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[200]  下つ巻(安康天皇4)

2018.06.07(thu) [201] 下つ巻(雄略天皇4) 

亦一時 天皇遊行到於美和河之時
河邊有洗衣童女其容姿其麗
天皇問其童女
汝者誰子
答白
己名謂引田部赤猪子
爾令詔者
汝不嫁夫今將喚而
還坐於宮

亦(また)一時(あるとき)、天皇(すめらみこと)行き遊(あそば)して[於]美和河(みわのかは)に到りましし[之]時、
河辺(かはへ)に衣(ころも)を洗ひたる童女(をとめ)有りて、其の容姿(すがた)其の麗(うるは)しきに
天皇其の童女に問ひたまはく
「汝(いまし)者(は)や誰(たれ)子(こ)なるそ」ととひたまひて、
答へ白(まを)ししく、
「己名(おのがな)は、引田部(ひきたべ)の赤猪子(あかゐこ)と謂(まを)しまつる。」とまをしき。
爾(ここに)詔(おほせごと)のら令(し)めたまへる者(は)
「汝(いまし)夫(つま)に不嫁(なとつぎ)そ。今に[将]喚(め)したまはむ。」とのらしめたまへりて[而]、
[於]宮(おほみや)に還(かへ)り坐(ま)しき。


故其赤猪子仰待天皇之命 既經八十歲
於是 赤猪子以爲望命之間已經多年
姿體痩萎更無所恃
然 非顯待情不忍於悒
而令持百取之机代物參出貢獻

故(かれ)、其の赤猪子天皇之(の)命(おほせごと)を仰(あふ)ぎ待ちて、既に八十歳(やそとせ)を経(ふ)。
於是(ここに)、赤猪子命(おほせごと)を望(のぞ)みまつると以為(おも)ひし[之]間(ま)、已(すで)に多(おほ)き年を経て、
姿体痩萎(やせな)へて更に所恃(たのめること)無くて、
然(しかれども)、待てる情(こころ)を非顕(あらはさざ)りてあれど、[於]悒(いきどほり)を不忍(しのばざ)りて[而]、
百取之机代物(ももとりのつくゑしろのもの)を持た令(し)めて、参出(まゐで)て貢献(たてま)つりき。


然天皇 既忘先所命之事
問其赤猪子曰
汝者誰老女何由以參來
爾赤猪子答白
其年其月 被天皇之命仰待大命
至于今日經八十歲
今容姿既耆更無所恃
然 顯白己志以參出耳

然(しかれども)天皇、既に先に所命(おほせらえ)し[之]事を忘れたまひき。
其の赤猪子に問いたまひて曰はく、
「汝(いまし)者(は)や誰(たが)老女(おむな)そ。何由(なにゆゑ)をや以ちて参来(まゐきたる)そ」ととひたまひて、
爾(ここに)赤猪子答へ白(まを)さく
「其の年其の月、天皇之(の)命(おほせこと)を被(お)ひまつりて、大命(おほみこと)を仰(あふ)ぎ待ちまつれり。
[于]今日(けふ)に至りて八十歳(やそとせ)を経(ふ)。
今容姿(すがた)既に耆(お)いて、更に所恃(たのまゆること)無くて、
然(しかれども)、己(おのが)志(こころざし)を顕(あきらけく)白(まを)さむとして、以ちて参出(まゐでし)耳(のみ)。」とまをしき。


 またある時、天皇(すめらみこと)が遊びに美和河〔三輪川〕に到着された時、 河辺で衣を洗っている乙女がおり、その姿のその美しさに、 天皇はその乙女に、
「お前は誰か。」と問われました。
 乙女は、 「自分の名前は、引田部の赤猪子(あかいこ)と申します。」と答えました。
 そこで、 「お前は、夫に嫁ぐでないぞ。すぐに喚ぶから。」と言い渡されて、 宮殿にお帰りになりました。
 こうして、その赤猪子は天皇の命があることを待ち続けて、既に八十年が経ました。
 そうして、赤猪子命を望み続ける間に既に多年が過ぎ、 姿は痩せ萎えてそれ以上どうすることもできなくなり、 けれども、待つ心を表さずにきましたが鬱積に耐えられなくなり、 百取之机代物(ももとりのつくえしろのもの)を持たせて、参上して献上しました。
 けれども、天皇は、既に先に命じられたことをすっかり忘れておられました。 その赤猪子に、 「お前は何という名の老女か。いかなる理由で参上したのか。」とお尋ねになり、 そこで、赤猪子はこのようにお答え申し上げました。
 「その年その月、天皇の命を受け、その大命を頂くことをお待ちしておりました。 そのまま今日に至り、八十年が過ぎました。
 今、姿は既に老いて、これ以上どうすることもできず、 それでも、私の心のうちを洗いざらい申しあげようとして、参上したのでございます。」と。


引田部(ひきたべ)…〈姓氏家系大辞典〉引田臣の部曲〔かき、かきべ〕か。
引田…〈姓氏家系大辞典〉「三輪引田君:三輪氏の族にして、大和国城上郡曳田邑より起る。曳田邑は、〈倭名類聚抄〉{大和国・城上郡・辟田郷〔へきたのこほり〕か。
あふぐ…[自]ハ四 ①仰ぐ。②心に願う。
あふぎまつ…〈時代別上代〉の見出し語にある。
…(古墳) のそむ。あふく。ねかふ。
やす…[自]サ下二 痩せる。身体が細る。
なふ…[自]ハ下二 なえる。しびれて感覚がなくなる。
…(古訓) いたみなけく。いきとほる。
いきどほる…[自]ラ四 心が晴れない。
まゐづ…[自]ダ下二 高貴な人のもとに出かけおもむく。
おむな…〈倭名類聚抄〉嫗【和名於無奈】老女之称也
…(古訓) おきなひと。およす■。
おゆ…[自]ヤ上二 老いる。

【真福寺本】
 旁の下半分は「」の形ではない。しかし、文脈からは「」以外は考えられない。
 二文字に分けて「宗女」となっているが、「」の誤写であろう。
 「」の異体字に「」がある。
 二つ目は「」であるが、文意が同じだからこれも「恃(たのむ)」であろう。
 真福寺本では、「」にしばしば「」が用いられる。

【己名謂引田部赤猪子】
 「己名謂引田部赤猪子」が「誰子(たがこぞ)」という問いへの答えだとすれば、「引田部赤猪子」は「引田部赤猪の子」の意味になる。 しかし、一般的に「」には「」を用い、「」は、愛称として人名などの接尾辞として用いられる (例えば、大田田根子)。そして「誰子」は「誰子か?」ではなく、「」に親愛の気持ちを表す「」をつけたものであろう。

【令詔者】
 「令詔」と「」がつくのは、天皇の言葉が形式上お付きの者を通して伝えられるからと見られるが、事実上は天皇が主体となった行為である。 取り立てて使役を強調するものではないから尊敬の意に転じたのだろうと、前回述べた。
 格助詞「()」によって、「令詔」は体言化される。 「詔者」という言い方が時々使われるが、もともとク用法の「のたまはく」は「のたまふ」の名詞化で、 「のたまひしは」あるいは「のたまひしことは」も名詞形であるから、「のたまはく」と同じようなものと思われる。

【百取之机代物】
 かつて大山津見神が邇邇芸能命に二人の女を嫁がせたときに、「百取机代之物」を納めた。 そこでは邇邇芸能命は麗美な木花之佐久夜毘売を納めようとしたが、父は醜い石長比売を不憫に思い木花之佐久夜毘売に添えて納めてもらおうとして、 そのために手厚い献上の品を持参させた (第86回)。
 赤猪子の場合、適齢期は過ぎているがやはり押しかけて嫁がせる形をとり、一族は種々の結納を納めたと見られる。

【三輪川】この項一部修正。(2018.6.17)
《万葉の三輪川》

国土情報ウェブマッピングシステム による河川経路図()、その経路を地形図に記入()。

三輪川浄化施設
大和川水系河川整備計画: 表紙第二章

「浄化施設」の位置
国土交通省 地図・空中写真閲覧サービス (部分;彩度を強調)
 万葉集に、「三和河」を詠んだ歌がある。
(万)2222 暮不去 河蝦鳴成 三和河之 清瀬音乎 聞師吉毛 ゆふさらず かはづなくなる みわがはの きよきせのおとを きかくしよしも 〔夕去らず 蛙鳴くなる 三輪川の 清き瀬の音を 聞かくし芳しも〕
万葉歌碑(2222)
:冒頭部分の拡大
 この歌の歌碑が山辺の道が南端の大和川(初瀬川)に達したあたりに「仏教伝来の地碑」に並べて置かれている。 この歌碑には、「夕さらば」となっている(右図)。 桜井市ホームページの 「歌碑ものがたり(その10)」 によれば、この碑は考古学者「樋口清之」(1909~1997)の書によるもので、 そこには「『夕さらば』と書かれていたゆえ碑面にその通り彫った。記憶がそうなっていたためだろうか。」と解説している。 この歌の少し前に「(万)2214 夕去者 鴈之越徃… ゆふされば かりのこえゆく…」があるので、これと混同したのではないかと思われる。
 現在の「三輪川」(次項)とは別に、万葉歌では大和川(初瀬川)の別名と解釈されているようで、 「歌碑ものがたり」は、「初瀬川も三輪山麓を流れる時は三輪川と呼んでいた」と断定している。
《現在の三輪川》
 『角川地名大辞典』〔以後〈角川地名〉〕は、三輪川について「大和川支流。1級河川。流長3.3km、指定区間延長1.2km。 三輪山南西端に源を発し、三輪の市街地を西流して大和川(初瀬川)に至る。河川水は農業用水になっているが、宅地化の進行とともに汚濁が進んでいる」と述べる。
 桜井市芝(大字)で大和川に合流するのは芝運土公園沿いの川(北)と、三輪交差点を通る川(南)の二筋あり、〈角川地名〉の説明だけではどちらか分からない。 そこで、国土交通省の「国土情報ウェブマッピングシステム」 によって調べるとと、国土交通省定義による「三輪川」は二本のうち南の方であることがわかる。 〈角川地名〉でも述べるように、その汚濁は深刻で大和川との合流点に「三輪川浄化施設」が設置されている(右図)。
 なお、このように流路が短く幅も狭い川が「一級河川」とされるのは意外感がある。 この点について調べると、 河川法(1965年施行)によって大和川水系全体が国によって管理される「一級水系」に指定され、そこに注ぎ込む川のうち河川法によって管理の対象とされた川は大小に関係なく一級河川である。
 一級河川「三輪川」は、奈良県公式ページ内の「県内の4水系-大和川水系」には、
番号河川名上流端下流端
149三輪川 左岸 桜井市大字三輪426番地先
右岸 桜井市大字三輪425番地先
大和川への合流点
とある。
 この「上流端」の位置を地図で調べると、〈角川地名〉の「三輪山南西端に源を発し」とは大きく食い違う。 三輪山からの川と途中で合流するが、形式的には南からの流れが「三輪川」と定義されたものであろう。 そこでもう少し視野を広げて、この地域の流路全体を見る。
《三輪(大字)の流路》
 国土地理院地形図に三輪(大字)・芝(大字)の範囲の流路を記入し、各地点の様子を示す。

 から三輪山を見る。

 東向き。

神武天皇聖蹟狭井河之上顕彰碑

 南東向き。

 市杵島姫神社(鎮女池)

 一の鳥居

 三ツ鳥居  禁足地  山ノ神遺跡

 東向き。道の両側に側溝。

 南東向き。

 二の鳥居

 黒線:曲がりくねった路地。

 北西向き。

 南東向き。

K/② 水路。西向き。
 流路の色分けは次の通りである。
 青色…国土地理院地形図に明瞭に示された河川。
 赤色…実地調査(一部はグーグルマップのストリートビュー)で確認した道路沿いの水路。
 紫色…明らかに暗渠が存在する。
 暗緑…水路となっている側溝。
 明緑…大神神社境内の川。
 は大神神社参道の一の鳥居、は二の鳥居。
 は、一級河川三輪川の公式の「上流端」とされる。ここから南に遡る細い水路が見える。 北への流れはで水路CDに合流し、なんと「三輪川」はここで終わる。 想像だが、は「一級河川三輪川」が公的に定義された後に人工的に開削された水路で、ができる前はに水路があってに接合していたが埋められたのかも知れない。 だとすれば、三輪川として一本に繋がる。 には曲がりくねった路地があり、川の跡のようにも見える。
 に東からつながる水路は、かつては平等寺付近から流れる川であったと思われる。仮に〈平等寺川〉と呼ぶことにする。 現在、は天理教教団施設によって途切れている。迂回する側溝または暗渠があるのかも知れない。
 三輪川浄水施設で、一級河川三輪川で南東に分岐し、東へは蓋つき水路となっている。
 は、(ア)南からと(イ)北からの合流点に見える。(ア)三輪山麓を源とするのは明瞭である。 (イ)は、BD間から〈平等寺川〉からの分流の形跡のように見える。途切れている個所は現在も暗渠で繋がっているのかも知れない。
 は大神神社参道に沿う。 の南側、三輪駅の東に大神神社の直会殿・能楽堂の建造に伴う発掘調査で池の東端が検出され、 これが三輪山絵図に描かれた御鏡池(後述)にあたると考えられている (桜井市公式:三輪遺跡第21次調査)。
 (二の鳥居)の辺りで、 北からの側溝と繋がっている。参道沿いのが暗渠で合流していると思われる。
 狭井神社は、「狭井」という湧水に由来する。狭井は三輪山の谷川の水が、扇状地を伏流してきたものと見られる。 (雄略天皇即位前4)。 狭井神社の西、鎮女池(しずめいけ)に市杵島姫神社()がある。 その辺りからも湧き水があり、南西方向の谷OLに流れだしてと思われる。 その谷は現在は道路であるが、普段はその側溝が谷川の役割を果たし、大雨のときは道路そのものが川に戻ることになる。 以上から、O-L-K-J-H-G-F-Eが〈角川地名〉に言う「三輪山南西端に源を発し、三輪の市街地を西流して大和川(初瀬川)に至る」流れと言ってよいだろう。
 に合流すると見られるもう一本の流れがあり、それは大神神社の境内のである。 この川はなぜか地形図には書かれないので人工の川かと思われたが、三輪山絵図(次項)にも描かれているのでもともと自然河川として存在していたと見られる。
 狭井川()の水源も、扇状地を伏流して湧きだしたものと思われる。 で東からと南からの流れが合流する。南からの流れは鎮女池から繋がっているかも知れない。 狭井川(さゐかは)はごく狭い川だが、伝統的に神武天皇段の「佐韋河」(さゐかは)とされる (第101回)。 この地に、昭和十五年〔1940〕ごろの神武天皇顕彰運動により、「神武天皇聖蹟狭井河之上顕彰碑」が建っている()。 狭井川の下流は、人工的な水路()となり、やがて途切れる。暗渠でどこかに繋がっているかかどうかは分からない。
 芝運動公園沿いの川(〈芝川〉と仮称する)は、あたりからかなり細くなるがに繋がる。源流は玄賓庵のあたりの谷である。 からの間は水田で、農業用水を通して水流が繋がっているように見える。 もともとはそこに川があり、〈芝川〉は、もともと狭井川の下流だったと考えると自然である。
 以上から、三輪を通る水流の源は狭井神社付近の湧水・大神神社の東・平等寺の東の3か所が考えられ、 自然河川の一部が住宅地化に伴い側溝のようになっている。

檜原神社

平等寺二重塔

御輪寺
三輪山絵図より (大神神社宝物収蔵庫 パンフレット)
《三輪山絵図》
 三輪山絵図は縦180cm、横128cmほどで室町時代とされる (大神神社公式ページ)。
 ここに描かれたうち平等寺については、「慶円(きょうえん、1140(?)-1223)が真言灌頂(しんごんかんじょう)の道場として開いた三輪別所に端を発するのが、平等寺です。 その後、しだいに隆盛をきわめ、大御輪寺に代わって、大神神社神宮寺になりました。」(同上)とされる。 その二重塔も描かれている。平等寺は神仏分離令により、明治三年〔1870〕に破却された。昭和52年〔1977〕に再興され、本堂・二重塔などが再建されている。
 大御輪寺については『大和史料』〔大正三年;1914〕の大御輪寺の項に 「弘安八年〔1285〕八月、南都西大寺の思円上人の開基にして、 真言律宗なりしを維新の際平等寺と同時に廃止せらりたり」、 大直田禰子神社の項に「大神神社境内字馬場に坐す、同神社の摂社にして若宮と称す… 中世僧慶円社地に就き堂塔を建設し、大御輪寺と称し」と述べる。 このように大御輪寺は明治維新の廃仏毀釈によって破却され、現在は大神神社摂社の大直田禰子神社、別名若宮社となっている。 絵図には「若宮」と記され、三重塔も描かれている。
 左奥には、三ツ鳥居の檜原神社も描かれている。
 これらの配置と一の鳥居、二の鳥居の位置を手掛かりにすると、川の流れは現在の地図とよく対応している。 各川は、基本的にそのままの流路で現在に至る。
 絵図では〈平等寺川〉から分かれて三輪川に合流する分流が存在するが、 現在はの西からに達する都市水路や側溝にその姿を残すと見られる。 の位置との関係から見て、御鏡池は三輪駅の西まで広がっていたと思われる。 また、狭井川()は〈芝川〉()に繋がっていたと見られる。 大神神社境内の川はこの当時から存在したようだ。 参道の橋がを跨ぐところの西で合流するもう一本の川筋は、現在もある()。
《古代の三輪川》
 室町時代〔1336~1573〕から現代までの約600年間、流路はあまり変わっていない。 ならば、更に奈良時代初期までの700年遡ったとしても、そんなには変わっていないと思われる。
三輪山絵図(室町時代) 現在の流路との対応
大神神社宝物収蔵庫 パンフレットより
 大神神社は「古社の中の古社であり、その由緒はさかのぼってきわめて古い」(『神道大系-神社編十二』)と言われ、 三輪山麓には磐座群などの祭祀場跡がある。そのうち山ノ神遺跡には、 巨石の下から4世紀後半~6世紀前半の勾玉や土製模造品などの大量の遺物が出土した (奈良市立埋蔵文化センター三輪山西麓の磐座を訪ねて」)。 その起源は縄文後期から弥生文化時代に遡ると考えられている (第112回)。
 やがて、三ツ鳥居が建つ。 そして、その参道に一の鳥居、二の鳥居が建てられた。 この参道は、もともと集落「みわ」のメインストリートであったと考えられる。 その道に沿ってH-J-K-Mの川が流れる。 この川は三輪山の神=ミワから流れてくるのだから、当時から「ミワ(の)かは」と呼ばれた可能性が高い。 その川の名前は神名・地名・氏族名「ミワ」と共にずっと継続し、現在の一級河川三輪川の名に繋がると考えてよいだろう。 万葉歌の三輪川も、当然この川であったと考えるべきである。
 それではなぜ、三輪川が大和川の別名であった言われるのか。 恐らく、後世の人が金屋の大和川の岸(現在の歌碑のある辺り)に立ったとき、その風景が余りに美しくこの歌にぴったりだったことから、情緒的に決めたのであろう。
 また、赤猪子に出会ったのが金屋の初瀬川=美和河だとすれば、朝倉宮から初瀬川沿いにやって来た場所ということになる。 しかし、その出会いの地を「於美和河〔美和河に到る〕と述べるのは、 初瀬川(=大和川)と美和河とが別の川だったからだろう。

まとめ
 崇神天皇の師木水垣宮(書紀は「磯城瑞籬宮」、 (第110回)の名は、 狭井などから清涼な水が湧き出していたことに因んだものであろう。 その湧き水を源流とする三輪の川は命の水、そして神水として古くからミワ族に大切にされてきたと想像される。
 さて、雄略天皇はその三輪川で衣を洗っていた少女を見初め、すぐに迎えに来させるから待てと言い残して宮殿に帰った。 ところが、そのまま忘れてしまう。雄略天皇は記紀共に、気に入った女性がいれば手当たり次第に食い散らかす好色な人物として描かれている。
 ただ赤猪子に関しては、自分の忘却によって80年も待たせてしまったことを篤く詫びる(次回)。 雄略天皇は「大悪天皇」ではあるが、一方で過ちを反省する素直さがあり憎み切れない人物として描かれる。



2018.06.12(tue) [202] 下つ巻(雄略天皇5) 

於是天皇大驚
吾既忘先事
然汝守志待命
徒過盛年 是甚愛悲
心裏欲婚 憚其極老不得成婚而
賜御歌
其歌曰

於是(ここに)天皇(すめらみこと)大(はなはだ)驚きてのたまはく
「吾(われ)既に先の事忘れたまへり。
然(しかれども)汝(いまし)志(こころざし)を守(も)りて命(おほせごと)を待ちまつりき。
徒(いたづらに)盛(さかり)の年を過ぎぬ、是(これ)甚(はなはだ)愛悲(かな)しや。」とのたまひて、
心の裏に欲婚(めあはせむとおもひたまへど)、其の老(おい)極(きは)まれるゆゑに不得成婚(めあはせなしえぬ)ことを憚(はばか)りて[而]、
御歌(みうた)を賜(たまは)りき。
其の歌(みうた)曰はく。


美母呂能 伊都加斯賀母登 加斯賀母登
由々斯伎加母 加志波良袁登賣

美母呂能(みもろの) 伊都加斯賀母登(いつかしがもと) 加斯賀母登(かしがもと)
由々斯伎加母(ゆゆしきかも) 加志波良袁登売(かしはらをとめ)


又歌曰

又(また)歌[曰](みうたよみたまはく)


比氣多能 和加久流須婆良 和加久閇爾
韋禰弖麻斯母能 淤伊爾祁流加母

比気多能(ひけたの) 和加久流須婆良(わかくるすばら) 和加久閉爾(わかくへに)
韋祢弖麻斯母能(ゐねてましもの) 淤伊爾祁流加母(おいにけるかも)


爾 赤猪子之泣淚悉濕其所服之丹楷袖
答其大御歌而歌曰

爾(ここに)、赤猪子之(の)泣涙(なみた)、悉(ことごとく)其の所服(つけらえし)[之]丹楷(にすり)の袖(そで)を湿(うるほ)しき。
其の大御歌に答へて[而]歌(みうたよみまつらく)[曰]。


美母呂爾 都久夜多麻加岐 都岐阿麻斯
多爾加母余良牟 加微能美夜比登

美母呂爾(みもろに) 都久夜多麻加岐(つくやたまかき) 都岐阿麻斯(つきあまし)
多爾加母余良牟(たにかもよらむ) 加微能美夜比登(かみのみやひと)


又歌曰

又(また)歌曰(みうたよみまつらく)。


久佐加延能 伊理延能波知須 波那婆知須
微能佐加理毘登 々母志岐呂加母

久佐加延能(くさかえの) 伊理延能波知須(いりえのはちす) 波那婆知須(はなばちす)
微能佐加理毘登(みのさかりびと) 々母志岐呂加母(ともしきろかも)


爾多祿給其老女以返遣也
故此四歌志都歌也

爾(ここに)其の老女(おみな)に多(さはに)禄給(たまものをたま)ひて、以ちて返(かへ)し遣(つかは)したまひき[也]。
故(かれ)此の四歌(ようた)は志都歌(しつうた)也(なり)。


 すると、天皇(すめらみこと)ははなはだ驚き、 「私は既に、先の事忘れていた。 しかし、お前は志を失わずに命を待っていた。 そしていたずらに盛りの年を過ぎた。これはとても悲しい。」と仰って、 心の奥では婚姻を望みましたが、老極まれるにより、成婚し得ぬことを残念に思い、 御歌を賜りました。
 その御歌は、
――三諸の 厳橿(いつかし)が本 橿が本 由々しきかも 橿原乙女
 また御歌を詠まれました。
――引田(ひけた)の 若栗栖(くるす)原 若くへに ゐ寝て坐しもの 老いにけるかも
 すると、赤猪子(あかいこ)の泣く涙がみな、その着ていた丹摺(にすり)の袖を湿らせ、 大御歌への返歌をお詠みしました。
――見諸に 築(つ)くや玉垣 築き余し 誰(た)にかも依らむ 神の宮人
 また御歌をお詠みしました。
――日下江の 入り江の蓮(はちす) 花蓮(はなばちす) 身の盛り人 乏(とも)しきろかも
 そして、老女に多くの禄給(ろくきゅう)をたまわり、使者を付き添わせて帰しました。
 なお、この四首の歌はしつ歌です。


わする…[他]ラ下二 忘れる。[他]ラ四 四段活用した「忘らむ」には「意識して忘れようとする」ニュアンスがある。
もる(守る)…[自]ラ四 ① 守る。② うかがう。
まもる(守る)…[自]ラ四 「真-もる」。① 様子をうかがう。② 守護する。
きはむ…[他]マ下二 きわめる。
きはまる…[自]ラ四 極限に達する。
みもろ…[名] 神の降臨する場所。神座としての樹。
いつかし(厳橿)…[名] 神聖な樫。
ゆゆし…[形]シク 忌み慎む。不吉なことを口にすることが憚られる気持ちなどを表す。
くるす(栗栖)…[名] 栗林。
わかくへ…[名] 〈時代別上代〉「若い時の意か。
ゐぬ(率宿)…[自]ナ下二 共に寝る。
湿…(古訓) うるふ。
うるほす…[他]サ四 濡らす。
(丹)…[名] 赤土。鉛丹・辰砂など赤色の顔料。転じて色の名。
…[名] ① 植物名。② 崩しのない手本。「楷書」。
たまかき(玉垣)…[名] 神聖な区画の垣。
はちす(蓮)…[名] 蓮。〈時代別上代〉その果実を入れた花托が蜂の巣に似ていることからつけた名という。
ともし…[形]シク ① 乏しい。② 心惹かれる(会う機会が乏しいことから)。③ 羨ましい。
…[名] 身。
ろかも…「かも」の前の「」は、体言または形容詞の連体形を受けて、形式名詞「~こと」と同じ役割をする。
おみな…[名] 老婆。オキナの対。
…(古訓) さいはひ。たまふ。
たまもの(賜物)…[名] 賜ったもの。

【真福寺本】
真福寺本
 一般的には「」だが、真福寺本は「」である。氏庸本は略字体の「」。文脈上「悼(いた)む」はあり得ず、 一方「憚(はばか)る」は自然である。
 真福寺本の「伊都加斯母登賀斯母登由之斯伎加母〔稜威橿本がし本ゆししきかも〕は、このままでは理解不可能である。 「しし」を「之斯」と書くのは考えにくいので、「」は一般に言われる通り""であろう。
 この部分は、一般に「伊都加斯母登加斯賀母登由々斯伎加母」(氏庸本も)とされている。 原文からそうなっていたのか、それ以後の修正を含むかどうかは、分からない。
 真福寺本については、最低4回の筆写を経た跡を応神天皇段で見た(第159回)。 他の本も、当然何回かの筆写を経ているだろう。
 「」は、「」が一般的である。 どちらも音仮名「」なので、どちらが先であったかの判断は難しい。
 「丹楷袖」の「」は一般に「」と解釈されるが、版本の多くは「楷」のままにしている(次項)。
 真福寺本は「而歌」を欠き「答其大御歌曰」であるが、このままでも、「そのおほみうたにかへしうたよみまつらく」と訓むことは可能である。
 真福寺本は「久佐加延」だが、氏庸本を含めて「久佐迦延」が一般的。真福寺本では、前後のいくつかの「」に揃えた形になっている。

【丹楷袖】
 「」の字形は「」に似る。
 「すりごろも(摺衣)」は、植物をすりつけて染め出した衣服を指す。 〈続紀〉宝亀元年三月甲子朔辛卯〔二十八日〕に「其服並著青摺細布衣」がある。 「に(丹)」が鉱物系の顔料だとすれば草木染ではないが、同じように摺りつけたかも知れず、 また単に色名を表すものとも考えられる。 「」は「」がどこかで誤ったのであろう。 「丹摺」という語は万葉にはないが、続紀の「青摺」の類型としての想定は可能である。 〈古事記伝〉は「丹楷袖」に「ニスリノソデ」とルビを振り、 「赤土黄土などを以て摺たるなり、万葉に黄土をも赤土をも、波邇ハニとよめり、 色ウルハしくニホふ由の名にて、 光映土ハエニコゝロにやあらむ」と推定する。
 一方、氏庸本は「丹楷袖」に「コロモノソテ」とルビを振り、ニスリと断定することを避けている。

【引田】
 〈倭名類聚抄〉の{大和国・式上郡・辟田}はヘキタノコホリと読むように思えるが、『五畿内志』を読む限り否定される。 『五畿内志』には「辟田ヒラタ【方〔まさに〕廃東田村存〔あり〕」。東田(大字)は纏向駅から西に1kmほど。
 神名帳に{大和国/城上郡卅五座/曳田神社【二座鍬靫】}がある。 『五畿内志』には「秉田ヒキダ神社二座【鍬靫○在白川村轟瀧上今称白山」、 『大和志料』(大正三年;1914)「式上郡」には、「三輪氏ノ一族引田ニ分居スルモノ地名に因り複姓トナセルナリ」 「然レドモ引田ノ名称を失ヒ今何レノ処ナルヲ知ラズ、 要スルニ当社ハ引田ニアリテ引田氏ノ祖を祭レルナラン〔引田氏は三輪氏の一部が、引田の地に分かれ住んだから複姓となった。 だが、今はその地名はなくなり位置は不明だが、ただ秉田社は引田にあって引田氏の氏神であったはずである〕とある。 また同書によると『五畿内志』の「今称白山」について、 「明治七年〔1874〕十一月旧奈良県ノ達ニヨリ秉田神社ト復称ストアリ」という。
 そして、 明治四十二年〔1909〕に葛神社と稲荷社の二社を秉田神社に合祀したという (桜井市観光協会:名所旧跡:初瀬道:秉田神社)。 こうして「秉田(ひきた)神社」(奈良県桜井市白河285)が現存する。
 三輪族と同じような信仰がなされたと想定すると、引田族は白河川の下流から初瀬川への合流点にかけた地域に居住し、 三輪族が三輪山をご神体としたのと同じように、巻向山をご神体として曳田神社に参拝したのではないかと想像される。
《比気多》
 「」はほとんどの場合だが、神武天皇紀の歌謡に例外的にがあるから、比気多=ヒキタかも知れない。ここでその仮定の可否を検討する。
 まず、神武天皇紀の「」は、記の同一歌との対応〔書紀:氣、記:紀から、乙類である (第98回)。 しかし「」をヒキと訓む場合は、「引く(四段活用)」の連用形だから甲類である。つまり、引田ヒキで、 「比気多」をヒキタと読もうとすると「気」はである。 しかし、神武段歌謡の「気」はで辻褄が合わないから、「比気多」はヒケタである。
 一方、「引く(下一段)」の連用形は「引け」だから、「引田」を比気多〔ヒケタ〕と訓むことには根拠がある。
 しかし、引田は曳田・疋田とも書かれ、早い時期から「ヒキタ」ではなかっただろうか。 万葉集を見ると、「」は四段活用ばかりである。例えば「足引乃(あしひきの)」、「引者(ひかば)」。 山の名には「引出(ひきで)〔ヒキ-イデの母音融合〕。 熟語としては「(万)1634 殖之田乎 引板吾波倍 真守有栗子 うゑしたを ひきたわがはへ まもれるくるし」の「引板」がある。 これは、板を紐につるしたもの(鳴子)を張って、田をスズメから守るという意味。「ヒキタ」は「ヒキ-イタ」の母音融合。
 このように、万葉集の「引」は四段活用されるから、「引田」はヒキタしか考えられない。
 おそらく記においても基本はヒキタで、古い歌ではヒケタになることもあると認識して共存させていたものと思われる。

【多祿給其老女以返遣】
 以後、継続的に一定の禄給を賜ることになったということであろう。 「」が役人の俸給を意味することは、作者によって意識されていただろう。
 「返遣」は、使者を付き添わせて自宅に帰したという意味であろう。

【志都歌】
 仁徳天皇段の「志津歌之歌返」は、「既成の歌を下敷きにして〔="し(下)つ歌"として〕、 部分的に言葉を変えた歌を返すもの」ではないかと考えた (第174回)。 それに従えば、この四首は他の歌の下敷きによく使われる歌という意味になる。 あるいは「志都歌」は大体短歌であるから、ずばり「短歌」の意味かもしれない。

【歌意】
御諸の 厳橿いつかしが本 橿が本 由々しきかも 橿原乙女
〔御諸の神の樫の木の下に立つ橿原の乙女に、近づくのは恐れ多いことよ。〕
 「ゆゆし」には、粗末に扱うと祟りを受けるような語感がある。 この歌によって、その神聖さ故に近づき難かったのだと言い訳をする。 ただし、これは歌における言葉の彩であって、会話では正直に「忘れていた」と言った。
 ミモロは神の坐す樹木などを指す。神籬(ひもろき)に近いが、神籬の方が手を加えて整えた場所というイメージがある。 神社に神を祭る以前は、野外で御諸に降りて来た神を迎えて祭をした。
 この歌では白樫の木が御諸であるが、三輪の地の「御諸山」も意識されているだろう。
 「橿原乙女」については、泊瀬乙女、出石乙女など出身地に「乙女」をつける言い方があるのに倣えば、「橿原」も地名となる。 橿原は、神武天皇段の「畝火之白檮原宮」 (書紀は「畝傍山東南橿原地」)で、「橿原宮」の置かれた処として特定される。 しかし橿原と御諸が両方とも地名だとすると意味が通じなくなってしまうので、この歌の御諸は普通名詞ということになる。 ただ、もとは確かに橿原=固有名詞、御諸=普通名詞だったが、ここでは御諸を固有名詞(御諸山)、橿原を普通名詞(橿の林)に読み換えたのかも知れない。
引田ひけたの 若栗栖くるす原 若食へに 寝てましもの 老いにけるかも
〔引田の栗林の若い実は食べることができたが。お前と一夜を共にできていたら…。年老いてしまったことよ。〕
 「」「率寝」「老い」から、歌意が 「若ければ率寝したのに、老いてできなくなったのは残念だ」であることは明らかである。
 「若栗栖原」は若々しい栗林という意味で、出逢った頃の少女の若さに重ね合わせていると見られる。
 「ゐ寝てまし」の「まし」は反実仮想〔確定した事実に反する想像〕で、 万葉集には「~てましを」が4例、「~てましもの」が2例ある。 「」は完了の「」の未然形のはずだが、万葉歌には何れも「」が当てられている。
 「わかくへ」の意味は今一つ分からないが、四段活用の已然形は乙類だから、「くへ」が「食ふ」の已然形だと考えてみたらどうだろうか。 栗栖は、実を食べることを発想させる。さらに「実を食ふ」は、少女との共寝を連想させる。 上代は逆接の接続助詞「ども」がなくとも已然形単独で、「ども」の意を表すことができた。 ただ已然形に「に」がつくことがあり得るかどうかは不明であるが、本来は「ども」或いは「ど」を使って 「引田の 若栗栖原 若食へど 率宿てましものを 老いにけるかも」となるべき歌のようにも思える。 或いは、早い時期に「杼」(ド)などが「尓」に誤写された可能性も、ないとは言えない。
御諸に くや玉垣 築き余し 誰にかも依らむ 神の宮人
〔御諸に玉垣を作っても神は来ず、主のいない玉垣が余っている。どの神を頼れば来てくれるのか。神の仕え人よ。〕
 「」は、詠嘆の間投助詞。
 御諸(神が降りる樹、または磐座)を囲んで玉垣を築く。この御諸もまた、三輪山を暗示するのであろう。
 この「築き余し」を「玉垣に私の手で作り切れない部分が残っている」と読むと、誰かの手で玉垣を完成させてくれと願う歌になる。 すると天皇を神に仕える一神職に譬えることになってしまうが、それでよいのだろうか。 もともとの歌の意味はそれかも知れないが、 赤猪子の心情に寄り添えば、せっかく玉垣を作ったのに降りて来てくれない神に、 雄略天皇を譬えたと読みたいところである。
草香江の 入り江のはちすばちす 身の盛り人 ともしきろかも
〔草香江の入り江に今を盛りと咲く花。だが身の盛りの私に来る人は希かも。〕
 「(とも)」には、その結果生じた「羨ましい〔満ち足りた人がうらやましい〕感情を表す意味もあり、〈時代別上代〉はこの歌にこの解釈を宛てている。
 一方「(万)2002 乏孋 ともしづま」は、稀にしか逢わない妻と解釈されるので、ここでも「夫(つま)と会うことが乏しい」と読む方が相応しいかも知れない。 ただ「日下江の入り江の蓮の花」は皇后若日下部王を暗示するから、「羨し」が成り立つのも確かである。
《記紀歌謡の解釈の二重性》
 一般に記紀歌謡は歌本来の意味とは別に、 記紀に用いられた結果そのストーリーに組み込まれて生じた意味がある。 その観点から、記紀歌謡は基本的に二重に解釈されなければならない。

まとめ
 引田が白河にあったとすれば、引田部の居住地は三輪族の居住地とは離れている。 このことは、三輪川を大神神社裏を源流とする川に限定しようとする本稿の立場にとっては痛い。 この困難を避ける道を求めると、引田部の""の字が浮かび上がってくる。 「部」のうち、「部曲(かきべ)」は、豪族に隷属する集団である。
 もともと引田に住んでいた一族が、ある時に三輪氏に隷属して引田部と呼ばれるようになり、 それに伴って故郷を離れ専ら三輪氏の居住区域に住むようになったと考えてみたらどうであろうか。 これなら、引田という地名が失われたことも説明できるように思える。
 唯一、一族が自立していた時代の氏神であった曳田神社だけが、祖先を祀る社として残ったのではないだろうか。