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[231] 下つ巻(継体天皇1) |
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2019.09.15(sun) [232] 下つ巻(継体天皇2) ▼▲ |
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此御世竺紫君石井不從天皇之命而
多无禮 故遣物部荒甲之大連大伴之金村連二人而 殺石井也 此(こ)の御世(みよ)竺紫(つくし)の君(きみ)石井(いはゐ)、天皇(すめらみこと)之(の)命(おほせごと)に不従(したがはずあ)りて[而]、 多(さは)に礼(あや)无(な)し。 故(かれ)、物部荒甲(もののべのあらかひ)之(の)大連(おほむらじ)、大伴之金村(おほとものかなむら)の連(むらじ)二人を遣(つかは)して[而]、 石井を殺さしめき[也]。 この治世、筑紫の君石井(いわい)は天皇(すめらみこと)の命令に従わず、 数々の礼を失しました。 そこで、物部荒甲(もののべあらかひ)の大連(おおむらじ)、大伴金村の連(むらじ)の二人を遣わして、 石井を殺させました。 【物部荒甲之大連、大伴之金村連】 書紀には「大伴大連金村」「物部大連麁鹿火」とあり、二人とも大連である。 記では「物部荒甲之大連、大伴之金村連」となっている。 こと磐井君征伐においては、将軍として先頭に立ったのは物部麁鹿火(荒甲)だから、 「大連」「連」は、石井征伐への貢献度を反映したものと言える。 記においては大連の「大」〔おほ〕は形容詞で、地位の名称として固定化した「大連」はあまり意識していなかったのかも知れない。 【古事記最後の事績】 古事記は仁賢天皇以後になると、ほとんどが宮・系図・崩年・陵を列挙するのみとなる。 それ以外の事績が書かれたのは、この段の「竺紫君石井」の征伐が唯一である。 以下に述べるように、磐井の乱は継体天皇が中央集権体制を強める過程で起こった事件である。 記が例外的にこれに言及したのは、その重大性の故であろうと思われる。 【書紀―二十一年~二十二年】 継体14目次 《筑紫國造磐井陰謨叛逆》
近江(ちかつあふみ)の毛野臣(けの乙おみ、けなのおみ)衆(いくさひと)六万(むよろづ)たりを率(ゐ)て、 [欲]新羅(しらき)に所破(やぶらえし)南加羅(みなみから、ありひしのから)、喙己呑(とくことむ)を復(ふたたび)興(お)こし建(た)てて[而]任那(みまな)に合はさむが為(ため)に、任那に往(ゆ)かむとす。 於是(ここに)、筑紫(つくし)の国造(くにのみやつこ)磐井(いはゐ)、 叛逆(そむ)くことを陰(かげ)に謨(はか)りて、猶(なほ)預(あづか)り年を経(へ)て、事(こと)成り難(がた)きを恐(おそ)りて、恒(つね)に間隙(ひま)を伺(うかか)ひき。 新羅是(こ)を知りて、密(ひそかに)[于]磐井の所(ところ)に貨賂(まひなひ)を行(や)りて[而]、勤(つと)めて毛野臣の軍(いくさ)を防き遏(とど)めしめき。
使(つかひをつかは)して修職(みつきををさめしむること)勿(なし)。 外(と)には海路(うみぢ)に邀(むか)へて、 高麗(こま)百済(くたら)新羅(しらき)任那(みまな)等(たち)の国の年ごとの貢職船(みつきのふね)を誘致(いつはりていた)しき。 内(うち)には任那に遣(くか)はさえし毛野臣の軍(いくさ)を遮(さ)へて、 乱語揚言(みだりかはしくことあげ)して曰ひしく 「今使者(つかひ)と為(な)りしは、 昔(むかし)吾(わが)伴(とも)と為(な)りて、 肩を摩(す)り肘(ひぢ)を触れて、器(うつはもの)を共にして食(くらひもの)を同じくせり。 安(いづくにそ)爾(いまし)に率(したが)ひて、使(つかひ)の為(ため)に余(われ)を俾(し)て自(みづから)儞(いまし)の前(まへ)に伏せしむを得(う)るか。」といひき。 遂(つひ)に戦(たたか)ひて[而]不受(うけず)て、驕(おご)りて[而]自(みづから)矜(ほこ)れり。 是(こ)を以ちて、毛野臣乃(すなはち)見防遏(ふせきとどめさえ)て、中途(みちなか)で淹帯(たちとま)りき。
大伴大連(おほとものおほむらじ)金村(かなむら)、物部(もののべ)の大連麁鹿火(あらかひ)、許勢(こせ)の大臣(おほまへつきみ)男人(をひと)等(ら)に詔(おほせこと)曰(のたま)はく 「筑紫の磐井(いはひ)、反(そむ)き掩(おほ)ひて、西戎(にしのえみし)之(の)地(ところ)に有り。 今誰(た)そ将者(いくさのかみ)にある可(べ)くか。」とのたまひて、 大伴大連等(ら)僉(みな)曰(まを)ししく 「正直(まなほなる)仁勇(うつくしびのますらを)にありて[於]兵(いくさ)の事(ことに)に通(とほ)りて、今[於]麁鹿火の右に出(い)づるひと無し。」とまをしき。 天皇曰(のたま)ひしく、「可(ゆるしたまふ)」とのたまひき。
詔(おほせこと)曰(のたま)ひしく 「大連(おほむらじ)に咨(はかりたまふ)。茲(ここに)磐井(いはひ)率(したが)は弗(ざ)るを惟(おもほ)せば、汝(いまし)徂(ゆ)きて征(う)つべし。」とのたまひき。 物部の麁鹿火の大連、再(ふたたび)拝(をろが)みて言(まを)ししく 「嗟(ああ)、夫(それ)磐井(いはひ)、西戎(にしのえみし)之(が)姦猾(みだりかはしくはかり)て、 川(かは)の阻(こば)めるに負(おほ)せて[而]不庭(みかどにまゐきたらざ)りて、山の峻(さがしき)に憑(たよ)りて[而]騒乱(あらそひ)して、 徳(のり)を敗(やぶ)り道(みち)に反(そむ)きて、侮嫚(あなづ)りて自(みづから)賢(ひじり)とす。 昔に在りし道臣(みちのおみ)より、爰(ここ)に室屋(むろや)に及びて、帝(みかど)を助(す)けまつりて[而]罸(う)ちて民(みたみ)を塗炭(くるしみ)より拯(すく)ひき。 彼此(かれこれ)一時(もろともに)、唯(ただ)天(あめ)の所賛(すすめたまふこと)のみ、臣(やつかれ)の恒(つね)に所重(たふとびまつること)にあり。能(よ)く不恭(ゐやなきもの)をば伐(う)たむ。」とまをしき。
「良き将(かみ)之(の)軍(いくさ)は[也]、恩(うつくしび)を施(ほどこ)して恵(めぐみ)を推(おしはか)りて、己(をのれ)を恕(おもひはか)りて人を治(をさ)む。 攻めは河(かは)の如く決(やぶ)り、戦(たたかひ)は風の如く発(た)て。」とのたまひき。 重(また)詔(おほせこと)曰(のたまひしく) 「大(おほき)将(いくさのかみ)、民(みたみ)之(が)司命(いのちのつかさどり)にあり。 社稷(くに)の存亡(つつかむやほろびむや)[於]是(ここに)[乎]在(あ)り。勗(つと)めよ[哉]、恭(つつしみて)天罰(あまつつみ)を行(おこな)へ。」とのたまひき。 天皇親(みづから)斧鉞(ふえつ、をのまさかり)を操(と)りて、大連に授(さづ)けて曰(のたまひしく) 「長門(ながと)を以ちて東(ひむがし)は、朕(みづから)〔之を〕制(をさ)めむ。 筑紫を以ちて西は、汝(いまし)〔之を〕制(をさ)め。 専(ほしきまにまに)賞罰(ほむることつみなふこと)を行ひて、勿(な)煩頻(しば)奏(まを)さそ。」とのたまひき。
大(おほき)将軍(いくさのかみ)物部大連(もののべのおほむらじ)の麁鹿火(あらかひ)、 親(みづから)賊帥(たける)磐井(いはゐ)に与(あづか)りて、[於]筑紫(つくし)のくに御井郡(みゐのこほり)に交戦(あ)ふ。 旗(はた)鼓(つづみ)相(あひ)望(のぞ)みて、埃塵(ちりまが)ひて相(あひ)接(まじは)りき。 機(とき)を決(さだ)めて、両陣(ふたつのいくさ)之(の)間(はさま)に、万死之地(ほとほとしにするところ)を不避(さけずあり)て、 遂に磐井を斬りて、果たして疆場(さかひのところ)を定(さだ)めき。
筑紫君(つくしのきみ)の葛子(くづこ)、父(ちち)に坐(よ)りて誅(ころ)さゆるを恐りて、 糟屋(かすや)の屯倉(みやけ)を献(たてまつ)りて、死罪(しせるつみ)を贖(あが)ふことを求めまつる。 《近江毛野臣》 「毛野」を〈前田本〉は「ケナノ」と訓んでいる。 これは、二十四年条の歌謡に「愷那能倭倶吾」〔けなの乙わくご〕が出てくるためとみられる。 ただ、「野」をナと訓むのは異例なので、 書紀が資料検討の過程で、近江国の歌謡で歌われていた名前「けな」と、当時の古記録にあった「毛野臣」を同一視した可能性も捨て切れない。 ひとまず「毛野」は「けな」とは別物であると考えてみると、魏志倭人伝(26回)に「鬼奴国」を見る。 古代の毛野国は、律令国としては〈倭名類聚抄〉{上野【加三豆介乃】}〔かみつけの〕、{下野【之毛豆介乃】}〔しもつけの〕に分割された。 「野」は甲類、「乃」は乙類であるが、倭名類聚抄では甲乙の区別は消失している。 上毛野君・下毛野君の祖は、崇神天皇の皇子「豊木入日子命(豊城入彦命)」とされる(第110回)。 この上毛野君・下毛野君について、〈姓氏家系大辞典〉は「更に一族々類の分居して、各地に栄えしもの頗〔すこぶ〕る多く、 最も関東より奥州に密なれど、他の地方にあるものも、亦尠〔すくな〕からざる也」と述べる。 近江の毛野については、「近江の毛野氏:天平宝字二年二月廿四日の画工司移※に「毛野乙君(近江国蒲生郡)」と云ふ人見えたり。」とあるので、「近江毛野臣」は実在したと思われる。ただそれ以外の記録はほとんどないようだ。 ※…『大日本古文書』に収められている。現時点では専修大ホームページから検索可能。(⇒『大日本古文書』4-259) 《南加羅喙己呑》 欽明天皇紀二年四月(資料[32])には、 「㖨己呑」と「南加羅」が、かつて新羅に敗れて亡びたと記される。 継体二十一年条では、近江毛野臣の大軍を派遣してその㖨己呑と南加羅を新羅から独立させ、任那の支配下に置こうとしたと読める。 なお、A国がB国から一定の領土を奪い取るとき、その地域の独立を援助するという名目を立てるのは、 第二次世界大戦において日本がしばしば用いたものであった。 「欲往任那…」の部分については、「為」(~のための)の目的語は「復興…合任那」であろう。 すなわち「欲レ往丙任乙-那為下甲復二-興-建新羅所レ破南加羅喙己呑一而合二上任那一」。 〔新羅に破られし南加羅・喙己呑を復(また)興し建てて任那に合はさむが為に任那に往かむと欲り〕。 文法的にはこれでよいのだが、原文の語順を優先して 「任那に往かむとす、すなはち…の為なり。」と訓読した方が判り易い。 《任那国》 七年条で朝廷に「引列」したのは、百済・新羅・安羅・伴跛であった。 それは何らかの古文書(百済本記などか)に依ったと思われるが、そこに「任那国」の名はない。 二十一年条には、唐突に「復二-興-建新羅所破南加羅・喙己呑一而合二任那一」なる文がある。 七~十年条と同程度の詳細な記述をここでも求めるなら、その前に任那の使者が来倭して、救援を要請する一節があってもよさそうに思える。 何しろ「衆六万」を動員する大作戦である。しかし、ここの「任那」は唐突に出てくる。 さらに、「高麗・百済・新羅・任那等。国年貢職船。」と国名を列挙する部分も概念的で、頭の中で考えた印象である。 「南加羅・喙己呑」滅亡の件は欽明天皇紀二年条でも取り上げられるが、そこには「任那国」の実在感はなかった(資料[32])。 以上から、ここの「任那」への言及はどうやら古文書に基づいたものではないから、 書紀執筆者が頭の中で作り上げたイメージであろう。さもなければ、漠然とした伝承の類と見るのがせいぜいである。 なお、二十三年四月にも「任那王己能末多干岐」が出てくるが、これについては二十三年条のところで改めて述べる。 《年貢職船》 「年貢」を〈百度百科〉で調べると「毎年向二土地一領主所交納的租税。中世的年貢基本属二于律令制所規定的地租一、以レ米為レ主。」 とあるが、続く文中に「室町時期」「江戸時期」の語があるので、日本史についての文らしい。 〈中国哲学書電子化計画〉では「年貢」が数件ヒットするが、 「礼部毎年貢挙人」〔毎年、人を貢挙優れた人材を選んで供出するす〕(『通典』-雑議論下)など、偶然「年」・「貢」が接した例ばかりである。 従って「年貢職船」とは、「貢職〔みつぎもの〕を運ぶ毎年の船」の意味となる。 《筑紫国造》 〈国造本紀〉に「筑志國造:志賀高穴穗朝御世。阿倍臣同祖大彦命五世孫田道命。定二-賜國造一。」 〔筑志国造:成務天皇の御世、阿倍臣同祖・大彦命五世孫田道命(たじのみこと)を国造に定めたまふ〕。 大彦命(大毘古命)は第八代孝元天皇の皇子で、阿倍臣の祖(第108回)である。 稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣には、乎獲居臣(をわけおみ)の「上祖」に「意富比垝」〔おほひこ〕の名がある(資料[27])。 この田道命から磐井君への繋がりについて、 〈姓氏家系大辞典〉は「其の領域は、古の海神国〔わたつみのくに、火遠理命の段〕の地に当り、 広大にして、且つ肥沃、戸口頗る多し。因りて北九州に雄視し、遂に継体朝・叛逆を謀るに至る。」、 記の「竺紫君石井」の「竺紫君とは此の〔筑紫〕国造の氏姓にして」と述べ、田道命から始まる国造家の流れに、石井(磐井)を位置づけている。 同辞典はさらに、「筑紫国は儺県〔なのあがた〕を中心とする地で、漢史〔=漢書〕に所謂〔いうところの〕奴国から継続し」、 「国造本紀に所謂、大彦命五世の孫田道命を奉戴して〔=首長に迎えて〕、此の国の主としたのであらう。其処で地祇筑紫君〔くにつかみつくしのきみ;奴国王などと同族〕」 「は、総〔す〕べて此の氏族〔=筑紫国造〕と冒称するに至ったかとも思はれる。」と述べる。 また、神功皇后の新羅征伐のとき「田道、或いは其の子が此の事件に関係して居ないとは思はれぬが、古史・何等其の間の消息を伝へないのは惜しむべきである」として、 記紀や天孫本紀などに田道命が出てこないことを残念がっている。 なお、〈姓氏家系大辞典〉が「漢史〔魏志倭人伝〕に所謂る耶馬台国が滅亡せし後、皇別〔新撰姓氏録にいう、天孫直系のグループ〕の有力氏を此処に封じて、 此の地の鎮護に当らしめしもの、即ち此の〔筑紫〕国造か」として、邪馬台国九州説に拠っていることは興味深い。 《新羅知レ是密行二貨賂一》 「行二貨賂一」は、「賄賂を届ける」意味である。 「密行二貨賂一」の表現は、独自のルートによる磐井氏-新羅関係の存在を示唆する。 この朝廷の頭越しの氏族・新羅の直接関係について、『筑紫君磐井と「磐井の乱」岩戸山古墳』(新泉社「遺跡を学ぶ」094)〔柳沢一男著;以下〈遺跡を学ぶ94〉〕は、 p.84で立山山八号墳出土垂飾付耳飾〔大伽耶製。「大伽耶」は加羅地域の有力国。主に韓国の歴史学者による呼称〕、権現山古墳出土新羅土器を例に挙げ、 「倭王権の百済支援を担いながら、一方では高句麗・新羅・大伽耶との交渉ルート」をもったことが、 中央集権化を目指す継体朝に危機感を生み、「継体王権は磐井征討軍を発動」したとする見方を示している。 《近江毛野臣率二衆六万一欲レ往二任那一》 前述したように書紀に度々出てくる「任那国」は実質を伴わないが、倭による新羅への侵攻そのものについては、新羅本紀(『三国史記』)に度々記載がある。 しかし、その侵攻も「炤知麻立干二十二年」〔庚辰;500年〕の「倭人攻陥長峰鎮」を最後にしてぱたっと途絶えている。 それまでは「奈解尼師今。十二年〔207〕夏四月。倭人犯境。」以来、数年間隔で倭国の侵攻が繰り返されているにもかかわらず、である。 継体天皇二十一年〔丁未;527〕は倭国による最後の侵攻から27年も経た後だから、 毛野臣出撃が史実であるか否か、その判断は難しい。 倭の侵攻がなくなったことは、継体朝は新羅を平和的に交易する相手として位置づけ、 中央集権化を進める中で、これ以後は諸族の勝手な攻撃を国家方針に反するものとして禁止したと解釈することができる。 よって仮に毛野臣出撃が史実ならば、それは詔によらない独自行動かも知れない。 そう思って改めて見ると「近江毛野臣率衆六万」に「遣」がついていないことが注目される。 しかし、近江毛野臣は二十三年三月になると、今度は「勅勧」〔勅による勧告〕を新羅に伝えるために〔天皇の詔を受けて〕遣わされている。 そのときは新羅に南加羅・喙己呑を「更建」〔再び独立させる意か〕させようとしたが、結局不成功であった。 その交渉も初めてもいない段階で、突然六万の軍勢を率いて力攻めしたという記述自体がとても不自然で、信憑性を疑わせる。 近江毛野臣の実際の振る舞いがどうだったかは別にして、継体天皇が諸族の勝手な侵攻を禁ずる契機となったのが、磐井の乱なのかも知れない。 氏族が個別に新羅を攻撃するようでは、新羅はその対抗手段として適当な氏族を見つけて友好関係を結び、攻撃してくる氏族を牽制しようとするだろう。 このように氏族がばらばらに新羅と結んでいては、とても中央集権はおぼつかないからである。 そう考えると、磐井への「密行二貨賂一」に俄然現実感が出てくる。 《今為使者昔為吾伴》 磐井は、「今為二使者一昔為二吾伴一」 〔今は使者としてやってきたが、昔は吾伴〔我が友〕ではないか〕と言った。 〈遺跡を学ぶ94〉は、この「言挙げ」について「磐井が若き日に王宮に出仕したことを物語る。 即位前後の継体と人格的信頼関係を結んだのでないか。」と述べる。 そして、宇土市網津町・網引町から産出する馬門(まかど)ピンク岩が、 「六世紀前葉には継体擁立のほか、継体親族や継体妃出身氏族などの首長級の大型墳に採用された」ことなどを挙げて、両者の友好関係の裏付けとしている。 《安得率爾為使俾余自伏儞前》 ・「安得」の使い方には八年条で見たように反語と願望があるが、ここでは反語で「決して順わない」意味であろう。 ・「率」には受身の「率いられる」=「順(したが)う」意味もある。 ・爾・儞はともに二人称の人称代名詞で、読み方によって天皇、または毛野臣。 ・「為使」〔使者のために〕の「為」は、前置詞として受動文における行為者〔by ~〕に用いる。ここでは使役文だが同じことであろう。 ・「余」は一人称の人称代名詞。 従って、文は率爾〔=汝に従ふ〕で区切られ、以下「為二使者一、使三吾自伏二汝前一」であろう。 つまり〔つかひによりて、われをしてみづからいましがまへにふさしむ〕となる。 これだけの内容を、「安得」〔どうして得るか、いや得ない〕、 即ち、「お前に服従させようとして、使者を通して私に自らお前の面前で身を臥せよと言ってきたが、そんなことをするものか。」と言い放った。 この文を無理なく読むには、近江毛野臣は新羅を攻めるためではなく、磐井に圧力をかけるためにやって来たと考えた方が適切である。 「使」は近江毛野臣自身のことで、遣わしたのは継体天皇であろう。磐井と毛野臣はかつて同僚で、その毛野臣が伝えた天皇への服従命令を拒んだと読んだ方が遥かに自然である。 よって、上で「近江毛野臣率衆六万欲往任那」の史実性を問題にしたが、「為復興建新羅所破南加羅喙己呑而合任那」の部分はやはり潤色であろう。 《惟茲磐井弗率汝徂征》 「惟」、「茲」ともに代名詞「ここ」として使われるので、熟して「ここに」かも知れないと思ったが、辞書や漢籍にはそのような使い方は見えない。 一例として『孟子』に「惟茲」がある。 『孟子』-万章条「舜曰:惟茲臣庶、汝其于予治。」〔舜曰はく:ここに臣庶〔官と人民〕を惟(おも)ひて、汝それ予(われ)とともに治めむ〕 これは、後に皇帝になった舜のところに、弟の象が殺意をもってやってきたときに語りかけた言葉。舜はそんな時も相手に心を開く姿勢で接した。 この文脈では、「惟」は動詞で「深く思いやる」、「茲」は「臣庶」を導く指示詞であることは明らかである。 また「弗」は「不」と同じ。「率」は前項と同じで「順ふ」。 よって、「惟茲磐井弗率汝徂征」を馴染みのある文字で表せば「慮是磐井不順汝赴征」〔この磐井の順はざるを慮(おもんばか)れば、汝が赴きて征つべし〕となる。 《西戎》 もともとは、中華思想において文明の進んだ中原に対して、周辺を未開の国として東夷(とうい)・北狄(ほくてき)・西戎(せいじゅう)・南蛮(なんばん)という蔑称で呼んだことに由来する。 倭もそれに擬えて畿内を中華と位置づけ、東国の先住民などを指して夷(えみし)と呼んだ。 ここでは磐井君は叛逆者だから、敵対意識をもって西戎と呼ぶのである。 《能不恭伐》 「不恭」は、〈汉典〉によれば「対二-応尊敬或崇拝的某事物一缺二-少適当的尊敬一」 〔尊敬、或いは崇拝するなにがしの事物に対応するのに、適当な尊敬を缺少す〔=欠く〕〕である。 『中論』〔後漢;徐幹〕には「其有レ不レ恭」という文があり、熟語「不=恭」の結合はかなり強い。 二十一年条の「不恭」は、記の「无礼」に対応するものと考えられ、磐井本人またはその態度を指すことは間違いないであろう。 すると、「不恭」は「伐」の目的語だから語順が異常である。 しかし、調べてみるとこれを異常としない文法的解釈は可能で、①受け身「不恭伐於臣」の「於臣」の省略、 ②受事主語「不恭伐」〔不恭なる者を伐つ〕、 ③主題主語「不恭臣伐」〔不恭については、「臣が伐つ」の「臣」を省略〕が考えられる。 ①と②は、実質的に同じである。③も含め、結局「目的語-動詞」の語順は可能であるが、動詞の前に置かれた語は実質的に目的語であっても、形式的に主語と呼ぶのである。 但し、この語順を使うのはあくまでも例外に留めなければならない。出雲国風土記のようにすべて「目的語-動詞」にしてしまうと、もはや和風漢文である。 なお「能」は、①②③とも副詞として「不恭伐」を連用修飾する。 《御井郡》
その岩戸山古墳近くが戦場になったということは、かなり本拠に近い所まで攻め込まれたことになる。
《糟屋屯倉》 粕屋郡には、漢委奴国王印(〈魏志倭人伝〉第21回)が発見された志賀島があり、 また神功皇后縁の香椎宮がある(第138回)。 前漢以来の朝鮮半島との交流拠点であったと思われる。 新羅・百済・高句麗から渡来する船の少なくとも一部は一度香椎宮の辺りに寄港し、関門海峡から瀬戸内海を経て難波津に至ったと見られる。 もし筑紫君が反乱を起こせば、朝廷への物流の首根っこが押さえられるという重大事態となる。 実際、「外邀二海路一誘二-致高麗百済新羅任那等国年貢職船一」というのは、 志賀島の北を航行する船に対して迎え舟を出して待ち受け、香椎宮に誘導して足止めさせたと読める。 従って、これまで筑紫君が管理していた糟屋郡が朝廷の直轄地になれば、遠征の目的はかなり達成されたと言える。 よって、この糟屋地域の明け渡しは、筑紫君葛子の命の保証に十分値するものであろう。 《大意》 二十一年六月十一日、 近江の毛野臣(けののおみ)は軍衆六万を率いて、 新羅に敗北した南加羅(みなみから)、喙己呑(とくことん)を再興して任那(みまな)に併合するために、任那に向かっていました。 そのとき、筑紫の国造(くにのみやつこ)磐井(いわい)は、 叛逆を陰に計りながら、なお秘して年を経、事が成り難いことを恐れながらも、常に間隙を伺っていました。 新羅はこれを知り、密かに磐井の所に貨賂を行い〔=援助し〕、努めて毛野臣の軍を防ぎ留めようとしました。 そこで、磐井は肥・豊の二国を占拠して、 〔朝廷への〕修職〔=貢物〕の使者を中止しました。 外は海路で待ち伏せし、 高麗(こま)百済(くだら)新羅(しらぎ)任那(みまな)等の国の年ごとの貢職船を偽って停泊させ〔貢職を横領し〕ました。 内は任那に遣わされた毛野臣の軍を遮り、 戦乱に導く言葉を高言し、 「今、使者となっている人は、 昔は私の友で、 肩を擦り合わせ肱を触れて、食器を共にして同じ物を食べたものである。 どうしてお前に服従して、使者によって私が自ら進んでお前の面前で身を伏せることなどできようか。」と言い放ち、 遂に戦いを挑み服従を受けず、驕って自らを誇りました。 これにより、毛野臣は防ぎ留められて、道半ばで停滞しました。 天皇(すめらみこと)は、 大伴大連(おおとものおほむらじ)金村(かなむら)、物部大連(もののべのおおむらじ)麁鹿火(あらかひ)、許勢大臣(こせのおおまえつぎみ)男人(をひと)らに、 「筑紫の磐井(いわい)は叛いて占拠し、西戎の地にいる。 今、誰を将軍とすべきか。」と詔(みことのり)し、 大伴大連らは口を揃えて 「正直、仁勇で、兵事に通じている点では今、麁鹿火の右に出る者はおりません。」と申し上げました。 天皇は「可とする。」と裁可しました。 八月一日、 詔を発せられました。 ――「大連に諮(はか)る。ここに磐井が順わないことを慮れば、お前が征伐にでかけるべきである。」 物部麁鹿火大連、再拝して申し上げました。 ――「ああ、磐井の西戎は姦猾(かんかつ)〔=悪賢い〕にして、 川の氾濫を言い訳にして不庭〔=朝廷に参上しない〕となり、山の峻険を防御の頼りとして騒乱し、 徳を破り、道に背き、侮嫚〔=朝廷を侮蔑〕して自らを聖賢と称しています。 昔いた道臣(みちのおみ)から、今の室屋(むろや)に及び、帝(みかど)を助けて逆族を討ち、人民をを塗炭の苦しみから救いました。 それらと一体となり、ただ天の賛意に従うことのみが、臣が常に重んじていることです。これこそが恭順しない者どもを伐つことを可能にするのです。」 また詔されました。 ――「良い将を戴く軍は、施恩し推恵〔=恵みを人に及ぼす〕し、自己を顧みて人を治める。 攻めは河が決壊する如く、戦は風の如く起こせ。」 さらに詔されました。 ――「大将は、民を司命する〔=命を左右する〕。 社稷(しゃしょく)〔=国家〕の存亡はここにある。努めよ、慎んで〔磐井への〕天罰を実行せよ。」 そして、天皇自ら斧鉞(ふえつ)〔象徴的な武器〕をとり、大連に授けながら詔されました。 ――「長門(ながと)より東は、朕が制す。 筑紫より西は、お前が制せよ。 自分の判断で賞罰を行へ。頻繁な上申は不要である。」 二十二年十一月十一日、 大将軍物部大連(もののべのおおむらじ)の麁鹿火(あらかひ)は、 自ら逆賊磐井との戦闘に関わり、筑紫国の御井郡(みいのこおり)で交戦しました。 旗、鼓を互いに望み見て、埃塵にまみれて相接しました。 機を見て決断し、両陣の間、万死の地を避けず、 遂に磐井を斬り、果たして疆場〔=戦場〕を平定しました。 十二月、 筑紫君(つくしのきみ)の葛子(くづこ)は、父に連座して誅殺されることを恐れ、 糟屋(かすや)の屯倉(みやけ)を献上して、死に及ぶ罪を贖うことを願い出ました。 【筑後国風土記】 〈釈紀〉巻十三「述義九」に、『筑後国風土記』逸文が収められている。 この逸文は、今日磐井の乱や八女古墳群を論ずるときに必ずと言ってよいほど話題に上る。 原文を読み下す。 なお、原注(【】内)は〈釈紀〉が参照する前からあったものか、〈釈紀〉に載せるときに加えられたものかは判断できない。 《筑紫国造磐井》
〈遺跡を学ぶ94〉によると、 江戸時代の宝暦元年〔1751〕以来、石人山古墳が風土記の磐井墓とされていたが、 久留米藩士の矢野一貞(かずさだ)は、『筑後将士軍談』〔文久三年;1863〕の中で、岩戸山古墳が磐井墓であると唱えたという。 そのおもな根拠は「県(郡家想定地の古賀集落〈現・広川町〉の南方二里)という岩戸山の方向と距離(約1.3キロ)が、『筑後国風土記逸文』と一致することであった」〈同〉という。 その「広川町古賀区から、官衙遺跡(正恵大坪・大坪東遺跡)が発見」〈同〉されているという。 右図の正恵大坪・大坪東遺跡の位置は、〈遺跡を学ぶ94〉p.16の図による。 古く「一里」は6町〔概ね650m〕と、36町〔概ね3.9km〕が並行して使われていた。江戸時代には36町に統一されたが、なお一里=6町も使われていたという。 上妻県の官衙が正恵大坪・大坪東遺跡だとすれば、それと位置が合うのは一里=6町の方である。 《南北各六十丈東西各四十丈》 1946年、森貞次郎〔文学博士〕は岩戸山古墳北東の平坦地を筑後国風土記のいう「別区」と考え、 「高七丈周六十丈」も同古墳に見合うとした。 また、「南北各六十丈東西各四十丈」については、 「「南北各六十丈」は東西方向の南辺と北辺の長さが六十丈、 「東西各四十丈」は南北方向の東辺と西辺の長さが四十丈、と読み解いた」 〔つまり、「南北各六十丈」とは、長方形の南側の辺と北側の辺の長さが、ともに六十丈だという意味〕 という。
《石人》 石は「いは」とも「いし」ともいうから、「石人」の上代の訓は、「いしひと」と「いはひと」が考えられる。 しかし〈時代別上代〉の見出し語には両者ともないから、直接訓を示す資料はなかったらしい。 だとすれば、「いしひと」は後世に考えられた訓ということになる。 それでは、そもそも上代語イハ・イシの使い分けは、どのようになされたのであろうか。 「いはくら」「いはや」などは自然の造形物である。 一方「いしだたみ」、「いしなみ」(飛び石を川に置いて渡る橋、あるいは階段)、「いしゐ」(井戸を石で囲ったもの) には人の手が加わっている。それを基準にすれば、石の彫刻は「いし-」のように思える。 しかし、筑後国風土記が音読みを用いていたとすれば、当時の訓を考えること自体が無意味である。 ただ、当時の庶民はこの石像に何らかの呼び名を用いたはずである。 物部氏の祖神、饒速日命は、天磐船(あまのいはふね)に乗って地上に降りた(第96回)。 このイハフネは神話の中の存在だが、祭祀場の磐座がたまたま船形だったことが想像力を刺激して、磐船に乗って降臨した伝説になったのかも知れない。 実際、磐船大神社(大阪府南河内郡河南町)の磐座には、天磐船と称されるものがある(資料[37])。 石人像についても、彫刻というよりは人の姿をした古い石と見て、素朴な感覚で「いはひと」と呼んだとも考えられる。 とすれば「磐井」の名も、石像群が居並ぶ「いは-居」あるいは、付近にあった井戸「いは-井」を元にした、通称ではないだろうか。 《上膳県》 上膳に類似する郡名としては、〈倭名類聚抄〉{豊前国・上毛【加牟豆美毛】郡}〔かむつみけ〕がある。 もともとの「三毛郡」が分割され「上三毛」「下三毛」となり、さらに好字令に順って二文字化したものと見られる。 「上膳郡」は、「膳」に「みけ(御食)」の訓みを宛てたものか。 この件については、『大日本地名辞書』上巻-豊前国に「此御木を又膳に作れる証は、釈紀所引の古風土記逸文に豊前国上膳県とある者是なり。」、 「国志〔高田吉近(1807~1876)著『豊前国志』か〕に此地名の名義は、食膳の精米を出せるに因む歟と曰へり。」とある。 上毛郡は、概ね現在の福岡県豊前市、築上郡吉富町・上毛町にあたる。 その南側に山地があるから、風土記逸文の「南山峻嶺」には合っている。 《太田亨説》 〈姓氏家系大辞典〉は、「されど、これも磐井より古きものにて、 此の地方の土豪のものならん。若し磐井の墓とすれば、筑紫神社の付近にあるべき也。 蓋し磐井の名の高きより、斯く附会せしに過ぎずと考へらる。」 として、岩戸山古墳もしくは石人山古墳を風土記逸文の磐井の墓墳とする見方を一蹴している。 ここにあるように、石人石馬像を磐井より相当古い時代のものと判断し、 また筑紫君の本拠地を筑紫神社と見たためである。 しかし、前項までで見たように、現在一般には岩戸山古墳が「磐井墓墳」だと考えられている。 【岩戸山古墳】
岩戸山古墳は、福岡県八女市吉田(字甚三谷)1554付近。八女古墳群に属する。 八女古墳群のうち、 岩戸山古墳(墳丘長135m)のほか、乗場古墳(同70m)、善蔵塚古墳(同95m)、 鶴見山古墳(同88m)の計四基の首長墓級前方後円墳がひとつのグループをなしている。 〈遺跡を学ぶ94〉によると、四基とも 「六世紀前葉から中葉にかけての短期間に築造されており、連続する単一系統の首長墓とみることはむずかしい」という。 そこで同書はこの四基について、政治体制は磐井と補佐役の二頭体制をなし、それぞれ二基ずつの系列であったと解釈している。 継体天皇二十一年〔527〕は、「六世紀前葉から中葉」のど真ん中に当たる。 《別区》 〈遺跡を学ぶ94〉によると、 ●「別区の下端規模」は正方形に近い等脚台形で、上底=44m、下底=47m、脚=43m。 ●「周堤と別区との間に溝などの区画はなく、スムーズに連続する」。 ●「開墾や畑作などによって築造時の地表は大幅に削平されたと見られる」。 ●「原位置をとどめる埴輪や石製品」は出土せず、 「別区外周の埋土から円筒埴輪」「形象埴輪」、「小型の人物形や壺形石製品」の破片が出土した。 同書は、別区には「豪族居館構成に近い」表飾群、「巨大人物像」や「多様なポーズの人物群像」を配置し、 「これらの区画を護るように盾・靫〔ゆぎ〕・刀形の石製品が配置された」と想像する。 同書はまた、国造による裁判風景と見るのは、風土記逸文筆者による解釈であろうと述べる。
「其中有一石人」とは、「数多くの石像のうち、あるひとつの石人像は」の意味ではないだろうか。 《武人像など》 武人像は全長2m以上に及ぶと推定され、その姿には「縦容として立つ解部」ではないかと思わせるものがある。 また、飾り馬像には鞍、鐙(あぶみ)が見え、杏葉(ぎょうよう)によって装飾されている。「石馬三匹」のうちの一匹かもと思わせる。 猪形の石製品も出土しているが、「石猪」だとすると、武人とのバランスから見て小さ過ぎるように思える。 石神山古墳の甲冑形石製品には腕がない。他の類似のものも同様なので、デザインとしての省略か。 古老の伝承に、磐井を探索していた兵士が発見できない腹いせに「怒り未だ尽きず石人の手をうち折」ったとするのは、この甲冑形石製品のデザインのためではないかと思う。 また、「石馬の頭をうち落とした」と書かれたのは、当時から飾り馬の頭部が欠けていていたことを示すものであろう。 《石製表飾》
岩戸山古墳における石製表飾には、前項の武人像、飾り馬のほか、さまざまなデザインの盾、靫、男女の人物像、動物像などがある。 右の図は、石製表飾が出土した古墳の位置で、ほとんどが有明海周辺である。 岩戸山古墳に次いで多く出土したのが姫ノ城古墳で、その他は「石製表飾はひとつの古墳に一点ないし数点樹立されたにすぎない」〈遺跡を学ぶ94〉という。 それぞれの石製表飾には、それぞれ同じ形状の埴輪・木製立物があり、なおかつ元々のサイズより大型化しているという(ミニチュア品を除く)。 よって、〈遺跡を学ぶ94〉は「加工に手間のかかる石製品には、埴輪や木製品とは異なる特別の意味がこめられた」と述べる。 また、九州の石製表飾の石材は、「一例を除いて阿蘇山から噴出した阿蘇溶結凝灰岩」〈同〉であるという。 思うに、筑紫君にとっては、阿蘇山産出の石を用いること自体が重要であったのではないだろうか。 アソは、南洋から渡来した一族の祖先がもってきた煙を出す山の名前であったと言われる(神武紀三十一年)。 また、その阿蘇山の磐座を割って天孫が現れたのかも知れない(第87回)。 その古代からのアソ信仰が筑紫君に脈々と伝わり、畿内から伝わった埴輪を阿蘇の岩石によって上書きしたのではないだろうか。 そこには、畿内に対抗してアイデンティティを保持しようとする筑紫君の気位の高さがあったように思える。 風土記逸文が述べたように岩戸山古墳が磐井の寿陵だったとすれば、畿内政権と厳しく対峙した時期の墳墓に大量の石製表飾が置かれたのは、決して偶然ではない。 まとめ 「任那国」は、形式として一応書いただけだと考えた方がよいであろう。 実際には雄略天皇の頃までは国内の氏族が私的に新羅を蚕食することが繰り返されていて、 近江毛野臣の久しぶりに渡海があったとすれば、その延長線上かも知れない。 ならば、それを阻止することに限っては磐井の行動には正当性がある。 ただ、磐井もまた新羅との私的な関係を深めて富を得ようとしていたと見られる。 ところで、筑紫君は阿蘇山産出の岩石への特別な想いを、遠い先祖から引き継いでいると見た。 前漢の奴国や卑弥呼の時代の一大率から繋がっているのであろう。 筑紫君は倭政権に対しては半独立状態で、寿陵に大量の石製表飾を置いたことに特に独立心の高まりを見る。 しかし、墳丘形式は前方後円墳であるから、根本は畿内政権を支える氏族連合体の一員である。 継体王朝にとって、筑紫君の独立心そのものは大した問題ではない。 ただ、継体帝が都を晩年までに山城国に置いて動かなかったのは、難波津に近い所で睨みを利かせるためである。 それは大伴大連金村に代表される飛鳥勢力と対抗するために、半島との貿易を独占して経済的優位性を確保するためであったと見る。 ところが、まさにそのとき磐井が玄界灘を航行する船を強制的に糟屋に入港させて通行税をとっている事実を知ったのである。 「誘二-致高麗百済新羅任那等国年貢職船一」なる一節は、それを表現したものであろう。 これでは朝廷に入るはずの富が抜き取られ、しかも筑紫島の諸族が力を付けて朝廷による支配を通用しなくなるから、由々しきことであった。 朝廷はこれを放置できないから当然中止を命じたはずであるが、逆に寿陵を石製表飾で飾り立てて一族の団結心を高め、ファイティングポーズを取る。 かくて戦端は切られたが、物部大連麁鹿火に「良将之軍也施レ恩推レ恵恕レ己治レ人。攻レ如二河決一戦レ如二風発一」、 即ち「戦争は人民に犠牲を強いるから、短期決戦で勝て」と指示していることから見て、その戦闘は意外に短期間で終わったのかも知れない。 筑紫君葛子は、糟屋郡を屯倉として朝廷に差し出し、通行税を取る権利を放棄することと引き換えに、一族の温存と所領の安堵を求めた。 朝廷側は、半島から難波までの使者や貿易船の航行がスムースになりさえすれば、戦争の目的は達成されるから、それで手を打った。 磐井には予めそれが読めていたから、一定程度戦って見せた後、すぐに降伏したのではないかと想像される。 記紀が磐井を殺したと書くのは面子のためで、実際には風土記のいうように逃走したのかも知れない。 ところで〈遺跡を学ぶ94〉は、阿蘇から産出する馬門ピンク石が継体天皇陵の石棺に使われていたことなどから、 磐井の乱以前は、磐井をトップとする九州諸勢力は継体天皇の「「味方」だと思う」と述べている。 この石室石材は、実は継体天皇に服属した葛子からプレゼントされたのではないかと想像するのである。 |
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2019.10.21(mon) [233] 下つ巻(継体天皇3) ▼▲ |
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天皇御年肆拾參歲
【丁未年四月九日崩也】 御陵者三嶋之藍御陵也 天皇(すめらみこと)の御年(みとし)肆拾参歳(よそちあまりみつ) 【丁未年(ひのとひつじのとし)の四月(うづき)九日(ここのか)に崩(ほうず、かむあがりしたまふ)[也]】。 御陵(みささき)者(は)三嶋(みしま)之(の)藍御陵(あゐのみささき)也(なり)。 天皇(すめらみこと)は、御年四十三歳でした 【丁未年(ひのとひつじのとし)〔527〕四月九日に崩じました】。 御陵(みささぎ)は、三嶋(みしま)の藍御陵(あいのみささぎ)です。 三島…〈倭名類聚抄〉{摂津国}に、{島上【志末乃加美】〔しまのかみ〕}、{島下【准上】〔うへにならふ;=しまのしも〕}、{豊島【手島】〔てしま〕}。 藍…〈倭名類聚抄〉{摂津国・島下郡・安威【阿井】郷〔あゐ〕}。 あゐ…[名] 青色。また植物名「藍」。 【四十九歳/丁未年四月九日崩】 丁未年〔527〕は、書紀の二説、二十五年〔辛亥、531〕・二十八年〔甲寅、534〕の何れとも一致しない。 齢については、書紀の八十二歳だと即位のときに既に五十八歳だったことになるので、多くの皇子皇女が生まれたことを考えると記の四十九歳の方が現実的である。 歳次の混乱については安閑天皇まで続き、その元年は記では恐らく戊申〔528〕、書紀では甲寅〔534〕となっている。 書紀では532~533年は、謎の二年間である。 ことによると政変が隠されているのかも知れないが、この問題については安閑天皇紀の記述に関係してくるので、次の第234回で詳しく検討したい。 安閑天皇が崩じた乙卯年〔535〕に至り、やっと記紀の足並みが揃う(第160回)。 【藍御陵】 書紀は「藍野陵」。 〈延喜式-諸陵寮〉には{三嶋藍野陵。磐余玉穂宮御宇継體天皇。【在摂津国嶋上郡。兆域東西三町南北三町。守戸五烟。】」とある。 《太田茶臼山古墳》 宮内庁治定の「三嶋藍野陵」は、考古学名「太田茶臼山古墳」(大阪府茨木市太田三丁目)。前方後円墳。墳丘長226m。5世紀中葉。 〈五畿内志〉は「摂津国島下郡」【陵墓】の項に 「三嶋藍野陵【継体天皇○在二太田村一土人曰二池上陵一四畔小冢五三島三郡古号】」 〔太田村に在り。くにの人池上陵と曰ふ。四畔〔=四周〕に小冢五。三島、三郡〔島上・島下・豊島〕の古号なり〕とある。 〈倭名類聚抄〉には{摂津国:島上【志末乃加美】〔しまのかみ〕島下【准レ上】〔しまのしも〕豊島【手島】〔てしま〕}。 江戸時代に天皇陵の探索が行われ、『古代天皇陵の謎を追う』(大塚初重著、新日本出版社2015、以下〈大塚〉)によると、 「1696(元禄九)年、大阪出身の漢学者で医学者でもあった松下見林」 は「太田茶臼山古墳が三島藍野陵であると治定した」と述べる。 蒲生君平は『山陵志』(文政五年〔1808〕)の中で、 「継体陵:大田村古冢此也。呼四為下茶臼山上レ。以三其頂有二凹処一。 然而象二宮車一。環レ之以レ溝。依レ旧焉。 【三島今割為二上下一曰く二上島一 曰二下島。藍野陵乃在一其交一。而所一隷是下島郡。」 〔大田村古冢これなり。その頂に凹処あるを以って呼びて茶臼山とす。然りして宮車を象り〔前方後円墳〕、 これを環り溝を以(もちゐ)るは、旧きに依れり。 【三島は今割ちて上下とし、上島と曰ひ下島と曰ふ。 藍野陵はすなはちその交わりにあり。しかれども隷くところはこれ下島郡なり】〕と述べている。 このように蒲生君平も太田茶臼山古墳が継体陵だとしたが、藍野陵が「島下郡」にあることを気にしている。 《年代》 ①昭和二十五年〔1950〕に上田宏範は、前方後円計測システム〔墳丘の計測値の諸元の比率を比較して編年〕により、 允恭天皇陵の時期(5世紀)に相当することを見出した。 ②2002年公開データでは、円筒埴輪は「5世紀半ば頃の特徴を示して」いる。 ③「三角板革綴短甲・草摺を表現した短甲埴輪の存在は、五世紀でも前半期の古墳であることの証拠となる」。 などの知見の累積による。 《今城塚古墳》 太田茶臼山古墳の東約1.5kmに、今城塚古墳がある(大阪市高槻市郡家新町)。墳丘長190m。6世紀とされる。 〈五畿内志〉には、 「摂津国島上郡【陵墓】 荒墳【今城陵在二郡家村一 永禄中為二城営一〔以下略〕】」 〔郡家村に在り。永禄〔1558~1570〕中に城営す〔城として使用される〕。〕とある。 今城塚古墳はこのように「荒墳」とされ、幕末の修陵でも遂に顧られることはなかった。 『天皇陵の謎』(矢澤高太郎、文春新書831。2011年、以下〈矢澤〉)によると、 「雄大な今城塚の墳丘が荒れすさんだ原因は、戦国時代に三好長慶が城に利用したためだった」、そして 「太田茶臼山の威容に比べ、荒れ果てた墳丘を晒す今城塚を継体陵とするのは忍びなかったのであろう」と想像している。 さて、今城塚古墳の特徴は広い祭祀場と、そこに置かれたと見られる大量の形象埴輪で、 「墳丘北側内堤中央部には、わざわざ堤の幅を8メートルほど拡張して全長65mにわたって埴輪祭祀場を設けている」 (〈大塚〉)という。この張り出し部から多量の形象埴輪が発掘されている 〔家形・柵形・門形、甲冑・盾・太刀、力士や巫女を含む人物、馬・水鳥・牛などの動物など、計百数十点に及ぶ〕。
『シリーズ遺跡を学ぶ77;よみがえる大王墓今城塚古墳』(森田克行著。新泉社2011、以下〈シリーズ77〉)によると張出は四区に分かれてそれぞれが門のある屏で仕切られ、 後円部から前方部に向かって、一区(家・器台・鶏)⇒二区(家・鶏・巫女・甲冑・太刀)⇒ 三区(家・獣脚・蓋・男・巫女(多数)・鶏・太刀・靭・盾・水鳥)⇒四区(家・盾・鶏・武人・鵜飼人・力士・牛・裸馬・飾馬・水鳥)のように構成されている。 大雑把に言って神殿⇒祭祀場⇒警護空間のイメージを感じ取ることができる。 〈シリーズ77〉は、これを殯宮を写し取ったものと見ている。 この張出には、筑紫君磐井の墓と言われる岩戸山古墳の「別区」(前回)と同じく、前方後円墳に接して作られた特別の儀式空間という共通性がある。 磐井の乱においては両者は敵対関係となったが、同時代としての文化的基盤を共有していると見られる。 なお前方後円墳の向きは不明であるとされているが、張出部の形象埴輪の並び順を見ると、後円部が神に近い奥まった領域、前方部が人に近い領域であるように思える。 さらに〈矢澤〉によると、 「材質の異なる三種類の家形石棺の破片が出土」し、それらは播磨の竜山石(第225回)、 二上山産の白色凝灰岩、阿蘇から産出するピンク石だという。 そして「今城塚の後円部は現在は二段だが、本来は三段構成で、その最上段に三基の家形石棺を納めた壮大な横穴式石室が存在していたことが明らかになった」という。 「馬門ピンク石」について、 『シリーズ遺跡を学ぶ』094(新泉社、前回参照。以下〈シリーズ94〉)は、「六世紀前葉には継体擁立派のほか、継体親族や継体妃出身氏族などの首長墓級の大型墳に採用された」と述べる。 「継体妃出身氏族」に関わるのは「琵琶湖沿岸域の三例(村居田・円山・甲山古墳)」などである。 横穴式石室が全国に広がったのは6世紀になってからであるが、さらに今城塚古墳の築造が6世紀前半の520年頃であることが、 埴輪製造工場跡「新池遺跡」の調査によって明らかになった。
〈シリーズ77〉によると、 新池遺跡は5~6世紀の大規模な埴輪生産工場の遺跡である。その窯跡は時期によってA群~C群に分類され、 「A群窯で焼成された埴輪は大田茶臼山古墳に並べられ、C群窯で焼成された埴輪は今城塚や昼神車塚に搬出されたことが、 窯跡と古墳出土の埴輪相互の検討ならびに胎土〔=原材料の土〕の成分分析の結果から確かめられた」という。 さらに、「窯の床面焼土に残された地磁気の年代測定をおこなったところ、A群の一号窯が(450±10)年、C群の十八号窯が(520±40)年」との結果が得られ、 それによって「今城塚の築造年代が継体の没年(531年)と整合性をもつことが明らかに」なり、 「今城塚を三島藍野陵にあてることはほぼ不動のものになった」と述べる。 このように「島上郡」にある大王陵級の前方後円墳のうち茶臼山古墳は5世紀半ば、今城塚古墳は6世紀前半である。 よって、継体天皇陵茶臼山説はドグマ(教条主義)であり、実証論的には今城塚古墳ということになる。 ただ茶臼山古墳など治定されるまでの経緯自体は天皇陵探索運動の一部をなし、それは江戸時代後期の尊王論の高まりに呼応するものだから、 これまた歴史の一部である。 《島上郡》
継体天皇は、難波津を拠点として三韓との交易で得た富を独占することによって、支配力の経済的基盤を固めたと考えられる。 本稿は、磐井の乱も地方勢力による富の横取りを正すための征伐と位置付けた。 筒城宮など三宮の立地は、三韓―難波津―淀川の物資の流通を独占するためと考えたが、継体陵を島上郡に築陵したのも同じ理由であろう。 《馬門ピンク石》 ここでさらに注目されるのは、3つの石棺のうち一つに阿蘇山地域産出の馬門ピンク石が使われたと見られることである。 〈シリーズ77〉は、馬門ピンク石、高砂の竜山石、二上山白石のそれぞれの産地に赴いて、原石による石室の復元を試みている(右図)。 〈シリーズ77〉によると「馬門石製石棺は地元の九州に類例がなく、備前・築山古墳の一点を除いては、 河内二例、摂津二例、大和七例、近江二例で、近畿地方での出土」が大部分だという。 そのうち「大和の諸例は」「淀川・木津川を舟運して泉津で上陸、山野辺道の原道とでもいうべきルートを南下した蓋然性が高い」と述べる。 このピンク石については、今城塚と琵琶湖周辺の首長墓に使われていることから、 磐井の乱に敗北した磐井に代わって、葛子が服属し、継体帝に阿るためにピンク石製石棺を提供したのではないかと推定した(前回まとめ)。 これについて、次の項で更に掘り下げる。 〈熊本県総合博物館ネットワーク・ポータルサイト〉によると、 いわゆる「馬門ピンク石」は、宇土市網津町馬門で産出する。もとは約9万年前の阿蘇の火山活動により低地に流れ降りたもので、 火砕流に含まれていた軽石は溶けて黒いレンズ上の模様を作る。 この火砕流が冷え固まった岩石が「溶結凝灰岩」と呼ばれ、馬門地方のものはピンク色をしているがその理由は不明だという。 この「馬門石は、ピンク色で美しく、柔らかいため加工もしやすい」という。 以下、ピンク石を用いた石棺があるとされる5~6世紀の古墳を地域別に見る。 《近江国》 近江国野洲郡の円山古墳・甲山古墳には、馬門ピンク石製の石棺がある。 この二古墳は大岩山古墳群に属し、また天王山古墳を加えた三基が桜生(さくらば)史跡公園として整備されている。
毛臣の墓と言われる林ノ腰古墳跡も、ここから近い(継体紀24年)。 残念ながら、小篠原がある野洲郡に継体系の氏族名は見えてこない。 しかし、 「和珥系氏族は琵琶湖西岸、継体天皇系氏族は琵琶湖東岸という住み分けが見えてくる」(230回)とするなら、 円山古墳・甲山古墳はその範囲内である。 野洲郡は樟葉宮に近く、むしろ継体帝とより親密な氏族がいたとも考えられる。 あるいは、阿倍氏の一派布勢氏が大和国十市郡から越中に移ったと見られるが、野洲郡はその経由地である。 だから、「継体王朝を支える氏族の間に馬門ピンク石製石棺が広まっていた」と言ってよいであろう。 一方「息長君・坂田君・酒人君」の本拠地と見られる坂田郡の山津照神社古墳(6世紀中葉)は、 家形石棺を納めた横穴式石室が発見されたというが(〈米原市公式〉など)、 ピンク石石棺ではなく、石屋形(後述)だという。〈シリーズ94〉によれば 「1882年(明治15)に後円部内の横穴式石室が発掘され、残された絵図には畿内型横穴式石室の奥壁に沿って設置された石屋形が描かれている」という。 同じ坂田郡の村居田(むらいだ)古墳については、ピンク石と見る説がある。
この広姫が「祖母」とされることについては、 敏達天皇四年正月「立二息長眞手王女廣姫一、為二皇后一。是生一男二女、其一曰二押坂彦人大兄皇子一。」、 そして舒明天皇即位前に、舒明天皇は「彦人大兄皇子之子也」とあることにより、 「広姫―押坂彦人大兄皇子―舒明天皇」と繋がる。 ところが、同じ四年の「十一月」には「皇后廣姫薨」とあり、僅か十一か月の間に一男二女を生むという不思議なことになっている。 ただ、正式に皇后となる数年前から妃であったとすれば、一応辻褄は合う。 それはともかくとして、敏達四年は575年で、村居田古墳の五世紀後半~末とは100年ほどの相違がある。 多くの例と同様、江戸時代に実在した古墳を割り当てたものと見られる。 村居田古墳の推定年代は、雄略天皇即位の457年から仁賢天皇崩の498年の時期に相当する。 もし石棺がピンク石だったとすれば、筑紫君と畿内氏族との交流はこの時期からあったことになる。 実際にピンク石かどうかは掘り出してみれば分かることであるが、宮内庁治定陵であるから今のところ不可能であろう。 《大和国》 大和国のピンク石製石棺はいくつかの古墳に見出され、また出所不明の石棺片がある。
石棺の運搬は、陸上では綱掛突起に綱を懸けて大人数で曳いたと思われる。 とすると、山辺の道は上り坂・下り坂が多く、狭くて曲がりくねっているのでなかなか考えにくい。 上ツ道の原道が既に存在し、そこを曳いたと考えた方が現実的であろう。 《河内国・備前国》
古市古墳群の長持山古墳・峯ヶ塚古墳のピンク石石棺は、大和川から石川を経由して運ばれたように思われる。 備前築山古墳はなかなかの大型であるが、5世紀後半は首長墓も大きかったのであろう。 この位置は、ピンク石が瀬戸内海を経由して運ばれたことを裏付けるものと言える。 《植山古墳》 ピンク石によって作られた石棺は、基本的に刳抜式家形石棺であった。 この形式の石棺においては、蓋は石材をくり抜いて作られ、網掛け突起という突出部が前後と側面につけられている。 身は、くり抜き式か、あるいは四側面と底面の組み合わせたものもある。
植山古墳の時期は既に前方後円墳が終了した終末期古墳で、 この項で論じている継体朝前後の時期の石棺からは外れている。 だが、この時期になっても依然として宇土からピンク石を取り寄せ、伝統の石棺形が守られていたのは興味深い。 《特異な分布の意味》
また、倭地域については陸上輸送距離が長いから、運搬に特別の努力を要したはずである。 これらのことから、ピンク石石棺の使用には何か特別な意味があったと考えた方がよいであろう。 以上の特徴を材料として、その意味を探ってみる。 まず注目されるのは、筑紫君磐井が毛野臣に向かって発した言葉、 「今為レ使者。昔為二吾伴一、摩レ肩触レ肘、共レ器同レ食。」 〔今は朝廷の使者だが、昔は私と肩擦り肱触れて共器共食した仲ではないか〕 である(継体二十一年)。 また、江田船山古墳出土の銀象嵌銘鉄剣によって、この地の有力氏族が獲加多支鹵大王(雄略天皇)の支配下、若しくは連合していたことが分かる。 (資料[28]) これらのことから、筑紫地域の首長が、5世紀頃から朝廷に出仕していたことは実際にあったであろう。 地方氏族の首長が都に上って官僚を勤めていた例としては、清寧天皇段・記に登場した小楯がいる。 小楯は、伊予国の伊予来目部の氏族長であったが都に上って任を得て、播磨国の宰として派遣されている (第213回)。 そこで、備前築山古墳や村居田古墳については、 朝廷に出仕していた筑紫君が、親しくなった氏族長のためにピンク石を提供したという関係が想定される。
その伝統は磐井の乱によって一時途切れるが葛子の代になって復活し、むしろ以前より積極的に、今度は特に継体帝が従える氏族を中心に提供されたのではないかと考えられる。 それに該当すると考えられるのが、今城塚古墳、丸山古墳、甲山古墳である。 継体天皇が磐余玉穂宮に遷ったことが大伴氏・物部氏との関係の復活に伴うものと考えれば、 それを契機として山辺の道沿いの首長墓にも、ピンク石が提供されるに至ったのかも知れない。 もしこれらの首長陵の時期がもっと遅くて欽明朝の頃にずれこんだとしても、欽明帝は仏教伝来の碑に近い磯城嶋金刺宮に坐したのだから、継体帝晩年の習慣を引き継いだものと言えよう。 そこには、この地の首長による大王への服属の証を示す、または大王の権威にあやかる意味があったのではないかと思えるのである。 だとするとはるばる筑紫から船で届いた美しく巨大な石棺を、陸上の長い距離を群衆に曳かせてアピールする様子が想像される。さぞ賑やかな祭であったことだろう。 加藤清正が、名古屋城の石垣に用いる巨石に乗って舞いながら陣頭指揮した姿を彷彿させる。これも結局家康への忠誠を示すためであった。 すると、家形石棺の整った形は、実際に埋葬に用いる前に民衆に見せるためのものでもあったわけである。 《今城塚の石棺》
継体天皇以外の被葬者としては、例えば書紀二十五年条の原注(後述)に継体帝とともに薨じたと書かれた「太子」「皇子」が考えられる。 あるいは安閑天皇紀における「春日山田皇女及天皇妹神前皇女」の合葬の記事は、継体天皇のときの合葬の話が変形して安閑天皇紀に移された可能性もある。 継体天皇が、三基の石棺のどれに納められていたかは分からないが、 2016年には、今城塚古墳の近くの石橋の石材が石棺の一部と見られることが明らかになった(図右)。 『産経WEST』によると、2016年11月10日に市立今城塚古代歴史館が発表 (記事)したもので、 寸法は25cm×66cm×110cm、質量250kg。ピンク色の馬門石(阿蘇溶結凝灰岩)で、 「ピンク色の凝灰岩で、のみの跡や表面に塗られた朱も残」り、「家形石棺の側面か底部とみられる」という。 この大きさなら、継体天皇自身が納められていたとしても不自然ではない。 【書紀―二十五年】 継体17目次 《天皇崩》
天皇(すめらみこと)、病(やまひ)甚(はなはだ)し。 丁未(ひのとひつじ)〔七日〕。 天皇(すめらみこと)、[于]磐余玉穂宮(いはれのたまほのみや)に崩(ほうず、かむあがりしたまふ)、時に年(よはひ)八十二(やそちあまりふたつ)。 冬十二月(しはす)丙申(ひのえさる)を朔(つきたち)として庚子(かのえね)〔五日〕。 [于]藍野陵(あゐののみささき)に葬(はぶ)りまつる。
天皇二十八年(はたとせあまりやとせ)歳次甲寅(きのえとらのとし)に崩ずといふ。 而(しかれども)此(こ)を二十五年(はたとせあまりいつとせ)、歳次(さいじ)辛亥(かのとゐのとし)〔531年〕に崩(ほお)ずと云ひまつる者(は)、 百済本記(くたらほむき)より取りて、文(ふみ)と為(な)せり。 其の文に云はく。 太歳(おほとし)辛亥(かのとゐ)三月(やよひ)。 軍(いくさ)[于]安羅(あら)に進み至りて、乞乇城(ことくのさし、こたくのき)に営(いほり)す。 是の月。 高麗(こま)其の王(わう、こきし)安(あむ)を弑(ころ)す。 又聞く、日本(やまと)の天皇(すめらみこと)より太子(ひつぎのみこ)皇子(みこ)に及びて、倶(ともに)崩(ほう)じ薨(こう)ずといふ。 此(こ)に由(よ)りて[而]言ひて、 辛亥之(の)歳(とし)〔五三一年〕、二十五年(はたとせあまりいつとせ)を当(あ)つ[矣]。 後(のちに)勘校(かむが)へる者(もの)之(これ)を知りまつりき[也]。】 《二月丁未》 安閑天皇紀には、「廿五年二月辛丑朔丁未…、即日男大迹天皇崩」と書かれ、丁未は七日である。 《歳次》 歳は木星のこと。木星の公転周期は11.86年だから、地球から見て天球の黄道付近を西から東に向かって一周し、11.86年で元の位置に戻る。 従って、黄道を十二等分して、それぞれの部分の星をグループ化〔一種の星座〕すれば、木星は1年ごとに隣のグループに移動する。 木星がどのグループにあるかによって、十二年周期で年を定めることができる。 その星のグループを「次」という。 「次」は12個あるので、十二支と一対一対応させることができる(詳しくは資料[B]参照)。 従って歳次は実質的に十二支と同じ意味で、更に十干十二支も指すようになった。 《高麗弑其王安》 『三国史記』ではつぎの部分が、書紀所引『百済本記』に対応している。 ・巻三十「年表中」に「辛亥〔531〕十三 安藏王薨」。 ・巻十九「高麗本紀第七」に「安臧王在位十三年。薨。」 《大意》 二十五年二月、 天皇(すめらみこと)は、病が甚しくありました。 七日、 天皇は、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に崩じました。時に齢八十二歳でした。 十二月五日、 藍野陵(あいののみささき)に埋葬しました。 【或る記録に、 天皇二十八年、歳次甲寅に崩じたという。 しかし、これを二十五年、歳次辛亥〔531年〕に崩じたと言うのは、 百済本記から取って本文に入れたものである。 百済本記の文にいう。 「太歳辛亥(かのとい)三月、 軍が安羅(あら)に至り、乞乇城(ことくのさし、こたくのき)に軍営を置いた。 この月、 高麗はその王、安を殺した。 また聞くに、日本(やまと)の天皇(すめらみこと)より太子、皇子に及び、ともに崩じ薨じた。」 これによって、 辛亥の歳〔五三一年〕、二十五年を当てて述べた。 後に勘校した者がこれを知ったのである。】 【日本天皇及太子皇子倶崩薨】 天皇が崩じたとき、皇太子と皇子が共に薨じたという記述は、衝撃的である。 継体天皇紀・安閑天皇紀の本文には、それを伺わせる記述はない。 ただ、安閑天皇紀には、「男大迹天皇立二大兄一為二天皇一。即日男大迹天皇崩」 すなわち、安閑天皇が譲位されたその日に継体天皇が崩じたというが、これはなかなか不自然である。 大兄皇子を立太子する詔が、七年十二月八日に発せられ(継体天皇七年)、 大兄皇子は無事に即位しているのだから、 仮に「太子薨」が真相であれば大兄皇子を太子としたのは潤色で、本当は太子は別の皇子に定められていた。 だとすれば、七年の立太子の詔の「盛哉勾大兄」の部分には本当は別の名前が入っていたのが、改竄された疑惑がある。 だから普通「立大兄皇子為太子」で済ますところを、もっともらしく長々とした韻文を置いて真実性を装うのである。 「立大兄為天皇」という書き方にも皇太子を経ずに即位した気配が感じられる。 もし大兄皇子が皇太子なら、「男大迹天皇譲大兄太子天位」のように書くと思われるのである。 そこで、真相は「太子皇子倶薨」であったと仮定して、それが成立し得るかどうかを検証しよう。 元年条で示された継体帝の皇子のリストに漏れがなければ、 安閑天皇・宣下天皇・欽明天皇以外の男子皇子は、次の五柱である。 ・大郎皇子…母は三尾角折君の妹稚子媛。 ・耳皇子・椀子皇子…母は三尾君堅械の女倭姫。 ・兔皇子・中皇子…母は根王の女広媛。 記では兔皇子・中皇子の名が見えず、逆に阿倍之波延比売を母とする阿豆王がいる。 記紀で共通する三柱の皇子は、いずれも三尾君系である。 根王については、移動して近江国坂本郡にいた可能性があり、阿倍氏も一部が近江を経由して越中に至った可能性があった (第231回)。 つまり元々の皇太子がこのうちの誰であったとしても近江系で、継体天皇とともに薨じ、また他の近江系の皇子が少なくとも一人薨じたことになる。 これを見ると、継体天皇は近江一族の皇子に政権を継承することを意図していたが、 尾張連と手白髪媛が意を通じて近江系の皇太子と皇子を殺し、クーデター的に政権を奪ったことになる。 これは、案外解りやすい図式と言える。 安閑天皇・宣下天皇の母は「尾張連等の祖凡連の妹目子郎女」で、欽明天皇の母は手白髪媛であるからである。 すると、「男大迹天皇立二大兄一為二天皇一。即日男大迹天皇崩」は、 大兄皇子が継体天皇に強硬に迫って譲位を認めさせ、継体天皇は失意の底に沈み自ら命を絶ったという読み方ができる。 それに伴って近江系の皇子も殺されるのである。 詳しくは後で述べるが、手白髪媛は自分こそが正当な天津日嗣〔手白髪媛は履中天皇の孫、また仁賢天皇の女〕であり、実質的に「手白髪大王」+「男大迹(継体)摂政」体制の意識がであったように思われる。 そして、自らの子である欽明天皇が即位した暁に、晴れて本来の天津日嗣が成就するのである。 継体天皇は、天皇主導体制の復興という偉大な業績を成し遂げたが、所詮は捨て駒であり、 継体自身の近江王朝の樹立という欲望を露わにした途端に、潰されたと考えることは可能である。 つまり、手白髪媛は、最初は武烈王朝を廃した大伴氏を切るために継体天皇と手を結んだが、 最後は継体王朝の成立を阻止するために尾張氏と結び、また大伴氏と再び結ぶというマヌ―バーぶりを発揮した。 しかし、手白髪媛にとっては、天位の正当な継承者である欽明天皇を実現するという強い信念を貫いたに過ぎない。 このようにストーリーを描いてみると、「日本天皇及太子皇子倶崩薨」は意外に納得できてしまうである。 【真の大王は手白香か】 武烈天皇に皇子はなく、継体天皇が即位したことによって天皇の血筋は途絶えた。 ならば、始祖神話としては継体天皇一族がもっていた始祖神話を用いればよかったのではないかと思われる。 にも拘わらず、紀は高皇産霊神(記では天照大神)中心の始祖神話を用いた。それはなぜだろうか。 それを考えるために、ひとつの仮説として手白香こそが大王で、男大迹は摂政(若しくはヒコヒメ制におけるヒコ)だったとしてみよう。 すると「大雀命(仁徳)―伊邪本和気命(履中)―市辺之忍歯王―意冨祁王(仁賢)―手白髮命―天国押波流岐広庭命(欽明)」が直系として繋がるのである。 これなら、男大迹王が一介の地方氏族の出であっても、何の問題もない。 これが、記の原型として語り部の太一族に受け継がれてきたのではないだろうか。 しかし、天武天皇が「天皇」号を定めた頃に、男子継承制が公理となったと考えてみる。 その結果、神功皇后は実質天皇であったが「摂政」に留め置かれたとも考えられる。 また神功皇后は魏志の卑弥呼に対応させるための架空の人物で、 倭国に伝わっていた本来の卑弥呼伝説は神武天皇に結実していて、本当は「磐余媛」であったのが、 「磐余彦」に直されたのかもしれない。 そして、天国押波流岐広庭命(継体)の方を天皇にして、手白香命は皇后に留めたのである。 その動きに呼応して、『上宮記』は律義に「乎富等大公王」(男大迹王)を正当な継承者として、その家系を天皇から繋ごうとした努力の跡が見える (資料[20])。 ただ、上宮記の〈釈紀〉所引の部分は、「天皇」号が定められる前に書かれたと思われるから、 「大王」の男子継承制が定められたのはもう少し古かったことになる。 さて、このような上宮記の努力にも拘わらず、記紀は単に応神天皇の「五世孫」と書くだけである。 それだけ汙斯王一族の系図を信用していなかったとも言えるが、記紀が無理に系図を作らなかったのは、 手白香比売こそが本来の血統の継承者であるという意識がなお根強かったからだと解釈すべきであろう。 極論すれば、男大迹王の血筋は何でもよかったのである。 まとめ 継体天皇の遷都とピンク石石棺の分布地域を重ね合わせてみると、即位当初は近江の氏族に依存していたのが、 晩年になって再び大伴氏・物部氏に軸足を移した様子が見えるのは興味深い。 また、筑紫君は一貫して近畿のいくつかの氏族と関係が深かったが、磐井の乱で一時的に断絶したと見られる。 さて、今城塚古墳は6世紀以後では群を抜く巨大古墳である。 今城塚古墳が継体天皇の真陵だったとした場合、考えられるのは朝廷の再生を誇るための復古的な大前方後円墳として築陵されたことである。 継体帝即位のところで、大伴金村大連の独裁で象徴化していた天皇が、親政を取り戻したものと位置づけた。 継体帝自身は、天孫の血筋を直接継ぐものではないが、自らがかつての大王の権威を継承していることを示すために、伝統的な巨大前方墳を寿陵として築いたと解釈することができる。 それなくして、諸族の統合の中心にはなれなかったであろう。 同時に思うのは、手白髪皇后のことである。手白髪皇后は、大伴金村大連が武烈天皇を切り捨てて大王の血筋を絶ち、自らの専制を敷いたことを許さなかった。 行く行くは自分が生んだ皇子を大王位につけて継承を正統に戻す望みを心に秘めつつ、 当面は継体帝の政治的実力に委ねて大王親政体制を復興させた。 そのために、継体帝の御代の宗教的枠組みは、古来の伝統を維持しなければならない。 よって復古的な巨大前方後円墳の築陵は、手白髪皇后の強い勧めがあってのことだと想像される。 なお、継体天皇陵が寿陵であったと思われるのは、継体帝が崩じた年のうちに葬られたと書かれているからである。 また書紀所引『百済本記』の内容が事実だとすれば、手白髪皇后は近江勢力による王朝の継承を許さず、武烈天皇遺族による皇統の継続を成し遂げたことになる。 |
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2019.11.07(thu) [234] 下つ巻(安閑天皇1) ▼▲ |
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御子廣國押建金日王坐勾之金箸宮治天下也
御子(みこ)広国押建金日王(ひろくにおしかなひのみこ)、勾之金箸宮(まがりのかなはしのみや)に坐(ま)して天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 継体天皇の皇子、広国押建金日王(ひろくにおしかなひのみこ)は、勾之金箸宮(まがりのかなはしのみや)にいらっしゃいまして、天下を治められました。 【真福寺本】 真福寺本は「廣國押建金日王」だが、岩波『日本古典文学体系』は「廣國押建金日命」。氏庸本も「命」である。 【勾之金箸宮】 勾之金箸宮の伝承地は、奈良県橿原市曲川町二丁目(継体天皇七年)。 この宮の位置と磐余玉穂宮の位置関係を見ると、一応継体帝の氏族関係を継承しているようにも見えるが、磐余・飛鳥からはやや離れ葛城地域にも近い。 そこでここを本拠地とした意味を、尾張目子媛が母であることと絡めて考えてみたい。 葛城と尾張を結びつけるのは、高尾張邑という地名である。 高尾張邑は、神武天皇紀に「高尾張邑【或本云葛城邑也】」とあるように、葛城県(あがた)にあった (第99回)。 尾張国造は、国造本紀に「志賀高穴穂朝〔成務天皇〕。以二天別天火明命十世孫小止与命一。定賜国造」とされる。 〈姓氏家系大辞典〉は、天火明命を祖として葛木氏の系図を展開する (第110回)。 同辞典は、「天火明命―…〔中略〕…建斗米―建田青―」から「小止与」に繋がると推定する。 《尾張連》 尾張連の成り立ちの基本資料になり得るのが〈天孫本紀〉(『先代旧事本紀』第五巻)である。 〈天孫本紀〉はその何でも物部氏の功績にする書き方が度を越していて評判が悪く、史料的な価値は低いと見做されている。 しかし、その天香語山命系列を精読してみると、 尾張連自らの伝承が基本とされたふしがある (資料[38])。 要するに、「饒速日尊を天火明命と同一とする」という独自の規定さえ取り除けば原形に戻るのである。 天火明命〔または火明命〕は一般的には海幸彦・山幸彦兄弟の伯父(記、書紀一書8)、あるいは兄弟(書紀本文、一書の多く)である (第87回)。 饒速日尊・天火明命同一説は物部氏独自の主張であるが、書紀は一書のひとつに加えて、僅かばかりの歩みよりを見せている。 天火明命が饒速日尊と別神であれば、尾張連・物部連の同祖関係は解消される 〔尾張連の祖神は天孫系の天火明命となり、饒速日尊から分離される〕。 また、饒速日尊の子の天香語山命を高倉下と同一とした点も異様で〔世代が違い過ぎる〕、これも取り除いた方がよいだろう。 この系図によれば、葛城にいた一族が尾張に移り、小止与が現地で尾張忌寸の娘を娶ることによって尾張忌寸一族と融合した。 〈国造本紀〉の「尾張国造」よりは、この方が実際に近いように思われる。
《尾張との交流ルート》 両者が行き来するルートは、紀ノ川から紀伊水道に出て潮岬を巡る航路も考えられないことはないが、 荒海を渡る長距離の航海は困難を極めるであろう〔それでも神武天皇はこの航路を通った〕。 舟形埴輪(第114回)の出た伊勢湾岸が、東国に向かう海道(うみつみち)〔太平洋岸航路〕の起点であろうと考えられる。 舟形埴輪が出土したのは、宝塚古墳群〔三重県松坂市宝塚町宝塚古墳公園内。前方後円墳の一号墳と帆立貝形の二号墳〕である。 やはり葛城の一族であった鴨氏は、また大三輪氏と融合した時期がある(第206回)。 鴨氏と初瀬の大三輪氏との交流があったことを考えると、 尾張へは初瀬からさらに東に向かって初瀬街道(雄略天皇紀6)を通り、海路熱田に達する経路が有力である。 その一部が尾張に進出した「葛城族」は独立性をもった氏族〔の集合体〕として葛城で繁栄し、東方への進出志向もあったと思われる。 その繁栄を物語るものは南郷遺跡群や(神功皇后紀3)、 半島に渡って活躍した葛城襲津彦があり、 また播磨の忍海氏と連合して顕宗天皇を押し立てたこともある。 だから、葛城にいた宗家が継体帝が尾張に進出した分家の目子媛を聘(と)う仲立をして、葛城氏の勢力圏と大伴氏勢力圏の接する辺りに安閑天皇の宮を置いたとは考えられないだろうか。 【書紀―即位前~元年三月】 安閑1目次 《勾大兄廣國押武金日天皇》
勾大兄広国押武金日(まがりのおほえひろくにおしたけかなひ)の天皇(すめらみこと)、男大迹(をほど)の天皇の長子(このかみ)也(なり)。 母は目子媛(めこひめ)と曰ふ。 是の天皇の為人(ひととなり)、 墻宇嶷峻(しやううぎしゆむ、かきいへたかくけはしくありて)不可得窺(えのぞくべくもあらず)、 桓々寛大(くわむくわむくわむだいにありて、たけくゆるくありて)人君(おほきみ)之(の)量(ひろきこころ)有り。
男大迹天皇(をほどのすめらみこと)大兄(おほえ)を立たして天皇(すめらみこと)に為(な)したまひて、 即日(おなじきひ)に男大迹天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 是(こ)の月、大伴金村大連(おほとものかなむらのおほむらじ)を以ちて大連(おほむらじ)に為(な)して、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の大連をもちて大連と為すは、並(な)べて故(ふるき)の如し。
都を[于]大倭国(おほやまとのくに)の勾金橋(まがりのかなはし)に遷(うつ)して、因りて宮号(みやのな)と為(す)。
有司(つかさ)、天皇の為に億計天皇(おけのすめらのみこと)の女(むすめ)春日山田皇女(かすかのやまだのみこ)に納采(なふさひし、いろとりををさめ)まつりて、皇后に為(な)したまひて 【更名(またのな)は山田赤見(やまだのあかみ)の皇女(みこ)。】、 別(こと)に三(みはしら)の妃(きさき)を立たしたまひて、 [立]許勢男人(こせのをひと)の大臣(おほまへつきみ)の女(むすめ)紗手媛(さてひめ)、 紗手媛の弟(おと)香々有媛(かがりひめ)、 物部木蓮子(もののべのいたび)【木蓮子、此を伊陀寐(いたび)と云ふ】の大連(おほむらじ)の女(むすめ)宅媛(やかひめ)をたたしたまふ。 「即日」には「日を置かず」の意味もあり、話としてはその方が自然である。 しかし、ここでは直前の文に日付「丁未」が明示されているから、「その同じ日に」の意味と見られる。 譲位してその日のうちに崩ずるのは異常事態である。恐らく殺されたか自死したことを示唆しているのであろう。 政変ならば同時に皇太子も殺されるのは当然だから、継体紀二十五年条の原注(以下〈原注〉)が注目されるのである。 ただし継体天皇紀では「疾甚」即ち病死として、穏やかな方向に緩和している。
継体二十五年は辛亥である。しかし、安閑元年は「太歳甲寅」と書かれる。 辛亥年の翌年は壬子である。それでは安閑元年を「太歳壬子」に直し、同「二年」を「四年」に直せば一件落着と思えるが、それでは済まない。 なぜなら、元年の事績の朔日「春三月癸未朔」「四月癸丑朔」「秋七月辛巳朔」「冬十月庚戌朔」「閏十二月己卯朔」はすべて、甲寅年の暦によるからである(参考[H]参照)。 〈原注〉には、「一説には二十八年(甲寅)と言われるが、百済本記には二十五年(辛亥)崩とあるのでこれを採用する。勘校者〔=校訂者〕が後で知って直した。」とある。 これは書紀が完成稿になる前は「二十八年二月崩」となっていたと読めるから、継体天皇が崩じた年が安閑元年であったことになる。 「元年正月遷都」の部分さえ目をつぶれば、これで辻褄は合う。 ところが、安康天皇以外の各天皇毎に元年にある「太歳」〔=干支〕を確認すると、 崩じた年の内に新天皇が即位した場合でも、すべて前天皇が崩じた翌年を元年としている。 だから、安閑天皇の場合も継体天皇が崩じたその年が元年になることはないと考えるべきであろう。 「安閑元年=甲寅」は動かないのだから、草稿段階では継体天皇「崩」は二十七年(癸丑)であったはずである。 だから〈原注〉の「一説に二十八年崩」さえも、不審なのである。 ただ、継体天皇紀が最終稿で「二十五年(辛亥)崩」になる前は、二十七年または二十八年であったことは確実である。 「廿五年春二月辛丑朔」は、確かに二十五年に合っているから(参考[H]参照)、 ここまでは確実に修正された。 しかし、安閑元年以後の天皇の暦の進行は完全に「安閑元年=甲寅」に基づいているから、辛亥年と甲寅年の間の壬子年・癸丑年を飛び越えるという不合理を生じている。 こんなことなら、百済本記に「二十五年崩」と書いてあることは無視して「廿七年二月己未朔乙丑〔七日〕天皇崩」とした方がましであった 〔原文は”廿五年春二月…丁未〔七日〕天皇崩”〕。 《納采》 『礼記』〔戦国〕-「昏義」に 「昏礼者将レ合二二姓之好一。上以二事宗廟一、而下以継二後世一也。故君子重レ之。是以二昏礼納采、問名、納吉、納徴、請期一。皆主人筵几二於廟一」 〔昏礼〔=婚礼〕は将(まさ)に二つの姓〔=家系〕の好(よしみ)を合はさんとす。上に以て宗廟に事(つか)へ、下に以て後世に継ぐ。故に君子之を重んず。是(これ)昏礼に納采、問名、納吉、納徴、請期を以(もちゐ)て皆主人、廟に筵几(えんき)す〔むしろ、つくえの上に並べる〕。〕。 つまり、納采は一連の婚礼行事における、最初のステップとしての贈り物を届けて結婚を申し込むこと。「采」は原意「色を付ける」から転じて、「彩を施したもの」即ち色鮮やかな贈り物を意味すると見られる。 こうやって、有司が元年三月に手順を踏んで婚礼を進めたとされるが、実はそのずっと前、安閑天皇が皇太子だった時代に春日皇女を自ら妃に聘(むか)えている。 すなわち、継体天皇紀七年九月に「勾大兄皇子、親聘二春日皇女一。」とあり、その翌年には御名代まで与えている。 継体天皇紀と安閑天皇紀の間には暦の問題に加えて、このような矛盾もあり両者の断絶は甚だしい。 《大意》 勾大兄広国押武金日天皇(まがりのおおえのひろくにおしたけかなひのすめらみこと)は、男大迹(をほど)天皇の長子です。 母は目子媛です。 この天皇の為人(ひととなり)は、 墻宇嶷峻(しょううぎしゅん)にして〔垣・屋根の高い格調ある家のようで〕覗くこともできず、 桓々(かんかん)〔武勇に優れ〕寛大で、人君(じんくん)の度量を備えておられました。 〔継体天皇〕二十五年二月七日、 男大迹天皇(おおどのすめらみこと)は大兄(おおえ)を立てて天皇とされ、 その日のうちに、男大迹天皇は崩じました。 同じ月、大伴金村大連(おおとものかなむらのおおむらじ)を大連に、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の大連を大連とされ、揃って今まで通りとされました。 元年正月、 大倭(おおやまと)の国の勾金橋(まがりのかなはし)に遷都し、地名によって宮は名付けられました。 三月六日、 有司〔官僚たち〕は、天皇のために億計天皇の娘、春日山田皇女に納采の儀をすすめ、皇后とされ 【別名は、山田赤見(やまだのあかみ)の皇女(みこ)】、 別に三妃を立てました。 立てられたのは、許勢男人(こせのおひと)大臣(おおまえつきみ)の娘の紗手媛(さてひめ)、 紗手媛の妹、香々有媛(かがりひめ)、 物部木蓮子(もののべのいたび)の大連(おおむらじ)の娘、宅媛(やかひめ)です。 まとめ 書紀に書かれた日付が、どの程度実際に残された記録に基づくものかは分からない。特に初めの方はほぼ書紀の創作であろう。 しかし、それぞれの「朔日」は、元嘉暦(太陽太陰暦の一種)のルールに従って計算したモデルによく合致しているから(参考[C]以下)、厳密に計算した暦を参照して決められたことが分かる。 「勘校者」は『百済本記』によって継体天皇の本当の崩年を知って直したというが、それによって安閑天皇即位と「元年」の間に不自然な二年間の空白が生まれることには気付かなかったのだろうか。 正確な事情は知るよしもないが、その「勘校者」が前後の関係をよく考えずに部分的に手直してしまったのは確かだと思われる。 さて、前回までに継体天皇が近江氏族による王朝を継続しようとした目論見は実現せず、尾張勢・物部氏と手白髪媛との連合によって安閑天皇を立てたという経過を仮定した。 今回はさらに金箸宮の位置を手掛かりに、葛城・尾張連合の可能性を検討した。 その確かな根拠までは得られなかったが、探求の過程で天香語山命系列の系図を詳しく調べたところ、 少なくとも葛城の一部の勢力が尾張国に移動し、現地氏族と融合(ないしは支配)したことは確かだろうと思われる。 乎止与は、現地の尾張忌寸の娘を娶ったとされる。 ある勢力が地方を支配下に置く時に王が現地の姫を娶ると描かれたのは、古くは大国主命による高志の沼河姫への求婚の例がある(第63回~第65回)。 |
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⇒ [235] 下つ巻(安閑天皇2) |