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[217] 下つ巻(清寧天皇7) |
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2019.02.20 (wed) [218] 下つ巻(顕宗天皇1) ▼▲ |
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![]() 袁祁之石巢別命 坐近飛鳥宮治天下捌歲也 天皇 娶石木王之女難波王无子也 伊邪本別王(いざほわけのみこ)の御子(みこ)、市辺忍歯王(いちへのおしはのみこ)の御子、 袁祁之石巣別命(をけのいはすわけのみこと)、近飛鳥宮(ちかつあすかみや)に坐(ましま)して天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ、捌歳(やとせ)也(なり)。 天皇(すめらみこと)、石木王(いはきのみこ)之(の)女(むすめ)難波王(なにはのみこ)を娶(めあは)せたまひて、子(みこ)无(なし)[也]。 伊邪本別王(いざほわけのみこ)の御子(みこ)、市辺忍歯王(いちへのおしはのみこ)の御子、 袁祁之石巣別命(をけのいはすわけのみこと)は、近飛鳥宮(ちかつあすかみや)にいらっしゃいして、天下を治められること八年。 天皇(すめらみこと)は、石木王(いわきのみこ)の娘、難波王(なにわのみこ)を妃とされ、皇子はいらっしゃいませんでした。
【真福寺本】 《伊弉本王》 氏庸本には書紀の「装束王御子市邊忍齒王御子」はなく、「袁祁之石巣別命」から始まっている。 『岩波古典文学大系』は「伊弉本別王」について、脚注で「諸本にないが、真福寺本に従って補う。 但し真福寺本には「伊弉本」を「装束」に誤っている。」と述べる。 その解釈は、「裝」は「弉」と字形が類似し、また記の「伊邪那岐」〔いざなぎ〕を書紀は「伊弉諾」と書くことによると思われる。 しかし、記では「弉」という字の使用例は皆無なので、疑問が残る。 遡ると、この書き方は二王子発見のとき袁祁王が読み上げた韻文の中の 「伊耶本和氣天皇之御子市邊之押齒王之奴末」と共通する (第214回)。 こちらは「邪」が「耶」ではあるとはいえ、「伊邪本和氣」は明瞭である。 その少し後で同じ「伊邪本」を「装束」と誤写するのは理解に苦しむが、文脈としてはここに入るのは伊邪本和気天皇である。 「和気」と「別」の差については、仁徳天皇段に「大江之伊邪本和氣命」と「蝮之水齒別命」が並んでいるから、 あまりないと見てよいだろう。もし誤写だとすれば「装束」という語だと思い込んで書いたのだから、元が「伊弉本」であろうが「伊邪本」であろうが大差ない。 ならば、記の他の個所で使われている「伊邪本」を置くのが順当であろう。 《難波王无子也》 真福寺本の「兄子」が、「无子」の誤写であるのは確実である。 【袁祁之石巣別命】 書紀には「弘計天皇【更名、来目稚子〔くめのわくご〕】」 (顕宗1)。 〈播磨国風土記〉-美嚢郡には「袁奚天皇」。 「石巣別」の名は、書紀・播磨国風土記にはない。 「石巣」は、伊邪那岐・伊邪那美の神生みにおいて三番目に生まれた「石巣比売」以来である (第36回)。 「いはす」は〈時代別上代〉の見出し語にないので、普通名詞として出てくる文献はないようだが、 この語が存在したとすれば巨礫が転がる渓谷が思い浮かぶ。そこにも神がいたのは、当然である。 このように「石巣別」はもともと地名、あるいは神の名前に由来すると想像されるが、それ以上のことは分からない。 【近飛鳥八釣宮】 〈大和志(五畿内志)〉「高市郡」には、【村里】に「飛鳥」「上八釣」。 また【古蹟】に「八釣宮【上八釣村 顕宗天皇元年即二位於近飛鳥八釣宮一】」がある。 弘計皇子神社(奈良県高市郡明日香村大字八釣41番)が、その近飛鳥八釣宮の伝承地付近に建つと言われる。 『奈良県高市郡神社誌』〔高市郡教育会発行、大正11年〔1922〕〕の弘計皇子神社の項は、このように述べる。 「当社創設の年代詳かならざれども、蓋し顕宗天皇近飛鳥八釣宮趾の一部に建てたるものにして、 顕宗天皇在世の御盛徳を万世に称へ、其の聖蹟を永遠に保存せんが為めに、 爰〔ここ〕に経営せしめたること明かなり。然れども記録の徴すべきものなく。 遠隔の詳かなる之を知ること能〔あた〕わず。今境内に就きて考証に資すべき比較的古き物を挙ぐれば、 元禄五年の寄進に係る石灯篭并〔ならび〕に天保八年の棟札なりとす。 されば当社の創建は元禄以前に在りしこと明らかなりとす。」 同書によれば、棟札のひとつには「天保八歳酉長月〔1837年(丁酉)9月〕吉 奉再建正遷宮顕宗天皇」と書かれ、 石灯篭に「元禄五天〔1692〕九月十二日」の日付がある。
江戸末期には文久の修陵〔1862~〕など、書紀に基づく歴史観に光を当てようとする機運が高まっており、 「弘計皇子神社」への改名もその流れによるものではないかと想像される。 《近飛鳥》 顕宗天皇の宮は、記に「近飛鳥宮」、書紀に「近飛鳥八釣宮」と記される。 履中天皇段でば、河内国安宿郡が「近飛鳥」で、高市郡にあるのが「遠飛鳥」である (第180回)。 このことに立脚するなら、安宿郡に「八釣」の地名を見出さなければならない。だが、少なくとも〈五畿内志〉の安宿郡に「ヤツリ」は見いだせない。 顕宗天皇の前後の天皇が坐した宮殿を書紀から拾うと、安康天皇「石上穴穂宮」・雄略天皇「泊瀬朝倉宮」・清寧天皇「磐余甕栗宮」 ・仁賢天皇「石上広高宮」・武烈天皇「泊瀬列城宮」・継体天皇「磐余玉穂宮」とあり、 何れも大和平野の石上・磐余・泊瀬であるから、これを基準にすれば近いのは高市郡飛鳥で、遠いのは安宿郡である。 それに対して、履中天皇の頃は仁徳朝からまだ日が浅いから、政の中心はまだ難波だとイメージされていて、安宿郡こそが「近飛鳥」であった。 このように、どちらを基準とするかによって二通りの相反する呼び名が存在したと考えられる。 【捌歳】 「捌歳」〔八歳〕には大字が用いられていることだけを見れば、顕宗天皇即位の年齢である。 しかし顕宗段の最後には「天皇御年、参拾捌歳、治天下八歳」とあるから、「捌歳」は在位年数であった。 ただ、伝説の別伝として「八歳のときに即位」説が存在し、 最初はそれに従って書き始めたが顕宗天皇段を書き終える段になって、 「御年三十八歳・在位八年」に改めたようにも思える。 すると今度は、小楯の膝に坐るような子供の姿で発見されてから三十歳で即位するまで、何をしていたのかという疑問が生まれる。 このことについては、第216回【王子の年頃】の項でも考察したが、 結局二王子が雄略天皇による探索から逃れて以来、崩ずるまでの時間経過は矛盾だらけである。
12目次 《於近飛鳥八釣宮卽天皇位》
百官(もものつかさ)陪位(つかひひと)者(は)、皆(みな)忻々(よろこ)びき[焉]。 【或本(あるふみ)に云ふ。 弘計天皇(をけのすめらみこと)之(の)宮(みや)二所(ふたつ)有り[焉]。 一宮(ひとつ)小郊(をの)に於(を)きて、二宮(ふたつ)池野(いけの)に於(お)く。 又(また)或本(あるふみ)に宮(みや)甕栗(みかくり)に於けりと云ふ。】 是の月、皇后(おほきさき)に難波小野王(なにはのをののみこ)を立たしたまひて、 天下(あめのした)に赦(つみゆるし)したまふ。 【難波小野王、雄朝津間稚子宿祢天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)〔允恭天皇〕の曽孫(ひひこ)、 磐城王(いはきのみこ)の孫(ひこ)、丘稚子王(をかのわくごのみこ)之(の)女(むすめ)也(なり)。】 〔是年[也]、太歳乙丑(きのとうし)〔485〕〕 《公卿》 「三公九卿」。中国における三公は、周代には太師・太傅・太保。隋・唐では太尉・司徒・司空。 九卿は、三公に次ぐ九種の長官。 ここでは、「まへつきみ」(〈時代別上代〉:天皇の御前に伺候する高級侍臣)にあたると見られる。 《百官陪位者欣欣焉》 『三国志』に下敷きとなったと見られる文がある。 ――〈魏志-巻四〉高貴郷公紀:「即皇帝位於太極前殿。百寮陪位者欣欣焉。」 同巻に、即位に伴う「赦」もある。 ――〈同〉陳留王:「即皇帝位於太極前殿。大赦。」 《弘計天皇之宮》 原注にある「小郊宮」「池野宮」は、『播磨郡風土記』美嚢郡に記された四宮中の2つである。残りの2つは仁賢天皇紀に出てくる (第215回)。 「甕栗宮」は書紀の公式見解では清寧天皇の宮である。 書紀は、この時期の大王について複数あった伝承を整理して構成したことが伺われる。 《大意》 そして、公卿や多くの官僚を近飛鳥(ちかつあすか)の八釣宮(やつりのみや)に集め、天皇(すめらみこと)に即位しました。 役人や、陪臣は、皆喜びました。 【或る書に言う。 弘計天皇(をけのすめらみこと)之の宮は二か所あり、一の宮は小郊(おの)、二の宮は池野。 また、或る書では宮を甕栗(みかくり)に置いたという。】 同じ月、皇后に難波小野王(なにわのおののみこ)を立て、 天下に大赦されました。 【難波小野王は雄朝津間稚子宿祢天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)〔允恭天皇〕の曽孫、 磐城王(いわきのみこ)の孫にして、丘稚子王(おかのわくごのみこ)の娘です。】 まとめ 『播磨国風土記』美嚢郡に「於奚袁奚天皇」(第197回)とは書くが、 その事績としては「自レ此以後更還下。造二宮於此土一而坐レ之。」 〔再び美嚢郡に戻り、ここに宮を造り坐す〕と書かれ、結局畿内に上って即位した気配はない (第215回)。 記紀と併せてみると、宮殿は播磨国と近飛鳥に複数挙げられ、天皇名にも異名が多いところに伝説としての広がりを見せる。 この物語には年齢的な矛盾も抱え、意祁・袁祁に関する複数の伝説の寄せ集めと言える。 それに対して、全国を統治する大王の姿を見ようとすると、実在感は薄い。 例えば、雄略・清寧天皇紀には葛城円大臣、平群真鳥大臣、大伴室屋大連が登場するが顕宗紀・仁賢紀には個人名がなく、歴史書としての性格が後退する。 また、記では清寧天皇から武烈天皇までは崩年が載らない。 しかし、この時期に天皇〔歴史的には「大王」〕不在だったとすれば、一体誰が国を統治したのだろうか。 雄略朝には北九州から関東までを覆う国の形があったのは確実だから、その国家体制が突然消滅したとは考えにくい。 やはり記紀・播磨風土記の意祁・袁祁には、一定の真実性を認めた方がよさそうである。 だとすれば、考えられる形態は畿内に大臣・大連中心の統治機構があり、顕宗天皇は播磨に坐したまま象徴天皇であったとするものである。 あるいは、顕宗帝・仁賢帝にはもう少し実質的な力があり、適宜播磨と飛鳥を往復したぐらいのことは考え得る。 何れにしても背後に、例えば飯豊女王を頂点とする葛城・忍海氏が控えていたと見ないと、この体制を維持するのは困難である 〔放っておけば、すぐに畿内勢力がクーデターを起こすだろう〕。 畿内と播磨の二都体制となると、その間の往来は頗る盛んになるから、播磨からの船が着く難波はこれまでに増して重要な地になる。 よって難波の氏族との友好関係は重要で、難波小野王を妃に迎えたことには大きな意味があることになり、二都体制説の裏付けと言えるかも知れない。 ひとまずは二都体制の可能性を念頭に置きながら、顕宗段・紀を読み進めていきたい。 |
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2019.03.05(tue) [219] 下つ巻(顕宗天皇2) ▼▲ |
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![]() 在淡海國賤老媼參出 白 王子御骨所埋者專吾能知 亦以其御齒可知 【御齒者如三枝押齒坐也】 此の天皇(すめらみこと)、其の父王(ちちぎみ)市辺王(いちべのみこ)之(の)御骨(みほね)を求(ま)ぎたまひし時、 淡海国(〔ちかつ〕あふみのくに)に在りし賎(いやし)き老媼(おみな)参出(まゐで)て、白(まをししく)、 「王子(みこ)の御骨の所埋(うづもれれてあるところ)者(は)專(もはら)吾(われ)能(よ)く知りまつる。 亦(また)其の御歯(みは)を以ちて知る可(べ)し。」とまをしき 【御歯者(は)三枝(みつのえ)の押歯(おしは)に如(し)きて坐(いま)せり[也]。】。 爾 起民掘𡈽求其御骨 卽獲其御骨 而於其蚊屋野之東山 作御陵葬 以韓帒之子等令守其御陵 然後持上其御骨也 爾(ここに)、民(みたみ)を起(た)たして土を掘り其の御骨(みほね)を求(ま)がしめて、即ち其の御骨を獲(う)。 而(しかるがゆゑに)[於]其(それ)蚊屋野之(の)東山(ひむがしのやま)に御陵(みささき)を作りて葬(はぶ)りまつりたまひて、 韓帒(からふくろ)之(の)子等(ら)を以ちて其の御陵(みささき)を守(も)ら令(し)めき。 然(しか)る後(のち)に其の御骨を持ち上(たてまつ)りき[也]。 この天皇(すめらみこと)が、その父、市辺皇子(いちべのみこ)のご遺骨をお探しになっていると、 淡海の国にいた身分の低い老女が参上して申し上げるに、 「市辺皇子のご遺骨の埋まっているところを、私めは十分よく存知ております。 また、その御歯(みは)によって、判別できるでしょう。」と申し上げました 【御歯は、三重の押歯(おしは)〔八重歯か〕になっておられました。】。 そこで、民を動員して土を掘らせ、そのご遺骨を探させたところ、見つけることができました。 そして、蚊屋野の東の山に御陵(みささぎ)を作って埋葬し、 韓帒(からふくろ)の子孫を、その御陵の墓守としました。 その後、ご遺骨を都に運び献上しました。 父王…(万)1022 父公尓 吾者真名子叙 ちちぎみに われはまなごぞ。 淡海国…〈倭名類聚抄〉{近江【知加津阿不三〔ちかつあふみ〕】国}。 媼…[名] おうな。 老媼…媼と同じ。 おみな…[名] 年老いた女性。おむな・おうなは音便。 うむ…[他] 埋める。活用は四段・下二の例がある。〈時代別上代〉「上代のウムについてはしばらく活用の決定を保留する」。 うづむ…[他]マ四 埋める。 うづもる…[自]ラ四 うずもれる。 おしは…[名] 〈時代別上代〉八重歯のことという。 【真福寺本】
②「以其御齒」の「其」が「甘+冖+丁」。 ⑤の「其」と別字であるのは明白だが、この字はユニコードにはない。 ③「作御陵葬」の「葬」が 「共+土」。この字はユニコードにはないが、字体が似る「𦱬」〔U+26C6C〕は、 「葬」の異体字。 ④「韓帒之子」の「之」が「令」。「令」では意味をなさないから、「之」であろう。 ⑤「守其陵」の「陵」が「御陵」。氏庸本も「御陵」。〈古事記伝略〉および岩波『日本古典文学大系』は「陵」だが、 「御陵」にすれば、③と揃う。 【韓帒】 韓帒はかつて大長谷王(即位前の雄略天皇)に対して、 は、「久多綿蚊屋野」を狩り場に推薦した。 その段に、「淡海之佐々紀山君之祖、名は韓帒」とある (第196回)。 顕宗天皇紀(後述)にも、「狭々城山君韓帒宿祢」の名がある。 大長谷王は、市辺之忍歯王を狩猟に誘って殺害した。 【佐々紀山君】 佐々紀山君は、 大彦命(孝元天皇の皇子)を祖とする(第108回)。 その「大彦命」については、金錯銘鉄剣に始祖の名として「意富比垝」が象嵌されている。 「獲加多支鹵大王」〔雄略天皇〕の時代から、朝廷の祖先の系図があり、 系図上では服属した諸族の擬制的親族関係における分岐点として「意富比垝」が位置づけられていたと思われる (資料[27])。 顕宗天皇紀では韓帒を賤民である陵戸に落とし、狭々城山君の名を剥奪して倭帒宿祢に継がせた(後述)。 【然後持上其御骨】 「然後持上其御骨」の文について、宣長は「然後持二-上其御骨一也は、 上に御屍は蚊屋野の御陵に葬奉賜〔はぶりまつりたま〕へりと聞こえたるに、 又如レ此云〔へ〕るは、 いとも心得がたきことなり」 〔蚊屋野の御陵に葬ったと聞こえるのに、このように言うのはとても納得できない〕と述べる。 岩波『古典文学大系』もその頭注で、「(古事記伝略が)言っているように、不審である」と記す。 書紀はこの部分を無視したのであるが、記では一度埋葬した御骨を掘り起こして都にもってきたと読める。 これは、韓帒の子に命じて行わせたことであろうか。 記をそのまま読めば、後に畿内に別の陵を造って改葬したという言い伝えが存在したことになる。 或いは、蚊屋野埋葬伝説の別伝として、畿内の陵を市辺皇子陵とするものがあり、 その相異なる二話を繋ぎ合わせたと考えることもできる。 どちらにしても、かつて弘計王の韻文に「於市辺宮治天下」という一節があり(顕宗4)、 それに従えば「市辺皇子」の名は、宮殿の所在地に因むものである。 しかし来田綿は狩猟場だからあくまでも原野であり、宮殿が建つとは考えにくい。 だから、「市邊」は、磐余・飛鳥・石上を含む地域のどこかではないだろうか。 市と言えばこれまでに軽市、恵我市が出てきたが、「市辺」はどこかの市の傍らに生まれ得る地名である。 そしてその近郊の古墳が、蚊屋野とは別の「市辺皇子陵」として伝承されてきたように思えるのである。 ここで思い起こされるのは、白鳥陵・白鳥塚が西は吉備、東は尾張まで及ぶ多くの場所にあることである。その背景には、倭建伝説の広い地域への拡散があった (第134回)。 【書紀-13】 13目次 《詔曰先王遭離多難殞命》
詔(のたま)はく[曰]、 「先(さき)の王(きみ)、多(おほ)き難(くるしみ)に遭離(あ)ひて、命を荒郊(あらきたゐ)に殞(お)としたまひき。 朕(われ)幼年(いとけなき)に在(あ)りて、亡逃(のが)れ自(みづから)匿(かく)りて、 猥(みだりかはしき)に求(もと)めまつりし迎(むかへ)に遇(あ)ひて、升(のぼ)りて大業(おほきみわざ)を纂(つ)ぎたまひき。 広く御骨(みほね)を求(ま)ぎて、能(よ)く知ること莫(な)かれ者(ば)。」 と詔(のたま)ひ畢(を)へて、 皇太子(ひつぎのみこ)億計(おけ)与(と)泣哭(いさち)り憤惋(なげきうら)みたまふに、自(おのづから)勝(たふる)こと不能(あたはず)。
耆宿(おきなひと)を召し聚(あつ)めて、天皇(すめらみこと)親(みづから)歴(あまね)く問ひたまへば、 一(ひとり)の老嫗(おみな)有りて進み曰(まを)ししく、 「置目(おきめ)御骨(みほね)の埋(うづ)もれる処(ところ)を知りまつる。請(こひねがはくは)以ちて示し奉(まつ)らむ。」とまをしき。 【置目は老嫗の名也(なり)。 近江国(ちかつあふみのくに)狭々城山君(ささきやまのきみ)の祖(おや)倭帒(やまとふくろ)の宿祢(すくね)の妹(いも)、 名は置目と曰ふ。下(しもつかた)の文(ふみ)を見よ。】
幸于近江國來田絮蚊屋野中、 掘出而見、果如婦語。 於是(ここに)天皇与(と)皇太子億計と、老嫗婦(おみな)を将(ともな)へて、 [于]近江国(あふみのくに)の来田絮(くたわた)の蚊屋野(かやの)の中に幸(いでま)して、 掘り出(だ)して[而]見れば、果たして婦(をみな)の語りし如(ごと)くあり。
古(いにしへ)自(よ)り以来(このかた)、如斯(かく)酷(から)き莫(な)し。 仲子(なかつこ)之(の)尸(しかばね)、御骨(みほね)に交(まじ)はりて横たはりて、能(よ)く別(あ)かつこと莫(な)かれ者(ば)、 爰(ここに)磐坂皇子之(の)乳母(めのと)有りて、奏(まを)しししく[曰]、 「仲子者(は)上歯(うはつは)墮落(お)つ、斯(これ)を以ちて別(あ)かる可(べ)し。」とまをしき。
由是(このゆゑに)、仍(すなはち)[於]蚊屋野の中(なか)に、 造り起こせる双(ふたつの)陵(みささき)、相(あひ)似て一つの如くにありて、葬儀(はぶりのさま)異(こと)にするも無(な)し。 《仲子》 安康天皇三年十月、市辺押磐皇子は大泊瀬皇子〔雄略天皇〕に謀殺され、 それに抗議した仲子〔佐伯部売輪〕も殺された (雄略天皇4)。 記の「押歯があるから皇子の頭蓋骨」を採用できなかったのは、「押磐皇子」と表記したからだろう。 書紀は、「仲子の歯」が脱落していた話に置き換えたと見られる。 ところで仲子の上の歯が欠落していることを、磐坂皇子の乳母がどうして知っていたのだろうか。 磐坂皇子は、雄略帝と吉備稚媛の間の子で、弟の星川皇子が皇位に上ろうとしたのを知ってたしなめた人物である (清寧即位前)。 雄略天皇の身近に仕えていた乳母と、押磐皇子の舎人佐伯部売輪との接点は果たしてどこにあったのだろうか。 興味深い問題だが、永遠に解き明かされることはないであろう。 なお、「磐坂王」は、顕宗天皇の皇后難波小野王の父の名前でもある (顕宗天皇12)。 また、『八日市市史 第一巻』(後述)は、置目もまた皇子の乳母をモデルにしたものと推定し、 「"淡海の置目"に象徴されるような、近江地方出身の乳母たちが宮廷に仕えていたことは事実のようである」(p.303)と述べる。 同市史の著者は、顕宗段の歌謡に「幼時から侍いてくれた乳母への愛情」を見て取っている。 《造起双陵相似如一。葬儀無異》 市辺皇子の葬りについて、「造起双陵相似如一」、即ち全く見わけの付かない二陵を並べて築き、 「葬儀無異」即ち葬儀(儀式の次第、若しくは石室や副葬品か)に差をつけなかったと述べる。 骨を二人分に分けたが、どちらにも市辺押磐皇子の骨が含まれていると思われるから、 陵は全く同一の姿として、埋葬の儀式も市辺皇子を葬る形で同等に行ったとのである。 このように書かれたのは、書紀が書かれた当時に、蚊屋野に瓜二つの古墳が二基並んで存在していたからだろう。 しかし、記では「双陵」とは書かず、仲子の骨が紛れ込んだ話もなく、その後空陵となったとさえ読めるから、 記が想定した古墳はこの双陵以外か、あるいはそもそも古墳を特定しなかったのではないかと思われる。 《大意》 〔元年〕二月五日、 お話しされるに、 「先代の君は多難に遭遇し、命を荒郊に落とされた。 朕は幼年であり、逃亡して自れ隠れていたところ、 猥雑な中、探求使の迎えに遇い、昇って大業を継いだ。 広くご遺骨を求め、知ることができなかったとしたら…」 と話し終えて、 皇太子(ひつぎのみこ)億計(おけ)と共に、おのずから堪えられず泣き嘆き恨みました。 この月、 宿老〔経験を積んだ老人〕を召し集め、天皇(すめらみこと)自ら全員に順番にご質問されたところ、 一人の老女が進み出て申し上げました。 「置目(おきめ)は、ご遺骨の埋まっている場所を存じております。冀(こいねが)わくばお示しさせていただければ。」 【置目は、老女の名前。 近江国の狭々城山君(ささきやまのきみ)の先祖、倭帒(やまとふくろ)の宿祢の妹が、 名を置目という。下文を見よ。】 そこで、天皇と皇太子億計は老女を伴い、 近江国の来田絮(くたわた)の蚊屋野(かやの)の中にお出かけになり、 掘り出して見たところ、果たして老女の語った通りでした。 発掘した穴に臨み、悲しみ嘆き、言葉を深めて更に悼みました。 古(いにしえ)よりこの方、かくも酷なことはありません。 仲子(なかつこ)の屍がご遺骨に混ざって横たわり、区別することは不可能でした。 すると磐坂皇子の乳母がいて、申し上げるに、 「仲子は、上の歯が抜け落ちていますから、それによって区別できます。」と申し上げました。 そして、乳母によって髑髏(どくろ)を判別することはできましたが、けれども遂に四肢の諸骨を分けることは困難でした。 このことによって、蚊屋野の中に 造り起こした双陵は相似してほぼ同一で、葬儀のさまも異なるところはありませんでした。 【書紀-16】 16目次 《狹々城山君韓帒宿禰》
狭々城山(ささきやま)の君(きみ)韓帒宿祢(からふくろのすくね)、事(こと)連(つら)ねて皇子押磐を謀(はか)り殺(ころ)して、 誅(ころさゆる)に臨みて叩頭(ぬかつ)きて、言詞(こと)哀(かなしび)を極(きはま)れり。 天皇、戮(ころすつみ)を加(くは)ふるを不忍(しのびたまはずあ)りて、 陵戸(みささきもり)に守山(やまもり)を兼ね充てて、籍帳(へのふみた)を削除(のぞ)きて、山部連(やまべのむらじ)に隸(つか)へしめき。 惟(ここに)倭帒(やまとふくろ)の宿祢、妹(いも)置目之(の)功(いさみ)に因(よ)りて、 仍(すなはち)本(もと)の姓(かばね)狭々城山の君(きみ)氏(うじ)を賜(たまは)りき。 《陵戸》 韓帒宿祢は罰として陵戸となり、良民から賤民に身分を落とされた。 陵戸については、『令義解-諸陵司』に「掌下祭二陵霊一喪葬凶礼諸陵及陵戸名籍事上」 〔陵霊を祭り、喪葬・凶礼・諸陵、及び陵戸の名籍の事を掌る〕、 『(同)喪葬令』に「凡先皇陵置二陵戸一令レ守」 〔およそ天皇陵には、陵戸を置き守らしむ〕とある。 陵戸は、一般に「五色の賤」と呼ばれる賤民のひとつで、 資料[35]によると、 奴婢と良民の中間に位置づけられる。 『(同)戸令』には、「不課〔税を課さない〕…家人。奴婢。」となっているから、陵戸には税が課されていたはずである。 しかし、「削二-除籍帳一」されてしまえば課税は不可能となる。 それでも『諸陵司』にはその任務に「陵戸名籍事」があるから、良民の「籍帳」とは別口の「陵戸名籍」が作られていて、 韓帒は、籍帳から陵戸名籍に移されたことになる。 ただし『令義解』は 養老令や、その原型の大宝令〔701年〕を説明したものだから、 顕宗朝にあった制度ではない。 それでも書紀の古い時代の事柄には、書紀編纂期〔~720年〕の現実を遡らせて潤色したと思われる箇所は多いから、 大体類似するものとして読めばよいと思われる。 《大意》 〔元年〕五月、 狭々城山(ささきやま)の君(きみ)韓帒宿祢(からふくろのすくね)は連座して皇子の押磐を謀殺し、 誅殺されるに臨み額(ぬか)づき、その言葉は哀れを極めました。 天皇(すめらみこと)は、死罪を科すに忍ばず、 陵戸、山守に兼ね充てて、籍帳から削除し、山部連(やまべのむらじ)に隷属させました。 そして、倭帒(やまとふくろ)の宿祢に、妹置目の功によって、 それまでの姓(かばね)狭々城山君氏(ささきやまのきみうじ)を賜りました。 【市辺皇子墓】 まず〈延喜式-諸陵寮〉には、「市辺押磐皇子墓」の記載はないから、 平安時代の時点で市辺皇子墓の伝承は公式には途絶えている。 幕末以後、市辺皇子墓の治定に至る経過については、万葉の町 市辺は「市辺地区の歴史」のページに、 「市辺押盤皇子の墓所として候補にあがっていたのは、東古保志塚〔村〕・坤〔ひつじさる;小字名〕にある古墳と妙法寺・熊野林の古墳、そして音羽(日野町)の御骨堂の三カ所でした。」 「現宮内庁書陵部(くないちょうしょりょうぶ)に残された資料によると、この三カ所を比較検討した結果、明治8年〔1875〕8月7日付で東古保志塚の現在地を皇子の墓所とする通達が出されています。」 とある。その候補に上がっていた三か所の古墳について、それぞれどのようなものであったかを見てみよう。 【市辺町若宮神社の円墳二基】
この命名は、宮内省の「磐坂市邊押磐皇子墓」治定と軌を一にしている。 そして、町村制〔明治二十二年、1889〕市辺村・糠塚村など七村域をもって改めて「市辺村」が成立。 その後、昭和二十九年〔1954〕に周辺五町村と合併して八日市市が成立、 同市はさらに平成十七年〔2005〕に周辺の四町を合併して東近江市となる。 〈大日本地名辞書〉は、 ――「市邊 :旧市之荘と曰ふ」 ――「温故録※1云、糖塚※2は昔蒲生長者※2の作り置きたる山水の風景よき地なり」 ※1…淡海温故録。 ※2…狂言の演目「三人長者」に、河内のせせなげ長者・大和の市森長者・近江の蒲生長者が出てくる。 ――「市邊押磐皇子も此長者の許に暫く御在せりと。」 ――「○今市邊のコボシ塚と云ふ双墓をば、市邊皇子と榜示せらるとも曰ふ、不審〔つまびらかならず〕。」 と述べる。 〈大日本地名辞書〉(吉田東伍)の刊行は明治33年〔1900〕以後だから「市辺村」は既に存在していたが、 古い時代の荘園名「市之荘」に「市辺皇子」が投影していると見ているようである。但し、「市之荘」は今のところ他の資料には見つからない。 東吾はこの地に押磐皇子伝説が残っていることを認めつつ、古保志塚を市辺皇子墓とすることには懐疑的であったことが分かる。 《磐坂市辺押磐皇子御墓》
【熊の森古墳】 熊の森古墳の位置は、滋賀県東近江市妙法寺町663の北、北緯35度06分05秒、東経136度13分37秒で、 「市邊忍歯別命山陵」の石碑がある。 〈市史〉によれは、熊の森古墳の地域である「湖東の前方後円墳群」は10基ほどの前方後円墳からなるが、密集せず3.0~5.5kmの間隔を保って点在している。 「これら前方後円墳の築造された付近には必ずといってよいほど同時期の集落址が知られていること」などから、 「まとまりある各小地域の首長層が持ち回り的に首長の位を得て前方後円墳を築いていった可能性は大きい」と述べる。 本サイトは仁徳天皇段などにおいて、各地の豪族が皇子を婿に迎えて大王に即位させ、持ち回りで政権を担ったと推定したのであるが (第162回)、 そのミニチュア版とも言うべき形態がここで提唱されていることが、興味深い。
二回目は、「六世紀中葉と考えられる中羽田町八幡社古墳」〔図の10〕で、 琵琶湖周辺地域は既に「群集墳」の時代〔=前方後円墳の後の時代〕だが、「「羽田」氏が〔中略〕伝統的な信頼に足る地位を築いていたため湖東地域の最有力首長として」 前方後円墳の墳形をとるに到ったと推測する。 つまりは、祖先がかつて地方首長として前方後円墳を築いていた伝統を重んじ、復古的に古い墳形を用いたということであろう。 一方「市邊忍歯別命山陵」説については、「嘉永2年(1844) 彦根藩士長野義言が『市辺忍歯別命山陵考』をあらわし この墓を市辺押磐皇子の陵墓であると考証しているがその根拠は乏しい。」と述べる。
【音羽薬師堂】 『近江国輿地志〔よちし〕略』〔1734〕巻六十五を、 (第196回で見たが、その詳しい記載内容は、下記の通りである。
《押磐神社》 さて、音羽薬師堂から南東約1kmに、「押磐神社」(滋賀県蒲生郡日野町音羽(大字)1)がある。 石碑〔平成六年、1994〕に記された「由来略記」によれば、 もともと「綿向山を神の山として崇め、その山頂に天穂日命である綿向大明神を祭祀し」、 「綿向本宮」と呼ばれていたという。 別の墨書掲示板によれば「押磐神社」に改名されたのは明治5年〔1872〕である。 「大明神」は神仏習合による呼び名だから、明治元年〔1868〕の「神仏判然令」の影響下で改められたのであろう。 その墨書掲示板に、「皇子が倒れたのでころび野※久田綿が北畑となり塚守が配され塚本、大塚、森口の姓が生れた」とあるところは注目される。 ※…押磐皇子が「転んだ」ことに由来する地名があったか。 少なくとも、押磐皇子の伝説を伴う古墳がその近辺に存在していた可能性はある。
『滋賀県史蹟名勝天然記念物概要』〔1936;滋賀県史蹟名勝天然紀念物調査会〕 には「音羽古墳」の名で載り、所在地は「蒲生郡西王路村大字音羽字御骨」〔当時の住所表記〕とし、 石室は
露出した天井石や側壁、手水鉢の姿は現在も同書のままである。 さらに古くは〈古事記伝略〉に、「石構露れて見ゆ」と書かれる(次項)。 西側の音羽薬師堂の敷地は、墳丘が削られている。また東側も削られて一般住宅になっている。 直感的には円墳だが、首長墓だとすれば前方後円墳の可能性もある。 大きな天井石があるから横穴式で、上に盛られていた土も失われている。 「日野観光協会・西王路公民館」の名で設置された案内板には、
【古事記伝】 市辺王の御陵の候補地について、〈古事記伝略〉も詳しく言及している。 やや長くなるが、該当部分全体を引用する。
「数里」については、こぼつ塚から音羽薬師堂までの直線距離13.7km。江戸時代の一里は約3.9kmだから、約3.5里である。 道の曲がりによる冗長性を加味すれば、「数里」と言えるのは確かである。 その「こぼし塚」に一旦埋葬された後で、音羽西古墳に改葬されたと述べているのは興味深い。 そのような言い伝えもあったのだろう。 それでも、宣長は音羽から離れ過ぎているから埋葬地としては「おぼつかない」とし、音羽西古墳のみが真正だという。
《八日市市史による評価》 〈市史〉は「現在の市辺町にある宮内庁管理の墓所」は、「『記』・『紀』の記述とすらかけはななれたものである」とする。 その理由としては第一に、現状は大小二基のささやかな円墳が数メートルの間隔を置いてならぶだけで」 「雙陵」とは言い難く、「天皇がその父のために造営したものならば、周濠をめぐらせた数十メートル級の大規模なものでなければおかしい」。 第二に、記は「「其の蚊屋野の東の山に、御陵を作りて」としているのに、現在地は平坦地の真ん中であって記述と一致しない」。 第三に、地名については「現在の日野町・土山町の境界にある綿向山のふもとにクタワタの地があったことが知られ」 それは「現在の日野町村井の馬見岡綿向神社を含む一帯」にあたる。 以上3つの理由から、「市辺町の伝承の墓所にはなお検討の余地があろう」と述べる。 《三つの候補地の評価》 これまで見てきたように、市辺古墳群・熊の森古墳西・音羽古墳は地方豪族の首長墓であろう。 市辺古墳群に至っては、「首長墓」さえも怪しい。 これらの何れかに市辺皇子墓を当てはめようとするなら、 それは史学や考古学などの客観性を重んずる科学とは無縁な、精神世界の営みである。 言わば信仰上の聖地を定義するに等しいと言えよう。 それでは、客観的な事実としてはどのように捉えるべきであろうか。 ここで改めて記紀に立ち返ると、市辺皇子墓は「蚊屋野の東山」(記)、「蚊屋野の双陵」(書紀)である。 これらの記述は、記紀編纂期(飛鳥時代末)に現実に存在した古墳を指したものであろう。 また書紀は瓜二つの双陵だと書くから、記紀が書かれた頃には同形・同サイズの墳丘が並んで現実に存在していたと考えれる。 但し、それが記が指す陵と一致していたとは限らない。 これらは記紀編纂期において既に伝説であったから、 その何れかに、実際に市辺皇子の骨が埋葬されていたか否かも不明である。 しかし、ひとまずは記紀が書かれたときに「市辺皇子御陵」だとした墳墓がどこであったかを考えて見る。 《記紀が比定した陵》 熊の森古墳・市辺古墳群がはっきりと候補に挙がったのは幕末である。それに対して音羽納骨堂は 蒲生智閑(室町後期)納骨堂説があり、「蒲生氏郷の父賢秀が、天正十一年〔1583〕にここに遷し」た (上記案内板。また第196回)とも言うので、 最も古い。
押磐神社も、もともとは綿向山に坐す天穂日命を祀っていた。綿向山は三輪山に準えられるような神体であり、大神神社に相当するのが馬見岡綿向神社、あるいは綿向本宮であったと考えられる。 その崇拝も、三輪山と同様に弥生時代まで遡るものであろう。 従って、5世紀頃以後の市辺皇子陵への崇拝は、古来綿向山を崇拝していた延長線上に生まれた可能性がある。 すなわち、この地の人々は日々東を向いて綿向山を拝んでいた。 そして、その拝む方向に存在した古墳のどれかが市辺遺骨伝説と結びつき、市辺皇子陵と信じられるに到ったと想像される。 現在音羽地域には音羽西古墳と音羽東古墳があるが、この二基以外にも既に削平されたものが幾つかあったかも知れない。 中には姿のよいものがあり、地元ではそこに市辺皇子の骨が埋まっていると信じられていたことも想像し得る。 しかし〈延喜式-諸陵寮〉のリストには入っていないから、奈良時代から平安時代の時期に朝廷が市辺皇子墓として使者を派遣し、 祭事を行う対象になるような古墳はなかったのだろう。 また遺骨混合伝説は、前述したようにその双陵の姿を見て発生したと考えるのが自然である。 《音羽納骨堂以外の説》 それでは、森の熊古墳説・市辺古墳群説は打ち棄てられるべきものであろうか。 これらは確かに来田綿とはかなり離れた遺跡に付随するものであるが、必ずしも幕末に突然創作されたものとは言えない。 〈地名辞書〉で紹介された蒲生長者や、〈古事記伝〉の「こぼつ塚」の件、 蒲生賢秀による納骨堂移設を見れば、 幕末よりずっと前から言い伝えがあったようである。 各地域に存在する異説は、場所が特定できないから曖昧でいい加減だというよりは、むしろこの伝説が広い地域に根強く維持されてきた根拠となるものである。 同じ伝説でも各地に伝播するうちに、それぞれの土地毎に固有の「縁(ゆかり)の場所」が生まれるのである。 かつて倭建命の迎え火伝説について、「焼津」の場所が記では相模国、書紀では駿河国としていることに注目し、 それは広い地域で人口に膾炙した結果と考えた (第129回)。 各地に遺る白鳥陵・白鳥塚も然りである。 さらに浦嶋子伝説の広がりは、それらをも凌駕する(浦嶋子[4])。 三か所の市辺皇子陵の候補地は、遺骨探索伝説が湖東地域に広まっていたことを示し、畿内に改葬されたかも知れないことを見れば、伝承が流布された範囲は畿内まで及んだのかも知れない。 まとめ 明治以前に市辺皇子御陵の候補に挙げられていた古墳について、踏み込んで調べた。 少し調べれば古保志塚説への客観的な裏付けはほぼ皆無である。 ただ、現実に宮内庁が治定しているという事実が及ぼすプレッシャーは大きい。 八日市市史でさえ、明確な否定論を展開しながら、結論部分では「市辺町の伝承の墓所にはなお検討の余地があろう。」(p.285)という遠慮がちな物言いになっているのである。 そのきれいに整えられ、宮内庁の案内板が建つ厳かな姿を目の当たりにすれば、その治定に正面から歯向かうにはなお相当な気合を要する。 だからいい加減なことは言えないという観念が、各候補地をより綿密に調べなければという気持ちにさせ、深入りさせるのである。 さて、書紀は雄略天皇紀に至って記から大きく離れたのに、顕宗紀において再び記に歩み寄っていることに留意すべきである。 このことは、一度は歴史書の陸に上りかけた書紀が、再び伝承の海に回帰したことを意味する。 それを考慮すれば、市辺皇子御陵に相応しい規模の古墳が考えられる場所に見当たらない以上、 伝説として読むべきだろう。 ただ、広い地域に及ぶ強力な伝承の存在は、実際に衝撃的な出来事があった故だろう。 オホキミを継ぐ立場にいた一人の王子が、久多綿蚊屋野の地でワカタケルによって惨殺される事件が実際にあり、 それが当時の人に衝撃を与えたことが伝説の原点になったと考えられる。 その地に取りあえず埋められた遺骨を、しばらくして掘り返して現地の人が目にした事実もあったのだろう。 そして後に綿向山信仰と結びついて、いくつか並ぶ首長墓の一つがその塚であるという伝説が生まれた。 あるいは、現地の族の首長が実際に小塚を造って追悼したこともあり得る。 それが種となって記に書かれたような物語に発展したと見るのが、一番自然であろうと思われる。 このように、記紀が書かれた時点で、音羽辺りに市辺皇子の墓と言い伝えられた小塚は存在した。 しかし、朝廷が改めて皇子クラスの大陵墓を造ることはなかった。当然、延喜式にも記されない。 その後、長い年月のうちに塚のいくつかは削平されたと見られ、かつて言い伝えられた墓がどの塚かはもはや知る由もないであろう。 近代の「市辺皇子陵」の探索なるものは、書紀の世界観に再び光を当てようとする幕末から明治にかけての思想・政治運動の熱狂が生んだものに過ぎず、 結果的に治定された「墓」に大した根拠はないから、書紀そのものから切り離すべきであろう。 現在の「磐坂市邊押磐皇子墓」なるものの歴史的価値は、幕末~明治史のみにある。 2019.03.11(mon) [220] 下つ巻(顕宗天皇3) ▼▲ ![]() 譽其不失見貞知其地 以賜名號置目老媼 仍召入宮內敦廣慈賜 故(かれ)還(かへ)り上(のぼ)り坐(ま)して[而] 其の老媼(おみな)を召して、 其の見ること不失(うせざ)りて貞(さだ)しく其の地(ところ)を知るを誉(ほ)めて、 以ちて名を賜(たまは)りて置目老媼(おきめのおみな)と号(なづ)けき。 仍(すなは)ち宮内(みやのうち)に召し入れて、敦(あつ)き広(ひろ)き(うつくしび)を賜(たまは)りき。 故其老媼所住屋者近作宮邊 毎日必召 故鐸懸大殿戸 欲召其老媼之時必引鳴其鐸 爾作御歌 其歌曰 故(かれ)、其の老媼の所住(すまへる)屋(や)者(は)、宮(おほみや)の辺(ほとり)に近づけ作りて、毎日(ひごと)必ず召しき。 故、鐸(ぬて)、大殿(おほとの)の戸(と)に懸けて、 [欲]其の老媼を召さむとおもほしし[之]時、必ず其の鐸を引き鳴(な)しき。 爾(ここに)御歌(みうた)を作(よ)みたまひて、 其の歌(みうた)曰(いは)く 阿佐遲波良 袁陀爾袁須疑弖 毛々豆多布 奴弖由良久母 淤岐米久良斯母 阿佐遅波良(あさぢはら) 袁陀爾袁須疑弖(をたにをすぎて) 毛々豆多布(も甲も甲づたふ) 奴弖由良久母(ぬてゆらくも乙) 淤岐米久良斯母(おきめくらしも乙) そして都にお帰りになり、その老女を召して、 ご遺骨を見失わず、誠実にその場所を記憶していたことを誉め、 名前を賜り、置目老媼(おきめのおみな)と名付けられました。 このようにして宮中に召し入れ、厚き広き慈しみを賜りました。 そして、老媼の住居は、宮殿の傍らに近づけて作り、毎日必ず召しました。 そして、鐸(おおすず)を、大殿(おほとの)の戸(と)に懸けて、 置目老媼を召そうと思われた時は、必ずその鐸を引き鳴らしました。 こうして、御歌をお詠みになりました。 その歌は。 浅茅原 小谷を過ぎて 百伝ふ 鐸(ぬて)ゆらくも 置目来(く)らしも
さだし…[形]シク 貞節である。実直である。 鐸…[名] 「鐘」が外から撞いて鳴らすのに対して、「鐸」は本体を揺らして内部の舌(ぜつ)を当てて鳴らす。銅製のものは「銅鐸」。 ぬて…[名] 「ぬりて」とも。釣り鐘型で中に舌をもち、振り動かして音を出す。鈴と同じしくみだが、形が異なる。 なす(鳴す)…[他]サ四 鳴らす。「鳴る」の他動詞。 【"貞"の訓】 〈続紀〉天平宝字八年〔674〕十月壬申〔九日〕宣命:「貞久浄岐心乎以天」 〔貞(さだし)く浄(きよ)き心を以て〕では、貞は一般にシク活用の形容詞「さだし」と訓まれている。 万葉集には、同一歌が巻十一・巻十二に収められている。 ――(万)2732 奥波 邊浪之来縁 左太能浦之 此左太過而 後将戀可聞 おきつなみ へなみのきよる さだのうらの このさだすぎて のちこひむかも。 ――(万)3160 奥浪 邊浪之来依 貞浦乃 此左太過而 後将戀鴨 おきつなみ へなみのきよる さだのうらの このさだすぎて のちこひむかも。 この二歌により、貞は「さだ」(または「さた」)と訓むことが確定する。 【真福寺本】
一般に「置知其地」とされる個所は、『岩波古典文学大系』によれば、真福寺本・前田本・猪熊本は「貞」。度会延佳鼇頭〔=頭注〕が「置」。 猪熊本系統の氏庸本も「貞」。〈古事記伝略〉は「置」。 確かに「以賜レ名号二置目一」に合うのは「置」の字なのだが、「貞」とする本が多い。 ここで「置」の妥当性を考えると、何故「置」だけなのだろうか。「置目」の名づけの根拠とするなら、「誉下其置レ目不レ失知上二其地一」などと明確に書けたはずである。 一方「貞」では、遺骨の場所を見失わず「誠実に」その場所を残そうと努めたのだから、これでも内容的に「置目」の根拠を示したと言える。 だから中途半端に「置」にしたのは度会延佳〔1615~1690〕らの考えで、もともとは「貞」であったと思えるのである。 ② 《必引鳴⇒必到鳴》 「引鳴」が、真福寺本では「到鳴」となっている。鐸は大殿の戸に懸けたから、これを鳴らすためには奥から戸まで歩いて来なければならない。 よって、「到る」でも一応は成り立つ。 ③ 《淤岐米⇒淤岐未》 真福寺本は「淤岐未」。書紀の類歌は「於岐毎」〔おきめ乙〕で置目〔おきめ乙〕のことだから、確実に「米」であろう。 記下巻の歌謡において、「米」が「未」と書かれた例は多い(第159回)。 【敦広慈賜】 《慈賜》 「慈(いつくしみ)」の上代語は、「うつくしび」「うつくしみ」である。 「うつくしみ」は、「愛(うつ)くし」の語幹+接尾語「み」による動詞化で、 また連用形名詞となる。 〈時代別上代〉によれば形容詞語幹に接尾語「-み」をつけた形は、上代には動詞として未発達に終わり連用形のみが使われたとし、参考として古訓「籠宇ツ久之牟」〔うつくしむ〕を添えている。 記の書法では、「賜」は補助動詞「-たまふ」として、連用形を受ける。 「うつくしみ」を動詞の連用形と見る場合は「敦広」は連用形となり、訓読は「あつくひろくうつくしみたまふ」となる。 《宣命体》 一方、天皇の大命(みことのり)や徳を称える定型句として「厚き広き」が使われる。 ――〈続紀〉文武元年〔697〕八月庚辰〔十七日〕宣命: 「授賜比負賜布貴支高支広支厚支大命乎受賜利恐坐弖」 〔授け賜ひ負ひ賜ふ、貴き高き広き厚き大命を受け賜り、恐り坐して〕。 ――〈続紀〉天平元年〔729〕八月癸亥〔五日〕宣命: 「此者太上天皇厚支広支徳乎蒙而」 〔此は太上天皇、厚き広き徳を蒙りて〕。 「敦広慈賜」はこれらに倣えば「慈」は名詞、「敦」・「広」は連体形となり、「敦(あつ)き広き慈(うつくしび)を賜(たまは)る」と訓むことになる。 記は基本的に「動詞-目的語」の語順だが、その時代に既に宣命は文書化され、「目的語-動詞」の語順が用いられ、 記はここではその書法を部分的に受け入れたと解釈ことができる。 《書紀》 書紀で記の「敦広慈賜」に対応する語句は「優崇賜恤」で、語順を純正漢文体に戻したと思われる。 よって「恤」〔あはれび〕は「賜」の目的語となる名詞で、優・崇は「賜レ恤」の様子を形容するから、連用形〔あつく〕〔たかく〕である。 しかし、もし前項の宣命の言い回しを純正漢文で表すなら、「賜優崇恤」と書かなければならない。 書紀は宣命を考慮せず記だけを見て、その「敦広」を連用形と解釈したのかも知れない。 顕宗天皇紀はα群に属し、一説には中国人が執筆したとも言われるから、倭の文献の幅広い参照に及ばなかったとも想像される。 ただこれに反証するとすれば、宣命体の送り仮名が、〈続紀〉に奈良時代末期の解釈によって加えた可能性もある。 その場合は、記紀執筆の時代には連用形・連体形のどちらで訓読するかは定まっていなかったとも考えられる。 【歌意】
記では鐸を鳴らして呼ぶのは天皇だが、書紀では置目がすがった綱に懸けた鐸が鳴る。 このように鈴を鳴らす人は相違するが、歌は「鐸が鳴る」と「置目が来る」を並置するだけだから、どちらにも使える。 物語歌においては序詞として位置づけられることになったが、 もともとは駅鈴が鳴ることで駅使が近づいたことに気付く歌であったと思われる。 「置目」の部分に、「はゆま」が入っていたとすると判り易い。 【書紀-14】 14目次 《詔老嫗置目居于宮傍近處》
[于]宮の傍(ほとり)の近き処(ところ)に居(すま)はしめて、 優崇(あつくたかく)恤(あはれび)を賜りて、 乏少(ともしきこと)を無(な)から使(し)めき。
「老嫗(おみな)、伶俜(さすらへ)羸弱(おとろへ)て、 行歩(あゆみ)不便(たやすからじ)。 宜(よろし)く縄(つな)を張り緪(つな)を引き扶(つ)きて[而]出入(いでい)るべし。 縄の端(はし)に鐸(ぬて)を懸(か)かば、謁者(まみえびと、えつしや)を労(たしな)むること無し。 入らば則(すなは)ち之(こ)を鳴(な)して、朕(われ)汝(いまし)が到(まゐいた)れりと知りたまはむ。」とのたまひき。
天皇(すめらみこと)遙かに鐸の声(おと)を聞こして、歌曰(みうたよみたまはく)。
奴底喩羅倶慕与(ぬてゆらくもよ) 於岐毎倶羅之慕(おきめ乙くらしも) 《無労謁者》 通常なら対応する謁者を煩わすこともなく、気軽に来れるという意か。 《大意》 老女の置目に詔(みことのり)され、 宮の傍らの近い場所に住まわせ、 優崇の〔=手厚く貴い〕憐みを賜り、 乏少〔=窮乏〕から救いました。 この月、詔(みことのり)して、 「老女、伶俜羸弱し〔=足元もおぼつかず、衰弱し〕、 歩行も不便であろう。 縄を張り、その縄を引き頼って出入りしなさい。 縄の端には鐸(おおすず)を懸けておけば、謁者〔=応対役〕を煩わすこともないであろう。 お前が入るときそれが鳴るから、朕はお前が到来したと知ることができよう。」と仰りました。 こうして、老女は詔を奉じ、鐸を嗚らして御前に進みました。 天皇(すめらみこと)は遙かに鐸の音を聞かれて、御歌を詠まれました。 ――浅茅原 小曽根を過ぎ 百伝ふ 鐸(ぬて)ゆらくもよ 置目来らしも まとめ この段は、歌謡に基づいて組み立てられた物語と言える。 記では、鐸を鳴らすのは顕宗天皇で、朕が呼んだらいつでも来てほしい言って甘える。 この場合、「鐸ゆらく」の主語は天皇、「来らし」の主語は老媼なので、途中で主語を転換させるという入り組んだ読み方を要する。 それに比べて書紀では老嫗を思いやり、宮殿に来たときに鐸が鳴るしくみを作るから、 「鐸ゆらく」の原因者は「来らし」き人と一致する。 これは序詞の内容:「駅鈴の音で駅使がやって来る」にも合い、この方が自然である。 書紀には、歌謡をより自然に読める方向に物語を修正しようとした意図が感じられる。 但し、玄関先に最初に謁者が出てくることは多少煩わしいが、それほどの問題とは感じられないから、「無レ労二謁者一」はやや不自然である。 なお、前回述べたように『八日市市史』は、これらの老嫗への対応に乳母への親愛を感じ取っている。 さて、書紀は顕宗天皇紀に至り、再び記に収められた伝説の再録を中心部分に据えている。 顕宗天皇の事績についての具体的な記録が、雄略天皇に比べてごく少ないことの現れであろう。 2019.03.13(wed) [221] 下つ巻(顕宗天皇4) ▼▲ ![]() 僕甚耆老欲退本國 故 隨白退時天皇見送 歌曰 於是(ここに)、置目(おきめ)の老媼(おみな)白(まを)ししく、 「僕(やつかれ)、甚(いと)耆老(お)いて[欲]本(もと)の国に退(しりぞ)かむとねがひまつる」とまをしき。 故(かれ)、白(まをしごと)の隨(まにま)に退きし時、天皇(すめらみこと)見送りて、 歌曰(みうたよみたまはく)。 意岐米母夜 阿布美能於岐米 阿須用理波 美夜麻賀久理弖 美延受加母阿良牟 意岐米母夜(おきめもや) 阿布美能於岐米(あふみのおきめ) 阿須用理波(あすよりは) 美夜麻賀久理弖(みやまがくりて) 美延受加母阿良牟(みえずかもあらむ) あるとき、置目(おきめ)の老媼(おみな)は、 「私めは、耆老甚だしく、本国に退くことをお願いいたします。」と申しました。 よって、申し出に随って退き、その時天皇(すめらみこと)は御見送りされ、 御歌を詠まれました。 ――置目もよ 淡海の置目 明日よりは 御山隠(がく)りて 見えずかもあらむ 耆老…老人。 耆…(古訓) おきなひと。 老…(古訓) おゆ。 欲…(古訓) ねかふ。 あふみ…「あは-うみ」(淡海)の母音融合。 もや…も[助]+や[助](詠嘆)。 より…[助] 体言について、経由する場所や、動作の空間または時間における起点を表す。 かくる…[自]ラ四 隠れる。
かも…[係助] 直前に接する連用形の語に対する疑問を表し、文末を連体形で結ぶ。 【真福寺本】 《加母阿良牟⇒加母良牟―》 真福寺本には「阿良牟」の「阿」がない。 しかし、「かもらむ」では文法的に説明がつかず、対応する書紀歌も「阿羅牟」だから、 単純な脱落であろう。後の人が細い斜線を書き加え、「ここにも"阿"が入る」と注意を促しているようにも見えるが、微妙である。 なお、「牟」と次の段落「初天皇…」の間に、縦棒が挟まれている。 【みやま】 滋賀県に、「みやま」の名をもつ特定の山は見つからない。一般的な山への美称だと思われる。 万葉集には「(万)0920 足引之 御山毛清 落多藝都 芳野河之 あしひきの みやまもさやに おちたぎつ よしののかはの」初め六首に、「みやま」が出てくる。 それぞれの歌で詠われた土地は、0133:石見国、0920:吉野、0926:見吉野〔=吉野※〕、3513:不明、3902:大宰府である。 ※…第204回【え乙しの】参照。 【歌意】
「より」はこの場合時間的な起点を示す。「明日からは」の意。 《みやまがくり》 「か」の清濁については、書紀の「我」は濁音で、記の「賀」には清音も濁音もある。 恐らくは記も濁音で、 「御山」と「隠る」が結合したことによる連濁と見られる。 <wikipedia>に、「元来日本語では閉鎖音や摩擦音」の場合「語頭に濁音は立たなかったことから、濁音によって語が結合していることを示す役割をもつ」 〔=「゙」は連語となった印〕 という解説がある。 従って、「みやまがくり」は「山が隠れる」のではなく、「山に隠れる」意味であろう。 《みえずかもあらむ》 「かも」は連用形を受けるから、「ず」は連用形〔終止形と同形〕。「あら」は「あり」の未然形。 「かも」はまた、文末を連体形で結ぶから「む」は連体形〔終止形と同形〕である。 【書紀-21】 21目次 《置目老困乞還》
置目(おきめ)老い困(たしな)みて、還(かへること)を乞(こひねが)ひまつりて曰(まを)ししく。 「気力(こころど)衰(おとろ)へ邁(ゆ)きて、 老耄(お)いて虚(むな)しく羸(よわみ)しまつる。 扶(たすけ)の縄(なは)に仮(よ)るを要(もと)めど、 〔つひに〕進歩(あゆむこと)不能(あたはず)。 願(ねがはくは)桑梓(さうし、くはあづさのさと)に帰りて、 以ちて厥(その)終(をはり)を送らむことねがひまつる。」とまをしき。
物(たまはりもの)千段(ちきだ)を賜(たまは)りて、 逆(しりぞ)きて岐路(ちまた)に傷みたまひて、 重(かさね)て難期(あひがたき)を感(いた)みたまひき。 乃(すなはち)歌(みうた)賜(たまは)りて曰(い)はく。
瀰野磨我倶利底(みやまがくりて) 彌曳孺哿謨阿羅牟(みえずかもあらむ) 《要仮扶縄》 「扶縄」とは、元年二月条後半にあったように、歩行を扶(たす)けるために、置目の家と宮殿との間に張った縄のことである。 歩行にはその縄を「仮る」〔=借りる〕ことを要したが、 歳とともに、それも困難になった(「不レ能二進歩一」)のである。 《大意》 〔二年〕九月、 置目(おきめ)は老困に至り、帰還を冀(こいねが)い、申し上げるに、 「気力は衰え行き、 老耄虚弱となりました。 助けの縄を借りるを要しましたが、 それでも歩行できなくなりました。 願わくば、桑梓(そうし)〔老人や祖先を労わる郷〕に帰り、 人生の終りを送らせていただきたいと望みます。」と申し上げました。 天皇(すめらみこと)はその言葉を聞かれ、辛く心を痛められ、 帛布(きぬぬの)千段(たん)〔数多い意〕を賜り、 その退き行く分かれ道で心を痛め、 重ねて、会うことは期し難いと感じ、 御歌を賜りました。 ――置目もよ 淡海の置目 明日よりは 御山隠(がく)りて 見えずかもあらむ まとめ 前回に続けて、この段も歌謡を物語化した。 書紀も記と同一内容を、長文にしたものである。 但し、書紀の「要レ仮二扶縄一」の部分は、 前回示した記紀の差異を受けた結果である。 なお、雄略天皇陵を毀(こぼ)つ件の後に回しているのは、 老いるまでの時間経過を見たためと思われる。 2019.03.17(sun) [222] 下つ巻(顕宗天皇5) ▼▲ ![]() 是得求 喚上而斬於飛鳥河之河原 皆斷其族之膝筋 初め天皇(すめらみこと)の難(くるしみ)に逢ひて逃げし時、其の御粮(みけ)を奪ひし猪甘(ゐかひ)の老人(おきな)を求めたまひき。 是(ここ)に得(え)求めてありて、 喚上(めさげ)て[而][於]飛鳥河(あすかのかは)之(の)河原(かはら)に斬りて 皆其の族(うがら)之(の)膝筋(ひざのすぢ)を断ちき。 是以至今其子孫上於倭之日必自跛也 故能見志米岐其老所在【志米岐三字以音】 故其地謂志米須也 是(こ)を以ちて今に至りて、其の子孫(はつこ)[於]倭(やまと)に上りし[之]日、必ず自(みづから)跛(あしなへ)せり[也]。 故(かれ)其の老(おきな)の在りし所を能(よく)見志米岐(みしめき)【志米岐の三字(さむじ)音(こゑ)を以(もちゐる)】。 故(かれ)其地(そこ)を志米須(しめす)と謂ふ也(なり)。 以前に天皇(すめらみこと)が困難に逢って逃げた時、その食糧を奪った猪飼いの老人を捜しました。 そして発見することができ、 召喚して飛鳥川の河原で斬り、 その一族皆の膝の筋を断ちました。 このことにより、今に至り、その子孫が大和に上った日は、必ず自ら足が不自由な仕草をします。 こうしてその老人がいた所を見しめる〔=見させる〕ことができました。 よって、その場所を志米須(しめす)といいます。 難…(古訓) かたし。うれふ。くるしふ。たしなむ。 跛…[名] 足が不自由なこと。(古訓) あしなへ。[動] 片足で立つ。かたむく。
《是以》 『岩波古典文学大系』によれば、真福寺本・田中頼庸校訂本以外は「以是」となっている。 しかし記では「是以」が普通で、また漢籍では「是以」は連語の接続詞として頻繁に使われている。 《至今⇒至干今》 真福寺本には「干」〔前置詞〕が挟まっているが、どちらでも意味は変わらない。 【猪甘老人】 第197回から繋がっている。 二王子が逃げる途中に猪甘老人に襲われた事件の現場が「苅羽井」である。延喜式{山城国/綴喜郡/樺井月神社【大。月次新嘗】}に見える「樺井」が、「苅羽井」にあたると言われる。 現在の樺井月神社は、水主神社(京都市城陽市水主宮馬場(みずしみやのばんば)1)の境内社として残る。 水主神社の社頭掲示の「由緒〔昭和54年11月と記す〕」には、樺井月神社は 「綴喜郡に鎮座せしも度重なる木津川洪水のため二百八十年前〔1699〕当地に遷座す」とある。 なお、<wikipedia>には遷座は1672年とある。昭和27年に書いた掲示板を、そのまま昭和54年に作り直したか。
〈延喜式〉に 「凡山城国泉河樺井渡者。官長率東大寺工等。毎年九月上旬造仮橋。来年三月下旬壊収。」 〔おほよそ山城国の泉河樺井の渡は、官長東大寺工等を率て…〕がある。 〈大日本地名辞書〉は「泉川(木津川)古今の変あるへけれと〔=べけれど〕大住村の東に樺井ありしこと 推断すべし、東岸久世郡に亀這(寺田村水主)の字存す。」と述べ、 垂仁天皇紀の「大亀出河中」との関連を見ている(垂仁天皇三十四年)。 この字名は現在は見られない。 樺井渡の推定地は、現在の地名「水主樺井」(みずしかばい)に繋がっていると思われる。 地図上は「城陽市水主樺井」は木津川河川敷運動公園のところだが、 同公園の所在地表記に「水主樺井」は使われず「水主外下島番地の1地先」となっている。 人は住まず城陽市の公式ページによると、2018年10月現在、住民は0人。 《猪甘老人》 さて、猪甘老人は、雄略朝・清寧朝が数十年続いたのちに捜索・発見されて処刑される。 しかし老人がそれまで生存していたことは、現実的には考えられない。 【能見志米岐】 「能見志米岐…」は「能二-見-志-米-岐其老所在一」〔その老の所在をよく見しめき〕と訓み、 文法は、「見〔未然形〕+しむ〔使役の助動詞の連用形〕+き〔過去の助動詞の終止形〕」と見られる。 記では全体的に、「しむ」に「令」を用いる。 例えば、①伊邪那岐段には「令見辱吾」。 また②海幸彦山海彦段に「令婚其女豊玉毘売」。 ①の「見」は「体験する」の意の「みる」でも成り立つが、受け身の助動詞と捉えるべきであろう。 ②では、命令者は海神で行為者は山幸彦である。 また「岐」については、記は助動詞「き」を通常は書かず、訓読において適宜付加するのは暗黙の了解事項で、 音仮名で明示するのはここだけである。 このように、通常なら「令見其老所在」と書かれるはずのものを、 例外的に音仮名で書いている。 その理由はいうまでもなく、この言葉が地名「志米須」の由来であることを明示するためである。 なお「見志米岐」については、「見令む」以外に、古くから「見占む」説がある。 いくつかの論を、下記に列挙する。 《氏庸本》 氏庸本は「能見二志米岐一ヲ其ノ老ノ所ナリレ在」 〔能(よ)く志米岐を見て其の老の在りし所なり〕と、「見」と分離して訓む。 「しめき」は、動詞「占む」〔占有する〕であるから、次の〈記伝〉と同様の見方と言える。 《古事記伝略》 〈記伝〉による解釈を示して、意訳する。
しかしその天武紀の「令視占」の内容は、陰陽師や工人を含む調査隊を畿内に派遣して都の適地を探させたというものである。 陰陽師は占いによって、工人〔建築技師〕は工法を検討することによって、複数の候補地から適地を探したと見られる。 とすれば「占」の訓を「しむ〔=占有する〕」とするのは文意に合わず、「うらふ〔=占う〕」である。 よって、少なくとも天武紀は「見占む」説の根拠にはならないだろう。 《岩波「大系」版》 『日本古典文学大系』〔岩波;1958〕の頭注は、「見占めた。見定めたの意であろう。誰が見定めたのか不明。」とする。 「誰…か不明」と書かれたのは、宣長が「其老」を上にもってくる考え方には必ずしも同意しないことを示すためと見られる。 《小学館「全集」版》 『日本古典文学全集』〔小学館;1973〕は、 「「見しめき」の「しめ」は使役の助動詞」、そして「見定めたの意と解する説があるが、 「占む」は占有することを表すから、見定めたの意にはならない。」 と述べ、岩波大系説とは真っ向から対立する。 《時代別上代》 〈時代別上代〉の見出し語に、「見占む」はないから、宣長の見解を採用していない。 「令視」については、「みす」〔下二段〕のみを「みる」の使役形として見出し語に立て、(万)0166を例示しているが、 「みしむ」の見出し語はない。 ただ使役の助動詞「しむ」の存在は認めており、「み-しむ」は当たり前の形だから載せなかったのだろう。そのことは、次の万葉歌を見れば明らかである。 《万葉集》 ――(万)4496 宇良賣之久 伎美波母安流加 夜度乃烏梅能 知利須具流麻埿 美之米受安利家流 うらめしく きみはもあるか やどのうめの ちりすぐるまで みしめずありける 〔恨めしく 君はもあるか 屋処の梅の 散り過ぐるまで 見令めず ありける〕。 「みしめず」が「君が私に姿を見せない」意であるのは明らかである。 ――(万)4408 奈泥之故我 波奈乃佐可里尓 阿比見之米等曽 なでしこが はなのさかりに あひみしめとぞ 〔撫子が 花の盛りに 相見令めとぞ〕。 「みしめ」は命令形で、「見させてください」の意。なお、接頭語「あひ-」は「互いに」の意味を失い、強調または語のリズムを整えるだけの場合もあるが、〈時代別上代〉によれば「両者の差は微妙」とされる。 ――(万)0300 妹乎目不離 相見染跡衣 いもをめかれず あひみしめとぞ 〔妹を目離れず 相見令めとぞ〕。 「めかる」は、漢字表記の通りしばらく会えずにいる意。「染跡衣」は訓仮名で、「染める」意味ではない。 これらの歌により、上代人が「みしめ」と聞けば、まずは使役として受け止めただろうと思われる。〈時代別上代〉に「みしむ=みさだめる」が示されないということは、その確かな例がないということだから、極めて特殊な解釈であろう。 《文脈から》 「見志米岐」はやはり、一族のパフォーマンスによって老人の在りし所を「見令めき〔=見させた〕」と読むのが自然だと思われる。 つまり一族が上京したとき、脚が不自由な仕草を見せる〔或いは舞踊かも〕ことによって、 それを見る人に「あそこが、あの老人に纏わる場所か」と印象付けるのである。 使役だと解釈した場合、地名「しめす」への意味上の繋がりを欠くから、「しめ」二文字の音声の一致に留まる。 しかし、「しめす」という言葉を聞いたとき、「示す」を連想し、 まだ耳に残っていた「見しめ」の「しめ」が、遡って「示」の印象を帯びることはあるだろう。 記号としての音声が、脳内で様々なイメージを湧き上がらせてそれらが一体となるのである。
宣長は 「○故其地は今何処とも考へがたし、 ○志米須の志米は、上の見占の占にて、 須は栖、 若〔もし〕然ならば、見占たる彼〔かの〕老人の栖と云〔いふ〕意なり、 さて此ノ地ノ名〔、〕物に見えたることあるかしらず」 〔○「故其地」が、今は何処かは不明。○須は「栖」か。「志米」は「見占」のシメ。もしそうなら見占めた老人の住処の意味である。文献にはこの地名は見つけられない。〕と述べる。 『日本古典文学全集』は「本来は「標州しめす」で、禁漁区となっている中州の意か」と推定する。 宣長の当時は「物に見えたることあるか知らず」ということだが、現在でも状況は変わらず、地名「シメス」の比定を試みた研究はなかなか見つからない。 物語の内容に基づいて考えれば、①二王子が御食を奪われた綴喜郡、②老人が処刑された飛鳥川の中州が候補に挙がる。 「所在」という言葉は①を直感させるが、物語として自然なのは②の方である。 即ち、「跛」〔足萎へ〕の恰好を真似ることによって、 その昔先祖が罰せられた場所を、見物人に「見令め」たと読めば、筋は通る。 ただ、その場合はパフォーマンスの場所は飛鳥川の河原になるから、「所在」が老人の住んでいた綴喜郡だとすれば話が合わない。 だが「所在」を「住んでいた処」に限らず、「斬られたときにいた処」の意味だととるのも可能である。 もし演じた場所が飛鳥川の河原だとすれば、宮を置いた八釣に近いから「上於倭之日」に合っている。 また「川原」は時に「洲」(水面上に出た場所)だから、飛鳥川の川原を「しめ洲」と呼ぶのも合理的であろう。 さらに「必自跛」の次に「於其河原」が隠れていると見れば理解し易い。 「飛鳥川の川原=しめ洲」説の有利さは、「所在」への若干の懸念をカバーし得ると見る。 まとめ 『日本古典文学大系』〔1958〕はまだ宣長説の束縛から脱しきれないが、 『日本古典文学全集』〔1973〕では古事記を直(じか)に見ようとするところに、時代の流れが感じられる。 宣長が長く重視された背景として、彼自身の尊王思想からの流れが戦前の社会を支配し、学問の世界にも影響を及ぼしていたことが伺われる。 さて本段の話は、書紀には取り上げられない。 そもそも二王子が難に逢い「懼皆逃亡自匿」(即位前(二))した場面で、既に猪甘老人に襲われた件は省かれているから、 その意味では一貫している。 対応する話が書紀にもあれば、それなりの解釈がなされたはずだから、もう少し内容は明確になったであろう。 この段は記だけだから広い解釈の余地があり、今回示したことはひとつの読み方に過ぎない。 2019.03.23(sat) [223] 下つ巻(顕宗天皇6) ▼▲ ![]() 欲報其靈 故 欲毀其大長谷天皇之御陵而 遣人之時 天皇(すめらみこと)、其の父王(ちちぎみ)を殺したまひし[之]大長谷天皇(おほはつせのすめらみこと)を深く怨みて、 [欲]其の霊(みたま)に報(むく)いむとおもほしき。 故(かれ)、[欲]其の大長谷天皇之(の)御陵(みささき)を毀(こほ)たむとおもほして[而]、 人を遣(つか)はしし[之]時、 其伊呂兄意祁命奏言 破壞是御陵不可遣他人 專僕自行如天皇之御心破壞 以參出 爾天皇詔 然隨命宜幸行 其の伊呂兄(いろせ)意祁命(おけのみこと)奏言(まをしごと)してまをししく 「是の御陵(みささき)を破壊(こほつ)に他人(ひと)を遣(つかは)す不可(ましじ)。 専(もはら)僕(やつかれ)自(みづから)行きて、天皇(すめらみこと)之(の)御心(みこころ)の如く破壊(こほ)ちまつり、 以ちて参出(まゐで)む。」とまをしたまひき。 爾(ここに)天皇詔(のたま)ひしく 「然(しか)り。命(おほせごと)の隨(まにまに)[宜]幸行(いでます)べし。」とのたまひき。 是以 意祁命自下幸而 少掘其御陵之傍 還上復奏言既掘壞也 爾 天皇異其早還上而 詔 如何破壞 是以(こをもちて)意祁命(おけのみこと)自(みづから)下幸(くだりま)して[而] 其の御陵(みささき)之(の)傍(かたはら)を少(すこし)掘りたまひて、 還上(かへりのぼ)りて、復奏言(かへりごとまを)さく「既に掘り壊(こほ)しまつりき[也]」とまをしたまひき。 爾(ここに)天皇、其の早く還上(かへりのぼりしさま)を異(あやし)びて[而]、 詔(のたま)はく、 「如何(いかに)か破壊(こほ)ちたまふや」とのたまひて、 答白 少掘其陵之傍𡈽 天皇詔之 欲報父王之仇 必悉破壞其陵 何少掘乎 答へて白(まを)さく 「其の陵之(の)傍(かたはら)の土を少し掘りまつりき」とまをしたまひて、 天皇之(こ)に詔(のたま)ひしく 「[欲]父王(ちちきみ)之(の)仇(あた)に報(むく)いて、 必ず悉(ことごとく)其の陵を破壊(こほ)たむとおもひまつりき。 何(いかに)か少(すこし)掘(ほ)りたまひし乎(や)」とのたまひき。 天皇(すめらみこと)は、その父君を殺した大長谷天皇(おおはつせのすめらみこと)を深く怨み、 その御霊に報いたいと思われました。 そこで、大長谷天皇の御陵を破壊するために、 人を遣わそうとされた時、 兄の意祁命(おけのみこと)は、 「この御陵を破壊するのに、他人を遣わしてはなりません。 専ら私が自ら行き、天皇の御心のごとく破壊して、 帰って参ります。」と奏上されました。 すると天皇は 「よろしい。仰る通り、どうぞお出かけくださいませ。」と仰りました。 このようにして、意祁命は自ら下向され、 その御陵の傍らを少し掘って 都に帰り、「既に掘り壊しました。」と復奏されました。 すると天皇は、その早く帰ったことを訝(いぶか)り、 「どのように、破壊なさったのですか」 とお尋ねになり、 意祁命は 「その陵の傍らの土を少し掘りました」とお答え申し上げました。 天皇これをお聞きになり、 「父君の仇に報いるために、 必ず悉くその陵を破壊したいと思っていたのです。 どうして、少しだけお掘りになったのでしょうか。」と仰りました。 こほつ…[動]タ四 毀(こぼ)つ。〈時代別上代〉破損する意味の「こほつ」と溢れる意味の「こぼつ」は 「清濁を異にする別語だったらしい。」「両者を混同するようになったのは近世になってからだと考えられる。」 然…(古訓) うく。しかなり。しかり。ほしいまま。 すこし…[副] ちょっと。 あやしぶ…[自]バ上二 怪しむ。いぶかる。
《深怨殺其父王→深怨敬其父王》 大長谷皇子は市辺押歯王を殺したから、「敬」はあり得ず、全くの誤写である。 《欲毀其大長谷天皇之御陵→欲髪其…》 真福寺本の「髪」も完全な誤写であろう。但し、一般に「毀」とされるが、続く部分を見ると本来は「破壊」であった可能性もある。 「毀」はある段階の書写で読解不明であった字を、書紀によって補った可能性はないだろうか。 【尊敬語】 この段は全体として「詔」-「白」によって天皇を上位、意祁命を下位と規定する。 ところがそれに反するかのように、何れも意祁命を主語に置く①「(復)奏言」、②「隨命宜幸行」、③「命自下幸」がある。 ここには、尊敬語の使用についての混乱があるように見える。 それぞれを検討すると、 まず①では少なくとも「奏」は謙譲語であるから、 「奏言」を熟語として読めば〔言を奏(まを)す、または奏言(まをしごと)〕問題はない。 「復奏言」も「復奏して言ふ」ではなく、「復(かへ)りて奏言す」〔実際には「かへりごとまをす」と訓むが〕と組み立てられたと見ることができる。 ②の「宜」は詔で使う言葉だから、「隨命宜幸行」は天皇の言葉である。 その生の言葉に、敬語が使われたのである。 なお「命」は、本来は天皇が下に発する詔の意だが、ここでは兄から「吾」に与えた「おほせごと」〔=お話になった言葉〕を意味し、一種の借訓である。 ③は、筆者による意祁命への絶対敬語である。 以上のようにきれいに整理できるから、決して不合理な混乱ではない。 【書紀-19】 19目次 《謂皇太子億計曰吾父先王無罪而大泊瀬天皇射殺》
天皇(すめらみこと)、皇太子(ひつぎのみこ)億計(おけ)に謂(かた)りて曰(いひ)しく 「吾(あが)父(ちち)先(さき)の王(きみ)罪無くて、而(しかれども)大泊瀬(おほはつせ)の天皇(すめらみこと)射殺(いころ)して、骨(みほね)を郊野(あらの)に棄(う)ちたまひき。 今に至れば、え獲(とらふること)未(な)きて、 憤(いきどほり)と歎(なげき)と懐(こころ)に盈(み)ちて、 臥(ふ)して泣きて、行(ゆ)きて号(おら)びて、 讐(あた)の恥(はぢ)を雪(すす)がむと志(おも)へり。
父(ちち)之(の)讐(あた)共に天(あめ)を戴(いただ)くに不与(あづからず)あり。 兄弟(あにおと)之(の)讐(あた)兵(つはもの)を不反(かへさず)あり。 交遊(ともかき)之(の)讐(あた)国を不同(おなじくせず)あり。 夫(それ)匹夫(いやしきひと)之(の)子(こ)にあれど、父母(おや)之(の)讐(あた)居(を)らば、 苫(とま)に寝(い)ねて干(たて)を枕(まくら)して不仕(つかへずもあり)て、共に国に不与(あづからず)あり。 諸(もろもろの)市朝(いちつかさ、しちう)に遇(あ)はば、兵(つはもの)を不反(かへさず)ありて[而]便(すなはち)闘(たたか)ふ。
願(ねがはくは)其の陵(みささき)を壊(こぼ)ちて骨(みほね)を摧(くだ)きて投げ散(あか)たむとねがふ。 今此の報(むくい)を以(もちゐ)ること、[不]亦(また)孝(かう、おやとことののり)にあらざる乎(か)。」といひき。 《尊敬表現》 天皇が「謂」(いふ)ときは、「のたまふ」と訓み、またその言葉には自敬を用いるのが原則である。 しかし、ここでは一人称として「朕」ではなく「吾」を用いたところに、原文筆者の特別な意図が感じられる。 即ち、話した内容は芳しくないものだから、 敢て兄弟間の私的な会話として書いたものであろう。 《至今未獲》 「棄二骨郊野一至レ今未レ獲」は、 「骨は郊野に棄てられ、(その骨は)未だに得られていない」のように読める。 確かに、「獲」は「発見する」にも使えると思われるが、遺骨は既に置目の案内によって発見済みなのである(元年二月五日)。 「獲」の元々の意味は、「獣を囲んでとらえる」であるから、 「至レ今未レ獲」は、「大泊瀬天皇は、今となっては獲えらることができない」と読むべきであろう。 「未」は、単純な否定語「なし」にも用いる。 《父之讐》 「父之讐」云々については、『礼記』-「曲礼上」に「父之讎、弗與共戴天。兄弟之讎不反兵。交游之讎不同國。」〔「弗」=「不」〕がある。 『礼記』は、五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)のひとつ。 『漢書』-「武帝紀」建元五年〔前136〕に「置二五経博士一」がある。「五経博士」は、五経を教授する官職とされる。 戦国時代〔前475~前221〕の礼に関する諸書を、前1世紀にまず戴徳(たいとく)が『大戴礼 (だたいれい) 』にまとめ、 さらに戴聖が『礼記』にまとめた。 次の「夫匹夫之子…」の部分は、『孔子家語』〔漢〕にある。 いわく、「子夏問於孔子曰「居父母之仇如之何」。 孔子曰「寢苫枕干不仕、弗與共天下也。遇於朝市、不返兵而鬭。」」 〔子夏が「父母の仇がいたらどうするのか?」と問うと、孔子は「寝苫……」と答えた〕。 《不反兵》 「不反兵」については、これを「兵をそむけず」と訓むと、「武力もって反逆しない」意味になってしまう。これでは文意と逆である。 ここでは「兵をかへさず」と訓み、「武器を収めない」、すなわち躊躇せず闘えという意味であろう。 《況》 ここで「況」を用いた論理の骨子は、「匹夫(身分の低い者)と雖(いえど)も父母の仇を討つ。況(いわん)や天子はや」である。 《市朝》 「市朝」は「朝市」とも言い、原意は「市(いち)と朝廷」だったが、 朝廷は役場一般の意に拡張され、単に人が行き交う街中を意味するようになった。 「朝」を直訳すると「みかど」だが、倭語の「みかど」とはもともと帝の御所のことで、各地の役所(つかさ)一般まで拡張するのは苦しい。 よって、「市朝」を適切に表す上代語は「いちつかさ」だろうか。或いはいっそのこと、音読みで置くのがよいのかも知れない。 《讐》 前項から、「遇諸市朝」は、「どこかの街中でたまたま出会ったとき」という意味で、あたかも時代劇の仇討ちの場面を思い起こさせる。 『世界大百科事典』(平凡社、第二版)によれば、 「江戸時代後半期には幕府法曹吏員の間に慣習、先例による敵討についての基本的な法制が形成されていたと考えられ」「幕府法上は敵討と称し,父母伯叔父兄姉など目上の者の敵を討つ場合に限られた。」 これは、幕府が上から儒教道徳として推奨したというよりは、民間に存在していた習慣を追認し、一定の枠組みを定めて合法化したものと思われる。 倭国への儒教の流入については、記では応神天皇段で「和邇吉師」〔書紀は王仁〕が「論語十巻・千字文一巻」とともに百済によって献上されたとする(第152回)。 ただ、そのうち「千字文」は時代に合わないから、「論語・千字文」は、種々の漢籍の書の象徴として用いたと思われる。 継体天皇紀七年〔513〕六月には、百済から「五経博士」の「段楊爾〔人名〕」が献じられ、同十年五月には「漢高安茂〔人名〕」に引き継いだとする記事がある。 五経博士はもともと前漢の官職名(前述)で、儒家などの経典に通じていたとされる。 書紀には各所に「忠」「孝」に触れた記述があり、当時日本にもたらされていた儒教が書記に取り入れられたものと言えよう。 仇討ちは孝の精神に合致するものではあるが、 むしろ元々は血族の集団的自我〔自らが肉親や先祖が一体だとする感覚〕による反撃として、自然発生していたものと思われる。 これを「孝」とする意義付けは、後付けされたものであろう。 ただし、自分の子など目下の者を殺した者への復讐は「孝」の範疇からは外れる。幕府法が仇討ちを「目上の者」に対する場合に限ったのも、その為であろう。 《孝》 孝の古訓には「うやまふ」「たかし」「かしこまる」などがあるが、何れも、前後の文脈と併せることによりはじめて「孝」を表し得る。 古訓には「のり」もあるが、これは普遍的な法則あるいは規範を意味する語で、「孝」に限らない。 このように、儒教の概念としての「孝」に、すっきり一対一対応する上代語は存在しない。 恐らく、儒教が伝わった最初から、「孝」は音読み「かう〔こう〕」であって、書紀も同様なのであろう。 書紀が執筆された当時は、読み方に音訓が併用されていたと見られ、 珍しい字については半切 第37回《一書の7》、魏志倭人伝をそのまま読む-第18回 が添えられている。 一例として、顕宗4(即位前)の 原注「蘆萑此云二哀都利一。萑音之潤反。」 〔蘆萑、これをエツリと云ふ。萑の音は"之潤反"〕は、単なる漢字の説明のようにも見えるが、 「蘆萑」を「訓ではエツリ、音ではロシンと読む」という具合に、音訓の両方を示したものと受け止めることができる。 《大意》 〔二年〕八月一日、 天皇(すめらみこと)は、皇太子(ひつぎのみこ)億計(おけ)に語りました。 「わが父、さきの君は罪なくして、大泊瀬(おほはつせ)の天皇(すめらみこと)は射(い)殺し、御骨を荒野に棄てた。 その大泊瀬天皇を今となっては捕えらず、 憤りと嘆きが心に満ち、 臥して泣き、行きて叫び、 仇に負わされた恥を濯ごうと思った。 私が聞くに、 父の仇とは共に天を戴かず、 兄弟の仇には武器を収めず、 友の仇とは国を同じくしない。 たとえ匹夫の子であっても父母の仇がいれば、 苫の小屋に寝て、盾を枕にして仕えず、共に国に与せず、 諸々の市井(しせい)で遭遇すれば、決して武器を収めずその機を捉えて闘うものである。 況(いわん)や私は天子に立ち、今は二年を経た。 願わくば、その御陵を壊して御骨を砕き、投げ散らしてやりたい。 今、このような報いを用いることも、また孝ではないだろうか。」 まとめ 恐らくは古事記が書かれた当時に一部が崩れた古墳が実在し、それに纏わる伝承がここに取り入れられたのであろう。 しかし、一部損壊した古墳ならいくらでもあるから、それを特定するのは不可能である。 今仮に、雄略天皇陵に治定された丹比高鷲原陵と、同じく候補のひとつであった河内大塚山古墳(第210回)を比べてみると、 大規模前方後円墳である大塚山古墳が損壊した方が、景色として雄大である。 同古墳は未完成に終わったとも言われるが、損壊したような外観だったこともあるかも知れない。 一方、これらとは別に「市辺皇子墓」のところの「古保志(こぼし)塚」という古地名が、気にかかる。 これについて『八日市市史』は「在地の有力農民が、原野の開墾とともに多数の古墳を破壊していったこと」 によると述べる(第219回)。 とは言え、これから述べることは想像に過ぎないのだが、実はその「原野の開墾」以前に既に一部損壊した塚があり、そこに「袁祁天皇が壊させた雄略天皇陵である」という伝説を伴って「毀塚」の名前があったのかも知れない。 古保志村もまた、弘計億計伝説の地である。 さて、記では大長谷天皇の御陵の損壊は「少し」だけ実行されたが、書紀では全く未遂に終わる。 書紀は記と異なる古墳を御陵に選び、そこには破損がなかったということだろうか。或いは、弘計・億計を重大な犯罪者にすることを避けるためという理由も成り立つ。 この問題については、次回に億計が諫める言葉を吟味して考えたい。 ⇒ [224] 下つ巻(顕宗天皇7) |