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[209] 下つ巻(雄略天皇12) |
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2018.12.02(sun) [210] 下つ巻(雄略天皇13) ▼▲ |
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![]() 【己巳年八月九日崩也】 御陵在河內之多治比高鸇也 天皇(すめらみこと)の御年(みとし)壹佰貳拾肆〔一百二拾四〕歳(ももちあまりはたちあまりよつ) 【己巳(つちのとみ)の年、八月(はつき)九日(ここのか)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)[也]。】。 御陵(みささき)、河内(かふち)之(の)多治比(たぢひ)の高鸇(たかはし)に在り[也]。 天皇(すめらみこと)の御年は百二十四歳 【己巳(きし)〔489〕年八月九日崩】、 御陵(みささぎ)、河内(かふち)の多治比(たじひ)の高鸇(たかわし)にあります。 肆…[数詞] 四の大字。 ここの…[数詞] (万)3794 九兒等哉 ここののこらや。 か…[助数詞] ~日。「(万)4011 知加久安良婆 伊麻布都可太未 等保久安良婆 奈奴可乃乎知波 ちかくあらば いまふつかだみ とほくあらば なぬかのをちは」 〔近く有らば今二日だみ〔=ばかり〕 遠く有らば七日のをち〔=のちのち〕〕。
【鸇】 《𪃋》 氏庸本では鸇が𪃋になっている。 『玉韻』-「鳥」を見ると、「鷣以箴切鷂也鸇之然切鷂屬𪃋𪄃二同上」 〔鷣〈以箴切〉は鷂である。鸇〈之然切〉は鷂の属。𪃋𪄃の二は上に同じ。〕。 「○○切」は発音表記 (魏志倭人伝第18回)。 即ち、鷂・𪃋は鸇の異体字である。 《鶻》 なお、「鶻」という字もあり、 〈倭名類聚抄〉に「鶻【音骨。和名八夜布佐〔はやふさ〕也】」とある。 《高鷲》 記の鸇に対応する文字が、書紀では鷲になっている。 〈倭名類聚抄〉によれば「鵰鷲:〔中略〕鷲【音周。和名於保和之。鷲古和之】」 〔鷲【音シュウ。和名オホワシ。鷲コワシ】〕であるから、 ワシには大小の種類があり、小さい方が「鷲」である。 『新撰字鏡』では「わし」で、書紀の「高鷲」は伝統的に「たかわし」と訓まれている。 鸇は本来ハヤブサを意味するが、記紀の時代の日本ではワシにも使われることがあったのだろう。 【百二十四歳】 《応仁天皇以来の長寿天皇》 「御年124歳」とされる雄略天皇は、応神天皇130歳以来の長寿天皇である。 しかしこれを書紀の「在位23年」と組み合わせると、即位は101歳のときで、しかもその時少年であったという不思議なことになる。 さらに、兄である安康天皇よりも早く生まれたという矛盾がある。 書記の神功皇后以前は、干支二回り〔120年〕遡らせたと一般的に唱えられていて、 本稿でも第160回で詳細に検討したところである。 このように操作された一つの理由は、神功皇后に三韓を統治する女王と、魏志に描かれた倭の女王の姿を同時に負わせるために、 二重の時間軸を持たせるところにあったと見た。 引き延ばした期間は応神天皇の摂政だったから、連動して応神天皇も長寿になる。 しかし、それでは応神天皇の在位期間が長すぎて、仁徳天皇以後と比べて余りにもバランスが悪い。 そこで応神天皇から安康天皇までについても崩年を干支一回り〔60年〕繰り上げて、 120年の半分を、雄略天皇に割り振ったと思われる。雄略天皇の事績はふんだんにあり、存在感は大きい。 これで仲哀天皇から雄略天皇までの生まれ年の順序は即位順通りとなり、不都合はかなり緩和される。 但し図Bを見る通り、まだ神功皇后と仲哀天皇の生まれ年が離れすぎている。 《神功皇后御年一百歳》 「皇后御年一百歳崩」は割注として書かれたもので、恐らく書紀側の見解によって書き加えたものと見られる。 神功皇后については書紀側の人物創作が先行し、記に書き足すように促したと判断した (第147回まとめ)。 その痕跡だと思われる箇所もあった 第140回【此時其三柱大神之御名者顕也】 )。 なお、神功皇后を「御年百年」としたのは、魏志に「其人〔倭人〕寿考或百年或八九十年」、 「卑彌呼…年已長大」とあることによるのではないかと推察する。 《もともとは64歳か》
記は黒日子王(坂合黒彦皇子)・白日子王(八釣白彦皇子)の殺害を、義憤にかられた少年大長谷王子の暴発とするが、 これは脚色であって、実際には実力によって権力の奪取と見られる。 大長谷皇子はそのほかに大草香皇子、市辺之忍歯王、眉輪王も殺した (第195回)。 「32歳」は、ライバルを実力で滅ぼして権力を奪取するのに相応しい血気盛んな年齢であると言える。 因みに、信長が弟の信勝を除いたのは25歳のときであった。 また、徳川吉宗の2人の兄が「病死」したのが22歳、尾張徳川家を押しのけて八代将軍になったのが33歳であった。 《書記による修正》 しかし、雄略天皇紀を書く段階で記録を精査した結果、「在位23年」を大幅に伸ばすことが難しいことが分かり、 書紀はその「+60年」を雄略天皇に加えることを止めて、仁徳天皇と允恭天皇に割り振ることにしたのではないかと思われる。 《宋書との関係》 記紀ともに仁徳天皇から允恭までの期間をずらしたので、結果的に宋書に書かれた「倭の五王」とは時期が合わなくなった。 【書紀―二十三年七月】 35目次 《天皇寝疾不預》
天皇(すめらみこと)、寝(い)ね疾(やま)ふこと、不預(おもははざりき)。 詔(みことのり)して、賞罰(つみほまれ)支度(はかる)事(こと)、巨細(こさい、おほきもちひさき)も無く並(な)べて皇太子(ひつぎのみこ)に付(ゆだ)ねたまふ。
天皇、疾(やまひ)弥(や)甚(いた)くありて、 百寮(もものつかさ)と与(とも)に辞訣(まかりまを)したまひて、並(な)べて握手(たにぎ)りて歔欷(むせひ、すすろひ)まつりて、 [于]大殿(おほとの)にて崩(ほうず。かむあがりしたまふ)。 《大意》 〔二十三年(479)〕七月一日、 天皇が病の床に伏したのは、思わざることでした。 詔(みことのり)して、賞罰の評価のことなど巨細なくすべてを皇太子(ひつぎのみこ)に委ねました。 八月七日、 天皇の病はいよいよ重くなり、 官(つかさ)たちに訣別の辞をなされ、皆手を握りすすり泣いて、 宮殿で崩じました。 【清寧天皇紀―元年】 清寧3目次 《陟天皇位》
有司(つかさ)に命(おほ)せたまひて、[於]磐余(いはれ)の甕栗(みかくり)に壇場(まつりのには)を設(まう)けしめて、 天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に陟(のぼ)りて、遂(つひ)に宮を定めたまひき[焉]。 葛城韓媛(かつらきのからひめ)を尊(たふと)びて、皇太夫人(おほきさき)と為(す)。 大伴室屋(おほとものむろや)の大連(おほむらじ)を以ちて大連に為(な)して、平群真鳥(へぐりのまとり)の大臣をもちて大臣に為(な)して、並べて故(もと)の如し。 臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)等(ら)、各(おのもおのも)職位(つかさのくらゐ)に依りき[焉]。
大泊瀬天皇を[于]丹比高鷲原(たぢひのたかわしのはら)の陵(みささき)に葬(はぶ)りまつる。 [于]時に、隼人(はやと)昼夜(よるひる)陵の側(かたはら)に哀(かな)しび号(な)きまつりて、食(けごと)に与(あづか)りて不喫(くらはず)て、七日(なぬか)にして[而]死にせり。 有司(つかさ)墓(はか)を陵の北に造りて、礼(ゐや)を以ちて之(こ)を葬(はぶ)りき。 是の年[也]、太歳(たいさい、おほとし)庚申(かのえさる)。 《磐余甕栗》 「みかくり」という地名はなかなか見つからないが、 御厨子神社(式外社。奈良県橿原市東池尻町447)が、甕栗宮の跡地にあるという伝承がある。 社頭に次の掲示がある。
●「【村里】池ノ内」 ●「【古蹟】甕栗宮【池内御厨子邑 清寧天皇即二-位於磐余甕栗一】」 とある。 《大意》 元年正月十五日、 官(つかさ)に命じて、磐余(いわれ)の甕栗(みかくり)に壇場を設けさせ、 天皇(すめらみこと)の位に登り、遂に宮を定めました。 葛城の韓媛(からひめ)を皇太后(おおきさき)とし、 大伴の室屋(むろや)の大連(おおむらじ)を大連とし、平群真鳥(へぐりのまとり)の大臣を大臣とし、すべて雄略天皇の代のままとしました。 臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)たちも、それぞれの職位のままとしました。 十月九日、 大泊瀬天皇を丹比高鷲原(たぢひのたかわしのはら)の陵(みささぎ)に葬りました。 その時、〔一人の〕隼人が陵の傍らで昼夜哀号し、与えられた食事に手をつけず、七日にして死にました。 官(つかさ)はその墓を陵の北に造り、礼を以ってこの人を葬りました。
【高鷲原陵】
宮内庁のいう「雄略天皇 丹比高鷲原陵」は、「島泉丸山古墳」と「島泉平塚古墳」を組み合わせて、 文久の修陵(文久2年〔1862〕以後)によって疑似的な前方後円墳として仕立て上げたものである。 島泉は大字名。島泉丸山古墳は直径75mの円墳で、不規則な形の周濠を供える。 また島泉平塚古墳は、一辺50mの方墳とされる。 《島泉丸山古墳》 〈志・丹北〉には、【村里】に「嶋泉」、 【陵墓】に「丹比高鷲原陵【雄略天皇○在二島泉村一】。」と載る。 また、「隼人墓【在二高鷲原陵北一〔以下、清寧天皇紀元年条からの引用〕】」も見える。 『天皇陵古墳』(森浩一;大巧社1996。以下〈天皇陵/森〉)によると、既に 『河内鑑名所記』(三田浄久;延宝七年〔1679〕。以下〈河内鑑〉)で島泉丸山古墳を高鷲原陵とする。 そこには「人皇二十二代雄略天皇御廟嶋泉村二在世俗丸山トモ云」と書かれている。 つまり、もともとは「丸山」の部分が雄略天皇陵と見られていた。 文久の修陵による「丹比高鷲陵」について『天皇陵の謎』(矢澤高太郎;文春新書2011)は、「近世、近代になって無理やりに造られた」もので 「奇妙キテレツな前方後円墳」であると酷評する(右図。宮内庁実測図「雄略天皇丹比高鷲陵之図」)。 これはひとえに、 「「開化」以後「敏達」までの天皇陵を前方後円墳とみることに固執した」〈天皇陵/森〉結果であろう。 しかし、『文久山陵図』の「成功図」〔修復後の図〕は、「前方部」が不明瞭である。 円墳の後方に茂みが描かれているのでそれかとも知れないが、位置関係を確認すると周濠の左右が裏返しである。 このように不思議な図だが、少なくとも画師の鶴澤探眞の目には円墳としか見えなかったのであろう。 次の項で述べるように墳丘の規模も〈延喜式-諸陵寮〉の「兆域」よりはるかに小さく、 島泉丸山古墳がその規模においても形式においても雄略天皇陵に相応しくないのは明白である。
一方、河内大塚山古墳は丹北郡にある巨大前方後円墳で、 宮内庁によって「大塚陵墓参考地」(被葬候補者:第21代雄略天皇)とされている。 《隼人塚古墳》 清寧天皇紀で殉死した隼人の墓と言い伝えられるのが、隼人塚古墳である (方墳・墳丘長20m。大阪府羽曳野市島泉7丁目13-13)。 宮内庁によって「丹比高鷲原陵飛地い号」に指定されている。 『日本歴史地名大系』28-2(平凡社;1986)「島泉村」の項に 「ハイト塚とよばれる塚がある。雄略天皇に殉死した従者隼人を葬ったと伝え、 享保一五年(1730)『河内志』の著者並河誠所が墓石を建てたという(吉村堯家文書)」とある。 また『河内名所図会』(1801年)には、「忠臣隼人墓」が載る。 《河内大塚山古墳説》 宮内庁が「参考地」とする現在の指定は、旧宮内省による1925年の決定を引き継いだものである。 〈天皇陵/森〉によると、東大塚村・西大塚「村は一九二五年(大正十四)に陵墓参考地となり、 宮内庁〔ママ〕管轄下におかれたために、一九二七年(昭和二)には墳丘外に移転した」。 さらに当時の新聞には 「吉田東伍の「雄略天皇」または「和泉守護代大塚掃部介惟正」を被葬者とする説」が紹介されたり、 「最近十数年前から古墳上に人家があるのは不敬に当るとして人家の立退問題が唱えられ」たという記事が載ったりしたという。 その吉田東伍は、〈大日本地名辞書〉の「南丹比郡-高鷲原陵」の項で、 島泉の「西なる古墓」は「卑小の丸塚にして」「雄略帝陵とせば疑はし」く、 「真皇陵は此を距る西微南十五町、大塚山に擬す可きのみ。」と述べている。 このように、国家的に河内大塚山古墳を雄略天皇陵とする見方が強まったが、 結果的には参考地に留まっている。 《兆域と墳丘長の対応》 「丹比高鷲陵」が河内大塚山古墳である可能性を探るために、まずは、〈諸陵寮〉に記載された「兆域」と現在の宮内庁治定陵の墳丘長との一般的な関係を調べよう。 〈延喜式-諸陵寮〉にいう「兆域」とは、整備された陵墓なら一定の神聖な区域、遺跡の場合は周濠に外接する四辺形の領域であろうと思われる。 〈諸陵寮〉の規定は、既に管理の実体としては喪失していたが、200年前の律令の形を復古させた文書であろうと考えた。 そのように推定したのは、平城天皇陵の前方部は平城京建都によって削平されたが、兆域が削平前の大きさに基づいて書かれていることによる (第193回《諸陵寮の読み方》)。 よって、既に荒廃した陵については、その遺跡を取り囲む一定範囲を兆域として想定したと考えられる。 大まかに見ると、兆域の広さは墳丘長に見合ったものだが、景行天皇陵や神功皇后陵など墳丘が兆域をはみ出るものがある。 これらは埋葬主の決定が、延喜式と、宮内庁との間で異なっていると思われる。 延喜式の「丹比高鷲原陵」が島泉丸山古墳ではないことは、この表を見ても明らかである。 それでは、河内大塚山古墳だとするとどうなるか。その、墳丘長335m(3.1町)-兆域「東西三町。南北三町。」の組み合わせは微妙である。 辻褄を合わせようと思えば、測量が不正確であったとか、兆域の概算値が四捨五入の結果などと言うことはできるが、 実際のところは分からない。 それでも、〈諸陵寮〉が河内大塚山古墳を高鷲原陵と見做した可能性はある。 《河内大塚山古墳》 河内大塚山古墳は、大仙陵古墳、 誉田御廟山古墳、上石津ミサンザイ古墳、 造山古墳に次ぐ、全国第五位の巨大古墳である。
「6世紀後半」なら雄略天皇のものではないが、その年代判定にどの程度の確かさがあるかを検討したい。 まず〈志・丹北〉を見と、 「【村里】」に「西大塚【属邑一】東大塚【属邑二】」がある。 江戸時代には、河内大塚山古墳は西大塚村・東大塚村にまたがっていた。 町村制〔1889〕のとき、東大塚村は担南郡高鷲村の一部になり、後に羽曳野市に属する。 西大塚村は丹北郡松原村の一部になり、後に松原市に属する。 よって、現在は河内大塚山古墳の中央を羽曳野市・松原市の境界線が通っている。 〈志・丹北〉は、河内大塚山古墳については、 「埴生山岡上墓【来目皇子○在二大塚村一 推古天皇十年二月来米皇子…】」 として、来米皇子の墓とする。 ただし現在一般的には、来米皇子の墓は塚穴古墳(大阪府羽曳野市はびきの3丁目5)とされる。 一方〈河内鑑〉には、「阿保親王御廟大塚と云〔ふ〕山也」とある。 阿保親王(792~842)は平城天皇の第二皇子で、長尾街道沿いに多くの民話が残る (松原市/文化スポーツ/民話)。 《6世紀末説》 〈天皇陵/森〉によると、 ●埴輪については1980年の調査では出土がなく、1986年には埴輪片の採集があったが、 「少なくともふつうの埴輪の囲繞は認められない」。 ●「巨大古墳でありながら段築や造り出しが不明瞭で、もともと備わっていない可能性もある」。 ●「後円部の「牛石」または「ごぼ石」と称する巨岩は、横穴式石室の石室材が露見したものではないかといわれている。」 ●「大型横穴式石室をもつ可能性や 前方部が広く平坦な面をなす点は同時期の巨大古墳の奈良県丸山古墳※にも共通する要素である。」 ※…「五条野丸山古墳」「見瀬丸山古墳」とも呼ばれたが、現在は基本的に「丸山古墳」に統一されている。 〈論文/川内〉(後出)によると、森浩一は1970年頃には雄略天皇被葬者説を唱えていたが、 以上に挙げた特徴を理由として主張を変え、 「本墳は後記後葉から末葉に編年されよう。 百舌鳥・市古古墳群の大型古墳の規模が縮小傾向にあるなかで、ある種、 復古的に巨大墳丘が築かれたととらえる見方もある」と主張するようになった。 「復古的」に築かれた「巨大墳丘」の代表は、丸山古墳である。 6世紀に入ると、前方後円墳は小型化して個数も減少して衰退の過程にあるが、 突如6世紀末に墳丘長318m(全国第6位)という突出した規模で、 古墳群に属さない孤立的な古墳として出現したのが丸山古墳である。 それは5世紀までの大型前方後円墳とは異なり、埴輪・葺石は確認されず、横穴式で前方部は平坦である。 そこに丸山古墳との共通性を見て、河内大塚山古墳を6世紀末と推定するのである。 《丹比古墳群の復元研究を提唱する論文》 一方、河内大塚山古墳は決して孤立的な古墳ではなく、また本来埴輪を有するはずだったと唱えるのが、 「 河内大塚山古墳の研究動向と周辺域古墳群の復原」と題された論文である(川内眷三;2014。〈論文/川内〉と略す)。 〈論文/川内〉は、これまでの河内大塚山古墳についての研究の積み重ねを概観し、 「今城塚古墳→河内大塚山古墳→五条野丸山古墳の順序立てが定説となり、 河内大塚山古墳を6世紀中期以降に位置づける後期古墳説が定まったといえる」とまとめた上で、 独自の視点を提起する。 曰く、同古墳は「百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間域とされ、単立して唯一、 この地に現存する巨大前方後円墳としてみられてきた」 〔=単一古墳として今城塚古墳・丸山古墳との比較のみで論じられたのが、これまでの研究である。〕 しかし「河内大塚山古墳を中心に地域を形成」する「丹比古墳群」という「消滅した古墳群跡」が確認できる。 〈論文/川内〉は、河内大塚山古墳周辺域の古墳の痕跡と見られるものまで詳細に調べ、その報告に論文全40ページのうち約18ページを費やしている。 さらに、「河内大塚山古墳の周辺域は、丹比郡土師郷の本貫地である蓋然性は極めて高く、 小規模古墳だけではなく、相当規模の古墳が立地し、 これに合わせて埴輪窯の生産がおこなわれていた可能性を想定しうる。」と述べる。 なお、〈倭名類聚抄〉に{河内国・丹比郡・土師郷}がある。 また〈論文/川内〉は「河内大塚山古墳未完成説」を取り上げ、 日置荘西町遺跡群の6世紀代の埴輪窯で製作された埴輪が河内大塚山古墳に使われる予定であったという説を紹介する。 その上で「河内大塚山古墳をはじめ周辺域の古墳群の埴輪窯の供給地は、直線で6.5kmもある日置荘西町埴輪窯に求めなくとも」 河内大塚山古墳の周辺域で調達されたと考えればよいとする。 確かに「埴輪が用いられる予定だったが、未完成だったから埴輪が出てこない」のと、 「もう埴輪のない時期に築陵したものだから埴輪が出てこない」のとでは全然違う。 〈論文/川内〉は「欽明没年の571年の段階で、葺石・埴輪はなくなって」いると述べるから、 河内大塚山古墳に埴輪が用いられるはずだったとすれば、その時期は6世紀半ばよりも前まで繰り上がる。 同地の埴輪窯跡から使われるはずだった埴輪が発掘され、その様式から年代が分かれば、 河内大塚山古墳の真実の築陵時期が確定するだろう。 《6世紀説は確定したか》 横穴式で埴輪・葺石がなく前方部が平坦な点が丸山古墳と共通するから丸山古墳と同時期であるとする論理は、 そんなに強力ではないように思われる。「埴輪がない」点については、既にそれを覆そうとする「未完成説」がある。 本来埴輪を有するなら、埴輪の実物を比較できない状況で「今城塚古墳よりも後にできた」と言い切ることにも疑問を感じる。 「横穴式」についても、宮内庁「陵墓参考地」として内部の自由な調査が禁じられている現状で、どれほど確かなことが言えるのだろうか。 さらには孤立的ではなく古墳群に属するとすれば、復古的に巨大墳が作られた「丸山古墳」と同類ではなくなる。 何よりも、雄略天皇紀を宋書や三国史記と比較検討したときに一定の史実性があることを考えれば、 書記の「葬二大泊瀬天皇于丹比高鷲原陵一」という記述が決していい加減なものだとは思われない。 そして〈諸陵寮〉の「兆域東西三町南北三町」からは、巨大古墳の姿が伺える。 また、〈論文/川内〉によれば百舌鳥古墳群と丹比古墳群の間の「松原市河合」「松原市我堂」「堺市北区南花田の東南」にも古墳跡があるという。 仮に百舌鳥古墳群から丹比古墳群までの連続性があれば、 大仙陵古墳から河内大塚山古墳までの時代の隔たりは縮まるかも知れない。 まとめ 清寧天皇紀は、元年に雄略天皇を葬ったと述べる。だから、雄略天皇陵は寿陵として築かれた。 しかし、大塚山古墳未完成説を前提とすれば、雄略が崩じたときにはまだ未完成であった。 そこで、一時的に小墳を作って安置した。 それがまさに島泉丸山古墳で、そこに「島泉丸山古墳=雄略天皇陵」なる伝承の原点があると考えてみると面白い。 同時に、あの未完の大墳丘が本来の雄略天皇陵だという伝承も残り、〈延喜式-諸陵寮〉の「東西三町・南北三町」に繋がったと考えてみる。 こうやって想像を膨らませてみるとなかなか面白いのだが、残念ながら根拠は薄弱である。 さて、雄略天皇に至り書紀との乖離は際立っている。 書記の事績は記にはほとんど書かれないが、 記の中で雄略天皇段は際立って長く、その中身はともかくとして文字数によって有数の古代大王の存在感を表現したように感じられる。 記紀それぞれの意義は、第209回のまとめで論じた通りである。 |
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2018.12.12(wed) [211] 下つ巻(清寧天皇1) ▼▲ |
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![]() 坐伊波禮之甕栗宮 治天下也 此天皇無皇后 亦無御子 故 御名代定白髮部 御子(みこ)、白髪大倭根子命(しらかのおほやまとねこのみこと)、 伊波礼(いはれ)之(の)甕栗宮(みかくりのみや)に坐(ましま)して、 天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此の天皇(すめらみこと)皇后(おほきさき)無(な)くありて、 亦(また)御子(みこ)無くありき。 故(かれ)、御名代(みなしろ)に白髪部(しらかべ)を定めたまふ。 御子、白髪大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)は、 伊波礼(いわれ)の甕栗宮(みかくりのみや)にいらっしゃいまして、 天下を治められました。 この天皇は皇后(おおきさき)なく、 また御子もありませんでした。 よって、御名代(みなしろ)として白髪部(しらかべ)を定めました。 しらか(白髪)…[名] しらが。〈時代別上代〉「続日本紀〔中略〕によれば〔中略〕、白髪のカは清音だったらしい傍証となる。」 おほやまとねこ…天皇への美称。「ね」の意味の解釈は難しい。 【真福寺本】
なお、「今」は、完全に「命」の誤写である。 【甕栗宮】 御厨子神社(式外社。奈良県橿原市東池尻町447)が跡地であると言われる (第210回《磐余甕栗》)。 【白髪】 〈時代別上代〉が「しらか」の項で触れた「続紀」の原文は、 「延暦四年〔785〕五月丁酉〔三日〕: 臣子之礼必避二君諱一。比者先帝御名及朕之諱。公私触犯、猶不レ忍レ聞。自レ今以後。宜二並改避一。於レ是改レ姓、白髪部一為二真髪部一、山部為レ山。」 〔臣子の礼、必ず君諱を避く。こは先帝及び朕の諱なり。公私の触犯なほ聞くに忍びず。今よりのち、なべて改め避くべし。ここに白髪部(しらかべ)を改め真髪部(まかべ)として、山部(やまべ)を山とす。〕である。 つまり、光仁天皇(天応元年〔781〕崩)の諱は「白壁」であるから 「白髪部」は「白壁(しらかべ)」と同音であろう、したがって「髪」は清音カであると〈時代別上代〉は述べているのである。 なお、「生まれながらに白髪」であったことについては、俗に「アルビノ〔先天的なメラニン生成不良〕」説がある。 【白髪部】 〈天武天皇紀-十二年九月〉に「白髪部造…凡三十八氏賜姓曰連」がある。「連」は八色の姓のうち第七位である。 〈姓氏家系大辞典〉は、畿内・遠江・駿河・常陸・美濃・備中に白髪部、 畿内・駿河・下総・常陸・上野・下野・石見・美作・備中・周防・肥後に真髪部を見出している。 〈倭名類聚抄〉には{常陸国・真壁郡・真壁郷}{上野国・勢多郡・真壁郷}{備中国・窪屋郡・真壁郷}がある。 〈延喜式神名帳〉には{武蔵国/播羅〔はら〕郡/白髪神社}。播羅郡は現在の埼玉県熊谷市付近にあたる。 《白髪神社》
その論社について〈大日本地名辞書〉は、 「別府は古き村にて〔中略〕春日社は、〔中略〕白髪神社なる由、式内神社考に見えたり」とある。 別府村は、現熊谷市内の「別府」及び「東別府」にあたる。 春日社は、明治42年〔1909〕に東別府神社(埼玉県熊谷市東別府778)に改称。 他に、高岡稲荷神社(埼玉県熊谷市妻沼1038)に「式内白髪神社」の石碑がある。 これについて「妻沼聖天山とその界隈」の中で、 『大日本史』からの引用として「白髪神社 今妻沼村に在り、白髪明神と称す。古へ大我井森に在り、後今の地に遷る」と述べている。 延喜式の時代に存在していたが、長い年月の間に移転や合祀があり、もはやその姿はぼやけていると思われる。 周辺の駿河・常陸・下総辺りに白髪部・真髪部があるから、武蔵国に居住していた白髪部が改称する以前に氏神としていたのであろう。 《他の白髪神社》 埼玉県には、他に白髪神社(埼玉県大里郡寄居町金尾(大字)256-1)、 白髪白山神社(埼玉県飯能市岩沢533)がある。<wikipedia>によれば、 その他秋田県、山形県、静岡県、福岡県、熊本県に各一社がある。 《白髪部連鐙》 〈孝徳天皇紀〉白雉元年〔650〕十月に、白髮部連鐙(しらかべのむらじ あぶみ)ら三名を安芸国に派遣して百済船を建造させた記事がある。 白髪部の個人名が出てくるのは、これが唯一である。 【御名代】 第148回《品陀真若王》、 第162回【石之日売】 の項において、各地の有力氏族による大王(おほきみ)持ち回り制を想定した。それは、有力氏族が皇太子を婿として預かり、 大王として戴き氏族の繁栄を得ると共に血筋の継続を保証する体制である。 その後の時代になっても皇子一人毎に氏族がバックアップする体制は続き、それが代替わりの度に後継争いで血を見る土壌となる。 それが極端に現れた事例が、雄略天皇が即位前に兄弟たちを軒並み殺したことであろう。 氏族が推戴した皇子が、必ずしも皇位を目指すとは限らないだろうが、御子・皇女ごとに氏族が添えられるのは通例であったと思われる。 それでは、「無二皇子一」の場合はどうなるのか。その場合は皇子の誕生を期待して待機していた氏族に、何らかの代償を与える必要が出てくる。 それが栄誉としての名前や、子孫を朝廷の役職に取り立てる確約と言うことになろう。 もちろん、天皇の側も我が子に代わる存在として愛着を感じたことであろう。 これが「御子なきが故に御名代を定めたまひき」の現実的な意味ではないかと想像される。
1目次 《白髮武広国押稚日本根子天皇》
大泊瀬幼武天皇(おほはつせわかたけるすめらみこと)の第三(だいさむの、みたりの)子(みこ)也(なり)。 母、葛城韓媛(かつらきのからひめ)と曰ひたまふ。 天皇(すめらみこと)、生まれながらにして[而]白髪(しらか)にて、 長(ひととな)りて[而]民(おほみたから)を愛(うつくしび)たまふ。 大泊瀬天皇(おほはつせのすめらみこと)の於(お)きたまへる諸(もろもろ)の子(みこ)の中(うち)、特(ひとり)所霊異(くすしきすがた)あり。 二十二年(はたとせあまりふたとせ)、 立たして皇太子(ひつぎのみこ)に為(な)りたまひき。
記の「大(おほ)」の部分が、反対語の「稚(わか)」に置き換わり、 「武広国押」が挿入されている。 「武広国押」は父の雄略天皇にこそ相応しいから、その子を意味する「稚(わか)」か。 あるいは父が「武で広げた国」の国造りを「推」し進める意味かも知れない。 《葛城韓媛》 ここでは特に「葛城」をつけることによって、「葛城円大臣の女(むすめ)」であったことを確認する。 ただし第162回で述べたように、 氏族「葛城氏」の明確な実体は見えず、「葛城地域にあった諸族」程度の意味合いであろうと察せられる。 とは言え、書紀は伝承により「仁徳朝~雄略朝の時期には、偉大な氏族として確固とした地位を占めていた」 と位置づけたように思われる。 《第三子》 稚媛が生んだ磐城皇子、星川稚宮皇子を数に入れていると思われる。 《大意》 白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)は、 大泊瀬幼武(おほはつせわかたけるの)天皇の第三子です。 母は、葛城韓媛(かつらきのからひめ)といいます。 天皇は、生まれながらにして白髪(しらか)で、 長じて民を慈しみされました。 大泊瀬天皇が設けた諸子のうちでは、特に霊異な姿でありました。 二十二年、 皇太子(ひつぎのみこ)に立たれました。 【書紀―二年二月】 4目次 《於諸国置白髪部》
天皇、子(みこ)の無きを恨みたまふ。 乃(すなはち)大伴室屋大連(おほとものむろやのおほむらじ)を遣はして、 [於]諸(もろもろ)の国に、白髪部(しらかべ)の舎人(とねり)、 白髪部の膳夫(かしはで) 白髪部の靫負(ゆけひ)を置かしめてのたまはく、 「冀(こひねがはくは)遺(のこ)せる跡(あと)を垂(た)れて[於]後(のち)に観(み)令(し)めたまへ。」とのたまひき。 《舎人・膳夫・靫負》 書紀では「白髪部」を三分割して、それぞれに舎人・膳夫・靫負を割り振っている。 同じ内容が、更に〈継体天皇紀〉元年二月の大伴金村大連の言葉の中にある。 曰く、 「白髪天皇無レ嗣。遣二臣祖父大伴大連室屋一、毎レ州安二-置三種白髪部一【言二三種者一白髮部舍人、二白髮部供膳、三白髮部靫負一也】」 〔白髪天皇嗣無し。臣の祖大伴大連の室屋を遣はして州毎に三種の白髪部を安く置かしめたまひき【三種とは、一に白髮部舍人、二に白髮部供膳、三に白髮部靫負を言ふ。】〕。 しかし「白壁部舎人」の類は氏族名としては存在せず、実際に確認できるのは単なる「白髪部」である。 言うまでもなく、舎人・膳夫・靫負とは、朝廷を支える司(つかさ)を構成する組織の呼び名である。 従って、「於諸国、置二白髪部舎人・白髪部膳夫・白髪部靫負一」とは、 諸国に置いた白髪部から一定の人数を京に出仕させ、舎人・膳夫・靫負に配置する体制を作ったという意味であろう。 《冀》 副詞「冀」の訓「こひねがはくは」はかなり固定的である。漢文としてはこの字の並びで特に問題はないと思われるが、 和語においては「こひねがはくば」は一人称に使うべきものであって、三人称にすると「〔天皇は〕…とこひねがひたまひき」と訓読せざるを得なくなる。 これでは原文からニュアンスが離れすぎて、使い物にならないから、 「曰」が隠れているものとして訓読すべきである。 〈岩波文庫版〉では「ねがはくは、のこりのあとをたれて、のちのよにみしめむとなり。」と訓み、 「曰」を加えることをぎりぎりのところで避けているが、 これを最初から和語で書かれた文のつもりで読むと言葉足らずに感じられる。ところで「のこりのあと」とは何であろうか? 《大意》 二年春二月、 天皇は、皇子の無いことを残念にお思いになりました。 そこで大伴室屋大連(おおとものむろやのおおむらじ)を遣わして、 諸国に白髪部(しらかべ)の舎人(とねり)、 白髪部の膳夫(かしわで)、 白髪部の靫負(ゆきおい)を置かせて、 「冀(こいねが)わくば、朕の遺した跡を後世に垂示(すいし)させてほしい。」とおっしゃりました。 まとめ 日本武尊の御名代「建部」が膨大な数の白鳥神社を残している(第134回)のと比べて、 白髪神社の数の少なさは際立っている。 白髪部は八色の姓の第七位「連」にとどまり、書紀に名前が出ているのは連鐙一人であるから、中堅クラスの官僚群を供給していたように思われる。 建部には民間の巨大な宗教教団のイメージがあるが、白髪部には宗教色はあまり感じられず朝廷に仕えて職務を忠実にこなす実務集団であり、 同じ「名代部」でも両者の性格には大きな違いがある。雄略朝・清寧朝に至り、漸く国の組織的な整備が進みつつあったということだろうか。 倭建命は西国・東国に進出した複数の将軍からなる集合人格であろうとこれまでに述べてきた。 畿内政権が関東を侵攻し始めた端緒は、房総半島にある発生期の前方後円墳「神門5号墳」の頃ではないかと考えた (第123回)。 仮に関東侵攻が4世紀初頭に始まり、金錯銘鉄剣の5世紀後半には一応支配下にあったとする。 建部の成立をその間の4世紀後半と想像すれば、白髪部よりおよそ100年以上昔ということになる。 その時代の隔たりが、建部と白髪部の性格の違いを生んだように思われる。 |
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2018.12.23(sun) [212] 下つ巻(清寧天皇2) ▼▲ |
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![]() 後 無可治天下之王也 於是 問日繼所知之王 市邊忍齒別王之妹 忍海郎女亦名飯豐王 坐葛城忍海之高木角刺宮也 故(かれ)、天皇(すめらみこと)崩(ほうじ、かむあがりしたまひ)て、 後(のち)に、天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ可(べ)き[之]王(みこ)無し[也]。 於是(ここに)日継(ひつぎ)の所知之(しらしめす)王(おほきみ)やいかにと問ひまつりて、 市辺忍歯別王(いちのへのおしはわけのみこ)之妹(いも)、 忍海郎女(おしぬみのいらつめ)、亦の名は飯豊王(いひとよのみこ)、 葛城(かつらき)の忍海(おしぬみ)之(の)高木(たかき)の角刺宮(つのさしのみや)に坐(ましま)す[也]。
そして、天皇(すめらみこと)は崩じ、 その後、天下を治めるべき王(みこ)がありませんでした。 そこで、日継(ひつぎ)知らしめす王(おおきみ)はいかがでしょうかと問い、 市辺忍歯別王(いちのへのおしはわけのみこ)の妹、 忍海郎女(おしぬみのいらつめ)、別名は飯豊王(いいとよのみこ)が、 葛城忍海の高木の角刺宮にて即位されました。 とふ…[他]ハ四 ① 問い尋ねる。占いに問う場合もある。② 訪問する。 問…[動] ① とう。② 責任・罪を問いただす。[名] 手紙。(古訓) とふ。とふらふ。おくる。 【真福寺本】 岩波『日本古典文学全集』版「古事記 祝詞」によると、諸本には「所知之王」の下に「也」の字があるが、真福寺本にはないという。 この「也」の有無は、以下に述べるように記の解釈に大きな影響を及ぼす。
《とふ》 宣長は「也。」をつけて、「○問は斗布爾と訓べし、求め尋ぬる意なり」とのべる。 「也」があればその通りであろうが、はたして問を「求む」という意味で用いることは可能であろうか。 万葉の「(万)0455 芽子花 咲而有哉跡 問之君波母 はぎのはな さきてありやと とひしきみはも」 の例では、探索ではなく選択肢を示して相手の判断を聞いている。万葉歌の「とふ(問)」はこの用法ばかりである(右表)。 記は「探索」の意の動詞には、「まぐ」、「もとむ」(求・覓)を用いている。 ――「求下謂二意富多多泥古一人上」 〔オホタタネコ(大田田根子)といふ人をまぐ〕 (111回)。 ――「以三-為人有二其河上一而尋覓上往」 〔その河上に人有りとおもひて、尋ね覓ぎ上り往く〕 (第52回)。 真福寺本以外の諸本は、宣長と同じく「覓」の意と解釈して「也」を補ったと思われる。 ここでは、万葉集の「とふ」の用法に従って、 飯豊王に「新しい天皇が決まるまでの繋ぎをしていただけますか」と依頼したと読むのがよいだろう。 《市辺忍歯別王之妹忍海郎女亦名飯豊王》 「也」がない真福寺本で問題になるのは、「市辺忍歯別王之妹忍海郎女亦名飯豊王」〔以後〈市辺…飯豊王〉と略す〕の文法上の位置づけである。 「問日継所知之王」に直接する 〈市辺…飯豊王〉は、質問を投げかけた相手である〔第二目的語;"~に"〕。 そのつもりで読み進めると、〈市辺…飯豊王〉がいつの間にか「坐」の主語になっている。 「大雀命坐二難波之高津一宮治二天下一也」の例を見れば、〈市辺…飯豊王〉は「坐」の主語である。 だから、宣長のように「也。」を入れて文を切断しようとするのである。 だが、それでは問う相手が消えるから、「問ふ→尋ぬ→覓ぐ」と意味を拡大する。 ところが、それは万葉集・古事記における「問」の使い方ではない。 本来は 「問日継所知之王於忍海郎女而忍海郎女亦名飯豊王坐葛城忍海之高木角刺宮也」 で、太字の部分が省略されたと見るべきであろう。 或いは、ある時期までは「問日継所知之王忍海郎女忍海郎女亦名…」だったものを、 筆写者が「忍海郎女」の重複が誤りだと判断して削除したことも考えられる。 【日継所知之王】 前項の如く分かり難くなったのは、恐らく一度書いた文に修正を加えたためだと推察する。 修正する前は、ずばり、 「故天皇崩 市邊忍齒別王之妹忍海郎女亦名飯豐王 坐葛城忍海之高木角刺宮治天下也」 であったと想像する。 ただし、これは「飯豊天皇即位」を意味する。 ところが、何らかの事情で「飯豊天皇」は止めになった。 そして「天皇不在の間を繋いだだけ」ということになったので、 「治天下」を消して、「無可治天下之王也 於是問日繼所知之王」 を挿入した。 その結果、繋がりが分かり難い文になった。 そればかりか、単なる「繋ぎ」の意味で用いた「日継」は、神を起源とする血統を嗣ぐ意味でもある。 さらに単なる政務をする人の意味で用いた「所知」は、実際には天皇の統治と区別できない。 なお、万葉に頻出する「天下をしらしめす」は、「をさむ」という俗っぽい語は恐れ多いから「天下のことをご存知でいらっしゃる」と婉曲表現したことに由来すると思われる。 「天皇」を「みかど(御門)」というのと同じ。 こうして天皇の「治天下」を避けて「日継所知之」にしたはずだったが、皮肉なことに却って天皇を上回る表現になってしまった。 一方、書紀は「天皇による統治ではない」ことを表すために「臨朝秉政」を用いた。この珍しい言い方に、苦心が偲ばれる。 記の編者自身が、天皇以上の表現になったことに気付かない筈はないのだが、これ以上の訂正をしないのは、 この修正を本心から納得していなかったことの表れではないかと推測する。 【忍海】 神功皇后紀において、葛城襲津彦は新羅から連れ帰った俘人を四邑に置いたが、そのひとつが「忍海」である (神功皇后三年)。 忍海郡は葛上・葛下両郡に挟まれた狭い郡で、〈倭名類聚抄〉では「於之乃美〔おしのみ〕」と訓まれる。 顕宗天皇即位前紀(後述)の歌謡では「於尸農瀰〔おしぬみ〕」であるから、 ウ→オ〔甲乙は消滅〕は8世紀初頭(書紀)から10世紀前半(倭名類聚抄)までの経年変化と思われる。 オシヌミは「おしの乙+うみ」の母音融合と見られる。 海は遠いのに「忍"海"」は、不思議である。 想像を逞しくすれば、紀伊国海部郡辺りからやってきた「おしのうみ」族が住み着いた土地か。 これまでに(第108回)、 建内宿祢一族の本貫は紀伊国ではないかと推定した。 【飯豊王】
ところが、顕宗天皇即位前紀(下記)では、「飯豊青皇女」は市辺之忍歯王の王女で、顕宗天皇・仁賢天皇の姉である〔妹説を併記〕。 それでは「飯豊青」と「飯豊」は別人か。 だが、記では「飯豊郎女」は「葛城忍海之高木角刺宮」に坐して「日継所知之王」となり、 顕宗前紀では「飯豊青」は「忍海角刺宮」に於いて「臨朝秉政」するから、 両者は同一人物である。 血縁関係の不統一はそれぞれが異なるソースを用いた結果と見られ、それが未調整のまま放置されていることを示す。 飯豊青皇女による秉政もしくは日継は、元正天皇(第44代、女性)が甥の聖武天皇が成人するまでの間天皇位に即いたことに類似している。 飯豊(青)皇女は弘計天皇から見て、記・履中紀では叔母、弘計紀では姉にあたる〔「妹」説は、ストーリーが成り立たない〕。 どちらにしても、市辺之忍歯王の親族が皇位を継ぎ、政治力を発揮して顕宗天皇を即位させたとすれば、 小楯による弘計王・億計王発見の物語は、史実性が薄くなる。 《事実上の天皇》 書紀は「自称忍海飯豊青尊」と述べてケチをつけているが、 記の「問」という語には、大臣が三顧の礼をもってオホキミとして迎え入れる様が伺える。 これまでに述べたように、「日継所知之王」の表現は、天皇以上である。 書紀もその「死」に、天皇専用の「崩」〔例外は神功皇后と日本武尊〕を使うから、 天皇と同レベルのオホキミであったことを密かに認めている。 忍海飯豊青尊の存在は「二御子発見」の筋書きにおいては余分なことだが、 それでも書かざるを得なかったのは、寧ろ確実な文書記録があったことを示す。 そもそも誰を天皇にするかの認定は、記紀においてなされたものである。 その認定は記紀で一致するから、両執筆者より上のレベルで決められたと考えられる。 日本武尊についてはぎりぎりまで揉めた気配があるが、 飯豊青尊も一度は天皇であった痕跡が、「日継所知之王」や「崩」という表現に残る。
【高木角刺宮】 《角刺の訓み》
〈倭名類聚抄〉には「角【古岳反豆乃】〔音カク、〔和名〕つの〕」。「乃」は乙類であるが、 地名「角鹿」は「都奴賀」と書かれるから、「ツノ」は「都奴=つの甲」であろう。 倭名類聚抄の時代には甲乙の区別は消失している。 地名「都奴賀」が出てくるのは神功皇后段(第145回)で、 「高志前之角鹿」とあり、かつ 「号二其浦一謂二血浦一今謂二都奴賀一也」 〔その浦をなづけ血浦と謂ひ、今にツヌガと謂ふ〕と書かれる。また、 垂仁天皇元年に「都怒我阿羅斯等」〔つぬがあらしと、人名〕がある。 奴・怒には、「ヌ」と「ノ甲」があるが、 〈倭名類聚抄〉の{越前国・敦賀【都留我】〔つるが〕}を見るとやはり「つぬが」であるように思われる。 さて角刺に話を戻すと、『五畿内志』〔1734〕(次項)では「ツノサシ」 とルビが振られている。 一方、本居宣長の『古事記伝略』〔1798〕では、「ツヌサシ」とする。 これは「奴」の類を必ずヌとは発音する江戸時代の国学者の見解によるものであろう。 《五畿内志》
そこで『五畿内志』を調べると、大和国之八「忍海郡【古蹟】」の項に次の記載がある。曰く。 「角刺宮 【在二忍海村一 清寧天皇崩皇子億計弘計兄弟以レ位相譲十有月 姉飯豊尊聴二政於此一今村民建レ祠祭レ之域内有レ域内有レ寺号二忍海寺一】」 〔聴政…政務をとること〕 〔忍海村に在す。清寧天皇崩じ、皇子億計弘計兄弟、位をもて相譲ること十有月。 姉飯豊尊、政(まつりごと)此に聴く。今村民祠を建てて之を祭る。域内に寺有り、忍海寺と号す〕。 忍海寺の本尊は「十一面観音菩薩立像」で、「Web版 浄土宗大辞典」によると、平安時代のものという。 五畿内志の頃には、村民に角刺神社が角刺の宮という言い伝えがあったわけである。 「奈良県遺跡地図Web」を見る限り、 この辺りの場所が発掘調査された記録はないので、未知の宮殿遺跡が埋まっていることも、全くないとは言いきれない。 【書紀―三年七月】 7目次 《飯豊皇女》
人に謂(のたま)へらく[曰] 「一(ひとたび)女道(をみなのみち)を知る、又(また)安(いづくにそ)異(こと)にある可きか。終(つひ)に[於]男(をのこ)と交はるを不願(ねが)はず。」とのたまへり。 【此の夫有りと曰ふは、未(いまだ)詳(つまひらか)にあらず[也]。】 《終不願交於男》 「一知女道又安可異。終不願交於男。」は、一般に「男性と交わるのはこの一回だけでよい。」と解釈されている。 しかし、それが何を意味するのか計り知れないので、「異」の意味は「二回目」ではなく「二人目」ではないだろうか。 この文は「他の男とは一生交わらない。」、 すなわち貞操を誓ったと読み取る方が自然に思える。 とは言え、もともとが他愛のない俗話だったとすれば、「もう一切男性とは交わりません」でも差し支えないであろう。 《角刺宮》 記には「坐…角刺宮」と書くが、 この言い方は通例、天皇がその地を都と決めて即位することを意味する。 書紀は「天皇が即位する」印象を少しでも薄めるために、 清寧三年にこの話を置いて「以前から角刺宮に住んでいた」ことを見せようとしたと思われる。 《大意》 飯豊皇女(いひとよのみこ)は、角刺宮(つのさしのみや)にて夫と初めて交わりました。 皇女はある人に、 「一つの女の道を知りました。他に何がございましょう。一生〔他の〕男と交わろうとは思いません。」と語りました 【この「夫有り」は、いまだ詳らかではない。】。 【書紀―五年】 10目次 《天皇崩》
冬十一月(しもつき)庚午(かのえうま)朔戊寅(つちのえとら)〔九日〕、[于]河内(かふち)の坂門原陵(さかとのはらのみささき)に葬(はぶ)りまつる。
五年正月十六日、天皇は宮で崩じました。その時、御年は若干でした。 十一月九日、河内の坂門原(さかとのはら)に陵に葬りました。 【河内坂門原陵】 〈延喜式諸陵寮〉に曰く。 「河内坂門原陵:磐余甕栗宮御宇清寧天皇。在二河内国古市郡一。兆域東西二町。南北二町。陵戸四烟。」。 宮内庁治定の「清寧天皇河内坂門原陵」は、考古学名「白髪山古墳」(大阪府羽曳野市西浦6丁目)、墳丘長115m。 羽曳野市公式ページ<清寧天皇陵古墳>によると、 「くびれ部の北側には造出しが存在します。 さらに平成15年度〔2003〕の調査で二重目の濠が存在することが判明しました。 これらの調査で出土した埴輪などから古墳の築造は6世紀前半頃であったと考えられています。」という。 《築陵時期》 清寧天皇元年は庚申年とされるので、同四年は484年に対応するから、「5世紀前半」では時期にずれがある。 近くにある軽里大塚古墳(日本武尊白鳥陵、墳丘長190m)は5世紀後半と言われるので、これの方が時期は合い、 また、延喜式の兆域「東西二町南北二町」〔約216m〕にも合っている。 【顕宗-1】 顕宗1目次 《弘計天皇》
大兄去来穂別天皇(おほえのいざほわけのすめらみこと)の孫(みまご)にて[也]、 市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子(みこ)也(なり)。 母(みはは)、荑媛(はえひめ)と曰ふ 【荑、此(こ)を波曳(はえ)と云ふ。】。
市辺押磐皇子、蟻臣(ありのおみ)の女(むすめ)荑媛(はえひめ)を娶(めあは)せて、 遂に[生]三(みたり)の男(みこ)、二(ふたり)の女(ひめみこ)、 其(その)一(ひとり)居夏媛(をなつひめ)と曰ふ、 其二(ふたり)億計王(おけのみこ)、更に名は嶋稚子(しまのわくご)、更名は大石尊(おほしのみこと)と曰ふ、 其三(みたり)弘計王(をけのみこ)、更に名は来目稚子(くめのわくご)と曰ふ、 其四(よたり)飯豊女王(いいとよのひめみこ)、亦の名は忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)と曰ふ、 其五(いつたり)橘王(たちばなのみこ)と曰ふをうみたまへり。 一本(あるふみ)に、飯豊女王を以ちて、[於]億計王之(の)上に列叙(なべしる)しき。 蟻臣者(は)、葦田宿祢(あしたのすくね)の子也(なり)。】
常(つね)に見枉屈(みをまげゆる)こと、四体(み)を溝隍(みぞ)に納(をさ)む若(ごと)し。 徳(のり)を布(し)きて恵(めぐみ)を施(ほどこ)して、政(まつりごと)令流行(あまねは)したまふ。 貧(まづしきひと)を䘏(あはれ)びて孀(やもめ)を養ひて、天下(あめのした)に親(みづから)附(よ)りたまふ。 《譜第》 漢籍の「譜第」は、祖先や同族の系図の書を一般的に意味する。 一部に「『令集解』の職員・治部省条に『古記に云う、譜第とは天下人民の本姓の札名也』とある」 という解説を見るが、『国史大系12』版(経済雑誌社;明治33年)にはこの文がない。 但し、「譜第」という語自体は、「大解部四人:掌レ鞠二-問譜第争訟一。」に出てくる。 これは、「家系に関する訴訟」程度の意味である。「鞠問」は、審問と同じ。 この条でいう「譜第」が、具体的にどのような書であったのかは不明である。 《飯豊女王》 「譜第」からの引用として飯豊女王を含む市辺押磐皇子の五王子を示し、さらに飯豊女王を二王子の姉に置く別書の存在を示す。 顕宗天皇即位前紀(白髪五年条)では「姉」説を用いている。 《大意》 弘計天皇(をけのすめらみこと)【更なる名は来目稚子(くめのわくご)】、 大兄去来穂別天皇(おおえのいざほわけのすめらみこと)の御孫、 市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の皇子です。 母は、荑媛(はえひめ)と言います。 【譜第に云う。 市辺押磐皇子は、蟻臣(ありのおみ)の女(むすめ)荑媛(はえひめ)を娶り、 三男二女を生んだ。 その一に曰く、居夏媛(おなつひめ)。 その二に曰く、億計王(おけのみこ)、更なる名は嶋稚子(しまのわくご)、更なる名は大石尊(おおしのみこと)と云う。 その三に曰く、弘計王(をけのみこ)、更なる名は来目稚子(くめのわくご)と云う。 その四に曰く、飯豊女王(いひとよのひめみこ)、またの名は忍海部女王(おしぬみのひめみこ)と云う。 その五に曰く、橘王(たちばなのみこ)。 ある出典には、飯豊女王を、億計王の上に列叙する〔=記す〕。 蟻臣は、葦田宿祢(あしたのすくね)の子である。】 天皇は、久しく辺境の末裔として生活し、悉く人民の憂苦をご存知です。 常に屈折させられ、それは四肢を溝に押し込まれたごとくでありました。 徳を広げ恩恵を施し、政(まつりごと)を遍(あまね)く行き渡らせました。 貧民を憐み寡婦を養い、天下に自らの身を寄せられました。 【顕宗-7】 顕宗7目次 《白髮天皇崩》
白髪天皇(しらかのすめらみこと)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 是の月、 皇太子億計王、天皇の位(くらゐ)を譲(ゆづ)らゆるに与(あづか)らずありて、久しくありて[而]不処(おかず)。 是に由(よ)りて、 天皇の姉(あね)飯豊青(いひとよあを)の皇女(みこ)、[於]忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや)にて朝(みかど)に臨(のぞ)みて政(まつりごと)を秉(にぎ)りて、 忍海飯豊青尊(おしぬみのいひとよあをのみこと)を自ら称(なの)りたまふ。 当世(とき)の詞人(うたびと)歌(うたよみ)して曰はく。
莒能陀哿紀儺屢(こ乙の乙たかきなる) 都奴娑之能瀰野(つの甲さしのみや)
飯豊青尊崩(ほうじて、かむあがりしたまひて)、葛城埴口丘陵(かつらきのはにくちのみささき)に葬(はぶ)りまつる。 《歌意》
「忍海区」製作のパンフレットの解説には、「…と褒めたたえられた、立派な宮であったと考えられます。」と解釈している。 「たかき」には、一般的に「高城」が宛てられている。 〈時代別上代〉も「たかき(高城)」の用例の一つにこの歌を挙げる。 しかし、記は角刺宮を「高木角刺宮」と書く。記でも「城」の字は多数使われているので、もし「高城」ならここだけ「城」を「木」の字で表す理由はない。 〈釈紀〉は「このたかきなる」を 「木高也。言不レ能也。今世謂二不レ能之振舞一曰二木高一。此因縁歟。」 〔「木(こ)の高き」なり。言ふに能(あた)はざるなり。今の世に能はざりし振舞を謂はく、木高しと曰ふ。この因縁(いんねん)なり。 =言葉にできない素晴らしさを言う。現在、不可能な振舞のことを「木高し」と言うからその関連であろう〕と解釈する。 ただ、〈釈紀〉の解釈は飛躍しすぎではないだろうか。 記の「高木」を見れば、文字通り「高い木」が立っていたことに由来する地名、あるいは枕詞であるように思われる。 さて、角刺宮がそんなに立派だとすれば、飯豊青尊「事実上の天皇」説を裏付けることになる。 わざわざ清寧三年条で「角刺宮は以前から住んでいた家」と描き、新たに宮殿を建てるほど飯豊青尊が特別な地位に登ったわけではないと印象付けた。 そのせっかくの工夫を、この歌は台無しにしたのである。 《埴口墓》
〈五畿内志〉大和国之七「葛下郡【陵墓】」には、 「埴口墓【飯豊皇女○在二北花内村一 天和中桑山氏毀レ墓 建二八幡神祠一】」 〔北花内村に在す。天和〔1681~1684年〕中、桑山氏墓を毀(こぼ)ちて八幡神の祠を建てり〕 とある。 《大意》 〔清寧天皇〕五年正月、 白髪天皇(しらかのすめらみこと)は崩じました。 この月、 皇太子の億計王(おけのみこ)は、天皇の位を譲られても関与せず、久しく天皇は不在でした。 これにより、 天皇の姉、飯豊青(いひとよあお)の皇女(ひめみこ)は、忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや)て朝廷に臨み、政(まつりごと)を握り、 忍海飯豊青尊(おしぬみのいひとよあおのみこと)を自称しました。 当時の歌詠み人は、このように歌いました。 ――大和辺に 欲見(みがほし)物は 忍海(おしぬみ)の 此の高木なる 角刺の宮 十一月、 飯豊青尊は崩じ、葛城の埴口丘陵(はにくちのみささき)に葬られました。 【扶桑略記】 『扶桑略記』には、「飯豊天皇」が出てくる。 それでは、どのように書かれているのであろうか。 『扶桑略記』は、延暦寺の学僧皇円(1169没)が編んだ私的な歴史書で、 神武天皇から堀川天皇の寛治八年〔1094年〕までを編年体で著したもの。 内容は大まかに言って六国史※の要約に仏教記事をプラスしたものである。 ※…日本書紀、続日本紀、日本後記、続日本後記、二本文徳天皇実録、日本三大実録。 雄略天皇条の二十二年七月に、長文の浦嶋子伝説があることが目を惹く。 さて、「飯豊天皇」条は、書紀の引用と独自の内容からなる。 《飯豊天皇条》
陵のところに「一云坂門原南陵。」とあるのは、ユニークである。 『扶桑略記』の白髪天皇条を見ると、「河内国古市郡坂門原陵【高二丈。方二町。】」となっている。 同書は、宮内庁が「白鳥陵」「清寧天皇陵」に治定した古墳を、それぞれ「坂門原陵」「一云坂門原南陵」と見ているらしい。これだと〈延喜式〉の「兆域」にも合う。 次に、飯豊天皇は「第二十四代」とされる。 記紀では清寧天皇が第二十二代であるから、もう一人誰かが天皇に加えられていることになる。 その一人とは、「神功天皇【十五代 治六十九年 王子一人即位 女帝始レ之】」であった。 この二人は記紀においても実質的には天皇だったから、その方が合理的だろうと考えて天皇に加える潮流があったことが伺える。 それでも、日本武尊を天皇に入れないことが興味深い。 景行天皇条には日本武尊の記載が全くなく、仲哀天皇条に「日本武尊二男」とあるのが唯一である。 平安時代の一般的に評価が低かったのかも知れない。異端の英雄と見られていたということであろうか。 まとめ 弘計・億計兄弟は、雄略天皇に執拗な追及から逃れて身を隠していた。 飯豊女王は、女性であるが故に赦され、葛城氏族に身を寄せていたのかも知れない。 さて、記と書紀では、事柄の起こった順番が異なる。 記:清寧天皇崩→飯豊日継所知之王就任→二王子発見→顕宗天皇即位。 書紀:二王子発見→清寧天皇崩→忍海飯豊青尊の臨朝秉政→顕宗天皇即位。 飯豊女王「即位」への経緯について、 記は清寧天皇の崩によって空位が生じ、それを憂えた大臣たちの要請によって「日継知ろしめす大王」を引き受けたものとする。 それに対して書紀は、億計王が即位を躊躇っている間に、「自ら政を秉(にぎ)った」と描かれている。 このようにして、書紀は記に比べて「天皇に類する位(くらい)」に登った正当性をより弱めようとしているのは明かである。 とは言え記紀の間に漂うこの曖昧さこそが、その後も「飯豊天皇」論を生む土壌になっていると言えよう。 書紀が飯豊女王の「天皇に類する位」からなるべく正統性を消そうとした動機については、これから読み進める中で検討していきたい。 |
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2019.01.02(wed) [213] 下つ巻(清寧天皇3) ▼▲ |
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![]() 到其國之人民名志自牟之新室樂 於是盛樂酒酣以次第皆儛 爾(ここに)山部連(やまべのむらじ)の小楯(をたて)針間国(はりまのくに)之(の)宰(みこともち)を任(お)ひまつりし時、 其の国之(の)人民(おほみたから)、名は志自牟(しじむ)之(の)新室(にひむろ)に到りて楽(うたげ)せり。 於是(ここに)楽(うたげ)盛(さかり)に酒(さけ)酣(たけなは)にありて、以ちて次第(つぎつぎ)皆儛へり。 故燒火小子二口居竈傍 令儛其少子等 爾其一少子曰汝兄先儛 其兄亦曰汝弟先儛 如此相讓之 其會人等咲其相讓之狀 故(かれ)火(ほ)焼(た)く小子(わらは)二口(ふたり、ふたつ)竈(かまど)の傍(かたはら)に居(を)りて、 其の少(をさな)き子等(ら)に儛(ま)は令(し)めき。 爾(ここに)其(そ)の一(ひとりの)少子(わらは)曰はく、汝兄(なせ)先(ま)づ儛へといひて、 其の兄(このかみ)亦(また)曰ひて、汝弟(なおと)先づ儛へといふ。 此(こ)の如く之(こ)を相(あひ)譲(ゆづ)りて、 其の会(つど)ひし人等(ら)其の相譲之(あひゆづりし)状(さま)を咲(わら)ひき。 さて、山部連(やまべのむらじ)の小楯(おたて)を針間国(はりまのくに)の宰(みこともち)に任じて派遣した時、 その国の民、名前は志自牟(しじむ)の新室(にいむろ)〔=新築の家〕に着き、宴が催されました。 そして宴は盛り上がり、酒も酣(たけなわ)となり、次々に皆が舞い踊りました。 そして火焚(ほたき)の童(わらわ)二人が竃(かまど)の傍らにおり、 その童たちにも舞えと命じました。 するとその一人の童は、お兄さんが先に舞えよと言い、 その兄もまた、弟のお前が先に舞えと言います。 このように順番を譲り合い、 宴に集うていた人たちは、その譲り合う様を見て笑いました。 焼…(古訓) やく。もゆ。たく。 小子…(万)1291 此岡 草苅小子 このをかに くさかるわらは。 任…(古訓) をふ。まかす。あたる。もちいて。 にひむろ…[名] 新築の家。 酣…(古訓) たけなは。(神武天皇紀)。 たけなは…[形動] 酒宴などの最中、あるいは盛りを過ぎた状態。 つぎつぎ…[副] 継ぎ、また継いで絶えぬさま。 なせ(汝兄)…[名] 兄、夫など親しく男子を呼ぶ語。 なおと(汝弟)…[名] 弟を親しんで呼ぶ語。
《小子二口》 真福寺本の「小子」は、一般には「少子」とされる。次に出てくる「令儛其少子等」に合わせたと見られるが、意味は変わらない。 氏庸本の読み方は個性的で、「火」を「大」と見て「大小」を「アニヲト」〔兄弟〕と訓む。ただ、記紀と万葉集を通して「大小」を兄弟の意味に使った例は他にはない。 「二口」を真福寺本は「后」とする。 「后」は「後」と同じ意味の名詞だが、この位置に置くときは副詞化して「のちに」になる。 しかし「火を焼きて後に竃の傍らに居り」ではかなり不自然だから、やはり誤写であろう。 助数詞としての「口」は他に一か所あり、そこでは刀を数えている。 人を数える助数詞は「人」または「柱」ばかりで、「口」はこれが唯一である。 だから仮に「二口」も誤写だとすると、考え得るのは「等」であるが、「二口」が誤写であるとも言い切れない。 欽明天皇紀では量詞「口」を、「高麗奴六口」など奴婢または俘虜の人数に用いている。 これは、魏志倭人伝で奴婢を指す「生口」と、通ずるものがある。 「少子二口」も正しいとすれば、兄弟の境遇が奴婢同然であったことを示す。 その訓については、欽明紀の「口」の古訓は「~つ」ではなく、「~たり」であるが、これは平安時代の解釈である。 上代には奴婢を物扱いして「ふたつ」が用いられた可能性はある。 しかし「二口」と表記した上で「ふたり」と発音した可能性があり、微妙である。 何れにしても意祁・袁祁が市辺之押歯王の王子であると判明した後は「二柱」になっており、 その落差を強調したと考えることができる。 《如此相譲之時》 「相譲之時」が一般的であるが、真福寺本には「時」がない。 「時」があるとすると、すぐ後に「其相讓之状」があるので、あまり優雅ではない。 「相譲之」のままでも「こをあひゆづりて」と訓めるので、真福寺本のままで問題はない。 【宰・国司】 小楯の役職「針間国宰」〔宰:みこともち〕は、書紀では「播磨国司」と表現される。 「国司」は一般に大宝律令・養老律令における「四等官制」の役職を指す。 「四等官制」は、律令によって定められた省庁ごとの組織の基本形態で、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(まつりごとひと)・佑官(さかん)を骨格として構成される (資料[24])。 清寧天皇の時代は律令より200年ほど昔であるから、書紀の「国司」は呼び名を遡らせたものである。 「国造」〔くにのみやつこ〕が、在地の豪族に与えられた称号であるのに対して、 「国司」は中央官僚を派遣して監督させた性格が見える。 「みこともち」の語源が「大王の御言を地方に持って行く者」であることも、 宰・国司の役割を物語っている。 書紀が「司」の伝統訓が「みこともち」なのは、記の「宰」が影響したように思われる。 顕宗即位前紀の「播磨国司…小楯…親弁新嘗供物」は、 既に国司になった小楯が自ら新嘗の供物を弁別したという文章だが、 清寧紀二年の「遣於播磨国司…小楯」からは、 「小楯を播磨国司に任命して、現地に赴かせた」という順序性が読み取れる。 小楯は伊予来目部の棟梁として都に出仕しつつ、中央政権の官僚として播磨国に派遣されたのである。
【志自牟・縮見】 〈倭名類聚抄〉に{播磨国・美嚢【美奈木】〔みなき〕郡・志深【之々美】〔ししみ〕郷}がある。 この地には美嚢郡志染村が、1889年~1954年の期間に存在した (顕宗即位前(二)《縮見》)。 【伊予来目部】 小楯を、書紀では「山部連先祖伊予来目部小楯」とし、 後に顕宗紀元年三月に、二王子発見の功績により「山辺連」の氏姓を賜ったと書かれる。 《姓氏家系大辞典》 「伊予の来目部」について、〈姓氏家系大辞典〉は「伊予の来目部:当国には久味国造※1、久米直等ありて、 此の族の栄えし事、クメ条にて云へり。」、 そして小楯が播磨国司であったことついて、 「愛媛面影※2に、「久米の浄土寺の辺に、播磨塚と云ふ古墳あり…」…久米邑の名の残れるを思へば、国造の治所も此の辺にて、 石室は国造家一族の墳墓なるべし。」と述べる。 さらに、伊予の「久米直」の項で、久米直(あたひ)は「久米国造の氏姓」で、 「天平廿年の写書所解に…久米郡天山郷※3…」と見え、「天山郷」は、 「釈紀引用伊予風土記※4には、伊予郡に収め、 「天山と名づくる所以は、倭に在る天の香久山、天より天降る時、 二分にし、片端は倭国に降り、片端を以って此の土に降ろす。因りて天山と云ふ。 此の御影を敬体して久米寺に奉る」と見ゆれば、大和の久米氏とも縁故の深きを知るべし。」と述べる。 即ち、天香久山が天から降りてきたときに二つに割れ、その一方が天山郷に降りたというから、 伊予の久米と大和の久米は縁が深いのだろうと述べるのである。
※4に引用された『伊予国風土記』逸文は、〈釈紀〉巻七-述義三にあり、原文は、 「伊予国風土記曰。伊予郡自二郡家一以東北 在二天山一。所レ名二天山一由者。 倭在二天香久山一。自レ天々降時。 二分而以片端者天二-降於倭国一。 以片端者天二-降於此土一。 因謂二天山一本也。其御影敬礼奉二久米寺一。」 である。
松山市南梅本町から東温市西尾にかけての丘陵は播磨塚と呼ばれ、 かつて多数の古墳があったがほとんどが削平された。 そのうち僅かに残る播磨塚天神山古墳が、1998~1999年に発掘調査された。 その報告書『松山市文化財調査報告書83-播磨塚天神山古墳※5』を見る。 以下「」内は同報告からの引用である。 それによると、「天神山古墳の位置する微高地上には、かつて20基とも30基ともいわれる数の古墳が存在していたといわれ、 古くから播磨塚と呼ばれていた※6。この微高地は明治時代、梨・柑橘類の栽培適地として開墾され、 さらには陸上自衛隊松山駐屯地の設営時に削平されている。 そのため、過去に存在した古墳のうちそのほとんどが消滅し、現在では当古墳と駐屯地内に7世紀前半と考えられる横穴式石室の一部が残されているにすぎない※7」という。
出土した遺物は、1号石室からは「須恵器、玉類、鉄鏃、馬具、耳環、刀子飾 り 金具、 不明金属製品など」、 2号石室から「須恵器、土師器、耳環、鉄製品、人骨、玉類」があった。
そして「播磨塚古墳群が属するエリアは古代久米郡域の東端部付近にあた」り、 「古墳時代前期初頭には豪族居館(神殿)が出現し、中期から後期にかけて前方後円墳が集中して築造され」、 「久米氏の氏寺、来住廃寺跡や久米官衛遺跡群〔7世紀前半〕の成立へと繋がつていく」と位置付ける。 久米官衛遺跡群の辺りが久米氏の中心地であったとすると、播磨塚の地域はやや離れていることが気にかかる。 ただ、墓地が集落から離れた郊外の丘陵に造られたことは十分に考えられる。 この報告書を読むと、旧久米村を中心とする地域に伊予久米氏は確固として存在したことが印象づけられる。 これと記紀に書かれた小楯の活躍を重ね合わせると、古墳時代中後期において畿内から離れた地域の豪族もまた、朝廷と強固に結びついて国家を形づくっていたことが分かる。 《小楯の帰郷》 小楯は、播磨国の宰の任を終えて、故郷の伊予久米で葬られたはずである。 小楯が葬られた首長墓は当然前方後円墳で、その生前の任務から「播磨塚」という俗称で呼ばれ、やがて地名化したのであろう。 このように考えると小楯は実在の人物で、播磨国に派遣されたことは史実であるように思われる。 小楯の墓が播磨塚天神山古墳である可能性もなくはないが、確率から考えれば削平された可能性の方が大きい。 【書紀―二年十一月】 5目次 《遣於播磨国司山部連先祖伊予来目部小楯》
大嘗(おほにへ)の供奉(たてまつりもの)之(の)料(さだめ)を依(よ)りたまひて、 播磨(はりま)の国の司(つかさ)に於(お)きて、山部連(やまべのむらじ)の先祖(さきつおや)伊予来目部(いよのくめべ)の小楯(をたて)を遣(つかは)す。 [於]赤石郡(あかしのこほり)の縮見(しじみ)の屯倉(みやけ)の首(おびと)忍海部造(おしぬみべのみやつこ)細目(ほそめ)の新室(にひむろ)にて、 市辺押磐皇子(いちべのおしはのみこ)の子(みこ)億計(おけ)弘計(をけ)を見まつりて、 畏(かしこ)み敬(ゐやま)ひて兼(とも)に抱(むだ)きて、奉(つつしみて)君(おほきみ)と為(な)さむと思ひまつりて、 養(やしな)ひ奉(まつ)ること甚(いたく)謹(つつしみて)、私(わたくし)を以ちて供給(たてまつもの)しまつりて、 便(すなはち)柴宮(しばのみや)を起(た)てて、権(かり)に奉(つつしみて)安置(お)きまつれり。
天皇(すめらみこと)愕然驚歎(おどろきなげきたまひて)、 良(まこと)に以ちて愴(あはれ)み懐(なつ)きて曰(のたま)ひしく 「懿(うれ)し哉(や)悦(よろこぼ)し哉(や)、天(あめ)博(ひろ)き愛(めぐみ)を垂れたまひて、両児(ふたはしらのみこ)を以ちて賜(たまは)れり。」とのたまひき。 是の月、小楯をして節(つかひのしるし)を持たしめて、左右(もとこ)の舎人(とねり)を将(ひきゐ)て、赤石に至りて奉迎(むかへまつ)ら使(し)めたまひき。 語(かたり)、弘計天皇(をけのすめらみこと)の紀(ふみ)に在り。 《料》 「料」は「はかる」である。顕宗紀は同じ文脈で「辨」(わかつ)を用いるところから見て、 大嘗祭に供える米や産物を求めて各地を巡り、品定めして徴収する意であろう。 《権奉安置》 「権」を「仮」の意味に用いる例は、〈皇極天皇紀〉にもある。 即ち、元年に「遷二於東宮南庭之権宮一」。二年に「自二権宮一移幸二飛鳥板蓋新宮一。」 ここの「権宮」は伝統的に「かりみや」〔仮名日本紀〕と訓読されている。 《奉安置》 安置という語の使われ方を見る。 これまでに景行天皇紀では、隼人を伊勢神宮から遠ざけて御諸山の傍らに「安置」し、 応仁天皇紀では髪長媛を桑津邑に「安置」し、 雄略天皇紀では呉人を呉原に「安置」した。 これらを見れば、「安置」とは単純に「人をある場所に置く」意味である。 奉は接頭語として尊敬の意を加える。但しその場合は奉納・奉賛・奉還などの二字熟語を構成するので、「奉-安置」は考えにくい。 「奉安」は、『魏書』明帝紀に「奉二-安神主于廟一」〔神主を廟に奉安す〕があり、ここでは「大切に置く」意味で使われる。 「奉」を単独の動詞として用いる例は、『説苑』の「聖主能奉二先世之業一」〔聖主、先世の業をよく奉る〕がある。ここでは、先帝の業績を「尊重して敬服」する意味で用いる。 これを適用すれば「奉」は単独で、「安置於柴宮」を目的語とする見方もできる。 とはいえ、やはり接頭語「奉-」かも知れない。というのは詩文体として四文字に揃えるために、「奉安」の後ろに形式的に「置」を置いたと見ることができるからである。
柴宮と書かれるのは清寧天皇紀のみで、顕宗天皇紀には出てこない。 顕宗紀では、使者の小楯は「至二赤石一奉迎」〔赤石に至り(両王子を)奉迎する〕から、 柴宮は赤石にあったことになる。〔なお、当時の「赤石」は志染まで含んでいた。〕 志染村〔町村制-1889年に成立〕の周辺には、「芝」のつく地名がいくつかある。 ●下芝原・上芝原…明治五年〔1872〕に下芝原・上芝原など五村が垂穂村に統合。町村制で細川町〔志染村の北に接する〕に統合。現在は三木市細川町垂穂。 神姫バスに「下芝原」停留所がある。 ●芝町…江戸時代に芝町・大塚町・平山町など十町が三木町を構成。現在は三木市芝町。 ●芝崎…町村制で、芝崎村などが統合して平野村。現在は神戸市西区平野町芝崎。 これらを見ると、志染村の西側一帯が、古くシバと呼ばれていたように思われる。 だが、〈氏姓家系大辞典〉に「伊予の司馬(斯波、柴、芝)」は出てこない。 倭名類聚抄・延喜式神名帳・釈紀・姓氏家系大辞典・大日本地名辞書・日本歴史地名大系の何れにも「明石郡〔或いは美嚢郡〕芝」や「柴宮」への言及はないのである。 またWebで検索しても、今のところ比定地を追究する研究は見つからない。 確実なことは言えないが、現在に至るまで「柴宮」の積極的な探求は行われていない模様である。 《愕然驚歎良以愴懐》 「愴」〔あわれむ〕は文字通り、王子らの境遇に思いをはせたものであろう。 二王子発見の報告を聞いた清寧天皇は、驚き、無念さ、喜びの入り混じった感情に溢れている。 ただ、過剰なほどの表現を盛り込むのは、逆に何かを覆い隠そうとしているように感じられる。 かつて日本武尊が崩じたときの景行天皇の悲しがりようは、実際には嫌っていたことを覆い隠そうとした気配がある。 この問題については、第215回で考察する。 《大意》 〔二年〕十一月、 大嘗(おおなめ)に奉る供物の目利きを依頼され、 播磨(はりま)の国の司(つかさ)として、山部連(やまべのむらじ)の先祖、伊予来目部(いよのくめべ)の小楯(をたて)を遣しました。 小楯は、赤石郡(あかしのこおり)の縮見(しじみ)の屯倉(みやけ)の首(おびと)、忍海部造(おしのみべのみやつこ)細目(ほそめ)の新居で、 市辺押磐皇子(いちべのおしはのみこ)の御子、億計(おけ)弘計(をけ)を見つけ、 畏敬し二人をともに抱き、謹んで大君になっていただこうと望み、 甚だ謹んでご養育し私的にご援助し、 こうして柴宮(しばのみや)を建てて権宮〔=仮の宮殿〕として、謹んでお住まいいただきました。 葦毛馬に乗り、馳せ奏上すると、 〔清寧〕天皇(すめらみこと)は愕然となり驚嘆し、 まことに憐み深く親しくお思いになり、 「嬉しや喜ばしや、天は博愛を垂らし、二人の御子をお与えになった。」と仰せになりました。 この月、小楯を持節使に任じ、小楯はお付きの舎人を率いて、赤石に行って奉迎しました。 この物語は、弘計天皇紀にあります。 【顕宗-3】 顕宗3目次 《播磨國司山部連先祖伊豫來目部小楯》
播磨の国の司(つかさ)山部連(やまべのむらじ)の先祖(さきつおや)伊与来目部小楯、[於]赤石郡(あかしのこほり)に、親(みづから)新嘗(にひなへ)の供物(たてまつりもの)を弁(さだ)めき。 【一(あるに)云ふ。郡県(こほりあがた)を巡(めぐ)り行(ゆ)きて、田租(たちから)を収斂(あつ)む[也]。】、 適(たまさかに)縮見(しじみ)の屯倉(みやけ)の首(おびと)に会ひて、縦(ほしきまにまに)新室(にひむろ)を賞(ほ)めて、夜(よ)を以ちて昼に継(つ)げり。
「乱(みだりこと)[於]斯(ここに)避(さ)けて、年(とし)数紀(あまたとし)を踰(こ)えり。 名を顕(あらは)して貴(たふと)きを著(あらは)すこと、方(まさ)に今宵(こよひ)に属(あた)れり。」とかたりて、 億計王惻然(いたきさまにありて)歎(なげ)きて曰へらく 「其(それ)自(みづから)噵揚(ことあげ)して見害(ころさゆ)ること、 孰(いづれ)全(また)き身(み)に与(あづ)かりて、厄(わづらひ)を免(まる)かることあらむや[也歟]。」といへり。 天皇曰はく 「吾(われ)是(これ)去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)之(の)孫(みまご)なり。 而(しかれども)困(たしな)みて[於]人に事(つか)へて牛馬(うしうま)を飼牧(かひやしな)へること、豈(あに)名を顕(あらは)して被害(ころさゆる)に若(し)かむや[也歟]。」といひて、 遂(つひ)に億計王与(と)相(あひ)抱(むだ)きて涕泣(いさち)りて、自(おのづから)禁(や)むこと不能(あたはず)。
「然(しかくあれば)則(すなはち)、弟(おと)に非(あらざ)りて誰(た)そ能(よく)大(おほき)節(ふし)を激揚(はげましあ)げて、以ちて顕著(あきら)む可(べ)きや。」といへど、 天皇固く辞(いな)びて曰はく、 「僕(やつかれ)不才(さいあらざり、ちからあらざり)て、豈(あに)敢(あへて)宣(あまねく)徳(のり)の業(しわざ)をや揚(あ)げむか。」といひて、 億計王の曰へらく、 「弟の英(ひいづる)才(さい、ちから)賢(さか)き徳(のり)、爰(ここに)以ちて過(あやま)れること無し。」といへり。 是(こ)の如(ごと)に相譲れること、再(ふたたび)三(みたび)、 而(かくありて)果たして天皇をして、称(なのり)述(の)ぶことを自(みづから)許さ使(し)めき。 倶(ともに)室(むろ)の外(と)に就(つ)きて、[于]下風(かぜのしも、かふう)に居(を)り。
左右(もとこ)に秉燭(ひとも)さしめき。 夜(よ)深(ふか)くありて酒(さけ)酣(たけなは)なりて、次第(つぎつぎ)儛(ま)ひ訖(を)へて、 屯倉の首小楯に語らひて曰(まを)ししく、 「僕(やつかれ)此の秉燭者(ひともしひと)を見るに、 貴人(たふときひと)にありて[而]賤(いやし)き己(おの)となりて、先にある人にありて[而]後(しりへ)の己(おの)となれり。 恭(つつ)しみ敬(ゐやま)ひて節(ふし)に撙(そむ)して、退(ひ)き譲(ゆづ)りて以ちて体(すがた)を明(あら)はせり。 【撙者(は)猶(なほ)趍(わしる)也(なり)。相従(あひしたがふ)也(なり)。止(とどむ)也(なり)。】 君子(くにし、ひじり)と謂ふ可(べ)し。」とまをしき。
「起(た)ちて儛(ま)へ。」といひて、 於是(ここに)兄弟、相(あひ)譲ること久しくて[而]不起(たたず)、小楯之(こ)を嘖(ころ)ひて曰ひしく、 「何(いか)に為(せ)むや、太(はなはだ)遅し、速く起ちて[之]儛へ。」といひき。 《天皇》 書紀は即位前紀においても、「天皇」と表記する。 しかし、兄弟の会話の部分は、訓読に敬体を用いると随分不自然になる。 一人称として「朕」ではなく「吾」を用いているから「天皇」は形式上の表現と見られ、 過剰に敬体にする必要はないと思われる。
即ち「困事二於人一飼二-牧牛馬一、豈若二顕レ名被レ害一也歟」。 若は、同等比較の動詞で、「如」と同じく「ごとし」である。 豈(あに)は反語文であることを示す助詞で、ここでは語尾に「歟」を置いて受ける。 即ち、「困惑しながら人に仕えて牛馬を飼う生活を続ける」と、「我は履中天皇の孫であるぞと名乗り出て殺されること」からの選択が、天秤にかけるべき問題なのかと問うている。 答えは決まっている。迷う余地は全くないから、反語文なのである。 〈甲本〉の古訓の「つはかる〔つかはる?〕よりは、名に顕(あらは)れて殺さぬるに如(し)かむや」も、この解釈である。 ただし、「ヲヘツ」は理解に苦しむ。 「飼牧牛馬」の脱落や「害→殺」もあるから、誤写の繰り返しによるものであろう。 《撙者》 原注は、撙の意味を辞書的に複数列挙し、解釈を読み手に任せている。 自分で選んだ字にわざわざあいまい化する注記を加えるとは考えられないから、後に他の人が書き加えたものであろう。 原注が、他の人によると見られる個所は他にもあった (神武天皇五十五年《過音倭》など)。 《下風》 このとき家の外で風下に立っていたことを、 「人々の風下にいる」立場に陥っていたことに懸けていると見られる。 《大意》 白髪天皇二年十一月、 播磨の国の司(つかさ)山部連(やまべのむらじ)の先祖、伊与来目部小楯は、赤石郡(あかしのこおり)で自ら新嘗(にいなえ)の供物を選定していると 【ある説では、郡県を巡行して田租を収斂〔しゅうれん=取り立てる〕した。】、 たまたま縮見(しじみ)の屯倉(みやけ)の首(おびと)に会い、思いのままに新室(にいむろ)を褒め、そのまま昼夜続けて滞在しました。 このとき、天皇〔=弘計王(をけのみこ)〕は兄の億計王(おけのみこ)にこう語りました。 「こうして乱を避けて、何年もたった。 名前を明るみに出し、貴人であることを示すのは、まさに今宵がチャンスだ。」 億計王は惻然(そくぜん)として〔=思いやって〕嘆き、 「そのことだが、自分から偉そうに名乗りを上げれば害を被り、 いずれ我が身の無事に関わるだろう。その難を免がれることができるだろうか。」と言いました。 天皇は、 「私は、去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)の御孫だ。 それなのに辛い思いをして人に仕えて牛馬を飼うことが、名前を明かして殺されることと比べものになろうか 〔=この境遇に甘んじるより、名乗り出て殺された方がましだ〕。」と言い、 遂に億計王と抱き合ってさめざめと泣き、我慢することができませんでした。 億計王は、 「そういうことなら、わが弟以外に誰が偉大な節理を励まし顕著に示す〔=天皇になる〕ことができようか。」と言いましたが、 天皇は固く辞して、 「私のような者に才はない。敢て宣徳の業を揚げる〔=天皇になる〕ことなどできようか。」と言い、 億計王は、 「弟の英才賢徳をもってすれば、誤ることはありません。」と言いました。 このようにして再三譲りあった末、 結局天皇は、名乗り宣言することを自らに対してお許しになりました。 このとき共に室外で作業をして、風下におりました。 屯倉(みやけ)の首(おびと)は二人を呼び、釜戸の傍にいさせ、 近くで火灯し人〔火の番〕をさせました。 夜は深まり、酒宴も酣(たけなわ)となり、順番に舞い終わったところで、 屯倉の首は、小楯にこう申し上げました。 「私めがこの火灯し人を見るに、 貴人でありながら己を賤(いやし)め、先んずる人でありながら己を後にしています。 恭敬し貞節に撙(そん)し、遠慮して譲るところに真の姿が表れています。 【なお「撙」とは、趍(わし)る〔走る〕、相従う、止(とど)むという意味である。】 君子というべきでございましょう。」 そこで、小楯は琴の絃を撫し、火灯し人に、 「立って舞え。」と命じました。 ところが兄弟は、譲り合うばかりでなかなか立たなかったので、小楯は叱責して、 「何をしておる、遅すぎる。早く立って舞え。」と言いました。 まとめ この後兄が舞い、弟が詠唱して真実を明らかにするが、 顕宗紀はその前の兄弟・細目・小楯の心理をきめ細かく描写して、読み手の期待感を高める。 それに対して記は、直前まで二人を貶められるだけ貶めて、 真実が明らかになる瞬間の驚きを際立たせようとする。 読み物として甚だ面白い場面であるから、それぞれに工夫を凝らしている。 文学としてどちらの手法が効果的であるかは迷うところだが、顕宗紀は事前の種明かしが過ぎるようにも思える。 さて、小楯の伊予久米部への研究の豊かさに比べ、 柴宮はほとんど見向きもされていない。しかし、〈大日本地名辞書〉には、明石郡の「押部(オシンベ)谷」が忍海部の姓氏に由来するとある。 飯豊女王の忍海部との関係も伺われるから、柴宮のことも研究テーマになり得るのではないかと思えるのである。 |
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⇒ [214] 下つ巻(清寧天皇4) |