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[213]  下つ巻(清寧天皇3)

2019.01.09(wed) [214] 下つ巻(清寧天皇4) 

爾遂兄儛訖
次弟將儛時
爲詠曰

爾(ここに)遂(つひ)に兄(このかみ)儛(ま)ひ訖(を)へて
次(つぎて)弟(おと)[将]儛(まひ)せむとせし時、
為詠(うたひてありて)曰はく。


物部之我夫子之
取佩於大刀之手上
丹畫著其緖者
載赤幡

物部(もののふ)之(の)我夫子(わがせこ)之(が)
取り佩(は)かす[於]大刀(たち)之(の)手上(たがみ)に
丹(に)画(か)き著(つ)ける其の緖(を)に者(は)
赤幡(あかはた)載(の)せり


立赤幡見者
五十隱山三尾之竹矣
訶岐【此二字以音】苅
末押縻魚簀
如調八絃琴所治賜天下
伊邪本和氣天皇之御子
市邊之押齒王之奴末

立つる赤幡見(み)れ者(ば)
五十(い)隠(かく)りぬる山の三尾(みを)之(の)竹矣(を)
訶(か)岐(き)【此の二字(ふたじ)音を以(もち)ゐる】刈(き)り
末(すゑ)押縻魚簀(おしなびきなす)
八絃琴(やをのこと)調(ととのふる)如(ごと)天下(あめのした)所治賜(をさめたまへる)
伊邪本和気天皇(いざほわけのすめらみこと)之(が)御子(みこ)
市辺之押歯王(いちへのおしはのみこ)之(が)奴(やつこらま)末(あなすゑ)。


 遂に兄が舞い、舞い終えて 次に弟が舞おうとするときに、 まず詠唱しました。
――〔物部(もののべ)の〕勇士の私の愛しい夫が、 佩刀した太刀の束(つか)に、 丹染めして着けたその紐とともに、 赤幡(あかはた)を掲げた。
 林立する赤幡を見て 隠れた、その山の尾根の竹を 刈りとられ、 遂に靡かさせられたが、 八弦琴を整えるように天下をお治めになった 伊邪本和気天皇(いざほわけのすめらみこと)の御子、 市辺之押歯王(いちへのおしはのみこ)の、私こそが子孫である。


まひ…[自]ハ四 活用については、「第203回【為舞】」参照。
…[動] たり。~となっている。(古訓) たり。
たり…[助動] 完了。〈時代別上代〉「この助動詞は記紀にはまだ用例がなく、万葉にも、〔中略〕なおテアルの形の用例が見える。
物部…万葉集では、「物部」はすべて「もののふ」と訓まれる。 (万)0948 物部乃 八十友能壮者 もののふの やそとものをは。 (万)4266 毛能乃布能 八十伴雄能 もののふの やそとものをの
たかみ(手上)…[名] 刀のつか。
かきつく…[他]カ下二 色を塗りつける。摺りつける。(万)1344 菅根乎 衣尓書付 すがのねを きぬにかきつけ
調…①[動] ととのえる。 ②[名] 音楽において調和する音の流れ。〈汉典〉調:(其他字義) (1)楽曲。楽譜。(2)楽曲定音的基調或音階:C大調〔=ハ長調〕
しらべ…[名] (中古語) 音律。演奏。「律の調べは女のものやはらかに掻き鳴らして」(源氏物語/帚木)。
しらぶ…[他]バ下二 〈古典基礎語辞典〉原義は、楽器の弦の末端を合わせて、音調を整える意。 ここから演奏する意が生じる。
…[動] (古訓) かる。きる。
つまひく…[自]カ四 爪ではじく。(万)4214 梓弓 弦爪夜音之 遠音尓毛 聞者悲弥 あづさゆみ つまびくよおとの とほおとにも きけばかなしみ〔梓弓は枕詞〕
…[名] 牛の鼻綱。つなぐひも。[動] しばる。つなぐ。ちらばる(「靡」にあてた用法)。(古訓) つなく。
…[動] なびく。外からの力にしたがう。はでである。(古訓) なひく。したかふ。うるはし。
なぶ…[他]バ下二 なびかせる。押し伏せる。
おしなぶ…[他]バ下二 おしなびかせる。おしふせる。
なびく…[自]カ四 靡く。

真福寺本
氏庸本
【真福寺本】
 「訶岐」分注は一般には「此二字以音」だが、真福寺本は「三字」である。 三字だとすると「」からとなるが、記の他の個所で「」に「以音」を注記することはない。 「」は、万葉集では対格の格助詞「」として用いられ、記でも同様の例は多い。したがって「二字」の誤写であろう。
 ただ、後述するように「訶岐」の前に「」が脱落していた可能性があるので、 「モト」に相当する一音節の語が音仮名表記されていたことも考え得る。 しかし、「スヱ」と対になり「モト」に置き換え得る一音節の語を見出すのは難しい。

【我夫子】
 わがせこは女性が身近な男性を親しんで呼ぶ言葉で、万葉に多用される。 〈時代別上代〉によれば、母から子、姉から弟、男から男への例もある。
 万葉集では「(万)0247 和我世故我 わがせこが」など音仮名表記も多く、 漢字表記では「0268 吾背子」が圧倒的だが、 「1426 吾勢子」「1822 吾瀬子」「2276 吾世古」「2938 我兄子」などの表記もある。
 「我夫子」という表記は万葉にはないが「夫」は「兄」に通ずるから、これも「わがせこ」であろう。
 「ワガセコ」という言葉から歌い始めの作者は女性に思えるが、 締めくくりの言葉は袁祁王自身である。だから、どこかで言葉の主が交代する。 もし「末押縻魚簀」までが女性の言葉だとすれば、 攻める側の雄略天皇に親しみをもち、山に身を隠した二王子にも同情する女性ということになる。 とすれば、市辺押羽皇子の妻黒媛、雄略天皇の妻韓媛がともに葛城氏族出身であることが注目される。

【押縻魚簀】
 〈時代別上代〉は、「(簀)」の項で、「末押しぶる魚簀ナス」という訓を示す。
《押縻》
 漢籍において「」が「」に通用するのは、「ちらす」の意味で用いる場合のみである。
 しかし動詞「なぶ」はほとんど「おしなぶ」として用いることから、 「押縻」が「おしなぶ〔他動詞〕である可能性はある〔書紀の対応箇所の歌謡によって、この解釈は確定する; 後述
《魚簀》
 〈時代別上代〉は、「「魚簀」を訓仮名としてスの表記に用いている」と述べる。
 この解釈は、宣長が提唱したものである。その『古事記伝略』は「魚簀」について、 「〔賀茂真淵が言うような〕前後の字の脱落」はないと述べた上で、 「強てトカば此二字をば、如くの意の那須ナスの借字」 であると述べる。
《魚の借訓》
 熟語「魚簀」は〈汉典〉〈中国哲学書電子化計画〉には見いだせない。 〈百度百科〉で一件ヒットしたが、それは古事記を引用した日本の文章であった。 このように「魚簀」が漢熟語として存在しないことは、訓仮名である可能性を高める。
 そこで、万葉集から訓仮名の「魚」を拾い出してみよう。
・(万)0509 魚津左比去者 なづさひゆけば〔「なづさふ」は水に浮かび漂う意味〕
・(万)2190 吉魚張能 浪柴乃野之 よなばりの なみしばののの〔「よなばり(吉隠)は地名〕
・(万)2798 伊勢乃白水郎之 朝魚夕菜尓 潜云 いせのあまの あさなゆふなに かづくとふ〔副詞「あさなゆふなに」の語源を反映したものとも言える〕
・(万)3295 夏草乎 腰尓魚積 なつくさを こしになづみ〔「なづむ」は足腰に障害物が邪魔して進みにくいこと〕
 これだけあれば、「」が訓仮名「」に用いられるのは一般的と言ってよいだろう。
《簀の借訓》
 さらに訓仮名としての「簀」を見る。
・(万)1176 鳥者簀竹跡 君者音文不為 とりはすだけど きみはおともせず〔すだく…多数群がる〕
・(万)3295 如何有哉 人子故曽 通簀文吾子 いかなるや ひとのこゆゑぞ かよはすもあご〔どのような人ですか。あなたが通うのは〕〔「かよわ-」は軽い尊敬の意を添える動詞語尾〕
 以上の二例があるので、これも訓仮名として使われ得る文字であると言える。
 こられの例を見れば、宣長の見通しは正しかったと言える。
《語釈》
 「なす」は「成す」、即ち「作る」の意味で、ここでは自動詞の「靡(な)ぶ〔自らなびく〕ことを強いる使役動詞と見るべきであろう。 意祁・袁祁兄弟の立場でいえば、なびかせられたという意味になる。
《書紀との比較》
 「伐本截末」(書紀)は、「訶岐苅末押縻魚簀」(記)を「:訶岐苅」、「:押縻魚簀」と解釈した結果と見られる。 宣長が「訶岐苅」の前に「」を補ったのは、書紀と同じ発想である。

【調八絃琴】
 〈古典基礎語辞典〉(大野晋)によると、「しらぶ」は弦楽器の調弦を原意として演奏の意味に転化し、「『源氏物語』では、すべて琵琶・琴などの楽器についていい、 調律する意が多く、残りは、演奏する意である」という。 そして、「現代語に多い、〔中略〕吟味・調査の意は〔中略〕中世末からの用法である」とする。
 すると「調八絃琴」の"調"の訓読は「しらぶ」が自然であるが、〈上代語辞典〉の見出し語に「しらぶ」「しらべ」は収められていない。つまり、上代〔飛鳥・奈良〕の文献には見いだされないのである。 実際には使われていたのかも知れないが、「しらぶ」がどこまで遡るかは、不明である。
 一方、「ととのふ」は万葉集に複数ある。その一つ、 「(万)4254 吾皇乃 天下 治賜者 物乃布能 八十友之雄乎 撫賜 等登能倍賜 わがおほきみの あめのした をさめたまへば もののふの やそとものをを なでたまひ ととのへたまひ」 は注目される。
 この歌は韻文の「如調八絃琴所治賜天下」と類似している。 即ち「調八絃琴」とは、「もののふ(武人)の八十とものを(伴緒)を撫でたまひ、整へたまふ」を琴の調弦・演奏で譬えたものである。
 以上から、「調八絃琴」は「八絃(やを)の琴をととのへ(たまひ)」と訓めば確実であろう。

【顕宗天皇紀-4】
顕宗4目次 《億計王起儛既了》
衣帯…① 衣と帯。② 帯。〈釈紀-巻二十六和歌四(以下〈釈紀-歌〉)〉「衣帯【ミソミオヒ】〔御そ御おび〕
むろほき(室寿)…[名] 新室(にひむろ)を言祝ぎ祝うこと。
…(古訓) わたふ。よむ。
億計王起儛既了。
天皇次起。
自整衣帶。
爲室壽曰。

億計王(おけのみこ)起(た)ちて儛(まひ)既に了(を)へて、
天皇(すめらみこと)〔=弘計王〕次に起(た)ちて、
自(みづから)衣(きぬ)帯(おび)を整(ととの)へて、
室寿(むろほき)の為(ため)に誦(よ)みまつりて曰はく。

葛根…〈釈紀-歌〉「葛根【カツネ】。」〈時代別上代〉によると、縁板を受ける横木を縁葛(えんかずら)という。
築立…伝統訓「つきたつる」。
たつ…[他]下二 連体形は「たつる」。
…(古訓) かつら。
はしら…[名] 柱。
…〈釈紀-歌〉「鎮也【シツマリアリ】。
しづめ…[名] おさえ。「鎮む」(他動詞、下二)の連用形名詞。
棟梁…〈釈紀-歌〉「棟梁【ムウ】。」 〈丙本-景行〉「棟-梁-之-臣【牟祢末知支ミカ〔むねまちきを("み"か)〕
はやし…[名] 林。
はやす…[他]サ四 栄えあらしめる。
椽橑…〈釈紀-歌〉「椽橑【ハヘキ】。
はへき…[名] 垂木(たるき)と同じ。
…〈釈紀-歌〉「斉也【トゝノホリナリ】。
ととのふ…[他]ハ下二 整える。
ととのほる…[自]ラ四 整う。
蘆萑…〈釈紀-歌〉「蘆萑【エツリ】。
えつり…[名] 〈時代別上代〉草葺き屋根のかや下地、また壁下地などにするために編んだ竹や木をいうか。
(芦)…[名] アシ。イネ科一年草
…[名] アシ。イネ科一年草。
ふく…[自]カ四 屋根を葺く。
草葉…〈釈紀〉「草葉【カヤ】。
築立稚室葛根、
築立柱者、此家長御心之鎭也。
取舉棟梁者、此家長御心之林也。
取置椽橑者、此家長御心之齊也。
取置蘆萑者、此家長御心之平也。
【蘆萑、此云哀都利。萑音之潤反。】
取結繩葛者、此家長御壽之堅也。
取葺草葉者、此家長御富之餘也。

築(つき)立(た)つる稚室(わかむろ)の葛根(かづらね)、
築立つる柱(はしら)者(は)、此(こ)の家長(いへをさ)の御心(みこころ)之(の)鎮(しづめ)にあり[也]。
取(とり)挙(あ)ぐる棟梁(むね)者(は)、此の家長の御心之(の)林(はやし)にあり[也]。
取置ける椽橑(はへき)者、此の家長の御心之(の)斉(ととのへ)にあり[也]。
取置ける蘆萑(えつり)者、此の家長の御心之(の)平(たひらげ)にあり[也]。
【蘆萑、此哀都利(えつり)と云ふ。「萑」の音(こゑ)之(し)潤(じゆむ)反(はむ)。】
取結(むす)ぶ縄葛(なはかづら)者(は)、此の家長の御寿(みいのち)之(の)堅(かため)にあり[也]。
取葺(ふ)く草葉(かや)者、此の家長の御富(みとみ)之(の)余(あまし)にあり[也]。

新墾…〈釈紀-歌〉「新墾【ニヒハリ】。」 〈釈紀巻十二述義八〉(以下〈釈紀-義〉)「良田之名也。多稼如雲之出〔多稼雲の出づ如し〕
十握稲…〈釈紀-歌〉「十握稲【トツカシネ】。
しね…[名] 稲。
浅甕…〈釈紀-歌〉「於浅甕【サラケ】。
さらけ…[名] 浅い器。
…〈釈紀-歌〉「酒【オホミケ】。
美飲喫哉…〈釈紀-歌〉「美飲喫哉【ウマラニヲヤラフルカナ】。」 〈時代別上代〉「ヲを感動助詞として、ヤラフルとすべきである。
やらふ(飲喫)…[自]ハ下二 〈時代別上代〉「飲食する。
かわ…〈時代別上代〉未詳。詠嘆をあらわす終助詞的な性格の語か。
吾子等…〈釈紀-歌〉「吾子等【ワカヒコビトタチ】。
傍山…〈釈紀-歌〉「傍【カタ】山。
…(古訓) かたはら。そは。そふ。ちかし。ほとり。よる。
…〈釈紀-歌〉「挙【サゝケ】。
旨酒…〈釈紀-歌〉「旨酒【ムマサケ】。
餌香市…河内国安宿郡または古市郡 (雄略十三年【餌香市辺】)。 〈釈紀-義〉〔高麗人が餌香市で旨酒を醸し、時の人競って高価で飼うをいう。〕
不以直買…〈釈紀-歌〉「直買アタヒモテカハ〔直(あたひ)以て買はず〕
ひた…ひたすら。「雉(きぎし)の頓使(ひたつかひ)」 (第74回)など。
…(古訓) なづく。
あしひき…[名] 山。
あしひき…[枕] 山、峯(を)にかかる。 
牡鹿之角…〈釈紀-義〉 「兼方案之。喩于吾儛之姿也。〔吾が舞する姿をたとふ〕
…(古訓) あく。こそる。
こぞる…[自]ラ四 人やことがらがすっかり揃う。
たなそこ(掌)…[名] てのひら。「手-な-底」。
やららに…[副]ささやかに音をたてるほど。
拍上賜…〈釈紀-歌〉「拍上賜【ウチアゲタマツ】。」 宣長は、手の「うちあげ」が「うたげ」の語源であるとした (第125回【待其楽日】)。
出雲者新墾、々々之十握稻、
於淺甕釀酒、美飲喫哉。
【美飲喫哉、
此云于魔羅儞烏野羅甫屢柯倭。】
吾子等。
【子者、男子之通稱也。】
脚日木此傍山、牡鹿之角
【牡鹿、此云左鳥子加。】
舉而、
吾儛者、旨酒餌香市不以直買、
手掌憀亮
【手掌憀亮、此云陀那則舉謀耶羅々儞。】
拍上賜、吾常世等。

出雲(いづも)者(は)新墾(にひはり)、新墾之(の)十握(とつか)稲(しね)、
[於]浅甕(さらけ)に醸(か)む酒(みき)、美(うまら)にを飲喫(のら)ふ哉(かわ)。
【美飲喫哉、
此を于魔羅儞烏野羅甫屢柯倭(うまらにをのらふるかわ)と云ふ。】
吾子(わがこ)等(たち)、
【子者、男子(をのこご)之(の)通(とほれる)称(なづけ)也(なり)。】
脚日木(あしひき)の此の傍(そひ)の山、牡鹿(さをしか)之(が)角(つの)も
【牡鹿、此を左鳥子加(さをしか)と云ふ。】
挙(こぞ)りて[而]、
吾(わが)儛(まひ)者(は)、旨(うま)酒(さけ)餌香市(ゑがのいち)に直(あたひ)を以ちて不買(かはず)、
手掌(たなそこ)も憀亮(やらら)に
【手掌憀亮、此を陀那則挙謀耶羅々儞(たなそこもやららに)と云ふ。】
拍上(うちあ)げ賜(たま)へ、吾(わが)常世(とこよ)等(たち)。

節歌…〈百度百科〉「日田-成幾節的格律詩形式的歌詞譜。在一首歌曲裏反-復歌唱的歌謡形式。他作-為朝鮮人民音楽的基本形式〔=有節歌曲形式;一つのメロディーに一番、二番…と歌詞をつけて繰り返す。他に朝鮮の民衆音楽の基本形式も「節歌」と言う〕
赴節歌曰…〈釈紀-歌〉「節歌コトノネニアハセ曰。」。
いなむしろ…[枕] 川にかかる。
壽畢、乃赴節歌曰、
と寿(ほ)き畢(を)へて、乃(すなはち)節歌(ふしうた)に赴(おもぶ)きて曰(うた)はく、

伊儺武斯蘆
呵簸泝比野儺擬
寐逗喩凱麼
儺弭企於巳陀智
曾能泥播宇世儒

伊儺武斯蘆(いなむしろ)
呵簸泝比野儺擬(かはそひやなぎ)
寐逗喩凱麼(みづゆけば)
儺弭企於巳陀智(なびきおきたち)
曽能泥播宇世儒(そのねはうせず)

可怜…「可怜国(うましくに)」(垂仁天皇紀-天照大御神)。
…[動] つぐ。上からに教え諭す。いましめる。
…(古訓) なから。たちまちに。また。あるいは。
をり…[自]ラ変 すわる。立つと対にして用いることが多い。
小楯、謂之曰
「可怜、願復聞之。」
天皇、遂作殊儛
【殊儛、古謂之立出儛。
立出、此云陀豆々。
儛狀者、乍起乍居而儛之。】、
誥之曰。

小楯(をたて)、之(こ)を謂(かた)りて曰はく
「可怜(うまし)なり、願はくは復(また)[之]聞かしめたまへ。」といひて、
天皇(すめらみこと)、遂(つひ)に殊儛(たつつまひ)を作(な)して
【殊儛、古(いにしへ)に之(これ)立出儛と謂ふ。
「立出」、此(これ)陀豆々(たつつ)と云へり。
儛(まひ)の状(すがた)者(は)、乍(あるは)起(た)ち乍(あるは)居(を)りて[而][之]儛(まひ)す。】、
[之]誥(つ)げて曰へらく。

(茅)…[名] ちがや。
そそちはら…[名] 〈時代別上代〉「未詳。諸説がある。(イ)さやさやと音をたてる茅原。(ロ)あちこちの茅原。
あさぢ…[名] たけが高くない茅。若い茅。
あさぢはら…[名] 浅茅が一面に生えた原。
おとひ…[名] 弟。妹。(万)0065 住吉乃 弟日娘与 見礼常不飽香聞 すみのえの おとひをとめと みれどあかぬかも
倭者彼々茅原
淺茅原弟日
僕是也

「倭(やまと)者(は)彼々茅原(そ、そのちはら)、
浅茅原(あさぢはら)弟日(おとひ)
僕(やつこ)是(これ)也(なり)」

小楯由是、深奇異焉。
更使唱之、
天皇誥之曰、

ふかむ…[他]マ下二 深くする。
といへり。小楯是(こ)に由(よ)りて、奇異(あやしび)深めてあり[焉]。 更(さら)に之(こ)を唱(とな)は使(し)めて、
天皇之を誥(つ)げて曰へらく。

石上振之神榲…〈釈紀-義〉「石上振之神榲」者、欲「伐本截末」之発語也、営-作宮之義也。 〔石上振之神榲」は、「伐本截末」を謂はむとせし〔=導こうとした〕発語〔=序詞〕にして、宮を営作する義なり。〕 「序詞」は主な文脈とは枕詞と同様無関係な形容語句を指すが、二語以上からなることが多い。
石上振之神榲
【榲、此云須擬。】
伐本截末
【伐本截末、此云謨登岐利須衞於茲婆羅比。】
於市邊宮治天下
天萬國萬押磐尊御裔
僕是也

「石上(いそのかみ)振(ふる)之(の)神榲(かむすぎ)
【榲、此(こ)を須擬(すぎ)と云ふ。】
本(もと)伐(き)り末(すゑ)截(おしはら)ひ
【「伐本截末」、
此を謨登岐利須衞於茲婆羅比(もときりすゑおしはらひ)と云ふ。】
[於]市辺宮(いちへのみやにいまして)天下を治(をさ)めたまへる
天万国万押磐尊(あめよろづくによろづおしはのみこと)の御裔(みあなすえ) 僕(やつこらま)是(これ)にあり[也]。」とのたまひき。

《長御心之鎮也》
 〈釈紀-歌〉はを「しづまり」、を「ととのほり」として、自動詞の連用形名詞としている。 この訓読は、家の各部分に家長の心持を投影して褒めたと解釈したものである。
 しかし、他動詞の「しづめ」「ととのへ」を用いて、家長が家を建てた行為に対して称讃したと訓むことも可能である。
 どちらも可能であるが、ここで「」に注目してみる。 は釈訓により「栄やし」を表しているのであろう。 「はやす」は他動詞である〔自動詞は「はやる」〕。 これを基準にして、すべての訓読を他動詞に揃えることが考えられる。
 ここで問題になるのは、「ととのふ」「たひらぐ」の連用形(ととのへ、たひらげ)に〈時代別上代〉は名詞としての見出し語を立てていないことである。 よって上代語の範疇においては、連用形名詞にすることには違和感があるかも知れない。
 そこで、「〔漢文においては文末に置く語気詞〕を訓読して生じた「なり〔和文においては繋辞〕を、 元々の形「に-あり」に戻す。 すると「連用形+動詞」に接続助詞「」を挿入する形になり、名詞化の印象を緩和することができる。
《節歌》
 「伊儺武斯蘆…」は、文字数五七五七七の短歌になっている。古くは今様が、現代において演歌が基本的に七五調であるのは、メロディーをつけ易い詩形だからである。 万葉歌がメロディーを付けて歌われていたのは、確実である。
 よってここでいう「節歌」は、朗読形式の「室寿」と対比して、メロディーのある歌〔後の時代の今様の類〕であろう。
 民謡が手拍子を誘うのは拍節があるからで、音楽における拍節構造を竹の節に準えて「ふし」というのである。リズム要素から拡張して、旋律自体も「ふし」と言う。 これは人が旧石器時代から本質的に備えていた感覚だと考えられ、よって歌における漢字の「節」が上代にも「ふし」と訓まれたのは確実である。
 旋律歌には琴が伴奏しただろうから、釈紀による「琴の音合はせ」なる訓読も妥当だが、古くからあったと思われる「ふし」という語を生かしたいものである。
《彼彼原》
 は、中称代名詞、三人称代名詞に使われる。 (万)「0319 彼山之 そのやまの」「0337 其彼母毛 それそのははも」 「0674 彼此兼手 をちこちかねて」「1809 此方彼方二 このもかのもに」などの用例がある。
 〈時代別上代〉は、①オノマトペとしての訓仮名の「ソソ」、②中称代名詞「」を重ねたとする二説を併記している。
 〈釈紀-義〉は、 「兼方案之。「彼々」者其所也。「茅原」以下処名也。〔兼方案ずるに、「彼々」は「その所」なり。茅原以下、処(ところ)の名なり。〕と述べる。
 この言葉は小楯が弟の言葉の意味が理解できずに聞き直す文脈中にある。 とすれば、ごく曖昧な言葉を発したと理解すべきであろう。
 となれば「彼彼原浅茅原」は一つの塊で、「そのその原、浅茅(低い草)の原」と口走ったと読める。 「浅茅原」も特定の地名ではなく、単に「草叢の原」程度の意味であろう。 こうしてわざわざ意味不明な言葉を発し、聞きなおすように仕向けた。
 言わば、「失われぬ柳の根」を第一ヒント、「弟日」により兄弟でいることを示したのを第二ヒントとして謎掛けしたのである。 狙い通り聞き返され、弘計王は遂に堂々と宣言し、それを聞いた小楯は驚きの余りひっくり返った〔記による〕のであった。
《釈紀による解釈》
 「於市辺宮治天下」は、明らかに押磐皇子を天皇として扱う言葉である。 播磨国風土記は、あからさまに「坐市辺之天皇」と書く。 釈紀がこれをどう解釈するかは、注目されるところである。
 〈釈紀〉は、巻二十六「和歌四」は、 「小楯謂之曰可怜願復聞之」から「御裔僕是也」までの部分を、「云云」としてすっぽり省略している。 ただ、この部分について、巻十二「述義八」の方で詳しく解説している。
 〈釈紀-義〉の見解で目を惹くのは、次の諸点である。
 ◎手掌
――手掌不於此辺。言不忍惜也。 〔手掌、この辺りで買はず。忍惜すべからずを言う。 =「手掌」して近所で安い酒を買うな、忍ばず惜しまずに餌香市で高い酒を買え〕
 「たなそこ」を「安易に妥協する〔言わば"手打ち"〕」意味に解釈するのは、個性的である。
 ◎拍上賜吾常世等
――兼方案之。「拍上賜」者、飲酒之儀也。「常世等」者、皆人寿考之儀也。 凡此儛之御辞也。先寄于新室、称-讃主人。次以直雖不之。彼旨酒湛々也。衆人飲酔。呼万歳之意歟。 〔兼方之を案ずるに、「拍上賜」は飲酒の儀〔=作法〕なり。「常世等」は皆人寿考〔=長寿〕の儀なり。 凡そこれ舞の御辞なり。先ず新室に寄せ主人を称讃す。次に直(あたひ)を以て之を買はざれど、 彼の旨酒湛々なり〔対価をもって買わなくても、旨酒はたっぷりある〕。〔以下略〕〕
 ◎石上振之神伐本截末。於市辺宮治天下天万国万押磐尊御裔僕是也。
――兼方案之。〔中略〕 「市辺宮治天下」者、顕宗仁賢帝之父、磐坂市辺押磐尊(履中天皇皇子)也。 「天万国万」者、祝言也。 〔「市辺宮に天下を治む」は、顕宗・仁賢帝の父、磐坂市辺押磐尊(履中天皇の皇子)なり。 「天万国万」は祝い言なり〕
 「天下を治む」については、さらりと通過しているが、「」の文字を使っていることと、 播磨国風土記を見れば、「治天下;天皇」問題を避けては通れないはずである。
《石上振之神榲》
 石上は物部氏の本拠である。これは記の韻文の「物部」に通じ、やはり物部氏に支援された雄略帝を暗示すると見られる。 その地の神杉を伐採して市辺宮で天下を治めるというのであるから、穏やかではない。
 書紀はさらに押磐皇子を「」と呼び、 また市辺宮で即位したとするから雄略派への敵対心が露骨に現れている。
 思うに、この韻文には原形が伝えられていたと想像され、原形に近いのは書紀の方だと思われる。 記はむしろ押歯「天皇」になることを避けるために、 元々繋がっていた「所治賜天下」と「市辺之押歯王」の間に「伊邪本和氣天皇之御子」を挿入し、 また「五十隠山」を挿入することによって、山林伐採の実行者を雄略側に移す配慮を見せている。
 原形の韻文のが秘める危険性については記の方がよく承知していて、書紀は処置を誤ったことになる。ただ、さらに特別な意図があれば話は別である(まとめ参照)。
《歌意》
稲蓆いなむしろ 川沿ひ柳 水往けば なびき起き立ち その根は失せず
いなむしろ…[枕] 川にかかる。
〔 川沿いの柳は洪水に靡くが、水が引けば再び起き立つ。根は決して失われないのだ。 〕
 〈釈紀-歌〉は、以下のように解説する。 「凡歌意者。我身雖皇胤。 為難居-住辺裔。 譬岸柳之一旦靡水遂定不上レ其根之由也。〔凡(おほよ)その意は、我が身皇胤を稟(う)けども、難を避く為に辺裔〔=辺境〕に居住す。 岸の柳の一旦水に靡(なび)けるに、遂に定まりてその根を失せざるに譬(たと)ふる由(よし)なり。〕
 つまりは、一度水に浸かって弄ばれてても立ち直り根は失われないことに、難を避けて辺境に住むが決して挫けない自らの境遇を重ね合わせる。 この解釈は、しごく妥当なものと言えよう。
 なお、この歌の「儺弭企(なびき)」という語によって、記の「押縻」が「おしなびき」と訓み、 さらには「末押縻魚簀」が「遂に追いやられた」意味であることが確実になる(前述)。
《大意》
 億計王(おけのみこ)は立って舞い終え、 次に天皇(すめらみこと)〔=弘計王〕が立ち、 自ら衣帯(いたい)を整え、 室祝ぎ(むろほぎ)のために吟じました。
――築(つ)き立てたる稚室(わかむろ)の葛根(かづらね)、 築き立てたる柱は、この家長(いえおさ)の御心の鎮めなり。
 取り挙げたる棟梁(むね)は、この家長の御心の栄(はや)しなり。
 取り置きたる垂木(たるき)は、この家長の御心の斉(ととの)えなり。
 取り置きたる葺板は、この家長の御心之の平(たいら)げなり。
 取り結びたる縄葛(なわかずら)は、この家長の御命の堅(かた)めなり。
 取り葺きたる茅(かや)は、この家長のみ富の余りなり。
 出雲は新墾(にいはり)〔=新田〕、新墾の十握(とつか)の稲、
 浅器(あさうつわ)に醸(かも)す御酒(みき)、美(うま)らにや飲み干すかな。
 わが子たち、 足曳きのその傍(はた)の山の牡鹿(さおしか)の角も 挙(こぞ)って、
 我が舞は、旨酒(うまさけ)を餌香(えが)市に対価をもって買わず、
 掌を合わせ鳴らし、
 拍(う)ち上げ賜え、わが〔皆の〕常世(とこよ)たちよ。
 このように祝ぎ終えて、続いて節(ふし)の歌に移り、こう歌いました。
――稲蓆(いなむしろ) 川沿ひ柳 水往けば 靡(なび)き起き立ち その根は失せず
 小楯は、 「なかなかよい。もっと聞かせてくれないか。」と語り、 天皇は、遂に殊舞(たつつまい)を演じ、 【「殊舞」は古くは立出舞と言い 「立出」は「たつつ」と訓む。 舞い方は、起ったり座ったりして舞う。】、
「倭(やまと)は、そのその茅原(ちはら)、 浅茅(あさじ)原の弟、 それが私である。」 と告げました。小楯はこの言葉によって、奇異な思いを深め、 さらに唱えさせました。
 天皇は、 「石上(いそのかみ)振(ふる)の神榲(かみすぎ)、 元を伐(き)り、末を掃い、 市辺(いちのへ)の宮にて天下を治められた 天万国万押磐尊(あめよろずくによろずおしわのみこと)の末裔、 それが私である。」と告げられました。


【播磨国風土記】
 『播磨国風土記』の美嚢郡の項に類話がある。
播磨国風土記美嚢郡。(第197回から続き)
伊等尾新室之宴而二子等令燭仍令辞。 爾兄弟相譲。乃弟立詠。其辞曰。 多良知志吉備鐡狹鍫持如田打手拍子等。吾將爲儛。 又詠。其辞曰。 淡海者水渟國。倭者青々垣々山投坐市邊之天皇御足末奴津良麻者。
伊等尾(いとみ)が新室(にひむろ)の宴(うたげ)に因(よ)りて二(ふたりの)子等(ら)燭(ほたき)せしめて仍(さらに)辞(こと)詠(よ)み挙(あ)げしむ。 爾(ここに)兄弟(あにおと)相譲りて、乃(すなはち)弟立ちて詠(うた)ひき。其の辞(この)曰はく。
――多良知志(たらちし)吉備(きび)が鉄(まかね)の狭鍬(さくは)持ちて田打ちし如くに手拍(てう)てる子(こ)等(ら) 吾(われ)儛(まひ)なさむ
又詠みき。其の辞曰はく。
――淡海(あふみ)は水渟(たま)れる国 倭(やまと)は青垣 青垣山に投(いた)り坐(ま)せる市辺之天皇(いちへのすめらみこと)が御(み)足末(あなすゑ)奴津良麻(やつこらま)
…(古訓) すなはち。さらに。
たらちし…[枕] 母、吉備にかかる。
…(古訓) うたふ。しのはしむ。〈時代別上代〉は、応神段の「詠之歌」(第151回)と、 『播磨国風土記』の「」が「ナガムと訓まれ」るが、これらの「訓は確かではない」と述べる。
まかね…[名] 鉄。(万)3560 麻可祢布久 尓布能麻曽保乃 伊呂尓悌弖 まかねふく にふのまそほの いろにでて 〔鉄吹く 丹生の真朱の色に出て〕。は、地名丹生にかかる枕詞。
さ-…[接頭] 詩文に多用される。実質的な意味をもたない。
…(古訓) くは。たかね。
くは…[名] くわ(農耕具)。
…[動] とどまる。「投宿」など。(古訓) なく。うつ。おく。いたる。
…(古訓) たまる。ととむ。
たまる…[自]ラ四 水についてのみ用いる。
青々垣々山…記上巻の「許々袁々呂々」(第33回)なる表記法に従えば「青垣青垣山」と読む。
奴津良麻…〈時代別上代〉の引用では「奴僕良麻」。
 淡海(近江国)は、大長谷王子(雄略天皇)が市辺之忍歯王を狩に誘って殺害した地である。 また、顕宗天皇は近江国蒲生郡の「蚊屋野」の地に市辺押盤皇子を納骨したとされる (顕宗紀元年二月。第196回)。 淡海はその伝説の地として、歌に詠み込まれたと見られる。 或いは市辺押盤皇子が、一時期この地に宮を置いたとする伝承があったとも想像される。
 青垣山は大和平野を囲む垣を意味し、大和=倭は古墳時代から奈良時代まで首都であった。 第二歌は、市辺押盤皇子が淡海から倭にやってきて、市辺の宮で天下を治めたと読める。

【市辺押盤天皇即位論】
《伝承の地域性》
 「市辺天皇」は播磨国風土記だけに出てくるから、播磨国における局地的伝承である。 そこには、押盤皇子を推す勢力が播磨国にいたことが考えられる。
 前回まとめで、忍海氏族に由来すると思われる明石郡の「押部(オシンベ)谷」に注目した。 押盤皇子の親族である飯豊女王が「忍海」を冠しているのを見ると、 忍海氏族が忍海郡、明石郡に分布していて、押盤皇子の一族を押し立てていた。 それが、押盤皇子を押し上げる表現に繋がったと考えることもできる。
《書紀による言及》
 「市辺押盤天皇」を検証すると、 当然のことながら、その天皇即位を直接描く記事は記紀には一切載らない。
 しかし、即位前紀-安康三年十月(雄略天皇4)に 「穴穂天皇曽欲市辺押磐皇子国而遙付二上-嘱後事〔穴穂天皇、曽(かつ)て欲(ねがはく)は市辺押磐皇子を以て国を伝へて遥かに後の事を付嘱(ゆだ)ねむとおもひき〕 と述べ、一度は事実上の皇太子に指名されている。
 ただ、顕宗天皇即位の正当性を強調する意図をもって、遡ってこれを書き加えたという考え方もできる。
《記における表現》
 記で気になるのは、安康天皇段の次の記述である (第196回)。
忍歯王以平心御馬-立大長谷王仮宮之傍。而詔其大長谷王子之御伴人
 忍歯王は、「平心」即ち大長谷王に尊敬心を持たず、「」から、「随乗」即ち乗ったまま下馬せず、大長谷王子之御伴人に「」(のたま)った。 これらは一応は文脈中において、その態度の尊大さを強調するものである。
 しかし、通常天皇や皇太子に限定される御馬を忍歯王に用いること自体が、心をざわつかせる。 逆に、黒彦を責める大長谷王子には「詔」を用いず、「」のままである (第194回)。
 これらは、古事記が一度は「忍歯命坐市辺宮治天下」と書いたことを示すものではないか。
 即ち記が雄略天皇段の執筆したとき、当初は「忍歯王が即位したが、大長谷王が実力によってその地位を奪い取った」なる筋書きを主張する説が存在し、 一度はそれを採用した。忍歯王を主語とする文には当然「」や「」が用いられた。 ところが、その後の検討により「所治天下忍歯王」は抹消されて現在の形にはなったが、元の文中にあった表現が痕跡として残った可能性がある。
 仮に天皇に即位しなかったとしても、少なくとも皇太子として大長谷王よりはるかに高い地位にあったことは確かであろうと思われる。
《史実としての問題》
 それでは史実として、「忍歯天皇」は存在したのであろうか。
 そもそも「天皇」号の創出は、天武帝の頃と考えられている。金錯銘鉄剣では「獲加多支鹵(わかたける)大王」 (第198回)だから、「大王」の表記は古くから存在した。 万葉集おいて大王オホキミは、「(万)3480 於保伎美 おほきみ」などにより確定しているが、 恐らく金錯銘鉄剣の時代からオホキミと発音されたであろう。 だから、史実として問題にする場合は「忍歯天皇」ではなく、「オシハオホキミ」の実在の有無である。
 また、そのオホキミが日本列島の全土(南九州以南と東北以北を除く)を統一的に統治する存在であったかどうかも、考えなければならない。
 その点に関しては、これまでしばしば言及してきたように、5世紀当時の大君の統治範囲は薩摩・大隅を除く九州から関東までと考えられる。 また、代替わりに当たっては諸族間の武力紛争もあったが、決着がつけば大王に服属する習慣になっていた (清寧即位前紀(二)まとめ)。 従って、有力氏族の連合体ではあるが、統一国家ヤマトの構成員としての意識は諸族に定着していたと思われる。 だからこそ、南朝宋や梁も「倭王」を列島全体の王と認めて外交関係が成立していたと見られる (倭の五王)。
《実在の可能性》
 しかし、宋書・梁書に挙げられた「倭の五王」を見ると、「」と「」の間に倭王は見えない。 もし「忍歯天皇」を入れるとすれば、「賛子○立」などとなろう。 だから、仮に忍歯王が大王となった時期があったとしても、ごく短い期間であろう。

まとめ
 『播磨国風土記』の言う「市辺押盤天皇」は、宋書・梁書を見る限りが存在した可能性は低い。 ただ、雄略即位前紀に安康天皇が後継者に指名したと書かれているのが、案外最も当を得ているかも知れない。 記の敬語表現も併せて考えると、ほぼ皇太子の地位を確定していたように思われる。
 それでは、一部に見られる「天皇」の表現はどのようにして生じたのか。
 基本的には播磨国に市辺押盤皇子の一族を強く支える勢力がいて、彼らの間に天皇〔史実としては大王〕寸前まで至ったことを惜しむ気持ちが昂じた故であろう。
 ここで想起されるのが、壬申の乱で敗れた大友皇子が、 明治になってから「弘文天皇」を追諡されたことである。 さまざまな学説があったようだが、 根底には即位寸前で乱で敗れた皇子を遡って天皇に列したいという感情が必然的に高まる現象があり、 これは法則と言ってよいであろう。
 記紀編纂期においても、市辺押盤尊に追諡すべきという議論があり、 『播磨国風土記』はそれを認め、 記紀の記述の一部にも反映したのではないかと思われる。
 このように考えると皇太子止まりだったと見るのが無難だが、それでもなお、 ごく短い期間に大王としての実権を握った可能性が皆無ではないかも知れない。



2019.01.14(mon) [215] 下つ巻(清寧天皇5) 

爾卽小楯連聞驚而
自床墮轉而
追出其室人等
其二柱王子坐左右膝上泣悲

爾(ここに)即(すなはち)小楯連(をたてのむらじ)聞きまつりて驚きて[而]
床(あぐら)自(よ)り墮(お)ち転(まろ)びて[而]
其の室(むろ)の人等(たち)を追出(おひだ)して
其の二柱(ふたはしら)の王子(みこ)左(ひだり)右(みぎ)の膝(ひざ)の上(へ)に坐(す)ゑまつりて、泣き悲しびき。


而集人民作假宮
坐置其假宮而
貢上驛使
於是其姨飯豐王聞歡而
令上於宮

而(しかるがゆゑに)人民(おほみたから)を集めて仮宮(かりみや)を作りて、
其の仮宮に坐置(すゑお)きまつりて[而]、
駅使(はゆまつかひ)を貢(たてまつ)り上げき。
於是(ここに)其の姨(をば)飯豊王(いひとよのおほきみ)聞こして歓(よろこ)びたまひて[而]
[於]宮(みや)に上(のぼ)ら令(し)めたまひき。


 そして、小楯連(おたてのむらじ)はこれを聞いて驚き、 台座から転げ落ち、 新室に集っていた人たちを追い出して、 その二人の王子(みこ)左右の膝の上に坐らせ、泣き悲しみました。
 こうして人民を集めて仮宮を作らせ、 その仮宮にお住まいいただき、 早馬の使者を送りました。
 そして叔母の飯豊王(いいとよのおおきみ)は聞かれてお喜びになり、 宮殿〔角刺宮〕に上らせました。


とこ(床)…[名] 寝床。
あぐら(胡坐)…[名] ① 高く設けた広い座席。② 椅子。
はゆま…[名] 早馬 (第111回【駅使】)。
をば…[名] 父母の姉妹。〈倭名類聚抄〉「母之姉妹曰従母【母方乃乎波】。〔母方のをば〕」
…[名] 〈倭名類聚抄〉「:唐韻音夷〔音イ〕。母之姉妹也。
…[名] 〈倭名類聚抄〉「父之姉妹為姑。

【真福寺本】
真福寺本
氏庸本
 真福寺本は二柱王子が注釈の形になっている。 これと「二口」がない点を併せて見ると、最初は両方ともなかったようにも思える。
 二口〔奴婢の助数詞〕二柱〔王子の助数詞〕を対置すれば、気の利いた表現になるのは確かである。 しかし最初はそうなっておらず、A系統の写本で「」を「二口」と読み、更に「二柱王子」を加えたとする。 そして真福寺本につながる系統は、A系統に影響されて「二柱王子」を分注の形で取り入れたという経過が想像できる。

【泣悲】
 形容詞「かなし」には「いとしい」意味もあるが、 ここでは二王子を余りに悲惨な目に遭わせたことを思い、悔む感情を表現したと思われる。

【姨】
 は母の姉妹を意味する。 耳で聞くだけなら「ヲバ」だからそれでよいのだが、 漢字については飯豊女王は王子から見て父の妹だから、「」は誤用で、 「姑」でなくてはならない。※…"しゅうとめ"の外に父の姉妹の意味がある。 序文を読めば著者の漢字能力は高いから、この程度の誤りは不審に思える。
 これが誤りだとすれば、次のケースが考えられる。
 著者が漢字の使い分けを知らなかった。
 誤りだと知りつつ、倭国内で通用している用法に従った。
 著者は「姑」と書いたが、筆写者が誤写した。
 この文そのものが後世の書き足しで、それは知識不足の人によって行われた。
 実際のところは分からないが、少なくともではあってほしくない。 ただ、先に述べた「二口・二柱」にも後世の書き足しの疑惑が拭いきれないから、これも危ない。

【顕宗天皇紀-5】
顕宗5 《小楯大驚離席》
…[形] いたむ。(古訓) いたむ。うらむ。うれふ。かなしぶ。
悵然…うらめしげなさま。
再拝…二度お辞儀する。ていねいなおじぎ。
ふたたび…[副] 二回。「-たび」は助数詞。
承事…命令を引き受けて仕える。
供給…身分の高い人のそばに仕える (清寧天皇5)。
…つつしむ。
…(古訓) おこす。あかる。
不日…まもなく。何日もたたぬうちに。
おく…[他]カ四 時・空間をへだてる。
権奉安置…かりにおきまつる (清寧天皇5)。
小楯、大驚離席、
悵然再拜、
承事供給、率屬欽伏。
於是、悉發郡民造宮、
不日權奉安置。

小楯(をたて)、大(はなはだ)驚きて席(むしろ)を離れて、
悵然(うらめしく)再拝(ふたたびをろがみ)て、
事(こと)承(うけたまは)りて供給(つかへまつ)りて、属(うがら)を率(ひきゐ)て欽(つつし)みて伏(ふ)しき。
於是(ここに)、悉(ことごとく)郡(こほり)の民(おほみたから)を発(た)てて宮を造りて、 不日(ひおかずて)権(かり)に奉安置(おきまつ)りき。

…"喜"の異体字。
まゐづ…[他]ダ下二 参上する。
…[動] ① はかる。相談する。② 感嘆詞。舌打ちのオノマトペ。〈学研新漢和〉「中国では、よしあしのどちらの場合にも舌打ちをする。」 (古訓) あとらふ。なけく。
咨歎…舌打ちして感嘆する。
乃詣京都求迎二王。
白髮天皇、聞憙咨歎曰
「朕無子也、可以爲嗣。」

乃(すなはち)京都(みやこ)に詣(まゐで)て二王(ふたはしらのみこ)を迎へたまふことを求めまつりき。
白髪天皇(しらかのすめらみこと)、聞こして憙(よろこ)び咨歎(なげ)きて曰(のたま)はく
「朕(われ)子(みこ)無し[也]、以ちて嗣(ひつぎ)に為(な)す可(べ)し。」とのたまひて、

…(古訓) はかりこと。
禁中…天子の住む宮城の内部。
持節…天子から授けられた節(使者である印)をもつこと。
與大臣大連定策禁中、
仍使播磨國司來目部小楯持節、
將左右舍人。
至赤石奉迎。

大臣(おほまへつきみ)大連(おほむらじ)と与(とも)に禁中(みかどのうち)にて策(はかりごと)を定めたまひき。
仍(すなはち)播磨国(はりまのくに)の司(つかさ)来目部(くめべ)の小楯に節(つかひのしるし)を持た使(し)めて、
左右(もとこ)の舎人(とねり)を将(ひきゐ)て、
赤石に至りて奉迎(むかへまつ)らしめき。

《承事供給》
 事は「仕える」で、「承-」は尊敬の意を強める。よって「承事」「供給」は両方とも「つかへまつる」となる。 「承事」には「仕事を引き受ける」意味もあるので、「ことをうたたまはり」の訓読して重複を避けることは可能である。
《白髪天皇》
 記の清寧天皇段では既に夭折して飯豊女王が執政しているが、書紀では存命である。
《与大臣大連定策禁中》
 「与大臣大連禁中」の一文は特に必要ないが、 敢て大臣(おほまへつきみ)・大連(おほむらじ)が高いレベルの意思決定に関わっていることを示す。 雄略天皇紀では、室屋大連が事実上最終決定をしている場面が見られる (九年五月条など)。
 だから、通常の手続きを書いたものではあるが、 真相は既に在世でない清寧天皇が、形式的に参加した場で物事が決まったことを、暗示しているようにも思われる。
《大意》
 小楯(おたて)は、大いに驚いて座席を離れて、 悵(ちょう)然として〔=失礼を恥じて〕二度の礼をし、 承事供給して〔=謹んで仕え〕、一族を率いて欽伏〔=謹んで座礼〕しました。
 そして、ことごとく郡民に号令を発して宮殿を造営し、 日を置かず仮にお住まいいただきました。
 こうして都に参上し、二人の王子をお迎えしていただくようお願いしました。
 白髪天皇(しらかのすめらみこと)は、お聞きになり喜ぎ感嘆されて、 「私には皇子がない。よって継嗣とすべし。」と仰り、 大臣(おおまえつぎみ)、大連(おおむらじ)とともに禁中で策を定められました。
 その結果、播磨国司、来目部(くめべ)の小楯を持節使として、 お付きの舎人(とねり)を引き連れて、 赤石に至らせ、奉迎させました。


【播磨国風土記】
 『播磨国風土記』の美嚢郡の項に類話がある。
播磨国風土記美嚢郡。(第214回から続き)
即諸人等皆畏走出。 爾針間國之山門領所遣山部連少楯相聞相見語云。 爲此子汝母手白髪命昼者不食夜者不寝。有有死泣戀子等。 仍參上啓如右件。 即歓哀泣還-遣少楯召上仍相見相語戀。 自此以後更還下。造宮於此𡈽而坐之。 故有高野宮少野宮川村宮池野宮。 又造倉之處即号御宅村。造倉之處号御倉尾
 即(すなは)ち諸(もろもろの)人等(たち)皆畏(おそ)りて走り出(い)でき。 爾(ここに)針間(はりま)の国の山門(やまと)の領(つかさ)に所遣(つかはさえし)山部連(やまべのむらじ)の少楯(をだて)、相(あひ)聞き相見て語らひて云はく 「此の子の為に、汝(いまし)が母手白髪命(たしらかのみこと)、昼は食(を)さず夜(よ)は寝(な)さず。生きて有りや死にて有りやと泣きて子等(こら)を恋(こ)ひたまひき。」といひて、 仍(すなはち)参上(まゐのぼ)りて啓(まを)すこと右の件(こと)の如し。 即ち歓(よろこ)び哀(かなし)び泣きたまひて少楯を還(かへ)し遣(つか)はし召上(めさ)げしめて、仍(すなはち)相見(め)し相語らして恋ひたまひき。 此(これ)自(よ)り以後(のち)更に還(かへ)り下(くだ)りて、宮をこの土(くに)に造りまつりて之に坐(ゐ)ませき。 故(かれ)高野宮、少野(をの)宮、川村(かはむら)宮、池野宮有り。 又倉を造りし処(ところ)即ち御宅(みやけ)村と号(なづ)けり。倉を造りし処御倉尾(みくらを)と号(なづ)けり。
くだり…[名] ① 着物などの縦のすじ。(万)3453 多母登乃久太利 たもとのくだり。②(件) 文章の一部。 ②は〈時代別上代〉には載らず、『古語林』(大修館書店)が文例に上げた『大和物語』は天暦年間〔947~957;平安時代中期〕である。
手白髪命…仁賢天皇紀では、手白香皇女は仁賢天皇の皇女となっている。
《大要》
 少楯(小楯)は〔稚室の宴には同席しておらず〕知らせを聞いて二王子に面会し、都に登り天皇に報告した。 天皇は喜び、感激して二王子を朝廷に召して親しく語らった。 その後、二王子は美嚢郡に帰り、宮を造営してお住みいただいた。その宮が郡内の各地に残り、また屯倉が地名となっている。 〔後に顕宗・仁賢両天皇になったことは、書いていない。〕
《山門領》
 「山門」は山のあるところ、あるいは山の入り口を意味である。 よって、山門領は山守(やまもり)を領(をさ)める〔管轄する〕役職〔"やまのつかさ"?〕と見られる。 職業部「山部」は山を管理する専門集団であろうから、小楯はその一員だったこともあって「山門領」に任じられたのであろう。

【高野宮・少野宮・川村宮・池野宮】
 播磨国風土記に書かれた高野宮少野宮川村宮池野宮という名前は、書紀にも出てくる。
 〈仁賢天皇紀〉元年正月条の原注に、「或本云。億計天皇之宮、有二所焉。一宮於川村、二宮於縮見高野、其殿柱至今未朽。〔※A〕がある。
 また〈顕宗天皇紀〉の元年正月条の原注に、「或本云。弘計天皇之宮有二所焉、一宮於小郊、二宮於池野」とある。 これらは同じ書式で書かれているから、両者の「或本」は同一の書であろう。 播磨国風土記もその「或本」をソースにしたのかも知れない。ただ、当時は文献に頼るまでもなく、地元では有名な伝説だったかも知れない。
 それでは四つの宮は、実際にはどこにあったのだろうか。
《高野郷》
 「高野宮」については、〈倭名類聚抄〉に{播磨国・美嚢郡・高野【多加乃】郷}が見える。
 〈大日本地名辞書〉は播磨国美嚢郡の項で高野郷について、「今別所村なるへし。平野郷の西にして、郡の西端とす」、 「風土記に「高野里、因体為名〔地形によって名付けられた〕」と録し、仁賢記〔ママ〕注「〔上記※A〕」と曰ふ、亦此ならん。」と述べる。
《御坂神社》
 神社の由来を古代天皇・妃・皇子の宮殿跡とする社は多いので、この地域の神社を調べる。
 まず、美嚢郡の式内社は「御坂神社」一社である。比定社は「御坂神社」(兵庫県三木市志染町御坂243)。 なお<wikipedia>によると、三木市内には「みさか」神社が他に8か所あるという。
 『播磨国風土記』-美嚢郡に、 「志深里。坐於三坂神。八戸桂須御諸命。大国主葦原志許国堅以後。自天下於三坂嶺志深里:三坂に坐す神は八戸掛須御諸命(やとかけすみもろのみこと)。大国主・葦原志許の国堅めたまひしのち、天(あめ)より三坂嶺に下りたまひき〕 とある。大国主の名が出てくることから見て、顕宗・仁賢帝の四宮造宮よりも古い時代からあったように思われる。
《顕宗仁賢神社》
 明石郡に「顕宗仁賢神社」(神戸市西区押部谷町木津569)がある。 兵庫県神社本庁の紹介ページによると、 「通称名:柴垣の宮・木津の宮」、「主祭神:顕宗天皇」、「配祀神:仁賢天皇・大日孁命」。
 堂内掲示の「顕宗仁賢神社由来」には、 「この二王子ゆかりの地に仁賢天皇十一年戊寅年九月二十三日勅を受けて創建せられたのが 顕宗仁賢神社」で、 二王子の仮宮が「柴垣宮の起源であり 今も神社の一部に柴垣を編んでその遺風を伝えている」 と書かれる。 なお、仁賢紀には「十一年秋八月庚戌朔丁巳〔八日〕。天皇崩」の記事があるので、 その「」があったとしても、時期に疑問がある。 〈延喜式神名帳〉には押谷地域に該当する社はなく、顕宗仁賢神社の実際の創建時期や、いつからこの名で呼ばれたかは不明である。
 ただ、所在地が押部谷であることから、もともとは忍海氏の氏神だったと考えるのが一番自然だと思われる。
《押部谷》
 〈大日本地名辞書〉によれば、「押部谷:押部と云ふは、忍海辺と云ふと同じく」、 「忍海部オシミベ:押部の旧唱なるへし、 大同方〔大同類聚方〕に「播磨国明石郡、忍海部保曽目」また 「忍海保楚女大海オホミ麻呂」などと載せたり。」という。 『大同類聚方』〔大同三年〔808〕成立の医学書〕に 忍海部保曽目、忍海保楚女〔共にホソメ〕が載ることは、 〈姓氏家系大辞典〉も取り上げている。『大日本地名辞書』上巻は1907年、『姓氏家系大辞典』は1934~1936年の刊行。
 これにより、清寧紀二年に 人名としてでてくる「忍海部造細目」は、氏族名として平安初頭に存在していたことになる。
《池野宮》
 そして明石郡まで範囲を広げると、江戸時代に「池野村」が存在した。
・江戸時代:池野村⇒明治元年〔1968〕:上池村に改称⇒町村制〔1989〕:玉津村⇒現在:神戸市西区玉津町上池。
 池野村の位置は明石郡の海岸近くで、美嚢郡からは相当離れていることから、これ風土記美嚢郡の項に書かれた「池野宮」かどうか、判断は難しい。
《少野宮・川村宮》
 ヲノカハムラともに、今まで調べた限りでは江戸時代以後の美嚢郡・明石郡の地名には見いだせない。
 「小野」は〈倭名類聚抄〉でも全国の9つの郷にあるように、自然地名としてありふれたものである。 川村は、〈倭名類聚抄〉には{伯耆国・河村【加波無良】郡}{備中国・浅口郡・川村【加波無良】郷}がある。
《三木市の遺跡》
 三木市の遺跡調査報告を見ると、三木城に関するものが多い。三木城は、羽柴秀吉による三木合戦〔1578年〕で有名である。 平安時代以前のものについては「大塚出張(ではり)遺跡」(三木市文化研究資料第27集)に住居跡が確認されているぐらいで、 今のところ「宮殿跡」の報告は見つけられない。
 以上から、高野宮など四宮の所在地は志染村、或いはその周辺であるのは確実であるが、 現状では位置を特定するのは難しい。

【伝説への考察】
 〈姓氏家系大辞典〉の「忍海部造」の項の記述は、注目に値する。曰く。
 今億計弘計二王御避難の事情を考ふるに、二王を奉じて窃〔ひそか〕に丹後与謝郡に逃れしは、日下部連使主、 其の子吾田彦の二人にして、此の氏と族を同じうす。 又その最初逃れ給ひ与謝郡(余社郡)は此等氏族の根拠地なり、而して二王は更に播磨に入り細目の家に入り賜ふ。 史上にては〔=記紀や風土記の上では〕知らずして二王を其の家に置き給ひしが如きも、 此等が何れも同族関係を有するを思へば、計画的に二王を少なくとも救い奉りしや想像するに難からず。 蓋し忍海皇女の御心より発せしものならん。
 〔日下部連使主親子は忍海細目と同族で、まず使主の本拠地の丹後国与謝郡に逃れた後、 播磨の細目の家に匿われたのは想像に難くない。恐らくは、飯豊女王の指示によるものであろう。 記紀や風土記が細目が知らなかったか如く描くのは、物語の上のことである〕
 この考え方は、常識的なものと言える。
《筋書きの作為性》
 細目が二王子の正体を知らなかった場合、 奴婢が「吾は貴人の子なり」と口にしても所詮は戯言に過ぎず、言い張れば殺されるだろう。 だから、これなら小楯が二小子を貴人だと信じて当然だと、読者が納得するだけのストーリーを作り上げなければならない。
 書紀はそのために、服装を自ら整え、舞踊の心得があり、新室を祝ぐ韻文を立派に唱え、歌の素養もあり、尊厳ある態度を描き、 これなら小楯が信じただろうという方向に持って行く。
 逆に言えば、こうした粉飾の工夫抜きにはとても成立し得ない筋書きなのである。 こうして見ると、記の「二口・二柱」は、記が一度成立した後に、書紀の粉飾の流れに同調して書き足されたものかも知れない。
 ただいくら表現を工夫しても、そもそも基本的な筋書きそのものが非現実的なのである。 「皇太子がいなくて困っていたが、たまたま履中天皇の孫が発見された。 この際、天皇を継がせよう」という成り行き任せの決め方など、あり得ないだろう。
 よって、<wikipedia>も「典型的な貴種流離譚」として懐疑的な見方があることを述べる。 ただ、押部という地名、四宮の言い伝え、顕宗仁賢神社の維持の出発点を、全くのフィクションとすることは無理がある。 記紀の記述さえも、原文の若干のクリーニングのみで、現実的な物語が見えてくるのである。

【脚色部分のクリーニング】
 〈姓氏家系大辞典〉は、「細目は二小子の正体を知らなかった」部分までもフィクションであるとするが、 ここではその部分については、記紀を信じることにする。 また、その時の統治者については記の飯豊女王説に従ってストーリーを組み立ててみよう。
――飯豊女王は、二王子が播磨国美嚢郡に逃げ込んだことは知っていたが、その後行方不明になった。 しかし、女王は血筋のよい市辺之忍歯王の子に天位を継承させたいと考え、 国司小楯には、二王子についての情報を得たら直ちに報告を上げるように指示してあった。
 小楯による発見の経過は、誇張はあるが大筋において物語の通りであったとする。 ただし、小楯を驚愕させたのは、偶然尊いお方が見つかったことではなく、捜していたお方に遂に巡り合ったことによるのである。 また、王子を継嗣にするのは小楯の思い付きではなく、 あくまでも、飯豊女王が予め決めたことである。
――これだけで、随分現実感のある筋書きになる。
《姨飯豊王》
 はじめに「」は誤りであろうとしたが、ここで試しに、正しい意味〔母の姉妹〕によるものと仮定してみる。 すると、飯豊郎女は荑媛の姉または妹である。 この仮定による系図をに示す。これを眺めると、飯豊郎女は葦田宿祢、黒媛、蟻臣と共に葛城氏族の有力者として並び、 また忍海氏族は葛城氏族の構成員であったことになる。
 更に星川稚宮皇子を滅ぼした時点まで遡ると、背景に葛城氏族と吉備氏族の対立があったことが鮮明になる。 星川皇子は大蔵の司に上るほど有能であったが、吉備臣の支配下にあったから、 葛城氏族がこれを滅ぼし、白髪皇子を傀儡(かいらい)として葛城忍海族の飯豊郎女が実権を握ったのである。
 ところが、白髪皇子が夭折したので止むを得ず、臨時の執政〔記:継所知之王、書紀:臨朝秉政〕に就任する。 だが、当時の氏族連合国家では、神皇産霊尊由来の血統を継ぐ者を皇位に据えなければならない 〔「大王持ち回り制(清寧即位前(二)まとめ)」で論じた〕。 さもなければ諸族に袋叩きにされてすぐに滅ぼされるであろう。 だから、どこかに匿われているはずの忍歯王の王子を皇位に据えるために、その発見を急いだ。
 そこに二王子発見の一報が入り、飯豊郎女を始めとする一同は色めき立ち、喜びが湧き上がったのである。
《血縁関係の書き換え》
 ここで、継所知之王臨朝秉政を担う人物に、皇統と無縁の郎女では相応しくないので、 忍歯王との血縁関係を装う操作が行われたと考えてみる。
 あるいは、記には皇位に上らせようとした形跡が見られるように (第212回)、 一時は天皇に位置づける方針が立てられ、それに伴って系図を書き換え、それが残ったのかも知れない。
 だがその操作は中途半端に終わり、忍歯王の妹・第一子・第四子の三説が記紀に並立して残る結果となった。 そして元々は「忍歯王妃の荑媛の姉妹」であった痕跡がただ一か所、「」の文字に残ったのである。

まとめ
 「姨」がもつ本来の意味「母の姉妹」を優先させると、不思議なことに清寧天皇段・紀で生じた疑問が次々と晴れ、 実像がクリアに見えてくるのである。 そして、忍海族を含む葛城系氏族が閨閥となって、履中天皇系列の王朝を復活させようとしていたことが鮮明になる。 その司令塔が飯豊女王で、顕宗帝即位までは事実上の「飯豊天皇」であった。 しかし、本人の意識としてはあくまでも「臨朝秉政」であったことだろう。