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[191]  下つ巻(允恭天皇8)

2018.02.26(mon) [192] 下つ巻(安康天皇1) 

御子穴穗御子 坐石上之穴穗宮治天下也
天皇爲伊呂弟大長谷王子而
坂本臣等之祖根臣 遣大日下王之許令詔者
汝命之妹若日下王 欲婚大長谷王子
故可貢

御子(みこ)穴穂御子(あなほのみこ)、石上(いそのかみ)之(の)穴穂宮(あなほのみや)に坐(ましま)して、天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。
天皇(すめらみこと)伊呂弟(いろど)大長谷王子(おほはつせのみこ)の為(ため)としたまひて[而]
坂本臣(さかもとのおみ)等(ら)之(の)祖(おや)根臣(ねのおみ)を大日下王(おほくさかのみこ)之(の)許(もと)に遣(つかは)して詔(おほせこと)せ令(し)むる者(は)、
「汝命(ながみこと)之(の)妹(いも)若日下王(わかくさかのみこ)、大長谷王子に婚(めあは)せむと欲(おも)ひたまふ。
故(かれ)貢(たてまつ)る可(べ)し。」とおほせごとせしむ。


爾大日下王 四拜白之
若疑有如此大命故不出外以置也
是恐 隨大命奉進
然 言以白事其思无禮
卽爲其妹之禮物 令持押木之玉縵而貢獻

爾(ここに)大日下王 四(よたび)拝(をろが)みて[之]白(まを)ししく
「若(も)しや如此(かく)大命(おほみこと)有るかと疑ひまつる。故(かれ)外(と)に不出(いでず)以ちて置きまつらむ[也]。
是(これ)恐(かし)こみて大命の隨(まにま)に進(すす)め奉(たてまつ)らむ。」とまをしき。
然(しかれども)言(ことい)ひて以ちて白(まを)さむ事、其(それ)無礼(ゐやなし)と思ひまつりて、
即(すなはち)其の妹(いも)之(の)礼物(ゐやのもの)の為(ため)に、押木之玉縵(おしきのたまかづら)を持た令(し)めまつりて[而]貢献(たてまつ)りき。


根臣 卽盜取其禮物之玉縵
讒大日下王曰
大日下王者不受勅命曰
己妹乎爲等授之下席而
取横刀之手上而怒歟

根の臣、即ち其の礼物之(の)玉縵を盗み取りて、
大日下王を讒(そし)りて曰(まを)ししく
「大日下王者(は)勅命(おほせこと)を不受(うけざ)りて曰(まを)さく
『己(おのが)妹(いも)[乎]、等(しな)の為(ため)に之(この)下席(しもつむしろ)を授(さづ)けむ。』とまをして[而]
横刀(たち)を取りし[之]手上げて[而]怒(いか)りまつりき[歟]」とまをしき。


故 天皇大怒殺大日下王而
取持來其王之嫡妻長田大郎女爲皇后

故(かれ)、天皇大(おほ)きに怒(いか)りて大日下王を殺したまひて[而]、
其の王(みこ)之(の)嫡妻(こなみ)長田大郎女(ながたのおほいらつめ)を取持(とりもち)来たりて、皇后(おほきさき)と為(し)たまふ。


 御子(みこ)穴穂御子(あなほのみこ)は、石上(いそのかみ)の穴穂宮(あなほのみや)にいらっしゃいまして、天下を治められました。 天皇(すめらみこと)と同母の弟、大長谷王子(おおはつせのみこ)のために、 坂本臣(さかもとのおみ)らの先祖、根臣(ねのおみ)を大日下王(おおくさかのみこ)の許に遣わし、詔(みことのり)せを伝えさせ、このように仰りました。
 「お前の妹、若日下王(わかくさかのみこ)を、大長谷王子に娶せたいと思う。 よって献上すべし。」と。
 すると、大日下王は四拝して申しあげました。
 「もしやこのように大それた仰せ事が有るものかと、信じられぬ思いです。よって外出させず、静かに過ごさせます。 このことは、畏まって大命のままにお進め申しあげます。」と。
 しかしながら、言葉のみをもって申し上げる事は、無礼なことだと思い、 その妹の礼物のために、押木之玉縵(おしきのたまかずら)を使者に持たせて、献上しました。
 根の臣は、するとその礼物の玉縵を盗み取り、 大日下王のことを、こう讒言しました。
 「大日下王は勅命を受けず、 『自分の妹には、その位を貶めて我々の下席を授けてやる。』と言って、 太刀を取った手を上げて怒りました」と。
 よって、天皇は大怒りして大日下王を殺し、 大日下王の嫡妻、長田大郎女(ながたのおおいらつめ)を取り上げて連れてきて、皇后(おおきさき)とされました。


押木之玉縵…〈甲本〉〔安康天皇紀〕押木珠縵【オシキノタマカツラ】。
如此…万葉歌では「かく」と訓む。(万)0582 大夫毛 如此戀家流乎 ますらをも かくこひけるを
…(古訓) そしる。まうし。
…[名] これ。[指] この。
…(古訓) ら。ともから。ひとし。しな。
ひとし…[形]シク 等しい。
しな…[名] ①階段。②上下。種類。

【真福寺本】

 岩波『日本文学大系』版によると、「御子穴穂御子」の初めの「御子」は、諸本にはなく真福寺本のみにあるという。
 また「大日下王」は、途中で「太日下王」になる。順に「大大太太太」である。
 さらに、諸本の「等族」が真福寺本では「等授」になっているが、これについては別項で論ずる。

【石上之穴穂宮】
《石上》
 石上は、〈倭名類聚抄〉{大和国・山辺郡・石上【伊曽乃加美】郷〔いそのかみのさと〕石上神宮(第116回)の所在地である。 また、〈履中天皇紀〉五年条に「石上溝」が書かれる (履中天皇紀《石上溝》)。
《穴穂宮》
 〈五畿内志〉「山辺郡」に「【古蹟】穴穂宮【在田村」とある。
石上郷付近左図内拡大現在の穴穂神社外景
 町村制〔1889〕で、この「田村」など二十村をまとめて「山辺村」が成立した。 現在地名「奈良県天理市田町」が、「田村」を継ぐと見られる。
 田町に、穴穂神社(奈良県天理市田町568)がある。 その掲示板に、「俗に貴船社と呼ばれている。もとは田村の鎮守社で神域も広く、創紀も相当古いものか思われる」、そして 「穴穂神社の社名は安康天皇穴穂宮跡に仮託して、明治初年に改称したものである。」などと書かれる。
 確実に言えることは江戸時代には田村に穴穂宮があったとする言い伝えが残っていて、 明治初年に貴船神社の名を穴穂宮に因んだものに変えたということである。

【長田大郎女】
 長田大郎女は一般的には、履中天皇の皇女と解釈されている。それは、書紀の「中蒂姫中磯皇女」との一致を図るためと思われる。
 これに関しては、早くも書紀原注〔雄略天皇即位前期〕において、「中蒂姫皇女 更名長田大娘皇女」とある。同じ原注に「根臣」の表記もあり、古事記の書き方を直接用いている。 従ってこの「原注」には本来の書紀から隔たりがあり、書紀の原文から一定の年月を経たのちに加えられたものかも知れない。
 その「長田大郎女」は、安康天皇の同母姉と同名である。 これらがもし同一人物ならば、安康天皇は木梨之軽王を近親婚の罪で追放しながら、自ら同じ行為に及んだというとんでもないことになる。 記は、実際にそのつもりで書いたのかも知れない。
 伝統的に中蒂姫と同一人物とされる中磯皇女は、履中天皇の皇女で安康天皇とはいとこ同士の関係である。 中蒂姫は〈甲本〉以来「ナカシヒメ」であるが、蒂の呉音から見ると本来は「なかたひめ」かも知れず「長田大郎女(書紀では名形大娘皇女)」に近い。 だとすれば、安康天皇の近親婚を気にして「なかたひめ」と訓むべきところを「なかしひめ」と訓んで血縁関係を遠ざけたのは、〈甲本〉など平安時代の操作かも知れない。

【坂本臣】
 〈姓氏家系大辞典〉は、坂本臣は「和泉国泉郡坂本郷より起る」と見る。〈倭名類聚抄〉に、{和泉国・和泉郡・坂本【佐加毛止】郷}がある。
 その地は、現在の和泉市阪本町と言われる。江戸時代には坂本村坂本新田があり、 町村制〔1889〕の際、坂本村を含む7村が郷荘村に、坂本新田を含む4村が北池田村になった。 「郷荘」は、荘園名「坂本郷荘」が略されたものだという。古い地名「坂本」が現在の阪本町に繋がるのは確実である。
《根使主の子孫》
 根使主が押木の玉縵を横領した事件の後日譚が、〈雄略天皇紀〉十四年条にある。 結局それが露見して罪に問われ、日根に稲城を築いて抵抗したが殺された。 後に、子の小根が父の遺した城を自慢したのが雄略天皇の耳に入り、 子も殺されて城を接収された。 そして「根使主之後為坂本臣、自是始焉。〔根臣の後坂本臣となるは、これより始む〕とされる。
 坂本郷の場所を見ると、根使主の末裔が日根野(別項)から坂本郷に移ったように思われる。
《武内宿祢》
 孝元天皇段 (第108回) では、建内(武内)宿祢の男、木角宿祢(きのつぬのすくね)が坂本臣の祖とされる。即ち、 「孝元天皇(大倭根子日子国玖琉命)―比古布都押之信命―建内宿祢―木角宿祢(木臣・都奴(つぬ)臣・坂本臣の祖)」。
 その回で、武内宿祢の先祖は名草郡で発祥し、紀ノ川沿いに移動し大和国宇智郡で展開したと見た。 系図通りなら、大和国宇智郡から根使主が日根に移ったことになる。 
 しかしそれらの位置を見ると、名草郡の一族が分岐し、その一部が日根に移ったと見た方が自然に思われる。 武内宿祢は、後に大臣(おほまへつきみ)として長年〔記では成務天皇から仁徳天皇まで、書紀では景行天皇から継体天皇まで〕仕えたとされる。 これは、名草郡発祥で葛城で発展した一族を、その象徴として武内宿祢一人に集約したのが孝元天皇段ではないだろうか。
 「葛城で発展した一族」とは、血縁関係が不明瞭な「葛城氏、およびそこから派生した蘇我氏そのものである。
 ※…第162回において、「葛上郡に住んだ人々のゆるやかな集まりが、まとめて「葛城」族と呼ばれ、 波多、巨勢、曽我各氏の母体となった」という見方を示した。
 また、この葛城・蘇我の一族は後に天皇の側に仕える大臣を輩出し、それもまた「武内宿祢」の名で表わしたと受け止めるべきであろう。

【日根野】
 雄略天皇紀には、根使主が「日根造稲城」とある。
 〈延喜式神名帳〉には「日根郡十座【並小】/日根神社【鍬靫】」とある。日根神社の比定社は「日根神社」(大阪府泉佐野市日根町631)である。
日根野周辺左図内拡大

《日根神社》
 その社伝の一部を抜粋すると、
・神武天皇がこの地で戦勝祈願。
・674年〔天武天皇三年〕、天武天皇が「大井関山に社殿を造営」。〔天武天皇紀にはこの記事はない〕
・鎌倉時代に日根野が九条家の荘園となる。
・天正4年〔1576〕豊臣秀吉の『根来攻め』により社殿焼失。
・天正13年〔1585〕秀吉により社領没収。
・慶長7年〔1602〕秀頼が社殿を再建。
 とある。
《日根荘》
 泉佐野市の公式ページによれば、 五摂家の一つである九条家により、天福二年〔1234〕に日根荘が立荘され、『九条家文書』などの古文書が多数残り、 「絵図で描かれた寺社堂などの建築物やため池、丘陵などの景観が現在でもよく残されていることで、全国的にも有名な中世の荘園遺跡となって」いるという。 この地域の寺社、水路など16か所が「日根荘遺跡」として国史跡に指定されている。
 その遺跡のひとつ、「井川」(ゆかわ)は樫井川から取水する灌漑用の水路で、日野神社境内、慈眼院境内を通っている。 日根神社社殿の「大井関山」という呼び名は、飛鳥時代から取水のために「井の堰」が築かれていたことによって、 「井関」という名称になったのではないかと想像される。
《日根野村》
 〈大日本地名辞書〉は、新撰姓氏録・正倉院文書・神祇志料〔1873〕を出典として、 「日根野荘の生土神〔うぶすながみ、土地の守護神〕にして、大井堰大明神と称す、蓋日根造の祖新羅国人 斯富使主を祭る」と述べ、「雄略帝の時根使主の拠れる日根稲城も此地とす」と推定する。  江戸時代の「日根野村」は日根荘に由来し、さらに現代地名「大阪府泉佐野市日根野」に繋がる。 書紀の地名「日根」は、ここのことだと考えて間違いないだろう。
 ※…水戸光圀が『大日本史』を執筆するために集めさせた、神祇関係の資料。

【根臣】
 「ねのおみ」に、書紀は「根使主」の字を当てる。 「使主(おみ)」は、阿知使主(応神天皇二十年条など)に代表される漢系の渡来人の姓である。 したがって、書紀は孝元天皇段の「坂本臣は武内宿祢の子孫」説を否定したことになる。 その根拠は不明であるが、坂本臣がもつ始祖伝説に「武内宿祢」と「根使主」の複数説があったのかも知れない。
 ところが、雄略天皇紀の原注には「根臣」の表記が使われ、注釈者はもはやこの区別を気にしていない。 「根使主」は、書紀執筆者の個人的なこだわりに過ぎず、一般には「根臣」だったのかも知れない。
天馬塚金冠
zh.wikipedia.org

【たまかづら】
 たまかづらとは、〈時代別上代〉によれば「タマは美称」で、「頭に巻いて用いる髪飾り」である。 もともとは、古代につる性植物で頭を飾ったことに由来すると思われる。 この段にいう押木之玉縵は、素朴なつる飾りを起源とする工芸品であろう。
 しかし一説には、大韓民国慶州で出土した金冠の類ではないかと言われる。 それは、金冠塚・金鈴塚・瑞鳳塚・天馬塚などから発掘され、 右図はその一つ、天馬塚金冠〔大韓民国慶尚北道慶州天馬塚出土、1978年韓国国宝指定〕である。 他の塚の金冠も、写真で見る限りデザインは似通っている。 なお、伝馬塚の墓主は、新羅22代国王の智證王〔在位500-514〕とされる。
宗像大社国宝展(平成二十六年〔2014〕八月、出光美術館) 図録より
 その説に従えば、慶州出土金冠に類するものが倭国にもたらされたことになるが、 日本国内での発掘例は見られないので、現時点では想像に過ぎないだろう。
 ただ渡来した精緻な金製品としては、沖ノ島出土の〖の左から順に〗金製指輪、金銅製揺付雲珠〔馬の装飾具〕、金銅製龍頭などがある。 慶州出土のようなものではなくても、金冠が渡来していたこと自体はあるかも知れない。

【等】
真福寺本
氏庸本
 「己妹乎為等授之下席」は、〈岩波日本古典文学大系〉では「己妹乎為等之下席」である。
 このように、現在では「等族」が定着しているが、氏庸本(猪熊本系)では「等挨」、真福寺本では「等授」である。 書記には「同族」があるので、もともと記に「等族」があり、書紀がそれを「同族」だと理解した。 江戸時代になって、書紀に倣って「族」を用いた。の両方が考えられる。
《䓁》
 真福寺本、氏庸本ではは草冠である。〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉によれば、「」は「等」の異体字とされている。
《等挨》
 〈氏庸本〉(猪熊本系)は「等挨」としつつ、「」から朱線を引いて「」が書き添えられる。 「挨」はもともとは「身動きできないほど近づく」という意味だが、古訓(類聚名義抄観智院本)に「やから」がある。 その訓と、書紀の「同族」によって「族」に直したように思われる。
《等族》
 〈古事記伝〉でも「等族」である。 しかし氏庸本ではこの字を「」とし、その古訓に「やから」があるから江戸時代に「族」と解釈したように見える。
 それでは、熟語「等族」が使われた例が、漢籍にはあるのだろうか。 〈中国哲学書電子化計画〉で検索すると「等-族」の並びの唯一の例は、『三国志』魏書曹爽傳の「何図今日坐汝等族滅矣」である。  ここでは「汝等の族」〔お前らの一族〕で、「等」は複数を表す。 従って、「等しい族」と意味で使われた例は見いだせない。
《等授》
 真福寺本では「等授」となっている。  〈中国哲学書電子化計画〉で検索すると、この並びも一例のみである。それは『通典』-選挙五「隨等授官」〔階級に応じて官を授ける〕である。 これも、「等授」という熟語ではない。
《等》
 漢籍の用法では、「等」は「挨」または「族」とは分離している。「等」の訓は形容詞「ひとし」、あるいは名詞「しな」(=等級)が考えられる。

【己妹乎為等授之下席】
 この文が、自分の妹の地位を「一族の末席」に落とすという意味であることは明白である。
 それぞれの訓読を試みると、 まず文の途中の「」は漢文では呼びかけの語気詞。和語「」は、文末にあれば疑問または反語であるが、ここでは文の途中であるから感嘆の間投助詞である。
 続く部分は、
 の場合: 「等族之下席〔等(しな)を族(うから)の下席とす、あるいは等し族の下席とす〕
 の場合: 「等授レ二之下席〔等(しな)、これを下席に授くとす〕、 「等授之下席〔等(しな)のために、この下席を授く〕
 が考えられる。
 「等」が「ひとしい」という意味をもって「族」を修飾する用法は漢籍には見いだせなかったから、 「等(ひと)し族(うがら)」は倭語としての表現である。
 試しにこの部分を純正漢文として読むと、「為等授之下席」は『通典』(前項)の「隨等授官」に類似している。 だとすれば、「」は「等級」で、上代語「しな」に対応する。
 この場合「之」は、指示詞〔この、ここでは「族の」〕となる。 「之」を専ら「の」「が」「し」と訓む古事記では「この」は珍しいが、 純正漢文では普通である。
 また「席」については、古訓には「むしろ」「ゐる」はあるが「くらゐ」「しな」などは見られず「敷物」の意味が強い。 しかし、漢字の「席」は「集団内の立場」の意味を含む。
 もし「族」とした場合、和文として意味が通りそうにも見えるが、漢籍の一般用法からは遠ざかる。 また、和文としたときの「ひとしうがら」の意味も、よく考えると釈然としない。 むしろ真福寺本の「授」を採用して、純正漢文体と見た方がすっきりするのである。
 太安万侶によると見られる序文は純正漢文で書かれ、相当純正漢文に精通している。 古事記における特殊な和風体は、純正漢文から外れるのは承知の上で意図的に用いているのである。 だから、ここで思わず純正漢文が顔を出したはと言えないだろうか。
《宣長説》
 『古事記伝』では、「下席シモムシロるとは、 ミメ為坐ナリ〔ます〕ことを如此〔かく〕〔いへ〕るなり、 【下席とはただ下に敷くよしなを、上席に〔むか〕へて〔いふ〕には非ず、】 タゞしき言には非ず、たゞ怒りてアザケりたる戯言タブレ〔=たはむれ〕コトなり」 と述べる。つまり妹を妃とすることを拒否する怒りの感情に伴う言葉のあやであって、 特に上席に対する下席という意味はないという。
 訓読は「オノガイモヤ。ヒトシウガラノシモムシロニナラム。〔私の妹がなんと、等しい族の下席になってしまう。〕とされ、文の途中の「や」を感嘆詞として正しく理解した上で、 「そうすることは我々(大日下王・穴穂御子・大長谷王子の一族)の下席に貶めることになるだろう」の意と読み取る。
《下席》
 下席が「集団内の地位が下」の意味であるのは、明白である。 宣長は「戯言」とするが、この文は「自分の妹を卑しい地位に貶めて、もう皇子の妃には相応しくなくしてやるぞ」と言って嫁がせることを拒んだと読むべきであろう。 ただ「等族」とした場合は、大長谷王子そのものを蔑んだ言葉で「王子の妻になれば下席に落ちてしまう」と解釈することも、可能である。
《「下席」の訓》
 下席は漢籍の語だから音読すべきかも知れないが、「かせき」「げせき」が古事記の時代に用いられたかどうかは、わからない。
 「席」を仮に「むしろ」と訓読した場合は、 もともと「敷物」の意味ではあるが、 上代人が「しもつむしろ」を聞いたとき、文脈から「下席」の意味だと理解できただろうと思われる。
安康天皇紀
即位前
即位
当即位時
元年
二年
三年

【書紀―即位】
安康2目次 《穴穂皇子即天皇位》
十二月己巳朔壬午、穴穗皇子卽天皇位。
尊皇后曰皇太后、則遷都于石上、是謂穴穗宮。

十二月(しはす)己巳(つちのとみ)を朔(つきたち)として壬午(みづのえうま)〔十四日〕、穴穂皇子(あなほのみこ)天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。
皇后(おほきさき)を尊(たふと)びて皇太后(おほきさき)と曰(なづ)けたまひて、則(すなはち)[于]石上(いそのかみ)に都を遷(うつ)したまひて、是(これ)穴穂宮(あなほのみや)と謂(い)ふ。

《大意》
 十二月十四日、穴穂皇子(あなほのみこ)は天皇に即位されました。 皇后を尊んで皇太后となさり、石上(いそのかみ)に遷都され、これを穴穂の宮といいます。


【書紀―元年】
安康4目次 《為大泊瀬皇子欲聘幡梭皇女》
…[動] ①贈り物をして、賢者を招く。②結納を差し出して正式に妻をめとる。(古訓) とふ。むかふ。
元年春二月戊辰朔、
天皇、爲大泊瀬皇子欲聘大草香皇子妹幡梭皇女、
則遣坂本臣祖根使主、請於大草香皇子曰
「願得幡梭皇女、以欲配大泊瀬皇子。」

天皇(すめらみこと)、大泊瀬皇子(おほはつせのみこ)の為に、大草香皇子(おほくさかのみこ)の妹(いも)幡梭皇女(はたひのひめみこ)を聘(むか)へむと欲(おもほ)して、
則(すなはち)坂本臣(おみ)の祖(おや)根使主(ねのおみ)を遣(つかは)して、[於]大草香皇子に請(ねが)ひて曰(まを)さしめたまひしく、
「願(ねがはく)は幡梭皇女(はたひのみこ)を得て、以ちて大泊瀬皇子(おほはつせのみこ)に配(あは)せむと欲(おも)ひたまふ。」とまをさせひたまひき。

アサザ
たとへば…[副] ものに譬えて言えば。
みにくし…[形]ク 醜い。
不嫌…〈甲本〉不嫌【キラハス】〔きらはず〕
みつ…[他]タ下二 「みつ」(四段、自動詞)に対応する他動詞。
…(古訓) けかす。はち。はつかしむ。はちしむ。
荇菜…アサザの漢名。〈釈日本紀〉は「荇菜之【ヲムナメノ】数」と意訳。
あざさ…[名] 水草の名。アサザか。ここでは後宮の妃たちを池に咲くアサザの花たちに譬えたものか。
…(古訓) あきらかに。あらはす。しめす。
丹心…真心。「赤心」とも。
…(古訓) つく。したかふ。よる。
信契…漢籍には少ない。その一例は、『通典』〔801〕―「突厥上」に「蝋封印之、以為信契〔蝋で封じて刻印し、もって信契となす〕がある。
爰大草香皇子對言
「僕頃患重病、不得愈、譬如物積船以待潮者。
然死之命也、何足惜乎。
但以妹幡梭皇女之孤、而不能易死耳。
今陛下、不嫌其醜、將滿荇菜之數、是甚之大恩也、何辭命辱。
故欲呈丹心、捧私寶名押木珠縵【一云立縵。又云磐木縵。】、
附所使臣根使主而敢奉獻。
願物雖輕賤納爲信契。」

爰(ここに)大草香皇子対(こたへ)て言(まを)さく
「僕(やつかれ)頃(このころ)重き病(やまひ)を患(わづら)ひて、不得癒(えいえずて)、譬(たとへば)物積みし船に如(し)きて以ちて潮(うしほ)を待てり[者]。
然(しかれども)死之(しぬる)命(いのち)なれば[也]、何(なにそ)惜(をしむ)に足(た)らむ乎(や)。
但(ただ)妹(いも)幡梭皇女之(の)孤(みなしご)とならむことを以ちて、而(しかるがゆゑに)易(やす)く死ぬること不能(あたはざる)耳(のみ)。
今陛下(みかど)、其の醜(みにく)きを不嫌(きらはざ)りて、[将]荇菜(あざさ)之(の)数(かず)に満(み)てむとしたまふこと、是(これ)甚之(いたの)大恩(おほきめぐみ)也(なり)、何(いかに)か命(おほせこと)を辞(いな)びて辱(はぢ)しめまつるや。
故(かれ)[欲]丹心(あかこころ)を呈(しめ)さむとしまつりて、私宝(わたくしなるたから)、名は押木珠縵(おしきのたまかづら)【一云(あるいはく)、立縵(たちかづら)。又云はく、磐木縵(いはきのかづら)。】を捧(ささ)げて、
所使(つかはしたまはる)臣(おみ)根使主(ねのおみ)に附(よ)せて[而]敢(あ)へて奉献(たてまつ)る。
願(ねがはくは)物(もの)[雖]軽(かる)く賤(いや)しかれども納(をさ)めたまひて信(うけ)の契(ちぎり)と為(し)たまへ。」とまをす。

於是、根使主、見押木珠縵、感其麗美、
以爲盜爲己寶。則詐之奏天皇曰
「大草香皇子者不奉命、
乃謂臣曰『其雖同族、豈以吾妹、得爲妻耶。』」
既而、留縵入己而不獻。
於是、天皇信根使主之讒言、
則大怒之、起兵、圍大草香皇子之家而殺之。

於是(ここに)、根使主、押木珠縵を見て、其の麗美(うるはしき)を感(かな)ひて、
以為(おもへらく)盗みて己(おのが)宝に為(せ)むとおもへり。則(すなはち)[之]詐(いつは)りて天皇に奏(まを)して曰(まを)ししく、
「大草香皇子者(は)命(おほせこと)を不奉(たてまつらざ)りて、
乃(すはなち)臣(やつかれ)に謂(まを)ししく[曰]『其(それ)[雖]同じき族(うがら)なれども、豈(あに)以吾(わが)妹(いも)を以ちて、得(え)妻(つま)と為(し)たまふや[耶]。』とまをしき」とまをしき。
既(すで)にして[而]、縵(かづら)を留(とど)めて己(おのれ)に入(れ)て[而]不献(たてまつらず)。
於是(ここに)、天皇根使主之(の)讒言(そしりこと)を信(う)けたまひて、
則(すなはち)大(おほ)きに之(こ)を怒(いか)りて、兵(つはもの)を起(おこ)して、大草香皇子之(の)家(いへ)を囲みて[而][之]殺したまひき。

日香蛟…〈仮名日本紀〉日香我父子【ひかゞかそこ】。(右図)
…〈仁賢天皇紀〉の原注に「俗呼父為柯曽」とあり、「かそ」ともいう。しかし、万葉集ではすべて「ちち」である。
いたむ…[他]マ四 ①身体が痛む。②哀しむ。
…(古訓) したかふ。
自刎…自ら頸動脈をきって自殺すること。(古訓) きぬ。はぬ。
すめ-(皇)…[接頭] 尊びほめる意を加える。ほとんど皇族に用いる。「すめら-」は、天皇に限られる。
是時、難波吉師日香蛟、父子並仕于大草香皇子、
共傷其君无罪而死之、
則父抱王頸、二子各執王足而唱曰
「吾君、无罪以死之、悲乎。
我父子三人生事之、死不殉是不臣矣。」
卽自刎之、死於皇尸側、軍衆悉流涕。

是の時、難波吉師(なにはのきし)日香蛟(ひかか)、父子(ちちこ)並(な)べて[于]大草香皇子に仕へまつりて、
共に其の君(きみ)の罪(つみ)无(な)くして[而][之]死にたまひしことを傷(いた)みて、
則(すなはち)父、王(みこ)の頸(みくび)を抱(むだ)きて、二子(ふたりこ)各(おのもおのも)王(みこ)の足を執(と)りて[而]唱(とな)へて曰(まを)さく
「吾が君(きみ)、罪无(な)くて以ちて[之]死にたまふ、悲(かな)し乎(や)。
我父子三人(みたり)生(いきたまへる)に[之]事(つか)へて、死(しにたまふ)に不殉(したがひまつらざること)、是(これ)不臣(おみにあらず)や[矣]。」とまをして、
即ち自(みづから)[之]刎(くびき)りて、[於]皇尸(すめかばね)の側(ほとり)に死にまつりて、軍衆(つはものども)悉(みな)涕(なみだ)流せり。

中蒂姫…〈甲本〉中蒂姫【ナカシヒメ】
の異体字。呉音タイ。漢音テイ。
きのえうま(甲午)…ここでは西暦454年。
爰取大草香皇子之妻中蒂姬納于宮中因爲妃。
復遂喚幡梭皇女配大泊瀬皇子。
是年也、太歲甲午。

爰(ここに)大草香皇子之(の)妻中蒂姫(なかしひめ、なかたひめ)を取りて[于]宮中(みやのうち)に納(をさ)めたまひて、因(よ)りて妃(きさき)と為(し)たまふ。
復(また)遂(つひ)に幡梭皇女を喚(め)して大泊瀬皇子に配(めあは)せたまふ。
是の年は[也]、太歳(おほとし、たいさい)甲午(きのえうま)なり。

《大意》
 天皇(すめらみこと)は、大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)のために、大草香皇子(おおくさかのみこ)の妹、幡梭皇女(はたひのひめみこ)を迎えようとお考えになり、 坂本臣の先祖、根使主(ねのおみ)を遣わして、大草香皇子に 「願わくば、幡梭皇女をいただいて、大泊瀬皇子に配偶させたいと望みます。」と要請しました。
 大草香皇子は、こうお答えしました。
 「私は、この頃重病を患って癒えません。譬えて言えば、荷を積んだ船が潮が満ちるのを待っているようなものです。 とは言え、いつかは死ぬのが命というものですから、惜しむことなどありましょうか。 ただ、私の妹、幡梭皇女が孤独になってしまい、そのために安易に死ぬことができないことのみが気がかりです。
 この度、陛下はその醜さを嫌わず、アサザの数を満たそうとされること、これは甚だしき大恩でございまして、その仰せ事を辞退して辱かしめることなどありましょうか。 そこで、わが赤心をお示しするために私宝、名は押木珠縵(おしきのたまかずら)【一説には、立縵(たちかずら)、また、磐木縵(いわきのかずら)】を捧げて、 遣わされました臣、根使主(ねのおみ)に託して敢て奉献いたします。 願わくば、物は軽く賤しいと言えども、納めていただき信契としてくださいませ。」と。
 このとき根使主は、押木珠縵を見てその麗美さに感じいり、 盗んで自分の宝にしようと思いました。そこで天皇に偽りを奏上しました。
 「大草香皇子は仰せ事をお受けせず、 私めに『同族ではあるが、どうして私の妹をもって、妻として差し上げることなどできようか。』と申しました。」と。
 こう言ってしまい、珠縵を手元に留めて自分のものとして、献上しませんでした。
 そこで、天皇は根使主の讒言を信じてしまわれ、 大怒りして、兵を起して、大草香皇子の家を囲み、殺しました。
 この時、難波吉師(なにわのきし)日香蛟(ひかか)は、父子揃って大草香皇子にお仕えしておりました。 共にその君が罪なくして死になされたことを傷(いた)み、 父は皇子の首を抱き、二子はそれぞれ皇子の足を取って唱えました。
 「わが君、罪なきをもって死にたもうこと悲しや。 われら父子三人は生に仕えておいて、死に殉じなければ臣ではございません。」と。
 そして自ら首を刎ねてご遺体の側で殉死し、軍の衆は皆涙を流しました。
 こうして大草香皇子の妻、中蒂姫(なかしひめ、なかたひめ)を連れ出して宮中に納められ、妃となされました。 また、遂に初めに意図したように幡梭皇女を召し出し、大泊瀬皇子に娶せました。
 是の年は、太歳甲午(きのえうま)です。


【荇菜】
 『詩経』〔周;前1046~前771〕「關雎」に、この語が出てくる。
 「参差荇菜 左右流之/窈窕淑女 寤寐求之/求之不得 寤寐思服/悠哉悠哉 輾転反側
参差…不揃いに入り混じったさま。 窈窕…美しくしとやかなさま。 寤寐…目覚めていることと眠っていること。 …はるか(悠久、悠長)。また、気分がゆったりしている(悠然)。 輾転反側…思い悩んで寝られず、寝返りばかり打つこと。

〔荇菜入り混じり、左右に流る。上品な淑女は寝ても覚めてもこれを求む。 求めて得られず、寝ても覚めても思いにとらわる。悠久なるかな、寝付かれず寝返りばかりする夜。〕
 〈時代別上代〉は、「荇菜は食用になるあさざの菜であるが、その詩の中の主人公は女人であるので、女人・妾の意に用いた」と述べる。 つまり、この詩に織り込まれた「荇菜」を、女人を意味する語に転じて用いたと解釈する。
 理屈はその通りであろうが、古訓「おむなめ」ではこの詩のもっていた雅さが汲み取れない。 訓みを「あざさ」のままとしても、十分「宮中の女人たち」という意味は伝わるであろう。

【書紀―二年】
安康5目次 《立中蒂姫命為皇后》
二年春正月癸巳朔己酉、立中蒂姬命爲皇后、甚寵也。
初中蒂姬命生眉輪王於大草香皇子、乃依母以得免罪、常養宮中。

二年(ふたとせ)春正月(むつき)癸巳(みづのとみ)を朔(つきたち)として己酉(つちのととり)〔十七日〕、中蒂姫命(なかしひめのみこと)を立たして皇后(おほきさき)と為(し)たまひて、甚(いと)寵(めぐ)みたまふ[也]。
初め中蒂姫命、[於]大草香皇子(おほくさかのみこ)におきて眉輪王(まゆわのみこ)を生みたまひて、乃(すなはち)母に依(よ)りて以ちて罪を得(え)免(まぬが)れて、常に宮中(みやのうち)に養ひたまひき。

《大意》
 二年正月十七日、中蒂姫命(なかしひめのみこと)を皇后とし、大変愛されました。 初めに中蒂姫命は、大草香皇子に於いて眉輪王(まゆわのみこ)を産んでおりましたが、母が皇后になったことにより罪を免れることができ、常に宮中で養っておられました。


【雄略天皇紀―十四年正月】
雄略天皇29目次 《身狭村主青等共呉国使》
檜前
身狭村…〈甲本〉身狭【牟射〔むさ〕
…(古訓) うけたまはる。ともせり。
手末…〈甲本〉手末【タナスヱ】
てひと(手人)…[名] 職人。特殊技能をもつ人。
はとり(織、服部)…[名] 「はた-おり」の母音融合。
きぬぬひ(衣縫)…[名] 衣服を裁断・裁縫する職業の者。
住吉津…「墨江之津」(第163回)参照。
まらひと…[名] 客。まれ-ひと(稀人)の変。
檜隈…〈甲本〉檜隈【ヒノクマ】。〈倭名類聚抄〉{大和国・高市郡・檜前【比乃久末】郷}。 現代地名「明日香村檜前」。
十四年春正月丙寅朔戊寅、身狹村主靑等、共吳國使、
將吳所獻手末才伎漢織吳織及衣縫兄媛弟媛等、泊於住吉津。
是月、爲吳客道通磯齒津路、名吳坂。
三月、命臣連迎吳使、卽安置吳人於檜隈野、因名吳原。
以衣縫兄媛奉大三輪神、以弟媛爲漢衣縫部也。
漢織吳織衣縫、是飛鳥衣縫部、伊勢衣縫之先也。

十四年(とをとせあまりよとせ)春正月(むつき)丙寅(ひのえとら)を朔(つきたち)として戊寅(つちのえとら)〔十三日〕、身狭(むさ)の村主(すぐり)青(あを)等(たち)、呉国(くれのくにの)使(つかひ)と共に、
呉(くれ)に所献(たてまつらえし)手末(たなすゑ)の才伎(てひと)と、漢織(あやのはとり)と、呉織(くれのはとり)と、[及]衣縫(きぬぬひ)の兄媛(えひめ)弟媛(おとひめ)等(たち)とを将(ひきゐ)て、[於]住吉津(すみのえのつ)に泊(は)てき。
是の月、呉(くれ)の客(まらひと)の道の為(ため)に、磯歯津路(しはつのみち)を通(とほ)して、呉坂(くれのさか)と名(なづ)けり。
三月(やよひ)、臣(おみ)連(むらじ)に命(おほ)して呉の使(つかひ)を迎へしめて、即ち呉の人を[於]檜隈野(ひのくまのの)に安(やすらけ)く置かしめまして、因りて呉原(くれのはら)と名(なづ)けり。
衣縫(きぬぬひ)の兄媛(えひめ)を以ちて大三輪(おほみわ)の神(みわ)に奉(たてまつ)りたまひて、弟媛(おとひめ)を以ちて漢(あや)の衣縫部(きぬぬひべ)と為(な)したまふ[也]。
漢織(あやのはとり)呉織(くれのはとり)衣縫(きぬぬひ)、是(これ)飛鳥(あすか)の衣縫部(きぬぬひべ)伊勢の衣縫之(の)先(さき)也(なり)。

《呉》
 雄略朝で、倭国との交流があったのは南朝の宋〔420~479〕で、斉〔479~502〕に引き継がれる。 書紀での呼称は習慣的に三国時代の呉〔222~280〕のままである。
《呉衣縫》
 同じ名前が、応神天皇紀にもある。
 呉織の衣縫4名が筑紫国に上陸。胸形大社に仕えてほしいと要請され、兄媛が筑紫に留まり、残りの弟媛・呉織・穴織の三人で都に向かった。
 そこでは、呉国から彼らを連れ帰った使者は「阿知使主等」とされる。 そして、「是女人等之後、今呉衣縫、蚊屋衣縫是也。」〔このおむなめらの後、今呉の衣縫、蚊屋の衣縫これなり〕 (応神天皇紀20)。
《大意》
 十四年正月十三日、身狭(むさ)の村主(すぐり)青(あお)らは、呉(くれ)の国の使者と共に、 呉から献上された手末(たなすえ)の才伎(てひと)〔技術者〕、漢(あや)の織(あやのはとり)〔織女〕と、呉の織、及び衣縫(きぬぬい)の兄媛(えひめ)弟媛(おとひめ)等(たち)とを率いて、住吉津(すみのえのつ)に停泊しました。
 この月、呉の客のための道として、磯歯津路(しはつのみち)を開通させ、呉坂という名がつきました。
 三月、臣(おみ)・連(むらじ)に命じて呉の使者を迎えさせ、呉の人を檜隈野(ひのくまのの)に滞在させ、よって呉原(くれのはら)の名がつきました。
 衣縫の兄媛を大三輪(おおみわ)の神〔大神神社〕に仕えさせ、弟媛を漢の衣縫の部の統率者としました。 漢の織・呉の織・衣縫は、飛鳥の衣縫部(きぬぬいべ)、伊勢の衣縫〔部〕の始祖です。


【雄略天皇紀―十四年四月】
雄略天皇30目次 《命根使主為共食者遂》
…(古訓) あまねし。へて。
…(古訓) うるはし。このむ。よし。
共食者…〈仮名日本紀〉「あいたけひと」(右図;3文字目は「た」の変体仮名)。 大同館書店版〔1920〕の「あひうけひと」は誤読。 「たぐ」は古い語なので、古訓「あひたげひと」が上代語を継いだと見ることは可能。
たぐ…[自]ガ下二 飲食する。(万)0221 妻毛有者 採而多宜麻之 作美乃山 野上乃宇波疑 つまもあらば つみてたげまし さみのやま ののへのうはぎ〔「うはぎ」はキク科の草本。若葉を食用にする〕
とぐ…[他]ガ下二 なし遂げる。
高抜原…比定地を求めた研究は、今のところ見つからない。
…(古訓) あまた。おほし。もろもろ。
…「(古訓) また。さらに。」原意は「かさねて。輪をかけて。」
夏四月甲午朔、天皇欲設吳人、
歷問群臣曰「其共食者、誰好乎。」
群臣僉曰「根使主可。」
天皇、卽命根使主爲共食者遂、於石上高拔原饗吳人。
時、密遣舍人視察裝飾、舍人復命曰
「根使主所著玉縵、大貴最好。
又衆人云、前迎使時又亦著之。」
於是、天皇欲自見、命臣連裝如饗之時、引見殿前。

夏四月(うづき)甲午(きのえうま)の朔(つきたち)、天皇(すめらみこと)呉の人に〔饗(あへ)を〕設(まう)けむと欲(おもほ)して、
歴(あまね)く群臣(まへつきみたち)に問ひたまひて曰(のたまはく)「其の共食者(あひたげひと)や、誰(た)ぞ好(よし)乎(か)。」とのたまへば、
群臣僉(みな)曰(まを)ししく「根使主(ねのおみ)をもちゐたまはる可(べ)し。」とまをしき。
天皇、即ち根使主に命(おほ)して共食者の為に遂(と)げしめて、[於]石上(いそのかみ)の高抜原(たかぬきはら)に、呉の人を饗(あ)へしめませり。
時に、密(ひそか)に舎人(とねり)を遣(つかは)して装飾(かざれるさま)を視察(み)しめませれば、舎人復命(かへりごとまをして)曰(まをししく)
「根使主の所著(つけたる)玉縵(たまかづら)、大(おほきに)貴(たふと)くて最(もとも)好(よ)し。
又(また)衆人(もろもろ)の云(まをさく)、前(さき)に使(つかひ)を迎へし時、又(さらに)亦(また)之(こ)を著(つ)けてありとまをす。」とまをしき。
於是(ここに)、天皇欲自見(みづからみまくほり)たまひて、臣(おみ)連(むらじ)に命(おほ)して[将]饗(みあへ)の時の如(ごと)く装(よそほひ)せしめて、殿(との)の前(まへ)に引見(まみ)へしめましき。

さく…[他]カ下二 離れる。
欷歔(ききょ)…すすり泣く。
すすろふ…[自]ハ四 ずるずる吸い込む。〈時代別上代〉「ススルの例は、上代の確例な」し。
…[動] すすり泣く。(古訓) ほゆ。さけふ。なく。
むせふ…[自]ハ四 嗚咽する。
啼泣…涙を流してなき続ける。
…[動] いたむ。心配する。(古訓) いたむ。おもふ。きす。
皇后、仰天歔欷啼泣傷哀。
天皇問曰「何由泣耶。」
皇后避床而對曰
「此玉縵者、昔妾兄大草香皇子、奉穴穗天皇勅、
進妾於陛下時、爲妾所獻之物也。
故、致疑於根使主、不覺涕垂哀泣矣。」

皇后(おほきさき)、天(あめ)を仰(あふ)ぎて歔欷(すすろひ)啼泣(むせひな)きて傷(いた)み哀(かな)しめり。
天皇問ひて曰(のたま)はく「何由(なにゆゑ)に泣きたまふ耶(や)。」とのたまひて、
皇后床(とこ)を避(さ)けたまひて[而]対(こた)へ曰(まを)したまひしく、
「此の玉縵者(は)、昔(むかし)妾兄(わがあに)大草香皇子(おほくさかのみこ)、穴穂天皇(あなほのすめらみこと)の勅(おほみこと)を奉(たてまつ)りて、
妾(われ)を[於]陛下(みかど)に進(たてまつ)りし時、為妾(わがために)所献之(たてまつりし)物也(なり)。
故(かれ)、[於]根使主を疑ふに致(いた)りて、不覚(おもはず)て涕(なみた)垂(た)りて哀(かな)しみに泣けり[矣]。」とまをしたまひき。

…[動] あやまつ。たがう。(古訓) あやまち。あやまつ。たかふ。
八十聯綿…〈甲本〉ツゝキ綿ニノ
…(古訓) つねなり。ともから。ならふ。
…[動] あずかる。関与する。=予。「自分のものを他に預ける」は日本語用法。(古訓) あつかる。はへり。
あづかる…[自]カ四 関係する。
かくる(隠る)…[自]ラ四 〈時代別上代〉すでに下二段の例も多く、次の時代につながる。
日根…〈倭名類聚抄〉{和泉国・日根【比禰】郡〔ひねのこほり〕
天皇聞驚大怒、深責根使主。
根使主對言
「死罪々々、實臣之愆。」
詔曰
「根使主、自今以後、子々孫々八十聯綿、莫預群臣之例。」
乃將欲斬之、根使主逃匿、至於日根造稻城而待戰、
遂爲官軍見殺。

天皇聞きたまひて驚きて大(おほ)きに怒りて、深く根使主を責めたまふ。
根使主対(こた)へて言(まを)さく
「死罪(しにのつみ)々々(しにのつみ)、実(まこと)臣(やつかれ)之(の)愆(あやまち)なり。」とまをして、
詔(おほせこと)曰(のたまひしく)
「根使主、今自(よ)り以後(のち)、子々孫々(あなすゑのあなすゑ)八十(やそ)の連綿(つづき)に、群臣(まへつきみたち)之(の)例(ならひ)に預(あづか)ること莫(なか)れ。」とのたまひき。
乃(すなはち)[将][欲]之(こ)を斬(き)らむとしたまひ、根使主逃げ匿(かく)りて、[於]日根に至りて稲城(いなき)を造りて[而]戦(いくさ)を待ちまつり、
遂(つひ)に官軍(すめらみくさ)の為に見殺(ころさえまつりき)。

きだ…[助数] 分割したものを数える。
かたり…[名] 話題。(万)1062 視人乃 語丹為者 聞人之 視巻欲為 みるひとの かたりにすれば きくひとの みまくほりする。
負嚢者…伝統訓は「ふくろかつぎひと」。
天皇命有司、二分子孫、
一分爲大草香部民以封皇后、一分賜茅渟縣主爲負嚢者。
卽求難波吉士日香々子孫賜姓爲大草香部吉士、
其日香々等語在穴穗天皇紀。
事平之後、小根使主【小根使主、根使主子也】、
夜臥謂人曰「天皇城不堅、我父城堅。」
天皇傳聞是語、使人見根使主宅、實如其言、故收殺之。
根使主之後爲坂本臣、自是始焉。

天皇(すめらみこと)有司(つかさ)に命(おほ)して、子孫(あなすゑ)を二(ふたきだ)に分かたしめて、
一分(ひときだ)は大草香部民(おほくさかべのたみ)と為(な)したまひて以(も)ちて皇后(おほきさき)に封(たまは)りて、一分(ひときだ)は茅渟(ちぬ)の県主(あがたぬし)に賜(たまは)りて負嚢者(ふくろおふひと)と為(な)したまふ。
即ち難波吉士(きし)日香々(ひかか)の子孫(あなすゑ)を求めて姓(かばね)を賜(たまは)りて大草香部吉士(おほくさかべのきし)と為(な)したまふ、
其の日香々等(ら)の語(かたり)、穴穂天皇(あなほのすめらみこと)の紀(ふみ)に在り。
事(こと)平(たひらか)になりし[之]後(のち)、小根使主【小根使主(をねのおみ)、根使主の子(こ)也(なり)】、
夜(よ)に臥(ふ)せて人に謂(い)ひて曰(い)はく「天皇の城(き)不堅(かたからず)、我が父の城(き)堅し。」といふ。
天皇是の語(かたり)を伝へ聞きたまひて、人を使はして根使主の宅(いへ)を見しむれば、実(まこと)なること其の言(こと)の如くにて、故(かれ)収(をさ)めて[之]殺したまひき。
根使主之(の)後(のち)に坂本臣(さかもとのおみ)と為(な)れるは、是(ここ)自(よ)り始まれり[焉]。

《負嚢者》
 「負嚢者」の慣用訓が「ふくろかつぎびと」となったルーツを探る。
・〈甲本〉に「カツキシヒトゝシキ」。ただし、誤写を含むと見られる。
・〈仮名日本紀〉では「ふくろかつぎびと」。
 しかし、「かつぐ」は〈時代別上代〉の見出し語にはないので、実際の例を見つけられなかったと思われる。 関連がありそうな語に「かづく」がある。
かづく(潜く)…[自]カ四 潜水すること。海女を「かづきめ(潜き女)」という。[他]カ下二 水に潜らせる。鵜飼いに用いることが多い。
 「かづく」は、平安時代になると「頭に被る」意味でも使われる。『源氏物語』に「頭つきはいと白きに黒きものをかづきて」がある。 これは恐らく、「かづく(潜水する)」と同根であろう。 しかし平安時代には一般に濁点を書かないから、古訓は「かつき」と書かれ、それが後世に「かつぎ」と解釈されたのではないか。 だから、「かづく」説を認める場合は「ふくろかづきひと」と訓まねばならない。
 さて、〈学研新漢和〉によれば、『類聚名義抄』観智本における「」の古訓は「うれへ。おふ。おほす。そむく。たのむ。とし。はち。まく。」である。 したがって、上代に「かづく」が「背負う」意味に使われ、それに「負」の字が当てられたとは、なかなか考えにくい。
 記上巻には、大国主命は「於大穴牟遅神負帒 為従者率往」と書かれる。「かづく」とするなら、この「」も「袋をかづけて(または、かづかしめて)」と訓まねばならない。
 ただ、平安以後「ふくろかつぎびと」が日本語として定着しているのは事実である。 この項は、上代にこの語がどう訓まれたかを論じたものである。
《大草香部》
 根使主による玉蔓の横領が露見したことにより、大草香皇子の名誉は回復された。 しかし、大草香皇子は既に亡いので、皇子に篤く仕えて殉死した難波吉士の日香々の子孫を探し出して、 姓「大草香吉士」を賜って称えたのである。
 一方、罪人となった根使主の子孫を貶めて、半数を御名代「大草香」の部民として皇后に、 残りは負袋者として茅渟県主に隷属させた。
 魏志倭人伝の「生口」は、財産として私有する奴隷を指すと見られる (
『魏志倭人伝をそのまま読む』46回)。 「負袋者」は、社会が「生口」の伝統を引きついだものではないかと思われる。
《大意》
 四月一日、天皇(すめらみこと)は、呉の人への饗宴を設けようと思われ、 群臣(まえつきみたち)の歴々に「その共食人(あいたげひと)には、誰が好ましいか。」と問われたところ、 群臣は皆、「根使主(ねのおみ)を用いられるのがよろしいでしょう。」と申し上げました。
 天皇は、そこで根使主に命じて共食人として決定し、石上(いそのかみ)の高抜原(たかぬきはら)で、呉の人を饗宴させられました。
 その時に、密かに舎人(とねり)を遣わして、その接待の装飾の様を視察させたところ、舎人はこう復命しました。
 「根使主が着けた玉縵(たまかずら)は、大変貴く最高でした。 また、人々が言うには、以前使者を迎へた時も、さらにまた、これを着けていたということです」と。
 そこで、天皇は自分でそれを見たいと思われ、臣(おみ)・連(むらじ)に命じて、饗宴の時の装いをさせて宮殿の前に集め、引見しました。
 皇后(おおきさき)は、天を仰いですすり泣きむせび泣き、傷つき哀しがりました。 天皇は「どうして泣いているのか。」と問われ、 皇后は伏せていた床から離れ、お答え申し上げました。
 「この玉縵は、昔、私の兄の大草香皇子(おおくさかのみこ)が、穴穂天皇(あなほのすめらみこと)の勅命を承り、 私を帝に進上した時に、私のために献上したものです。 よって根使主を疑うに至り、不覚にも涙が流れ、哀しみに泣いたのです。」と。
 天皇をこれを聞き驚いて大怒りし、深く根使主を責められました。 根使主は、 「死罪、死罪、まことに私めの過ちでございます。」とお答えしました。
 天皇は、こう詔(みことのり)されました。 「根使主は、今から以後、子々孫々連綿として、群臣(まえつきみたち)の倣(なら)いに預かってはならぬ。」と。
 そして斬ろうとされ、根使主は逃げ隠れて日根に至り、稲城(いなき)〔城〕を造って戦を待ち、 遂に官軍によって殺されました。
 天皇は官僚に命じて、子孫を二分し、 一方を〔大草香皇子の御名代として〕大草香部(おおくさかべ)を置きその部民として、皇后(おおきさき)に封じ、他方は茅渟(ちぬ)の県主(あがたぬし)に賜下して負袋人(ふくろかつぎびと)〔奴隷〕とされました。
 そして、難波吉士(きし)日香々(ひかか)の子孫を探し出して姓(かばね)を賜り、大草香部吉士(おおくさかべのきし)とされました。 その日香々の話は、穴穂天皇紀にあります。
 ことが平定された後、小根使主(おねのおみ)【根使主の子】は、 夜陰に紛れて「天皇の城は堅固ではない、わが父の城の方が堅固である。」と人に話していました。
 天皇はこの語り言を伝え聞き、人を遣わして根使主の家を見に行かせると、実際に言葉の通りでした。よって城を接収し、小根使主を殺しました。 根使主の子孫が坂本臣(さかもとのおみ)となったのは、これがその初めです。


【磯歯津路】
上左:国道479号線と地形。
上中:住吉大社付近。
上右:飛鳥・石上に向かう経路。
:中臣須牟地神社・中臣須牟地神社と、国道479号。
 地元では、国道479号線(長居公園通)が磯歯津路であったと考えられている。
 大阪市東住吉区の公式ページの 「磯歯津(しはつ)路」によれば、 「現在の長居公園通は、長吉長原から浜口町までは、ほぼ平坦な道路で、 坂と見られる場所はありませんが、湯里住吉神社や中臣須牟地神社の伝承を繋ぎ合わせると、 西除天道川と長居公園通の交差点付近に天神山と呼ばれる小高い丘があったようです。
 この文は、天神山が「湯里住吉神社の南」と「長居公園南西の交差点付近」いう複数箇所にあったと述べたものである。
《長居公園通交差点》
 中臣須牟地(なかとみすむち)神社は式内社で、〈神名帳〉に{住吉郡/中臣須牟地神社【大。月次新甞】}と書かれる。 比定社は、中臣須牟地神社(大阪府大阪市東住吉区住道矢田2-9-20)。
 その社頭掲示の『叢社記』に、 「延喜式中臣須牟地神社、〔中略〕同式神須牟地神社与須牟地曽根神社有三社、按而神須牟地神社云者、中臣之当西曰天神山有所〔延喜式に中臣須牟地神社、〔中略〕同〔延喜〕式に神須牟地神社と須牟地曽根神社と、三社有り。 案ずるに、神須牟地神社と云ふは、中臣の当(まさ)に西、天神山と曰ふに、有りし所なり〕と書かれる。
 その日付は「弘化三年丙午〔1846〕六月廿一日」で、幕末である。 〈五畿内志〉―「住吉郡」には、「神須牟地神社【在寺岡村今称三宮」。 「寺岡」は現代地名にはないが、<wikipedia>によれば「現在の長居地域は、江戸時代には摂津国住吉郡寺岡村・堀村・前堀村の3つの村に分かれていた」 というので、当時の神須牟地神社の位置も現在と同じであろう。
《湯里住吉神社の南》
 「西除天道川」については、「今川の嫁謗(よめそしり)堤」の項に、 「湯里住吉神社の西側から、南百済小学校の西側」に天道川の東堤防が残っていたと書かれる。
 こちらの「天神山」については、前述の『五畿内志』に「楯原神社【在西喜連村今称天神」とある。 楯原神社は、延喜式に{住吉郡/楯原神社}。比定社は大阪市平野区喜連6丁目1-38。
《四極山》
 万葉歌には四極山(しはつやま)、四八津(しはつ)が見られる。
 まず「高市連黒人羈旅〔きりょ;=旅、旅人〕歌八首」との題詞がつけられたうちの一首を見る。
――(万)0272 四極山 打越見者 笠縫之 嶋榜隠 棚無小船 しはつやま うちこえみれば かさぬひの しまこぎかくる たななしをぶね
摂津笠縫邑跡
 歌に織り込まれた「笠縫之嶋」については、笠縫邑跡(かさぬむらあと)の碑が、東成区深江南3丁目16番17号にある。 かつてこの地は「笠縫島」と呼ばれ、笠縫部が大和の笠縫邑から移住したと伝えられ、 古くは全戸が笠造りに従事したという。
 東成郡は、河内湖(草香江)が上町台地(第143回)から東に向かって順次陸地化して形成された土地である。 この歌が詠まれたときは、笠縫邑はまだ河内湖に浮かぶ島であったことになる。 この歌は、山を越えたところで、棚無舟が笠縫島を一回りして向こう側に隠れる様子が見えたと詠う。 すると詠み手は、西から東に向かって四極山を越えたことになる。
 国土地理院の陰影図を見ると、「四極山」は上町台地の南の端にあったと思われる。
 高市黒人の歌からは「四極山」は十分「山」と言える高さがあったと感じられ、 長居公園通の途中の坂が削平されたとするのは不自然に感じられる。
 一方、「(万)0999四八津之白水郎 しはつのあま」には 「従千沼廻 ちぬみより」とある〔茅渟は和泉郡〕ので、やはり四極山のところだと思われる。 四八津という表記から見て、 そこは住吉津から1kmほど北に位置するで、 海岸に迫る「しはつ山」を超える道が磯歯津路ではなかったかと思われるのである。 それには古く存在した住吉街道が該当するが、さらに北かも知れない。
 いずれにしても磯歯津路からは、長尾街道あるいは丹比道から横大路を経て、 檜前(高市郡)まで繋がっていたのではないかと想像される。 ただ、長居公園通から長尾街道などに入るまでの経路ははっきりしない。 南東に斜行しようとしてもまだ湿地帯で、後に難波大道となる道筋を南に進んだことも考えられる。

まとめ
 根臣の讒言によるものとはされるが、要するに安康天皇は大日下王を殺してその妻を奪ったのである。 大日下王の妻は、きわめて魅力的な女性だったのであろう。
 安康天皇には、さらに近親婚の疑惑がある。 実は近親婚を咎められて殺されたたのは安康天皇自身だが、 天皇を貶めることを避け、その伝説を木梨之軽王に持って行ったとも考えられる。 そして、その痕跡が「長田大郎女」の名に残ったのではないか。
 根臣の悪行は安康天皇を不名誉から救うために捏造されたものかも知れないが、残された一族は「根臣」を名乗ることができず「坂本臣」となったから、 少なくとも何らかの罪によって殺された可能性がある。
 「己妹乎為等族之下席」については、ひとまず真福寺本の「等授」を採用したが、この文を納得いくまで理解することはなかなか難しい。 特に書紀の「お前と同族とはいえ」の意味にとることは、どうみても無理である。 書紀も遂に「下席」を無視したように、この文を持て余したのではないだろうか。
 さて、雄略天皇紀の関連個所に「磯歯津路」が出てきたが、 その正確な経路は決め難かった。難波大道のように明らかな遺跡が発見される日を待ちたい。



2018.03.09(fri) [193] 下つ巻(安康天皇2) 

自此以後 天皇坐神牀而晝寢
爾語其后曰汝有所思乎
答曰 被天皇之敦澤何有所思
於是 其大后先子目弱王是年七歲
是王當于其時而遊其殿下

此(ここ)自(よ)り以後(のち)、天皇(すめらみこと)神牀(かむとこ)に坐(ましま)して[而]昼寝(ひるね)したまひき。
爾(ここに)其(そ)の后(おほきさき)に語りたまはく[曰]「汝(いまし)有所思乎(おもほゆることやあるか)」とかたりたまひて、
答へ曰(まをしたまひしく)「天皇之(の)敦(あつ)き沢(めぐみ)を被(お)ひまつりて何(いかに)か所思(おもほゆること)や有らむ。」とこたへまつりたまひき。
於是(ここに)其の大后(おほきさき)の先(さき)の子(みこ)目弱王(まよわのみこ)是の年七歳(ななつ)。
是の王(みこ)当(まさに)[于]其の時にあたりて[而]其の殿(との)の下(した)に遊(あそ)べり。


爾 天皇不知其少王遊殿下
以詔
吾恒有所思
何者汝之子目弱王成人之時 知吾殺其父王者
還爲有邪心乎」
於是 所遊其殿下目弱王聞取此言
便 竊伺天皇之御寢取其傍太刀
乃 打斬其天皇之頸
逃入都夫良意富美之家也

爾(ここに)天皇、其の少(をさ)なき王(みこ)殿の下に遊びしことを不知(しりたまはず)。
以ちて詔(のたま)ひしく
「吾(われ)恒(つね)に所思(おもほえ)て有り。
何(いづれ)者(は)汝(いまし)之(が)子(みこ)目弱王人と成りし[之]時、吾(われ)其の父王(ちちみこ)を殺せしことを知ら者(ば)、
還(かへ)りて邪(よこしま)なる心有ることに為(な)らむ乎(や)。」とのたまひき。
於是(ここに)、其の殿の下に所遊(あそびし)目弱王、此の言(こと)を聞き取りき。
便(すなはち)、窃(ひそか)に天皇之(の)御寝(みね)を伺(うかが)ひて其の傍(かたはら)の大刀(たち)を取りて、
乃(すなはち)其の天皇之(の)頸(みくび)を打ち斬(き)りまつりて、
都夫良意富美(つぶらのおほみ)之(の)家(いへ)に逃げ入(い)りき[也]。


天皇御年伍拾陸歲
御陵在菅原之伏見岡也

天皇の御年(みとし)伍拾陸歳(いそちあまりむつ)。
御陵(みささき)菅原之伏見岡(すがはらのふしみのをか)に在り[也]。


 その後、天皇(すめらみこと)は御床にいらっしゃり、昼寝されました。 そして、皇后(おおきさき)に、「お前、何か思うことはあるか。」と声をかけられ、 皇后は「天皇の厚沢をお受けし、何を思うことがありましょうか。」とお答えされました。
 そのとき、皇后の以前の子、目弱王(まよわのみこ)はこの年七歳でした。 王(みこ)はまさにこの時、その宮殿の下で遊んでいました。
 そのとき天皇は、その幼い王が宮殿の下で遊んでいることを知りませんでした。 そして 「私は常に思っていることがあった。 いずれ、お前の子、目弱王が成人したとき、私がその父を殺したことを知れば、 心を翻(ひるがえ)して邪心をもつことにならないだろうか。」と仰りました。
 そのとき、宮殿の下で遊んでいた目弱王は、この言葉を聞き取りました。 そこで、密かに天皇の御寝(みね)を伺(うかが)い、その傍らの太刀を取り、 その天皇の御頸(くび)を斬り、 都夫良意富美(つぶらのおおみ)の家に逃げ込みました。
 天皇の御年(みとし)は五十六歳。 御陵は菅原之伏見岡(すがわらのふしみのおか)にあります。


…[名] 寝台。床(とこ、ゆか)。(古訓) とこ。ゆか。
とこ(床)…[名] 寝床。あるいは寝床のようになったところ。
かむとこ…[名] 〈時代別上代〉の見出し語に「玉床」はあるが「かむとこ・かみとこ」はない。 しかし、玉床と同じく天皇の床に対する美称であろうと思われる。
おもほゆ…[自]ヤ下二 思いが湧いてくる。万葉集には「所思」と表記。「(万)0915 川音 止時梨二 所思公 かはおとの やむときなしに おもほゆるきみ」など。 「おもふの未然形おもは+自発の助動詞(下二段活用)」から転じたもの。
…[副] かえって。(古訓) かへる。
いづれ…[疑代] 複数から一つに定まる前の候補を指す。 ここでは、いつ起こるかは予測できないが、確実に起こるという意味と見らる。
かへりて…[副] かえって。
すげ(菅)…[名] 植物名。カヤツリグサ科。
菅原…[名] すがはら、すげはら。ここでは地名。
伍拾陸…「五十六」の大字。

【真福寺本】
 真福寺本の「太刀」は、一般的に「大刀」とされる。

【七歳】
 目弱王は、七歳にして安康天皇を殺したのであろうか。 現実的に理解しようと思えば、真相を知ってから殺すまでに年数が必要である。 副詞「便」(すなはち)には、もともと「たやすく」の意味があり、原因が結果を生む確率が高いことを表す。 それに対して「」は一義的には2つの事柄の時間的な近接を意味するから、「即」よりは時間が空いてもよいことになるが、 決定的ではない。
 書紀の「既而〔すでにして=とうとう〕も年月を隔てた意味はなく、逆に直後である印象が強い。 間に年月が挟まっていると解釈するのは不可能ではないが、不合理でも七歳で殺したととるのが素直な読み方であろう。

【五十】
 五十は「」と訓むが、〈時代別上代〉によれば、これは借訓のみに見いだし得るものだという。 一方で、同辞典が「」を「」と訓む例を見出したのは、三十(みそ)、四十(よそ)、六十(むそ)、八十(やそ)のみのようである。 従って、もともと数値としての「五十」の訓は厳密にいえば不明である。
 「五十」は、木簡データベースでは515点あり、 主に地方から都に運び込む調の分量を表す数値として、ふんだんに用いられている。平易な漢字だからそのまま訓読され、かえって他の漢字を音仮名に用いることがなかったのであろう。
 ミソ、ヨソ、ムソ、ヤソの例から見て、数値としての「五十」はあくまでも「いそ」であろう。 それが「」として使われるようになったのは、連語となった「いそ-○○」から、「」が脱落したことに由来すると思われる。

【菅原之伏見岡】
 記は「御陵在菅原之伏見岡」。 書紀は「菅原伏見陵」と書かれ、記と一致する。
図1 宝来の範囲(緑)…現在の宝来町と、宝来一丁目~四丁目。 図2 桃色は、平城京の坊条道路の地割痕跡。『ヤマト政権の一大勢力・佐紀古墳群』より。
《延喜式》
 〈延喜式〉「諸陵寮」には「菅原伏見西陵。石上穴穂宮御宇安康天皇。在大和国添下郡。兆域東西二町南北三町。守戸三烟。」とある。 もう一つの「菅原伏見東陵」は、垂仁天皇陵とされ「兆域東西二町南北二町」である (第121回)。
 従って、延喜式〔十世紀初頭〕の時点では、菅原伏見の地に垂仁天皇陵を上回る規模の陵がもう一基あったことになるが、それは見当たらない。 それでは、どこが「西陵」に比定されているのであろうか。
《安康天皇陵》
 『五畿内志』巻十三「添下郡」の【陵墓】の項に、 「菅原伏見西陵【安康天皇○在宝来冢邑霊亀元年夏四月充守陵四戸」 とある。それでは、「宝来冢邑」とはどこのことか。同じく【村里】の項には「宝来【属邑二】」とあるから、宝来村に属する小邑のひとつであろう。 宝来村の名は、現代地名では宝来町および宝来一丁目~宝来四丁目に残る。 宮内庁が「安康天皇陵」に治定した遺跡はその現代の「宝来」のほぼ中央にある(図1)から、五畿内志と一致している。
図3 平成10年〔1998〕の限定公開時の宮内庁の発表資料―『天皇陵の謎』(文春新書)より
 その遺跡は、『天皇陵の謎』(文春新書2011―矢澤高太郎著、以下「文献Ⅰ」)によると、「方形の堀で囲まれ、土塁と馬出しを持つ単郭の城跡であること」が確認でき、 「土豪の宝来氏が居館として築き、それを徳川方が大阪城攻撃の際の要衝のひとつとして大幅に改造を加えた遺構」と推測されるという(図3)。
 国土地理院の陰影図(図2)を見ても、5世紀の天皇陵には似ても似つかない。
 図2には、宝来山古墳の北西に明瞭な円墳が見える。これは兵庫山古墳で、宮内庁指定の 「菅原伏見東陵飛地い号」にあたる (『ヤマト政権の一大勢力・佐紀古墳群』新泉社2014-今尾文昭著、以下「文献Ⅱ」)。 これは確かに宝来山古墳の西で、元禄期から文久の修復〔1862-〕までは安康天皇陵とされていたという。
《菅原伏見西陵》
 図2を見ると、宝来山古墳以外に「兆域東西二町南北三町〔一町=約108m〕に見合う前方後円墳は存在しない。 しかし、強いて言えば宝来山古墳の南東に、前方後円墳の痕跡のような地形が見える。現在は農地で、天神社がある。 これを前方後円墳の痕跡とするのは、ほとんど妄想である。 しかし、陰影図を見ても、その雰囲気を感じさせる場所は他にはないから、 宝来山古墳と同規模の古墳跡と仮定してその可能性を探ってみたい。ここでは、仮に「古墳X」と呼ぶことにする。 古墳Xは宝来山古墳の東にあるから、宝来山古墳の方が延喜式のいう「菅原伏見西陵」で、古墳Xが「東陵」となる。
《寺院のための削平か》
 まず、古墳Xがあったとすれば、意図的に削平されたとしか考えられない。
 仁徳天皇段のところで、「菟道稚郎子墓」に相当する前方後円墳が存在しないのは、興聖寺を拡張ために削平されたものと判断した (第155回)。
 延喜式の後に削平されて、大規模寺院が築かれたと想像することはできるが、残念ながらそのような記録は見いだせない。 ただ、「天神社」( 奈良県奈良市尼辻中町6)の由緒は不明であるが、一部に「元々寺院だったと云うが定かではない」と述べたサイトを見る〔ただし、その根拠は不明〕
 宮内庁は菅原伏見東陵の倍塚に、飛地い号飛地へ号が治定されている。 そのうち、飛地に号は古墳Xの後円部にあたる。 「古墳の可能性がある」(文献Ⅱ)とも言われるが、これは小さな方墳とする解釈である。 寺院跡とするなら、一旦削平した後に寺の一つの建物のために土盛りしたものであろう。
図4 文献Ⅱの図「佐紀古墳群南郡」(部分)
《坊条と墳丘》
 文献Ⅱの古墳配置図(図4)には、 平城京の坊条大路の跡が示されている。文献Ⅱによると宝来山古墳のところで大路は中断され、 また兵庫山古墳〔宮内庁飛地い号〕や、「塚垣内古墳」のところではそれを避けるように湾曲したり細まったりした可能性があると述べる。
 それでは、古墳Xの周辺はどうなっているか。前方部の東辺に沿って西二坊坊間路地割(図4A2A3)があるから、周濠はもう失われていたようだ。 また、この坊間路のA1A2が後円部に沿って曲がっていたか、丘越えの細い道か、或いは欠けているかは分からない。 三条大路・四条大路の第三坊間路の古墳Xを横切る区間(B1B2)は欠けているか、あるいはごく細い。 すると、墳丘があった可能性がないとは言えない。
《諸陵寮の読み方》
 ここで留意すべきは、「延喜式諸陵寮」には、損壊した陵墓も含まれるらしいことである。
 ※…諸陵寮に書かれた陵の最後は光孝天皇〔887年崩〕で、延喜式成立〔927〕の時期に見合うものである。
 ひとつの例として、楊梅陵(やまもものみささき、市庭古墳、平城天皇)(図4)は本来前方後円墳であったが、前方部が平城宮建設の際削平されたという。 これはずっと直径147mの円墳だと思われていたが、1962~63年の調査により、墳丘長253mの前方部を南に向けた前方後円墳であったことが判明した。 だから、平城京遷都の頃には古墳は単なる遺跡であり、祖先の墓として尊重する意識はなかったようだ。
 ところが、延喜式には「楊梅陵。平安宮御宇日本根子推国高彦尊天皇〔平城天皇の和風諡号〕【在大和国添上郡】」が載る。 注目されるのは、その兆域は「兆域東西二町。南北四町〔216m×432m〕で、削平前の前方後円墳に見合う大きさが書かれていることである 第175回の図を見ると、兆域の一辺は墳丘長の1.5倍程度〕。 だから、市庭古墳の前方部が削平された事実は知られていたと思われる。
図6 第一次大極殿 2014年に再現建造したもの。(図5の)
図5 楊梅陵
 なお、平城天皇は上皇となった後、810年に平安京から平城京に遷都しようとして叶わなかった。 だから崩じた後は旧平城京を眼前に見る市庭古墳に合葬され、その結果楊梅陵が平城天皇陵と記されたのではないだろうか。
 他にも平城京の第二次大極殿の下から古墳跡が見つかり〔神明野古墳と命名〕、こちらは完全に削平されていた。 「諸陵寮」に書かれた陵墓は一般的には既に遺跡であり、損壊が進んでいたものも多いと思われる。
 しかし、「諸陵寮」には、各陵墓に毎年十二月に奉幣することとして、 大蔵省の庭にその使者を一堂に集めて幣帛を託す儀式の次第も定められている。 また「毎年二月十日差-遣官人巡検」 「其兆域垣溝若有損壊者。令守戸修理〔兆域の垣・溝に損壊があれば、守戸に修理させる〕 など、一定の管理をするとされる。 その「兆域」は、楊梅陵を見ると損壊前の姿を想定して定められたようだ。
 前述したように、平城京建造の頃は天皇陵は顧みられなかったが、奈良時代末期には陵の損壊を憂う記事も現れる。
――〈続日本紀〉宝亀十一年〔780〕十二月辛卯朔甲午〔四日〕: 「今聞寺悉壊二上墳墓 採-用其石唯侵-驚鬼神 実亦憂子孫 自今以後宜加禁断〔今、寺を造るに悉く墳墓を壊すと聞きたまふ。その石を採り用ゐたるは、ただ鬼神を侵し驚かしむに非ず、実(まこと)にまた子孫(はつこ)を痛めむことを憂ふ。今より以後(のち)宜しく禁断(きむだむ)を加(くは)ふるべし。〕
 諸陵寮の奉幣云々への言及は、古い時代の天皇陵への祭祀の再現を意図した復古主義によるものであろう。 日本書紀の研究が改めて進んでいたことが、影響したのかも知れない。 そもそも延喜式制定の動機は、200年前の律令による国の形に戻すことだと思われる。
 しかし、そこに書かれたことの現実化は必ずしも徹底しなかったと想像される。 陵墓への幣帛についても、各国の使者は大蔵省の庭に集まって受け取りはするが、実際には陵墓の前までは運ばず、各国の政庁でまとめて祝詞を奏上して終わりだったのかも知れない。
 だから「諸陵寮」には損壊が進んでいても古墳の面影が残っていれば、「○○天皇陵」としたものも含まれると想像される。 その流れで見れば、古墳Xについても痕跡のみを「菅原伏見東陵」と定義したことはあり得るのではないか。
《宝来山古墳の姿》
図8:菅原伏見東陵-荒蕪 図9:菅原伏見東陵-成功
『文久山陵図』鶴沢探真画/新人物往来社
図7 現在の宝来山古墳
 「菅原伏見東陵」の姿はあまりに整っているので、これに匹敵する「西陵」を期待したくなるが、 それが存在しないことにより無理な治定を余儀なくされてきた。
 宝来山古墳の優美な姿は文久の修陵の結果であって(図9)、修復前はそれほど整ってはいない(図8)。 削平前の古墳Xの姿も、ある程度は前方後円墳の形を伺わせるもので、両者の外見の差は現代よりも少なかったかも知れない。
《菅原伏見陵》
 古墳Xが「菅原伏見東陵」なら、「菅原伏見西陵」は宝来山古墳ということになる。
 安康天皇は三年に暗殺されたが、書紀では埋葬がそれから「三年後」とされることが注目される。 これまでにも、反正天皇が葬られたのが允恭天皇五年になったのは、巨大陵が完成するまでに長い年月を要したからだと見た (第183回)。 安康天皇陵も築陵に5年ほど要した大古墳で、宝来山古墳こそが安康天皇陵ではなかったかと思われるのである。
 雄略天皇が安康天皇を暗殺した可能性はあるが、記紀に書かれた安康天皇の死を悼む行動を信用すれば、 暗殺後も築陵を中断させず、立派に完成させて葬ったことになる。 文献Ⅰは「壮大な前方後円墳は築かれなかった」可能性に言及しているが、 陵の有無は、その死因の情けなさとは無関係であろう。
 ただ、宝来山古墳の年代は4世紀後半~5世紀初頭といわれ、安康天皇の崩〔454年〕より相当早い。
図10 長持形石棺―前塚古墳(大阪府高槻市、5世紀)  ja.wikipedia.org
《宝来山古墳の年代》
 そこで、宝来山古墳の年代なるものの裏付けを探る。 
 嘉永2年〔1849〕の盗掘により、宝来山古墳には竪穴式で長持形石棺(図10)があったことが知られる。 文献Ⅱによると、その石棺は「亀の形」で棺長1.8m、高さ0.9m、幅0.9mとし、 さらに「出土遺物についての情報も乏しい。宮内庁採集資料として野焼きで円形スカシのある円筒埴輪、 盾形、家形、靱(ゆき)形埴輪がある」という。
 <wikipedia>によれば、形象埴輪は4世紀前半から6世紀半ばで、そのうち人物埴輪・馬形埴輪は5世紀後半以後だという。
 また長持形石棺は、円筒埴輪Ⅱ期~Ⅳ期(4世紀後半から5世紀末)に対応するという。 これらによれば、宝来山古墳の時期は4世紀~5世紀半ばとなる。 だから、安康天皇陵の可能性は残る。
 なお、別の考え方としては古墳X(東陵)の方が安康天皇陵で、延喜式が東西を取り違えたことも考えられる。
《宝来山古墳の性格》
 宝来山古墳は孤立した大古墳なので、 仁徳天皇以前の時代に氏族が皇子を婿に迎えて大王を持ち回りした古墳ではないかと論じた (第162回)。
 これが安康天皇陵だとすると、この時代になってローカル氏族による皇子へのバックアップが復活したことになる。 そして、その兄弟をそれぞれ異なる氏族が押し立てて争いが起り、 結局皇子たちを雄略天皇が殺すことによって制圧したという筋書きが浮かび上がる。 まるで戦国時代であるが、それが権力闘争の法則というものであろう。

【書紀―三年】
安康6目次 《天皇為眉輪王見弑》
三年秋八月甲申朔壬辰、天皇、爲眉輪王見弑。
辭具在大泊瀬天皇紀。
三年後、乃葬菅原伏見陵。

三年(みとせ)秋八月(はつき)甲申(ひのえさる)を朔(つきたち)として壬辰(みづのえたつ)〔九日〕、天皇、眉輪王(まゆわのみこ)の為に見弑(ころさゆ)。
辞(こと)具(つぶさ)に大泊瀬天皇(おほはつせのすめらみこと)の紀(ふみ)に在り。
三年後(みとせののち)、乃(すはなち)菅原伏見陵(すがはらのふしみのみささき)に葬(はぶ)りまつる。

《大意》
 三年八月九日、天皇は眉輪王(まゆわのみこ)によって殺されました。 その記事は、詳しくは大泊瀬(おほはつせ)天皇紀にあります。 三年後、菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)に葬られました。


【雄略天皇紀―即位前(一)】
雄略天皇1目次 《大泊瀬幼武天皇》
みつ…[他]下二 満たす。
…(古訓) おとなつく。ひととなる。たけ。
…[名] 対等の相手。[動] まっすぐに立つ。堂々と相手する。
…[名] (古訓) たけし。すくよかなり。
伉健…〈帝王編年紀〉「伉健【タクマシキコト】」。
大泊瀬幼武天皇、雄朝嬬稚子宿禰天皇第五子也。
天皇、産而神光滿殿、長而伉健過人。

大泊瀬幼武天皇(おほはつせわかたけるのすめらみこと)、雄朝嬬稚子宿祢(をあさづまわくごのすくね)の天皇の第五(だいご)の子(みこ)也(なり)。
天皇、産(あ)れまして[而]神光(かむひかり)殿(との)に満ててありて、長(ひととな)りたまひて[而]伉(た)ちて健(つよき)こと人に過(すぐ)れり。

《安康天皇三年八月》
山宮…場所を特定するのは難しい。
…[名] (古訓) たかとの。
…[助] ①感嘆や感動の語気を表す。文末または主語につける。②文中のリズムを整える声。訓読しない。
遊目…あちこちと視線を動かしてながめやる。たのしみながら見渡す。 『芸文類聚』〔唐;624〕巻十七-髑髏:「遊目於九野、観化於八方」。
めぐり…[名] 周囲。(万)4049 安利蘇野米具利 見礼度安可須介利 ありそのめぐり みれどあかずけり。
…[動] ほしいままにする。(古訓) ほしいまま。 [動] つらねる。(古訓) つらぬ。[助] ここに。詩の語調を整える。(古訓) しかるかゆへに。
…[動] ぐるぐるまわる。円を描く。(古訓) めくる。
…(古訓) たのしひ。
たのしび…[名] 形容詞「たのし」から派生。
…(古訓) かきり。きはむ。つきぬ。
(間)…[名] ① 空間的な間。(万)0428 隠口能 泊瀬山之 山際尓 こもりくの はつせのやまの やまの。 ② 空間的な間。あることの行われている間、逆にこととこととの間隙。
言談(げんだん)…さかんに話をすること。
三年八月、穴穗天皇、意將沐浴、幸于山宮、
遂登樓兮遊目、因命酒兮肆宴。
爾乃情盤樂極間、以言談顧謂皇后

〔安康天皇〕三年(みとせ)八月(はつき)、穴穂天皇(あなほのすめらみこと)、意(こころ)[将]沐浴(ゆかはあみ)たまはむとおもほして、[于]山宮(やまつみや)に幸(いでま)して、
遂(つひ)に楼(たかどの)に登りて[兮]遊目(めぐりめ)して、因(しかるがゆゑに)酒(みき)を命(おほ)して[兮]宴(うたげ)肆(ほしきまにまに)したまふ。
爾(ここに)乃(すなはち)情(こころ)楽(たのしび)の極(きはみ)を盤(めぐ)りし間(ま)、言談(かたらひ)を以ちて顧(かへりみ)て皇后(おほきさき)に謂(のたまはく)。

さらに…[副] さらに。かさねて。
去来穂別天皇女中蒂姫皇女…「去来穂別天皇〔履中天皇〕幡梭皇女中磯皇女」 (履中天皇元年)。
【去來穗別天皇女曰中蒂姬皇女、更名長田大娘皇女也。
大鷦鷯天皇子大草香皇子、娶長田皇女、生眉輪王也。
於後、穴穗天皇、用根臣讒、
殺大草香皇子而立中蒂姬皇女爲皇后。
語在穴穗天皇紀也】

【去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)の女(みむすめ)中蒂姫皇女(なかしひめのみこ)と曰ふは、更(さら)に長田大娘皇女(ながたのおほいらつめのみこ)と名(なづ)けてあり[也]。
大鷦鷯(おほさざき)天皇の子(みこ)大草香皇子(おほくさかのみこ)、長田皇女を娶(めあは)せて、眉輪王(まゆわのみこ)を生みたまひき[也]。
於後(のちに)、穴穂(あなほ)天皇、根臣(ねのおみ)の讒(そしりごと)を用(もち)ゐて、
大草香皇子(おほくさかのみこ)を殺して[而]中蒂姫皇女を立たして皇后(おほきさき)に為(し)たまふ。
語(かたり)穴穂天皇の紀(ふみ)に在り[也]。】

親昵(しんじつ)…したしくしてなじむ。
…(古訓) したし。ちかし。むつまし。
むつまし…[形]シク 睦まじい。
…(古訓) いはく。なつく。
まくらく…[自]カ四 枕の動詞化。
曰「吾妹【稱妻爲妹、蓋古之俗乎】、
汝雖親昵、朕畏眉輪王。」
眉輪王、幼年遊戲樓下、悉聞所談。
既而穴穗天皇、枕皇后膝、晝醉眠臥、
於是眉輪王、伺其熟睡而刺殺之。

[曰]「吾妹(わぎも)【妻を称(い)ひて妹(いも)と為(な)す、蓋(けだし)古(いにしへ)之(の)俗(ならひ)乎(か)】や、
汝(いまし)雖親昵(むつましかれど)、朕(われ)眉輪王(まゆわのみこ)を畏(おそ)りたまふ。」とのたまひき。
眉輪王、幼年(をさな)くして楼(たかどの)の下(した)に遊戯(あそ)べりて、悉(ことごとく)所談(かたらひ)を聞けり。
既にして[而]穴穂天皇、皇后の膝を枕(まくら)きて、昼に醉(ゑ)ひて眠(ねぶ)り臥(ふ)せたまひて、
於是(ここに)眉輪王、其の熟睡(ふかきねぶり)を伺(うかが)ひて[而]之(こ)を刺し殺しまつりき。

《山宮》
 「山宮」は温泉が湧き、かつ高殿が建ち眺めがよかったと描かれている。 実在の場所ではなく、物語の装飾要素として中国の山水画のような風景を描いたのかも知れない。 そのためか、表現は漢詩風である。〈新漢和〉の「」の項には、 「『へい、ほい』という間拍子(まびょうし)の声をあらわす助辞。おもに『楚辞』や楚の調子をまねた歌に用いられた」とある。
《分注》
 分注によって、中蒂姫は中磯皇女・長田大郎皇女と同一人物であると規定する。 「長田大郎皇女」の名が書紀に現れるのは、この分注のみである。
 この分注では「長田郎大郎女」、〔根使主ではなく〕根臣」という古事記の表記を用いている点が注目される。 書紀において安康天皇皇后を中磯皇女に確定させ、その解釈をさらに古事記まで及ぼそうとしたと見られる。
 古事記単独では、長田大郎女は安康天皇の同母姉としか読み取れないのである。
 允恭天皇の皇女「長田大郎女」は、書紀では「名形大郎皇女」であった。 この分注によって中蒂姫長田大郎(皇)女となり、「長田大郎女」は複数化される。
 このようにして、中蒂姫(書紀)=長田大郎女(記)を允恭天皇の皇女として、 安康天皇を近親婚の責めから逃れさせたと見られる。
 なお、中蒂姫の訓みはもともと「なかたひめ」だったはずなので、書紀でさえ原文の段階では「長田大郎女」から脱し切れていない。 〈甲本〉はこの分注によって、中蒂姫を中磯皇女に合わせて「なかしひめ」と訓む〔前回〕ことにして、これが現代まで続く伝統となる。
《称妻為妹》
 上代語において、男性から親しい女性を「いも」と呼ぶのは普通のことである。 ここで改めてこの説明を加えるのは、第十四巻からは〔当時の〕現代的な表現を用いると宣言したものと思われる。
 森博達(次項)は、雄略天皇紀の執筆者は中国人であったからだと述べる。 ただ、執筆者が中国人だったとしても、日本人スタッフとの密接なコミュニケーションを図りながら作業が進んだと思われ、 上代語を全く知らない状態で書かれたとは考えにくい。 あるいは執筆者が倭語を理解する過程において、自分のための覚えとして記したものがそのまま残ったのかも知れない。
《α群》
 森博達は、日本書紀を純正漢文によるα群と和習〔日本独自の漢字の用法〕を含むβ群に分類した (『歴史読本』2013年4月号)。 α群は十四~二十一巻、二十四~二十七巻、三十巻で、残りがβ群とされる。
 雄略天皇紀(十四巻)は、α群である。 その意識をもって見たためかも知れないが、「」「情盤楽極」などは十三巻までにはない簡潔な言い回しに感じられる。 動詞「」は酒を持ってくるように「命じる」のであり、「」は、楽しみの極みを「巡る」。 このように、動詞の意味は拡張されるが一文字に限定し、残りは目的語・修飾語であるから見通しがよい。
《大意》
 大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけるのすめらみこと)は、雄朝嬬稚子宿祢(おあさづまわくごのすくね)天皇の第五子です。 天皇が産まれなされたとき、神光が宮殿に満ち、長じては立派に立つ健やかな姿は人を超えていました。
 三年八月、穴穂(あなほ)天皇は、心から沐浴したいと望まれ、山宮(やまつみや)に行幸し、 遂に望みをかなえて楼台に登り景色を眺め、そして酒を命じて思う存分、宴を楽しまれました。
 そして心が楽みの極みを巡っていたときに皇后(おおきさき)と語らい、昔を振り返って皇后 【去来穂別(いざほわけ)天皇の御娘で、名を中蒂姫皇女(なかしひめのみこ)と言いますが、さらなる名は長田大娘皇女(ながたのおおいらつめのみこ)です。 大鷦鷯(おおさざき)天皇〔仁徳〕の皇子、大草香皇子(おおくさかのみこ)が長田皇女を娶り、眉輪王(まゆわのみこ)を生みなされました。 後に穴穂天皇は、根臣(ねのおみ)の讒言を用いて、 大草香皇子(おおくさかのみこ)を殺して中蒂姫皇女を皇后(おほきさき)に立てられました。 この話は、穴穂天皇紀にあります。】に仰りました。
 「わが妹(いも)【妻を称して妹というのは、けだし古(いにしえ)の俗語か。】や、 お前とは仲睦まじいが、朕は眉輪王が恐ろしい。」と。
 眉輪王は、幼年にして楼台の下で遊び、悉くこの語らいを聞いていました。 既に穴穂天皇が、皇后の膝枕で昼に醉い眠りについているとき、 眉輪王はその様子を伺って熟睡したところを、刺し殺しました。


まとめ
 未知の大王陵が宝来山古墳の東に存在したのならば、宝来山古墳が安康天皇陵である可能性がでてくる。 そこで古墳Xを仮定して検討したが、今のところ想像に過ぎない。
 しかし、延喜式という文書の性格や、宮殿や寺院の造営のために平気で古墳を破壊したことを考慮すると、 宝来山古墳に匹敵する大古墳がどこかにあり、削平された可能性は否定しきれない。
 雄略天皇の前には、皇子たちによる後継天皇の座を巡る激しい争いがあり、安康天皇の暗殺もその一環であったのだろう。 すると、地方氏族はそれぞれの皇子を押し立てて争い、「菅原伏見岡」は安康天皇を押した氏族の墓地であったのではないかと思われる。 書紀によれば暗殺後も陵の造営は中断されなかったから、この氏族は安康天皇亡き後に雄略天皇にうまく取り入ることができたのだろう。



2018.03.12(mon) [194] 下つ巻(安康天皇3) 

爾 大長谷王子當時童男 卽聞此事以慷愾忿怒
乃到其兄黑日子王之許曰
人取天皇 爲那何
然 其黑日子王不驚而有怠緩之心

爾(ここに)、大長谷王子(おほはつせのみこ)当時(そのとき)童男(わらは)にて、即ち此の事を聞きて以ちて慷愾(なげき)忿怒(いか)れり。
乃(すなはち)其の兄黒日子王(くろひこのみこ)之(の)許(もと)に到りて曰(い)はく、
「人(ひと)天皇(すめらみこと)を取りて、為那何(いかにかしまつらむ)」といひて、
然(しかれども) 其の黒日子王不驚(おどろかざ)りて[而]怠緩之(おこたれる)心にて有り。


於是 大長谷王詈其兄言
一爲天皇一爲兄弟何無恃心 聞殺其兄不驚而怠乎
卽 握其衿控出拔刀打殺

於是(ここに)、大長谷王其の兄を詈(ののし)りて言はく
「一(あるは)天皇の為、一(あるは)兄弟(はらから)の為、何(いかに)心を恃(たの)むこと無きや、 其の兄を殺せしこと聞きて不驚(おどろか)ずして[而]怠(おこた)るは[乎]。」といひて、
即ち其の衿を握りて控(ひ)き出(いだ)して、刀(たち)を抜きて打ち殺せり。


亦 到其兄白日子王而 告狀如前緩亦如黑日子王
卽 握其衿以引率來到小治田 掘穴而隨立埋者
至埋腰時兩目走拔而死

亦(また)、其の兄白日子王(しらひこのみこ)に到りて[而] 告げし状(さま)前(さき)の如くして、緩(おこたりしこと)亦(また)黒日子王の如し。
即ち、其の衿を握りて以ちて引率(ひきゐ)来て小治田(をはるた)に到りて、穴を掘りて[而]立てる隨(まにま)に埋(うめ、うめれ)者(ば)
腰を埋(うみ、うめ)し時に至りて、両目(ふため)走抜(はしりぬ)けて[而]死にせり。


 大長谷王子(おおはつせのみこ)は当時には童(わらわ)であり、この事を聞いて嘆き、憤慨しました。 そして、その兄の黒日子王(くろひこのみこ)の許に行って、 「人が天皇(すめらみこと)の命を取ったのに、何もしなくてよいのですか。」と言いましたが、 黒日子王は驚くこともなく、漫然と怠る気持ちでいました。
 そこで、大長谷王はその兄を詈って、 「一つは天皇のため、一つは兄弟のに、どれだけ心を寄せることがないのか、自分の兄が殺されたと聞き驚かず、何もしないとは。」と言い、 その衿を握って引っ張り出し、太刀を抜いて打ち殺しました。
 また、その兄白日子王のところに行って、同じように告げ、怠る心もまた黒日子王と同じでした。 そこで、その衿を握って引っ張って来て、小治田についたところで、穴を掘り、立ったままで埋めると、 腰まで埋めたとき、ふたつの目をあらぬ方向に向けて死にました。


慷愾…感情が高まってなげく。
うむ(埋む)…[他] 〈時代別上代〉は「埋溝【美曽宇美】」などの例から、 「後世の例は下二段ばかりであるが、四段に活用したことを否定することはできない」として「しばらく活用の決定を留保する」と述べる。
はしる…[自]四 上代は後世より意味が広く、「飛び散る」「湧き出る」などの意にも使う。

【童男】
 「〈時代別上代〉童女【め乃和らは】(霊異記上九話興福寺本)」のように 「めのわらは」の例はあるが、「をのわらは」は確認できない。 上代語として自然な言い回しであるが、ここで敢えて男であることを強調する必要もない。 〈中国哲学書電子計画〉で検索すると、「童男」は一般的な語(但し、「童女」と並べて出てくることが多い)なので、単に漢籍の表記法を用いただけのことかも知れない。

【真福寺本】
 大長谷王は、真福寺本では一つ目が「大長谷」、二つ目が「太長谷」となっている。

【当時童男】
 前段までと併せると、大長谷皇子は「童男」(恐らく少年)ではあるが、妃を迎える歳になっていたことになる。 目弱王が七歳で殺人したこととともに、物語の一貫性に疑問を抱かせるところである。
 恐らくは、少年時代はかなり残虐であったとする伝説が、この場面の一つの要素として組み込まれたのであろう。 書紀は、この「童男」には無理があるので避けた。その代わり、反正天皇の娘に疎まれた場面を挿入することによって、 若いころの残虐な為人(ひととなり)を加えたと思われる (安康天皇紀3)。
 なお、書紀は眉輪王については七歳とまでは言わないが年少であったことは認め、 大人である坂合黒彦皇子を付き添わせる脚色をして物語らしくする。

【言】
 尊敬語(勅)・謙譲語(白)の使い分けが、ここでは行われていない。 この時点では、対等な皇子同士であるからだろうか。
 他の段を見ると、例えば日本武尊は天皇ではなくまだ少年であったが、熊襲建を相手として「」を用いている (第126回)。 これは、朝廷に対して熊襲は必ず服従すべき位置にあるからである。
 だとすれば、大長谷皇子の場合は、黒日子王・白日子王に対する絶対的な優位性を認めていないことになる。 ということは、太安万侶は次々と兄弟を殺す即位の仕方に対して、好感を持っていなかったのだろう。
 とすれば、この段の「言・曰」は「のたまふ」「まをす」と訓読すべきでない。  

【黒日子王・白日子王】
 「黒日子王」「白日子王」の書紀における呼び名は、それぞれ坂合(境)黒彦皇子と八釣白彦皇子である。 第184回において、は百舌鳥古墳群のところの堺、 八釣は現在の明日香村八釣であろうと考えた。 境は仁徳天皇陵に近く、八釣は允恭天皇の遠飛鳥宮に近い。一方安康天皇は石上穴穂宮に坐した。
《坂合》
 坂合の氏族については、次回に「坂合部連贄宿祢(さかひべのむらじのにへのすくね)」の名が出てくる。 〈姓氏家系大辞典〉によると、坂合部は「職業部の一なり。〔中略〕境界を定める為の品部と考へらる。」とするが、 坂合部連については、神武段の記述から「多臣の族」とし、 「蓋し贄宿祢は、此の皇子〔坂合黒彦皇子〕の壬生〔皇子の養育を担う部〕たりしより、皇子は其の氏名を名とせられしものと考へらる」と述べる。
 同辞典は職業部と推察するが、第184回の皇子たちが名を負う地域の分布図を見ると、堺の地との関係が深いのではないかと思われる。
《八釣》
 〈姓氏家系大辞典〉に「大和国高市郡八釣庄より起る」とあるが、記述はわずかで八釣氏に関する資料はほとんどないようである。
 蘇我氏は「大倭の飛鳥地方」にも進出した(『蘇我氏-古代豪族の興亡』中公新書;倉本一宏)とされるので、その分流かも知れない。
《石上》
 当然のことながら、石上は物部氏の本拠地である。
《氏族間闘争》
 そもそも、安康天皇自身が「軽」の軽太子を追放して即位したのであった。 また、眉輪王(目弱王)の父、大草香皇子(大日下王)は日下の地名を負っている。 〈姓氏家系大辞典〉が坂合黒彦皇子が養育部の名を負ったと見るように、後ろ盾の氏族名で皇子が呼ばれることは一般的で、 それはまた氏族の本拠地の地名でもある。
 安康天皇が暗殺された知らせを聞いた時の黒日子王・白日子王の反応が実に鈍かったと記が描くことは、事件に彼らが関与した疑いを強く示唆している。 書紀は、「天皇…猜〔うたがふ〕兄等」とはっきり書いている。 だからこの段は実質的に、それぞれ皇子を押し立てて争う地方氏族の覇権争いを描いていると読むべきである。
 そして、雄略天皇が覇権を得るためには、相当荒っぽい手段を用いて各氏族を征圧する必要があったのである。

【雄略天皇紀―即位前(二)】
雄略天皇2目次 《逼問八釣白彦皇子》
大舎人…[名] 舎人の長老、あるいは統率者か。
…[動] はしる。(古訓) わしる。[副] しばしば。(古訓) しはしは。
わしる…[自]下四 走る。
…(古訓) な。あさな。〈現代語古語類語辞典-上代〉じ。な。
姓字…姓と字(あざな)。
あざな…[名] 通称。実名のほかにもつ名。
…(古訓) うたかふ。
逼問…〈汉典〉咄咄逼人的責問。(咄咄=感嘆声。驚怪声。)
…(古訓) ちかつく。せむ。
…(古訓) そこなふ。ころす。
…[動] だまる。(古訓) もた。
…[副] いよいよ。(古訓) かさなる。
いよよ…[副] いよいよの略。
…[古訓] さかゆ。もる。
是日、大舍人【闕姓字也】驟言於天皇曰
「穴穗天皇、爲眉輪王見殺。」
天皇大驚、卽猜兄等、
被甲帶刀、卒兵自將、逼問八釣白彥皇子。
皇子見其欲害嘿坐不語、天皇乃拔刀而斬。
更逼問坂合黑彥皇子、皇子亦知將害嘿坐不語、天皇忿怒彌盛。

是の日、大舎人(おほとねり)【姓(かばね)と字(な)とを闕(か)けり[也]】[於]天皇(すめらみこと)〔雄略天皇〕に驟(わし)り言(まを)して曰(まをししく)
「穴穂天皇(あなほのすめらみこと)、眉輪王(まゆわのみこ)の為に見殺(ころさえたまふ)。」とまをしき。
天皇大(おほ)きに驚きて、即(すなはち)兄等(あにたち)を猜(うたが)ひたまひて、
甲(よろひ)を被(お)はして刀(たち)を帯(は)かして、卒兵(つはもの)を自(みづか)ら将(ひき)ゐて、八釣白彦皇子(やつりしらひこのみこ)を逼(せ)め問ひたまひき。
皇子(みこ)其(そ)は欲害(ころさむとしたまふ)と見まつりて嘿(もだ)し坐(を)りて不語(かたらざ)りて、天皇乃(すなはち)刀(たち)を抜きて[而]斬りたまひき。
更に坂合黒彦皇子(さかひのくろひこのみこ)を逼め問ひたまひて、皇子亦(また)将害と知りまつりて嘿し坐りて不語りて、天皇の忿怒(いかり)弥(いよよ)盛(さか)れり。

劾案(がいあん)…罪をきびしく調べる。
…(古訓) とふ。
あた…[名] ① 敵。② 遺恨。
…(古訓) すてに。やむ。をはる。
(間)…[名] ここでは「あることがらの絶え間」。
…「監視の隙をついて」の意味と見られる。
逃入円大臣宅…〈記〉「逃入都夫良意富美之家也
(第193回)。
乃復幷爲欲殺眉輪王、案劾所由、
眉輪王曰
「臣元不求天位、唯報父仇而已。」
坂合黑彥皇子、深恐所疑、竊語眉輪王、
遂共得間而出逃入圓大臣宅。

乃(すなはち)復(また)并(あは)せて眉輪王を[為欲]殺さむとして、所由(ゆゑ)を案劾(せめと)ひたまひて、
眉輪王曰(まをししく)
「臣(やつかれ)元(もとより)天位(あまつくらゐ)を不求(もとめず)て、唯(ただ)父(ちち)の仇(あた)を報(むく)いて[而]こを已(を)へり。」とまをしき。
坂合黒彦皇子、深く所疑(うたがはゆること)を恐りて、窃(ひそかに)眉輪王と語りて、
遂に共に間(ま)を得て[而]出(いで)て円大臣(つぶらのおほみ)の宅(いへ)に逃げ入りき。

《坂合黒彦皇子》
 坂合黒彦皇子を直ちに殺さないところが、記と異なる。 眉輪王はまだ幼かったから、大人が付き添う方が自然である。 そこで坂合黒彦皇子をすぐに殺さず、隙を見て眉輪王を連れ出して円大臣の家に逃げ込む筋書きにした。 物語を充実させるための脚色として、このような操作をしたと考えられる。
《大意》
 この日、大舎人(おおとねり)【姓(かばね)と名を欠く】〔雄略〕天皇に走り、 「穴穂天皇(あなほのすめらみこと)が、眉輪王(まゆわのみこ)によって殺されました。」と言上しました。
 天皇大いに驚き、即座に兄たちを疑い、 甲を被り太刀を帯び、卒兵を自ら率いて、八釣白彦皇子(やつりしらひこのみこ)を逼問(ひつもん)されました。 皇子は、それは自分を殺そうとされているのだと見て、黙って座ったまま語らず、天皇はただちに太刀を抜いてお斬りになりました。
 さらに坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)を逼問し、皇子はまた殺そうとしていると知り、黙って座ったまま語らず、天皇の忿怒はいよいよ高まりました。
 そしてまた、併せて眉輪王を殺そうとして、穴穂天皇を殺した理由を劾案されたところ、 眉輪王は 「臣は、元より天の位を求めず、ただ父の仇を報いようとしてやり遂げました。」と申しあげました。
 坂合黒彦皇子はさらに深く疑われることをことを恐れ、密かに眉輪王と語らい、 遂に共に隙を見て脱出し、円大臣(つぶらのおおみ)の家に逃げ込みました。


まとめ
 即位を巡って兄弟が相競う場面は、度々ある。かつて綏靖天皇は、兄の日子八井命を差し置いて皇位に即いたが、 そのとき日子八井命は仇を殺すべきときに、手足が「和那那岐弖わななきて」果たせず、 それを恥じて皇位を弟に譲り、「忌人いはひ」(神職)となって仕えることになった (第101回)。
 このように皇位継承は道徳的たるべしというのが古事記の美学であるが、大長谷王子(雄略天皇)はその理想に反して全くの覇王として振る舞う。 辛うじて、安康天皇を暗殺した犯人に立ち向かおうとしない白日子王・黒日子王に対する、未熟な少年の直情なるが故だと言い訳するのが精いっぱいである。 よって、尊敬表現を用いなかったのは意図的であろう。
 同じように天武天皇の政権掌握の過程も道徳的な理想にはなり得ないから、序文には収めたが本文は推古天皇までで止める。
 古事記は、あくまでも初期天皇までの姿を文学的に描くことによって、その宗教的な権威を語り伝えようとしたのである。
 


2018.03.23(fri) [195] 下つ巻(安康天皇4) 

亦興軍 圍都夫良意美之家
爾 興軍待戰射出之矢如葦來散
於是 大長谷王以矛爲杖
臨其內詔
我所相言之孃子者若有此家乎

亦(また)軍(いくさ)を興(おこ)したまひて 都夫良意美(つぶらのおみ)之(の)家(いへ)を囲めり。
爾(ここに)軍を興して戦(いくさ)を待ちまつりて、射出之(いでし)矢(や)葦(あし)の如く来(き)散(ち)る。
於是(ここに)、大長谷王(おほはつせのみこ)矛(ほこ)を以ちて杖(つゑ)と為(し)たまひて、
其の内(うち)に臨みて詔(のたま)ひしく、
「我が所相言之(あひとひし)嬢子(むすめ)者(は)若(も)しや此の家に有る乎(か)」とのたまひき。


爾 都夫良意美聞此詔命 自參出解所佩兵而
八度拜白者
先日所問賜之女子訶良比賣者侍
亦副五處之屯宅以獻
【所謂五村屯宅者今葛城之五村苑人也】

爾(ここに)、都夫良意美は此の詔命(おほせこと)を聞きまつりて 自(みづから)参出(まゐで)て所佩(はかせる)兵(つはもの)を解きて[而]、
八度(やたび)拝(をろが)みて白(まをさししこと)者(は)、
「先(さき)の日に所問賜之(とひたまはりし)女子(むすめ)訶良比売(からひめ)者(は)侍(はべ)らせまつり、
亦(また)五処(いつつ)之(の)屯宅(みやけ)を副(そ)へて以ちて献らむ
【所謂(いはゆる)五(いつつの)村の屯宅(みやけ)者(は)、今葛城(かつらき)之(の)五つの村の苑人(そのひと)也(なり)】。


然 其正身所以不參向者
自往古至今時
聞臣連隱於王宮未聞王子隱於臣家
是以思賤奴意富美者 雖竭力戰更無可勝
然 恃己入坐于隨家之王子者死而不棄

然(しかれども)、其の正(まさき)身(み)の不参向(まゐむかはざる)以所(ゆゑ)者(は)、
往古(いにしへ)自(よ)り今時(いま)に至りて、
臣連(おみむらじ)[於]王宮(おほきみのみや)に隠ると聞けど、未(いまだ)王子(みこ)[於]臣(おみ)の家(いへ)に隠(かく)るを聞きまつらず。
是(ここ)に以思(おもひまつれらく)賤(いやしき)奴(やつこ)意富美(おほみ)者(は)、[雖]力を竭(つ)くして戦へど更に無可勝(かつべかることなし)とおもひまつれり。
然(しかれども)、己(をのれ)を恃(たの)みて入坐于隨家之(したがへる〔おみの〕いへにいりましし)王子(みこ)者(は)、死にて[而]不棄(すてまつらず)。」と、


如此白而]亦取其兵還入以戰
爾 力窮矢盡白其王子
僕者手悉傷矢亦盡今不得戰如何
其王子答詔
然者更無可爲 今殺吾
故以刀刺殺其王子 乃切己頸以死也

如此(かく)白(まを)して[而]亦(また)其の兵(いくさ)を取りて、還(かへ)り入りて以ちて戦ひまつりき。
爾(ここに)力窮(きは)めて矢尽(つ)きて其の王子に白(まを)さく、
「僕(やつかれ)者(は)手(て)悉(ことごとく)傷(いた)めて矢亦(また)尽きて、今は不得戦(えたたかはず)。如何(いかに)。」とまをして、
其の王子(みこ)答へて詔(のたま)はく
「然者(しかなれば)更に無可為(すべくもなし)。今吾(われ)を殺しまつりたまへ。」とのたまふ。
故(かれ)刀(たち)を以ちて其の王子を刺し殺しまつりて、乃(すなはち)己(おのが)頸(くび)を切りて以ちて死にき[也]。


 また軍勢を興され、都夫良(つぶら)臣の家を囲みました。
 そこで、臣の側も軍を興して抗戦し、射出された矢が葦のように来て散りました。
 そして、大長谷王(おおはつせのみこ)〔雄略天皇〕が矛を杖にように突き立て、 家の中に向かって
「私が臣と相談した娘は、もしやこの家にいるか。」と仰りました。
 そこで、都夫良臣はこのお言葉をお聞きして自ら参出て武装を解き、 八度拝礼してこのように申しあげました。
「先日問われました娘、訶良比売(からひめ)はお仕えします。 さらに、五個所の屯倉(みやけ)を添えて献上いたします 【いわゆる五村の屯倉は、現在は葛城の五つの村の苑人(そのひと)です】。
 しかしながら、私自身が参向かわない〔降伏しない〕理由は、 昔より今に至り 臣や連(むらじ)が王の宮殿に隠れる話は聞きますが、未だ王子が臣の家に隠れることは聞いたことがありません。 思うに、賤しい身である臣は、力を尽くして戦っても更に勝つことはできないと存じます。 けれども、私を頼りにして、臣下の家に入られました王子は、死んでも捨ておくことはできません。」と、 このように申しあげて、再び武器を取り家の中に戻って戦いました。
 そして力を窮し、矢は尽き、王子に 「臣は両手共に傷め、また矢も尽きて、今はもう戦えません。どういたしましょうか。」と申しあげました。
 王子は 「それならば、これ以上できることはない。今、私を殺しなさい。」とお答えになりました。
 よって太刀で王子を刺し殺し、すぐに自分の頸(くび)を切って死にました。


…(古訓) いふ。とふ。
我相言之…「私が以前にお前に会って求めたところの」の意味か。
おみむらじ(臣連)…[名] 臣・連の総称。天皇に仕える人たち。
みやけ…[名] 基本的に天皇の直轄田を意味するが、ここでは臣が賜った土地か。 
…[動] ① つきる。水がつきて干上がる。② つくす。つきる。力を出し尽くす。
…(古訓) しかなり。しかも。しかり。

【都夫良意美】
 都夫良意美の初出は、「都夫良意富美」であった (第193回)。
《意美・意富美》
 おほみ(意富美)が「おほ-おみ」の母音融合であることは明らかである。 この「おみ・おほみ」を漢字で大臣と書くと、「大臣」は「臣」の中の有力者に見える。 実際に〈倭名類聚抄〉に「大臣【於保伊間萬宇智岐美】〔おほいまうちきみ;「大き前つ君」の音便〕」と表記される。 建内宿祢の場合は、その立場を養老令の「~大臣」の先駆けとして「おほまへつきみ」と訓むべきであろう。
 しかし、都夫良意美の言葉の中の「賤奴 意富美」は、これとはニュアンスが異なる。 この場合の「おほ-おみ」は、「天皇に仕える臣」に、天皇への敬意を高めるために「おほ」をつけたものである。 従って、都夫良意美に関しては「意美」と「意富美」の間に際立った区別はない。
《圓大臣》
 〈雄略天皇紀元年〉には、「〔はじめに;=即位前に〕葛城圓大臣女曰韓媛」 と書かれるから、円大臣(都夫良意富美)は、葛城円大臣と同じである。 遡ると、〈履中天皇紀二年〉に、 「円大使主」が「リキ国事」とある。
 『公卿補任』〔10世紀後半〕には、履中天皇御世に「大連 葛城円使主」、安康天皇御世に「大臣 葛城円大臣」が載る。

【以矛爲杖】
 「矛爲レ杖〔矛をもって杖となす〕とは、手に持った矛をどんと地面に突き立て、相手を威圧しようとした様を表現したものかと思われる。

【八度拝】
 都夫良意美は、大長谷王に申し上げる前に「八度拝」した。
 以前、大日下王が安康天皇の使者に申し上げたときは、「四拝」であった (第192回)。 貴人に申し上げるときには、その前に繰り返しお辞儀するのが流儀であったようだ。 現代の神社参拝では、一般的に「二礼二拍手一礼」が作法と言われる。
 宣長は大日下王の四拝のところで、 「伊勢神宮儀式帳に、八度拝〔たてまつ〕とも、 また四度拝奉、 手四タビ〔う〕、又後四度拝、手四段拍畢〔四たびうちおへ〕退とも見え」 と述べ、四拝・八拝の作法を見出している。
 「拍手」については、魏志倭人伝に「見大人所敬但摶手以当跪拝〔貴人を見て敬ふは、ただただ手を打ち跪(ひざまづ)きて拝むべし〕とある (魏志倭人伝(52))。 記が書かれた時代の「四拝」「八度拝」も拍手を伴い、また跪く動作を含む語であった可能性もあるが、真相は分からない。
 これらの「四拝」「八度拝」は文脈上は特に必要としないが、敢えて入れることによって畏まり言上する情景を想起させる効果を狙ったと思われる。

【王子】
 王子の訓みは恐らく「みこ」であろうが、皇子・王も「みこ」と訓む。 そこで、目弱王のために特に「王子」を用いた意味を考えてみたい。
 記で「王子」と呼ばれた対象を拾うと、宇遅能和紀郎子、即位前の反正天皇安康天皇雄略天皇顕宗天皇仁賢天皇、 そして市辺之忍歯王目弱王ですべてである。
 宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)も本来は天皇になる予定だったから「王子」は「ひつぎのみこ」と訓んでもよいが、 専ら代名詞として使われているから、みこと訓むのが自然であろう。
 だが目弱王の場合は仁徳天皇の孫であるが、一時的にも皇位継承者になった気配はない。なお、市辺之忍歯王も同様である。 書紀でも、わざわざ眉輪王に「臣元不天位〔われ、もとより天つ位(くらゐ)を求めざりき〕 と言わせている(前回)ぐらいである。
 書紀が坂合黒彦皇子をすぐには殺さず、眉輪王と共に円大臣の家に隠れさせることにしたのは、 記の「王子」に配慮して、それに相応しい人物を加えたのかも知れない。
 では、なぜ記は目弱王を「王子」と呼んだのだろうか。 まず考えられるのは、都夫良意美が目弱王との身分の違いを意識して「王子」を用いたということである。
 そうではあろうが、それ以上に、 まるで目弱王と大長谷皇子とが皇位を争ったような描き方である。 実はもともとの言い伝えでは、皇位を巡っての争いとなっていたのかも知れない。 記はそれを、無邪気な子供が皇位奪取を意識せずに行った暴走として書き直した。 しかし、大長谷皇子軍の包囲以後は原形のまま残った。 付随して「王子」もそのままにされたのではないかと思われるのである。

【五村屯宅・葛城之五村苑人】
《五村屯宅》
 屯宅は、「屯倉」と同じく「みやけ」と訓まれている。「やけ」とはもともと「宅」の意味である。 屯倉は、朝廷の直轄地に置かれた穀物の倉庫に由来する。 「屯倉」を「みやけ」と訓むのは、〈垂仁天皇紀二十七年〉「屯倉、此云弥夜気みやけ」で実証される。
 この部分を読むと、私有地も「みやけ」と言ったのかも知れない。 ただ、今まで私有地だったものを「みやけとしてお納めください」という意味に取ることもできる。
 分注において、「五村屯宅」は今の「葛城之五村苑人」だと述べる。それではその具体的な位置は、葛城地域(葛上郡・忍野郡・葛下郡)内のどこであろうか。
《五村苑人》
 『角川地名大辞典』は「葛城」の項の中で「五村苑」について、 「『倭国の六県』(孝徳紀大化元年8月庚子条) からは甘菜・辛菜を天皇の御膳に献じることになっており(延喜式祈年祭祝詞・六月月次祭祝詞)、 『葛城の五村の苑人』がその任務を果たしていたらしい(令義解職員令園池司)。」と述べる。
 そこで、引用された文献を吟味してみる。
●〈孝徳天皇紀〉大化元年: 「其於倭国六県被遣使者。宜造戸籍。并校田畝〔その大和国六県(あがた)に遣わされた使者(つかひ)は、戸籍(へのふむだ)を造り、あはせて田畝(たうね)を校(かむか)ふべし〕
●〈延喜式〉祝詞-六月月次: 「御県尓坐皇神等乃前尓白久。高市。葛木。十市。志貴。山辺。曽布登御名者白弖。此六御県尓生出甘菜辛菜乎持 参来弖。皇御孫命能長御膳能遠御膳登聞食故。皇御孫命能宇豆乃幣帛乎。称辞竟奉久登宣。〔御県(みあがた)にます皇神(すめかみ)らの御前(みまへ)に白(まを)さく。高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布と御名は白して、 この六つの御県に生出(おひいづる)甘菜(あまな)辛菜(からな)を持ち参り来て、 皇御孫命(すめみまのみこと)の長き御膳(みけ)の遠つ御膳と聞こし食(を)しし故(ゆゑ)、 皇御孫命の宇豆(うづ)の幣帛(みてぐら)を、称辞(たたへごと)竟(を)へ奉(まつ)らくと宣(の)ぶ。〕
●〈令義解〉-園池司〔宮内省に付随する役所「職一・寮四・司十三」のひとつ〕。 「園池司:正一人。掌諸苑池。種-殖蔬菜樹菓 〔もろもろの苑・池と、蔬菜(野菜)樹菓(果物)の種殖(栽培)〕 等事。佑一人。令史一人。使部六人。直丁一人。園戸。〔分注を略す〕
 「(あがた)」とは古墳時代の行政区画で、〈祝詞〉の六県は倭国の高市郡・葛上郡・葛下郡・十市郡・式上郡・式下郡・山辺郡・添上郡・添下郡に相当する(右図)。
 上記の『角川地名大辞典』の趣旨は、「苑人」とは園池司の下に仕える集団で、六県の直轄地の収穫を取りまとめる役割を担ったと推定するものである。
 確かに、六県の菜園から収穫物を集めて朝廷に運ぶ作業は必要で、園池司がその役割を担ったのかも知れない。 しかし、その仕事に「葛城之五村苑人」が関わったという想像にはついて行けない。
 ただ、「諸苑池種-殖蔬菜樹菓」という記述と「五村苑人」との関係には、確かに惹かれるものがある。
 あるとすれば、円大臣が私的に所有していた農地を朝廷の直轄地とし、 蔬菜樹菓を種殖する「」として用いたのではないかだろうか。 そして、このような「苑」は祝詞にいう六県にそれぞれ存在したのだろう。
《屯倉と窯業》
 飛鳥時代に寺院の瓦を生産した窯が、屯倉に設置されたという研究がある。 そこから葛城五村屯宅に関係する部分を抜き出す。
『初期瓦生産と屯倉制』(上原真人-京都大学文学部研究紀要2003)の一部を抜粋
上増遺跡
居伝瓜山窯
居伝窯
阿田窯群
西山窯
荒坂窯群
天神山窯
今井窯
荒木神社裏山窯
岡窯
寺尾窯
牧代窯群
蛇穴
西寺田
小和町
西阿田町
今井町
野原
:窯跡。 :字名に屯倉を有する地名。  論文第4図を基に作成。
 「曽我氏が推古期における仏教興隆政策を推進し」 「これが瓦生産の拡大を促す大きな要因となったはず」である。
 「豊浦寺や奥山廃寺に瓦を供給した7世紀前半の遠隔地型瓦生産地は、 すべて、記紀に記載された天皇・皇族の領地(=屯倉)所在地、 あるいは屯倉の近くにある中央に直結する水運の拠点に立地し」たことが確認できる。
 「御所市上増遺跡や五條市天神山窯は葛城五村屯宅」にあったと推定され、 「江戸末期の『金剛山古図』には」「現在の大字増に至る箇所に『葛城円大臣屋敷跡』の書き込み(『奈良県の地名』平凡社1981)」があり、 「屯倉関連の地名を集成した千田稔は、 御所市内では西寺田の三宅と三宅北、蛇穴の三宅の3ヶ所を挙げる[千田 1975]。 西寺田は上増の東約1km、蛇穴〔さらぎ〕は東北約3kmに位置する」と述べる。
 「上増遺跡の『星組』素弁九葉蓮華紋軒丸瓦は」 「 6世紀末~7世紀初頭の年代を考えてよい。ただし、上増遺跡自体が窯業生産遺跡である確証はまだ得られていない。
 「五篠窯跡群は同宇智郡に属する。 しかし、葛城五村屯宅は葛城氏の旧支配地に設定されたもので、その領域は広大であった。 それが律令郡制において、葛上郡と宇智郡あるいは葛下郡に分割されたと理解しでも何ら支障はないだろう。
 引用においては事実上、宇智郡まで葛木県の範囲内だと推定する。 確かに、延喜式祝詞の六県の中に「宇智県」はなく、 他の文献にもこの県名はなかなか見つからない。
 しかし、十市県・高市県・山辺県は郡に対応し、 その他の郡も県の名に「上・下」をつけて引き継ぐので、葛木県はあくまでも葛上・葛下の範囲で、宇智郡は含まないだろう(前項)。 また、これらの六県の他にも、記紀には春日県・菟田県(宇陀郡)・猛田県が見出されるので、 宇智県が絶対になかったとも言い切れない。
 宇智は、武内宿祢が歌謡で「うちのあそ」と詠われる (第144回-神功皇后紀10) ように、この地域の地名として古くからあったと考えられる。 さらに葛城一族が密集して住んだ南郷遺跡群が葛上郡にあることからも、 「葛城五村屯宅」が宇智地域に及ぶとは考えにくい。
 「」の規模は不明であるが、江戸時代の細分化された村の規模を見ると、おそらく郷(さと)以下だったのではないだろうか。 仮に書紀の「七区(まち)」が面積を意味するとすれば、東京ドーム1.7個分しかない(後述)。
 しかし、「五村屯宅」を引用の西寺田・蛇穴地域のみに限れば比較的説得力がある。 葛城氏の本拠地南郷遺跡群に隣接することも、その裏付けとなる。 引用によれば上増遺跡からは窯跡は検出されていないが、 引用の命題「窯はすべて屯倉の近くにある」が、「屯倉の近くに必ず窯がある」ことを意味しないのは当然である。
《葛城円大臣屋敷跡》
 上記の引用にある『奈良県の地名』は次のように述べる。
『奈良県の地名:日本歴史大系 第30巻』(平凡社、1981)-「御所市;真志村ましむら」より抜粋
・「水越川と百々どど川の扇状地に立地。」 「名柄ながら村との村境に名柄遺跡があり、西南方接続地の俗称塚原と大字増の小字塔之本の二か所から飛鳥時代の古瓦が検出されたが、寺院跡か瓦窯跡かは不詳。」 「『和名抄』の大坂郷の地と言われる所」。
・「金剛山北東尾根の朝原寺跡付近に発し、オサカ谷を東流して、葛城川支流の百々川北流(蛇谷川)に注ぐ小川を近世まで『ツブラ川」』と称し(寛政期の金剛山谷川筋普請所絵図)、 大字増に至る個所には」「葛城円大臣屋敷跡と伝える所もあった(大字高天の森村家所蔵の江戸末期金剛山古図)。
 残念ながら、「金剛山谷川筋普請所絵図」「金剛山古図」そのものまでは今のところ辿り着けていない。
 朝原寺は明治維新に廃寺となったという。大字増から登山道を標高650mまで登ったところにあり、礎石のみが残るという (仏頭山吐田極楽寺公式朝原寺遺跡)。 いくつかのブログ(ヤマレコ-金剛山JJの近況など) を参考にすると、朝原廃寺跡及びオサカ谷右図の位置である。 オサカ谷の名は、倭名類聚抄の郷名{大和国・葛上郡・太坂〔おほさか〕}に由来すると思われる。
 「ツブラ川」であろうと思われる川が大字増(図の灰色点線内)に入ったあたりが、江戸時代に「葛城円大臣屋敷跡」だと考えられたと思われる。 書紀の「七区」が面積「七町」ならば一辺282mの正方形程度となり、ありそうな広さではある。
《一応の仮説》
 書紀が、記の「五村苑」説を認めたのなら、「七区」ではなくもう少し記に近い表現になったであろう。 そこで、ひとまず次の仮説を掲げておく。
 記紀が書かれた時代、西寺田から蛇穴にかけて「葛城之五村苑」が存在した。 その地に都夫良意美が屯倉を献上した伝説があり、記はそれを採用した。
 一方、大字増の7町歩ほどの区域を円大臣の邸宅跡とする伝説も残っており、 書紀はこちらの方が確度が高いと判断して採用し、記の説を退けた。

【然者】
 然者は、ここでは既定条件だから已然形「しかれば」か。あるいは古訓「しかなり」によれば「しかなれば」となる。 この訓みについて、万葉集から探る。
 万葉集で已然形「しかれ」を用いた歌は、逆接の「しかれども(雖然)」が14例と多く、 順接は「しかれかも」「しかれこそ」が各一例である。それぞれの使い方を見る。
――(万)3307 然有社 年乃八歳叨 鑚髪乃 吾同子叨過… しかれこそ としのやとせを [枕]きりかみの よちこをすぎて… 〔だからこそ、幼いときを過ぎて…。〕
 〈時代別上代〉によれば「上代ではド・ドモやバを伴わない已然形の句自体が確定条件をあらわすこともできた」から、 「しかれこそ」は「しかればこそ」と同じである。 この歌は反歌で、「」は、二つ前の歌(3305)の内容を受けている。
――(万)0196 …味澤相 目辞毛絶奴 然有鴨 綾尓憐… …あぢさはふ めこともたえぬ しかれかも あやにかなしみ… 〔…会って話すことも絶えた。だからかも、むしょうに悲しみ…〕
 また、「しかにあれ」(あるいは「しかなれ」とも)が用いられた例がある。
――(万)0013 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉  かぐやまは うねびををしと みみなしと あひあらそひき かむよより かくにあるらし いにしへも しかにあれ(しかなれ)こそ うつせみも つまを あらそふらしき 〔香久山は畝傍山を雄々しいと言って、耳成山と相争った。神代の昔にそうだったからこそ、現在も女は夫を巡って争うらしい。〕
 「しかれ」はもともと「しか-あれ」の母音融合で、その融合前の形に助詞「」を挿入したものである。 その「に-あ」が融合すれば「しかなれ」となる。
 「しかれば」は、万葉を始め辞書の文例にもなかなか出てこないので、これを用いるのは躊躇される。 もし「然有者」ならば「しかなれば」が確定する。古訓と(万)0013から、「しかなれば」ならあり得ると思われる。

【雄略天皇紀―即位前(三)】
雄略天皇3目次 《君王隠匿臣舎》
…(古訓) こふ。
…[名] いえ。やど。(古訓) やとる。すむ。
やど…[名] ① 家のあるところ。② 宿。
…[助] なんぞ。反語の意をあらわす。[副] いやしくも。かりにも。
天皇使々乞之、大臣以使報曰
「蓋聞人臣有事逃入王室、未見君王隱匿臣舍。
方今、坂合黑彥皇子與眉輪王、深恃臣心、來臣之舍。
詎忍送歟。」

天皇(すめらみこと)使(つかひ)を使はして[之]乞(こ)はしめまして、大臣(おほみ)使(つかひ)を以ちて報(むく)いまつりて曰(まを)ししく
「蓋(けだし)人に聞きまつらく、臣(おみ)事有れば王(おほきみ)の室(むろ)に逃げ入れど、未(いまだ)君王(きみみこ)の臣(おみ)の舎(やど)に隠匿(かく)るを見ずと聞きまつる。
方(まさに)今(いまし)坂合黒彦皇子与(と)眉輪王と、深く臣(やつかれ)の心を恃(たの)みて、臣(やつかれ)之(の)舎(やど)に来(く)。
詎(なそ)忍(しの)びて送りまつるや[歟]。」とまをしき。

ますます…[副] 動詞「ます」の終止形の重複。
…[名] (古訓) なは。[動] 手づるによって探し求める。(古訓) もとむ。
脚帯…あゆい。
あゆひ…[名] 袴の上から膝の下を結んだ紐。
…[動] いたむ。悲しみでつらい思いをする。(古訓) いたむ。うれふ。
…[助] 文末用法:断定や推定の語気。 〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉[語気詞] 在句末表-示停頓、用以引-起下文 〔句末にあれば停頓を表し、以下の文を引き出す〕
由是天皇、復益興兵、圍大臣宅。
大臣出立於庭索脚帶、時大臣妻、持來脚帶愴矣、
傷懷而歌曰、

由是(このゆゑに)天皇(すめらみこと)、復(また)益(ますます)兵(いくさ)を興(おこ)して、大臣(おほみ)の宅(いへ)を囲めり。
大臣[於]庭(には)に出(い)で立たして脚帯(あゆひ)を索(もと)めて、時に大臣の妻、脚帯を持ち来たりて愴(うれふる)や[矣]、
懐(こころ)傷(いた)みて[而]歌(うたよみ)して曰はく、

たへ(栲)…[名] こうぞの類の樹皮からとった繊維。またそれで織った布。
たへ…[形動] みごとなさま。
なだす…[他]サ四 なづ(撫づ)の未然形+軽い尊敬の「す」。
阿遥比…万葉集では、「遥」は「え」(ヤ行)に使われる ((万)3309 尓太遥越賣 にほえをとめ)。 ここでも「あえひ」かも知れない。隋唐時代は〈学研新漢和〉[yiɛu]。
飫瀰能古簸 多倍能波伽摩鳴 那々陛鳴絁
爾播爾陀々始諦 阿遙比那陀須暮

飫瀰能古簸(おみのこは) 多倍能波伽摩鳴(たへのはかまを) 那々陛鳴絁(ななへをし)
爾播爾陀々始諦(にはにたたして) 阿遥比那陀須暮(あよひなだすも)

…(古訓) すてに。
…(古訓) ひさまつく。
…(古訓) きく。ゆるす。うけたまはる。
いにしへびと…[名] 旧知の間柄の人。
ふるひと…[名] 昔の人。
匹夫…ひとりの男。身分の低い男。〈仮名日本紀〉「いやしきひと」。
匹夫不…〈故事〉匹夫の志を奪ふべからず。
…[名] やから。[動] つく。(古訓) あたる。つく。をよふ。
…[前] に。より。類義語「於」。
…[助数] ところ。まち。
…[動] 細かく区切る。(古訓) かくす。[名] くぎり。(古訓) さかひ。ちまた。まち。
まち…[助数] 面積の単位。3600歩を1町とする。11,360mほど (第163回)。
七区…面積(七まち)を表すとすれば、79,520m(東京ドーム1.7個)。
…(古訓) あかふ。つくのふ。
つぐのふ…[他]ハ四 つぐなう。
大臣、裝束已畢、進軍門跪拜曰
「臣雖被戮、莫敢聽命。
古人有云匹夫之志難可奪、方屬乎臣。
伏願大王、奉獻臣女韓媛與葛城宅七區、
請以贖罪。」

大臣(おほみ)、装束(よそほひ)已(すでに)畢(を)へて、軍(いくさ)の門(かど)に進みて跪(ひざまづ)きて拝(をろが)みて曰(まを)さく、
「臣(やつかれ)雖被戮(ころさゆれども)、[莫]敢(あへ)て命(おほせこと)聴(うけたまはる)ことなし。
古人(ふるひと)有るに云はく匹夫(いやしきをのこ)之(の)志(こころざし)奪ふ可くも難しといふ、方(まさに)臣(やつかれ)乎(に)属(あ)てまつる。
大王(おほきみ)に伏し願はくは、臣(やつかれ)の女(むすめ)韓媛(からひめ)与(と)葛城(かつらき)の宅(いへ)七区(ななまち、ななところ)を奉献(たてまつ)らむと、
請(ねが)ひて以ちて罪を贖(つぐの)ひまつらむ。」

…[動] ほしいままにする。
…(古訓) やく。も。
ほやき…〈時代別上代〉に、「『日日夜夜失火【みづながれノ/ホヤケ】』(天武紀)六年」なる引用があり、 古訓「ほやけ」が存在したことが示される。自動詞「ほやけ」(下二)は、他動詞なら「ほやき」(四段)になる。
…(古訓) しぬ。ころす。
新漢人…応神朝の時代の漢系渡来人に対して、雄略朝以後の漢系渡来人を指す。伝統訓「いまきのあやひと」。
新漢…ここでは新漢人の居住地域を指すと見られる。
…(古訓) つまひらかに。あきらか。
天皇不許、縱火燔宅。
於是、大臣與黑彥皇子眉輪王倶被燔死。
時坂合部連贄宿禰、抱皇子屍而見燔死。
其舍人等【闕名】、收取所燒、遂難擇骨、
盛之一棺、合葬新漢𣝅本南丘。
【𣝅字未詳、蓋是槻乎。】
天皇不許(ゆるさざ)りたまひて、縦(ほしきまにまに)宅(いへ)を火燔(ほやき)したまふ。
於是(ここに)、大臣与(と)黒彦皇子と眉輪王と倶(とも)に被燔死(やきころさえ)り。
時に坂合部連贄宿祢(さかひべむらじのにへのすくね)、皇子の屍(かばね)を抱(むだ)きて[而]見燔(やきころさえ)り。
其の舎人(とねり)等(ら)【名を闕(か)けり】、所焼(やかえしほね)を収(をさ)め取りて、遂に骨を択(え)ること難(かた)かりて、
之(こ)を一つの棺(ひとき)に盛りて、新漢𣝅本(いまきのあやのつきもと)南の丘(をか)に合へ葬(はぶ)りき。
【𣝅の字(じ)未(いまだ)詳(つまひらか)にあらず、蓋(けだし)是(これ)槻(つき)乎(か)。】

《舎》
 記の「」を書紀では「」と書く。
 「五村屯宅」(記)、「宅七区」(書紀)が葛城にあった円大臣の本拠地で、出仕して都で住む家を、書紀ではと表現したと思われる。 いわば「公務員宿舎」のようなもので、下級官僚は「舎に住む人」だから「舎人」(とねり)という字が用いられたかと想像される。
《新漢》
 〈推古天皇〉に「学問僧新漢人日文〔人名〕」がある。 訓みは〈釈日本紀巻十九〉秘訓四に「学問僧新漢人日文モノナラフホウシイマキノアヤヒトニチモム」がある。
 いまきなる訓が上代から継続したものかどうかは分からない。
 しかし、新漢人が渡来した時に呼ばれた名は、そのまま固定されると考えられる。
 各地に「今木」の地名が見られる。
 書紀に分注がないのは、常識だったからである。
 「いまきのあや」と呼ばれる一族が存在しないのに、平安時代の研究者が「新漢」を「いまきのあや」と訓むのは考えにくい。
 以上から、書紀編纂時に「いまきのあや」を「新漢」と書いたと思われる。
《新漢𣝅本南丘》
 〈姓氏家系大辞典〉には、「雄略紀に『新漢人槻本南丘』と云ふ地あり。今の吉野郡今木村なりと。」と述べる。
 「今木」については、現代地名に「奈良県吉野郡大淀町今木(大字)」があるが、同辞典は「…なりと。」と言って断定を避けている。
 「今木」について〈大辞典〉は、「山城、大和、和泉、備前、豊前等に今木の地あり」という。
 𣝅は漢和辞典に載らないほど稀な漢字であるが、〈康煕字典〉には「𣝅:同礙。礙、閉也。又木名〔礙と同じ。礙は「閉」の意味。また、木の名〕とある。〈倭名類聚抄〉にはない。 書紀の分注は、この字を(つき)の木の別名と推定している。
 槻本という地名には、〈倭名類聚抄〉{摂津国・西成郡・槻本【都木乃毛止】}がある。 槻本は、現代地名の「塚本」であると言われる(右図)。 しかし、次に述べるように倭漢(やまとのあや)の地域(高市郡)か、その周辺であろう。
《真神原》
 〈雄略天皇紀〉七年条に、 「天皇詔大伴大連室屋。命東漢直掬。 以新漢陶部高貴。鞍部堅貴。画部因斯羅。我錦部定安那錦。訳語卯安那等。 遷-居于上桃原。下桃原。真神原三所」 とあり、大伴大連室屋に命じて、新漢の諸氏を上桃原・下桃原・真神原に移させたとされる。
 真神原については、大和国風土記逸文-下河辺長流『枕詞燭明抄』中〔江戸時代初期〕に出てくる。
大口真神原:是は、むかし明日香の地に老狼〔おいおほかみ〕在りて、おほく人を食ふ。土民〔くにのひと〕畏れて大口の神といふ。 〔なづけ〕其住処〔そのすみしところを〕〔なづく〕大口真神原
おほくちの…「真神之原」への枕詞。
 また万葉に、 「(万)1636 大口能 真神之原尓 零雪者 おほくちの まかみがはらに ふるゆきは。」がある。
 〈大日本地名辞書〉は、「又真髪原に作る、飛鳥法興寺の地にて、鳥形山の下なり」。 法興寺は飛鳥寺(右図)の前身で、〈崇峻天皇元年〉に「始作法興寺。此地名飛鳥真神原」とある。
 一方、地名「桃原」は、なかなか見つからない。 しかし前記七年条によれば、新漢は「東漢直掬〔やまとのあやのあたひ、つか(人名)〕」の監督下で、 東漢本拠地の檜前(ひのくま)に近い真神原が居住地に指定されたから、 上桃原・下桃原も檜前からそんなに遠くはなかっただろうと想像される。
《大意》
 天皇は使者を遣わして引き渡すように求められ、大臣は使者をもって返報して申し上げるに、 「けだし人に聞くに、臣(おみ)が事有れば主君の宮室に逃げ入ることはあっても、いまだ主君が臣の宿舎に隠れた例は見ないと申します。
 まさに今しがた、坂合黒彦皇子と眉輪王は、深く私の心を頼みにして、私の宿舎に来ました。 どうして心ならずも忍んでお送りしてしまうことがありましょうか。」と申しあげました。
 このため天皇は再び、これまでにまして兵を起し、大臣(おおおみ)の家をとり囲みました。 大臣は庭に出て立ち、脚結(あゆひ)を捜している時、大臣の妻が脚結を持って来て悲しきかな、 心痛めて歌を詠んだのでした。
――臣の子は 妙(たへ)の袴を 七重(へ)着(を)し 庭(には)に立たして 足結(あよひ)撫だすも
 大臣(おおみ)は装束を整えることを既に終え、軍が迫る門に進み跪いて拝礼し、申しあげました。
 「例え私が殺されたとしても、敢て命を承ることをいたしません。 昔の人、ある人が言うには、匹夫の志奪うこと難しといい、まさに私にあてはまります。 大君に伏して願わくば、私の娘韓媛(からひめ)と葛城(かつらぎ)の邸宅の七区を奉献すべく お願いし、もって罪を償うことといたします。」と。
 天皇はこれを赦さず、恣(ほしいまま)に家に火を放って燃やしました。 そして、大臣と黒彦皇子と眉輪王は共に焼き殺されました。
 その時、坂合部連贄宿祢(さかひべむらじのにえのすくね)は、皇子の屍を抱いて焼き殺されました。 その舎人(とねり)ら【名を欠く。】は、焼け跡から骨を取り収めましたが、遂に骨を分別することは困難で、 これらを一つの棺に盛りおさめて、新漢𣝅本(いまきのあやのつきもと)の南の丘に合葬しました。 【𣝅の字は未だ詳らかではない。恐らくは「槻」か。】

《歌意》
臣の子は たへの袴を 七重し 庭に立たして 足結あよひ撫だすも
〔臣は麗しい袴を重ねてお召しになり、庭に立ち足結を撫でておられます〕
 たへは、一般には「栲」とされる。栲で編んだ真っ白な袴ととってもよいだろうが、 七重〔重ね着の誇張か〕に華麗に重ね着することから「麗しく立派に」を意味する「」ではないかと思われる。
 この姿は、討ち果たされる前の最後の晴れやかな姿である。だから、妻は「悲しきかな、心痛めて歌を詠んだ」と語られる。
 その夫が足結を庭に落として探す姿をあわれに思い、慌てて家の中から足結を持って駆け寄る妻の姿は、読む者の涙を誘う。

まとめ
 安康天皇が在位した5世紀半ばから、記紀の7世紀初頭までは250年ほどである。 南郷遺跡群の北に円の一族がいたとして、この250年間に言い伝えは保たれたかと問えば、 おそらく保たれたであろう。だから、円大臣は実在したと考えてよいだろう。
 目弱王は、実際には安康天皇・雄略天皇・白日子王・黒日子王・軽王と肩を並べて倭の大王の座を巡って争っていたのだろう。 それぞれのバックに地方氏族がついたから、目弱王には都夫良意富美率いる葛上地域が推したことになる。
 この分裂状態を、雄略天皇は力づくで制圧した。 そのような政権奪取を太安万侶が苦々しく思っていたのは、前回述べた通りである。
 古事記は常に敗者側に心を寄せて語り、今回もその例外ではない。
 書紀も敗者を憐れむが、眉輪王よりもむしろ円大臣に、歌謡を盛り込むなどして心を寄せる。 書紀編纂期には蘇我氏(編纂期は石川氏)は重要な勢力であったから、 蘇我氏の祖は葛城の一族だという認識があったと思われる。 また、贄宿祢も登場するから、坂合部連もまた重要な勢力として書紀編者が気を遣ったのだろう。



[196]  下つ巻(安康天皇5)