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[205]  下つ巻(雄略天皇8)

2018.07.20(fri) [206] 下つ巻(雄略天皇9) 

又一時
天皇登幸葛城山之時
百官人等
悉給 著紅紐之 青摺衣服
彼時
有 其自所向之山尾登山上人
既等天皇之鹵簿
亦其裝束之狀及人衆
相似不傾

又(また)一時(あるとき)、
天皇(すめらみこと)葛城山(かつらきやま)に登幸(のぼりま)しし[之]時、
百官人(もものつかさ)等(ども)
悉(ことごとく)紅(くれなゐ)の紐(ひも)を著(つ)けし[之]青摺衣服(あをのすりごろも)を給(たまは)りき。
彼時(そのとき)、
其(それ)所向(むか)ひし[之]山尾(やまのを)自(よ)り、山上(やまのへ)に登れる人有りき。
既(すでに)天皇之(の)鹵簿(ろふ、ひきゐたまひしももつかさども)に等しくありて、
亦(また)其の装束(よそほひ)之(の)状(さま)及(と)人衆(ひとども)
相(あひ)似(の)りて不傾(きほはざり)。


爾天皇望令問曰
於茲倭國 除吾亦無王
今 誰人如此而行
卽答曰之狀 亦如天皇之命
於是 天皇大忿而
矢刺百官人等悉矢刺
爾其人等 亦皆矢刺

爾(ここに)天皇望みて令問(とはし)めまさく[曰]
「[於]茲(この)倭国(やまとのくに)に吾(われ)を除(のぞ)きて亦(また)王(おほきみ)無し。
今、誰人(た)そ此の如くして[而]行(ゆ)くか。」ととはしめましき。
即ち答へまつりて曰ひし[之]状(さま)は、亦(また)天皇之(の)命(おほせごと)の如し。
於是(ここに)天皇大(はなはだ)忿(いか)りて[而]
矢刺(さ)したまひて、百官人(ももつかさ)等(たち)悉(ことごとく)矢刺しまつりて、
爾(ここに)其の人等(たち)亦(また)皆矢刺しまつりき。


故 天皇亦問曰
然 告其名
爾各告名而彈矢
於是 答曰
吾先見問 故吾先爲名告
吾者雖惡事而一言
雖善事而一言
々離之神
葛城之一言主大神者也

故(かれ)、天皇亦問ひたまはく[曰]
「然(しかれども)其の名を告(の)るべし。
爾(ここに)各(おのもおのも)告名(なの)りて[而]矢を弾たむや。」ととひたまひて、
於是(ここに)答へまつりたまひしく[曰]
「吾(われ)先に見問(とはえ)りし故(ゆゑ)吾先に名告(なのり)為(せ)む。
吾者(われは)[雖]悪事(まがこと)といへど[而]一言(ひとこと)、
[雖]善事(よごと)といへど[而]一言(ひとこと)、
言離之(ことさかの)神、
葛城之一言主大神(かつらきのひとことぬしのおほかみ)者(なり)[也]」とこたへまつりたまひき。


天皇 於是惶畏而

恐 我大神有宇都志意美者
【自宇下五字以音也】不覺
白而

天皇、於是(ここに)惶(おそ)り畏(かしこ)みたまひて[而]
白(まを)したまはく
「恐(おそりまつらく)、我(われ)大神(おほみかみ)宇都志意美(うつしおみ)に有(ましま)すと者(は)
【宇自(よ)り下(しもつかた)五字(ごじ)音(こゐ)以(もちゐ)る也】不覚(しりまつらず)。」
と白(まを)したまひて[而]、


大御刀及弓矢始而
脱百官人等所服之衣服
以拜獻
爾 其一言主大神手打受其捧物
故 天皇之還幸時
其大神滿山末於長谷山口送奉
故 是一言主之大神者彼時所顯也

大御刀(おほみたち)及(と)弓矢より始めたまひて[而]
百官人(ももつかさ)等(たち)の所服(つ)けし[之]衣服(ころも)を脱ぎまつりて、
以ちて拝(をろが)みて献(たてま)つりき。
爾(ここに) 其の一言主大神、手打ちて其の捧(ささ)げ物を受けたまひき。
故(かれ)、天皇之(の)還り幸(ま)しし時
其の大神山末(やまのは)に満(たたはして、みちて)[於]長谷(はつせ)の山口に送り奉(まつ)りき。
故(かれ)、是の一言主之(の)大神者(は)彼(その)時に所顕(あら)はれたまへり[也]。


 またある時、 天皇(すめらみこと)が葛城山(かつらきやま)にお登りになられた時、 随行した人たちは 皆、紅の紐を着けた青摺(あをづり)の衣を給わりました。
 その時、 向いの山の峰に、山の上に登る人たちがいました。 それは、天皇の一行と等しく、 またその装いの様や人の数も 互いに似かより、優劣はありませんでした。
 天皇はそれを望み見て、 「この倭(やまと)の国に朕を除いて王はいない。 今、誰がこのようにして行くのか。」と聞きに行かせました。
 その返事の内容は、また天皇の仰せ言と同じでした。
 それに天皇は甚だ怒り、 矢をお向けになり、随員もまた全員矢を向け、 するとその人たちもまた、皆が矢を向けました。
 そして、天皇はまた、 「だが、まずは名を名乗るべきである。 それぞれが名を名乗ってから、互いに矢を撃とうではないか。」と仰り、 それに答えて、 「私が先に問われたのだから、先に名乗りをしよう。 私は、悪事(まがこと)でも一言、 善事(よごと)でも一言、 言離(ことさか)の神、 葛城(かつらき)の一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)である。」と申しあげなされました。
 天皇は、あまりのことに恐れかしこみなされて、 申し上げるに 「恐れながら、私は大御神が生身のお姿でいらっしゃるとは、 存じ上げませんでした。」 とお話になり、 大御刀(おおみたち)と弓矢を始めとして、 随員たちは着ていた衣を脱ぎ、 以って拝礼して献上しました。
 すると一言主の大神は、柏(かしわ)手を打ってその捧げ物をお受けになりました。
 そして、天皇之がお帰りになる時、 大御神は山の端を御威光で満たして、長谷(はつせ)の山口までお送りなされました。
 このようにして、この一言主の大神は、かの時に人の姿になって現れたのでございました。


…(古訓) ことことく。つくす。
くれなゐ…[名] ① ベニバナ。② あざやかな赤色。
ひも(紐)…[名] 〈時代別上代〉当時の衣服は埴輪などで見ると、男女ともにえりを左まえに合わせ、 上下二か所を紐で結んでいる。
すりごろも…[名] 植物を摺りつけ、染め出した衣服。
それ…[代] ② 中称の代名詞。② 間投助詞のように句頭・句中・句末を問わず置き、語調を整える。 漢語の「」「」の影響と思われる。
鹵簿(ろぼ)…天子の行列。鹵は盾。簿は一行の順序表。(古訓) ろふ。 〈古事記伝略〉「美由伎能都良ミユキノツラと訓べし」。「つら(列)」は連なったもの。
のる…[他]ラ四 「似る」と同義。
かたぶく…[自]カ四 ① かたむく。② 日や月が西に傾く。
…[動] 倒壊する。ある方向を向く。斜めにする。盃を傾ける。ほろぼす。きそう。まさる。 (古訓) かたふく。おつ。ましはる。
きほふ…[他]ハ四 先を争う。せり合う。
…(古訓) のそく。はらふ。おく。しりそく。
…(古訓) ゆく。ありく。
…(古訓) さす。きる。
さす…[他]サ四 突き刺す。棹さす。網をさす。火をさす。指さす。
まがこと(悪事)…[名] 悪い事。
よごと(善事)…[名] 善い事。
言離之神…伝統的に「ことさかのかみ」と訓まれる。
ことさか…[名] 〈時代別上代〉未詳
うつし…[形]シク 現世の。現実の。神代上紀(一書十一)に、「顕見蒼生。此云宇都志枳阿烏比等久佐」とあり、 人民を「うつしき青人草」と表現した(第44回)。
うつしおみ…[名] 現世のお方。「おみ」は、ここでは臣よりも広い範囲の人を差し、美称か。
たる…(万)0220 天地 日月與共 将行 神乃御面跡 あめつち ひつきとともに たりゆかむ かみのみおもと
みつ…(万)0485 人多 國尓波 ひとさはに くににはみち
たたふ…[自]ハ四 充満する。
やまのは…[名] 山の上端。

【真福寺本】
真福寺本
 校訂により、「紅細」が「紅紐」に訂正されている。
 校訂により、「」が「」に訂正されている。
 「」の異体字と見られる。
 訓注に「也」がつくのは、真福寺本においては既に系統的である。
 「百官人等所服衣服」の「」は他に見えないが、「所+動詞+之+体言」の形は、古事記では一般的である。

【傾】
 宣長は、「不傾の傾は、ウツナく写なるべし、 頒誤にて、和加礼受ワカレズと訓べきか〔「傾」は「頒」の誤写であろう。ワカレズと訓むべきか〕と述べる。
 そこで「」にこの部分に合う意味がないかを調べるために、 漢籍を見る。
 すると、「」は、 物理的な傾斜から派生して、幅広い意味に使われる。例えば、『三国志-蜀書十一』「霍峻〔人名〕孤城不傾」の例では「城を傾ける」「国を傾ける」。 また「傾聴」、「傾注」、「傾慕」、「傾覆」(倒すこと)、「傾酒」(盃をかたむける)などが見られる。
 目を惹くのは「相傾」で、争う・競うの意味で使われることで、『食貨志』の「利相傾〔利をもって互いに争う〕など多数の例がある。
 古事記には、他に二例。上巻に「-傾其船」。応神天皇段に「其船」。いずれも船を転覆させる意味。 これらを含め、上代語の「かたぶく」は基本的に物理的な傾斜を意味し、「競う」という意味はないようである。
 「」の古訓に「きほふ」はないが、漢籍の「不傾」は「甲乙つけがたい」という意味を十分表すことができ、これがここの文脈に合う。 記の時代には「」に「きほふ」の訓があったが、『類聚名義抄』の頃〔平安時代中期〕には失われたのではないだろうか。

【現人神】
 確かに一言主神は人になって現れたが、「現人神(あらひとがみ)」は本来は天皇を指す語である。 だから、明らかに皮肉を言っている。そして神の行列が天皇一行の鏡像であることを、一層強調する。

【矢刺】
 「」は、「指す・差す」の意味の「さす」のために借訓と見られる。 これは、「矢刺」してから「互いに名乗ってから矢を弾とう」と呼びかけたことを見れば明らかである。

【悪事・善事】
《まがこと》
 〈延喜式-祝詞〉の「御門祭」に「荒備来武天能麻我都比登云神乃言武悪事尓【古語云麻我許登】〔荒びけむ天(あめ)のまがつ人の云(ふ)神の言はむ悪事に【古語にマガコトと云う】〕がある。
 この注記から、祝詞の「まがこと」という語が平安時代まで維持されていたことが分かる。
《よごと》
敷く…[他]カ四 統治を国中に行き渡らせる。
 四段活用の命令形は甲類。
…[形] 吉し。善し。好し。宜し。
 「(万)4516 新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰 あらたしき としのはじめの はつはるの けふふるゆきの いやしけごと〔新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の 弥敷け善事〕
 新年を言祝ぐ歌だから、「よごと」が「善事」なのは明らかである。 形容詞が名詞を修飾する形は連用形であるが、語幹だけを用いる方法もあった。

【言離之神】
 宣長は「言離は、許登佐加コトサカと訓べし」と述べる。
 「離(さか)る」は上代では普通に使われた動詞だから、少なくとも「ことさかりし神」と訓むことはできるが、「コトサカの神」はどうであろうか。 〈時代別上代〉でコトサカの項を見ると、「未詳」とした上で、〈孝徳天皇紀〉、〈乙本-上代紀上〉の例を挙げている。 まず、それぞれがどのように使われているかを見る。
《孝徳天皇紀の「コトサカ」》
 「強為事瑕之婢【事瑕此云居騰作柯」は、 孝徳天皇が大化二年三月甲申〔二十二日〕に発行した勅の中にある。 勅に、訴訟の濫用を抑えよという趣旨の項目がある。
――「好向官司請決。仮使得明三証而倶顕陳。然後可諮。詎生浪訴。〔好んで官司の請決(裁判)に向かうが、仮に三証(十分な証拠か)があっても十分陳述させ、然る後に諮れ。詎(なんぞ)浪(みだり)に訴を生むか。〕
 そして、濫用の事例を七つ示しているが、何れも興味深い。その一つを挙げる。
――「復有。恃勢之男。浪-要他女而。未納際女自適レ一人。其浪要者嗔求両家財物己利者甚衆。〔勢いを恃(たの)む男が、他の女を浪要(みだりに自分のものに)しようとして、未だ納めぬうちに女が他の男と結婚するとき、 浪要する男がそれを嗔(いか)り、両家に財物を求めて己の利にしようとするケースが甚だ衆(おお)い。〕
 他の事例の中に、「強為事瑕之婢」が出てくる。
――「復有。為妻被嫌離者。特由-愧所悩。強為事瑕之婢【事瑕、此云居騰作柯。】〔妻に嫌われて離縁した者が、特別に悩まされたことを慚愧した由(ゆえ)に、強いてコトサカの奴婢とする〕
 つまり、別れた妻を逆恨みして強引に婢に落とした者を「コトサカの婢」という。 すなわち、このコトサカは、「事逆」(不合理、道理に反する、無茶な)である。 それを「事瑕〔瑕=きず〕という字で表したが、訓注がなければコトサカとは訓めない。
《神代記の「コトサカ」》
私記
乙本
 神代記上「次生海次生川次生山」の段、一書十に、 「所唾之神号曰速玉之男。次掃之神号泉津事解之男。」がある。
 伊邪那岐尊が黄泉の国の伊邪那美尊と別れる時に唾を吐き、そこから「速玉之男」が現れ、それを掃く神「泉津事解之男」が現れる。 その古訓が、〈乙本〉の「事解之男【古止左加乃乎】〔ことさかのを〕である(右図)。
 この場合の「さか」は、「離(さか)る」とすれば「唾」を取り除く意味で、「祓ふ」「除(よ)く」と同じである。 事柄が起る前に戻すという意味で、「逆(さか)」も考えられる。
《事逆・言離》
 現代語の感覚では「事逆」と「言離」とは意味が異なるから、 孝徳紀の訓注「居騰作柯コトサカ」は、「言離」を「ことさか」と訓む根拠にはなり得ない。
 しかし、書紀の訓注・古訓にコトサカが複数出てくるから、 コトサカは上代に存在した語であり、平安時代にも記憶に残っていたのは確実である。 問題はその意味であるが、「言」と「事」とは同根、そして「逆」(サカ)と「離」(さく・さかる)も同根の語と考えられる。
 だから、古い時代にコトサカが存在して幅広く使われ、それが「事逆」「言離」の両方に使われたことは十分考えられる。

【脱百官人等所服之衣服
 「著紅紐之青摺衣服」は、仁徳天皇段にも出てくる。 それは、皇后への使者丸邇臣口子の服装であった( 第168回)。
 この服装は、恐らく大臣(おほまへつきみ)など高級官僚レベルの正装だと思われる。 それを百司〔下級官僚〕の全員に支給して華美な鹵簿〔行列〕を仕立てたのは、権力者の奢りであろう。
 この文の重点は、献上よりも脱がせたところにある。 即ち、雄略天皇は自らの奢りに気付き、すべて脱がせたのである。
 思えば一言主神が最初に天皇の一行と同じ姿で現れたのは、鏡のように写し出してその奢りに気付かせるためであった。

【手打】
満月と山の端
 「手打」は、雄略天皇が態度を改めたことを了とし、逆に遜る立場に転じたことを示す。 次に、謙譲語「送奉」を用いるのも同じことである。
 「手打」は目下の者が貴人に向かうときの礼である。魏志倭人伝に「大人敬。但摶手以当跪拝」とある (〈魏志倭人伝をそのまま読む〉第52回)。
 一言主神は、相手の誤りを容赦なく指弾するが、態度を改めれば気持ちよく受け入れて尊敬に転ずる。これは、優れて道徳的な資質と言える。

【満山末】
 「山末」は万葉にあり、「やまのは」と訓まれる。なお、〈時代別上代〉は「やますゑ」という語も認めている。
・(万)1084 山末尓 不知夜経月乎 何時母 やまのはに いさよふつきを いつとかも
 この歌は、満月を過ぎて月の出の時刻が遅くなった時期に、月が「山末(やまのは)」から登ることを「いさよふ」躊躇ためらう〕と表現する。 「やまのは」は、山と空との境界線である。
 「」については、「(万)0167 望月乃 波之計武跡 もちづきの たたはしけむと」の例がある。 …[助動] 軽い尊敬「す」の連用形。けむ…[助動] 過去の推量。
葛城一言主神社
 この歌は天皇の治世を言祝ぐもので、この部分は「望月たたふ満月が満つる」と述べたもの(同語反復だが)である。
 これら二首を考え合わせると、「山末」からは一言主神が満月になって、山の端の上から雄略天皇の帰路を照らすイメージが沸く。 日が暮れて狩を終えた後だから帰り道は夜で、山の端がくっきり見えるのは、満月の頃の月明かりがあってこそである。 〔もし「神為望月而」があれば、確定するのだが〕
 長谷山口に到着し、振り返って葛城山方面の山の端の満月を見たとすれば、方角は西だからもう明け方になっている。
 一言主神はこのようにして、人格神から自然神に戻って天皇を見送ったのである。
 他の書では、『暦録』(後述)に「空而還」とある。 「満山末」に対応するが、『暦録』の文意は別れを告げた神が、空を飛んで葛城山に戻ったという内容で記とは相違する。

【一言主神社】
 延喜式に{葛上郡十七座/葛木坐一言主神社【名神大。月次相甞新甞】}。 比定社は「葛城一言主神社」(奈良県御所市森脇432)とされる。

【書紀―四年】
11目次 《僕是一事主神也》
射猟…〈汉典〉[hunting with bow and arrow]〔弓矢を用いる猟〕野外-捕鳥獣
長人…〈汉典〉「身長特高的人。」『論衡』〔80年〕-斉世「王莽之時。長人生。長一丈〔漢代は2.3~2.4m〕。名曰霸出
…(古訓) たきたかし。
…(古訓) に。あかし。
容儀…立ち振る舞いと姿かたち。
…(古訓) いみな。ないふ。
四年春二月、天皇射獵於葛城山。
忽見長人來。
望丹谷、面貌容儀相似天皇。
天皇、知是神、猶故問曰
「何處公也。」
長人對曰
「現人之神。先稱王諱、然後應噵。」
天皇答曰
「朕是幼武尊也。」
長人次稱曰
「僕是一事主神也。」

四年(よとせ)春二月(きさらき)、天皇[於]葛城山(かつらきやま)にて射猟(みかり)あそばして、
忽(たちまちに)長(たけたかき)人、来たるを見ゆ。
丹谷(あかきたに、にのたに)に望みて、面貌容儀(かほすがた)天皇(すめらみこと)に相(あひ)似てあり。
天皇、是(これ)神なると知りたまひて、猶(なほ)故(ことさらに)問ひたまひしく[曰]
「いましは何処(いづく)の公(きみ)なるか[也]。」ととひたまひき。
長(たけたかき)人対(こた)へて曰(まを)さく
「われは現人之神(あらひとかみ)なり。先に王(きみ)の諱(いみな)を称(なの)りたまへ。然る後に応(こた)へて噵(い)ひまつらむ。」とまをして、
天皇答へて曰(のたま)はく
「朕(われ)是(これ)幼武尊(わかたけるのみこと)也(なり)。」とのたまひて、
長人次に称(なの)りて曰(まを)ししく、
「僕(やつかれ)是(これ)一事主神(ひとことぬしのかみ)也(なり)。」とまをしき。

かりには(猟庭)…[名] 狩りをするところ。
…[動] (古訓) はしる。はす。かる。
…(古訓) いなふ。ととむ。まかりまうす。
…〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉同「並」。併。
くつばみ(轡)…[名] くつわ。
…(古訓) はしる。はす。きはむ。
…[形] うやうやしい。かしこまる。
…[動] つつしむ。(古訓) うやまふ。つつしむ。
…[動] したがう。
有若…〈学研新漢和〉「①人名。②順調な。めでたい。」(不若の反)。
うむがし…[形]シク 喜ばしい。
…(古訓) なむた。
来目水…〈甲本〉来目水【クメカハ】。
…(古訓) のり。さいはい。めくむ。あつし。〈現代語古語類語辞典〉とく。だうとく。
有徳天皇…〈仮名日本書紀〉「いきほひまします【有徳】天皇」。
遂與盤于遊田、
驅逐一鹿、
相辭發箭、
竝轡馳騁。
言詞恭恪、
有若逢仙。
於是、日晩田罷、
神侍送天皇、至來目水。
是時、百姓咸言「有德天皇也。」

遂(つひ)に与(ともに)[于]遊田(かりには)に盤(めぐ)りて、
一(ひとつ)の鹿(しし)を駆(か)り逐(お)ひて、
発箭(やはなつこと)、相(あひ)辞(いなびて、ゆづりて)、
轡(くつばみ)竝(なら)べて馳騁(は)せたまふ。
言詞(ことば)恭恪(うやうやしくつつし)みて、
有若(うむがし)や、仙(ひじり)に逢ひたまへり。
於是(ここに)、日(ひ)晩(く)れて田(かり)罷(を)へて、
神天皇に侍(はべ)り送りまつりて、来目水(くめかは)に至りき。
是の時、百姓(おほみたから)咸(みな)言(まを)ししく「有徳(めぐみあります、とくあります)天皇(すめらみこと)也(なり)。」とまをしき。

《丹谷》
 〈甲本〉の「丹谷【タニムカヒ】」は「」の字を書いてルビを打つので、完全に意訳である(右図)。
 岩波文庫版によれば「丹谷」に校異はないから、同版が参照した写本はすべて「」だったはずである。
 ところが〈大日本地名辞書〉による引用では、「忽見長人来望向谷」としている。当然地名「丹谷」の説明もない。 このように""説は散見されるが、これは記の「之山尾」によるものと推定される。 結局、葛城山周辺に地名「丹谷」は、歴史上存在したことがないわけである。
 それでは、固有名詞ではない「丹谷」はどうだろうか。 熟語としては日中の辞書にはなく、中国古典から探すと、
・『水経注』〔地理書;515年〕巻九-沁水「丹水又東南流注于丹谷」丹水は河の名、丹谷は谷の名である。
・『全唐詩』巻三十五「奉和春日望海」に「青丘絢春組。丹谷耀華桑」。青色と丹色を対にして景色を歌うものである。
 などが見られる。 一例目は中国の地名だが、二例目は単純に「丹色の谷」である。
 葛城山にある顕著な谷は、水越川の流れる谷である。水越川に沿って、水越街道(国道309号)が通る。 右図は、下の図のP点から東南東方向の眺めで、伝説の一言主神一行がいたのは、右手〔金剛山側〕の山麓かも知れない。
 上代の一時期にせよ、「丹谷」と呼ばれることがあったとすれば、その理由としては、谷から辰砂(硫化水銀鉱物)を産出した、あるいは紅葉を形容したなどが想像し得るが、根拠はない。
 実際には漢籍から「丹谷」を借用して、谷の美称として用いただけのことかも知れない。
《知是神猶故問》
 「知是神」を「この神を知っていた」と読むと、この時点で一言主神であることを知っていたことになり、物語の意外性が全くなくなる。 このとき気付いたのは「人ではなく神」であることに留まり、 まだ神の名までは分からないと読むべきである。
 「」は繋辞〔is〕にも使う。この段の「朕是」「僕是」はこれに該当する 〔文末の「也」は述語ではなく、語気詞である〕
 「知是神」の「」は"this is"を意味すると考えられる。そして「こいつは神だ」と分かったからこそ、 故(ことさら)に「何処」と聞くのである。相手が神だと気づいたことを隠さないときは、「誰神」と聞くはずだ。
《来目水》
 中国古典には、川を「~水」と呼ぶ例が多い (例えば『魏志』武帝紀九年に、淇水洹水漳水滏水)。このように、 「来目水」は漢籍風の表現である。 〈釈日本紀〉所引『暦録』は、「来目川」に直している(後述)。
 さて、<wikipedia>は「久米川」を曽我川の古名とする。 曽我川は重阪峠西側を源に発して北に流れ、大和川に合流する。
 一方、『大日本地名辞書』は「檜前川に同じ、真菅村に至り百濟川に注ぐ。」と述べる。 「百済川」は、曽我川が百済を流れる辺りの部分名称。曽我川高取川は真菅村で合流する。 従って、地名辞書のいう「檜前川」は、高取川のことである。
《久米》
 「久米」の地については神武天皇紀二年二月に、 「使大来目居于畝傍山以西川辺之地。今号久目邑、此其縁也。〔大久目をして、畝傍山の西の川の辺の地に居(す)ましめき。今久目邑と号(なづ)けるは、此れ其の縁(よし)也(なり)〕 とある。現在の久米町は畝傍山の南だが、もともとの久米邑は畝傍山以西、曽我川辺りまでの地域と見られる。 久米邑付近では、久目川は曽我川・高取川両方の可能性がある。
 ただ葛城一言主神社辺りからの帰路を考えると、曽我川まできたところで川沿いに曲がると考えられるから、 来目川=曽我川と考えた方が合理性がある。
《来目水と長谷山口》
 記では長谷山口、すなわち朝倉宮まで一言主神が送るが、 書紀では久目川までとする。これは、鴨氏が葛上郡・葛下郡に住むのは認めるが、その外には出て来るなということであろう。
 これまでも出雲・丹波の勢力に対して記は融和的であるが、書紀は統制的である傾向を見た。 敢えて境界の来目川を明示したのは、その現れの一つと言えよう。
《有徳天皇》
 雄略天皇は、一言主神との出会いによって恭恪なる心、また聖(ひじり)の心を取り戻したことにより「大悪天皇」を見事克服して、「有徳天皇」の称号を得た。 書紀は、この神を一地方の勢力の神として封じ込めるが、それでも道徳的に感化されたことは認めている。
 「有徳」を〈仮名日本書紀〉は「いきほひまします」、 〈岩波文庫版〉は「おむおむしくまします」と訓む。
 だが、これでは天皇がせっかく得た慎み深さが隠され、前者は威勢、後者は重々しさという外見上の属性のみになってしまう。 暴虐の限りを尽くしてきたワカタケル天皇が、やっと慎み深さの人になってくれたと安堵する庶民の気持ちを表す訓読とは言い難い。
《大意》
 四年二月、天皇(すめらみこと)は葛城山(かつらきやま)で、狩をなされました。
 突然、背の高い人がやって来るのが見えました。 丹(に)の谷の向こうを望み見ると、容姿は天皇そっくりでした。 天皇はこの人が神であることが分かりましたが、それでもなお、わざと 「お前は、どこの公(きみ)であるか。」とお聞きになりました。 その背の高い人は、 「現人神(あらひとがみ)である。先に王(きみ)の諱(いみな)を名乗っていただきたい。その後にお答えいたしましょう。」と申し、 天皇はそれに答えられ 「朕は、幼武尊(わかたけるのみこと)なるぞ。」と仰ったところ、 その背の高い人は次に名乗り、 「私めは、一事主神(ひとことぬしのかみ)でございます。」と申しあげました。
 遂に二人は共に狩の庭を巡り、 一匹の鹿を追ったときには、 矢を放つのを互いに譲りながら、 轡(くつわ)を並べて駆けまわりました。 言葉も恭(うやうや)しく慎み、 めでたく、聖(ひじり)にお逢いになったのです。
 そして日は暮れ、狩を終えて神は天皇にお仕えしてお送りし、来目川に至りました。
 この時、民衆は皆、「有徳の天皇であらせられる。」と声をあげました。


【有若逢仙】
《逢仙》
 「逢仙」の意味は、「仙人に遭遇する」または「自らが仙人の境地に達する」が考えられる。そこで、まず漢籍での使い方を見る。
『全唐詩』-巻615「欲待逢仙不擬帰〔仙に逢うのを待ち、帰ろうとしない〕
『全唐詩』-巻670「此時花下逢仙侶〔このとき、花の下で仙の伴侶と逢い〕
 〈汉典〉は「仙」の主な意味として、 「仙人、仙女、仙子、仙界、仙堺(a.仙人居住的地方;b.形-容景物美好的地方)」を挙げる。
 これらから見て、「逢仙」は単純に「仙人に逢う」意味で使われ、「自らの内面に仙人の資質が現れる」というややこしい使い方は見られない。
 従って、ここでは単刀直入に「雄略天皇が、一言主神に逢った」と解釈するのがよいだろう。
《有若》
 仮名日本書紀では「有若逢仙」を、「逢仙ひじりのごとくなることあり。」として、雄略天皇が仙人のような境地に至ったと読む。しかし、「逢仙=仙人」という使い方は漢籍には見えず、強引である。
 岩波文庫版は「ひじりに逢ふごときことします。〔仙人に逢ったような経験をなされました〕である。 文脈を見れば「一言主神=仙人」と言い切ることを躊躇する理由はない。それを「逢ったが如き経験をした」と、わざわざあいまいさを混ぜる理由が分からない。
 このように通用訓には疑問があるので、一旦出発点に戻ってみる。
 〈汉典〉は「有若」を、「人名。春秋時魯国人。生卒年不詳。孔子弟子。記性佳。好古道。貌極-似孔子。孔子卒後。弟子思-慕孔子。乃共-立有若師。侍之如夫子生時〔容貌は極めて孔子に似る。孔子の死後、弟子たちは孔子を偲び有若を共立して師とし、仕える様は孔子の生前の如きであった。〕とする。
 このように人名のみを取り上げ、熟語としての説明はない。よって、人名でない「有若」は、がそれぞれ単独で持つ意味を組み合わせて読むことになる。
 〈漢辞海〉は、動詞「」に「いたる」「およぶ」を見出し、文例「病未〔病むが、まだ死にはいたらない〕を挙げる。 この意味を「有若」に適用すると、「至れるに有り」、つまり「満足できる状況にある」となる。〈学研新漢和〉の「①人名。②順調な。めでたい。」の②は、その意味に沿っていると言える。
《訓読》
 以上から訓読は、
 「有」に完了の助動詞「り」を当て、「〔仙に逢ふに若(いた)れり〕とする。
 有若と逢仙を切り離して、「めでたきかな、仙に逢へり」とする。
 の二通りが考えられる。
 は「若」を「至」の代わりに使う例は少なく、 「あふ-いたる-あり」と動詞の三段重ねになることにも違和感がある。 また文意を考えれば、ここに感嘆の語句があってもおかしくないので、が相応しいと思われる。

【大猪遭遇との順序性】
 記では、葛城山を前回訪れた時大猪に襲われた (第205回)。 その後に本段に至るが、書紀では順番が逆転している。
 記では、恐らく大猪も一言主神であったのだろう。その時は、恐怖のうちに榛の木に登って難を逃れた。 前回は記の書きっぷりの劣化を見たが、今回の段への伏線として位置づけられたのなら、それほどひどくはない。 その流れなら、大猪によって天皇自身がとことん酷い目にあった方が理に適っている。 すると、歌謡だけ後に書き換えられた可能性が一層高まる。
 書紀では、順序が逆転していて、 また天皇は大猪を殺したから二つの話は完全に分離している。

【釈日本紀「述義」】
 〈釈日本紀〉巻十二・述義八に「一言主神」の解説がある。この解説は長文で、次の部分からなる。
神名帳…〈延喜式神名帳〉から「一言主神社」を引用。
古事記下巻…古事記(今回の段)の引用。
土左国風土記…逸文。
暦録暦録逸文と「或説」。「国記」の引用を含む。
多氏古事記…多氏に伝わり、「古事記」の原型となったか。
「論者曰」…論者の見解と、一言主神社について。
 このうち、土左国風土記から下の部分を、それぞれ項目を立てて読む。

【釈紀所引:土左国風土記】
土左國風土記曰。土左郡。々家西去四里。有土左高賀茂大社。其神名爲一言主尊。其神未詳。 一説曰。大穴六道尊-子味鉏高彦根尊。
〔 土左〔土佐〕国風土記に曰ふ。土左郡とさのこほり、郡家西にきて四さと。 土左高賀茂大社有り。その神の名、一言主尊とす。その神つまひらかならず。あるいひつぎ大穴六道オホアナムチ〔=大国主〕尊の子、味鋤高彦根尊と曰ふ。 〕
 〈延喜式-神名帳〉に記載されたうち、「土左高賀茂大社」に関係ありそうな社は、
 {土佐国/幡豆郡/賀茂神社}{土佐国/土佐郡/土佐坐神社【大】}{同/葛木男神社}{同/葛木咩神社}である。
 このうち、土佐郡の土佐坐神社を自認するのが、「土佐一ノ宮 土佐神社」である。 同社は一言主神を祭神にするので、これが「土左高賀茂大社」であろう。 所在地は、高知市一宮しなね2丁目16-1〔住所は複数表示があり、「一宮2499」とも〕
 同社の(公式ページによると、
祭神:味鋤高彦根神、一言主神。「大和の賀茂氏または、その同族が土佐の国造〔くにのみやつこ〕に任ぜられたことなどより、当地に祀られたものと伝えられています。
御由緒:自然石を磐座として祭祀。醍醐天皇の御代には式内大社に列せられ土佐坐神社。
 祭神の味鋤高彦根神については、記によれば、大国主が胸形奧津宮の神、多紀理毘売との間に阿遅鉏高日子根神を生み、この神が「今にいう迦毛大御神」である (第68回)。 なお、多紀理毘売を含む宗像三女神は、天照大神と須佐之男命の誓(うけひ)のよって生まれた (第47回)。
 『出雲国風土記』の三津郷に「大神大穴持命〔=大国主命〕御子阿遅須伎高日子命 御須髪八握于生 昼夜哭坐之 辞不」などとある。
 その一方で、〈神名帳〉には{葛上郡/高鴨阿治須岐託彦根命神社四座【並名神大。月次相甞新甞】}がある。 鴨氏高鴨神社のある上葛郡を発祥の地とする古代氏族とされる。
 つまり、阿遅鉏高日子根(あぢすきたかひこね)神には、出雲風土記における大国主の子、および葛上郡氏の大御神という二重性がある。 この問題については、出雲出身の一族が倭に移民したとき鴨氏と融合して、阿遅鋤高日子根神事代主神とが共有されたのではないかと論じた (第78回)。
 『土左国風土記』は、その鴨氏(或いは三輪氏との連合体)の分流が土佐国に住み着いたことを示す。 上述のように「御由緒」では、土佐の国造に任命されたとする。
 釈日本紀は「一説」として、一言主神と味鋤高彦根尊が同一であるとする。 味鋤高彦根尊事代主神が習合していたとすれば、 結局「一言主神=味鋤高彦根尊=事代主神」となり、 <wikipedia>「名前の類似から、大国主命の子の事代 主神と同一視されることもある」ことへの、一定の根拠になる。
 なお、鴨氏と大三輪氏の関係については、さらに別項を立てて論ずる。

【釈紀所引:暦録】
 『暦録』の逸文は他に『上宮聖徳太子伝補闕記』などに載るがが、『暦録』の編者や成立時期などは明らかではない。 『上宮聖徳太子伝補闕記』は聖徳太子の伝記で、平安時代初期に成立。 同書の『暦録』引用部分の内容は、日本書紀の十九巻(欽明)から二十二巻(推古)の四巻と重なるが、 書紀と比較すると、一部省略される一方で独自の記述を含むので、書紀の単なる抜き書きではないという (藤原猶雪「聖徳太子伝暦正本の研究」-『仏教研究』第6号(1921))。
 『暦録』は他の書にも引用され、これはその一つである。
暦録曰。
雄略天皇四秊庚子春二月。天皇獵于葛城山。忽有長人而形似天皇
々々知是神人。故問。何處公。對曰。現人神。願稱皇諱。答勅。朕是稚武尊。長人曰。僕是一事主神也。
遂與般于遊田。言辭恭恪。有若逢仙。日傾田罷。神侍送天皇。至來目川
群臣各脱衣服而獻。神拍手而受之。凌空而還。一説。懸一指末而受之。是時。咸知有德天皇矣。
暦録れきろくに曰ふ。
雄略天皇四年庚子かのえね 〔書紀の元年=丁酉に合致〕 春二月きさらぎ。 天皇葛城山にかりあそばす。 たちまちたけたかき人有りて、すがた天皇に似る。
天皇、是神の人と知りたまひて、 ことさらに問ひたまはく「何処いづくきみか。」ととひたまひて、 答へまをししく「現人神なり。願はくは皇諱すめらいみななのりたまひへ」とまをしき。
答へのたまはく「われ稚武尊わかたけるのみことなり」とのたまひて、 長人まをししく「やつかれは是一事主神なり。」とまをしき。
遂にとも遊田かりにはめぐりき。 言辞ことば恭恪つつしみて、 有若うむがしくひじりに逢ひて、 日かたぶきてかりへり。 神天皇に侍り送りまつりて、来目川くめがはに至りたまひき。
群臣まへつきみたちおのおの衣服ころもを脱ぎまつりてたてまつりき。 神、みてちてこれを受けたまひて、空をしのぎて還りき。 一説あるいひつぎにいふ、一つの指末ゆびすゑに懸けて受けたまひき。 是の時、みな有徳めぐみあります天皇と知りまつりき。 〕
 『暦録』逸文の内容は書紀を下敷きにしているが、そこに記の「脱百官人等所服之衣服以拝献」「手打」を盛り込んでいる。
 「凌空而還」は、記の「満山末」に類似するが、記が空から長谷山口まで送ったことに対して、 来目川まできたところで空を飛んで〔あるいは、空を満たす神となって〕帰る。即ち「来目川」で折り返す点は、書紀に倣う。
 書紀の「来目水」「日晩」はそれぞれ「来見川」「日傾」とする。 「駆逐一鹿。相辞発箭。竝轡馳騁。」「望丹谷」を省略したのは、難解だから省いたように思える。
 より平易な表現に直しつつ記紀をミックスしているから、記紀の後に書かれたことは確実である。
 なお、「懸一指末」だけは難解である。 直訳すると「捧げものを一本の指にぶらさげて受け取る」となるが、謎の一文である。

【釈紀:或説】
くだる…[自]ラ四 中央から地方に移動する。
はふり(祝)…[名] 神官。
或説云。
時神與天皇競-有不遜之言。天皇大瞋。奉土左。神随而降。神身已隱。以祝代之
初至賀茂之地。後遷于此社
而高野天皇寶字八年。從五位上高賀茂朝臣田守等奏而奉迎鎭於葛城山東下高岡宮上
其和魂者猶彼國。于今祭祀而云々。
國記曰。雄略天皇即位二年戊戌。奉郷。者誤也。
いひつぎに云ふ。
時に神天皇へりくだらざることきほひて有り。 天皇はなはだいかりて、土左に移しまつりたまひて、 神したがひてくだりき。 神のすでに隠れたまひて、 はふりを以ちてよよまつりき。
初め賀茂のところに至りて、 のちに此のやしろうつしき。
しかるがゆゑに高野天皇〔称徳天皇〕宝字〔天平宝字〕八年〔764〕、 従五位上高賀茂朝臣田守等まをして、 迎へ奉りて葛城山の東に下る高岡宮のきまつりき。
その和魂にきみたまなほその国に今に祭祀まつりて、 云々しかしか
国記くにつふみに曰はく 「雄略天皇即位二年ふたとせ戊戌つちのえいぬ〔書紀の元年=丁酉に合致〕。 さとに移し奉る」といふは誤りなり。 〕
 この部分が『暦録』の引用部分に含まれるかどうかは、よく分からない。もし含まれるのなら、『暦録』の成立は764年以後となる。
 「高岡宮」は綏靖天皇の宮で、現在の葛木坐一言主神社の北に「綏靖天皇葛城高丘宮趾」碑が建っている (第102回)。「或説」を読むと、高岡宮の位置は高宮廃寺跡よりも碑の場所の方が適切である。
 「或説」によれば、雄略天皇四年、土佐国に高賀茂大社が建ち、天平宝字八年になって葛城一言主神社に遷宮した。 ただ、元の土佐国に和魂(にきみたま)を置いてきたというから現地では祭り続け、それが「式内土佐坐神社」に繋がると思われる。
 さて、「『国記』の誤り」とは何だろうか。その解釈は「」が、土佐か葛城のどちらであるかによって異なる。 土佐だとすれば、「雄略二年」は雄略四年の誤りだが比較的差は小さい。 葛城だとすれば、「雄略二年」は天平宝字八年〔764〕の誤りで大きな差がある。
 「土佐」「於葛城山」の使い分けに従えば前者であり、 「」が後世のように「故郷」の意味を含むと見れば後者である。 それを判断するには、今のところ決定的な材料を欠く。

【釈紀所引:多氏古事記】
 太安万侶は多氏の一員なので、語り部としての多氏の「多氏古事記」を土台にして、 安万侶が「古事記」を著したように見える。
…(古訓) うつむ。たかし。をか。
…[動] つらなる。
けだしく…[副] 万が一。通常「も」を添える。
多氏古事記曰。
天皇一時獵葛城山。向堆之上。有天皇儀。彼此同容。天皇大異。
使問曰。大倭之國豈有朕之。儞是誰。何與朕同儀耶。大神所答之辭與天皇同。
天皇懷瞋更問。然則稱名。大神答云。先問吾者汝。々冝先稱之。
天皇勅答〔答勅〕。朕是大倭根子稚武天皇也。
太神所答曰。吾是吉事一言。凶事一言。々放之葛木一言主神也。
天皇大驚。下馬而拜。百官羅拜。大神答拜。又如天皇
而共狩山獸。言語相通者。盖疑此時有不恭之言乎。
多氏おほうじ古事記ふることふみに曰ふ。
天皇ある時、葛城山にかりあそばしき。 向ひたるをかの上に、天皇の如きすがた有れば、 彼此をちこち同じきかほかたちなり。 天皇はなはだあやしびて、
使つかひつかはして問ひたまはく 「大倭おほやまとの国にあにわれの如き人や有らむ。 いましこれそ。 いかにや朕と同じきすがたなるか。」ととひたまへば、 大神おほかみの答へしことば天皇と同じき。
天皇こころいかりて更に問ひたまはく 「しかくあればすなはち名をなのれ。」 ととひたまひて、大神答へてまをししく 「先にわれに問ひしはいましぞ。 汝よろしく先になのりたまへ。」とまをしき。
天皇答へのたまはく「朕是大倭根子稚武天皇おほやまとねこわかたけるのすめらみことなり。」とのたまひて、
太神おほかみ答へまをさくは 「吾是吉事よごと一言ひとこと凶事まがごと言一言、 事放ことさか葛木一言主神かつらきひとことぬしのかみなり。」とまをしき。
天皇はなはだ驚きたまひて、馬をりてをろがみたまひて、百官ももつかさつらなりてをろがみき。大神答へをろがみたまふこと、又天皇の如し。
しかるがゆゑに共に山のしし狩りたまふ。 言語ことば相通あひかよへれば、 けだしくも此の時、つつしまざることば有ること疑ひまつらむや[乎]。 〕
蓋疑~乎…「此時有不恭之言〔この時、慎みのない言葉が発せられた〕ことを疑うことなど、万が一にもあろうか。 即ち、「全く疑う余地はない」と強く言う。
 「大神」と「太神」の混在は、真福寺本を思わせる。 一言主神の名乗りは記と同じ形である。「曰」は詔・白に分化する前の形と考え得る。このように『多氏古事記』は確かに古事記と書き方が似る。
 従って、多氏に伝えられた文書で、古事記の原型となったように見える。
 ただ、「共狩山獣〔一言主神と雄略天皇が共に狩を楽しむ〕はむしろ書紀・暦録に通じ、古事記にはない。 さらに、古事記が長谷山口まで送ったと書くのは雄略天皇の守護神になったことを意味するが、この重要なことに触れられていない。 書紀以後の神学は結論として、一言主神をローカルな神として葛城に封じ込め、 『多氏古事記』はそれに従っているのである。
 従って、『多氏古事記』は書紀以後に、古事記の原型を装って書かれたものだろうと思われる。

【釈紀:論者曰】
 釈日本紀は、最後に「論者曰」として評論を付け加える。 この部分も、参考のために読んでみる。
論者曰。夫神祇者。陰陽不測。与寂寥虚無。 利用出入。民咸用之者也。雖自然之聰明。 蘊自然之猛烈
而不於天皇之威。 而慝質幽冥之境。降魂邊鄙之國。 是所謂剛而柔弱。以蒙-養正。 妙万物而爲言。 不形語者也。
而今女巫計利假威。宜誘頑俗。迷溺流弊。 不止非禍招レ一福。 調氣和物之本意者也。
今正月十五日立例。伯姓相聚行射礼於社下。 五月下旬。申南畝功竟之事。 月上旬貢封戸調物。國司必向。自古成蹤。 
…つつむ。
…かくしだて。
…しろ。実質。
辺鄙…かたいなか。
…こうむる(身に受ける)。
女巫(じょぶ)…みこ。
伯姓…百姓。人民。
南畝(なんぼ)…①南向きで日当たりのよい田。②田畑。
…あと。(類義)跡。
射礼…延喜式に「但射礼料用此内。又十八日賭射」。 宮中行事としての「射礼」は「平安時代、正月17日に建礼門前で行う弓の儀式」(『日本大百科全書』ウェブ版)。一言主神社でも、類することが行われたのであろう。 雄略天皇と一言主神が、共に狩したことに由来するか。
封戸(ふこ)…税の一定の割合を神社に納めるように定められた集落。
〔論者曰ふ。それ神祇は陰陽おむやう測らず。寂寥せきれい虚無にあづかり 利用に出入す。民みな之を用ゐるなり。自然の聡明をいだき 自然の猛烈をつつむといへども 天皇の威には勝り得ず。〕
しかうししろ幽冥の境にかくれ、たましひ辺鄙へんぴの国にくだる。 是所謂いはゆる剛にして柔弱なり。以て正しきをかうむり養ひ、 万物にたへありて言を為せり。 形を以て語る可からざるなり。〕
〔而て今女巫ぢよぶ利を計り威を仮し、いざなくにびともてあそぶ。迷溺めいでき弊に流る。 禍を鎮め福を招くことに非ざることまず。 気を調ととのへ物を和すこれ本意なるぞ。〕
〔今正月十五日、ならひを立てて、伯姓相あつま射礼じやらい社に行ふ。 五月下旬、南畝なんぼいさを竟之おへし事をまうす。 〔闕字?〕月上旬封戸ふこ調みつぎ物を貢ぎ、国司必ず向へり。いにしへあとと成れり。〕
 神祇は易ではなく寂寥虚無の世界にいるが、必要なときは出現し人民は皆これを用いる。神祇は自然を支配するが、ただ皇の威には及ばない。
――一言主神が突然人の姿になって現れたこと、最後は天皇に侍ったことを一般化したもの。
 神の本質は冥界にあるが、魂は辺鄙な国にも降り、剛にして柔をもって人を啓蒙する。威厳は万物の妙が生む。形で表してはならない。
――神は葛城山のような辺鄙なところにも現れた。「形を以て語る」とは、百司に華美な服装をさせたことを指すか。
 今、巫女は利で釣り、見せかけの権威により住民を弄(もてあそ)び、迷信がはびこっているが、神の言葉を正しく聞くことこそが信仰の本筋である。
――「鎮禍」は悪言(まがごと)、「招福」は善言(よごと)を指す。現状は住民が現世利益と迷信にまみれて、 本来の信仰、即ち悪言・善言への帰依から遠ざかったままでいることを嘆く。
 一言主社の祭事と納税について。納税には必ず国司が訪れる。これが古くからの伝統である。
――国司が訪れるのは、納税を厳しく監督し、定められた割合で社と国に分配するためであろう。
 初めはそれほど意味のある部分とは思えなかったが、 実際に精読してみると〈釈日本紀〉当時(鎌倉時代)の学者によるこの段の受け止め方が分かって興味深かった。
 封戸の件(くだり)については、 封戸は朝廷が神に神に仕える農民を奉るという建前だが、国司が「必ず」介在するところを見ると、 事実上は社が、納税の一部を受け取る権利を確保する制度であったようである。

【鴨氏と大三輪氏】
 ここで、鴨氏と大三輪氏との関係を簡単に見ておく(詳しくは、後日改めて検討する)。
 「賀茂(鴨)氏」には、互いに独立した三系列がある。
〔天神系-下鴨神社(山城国)神職〕八咫烏武津之身命〔別名:鴨建角身命〕の後裔。
 〈姓氏録〉〖鴨県主/賀茂県主同祖/…神魂命孫 鴨建津之身命 化如大烏翔飛奉導…特厚褒賞 天八咫烏之号〗
〔天神系-上賀茂神社(山城国)神職〕武津之身を祖とする賀茂県主。
 〈姓氏録〉〖賀茂県主/神魂命孫 武津之身命之後也〗
〔地祇系-鴨都波神社神職〕大田田根子の孫、大鴨積(都美)命の後裔。
 〈姓氏録〉〖賀茂朝臣/大神朝臣同祖/大田田祢古命孫大賀茂都美命【一名大賀茂足尼〔=宿祢〕】奉斎賀茂神社也〗
 これらのうち、大三輪氏との関係が深いのはである。しかし、始祖の「タケツノミ」は共通、ないし類似する(上記※印)から、すべてが同一の族から分派した後に、それぞれの系図が確立したのであろう。
 遡ればが本流で、その分流が山城国に移って、さらに①②に別れたと見るのが妥当であろう。 系図の相違という問題に関しては、そもそも系図の端首部分は創作である。それは、氏族相互の擬制的同族関係を定義するための記述であって、むしろ分離後のそれぞれの氏族の事情を反映するものである。
 そして、と大三輪氏との関係はどうか。姓氏録は「大神朝臣同祖」とするから、少なくとも大田田根子の時期は一体であったと思われる。 しかし大田田根子は大物主神に近いから、出雲系の三輪氏と葛城に地付きの鴨氏が一度融合し、 その後再び分離したと見られる。
《葛城氏との関係》
 葛上郡は葛木氏の地でもあるので、鴨氏と葛城氏の関係も見なければならない。 葛城襲津彦は、神功皇后の時代に活躍した。但し実際には倭の五王の時代の人で、その業績が神功皇后紀に組み込まれたものと考えられる。 葛城氏は「氏」はとは言うが、そもそも葛上郡に住んだ人々のゆるやかな集まりで、波多、巨勢、曽我各氏の母体になったと考えられる (第162回)。
 一方、鴨氏は、鴨都波一号墳に前方後円墳のアマテラス族とは一線を画する独自の墳墓形式があり、起原が弥生時代に遡る独自性のある一団であった (第105回)。 その後大三輪氏との一時的な融合、そして分離を経て〈姓氏録〉の鴨氏・賀茂氏に繋がる。 鴨氏は、葛城氏として括られた諸族の一つとして存続していたのではないかと思われる。

まとめ
 人皇の時代には神は夢の中でお告げをするのが普通で、 天皇がこのような形で神に出会うのは異例である。
 神代ならば、かつてアマテラス族が葛城の鴨族を支配下に置いた記憶が伝説化したという解釈が可能だが、 雄略天皇の時代にはそぐわない。
 また、記上巻において大量の神の発生譚が示されたが、一言主神の発生譚はない。 その意味で、一言主神伝説は全く孤立している。
 そもそも、言葉は神である。言葉はそれを意識した人間の行為を通して、現実世界に作用して運命を決める。 だからこそ古代の人々は、言葉に神性を見たのである。言霊思想も、それに似る。
 不幸を生むマガゴトの一言、幸運を呼ぶヨゴトの一言は何れも現実的なパワーを秘めていて、 その「(こと)」を「(さか)る」〔放つ〕一言主神は、 言葉が持つ神性を体現する神と言える
 一言主神は発生譚を伴う諸神とはカテゴリーが異なり、理神論的な神である。
 それでは、その一言主神がなぜ突然現人神となって、雄略天皇の前に現れたのか。 それは、「大悪天皇」の人格を改造して「有徳天皇」にするのが至上命題であったからである。
 稚武大王の支配下にあった人民は、その身勝手さや暴虐ぶりに呆れて、恭恪の人に生まれ変わってくれることを心の底から望んでいた。 そして「こうなれば、神様が出てきて一言ガツンと言ってくれないかね。」などの会話があったかも知れない。 稚武の前に現れた一言主神は、かくなる人民の意識が集約された神体なのである。書紀は「人々は有徳天皇だと称えた」と書いた時に、既にそのことに気づいていた。
 一言主神が「天皇に仕えた」とあるのは、改心さえしてくれれば喜んで仕えようという人民の意識を反映したものと言える。
 しかしその人民の願いが叶うことはなく、結局最後まで大悪天皇のままで崩じたと見られる。 だからこそ、ことときの人民の強い思いが、逆に一言主伝説となって残ったのである。
 この段は、むしろ雄略天皇の大悪天皇の面が克服され得なかったことを、如実に物語るものではないだろうか。 歴史的事実は、稚武大王は暴虐であった。それを厭う民衆の中から一言主伝説が生まれた。だと考えるのである。



2018.09.17(mon) [207] 下つ巻(雄略天皇10) 

又天皇 婚丸邇之佐都紀臣之女袁杼比賣
幸行于春日之時媛女逢道
卽見幸行而逃隱岡邊
故作御歌
其歌曰

又(また)天皇(すめらみこと)、丸邇之佐都紀臣(わにのさつきのおみ)之(の)女(むすめ)袁杼比売(をどひめ)を婚(よば)ひたまひき。
[于]春日(かすか)に幸行(いでま)しし[之]時、媛女(ひめ)道に逢ひて、
即(すなはち)幸行(いでまし)を見て[而]岡辺(をかのへ)に逃げ隠れまつりき。
故(かれ)御歌を作(よ)みたまふ。
其の歌曰(いはく)。


袁登賣能 伊加久流袁加袁 加那須岐母
伊本知母賀母 須岐婆奴流母能

袁登売能(をとめの) 伊加久流袁加袁(いかくるをかを) 加那須岐母(かなすきも)
伊本知母賀母(いほちもがも) 須岐婆奴流母能(すきばぬるもの)


故 號其岡謂金鉏岡也

故(かれ)、其の岡を号(なづ)けて金鋤岡(かなすきのをか)と謂ふ[也]。


 また、天皇(すめらみこと)は、丸邇(わに)の佐都紀臣(わにのさつきのおみ)の娘、袁杼比売(をどひめ)に求婚なされました。 春日に行幸された時、媛女(ひめ)は道に逢い、 すぐに行幸されているの見て、丘の辺りに逃げ隠れました。
 そこで、御歌をお詠みになりました。その歌は。
――少女(をとめ)の い隠るを 金鋤も 五百箇(いほち)もがも 鋤き撥(ば)るもの
 そこで、その丘は金鋤丘(かなすきのおか)と名付けられました。


い-…[接頭] 動詞につく。特に意味を加えることはないが、やや決然とした意志が感じられることがある。
すく(鋤く)…[自]カ四 土を掘り起こす。
すき…[名] 土を鋤く道具。
いほち…[名] 「いほ」は五百。「ち」は助数詞。また、数の多いことを漠然と表す。
もが…[助] 文末の「もが」は、体言などをうけ実現を希望する。「も」がつくこともある。
はぬ…[他]ナ下二 撥ねる。撥ね上げる。

【真福寺本】
 真福寺本は、歌謡の「加那須岐母」の「」がない。しかし、この歌が地名「金鋤岡」の由来とされるから、「」が脱落していることは明らかである。

【丸邇之佐都紀臣】
 和邇佐都紀臣は、駿河浅間大社大宮司家に残る和爾氏系図に、米餅搗大使主(たがねつきのおほおみ)の子として登場する (第105回《和邇氏系図》)。 同系図では、書紀の「春日和珥臣深目」(雄略天皇紀元年三月 ) と同一人物である。ならばその女の童女君も、袁杼比売と同一か。 記の「童女」は普通名詞ではあるが、書記の「童女君」と共通性があり、話は入り組んでいる (第203回)。「童女」の語があちこちに出てくるのは、雄略天皇の性癖を物語るものであろう。
 さて、和爾氏の本貫は、現和爾町・櫟本町あたりとされる。書記の「春日和珥臣」という名前なら、既に春日に移っていたことになる。

【歌意】
少女をとめの い隠るを 金鋤も 五百箇いほちもがも 鋤きるもの
〔少女が隠れるなら、たくさんの金鋤があれば。そうやって鋤けば、石が撥ねるように飛び出てくるさ。〕

【春日金鋤岡】
1889年の「奈良町」の町域(緑色)
《五畿内志》
 金鋤岡があるとされる「春日」は、〈倭名類聚抄〉の{大和国・添上郡・春日【加須加】}と見られる。
 〈延喜式〉神名帳には、{大和国/添上郡/春日神社〔小社〕と、 {春日祭神四座【並名神大。月次新嘗】}が別々の社として載る。今の「春日大社」が後者であることは、明らかである。 式内「春日神社」については、宅春日(やけかすが)神社(奈良市白毫寺町116、春日大社の南約1km)が論社として挙げられている。
 〈五畿内志〉巻十二「大和国之二 添上郡」には、郷名、山川、神廟、文苑に「春日」がある。
○ 【郷名】春日カスガ【方廃。春日社存】〔まさに廃る。春日社存す。〕
○ 大宅オホヤケ 【已廃存白毫村今曰ヤケ春日
○ 【山川】春日山【在南都東一名ミカサ山有三峯〔以下略〕】
○ 烽火トブヒ 【在鹿野苑東山中有民居名鉢伏 和銅五年正月始置春日烽即此】 〔鹿野苑の東の在り。民居に在り名は鉢伏。和銅五年正月初めて春日烽を置く。即ち此なり〕。
○ 【神廟】春日祭神四座【並名神大月次新嘗○ 春日山。第一武甕槌󠄀命。第二斎主命〔経津主神〕。第三大児屋根命。第四姫大神。 東〔に〕〔る〕。嘉祥三年〔850〕九月遣参議藤原助〔以下略〕】
○ 【文苑】春日山〔中略〕○新古今集曰摂政太政大臣・春日山・郡之南・志加曽思不。〔746:春日山 みやこの南 しかぞ思ふ〕〔以下略〕
 現在の「春日山」は、三蓋山の別称、またはその東の花山を含めた複数の山の総称とされる。
 「烽火ノ山」の項の「鹿野苑ロクヤヲン」「鉢伏ハチフセ」は【村里】の村名にあり、 現在は奈良市の鹿野園〔ろくやおん〕町・鉢伏町になっている。 ただ、実際には春日烽〔のろし台〕が置かれた場所は鉢伏とは考えにくいという(第174回)。 文学では「飛火野」は実際の烽火台の位置とは無関係で、春日野の別名となっている。 【文苑】は、春日山・春日野・飛火野などの呼び名を、新古今集・万葉集・続紀ほかから見い出している。
《大日本地名辞書》
 〈大日本地名辞書〉は、 「春日郷〔中略〕今奈良町是なり、万葉集借香に作る、但その南部なる紀辻紀寺辺は大宅郷の中なりけん。」 「日本書紀(武烈巻)に播屢比能ハルヒノ箇須我カスカの句あり、 又万葉集に春日乎春日山ハルヒノカスガノヤマの句あり、 此は春の日の霞むと云ひかけつ〔=かけ言葉にして〕、文字春日も其〔の〕義に因る。」と述べる。
 ※…岩波文庫版の「校異」によれば、「能」があるのは宮内庁本のみで、他にはない。
 また、「春日山:春日郷の東に峙〔そばだ〕ち一邑の主山なり」とある。
 現在の「奈良町」は猿沢池の南の街並みの通称だが、 ここで言う奈良町は、明治二十二年〔1889〕の町村制施行で成立した町で、大正十二年〔1923〕に佐保村と合併して奈良市になった。 〈大日本地名辞書〉の刊行は、行政区画としての「奈良町」が存在した期間になされた。 ただし、同書はそのうち紀寺町辺りは大宅郷に入るとして除外している。
 ここで引用された書紀歌謡は、継体天皇紀の第一歌「野絁磨倶儞 都磨々祁哿泥底 播屢比能 哿須我能倶儞々 倶婆絁謎鳴…八洲やしま国 妻きかねて 春日はるひのかすがの国に妙女くはしめを…〕である。 釈日本紀は「春日国也。重句也。言大和国也。」、即ちこの歌における「春日国」は大和国と同義だと解釈している。 これを「春日の霞(かす)かの国」と読むことには、やや難がある。既に「カスガ」は地名として確立し、枕詞「ハルヒノ」を伴っていたと見る方が自然であろう。
 なお、表記が「春日」になったのは枕詞が転化したもので、「明日香⇒飛鳥」の例と同じだと思われる (第180回)。
《古代の春日》
 江戸時代になると「春日村」は存在せず、遺るのは神社名「春日祭神」と、複数の峯の総称としての「春日山」、 そして文学に残る「春日野」である。 ※…明治九年~二十二年〔1876~1889〕の間、一時的に「春日野村」が存在した。
 しかし、「好字令」以前の古い時代に好字化されたところを見ると、飛鳥に匹敵する繁栄した国であった可能性がある。 そう言えば、神名帳における表現が「神社」ではなく「春日祭神」という表現であることも気にかかる。この地で栄えた春日氏の祭る神という、特別の言い方が残ったのではないだろうか。 そして、その王都は完全に消滅し、ただ春日祭神だけが遺ったのである。
《金鋤丘》
 〈五畿内志〉、〈大日本地名辞書〉ともに、「金鋤岡(丘)」は載っていない。
 前項で見たように、そもそも「春日」からして漠然としている。 ましてやその中の「金鋤岡」となると、全く不明である。
 現在に至っても、カナスキの場所を捜す論はなかなか見つからない。 とは言え、記紀で出てくる地名の多くはその後の地名に繋がっているから「金鋤岡」も架空の地名ではなく、古事記の時代には実在したのだろう。

まとめ
 古代に繁栄した春日氏の遺跡は跡形もなく削平されて、興福寺の大伽藍が建ったのかも知れない。 また、春日氏は交易によって大量の鉄を手に入れることができ、多数の金鋤が普及していたことが、金鋤の丘という地名に繋がったという考え方もできる。 これらは単なる想像に過ぎないが、どこかで繁栄した春日氏の遺跡が見つかることを期待したい。



2018.09.23(sun) [208] 下つ巻(雄略天皇11) 

又天皇坐長谷之百枝槻下
爲豐樂之時
伊勢國之三重婇指擧大御盞以獻
爾其百枝槻葉落浮於大御盞
其婇不知落葉浮於盞 猶獻大御酒


又(また)天皇(すめらみこと)、長谷(はつせ)之(の)百枝槻(ももえつきのき)の下(した)に坐(ましま)して、
豊楽(うたげ)為(あそば)しし[之]時、
伊勢の国之(の)三重(みへ)の婇(うねめ)、大御盞(おほみうき)を指し挙げて以(も)ちて献(たてま)つる。
爾(ここに)其の百枝槻の葉[於]、大御盞に落ち浮びて
其の婇[於]落ちぬる葉の盞(うき、さかづき)に浮べることを不知(しらざ)りて、猶(なほ)大御酒(おほみき)を献りき。


天皇看行其浮盞之葉 打伏其婇
以刀刺充其頸將斬之時
其婇白天皇曰
莫殺吾身 有應白事
卽歌曰

天皇、其の浮きつる盞之(の)葉のまにまに行(おこな)ふさまを看(め)して、其の婇を打ち伏せて、
刀(かたな)を以ちて、其の頸(くび)に刺し充(あ)てて将(まさに)斬(き)らむとしたまひし[之]時、
其の婇天皇に白(まをさ)く[曰]
「吾(あが)身を莫(な)殺したまひそ。応白(まをすべき)事有り。」とまをして、
即ち歌(みうたよ)みまつらく[曰]。


麻岐牟久能 比志呂乃美夜波 阿佐比能
比傳流美夜 由布比能 比賀氣流美夜
多氣能泥能 泥陀流美夜 許能泥能
泥婆布美夜 々本爾余志 伊岐豆岐能美夜
麻紀佐久 比能美加度 爾比那閇夜爾
淤斐陀弖流 毛々陀流 都紀賀延波
本都延波 阿米袁淤幣理 那加都延波
阿豆麻袁淤幣理 志豆延波 比那袁淤幣理
本都延能 延能宇良婆波 那加都延爾
淤知布良婆閇 那加都延能 延能宇良婆波
斯毛都延爾 淤知布良婆閇 斯豆延能
延能宇良婆波 阿理岐奴能 美幣能古賀
佐々賀世流 美豆多麻宇岐爾 宇岐志阿夫良
淤知那豆佐比 美那許袁呂許袁呂爾 許斯母
阿夜爾加志古志 多加比加流 比能美古
許登能 加多理碁登母 許袁婆

麻岐牟久能(まきむくの) 比志呂乃美夜波(ひしろのみやは) 阿佐比能(あさひの)
比伝流美夜(ひてるみや) 由布比能(ゆふひの) 比賀気流美夜(ひかけるみや)
多気能泥能(たけのねの) 泥陀流美夜(ねだるみや) 許能泥能(きのねの)
泥婆布美夜(ねばふみや) 々本爾余志(やほによし) 伊岐豆岐能美夜(いきつきのみや)
麻紀佐久(まきさく) 比能美加度(ひのみかど) 爾比那閇夜爾(にひなへやに)
淤斐陀弖流(おひだてる) 毛々陀流(ももだる) 都紀賀延波(つきがえは)
本都延波(ほつえは) 阿米袁淤幣理(あめをおへり) 那加都延波(なかつえは)
阿豆麻袁淤幣理(あづまをおへり) 志豆延波(しづえは) 比那袁淤幣理(ひなをおへり)
本都延能(ほつえの) 延能宇良婆波(えのうらばは) 那加都延爾(なかつえに)
淤知布良婆閇(おちふらばへ) 那加都延能(なかつえの) 延能宇良婆波(えのうらばは)
斯毛都延爾(しもつえに) 淤知布良婆閇(おちふらばへ) 斯豆延能(しづえの)
延能宇良婆波(えのうらばは) 阿理岐奴能(ありきぬの) 美幣能古賀(みへのこが)
佐々賀世流(ささがせる) 美豆多麻宇岐爾(みづたまうきに) 宇岐志阿夫良(うきしあぶら)
淤知那豆佐比(おちなづさひ) 美那許袁呂許袁呂爾(みなこをろこをろに) 許斯母(こしも)
阿夜爾加志古志(あやにかしこし) 多加比加流(たかひかる) 比能美古(ひのみこ)
許登能(ことの) 加多理碁登母(かたりごとも) 許袁婆(こをば)


故獻此歌者赦其罪也

故(かれ)此の歌(みうた)を献(たてまつ)れ者(ば)、其の罪を赦(ゆる)したまひき[也]。


 また、天皇(すめらみこと)は、長谷(はつせ)の百枝槻(ももえつき)の下にいらっしゃり、 宴を開かれた時、 伊勢の国の三重の采女が、大御盞(おおみうき)〔盃〕をさし上げ持って、お進めしました。
 するとその百枝槻の葉が大御盞に落ちて浮び、 その采女は落ちた葉が盃に浮かんだことを知らずに、そのまま大御酒(おおみき)をお進めしました。
 天皇は、盃に浮かんだ葉をそのままにする不仕付けな行いを見て、采女を抑え込んで、 刀を持ち、その頸(くび)に当てて、まさに斬ろうとした時、 采女は天皇に 「わが身を殺してはなりませぬ。申すべきことがあります。」と申し上げ、 御歌をお詠みしました。
――纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮は 朝日の 日照る宮 夕日の日翔ける宮 竹の根の根足(ねだ)る宮 木の根の 根延(ねば)ふ宮 八百(やほ)によし斎の宮 真木(まき)さく日の御門(みかど) 新嘗(にひなへ)屋に 生(お)ひ立(だ)てる 百足(ももだ)る槻が枝(え)は 上枝(ほつえ)は天(あめ)を覆(お)へり 中枝(なかつえ)は 吾妻を覆へり 下枝(しづえ)は鄙を覆へり 上枝の枝の裏葉は 中枝に 落ち触らばへ 中枝の枝の 下(しも)つ枝に落ち触らばへ 下枝(しづえ)の 枝の裏葉は あり衣(きぬ)の三重(みへ)の子が 捧(ささ)がせる 瑞玉(みづたま)盞(うき)に 浮きし脂 落ち足沾(なづさ)ひ 水(みな)こをろこをろに 来(こ)しも 綾(あや)に恐(かしこ)し 高光る 日の皇子 事の 語り事も 此をば
 このように、この歌を献ったところ、その罪を赦されました。


ももえ(百枝)…[名] たくさんの枝。 (万)0213 吾二見之 出立 百兄槻木 虚知期知尓 枝刺有如 わがふたりみし いでたちの ももえつきのき こちごちに えださせるごと
ケヤキケヤキの葉
つき(槻)…[名] ケヤキの古名。ニレ科ケヤキ属の落葉高木。
伊勢国之三重…〈倭名類聚抄〉{伊勢国・三重【美倍〔みへ〕】郡}。 倭建命段に「三重村」の地名由来譚がある(第133回)
…[名] 宮中に召し出された女性。
うねめ(采女)…[名] 宮中の女官。
…(古訓) さかつき。
さかづき…[名] 酒を飲むかわらけ。
うき…[名] さかずき。
うかぶ…[自]バ四 〈時代別上代〉ウクはこのウカブと意味の重なりが大きい。
…(古訓) おこなふ。もちいる。あやまる。
…(古訓) かたな。
かたな…[名] 片側のみに刃のついた刀剣をいう。
さし-…[接頭] 動詞の上につく。原義「刺す」を幾らか含む場合もある。
…(古訓) へし。
纒向之日代宮…景行天皇が坐した(第122回)。
ひかげ…[自]ラ四 〈時代別上代〉この語には(イ)日が照りかがやく(ロ)日が隠れてしまう、の二様の解釈がある。
かけ(翔ける)…[自]ラ四 空高く飛ぶ。
ねだる(根足る)…[自]ラ四 根が十分に張っている。
ねばふ(根延ふ)…[自]ハ四 根が広く伸びている。
やほによし…[枕] 八百土(やほに、大量の土)+よ(詠嘆の助詞)+し(強調の助詞)。動詞「(い-)杵築(きつ)く」につく。
まきさく…[枕] ヒにかかる。〈時代別上代〉真木(マキ)-割(サ)クの意で、割れ目の意味のヒにかかるものか。
にひなへ(新嘗)…[名] 新米を捧げ、食して収獲を感謝する祭。
ももだる…[自]ラ四 満ち足りている。
おふ…[他]ハ四 覆う。
ふらばふ…[他]ハ下二 触れている。
ありきぬの…[枕] 三重などにかかる。
ささがす…[他]サ四 「捧ぐ」の未然形+軽い尊敬の「す」。
なつざふ…[自]ハ四 水に難渋する。
あやに…[副] むしょうに。いやに。

【真福寺本】
坐長谷之百枝槻下:真福寺本は「由長谷之百枝槻下」。氏庸本など多くは「」。 真福寺本の「長谷之百枝槻下に由(よ)りて豊楽す」でも意味が通じないことはない。
刺充其頸:「」は、「」に類似するが、「宛」のウ冠にあたる部分が「一」で、氏庸本もこの字体。 「」を「宛(あ)て」に使うのは日本語のみで、〈漢辞海〉「本来の用字「充」の異体字が「宛て」と似るため、中世以後混用。」という。 従って、この字が「」であることに疑いはない。
多気能泥能泥陀流美夜〔竹の根の根足る宮〕:「能泥」が一組しかない。それでも「竹の根足る宮」だから通ずるが、 次の部分が「許能泥能泥婆布美夜〔樹の根の根這ふ宮〕であるから、本来は「の根の根」であろう。
都紀賀延波:真福寺本は「都紀賀近波」だが、「槻が枝は」の意味であることは明らかだから「」であることに疑いはない。

【看行其浮盞之葉】
 「其浮盞之葉」は「連体修飾語〔その盞に浮きし〕+葉」の形である。 この文は、「天皇、その浮かびたる葉を看(め)し行く」と訓みたいところだが、これでは「行く」という動作の意味が不明である。 「其浮盞之葉」という動詞句を名詞化〔盃に浮かんだ葉を行うこと;「行う」は代動詞〕して「」の目的語とせざるを得ない。 最終的には言葉をなめらかにするために、「浮かびし葉」に「のまにまに」をつけたり、「行う」の名詞形を「おこなふさま」と表すなどの工夫が必要である。

【吾身】
 〈時代別上代〉によれば、「アガとワガと、それぞれ接する語に差があり、〔中略〕〔中略〕には常にアガがつ」くという。

【歌意】
纏向まきむく日代ひしろの宮は 朝日の 日照る宮 夕日の日翔ける宮 竹の根の根足る宮 木の根の 根ふ宮 八百によし斎の宮 真木さく日の御門 新嘗にひなへ屋に ひ立てる 百足る槻が上枝ほつえは天をへり 中枝なかつえは 吾妻を覆へり 下枝しづえは鄙を覆へり 上枝のの裏葉は 中枝に 落ち触らばへ 中枝の枝の しもつ枝に落ち触らばへ 下枝しづえの 枝の裏葉は ありきぬの三重の子が 捧がせる 瑞玉うきに 浮きし脂 落ち足沾なづさみなこをろこをろに 来しも 綾にかしこし 高光る 日の皇子 事の 語り事も 此をば
〔 纏向日代宮は、朝に日照り夕に日翔ける宮。 竹の根を深く、木の根を広く張る斎の宮。 新嘗殿に生える豊かな槻の木の、ほつえは都を覆い、なかつえは東国を覆い、しずえは鄙を覆う。 上の枝の裏葉は落ちて中の枝に触れ、 中の枝の裏葉は落ちて下の枝に触れ、 下の枝の裏葉は、三重の子が捧げた瑞玉の盃に落ちて脂のように浮いています。 それは天地開闢の混沌のようで、尊い皇子は心地よい音を立てて水を歩まれます。 事は、このように語られます。 〕
 雄略天皇は長谷朝倉宮にいたのに、いきなり景行帝の纏向日代宮から始まり読む者を戸惑わせる。
 おそらくは、纏向の宮殿、采女の出身地の伊勢の斎の宮、そして初瀬の新嘗殿の三殿を並べたものであろう。 そして、纏向日代は朝日・夕日が照らす宮、斎宮はがっつりと竹の根・木の根を張り巡らす宮、 新嘗殿は槻の木が豊かに茂る宮として、それぞれの特徴を対置する。
 新嘗殿の槻の、ホツエは天〔=都〕を覆い、ナカツエは東国を覆い、シヅエは鄙を覆う。 即ち、槻の枝は天皇の統治を表し、全土を漏らさずカバーする。言葉の組としては天・鄙の二極であるが、 東国を加えるのは上枝・中枝・下枝の三つの部分に対応させるためである。
 この東国を加えたことによって、東に進出した景行天皇〔但し、倭建命の業績だが〕の纏向日代宮を置いたようにも思われる。
 槻の枝の裏葉〔枝の幹に近い部分についた葉か〕は、上枝から中枝に、中枝から下枝に落ちる。 これは、天皇の威光が都から東国・鄙に広がることを意味する。 「根足る」「根延ふ」も支配域の拡大を暗示すると見られる。
 そして、下枝から落ちた威光の裏葉は、采女が差し上げた盃に落ちた。 盃になみなみと注がれた大御酒に浮かぶ槻の葉の様子に、更に天地開闢の混沌を重ね合わせ、 そこを足を濡らして歩いてくる雄略天皇をイメージする。 こうして神代から始まり、地に降り国を広げ、雄略帝に至って遂にその全土への支配を確立したことを称賛する。 そしてその支配の広がりを、槻の葉の落下に譬えるのである。
 こうして、盃に落ちて大御酒を汚した一枚の槻の葉は、雄略天皇の威光の象徴に転化した。
 自分の失敗を悪びれることなく、一首の歌によって局面を転換した采女の才覚と胆力には目を見張るものがある。
 歌の前の采女の言葉「有応白事」は「応(こた)へ白(まを)す事有り」とも訓めるが、 「白(まを)す応(べ)き事有り」として決然とした意志を示すものと訓むのがよいだろう。
《日かける》  
 〈時代別上代〉は「賀氣流(かける/かげる)」を「影る」の意にとり、「かげ」のもつ二重の意味「陰・光」に揺れる。 しかし、万葉集に「かげる」と濁る語はなく、四例の「かける」は、すべてが「」なので、ここも「太陽は空を翔ける」であろう。 日没の足は早く、地平線に向かって「翔ける」のである。太陽が地平線に近づくと大きく見えるのは、 無限長の長さについては鉛直に見上げる時より水平方向を見る方が距離を長く感じる感覚があるからで、同じ理由で太陽が地平線に近いと見かけの速さも早く感じられる。 日の出の場合も、実は同じく動きが早く見える。
《なづさふ》
 (万)2947 尓保鳥之 奈津柴比来乎 にほどりの なづさひこしを。 同じ語句を、(万)2492丹穂鳥 足沾来 にほどりの なづさひこしをという表記もある。
 「なづ」は「なづむ」と同根で、水に浸かる意が感じられる。「さふ」は「障ふ」で水の抵抗を受けつつ進むか。 ただ漢字の「足沾」を見ると「障ふ」は既に弱まり、単に水に濡れていくだけの意味に退化しているように思われる。
《許斯母》
 〈時代別上代〉は「こをろこをろ」の項においてこの歌謡を引用した中で、 「許斯母」を「しも」と解釈する。 しかし、この部分は高光日之皇子が足を水につけてやって来て、 また神代から継続した意を重ねる文脈にあるから、「来しも」が適切であろう。カ変未然形のコは乙類で「許」も乙類である。
《浮之脂》
 記上巻で土地が固まる前を様子を「国稚如浮脂」と表現する (第31回)。 また、伊邪那岐命・伊邪那美天命が沼矛(あめのぬぼこ)で塩を画くときの音「許々袁々呂々〔こをろこをろ〕も出てくる (第33回)。
 こうして記上巻にある国生み神話を連想させることにより、天皇を神の血を継ぐ子として称えたと見られる。
《日の皇子》
 万葉集では「日之皇子」という表記が多く 〔皇子が11例、御子が一例〕 、天皇自身を指す場合もある。
《事の語り事も此をば》
 許登能加多理碁登母許袁婆〔事の語り事も此をば〕は、大国主伝説の歌謡(第65回) にも出てくる定型句である。

まとめ
 一言主伝説の段で考察したように、 古事記の執筆者は雄略帝を嫌い、その暴虐を厭う民衆の思いに心を寄せたと思われる箇所が随所に見られる。 三重の采女が才覚によって難を逃れるこの段も、その一つである。
 王子だった時代に兄弟を次々と殺して政権を奪取する部分に尊敬表現がないのも、やはり意図的に省いたのではという思いは強まる (第194回【言】)。



2018.10.29(mon) [209] 下つ巻(雄略天皇12) 

爾大后歌
其歌曰

爾(ここに)大后(おほきさき)歌(みうたよみたま)ひき。
其の歌(みうた)曰(い)はく。


夜麻登能 許能多氣知爾 古陀加流
伊知能都加佐 爾比那閇夜爾 淤斐陀弖流
波毘呂 由都麻都婆岐 曾賀波能
比呂理伊麻志 曾能波那能 弖理伊麻須
多加比加流 比能美古爾 登余美岐
多弖麻都良勢 許登能 加多理碁登母 許袁婆


夜麻登能(やまとの) 許能多気知爾(このたけちに) 古陀加流(こだかる)
伊知能都加佐(いちのつかさ) 爾比那閇夜爾(にひなへやに) 淤斐陀弖流(おびだてる)
波毘呂(はびろ) 由都麻都婆岐(ゆつまつばき) 曽賀波能(そがはの)
比呂理伊麻志(ひろりいまし) 曽能波那能(そのはなの) 弖理伊麻須(てりいます)
多加比加流(たかひかる) 比能美古爾(ひのみこに) 登余美岐(とよみて)
多弖麻都良勢(たてまつらせ) 許登能(ことの) 加多理碁登母(かたりごとも) 許袁婆(こをば)


卽天皇歌曰

即(すなはち)天皇(すめらみこと)歌(みうたよみたまはく)[曰]


毛々志記能 淤富美夜比登波 宇豆良登理
比禮登理加氣弖 麻那婆志良 袁由岐阿閇
爾波須受米 宇受須麻理韋弖 祁布母加母
佐加美豆久良斯 多加比加流 比能美夜比登
許登能 加多理碁登母 許袁婆

毛々志記能(ももしきの) 淤富美夜比登波(おほみやひとは) 宇豆良登理(うづらとり)
比礼登理加気弖(ひれとりかけて) 麻那婆志良(まなばしら) 袁由岐阿閇(をゆきあへ)
爾波須受米(にはすずめ) 宇受須麻理韋弖(うずすまりゐて) 祁布母加母(けふもかも)
佐加美豆久良斯(さかみづくらし) 多加比加流(たかひかる) 比能美夜比登(ひのみやひと)
許登能(ことの) 加多理碁登母(かたりごとも) 許袁婆(こをば)


此三歌者天語歌也
故於此豐樂譽其三重婇而
給多祿也
是豐樂之日
亦春日之袁杼比賣獻大御酒之時
天皇歌曰

此の三歌(みうた)者(は)天語歌(あまがたりうた)也(なり)。
故(かれ)[於]此の豊楽(うたげ)に其の三重婇(みへのうねめ)を誉めて[而]、
多(おほき)禄(たまもの)を給(たま)ひき[也]。
是(この)豊楽(うたげ)之(の)日、
亦(また)春日(かすか)之(の)袁杼比売(をどひめ)大御酒(おほみき)を献(たてまつ)りし[之]時、
天皇歌(みうたよみたまはく)[曰]。


美那曾々久 淤美能袁登賣 本陀理登良須母
本陀理斗理 加多久斗良勢 斯多賀多久
夜賀多久斗良勢 本陀理斗良須古

美那曽々久(みなそそく) 淤美能袁登売(おみのをとめ) 本陀理登良須母(ほだりとらすも)
本陀理斗理(ほだりとり) 加多久斗良勢(かたくとらせ) 斯多賀多久(したかたく)
夜賀多久斗良勢(やかたくとらせ) 本陀理斗良須古(ほだりとらすこ)


此者宇岐歌也
爾袁杼比賣獻歌
其歌曰

此者(こは)宇岐歌(うきうた)也(なり)。
爾(ここに)袁杼比売歌(みうた)献(たてまつ)りき。
其の歌(みうた)曰(い)はく。


夜須美斯志 和賀淤富岐美能 阿佐斗爾波
伊余理陀多志 由布斗爾波 伊余理陀多須
和岐豆紀賀斯多能 伊多爾母賀 阿世袁

夜須美斯志(やすみしし) 和賀淤富岐美能(わがおほきみの) 阿佐斗爾波(あさとには)
伊余理陀多志(いよりだたし) 由布斗爾波(ゆふとには) 伊余理陀多須(いよりだたす)
和岐豆紀賀斯多能(わきづきがしたの) 伊多爾母賀(いたにもが) 阿世袁(あせを)


此者志都歌也

此者(こは)志都歌(しつうた)也(なり)。


 そこで、皇后(おおきさき)は御歌を詠まれました。 その御歌は。
――倭の 此の高市(たけち)に 小高る 市の司 新嘗(にひなへ)屋に 覆(お)ひ樹(た)てる 葉広(びろ) 斎(ゆ)つ真椿 其が葉の 広り座(いま)し 其の花の 照り座す 高光る 日の皇子に 響(とよ)みて 奉らせ 事の 語り事も 此をば
 そして、天皇(すめらみこと)は御歌を詠まれました。
――百礒城(ももしき)の 大宮人は 鶉鳥(うづらとり) 領巾(ひれ)取り懸けて 鶺鴒(まなばしら) 尾行き和へ 庭雀 髻華(うず)住まり居(ゐ)て 今日(けふ)もかも 酒御付(さかみづ)くらし 高光る 日の宮人 事の 語り事も 此をば
 この三首は、天語歌(あまがたりうた)です。
 こうして、この宴にその三重の采女を誉め、 多大な禄給を与えられました。
 この宴の日に、 また春日の袁杼比売(おどひめ)が大御酒(おおみき)をお進めした時、 天皇は、御歌を詠まれました。
――水注(みなそそ)く 臣の少女(をとめ) 秀樽(ほだり)取らすも 秀樽取り 堅く取らせ 下(した)堅く 弥堅く取らせ 秀樽取らす子
 これは浮歌(うきうた)です。
 そして袁杼比売は、御歌をお詠みしました。 その御歌は。
――八隅(やすみ)知し 我が大王の 朝処(あさと)には い拠り立(だ)たし 夕処には い拠り立たす 脇几(わきつき)が下の 板にもが 吾兄(あせ)を
 これは静歌(しずうた)です。

高市郡
たけち…[地名] 〈倭名類聚抄〉{大和国・高市【多介知】郡}。 高市郡は、飛鳥宮・藤原宮・軽・畝傍山などを含む歴史的な地域である。
つかさ…[名] 小高い所。人の集団内で上位の人を指す「つかさ」(官、司)に転ずる。
たかる…[自]ラ四 「高し」の動詞化。
ゆつ(斎つ)…ゆ(斎、斎(い)み清めた)+つ(続格の格助詞)。
ツバキ
つばき…[名] 椿。ツバキ科ツバキ属の常緑樹。
ひろる…[自]ラ四 「広し」の動詞化。
います…[自]サ四 「あり」の尊敬語。動作の主体を尊敬する。
たかひかる…[枕] 日にかかる。
とよむ…[自]マ四 鳴り響く。
ももしきの…[枕] 大宮にかかる。多数の石を敷いた城に由来する。
うづらとり…[名] ウヅラ。キジ目キジ科ウズラ属。
ひれ…[名] 女子が肩にかける細長い布。装飾、また呪術的な意味も。
まなばしら…[名] セキレイ。スズメ目セキレイ科。
うずすまる…[自]ラ四 〈時代別上代〉未詳。
さかみづく…[自]カ四 〈時代別上代〉未詳。酒盛りする。の意か。
…(古訓) さいはひ。たまふ。
さきはひ…[名] 幸福。神の恩恵。
袁杼比売…丸邇の佐都紀臣の女(第207回)。
なそそく…[枕] 臣にかかる。〈時代別上代〉水が飛び散る大水(オホミ)の意で、類似の音をもつ臣(オミ)にかかるか。
ほだり…[名] 〈時代別上代〉未詳。酒を入れて盃に注ぐのに用いる器か。
したがたし…[形]ク しっかりしている。
(弥)…[副] いよいよ。ますます。
あさと…[名] 「朝の間」を意味すると考えられている。ゆふとの対。
-と…[名] ~の所。時間に転用して「~の間」。
よりだたす…[他]サ四 (万)3977 安之可伎能 保加尓母伎美我 余里多〃志 あしかきの ほかにもきみが よりたたし 〔葦垣の外にも君が寄り立たし〕
わきづき…[名] 脇息(きょうそく)。
いた…〈倭名類聚抄〉:唐韻云板【歩綰反。伊太。功程式有波多板歩板】薄木也。 〔唐韻に板を云ふ。音「バン」。いた。『功程式』に波多板・歩板あり。薄き木なり〕
もが…[助] 文末に置き、主に体言、あるいは助詞「に」などを受けて、実現を希望する。
あせを…囃子詞。「吾兄を」という呼びかけに由来。

【真福寺本】
氏庸本 真福寺本
《毗》
 「」は「」の異体字。
2・3《婆》
 多くは「」だが、真福寺本(以下「真」)は「」。に使用されるから、婆でもよいように思えるが、 その前の三重の采女の歌(前回)では「宇良婆」は、「裏葉」の連濁(ウラ-バ)だと思われるので、:清音:濁音に使い分けていると見られる。 ここでは葉・花を濁音にする理由はないから、「婆」は誤りと思われる。
《三本言》
 添え書き「三本言」は、「三:本に言ふ」の意と見られる(第203回)。
《此豊楽》
 多くは「此豊楽」となっているが、真には「此」がない。
《曽々久》
 真は「曽斗久」。サ行がタ行に転じる例としては「ふさぐ」→「」があるから、 「そとく」も全くないとは言い切れないが、何れかの筆写の段階で「々」が「斗」になったと見るのが妥当であろう。
7・8《理斗理、斗》
 この部分は、一般には「本陀理斗理加多久斗良勢」。真は「本陀理計加多久良勢」。
 少なくともについては、10に「計良須」があるから、「久計良勢」から「」が脱落したものであろう 但し、「」は、系統的に「」であろうと見做されている;次項以下。 真をこのように補ったとしても、「ほだりけかたくけらせ」または「ほだりとかたくとらせ」となり、意味の理解が難しい。恐らくも2つ目の「」の脱落であろう。
 は、氏庸本では「理計理」。理が2個ある点は一般型、「」とするのは真福寺型で、なかなか解釈が難しい。 氏庸本では「本陀理計理〔ホダリケリ〕。ホダルを動詞としてその連用形+回想の助動詞となる。
 真ではの「」の旁が太く重ね書きされ、読みにくかったことを伺わせる。 筆写元は、の箇所に破損があったのではないか。
11《献歌其歌曰》
 真の「献歌曰其歌」でも、「歌を献りき。其の歌に曰く」と訓めてしまうのだが、 「」は、例外なく引用符の役割をする形式文字なので、仮に太安万侶の肉筆だとしても不適切である。
12《斗》
 真では「」で、「計」とも異なる。歌謡の「登能」の影響であろうか。
 氏庸本では、他の個所の「」とは書体が異なり、ここが真正の「」であることを強調するが如くである。 これは「阿佐計」を「朝餉」と解釈したものかも知れないが、アサゲ〔朝食〕は中古〔平安〕の時代の語である。 もしも「朝-食(ケ)」だったら上代でも通用したかも知れないが、計(ケ)を用いることはあり得ない。
9・10・13《斗》
 真の仁徳段に「由良勝計能」が出てきた。これは応神天皇紀の同一歌の「由羅能斗能」との対応から、真の「」は「」だと判断した (第174回【真福寺本】)。
 しかし氏庸本でも「」であるところを見ると、「」を用いた写本が比較的広く存在したことになる。 氏庸本は13の「由布斗」だけが「斗」だから、「計」はケということになる。 「けらす」(ケリの未然形+尊敬のス)はあり得るが、その場合は動詞「ホダル」を想定しなければならない。氏庸本のが「火陀理」なのは、 「火-足る」という解釈があったかも知れない。
 真では「斗」が「計」になることが多いのだが、一部にはもともと「計」だったものもあるかも知れない。 【第四歌】の項でさらに検討する。
《氏庸本》
 氏庸本は、に「加」が挿入され、 「斯多賀多久〔下堅(かた)く〕が「斯多賀加多久〔下が堅(かた)く〕になっている。
 表杼比売」は、明らかに「袁杼比売」の誤りである。

【第一歌】
 ここでは、前回三重の采女の歌を第一歌として数える。

【第二歌】
倭の 此の高市に 小高る 市の司 新嘗にいなへ屋に ひ樹てる 葉広 つ真椿 其が葉の 広り座し 其の花の 照り座す 高光る 日の皇子に とよみて 奉らせ 事の 語り事も 此をば
〔 倭の国、高市の小高いところの市の司が掌る宴。その新嘗の会場を覆い立つ椿。 葉広く、花に光が当たる。そこにいらっしゃる皇子に、人々は賑やかに奉れ。 〕
《市の司》
 〈時代別上代〉は、「つかさ」を「小高い土地」と解釈するが、 「えっ毘市の司」には、「市を司る人」という意味がある (雄略天皇紀十三年【餌香市辺】)。 これを優先すべきであろう。その場合、「こだかる」は枕詞かも知れない。
《新嘗屋》
 「新嘗屋」は、第一歌を受けるものであるが、歌の舞台は高市郡に移っている。 第一歌の「朝倉宮の近く、百枝の槻の木が生ひ立てる新嘗屋」を受けて、 「高市郡の葉広・花照る椿が覆ひ樹てる新嘗屋」と歌う。
 高市郡の市の司と言えば、軽の市が思い浮かぶ。軽の市が雄略朝当時から存在していたか、 それとも飛鳥時代の歌を遡らせてこの場面に用いたものかは、分からない。
 市の司の館は高台にあり、新嘗殿が隣接しているのであろうか。 しかし、新嘗殿で単なる宴をすることはあり得ないので、宴の館を「新嘗殿」とするのは歌に於ける美辞化であろう。
《其が葉の広り座し》
 「座(いま)す」は高貴な人への尊敬語だから「日の皇子」に懸り、 「その葉の広り〔広い立派な葉〕のところに座して、その花の照るところに座す、日の皇子」 の意味であろう。
《皇后による緊張の緩和》
 皇后は波多毘能若郎女(いくつかの別名あり。第198回)。
 三重の采女は第一歌を詠むことによって巧みに危機を回避したが、そこにはまだ緊張感が漂っている。 は采女の歌への答歌を詠む形で、さあ賑やかに宴を始めますよと参加者に促し、 場の空気を和らげるのである。

【第三歌】
百礒城ももしきの 大宮人は うづら鳥 領巾取り懸けて 鶺鴒まなばしら 尾行き和へ 庭雀 髻華うず住まり居て 今日もかも さかみづくらし 高光る 日の宮人 事の 語り事も 此をば
〔 大宮の人は、ウズラは領巾(ひれ)を取り懸けて、セキレイは尾を合わせて行き、 スズメは髻華(うず)をつけて巣に住んでいる。それは、今日もかも。 酒を楽しむらしいよ。日の宮の人は。 〕
《うずすまりゐて》
 ウズラ、セキレイ(まなばしら)、スズメのそれぞれの特徴が書かれているとすると、最も分かり易いのはセキレイの尾である。
 領巾がウズラの特徴を表すとすれば、白い筋状の模様のことであろうか。 「うずすまる」も、何らかのスズメの特徴を表すはずである。
 これらは、宴に集まる華やかに着飾った人を鳥に譬えたものとも、 鳥たちが飛び交う宴の宅の周りの様子を描いたものともとれる。 宮人の集まる華やいだ場面を描くことによって、天皇が宴を再開する気持ちになったことを表している。
 歌から鳥に関する部分を抜き出して整理すると、
ウズラセキレイスズメ
 うづらどり:領巾-取り懸けて
 まなばしら:尾-行き和へ
 にはすずめ:うず-すまりゐて
 となっている。
 「うづら」を「うづらどり」、「すずめ」を「にはすずめ」にするのは、 文字数を揃えて語調を整えるためである。 そして、それぞれに特徴を表す言葉を続ける。そこまでの文字数は揃っていないが、 ①②は「目的語+動詞」の形である。
 も同じ形である可能性は高いから、 「うずすまりゐて」を同じように分けるとすれば、「うず」+「すまり-ゐて」であろう。 名詞「うず」には「髻華」〔髪に挿した飾り物〕がある。 動詞の部分は複合動詞「すまり・ゐて」になるので、 四段(または上二段)活用の動詞「すまる」を想定しなければならない。これは難題である。
 四段の「すまる」は存在しない。ただ、動詞の未然形に動詞語尾がついて再活用する例は多いことが、ヒントになるかも知れない。 例えば、動詞「はぬ」は下二段活用であるが、古形に四段活用の「はぬ」があったとすれば、自動詞「はなる」はその未然形に「-る」がついて成立したと思われる。 「はなる」が下二段活用であるのは、自発の助動詞「る」との共通性によるのだろうが、〈時代別上代〉は、四段に活用することもあったと述べ、その例を載せている。
雲珠 宗像大社国宝展(2014年8月/出光美術館)図録
 「住む」について見ると、動詞語尾「-ふ」をつけた「住まふ」がある。動詞語尾として自発の助動詞「-る」がつけば、下二段の「すま-る」となる。 それが固定化して自動詞「住まる」となり、さらに「はなる」と同じく四段活用する古形があったとするなら、 「住まり(連用形)-ゐて」が成り立つ。 この語は他のどこにも見られないので、古い時代に消失した形なのかも知れない。 「すまり-ゐる」は、「巣に住んでいる」という意味であろう。
 「うず」は、雀の頭部の模様を譬えたものか。また、馬の背につける飾りも「雲珠」という(右図)。 それに軒先に作った巣を譬えて、美化したものだろうか。 あるいは、馬が歩いて雲珠を鳴らす音がスズメの鳴き声に似ているからか。 いろいろ想像してみるが、確かなことは分からない。
《さかみづくらし》
 「らし」を推量の助動詞として「さかみづく-らし」と区切れば、「さかみづく」は動詞の終止形である。 「さかみづき」(連用形)は、万葉に三例ある。
● (万)4059 多知婆奈能 之多泥流尓波尓 等能多弖天 佐可弥豆伎伊麻須 和我於保伎美可母  たちばなの したでるにはに とのたてて さかみづきいます わがおほきみかも 〔橘の下照る庭に殿建てて酒みづき座す我が大王かも〕
● (万)4116 於保支見能 … 左加美都伎 安蘇比奈具礼止  おほきみの … さかみづき あそびなぐれど〔なぐ:心や海が静まる。〕
● (万)4254 吾大皇 秋花 之我色〃尓 見賜 明米多麻比 酒見附 榮流今日之 安夜尓貴左  わがおほきみ あきのはな しがいろいろに めしたまひ あきらめたまひ さかみづき さかゆるけふの あやにたふとさ 〔吾が大王 秋の花其が色々に見し賜ひ明らめ賜ひ 酒見附き 栄ゆる今日の綾に尊さ〕
 何れも動作主を大王として、尊敬語である。 4254に漢字を宛てた編者は、「酒を見て近づくこと」と解釈した。 よって、「さかみづく」は酒を嗜むことを意味し、またその動作主から見て尊敬語である。
 ならば「み-」は「」かも〔「見」は借訓〕知れないが、「御」は名詞への接頭語だから「御付く」とは言わない。 「さか-」(酒)も名詞に接続するときの形だから、 最初にできたのは、名詞形「付き」に「さか-」「み-」をつけた、「酒御付き」であろう。 それが後に動詞に転じたことになる。なお「つく」には「浸く」もあり、「今日も」があることから「酒に入り浸っている」意味も感じ取れるが、もともと「浸く」は「付く」の様々な形態のひとつを表す言葉なので、そんなに意味が離れるわけではない。
《天語り歌》
 「天語歌」とされる第一歌~第三歌は、いずれも「事の語り事も此をば」を結句としている。 宣長は天語歌を「あまことうた」(古事記伝略;巻十二)と訓むが、結句に「加多理碁登」があるから、「あまかたりうた」であろう。
 宣長は「余語歌アマコトウタなるべし、三歌皆ハテに、許登能加多理碁登母許袁婆コトノカタリゴトモコヲバ と云〔いふ〕ことの添〔そは〕れるが、歌の意の外にて、余れる語なればなり〔『事の語り事も此をば』は、歌意から外れている。このように余分な言葉がくっついた歌だから「余語歌」という。〕と述べる。 随分ひねくれた見方をするものである。
 第一歌は、伊邪那岐命の神話や景行天皇の宮に及ぶ。 第二歌は高市に都があった時代〔允恭天皇、あるいは懿徳天皇、孝元天皇か〕を望む。 第三歌も、古い時代の「宮人」に思いを至らしめるものであろう。 それらを受ける共通の結句『許登能加多理碁登母許袁婆』は、「語り継がれてきたことは、これである」と述べるものである。 だから「天語り歌」とは、神話・伝説を詠み込んだ歌という意味であろう。

【第四歌】
 第四歌については、標準の形とされるものに加えて、真福寺本のままに語釈したものを添える。
みな注く 臣の少女をとめ 秀樽ほだり取らすも 秀樽取り 堅く取らせ 下堅く 堅く取らせ 秀樽取らす子
〔 臣の乙女に秀樽を取らせよう。秀樽をしっかりと、さらにしっかりと取れよ、秀樽を取る子。 〕



水注みなそとく 臣の少女 秀足ほだり取らすも  秀足りけり 堅く[著有]らせ 下堅く 弥堅く著有らせ 秀足り著有らす子
〔 臣の少女に十分なものを取らせよう。身に着けていなさい。しっかりと着けていなさい。十分なものを着ける子よ。 〕
 けり(著有)…着ている。身に着けている。
《とる》
 「とる」の「」は、甲乙が混在している。 第四歌では一つ目が「らす」、二つ目から最後までが「」である。 〈時代別上代〉は、 「ト(乙類)ルが原形で、そこからト(甲類)ルが強調形、ト(乙類)ルが普通形と分かれたという見方がある」ことを紹介している。 それにしても、特に「良須」と「良勢」の不一致には頭を抱える。
《ほだり》
 『日本古典文学体系』版(岩波書店、以後〈体系岩波〉)は、「タリは酒を入れて注ぐ土器で、徳利のようなもの。 タル(樽)はその転化である。」と断言する。 また『古典基礎語辞典』(大野晋;角川学芸)も、「タルの古形はタリ。」とし、 さらに、大ナルウツハ者ニ水イレテヲクヲタルトナツク。船のトモにヲク也」〈名語記〔建治元年;1275〕を引用する。
 一方〈倭名類聚抄〉は、「:樽【今案無和名俗称去声〔今案ずるに和名無く、俗に去声を称える〕。つまり、樽は和語はなく、樽の音の声調を去声に替えて称していたという。 もし〈倭名類聚抄〉の説明が正しければ、樽は平安時代はソンで、次第に訛って鎌倉時代にはタルになったことになり、 「タル」の上代の形が「タリ」という説は成り立たなくなる。
 こうして見ると、〈時代別上代〉の解説が「タリは樽(タル)と関係のある語かともいう。」に留めるのは、冷静な態度と言える。
《うき歌》
 〈体系岩波〉は、「うき」を盞〔うき;さかずきの意;景行天皇紀十八年と解釈している。
 これは、宣長の解釈でもある。曰く。 「〔=賀茂真淵〕酒盞ウキ歌なりと云〔いは〕れき、… 此は彼〔かの〕甚堅弥堅取シタカタクヤカタクトれと詔ふ御詞に就〔つき〕て、 盞に酒を注く時、歌ふ事のありし故に、ウキ歌と は云〔いへ〕るにこそと云〔いへ〕」。
 しかし、「天語歌」、「志都歌」が歌のカテゴリーを示すのに対して、「盞歌〔=盃の歌〕では場面を限定し過ぎている。 単純に「静歌(志都歌)」と対になった「浮き歌」と考えればよいのではないかと思われる。 同語反復する調子の良さと、囃子言葉「あせを」によって「浮き歌」〔浮かれる歌〕の性格が浮かび上がるのである。
《真福寺本》
 真福寺本による語釈は上に示した通りで、一応の解釈は可能である。 「計」が「計」ならば、この歌に限ってはの不一致問題は解消する。
 「」は「著-有り」の融合で、「かたく」から続けるにはこれしかない。 「きる=身に着ける」は衣を着ることに限らず、「ものをしっかり持つ」場合にも使われると思われるので、「穂樽を持つ」意味を持たせることは可能である。 但し「ほだりけり」だけは助動詞「けり」と見られ、「ほだり」は動詞「ほだる」の連用形である。 これを「秀足る〔秀でて満足する〕と読めば「秀樽」の悩みから解放される。 しかし、何を「著有」るのか明示されないのがもどかしい。
 物語歌としての解釈は、酒を少しでもこぼすと勿体ないから、注意して酒の容器をしっかり体の近くに持ちなさいという意味である。これは、基本的に「斗」の場合と変わらない。 しかし独立歌として見ると、わが娘に衣服を正装させるときに、臣が語り掛けた歌だった可能性が出てくる。
 このようにして様々な角度から検討すると、「ほだり=後の徳利に相当する酒の容器」という解釈はかれこれ1000年間ほどは不変であるが、これにかなりの疑念が湧いてくる。 万が一、原書は「計」だったのが後世の解釈により、幾つかの系統の写本で「斗」に置き換えられたとすれば、名詞「ホダリ」は消滅する。

【第五歌】
八隅やすみ知し 我が大王の 朝には い寄りたし 夕処には い寄り立たす 脇几わきつきが下の 板にもが 吾兄あせ
〔 我が大王が朝に寄りかかって立ち、夕に寄りかかって立つ脇息の、 下の板になりたい。 〕
《あさと・ゆふと》
 〈時代別上代〉は「曛:日没之㒵也、暮也、由不戸ゆふと」(新撰字鏡)を、 「ゆふと」を「夕の間」と解釈する根拠としている。は、「くらい。夕暮れ」という意味。 一方〈学研新漢和〉は、その「由不戸」を「ユフヘ〔夕へ〕と読んでいる。万葉仮名「」は、にもにも使われる。 「ゆふへ」に対して、戸は「へ」だが、新撰字鏡の時代〔898~901〕には上代特殊仮名遣いは消滅していた。
 〈時代別上代〉は、「熟睡ウマイ寝しに」(継体紀七年)など、独立用法の例がある。」とする。 原文は九月条の歌謡で、「矢泪矩矢慮 于魔伊禰矢度儞 儞播都等唎 柯稽播儺倶儺梨ししく〔枕〕しろ 味寝うまい〔=安眠〕寝し庭つ〔枕〕かけは鳴くなり; =安眠したところに鶏が鳴く〕 となっている。
 「寝しト」を見れば、「~と」は、空間の(ところ)を時間に転用したものであろう。
《い寄り立たす》
 〈体系岩波〉は、「立ツは坐る意にも用いられている。呉床(あぐら)に坐ることを、呉床に立たしとあるのがその例である。」 と断言するが、他の辞書類には「坐る意」は見られない。 その「呉床」については、記はすべて「呉床に坐す」であるが、 書紀には雄略天皇紀四年八月に「胡坐〔=呉床〕に立たし」がある。 興味深いのは、その個所に「一本。『立たす』を以て『坐す』に易(か)ふ」という原注があり、当時の校訂者にも「呉床に立つ」という言い方はおかしいという感覚があったようである。 さもなければ、このような些細な相違を取り立てて言うことはなかったであろう。
 「寄り立たす」は、脇息に手をついてよいしょと立ち上がる動作とするのが自然な解釈だと思われる。 動詞の接頭辞「い-」には、しばしば気合が感じられる。
《下の板にもが》
 袁杼比売は妃ではあるが天皇に召されることが少ないのが寂しく、もっと長い時間近くにいたいという心情を詠んだものかと思われる。

まとめ
 「うずすまる」、「さかみづく」は未だ意味が確定していない。 また、「たかる」「ひろる」も意味は明白だが、高、広を「+る」の形で動詞化する例は珍しい。 「ほだる」も動詞かも知れない。 これらは記の時代に既に古語であったと思われ、古い歌を載せたのであろう。
 さて、雄略天皇段を崩の直前まで読み進んできたが、書紀との乖離は広がっている。 書紀の雄略天皇紀はに一定の歴史的事実の反映があるが、記は暴虐さを一定表現しつつ、 少女を愛好する性癖に矮小化されている。
 書紀の雄略天皇以後の部分は文書記録によって書かれたが、記録のない時代は伝承に依存したと見られる。 その材料の蒐集を太安万侶らが担当したが、 その内容の豊かさに魅了された安万侶は独自の書としてまとめようという思いに至り、 古事記が成立したと思われる。
 よって歴史的事実の部分は、基本的に書紀に委ねることとなるわけである。
 なお、天皇・官僚が国を取り仕切ることを絶対化する書紀に対して、 記には諸族の独自性を大切にし、民衆に寄り添う視点があるとする本サイトの考え方は、これまでと変わらない。 



[210]  下つ巻(雄略天皇13)