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[213] 下つ巻(清寧天皇3) |
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2019.01.09(wed) [214] 下つ巻(清寧天皇4) ▼▲ |
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![]() 次弟將儛時 爲詠曰 爾(ここに)遂(つひ)に兄(このかみ)儛(ま)ひ訖(を)へて 次(つぎて)弟(おと)[将]儛(まひ)せむとせし時、 為詠(うたひてありて)曰はく。 物部之我夫子之 取佩於大刀之手上 丹畫著其緖者 載赤幡 物部(もののふ)之(の)我夫子(わがせこ)之(が) 取り佩(は)かす[於]大刀(たち)之(の)手上(たがみ)に 丹(に)画(か)き著(つ)ける其の緖(を)に者(は) 赤幡(あかはた)載(の)せり 立赤幡見者 五十隱山三尾之竹矣 訶岐【此二字以音】苅 末押縻魚簀 如調八絃琴所治賜天下 伊邪本和氣天皇之御子 市邊之押齒王之奴末 立つる赤幡見(み)れ者(ば) 五十(い)隠(かく)りぬる山の三尾(みを)之(の)竹矣(を) 訶(か)岐(き)【此の二字(ふたじ)音を以(もち)ゐる】刈(き)り 末(すゑ)押縻魚簀(おしなびきなす) 八絃琴(やをのこと)調(ととのふる)如(ごと)天下(あめのした)所治賜(をさめたまへる) 伊邪本和気天皇(いざほわけのすめらみこと)之(が)御子(みこ) 市辺之押歯王(いちへのおしはのみこ)之(が)奴(やつこらま)末(あなすゑ)。 遂に兄が舞い、舞い終えて 次に弟が舞おうとするときに、 まず詠唱しました。 ――〔物部(もののべ)の〕勇士の私の愛しい夫が、 佩刀した太刀の束(つか)に、 丹染めして着けたその紐とともに、 赤幡(あかはた)を掲げた。 林立する赤幡を見て 隠れた、その山の尾根の竹を 刈りとられ、 遂に靡かさせられたが、 八弦琴を整えるように天下をお治めになった 伊邪本和気天皇(いざほわけのすめらみこと)の御子、 市辺之押歯王(いちへのおしはのみこ)の、私こそが子孫である。 まひ…[自]ハ四 活用については、「第203回【為舞】」参照。 為…[動] たり。~となっている。(古訓) たり。 たり…[助動] 完了。〈時代別上代〉「この助動詞は記紀にはまだ用例がなく、万葉にも、〔中略〕なおテアルの形の用例が見える。」 物部…万葉集では、「物部」はすべて「もののふ」と訓まれる。 (万)0948 物部乃 八十友能壮者 もののふの やそとものをは。 (万)4266 毛能乃布能 八十伴雄能 もののふの やそとものをの。 たかみ(手上)…[名] 刀のつか。 かきつく…[他]カ下二 色を塗りつける。摺りつける。(万)1344 菅根乎 衣尓書付 すがのねを きぬにかきつけ。 調…①[動] ととのえる。 ②[名] 音楽において調和する音の流れ。〈汉典〉調:(其他字義) (1)楽曲。楽譜。(2)楽曲定音的基調或音階:C大調〔=ハ長調〕。 しらべ…[名] (中古語) 音律。演奏。「律の調べは女のものやはらかに掻き鳴らして」(源氏物語/帚木)。 しらぶ…[他]バ下二 〈古典基礎語辞典〉原義は、楽器の弦の末端を合わせて、音調を整える意。 ここから演奏する意が生じる。 刈…[動] (古訓) かる。きる。 つまひく…[自]カ四 爪ではじく。(万)4214 梓弓 弦爪夜音之 遠音尓毛 聞者悲弥 あづさゆみ つまびくよおとの とほおとにも きけばかなしみ〔梓弓は枕詞〕。 縻…[名] 牛の鼻綱。つなぐひも。[動] しばる。つなぐ。ちらばる(「靡」にあてた用法)。(古訓) つなく。 靡…[動] なびく。外からの力にしたがう。はでである。(古訓) なひく。したかふ。うるはし。 なぶ…[他]バ下二 なびかせる。押し伏せる。 おしなぶ…[他]バ下二 おしなびかせる。おしふせる。 なびく…[自]カ四 靡く。
「訶岐」分注は一般には「此二字以音」だが、真福寺本は「三字」である。 三字だとすると「矣」からとなるが、記の他の個所で「矣」に「以音」を注記することはない。 「矣」は、万葉集では対格の格助詞「を」として用いられ、記でも同様の例は多い。したがって「二字」の誤写であろう。 ただ、後述するように「訶岐」の前に「本」が脱落していた可能性があるので、 「モト」に相当する一音節の語が音仮名表記されていたことも考え得る。 しかし、「スヱ」と対になり「モト」に置き換え得る一音節の語を見出すのは難しい。 【我夫子】 わがせこは女性が身近な男性を親しんで呼ぶ言葉で、万葉に多用される。 〈時代別上代〉によれば、母から子、姉から弟、男から男への例もある。 万葉集では「(万)0247 和我世故我 わがせこが」など音仮名表記も多く、 漢字表記では「0268 吾背子」が圧倒的だが、 「1426 吾勢子」「1822 吾瀬子」「2276 吾世古」「2938 我兄子」などの表記もある。 「我夫子」という表記は万葉にはないが「夫」は「兄」に通ずるから、これも「わがせこ」であろう。 「ワガセコ」という言葉から歌い始めの作者は女性に思えるが、 締めくくりの言葉は袁祁王自身である。だから、どこかで言葉の主が交代する。 もし「末押縻魚簀」までが女性の言葉だとすれば、 攻める側の雄略天皇に親しみをもち、山に身を隠した二王子にも同情する女性ということになる。 とすれば、市辺押羽皇子の妻黒媛、雄略天皇の妻韓媛がともに葛城氏族出身であることが注目される。 【押縻魚簀】 〈時代別上代〉は、「す(簀)」の項で、「末押し靡ぶる魚簀」という訓を示す。 《押縻》 漢籍において「縻」が「靡」に通用するのは、「ちらす」の意味で用いる場合のみである。 しかし動詞「なぶ」はほとんど「おしなぶ」として用いることから、 「押縻」が「おしなぶ」 〔他動詞〕である可能性はある〔書紀の対応箇所の歌謡によって、この解釈は確定する; 後述〕。 《魚簀》 〈時代別上代〉は、「「魚簀」を訓仮名として如スの表記に用いている」と述べる。 この解釈は、宣長が提唱したものである。その『古事記伝略』は「魚簀」について、 「〔賀茂真淵が言うような〕前後の字の脱落」はないと述べた上で、 「強て解ば此二字をば、如くの意の那須の借字」 であると述べる。 《魚の借訓》 熟語「魚簀」は〈汉典〉〈中国哲学書電子化計画〉には見いだせない。 〈百度百科〉で一件ヒットしたが、それは古事記を引用した日本の文章であった。 このように「魚簀」が漢熟語として存在しないことは、訓仮名である可能性を高める。 そこで、万葉集から訓仮名の「魚」を拾い出してみよう。 ・(万)0509 魚津左比去者 なづさひゆけば〔「なづさふ」は水に浮かび漂う意味〕。 ・(万)2190 吉魚張能 浪柴乃野之 よなばりの なみしばののの〔「よなばり(吉隠)は地名〕。 ・(万)2798 伊勢乃白水郎之 朝魚夕菜尓 潜云 いせのあまの あさなゆふなに かづくとふ〔副詞「あさなゆふなに」の語源を反映したものとも言える〕。 ・(万)3295 夏草乎 腰尓魚積 なつくさを こしになづみ〔「なづむ」は足腰に障害物が邪魔して進みにくいこと〕。 これだけあれば、「魚」が訓仮名「な」に用いられるのは一般的と言ってよいだろう。 《簀の借訓》 さらに訓仮名としての「簀」を見る。 ・(万)1176 鳥者簀竹跡 君者音文不為 とりはすだけど きみはおともせず〔すだく…多数群がる〕。 ・(万)3295 如何有哉 人子故曽 通簀文吾子 いかなるや ひとのこゆゑぞ かよはすもあご〔どのような人ですか。あなたが通うのは〕。〔「かよわ-す」は軽い尊敬の意を添える動詞語尾〕 以上の二例があるので、これも訓仮名として使われ得る文字であると言える。 こられの例を見れば、宣長の見通しは正しかったと言える。 《語釈》 「なす」は「成す」、即ち「作る」の意味で、ここでは自動詞の「靡(な)ぶ」〔自らなびく〕ことを強いる使役動詞と見るべきであろう。 意祁・袁祁兄弟の立場でいえば、なびかせられたという意味になる。 《書紀との比較》 「伐本截末」(書紀)は、「訶岐苅末押縻魚簀」(記)を「本:訶岐苅」、「末:押縻魚簀」と解釈した結果と見られる。 宣長が「訶岐苅」の前に「本」を補ったのは、書紀と同じ発想である。 【調八絃琴】 〈古典基礎語辞典〉(大野晋)によると、「しらぶ」は弦楽器の調弦を原意として演奏の意味に転化し、「『源氏物語』では、すべて琵琶・琴などの楽器についていい、 調律する意が多く、残りは、演奏する意である」という。 そして、「現代語に多い、〔中略〕吟味・調査の意は〔中略〕中世末からの用法である」とする。 すると「調八絃琴」の"調"の訓読は「しらぶ」が自然であるが、〈上代語辞典〉の見出し語に「しらぶ」「しらべ」は収められていない。つまり、上代〔飛鳥・奈良〕の文献には見いだされないのである。 実際には使われていたのかも知れないが、「しらぶ」がどこまで遡るかは、不明である。 一方、「ととのふ」は万葉集に複数ある。その一つ、 「(万)4254 吾皇乃 天下 治賜者 物乃布能 八十友之雄乎 撫賜 等登能倍賜 わがおほきみの あめのした をさめたまへば もののふの やそとものをを なでたまひ ととのへたまひ」 は注目される。 この歌は韻文の「如調八絃琴所治賜天下」と類似している。 即ち「調八絃琴」とは、「もののふ(武人)の八十とものを(伴緒)を撫でたまひ、整へたまふ」を琴の調弦・演奏で譬えたものである。 以上から、「調八絃琴」は「八絃(やを)の琴をととのへ(たまひ)」と訓めば確実であろう。 【顕宗天皇紀-4】 顕宗4目次 《億計王起儛既了》
天皇(すめらみこと)〔=弘計王〕次に起(た)ちて、 自(みづから)衣(きぬ)帯(おび)を整(ととの)へて、 室寿(むろほき)の為(ため)に誦(よ)みまつりて曰はく。
築立つる柱(はしら)者(は)、此(こ)の家長(いへをさ)の御心(みこころ)之(の)鎮(しづめ)にあり[也]。 取(とり)挙(あ)ぐる棟梁(むね)者(は)、此の家長の御心之(の)林(はやし)にあり[也]。 取置ける椽橑(はへき)者、此の家長の御心之(の)斉(ととのへ)にあり[也]。 取置ける蘆萑(えつり)者、此の家長の御心之(の)平(たひらげ)にあり[也]。 【蘆萑、此哀都利(えつり)と云ふ。「萑」の音(こゑ)之(し)潤(じゆむ)反(はむ)。】 取結(むす)ぶ縄葛(なはかづら)者(は)、此の家長の御寿(みいのち)之(の)堅(かため)にあり[也]。 取葺(ふ)く草葉(かや)者、此の家長の御富(みとみ)之(の)余(あまし)にあり[也]。
[於]浅甕(さらけ)に醸(か)む酒(みき)、美(うまら)にを飲喫(のら)ふ哉(かわ)。 【美飲喫哉、 此を于魔羅儞烏野羅甫屢柯倭(うまらにをのらふるかわ)と云ふ。】 吾子(わがこ)等(たち)、 【子者、男子(をのこご)之(の)通(とほれる)称(なづけ)也(なり)。】 脚日木(あしひき乙)の此の傍(そひ)の山、牡鹿(さをしか)之(が)角(つの)も 【牡鹿、此を左鳥子加(さをしか)と云ふ。】 挙(こぞ)りて[而]、 吾(わが)儛(まひ)者(は)、旨(うま)酒(さけ)餌香市(ゑがのいち)に直(あたひ)を以ちて不買(かはず)、 手掌(たなそこ)も憀亮(やらら)に 【手掌憀亮、此を陀那則挙謀耶羅々儞(たなそこもやららに)と云ふ。】 拍上(うちあ)げ賜(たま)へ、吾(わが)常世(とこよ)等(たち)。
呵簸泝比野儺擬(かはそひやなぎ) 寐逗喩凱麼(みづゆけば) 儺弭企於巳陀智(なびきおきたち) 曽能泥播宇世儒(そのねはうせず)
「可怜(うまし)なり、願はくは復(また)[之]聞かしめたまへ。」といひて、 天皇(すめらみこと)、遂(つひ)に殊儛(たつつまひ)を作(な)したまひて 【殊儛、古(いにしへ)に之(これ)立出儛と謂ふ。 「立出」、此(これ)陀豆々(たつつ)と云へり。 儛(まひ)の状(すがた)者(は)、乍(あるは)起(た)ち乍(あるは)居(を)りて[而][之]儛(まひ)す。】、 [之]誥(つ)げたまひて曰(のたま)へらく。
浅茅原(あさぢはら)弟日(おとひ) 僕(やつこ)是(これ)也(なり)」
天皇[之を]誥(つ)げたまひて曰(のたま)ひしく。
【榲、此(こ)を須擬(すぎ)と云ふ。】 本(もと)伐(き)り末(すゑ)截(おしはら)ひ 【「伐本截末」、 此を謨登岐利須衞於茲婆羅比(もときりすゑおしはらひ)と云ふ。】 [於]市辺宮(いちへのみやにいまして)天下を治(をさ)めたまへる 天万国万押磐尊(あめよろづくによろづおしはのみこと)の御裔(みあなすえ) 僕(やつこらま)是(これ)にあり[也]。」とのたまひき。 《長御心之鎮也》 〈釈紀-歌〉は鎮を「しづまり」、斉を「ととのほり」として、自動詞の連用形名詞としている。 この訓読は、家の各部分に家長の心持を投影して褒めたと解釈したものである。 しかし、他動詞の「しづめ」「ととのへ」を用いて、家長が家を建てた行為に対して称讃したと訓むことも可能である。 どちらも可能であるが、ここで「林」に注目してみる。 林は釈訓により「栄やし」を表しているのであろう。 「はやす」は他動詞である〔自動詞は「はやる」〕。 これを基準にして、すべての訓読を他動詞に揃えることが考えられる。 ここで問題になるのは、「ととのふ」「たひらぐ」の連用形(ととのへ、たひらげ)に〈時代別上代〉は名詞としての見出し語を立てていないことである。 よって上代語の範疇においては、連用形名詞にすることには違和感があるかも知れない。 そこで、「也」〔漢文においては文末に置く語気詞〕を訓読して生じた「なり」〔和文においては繋辞〕を、 元々の形「に-あり」に戻す。 すると「連用形+動詞」に接続助詞「に」を挿入する形になり、名詞化の印象を緩和することができる。 《節歌》 「伊儺武斯蘆…」は、文字数五七五七七の短歌になっている。古くは今様が、現代において演歌が基本的に七五調であるのは、メロディーをつけ易い詩形だからである。 万葉歌がメロディーを付けて歌われていたのは、確実である。 よってここでいう「節歌」は、朗読形式の「室寿」と対比して、メロディーのある歌〔後の時代の今様の類〕であろう。 民謡が手拍子を誘うのは拍節があるからで、音楽における拍節構造を竹の節に準えて「ふし」というのである。リズム要素から拡張して、旋律自体も「ふし」と言う。 これは人が旧石器時代から本質的に備えていた感覚だと考えられ、よって歌における漢字の「節」が上代にも「ふし」と訓まれたのは確実である。 旋律歌には琴が伴奏しただろうから、釈紀による「琴の音合はせ」なる訓読も妥当だが、古くからあったと思われる「ふし」という語を生かしたいものである。 《彼彼原》 彼は、中称代名詞そ、三人称代名詞かに使われる。 (万)「0319 彼山之 そのやまの」「0337 其彼母毛 それそのははも」 「0674 彼此兼手 をちこちかねて」「1809 此方彼方二 このもかのもに」などの用例がある。 〈時代別上代〉は、①オノマトペとしての訓仮名の「ソソ」、②中称代名詞「ソ」を重ねたとする二説を併記している。 〈釈紀-義〉は、 「兼方案之。「彼々」者其所也。「茅原」以下処名也。」〔兼方案ずるに、「彼々」は「その所」なり。茅原以下、処(ところ)の名なり。〕と述べる。 この言葉は小楯が弟の言葉の意味が理解できずに聞き直す文脈中にある。 とすれば、ごく曖昧な言葉を発したと理解すべきであろう。 となれば「彼彼原浅茅原」は一つの塊で、「そのその原、浅茅(低い草)の原」と口走ったと読める。 「浅茅原」も特定の地名ではなく、単に「草叢の原」程度の意味であろう。 こうしてわざわざ意味不明な言葉を発し、聞きなおすように仕向けた。 言わば、「失われぬ柳の根」を第一ヒント、「弟日」により兄弟でいることを示したのを第二ヒントとして謎掛けしたのである。 狙い通り聞き返され、弘計王は遂に堂々と宣言し、それを聞いた小楯は驚きの余りひっくり返った〔記による〕のであった。 《釈紀による解釈》 「於市辺宮治天下」は、明らかに押磐皇子を天皇として扱う言葉である。 播磨国風土記は、あからさまに「坐市辺之天皇」と書く。 釈紀がこれをどう解釈するかは、注目されるところである。 〈釈紀〉は、巻二十六「和歌四」は、 「小楯謂之曰可怜願復聞之」から「御裔僕是也」までの部分を、「云云」としてすっぽり省略している。 ただ、この部分について、巻十二「述義八」の方で詳しく解説している。 〈釈紀-義〉の見解で目を惹くのは、次の諸点である。 ◎手掌 ――手掌不レ買二於此辺一。言不レ可二忍惜一也。 〔手掌、この辺りで買はず。忍惜すべからずを言う。 =「手掌」して近所で安い酒を買うな、忍ばず惜しまずに餌香市で高い酒を買え〕。 「たなそこ」を「安易に妥協する〔言わば"手打ち"〕」意味に解釈するのは、個性的である。 ◎拍上賜吾常世等 ――兼方案之。「拍上賜」者、飲酒之儀也。「常世等」者、皆人寿考之儀也。 凡此儛之御辞也。先寄二于新室一、称二-讃主人一。次以レ直雖不レ買レ之。彼旨酒湛々也。衆人飲酔。呼二万歳一之意歟。 〔兼方之を案ずるに、「拍上賜」は飲酒の儀〔=作法〕なり。「常世等」は皆人寿考〔=長寿〕の儀なり。 凡そこれ舞の御辞なり。先ず新室に寄せ主人を称讃す。次に直(あたひ)を以て之を買はざれど、 彼の旨酒湛々なり〔対価をもって買わなくても、旨酒はたっぷりある〕。〔以下略〕〕 ◎石上振之神伐レ本截レ末。於市辺宮治二天下一天万国万押磐尊御裔僕是也。 ――兼方案之。〔中略〕 「市辺宮治天下」者、顕宗仁賢帝之父、磐坂市辺押磐尊(履中天皇皇子)也。 「天万国万」者、祝言也。 〔「市辺宮に天下を治む」は、顕宗・仁賢帝の父、磐坂市辺押磐尊(履中天皇の皇子)なり。 「天万国万」は祝い言なり〕 「天下を治む」については、さらりと通過しているが、「尊」の文字を使っていることと、 播磨国風土記を見れば、「治天下;天皇」問題を避けては通れないはずである。 《石上振之神榲》 石上は物部氏の本拠である。これは記の韻文の「物部」に通じ、やはり物部氏に支援された雄略帝を暗示すると見られる。 その地の神杉を伐採して市辺宮で天下を治めるというのであるから、穏やかではない。 書紀はさらに押磐皇子を「尊」と呼び、 また市辺宮で即位したとするから雄略派への敵対心が露骨に現れている。 思うに、この韻文には原形が伝えられていたと想像され、原形に近いのは書紀の方だと思われる。 記はむしろ押歯「天皇」になることを避けるために、 元々繋がっていた「所治賜天下」と「市辺之押歯王」の間に「伊邪本和氣天皇之御子」を挿入し、 また「五十隠山」を挿入することによって、山林伐採の実行者を雄略側に移す配慮を見せている。 原形の韻文のが秘める危険性については記の方がよく承知していて、書紀は処置を誤ったことになる。ただ、さらに特別な意図があれば話は別である(まとめ参照)。 《歌意》
つまりは、一度水に浸かって弄ばれてても立ち直り根は失われないことに、難を避けて辺境に住むが決して挫けない自らの境遇を重ね合わせる。 この解釈は、しごく妥当なものと言えよう。 なお、この歌の「儺弭企(なびき)」という語によって、記の「押縻」が「おしなびき」と訓み、 さらには「末押縻魚簀」が「遂に追いやられた」意味であることが確実になる(前述)。 《大意》 億計王(おけのみこ)は立って舞い終え、 次に天皇(すめらみこと)〔=弘計王〕が立ち、 自ら衣帯(いたい)を整え、 室祝ぎ(むろほぎ)のために吟じました。 ――築(つ)き立てたる稚室(わかむろ)の葛根(かづらね)、 築き立てたる柱は、この家長(いえおさ)の御心の鎮めなり。 取り挙げたる棟梁(むね)は、この家長の御心の栄(はや)しなり。 取り置きたる垂木(たるき)は、この家長の御心の斉(ととの)えなり。 取り置きたる葺板は、この家長の御心之の平(たいら)げなり。 取り結びたる縄葛(なわかずら)は、この家長の御命の堅(かた)めなり。 取り葺きたる茅(かや)は、この家長のみ富の余りなり。 出雲は新墾(にいはり)〔=新田〕、新墾の十握(とつか)の稲、 浅器(あさうつわ)に醸(かも)す御酒(みき)、美(うま)らにや飲み干すかな。 わが子たち、 足曳きのその傍(はた)の山の牡鹿(さおしか)の角も 挙(こぞ)って、 我が舞は、旨酒(うまさけ)を餌香(えが)市に対価をもって買わず、 掌を合わせ鳴らし、 拍(う)ち上げ賜え、わが〔皆の〕常世(とこよ)たちよ。 このように祝ぎ終えて、続いて節(ふし)の歌に移り、こう歌いました。 ――稲蓆(いなむしろ) 川沿ひ柳 水往けば 靡(なび)き起き立ち その根は失せず 小楯は、 「なかなかよい。もっと聞かせてくれないか。」と語り、 天皇は、遂に殊舞(たつつまい)を演じ、 【「殊舞」は古くは立出舞と言い 「立出」は「たつつ」と訓む。 舞い方は、起ったり座ったりして舞う。】、 「倭(やまと)は、そのその茅原(ちはら)、 浅茅(あさじ)原の弟、 それが私である。」 と告げました。小楯はこの言葉によって、奇異な思いを深め、 さらに唱えさせました。 天皇は、 「石上(いそのかみ)振(ふる)の神榲(かみすぎ)、 元を伐(き)り、末を掃い、 市辺(いちのへ)の宮にて天下を治められた 天万国万押磐尊(あめよろずくによろずおしわのみこと)の末裔、 それが私である。」と告げられました。 【播磨国風土記】 『播磨国風土記』の美嚢郡の項に類話がある。
青垣山は大和平野を囲む垣を意味し、大和=倭は古墳時代から奈良時代まで首都であった。 第二歌は、市辺押盤皇子が淡海から倭にやってきて、市辺の宮で天下を治めたと読める。 【市辺押盤天皇即位論】 《伝承の地域性》 「市辺天皇」は播磨国風土記だけに出てくるから、播磨国における局地的伝承である。 そこには、押盤皇子を推す勢力が播磨国にいたことが考えられる。 前回のまとめで、忍海氏族に由来すると思われる明石郡の「押部(オシンベ)谷」に注目した。 押盤皇子の親族である飯豊女王が「忍海」を冠しているのを見ると、 忍海氏族が忍海郡、明石郡に分布していて、押盤皇子の一族を押し立てていた。 それが、押盤皇子を押し上げる表現に繋がったと考えることもできる。 《書紀による言及》 「市辺押盤天皇」を検証すると、 当然のことながら、その天皇即位を直接描く記事は記紀には一切載らない。 しかし、即位前紀-安康三年十月(雄略天皇4)に 「穴穂天皇曽欲下以二市辺押磐皇子一伝レ国而遙付二上-嘱後事一」 〔穴穂天皇、曽(かつ)て欲(ねがはく)は市辺押磐皇子を以て国を伝へて遥かに後の事を付嘱(ゆだ)ねむとおもほしき〕 と述べ、一度は事実上の皇太子に指名されている。 ただ、顕宗天皇即位の正当性を強調する意図をもって、遡ってこれを書き加えたという考え方もできる。 《記における表現》 記で気になるのは、安康天皇段の次の記述である (第196回)。
しかし、通常天皇や皇太子に限定される御馬や詔を忍歯王に用いること自体が、心をざわつかせる。 逆に、黒彦を責める大長谷王子には「詔」を用いず、「曰」のままである (第194回)。 これらは、古事記が一度は「忍歯命坐市辺宮治天下」と書いたことを示すものではないか。 即ち記が雄略天皇段の執筆したとき、当初は「忍歯王が即位したが、大長谷王が実力によってその地位を奪い取った」なる筋書きを主張する説が存在し、 一度はそれを採用した。忍歯王を主語とする文には当然「御」や「詔」が用いられた。 ところが、その後の検討により「所治天下忍歯王」は抹消されて現在の形にはなったが、元の文中にあった表現が痕跡として残った可能性がある。 仮に天皇に即位しなかったとしても、少なくとも皇太子として大長谷王よりはるかに高い地位にあったことは確かであろうと思われる。 《史実としての問題》 それでは史実として、「忍歯天皇」は存在したのであろうか。 そもそも「天皇」号の創出は、天武帝の頃と考えられている。金錯銘鉄剣では「獲加多支鹵(わかたける)大王」 (第198回)だから、「大王」の表記は古くから存在した。 万葉集おいて大王=オホキミは、「(万)3480 於保伎美 おほきみ」などにより確定しているが、 恐らく金錯銘鉄剣の時代からオホキミと発音されたであろう。 だから、史実として問題にする場合は「忍歯天皇」ではなく、「オシハオホキミ」の実在の有無である。 また、そのオホキミが日本列島の全土(南九州以南と東北以北を除く)を統一的に統治する存在であったかどうかも、考えなければならない。 その点に関しては、これまでしばしば言及してきたように、5世紀当時の大君の統治範囲は薩摩・大隅を除く九州から関東までと考えられる。 また、代替わりに当たっては諸族間の武力紛争もあったが、決着がつけば大王に服属する習慣になっていた (清寧即位前紀(二)まとめ)。 従って、有力氏族の連合体ではあるが、統一国家ヤマトの構成員としての意識は諸族に定着していたと思われる。 だからこそ、南朝宋や梁も「倭王」を列島全体の王と認めて外交関係が成立していたと見られる (倭の五王)。 《実在の可能性》 しかし、宋書・梁書に挙げられた「倭の五王」を見ると、「興」と「武」の間に倭王は見えない。 もし「忍歯天皇」を入れるとすれば、「賛子○立」などとなろう。 だから、仮に忍歯王が大王となった時期があったとしても、ごく短い期間であろう。 まとめ 『播磨国風土記』の言う「市辺押盤天皇」は、宋書・梁書を見る限りが存在した可能性は低い。 ただ、雄略即位前紀に安康天皇が後継者に指名したと書かれているのが、案外最も当を得ているかも知れない。 記の敬語表現も併せて考えると、ほぼ皇太子の地位を確定していたように思われる。 それでは、一部に見られる「天皇」の表現はどのようにして生じたのか。 基本的には播磨国に市辺押盤皇子の一族を強く支える勢力がいて、彼らの間に天皇〔史実としては大王〕寸前まで至ったことを惜しむ気持ちが昂じた故であろう。 ここで想起されるのが、壬申の乱で敗れた大友皇子が、 明治になってから「弘文天皇」を追諡されたことである。 さまざまな学説があったようだが、 根底には即位寸前で乱で敗れた皇子を遡って天皇に列したいという感情が必然的に高まる現象があり、 これは法則と言ってよいであろう。 記紀編纂期においても、市辺押盤尊に追諡すべきという議論があり、 『播磨国風土記』はそれを認め、 記紀の記述の一部にも反映したのではないかと思われる。 このように考えると皇太子止まりだったと見るのが無難だが、それでもなお、 ごく短い期間に大王としての実権を握った可能性が皆無ではないかも知れない。 |
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2019.01.14(mon) [215] 下つ巻(清寧天皇5) ▼▲ |
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![]() 自床墮轉而 追出其室人等 其二柱王子坐左右膝上泣悲 爾(ここに)即(すなはち)小楯連(をたてのむらじ)聞きまつりて驚きて[而] 床(あぐら)自(よ)り墮(お)ち転(まろ)びて[而] 其の室(むろ)の人等(たち)を追出(おひだ)して 其の二柱(ふたはしら)の王子(みこ)左(ひだり)右(みぎ)の膝(ひざ)の上(へ)に坐(す)ゑまつりて、泣き悲しびき。 而集人民作假宮 坐置其假宮而 貢上驛使 於是其姨飯豐王聞歡而 令上於宮 而(しかるがゆゑに)人民(たみ)を集めて仮宮(かりみや)を作りて、 其の仮宮に坐置(すゑお)きまつりて[而]、 駅使(はゆまつかひ)を貢(たてまつ)り上げき。 於是(ここに)其の姨(をば)飯豊王(いひとよのおほきみ)聞こして歓(よろこ)びたまひて[而] [於]宮(みや)に上(のぼ)ら令(し)めたまひき。 そして、小楯連(おたてのむらじ)はこれを聞いて驚き、 台座から転げ落ち、 新室に集っていた人たちを追い出して、 その二人の王子(みこ)左右の膝の上に坐らせ、泣き悲しみました。 こうして人民を集めて仮宮を作らせ、 その仮宮にお住まいいただき、 早馬の使者を送りました。 そして叔母の飯豊王(いいとよのおおきみ)は聞かれてお喜びになり、 宮殿〔角刺宮〕に上らせました。 とこ(床)…[名] 寝床。 あぐら(胡坐)…[名] ① 高く設けた広い座席。② 椅子。 はゆま…[名] 早馬 (第111回【駅使】)。 をば…[名] 父母の姉妹。〈倭名類聚抄〉「母之姉妹曰二従母一【母方乃乎波】。〔母方のをば〕」。 姨…[名] 〈倭名類聚抄〉「姨:唐韻音夷〔音イ〕。母之姉妹也。」 姑…[名] 〈倭名類聚抄〉「父之姉妹為レ姑。」 【真福寺本】
二口〔奴婢の助数詞〕と二柱〔王子の助数詞〕を対置すれば、気の利いた表現になるのは確かである。 しかし最初はそうなっておらず、A系統の写本で「等」を「二口」と読み、更に「二柱王子」を加えたとする。 そして真福寺本につながる系統は、A系統に影響されて「二柱王子」を分注の形で取り入れたという経過が想像できる。 【泣悲】 形容詞「かなし」には「いとしい」意味もあるが、 ここでは二王子を余りに悲惨な目に遭わせたことを思い、悔む感情を表現したと思われる。 【姨】 姨は母の姉妹を意味する。 耳で聞くだけなら「ヲバ」だからそれでよいのだが、 漢字については飯豊女王は王子から見て父の妹だから、「姨」は誤用で、 「姑※」でなくてはならない。※…"しゅうとめ"の外に父の姉妹の意味がある。 序文を読めば著者の漢字能力は高いから、この程度の誤りは不審に思える。 これが誤りだとすれば、次のケースが考えられる。 ①著者が漢字の使い分けを知らなかった。 ②誤りだと知りつつ、倭国内で通用している用法に従った。 ③著者は「姑」と書いたが、筆写者が誤写した。 ④この文そのものが後世の書き足しで、それは知識不足の人によって行われた。 実際のところは分からないが、少なくとも④ではあってほしくない。 ただ、先に述べた「二口・二柱」にも後世の書き足しの疑惑が拭いきれないから、これも危ない。 【顕宗天皇紀-5】 顕宗5目次 《小楯大驚離席》
悵然(うらめしく)再拝(ふたたびをろがみ)て、 事(こと)承(うけたまは)りて供給(つかへまつ)りて、属(うがら)を率(ひきゐ)て欽(つつし)みて伏(ふ)しき。 於是(ここに)、悉(ことごとく)郡(こほり)の民(たみ)を発(た)てて宮を造りて、 不日(ひおかずて)権(かり)に奉安置(おきまつ)りき。
白髪天皇(しらかのすめらみこと)、聞こして憙(よろこ)び咨歎(なげ)きて曰(のたま)はく 「朕(われ)子(みこ)無し[也]、以ちて嗣(ひつぎ)に為(な)す可(べ)し。」とのたまひて、
仍(すなはち)播磨国(はりまのくに)の司(みこともち)来目部(くめべ)の小楯をして節(つかひのしるし)を持た使(し)めて、 左右(もとこ)の舎人(とねり)を将(ひきゐ)て、 赤石に至りて奉迎(むかへまつ)らしめき。 《承事供給》 事は「仕える」で、「承-」は尊敬の意を強める。よって「承事」「供給」は両方とも「つかへまつる」となる。 「承事」には「仕事を引き受ける」意味もあるので、「ことをうたたまはり」の訓読して重複を避けることは可能である。 《白髪天皇》 記の清寧天皇段では既に夭折して飯豊女王が執政しているが、書紀では存命である。 《与大臣大連定策禁中》 「与二大臣大連一定レ策二禁中一」の一文は特に必要ないが、 敢て大臣(おほまへつきみ)・大連(おほむらじ)が高いレベルの意思決定に関わっていることを示す。 雄略天皇紀では、室屋大連が事実上最終決定をしている場面が見られる (九年五月条など)。 だから、通常の手続きを書いたものではあるが、 真相は既に在世でない清寧天皇が、形式的に参加した場で物事が決まったことを、暗示しているようにも思われる。 《大意》 小楯(おたて)は、大いに驚いて座席を離れて、 悵(ちょう)然として〔=失礼を恥じて〕二度の礼をし、 承事供給して〔=謹んで仕え〕、一族を率いて欽伏〔=謹んで座礼〕しました。 そして、ことごとく郡民に号令を発して宮殿を造営し、 日を置かず仮にお住まいいただきました。 こうして都に参上し、二人の王子をお迎えしていただくようお願いしました。 白髪天皇(しらかのすめらみこと)は、お聞きになり喜ぎ感嘆されて、 「私には皇子がない。よって継嗣とすべし。」と仰り、 大臣(おおまえつぎみ)、大連(おおむらじ)とともに禁中で策を定められました。 その結果、播磨国司、来目部(くめべ)の小楯を持節使として、 お付きの舎人(とねり)を引き連れて、 赤石に至らせ、奉迎させました。 【仁賢天皇―即位前紀(三)(清寧元年)】 即位前(三)目次 《詣京求迎》
播磨(はりま)の国(くに)の司(みこともち)山部連(やまべのむらじ)の小楯(をたて)、京(みやこ)に詣(まゐで)て迎へたまふことを求めまつりき。 白髮天皇、尋(つぎて)小楯を遣(つかは)して、 節(つかひのしるし)を持たしめて、左右(もとこ)の舎人(とねり)を将(ひきゐ)て、 赤石に至りて奉迎(むかへまつ)らしめたまひき。 《時期の不一致》 「元年冬十一月」は、〈顕宗天皇紀〉及び〈白髪天皇紀〉の「二年十一月」と不一致である。 《尋遣》 「尋遣」は、現代の日本語の感覚では上京した小楯に事情を「尋」ね、その結果派遣を決定したように読める。 確かに「尋問」という熟語はあるが、「尋」(たずねる)の中心的な意味は「探索」である。 ここでは、既に二王子を発見した後に「求迎」されるのを受けて小楯を派遣したのであるから、「たづね」と訓むと時間の順序が逆転してしまう。 よって、ここの「尋」は接続詞「ついで」と解釈すべきである。 《大意》 白髮(しらか)の天皇(すめらみこと)〔清寧天皇〕元年十一月、 播磨の国司、山部連(やまべのむらじ)の小楯(をたて)は京に上り、億計王子たちをお迎えするよう要請しました。 白髮天皇は、引き続き小楯を持節使として遣わし、 小楯は側近の舎人(とねり)を率いて 赤石に至り、奉迎しました。 〔即位前(二)←〕〔→即位前(四)〕 【播磨国風土記】 『播磨国風土記』の美嚢郡の項に類話がある。
少楯(小楯)は〔稚室の宴には同席しておらず〕知らせを聞いて二王子に面会し、都に登り天皇に報告した。 天皇は喜び、感激して二王子を朝廷に召して親しく語らった。 その後、二王子は美嚢郡に帰り、宮を造営してお住みいただいた。その宮が郡内の各地に残り、また屯倉が地名となっている。 〔後に顕宗・仁賢両天皇になったことは、書いていない。〕 《山門領》 「山門」は山のあるところ、あるいは山の入り口を意味である。 よって、山門領は山守(やまもり)を領(をさ)める〔管轄する〕役職〔"やまのつかさ"?〕と見られる。 職業部「山部」は山を管理する専門集団であろうから、小楯はその一員だったこともあって「山門領」に任じられたのであろう。
播磨国風土記に書かれた高野宮・少野宮・川村宮・池野宮という名前は、書紀にも出てくる。 〈仁賢天皇紀〉元年正月条の原注に、「或本云。億計天皇之宮、有二二所一焉。一宮於二川村一、二宮於二縮見高野一、其殿柱至レ今未レ朽。」〔※A〕がある。 また〈顕宗天皇紀〉の元年正月条の原注に、「或本云。弘計天皇之宮有二二所一焉、一宮於二小郊一、二宮於二池野一。」とある。 これらは同じ書式で書かれているから、両者の「或本」は同一の書であろう。 播磨国風土記もその「或本」をソースにしたのかも知れない。ただ、当時は文献に頼るまでもなく、地元では有名な伝説だったかも知れない。 それでは四つの宮は、実際にはどこにあったのだろうか。 《高野郷》 「高野宮」については、〈倭名類聚抄〉に{播磨国・美嚢郡・高野【多加乃】郷}が見える。 〈大日本地名辞書〉は播磨国美嚢郡の項で高野郷について、「今別所村なるへし。平野郷の西にして、郡の西端とす」、 「風土記に「高野里、因体為名〔地形によって名付けられた〕」と録し、仁賢記〔ママ〕注「〔上記※A〕」と曰ふ、亦此ならん。」と述べる。 《御坂神社》 神社の由来を古代天皇・妃・皇子の宮殿跡とする社は多いので、この地域の神社を調べる。 まず、美嚢郡の式内社は「御坂神社」一社である。比定社は「御坂神社」(兵庫県三木市志染町御坂243)。 なお<wikipedia>によると、三木市内には「みさか」神社が他に8か所あるという。 『播磨国風土記』-美嚢郡に、 「志深里。坐二於三坂一神。八戸桂須御諸命。大国主葦原志許国堅以後。自レ天下二於三坂嶺一」 〔志深里:三坂に坐す神は八戸掛須御諸命(やとかけすみもろのみこと)。大国主・葦原志許の国堅めたまひしのち、天(あめ)より三坂嶺に下りたまひき〕 とある。大国主の名が出てくることから見て、顕宗・仁賢帝の四宮造宮よりも古い時代からあったように思われる。 《顕宗仁賢神社》 明石郡に「顕宗仁賢神社」(神戸市西区押部谷町木津569)がある。 兵庫県神社本庁の紹介ページによると、 「通称名:柴垣の宮・木津の宮」、「主祭神:顕宗天皇」、「配祀神:仁賢天皇・大日孁命」。 堂内掲示の「顕宗仁賢神社由来」には、 「この二王子ゆかりの地に仁賢天皇十一年戊寅年九月二十三日勅を受けて創建せられたのが 顕宗仁賢神社」で、 二王子の仮宮が「柴垣宮の起源であり 今も神社の一部に柴垣を編んでその遺風を伝えている」 と書かれる。 なお、仁賢紀には「十一年秋八月庚戌朔丁巳〔八日〕。天皇崩」の記事があるので、 その「勅」があったとしても、時期に疑問がある。 〈延喜式神名帳〉には押谷地域に該当する社はなく、顕宗仁賢神社の実際の創建時期や、いつからこの名で呼ばれたかは不明である。 ただ、所在地が押部谷であることから、もともとは忍海氏の氏神だったと考えるのが一番自然だと思われる。 《押部谷》 〈大日本地名辞書〉によれば、「押部谷:押部と云ふは、忍海辺と云ふと同じく」、 「忍海部:押部の旧唱なるへし、 大同方〔大同類聚方〕に「播磨国明石郡、忍海部保曽目」また 「忍海保楚女大海麻呂」などと載せたり。」という。 『大同類聚方』〔大同三年〔808〕成立の医学書〕に 忍海部保曽目、忍海保楚女〔共にホソメ〕が載ることは、 〈姓氏家系大辞典〉も取り上げている。『大日本地名辞書』上巻は1907年、『姓氏家系大辞典』は1934~1936年の刊行。 これにより、清寧紀二年に 人名としてでてくる「忍海部造細目」は、氏族名として平安初頭に存在していたことになる。 《池野宮》 そして明石郡まで範囲を広げると、江戸時代に「池野村」が存在した。 ・江戸時代:池野村⇒明治元年〔1968〕:上池村に改称⇒町村制〔1989〕:玉津村⇒現在:神戸市西区玉津町上池。 池野村の位置は明石郡の海岸近くで、美嚢郡からは相当離れていることから、これ風土記美嚢郡の項に書かれた「池野宮」かどうか、判断は難しい。 《少野宮・川村宮》 ヲノ・カハムラともに、今まで調べた限りでは江戸時代以後の美嚢郡・明石郡の地名には見いだせない。 「小野」は〈倭名類聚抄〉でも全国の9つの郷にあるように、自然地名としてありふれたものである。 川村は、〈倭名類聚抄〉には{伯耆国・河村【加波無良】郡}{備中国・浅口郡・川村【加波無良】郷}がある。 《三木市の遺跡》 三木市の遺跡調査報告を見ると、三木城に関するものが多い。三木城は、羽柴秀吉による三木合戦〔1578年〕で有名である。 平安時代以前のものについては「大塚出張(ではり)遺跡」(三木市文化研究資料第27集)に住居跡が確認されているぐらいで、 今のところ「宮殿跡」の報告は見つけられない。 以上から、高野宮など四宮の所在地は志染村、或いはその周辺であるのは確実であるが、 現状では位置を特定するのは難しい。 【伝説への考察】 〈姓氏家系大辞典〉の「忍海部造」の項の記述は、注目に値する。曰く。
《筋書きの作為性》 細目が二王子の正体を知らなかった場合、 奴婢が「吾は貴人の子なり」と口にしても所詮は戯言に過ぎず、言い張れば殺されるだろう。 だから、これなら小楯が二小子を貴人だと信じて当然だと、読者が納得するだけのストーリーを作り上げなければならない。 書紀はそのために、服装を自ら整え、舞踊の心得があり、新室を祝ぐ韻文を立派に唱え、歌の素養もあり、尊厳ある態度を描き、 これなら小楯が信じただろうという方向に持って行く。 逆に言えば、こうした粉飾の工夫抜きにはとても成立し得ない筋書きなのである。 こうして見ると、記の「二口・二柱」は、記が一度成立した後に、書紀の粉飾の流れに同調して書き足されたものかも知れない。 ただいくら表現を工夫しても、そもそも基本的な筋書きそのものが非現実的なのである。 「皇太子がいなくて困っていたが、たまたま履中天皇の孫が発見された。 この際、天皇を継がせよう」という成り行き任せの決め方など、あり得ないだろう。 よって、<wikipedia>も「典型的な貴種流離譚」として懐疑的な見方があることを述べる。 ただ、押部という地名、四宮の言い伝え、顕宗仁賢神社の維持の出発点を、全くのフィクションとすることは無理がある。 記紀の記述さえも、原文の若干のクリーニングのみで、現実的な物語が見えてくるのである。 【脚色部分のクリーニング】 〈姓氏家系大辞典〉は、「細目は二小子の正体を知らなかった」部分までもフィクションであるとするが、 ここではその部分については、記紀を信じることにする。 また、その時の統治者については記の飯豊女王説に従ってストーリーを組み立ててみよう。 ――飯豊女王は、二王子が播磨国美嚢郡に逃げ込んだことは知っていたが、その後行方不明になった。 しかし、女王は血筋のよい市辺之忍歯王の子に天位を継承させたいと考え、 国司小楯には、二王子についての情報を得たら直ちに報告を上げるように指示してあった。 小楯による発見の経過は、誇張はあるが大筋において物語の通りであったとする。 ただし、小楯を驚愕させたのは、偶然尊いお方が見つかったことではなく、捜していたお方に遂に巡り合ったことによるのである。 また、王子を継嗣にするのは小楯の思い付きではなく、 あくまでも、飯豊女王が予め決めたことである。 ――これだけで、随分現実感のある筋書きになる。 《姨飯豊王》
更に星川稚宮皇子を滅ぼした時点まで遡ると、背景に葛城氏族と吉備氏族の対立があったことが鮮明になる。 星川皇子は大蔵の司に上るほど有能であったが、吉備臣の支配下にあったから、 葛城氏族がこれを滅ぼし、白髪皇子を傀儡(かいらい)として葛城忍海族の飯豊郎女が実権を握ったのである。 ところが、白髪皇子が夭折したので止むを得ず、臨時の執政〔記:継所知之王、書紀:臨朝秉政〕に就任する。 だが、当時の氏族連合国家では、神皇産霊尊由来の血統を継ぐ者を皇位に据えなければならない 〔「大王持ち回り制(清寧即位前(二)まとめ)」で論じた〕。 さもなければ諸族に袋叩きにされてすぐに滅ぼされるであろう。 だから、どこかに匿われているはずの忍歯王の王子を皇位に据えるために、その発見を急いだ。 そこに二王子発見の一報が入り、飯豊郎女を始めとする一同は色めき立ち、喜びが湧き上がったのである。 《血縁関係の書き換え》 ここで、継所知之王・臨朝秉政を担う人物に、皇統と無縁の郎女では相応しくないので、 忍歯王との血縁関係を装う操作が行われたと考えてみる。 あるいは、記には皇位に上らせようとした形跡が見られるように (第212回)、 一時は天皇に位置づける方針が立てられ、それに伴って系図を書き換え、それが残ったのかも知れない。 だがその操作は中途半端に終わり、忍歯王の妹・第一子・第四子の三説が記紀に並立して残る結果となった。 そして元々は「忍歯王妃の荑媛の姉妹」であった痕跡がただ一か所、「姨」の文字に残ったのである。 まとめ 「姨」がもつ本来の意味「母の姉妹」を優先させると、不思議なことに清寧天皇段・紀で生じた疑問が次々と晴れ、 実像がクリアに見えてくるのである。 そして、忍海族を含む葛城系氏族が閨閥となって、履中天皇系列の王朝を復活させようとしていたことが鮮明になる。 その司令塔が飯豊女王で、顕宗帝即位までは事実上の「飯豊天皇」であった。 しかし、本人の意識としてはあくまでも「臨朝秉政」であったことだろう。 |
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2019.02.01(fri) [216] 下つ巻(清寧天皇6) ▼▲ |
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![]() 平群臣之祖名志毘臣 立于歌垣 取其袁祁命將婚之美人手 其孃子者菟田首等之女名大魚也 爾 袁祁命亦立歌垣 故(かれ)、[将]天下(あめのした)を治(をさ)めたまはむとせし[之]間(ま)、 平群臣(へぐりのおみ)之(の)祖(おや)名は志毘臣(しじのおみ)、[于]歌垣(うたがき)に立ちて、 其の袁祁命(をけのみこと)の[将]婚(よばひ)せむとせし[之]美(よき)人の手を取りき。 其の嬢子(をとめ)者(は)菟田首(うだのおびと)等(たち)之(の)女(むすめ)、名は大魚(おふを)也(なり)。 爾(ここに)袁祁命亦(また)歌垣に立ちたまひて、 於是 志毘臣歌曰 意富美夜能 袁登都波多傳 須美加多夫祁理 於是(ここに)、志毘臣歌(うたよみ)まつらく[曰]。 意富美夜能(おほみやの) 袁登都波多伝(をとつはたて) 須美加多夫祁理(すみかたぶけり) 如此歌而乞其歌末之時 袁祁命歌曰 意富多久美 袁遲那美許曾 須美加多夫祁禮 如此(かく)歌よみまつりて[而]其の歌の末(すゑ)を乞(こ)ひまつりし[之]時、 袁祁命歌(みうたよ)みたまはく[曰] 意富多久美(おほたくみ) 袁遅那美許曽(をぢなみこそ) 須美加多夫祁礼(すみかたぶけり) 爾 志毘臣亦歌曰 意富岐美能 許々呂袁由良美 淤美能古能 夜幣能斯婆加岐 伊理多々受阿理 爾(ここに)、志毘臣亦(また)歌よみまつらく[曰]。 意富岐美能(おほきみの) 許々呂袁由良美(こころをゆらみ) 淤美能古能(おみのこの) 夜幣能斯婆加岐(やへのしばかき) 伊理多々受阿理(いりたたずあり) 於是 王子亦歌曰 斯本勢能 那袁理袁美禮婆 阿蘇毘久流 志毘賀波多傳爾 都麻多弖理美由 於是(ここに)、王子(みこ)亦(また)歌(みうたよ)みたまはく[曰]。 斯本勢能(しほせの) 那袁理袁美礼婆(なをりをみれば) 阿蘇毘久流(あそびくる) 志毘賀波多伝爾(しびがはたてに) 都麻多弖理美由(つまたてりみゆ)
② 真福寺本は「手」。氏庸本は「乎」。 万葉集では「乎」を助詞「ヲ」に用いるが、その場合は和語の語順で「美人乎取」と書き「取二…美人乎一」とは書かない。 漢文では「乎」は疑問・反語・感嘆の語気詞で、置き字とする場合もある。 動詞「取」を受け、書紀の類話(後述)に「執二影媛袖一」があるから、 「…美人之手」の意味であろう。 ③ 多くは「其嬢子」だが、真福寺本は「其娘子」。 ④ すべての「毘」が、異体字「毗」になっている。 ⑤ 「袁祁命」の「祁」が脱落している。 ⑥ 「歌垣」が「歌々垣」。 ⑦ 「富」の異体字「冨」が用いられる。氏庸本も「冨」。 ⑧ 「忿」が「怒」。 ⑨ 「布」が「有」。⑩の件もあるから、誤写であろう。 ⑩ 真福寺本は「意有袁」。このまま読むと「おうを」だが、 嬢子の名前の「大魚」に対応すると見られるから、「意布袁」の誤りであろう。 なお、オフヲは、オホ-ウヲ(大魚)の母音融合。 ⑪ ⑤とともに「袁祁命」から「祁」が脱落。一か所ではないから原形は「袁命」かも知れない。 「二柱」は、真福寺本・氏庸本ともに割注。しかし、一般には普通の文字で書く。 ⑫ 真福寺本は「弖今者」と読め、傍書に「𡖋本ノ言」〔𡖋。御本の言ふ〕。 「𡖋」〔U+2158B〕は「亦」の異体字で、次の「其門」の上にもある。「必寝」の「必」は、 『岩波古典文学大系』によれば、前田本・猪熊本・寛永版本が「亦」、真福寺本・度会延佳鼇頭〔=頭注〕古事記が「必」。 猪熊本系とされる氏庸本も「亦」。 【平群臣】 武内宿祢系氏族。「孝元天皇―比古布都押之信命―建内宿祢―平群都久宿祢」(第108回)。 木菟宿祢が仁徳天皇紀9、 平群臣真鳥が雄略天皇紀に出てきた。 武烈天皇即位前紀には「真鳥大臣男鮪〔しび〕」とあり、鮪は真鳥の子である。 鮪臣は、書紀では武烈天皇即位前のところで殺される。続いて真鳥大臣も殺されるから、 平群臣と忍海氏族とはライバル関係にあり、それが記のこの段の鮪殺害に反映したと見ることができる。 【菟田首】 律令郡成立以前には、宇陀郡は菟田県主の地域であった(第99回【書紀―畿内の平定】)。 〈姓氏家系大辞典〉に「菟田首:弟猾の裔、猛田県主の氏姓なり」とある。 【乞二其歌末一】 平安時代には、和歌〔五七五七七〕の下の句〔七七〕を「すゑ」という。 ここでは第一歌・第二歌は共に字数が五・六・七で、旋頭歌〔五七七・五七七が基本〕と言える。 「乞二其歌末一」という文により、併せて一つの歌を構成するものと考えられていたことが分かる。 【尊敬表現】 この歌による闘争は対等だが、この場合も「たまふ」「まつる」を補って訓むべきなのだろうか。 ここで、改めて暗黙の尊敬表現について考えてみる。 まず「賜」が明示された例には、「賜天沼矛 而言依賜」(第33回)である。 これは、上巻の始めの方の部分だから「たまふ(賜)」を明示し、以後は書かないが同じように補って読めというのが暗黙の指示と見られる。 煩雑を避けるためと見て、間違いないだろう。 但し、大長谷王〔雄略天皇即位前〕の場面だけは、本気で尊敬表現を止めたようである(第194回【言】)。 次に「歌曰」を見る。古事記で初めての歌詠みの場面は須佐之男命が出雲に宮を建てたときで、「作御歌其歌曰」と表現される。 「御歌」であるから、「作御歌」は暗黙の「たまふ」を伴い「みうたよみたまふ」 あるいは「みうたつくりたまふ」と訓むと見られる。 以後「歌曰」は、すべてその簡略表記であろう。 それでは、下から上に歌を献上する場合はどうか。 これについては、第116回の「献御歌曰」のところで既に考察したように、 以後「歌曰」の訓読は基本的に「みうたよみまつる」である。 この場面では、志毘臣にとって袁祁命は大魚を横恋慕する邪魔者であり、尊敬はない。 ここに「たまふ」「まつる」をつけたとしても登場人物の感情を反映したものではなく、単に地位の上下を示す記号に過ぎない。 これを濫用すると、とかく文を読みにくくするものであるが、この段ではむしろある種の穏やかさが漂い、読感が安定する。 それは、志毘臣が悪態をつきながらも、歌の中では宮殿を「大宮」、相手を「御子」、自分を「臣の子」と表して最小限の敬意を保つことに合致するからであろう。 【歌意】 《第一歌(志毘臣)》
「遠つ端手」は、「隅」への枕詞のように読めるが、 実質の語であるとするなら、広大な宮殿の端で目の届かない場所を意味すると見られる。 「はるか彼方にある宮殿」も考えられるが、宮殿を敢て遠くに置く意味が想像できない。 《第二歌(袁祁命)》
《第三歌(志毘臣)》
「臣の子の」の格助詞「の」は属格〔柴垣の所有者〕ではなく、 主格〔入り立たずの主語〕と見るべきである。たかが臣の分際で「御子を私の家の豪華な柴垣の中には入れてやらないぞ」と言っても何の悪口にもならない。 御子がそれで困ることは何一つないからである。 お前が大王になったら臣は宮殿の柴垣の中に入らない、つまり自分を始めとして臣たちは皆離れて行ってしまうぞという悪口であろう。 《第四歌(袁祁命)》
志毘臣はこの歌を聞いて「いよいよ怒る」ことから見て、 「大魚(嬢子)がお前なんかを相手にするものか」という意味であろう。 もはや、相手が詠んだ歌の内容には無頓着である。 さらに譬えとは言え、シビと呼び捨てにするだけでも、志毘臣を怒らせるには十分である。 こっちは相手を「御子」と呼んで、最低限の節度を守ってきたのに、というわけである。 《第五歌(志毘臣)》
二個の「しまり」は、「柴垣がしまり」から「宮殿の門がしまり」を連想したものと見るべきだろう。 「廻(めぐら)し」は柴垣のことであるが、同時に叛乱軍による包囲を暗示するものである。 なぜなら、翌朝に意祁命・袁祁命が同じやり方で志毘臣を殺すからである。 《第六歌(袁祁命)》
第三歌から以後は中身が噛み合わず、双方が一方的に言いたいことを言い放つのみである。 《柴垣》 第三歌のところで述べたように、柴垣は大王の宮の周囲に廻らしたものである。 第五歌はそれを切り、燃やす意志を示したものと読まないと、翌朝の二王子による襲撃が十分説明できない。 顕宗仁賢神社(前回)の通称「柴垣の宮」は、恐らくこれらの歌によるものであろう。 清寧天皇紀二年の「柴宮」については地名の面から考察したが、これも歌との関連が考えられる。 《歌の形式》 袁祁命と志毘のやり取りが即興的であることは、歌垣における歌が即興的、座興的なものであったことが反映していると思われる。 『肥前国風土記』に「抱キテレ琴ヲ」山に登るとあり琴の伴奏を伴うから、 定型のメロディーを繰り返して替え歌にしたと思われる。 字数を見ると、第一歌・第二歌は共に五六七で、全体で旋頭歌。 第三歌・第四歌は共に五七五七七の短歌である。 第五歌は五七五七七七で仏足石歌体、第六歌は五七五七六で字足らずの短歌である。 これらに同じメロデイーを用いるなら末句の「鮪突く志毘」を反復すると思われ、 悪口に輪をかけることになる。 【歌垣】 《武烈天皇紀即位前紀》 書紀では、類話が武烈天皇即位前紀に置かれている。
《歌垣とは》 〈時代別上代〉によれば、歌垣とは「①男女が一所(神聖な山や市などが選ばれた)に集まって、飲食・歌舞し、性的開放を行った行事。」 「②のちには宮廷などの一種の風流遊芸」という。 ①の例は、万葉歌1759、常陸国風土記に筑波山、肥前国風土記に杵島山、摂津国風土記に載る。 また、万葉歌3101・武烈天皇即位前紀により、海柘榴市の歌垣の存在が示される。 ②については、〈続紀〉に三例が載る。 これらについて詳しくは、資料[34]で示した。 【な(波)】 〈時代別上代〉は、次のようにのべる。 「 「阿波国風土記云、奈佐浦、奈佐云由者、其浦波之音、 無二止時一、依而奈佐云、 海部者、波矣者、奈等云」(逸文阿波風土記)は、 阿波の国で海人が波のことをナといったことを記している。 もしそれが古形を伝えるものならば、ナゴリ・ナギサ・ナヲリなどのナの語源を考える上の参考になろう。」 つまり「等云」を「と云ふ」と訓む。 その出典を調べると、仙覚の『万葉集註釈』の巻三第0254歌の部分にあり、 歌に詠まれた「明大門(あかしのおほと)」を解説したものである。 〈時代別上代〉が引用した部分は、写本によって相違がある。 やや長くなるが、「な」の解釈に微妙に関わるので、それぞれ原文を示す。 《仙覚全集》 『仙覚全集』(佐々木信綱編。古今書院1926)は、活版本(<全>と略す)。
《万葉集註釈》 国会図書館デジタルライブラリーに、『万葉集註釈 20巻』(年代不明の筆写本)が収められている(<デ>と略す)。
《解釈》
「矣」は、万葉集では「乎」とともに、格助詞「を」に多く使われるから、<全>の「矣者」のルビ、ヲバは妥当。 <デ>は、「矣」を「立」と筆写したと見られ、 なおかつ「汰」を加えることにより、 「なみたつ」を、 海部郷の人は「なた」と言ったという文になっている。 なお、〈倭名類聚抄〉に{阿波国・那賀郡・海部【加伊布】郷}。海部郡は〈倭名類聚抄〉の時点で未成立で、その後になって成立したとされる。 <デ>を採用した場合でも、結果的にナは波を意味することになる。 《ナ》 しかし、ナは単に「水」の意味かも知れない。 例えば、「水に浸かる」=「な-づく」の連用形名詞「なづき」がいくつか見られる。例を示すと、 ・〈出雲国風土記〉-出雲郡宇賀郷に、「脳礒」〔なづきのいそ〕(第120回)。 ・倭建命段に「那豆岐田」・「那豆岐能多」〔なづきのた〕(第134回)。 その他、万葉にいくつかある「なづさひ」(連用形)は「水に漂って」の意味と見られる。 ――「(万)2859 飛鳥川 奈川柴避越 来 あすかがは なづさひわたり こしものを」など。 ナギサ(渚)、ナゴリ(潮だまり)のナも、波ではなく水か。 こうしてみると、第四歌の「なをり」は「水-折り」が「波」そのものを表し、 「水-高」(または「水-立」)が海の波の高い所=「灘」になったと考えるのがよいように思われる。 「波(ナミ甲)」については、水が海岸に次々に寄せる様子から「水(ナ)-水(ミ甲)」ができたとも想像される。 【王子の年頃】
二王子が発見されたとき、まだ少年であるのはあり得ないことだから、このように書かれるに至った経緯を検討すべきである。 まずは、市辺忍歯皇子殺害から二王子発見までの時間経過を整理してみよう(右図)。 《二王子発見に至るまで》 このように図示して改めて注目されるのは、書紀では天皇が崩じると、その翌年の正月に次の天皇が即位する形式を守っていることである。 その故に、白髪天皇が一月に崩じてから11か月の間に、二王子が発見され、皇位を譲り合い、飯豊尊が臨朝秉政して、また崩じ、弘計王が皇位を受ける決心をするという慌ただしいことになる。 「飯豊女王」を天皇と認めないと決めた以上は、白髪天皇をぎりぎりまで引っ張り、天皇不在の年を避けなければならなかったのである。 さて、市辺忍歯皇子の殺害時、二王子は少年であった。 書記に依ればその発見は25年後※だから、30歳代にはなっているはずだが、不思議なことにまだ少年である。 ※…記では、雄略天皇の生誕を過去に60年引きのばしたと見られるから、さらに60年ほど長くなる。 これを、どのように解釈したらよいのだろうか。 《真相は》 現実はこうだったのではないかと思われるケースを挙げてみる。 ①隠伏していた間に代が替わり、実際には二王子は市辺忍歯皇子の孫であった。 ②発見されたとき実際には30歳代で、「火焼きの少年を両ひざに乗せた」云々はフィクションである。 〔伝説となるとき、「貴種流離譚」になりやすい(次項)。〕 ③連れて来た二人は確かに少年であったが、実は偽物であった。 〔年齢に不審に感じた者もいたかも知れないが、 飯豊女王が忍歯皇子の子であると宣言してしまえば誰も何も言えなかっただろう。〕 《貴種流離譚》 「貴種流離譚」は説話の類型の一つで、『大辞源』には 「若い神や貴人が、漂泊しながら試練を克服して、神となったり尊い地位を得たりするもの」 と説明されている。記では大国主の神話が典型的である。 この類型は我が国に限らず、シンデレラやみにくいアヒルの子はこのパターンである。 比較的新しい時代の木下藤吉郎でもその出自の確かな記録は何もないが、 種々の伝説は何れも下層民の出であることを強調する方向で形成されたと見られる。 これらのことから、②のような伝説の形成は十分にあり得る。 しかし、だからと言ってすべてが全くの創作であるとは限らない。 ここでは一定の出来事が存在し、そこに粉飾が加わって伝説となったものと考えてみる。 《装飾要素の除去》 そもそも韻文の「末」または「足末」には、違和感がある。 それは、実の子の代を普通はアナスヱ(子孫)とは言わないからである。 そこで、「末」または「足末」は古い韻文の中に残っていた語句で、本来は孫以後を意味したものと仮定する。 また宮殿が4つもあるのは、押磐皇子系列の一族は既に有力な氏族の地位を占めていたことを示すものと仮定する。 これらの仮定から演繹すると、 「志染村に住む押磐皇子系列の一族は、飯豊女王の命により小楯が市辺忍歯皇子の直系の子孫の探索に訪れたことを知り、 少年を小楯に面会させた」という筋書きが考えられる。 但し、 ・少年は面会の際、一族に伝わる韻文を見事に唱えて直系である証拠とした。 ・一族は兄弟二人を並べ、見込みのある方を選んでお取立てくださいと言った。 ぐらいは現実にあり得ると見ていいかも知れない。 そもそも志染村のローカルな氏族の子が、オホキミとして迎えられること自体驚嘆すべき事柄である。 そこから事実をさらに呻吟苦難する方向に誇張して伝説化し、火焚きの二少年となったのは、あり得そうなことである。 まとめ 志毘臣の家を取り囲んで殺す理由が嬢子の取り合いというのでは、がっかりするようなレベルの低さである。 ただ、きっかけは歌垣であっても、志毘臣の歌の内容から秘められた叛意を感じとったすれば、先制攻撃の政治的な理由にはなる。 天皇の即位前には一般的に反逆者が現れ、それを滅ぼすのが定型となっている。 それは代替わりの際、しばしば時期天皇候補として皇子を押し立てて、氏族間で争ったことを反映したものであろう。 しかし袁祁王においては逆に定型が先にあり、そこに伝説を押し込んだように感じられる。 恐らくは古くから歌垣伝説が存在し、記はそれを顕宗天皇即位前に入れ、 書紀は武烈天皇即位前に組み込んだということであろう。 なお、火焚きの少年として発見されて日の浅い、まだ都に上る前に軍勢を指揮して臣を殺すことは考えにくく、 こちらが史実なら、意祁袁祁発見譚は全くの伝説であると自ら言うに等しい。 やはりいくつかの別個の伝説を、辻褄の合わなさを残しつつ集めたものという結論に落ち着くのである。 |
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2019.02.15(fri) [217] 下つ巻(清寧天皇7) ▼▲ |
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![]() 意祁命讓其弟袁祁命曰 住於針間志自牟家時 汝命不顯名者 更非臨天下之君 是既汝命之功 故 吾雖兄猶汝命先治天下 而堅讓 故 不得辭而袁祁命先治天下也 於是(ここに)、二柱(ふたはしら)の王子(みこ)等(たち)各(おのもおのも)天下(あめのした)を相(あひ)譲(ゆづ)りたまひき。 意祁命(おけのみこと)其の弟(おと)袁祁命(をけのみこと)に譲りて曰(い)はく 「[於]針間(はりま)の志自牟(しじむ)の家(いへ)に住みし時、 汝命(なのみこと)名を不顕(あらはさざりし)者(は)、更に天下之君(あめのしたのきみ)を臨(のぞ)むこと非(あら)ざるは、 是(これ)既に汝が命之(の)功(いさみ)なり。 故(かれ)、吾(われ)[雖]兄(このかみ)なれど、猶(なほ)汝が命先(まづ)天下(あめのした)を治(をさ)めたまへ」といひて、 [而]堅く譲りき。 故(かれ)、不得辞(えいなびざ)りて[而]袁祁命、先づ天下を治めたまひき[也]。
このようにして辞退できなくなり、袁祁命が、まず天下を治められました。 【真福寺本】 「意祁命」が真福寺本では「意冨祁命」〔オホケノミコト〕となっている。 【汝命】 「汝命」は「なのみこと」と訓むべきか。「ながみこと」もありそうに思える。 実際〈古事記伝略〉は「ナガミコト」と訓むが、不適当であるようだ。 それは例えば〈時代別上代〉には、「ノはガより敬意を含」み「大君や皇子や神には常にノがつき、君・妹・母・子などにはガがつく」。 「敬語表現の上からノとガの間にはかなり明瞭な区別があったもののようである。」とあるからである。 ミコトは敬称であるから、ノである。 〈古典基礎語辞典〉も同様で、「人称代名詞または人を指す名詞に付く場合、ガが自分の身近な者を対象とし、卑下・親愛・無遠慮の意を示すのに対し、 ノは「神の御代」「大君のみこと」「海女の漁火」のように、尊敬・敬避・疎遠などの意味を示すという相違が、 上代から中世ごろまで見られる。」と述べる。 万葉集で確認すると、「がみこと」は、(万)「3811 君之三言等 きみがみことと」、「0113君之御言 きみがみこと」の二例あるが、いずれも「御言」の意である。 対して「のみこと」は38例あり、神や貴人への敬称「みこと(命)」は必ず「の」を伴う。 ところが、「汝命」の場合、「な(汝)」は親しみをこめて身内を呼ぶ語であまり尊敬の意はないから、一般に「な」は「みこと」にはそぐわないようだ。 万葉集に「汝命」がなく、〈時代別上代〉の見出し語に「なの(が)みこと」がないのもそのためかも知れない。 しかし、(万)「1804 弟乃命 おとのみこと」という注目すべき例がある。 肉親である弟に「命」がつく例は珍しい。 この歌は亡くした弟を悼むもので、その痛切な感情が綴られている。 弟は「又還不来 遠津國 黄泉乃界丹 またかへりこぬ とほつくに よみのさかひに」と詠われ、身近にいた弟が遠い黄泉にいってしまった結果、 神となり「みこと」がついたと読める。 ここから類推すれば、意祁命が身近にいた弟が、今まさに高貴な天皇へと移行しつつある中間状態が、「なのみこと」に反映していると考えることができる。 つまりは、親しい人「な」と、高貴な人につける「みこと」との複合である。 これは特殊な状況だから、二人称の人称代名詞「なのみこと」は、滅多に見られないわけである。 顕宗天皇紀(下述)においては、同様な進展は呼び名が「弟」から「大王」に変わるという形で表現されている。 【清寧天皇紀・顕宗天皇紀における拡張】 記では簡潔に書かれた内容を、書紀では大幅に拡張している。 その儀礼的な表現のために、中国の歴史書にある語句を多数盛り込んでいる。 以下その内容を項目を立てて整理し、その出典も含めて詳しく示す。 なお、書紀では忍海飯豊青尊による秉政(じょうせい)の期間をぎりぎりまで圧縮したことも、記紀の相違を生んでいる。 それは前回【王子の年頃】の項で述べたように、「天皇不在の年」を生まないためである。 《目次》 ◆【顕宗天皇即位前紀(清寧二年十一月)】…市辺押磐皇子の子であると名乗り出ようと相談したときに、既にどちらが天皇になるかが話題になり、 記「二柱王子等各相二-譲天下一」はこのときに始まっている。 A【清寧天皇紀三年正月】…億計王・弘計王が宮中に登る場面を装飾的に挿入。 B【顕宗天皇即位前紀(清寧三年)】…顕宗天皇即位前期に、上記を再録。 B2【仁賢天皇即位前紀(清寧二年)】…仁賢天皇即位前期に、上記を要約。 ◆【清寧天皇紀三年七月】… 飯豊女王。記では清寧天皇は既に報じて飯豊女王が日継ぎの大王となっているが、書紀ではまだ政を秉(にぎ)る前である。 ◆【顕宗天皇即位前紀(清寧五年正月)】… 記「二柱王子等各相二-譲天下一」を拡張。書紀は清寧天皇をここまで引っ張った後、億計・弘計が譲り合って空位となった期間、自称「忍海飯豊青尊」が秉政する。 C【顕宗天皇即位前紀(清寧五年十二月(一))】… 以下、記「意祁命譲二其弟袁祁命一曰~先治天下」の拡張。兄は弟に皇位譲ったとき、弟が辞退する言葉を装飾的に収める。 D【顕宗天皇即位前紀(清寧五年十二月(二))】…(一)を聞いて兄が説得する言葉を装飾的に収める。 E【梁書-巻一(武帝)】…(二)で用いられた語句の出典。 F【顕宗天皇即位前紀(清寧五年十二月(三))】… 以下、記「不レ得レ辞而袁祁命先二治天下一也」の拡張。 G【顕宗天皇紀元年】…大臣大連等の「奏言」を装飾的に収める。 H【仁賢天皇即位前紀(清寧五年)】…仁賢天皇即位前紀に、C~Gを要約。 A【書紀―三年正月】↑ 6目次 《小楯等奉億計弘計到摂津国》
小楯(をたて)等(たち)、億計(おけ)弘計(をけ)を奉(たてまつ)りて、摂津国(せつつのくに)に到りて、 臣(おみ)連(むらじ)をして節(しるし)を持た使(し)めて、王(おほきみ)の青蓋(せいがい)の車(みくるま)を以ちて、宮の中(うち)に迎へ入れまつりき。
億計王(おけのみこ)を以ちて皇太子(ひつぎのみこ)に為(な)したまふ。 弘計王(をけのみこ)を以ちて皇子(みこ)に為(な)したまふ。 《摂津国》 書紀が書かれた時代は、摂津国は副都と位置づけられ、「摂津職」が置かれていた (資料1[19])。 書紀には、「津国」とも表記される(応仁天皇20)。 〈倭名類聚抄〉では畿内国は{山城【夜萬之呂】大和【於保夜萬止】河内【加不知】和泉【以都三】摂津}で、 「摂津国」だけ訓注がない。 恐らく摂津職は存在した当時「せつつのつかさ」「せつつしき」と発音され、 「摂津国」もそのまま「せつつのくに」と訓まれていたのではないかと想像される。 なお、「摂(セツ)」は音読みだが、「津(つ)」は訓読みである。 別称として「つのくに」もあり、それが書記の二通りの表記に反映したのではないだろうか。 《王青蓋車》 「王青蓋車」に乗って宮中に登る件は、『後漢書』〔420~445〕にしばしば出てくる。 ●孝安帝紀: ――「殤帝崩。太后與兄車騎將軍鄧騭定策禁中。其夜使騭持節。以王青蓋車迎帝。齋于殿中。」 〔殤帝崩ず。太后と〔その〕兄車騎将軍鄧騭、禁中に策を定む。其の夜,騭をして持節と使(し)て、王青蓋車を以って帝を迎へ、殿中に斎す。〕 ●孝順孝沖孝質帝紀: ――「及沖帝崩。皇太后與冀定策禁中。丙辰。使冀持節。以王青蓋車迎帝入南宮。」 〔沖帝崩ずに及びて、皇太后と冀、禁中に策を定む。丙辰。冀をして持節と使(し)て、王青蓋車を以って帝を迎へ南宮に入る。〕 漢代以後、称号として将軍の上位の者に賜る「使持節」もあったようだが、鄧騭には「車騎将軍」の称号があるから、 ここでは「持節の使」という役割を意味すると見られる。 第一例では殤帝が崩じたとき、皇太后と近臣の騭が相談して孝安帝を迎えることにして、 騭が使者となって伝達した。第二例では、近臣の冀がやはり持節使となる。 それぞれ近臣が皇太后の使者となり、その地位を証明するための「節」(鑑札)を持つ使者となるわけである。 そして、新しい帝が宮中に入る乗り物として「王青蓋車」を用意したことが読み取れる。 王青蓋車の説明は、『後漢書』の「志」巻120にある。 ●輿服上:
〔皇太子、皇子は皆安車…青蓋…。皇子が王になるときに賜り〔別解:皇子が王から賜わって〕乗る。故に王青蓋車という〕 青蓋車は倭国には存在しなかった乗り物であるから、 書紀の文は、単に「迎入宮中」に過ぎないことを、『後漢書』を借りて装飾したものである。 従って、「王青蓋車」に和語を当てはめようとすること自体が無意味であることになる。 《使臣連持節》 後漢書を見ると、「使A持節」のAは個人名であるべきだから、そこに漠然と「臣連」〔おみ・むらじたち〕と書いたのでは、意味をなさない。 持節使は「小楯」だから、後漢書に倣えば「臣連定策禁中。仍使小楯持節。以王青蓋車迎入宮中。」となる。 しかし、既に二王子発見したときに、後漢書の言い回しの前半部「大臣大連定策禁中。仍使播磨国司久米目部小楯持節」を用いた (第215回)。 小楯はこのときに派遣され、二王子に付き添って摂津国〔恐らくその難波津〕に上陸した。 そして都への陸路において、後漢書の定型句の後半「以王靑蓋車」を用いている。 その形を整えるために「使A持節」を含めて用い、その使者名が特定できないから便宜的に「臣連」を入れたと思われる。 《「使臣連持節」以下の訓読》 このように「使臣連持節以王青蓋車迎入宮中」の「臣連」と「以王青蓋車」は具体的な意味をなさない。 また「持節」も中国の制度に伴う言葉であるから取り除き、 上代語としては「みやのうちにむかへいれき」と訓むのが本来は適切だと考えられる。 なお、「使」の有効範囲を「持節」までとするか、「迎入宮中」までにするかという問題がある。 「使」が「迎入宮中」まで及ぶとすれば「むかへいれまつらしめき」、そこまで及ばなければ「むかへいれたまひき」と訓むことになるが、実際にはどちらでも同じことである。 そもそも天皇の主体的な行為は、必ず側近以下の者を通して実行されるからである。 ただし、上で示した『後漢書』の例では、「使」がかかる範囲は明らかに「持節」までである。 《大意》 三年正月一日、 小楯(おたて)らは、億計王(おけのみこ)、弘計王(をけのみこ)をお連れして攝津国に到着し、 臣(おみ)・連を(むらじ)遣わして王青蓋車(おうせいがいしゃ)にお乗せし、宮中に迎え入れました。 四月七日、 億計王を皇太子に立て、 弘計王を皇子(みこ)としました。 B【顕宗天皇-即位前紀(清寧三年)】↑ 顕宗6目次 《弘計王隨億計王到攝津国》
天皇(すめらみこと)〔=弘計王〕、億計王(おけのみこ)を隨(したが)へて、摂津国に到りて、 臣(おみ)連(むらじ)をして節(しるし)を持た使(し)めて、王(おほきみ)の青蓋(せいがい)の車(みくるま)を以ちて、宮の中(うち)に迎へ入れまつりき。 夏四月(うづき)。 億計王を立たせて皇太子(ひつぎのみこ)に為(な)したまふ。 天皇を立たせて皇子(みこ)に為したまふ。 《大意》 白髮天皇(しらかのすめらみこと)の三年正月、 弘計王(をけのみこ)は、億計王を伴って摂津国に到り、 臣・連を遣わして王青蓋車(おうせいがいしゃ)にお乗せし、宮中に迎え入れました。 四月、 億計王を皇太子に立て、 弘計王を皇子(みこ)としました。 B2 【仁賢天皇―即位前紀(四)(清寧二年)】↑ 仁賢即位前(四)目次 《為皇太子》
遂に億計天皇を立たして、皇太子に為(な)したまふ。【事(こと)具(つぶさに)弘計天皇(おけのすめらみこと)の紀(ふみ)にそなへり[也]。】 《「二年」四月》 〈清寧天皇紀〉及び〈顕宗天皇紀〉には「三年四月」。 《大意》 二年四月、 遂に億計天皇を皇太子に立てられました。 【詳細は弘計天皇紀にあり。】 〔即位前(三)←〕〔→即位前(五)〕 C 【顕宗天皇-即位前紀(清寧五年十二月(一))】↑ 顕宗8目次 《億計取置璽天皇之坐》
百官(もものつかさ)大会(おほつどひ)しまつりて、 皇太子(ひつぎのみこ)億計(おけ)、天皇(すめらみこと)之(の)璽(みしるし)を取りて、之(こ)を天皇之(の)坐(たかくら)に置きたまひて、 諸臣(もろもろのおみ)を従(したが)へたまひて之(こ)の位(くらゐ)を再拝(ふたたびをろが)みて曰(のたま)はく。 「此の天子之位(あまつひつぎのくらゐ)、功(いさみ)有る者(ひと)の[之]処(を)る可以(べ)し。 貴(たふとき)を著(あらは)して迎(むかへ)を蒙(かがふ)るは、皆(みな)弟(おと)之(の)謀(はかりごと)也(なり)。」とのたまひて、 天下(あめのした)を以ちて、天皇〔弘計王〕に譲(ゆづ)りたまひき。
又(また)、白髪天皇(しらかのすめらみこと)先(ま)づ兄(このかみ)に[欲]伝へむとおもほして皇太子(ひつぎのみこ)に立てたまひしことを奉(うけたまは)りて、 前後(さきのち)なれば固く辞(いな)びて曰(まを)したまひしく。 「日月(ひつき)出で[矣]て而(しかれども)爝火(かがりさす)こと不息(やまず)、 其(それ)光に於(お)きては[也]不亦難(またかたくあらざる)乎(や)。 時にかなへる雨降(ふ)りて[矣]而(しかれども)猶(なほ)浸灌(うるほす)こと、 不亦労(またいとはざる)乎(や)。
弟(おと)にあれ者(ば)兄の謀(はかりごと)を奉(たてまつ)りて、難(かたき)を逃脱(のが)れり。 〔兄〕徳(のり)を照らして紛(まがひ)を解きたまひて[而]〔吾〕処(を)ること無し[也]。 即ち〔弟〕処(を)ること有ら者(ば)弟(おと)の恭之(つつしめる)義(よし)の非ざりて、弘計(をけ)処(を)るを不忍(しのばず)[也]。 兄友弟恭(あにおとをともなへ、おとあにをゐやまへること)は、不易之典(つねののり)なり。 諸(もろもろの)古老(おきな)に聞きまつらく、安(いづくにぞ)自(みづから)独(ひとり)軽くするやとききまつる。」とまをしたまひき。 《荘子-逍遥遊》 「日月出矣而」以下の言葉は『荘子』〔前369頃~前286頃〕「逍遥遊」にある。
《日月出矣而爝火不息…》 許由の話を知る人なら、「日月出矣而爝火不息…」以下によって、立派な兄がいるのに自分が即位するのは無駄だと言ったことが分かる。 しかし、それを知らなければ、少なくともこの意を汲みとるのは一苦労であろう。 堯帝の言葉は「夫子立而天下治…」まで聞いてこそ腑に落ちるのである。 書紀だけで解るようにするには、「夫兄立而天下治。而弟処之、吾自視欠然。」まで書くことが望まれる。 《所貴為人》 「所貴為人弟者」を「人の弟たることを貴ぶる所は」と訓読したものを見たが、とても不自然である。 まず「為人」は、一般的な熟語〔=ひととなり〕である。 そして弟は、兄が「著貴蒙迎皆弟之謀也」〔尊い姿を表し、迎えに来てもらったのは、みな弟が計らいの故である〕と語ったことに反論して、 「弟者奉兄謀逃脱難」〔いやいや、弟は兄の計らいに従ったからこそ、困難から脱出できたのです〕と言ったである。 「所貴為人」は前置き〔為人を貴ぶと言うなら、〕として、主題を引き出すものである。 文法的には「貴二為人一」〔ひととなりを貴ぶ〕を名詞化した 「所貴為人」が大主語で、 「弟者奉兄謀逃脱難照徳解紛」が述部である。 翻訳すれば「為人(ひととなり)を貴ぶと言うなら、弟はただ兄の計画に従って難を逃れただけだから、徳を照らし紛れを解く資質を備えた兄を貴ぶべきである」となる。 《照徳解紛而無処也》 「照レ徳解レ紛」は、優れた特質の意味だから兄の億計王のことである。 従って「照徳解紛」の主語は兄で、「無処」の主語は弟となる。 《大意》 〔清寧五年〕十二月、 官僚たちが一堂に会して、 皇太子(ひつぎのみこ)億計(おけ)は、天皇(すめらみこと)の璽〔御璽、または勾玉〕を取り、これを天皇の座に置かれ、 諸臣を従え、その座を二拝して、 「この天子の座には、功のある人がすわられるべきある。 貴さを表し、迎えの使者を受けるに至ったのは、皆弟の計らいである。」と仰り、 天下を、弘計王に譲られました。 弘計王は逆に譲り返して、弟であるから敢て即位することはなく、 また、白髪天皇(しらかのすめらみこと)〔清寧天皇〕が先に兄に皇位を受け継がせようとして皇太子に立てられたことを承知しており、 順番が後先になることから、固く辞して申し上げました。 「太陽や月が出ているときに篝火(かがりび)を焚き続けても、 明るさで勝ることがありましょうか。 時に応じて雨が降るのに水を撒くのは 無駄な苦労ではないでしょうか。〔兄を差し置いて弟が即位するのはそれと同じことです〕 為人(ひととなり)が貴いというのなら、 弟は兄の計らいに従ってこそ、難を逃れることができたのです。 兄は徳を照らし、もつれを解く力がある人ですから、私が即位することはありません。 即ち、仮に私が即位するようなことがあれば、弟として慎む義を損ない、弘計は即位するに忍びません。 兄が率い、弟が敬うのは、不易の典です。 諸々の古老に聞くに、勝手に独断して軽率な行動をしてよいものかという話を聞きます。」と申し上げました。 D 【顕宗天皇-即位前紀(清寧五年十二月(二))】↑ 顕宗9目次 《皇太子億計曰》
「白髪天皇(しらかのすめらみこと)、吾(われ)兄(このかみ)なるが[之]故(ゆゑ)を以ちて、 天下(あめのした)之(の)事を挙(あ)げて[而]先(ま)づ我(われ)に属(つ)けたまへるは、我(われ)其(そ)に[之]羞(は)ぢまつる。 惟(ここに)大王(おほきみ)、首(はじめに)利(さと)く遁(に)ぐるに建(いた)りて、 之(こ)を聞きし者(ひと)歎息(なげ)けり。 帝(みかど)の孫(あなすゑ)なることを彰顕(あらは)して、 之を見し者(ひと)涕(なみた)殞(お)とせり。 搢紳(まへつきみたち)を憫々(あはれ)みて、 戴天之(あめをいただける)慶(にぎはひ)を荷(になへる)を忻(よろこ)ぶ。 黔首(あをひとくさ)を哀々(あはれ)みて、 履地之(つちをふめる)恩(めぐみ)に逢へるを悦(よろこ)ぶ。
永く万葉(よろづよ)に隆(さか)へて、 功(いさみ)造物(あめつち)に隣(ちか)くありて、 清(きよ)き猷(はかりごと)世に映(かかや)く。 超哉(こゆるや)邈矣(はるかなるや)、 粤(ここに)称(とな)へ得(う)[而]ること無かりて、 雖是曰兄(これこのかみといへども)、豈(あに)先(さき)に処(を)れ乎(や)、 功(いさみ)非(あら)ざりて[而]拠(よ)らば、咎(あやま)ち悔(く)ゆるに必ずや至らむ。 吾(われ)聞きまつらく、天皇(すめらみこと)久しく曠(むなし)からゆ不可[以](ましじ)、天命(あまつみこと)謙(へりくだり)拒(こば)まゆ不可[以](ましじ)とききまつる。 大王(おほきみ)、社稷(くに)に計(はかりごと)を為(す)るを以ちて、百姓(みたみ)心を為(な)す。」とのたまひき。 《大王》 億計王はこのとき、弘計王あるいは弟を、「大王(おほきみ)」と表現するようになった。 億計王は、すでに弟を天皇として敬い呼びかけている。 《首建利遁・彰顕帝孫》 3は 『梁書』(次項)の「公首建大策」 〔梁公は、初めに偉大な策を建てた〕を改造して、 「大王首建利遁」〔弟は、初めに計略を立てて難を敏(さと)く遁れた〕に替え、 「聞之者歎息」に繋ぐ。 5は 「司隸旧章」〔官は古代のルールに捉われる〕を、 「彰顕帝孫」〔市辺押磐皇子の子孫であると名乗り出る〕に置き換え、 「見之者殞涕」〔=見る人は涙を落とす〕に繋ぐ。 《憫々搢紳》 原文の7(憫々搢紳)~16は、弘計王はこのような天皇になるであろうと称賛する語である。 この部分は、大半を『梁書』(『南史』かも知れない)から取っている。 16の後ろで、本旨に戻っている。 《不可以久曠》 『論語』-「里仁」に「子曰不仁者不レ可二以久処一レ約」とあり、 一般に「不仁者は以って久しく約に処るべからず」と訓読されている。 しかし、「可以」の「以」は実質的な意味を持たないので、「以って」とする訓読に語調を整える以上の意味はない。 「不可」は、万葉において「ましじ」〔平安以後は「まじ」〕と訓まれ、 「(万)1053 不可易 かはるましじき」「(万)0431 不可忘 わすらゆましじ」においては助動詞「る」「ゆ」(受け身、自発)を伴う。 これを「不可以久曠」に適用すると「むなしからゆましじ」〔不在になるべきではない〕となる。 《大意》 皇太子(ひつぎのみこ)の億計(おけ)王は仰りました。 「白髪天皇(しらかのすめらみこと)〔清寧天皇〕は私が兄であった故に、 天下の事をすべて、先に私に任されましたが、私はそれを恥じます。 大君〔弘計王〕が、初めに敏(さと)く逃げるに至ったこと、 これを聞き、人々は嘆きました。 帝〔市辺押磐皇子〕の子孫であることを明らかにされ、 これを見て、人々は涙を落としました。 官僚達を憫々(びんびん)して〔=あわれみ〕、 天を戴き繁栄を担うことを悦びます。 人民を哀々(あいあい)して〔=あわれみ〕、 大地を踏み収獲に恵まれることを悦(よろこ)びます。 このようにして、四維(しすい)〔=国の隅々〕をよく固めて、 永く万葉〔=万世〕に隆盛し、 功は創造主の隣にあり、 清らかな策(はかりごと)は世に映えます。 超ゆるかな、遥かなるかな。 ここに、称讃し得る言葉もありません。 私は兄ではありますが、先に即位することなどありましょうか。 功なくして即位すれば、必ず過ちを悔やむことになるでしょう。 私が聞くに、天皇(すめらみこと)を久しく空位にするべからず、天命を遠慮して拒むまじと聞きます。 大君〔弘計王〕が国を経営してこそ、人民は心を満たすのです。」と仰りました。 E 【梁書-巻一(武帝)】↑ 皇太子億計の言葉には、『梁書』巻一「武帝上」の語句が用いられている。 梁を創始した蕭衍は武帝と呼ばれ、 『梁書』巻一の冒頭には「高祖武皇帝諱衍」とある。 斉の末期、蕭衍は蕭宝融(和帝)たちと共に蕭宝巻を打倒して、中興元年〔501〕3月に和帝が即位した。 和帝は中興二年〔502〕一月に蕭衍(梁公)に十郡を封じた。 『梁書』巻一に、和帝が蕭衍を中興元年一月に梁公に封じたとき発行した「策」〔詔勅の文書〕が記されている。書紀はここから、多くの語句を抜き出している。 この「策」は、『南史』〔南北朝時代、南朝の宋・斉・梁・陳の歴史書〕巻六にも収められている。 書記が用いた語を含む部分を抜き出し、大雑把に読み下す。
しかし「高祖固辞。府僚勧進」〔蕭衍は辞退し、臣下から進められる〕するがなお「公不許」〔同意しない〕。 二月にようやく「相国〔大臣として国をみる意〕梁公・揚州牧・驃騎大将軍」を受け入れた。 駆け引きはその後も続き、 更に十郡を追加されるが、再び拒否。三月には「梁王」号を与えられ、これは受け入れた。 結局、同月のうちに帝位禅譲の詔が発せられ、翌月下された「策」を受諾して、新王朝「梁」を創始した。 《梁書巻一の性格》 与えられた地位を拒む者を説得する文章である点は、外形的に書紀と似ている。 だが、蕭衍が冊封を一度断ったのは、帝位を禅譲させることを目的とした駆け引きのためだから、 弘計王が兄を敬う故に辞退したのとは根本的に異なっている。 F 【顕宗天皇-即位前紀(清寧五年十二月(三))】↑ 顕宗10目次 《弘計王不逆兄意》
天皇〔=弟弘計〕於是(ここに)、終(つひ)に処(を)ら不(ず)て、兄(あに)の意(こころ)に不逆(さかへざる)と知りて、乃(すなはち)聴(ゆる)したまひき。 而(しかれども)即(すなはち)御坐(おほましま)したまは不(ず)。 世に、其の能(よくすること)を嘉(よみ)して、以ちて譲(ゆづ)ることを実(みの)らしめて曰(い)ひしく、 「宜哉(よろしや)、兄弟(あにおと)怡々(やはらかにありて)、天下(あめのした)徳(のり)に帰(おもぶ)けり。 [於]親族(うがら)篤(あつ)くあれば、則(すなはち)民(たみ)に仁(ひとのこころ)興(おこ)れり。」といひき。 《不即御坐》 「不即御坐」を、「たかみくらにつきたまはず」と訓むことは可能である。 しかし、内心即位せざるを得ないと思いつつそれでも即位しないのであるから、 「即」を「すなはち」〔=すぐに〕と訓んだ方が繋がりがよい。 世の人はそれを見て、「兄弟は仲良くあれ。そのため弟は自らが即位することを受け入れよ。」と後押しするのである。 《大意》 発せられた言葉に嘆き、涙が流れ出すに至りました。 弟弘計王は遂に即位せずに、兄の心に逆らってはおれないと知り、内心受け入れました。 しかし、すぐには即位されませんでした。 世の人はその才能を喜び、よって譲ることを実らせようとして、 「よきことよ、兄弟和して、天下は徳に帰すというもの。 親族が篤くあれば、民に仁が興る。」と言いました。 G 【顕宗天皇紀-元年】↑ 顕宗11目次 《大臣大連等奏言》
大臣(おほまへつきみ)大連(おほむらじ)等(たち)奏言(ことをまをさく)。 「皇太子(ひつぎのみこ)億計(おけ)、聖徳(ひじりののり)明茂(あかくしげ)りて、天下(あめのした)を譲(ゆづ)り奉(まつ)りたまひき。 陛下(おほきみ)正統(まさしきつぎて)にまして、 [当]鴻緖(おほきみわざ)を奉(まつ)りたまふべし。 郊廟(くにをまつる)主(ぬし)と為(な)りて、 祖(おや)より無窮之(きはみなき)烈(いさみ)を承続(うけつぎ)て、 上(かみ)に天心(あまつみこころ)に当たり、 下(しも)に民望(たみののぞみ)に厭(う)ましめたまはむ。
遂(つひ)に[令]金銀(くがねしろがね)の蕃国(からくに)、群僚(まへつきみたち)、 遠(とほき)近(ちかき)をして、望み不失(うせざること)莫(な)からしめき。 天命(あまつみこと)属(つ)けて有り、 皇太子(ひつぎのみこ)推し譲りたまふ。 聖(ひじり)の徳(のり)弥(いよよ)盛(さか)りて、 福祚(さきはひ)孔(はなはだ)章(あきらかなり)。 孺(いとけなきに)在(あ)りて[而]勤(つと)めて、 謙(へりくだり)恭(ゐやま)ひて慈(いつくしみ)順(したが)ひたまへば、 宜(よろしく)兄(このかみ)の命(みこと)を奉(たてまつ)りて、 大(おほきなる)業(みわざ)を承統(うけす)べたまへ。」とまをして、 制曰(おほみことのりのたまはく)「可(ゆるしたまふ)。」とのたまひき。 《金銀蕃国》 「蕃」は、もともとは西方の文化の劣った国の意 (神功皇后紀)。 「金銀」は神功皇后伝説に出てきた表現 (第139回) 。枕詞と見るべきであろう。 《遠近莫不失望》 前文を受けて、遠=韓国、近=わが国の公達。 「莫不失望」は「失望」の二重否定で、結局「失望させる」。 ここでは、国内はおろか近隣の国も弘計皇子が即位しないのを失望していると、誇張して言うのである。 《福祚孔章》 『後漢書』〔420~445〕の「孝順孝沖孝質帝紀」延光四年十一月に「北郷不永。漢徳盛明。福祚孔章」がある。 岩波文庫版の校異によれば、「孔」を宮内庁本・北野本は「礼」とするが、これらの系統の元になった写本で「礼」と見做したのは適切ではないことになる。 《在孺而勤謙恭慈順》 『後漢書』「孝安帝紀」に 「朕惟侯孝章帝世嫡皇孫。謙恭慈順。在孺而勤。宜奉郊廟。承統大業。」とある。 これは「《王青蓋車》」で引用した部分の続きで、孝安帝が殿中に迎え入れられて即位を宣言した「策」の中の文章である。 孝安帝は当時は十三歳であった。 「孝安帝紀」には、この「策」は皇太后が孝安帝の代わりに作文して読み上げさせたと書いてある。 曰く「皇太后…又作策命曰「〔策の中身;略〕」読策畢。太尉奉上璽綬。」〔皇太后…策命を作りて曰はく「…」。〔孝安帝〕策を読み畢(を)へ、太尉、璽綬〔天子の印とひも〕を奉上す。〕。 《在孺而勤》 「在孺而勤」は、孝安帝紀では、年少の頃から帝としての優れた素質を顕したという定型的な称賛文であるが、 弘計王の場合は、その少年時代の境遇を思わせるものとなる。 《大意》 元年正月一日、 大臣(おおまえつきみ)、大連(おおむらじ)たちが奏上するに。 「皇太子(ひつぎのみこ)億計(おけ)は聖徳明茂〔=賢明なさま〕に、天下をお譲りなされました。 陛下は正統であり、 鴻緖(こうしょ)〔=偉業〕を担うべきでございます。 郊廟(こうびょう)〔=国〕の主(ぬし)となり、 祖の無窮の烈〔=業績〕を承続し、 上は天の御心に適い、 下は民の願望を飽きるほど満たすことでしょう。 しかしながら践祚〔=即位〕を肯(がえん)じなされず、 遂には金銀の蕃国〔=韓国(からくに)〕や群僚、 すなわち遠きも近きも、失望しない者はいません。 天命は陛下に属され、 皇太子(ひつぎのみこ)も推し譲られました。 聖徳はいよいよ盛んで、 福祚(ふくそ)〔=さいわい〕孔章(こうしょう)〔=ますます顕著〕にて、 孺(おさ)なく〔=幼なく〕して勤(いそ)しみ、 謙恭(けんきょう)、慈順(じじゅん)であられます。 宜しく兄の命を受け入れ、 大業を承統なさいませ。」と奏上し、 天皇は「可とする」と制詔なされました。 H 【仁賢天皇―即位前紀(五)(清寧五年)】↑ 仁賢即位前(五)目次 《皇太子如故》
白髮天皇(しらかのすめらみこと)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 天皇〔=意計王子〕、天下(あめのした)を以ちて弘計天皇に譲りて、皇太子と為(な)りたまひしこと故(もと)の如し。 【事具(つぶさ)に弘計天皇(おけのすめらみこと)の紀(ふみ)みにそなへり[也]。】 《「五年」》 「五年白髪天皇崩」は、〈清寧天皇紀10〉及び〈顕宗天皇紀7〉と一致する。 《大意》 五年、 白髮天皇(しらかのすめらみこと)が崩じました。 天皇〔=意計王子〕は、天下を弘計天皇に譲り、元のまま皇太子となられました。 【詳細は弘計天皇紀にあり。】 〔即位前(四)←〕 まとめ 意祁命と袁祁命が皇位を譲り合った末袁祁命が即位したという趣旨は、 記で十分言い尽くされている。 書紀は、それをかなり冗長化しているが、飯豊女王の登場を遅らせたこと以外に目新しい内容はない。 まるで意計・弘計の言葉を長くすることこそが至上命題で、 そのために漢籍をさらって使えそうな語句を拾い出したような印象である。 よってこの冗長化は書紀編纂スタッフによる全くの作文であって、記以上に汲むべき歴史事実は存在しない。 意義としては、書紀の編纂にあたって漢籍を利用したことが具体的に辿れることぐらいである。 ただこの冗長化の背景として、即位を巡って皇子の兄弟の間に常に生じる緊張感があったことは否めない。 これについては、記紀では兄が譲って弟に継承させるという道徳的解決が基本形であった。 ところが、雄略天皇に至ってそれは破られ、典型的な覇王として即位した。〔恐らく事実の記録が明瞭過ぎて糊塗できなかったのである〕 書紀においては、書紀自身が被ったその傷を癒すために、意計・弘計の道徳性を誇大化して覆いかぶせる措置を行わざる得なかったのであろう。 その意味では、歴史書から伝説の書への逆行が起こっているのが顕宗天皇紀であると言える。 |
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⇒ [218] 下つ巻(顕宗天皇1) |