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[209]  下つ巻(雄略天皇12)

2018.12.02(sun) [210] 下つ巻(雄略天皇13) 

天皇御年壹佰貳拾肆歲
【己巳年八月九日崩也】
御陵在河內之多治比高鸇也

天皇(すめらみこと)の御年(みとし)壹佰貳拾肆〔一百二拾四〕歳(ももちあまりはたちあまりよつ)
【己巳(つちのとみ)の年、八月(はつき)九日(ここのか)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)[也]。】。
御陵(みささき)、河内(かふち)之(の)多治比(たぢひ)の高鸇(たかはし)に在り[也]。


 天皇(すめらみこと)の御年は百二十四歳 【己巳(きし)〔489〕年八月九日崩】、 御陵(みささぎ)、河内(かふち)の多治比(たじひ)の高鸇(たかわし)にあります。


…[数詞] 四の大字。
ここの…[数詞] (万)3794 九兒等哉 ここののこらや
…[助数詞] ~日。「(万)4011 知加久安良婆 伊麻布都可太未 等保久安良婆 奈奴可乃乎知波 ちかくあらば いまふつかだみ とほくあらば なぬかのをちは〔近く有らば今二日だみ〔=ばかり〕 遠く有らば七日のをち〔=のちのち〕〕
:真福寺本
:氏庸本
『諸橋大漢和』所引『三才図会』
ハヤブサ
オオタカ
…[名] サシバ、またハヤブサ。(古訓) はしかた。はやふさ。たかへ。 


𪃋
 氏庸本では𪃋になっている。
 『玉韻』-「鳥」を見ると、「鷣以箴切鷂也鸇之然切鷂屬𪃋𪄃二同上〈以箴切〉はである。〈之然切〉はの属。𪃋𪄃の二は上に同じ。〕。 「○○切」は発音表記 (魏志倭人伝第18回)。 即ち、𪃋の異体字である。

 なお、「」という字もあり、 〈倭名類聚抄〉に「【音骨。和名八夜布佐〔はやふさ〕也】」とある。
高鷲
 記のに対応する文字が、書紀ではになっている。 〈倭名類聚抄〉によれば「鵰鷲:〔中略〕鷲【音周。和名於保和之。鷲古和之】〔鷲【音シュウ。和名オホワシ。鷲コワシ】〕であるから、 ワシには大小の種類があり、小さい方が「」である。 『新撰字鏡』では「わし」で、書紀の「高鷲」は伝統的に「たかわし」と訓まれている。
 は本来ハヤブサを意味するが、記紀の時代の日本ではワシにも使われることがあったのだろう。

【百二十四歳】
《応仁天皇以来の長寿天皇》
 「御年124歳」とされる雄略天皇は、応神天皇130歳以来の長寿天皇である。 しかしこれを書紀の「在位23年」と組み合わせると、即位は101歳のときで、しかもその時少年であったという不思議なことになる。 さらに、兄である安康天皇よりも早く生まれたという矛盾がある。
 書記の神功皇后以前は、干支二回り〔120年〕遡らせたと一般的に唱えられていて、 本稿でも第160回で詳細に検討したところである。
 このように操作された一つの理由は、神功皇后に三韓を統治する女王と、魏志に描かれた倭の女王の姿を同時に負わせるために、 二重の時間軸を持たせるところにあったと見た。 引き延ばした期間は応神天皇の摂政だったから、連動して応神天皇も長寿になる。 しかし、それでは応神天皇の在位期間が長すぎて、仁徳天皇以後と比べて余りにもバランスが悪い。
 そこで応神天皇から安康天皇までについても崩年を干支一回り〔60年〕繰り上げて、 120年の半分を、雄略天皇に割り振ったと思われる。雄略天皇の事績はふんだんにあり、存在感は大きい。
 これで仲哀天皇から雄略天皇までの生まれ年の順序は即位順通りとなり、不都合はかなり緩和される。 但し図を見る通り、まだ神功皇后と仲哀天皇の生まれ年が離れすぎている。
《神功皇后御年一百歳》
 「皇后御年一百歳崩」は割注として書かれたもので、恐らく書紀側の見解によって書き加えたものと見られる。 神功皇后については書紀側の人物創作が先行し、記に書き足すように促したと判断した (第147回まとめ)。 その痕跡だと思われる箇所もあった  第140回【此時其三柱大神之御名者顕也】 )。
 なお、神功皇后を「御年百年」としたのは、魏志に「其人〔倭人〕寿考或百年或八九十年」、 「卑彌呼…年已長大」とあることによるのではないかと推察する。
《もともとは64歳か》
)…神功天皇紀による。百済本紀に合致 (神功皇后69年)。
)…宋書と合致(第182回【倭の五王との対応】)。
)…記に崩年なし。
)…神功皇后紀による。魏志に合致。
…神功皇后の存在を前提とせず、干支表記を現実的に解釈した崩年。
…仲哀天皇を干支二回り遡らせて神功皇后を挿入 (第160回)。 応神天皇~安康天皇は、干支一回り遡らせる。
 雄略天皇の寿命を60年引きのばした結果「124年」になったとすると、実際の寿命は64年である。 記には安康天皇の崩年が書かれていないが、雄略天皇の即位年を便宜的に書記に合わせて丁酉年〔457〕だとすると、 生まれた年は489-64+1=426年、即位は457-426+1=32歳のときとなる。
 記は黒日子王(坂合黒彦皇子)・白日子王(八釣白彦皇子)の殺害を、義憤にかられた少年大長谷王子の暴発とするが、 これは脚色であって、実際には実力によって権力の奪取と見られる。 大長谷皇子はそのほかに大草香皇子、市辺之忍歯王、眉輪王も殺した (第195回)。
 「32歳」は、ライバルを実力で滅ぼして権力を奪取するのに相応しい血気盛んな年齢であると言える。 因みに、信長が弟の信勝を除いたのは25歳のときであった。 また、徳川吉宗の2人の兄が「病死」したのが22歳、尾張徳川家を押しのけて八代将軍になったのが33歳であった。
《書記による修正》
 しかし、雄略天皇紀を書く段階で記録を精査した結果、「在位23年」を大幅に伸ばすことが難しいことが分かり、 書紀はその「+60年」を雄略天皇に加えることを止めて、仁徳天皇と允恭天皇に割り振ることにしたのではないかと思われる。
《宋書との関係》
 記紀ともに仁徳天皇から允恭までの期間をずらしたので、結果的に宋書に書かれた「倭の五王」とは時期が合わなくなった。

【書紀―二十三年七月】
35目次 《天皇寝疾不預》
…(古訓) とし。やまひ。
…[副] あらかじめ〔=予〕。[動] かかわる。あずかる。関与する〔=与〕
おもはふ…[動] 予測する。
…(古訓) さつく。つく。
支度…はかる。計算する。
ゆだぬ…[他]ナ下二 ゆだねる。自分の仕事を他人に行わせる。
秋七月辛丑朔。
天皇寢疾不預。
詔。賞罰支度事、無巨細並付皇太子。

〔二十三年〕秋七月(ふみづき)辛丑(かのとうし)の朔(つきたち)。
天皇(すめらみこと)、寝(い)ね疾(やま)ふこと、不預(おもははざりき)。
詔(みことのり)して、賞罰(つみほまれ)支度(はかる)事(こと)、巨細(こさい、おほきもちひさき)も無く並(な)べて皇太子(ひつぎのみこ)に付(ゆだ)ねたまふ。

…[副] いよいよ。形容詞の上につく。
辞訣…わかれのことばをのべる。
たにぎる…[他]ラ四 手でにぎる。
歔欷(きょき)…すすり泣く。
すすろふ…[自]ハ四 ずるずる吸い込む。
 〈時代別上代〉「ススルの例は、上代の確例な」し。
八月庚午朔丙子。
天皇疾彌甚、
與百寮辭訣並握手歔欷。
崩于大殿。

八月(はつき)庚午(かのえうま)を朔(つきたち)として丙子(ひのえね)〔七日〕。
天皇、疾(やまひ)弥(や)甚(いた)くありて、
百寮(もものつかさ)と与(とも)に辞訣(まかりまを)したまひて、並(な)べて握手(たにぎ)りて歔欷(むせひ、すすろひ)まつりて、
[于]大殿(おほとの)にて崩(ほうず。かむあがりしたまふ)。

《大意》
 〔二十三年(479)〕七月一日、 天皇が病の床に伏したのは、思わざることでした。
 詔(みことのり)して、賞罰の評価のことなど巨細なくすべてを皇太子(ひつぎのみこ)に委ねました。
 八月七日、 天皇の病はいよいよ重くなり、 官(つかさ)たちに訣別の辞をなされ、皆手を握りすすり泣いて、 宮殿で崩じました。


【清寧天皇紀―元年】
清寧3目次 《陟天皇位》
…〈釈紀〉巻六-述義二「甕速日【ミカノハヤヒノ】神」。
壇場…土を盛って、上面を平らにしたもの。儀式を行う。
 古訓「たかみくら」 (雄略天皇紀5)。
…(古訓) のほる。すすむ。
…(古訓) いにしへ。かへる。ふるし。もと。
元年春正月戊戌朔壬子。
命有司、設壇場於磐余甕栗。
陟天皇位、遂定宮焉。
尊葛城韓媛、爲皇太夫人。
以大伴室屋大連爲大連、平群眞鳥大臣爲大臣、並如故。
臣連伴造等、各依職位焉。

元(はじめ)の年の春正月(むつき)戊戌(つちのえいぬ)を朔(つきたち)として壬子(みづのえね)〔十五日〕。
有司(つかさ)に命(おほ)して、[於]磐余(いはれ)の甕栗(みかくり)に壇場(まつりのには)を設(まう)けしめて、
天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に陟(のぼ)りて、遂(つひ)に宮を定めたまひき[焉]。
葛城韓媛(かつらきのからひめ)を尊(たふと)びて、皇太夫人(おほきさき)と為(す)。
大伴室屋(おほとものむろや)の大連(おほむらじ)を以ちて大連と為(し)て、平群真鳥(へぐりのまとり)の大臣をもちて大臣をもちて為(し)て、並べて故(もと)の如し。
臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)等(ら)、各(おのもおのも)職位(つかさのくらゐ)に依りき[焉]。

…(古訓) さけふ。なく。
…(古訓) わし。こわし。〈倭名類聚抄〉【鷲。古和之】〔こわし〕
高鷲原…〈仮名日本紀〉「たかわしはら」。
冬十月癸巳朔辛丑。
葬大泊瀬天皇于丹比高鷲原陵。
于時、隼人晝夜哀號陵側、與食不喫、七日而死。
有司造墓陵北、以禮葬之。
是年也、太歲庚申。

冬十月(かむなづき)癸巳(みづのとみ)を朔として辛丑(かのとうし)〔九日〕。
大泊瀬天皇を[于]丹比高鷲原(たぢひのたかわしのはら)の陵(みささき)に葬(はぶ)りまつる。
[于]時に、隼人(はやと)昼夜(よるひる)陵の側(かたはら)に哀(かな)しび号(な)きまつりて、食(けごと)に与(あづか)りて不喫(くらはず)て、七日(なぬか)にして[而]死にせり。
有司(つかさ)墓(はか)を陵の北に造りて、礼(ゐや)を以ちて之(こ)を葬(はぶ)りき。
是の年[也]、太歳(たいさい、おほとし)庚申(かのえさる)。

《磐余甕栗》
 「みかくり」という地名はなかなか見つからないが、 御厨子神社(式外社。奈良県橿原市東池尻町447)が、甕栗宮の跡地にあるという伝承がある。 社頭に次の掲示がある。
 御厨子みずし神社  南山町(橿原市)・橋本(桜井市)・東池尻町(橿原市)郷社
 この地は、清寧天皇「磐余甕栗いわれみかくり宮の跡で、 社名の古くは、磐余池の池尻に位置するので「水尻みずしり神社 」といい、祭神は根析ねさく安産霊やすむすび神二柱であったが、 應仁(室町時代)より御厨子観音(御厨子山妙法寺)が移建され鎮守八幡宮 が合祀されてから「御厨子神社」と改称された。
 御厨子神社は、磐余池の堤跡といわれる「東池尻・池之内遺跡」のすぐ西にあたり、 名称の起源は「磐余池の水尻」によると思われる (第99回)。 『五畿内志』-大和国十市郡には、
 ●「【村里】池
 ●「【古蹟】甕栗宮【池内御厨子ミソシ邑 清寧天皇即-位於磐余甕栗
 とある。
《大意》
 元年正月十五日、 官(つかさ)に命じて、磐余(いわれ)の甕栗(みかくり)に壇場を設けさせ、 天皇(すめらみこと)の位に登り、遂に宮を定めました。
 葛城の韓媛(からひめ)を皇太后(おおきさき)とし、 大伴の室屋(むろや)の大連(おおむらじ)を大連とし、平群真鳥(へぐりのまとり)の大臣を大臣とし、すべて雄略天皇の代のままとしました。 臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)たちも、それぞれの職位のままとしました。
 十月九日、 大泊瀬天皇を丹比高鷲原(たぢひのたかわしのはら)の陵(みささぎ)に葬りました。
 その時、〔一人の〕隼人が陵の傍らで昼夜哀号し、与えられた食事に手をつけず、七日にして死にました。 官(つかさ)はその墓を陵の北に造り、礼を以ってこの人を葬りました。
『河内鑑名所記四』
雄略天皇丹比高鷲陵之図
『古墳の航空大観』末永雅雄;学生社1975所引「宮内庁実測図」
隼人塚古墳(陪塚い号)
「雄略天皇 丹比高鷲原陵」
河内大塚山古墳
上3図とも国土地理院航空写真をコントラスト強調処理
 この年は、太歳庚申(こうしん)〔480年〕でした。


【高鷲原陵】
 現代地名の「羽曳野市高鷲」は近鉄(近畿日本鉄道)南大阪線の高鷲駅の南側にある。 「高鷲村」は町村制〔1889〕において、丹南郡の南島泉村・南宮村・北宮村・西川村・丹下村と、丹北郡の島泉村・東大塚村が合わさって成立した。 『五畿内志』河内国(享保二十年〔1735〕頃)の「丹北郡」(以下〈志・丹北〉)、 同「丹南郡」の何れにも「高鷲村」はないので、 恐らくは「高鷲原陵」から命名されたと思われる。
 宮内庁のいう「雄略天皇 丹比高鷲原陵」は、「島泉丸山古墳」と「島泉平塚古墳」を組み合わせて、 文久の修陵(文久2年〔1862〕以後)によって疑似的な前方後円墳として仕立て上げたものである。 島泉は大字名。島泉丸山古墳は直径75mの円墳で、不規則な形の周濠を供える。 また島泉平塚古墳は、一辺50mの方墳とされる。
《島泉丸山古墳》
 〈志・丹北〉には、【村里】に「嶋泉」、 【陵墓】に「丹比高鷲原陵【雄略天皇○在島泉村】。」と載る。 また、「隼人墓【在高鷲原陵北〔以下、清寧天皇紀元年条からの引用〕」も見える。
 『天皇陵古墳』(森浩一;大巧社1996。以下〈天皇陵/森〉)によると、既に 『河内鑑名所記』(三田浄久;延宝七年〔1679〕。以下〈河内鑑〉)で島泉丸山古墳を高鷲原陵とする。 そこには「人皇二十二代雄略いうりやく天皇御廟嶋泉村在世俗丸山トモ云」と書かれている。
 つまり、もともとは「丸山」の部分が雄略天皇陵と見られていた。
 文久の修陵による「丹比高鷲陵」について『天皇陵の謎』(矢澤高太郎;文春新書2011)は、「近世、近代になって無理やりに造られた」もので 「奇妙キテレツな前方後円墳」であると酷評する(右図。宮内庁実測図「雄略天皇丹比高鷲陵之図」)。
 これはひとえに、 「「開化」以後「敏達」までの天皇陵を前方後円墳とみることに固執した」〈天皇陵/森〉結果であろう。
 しかし、『文久修陵図』の「成功図」〔修復後の図〕は、「前方部」が不明瞭である。 円墳の後方に茂みが描かれているのでそれかとも知れないが、位置関係を確認すると周濠の左右が裏返しである。 このように不思議な図だが、少なくとも画師の鶴澤探眞の目には円墳としか見えなかったのであろう。
 次の項で述べるように墳丘の規模も〈延喜式-諸陵寮〉の「兆域」よりはるかに小さく、 島泉丸山古墳がその規模においても形式においても雄略天皇陵に相応しくないのは明白である。
丹比高鷲原陵 荒蕪図 丹比高鷲原陵 成功図
『文久修陵図』-丹比高鷲原陵。鶴澤探眞;1867
 真の雄略天皇陵については、<wikipedia>岡ミサンザイ古墳(藤井寺市、仲哀天皇陵)に比定する説等も挙げられている</wikipedia> (岡ミサンザイ古墳:第147回第187回)。
 一方、河内大塚山古墳は丹北郡には巨大前方後円墳で、 宮内庁によって「大塚陵墓参考地」(被葬候補者:第21代雄略天皇)とされている。
《隼人塚古墳》
 清寧天皇紀で殉死した隼人の墓と言い伝えられるのが、隼人塚古墳である (方墳・墳丘長20m。大阪府羽曳野市島泉7丁目13-13)。 宮内庁によって「丹比高鷲原陵飛地い号」に指定されている。 『日本歴史地名大系』28-2(平凡社;1986)「島泉村」の項に 「ハイト塚とよばれる塚がある。雄略天皇に殉死した従者隼人を葬ったと伝え、 享保一五年(1730)『河内志』の著者並河誠所が墓石を建てたという(吉村堯家文書)」とある。
 また『河内名所図会』(1801年)には、「忠臣隼人墓ちうしんはいとのはか」が載る。
《河内大塚山古墳説》
 宮内庁が「参考地」とする現在の指定は、旧宮内省による1925年の決定を引き継いだものである。
 〈天皇陵/森〉によると、東大塚村・西大塚「村は一九二五年(大正十四)に陵墓参考地となり、 宮内庁〔ママ〕管轄下におかれたために、一九二七年(昭和二)には墳丘外に移転した」。 さらに当時の新聞には 「吉田東伍とうごの「雄略天皇」または「和泉守護代大塚掃部介惟正」を被葬者とする説」が紹介されたり、 「最近十数年前から古墳上に人家があるのは不敬に当るとして人家の立退問題が唱えられ」たという記事が載ったりしたという。
 その吉田東伍は、〈大日本地名辞書〉の「南丹比郡-高鷲原陵」の項で、 島泉の「西なる古墓」は「卑小の丸塚にして」「雄略帝陵とせば疑はし」く、 「真皇陵は此を距る西微南十五町、大塚山に擬す可きのみ。」と述べている。
 このように、国家的に河内大塚山古墳を雄略天皇陵とする見方が強まったが、 結果的には参考地に留まっている。
《兆域と墳丘長の対応》
 「丹比高鷲陵」が河内大塚山古墳である可能性を探るために、まずは、〈諸陵寮〉に記載された「兆域」と現在の宮内庁治定陵の墳丘長との一般的な関係を調べよう。
 〈延喜式-諸陵寮〉にいう「兆域」とは、整備された陵墓なら一定の神聖な区域、遺跡の場合は周濠に外接する四辺形の領域であろうと思われる。
 〈諸陵寮〉の規定は、既に管理の実体としては喪失していたが、200年前の律令の形を復古させた文書であろうと考えた。 そのように推定したのは、平城天皇陵の前方部は平城京建都によって削平されたが、兆域が削平前の大きさに基づいて書かれていることによる (第193回《諸陵寮の読み方》)。
 よって、既に荒廃した陵については、その遺跡を取り囲む一定範囲を兆域として想定したと考えられる。 大まかに見ると、兆域の広さは墳丘長に見合ったものだが、景行天皇陵や神功皇后陵など墳丘が兆域をはみ出るものがある。 これらは埋葬主の決定が、延喜式と、宮内庁との間で異なっていると思われる。
 延喜式の「丹比高鷲原陵」が島泉丸山古墳ではないことは、この表を見ても明らかである。 それでは、河内大塚山古墳だとするとどうなるか。その、墳丘長335m(3.1町)-兆域「東西三町。南北三町。」の組み合わせは微妙である。 辻褄を合わせようと思えば、測量が不正確であったとか、兆域の概算値が四捨五入の結果などと言うことはできるが、 実際のところは分からない。
 それでも、〈諸陵寮〉が河内大塚山古墳を高鷲原陵と見做した可能性はある。
《河内大塚山古墳》
 河内大塚山古墳は、大仙陵古墳、 誉田御廟山古墳、上石津ミサンザイ古墳、 造山古墳に次ぐ、全国第五位の巨大古墳である。
天皇陵とされる大型古墳の〈延喜式-諸陵寮〉における兆域
順位古墳名墳丘長(換算値)〈延喜式〉名称・被葬者延喜式-兆域
大山古墳486m(4.5町)百舌鳥耳原中陵・仁徳天皇東西八町。南北八町。
誉田御廟山古墳425m(3.9町)恵我藻伏崗陵・応神天皇東西五町。南北五町。
石津ヶ丘古墳365m(3.4町)百舌鳥耳原南陵・履中天皇東西五町。南北五町。
造山古墳350m(3.2町)
河内大塚山古墳335m(3.1町)
丸山古墳310m(2.9町)
ニサンザイ古墳300m(2.8町)
渋谷向山古墳300m(2.8町)山辺道上陵・景行天皇東西二町。南北二町。
仲津山古墳290m(2.7町)
10作山古墳286m(2.6町)
11箸墓古墳280m(2.6町)
12五社神古墳275m(2.5町)狭城盾列池上陵・神功皇后東西二町。南北二町。
13ウワナベ古墳255m(2.4町)
14市庭古墳250m(2.3町)楊梅陵・日本根子推国高彦
尊天皇(平城天皇)
東西二町。南北四町。
14メスリ山古墳250m(2.3町)
16岡ミサンザイ古墳242m(2.2町)恵我長野西陵・仲哀天皇東西二町。南北二町。
16行燈山古墳242m(2.2町)山辺道上陵・崇神天皇東西二町。南北二町。
18室大墓古墳238m(2.2町)
19市野山古墳230m(2.1町)恵我長野北陵・允恭天皇東西三町。南北二町。
20宝来山古墳227m(2.1町)菅原伏見東陵・垂仁天皇東西二町。南北二町。
21太田茶臼山古墳226m(2.1町)三嶋藍野陵・継體天皇。東西三町。南北三町。
22墓山古墳225m(2.1町)
23巣山古墳220m(2.0町)
24ヒシアゲ古墳219m(2.0町)平城坂上墓・磐之媛命東西一町。南北一町。
24西殿塚古墳219m(2.0町)衾田墓・手白香皇女東西二町。南北二町。
26佐紀石塚山古墳218m(2.0町)狭城盾列池後陵・成務天皇東西一町。南北三町。
島泉丸山古墳75m(0.6町)丹比高鷲原陵・雄略天皇東西三町。南北三町。
菅原伏見西陵・安康天皇東西二町。南北三町。
檜隈坂合陵・欽明天皇東西四町。南北四町。
河内磯長中尾陵・敏達天皇東西三町。南北三町。
●古墳と陵墓の対応は、現在の宮内庁の治定による。 ※1町=108mとしたときの値。
 以前に各地の氏族による「大王持ち回り制」を検討したときに、全国の孤立的な大王級古墳をリストアップした が、河内大塚山古墳は6世紀後半だったので除外した (第162回【石之日売】)。
 「6世紀後半」なら雄略天皇のものではないが、その年代判定にどの程度の確かさがあるかを検討したい。
 まず〈志・丹北〉を見と、 「【村里】」に「西大塚【属邑一】東大塚【属邑二】」がある。 江戸時代には、河内大塚山古墳は西大塚村・東大塚村にまたがっていた。 町村制〔1889〕のとき、東大塚村は担南郡高鷲村の一部になり、後に羽曳野市に属する。 西大塚村は丹北郡松原村の一部になり、後に松原市に属する。 よって、現在は河内大塚山古墳の中央を羽曳野市・松原市の境界線が通っている。
 〈志・丹北〉は、河内大塚山古墳については、 「埴生山岡上墓【来目皇子○在大塚村 推古天皇十年二月来米皇子…】」 として、来米皇子の墓とする。 ただし現在一般的には、来米皇子の墓は塚穴古墳(大阪府羽曳野市はびきの3丁目5)とされる。
 一方〈河内鑑〉には、「阿保親王御廟大塚おほつかと云〔ふ〕山也」とある。 阿保親王(792~842)は平城天皇の第二皇子で、長尾街道沿いに多くの民話が残る (松原市/文化スポーツ/民話)。
《6世紀末説》
 〈天皇陵/森〉によると、
 ●埴輪については1980年の調査では出土がなく、1986年には埴輪片の採集があったが、 「少なくともふつうの埴輪の囲繞は認められない」。
 ●「巨大古墳でありながら段築や造り出しが不明瞭で、もともと備わっていない可能性もある」。
 ●「後円部の「牛石」または「ごぼ石」と称する巨岩は、横穴式石室の石室材が露見したものではないかといわれている。
 ●「大型横穴式石室をもつ可能性や 前方部が広く平坦な面をなす点は同時期の巨大古墳の奈良県丸山古墳にも共通する要素である。
 ※…「五条野丸山古墳」「見瀬丸山古墳」とも呼ばれたが、現在は基本的に「丸山古墳」に統一されている。
 〈論文/川内〉(後出)によると、森浩一は1970年頃には雄略天皇被葬者説を唱えていたが、 以上に挙げた特徴を理由として主張を変え、 「本墳は後記後葉から末葉に編年されよう。 百舌鳥・市古古墳群の大型古墳の規模が縮小傾向にあるなかで、ある種、 復古的に巨大墳丘が築かれたととらえる見方もある」と主張するようになった。
 「復古的」に築かれた「巨大墳丘」の代表は、丸山古墳である。 6世紀に入ると、前方後円墳は小型化して個数も減少して衰退の過程にあるが、 突如6世紀末に墳丘長318m(全国第6位)という突出した規模で、 古墳群に属さない孤立的な古墳として出現したのが丸山古墳である。 それは5世紀までの大型前方後円墳とは異なり、埴輪・葺石は確認されず、横穴式で前方部は平坦である。 そこに丸山古墳との共通性を見て、河内大塚山古墳を6世紀末と推定するのである。
《丹比古墳群の復元研究を提唱する論文》
 一方、河内大塚山古墳は決して孤立的な古墳ではなく、また本来埴輪を有するはずだったと唱えるのが、 「 河内大塚山古墳の研究動向と周辺域古墳群の復原」と題された論文である(川内眷三;2014。〈論文/川内〉と略す)。
 〈論文/川内〉は、これまでの河内大塚山古墳についての研究の積み重ねを概観し、 「今城塚古墳→河内大塚山古墳→五条野丸山古墳の順序立てが定説となり、 河内大塚山古墳を6世紀中期以降に位置づける後期古墳説が定まったといえる」とまとめた上で、 独自の視点を提起する。
 曰く、同古墳は「百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間域とされ、単立して唯一、 この地に現存する巨大前方後円墳としてみられてきた〔=単一古墳として今城塚古墳・丸山古墳との比較のみで論じられたのが、これまでの研究である。〕
 しかし「河内大塚山古墳を中心に地域を形成」する「丹比古墳群」という「消滅した古墳群跡」が確認できる。 〈論文/川内〉は、河内大塚山古墳周辺域の古墳の痕跡と見られるものまで詳細に調べ、その報告に論文全40ページのうち約18ページを費やしている。 さらに、「河内大塚山古墳の周辺域は、丹比郡土師郷の本貫地である蓋然性は極めて高く、 小規模古墳だけではなく、相当規模の古墳が立地し、 これに合わせて埴輪窯の生産がおこなわれていた可能性を想定しうる。」と述べる。
 なお、〈倭名類聚抄〉に{河内国・丹比郡・土師郷}がある。
 また〈論文/川内〉は「河内大塚山古墳未完成説」を取り上げ、 日置荘西町遺跡群の6世紀代の埴輪窯で製作された埴輪が河内大塚山古墳に使われる予定であったという説を紹介する。
 その上で「河内大塚山古墳をはじめ周辺域の古墳群の埴輪窯の供給地は、直線で6.5kmもある日置荘西町埴輪窯に求めなくとも」 河内大塚山古墳の周辺域で調達されたと考えればよいとする。
 確かに「埴輪が用いられる予定だったが、未完成だったから埴輪が出てこない」のと、 「もう埴輪のない時期に築陵したものだから埴輪が出てこない」のとでは全然違う。 〈論文/川内〉は「欽明没年の571年の段階で、葺石・埴輪はなくなって」いると述べるから、 河内大塚山古墳に埴輪が用いられるはずだったとすれば、その時期は6世紀半ばよりも前まで繰り上がる。
 同地の埴輪窯跡から使われるはずだった埴輪が発掘され、その様式から年代が分かれば、 河内大塚山古墳の真実の築陵時期が確定するだろう。
《6世紀説は確定したか》
 横穴式で埴輪・葺石がなく前方部が平坦な点が丸山古墳と共通するから丸山古墳と同時期であるとする論理は、 そんなに強力ではないように思われる。「埴輪がない」点については、既にそれを覆そうとする「未完成説」がある。 本来埴輪を有するなら、埴輪の実物を比較できない状況で「今城塚古墳よりも後にできた」と言い切ることにも疑問を感じる。 「横穴式」についても、宮内庁「陵墓参考地」として内部の自由な調査が禁じられている現状で、どれほど確かなことが言えるのだろうか。 さらには孤立的ではなく古墳群に属するとすれば、復古的に巨大墳が作られた「丸山古墳」と同類ではなくなる。
 何よりも、雄略天皇紀を宋書や三国史記と比較検討したときに一定の史実性があることを考えれば、 書記の「大泊瀬天皇于丹比高鷲原陵」という記述が決していい加減なものだとは思われない。 そして〈諸陵寮〉の「兆域東西三町南北三町」からは、巨大古墳の姿が伺える。
 また、〈論文/川内〉によれば百舌鳥古墳群と丹比古墳群の間の「松原市河合」「松原市我堂」「堺市北区南花田の東南」にも古墳跡があるという。 仮に百舌鳥古墳群から丹比古墳群までの連続性があれば、 大仙陵古墳から河内大塚山古墳までの時代の隔たりは縮まるかも知れない。

まとめ
 清寧天皇紀は、元年に雄略天皇を葬ったと述べる。だから、雄略天皇陵は寿陵として築かれた。 しかし、大塚山古墳未完成説を前提とすれば、雄略が崩じたときにはまだ未完成であった。 そこで、一時的に小墳を作って安置した。 それがまさに島泉丸山古墳で、そこに「島泉丸山古墳=雄略天皇陵」なる伝承の原点があると考えてみると面白い。 同時に、あの未完の大墳丘が本来の雄略天皇陵だという伝承も残り、〈延喜式-諸陵寮〉の「東西三町・南北三町」に繋がったと考えてみる。 こうやって想像を膨らませてみるとなかなか面白いのだが、残念ながら根拠は薄弱である。
 さて、雄略天皇に至り書紀との乖離は際立っている。 書記の事績は記にはほとんど書かれないが、 記の中で雄略天皇段は際立って長く、その中身はともかくとして文字数によって有数の古代大王の存在感を表現したように感じられる。 記紀それぞれの意義は、第209回まとめで論じた通りである。



2018.12.12(wed) [211] 下つ巻(清寧天皇1) 

御子白髮大倭根子命
坐伊波禮之甕栗宮
治天下也
此天皇無皇后
亦無御子
故 御名代定白髮部
御子(みこ)、白髪大倭根子命(しらかのおほやまとねこのみこと)、
伊波礼(いはれ)之(の)甕栗宮(みかくりのみや)に坐(ましま)して、
天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。
此の天皇(すめらみこと)皇后(おほきさき)無(な)くありて、
亦(また)御子(みこ)無くありき。
故(かれ)、御名代(みなしろ)に白髪部(しらかべ)を定めたまふ。


 御子、白髪大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)は、 伊波礼(いわれ)の甕栗宮(みかくりのみや)にいらっしゃいまして、 天下を治められました。 この天皇は皇后(おおきさき)なく、 また御子もありませんでした。
 よって、御名代(みなしろ)として白髪部(しらかべ)を定めました。


しらか(白髪)…[名] しらが。〈時代別上代〉「続日本紀〔中略〕によれば〔中略〕、白髪のカは清音だったらしい傍証となる。
おほやまとねこ…天皇への美称。「ね」の意味の解釈は難しい。

【真福寺本】
真福寺本
氏庸本
 『岩波古典文学大系1』の注に、「「御子」は諸本に無い。真〔=真福寺本〕に従って補う。」とある。 (右図)。
 なお、「」は、完全に「」の誤写である。

【甕栗宮】
 御厨子神社(式外社。奈良県橿原市東池尻町447)が跡地であると言われる (第210回《磐余甕栗》)。

【白髪】
 〈時代別上代〉が「しらか」の項で触れた「続紀」の原文は、 「延暦四年〔785〕五月丁酉〔三日〕: 臣子之礼必避君諱。比者先帝御名及朕之諱。公私触犯、猶不聞。自今以後。宜並改避。於是改姓、白髪部真髪部、山部為山。〔臣子の礼、必ず君諱を避く。こは先帝及び朕の諱なり。公私の触犯なほ聞くに忍びず。今よりのち、なべて改め避くべし。ここに白髪部(しらかべ)を改め真髪部(まかべ)として、山部(やまべ)を山とす。〕である。
 つまり、光仁天皇(天応元年〔781〕崩)の諱は「白壁」であるから 「白髪部」は「白壁(しらかべ)」と同音であろう、したがって「髪」は清音であると〈時代別上代〉は述べているのである。
 なお、「生まれながらに白髪」であったことについては、俗に「アルビノ〔先天的なメラニン生成不良〕」説がある。

【白髪部】
 〈天武天皇紀-十二年九月〉に「白髪部造…凡三十八氏賜姓曰連」がある。「連」は八色の姓のうち第七位である。
 〈姓氏家系大辞典〉は、畿内遠江駿河常陸美濃備中白髪部畿内駿河下総常陸上野下野石見美作備中周防肥後真髪部を見出している。
 〈倭名類聚抄〉には{常陸国・真壁郡・真壁郷}{上野国・勢多郡・真壁郷}{備中国・窪屋郡・真壁郷}がある。
 〈延喜式神名帳〉には{武蔵国/播羅〔はら〕郡/白髪神社}。播羅郡は現在の埼玉県熊谷市付近にあたる。
《白髪神社》
高岡稲荷神社(白髪神社)
埼玉県熊谷市妻沼
 式内社としては唯一の白髪神社について、少し踏み込んでみる。
 その論社について〈大日本地名辞書〉は、 「別府は古き村にて〔中略〕春日社は、〔中略〕白髪神社なる由、式内神社考に見えたり」とある。 別府村は、現熊谷市内の「別府」及び「東別府」にあたる。 春日社は、明治42年〔1909〕に東別府神社(埼玉県熊谷市東別府778)に改称。
 他に、高岡稲荷神社(埼玉県熊谷市妻沼1038)に「式内白髪神社」の石碑がある。 これについて「妻沼聖天山とその界隈」の中で、 『大日本史』からの引用として「白髪神社 今妻沼村に在り、白髪明神と称す。古へ大我井森に在り、後今の地に遷る」と述べている。
 延喜式の時代に存在していたが、長い年月の間に移転や合祀があり、もはやその姿はぼやけていると思われる。 周辺の駿河・常陸・下総辺りに白髪部・真髪部があるから、武蔵国に居住していた白髪部が改称する以前に氏神としていたのであろう。
《他の白髪神社》
 埼玉県には、他に白髪神社(埼玉県大里郡寄居町金尾(大字)256-1)、 白髪白山神社(埼玉県飯能市岩沢533)がある。<wikipedia>によれば、 その他秋田県、山形県、静岡県、福岡県、熊本県に各一社がある。
《白髪部連鐙》
 〈孝徳天皇紀〉白雉元年〔650〕十月に、白髮部連鐙(しらかべのむらじ あぶみ)ら三名を安芸国に派遣して百済船を建造させた記事がある。 白髪部の個人名が出てくるのは、これが唯一である。

【御名代】
 第148回《品陀真若王》、 第162回【石之日売】 の項において、各地の有力氏族による大王(おほきみ)持ち回り制を想定した。それは、有力氏族が皇太子を婿として預かり、 大王として戴き氏族の繁栄を得ると共に血筋の継続を保証する体制である。
 その後の時代になっても皇子一人毎に氏族がバックアップする体制は続き、それが代替わりの度に後継争いで血を見る土壌となる。 それが極端に現れた事例が、雄略天皇が即位前に兄弟たちを軒並み殺したことであろう。
 氏族が推戴した皇子が、必ずしも皇位を目指すとは限らないだろうが、御子・皇女ごとに氏族が添えられるのは通例であったと思われる。
 それでは、「皇子」の場合はどうなるのか。その場合は皇子の誕生を期待して待機していた氏族に、何らかの代償を与える必要が出てくる。 それが栄誉としての名前や、子孫を朝廷の役職に取り立てる確約と言うことになろう。 もちろん、天皇の側も我が子に代わる存在として愛着を感じたことであろう。
 これが「御子なきが故に御名代を定めたまひき」の現実的な意味ではないかと想像される。

清寧天皇紀
即位前(一)
即位前(二)
元年
二年二月
二年十一月
三年正月
三年七月
三年九月
四年
10五年
【書紀-即位前(一)】
目次 《白髮武広国押稚日本根子天皇》
…(古訓) たけ。ひととなる。
…(古訓) ひとり。まこと。
霊異…神秘で不思議なこと。
白髮武廣國押稚日本根子天皇、
大泊瀬幼武天皇第三子也。
母曰葛城韓媛。
天皇、生而白髮、
長而愛民、
大泊瀬天皇於諸子中特所靈異。
廿二年。
立爲皇太子。

白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、
大泊瀬幼武天皇(おほはつせわかたけるすめらみこと)の第三(だいさむの、みたりの)子(みこ)也(なり)。
母、葛城韓媛(かつらきのからひめ)と曰ひたまふ。
天皇(すめらみこと)、生まれながらにして[而]白髪(しらか)にて、
長(ひととな)りて[而]民(おほみたから)を愛(うつくしび)たまふ。
大泊瀬天皇(おほはつせのすめらみこと)の於(お)きたまへる諸(もろもろ)の子(みこ)の中(うち)、特(ひとり)所霊異(くすしきすがた)あり。
二十二年(はたとせあまりふたとせ)、
立たして皇太子(ひつぎのみこ)に為(な)りたまひき。

《白髪武広国押稚日本根子天皇》
 記の「(おほ)」の部分が、反対語の「(わか)」に置き換わり、 「武広国押」が挿入されている。 「武広国押」は父の雄略天皇にこそ相応しいから、その子を意味する「稚(わか)」か。 あるいは父が「武で広げた国」の国造りを「推」し進める意味かも知れない。
《葛城韓媛》
 ここでは特に「葛城」をつけることによって、「葛城円大臣の女(むすめ)」であったことを確認する。 ただし第162回で述べたように、 氏族「葛城氏」の明確な実体は見えず、「葛城地域にあった諸族」程度の意味合いであろうと察せられる。
 とは言え、書紀は伝承により「仁徳朝~雄略朝の時期には、偉大な氏族として確固とした地位を占めていた」 と位置づけたように思われる。
《第三子》
 稚媛が生んだ磐城皇子星川稚宮皇子を数に入れていると思われる。
《大意》
 白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)は、 大泊瀬幼武(おほはつせわかたけるの)天皇の第三子です。 母は、葛城韓媛(かつらきのからひめ)といいます。
 天皇は、生まれながらにして白髪(しらか)で、 長じて民を慈しみされました。 大泊瀬天皇が設けた諸子のうちでは、特に霊異な姿でありました。
 二十二年、 皇太子(ひつぎのみこ)に立たれました。


【書紀―二年二月】
目次 《於諸国置白髪部》
ゆけひ…「ゆき(靫)-おひ(負)」の母音融合。
 〈倭名類聚抄〉「職員令云。近衛府・兵衛府・衛門府【由介比乃豆加佐】ゆけひのつかさ〕」。
二年春二月。
天皇、恨無子。
乃遣大伴室屋大連
於諸國、置白髮部舍人
白髮部膳夫
白髮部靫負。
冀垂遺跡令觀於後。

二年(ふたとせ)春二月(きさらぎ)。
天皇、子(みこ)の無きを恨みたまふ。
乃(すなはち)大伴室屋大連(おほとものむろやのおほむらじ)を遣はして、
[於]諸(もろもろ)の国に、白髪部(しらかべ)の舎人(とねり)、
白髪部の膳夫(かしはで)
白髪部の靫負(ゆけひ)を置かしめてのたまはく、
「冀(こひねがはくは)遺(のこ)せる跡(あと)を垂(た)れて[於]後(のち)に観(み)令(し)めたまへ。」とのたまひき。

《舎人・膳夫・靫負》
 書紀では「白髪部」を三分割して、それぞれに舎人膳夫靫負を割り振っている。
 同じ内容が、更に〈継体天皇紀〉元年二月の大伴金村大連の言葉の中にある。
 曰く、 「白髪天皇無嗣。遣臣祖父大伴大連室屋、毎州安-置三種白髪部【言三種者一白髮部舍人、二白髮部供膳、三白髮部靫負也】〔白髪天皇ひつぎのみこ無し。やつかれおや大伴大連の室屋を遣はしてくに毎に三種みくさの白髪部を安く置かしめたまひき【三種とは、一に白髮部舍人、二に白髮部供膳かしはで、三に白髮部靫負を言ふ。】〕
 しかし「白壁部舎人」の類は氏族名としては存在せず、実際に確認できるのは単なる「白髪部」である。
 言うまでもなく、舎人・膳夫・靫負とは、朝廷を支える司(つかさ)を構成する組織の呼び名である。 従って、「於諸国、置白髪部舎人・白髪部膳夫・白髪部靫負」とは、 諸国に置いた白髪部から一定の人数を京に出仕させ、舎人・膳夫・靫負に配置する体制を作ったという意味であろう。
《冀》
 副詞「」の訓「こひねがはくは」はかなり固定的である。漢文としてはこの字の並びで特に問題はないと思われるが、 和語においては「こひねがはくば」は一人称に使うべきものであって、三人称にすると「〔天皇は〕…とこひねがひたまひき」と訓読せざるを得なくなる。 これでは原文からニュアンスが離れすぎて、使い物にならないから、 「曰」が隠れているものとして訓読すべきである。
 〈岩波文庫版〉では「ねがはくは、のこりのあとをたれて、のちのよにみしめむとなり。」と訓み、 「曰」を加えることをぎりぎりのところで避けているが、 これを最初から和語で書かれた文のつもりで読むと言葉足らずに感じられる。ところで「のこりのあと」とは何であろうか?
《大意》
 二年春二月、 天皇は、皇子の無いことを残念にお思いになりました。
 そこで大伴室屋大連(おおとものむろやのおおむらじ)を遣わして、 諸国に白髪部(しらかべ)の舎人(とねり)、 白髪部の膳夫(かしわで)、 白髪部の靫負(ゆきおい)を置かせて、 「冀(こいねが)わくば、朕の遺した跡を後世に垂示(すいし)させてほしい。」とおっしゃりました。


まとめ
 日本武尊の御名代「建部」が膨大な数の白鳥神社を残している(第134回)のと比べて、 白髪神社の数の少なさは際立っている。
 白髪部は八色の姓の第七位「連」にとどまり、書紀に名前が出ているのは連鐙一人であるから、中堅クラスの官僚群を供給していたように思われる。
 建部には民間の巨大な宗教教団のイメージがあるが、白髪部には宗教色はあまり感じられず朝廷に仕えて職務を忠実にこなす実務集団であり、 同じ「名代部」でも両者の性格には大きな違いがある。雄略朝・清寧朝に至り、漸く国の組織的な整備が進みつつあったということだろうか。
 倭建命は西国・東国に進出した複数の将軍からなる集合人格であろうとこれまでに述べてきた。 畿内政権が関東を侵攻し始めた端緒は、房総半島にある発生期の前方後円墳「神門5号墳」の頃ではないかと考えた (第123回)。
 仮に関東侵攻が4世紀初頭に始まり、金錯銘鉄剣の5世紀後半には一応支配下にあったとする。 建部の成立をその間の4世紀後半と想像すれば、白髪部よりおよそ100年以上昔ということになる。 その時代の隔たりが、建部と白髪部の性格の違いを生んだように思われる。