち古(いにしへ)今を考へ覈(あなぐ)りて、其の真正(まこと)に帰(かへ)す。
一往(ひとたび)識(し)り難きを、且(また)一つに依りて撰(ゑら)んで其の異(け)なることを註詳(しる)す。
他(あたし)皆此れに効(なすらへ〔準え〕)。
・「さは」はどちらかと言えば印象表現に用いる語で、客観事実として数量を表す場合は「おほし」であろう。
・「参差」は寸法が不揃いな意味だが、ここでは兄弟の順序が定まっていない意味だと思われる。
・「なかたがひ」は恐らくは上代でも「仲違ひ」を意味するだろうと想像され、意味に沿わない。
・「ついで」は上代の「つぎて〔順序の意〕の、平安以後の音便である。
・「一往難識…」は、一通りに定め難いときでも、一つを選び異説を註として示す意で、 この段で実際に行っていることである。よって「一往」は「一通り」であって「ひとたび(一度)」ではない。
・「」については、「」は異様さが心を騒がせることだから、ここではと訓むのは誤りで、あくまでもコトである。
 これは単なる註釈ではあるが、執筆の真摯さが伺われる点で貴重である。 書紀が書かれた時点で過去の帝・王子をまとめた書が存在しており、その調査を徹底して行ったことが分かる。 これまで、原注には後から他の人の解釈を加えたと見られるものも多かったが、 原文執筆のときに加えられたものもあることが、この分注から分かる。
 さてこの原注は、古事記の序文の一部と雰囲気が似ている(第25回~27回)。 記紀共通のスタッフが基礎資料を勘考していたようにも思われる。
《帝王本紀》
 古事記序文に「-録帝紀-覈旧辞」(第18回)とある。 これが「帝紀」と同じものだと考えられている。
 『仮名日本紀』の「帝王本紀すへらみことのふみ」のように、「帝王」は伝統的にスメラミコトと訓み習わされている。 しかし、実際には古墳時代から飛鳥時代の多数の大王(帝)と王子(王)の名の記録であるから、 「天皇」と称するようになった天武朝以前から伝わる書であろう。
 「」の古訓はタイで、おそらく「帝」の字が流入した頃から呉音が用いられたと考えられる。 したがって、スメラミコトが始まる以前は、「帝王」は音読みされていたと思われる。
《字》
 〈時代別上代〉には「平安時代に漢字・仮名をマナ・カンナという」とあるから、「字」を意味する「ナ」を上代語としては認めていない。 本サイトはそれに従い、「字」には音よみの"ジ"をあてている。
《大意》
 二年三月、 五人の妃を納められました。
 はじめの妃は、皇后(おおきさき)の妹で、稚綾姫皇女(わかあやひめのみこ)といい、 石上皇子(いそのかみのみこ)をお生みになりました。
 次の妃は皇后(おほきさき)の妹で日影皇女(ひかげのみこ)といい 【これは皇后の妹というから、明らかに檜隈高田天皇(ひのくまのたかたのすめらみこと)〔宣化〕の娘である。 しかしながら、列記された后・妃の名に、この母妃の姓と皇女の名の字を見ない。 何なる書に出ているか不明だが、後世の勘考者が発見するだろう】、 倉皇子(くらのみこ)をお生みになりました。
 次は蘇我大臣稲目(そがのおおむらじいなめ)の宿祢の娘、堅塩媛(きたしひめ)といい、 七男六女の皇子をお生みになりました。 一人目は、大兄皇子(おおえのみこ)といい、橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)〔用明天皇〕となられました。 二人目は、磐隈皇女(いわくまのひめみこ)【別名は夢皇女(いめのみこ)】といい、 始めに伊勢大神(いせのおおみかみ)に侍祀し、後に茨城(いばらき)皇子との姦通に連座して解任されました。 三人目は、臘嘴鳥皇子(あとりのみこ)といいます。 四人目は、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしやのひめのみこと)〔推古天皇〕といいます。 五人目は、椀子皇子(まりこのみこ)といいます。 六人目は、大宅皇女(おほやけのひめみこ)といいます。 七人目は、石上部皇子(いそのかみべのみこ)といいます。 八人目は、山背皇子(やませのみこ)といいます。 九人目は、大伴皇女(おほとものひめみこ)といいます。 十人目は、桜井皇子(さくらいのみこ)といいます。 十一人目は、肩野皇女(かたののみこ)といいます。 十二人目は、橘本稚皇子(たちばなのもとのわかみこ)といいます。 十三人目は、舎人皇女(とねりのみこ)といいます。
 次は堅塩媛の同母の妹、小姉君(をあねのきみ)といい、 四男一女をお生みになりました。 一人目は、茨城皇子(いばらきのみこ)といいます。 二人目は、葛城皇子(かつらきのみこ)といいます。 三人目は、泥部穴穂部皇女(はしひとあなほべのみこ)といいます。 四人目は、泥部穴穂部皇子(はしひとあなほべのみこ) 【別名は天香子皇子(あまつかこのみこ)、一書に、別名は住迹皇子(すみとのみこ)】といいます。 五人目は、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)といいます。
 【ある書にいう。 「その一、茨城皇子。 その二、泥部穴穂部皇女。 その三、泥部穴穂部皇子、別名住迹皇子。 その四、葛城皇子。 その五、泊瀬部皇子。」
 またある書にいう。 「その一、茨城皇子。 その二、住迹皇子。 その三、泥部穴穂部皇女。 その四、泥部穴穂部皇子、別名天香子。 その五、泊瀬部皇子。」
 帝王本紀には、古い字が多くあり、 撰集した人は、しばしば移り変わりやすいこと〔筆写が繰り返される過程で変化する様〕を経験した。 後世の人が習い読むとき、主観によって削り改めて伝写することが既に多くあり、 遂に誤りが混ざるに至り、前後の順番を失い、兄弟も不揃いになる。 今すなわち、古今を考証し、その真正の形に帰して、 一通りに判断がつかないときにも、また一つを選び注によって異なる点を詳かに示す。 他の個所も皆、これに倣う。】
 次は春日日抓臣(かすかのひつめのおみ)の娘、糠子(ぬかこ)といい、 春日山田皇女(かすかのやまだのみこ) と橘麻呂皇子(たちばなのまろのみこ)をお生みになりました。


まとめ
 丹後半島にも大王陵級の大前方後円墳、網野銚子山古墳(墳丘長198m、4世紀末~5世紀初頭)が存在する。 また、丹波比古多多須美知能宇斯王が見える(第162回)。 顕宗即位前紀では、 億計王・弘計王兄弟〔仁賢・顕宗〕も、一時「-難於丹波国余社郡」した 〔余社郡は、丹波国分割後は丹後国与謝郡〕。 この地域には、独立氏族が隠然として勢力を維持していたと見られる。 一般的に半島が中央から逃げた叛乱勢力の巣窟になりやすいことは、遼東半島の公孫氏に見た (魏志倭人伝[69])。 能登半島にも類似の傾向があり、奈良時代に越中国からの分離・併合が繰り返された裏に、誰がやっても統治しにくいという事情があったように思える (第110回)。
 実は穴穂部皇子も、間人皇女とともに丹後の氏族との繋がりが深かったことが考えられる。
 中央政権は、筑紫→難波津ルートを押さえた結果百済との関係が深まり、欽明天皇のとき到来した仏教に用明天皇が傾倒したのもその表れと考えられる。 それに対して、丹後半島の氏族は、日本海中部ルートによって独自に新羅との関係を保っていたのではないだろうか。 それから考えて、 穴穂部皇子が反仏教の物部守屋とともに、欽明帝―用明帝の主流に反抗した背景に丹後勢力の存在があったのではないだろうか。
 ただ「泥部」が見えるのは{山城国・乙訓郡・羽束【波豆賀之】郷}、{摂津国・有馬郡・羽束【波豆加之】郷}など畿内が中心で、丹後半島については不明である。
 このようにこの仮定の妥当性はまだまだ未知数だが、一つの観点として留意しておきたい。