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[191]  下つ巻(安康天皇4)

2018.03.29(thu) [196] 下つ巻(安康天皇5) 

自茲以後 淡海之佐々紀山君之祖名韓帒白
淡海之久多【此二字以音】綿之蚊屋野
多在猪鹿
其立足者如荻原 指擧角者如枯樹

自茲(ここより)以後(のち)、淡海(あふみ)之(の)佐々紀山君(ささきやまのきみ)之(の)祖(おや)、名は韓帒(からふくろ)の白(まを)ししく、
「淡海之(の)久多(くた)【此の二字(ふたじ)音(こゑ)を以(もちゐ)る】綿(にしき)之(の)蚊屋野(かやの)に、
多(さは)に猪鹿(しし)在りて、
其の立てる足者(は)荻原(をぎはら)に如(に)て、指し挙がれる角(つの)者(は)枯樹(からき)に如(に)まつる。」とまをしき。


此時 相率市邊之忍齒王幸行淡海
到其野者各異作假宮而宿
爾明旦未日出之時 忍齒王以平心隨乘御馬
到立大長谷王假宮之傍而

此(この)時、市辺之忍歯王(いちのへのおしはのみこ)を相率(あひひきゐ)て淡海に幸行(いでま)して、
其の野に到れ者(ば)各(おのもおのも)異(こと)に仮宮を作りて[而]宿(ね)たまひき。
爾(ここに)明旦(あくるあさ)未だ日出(い)でざりし[之]時、忍歯王以ちて平(たひらか)なる心の隨(まにま)に御馬(みま)に乗りたまひて、
大長谷王の仮宮之(の)傍(ほとり)に到りて立たして[而]、


詔其大長谷王子之御伴人
未寤坐 早可白也夜既曙訖可幸獦庭
乃進馬出行

其の大長谷王子之(の)御伴人(みともひと)に詔(のたま)はく
「未だ寤(さ)め坐(ま)さず。早く白(まを)す可(べ)く[也]『夜(よ)既に曙(あ)け訖(を)へり。獦(かり)の庭(には)に幸(いでま)す可(べ)し』とまをすべし。」とのたまひて、
乃(すなは)ち馬を進めて出(い)で行きき。


爾侍其大長谷王之御所人等白
宇多弖物云王子【宇多弖三字以音也】故
應愼亦宜堅御身

爾(ここに)其の大長谷王之(の)御所(みところ)に侍(はべ)りし人等(ども)白(まを)ししく、
「宇多弖(うたて)物(もの)云ふ王子(みこ)【宇多弖の三字(さむじ)音(こゑ)を以(もちゐ)る[也]。】故(ゆゑ)、
[応]慎みたまふべし。亦(また)宜(よろし)く御身(おほみみ)を堅めたまへ。」とまをしき。


卽衣中服甲取佩弓矢乘馬出行
倐忽之間自馬往雙拔矢射落其忍齒王
乃亦切其身入於馬樎與土等埋

即ち衣の中に甲を服(つ)けて弓矢を取り佩(は)かして馬(みま)に乗りて出(い)で行(ゆ)きたまひて、
倐忽(たちまち)之(の)間(ま)、自(おの)が馬(みま)往(ゆ)き双(なら)びて、矢を抜きて其の忍歯王を射落としき。
乃(すなは)ち亦(また)其の身を切りて、[於]馬樎(うまぶね)に入れて土与(と)等(とも)に埋(うづ)めたまひき。


 その後、淡海国(あふみのくに)の佐々紀山君の祖、名前は韓帒(からふくろ)は、 「淡海の久多綿(くたにしき)の蚊屋野(かやの)に、 多くの猪や鹿がいて、 その立つ足は荻原(おぎはら)のようで、指し挙げた角は枯木のようでございます。」と申しあげました。
 この時、市辺之忍歯王(いちのへのおしはのみこ)を相率いて淡海にお出かけになり、 その野に到着したところで、それぞれ別々に仮宮(かりみや)を作って一晩眠られました。
 そして翌朝、まだ日が出る時、忍歯王は気安い気持ちのままで馬に乗り、 大長谷王(おおはつせのみこ)の仮宮の傍らに行って外に立ち、 大長谷王の侍従に、 「まだ起きておられないようですな。早く『夜はもう明けました。狩の庭にお出かけなさいませ』と言いなさい。」と仰り、 そのまま馬に乗って出かけられました。
 そこで、大長谷王の許にお仕えしている侍従たちは、 「飛んでもなく失礼な物言いをする御子故、 お気を付けください。また身に着けるものをお固めください。」と申し上げました。
 そのようなわけで、衣の内側に鎧を装着し、弓矢を身に着けて馬に乗って出かけられ、 またたく間に、ご自分の馬で追いついて並び、矢を抜いて忍歯王を射落とされました。 すぐにまた、その体を斬って飼葉桶に放り込み、土とともに埋めてしまわれました。


しし…[名] ①猪・鹿の総称。「(万)0478 朝獵尓 鹿猪踐起 暮獵尓 鶉鴙履立 あさがりに ししふみおこし ゆふがりに とりふみたて。」②筋肉。食肉。
…[名]〈倭名類聚抄〉荻:【和名乎木】〔をぎ〕
オギ
をぎ…[名] 植物名。イネ科。葦に似て花穂はすすきに似る。
…[名] ヨモギの一種。倭名類聚抄には載らない。
かりみや(狩宮)…[名] 皇子が住むところだから「みや」と呼ぶがが、ここではテントに近い簡易的なものであろう。
まにま…〈時代別上代〉連体修飾をうけて、連用修飾句を構成する場合に用いる。
…(古訓) あかつき。あけぬ。
…[名] 伝説上の獣の名。[動] 狩りをする。=猟。 高橋氏文に「磐鹿六獦(いはかむつかり、景行天皇紀では磐鹿六鴈)」の名がある。
には(庭)…[名] ことを行うための場所。
うたた…異様であること。平安以後の「[形]うたてし」に通ずる。
…[名] かいばおけ。
うまぶね(馬槽)…[名] かいばおけ。〈倭名類聚抄〉槽【音曽。和名与舟同】〔音「ソ」。和名「舟」と同じ。〕馬槽也。
…(古訓) とも。ら。
…[動] ならぶ。(古訓) ならふ。

【真福寺本】
(通用)→(真)
白→自
音→三日
鹿→廉
荻→莪
樹→松
至立→至
音→音也
 いずれも、真福寺本だけの異字である。①②は明らかに誤写、も恐らく誤写であろう。
 は筆写の際の脱落と見られる。
 の「」は植物名を表す漢字ではあるが書紀や万葉集にも出てこないから、畏らく「荻」の誤写であろう。
 は、他の個所の「」は崩されることはないので、「」のつもりで書かれている。 もともと「松」だったのが、ある時期に「樹」と解釈した可能性もある。 松は常緑樹で冬も葉を落とさず、「枯松」という語もなかなか見ないので、やはり筆写者が用いた本の誤りのままを引き継いだかと思われる。

【佐々木山君】
 孝元天皇紀に「妃河内青玉繋女埴安媛、生武埴安彦命。 兄大彦命、是阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭々城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣、凡七族之始祖也。 」 とある。 〈倭名類聚抄〉に{近江国・蒲生郡・篠笥郷}があり、中世の佐々木庄に繋がるとされる。 〈神名帳〉に{近江国/蒲生郡/沙沙貴神社}比定社は「沙沙貴神社」(滋賀県近江八幡市安土町常楽寺1)。 詳細は、第108回の表(D4)参照。

【多在猪鹿】
 「多在猪鹿」は、「」による構文有+事実上の主語の語順〕が混用されたものである。 「」については無数の用例が漢籍にあるが、そのうち「諸王子多在京師」(『後漢書』:伏侯宋蔡馮趙牟韋列伝)は、大変分かり易い。 主語の位置は「」の前である。
 よって「多在猪鹿」の部分は、「猪鹿多在淡海之久多綿之蚊屋野」と書くべきである。 書紀では同じ文を「於近江来田綿蛟屋野猪鹿多有」とし、 逆に「有」を誤用したように見えるが、こちらは必ずしも誤りではない(後述)。

【平心隨忍歯王以平心隨乗御馬】
《平心隨》
 「平心」は、通常は「安らいだ心」「穏やかな心」を意味すると見られるが、この場面には合わない。
 ここでは「忍歯王以平心隨乗御馬」の「御馬」が、尊敬表現であることに注目したい。 さらにその次の文には、尊敬語「」を用いている。
 その言葉は、「大長谷王はまだ寝ているか。夜は明けたから早く狩に出かけるように言え。」 という、対等な相手に語る言葉である。だから、御伴人は「うたけ物云ふ」、つまり尊敬を欠いた飛んでもない物言いをする王子だから警戒してくださいと、進言したのである。 忍歯王への敬語は、尊大に振る舞う態度を描写したこの場面限りのものである。
 それから考えると、「平心隨〔平心のままに〕とは「尊敬心を持たずに」の意味であろう。
《王子》
 前回、「王子」は「王」(みこ)のうち、より天皇に近い場合の代名詞だと考えた。
 かと言って「宇多弖物云王子」の「王子」を大長谷王だとすると、 「王子〔大長谷王〕にうたて物云ふ。故…」と読めないことはないが、無理がある。 それよりは「うたて物云ふ王子〔=忍歯王〕故…」と読む方がずっと自然である。 ただ、御伴人が大長谷王に向かって話す中で、忍歯王を「王子」と呼ぶところに抵抗がある。 大長谷王の御伴人にとっては忍歯王も貴人であるから、それを「王子」と呼ぶのは当然ではある。
 と同時に、忍歯王もまた皇位を目指す人物だと見られていた可能性がある。 その見方は、書紀で顕在化している。
 さらには、実際に天皇であったとする記述さえ見られる。
《即位したとする説》
● 『播磨国風土記』不完全本(三条西家本):美嚢郡に「市邊天皇命所殺於近江国摧錦之時」)。
● 顕宗天皇即位前期で、弘計王〔顕宗天皇〕が唱えた詩文に「於市辺宮治天下 天万国万押磐尊御裔 僕是也〔市辺の宮に天下(あめのした)治(をさめたまふ、しろしめす)天万国万押磐尊(あまつよろづくによろづおしはのみこと、=忍歯「天皇」)の御裔(みすゑ) 僕(やつかれ)是也(これそ) 〕 が紛れ込んでいる。
 興味深いことに、清寧天皇段の対応する部分は「所治賜天下伊邪本和気天皇之御子 市辺之押歯王之 奴末」 〔天下ををさめたまひし伊邪本和気天皇(履中天皇)の御子市辺之押歯王の、奴(やつかれ)そ末(みすゑ)なる〕であって、記では押歯王が天皇であったとは全く読み取れない。
《尊敬の適用対象》
 いつものように敬語によって主語を判別しようとすると、ここでは混乱する。 ここでは敬語を後日の「天皇」の立場を遡らせるのではなく、 この時点の立場に拠るものとすれば、合理的に読むことができる。

【宇多弖物云王子】
 「うたて物云ふ王子〔横柄な物言いをする忍歯王〕の言動から、自分を次の天皇とは認めていないことを知った大長谷王は、 忍歯王もまた皇位を狙っているかもという怖れを抱き、即座に殺害した。
 これが記の筋書きであるが、書紀では最初から市辺押磐皇子の殺害を目的として計画的に狩猟に誘っている。 記の記述だけでは、そこまで深読みするのは難しい。
《書紀による筋書き》
 書紀で陰謀の狩猟に誘った理由は、安康天皇が生前に押磐皇子を儲君(皇位継承者)に指定した恨みからだとする。 ならば、安康天皇暗殺の黒幕に大泊瀬皇子がいたのではないかと疑われるが、 安康天皇には妃を娶せたときに大いに世話になり、また立派な陵を完成させているから頭が上がらなかったと思われる。 従って自分が儲君に指名されなかった不満は、指名しなかった天皇に対してではなく、指名された押磐皇子の方に向けられた。
 ただ書紀は「押磐皇子儲君(押磐皇子を儲君にした)とは書かず、「国而遙付-嘱後事〔国を伝え、末永く後事を託した〕と間接的に表し、 それも決定には至らずただ「(ほり)」した〔その意向を持っていた〕という、何とも煮え切らない書き方になっている。
 これは「恨云々」の件が、単なる推察であることを示すのだろうか。 あるいは、雄略天皇による皇位の簒奪を描きながら、その不当性を薄める配慮をしたようにも見える。 また、大海人皇子〔天武天皇〕が大友皇子から皇位を簒奪したこととも二重写しになるので、 天武天皇への批判と見られるのを避けたのかも知れないが、確かなことは分からない。

【来田綿蛟屋野】
 来田錦蚊屋野は、蒲生郡日野町鎌掛(かいがけ)(大字)付近と言われている。 現在の地名に蚊屋野は見られないが、橋の名前として「蚊屋野橋」がある。 その位置は鎌掛(江戸時代の鎌掛村)の北部で、 県道41号線が北砂川と交わるところである(北緯34度59分23.8秒 東経136度15分26.1秒)。 橋の出入り口の左右のガードレールに、「蚊屋野橋」「かやのばし(左図)」「北砂川」「59年3月」の銘板が取りつけられている。
 『角川日本地名大辞典』(以後〈角川地名〉)はこの橋について、「御代参〔ごだいさん〕街道を鎌掛に向かう集落の〔北から来て〕手前の北砂川に架かる橋。 現橋は昭和29年9月竣工、長8m・幅4m。」と述べる。「現橋」とは〈角川地名〉編集の時点のもので、その後昭和59年〔1971〕に架け替えがあったことが銘板から分かる。
 御代参街道は、東海道土山宿から中山道小幡までを結ぶ街道である。 同街道の経路は、大字鎌掛以南は県道41号線、以北は近江鉄道に沿い、鎌掛村には宿場があった。
 〈角川地名〉の「蛟屋野」の項には 「鎌掛にあった荒れ地。かつて一帯は来田錦の広い荒れ地で蚊屋野といった。 〔北側から来て〕集落の手前に小さい社のある蚊屋野森がある。市辺押盤皇子が大泊瀬皇子に殺害され、 のちに顕宗天皇が行幸して父〔押盤皇子〕の納骨の儀を行った。社はこの時祀られたものという」、 出典「(輿地志略)」とある。
 輿地志略は正式には『近江国輿地志〔よちし〕略』といい、 膳所藩主・本多康敏(やすとし)が藩士寒川辰清に命じて編しゅうさせたもの。享保十九年〔1734〕に完成、全100巻。
 その「巻之六十四」に、 「〇鎌掛村 日野より一里南にあり。仁正寺〔日野庄の東〕より二十町〔218m〕ばかり山越えの道あり。 此地来田錦の蚊屋野也。〔雄略天皇即位前紀の引用を挟んで〕 此地より音羽村の御骨堂へ、道程三十町〔327m〕〔ばかり〕なり。」とある。 辰清「自序」に「全編専記実不〔実を記し、華を仮さず〕とあるので、粉飾を極力忌避したと思われるが、 これらについての根拠は特に書かれていない。
 なお、「御骨堂」は同書の「巻之六十五:音羽村」に載る。 現在は「音羽薬師堂」と呼ばれ、日野観光協会が設置した案内板によれば「蒲生氏郷の父賢秀が、天正十一年〔1583〕に音羽村の聖地であるここへ遷し」たものという (日野町音羽(大字)435)。
 また、同じく「巻之六十五:北畑村〔現在は蒲生郡日野町北畑(きたばた)〕について、「久多錦」「来田錦」を「今誤て北畑に作る。」とするが、実際にはどうであろうか。
 これらについては、顕宗天皇段で改めて検討する。

【雄略天皇紀―即位前(四)】
雄略天皇4目次 《近江狭々城山君韓帒言》
かつて…否定語を伴い「まったく~(ない)」。〈時代別上代〉は「以前の意の副詞カツテは、 上代に確実な例を見ない
と述べるが、ここの「」(かつて)は、明らかに「以前に」を意味する。
…[動] いいつける。(古訓) しのぶ。ゆつる。 
付嘱・付属…いいつけて頼む。「付属品」「付属高校」などの使い方は、日本語用法。
…[形] ずるい。
狡計…ずるがしこいはかりごと。
…[動] あう。時所を約束して会う。(古訓) あひむすひはかる。ちきる。
郊原・郊野…町はずれの野原。
冬十月癸未朔。
天皇、恨穴穗天皇曾欲
以市邊押磐皇子傅國而遙付囑後事、
乃使人於市邊押磐皇子、
陽期狡獵、勸遊郊野曰

天皇(すめらみこと)、[恨]穴穂天皇(あなほのすめらみこと)の曽(かつて)[欲]
市辺押磐皇子を以ちて国を伝へて[而]遙(はるかに)後(のち)の事を付嘱(ゆづ)らむとおもほせしことをうらみて、
乃(すなはち)人を[於]市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)に使はして、
陽(あざ)むきて狡(はかりごと)の猟(かり)を期(ちぎりはか)りて、郊野(の)に遊ばむと勧(すす)めしめまして曰(のたま)はく。

…(古訓) ことし。にたり。
孟冬…〈倭名類聚抄〉「十月孟冬。十一月仲冬。十二月季冬。
粛殺…冷たい秋の空気が植物を枯らす。万物をいためつける。
作陰之月…〈中国哲学書電子化計画〉には漢籍の慣用句として使われた気配はないので、 「影が長くなる月」を意味する倭風の表現であろう。
…[名] あさ。とき。(古訓) あけぬ。あした。とき。
…(古訓) えた。くひせ。
くひぜ…[名] 木の株。
朝霧…「あさぎり」と訓むと見られる。(万)3665 安可等吉能 安左宜理其問理 あかときの あさぎりごもり
逍遥…ぶらつく。(古訓) たはふれ。
たはぶる…[自]ラ下二 たわむれる。遊び興じる。
…[副] とりあえず。(古訓) いささかに。しはらく。ねかはくは。
…(古訓) たのしふ。もてあそふ。よろこふ。
…[動] はせる。
「近江狹々城山君韓帒言
『今、於近江來田綿蛟屋野、猪鹿多有。
其戴角類枯樹末、其聚脚如弱木株、
呼吸氣息似於朝霧。』
願與皇子、孟冬作陰之月寒風肅殺之晨、
將逍遙於郊野、聊娯情以騁射。」

「近江(ちかつあふみ)の狭々城山君(ささきやまきみ)の韓帒(からふくろ)言(まを)さく、
『今、[於]近江の来田綿(くたわた)蛟屋野(かやの)に、猪鹿(しし)多(さは)に有り。
其の戴(いただ)ける角(つの)は枯樹(かれき)の末(すゑ)に類(に)て、其の聚(あつま)れる脚(あし)弱(よは)き木の株(くひぜ)に如(に)て、
呼吸(ふ)ける気息(いぶき)[於]朝霧(あさぎり)に似まつる。』とまをしき。
願はくは皇子(みこ)と与(ともにし)て、孟冬(かむなづき)の作陰之(かげつくる)月の寒(さむ)き風の粛殺之(かた)めし晨(あさ)、
[将][於]郊野(の)に逍遙(たはぶ)れて、聊(しまらく)騁(は)せて射ることを以ちて娯情(たのしび)せむとしたまはむ。」とのたまふ。

…(古訓) はりゆみ。ゆみひく。
…[動] はしる。
売輪…人名。〈甲本〉賣輪ウルワ
…[動] (古訓) おとろく。
…[動] うらむ。(古訓) うらむ。
駭惋…おどろいて残念がる。
…(古訓) とく。さとる。
とく(解く)…[自]カ下二 心のわだかまりの解けることにもいう。
さとり…[名] 智恵。理解。〈時代別上代〉
古訓などには動詞サトルの例がある」。
…(古訓) ほとり。かたはら。ほとり。
頭脚…神代紀で「頭辺」を「あたまへ」、
脚辺」を「あとへ」と訓ませている (第37回)。
市邊押磐皇子、乃隨馳獵。
於是、大泊瀬天皇、彎弓驟馬而陽呼曰
「猪有。」
卽射殺市邊押磐皇子。
皇子帳內佐伯部賣輪【更名仲子】、
抱屍駭惋、不解所由、
反側呼號、往還頭脚。
天皇尚誅之。
市辺押磐皇子、乃(すなはち)隨(したが)ひて猟(かり)に馳(は)せり。
於是(ここに)、大泊瀬天皇(おほはつせのすめらみこと)、弯弓(みゆみひき)驟馬(みまはせ)たまひて[而]陽(あざむ)きて呼びたまひて曰(のたま)はく
「猪(しし)有り。」とのたまひて、
即ち市辺押磐皇子を射(い)殺したまへり。
皇子の帳内(とねり)、佐伯部(さへきべ)の売輪(うるわ)【更に仲子(なかつこ)と名(なづ)けり】、
屍(かばね)を抱(むだ)きて駭(おどろ)き惋(うら)みて、
所由(ゆゑ)を不解(とかざ)りて、
側(かたはら)に反(かへ)りて号(みな)を呼びまつり、頭(まくらへ)脚(あとへ)を往還(もとほ)りぬ。
天皇尚(なほ)之(こ)を誅(ころ)したまへり。

…[動] (古訓) うらおもふ。おもはかる。 
いはゐ…[名] 石で囲んだ井戸。「いしゐ」とも。
遣慮…「」は使役動詞で、ここでは、相手(身狭)に己を慮(おもんばか)ることを求める。
…[動] 待ちうける。(古訓) さいきる。
さいぎる…[他]ラ四 さえぎる。邀撃(要撃)する。
是月、御馬皇子、
以曾善三輪君身狹故思欲遣慮而往。
不意、道逢邀軍、於三輪磐井側逆戰、不久被捉。
臨刑、指井而詛曰
「此水者百姓唯得飲焉、王者獨不能飲矣。」

是の月、御馬皇子(みまのみこ)、
曽(かつて)三輪君(みわのきみ)身狭(むさ)に善(よしみ)ありしを以ちて、故(かれ)[欲]慮(おもひはか)り遣(し)めむと思ひて[而]往(ゆ)けり。
不意(おもはざり)て、道に邀(さいぎ)りし軍(いくさ)と逢ひて、[於]三輪の磐井(いはゐ)の側(ほとり)に逆戦(さかいくさ)しまつりて、不久(ひさしからず)被捉(とらは)れり。
刑(つみ)に臨みて、井(ゐ)を指して[而]詛(のろ)ひて曰(まを)ししく、
「此の水者(は)百姓(おほみたから)唯(ただ)得(え)飲みて[焉]、王(おほきみ)者(は)独り飲むことを不能(あたはず)[矣]。」とまをしき。

《猪鹿多有》
 「」は大部分が存在文の語順であるが、「主語-多有」の形も僅かに見られる。
 その一例として、『道徳経』(老子)の「法令滋彰、盗賊多有。」がある。 この文は「国のことにあれこれ作為を重ねると、皮肉にもよくない結果を生む」事柄を列挙したうちのひとつで、 「法令をますます詳しくすると、却って盗賊が増える。」という意味である。 この場合は「法令(主語)-(副詞)-(動詞)」の対句として語順を揃えたと見られるが、 それにしてもこの構文が存在するのだから、「猪鹿多有」が和習〔和風漢文のみにある表し方〕であるとは言い切れない。
《其戴角類枯樹末…》
 この部分は、 日本武尊が騙された言葉「是野也。糜鹿甚多。気如朝霧。足如茂林。臨而應狩。」 (景行天皇紀12)に類似し、 偽りの狩猟に誘うときの決まり文句だったようである。
 「其戴角類…」以下の3つの文の動詞に「」「」「」があるが、意味はすべて「~ににる」である。 この類似する文を並べたとき、同じ意味の語に使う字を替える手法は、記の序文では頻繁に使われた (例えば、第4回太素元始」、 第14回」など)。
 これは言い回しの格調を高めるもので、その狙いは次項と共通する。
《孟冬作陰之月寒風肅殺之晨》
 「孟冬作陰之月寒風肅殺之晨」を簡単に言えば「十月の寒い朝」に過ぎないのだが、難しい言葉を盛り込んで長くしている。 これはひとつは、礼を尽くした言い回しによって陰謀の意図を覆い隠すためであろう。 もう一つは、天皇としての言葉遣いを用いることによって、自分が天皇になる意志を誇示したと見られる。
 これと、記の市辺押磐皇子による「いつまで寝ているか。」に見られる対等な物言いを併せて読むと、 大泊瀬皇子が市辺押磐皇子を警戒する心理がよく分かる。
《三輪君》
 三輪君については、崇神天皇紀に「大田田根子今三輪君等之始祖」がある (112回)。
 さらに遡ると神代紀、大物主の三輪山への東遷(一書6)で 「此大三輪之神也。 此神之子即甘茂君等。大三輪君等。又姫蹈鞴五十鈴姫命。」がある (第69回)。
 記には、 「大物主大神顕於御夢曰『是者我之御心故。以意富多多泥古而令祭我御前」と書き (第111回)、 大田田根子が大神(みわ)神社を創始したことを述べ、それが書紀の三輪君の起源神話として定式化された。
 三輪君は三輪に古くから存在した氏族で、大物主神話により古代に出雲から移動してきたことが示唆される。 允恭天皇崩後に安康天皇を経て、雄略天皇が権力を手中に納めるまでの過程で、皇子を押し立てた氏族間闘争が繰り広げられたが、 三輪君もその一氏族として、市辺押磐皇子兄弟を押し立てて参戦していたと見られる。
《大意》
 天皇(すめらみこと)〔=大泊瀬皇子〕は、穴穂天皇(あなほのすめらみこと)がかつて 市辺押磐皇子をもって国を伝え、末永く後事を託そうとお思いになったことを恨み、 使者を市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)に遣わして、 謀の猟を欺いて約束し、郊原で遊ぼうと勧めることを伝えさせました。そのお言葉は、 「近江(ちかつおうみ)の狭々城山君(ささきやまきみ)の韓帒(からふくろ)は、 『今、近江の来田綿(くたわた)の蛟屋野(かやの)に、猪・鹿が多くおります。 その頭上の角は枯木の先に似て、その集まった脚は弱い木の株に似て、 吐く息は朝霧に似ております。』と申していた。 願はくば皇子と共に、十月(かむなづき)の影の伸びる月、寒風粛殺〔寒風が生き物を縮み上がらせる〕の晨(あさ)、 郊野に逍遙し〔あちこち廻り〕、しばらく馬を走らせ射ることを以って娯情〔楽しみ〕いたそう。」というものでした。
 市辺押磐皇子は、それに隨(したが)い、狩に馳せ参じました。 そこで、大泊瀬天皇(おおはつせのすめらみこと)は弓を引き馬を馳せ、欺いて「猪がこちらにいる」と言って呼びよせ、 市辺押磐皇子を射殺しなされました。
 皇子の舎人(とねり)、佐伯部(さえきべ)の売輪(うるわ)【またの名を仲子】は、 その屍を抱いて驚きまた恨み、 その理由を理解できず、 傍らに戻って名前をお呼びし、枕元と足元を行ったり来たりしました。
 天皇はなお、売輪をも殺してしまわれました。
 同じ月、御馬皇子(みまのみこ)は、 かつて三輪君(みわのきみ)の身狭(むさ)と誼を通じていたことをもって、配慮していただくよう〔庇護を〕求めて行きました。
 不意に道を遮る兵に遭遇し、三輪の磐井(いわい)の傍らで反逆の戦をして、ほどなく捕われました。 処刑に臨み、井を指さして[而]、 「この水は人民だけが飲むことができるが、大王(おおきみ)〔雄略天皇〕ただ独りは飲むことができない。」と呪詛しました。


【三輪磐井】
 三輪山の西のどこかに、湧き水を石で囲んで溜める「井」が作られ、 そこから「磐井」という地名が生まれたと想像される。
 「磐井」の比定地については〈五畿内志〉には記載がなく。〈大日本地名辞書〉は「三輪」の項に書紀の引用を載せるのみである。 その位置を特定しようとする研究は、なかなか見つからない。
《巻向の導水施設》  
 その中で、巻野内家ツラ地区(桜井市大字巻野内)の導水施設を関係づける説を見た。 その「導水施設」とは北・南・東の三方から木樋(もくひ)を通った水を集め、素掘溝に排出するものだと言う (桜井市纏向学研究センター)。 しかし大字巻野内は、纏向の範囲である。書紀には「纏向」という地名も出てくるから、 「三輪磐井」という以上は、より大神神社に近いところであろう。 さらに、遺構は「布留0式期新相(4世紀初め)には廃絶」したというから、その時期もこの物語の5世紀半ば(安康天皇崩の後)とは異なる。
《狭井神社》
 それでは、磐井はどこにあったのだろうか。 御馬皇子が、出仕していた石上(穴穂宮)で兄の悲報を聞き、三輪君に身を寄せようとしたのなら、 山の辺の道を南進してきたことになる。三輪君の中心地が大神神社付近だと仮定すると、その北側の湧き水のところが「磐井」であったことになる。
 大神神社の北には狭井神社があり、 社名の由来は「狭井」という井とされる。 三輪山の山頂から西南西方向に谷が走るから地形図に明示はされないが川が存在し、平地への出口に扇状地を形成した。 その扇状地の伏流が湧出したポイントが「狭井」だと考えられる。
 等高線から見た谷(桃色破線)と扇状地(黄緑破線内)。
 川は扇状地を伏流する。堆積前の流路を反映して、扇状地には凹凸の微地形を生じる。 扇状地の下辺の弧と地下に隠れた流路が交わった点が湧水点だと考えられ、 その一つが狭井に当たる。 他の湧水点として、×印付近も予想される。
 〈延喜式神名帳〉に「狭井坐大神荒魂神社〔さゐにますおほみわあらみたまのかむやしろ〕が載るから、 延喜式編纂期〔9世紀初頭〕には井の名を負う神社として存在した。恐らく書紀編纂期には既に、さゐと呼ばれていたと思われる。
 ※…大物主神の「荒魂」が祀られるから、三輪氏の支配地の北辺の防衛拠点だったのかも知れない。
 湧水はここに限らないだろうが、崇神朝から続く大神神社の酒造に、この辺りの名水が利用されていたのかも知れない。
 仮に大神神社辺りが三輪氏の本拠地だとすると、大泊瀬皇子の伏兵はそこまでは入れないから、 狭井神社~久延彦神社のラインの北に布陣し、そこが「磐井」だったことが考えられる。
 「いはゐ」は「さゐ」の別名かも知れない。 あるいは複数個所の泉のうち、岩場にあったものが「いはゐ」、狭い場所にあったものが「さゐ」と名付けられたと想像することもできる。

まとめ
 江戸時代中期の『近江国輿地志』によれば、蚊屋野は鎌掛村にあった。 沙沙貴神社の地域に後の佐々木荘が存在し、鎌掛村は同じ蒲生郡内にあるので、佐々紀山君の勢力圏内であったとしても不自然ではない。 前述したように輿地志に粉飾はあまりないと思われるから、顕宗天皇紀の市辺押磐皇子の遺骨探索と併せて一定の伝承が残っていた可能性はある。
 さて、書紀では安康天皇が市辺之忍歯王を儲君に立てたと事実上述べているが、厳密に見ると寸止めしている。 その理由は明らかではないが、苦労してこのようなややこしい書き方をするくらいなら、記と同じ筋書きにした方が楽であろう。
 しかし、佐伯部売輪に分注「更名仲子」を加えるのは、顕宗天皇では「佐伯部仲子」の名で出てくるからである。 それなら最初から「仲子」を用いればと思うのだが、あえて分注を用いるところに出典の改竄を嫌う学究的な態度が見える。 ただ、その上で筋書きを捻じ曲げるので、欺瞞的とも言える。
 だから、忍歯王が一度は即位したという異説があったのではないだろうか。 播磨国風土記や、顕宗天皇即位前期の詩文はその一例のようにも思える。 記は即位したことを認めないが、書紀は「即位に至らず」を基本線として守りつつ、異説をぎりぎりまで受け入れたとも考えられる。



2018.04.03(tue) [197] 下つ巻(安康天皇6) 

於是 市邊王之王子等意祁王袁祁王【二柱】
聞此亂而逃去
故到山代苅羽井食御粮之時 面黥老人來奪其粮
爾其二王言 不惜粮然汝者誰人
答曰 我者山代之猪甘也

於是(ここに)、市辺王(いちのへのみこ)之(の)王子(みこ)等(たち)意祁王(おけのみこ)袁祁王(をけのみこ)【二柱(ふたはしら)】
此の乱(みだれ)を聞きて[而]逃げ去(い)ぬ。
故(かれ)山代(やましろ)の苅羽井(かりはゐ)に到りて御糧(みけ)を食(を)しし[之]時、面黥(めさき)せし老人(おきな)来て其の糧(かて)を奪ひき。
爾(ここに)其の二王(ふたみこ)言はく「糧(かて)を不惜(をしまず)。然(しかれども)汝(いまし)者(は)誰人(た)そ。」といひて、
答へて曰(い)ひしく「我(わ)者(は)山代之(の)猪甘(ゐかひ)也(そ)。」といひき。


故逃
渡玖須婆之河至針間國
入其國人名志自牟之家
隱身伇於馬甘牛甘也

故(かれ)逃(のがれ)たまひて、
玖須婆(くすば)之(の)河(かは)を渡りて針間(はりま)の国に至りて、
其の国の人、名は志自牟(しじむ)之(の)家(いへ)に入(い)りて、
身(おほみみ)を隠して[於]馬甘(まかひ)牛甘(うしかひ)に伇(えたち)しまつりたまひき[也]。


 そこで、市辺王(いちのへのみこ)の二人の王子(みこ)、意祁王(おけのみこ)と袁祁王(をけのみこ)は この乱のことを聞いて逃げ去りました。
 そして、山代(やましろ)の国の苅羽井(かりはい)に到り、食事されている時、顔に入れ墨のある老人が来て、その食糧を奪いました。 そこで二人の王は、「食糧は惜しくないからくれてやろう。だが、お前は誰か。」と言うと、 「わしは、山代の猪飼(いかい)である。」と答えました。
 このようにお逃げになり、 くすば(樟葉)の河を渡り、針間(はりま)の国に至り、 その国の人、名前を志自牟(しじむ)という人の家に入り、 身分を隠して馬飼、牛飼いに従事されました。


…(古訓) みたる。をさむ。
をしむ…[他]マ四段 惜しがる。
志自牟…清寧天皇段にもある。清寧天皇紀では地名「縮見」となり、人名は「細目」である。

【真福寺本】
真福寺本氏傭本
・真福寺本の「」が、「」の誤写であるのは明らかである。
・崇神天皇段の「久須婆」は明瞭に読めるので、「玖須婆」の誤写であるのは確実であろう。 氏傭本も真福寺本と同じ字体なので、誤読は古い時期に遡ると思われる。

【苅羽井】
 綴喜郡に〈神名帳〉{山代国/綴喜郡/樺井月神社〔樺井月読神社とも-清和実録(貞観元年)〕があり、 「苅羽井」が「樺井」になったといわれる。
 そのような音韻変化があり得るかはどうか分からないが、 「玖須婆之河」すなわち「樟葉」までの経路を考えた時、「樺井」の位置は必ずしも不自然ではない。

【面黥老人】
 高貴な人が少人数で逃げているところに、野盗が襲いかかる。 それは、顔に入れ墨があるような野卑な住民であった。
 その職業までも述べる意味はここだけでは分からないが、 後にこのときの老人を罰するために探し出す話(顕宗天皇段)に繋がる。 その話は、「志米須」の地名譚である。

【猪飼】
 養豚の歴史は古く、「ヨルダン渓谷では紀元前6000年の農耕遺跡から出土した豚の骨が一番古」く、 「アジアの南東部(紀元前2,000年)等で豚が飼われていた証拠が見つかっている」という(養豚の歴史)。
 東京農業大学の黒澤弥悦教授によると、 イノシシとブタの間に「生物学的境界線というものは存在せず、それは遺伝的に連続性を保ち、二分できない」。そして、 「興味深いのは、飼育者が少年時代にウリ坊を捕まえたことをきっかけに、それをペットとして飼い始め、この経験からイノシシの繁殖を本格化させた事例である。」 「人間の環境下に接近し易いイノシシの家畜化は、遥か1万年前以前の狩猟採集期で既に萌芽していたとしても不思議ではない。」 という(イノシシがブタになるまで)。
 地名「猪飼野」は、『播磨国風土記』賀毛郡や、摂津国東生郡にある。
 〈姓氏家系大辞典〉は「猪甘人 ヰカヒヒト:山城国の計帳と思はるゝ文書に大猪甘人面宇麻後賣外一人を載せたり。前述〔=この段〕山城の猪甘の後か。」と述べる。 同辞典はまた、摂津(前述)・伊勢(桑名郡猪飼村)・石見(伊甘郷;猪飼の訛りか)の地名から猪甘部の存在を推定し、〈新撰姓氏録〉-雑姓に「猪甘首」を見出している。 さらに、「此の猪飼部は賤民の一種にて、その後裔の如くは求めるも得ざる」ことを、 末裔の名前があまり出てこない理由とする。「面黥」は、「賤民」の習慣だったのかも知れない。

【故逃渡】
 危機に直面した意祁王と袁祁王は、う這うのていで逃げだした。 書紀はこれを、「恐懼皆逃亡自匿〔侍従たちは皆怖気づいて逃げ、散り散りになってそれぞれが自分の隠れ場所を求めた〕と述べる。 王たちに従うのは、最後には少年「吾田彦」ただ一人になってしまう。
 「故逃」は「そのようにして逃げた」という締めくくりとして位置づけ、「…故逃。渡玖須婆之河」のように区切るべきだろう。

【言・云】
 ここでは詔・白ではなく、が用いられる。 面黥老人は二人の王を尊敬しないから、後の天皇の立場に与えられる尊敬表現を遡らせることをせず、この場面そのものに合わせたのかも知れない。 しかし、それだけではなく安康天皇暗殺後から雰囲気が変わり、書紀に近づいていると感じられる。
 古事記は、書紀から豊かな伝説が切り捨てられたことを惜しんで書き初められたが、 そろそろ、それを必要としない代に差し掛かっているということか。 歴史が伝説によって遺される対象から、記録によって残される対象に移行しつつある。
 なおここには「御糧」という尊敬表現があるから、暗黙の補助動詞「たまふ」については継続していると思われる。

【顕宗天皇紀―即位前(一)】
即位前(一) 《天皇与億計王聞父見射》
佐伯部仲子…佐伯部売輪の別名(雄略天皇紀分注に「更名仲子」)。
佐伯部…佐伯直第122回)を伴造(とものみやつこ)に戴く伴部(とものべ)。
穴穗天皇三年十月、
天皇父市邊押磐皇子及帳內佐伯部仲子、
於蚊屋野、爲大泊瀬天皇見殺、因埋同穴。
於是、天皇與億計王、聞父見射、
恐懼皆逃亡自匿。

穴穂天皇(あなほのすめらみこと)三年(みとせ)十月(かむなづき)、
天皇〔弘計王(をけのみこ)〕の父(ちち)市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)及(と)帳内(とねり)佐伯部(さへきべ)の仲子(なかつこ)、
[於]蚊屋野(かやの)に、大泊瀬天皇の為(ため)に見殺(ころさえ)て、因(よ)りて同じき穴に埋もれき。
於是(ここに)、天皇与(と)億計王(おけのみこ)と、父見射(いゆ)と聞きたまひて、
恐懼(お)ぢて皆逃亡(にげう)せて自(おのもおのも)匿(かく)れり。

丹波國余社郡(たにはのくにのよざのこほり)…後の〈倭名類聚抄〉{丹後国・与謝郡}。
帳內日下部連使主
【使主、日下部連之名也。使主、此云於瀰】
與吾田彥【吾田彥、使主之子也】、
竊奉天皇與億計王、避難於丹波國余社郡。

帳内(とねり)日下部連(くさかべのむらじ)使主(おみ)
【使主、日下部連之(の)名也(なり)。使主、此於瀰(おみ)と云ふ】
与(と)吾田彦(あたひこ)【吾田彦、使主之子也。】と、
窃(ひそかに)天皇与億計王とを奉(たてまつ)りて、[於]丹波国(たにはのくに)の余社郡(よさのこほり)に難(かたき)を避けり。

名字…名と字(あざな)。
あざな…[名] 実名のほかに持っている名。通称。
田疾来…〈甲本〉田疾来タトク
石室…〈甲本〉石室イハヤ(第49回)
くびる…[自]下二 自ら首をくくる。「わなく」とも(垂仁天皇紀6)。
…[動] ゆく。
…(古訓) しる。さとる。
…[副] ともに。(古訓) とも。ともに。みな。
使主、遂改名字曰田疾來、尚恐見誅、
從茲遁入播磨縮見山石室而自經死。
天皇、尚不識使主所之、
勸兄億計王、向播磨國赤石郡、
倶改字曰丹波小子、就仕於縮見屯倉首。
【縮見屯倉首、忍海部造細目也。】
吾田彥、至此不離、固執臣禮。

使主、遂に名と字(あざな)を改めて田疾来(たとく)と曰(なの)りて、尚(なほ)見誅(ころさえむこと)を恐りて、
茲(この)従(まにま)に播磨(はりま)の縮見山(しじみのやま)の石室(いはや)に遁(に)げ入りて[而]、自ら経(くび)れ死にき。
天皇、尚(なほ)使主の所之(ゆくへ)を不識(しらざり)て、
兄(このかみ)億計王に勧(すす)めまつりて、播磨国の赤石郡(あかしのこほり)に向(むか)ひて、
倶(ともに)字(あざな)を改めて丹波小子(たにはのわらは)と曰(なの)りて、[於]縮見(しじみ)の屯倉(みやけ)の首(おびと)に就(つ)き仕(つか)へまつりたまひき。
【縮見屯倉首、忍海部造(おしのみべのみやつこ)細目(ほそめ)也(なり)。】
吾田彦、此(こ)に至りて不離(はなれず)、固く臣礼(おみのゐや)を執(と)りまつりき。

《丹波国余社郡》
 丹波国余社郡は、〈倭名類聚抄〉の{丹後国・与謝郡}であると見られる。 一般に清音の「よさ」だが、社・謝は何れも濁音で、万葉仮名「佐」にも濁音への通用があり、現在も地元では濁音なので、 元々は「よざ」であったのではないかと思われる。 丹波国を分割して丹後国が成立したのは和銅六年〔713〕であった。 〈続日本紀〉に「和銅六年〔713〕四月癸巳朔乙未〔三日〕:割丹波国加佐。与佐。丹波。竹野。熊野五郡。始置丹後国」とある。 丹後半島には神明山古墳(200m)、網野銚子山古墳(198m)があり、"独立王朝"があった気配がある(第162回)。 想像を逞しくすれば、日本海の独自の交易ルートで繁栄したか。 何れにしても、中央による支配が及びにくかった地域だと思われる。
《縮見》
 〈倭名類聚抄〉に{播磨国・美嚢【美奈木】〔みなき〕郡・志深【之々美】〔ししみ〕}。
 明治22年〔1889〕の町村制で成立した「志染(しじみ)村」には江戸時代の「細目村」「志染中村」「窟屋(いわや)村」が含まれる。 〈大日本地名辞書〉には 「今志染村に細目(ホソメ)と云ふ大字もあり、窟屋は 土俗池野(イケノ)と呼び地塘〔湿原の泥炭層にできる池沼〕あり、真南に大岩洞あり、高八尺、横五丈四尺、深三十尺、 奥に向ひ漸く狭窄す、天然の窟室なり。」とある。
《大意》
 穴穂天皇(あなほのすめらみこと)三年十月、 天皇〔弘計王(をけのみこ);顕宗天皇〕の父市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)と舎人(とねり)の佐伯部(さへきべ)の仲子(なかつこ)は、 蚊屋野(かやの)で、大泊瀬天皇〔雄略〕によって殺されて、同じ穴に埋めれらました。
 そこで、天皇と億計王(おけのみこ)は、父が射殺されたと聞き、 恐怖で皆逃亡し散り散りになって隠れました。
 舎人の日下部連(くさかべのむらじ)使主(おみ) 【使主は〔姓ではなく〕、日下部連の一人の名前です】 と吾田彦(あたひこ)【吾田彦は、使主の子です。】は、 密かに天皇と億計王とを奉じて、丹波国(たにはのくに)の余社郡(よさのこおり)に避難しました。
 使主は、遂に名と字(あざな)を改めて田疾来(たとく)と名のり、それでもなお殺されることを恐れ、 そのまま播磨(はりま)の縮見山(しじみやま)の窟屋に逃げ入り、自ら首を吊って死にました。 天皇は、なお使主の行方を知ろうとして分からず、 兄億計王の勧めで、播磨国の赤石郡(あかしのこおり)に向かい、 共に字(あざな)を改めて丹波童子(たにはのわらは)と名のり、縮見(しじみ)の屯倉(みやけ)の首(おびと)に付き従われました。 【縮見の屯倉の首は、忍海部造(おしのみべのみやつこ)細目(ほそめ)です。】
 吾田彦は、ここに至り二人の王子から離れず、固く臣の礼を執りました。


【播磨国風土記】
 『播磨国風土記』の美嚢郡の項に類話がある。
播磨国風土記美嚢郡
志深里【𡈽中々】。所-以号志深里者。 伊射報和氣命御食於此井之時。 信深貝遊於御飯莒縁。 爾時勅云此貝者於阿波国和那散我所食之貝哉。 故号志深里。 於奚袁奚天皇等所以於此𡈽者。 汝父市邊天皇命所-殺於近江国漼綿野之時。 率日下部連意美而逃来隠於惟村石室。 然後意美自知重罪。乗馬寺切-断其䈥遂放之。亦持物鞍等盡焼-廢之即經死之。 爾二人子等隠於彼此於東西。 仍志深村首伊等尾之家所役也。
 美嚢郡(みなきのこほり) 志深里(しじみのさと)【土(くに)中の中】 志深里と号(なづ)けし所以(ゆゑ)は、 伊射報和気命(いざほわけのみこと)〔履中天皇〕此の井に御食(みけ)めしたまひし時、 信深貝(しじみかひ)〔蜆貝〕御飯(みけ)の莒(はこ)の縁(ほとり)に上げ遊ばす。 この時、勅(のたま)ひて云ひしく「此の貝は阿波国(あはのくに)の和那散(わなさ)に我が食(め)したまひし貝なり哉(や)」とのたまひき。 故(かれ)志深里と号(なづ)けき。 於奚(おけ)、袁奚(をけ)の天皇(すめらみこと)等(たち)此の土(くに)に坐(いま)しし所以(ゆゑ)は、 汝(なが)父市辺天皇命(いちのへのすめらみこと)近江国(あふみのくに)漼綿(くたわた)の野に殺さえし時、 日下部連(くさかべのむらじ)意美(おみ)を率(ゐ)て逃(のが)れ来て、惟(この)村の石室(いはや)に隠りたまへり。 然後(しかるのち)、意美自ら重き罪なるを知りまつりて、乗れる馬等(ども)其の筋(すぢ)を切り断(た)ちて之を遂(お)ひ放ちき。亦(また)持てる物鞍(くら)等(たち)尽(ことごとく)之(こ)を焼き廃(す)てて即(すなはち)経(くび)り死にまつりき。 爾(ここに)二人の子(みこ)等(たち)彼此(をちこちに)隠りて東西(いづちにも)迷(まと)ひたまひて、 仍(すなはち)志深村の首(おびと)伊等尾(いとみ)之(の)家に所役(つかへ)たまひき。
和奈佐意富曽神社
和那散…〈延喜式神名帳〉に{阿波国/那賀郡/和奈佐意富曽〔わなさおほそ〕神社}。 現在の和奈佐意富曽神社(徳島県海部郡大里松原(字)32-133)は、その北東約250mにある八幡神社から明治初めに式内社の名を伝えるために分祀されたものだという。
…「すぢ」は筋肉とは限らず、一般に線状のものを表す「すぢ」の方が第一義とされている。 ここでは、馬を繋ぎとめていた綱と見た方が意味が通る。
東西…〈釈日本紀-秘訓(斉明天皇)〉は「十二月三日東西困苦【トニカクタシナムコト】」。 仮名日本紀で同じ個所は「東西【かにかくにせす】」、 この伝統訓は万葉歌によると思われる。すなわち、 (万)0897題詞「抱朴子〔晋の葛洪〕曰…向東向西莫知所為」を受けて「可尓可久尓 思和豆良比 かにかくに おもひわづらひ」と訓むことから、 「東西」に「かにかくに」をあてたと思われるが、歌ではその前の様々な事例の列挙を受けた「彼爾如此爾かにかくに」なので、 題詞の「東向西〔どちらを向いても〕」とは意味がずれている。
 「遂放」は、馬を野に放って好きな所へ行かせたという意味だと思われるが、 もしアキレス腱を切断すればそこで倒れてどこにも行けず、苦しんで死ぬだけである。 それなら無駄な苦しみを与えずに、すぐ殺した方がよい。 だから「」は「」の誤写、 あるいは「筋」(すぢ)のままで馬を繋ぎとめた「つな」の意味で使った、のどちらかということになる。
 意美は追補を恐れて自死するが、王子たちの目の前で馬を放ち鞍を焼き捨て首を吊るとは、どうしたことだろうか。 書紀はその非礼すぎる有様を忌避するために、王子たちには知られず一人で窟屋の中で自死することにしたと思われる。
 記の名前「志自牟」、書紀の「細目」が、ここでは「伊等尾」になる。 志自牟は、地名しじみによる俗称と思われる。顕宗天皇紀の分注は、 忍海部造の「細目」という名の人物が縮見村の屯倉の首という職についていたと述べる。 伊等尾はその別名か、または別説によったことになる。

まとめ
 書紀で、弘計王・億計王が一時丹後国与謝郡〔丹後半島〕に滞在したという記述が目を惹く。 そこで、押磐皇子がのの地の地方王朝("丹後王朝"と仮称)の大王として迎えられたと仮定してみる。 丹後王朝は、神明山古墳・網野銚子山古墳という大陵を築く強力なものであった。 その年代は、履中帝・反正帝・允恭帝の三代に重なっていたであろう。
 そして雄略天皇が覇権を握る過程で、押磐"大王"は呼び出されて謀殺された。 しかし旧丹後王朝勢力を潰滅させるには至らず、二人の王子はそこで庇護された。 だが、次第に雄略天皇からの圧迫が強まるうちにそこにもいられなくなって、 放浪の旅に出たというストーリーが想像される。
 天皇は常に一人という考えは「万世一系」なるイメージに支配されたものであって、 この時期はまだ複数王朝の共存を排除する理由はない。 他にも、上宮記 に示された若野毛二俣王から継体天皇に至る系図が、越前王朝の存在を想起させるものであった。
 記紀においては丹後王朝の存在は抹消されたが、その痕跡が播磨国風土記、顕宗天皇紀の歌謡、 そして安康天皇段における「王子」の呼称と尊敬語「詔」に残ったのではないだろうか。
 今のところは妄想だが、一つの可能性として頭に留めておきたい。



2018.04.21(sat) [198] 下つ巻(雄略天皇1) 

大長谷若建命 坐長谷朝倉宮治天下也
天皇 娶大日下王之妹若日下部王【无子】
又娶都夫良意富美之女韓比賣
生御子白髮命次妹若帶比賣命【二柱】

大長谷若建命(おほはつせわかたけるのみこと)、長谷朝倉宮(はつせあさくらのみや)に坐(ましま)して天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。
天皇(すめらみこと)、大日下王(おほくさかのみこ)之(の)妹(いも)若日下部王(わかくさかべのみこ)を娶(めあは)せたまひて【无子(みこなきて)】、
又(また)都夫良意富美(つぶらおほみ)之(の)女(むすめ)韓比売(からひめ)を娶(めあは)せたまひて、
御子(みこ)白髪命(しらかのみこと)、次(つぎ)に妹若帯比売命(わかたらしひめのみこと)を生(う)みたまふ【二柱(ふたはしら)】。


故爲白髮太子之御名代定白髮部
又定長谷部舍人又定河瀬舍人也
此時吳人參渡來
其吳人安置於吳原故號其地謂吳原也

故(かれ)白髪太子(しらかのひつぎのみこ)之(の)御名代(みなしろ)の為に白髪部(しらかべ)を定めて、
又(また)長谷部舎人(はつせぶのとねり)を定めて、又河瀬舍人(かはせのとねり)を定めたまひき[也]。
此の時、呉人(くれひと)参渡(まゐわた)り来(け)り。
其の呉人[於]呉原(くれのはら)に安(やす)く置きし故(ゆゑ)に、其の地(ところ)を号(なづ)けて呉原と謂へり[也]。


 大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと)は、長谷朝倉宮(はつせあさくらのみや)にいらっしゃり、天下を治められました。 天皇(すめらみこと)は、大日下王(おおくさかのみこ)の妹、若日下部王(わかくさかべのみこ)を娶られました【皇子は生まれませんでした】。
 また、都夫良意富美(つぶらおおみ)の娘、韓比売(からひめ)を娶られ、 御子、白髪命(しらかのみこと)、次に妹、若帯比売命(わかたらしひめのみこと)を生みなされました【二柱】。
 そして、白髪太子(しらかのひつぎのみこ)の御名代(みなしろ)のために、白髪部(しらかべ)を定め、 また、長谷部舎人(はつせぶのとねり)を定め、又河瀬舍人(かわせのとねり)を定められました。
 この時、呉人(くれひと)が渡って参りました。 その呉人を呉原(くれのはら)に置いたので、その地が呉原と名付けられました。


長谷…〈倭名類聚抄〉{大和国・城上郡・長谷【波都勢】郷〔はつせのこほり〕
白髪命…〈甲本〉白髪【シラカ】
呉人…[名] 呉から渡来した人。呉服(くれはとり)などの技術者。

【真福寺本】
 真福寺本では、「為白髪太子之御名定白髪部」となっていて、「御名」の「」がない。 允恭天皇段では「為木梨之軽太子御名代定軽部」などとなっているので、欠落と思われる。

【長谷朝倉宮】
 雄略天皇紀15年及び〈新撰姓氏録〉に、 秦氏の貢物を入れるために大蔵を築いたことにより、長谷朝倉宮の名称が生まれたという話が載る。
 その場所については南北朝時代には「城上郡磐坂谷」、江戸時代には「黒崎岩坂二村間」などとされるが、 近年は脇本遺跡にあろうと考えるのが主流になっている。詳しくは、別項を立てて述べる。

【大長谷若建命】
 「若建(わかたける)命」に地名「はつせ」、美称の「おほ」がつく。書記は「大泊瀬幼武天皇」。 名前だけ見れば「大建(おほたける)命」と対だが、今のところこの名の人物は見いだせない。
 がつくのは、少年時代から武力で覇権を握ったからであろうか。 金錯銘鉄剣(後述)でもその名だから、諸族に押された兄弟を次々と打ち滅ぼしたのは事実かも知れない。

【若日下部王】
 若日下部王は、その兄大日下王とともに仁徳天皇と髪長比売との間に生まれた。
 安康天皇は、雄略天皇にこの若日下部王を娶らせる過程で大日下王を殺し、後に大日下王の子の目弱王によって殺された。 若日下部王はしかし、皇子を産むことはなかった。

【白髪部】
 御名代「白髪部」については、以後も繰り返し言及される。
清寧天皇段
 「此天皇無皇后 亦無御子故御名代定白髮部
 〔此の天皇皇后無くて、亦御子無きが故(ゆゑ)に御名代白髪部を定む〕
●〈清寧天皇紀〉二年。
 「天皇恨子。乃遣大伴室屋大連於諸国。 置白髪部舍人。白髪部膳夫。白髪部靫負。冀垂遺跡於後
 〔天皇子(みこ)無きを恨みたまひて、大伴室屋大連(おほとものむろやおほむらじ)を諸(もろもろ)の国に遣はして、 白髪部の舎人、白髪部の膳夫(かしはで)、白髪部の靫負(ゆけひ)を置きて、冀(こひねがはくは)遺跡を垂らして後に観(み)しめむ〕
●〈継体天皇紀〉元年二月。白髪部は、さらに三種あったと述べる。
 「大伴大連奏請曰…〔中略〕…白髮天皇無嗣。遣臣祖父大伴大連室屋州安-置三種白髪部【言三種者、一白髮部舍人、二白髮部供膳、三白髮部靫負也】以留後世之名
 〔大伴大連奏請曰…〔中略〕…白髮天皇嗣(つぎたまふみこ)無し。 遣臣(やつかれ)の祖父(おほち)大伴大連室屋、州(くに)ごとに三種(みくさ)の白髪部を安置(お)きまつりて【三種を言ふは、一つ白髮部舍人、二つ白髮部供膳、三つ白髮部靫負也】、以ちて後の世の名に留めき〕
●〈続紀〉延暦四年〔桓武天皇〕五月乙未朔丁酉〔三日〕。白髪部が、後に真髪部に改称されたと述べる。
 「臣子之礼。必避君諱。比者。先帝御名及朕之諱。公私触犯。猶不聞。 自今以後。宜並改避。於是改姓白髪部為真髪部。山部為山。
 〔臣子の礼、必ず君の諱(いみな)を避く。比(このごろ)は、先帝(さきのみかど)の御名及び朕(わが)諱、公と私とを触犯(をかすこと)、猶(なほ)聞くに忍ばず。 今より以後、宜(よろし)く並べて改め避けて、ここに姓を改めて白髪部を真髪部として、山部を山とせよ〕
 「避諱(ひき)」は、君主に遠慮してその名を用いるのを避けること。光仁天皇の名は白壁王、桓武天皇の名は山部王であった。
 〈姓氏家系大辞典〉は白髪部(白壁)及び、その後継の真髪部(真壁)を山城・摂津・和泉・ 遠江・武蔵・常陸・美濃・上野・下野・美作・備中・石見・周防・肥後の各国に見出している。

【長谷部舎人】
 〈姓氏家系大辞典〉に、「長谷部」は〈倭名類聚抄〉の長谷郷 「とある地にて、天皇の御名は此の地名を負ひ給へる也。而して古事記、雄略段に『又長谷部舎人を定む』と見ゆると思へば、 此の御名代は天皇の舎人部の裔なるを知るべし。」 と述べ、舎人〔宮廷のスタッフ〕を供給した部〔集団〕の一部を独立させて創始したと見ている。 しかしズバリ「長谷部舎人」のついた名前は見つけられなかったようである。

【川瀬舎人】
 雄略天皇紀十一年に「近江国栗太郡言『白鸕鷀居于谷上浜。』因詔、置川瀬舎人〔近江国栗太郡(くりたのこほり)言はく『白鸕鷀(しらう)〔鵜のアルビノか〕谷上(へ)の浜に居り』と言ふ。詔(みことのり)に因りて川瀬舎人を置く〕
 天武天皇紀十二年九月に、「川瀬舎人造〔を含む〕凡卅八氏賜姓曰」があり、川瀬舎人造(みやつこ、統率者)に連姓を賜っている。
奈良県高市郡明日香村檜前(大字)

【韓比売】
 都夫良意富美は殺される直前に、韓比売を妃として献上した (第195回)。

【呉原】
 雄略天皇紀には、「-置呉人於檜隈野。因名呉原」とある (十四年)。
 続紀には延暦十年〔791〕の時点で、大和に「文(あや)忌寸」、河内に「文宿祢」が見られ、 それぞれ東漢(やまとのあや)、西漢(かふちのあや)の後裔と見られる (資料25)。 檜前寺は東漢の氏寺であったと考えられている。
 記では、 「又秦造之祖漢直之祖及知釀酒人 名仁番亦名須須許理」 (第152回) と述べ、秦氏と漢氏との祖は共に一人の仁番(またの名は須須許理)として一体化している。
 しかし、書紀では氏の始祖を弓月君倭漢氏の始祖を阿知使主に峻別する。
 氏については、「弓月君自百済来帰」(応神天皇紀10)がスタートで、 〈新撰姓氏録〉では「太秦公宿祢」「秦忌寸」の項で、秦氏を弓月王の裔とする。 そして、弓月王の子孫は各地に分散したが再結集し、酒が秦造に任じられた(雄略十五年)。 その中心地は、太秦(うずまさ)〔京都市西区に地名が残る〕であった。
 他方、倭漢氏については、阿知使主を倭漢直(やまとあやのあたひ)の祖とし、 「倭漢直祖阿知使主」(応神天皇二十年)、 「命東漢直掬以新漢陶部高貴」(雄略天皇十四年) と述べる。

【長谷朝倉宮と長谷郷】
 倭名類聚抄に{大和国・城上郡・長谷【波都勢】〔はつせ〕郷}が載る。 現在の「桜井市初瀬(大字)」は初瀬川に沿い、長谷寺がある。
《初瀬》
 〈大日本地名辞書〉は、 「今初瀬村と云ふ、此村このむら川に臨み伊賀国及 宇陀郡より倭に通ずる大路にあたり、山中の孤駅なり。長谷寺の大伽藍あり」などと述べる。
 江戸時代には初瀬村・白河村・出雲村などがあり、町村制〔1889〕のとき、まとめて初瀬村となる。現在の大字(初瀬・白河・出雲)は江戸時代の村名である。
 長谷寺は、〈大日本地名辞書〉 「寺説〔=寺伝〕元正天皇養老五年辛酉草創、 又いはく文武帝の朝に徳道上人造立」である。
 脇本遺跡は初瀬(大字)内ではなく、その境界から2kmほど西にあたる。
《泊瀬朝倉宮跡》
 〈大日本地名辞書〉は「通証云、在黒崎岩坂二村間。 (今朝倉村大字黒崎大字岩坂)」、「帝王編年記云朝倉宮、在城上郡磐谷南、廿町ばかり。 朝倉は蔵庫に因める号なり」と述べる。
 その引用元を調べると、
和州旧跡幽考
(大和名所記)
●『帝王編年記』は、後光厳天皇〔在位1352年~1371年〕編で、皇代記の集大成といわれる。 「皇代記」とは、天皇ごとに主な事項を編年体でまとめたものである。
 その「雄略天皇【大泊瀬稚武天皇】」の項に、 「御宇二十三年【自丁酉〔書紀と一致〕至己未】泊瀬朝倉宮【大和国城上郡磐坂谷也】」とある。
●『和州旧跡幽考(大和名所記)』(右図)〔1679頃〕に、帝王編年記からの引用がある。 「ていへん年に しろの磐坂いはさか谷なり 當世たつねしに長谷より半道※1ばかり南にあり 人皇廿一代安康天皇三年初瀬はせ朝倉あさくらに宮をさだめたまふ【日本紀】 延宝七年迄凡一千二百廿四年※2」。 ※1…=半里(約2km)。 ※2…1670(延宝七)-1224+1=456(安康天皇三年)で、計算は正しい。
●『大和志料〔1914〕は「帝王編年記」その他を引用し、やはり「所謂磐板谷正ニ其宮址ナルキ。」と述べる。
●「通証」とは、『日本書紀通証〔1762〕のことで、そこには「黒崎岩坂二村間」とある。 これもまた、〈五畿内志〉〔1734〕からの引用と見られる。
●〈五畿内志〉には【古蹟】の項に、 「泊瀬朝倉宮【在黒崎岩坂二村間  雄略天皇命有司〔=官僚〕壇於泊瀬朝倉天皇位遂定宮焉】」とある。
 である。このように出典を辿ると、「磐坂谷」は『帝王編年記』、「黒崎岩坂二村間」は〈五畿内志〉が出発点であろうと思われる。 しかし、そもそも『帝王編年記』は書記から600年以上後の14世紀後半の成立なので、その内容は慎重に扱う必要がある。
《白山比咩神社》
 一方、黒崎村の白山比咩神社(しらやまひめ神社、奈良県桜井市黒崎(大字))の境内に、 万葉集0001〔題詞に雄略天皇の御歌とある〕の歌碑とともに「萬葉集發燿仰碑」なる石碑があり、 「雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地」と題された案内板が設置されている。
 案内板には「桜井市黒崎の『天の森』が、朝倉宮の地であろうとの説は、『大和志』※1や『日本書紀通証』などで述べられている。 が立地的に見て、宮を営むのに適地ではない。保田與重郎氏※2は、この白山神社付近をその候補地とし、 雄略天皇の歌で始まる『万葉集』の発祥の地として、神社境内に記念碑を建立したものである。桜井市教育委員会」と書かれる。  ※1…=五畿内志。※2…文芸評論家、1910~1981。
 「天の森」については複数のブログに探訪記があり、それによれば図の位置である。
 『大和志』『日本書紀通証』の記述は前項の囲みで引用した通りで、そこには「黒崎の天の森」は全く出てこないので、案内板の文章は適切とは言えない。 しかし、この表現のままいくつかのサイトに拡散しているのが現状である。
《脇本遺跡発見以前》
 〈大日本地名辞書〉が成立した明治四十二年〔1909〕の時点では、脇本遺跡は未発見であった。
 桜井市立埋蔵文化財センターによると 「雄略天皇の泊瀬朝倉宮の宮殿跡とされる脇本遺跡の確認も戦前の昭和14年〔1939〕。 雑誌『磯城』に松本俊吉氏が遺物の出土を報告してから広く知られるようになったとされる」 (産経新聞ニュースサイト;2016.12.2 07:11)。
 朝倉村は、町村制〔1889〕で、黒崎村、脇本村、慈恩寺村、竜谷村、岩坂村、狛村、笠間村、安田村の地域に成立した。 村名は、磯城朝倉宮に因む復古地名だと思われる。これは、この範囲に朝倉宮の候補地があると、漠然と考えられていたためであろう。 なお、朝倉村は昭和29年〔1954〕桜井町(現桜井市)に編入されて消滅した。 現在は朝倉小学校、大和朝倉駅、朝倉台に名を残すが、大字名になっているのは江戸時代の村名である。
 〈大日本地名辞書〉が、「朝倉は蔵庫に因める号なり」と述べるのは、
●〈古語拾遺〉雄略帝が内蔵・大蔵を立て、酒公を秦氏の造(みやつこ)として財産管理を任せた (資料25)。
●〈新撰姓氏録〉「秦忌寸」:宮の横に大蔵を構えて秦氏の貢物を納めさせたので、その宮を長谷朝倉宮と呼んだ (第152回)。
 ことによる。
《都の規模》
 『帝王編年記』の「磐坂」は岩坂村にあったと考えられるが、 同村の谷は山間地で全国規模の大王の都の立地としては疑問である。
 一方、脇本遺跡は初瀬川のほとりにある。 初瀬川の下流は大和川と名前を変え、江戸時代に付け替えられる前は難波津に直結していた。 脇本遺跡の位置なら初瀬川や初瀬街道を通って、人や物の行き来も容易であっただろう。
 泊瀬朝倉宮は、都としての一定の規模はあったと想像される。 雄略朝では、金錯銘鉄剣(稲荷山古墳)鉄象嵌鉄剣(江田船山古墳)(次項)の出土により、 統治範囲は関東から北九州に及んでいたといわれ、 また宋書に「」と書かれるように中国との交流もあるので、都にはそれなりの規模が想定される。
 金錯銘鉄剣には「獲加多支鹵〔=稚武〕天皇寺在斯鬼〔=磯城〕」とあり、 「寺」〔=省庁〕が、建物群「宮」の建造物の一つであったと読める(資料27)。
 また、先に挙げた〈新撰姓氏録〉の一節「其長谷朝倉宮」は、 「地」という語により「宮」が「都」の意味でも使われたことを伺わせる。
《泊瀬・初瀬・長谷》
国道165号線;慈恩寺(大字)。初瀬川にかかる橋上から東方を見る。
 〈大日本地名辞書〉は、「泊瀬にハテの意あれば詞人特に葬所の悲壮を寓せるならん。〔=歌人は悲壮な葬りの寓話の地として詠んだだろう〕と述べる。 ハツを「」と解釈すれば、磐余・飛鳥・石上・倭など、しばしば宮が置かれた大和平野南部から、山地に分け入る地だから「果て」か。 ハツセへの枕詞「隠(こも)りくの」は、そのイメージによると思われる (第191回【第三歌】)。 人が住み着いてその入り口から開けてくると、「果て」は奥へ移動していくだろう。初めは脇本村がハツセであったが、後に初瀬村に移ったのかも知れない。〈大日本地名辞書〉は初瀬を「孤駅」と形容する。
 別の解釈としては、もともとは船が停泊した浅瀬が「つ瀬」と呼ばれたとも考え得る。
 以上から、一つの筋書きを仮定してみる。
 稚武大王がここに宮を置き、その船着き場が泊瀬と呼ばれるようになった。
 「朝倉」は、地方から訪れた使者が大王に拝謁〔=朝〕したときに、 蔵の宝物を見学させたことに由来する〔〈古語拾遺〉ではこれを「忌蔵」のこととして、伝説化する〕。 本来は「朝(をろがみまつる〔=拝〕)倉」の意味であったが、後に漢字のままに「あさくら」と読まれるようになった。
 当時は「朝倉」も「泊瀬」もまだ俗称で、金錯銘鉄剣(後述)にはまだ「泊瀬朝倉宮」とは書かれない。
 後に宮は朝倉宮と呼ばれるようになり、泊瀬はその枕詞となる。
 「泊瀬」が「終つ瀬」と解釈されるようになってから奥地に移り、そこが地名「長谷郷」となる。そして枕詞「こもりくの」がつくようになった。
 この筋書きは検証のしようもないが、 金錯銘鉄剣は「泊瀬朝倉宮」ではなく「斯鬼宮」と記す。 脇本遺跡と長谷郷の位置が一致しないこと。 枕詞「こもりくの」の由来。 という疑問に、すべて答えることができる。

【脇本遺跡】
 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』(ネット版)によると、
脇本遺跡は、 「磯城・磐余の諸宮調査会の4次にわたる発掘調査の結果、5世紀後半[B]※の掘立柱建物2棟、 6世紀後半[C]の掘立柱建物1棟、7世紀後半[D]の掘立柱建物2棟、柵列1基等が検出されている。 特に5世紀のもの[B]※は遺跡の西寄りに、南北に長い2棟が側柱をそろえ計画的に配置され、幅5.5m,長さ13m以上の大規模建物の存在が推定される」。
 ※…[A]~[D]は、以下の文中の時期を示す。
 以下、現在までの発掘情報から一部をピックアップする。
《大型建物跡―2010年》
 2010年10月に、橿原考古学研究所が6世紀後半~7世紀の大型建物跡の一部を検出したと発表した (日本経済新聞2010年10月4日付〈右図〉)。 それによると、
建物跡は東西約7.4m、南北8m以上。柱の直径は48~58cmで、 後飛鳥岡本宮の中心的な建物の柱)直径約60cm)とほぼ同じ太さだった。 柱穴は深さ0.5~1mで、楼閣などは高層建築だった可能性がある。 欽明天皇の時代(6世紀後半)[C]に建てられ、飛鳥時代以降(6世紀末~7世紀初め)に建て替えたとみられる
 という。
《宮殿・住居の複合遺跡―2012年》
 『朝日新聞』(2012年6月26日付奈良版)は、
真上から見た形に座標変換
朝日新聞 朝日新聞「橿原考古学研究所提供」
県立橿原考古学研究所によると、松菊里〔ソングンニ〕の建物跡の近くで7世紀後半の大型建物跡を確認したほか、 3~6世紀[A][B][C]の竪穴建物跡計17棟を発見。炉やカマドの遺構なども見つかり、 一般庶民が暮らす住居だった可能性が強いという。」 「脇本遺跡をめぐっては、樫考研と桜井市教委を中心に1980年代から調査を実施。」 「今回の発掘で集落は断絶せず、王宮と竪穴建物の併存の可能性が浮上したことから、 〔奈良芸術短大の前園実知雄教授は〕『権力者の住まいの近くに一般の人の生活があったのか。飛鳥以前の王宮に対する考え方の再検討が迫られる』と驚く。
 ※…朝鮮半島の前850~前550年頃の無文土器時代。
 と述べる。
 しかし、掘立柱建物は宮殿あるいは祭祀用施設、竪穴建築は庶民の住居なので、 同時期に混在することは常識的には考えられない。この解釈のためには、厳密な年代測定が求められよう。
《石積遺構―2012年》
 『脇本遺跡第18次調査 現地説明会資料』(奈良県立橿原考古学研究所、2012年9月29日、 公式ページ内「説明会・講演会資料」) に、石積遺構[B]の報告がある。
 要点を抽出すると、
石積遺構の位置
『脇本遺跡第18次調査 現地説明会資料』より
池状遺構は、南岸は検出できましたが他の岸は確認できません」。 「石積み遺構は、東西30m・高さ1.1m分を検出」し、
●「古墳時代の豪族居館に伴う濠とその内側斜面に築かれる石積み遺構に類似」するので、 「豪族居館に伴う濠の可能性」がある。
●「底面が水平で極めて広いこと、調査地に隣接する土地に『池田』という字名がのこることから、 大規模な池であり、石積遺構はその護岸であったとも」考えられる。
 「これらは出土した土器の年代から、5世紀後半に築造され、6世紀後半に廃絶し」、 「時期的には5世紀後半の造営である雄略天皇の『泊瀬朝倉宮』に関連する何らかの施設であった可能性が考えられ」る。
 と述べる。
 この遺構は、居館の堀跡というよりは、北方の発掘範囲外まで広がる池の護岸と見るのが妥当である。 ただし、その工法が濠の作り方と共通するということである。
《書記との対応》
 武烈天皇紀〔元年=己卯(499)〕[B]に 「有司壇場於泊瀬列城。陟天皇位。遂定都焉。」、 欽明天皇紀〔元年=庚申年(540)〕[C]に「都倭国磯城郡磯城嶋。仍号為磯城嶋金刺宮」とある。
 2010年10月発表の楼閣は、雄略朝より約100年後[C]の建造物である。 5世紀後半[B]には大規模な石積みで護岸された池と、幅5.5m,長さ13m以上の大規模建物が、 雄略天皇・武烈天皇の時代に対応する。
 それぞれの遺跡の時期を見ると[A]は弥生時代で、[B]が雄略天皇・武烈天皇、[C]が欽明天皇に対応する。 [D]は、書紀には天皇がこの地に宮を置いた記事が見出せないので、離宮かと想像される。 
稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣
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埼玉(さきたま)古墳群
 このように脇本遺跡は複合的に建物群の存在が実証され、そこには雄略朝の年代に宛てはまるものも含まれるから、 同じ時期に、岩坂村の谷や黒崎村の天の森に宮があったとするのは、現実的ではないだろう。 ただ、人々がそのように考えた時代があったことだけは、間違いなく言える。
 
【金錯銘鉄剣・銀象嵌大刀】
 若建天皇が生きていた頃は、「獲加多支鹵大王」と表記されていたことを示す古墳時代の鉄剣が、 稲荷山古墳(埼玉県行田市埼玉)と江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町)から出土している。
《稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣》
 「金錯銘鉄剣」は、稲荷山古墳から1968年に出土した(資料[27])。 銘文によると乎獲居(おわけ?)は先祖代々杖刀人(宮廷警護役もしくは下級官吏か)として仕えてきたが、獲加多支鹵大王の御世に至り、遂に天下を左治する臣に昇進した。 よってこの「百練(ももねり)の利(と)き刀」を作り、長らく仕えてきた「根源」(先祖)を記す。 文章は喜びにあふれ、またその栄誉を先祖に捧げている。
 恐らくは、もともとは畿内の氏族で代々朝廷に仕えていたが、何らかの功績〔若建命の天下取りを助けたのかも知れない〕により天下を左治する臣に取り立てられ、武蔵に封じられた。 蝦夷に睨みを効かせる拠点として、武蔵国は重要であったと思われる。
 後世に豊臣秀吉が家康に関東に巨大な領地を与えて敬遠したことが連想されるが、 それに似た事情だとすれば乎獲居臣は相当の力を持っていたことになる。ひとつの可能性ではある。
《江田船山古墳銀象嵌大刀》
 「銀象嵌銘鉄剣」は、江田船山古墳から1873年に出土した(資料[28])。 銀象嵌の文字があることは古くから知られ、長年にわたって解読が試みられてきた。
江田船山古墳出土銀象嵌銘鉄剣
『江田船山古墳出土―国宝銀象嵌銘大刀』(東京国立博物館編)より
 その冒頭部分には、「天下獲■■■鹵大王世。奉事典曹人。名无利弖。」とある。 全75文字からなる祈念文が、実用的な形をした刀剣の背の細いところに刻まれている。 その文中の「三寸」は理解し難いので、象嵌職人による誤りではないかと想像される。 稲荷山古墳出土鉄剣を参照して冒頭部分の欠字を補えば、「獲加多支鹵大王」であろう。
 銘文の冒頭に「治天下獲加多支鹵大王世」を掲げ、途中に「所統不失〔大王の世は不滅である〕と述べるから、 王の墳墓にこの剣を副葬した氏族は、雄略天皇に服属していたのである。
 従って、江田船山古墳(肥後国)のあたりが、雄略天皇の統治下にあったのは間違いないと思われる。
《銘文鉄剣の意義》
 ワカタケルという名前が、生存した時代から記紀の時代まで変わらずに伝えられたことが、これらの鉄剣によって実証された。 このことから、実在した大王の名前は概ねそのままで記紀に及んだと推測される。 実在しない場合も、古代の伝説上の神の名前がそのまま残っているのであろう。

【雄略朝の版図】
 武蔵国の金錯銘鉄剣と肥後国の銀象嵌銘鉄剣の出土により、雄略天皇の勢力範囲が九州北部から関東まで及んでいたことは確実である。 それでは、それまでに倭政権の版図の拡大はどのようなペースで進んできたのだろうか。
 西方については、宋書の倭の五王の記事により倭国と宋との公式の付き合いがあったということは、 使者は安全に北九州を通過することができた。 従って、少なくとも仁徳朝には北九州は倭の支配域であったはずである。恐らく邪馬台国の時代からであろう。 畿内説を仮定する。
 一方、東方については、支配域の拡張と言えば日本武尊伝説である。 その英雄譚は、雄略天皇の時点から見ても伝説の時代のことである。 そもそもヤマトタケルとは、倭政権による版図拡大という概念の人格化、もしくはその過程で現れた個別のエピソードの合成であると考えた (第134回)。
 だから日本武尊伝説から歴史的事実を読み取ることは難しいが、雄略朝から見ても霧の彼方に霞む伝説になっていること自体が、 長い時間の経過を表していると言えよう。 よって、雄略朝よりも相当遡った時期から、九州〔但し、熊襲を除く〕から関東までの支配は基本的に確立していたと思われる 〔局所的な反乱は時々起こっただろうが〕
 従って若建皇子が行った力づくの覇権の本質は、倭政権そのものによる領土の拡大ではない。 むしろ、倭政権の領土が基本的に確立した後に起った、支配層内部におけるクーデター的な権力移行であろう。

雄略天皇紀
即位前(一)
即位前(二)
即位前(三)
即位前(四)
即天皇位
元年三月
元年童女君
二年七月
二年十月
10三年
11四年二月
12四年八月十八日
13四年八月二十日
14五年二月
15五年四月
16六年
17七年七~八月
18七年是歳
19八年
20九年二月
21九年三月
22九年五月
23九年七月
24十年
25十一年
26十二年
27十三年三月
28十三年九月
29十四年正月
30十四年四月
31十五年
32十六年~十八年
33十九年~二十一年
34二十二年
  ~二十三年四月
35二十三年七月
36遺詔
37崩時
【書紀―即天皇位】
目次 《命有司設壇於泊瀬朝倉即天皇位》
有司…〈丙本・神武天皇〉「有司【津加左〃〃〃】〔つかさつかさ〕」。
…[名] 土を盛って、上面を平らにしたもの。儀式を行う。
 (古訓) ところ。〈仮名日本紀〉壇【たかみくら】
たかみくら…[名] 天皇の位。「くら」(座席)から。
物部連目…〈釈日本紀-秘訓〉物部連目【モノノヘノムラシメ】
十一月壬子朔甲子、天皇命有司設壇於泊瀬朝倉、
卽天皇位、遂定宮焉。
以平群臣眞鳥爲大臣、
以大伴連室屋、物部連目爲大連。

〔安康天皇三年〕十一月(しもつき)壬子(みづのえね)を朔(つきたち)として甲子(きのえね)〔十一日〕、天皇(すめらみこと)有司(つかさ)に命(おほ)して、壇(まつりのには、だむ)を[於]泊瀬朝倉(はつせあさくら)に設(まう)けしめて、
天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きて、遂(つひ)に宮を定めたまひき[焉]。
平群臣真鳥(へぐりのおみまとり)を以(もち)ゐて大臣(おほまへつきみ)と為(し)て、
大伴連室屋(おほとものむらじむろや)、物部連目(もののべのむらじめ)を以(もち)ゐて大連(おほむらじ)と為(し)たまふ。

《壇》
 の古訓「たかみくら(高御座)」は、平安期に確立した践祚の儀式の形を遡らせたものであろう。 「命有司設壇於~」は、もともとは漢籍に倣ったものである。
 『東観漢記』〔後漢:60~160〕「世租光武皇帝」に、そのままの表現がある。曰く。
 「-奏世祖曰『符瑞之応。昭然著聞矣。』乃命有司壇於鄗南千秋亭五成陌
 〔世祖の上奏して曰く「符瑞の応、昭然〔あきらかに〕著聞〔よく知られている〕かな。すなはち有司に命じて鄗の南の千秋亭五成陌に壇を設けしむ」〕
 符瑞…天が天子の位をその人に与えることを示す兆候(占いの結果)。 …古地名で、現在の河北省柏郷県にあった。
 即ち、光武帝(劉秀)は部下の度重なる要請に応えて遂に即位を決意し、有司たちに命じて鄗の南の「千秋亭五成陌」に践祚の儀式のための壇を設けさせた。
 書記の原文作成者は、古代中国の践祚を思い浮かべて文学的に創作したか、実際の出来事とは無関係に修辞として用いたかのどちらかであろう。
《大意》
 〔安康天皇三年〕十一月十一日、天皇(すめらみこと)は官吏に命じて、式壇を泊瀬朝倉(はつせあさくら)に設置させ、 天皇(すめらみこと)に即位し、遂に宮を定められました。
 平群臣真鳥(へぐりのおみまとり)を用いて大臣(おおまえつきみ)とし、 大伴連室屋(おおとものむらじむろや)、物部連目(もののべのむらじめ)を用いて大連(おおむらじ)となされました。


【書紀―元年三月】
目次 《妃葛城円大臣女曰韓媛》
栲幡娘姫皇女…〈甲本〉栲幡【タクハタ】
 本によって「栲幡姫皇女」も。
元年春三月庚戌朔壬子、
立草香幡梭姬皇女爲皇后。
【更名橘姬皇女。】
是月、立三妃。
元妃葛城圓大臣女曰韓媛、
生白髮武廣國押稚日本根子天皇與
稚足姬皇女【更名𣑥幡娘姬皇女】。
是皇女侍伊勢大神祠。

元年(はじめのとし)春三月(やよひ)庚戌(かのえいぬ)朔壬子(みづのえね)〔三日〕
草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのみこ)を立たして皇后(おほきさき)と為(し)たまふ。
【更に名(みな)、橘姫皇女(たちばなひめのみこ)。】
是の月、三(みはしら)の妃(きさき)を立たして、
元(はじめ)に葛城円大臣(かづらきのつぶらのおほみ)の女(むすめ)、曰はく韓媛(からひめ)を妃としたまひ、
[生]白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)与(と)
稚足姫皇女(わかたらしひめのみこ)【更に名、栲幡娘姫皇女(たくはたいらつめのみこ)】とをうみたまひき。
是(この)皇女(ひめみこ)伊勢の大神(おほみかみ)の祠(いはひ)に侍(はべ)りたまふ。

上道…〈倭名類聚抄〉{備前国・上道【加無豆美知】〔かむつみち〕}。
窪屋…〈倭名類聚抄〉{備中国・窪屋【久保也】〔くぼや〕}。
吉備上道臣…御友別一族。記では孝霊朝、書紀では応神朝に興る(応神天皇紀14)。
下文…磐城皇子、星川稚宮皇子の話が清寧天皇段にある。
春日和珥臣深目…駿河浅間大社所蔵系図によれば、孝昭天皇の皇子、天足彦押人命から数えて十代目で、別名佐都紀臣 (第105回)。
次有吉備上道臣女稚媛
【一本云、吉備窪屋臣女】
生二男、
長曰磐城皇子、
少曰星川稚宮皇子。
【見下文。】
次有春日和珥臣深目女曰童女君、
生春日大娘皇女。
【更名高橋皇女。】

次に[有]吉備上道臣(きびのかむつみちおみ)の女、稚媛(わかひめ)
【一本(あるふみ)に云ふ、吉備窪屋(くぼや)臣の女】ありて、
二(ふたはしら)の男(みこ)を生みたまひて、
長(このかみ)は磐城皇子(いはきのみこ)と曰ひて、
少(をさなき)は星川稚宮皇子(ほしかはのわかみやのみこ)と曰ふ。
【下(しもつかた)の文(ふみ)を見よ。】
次に春日和珥臣深目(かすかのわにのおみふかめ)の女、曰はく童女君(わらはきみ)有りて、
[生]春日大娘皇女(かすかのおほいらつめのみこ)
【更に名、高橋皇女(たかはしのみこ)】をうみたまふ。

《大意》
 元年三月三日、 草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのみこ)を皇后(おおきさき)に立てられました。 【更なる御名は、橘姫皇女(たちばなひめのみこ)です。】
 是の月、三妃を立てられました。
 初めに、葛城円大臣(かづらきのつぶらのおおみ)の娘、御名は韓媛(からひめ)を妃とされ、 白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)〔清寧天皇〕と、 稚足姫皇女(わかたらしひめのみこ)【更なる御名は、栲幡娘姫皇女(たくはたいらつめのみこ)です。】が生まれました。 この皇女は、伊勢の大御神の社にお仕えになりました。
 次に、吉備上道臣(きびのかむつみちおみ)の娘、稚媛(わかひめ) 【ある文献には、吉備窪屋(くぼや)臣の娘とあります。】が有り、 二柱の皇子が生まれました。 兄は磐城皇子(いはきのみこ)といい、 弟は星川稚宮皇子(ほしかはのわかみやのみこ)といます。【下文を参照。】
 次に、春日和珥臣深目(かすがのわにのおみ、ふかめ)の娘、御名は童女君(わらめのきみ)が有り、 春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ) 【更なる御名は、高橋皇女(たかはしのひめみこ)】が生まれました。


まとめ
 脇本遺跡で、「宮殿と庶民の住居が近接していた」可能性について、 「飛鳥以前の王宮に対する考え方の再検討が迫られる」と言われる意味は、 当時の意識では貴族と平民の間の敷居はそんなに高くなかったのかも知れないということであろう。
 しかし、金錯銘鉄剣を見れば「大王」と「臣」との身分差は歴然としている。 いわんや庶民をやである。 さらに雄略朝から遡ること200年、魏志倭人伝には「大人所敬但摶手以当跪〔貴人に会うときは摶手〔手を打ち〕・跪拝〔ひざまづいて拝礼〕すべし〕とある。
 このような精神世界において、伊勢神宮の神殿のような建物のすぐ隣に、竪穴式住居で庶民が粗末な生活をする風景は理解しがたい。 同時期に遺跡に宮殿と住居が接しているように見えた点は、なお慎重に分析すべきであろう。
 さて、金錯銘鉄剣・銀象嵌銘鉄剣の出土もあるが、記でも雄略天皇の武力による政権奪取をあからさまに書くのは、文字による記録が諸族に残る時代になり、もう隠し切れないのであろう。 初期天皇の時代は、本来の継承者が天皇位を譲る過程は道徳的に描かれた。 それでも、武力による争いがなかったはずはないが、口伝ならば上書きもできたのだろう。
 体系的な漢字の到来については、記では和邇吉師が論語十巻などを持参し、文首(ふみとのおびと)の祖となった。書紀では王仁(わに)が来たことに相当し、乙巳年〔事実上405年〕のことである。 『百済本紀』には、近肖古王三十年〔乙亥;375〕に文字が伝わったと書かれ、百済でも同様の現象があった (第152回)。
 雄略朝の頃に文字による記録が湧き出したとすれば、 実際に5世紀初めころに体系的な漢字の移入があったのかも知れない。 万葉集が雄略天皇が詠んだ歌から始まるのは、文字による記録がその時代に始まったということであろうか。
 先に述べたように日本武尊の伝説が霧の向こうに霞んで見えるのは、まだ口承だったからかも知れない。



2018.05.15(tue) [199] 下つ巻(雄略天皇2) 

初大后坐日下之時 自日下之直越道幸行河內
爾登山上望國內者 有上堅魚作舍屋之家
天皇令問其家云
其上堅魚作舍者誰家
答白
志幾之大縣主家

初(はじめ)大后(おほきさき)日下(くさか)に坐(ましま)しし[之]時、日下之(の)直越道(ただこえのみち)自(ゆ)河内(かふち)に幸行(いでま)しき。
爾(ここに)山の上(へ)に登りて国内(くぬち)を望みたまへ者(ば)、堅魚(かつを)を上げて舎屋(やかす)を作りし[之]家(いへ)有り。
天皇(すめらみこと)[令]其の家を問はしめて云(いはく)
「其の堅魚(かつを)を上げて作りし舎(やかす)者(は)誰(たが)家(いへ)そ。」ととはしめて、
答(こた)へて白(まをししく)
「志幾(しき)之(の)大県主(おほあがたぬし)の家(いへ)にありまつる。」とまをしき。


爾天皇詔者
奴乎 己家似天皇之御舍而造
卽遣人令燒其家之時其大縣主懼畏
稽首白
奴有者 隨奴不覺而過作甚畏
故獻能美之御幣物【能美二字以音】
布縶白犬著鈴而
己族名謂腰佩人令取犬繩以獻上

爾(ここに)天皇詔(のたま)へる者(は)
「奴(やつこ)乎(や)、己(おのが)家(いへ)を天皇之(の)御舎(みあらか)に似(なら)ひて[而]造りしとや。」とのたまへりて、 即(すなは)ち人を遣(つかは)して其の家を焼や令(し)めし[之]時、其の大県主懼畏(おぢおそ)りて、 稽首(をろがみて、けいしゆして)白(まをさく) 「奴(やつかれ)有者(あるは)奴の不覚(おもはざ)る隨(まにま)にして[而]過(あやま)りて作りしこと甚(はなはだ)畏(かしこ)し。 故(かれ)能美(のみ)之(の)御幣(みまひ)物(もの)【能美の二字(ふたじ)音(こゑ)を以(もちゐ)る】を献(たてまつ)らむ。」とまをして、 白(しろ)き犬(いぬ)を布(ぬの)縶(つな)ぎて鈴を著(つ)けて[而]、 己(おのが)族(うがら)、名は腰佩(こしはき)と[謂]ふ人に、犬の縄(なは)を取ら令めて以ちて献上(たてまつ)りき。


 以前、皇后(おおきさき)が日下(くさか)にいらっしゃった時、天皇は日下の直越道(ただこえのみち)を通って河内(かわち)にお出かけになりました。
 その時、山の上に登って国内を見渡すと、堅魚木(かつおぎ)を上げて家屋を作った家がありました。
 天皇は、その家について 「あの堅魚木を上げて作った家屋は、誰の家か。」と質問させたところ、 答は、 「志幾(しき)の大県主(おおあがたぬし)の家でございます。」でした。
 すると天皇は 「こ奴め、自分の家を天皇の宮殿に似せて造りやがって。」と仰り、 人を遣わしてその家を焼けと命じられました。
 大県主は恐れおののき、 稽首〔けいしゅ、=平伏〕して申し上げるに、 「私めが、あるいは思わざるままに過ちを犯して作ってしまったかも知れず、これはまことに恐れ多いことでございます。 つきましては、お詫びのしるしに贈り物を献上いたします。」と申しあげ、 白い犬に布を繋いで鈴を着け、 自分の一族の名前を腰佩(こしはき)という人に、犬の紐を取らせて献上しました。


かつを(堅魚)…[名] 神殿や宮殿の上に棟と直角に並べた木。
…(古訓) すむ。やとる。
舎屋…いえや、休み処。
やかす(舎屋)…[名] 住居。
やつこ…[名] ひとやものをいやしみ罵っていう語。 「(万)3816 戀乃奴之 束見懸而 こひのやつこの つかみかかりて」(第112回【鉤穴】)。
…(古訓) にたり。ことし。ならふ。
…(古訓) おつ。おそる。おののく。
稽首(けいしゅ)…頭を地に近づけて、しばらくとどめ、敬礼する、頓首と共に、中国で最も重い礼。
のみ…[名] 罪を謝し、こい願うこと。
まひ(幣)…[名] 捧げ贈るもの。神に捧げたり、謝礼の為に人に送ったりする。
…[動] つなぐ。(古訓) しはる。つなく。ゆふ。
布縶…接合して「ぬの-つなぐ」という動詞熟語になっていると考えられる。
白犬…〈時代別上代〉の見出し語には「しらいぬ」も「しろいぬ」もない。「白-犬」が連語化していたか否かは不明である。

【日下】
 かつて神武天皇が生駒山を越えようとしたときに、長髄彦(ながすねひこ)が立ちふさがって孔舎衛坂で激戦を繰り広げた (第96回【書紀―中五瀬命の負傷】 )。
 〈角川地名大辞典〉によれば、日下は「生駒山地西麓の扇状地上に位置する」。 その地は河内国河内郡に属するが、〈倭名類聚抄〉{川内県・河内郡}には「日下(草香、孔舍衞)郷」は載らない。 〈五畿内志〉の「川内郡」には「【村里】日下クサカ【属邑三】善根寺」、 善根寺村の由来については、「【古蹟】善根廃寺【善根寺村】」が見られる。 町村制(1889)で日下村、善根寺村、布市村の地域が日根市村となり、〈大日本地名辞書〉の時点では「日根市(ヒネイチ)村大字日下」となっている。
《日下の楯津》
 神武紀の激戦地「孔舎衛坂」は、記では「楯津。今には日下之蓼津と云ふ」と書かれる (第96回〈12〉)。
 現代の正式な地名には「盾津」はない。 かつては〈五畿内志-若江郡〉の 横枕本荘箕輪中野新荘加納三島新田鴻ノ池新田、 〈五畿内志-河内郡〉の中新開吉原今米等が町村制(1889)で西六郷村・北江村・東六郷村になり、 さらにこの三村が1931年に合併して盾津村となった。その後1943年に町制施行、1955年に合併で河内市になって消滅した。 従って、盾津は記の「楯津」によって名付けられたと見られる。

【直越道】
《"直"の訓み》
 「直」を「ただ」と訓むのは、 (万)3627 可良久尓〃 和多理由加武等 多太牟可布 からくにに わたりゆかむと ただむかふ。 (万)0946 淡路乃嶋二  あはぢのしまはに ただむかふ。の二首によって明白である。 万葉集に、「(ただ)」は大変多い。
《直越道を詠んだ歌》
 万葉集に、神社老麻呂(かむこそのおゆまろ)が詠んだ二首がある。
(万)0976 〔題詞〕 五年癸酉〔天平五年=733〕草香山時神社忌寸老麻呂作歌二首。
(万)0976 難波方 潮干乃奈凝 委曲見 在家妹之 待将問多米 なにはがた しほひのなごり よくみてむ いへなるいもが まちとはむため
(万)0977 直超乃 此徑尓弖師 押照哉 難波乃海跡 名附家良思蒙 ただこえの このみちにてし おしてるや なにはのうみと なづけけらしも
 第一歌の「なごり」とは、干潮時に残る潮だまり。 奈良時代は、難波宮のある上町台地の近くに大阪湾が迫っており、その辺りを難波潟と言った。
 生駒山系から撮影した写真()を見ると、大阪湾をはさんで更には対岸の六甲山地まで見える。 従って、この二首は老麻呂が直越道に立ち、遠くに見える難波潟・難波の海を眺めて詠んだものと見られる。
 「直(ただ)越(ごえ)」という語からは、大和平野と難波の間を遠回りせずに、 最短距離で結ぶが、険しい山地であるという意味が感じられる。 「日下之」から、この道は日下にあった。 難波宮方面に向かって式上郡よりも北の位置から出発する場合は、このコースの方が龍田道経由よりも近い。
 直越道の正確な位置は、〈角川地名大辞典〉によると、 「主峰〔生駒山〕南鞍部の暗〔くらがり〕峠越えと主峰北部の善根寺越えとの二説がある」という。
《善根寺越え説》
 〈大日本地名辞書〉は、 「草香山は生駒山に同じ、其〔その〕北尾〔=北の尾根〕を云ふ。 日根市村大字善根寺(ゼンコンジ)より登路あり、即古〔いにしへ〕の孔舎衛坂にして、 又直越と称したり」と言うように善根寺越え説により、また神武天皇紀の「孔舎衛坂」と同一視している。
 善根寺越えは、『新ハイキング別冊 関西の山』(1996年5月)掲載論文「日下の直越」(柴田昭彦)によれば、 全くの登山道である。 同論文の説明図にあるコースを、国土地理院地図に記入した(図)。 その途中に「神武天皇聖蹟孔舍衛坂顯彰碑」が建てられている (北緯34度41分49.0秒・東経135度39分31.7秒)。 従って、昭和16年〔1941〕の顕彰運動でも孔舎衛坂を善根寺越え道と同一視している。
《暗峠越え説》
 暗峠(くらがりとおげ)は江戸時代には参勤交代や伊勢詣でに賑わい、旅籠もあったという。 この道は奈良街道の一つで現在は国道308号線となっているが、その急勾配が国道愛好家には有名である。 『ふしぎな国道』(佐藤健太郎、講談社現代文庫2014)によると、 大阪側の「勾配は31%に及」び、「パワーのない車では登り切れない可能性が高い」という。
ja.wikipedia.org"
 それでも、案内板なしでは迷ってしまうような山道に比べれば、 こちらの方がよほど街道として機能としたと思われる。 恐らく古代から物流路であったと考えられる。 思うに「善根寺越え」は、日下という地域を狭く捉えた結果ではないだろうか。
 現在の盾津(旧盾津村)は復古地名で神武記の蓼津であった根拠はないのだが、 クサカは記紀に度々登場し、また「草香江」もあるから広く知られた地名で、 現在の盾津の辺りまで含まれていたと考えても無理はないだろう。
 そして、物語に出てくるのは広く知られ街道の方が、読む人の共感を得やすいと思われる。 それならあまり人も通りそうにない急峻な登山道よりも、街道として確立していた暗峠の方が現実味がある。

【志幾之大県主】
 直越道の近くにあるシキには、大和国の式上郡式下郡河内国志紀郡がある。
善根寺越え・暗峠越えそれぞれの、大県村への視線を直線で示す。曲線は地形の断面。 どちらも視線は地形の凹凸によって遮られる。 暗峠越えは、少し南の山の上から見た。
《河内国志紀郡》
 河内国志紀郡は、現在の藤井寺市・柏原市の辺りである。 その東隣に「大県郡」があり、江戸時代にはその西部に「大県村」があり、現在は大阪府柏原市大県(大字)となっている。 「大県郡」は、その中に存在した「大県村」が郡名に転じたものであろう。
 大県主=「大県(地域名)の主」にようにも見えるが、実際に広く存在した語は「県主」で、字の切れ目が異なる。 大県村の首長なら、「大県村主」(おほあがたのすぐり)となる。 直越道から見た大県村は生駒山地の稜線の方向にあり、見通せる位置ではないから(右図)、 「直越道に立って大県村を見た」のは事実としては成立しない。
《志幾県》
 一方、大和国の志幾については、〈延喜式〉祝詞に、六御県の一つとして「志貴県〔しきのあがた〕が挙げられていた (第195回)。 このように、律令前の行政区域としての「志貴県」の存在は実証されている。したがって、「志幾之大県主」とはその県主の美称だと見るのが妥当であろう。
 志貴県は、もともと大和川(初瀬川)の流域沿いに開けた地域であろうと思われる。
 初瀬朝倉宮から日下までは、初瀬川⇒大和川⇒龍田川⇒直越道⇒日下のコースが考えられ、 経由した志貴県に因んで「志幾之大県主」が登場したものと見られる。
《大県主の出自》
 物部氏は石上神宮を本拠として安康天皇を押し立て、雄略天皇もその後継と認めて支援したと推定される。 朝倉宮を置いた志幾県も物部氏の勢力圏かと思われるから、大県主はその族の一人か。 そもそも堅魚木を上げた家が身分不相応だと責められたのだから、県主は地方行政官ではあるが官(つかさ)としての格は低かったのだろう。

堅魚木
伊勢神宮内宮-倭姫宮
家形埴輪
赤堀茶臼山古墳-5世紀中頃(東京国立博物館);ja.wikipedia.org
【堅魚木のある家】
 堅魚木(かつおぎ)は、現在は神社に用いられているが、 古くは住居にもあり、堅魚木のついた家形古墳が出土している。
 この段の天皇の言葉から、飛鳥時代には「かつて、堅魚木は天皇クラスの人が住む家の権威の象徴であった」と考えられていたことが分かる。
 脇本遺跡(前回)には庶民の竪穴式住居跡と掘立柱建物の宮殿跡が混在していたが、掘立柱建物には堅魚木があっただろうと想像される。
《堅魚木を目視できたか》
 さて、雄略天皇は直越道から国見して、堅魚木を上げた家を見つけたことになっている。 前項の考察から「志幾の大県主の家」は、式上郡または式下郡のどこかにあったとする。
 それでは、磯城郡にある家の堅魚木を見分けることは可能だったのだろうか。
 まず、ヒトの目はどの程度細かいものまで見ることができるかを調べる。 同じ方向に見える2点A,Bは、AB間の距離がある程度短かくなると一つの点にまとまって見える。
視覚が小さくなると、A・Bが一つの点に見える。 二点に分離して見える最小の視角を角分解能という。
 近接した2点が分離して見える限界の距離を分解能という。 完全にピントが合えば、その限界は網膜上の視細胞の密度で決まる。 二点が分離して見える最小の視角を角分解能と言い、 ヒトの目の場合、概ねα=0.0002ラジアン(radian)〔約0.046°〕と見られる。 その値はごく大雑把なものだが、その求め方を 資料[29]に示した。
 角分解能をα(単位ラジアン)とすると、目からの距離Dにある二点の分解能はαDである。例えば、眼から1m先にある2つの点は、点と点の間隔が約0.2mmよりも短いとき1つの点になって見えることになる。
 直越道から式上郡・式下郡までは大体15km程度で、その場合の分解能は0.0002×15000m=3m程度となる。 例えば、右の図の邸宅の大きさが12m×12mだとすると、網膜上の4×4程度の画素の範囲に投影されることになる。 もし、あなたが見ているの実サイズが1mm×1mmならば、 これを1.25mの距離から見ることに相当する。 このとき視細胞が出した信号による像は、図の「の拡大」のようになる。
 これでは堅魚木の有無までは、見分けられない。
 もしこの話が実話に基づくものであれば、本当はもう少し近い距離から見たもので、伝説ではその舞台を移動したことになる。 さもなければ、全く頭の中で作り出した話であろう。

【有者隨奴不覚而】
 「あるは」の意味は「①ときには。②"あるはA、あるはB"の構文で2つの事項を対置。」である。 ここでは、自分が犯したよからぬ行動について、「有者隨奴不覚而」=「あるいは、知らないままに~してしまったかも知れません」と言い訳をする。 つまり「あるは」は現在の「あるいは~」と同じで「事によると」の意味であろう。 これだけを見ると無責任な物言いに思われるが、行ったことは自分の本意ではないと言い訳をしてお詫びの品を献上するのは、事を丸く収める便法である。 上位の者はむしろ相手がおどおどして「本意でない」と取り繕う様子を見ることにより、相互の力関係を確認して満足するのである。
 
【腰佩】
 万葉集に「(万)0478 劔刀 腰尓取佩 つるぎたち こしにとりはき。」があるので、腰佩は「こしはき」と訓むと思われる。 白犬を引く紐を腰に繋いでいたから、名前が「腰佩き」になったのかも知れない。 記で登場人物に、物語の場面に因んだ名前が付くことは珍しくない。 あるいは、同じ話を「白き犬に鈴をつけ、こしはきして」と語る語り部もいたかも知れない。

まとめ
 もしこれに近い実話があったとすれば、堅魚木の家は実際には通りすがりに発見され、それが国見の話と合成されたのかも知れない。 記の上巻においては、多用な話がたくみにひとつの筋に綴り合わされたが、ここでも同じようにされた気配がある。
 書紀にはこの話はないが、罰として家を燃やすことと、池津媛らを火刑に処したことの間にやや類似性が見える。
 さて、ここでは「自分の家を天皇の宮殿に似せやがって」と難癖をつけ、直ちに燃やせと無体な命令する。 ここにも、人のやることなすことが自分への敵対行動に見える「師(いくさ)の心」があり、 書紀でいう「大悪天皇」の逸話の一つであろう (雄略紀二年十月条)。
 ただ、見方を変えれば雄略朝が諸族の地方権力化を抑え、中央集権的な政治体制を志向する時代であったことを反映するものとも言える。



2018.05.21(mon) [200] 下つ巻(雄略天皇3) 

故 令止其著火
卽幸行其若日下部王之許賜入其犬
令詔
是物者今日得道之奇物
故 都摩杼比【此四字以音】之物
云而賜入也

故(かれ)、其の火を著(つ)けむことを止(や)ま令(し)めたまひき。
即ち其の若日下部王(わかくさかべのみこ)之(の)許(もと)に幸(いでま)し行(ゆ)きて、其の犬を賜(たま)ひ入れたまひて、
詔(おほせごと)いは令めていはく
「是物(このもの)者(は)今日(けふ)道にて得たまひし[之]奇(くす)し物(もの)
故(ゆゑ)、都摩杼比(つまとひ)【此の四字(よじ)音(こゑ)を以(もちゐ)る】之(の)物(もの)なり」
と云(い)はしめて[而]賜ひ入れたまひき[也]。


於是若日下部王令奏天皇
背日幸行之事甚恐 故己直參上而仕奉
是以 還上坐於宮之時行立其山之坂上
歌曰

於是(ここに)若日下部王天皇(すめらみこと)に奏(まを)さ令めてまをさく
「日を背(せお)ひて幸行(いでま)しし[之]事甚(はなはだ)恐(かしこ)し。故(かれ)己(おのれ)こそ直(ひた)参上(まゐのぼ)りて[而]仕へ奉(まつ)らむ。」とまをさしめき。
是(こ)を以ちて〔天皇の〕 [於]宮に還(かへ)り上り坐(ま)しし[之]時、其の山之(の)坂上(さかのへ)に行(ゆ)き立たして、
歌曰(みうたよみまつらく)


久佐加辨能 許知能夜麻登 多々美許母
幣具理能夜麻能 許知碁知能 夜麻能賀比爾
多知邪加由流 波毘呂久麻加斯 母登爾波
伊久美陀氣淤斐 須惠幣爾波 多斯美陀氣淤斐
伊久美陀氣 伊久美泥受 多斯美陀氣
多斯爾波韋泥受 能知母久美泥牟 曾能淤母比豆麻
阿波禮

久佐加弁能(くさかへの) 許知能夜麻登(こちのやまと) 多々美許母(たたみこも)
幣具理能夜麻能(へぐりのやまの) 許知碁知能(こちごちの) 夜麻能賀比爾(やまのかひに)
多知邪加由流(たちさかゆる) 波毘呂久麻加斯(はびろくまかし) 母登爾波(もとには)
伊久美陀気淤斐(いくみだけおひ) 須恵幣爾波(すゑへには) 多斯美陀気淤斐(たしみだけおひ)
伊久美陀気(いくみだけ) 伊久美泥受(いくみねず) 多斯美陀気(たしみだけ)
多斯爾波韋泥受(たしにはゐねず) 能知母久美泥牟(のちもくみねむ) 曽能淤母比豆麻(そのおもひづま)
阿波礼(あはれ)


卽令持此歌而返使也


即ち此の歌を持た令めて[而]返(かへ)り使(つかひ)をつかはしまつりき[也]。


 よって、その火を付けることを止めさせました。 そしてその若日下部王(わかくさかべのみこ)の許に行かれ、その犬を賜り、 詔を伝えさせ、 「これは、今日来る道で得た霊妙なものでございます 故に、妻問いの物といたします。」 と言って、賜りました。
 そこで若日下部王は天皇に奏上して、 「日を背にしていらっしゃったことは大変恐れ多いことです。本来は私の方から参上すべきで、そのようにしてお仕え申しあげます。」と申しました。
 こうして、天皇が都に帰り上られました時、その山の坂のに行って立ち、 御歌をお詠みしました。
――日下辺(へ)の 此方(こち)の山と 畳薦(たたみこも) 平群の山の 此方(こち)ごちの 山の峡(かひ)に 立ち栄ゆる 葉広熊樫 本には い組み竹生(お)ひ 末方(すゑへ)には た繁(しみ)竹生ひ い組み竹 い組み宿(ね)ず た繁竹 確には率宿(ゐね)ず 後も組み宿む 其の思ひ妻 憐れ
 そして返使に、この歌を持たせて遣わしました。


…(古訓) せなか。うしろ。そく。そむく。
ひた…[副] 直接。一方的に。純粋に。
こち…[代] こちら。
たたみこも…[枕] 幾重にも重なる意味で、へ(重)の音を有する語にかかる。また、「重(かさ)ぬ」にもかかる。
へぐり(平群)…〈倭名類聚抄〉{大和国・平群【倍久里】郡}。
平群山…〈大和志-平群郡〉平群山【平群ヘクリ谷上方数峯平齊成群因名】〔平群谷上方の数峯、揃って群れなすことによる名〕
こちごち…[代] あちこち。 (万)0210 槻木之 己知碁知乃枝之 春葉之 つきのきの こちごちのえの はるのはの
やまのかひ…〈倭名類聚抄〉:山間陜処也。咸夾反。俗云【山乃加比】 〔山間のせまい処なり。発音キョウ。俗に「山のかひ」と云う〕
くまかし…「幣具理能夜麻能久麻加志賀波袁〔平群の山の熊樫皮を〕(第133回)。 倭建命が故郷に思いを馳せて詠んだ歌で、文脈では平群とは直接の関係はない。
くむ…[自]マ四 組む。からむ。〈時代別上代〉〔この歌謡の〕クミを隠(コモ)リの意とする説もある。
いくみだけ…[名] 竹へのほめ言葉。「い-」は接頭辞。
しみに…[副] 繁く。(万)3902 烏梅乃花 美夜万等之美尓 安里登母也 うめのはな みやまとしみに ありともや〔梅の花深山と繁に有りともや〕
たしみ…[副] 十分に。
ゐぬ(率宿)…[自]ナ下二 連れだって共に寝る。
かへる…連用形「かへり」は、かへり-いずかへり-きたるかへり-ごとまをす(返言申)などさまざまな連語を作る。

【真福寺本】
 「久佐加弁」の「」が「」になっている。「又」はほとんど音仮名に使わず、「くさかへ」は十分妥当なので、「久」の誤記である。
 「淤母比豆麻」の「」が「」になっている。「登」が「ツ」に使われることはなく、「思ひ妻」(または、思ひ夫)も妥当なので、「登」は誤記であろう。

【歌意】
日下辺の 此方こちの山と 畳薦 平群の山の 此方ごちの 山のかひに 立ちさかゆる 葉広熊樫 本には い組み竹生ひ 末には たしみ竹生ひ い組み竹 い組み宿ず たしみ竹 確には宿ず 後も組み宿む 其の思ひ妻 憐れ
〔日下の方のこの山、平群のあちこちの山、その谷間に茂り栄える葉広の立派な樫の 根元にいくみ竹、梢にたしみ竹が見えます。 その竹のように共に寝ることは今はできませんが、 後には組み寝ようと思う妻がいます。その妻の姿は感慨深いものですわ。〕
《行-立其山之坂上
 「其山之坂上」は、直越道を指すと思われる。雄略天皇が帰った後、峠に登って歌を詠み、 詠んだ歌を使者に届けさせる。
《平群山》
 歌は、日下の山と平群の山々にはさまれた谷を「山の峡」として、その景色を詠んでいる。 従って、「平群の山」は現在の矢田丘陵で、「山の峡」は平群谷を指すと思われる。
 「こちごち」という語から、「平群の山」とは特定の山ではなく山並みを指すと見られる。 これは、五畿内志の「数峰平斉成」という表現と合致する。 地形図を見ると、200mほどの山がいくつか並び、南の方の山頂には椿井城跡がある。個々の山に名前はついていないようである。
※…『平群の山(矢田丘陵)における松茸利用の歴史』 (村社仁史・種坂英次;近畿大学農学部紀要 第46号/2013)には「矢田丘陵一帯を平群山とするのが一般的な解釈である」とある。
《たしみ竹》
 たしみは、副詞「しみに(繁に)」の「しみ」に接頭辞「た-」がつき、「よく茂った」意味とするのが、一般的な解釈である。 万葉には、「しみ」から派生したと見られる「しみみ」もいくつかある。(万)2529 家人者 路毛四美三荷 雖徃来 いへびとは みちもしみみに かよへども。など。
 しかし、この語を受けた「たしに」と意味が結びつかないこと、接頭辞「た-」を伴った例がこの歌以外に見えないところに、なお疑問が残る。 「たしに」(十分に、ていねいに)「たしけし」(十分ある)に近い意味の動詞「たしむ」が存在したと考えた方が、よいのかも知れない。 

【平群谷】
 平群郡周辺 (平群町域 同中心部)
平群谷
生駒山麓 平群谷 矢田丘陵 奈良盆地 笠置山地  生駒山 信貴山




緑囲みの村名は、〈大和志〉にいう「平群谷」。薄い緑で囲んだ範囲。

 〈第日本地名辞書〉は、 「平群谷:今明治メイチ村と改む、福貴フキ外十九の大字あり、 生駒川の両崖山丘の間に散在す、西南隅を信貴山シキサンと為す。」 などと述べる。
《明治村》
 明治22年〔1889〕の町村制施行により、以下20村が明治村になった。
西向村。櫟原村。椣原村。上庄村。梨本村。吉新村。 三里村。白石畑村。平等寺村。下垣内村。鳴川村。 福貴村。福貴畑村。久安寺村。信貴畑村。 椹原村。越木塚村。若井村。西宮村。椿井村。
 これらの村名は、すべて大字として残っている。明治村の村域は現在の平群町にほぼ一致する。
《大和志》
 〈大和志〉(『五畿内志』)-巻十四「平群郡」から抜粋する。
【郷名】平群ヘグリ【今曰平群谷】。
【村里】〔2村省略〕信貴畑シキバタ【属邑三】。 久安寺。〔30村省略〕シラ石畑。椿井ツバヰ〔1村省略〕福貴フキ畑【属邑六】。梨本【属邑一】。 倎原シデハラ。中宮。平等寺。安明寺。吉田。新家。上荘。 西宮。下垣内カイト。越木塚【越一作甑】〔あるに甑に作る〕。 若井【旧名西方寺属邑一】。福貴フキ【属邑ニ】。西向【属邑三】。 椿木ツバキ櫟原イチハラ。鳴川。 椹原フシハラ【中宮已下〔=以下〕呼曰平群谷】。〔以下略〕
 このように、〈大和志〉には、中宮村以下椹原村までの15村を「平群谷と呼ぶ」とある。 これら15村のうち、中宮・安明寺・吉田・新家・椿木の五村は、町村制直前の村名にはない。 逆に、町村制直前20村のうち、吉新村・三里村は〈五畿内志〉にない。
 吉田・新家は『大和志』〔1734〕から町村制〔1889〕までの間に合併して「吉新村」になったと思われる。 また安明寺村は大字には見えないが、 安明寺(奈良県生駒郡平群町大字三里554)があるから、三里村に改名されたのかも知れない。 中宮村、椿木村については、不明である。
 〈五畿内志〉にいう「平群谷」15村の辺りが、歌に詠まれた「山の峡」だろうと思われる。
《平群都久宿祢》
 記によれば「孝元天皇―比古布都押之信命―建内宿祢―平群都久宿祢(平群木菟宿祢)」とされ、 応神天皇紀では、百済・新羅に派遣した (第108回応神天皇十六年)。 平群臣真鳥(まとり)は、雄略天皇のとき大連(雄略天皇即位)、 清寧天皇のときに大臣になるが、武烈天皇即位前に殺された。
 その後、用明紀には平群臣神手、推古紀には平群臣宇志の名が見える。 さらに天武朝になると、平群臣子首が「帝紀及上古諸事記定メンバー十二人の一人に指名され、 また八色の姓制定に伴い朝臣となる。
※…日本書紀に繋がるものと考えられている。
 また、〈大和志〉【氏族】に「馬工連【平群木兎ツク宿祢之後】」とあり、 これは〈新撰姓氏録〉『皇別/馬工連/平群朝臣同祖。平群木兎宿祢之後也。』によると見られる。
《平群谷古墳群》
 平群町公式内の 『ふるさとへぐり再発見5』によると、 「現在、平群谷には六十基余りの古墳が知られており」 「五世紀の後半か七世紀で大部分円墳」で「前方後円墳や方墳も存在」するが、 「古事記や日本書紀に書かれている平群氏の木莵・真鳥・鮪などが大臣として優勢だった時期は五世紀代を中心としており、町内の古墳合わない」という。
 その後、書紀に「平群神手(みわて)が聖徳太子の物部守屋征伐に参加し、平群寺(平隆寺)を創建した」と書かれ、この時期に再び現れたことについて、 一族は5世紀は平群谷の外で展開し、衰退して平群谷に引きこもった。 奈良時代に平群宇志〔ママ〕が日本書紀の編纂に加わっていることから、5世紀の記述はこの時に書き加えた。」 の2説を紹介している。
 仮にであったとしても、平群臣の中に言い伝えられてきたことを素材にしたのではないだろうか。 しかし、古い古墳はないから、その言い伝え自体が時代を古い方に引き延ばしたものかも知れない。 あるいは、竹内宿祢を祖とするということは、葛城の諸族のひとつが移ってきたことも考え得る。

【令止】
 「やむ」には四段活用と下二段活用がある。このように二つの活用をもつ動詞においては、四段=自動詞、下二段=他動詞が標準であるが、「やむ」はどちらの活用も自動詞・他動詞の両方に使われる。 助動詞「しむ」には未然形から接続するから、令止は、「やましむ」「やめしむ」の両方があり得ることになる。
 「しむ」については、そもそも天皇としての行為はすべてお付きの者を通して行うから「」と「せしむ」は事実上同義である。 平安時代に「しむ」が尊敬に転じたのもそれ故であろう。 ここの「」も既に尊敬に転じつつあるかも知れず、よって平安期の二重敬語「しめたまふ」を先取りして「やましめたまふ」と訓んでもそれほど問題はないかも知れない。

【賜入】
 ここのは、実際に物品を下賜しているから、「賜入」〔いれたまふ;賜は尊敬の補助動詞〕ではない。 「たまひ-いる」という連語は他には見ないものだが、「与える+納めさせる」の意味でこれを用いても差し支えないと思われる。 さらに暗黙の尊敬の補助動詞を加えて「たまひいれ-たまふ」と訓むことも可能と思われる。

【令詔「…」云】
 「令詔」だけを見ると「詔を告げる」とも解釈できるが、〈続日本紀〉でも「令詔」の表現は皆無である。 ここでは若日下部王の側も「令奏」「令持」を使うから、「令」は「しむ」であろう。
《令詔》
 以前、履中天皇段で「令詔」が用いられた(第178回)。 そこでは、履中天皇が水歯別命の謁見を拒否した場面の文だったから使役文〔人をして詔を云はしめる〕であることは明らかであった。
 しかし、ここは特に人を通してお言葉を伝えさせる必要はない。 仮にお付きの者に言わせたとしても、それを殊更に強調する場面でもない。
《尊敬への転化》
 この段の「」は前述したように、使役の助動詞が尊敬に移行する中間的な性格をもつ。 ここでは「云」を尊敬語に置き換えただけの「詔」から「令詔」を区別して、「みことのり」としての格式ばった物言いを際立たせている可能性がある。
《引用の閉じ》
 「云」を詔文を囲む引用符の役割だとすると、本来の「詔云~云」の形から、閉じる方の「云」を残したと見ることができる。
 上代語では、「いはく~といふ」と「前後から引用句を包む形となることが多い」〈時代別上代〉 (第111回)。 出雲風土記は「詔~詔」の形を用いて、 「詔」に引用符の機能までも持たせた。 宣命体では、「〔~と詔〕など、閉じを明示する。 対照的に書紀は前の「」のみで、後の「曰」は書かない。 正格漢文では、「曰」を2つ使う書き方はあり得ないからである。 執筆の時点で、「暗黙の閉じの"曰"」がどの程度意識されていたかは分からないが、成立後の早い時期から付け加えて訓読されたのは明らかである。 記も「閉じの詔・白・曰・言・云」を書かないルールかも知れないが、時に明示したと思われる例がある。ここもそのひとつであろう。

【是物者…都摩杼比之物】
 ここには動詞がないので、体言止めに見える。 しかし、漢籍の「」は繋辞〔英語のⅰs〕としても使われ、「是」が文の最後まで包み込んで「~なり」をつけた訓読を促している。

【背日幸行之事甚恐】
 神武天皇段(第96回)に、 「吾者為日神之御子日而戦不良故負賤奴之痛手。自今者行廻而背-負日以撃〔我は日の神の皇子だから、日に向かって戦うのはよくない。だから敵から痛手を負った。 これから、回り込んで日を背負って攻めよう〕 という神武天皇の言葉がある。この「日」は暗黙の裡に、朝の太陽=東を指す。 
 若日下部王の語る「背日幸行之事甚恐」は、神武天皇の言葉を念頭に置いたものと思われる。 そしてここでは、幸行を「日の神の威光を背負ってお越しになった」と表現して美化したと見るのが順当であろう。 そして、「そのように有り難い天皇の行幸をお受けするのは、私のような者には勿体のうございます」と恐縮するのである。

【若日下部王】
 安康天皇段では、 安康天皇が使者根臣を大日下王の許に派遣し、 雄略天皇のために妹の若日下王を貰い受ける話になっている (第192回)。 そのとき、根臣の讒言によって大日下王は殺された。 書紀ではその直後に、幡梭皇女〔=若日下王〕を大泊瀬皇子〔=雄略天皇〕に娶せたから、 雄略天皇自らが妻問いに訪れるという話は成立し得ない。 だから、書紀はこの話を省いたのであろう。
 記では大日下王を殺したときに若日下王を娶ったとは書いていないから、 若日下王がその後ずっと一人で日下の自宅に住んでいたことにすれば、 辛うじて辻褄を合わせることはできる。

まとめ
 「令詔」という表現は、履中天皇段にもあったが、前述したようにそこでは明白な必然性があった。 ここでは、実質的に直接話すときにもお付きの者に伝達させる形をとっており、飛鳥~奈良時代の現実のしきたりが持ち込まれたように思われる。 上巻・中巻で神話や伝説を描いたときからは、随分趣が変わってきている。
 さて、大長谷王子に若日下王を娶せる件は、記においても安康段で一応決着がついたと読むのが順当であろう。 だととすれば、結納の品(白犬)を持って求婚に訪れたこの場面は本筋との整合が取れず、 事実上別説の併記になっている。 「令詔」の書法の件と併せて考えると、古事記の原型に外から異質な話が持ち込まれたようにも見える。
 だとすれば、後世の何者かによる加筆の可能性は?ということにもなるが、それによって利益を得る氏族があるような話でもないから考えにくい。 あくまで憶測であるが、雄略天皇は巨大な存在として記憶された天皇であり、 記ではそれに見合う分量を確保するために整合性には目をつぶって雑多な話を盛り込んだようにも思われる。



[201]  下つ巻(雄略天皇4)