古事記をそのまま読む サイト内検索
《トップ》 目次など 《関連ページ》 魏志倭人伝をそのまま読む

[223]  下つ巻(清寧天皇6)

2019.04.06(sat) [224] 下つ巻(顕宗天皇7) 

答白
所以爲然者父王之怨
欲報其靈是誠理也
然其大長谷天皇者雖爲父之怨
還爲我之從父亦治天下之天皇

答へて白(まを)さく、
「所以(ゆゑ)然(しか)為(な)れ者(ば)、父王(ちちぎみ)之(の)怨(あた)、
[欲]其の霊(みたま)に報(むく)いむとおもほすは、是(これ)誠(まこと)の理(ことはり)也(なり)。
然(しかれども)其の大長谷天皇(おほはつせのすめらみこと)者(は)[雖]父(ちち)之(の)怨(あた)と為(な)れど、
還(かへりて、かへりみるに)我之(わが)従父(をぢ、ちちのいとこ)、亦(また)治天下之(あめのしたををさめたまふ)天皇(すめらみこと)に為(な)りたまひき。


是今單取父仇之志
悉破治天下之天皇陵者
後人必誹謗
唯父王之仇不可非報
故少掘其陵邊
既以是恥足示後世

是(これ)今(いま)父の仇(あた)之(の)志(こころざし)を単(ひとへに)取りて、
悉(ことごとく)治天下之天皇の陵(みささき)を破(くだ)か者(ば)
後人(のちひと)や必ず誹謗(そし)らむ。
唯(ただ)父王之(の)仇、非報(むくいざらゆ)不可(ましじ)。
故(かれ)其の陵の辺(へ)を少(すこし)掘りまつりき。
既に是(こ)を以ちて恥(はづかしめらゆ)こと後世(のちのよ)に示すに足らむ。」と


如此奏者
天皇答詔之
是亦大理如命可也

如此(かく)奏(まを)したまへ者(ば)
天皇(すめらみこと)之(こ)に答へ詔(のたまはく)
「是(これ)亦(また)大(おほき)理(ことわり)なり。命(おほせごと)の如く可也(ゆるしたまふ)。」とのたまひき。


 その問いに、このようにお答え申し上げました。
 「そのわけがそれならば、父君の仇を 大長谷天皇(おおはつせすめらみこと)の御霊に報いたいと思われるのは、まことに理に適うことです。
 けれどもその大長谷天皇は、父の仇となられましたが、 振り返ると私達のおじで、また天下を知ろしめす天皇になられました。 これに、今父の仇の志を一重に果たそうとして 天下を知ろしめす天皇の御陵を完全に破却してしまえば、 後世の人は必ず非難するでしょう。
 ただ、父君の仇は、報いを受けることなしに済まされないでしょう。 よって、その御陵の端を少しだけ掘ったのです。 既にこれをもって、辱められたことを後世に示すには十分でしょう。」
 このように申し上げ、 天皇はそれに答えられ、 「これもまた、偉大な理である。仰られた通り了承する。」と仰られました。


…[名] (古訓) うらみ。あた。
従父…父の兄弟。おじ。
…[副] (古訓) ひとへ。ひとへに。ひとり。
氏庸本真福寺本
のちひと…[名] 後世の人。「(万)1801 後人 偲尓世武等 のちひとの しのひにせむと」は五文字にするために「のちのひとの」を縮めたことも考えられる。
…(古訓) やふる。くたく。
はづかしむ…[他]マ下二 恥をかかせる。
のちのよ…(万)3791 古部之 賢人藻 後之世之 堅監将為迹 いにしへの さかしきひとも のちのよの かがみにせむと

【真福寺本】
《唯父王⇒唯又王》
 「唯父王之仇」の「」が、真福寺本は「」。他の個所では「」の字形は明瞭なので、誤写と見られる。
《以是恥足示後世⇒以是取足爾後世》
 真福寺本の「以是取足爾後世」が、そのままでは意味をなさないのは明らかである。 「」は、神代の「-出其鏡-奉天照大御神」 のように、既に「目の前に提示する」意味で使われている。「」を「」の誤りと見ることは自然であろう。
《天皇答詔之⇒天皇奏詔之》
 真福寺本は直前の「如此奏者」に影響されて、「」を「」に誤ったものと思われる。

【従父】
 「従父」の訓みは以下で述べるように、一般的には「をぢ」で、父の兄弟を意味する。
 しかし、血縁関係()を見ると、 雄略天皇の父は允恭天皇。市辺押磐皇子の父は履中天皇。 允恭天皇と履中天皇は、共に仁徳天皇を親とする兄弟となる。
 だから、ここでいう「従父」は実際には「父の従兄弟(いとこ)」となる。
《倭名類聚抄》
 〈倭名類聚抄〉()の説明では、仮に父が4人兄弟の末っ子だとすると、 上から順に「1:伯父、2:仲父、3:叔父、4:父」となり、「叔父」も父上である。 逆に父が長子の場合は、その弟でも「伯父」となり、「伯父は父の年上の兄弟・叔父は父の年下の兄弟」という現代の用法とは異なっている。
伯父:父之兄曰世父。曰伯父。【和名乎知〔をぢ〕】。伯父之弟曰仲父
叔父:仲父弟曰叔父
従母:母之姉妹。曰従母【母方乃乎波〔をば〕】。
従舅:母之従父〔之〕昆弟〔=兄弟〕。為従舅【母方乃於保乎遅〔母方のおほをぢ〕】。
従祖父:父之世父〔=伯父〕叔父。為従祖父【於保乎知】〔おほをぢ〕
 なお、一番年下の父の兄弟を意味する「季父」という語もある。 兄弟を上から年齢順にというから、それに「父」がついてできた語だと考えられる。
 〈倭名類聚抄〉には肝心の「従父」の説明がないが、「従母:母の姉妹〔をば〕から類推でき、 また、従舅〔母方のおほおぢ〕を「母の"従父"の兄弟」とするから、 やはり「従父:父の兄弟」であろう。
《新撰字鏡》
 〈新撰字鏡〉の抄録本では、 「従父【波々方姉妹】」となっている。 『群書類従』〔1800年頃、塙保己一編。〕もこの形だが、抄録本における誤写と思われる。 天治本では、「従父【父方乃伊止古】」である。
 この「従父=父方のいとこ」は〈倭名類聚抄〉で見れは「従父の子」にあたり、不一致である。
新撰字鏡「親族部」
()『群書類従』巻497上
()天治本新撰字鏡
《いとこ》
 〈時代別上代〉は、「いとこ」の意味を「いとしい人」のみとする。「親の兄弟の子」という意味に関しては、 参考として『新撰字鏡』・『字類抄』を紹介しているが、上代語としての認定を避けている。 その一方で、「をぢ」については、「父母の兄弟」の意味を認めている。
 上代に「父母の兄弟の子」を意味する語が存在しなかったとは考えにくく、それが「いとこ」でなければ、何と言ったのだろうか。 同書は、上代の文献には見つけられなかったということだろう。
《訓読》
 親のいとこにあたる男性を、現代語では「いとこおじ(伯従父・叔従父)」という。
 上代に「いとこをぢ」はなかっただろうが、「いとこ」はあったと仮定すれば、「ちちのいとこ」と訓読すべきということになる。
 もし「従父」を「をぢ」と訓むのだとすれば、 「父の従兄弟」も「父の兄弟」に類するものとしてこの語が使われている。もともと上代には「父の兄弟」よりも広い意味があったのか、この場面だけの拡張であったのかは分からない。
 ところが、実は雄略天皇を父の兄弟と位置付けることも可能なのである。 というのは、親子関係のない後継者を、「皇太子」として疑似的に天皇の子と位置付けた可能性がある。
 顕宗即位前紀で意計王を皇太子、弘計王を皇子にしたと書かれたのは、 白髪天皇との間に形式的な親子関係を設定したと解釈することができる。
 高橋氏文の「磐鹿六獦命王子等阿礼〔磐鹿六獦命はわが皇子たちにあれ;=皇子の一人になれ〕(資料[07])の例では、
 かつて安康天皇は、市辺押磐皇子を日嗣の皇子に定めた。 雄略即位前には、 「市邊押磐皇子。伝国而遙付-嘱後事」とある。 また、雄略天皇は、安康天皇を継ぐから即位の時点で皇太子であったということができる。
 よって、市辺皇子・雄略天皇は形式上の兄弟であるから、雄略天皇は意計・弘計の「をぢ」になるのである。

【力関係の逆転】
 意祁命は袁祁天皇に、君主であれば過去の私的な怨讐にいつまでも拘らず、大長谷天皇〔雄略〕の正統を重んじるべきであると諭した。 物語はこのように高貴な道徳心の表現として描かれるが、前後の流れで読むと必ずしも額面通りには受け止めきれない。
《兄弟間の緊張》
 仁賢天皇紀の「難波小野皇后。恐宿敬自死」は、 かつて顕宗存命中に宴席で兄に対して不遜な振舞をしたことによるとする。
 そこからは、顕宗天皇自身が尊大であったと書くことを忌避し、 代わりに皇后に託したと読み取ることができる (仁賢天皇二年)。
 一方、顕宗段において兄の言葉を「〔おほせこと〕」と書いたのはひとまず借訓であろうと判断したが、 既に力関係の逆転が起こっていたことを暗示するのかも知れない。 そして記では、顕宗天皇は兄に諭された直後に崩ずる。 これを流れとして見れば、兄が優位に立って顕宗天皇を誅し、自ら即位したとも読み取れるのである。
 そもそも、弟が兄を差し置いて天位に登った時点から、実は緊張感が漂っている。 弟の即位は兄が天位を譲ったと道徳的に描かれてはいるが、 かつて雄略天皇は覇王ぶりを発揮したように、兄弟は次期天皇の座を巡って争うのが通例であった。 時には流血を伴っている。
 だから顕宗即位を道徳的な営みに戻すためには、大量の美辞麗句を費やす必要があった。
 記紀編纂期になれば、新天皇の即位は高皇産霊神由来の血を継ぐ厳粛な手続きでありたい。 その伝統を確立ようつする意図をもって、神代から初期天皇までが描かれたと思われる。
 代を重ね雄略天皇になると、その覇王ぶりは恐らく古くから知れ渡っていたからそれだけは隠しようがなかったが、 顕宗-仁賢のように記録が残っていない場合は、再び道徳的な継承にしようとしたのだと思われる。
《氏族によるバックアップ》
 意祁袁祁兄弟の対立の焦点は、雄略天皇陵を破却するか否かにあった。 結局それは、雄略天皇をどう評価するかという問題である。
 仁賢天皇が雄略陵の破却を思いとどまらせた〔記では「一部分に留めさせた」〕と書くのは、 かつて雄略天皇を押し立てた氏族の支援を、意祁皇太子が受けるようになっていたことの表現ではないだろうか。 これまでに、物部氏は安康天皇・雄略天皇の二代を押し立てたであろうと推測した (第199回《大県主の出自》)。
 対照的に、顕宗天皇を推したのは飯豊女王を頂点とする忍海氏〔若しくは忍海氏と葛城族諸氏との連合〕であった (第215回)。 そこに、忍海氏の衰退に伴い、物部氏が仁賢天皇を抱きこんで巻き返しに転じたとする筋書きが見えてくる。
 結局、氏族がそれぞれに皇子を担いで覇権を目指したという、当たり前の形に落ち着くのである。

【書紀-20】
20目次 《皇太子億計諫曰不可》
…[動] (古訓) きく。ゆるす。おなへり。むへなふ。
正統…正しい系統の天子(顕宗紀元年)
万機…天子の行うもろもろの政務。
すぶ(統ぶ)…[他]バ下二 ひとつにまとめる。
おしてる…[動]ラ四 照りわたる。
 (万)2679 窓超尓 月臨照而 まどこしに つきおしてりて
華夷…中国(華)と辺境(夷)。
皇太子億計、歔欷不能答。
乃諫曰
「不可。
大泊瀬天皇正統萬機、臨照天下。
華夷欣仰天皇之身也。

皇太子(ひつぎのみこ)億計(おけ)、歔欷(むせひ、すすろひ)たまひて不能答(こたふることあたはず)。
乃(すなはち)諫(いさ)めまつりて曰(まを)したまひしく
「不可(ゆるしまつらず)。
大泊瀬天皇(おほはつせのすめらみこと)万機(よろづのまつりごと)を正(まさ)しく統(す)べたまひて、天下(あめのした)に臨照(おして)りましき。
華夷(みやことひなとに)天皇(すめらみこと)之(の)身(みみ)を欣(よろこ)び仰(あふ)ぎまつりき[也]。

…[動] 腰が重い。(古訓) うれふ。めくる。
…[動] (古訓) もとほる。めくる。
迍邅(ちゅんてん)…行き悩むさま。〈汉典〉処境艱険、前進困難。
…[動] ① つらいことに耐える。② むごいことを平気でする。
 〈汉典〉「① 耐。② 狼心。残酷」。(古訓) しのふ。おそふ。
忍心…むごいことを平気でするこころ。
しのぶ…[自]バ上二 耐え忍ぶ。包み隠す。
おそふ…[他]ハ四 ① 押さえつける。② 襲撃する。
人主…天子。
吾父先王雖是天皇之子、
遭遇迍邅不登天位。
以此觀之、尊卑惟別。
而忍壞陵墓、誰人主以奉天之靈。
其不可毀一也。

吾父(わがちち)先(さき)の王(きみ)、[雖]是(これ)天皇(すめらみこと)之(の)子(みこ)にあれど、
迍邅(とどこほり)に遭遇(あ)ひて天位(あまつくらひ)に不登(のぼりたまはず)。
此(こ)を以ちて[之]観(み)れば、尊(たふとこ)卑(いやしき)惟(ここに)別(わか)たえり。
而(しかれども)陵墓(みささき)を忍(おそ)ひ壊(こほ)たば、誰(たが)人主(おほきみ)や以ちて天之霊(あまつみたま)を奉(たてまつ)らむか。
其(それ)毀(こぼ)つ不可(まじしき)一(ひとつ)也(なり)。

…[副] ①以前に。②(「~ない」を伴い)まったく。
 (古訓) かつて。むかし。そのかみ。
又天皇與億計、
曾不蒙遇白髮天皇厚寵殊恩、
豈臨寶位。
大泊瀬天皇、白髮天皇之父也。
億計聞諸老賢。
老賢曰。

又天皇(すめらみこと)与(と)億計(おけ)と、
曽(かつ)て白髮天皇(しらかのすめらみこと)の厚き寵(うつくしび)殊(こと)の恩(めぐみ)に遇(あ)ひしことを不蒙(かがふらずありせば)、
豈(あに)宝(みたから)の位(くらゐ)に臨(のぞ)みまつれらまし。
大泊瀬天皇(おほはつせのすめらみこと)、白髮天皇之(の)父(ちち)也(なり)。
億計諸(もろもろ)の老賢(さかしきおきな)に聞こゆ。
老賢曰(い)へらく。

…〈汉典〉古同「酬」
無不…〈汉典〉没有不〔ないことがない〕。都是〔すべて〕
やぶる…[自]ラ下二 破れ傷つく。
『言無不詶、
德無不報。
有恩不報、
敗俗之深者也。』

『言(こと)無不詶(むくいざることなき)て、
徳(のり、とく)無不報(むくいざることなし)。
恩(めぐみ)に不報(むくいざること)有らば、
敗俗之深者也(ひとのやぶるることふかくあらむ、はいぞくのふかみにあらむ)。』といへり。

…[動] (贈り物を)うける。(声が)ひびく。(古訓) あへす。うく。
華裔…華夷に同じ。
…[動] のぞむ。位につく。
子民…人民を自分の子のようにかわいがっておさめる。
えたち…[名] 公役に従事すること。
陛下饗國、德行廣聞於天下。
而毀陵、翻見於華裔、
億計恐其不可以莅國子民也。
其不可毀二也。」
天皇曰「善哉。」
令罷役。

陛下(おほきみ)国を饗(う)けたまひて、徳(のり、とく)の行(おこなひ)広く[於]天下(あめのした)に聞こゆ。
而(しかれども)陵(みささき)を毀(こぼ)つは、[於]華裔(みやことひな)とに翻見(かへりみ)て、
億計(おけ)、其の莅(のぞめる)国を以ちて民(おほみたから)を子となし不可(ましじきこと)を恐りまつる[也]。
其(それ)不可毀(こぼつましじき)二(ふたつ)也(なり)。」とまをしたまひき。
天皇(すめらみこと)曰(のたま)はく「善哉(よきなり)。」とのたまひて、
役(えたち)を罷(や)ま令(し)めたまひき。

《吾父》
 〈時代別上代〉によると、「アガとワガと、それぞれ接する語に差があり」、君・児(こ)・恋などは「あが」、 大君・妹・名などには「わが」がつくという。「吾父(我父)」は万葉歌にないので不明だが、母につくのは「わが」なので、「吾父」は「わがちち」か。
 なお、仁賢天皇紀(六年)には、原注に父を俗に「柯曽〔かそ〕と呼ぶとあるが、註釈として書かれるのは一般的でないからであり、 万葉歌は父をすべて「ちち」と訓むから、ここでも「ちち」と訓むべきであろう。
《豈臨宝位》
 「不蒙遇白髪天皇厚寵殊恩」は確定した事実に反する仮定で、「豈」は反語の副詞であるから、 「曽不蒙遇白髮天皇厚寵殊恩豈臨宝位」は、反実仮想反語の複合である。つまり、 「かつて白髮天皇の厚寵殊恩をたまたま蒙ることがなかったとすれば、宝位に臨んでいられたか、いや臨んでいない。」を意味する。
 反実仮想の定型「~せば~まし」を用いれば、 「遇白髪天皇厚寵殊恩」を蒙ることなかりせば、豈(あに)宝位に臨めらまし」となる。 なお、「のぞめら」は「のぞむ」の完了形「のぞめり」の未然形である。 ここにさらに謙遜の補助動詞「まつる」を加えれば、「のぞみまつれらまし」となる。
《曽》
 「かつて(曽、都)」は、〈時代別上代〉によれば「全然。ちっとも。」の意で、「以前の意の副詞カツテは、上代文献には確実な例は見ない」という。 しかし、ここでは白髮天皇が弘計・意計に厚寵殊恩を賜った過去の事象を述べる。 〈時代別上代〉に従えば、「」の訓には「むかし」を用いた方が安全である。
 とは言え、顕宗紀原文の筆者は「不」に引っ張られて「かつて」と訓むつもりで書き、既に「むかし」の意味であったように思える。 もし「むかし」と訓ませるつもりなら、「曽」の代わりに「昔」を用いたのではないだろうか。書紀では「」の字の使用はかなり多い。
《徳無不報》
 「言無不詶」以下の部分の出典を探したが、論語には見つからない。 ただし「徳無不報」だけが、『四書章句集注』〔朱熹(1130~1200)〕の、論語を解説した文の中にあった。 しかし、この書は書紀の頃はまだ存在していない。
《言無不詶徳無不報》
 「徳無不報」は「徳無くして報(むく)いず」とも読めるが、「無-不」という二重否定形かも知れない。
 そこで〈汉典〉を調べると、「無不」の訳語として「都是〔すべてこれ〕を挙げ、その文例に『紅樓夢』63回「…凡聴見者無不笑倒。〔およそ見聞きする者に、笑い倒さない者はいない〕を示すから、 二重否定である。
 『紅樓夢』は18世紀に書かれた作品だから、古い時代はどうだったか分からないのだが、 仮に書紀でも二重否定だったとすれば、「言無不詶。徳無不報。」は、「言葉は必ず返ってくる。徳は必ず返ってくる。」の意味になる。 これに次項の「敗俗」を合わせれば、「天子の言動の影響は民に及び、必ず自らの身に跳ね返るものである」と解釈できるから、意味は合っている。
 ただし、こうすると次の「有恩不報」は「言無不詶徳無不報」から切り離されて、下の「敗俗之深」に繋がる条件節になる。 すなわち「もし〔白髪天皇が弘計を宝位に登らせていただいた〕恩に報いなかったとすれば、」である。
《敗俗之深》
 〈汉典〉に「敗俗傷化」という語の説明がある。曰く「敗俗傷化:敗壊社会風気、影響善良教化。 三国志巻十四。魏書董昭伝:「凡有天下者、莫不貴尚敦朴忠信之士、深疾虚偽不真之人者、以其毀教乱治、敗俗傷化也。」〔社会の気風をを破壊し、善良なる教化に〔悪〕影響を及ぼす。 (魏書董昭伝):およそ天下を治める人は、貴く、なお敦朴忠信の士でなくてはならない。深疾虚偽不真の人は、教えを壊し治を乱すことを以って、"敗俗傷化"する。〕
 よって、「敗俗」は「敗俗傷化」の略で、 「敗俗之深」とは「敗俗〔天下を治めるものの悪行が社会に与える悪影響〕の深さ」であろうと思われる。
 なお、『芸文類聚』〔624〕巻二十四「諫」の「晏子曰」の一節に類似した部分がある。
――「賊民之深者也。君饗國德行未見於眾、而刑辟著於國,嬰恐其不可以蒞國子民也。公曰:守槐之。出犯槐之囚。〔下線部が書紀と一致する部分〕
 この文は、景公が大切にしていた槐〔エンジュ、マメ科の植物〕の木を傷めた者に、死刑を科したことを諫めて止めさせた話である。 最後は、「守槐之役〔槐の守り役を罷免〕し、「槐之囚〔槐のことで囚われた人を解放〕した。
 「」は晏子(晏嬰)自身のことで、これを顕宗紀は「億計」に変える。 また「徳行未於衆〔徳行未だ衆に見えず〕を、 顕宗紀では「徳行広聞於天下〔徳行広く天下に聞こゆ〕として正反対の文にしている。
《大意》
 皇太子(ひつぎのみこ)億計(おけ)は涙にむせび、答えることができませんでした。 しばらくして、諫め申し上げました。
 「不可でございます。 大泊瀬天皇(おおはつせのすめらみこと)万機を正統され〔=政を細やかに正しくまとめられ〕、君臨して天下を照らされました。 華夷は〔=国の中央も地方も〕天皇(すめらみこと)の御身を喜び仰ぎ見ました。
 我が父、先王は天皇の皇子でしたが、 迍邅〔ちゅんてん〕に遭遇し〔=難渋して〕、天位に登れませんでした。
 これを見れば、尊卑はここに区別されます。 けれども陵墓をむごく壊せば、これからどの大王も、どうやって天(あまつ)御霊をお祀りするのでしょうか。 これが、毀損を不可とする第一の理由です。
 また、天皇〔弘計〕と億計(おけ)は、 かつて白髮天皇(しらかのすめらみこと)の厚い寵愛と特別な恩恵をたまたま蒙り、それを蒙らなかったとしたら、 宝位に臨むことがあり得たでしょうか。 大泊瀬天皇は、その白髮天皇の父君であられました。
 億計は諸々の老賢から聞きます。 その老賢の言葉は、 『言葉が、我が身に戻ってこないことはあり得ない。 徳が、我が身に戻ってこないことはあり得ない。 もし、恩恵に酬いなければ、 それは敗俗の深み〔=人を著しく傷つけてしまうこと〕である。』というものです。
 陛下が国を受けられ、徳行は広く天下に聞こえております。 けれども御陵を毀損されれば、華裔〔国の中央と地方〕が皆それを見習い、 億計は、位に即かれた国において、民を子のように愛しむことができなくなることを恐れます。 それが、毀損を不可とする第二の理由です。」と、このように申し上げました。
 天皇は「それは善いことである。」と仰り、 命令の取り消しをお命じになりした。


【儒教的価値観】
 書記において兄が弟に説いた論理は、次の二点である。
 雄略帝は天皇であるが故に無条件に貴いお方である。市辺押磐皇子はそもそも天皇にならなかったのだから卑である。
 弘計天皇たるものが私怨によって復讐なさってしまえば、国中の人民がそれを見習い、翻って天皇がなさる統治の基盤を崩すであろう。
 さらに記のように、心情を配慮して部分的に孝の優先を認める曖昧さを残すことは認めない。 つまりは、書紀では忠は孝に優先し、その原理主義を徹底するのである。
 当時、もし雄略天皇陵あるとされていた古墳に破損があったとすれば、それを顕宗天皇の復讐行為の結果であるとする伝説を書紀は否定したことになる。

まとめ
 弟が兄を差し置いて即位したことを美化するために、顕宗紀ではかなりの努力を払った。 しかし、顕宗段・紀から分厚い装飾表現を除去し、事実経過のみを抽出して残るのは、 弟が兄を差し置いて天位に登り、数年を経ずして兄が弟を追放したと見られることである。 その背景に氏族間の勢力争いが想定されるから、結局これは有りがちな話である。
 しかし"有りがち"だからこそ、逆に種となった事実が現実感を増すのである。 第218回に遡ると、そのまとめにおいて袁祁王子は播磨国のローカルな王に過ぎず、 全国レベルの大王にはならなかったと解釈する余地があると述べた。
 だが、代替わりがいつもの対立を伴う形で行われた事実があったとすれば、意祁袁祁兄弟が大王として実在した可能性は再び高まるのである。