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⇒ [185] 下つ巻(允恭天皇2) |
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2017.12.22(fri) [186] 下つ巻(允恭天皇3) ▼▲ |
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於是天皇 愁天下氏々名々人等之氏姓忤過而
於味白檮之言八十禍津日前 居玖訶瓮而 【玖訶二字以音】 定賜天下之八十友緖氏姓也 於是(ここに)天皇(すめらみこと)、天下(あめのした)の氏々名々(うじなうじな)の人等(ひとども)之(の)氏姓(うじかばね)忤(たが)へ過(あやま)ることを愁(うれ)へて[而]、 [於]味白檮(うまかし)之(の)言八十禍津日前(ことやそまがつひのさき)に、玖訶瓮(くがへ)を居(す)ゑて[而] 【玖訶(くが)の二字(ふたつのじ)音(こゑ)を以(もちゐ)る】、 天下(あめのした)之(の)八十(やそ)友緖(とものを)の氏姓(うじかばね)を定(さだ)め賜(たま)ひき[也]。 又爲木梨之輕太子御名代定輕部 爲太后御名代定刑部 爲太后之弟田井中比賣御名代定河部也 又、木梨之軽太子(きなしのかるみこ)の御名代(みなしろ)の為に軽部(かるべ)を定めて、 太后(おほきさき)の御名代の為に刑部(おさかべ)を定めて、 太后之(の)弟(おと)田井中比売(たゐのなかつひめ)の御名代の為に河部(かはべ)を定む[也]。 このとき、天皇(すめらみこと)は天下のさまざまな氏名(うじな)の人々の氏姓(しせい、うじかばね)の錯誤があり、 味白檮(うまかし)〔=甘樫〕の言八十禍津日前(ことやそまがつひのさき)に、探湯瓮(くがへ)を据えて、 天下の多くの伴緖(とものを)〔随伴する氏族〕の氏姓を定められました。 また、木梨之軽太子(きなしのかるみこ)の御名代(みなしろ)として軽部(かるべ)を定め、 皇后(おおきさき)の御名代のとして刑部(おさかべ)を定め、 皇后の妹、田井中比売(たいのなかつひめ)の御名代として河部(かわべ)を定めました。 忤…[動] (古訓) さかふ。そむく。たかふ。 過…[動] (古訓) あやまる。あやまつ。 たがふ…[他]ハ四 くいちがう。そむく。 すう(居)…[他]ワ下二 据える。 とものを…[名] 「伴の緒(を;=束ねたもの)」。朝廷に随伴する部族。 【氏々名々人等】 真福寺本は「余」。氏庸本は「人等」。岩波書店版によれば真福寺本以外は「人等」である。 新字体「余」は「あまり」と訓むが、漢籍やわが国でも旧字体の時代は「あまり」には「餘」を用いる。 記紀の「余」は天皇の一人称に用いる※以外は、ほとんどが歌謡の万葉仮名「よ乙」である。 ※…漢籍では君主に限らず、一般的な一人称の代名詞。 【言八十禍津日前】
黄泉から帰った伊邪那岐命が穢れを祓うために禊し、その汚垢から生まれたのが、 八十禍津日神と大禍津日神である。 書紀〔第43回;一書6〕では、八十枉津日神の一柱のみである。この神に続いて「まが」を正す神〔神直日神、大直日神〕も現れるから、 「まが」は曲がり・くるい・誤りを意味する。 記の文章は意味が取りにくいので、まず書紀の類話から見る。 《書紀-辞禍戸𥑐》 書紀は「辞禍戸𥑐」の前に「失正枉而定氏姓」という文がある。 したがって、諸族の氏姓の「正枉」を試す場所のことを 「辞(=言)禍(まが;=誤り)へ乙の岬」=「辞禍戸𥑐」と呼んだのであろう。 "へ乙"は、玖訶瓮の瓮か。あるいは「枉津日」(まがつひ)が訛って「まがへ」になったかも知れない。 「失正枉」の表現を用いたのは、八十枉津日神を意識したからであろう。 《記-言八十禍津日前》 「辞禍戸𥑐」は、記の「言八十禍津日前」に対応する。 記は盟神探湯したことをあまり明瞭には書いていないが、書紀と同様に考えれば、 「言八十禍津日前」は「"言"を"八十禍津日神"の威力によって試す場所」という意味となる。 《地名・伝説の実在性》 それでは書紀の時代に果たして地名「ことまがへ」はあったのだろうか。 ひとつの可能性としては地名「ことまがへ乙」が実在し、書紀がこれをそのまま収めたのに対して、 記はこれはもともと「言・八十禍津日神」からできた地名であると考え、 原形に戻して書いたのかも知れない。 この話は実際には別種の話、次のA、Bが混合されたように思われる。 A 裁判としての盟神探湯が甘樫丘で行われ、その場所は「こと-まがへ乙」と呼ばれていた。 B 允恭天皇の御代に、氏姓の選別が行われた。 盟神探湯は、犯罪者にプレッシャーをかけて自白に追い込む手段としてはリアリティーがあるが、 数十あるいは数百に及ぶと思われる氏族の代表者を集めて、順番に盟神探湯させて氏姓の詐称を焙り出すという光景は神話的である。 そもそも自分が先祖から代々受け継いできた氏姓の真偽など、誰にも分らないであろう。それは、記紀によって初めて定まるのである。 もしこれに類する話があったとすれば、それはある者がたまたま姓を詐称したときに行われた裁判であろう。 それが一罰百戒となって、他の者が詐称を止めたということは考えられる。 このA・Bの話の混合は記の段階であろう。そこでは暗示する程度の書き方であったが、 書紀に至り極めて明瞭な形になった考えられる。 《甘樫坐神社》 〈大日本地名辞書〉は、式内甘樫坐神社が探湯瓮に因む神社であろうと述べている。 延喜式神名帳に{高市郡五十四座/甘樫坐神社四座【並大。月次相甞新甞。】}、 比定社は甘樫坐神社(奈良県高市郡明日香村豊浦(大字)626)。
【軽部】 雄略帝の御代、高市郡の軽に居住していた軽部は、軽の地を天皇の狩場として献上し、替地に〈倭名類聚抄〉{和泉国・和泉郡・軽部郷}を賜った (第104回《軽部》)。 〈姓氏家系大辞典〉は、その後各地に進出した軽部のうち、軽部臣が「武内宿祢の裔、巨勢氏の族にして、軽部の総領的伴造〔とものみやつこ〕たりしならんか。」と見る。 同辞典も述べるように、その始祖は「建内宿祢―許勢子柄宿祢(許勢臣、軽部臣の祖)」とされる (第108回)。 また、天武天皇十三年、八色の姓制定の後に軽部臣ら五十二氏が姓「朝臣」を賜る。 【刑部】 〈姓氏家系大辞典〉は「刑部は和名抄、…〔各地の〕刑部郷を、於佐加倍と註するにより、オサカベと訓すべく、 皇后の御名忍坂〔おしさか、おさか〕を負ひたると知る。 而して其の刑部なる字を用ふるは、『此のオサカベの人が後に刑部(ウタヘ)の職に仕奉りし事ありしによりてなるべし』 との記伝の説に従ふべきか。」 と述べる。しかし、品部「ウタヘ」は垂仁紀三十九年条に限られ、「其の他は殆んどオサカベなるが如し」。 つまり同辞典は、ほとんどが忍坂大中姫の御名代部を起原とするという。 《書紀には刑部のみ》 諸族の祖について書紀が記と異なる見解を載せるときは、研究の進展が反映したものと考えた (応仁天皇紀二十二年条【御友別一族】)。 允恭天皇紀が軽部及び河部を省いたことについても、同じことが言えよう。 研究の結果、軽部は許勢子柄宿祢からの線がいよいよ明瞭となり、軽太子が入り込む余地がなくなったものと思われる。 また、河部は田井中比売との関係を明確に裏付ける資料が出てこなかったのだろう。 逆に、忍坂大中姫の刑部については、根強い伝承があったと思われる。 【河部】 〈姓氏家系大辞典〉は、「河部は此の姫宮の御名〔田井中比売〕にも関係なく、 地名とも思はれず、其の名称の起原・明白ならざれど、恐らく、もと川人部の一部をさきて設けたるものなるべし。」 〔川人部の一部を割いて設けたものであろう〕と述べる。川人部は、「河川で漁獲する人(川人)の職業部」と考えられている。 ただ、「田井」は自然地名として全国各地にあり、『地名辞典オンライン』で検索すると岡山県(三か所)を始め10府県に見られる。 そのうちのどれかに、川人部がいたのかも知れない。 【書紀―四年】 7目次 《人民得所姓名勿錯》
「上古(いにしへ)之(の)治(まつりごと)に、人民(おほみたから)得所(みちたり)て、姓(かばね)の名に勿錯(あやまちなし)。 今朕(われ)践祚(あまつひつぎ)をつぎたまへりて[於]茲(ここに)四年(よとせ)[矣]、上下(うへした)相(あひ)争(きほ)ひて、百姓(おほみたから)不安(やすからず)て、 或(あるは)誤(あやま)ちて己(おのが)姓(かばね)を失(うしな)ひて、或(あるは)故(ことさらに)高き氏(うじ)を認(もと)む。 其の[於]治(まつりごと)に不至(いたらざり)しこと者(は)蓋(けだし)是(こ)に由(よ)りしか[也]。 朕(われ)雖不賢(さとからざれども)、豈(あに)其の錯(あやまち)を非正(たださざる)乎(や)。 群臣(まへつきみたち)議(はか)り定めて之(こ)を奏(まを)したまへ。」とのたまひき。 群臣皆(みな)言(い)はく 「陛下(おほきみ)、正(まさしこと)枉(まがこと)を失(あやま)ちて[而]氏姓を定めしこと挙(あ)げたまはまば[者]、臣(やつかれ)等(ども)死(しに)を冒(をか)さむ。」といひて、 可(うべなり)と奏(まを)しき。
「群卿(まへつきみたち)と百寮(もものつかさ)及(と)諸(もろもろの)国造(くにのみやつこ)等(ども)、皆各(おのもおのも)言(まをさく)、 或(あるは)帝皇(みかど)之(の)裔(すゑ)、或(あるは)異(こと)之(の)天降(あもり)とまをす。 然(しかれども)、三才(さむさい、みつのたかきわざ)顕(あきらけ)く分かれて以来(より)、多(さはに)万歳(よろぞとせ)を歴(めぐ)りて、 是以(こをもちて)、一氏(ひとうじ)蕃息(ばむそくして、しげりて)更に万姓(よろづかばね)と為(な)りて、其の実(まこと)を知ること難(かた)し。 故(かれ)、諸(もろもろの)氏姓(うじかばね)の人等(ども)、沐浴(ゆかはあみ)斎戒(ものいみ)して、 各(おのもおのも)盟神探湯(くかたち)を為(せ)。」とのたまひき。
諸(もろもろの)人を引きて赴(おもぶ)か令(し)めて曰(のたまはく)「実(まこと)を得たらば則(すなはち)全(また)くありて、偽(いつはり)をえたらば[者]必ず害(そこな)はむ。」とのたまふ 【盟神探湯、此(こ)を区訶陀智(くかたち)と云ふ。 或(あるは)泥(ひぢ)を釜(へ)に納(をさ)めて煮沸(にわか)して、手を攘(はら)ひて湯に泥(ひぢ)を探る。 或(あるは)斧(をの)を火色(ほのいろ)に焼きて、[于]掌(たなうら)に置く。】
則(すなはち)実(まこと)を得し者(ひと)自(おのづから)全(また)くして、実(まこと)を不得(えざる)者(ひと)皆(みな)傷(そこな)はる。 是以(こをもちて)、故(ことさらに)之(こ)を詐(いつは)りし者(ひと)愕然(おどろ)きて、予め退(ひ)きて進(まゐること)無し。 自是(これより)[之]後(のち)、氏姓自(おのづから)定まりて、更に詐(いつは)る人無し。 《異之天降》 神武天皇紀に、「東有二美地一、青山四周、其中亦有下乗二天磐船一而飛降者上。」として 饒速日命(にぎはやひのみこと;物部氏の祖)は天孫の前に畿内に天降(あもり)した話がある (第96回【記紀本文―東征の決意】〈4〉)。 神代にも大国主命の分身が三諸山に祭られたという記述があり、 これらは外来の諸族が波状的に東進して大和に達した事実が反映したものと考えた (第112回)。 従って、複数の氏族が畿内に天降りした伝説をもっていて、このことを「異之天降」と表現したと見られる。 このうち書紀に公認されたのは、饒速日命を祖とする物部氏と大神神社を管理した大三輪氏である。 《大意》 四年九月九日、天皇(すめらみこと)は仰りました。 「上古の治世には人民は所を得て、姓(かばね)の名に錯誤はなかった。 今朕(ちん)が践祚(せんそ)して以来四年、上下が相争い人民が安まることはない。 或いは錯誤で自己の姓を失い、或いは故意に高い氏(うじ)を標榜する。 この治世が至らないのは、けだし〔=もしかして〕これが理由か。 朕は賢明ではないと雖(いえど)も、この錯誤を正さないままでよいのか。 群臣(まえつきみたち)、議定して奏上せよ。」と。 群臣は、皆口々に 「陛下が曲直を誤って定めた氏姓を挙げられるのであれば、臣共々死を冒そう。」と言い、 「可と申しあげます。」と奏上しました。 二十八日、このように詔されました。 「群卿(まえつきみたち)、百寮(もものつかさ)と諸国の国造たちは、皆それぞれに、 或いは帝皇の末裔、或いは異なる天降りの者だと言う。 しかし、三才顕分(さんさいけんぶん)〔=この世界の始まり〕以来、長年を経るうちに、 一氏が蕃息(ばんそく)〔=増殖〕して更に万姓となり、その真実を知ることは困難である。 そこで、もろもろの氏姓の人どもは、沐浴斎戒して、 それぞれ盟神探湯(くかたち)をせよ。」と。 そして味橿丘〔=甘樫丘〕の辞禍戸岬(ことまがへみさき)に、探湯瓮(くかへ)を据えて、 もろもろの人を引き連れて来て「真実を得れば無事で、虚偽を得れば傷つくであろう。」と告げました。 【盟神探湯は、クカタチと訓み、 或いは泥を鼎に納めて煮沸し、手を掃って湯泥を探る。 或いは斧を火色に焼き、掌(てのひら)に置く。】 そしてもろもろの人は、それぞれ木綿(ゆう)の襷(たすき)を身に着けて鼎のところに行き、探湯(「くが」し、湯を探り)、 真実を得た者は自ずから無事で、真実を得られぬ者は皆傷を負いました。 これを以って、故意に詐称した者は愕然として、予め辞退して盟神探湯に臨みませんでした。 これより後は、氏姓は自ずから定まり、これ以上詐称する人は無くなりました。 【人民得所】 「得所」は「ところをう」と訓読するのが一般的だが、どうも上代語らしくない。 そこで、万葉集における「所」の使い方を徹底的に調べてみた。 すると「所見」(みゆ)、「所燃」(もゆ)、「所知」(しらす)など、自発・受け身、転じて尊敬の助動詞としての用法が大部分である。 他の使い方としては、 ●場所(Place)を意味する場合。「何所」(いづく)、「彼所・所許」(そこ)、「大宮所」(おほみやところ)、「過所」(くわそ)。 また、1267踏跡所(ふみしあとところ)。1801奥城所(おくつきところ)〔墓場〕。1121妹等所(いもらがり)〔妹等のところへ〕。 ●熟語として「所由」(つれ)、「所云・所言」(いはれ)〔謂れ〕。 ●特殊な例として、 1459櫻花乃不所比日可聞(さくらのはなのちれるころかも)、 3336所聞(かしま;地名=鹿島、香島)〔「所聞多=かしまし(姦)」から借訓〕。 よって、名詞としての所(ところ)は「場所(Place)」の意味のみで、その場合は必ず形式名詞として「~のところ」の形で使われる。 以上から、「ところをう」と訓読するのは、上代語として不適当である。 漢籍では、例えば『中論』〔後漢、25~220〕「慎所従」に善政の表現として「仁愛普殷※、恵沢流播、百官楽レ職、万民得レ所」がある。 ※…殷=充実して盛んなさま。 この例では、「万民得所」はすべての民に安定した暮らしが保証されるという意味である。 四年条では、「人民得所・姓名勿錯」と「百姓不安・誤失己姓」が対になっているから、 氏姓が守られていれば、人民に不安なしという意味で「人民得所」が使われる。 よって意訳して「やすし」「ととのほる」などと訓むのが適当であろう。 まとめ 盟神探湯は隋書にも書かれているから、当時の中国人から見ても興味を惹く拷問方法だったのだろう。 恐らくは現実に存在したと思われる。 その有効性について考えると、例えば自分の命を守るために全力で戦っているときに、痛みを感じないことはある。 そんな張り詰めた心理が働くことがあったのかも知れない。 だがそれによって火傷そのものを防ぐ生理的メカニズムが存在するかどうかは、不明である。 さて、この盟神探湯によってすべての氏姓の真偽を判定したという書紀の話は、荒唐無稽で信頼性はない。 そこで記を読み直して、 ①氏姓の乱れが広がりつつあり、 ②詐称が強く疑われる個々のケースに対しては盟神探湯を実施し、 ③この機会に朝廷に仕える部族の姓氏を正式に定めた。 のように切り離せば、何とか現実的に読める。 このうち③については、記紀自体がその役割を果たしており、 恐らく7世紀になってから長い時間をかけて積み重ねられたことを、允恭朝まで遡らせたものであろう。 ②については、むしろ盟神探湯そのものを述べることの方が重点だと読める。 ①については、朝廷と協力関係のある諸族は、前方後円墳の始まった頃から台頭していた。 諸族は、それぞれ独自の始祖伝説を自由に掲げていたはずだから、その整理統合は古墳時代・飛鳥時代を通しての課題であったはずである。 この朝廷対諸族、あるいは諸族相互の主張の衝突が、「氏姓の忤過」と表現された。 以上のことが、允恭天皇段にこのような形で書かれたと想像される。 |
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2018.01.15(mon) [187] 下つ巻(允恭天皇4) ▼▲ |
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天皇御年漆拾捌歲
【甲午年正月十五日崩】 御陵在河內之惠賀長枝也 天皇(すめらみこと)の御年(みとし)漆拾捌歳(ななそとせあまりやとせ)。 【甲午(きのえうま)の年正月(むつき)十五日(とうかあまりいつか)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。】 御陵(みささき)河内(かふち)之(の)恵賀(ゑが)の長枝(ながえ)に在り[也]。 天皇(すめらみこと)の御年、七十八歳でした。 【甲午(きのえうま)の年正月(むつき)十五日(とうかあまりいつか)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。】 陵(みささぎ)は河内の恵賀(えが)の長枝(ながえ)にあります。 漆拾捌…「七十八」の大字。 【甲午年】 これまで幾度か述べてきたように、「甲午年」は西暦454年に該当する。 書紀では、安康天皇紀元年が「太歳甲午」とされ、ここに至って書紀と記の太歳がほぼ一致するようになる。 【河内国の恵賀長枝】 〈延喜式諸陵寮〉「恵我長野北陵:遠飛鳥宮御宇允恭天皇。在河内国志紀郡。兆域東西三町。南北二町。陵戸一烟。守戸四烟。」 文久の修復では、市ノ山古墳を恵我長野北陵に比定したようで、宮内庁による治定もこれを踏襲している。 この地域は、「長野」「恵我」の範囲に含まれていたと見られる (第160回で詳細に検討した)。 〈延喜式〉は、仲哀天皇陵を恵我長野西陵としている (第147回)。 後に、古市古墳群に属する大型古墳のうち、西の端にある岡ミサンザイ古墳が「恵我長野西陵」、 北の端にある市ノ山古墳が「恵我長野北陵」と解釈されるようになったと思われる。
そこで、この地域の陵の埋葬者を一旦白紙に戻すことにする。すると河内長野原陵の候補としては、古市古墳群と大塚山古墳のうち大型古墳四基が目立つ(左表)。 「河内長野原陵」(記は「恵賀長枝」)は、このうちのどれかということになる。 このうち築陵時期が「甲午年〔454〕」に見合うのは、仲津山古墳、次に市ノ山古墳である。 仲津山古墳は、宮内庁によって応神天皇皇后の仲姫命の陵に治定されている。 この二基の大きさは、応神天皇陵と比べれば何れも皇后・皇子・諸侯のクラスで、二基のうち一方を天皇陵とするには決め手を欠く。 本稿の独自説「大王持ち回り制」によれば、古市古墳群のうち飛びぬけて巨大な誉田御廟山古墳は婿に迎えた応神天皇のものだが、 その後はホムタ一族の首長墓が、それらしいサイズに戻って配置されていると見ることができる。 もし仮に允恭天皇の皇后が品陀真若王の子孫ならば、ホムタ一族に迎えられて市ノ山古墳に葬られることはあるかも知れないが、 皇后の忍坂之大中津比売は、咋俣長日子王の系列だから当てはまらない。 ただ、若沼毛二俣王が本当は中日売が生んだ子であったとすれば話は別である (第148回系図参照)。 以上のことから、仲津山古墳・市ノ山古墳を、たまたま時期が合うということだけで允恭天皇陵と決めることには、躊躇せざるを得ない。 《「長野原陵」の不確かさ》 そこで、允恭天皇の埋葬がどのように書かれているかを見る。 書紀には、安康天皇の即位は允恭天皇四十二年十二月と書かれる。 もともと「太子」(日嗣の皇子)は軽皇子であったが、クーデター的に穴穂皇子が皇位を継いだ。 埋葬はその直前の十月と書かれるから、まだ太子軽皇子が喪主であったはずである。 だから、軽皇子の行為としての埋葬した事実は抹消され、明確な言い伝えは残らない。 「御年若干」とするのも、記録の乏しさを示すものかも知れない。 よって、書紀が「長野原陵」とする (記の「恵賀長枝」も)根拠は薄弱であると見ることにする。 そこで、一度土師ニサンザイ古墳に葬られた後、 何らの理由によって岡ミサンザイ古墳に改葬されたという筋書きはどうであろうか。 岡ミサンザイ古墳は、ホムタ一族の墓域から離れた独立的な位置にあり、時期は允恭天皇崩後50年くらいである。 伝統的には仲哀天皇陵とされるが、時期が合わないから無視することにする。 そして、岡ミサンザイ古墳が允恭天皇陵であるという言い伝えのみが残ったと考える。 これなら、允恭天皇の454年崩から、岡ミサンザイ古墳の「5世紀末葉」までの隔たりがあってもよい。 【書紀―四十二年】 14目次 《天皇崩》
時に年(よはひ)若干(そこばく)なり。 於是(ここに)新羅(しらき)王(わう)、天皇既に崩(ほう)ずと聞きまつりて[而]、驚きて之(こ)を愁(うれ)へて、 調船(みつきのふね)八十艘(やそふな)及(と)種々(くさぐさ)の楽人(うたまひひと)八十を貢上(たてまつ)りて、 是(これ)対馬(つしま)に泊(は)てて[而]大哭(おほなき)して、筑紫(つくし)に到りて亦(また)大哭(おほなき)して、 [于]難波津(なにはつ)に泊(は)てて則(すなはち)皆(みな)素服之(しらぎぬをき)て、 悉(ことごと)御調(みつき)を捧(ささ)げて、且(また)種々(くさぐさ)の楽器(がくき、うたまひのうつはもの)を張りて、 難波自(よ)り[于]京(みやこ)に至りて、或(ある)は哭泣(なきいさち)りて、或(ある)は儛(まひ)歌(うた)ひて、 遂に[於]殯宮(ものみや、もがりのみや)に参(まゐ)会(あつ)まれり[也]。
爰(ここに)新羅の人、恒(つね)に京城(みやこ)の傍(かたはら)の耳成山(みみなしやま)畝傍山(うねびやま)を愛(め)でて、 則(すなはち)琴引坂(ことひきさか)に到りて、之(こ)を顧(かへりみ)て曰(まを)ししく、 「宇泥咩巴椰(うねめはや)、彌々巴椰(みみはや)。」とまをしき。 是(これ)未(いまだ)風俗(くにのひと)之(の)言語(こと)を習(なら)はざりて、 故(かれ)畝傍山を訛(よこなまり)して宇泥咩(うねめ)と謂(まを)して、耳成山を訛して瀰々と謂(まを)しし耳(のみ)。
新羅の人采女(うねめ)に通(かよ)へりとおもへる耳(のみ)。 乃(すなはち)[之][于]大泊瀬皇子(おほはつせのみこ)に返之啓(かへりごとまを)しき。 皇子則(すなはち)悉(ことごとく)新羅の使者(つかひ)を禁固(かたくとら)へて[而]推問(おしと)ひたまひて、 時に新羅の使者[之]啓(まを)して曰(まを)さく 「采女(うねめ)を犯(をか)ししこと無し。唯(ただ)京(みやこ)の傍(かたはら)之(の)両(ふたつの)山を愛(め)でて[而]言ひし耳(のみ)。」とまをす。 則(すなはち)虚(いつはり)の言(こと)と知りて、皆之(こ)を原(ゆる)したまひき。 於是(ここに)新羅の人大恨(おほうらみ)して、更に貢上之(たてまつる)物(もの)の色(いろ)及(と)船数(ふなのかず)を減(へ)しき。
《哭泣》 なきめ(哭女)は、〈時代別上代〉「葬送における一つの儀礼型式として号泣慟哭することを職業とする女」とされる。 『魏志倭人伝をそのまま読む』でも触れた (44回)。 ここでは、新羅の弔使が葬礼を盛り上げるための哭女と楽人〔踊り手、歌い手、器楽奏者〕の一団を引き連れてきたのである。 また、大陸と倭国の間の対馬-筑紫-難波津のルートは書かれなくても明らかであったが、ここで初めて明示される。 《減貢上之物色及船数》 允恭朝の頃、基本的に新羅と仲が悪かった (第185回【新羅と誼を通じた期間】)。 ここではその程度を随分薄めて、それまでの大量の貢物を減らしたという書き方になっている。 体面を重んじて、あくまでも新羅を倭国への朝貢国の如くに描こうとするか。 《大意》 四十二年正月十四日、天皇(すめらみこと)は崩じました。 御年若干でした。 そこで、新羅王は、天皇が既に崩したと聞き、驚き憂いて、 御調船(みつきのふね)八十隻、種々の楽人〔演奏会〕多数を貢上し、 対馬に停泊して大哭(だいこく)儀式を行い、筑紫に到着してまた大哭儀式を行い、 そして難波津に停泊したところで、皆素服(しらぎぬ)を着て、 ことごとく御調(みつき)を捧げて、また種々の楽器を準備して 難波から京に至り、あるいは哭泣(こうきゅう)し、あるいは舞い歌い、 最後に殯宮(ひんきゅう)に参会しました。 十一月、新羅の弔使らは、喪礼を既に終えて帰路に就きました。 さて、新羅の人は常に京城の傍の耳成山・畝傍山を愛し、 琴引坂まで来たところで振り返って、 「うねめはや、みみはや。」と申しました。 これは、未だこの国の言葉を十分に習わず、 よって畝傍山を訛って「うねめ」と申し、耳成山を訛って「みみ」と申しただけのことです。 その時、倭の馬飼が新羅の人に従っていて、この言葉を聞いて疑い、 新羅の人が采女に通じたと思い込みました。 そこで大泊瀬皇子(おほはつせのみこ)に報告しました。 そこで皇子がことごとく新羅の使者を捕えて推問されたところ、 新羅の使者はこう申し開きしました。 「采女を犯してなどおりません。ただ京の傍の両山を愛して言っただけです。」と。 よって虚言だと知り、皆これを赦しました。 このことから、新羅の人は大恨みして、貢上する物の種類と船数を減らしました。 十月十日、天皇を河内の長野原の陵に葬りました。
〈五畿内志〉が「冨田村・原谷村の境に弾琴原がある」とするのは、冨田村の陵が日本武尊の「琴弾原」陵であると解釈したことによると思われる。 ところが、この位置で後ろを振り返っても、畝傍山・耳成山は見えない。手前の国見山の山系によって遮られているのである。 その後、309号線を西に進むとやっと見通せる位置になるが、今度は遠くてあまり目立たない。 水越峠から葛城山に登ると大和三山がきれいに見え、いくつかのブログにその写真が載る。 だから、「琴引坂」は日本武尊陵からかなり離れて葛城山に近い山道を意味することになる。 また、難波津への道としては水越街道の他に竹内街道がある。これは履中天皇が難波から逃れた経路であり、 また百尊の土馬伝説の経路だから (第160回《蓬蔂丘誉田陵》)、 書紀ではむしろこちらのルートの方が標準かも知れない。 こちらも竹内峠から近くの二上山に登ると、大和三山がよく見える。 もし琴引坂が竹内街道なら、日本武尊の琴弾原陵の位置の伝統的解釈を否定し、竹内街道沿いに新たに求めなければならない。 古市古墳群の白鳥陵は竹内街道沿いだから、琴弾原陵も竹内街道沿いとした方がよいのかも知れない。 このように竹内峠・水越峠である可能性を見たが、琴引坂はやはり琴弾原陵とすべきか。 この位置から「振り返って畝傍山・耳成山が見える」ことは現実にはあり得ないが、 伝説の作者が頭の中で考えた話ならば不都合はない。 まとめ 応神天皇の系図(第148回)を見ると、皇子若沼毛二俣王の母を息長真若中比売から中日売命に付け替えれば、 允恭天皇はホムタ一族に婿として迎えられたことになり、その陵が仲津山古墳または市ノ山古墳である可能性が復活する。 その場合、仲津山・市ノ山のうち允恭天皇陵でない方は忍坂之大中津比売命の陵ということになる。 もし允恭天皇とホムタ一族との関係を認めなければ、雄略朝の時期に岡ミサンザイ古墳に改葬した説が浮かび上がる。 前者なら允恭天皇とホムタ一族、後者なら雄略天皇とこの地域のある一族との密接な関係を考えなければならないが、 その実際を知ることは、今のところ難しい。 |
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2018.01.18(thu) [188] 下つ巻(允恭天皇5) ▼▲ |
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天皇崩之後 定木梨之輕太子所知日繼
未卽位之間 姧其伊呂妹輕大郎女而歌曰 天皇(すめらみこと)崩[之](かむあがりしたまひし、ほうじし)後(のち)、木梨之軽(きなしのかる)の太子(ひつぎのみこ)を所知日継(しろしめすひつぎ)に定めたまひてありて、 未だ位(くらゐ)に即(つ)かざりし間(ま)、其の伊呂妹(いろど)軽大郎女(かるのおほいらつめ)を姦(をか)して[而]歌曰(みうたよみたまはく)。 阿志比紀能 夜麻陀袁豆久理 夜麻陀加美 斯多備袁和志勢 志多杼比爾 和賀登布伊毛袁 斯多那岐爾 和賀那久都麻袁 許存許曾婆 夜須久波陀布禮 阿志比紀能(あしひきの) 夜麻陀袁豆久理(やまだをつくり) 夜麻陀加美(やまだかみ甲) 斯多備袁和志勢(したびをわしせ) 志多杼比爾(したどひに) 和賀登布伊毛袁(わがとふいもを) 斯多那岐爾(したなきに) 和賀那久都麻袁(わがなくつまを) 許存許曽婆(こぞこそは) 夜須久波陀布礼(やすくはだふれ) 此者志良宜歌也 又歌曰 此者(こは)志良宜歌(しらげうた)也(なり)。 又(また)歌曰(みうたよみたまはく)。 佐佐波爾 宇都夜阿良禮能 多志陀志爾 韋泥弖牟能知波 比登波加由登母 宇流波斯登 佐泥斯佐泥弖婆 加理許母能 美陀禮婆美陀禮 佐泥斯佐泥弖婆 佐佐波爾(ささばに) 宇都夜阿良礼能(うつやあられの) 多志陀志爾(たしだしに) 韋泥弖牟能知波(ゐねてむのちは) 比登波加由登母(ひとはかゆとも) 宇流波斯登(うるはしと) 佐泥斯佐泥弖婆(さねしさねてば) 加理許母能(かりこもの) 美陀礼婆美陀礼(みだればみだれ) 佐泥斯佐泥弖婆(さねしさねてば) 此者夷振之上歌也 此者夷振(ひなぶり)之(の)上歌(あげうた)也(なり)。 〔允恭〕天皇(すめらみこと)の崩じた後、木梨之軽太子(きなしのかるのみこ)が皇太子に定められていましたが、 未だ即位しない間に、同母の妹軽大郎女(かるのおおいらつめ)を姦淫して歌を詠みました。 ――あしひきの 山田を作り 山高(だか)み 下樋(したび)を走(わし)せ 下(した)問(ど)ひに 我が問ふ妹(いも)を 下(した)泣きに 我が泣く妻を 今夜(こぞ)こそは 安く肌触れ これは、しらげ歌です。 また、歌を詠みました。 ――笹葉に 打つや霰(あられ)の たしだしに 率(ゐ)寝てむ後は 人は離(か)ゆとも 麗はしと さ寝しさ寝てば 刈り薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば これは夷振(ひなぶり)の上歌(あげうた)です。 -み甲…[接尾] 形容詞の語幹につき、名詞化する。 したび(下樋)…[名] 地下に埋設した通水路。 わしす…[他]サ下二 走らせる。「わしる」(自動詞)の使役形。 したどひ…[名] 心の底でひそかに妻問うこと。 したなき…[名] 心の中でひそかに泣くこと。 ゐぬ(率宿)…[他]ナ下二 連れていって共に寝ること。 こぞ…[名] 今夜。 しらげうた…[名] 「しり-あげうた」の母音融合と考えられている。 ささば…[名] 笹の葉。 たしだし…擬声語。あられの降る音。 かゆ(離ゆ)…[自]ヤ下二 離れる。「かる」とも。 かりこも(刈薦)…[名] 刈り取ったこも。床に敷く。 さ-…[接頭] 名詞・動詞・形容詞につく。〈時代別上代〉ほとんど実質的な意味はない。韻文には頻用されるが、散文には少ない。 みだる…[自]ラ下二 乱れる。(万)0697 苅薦之 乱而念 かりこもの みだれておもふ。 【真福寺本】 真福寺本では、第二歌に誤写と思われる箇所が多い。 ②「佐泥斯佐泥弖婆」(一回目)…「佐泥斯佐泥斯佐」の誤りが訂正されている。 ③「佐泥斯佐泥弖婆」(二回目)…「弖」がない。 【定木梨之軽太子所知日継】 原文は「木梨之軽太子を所知日継(しろしめすひつぎ)に定めて」と読めるので、 軽皇子の立太子は允恭天皇の崩後である。 しかしそれでは誰が立太子させたのか、或いは、そもそもなぜ直接即位しなかったのかという問題が生じる。 そこで、「定」に「てあり」〔後の完了の助動詞「たり」〕を補って、允恭天皇の生前に遡らせるのが妥当であろう。 【志良宜歌・夷振之上歌】 「志良宜(しらげ)歌」「夷振上(ひなぶりのあげ)歌」は何らかの歌の型式、またはメロディーであろうと思われるが、その実際は想像がつかない。 【歌意】
(万)2720 水鳥乃 鴨之住池之 下樋無 欝悒君 今日見鶴鴨 みづとりの かものすむいけの したびなみ いぶせききみを けふみつるかも 〔鴨が住む池に下樋がないように気持ちのはけ口なく、心が晴れない君であったが、今日会えてよかった〕。 〈時代別上代〉所引『琴歌譜』(平安初期以前)…「山田から斯多備をわしせ」 この「下樋」が、心の動き「下問ひ」「下泣き」に繋がっている。
笹葉を霰が打つ音に、世間の人の非難の声を重ね合わせて聞いているように感じられる。 《さ寝しさ寝てば》 「さ-」は接頭語。 「し」は〈時代別上代〉「従属節中に用いられる場合は順接条件であることが多く、体言を受けるときは、排他的にそれを特立する〔=強調する〕意味を生じる」という。 「さ寝しさ寝てば」=接頭語「さ」+"寝(ぬ)"(下二)の名詞形「ね」+強調の副助詞「し」+ 「さ」+"寝(ぬ)"の連用形「ね」+完了の助動詞「つ」(下二)の未然形「て」+接続助詞「ば」(仮定の順接)。 完了「つ」は、人から非難されようが、寝床が乱れようが構わないから寝てしまえばよいという。 《人は離ゆとも》 人倫にもとる行為だから、人は離れてゆく。それでもお前と愛し合うという。 〈時代別上代〉には「人議(ハカ)ユトモと解し、人が非難してもの意にとる説もある」として、別説を紹介している。 それでも、意味はあまり変わらない。 《夷振之上歌》 「夷振之上歌」がどういうスタイルの歌であったかは全く推定不可能であるが、 結句の二回の「さ寝しさ寝てば」には同じメロディーが反復され、盛り上がる歌ではないかと思われる。 【近親間の姦淫の禁忌】 伊邪那岐命・伊邪那美命は兄妹の印象が強いが、神なら問題はなかったようである。 しかし、人間の世界では兄妹の姦淫は禁忌であった。 ただ、大雀命(仁徳天皇)は、八田若郎女を娶っている (第161回)。 八田若郎女の母は宮主矢河枝比売、大雀命の母は中日売命であり、 異母兄弟なら許容されたようである。 【書紀―二十三年】 12目次 《木梨軽皇子恒念合大娘皇女》
容姿(みすがた)佳麗(うるはし)くて、見ゆる者(ひと)自(おのずから)感(かな)ひて、 同母妹(いろど)軽大娘皇女(かるのおほいらつめのみこ)亦(また)艶妙(いろぐはし)[也]。
然(しかれども)感(かな)ふ情(こころ)既に盛(さか)えて、殆(ほとほと)[将]死(しに)に至らむとす。 爰(ここに)以為(おもへらく)、徒(いたづら)に空(むなしく)死な者(ば)、[雖]罪有れども、何(いか)にか得(え)忍(しの)ぶ乎(や)とおもへり。 遂(つひ)に窃(ひそか)に通ひて、乃(すなはち)悒懐(いきどほ)ること少(すこし)息(やす)みて、因(よ)りて歌[之](うたよみ)を以ちて曰(い)はく。
志哆那企貳(したなきに) 和餓儺勾菟摩(わがなくつま) 箇哆儺企貳(かたなきに) 和餓儺勾菟摩(わがなくつま) 去鐏去曽(こぞこそ) 椰主区泮娜布例(やすくはだふれ) 《徒空死者雖有罪何得忍乎》 「何得レ忍乎」は反語で、「忍ぶことができるか、いやできない。」という意味。 すなわち「徒空死者」〔このまま何もせずに死ぬくらいなら〕、それよりも「罪有りと雖(いえど)も」、 「我慢せずに結ばれてしまおう」と決意する。 《大意》 二十三年三月七日、木梨軽皇子(きなしのかるみこ)を立太子なされました。 その容姿は佳麗で、見る者は自然に引き付けられ、 同母の妹、軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)もまた、妙なる美しさでした。 太子は常に大娘皇女と思い合っていましたが、罪となることを恐れ、黙していました。 けれども、感情は既に盛り上がり、殆(ほとん)ど死を選ぼうとしました。 しかし、いたずらに何もせずに死ぬなら、罪であっても忍ぶことなどできようかと思い、 遂に密かに通じると、心の憂いが少しは晴れ、気持ちを歌詠みしました。 ――あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走(わし)せ 下(した)泣きに 我が泣く妻 片泣きに 我が泣く妻 今夜(こぞ)こそ 安く肌触れ まとめ 本来は木梨軽皇子が皇位を継承するのが、正統であったのだろう。 長子相続の原則は、並みの権力奪取の野望ぐらいのことで覆されてはならない。 この原則が覆えされるに足る特別な事情として、不道徳な行為が殊更に強調された印象を受ける。 だから、この事件は捏造かも知れないし、仮に事実だったとしても実際には副次的な理由だったのかも知れない。 記では軽皇子の不道徳が直接人民の怒りを呼び起こした流れになっているが、 書紀では〈安康天皇紀〉に「是時〔=允恭天皇の崩後〕 太子行暴虐 淫于婦女」 と書かれ、罪として問われることの重点が人民一般に対する振る舞いに移っている。 |
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2018.01.25(thu) [189] 下つ巻(允恭天皇6) ▼▲ |
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是以百官及天下人等背輕太子而歸穴穗御子
爾輕太子畏而 逃入大前小前宿禰大臣之家而備作兵器 【爾時所作矢者銅其箭之內 故號其矢謂輕箭也】 是(こ)を以(も)ちて百官(もものつかさ)及(と)天下(あめのした)の人等(ら)軽太子(かるのひつぎのみこ)に背(そむ)きまつりて[而]穴穂御子(あなほのみこ)に帰(よ)りまつりき。 爾(ここに)軽太子畏(おそ)りて[而] 大前小前宿祢(おほまへをまへすくね)の大臣(おほまへつきみ)之(の)家(いへ)に逃げ入りて[而]兵器(つはもの)を備(まう)け作れり。 【爾(この)時所作(つくらえし)矢(や)者(は)銅(あかがね)のもの、其の箭(や)之(の)内(うち)にあり、 故(いにしへ)に其の矢を号(なづ)けて軽箭(かるのや)と謂(い)ふ[也]】 穴穗御子亦作兵器 【此王子所作之矢者卽今時之矢者也 是謂穴穗箭也】 於是穴穗御子興軍圍大前小前宿禰之家 爾到其門時零大氷雨故歌曰 穴穂(あなほ)の御子亦(また)兵器(つはもの)を作れり。 【此の王子(みこ)に所作之(つくらへし)矢者(は)即(すなはち)今の時之(の)矢なれ者(ば)[也]、 是を穴穂箭(あなほのや)と謂(い)ふ[也]。】 於是(ここに)穴穂御子軍(いくさ)を興(おこ)して大前小前宿祢之(の)家(いへ)を囲(かく)みたまひき。 爾(ここに)其の門(と)に到りし時、大(おほ)氷雨(ひさめ)零(ふ)りて、故(かれ)歌曰(みうたよみたまはく) 意富麻幣 袁麻幣須久泥賀 加那斗加宜 加久余理許泥 阿米多知夜米牟 意富麻幣(おほまへ) 袁麻幣須久泥賀(をまへすくねが) 加那斗加宜(かなとかげ) 加久余理許泥(かくよりこ乙ね) 阿米多知夜米牟(あめたちやめむ) 爾其大前小前宿禰擧手打膝 儛訶那傳【自訶下三字以音】歌參來 其歌曰 爾(ここに)其の大前小前宿祢手を挙げ膝(ひざ)を打ちて 儛(ま)ひ訶那伝(かなで)【訶自(よ)り下(しも)つかた三字(さむじ)音(こゑ)を以ちゐる】て歌よみまつりて参(まゐ)来(く)。 其の歌(うた)に曰(い)はく。 美夜比登能 阿由比能古須受 淤知爾岐登 美夜比登々余牟 佐斗毘登母由米 美夜比登能(みやひとの) 阿由比能古須受(あゆひのこ甲すず) 淤知爾岐登(おちにき甲と) 美夜比登々余牟(みやひととよむ) 佐斗毘登母由米(さとびともゆめ) 此歌者宮人振也 此(こ)の歌者(は)宮人振(みやひとぶり)也(なり)。 如此歌參歸白之 我天皇之御子 於伊呂兄王无及兵 若及兵者必人咲 僕捕以貢進 爾解兵退坐 故大前小前宿禰捕其輕太子 率參出以貢進 此の歌の如く、参帰(まゐき)て[之]白(まを)さく 「我天皇(わごおほきみ)之(の)御子(みこ)や、[於]伊呂兄(いろせ)の王(みこ)に兵(つはもの)を及ぼしたまふこと无(な)かれ。 若(も)し兵(つはもの)に及ぼさ者(ば)、必ず人咲(わら)はむ。僕(やつかれ)捕へて以ちて貢進(たてまつ)らむ。」とまをして、 爾(ここに)、兵(つはもの)を解きて退(ひ)き坐(ま)せり。 故(かれ)、大前小前宿祢其の軽の太子(ひつぎのみこ)を捕へまつりて、率(ひき)ゐて参出(まゐで)て以ちて貢進(たてまつ)りき。 このことにより、官僚も庶民も軽太子(かるのひつぎのみこ)に背き、穴穂御子(あなほのみこ)に帰しました。 そして、軽太子は恐ろしくなり、 大前小前宿祢(おおまへおまへすくね)大臣(おおまえつきみ)の家に逃げ入り、武器を作って備えました。 【この時に作られた矢は、銅製の鏃がその矢につき、 昔風のその矢の名は軽箭󠄀(かるや)といいます。】 穴穂の御子もまた武器をつくりました。 【この皇子によって作られた矢は今風の矢で、 これを穴穂箭󠄀(あなほや)といいます。】 そして穴穂御子は軍を興して大前小前宿祢の家を囲みなされました。 そしてその門に到った時、氷雨が激しく降り、御歌を詠まれました。 ――大前(おほまへ) 小(を)前宿祢が 金門(かなと)陰 かく寄り来ね 雨たち止めむ そこでその大前小前宿祢は、手を挙げ膝を打って 舞をかなで、 歌いながら参上しました。 その歌は。 ――宮人(みやひと)の 足結(あゆひ)の小鈴(こすず) 落ちにきと 宮人響(とよ)む 里人(さとびと)も謹(ゆめ) この歌は宮人振(みやひとぶり)です。 この歌のようにして、穴穂御子に帰順して申しあげました。 「わが天皇(すめらみこと)の皇子よ、同腹の兄皇子に軍勢を及ぼしてはなりません。 もし軍勢を及ぼせば、必ず人は笑います。私目が捕えて引き渡して差し上げましょう。」と申しあげ、 そこで包囲の軍勢を解いて退却されました。 そして、大前小前宿祢は軽太子を捕え、引き連れて出てきて、引き渡して差し上げました。 帰…(古訓) よる。かへる。おもむく。 大前小前宿祢…歌謡に「意富麻幣袁麻幣須久泥」〔おほまへをまへすくね〕。 故…(古訓)「いにしへ。ふるし。かれ。」穴穂皇子の矢を「今時之矢」とするのに対応して、ここでは「昔」と解釈すべきである。 ね…[助] 「未然形+ね」は、二人称に対する自己の願望を表す。事実上の命令。
みやひと(宮人)…[名] 宮仕えする人。 あゆひ(足結)…[名] 袴の上から膝の下を結んだ紐。鈴をつけることがある。 さとびと(里人)…[名] 里に住む人。 ゆめ(謹、勤)…[副] つつしんで。文末に用いられる例が多い。 いろせ…[名] 同腹の兄。 【真福寺本】 真福寺本〔以下、(真)と表記〕では、 ①逃入大前小前宿禰大臣之家而、備作兵器〔(真)なし〕。 ②故號其矢謂輕箭也云々〔(真)のみにつく〕。 ③袁麻幣須久泥賀 加那斗〔(真)計〕。 ④加久余理許泥 阿米多知夜米牟〔(真)未〕。 ⑤美夜比登能 阿由比能古〔(真)右〕須受。 ⑥美夜比登々余牟 佐斗〔(真)計〕毘登母由米〔(真)未〕。 ⑦於伊呂兄王 無〔(真)无〕及兵若〔(真)君〕及兵者。 無・无はどちらでも同じであるが、それ以外は真福寺本の誤写であろう。 「斗⇒計」、「米⇒未」は他の歌にも見られる系統的なもので、筆写者の読み取り方の癖かと思われる。 歌謡に見られる現象なので、下巻の筆写者の万葉仮名の知識は十分ではなかったように思われる。 【銅鏃】 銅鏃(どうぞく)は、銅製の鏃(やじり)である。 鳥取県公式ページの「青谷上寺地遺跡」に、 「銅鏃が"ぞくぞく"出土! (2016年10月7日)」の見出しで「8月1日から調査をはじめてから2か月。 その間、弥生時代の銅鏃が6点も出土しました。 銅鏃は弥生時代において貴重な武器であり、山陰地方でも出土する遺跡は限られています。 青谷上寺地遺跡では過去18年間の調査で37点の銅鏃が出土しています」とある。 青谷上寺地遺跡は、本サイトで「魏志倭人伝:水行十日陸行一月」の上陸地点と見る注目の場所である。
《軽箭󠄀・穴穂箭󠄀》 「かる矢」は他に見えない言葉なので、一般的な名称かどうかは分からない。 密度を比べると、銅は9.0g/cm3、鉄は7.9g/cm3で同体積なら、銅鏃の方が重いから、 銅鏃は「軽いから軽矢である」とは言えない。 むしろ石鏃の方が軽く、例えば黒曜石の密度は2.3~2.5g/cm3である。 もともと石鏃が「軽矢」であったものを、古事記においては銅鏃に誤用したのかも知れないが、実際のところは分からない。 もう一つの「あなほ矢」は、鏃〔上代語は「やさき」〕=矢の"穂"に穴があいた矢だとすれば、鏑矢〔鏃に穴をあけて音が鳴るようにした矢〕の別名かも知れないが、これも他に例を見ない。 前項で述べたように銅鏃が古い矢だとすれば、「故」は穴穂箭󠄀の「今時」に対応して、「ふるくは」あるいは「いにしへに」と訓むのではないかと思われる。 ただし書紀はこのような読み方はせず「穴穂括箭、軽括箭、始起于此時」〔これが、穴穂括箭と軽括箭という呼び名の始まりである〕と書いている。 【歌意】
「かなと」は、「と(門)」と同じである。〈時代別上代〉は「金属で扉や柱を堅め飾るためにカナ戸というといわれる。 トが門の意であることは、水ナ門・ 島門など例が多いが、カナについてはなお考慮の余地があろう」と述べる。 《たちやめむ》 接頭語「たち-」は、動詞「やむ」を強調する。下二段活用の「やむ」は自動詞で、主語は雨である。 《かくよりこね》 「よりく」は「寄る・来」の連語。 「こ乙」は「く」の未然形。 「未然形+ね」は相手に対する自己の願望を示す。 その用例としては、万葉の「(万)2457 大野 小雨被敷 木本 時依来 我念人 おほのらに こさめふりしき このもとに ときとよりこね あがもへるひと」 が分かり易い。「時と」は、「雨が止むときを待とうと思って」の意味だと思われる。 「かく」は指示詞で、「雨たちやめむ」を予め指すものと思われる。 《文脈中の意味》 この歌を通して、大前小前宿祢に軽太子を差し出せと命じているのは明らかである。
「落つ」の意味を、はじめは「軽皇子が落ちて来た〔追放された〕」かと思った。 しかし〈時代別上代〉は、この歌を「落つ」の第一の用例にもってきている。 そのように物理的な落下だとすれば、 ある人の「足結」がちぎれ、鈴が音を鳴らして転がったことを意味することとなろう。 これを見た宮人たちは「響む」。 これが「一斉に歓声を上げる」意味であるのは、その次に大前小前宿祢が話す「必人咲〔わらふ〕」という言葉から察せられる。 ただ、同席した里人は大袈裟に喜ぶことを「ゆめ」、すなわち謹しまねばならず、 微笑んで見ているのが精一杯である。 《落ちにきと》 「落ちにき甲」は、 「落つ」の連用形「落ち」+完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」+完了の助動詞「き」の終止形「き甲」である。 この解釈が妥当であることは、 「(万)3993 布治奈美波 佐岐弖知里尓伎 ふぢなみは さきてちりにき 〔藤浪は咲きて散りにき〕」があり、 さらに「(万)2289 秋芽子者 開而落去寸 あきはぎは さきてちりにき」において、「に」に「去」の字を宛てていることから明らかである。 助詞「と」は、〈時代別上代〉「活用語の終止法や体言を受けて、言うこと・思うことなどの内容を表す」。 だから、宮人・里人は「小鈴が落ちた!」と言ったり思ったりするのである。 《宮人振》 この歌意から見て「宮人振」は、「宮廷の人が里人(庶民)を招いて催す宴で歌われる歌」ではないかと思われる。 【第二歌の場面】 大前小前宿祢は、手挙げ膝打ちして舞いを「かなで」ながら、そして第二歌を歌いながら門から出てくる。 だから、この歌はやはり楽しい歌である。 だが、穴穂皇子の軍勢が取り囲む緊迫した場面が、突然宴のようになるのは面食らう。 この謎を解くためにその後の経過を見ると、 大前小前宿祢は「兄皇子に兵を向けては世間の笑いものになる。私に任せてくれれば捕えて引き渡して進ぜよう。」 と言って穴穂皇子を諫めている。 一方、書紀(安康天皇即位前紀)では大前宿祢は「願勿害太子、臣将議。」 〔願わくば軽皇子を殺さないことを提案します〕と述べ、その後に軽皇子は自死する。 即ち、大前宿祢は穴穂皇子に逆らう気持ちはないが攻め込まれることは避けたいので、穏やかな形で軽皇子を引き渡す(記)、あるいは自死させる(書紀)行動をとった。 すると、敢えて歌舞しながら出てきたのは、 帰順する意思を示し、また緊張した空気をほぐすためと考えられる。 その流れの中の歌の意味を考えれば、足結についていた小鈴とは軽皇子のことで、小鈴が落ちたと詠むことによって、 身柄を引き渡す意思を示したのであろう。 【大前小前宿祢】 《天孫本紀》 天孫本紀(『先代旧事本紀』〔序文以外は9世紀〕巻五)に、物部大前宿祢・物部小前宿祢の名がある。
恐らく第一歌は記以前から存在したもので、記は歌のまま「大前小前宿祢」の名を用いる。 書紀は、この人物に物部の大前宿祢をあてるが、歌は古い「大前小前」のままである。 既によく知られた歌だったから修正しにくいという事情があったのかも知れない。 天孫本紀に至り「大前宿祢」と「小前宿祢」は完全に分離し、物部氏十一世の兄弟として定式化される。 記・書紀・天孫本紀の記述の変遷は、物部氏の系図が次第に整えられていく経過を示したものと考えられる。 【安康天皇紀―即位前】 安康1目次 《太子行暴虐》
【一云(あるにいはく)、第三(だいさむ)の子也。】 母は忍坂大中姫命(おしさかのおほなかつひめのみこと)と曰ひて、稚渟毛二岐皇子(わかぬけふたまたのみこ)之(の)女(みむすめ)也(なり)。 四十二年(よそとせあまりふたとせ)春正月(むつき)、天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。冬十月(かむなつき)葬(みはぶり)の礼(ゐや)のこと[之]畢(を)ふ。
国の人之(こ)を謗(そし)りて、群臣(まへつきみたち)不従(したがはず)て、悉(みな)穴穂皇子(あなほのみこ)に隸(したが)ひき。 爰(ここに)太子、[欲]穴穂皇子を襲(おそ)ひたまはむとして[而]密かに兵(つはもの)を設(まう)く。 穴穂皇子、復(また)兵(つはもの)を興(おこ)して[将]戦かはむとしたまひき。 故(かれ)穴穂括箭(あなほや、あなほやさきのや)、軽括箭(かるや、かるやさきのや)、始めて[于]此の時に起(おこ)りき[也]。
乃(すなはち)[之]出(いで)て、物部大前宿祢(もののべのおほまへすくね)之(の)家(いへ)に匿(かく)れたまふ。 穴穂皇子聞きたまひて則(すなはち)之(こ)を囲(かく)みて、大前宿祢、門(と)を出(い)でて[而][之]迎へまつる。 穴穗皇子歌之曰(みうたよみたまはく)。
「願(ねがはくは)太子(ひつぎのみこ)を勿(な)害(そこな)ひそと、臣(やつかれ)[将]議(はか)りまつる。」とまをしき。 是(これ)に由(よ)りて、太子[于]大前宿祢之家にて自(みづから)死にましき。 【一云(あるにいはく)、伊予の国に流しまつりたまふ。】 《稚渟毛二岐皇子》 稚渟毛二岐皇子(わかぬけふたまたのみこ)の、応神天皇紀における表記は「稚野毛二派皇子(わかの甲けふたまたのみこ)」 (応神天皇二年)である。 江戸時代の国学者が提唱した「野」は「ぬ」と訓むとする説は、現代では否定されている。 しかしこの例を見ると、「野」が「の甲」にも用いられることがあったか、あるいは「の甲」に「ぬ」が通用したかのどちらかである。 「稚渟毛二岐皇子-忍坂大中姫」の関係は書紀においては允恭天皇紀には載らず、ここで初めて書かれる。 允恭天皇紀では①木梨軽皇子②名形大娘皇女③境黒彦皇子④穴穂天皇の順に生まれ、皇女を除いたカウントで第三子である。 したがって安康天皇紀で本文:第二子、別説:第三子とするのは、書紀内での一貫性を欠く。 《淫于婦女》 伝統訓で「たはく」という獣や近親との行為を指す語を用いるのは、妹への姦淫と解釈したためであろう。 しかし、書紀においては妹との問題はひとまず解決済みである。 ここでは「行二暴虐一」と並べて「婦女に淫す」と書くから、人民の婦女を見境なく犯すという意味であろう。 だから「たはく」よりは「みだりにをかす」の方が適切か。 《大意》 穴穂天皇(あなほのすめらみこと)〔安康天皇〕は、雄朝津間稚子宿祢天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)〔允恭天皇〕の第二子です。 【別説では、第三子です。】 母は忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと)といい、稚渟毛二岐皇子(わかぬけふたまたのみこ)の御娘です。 四十二年正月、〔允恭〕天皇が崩じ、十月に葬礼を終えました。 この時、軽皇子は行い暴虐で、婦女に姦淫されました。 人民はこれを謗(そし)り、群臣は従わず、皆穴穂皇子(あなほのみこ)に従いました。 そこで軽皇子は、穴穂皇子を襲おうとして密かに軍勢を準備しました。 穴穂皇子もまた、軍勢を起して戦かおうとされました。 この時、穴穂括箭(あなほや)、軽括箭(かるや)の名が初めて生まれました。 そのとき軽皇子は、群臣従わず、人民背くことと知り、 宮殿を出て、物部大前宿祢(もののべのおおまえすくね)の家に身を匿(かく)しました。 穴穂皇子はそれを聞かれてここを囲み、大前宿祢は門を出てお迎えしました。 穴穗皇子は御歌を詠まれました。 ――大前(おほまへ) 小(を)前宿祢が 金門(かなと)陰 かく寄り来ね 雨たち止めむ 大前宿祢は返し歌をお詠みしました。 ――宮人(みやひと)の 足結(あゆひ)の小鈴(こすず) 落ちにきと 宮人響(とよ)む 里人(さとびと)も謹(ゆめ) このように歌詠みし、穴穂皇子に申しあげました。 「願わくば太子の身を害うことのなきよう、私はご提言申しあげます。」と。 これにより、軽皇子は大前宿祢の家にて自死されました。 【別説では、伊予の国に流されました。】 まとめ 記では、軽太子と妹との姦淫は允恭天皇の死後である。 そしてその行為は直接的に官民の反発を招き、ついに逮捕・追放された。 それに対して書紀は、妹との姦淫を允恭天皇の生前のこととする。 そして允恭天皇の葬儀を終え、軽皇子が即位する前に罪に問われる。 ただ、その罪状では、直接的には人民への暴虐が理由とされる。 妹との不名誉な事件は、その時期を允恭天皇の生前まで引き離して解決済みとする。 このときは妹の身柄を伊予に移し、軽皇子は太子故に免罪された(允恭天皇紀二十四年条)。 今回の事件の本質は皇子たちが帝位を争う政治闘争であったが、 記は刺激的な事件を中心に据える脚色をした。書紀はその脚色をいくらか薄め、常識的に理解する方向に戻したと言えよう。 そもそも古事記は記録が乏しい時代の物語として、心のひだに分け入って興味深く、また美しく描き上げる面において絶大な力を発揮した。 しかし記録が十分に残る時代になると次第にその余地が狭まり、 敢えて物語を盛り上げようとすると、現実との乖離が目立つようになってくる。 記の記述には巨大が意義があったが、そろそろ限界に近づいていると言えよう。 |
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2018.01.29(mon) [190] 下つ巻(允恭天皇7) ▼▲ |
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其太子被捕歌曰
阿麻陀牟 加流乃袁登賣 伊多那加婆 比登斯理奴倍志 波佐能夜麻能 波斗能 斯多那岐爾那久 其の〔軽〕太子(ひつぎのみこ)被捕(とらは)れて、歌曰(みうたよみたまはく)。 阿麻陀牟(あまだむ) 加流乃袁登売(かるのをとめ) 伊多那加婆(いたなかば) 比登斯理奴倍志(ひとしりぬべし) 波佐能夜麻能(はさのやまの) 波斗能(はとの) 斯多那岐爾那久(したなきになく) 又歌曰 阿麻陀牟 加流袁登賣 志多々爾母 余理泥弖登富禮 加流袁登賣杼母 又(また)歌曰。 阿麻陀牟(あまだむ) 加流袁登売(かるをとめ) 志多々爾母(したたにも) 余理泥弖登富礼(よりねてとほれ) 加流袁登売杼母(かるをとめども) 故其輕太子者流於伊余湯也 故(かれ)其の軽太子者(は)[於]伊余湯(いよのゆ)に流(なが)されり[也]。 亦將流之時歌曰 阿麻登夫 登理母都加比曾 多豆賀泥能 岐許延牟登岐波 和賀那斗波佐泥 此三歌者天田振也 亦(また)[将]流之(ながされむとせし)時、歌曰(みうたよみたまはく)。 阿麻登夫(あまとぶ) 登理母都加比曽(とりもつかひそ乙) 多豆賀泥能(たづがねの) 岐許延牟登岐波(きこえむときは) 和賀那斗波佐泥(わがなとはさね) 此(この)三歌(みうた)者(は)天田振(あまたぶり)也(なり)。 又歌曰 意富岐美袁 斯麻爾波夫良婆 布那阿麻理 伊賀幣理許牟叙 和賀多々彌由米 許登袁許曾 多々美登伊波米 和賀都麻波由米 此歌者夷振之片下也 又(また)歌曰。 意富岐美袁(おほきみを) 斯麻爾波夫良婆(しまにはぶらば) 布那阿麻理(ふなあまり) 伊賀幣理許牟叙(いかへりこむぞ) 和賀多々弥由米(わがたたみ甲ゆめ) 許登袁許曽(こ乙と乙をこそ) 多々美登伊波米(たたみ甲といはめ乙) 和賀都麻波由米(わがつまはゆめ乙) 此の歌者(は)夷振(ひなぶり)之(の)片下(かたおろし)也(なり)。 その軽太子が捕えられて詠まれた歌は、 ――天(あま)だむ 軽の乙女 甚(いた)泣(な)かば 人知りぬ可(べ)し 波佐(はさ)の山の 鳩の 下泣きに泣く また詠まれた歌は、 ――天(あま)だむ 軽の乙女 したたにも 寄り寝て通(とほ)れ 軽乙女等(ども) そして、軽太子は伊余の湯〔伊予国の地名〕に流されました。 また、まさに流されようとした時に詠まれた歌は、 ――天(あま)飛ぶ 鳥も使人(つかひ)そ 鶴(たづ)が鳴(ね)の 聞こえむ時は 我が名問はさね この三歌は、天田振(あまたぶり)です。 また、詠まれた歌は、 ――大王(おほきみ)を 島に葬(はぶ)らば 船(ふな)余り い帰り来(こ)むぞ 我が畳ゆめ 殊(こと)をこそ 畳と言はめ 我が妻はゆめ この歌は、夷振(ひなぶり)の片下(かたおろし)です。 とらはる…[自]ラ下二 とらえられる。 囚…(古訓) とらはる。 あまだむ…[枕] 「天飛ぶ」の変と言われ、「雁」に発音が近い「軽」にかかるとされる。 いた(甚)…[副] 非常に。 鳩…〈倭名類聚抄〉鳩【和名夜萬八止〔やまはと〕】此鳥種類甚多鳩其惣名也。〔種類甚だ多く、鳩はその総称である。〕 したなき…[名] 心の中でひそかに泣くこと。 したたに…[副] しっかりと。たしかに。別説に「ひそかに」とも。 ね…[助] 「未然形+ね」は二人称の行動を願望する。 はぶる…[他]ラ四 ①放ちやる。②死者を葬る。 たたみ甲(畳)…[名] 毛皮、織物、薦などを用いて作った敷物。 ゆめ…[副] 平安以後は、おもに「ゆめ~なし」の形で「決して」を意味する。 ゆめ乙…[終助] 上代は、終助詞として「努める」。「斎(ゆ)む」(四段)の命令形「斎め甲」とは異なる。。 かたおろし…[名] 「かた」は一首の歌を上句と下句に分けたときの一方。「おろし」は、下げ調子の歌とされる。「あげ」の対。 【真福寺本】 真福寺本は、次の個所に他との相違がある。 ① 波佐能夜麻能 波斗〔計〕能 斯多那岐爾那久 ② 伊賀幣理許牟叙 和賀多々彌由米〔未〕 ③ 此歌者夷振之片〔許〕下也 ①②は、前段から続く系統的な誤写であろう。 ただし、③の「米」は「末」になっていない。 ③は「許下」のままで訓むとすれば「もとさがり」であろうが、この語は〈時代別上代〉にはない。 【伊余湯】
ゆは温泉を意味する。 〈倭名類聚抄〉「冥都山川記云。佷山県有二温泉一百病久病入二此水一多癒矣。一云湯泉。【和名由】」 〔『冥都山川記※』に云ふ。佷山県に温泉有り、百(もも)の病久しき病この水に入れば多く癒ゆ。ある云はく「湯泉」。【和名「ゆ」】〕 ※…「宜都山川記」〔東晋、4世紀末、袁山松著〕の誤写。 「伊余湯」は、〈倭名類聚抄〉の{伊予国・温泉郡〔ゆのこほり〕}であろう。 伊予国温泉郡には古代から温泉があり、現代の道後温泉に繋がるとされる。 書紀から関係箇所を拾うと、舒明天皇紀十一年十二月条に「幸二于伊豫温湯宮一。」、 斉明天皇紀七年正月条に「御船泊二于伊豫熟田津石湯行宮一。【熟田津、此云二儞枳拕豆〔にきたつ〕一。】」がある。 温泉郡の式内社には、〈延喜式神名帳〉{温泉郡四座:阿治美神社【名神大】 出雲崗神社 湯神社 伊佐尓波神社}がある。 それぞれの比定社は、「阿沼美(あぬみ)神社」(愛媛県松山市味酒町3-1-1)、湯神社に合祀、 「湯神社」(愛媛県松山市道後湯之町4-10)、「伊佐爾波(いさにわ)神社」(愛媛県松山市桜谷町173)。 これらを含む地域が、平安時代の温泉郡ということになる。明治22年〔1889〕の時点では、郡域がもう少し西にずれている。 湯神社・伊佐尓波神社は、「伊予温湯宮」「伊予熟田津石湯行宮」の伝説の地にあるではないかと想像される。 【歌曰】 「御歌曰」は、例えば倭建命の段に集中して使われている (第132回)。 天皇が主語の場合、「以歌答曰」(第100回)、 「天皇御歌曰」(第101回)など一定しないが、 「御」がなくても、暗黙のうちについているのは明らかである。 軽太子の場合、犯罪者であるから敢えて尊敬語にしないという考え方もあるが、 立場に伴う形式として「御」をつけて訓むのが妥当であろう。 なお、訓読は「みうたにいはく」から、「みうたよみたまはく」「みうたよみたまひていはく」「みうたよみたまひてのたまはく」まであり得るが、 何れも許容範囲内であろう。「曰」自体は現代のカギ括弧の役割をする区切り文字だから、訓んでも訓まなくてもよい。 【第一歌〈書紀:第二歌〉】
記では、この歌以下の三首が「天田振」とされ、そのうち第三歌の起句は「天飛ぶ」である。 歌の分類名の「天田振」は、「天飛ぶふり」が転じたもののように思われる。 だとすれば、「あまだむ」と「あまとぶ」とは同一視されていたわけである。 けれども、「あまだむ雁」というかかり方はなく「あまだむ軽」限定であることを考えれば、「雁から軽に転用された」とすることには無理がある。 「あまだむ」は記紀よりずっと古い時代から地名「軽」専用の枕詞で、 その本来の意味は、記が書かれた時期にはもう分からなくなっていたのではないだろうか。 なお、特定の地名専用の枕詞としては他にも「とぶとりの-あすか」「かむかぜの-いせ」などがある。 「天飛ぶ」へのこだわりを捨てれば、「たむ」(曲げる、巡る、とどまる)の連濁と見ることもできる。それでも意味不明ではあるが、 「天だむ」を「天飛ぶ」と同じだものだとして「天田振」にまとめたのは、記の時代における解釈であろう。 いたなかばは、書紀では「異哆儺介縻」である。 「介」は基本的にケ甲であるが、 「泣く」は四段なので、その已然形はナケ乙である。「介」は、書紀だけは「カ」にも使われるので、 ここでも「カ」となり、記と一致する。 《波佐》 ウェブで「波佐」を検索して唯一見つかったのが、石見国の地名である。 『大日本地名辞書』を見ると、 〈倭名類聚抄〉の{石見国・那賀郡・久佐郷}について述べた部分にある。 その記事を引用すると、 「今久佐村存ず。今市の南とす、古〔いにしへ〕の久佐郷は、 今市、美又(下府川の源)久佐、来原(浜田川の源)波佐(周布川の源)等の山谷を総称したるならん。 〔中略〕波佐は久佐の南二里にして、杵束郷に隣る、芸州〔安芸の国〕山県郡と山脊を分ち、 幽僻の境なり、雲月山諸嶺の上に特起す。」とある。 波佐は、『旧高旧領取調帳』(「国立歴史民俗博物館」内のデータベース)に「石見国那賀郡波佐(はざ)村」があるので、古い地名である。 町村制〔1922〕によって、波佐村・長田村・小国村から波佐村になった。 現在は浜田市金城町波佐となっている。広島県との県境の山地で、近くに大佐山(1069m)がある。 しかし、『大日本地名辞書』にも浜田市の公式ページにも波佐の伝説は載らず、ここが歌に詠まれた「波佐」だとする材料は何もない。 ただ、どこかの古地名「波佐」に「山鳩が忍び泣く」伝説があったと想像されるのみである。 《可み》 記の「可(べ)し」が、書紀では「べみ」となっている。 形容詞には、語幹に接尾語「-み甲」をつける使い方があり、 形容詞型に活用する助動詞「べし」にも、「べ-み」が存在する。 例えば、「(万)0207 人應知見 ひとしりぬべみ甲」がある。 〈時代別上代〉は、 「ベミは、形容詞におけると同様、語幹ベに接尾語ミの接した形で、~べきによってという意に用いられている」と述べる。 これを第一歌に適用すれば、「人に知られてしまうだろう。だから」という意味になる。 《釈日本紀》 『釈日本紀』(巻二十六)は、この歌を次のように解説する。 「皇女逆旅之間。涕泣之声高者。若人聞レ之繁レ心歟。如二彼山鳩一可二忍泣一之由也。」 〔皇女逆旅〔不本意な旅〕の間、涕泣の声高きは、もし人これを聞かば心繁き〔穏やかではない〕かな。かの山鳩の如く忍び泣くべしの由(よし)なり。〕 書紀では「逆旅」に出発する皇女に送る歌であるが、記では逆に自分が配流され、一人残された皇女に向けて残した言葉ということになる。 【第二歌】
この歌で「したたにも」が「寄り寝て通れ」を連用修飾するものとして読むと、意味が釈然としないのである。 古語辞典には、「ひそかに」〔したした(下々)にの短縮と見る〕と「しっかりと」が併記されている。 前者は、第一歌の「下泣きに泣く」に影響されたものと見られる。 しかし、その場合、結句が「軽乙女ども」と複数になっているところで理解不可能となる。 「-ども」は、「とも」「ともがら」に通じ、複数を意味する接尾語であることは確実である。 そこでこの際、この歌を前後の物語の流れから切り離して、単体で見てみよう。 「も」を逆接の助詞と見れば、 そこで句が切れて「したたに」は軽の乙女の属性である。 この語は後世の「したたか」に通じる語として、気位が高い意味ととることができる。 すると、この歌は軽の乙女が通りかかる度に、立ち寄って寝ていけと声をかける下世話な歌になる。 であるならば、軽太子・軽郎女の純愛には全く相応しくない。 物語の流れよりも、蒐集した「天田振」の歌を並べることの方を優先したように思われる。 書紀がこの歌を拾わなかったのも、その故か。 それでも強いて物語との関連を求めるなら、戯れ歌を歌うことによって、皇女と共に過ごした時間の楽しい気分を思い返したということであろうか。 【第三歌】
この助詞平安以後は濁音「ぞ」だが、 〈時代別上代〉によれば、「記紀・万葉にゾは清音仮名と濁音仮名が併用されている」。 これが体言に接続した終助詞である場合は、繋辞〔「~である」〕としてはたらき、述語を形成する。つまり「つかひそ(ぞ)」が述語である。 《問はさね》 「問はさね」=「問ふ」の未然形+上代の軽い尊敬の助動詞「す」の未然形+相手への願望を表す助詞「ね」。 《天田振》 この歌がこの場面で詠われることは不自然ではないが、歌そのものは一般的である。 これも、「天田振」蒐集の結果を披露するために加えられたように思われる。 書紀はそれが分かっていたから、この歌も拾わなかった。 また軽太子の不道徳に関する部分を余りひっぱらず、簡潔に済ませたかったためとも思われる。 【第四歌〈書紀:第一歌〉】
「おほきみ」はもともと「きみ」をさらに高めて呼ぶ語で、文脈によって天皇を意味する場合と、 皇子・皇女を意味する場合がある。 この歌の「おほきみ」は、記においては皇子、書紀においては皇女である。 《島》 島は、ここでは「伊予の島」。国生みの段では、四国を「伊豫之二名嶋」と呼んだ (第35回)。 《はぶる》 記の歌では船を「都に帰る船」として、軽太子がその地で葬られることになれば、 「帰る船が余る」と読むことができる。 この「はぶらば」を、書紀では「はぶり」に変えている。これで仮定ではなく、現実の描写になるから「島に追放する」意味に変わる。 この場合の「船余り」は「帰りに乗るための船は余るほどあるぞ」の意味か。 《いかへる》 「い-」は動詞につく接頭語。とくに意味はないが、威勢よく言うときに使われた例が目立つ。 《我が畳ゆめ…》 『釈日本紀』(巻二十六)は、この歌を次のように解説する。 「軽皇女雖レ被二配流。猶可二還来一也。 其間与二皇女一寝之畳不レ可敷二于人一。 又不レ可レ逢二于他人一之由。強契レ之也。」 〔軽皇女、配流を被るといえども、なほ還り来べし。その間(ま)皇女と寝し畳、人に敷くべからず。 また、他人に逢ふべからず。強くこれを契るなり。〕 つまり釈日本紀は、軽太子が皇女と共に寝た畳〔後世なら布団〕を他の人のためには敷かないと誓ったと解釈している。 それでは立場が逆になる記においては、皇女が他の男と通ずることを禁止しているのであろうか。 しかし心から愛する相手をこのように疑うことは考えられないから、「我が畳ゆめ ことをこそ 畳と言はめ」 とは「他でもない私の特別な畳こそ、畳と言うべきである」との意味であって、私は自分の畳を必ずもう一度使うという強い気持ちを示すものであろう。 《我が妻は(を)ゆめ》 記の歌では「妻は」、畳が我のものであることを心しなければならない。 それに対して、書紀の歌は我(われ)が「妻を」〔=畳が妻のものであることを〕、心しなければならない。 それ故に、記の助詞「は」を、書紀は「を」に変えた。 またこれによって、ゆめは「心する」を意味する語であることが分かる。 《夷振》 夷振も歌の分類名で、この歌が島流しをテーマにしていることを考えると、 「鄙を詠んだ歌」であろう。「天田振」は天飛ぶ鳥がテーマであったから、 「宮人振」は、前回「宮人と里人が集う機会の歌」と考えたことを訂正して、「宮人をテーマとした歌」としなければならない。 「~振」とは、詠う機会や音楽の様式ではなく、歌の内容による分類であった。 【書紀―二十四年】 允恭13目次 《御膳羹汁凝以作氷》
〔允恭〕天皇(すめらみこと)之(こ)を異(あやし)びて、其の所由(ゆゑ)を卜(うら)へたまへば、卜者(うらべ)曰(まをししく) 「内(うち)に乱(みだりこと)有り、蓋(けだし)親々(うがらうがら)に相(あひ)姦(たは)けり乎(や)。」とまをしき。 時に人有りて曰(まをさく) 「木梨軽太子(きなしのかるのひつぎのみこ)、同母妹(いろど)の軽大娘皇女(かるのおほいらつめのみこ)と姦(たは)けたまへり。」とまをす。
太子(ひつぎのみこ)是(これ)儲君(まうけのきみ)の為(ため)に刑(つみ)を不得(えざ)りて、則(すなはち)軽大娘皇女(かるのおほいらつめのみこ)を[於]伊予(いよ)に移(うつ)しき。 是の時太子歌[之][曰](みうたよみたまはく)。
和餓哆々瀰由梅(わがたたみゆめ) 去等烏許曽(ことをこそ) 哆多瀰等異泮梅(たたみといはめ乙) 和餓菟摩烏由梅(わがつまをゆめ乙)
幡舍能夜摩能(はさのやまの) 波刀能(はとの) 資哆儺企邇奈勾(したなきになく) 《卜者》 者は「ひと」と訓むことがあり、また「みやひと」「さとびと」など「~ひと」という語は数多い。 そこから類推すれば、「卜者」は「うらひと」あるいは「うらなひびと」となるが、このような語は見当たらない。 それに対して「うらべ」はごく一般的な語で、また「一つの部としてのまとまりはなかった」とされるから、 これを用いるのが妥当だと思われる。 《大意》 二十四年六月、御膳の羹(あつもの)は凍って、氷を作りました。 允恭天皇はこれを怪しみ、その理由を占わせたところ、卜部は、 「内に乱れ有り。けだし身内同士の姦淫があるか。」と申しました。 その時、報告する人が現れ、 「木梨の軽の太子は、同母の妹である軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)と姦淫しておられます。」と申し上げました。 よって、推問されたところ、その言葉は既に事実でありました。 太子は皇太子であったために刑を受けず、軽大娘皇女を伊予に移しました。 是の時、太子の詠まれた歌は、 ――大王(おほきみ)を 島に放(はぶ)り 船(ふな)余り い帰り来むぞ 我が畳ゆめ 別(こと)をこそ 畳と言はめ 我が妻をゆめ また詠まれた歌は、 ――天(あま)だむ 軽の乙女 甚(いた)泣かば 人知りぬ可(べ)み はさの山の 鳩の 下泣きに泣く まとめ 書紀は太子の不道徳を理由にすることを避け、人民に対して暴君として振る舞ったことを追放された理由としている。 曲がりなりにも太子たるものを、あまりに情けない理由で追放することは避けるべきだという考え方が伺われる。 その結果、前回見たたように書紀での描き方は、権力闘争の性格を強めている。 その一環として流刑されるのは軽太子から軽郎女皇女に変更され、 それに伴い第四歌の部分修正がなされた。 その修正点を吟味することにより、 上代語「ゆめ」などの確実な意味と文法的解釈の確定という得難い果実を、我々は得ることができるのである。 |
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2018.02.01(thu) [191] 下つ巻(允恭天皇8) ▼▲ |
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其衣通王獻歌
其歌曰 那都久佐能 阿比泥能波麻能 加岐加比爾 阿斯布麻須那 阿加斯弖杼富禮 其の衣通王(そとほりのみこ)歌(みうた)を献(たてまつ)りき。 其の歌曰(い)はく。 那都久佐能(なつくさの) 阿比泥能波麻能(あひ甲ねのはまの) 加岐加比爾(かきがひに) 阿斯布麻須那(あしふますな) 阿加斯弖杼富礼(あかしてとほれ) 故後亦不堪戀慕而 追往時歌曰 岐美賀由岐 氣那賀久那理奴 夜麻多豆能 牟加閇袁由加牟 麻都爾波麻多士 【此云山多豆者是今造木者也】 故後(しかるのち)、亦(また)恋慕(こひしたふこと)不堪(たへざ)りて[而] 追ひ往(ゆ)く時、歌よみして曰(い)はく。 岐美賀由岐(きみがゆき) 気那賀久那理奴(けながくなりぬ) 夜麻多豆能(やまたづの) 牟加閇袁由加牟(むかへをゆかむ) 麻都爾波麻多士(まつにはまたじ) 【此(こ)に云ふ山多豆(やまたづ)者(は)是(これ)今の造木(みやつこぎ)なれ者(ば)也(なり)。】 故追到之時 待懷而 歌曰 許母理久能 波都世能夜麻能 意富袁爾波 々多波理陀弖 佐袁々爾波 々多波理陀弖 意富袁爾斯 那加佐陀賣流 淤母比豆麻阿波禮 都久由美能 許夜流許夜理母 阿豆佐由美 多弖理多弖理母 能知母登理美流 意母比豆麻阿波禮 故(かれ)追ひ到りし[之]時、待ちて懐(なつかしみ)したまひて[而] 歌曰(みうたよみたまはく)。 許母理久能(こもりくの) 波都世能夜麻能(はつせのやまの) 意富袁爾波(おほをには) 々多波理陀弖(はたはりたて) 佐袁々爾波(さををには) 々多波理陀弖(はたはりたて) 意富袁爾斯(おほをにし) 那加佐陀売流(なかさだめる) 淤母比豆麻阿波礼(おもひつまあはれ) 都久由美能(つくゆみの) 許夜流許夜理母(こやるこやりも) 阿豆佐由美(あづさゆみ) 多弖理多弖理母(たけりたけりも) 能知母登理美流(のちもとりみる) 意母比豆麻阿波礼(おもひつまあはれ)
又歌曰
かき(蠣)…[名] 軟体動物腹足類カキ上科の総称。〈倭名類聚抄〉「蠣:【和名加木】相著虫殻似石也。」 〔虫の殻相(あひ)著(つ)きて石に似る;「虫」は鳥獣魚を除く動物全般。接頭語「相」はここでは強調。〕 あかす…[他] ① 夜を明かす。② 明らかにする。 やまたづ…[名] ニワトコ(スイカズラ科ニワトコ属)。ミヤツコギとも。 やまたづの…[枕] 〔葉が対生であることから〕「迎ふ」にかかる。 けながし…[形] 日数を重ねる。 たふ…[他]ハ下二 辛抱する。 慕…(古訓) したふ。しのふ。こひねかふ。 したふ…[他]ハ四 恋しさに後を追う。 なつかし…[形]シク 心ひかれて離れがたい。 こもりく…[名] 山に囲まれたところ。 こもりくの…[枕] 地名「泊瀬(はつせ)」にかかる。 はつせ(泊瀬)…[地名] 式上郡の巻向山南から長谷寺あたり。町村制〔1922〕で磯城郡初瀬(はせ)村成立。現在は、桜井市初瀬(大字)。 はた…[名] 旗。 はりたつ…[自]タ四 [他]タ下二 張り-立つ。 つくゆみ…[名] 槻木(つきのき)で作った弓。槻(つく)-弓。 こ乙ゆ…[自]ヤ上二 寝転ぶ。派生語「こやす」「こやる」のみで、単独には使われない。 さをを…[名] 峰〔=を〕。「さ-」は接頭語〔意味を持たず、主に詩文に用いる〕。「を-」も接頭語〔小さい意をそえる〕。 大峰(おほほ)・さ小峰(さをを)で対句になる。 おもひづま…[名] 心にいとしく思うつま(妻または夫)。 い-…[接頭] 名詞につき、斎み清めたものであることを表す。 ま-…[接頭] 名詞・動詞・形容詞につき、「真」を表す。 しのふ…[他]ハ四 偲ぶ。思いをはせる。 よみうた…[名] 朗読風にうたう歌と言われる。 【真福寺本】 真福寺本は、次の個所に他との相違がある。 ① 岐美賀由岐 氣那賀久那理奴 夜麻多豆能〔爾〕牟加閇袁由加牟 麻都爾波麻多士 ② 許母理久能 波都世能夜麻能 意富袁爾波 々多波理陀弖 佐袁々爾波 々多波〔波〕理陀弖 ③ 麻多麻那須 阿〔なし〕賀母布都麻 阿理登伊波婆許曾爾 ①②には、それぞれ余分な文字(爾、波)がある。 ③は、文字(阿)を欠く。いずれも真福寺本のままでは意味が通らないので、誤写であろう。 【第一歌】
万葉歌から、枕詞「なつくさの」の用例を拾う。 ① 「おもひしなへて」にかかる場合。「(万)0196 夏草乃 念之萎而 なつくさの おもひしなえて」など、三例ある。 このかかり方は、炎天下で草が「萎える」ことによると見られる。 ② 「野島埼に」にかかる場合。「(万)0250 夏草之 野嶋之埼尓 なつくさの のしまがさきに」など、三例ある。 この場合は、野嶋埼(地名)に繁る夏草が印象深く、そのときに語った言葉が次第に言い習わされたと思われる。 「あひね」も地名だから、②と同様か。しかし、発音「あひ甲ね」から「相根」を思い浮かべて「根」にかかった可能性もある。 《あひねの浜》 「あひね」の候補地を調べた研究は、今のことろ見つからない。一般に、不明とされている。 伊予国に流される軽太子を送る歌だから、伊予国だと考えることはできる。 しかし、全く異なる土地で生まれた歌を持ってきたのかも知れないから、何とも言えない。 《ふま-す-な》 「す」(四段)は動詞の未然形から接続し、上代の軽い尊敬の助動詞。動詞の終止形についた文末の「な」は、禁止の意を表す。 《あかして》 あかしては、一般的には「夜を明かす」意味にとり、「明るくなり、よく見えるようになってから」と解釈する。 ただ「あかす」には「明らかにする」意味もあるから、「足元をよく見て」もあり得る。 【第二歌】
現代の言い方なら「迎へに行かむ」だから、感覚に違いがあるか。 しかし、迎へを「出かけて行って相手を連れ帰る」という一連の行為だと受け止めれば、「行く」の目的語として、 「迎へを行く」も理解できないことはない。 《万葉集の同一歌》 万葉集巻二に、同一歌がある。題詞と左注を含めて、全体を見る。 なお、返り点と句読点は本稿独自につけたものである。
〈左注〉から推定すると、『類聚歌林』にもこの歌があり、その題詞に、仁徳天皇三十年の話※(の類話)の中で詠まれた歌だと書いてあったのであろう。 ※…仁徳天皇は八田皇女を妃に迎えようとしたが、皇后は嫌がった。ある時、皇后が出かけた隙に八田皇女を宮中に迎え入れた。 皇后は帰り道でそれを知り、宮殿に帰らずに、山城国に滞在した (第169回)。 もしそうだとすれば、どの場面でこの歌が詠まれたのだろうか。 この歌にぴったりの場面を挙げるとするなら、使者を送っても帰って来ない皇后を、仁徳天皇が自ら迎えに出かける場面であろう。 天皇が、皇后が滞在している山城国の奴理能美の家〔記による。書紀では筒城宮〕に向かった、その時である。 とすれば『類聚歌林』は、「この歌の歌主は、仁徳天皇である」と示したことになる。 万葉編者は書紀を改めて引用し、仁徳天皇紀と、允恭天皇紀のどちらにもこの歌はないと報告している。 ということは、仁徳天皇紀の皇后の嫉妬に関する部分の類話が記紀以外にも存在し、 その類話の方にはこの歌が入っていたのである。これは極めて興味深いことである。 《万葉集の用字法》 原歌は音仮名表記だから、万葉集における用字法の一端がこの歌によって確定する。即ち、 ・助詞、助動詞を、之(が※2)、乎(を)、爾(に)、乃(の)、奴(ぬ)などによって表す。 ※2…他の歌では「の」、「し」(完了「き」の連体形)も。 ・推量の助動詞「む」を表すために「将」を前置する。 ・打消推量の助動詞「じ」を表すために、「不」を前置する。 【第三歌】
この地の史実として軽太子軍と穴穂皇子軍の戦闘があったのか、他の時代に詠まれた歌を持ってきたのかは不明である。 ただ、三輪山に近いところの戦闘を描くところに、流刑地から都に帰りたい気持ちが表れていると言える。 《大峰にし》 起句で大峰と小峰を対照させ、それぞれに幡を張り立てた様子を描く。 ところが、妻が関わるのは「大峰に」のみで、非対称である。第四歌に倣えば、妹を「小峰」に関係づけて形を整えるのが本来であろう。 しかし、この非対称性が、この歌を読み解くカギとなる。 歌にには槻弓・梓弓が出てくるので、戦闘場面であることに留意しよう。 すると、それぞれの幡(はた)は軽太子軍のものと穴穂皇子軍のものということになる。 そして、妻はまさに大峰の軽太子と「仲を定めた」のである。 しかし、結局は敗者側についたことになり、「後を取り見る」〔=軽太子の死を看取る〕運命となった。 「大峰に-し」と、取り立てて強調するはたらきをする助詞「し」がつくのは、妻が軽太子と固く結ばれたことを示すためである。 《張り立つ》 戦場の緊張感が、幡を「張り立てる」という表現に現れる。 《なかさだめる》 なかさだめるについて、〈時代別上代〉は「『男女の中(なか)をもやはらげ』(古今集序)のナカと同じく男女の仲の意とすべきであろう」と解釈する。 岩波『日本古典文学大系-古事記祝詞』は、 「さだめる」の「め甲」は四段活用動詞の命令形※であるから「る」は完了の助動詞「り」の連体形であることを認めたうえで、 「『中(仲)定める』ということになるが、句意は明らかでない。」と述べる。 ※…完了の助動詞「り」は、「連用形+あり」が短縮した形が、結果的に「命令形+り」と一致する。 命令の意味があるわけではない。 だが、前述したように大峰と小峰の非対称に注目することによって、容易に句意を汲み取ることができるのである。 《槻弓の臥る臥りも》 「槻弓臥る」は、体を横たえて弓矢を構える意か。 あるいは、かがんで弓矢を持ち身を潜める姿かも知れない。 「こやる-こやり」は、梓弓の「たけり-たけり」と同じく語を重ねたものである〔恐らく戦闘の激しさを表す〕。 では、なぜ「こやり-こやり」ではないのか。 それは、次の「あづさゆみ-たけりたけりも」と字数を揃えて五・七にするために「の」を挿入したためと考えられる。 格助詞「の」は平安時代には主格にも使われるが、上代はまだ属格の色合いが濃く「の」は後に体言を導く。 従って、二つ目の「こやり」は「こやる」の名詞形で、「こやる」は体言「こやり」を修飾する位置になるので、連体形である。 なお、「たけり-たけり」は連用形2つである。 《あはれ》 この歌は、軽太子が穴穂皇子と戦った頃を回想する。或いは、妻のためにも再び勇み立って戦いたかったのかも知れない。 しかし現実を見れば勝敗は既に決着がついており、敗者になった自分に妻を寄り添わせてしまったことは、慚愧の念に堪えない。 それが、「思ひ妻あはれ」を繰り返すところに込められているのである。 なお、「あはれ」は強い感情を表す語で、嬉しいことにも悲しいことにも言う。 二人はこの第三歌と第四歌を遺し、自死する。 【第四歌】
河原で祭事をとり行うときは、川の上つ瀬(上流側)と下つ瀬(下流側)に杙を打って鏡や玉を飾る習慣があったのかも知れない。 この歌では、上つ瀬の斎杙の鏡には妻への思いを込め、下つ瀬の真杙の真玉には妹への思いを込める。 ただし妻と妹は同一であり、修辞的に分けて表しただけである。 《家にも行かめ》 流された伊予から家に帰ろうと言う。 《国をも偲はめ》 そして、故郷をも偲ぼうと言う。 《読歌》 第三歌・第四歌は「読歌」とされる。読み歌は、宴の歌舞の歌ではなく、静かな調子で読まれる歌であろう。 ここでは文脈からみて、これらの歌を彼らの哀悼のために墓前で読み上げたという意味だと思われる。 まとめ 允恭天皇段に天皇自身の事績はわずかで、軽太子が亡ぶに至る場面に多くを宛てている。 下巻になると本筋から離れて、付随する美しい伝説を描くことの方に重きを置くのである。 天皇の事績については、もう書紀に任せたということであろうか。 さて、この段の四歌はお互いへの愛に満ち、記はもう不道徳な行為をあげつらうことをしない。 これらを読むと、軽太子の不道徳を強調する言い伝えは、太子を貶めるために捏造されたものではないかと思えてくる。 軽大郎女(または衣通姫)は、本当は軽太子の同母の妹ではなかったのかも知れない。 第四歌の「いも」は愛しい妻の意味にも使われる語である。 だが、まさにこの歌を曲解して近親間の姦淫の話が作られていったのではないだろうか。 |
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⇒ [192] 下つ巻(安康天皇) |