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[200]  下つ巻(雄略天皇3)

2018.06.07(thu) [201] 下つ巻(雄略天皇4) 

亦一時 天皇遊行到於美和河之時
河邊有洗衣童女其容姿其麗
天皇問其童女
汝者誰子
答白
己名謂引田部赤猪子
爾令詔者
汝不嫁夫今將喚而
還坐於宮

亦(また)一時(あるとき)、天皇(すめらみこと)行き遊(あそば)して[於]美和河(みわのかは)に到りましし[之]時、
河辺(かはへ)に衣(ころも)を洗ひたる童女(をとめ)有りて、其の容姿(すがた)其の麗(うるは)しきに
天皇其の童女に問ひたまはく
「汝(いまし)者(は)や誰(たれ)子(こ)なるそ」ととひたまひて、
答へ白(まを)ししく、
「己名(おのがな)は、引田部(ひきたべ)の赤猪子(あかゐこ)と謂(まを)しまつる。」とまをしき。
爾(ここに)詔(おほせごと)のら令(し)めたまへる者(は)
「汝(いまし)夫(つま)に不嫁(なとつぎ)そ。今に[将]喚(め)したまはむ。」とのらしめたまへりて[而]、
[於]宮(おほみや)に還(かへ)り坐(ま)しき。


故其赤猪子仰待天皇之命 既經八十歲
於是 赤猪子以爲望命之間已經多年
姿體痩萎更無所恃
然 非顯待情不忍於悒
而令持百取之机代物參出貢獻

故(かれ)、其の赤猪子天皇之(の)命(おほせごと)を仰(あふ)ぎ待ちて、既に八十歳(やそとせ)を経(ふ)。
於是(ここに)、赤猪子命(おほせごと)を望(のぞ)みまつると以為(おも)ひし[之]間(ま)、已(すで)に多(おほ)き年を経て、
姿体痩萎(やせな)へて更に所恃(たのめること)無くて、
然(しかれども)、待てる情(こころ)を非顕(あらはさざ)りてあれど、[於]悒(いきどほり)を不忍(しのばざ)りて[而]、
百取之机代物(ももとりのつくゑしろのもの)を持た令(し)めて、参出(まゐで)て貢献(たてま)つりき。


然天皇 既忘先所命之事
問其赤猪子曰
汝者誰老女何由以參來
爾赤猪子答白
其年其月 被天皇之命仰待大命
至于今日經八十歲
今容姿既耆更無所恃
然 顯白己志以參出耳

然(しかれども)天皇、既に先に所命(おほせらえ)し[之]事を忘れたまひき。
其の赤猪子に問いたまひて曰はく、
「汝(いまし)者(は)や誰(たが)老女(おむな)そ。何由(なにゆゑ)をや以ちて参来(まゐきたる)そ」ととひたまひて、
爾(ここに)赤猪子答へ白(まを)さく
「其の年其の月、天皇之(の)命(おほせこと)を被(お)ひまつりて、大命(おほみこと)を仰(あふ)ぎ待ちまつれり。
[于]今日(けふ)に至りて八十歳(やそとせ)を経(ふ)。
今容姿(すがた)既に耆(お)いて、更に所恃(たのまゆること)無くて、
然(しかれども)、己(おのが)志(こころざし)を顕(あきらけく)白(まを)さむとして、以ちて参出(まゐでし)耳(のみ)。」とまをしき。


 またある時、天皇(すめらみこと)が遊びに美和河〔三輪川〕に到着された時、 河辺で衣を洗っている乙女がおり、その姿のその美しさに、 天皇はその乙女に、
「お前は誰か。」と問われました。
 乙女は、 「自分の名前は、引田部の赤猪子(あかいこ)と申します。」と答えました。
 そこで、 「お前は、夫に嫁ぐでないぞ。すぐに喚ぶから。」と言い渡されて、 宮殿にお帰りになりました。
 こうして、その赤猪子は天皇の命があることを待ち続けて、既に八十年が経ました。
 そうして、赤猪子命を望み続ける間に既に多年が過ぎ、 姿は痩せ萎えてそれ以上どうすることもできなくなり、 けれども、待つ心を表さずにきましたが鬱積に耐えられなくなり、 百取之机代物(ももとりのつくえしろのもの)を持たせて、参上して献上しました。
 けれども、天皇は、既に先に命じられたことをすっかり忘れておられました。 その赤猪子に、 「お前は何という名の老女か。いかなる理由で参上したのか。」とお尋ねになり、 そこで、赤猪子はこのようにお答え申し上げました。
 「その年その月、天皇の命を受け、その大命を頂くことをお待ちしておりました。 そのまま今日に至り、八十年が過ぎました。
 今、姿は既に老いて、これ以上どうすることもできず、 それでも、私の心のうちを洗いざらい申しあげようとして、参上したのでございます。」と。


引田部(ひきたべ)…〈姓氏家系大辞典〉引田臣の部曲〔かき、かきべ〕か。
引田…〈姓氏家系大辞典〉「三輪引田君:三輪氏の族にして、大和国城上郡曳田邑より起る。曳田邑は、〈倭名類聚抄〉{大和国・城上郡・辟田郷〔へきたのこほり〕か。
あふぐ…[自]ハ四 ①仰ぐ。②心に願う。
あふぎまつ…〈時代別上代〉の見出し語にある。
…(古墳) のそむ。あふく。ねかふ。
やす…[自]サ下二 痩せる。身体が細る。
なふ…[自]ハ下二 なえる。しびれて感覚がなくなる。
…(古訓) いたみなけく。いきとほる。
いきどほる…[自]ラ四 心が晴れない。
まゐづ…[自]ダ下二 高貴な人のもとに出かけおもむく。
おむな…〈倭名類聚抄〉嫗【和名於無奈】老女之称也
…(古訓) おきなひと。およす■。
おゆ…[自]ヤ上二 老いる。

【真福寺本】
 旁の下半分は「」の形ではない。しかし、文脈からは「」以外は考えられない。
 二文字に分けて「宗女」となっているが、「」の誤写であろう。
 「」の異体字に「」がある。
 二つ目は「」であるが、文意が同じだからこれも「恃(たのむ)」であろう。
 真福寺本では、「」にしばしば「」が用いられる。

【己名謂引田部赤猪子】
 「己名謂引田部赤猪子」が「誰子(たがこぞ)」という問いへの答えだとすれば、「引田部赤猪子」は「引田部赤猪の子」の意味になる。 しかし、一般的に「」には「」を用い、「」は、愛称として人名などの接尾辞として用いられる (例えば、大田田根子)。そして「誰子」は「誰子か?」ではなく、「」に親愛の気持ちを表す「」をつけたものであろう。

【令詔者】
 「令詔」と「」がつくのは、天皇の言葉が形式上お付きの者を通して伝えられるからと見られるが、事実上は天皇が主体となった行為である。 取り立てて使役を強調するものではないから尊敬の意に転じたのだろうと、前回述べた。
 格助詞「()」によって、「令詔」は体言化される。 「詔者」という言い方が時々使われるが、もともとク用法の「のたまはく」は「のたまふ」の名詞化で、 「のたまひしは」あるいは「のたまひしことは」も名詞形であるから、「のたまはく」と同じようなものと思われる。

【百取之机代物】
 かつて大山津見神が邇邇芸能命に二人の女を嫁がせたときに、「百取机代之物」を納めた。 そこでは邇邇芸能命は麗美な木花之佐久夜毘売を納めようとしたが、父は醜い石長比売を不憫に思い木花之佐久夜毘売に添えて納めてもらおうとして、 そのために手厚い献上の品を持参させた (第86回)。
 赤猪子の場合、適齢期は過ぎているがやはり押しかけて嫁がせる形をとり、一族は種々の結納を納めたと見られる。

【三輪川】この項一部修正。(2018.6.17)
《万葉の三輪川》

国土情報ウェブマッピングシステム による河川経路図()、その経路を地形図に記入()。

三輪川浄化施設
大和川水系河川整備計画: 表紙第二章

「浄化施設」の位置
国土交通省 地図・空中写真閲覧サービス (部分;彩度を強調)
 万葉集に、「三和河」を詠んだ歌がある。
(万)2222 暮不去 河蝦鳴成 三和河之 清瀬音乎 聞師吉毛 ゆふさらず かはづなくなる みわがはの きよきせのおとを きかくしよしも 〔夕去らず 蛙鳴くなる 三輪川の 清き瀬の音を 聞かくし芳しも〕
万葉歌碑(2222)
:冒頭部分の拡大
 この歌の歌碑が山辺の道が南端の大和川(初瀬川)に達したあたりに「仏教伝来の地碑」に並べて置かれている。 この歌碑には、「夕さらば」となっている(右図)。 桜井市ホームページの 「歌碑ものがたり(その10)」 によれば、この碑は考古学者「樋口清之」(1909~1997)の書によるもので、 そこには「『夕さらば』と書かれていたゆえ碑面にその通り彫った。記憶がそうなっていたためだろうか。」と解説している。 この歌の少し前に「(万)2214 夕去者 鴈之越徃… ゆふされば かりのこえゆく…」があるので、これと混同したのではないかと思われる。
 現在の「三輪川」(次項)とは別に、万葉歌では大和川(初瀬川)の別名と解釈されているようで、 「歌碑ものがたり」は、「初瀬川も三輪山麓を流れる時は三輪川と呼んでいた」と断定している。
《現在の三輪川》
 『角川地名大辞典』〔以後〈角川地名〉〕は、三輪川について「大和川支流。1級河川。流長3.3km、指定区間延長1.2km。 三輪山南西端に源を発し、三輪の市街地を西流して大和川(初瀬川)に至る。河川水は農業用水になっているが、宅地化の進行とともに汚濁が進んでいる」と述べる。
 桜井市芝(大字)で大和川に合流するのは芝運土公園沿いの川(北)と、三輪交差点を通る川(南)の二筋あり、〈角川地名〉の説明だけではどちらか分からない。 そこで、国土交通省の「国土情報ウェブマッピングシステム」 によって調べるとと、国土交通省定義による「三輪川」は二本のうち南の方であることがわかる。 〈角川地名〉でも述べるように、その汚濁は深刻で大和川との合流点に「三輪川浄化施設」が設置されている(右図)。
 なお、このように流路が短く幅も狭い川が「一級河川」とされるのは意外感がある。 この点について調べると、 河川法(1965年施行)によって大和川水系全体が国によって管理される「一級水系」に指定され、そこに注ぎ込む川のうち河川法によって管理の対象とされた川は大小に関係なく一級河川である。
 一級河川「三輪川」は、奈良県公式ページ内の「県内の4水系-大和川水系」には、
番号河川名上流端下流端
149三輪川 左岸 桜井市大字三輪426番地先
右岸 桜井市大字三輪425番地先
大和川への合流点
とある。
 この「上流端」の位置を地図で調べると、〈角川地名〉の「三輪山南西端に源を発し」とは大きく食い違う。 三輪山からの川と途中で合流するが、形式的には南からの流れが「三輪川」と定義されたものであろう。 そこでもう少し視野を広げて、この地域の流路全体を見る。
《三輪(大字)の流路》
 国土地理院地形図に三輪(大字)・芝(大字)の範囲の流路を記入し、各地点の様子を示す。

 から三輪山を見る。

 東向き。

神武天皇聖蹟狭井河之上顕彰碑

 南東向き。

 市杵島姫神社(鎮女池)

 一の鳥居

 三ツ鳥居  禁足地  山ノ神遺跡

 東向き。道の両側に側溝。

 南東向き。

 二の鳥居

 黒線:曲がりくねった路地。

 北西向き。

 南東向き。

K/② 水路。西向き。
 流路の色分けは次の通りである。
 青色…国土地理院地形図に明瞭に示された河川。
 赤色…実地調査(一部はグーグルマップのストリートビュー)で確認した道路沿いの水路。
 紫色…明らかに暗渠が存在する。
 暗緑…水路となっている側溝。
 明緑…大神神社境内の川。
 は大神神社参道の一の鳥居、は二の鳥居。
 は、一級河川三輪川の公式の「上流端」とされる。ここから南に遡る細い水路が見える。 北への流れはで水路CDに合流し、なんと「三輪川」はここで終わる。 想像だが、は「一級河川三輪川」が公的に定義された後に人工的に開削された水路で、ができる前はに水路があってに接合していたが埋められたのかも知れない。 だとすれば、三輪川として一本に繋がる。 には曲がりくねった路地があり、川の跡のようにも見える。
 に東からつながる水路は、かつては平等寺付近から流れる川であったと思われる。仮に〈平等寺川〉と呼ぶことにする。 現在、は天理教教団施設によって途切れている。迂回する側溝または暗渠があるのかも知れない。
 三輪川浄水施設で、一級河川三輪川で南東に分岐し、東へは蓋つき水路となっている。
 は、(ア)南からと(イ)北からの合流点に見える。(ア)三輪山麓を源とするのは明瞭である。 (イ)は、BD間から〈平等寺川〉からの分流の形跡のように見える。途切れている個所は現在も暗渠で繋がっているのかも知れない。
 は大神神社参道に沿う。 の南側、三輪駅の東に大神神社の直会殿・能楽堂の建造に伴う発掘調査で池の東端が検出され、 これが三輪山絵図に描かれた御鏡池(後述)にあたると考えられている (桜井市公式:三輪遺跡第21次調査)。
 (二の鳥居)の辺りで、 北からの側溝と繋がっている。参道沿いのが暗渠で合流していると思われる。
 狭井神社は、「狭井」という湧水に由来する。狭井は三輪山の谷川の水が、扇状地を伏流してきたものと見られる。 (雄略天皇即位前4)。 狭井神社の西、鎮女池(しずめいけ)に市杵島姫神社()がある。 その辺りからも湧き水があり、南西方向の谷OLに流れだしてと思われる。 その谷は現在は道路であるが、普段はその側溝が谷川の役割を果たし、大雨のときは道路そのものが川に戻ることになる。 以上から、O-L-K-J-H-G-F-Eが〈角川地名〉に言う「三輪山南西端に源を発し、三輪の市街地を西流して大和川(初瀬川)に至る」流れと言ってよいだろう。
 に合流すると見られるもう一本の流れがあり、それは大神神社の境内のである。 この川はなぜか地形図には書かれないので人工の川かと思われたが、三輪山絵図(次項)にも描かれているのでもともと自然河川として存在していたと見られる。
 狭井川()の水源も、扇状地を伏流して湧きだしたものと思われる。 で東からと南からの流れが合流する。南からの流れは鎮女池から繋がっているかも知れない。 狭井川(さゐかは)はごく狭い川だが、伝統的に神武天皇段の「佐韋河」(さゐかは)とされる (第101回)。 この地に、昭和十五年〔1940〕ごろの神武天皇顕彰運動により、「神武天皇聖蹟狭井河之上顕彰碑」が建っている()。 狭井川の下流は、人工的な水路()となり、やがて途切れる。暗渠でどこかに繋がっているかかどうかは分からない。
 芝運動公園沿いの川(〈芝川〉と仮称する)は、あたりからかなり細くなるがに繋がる。源流は玄賓庵のあたりの谷である。 からの間は水田で、農業用水を通して水流が繋がっているように見える。 もともとはそこに川があり、〈芝川〉は、もともと狭井川の下流だったと考えると自然である。
 以上から、三輪を通る水流の源は狭井神社付近の湧水・大神神社の東・平等寺の東の3か所が考えられ、 自然河川の一部が住宅地化に伴い側溝のようになっている。

檜原神社

平等寺二重塔

御輪寺
三輪山絵図より (大神神社宝物収蔵庫 パンフレット)
《三輪山絵図》
 三輪山絵図は縦180cm、横128cmほどで室町時代とされる (大神神社公式ページ)。
 ここに描かれたうち平等寺については、「慶円(きょうえん、1140(?)-1223)が真言灌頂(しんごんかんじょう)の道場として開いた三輪別所に端を発するのが、平等寺です。 その後、しだいに隆盛をきわめ、大御輪寺に代わって、大神神社神宮寺になりました。」(同上)とされる。 その二重塔も描かれている。平等寺は神仏分離令により、明治三年〔1870〕に破却された。昭和52年〔1977〕に再興され、本堂・二重塔などが再建されている。
 大御輪寺については『大和史料』〔大正三年;1914〕の大御輪寺の項に 「弘安八年〔1285〕八月、南都西大寺の思円上人の開基にして、 真言律宗なりしを維新の際平等寺と同時に廃止せらりたり」、 大直田禰子神社の項に「大神神社境内字馬場に坐す、同神社の摂社にして若宮と称す… 中世僧慶円社地に就き堂塔を建設し、大御輪寺と称し」と述べる。 このように大御輪寺は明治維新の廃仏毀釈によって破却され、現在は大神神社摂社の大直田禰子神社、別名若宮社となっている。 絵図には「若宮」と記され、三重塔も描かれている。
 左奥には、三ツ鳥居の檜原神社も描かれている。
 これらの配置と一の鳥居、二の鳥居の位置を手掛かりにすると、川の流れは現在の地図とよく対応している。 各川は、基本的にそのままの流路で現在に至る。
 絵図では〈平等寺川〉から分かれて三輪川に合流する分流が存在するが、 現在はの西からに達する都市水路や側溝にその姿を残すと見られる。 の位置との関係から見て、御鏡池は三輪駅の西まで広がっていたと思われる。 また、狭井川()は〈芝川〉()に繋がっていたと見られる。 大神神社境内の川はこの当時から存在したようだ。 参道の橋がを跨ぐところの西で合流するもう一本の川筋は、現在もある()。
《古代の三輪川》
 室町時代〔1336~1573〕から現代までの約600年間、流路はあまり変わっていない。 ならば、更に奈良時代初期までの700年遡ったとしても、そんなには変わっていないと思われる。
三輪山絵図(室町時代) 現在の流路との対応
大神神社宝物収蔵庫 パンフレットより
 大神神社は「古社の中の古社であり、その由緒はさかのぼってきわめて古い」(『神道大系-神社編十二』)と言われ、 三輪山麓には磐座群などの祭祀場跡がある。そのうち山ノ神遺跡には、 巨石の下から4世紀後半~6世紀前半の勾玉や土製模造品などの大量の遺物が出土した (奈良市立埋蔵文化センター三輪山西麓の磐座を訪ねて」)。 その起源は縄文後期から弥生文化時代に遡ると考えられている (第112回)。
 やがて、三ツ鳥居が建つ。 そして、その参道に一の鳥居、二の鳥居が建てられた。 この参道は、もともと集落「みわ」のメインストリートであったと考えられる。 その道に沿ってH-J-K-Mの川が流れる。 この川は三輪山の神=ミワから流れてくるのだから、当時から「ミワ(の)かは」と呼ばれた可能性が高い。 その川の名前は神名・地名・氏族名「ミワ」と共にずっと継続し、現在の一級河川三輪川の名に繋がると考えてよいだろう。 万葉歌の三輪川も、当然この川であったと考えるべきである。
 それではなぜ、三輪川が大和川の別名であった言われるのか。 恐らく、後世の人が金屋の大和川の岸(現在の歌碑のある辺り)に立ったとき、その風景が余りに美しくこの歌にぴったりだったことから、情緒的に決めたのであろう。
 また、赤猪子に出会ったのが金屋の初瀬川=美和河だとすれば、朝倉宮から初瀬川沿いにやって来た場所ということになる。 しかし、その出会いの地を「於美和河〔美和河に到る〕と述べるのは、 初瀬川(=大和川)と美和河とが別の川だったからだろう。

まとめ
 崇神天皇の師木水垣宮(書紀は「磯城瑞籬宮」、 (第110回)の名は、 狭井などから清涼な水が湧き出していたことに因んだものであろう。 その湧き水を源流とする三輪の川は命の水、そして神水として古くからミワ族に大切にされてきたと想像される。
 さて、雄略天皇はその三輪川で衣を洗っていた少女を見初め、すぐに迎えに来させるから待てと言い残して宮殿に帰った。 ところが、そのまま忘れてしまう。雄略天皇は記紀共に、気に入った女性がいれば手当たり次第に食い散らかす好色な人物として描かれている。
 ただ赤猪子に関しては、自分の忘却によって80年も待たせてしまったことを篤く詫びる(次回)。 雄略天皇は「大悪天皇」ではあるが、一方で過ちを反省する素直さがあり憎み切れない人物として描かれる。



2018.06.12(tue) [202] 下つ巻(雄略天皇5) 

於是天皇大驚
吾既忘先事
然汝守志待命
徒過盛年 是甚愛悲
心裏欲婚 憚其極老不得成婚而
賜御歌
其歌曰

於是(ここに)天皇(すめらみこと)大(はなはだ)驚きてのたまはく
「吾(われ)既に先の事忘れたまへり。
然(しかれども)汝(いまし)志(こころざし)を守(も)りて命(おほせごと)を待ちまつりき。
徒(いたづらに)盛(さかり)の年を過ぎぬ、是(これ)甚(はなはだ)愛悲(かな)しや。」とのたまひて、
心の裏に欲婚(めあはせむとおもひたまへど)、其の老(おい)極(きは)まれるゆゑに不得成婚(めあはせなしえぬ)ことを憚(はばか)りて[而]、
御歌(みうた)を賜(たまは)りき。
其の歌(みうた)曰はく。


美母呂能 伊都加斯賀母登 加斯賀母登
由々斯伎加母 加志波良袁登賣

美母呂能(みもろの) 伊都加斯賀母登(いつかしがもと) 加斯賀母登(かしがもと)
由々斯伎加母(ゆゆしきかも) 加志波良袁登売(かしはらをとめ)


又歌曰

又(また)歌[曰](みうたよみたまはく)


比氣多能 和加久流須婆良 和加久閇爾
韋禰弖麻斯母能 淤伊爾祁流加母

比気多能(ひけたの) 和加久流須婆良(わかくるすばら) 和加久閉爾(わかくへに)
韋祢弖麻斯母能(ゐねてましもの) 淤伊爾祁流加母(おいにけるかも)


爾 赤猪子之泣淚悉濕其所服之丹楷袖
答其大御歌而歌曰

爾(ここに)、赤猪子之(の)泣涙(なみた)、悉(ことごとく)其の所服(つけらえし)[之]丹楷(にすり)の袖(そで)を湿(うるほ)しき。
其の大御歌に答へて[而]歌(みうたよみまつらく)[曰]。


美母呂爾 都久夜多麻加岐 都岐阿麻斯
多爾加母余良牟 加微能美夜比登

美母呂爾(みもろに) 都久夜多麻加岐(つくやたまかき) 都岐阿麻斯(つきあまし)
多爾加母余良牟(たにかもよらむ) 加微能美夜比登(かみのみやひと)


又歌曰

又(また)歌曰(みうたよみまつらく)。


久佐加延能 伊理延能波知須 波那婆知須
微能佐加理毘登 々母志岐呂加母

久佐加延能(くさかえの) 伊理延能波知須(いりえのはちす) 波那婆知須(はなばちす)
微能佐加理毘登(みのさかりびと) 々母志岐呂加母(ともしきろかも)


爾多祿給其老女以返遣也
故此四歌志都歌也

爾(ここに)其の老女(おみな)に多(さはに)禄給(たまものをたま)ひて、以ちて返(かへ)し遣(つかは)したまひき[也]。
故(かれ)此の四歌(ようた)は志都歌(しつうた)也(なり)。


 すると、天皇(すめらみこと)ははなはだ驚き、 「私は既に、先の事忘れていた。 しかし、お前は志を失わずに命を待っていた。 そしていたずらに盛りの年を過ぎた。これはとても悲しい。」と仰って、 心の奥では婚姻を望みましたが、老極まれるにより、成婚し得ぬことを残念に思い、 御歌を賜りました。
 その御歌は、
――三諸の 厳橿(いつかし)が本 橿が本 由々しきかも 橿原乙女
 また御歌を詠まれました。
――引田(ひけた)の 若栗栖(くるす)原 若くへに ゐ寝て坐しもの 老いにけるかも
 すると、赤猪子(あかいこ)の泣く涙がみな、その着ていた丹摺(にすり)の袖を湿らせ、 大御歌への返歌をお詠みしました。
――見諸に 築(つ)くや玉垣 築き余し 誰(た)にかも依らむ 神の宮人
 また御歌をお詠みしました。
――日下江の 入り江の蓮(はちす) 花蓮(はなばちす) 身の盛り人 乏(とも)しきろかも
 そして、老女に多くの禄給(ろくきゅう)をたまわり、使者を付き添わせて帰しました。
 なお、この四首の歌はしつ歌です。


わする…[他]ラ下二 忘れる。[他]ラ四 四段活用した「忘らむ」には「意識して忘れようとする」ニュアンスがある。
もる(守る)…[自]ラ四 ① 守る。② うかがう。
まもる(守る)…[自]ラ四 「真-もる」。① 様子をうかがう。② 守護する。
きはむ…[他]マ下二 きわめる。
きはまる…[自]ラ四 極限に達する。
みもろ…[名] 神の降臨する場所。神座としての樹。
いつかし(厳橿)…[名] 神聖な樫。
ゆゆし…[形]シク 忌み慎む。不吉なことを口にすることが憚られる気持ちなどを表す。
くるす(栗栖)…[名] 栗林。
わかくへ…[名] 〈時代別上代〉「若い時の意か。
ゐぬ(率宿)…[自]ナ下二 共に寝る。
湿…(古訓) うるふ。
うるほす…[他]サ四 濡らす。
(丹)…[名] 赤土。鉛丹・辰砂など赤色の顔料。転じて色の名。
…[名] ① 植物名。② 崩しのない手本。「楷書」。
たまかき(玉垣)…[名] 神聖な区画の垣。
はちす(蓮)…[名] 蓮。〈時代別上代〉その果実を入れた花托が蜂の巣に似ていることからつけた名という。
ともし…[形]シク ① 乏しい。② 心惹かれる(会う機会が乏しいことから)。③ 羨ましい。
…[名] 身。
ろかも…「かも」の前の「」は、体言または形容詞の連体形を受けて、形式名詞「~こと」と同じ役割をする。
おみな…[名] 老婆。オキナの対。
…(古訓) さいはひ。たまふ。
たまもの(賜物)…[名] 賜ったもの。

【真福寺本】
真福寺本
 一般的には「」だが、真福寺本は「」である。氏庸本は略字体の「」。文脈上「悼(いた)む」はあり得ず、 一方「憚(はばか)る」は自然である。
 真福寺本の「伊都加斯母登賀斯母登由之斯伎加母〔稜威橿本がし本ゆししきかも〕は、このままでは理解不可能である。 「しし」を「之斯」と書くのは考えにくいので、「」は一般に言われる通り""であろう。
 この部分は、一般に「伊都加斯母登加斯賀母登由々斯伎加母」(氏庸本も)とされている。 原文からそうなっていたのか、それ以後の修正を含むかどうかは、分からない。
 真福寺本については、最低4回の筆写を経た跡を応神天皇段で見た(第159回)。 他の本も、当然何回かの筆写を経ているだろう。
 「」は、「」が一般的である。 どちらも音仮名「」なので、どちらが先であったかの判断は難しい。
 「丹楷袖」の「」は一般に「」と解釈されるが、版本の多くは「楷」のままにしている(次項)。
 真福寺本は「而歌」を欠き「答其大御歌曰」であるが、このままでも、「そのおほみうたにかへしうたよみまつらく」と訓むことは可能である。
 真福寺本は「久佐加延」だが、氏庸本を含めて「久佐迦延」が一般的。真福寺本では、前後のいくつかの「」に揃えた形になっている。

【丹楷袖】
 「」の字形は「」に似る。
 「すりごろも(摺衣)」は、植物をすりつけて染め出した衣服を指す。 〈続紀〉宝亀元年三月甲子朔辛卯〔二十八日〕に「其服並著青摺細布衣」がある。 「に(丹)」が鉱物系の顔料だとすれば草木染ではないが、同じように摺りつけたかも知れず、 また単に色名を表すものとも考えられる。 「」は「」がどこかで誤ったのであろう。 「丹摺」という語は万葉にはないが、続紀の「青摺」の類型としての想定は可能である。 〈古事記伝〉は「丹楷袖」に「ニスリノソデ」とルビを振り、 「赤土黄土などを以て摺たるなり、万葉に黄土をも赤土をも、波邇ハニとよめり、 色ウルハしくニホふ由の名にて、 光映土ハエニコゝロにやあらむ」と推定する。
 一方、氏庸本は「丹楷袖」に「コロモノソテ」とルビを振り、ニスリと断定することを避けている。

【引田】
 〈倭名類聚抄〉の{大和国・式上郡・辟田}はヘキタノコホリと読むように思えるが、『五畿内志』を読む限り否定される。 『五畿内志』には「辟田ヒラタ【方〔まさに〕廃東田村存〔あり〕」。東田(大字)は纏向駅から西に1kmほど。
 神名帳に{大和国/城上郡卅五座/曳田神社【二座鍬靫】}がある。 『五畿内志』には「秉田ヒキダ神社二座【鍬靫○在白川村轟瀧上今称白山」、 『大和志料』(大正三年;1914)「式上郡」には、「三輪氏ノ一族引田ニ分居スルモノ地名に因り複姓トナセルナリ」 「然レドモ引田ノ名称を失ヒ今何レノ処ナルヲ知ラズ、 要スルニ当社ハ引田ニアリテ引田氏ノ祖を祭レルナラン〔引田氏は三輪氏の一部が、引田の地に分かれ住んだから複姓となった。 だが、今はその地名はなくなり位置は不明だが、ただ秉田社は引田にあって引田氏の氏神であったはずである〕とある。 また同書によると『五畿内志』の「今称白山」について、 「明治七年〔1874〕十一月旧奈良県ノ達ニヨリ秉田神社ト復称ストアリ」という。
 そして、 明治四十二年〔1909〕に葛神社と稲荷社の二社を秉田神社に合祀したという (桜井市観光協会:名所旧跡:初瀬道:秉田神社)。 こうして「秉田(ひきた)神社」(奈良県桜井市白河285)が現存する。
 三輪族と同じような信仰がなされたと想定すると、引田族は白河川の下流から初瀬川への合流点にかけた地域に居住し、 三輪族が三輪山をご神体としたのと同じように、巻向山をご神体として曳田神社に参拝したのではないかと想像される。
《比気多》
 「」はほとんどの場合だが、神武天皇紀の歌謡に例外的にがあるから、比気多=ヒキタかも知れない。ここでその仮定の可否を検討する。
 まず、神武天皇紀の「」は、記の同一歌との対応〔書紀:氣、記:紀から、乙類である (第98回)。 しかし「」をヒキと訓む場合は、「引く(四段活用)」の連用形だから甲類である。つまり、引田ヒキで、 「比気多」をヒキタと読もうとすると「気」はである。 しかし、神武段歌謡の「気」はで辻褄が合わないから、「比気多」はヒケタである。
 一方、「引く(下一段)」の連用形は「引け」だから、「引田」を比気多〔ヒケタ〕と訓むことには根拠がある。
 しかし、引田は曳田・疋田とも書かれ、早い時期から「ヒキタ」ではなかっただろうか。 万葉集を見ると、「」は四段活用ばかりである。例えば「足引乃(あしひきの)」、「引者(ひかば)」。 山の名には「引出(ひきで)〔ヒキ-イデの母音融合〕。 熟語としては「(万)1634 殖之田乎 引板吾波倍 真守有栗子 うゑしたを ひきたわがはへ まもれるくるし」の「引板」がある。 これは、板を紐につるしたもの(鳴子)を張って、田をスズメから守るという意味。「ヒキタ」は「ヒキ-イタ」の母音融合。
 このように、万葉集の「引」は四段活用されるから、「引田」はヒキタしか考えられない。
 おそらく記においても基本はヒキタで、古い歌ではヒケタになることもあると認識して共存させていたものと思われる。

【多祿給其老女以返遣】
 以後、継続的に一定の禄給を賜ることになったということであろう。 「」が役人の俸給を意味することは、作者によって意識されていただろう。
 「返遣」は、使者を付き添わせて自宅に帰したという意味であろう。

【志都歌】
 仁徳天皇段の「志津歌之歌返」は、「既成の歌を下敷きにして〔="し(下)つ歌"として〕、 部分的に言葉を変えた歌を返すもの」ではないかと考えた (第174回)。 それに従えば、この四首は他の歌の下敷きによく使われる歌という意味になる。 あるいは「志都歌」は大体短歌であるから、ずばり「短歌」の意味かもしれない。

【歌意】
御諸の 厳橿いつかしが本 橿が本 由々しきかも 橿原乙女
〔御諸の神の樫の木の下に立つ橿原の乙女に、近づくのは恐れ多いことよ。〕
 「ゆゆし」には、粗末に扱うと祟りを受けるような語感がある。 この歌によって、その神聖さ故に近づき難かったのだと言い訳をする。 ただし、これは歌における言葉の彩であって、会話では正直に「忘れていた」と言った。
 ミモロは神の坐す樹木などを指す。神籬(ひもろき)に近いが、神籬の方が手を加えて整えた場所というイメージがある。 神社に神を祭る以前は、野外で御諸に降りて来た神を迎えて祭をした。
 この歌では白樫の木が御諸であるが、三輪の地の「御諸山」も意識されているだろう。
 「橿原乙女」については、泊瀬乙女、出石乙女など出身地に「乙女」をつける言い方があるのに倣えば、「橿原」も地名となる。 橿原は、神武天皇段の「畝火之白檮原宮」 (書紀は「畝傍山東南橿原地」)で、「橿原宮」の置かれた処として特定される。 しかし橿原と御諸が両方とも地名だとすると意味が通じなくなってしまうので、この歌の御諸は普通名詞ということになる。 ただ、もとは確かに橿原=固有名詞、御諸=普通名詞だったが、ここでは御諸を固有名詞(御諸山)、橿原を普通名詞(橿の林)に読み換えたのかも知れない。
引田ひけたの 若栗栖くるす原 若食へに 寝てましもの 老いにけるかも
〔引田の栗林の若い実は食べることができたが。お前と一夜を共にできていたら…。年老いてしまったことよ。〕
 「」「率寝」「老い」から、歌意が 「若ければ率寝したのに、老いてできなくなったのは残念だ」であることは明らかである。
 「若栗栖原」は若々しい栗林という意味で、出逢った頃の少女の若さに重ね合わせていると見られる。
 「ゐ寝てまし」の「まし」は反実仮想〔確定した事実に反する想像〕で、 万葉集には「~てましを」が4例、「~てましもの」が2例ある。 「」は完了の「」の未然形のはずだが、万葉歌には何れも「」が当てられている。
 「わかくへ」の意味は今一つ分からないが、四段活用の已然形は乙類だから、「くへ」が「食ふ」の已然形だと考えてみたらどうだろうか。 栗栖は、実を食べることを発想させる。さらに「実を食ふ」は、少女との共寝を連想させる。 上代は逆接の接続助詞「ども」がなくとも已然形単独で、「ども」の意を表すことができた。 ただ已然形に「に」がつくことがあり得るかどうかは不明であるが、本来は「ども」或いは「ど」を使って 「引田の 若栗栖原 若食へど 率宿てましものを 老いにけるかも」となるべき歌のようにも思える。 或いは、早い時期に「杼」(ド)などが「尓」に誤写された可能性も、ないとは言えない。
御諸に くや玉垣 築き余し 誰にかも依らむ 神の宮人
〔御諸に玉垣を作っても神は来ず、主のいない玉垣が余っている。どの神を頼れば来てくれるのか。神の仕え人よ。〕
 「」は、詠嘆の間投助詞。
 御諸(神が降りる樹、または磐座)を囲んで玉垣を築く。この御諸もまた、三輪山を暗示するのであろう。
 この「築き余し」を「玉垣に私の手で作り切れない部分が残っている」と読むと、誰かの手で玉垣を完成させてくれと願う歌になる。 すると天皇を神に仕える一神職に譬えることになってしまうが、それでよいのだろうか。 もともとの歌の意味はそれかも知れないが、 赤猪子の心情に寄り添えば、せっかく玉垣を作ったのに降りて来てくれない神に、 雄略天皇を譬えたと読みたいところである。
草香江の 入り江のはちすばちす 身の盛り人 ともしきろかも
〔草香江の入り江に今を盛りと咲く花。だが身の盛りの私に来る人は希かも。〕
 「(とも)」には、その結果生じた「羨ましい〔満ち足りた人がうらやましい〕感情を表す意味もあり、〈時代別上代〉はこの歌にこの解釈を宛てている。
 一方「(万)2002 乏孋 ともしづま」は、稀にしか逢わない妻と解釈されるので、ここでも「夫(つま)と会うことが乏しい」と読む方が相応しいかも知れない。 ただ「日下江の入り江の蓮の花」は皇后若日下部王を暗示するから、「羨し」が成り立つのも確かである。
《記紀歌謡の解釈の二重性》
 一般に記紀歌謡は歌本来の意味とは別に、 記紀に用いられた結果そのストーリーに組み込まれて生じた意味がある。 その観点から、記紀歌謡は基本的に二重に解釈されなければならない。

まとめ
 引田が白河にあったとすれば、引田部の居住地は三輪族の居住地とは離れている。 このことは、三輪川を大神神社裏を源流とする川に限定しようとする本稿の立場にとっては痛い。 この困難を避ける道を求めると、引田部の""の字が浮かび上がってくる。 「部」のうち、「部曲(かきべ)」は、豪族に隷属する集団である。
 もともと引田に住んでいた一族が、ある時に三輪氏に隷属して引田部と呼ばれるようになり、 それに伴って故郷を離れ専ら三輪氏の居住区域に住むようになったと考えてみたらどうであろうか。 これなら、引田という地名が失われたことも説明できるように思える。
 唯一、一族が自立していた時代の氏神であった曳田神社だけが、祖先を祀る社として残ったのではないだろうか。



2018.06.20(wed) [203] 下つ巻(雄略天皇6) 

天皇幸行吉野宮之時
吉野川之濱有童女 其形姿美麗
故 婚是童女而還坐於宮

天皇(すめらみこと)吉野の宮に幸行(いでましし)[之]時、
吉野川之(の)浜に童女(をとめ)有りて、其の形姿(すがた)美麗(うるはし)。
故(かれ)、是(この)童女を婚(ま)きたまひて[而][於]宮(みや)に還坐(かへりま)しき。


後更亦幸行吉野之時
留其童女之所遇
於其處立大御吳床而
坐其御吳床
彈御琴令爲儛其孃子

後(のち)に更に亦(また)吉野に幸行(いでましし)[之]時
其の童女[之]に遇ひし所(ところ)に留まりたまひて、
[於]其処(そこ)に大御呉床(おほみくれとこ)を立てたまひて[而]、
其の御(おほみ)呉床に坐(ましま)して、
御琴(おほみこと)を弾きて其の孃子(をみな)に儛(まひ)為(せ)令(し)めましき。


爾 因其孃子之好儛作御歌
其歌曰

爾(ここに)、其の嬢子(をみな)之(の)好(よ)き儛に因りて、御歌を作りたまひき。
其の歌曰はく。


阿具良韋能 加微能美弖母知 比久許登爾
麻比須流袁美那 登許余爾母加母

阿具良韋能(あぐらゐの) 加微能美弖母知(かみのみてもち) 比久許登爾(ひくこに)
麻比須流袁美那(まひするをみな) 登許余爾母加母(とこよにもがも)


 天皇(すめらみこと)が吉野の宮に行幸された時、 吉野川の浜に乙女がいて、その姿は麗しく、 よって、この乙女と契りを結ばれ、宮に帰られました。
 後に、更にまた吉野に行幸された時、 その乙女と遇ったところに留まり、 そこにに大御呉床(おおみくれとこ)を立て、 その大御呉床にお座りになり、 大御琴を弾かれてその女性に舞を舞わせられました。
 そして、その女性の上手な舞を見て、御歌を作られました。
 その歌は。
――胡坐居(あぐらゐ)の 神の御手もち 弾く琴に 舞する嬢子(をみな) 常世にもかも


吉野宮… 天武・持統朝の吉野宮は、宮瀧遺跡にあったと考えられている (雄略天皇紀二年十月第151回)。
はま…[名] 〈時代別上代〉イソに対して砂浜の広がった所をいうか。
…(古訓) とつく。まく。めまく。
まく…[他]カ四 枕にする。妻として抱く。
くれとこ(呉床)…[名] 中国風の台座(第153回)。
あぐら…[名] 高く作った座席。寝たり座ったりする。
童女…をとめ(第86回)。
をとめ…未婚の娘。若い盛りの女。
…[名] はは。むすめ。(古訓) をみな。をなみ。はは。
…[名] 和琴(やまとごと)、新羅琴、百済琴などがある。
よに(常世に)…[副] 永久に。
…〈音仮名〉清音「か」だが、濁音「が」に転用されることもある。
もが…[助] 実現を希望する。助詞「も」などがつくこともある。 〈岩波古典文学体系〉ガモはもとは清音のカモであったようである。

【真福寺本】
 真福寺本では、2つある「」のうち「為儛其嬢子」の方は「嫡子」になっていて、傍に「嬢本●」の書き込みがある。 これは「本」と対照したところ、「嫡」は「嬢」の誤写だったと報告したものである。 ●は、判読不能である。下巻には同様の訂正が何か所かにあり、●の上に「ノ」がついている場合もある。 「本言〔もとのいふ〕だとすると意味は通るが、「言」にしては簡略化がすぎる。

【呉床】

赤漆欟木胡床
(明治時代に修復)
(宮内庁:正倉院)
 〈古事記伝〉は「呉床は、阿具良アグラと訓べし」とし、〈岩波古典文学大系版〉もそれを踏襲している。 一方、万葉集を見ると、「」を例外なくトコと訓んでいる。トコは、専ら寝床の意味だが、幅広の椅子にも用いられたとされる。 〈時代別上代〉は「くれとこ(呉床)」を見出し語に挙げ、この語の存在を認めている。 だから、呉床は本来クレトコであろう。
 アグラを用いるのは、歌謡の「阿具良韋能〔あぐらゐの〕によると思われる。 しかし、「呉-」すなわち「中国風の華美な」という性格は、訓読において無視すべきでないだろう。 古事記の時代にアグラトコとする共通理解が定着していれば、歌謡と本文で用語が異なっても特に差し支えないと思われる。

【童女・嬢子】
 「嬢子」の初出で説明が載らず、また「其」がついているから、 「童女」と同一人物であるのは確実である。 それでは、なぜ途中で呼び方を変えたのか。それには次の2つの可能性が考えられる。
 途中から歌謡の「袁美那〔をみな〕に合わせた。
 時間の経過によって、大人になった。
 仮にだとすれば、なぜ最初から「嬢子」にしないのか。
 ここで他の部分を見ると、前段では赤猪子を童女と書き、書紀で手を付けた采女の名も「童女君」であった。 さらに万葉集の雄略天皇「御製歌」には「(万)0001 菜採須児 なつますこ〔菜摘ます児〕に声をかけている(後述)。 このようにあちこちで少女に声をかけるのが雄略天皇の人となりで、 定型となった童女は踏み外せないのだろう。
 しかし、歌謡の袁美那〔をみな〕も棄て難いので、「後更亦」再訪したというストーリー()により辻褄を合わせたと思われる。
 なお、宣長は嬢子をも童女と同じくヲトメと訓み、歌謡のヲミナとの関係を無視している。
歌謡のアグラヲミナへの本文の関連付けにおいて、本稿と宣長とでちょうど裏返しになっている。

【婚】
 の訓みは、「よばふ」=妻問いする。「まく」=男女が共に枕する。が考えられる。
 「よばふ」と訓んだ場合、吉野宮に連れ帰り夜に枕(ま)く。そして後日吉野を再訪したときに二人で出会った場所に出かけて「まり」、思い出を語らう。 「還坐」と書いてあればその意が確定するはずである。 ただ「還坐於宮」は赤猪子にもあり、そのときは雄略天皇は独りで帰っている。
 ここでも独りで帰ったとすれば、「」を「まく」と訓み、その辺りの東屋で「枕(ま)」いたことになる。 赤猪子には「今将喚〔もうすぐ喚すだろう〕と言って「婚」でなく「喚」を使うから、「」は肉体行為を指すのであろう。
 この場合、後に再び吉野を訪れた部分は、一人で「其童女之所一レ」して 〔以前に童女に出会ったところに行ってしばし留まり〕、当時を懐かしんでいたところに、かつての童女が嬢子に成長してやってきたという話になる。
 このように「」を「まく」と訓んでも話は成り立ち、むしろこちらだとした方が自然に読める。
 古事記伝では「メシ是童女コノヲトメヲ〔このをとめをめして〕とルビを振るのみで、 特にこの問題には触れていないが、宣長の「めす(喚す)」は「後宮に納める」イメージであろう。 一方〈岩波古典文学大系版〉は、「婚(まぐは)ひして」と訓み、「枕く」を匂わせている。

【還坐於宮】
 直前に「吉野宮」があるから吉野宮を指すようにも思えるが、 すぐ次に「後更亦幸行吉野」があるから、ここは長谷(泊瀬)朝倉宮まで帰ったと読む方が、文脈に合う。 赤猪子の「-坐於宮」も長谷朝倉宮に帰る。 これと同じである。

【為舞】
 歌謡の「麻比須流まひする袁美那」によって、 「為舞」が(まひ)を名詞としてサ変の形式動詞「」と結合した形であることが確定する。
 「名詞+ス」は後世、漢語〔更には外来語一般〕を和文化するときの形だが、上代から「死に-す」「欲り-す」などとして多用される。

【因其嬢子之好儛】
 「因其嬢子之好儛」は、そのまま「そのをとめのよきまひによりて」と訓めるが、 言い方が固い印象を与え、優雅さを欠くように思える。 そのためか、宣長は「ヨリテソノ嬢子ヲトメヨクマヘルニ〔そのをとめのよくまへるによりて〕、 即ち「まへり〔マフの命令形+完了のリ〕を連体形にして〔体言化〕、「因る」の目的語としている。
 しかし、上代は直接四段活用した形〔終止形「舞ふ」など〕はあまり使わず、専ら名詞形=連用形「舞ひ」にサ変動詞「」を結合して表したようである(前項)。
 万葉集で類似の例を探すと、「(万)1019 弱女乃 或尓縁而 たわやめの まとひによりて〔惑ひに因りて〕があるが、これも「まとへるによりて」とはならない。 従って、「好儛」は「よくまへる」よりも「よきまひ」の方が適切だと思われる。 原文は、これをそのまま「因其嬢子之好儛」と書いたのであろう。

【歌意】

和琴―六弦
(宮内庁:正倉院)
胡坐居の 神の御手以ち 弾く琴に 舞するをみな 常世にもかも
〔台座に座り、神の手が弾く琴に舞する女。永遠であってほしい。〕
 「神の御手以ち」とは、高度な演奏技術を形容したものであろう。 それにしても、演奏者が自らのことを「神の御手」というのは自惚れが過ぎる。
 よってこの歌は現実の描写ではなく、頭の中にある理想的な光景を詠んだのであろう。 だから、わざわざ「御歌〔御歌を作りきというのである。
 なお、宣長は「作(ヨミシ玉ヘル)」、〈岩波古典文学大系版〉は「作(よ)みたまひき」と訓む。 これらを「よむ(詠む)」と訓むのは決して誤りではないが、原文の細かい意味合いの差を平準化しているところが物足りない。

【書紀―四年八月十八日】
12目次 《行幸吉野宮》
秋八月辛卯朔戊申、行幸吉野宮。

〔四年〕秋八月(はつき)辛卯(かのとう)を朔(つきたち)として戊申(つちのえさる)〔十八日〕、吉野宮(よしののみや)に行幸(いでま)しき。

《書紀における童女》
 書紀でこの段に対応する雄略天皇紀四年条には、童女の話はない。
 美和川や吉野川で童女を見初める話が書紀にないのは、天皇の相手は後宮の女性だとする固定観念によるものであろう。 野山に出て童女をナンパする話は書紀には無理で、宮廷で働く采女を相手にするのがせいぜいだったと思われる。「童女」という言葉は、辛うじて「童女君」に残された。
 しかし、その類の話は民間には根強く伝承されていたらしく、万葉集には堂々と第一歌に載る(次項)。
《大意》
 〔四年〕八月十八日、天皇(すめらみこと)は吉野宮にお出かけになりました。


【大泊瀬稚武天皇御製歌】
 万葉集の第一歌は雄略天皇「御製歌」とされ、そのテーマは記の赤猪子や童女と共通性がある。
――(万)0001 〔題詞〕泊瀬朝倉宮御宇天皇代 大泊瀬稚武天皇 天皇御製歌
 〔はつせのあさくらのみやにあめのしたしろしめししすめらみことのみよ。おほはつせわかたけるのすめらみこと。すめらみことのよみたまひしおほみうた〕
――(万)0001 篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家告閑 名告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母
 こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち このをかに なつますこ いへのらせ なのらさね そらみつ やまとのくには おしなべて われこそをれ しきなべて われこそをれ われにこそは のらめ いへをもなをも
(籠)…かご。
ふくし…野菜などを掘り出す農具と見られる。
…[助動] 軽い尊敬。未然形に接続。
…[助] 動詞・助動詞の未然形に接続して、他者の行動を希望する。実質的に願望、命令。
そらみつ…[枕] 「やまとのくに」にかかる(第101回)。
なぶ(靡ぶ)…[他]バ下二 植物などをなびかせる。押し伏せる。「おし-なべ」などの熟語で用いる。用例は連用形(なべ)のみ。 なお、下二段活用の連用形・未然形・命令形はつねに乙類である。
こそ…[係助] 文末に動詞の已然形を導く。
しく(敷く)…[他]カ四 国を治める。
籠もよ 御籠持ち 掘串ふくしもよ 御掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家らせ 名告らさね 空見つ 大和の国は 押しなべて 吾こそれ 敷き靡て 吾こそ座れ 我にこそは 告らめ 家をも名をも
〔籠をもち、掘串をもってこの岡で菜を摘んでいる子。家〔姓氏〕と名を教えよ。大和の国を治める私であるからこそ教えよ、家も名も。〕
 この歌は、赤猪子と出会った場面と共通する。赤猪子は名を聞かれて、氏族名+自身の名を告げている。
 籠と掘串をそれぞれ反復して「」をつけるのは、麗しい少女が持てば、 粗末な道具でも尊いものになるという意味か。
 赤猪子は「引田部の~」と名乗るから、この歌の「家告らす」も家の氏姓を知らせる意味であろう。
 この歌が雄略天皇の真作か否かを、知る手掛かりはない。 しかし、金錯銘鉄剣にがっちりと家系が載ることから見て、ワカタケル大王の時代(雄略朝)に既に家が重視されていたことは明らかである。 仮に偽作であっても、雄略朝に近い時期まで遡る可能性はある。 金錯銘鉄剣に地名シキがあるから、ワカタケル大王の御代に地名ヤマトが存在したとしても不思議ではない。
 ワレに「」、ヲリに「」と複数の漢字をあてるのは、万葉集編者による修辞法によるもので、もともとは口承であったのは確実である。 軽い尊敬の四段の「」はこの歌の頃からあったが、さすがに自敬表現の習慣はまだなかったようである。
 真作か否かにかかわらず、この歌は雄略天皇の人となりを特徴的に表す歌として、古墳時代から絶えることなく伝えられたのだろう。

まとめ
 童女、後に嬢子は宮中に入ったのか、さらに皇子を生んだか否かは記には全く見えない。 ただ、書紀では采女であった「童女君」が生んだ春日大郎皇女が、仁賢天皇の皇后になった。 記の仁徳天皇段には春日大郎皇女の話は出てこず、仁賢天皇段になって初めて、 「意祁命」(おけのみこと、仁賢天皇)が「大長谷若建天皇之御子春日大郎女」と書く。 名前についた「春日」は、書紀では母方の祖父の名「春日和珥臣深目」に繋がると見られる (雄略天皇紀元年)。 「春日和珥臣」は和珥系の氏族のひとつで、大和国添上郡春日郷を本拠地とした (第105回)。
 だから、春日郷を出身地とする童女君と、吉野川の浜にいた童女とは無関係である。 とは言え、吉野の童女の伝説が変形しつつ伝播し、紆余曲折の末に春日和珥臣深目の娘を娶す話に転じたと考えられなくもない。



2018.06.28(thu) [204] 下つ巻(雄略天皇7) 

卽 幸阿岐豆野而
御獦之時天皇坐御吳床
爾𧉫咋御腕
卽蜻蛉來咋其𧉫而飛
【訓蜻蛉云阿岐豆也】
於是作御歌
其歌曰

即(すなはち) 阿岐豆野(あきづの)に幸(いでま)して[而]
御獦(みかり)あそばしし[之]時、天皇(すめらみこと)御呉床(みくれとこ)に坐(ましま)しき。
爾(ここに)𧉫(あむ)御腕(みただむき)を咋(く)ひき。
即ち蜻蛉(あきづ)来て其の𧉫を咋ひて[而]飛びき。
【蜻蛉を訓みて阿岐豆(あきづ)と云へり[也]。】
於是(ここに)御歌(みうた)を作りたまひき。
其の歌曰はく。


美延斯怒能 袁牟漏賀多氣爾 志斯布須登
多禮曾 意富麻幣爾麻袁須 夜須美斯志
和賀淤富岐美能 斯志麻都登 阿具良爾伊麻志
斯漏多閇能 蘇弖岐蘇那布 多古牟良爾
阿牟加岐都岐 曾能阿牟袁 阿岐豆波夜具比
加久能碁登 那爾々淤波牟登 蘇良美都
夜麻登能久爾袁 阿岐豆志麻登布

美延斯怒能(みえしの) 袁牟漏賀多気爾(をむろがたけに) 志斯布須登(ししふすと)
多礼曽(たれそ) 意富麻幣爾麻袁須(おほまへにまをす) 夜須美斯志(やすみしし)
和賀淤富岐美能(わがおほきみの) 斯志麻都登(ししまつと) 阿具良爾伊麻志(あぐらにいまし)
斯漏多閇能(しろたへの) 蘇弖岐蘇那布(そできそなふ) 多古牟良爾(たこむらに)
阿牟加岐都岐(あむかきつき) 曽能阿牟袁(そのあむを) 阿岐豆波夜具比(あきづはやぐひ)
加久能碁登(かくのごと) 那爾々淤波牟登(なににおはむと) 蘇良美都(そらみつ)
夜麻登能久爾袁(やまとのくにを) 阿岐豆志麻登布(あきづしまとふ)


故 自其時號其野謂阿岐豆野也

故(かれ)、其の時自(よ)り其の野を号(なづ)けて阿岐豆野(あきづの)と謂へり[也]。


 そして、あきづ野にお出かけになり、 狩された時、天皇(すめらみこと)御呉床(みくれとこ)〔坐台〕にお座りになりました。 すると、虻(あぶ)が御腕に食いつき、 すぐに蜻蛉(あきづ)〔トンボ〕が来て其の虻を食べて飛び去りました。
 そこで、御歌をお作りになりました。
 その歌は。
――三吉野(みえしの)の 小室岳(をむろがたけ)に 鹿猪(しし)伏すと 誰(たれ)そ 大前(おほまへ)に白(まを)す やすみしし 吾が大王(おほきみ)の 鹿猪待つと 胡坐(あぐら)に坐(いま)し 白妙(しろたへ)の 袖着(き)装束(そな)ふ 手脛(たこむら)に 虻(あむ)齧(か)きつき 其の虻を 蜻蛉(あきづ)早咋ひ 斯(か)くの如(ごと) 何に負はむと そらみつ 倭(やまと)の国を 秋津洲(あきづしま)と云(ふ)
 このようにして、その時からその野を名付けて秋津野と言います。


シロフアブ
あむ…[名] 虻(あぶ)。
…(古訓) うて。たたむき。たふさ。〈倭名類聚抄〉腕【和名太々無岐一云宇天】
ただむき(腕、臂)…[名] ひじから手首までの部分。
かひな…[名] 肩からひじまでの部分。
たこむら…[名] 腕の内側の膨らんだ部分。「手-コムラ」。脛をコムラという(雄略天皇2)。〈時代別上代〉「二の腕の内側」。
…[形] =よし。
あきづ…[名] 昆虫の名。トンボ。
やすみしし…[枕] わが大王(おほきみ)、わが大王にかかる。
しし…[名] 食肉に用いる獣。鹿・猪。(万)0478 鹿猪踐起 ししふみおこし
しろたへの…[枕] 衣の類にかかる。
かく…[他]カ四 (掻く)ひっかく。(画く)書く。描く。(懸く)かける。関係づける。
そらみつ…[枕] 「やまとのくに」にかかる (神武天皇三十一年)。

【真福寺本】
 蜻蛉への訓注は「訓蜻蛉云阿岐豆」が一般的だが、真福寺本には「」がつく。
 一般に「那爾淤波牟登」とされる部分に、真福寺本は同音記号「」が入り「那爾淤波牟登」となっている。 万葉集に(万)「0351 世間乎 何物尓将譬 よのなかを なににたとへむ」があるので、 「何に負はむ」という言い方に全く問題はなく、文脈も一応通ると思われる(後述)。

【𧉫】
 𧉫は、一般的な漢和辞典には載らない。
 真福寺本では旁は「囙」のようにも見えるが、筆致を拡大して見ると、やはり「囗の中に又」である。 氏庸本(猪熊本系の写本:寛永十五年〔1639〕)も同じで、〈岩波古典文学大系版〉などの版本でも一般的である。
真福寺本

氏庸本
 𧉫には、ユニコード「U+2726B」が振られている。辞書やウェブで調べると、
〈学研新漢和〉、〈漢辞海〉、その他学習用漢和辞典…(見出し語なし)
〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉𧉫(解説なし)
〈汉典〉𧉫:暫无解釈〔今とのころ解釈は無い〕
〈中国哲学書電子化計画〉𧉫:廣韻劄: 𧉫:斑身小蟲。『廣韻』は北宋の書で、唐代の発音が劄〔タフ〕であることがわかる。
『康熙字典』𧉫:《唐韻》竹洽切〔タフ〕、音劄。斑身小蟲。
〈諸橋大漢和〉𧉫:①身に斑点のある小さい虫。〔広韻〕𧉫、斑身小虫。②か。〔集韻〕𧉫、蚊虫也。
となっており、𧉫はある種の虫であるという以上は分からない。
 歌謡では「阿牟〔あむ;恐らくアブの古形〕なので、記では𧉫をアブの意味で使っているのは確実である。 書紀は、本文「」、歌謡「阿武〔あむ〕である。
 虻については、〈倭名類聚抄〉に「〔虻の旧字体〕:【…和名阿夫】」とあるように、平安時代には既にアブになっている。 アブと呼ばれるグループは、双翅目短角亜目アブ科と大体重なる。そのうち吸血性のものには、シロフアブ・アカウシアブ・イヨシロアブ・キンイロアブなどがあるという。

【蜻蛉】
アキアカネ
カゲロウ
 〈倭名類聚抄〉には「蜻蛉〔中略〕【和名加介呂布】〔かけろふ〕」とある。
 一方、〈汉典〉の「蜻蛉」には「昆虫綱蜻蛉目」とあり、〈百度百科〉によれば「蜻蛉目」=「Odotana」である。 Odotanaはトンボ目と訳され、<wikipedia>肉食性で、カ、ハエ、チョウ、ガ、あるいは他のトンボなどの飛翔昆虫を空中で捕食する。獲物を捕える時は6本の脚をかごのように組んで獲物をわしづかみにする</wikipedia>という。
 唐代の中国でも現在と同じく「蜻蛉=トンボ」であったかどうかわからないが、 少なくとも本段に出てくる「蜻蛉」は肉食であるから、カゲロウではない。 古代から現代に至り、この段を読む誰もがトンボを思い浮かべただろう。 カゲロウに「蜻蛉」を用いるのは、二次的な転用だと思われる。
 アキヅについては、例えば沖縄ことばの「アーケージュー」は「平安言葉のアケズが言葉の吹きだまり現象で沖縄に温存された」 (『沖縄方言を楽しむ』) と言われている。このように、アキヅが一般的な名詞として広く使われていたのは確実である。

【えしの】
 「みえしの」を詠んだ歌は、天智天皇紀十年条にある。
 「美曳之弩能 曳之弩能阿喩 々々舉曾播 施麻倍母曳岐 愛倶流之衞〔以下略〕〔みしのしの あゆ あゆこそは しまへもえき えくるしゑ〕
御吉(え)し野の 吉(え)し野の鮎 鮎こそは 嶋へも吉(え)き え※1苦しゑ※2
※1…「え」は感嘆詞。※2…終止につく文末の助詞「ゑ」は、文の内容を確認する。
 「美曳之弩」を〈釈日本紀〉は、「御吉野也。曳与余五音通。弩与能五音通。〔御吉野也。曳(エ)、余(ヨ)と五音〔=母音〕通ず。弩(ヌ)、能(ノ)と五音通ず。〕と解説する。
 は通常「」だが、ここでは「(ノ)」であると述べる。 また、(エ)は通常「(ヤ行の)」だが、ここでは「余(ヨ)」だと述べる。 つまり、この歌では例外的に「ミエシヌ」が母音転換して「ミヨシノ」になったとするのが〈釈日本紀〉の見解である。
 なお、ここで注意すべきなのは、〈釈日本紀〉の時代に上代特殊仮名遣いはまだ発見されず、また「弩はすべてヌ」と考えられていたようである。 現在では、「野」を表す万葉仮名「」はで、「」はであることが確定している。
 〈釈日本紀〉はもうひとつ「曳之弩能阿喩々々」について、「吉野鮎々也。言吉野河多一レ鮎也。〔吉野川には鮎が多いと言う〕として、「美曳之弩=御吉野」説を補強する。
 しかし「曳」をヨと訓む例は他には見られないから、考えにくい。ただ「し野」は「善し野」に通ずるので、 「吉野」の古い呼び名であった可能性がある。
 に転じた例としては、「墨江(すみのえ)⇒住吉(すみよし)」があるが、 こちらはだからケースが異なる。
 ここで万葉集に数多く出てくる「吉野」を整理すると、川・宮は「ヨシノガハ」・「ヨシノノミヤ」だが、地名にはミがついて「ミヨシノ」である。 天智紀歌謡では、地名が「ミエシノ」、鮎の泳ぐ川が「シノ」だから、万葉歌と同じ関係が認められる。 従って、エシノは吉野のことであろう。恐らくは、雄略段の「美延斯怒」も「三吉野」のことである。
 ところが、万葉の「吉野」は、「芳野」「能野川」「与之努河波」「美与之努」「余思努乃美夜」とも書かれるから、完全にヨシノである。 これだけを見ると、万葉歌の時代全般に「ヨシノ」が定着している。
 それなのに、記紀歌謡にエシノが残るのはどうしたことだろう。この矛盾について、次の3通りの解決策が考えられる。
 もともとシノは存在せず、ただ一部の歌が古風な味わいを醸すために敢えて地名を変形した。
 シノは存在したが、大変古い時代のことで、記紀歌謡のみに残った。
 奈良時代初期にはまだ両者が混在していたが、万葉集に収めるときに編者がヨシノに統一する処理を行った。
 は、万葉歌に同じ例がないから、何とも言えない。
 一方、万葉と同一の歌が7世紀後半の木簡に見つかり(資料[04])、 万葉第一歌は雄略天皇「御製歌」とされるから、万葉集には飛鳥時代以前の歌が含まれると見られる。 すると、万葉歌の一部は記紀歌謡の時期に重なるから、は否定される。 結局、唯一の合理的な考え方として、に行き着くことになる。
 このような問題を伴うが、大まかにみれば「ミエシノ=三吉野」と見てよいだろう。

【阿岐豆野】
 阿岐豆野は宮滝付近の地名として実在したことが、次の万葉歌から分かる。
 「(万)0036 八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百磯城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 船競 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高思良珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可問
 やすみしし わごおほきみの きこしをす あめのしたに くにはしも さはにあれども やまかはの きよきかふちと みこころを よしののくにの はなぢらふ あきづののへに みやばしら ふとしきませば ももしきの おほみやひとは ふななめて あさかはわたる ふなぎほひ ゆふかはわたる このかはの たゆることなく このやまの いやたかしらす みづはしる たぎのみやこは みれどあかぬかも
八隅知し 吾ご大王の 聞こし食す 天下に 国はしも 多に有れども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷き座せば 百磯城の 大宮人は 船並めて 朝川渡る 船きほひ 夕河渡る 此の川の 絶ゆる事なく 此の山の いや高知らす 水走る たきの宮処は 見れど飽かぬかも
〔大王の治められる国は多いが、この秋津の野辺に宮殿を立てるのですから、船が絶えず繁栄し、 急流の宮の地を見飽きることはないでしょう。〕
国はしも…助詞「はも」に副助詞「し」が挿入されている。 「は」は取り立てて示し、「も」は詠嘆。「し」は何かと議論のある副助詞である。
清き河内…ここでは吉野川沿岸一帯を指す。
たきたぎ…[名] 急流。〈時代別上代〉今日のタキには、むしろタルミ〔垂水〕の語が相当するようである。
… 〈漢辞海〉(日本語用法) 上代、「たき」は急流の意で、瀑布を指すのは中古以後の用法。 〈康煕字典〉雨瀧瀧皃〔=雨がロンロンと降る様子〕〈汉典〉raining; wet; soaked。
吉野離宮顕彰碑現在の宮滝の流れ大和名所図会
 複数のブログによって、詠み人「柿本人麻呂」は持統天皇の吉野宮行幸に帯同した三輪高市麻呂であろうと報告されている ニキタマの万葉集など)。
 「滝の宮処」と詠われるは、漢籍では雨または水の流れ、上代語のタキは急流を意味する。 そのタキの場所が「宮滝」であると見られ、貝原益軒『和州巡覧記』(元禄五年〔1692〕)は、 「宮瀧は瀧にあらず。両旁に大岩有。其間を吉野川が流るゝ也。」 「大河こゝに至て、せばき故、河水甚ふかし。」などと書く (柳田国男校訂、博文館昭和5年〔1930〕)。
 その場所は柴橋の西で、『大和名所図会』〔1791〕には、 「宮瀧【宮瀧村にあり】两崖清麗りやうかいせいれいにして怪石磊砢くわいせきらいかとし南の峯に巨石こせきありて壁の如し。 流下りうか重淵ちうのふちのぞんで善水練よくすいれんなる者石頭ものせきとうより 水中すいちうなげなかれにしたかふていづ。 これを飛瀧たきとびといふ。〔…よく水練した者は石の上から水中に投じ、流れに随って下流に出る。これを滝飛びという〕 として、人々が飛び込む図を載せる。
 「宮滝」という地名は、吉野宮の記憶がまだ消えない時代からずっと続いたと思われる。 吉野宮跡と目される宮滝遺跡からの出土品は、吉野歴史資料館(吉野町宮滝348)に収められている。 また、「吉野離宮顕彰碑」(昭和三十五年〔1960〕)が立ち、宮滝野外学校東に万葉歌碑が立つ。
 秋津洲は、天皇の行幸の折に統治する国につけた愛称とされるが、 「アキツの野」は宮滝辺りの地名として存在したことを、雄略天皇段及びこの万葉歌が示している。

【たこむら】
 たこむらについて〈時代別上代〉は、二の腕の内側のやや膨らんだ部分とするが、 足のコムラ(ふくらはぎ)の部分に対応し、 歌謡に「袖、着そなふ」とある通り袖の部分だから、手首と肘の間であろう。
 コムラという語そのものは上代には見つからないようだが、足の「こむら」あればこそ「手-こむら」が派生したはずである。 ただ、仮に上代にコムラが存在したとしても、石河股合首(雄略天皇紀二年)の「股合」がコムラと訓むかどうかは、また別問題である。
 なお、書紀のタクブラも、タコムラと同じだと考えられている。

【神武天皇紀】
ナツアカネの結合飛行 アオモンイトトンボの交尾
 神武天皇紀三十一年条に、別種の秋津洲命名譚が述べられていた。
 それによれば、「腋上嗛間丘〔掖上のほほまの丘;本間山に比定〕に登って国見をした。その時、 「木錦之真迮国猶如蜻蛉之臀呫焉。由是始有秋津洲之号〔「木綿(ゆふ)を裂いたような細やかな国であるが、それでもアキヅの臀呫〔となめ、=交尾〕のようである」と言った。この故に、初めて「秋津洲」の名が生まれた〕と書く。 一般にはアキヅが交尾した形が大和の山並みに似るからと解釈されているが、 本サイトでは、その盛んな生殖行為に人民の生活の繁栄を重ねたものと見た。
 その舞台は葛上郡なので、三吉野とは全く別種の話である。 雄略天皇紀では、舞台を三吉野から大和に移して統合を試みたようにも見えるが、 それだけでは同一化は無理であろう。

【書紀―四年八月二十日】
13目次 《蜻蛉忽然飛来囓虻将去》
虞人…やまのつかさ(雄略天皇二年十月)。
…[動] 馬にむちを当てて走らせる。(古訓) おふ。かる。はす。
…(古訓) けもの。
…(古訓) とし。やまひ。
…[動] (昆虫が)噛む。(鳥が)ついばむ。
くふ…[他]ハ四 噛む。くわえる。噛みつく。
…[動] かむ。(古訓) かむ。くふ。
…(古訓) もて。ともなふ。ゆく。
…(古訓) いぬる。さる。
…(古訓) ほむ。あらはす。
…[動] みつぐ。詩をつくる。(古訓) むくゆ。うたふ。
…[形] よい。[動] ほめる。(古訓) よし。よみす。
よみす…[動]サ変 よいとする。「-み」は形容詞の名詞化。
…[指] 中称の指示詞(=其)。
有心…心に思うところがあること。(日本語用法) 思慮分別があること。
…(古訓) なかれ。なし。
…[助動] あえて~する。
口号…詩の様式の一つ。文字に書かず、心に浮かんだ言葉を直ちに詠ずる。
庚戌、幸于河上小野。
命虞人駈獸、欲躬射而待、
虻疾飛來、噆天皇臂。
於是、蜻蛉忽然飛來、囓虻將去。
天皇嘉厥有心、詔群臣曰
「爲朕、讚蜻蛉歌賦之。」
群臣莫能敢賦者、天皇乃口號曰、

〔四年八月辛卯朔〕庚戌(かのえいぬ)〔二十日〕、[于]河上(かはかみ)の小野(をの)に幸(いでま)す。
虞人(やまのつかさ)に命(おほ)して獣(けだもの)を駆(お)はしめまして、[欲]躬(みづから)射(い)むとおもほして[而]待ちたまひしに、
虻(あむ)疾(と)く飛び来て、天皇(すめらみこと)の臂(ただむき)を噆(く)ひき。
於是(ここに)、蜻蛉(あきづ)忽然(たちまちに)飛び来て、虻を囓(く)ひて将(もち)去(い)にき。
天皇厥(その)、心有りたることを嘉(よみ)したまひて、群臣(まへつきみたち)に詔(のたま)ひしく[曰]
「為朕(わがため)に、蜻蛉を讃(ほむる)歌、之(こ)を賦(うた)ひまつれ。」とのたまひき。
群臣、能敢賦(あへてよくうたふひと)莫(な)けれ者(ば)、天皇乃(すなはち)口号(こうがう、くちうた)によみたまはく[曰]、

たままき(玉纏)…[名] 玉を纏って飾ったもの。
しつ(倭文)…[名] 舶載の「あや(漢)」に対して、倭古来の織物。文様を伴う。
さ-…[接頭] 〈時代別上代〉ほとんど実質的な意味はない。韻文には頻用される。
たくぶら…[名] 「たこむら」と同意か。
はふむし…[名] 〈時代別上代〉「虫のこと。虫を這うものとしていう。トブトリに対して用いる。」 昆虫の成虫は這わずに飛ぶが、それでも昆虫一般を指す。
野麼等能 嗚武羅能陀該儞 之々符須登
拕例柯 舉能居登 飫裒磨陛儞麻嗚須
【一本。以飫裒磨陛儞麼鳴須。
易飫裒枳彌儞麻嗚須。】
飫裒枳瀰簸 賊據嗚枳舸斯題 柁磨々枳能 阿娯羅儞陀々伺
【一本。以陀々伺。易伊麻伺也。】
施都魔枳能 阿娯羅儞陀々伺 斯々魔都登
倭我伊麻西麼 佐謂麻都登 倭我陀々西麼
陀倶符羅爾 阿武柯枳都枳 曾能阿武嗚
婀枳豆波野倶譬 波賦武志謀 飫裒枳瀰儞磨都羅符
儺我柯陀播 於柯武 婀岐豆斯麻野麻登
【一本。以婆賦武志謀以下。
易舸矩能御等 儺儞於婆武登 蘇羅瀰豆
野磨等能矩儞嗚 婀岐豆斯麻登以符。】

野麼等能(やまとの) 嗚武羅能陀該儞(をむらのたけに) 之々符須登(ししふすと)
拕例柯(たれか) 挙能居登(このこと) 飫裒磨陛儞麻嗚須(おほまへにまをす)
【一本(あるふみ)。「飫裒磨陛儞麼鳴須」を以ちて。
「飫裒枳彌儞麻嗚須(おほきみにまをす)」と易(か)へり。】
飫裒枳瀰簸(おほきみは) 賊拠嗚枳舸斯題(そこをきかして) 柁磨々枳能(たままきの) 阿娯羅儞陀々伺(あぐらにたたし)
【一本。「陀々伺」を以ちて。「伊麻伺(いまし)」と易へり[也]。】
施都魔枳能(しつまきの) 阿娯羅儞陀々伺(あぐらにたたし) 斯々魔都登(ししまつと)
倭我伊麻西麼(わがいませば) 佐謂麻都登(さゐまつと) 倭我陀々西麼(わがたたせば)
陀倶符羅爾(たくぶらに) 阿武柯枳都枳(あむかきつき) 曽能阿武嗚(そのあむを)
婀枳豆波野倶譬(あきづはやぐひ) 波賦武志謀(はふむしも) 飫裒枳瀰儞磨都羅符(おほきみにまつらふ)
儺我柯陀播(ながかたは) 於柯武(おかむ) 婀岐豆斯麻野麻登(あきづしまやまと)
【一本。「婆(は)賦武志謀」の以下(しもつかた)を以ちて。
「舸矩能御等(かくのみと) 儺儞於婆武登(なにおはむと) 蘇羅瀰豆(そらみつ)
野磨等能矩儞嗚(やまとのくにを) 婀岐豆斯麻登以符(あきづしまといふ)」と易へり。】

因讚蜻蛉、名此地爲蜻蛉野。
蜻蛉(あきづ)を讃(ほ)みたまひしに因りて、此の地(くに)を名づけて蜻蛉野(あきづの)と為(す)。

《莫能敢賦》
 「」は助動詞〔=can〕、「」も助動詞で、動詞「」(詩を詠む)に二重にかかる。 訓読においては、「よくあへてうたふ」では不自然なので、「よく」と「あへて」を逆転せざるを得ない。 そして「能敢賦」が名詞化〔~する人〕して「」の事実上の主語になる。 「」は「ひと」とはせず、接続詞「」のためにとっておきたい。
《口号》
 この歌謡の散文詩的な形を見て、天皇が即興的に口にしたことを意味する「口号」としたと思われる。 「群臣莫能敢賦」という表現からは、天皇の御歌は周辺が入念に作る習慣があったことを伺わせる。
《大意》
 〔四年八月〕二十日、川上の小野にお出かけになりました。
 虞人(ぐじん、=山の司)に命じて獣を追わせて、自ら射ようと思って待っておられたとき、 虻が素早く飛んで来て、天皇(すめらみこと)の腕を噛みました。 すると、蜻蛉(あきづ)〔トンボ〕がたちまち飛んで来て、虻をくわえて捕まえて去りました。
 天皇はその蜻蛉に心有ることをよいことと思われ、群臣に、 「朕のために、蜻蛉への賛歌を、賦(ふ)〔歌〕とせよ。」と仰りました。
 群臣は敢えて賦を作ることができなかったので、天皇は口号(こうごう)して〔即興で〕この歌をお詠みになりました。
――日本(やまと)の をむらの岳に 獣(しし)伏すと 誰か この事 大前に奏(まを)す 【ある書は「大前に奏す」を 「大王に奏す」と替える。】
大王は そこを聞かして 玉纏(ま)きの 胡坐(あぐら)に立たし 【ある書は「立たし」を「坐(いま)し」と替える。】
倭文(しつ)纏きの 胡坐に立たし 獣待つと 我が坐(いま)せば 小(さ)猪(ゐ)待つと 我が立たせば 手脛(たくぶら)に 虻(あぶ)齧(か)き付き その虻を 蜻蛉早食ひ 這ふ虫も 大王に奉(まつ)らふ 汝が形は 置かむ 秋津洲日本(やまと) 【ある書は「這ふ虫も」以下を、 「如(か)くのみと 名に負はむと そらみつ 日本の国を 秋津洲と言ふ」と替える。】
 蜻蛉を賞讃されたことによって、この地は蜻蛉野と名付けられました。

【歌意】
《古事記》
三吉みえし野の 小牟婁岳をむろがたけしし伏すと たれそ 大前にまを八隅やすみ知し 吾が大王の 宍待つと 胡坐にいまし 白妙の 袖着装束そな手脛たこむらあむ齧きつき 其の虻を 蜻蛉早咋ひ 斯くの如 何に負はむと 空見つ 倭の国を 秋津洲と
〔 三吉野の小牟婁岳に獣が伏すと誰かが御前に報告し、 わが大王が獣を待って胡坐に座っていると、 衣の袖のところの腕に虻が噛みつき、その虻を蜻蛉(あきつ)が直ちに咥えた。 これを、何に負わせようか。 そうだ、倭の国を秋津洲と呼ぼう。 〕
 真福寺本の「那爾々」の同音記号は一般に無視され、「名に負はむ」と訓まれている。 これは、書紀・一本の「儺儞於婆武登(なにおはむと)」に影響を受けたからかも知れない。
 ただ、書紀はその前の部分に「斯くのみと 名に負はむと」と、強調の「のみ」がある。 一方、記で通用している「斯くの如、名に負はむ」の形では、 単なる説明に終わり感情が乏しい。 そこで、「ナニ〃」を採用して、書紀の「のみ」に込められた驚嘆を、記では感嘆文「何に負わむ」が担っていると見るのが適切と思われる。
 さらに言えば、同音記号は脱落することはあっても、余分につくことは殆どないのではないか。 よって、最初の形は「」付きであったと考えられるのである。
《日本書紀》

日本やまと小群をむらの岳に しし伏すと 誰か この事 大前にまをす 大王は そこを聞かして 玉きの 胡坐あぐらに立たし 倭文しつ纏きの 胡坐に立たし 鹿しし待つと が坐せば 小猪さゐ待つと 朕が立たせば 手脛たくぶらあむ齧き付き その虻を 蜻蛉早ひ 這ふ虫も 大王にまつらふ 汝が形は 置かむ 秋津洲日本
〔 大和のヲムラ岳に獣が伏すと誰かが御前に報告し、大王はそれを聞き、飾り付きの座台から立ち、 鹿を待ち朕が座り、猪を待ち立っていると、腕を虻が噛みその虻を蜻蛉が素早く咥えた。 昆虫も大王にまつろう、そのお前の形を秋津洲の名として置こう。日本(やまと)の国に。 〕

日本の 小群の岳に 宍伏すと 誰か この事 大王に奏す 大王は そこを聞かして 玉纏きの 胡坐に坐し 倭文纏きの 胡坐に立たし〔坐し?〕 鹿待つと 朕が坐せば 小猪待つと 朕が立たせば 手脛に 虻齧き付き その虻を 蜻蛉早囓ひ くのみと 名に負はむと 空見つ 日本の国を 秋津洲と云ふ
〔 大和のヲムラの岳に獣が伏すと誰かが大王に報告し、大王はそれを聞き華麗な座台に座っ〔たり立ったりし〕て猪を待った。 朕が鹿を待ち座り、猪を待ち立ちしていると、御腕を虻が噛み、その虻を蜻蛉が素早く咥えた。 これだ、この名を負わせて日本(やまと)の国を、秋津洲と言おう。 〕
 狩人が獣を目の前まで追い込むのを今や遅しと、大王は立ったり座ったりして待っている。 なお、原注の「一本に『立たし』を『坐し』に替える」は、次の「倭文纏きの胡坐に立たし」にも及んでいる可能性がある。
 「しし待つ」は、「小猪待つ」と対にして「鹿待つ」と書くのがよいだろう。 万葉集(0199・0405・1262・3874)に、「鹿」だけで「しし」と訓む例がある。 なお、に接頭辞「」がつくのは、字数を揃えるためである。
《這ふ虫も》
 「這ふ虫も 大王に奉らふ」は、歌の前の「厥有心〔アキヅに心有ることをよしと思う〕 の説明になっている。 恐らく「一本」の方が原型で、そこに大王の生の言葉を組み込んだもの。「這ふ虫」にはひれ伏す意味も込められている。 アキヅは飛んで来たのに「這ふ虫」と表すのは読者を一瞬戸惑わせるので、この書き加えにはぎこちなさがある。 それでも、這う虫さえ大王に奉ろう、況やお前たちも…と言って有司と人民を教化する歌に仕立てたかったのである。
《吉野と日本》
 記の「みえしの」(三吉野)を、書紀では「やまと」に変える。 それは、三吉野という狭い地域の歌を、広い地域「やまと」を包含する歌にするためであろう。
 関連して、「をむらの岳」は「をむろが岳」と同じだとするのが一般解釈だが、実はこれも意図的な変更ではないだろうか。 「むろ」は、大和平野の南に連なる大山岳地帯のことで、{紀伊国・牟婁郡}、 {大和国・葛上郡・牟婁郷}〔現在の御所市室(大字)〕ムロという地名に繋がったと見た (履中天皇二年)。 従って、牟婁の手前にある小峰に「小牟婁ケ岳」の名がついていた。 それに対して、書紀はこれを普通名詞の「小さく群がる山々」に変えて一般化したものと思われる。
 さらに、記と万葉歌によれば、阿岐豆野は実在した狭い地域であったはずだが(前述)、 書紀はこれも「小野〔普通名詞;=小さな野〕に替えた。
 このようにして書紀は、三吉野行幸を詠んだ歌からローカル臭を極力消すことによって、大王の知ろしめす国に称号を与える格式ある歌に高めたのである。

まとめ
 2つの異なる秋津洲地名譚が、神武天皇紀と雄略天皇紀にある。 遡って島生み段には「大倭豊秋津嶋。亦名謂天御虚空豊秋津根別 」があった。 これらは、秋津洲が古くから倭国の名として定着していたことを示すものである。
 2つの地名譚は、何れも語呂合わせによる後付けであろう。 アキシマのは、対馬国、尾張国津島などの地名から類推すれば、「〔=港〕を意味する可能性は高い。 それでは「アキ」はどこか。思い浮かぶのは安芸国だが、吉野川からは遠すぎる。
 しかし、神武天皇段において瀬戸内海コースによる東征は、古代の畿内政権が大国主の日本海王国を避けた歴史を反映したものだと論じた。 すると、広島湾も大阪湾も広い「アキ」地域にある津で、 山陽から畿内にかけての各地に津をもつ島〔即ち本州西部〕を「アキ津嶋」と称したと考えることができる。 島生み段で伊予二名嶋=四国、筑紫嶋=九州と並べて、秋津嶋=本州を意味することも、この考えに合致する。
 ただ、神武・神功・仁徳において、畿内の津は一貫して難波地域だったので、 やまとの代表的な津「アキ津」が吉野川の宮滝付近であったとはなかなか考えにくい。 それでも、紀ノ川の北の鳴滝遺跡には5世紀前半の大規模倉庫群があり、物流の一大拠点であった (第143回)。 紀ノ川から吉野川を遡り、宮滝の宮に達するという交通路が存在したのは確かだろう。
 ことによると、畿内政権以前に紀ノ川を上って宮滝辺りから上陸して繁栄した一族があり、 そのときにそこに生まれた「アキ津野」の地名が次第に倭地域全体に広がったというようなことも、 考えられなくはない。



2018.07.06(fri) [205] 下つ巻(雄略天皇8) 

又一時 天皇登幸葛城之山上
爾大猪出
卽天皇以鳴鏑射其猪之時
其猪怒而 宇多岐依來【宇多岐三字以音也】
故 天皇畏其宇多岐登坐榛上
爾歌曰

又一時(あるとき)、天皇(すめらみこと)葛城(かつらき)之(の)山上(やまのへ)に登り幸(ま)しき。
爾(ここに)大猪(おほゐ)出(い)づ。
即ち天皇鳴鏑(なりかぶら)を以ちて其の猪を射し[之]時、
其の猪怒(いか)りて[而]、宇多岐(うたき)て依り来(く)【宇多岐三字(さむじ)音(こゑ)を以(もちゐ)る[也]。】。
故(かれ)、天皇其の宇多岐(うたき)を畏(かしこ)みたまひて榛(はりのき)の上(へ)に登り坐(ま)しき。
爾(ここに)歌(みうたよみたまはく)[曰]


夜須美斯志 和賀意富岐美能 阿蘇婆志斯々々能
夜美斯志能 宇多岐加斯古美 和賀爾宜能煩理斯
阿理袁能 波理能紀能延陀

夜須美斯志(やすみしし) 和賀意富岐美能(わがおほきみの) 阿蘇婆志斯(あそばしし)々々能(ししの)
夜美斯志能(やみししの) 宇多岐加斯古美(うたきかしこみ) 和賀爾宜能煩理斯(わがにげのぼりし)
阿理袁能(ありをの) 波理能紀能延陀(はりのきのえだ)


 またある時、天皇(すめらみこと)が葛城山の上に登られました。
 すると、大きな猪が出現しました。
 そこで天皇は鏑矢でその猪を射ると、 その猪は怒り、うなり声をあげて近づいてきました。
 そして、天皇はそのうなり声を畏れられ、榛(はんのき)の上に登られました。 そこで御歌を詠まれました。
――八隅知し 我が大王の 遊ばしし宍(しし)の 病み宍の うたき畏こみ 我が逃げ登りし 在峯(ありを)の 榛(はり)の木の枝

鏑矢ハンノキ

…(古訓) なりかふら。かふら。かふらや。
かぶら…[名] 木・鹿角で蕪(かぶら)形に作り、中空にして穴をいくつか開け、飛ぶときに音を立てるようにする。
うたく…[自]カ四 〈時代別上代〉猪など獣がうなる。 〈釈日本紀-和歌四〉「宇拕枳:懐也。言猪怒之時懐人也。〔「懐(うだ)き」なり。猪怒れし時、人をうだくを言ふ〕。人に襲い掛かるとき抱き着く格好になるという意味であろう。
ありを(在峯)…[名] 顕著な峰。「(万)0062 在根良 對馬乃渡 ありねよし つしまのわたり」。「ありねよし」は対馬への枕詞。 「ありね」を「顕著な峰」と解釈した上で、そこから類推したもの。
はりのき(榛)…[名] 樺科の落葉高木。
真福寺本氏庸本

【真福寺本】
 真福寺本は訓注に「」がつく。「」がつく形の場合、一般に通用している命令形〔「もちゐよ」〕が使えない。
 歌謡の「志斯」は、他の本や版本では「志斯志斯」である。真福寺本では「遊ばししの病み宍」となるが、これはまずあり得ないだろう。 恐らくは「志斯〃〃」から同音符号が脱落したのだろうが、校閲による付記がないので真福寺本の前の段階でも、脱落した形であったと思われる。
 逆にごく初期の本は「志斯」一個の形であったが、真福寺本系統以外においては辻褄が合うように「志斯志斯」に直されたのかも知れない。

【葛城山】
葛城山
 〈日本歴史地名体系-平凡社〉によると、葛城山(かつらぎさん)は 「金剛山北端、水越峠を境として北方に連なる山脈で、 南に高く北に低く傾斜する。支峰には天神山・岩橋山があり、 北方平石峠・竹内峠を経て万歳山・二子山に続いている。最高峰は959.7m」とされる。
 同書も引用する貝原益軒『南州紀行』(柳田国男校閲)には、 「葛城の北にある大山をかいなが嶽といふ。河内にては、是を篠峯と号す。 篠峯を葛城山と云は、あやまり也。葛城は、即金剛山の峯也。高間山なり。」とある。
 最高峰の麓にある九品寺(くほんじ、御所市楢原(大字)1188)の山号が「戒那山」なので、「かいなが嶽」は現代の「葛城山」頂であろう。 益軒の理解では、「葛城山」は一つの山ではなく、幾つかの山が連なった峰全体の名称とする。 〈日本歴史地名体系〉が葛城山を山脈とするのは、 益軒の見解を継承したものであろう。
 この段における「葛城山」の用法も特定の山ではなく、山脈としての「葛城山」の山麓の狩り場を意味すると思われる。

【書紀―五年二月】
14目次 《俄而見逐嗔猪従草中暴出》
…[形] ずるい。(古訓) もとる。 〈岩波文庫版〉「天理図書館蔵:。前田本など:
校猟…木を×型に組んだ矢来をつくり、その中に獣を追い込む猟。
…(古訓) あやし。
-さ…[接尾] 形容詞の語幹につき、体言化する。「ながさ」など。
…〈倭名類聚抄〉【和名須々米】〔すずめ〕。〈雄略段-第209回(予定)〉「須受米」。
…(古訓) ひく。
努力努力…〈釈日本紀-和歌四〉ツトメヨツトメヨ。〈仮名日本紀〉つとめつとめ。〈岩波文庫〉ゆめゆめ
ゆめ…[副] 斎(いみ)謹んで。つとめて。
…[助動] 受け身の助動詞。
…(古訓) おふ。
…(古訓) いかる。
見逐嗔猪…〈釈日本紀-和歌四〉【オハレタルイカリヰ】
…(古訓) あらし。たけし。たちまち。にはかに。
五年春二月、天皇、校獵于葛城山。
靈鳥忽來。
其大如雀、尾長曳地而且嗚曰努力々々。
俄而見逐嗔猪、從草中暴出逐人。
五年(いつとせ)春二月(きさらき)、天皇、[于]葛城(かつらき)山に校猟(みかり)あそばす。 霊(あやしき)鳥忽(たちまち)に来たりて、 其の大(おほきさ)雀(すすめ)の如きなりて、尾(を)長くして地(つち)に曳(き)て[而]且(また)嗚きて努力々々(ゆめゆめ)と曰(い)ひき。 俄(にはかに)して[而]見逐(おはえし)嗔猪(いかりゐ)、草の中従(より)暴(たちまち)出(いで)て人を逐(お)ひき。
かりびと…[名] 狩人。
…(古訓) たけし。
…(古訓) さかふ。しりそく。むかふ。
…(古訓) ととまる。
いろ…[名] 色。顔色。
…(古訓) ひととなり。こころ。心さし。
…[形] よわい。
懦弱…気がよわい。
五情…喜怒哀楽欲。また、喜怒哀楽怨。
〈仏教〉目耳鼻舌身にある欲情。
獵徒緣樹大懼。
天皇詔舍人曰
「猛獸、逢人則止。宜逆射而且刺。」
舍人、性懦弱、緣樹失色五情無主。

猟徒(かりびと)樹(き)に縁(よ)りて大(はなはだ)懼(おそ)りぬ。
天皇舎人(とねり)に詔(のたま)ひしく[曰]
「猛(たけ)き獣(けだもの)、人に逢はば則(すなはち)止(とどま)らむ。[宜]逆(むか)ひ射て[而][且]刺すべし。」とのたまひき。
舎人(とねり)、性(ひととなり)懦弱(よわ)かりて、樹(き)に縁(よ)りて色を失せて五情無主(こころたのむところなし)。

…[動] かむ。(古訓) かむ。くらふ。はむ。ふふむ。
嗔猪直來、欲噬天皇、
々々用弓刺止、舉脚踏殺。
於是田罷、欲斬舍人、
々々臨刑而作歌曰、

嗔猪(いかりゐ)直(ひた)来たりて、[欲]天皇を噬(か)まむとして、
天皇弓を用(もち)て刺し止(とど)めて、脚(みあし)を挙げて踏み殺したまひき。
於是(ここに)田(かり)罷(や)めて、[欲]舎人(とねり)を斬(き)らむとおもほして、
舎人刑(つみ)に臨みて[而]歌を作(よ)みて曰はく。

…「得」の異体字。ユニコードu+3775。 万葉集3か所に「げ」。「(万)3640 許登都㝵夜良牟 ことつげやらむ」など。
にげ…[自]ガ下二 「にぐ」の連用形。上代特殊仮名遣いでは、下二段活用連用形のエ段は常に乙類。
あせを…〈時代別上代〉「はやし詞。そばに居合わせる男子に対し、 親しみをこめて我兄(アセ)と呼びかけ、それに感動の助詞ヲをつけた形。」 〈釈日本紀-和歌四〉「在也。」〔「あり」である。〕
野須瀰斯志 倭我飫裒枳瀰能 阿蘇麼斯志
斯斯能 宇拕枳舸斯固瀰 倭我尼㝵能裒利志
阿理嗚能宇倍能 婆利我曳陀 阿西嗚

野須瀰斯志(やすみしし) 倭我飫裒枳瀰能(わがおほきみの) 阿蘇麼斯志(あそばしし)
斯斯能宇拕枳舸斯固瀰(ししのうたきかしこみ) 倭我尼㝵能裒利志(わがにげのぼりし)
阿理嗚能宇倍能(ありをのうへの) 婆利我曳陀(はりがえだ) 阿西嗚(あせを)

興感…感動し、奮い立つ。
…(古訓) いたむ。うこく。かなふ。
…(古訓) さたむ。やすし。
…[名] やまいぬ。(古訓) おほかみ。のおほかみ。
豺狼(さいろう)…貪欲で残酷な人にたとえる。
皇后聞悲興感止之。
詔曰
「皇后、不与天皇而顧舍人。」
對曰
「國人皆謂、陛下安野而好獸、無乃不可乎。
今陛下、以嗔猪故而斬舍人。
陛下譬無異於豺狼也。」

皇后(おほきさき)悲(かなしみ)を聞(き)こして、興感(みこころうごきて)之(こ)を止(とど)めたまひき。
〔天皇〕詔(のたまひて)曰(のたまはく)
「皇后、天皇に不与(くみしたまはざ)りて[而]舎人をば顧(かへりみ)たまふか。」とのたまひて、
対(こた)へて曰(まを)したまはく
「国の人皆謂(まを)さく、陛下(みかど)安野〔不安国〕(のををさめてくにをおさめざり)て[而]好獣〔悪民〕(けだものをよみしてたみをにくむ)、乃不可(すなはちべからざること)無からむ乎(や)とまをす。
今陛下(おほきみ)、嗔(いか)れる猪(ゐ)の故(ゆゑ)を以(も)ちて[而]舎人(とねり)を斬らむとしたまふ。
陛下譬(たと)へまつらば、[於]豺狼(さいらう、おほかみ)に異(こと)にあること無し也(や)。」とまをしたまひき。

…(古訓) あく。のほる。のる。たてまつる。
…(古訓) くるま。こし。
…(古訓) よふ。めす。よはふ。
万歳…(古訓) よろつよ。
万歳…〈仮名日本紀〉よろづとせとよびつゝ。〈岩波文庫版〉よろづよといひつつ
楽哉…〈仮名日本紀〉たのしいかな。〈岩波文庫版〉たのしきかな
かな…[助] 〈時代別上代〉「上代では〔日立風土記の一例のみ、しかもその信頼性からみて〕…この一例だけで上代にカナの存在したことを積極的に立証できるか、疑わしい。
天皇乃與皇后上車歸。
呼萬歲。
曰。
「樂哉、
人皆獵禽獸。朕獵得善言而歸。」

天皇乃(すなはち)皇后与(と)車(みこし)に上(の)りたまひて帰りませり。
〔百姓〕万歳(よろづよ)と呼びまつりて、
〔天皇〕曰(のたまひしく)
「楽哉(たのしや)、
人皆禽獣(しし)を猟(か)りて、朕(われ)猟(かり)に善(よ)き言(こと)を得て[而]帰りたまふ。」とのたまひき。

《五情無主》
 「太平御覧-唐書」に「五情無主」の用例がある。 ――「此人怕懼。五情無主。先聖謂之曰『此間無御史。我不汝作罪過。不怕懼。』
 ●…おそれる。御史…官名。唐代は官吏を監督・糾弾する職責。
 文意は、罰に脅える人に対して、先聖は「御史は罪を問うていない。お前に罪過は課さない。怖がらなくてもよい。」と言ってなだるものである。 文脈から考えると、「五情無主」は恐怖に我を忘れておろおろしている様子を表す。 これを「五つの感情が主(あるじ)を欠く」と読めば、「気持ちがコントロールできない」意味か。
 だが訓読はこれに囚われずに場面に合うなら適当な和文に言い換えるか、または訳さずに無視しても差し支えないだろう。
《聞悲興感》
 「聞悲興感」の伝統訓は「聞こし悲しみて感(おもひ)を興(おこ)したまひて」とされる。即ち、「V.V.V-O」である。 ただ、漢文としてはバランスよく「V-O.V-O」と区切り、「悲。興感。止。」と読むべきであろう。 「」の意味は「〔舎人の詠みまつりし〕悲しみを聞こして」と考えられる。 また「皇后が悲しむ」は、「興感」と重複するので、「悲」は舎人の感情とした方が論理的である。
《安野而好獣無乃不可乎》
 「国人皆謂。陛下安野而好獣。無乃不可乎。」の類文が 『晏子春秋』〔春秋;斉〕-「内篇諫上第一」にある。曰く。
 「国人皆以君為安野而不国。好獣而悪民。毋〔=無〕乃不可乎
 〔国人皆君をおもへらく、野を安(をさ)めて国を安(をさ)めず、獣を好み民をにくむ。すなはち可からざること無からんや〕
 つまり、「国の人はこのように考えている。君主が野を治めて国を治めず、つまり獣を好み民を憎むことなど、あるべき姿ではないのではないかと」。 書紀の文を『晏子春秋』と比べると、「」「」がない分理解しにくい。
 「無乃不可」は二重否定形の反語であるから、真意は一重目の否定文 〔=狩を愛して国政をなおざりにするなど、あるべきではない〕にある。
 よって訓読は、反語形の言い回し〔「乃ち可からざることや無からむか」など〕とすべきである。
 しかし、〈釈日本紀-和歌四〉は「無乃」をムシロと訓み、伝統訓として定着しているが、これには違和感がある。 この問題については資料[30]で詳しく論じた。
《陛下譬無異於豺狼也》
 「陛下譬無異於豺狼也」は、『芸文類聚』巻六十六の「主君譬人無異於豺狼也」を用いている。
《上車》
 「上車」は〈仮名日本紀〉「車にたてまつり」などと訓読されている。確かに「」の訓に、「たてまつる」がある。 「~まつる」は基本的に謙譲語だが、尊敬語の場合もある。それは天皇の行為が「仕える者が奉る」手順を内包するからであろう。 「御車にたてまつる」の場合は、侍従が御輿を御前に運び、どうぞお乗りくださいと促す手順が考えられ、 それを要約した「御車にたてまつる」が天皇自身の行為への尊敬に転じたと考えられる。
 ただし、ここでは「」は単純に「車の上」で、それは輿への周囲の人の視線を意識したものと思われる。 即ち、天皇の車列を遥望する民衆を想定した言葉ではないだろうか。 たとえ「たてまつる」と訓読する場合でも、「上」という字にその意味が含まれるであろう。
《呼万歳
 この「万歳」は一般には天皇の口から発した言葉とされる。
 しかし注目されるのは、続紀で天皇の車駕が通るとき、民衆が遥望、あるいは近くで拝謁して「万歳」を唱えたと書いてあることである (資料01)。 天皇が行幸するときは、しばしばこの光景があったと思われる。
 よって、「万歳」という語は無条件で民衆の声を意味する可能性がある。もしそれなら、主語が省略されても構わないということになる。
 ここでそれと関係ありそうな表現は、
 「上車」が輿に載る姿を想起させる(前項)。
 「上車帰」は天皇一行の行列を描いたと読める。
 「天皇曰『万歳。楽哉。人皆…』」とまとめば書けばよいもの、わざわざ「呼」と「曰」に分けている。
 の3点である。これらを「万歳=民衆の声」を前提として読めば、辻褄が合う。
 その民衆の声は、一応「万歳」と書くが様々な言葉を代表する可能性はある。しかし、実際のところはわからない。 確かなのは、「万歳」の通常の訓が「よろづとせ」で、古訓に「よろづよ」があることだけである。
《大意》
 五年二月、天皇(すめらみこと)が葛城山で狩猟されたところ、 霊鳥が忽然と現れ、 その大きさは雀の如きで、尾は長く地に曳きずり、嗚き声は「ゆめゆめ」と聞こえました。
 俄かに追われた怒れる猪が、 草の中から暴れ出て人を追い回しました。
 狩人を命じた舎人は木にしがみついて、ひどく怖がりました。 天皇は舎人に、 「猛獣は、人に向かい合えば足を止める。逆に矢を射て刺せ。」と命じましたが、 舎人は性格が懦弱(だじゃく)で、木にしがみついて色を失ない、気持ちの拠り所もありません。
 怒れる猪は、真っ直ぐ天皇に向かって来て噛もうとし、 天皇は弓矢で射止めて、脚をふり挙げて踏み殺しました。
 そして狩を中止して、舎人を斬ろうとなされました。
 舎人は刑に臨み、歌を詠みました。
――八隅知し 我が大王の 遊ばしし 獣(しし)のうたき畏こみ 我が逃げ登りし 在峯(ありを)の上(うへ)の 榛(はり)が枝 吾兄(あせ)を
 皇后(おおきさき)は悲しみを聞かれ、御心を動かされてこれを止(とど)められました。
 天皇は、 「皇后は、天皇に与(く)みせず舎人を顧みるのか。」と仰ました。
 皇后は、 「国の人は皆、申しておりますわ。『安野好獣』の格言のように、陛下は野を治めて国を治めず、獣を好んで民を憎み、これは可からざる事ではないだろうかと。 今陛下は、怒れる猪に苛立たれたことの腹いせに、舎人を斬ろうとしておられます。 陛下を譬えれば、豺狼(さいろう)〔山犬や狼〕と異なるところはございませんわ。」とお答えしました。
 天皇は皇后と輿車に乗ってお帰りになり、民衆は万歳(よろづとせ、ばむぜい)と口々に叫び、 天皇は、 「楽しいなあ。 人は皆禽獣を猟りするが、朕は狩で善き言葉を得て帰ることができた。」とお話になりました。


【歌意】
古事記 八隅知し 我が大王の 遊ばししししの 病み宍の うたき畏こみ 我が逃げ登りし 在峯ありをはりの木のえだ
日本書紀 八隅知し 我が大王の 遊ばしし ししのうたき畏こみ 我が逃げ登りし 在峯の上の 榛が枝 吾兄あせ
〔 大王が狩猟された猪〔の、病んだ猪〕のうなり声を畏れて、私は峯の上の榛の枝に登った。 〕
 「遊ばしし」について〈釈日本紀〉は「阿蘇磨斯志アソマシゝ【謂射也。又遊也。】」と述べて、 射るの尊敬語「い-あそばす」、単に「遊ぶ」の二説を併記している。
 遊ばしし=「遊ばすの連用形+完了の助動詞"き"の連体形」で「獣(しし)」との結合が強く、かつ記では「病み獣」になるから、 どちらかと言えばで、「大王が射抜いた猪」の意味であろう。 そして手負いの猪が、興奮して「我」に向かってくる。 猪を「ゐ」「さゐ」ではなく「しし」と呼ぶのは、「しし」を反復する音声効果のためであろう。 「」は逃げて逃げて彼方に見える丘に達して榛の木に登り、やっと難を逃れた。
 書紀歌のアセヲが〈時代別上代〉がいうように囃子言葉だとすれば、元の歌は土俗(くにひと)の戯れ歌であった可能性が高まる。
 この歌は記においては天皇御製歌で、榛の木に登って難を逃れたのは天皇自身だから、 「八隅知し我が大王の遊ばしし」は念の入った自敬表現ということになる。
 一方、書紀は天皇の無様な姿を書くことは許容できなかったようで、 天皇ではなく随行した舎人を「我」とする物語を入念に仕上げている。 確かに、「やすみしし云々」を自敬表現とすることには相当の無理がある。
 さて、書紀歌の場合、猪が手負いとなって暴れたのは、天皇の放った矢が刺さったからである。 その結果私に向かってきたのだから、 被害者である私が罰せられるのは納得がいかない。
 天皇は天皇で、舎人が怖がって矢で仕留めなかったから、猪が自分を襲ってきたことに我慢がならない。 その腹いせで舎人を処刑しようとしたことを、皇后は諫めたのである。

【誤写仮説】
 ここで、真福寺本の誤写が生じた過程をもう少し掘り下げて検討する。
 一つのケースを想像して示す。
 記紀以前、俗歌であったときは「夜須美斯志やすみしし」がなく「志斯能夜美斯志能宇多岐ししのやみししのうたき」から始まり、記も最初は俗歌をそのまま用いた。
 書紀は、話を作り直すとともに、歌謡も俗歌の「 志斯能夜美ししのやみ」の部分を「野須瀰斯志倭我飫裒枳瀰能阿蘇麼斯志やすみししわがおほきみのあそばしし」に置き換えた。
 記の筆写者を知り、参考の為に書紀で直された部分に傍線を引き、「夜須美斯志やすみしし…」を添え書きした(右図)。
 を見た筆写者は、添え書きの訂正だと判断して置き換えた。そのとき誤って「阿蘇婆志斯」から「能夜美…」()に繋いだ。
 真福寺本は、の形を引き継いでいる。
 他の系統の筆写者は、のままでは意味が通らないので、「志斯」の後に「々々」(獣)を補った。
 この想像は単なる想像ではあるが、これに従えば、 記の「大王=我」(物語)、「大王≠我」(歌謡)の矛盾を解決することができる。 つまり、の段階では物語も歌謡も「」で問題はなかったが、 筆写者が筆写者による添え書きの意図を誤解したことから、齟齬が生じた。 さらに、真福寺本が「々々」を欠くこともそれなりに説明している。

まとめ
 「やすみしし…」を自敬表現とすることにはやはり無理があるので、 【誤写仮説】通りではないにしても、少なくとも古事記が一旦完成した後、歌謡だけが書き換えられた可能性は小さくない。
 さて、書紀については「五情無主」「安野而好獣」「譬無異於豺狼」などの漢籍の流用を見ると、編者は豊富な中国文献を参照できる環境にあった。 書紀は歌謡の内容に敷衍して物語の大筋を組み立て、漢籍によって脚色したものである。
 この段に限って言えば、記は率直に言って雑である。今回「無乃」の訓を検討する過程で上巻の天照大神・須佐之男命の誓(うけひ)の段を読み直したが、上巻(神代)の綿密さと比べると雄略天皇段の劣化は否めない。 ここに至って完成を急ぐ事情が生まれ、作業がおざなりになったような印象を受ける。
 ただし、この段については記の完成後に問題があるということになり、訂正した形を書紀に載せるよう計らったことも考えられる。 というのは、神代紀の一部に、「一書」を使って記を訂正したと思われる例があるからである (第55回)。



[206]  下つ巻(雄略天皇9)