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[229] 下つ巻(武烈天皇3) |
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2019.07.17(wed) [230] 下つ巻(武烈天皇4) ▼▲ |
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天皇既崩無可知日續之王
故 品太天皇五世之孫袁本杼命 自近淡海國令上坐而 合於手白髮命授奉天下也 天皇(すめらみこと)既に崩(ほうじて、かむあがりしたまひて)、日続(ひつぎ)之(の)王(みこ)知る可(べ)くも無し。 故(かれ)、品太天皇(ほむたのすめらみこと)五世(いつよ)之(の)孫(ひこ)袁本杼命(をほどのみこと)、 近淡海国(ちかつあふみのくに)自(よ)り上(のぼ)り坐(ま)さ令(し)めまつりて[而]、 [於]手白髪命(たしらかのみこと)を合(あ、みあ)〔=娶〕はせまつりて、天下(あめのした)を授(さづ)け奉(まつ)りき[也]。 天皇(すめらみこと)は既に崩じてしまったのですが、後継の王を見出すことはできませんでした。 そこで、品太天皇(ほむたのすめらみこと)の五世の子孫、袁本杼命(おおどのみこと)に、 近淡海(おうみ)の国からお上りいただき、 手白髪命(たしらかのみこと)を娶せ、天下をお授けしました。 【真福寺本】
真福寺本では「袁大梯今」・「袁本梯命」となっている。「大」・「今」が誤写であることは明らかである。 氏庸本(猪熊本系)は「表本抒命」とする。この「表」も誤写であろう。 書紀では「男大迹」と表記し、「ヲ・オホ・ト乙」を母音融合し、かつ連濁させたオホドと見られる。 また「梯」(漢音テイ、呉音タイ)は音仮名として使われる字ではないから、「杼」(音仮名ド乙)とするのは妥当であろう。 【袁本抒・男大迹】 『上宮記』(資料[20])では、「伊波礼宮治天下乎富等大公王」〔いはれの宮に天下を治めたまふをほどのおほきみ〕と表記した。 書紀の別名「彦太尊」は、孝霊天皇「おほやまとひこふとに」があるから、「ひこふとのみこと」と訓むと思われる。 ウ母音とオ母音は時に相互変換することを考えると、「をほど」に「ひこ」をつけた形に近い。 【近淡海国】 書紀では、越前国坂井郡三国から男大迹王を迎えたことになっている。 しかし、彦主人王は振姫を近江国高島郡に迎えて男大迹王を産んだのだから、出身を近淡海国ということもできる。 また、近江国の息長君などと、越前の三国君、布勢君などは同じグループ(後述)とされるから、 漠然と越前・近江方面の氏族からという意味かも知れない。なお書紀の書き方は、『上宮記』に沿ったものである。 【手白髪命】 手白髪命(手白香皇女)は仁賢天皇の皇女で、 母は春日大郎女。春日大郎女(春日大娘皇女)は、 書紀では「春日和珥臣深目―童君(父は雄略天皇)―春日大郎皇女」の系図が示される。 童君は雄略天皇が吉野川でたまたま見かけた少女として描かれるが、書紀では「吉野の童女の伝説が変形しつつ伝播し、紆余曲折の末に春日和珥臣深目の娘を娶す話に転じた」 (第203回まとめ)可能性がある。 手白髪命は武烈天皇と共に春日大郎女から生まれたから、春日和珥臣をルーツとする一族に属すると考えることができる。 さて、手白香皇女は欽明天皇の母である。これによって「顕宗天皇―手白髪命―欽明天皇」という直系が確保される。 仮に手白髪命を天皇であったと規定しさえすれば、「五世孫」というきわめて薄い血縁に頼らなくても、もう少し直接的に繋ぐことができたはずである。 まとめでもう少し考察する。 【継体天皇紀-即位前(1)】 継体1目次 《男大迹天皇》
誉田天皇(ほむたのすめらみこと)の五世(いつよ)の孫(ひこ)、彦主人王(ひこうしのみこ)之(の)子(みこ)也(にありて)、母は振媛(ふりひめ)と曰ふ。 振媛、活目天皇(いくめのすめらみこと)の七世(ななよ)之(の)孫(はつこ)也(なり)。 天皇の父(ちち)、振媛、顔容(かほかたち)姝妙(くはし)くて甚(いと)媺色(うるはしきいろ)に有りと聞きて、 近江国高嶋郡三尾(ちかつあふみのくにのたかしまのこほりのみを)之(の)別業(なりところ)自(よ)り、 使(つかひ)を遣(つかは)して、[于]三国(みくに)の坂中井(さかなゐ)【中、此(これ)那(な)と云ふ】に聘(むか)へしめて、 納(をさ)め以ちて妃(きさき)に為(な)して、遂に天皇を産みき。
振媛廼(すなはち)歎(なげき)曰(まをししく) 「妾(われ)、今遠く桑梓(くはあずさのさと)を離れて、安(やすらけく)能(よく)膝(ひざ)に養(ひたしまつること)を得(う)。 余(あまりてあるよ〔世〕は)高向(たかむこ)【高向者(は)越前国(こしのみちのくちのくに)の邑(むら)の名。】に帰寧(かへ)りて、天皇(みこ、すめらみこと)を奉養(ひたしまつ)らむ。」とまをしき。
士(ますひと、ますらを)を愛(め)で賢(さかしきひと)を礼(いやま)ひて、 意(こころ)豁如(ひろし)[也]。 《大意》 男大迹天皇【別名は彦太尊(ひこふとのみこと)】は、 誉田天皇(ほむたのすめらみこと)の五世の孫、彦主人王(ひこうしのみこ)の子で、母は振媛(ふりひめ)といいます。 振媛は、活目天皇(いくめのすめらみこと)の七世の孫です。 男大迹天皇の父は、振媛の容姿が麗妙で大変美色であると聞き、 近江国高嶋郡の三尾(みお)の)業(なりわい)の所から 使者を遣して、三国(みくに)の坂中井(さかない)に迎えに行かせ、 結納して妃とし、遂に男大迹天皇を産みました。 天皇が幼い年に、父彦主人王は薨じました。 すると振媛は嘆いて 「妾(わらわ)は、今遠く桑梓の里〔先祖を祀る故郷〕を離れ、安らかに膝の上で養うことができました。 余生は高向(たかむこ)【高向は、越前国の邑(むら)の名】の父祖の地に帰り、御子をご養育します。」と申し上げました。 天皇は壮年となり、 勇者を大切にして賢人を敬い、 心の広い人となりました。 【継体天皇紀-元年正月】 継体3目次 《遣臣連等持節以備法駕奉迎三国》
大伴金村大連、更に議(はかりごと)を籌(はか)りて曰(まをさく) 「男大迹王(をほどのみこ)、 性(ひととなり)慈仁(ひとをうつくし)びて孝順(おやをゐやま)ひてあれば、 天緖(あまつひつぎ)を承(う)けたまふ可(べ)し。 冀(こひねがはくは)慇懃(ねもころに)勧進(すすめまつ)りて、 帝業(みかどのみわざ)を紹(つ)ぎ隆(たか)めしめまつらむ。」とまをして、 物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおほむらじ)許勢男人大臣(こせのをひとのおほまへつきみ)等(ら)僉(みな)曰(まをさく) 「枝孫(すめろきのはつこら)より妙簡(こころにえら)はば、賢者(さかしきひと)唯(ただ)男大迹王也(のみ)。」とまをす。
臣連(おみむらじ)等(たち)を遣はして、節(しるし)を持たしめて以ちて法駕(みこし)を備(まう)けしめて、三国(みくに)に奉迎(むかへまつら)しむ。 夾衛兵仗(つはものもてはさみまもりて)、 粛整容儀(すがたふるまひをととのへて)、 警蹕前駈(さきばらひして)、 奄然而至(にはかにしていたれり)。 於是(ここに)、男大迹天皇、晏然(やすらけく)自若(いすすかざ)りて、 胡床(あぐら、くれとこ)に踞坐(ほこりをり)て、 陪臣(おみ)を斉列(ととのへな)べて、 既(すでに)帝(みかど)の坐(ましま)す如し。 節(しるし)を持てる使(つかひ)等(ども)、是(こ)に由(よ)りて敬(ゐやま)ひ憚(はばか)りて、 心を傾(かたぶ)け命(おほせごと)に委(ゆだ)ねて、 忠誠(あかきこころ、ちうせい)を尽くさむと冀(こひねが)ひき。
適(たまさかに)河内馬飼首(かふちのまかひのおびと)荒籠(あらこ)を知りて、密(ひそかに)使(つかひ)を奉遣(つかはしまつ)りて、 具(つぶさに)大臣大連(おほまへつきみおほむらじ)等(たち)奉迎(むかへまつる)所以(ゆゑ)にある本意(もとのこころ)を述べしめまつりき。 二日三夜(ふつかみや)留まりて遂(つひ)に発(た)ちむとして、乃(すなはち)喟然(なげきし)て[而]歎(なげき)曰(のたまひしく)、 「懿哉(うれしや)、馬飼首(まかひのおびと)。 汝(いまし)若(もし)使(つかひ)に遣(つかは)さえて来たりて告(つ)げしこと無(な)かりせば、殆(ほとほと)[於]天下(あめのした)に蚩(わらひ)を取らまし。 世に云はく貴賤(たふとしいやし)を論(えら)ふ勿(な)かれ、但(ただ)其の心を重(たふと)ぶべしといふは、 蓋(けだし)荒籠をや之(これ)謂ふ乎(か)。」とのたまひき。 践祚(せむそ、くらひにつきたまふ)に至りしに及びて、荒籠に寵待(めぐみ)を厚く加へたまひき。
天皇行(みゆき)して樟葉宮(くすはのみや)に至ります。 《許勢男人大臣》 巨勢は、室宮山古墳(奈良県御所市室(大字))の南の地域。巨勢山古墳群がある(第105回)。 大臣の訓みは基本的に「おほまへつきみ」だが、許勢男人については一般に「おほおみ」と訓読される。 これは側近の最上位に大伴金村大連にいるからという考え方によるのかも知れない。 〈時代別上代〉によれば「「都夫良意富美」も、書紀では「円大臣」(雄略前記)と記されている。」 しかし、「「大臣」の字は〔中略〕数多く見えるが、それらにはオホマヘツキミの訛った形、 オホイマチキミ、オホマチキミが見られるだけて、古訓としてオホオミ・オホミの確かな例は見当たらない」。 大宝令〔701年〕によって官職が定義されるが(資料[24])、恐らくその時点で和訓も定まったと思われるから、書紀もそれを基準にするのがよいだろう。 ただ都夫良意富美など伝説で伝わる名については、「大臣=オホミ」でもよいかも知れない。 《三国》
〈国造本紀〉では越地域に十二の国造:若狭・高志・三国・角鹿〔敦賀〕・ 賀我〔加賀〕・加宜〔かが?〕・江沼〔加賀国江沼郡〕・能等〔能登〕 ・宇咋〔能登國羽咋郡〕・伊弥頭〔越中国射水郡〕・久比岐〔越後国頸城郡〕 ・高志深江がある。 このうち高志深江国造には複数の候補地がある。本筋からは離れるが少しだけ述べると、 『国史大系』〔経済雑誌社;1898〕頭注に「国造考云、〔越〕後国頸城郡沼川郷深江村、即是」。 また倭名類聚抄に{頸城郡・沼川【奴乃加波】郷}。沼川郷は、糸魚川付近と言われている(第63回)。 <wikipedia>には「〔新潟県新潟市西蒲区大字福井〕を「深江」の訛として、『国造本記』の高志深江国に比定する説がある」、 『国史大辞典』には「桜井郷にある弥彦神社の宮司高橋祝〔ほおり〕は蒲原郡大領〔だいりょう〕で、阿倍比羅夫や高志深江国造・道君らとともに、大彦命を遠祖としている。」とあるが、 何れも想像の域を出ない。
さて「三国」に話を戻すと、
〈大日本地名辞書〉は、 「今三国町と云ふ、戸数二千三百、九頭竜川の銚に口を以って港を為し…」 「三国港は坂井村と云へり、近時は坂井村三国浦の二区に分かちしこともあり、 蓋大迹天皇の龍潜の旧里にして、坂名井とも云へる歟」 〔三国港は坂井村と言った。最近は坂井村・三国浦の二区に分けられたこともあり、けだし 継体天皇が住んでいた旧里で、坂名井とも言った〕、 また三国港の項で「九頭竜川の落口にして、銚子口と云ふ、 三国市街の西北に布き」と述べる。 同書はこのように、三国・三国港・坂井村・坂中井をすべて同じ所としている。 サカナヰがサカヰと同一なら、ナは古い属格の助詞("~の"と同じ)であろう。 またミクニノミナトは、〈釈紀〉がいう越の三国(または美称「御国」)の海の玄関口の意味から生まれた呼び名かも知れない。 《高向》 「高椋(たかぼこ)村」は、現在は福井県坂井市丸岡自治区の一部にあたる。 高椋村は町村制〔1889〕によって成立したもので、その前の時代の村名に高椋・高向はないので(<wikipedia>「坂井郡」による)、 高椋村が〈倭名類聚抄〉の「高向(たかむこ)郷」から直接繋がるかどうかは分からない。 ただ、「椋」をムクでなくボコと発音するところに、地名の古さを感じさせる。 振媛は「三国坂中井」住んでいたときに妃として迎えられ、夫の死後遺児を連れて「高向」に帰ったのだから、 三国坂中井と高向は同じ場所のように読める。 実際、書紀には持節使を「奉二-迎三国一」とあるので、高向邑は三国の別称または一部である。 しかし、上宮記では「召二-上自三国坂井県一」され、「祖三国命坐多加牟久村」に帰る。 多加牟久(たかむく)村に「祖三国命坐」〔氏神の三国命を祀る社があるところの〕という説明を書き添えるから、生家ではなく本家の里に身を寄せたという意味である。 書紀の「桑梓」は「祖三国命坐」を美文化したものと見られるが、書紀の書き方でこの意を汲み取るのは難しい。 《持節使》 現在天皇は不在だから、大伴金村大連が代行して「持節」の使を派遣したことになる。 金村は実質的な最高権力者として振る舞っていた。 《密奉遣使》 大連は密使として荒籠を派遣して、本意を説明させる。しかし、その「本意」の中身については何も書かれていない。 金村大連は、その前に倭彦王を招こうとして逃げられている(継体天皇2)。 遡って仁賢天皇は、物部氏の本拠地の石上広高宮に事実上幽閉されて傀儡となり、独立志向を見せた武烈天皇は金村大連独裁下で王朝を廃されたと伺わせる節がある (第229回)。 実際、金村大連は迎えの法輿まで用意して「奄然」と〔=突然〕押し掛けさせたのだから、このまま輿に乗せて石上に連れていくつもりだったと思われる。 男大迹王が、このまま連れていかれれば仁賢天皇のように傀儡となるだろうと警戒したのは当然である。 このような疑念を払拭するために荒籠を派遣して説明したが、男大迹王は容易に納得せず交渉は難航したことが、「二日三夜」という語に示されている。 男大迹王が「晏然自若」に対応したと書くのも、この毅然とした姿勢によるものだろう。 男大迹王と荒籠の交渉の内容は伏せられているが、それでも文脈そのものから交渉の中身は分かるようになっているのである。 《大意》 元年正月四日、 大伴金村大連は更に議を諮り、 「男大迹王(おうどのみこ)は、 性質は慈仁、孝順でいらっしゃるので、 天の緖を承けていただくべきだと存じます。 冀(こいねが)わくば、慇懃に勧進し、 帝の業を継ぎ、興隆していただくことを。」と述べ、 物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおおむらじ)、許勢男人大臣(こせのおひとのおおまへつぎみ)を始めとして皆が 「天皇の枝孫から心を研ぎ澄まして選べば、賢者は唯男大迹王です。」と申し上げました。 七日、 臣(おみ)連(むらじ)らを持節使として遣わし、法駕を準備させて三国(みくに)に奉迎させました。 兵仗をもって挟み護衛し、 容儀を粛々と整え、 先払いの警備をし、 奄然と〔=突然に〕至りました。 すると男大迹天皇は悠然自若にして、 胡床(こしょう)に誇り高くお座りになり、 陪臣を整列させ、 既に帝でいらっしゃる如しでした。 持節使の一行は、これを見て敬い恐れ憚り、 傾心し、命(めい)に身を委ね、 忠誠を尽すことを冀(こいねが)う気持ちになりました。 ところが、男大迹天皇は、〔大伴金村大連〕の心の裏を尚も疑い、久しく皇位を受けませんでした。 〔大伴金村大連は〕たまたま河内馬飼首(かわちのまかいのおびと)荒籠(あらこ)を知っていて、密かに使者として奉遣し、 具(つぶさに)大臣や大連が奉迎する所以について本心を述べさせました。 荒籠は三晩二日滞在して遂に帰路に立とうとしたそのとき、感嘆して仰りました。 「うれしや、馬飼首(まかいのおびと)よ。 お前がもし使いに遣わされて来て、告げることが無ければ、もう少しで天下に蚩(わら)われるところであった。 世に貴賤を論ずるなかれ、ただその心を尊ぶべしというのは、 蓋(けだ)し荒籠のことを言うか。」と。 後に践祚に至るに及び、荒籠に寵待(寵愛の待遇)を厚く加えられました。 二十四日、 男大迹天皇は三国の地を離れ、樟葉宮(くすはのみや)に至りました。 【継体天皇紀-元年二月四日】 継体4目次 《大伴金村大連乃跪上天子鏡劒璽符再拜》
大伴金村(おほとものかなむら)の大連(おほむらじ)、乃(すなはち)跪(ひざまづ)きて、天子(あまつみこに、あまの)鏡(かがみ)剣(みつるぎ)璽符(みしるし)を上(たてまつ)りて、再(ふたたび)拝(をろが)む。 男大迹天皇(をほどのすめらみこと)謝(むく)いて曰(まをしたまひしく) 「子民(たみをことして)国を治(をさむ)は、重き事也(なり)。寡人(われ)不才(ふさいにして、かどあらざりて)称(なのり)を以(もちゐる)に不足(たらず)。 願(ねが)はくは、廻(めぐ)り慮(おもひはか)りて賢者(さかしきひと)を択(えら)ふことを請(こ)ひまつる。寡人(われ)[不]敢(あへて)当たらず。」とまをしたまひき。 大伴大連、地(つち)に伏せて固く請(こ)ひまつりき。
大伴大連等(たち)皆(こぞりて)曰(まをさく) 「臣(やつかれ)伏して之(こ)を計(はか)りまつれば、大王(おほきみ)こそ、民(たみ)を子として国を治(をさ)むるに、最(もとも)宜(よ)く称(かな)ひたまへれ。 臣(やつかれ)等(ども)、宗廟社稷(くに)の為に、計(はかりごと)不敢忽(あへておこたらず)。 衆(ひとびと)が願(ねがひ)に藉(よ)るを幸(さきはひとし)て、聴(き)き納(をさ)めを垂(た)れたまふことを乞ひまつる。」とまをして、 男大迹天皇曰(まをしたまはく) 「大臣(おほまへつきみ)大連(おほむらじ)将(いくさのかみ)相(すけ)諸(もろもろの)臣(おみ)、咸(みな)寡人(われ)を推してあれば、寡人(われ)敢(あ)へて不乖(そむきまつらじ)。」とまをしたまひて、 乃(すなはち)璽符(みしるし)を受けて、是の日、天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。
許勢男人大臣(こせのをひとのおほまへつきみ)を大臣(おほまへつきみ)に為したまひて、 物部麁鹿火大連(もののべのあらかのおほむらじ)を大連と為たまひて、 並(な)べて故(ふる)きの如し。 是(こ)を以ちて、大臣大連等(たち)各(おのもおのも)職(つかさ)の位(くらゐ)に依(よ)りてあり[焉]。 《天子》 〈汉典〉によれば「天子:旧称下統二-治天下一的帝王上。 古代認下為二帝王一乃受二天命一而有二下天下一、 所下-以帝王為二上上天的児子一、称為二「天子」一。 [英語]Son of Heaven。」 〔旧く天下を統治する帝王を称す。古代、帝王となるは、すなわち天命を受けて天下を有すると認め、帝王は上天の児子なるがゆえに、「天子」であると称する。〕 つまり、中国語においては、「子」はもともと「son」の意であると解釈されている。 その原意に従えば「天子」は「あまつみこ」だが、「あまつみこ」は〈時代別上代〉の見出し語にはなく、上代語としては一般的でないようである。 倭語としては「天子鏡剣璽符」をひとまとめにして、「あまつしるし」と訓むのが自然である。 しかし、構文としては「上」(たてまつる)が二重目的語をとり、「天子」〔~に〕と「鏡剣璽符」〔~を〕に分かれている。 《璽符》 「鏡劒璽符」は、後ろの方に「受二璽符一」があるから、「鏡・劒・璽符」という区切りである。 書紀で三種の神器「鏡・劒・璽」がセットとして出てくるのは実はここを含む二例のみで、もう一例は、持統天皇即位の「奉上神璽劒鏡於皇后」〔持統天皇は天武天皇の皇后で、天武崩の後践祚した〕である。 允恭天皇紀や顕宗天皇紀他で出てくる皇位継承のしるしは、「璽」(または「璽符」)のみで、いずれも預かっていた臣下から新天皇に上(たてまつ)られる。 〈汉典〉は「璽符:猶印信。天子所用」〔印信と同じ。天子が用いる〕、「印信:政府機関的各種印章、公私印章的総称」と述べるから、 つまり「璽符」の本来の意味は天皇の公式の印章である。現代でも法律の公布は天皇の国事行為とされるが、その原本への天皇の署名押印を、「御名御璽」と表現する。 このように、璽符は勾玉とは全くの別物である。 しかしいわゆる三種の神器を「鏡剣璽」で表してあれば、「璽」を「まがたま」と訓まなければならなくなる。 強いて言うなら、皇帝の璽は「玉」(翡翠など)を用いる(魏志倭人伝72回)から、勾玉との間に宝石という共通性だけはある。 時代が下って『平家物語』-「先帝御入水の事」巻を見ると、二位殿〔二位の清盛の妻〕が安徳天皇を抱いて入水するシーンが、 「神璽を脇に挟み、宝剣を腰にさし、主上を抱き参らせて」と描かれる。この「神璽」が勾玉であることは明らかである。 持統天皇紀の「神璽」も既に勾玉であったと考えた方がよいだろう。 書紀の「α群」の記述を見ると、原文著者自身が倭語独自の漢字の使用法についての研究途上にあったことが伺われる〔「妹」への註釈など;仁賢天皇3まとめ〕。 α群が雄略天皇紀から書き始められたと仮定すると、その初期はまだ三種の神器への理解が不十分で、践祚を中国文化における璽符の受領と表現したと考えられる。 また持統天皇紀(三十巻)については、α群β群の判別の対象から外されている(第193回)が、 それでも、皇位のしるしが璽符⇒鏡劒璽符⇒神璽剣鏡と遷り変るのを見ると、 「璽」は書紀の執筆が進む過程で、璽符(天子の印章)から神璽(勾玉)に意味が変化したと見るべきであろう。 《勾玉》 魏志倭人伝には壱与からの魏への職貢に「青大句珠二枚」が含まれ、これが勾玉であった可能性がある (魏志倭人伝第86回)。 我が国の古墳から出土する勾玉は数cm程度だが、「大句珠」というからにはもう少し大型の立派なものであろう 〔なお、日本では"句"と"勾"を別字とするが、本来は同字である〕。 恐らく弥生時代から勾玉・剣・鏡は諸族の王位の証となる宝物で、古墳時代には大王が支配下の王に下賜したことが考えられる。 〈雄略天皇紀〉九年五月に、小鹿火宿祢が天皇から下賜された八咫鏡を返上したと見られる記述がある(雄略天皇[12]まとめ)。 魏皇帝に勾玉を贈る行為も、その延長線上にあったのかも知れない。 従って、践祚にあたって剣・鏡とともに勾玉を受け継ぐ習慣が古代の大王の頃からあったことは間違いないだろう。 ところが、書紀を書き始めた頃はこの知識が著者に欠けていた。 「爾」は元々印章を模った象形文字で、後に二人称代名詞などの意味でも使われるようになったので、区別のために「玉」をつけて「璽」とした。 この「璽」の字の勾玉への転用は、書紀によるのは間違いないだろう。 それなら書紀全体を精査して、すべての「璽符」を「神璽劒鏡」に直すべきであった。 《西向讓者三南向讓者再》 「西向讓者三、南向讓者再」とは、目ぼしい地方氏族の長に使者を送って皇位の継承を依頼したが、何れも断られたという意味であろうと思われる。 「西に向かふは三たび」は丹波・丹後方面、「南に向かふは二たび」は近江方面を指すか。 《大意》 〔元年〕二月四日、 大伴金村大連は、こうして跪(ひざまづ)き、天子に鏡、剣、璽符(じふ)を捧げ、二拝しました。 男大迹天皇は謝して 「民を子として国を治めるのは、重いことである。寡人(かじん、=私)は不才にして、称号を以ってするには不足である。 願わくば、もう一度慮って賢者を選択することを要請する。寡人は敢て引き受けない。」と仰りました。 大伴大連は、地に伏せて固く請いました。 男大迹天皇は、西を向いて譲る事三度、南を向いて譲る事再度に及びました。 大伴大連等はこぞって 「臣(しん)、伏してこのことを議論し、大王(おおきみ)こそが民を子として国を知ろしめるのに、最もよく適う方でございます。 臣どもは、宗廟社稷〔=国家〕のために計ることを、敢て怠りません。 民衆の願いに依ることを幸として、聴き届けお納めいただく情を垂れてくださることを乞うものです。」と申し上げました。 男大迹天皇は、 「大臣(おおまえつぎみ)、大連(おおむらじ)。将相〔将軍と大臣〕、諸臣の皆が寡人を推すのであれば、寡人は敢て背くことはない。」と仰り、 璽符を受け、この日、天皇(すめらみこと)に即位されました。 これを以って大伴金村大連は大連に、 許勢男人(こせのをひと)大臣は大臣に、 物部麁鹿火(もののべのあらかひ)大連は大連に、 並べて以前の通りとしました。 このように、大臣大連等はそれぞれ元の職位に依りました。 【継体天皇紀-元年二月十日~三月一日】 継体5目次 《天皇曰可矣》
大伴大連奏請(ねがひまをして)曰(まをししく) 「臣(やつかれ)聞く、前(さき)の王(おほきみ)之(の)宰(つかさど)りし世(よ)は[也]、 維城(ゐじやう、ますらを)之(の)固め非(なさずあ)れば、以ちて其の乾坤(けむこむ、あめつち)を鎮(しづむること)無し。 掖庭(えきてい、うちつみや)之(の)親(おや)非(あらずあ)れば、以ちて其の趺萼(ふがく、あなすゑ)に継げること無し。 是の故(ゆゑ)に、白髮天皇(しらかのすめらみこと)嗣(ひつぎ)無く、 臣(わが)祖父(おほち)大伴大連室屋(おほとものおほむらじのむろや)を遣(つか)はして、州(くに)毎(ごと)に三種(みくさ)の白髮部(しらかべ)を安(やす)く置(お)かしめて 【三種と言ふ者(は)、一(ひとつ)白髪部の舎人(とねり)二(ふたつ)白髪部の供膳(かしはで)三(みつ)白髪部の靫負(ゆけひ)也(なり)】、 以ちて後世(のちのよ)之(の)名(みな)を留(とど)めたまひき。
請(ねがはくは)、手白香皇女(たしらかのみこ)を立て納(をさ)めて皇后に為(な)したまひて、 神祗(かみつかさ)の伯(かみ)等(たち)を遣はして、神祗(あまつかみくにつかみ)を敬(ゐやまひ)祭らしめて、 天皇(すめらみこと)の息(みこ、みむすこ)を求めたまひて、允(まこと)民(おほみたから)の望みに答へたまはむとねがひまつる。」とまをしき。 天皇曰(のたまひしく)「可(うべなり)」とのたまひき[矣]。
詔(みことのり)曰(のたまはく) 「神祗(あまつかみくにつかみ)、主(ぬし)の乏(つ)きること不可(ゆるさじ)。 宇宙(あめつち)、君(きみ)の無きこと不可(ゆるさじ)。 天(あめ)黎庶(おほみたから)を生みたまひて、樹(た)たすに元首(おほきみ)を以(もちゐ)て、 司(つかさど)ら使(し)めて養(やしなひ)を助(す)けて、性命(いのち)を全(また)から令(し)めたまふ。 大連(おほむらじ)、朕(われ)息(みこ)無からむことを憂(うれ)へて、国家(くにいへ)の以(ために)誠款(まこと)を被(かがふ)りて、 世々(よよ)忠(ちう、まこと)を尽くしまつること、豈(あに)唯(ただ)朕(わが)日(ひ)なるのみ歟(や)。 [宜]礼儀(ゐや)を備(そな)へて手白香皇女を奉迎(むかへまつる)べし。」とのたまふ。
皇后(おほきさき)に手白香皇女(たしらかのみこ)を立たせたまひて、教(をしへ)を[于]内(うち)に修(をさ)めて、遂に一男(ひとりのみこ)を生む。 是(これ)天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにはのみこと)と為(な)りたまふ。【開、此を波羅企(はらき)と云ふ。】 是(これ)嫡子(ひつぎのみこ)而(にあれども)幼年(をさな)くありて、[於]二兄(ふたりのあに)の治(をさ)めたまひし後(のち)に、其の天下(あめのした)ををさめたまひて有り 【二兄者(は)、広国排武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと)与(と)武小広国押盾尊(たけをひろくにおしたてのみこと)と也(なり)、下文(しもつふみ)を見よ】。 《趺萼》 萼、また趺萼は花のガクを意味する。それがこの文脈では「子孫」の意味で使われている。 そこには何らかの謂れがあるはずである。 欽明天皇紀二十三年条にも「況乎太子大臣処二趺蕚之親一泣血銜怨之寄」 〔況(いわん)や、太子大臣が趺蕚の親の処に立ち、血涙を流し恨みを寄せるは〕 がある〔蕚は萼の異体字〕。 〈時代別上代〉は「こはな」の項で、これに二通りの古訓「趺蕚」 「趺蕚」を示し、 コハナ・アナスヱはともに子孫を意味すると述べる〔同辞典は見出し語に直接関係あるものに平仮名、参考事項に片仮名を用いる〕。 そして、継体紀には古訓「趺萼」を示し、 「「趺萼」は毛詩(小雅常棣)に関係することばで、「趺」は「附(柎・拊)」と同じく、花の萼をいう。 コハナはおそらく訓読によって生まれた語であろう。」 〔毛詩〔=詩経〕の中の一首「小雅常棣」に出てくる語句「趺蕚」が、この詩のテーマ「子孫」を意味するようになり、この「趺蕚」(ガク)を「コハナ〔小花〕」と訓読したからだろう〕と述べる。 「小雅常棣」は、〈百度百科〉によると、 「是中国古代第一部詩歌総集《詩経》中的一首詩。這是周人宴会兄弟時歌唱兄弟親情的詩。」 〔『詩経』の一首で、これは周の時代の人の宴会で兄弟の宴会の時、兄弟の親愛の情を歌う詩〕で、 歌い出しは「常棣之華。鄂不韡韡。凡今之人。莫如兄弟…」である 〔「常棣」は学名Cerasus japonica、和名ニワウメ、バラ科の低木。〈百度百科〉の解説によれば、「鄂」は"萼"の通用。「不」は"丕"〔=立派な〕の通用。「韡韡」は「鮮明茂盛的様子」〕。 そして詩文全体で「兄弟」の語が8回でてくる。 また〈学研新漢和〉によると「跗」という漢字は「趺」に通用し、「跗萼:花のうてな〔ガク〕。くっついたところから、兄弟のむつまじさにたとえることもある」という。 この譬えは、恐らく「小雅常棣」が起源であろう。 このように「趺萼」詩文中の語句から、兄弟の親愛の意味に転じたものであった。書紀がこれを「子孫」に拡張したのは、そういう使い方もあったのかも知れないが、 書紀原文作者の個人的な趣向かも知れない。 《可不愴歟》 「可不」は「不可」の誤りかも知れないと思い、漢籍に用例を探したところ、 『礼記』に「其礼可不重与」〔それら〔人の子・人の弟・人の臣・幼き人〕の礼は、〔成人の礼と〕同じでなくてよいか〕、 『説苑』に「可不慎乎」〔慎まないことが許されるか〕があった。これらは疑問または反語の形である。 従って「可不愴歟」は文法上許され、「不愴」が許されるのかという反語である。 つまり、子を残さないなどという痛ましいことが許されようか。ここは手白香皇女を妃に迎えてに神祇を拝み、皇子を得なさいませと勧めるのである。 《大意》 〔元年二月〕十日、 大伴大連は奏請して 「臣(しん)聞くに、先王〔=武烈天皇・清寧天皇〕の宰世〔=治世〕は、 維城(いじょう)の固め〔=勇者〕がなかったので、その乾坤(けんこん)〔=天地〕を鎮めることができなかった。 掖庭(えきてい)の親〔=子を産んだ後宮〕がいなかったので、その趺萼(ふがく)〔=子孫〕を継ぐことができなかった。 このため、白髮天皇(しらかのすめらみこと)〔=清寧天皇〕は継嗣がなかったので、 臣の祖父、大伴大連室屋(おおとものおおむらじのむろや)を遣わして、州毎に三種の白髮部(しらかべ)を安置して 【三種というのは、一、白髪部の舎人(とねり)、二、白髪部の供膳(かしわで)、三、白髪部の靫負(ゆけひ)である】、 それによって後世に名を残された。 ああ、これが悼(いた)ましくないと言えましょうか。 願わくば、手白香皇女(たしらかのひめみこ)を納めて皇后となされ、 神祗官の伯(かみ)〔=長官〕らを遣わし神祗を敬祭して、 天皇の子息を求められ、まことに人民の望みに答えられますように。」と申し上げました。 天皇は「分かった」と仰りました。 三月一日、 詔を発せられました。 「神祗(あまつかみくにつかみ)は主の欠乏を不可とし、 天地は君の不在を不可とする。 天は黎庶(れいしょ)〔=民〕を生みなされ、〔国の〕樹立には元首を用いて 司(つかさど)らせ、天は養育を助け、生命を全うさせた。 〔大伴金村大連〕は朕に子息ができないことを憂え、国家のために誠款(せいかん)を被(こうむ)って〔=誠実な役割を担って〕、 代々忠を尽くし、豈(あに)朕の代に限られようか。 礼儀を備えて手白香皇女を奉迎すべし。」 五日、 皇后(おおきさき)に手白香皇女(たしらかのひめみこ)を立たせられ、教えを内に修めて〔=大伴金村が説いた節理を身をもって示し〕、遂に一男を生みました。 これが天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと)〔=欽明天皇〕です。 この嫡子は幼年であったので、二人の兄が治めた後に、天下を知ろしめました 【二人の兄とは、広国排武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと)〔安閑天皇〕と武小広国押盾尊(たけおひろくにおしたてのみこと)〔宣化天皇〕である。下文を見よ】。 【樟葉宮】
そこで、第114回では第和珥氏が木津川の両岸に居住していた和珥氏が内部分裂し、川を挟んで闘ったという解釈を試みた。 継体天皇の時期でも、樟葉は和爾氏系諸族の居住地であったと仮定しよう。 すると、継体天皇の出身地とされる近江国高嶋郡あるいは越前国坂井郡に繋がるラインとして、 羽黒臣(山城国久世郡)⇒栗田臣(山城郡愛宕郡)⇒近淡海国造(建部大社)⇒小野臣(近江国滋賀郡)⇒都怒山臣(近江国高嶋郡)が浮かび上がる。 それでは、継体天皇を輩出した一族は、和珥氏の一族なのであろうか。 ところが和珥氏系列とは別に、若野毛二俣王を祖として倭から北陸に進出した系列があり、継体天皇はその通過点として位置づけられるのである。 《三国君・息長君・坂田君・布勢君他》 その系列は、応神天皇段で示される(第159回)。 そこでは、若野毛二俣王の子、意富富杼王が、 「三国君・波多君・息長君・坂田君・酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君」の祖であると述べる。 書紀(継体天皇紀)においては、このうち三国公・酒人公・坂田公について、継体天皇の皇子を起点とする。 また息長君・坂田君・酒人君は、何れも坂田郡を本貫とするらしい。 興味深いのは布勢君で、阿倍朝臣の分流とされる。阿倍朝臣について〈姓氏家系大辞典〉は葛下郡を本貫とするが、 一般的には十市郡の阿倍村〔江戸時代の呼称〕とする説が有力である。 その一派である布勢君は北方へ進出し、近江国坂田郡から伊香郡に達したらしい。 伊香郡には、布勢立石神社(滋賀県長浜市木之本町赤尾793;祭神 意富々杼王・大山咋神)がある。 そしてさらに北上し、越前国坂井郡を経て越中に至ったようである。 以上から、和珥系氏族は琵琶湖西岸、継体天皇系氏族は琵琶湖東岸という住み分けが見えてくる。 よって、継体天皇が樟葉宮に遷ったことには、坂田郡・坂井郡を本拠とする男大迹王(継体天皇)が、 近江国・山城国の和珥系を糾合する動きが見えてくる。 まとめ 男大迹王は、傀儡として物部氏に下ることを断固拒んだ。 それどころか武烈天皇系氏族を廃したことを批判し、手白香皇女を当主として復興させるべきだと主張したのである。 それが密使荒籠との交渉における、男大迹王側の主張であろう。 男大迹王は言葉だけではなく実際に楠葉に居を移し、和珥系諸族を自らの近江・越前系氏族に連合させて対抗した。 「南向譲者三・西向譲者再」は、実際にはこれらの諸族との連合をまとめるための交渉だったのかも知れない。 和珥系諸族は手白香皇女とも繋がっていて、 武力を構えて大伴金村に物部氏との絶縁を迫ったのだろう。こうして物部勢力は包囲されて孤立し、大伴氏も物部氏に乗っかることを止めたと見ることができる。 実際、楠葉宮、及びその後遷都した筒城宮・弟国宮も和珥系諸族の勢力圏である。 晩年(二十年)になって磐余玉穂宮に移っているが、政情の安定とともに大伴氏の本貫かつ倭政権伝統の地に戻ったのかも知れない。 また、手白香皇女自身が男大迹王に働きかけたことも、十分あり得ただろう。 手白香皇女は最終的に自らの皇子欽明天皇を即位させ、それまで朝廷の中核として確固たる地位を占め続けることができた。 だから、手白香皇女が市辺押歯皇子以来の一族の再興を目指し、男大迹王の力を借りて成し遂げたと描くことも可能であろう。 そして欽明天皇を産むから「手白香天皇」と位置付けてもよかったはずだが、安閑天皇・宣化天皇の母は手白香皇女ではなく目子媛だから、やはり「男大迹天皇」が妥当かも知れない。 |
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2019.08.01(thu) [231] 下つ巻(継体天皇1) ▼▲ |
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品太王五世孫袁本杼命
坐伊波禮之玉穗宮治天下也 品太王(ほむたのおほきみ、ほむたのすめらみこと)の五世(いつよの)孫(ひこ)袁本杼命(をほどのみこと)、 伊波礼之玉穂宮(いはれのたまほのみや)に坐(ましま)して天下(あめのした)を治(をさ)めたまひき[也]。 天皇娶三尾君等祖名若比賣 生御子 大郎子 次 出雲郎女【二柱】 又娶尾張連等之祖凡連之妹目子郎女 生御子 廣國押建金日命 次 建小廣國押楯命【二柱】 又娶意冨祁天皇之御子手白髮命【是大后也】 生御子 天國押波流岐廣庭命【波流岐三字以音一柱】 又娶息長眞手王之女麻組郎女 生御子 佐々宜郎女【一柱】 天皇三尾君(みをのきみ)等(たち)の祖(おや)、名(な)は若比売(わかひめ)を娶(めあは)せて、 [生]御子(みこ)、大郎子(おほのいらつこ) 次に、出雲郎女(いづものいらつめ)をうみたまふ【二柱(ふたはしら)】。 又、尾張連(をはりのむらじ)等之(の)祖(おや)、凡連(おほしむらじ)之妹(いろど)目子郎女(めこのいらつめ)を娶せて、 [生]御子、広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)、 次に建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと)をうみたまふ【二柱】。 又、意冨祁天皇(おほけのすめらみこと)〔仁賢天皇〕之(の)御子(みこ)手白髮命(たしらかのみこと)を娶せて【是(これ)大后(おほきさき)也(なり)。】、 [生]御子、天国押波流岐広庭命(あまくにおしはるきひろにはのみこと)をうみたまふ【波流岐の三字(さむじ)音(こゑ)を以(もちゐ)る。一柱(ひとはしら)。】。 又、息長真手王(おきながまてのおほきみ)之(の)女(むすめ)、麻組〔=麻績(をみ)?〕郎女(をくむのいらつめ)を娶せて、 [生]御子、佐佐宜郎女(ささげのいらつめ)をうみたまふ【一柱】。 又娶坂田大俣王之女黑比賣 生御子 神前郎女 次 田郎女 次 白坂活日子郎女 次 野郎女亦名長目比賣【四柱】 又娶三尾君加多夫之妹倭比賣 生御子 大郎女 次 丸高王 次 耳上王 次 赤比賣郎女【四柱】 又娶阿倍之波延比賣 生御子 若屋郎女 次 都夫良郎女 次 阿豆王【三柱】
[生]御子、神前郎女(かむさきのいらつめ)、 次に〔茨〕田郎女(〔まむ〕たのいらつめ)、 次に白坂活日子郎女(しらさかのいくひこのいらつめ)、 次に〔小〕野郎女(〔を〕ののいらつめ)、亦の名は長目比売(ながめひめ)をうみたまふ【四柱(よはしら)】。 又、三尾君(みをのきみ)加多夫(かたぶ)之(の)妹(いろど)倭比売(やまとひめ)を娶(めあは)せて、 [生]御子、大郎女(おほのいらつめ)、 次に丸高王(まるたかのみこ)、 次に耳上王(みみのへのみこ)、 次に赤比売郎女(あかひみのいらつめ)をうみたまふ【四柱】。 又、阿倍之波延比売(あべのはえ乙ひめ)を娶せて、 [生]御子、若屋郎女(わかやのいらつめ)、 次に都夫良郎女(つぶらのいらつめ)、 次に阿豆王(あつのみこ)をうみたまふ【三柱(みはしら)】。 此天皇之御子等幷十九王【男七女十二】 此之中 天國押波流岐廣庭命者治天下 次 廣國押建金日命治天下 次 建小廣國押楯命治天下 次 佐佐宜王者拜伊勢神宮也 此(この)天皇之(の)御子等(たち)并(あはせ)て十九王(とはしらあまりここのはしらのみこ)【男(ひこ)七(ななはしら)女(ひめ)十二(とはしらあまりふたはしら)】。 此之(この)中(うち)、天国押波流岐広庭命者(は)天下を治めたまひき。 次に広国押建金日命は天下を治めたまひき。 次に建小広国押楯命は天下を治めたまひき。 次に佐佐宜王者(は)伊勢神宮(いせのかむみや)を拝(ゐやま)ひたまひき[也]。 品太王(ほむたのおおきみ)の五世孫の袁本杼命(おおどのみこと)は、 磐余(いわれ)の玉穂宮(たまほのみや)にいらっしゃいまして、天下を治められました。 天皇(すめらみこと)は三尾君(みおのきみ)らの祖、名は若比売(わかひめ)を娶して、 皇子、大郎子(おおのいらつこ)、 次に出雲郎女(いずものいらつめ)をお生みになりました【二柱】。 また、尾張連(をわりのむらじ)らの祖、凡連(おおしむらじ)の妹、目子郎女(めこのいらつめ)を娶り、 皇子、広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)、 次に建小広国押楯命(たけおひろくにおしたてのみこと)をお生みになりました【二柱】。 また、意冨祁天皇(おふけのすめらみこと)〔仁賢天皇〕の皇子御子、手白髮命(たしらかのみこと)を娶り【大后(おおきさき)】、 皇子、天国押波流岐広庭命(あまくにおしはるきひろにはのみこと)を生みになりました【一柱】。 また、息長真手王(おきながまてのおおきみ)の娘、麻組〔麻績か〕郎女(おくむのいらつめ)を娶り、 皇女、佐佐宜郎女(ささげのいらつめ)をお生みになりました【一柱】。 また、坂田大俣王(さかたのおおまたのおおきみ)の娘、黒比売(くろひめ)を娶り、 皇女、神前郎女(かんざきのいらつめ)、 次に〔茨〕田郎女(〔まむ〕たのいらつめ)、 次に白坂活日子郎女(しらさかのいくひこのいらつめ)、 次に〔小〕野郎女(〔お〕ののいらつめ)、別名長目比売(ながめひめ)をお生みになりました【四柱】。 また、三尾君(みおのきみ)加多夫(かたぶ)の妹、倭比売(やまとひめ)を娶り、 皇子、大郎女(おほのいらつめ)、 次に丸高王(まるたかのみこ)、 次に耳上王(みみのえのみこ)、 次に赤比売郎女(あかひみのいらつめ)をお生みになりました【四柱】。 また、阿倍(あべ)の波延比売(はえひめ)を娶り、 皇女と御子、若屋郎女(わかやのいらつめ)、 次に都夫良郎女(つぶらのいらつめ)、 次に阿豆王(あつのみこ)をお生みになりました【三柱】。 この天皇の皇子たちは併せて十九王【男七柱、女十二柱】です。 この中で、天国押波流岐広庭命は天下を治められ、 次に広国押建金日命は天下を治められ、 次に建小広国押楯命は天下を治められ、 次に佐佐宜王は伊勢の神宮(かむみや)を拝する人となりました。 ささげ…[名] マメ科の一年生草本。つる性または自立。 〈倭名類聚抄〉「大角豆:一名城角豆【和名散々介】色如牙角以名之。」 拝…[動] (古訓) うや。ぬく。をかむ。
【真福寺本】 1娶三尾君等祖: 真福寺本(以下「真」)では「取三尾君等祖」になっている。誤写と思われるが、「取」のままでも意味は通る。 2凡連之妹目子: 真では「凡連之妹自子」になっている。書紀は「目子媛」だから誤写であろう。 3意祁天皇: 真では系統的に「意冨祁」という表記が用いられる(第226回)。 4是大后也:真は、割注に「是太后」となっている。 5割注「波流岐二字以音一柱」:真は、割注「波流岐二字以音」と正字体「一柱」。 6息長眞手王:真「息長手王」は、恐らく誤写。 7佐々宜郎女:真「佐佐郎女」は、恐らく誤写。 8次田郎女:真「次田郎女次田郎女」は酷い誤写のように見えるが、 茨田皇女・馬来田皇女の残骸がこのような形で残ったのかも知れない。 次項参照。 9亦名長目比賣【四柱】:真「【二柱】」。 後述〔【十九王【男七女十二】】の項〕で述べるように、 白坂活日子郎女の前に「娶茨田連小望女関比売、生御子茨田大郎女」が脱落していると見られるので、 本来は「三柱」で、「二柱」と誤写されたのかも知れない。 10大郎女:真「太郎女」。 11若屋郎女:真「君屋郎女」。書紀では「稚綾姫」だから「若」の誤写であろう。 12天國押波流岐廣庭命:真「天國押波流岐廣進命」は、恐らく誤写。
《磐余に都を置いた天皇》 〈大和志〉十市郡には、【古蹟】の項に、「稚櫻宮【池内村。神功皇后。履中天皇。】」(神功皇后3年、第176回)、 「甕栗宮【池内御厨子邑。清寧天皇】」(清寧天皇元年)、 「池辺双槻宮【安部長門邑。用明天皇元年館二磐余双槻池西一。】」などと書き、それぞれ一定の伝承地を示しているが、 玉穂宮だけは「玉穂宮【在所未レ詳】」としてギブアップしている。 《池辺双槻宮》
〈五畿内志〉には「石寸山口神社【大月次新嘗…今称二双槻神社一】」とある 〔比定社:石寸山口神社(奈良県桜井市谷(大字)50〕。 池辺双槻宮を「吉備春日神社」とする説については、吉備池を磐余池と見做したことによると思われるが、 磐余池と言えば東池尻 ・池之内遺跡こそがその堤跡であることはほぼ確実である。 また吉備池には672年まで吉備池大寺〔百済大寺に比定〕 があり、用明朝〔585~587年〕にはまだ池はなかったと思われる (第152回)。 《玉穂宮》 大和志は玉穂宮の所在地を「未詳」とする。 ところが、 桜井市公式サイトの 「大和さくらい100選」紹介(その25)によれば、 「磐余玉穂宮の伝承地は池内の稚桜神社からおよそ300メートル西南にあります」という。 現地案内板や『平成25年度橿原市文化財調査年報』などに添えられた「東池尻・池之内遺跡」の図には、御屋敷(おやしき)・御屋敷山という地名があり、 そこが玉穂宮の伝承地であるという記述が、複数のサイトに見られる。 しかし『大和名所図会』〔1791年〕にはオヤシキのことは書かれず、「人皇廿六代継體天皇は樟葉宮にて即位ありて 同御宇六年〔ママ〕に山背の筒城に都をうつされ同十二年に又みやしが〔ママ。「しが」は近江国滋賀郡〕㐧國にうつし給ひしが又 廿年九月大和國にうつしかへられて磐余の玉穗宮とぞなづけたまひける日本紀にみへたり」とするのみである。 『大和名所記』〔延宝九年;1681〕もほぼ同内容であるが、こちらは正しく「山城㐧國」になっている。 両書とも書紀の要約を載せるのみで、具体的な伝承地は示していない。
恐らくある時代に誰かの「御屋敷」があり、それが地名として残ったのだろうが、それを玉穂宮に結び付けたのは後世の俗説であるように思える。 なお、「御屋敷山」に当たる場所は、現在はむしろその東側より一段低い農地になっており、「山」の面影はない。
《山背筒城》 仁徳天皇朝に皇后石之日売(磐之媛命)が坐(ま)したのも、「筒城宮」であった。 伝承地の石碑が、同志社大学京丹後キャンパス(京都府京田辺市多々羅都谷1-3)内にある (第167回)。 《弟国》 弟国(おとくに)について『大日本地名辞書』は、 「弟国宮址は古来諸説一致せず。 書紀通証云、弟国都跡、連亘上羽井内等、 有地名西京、白井村有地名御垣本〔地名西京有り、白井村に地名御垣本有り〕。 今按ずるに西京柿本恐らくは長岡京の時の遺址〔=遺跡〕ならん、 唯乙訓社乙訓寺の千古依然とする存在する者に就き其近地に求むべきのみ。」と述べる。 弟国が、乙訓郡(おとくにのこほり)の旧称であるのは明らかで、長岡京もここに置かれた。 長岡京は、784年に平城京から遷都し、794年に再び平安遷都した。 白井村は現在の向日市向日町にあり、長岡京の北東部に当たる。 一方「乙訓社」は、式内乙訓坐火雷〔乙訓にますほのいかつちの〕神社の別名。 〈延喜式神名帳〉に{山城国/乙訓郡/乙訓坐火雷神社【名神大。月次新嘗】}、 {祈雨神祭八十五座【並大】/乙訓社一座…已上山城国}とある。 比定社は、角宮神社(すみのみやじんじゃ、長岡京市井ノ内南内畑35)、 現地案内板(長岡市観光協会・(社)京都府観光連盟設置)によれば、 「式内社。乙訓坐火雷神社、略して乙訓社」は 「承久の変(1221)で灰燼に帰し容易に復興を許され」ず、 「旧社地は井ノ内の西部(宮山)〔現在地から約500m西方〕にあった」という。 『大日本地名辞書』は、白井村の遺跡は長岡京のもので、乙訓社の辺りこそが弟国宮であろうという。 【品太王五世孫】 継体天皇段・紀ともに「五世孫」と書くのみで、その系図の中身を書かないのは異例である。 その空白を埋めるのが、〈釈紀〉所引の『上宮記』逸文である(資料[20])。
このうち坂田君・酒人君については、書紀では「継体天皇―兔皇子・中皇子」の子孫とするから、 これらをミックスすれば、「若沼毛二俣王―意富富杼王」は継体天皇へに繋がる血筋の初代・第二代となる。 ただし、記にそれが直接書かれているわけではない。 一方、書紀には意富富杼王が出てこない。逆に父(応神天皇四代孫)汙斯王は「彦主人王」として出てくる。 継体天皇の母振媛についても「活目天皇〔垂仁天皇〕七世之孫」と書き、彦主人王とに妃として迎えられる経過も書く。 よって、書紀は継体天皇の出自について、上宮記など〔=上宮記、若しくは同内容の諸記録〕を参照して書いたと思われる。 恐らくは、記紀ともに上宮記などを参照していて、その一部を取り入れたのであろう。 その五代の名をいちいち挙げなかったのは、上宮記が示す系図を信用していなかったか、または正確な系図自体に価値を感じなかったためと見られる。 ここで注目されるのは、大迹王を選んだ重臣たちの言葉(前回)である。 ――「妙二-簡枝孫一、 賢者唯男大迹王也。」 〔代々の天皇の枝の子孫たちから心を研ぎ澄ませて選べば、賢者は唯一男大迹王のみ。〕。 仮に控えめに一代から3人生まれるとしても、五代孫の総数は35=243人に及び、 それぞれを祖とする氏族の系図はその人数分だけ存在するわけである。この大量の子孫の中から血筋ではなく適性によって選んだわけだから、 わざわざ系図を示すことに意味はなく「五代孫」程度の表現で十分ということであろう。 記紀があれほど大切にしてきた直接的血縁関係を自ら放棄しているのは、驚くべきことである。 ただし、第29代の欽明天皇に至り、手白髪命(手白香皇女)を通して仁徳天皇からの直系を取り戻したと見ることは可能である。 【名前】 《凡連》 宣長は「凡ノ連の凡は、意布志〔おふし〕と訓べし」と述べる。 姓氏としての「凡」は、〈姓氏家系大辞典〉によれば 「凡 オホシ:大〔オホ〕と通じ用ひらる。〔中略〕大押とも、星ともあり。」 また、凡河内の項では「凡河内 オホシカフチ オホカフチ:又大河内に作る。」とある。 よって、姓氏や地名の「凡」は基本的にオホシだが、オホと訓まれることもあったようである。 ここでは「凡連」は個人名である。オホシノムラジでは個人名らしくないからオホムラジかも知れない。 ネットで検索をかける※と、「おほしのむらじ」が33件、「おほむらじ」は0件である。 ※…検索語を「"凡連" "おほしのむらじ"」、「"凡連" "おほむらじ"」のようにする。以下同じ。 《目子郎女》 宣長は「目子郎女」と訓み、 「目徴比売など云類〔いふたぐひ〕の 賛たる名なるべし」と解説する。 メコかも知れないが、一般的にはメノコの方が多い。検索をかけると、メノコは626件、メコは113件である。 《麻組郎女》 記紀で人名には「組」の字が使われるのは珍しいので、書紀と同じ「麻績」の誤写かも知れない。 「組」は見る限り音仮名には使われず、神の名としては上代紀(一書)に「豊組野尊」がある。 本文に「豊斟渟〔とよくむぬ〕尊」、記には「豊雲野〔とよくもの〕神」があるから、人名に「組」が使われたとすれば、「くむ」かと思われる。
「上」を岩波日本文学大系本は小字にしていて、もともと発音を指示する小さな文字であったと解釈している。 これは、書紀の「耳皇子」による判断かも知れない。 氏庸本では大きさに差はないが、やや右にずらして書かれている。 【拝伊勢神宮】 伊勢神宮への皇女の派遣(斎王)は、歴史的には天武天皇に始まる。 「佐佐宜王」の表記では性別不明であるが、書紀では「荳角皇女」で性別は明確である。 伝説としては、斎王は崇神天皇まで遡る(第110回)。 【十九王【男七女十二】】 実際に皇子の柱数は「十九王【男七女十二】」ではなく「十七王【男七女十】」である。 書紀では「二十一王【男九女十二】」である。 そこで、書紀の皇子の順番を変えて記(真福寺本)に対応させてみると、興味深い結果が得られる。
また、「野郎女」という不自然な名前も、本来の「小野郎女」から小が脱落した結果だと思われる。
『岩波古典文学大系』版は、脚注に 「底にはこの上に「馬來」の二字を補い、別に「茨田郎女」を立て、 「【三柱】又娶茨田連小望之女關比賣生御子茨田大郎女」の二十二字を補っている」と記す。 この「底」〔同書の底本『訂正古典古事記』;享和三年〔1803〕〕による校訂は、まさにこれである。 この部分を初めて補ったのが「底本」だから、この脱落は真福寺本・猪熊本以前の極めて古い時期に起こったことになる。 【妃の出身氏族】 《息長真手王》 〈姓氏家系大辞典〉に、 「天日槍は亦新羅の国神なれば、此の息長なる称は彼の国より 渡来せし語ならんかと考へらる。多くの息長氏は此の近江の息長より 発祥せしにして、根源に於いては日槍と関係あらんかと考へらる。」と述べる(第159回「息長君」)。 〈新撰姓氏録〉には〖息長連/〔応神〕天皇皇子渟毛二派王之後也。〗。 【品太王五世孫】の項でも触れた若沼毛二俣王は、咋俣長日子王の女、息長真若中比売を娶って生んだ子である (第148回)。 息長帯比売命(神功皇后)は、紀では開化天皇の四世孫(記では五世孫)とするが、息長氏族の祖である可能性が濃厚である(第109回)。 記では「丹波之遠津臣―高材比売―息長宿祢王―息長帯比売命」、また 「天之日矛―多遅摩母呂須玖……葛城之高額比売命―息長帯比売命」の系列が示される(垂仁天皇1)。 このように、継体天皇は息長一族と終始密接な関係にある。 なお坂田郡に「息長村」があるが、これは町村制〔1889年〕のときに作られた村名である。
尾張は尾張国(愛知県西部)の氏族である。 〈姓氏家系大辞典〉には尾張氏の出自について、 「即ち次の推定を得べし、曰く 「尾張氏は崇神帝頃まで葛城にありたるが、其の時代、或は垂仁帝の朝に至りて 自家の女(大海姫)の生みまつりし皇子八坂入彦命を奉じて東し、美濃に下りたり」と。 景行紀・熱田縁起により「乎止与以後、尾張にありたるは確実なり」、 「尾張氏は垂仁帝前後より尾張の国住居せるを知る」、 「尾張連:神代記に「火明命は是れ尾張連等の始祖也」」と述べ、 「乎止与―建稲種―尻綱根―意乎己連」の系図を示す。 そして「〔尾治〕小金連の父は詳らかならず。意乎己の子なるべし。 其の子阿曽連は允恭紀に尾張連吾襲と見ゆ。 其の後継体紀に尾張連草香あり、古事記には「尾張連の祖凡連」と見ゆ。」と述べる。 つまり、尾張連の発祥は葛城国高尾張邑であるが(第99回)、 乎止与の頃から尾張国に居住し、「草香」「凡連」はその子孫ということだから、 目子媛は尾張国から嫁いだのかも知れない。 《三尾君》 〈倭名類聚抄〉{近江国・高島郡・三尾【美乎】郷}は、高島市安曇川町三尾里に比定される。 振媛の父が別業を設けた地であった(前回)。 垂仁天皇段に「〔垂仁天皇の皇子〕石衝別王者羽咋君三尾君之祖」とある(第116回)。 《坂田大俣王》 書紀では坂田公の祖は継体天皇の皇子、兔皇子とするが、坂田大俣王という名前があるのだから、実際には坂田氏族そのものは継体天皇以前から存在していたことになる。 もちろん「坂田という土地にいた大俣王」とも読めるのだが、この時代は地名も氏族名も同じである。 《阿倍之波延比売》 前回述べたように、阿倍氏の分流である布勢氏は十市郡から坂田郡、伊香郡を経て北国に遷る。 書紀では、和珥臣河内の女、荑媛となっている。和珥氏系図によれば、 「米餅搗大臣命―佐都紀臣(深目臣)―河内臣」である。米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)は、小野神社(延喜式{近江国/滋賀郡/小野神社【二座。名神。大】};論社は滋賀県大津市小野1961)の祭神である。 阿倍系と和珥系は全く系統を異とするから、記と書紀は異なる伝承を採用したようである。 どちらにしても、三尾・坂田・息長と並べてみると近江国の各氏族から妃を迎えることによって、 この地域の政権基盤をがっちり固めた印象である。 磐余玉穂宮に遷都するまでは、都も近くに置き続ける。 ただ遠隔地の尾張連に関しては別の目的があり、物部氏と親密な尾張氏と結ぶことによって、物部氏の孤立化を図ったのかも知れない。
継体7目次 《納八妃》
八(やはしら)の妃(きさき)を納(をさ)めたまふ) 【八妃を納むるに先後(さきあと)有りと雖(いへども)、而(しかれども)此(これ)癸酉に納めりと曰ふ者(は)、 天位(あまつくらゐ)に即(つ)きたるに拠(よ)りて、良き日を占(うら)へ択(えら)ひて初めて後宮(うちつみや)に拝(をろ)がむと、文(ふみ)に為(つく)りき。 他(ほか)皆(みな)此(これ)に効(なら)ふ。】。
生(あ)れましし二(ふたはしら)の子(みこ)、皆(みな)天下(あめのした)を有(をさめてあ)り。 其の一(ひとはしら)は勾大兄皇子(まがりのおほえのみこ)と曰ひて、是(これ)広国排武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと)と為(な)りたまふ。 其の二(ふたはしら)は檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)と曰ひて、是武小広国排盾尊(たけをひろくにおしたてのみこと)と為りたまふ。 次に妃としたまへるは、三尾角折君(みをのつぬをりのきみ)の妹(いろど)、稚子媛(わくごひめ)と曰ひて、 [生]大郎皇子(おほいらつこのみこ) 与(と)出雲皇女(いづものみこ)をうみたまふ。 次に、坂田大跨王(さかたのおほまたのおほきみ)の女(むすめ)広媛(ひろひめ)と曰ひて、 三(みはしら)の女(ひめみこ)を生みたまふ。 長(このかみ)は神前皇女(かむさきのみこ)と曰ふ。 仲(なかつこ)は茨田皇女(まむたのみこ)と曰ふ。 少(おと)は馬来田皇女(うまくたのみこ)と曰ふ。 次に、息長真手王(おきながのまてのおほきみ)の女(むすめ)麻績娘子(おみのいらつめ)と曰ひて、 荳角皇女(ささげのみこ)【荳角、此娑佐礙(ささげ)と云ふ】を生みたまひて、是(これ)伊勢大神(いせのおほみかみ)の祠(まつり)に侍(はべ)りたまふ。
三(みはしら)の女(ひめ)を生みたまふ。 長(このかみ)は茨田大娘皇女(まむたのおほいらつめのみこ)と曰ふ。 仲(なかつこ)は白坂活日姫皇女(しらさかのいくひひめのみこ)と曰ふ。 少(おと)は小野稚郎皇女(をののわかいらつめのみこ)と曰ふ【更(また)の名(みな)長石姫(ながいはひめ)】。 次に、三尾君(みをのきみ)堅楲(かたひ)の女(むすめ)、倭媛(やまとひめ)と曰ひて、 二(ふたはしら)の男(ひこみこ)二(ふたはしら)の女(ひめみこ)を生みたまふ。 其の一(ひとはしら)は大娘子皇女(おほいらつめのみこ)と曰ふ。 其の二(ふたはしら)は椀子皇子(まりこのみこ)と曰ふ。是三国公(みくにのきみ)之(の)先(さき)也(なり)。 其の三(みはしら)は耳皇子(みみのみこ)と曰ふ。 其の四(よはしら)は赤姫皇女(あかひめのみこ)と曰ふ。 次に、和珥臣河内(わにのおみかふち)の女(むすめ)荑媛(はえひめ)と曰ひて、 一はしらの男(ひこみこ)、二はしらの女(ひめみこ)を生みたまふ。 其の一は稚綾姫皇女(わかやひめのみこ)と曰ふ。 其の二は円娘皇女(つぶらのいらつめのみこ)と曰ふ。 其の三厚皇子(あつのみこ)と曰ふ。 次に、根王(ねのおほきみ)の女(むすめ)広媛と曰ひて、 二はしらの男(ひこみこ)を生みたまふ。 長(このかみ)は兔皇子(うのみこ)と曰ひて、是酒人公(さかひとのきみ)之(の)先也(なり)。 少(おと)は中皇子(なかつみこ)と曰ひて、是坂田公(さかたのきみ)之先也。 是の年は[也]、太歳(おほとし、たいさい)丁亥(ひのとゐ)〔五百七年〕。 《拝後宮》 「拝」は神また貴人の前で遜(へりくだ)るから、天皇が後宮を訪れる意味ととることはできない。 妃が後宮入りを拝受した意味か、または後宮に設置された祭壇への拝礼によって後宮入りを象徴的に表した意味と見られる。
前述したように、記では関媛前後の脱落が考えられる。 一方、根王の女広媛が生んだ兔皇子・中皇子は最初から書紀だけの記述と思われる。 この兔皇子は「酒人公の先」、中皇子は「坂田公の先」とされる。また椀小皇子は「三国公の先」とされる。 これらの氏族の起点を、記は大郎子(またの名意富富杼王)とするが、書紀はそこから継体天皇の皇子に移動させているわけである。 これを見れば、継体天皇自身が近江・越前の氏族群の系統のど真ん中にいると言えよう。 書紀は振媛を「垂仁天皇の七世の孫」とするが、 上宮記は「布利比弥命」は「伊久牟尼利比古大王」の六世孫である(上宮記系図) 。書紀が読み誤ったのでなければ、上宮記に加えて同内容の別の書があったことになる。 《根王》 根使主(記は根臣)が、安康天皇紀・段および雄略天皇紀に登場した。 根使主は、押木の玉縵を横領したことが雄略天皇十四年になって発覚して殺された(第192回)。 根使主の子、小根も殺されたが同族の子孫が残り、坂本臣になった。 この話は形の上では、「根王の子、中身子は坂田公の先祖」と類似する。 根王が根使主と同一人物だとすると、雄略十四年は庚戌〔470〕、継体天皇の即位は丁亥〔507〕に相当するので、ざっと37年の隔たりがある。 それでは、広媛は年を取り過ぎである。ただ、雄略天皇紀の日付に確実な根拠はなく後に付与されたものだと考えれば、経過年数の問題は緩和される。 安康天皇段における考察では、「坂本」を和泉国泉郡坂本郷だろうと考えたのだが、 「根使主=根王」が成り立つためには、坂本氏の少なくとも一部は近江国坂本郡に移動したと考えなければならない。 《大意》 〔元年三月〕十四日、 八妃を納められました 【八妃を納めた日には前後があるのにこれを十四日に納めたというのは、 天位〔=皇位〕に即いたことに伴い良き日を占いによって選び、初めて後宮入りを拝命したと文章上で作為したものである。 他の帝の例も皆これに準ずる。】。 初めに尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘、目子媛(めのこひめ)【更名色部(いろべ)】というを妃にされ、 生まれた二人の皇子は、皆天下を治められました。 その一は勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)といい、広国排武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと)となれらました。 その二は檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)といい、武小広国排盾尊(たけをひろくにおしたてのみこと)となられました。 次に妃とされたのは、三尾(みお)の角折君(つぬおりのきみ)の妹、稚子媛(わくごひめ)といい、 大郎皇子(おほいらつこのみこ) と出雲皇女(いづものひめみこ)をお生みになりました。 次は、坂田(さかた)の大跨王(おおまたのおおきみ)の娘、広媛(ひろひめ)といい、 三人の皇女をお生みになりました。 長女は神前皇女(かんざきのひめみこ)といい、 次女は茨田皇女(まんたのひめみこ)といい、 三女は馬来田皇女(うまくたのひめみこ)といいます。 次は、息長(おきなが)の真手王(まてのおおきみ)の娘、麻績娘子(おみのいらつめ)といい、 荳角皇女(ささげのみこ)をお生みになり、この皇女は伊勢大神(いせのおおみかみ)の祠(まつり)に仕えられました。 次は、茨田連(まんたのむらじ)小望(おもち)の娘【或いは妹とも】、関媛(せきひめ)といい、 三人の皇女をお生みになりました。 長女は茨田大娘皇女(まんたのおおいらつめのひめみこ)といいます。 次女は白坂活日姫皇女(しらさかのいくひひめのひめみこ)といいます。 三女は小野稚郎皇女(おののわかいらつめのひめみこ)【別名は長石姫(ながいわひめ)】といいます。 次は、三尾君(みおのきみ)堅楲(かたひ)の娘、倭媛(やまとひめ)といい、 二人の皇子と二人の皇女をお生みになりました。 その一人目は大娘子皇女(おおいらつめのひめみこ)といいます。 その二人目は椀子皇子(まりこのみこ)といい、この皇子は三国公(みくにのきみ)の祖先です。 その三人目は耳皇子(みみのみこ)といいます。 その四人目は赤姫皇女(あかひめのひめみこ)といいます。 次は、和珥臣河内(わにのおみかふち)の娘、荑媛(はえひめ)といい、 一人の皇子、二人の皇女をお生みになりました。 その一人目は稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)といいます。 その二人目は円娘皇女(つぶらのいらつめのひめみこ)といいます。 その三人目は厚皇子(あつのみこ)といいます。 次は、根王(ねのおおきみ)の娘、広媛といい、 二人の皇子をお生みになりました。 兄は兔皇子(うのみこ)といい、酒人公(さかひとのきみ)の祖先です。 弟は中皇子(なかつみこ)といい、坂田公(さかたのきみ)の祖先です。 是の年は、太歳丁亥(ひのとゐ)〔五百七年〕です。 【書紀―二年十二月~五年】 継体9目次 《遷都山背筒城》
三年(みとせ)春二月(きさらぎ)。 使(つかひ)を[于]百済に遣(つか)はす。 【百済本記(くたらほむき)云はく 「久羅麻致支弥(くらまちきみ)、日本(やまと)従(よ)り来たり。」といふ、 未(いまだ)詳(つまひらか)にあらず[也]。】 任那(みまな)に在りし日本(やまと)の県邑(あがたむら)の百済の百姓(はくせい)を括出(くくりで)て、浮き逃れし貫(へのふみだ)の絶てる三四世(みよよよ)のもの者(は)、 並(な)べて百済に遷(うつ)して貫(へのふむだ)に附(つ)けてあり[也]。 五年(いつとせ)冬十月(かむなつき)。 都(みやこ)を山背(やましろ)の筒城(つつき)に遷したまふ。 《耽羅》
一方、〈釈紀〉巻十三「述義九」は「耽羅人」の説明として、太平御覧所引の『北史』の一節を引用している。 出典を調べると、『北史』巻九十四「列伝第八十二。四夷」であった。 ――「隋開皇初。餘昌又遣レ使貢二方物一。拜二-上開府帶方郡公百濟王一。 平レ陳之歲戰船漂至二海東耽牟羅國一。 其船得レ還〔釈紀による引用はここまで〕經二於百濟一。昌資二-送之一甚厚。並遣レ使奉表レ賀レ平レ陳。 文帝善レ之下レ詔曰。彼國懸隔來往至難。自レ今以後不レ須二年別入貢一。 使者舞蹈而去。」 〔隋の開皇〔年号〕初め、餘昌、使を遣はし方物を貢ぎ、 開府〔=役所を開く〕、「帯方郡公百済王」を拝上す〔=称号を戴く〕。 百済王、陳〔南朝、589年滅亡〕平げし歳、戦船漂ひ海東の耽牟羅国に至り、 その船、還り得て百済を経(ふ)。〔餘〕昌、資(たす)け送ること甚だ厚く、並びに使を遣はし陳を平げしことに賀を表す。 文帝はこれを善しとして、詔に曰く「彼の国懸隔〔=遠く隔たる〕にして来往〔=往来〕至難なり。今より以後年別(ごと)の入貢不須〔=不要〕とす。」 使者舞踏し、去る。〕。 つまり、百済王餘昌は開皇年間〔581~600〕初めに「帯方郡公百済国王」の称号を拝受していた。隋が南朝陳を滅ぼした589年、隋の戦船が「海東の耽牟羅国」に漂着したが、 百済経由で帰国することができた。百済王は戦船修理の資材を提供するなどして帰国を助け、併せて陳平定の祝賀使を派遣した。 文帝〔隋の初代皇帝、楊堅〕はこれを喜び、遠くから来るのも大変だから朝貢は毎年でなくてもいいよと言ったのである。 〈釈紀〉は、耽羅が百済南方の島〔済州島〕であることを示す資料として、この部分を引用した。 『北史』巻九十四はまた、「其〔百済の〕南。海行三月有二耽牟羅國一。南北千餘里東西數百里。土多二麞鹿一。附二-庸於百濟一。」などと述べる。 「南北千余里東西数百里」は、 短里(一里=約77m)を用いれば南北80km・東西20~50km程度で、実際の済州島(南北40km・東西70km)に見合うが、「海行三月」では百済から離れ過ぎている。 全羅南道海南(ヘナン)郡から済州島までは約110kmなので、 水行一日=14kmと想定すると、「海行八日」となる。 なお「附庸」とは、中国以外の国同士で勝手に朝貢関係を結ぶことである。 《括出在任那……》 「括出在任那日本縣邑百済百姓浮逃絶貫三四世者並遷百濟附貫也」の意味の把握はなかなか難しいが、次のように区切るべきかと思われる。 「括下-出在二任那日本縣邑一百済百姓上。浮逃絶レ貫三四世者。並遷二百濟一附レ貫也」 百済域内あるいは隣接する小国群の中に、倭人が移り住んで設けた植民地は屯倉(みやけ;書紀は「官家」と表記)と呼ばれるが、 「日本県邑」はその屯倉と同義と思われる。 二か所ある「貫」のうち、「逃絶貫三四世」の「貫」は倭人としての戸籍、「遷二百済一附レ貫」の「貫」は、百済人としての戸籍を意味すると思われる。 よって、「任那の倭の屯倉(みやけ)にいる百済人と見分けのつかない百姓〔=住民〕を括り出し〔=まとめて洗い出し〕、浮き逃げ貫の絶えた〔倭人の祖先が不明となった〕三四世は、百済に移して貫〔戸籍〕に決めさせた」という意味であろう。 ここにも「任那」が出てくるが、これについてはこれまで論じてきたように、任那と呼ばれる小国がある時期存在したことは確かである。 しかし、それとは別に日本の各氏族の屯倉が多くある地域を、任那と呼んだと思われる。 各屯倉には、城壁を設けて厳しく出入りを禁じるようなことをしなければ、周囲から百済の住民が流入して混合状態になることは大いに考えられる。 そこで屯倉の域内の住民の純潔化を図るために一度疑わしい住民を精査し、 流入した百済人はもちろん、代を重ねて倭人の子孫であることが証明できなくなった者も、域外に出して百済の戸籍をとらせたと見られる。 《大意》 三年二月、 使者を百済に遣わしました。 【百済本記に 「久羅麻致支弥(くらまちきみ)が、日本(やまと)より来た。」というが、 未詳である。】 任那(みまな)にあった日本(やまと)の県邑にいた百済の住民と思しき者を一括して調べ、浮き逃れて〔倭人との〕親族関係の絶えた三世四世の者は、 押並べて百済に移し、その戸籍に付けました。 五年十月、 都を山背(やましろ)の筒城(つつき)に遷しました。 【書紀―十二年~二十年】 継体13目次 《遷都磐余玉穗》
都(みやこ)を弟国(おとくに)に遷(うつ)したまふ。 十七年(ととせあまりななとせ)夏五月(さつき)。 百済(くたら)の国王(くにのわう、こにきし)武寧(ぶねい)薨(こう)ず。 十八年(ととせあまりやとせ)春正月(むつき)。 百済(くたら)の太子(たいし)明(めい)〔明襛〕即位。 二十年(はたとせ)秋九月(ながつき)丁酉(ひのととり)を朔として己酉(つちのととり)〔十三日〕、 都(みやこ)を磐余(いはれ)の玉穂(たまほ)に遷したまふ 【一本(あるふみに)云ふ、七年(ななとせ)也(なり)。】。 《武寧薨》 三国史記では武寧王の薨は523年〔癸卯〕で、書紀と一致する。 ただ三国史記では、王子聖王(諱明襛)が直ちに即位し、薨年の翌年ではなくその年が元年となる。 《大意》 十二年三月九日、 弟国(おとくに)に遷都しました。 十七年五月、 百済国王の武寧が薨じました。 十八年正月、 百済太子明〔明襛〕が即位しました。 二十年九月十三日、 磐余(いわれ)の玉穂(たまほ)に遷都しました 【ある出典では、七年という】。 まとめ 継体天皇に至る系列については、「坂田王朝」なる独立王朝があった可能性も考えた(第159回)。 そして南北朝に匹敵する形をも想定したが、北宋・梁が難波・泊瀬王朝(仁徳~雄略)を倭国の代表としたことや、近江国に巨大前方後円墳が存在しないところを見ると、 やはり一定の独立性を備えた地方豪族という位置づけが妥当であろう。 新王朝は、やはり継体天皇一代によって成し遂げられたのである。 その成立は、琵琶湖西岸の旧和珥氏系諸族及び、琵琶湖東岸の息長・坂田・酒人・布勢(阿倍)・三国の諸族の強固な連合に成功したことによると思われる。 最初に都とした楠葉、そして弟国・筒城は、諸族連合の勢力圏の要の位置にあり、伝統の飛鳥・泊瀬・石上とは一線を画する。 さらに三都の位置取りは、宇治川を通して難波に直結する。 こうして男大迹王は朝鮮半島との外交・交易の利権を大伴・物部の大和川経由から奪い取って、富を蓄えたものと見られる。 継体天皇紀では再び百済関係の記事が多くなっていることも、これを裏付ける。 こうして大伴金村とは関係を保持しつつ、物部氏に対しては経済的に締め上げて孤立化を図った。 そもそも金村は男大迹王を大王に据え傀儡として操り、覇権の維持を目論んでいた。 しかし実際に声を掛けてみると、想像を超えて政治的才能を備えた大人物であった。 都を楠葉に置くことを大伴金村に認めさせた時点で勝負はつき、男大迹王は遂に実権を掌握したのである。 継体天皇が晩年になって都を伝統の地の磐余に移したのは、国を隅々まで完璧に掌握して、もはや後顧の憂いはなくなったということであろうか。 |
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⇒ [232] 下つ巻(継体天皇) |
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