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[238] 下つ巻(欽明天皇1) |
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2020.04.05(sun) [239] 下つ巻(欽明天皇2) ▼▲ |
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![]() 生御子八田王 次沼名倉太玉敷命 次笠縫王【三柱】 天皇、檜垧(ひのくま)の天皇之(の)御子(みこ)石比売命(いしひめのみこと)を娶(めあは)せて、 [生]御子(みこ)八田王(やたのみこ)、 次に沼名倉太玉敷命(ぬなくらふとたましきのみこと)、 次に笠縫王(かさぬひのみこ)をうみたまふ【三柱(みはしら)】。 又娶其弟小石比賣命 生御子上王【一柱】 又、其の弟(おと)小石比売命(をいしひめのみこと)を娶せて、 御子、上王(かみのみこ)を生みたまふ【一柱(ひとはしら)】。 又娶春日之日爪臣之女糠子郎女 生御子春日山田郎女 次麻呂古王 次宗賀之倉王【三柱】 又、春日之日爪臣(かすかのひつめのおみ)之(の)女(むすめ)、糠子郎女(ぬかこのいらつめ)を娶せて、 [生]御子春日山田郎女(かすかのやまだのいらつめ)、 次に麻呂古王(まろこのみこ)、 次に宗賀之倉王(そがのくらのみこ)をうみたまふ【三柱(みはしら)】。 又娶宗賀之稻目宿禰大臣之女岐多斯比賣 生御子橘之豐日命 次妹石垧王 次足取王 次豐御氣炊屋比賣命 次亦麻呂古王 次大宅王 次伊美賀古王 次山代王 次妹大伴王 次櫻井之玄王 次麻奴王 次橘本之若子王 次泥杼王【十三柱】 又、宗賀之稲目宿祢(そがのいなめのすくね)大臣(およまへつきみ)之(の)女(むすめ)、岐多斯比売(きたしひめ)を娶せて、 [生]御子橘之豊日命(たちばなのとよひのみこと)、 次に妹(いも)、石垧王(いはくまのみこ)、 次に足取王(あとりのみこ)、 次に豊御気炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)、 次に亦(また)、麻呂古王(まろこのみこ)、 次に大宅王(おほやけのみこ)、 次に伊美賀古王(いみかこのみこ)、 次に山代王(やましろのみこ)、 次に妹、大伴王(おほとものみこ)、 次に桜井之玄王(さくらゐのゆばりのみこ)、 次に麻奴王(まぬのみこ)、 次に橘本之若子王(たちばなのもとのわくごのみこ)、 次に泥杼王(ねどのみこ)をうまたまふ【十三柱(とをはしらあまりみはしら)】。
さきくさ(三枝)…[名] 植物名。 穴太部…あなほべ。穴穂部(雄略十九年)など。 姨…[名] ①妻の姉妹。②母の姉妹。③花嫁につきそっていく女(諸侯に嫁ぐときに伴った妹から)。 (古訓) いもしうとめ。こしうとめ。をは。ははかたのをは。 はし…[名] あいだ。事態の交錯するとき。 【真福寺本】 ①八田王…真福寺本は「八次田王」。 ②沼名倉太玉敷命…「沼」は「治」と区別がつかない。「治天下」参照。 ③沼名倉太玉敷命…真福寺本・氏庸本ともに「太」が「大」。 ④生御子…真福寺本は「生」が一個多い。 ⑤麻奴王…「奴」が、真福寺本は「恕」。氏庸本は「妹」。 ⑥間人穴太部王…氏庸本は「マヒトアナフトヘ」とルビを振る。一般には「ハシフト(ウド)アナホベ」。 ⑦間人穴太部王…真福寺本は「太」が「大」。
【娶石比売命】 石比売(いしひめ、書紀は石姫)は、宣化天皇の第一子(第237回)。 王の名前のいくつかは、宮の置かれた地名に由来する。 地名は、一般的に居住した部の名称と結びついている。 ●八田王…八田部(第170回)。 ●沼名倉太玉敷命…敏達天皇。ヌナクラは〈倭名類聚抄〉に見えない。ヌナについては 沼河比売(ぬなかはひめ)は大国主伝説に登場し、越後国の沼川に因む(第63回)。 神渟名川耳尊は綏靖天皇。クラは倉(蔵、庫)やイハクラ(磐座)などに見られる。 ●笠縫王…笠縫邑(笠縫神社(磯城郡田原本町秦庄)、第111回)が見える。笠縫部に因む。 【娶小石比売命】 小石比売命は、書紀では「稚綾姫皇女」。 ●上王…「上」一文字の名前はなかなか考えにくい。 書紀は「石上皇子」。筆写の際、石が脱落したか、あるいは書紀が補ったか。 【娶糠子郎女】
したがって、同一の女性について、その嫁ぎ先を異とする異種の記録(または伝承)が存在したということである。 すなわち、「春日和珥日爪臣の娘の糠君娘(糠子)は仁賢天皇、別説では欽明天皇に嫁ぎ、春日山田皇女を生んだ」とまとめることができる。 ●麻呂古王…マロコは男子への一般的な愛称継体七年十二月など)。 ●宗賀之倉王…書紀では、日影皇女(意志姫のもう一人の妹)が生んだ子に移されている。 蘇我氏の本貫地とされるソガについては、〈延喜式〉に{大和国/高市郡/宗我坐宗我都比古神社【二座並大。月次新甞】} 〔比定社は宗我坐宗我都比古神社。奈良県橿原市蘇我町1196〕とある。 【娶岐多斯比売】 岐多斯比売(堅塩媛)の父、宗賀之稲目宿祢(蘇我稲目宿祢)は、大臣に留任した(即位前紀)。 ●橘之豊日命…橘は「橘寺」の所在地か(第121回)。 ●妹石垧王…「垧」はクマ(前回)。書紀は「磐隈皇女」と表記するから「妹」は性別を明示するためにつけたと見られる。 ●足取王…鳥の名による愛称か。地名に「あとり」はなかなか見えないが、それでも消失した地名かも知れない。 ●豊御気炊屋比売命…天皇になったときの正式名(推古天皇)。トヨは美称。ミケは神・貴人の食物。宮廷の炊飯所に由来する可能性はある。 ●亦麻呂古王…書紀は「椀子皇子」。よって「亦」は接続詞。糠子郎女に同名の子がいるからだろう。
●伊美賀古王…イミ甲ガコ甲は「忌部が子」か。 〈姓氏家系大辞典〉は「高市郡に忌部村あり」〔現橿原市忌部町〕とする。 また書紀は「石上部皇子」なので、イソ甲ノ乙カミ甲の仮名書き("伊蘇乃賀美"など)が変形したのかも知れないが、確かなことは不明。 ●亦山代王…山代(山城)国の宮殿が想像される。 山城国の宮としては菟道稚郎子の「桐原日桁宮」(宇治郡、第153回)、 八田皇女の筒木宮(綴喜郡、第167回)が見える。 ●妹大伴王…書紀は「大伴皇女」だから、「妹」は名前の一部ではない。大伴氏の本貫は鳥坂神社辺り(宣化六年)。 また「(万)0063 大伴乃 御津乃濱松 おほともの みつのはままつ」の大伴は御津への枕詞だが、もともと〈時代別上代〉「いまの大阪の辺をひろくさす地名」と言われる。 ●桜井之玄王…〈倭名類聚抄〉{河内國・河内郡・櫻井}。「玄」を「ゆばり」と訓む説がある(別項)。 ●麻奴王…地名マヌ甲には、〈倭名類聚抄〉{近江国・滋賀郡・真野【末乃】郷}〔野はヌ甲、乃はヌ乙であるが、倭名類聚抄〔平安〕は甲乙の区別が消滅している〕 ●橘本之若子王…〈姓氏家系大辞典〉「橘本 キツモト:石清水八幡社家にあり。参司の一」。〈倭名類聚抄〉にはないから、上代にはキツモトと訓まなかったと見られる。 ●泥杼王…書紀は「舎人皇女」。ネド乙をトネリヒト乙の転と見たか。 《桜井之玄王》 玄王は一般に「ゆばりのみこ」と訓まれるが、これには理由がある。 というのは、敏達紀に豊御食炊屋媛皇后〔後に推古天皇〕が産んだ「櫻井弓張皇女」という同名の皇女があり、 この皇女が、敏達段では「櫻井玄王」と書かれるのである。 これに倣えば、欽明段の「桜井之玄王」は弓張皇子と書き得る。 弓張とは「弦月」(半月)のことで、 〈時代別上代〉はさらにユバリには「上弦」と「下弦」があると解説する。 つまり「玄」は、「弦」から弓偏を省いたもので、 持統紀八年に「毎年正月上玄読之」〔毎年正月の上弦月の日に之〔金光明経〕を読め〕という例がある。 なお同じ名前である「桜井之玄王」と「桜井玄王」については、春日山田郎女の例と同じく、異なる伝承によるものかも知れない。 書紀は、欽明段の方の「之玄」を取り除く整理をしている。 【娶小兄比売】 小兄比売は、「岐多志比売命之姨」であると書かれている。諸侯が妃を娶るとき妹を添えることがあり、これも「姨」という。 記紀において姉妹をセットで娶わす例は、垂仁天皇の日葉酢媛命三姉妹、応神天皇の高城入姫三姉妹、反正天皇の津野媛姉妹に見られる。 ここでも小兄比売が岐多志比売の妹なのは明らかなので、書紀は皇后の「同母弟」と表現している。 天皇あるいは嫡子から見れば、この「姨」も姨である。決して、岐多志比売命にとっての姨=宗賀之稲目宿祢の妻の妹ではない。 ●馬木王…マキは「槙」か。その木に因む宮名または地名も考えられる。 ●葛城王…葛城の宮といえば、飯豊女王の「角刺宮」があった(第212回)。 ●間人穴太部王…アナホベは氏族名および地名である。「間人」はハシヒト、あるいは音便してハシウドと訓み習わされている。 ●三枝部穴太部王(須売伊呂杼)…亦名の「スメ乙イロド乙」は、書紀の住迹(スミト乙)皇子と類似する。 ●長谷部若雀命…「小長谷若雀命」(武烈天皇)と実質的に同名である。 【間人穴太部王】 欽明紀では「泥部穴穗部皇女」だが、用明紀では「穴穂部間人皇女」と書かれ、用明天皇の皇后となる。 間人はハシヒトと訓み倣わされている。 《間》 間に「ハシ」という訓みは、確かに存在する。 『播磨国風土記』(賀毛郡/端鹿里)に 「昔神於諸村班二菓子一至二此村一不レ足故乃云二間有一故号二端鹿一」 〔昔、神もろもろの村に菓子を班(あか)ちてこの村に至り足らざりて、すなはち間有(はしなり)と云ひき。故(かれ)、端鹿(はしか)と号(なづ)く〕。 つまり、「間(ハシ)-菓(か)」が「端鹿」となったという地名譚だから、菓子の配布から漏れた村がハシと表現され、 よって、ハシには「間」の字が当てられたことになる。 なお、菓子は音読みでないと意が通じない。「(万)4111 菓子 このみ」は特別の訓みらしい(第121回)。
用明天皇紀元年に「立二穴穗部間人皇女一為二皇后一」とあるのは、欽明紀の「泥部穴穂部皇女」と同一人物ということになる。 〈倭名類聚抄〉に{丹後国・竹野郡・間人郷}。 〈姓氏家系大辞典〉に「間人 ハシビト ハシウト ハシフト マムト:御名代部の一種か」、そして 「丹後の間人氏:丹後旧事記に拠るに「用明帝の時、穴穂部王・蘇我馬子の忌む所となり、竹野郡間人浦に匿る」と。 間人皇后の湯沐〔ゆかはあみ〕邑※なればなり。」という。※…「トウモクのユウ」。天子から王女に与えられた特別の領地。 なお、竹野郡「間人」はタイザと訓まれる。 この地名について、鵲森宮〔大阪府大阪市森之宮中央1丁目〕 の公式ページには、このように書かれている。 ――「皇后は乱を避けて、当時大浜の里と呼ばれていたこの地に滞在されました。当時ここに彼女の領地があったと言います。 やがて争いが鎮まり奈良の斑鳩の宮へ帰られる時、里人の手厚い持てなしに感謝して、 大浜の里に昔をとどめてし間人(はしうど)村と世々につたへん という歌を詠まれました。皇后から戴いた御名をそのまま地名に使うことは恐れ多いとし、 この大浜の里を「ご退座」されたことに因んで「はしうど」ではなく、「たいざ」と読み伝えることになりました。」 間人の竹の川河口の「立岩」近くには、間人皇后・厩戸皇子(聖徳太子)の母子像があり、観光資源となっている。 書紀の「泥部」については、〈姓氏家系大辞典〉によれば「泥部 ハツカシベ ヌリベ」は職業部。 地名に〈倭名類聚抄〉{山城国・乙訓郡・羽束【波豆賀之】郷}〔はつかしのさと〕がある。 また「埿部 ハツカシベ ヒヂベ ヌリベ」とある。 「土師」はハニシ、またはハジ。「土師部」はハニシベ、ハジベ。 泥はハニと意味が近いと言えないことはないが、「泥部」をハシヒトと訓むのはかなりきつく、記と用明紀があればこそである(下で考察)。 《丹波旧事記》 丹後半島の間人皇女伝説の出典は、『丹後旧事記』の中の「穴穂部尊」の項かと思われる。 その写本(天理大学附属天理図書館所蔵)には、「…誤不少、依改正之…其白天明中揆之/国康文明七年改変」 〔誤り少なからず、之を改正するに依り…それ天明中〔1781~1789〕にこれを興すとまうし、国康文化七年〔1810〕に改変す〕という奥書があると、朱筆で書き添えられている。 関係する部分は次の通り。
『丹後旧事記』は江戸時代の書で、間人皇后伝説がさらにどこまで遡るかは不明である。記紀にも〈釈紀〉にも『丹後国風土記』逸文にもこの話はない。 もし鎌倉時代の丹後国風土記逸文にこの話が残っていれば、必ず〈釈紀〉に載せたと思われる。〔浦嶋子は載っている〕 「退座」という語が使われるようになった時代を探ると、古くは鎌倉時代の訴訟制度〔1235年〕に見えるが、それより遡ると〈時代別上代〉にも載らないので、上代にはタイザという語は見出されていないようである。 よって、「間人皇女が"退座"されたから云々」は後世の附会であろう。 ただ、間人皇女が間人に一時坐したこと自体は考え得る。 だとすれば、その土地の地名は古くからタイザで、そこに間人皇女が訪れたことによって別名ハシヒト〔訛ってハシウド〕が加わり、後に伝説において地名発生の順序が逆転したことが考えられる。 《間人穴穂部皇女》 書紀には「泥部穴穗部皇女」と「泥部穴穗部皇子」が並べて書かれる。『丹後旧事記』が「穴穂皇子二人アリ」と書くのはこのことであろう。 泥部穴穗部皇女は、以後「穴穗部間人皇女」と書かれ、用明天皇の皇后になる。 記の「間人穴太部王」にも対応するから、泥部穴穗部皇女は「間人穴穗部皇女」と書くべきであろう。 間人皇女の名前に関しては、記の方が一貫性がある。 ただ、欽明紀は分注でも「泥部穴穗部皇女」に統一されているから、もし誤りならば確信をもって書いたものが系統的に誤っていることになる。 すると最も完全な形は「泥部穴穗部間人皇女」で、欽明紀ではここから「間人」の方が省略されたのかも知れない。もし「其三曰泥部穴穗部皇女【更名間人皇女】」とでも書いてあれば、完璧なのだが。 「穴穂部」は安康天皇の御名代であったが(雄略天皇十九年)、ここでは地名であろう。 「間人皇女」が個人名ではあるが、「穴穂部の皇女」〔穴穂部と呼ばれる土地に設けた宮に坐した皇女〕とも呼ばれたわけである。 泥部穴穗部皇子は、以後「穴穗部皇子」と書かれ、問題行動の果てに用明天皇のときに殺される。 この皇子も同じく穴穂部の宮に坐し、天香子皇子・住迹皇子・須売伊呂杼王という個人名をもち、 間人皇女と二人で泥部を私有していたと考えられる。 【書紀―元年正月】 欽明5目次 《有司請立皇后》
有司(つかさ)たち皇后(おほきさき)を立たせままふことを請(ねが)ひまつりて、 詔(みことのり)して曰(のたまはく) 「正妃(むかひめ)武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)の女(みむすめ)石姫(いしひめ)を立たせて皇后と為したまはむ。」とのたまひき。 是(ここ)に二男(ふたはしらのみこ)と一女(ひとはしらのひめみこ)を生みたひき。 長(このかみ)は箭田(やた)の珠勝大兄皇子(たまかつのおほえのみこ)と曰ひて、 仲(なかつこ)は訳語田(をさた)の渟中倉太珠敷尊(ぬなくらふとたましきのみこと)と曰ひて、 少(おと)は笠縫皇女(かさぬひのみこ)、更名(またのな)狭田毛皇女(さたけのみこ)と曰ひたまふ。 《大意》 元年十五日、 官僚たちは皇后(おおきさき)を立てていただくことよう要請し、 詔して 「正妃の武小広国押盾天皇(たけおひろくにおしたてのすめらみこと)の御娘、石姫(いしひめ)を皇后に立てる。」と仰りました。 そして二男一女を生みました。 すなわち長子は箭田(やた)の珠勝大兄皇子(たまかつのおおえのみこ)といい、 中子は訳語田(をさた)の渟中倉太珠敷尊(ぬなくらふとたましきのみこと)といい、 末子は笠縫皇女(かさぬいのひめみこ)、別名を狭田毛皇女(さたけのひめみこ)といいます。 【書紀―二年三月】 欽明8目次 《納五妃》
五妃(いつはしらのきさき)を納(をさ)めたまふ。 元(はじめ)の妃(きさき)は、皇后(おほきさき)の弟(おと)にありて、稚綾姫皇女(わかあやひめのみこ)と曰ひて、 是(ここに)石上皇子(いそのかみのみこ)を生みたまひき。
【此(これ)皇后の弟と曰ひたれば、明(あきらけく)是(これ)檜隈高田天皇(ひのくまのたかたのすめらみこと)の女(みむすめ)なり。 而(しかれども)列(な)めたる后(おほきさき)妃(きさき)之(の)名(みな)に、母妃(ははみめ)の姓(せい)与(と)皇女(みこ)の名(みな)との字(じ)を不見(みず)。 何(いづく)の書(ふみ)に出づずるや不知(しれず)ありて、後(のちに)に勘(かむが)へむ者(ひと)之(こ)を知るべし。】、 是(これ)倉皇子(くらのみこ)を生みたまひき。
【堅塩、此を岐拕志(きたし)と云ふ】、 七男(ななはしらのみこ)と六女(むはしらのひめみこ)とを生みたまひき。 其の一(ひとはしら)は大兄皇子(おほえのみこ)と曰ひて、是(これ)橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)と為(な)りたまひき。 其の二(ふたはしら)は磐隈皇女(いはくまのみこ)【更名(またのな)は夢皇女(いめのみこ)】と曰ひて、 初(はじめ)[於]伊勢大神(いせのおほみかみ)に侍(はべ)り祀(まつ)りて、後(のち)皇子(みこ)茨城(いばらき)と姦(たはけ)を坐(つみ)して解(と)けり。 其の三(みはしら)は臘嘴鳥皇子(あとりのみこ)と曰ふ。 其の四(よはしら)は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしやのひめのみこと)と曰ふ。 其の五(いつはしら)は椀子皇子(まりこのみこ)と曰ふ。 其の六(むはしら)は大宅皇女(おほやけのみこ)と曰ふ。 其の七(ななはしら)は石上部皇子(いそのかみべのみこ)と曰ふ。 其の八(やはしら)は山背皇子(やませのみこ)と曰ふ。 其の九(ここのはしら)は大伴皇女(おほとものみこ)と曰ふ。 其の十(とをはしら)は桜井皇子(さくらゐのみこ)と曰ふ。 其の十一(とはしらあまりひとはしら)は肩野皇女(かたののみこ)と曰ふ。 其の十二(とはしらあまりふたはしら)は橘本稚皇子(たちばなのもとのわかみこ)と曰ふ。 其の十三(とはしらあまりみはしら)は舎人皇女(とねりのみこ)と曰ふ。
四男(よはしらのみこ)と一女(ひとはしらのひめみこ)とを生みたまひき。 其の一は茨城皇子(いばらきのみこ)と曰ふ。 其の二は葛城皇子(かつらきのみこ)と曰ふ。 其の三は泥部(はつかしべの)穴穂部皇女(あなほべのみこ)と曰ふ。 其の四は[曰]泥部(はつかしべの)穴穂部皇子 【更名(またのみな)は天香子皇子(あまつかこのみこ)。一書(あるふみ)に云ふ、更名は住迹皇子(すみとのみこ)】といふ。 其の五は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と曰ふ。
「其一曰茨城皇子。 其二曰泥部穴穂部皇女。 其三曰泥部穴穂部皇子、更名(またのみな)は住迹皇子。 其四曰葛城皇子。 其五曰泊瀬部皇子。」 一書(あるふむ)に云ふ。 「其一曰茨城皇子。 其二曰住迹皇子。 其三曰泥部穴穂部皇女。 其四曰泥部穴穂部皇子更名は天香子。 其五曰泊瀬部皇子。」 帝王(たいわう)の本紀(もとつふみ)、多(おほ)く古き字(じ)有りて、 撰集之(えりあつめし)人、屢(しばしば)遷(うつ)り易(やす)きを経(ふ)。 後人(のちのひと)習ひ読めるに、意(こころ)を以ちて刊(けづ)り改めて、伝へ写すこと既(すで)に多(おほ)くありて、 遂(つひに)舛雑(たがひまじはる)に致(いた)りて、前後(さきのち)の次(つぎて)を失ひて、兄弟(あにおと)参差(まじ)れり。 今則(すなはち)古今(いにしへといま)とを考覈(かむがへあなぐ)りて、其の真正(まこと)に帰(よ)りて、 一(ひとつ)往(ゆ)けるに識(し)り難(かた)き者(は)、且(また)一つの撰(えらひ)に依(よ)りて[而]詳(つまひら)かに其の異(こと)にあることを註(しる)す。 他(ほか)皆(みな)此(ここ)に効(なら)ふ。】
[生]春日山田皇女(かすかのやまだのみこ) 与(と)橘麻呂皇子(たちばなのまろのみこ)をうみたまふ。 《列后妃之名不見》 歴代の皇后・妃を集成した文書〔「帝王本紀」(下記)などか〕があり、書紀の原文の執筆にあたってはそれを参照していたことが読み取れる。 皇后の妹が日影皇女が倉皇子を生んだという伝承はあるが、その集成には「日影皇女」の名がないというのである。 「不レ知レ出二何書一後勘者知レ之」 〔将来何らかの文書が発見され、後世の校訂者が知る事もないとは言えない〕という。 《原注》 〈釈紀〉による訓読は次の通りである。
・「参差」は寸法が不揃いな意味だが、ここでは兄弟の順序が定まっていない意味だと思われる。 ・「なかたがひ」は恐らくは上代でも「仲違ひ」を意味するだろうと想像され、意味に沿わない。 ・「ついで」は上代の「つぎて」〔順序の意〕の、平安以後の音便である。 ・「一往難識…」は、一通りに定め難いときでも、一つを選び異説を註として示す意で、 この段で実際に行っていることである。よって「一往」は「一通り」であって「ひとたび(一度)」ではない。 ・「異」については、「け」は異様さが心を騒がせることだから、ここではケと訓むのは誤りで、あくまでもコトである。 これは単なる註釈ではあるが、執筆の真摯さが伺われる点で貴重である。 書紀が書かれた時点で過去の帝・王子をまとめた書が存在しており、その調査を徹底して行ったことが分かる。 これまで、原注には後から他の人の解釈を加えたと見られるものも多かったが、 原文執筆のときに加えられたものもあることが、この分注から分かる。 さてこの原注は、古事記の序文の一部と雰囲気が似ている(第25回~27回)。 記紀共通のスタッフが基礎資料を勘考していたようにも思われる。 《帝王本紀》 古事記序文に「撰二-録帝紀一討二-覈旧辞一」(第18回)とある。 これが「帝紀」と同じものだと考えられている。 『仮名日本紀』の「帝王本紀」のように、「帝王」は伝統的にスメラミコトと訓み習わされている。 しかし、実際には古墳時代から飛鳥時代の多数の大王(帝)と王子(王)の名の記録であるから、 「天皇」と称するようになった天武朝以前から伝わる書であろう。 「帝」の古訓はタイで、おそらく「帝」の字が流入した頃から呉音が用いられたと考えられる。 したがって、スメラミコトが始まる以前は、「帝王」は音読みされていたと思われる。 《字》 〈時代別上代〉には「平安時代に漢字・仮名をマナ・カンナという」とあるから、「字」を意味する「ナ」を上代語としては認めていない。 本サイトはそれに従い、「字」には音よみの"ジ"をあてている。 《大意》 二年三月、 五人の妃を納められました。 はじめの妃は、皇后(おおきさき)の妹で、稚綾姫皇女(わかあやひめのみこ)といい、 石上皇子(いそのかみのみこ)をお生みになりました。 次の妃は皇后(おほきさき)の妹で日影皇女(ひかげのみこ)といい 【これは皇后の妹というから、明らかに檜隈高田天皇(ひのくまのたかたのすめらみこと)〔宣化〕の娘である。 しかしながら、列記された后・妃の名に、この母妃の姓と皇女の名の字を見ない。 何なる書に出ているか不明だが、後世の勘考者が発見するだろう】、 倉皇子(くらのみこ)をお生みになりました。 次は蘇我大臣稲目(そがのおおむらじいなめ)の宿祢の娘、堅塩媛(きたしひめ)といい、 七男六女の皇子をお生みになりました。 一人目は、大兄皇子(おおえのみこ)といい、橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)〔用明天皇〕となられました。 二人目は、磐隈皇女(いわくまのひめみこ)【別名は夢皇女(いめのみこ)】といい、 始めに伊勢大神(いせのおおみかみ)に侍祀し、後に茨城(いばらき)皇子との姦通に連座して解任されました。 三人目は、臘嘴鳥皇子(あとりのみこ)といいます。 四人目は、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしやのひめのみこと)〔推古天皇〕といいます。 五人目は、椀子皇子(まりこのみこ)といいます。 六人目は、大宅皇女(おほやけのひめみこ)といいます。 七人目は、石上部皇子(いそのかみべのみこ)といいます。 八人目は、山背皇子(やませのみこ)といいます。 九人目は、大伴皇女(おほとものひめみこ)といいます。 十人目は、桜井皇子(さくらいのみこ)といいます。 十一人目は、肩野皇女(かたののみこ)といいます。 十二人目は、橘本稚皇子(たちばなのもとのわかみこ)といいます。 十三人目は、舎人皇女(とねりのみこ)といいます。 次は堅塩媛の同母の妹、小姉君(をあねのきみ)といい、 四男一女をお生みになりました。 一人目は、茨城皇子(いばらきのみこ)といいます。 二人目は、葛城皇子(かつらきのみこ)といいます。 三人目は、泥部穴穂部皇女(はしひとあなほべのみこ)といいます。 四人目は、泥部穴穂部皇子(はしひとあなほべのみこ) 【別名は天香子皇子(あまつかこのみこ)、一書に、別名は住迹皇子(すみとのみこ)】といいます。 五人目は、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)といいます。 【ある書にいう。 「その一、茨城皇子。 その二、泥部穴穂部皇女。 その三、泥部穴穂部皇子、別名住迹皇子。 その四、葛城皇子。 その五、泊瀬部皇子。」 またある書にいう。 「その一、茨城皇子。 その二、住迹皇子。 その三、泥部穴穂部皇女。 その四、泥部穴穂部皇子、別名天香子。 その五、泊瀬部皇子。」 帝王本紀には、古い字が多くあり、 撰集した人は、しばしば移り変わりやすいこと〔筆写が繰り返される過程で変化する様〕を経験した。 後世の人が習い読むとき、主観によって削り改めて伝写することが既に多くあり、 遂に誤りが混ざるに至り、前後の順番を失い、兄弟も不揃いになる。 今すなわち、古今を考証し、その真正の形に帰して、 一通りに判断がつかないときにも、また一つを選び注によって異なる点を詳かに示す。 他の個所も皆、これに倣う。】 次は春日日抓臣(かすかのひつめのおみ)の娘、糠子(ぬかこ)といい、 春日山田皇女(かすかのやまだのみこ) と橘麻呂皇子(たちばなのまろのみこ)をお生みになりました。 まとめ 丹後半島にも大王陵級の大前方後円墳、網野銚子山古墳(墳丘長198m、4世紀末~5世紀初頭)が存在する。 また、丹波比古多多須美知能宇斯王が見える(第162回)。 顕宗即位前紀では、 億計王・弘計王兄弟〔仁賢・顕宗〕も、一時「避二-難於丹波国余社郡一」した 〔余社郡は、丹波国分割後は丹後国与謝郡〕。 この地域には、独立氏族が隠然として勢力を維持していたと見られる。 一般的に半島が中央から逃げた叛乱勢力の巣窟になりやすいことは、遼東半島の公孫氏に見た (魏志倭人伝[69])。 能登半島にも類似の傾向があり、奈良時代に越中国からの分離・併合が繰り返された裏に、誰がやっても統治しにくいという事情があったように思える (第110回)。 実は穴穂部皇子も、間人皇女とともに丹後の氏族との繋がりが深かったことが考えられる。 中央政権は、筑紫→難波津ルートを押さえた結果百済との関係が深まり、欽明天皇のとき到来した仏教に用明天皇が傾倒したのもその表れと考えられる。 それに対して、丹後半島の氏族は、日本海中部ルートによって独自に新羅との関係を保っていたのではないだろうか。 それから考えて、 穴穂部皇子が反仏教の物部守屋とともに、欽明帝―用明帝の主流に反抗した背景に丹後勢力の存在があったのではないだろうか。 ただ「泥部」が見えるのは{山城国・乙訓郡・羽束【波豆賀之】郷}、{摂津国・有馬郡・羽束【波豆加之】郷}など畿内が中心で、丹後半島については不明である。 このようにこの仮定の妥当性はまだまだ未知数だが、一つの観点として留意しておきたい。 |
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2020.06.14(sun) [240] 下つ巻(敏達天皇1) ▼▲ |
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![]() 坐他田宮治天下壹拾肆歲也 御子(みこ)、沼名倉太玉敷命(ぬなくらふとたましきのみこと)、 他田宮(をさたのみや)に坐(ましま)して天下(あめのした)を治(をさ)めたまふこと、壱拾肆歳(とをとせあまりよとせ)也(なり)。 御子(みこ)、沼名倉太玉敷命(ぬなくらふとたましきのみこと)は、 他田宮(おさたのみや)にいらっしゃり、天下(あめのした)を治められること、十四年でした。
・「沼名倉太玉敷命」の「太」が「大」になっている。 ・「壱拾肆歳」が「十四歳」になっている。 【壱拾肆歳】 「治天下十四歳」は、書紀の敏達天皇の最後の年「十四年」と一致している。 【他田宮】 書紀には、元年六月に 「営二宮於訳語田一、是謂二幸玉宮一。」とある。 「他田」をヲサタと訓むことについては、 〈時代別上代〉によれば、 「「蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃弥己等〔ぬなくらのふとたましきのみこと〕…坐二乎沙多宮一治二天下一」(法王帝説)との対照によってヲサと訓まれる」。 この「法王帝説」(『上宮聖徳法王帝説』)は、「聖徳太子の在世または没後間もなく(622)頃の成立かといわれる」という。 同書によれば、ヲサダという訓みは〈倭名類聚抄〉の{駿河国・有度【宇止】郡・他田【乎佐多】〔をさた〕郷}にも見える。 訳語田の幸玉宮(他田宮)の候補地には、桜井市太田(大字)と桜井市戒重(大字)がある。詳しくは、別項で述べる。 書紀では、最初は「百済大井」の宮で、のちに「譯語田」の「幸玉宮」に遷る。
敏達1目次 《渟中倉太珠敷天皇卽天皇位》
母(みはは)は、石姫皇后(いしひめのおほきさき)と曰ふ。 【石姫皇后、武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)の女(みむすめ)也(なり)。】 天皇、仏法(ほとけののり)を不信(うけずあり)て[而]文史(ふみ)を愛(め)づ。 二十九年(はたとせあまりここのとせ)。 立たして皇太子(ひつぎのみこ)と為(な)りたまふ。 三十二年(みそとせあまりふたとせ)四月(うづき)。 天国排開広庭天皇、崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
皇太子(ひつぎのみこ)、天皇の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。 皇后(おほきさき)を尊(たふと)びて皇太后(おほきさき)と曰ひたまふ。 是の月、[于]百済(くたら)の大井(おほゐ)に宮をおきたまひき。 物部弓削守屋(もののべのゆげのもりや)の大連(おほむらじ)を以ちて大連と為(し)たまへること故(もと)の如くして、 蘇我馬子(そがのうまこ)の宿祢(すくね)を以ちて大臣(おほまへつきみ)と為(し)たまふ。 《不信仏法》 仏教に対しては、導入派の蘇我馬子と、排斥派の物部守屋が激しく対立した。 敏達天皇自身は守屋に同意したかと思えば、他方で馬子に一定の仏教活動を許すなどして腰が据わらない。 「不信」は絶対的な否定ではなく、積極的に広める立場に立たなかった意と見られる。 《文史》 「文史」は「書物」である。 ここでは外来の仏教に対立する概念だから、 その内容は歴史一般ではなく、「神の子孫が建てた国」の成り立ちを記したフミであろう。 古訓の「シルシフミ」はフミの同意語の反復に過ぎない。 上代語にこの「歴史」概念をシンプルに表す語はなく、これ自体はフミと訓み前後関係によって意を伝えるしかないであろう。 《大意》 渟中倉太珠敷(ぬなくらふとたましき)の天皇(すめらみこと)は、天国排開広庭(あめくにおしはらきひろにわ)の天皇の第二子です。 母は、石姫(いしひめ)皇后(おおきさき)です 【石姫皇后は、武小広国押盾(たけおひろくにおしたて)の天皇の娘です】。 天皇は、仏法を信じず、文史を愛しました。 二十九年、 皇太子(ひつぎのみこ)に立てられました。 三十二年四月、 天国排開広庭天皇が崩じました。 元年四月三日、 皇太子は天皇の位に即かれました。 皇后を尊び、皇太后(おほきさき)とされました。 この月、百済の大井に宮をおかれました。 物部弓削守屋(もののべのゆげのもりや)の大連(おおむらじ)を大連にされたのはこれまでの通りです。 蘇我馬子(そがのうまこ)の宿祢(すくね)を大臣(おほまえつきみ)とされました。 【書紀―四年是年】 敏達5目次 《營宮於譯語田》
卜(うら)便(すなはち)襲(かさ)ねて吉(よし)なりて、遂(つひ)に宮を[於]訳語田(をさた)に営(いとな)みて、是(これ)幸玉宮(さきたまのみや)と謂ふ。 冬十一月(しもつき)。 皇后(おほきさき)広姫(ひろひめ)薨(こうず、みまかる)。 《卜者》 「卜者」もうらべと訓んで差支えないと思われる。 ただ、立場を表現するウラベと、職務の内容を表現するボクシャとは多少ニュアンスが異なる。 この程度の音読みは、あったのではないかと思われる。 《大意》 同じ歳〔四年〕、卜者(ぼくしゃ)に命じて、海部王(あまのみこ)の家地と、絲井王(いといのみこ)の家地とを占わせました。 占いを何度も繰り返しても吉であったので、遂に訳語田(をさた)に営宮し、これを幸玉宮(さきたまのみや)といいます。 十一月、 皇后(おおきさき)広姫(ひろひめ)が薨(こう)じました。
【百済大井宮】 《広瀬郡百済邑》
〈五畿内志-大和国/広瀬郡〉には「【村里】百済」がある。 また「【仏刹】:百済寺【在百済属邑二条…】」と、また舒明天皇紀の「百済大寺」にも触れている。 舒明紀の百済宮については、 「【古跡】:百済宮【百済村 舒明天皇十一年秋七月以二百済川側一 為二宮処一役二西民一造二大宮一」。 百済大寺は、奈良国立文化財研究所による1996年度からの調査以来、吉備寺廃寺が有力である (第152回)。 《百済郡》 〈倭名類聚抄〉に、{摂津国・百済【久太良】郡〔くたらのこほり〕}がある(第141回)。 百済の滅亡により倭国に取り残された一族が「百済王氏」となった(第33回【新羅王】)。 その本拠地が「百済郡」と考えられている。「百済」(ペクチュ)に訓クタラが当てられたのは、その地名がもともとクタラであったからであろう。
また、この地の「百済川:河内龍華川の末にして平野郷を過くるを以て、 今平野川と称す、〔中略〕 くたら川かは瀬をはやみゆく駒のあしの浦まにぬれにけるかも、[六帖]〔古今和歌六帖;平安〕」と述べる。 後に百済王氏が住まなくなったことによって「欠郡」と呼ばれるようになったのではないかと思われる。 『大日本地名辞書』には 「闕郡:又欠郡に作る、百済郡の後名なり。〔中略〕 按〔あんずる〕に足利家の天文繩の記録〔・〕豊臣天正総検地の記録には、共に津の国〔=摂津国〕十三郡〔〈倭名類聚抄〉は十三郡〕と記されたるは、百済の廃〔すたれ〕たるは文禄以後の事なり。 〔中略〕按に欠郡は小槻長興記(文明九年)細川領家記録等に見ゆ、〔中略〕缺郡は元和の初猶存せり、〔中略〕正保図に至りて闕郡を載せず。」、 つまり、文禄〔1592~1596〕まで「百済郡」、元和〔1615~1627〕のはじめは「缺〔=闕・欠〕郡」、正保〔1644~1648〕にはもう存在しない。 同書はまた、生野村〔現生野区付近〕の舎利寺が「百済寺」の跡で、その一帯を「百済野」とする。 〈五畿内志-摂津国/東生郡〉に「【古蹟】:廃百済寺【在二天王寺東旧百済郡一】」。 「百済寺」は百済王氏の氏寺と考えられているが、現在は「舎利寺」ではなく「堂ケ芝廃寺」だと考えられている。 「堂ケ芝廃寺」は、観音寺(豊川稲荷大阪別院、大阪市天王寺区堂ケ辻1-5-19)で発掘された。 「百済尼寺」もあったらしく、近くの細工谷遺跡から「百済尼」「百尼寺」墨書土器が出土している (大阪市文化協会)。 《河内国大井村》 百済の地名は、百済郡と広瀬郡百済以外に、〈倭名類聚抄〉{河内国・錦部郡・百済郷}がある。 〈五畿内志-河内国〉錦部郡に【村里】に「大井」があり、ここを大井宮とする説も見る。 これが宮蹟だとすれば、「仏刹」の項に「百済寺」、「古蹟」の項に「大井宮」があってもよさそうようなものだが、同書にはどちらも載らない。 ここは山間地で、約3km東に千早城址がある。 『大日本地名辞書』は、「応神帝の朝に百済新羅人等帰住したるに因り 此〔この〕名あるべし、敏達天皇元年百済大井に造営あり。 河内志〔五畿内志-河内国〕此〔の〕大井を以て河内国百済郷に求め、今川上村大字太井に擬すれど太井は造営あるべき地理に非ず、 必定大井宮址も大和百済邑に求むべきのみ」として、広瀬郡百済を選択する。 《大井宮》 百済王氏の発祥は、斉明天皇六年〔660年〕七月の百済国の滅亡のときだが、 百済郡の地は、それ以前から百済の渡来人の居住区であったと思われる。
『大日本地名辞書』が「百済新羅人等帰住したる」というのは、応神紀七年条の「高麗人百済人任那人新羅人、並来朝。」によると思われるが、 その居住地を「大和百済邑」〔広瀬郡〕と読み取り得る記述は、記紀にはない。 同書が広瀬郡の百済邑を帰住地とするのは、ひとえに百済大寺がこの地にあったことを前提にしている。 すなわち「名所図会云、百済寺の址、僅にのこりて毘沙門堂あり」と述べる。 近年百済大寺の比定地となった吉備池には「百済川」も流れ、その地域の地名も「百済」だったかも知れない。 この地は、しばしば宮が置かれた磐余に近い。 《考察》 「大井宮」そのものの探索につながる材料はほぼ皆無で、結局その地名「百済」を深堀りすることになった。 百済出身の渡来民は、百済王氏よりもずっと以前から居住していただろうから、子孫が移住した小さな「百済」は無数にあり、多くはすでに消滅したと想像される。 だから、「大井宮」はどこにでもあり得る。 流れから見ると、欽明「磯城嶋金刺宮」、用明「磐余池辺双槻宮」、崇峻「倉梯宮」(桜井市倉橋)で、磯城・磐余・飛鳥の周辺地域に収まる。 すると、旧百済郡・河内郡は問題外、広瀬郡の可能性も薄れ、吉備池廃寺が有力になる。 ただ、百済大寺の造営に百済人の力は大きかっただろうが、その前から居住していたとは限らない。 しかし、少しは住んでいて百済の地名があった可能性はある。 【訳語田宮】 訳語田宮(他田宮)の候補地には、式上郡太田村〔現桜井市太田(大字)〕と、式上郡戒重村〔現桜井市戒重(大字)〕が挙げられてきた。 それぞれ、その根拠とされているものを検証する。
〈五畿内志-大和国/城上郡〉は、太田村の「訳田坐天照御霊神社」の辺りに幸玉宮があったと見る。曰く。 ―「【古蹟】:幸玉宮【在二太田村一敏達天皇四年営二宮於訳語田一是謂二幸玉宮一】」。 ―「【神廟】:他田坐天照御霊神社 【他日本紀作二訳語一 大月次相甞新甞貞観元年正月授二従五位上一 ○在二太田村一今称二春日一】」 〔「他」、日本紀は「訳語」に作る。…太田村に在り、今春日と称す〕。 『大日本地名辞書』も太田村説を採る。曰く。 ・「訳語田幸玉宮址:今纏向村大字太田に天照御魂神社あり、幸玉宮其社辺〔そのやしろあたり〕に在りしなるべし。」 ・「他田神社:延喜式他田坐天照御魂神社。今纏向村大字大田字海道に在り。」 〈延喜式-神名帳〉に{大和国/城上郡/他田坐天照御魂神社【大。月次相甞新甞】}があり、 論社は「他田坐天照御魂神社」(奈良県桜井市太田205)である。 このように江戸時代には「春日神社」と呼ばれたというが、その名前になった経緯は不明である。 ただ、安閑紀二年五月のところで、肥後国飽田郡(熊本市西区)の「春日神社」を見た。 同社は「延久五年〔1073〕、菊池氏初代藤原則隆が奈良の春日神社を勧請」したと言われ、 春日大社が藤原氏の氏神として創建〔神護景雲ニ年;768〕されて以来、その支社が全国に広まった一環ではないかと論じた(火国春日部屯倉)。 〈延喜式-神名帳〉には、「春日神社」は{大和国/添上郡/春日神社。春日祭神四座〔現春日大社〕} の外は河内国高安郡に{春日戸神}が二社見えるだけである。 それ以外に「春日神社」なる社名は見られないから、 支社の全国展開は〈延喜式〉成立の927年よりも後のことになる。 その流れから見れば、太田村の「他田坐天照御魂神社」も、古来の神社が10世紀以降に春日大社の配下に入ったのではないかと想像される。 《戒重村説》 戒重春日神社(奈良県桜井市戒重557)の案内板(桜井市教育委員会設置)に、 「戒重村はかって他田(おさだ)庄と呼ばれ、小字の和佐田(わさだ)は明治以前他田(おさだ)であった。 そしてこの春日神社もかって他田宮(長田宮)と称したことなどからこの地域が考えられる。」とある。 〈五畿内志-大和国/城上郡〉の【村里】には「戒重村【旧名艾生属村四】」の名もある。 「戒重春日神社」もあったはずなのだが、【神廟】の項には何故か見当たらない。 ・『扶桑略記第三』〔平安〕の敏達天皇には、 「都大和国十市郡磐余譯田宮。一云。百濟大井宮。又云。城上郡幸玉宮」とある。 ・『法王帝説』(前出、7世紀初め)は、 「磐余訳語田宮【大和国十市郡】」とする。 カナ文字による訓は、当然平安以後である。注記も「倭」ではなく「大和」を使うから平安以後であろう。 《他田庄》 他田庄の位置は、かなり狭い範囲に絞り込むことができる。 『奈良県史』(奈良県史編集委員会。1974)第十巻は「荘園―大和国荘園の研究―」と題されている(以下〈奈良県史〉)。 その「長田庄・他田庄 現桜井市大字戒重」〔ルビもママ〕の項目では、 「平安期と考えられる長田庄坪付注文」(『桜井町史』から引用)を載せる。 相論」とは、訴訟や論争の意。同書は、「これによると長田庄は東大寺雑役免荘園と考えられる。 梵福寺(寺跡〔が〕、奈良市鹿野園町〔にある〕)田が不輸免田としてそのうちにあり、相論のあったことがうかがえる。」とする。 〈奈良県史〉の「大和国条里復元図」によって該当位置を求め、右図に赤色で示した。 条里は、下ツ道〔平城京朱雀大路の延長〕によって東西に分けられ、条番号は、東西の条里でずれている。 里の番号は下ツ道を起点として東西対称に数値を増加させていくが、郡の境界を越えるたびに「一里」にリセットされる。 同図によると、該当する位置は戒重村に重なり、また十市郡内である。しかし、『五畿内志』では戒重村は城上郡に属している。 城上郡と十市郡の境界はしばしば変動があったようで、この問題については稚櫻神社のところで見た (176回)。 坪付〔条里内の「坪」の番号の振り方〕には、並行式(↓↓↓↓↓↓)と千鳥式(↓↑↓↑↓↑)がある。 起点の「一坪」は左上角と右上角が考えられる。ここでは里の番号が西→東に付されているのに合わせて、西側を「一坪」とした。 「東廿三条六里」は、北半分が城上郡、南半分が十市郡だから、 三十一里は十市郡に属するはずで、従って千鳥式であると判断した。 一方、多田庄については、同書は『平安遺文』の「他田庄十町二百八十歩」を引用している。 『平安遺文』(竹内理三;東京堂1963)の第七-3271〔2601頁〕にある、長寛元年〔1136〕頃の 「大和国石名荘坪付案」は次の通り。
この時期、式上郡と十市郡の境界が北方に移動して廿二条内にあったとすれば、「式上郡二里・三里」の部分が 「十市郡五里・六里」になっていたと理解することができる。 しかし、もともと「廿三條」と書かれていたのに、虫食いによって「廿二條」と読まれたことも考えられる。 試しにこれらを廿三条に移してみると、『長田庄坪付注文』の位置に近づく(図の破線)。 こうした方が長田庄と他田庄の重なりがより顕著になり、十市・城上の郡界を動かす必要もなくなるから合理的と感じられる。 本当に虫食いかどうかは画像で調べたいところだが、今のところ画像の公開が見つからない。いつかの機会を待ちたい。 〈奈良県史〉は「長田庄」と訓むが、ヲサダとも訓まれて他田庄と同一だったかも知れない。 同書は、「両庄は現大字上之庄以外はともに現大字戒重・同谷に田畠をもつ荘園であった点などを考え合わせると、 両庄は同一とも考えられる」と述べつつも、「条里坪付の面では一部重なるにしても多くは違う」として、断定を避けている。 なお、〈奈良県史〉のいう「現大字上之庄」の位置は、「廿二條五里・六里」〔城上郡だとすれば廿二條二里・三里〕の内だから、 同書は「廿二条」のままで読んでいる。 《考察》 他田庄が戒重村に存在したことに、疑問の余地はない。 この地は磐余に近いから、幸玉宮の立地としても妥当である。 しかし、式内「訳田坐天照御霊神社」が江戸時代に太田村の春日神社に比定されていたことには、それなりの重みが感じられる。 「戒重春日社」が〈五畿内志〉に載らないのは、とるに足らない小祠に過ぎないからで、 太田春日社(訳田坐天照御霊神社)こそがそれらしい構えのある社として存在したのであろう。別名「他田社」も古くから伝わるものではないだろうか。 さらには、「他田庄」が長寛元年(1136年)の名称であったことに留意する必要がある。その600年前の地名の範囲が厳密に他田庄と等しいなどと決定できないのは、自明であろう。 想像をたくましくすれば、この辺りに通訳職を担う「訳語部」が居住し、 それが地名化して太田村から戒重村一帯に及んだのではないだろうか。 書紀がヲサに「訳語」の字を宛てたのも、その故かと考えられる。 幸玉宮の実際の位置は不明だが、その位置が訳語地域の中心である太田村の伝統の神社に寄せて語られるのは自然であろう。 さらには幸玉宮の立地は占卜によったというから、ことによると 海部王、糸井王のどちらかの邸宅が、本当に太田村の「訳田坐天照御霊神社」の辺りにあったのかも知れない。 戒重よりは磐余池から離れるが、大きく見れば磯城・磐余・飛鳥地域の内と言える。 まとめ 戒重春日神社の塀の案内板は、その辺りに訳語田幸玉宮があったことが決定的であるが如き印象を与える。 実際には、今回考察したように、まだひとつの可能性に留まるであろう。それでも戒重から太田までの範囲には収まると見てよいと思われる。 それに対して、大井宮の方は極めて漠然としている。言えることは、概念的に磐余・飛鳥・磯城を覆う地域内という程度である。 ただ、この機会に各地の「百済」と呼ばれる場所について調べることができ、それなりに意義があった。 |
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2020.06.22(mon) [241] 下つ巻(敏達天皇2) ▼▲ |
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![]() 生御子靜貝王亦名貝鮹王 次竹田王亦名小貝王 次小治田王 次葛城王 次宇毛理王 次小張王 次多米王 次櫻井玄王【八柱】 此(こ)の天皇(すめらみこと)、庶妹(ままいも)、豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)を娶せて、 [生]御子(みこ)、静貝王(しづかひのみこ)、亦の名は貝鮹王(かひたこのみこ)、 次に竹田王(たけだのみこ)、亦(また)の名(みな)は小貝王(をがひのみこ)、 次に小治田王(をはるたのみこ)、 次に葛城王(かづらきのみこ)、 次に宇毛理王(うもりのみこ)、 次に小張王(をはりのみこ)、 次に多米王(ためのみこ)、 次に桜井玄王(さくらゐのゆばりのみこ)をうみたまふ【八柱(やはしら)】。 又娶伊勢大鹿首之女小熊子郎女 生御子布斗比賣命 次寶王亦名糠代比賣王【二柱】 又伊勢の大鹿(おほか)の首(おびと)之(の)女(むすめ)小熊子郎女(をくまこのいらつめ)を娶(めあは)せて、 [生]御子(みこ)、布斗比売命(ふとひめのみこと)、 次に宝王(たからのみこ)、亦(また)の名(みな)糠代比売王(ぬかでひめのみこ)をうみたまふ【二柱(ふたはしら)】。 又娶息長眞手王之女比呂比賣命 生御子忍坂日子人太子亦名麻呂古王 次坂騰王 次宇遲王【三柱】 又、息長真手王(おきながのまてのおほきみ、おきながのまてのみこ)之(の)女(むすめ)比呂比売命(ひろひめのみこと)を娶(めあは)せて、 [生]御子、忍坂日子人(おしさかひこひと)の太子(ひつぎのみこ)、亦の名は麻呂古王(まろこのみこ)、 次に坂騰王(さかのぼりのみこ)、 次に宇遅王(うぢのみこ)をうみたまふ【三柱(みはしら)】。 又娶春日中若子之女老女子郎女 生御子難波王 次桑田王 次春日王 次大俣王【四柱】 又、春日中若子(かすかのなかつわくご)之(の)女(むすめ)老女子郎女(おみなこのいらつめ)を娶せて、 [生]御子、難波王(なにはのみこ)、 次に桑田王(くはたのみこ)、 次に春日王(かすかのみこ)、 次大俣王(おほまたのみこ)をうみたまふ【四柱(よはしら)】。 この天皇(すめらみこと)は、庶妹である豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)〔推古天皇〕を娶り、 御子、静貝王(しずかいのみこ)、別名は貝鮹王(かいたこのみこ)、 次に竹田王(たけだのみこ)、別名は小貝王(おがいのみこ)、 次に小治田王(おはるたのみこ)、 次に葛城王(かづらきのみこ)、 次に宇毛理王(うもりのみこ)、 次に小張王(おわりのみこ)、 次に多米王(ためのみこ)、 次に桜井玄王(さくらいのゆばりのみこ)をお生みになりました【八柱】。 また、伊勢の大鹿首(おおがのおびと)の娘、小熊子郎女(おくまこのいらつめ)を娶り、 御子、布斗比売命(ふとひめのみこと)、 次に宝王(たからのみこ)、別名糠代比売王(ぬかでひめのみこ)をお生みになりました【二柱】。 また、息長真手王(おきながまてのおおきみ)の娘、比呂比売命(ひろひめのみこと)を娶り、 御子、忍坂日子人(おしさかひこひと)太子(ひつぎのみこ)、別名麻呂古王(まろこのみこ)、 次に坂騰王(さかのぼりのみこ)、 次に宇遅王(うぢのみこ)をお生みになりました【三柱】。 また、春日中若子(かすかのなかつわくご)の娘、老女子郎女(おみなこのいらつめ)を娶り、 御子、難波王(なにわのみこ)、 次に桑田王(くわたのみこ)、 次に春日王(かすがのみこ)、 次大俣王(おおまたのみこ)をお生みになりました【四柱】。
豊御食炊屋比売命…〈前田本(書紀)〉豊御食炊屋姫尊。 貝鮹王…〈前田本〉菟道貝-鮹皇女 【更名菟道磯津〔しづ〕皇子也】。 かひたこ…[名] 〈倭名類聚抄〉貝蛸:日本紀私記云貝蛸【加比太古】。〈時代別上代〉いいだこのことかという。 小治田王…〈前田本〉小墾田皇女。 宇毛理王…〈前田本〉鸕鷀守皇女。 多米王…〈前田本〉田眼皇女。米、眼ともにメ乙。 桜井玄王…〈前田本〉櫻井弓張皇女。 ゆばり(弦)…[名] 上弦・下弦の月。ユミハリとも。 小熊子郎女…〈前田本〉采ウネ女伊勢大鹿首小熊女曰菟-名子夫人。 〈釈紀〉伊勢大鹿首小熊女曰二菟名子夫人一。 布斗比売命…〈前田本〉太姫皇女。 糠代比売王…ヌカシロとも訓めるが、書紀に依ればヌカデ。 〈前田本〉糠手姫皇女。 て(代)…[名] 代金。代わりになるもの。 息長真手王…〈釈紀〉息長真手王女廣姫。 坂騰王…〈前田本〉逆登皇女。 春日中若子之女老女子郎女…〈前田本〉春日臣ノ仲ツ君女曰老女子夫人オトシ 【更名藥君娘】。 〈釈紀〉春日臣仲君女曰二老女君夫人一。【更名薬君娘也。】 おみな…[名] 老婆。〈時代別上代〉日本書紀古訓にも、「老婆・老嫗」などをオムナと訓むなどは、ミが音便を起こしたもの。 大俣王…〈書紀-前田本〉大-派皇子。
「具」は「貝」のひとつ書体かも知れず、微妙。 「汁」は「計」かも知れない。「計」はしばしば「斗」として使われていた(第189回)。
イイダコは自身が殻をもつわけではないが、二枚貝の貝殻に入りこんだりする。 自前の殻をもつタコには、タコブネ、アオイガイ(現代の別名「カイダコ」)がありいずれも殻をもつのは雌のみである。 【伊勢大鹿首】 〈姓氏家系大辞典〉には「大鹿 オホカ オホシカ:大賀と通じ用ひらる。伊勢発祥の大族なれど、異流と云ふもあるが如し。」とある。 また「大鹿首:三宅は屯倉なり。恐く此の氏は此の屯倉の首なりしと思はる。三宅社傍に二大古墳あり。大鹿塚と云ふ。」と述べる。 式内社{伊勢国/鈴鹿郡/大鹿三宅神社}〔論社「大鹿三宅神社」:三重県鈴鹿市池田町14番〕がある。 オホカ(或いは、連濁してオホガ)の方がオホシカより古い形のようである。シカはもともとは牝鹿の意といわれる (資料[09])。 【息長真手王】 息長君は大氏族で、近江国坂田郡息長村を本貫とする。 継体天皇を支え、また先祖には神功皇后〔息長帯比売命・気長足姫尊〕もいる (第230回・第159回)。 ただ、姓〔君など〕を欠くから、皇族の一人で宮の地名が「息長邑」なのかも知れない。その場合の訓みは「おきながのまてのみこ」となる。 【春日中若子】 〈姓氏家系大辞典〉「春日真人:敏達天皇皇子春日王の後り。」姓氏録に 「天平勝宝三年紀〔続紀〕に「田部王に春日真人を賜ふ」「春日真人、敏達天皇の皇子春日王の後也」と見ゆ。 此の王は御母老女君夫人が春日臣仲君の女にて、春日氏より出で給ひしを以て此の名あり。」 なお、同辞典は「老女子夫人」ではなく「老女君夫人」〔釈紀と同じ〕と表記する。 仲君を春日氏の家系図の中に位置付けた資料は、得られていないようである。
敏達4目次 《立息長眞手王女廣姬爲皇后》
息長真手王(おきながのまてのおほきみ)の女(むすめ)広姫(ひろひめ)を立たして、皇后(おほきさき)と為(し)たまふ。 是(ここに)一男(ひとはしらのみこ)と二女(ふたはしらのひめみこ)とを生みたまひて、 其の一(ひとはしら)は、[曰]押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとのおほえのみこ) 【更名(またのな)は、麻呂古皇子(まろこのみこ)】といひて、 其の二(ふたはしら)は、逆登皇女(さかのぼりのみこ)と曰ひて、 其の三(みはしら)は、菟道磯津貝皇女(うぢのしづかひのみこ)と曰ふ。
春日臣仲君(かすかのおみのなかつきみ)の女(むすめ)をたたして、[曰]老女子夫人(おみなこのおほとじ) 【更名(またのな)は薬君娘(くすりのきみのいらつめ)】といひて、 三男(みはしらのみこ)と一女(ひとはしらのひめみこ)を生みたまふ。 其の一(ひとはしら)は難波皇子(なにはのみこ)と曰ひて、 其の二(ふたはしら)は春日皇子(かすかのみこ)と曰ひて、 其の三(みはしら)は桑田皇女(くはたのみこ)と曰ひて、 其の四(よはしら)は大派皇子(おほまたのみこ)と曰ふ。
[生]太姫皇女(ふとひめのみこ)【更名(またのみな)は、桜井皇女(さくらゐのみこ)】 与(と)糠手姫皇女(ぬかでひめのみこ)【更名は、田村皇女(たむらのみこ)】とをうみたまふ。
馬子宿祢(うまこのすくね)の大臣(おほまへつきみ)[于]京師(みやこ)に還(かへ)りて、屯倉(みやけ)之(の)事復命(かへりごとまをす)。 乙丑(ひのとうし)〔三月十一日か〕。 百済使(つかひ)を遣(まだ)して調(みつき)を進(たてまつ)らしめて、多(おほきこと)恒歳(つねなるとし)に益(ま)す。 天皇、新羅未(いまだ)任那(みまな)建たざることを以ちて、皇子(みこ)与(と)大臣(おほまへつきみ)とに詔(おほせこと)して曰(のたま)はく、 「[於]任那(みまな)之(の)事を莫(な)懶懈(おこた)りそ」とのたまふ。
吉士(きし)金子(かねこ)を遣[し]て、[於]新羅(しらき)に使(つかひ)せしめて、 吉士木蓮子(いたび)をして[於]任那(みまな)に使せしめて、 吉士訳語彦(をさひこ)をして[於]百済(くたら)に使せしむ。
新羅使(つかひ)を遣(まだ)して調(みつき)を進(たてまつ)らしめて、多(おほきこと)常例(つねなるならひ)に益(ま)して、 并(あは)せて[進]多々羅(たたら) 須奈羅(すなら)、 和陀(わだ)、 発鬼(ほつき) 四邑(よつのむら)之(の)調(みつき)をたてまつる。
「二月壬辰朔」だとすると、「乙丑」は、「三十四日」というあり得ない日付になる。 そもそも、これまでの暦の続きなら、四年(乙未)二月は本来「丙戌朔」になる(参考[H])。 「丙戌朔」に直しても、乙丑は四十日で、相変わらず成り立たない。 取り敢えず乙丑を現実的な日付にするには、例えば「二月壬辰朔」を「三月乙卯朔」に直せばよい〔乙丑は三月十一日になる〕。 しかし、「三月が虫に食われて二月に見えた」ことはあり得ても、「丙戌を壬辰に誤写」は考えにくい。 なお、敏達四年の前後で「己亥朔」になる月を探すと、敏達二年(癸巳)十二月、敏達八年(己亥)三月があるが、四年二月からはかなり離れている。 誤りの生じた経緯は見当もつかない。仮にこの部分が後から書き加えたものだったとすれば、暦の確認もしない杜撰な作業であったことになる。 《多々羅など四村》 「多々羅・須奈羅・和陀・発鬼」とやや表記が異なる「多々羅・須那羅・和多・費智」の四村は、継体二十三年にも出てきた。 多々羅は鉄山地なので「たたら製鉄」に繋がると見られ、釜山広域市付近と考えられている(神功皇后四十六年)。 《大意》 四年正月九日、 息長真手王(おきながのまておう)の娘、広姫を立て、皇后(おおきさき)とされました。 そして一男二女をお生みになり、 その一は、押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとのおおえのみこ) 【更なる名は、麻呂古皇子(まろこのみこ)】、 その二は、逆登皇女(さかのぼりのひめみこ)、 その三は、菟道磯津貝皇女(うじのしずかいのひめみこ)といいます。 同じ月、一人の夫人、 春日臣仲君(かすかのおみのなかつきみ)の娘を立て、老女子夫人(おみなこのおおとじ) 【更なる名は、薬君娘(くすりのきみのいらつめ)】といい、 三男一女をお生みになりました。 その一は難波皇子(なにわのみこ)、 その二は春日皇子(かすがのみこ)、 その三は桑田皇女(くわたのひめみこ)、 その四は大派皇子(おおまたのみこ)といいます。 次に采女、伊勢の大鹿首(おおがのおびと)小熊(おくま)の娘、菟名子夫人(うなこのおおとじ)といい、 太姫皇女(ふとひめのみこ)【更なる名は、桜井皇女(さくらいのひめみこ)】 と糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)【更なる名は、田村皇女(たむらのひめみこ)】とをお生みになりました。 二月一日、 馬子宿祢(うまこのすくね)の大臣(おおまえつきみ)は京師に帰り、屯倉(みやけ)の事を復命しました。 三月十一日、 百済は使者を遣わし、例年に増して多くを進調しました。 天皇は、新羅未だに任那が建てられないことにより、皇子(みこ)と大臣(おおまえつきみ)とに、 「任那の事は、決して懶懈〔怠慢に〕してはならない」と詔(みことのり)されました。 四月六日、 吉士(きし)金子(かねこ)を新羅への使者として、 吉士木蓮子(いたび)をして任那への使者として、 吉士訳語彦(おさひこ)を百済への使者として遣わしました。 六月、 新羅は使者を遣わし、例年に増して多くを進調し、 併せて多々羅(たたら)、 須奈羅(すなら)、 和陀(わだ)、 発鬼(ほっき) 四邑の調(みつき)を奉りました。 【書紀―五年】 敏達6目次 《詔立豐御食炊屋姬尊爲皇后》
有司(つかさ)皇后を立(たたしたまふこと)を請(ねが)ひまつりて、詔(みことのり)したまひて豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)を立たして、皇后(おほきさき)と為(し)たまふ。 是(ここ)に二男(ふたはしらのみこ)五女(いつはしらのひめみこ)を生みたまひて、 其の一(ひとはしら)は菟道貝鮹皇女(うぢのかひたこのみこ)【更名(またのみな)は、菟道磯津貝皇女(うぢのしづかひのみこ)也(なり)】と曰ひて、 是(これ)[於]東宮(ひつぎのみこ、まうけのきみ)の聖徳(しやうとく)に嫁(とつ)げり、 其の二(ふたはしら)は竹田皇子(たけだのみこ)と曰ひて、 其の三(みはしら)は小墾田皇女(をはるたのひめみこ)と曰ひて、 是[於]彦人大兄皇子(ひこひとおほえのみこ)に嫁げり、 其の四(よはしら)は 鸕鷀守皇女(うもりのみこ)【更名(またのみな)は、軽守皇女(かるもりのみこ)】と曰ひて、 其の五(いつはしら)は尾張皇子(をはりのみこ)と曰ひて、 其の六(むはしら)は田眼皇女(ためのみこ)と曰ひて、 是[於]息長足日廣額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)に嫁げり、 其の七(ななはしら)は桜井弓張皇女(さくらゐのゆばりのみこ)と曰ふ。 《為皇后》 四年正月には息長真手王を皇后に立てたが、改めて翌年三月に豊御食炊屋姫尊を皇后に立てた。 直前の四年十一月に息長真手王が薨じたとされたのは、 辻褄を合わせるための形式的な処理であろう。 両者共に「皇后」となった記録を、両立させるためと見られる。 少なくとも「四月正月」が現実とは異なる形式的な日付であるのは、既に原注が認めている。 継体紀元年の注釈には 「八妃を納むるに先後有りと雖(いへど)も、…文(ふみ)に為(つく)りき」とある。 《二男五女》 記は「八柱」とするが、書紀はそのうち葛城王を欠く。 《大意》 五年三月十日、 司たちは皇后を立てられることを請(ねが)い、詔され豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)〔後に推古天皇〕を立てられ、皇后(おおきさき)とされました。 そして二男五女をお生みになり、 その一は菟道貝鮹皇女(うじのかいたこのひめみこ)【更なる名は、菟道磯津貝皇女(うじのしずかいのひめみこ)です】といい、 この皇女は東宮聖徳(しょうとく)に嫁ぎました。 その二は竹田皇子(たけだのみこ)、 その三は 小墾田皇女(おはるたのひめみこ)といい、 この皇女は彦人大兄皇子(ひこひとおおえのみこ)に嫁ぎました。 その四は 鸕鷀守皇女(うもりのひめみこ)【更なる名は、軽守皇女(かるもりのひめみこ)】、 その五は尾張皇子(をわりのみこ)、 その六(むはしら)は田眼皇女(ためのみこ)といい、 この皇女は息長足日廣額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)〔舒明天皇〕に嫁ぎました。 その七は桜井弓張皇女(さくらいのゆばりのひめみこ)といいます。 まとめ 真福寺本は、固有名詞において誤写が増す傾向がある。 欽明段においては、妃や皇子の名は書紀とよく対応しているので、記の誤りの復元は比較的容易である。 |
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2020.06.23(tue) [242] 下つ巻(敏達天皇3) ▼▲ |
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![]() 日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比賣命 生御子坐岡本宮治天下之天皇 次中津王 次多良王【三柱】 此の天皇(すめらみこと)之(の)御子(みこ)等(たち)并(あは)せて十七王(とをはしらあまりななはしらのみこ)之(の)中(うち)、 日子人太子(ひこひとのひつぎのみこ)庶妹(ままいも)田村王(たむらのみこ)亦名(またのな)は糠代比売命(ぬかでひめのみこと)を娶(めあは)せて、 [生]御子(みこ)岡本の宮に坐(ましま)して治天下之(あめのしたををさめたまひし)天皇(すめらみこと)、 次に中津王(なかつのみこ) 次に多良王(たらのみこ)をうみたまふ【三柱(みはしら)】。 又娶漢王之妹大俣王 生御子智奴王 次妹桑田王【二柱】 又、漢王(あやのみこ)之(の)妹(いも)大俣王(おほまたのみこ)を娶せて、 [生]御子(みこ)智奴王(ちぬのみこ)、 次に妹(いも)桑田王(くはたのみこ)をうみたまふ【二柱(ふたはしら)】。 又娶庶妹玄王 生御子山代王 次笠縫王【二柱】 幷七王 又、庶妹(ままいも)玄王(ゆづるのみこ)を娶せて、 [生]御子山代王(やましろのみこ) 次に笠縫王(かさぬひのみこ)をうみたまふ【二柱】。 并(あはせて)七王(ななはしらのみこ)なり。 この天皇(すめらみこと)の御子たち、全部で十七王(みこ)の中、 日子人太子(ひこひとのひつぎのみこ)は異腹の妹、田村王(たむらのみこ)、別名糠代比売命(ぬかでひめのみこと)を娶り、 御子、岡本の宮にいらっしゃり天下をしろしめす天皇(すめらみこと)〔舒明天皇〕、 次に中津王(なかつのみこ) 次に多良王(たらのみこ)【三柱】をお生みになりました。 また、漢王(あやのみこ)の妹、大俣王(おおまたのみこ)を娶り、 御子、智奴王(ちぬのみこ)、 次に妹の桑田王(くわたのみこ)【二柱】をお生みになりました。 また、異腹の妹、玄王(ゆずるのみこ)を娶り、 御子、山代王(やましろのみこ) 次に笠縫王(かさぬいのみこ)【二柱】をお生みになりました。 全部で七王です。
【真福寺本】 「智奴王」→「知奴王」。地名〔茅渟〕または魚〔海鯽〕に因む名か。 【大俣王】 敏達天皇は老女子郎女との間に、同名の大俣王がいる。 漢王の妹とされる「大俣王」が同名の別人でなければ、出自に関する異説があったことになる。 漢王の出自は、今のところどこにも見いだせない。 【押坂彦人大兄皇子】 忍坂日子人太子を、「太子」〔しばしば「ひつぎのみこ」〕とする点が注目される。 書紀「押坂彦人大兄皇子」の「大兄」は、書紀においては東宮に準ずる有力皇子に宛てられる。 別名「麻呂古」については、愛称マロコは、一般的に皇太子に向けて使用されたと考えられる(継体天皇七年)。 天皇が並みいる皇子のうち、一人をマロコと呼んで可愛がるのは、彼が後継者である証である。 また、名前の字数の多さは、もともと天皇とされていたと想像させるのに十分である。 なお、結果的に即位しない「太子」が何人かいるので、天皇への道がより近いのは「東宮」「儲君」のようである。 当初考えられていた天皇系列は、「敏達→押坂彦人大兄皇子→舒明天皇」ではなかったかと思われる。 忍坂日子人太子からの系図が天皇並みに詳しいのは、検討途上の姿が化石のように残ったということであろう。 【坐岡本宮治天下之天皇】 坐岡本宮治天下之天皇は、記における天皇名表記のうち個人名を用いない唯一例である。 下巻の終わり間近になり、やや急いで書かれた印象を受ける。
【舒明天皇紀―即位前(一)】2022.3.21.この項付加。 舒明1目次 《息長足日廣額天皇》
渟中倉太珠敷(ぬなくらふとたましき)の天皇が孫(ひこ)、 彦人大兄皇子(ひこひとおほえのみこ)之(が)子(みこ)なり[也]。 母(みはは)は、糠手姫皇女(ぬかてひめのみこ)と曰ひたまふ。 豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)の天皇の二十九年(はたとせあまりここのとせ)、 皇太子(ひつぎのみこ)豊聡耳尊(とよとみみのみこと)薨(こう)じて[而] 未(いまだ)皇太子(ひつぎのみこ)立たずて、 以ちて三十六年(みそとせあまりむとせ)三月(やよひ)天皇(すめらみこと)崩(ほう)ず。 《舒明天皇》 上宮太子〔聖徳〕が薨じた後、新たな皇太子が指名されないうちに推古天皇は崩じた。 この後、山背大兄王〔上宮太子の子〕を次期天皇に擁立する動きがあったが蘇我蝦夷によって封じられ、 田村皇子〔敏達天皇の皇子〕が擁立されて息長足日広額天皇〔舒明〕となった。 《大意》 息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)の天皇(すめらみこと)〔舒明〕は、 渟中倉太珠敷(ぬなくらふとたましき)の天皇〔敏達〕の御孫で、 彦人大兄皇子(ひこひとおおえのみこ)の御子(みこ)です。 御母は、糠手姫(ぬかでひめ)の皇女(ひめみこ)といわれます。 豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)の天皇〔推古〕二十九年に、 皇太子(ひつぎのみこ)豊聡耳尊(とよとみみのみこと)が薨じ、 未だ皇太子が立てられないまま 天皇は三十六年三月に崩じました。 まとめ 記紀は、実際にはまだ「天皇」の呼称がない時代に、 最高位の大王が誰であるかを考察して「天皇」とした。 この時代の候補としては、推古天皇、聖徳太子とともに忍坂日子人太子があったのだろう。 はじめは「忍坂日子人天皇」の方が優勢だったが〔この方が系図のラインがすっきりする〕、 最終的に豊御食炊屋姫尊が実態として最高位にあったと判断して「推古天皇」に決めたと思われる。 |
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2020.08.09(sun) [243] 下つ巻(敏達天皇4) ▼▲ |
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【甲辰年(きのえたつのとし)四月(うづき)六日(むか)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。】 御陵(みささき)は川内(かはち)の科長(しなが)に在り[也]。 【甲辰(こうしん)年四月六日崩】 御陵(みささぎ)は川内(かわち)の国の科長(しなが)にあります。 【真福寺本】 「科」の旁が「十」。また「也」を欠く。 【甲辰年四月六日】
【河内科長】 書紀では、十四年〔585〕に崩じた後、〈崇峻天皇〉四年〔591〕になって「磯長陵」の石姫〔敏達天皇の母、欽明天皇皇后〕に合葬されている。 その間、遺体は最後まで広瀬殯宮に安置されていたか、途中でどこかの陵に葬られたかは明らかではない。 書紀では「磯長陵」なので、「科長」も「しなが」と訓まれたと考えられる。 磯長陵については、別項で考察する。 【書紀―十四年八月】 敏達11目次 《崩于大殿》
天皇病(やまひ)彌(いや)留(とど)まりて、[于]大殿(みあらか)に崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 是の時、[於]広瀬(ひろせ)に殯宮(もがりのみや)を起(た)てて、 馬子宿祢大臣(うまこのすくねおほまへつきみ)、刀(たち)を佩(お)びて[而]誄(しのひこと)をたてまつりき。 物部弓削守屋大連、听然(あざけ)り[而]咲(わら)ひて曰へらく、 「猟(かり)の箭(や)に中(あた)りし[之]雀鳥(すずめ、さざき)の如し[焉]。」といへり。
【搖震(えうしむ)、戦慄(せむりつ)也(なり)。】 馬子宿祢大臣咲(わら)ひて曰へらく、「鈴を懸(か)く可(べ)し[矣]」といへり。 是の由(ゆゑ)に、二(ふたり)の臣(おみ)微(ひそかに)怨恨(うらみ)を生みき。 三輪君(みわのきみ)逆(さかへ、さかふ)、隼人(はやと)をして[於]殯(もがり)の庭(には)に相(あひ)距(ふせ)か使(し)めき。 穴穂部皇子(あなほべのみこ)、天下(あめのした)を取らむと欲(ほり)して、発憤(いきどほり)称(い)ひて曰(い)へらく 「何故(なにゆゑ)に死せる王(きみ)之(の)庭(には)に事(つか)へて、 生ける王(きみ)之(の)所(ところ)に弗事(つかへざる)か[也]。」といへり。 《三輪君逆》 古訓には、サカシとサカヘの二系統が見られる。 『仮名日本書紀』を見ると、江戸時代はサカヘがやや優勢か。 サカフは現代の判断と見られる。サカシが終止形だから動詞の終止形を採ったように思われるが、 連用形(サカヘ)には名詞用法があるからこちらの方が人名になりやすいようにも思える。 《起殯宮於広瀬》 広瀬殯宮の位置はまったく不明だが、郡家あるいは式内社に近いかも知れない。それらの推定地を挙げておく。
この場所は、広瀬運動公園の西にあたる。 また、殯宮の場所が後に神社になったかも知れないと仮定して、式内社を見る。 〈延喜式-神名帳〉広瀬郡には次の五社がある。 ・{広瀬坐和加宇加乃売命神社【名神・大・月次・新嘗】}…廣瀬大社(奈良県北葛城郡河合町大字川合99)。同社の「当社縁起」では、由来は崇神天皇まで遡る。 ・{讃岐神社}…讃岐神社(奈良県北葛城郡広陵町三吉328)。 ・{櫛玉比女命神社}…櫛玉比売命神社(奈良県北葛城郡広陵町大字弁財天399)。 ・{穂雷命神社}…現在は奈良県北葛城郡広陵町安部の神社を宛てているが、〈五畿内志-広瀬郡〉に「穂雷命神社【在所未レ詳】」とあるように江戸時代には不明であった。 ・{於神社【鍬】}…於(うえの)神社(奈良県北葛城郡広陵町大塚)。 《大意》 八月十五日、 天皇は病にいよいよおかされ、大殿で崩じました。 この時、広瀬に殯宮(もがりのみや)を建て、 馬子宿祢大臣(うまこのすくねおおまえつきみ)は、太刀を帯びて誄(しのびごと)を奏しました。 物部弓削守屋大連は、嘲笑して、 「狩の矢に当たった雀みたいだ。」と言いました。 次に弓削守屋(ゆげもりや)の大連(おおむらじ)は、手足を震わせて誄を奏しました。 馬子宿祢大臣は笑って、「鈴を懸けてやれ。」と言いました。 その故に、二人の臣に密かに怨恨が生まれました。 三輪君(みわのきみ)逆(さかふ)は、隼人を殯(もがり)の庭で警備にあたらせていました。 穴穂部皇子(あなほべのみこ)は、天下を取ろうと望んでおり、憤慨して 「何故に死んだ王の庭には仕えて、 生きている皇子の所で仕えぬのか。」言いました。 【崇峻天皇紀―四年】 崇峻7目次 《葬譯語田天皇於磯長陵》
訳語田天皇(をさたのすめらみこと)を[於]磯長陵(しながのみささき)に葬(はぶ)りまつる。 是(これ)其の妣(みはは)の皇后(おほきさき)の所葬之(はぶりまつらえし)陵(みささき)也(なり)。 秋八月(はつき)庚戌(かのえいぬ)の朔。 天皇群臣(まへつきみたち)に詔(みことのり)曰(のたまはく)「朕(われ)任那(みまな)を建たさむと思欲(おもほ)す、卿等(いましら)や何如(いかに)。」とのたまひて、 群臣(まへつきみたち)奏(まを)して言(まを)ししく「任那の官家(みやけ)を建たす可(べ)きこと、皆(みな)陛下(おほきみ)の所詔(みことのりたまふこと)に同じき。」とまをしき。
[差]紀男麻呂宿祢(きのをまろすくね) 巨勢猿臣(こせのさるのおみ) 大伴囓連(おほとものくひのむらじ) 葛城烏奈良臣(かつらきのならのおみ)をつかはして、 大将軍(おほきいくさのかみ)と為(し)たまひて、 氏々(うぢうぢ)の臣(おみ)連(むらじ)を率(ゐ)て、裨将(いくさのすけ)の部隊(たむら)と為(な)して、 二万余(ふたよろづあまり)の軍(いくさ)を領(をさ)めて、筑紫(つくし)に出居(うつしを)り。 吉士(きし)の金(かね)を[於]新羅(しらき)に遣(つか)はして、 吉士の木蓮子(いたび)を[於]任那(みまな)に遣(つか)はして、任那の事を問はしむ。 《妣皇后》 敏達天皇の母は、欽明天皇皇后の石姫(いしひめ)〔宣下天皇と橘仲皇女(仁賢天皇の女)の間の皇女〕。 その崩と陵についての記述は、書紀にはない。 《大意》 〔崇峻天皇〕四年四月十三日、 訳語田天皇(おさたのすめらみこと)を磯長陵(しながのみささぎ)に葬りました。 これは、その母の太后が葬られた陵です。 八月一日、 〔崇峻〕天皇は群臣に「朕は任那を建てたいと思う。卿らはいかがか。」と詔されました。 群臣は「建任那の官家を建てるべきです。皆陛下の詔に同意いたします。」とお答え申し上げました。 十一月四日、 紀男麻呂宿祢(きのおまろのすくね)、 巨勢猿臣(こせのさるのおみ)、 大伴囓連(おおとものくいのむらじ)、 葛城烏奈良臣(かつらぎのならのおみ)を遣わして、 大将軍とし、 氏々の臣、連(むらじ)を率い、裨将〔副将〕の部隊として、 二万余の軍を領して、筑紫に移りました。 吉士(きし)の金(かね)を新羅に遣わし、 吉士の木蓮子(いたび)を任那に遣わして、任那(みまな)の事を問わせました。 【磯長陵】
「中尾」がつくのは、用明天皇の「河内磯長陵」と区別するためとみられる。 〈諸陵寮〉は、用明天皇陵を「磯長原陵」、推古天皇陵を「磯長山田陵」 宮内庁治定「河内磯長中尾陵」の所在地は「大阪府南河内郡太子町大字太子」で、 考古学名は「太子西山古墳」また「奥城古墳」。 《太子西山古墳》 『天皇陵古墳』(森浩一;1996)は 「磯長谷古墳群の唯一の前方後円墳。 丘陵尾根上に立地し、墳長93m、前方幅70m、後円部直径56m、 前方部高12m、後円部高11.5m」、 「周濠は幅の狭い空濠で盾形」、「扁平な突起をもつ円筒埴輪」、 「江戸時代の考定以来、「敏達陵」となり、宮内庁もそれとして管理するが、 古墳の示す墳形は中期古墳〔5世紀〕的な様相を示しており、所属時期は極めて問題である」 「磯長谷には大型の方墳や円墳が営まれるが、その多くは後期末葉から古墳終末期に属するものとみられ、 本墳のありかたとは大きく異なる」などと述べる。
その時期については「本墳の規模・構造は明らかに中期古墳の特色を示し、 しかも埴輪は畿内においては一般的に6世紀初頭までしか使用されなかったことなどから、 本墳を「6世紀末になくなられた敏達天皇の陵とするには無理がある」という考え」があると述べる。 内部調査は行われていないが、太子町公式ページによれば 「横穴式石室が採用されていると考えられて」いるという。 この太子西山古墳を敏達天皇から切り離した場合、逆になぜ前方後円墳が一基だけ孤立して存在するのかという別の疑問が生まれる。 この古墳の規模は6世紀末においてはなかなかのもので、少なくとも皇子あるいは大連・大臣クラスが想定される。 蘇我氏が天皇陵の地として定める以前に、何らかの有力者がいたのだろう。 それが蘇我氏なのか他の氏族なのかは分からない。 《二子塚古墳》
それでは、方墳群にはどのような特徴があるのだろうか。 そのひとつ「二子山古墳」は、〈王者の谷〉によると「方墳が2つ連接された双方墳という特異な形式」をもち、 「合葬」が一般化した時期において、 「従来の大型石室にみられるような1石室に2棺以上おさめる合葬が、石室規模の面から困難であったとすれば、 既に築造された当時流行の方墳に接して、外形・内部構造の全く一致する墳墓を新たに隣接して築くことによって合葬の目的を達した」 ものではないかという。 《葉室塚古墳》 また〈王者の谷〉は、「葉室塚古墳」については 「2石室をもつ可能性が強く、それが多少時期を異にして追葬の形をとった結果が、長方形墳丘を成立させた」 と推定する。 さらにその時期は「推古陵よりやや先行する7世紀前半としておきたい」、 「この時期において本墳のもつ規模は、用明・推古両天皇陵に匹敵するもので、 相当高貴な有力者の墳墓と考えられ、その墳形から敏達天皇と石姫皇后の合葬墳の可能性も考えられ」ると述べる。 ただ、二子塚古墳の隣への方墳の設置や、葉室塚古墳に見る増築が、果たして書紀のいう「合葬」に当てはまるかという疑問もある。 さらに、二子塚古墳の長辺50m、葉室塚古墳の長辺75mは、〈延喜式〉の兆域「東西三町南北三町〔324m〕」より相当小さい。 だが、推古天皇陵とされる山田高塚古墳も東西59m×南北55mで、兆域が「東西二町南北二町〔216m〕」であるから、この時代以後の古墳の「兆域」は周辺の広い範囲を含めるようになるのかも知れない。 《仏教への姿勢と墳形》
用明天皇は神道を貴ぶと同時に、仏教を信じていたと書かれる。仏教に対して、十分融和的であったと言ってよいだろう。 それに対して敏達天皇は、「不レ信二仏法一」というから、 父に倣って前方後円墳の墳形をもつ寿陵を用意していた可能性がある。 そのように仮定した場合、殯から埋葬までの6年間の空白についての一つの解釈が導かれる。 すなわち、今や強大な権力を握った蘇我馬子は寿陵への埋葬を許さず、敏達天皇の遺志に忠実であろうとした親族・遺臣との間で膠着状態が6年間続いたのではないか 〔もし葉室塚古墳なら、古墳の増築に要した期間とも考えられる〕。 崇峻四年〔591〕に至り馬子は遂に反対を押し切って、敏達天皇の遺体を磯長谷の陵に葬むったたのではないかと想像される。 その磯長谷には皇族と蘇我氏の陵墓があるから(右図)、おそらくは曽我氏の管理下にある仏式の墓地であり、かつその墳形は方墳と定められていたように思われる。 ただ、蘇我馬子自身の墓は石舞台古墳だとする説が有力で、太子町の地元で馬子の墓と伝わる「多層塔」はごく小規模であるので、〈王陵の谷〉は「馬子の墓とするにはすべての点で無理があります」と述べる。 だから一筋縄ではいかないのであるが、もし馬子の強い意志によって敏達天皇陵を磯長谷にしたという筋書きに依るなら、敏達天皇の磯長陵は必ず方墳でなければならない。 《双方墳》 二子塚古墳と葉室塚古墳は、二基の方墳を横並びに連接するという特異な形態となっている。 二人の被葬者の関係は、当然近親者であろう。 ここで、推古天皇と竹田皇子の合葬に目を向けてみよう。 推古天皇陵とされる山田高塚古墳は幕末に修陵がなされ、また学術調査が拒まれているから十分には確認できないが、 測量図を見ると長方形の方墳であることは確実である。するとこれも双方墳で、それぞれに推古天皇と竹田皇子が埋葬されているとの想像は容易である。 敏達天皇は、母の石姫の墓に合葬されたという。ならば、石姫と敏達天皇も双方墳に埋葬されているとする想像も、これまた容易である。 ならば、敏達天皇陵が二子塚古墳と葉室塚古墳のどちらかがだった可能性が高まる。 ただし、石姫が埋葬された時期は不明である。 欽明天皇〔571年崩〕陵は前方後円墳ではあるが、復古的に造陵されたと見られる。 石姫の薨はそれよりも早く、これも前方後円墳であった可能性はある。 それが太子西山古墳であったとすれば、墳形と敏達天皇崩の時期のミスマッチはむしろ緩和される。 結局、問題は石姫墓の墳形である。 まとめ《この項2022.01.15改定》 蘇我馬子が敏達天皇を強引に磯長谷の陵に合葬したとすれば、あからさまに前方後円墳を嫌っていた印象を受ける。 だとすれば、堅塩姫を前方後円墳に納めることに抵抗はなかったのであろうか (欽明天皇35《石棺》)。 これについては、〈推古天皇〉が自らの生母で堅塩姫を、実質的に皇太后のレベルまで高める意向が優先されたのかも知れない。 馬子にとっては、同じく稲目を父に持つ堅塩媛が皇太夫人として欽明天皇陵に納められること自体は、蘇我氏の面目躍如たるものがある。 その反面、墳形は前方後円墳だから、自らがその前で誄を読むことだけは避けて、代わりに中臣宮地連烏摩侶にやらせたとも解釈することもできる。 このように考えると、檜隈大陵は、やはり改葬儀式が行われた「軽術」〔軽衢〕の近くの、丸山古墳であろう。 |
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⇒ [244] 下つ巻(用明天皇1) |