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[223] 下つ巻(顕宗天皇6) |
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2019.04.06(sat) [224] 下つ巻(顕宗天皇7) ▼▲ |
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![]() 所以爲然者父王之怨 欲報其靈是誠理也 然其大長谷天皇者雖爲父之怨 還爲我之從父亦治天下之天皇 答へて白(まを)さく、 「所以(ゆゑ)然(しか)為(な)れ者(ば)、父王(ちちぎみ)之(の)怨(あた)、 [欲]其の霊(みたま)に報(むく)いむとおもほすは、是(これ)誠(まこと)の理(ことはり)也(なり)。 然(しかれども)其の大長谷天皇(おほはつせのすめらみこと)者(は)[雖]父(ちち)之(の)怨(あた)と為(な)れど、 還(かへりて、かへりみるに)我之(わが)従父(をぢ、ちちのいとこ)、亦(また)治天下之(あめのしたををさめたまふ)天皇(すめらみこと)に為(な)りたまひき。 是今單取父仇之志 悉破治天下之天皇陵者 後人必誹謗 唯父王之仇不可非報 故少掘其陵邊 既以是恥足示後世 是(これ)今(いま)父の仇(あた)之(の)志(こころざし)を単(ひとへに)取りて、 悉(ことごとく)治天下之天皇の陵(みささき)を破(くだ)か者(ば) 後人(のちひと)や必ず誹謗(そし)らむ。 唯(ただ)父王之(の)仇、非報(むくいざらゆ)不可(ましじ)。 故(かれ)其の陵の辺(へ)を少(すこし)掘りまつりき。 既に是(こ)を以ちて恥(はづかしめらゆ)こと後世(のちのよ)に示すに足らむ。」と 如此奏者 天皇答詔之 是亦大理如命可也 如此(かく)奏(まを)したまへ者(ば) 天皇(すめらみこと)之(こ)に答へ詔(のたまはく) 「是(これ)亦(また)大(おほき)理(ことわり)なり。命(おほせごと)の如く可也(ゆるしたまふ)。」とのたまひき。 その問いに、このようにお答え申し上げました。 「そのわけがそれならば、父君の仇を 大長谷天皇(おおはつせすめらみこと)の御霊に報いたいと思われるのは、まことに理に適うことです。 けれどもその大長谷天皇は、父の仇となられましたが、 振り返ると私達のおじで、また天下を知ろしめす天皇になられました。 これに、今父の仇の志を一重に果たそうとして 天下を知ろしめす天皇の御陵を完全に破却してしまえば、 後世の人は必ず非難するでしょう。 ただ、父君の仇は、報いを受けることなしに済まされないでしょう。 よって、その御陵の端を少しだけ掘ったのです。 既にこれをもって、辱められたことを後世に示すには十分でしょう。」 このように申し上げ、 天皇はそれに答えられ、 「これもまた、偉大な理である。仰られた通り了承する。」と仰られました。 怨…[名] (古訓) うらみ。あた。 従父…父の兄弟。おじ。 単…[副] (古訓) ひとへ。ひとへに。ひとり。
破…(古訓) やふる。くたく。 はづかしむ…[他]マ下二 恥をかかせる。 のちのよ…(万)3791 古部之 賢人藻 後之世之 堅監将為迹 いにしへの さかしきひとも のちのよの かがみにせむと。 【真福寺本】 《唯父王⇒唯又王》 「唯父王之仇」の「父」が、真福寺本は「又」。他の個所では「父」の字形は明瞭なので、誤写と見られる。 《以是恥足示後世⇒以是取足爾後世》 真福寺本の「以是取足爾後世」が、そのままでは意味をなさないのは明らかである。 「示」は、神代の「指二-出其鏡一示二-奉天照大御神一」 のように、既に「目の前に提示する」意味で使われている。「尒」を「示」の誤りと見ることは自然であろう。 《天皇答詔之⇒天皇奏詔之》 真福寺本は直前の「如此奏者」に影響されて、「答」を「奏」に誤ったものと思われる。
「従父」の訓みは以下で述べるように、一般的には「をぢ」で、父の兄弟を意味する。 しかし、血縁関係(右)を見ると、 雄略天皇の父は允恭天皇。市辺押磐皇子の父は履中天皇。 允恭天皇と履中天皇は、共に仁徳天皇を親とする兄弟となる。 だから、ここでいう「従父」は実際には「父の従兄弟(いとこ)」となる。 《倭名類聚抄》 〈倭名類聚抄〉(右)の説明では、仮に父が4人兄弟の末っ子だとすると、 上から順に「1:伯父、2:仲父、3:叔父、4:父」となり、「叔父」も父上である。 逆に父が長子の場合は、その弟でも「伯父」となり、「伯父は父の年上の兄弟・叔父は父の年下の兄弟」という現代の用法とは異なっている。
〈倭名類聚抄〉には肝心の「従父」の説明がないが、「従母:母の姉妹」〔をば〕から類推でき、 また、従舅〔母方のおほおぢ〕を「母の"従父"の兄弟」とするから、 やはり「従父:父の兄弟」であろう。 《新撰字鏡》 〈新撰字鏡〉の抄録本では、 「従父【波々方姉妹】」となっている。 『群書類従』〔1800年頃、塙保己一編。〕もこの形だが、抄録本における誤写と思われる。 天治本では、「従父【父方乃伊止古】」である。 この「従父=父方のいとこ」は〈倭名類聚抄〉で見れは「従父の子」にあたり、不一致である。
〈時代別上代〉は、「いとこ」の意味を「いとしい人」のみとする。「親の兄弟の子」という意味に関しては、 参考として『新撰字鏡』・『字類抄』を紹介しているが、上代語としての認定を避けている。 その一方で、「をぢ」については、「父母の兄弟」の意味を認めている。 上代に「父母の兄弟の子」を意味する語が存在しなかったとは考えにくく、それが「いとこ」でなければ、何と言ったのだろうか。 同書は、上代の文献には見つけられなかったということだろう。 《訓読》 親のいとこにあたる男性を、現代語では「いとこおじ(伯従父・叔従父)」という。 上代に「いとこをぢ」はなかっただろうが、「いとこ」はあったと仮定すれば、「ちちのいとこ」と訓読すべきということになる。 もし「従父」を「をぢ」と訓むのだとすれば、 「父の従兄弟」も「父の兄弟」に類するものとしてこの語が使われている。もともと上代には「父の兄弟」よりも広い意味があったのか、この場面だけの拡張であったのかは分からない。 ところが、実は雄略天皇を父の兄弟と位置付けることも可能なのである。 というのは、親子関係のない後継者を、「皇太子」として疑似的に天皇の子と位置付けた可能性がある。 顕宗即位前紀で意計王を皇太子、弘計王を皇子にしたと書かれたのは、 白髪天皇との間に形式的な親子関係を設定したと解釈することができる。 高橋氏文の「磐鹿六獦命波朕我王子等爾阿礼」 〔磐鹿六獦命はわが皇子たちにあれ;=皇子の一人になれ〕(資料[07])の例では、 かつて安康天皇は、市辺押磐皇子を日嗣の皇子に定めた。 雄略即位前には、 「以二市邊押磐皇子一。伝レ国而遙付二-嘱後事一」とある。 また、雄略天皇は、安康天皇を継ぐから即位の時点で皇太子であったということができる。 よって、市辺皇子・雄略天皇は形式上の兄弟であるから、雄略天皇は意計・弘計の「をぢ」になるのである。 【力関係の逆転】 意祁命は袁祁天皇に、君主であれば過去の私的な怨讐にいつまでも拘らず、大長谷天皇〔雄略〕の正統を重んじるべきであると諭した。 物語はこのように高貴な道徳心の表現として描かれるが、前後の流れで読むと必ずしも額面通りには受け止めきれない。 《兄弟間の緊張》 仁賢天皇紀の「難波小野皇后。恐レ宿レ不レ敬自死」は、 かつて顕宗存命中に宴席で兄に対して不遜な振舞をしたことによるとする。 そこからは、顕宗天皇自身が尊大であったと書くことを忌避し、 代わりに皇后に託したと読み取ることができる (仁賢天皇二年)。 一方、顕宗段において兄の言葉を「命〔おほせこと〕」と書いたのはひとまず借訓であろうと判断したが、 既に力関係の逆転が起こっていたことを暗示するのかも知れない。 そして記では、顕宗天皇は兄に諭された直後に崩ずる。 これを流れとして見れば、兄が優位に立って顕宗天皇を誅し、自ら即位したとも読み取れるのである。 そもそも、弟が兄を差し置いて天位に登った時点から、実は緊張感が漂っている。 弟の即位は兄が天位を譲ったと道徳的に描かれてはいるが、 かつて雄略天皇は覇王ぶりを発揮したように、兄弟は次期天皇の座を巡って争うのが通例であった。 時には流血を伴っている。 だから顕宗即位を道徳的な営みに戻すためには、大量の美辞麗句を費やす必要があった。 記紀編纂期になれば、新天皇の即位は高皇産霊神由来の血を継ぐ厳粛な手続きでありたい。 その伝統を確立ようつする意図をもって、神代から初期天皇までが描かれたと思われる。 代を重ね雄略天皇になると、その覇王ぶりは恐らく古くから知れ渡っていたからそれだけは隠しようがなかったが、 顕宗-仁賢のように記録が残っていない場合は、再び道徳的な継承にしようとしたのだと思われる。 《氏族によるバックアップ》 意祁袁祁兄弟の対立の焦点は、雄略天皇陵を破却するか否かにあった。 結局それは、雄略天皇をどう評価するかという問題である。 仁賢天皇が雄略陵の破却を思いとどまらせた〔記では「一部分に留めさせた」〕と書くのは、 かつて雄略天皇を押し立てた氏族の支援を、意祁皇太子が受けるようになっていたことの表現ではないだろうか。 これまでに、物部氏は安康天皇・雄略天皇の二代を押し立てたであろうと推測した (第199回《大県主の出自》)。 対照的に、顕宗天皇を推したのは飯豊女王を頂点とする忍海氏〔若しくは忍海氏と葛城族諸氏との連合〕であった (第215回)。 そこに、忍海氏の衰退に伴い、物部氏が仁賢天皇を抱きこんで巻き返しに転じたとする筋書きが見えてくる。 結局、氏族がそれぞれに皇子を担いで覇権を目指したという、当たり前の形に落ち着くのである。 【書紀-20】 20目次 《皇太子億計諫曰不可》
乃(すなはち)諫(いさ)めまつりて曰(まを)したまひしく 「不可(ゆるしまつらず)。 大泊瀬天皇(おほはつせのすめらみこと)万機(よろづのまつりごと)を正(まさ)しく統(す)べたまひて、天下(あめのした)に臨照(おして)りましき。 華夷(みやことひなとに)天皇(すめらみこと)之(の)身(みみ)を欣(よろこ)び仰(あふ)ぎまつりき[也]。
迍邅(とどこほり)に遭遇(あ)ひて天位(あまつくらひ)に不登(のぼりたまはず)。 此(こ)を以ちて[之]観(み)れば、尊(たふとこ)卑(いやしき)惟(ここに)別(わか)たえり。 而(しかれども)陵墓(みささき)を忍(おそ)ひ壊(こほ)たば、誰(たが)人主(おほきみ)や以ちて天之霊(あまつみたま)を奉(たてまつ)らむか。 其(それ)毀(こぼ)つ不可(まじしき)一(ひとつ)也(なり)。
曽(かつ)て白髮天皇(しらかのすめらみこと)の厚き寵(うつくしび)殊(こと)の恩(めぐみ)に遇(あ)ひしことを不蒙(かがふらずありせば)、 豈(あに)宝(みたから)の位(くらゐ)に臨(のぞ)みまつれらまし。 大泊瀬天皇(おほはつせのすめらみこと)、白髮天皇之(の)父(ちち)也(なり)。 億計諸(もろもろ)の老賢(さかしきおきな)に聞こゆ。 老賢曰(い)へらく。
徳(のり、とく)無不報(むくいざることなし)。 恩(めぐみ)に不報(むくいざること)有らば、 敗俗之深者也(ひとのやぶるることふかくあらむ、はいぞくのふかみにあらむ)。』といへり。
而(しかれども)陵(みささき)を毀(こぼ)つは、[於]華裔(みやことひな)とに翻見(かへりみ)て、 億計(おけ)、其の莅(のぞめる)国を以ちて民(おほみたから)を子となし不可(ましじきこと)を恐りまつる[也]。 其(それ)不可毀(こぼつましじき)二(ふたつ)也(なり)。」とまをしたまひき。 天皇(すめらみこと)曰(のたま)はく「善哉(よきなり)。」とのたまひて、 役(えたち)を罷(や)ま令(し)めたまひき。 《吾父》 〈時代別上代〉によると、「アガとワガと、それぞれ接する語に差があり」、君・児(こ)・恋などは「あが」、 大君・妹・名などには「わが」がつくという。「吾父(我父)」は万葉歌にないので不明だが、母につくのは「わが」なので、「吾父」は「わがちち」か。 なお、仁賢天皇紀(六年)には、原注に父を俗に「柯曽」〔かそ〕と呼ぶとあるが、註釈として書かれるのは一般的でないからであり、 万葉歌は父をすべて「ちち」と訓むから、ここでも「ちち」と訓むべきであろう。 《豈臨宝位》 「不蒙遇白髪天皇厚寵殊恩」は確定した事実に反する仮定で、「豈」は反語の副詞であるから、 「曽不蒙遇白髮天皇厚寵殊恩豈臨宝位」は、反実仮想と反語の複合である。つまり、 「かつて白髮天皇の厚寵殊恩をたまたま蒙ることがなかったとすれば、宝位に臨んでいられたか、いや臨んでいない。」を意味する。 反実仮想の定型「~せば~まし」を用いれば、 「「遇白髪天皇厚寵殊恩」を蒙ることなかりせば、豈(あに)宝位に臨めらまし」となる。 なお、「のぞめら」は「のぞむ」の完了形「のぞめり」の未然形である。 ここにさらに謙遜の補助動詞「まつる」を加えれば、「のぞみまつれらまし」となる。 《曽》 「かつて(曽、都)」は、〈時代別上代〉によれば「全然。ちっとも。」の意で、「以前の意の副詞カツテは、上代文献には確実な例は見ない」という。 しかし、ここでは白髮天皇が弘計・意計に厚寵殊恩を賜った過去の事象を述べる。 〈時代別上代〉に従えば、「曽」の訓には「むかし」を用いた方が安全である。 とは言え、顕宗紀原文の筆者は「不」に引っ張られて「かつて」と訓むつもりで書き、既に「むかし」の意味であったように思える。 もし「むかし」と訓ませるつもりなら、「曽」の代わりに「昔」を用いたのではないだろうか。書紀では「昔」の字の使用はかなり多い。 《徳無不報》 「言無不詶」以下の部分の出典を探したが、論語には見つからない。 ただし「徳無不報」だけが、『四書章句集注』〔朱熹(1130~1200)〕の、論語を解説した文の中にあった。 しかし、この書は書紀の頃はまだ存在していない。 《言無不詶徳無不報》 「徳無不報」は「徳無くして報(むく)いず」とも読めるが、「無-不」という二重否定形かも知れない。 そこで〈汉典〉を調べると、「無不」の訳語として「都是」〔すべてこれ〕を挙げ、その文例に『紅樓夢』63回「…凡聴見者無不笑倒。」〔およそ見聞きする者に、笑い倒さない者はいない〕を示すから、 二重否定である。 『紅樓夢』は18世紀に書かれた作品だから、古い時代はどうだったか分からないのだが、 仮に書紀でも二重否定だったとすれば、「言無不詶。徳無不報。」は、「言葉は必ず返ってくる。徳は必ず返ってくる。」の意味になる。 これに次項の「敗俗」を合わせれば、「天子の言動の影響は民に及び、必ず自らの身に跳ね返るものである」と解釈できるから、意味は合っている。 ただし、こうすると次の「有恩不報」は「言無不詶徳無不報」から切り離されて、下の「敗俗之深」に繋がる条件節になる。 すなわち「もし〔白髪天皇が弘計を宝位に登らせていただいた〕恩に報いなかったとすれば、」である。 《敗俗之深》 〈汉典〉に「敗俗傷化」という語の説明がある。曰く「敗俗傷化:敗壊社会風気、影響善良教化。 三国志巻十四。魏書董昭伝:「凡有天下者、莫不貴尚敦朴忠信之士、深疾虚偽不真之人者、以其毀教乱治、敗俗傷化也。」」 〔社会の気風をを破壊し、善良なる教化に〔悪〕影響を及ぼす。 (魏書董昭伝):およそ天下を治める人は、貴く、なお敦朴忠信の士でなくてはならない。深疾虚偽不真の人は、教えを壊し治を乱すことを以って、"敗俗傷化"する。〕。 よって、「敗俗」は「敗俗傷化」の略で、 「敗俗之深」とは「敗俗〔天下を治めるものの悪行が社会に与える悪影響〕の深さ」であろうと思われる。 なお、『芸文類聚』〔624〕巻二十四「諫」の「晏子曰」の一節に類似した部分がある。 ――「賊民之深者也。君饗國德行未見於眾、而刑辟著於國,嬰恐其不可以蒞國子民也。公曰:善。罷守槐之役。出犯槐之囚。」 〔下線部が書紀と一致する部分〕。 この文は、景公が大切にしていた槐〔エンジュ、マメ科の植物〕の木を傷めた者に、死刑を科したことを諫めて止めさせた話である。 最後は、「罷二守槐之役一」〔槐の守り役を罷免〕し、「出二犯レ槐之囚一」〔槐のことで囚われた人を解放〕した。 「嬰」は晏子(晏嬰)自身のことで、これを顕宗紀は「億計」に変える。 また「徳行未レ見二於衆一」〔徳行未だ衆に見えず〕を、 顕宗紀では「徳行広聞二於天下一」〔徳行広く天下に聞こゆ〕として正反対の文にしている。 《大意》 皇太子(ひつぎのみこ)億計(おけ)は涙にむせび、答えることができませんでした。 しばらくして、諫め申し上げました。 「不可でございます。 大泊瀬天皇(おおはつせのすめらみこと)万機を正統され〔=政を細やかに正しくまとめられ〕、君臨して天下を照らされました。 華夷は〔=国の中央も地方も〕天皇(すめらみこと)の御身を喜び仰ぎ見ました。 我が父、先王は天皇の皇子でしたが、 迍邅〔ちゅんてん〕に遭遇し〔=難渋して〕、天位に登れませんでした。 これを見れば、尊卑はここに区別されます。 けれども陵墓をむごく壊せば、これからどの大王も、どうやって天(あまつ)御霊をお祀りするのでしょうか。 これが、毀損を不可とする第一の理由です。 また、天皇〔弘計〕と億計(おけ)は、 かつて白髮天皇(しらかのすめらみこと)の厚い寵愛と特別な恩恵をたまたま蒙り、それを蒙らなかったとしたら、 宝位に臨むことがあり得たでしょうか。 大泊瀬天皇は、その白髮天皇の父君であられました。 億計は諸々の老賢から聞きます。 その老賢の言葉は、 『言葉が、我が身に戻ってこないことはあり得ない。 徳が、我が身に戻ってこないことはあり得ない。 もし、恩恵に酬いなければ、 それは敗俗の深み〔=人を著しく傷つけてしまうこと〕である。』というものです。 陛下が国を受けられ、徳行は広く天下に聞こえております。 けれども御陵を毀損されれば、華裔〔国の中央と地方〕が皆それを見習い、 億計は、位に即かれた国において、民を子のように愛しむことができなくなることを恐れます。 それが、毀損を不可とする第二の理由です。」と、このように申し上げました。 天皇は「それは善いことである。」と仰り、 命令の取り消しをお命じになりした。 【儒教的価値観】 書記において兄が弟に説いた論理は、次の二点である。 ① 雄略帝は天皇であるが故に無条件に貴いお方である。市辺押磐皇子はそもそも天皇にならなかったのだから卑である。 ② 弘計天皇たるものが私怨によって復讐なさってしまえば、国中の人民がそれを見習い、翻って天皇がなさる統治の基盤を崩すであろう。 さらに記のように、心情を配慮して部分的に孝の優先を認める曖昧さを残すことは認めない。 つまりは、書紀では忠は孝に優先し、その原理主義を徹底するのである。 当時、もし雄略天皇陵あるとされていた古墳に破損があったとすれば、それを顕宗天皇の復讐行為の結果であるとする伝説を書紀は否定したことになる。 まとめ 弟が兄を差し置いて即位したことを美化するために、顕宗紀ではかなりの努力を払った。 しかし、顕宗段・紀から分厚い装飾表現を除去し、事実経過のみを抽出して残るのは、 弟が兄を差し置いて天位に登り、数年を経ずして兄が弟を追放したと見られることである。 その背景に氏族間の勢力争いが想定されるから、結局これは有りがちな話である。 しかし"有りがち"だからこそ、逆に種となった事実が現実感を増すのである。 第218回に遡ると、そのまとめにおいて袁祁王子は播磨国のローカルな王に過ぎず、 全国レベルの大王にはならなかったと解釈する余地があると述べた。 だが、代替わりがいつもの対立を伴う形で行われた事実があったとすれば、意祁袁祁兄弟が大王として実在した可能性は再び高まるのである。 |
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2019.04.29(mon) [225] 下つ巻(顕宗天皇8) ▼▲ |
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![]() 卽 意祁命知天津日繼 天皇御年參拾捌歲 治天下八歲 御陵在片崗之石坏崗上也 故(かれ)、天皇(すめらみこと)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 即(すなはち)意祁命(おけのみこと)天津日継(あまつひつぎ)を知らしめす。 天皇の御年(みとし)参拾捌歳(みそとせあまりやとせ)、 天下(あめのした)を八歳(やとせ)治(をさ)めたまひき。 御陵(みささき)は片岡之石坏岡(かたをかのいはつきのをか)の上(へ)に在(あ)り[也]。 こうして、天皇(すめらみこと)は崩じ、 ただちに意祁命(おけのみこと)が天津日継(あまつひつぎ)をお受けになりました。 天皇の御年は三十八歳で、 天下を八年間治められました。 御陵は片岡之石坏岡(かたおかのいわつきのおか)の上にあります。 しらしめす…[自]サ四 (万)0167 天地之 依相之極 所知行 あめつちの よりあひのきはみ しらしめす。 【真福寺本】
「石坏崗」の「坏」は土偏と見られ、「杯」ではないのは確実である。 【書紀-25】 25目次 《天皇崩》
天皇[于]八釣宮(やつりのみや)に崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 《傍丘磐杯丘陵》 顕宗天皇が傍丘磐杯丘陵に葬られたことは、書紀では仁賢天皇が即位した後の元年十月条に記される。 《大意》 〔三年四月〕二十三日、 八釣の宮にて崩じました。 【仁賢天皇―即位前紀(六)(顕宗三年)】 即位前(六)目次 《弘計天皇崩》
弘計天皇(をけのすめらみこと)崩ず。 《大意》 〔顕宗天皇〕三年四月、弘計(をけ)天皇(すめらみこと)は崩じました。 【仁賢天皇―元年十月】 元年十月目次 《葬弘計天皇》
弘計天皇を[于]傍丘磐杯丘陵(かたをかのいはつきのをかのみささき)に葬(はぶ)りまつる。 是歳(このとし)[也]、太歳(おほとし)戊辰(つちのえたつ)。 《大意》 〔仁賢元年〕十月三日、 弘計天皇を傍丘磐杯丘陵(つきおかのいわつきのおかのみささぎ)に葬りました。 この歳は、太歳戊辰(つちのえたつ)です。 【御陵】 顕宗天皇陵は、「片岡之石坏岡上」(記)、「傍丘磐杯丘陵」(書紀)と表記されている。 〈延喜式-諸陵寮〉には、 {傍丘磐杯丘南陵:近飛鳥八釣宮御宇顕宗天皇。在大和国葛下郡。【兆域東西二町。南北三町。陵戸一烟。守戸三烟。】} 〔ちかつあすかのやつりのみやにしろしめす顕宗天皇。大和国葛下郡にあり。〕と記される。 延喜式の表記は、一般に書紀に拠る。 宮内庁が定めた「傍丘磐坏丘南陵」には記の「坏」が混ざり、中途半端であると言えよう。 明治22年〔1889〕に治定されるまでは、複数の古墳が傍丘磐杯丘南陵と言われてきた。 以下、それらを概観する。 【平野塚穴古墳】
また、同ページは「平野塚穴山古墳(国史跡)が顕宗陵と考えられていた時期がありましたが、明治22年〔1889〕になって当地〔現傍丘磐杯丘南陵〕に定められました。」という。 『奈良県史』第3巻によると、 平野塚穴山古墳は、平野集落の北の丘陵上の5基の古墳のひとつで、「一辺約二一メートル、高さ四メートル弱の方墳とみられ」、 「墳丘に版築の手法が用いられていること、石槨の各所は三〇センチ前後の単位値を示して唐尺の使用と、整ったプランがあったらしいこと」などの特徴をもつ終末期の古墳である。 なお、「版築」とは、土を突き固めて強固な土壁などを作る建築技法のこと。「一尺=30cm」は正倉院尺と一致し、飛鳥時代の7世紀末で築陵と考えられている。 その築陵はもう古事記が書かれようとする時期であるから、記紀が少なくともこの平野塚穴古墳を顕宗天皇陵としたとは考えられない。 【傍丘磐杯丘南陵】 〈五畿内志-大和国葛下郡〉「陵墓」に、「傍丘磐杯丘南陵【顕宗天皇○昔在二今市村一 宝永年間陵崩遂為二民居一】」 〔昔、今市村にあり、宝永年間に陵は崩壊し遂に民の居住地となる。〕。 同書【村里】の項には「今市村」が二か所あるので、「北-」「南-」を付けて区別したと思われる。 明治初年の段階では北今市村と南今市村が存在し、町村制〔1889〕において、北今市村を含む5村が下田村になり(現香芝市)、 南今市村を含む8村が磐城村になる(現葛城市)。 宝永四年十月四日〔1707年10月28日〕に宝永大地震〔畿内・東海道・南海道。推定M8.4~9.3。大津波を伴う〕が起こった。「宝永年間陵崩」は、これに伴うものであろう。
宮内庁治定の「傍丘磐坏丘南陵」は「陵形:前方後円」とされ、奈良県香芝市北今市4丁目。 この地に定まったのは明治22年で、文久の修陵の対象にはならず『文久山陵図』にも顕宗天皇陵の図はない。
それに対して、『古代天皇陵の謎を追う』(大塚初重;新日本出版社2015)では、「墳形:前方後円」、「陵墓信頼度の評価:"◎"(疑問なしに真陵と認められる。)」と述べるが、 それ以上の説明はない。 『宮内庁書陵部陵墓地形図集成』(学生社;1999年)(左図)によって地形を見ると、墳丘の段構造は見えず前方後円墳としての実体は不明確で、自然地形のようにも思える。 しかし、2つの山の中心線を軸として両側がきれいに対称をなすから、 人工物が表土を失ったものかも知れない。『五畿内志』のいう「陵崩遂為二民居一」の結果かも知れない。 ただ修陵はなされていないから築陵から自然に任せた状態で残り、その意味では貴重である。 『奈良県史』第3巻には、「古代遺跡一覧表」に「陵墓」と書かれる(29ページ)のみなので、考古学的調査は手つかずだと見られる。 『五畿内志』が「昔在二今市村一」と述べた陵墓が、これであることは確実である。 地形図から見た墳丘長は推定約80mで、中期古墳なら首長墓の規模である。〈延喜式〉の「兆域東西二町〔216m※〕。南北三町〔324m〕」 との差が大きいから、延喜式のいう「傍丘磐杯丘南陵」は別の陵ではないだろうか。 ※…換算は資料[03]参照 しかし5世紀に入ると、大型古墳は復古的に作られた五条野丸山古墳など例外的となるので、4世紀末の天皇陵ならこの規模があり得るのかも知れない。 【大和高田市築山の古墳】 《第日本地名辞書》 『大日本地名辞書』は、造山村にある古墳が傍丘磐坏〔南・北〕陵であるとする。
磐園村・陵西村については、 町村制〔1889〕によって、磯野村・大中村・有井村・神楽村・築山村が磐園村になり、 池田村・大谷村・野口村・市場村・岡崎村が陵西村になった。町村制以前の村名は、すべて大字として残っている。 築山村〔大字築山〕には、築山古墳がある。 《山陵志》 『山陵志』は、蒲生君平が寛政八年〔1796〕から寛政十二年〔1800〕の期間に、畿内を中心に陵墓を調査した結果をまとめた書。 同辞典所引の『山稜志』は抜粋で、原文には ――「磐杯之名久喪レ之。今傍丘之間以二磐字一尋二磐石之處一。 卒無レ有レ之。更因レ音索二几磐一祝假レ音通用。 磐樟船之類祝而神レ之也。」 〔磐杯の名、久しく之を喪(うしな)ふ。今傍丘の間〔地域〕、磐字を以って磐石の処を尋ぬれど、 卒(つひ)に之有ること無し。更(あらた)めて音に因(よ)って几(いく)つかの磐を索(もと)むれば「祝」に音を仮り通用す。 磐樟船(いはくすぶね)の類(たぐひ)、祝ひて之を神となす也(なり)。〕 という部分もあり、「磐」は「祝」の借訓である点について詳しく説明している。 同書がいう築山村、陵家村の南北の古墳とは、その位置から見て築山古墳と狐井塚古墳を指し、築山古墳を傍丘磐杯丘北陵(武烈天皇陵)、 狐井塚古墳を傍丘磐杯丘南陵(顕宗天皇陵)と判断したようである。 《築山古墳》
誉田陵(5世紀初頭)の墳丘長は425mに及ぶように巨大古墳の時代であるから、築山古墳は210mあっても大王家とは別の独立氏族とも考えられる。 しかし、応神天皇の時期には未知の大王も何代か存在したと考えられ、やはり大王持ち回り制によってこの地の氏族が推戴した大王の陵として築かれたのかも知れない(第162回《4~5世紀の大王持ち回り制》)。 いずれにしても顕宗天皇陵とは時期が異なる。そのずれは、平野塚穴古墳とは逆に過去を向く。 【狐井城山古墳】2019.06.24加筆
現地の案内板には:
この文中の「蓋石片」は、ふたかみ文化センター前に展示され、 案内板(抜粋)に:
また、他にも蓋石片が「初田川に架かる阿弥陀橋東北側に保管されている」(香芝市公式「市指定16号有形文化財」)。 現地案内板(昭和四十四年五月;大字良福寺)に「恵心僧都幼名千菊丸」〔源信;平安時代中期の僧〕 が「永観年中石橋を東西に祭して」「阿弥陀橋と称し伝う」、 「改修工事に依り南西5mの原位置より此の地に移」されたという。 蓋石を縦に二分した一片を寝かせて置き、他の一部を突起部を阿弥陀如来の頭部に見立て立てている。 《顕宗天皇陵の可能性》
実際、『古墳の被葬者を推理する』〔中公叢書2018;白石太一郎〕は、 「この時期〔顕宗・武烈〕としては最大級の前方後円墳であり」、 武烈天皇については「実在性も疑えるのではないかと考え」るので、 「葛城氏が支えた顕宗天皇のために」「自らの本拠地に営んだ大王墓であることは疑いない」という見解を述べている。 香芝市教育委員会設置の案内文で、石棺の蓋石が「竜山石」だという部分は、注目に値する。兵庫県高砂市の公式ページによると、 「竜山石(宝殿石)とは兵庫県の加古川下流右岸に産する流紋岩質溶結凝灰岩の石材上の呼称で」 「古代、畿内の大王や豪族などの石棺にも使われ」、「7世紀頃に造られた"石の宝殿"は宝殿山の中腹にある約500トンの浮石で、生石〔おうし〕神社の祭神として祭られ」ているという。 現在は「石の宝殿及び竜山石採石遺跡」(高砂市阿弥陀町生石/竜山一丁目)として国指定文化財になっている。 竜山石の採石場所は、志染村など顕宗天皇縁の場所に近い(右図)。 「船形」という「特異形態」が播磨国のもので、 さらに発見された石棺が狐井城山古墳の崩壊によって転がり出たことが確認されれば、 狐井城山古墳を播磨の技術者集団がその伝統的作法によって築いた可能性が、俄然高まる。 もしそうだとすれば、忍海氏が播磨と葛城の間の播磨灘を縦横に行き来する氏族であると論じてきたことが裏付けられ、 さらには顕宗天皇の実在をも実証するのである。
ここで『播磨国風土記』を見ると、その美嚢郡には於奚袁奚の両天皇は「更還下。造二宮於此土一而坐レ之。」 〔再び帰って、美嚢郡に宮を造り坐す〕 とあるから(第218回)、 顕宗天皇陵は播磨国にあるのが自然であるはずだが、それは書いていない。 さすがに記紀による陵の規定は絶対的で、異説は書けなかったか。 築山古墳、平野塚穴古墳の築陵時期を見れば、どちらも不適当なのは明らかだが、だからといって「傍丘磐杯丘南陵」が真陵であるとは限らない。 それどころか、記紀が書かれた時点で既にいくつかは不明となっていて、伝説の舞台となった地域にある大型古墳を適宜に当てた場合もあると思われる。 江戸時代以後唱えられて来た複数の「顕宗天皇陵」のうち最も天皇陵らしいのは築山古墳であるから、記はこれを片岡之石坏岡上の陵としたのかも知れない。 あるいは、築陵時期と規模から可能性が考えられる狐井城山古墳も候補である。 なお、記は武烈天皇陵も「片岡之石坏岡」である。 継体天皇紀でも武烈天皇陵を「傍丘磐杯丘陵」と記し、南北をつけて別陵としたのは〈延喜式〉からである。 記紀の段階に於いては同一の陵を、何らかの理由で二つの天皇紀で用いたかも知れない。 では、事実として顕宗天皇の遺骨〔但し、実在したとして〕を埋葬した陵はどこだろうか。残念ながら、そこを特定することは現時点では困難である。 そこですっぱりと諦め、改めて伝承地の分布を見るとかなり広範囲に分散しているが葛下川流域という共通項がある。 現在のJR西日本の和歌山線は、この葛下川の流域を走っている。 長い年月を通して住民は川に沿って交流しているだろうから、葛下川流域は伝承を共有するひとつの文化圏とみられる。 伝承の地域的広がりがその普及のぶ厚さを表すものとすれば、それはこの流域のどこかに本当に陵があったからだと考えることは、それほど不自然ではない。 伝説の種が生まれるのは確かに真陵の位置だが、それが伝播するうちに、それぞれの土地で身近にある古墳が伝説上の陵になるのである。 そして、ここから少し南へ行くと飯豊天皇陵がある(第212回)。 飯豊女王は忍海氏の中心人物で、忍海氏は葛城族の一流派ではないかと考えた。 その葛城族が葛下郡まで分布していたとすれば、飯豊女王のバックアップで天位に登った顕宗天皇の陵が、 葛下川流域に築かれたことはあり得る。 築陵後しばらくは祭祀が行われたであろうから、その祭祀を担う氏族の土地に築陵されることは自然である。 まとめ そもそも天皇陵の被葬者の探求とは、単純に遺体が葬られた場所を物理的に決定することではない。 現実には記紀から延喜式、そして江戸時代の探索や公式の治定の過程を通して、 「天皇陵をどこに定めてきたか」という問題なのである。これは、文化史の範疇であろう。 そもそも、古事記によって規定された天皇と、実際に統治した大王の間の一対一対応は不明瞭である。 だから、実在した大王の姿を部分的に投影して描かれた天皇に対して、その遺骨がどこに埋葬されたかという議論は、 それ自体がナンセンスである。 ただ、雄略天皇のように実在が確実ならば、真の意味での陵の探求はあり得る。 それ以外の場合、「記紀が○○陵だと記した陵は、この古墳であろう」という議論ならば、成り立つだろう。 このような場合に、被葬者の決定は文化史の課題となる。 さて、顕宗天皇の実在性は一般的にかなり疑問視されているが、陵が飯豊女王率いる忍海氏の縁の土地にあるとする伝説が強固なら、実在したと考えてもよいのではないだろうか。 ただし、二王子発見伝説の大部分が空想であるのは言うまでもない。皇位の譲り合いも粉飾であろう。 顕宗天皇が実在したとしても、確からしいのは飯豊女王が袁祁王を播磨国から連れて来させて天皇の位に即かせたことと、 あまり年数を経ずして兄の意祁王がとって代わったことぐらいであろう(前回まとめ)。 顕宗天皇の部分における記紀の意義は、文芸として読者を楽しませるところにあると言えよう。 なお、皇祖伝説の原型がこの時期に壱岐対馬から伝わったことを示す顕宗紀の記述(三年三月)には、一定の信頼を寄せてもよいように思われる。 |
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2019.05.05(sun) [226] 下つ巻(仁賢天皇) ▼▲ |
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![]() 坐石上廣高宮治天下也 袁祁王(をけのみこ)の兄(いろせ)意冨祁王(おほけのみこ)、 石上(いそのかみ)の広高宮(ひろたかのみや)に坐(ましま)して、天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 天皇娶大長谷若建天皇之御子春日大郎女 生御子高木郎女 次財郎女 次久須毘郎女 次手白髮郎女 次小長谷若雀命 次眞若王 天皇(すめらみこと)大長谷若建天皇(おほはつせのわかたけるのすめらみこと)之(の)御子(みこ)、春日大郎女(かすかのおほいらつめ)を娶(あは)せたまひて、 [生]御子(みこ)高木郎女(たかきのいらつめ)、 次に財郎女(たからのいらつめ)、 次に久須毘郎女(くすひのいらつめ)、 次に手白髮郎女(たしらかのいらつめ)、 次に小長谷若雀命(をはつせのわかさざきのみこと)、 次に真若王(まわかのみこ)をうみたまひて、 又娶丸邇日爪臣之女糠若子郎女 生御子春日小田郎女 此天皇之御子幷七柱 此之中小長谷若雀命者治天下也 又(また)丸邇(わに)の日爪臣(ひづめのおみ)之(の)女(むすめ)糠若子郎女(ぬかわくごのいらつめ)を娶(めあは)せたまひて、 御子(みこ)春日小田郎女(かすがのをだのいらつめ)を生みたまふ。 此の天皇之(の)御子(みこ)并(あは)せて七柱(ななはしら)。 此之(この)中(うち)小長谷若雀命者(は)天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 袁祁王(をけのみこ)の兄、意冨祁王(おおけのみこ)〔意祁命〕は、 石上(いそのかみ)の広高宮(ひろたかのみや)にいらっしゃいまして、天下を治められました。 天皇(すめらみこと)は、大長谷若建天皇(おおはつせのわかたけるのすめらみこと)の皇子、春日大郎女(かすがのおおいらつめ)を妃になされ、 皇子の高木郎女(たかきのいらつめ)、 財郎女(たからのいらつめ)、 久須毘郎女(くすひのいらつめ)、 手白髮郎女(たしらかのいらつめ)、 小長谷若雀命(おはつせのわかさざきのみこと)、 真若王(まわかのみこ)をお生みになりました。 また、丸邇(わに)の日爪臣(ひづめのおみ)の娘、糠若子郎女(ぬかわくごのいらつめ)を妃となされ、 皇子春日小田郎女(かすがのおだのいらつめ)をお生みになりました。 天皇の皇子は併せて七柱で、 このうち小長谷若雀命が天下を治められました。
【真福寺本】 ① 岩波『古典文学大系』によれば「袁祁王兄―諸本にない」。氏庸本も同様。 また氏庸本を含め一般的に「意祁命」だが、真福寺本は「意冨祁王」。 ② 一般に「生御子」。真福寺本の「王御子」が誤りであるのは明らか。 ③ 「小長谷君雀命」の「君」が「若」の誤りであるのは明らか。 ④ ③と同じ。 ⑤ ③④とは異なり、「糠若子」の「若」は正しい。 ⑥ 真福寺本の「春日小田」は、一般には「春日山田」とされる。 岩波『古典文学大系』によれば、小:真福寺本。少:前田家本・猪熊本。 山:渡会延佳鼇頭〔貞享四年;1684〕・田中頼庸校訂〔明治二十年;1887〕。 猪熊本系の氏庸本も「少」。延佳・田中は書紀の「春日山田皇女」に依って「小」「少」は山を誤写したものと判断したと思われる。
〈倭名類聚抄〉には{大和国・添上郡・春日【加須加】}。「加」は基本的に清音のカだが、連濁したガにも流用される。 万葉集ではすべて「春日」と表記されるので、清濁を仮名書きから知る事はできない。 《仙覚抄》 ここで仙覚抄(仙覚著『万葉集註釈』)※1を見ると、「(万)0372 春日乎 春日山乃 高座之…」について、その序詞「山部宿祢赤人登春日野作歌」の「①春日野」に「かすがの」と訓を振る一方、 歌には「はるのひを②かすかのやまの」と訓を振る。 そして、その解説文において「春の日を③かすかの山とつゞくる事は④かすがといへる假名の字訓によらばかといへるはあかき義すといへるはすはうの色也 かすかといへる詞赤紫也と云心をこめたりしうるに春の日は始て出るとき赤くむらさきに霞みて出るによそへて…」 〔「春の日をかすかの山」と続くる事は、かすがと言う仮名の字訓に依らばかと云えるは、あかき義すと云へるは、蘇芳の色〔黒みを帯びた赤色〕也〔なり〕。 「かすか」と云へる詞、赤く紫なりと云ふ心を込めたりし得るに、春の日は始め出〔いづ〕る時赤く紫に霞みて出るに装へて…〕と述べる。 ここには係助詞「は」が連発されて意味が取りにくいが、〈仮名の字訓に依らば〉(仮定条件)は仮想的で、〈あかき義す〉(サ変動詞の連体形)は確信的である。 よって、この解説文の意味は「『かすか』は、地名春日の字訓かすがによると言うことかも知れないが、『あかき』を意味すると考える。それは、『かすか』という言葉は蘇芳色つまり赤紫色という感じ方を込め得るもので、春の日が出るときの赤紫色を装うものである」 といったところか。 つまり、仙覚は(万)0372の赤人の歌に関しては「春日山」が地名であることを否定して「微か山」と読んだのである。 それではすべての歌の「春日」を同様に考えたのかというと、そういうわけでもない。 というのは、「(万)0404 春日之野邊 粟種益乎」には「かすかのののへに」と訓を振る一方、 解説文では「かすがの野辺には神の社のましませば」として、明らかに歌中の「春日」を地名だと解釈しているからである。 そして、歌の中の「春日」は地名であっても清音である※2。 『仙覚抄』の成立は文永六年〔1269〕」とされるから、13世紀半ばには地名「春日」が一般に「かすが」と濁音で発音されていたことが仙覚の解説文から分かる。 しかし、仙覚はかつて万葉歌の時代には、地名「春日」は清音「かすか」で発音されていたと認識していたことになる。 ※1……原文の参照には『万葉集仙覚抄 万葉集名物考 他二篇 万葉集古註釈大成』(1978;日本図書センター)、 「萬葉集註釈20巻」(国立国会図書館デジタルコレクション)を用いた。 ※2……仙覚は万葉歌の訓点に限り濁点を省いたという反論も予想されるが、実際には多くの万葉歌に対して躊躇なく濁点を用いている。 《伝統的訓読》
しかし、鎌倉時代には万葉歌の「春日」には清音を用いるものとする伝統が、確かに存在していたのではないだろうか。 倭名類聚抄〔931~938〕が「加須我」でなく「加須加」を用いたのは、 その伝統が平安時代から続くことを示すものかも知れない。さらには、それが上代の発音を引き継いでいたとも想像される。 【丸邇日爪臣】 駿河浅間大社の大宮寺家所蔵の系図(第105回、〈和珥氏系図〉と略す) によると、 「孝昭天皇―天足彦押人命―和爾日子押人命―彦国姥津命―伊富都久命―彦国葺命―大口納命 ―大難波宿祢命―難波根子建振熊命―米餅搗大臣命―佐都紀臣(深目臣)―日爪臣」である。 春日山田皇女の母方の祖父として、書紀は原注の形で「和珥臣日觸」を併記する。〈和珥氏系図〉では、「日觸使主命」は「難波根子建振熊命」から分岐する。 皇女の名前「春日…」は、大和国添上郡春日郷〔春日大社の所在地〕という地名に由来すると見られる。 和珥氏は本貫の和邇を離れ、子孫の一部が春日郷に遷ったと見られるので、丸邇日爪臣も春日の和珥族であろう。 〈和珥氏系図〉によると、日爪臣の叔父にあたる人華臣の別名が「春日臣」となっている。
【石上広高宮】 石上広高宮については、〈大日本地名辞書〉に「帝王編年紀に「広高宮、山辺郡、石上左大臣 (石上麻呂天武文武の比〔ころ〕の人)家北辺、田原」とあるのに拠れば石上市神社の祝田神社の辺に他ならず。」とある。 〈延喜式〉には、{山辺郡十三座/祝田神社}、同じく{石上市神社}があり、いずれも小社。 現在の石上市神社の東約200mに、平尾山稲荷神社(姫丸稲荷大明神)がある (奈良県天理市石上町976-1)。 社頭に掲示された「平尾山案内記」によれば、 「延喜式に記されている石上市神社は、このお宮〔=石上広高宮の宮趾と考えられてきた宮〕 のことである。この神社は江戸時代の中ごろに石上村の鎮守として現在の石上の民家付近に移されたが、 稲荷社はこの旧地のお宮にお残りになった。これが正一位平尾姫丸稲荷大明神で宇賀御魂の神を祀る。」、 また、「明治十六・七年には神社の東方百米〔100m〕の地より二個の銅鐸が出土した」。 この「平尾山稲荷神社の境内を中心として平尾山の大部分の旧地名を「宮の屋敷」」というのは、 「〔広高〕宮址に祀られた平尾のお宮の屋敷と考えられて来た」ためという。 このように、平尾山稲荷神社は石上広高宮が移転する前の場所と言われる。 その境内に、「石上廣高宮伝称地」と刻まれた石碑があり、 裏面には「昭和四十四年〔1969〕五月」の日付が記されている。
しかし平尾山稲荷神社の辺りからそれらしい規模の宮殿跡が発見されない限り、ここが広高宮跡だと決定することはできない。 改めて石上の広高宮に相応しいのはどこかと考える上では、雄略帝の朝倉宮と推定されている脇本遺跡が初瀬川沿いにあることがヒントとなる。 それに準えた適地は、布留川沿いであろう。布留川は石上神宮の辺りから西に流れて大和川に注ぎ、難波津に通ずる。 その観点によれば、穴穂宮〔安康帝〕の跡を穴穂神社の辺りとするのは、説得力がある。 平尾山稲荷神社の辺りには、弥生時代の高地性集落の存在が予想される。「案内記」(前述)によれば、その100m東から銅鐸が出土している。 その高地性集落が消滅した後も祭祀場が残って神社となり、そこに伝説上の「広高宮」が習合したようにも思われる。 しかしながら、石上神宮の周辺に物部氏の中心集落があり、仁賢天皇をお招きしたときに郊外に居館を設けて広高宮と称したという筋書きもあり得るのかも知れない。 【記は埴生坂本陵を書かない】 記は仁賢天皇段に至り、あれこれ書き募る意欲を完全に喪ったように思えてならない。 雄略段で述べたように、もう神話・伝承ではなく記録で歴史を描く時代となったから、記は役割を終えたのであろう。 それでも二王子発見の件だけは伝説として重要だから、記の対象として残っていたということか。 このように仁賢天皇の事績は書かないがその妃と皇子の名は列挙するから、朝廷を支える諸族の系図上のルーツを明示することが、 古事記のもう一つの主要な目的なのであろう。
1目次 《億計天皇》
【更(さら)に大為(おほす)と名づく。 余(ほかの)諸(もろもろの)天皇(すめらみこと)、諱字(いめるあざな)を不言(いはざりし)自(よ)り、 而(しかれども)此の天皇に至り、独自(ただひとり)書ける者(は)、旧(ふる)き本(ふみ)に拠(よ)る耳(のみ)】、 字(あざな)嶋郎(しまのいらつこ)。 弘計天皇(をけのすめらみこと)の同母兄(いろせ)也(なり)。
才(かど)敏(と)くありて多(さは)に識(し)りたまふ。 壮(をとこさかりになりて)[而]仁恵(ひとにめぐみあり)て、 謙(へ)り恕(おもひはか)りて温慈(あつきうつくしび)たれます。 《諱》 〈時代別上代〉は「人の名には、アザナ・イミナもしくはタダノナがあったようで、アザナは一般に呼ばれてもよい社会的な通称〔中略〕 イミナ・タダノナは母親などごく内輪の親しいもののみが呼ぶ名であったかと思われ」、 「イミナは忌=名であろう。のちには諡と同義にも用いられる。」と解説する。 仁賢元年条においては、漢字「諱」の本来の意味:生前の呼び名と受け止めることによって、初めて原注の意味が理解できる。 すなわち、「億計」は諡〔おくりな、死後につけた尊称〕である。他の天皇の名前の記録はすべて諡が用いられた中で、 「大脚」「大為」のような諱〔生前の名〕が古記録に残っているのは珍しいという意味であろう。 従って「諱」の訓読にあたっては「忌むべき」の意を込めるべきで、古訓「ただのみな」〔「ただのな」の尊敬語〕は不適切だと考えられる。 《かど》 『源氏物語』末摘花の一節に「命婦かどある者にて、いたう耳ならさせたてまつらじと思ひければ、」がある。 文脈中では、「命婦※は気の利く人であったから、上手でない人が演奏する琴を、源氏にあまり聞かせない方がよいと思って」という意味である。 ※…命婦は。宮中の女性の一定の官位。 このように「かど」は、平安時代には「才」を意味する語として存在していた。 〈時代別上代〉は、おそらく書紀古訓の「かど」は上代から存在した語であったと判断したと思われる。 《大意》 億計天皇(おけのすめらみこと)は、諱(いみな)大脚(おおし) 【またの名は、大為(おおす)。 他の諸天皇については諱(いみ)の字(あざな)〔避けるべき生前の名前〕を言わずにきたが、 この天皇に至り独自に書くのは、旧本に拠っただけである】、 字(あざな)を嶋郎(しまのいらつこ)といい、 弘計天皇(をけのすめらみこと)と同母の兄です。 幼くして聡明さに秀で、 才気は俊敏にして多識でした。 壮年になると人への仁と恵みが深く、 謙遜の人で思慮があり、厚く慈しみなされました。 【書紀―元年正月】 7目次 《即天皇位》
皇太子(ひつぎのみこ)、[於]石上(いそのかみ)の広高宮(ひろたかのみや)に天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。 【或る本(ふみ)に云ふ。 億計天皇之(の)宮、二所(ふたつ)有り[焉]。 一宮(ひとつ)は川村(かはむら)に於(お)けり。 二宮(ふたつ)は縮見高野(しじみたかの)に於けり。 其の殿柱(とのはしら)今に至りて未(いまだ)朽(く)ちず。】 《大意》 元年正月五日、 皇太子(ひつぎのみこ)は、石上(いそのかみ)の広高宮(ひろたかのみや)で天皇(すめらみこと)に即位されました 【或る原書にいう、 億計天皇の宮は二か所あり、 一の宮は川村に置き、 二の宮は縮見高野(しじみたかの)に置きました。 その殿柱(とのはしら)は現在に至り未だ朽ちない。】。 【書紀―元年二月】 8目次 《遂産一男六女》
前(さき)の妃(きさき)春日大娘皇女(かすがのおほいらつめのみこ)を立たせて、皇后(おほきさき)に為(な)したまひて 【春日大娘皇女は、大泊瀬天皇(おほはつせのすまれみこと)和珥臣(わにのおみ)の深目(ふかめ)之(の)女(むすめ)童女君(わらわのきみ)を娶(あは)せて所生(あれましき)[也]。】、 遂(つひ)に一男(ひとはしらのみこ)と六女(むはしらのひめみこ)とを産みたまひて、 其の一(ひとはしら)は高橋大娘皇女(たかはしのおほいらつめのみこ)と曰(い)ひて、 其の二(ふたはしら)は朝嬬皇女(あさづまのみこ)と曰ひて、 其の三(みはしら)は手白香皇女(たしらかのみこ) 其の四(よはしら)は樟氷皇女(くすひのみこ) 其の五(いつはしら)は橘皇女(たちばなのみこ)と曰ひて、 其の六(むはしら)は小泊瀬稚鷦鷯天皇(をはつせのわかさざきのすめらみこと)と曰ひて、天下(あめのした)を有(をさめ)て泊瀬列城(はつせのなみき)に都(みやこ)したまふに及びて、 其の七(ななはしら)は真稚皇女(まわかのみこ)と曰ひて 【一本(あるふみ)は、樟氷皇女を以ちて[于]第三(だいさむ)に列(な)べて、手白香皇女を以ちて[于]第四(だいし)に列べて、異(こと)に為(す)[焉]。】、
是(こ)は春日山田皇女(かすがのやまだのみこ)為(な)り 【一本(あるふみ)に云ふ。 和珥臣(わにのおみ)の日触(ひふれ)の女(むすめ)大糠娘(おほぬかのいらつめ)、一(ひとはしら)の女(ひめみこ)を生みたまひて、 是(これ)山田大娘皇女(やまだのおほいらつめのみこ)為(な)りて、更(さら)に赤見皇女(あかみのみこ)と名づく。 文(ふみ)[雖]稍(やや)異(こと)にあれど、其の実(さね)一(ひとつ)也(なり)。】。 《基数・序数》 「ひとつ、ふたつ、みつ、…」は、基数(one,two,three…)と、序数(first,second,third…)とのどちらにも使われたようである。 漢文では「第」をつけることによって序数とする。皇子が生まれた順番を示すとき、垂仁天皇紀や景行天皇紀では積極的にこの表記法を用いている。 允恭天皇紀では、数字を付けずに名前を並べるだけである。 そして仁賢紀では、「其(その)」をつけて序数であることを示す。このように、皇子の順序表記は統一されていない。 人に対しては基本的に「そのひとり、そのふたり…」だが、皇子に相応しい助数詞は「はしら」だから、 「そのひとはしら、そのふたはしら…」となる。ただ、若干のぎこちなさをおぼえる。 上代でも数字の音読みは普通に用いられたらしいので (仁徳天皇紀9、第116回《第一》) 、案外「そのいち、そのに…」と訓まれていたのかも知れない。 また「第」には、古訓では「ツイテ」〔ツギテの平安時代の音便〕が用いられている。 《大意》 二月二日、 前から妃であった、春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)を皇后(おおきさき)に立てられ 【春日大娘皇女は、大泊瀬天皇(おおはつせのすまれみこと)が和珥臣(わにのおみ)の深目の娘、童女君(わらわのきみ)を娶り、生まれた皇女。】、 遂に一男六女を設けられました。 その一は高橋大娘皇女(たかはしのおおいらつめのひめみこ)、 その二は朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)、 その三は手白香皇女(たしらかのひめみこ)、 その四は樟氷皇女(くすひのひめみこ)、 その五は橘皇女(たちばなのみこ)、 その六は小泊瀬稚鷦鷯天皇(をはつせのわかさざきのすめらみこと)で、天下を治めて泊瀬列城(はつせのなみき)を都とされ、 その七は真稚皇女(まわかのみこ) 【ある原書では、樟氷皇女を以って第三に列し、手白香皇女を以って第四に列しているところが異なっている。】です。 和珥臣(わにのおみ)の日爪(ひづめ)の娘、糠君娘(ぬかのきみのいらつこ)を次の妃とされ、一人の皇女を生みなされました。 これは、春日山田皇女(かすがのやまだのみこ)です 【ある原書にいう。 和珥臣(わにのおみ)の日触(ひふれ)の娘、大糠娘(おおぬかのいらつめ)は一人の皇女を生み、 これが山田大娘皇女(やまだのおおいらつめのみこ)であり、更なる名は赤見皇女(あかみのみこ)である。 文に稍(やや)異なるところがあるが、実質的には同一である。】。 【書紀―十一年】 14目次 《天皇崩》
冬十月(かむなづき)己酉(つちのととり)を朔として癸丑(みづのとうし)〔五日〕。 埴生坂本(はにふのさかもと)の陵(みささき)に葬(はぶ)りまつる。 《正寝》 〈百度百科〉①即路寝。古代帝王諸侯治レ事的宮室。②泛指ニ房屋的正庁或正屋一。③謂下擺二-正身体一臥下上。 〔①路寝とも。古代帝王・諸侯が治事する宮室。②泛(あまね)く(仮屋ではない)建築物としての正庁を指す。③身を正して(神や貴人の前に)臥せる。〕 《埴生坂本陵》 〈延喜式〉には、{埴生坂本陵。石上広高宮御宇仁賢天皇。在二河内国丹比郡一。兆域東西二町。南北二町。守戸五烟。}とある。 現在はボケ山古墳(大阪府藤井寺市青山3丁目、丹南郡)が、宮内庁によって「埴生坂本陵」に治定されている。 ボケ山古墳は前方後円墳で、墳丘長122mは古市古墳群の第10位である。 その円筒埴輪の形式から、6世紀前半と考えられている。丹南郡(丹比郡を分割)の埴生と思われる地域内の大型古墳は、この一基だけである。 丹比道(推定)がボケ山古墳に近づく辺りは急な下り坂になっている(第177回)。 《大意》 十一年八月八日、 天皇(すめらみこと)は正寝(せいしん)〔執務する庁〕で崩じました。 十月五日、 埴生坂本(はにゅうさかもと)の陵(みささぎ)に葬りました。 まとめ 石上といえば物部氏の本拠地であり、物部氏はかつて安康・雄略二代の天皇を押し立てて実権を握ってきたと考えられる。 ただし、雄略天皇に限っては独立心が強く、都を石上からやや離れた長谷に置いたのであろう。 次に葛城・忍海系氏族は飯豊女王を中心に顕宗天皇を戴いて覇権を奪った。 その後、再び物部勢力が仁賢天皇を篭絡して盛り返し、都は再び石上に遷ったとする筋書きが考えられる。 この大筋から見ると、億計・弘計兄弟の間には確執があり、記紀はそれを極力隠蔽したと考えられるのは、第224回までに考察した通りである。 さて、仁賢天皇が葬られたとされる埴生坂本陵は石上とは大きく離れているから、これだけを見ると位置関係は疑問である。 しかし、都を大和方面〔狭義〕に置きながら、陵は古市古墳群という位置関係は、雄略天皇・清寧天皇でも同じである。 それは、誉田古墳を中心とする広い墓域が、特別に神聖な地域と位置づけられていたことを示すものではないだろうか。 だからと言ってボケ山古墳が仁賢天皇の真陵だと結論付けるつもりはないが、少なくともこの地域の古墳のどれか一つという程度までは絞り込んでもよいのかも知れない。 石上とは離れているが、古市古墳群もまた祭祀を担当する物部氏の支族、若しくは友好関係にある一族の支配地だったとすれば、一応の辻褄が合うのである。 なお、仁賢天皇が皇后を春日から迎えたことについては、この時期における春日和珥氏と物部氏の同盟関係が考えられる。 氏族の融合に関しては、これまでに大三輪氏と鴨氏との例について第206回などで検討した。 春日和珥氏と物部氏の関係についても、和珥系の物部首〔後の布留宿祢〕と、宇摩志麻治命系の物部連〔後の石上朝臣〕が融合して同族をなしていたと見てよいであろう (資料[37])。 |
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2019.06.03(mon) [227] 下つ巻(武烈天皇1) ▼▲ |
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![]() 治天下捌歲也
天下(あめのした)を治めたまふこと、捌歳(やとせ)也(なり)。 小長谷若雀命(をはつせのわかさざきのみこと)は、長谷(はつせ)の列木宮(なみきのみや)にて、 天下を治められること、八年間でした。 【真福寺本】 「坐長谷之列木宮」が「由長谷之到木宮」。明らかに誤りである。 【長谷之列木宮】
『大日本地名辞書』は、「通証〔1762〕云、在長谷寺南、出雲村」、「「欽明天皇、三十一年、泊瀬柴籬宮」の事あり、列城宮と同様詳ならず。」と述べる。 〈古事記伝略〉には、「〔書紀に〕…設二壇場於泊瀬列城一、 陟二天皇ノ位ニ一、遂二定レ都焉とあり、 是に依れば、列木は本よりの地名にやありけむ、【此宮の蹟、或云、長谷寺の南なる、出雲村の北方にありとぞ】」 〔壇場を泊瀬並木に設けて、都を定めるという書き方から「並木」はそれ以前からあった地名であろう。この宮の跡は長谷寺の南の出雲村の北方にあるという〕と述べる。 出雲村は大体は現在の出雲(大字)だから、この位置関係には首を傾げるが、 「長谷寺の南」を「南西」に修正すれば、十二柱神社の北500mぐらいの位置が見えてくる。 『大和志』〔1734〕には、泊瀬並城宮への言及はない。古事記伝の執筆期間はその後〔1764~1798〕だから、 両者の期間の間に何らかの調査があったのかも知れない。 現在、十二柱神社(奈良県桜井市出雲(大字)650)に、「武烈天皇泊瀬列城宮蹟」の石碑がある。 桜井市教育委員会設置の案内板には、「武烈天皇泊瀬列城宮伝承地」として 「壇場を泊瀬列城に設けたとあり、初瀬谷の中央、 この出雲の地あたりかと考えられている。」と記す。
ただし、脇本遺跡(第198回)に、5世紀後半の宮殿と見られる大規模建築物が確認されており、 これが列城宮跡を含む複合遺跡であると見た方が合理的である。長谷朝倉宮の場合と同じく、十二柱神社などの伝承地は歴史上の宮殿所在地というようよりは、伝承が広まっていた範囲を表すものと言えよう。 【捌歳】 武烈天皇紀では八年十二月に崩じたとあるから、「治天下捌歳〔八年〕」と一致する。 記に収めるべき独自の伝承が、もうほとんどないことの表れであろうと思われる。
5目次 《於泊瀬列城陟天皇位》
大伴金村連(おほとものかなむらのむらじ)賊(あた)を平定(たひら)げて、訖(つひに)政(まつりごと)を太子(ひつぎのみこ)に反(かへ)しまつりて、 尊号(たふときみな)を請(こ)ひ上(たてまつ)りて曰(まをししく) 「今、億計天皇(おけのすめらみこと)の子(みこ)、唯(ただ)陛下(おほきみ)ひとり有り。 億兆(おほみたから)欣帰(よろこびおもぶ)きまつりて、二(ふたり)に与(くみすること)曽(かつて)無し。
凶党(あしきともがら)を浄(きよ)め除(のぞ)きまつりき。 英(ひでし)略(はかりごと)断(さだむ)に雄(すぐ)れて、 以ちて天威(あまついひほひ)天禄(あまつたまはりもの)を盛(さか)えしめき。 日本(やまと)に必ず主(ぬし)有りて、 日本(やまと)を主(つかさどる)者(ひと)は陛下(おほきみ)に非ずして[而]誰(た)そ。 伏して願(ねがは)くは、陛下、仰(あふぎたまはりて)霊祇(くしきかみ)に答へたまひて、 景(おほきなる)命(おほせごと)を弘宣(ひろくのた)びて、 日本(やまと)に光宅(のりみて)たまひて、 誕(ここに)銀(しろがね)の郷(くに)を受けたまへ。」とまをしき。
天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に陟(のぼ)りて、 遂(つひに)都(みやこ)を定めたまひき[焉]。 是の日、大伴金村連(おほとものかなむらのむらじ)を以ちて大連(おほむらじ)に為(な)したまふ。
春日娘子(かすがのいらつめ)を立たして皇后(おほきさき)に為(な)したまふ【娘子の父、未だ詳(つまひらか)にあらず】。 是の年は[也]、太歳(おほとし、たいさい)己卯(つちのとう)。 《反政太子》 「反」の基本的な意味は、他動詞「かへす」と、自動詞「かへる」。比喩として布や紙のひらひらする動きに用いたり、 「反乱=叛乱」、「反省」などの意味が派生する。 ここでは原意「かへす」で使われ、他動詞として二重の目的語を伴う構文。 英語では、「give her a book」のように与格(~に)が前、対格(~を)が後の語順をとり、中国語でも同様である。 しかしここでは、平群真鳥が欲しいままにしていた政(まつりごと)を、小長谷若雀命に返す意味だと考えられるから、対格-与格の語順だと考えざるを得ない。
仁賢天皇段においては、意祁天皇の皇子は小長谷若雀命が男子、高木郎女などが女子である。 女子はすべて「郎女(いらつめ)」であるから、真若王は男子のように見える。 しかし仁賢天皇紀においては女子として、「真若皇女」と表記するから、男子は一人である。 ただ、仁賢天皇七年に、小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子としているから、天皇即位は既定のことである。 ここで改めて大伴金村連が即位を促すのは、単なる形式なのかも知れない。 しかし、大伴金村は平群真鳥の専制体制を打ち破って事実上国の権力を掌握していた。 だからこの時点で誰を天皇位につけるかは、金村の掌中にあったとするのが書記の認識なのである。 《陛下》 陛下は、本来の意味「陛(宮殿などの階段)の下」から、 「陛下から申し上げる」ことによって皇帝への尊称に転じた。ここでは陛下は二人称代名詞として使われる。 万葉集では「わがおほきみ」と親愛の情を込めて呼び、その相手も大王に限らず王(みこ)にも用いられる。 会話文の中の「陛下」は、比較的この「わがおほきみ」と語感が近いと言えよう。 《頼皇天翼戴浄除凶党》 皇天を日本の言葉として、天皇と同義語と見ることもできようが、漢語の「皇天」の原義は「天」を高めて表す語であるから、こちらを取るべきであろう。 「頼」は「みたまのふゆ(恩頼)」を思わせるから、「頼皇天」は「みたまのふゆによりて」の漢訳である可能性がある。 「翼戴」は「大政翼賛会」の「翼賛」に通じ、天子の翼に抱かれて補佐しまつるという意味である。 これは、天皇の神に対する態度を語るものであろうか。 しかし天皇に対して臣下から「神の恩恵に頼りなさいませ」「神に翼賛しなさいませ」というのは不遜だから、これは臣下自身の行動を語る言葉である。 実際、『春秋左伝』〔戦国〕昭公の用例などでは、「翼二-戴天子一」、即ち臣下が天子を戴き翼賛する意味で使われている。 次の「浄除凶党」は、大伴金村連が既に「平二-定賊一」し「訖」(を)へたことを指すと見るべきであろう。 よって、「頼皇天翼戴浄除凶党」の意味は、「私は神の恩恵を頼り、太子を補佐して凶党を取り除くことができました」であろう。 《仰答霊祇》 仰は、下から上を見上げるのだから、基本的に遜る表現である。 それなのにたかだか臣下の分際で、天子自身が神を仰ぎ見ること要請するのは、よほどのことであろう。 もう一つ、祇は書紀においてはクニツカミを意味するから、ここで用いるのは全くの誤りである。 大伴金村は、カミの御魂のふゆによって武功を挙げた。 そして、太子にそのカミの意向に答えて即位してくださいと勧めるが、 このカミは、「神」〔高皇産霊神や天照大神〕であって、決して「祇」〔大国主神に代表される〕ではない。 中には、この不都合を切り抜けるために、「霊」を「天神」と解釈して「霊祇」=「神〔あまつかみ〕祇〔くにつかみ〕」とする解釈も見られるが、いかにも苦しい。 このようになってしまったのは、この部分は漢籍を生煮えのまま用いたためと思われる。 ――『芸文類衆』〔624〕巻十四、帝王部-斉明帝の「伏願陛下。仰答靈祇。弘宣景命。誕受多方。奄宅萬國。」がこの部分の下敷きになっている。 原文は、実際に臣下が天子に霊祇を「仰ぐ」ことを促すストーリーで、「霊祇」もストレートに霊と地のカミの意味と見られる。 書紀でこの部分を用いる場合は、「仰」はぎりぎりで許容範囲内だとしても、最低限「祇」を「神」に直さなければならない。 本サイトは、「祇」を「神」と読み換えて「かみ」と訓読し、「霊」は形容詞「霊妙な」としておく。 また「仰」には、臣下の意を汲んでいただくことをお願いする意味を込めて、補助動詞「たまはる」をつけておく。 《銀郷》 なぜ、「金郷」でなく「銀郷」なのだろうか。16世紀の日本では銀の生産量は多く、中国にも輸出されたという。 もし飛鳥時代でも銀の産出が多く、それが中国に知られていたとすれば一応理解できるが、実際のことは分からない。 《春日郎子》 「春日」がつくから、顕宗天皇皇后の「春日大娘皇女」と同じく春日和珥氏から嫁いだかと思われる。 《大意》 〔億計天皇十一年〕十二月、 大伴金村連(おほとものかなむらのむらじ)は敵を平定し、遂に政を太子にお返しし、 尊号〔天皇号〕を要請して申し上げました。 「今、億計天皇(おけのすめらみこと)の皇子は、ただ陛下お一人でいらっしゃいます。 民は喜んで帰し、二人に従うことは決してありません。 また、神の御魂のふゆを受けて太子を貴び補佐し、 凶党を浄め除いて差し上げました。 太子は英略勇断の人でいらっしゃいますので、 天威〔天の威力〕・天禄〔天からの賜りもの〕を盛大に得られましょう。 日本(やまと)の国には必ず主(ぬし)があり、 日本の国を掌るは人は、陛下に非ずして誰がいらっしゃるでしょうか。 伏して願わくば、大君、天を仰ぎ見て霊妙な神の御意向にお答えになり、 景命弘宣〔偉大な詔を広く徹底〕され、 日本に光宅〔徳を満たす〕され、 こうして白銀(しろがね)の国をお受けなさいませ。」と申し上げました。 太子は諸官に命じて即位の儀式の壇を泊瀬(はつせ)の列城(なみき)に設けさせて 天皇の位に登られ、 遂に都を定められました。 この日、大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)を以って大連(おおむらじ)になされました。 元年三月二日、 春日娘子(かすがのいらつめ)を皇后(おおきさき)に立てられました【娘子の父は、未詳】。 この年は、太歳己卯(つちのとう)でした〔499年〕。 まとめ 武烈天皇の残虐性は雄略天皇にも通じ、両者とも都を初瀬に置き、 子がなく後継者を見つけるのに苦労した〔但し雄略天皇の場合は、その子の清寧天皇のことになっている〕という共通項があるので、 一人の天皇を二人に分けたようにも思える。 しかし、雄略天皇には金錯銘鉄剣や脇本遺跡という考古学的な裏付けがあり、既にある程度の文書記録もある時代だったと思われるので、 やはり別個の人格として実在したのだろう。ただ、伝説のレベルでは人物像や逸話の混合は考えられる。 書紀における大伴金村連の言葉は、武烈天皇の凶悪な人物像から極端に乖離している。 書紀の原文作者に対して、大伴氏が先祖に傷をつけないために圧力をかけたのかも知れない。 即ち、即位前には一時的にせよ立派に皇位を継ぐ資質を見せ、金村はそれを正当に判断したに過ぎないかの如くに描かせた可能性がある。 原文作者はその要請を受け、美文を作るために漢籍から文言を拾い出したが、それを加工する過程で若干しくじったわけである。 |
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2019.06.20(thu) [228] 下つ巻(武烈天皇2) ▼▲ |
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![]() 爲御子代定小長谷部也 此の天皇(すめらみこと)太子(ひつぎのみこ)无(な)き故(ゆゑ)に、 御子代(みこしろ)の為(ため)に小長谷部(をはつせべ)を定(さだ)めたまひき[也]。 この天皇(すめらみこと)には太子がいなかったので、 御子代(みこしろ)として小長谷部(おはせべ)を定めました。 【御子代】 皇子代の意義については、書紀(下述)で「使レ為二代号一万歳難レ忘者也」 〔皇子の代わりに部の名として用いれば、万年に忘れ難い〕と説明されている。 時代が下って〈孝徳天皇紀〉には、大化二年〔646〕の「改新」の詔に次の記述がある。 ――「罷下昔在天皇等所レ立子代之民。処々屯倉。及別臣連伴造国造村首所レ有部曲之民。処々田荘上。仍賜二食封大夫以上一。各有レ差。」 〔昔在りし天皇等の立てる子代の民、処どころの屯倉(みやけ)、及び別かてる臣・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造・村首の所有せし部曲(かきべ)の民、処どころの田荘を罷(や)めて、すなはち食封を大夫以上に賜る。おのもおのも差(しな)有り〕。 大化の改新では私有されていた部民の公民化を目指したが、徹底しなかったと言われる。 「昔在天皇等所立子代」とは、御子代の起源を、かつて无子の天皇が皇子の代わりに名を残すために設けたというのが、飛鳥時代の一般的な認識であったことを示すと言える。 記で御名代が出てきたのは、仁徳天皇の八田若郎女の八田部である (第170回)。 このとき、「皇后を送り出した氏族が、皇子が継ぐべき部民を代わりに引き継ぐことが、「皇子代」の本当の意味であろうと思われる。」と考察した。 この図式をここに応用すれば、小長谷部についてはその伴造が、武烈天皇の事実上の養子となって皇子に相当する地位を得たということになる。 〈姓氏家系大辞典〉によれば、長谷部の伴造「小長谷造」はでは「多臣の族」で 「後天武天皇朝連姓を賜ふ」〔天武天皇のとき、連(むらじ)の姓(かばね)を賜る〕とあるが、 武烈天皇のとき長谷部の伴造になった人物の名前は明らかではない。 なお、小長谷造の祖は、神八井耳命〔神武天皇の皇子〕である (第101回)。 「小泊瀬稚雀神社」(奈良県高市郡明日香村)は、名前から見て小長谷造の氏神のようにも思えるが、今のところ不詳である。 【小長谷部】 〈姓氏家系大辞典〉を見る。 ――「小長谷部 ヲハセベ:小泊瀬部ともあり。武烈天皇の御子代部にして、 御諱小長谷若雀命を名に負ひたる也」。 ――「小泊瀬舎人 ヲハセノトネリ:武烈帝に奉仕しせ舎人の裔にして、 帝の御名を伝ふる為に定められたる小長谷部の一部也」。 同辞典は、小長谷部を遠江、甲斐、下総、信濃、上野、豊前に見出しているが、これらは子孫が分散したものだから小長谷部は実在し、 記紀のこの段はその祖の由来を説明するものと言える。 【書紀-六年九月】 8目次 《置小泊瀬舎人》
詔(のたま)ひて曰(のたま)はく 「伝国之機(くにをつたふるわかつり、あまつひつぎのことわり)、子(みこ)を立たせて貴(たふとぶ)と為(す)。 朕(われ)継嗣(ひつぎのみこ)無くありて、何(いかに)以ちて名(みな)を伝えむや。 且(しまらく)天皇(すめらみこと)の旧(ふる)き例(ならひ)に依りて、小泊瀬舎人(をはつせのとねり)を置きたまひて、 代号(みなしろ)の為(ため)に使はば、万歳(よろづとせ)に忘(わするること)難(かた)き者(もの)にならむ[也]。」とのたまふ。 《伝国之機》 伝国という表現については、雄略天皇の即位前4にも、 かつて安康天皇が市辺押磐皇子に「伝レ国而遙付二-嘱後事一」が載る。 これは事実上皇太子に立てた意味である。 倭語ならば「ひつぎ」(日嗣)であるが、「日嗣」のまま書いてもは中国語にならないので、 訳して「伝国」としたと思われる。 訓読は、そのまま「国を伝ふ」でも、「日嗣」でもよいだろう。記でも「日続(ひつぎ)之王」を用いている(第230回)。 倭語の「はた」は基本的に織機、あるいは織物を表す。 漢字の「機」は、〈汉典〉が「machin;moment,chance」と英訳するように、機械、機能、機構、時期、機会、好機、機智などの意味に使われる。 「伝国之機」を「皇太子を定める手続き」と取れば、「機能」が近い。 古訓〔『学研新漢和』所引類聚名義抄・観智院本〕には、「はた。たかはた。はたもの。」〔織機、織物〕、「おこつり。」〔をこつる=だまして誘う〕、 「わかつる。」〔わかつり(機関)=ものをあやつり動かすしかけ〕がある。これらの中から選ぶなら「わかつる」が近い。 ただ、「ひつぎののり(或いはことわり、とき)」でも十分意味を表すことができる。 《大意》 六年九月一日、 詔して 「伝国の機〔天皇を継ぐ手続き〕は、皇子を立太子させてこそ貴い。 朕は継嗣無く、何を以って名を伝えようか。 取り敢えずは、天皇の旧例に依って小泊瀬舎人(おはつせのとねり)を置き、 御名代として用いれば、万歳に忘れ難きものとなろう。」と仰りました。 まとめ 書紀では小泊瀬舎人を定めた武烈天皇の言葉は冷静で落ち着いており、 頻繁に描かれた猟奇的な振舞とはかけ離れている。 この人格の分裂とも言うべき現象は読者を戸惑わせるが、 書紀の詔の部分については〔また臣が即位を促す上奏にも〕専門の書き手がいて、 ときに漢籍を出典として中国風に書かれたと思われる。 ここでも詔が独立して作文され、それが他の部分に直接繋ぎ合わされた結果かも知れない。 別の考え方としては、小泊瀬舎人一族にとって先祖の由来伝説は大切だから、 この部分だけ文脈とは無関係に一定の格式ある表現がなされたとも考え得る。 書紀における呼称が小泊瀬部でないのも、彼らが「我祖、小泊瀬天皇舎人也」と主張しており〔想像だが〕、それを重んじた故かも知れない。 |
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2019.07.02(tue) [229] 下つ巻(武烈天皇3) ▼▲ |
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![]() 御陵(みささき)、片岡之石坏岡(かたをかのいはつきのをか)に在(あ)り[也]。 御陵は、片岡之石坏岡(かたおかのいわつきのおか)にあります。 【書紀-八年十二月】 10目次 《天皇崩》
《大意》 十二月八日、天皇は列城宮(なみきのみや)で崩じました。 【継体天皇紀-即位前(2)】 継体2目次 《武烈天皇崩》
八年冬十二月己亥〔八日〕。 小泊瀬天皇(をはつせのすめらみこと)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 元(もとより)男女(みこ)無(な)くて、継嗣(あめのひつぎ)絶ゆ可(べ)し。
大伴金村大連(おほとものかなむらのおほむらじ)議(はか)りて曰(まを)ししく、 「方(まさ)に今継嗣(あまつひつぎ)絶(た)へて無(か)からむとす、天下(あめのした)何(いかにか)心(こころ)所繋(つながゆ)や。 古(むかし)自(よ)り今迄(まで)、禍(わざはひ)斯(これ)に由(よ)りて起(お)これり。 今、足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)の五世(いつよ)の孫(はつこ)倭彦王(やまとひこのみこ)、丹波国(たにはのくに)の桑田郡(くはたのこほり)に在(いま)す。 請(ねがはくは)、試(こころみ)に兵仗(つはもの)を設(まう)けて乗輿(みこし)を夾(はさ)み衛(まも)りまつりて、 就(おもぶ)きて[而]奉迎(むかへまつ)りて、立たして人主(おほきみ)に為(な)しまつらむ。」とまをしき。 大臣(おほまへつきみ)大連(おほむらじ)等(ら)一皆(みな)隨(したが)ひて[焉]、計(はかりごと)の如(ごと)く迎奉(むかへまつ)りき。 於是(ここに)、倭彦王、迎(むかへ)の兵(いくさ)を遙(はるか)望みて、懼然(おそり)色を失ひて、 仍(すなはち)山壑(やまたに)に遁(に)げて、所詣(ゆくへ)不知(しらず)。 《倭彦王》 天皇の子は「皇子(みこ)」、孫以後は「王」「王子」と表記される。 この場合の「王」の訓みは、意祁王を「をけのみこ」と訓むことから分かるように「みこ」である。 「倭彦王」は〈釈紀〉で「ヤマトヒコノキミ」と訓むように、一般的に「きみ」「おほきみ」とするが、「きみ」は一般的な尊称で「おほきみ」はそれを高めるものである。 ここでは、仲哀天皇からの血筋を重んずる文脈にあるから「やまとひこのみこ」と訓むべきであろう。 《試設兵仗夾衛乗輿》 「試設兵仗夾衛乗輿」を、どのように区切ったらよいのだろうか。 辞書や中国古典※1に「試設」という熟語はなく、また「試」が「こころみる」「ためす」以外の意味に使われることはほとんどないから、 「設兵仗~」以下がその目的語となる。 また、古訓※2に「こころみに」があるから、「試」一字を切り離して副詞として訓読することも可能と思われる。 ※1…「中国哲学書電子化計画」から検索。 ※2…『学研新漢和』所引『類聚名義抄図書寮本』。 「兵仗」を貴人を護衛する意味で使うのは、日本語独自である。中国語では、単に「武器」の意味である。 ただし、この文中においては天子の輿を「衛」(まも)るために「兵仗」を用意するのだから、結果的に日本語用法に一致する。 「乗輿」は天子が乗っている状態で天子そのものを指す用法もあるが、 ここではモノとして、「天子を載せるために用意した輿」を意味する。 「夾衛」は、熟語としては中国古典には見つけられないので、「夾(はさ)む」と「衛(まも)る」を単純に繋いで「周りを囲んで護衛する」意味であろう。 つまり、区切りは「試、設二兵仗一、夾二-衛乗輿一」で、輿と、輿を警護する体制を整えて、倭彦王を迎えに行く様を表す。 試に戻ると、「設兵仗~為人主」の全体に懸るものと見られる。 結局、その目論見は外れたのである。 《大意》 八年十二月八日、 小泊瀬天皇(おはつせのすめらみこと)は崩じました。 元々男子女子はなく、継嗣は絶えようとしていました。 二十一日、 大伴金村大連(おおとものかなむらのおおむらじ)は、 「今まさに、継嗣は絶えてなくなろうとしている。どうやって天下に心を繋ぎとめることができだろう。 昔から今まで、禍いはこれに因って起こった。 今、足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)〔=仲哀天皇〕の五世の孫、倭彦王(やまとひこのみこ)が丹波国の桑田郡にお住みになっている。 願わくば試してみたいことは、兵仗を用意して御輿を左右から挟んで護衛し、 赴いて奉迎し、人の主〔=天皇〕とすることである。」と諮りました。 大臣(おおまえつぎみ)、大連(おほむらじ)らは一同賛意を示し、計画の如く迎奉しました。 すると、倭彦王は迎えの兵を遙かに望み見て、懼然(くぜん)として〔=恐怖に〕顔色を失い、 さらに山谷に遁走し、行方不知(しらず)となりました。 【継体天皇紀-二年十月】 継体8目次 《葬小泊瀬稚鷦鷯天皇》
小泊瀬稚鷦鷯天皇(をはつせのわかさざきのすめらみこと)を[于]傍丘磐杯丘陵(かたをかのいはつきのをかのみささき)に葬(はぶ)りまつる。 《大意》 二年十月三日、小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと)を傍丘磐杯丘陵(かたおかのいわつきのおかのみささき)に埋葬しました。 【傍丘磐杯丘陵】 傍丘磐杯丘陵は、〈延喜式-諸陵寮〉『扶桑略記』、には次のように記載される。 『扶桑略記』の兆域に相当する値は、〈延喜式〉とは若干異なっている。 〈延喜式〉は905年~927年の期間に編纂され、『扶桑略記』の成立は1094年以後と言われているから、 陵墓に関する記述も『扶桑略記』の方が新しいと思われる。『扶桑略記』は仏教の立場による史書で、 記紀の記述もその枠組みの中で要約しているわけだが、これまで見てきたように神功皇后や飯豊女王を天皇と称するなどの独自性がある。
――「〔延喜式・扶桑略記〕以後記録を欠くが、元禄の諸陵探索時に、奈良奉行所は葛下郡片岡平野村北東の字片岡山石ノ北の古墳(1)を武烈天皇の分明陵と報告、以後幕末までここが当陵として保護された。 『山陵志』は、葛下郡築山(つきやま)村の古墳(磐園(いわぞの)陵墓参考地)(2)を当陵、この南方の陵家村の古墳(陵西(おかにし)陵墓参考地二児山)(3)を南陵〔顕宗天皇陵〕としたが、安政の陵改めではこれを否定した。 しかし幕末修陵時には諸説分かれて修陵できず、ようやく明治二十二年〔1889〕六月三日、傍丘磐坏丘南陵などの考定とともに、葛下郡今泉村字ダイゴ、志都美神社森の北(4)に現陵を考定し、兆域を定めて修陵し、同二十六年三月勅使が参向し、修陵竣工奉告祭を行なった。 北東に面し南西に延びる長さ250m、高さ前部約10m、後部約20m山形墳で、前面に凹字形空濠があり、その前に拝所がある。」 (1)は、平野古墳群(図1・図2)の3号墳・4号墳に当たり、 平野町公式サイト内の 「平野古墳群関係文書」 にその古記録が紹介されている。 そこには、 「この絵図や古文書には、江戸時代に平野塚穴山古墳(国史跡)が顕宗天皇陵として、 平野3・4号墳が武烈陵として治定されていたことがうかがえ、また、平野1・2号墳は御廟所として陵墓に準じる扱いを受けていたことがわかる」と紹介されている。 その文書(図4)の名「武烈帝陵生垣取建等二付請書付絵図」は、 「武烈帝陵の生垣の取り建て等に付き請書(うけしょ)。絵図を付す。」と訓むと見られる。 左下の鳥居とコの字形の生け垣の設置を申し出る計画書らしい。 この平野3・4号墳は削平されて、現在は残っていない。図2に示した位置は、平野1号墳の前の案内板による。 これが奈良奉行所による治定で、いわば幕末までの公式見解である。
(3)の「陵西陵墓参考地」は、築山古墳の南にある小さな古墳、狐井塚古墳のことで、 現在は陵墓参考地(被葬者候補:顕宗天皇皇后の難波小野王)とされている(第225回、武烈天皇三年付図)。 このように、幕末には平野3・4墳、築山古墳が武烈天皇陵の候補として挙がっていたが、 決定にいたらず、1889年になって(4)が「傍丘坏丘北陵」に治定され、宮内庁に引き継がれて現在に至る。 「傍丘磐坏丘北陵」の地形を、宮内庁書陵部の陵墓地形図に見る。 数々の形が整った前方後円墳と見比べれば、 これが全くの自然地形であることは、あまりにも明白である。 拝所の左右の空堀も、周濠っぽく見せかけた人工物であろう。 欠史八代の頃ならまだしも、並みいる巨大前方後円墳より後の時代の陵に、このような場所を定める感覚はお粗末というほかはない。 恐らくは、複数の伝承地を「傍丘磐坏丘北陵」に推す人がいて互いに頑として譲らないので、苦し紛れに誰も主張する人のいない丘陵に定めたのであろう。 【狐井城山古墳】 狐井城山古墳については、第225回で、顕宗天皇陵の可能性を検討した。 《顕宗天皇陵説》 狐井城山古墳は「五世紀末~六世紀前半」という時期、そして大王陵としての規模に合う前方後円墳という点から見て、 武烈天皇陵または顕宗天皇陵の有力な候補である。 実際、『古墳の被葬者を推理する』〔中公叢書2018;白石太一郎〕でも、 「この時期としては最大級の前方後円墳であり、大王墓の可能性がきわめて大きい」が、 「ただ、付近にはほかにこの時期の大王墓級の古墳はみられず、 狐井城山古墳を顕宗と武烈のいずれの墓と考えるかは難しい問題である」と述べる。 その上で、「持統五年〔691〕の陵墓守護の詔にともなう陵墓の比定に際しては、たとえ非実在の大王であっても、 その墓を決めなければならなかった」と述べて事実上武烈天皇陵説を否定し、 「葛城氏が支えた顕宗天皇のために」、「自らの本拠地に営んだ大王墓であることは疑いないものと思われる。」と主張する。
またもう一つの問題として、狐井城山古墳もが「片岡(傍丘)」の範囲内であったのだろうか。これについては、 考古学的な年代を優先して逆に、だからここも片岡であったと考えることもできる。 《南陵・北陵》 これまで見てきたように、江戸~明治の顕宗陵・武烈陵の比定は混迷している。 「傍丘磐杯丘陵」のそもそもの原点は、記紀にあった。そこでその表現に立ち戻って再検討しよう。 まず、顕宗・武烈の両天皇陵について、記には「上」の有無という不一致があるが、書紀は完全に同一であるから、記も同一と見てよいであろう。 これを南陵・北陵に区別したのは、〈延喜式〉である。
当時正確な年代判定などないから、外見上の規模から判断したとすれば、狐井城山古墳〔墳丘長140m〕を北陵、築山古墳〔同210m〕を南陵にしたと考えるのが妥当であろう。 ただ、北陵には狐井城山古墳ではなく、新山古墳〔同137m〕を当てたかも知れない。 しかし『扶桑略記』も同様だとすると、南陵が南北に長い〔東西二町南北三町〕とする点に不都合が発生する。実際には北の狐井城山古墳こそ南北に長く、南の築山古墳は東西に長いのである。 これは頭を抱えさせるが、実は誤写かも知れない。 そして〈延喜式〉による比定も再び忘れられて、江戸時代に改めて議論が沸き上がった。 このように考えると、南陵・北陵に分けることを絶対的な前提とする必要はないように思われる。 そこで、記紀の時点では実は単一の陵と考えられていたものと、仮定してみよう。 《合葬陵》 武烈天皇は顕宗天皇陵に合葬されたものと仮定して、その経緯を想像してみる。 ――石上ではなく泊瀬に宮を置いたのは、雄略天皇に倣って物部氏と距離を置こうとしたためとも考えられる。 ところが、物部氏を配下に置いていた大伴金村は、それを許さなかった。 そこでその御子または近縁の者には大王位を継承させず、王朝を交代させることにした。 継体天皇二年十月となり、遺体はしばらく仮安置されていたが、そろそろ埋葬しなければならない。 思い返せばかつて顕宗天皇は物部氏に逆らい、葛城氏族の庇護下で天下を知ろしめた。 武烈天皇も同じように物部氏に歯向かったのだから、大伴金村は反逆者同士同じ陵で眠らせよと命じた。―― この筋書きは想像に過ぎないが、不思議なことに書紀の次の事柄を見れば、このようなこともあったのではないかと思えてくる。 ◎ 悪行について…武烈天皇紀6まとめで見たように、質の異なる要素が脈略なく混在しており、これらの記述は悪口自体を目的とした印象が強い。 ただし、全くの無根拠ではないかも知れない。 天皇の悪行は武烈天皇に限らず、実際にはさまざまな悪行の伝説があったことは十分考えられる〔実際に雄略天皇紀に見られる〕。 この際それを武烈天皇一人に集約し、その王朝を廃したことを合理化する材料に用いたのではないか。 ◎ 傍丘が葛城氏の墓域であること… 武烈天皇は、もともとは武烈天皇は顕宗天皇に続いて物部氏系に推戴されていたと考えられるから、葛城氏が祀る墓域に葬られたのは不自然である。 裏切り者として懲罰的に、顕宗天皇陵に放り込まれたのではないか。 ◎ 葬るまでに二年が経過…反正天皇の埋葬が遅れたのは巨大陵の築陵に時間がかかったためだが(第183回)、 武烈天皇については、それらしい大陵を見出すのは困難である。実際にはなかなか築陵を始めず、遺体を殯宮に安置したままにしていたのではないか。 ◎ 倭彦王に逃げられた話…次期天皇として仲哀天皇五世孫の倭彦王を迎えようと試みて逃げられ、継体天皇も初めは大伴金村の真意を疑う。 これは、事実上の最高権力者は大伴金村で、その独裁下で武烈王朝が廃されたことが知れ渡っていたからではないか。金村大連に逆らえば、懲罰を受けるような皇位なら要らない。 ◎ 遂有子… 「遂ニ有レ子」(七年四月)とは実は武烈天皇の子ではないか。百済出身者を祖とする一族が「倭君」を名乗る理由が分からず、 また志我君が長期間滞在するに至った理由も書かれない。実はこのような形で、真相を潜り込ませたのではないか。 つまり「子」は皇子とは認められず、単なる一氏族の祖となった。これは人為的に王朝が廃されたことを意味する。 まとめ 宮内庁治定の「傍丘磐杯丘北陵」はどう見ても自然地形である。 そのような治定がなされた背景を探るうちに、香芝市付近に大王陵クラスの墳丘は存在するが、南北二陵を求めようとするとたちまち困難に直面する実態が浮かび上がった。 その混迷が、全く無根拠な「傍丘磐杯丘北陵」の治定をもたらしたようである。当時の宮内省が一体どのようにして「現陵を考定」(『国史大辞典』)した〔=こじつけた〕か興味は湧くが、 その探求はもはや無意味であろう。 ただ、その決定は現在もなお宮内庁の治定として生きているのだから、本当は民主主義国家の主権者である我々自身にも関わることである。 さて、南陵・北陵の区別を諦めて「傍丘磐杯丘陵」一陵のみとした場合でも、書紀の記述と矛盾しない形でストーリーを描くことは可能であった。 試しにそのストーリーに従ってみると、大伴金村大連による独裁や、安康帝以来の物部氏と葛城氏(忍海氏を含む)の対立関係が浮かび上がってきたのは、なかなか興味深い。 |
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⇒ [230] 下つ巻(武烈天皇4) |