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[234] 下つ巻(安閑天皇1) |
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2019.11.25(mon) [235] 下つ巻(安閑天皇2) ▼▲ |
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此天皇無御子也
此の天皇(すめらみこと)、御子(みこ)無し[也]。 この天皇(すめらみこと)には、御子(みこ)がありませんでした。 【書紀―元年十月】 安閑3目次 《天皇勅曰朕納四妻至今無嗣》
天皇(すめらみこと)、大伴大連金村(おほとものおほむらじかなむら)に勅(おほせこと)したまひて曰(のたまはく) 「朕(われ)、四(よはしら)の妻(みめ)を納(をさ)めたまへど、今に至りて嗣(ひつぎのみこ)無し。 万歳(よろづとせ)之(の)後(のち)にや、朕名(わがみな)絶えむ[矣]。 大伴(おほとも)の伯父(きみ)、今何(いかに)か計(はかりごと)を作(な)さむや。 毎(つねに)[於]茲(こ)を念(おもほ)す。憂慮(うれへ)何(いかに)か已(や)まむ。」とのたまふ。 大伴大連金村奏(まを)して曰(まをししく) 「亦(また)臣(やつかれ)の所憂(うれへ)也(なり)。 夫(それ)我(わが)国家(くに)之(の)天下(あめのした)を王(つかさどるきみ)者(は)、 有嗣(ひつぎあり)無嗣(ひつぎなし)を不論(えらはずあり)て、要須(かならず)物(もの)に因(よ)りて名(みな)を為(な)す。 請(ねがひまつらくは)皇后(おほきさき)次に妃(きさき)の為に屯倉(みやけ)之(の)地(ところ)を建立(た)てて、 後代(のちのよ)に留(とど)め使(し)めて、前(さき)の迹(みあと)を顕(み)令(し)めたまはむことをねがひまつる。」とまをしき。 詔(おほせこと)曰(のたま)ひしく 「可(ゆるしたまふ)[矣]。[宜]早(すみやかに)安置(お)くべし。」とのたまひき。
「宜(よろしく)、小墾田屯倉(をはりたのみやけ)与(と)国毎(ごと)の田部(たべ)とを以ちて、 紗手媛(さてひめ)に給貺(たまは)りて、 [以]桜井屯倉(さくらゐのみやけ) 【一本(あるふみ)に、加へて茅渟山屯倉を貺(たまは)ると云ふ[也]。】 与(と)国毎(ごと)の田部とをもちて、 香々有媛(かかりひめ)に給賜(たまは)りて、 難波屯倉(なにはのみやけ)与(と)郡(こほり)毎の钁丁(くはよほろ)とを以ちて、 宅媛(やかひめ)に給貺(たまは)りて、 以ちて[於]後(のちのよ)に示して、式(もちて)[乎]昔(むかし)を観(み)しめたまふべし。」とまをして、 詔(みことのり)曰(のりたま)ひしく 「奏(まをせし)に依(よ)りて施行(おこ)なへ。」とのりたまひき。 《大伴大連金村の復権》 継体天皇は、都を楠葉に移して近江・山城系の諸族を糾合して、大伴大連金村から政権の主導権を奪取した(第230回以下)。 しかし、元年十月条を見ると、安閑天皇は大伴金村に再びことごとく政を委ねている。 第233回で見たように、 手白香皇后は、今度は大伴金村と手を結んだ。 武烈帝が亡びた時点では、手白香媛を含む一族もろとも廃される危機を継体天皇と結んで乗り切ったが、 今や太后として確固たる地位を確保し、大伴金村より優位に立っていたから、もう恐れることはない。 こうして、欽明天皇実現に向かって一歩また一歩と歩みを進めるのである。 《為二皇后次妃一建二-立屯倉之地一》 「建」の字は、屯倉には宮殿が付属しているように感じさせる。 元年七月条に春日皇后の「屯倉之地」に「椒庭」を「樹」(た)てたとあるから、実際にそうなのであろう。 なお、「為二皇后次妃一」とするが、ここでは三妃の屯倉を挙げるのみである。 皇后の分については、既に勾大兄皇子の妃だった時代に御名代を賜っている。 すなわち継体天皇八年に、 継体帝の詔「宜下賜二匝布屯倉一表二上妃名於万代一」 が発せされ、「匝布屯倉」を賜った。 また、元年四月に伊甚屯倉を得ている。 では、「為皇后次妃」は「皇后に次いで妃のために」と読むのではないかと思われるかも知れないが、 その読み方は文法的に不可能である。もし、そうしたいのなら「為次皇后妃」の語順にしなければならない。 《与毎国田部》 何れも屯倉を農地開発するために、人員を集めたと考えられる。 《小墾田屯倉》 小墾田(小治田)は、推古天皇・皇極天皇・孝徳天皇の宮が置かれた場所である。 その比定地については、「1987年に〔中略〕雷丘東方遺跡で「小治田宮」墨書土器が出土し、奈良時代の小治宮は雷丘周辺にあったことが確定した」 『明日香村文化財調査研究紀要15』P.12)。 仮に安閑朝から既に中枢機能のある土地になっていれば、そこが屯倉に指定されることはあり得ないであろう。 〈新撰姓氏録〉に〖小治田宿祢/石上同祖/欽明天皇御代。依レ墾二-開小治田鮎田一。賜小治田大連〗とあり、 この「墾開小治田」は、「小墾田屯倉与毎レ国田部」に符合する。 すなわち、未開の地を残す小治田の開墾が進み、次第に都を置き得る土地になったと考えればよいであろう。 小治田宿祢については、「毎国田部」に「石上同祖」、すなわち物部の一支族も含まれていたということだろうか。 安閑天皇が即位した531年頃から推古天皇が宮を小墾田に遷した603年までの期間に、小墾田屯倉の開発が進んだことになる。 なお、尾張大連は『天孫本紀』では「小治」とも表記するので、葛城の高尾張と同じく古く尾張からの移民があったことが地名の由来であったことも考え得る(資料38)。 《桜井屯倉》 前項では、田部を各国から集まった労働力と考えた。応神天皇段の「桜井田部連の祖」については、 〈新撰姓氏録〉に〖蘇我石川宿祢四世孫稲目宿祢大臣之後〗とあるので、蘇我氏の支族が桜井田部の伴造(とものみやつこ)に任じられたと見ることもできる。 なお、甘樫丘の向原寺のところも「桜井」で、それぞれの地について別項で詳しく考察した。 桜井屯倉については、甘樫丘の桜井だとすると紗手媛に賜った小墾田屯倉とほぼ同じ場所になってしまうので、河内国河内郡と考えた方がよいであろう。 《茅渟山屯倉》 茅渟県は後の和泉国の範囲の全体または一部と考えられている。県制の消滅後は、河内国に属していた。 716年になり「河内国」から大鳥・和泉・日根三郡が分割して「和泉監」となった。(国造本紀では715年に「茅野監」) 〔「監」は離宮が管轄する特殊な国〕。 その後740年に再び河内国に併合、757年に分離して和泉国となった(允恭天皇紀10【河内茅渟】)。 崇神天皇七年には「大田田根子」を探索し、「茅渟県陶邑」で発見した。 その「陶邑」によって、町村制〔1889〕で定められたのが東陶器村・西陶器村で、陶邑窯址群の地域に重なる(第111回)。 茅渟は広大な地域だから、「茅渟山」はなかなか特定できない。 ただ崇神天皇紀に「陶邑」が出てきたから、その辺りが茅渟の代表的な場所だったとすれば、陶邑窯址群の丘陵が「茅渟山」だったのかも知れない。 比定地の研究を探すと、『日本歴史地名大系』に「岸和田市三田町付近と考えられる」とあったが、その根拠は示されていない。 一方『岸和田市史』第2巻〔2000年、岸和田市史編さん委員会〕は 「堺市上押谷の片倉に式内桜井神社がある。この付近は、泉北丘陵も奥部で標高も高く、茅渟山と表現されてもおかしくない。」、 そして「牛滝川の上流部、山直地区の南部辺りも立候補できそうである」と述べる。 つまりは特に伝承があるわけでもなく、全くの想像ということのようだが、これを手掛かりにして少しだけ踏み込んでみよう。 〈神名帳〉に{和泉國/大鳥郡/櫻井神社}があり、その比定社は「櫻井神社」(大阪府堺市片蔵645)とされる。 〈神名帳〉には{和泉国/和泉郡/山直神社}(大阪府岸和田市内畑町3619)もあり、その付近が山直郷であったと見られている(岸和田市公式ページ)。 〈倭名類聚抄〉に{和泉国・和泉郡・山直【也末多倍】}〔やまたへ〕がある。 「直」(あたひ)は地方首長の姓のひとつであるから、山直は山部の伴造〔統率者〕である。 「やま-あたひ」が母音融合すればヤマタヒだが、郷名はなぜかヤマタヘで下二段活用動詞に拠っている。 〔『大日本地名辞書』は濁音ヤマタベ〕 そのためか、岸和田市の公式ページや、『岸和田市史』では山直を「やまのあたへ(え)」と訓んでいる。 全くの想像だが、昔の人が日々山直神社に詣でて「山の恵み」を祈る中で、ヤマノアタヒ神社にいつしか「山の与へ」のイメージが重なってヤマノアタヘ神社となり、さらにそれが地名に及んだのかも知れない。 なお『大日本地名辞書』には、「土俗ヤマタビと唱ふ」とある。これが元々のヤマタヒの残存か、ヤマタべから再び訛ったものかは分からない。 『岸和田市史』は、その山直の役割を「須恵器用燃料が不足がちになりだした段階で、その円滑な供給のために設置された可能性がある」と推定する。 また〈姓氏家系大辞典〉は、「和泉の山直:山部直の後にて、山辺の伴造家ならん」と推定する。 こうして見ると、「茅渟山は陶邑の周辺にあり、須恵器を焼くために燃料の木材を得る山」とする推定には、一定の説得力がある。 原注の「一本云。加二-貺茅渟山屯倉一也」は、 計二か所の屯倉を賜った言い伝えがあるという意味である。 これは、もともと河内郡と和泉郡の双方に「その地の桜井屯倉を賜った」伝承があり、後にそれらを合体して「河内郡の桜井屯倉に加えて和泉郡の桜井屯倉を賜った」という伝承が生まれたのかも知れない。 《钁丁》 〈姓氏家系大辞典〉は、元年閏十二月条を解釈して 「钁丁とは他の部に属する者を田部として使役する場合に、称するを知るべし」と述べる。 これについては、閏十二月のところで検討する。 《難波屯倉》 論文「難波屯倉と古代王権」 (大阪歴史博物館『研究紀要』第15号;栄原永遠男)は、 「「钁」の本義〔土木工事の用具〕からすると〔中略〕「難波屯倉」は、上町台地先端部の土地造成・開拓との関係で理解すべきであり、その結果できた土地や施設の総称とみるべ きである。」、 つまり「難波地域を統括する組織として、難波津の管理、外国使節への対応、外交、上町台地先端部やその周辺地域の統治、倉庫とその収納物の管理機能などの多面的な性格を持ち、それに対応する諸施設が上 町台地先端部の各所に分散配置されていた。」 のが難波屯倉であると述べる。 いわば難波宮・難波津という中枢機能を包括する機関と見ている。 確かに、この地域は雄略朝の頃から三韓や中国との外交・貿易の拠点でありまた副都を兼ねていたのは明白で、恐らくは仁徳朝以前まで遡ると見られる。 ところが、このように当然朝廷の直轄地であるべきところを屯倉として妃に賜り、一氏族に伴造を委ねたとするのは極めて疑問である。 ここは、難波宮地域(上町台地先端)の西側に大阪湾に広がりつつある干拓地で、「難波小郡」〔西成郡から依然として大阪湾であった部分を除いた地域〕が難波屯倉だと見るべきではないだろうか (継体天皇紀六年【難波館】)。 小墾田屯倉・桜井屯倉では「毎国」に労働力を集めて田部としたわけだから、 難波屯倉でも「毎郡」に钁丁なる労働力を集めたと読むのが自然で、それはまた開墾のためであろう。 「毎郡」で済んだのは、単純に他の二屯倉より面積が小さかったためであろう。 钁丁の性格が〈姓氏家系大辞典〉が提唱する通りだったと仮定すれば必要としたのは一時的な季節労働力で、周囲の郡から借りれば済む程度ということになる。 《大意》 十月十五日、 天皇(すめらみこと)は、大伴大連金村(おおとものおおむらじかなむら)に勅し 「朕は四人の妻を納めたが、今になっても嗣子は産まれない。 万年(よろずとし)の後に、朕の名は絶えるであろう。 大伴の伯父(はくふ)、今はどのような計(はかりごと)をお考えか。 朕は常に考える。この憂慮はどうしたら止むのか。」と仰りました。 大伴の大連金村は奏上し、 「そのことはまた、臣の憂えるところでもあります。 そもそも我が国家の天下の王は、 嗣子の有無を問わず、必ず物によって御名を遺してきました。 請わくば、皇后、次いで妃のために屯倉(みやけ)の地を建立し、 後の世に留め、前の帝の御蹟(みせき)を顕わさせなさいませ。」と申し上げました。 天皇は、 「可とする。速やかに安置せよ。」と詔されました。 大伴の大連金村は均衡を配慮した策を奏上し、 「小墾田(おはりた)の屯倉(みやけ)に、国ごとの田部(たべ)を加えて、 紗手媛(さてひめ)に賜り、 桜井の屯倉 【あるいは、加えて茅渟山屯倉を賜わったという】 に国ごとの田部を加えて、 香々有媛(かかりひめ)に賜り、 難波の屯倉に郡(こおり)ごとの钁丁(くわよほろ)を加えて、 宅媛(やかひめ)に賜り、 このようにして後の世に示し、昔をお見せなさいませ。」と申し上げました。 天皇は、 「奏上の通りに施行せよ。」と詔されました。 【御名代】 御名代の類例を見る。 ●仁徳天皇の妃八田若郎女は無子だったので、御名代「矢田部」を賜った。そして「矢田部造」が伴造となった(第170回)。 ●清寧天皇は皇后も皇子もいないので、御名代「白壁部」を定めた (第211回・継体天皇元年二月)。 ●武烈天皇は、御子代「小長谷部」を定めた(第228回。書紀は「小泊瀬舍人」:武烈天皇六年。)。 御名代・御子代は、書紀にはあまり使われずもっぱら記に出てくる語であるから、 歴史的事実というよりは氏族の由来を物語る伝説の色合いが強い。だから後世におけるフィクションのようにも思われるのだが、 特定の天皇に限定されないから一定の事実はあったと考えられる。 その目的については、八田若郎女の御名代については出身氏族の権益の確保のためではないかと考えた。 また、御子代については、皇子が生まれなかった場合でも、予め用意された「壬生」〔みぶ;養育にあたる一族〕に、 同格の名誉を与えるためかも知れない (第228回)。 安閑天皇の場合は記ではなく書紀だが、ここで妃たちに賜った屯倉はそれぞれの名を遺すためのものだから正しく御名代であるが、やはり「御名代」なる語の使用を避けている。 御名代・御子代は、書紀全体を通して孝徳天皇の大化二年のみに見られ、「子代」・「子代入部」・「御名入部」がある。そのうち「罷二昔在天皇等所レ立子代之民…一」は、 大化の改新において「部曲」などと並べて、領民の私的所有を廃止の対象のひとつとする。 また、同じ年の「子代離宮」の原注に「或本云。壊二難波狭屋部邑子代屯倉一而起二行宮一」 〔難波の狭屋部邑(さやべむら)の子代の屯倉を壊(こぼ)ちて行宮(かりみや)を置く〕とある。 「子代入部」・「御名入部」は、その存続を認めないとする文中で使われる。 御子代・御名代が歴史上存在したのは確かだが、書紀はなるべくその語の使用を避けようとした印象を受ける。 深読みすれば、大化の改新で皇族や諸族から私的な領民と土地を召し上げようとして以来、大宝令に至り公の制度による人民の掌握に向かっているのは明らかである。なのに書紀が子代・名代という語を用いれば、その伝説を受け継ぐ諸氏の「我が祖は○○帝の御子代なり」との主張にスポットライトが当たってしまう。 せっかく克服しようとした私的な権威を蒸し返してしまっては、やぶへびであろう。 さて、安閑天皇紀の場合も御名代が妃の出身氏族の権益のためだったと仮定すれば、小墾田屯倉・桜井屯倉の田部の伴造には許勢男人系の一族、難波屯倉の钁丁造には物部木蓮子一族が任じられたことになる。 ただ、前述したように小墾田からは物部氏系の小治田宿祢が、桜井からは蘇我氏系の桜井田部が出ているので、 辻褄を合わせるためには、その後各屯倉内で伴造が交代したと見なければならない。「毎レ国田部」としてやって来た者のうち、物部氏系や蘇我氏系が勢力を伸ばしたのだろうか。 【桜井】 「桜井」は、〈倭名類聚抄〉の郷名として河内・参河・相模・越後・石見・伊予・肥後の各国にある (第148回《桜井田部連》)。 古代史の舞台として頻繁に登場する現在の桜井市は、十市郡櫻井村に由来する。 「さくら」は〈時代別上代〉によると「上代…は概して現代のやまざくらに当たるもののようである。」 「桜の花は梅の花より早くから歌に現れるが」 「平安時代以降のように、春の花の代表として特別の意識をもって眺められてはいない」という。 「さくらゐ」は、桜の木の傍らの井(井戸、あるいは湧き水の採取施設)の意の自然地名として各地で発生し得るものであろう。 したがって、「桜井屯倉」の候補地も各地にわたる。 既に河内国河内郡六萬寺、大和国高市郡向原寺、和泉国大鳥郡桜井寺が出てきた。 《河内郡桜井郷》 『大日本地名辞書』は、 「今池島村の辺〔あたり〕か」、「櫻井寺は六萬寺往生院の古名なるへ〔〝〕し」と述べる。 この六萬寺は、現在「岩瀧山 往生院六萬寺」(東大阪市六万寺町1丁目22-36)と称し、生駒山頂南西3.6kmの山麓にある。 一方で、同書は「大和高市郡豊浦寺も櫻井の名あり、孰に當るべき歟」として、 豊浦寺説を併記している(次項)。 〈五畿内志〉河内国八:河内郡には、次の各項目に載る。 ●【郷名】「桜井【已廃存二六萬寺村一】」〔すでに廃し、六萬寺村あり〕。 ●【村里】「六万寺【或称二桜井一】」 ●【仏刹】「往生院【在二六万寺村一楠木正成石碑及二神主一 正平四年〔1349〕正月楠正行屯二于此一故後人建焉】」 ●【古蹟】「廃六萬寺【六萬寺村】」 また「岩瀧山往生院六萬寺」の公式ページの「歴史」のページには、 ●「天平17年〔745〕、行基菩薩49院建立の折に、聖武天皇の勅願により、桜井寺荒廃の跡へ、六萬寺を再建」。 ●「宇多天皇の治世時〔在位887~897〕には、またも荒廃しており、宇多天皇の勅願により伽藍が修復・修理」。 ●長暦三年〔1039〕「伽藍が整備されて、往生院と公称」。などとある。 その引用元は〈続紀〉天平十六年〔744〕で、閏正月十一日 「天皇行幸難波宮。…是日。安積親王。縁二脚病一従二桜井頓宮一還。」 〔天皇は難波宮に行幸するが、その日のうちに安積親王の脚病〔脚気とされる〕により、桜井の行宮から帰る〕と載る。 当時は、聖武天皇は恭仁京に坐した(天平十二年に平城京から遷都)。そしてこの直後の天平十六年二月には、更に難波京に遷都した。 〈続紀〉の「桜井頓宮」の位置は、恭仁京と難波京の位置を見れば、六萬寺付近とするのは理に適っている。 〈倭名類聚抄〉の{河内郡・桜井郷}もそこなのだろう。甘樫丘の向原寺も「桜井寺」と呼ばれたが、少なくとも桜井頓宮が置かれた場所とは言えない。 《向原》 『日本歴史地名大系』によると、 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば推古天皇が等由良宮から小墾田宮に遷り、 跡地に豊浦寺が建った。 そして、現在は「その後身とする向原寺〔明日香村字豊浦630〕があり、境内に礎石が残っている」という。 この「向原」については、欽明天皇紀十三年十月に、百済から献上された仏像を蘇我稲目宿祢に礼拝させ「安二-置小墾田家一懃修二出レ世業一。為レ因淨二-捨向原家一為レ寺。」 〔小墾田の家に安置して、懃(ねんごろ)に出世の業を修めて、因(よりどころ)として向原の家を浄捨〔浄財として喜捨〕して寺とした〕とあることによる。 一般には、この「向原の家」だった場所に豊浦宮が置かれ、豊浦寺が建ったと考えられている。 書紀で仏教との関連で出てくる「桜井」を見る。
〔百済の人味摩之(みまし)帰化して曰(まを)さく「呉(くれ)〔中国〕に学び伎楽舞を得。」とまをす。則ち桜井に安く置きて少年を集(つど)へて伎楽舞を習はしめき。」〕 ●〈崇峻天皇紀〉「三年春三月。学問尼善信等自二百済一還。住二桜井寺一。」 〔学問尼善信ら百済より還り、桜井寺に住む。〕 一般に、〈推古天皇紀〉の「桜井」は向原寺とされ、 〈崇峻天皇紀〉の「桜井寺」は、六万寺・向原寺の両説がある。 向原寺が桜井寺とされることについては、 〈五畿内志〉大和国高市郡-【仏刹】の項に、 ●「広厳寺【在二豊浦村一旧作二向原一又名二豊浦寺一傍有レ井曰二桜井一又名榎葉井一。 続日本紀童謡云豊浦寺乃西在也於志止度刀志止度桜井白壁之豆久也云云。養老中遷二寺於新京一此其遺趾。】」 〔豊浦村にあり。旧く向原に作り、又の名は豊浦寺。傍らに井あり桜井と曰ふ、又の名は榎葉井。 続日本紀の童謡に云ふ〔略〕。養老中、新京に遷寺し、これその遺趾なり〕とある。 ここで引用された「続日本紀童謡」の出典は 〈続紀〉の光仁天皇即位前紀で、 ●「嘗竜潜之時童謡曰。葛城寺乃前在也豊浦寺乃西在也於志止度刀志止度桜井爾白壁之豆久也好璧之豆久也於志止度刀志止度〔以下略〕」 〔嘗(かつ)て竜潜せし時〔天子になる前〕、童謡に曰ふ。「葛城寺の前(さき)なるや、豊浦寺の西なるや、おししどとししど〔囃子言葉〕。桜井に白き壁しつくや、好(よ)き璧しつくや。おししどとししど…〕とある。 また「養老中遷寺於新京」は、養老年間〔717~724〕に平城京〔708年~〕に遷ったと読める。 移転後の「向原寺」については、全く不明である。 しかし同じ時期、平城宮への遷寺の例がいくつかある。即ち大官大寺(大安寺、第152回)は霊亀二年〔716〕に、法興寺(元興寺)と薬師寺は養老二年〔718〕にそれぞれ「新京」に移転している。 元興寺については、興福寺の南方約700m(奈良市新屋町12)に「元興寺塔跡」がある。 「ならまち」(株式会社地域活性局)によると1859年に焼失し、現在は基壇と礎石を残すという。 法興寺は平城京に移転した後も飛鳥寺として残ったから、向原寺も移転前の寺が残ったものであろう。 さて〈五畿内志〉では、豊浦寺の傍らに井があって「桜井」と呼ばれていたとされる。 それが地名「桜井」を生み、また「桜井寺」が豊浦寺の別名となったと思われる。 まとめ 元年四月に出てきた伊甚屯倉は「分為レ郡」とあるから、 複数の郡を併せた広さがあることになる。一方、三妃に賜った屯倉の場合は郷程度の広さと見られ、その規模は大小様々である。 語源的にはミヤケ〔=御宅〕は高貴な人の邸宅を意味するが、「屯倉」の字をあてたところから見ると、税として徴収した米を屯(あつ)める倉を備えた邸宅と見られる。 魏志倭人伝(第55回)の「収二租賦一有二邸閣一」の「邸閣」がまさにこれであろう。 そして、意味は次第に拡張されて周囲の農地を含むようになり、さらには局所的な統治域そのものを指すに至ったと思われる。 それでも、依然として農地、田部、官家、納税機構などがセットとしてイメージされる。 さて、元年七月には味張に「良田」を屯倉として献上せよと命じたが、一方で三妃の屯倉は未開発に田部を集めて開墾させたと見られる。 このように、屯倉には開発済みの耕地献上型と、未開地の開墾型があったようである。また「椒庭〔皇后の宮殿〕」を建てよとの言葉から見て離宮が建つ場合もあり、 また磐井の乱(第232回)の戦後処理として筑紫君葛子が献上した糟屋屯倉の例では、港湾機能をも含む。 このように、一口に屯倉と言ってもその広さ・タイプは様々であるが、しばしば罪の贖いとして献上されたことから見て、 氏族の私領の間に朝廷の直轄地を打ち込んだのがその本質であろう。そして派遣された代官は「直」などの職名を持ったと思われる。 ただ、代を重ねるうちに簡単に氏族化して「直」は姓と化し、私有領に転じたのは想像に難くない。 よって、大化の改新のときに、私領となった「子代」を改めて廃することが必要になったのである。 なお、屯倉の場所を推定する場合、それぞれがどのタイプに属するかを見極めることは重要なポイントだと思われる。 |
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2020.02.20(thu) [236] 下つ巻(安閑天皇3) ▼▲ |
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【乙卯年三月十三日崩】
御陵在河內之古市高屋村也 【乙卯年(ひのとうのとし)三月(やよひ)十三日(とうかあまりみか)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。】 御陵(みささき)は河内(かふち)之(の)古市(ふるいち)の高屋村(たかやむら)に在り[也]。 【乙卯年〔535年〕三月十三日に崩じました。】 陵は河内国の古市の高屋村にあります。 【真福寺本】 【乙卯年三月十三日崩】 「乙卯年」は書紀の「安閑天皇二年」にあたり一致しているが、日付については書紀は「十二月十七日」で不一致である。 何らかの文字記録に基づいて付記されたものと考えられる。 物語の上での年代については、記でもともと存在した記録からの第一次の移動があり、書紀でさらに移動が進んだものと、 神功皇后の年代を中心に考察した (154回、 210回)。 これを一般的な傾向と考えれば、日付についても本当の記録からより大きく異なるのは書紀である。 この分注は記がひとまず完成した後に、誰かが書き加えたと見るべきであろう。 その時期は、①書紀が完成する前、②書紀の完成後が考えられる。 その理由は想像するしかないが①だとすると、書紀がまだ完成する前に、当時まで残ってた記録に基づいて日付を書き加えたと思われる。 また②だとすると、書紀の日付が記録をしばしば無視した恣意的なものであることは知られており、 本当の記録が失われることを危惧して、記に書き加えた人がいたのかも知れない。 【書紀―二年十二月】 安閑8目次 《天皇崩于勾金橋宮》
天皇(すめらみこと)[于]勾金橋宮に崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 時に年(よはひ)七十(ななそち)。 是の月、天皇を[于]河内(かふち)の旧市(ふるいち)の高屋丘(たかやのをか)の陵(みささき)に葬(はぶ)りまつる。 皇后(おほきさき)春日山田皇女及(と)天皇の妹(いも)神前皇女(かむさきのみこ)とを以ちて、 [于]是の陵に合はせ葬(はぶ)りまつりき。 《大意》 冬十二月十七日、 天皇(すめらみこと)は勾金橋宮(まがりのかなはしみや)で崩じました。 その時、七十歳でした。 同じ月のうちに、天皇を河内の旧市(ふるいち)の高屋丘(たかやのおか)の陵に葬り、 皇后(おおきさき)春日山田皇女(かすかのやまだのみこ)及び天皇の妹の神前皇女(かむさきのみこ)を、 この陵に合葬しました。 【河内之古市高屋村陵】
地名の「高屋」については、古市郡に高屋神社(大阪府羽曳野市古市6丁目12)がある。 〈延喜式-神名上〉に、{河内国/古市郡二座/高屋神社}がある。 現地案内板(羽曳野市設置)によると「高屋連一族が氏神として創始したものと考えられ」、 「社伝によると、宣下天皇3年(538)勅命によってこの地に創建されたものと伝えられてい」て、 饒速日命と安閑天皇の二神を祭神とするという。 〈姓氏家系大辞典〉は「高屋連」の項で、その起源として三つの可能性を示す。即ち、①物部氏の所領の継承。②高屋神社がある土地の地名。③屯倉があったことによる地名。 ①は、高屋神社の祭神「饒速日命」によるものか。②は自然発生した地名、③は、御宅は即ち高き屋である。 同書はまた、〈新撰姓氏録〉から高屋連、〈続紀〉から高屋の氏人の記事を引用する。それぞれの原文を示す。 ・〈姓氏録〉〖神別/高屋連/〔饒速日命〕十世孫伊己止足尼大連之後也〗 ・〈続紀〉「慶雲元年〔704〕六月乙丑〔十一日〕。河内国古市郡人高屋連薬女一産二三男一。賜二絁二疋綿二屯布四端一。」 〔古市郡の高屋連の薬女という人が三つ子を生み、〔お祝いに〕布地を賜った〕。 〈延喜式諸陵寮〉には、 「古市高屋丘陵:勾金橋宮御宇安閑天皇。在二河内国古市郡一。兆域東西一町南北一町五段〔東西108m、南北162m〕。陵戸一烟。守戸二烟。」とある。 おそらく高屋神社に近いところの古墳が指定されたと見られる。
宮内庁が治定した「古市高屋丘陵」は、考古学名「高屋築山古墳」(羽曳野市古市5丁目6)で、前方後円墳、墳丘長122mである。 『天皇陵古墳』(森浩一、大巧社1996)によれば 「後期前葉から中葉〔6世紀前半〕」で、 「江戸時代以来、「安閑陵」とみなすことで一定してきたが、十五世紀後半~十六世紀後半には、河内国守護の畠山氏の「高屋城」として利用された」という。 高屋築山古墳は、前方部の北西隅がほぼ直角になっていることが目を引く。 また、正中線を軸とする線対称が、通常の前方後円墳に比べて大きく崩れ、前方部・後円部の接続部のくびれも小さいのは、 いずれも築城の際に変形された結果と見られる。 《春日山田皇女墓》 高屋築山古墳の南に、高屋八幡山古墳があり 宮内庁によって「古市高屋陵(春日山田皇女)」に治定されている(大阪府羽曳野市高屋5丁目)。 〈延喜式-諸陵寮〉に、「古市高屋墓:春日山田皇女。在河内国古市郡。兆域東西二町南北二町〔一辺216m〕。守戸二烟。」。 書紀の「高屋丘陵に合葬」は無視され独立した墓として記載され、しかも兆域は高屋丘陵より広い。 書紀には「改葬」の記載はないが、理屈の上では「改葬されたがたまたま記録が残っていない」ことはあリ得る。
その「墳丘長80m」〔他の報告では85mとも〕は高屋丘陵よりも小さいから、延喜式の「兆域」とは大小が逆転する。 兆域は南北に長いが、高屋築山古墳は東西に長い。〈延喜式〉は宮内庁の治定とは逆に、 「古市高屋丘陵」が高屋八幡山古墳、「古市高屋八幡古墳」が高屋城山古墳と定めたとすると、大きさが合う。 すなわち、①〈延喜式〉は書紀の「合葬」に順っていない。②宮内庁の治定は、更にその〈延喜式〉の兆域を無視して、天皇陵と皇后墓を入れ替える。 という、二重の逸脱がある。 《春日山田皇女陵》 では、〈延喜式〉ではなぜ春日山田皇女を「改葬」しなければなかったのだろうか。 ここで思い起こされるのが、藤原氏が送り込んだ皇后のために天皇と同格の陵が築かれたことである。 春日氏もまた、平安時代には隆盛であったと思われる。 春日山田皇女のとき、春日氏は各地に広大な屯倉を賜り、春日部を大規模に組織した。 その春日の名が付く屯倉は、朝廷勢力が国家の領土を拡張する最前線に置かれた(安閑二年五月の【二十六屯倉設置の意味】《生産型屯倉》)。 春日山田皇女の母は和邇日爪臣の娘で、和邇日爪臣は和珥氏から分かれた春日氏の初期のメンバーであった(第105回《和珥氏系図》)。 〈欽明天皇紀〉二年には、「納二五妃一。…次春日日抓臣女曰二糠子一。生二春日山田皇女與橘麻呂皇子一」とあり、 仁賢天皇の妃と重複しているという問題はさて置き、こちらは「春日日抓臣」という名前なので、両者から春日氏が和珥氏から派生した様が見える。 春日臣は〈天武天皇紀〉十三年に「大春日臣」として朝臣姓を賜る。 〈姓氏家系大辞典〉は、大春日家には「暦学家多し、真野麻呂最も名高し」と述べる。 大春日真野麻呂は嘉祥二年〔849〕~貞観五年〔863〕に名前が見え、暦博士に任じられ最終的には従五位上となっている(『六国史』)。 大春日朝臣が氏族として朝廷にどの程度の影響力を発揮できたかは定かでないが、 少なくとも春日山田皇后を、「藤原氏大后」と同じように扱うべきだと主張したことは考えられる。 それなのに合葬では話にならず、単独の陵にすべしという。 〈延喜式〉は、春日皇女を改葬した伝説を手掛かりにして〔または、そのような伝説を作り上げて〕、 高屋の辺りの前方後円墳を春日皇女の墓に定めたのだろう。 ただ「古市高屋墓:春日山田皇女」という表現は、「佐保山東陵:平城朝皇大后藤原氏」に比べて一段劣る。 すなわち、春日臣は藤原氏より格下であったということか。 なお、「大后の(墓ではなく)陵」の表現は藤原氏以外に橘氏、高野氏、紀氏に見られる。 〈延喜式〉は春日皇女の方を安閑天皇より重要視して、二つあった古墳のうち大きい方を割り当てたわけである。 その割り振りが逆転したのは、明治になってからである。天皇と皇后の一般的な順序を当てはめたものと思われる。 書紀は、高屋築山古墳を安閑天皇陵にし、高屋八幡山古墳には被葬者を定めなかったと思われる。 明治になって、安閑天皇は高屋築山古墳を取り戻したのである。 《古市古墳群》 書紀の書かれた時代には、既に多くの天皇陵は所在地不明になっていたと見られ、百舌鳥古墳群と古市古墳群にバランスよく割り振った印象を受ける。 次の宣化天皇以後、「天皇陵」は市古古墳群にはひとつもなくなる。 宣化天皇は檜隈廬入野宮(明日香村)に坐して、陵は身狭桃花鳥坂上陵(橿原市)とされる。 また飛鳥板蓋宮に坐した斉明天皇は越智崗上陵(高市郡高取町)、 小墾田宮に坐した推古天皇は磯長山田陵(河内郡太子町)などの例があるが、 宮と陵は一般的に近接していると見てよいだろう。 それらを見る時、勾金橋宮に坐した安閑天皇の陵が高屋にある古墳とされていること自体に違和感は否めない。 【合葬】 春日山田皇女と神前皇女の「合葬」とは、普通に考えればそれぞれが寿命を全うした後に安閑天皇陵に合葬されたことを書いたものである。 しかし、継体天皇紀に遡ると最期の描き方が不自然で、さらにわざわざ『百済本記』を引用して天皇が后と王子とともに殺された件が書かれた。 この部分については、安閑天皇とともに春日山田皇女・神前皇女が暗殺されたことが誤って継体帝のこととして『百済本記』に書かれたということも、ないとは言えない。 皇后、妹は安閑天皇とともに暗殺されて合葬されたのが真相で、そのうち「暗殺」の部分だけが伏せられたのかも知れない。 次の宣化天皇の在位年数も比較的短いから、継体天皇の最期から欽明天皇の即位までの間に、大王の継承をめぐり激しい争いがあったことが直感される。 とは言うものの、欽明天皇即位前期には欽明天皇は即位を一度辞退し、 山田皇女に「請二就而決一」した記事がある。即ち飯豊女王の秉政、もしくは神功皇后の摂政のような立場につくことを請うている。 また各地の春日屯倉のオーナーでもあるから、安康天皇崩後も隠然として独自の権力を維持していたと考えられる。 〔ただ、未亡人になったのに皇太后の称号を得ず「山田皇后」のままであるところに、記事の若干の不確実性が感じられる。〕 安閑天皇は、寿陵を作るほどの在位期間もないのに崩じたその月のうちに葬られている。 これも、突然の暗殺を受けて急ごしらえの小さな陵に仮安置されたのが真相かも知れない。 そのまま改葬もなく放置されたとすれば、安閑天皇「陵」と言えるほどのものはもともと存在しないことになる。 逆に春日皇后のために寿陵が築かれつつあり、取りあえずそこに安閑天皇を葬ったことも考え得る。 まとめ 安閑天皇自身の生涯については、その即位から陵に至るまで疑問だらけである。 一方それとは対照的に、各地への屯倉の設置が着実に進んだことは、あれこれ具体的に書かれている。 継体帝亡き後、皇后と皇子たちこそ後継者争いに熱中していたが、朝廷の行政行為そのものはオホマヘツキミを頂点とする官僚たちによって着実に進んでいるのである。 ただ見方を変えると、安閑天皇紀はそもそも継体天皇から欽明天皇あたりに設置された屯倉の記録を集約する文書として位置づけられたのであろう。 その場合、それぞれの日付は形式的に添えられたものに過ぎないこととなる。 安閑天皇・宣化天皇の在位期間は短いが、オホキミとして実在していたと見るのが穏当であろう。 そして、崩御の日付ぐらいは記録に残っていて、それが記の分注に書き添えられたと考えられる。 |
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2020.03.05(thu) [237] 下つ巻(宣化天皇) ▼▲ |
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弟建小廣國押楯命
坐檜垧之廬入野宮治天下也 弟(おと)建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと)、 桧垧(ひのくま)之(の)廬入野宮(いほりののみや)に坐(ましま)して天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 天皇娶意祁天皇之御子橘之中比賣命 生御子石比賣命【訓石如石下效此】 次小石比賣命 次倉之若江王 天皇(すめらみこと)、意祁天皇(おけのすめらみこと)之(の)御子(みこ)橘(たちばな)之(の)中比売(なかつひめ)の命(みこと)を娶(めあは)せたまひて、 [生]御子(みこ)石比売命(いしひめのみこと)【石は石(いし)の如く訓む。下(しもつかた)此(これ)に効(なら)ふ。】、 次に小石比売命(をいしひめのみこと)、 次に倉(くら)之(の)若江王(わかえ乙のみこ)をうみたまふ。 又娶川內之若子比賣 生御子火穗王 次惠波王 又(また)川内(かふち)之(の)若子比売(わくごひめ)を娶せたまひて、 [生]御子、火穂王(ほのほのみこ) 次に恵波王(ゑばのみこ)をうみたまふ。 此天皇之御子等幷五王【男三女二】 故火穗王者【志比陀君之祖】 惠波王者【韋那君多治比君之祖也】 此の天皇之(の)御子等(たち)は、并(あは)せて五王(いつはしらのみこ)【男(ひこ)は三(みはしら)。女(ひめ)は二(ふたはしら)。】にて、 故(かれ)火穂王(ほのほのみこ)者(は)【志比陀君(しひだのきみ)之(の)祖(おや)】、 恵波王(ゑばのみこ)者(は)【韋那君(ゐなのきみ)、多治比君(たぢひのきみ)之(の)祖(おや)也(なり)】。 その弟、建小広国押楯命(たけおひろくにおしたてのみこと)は、 檜垧(ひのくま)の廬入野宮(いほりののみや)にいらっしゃり、天下を治められました。 天皇(すめらみこと)は、意祁(おけ)の天皇の御子、橘(たちばな)の中比売(なかつひめ)の命(みこと)を娶られ、 御子、石比売命(いしひめのみこと)、 次に小石比売命(おいしひめのみこと)、 次に倉(くら)の若江王(わかえのみこ)をお生みになりました。 また、川内(かふち)の若子比売(わくごひめ)を娶り、 御子、火穂王(ほのほのみこ)、 次に恵波王(えばのみこ)をお生みになりました。 この天皇の御子等は併せて五人の王(みこ)【男三、女二】で、 この火穂王(ほのほのみこ)は志比陀君(しひだのきみ)の祖先、 恵波王(えばのみこ)は韋那君(いなのきみ)、多治比君(たじひのきみ)の先祖です。 垧…(「国際電脳漢字及異体字知識庫」)①同「坰」。②量詞。地積単位。〔面積の単位〕 坰…(「国際電脳漢字及異体字知識庫」)都邑的遠郊。 くま…〈時代別上代〉(名〔詞〕)曲がり角。入り組んで見えにくいところ。 韋那君(偉那公)…〈倭名類聚抄〉{摂津国・河辺郡・為奈郷}(応神天皇紀三十一年)。 多治比君(丹比公)…〈倭名類聚抄〉{河内国・丹比【太知比】郡〔たぢひのこほり〕}。 【真福寺本】
書紀では「檜隈」と表記され、〈倭名類聚抄〉には{大和国・高市郡・檜前【比乃久末】郷}とあることから、 檜垧もヒノクマと訓まれている。 欽明天皇段の方は「檜垧」となっているから、宣化天皇段でももともとは「垧」であろう。なお、氏庸本では土偏が木偏になっている。 また『日本古典文学全集』(岩波書店)は、「坰」とする。 「国際電脳漢字及異体字知識庫」によると、「坰:都邑的遠郊。垧:①同「坰」。②量詞。地積単位。〔面積の単位〕」。 したがって、坰も垧もほぼ同じで「町はずれ、郊外」を意味する。 和語「くま」の意味は〈時代別上代〉によれば「(名〔詞〕)曲がり角。入り組んで見えにくいところ」とされる。 《石比売命》 一般には「石比売命」に続く「【訓石如石下效此】次小石比賣命」の部分が、真福寺本だけにない。 しかし合計数は真福寺本でも「并五王」となっているから、筆写の際の単純な脱落であろう。 《男二女二》 真福寺本は「并五王」としながら「男二女二」であるから計算が合わない。諸本は「男三女二」にしている。 書紀では「倉稚綾姫皇女」は女性であるが、「男三女二」は「倉之若江王」を男子王としてカウントしたものである。 しかし記では「王」が女子王の場合があるから〔銀王(第135回)など〕、本来は「男二女三」であった可能性がある。 あるいは分注は本文が完成した後、時間が経ってから加えられたもので、その記入者が「倉之若江王」を男子王と判断して「男三女二」としたことも考えられる。 【建小廣國押楯命】 名前に被せた「建-」〔書紀は「武-」〕は、しばしば武力による叛逆行為を暗示する(建速須佐之男命、倭建命、大長谷若建天皇〔雄略〕など)。 書紀で宣化天皇陵に皇后が幼子とともに合葬されたことと併せ、不吉な最期が伺われる。
〈甲本〉檜隈【ヒノクマ】。〈倭名類聚抄〉{大和国・高市郡・檜前【比乃久末】郷}(雄略天皇十四年)。 『古事記伝略』は「入ノ字は、廬をば常にイホとのみ云故に、リに当て添ふる字なり」 〔「廬」はイホまでしか訓めないから、「リ」のために「入」を添えた〕 と述べた上で、さらに訓がイホリであることを裏付けるために 「阿波國風土記に、檜前伊富利野乃宮とあり」と述べる。 その出典は、『先覚抄』(万葉集註釈)〔1269年〕にあった。 その「先覚抄巻一」〔国立国会図書館デジタルコレクション『萬葉集註釈20巻』コマ24〕の関係部分は、右の通りである。 この本は、奥書に「右点検畢〔=終〕 明和七年五月」とあるから1770年よりも以前の写本である。 この部分は、(万)0003 の、特に「やすみしし」について論じた部分の中にある。 《於美阿志神社》 さて、於美阿志神社(奈良県高市郡明日香村檜前(大字)594)に、「宣化天皇檜隈廬入野宮跡」碑がある。 於美阿志神社は、〈延喜式-神名帳〉{高市郡五十四座/於美阿志神社}の比定社である。 『日本歴史地名大系』は、 「神社はもと社前の檜垣坂を隔てて西方にあったが、明治四〇年〔1907〕頃に現社地へ移した」、そして石塔婆は 「もと檜隈寺塔跡の中心礎石の上にあったが、近年石塔を積直し、中心礎は移動して保存されている。もと一三重であったが、現在は一一重しかな」いという。 神社名オミアシは、渡来した漢人(あや)の始祖「阿知使主」(あちおみ)の転といわれる (第152回)。 於美阿志神社の祭神は、現在でも阿智使主である。さらにその妃も祭神だというから、在地の氏族の姫を娶ったという伝説が存在したことも考えられる。 〈雄略紀〉十四年には「安二-置呉人於檜隈野一」とある。 〈雄略紀〉において「呉」とは中国のことである。また阿知使主は漢人の末裔を自称していた。 したがって、漢系族の渡来については応神二十年と雄略十四年に書かれ、 これはもとは一つの事柄だったのが二通りの話になったのかも知れない。 あるいは、雄略十四年に渡来した漢人が過去に渡来していた一族と融合し、阿知使主を始祖として共有したか。 もともと阿知使主の引き連れてきた漢人が檜隈に住んでいたところに、雄略朝で渡来した漢人も住んだということかも知れない。 漢系氏族については、西漢(河内のあや)と東漢(大和のあや)の二系列が存在するが(資料[25]《文宿祢》)。 阿知使主は東漢の祖だから、応神朝の渡来族と雄略朝の渡来族はともに東漢に繋がる。 そして、その於美阿志神社の場所に、檜隈寺があったと言われている。 《檜隈寺》
檜隈寺跡については、 〈五畿内志〉〔1734年頃〕大和国高市郡【仏刹】の項に「檜隈廃寺【檜前村故址今存二十三層石浮圖一】」とある。 石浮図は石塔のこと。「浮図」(ふと)はストゥーバ(塔)の音写で、「浮屠」(前出)とも書く。 〈五畿内志〉は、於美阿志神社と檜隈廃寺のそれぞれの項で十三層石塔に言及しているので、 同書は於美阿志神社が檜隈廃寺のところにあったと認識していたことが分かる。 檜隈寺跡については、本居宣長の紀行文『菅笠日記』(明和九年)〔1772〕が注目される。 有朋堂文庫(昭和二年〔1926〕)に納められている。曰く。 ――「翁にたづねいでて」聞くと、
《廬入野》 檜隈寺の考古学年代は7世紀末、書紀では朱鳥元年〔686〕以前だから、書紀のスタッフは檜前に建つ檜隈寺を見ていたと思われる。 その周辺には僧侶の庵があったはずである。そこはかつて宣化天皇の宮があった野だという言い伝えがある場所で、 だから記に「廬入野」と書かれたと想像することもできる。 「入」を宣長は借訓だというが、「僧が庵に入った」という実質的な意味があるかも知れない。 書紀の「因為二宮号一」は、時間を遡らせた命名かも知れない。 なお、上代語のイホリは仮に建てた住居の意であるが、僧侶の庵を指していた可能性はある。 改めて「宮」の規模を考えてみると、条坊制による都は藤原宮が最初とされる。 それ以前は朝倉の脇本遺跡のような規模で、〈応神紀〉二十二年、 〈仁徳紀〉三十八年に「高台」(うてな、たかどの)という語句がでてくるから三層程度の構造物は想像される。 宣下天皇が坐した高床式の礎石が檜前地域の地下に眠っていたとしても不思議ではない。 ただ藤原宮以前までの宮殿については飛鳥宮、難波宮、泊瀬朝倉宮が正式の宮殿として継続的に維持されていて、 その他の「宮」はほんの離宮程度の規模だったかも知れない。 《飛鳥檜前》 檜前は板葺宮(皇極天皇)などのいわゆる飛鳥宮跡からはやや離れているが大伴氏の本拠の飛鳥地域に属している。 書紀は大伴金村大連・物部麁鹿火大連を「並如レ故」とするから、 宣化政権は基本的には大伴物部連合の庇護下にあったと思われる。 橘之中比売命は宣化段では「意祁天皇〔仁賢〕之御子」と書くが、仁賢段には、この名前が抜けている。 しかし仁賢天皇紀では、「橘皇女」が手白香皇女の同腹の妹と明示するが、 記では母の名は示されない。 さて、記では「川内〔河内〕之…」と並べて「橘之…」とするから、「橘」は宮の名称であろう。 〈倭名類聚抄〉、あるいは江戸時代の町名を探してもなかなか見つからないが、 あるいは橘寺のところか。 【倉之若江王】 倉之若江王は、書紀では倉稚綾姫皇女と表記される。 書紀では継体帝皇女の「稚綾姫皇女」と区別するために「倉の」をつけて「倉稚綾姫皇女」と呼ばれたと見られる。 この関係を記に当てはめると「(継体帝の皇女)若屋郎女-(宣化帝の皇子or皇女)倉之若江王」となる。 屋(ヤ)と江(エ乙〔ye〕)は同一視してもよいだろう。記では「同じ名前の姫を区別するために一方に『倉〔=倉の宮〕の』をつけて呼んだ」という事情をあまり意識せずに表記したようである。 分注「【男三女二】」の数字が最初からか誤写の結果かは分からないが、どちらにしても「倉之」の意味には考えが及んでいないようである。 【万葉集の"石"】 「訓二石如一レ石」、すなわち「石」には石の通常の読み方を用いよという。それではその通常の読みは、イシ・イハのどちらであろうか。 その判断のために、まず万葉集から「石」の全例について訓みを調べた。 《イハ》 イハと訓んだことが確実なのは、次の熟語である。 ・石走・石激:「いはばしる」と訓まれる。仮名書き「3617 伊波婆之流 多伎毛登杼呂尓 いはばしる たきのとどおも」により、訓イハは確実。 ・石根:また「磐根」。仮名書き「3590 伊波祢布牟 いはねふむ」。訓イハは確実。 ・石室:〈倭名類聚抄〉「窟【和名伊波夜】」があるので、イハヤは確実。 ・石管自・石上乍自:〈時代別上代〉所引『新撰字鏡』に「伊波豆々志」があるので、イハツツジは確実。 ・石瀬:「1419 伊波瀬乃社 いはせ〔地名〕のもりの」により、イハと訓む。 ・石船:「磐船」とも書かれるので、イハフネであろう。 地名にもイハが見られる。 ・石見(イハミ)・石村(いはれ):地名として確立している。 単独語としてのイハ。 ・石木:「0722 戀乍不有者 石木二毛 成益物乎 こひつつあらずは いはきにも ならましものを」など、心を失った譬えに使う。仮名書きには「0800 伊波紀欲利 奈利提志比等迦 いはきより なりでしひとか」がある。 《見解が分かれるもの》 ・石枕:「2003 石枕」にイハマクラ、「3227 石枕」にイソマクラが見られる。 一方、〈時代別上代〉は「いしまくら(石枕):石の枕。イハマクラ・イソマクラと訓む説もある」と述べ、イシマクラを標準としている。 ・石田:「1730 山品之 石田乃小野 やましなの いはたのをの」「2856 山代 石田社 やましろの いはたのもりに」と詠まれた「石田の杜」は、現代地名の京都市伏見区石田に繋がる。 〈時代別上代〉は「いした」(一般名詞)を「石の多い田。不良の田」として、用例として『琴歌譜』から「伊之多はいなゑ」を引用する。 したがって上代でもイハタという語が確固として存在していたから、万葉集の訓読においてのみ実際の地名を無視して「イハタ」を採用したことも考えられる。 《イシ》 ・石井:「1128 石井之水 雖飲不飽鴨 いしゐのみづは のめどあかぬかも」。 「3398 波尓思奈能 伊思井乃手兒我 はにしなの いしゐのてごが」〔〈倭名類聚抄〉{信濃国・埴科郡}〕。 により、イシヰが確定する。 ・石川:「0224 石水 いしかは」。「0225 石川 いしかは」。 また〈神代紀下〉歌謡「以嗣箇播箇柁輔智 いしかはかたふち 〔石河片渕〕」が見られる。 ・石践:「0525 小石踐渡 いしふみわたり」。「3313 石迹渡 いしふみわたり」。「3425 伊之布麻受 いしふまず」により「いし踏む」の表現が使われたことが確定する。 ・いし:「0813 布多都能伊斯乎 ふたつのいしを」。神功皇后伝説の子産み石を詠んだもの。 《イソ》 ・石隠:「磯」の意味で使われたと見られる例として、「0951 石隠 いそがくり」、「2444石邊山 いそへのやまの」などがある。 ・石上(いそのかみ):「0422 石上 振乃山有 いそのかみ ふるのやまなる」など「布留」「振る」の枕詞として十例ある。 《シ》
なお、シは呉音シャクによる音仮名かも知れない。 古墳時代まで遡れば、そもそもイシそのものが中国から流入したシャクの転かも知れない。 何れにしてもシという音声と「石」の字が、上代人の脳の中で深く結びついていたことは間違いないであろう。 《その他の用法》 石を用いて表記する特別な語として、名詞「1062 海石 いくり」「2738 重石 いかり」、 動植物名「1262 海石榴 つばき」、「2991 石花 せ」、「1970 石竹 なでしこ」 などが見られる。 《総論》
万葉歌ではイハが過半数を占めるが、だからと言ってイハが最初の訓みであったとは言えない。 訓仮名シはイシからの転用であろうから、石の訓みは基本的にイシであったと考えるべきであろう。 少なくとも、「石」は訓仮名ハとしては使用されていない。 川名による地名「石川」はイシであり、 明石・赤石・取石のシはイシのイが前接する母音に吸収された結果とも、 借訓とも言い得る。 石上については、イソはイシと同根である。 イハと詠まれる「山科の石田の杜」においても、既に上代にイシタ(石-田)という語が存在したから、実際の地名は実際には上代から現代まで一貫してイシタだったかもしれない。 石田を「イハタ」と訓むのは、歌の中だけではないかとさえ、思えてくるのである。 こうして見ると「石」をイハと訓むのは詩文に限定された習慣かも知れない。 イシなら取るに足らない石ころだが、イハは神が降りるイハクラ(磐座)や、イハホ(巌、磐穂)に繋がる語である。 イハに敢えて「石」を当てるのは万葉集の流儀であって、それが雅とされていたものか。 《訓石如石》 以上の考察によれば、記の「石」も「本来はイシ」という土台の上にあるはずである。 ここで問題になるのは「磐井の乱」を起こしたイハヰが、記では「石井」と表記されていることである。 記は基本的に物語体だからその雅らかさを醸すために詩文の流儀を用い、意識的にイハに石を当てたのではと思われる。 ここで仁徳天皇段を振り返ると、 記の「石之日売命」は、仁徳天皇紀においては「磐之媛命」である。 また神代(第86回)でも、 「石長比売」が同様に「磐長姫」となる。 このように書紀は記がイハと訓む「石」を「磐」(イハ)に置き換えていった。 ところが宣化紀に至り、記の「石比売命」を「石姫皇女」のままにした。 この事実から、「訓石如石」とは「"石"はいつもはイハと訓むが、石比売命に限り特別にイシと訓め」の意であったとすればまことに辻褄が合い、 また記と書紀との密接な関係性が明らかとなるのである。 ちなみに、記下巻の安閑天皇以後は実質的な内容を欠くので、後世の書き足しではないかという疑念もあったが、 「石」の訓み方にこのように筋を通しているのを見れば、最後まで一体として書かれたと見るべきであろう。 【志比陀君(椎田君)】 〈姓氏家系大辞典〉は、「椎田 シヒダ:また志比陀に作る。摂津、豊前島に此の地名存ず」と述べ、 ①恵波王を祖とする多治比君(書紀では、上殖葉皇子を祖とする丹比公)の別称。 ②火穂王を祖とする志比陀君(書紀では、火焔皇子を祖とする椎田君)。 の2氏を挙げる。 【韋那君(偉那公)】 天武紀十三年十月に「丹比公、猪名公…十三氏賜レ姓曰二真人一」とあり、 偉那公は真人姓を賜る。 『三代実録』巻三十八〔陽成天皇〕元慶四年〔880〕十月二十七日に「為奈真人菅雄」の名がある。 すなわち、「免二摂津国川辺郡人十九世従七位下〔冠位〕川原公福貞、 無位川原公福継、有馬郡人無位川原公干被、河辺郡人十世従八位下川原公夏吉、大初位下川原公有利等五戸。 課傜一」〔摂津国河辺郡の人、川原公福貞ら五戸の課役を免じた〕 とし、その経緯を説明する。 この記事の内容にはなかなか興味深いものがあり、〈姓氏家系大辞典〉にも引用されている。 ここで、その全文を精読する〔朝日新聞社『六国史』巻十;1940、国立国会図書館デジタルコレクションによる〕。 平安時代の書なので多くの語については音読も可能だと思われるが、 あまり一般的でない漢熟語も多いので、基本的に倭語を用いて訓読した。
段落Aは、「天長九年十二月十五日詔書によれば」と、課傜(えだち)の蠲除(免除)を求める根拠を挙げる。 段落Cは、天長九年の詔書によって課傜を蠲除する代数が延長され、先祖に適用された実例があるのに、川原福貞らには未だ認められていない。 そこでその適用を求めたところ、認められたと述べる。 段落Bは、古来の規則を変更する妥当性を述べた部分であるはずだが、 なかなか難解である。事の概要はA・Cだけで十分解るから放置してもよいのだが、それでも解釈を試みる。
川原福貞らは、863年の時点で六代を越えていたであろう為奈真人菅雄、川原公清永の例を挙げて、この天長九年の詔が適用された事実を示したのであろう。 申立人にも同様に課傜の蠲除が適用されるはずだと申し出て、認められたのである。 ごく小さな出来事だが、税としての徭役の免除を訴えて認められたのは珍しいことだったから、わざわざ三大実録に記載されたのであろう。 その結果、9世紀中盤に「為奈真人」が存在していたことが確かとなった。 《記紀との不一致》 三代実記が為奈真人の祖が火焔皇子と述べているのは、書紀の殖葉皇子(記では恵波王)と食い違う。 三代実記のこの部分は誤りか。 逆に記の「火穂王者志比陀君之祖。 恵波王者韋那君多治比君之祖也。」の方が、 「火穂王者韋那君志比陀君之祖。 恵波王者多治比君之祖也。」の誤りで、 書紀も誤りを引き継いだのかも知れない。 【多治比君(丹比公)】 天武紀十一年に「内大錦下〔=冠位〕丹比公麻呂為二攝津職大夫一」とあり、「丹比公麻呂」の名が見える。 丹比公は前項で述べたように、同十三年に真人となる。 〈姓氏家系大辞典〉は、 「丹比 タヂヒ:上古以来の大姓にして、散流あり。又多治、丹治、蝮、多治比、丹治比、丹塀等の文字を用ふるも、文字によりて流派を異にするにあらざれば」と述べ、 多様な表記があるとし、各地の丹比連などを挙げる。 また〈天武天皇紀〉によれば、十三年十二月に「手繦〔たすき〕丹比連、靫〔ゆき〕丹比連」が宿祢姓を賜る。
【書紀―即位前】 宣化1目次 《武小廣國押盾天皇》
勾大兄広国押武金日(まがりのおほえひろくにおしたけかなひ)の天皇之(の)同母弟(いろど)也(なり)。 《安閑天皇崩》
勾大兄広国押武金日天皇崩(ほうじ、かむあがりしたまひ)て、嗣(ひつぎのみこ)無し。 群臣(まへつきみたち)剣(つるぎ)鏡(かがみ)を[於]武小広国押盾尊に奏上(たてまつ)りて、天皇(すめらみこと)之(の)位(くらゐ)に即(つ)きたまは使(し)めまつりき[焉]。 是の天皇、為人(ひととなり)は、 器宇(うつはもの)清(きよ)く通(とほ)りて、 神(かむ)襟(ふつころ)朗邁(ほがらかにこゆ)。 [不]才(かど)地(いへ)を以(もち)ゐず、 人を矜(あはれ)びて王(きみ)と為(な)りて、 君子(きみ)所服(したがはゆ)。 《奏上剣鏡》
α群の始めは中国風の表現であったが、継体天皇や宣化天皇に至り剣・鏡の継承となり倭国の作法が理解されつつある。 宣下天皇即位でも剣・鏡が用いられている(右表)。 《君子所服》 君子所服は『焦氏易林』〔漢代、焦延寿著〕の中に出てくる語で、「蒙之観:黄玉温厚。君子所服。甘露溽暑。萬物生茂。」とある。 これは、占い「四千九十六卦」ごとの運勢のうちの、「蒙・観」卦の部分である。 八卦とは3つの陰陽の組み合わせ〔つまり3ビット数〕で、 ☷(坤)・☶(艮) ・☵(坎)・☴(巽) ・☳(震)・☲(離) ・☱(兌)・☰(乾)からなり、 このうち二つを組み合わせると六十四卦〔6ビット〕、 さらに六十四卦をペアにすると、642=4096卦〔12ビット〕となる。 その4096通りの運勢を、それぞれ四言絶句で表した書が『焦氏易林』である。 「蒙之観」は、その「四千九十六卦」のひとつで「蒙(艮坎)」と「観(巽坤)」の組み合わせ(䷃䷓)である。 「黄玉」はある種の宝石。「溽暑」は蒸し暑いこと。全体として宝が心地よく輝き、植物が繁茂するという順調な運勢を表しているから、 「君子所服」は「叛逆する者はなく、君主は人民によってよく服従される」意であろう。 もちろん、占いの御託宣だからその状況に応じて様々な解釈があり得る。 なお、「君子所服」なる語は他に「坤之履(䷁䷉)」、「泰之需(䷊䷄)」でも使われている。 《大意》 武小広国押盾(たけおひろくにおしたて)天皇(すめらみこと)は、男大迹(をほど)天皇の第二子で、 勾大兄広国押武金日(まがりのおほえひろくにおしたけかなひ)天皇の同母の弟です。 〔安閑天皇〕二年十二月、 勾大兄広国押武金日天皇が崩じたとき、継嗣がありませんでした。 群臣は剣と鏡を武小広国押盾尊に奉り、天皇(すめらみこと)に即位していただきました。 この天皇のひととなりは、 器宇〔=器量〕は清通し、 神襟〔=くすしき心持〕により朗邁し〔=明るく物事を越え〕、 才地〔=才能・門地〕を用いず、 人への矜(あわれみ)をもって王となり、 君子として人民に服されました。 【書紀―元年正月~二月】 宣化2目次 《遷都于檜隈廬入野》
[于]桧隈(ひのくま)の廬入野(いほりの)に都を遷したまひて、因(よ)りて宮の号(な)と為(す)[也]。
大伴金村大連(おほとものかなむらのおほむらじ)を以ちて大連(おほむらじ)と為(な)して、物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおほむらじ)をもちて大連と為(な)したまふこと、並(な)べて故(もと)の如し。 又、蘇我稲目宿祢(そがのいなめのすくね)を以ちて大臣(おほまへつきみ)と為(な)したまひて、阿倍大麻呂臣(あべのおほまろのおみ)を大夫(まへつきみ)と為(し)たまふ。 《大意》 元年正月、 桧隈(ひのくま)の廬入野(いおりの)に都を遷し、その地名を宮号としました。 二月一日、 大伴金村大連(おおともかなむらのおほむらじ)を大連(おおむらじ)、物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおおむらじ)を大連とするのは、並べてこれまでの通りです。 また、蘇我稲目宿祢(そがのいなめのすくね)を大臣(おおまえつきみ)とし、阿倍大麻呂臣(あべのおおまろのおみ)を大夫(まえつきみ)としました。 【書紀―元年三月】 宣化3目次 《立橘仲皇女爲皇后》
有司(つかさ)皇后(おほきさき)を立たしたまふことを請(ねが)ひまつる。
詔(みことのり)したまひて曰(のたまはく) 「前(さき)の正(まさ)しき妃(みめ)億計天皇(おけのすめらみこと)の女(むすめ)橘仲皇女(たちばなのなかつみこ)を立たして皇后(おほきさき)と為(し)たまふ。」とのたまふ。 是(ここに)一男(ひとはしらのひこ)三女(みはしらのひめ)を生みたまひて、 長(このかみ)は石姫皇女(いしひめのみこ)と曰ふ。 次は小石姫皇女(をいしひめのみこ)と曰ふ。 次は倉稚綾姫皇女(くらのわかやひめのみこ)と曰ふ。 次は上殖葉皇子(かみつゑばのみこ)、亦(また)の名は椀子(まりこ)と曰ひて、 是(これ)丹比公(たぢひのきみ)偉那公(ゐなのきみ)、凡(おほよそ)二(ふたつ)の姓(かばね)之(の)先(さき)也(なり)。 前(さき)の庶(もろもろの)妃(みめ)大河内稚子媛(おほかふちのわくごひめ)、一(ひとはしら)の男(みこ)を生みたまひて、 是(これ)火焔皇子(ほのほのみこ)と曰ひて、是(これ)椎田君(しひたのきみ)之(の)先(さき)也(なり)。 《前正妃》 「正妃」に「前」がつくから、「皇后」は「正妃」と同義ではない。政治的な制度としての特別な地位ということであろう。 後世〈延喜式-諸陵寮〉で藤原氏が送り込んだ皇后の墓が「陵」と表現されるのも、その特別な地位を物語ると考えられる。 《大意》 三月一日、 官僚たちは、皇后(おおきさき)を立てるよう要請しました。 八日、 「これまでの正妃、億計天皇(おけのすめらみこと)の娘、橘仲皇女(たちばなのなかつみこ)皇后に立てる」との詔を発しまました。 そして一男三女(みはしらのひめ)をお生みになりました。 長子は石姫皇女(いしひめのひめみこ)といい、 次は小石姫皇女(おいしひめのひめみこ)といい、 次は倉稚綾姫皇女(くらのわかやひめのひめみこ)といい、 次は上殖葉皇子(かみつえばのみこ)、別名は椀子(まりこ)といい、この皇子は丹比公(たじひのきみ)、偉那公(いなのきみ)、あわせて二姓の先祖です。 前の庶妃、大河内稚子媛(おおかうちのわくごひめ)は一男をお生みになり、 この皇子は火焔皇子(ほのほのみこ)といい、椎田君(しいだのきみ)の先祖です。 まとめ 橘之中比売命(橘仲皇女)が仁賢天皇の皇女だとすると、仁徳天皇-履中天皇-市辺皇子-仁賢天皇の系列を継ぐ皇女であり、 その血筋は白香媛と同じである。すると橘仲皇女がもし男子を生めば、血筋は欽明天皇と競合する。 倉之若江王が書紀のいうように皇女(倉稚綾姫皇女)で、殖葉皇子(恵波王)は記を採用して大河内稚子媛から生まれたとすれば、橘仲皇女から産まれたのは三人の女子のみとなる。 この前提に立つと、橘仲皇女がもし男子を産めば、その瞬間に白香媛のライバルとなる。 宣化紀四年の「橘皇女及其孺子合二-葬于是陵一」において、この孺子(幼子)がまさしく新たに生まれた男子ではなかったかと思われるのである。 記の分注では倉之若江王が男子になっていたり、書紀では殖葉皇子が橘仲皇女の方に移ったりといろいろと紛らわしいが、 整理して、橘仲皇女の産んだ子が三女と幼い男子だったとすると筋書きは解りやすくなる。 即ち、白香媛は宣化天皇・橘仲皇女・孺子(男子)をまとめて殺し、欽明天皇が安定的に皇位継承できるようにしたのである。 記の分注「男三」や書紀が殖葉皇子の母を替えた処理は、「橘仲皇女は無事に男子の皇子を産んだ」ことにして、 公的にはこの事実をカモフラージュしたとさえ感じられる。 書紀の筆者は、僅かに「橘皇女及其孺子合葬于是陵」と書くことによって真実を匂わせるのである。 ただ、同じように「合葬」と書かれた春日山田皇后は、宣化天皇崩の時点で健在であるから〔欽明天皇即位前紀による〕、 未だ確実なことは言えない。 |
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2020.04.01(wed) [238] 下つ巻(欽明天皇1) ▼▲ |
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弟天國押波流岐廣庭天皇
坐師木嶋大宮治天下也 弟(おと)、天国押波流岐広庭(あめくにおしはるきひろには)の天皇(すめらみこと)、 師木嶋大宮(しきしまのおほみや)に坐(ましま)して天下(あめのした)を治(をさめたまふ)[也]。 弟の天国押波流岐広庭(あめくにおしはるきひろには)の天皇(すめらみこと)は、 師木嶋(しきしま)の大宮にて天下を治められました。 【天国押波流岐広庭天皇】 《波流岐》 波流岐は、書紀では欽明紀において開に波羅企なる訓注がつけられている。 「は~」で始まる動詞の、放つ・撥ぬ・離る・始むなどは同根で、いずれも閉鎖(密集)状態から解放(分散)状態への移行を意味する。 「は」の古い発音は[pa]で、これは[p](口唇破裂子音)⇒[a](口腔が最も広い母音)だから、物理現象がそのまま発音に写し取られたものと言える。 この古い発音は、パッと散る、パッと開く、パラパラなどのオノマトペとして残る。 このことから、最初の頃の「開く」はハラク(あるいはハルク)〔四段〕が主流であったことが、容易に推定できる。 《天国》 「天国押波流岐広庭天皇」は〈仮名日本紀〉をはじめとして一般的に「あめくに…」と訓まれている。 ここでは、それに囚われずに天国の本来の訓を検討する。 アマ・アメがたくさん出てくるのが、(万)4122 である。これは農民が旱魃を嘆くさまを詠んだ長歌で、 「須賣呂伎能 之伎麻須久尓能 安米能之多 すめろきの しきますくにの あめのした…」〔皇の敷き坐す国の天下〕、 「安米布良受 あめふらず」〔雨降らず〕、「安麻都美豆 あまつみづ」〔天の水〕、「安麻能之良久母 あまのしらくも」〔天の白雲〕という語句が出てくる。 これらのアマは空の意味ではあるが、感覚的には神が坐すアマと近いと思われる。 一方、アメノシタは地上の国のことである。 属格の助詞(ノ・ガ)の使い分けの観点では、基本的にアマにはガがつき、アメにはノがつくから、アマの方が古い。 「高天原」も現代はタカマガハラと訓むが、〈甲本〉「タカアマノハラ」、〈乙本〉「太加万乃波良」である。 〔タカマは、タカ+アマの母音融合〕 これらから見て、アマはもともと自然神のイメージに近く、そこから意味を狭めたときにアメになる傾向が見える。 心が自然に感じ取るのはアマツカミだが、 高皇産霊神や天照大神が登場する神学の教義においては、アメが一般的になる。 さらには、権力が神の名のもとに支配する地上の世界をアメノシタという。 いわばアマは素朴に思い浮かべる神の世界だが、神学的な概念として絞り込まれるとアメになる。 アマから落ちて来る水をアメというのも、一種の絞り込みではないだろうか。 書紀で人名・神名以外の「天国」は、神代記の一例のみである。 〈乙本〉は「照臨天国【安女乃久爾乎氐良之乃曽美太万波牟己止】」すなわち、 アメであるが、〈仮名日本紀〉や〈時代別上代〉は「あまつくに」で、むしろ古い形が主流となっている。 アマが膚感覚の語でアメが教義の語だとすれば、天皇名を「アマツクニ押シ開キ」と訓んだ場合、邇邇芸命が高千穂に降りるときの「離二天之石位〔=磐座〕一押二-分天之八重多那雲一」 (第84回)が連想され、物語的である。 一方「アメノクニ押し開き」と訓むと、高皇産霊神からの血筋を根拠に地上の国を開く政治性が感じられる。 前者は素朴な宗教精神を押し出し、後者は政治権力を押し出すニュアンスの違いが感じられる。 ただ、アメアマ絞り込み法則に従えば、人名化は究極の絞り込みであるから、はじめはアマツクニが称号として付加されたものだとしても、次第に名前の一部となるうちにアメクニと呼び習わされたのは自然の流れである。 〔ノの省略も、固有名詞化に伴うものと思われる。〕 いずれにしても天国が名前に入る天皇は、欽明天皇のみである。武烈天皇を最後にして途切れていた天の日嗣の血筋が、 ここで欽明天皇を推したてることによって、やっと正統を取り戻せたという手白髪命(手白香皇女)の気持ちを表す名前のように感じられる。 対照的にヲホド天皇〔継体〕に称号が付かないのは、血筋に正統性を欠くからという見方もできる。 【師木嶋大宮】
「仏教公伝」については、欽明紀十三年〔522〕十月に 「百済聖明王【更名聖王】遣二西部姫氏達率怒唎斯致契等一、献二釈迦仏金銅像一躯幡蓋若干経論若干巻一。」 〔百済聖明王の使者「西部姫氏達率〔安閑元年参照〕怒唎斯致契」らが、 釈迦仏金銅像、幡蓋〔幢幡(はた)と天蓋(ふた)〕、経論〔経と注釈書〕を献上した〕などとあることに因んだもの。 桜井市金屋(大字)の初瀬川北岸にもまた、「仏教伝来之地」碑がある(武烈紀2)。 百済使が経典などを抱えて、難波津から大和川を経由し、この辺りから上陸したと想像してのことである。 考古学上の建造物跡としては、奈良県桜井市の脇本遺跡が有力視されている(第198回) 脇本遺跡のうち、2010年に橿原考古学研究所から発表された「6世紀後半の大型建物跡」が、欽明天皇の時期に相当する。 この磯城嶋金刺宮のほか、欽明紀三十一年四月に「幸二泊瀬柴籬宮一」とあり、こちらを脇本遺跡に当てる説もある。 『脇本遺跡第18次調査 現地説明会資料』(奈良県立橿原考古学研究所;2012)はこの大形建物跡について、 「欽明天皇の「磯城島金刺宮」と行宮である「泊瀬柴籬宮〔中略〕に関連する施設の可能性が考えられる〔中略〕掘立柱建物」として決定を保留している。 この大型建物跡(掘立柱建物)は『奈良県立橿原考古学研究所調査報告115:脇本遺跡Ⅱ』(奈良県立橿原考古学研究所;2014) によると、「東西2間、南北3間以上の南北棟」で、 「柱掘方」の「深さは0.5~1,0m」、 掘立柱建物(新)は「坏身の細片」の年代から「飛鳥時代以降に建て替えがおこなわれたと推測され」、 「掘立柱建物(古)はこれより先行する6世紀代と推測するが確定的ではない」、 「柱抜き取り穴には焼土塊や墨片が多く含まれ、この建物が当時火災に遭った可能性がある」。 「掘立柱建物(新)の柱径は48cm~58cmと太く、 掘立柱建物(古)の柱跡も柱穴3でのみ確認できたが、こちらは径38cmであった」という。
右図は、同調査報告に掲載された図と写真で、柱穴の跡がよく分かる。 掘立柱建物(古)の柱も、1~7の柱穴と同じ位置に立っていたと考えられる。 宮殿の高殿は、応神天皇紀(二十二年)、仁徳天皇段(165回)などに出てくるが、 もし、掘立柱建物が高殿であったとすると、どの程度の高さが考えられるだろうか。 参考として、出雲大社で2000年に発掘された「宇豆柱」を見てみよう(第61回)。 『古代大出雲を掘る』(松本岩雄;第506回建設技術講習会特別講演(2005/11/9))によると、 「室町時代の『杵築大社旧記御遷宮次第』(1391年) 」に「景行天皇の頃は32丈の高さがあり、その後16丈になり、8丈になり、今は4丈5尺」 と記されているという。 高さ16丈=約48mとも言われる高層の神殿を支えたのがこの宇豆柱で、3本一組を束として、9束からなる。 脇本遺跡の掘立柱建物(古)の柱の直径の38cmだから、これよりは遥かに低いが、 数メートルから十数メートルぐらいの高さは考えてもよいかも知れない。 魏志倭人伝まで遡ると、卑弥呼の宮は「居処宮室楼観」と書かれる。 弥生時代~古墳時代初頭の青谷上寺地遺跡からは、「楼観」の柱と推定される長さ7.24mの柱材が出土している (魏志倭人伝第64回)。 環濠集落で敵の来襲に備えて物見した櫓が、宮殿の高殿に引き継がれたとも言えそうだが、 単にたまたま景観を楽しみたいと思って建てたとしても、これまた自然なことである。 脇本遺跡の高殿からは南に外鎌山が望まれ、この山は「隠口の泊瀬の山」と歌に詠まれた可能性がある (雄略六年)。 〈延喜式-諸陵寮〉には「衾田墓【手白香皇女。在大和国山辺郡。兆域東西二町。南北二町。無守戸。令山辺道匂岡上陵戸兼守。】」と載り、 宮内庁によって「衾田陵」(奈良県天理市中山町)が治定されている。 考古学名は西殿塚古墳で、大和古墳群に属する。墳丘長230mは、延喜式の兆域(216m四方)からはややはみ出る。 出現期の前方後円墳で、欽明天皇の時代には全く合わない。 被葬者として、3世紀末の大王の一人である壱与などを想定した(第115回)。 『天皇陵古墳』(森浩一)は、「ただし周濠相当部分の堆積層や渡堤想定部分に須恵器類の出土があって、 これらが本墳に対する中期末葉以降のなんらかの追祭祀行為にともなう遺物となる可能性も考慮しておかなければいけない。 この行為については後継の王権による先行の王墓への祭祀であったという評価を与えることができるならば、 『延喜式』諸陵寮が〔中略〕前期大形前方後円墳の集中地域〔中略〕に定められた理由を解く鍵となろう」と述べる。 やや難解な文章だが、要するに「5世紀末以後に巨大古墳が集中する地域で朝廷による先祖へ陵墓の祭祀が盛んになり、その陵墓のひとつに手白香皇女墓が当てられた。 それが延喜式による指定に繋がったのではないか」の意か。 西殿塚古墳は、全国の前方後円墳第19位(『天皇陵古墳』矢澤高太郎)に数えられる巨大古墳である。 絶対に真陵ではないが〈延喜式〉でこれだけ大きな古墳が割り振られたこと自体が、伝えられた手白髪郎女(手白香皇女)の存在の大きさを物語るものであろう。 それでは真陵はどこかということになるが、継体天皇陵に比定される今城塚古墳には石棺片が三体分検出されているから、 そのうち一棺を手白香皇女に充てるという考えはどうであろうか。
欽明1目次 《天國排開廣庭天皇》
母は手白香皇后(たしらかのおほきさき)と曰ふ。 天皇之(こ)を愛(め)でて、常に左右(もとこ)に置きたまふ。 《愛之常置左右》 岩波文庫版は「天皇」=継体天皇、「之」=皇子時代の欽明天皇と読む。 確かに「愛」(うつくしび、あはれぶ、めづ、はし、めぐむ)はもっぱら皇子、妃、臣下などの目下の者を対象とする。 しかし、この文の次からは「天皇」は欽明天皇を指す。 また、手白香皇女が欽明天皇擁立のために心血を注いできたことはこれまでの経過から明らかだから、 この文から欽明天皇のマザコンぶりを読み取ることは自然であろう。 そこで、もともと「愛」という語が上下関係に縛られたものかどうかを、中国古典から探ってみる。 まず「母を愛する」用例を「中国哲学書電子化計画」から探してみると、『荘子』-「徳充符」に一例が見つかった。曰く。
この「下位の者を愛(いつく)しむ」が、愛のひとつの形態ではあるのは確かだが、「適見㹠子食」の例では地位の上下とは無縁であり、これが本来の「愛」なのである。 だが現象的には「上が下に施す」用例が多い。これは、 封建的秩序を維持するための道徳を説く「論語」のような書が、古代の文献中に占める割合が大きいからである。 また「左右」についても、書紀では殆どが近くで仕える(人の)意味で使われているのだが、物理的な近接の方が原義に近く、その場合「サユウ」と読んでも十分に意味は伝わる。 〈汉典〉は「左右:①左和右〔左と右の〕両方面。②附近。両旁〔=傍ら〕。③身辺。④近臣。随従。⑤〔以下略〕」などとする。 上代語の「もとこ」〔「許処」であろう〕も、本来は地位の上下とは無関係で物理的配置に過ぎない。 よって書紀が基本的に純正漢文であることを考えれば、「天皇愛之。常置左右」を「天皇は母を愛し、常に身近に居ていただいた」と読んでも何の問題もないわけである。 「愛」と「左右」は、決して皇子・大連・大臣対象に固定された語ではない。 同じ言い回しは、垂仁天皇即位前紀に「天皇愛レ之引二-置左右一」がある。 こちらは崇神天皇が皇太子時代の垂仁天皇を「愛之」した。この唯一例に引っ張られて、欽明紀に誤読が生じたことも考えられる。 《大意》 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにはのすめらみこと)は、男大迹天皇(おほどのすめらみこと)の嫡子〔=皇后の皇子〕です。 母は手白香皇后(たしらかのおおきさき)といい、 天皇は母を愛し、常に身近に置かれました。 【書紀―即位】 欽明4目次 《卽天皇位》
天国排開広庭の皇子(みこ)、天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ、時に年(よはひ)若干(そこばく)。 皇后(おほきさき)を尊(たふと)びて皇太后(おほきさき)と曰ひたまふ。 大伴金村大連(おほとものかなむらのおほむらじ) 物部尾輿大連(もののべのをこしのおほむらじ)を大連(おほむらじ)に為(な)したまひて、 及(また)蘇我稲目宿祢大臣(そがのいなめすくねのおほまへつきみ)を大臣(おほまへつきみ)に為したまふこと、 並(な)べて故(もと)の如し。 《尊皇后曰皇太后》 皇后が皇太后になるのは基本的に天皇が崩じたときだから、順番からいえば宣化天皇皇后の橘仲皇女が皇太后である。 しかし、前段(即位前3)で春日山田皇后に「請二就而決一」〔摂政あるいは秉政の類か〕とあるから、 山田皇后は新天皇が即位したにも拘わらず、まだ皇太后になっていない。 したがって、続く段落で皇太后の称号を得た「皇后」は、山田皇后ということになる。
ところが、欽明紀では、春日皇后は皇太子(欽明天皇)から「請就而決」を依頼されるほどの健在ぶりが描かれるから、 合葬の部分にはいくつかの文字を補って、「後尊二春日皇后山田皇女一曰二皇太后一而合二-葬於旧市高屋丘陵一。」 と読む必要が出てくる。 しかし、確実とは言いきれないことを付け足すよりは、春日皇后の合葬は実は別個の伝承によるものと考えた方がすっきりする。 いわば、宣化紀と欽明紀には別々のソースを用いたと考えるのである。 〈欽明〉即位前紀の「山田皇后明閑百揆。請就而決。…」は、後世の人が恣意的に付け足した文章のようにも見える。元々は春日部側が所有する先祖誇大化伝説かも知れない。 春日皇后は、各地の屯倉に仕える春日部のオーナーであるとともに、手白香媛との間で熾烈な権力争いを繰り広げて敗北した悲劇の皇后でもある。 それぞれの異なる面に対応する伝承が、欽明紀と宣化紀に分けて書かれたのではないか。 「春日皇后」の名で合葬されたことをそのまま受け取れば、春日山田皇后は「皇太后」にはなっていない。 むしろ、「為手白香皇后曰皇太后」、すなわち皇太后になったのは手白香皇女だとする方が継体紀以後の流れに沿う読み方である。 〈継体紀〉元年三月甲子においては「是嫡子〔欽明天皇〕而幼年、於二兄治後、有二其天下一」と書かれる。 つまり、嫡子〔正妻である皇后の子〕である欽明天皇こそが皇位の正規の継承者であって、安閑・宣化はまだ幼かった欽明が成長するまでの繋ぎに過ぎないのである。 「是嫡子…」の文の前に「立二皇后手白香皇女一、…遂生二一男一。」ともあるから、 欽明紀でも「嫡子・欽明天皇」の母を「皇后」と表現したと見てよいであろう。 これは、上で述べた「天皇愛レ之」を「天皇愛二其母手白香皇后一」とする読み方をさらに裏付けるものと言える。 すなわち、欽明帝の即位に伴って皇太后になったのは手白香皇女と見てよいだろう。 《大意》 〔安閑四年〕十二月五日、 天国排開広庭皇子(あめくにおしはらきひろにわのみこ)は天皇(すめらみこと)に即位され、時に齢は若干でした。 皇后を尊び、皇太后となされました。 大伴金村大連(おおとものかなむらのおおむらじ)、 物部尾輿大連(もののべのをこしのおおむらじ)を大連(おほむらじ)に、 及び蘇我稲目宿祢大臣(そがのいなめすくねのおおまえつきみ)を大臣(おおまへつきみ)にされたこと、 並(な)べて元の通りです。 【書紀―元年二月~七月】 欽明6目次 《遷都倭國磯城郡磯城嶋》
百済(くたら)の人己知部(こちべ)投化(おもぶ)きて、 倭国(やまとのくに)添上郡(そふのかみのこほり)山村(やまむら)に置く。 今の山村の己知部(こちべ)之(の)先也(なり)。 三月(やよひ)。 蝦夷(えみし)隼人(はやと)並(な)べて衆(おほきひとたち)を率(ゐ)て帰(おもぶ)き附きき。 秋七月(ふみづき)丙子(ひのえね)を朔(つきたち)として己丑(つちのとうし)〔十四日〕。 倭国(やまとのくに)磯城郡(しきのこほり)磯城嶋(しきしま)に都を遷したまひて、仍(すなはち)号(なづ)けて磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)と為(す)。 《己知部》 〈姓氏家系大辞典〉は「己知部 コチベ」について、姓氏録により「秦氏の族類の猶ほ百済に止りし者なりしを知るべし。 此の巨知部の帰化は、曰佐〔ヲサ〕氏と併せ考へて、余〔=太田亮〕は紀臣族珍動臣に従ひて帰化したる者とせり。」、 「漢土韓国の語に通ずるより、訳語〔ヲサ〕として使用せらる。」と述べる。 「添上郡山村」については、「山村は添上郡山村郷の地にして此の己知の後裔は、即ち山村曰佐なり。」という。 〈新撰姓氏録〉〖大和国/漢/己智/出自秦太子胡亥也〗。「胡亥」は秦氏の系図(第152回)に位置づけられる。 〈倭名類聚抄〉には{大和国・添上【曽不乃加美】郡・山村【也末無良】郷}。 《添上郡》 ここでは「層富県」ではなく、律令郡成立後の地理区分「添上郡」になっている。 「磯城」の場合は分割されず「磯城郡」のままなので、層富は分割が早かった可能性がある。 《蝦夷隼人》 蝦夷国には鎮守府が奈良時代前半の724年から739年の期間に見える (資料[02])。 概ね平定が成っていたとしても、まだ「鎮守」の対象である。 720年に律令制の適用に反発して「隼人の反乱」(第87回) 雄略朝では肥後国~武蔵国が朝廷の統治範囲であるが、東北と南九州の完全な統治は奈良時代初期である。 その期間、中央政権の勢力圏は恐らくまだら状で、 一度平定した地域も叛乱によって覆えることもあったであろう。 それでも、ここで「蝦夷隼人並率衆帰附」と書かれたのは、一定の前進があったということか。 《大意》 二月、 百済の人己知部(こちべ)が帰順し、 倭国(やまとのくに)添上郡(そふのかみのこおり)の山村(やまむら)に置きました。 今の山村の己知部(こちべ)の祖先です。 三月、 蝦夷(えみし)〔東国〕、隼人(はやと)〔薩摩・大隅〕は並んで衆を率いて帰順しました。 七月十四日、 倭国〔=大和国〕磯城郡〔=式上郡と式下郡〕磯城嶋(しきしま)に遷都し、よって磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)と名付けました。 まとめ 手白香皇女(手白髪郎女)の言動そのものの記述は、皆無である。 しかし、安閑帝・宣化帝の在位年数は短く、王朝を樹立することはできなかった。 それに対して欽明天皇の在位年数は長く、また大王家の血筋を後世まで残すことができた。 また、手白香皇女自身を通して高皇産霊神由来の血筋を引き継ぐことに成功している。 これらの外形的事実を見ると、手白香皇女があらゆる術策を用いて並みいる皇后やその外戚との権力闘争に打ち勝ち、 天国排開広庭皇子を守り抜いて即位させた姿が浮かび上がってくる。 継体天皇・欽明天皇の事績として書かれていることでも、 実際にはその多くが手白香皇女のアイディアとコントロールによった可能性もある。 延喜式で大きな陵墓が割り振られたのも、彼女の業績が伝説化して残っていた現れではないだろうか。 さて、継体天皇の真陵が今城塚古墳だとする見方はかなり一般的になっている。 同様に、欽明天皇の真陵も丸山古墳だとする議論がある。 両方とも復古的な大前方後円墳であり、ここに手白香皇女の意志、すなわち神話の時代から血筋を連綿と引き継ぐ大王の伝統を再生させようとする熱意を見る。 ここで注目したいのが、顕宗天皇三年に、 対馬・壱岐から持ち込まれた日神・月神である。 手白香皇女は、それらを元にして高皇産霊神・天照大神を軸とする大王の起源神話の原型を確立したと考えてみよう。 すると、彼女自身が神の血の継承者であることが自覚され、さらに欽明天皇に受け継がせるべきという思いがふつふつと沸き上がり、欽明帝を擁して権力の奪い返しのために闘うエネルギーとなったように思えてくる。 また、伝統の再生のひとつとして、継体・欽明両帝には寿陵として大前方後円墳を造らせた。 〔今城塚古墳にはひとまず継体帝を納めたが、実は将来自らを安置させるための陵か。〕 さらに、オホド大王の系図は信憑性を欠きどこの馬の骨とも知れない人物だから名前を飾らせず、ヒロニハ大王には神の血の正当な継承者に相応しくアマツクニノなる称号を加えたのだとすると納得がいく。 |
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⇒ [239] 下つ巻(欽明天皇2) |