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[234]  下つ巻(安閑天皇1)

2019.11.25(mon) [235] 下つ巻(安閑天皇2) 

此天皇無御子也
此の天皇(すめらみこと)、御子(みこ)無し[也]。


 この天皇(すめらみこと)には、御子(みこ)がありませんでした。


【書紀―元年十月】
安閑3目次 《天皇勅曰朕納四妻至今無嗣》
みめ…[名] きさき。
伯父…〈汉典〉①[father's elder brother]。 ②称-呼和父親同輩而年長的男子 〔父親の同輩、また年長の男子をあわせて呼ぶ〕。 ③古代天子称同姓諸侯
をぢ…[名] ① 翁。② 父母の兄弟。またヲバの夫。
…[動] なす。「為」に同じ。(古訓) す。なる。
…[副] (古訓) つねに。
…[動] (古訓) あけつらふ。えらふ。ことはる。
あげつらふ…〈現代語古語類語辞典〉上代語に挙げる。〈時代別上代〉見出し語に「あげつらふ」なし。
くにいへ(国家)…[名] 〈時代別上代〉日本書紀古訓のみに見え、直訳の語であろう。
冬十月庚戌朔甲子。
天皇勅大伴大連金村曰
「朕、納四妻、至今無嗣。
萬歲之後朕名絶矣。
大伴伯父。憂慮何已。」
大伴大連金村奏曰
「亦臣所憂也。
夫我國家之王天下者、
不論有嗣無嗣、要須因物爲名。
請爲皇后次妃建立屯倉之地、
使留後代令顯前迹。」
詔曰
「可矣。宜早安置。」

冬十月(かむなづき)庚戌(かのえいぬ)を朔(つきたち)として甲子(きのえね)〔十五日〕
天皇(すめらみこと)、大伴大連金村(おほとものおほむらじかなむら)に勅(おほせこと)したまひて曰(のたまはく)
「朕(われ)、四(よはしら)の妻(みめ)を納(をさ)めたまへど、今に至りて嗣(ひつぎのみこ)無し。
万歳(よろづとせ)之(の)後(のち)にや、朕名(わがみな)絶えむ[矣]。
大伴(おほとも)の伯父(きみ)、今何(いかに)か計(はかりごと)を作(な)さむや。
毎(つねに)[於]茲(こ)を念(おもほ)す。憂慮(うれへ)何(いかに)か已(や)まむ。」とのたまふ。
大伴大連金村奏(まを)して曰(まをししく)
「亦(また)臣(やつかれ)の所憂(うれへ)也(なり)。
夫(それ)我(わが)国家(くに)之(の)天下(あめのした)を王(つかさどるきみ)者(は)、
有嗣(ひつぎあり)無嗣(ひつぎなし)を不論(えらはずあり)て、要須(かならず)物(もの)に因(よ)りて名(みな)を為(な)す。
請(ねがひまつらくは)皇后(おほきさき)次に妃(きさき)の為に屯倉(みやけ)之(の)地(ところ)を建立(た)てて、
後代(のちのよ)に留(とど)め使(し)めて、前(さき)の迹(みあと)を顕(み)令(し)めたまはむことをねがひまつる。」とまをしき。
詔(おほせこと)曰(のたま)ひしく
「可(ゆるしたまふ)[矣]。[宜]早(すみやかに)安置(お)くべし。」とのたまひき。

…[他] たまう。(古訓) たまふ。たまもの。めくむ。
…[名] くわ。
よほろ…[名] 公用の労働に従事させる成年男子。
大伴大連金村奏稱
「宜以小墾田屯倉與毎國田部
給貺紗手媛、
以櫻井屯倉
【一本云加貺茅渟山屯倉也。】
與毎國田部
給賜香々有媛、
以難波屯倉與毎郡钁丁
給貺宅媛。
以示於後、式觀乎昔。」
詔曰
「依奏施行。」

大伴大連金村称(はかりごと)を奏(まを)さく
「宜(よろしく)、小墾田屯倉(をはりたのみやけ)与(と)国毎(ごと)の田部(たべ)とを以ちて、
紗手媛(さてひめ)に給貺(たまは)りて、
[以]桜井屯倉(さくらゐのみやけ)
【一本(あるふみ)に、加へて茅渟山屯倉を貺(たまは)ると云ふ[也]。】
与(と)国毎(ごと)の田部とをもちて、
香々有媛(かかりひめ)に給賜(たまは)りて、
難波屯倉(なにはのみやけ)与(と)郡(こほり)毎の钁丁(くはよほろ)とを以ちて、
宅媛(やかひめ)に給貺(たまは)りて、
以ちて[於]後(のちのよ)に示して、式(もちて)[乎]昔(むかし)を観(み)しめたまふべし。」とまをして、
詔(みことのり)曰(のりたま)ひしく
「奏(まをせし)に依(よ)りて施行(おこ)なへ。」とのりたまひき。

《大伴大連金村の復権》
 継体天皇は、都を楠葉に移して近江・山城系の諸族を糾合して、大伴大連金村から政権の主導権を奪取した(第230回以下)。 しかし、元年十月条を見ると、安閑天皇は大伴金村に再びことごとく政を委ねている。 第233回で見たように、 手白香皇后は、今度は大伴金村と手を結んだ。 武烈帝が亡びた時点では、手白香媛を含む一族もろとも廃される危機を継体天皇と結んで乗り切ったが、 今や太后として確固たる地位を確保し、大伴金村より優位に立っていたから、もう恐れることはない。 こうして、欽明天皇実現に向かって一歩また一歩と歩みを進めるのである。
《為皇后次妃-立屯倉之地
 「」の字は、屯倉には宮殿が付属しているように感じさせる。 元年七月条に春日皇后の「屯倉之地」に「椒庭」を「」(た)てたとあるから、実際にそうなのであろう。
 なお、「皇后次妃」とするが、ここでは三妃の屯倉を挙げるのみである。 皇后の分については、既に勾大兄皇子の妃だった時代に御名代を賜っている。 すなわち継体天皇八年に、 継体帝の詔「匝布屯倉二上妃名於万代」 が発せされ、「匝布屯倉」を賜った。 また、元年四月伊甚屯倉を得ている。
 では、「為皇后次妃」は「皇后に次いで妃のために」と読むのではないかと思われるかも知れないが、 その読み方は文法的に不可能である。もし、そうしたいのなら「為次皇后妃」の語順にしなければならない。
《与毎国田部》
 「国田部」は、近隣の国から一定数の農民を供出させて屯倉に集め、田部に組織したと読める (第148回《桜井田部連》)。 「与毎郡钁丁」も同様に、周辺の郡から農作業に従事する人員を集めたのであろう。
 何れも屯倉を農地開発するために、人員を集めたと考えられる。
《小墾田屯倉》
 小墾田(小治田)は、推古天皇・皇極天皇・孝徳天皇の宮が置かれた場所である。 その比定地については、「1987年に〔中略〕雷丘東方遺跡で「小治田宮」墨書土器が出土し、奈良時代の小治宮は雷丘周辺にあったことが確定した『明日香村文化財調査研究紀要15』P.12)。
 仮に安閑朝から既に中枢機能のある土地になっていれば、そこが屯倉に指定されることはあり得ないであろう。
 〈新撰姓氏録〉に〖小治田宿祢/石上同祖/欽明天皇御代。依-開小治田鮎田。賜小治田大連〗とあり、 この「墾開小治田」は、「小墾田屯倉与毎国田部」に符合する。 すなわち、未開の地を残す小治田の開墾が進み、次第に都を置き得る土地になったと考えればよいであろう。
 小治田宿祢については、「毎国田部」に「石上同祖」、すなわち物部の一支族も含まれていたということだろうか。 安閑天皇が即位した531年頃から推古天皇が宮を小墾田に遷した603年までの期間に、小墾田屯倉の開発が進んだことになる。
 なお、尾張大連は『天孫本紀』では「小治」とも表記するので、葛城の高尾張と同じく古く尾張からの移民があったことが地名の由来であったことも考え得る(資料38)。
《桜井屯倉》
 桜井田部の祖先について、「桜井田部連之祖。嶋垂根」が応神天皇段に出てきた(148回)。 〈姓氏家系大辞典〉は、「桜井田部:河内国河内郡桜井屯倉に使役せし田部、並びにその伴造家の裔なり。」と述べる。
 前項では、田部を各国から集まった労働力と考えた。応神天皇段の「桜井田部連の祖」については、 〈新撰姓氏録〉に〖蘇我石川宿祢四世孫稲目宿祢大臣之後〗とあるので、蘇我氏の支族が桜井田部の伴造(とものみやつこ)に任じられたと見ることもできる。
 なお、甘樫丘向原寺のところも「桜井」で、それぞれの地について別項で詳しく考察した。
 桜井屯倉については、甘樫丘の桜井だとすると紗手媛に賜った小墾田屯倉とほぼ同じ場所になってしまうので、河内国河内郡と考えた方がよいであろう。
《茅渟山屯倉》
 茅渟あがたは後の和泉国の範囲の全体または一部と考えられている。県制の消滅後は、河内国に属していた。 716年になり「河内国」から大鳥和泉日根三郡が分割して「和泉監」となった。(国造本紀では715年に「茅野監」) 〔「」は離宮が管轄する特殊な国〕。 その後740年に再び河内国に併合、757年に分離して和泉国となった(允恭天皇紀10【河内茅渟】)。
 崇神天皇七年には「大田田根子」を探索し、「茅渟県陶邑」で発見した。 その「陶邑」によって、町村制〔1889〕で定められたのが東陶器村西陶器村で、陶邑窯址群の地域に重なる(第111回)。
 茅渟は広大な地域だから、「茅渟山」はなかなか特定できない。 ただ崇神天皇紀に「陶邑」が出てきたから、その辺りが茅渟の代表的な場所だったとすれば、陶邑窯址群の丘陵が「茅渟山」だったのかも知れない。
 比定地の研究を探すと、『日本歴史地名大系』に「岸和田市三田町付近と考えられる」とあったが、その根拠は示されていない。
 一方『岸和田市史』第2巻〔2000年、岸和田市史編さん委員会〕は 「堺市上押谷にわだにの片倉に式内桜井神社がある。この付近は、泉北丘陵も奥部で標高も高く、茅渟山と表現されてもおかしくない。」、 そして「牛滝川の上流部、山直やまだい地区の南部辺りも立候補できそうである」と述べる。 つまりは特に伝承があるわけでもなく、全くの想像ということのようだが、これを手掛かりにして少しだけ踏み込んでみよう。
 〈神名帳〉に{和泉國/大鳥郡/櫻井神社}があり、その比定社は「櫻井神社」(大阪府堺市片蔵645)とされる。 〈神名帳〉には{和泉国/和泉郡/山直神社}(大阪府岸和田市内畑町3619)もあり、その付近が山直郷であったと見られている(岸和田市公式ページ)。 〈倭名類聚抄〉に{和泉国・和泉郡・山直【也末多倍】〔やまたへ〕がある。 「」(あたひ)は地方首長のかばねのひとつであるから、山直は山部の伴造〔統率者〕である。 「やま-あたひ」が母音融合すればヤマタヒだが、郷名はなぜかヤマタヘで下二段活用動詞に拠っている。 〔『大日本地名辞書』は濁音ヤマタベ〕 そのためか、岸和田市の公式ページや、『岸和田市史』では山直を「やまのあたへ(え)」と訓んでいる。 全くの想像だが、昔の人が日々山直神社に詣でて「山の恵み」を祈る中で、ヤマノアタヒ神社にいつしか「山の与へ」のイメージが重なってヤマノアタヘ神社となり、さらにそれが地名に及んだのかも知れない。 なお『大日本地名辞書』には、「土俗ヤマタビと唱ふ」とある。これが元々のヤマタヒの残存か、ヤマタべから再び訛ったものかは分からない。
 『岸和田市史』は、その山直の役割を「須恵器用燃料が不足がちになりだした段階で、その円滑な供給のために設置された可能性がある」と推定する。 また〈姓氏家系大辞典〉は、「和泉の山直:山部直の後にて、山辺の伴造家ならん」と推定する。 こうして見ると、「茅渟山は陶邑の周辺にあり、須恵器を焼くために燃料の木材を得る山」とする推定には、一定の説得力がある。
 原注の「一本云。加-貺茅渟山屯倉」は、 計二か所の屯倉を賜った言い伝えがあるという意味である。 これは、もともと河内郡と和泉郡の双方に「その地の桜井屯倉を賜った」伝承があり、後にそれらを合体して「河内郡の桜井屯倉に加えて和泉郡の桜井屯倉を賜った」という伝承が生まれたのかも知れない。
钁丁
 〈姓氏家系大辞典〉は、元年閏十二月条を解釈して 「钁丁〔くはよほろ〕とは他の部に属する者を田部として使役する場合に、称するを知るべし」と述べる。 これについては、閏十二月のところで検討する。
《難波屯倉》
 論文「難波屯倉と古代王権」 (大阪歴史博物館『研究紀要』第15号;栄原永遠男)は、 「「钁」の本義〔土木工事の用具〕からすると〔中略〕「難波屯倉」は、上町台地先端部の土地造成・開拓との関係で理解すべきであり、その結果できた土地や施設の総称とみるべ きである。」、 つまり「難波地域を統括する組織として、難波津の管理、外国使節への対応、外交、上町台地先端部やその周辺地域の統治、倉庫とその収納物の管理機能などの多面的な性格を持ち、それに対応する諸施設が上 町台地先端部の各所に分散配置されていた。」 のが難波屯倉であると述べる。 いわば難波宮・難波津という中枢機能を包括する機関と見ている。
 確かに、この地域は雄略朝の頃から三韓や中国との外交・貿易の拠点でありまた副都を兼ねていたのは明白で、恐らくは仁徳朝以前まで遡ると見られる。 ところが、このように当然朝廷の直轄地であるべきところを屯倉として妃に賜り、一氏族に伴造を委ねたとするのは極めて疑問である。
 ここは、難波宮地域(上町台地先端)の西側に大阪湾に広がりつつある干拓地で、「難波小郡〔西成郡から依然として大阪湾であった部分を除いた地域〕難波屯倉だと見るべきではないだろうか (継体天皇紀六年【難波館】)。
 小墾田屯倉・桜井屯倉では「毎国」に労働力を集めて田部としたわけだから、 難波屯倉でも「毎郡」に钁丁なる労働力を集めたと読むのが自然で、それはまた開墾のためであろう。 「毎郡」で済んだのは、単純に他の二屯倉より面積が小さかったためであろう。 钁丁の性格が〈姓氏家系大辞典〉が提唱する通りだったと仮定すれば必要としたのは一時的な季節労働力で、周囲の郡から借りれば済む程度ということになる。
《大意》
 十月十五日、 天皇(すめらみこと)は、大伴大連金村(おおとものおおむらじかなむら)に勅し 「朕は四人の妻を納めたが、今になっても嗣子は産まれない。 万年(よろずとし)の後に、朕の名は絶えるであろう。 大伴の伯父(はくふ)、今はどのような計(はかりごと)をお考えか。 朕は常に考える。この憂慮はどうしたら止むのか。」と仰りました。
 大伴の大連金村は奏上し、 「そのことはまた、臣の憂えるところでもあります。 そもそも我が国家の天下の王は、 嗣子の有無を問わず、必ず物によって御名を遺してきました。 請わくば、皇后、次いで妃のために屯倉(みやけ)の地を建立し、 後の世に留め、前の帝の御蹟(みせき)を顕わさせなさいませ。」と申し上げました。 天皇は、 「可とする。速やかに安置せよ。」と詔されました。
 大伴の大連金村は均衡を配慮した策を奏上し、 「小墾田(おはりた)の屯倉(みやけ)に、国ごとの田部(たべ)を加えて、 紗手媛(さてひめ)に賜り、 桜井の屯倉 【あるいは、加えて茅渟山屯倉を賜わったという】 に国ごとの田部を加えて、 香々有媛(かかりひめ)に賜り、 難波の屯倉に郡(こおり)ごとの钁丁(くわよほろ)を加えて、 宅媛(やかひめ)に賜り、 このようにして後の世に示し、昔をお見せなさいませ。」と申し上げました。
 天皇は、 「奏上の通りに施行せよ。」と詔されました。


【御名代】
 御名代の類例を見る。
・仁徳天皇の妃八田若郎女は無子だったので、御名代「矢田部」を賜った。そして「矢田部造」が伴造となった(第170回)。
・清寧天皇は皇后も皇子もいないので、御名代「白壁部」を定めた (第211回継体天皇元年二月)。
・武烈天皇は、御子代「小長谷部」を定めた(第228回。書紀は「小泊瀬舍人」:武烈天皇六年。)。
 御名代御子代は、書紀にはあまり使われずもっぱら記に出てくる語であるから、 歴史的事実というよりは氏族の由来を物語る伝説の色合いが強い。だから後世におけるフィクションのようにも思われるのだが、 特定の天皇に限定されないから一定の事実はあったと考えられる。
 その目的については、八田若郎女の御名代については出身氏族の権益の確保のためではないかと考えた。 また、御子代については、皇子が生まれなかった場合でも、予め用意された「壬生〔みぶ;養育にあたる一族〕に、 同格の名誉を与えるためかも知れない (第228回)。
 安閑天皇の場合は記ではなく書紀だが、ここで妃たちに賜った屯倉はそれぞれの名を遺すためのものだからまさしく御名代であるが、やはり「御名代」なる語の使用を避けている。 御名代・御子代は、書紀全体を通して孝徳天皇の大化二年のみに見られ、「子代」・「子代入部」・「御名入部」がある。そのうち「昔在天皇等所子代之民…」は、 大化の改新において「部曲かきべ」などと並べて、領民の私的所有を廃止の対象のひとつとする。 また、同じ年の「子代離宮」の原注に「或本云。壊難波狭屋部邑子代屯倉而起行宮〔難波の狭屋部邑(さやべむら)の子代の屯倉を壊(こぼ)ちて行宮(かりみや)を置く〕とある。 「子代入部」・「御名入部」は、その存続を認めないとする文中で使われる。
 御子代御名代が歴史上存在したのは確かだが、書紀はなるべくその語の使用を避けようとした印象を受ける。 深読みすれば、大化の改新で皇族や諸族から私的な領民と土地を召し上げようとして以来、大宝令に至り公の制度による人民の掌握に向かっているのは明らかである。なのに書紀が子代・名代という語を用いれば、その伝説を受け継ぐ諸氏の「我が祖は○○帝の御子代なり」との主張にスポットライトが当たってしまう。 せっかく克服しようとした私的な権威を蒸し返してしまっては、やぶへびであろう。
 さて、安閑天皇紀の場合も御名代が妃の出身氏族の権益のためだったと仮定すれば、小墾田屯倉・桜井屯倉の田部の伴造には許勢男人系の一族、難波屯倉の钁丁造には物部木蓮子いたび一族が任じられたことになる。
 ただ、前述したように小墾田からは物部氏系の小治田宿祢が、桜井からは蘇我氏系の桜井田部が出ているので、 辻褄を合わせるためには、その後各屯倉内で伴造が交代したと見なければならない。「国田部」としてやって来た者のうち、物部氏系や蘇我氏系が勢力を伸ばしたのだろうか。

【桜井】
 「桜井」は、〈倭名類聚抄〉の郷名として河内・参河・相模・越後・石見・伊予・肥後の各国にある (第148回《桜井田部連》)。 古代史の舞台として頻繁に登場する現在の桜井市は、十市郡櫻井村に由来する。
 「さくら」は〈時代別上代〉によると「上代…は概して現代のやまざくらに当たるもののようである。」 「桜の花は梅の花より早くから歌に現れるが」 「平安時代以降のように、春の花の代表として特別の意識をもって眺められてはいない」という。
 「さくらゐ」は、桜の木の傍らの井(井戸、あるいは湧き水の採取施設)の意の自然地名として各地で発生し得るものであろう。 したがって、「桜井屯倉」の候補地も各地にわたる。 既に河内国河内郡六萬寺、大和国高市郡向原寺、和泉国大鳥郡桜井寺が出てきた。
《河内郡桜井郷》
 〈倭名類聚抄〉には{河内国・河内郡・桜井【佐久良井】郷〔さくらゐのさと〕がある。
 『大日本地名辞書』は、 「池島イケジマ村の辺〔あたり〕」、「櫻井寺は六萬寺ロクマンジ往生院の古名なるへ〔〝〕」と述べる。 この六萬寺は、現在「岩瀧山 往生院六萬寺」(東大阪市六万寺町1丁目22-36)と称し、生駒山頂南西3.6kmの山麓にある。
 一方で、同書は「大和高市郡豊浦寺も櫻井の名あり、〔いずれ〕に當るべき歟」として、 豊浦寺説を併記している(次項)。
 〈五畿内志〉河内国八:河内郡には、次の各項目に載る。
●【郷名】「桜井【已廃存六萬寺村〔すでに廃し、六萬寺村あり〕
●【村里】「六万寺【或称桜井
●【仏刹】「往生院【在六万寺村楠木正成石碑及神主 正平四年〔1349〕正月楠正行屯于此故後人建焉】
●【古蹟】「廃六萬寺【六萬寺村】
 また「岩瀧山往生院六萬寺」の公式ページの「歴史」のページには、
●「天平17年〔745〕、行基菩薩49院建立の折に、聖武天皇の勅願により、桜井寺荒廃の跡へ、六萬寺を再建」。
●「宇多天皇の治世時〔在位887~897〕には、またも荒廃しており、宇多天皇の勅願により伽藍が修復・修理」。
●長暦三年〔1039〕伽藍が整備されて、往生院と公称」。などとある。
 『大日本地名辞書』はさらに、「續日本紀、「天平十六年、天皇行幸〔中略〕櫻井頓宮還」とあるは即此地なり」と述べる。
 その引用元は〈続紀〉天平十六年〔744〕で、閏正月十一日 「天皇行幸難波宮。…是日。安積親王。縁脚病桜井頓宮還。〔天皇は難波宮に行幸するが、その日のうちに安積親王の脚病〔脚気とされる〕により、桜井の行宮から帰る〕と載る。
 当時は、聖武天皇は恭仁京に坐した(天平十二年に平城京から遷都)。そしてこの直後の天平十六年二月には、更に難波京に遷都した。
 〈続紀〉の「桜井頓宮」の位置は、恭仁京と難波京の位置を見れば、六萬寺付近とするのは理に適っている。 〈倭名類聚抄〉の{河内郡・桜井郷}もそこなのだろう。甘樫丘の向原寺も「桜井寺」と呼ばれたが、少なくとも桜井頓宮が置かれた場所とは言えない。
《向原》
 『日本歴史地名大系』によると、 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば推古天皇が等由良とゆら宮から小墾田をはりた宮に遷り、 跡地に豊浦寺が建った。 そして、現在は「その後身とする向原寺〔明日香村字豊浦630〕があり、境内に礎石が残っている」という。
 この「向原」については、欽明天皇紀十三年十月に、百済から献上された仏像を蘇我稲目宿祢に礼拝させ「-置小墾田家懃修世業。為因淨-捨向原家寺。〔小墾田の家に安置して、懃(ねんごろ)に出世の業を修めて、因(よりどころ)として向原の家を浄捨〔浄財として喜捨〕して寺とした〕とあることによる。 一般には、この「向原の家」だった場所に豊浦宮が置かれ、豊浦寺が建ったと考えられている。  書紀で仏教との関連で出てくる「桜井」を見る。
向原寺
●〈推古天皇紀〉二十年五月「又百済人味摩之帰化曰。学于呉二上伎楽儛。則安-置桜井而集少年伎楽儛
 〔百済の人味摩之(みまし)帰化して曰(まを)さく「呉(くれ)〔中国〕に学び伎楽舞を得。」とまをす。則ち桜井に安く置きて少年を集(つど)へて伎楽舞を習はしめき。」〕
●〈崇峻天皇紀〉「三年春三月。学問尼善信等自百済還。住桜井寺。」
 〔学問尼善信ら百済より還り、桜井寺に住む。〕
 一般に、〈推古天皇紀〉の「桜井」は向原寺とされ、 〈崇峻天皇紀〉の「桜井寺」は、六万寺・向原寺の両説がある。
 向原寺が桜井寺とされることについては、 〈五畿内志〉大和国高市郡-【仏刹】の項に、
●「広厳寺【在豊浦村旧作向原又名豊浦寺傍有井曰桜井又名榎葉井。 続日本紀童謡云豊浦寺乃西在也於志止度刀志止度桜井白壁之豆久也云云。養老中遷寺於新京此其遺趾。】
 〔豊浦村にあり。旧く向原に作り、又の名は豊浦寺。傍らに井あり桜井と曰ふ、又の名は榎葉井。 続日本紀の童謡に云ふ〔略〕。養老中、新京に遷寺し、これその遺趾なり〕とある。
 ここで引用された「続日本紀童謡」の出典は 〈続紀〉の光仁天皇即位前紀で、
●「嘗竜潜之時童謡曰。葛城寺前在豊浦寺西在於志止度刀志止度桜井白壁之豆久好璧之豆久於志止度刀志止度〔以下略〕
 〔嘗(かつ)て竜潜せし時〔天子になる前〕、童謡に曰ふ。「葛城寺の前(さき)なるや、豊浦寺の西なるや、おししどとししど〔囃子言葉〕。桜井に白き壁しつくや、好(よ)き璧しつくや。おししどとししど…〕とある。
 また「養老中遷寺於新京」は、養老年間〔717~724〕に平城京〔708年~〕に遷ったと読めるが、平城京にはそれらしい謂れのある寺は見つからず、遷った先がどうなったかは分からない。 しかし同じ時期、平城宮への遷寺の例がいくつかある。即ち大官大寺(大安寺、第152回)は霊亀二年〔716〕に、法興寺(元興寺)と薬師寺は養老二年〔718〕にそれぞれ「新京」に移転している。 法興寺は移転後も飛鳥寺として残ったから、向原寺も移転前の寺が残ったものであろう。
 さて〈五畿内志〉では、豊浦寺の傍らに井があって「桜井」と呼ばれていたとされる。 それが地名「桜井」を生み、また「桜井寺」が豊浦寺の別名となったと思われる。

まとめ
 元年四月に出てきた伊甚屯倉は「分為」とあるから、 複数の郡を併せた広さがあることになる。一方、三妃に賜った屯倉の場合はさと程度の広さと見られ、その規模は大小様々である。
 語源的にはミヤケ〔=御宅〕は高貴な人の邸宅を意味するが、「屯倉」の字をあてたところから見ると、税として徴収した米を屯(あつ)める倉を備えた邸宅と見られる。 魏志倭人伝(第55回)の「租賦邸閣」の「邸閣」がまさにこれであろう。 そして、意味は次第に拡張されて周囲の農地を含むようになり、さらには局所的な統治域そのものを指すに至ったと思われる。 それでも、依然として農地、田部、官家、納税機構などがセットとしてイメージされる。
 さて、元年七月には味張あぢはりに「良田」を屯倉として献上せよと命じたが、一方で三妃の屯倉は未開発に田部を集めて開墾させたと見られる。 このように、屯倉には開発済みの耕地献上型と、未開地の開墾型があったようである。また「椒庭〔皇后の宮殿〕」を建てよとの言葉から見て離宮が建つ場合もあり、 また磐井の乱(第232回)の戦後処理として筑紫君葛子が献上した糟屋屯倉の例では、港湾機能をも含む。
 このように、一口に屯倉と言ってもその広さ・タイプは様々であるが、しばしば罪の贖いとして献上されたことから見て、 氏族の私領の間に朝廷の直轄地を打ち込んだのがその本質であろう。そして派遣された代官は「アタヒ」などの職名を持ったと思われる。 ただ、代を重ねるうちに簡単に氏族化して「直」はかばねと化し、私有領に転じたのは想像に難くない。 よって、大化の改新のときに、私領となった「子代」を改めて廃することが必要になったのである。
 なお、屯倉の場所を推定する場合、それぞれがどのタイプに属するかを見極めることは重要なポイントだと思われる。