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⇒ [178] 下つ巻(履中天皇3) |
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2017.10.29(sun) [179] 下つ巻(履中天皇4) ▼▲ |
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爾多祿給其隼人曰
然者殺汝王也 於是曾婆訶理 竊伺己王入厠以矛刺而殺也 故 率曾婆訶理上幸於倭之時 到大坂山口 爾(ここに)多(おほき)禄(ろく、さきはひ)其の隼人に給はりて曰ひしく 「然者(しかれば)汝王(ながきみ)を殺せ[也]」といひき。 於是(ここに)曽婆訶理(そばかり)、窃(ひそかに)己王(おのがきみ)の厠(かはや)に入るを伺(うかが)ひて、矛(ほこ)を以ちて刺して[而]殺しき[也]。 故(かれ)、曽婆訶理を率(ひき)ゐて[於]倭(やまと)に上幸(のぼりま)しし[之]時、 大坂の山口に到りまして、 以爲 曾婆訶理 爲吾雖有大功既殺己君是不義 然 不賽其功可謂無信 既行其信還惶其情 故 雖報其功滅其正身 以為(おもほせらく) 「曽婆訶理、吾(わが)為(ため)に[雖]大(おほき)功(いさをし)有れども、既に己君(おのがきみ)を殺しき、是(これ)不義(のりなし)。 然(しかれども)、其の功(いさをし)を不賽(むくはざ)らば信(まこと)無きと謂ふ可(べ)し。 既(すでに)其の信(まこと)を行(おこな)はば、還(かへりて)其の情(こころ)を惶(おそ)りむ。 故(かれ)、[雖]其の功に報へども、其の正身(まさしみ)を滅(ほろぼ)さむ。」とおもほせり。 是以 詔曾婆訶理 今日留此間而先給大臣位 明日上幸 留其山口 卽造假宮忽爲豐樂 乃於其隼人賜大臣位百官令拜 隼人歡喜以爲遂志 是以(こをもちて)曽婆訶理に詔(のたま)はく 「今日(けふ)は此の間(ま)に留(とどま)りて[而]先(ま)ず大臣(おほまへつきみ)の位(くらゐ)を給(たまは)りて、明日(あす)上幸(のぼりまさむ)。」とのたまふ。 其の山口に留(とど)まりたまひて、即ち仮宮(かりみや)を造(つく)りて忽(たちまちに)豊楽(うたげ)を為(な)したまへり。 乃(すなはち)[於]其の隼人に大臣(おほまへつきみ)の位(くらゐ)を賜りて、百官(もものつかさ)拝(をろが)ま令(し)む。 隼人歓喜(よろこ)びて志(こころざし)を遂ぐと以為(おも)ひき。 禄…(古訓) さいはひ。たまふ。 義…(古訓) のり。よし。 賽…[名] むくいる。お礼参りをする。(古訓) かへりまうし。つくのふ。むくゆ。 信…(古訓) まこと。まかす。のふ。 まこと…[名] 真実。真の言葉。 還…[副] かえって。 かへりて…[副] かえって。案に相違して。 正身…① 身を正しくする。② かえ玉ではなく、その人自身。 正…(古訓) たたしく。まさし。 惶…(古訓) をののく。あさむく。おそる。 そして、大禄をその隼人に与えられ、 「それなら、お前の君を殺せ」と仰りました。 そして曽婆訶理(そばかり)は、密かに自分の君が厠(かわや)に入るところを伺い、矛をもって刺し殺しました。 「曽婆訶理は、私の為に大功があると言えども、自分の君を殺してしまったことは、不義である。 しかし、その功に報いなければ、道理はないと言うべきである。 その道理を実行してしまえば、却ってその心を恐れなくてはならなくなる。 よって、その功に報い、正式に身分を与えてから滅ぼそう。」と。 これによって、曽婆訶理に仰りました。 「今日はこの辺りに留り、先ず大臣(おおまえつぎみ)の位を給り、明日上ることにする。」と。 その山口に留まられ、行宮を建て、急遽宴を開催されました。 そして隼人に大臣の位を賜り、多くの役人たちに拝礼させました。 隼人は大いに喜び、志を遂げることができたと思いました。 【窃伺己王入厠以矛刺而殺也】 書紀の「独執レ矛。以伺二仲皇子入厠一而刺殺。」は、 記の「窃伺二己王入厠一以レ矛刺而殺也」に類似する。 これによって、「以矛刺」が、「もちて、ほこ刺し」ではなく「ほこをもちて刺し」と訓むことが確定する。 【為吾雖有大功既殺己君是不義】 「為レ吾雖レ有二大功一既殺一己君一是不レ義」 すなわち、瑞歯別皇子は、「曽婆訶理が仲皇子を暗殺したことは私の為の大功ではあるが、 主君を殺すことは不義である」と述べる。続けて、 ●「然不レ賽二其功一可レ謂レ無レ信」 接続詞「然」は、書紀ではほぼ逆接である。ここの「然」も逆接「しかれども」だと思われる。 「信」の伝統訓は「うく」であるが、ここでは文脈から見て、君臣の秩序の土台としての真っ当な道徳;「まこと」である。 主君に対する功は必ず報われるというルールが守られなければ、臣下は直ちに離反していく。 ●「既行二其信一還惶二其情一」 この文は対句構造で、〈副詞(既/還)+動詞(信/惶)+目的語(其信/其情)〉である。 「既」は仮定節において「若既遂~」〔もし行ってしまえば〕の意味に、しばしば使われる。 つまり、報いを実行したとすれば、主君を暗殺するような心根をもった人物を身近に置くことになるから、自分も裏切られる不安を抱えて日々を過ごすことになる。 ●「故雖レ報二其功一滅二其正身一」 そこで悩んだ末の結論は、①褒賞は褒賞として正当に与える。②その上でその身を滅ぼそう。である。 この文を「褒賞を与えれば自分の身を亡ぼす」と読むこともできるが、それでは前文の全くの繰り返しに過ぎない。 それよりは「故」を「∴」の意味に取った方が、三つの文がヘーゲル流の「正-反-合」となり、論理の組み立てが明快になる。 この場合、曽婆訶理を「正身」と呼ぶことになるのが気になるが、 これを「曽婆訶理に、一度は正当に身分を与えた上で」の意味ととれば解決できる。 それを裏付けるのはこの次の段落で、そこでは公式に大臣の位を与えた上で、取り急ぎ宴を開いて披露した後に謀殺している。 ここで想起されるのは、関ケ原で東軍に加わって家康に勝利をもたらした福島正則らへの処遇である。 主君を裏切って敵方に付けば膨大な恩賞が与えられるが警戒すべき人物という評価は消えず、ゆくゆくは些細なミスを口実にして処罰されたり、 暗殺されたりする。 これは、時代を越えた法則であろう。 【書紀―即位前4】 4目次 《仲皇子思太子巳逃亡》
時に近習(もとこ)に隼人(はやと)有り、刺領巾(さしひれ)と曰ふ。 瑞歯別皇子(みづはわけのみこ)、陰に刺領巾を喚(め)して[而][之]誂(いど)みて曰はく、 「我が為(ため)に皇子(みこ)を殺さば、吾(われ)必ず敦く汝(いまし)に報(むく)いむ。」といひて、
刺領巾、其の誂言(いどみこと)を恃(たの)みて、 独(ひとり)矛(ほこ)を執(と)りて、以ちて仲皇子の厠(かはや)に入るを伺(うかが)ひて[而]刺して殺しき。 即(すなはち)[于]瑞歯別皇子に隸(つか)ふ。
「刺領巾、為人(ひととなり)己(おのが)君(きみ)を殺しき。 其(それ)我が為に[雖]大功(おほきいさをし)有れども、[於]己君(おのがきみ)に慈(うつくしび)無きこと、之(これ)甚(はなはだ)し[矣]。豈(あに)得(え)生く乎(か)。」とまをす。 《為我雖有大功》 「為レ我雖レ有二大功一」は、記の 「為レ吾雖レ有二大功一」を、そのまま用いている。 木菟宿祢の言葉の中の「我」は、瑞歯別皇子のことである。うっかり主語が交差しているとも、引用文中の語ともとれるが、 「我」が二人称に転化したものかも知れない。大国主神話の二人称「意礼」〔おれ〕(第61回) は、「おのれ」の転と見られる。 また、焼津、関西の方言に「おまえ」を「われ」と呼ぶ例がある。 ただし、以上の例はすべて侮蔑の意志を含む。 あるいは、「わが」になると一人称から離れた「自分の」の意味もあるのかも知れない。 《大意》 仲皇子(なかつみこ)は、「太子は既に逃亡して、反撃する備えはない。」と思っていました。 その時、近習の隼人がいて、名前を刺領巾(さしひれ)と言います。 瑞歯別皇子(みづはわけのみこ)は、陰に刺領巾を呼んで唆しました。 「私のために皇子を殺せば、私は必ずお前に厚く報いを与えよう。」と。 そして錦の衣服を脱ぎ、与えました。 刺領巾は、その言葉を恃みに、 独り矛を執り、仲皇子が厠に入るところを伺い、刺し殺しました。 そして、瑞歯別皇子に仕えました。 そのとき、木菟宿祢(つくのすくね)、瑞歯別皇子に奏上しました。 「刺領巾のひととなりは、おのれの主君を殺すような者です。 わがために大功有りと言えども、おのれの主君を愛(いつく)しむ気持ちがないこと甚しく、このまま生かしておくことなどできましょうか。」と。 まとめ 記は、功には必ず恩賞が与えるべしという原則を随分気にしている。 対照的に書紀は、この問題を一顧だにしない。 思うに、壬申の乱〔672年〕において天智天皇から大友皇子に権力を継承しようとして、それが一気に崩壊したのは、 諸族の反感が相当に高まっていたからだと思われる。そして、功への恩賞を要求するのは、仕えている側の感覚である。 記の素材が語られていた時代は、まだ被支配者側の反権力的な感覚が色濃く残り、記はそれにも対応しようとした。 しかし、朝廷による支配の徹底に伴って反権力的な考えは急速に抑えられ、それを受けて書紀の記述は絶対主義的になった。 記〔712年成立〕と書紀〔720年成立〕の時間差こそ僅かであるが、 その過去を向くか将来に向かうかという視点の違いが、このような色合いの違いを生んだとは考えられないだろうか。 |
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2017.11.01(wed) [180] 下つ巻(履中天皇5) ▼▲ |
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爾詔其隼人
今日與大臣飮同盞酒 共飮之時 隱面大鋺盛其進酒 於是王子先飮隼人後飮 爾(ここに)其の隼人(はやと)に詔(のたま)はく 「今日(けふ)、大臣(おほまへつきみ)与(と)同じき盞(うき)の酒(みき)を飲みたまはまむ」とのたまひて、 共に飲みたまふ[之]時、面(かほ)を隠(かく)せる大鋺(おほまり)に其の進めし酒を盛(も)る。 於是(ここに)王子(ひつぎのみこ)先(さき)に飲みたまひ、隼人後(のち)に飲みまつりき。 故其隼人飮時大鋺覆面 爾取出置席下之劒 斬其隼人之頸 乃明日上幸 故 號其地謂近飛鳥也 故(かれ)、其の隼人の飲みまつりし時、大鋺面(かほ)を覆(おほ)ひて、 爾(ここに)席(むしろ)の下に置きし[之]剣(つるぎ)を取り出(い)でて、其の隼人之(の)頸(くび)を斬(き)りたまひき。 乃(すなはち)明日(あす)上幸(のぼりませり)。 故(かれ)、其地(そこ)を号(なづ)けて近飛鳥(ちかつあすか)と謂ふ[也]。 上到于倭詔之 今日留此間爲祓禊而 明日參出將拜神宮 故 號其地謂遠飛鳥也 [于]倭に上(のぼ)り到(いた)りまして[之]詔(のたま)ひしく 「今日(けふ)此の間(ま)に留まりて祓禊(みそぎはらへ)為(し)たまひて[而] 明日(あす)参出(まゐで)て[将]神宮(かむみや)を拝(をろが)みたまはむ」とのたまひき。 故(かれ)其地(そこ)を号(なづ)けて遠飛鳥(とほつあすか)と謂ふ[也]。 故 參出石上神宮 令奏天皇 政既平訖參上侍之 爾召入而相語也 天皇於是 以阿知直始任藏官 亦給粮地 故(かれ)、石上(いそのかみ)の神宮(かむみや)に参出(まゐで)て、天皇(すめらみこと)に奏(まを)し令(し)めまつらく、 「政(まつりごと)既(すで)に平(たひら)げ訖(を)へて参上(まゐのぼ)りて[之]侍(はべ)り。」とまをししめたまひき。 爾(ここに)召(め)し入れたまひて[而]相(あひ)語(かたら)ひき[也]。 天皇於是(ここに)阿知直(あちのあたひ)を以ちて始めて蔵官(くらつかさ)を任(おほ)せて、亦(また)粮地(たどころ)を給(たま)はる。 まり(鋺)…[名] 水や酒などを盛るわんの形をした容器。 もる(盛る)…[他]ラ四 器に食物をいっぱいに入れる。 くらつかさ(蔵職)…[名] 宮中の倉を掌る職。 たどころ(田荘)…[名] 律令以前の私有田。 任…(古訓) まかす。おふ。 そして、その隼人に、 「今日は、大臣(おおまえつきみ)と同じ杯に酒を飲もう」と仰って、 共に飲まれましたとき、顔を隠すほどの大杯に酒をなみなみと注いで進めました。 そして、皇太子が先に飲み、隼人は後に飲みました。 そして、隼人が飲んだ時に大杯が顔を隠したので、 そのときとばかりに、座っていた敷物の下に置いてあった剣を取り出して、隼人の首を斬りなされました。 このようにして、その明日(あす)に倭に上られました。 そこで、その地を名付けて近飛鳥(ちかつあすか)と言います。 倭に到ったとき、 「今日はこの辺りに留まり禊(みそぎ)祓(はらへ)し、 明日(あす)に詣でて[石上]神宮に拝礼しよう。」と仰りました。 よって、その地を名付けて遠飛鳥(とおつあすか)と言います。 そこで、石上(いそのかみ)神宮に詣でて、天皇(すめらみこと)に奏上を願い、 「命じられた通り既に平定を終えて参上し、お側に仕えます。」と申しあげました。 こうして晴れて召し入れられ、相語らいました。 天皇は阿知直(あちのあたい)をその功績により、初めて蔵官(くらつかさ)に任じ、また田荘(たどころ;私有田)を給わりました。 【真福寺本】 真福寺本では「以直阿知直」となっているが、 意味が通らないので誤写であろう。 【今日-明日】 けふ-あすという対句により 「けふかあすか」という選択を連想させ、それが飛鳥という地名を導く。 この地名譚はまた、「明日香」から「飛鳥」に用字が変更されたことを、暗黙裡に読者に説明しているように思われる。 【蔵官】 「くらつかさ」は宮中の倉を掌った。 〈倭名類聚抄〉には「職員令云…内蔵寮【宇知乃久良乃豆加佐】」〔うちのくらのつかさ〕 職員令(しきいむりやう;しきいんりょう)は、養老令〔718〕に含まれる。 記はこの職掌を律令以前に遡らせて、その創始譚としている。 【阿知直】 また、「粮地」すなわち私有田を給わったと書かれるから、 独立性の強い氏族として倭漢の地域(檜隈)に根を張っていたと想像される。 【飛鳥】 〈姓氏家系大辞典〉には、 「飛鳥の地名は大和国高市郡の飛鳥と河内国安宿郡(アスカベ)の飛鳥と最も早く物に見ゆ。 前者を遠飛鳥、後者を近飛鳥とあれど、こは難波京よりの語にて倭の飛鳥を本源とすべきか。 初め允恭天皇此の地に都したまひ、飛鳥部を御名代部と定め給ふ。 これより飛鳥の名天下に散布す。」 〔飛鳥の地名は大和国高市郡と河内国安宿郡が一番早く文献等に現れる。 前者を遠飛鳥、後者を近飛鳥と言うが、これは難波京から見た呼び方であって、大本は倭の飛鳥であろう。 最初に允恭天皇がここを都として飛鳥部を御名代として定め、ここから飛鳥の地名は国中に広がる。〕 とある。 そして、全国に散在する地名として播磨国赤穂郡飛取郷、高山寺本飛鳥郷、安芸国豊田郡安宿郷などを見出している。 さらに「飛鳥部の多くは帰化族なれば、此の氏に帰化族甚だ多きも、他に飛鳥なる地名を負ひしものも又尠〔すかな〕からざり。 皇別神別の飛鳥姓即ちこれなり。」 〔帰化族である飛鳥部が全国に散ったが、その結果生まれた地名"飛鳥"出身者としての飛鳥姓も多く、 この場合は帰化族ではないから、新撰姓氏録の〈諸蕃〉ではなく〈皇別〉〈神別〉に入っている〕と説明する。 《近飛鳥》 河内国で「あすか」を地名に残すのは〈倭名類聚抄〉{河内國・安宿【安須加倍】郡}〔あすかへのこほり〕である。 記では河内国側の大坂山口=大坂道・当麻道の分岐点を「近飛鳥」とするから、安宿郡から竹内街道も含んでいたと思われる。 〈姓氏家系大辞典〉は「允恭天皇の御名代部にして倭の飛鳥宮を部の名に負ひしなれど、 最も多数居住せしは雄略紀に河内国飛鳥戸郡とある地なるが多し。多くは百済帰化人を以て組織せしもの…」 〔飛鳥部はもともと允恭天皇の御名代として飛鳥宮を部の名に負ったものだが、飛鳥部が最も多く居住したのは河内国安宿郡で、多くは百済帰化人である〕 と述べる。 《遠飛鳥》
飛鳥宮跡は1959年に発掘調査が始まり、もともとは飛鳥板蓋宮〔いたぶきのみや、皇極天皇〕跡と呼ばれていたが、 7世紀までの複合遺跡であることが明らかになった。 遺跡はⅠ期・Ⅱ期・Ⅲ-A期・Ⅲ-B期からなり、Ⅰ期は飛鳥岡本宮(舒明天皇)、Ⅱ期は飛鳥板蓋宮、Ⅲ-A期は後飛鳥岡本宮(斉明天皇)、Ⅲ-B期は飛鳥浄御原宮(天武朝・持統朝)だとされる。 昭和47年〔1972〕4月10日に「伝飛鳥板蓋宮跡」として文化財(史跡)に指定され、 平成28年〔2016〕10月3日に「飛鳥宮跡」に名称変更された (奈良県公式-飛鳥宮跡の変遷)。 写真の「石畳井戸」は、飛鳥浄御原宮期(Ⅲ-B)の復元遺構である。 小墾田宮(推古天皇)は雷丘(いかづちのおか)周辺にあったとされ、 川原宮(斉明天皇)は後の川原寺と伝承されている。 「遠飛鳥」が、これらの宮殿跡を含む地域を指すのは明らかである。 【"飛鳥"と"明日香"】 アスカの表記として、記が「明日香」ではなく「飛鳥」を用いているのは、記の成立時期とのからみで注目される。 《万葉集の飛鳥と明日香》 万葉歌を見ると、 「あすか」は第四巻までは「明日香」である。 また、第一・二巻に明日香への枕詞「飛鳥(とぶとりの)」が見られる。
さて、飛鳥をアスカと訓む、最初の歌:
作者の大伴坂上郎女〔おほとものさかのうへのいらつめ〕は、大伴旅人〔665~731〕の異母妹。 <wikipedia>法興寺は養老2年(718年)平城京へ移転したが、飛鳥の法興寺も廃止はされずに元の場所に残った。</wikipedia> 元興寺(がんこうじ)は、奈良県奈良市中院町11。飛鳥の法興寺は、現在の飛鳥寺(奈良県高市郡明日香村飛鳥682)である。 平城京への法興寺移転は、一緒に地名も持ってきたようで、「平城之明日香」〔ならのあすか〕と呼ばれる。 この歌は、古い地に飛鳥があるが、平城京のあすかを見るのもまたよいものだと詠う。 従ってこの歌が詠まれたのは、718年以降である。 好字令は713年に発令されたが、その頃から「飛鳥=あすか」の表記が始まったと見れば、一応辻褄が合う。 《古事記では飛鳥》 ところが、古事記の成立〔712年〕は好字令前であるのにも拘わらず、序文・本文共に「飛鳥」に統一されている。 これだけを見ると、序文の日付は偽りかも知れない。 《書紀でも飛鳥》 そこでさらに比較するために書紀を見ると、こちらは一か所を除いて「飛鳥」である。 興味深いのは、唯一の例外「明日香寺」が、他の個所では「飛鳥寺」と書かれていることである。 ●天武天皇紀十一年七月条:「饗二隼人等於明日香寺之西一、発二種々楽一」 明日香寺の西の庭では、しばしば周辺国の使者が饗応されたようで、種子島の使者を饗応した記事がその前年にある。 ●天武天皇紀十年九月条:「饗二多禰嶋人等于飛鳥寺西川辺一、奏二種々楽一」 このことから、書紀は最終段階で「飛鳥」に統一したが、そのとき一か所だけが漏れたように見える。 したがって、書紀編纂の間に「飛鳥」に揃える作業が進んでいた。 理屈の上では、書紀は713年の好字令発布から書紀完成の720年までの間に急いで行ったことだとしても成り立つが、 地名好字化は突然思い付きのように行われたのではなく、唐を基準とする国造りの一環として7世紀末から徐々に進行してきたように思われる。 地名表記を改めるにあたって中国の地名を手本としたことを確かめるために、試しに『三国志』に現れる中国の地名の文字数の統計を取る。 その結果全1417件中、1文字が190件(13.4%)、2文字が1192件(84.1%)、3~4文字が35件(2.5%)であった(右図)。 「三国志小事典 地名索引」に掲載の地名を集計。 よって、飛鳥時代には中国の地名は2文字が標準であると受け止められ、唐を手本として律令を定めたのと同時期に、公文書〔当然漢文で書かれた〕における日本(やまと)国内の地名も、二文字のできたら格調のある字で表そうとしたのは想像に難くない。 特に「明日香」はしばしば天皇の宮が置かれた重要な地だから、早期に「飛鳥」を定めたと思われる。 枕詞を転用したと考えられている。 そのようにして中央では既に進みつつあった好字化を、一気に全国に広げようとして発布されたのが好字令だったのではないだろうか。 《飛鳥浄御原宮という表記》 ここで記に戻ると、履中天皇段で「近飛鳥」「遠飛鳥」を用いたのは、序文の表記「飛鳥清原大宮御大八洲天皇御世」〔飛鳥浄御原大宮に大八州(おほやしま)を御(しろしめ)す天皇(=天武天皇)の御世〕 に準じたものであろう。「飛鳥清原大宮」が天武朝当時から使われていたかどうかは定かではないが、 序文には厳格な書法が用いられているので、少なくとも太安万侶が古事記を著した頃には正式名称になっていたと思われる。 なお、飛鳥・明日香の用字の問題について検索したところ、浜田裕幸の論文があった。同氏は「名称「飛鳥」についての考察」 において、「飛鳥」の表記のはじまりは天武朝であろうと論考している。 【書紀―即位前5】 5目次 《殺刺領巾》
即日(このひ)倭(やまと)に向(むか)ひて[也]、夜半(よは)に[於]石上(いそのかみ)に臻(いた)りて[而]復命(かへりことまを)したまふ。 於是(ここに)、弟王(おとみこ)を喚(め)して以ちて敦(あつ)く寵(あはれ)びて、仍(すなは)ち村(むら)を賜(たまは)りて屯倉(みやけ)を合はせたまふ。 是日(このひ)、阿曇連浜子(あづみむらじのはまこ)を捉(とら)へき。 《大意》 そして、刺領巾(さしひれ)を殺しました。 その日のうちに倭(やまと)に向かい、夜半に石上に到着して復命しました。 そして、弟皇子を招いて厚く寵愛し、村を賜り、合わせて屯倉(みやけ)を賜りました。 この日、阿曇連浜子(あずみむらじのはまこ)を捕えました。 まとめ この段には、飛鳥部の居住地であるところの近飛鳥・遠飛鳥への言及がある。 そして、阿知直は遠飛鳥の檜隈に居住した倭漢の祖で、田荘を給わったとされる。 従って記は阿知直を、飛鳥部の造(みやつこ;=統率者)と見ていたようである。 対照的に書紀は阿知直を飛鳥部と切り離したかったと思われる。 だから近飛鳥・遠飛鳥の地名譚を省き、 また屯倉を給わったのは瑞歯別皇子自身だとするのである。 これは、氏族の家系の調査が進んだ結果かも知れない。 なお、「飛鳥」の表記がいつ始まったかということは、古事記の成立時期に関わる重大問題である。 天武朝における飛鳥浄御原令・国号「日本」の制定・「天皇」の呼称の開始・「帝紀及上古諸事」記定の詔など国の形を整える一連の動きと軌を一にして、 「飛鳥」の表記が定められた〔但し、一般には混用が続く〕と見るのが妥当ではないか思われる。 |
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2017.11.05(sun) [181] 下つ巻(履中天皇6) ▼▲ |
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亦此御世 於若櫻部臣等賜若櫻部名
又 比賣陀君等賜姓謂比賣陀之君也 亦 定伊波禮部也 亦(また)此(この)御世(みよ) [於]若桜部臣(わかさくらべのおみ)等(ら)に若桜部の名を賜(たまは)りて、 又(また) 比売陀君(ひめだのきみ)等(ら)姓(かばね)を賜(たまは)りて比売陀之君(ひめだのきみ)と謂ふ[也]。 亦 伊波礼部(いはれべ)を定む[也]。 またこの御世(みよ)に、 若桜部臣(わかさくらべのおみ)等に、若桜部の名を賜わり、 また、比売陀君(ひめだのきみ)は、比売陀の君という姓(かばね)を賜わりました。 また、伊波礼部(いわれべ)を定めました。 【若桜部】 「於若桜部臣等賜二若桜部名一」とは、 「現在の若桜部臣が若桜部という名を賜ったのは、この天皇の御世である。」という意味だと見られる。 東池尻・池之内遺跡の東の稚櫻神社・若櫻神社を含む地域が、若桜部の居住地であったと考えられる。 〈姓氏家系大辞典〉は、「若櫻部の本源地、大和若櫻の地名は本来此の国名〔若狭国造〕より起れるか。」 として、「わかさくら」はもともと「わかさ」であった可能性があると述べている。 同辞典はさらに「若櫻部は多くワカサベと訓ずるより見れば、或いは附會の傳説か〔履中三年条は、付会(ふかい;=こじつけ)の伝説か〕」 と述べる。 また「高橋氏文に『和加佐國は、六雁命に永く子孫等が、遠つ世の国家を爲せよと定めて、 授け賜ひてき。此の事は世々にし過〔あや〕まり、違〔たが〕へじ』とある如く、膳臣の祖磐鹿六雁真が賜へる國也。」 と述べる。高橋氏文については、資料[07]参照。 書紀が若桜部臣の元の名は「膳臣余磯」であったと述べるのは、同辞典の主張を裏付けるひとつの材料かも知れない。 書紀には、長真胆連が稚桜部造、膳臣余磯が稚桜部臣を賜ったとある。 部の統率者を意味する部造を戴き、若桜部臣は部造を支える上級のスタッフと位置づけられると思われる。 後に、それぞれが氏族として存続する。 〈姓氏家系大辞典〉は、同地の伊波礼部が倭漢(やまとのあや)の族であることを示唆するので、 若桜部も同様であったのかも知れない。 《稚桜部造》 「稚桜部造」については、〈新撰姓氏録〉に、 〖右京/若桜部造/〔神饒速日命〕三世孫出雲色男命之後也/四世孫物部長真胆連。初去来穂別天皇泛両枝船於磐余市磯池〔中略〕長真胆連賜姓稚桜部造也〗 〖和泉国/若桜部造/饒速日命七世孫止智尼大連之後也/履中御世。採桜花献之。仍改物部連。賜姓若桜部造〗 がある。 〈姓氏家系大辞典〉は、具体的な人物名は見出していない。 《稚桜部臣》 「稚桜部臣」については、〈天武天皇紀〉元年六月に「稚櫻部臣五百瀬」の名があり、 また十三年十一月には「若櫻部臣」に朝臣姓を賜る。 〈姓氏家系大辞典〉は天平十一年〔739〕の『出雲国大税賑給歴名帳※』に「若櫻部臣大土」「若櫻部臣馬依」の名を見出している。 ※…賑給(しんごう)とは、律令制において生活困窮者への施しを行う制度。天平十一年の賑給は祥瑞があったことによる。 《書紀の記述》 「高橋氏文」は安曇氏との昇進を争いにおいて、先祖の朝廷への貢献を語る上申書として提出されたものである。 稚桜部臣も天武天皇が朝臣を賜る前に上申書を提出し、桜花伝説もそこに書かれていたと想像することに、そんなに無理はないと考える。 それが、書紀に加えられたのではないだろうか。 【比売陀君】 真福寺本・氏庸本(猪熊本系)は何れも「比売陀之名」である。確かに「姓を賜りて比売陀の名と謂ふ」では意味は通じないから、 「名」は「君」の誤りであろう。 もともと「比賣陀君等賜姓謂比賣陀君」であったものを、あるときに「君」を「之名」と誤写したのかも知れない。 《君》 天武天皇の八色の姓には入っていないが、古事記の時代において「君」は、このように公認された姓であった。 この文は①「現在の比売陀君は、このとき姓『君』を賜った」、 ②「部の内部で私的な敬称として用いていた『君』が、このときに正式に姓として認められた」という二通りの解釈が可能である。 《本貫》 開化天皇段において、「開化天皇-日子坐王-大俣王-菟上王」の系図が示され、菟上王(うなかみのみこ)が比売陀君の祖とされる 第109回《比売陀君》)。 〈姓氏家系大辞典〉は、「丹波家主家の族にて、近江国伊香郡売比多神社とある地の豪族なりしか。 又大和国添上郡に売田神社と云ふもあり。」と述べる。 しかし、比売陀君の前後に書かれた若桜部・伊波礼部は磐余の族だから、 比売陀君もそこにいたように思われる。 【伊波礼部】 〈姓氏家系大辞典〉によれば、伊波礼(いはれ)部は「石村部」「石寸部」とも書かれた。 「寸」は「村」を簡略化したものだという。 同辞典は「伊波礼部」は、履中天皇が伊波礼の若桜に都したことによる名だから御名代の一種だと述べつつ、 「石村部」の項では「出自の明白なるもの何れも倭の漢〔やまとのあや〕氏の族なり。 此の品部は其の族人を以って定置したるが如く考へらる」とし、更に別項 ("部"のつかない)「磐余」についても「倭漢氏の族也」だとする。 比売陀君・伊波礼部について、同辞典での記事量は少なく、あまり氏族として発展しなかったらしい。 書紀に書かれなかったのはそのためではないかと思われる。 【書紀―二年~三年】 7目次 《立瑞歯別皇子為儲君》
冬十月(かむなづき)、[於]磐余(いはれ)に都をおきたまふ。 是の時に当たりて、 平群木菟宿祢(へぐりのつくのすくね)、蘇賀満智宿祢(そがのまちのすくね)、物部伊莒弗大連(もののべのいこふつのおほむらじ)、円【円、此豆夫羅(つぶら)と云ふ】大使主(つぶらのおほみ)、 共に国の事を執(と)りまつる。 十一月(しもつき)、磐余池(いはれいけ)を作る。
両枝船(ふたまたぶね)を[于]磐余(いはれ)の市磯池(いちしいけ)に泛(う)かべて、皇妃(おほきさき)与(と)各(おのもおのも)分(わかれ)乗りたまひて[而]宴(うたげ)遊(あそば)す。 膳臣(かしはで)の余磯(あれし)酒(みき)を献(たてまつ)りて、時に桜花(さくらばな)[于]御盞(みうき)に落ちつ。 天皇之を異(あやし)びたまひて、則(すなはち)物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)を召(め)して、詔(のたま)ひしく[之曰] 「是の花は[也]非時(ときじ)くして[而]来(く)、其(それ)何処之(いづくの)花なるや[矣]、汝(いまし)自(みづから)求めまつる可(べ)し。」とのたまひき。
天皇其の希有(まれなる)ことを喜びたまひて、即(すなわち)宮の名と為(な)したまふ。 故(かれ)磐余稚桜宮(いはれのさくらのみや)と謂ふは、其(それ)此之(この)縁(よし)なり[也]。 是の日、長真胆連之の本(もと)の姓(かばね)を改めたまひて稚桜部造(わかさくらべのみやつこ)と曰ひ、 又膳臣の余磯を号(なづ)けたまひて稚桜部臣(わかさくらべのおみ)と曰ふ。
「於」は前置詞で磐余に所在することを示す。したがって「都」は動詞である。 それでは、「都」を動詞化した場合どのように訓まれたかを万葉集に見ると、右のようになっている。 このように「みやことなる」「みやことなす」「みやこをおく」などの日本語として自然な言い回しが用いられる。 書紀の訓読もこれに従うべきであろう。 サ変動詞をつけた「みやこ-す」は、後世の漢文訓読体以後である。 《大意》 二年正月四日、瑞歯別皇子(みづはわけのみこ)を東宮〔皇位継承者〕に立てました。 十月、磐余(いわれ)に都を置きました。 この時に、 平群木菟宿祢(へぐりのつくのすくね)、蘇賀満智宿祢(そがのまちのすくね)、物部伊莒弗大連(もののべのいこふつのおおむらじ)、円大使主(つぶらのおおみ)が、 共に国事を執りました。 十一月、磐余池(いわれいけ)を作りました。 三年十一月六日、天皇(すめらみこと)は、 両枝船(ふたまたぶね)を磐余の市磯池(いちしいけ)に浮かべて、皇后とそれぞれに分かれて乗られ、宴遊ばしました。 膳臣(かしわで)の余磯(あれし)は御酒が献ると、その時に桜花が杯に落ちました。 天皇はこれを不思議に思われ、物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)をお呼びになり、 「この花は季節外れにやって来た。どこに咲いていた花だろうか。お前自身で捜して参るべし。」と命じられました。 そこで、長真胆連は、独りで花を尋ね、掖上(わきのかみ)の室(むろ)の山で見つけ、これを採って献りました。 天皇はこれを希有なることと喜ばれ、宮の名前にされました。 つまり、磐余稚桜宮(いわれのさくらのみや)という宮の名前は、この出来事に由来します。 この日、長真胆連之の元の姓(かばね)を改め、稚桜部造(わかさくらべのみやつこ)とし、 また膳臣の余磯を、稚桜部臣(わかさくらべのおみ)と名付けられました。 【共執二国事一】 この文は、使役表現〔「令執」「命執」など〕になっていないところが注目される。 少なくとも形式上は天皇の「詔」によることは当然であるが、 事実上は大臣に実権があったという意識が思わず現れたのかも知れない。 《平群木菟宿祢》 平群木菟宿祢は、応神天皇紀三年に、 紀角宿祢・羽田矢代宿祢・石川宿祢と共に百済の辰斯(しんし)王を罰するために派遣された。 十六年八月には、 的戸田宿祢(いくはのとだのすくね)と共に新羅を攻めた。 《蘇賀満智宿祢》 〈姓氏家系大辞典〉は出典を示さずに、「石河宿祢の子を満智宿祢と云ふ」と述べる。 恐らく蘇我氏の系図は広く流布され、既に衆知のことなのであろう。 《物部伊莒弗大連》 物部伊莒弗大連(もののべのいこふつのおほむらじ)の名は『天孫本紀』にあり、物部氏の十世孫となっている。
《円大使主》 『公卿補任』〔811年以後〕に「葛城圓使主【カツラキツブラノオミ】」とある。 葛城圓使主は、雄略天皇紀元年三月条に「妃二葛城圓大臣女曰韓媛一」とあり、 娘の韓媛(からひめ)を雄略天皇の妃に納めている。但し、葛城圓は葛城氏の系図には見えない。 そもそも「葛城氏」という、まとまった氏族が存在したこと自体が疑わしい。 安康天皇段に「〔目弱王〕窃伺二天皇之御寝一。取二其傍大刀一。乃打二-斬其天皇之頸一。逃二-入都夫良意富美之家一也。」 とあり、眉輪王が就寝中の安康天皇を襲って殺した後、圓使主の家に逃げ込んでいる。 安康段の「都夫良意富美」という表記により、大使主はオホミと訓まれているようである。 【掖上室山】
その後119回に、『五畿内志』の記事を検討した。 そのとき、次のことを見出した。 ① 用明天皇の仮陵〔その後河内磯長陵に改葬〕は、 記では「御陵在二石寸掖上一」、書紀では「磐余池上陵」とされる。 ② 五畿内志「二十五巻十市郡:【古蹟】」には、「市磯池/在池内村而石寸掖上山亦隣于此」 〔池内村に在り、石寸掖上山また此れに隣(となり)す。〕 。 ③ 現在池之内に市師池らしき池はないが、五畿内志(1720~21)、そして古事記伝(1798)の時代にはまだ存在した。 ④ 東池尻・池之内遺跡〔堤跡〕の発掘によって、そのダムが磐余池である可能性が濃厚になった。 このように、江戸時代には磐余池の一部が池内村に残っていて、「市磯池」と呼ばれていたようである。 また、磐余池の東隣に池之内古墳群があり、五畿内志が石寸掖上陵だとした「荒陵」は、これのことかも知れない。 用明天皇段の仮陵には「掖上」の文字があるから、池之内古墳群を取り囲む山が「掖上室山」であったと考えることができる。 もし「掖上室山」が用明天皇段の「石寸掖上」だとすれば、市磯池に近いから桜花伝説に結びつくが、 この山が「室山」と呼ばれた確証がないことが気にかかる。 一方、 105回 では「掖上室山」は、巨勢山だと考えた。 ここなら"掖上"と"室"の地名が揃うが、桜の花びらが飛んで来るには遠距離にすぎる。 しかし市師池と池之内古墳群の山は逆に近すぎて、桜花を見つけるのは簡単だから、物語としての面白味に欠ける。 改めて考えてみると「室」は「牟婁」に通じ、大和平野の南方の山並みを広く指し※1、 神武天皇が国見をした由緒ある地名「腋上(掖上)」(第101回) とセットになっているから、やはり掖上室山は巨勢山ではないかという思いが強まる。 ※1…倭名類聚抄に{大和国・葛上郡・牟婁郷}及び{紀伊国・牟婁【牟呂】郡}。 まとめ 若桜宮は、倭漢(やまとのあや)の居住地の近傍に置いた。 記の記述は、倭漢の族(うがら)が若桜部・比売陀君・伊波礼部に組織されたことを示すとも解釈できる。 書紀は若桜部の子孫の間に伝承される、祖先の逸話を収めたものと読める。 比売陀君・伊波礼部に触れなかったのは、調査してもあまり実態が見えなかったからだと思われる。 この時代は、宋書・梁書に書かれたように、倭の朝鮮半島南部への進出が活発であった。 履中天皇が若桜に宮を置いたのは、倭漢との関係を深めることを通して、その出身地である半島との外交交渉や技術や人・物の移入を促すためとは考えられないであろうか。 しばしば三韓に渡った平群木菟宿祢の名前がここに出てくるのも、その現れではないか。 そして、百舌鳥古墳群の巨大古墳の築陵は、半島との活発な交流によって経済が発展したことを反映すると思われる。 その割に、仁徳天皇・履中天皇の外交の記録がないことが、不思議である。 その事績は神功皇后と応仁天皇に移されたのであろう。 特に神功皇后は、その晩年は若桜宮に坐して半島との外交にあたったと描かれる。 |
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2017.11.29(wed) [182] 下つ巻(履中天皇7) ▼▲ |
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天皇之御年 陸拾肆歲
【壬申年正月三日崩 御陵在毛受也】 天皇(すめらみこと)之(の)御年(みとし)、陸拾肆歳(むそちあまりよつ)。 【壬申(みづのえさる)の年(とし)正月(むつき)三日(みか)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 御陵(みささき)毛受(もず)に在(あ)り[也]。】 天皇(すめらみこと)の御年、六十四歳。 壬申年正月三日に崩じました。 陵(みささぎ)は毛受(もず、百舌鳥)にあります。 【壬申年】
【毛受の陵】 真福寺本における仁徳天皇陵の書き方は疑問を残したが、履中天皇の「御陵在毛受也」の文字は明瞭である。 書紀では、「百舌鳥耳原陵」。〈延喜式〉諸陵寮では「百舌鳥耳原南陵。磐余稚桜宮御宇履中天皇。」とされる。 陵の比定に関しては、第175回で見た通りである。 現在、宮内庁は上石津ミサンザイ古墳(石津ケ丘古墳とも。右写真)を百舌鳥耳原南陵に比定している。 履中天皇は書紀によれば稚桜宮で崩じ、遂に難波に帰ることはなかった。 それでも百舌鳥に葬られたのは、難波が経済的な中心地として首都機能を維持し、その地の土木技術集団が百舌鳥に築陵することが、代を超えた決まり事になっていたのだろうと思われる。 【上石津ミサンザイ古墳】 墳丘長365m、高さ27.6m。大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)、誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)に次いで全国第三位の大きさ。 5世紀初頭と考えられている。 【倭の五王との対応】 まず、『宋書』にある遣使の年と記の崩年をまとめたのが、右図である (原文は、宋書夷蛮倭国伝をそのまま読む【宋書など】)。 なお、安康天皇の崩年は記にはないので、書紀で安康朝が4年までであることを用いた。 これを見ると、 ① 仁徳天皇と讃、允恭天皇と済については、比較的年の対応がよい。 ② 和風諡と比較すると、オホサザキと"讃"、ヲアサヅマと"済"、ワカタケルと"武"が対応するようにも見える。 ①②によって当てはめるとうまく行きそうだが、これでは珍(弥)のところに天皇が二代入ることになって行き詰まる。 そこで宋書に立ち戻って"死"・"立"・"世子"を中心に抜き出すと 「(ア)讃死。弟珍立。(イ)珍又求…。(ウ)済遣使。(エ)済死。世子興。」の順に書かれている。 ここで注目されるのは、「珍死。弟済立〔または世子済〕」がないことである。 そこで試しに(イ)と(ウ)の間に、本来は「珍死。弟A立。A死。弟済立。」が挟まっていたことにしてみよう。 すると、A王は遣使しなかったから文書記録がなく、 その結果この部分が丸ごと書かれなかったと考えることが可能である。 この項では、中国から見た倭王の死は「薨」、倭の天皇の死は「崩」を用いた。 《薨年・即位年について》 ここで、「王死」の年についてどう解釈すべきかを考えておきたい。 元嘉二年〔425〕に、「讃又遣二司馬曹達一。…讃死。王珍立。遣二使貢献一。…」 と書いているから、このまま読めば425年の間にこれらがすべて起ったことになる。 しかし、次の年は元嘉二年〔443〕まで飛ぶので、「讃死」等は425年の翌年以降に起こった可能性もある。 元嘉二十八年〔451〕の項にも、「加二…安東将軍一。…。済死。 世子興遣二使貢献一。」 と書かれる。「遣使(返使)したのと同じ年に王が死ぬ」ケースが2回起こることは、ないとは言えないが確率は小さい。 よって、これらの「王死」の年は不明で、ただ遣使(返使)よりは時間的に後のことだから、このような書き方になったと見るべきであろう。 従って、宋書と記を合成して「讃〔=オホサザキ〕による遣使425年・崩427年」「済〔=ヲアサヅマ〕への授号451年・崩454年」 としてみると、これが案外正しいのかも知れない。 《梁書でも五王》 ただ、梁書でも讃と弥の間に王はなく、五王になっている。これは宋書をそのまま要約したものであろう。 あるいは、順番から見るとA王=ミ甲ヅハワケに当たるから、 宋書が取り上げた五王の他に、"弥"〔み甲〕の名が伝わっていて、 それが梁書に反映したとも考えられる。 《興・武の活動年の齟齬》 もう一つの問題は、興・武の事跡の一部が安康天皇・雄略天皇の死後になることである。 そのうち、安康天皇が暗殺された「457年?」は書紀の「安康天皇四年」によるものだから、安康天皇段・紀を精読する回でもう一度検討したい。 ただ、462年の「倭王世子興…宜授二爵号一、可二安東将軍倭國王一。」 〔世子興に安東将軍倭国王の爵号を送る〕は、宋側から発信した文書の記録であり、その時点では安康天皇が既に崩じたことを知らなかった可能性がある。 もう一つ、武の「502年」が雄略天皇の死後にあたるという問題がある。 この「502年」とは、梁の武帝が502年に即位し、武を「鎮東大将軍」から「征東大将軍」に進号したという記事による。 宋は479年に亡びて斉(南朝)が立つが、502年には斉も亡びて、梁が立つ。 このような混乱期にあったので、武が489年に薨じた事実が伝わっていなかった可能性は十分あり得る。 この進号は、旧王朝が東西の近隣国と交わした外交関係を、新王朝も発展的に継承することを宣言する文脈中にある。 そこでは東の高麗王・百済王・倭王、西の宕昌王・河南王の称号を、それぞれ一段階ずつ昇進させている (『梁書』)。 周辺国との友好関係を強めることによって、発足早々の新王朝の基盤を固めるためと思われる。 その作業は、梁朝の官僚が宋朝が遺した文書を精査し、王の名をそのままにして機械的に新しい号を発したものであろうと想像される。 《世子・立弟》 済が前王の弟であるか子であるかは、もともと宋書には書かれていない。仮にA王が存在した場合、 明確な不一致は「弟珍立」・「大雀命…子伊邪本和気命」〔仁徳天皇皇子、履中天皇〕の一か所のみとなる。 そこで「讃死。弟珍立。」を「讃死。世子珍。珍死。弟弥立。」 または「讃死。世子弥。弥死。弟珍立。」 と直すと、記に合わせることができる。ただこのような誤りがあったと仮定して、それが最初から不正確だったのか、 それとも誤写の過程で生じたことかは分からない。 後者の直し方だと五文字を挿入するだけですむが、一方で「ミ〔弥〕ヅハワケ」という貴重な手掛かりを失う。 【書紀―六年三月】 10目次 《崩于稚櫻宮》
天皇(すめらみこと)玉体(おほみみ)不悆(やまひいえまさずて)、水土弗調(みづつちととのほらず)、 [于]稚桜宮(わかさくらのみや)に崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 時に年(みとし)七十(ななそち)。 冬十月(かむなづき)己酉(つちのととり)朔壬子(みづのえね)〔四日〕、百舌鳥耳原(もずみみはら)の陵(みささき)に葬(はぶ)りまつる。 《玉体不悆》 伝統訓では、この四文字を「やまひす」〔病す〕などと訓む。これは、意訳である。 〈仮名日本紀〉「やまひして」。〈岩波文庫版〉「おほみやまひしたまひて」。 《水土弗調》 「水土」の一例として、「孔子曰『古之平治水土及播殖百穀者眾矣…』」 〔古くはこれ、水土を平治し、百穀を播殖する(=種蒔き育てる)ひと衆(あつ)むに及び…〕 (『孔子家語』〔漢代〕) がある。 『中国哲学書電子化計画』で検索すると、この例のようにほとんどが単純に「水と土」、転じて風土・環境などの意味に用いている。 〈時代別上代〉は「水土不調」を「木火土金水の五行の代表として水・土を挙げ、体を形づくる要素が不調の意。」 と説明するが、同意できない。 「水土不調」の伝統訓は「やくさむ」。〈仮名日本紀〉「やくさみ給」。〈岩波文庫版〉「やくさむたまふ」。 「やくさむ」は、書紀の他の個所を見ると天武天皇紀「近者朕身不和」に「ちかごろわがみやくさむ」の伝統訓がある。 しかし、この「不和」を「なやまし」「やはさず」などと訓んでも、何ら支障はないであろう。 複数の辞書における「やくさむ」の文例はすべて書紀古訓であるから、この訳語の使用は平安時代の訓読研究者の個人的な好みであろう。 これをそのまま「みづつちととのはず」と訓めば、「気候も病の恢復を助けず」の意味として成り立ち、哀悼の気持ちを表す慣用句として存在したと思われる。 このままで充分に雅であり、平安の訓読研究者は、ただ「やくさむ」を使いたかっただけではないだろうか。 現代人としては、限られた時代の限られた人の趣向に盲従する必要はなく、当時の言語の通常の使われ方を見て判断すべきだと思う。 《哀悼の表現》 書紀で天皇の崩に、哀悼の美辞をこのように添えることは他に例を見ない。 今のところは、執筆者の気まぐれによるものであろうと考えている。 《大意》 六年三月十五日、 天皇(すめらみこと)は、玉体癒えず、水土整わず、 稚桜宮で崩じました。 時に、御年七十歳でした。 十月四日、百舌鳥耳原の陵に葬られました。 まとめ 今回は「倭の五王」と天皇との対応という問題を、正面から追究した。 宋書に記された倭王の名は、倭の遣使が持参した書状と宋皇帝からの詔除(称号の授与)によって記録されたと見られる。 倭王の薨と即位は、遣使によって届けられた書状から結果的に知られたもので、その継承(世子か弟か)の記録には若干の誤りが生じたものと思われる。 そして、たまたまその代に遣使も詔除もなければ、天皇の名は記録されない。 以上を前提として、珍と済の間に記録されなかった天皇一代加えて「倭の六王」とすると、仁徳天皇~雄略天皇と比較的きれいに対応する。 この公式には記録されなかった倭王も、その存在が何らかのルートで伝わっていたことが影響して、「珍」が梁書では「弥」になったのではないかとも思われる。 またこの検証の結果、記の側においても崩年の現実性が増す。記紀以前に古墳時代から伝わる、一定の実録資料が存在したことが推定される。 |
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2017.12.07(thu) [183] 下つ巻(反正天皇) ▼▲ |
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弟水齒別命 坐多治比之柴垣宮治天下也
此天皇 御身之長九尺二寸半 御齒長一寸廣二分上下等齊既如貫珠 弟(おと)水歯別命(みづはわけのみこと)、多治比(たぢひ)之(の)柴垣宮に坐(ましま)して天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此の天皇(すめらみこと)、御身(おほみみ)之(の)長(ながさ)九尺二寸半(ここのさかあまりふたきあまりいつきだ)、 御歯(おほみは)の長(ながさ)一寸(ひとき)広(ひろさ)二分(ふたきだ)、上下(うへした)等(ひと)しく斉(ととのほ)りて、既に貫(ぬ)ける珠(たま)の如し。 天皇娶丸邇之許碁登臣之女都怒郎女 生御子甲斐郎女 次都夫良郎女【二柱】 又娶同臣之女弟比賣 生御子財王 次多訶辨郎女 幷四王也 天皇、丸邇(わに)之(の)許碁登臣(こごとのおみ)之(の)女(むすめ)都怒郎女(つぬのいらつめ)を娶(めあは)せたまひて、 [生]御子(みこ)甲斐郎女(かひのいらつめ)、 次に都夫良郎女(つぶらのいらつめ)【二柱(ふたはしら)】をうみたまふ。 又同じき臣之女(むすめ)弟比売(おとひめ)【二柱(ふたはしら)】を娶(めあは)せたまひて、 [生]御子財王(たからのみこ)、 次に多訶弁郎女(たかべのいらつめ)をうみたまふ。并(あは)せて四王(よはしらのみこ)なり[也]。 天皇之御年陸拾歲 【丁丑年七月崩御陵在毛受野也】 天皇之御年(みとし)陸拾歳(むそち) 【丁丑(ひのとうし)の年七月(ふみづき)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。御陵(みささき)毛受野(もずのの)に在り[也]】。 ながさ…[名] 長さ。〈時代別上代〉形容詞語幹にサがついた形は〔中略〕文末に現れるのがほとんで、この場合のように完全な名詞を作る例はほかに見当たらない。 ひろさ…[名] 広さ。 斉…(古訓) ととのふ。ひとし。 斉均…ひとしくそろう。 貫珠…〈汉典〉成串的珠子。比喩声音美妙動聴。〔串状に繋げた宝石。美しく音が聞こえる様を比喩する。〕 許碁登…こ乙ご乙と。 【柴垣宮】 〈五畿内志〉-河内之十六丹北郡には、 「【古蹟】柴籬宮【在二松原荘植田村広庭神祠東北一日本紀曰反正天皇元年…】」 とある。 また、〈姓氏家系大辞典〉には「柴垣連:物部氏の族にして、反正天皇の皇居のありし河内国丹比柴籬宮の地名を負ひしなり。」 この宮の名を負う柴籬神社が大阪府松原市上田7丁目12-22の、丹北郡内にある。 その「御由緒」によると、「諸殿の跡なる地名として極殿山、大門、中門、学堂、若宮、反正山、東宮、堂経、中橋、高見などの字〔あざ〕が残り」、 御祭神は正殿に反正天皇、相殿に菅原道真公、依羅宿祢を祀り、 「当社は24代仁賢天皇の勅命により創建され」云々とある。 松原市公式ページの「7反正天皇と丹比柴籬宮」によれば、 「現在のところ、宮の存在を確かめる遺構や遺物はまだ見つかっていません」が、「旧石器時代から近世までの複合遺跡である上田町遺跡に含まれ」るという。 また「神社西方に残る天皇にゆかりをもつ『反正山(はじやま)』の地名などから、宮跡の有力な候補地であることは疑いありません。」と述べる。 ただ、〈五畿内志〉では、ハジ山の表記は土師山である。 〈倭名類聚抄〉に{河内国・丹比郡・土師郷}があり、「土師」に関する五畿内志の見解は「土師郷【方廃村存】」〔廃れたが、その方面にその名を残す村がある〕である。 土師郷は河内国志紀郡にもあり、土師氏の居住地に由来するから「反正山」という表記は後付けであろうと思われる。 なお御由緒が列記する字名のうち、反正山(土師山)、高見以外は『五畿内志』には見えない。 【御身之長九尺二寸半・御歯長一寸広二分】
「尺」はもともと親指と中指を伸ばした長さで、そこから象形文字「尺」が生まれた(右図)。 私の手の場合、22cmである。その後漢代には、約24cmが用いられた言われる。隋代は、それまでの尺を小尺、1大尺=1.2小尺(約29cm)として併用され、唐代の一尺に近づく。 隋代以前の小尺が古墳時代に移入して実測されたと考えた場合、九尺二寸半=222cmで、まだ現実的ではない。 また、用いられたのが素朴な身体尺で、当時の人々の体格を小さめに見積もって一尺=18cmだとすれば、166.5cmとなり、やっと現実的な値になる。 ちなみに垂仁天皇の「御身長一丈二寸、御脛長四尺一寸」に一尺=18cmを適用すると、 身長=183.6cm、脛長73.8cmとなり、大柄だが現実的な値ではある。 一方、「御歯長一寸広二分」に一尺=18cmを適用すると、長さ1.8cm、幅3.6mmとなる。私の歯(特に出っ歯ではない)で計ると長さ1.0cm、幅8mmである。 これから見ると反正天皇はかなりの出っ歯であるが、一本の歯の幅は非常に狭い。従って、歯の寸法については誇張があると思われる。 身長については非常に数値が細かくて、古墳時代の一尺としての一応の説明が可能なので、 5世紀頃に当時の一尺によって測定された記録が実際に残っていたことも考えられる。 【貫珠】 『通典』「辺防六-吐谷渾」〔801〕に、「婦人皆貫珠束髮、以多為貴。」がある。 その他の多くの用例を見ても、貫珠は宝飾品であることは明らかで、真珠のネックレスのようなイメージであろうと思われる。 これをもって美しい歯並びを形容するのである。 【丸邇之許碁登臣】 書紀では、「大宅臣祖木事」。大宅臣は、孝昭天皇段で、「天押帯日子命者、春日臣・大宅臣…之祖」とされ、 孝昭天皇の皇子「天押帯日子命」〔あめおしたらしひこのみこと〕の子孫に位置づけられる。 大宅臣などは、孝昭天皇段で検討したように、明らかに和珥氏の分流である (第105回)。 大宅臣については木事の後は、「大宅臣鎌柄」(天地天皇紀)の名が見える。大宅臣は天武天皇の八色の姓の制定後、 大宅朝臣となり、持統天皇紀に「大宅朝臣麻呂」の名がある。 〈続紀〉には、大宝元年〔701〕以後に大宅朝臣大国、大宅朝臣小国、大宅朝臣兼麻呂、大宅朝臣広麻呂、大宅朝臣諸姉の名が見える。 そして、天平十九年〔747〕に大宅真城が真人姓を賜る。曰く「正月丁丑朔壬辰〔十六日〕国見真人真城。改賜大宅真人姓」。 『日本の苗字七千傑』の系図は、この真城を起点としている。それ以前の系図は〈姓氏家系大辞典〉にもなく、今のところ見つけられない。 【御陵在毛受野】 書紀は、允恭天皇紀五年条に、 「冬十有一月甲戌朔甲申〔十一日〕、葬二瑞歯別天皇于耳原陵一。」と記す。 延喜式では「百舌鳥耳原北陵」である (第175回)。 《延喜式諸陵寮》 宮内庁は、諸陵寮の「中陵」「南陵」「北陵」の位置と兆域の広さについて矛盾を避けるために、 北陵に田出井山古墳を比定している。 ただ、兆域が延喜式では東西に長い(東西三町南北二町)が、実際の古墳は南北方向という大問題がある。 そもそも延喜式が小さな兆域の古墳を反正天皇陵としたのは、記紀に事績が皆無であることが影響したと考えてよいだろう。 しかし、その埋葬が允恭天皇五年と書かれるのは、築陵に長い時間を要したためとは考えられないだろうか。 仁徳天皇陵が寿陵であることは明確に書かれているから、百舌鳥の大王陵はどれも寿陵であったと考え得る。反正天皇陵が在位5年の後5年かかってやっと完成したとすれば、 実際には相当の大陵であったと考えるのが妥当であろう。 それでは延喜式に反するのであるが、そもそも延喜式の比定自体が推定であると割り切ってみる。 単純に大きい方から上位3陵が大王陵だと考えると、(1)大仙陵古墳(2)石津ケ丘古墳(3)ニサンザイ古墳である。 そして延喜式以前の言い伝えは、中陵・南陵・北陵の位置関係のみだったと仮定すると、 (2)石津ケ丘古墳=仁徳天皇陵;(3)ニサンザイ古墳=履中天皇陵;(1)大仙陵古墳=反正天皇陵となる。 これでは、仁徳天皇陵が第二位に転落する。 しかし、そもそも巨大陵を築陵した意味はどこにあったのだろうか。 以前に、百舌鳥における巨大陵の築陵は、基本的に土木工事を担う技術集団の組織・技術を鍛えるためだと考えた(第175回まとめ)。 その集団が成熟してくると、天皇個人の業績とは無関係に陵の大型化志向が存在したと考えてみたらどうであろうか。 それなら反正天皇陵の規模が、仁徳天皇陵を上回ることはあり得るのである。 ただ、大仙陵古墳周辺の倍塚の数は石津ケ丘古墳・ニサンザイ古墳に比べて際立って多いが、 反正天皇の妃・皇子はそんなに多くない。 これについては、時代が下り大仙陵古墳が信仰の中心的となり、その周囲に好んで葬られたとも考えられる。 その判断のカギになるのは、大仙陵と倍塚の年代の比較である。倍塚が大仙陵より一定程度時間を置いて作られたものであれば、 その天皇の直接の親族・臣でなくてもよい。 その一例として竜佐山古墳を見ると、その年代は4期後半(5世紀後半)で大仙陵古墳(5世紀中ごろ)からは隔たっている。
《円筒埴輪様式による年代》 そこで、考古学における年代の知見を参照してみる。 まず大塚初重『古代天皇陵の謎を追う』(新日本出版社、2015)から判断の材料となる部分を抜粋する。
次にその要約を示す。
一方、ニサンザイ古墳は5世紀後半であることは動かず、 これを反正天皇陵とすることは困難となった。 なお、宮内庁が反正天皇陵とする田出井山古墳は、大仙陵古墳と同時期である。 そこで、仁徳陵・履中陵・反正陵の候補を第4位の御廟山古墳まで広げて考えることにする。 前回見た倭の五王との対応から、記の崩年が正しいと仮定して、在位期間と四陵の築陵年代を併せて示した(右図)。 対照的に履中天皇だけは崩は六年三月、葬られたのが同年十月で (履中天皇紀六年)、 陵の完成は速かった。従って、そんなに大きな陵ではない。 これで三陵が決まるが、第3位のニサンザイ古墳が浮いたままである。これは、実は允恭天皇陵ではないだろうか。記紀では允恭天皇陵は、恵賀長枝または長野原にあるとされるが、 允恭天皇も仁徳天皇の皇子であるから、その陵が百舌鳥にないことの方がむしろ不自然である。 この恵賀長枝陵・長野原陵を事実に反するものと簡単に片づけてもよいのであるが、ここでは記紀の記述を尊重したい。 そのために、允恭天皇のための寿陵として一度はニサンザイ古墳が築陵されたが、 結果的には何らかの事情があって恵賀長に葬られ、ニサンザイ古墳は空陵として残ったと考えてみることにする。 "空陵"はアクロバット的な解釈であるが、これまでにも室宮山古墳は、仁徳天皇の空陵ではないかと考えた(第162回)。 このようにして、(2)石津ケ丘古墳=仁徳天皇陵、(4)御廟山古墳=履中天皇陵、(1)大仙陵古墳=反正天皇陵、 (3)ニサンザイ古墳=允恭天皇(空陵)とすると、記紀と宋書、そして現在の考古学の知見とをともかくも合わせることができる。 《延喜式諸陵寮の評価》
また、北陵だけが兆域が小さい。これは履中天皇陵が小さかったことが、「このうち一人の天皇は陵が小さい」程度の記憶となって紛れ込んだ結果かも知れない。 別の考え方として、興味深いのは延喜式の「仁徳陵=中陵、反正陵=北陵」の位置関係が、考古学的年代による知見 「南にある石津ケ丘古墳の方が、北にある大仙陵古墳よりも古い」に一致することである。 ことによると、ここに築陵直後の記憶の断片が残っているのかも知れない。 なお、記紀には南北・兆域の表記はないから、そのままでよい。
1目次 《瑞歯別天皇》
去来穂別天皇の二年(ふたとせ)、立(た)たして皇太子(ひつぎのみこ)に為(な)したまふ。 天皇、初(はじめに)[于]淡路宮(あはぢのみや)に生(あ)れまして、 生(う)まれながらにして[而]歯(みは)一骨(ひとつのほね)の如くして、容姿(みすがた)美麗(いとうるは)し。
時に多遅(たぢひ)の花[于]井(みゐ)の中(うち)に落有(おちた)りて、因(しかるがゆゑに)太子の名(みな)と為(し)たまふ[也]、 多遅花者(は)今に虎杖花(いたどり)なりて[也]、 故(かれ)称(なづ)けて多遅比瑞歯別(たぢひのみづはわけ)の天皇と謂ふ。 六年(むとせ)春三月(やよひ)、去来穂別天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
2目次 《儲君卽天皇位》
秋八月(はつき)甲辰(きのえたつ)朔己酉(つちのととり)〔六日〕、 大宅臣(おほやけのおみ)の祖(おや)木事(こごと)之(の)女(むすめ)津野媛(つののひめ)を立たして、皇夫人(おほきさき)に為(な)したまひて、 香火姫皇女(かひのひめのみこ)円皇女(つぶらのひめみこ)を生みたまふ。 又(また)、夫人(おほきさき)の弟(おと)弟媛(おとひめ)を納(をさ)めたまひて、 財皇女(たからのひめみこ)与(と)高部皇子(たかべのみこ)とを生みたまふ。
是の時に当たりて、風と雨と時に順(したが)ひて、五穀(いつのたなつもの)成熟(みの)りて、 人民(おほみたから)富饒(にぎはひて、ゆたかなりて)、天下太平(てむかたいへいなりき、あめのしたたひらけし)。 是の年[也]、太歳(おほとし)丙午(ひのえうま)。 3目次 《天皇崩于正寢》
《生而齒如一骨》 記では「如貫珠」の意味〔宝石を連ねたネックレスのように美しい〕は明白であるが、書紀では「如二一骨一」という意味不明な文に後退している。 まさか、書紀編者が「貫珠」の意味を知らなかったとは思えない。 また「生而」は瑞歯別皇子を主語として「生まれながらにして」と読むのが、実は一番自然である。 このように古事記に「出っ歯だが、歯並びは実に美しかった」と書かれたことが、 日本書紀では「生まれた時から歯が生えていて、その歯は一本の骨のように太く長かった」という奇怪なことに変わる。 「骨」の意味を注意深く調べたが、これを美しさの例え("骨のように麗しい"など)として用いる例は見いだせなかった。 それでも容姿は美麗であるというから、もはや合理的な読み取りは不可能である。 《皇太子・儲君》 ここでは「立為二皇太子一」であるが、履中天皇紀二年条では、「立二瑞歯別皇子一為二儲君一。」である。 そこで、皇太子と儲君の使い分けに意味があるかどうかをさぐる。允恭天皇紀二十四年条では、「太子〔木梨軽太子〕是為二儲君一」で、同義語。 天地天皇紀では、大海人皇子を「東宮大皇弟」と呼ぶ。「東宮」にも「まうけのきみ」の訓があるが、 この場合は執筆者による呼称で、結果から遡ってそう呼んだものである。 天武天皇即位前紀では、自らが皇位を継ぐよう促されたときに陰謀を疑ってそれを断る文中で「立二大友皇子一宜為二儲君一」 〔大友皇子を皇太子にしてやってくれたまえ〕と述べる。 これらの例から見て、皇太子・儲君・東宮は、同義語である。 《大意》 天皇は、その以前に淡路宮でお生まれになり、 生まれつき、御歯は一本の骨のようであり、そのお姿は麗しくあられました。 お生まれになった時に湧き水があり、それを瑞井(みずい)と言い、これを汲んで太子を洗いました。 その時、多遅(たじひ)の花が瑞井の中に落ちて、よって太子の御名となりました。 多遅(たじひ)花は今は虎杖花(いたどり)と申しまして、 よって、称号を多遅比瑞歯別(たじひのみずはわけ)の天皇といいます。 去来穂別天皇六年三月、去来穂別天皇は崩じました。 十月、河内国の丹比(たじひ)に都を置き、これを柴籬宮(しばかきのみや)と言います。 瑞歯別天皇の御代は、風雨は季節に順調に従い、五穀はよく実り、 人民は豊かになり、天下太平でした。 この年、太歳は丙午でした。 五年正月二十三日、天皇は正寝〔宮殿〕で崩じました。 【瑞井】 淡路島の各地に湧く清水は珍重、あるいは神聖視されていたようで、仁徳天皇段に「淡道嶋之寒泉」から毎朝夕汲み上げ、朝廷に運んだとする記述がある (第174回)。 《産宮神社》 「産宮神社」(うぶのみやじんじゃ、兵庫県南あわじ市松帆櫟田103、旧三原郡)の社頭掲示〈御由緒〉には、 「産宮神社は第十八代反正天皇の御降誕の地に社殿を創建され反正天皇を主祭神として奉斎し後に天照大神を合祀されし神社なり」 とある。 なお、兵庫県神社庁-「産宮神社」のページによれば、「日光寺所蔵の産宮神社由来記には、聖徳太子日光寺建立の折、産宮神社に天照大神を合祀」、 「国主蜂須賀公代々」、「寛文十二年〔1672〕、本殿を再興以来、度々造営修復を受ける」という。 社頭掲示〈御由緒〉にはさらに、 「古事記・日本書紀によれば仁徳天皇遊猟の折お供の皇后磐之媛この淡路宮にて皇子(反正天皇)を御出産」 とあるが、仁徳天皇段・仁徳天皇紀ともにこの記事はなく、 あくまでも反正天皇紀から推定したものである。 少し踏み込むと、仁徳天皇段で淡路島に出かけたのは、 「天皇恋二其黒日売一 欺二太后一 曰 欲レ見二淡道嶋一」 〔天皇は黒日売が恋しく、石之日売には淡路島を見に行くと偽って〕 出でましたときが唯一である (第165回)。 そして、淡路島を通過してそのまま吉備国に向かった。 仁徳天皇紀の方には、淡路島に出かけたことは全く書かれていない。 ただ、前代の〈応仁天皇紀〉二十二年九月条に「天皇狩于淡路嶋」、次代の 〈履中天皇紀〉五年三月条に「天皇狩于淡路嶋」があるので、 この時代の天皇が淡路島に遊びに行くこと自体は一般的になっていたと読むことができる。 《蝮壬生部》 瑞井伝説を読むと、蝮壬生部(タヂヒノミブベ)の発祥の地は淡路島であるように受け取れる。 これについて〈姓氏家系大辞典〉は、「猶ほ淡路に瑞井宮の遺跡を伝ふれど採り難かるべし。 丹比は河内の地名にて、天皇・此の地に都し給ひしによると考へらるれば也。」 〔なお、淡路に瑞井宮の遺跡が伝わるが※、採用しがたい。丹比(たぢひ)は河内の地名で、 反正天皇がこの地を都とされたことに由来すると考えられるからである〕と述べ、 この伝説があるからと言って、丹比部発祥の地がが淡路であるとは見ていない。 ※…恐らく、産宮神社のことか。 淡路と丹比部を関連付ける言い伝えは、今のところこれ以外に見つからない。 《瑞井宮》 〈大日本地名辞書〉には、興味深いことが幾つか書かれている。 ①「瑞井宮(ミヅゐノミヤ)は「又産宮(ウブミヤ)と云ふ、 今松帆村大字瑞井の檪田に在り、寛文〔1661~1673〕中、国主蜂須賀家※1より営造して古跡を伝ふ、 社傍に清泉あり、産池(ウブイケ)また穢池(ヨゴレノイケ)と云ふ、 土俗孕婦此池の苔を捕り服すれば〔地元の妊婦はこの池のコケを採って服用すれば〕、産児安泰なりと称し、 安産の祈を為す人多し」とある。 ※1…蜂須賀氏は、元和元年〔1615〕に淡路国を加封された。 ②同辞書はまた、ここが和知都美命※2の「御井宮」で、淡路三原皇女※3もここで生まれ、 応仁・仁徳・履中・允恭の行幸の行宮もここであろう、后妃もここに来たこともなきにしも非ず、 この産宮こそが淡路宮の古跡であろうと推定する。 ※2…第三代安寧天皇-師木津日子命-和知都美命(第103回)。 ※3…仁徳天皇の異母妹(第148回《阿具知能三腹郎女》)。 ③次の部分はやや長くなるが、興味深いのでそのまま引用すると 「江尻の潮清水と云もの是ならん、老楠のうつほ木〔木の管〕、径六尺深七尺なるものを以て、 井筒となせり、むかしは此〔この〕あたり迄潮張り入し也、醴泉その中に湧出るゆゑ、 潮清水と云ふと、その井の傍に北潟渓に架〔かかり〕たる圯〔つちはし;土橋〕あり、高橋と云ふ、 此〔この〕圯を渡りて産宮へ通路近し、古史に淡路島清水淡路瑞井と称するは此水なるべし」 〔昔はこの辺りまで潮が入り、そこに醴泉が湧き出していた。そこに楠の木で作った管を差して湧き水を採り、 土橋によって近くの産宮まで導いた。その「潮清水」が瑞井である。〕という。 ④さらに、「淡路宮」の解釈を述べた部分も面白い。 曰く「按〔あんずる〕に淡路に天子遊幸の行宮の在りしことは明白なれど、 淡路宮又淡道宮と記せる中に、丹治比(たちひ)宮と訓むべき者有り…〔「多遅花落有于井中」伝説中の〕淡路宮は皆河内の丹治比の地なるべし」 〔天子が淡路に遊幸したのは明らかだが、この伝説中の「淡路宮」に限れば、これを「たぢひのみや」と訓んだ者がいたことによる。伝説中の「淡路宮」は間違いなく「丹治比」の地であろう〕という。 ただ、多遅花伝説は書紀以前から存在したものである。 木簡データベースで検索すると、しかし「淡路国」が書かれた木簡はすべて平城京〔710~〕出土で、飛鳥京出土のものにはない。 日本書紀以前に「淡路」が使われていなければ読み違えもないから「淡路=たぢひ」説は成り立たなくなるのだが、記では「淡道」であるから、「淡道」は一定程度は遡るかもしれない。 なかなか微妙ではあるが、例え誤用だとしても「たぢひ」を「淡路」と書くことは考えにくい。 《淡路宮》 確かなことは、次の3点である。 ① 書紀に、反正天皇は「淡路宮」で生まれ「瑞井」で産湯を浴びたと書かれる。 ② 「産宮神社由来記」という書物が江戸時代以前に存在し、蜂須賀公のとき三原郡松帆に比定して産宮神社を造営した。 ③ 伝統的に、産宮神社付近に淡路宮と瑞井があったと考えられている。 5世紀に、大王がしばしば淡路島に遊幸したのはおそらく事実であろう。そのとき滞在した淡路宮は、全く一時的な行宮かも知れないし、宮としての一定の構えがあったかも知れない。 後者であれば、何らかの遺跡の発見が待たれるところである。 瑞井については、淡路島内ならどこの泉でもこの伝説があってよさそうであるが、その中で産宮神社付近の伝説がかなり優越的である。 やはり、この付近にはかなり昔から強力な伝承が存在したのだろうと思われる。 丹比宿祢の伝承に反正天皇の出生譚があることから、その祖が蝮壬生部〔=丹治の乳部〕であった可能性は濃厚で、 そこに淡路宮の瑞井の強力な伝承が繋がっているのだから、 丹治の伝説に何かの間違えで淡路宮が紛れ込んだものだと、簡単に済ますことはできないと思われる。 最も合理的な解釈は、天皇と妃の淡路島への遊幸に蝮壬生部の祖先が帯同し、実際にこの地で生まれた皇子の養育にあたった史実があるとすることである。 まとめ 農地開拓・運河掘削などは実際には仁徳朝の後もずっと続いていたが、記紀においてその事績が仁徳朝に集約された結果、仁徳天皇が飛びぬけて偉大になった。 その結果、最大陵は仁徳天皇のものだと考えられるようになり、仁徳天皇陵・反正天皇陵の逆転が起った。 それまでは南側にある石津ケ丘古墳が「仁徳天皇陵=百舌鳥の中陵」、北側にある大仙陵古墳が「反正天皇陵=百舌鳥の北陵」と正しく記憶され、 その「天皇名-位置」の組み合わせのみが延喜式まで残ったのではないだろうか。 今のところ巨大陵の築陵の目的の一つは、土木技術集団の組織・能力を鍛えるためだと考えている。 あるいは、「溝」(運河)を掘った土砂が築陵に使われたのかも知れない。その産地を特定するために、陵の土の分析と各地の土壌との比較が待たれる。 その土木技術を担った部は具体的には「工部」(たくみべ)の一種かも知れないが、今のところはっきりせず今後の課題である。 「九尺二寸半」のところで、古い記録が存在していたかも知れないと考えた。 京極天皇紀によれば、乙巳の変〔645〕のとき、天皇紀・国記が燃やされた (第178回)。 そのうち『国記』が消失を免れ、中大兄皇子に届けられたと書かれる。 これが密かに残されていたのを太安万侶が手に入れて、 その一部を古事記の資料として用いたと想像してみるのも面白い。 |
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2017.12.10(sun) [184] 下つ巻(允恭天皇1) ▼▲ |
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弟 男淺津間若子宿禰命 坐遠飛鳥宮治天下也
此天皇 娶意富本杼王之妹忍坂之大中津比賣命 生御子 木梨之輕王 次長田大郎女 次境之黑日子王 次穴穗命 次輕大郎女亦名衣通郎女 【御名所以負衣通王者 其身之光自衣通出也】 次八瓜之白日子王 次太長谷命 次橘大郎女 次酒見郎女【九柱】 弟(おと)、男浅津間若子宿祢命(をあさつまわくごのすくねのみこと)、遠飛鳥宮(とほつあすかのみや)に坐(ましま)して天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此の天皇(すめらみこと)、意富本杼王(おほほどのみこ)之(の)妹(いも)忍坂之大中津比売命(おしさかのおほなかつひめのみこと)を娶(めあは)せたまひて、 [生]御子(みこ)、木梨之軽王(きなしのかるのみこ)、 次に長田大郎女(ながたのおほいらつめ)、 次に境之黒日子王(さかひのくろひこのみこ)、 次に穴穂命(あなほのみこと)、 次に軽大郎女(かるのおほいらつめ)亦名(またのな)は衣通郎女(そとほりのいらつめ) 【御名(みな)衣通王(そとほりのみこ)を負(お)ひし所以(ゆゑ)者(は)、其の身(み)之(の)光(ひかり)衣(ころも)自(ゆ)通(とほ)り出(い)づれば也(なり)。】、 次に八瓜之白日子王(やつりのしらひこのみこ)、 次に大長谷命(おほはつせのみこと)、 次に橘大郎女(たちばなのおほいらつめ)、 次に酒見郎女(さかみのいらつめ)【九柱(ここのはしら)】をうみたまふ。 凡天皇之御子等九柱【男王五女王四】 此九王之中穴穗命者治天下也 次大長谷命治天下也 凡(おほよそ)天皇之(の)御子(みこ)等(たち)九柱(ここのはしら)【男王五(みこいつはしら)女王四(ひめみこよはしら)】なり。 此の九王(ここのはしらのみこ)之(の)中(うち)穴穂命(あなほのみこと)者(は)天下(あめのした)を治(をさ)めたまひき[也]。 次に大長谷命(おほはつせのみこと)天下を治めたまひき[也]。 〔反正天皇の〕弟、男浅津間若子宿祢命(おあさつまわくごのすくねのみこと;允恭天皇)は、遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)にいらっしゃいまして、天下を治められました。 この天皇(すめらみこと)は、意富本杼王(おおほどのみこ)の妹、忍坂之大中津比売命(おしさかのおおなかつひめのみこと)を娶られ、 御子(みこ)、木梨之軽王(きなしのかるのみこ)、 次に長田大郎女(ながたのおおいらつめ)、 次に境之黒日子王(さかいのくろひこのみこ)、 次に穴穂命(あなほのみこと)、 次に軽大郎女(かるのおおいらつめ)、別名衣通郎女(そとおりのいらつめ) 【お名前、衣通王(そとおりのみこ)を負われた理由は、光がそのお体から、衣を通して出ていたからです。】、 次に八瓜之白日子王(やつりのしらひこのみこ)、 次に大長谷命(おおはつせのみこと)、 次に橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)、 次に酒見郎女(さかみのいらつめ)【九名】を産みなされました。 全部で九皇子のうち、男王が五王、女王が四王です。 この九皇子のうちで、穴穂命が天下を治められ、 次に大長谷命が天下を治められました。 わくご(若子)…[名] 若い人。(万)3459 等能乃和久胡我 等里弖奈氣可武 とののわくごが とりてなげかむ。 (万)2362 開木代 来背若子 やましろの くせのわくごが。
長田大郎女…"長田"は書紀の「名形大娘皇女」から「ながた」と訓む。 衣通郎女…〈甲本〉衣通姫。 瓜…(古訓) うり。ひさこ。(万)0802 宇利波米婆 胡藤母意母保由 うりはめば こどもおもほゆ。 八瓜之白日子王…書紀の「八釣白彦皇子」から、"八瓜"は「やつり」と訓む。"やつ-うり"の母音融合。 【衣通郎女】 ここにあるように、衣通郎女は穴穂命と同母の妹、軽大郎女の別名である。ところが書紀では、允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹となっている。
【遠飛鳥宮】 記の定義によれば「遠飛鳥」は倭にある。 遠飛鳥は、現在の明日香村の飛鳥寺、川原寺跡、飛鳥宮跡、雷丘の辺りと考えられている (第180回)。 書紀には允恭天皇の都は、何故か書かれていない。 もし、書紀に「遠飛鳥○○宮」という表現でもあれば一定の手掛かりになるはずだが、それがない以上「遠飛鳥」からさらに絞り込むことは困難である。 安康天皇紀には、「遷二都于石上一」とあるので、 理屈の上では反正天皇に引き続いて柴籬宮に坐したことになる。 書紀以後「遠飛鳥宮」の所在地を探求するという課題は、忘れ去られた如くである。 検索によって見つかる石碑は、衣通姫が住み允恭天皇が通った茅渟宮に建つ碑のみで、「遠飛鳥宮址」碑はない。 【皇子の名前に含まれる地名】 ・軽については、〈五畿内志〉高市郡【村落】に、「大哥留」がある (第104回参照)。 ・長田は、〈倭名類聚抄〉には畿内の{摂津国・八部郡・長田【奈加多】郷} 神功皇后紀9《長田国》、 畿内に近い{阿波国・名東郡・名方郷}{播磨国・賀古郡・長田郷}がある。伊勢国、遠江国、伊勢国、上野国にもある。 ・境は、〈五畿内志〉和泉国大鳥郡【村里】堺南荘。分注に「摂州分界因有二堺名一」〔摂津国との境なので堺の名がある〕。 百舌鳥古墳群の地。 ・八瓜(八釣)は、〈五畿内志〉高市郡【村落】に「上八釣」。現在は、明日香村八釣(大字)。 ・長谷(泊瀬)は、桜井市の脇本遺跡が雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡と見られている。 ・橘は、橘寺のあるところ。 ・酒見は、〈倭名類聚抄〉{播磨国・賀茂郡・酒見郷}。 これらの地名は畿内または、その周辺である。 皇子が構えた宮の名を負う典型的な例は、菟道稚郎子である (第153回【宇遅能和紀郎子】)。 その地名「宇治」から「宇遅能和紀郎子」と呼ばれるようになった。 允恭天皇の皇子のうち、大長谷命(雄略天皇)は、泊瀬を都とした。 他の皇子たちも、多くはその名前の土地に住んだと考えられる。 皇居を出て他の地に居を構えるのは恐らく成人してからだから、本来の名前ももちろんあったはずである。 しかし、土地の人は遠慮して使わず「~にお住いの皇子」という通称で呼ぶことが多く、本名は忘れられて通称が残ったのであろう。 もちろん「瑞歯別」のように、特徴による通称もある。
【書紀―允恭天皇】 1目次 《雄朝津間稚子宿祢天皇》
天皇、自岐嶷至於総角(ぎぎよくよりそうかくにいたりて、をさなくしてさとくしてをのこにいたりて)、仁恵倹下(じむけいけむげして、うつくしみつつしみたまひて)、 壮(をとこさかり)に及びて篤病(やまひあつ)くして、容止(ふるまひ)不便(たやすからず)。 《自岐嶷至於總角》 伝統訓は「かむろよりあげまきにいたりて」。 「かむろ」は髪を切りそろえてたらす、幼児の髪型を意味する。転じて幼い子の意味にも用いる。 「總角」が元服前の髪型であることから、「岐嶷」も髪型を表す語として訓んだものであろうが、 「岐嶷」の本来の意味を考えるとかなりの無理がある。 《篤病容止不便》 篤病(重い病)にかかり、容止(立ち振る舞い)が不便、即ち体の自由が利かないという。そのために、妃や群臣による即位の勧めを一度は固く辞す(次回)。 《大意》 雄朝津間稚子宿祢天皇(おあさづまわくごのすくねのすめらみこと)〔允恭天皇〕は、瑞歯別天皇(みずはわけのすめらみこと)〔反正天皇〕と母を同じくする弟です。 天皇は、幼い時から聡明で慈愛に満ち、慎み深かったのですが、 壮年になると重篤な病にかかり、立ち振る舞いに不便をきたしました。 【書紀―二年】 4目次 《立二忍坂大中姫一為二皇后一》
是の日、皇后の為に刑部(おさかべ)を定めたまふ。 皇后[生]木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)、 名形大娘皇女(ながたのおほいらつめのみこ)、 境黒彦皇子(さかひのくろひこのみこ)、 穴穂天皇(あなほのすめらみこと)、 軽大娘皇女(かるのおほいらつめのみこ)、 八釣白彦皇子(やつりしらひこのみこ)、 大泊瀬稚武天皇(おほはつせのわかたけるのすめらみこと)、 但馬橘大娘皇女(たぢまのたちばなのおほいらつめのみこ)、 酒見皇女(さかみのひめみこ)をうみたまふ。 《刑部》 伊勢国三重郡など、各地に刑部の地名が残る (第133回)。 記ではいくつかの御名代が示されるが、書紀にあるのは忍坂中津姫の刑部のみである。 これは、姫と刑部の間にのみ特別の強い繋がりが伝承されて来たためだと思われる。詳しくは第186回で考察する。 《大娘皇女》 この「大娘」は「おほいらつめ」と訓むのであろう。「郎」を女偏の「娘」に置き換えたとも考え得る。 すると「大娘皇女」は「いらつめのひめみこ」と訓むことになるが、これではいかにもくどい。 「いらつめ」によって女性であることは明らかで、「皇女」は「みこ」とも訓むから 「いらつめのみこ」で十分だ思われる。 一方「大」がつかない酒見郎女は、これまで通りの「(記)"郎女"⇒(書紀)"皇女"」を踏襲して酒見皇女となっている。 「大郎女」は「郎女」の単なる美称であって「大」は訓まないという解釈もあり得るのだが、 書紀は、少なくとも「郎女」と「大郎女」とを区別していたことになる。 《大意》 二年二月十四日、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)を皇后(おおきさき)になされました。 この日、皇后のために刑部(おさかべ)を定めました。 皇后は木梨軽皇子(きなしのかるみこ)、 名形大娘皇女(ながたのおおいらつめのみこ)、 境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)、 穴穂天皇(あなほのすめらみこと)、 軽大娘皇女(かるのおおいらつめのみこ)、 八釣白彦皇子(やつりしらひこのみこ)、 大泊瀬稚武天皇(おおはつせのわかたけるのすめらみこと)、 但馬橘大娘皇女(たじまのたちばなのおおいらつめのみこ)、 酒見皇女(さかみのひめみこ)を産みなされました。 まとめ 仁徳天皇の頃から記の崩年表記に一定の確実性が見られ、允恭天皇段・允恭天皇紀の間で皇子の数と名前が一致し、書かれたことの信憑性は増してきているように感じられる。 その一方で、都の所在地は曖昧で、また同じ「衣通郎女」が記紀では全く異なる人物として描かれる。 まだまだ霧の向こうにある部分が大きい。 |
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2017.12.15(fri) [185] 下つ巻(允恭天皇2) ▼▲ |
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天皇初爲將所知天津日繼之時
天皇辭而詔之 我者有一長病不得所知日繼 然 太后始而諸卿等因堅奏而 乃治天下 天皇(すめらみこと)、初(はじ)めに[将]天津日継(あまつひつぎ)を所知(しらし)めまさむと為(し)たまひし[之]時、 天皇辞(いな)びたまひて[而]詔[之](のたま)はく 「我(われ)に者(は)一(ある)長き病(やまひ)有り。日継を所知(しらし)ますことを不得(えず)。」とのたまひき。 然(しかれども)、太后(おほきさき)を始めとして[而]諸(もろもろの)卿(まへつきみ)等(たち)、堅く奏(まを)したることに因(よ)りて[而]乃(すなは)ち天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ。 此時 新良國主貢進御調八十一艘 爾 御調之大使 名云金波鎭漢紀武 此人深知藥方 故 治差帝皇之御病 此の時、新良国主(しらのくにぬし)御調(みつき)八十一艘(やそあまりひとふな)を貢進(みつきたてまつ)りき。 爾(ここに)、御調(みつき)之(の)大使(おほつかひ)、名は金波鎮漢紀武(こはちかきむ、こむはちむかむきむ)と云ふ、 此の人深く薬(くすり)の方(のり)を知りまつりて、 故(かれ)、帝皇(みかど)之(の)御病(おほみやまひ)を治(をさ)め差(いえし、いやし)まつる。 天皇(すめらみこと)に、初めに即位していただこうということになった時、 天皇は辞して 「私は長き病の身であるから、位を継ぐことはできぬ。」と仰りました。 けれども、皇后(おおきさき)を始め、諸卿たちが堅くお勧め申しあげましたので、天下を治められました。 この時、新羅の国主が御調(みつき)を八十一艘の船に積載して献上しました。 そのとき、御調の大使、名前を金波鎮漢紀武(こんはちんかんきむ)といいますが、 この人は深く薬方を知り、 帝の御病(おおみやまい)を治療して差し上げ、天皇は病から回復されました。 しろしめす…〈時代別上代〉むしろシラシメスの形が一般的であったようである。 (万)0029 弥継嗣尓 天下 所知食之乎 いやつぎつぎに あめのした しらしめししを。 しらす…[他]下二 知らせる。「(万)1047 御子之嗣継 天下 所知座跡 みこのつぎつぎ あめのした しらしまさむと」の例では、明らかに「統治する」を意味する。 辞…(古訓) ととむ。まかりまうす。いなふ。 いなぶ…[他]バ下二 辞退する。 進…(古訓) たてまつる。 方…(古訓) かた。のり。 療…(古訓) いゆ。いやす。 いゆ(癒ゆ)…[自]ヤ下二 〈時代別上代〉「療レ飢ヲ」(宜化紀元年)、「癒イヤス」(名義抄)など、他動詞イヤス(四段)の例を見る。 【一長病】 諸本は「一長病」。真福寺本は「長病」。 【新良國主】 諸本は「國主」。真福寺本は「國王」だが、神功皇后段では「新羅國主」なので、「國主」に統一する。 本稿では、訓を「くにぬし」としている (第141回【国王・国主】)。 【新羅と誼を通じた期間】 この期間は、新羅と友好関係があったことになっている。 しかし、『三国史記』によれば、新羅との関係は争いが基調で、400年代で誼を通じたのは、次の期間のみである (神功皇后紀19)。 ・実聖尼師今元年〔壬寅402〕「三月 与二倭国一通レ好 以二奈勿王子未斯欣一為レ質」〔倭国と誼を通じ、奈勿尼師今、王子未斯欣を以て質とす〕。 ・実聖尼師今四年〔乙巳405〕「夏四月 倭兵来攻二明活城一 不レ克而帰」〔倭兵、明活城に来攻す。克(か)ちえずして帰りき〕。 ・訥柢麻立干二年〔戊午418〕「秋 王弟未斯欣 自二倭国一逃還」〔王弟未斯欣、倭国より逃げ還りき〕。 ぎりぎり書紀における允恭天皇の在位期間の初めに重なっている。 記の太歳を前提にすれば、大使金波鎭漢紀武による「貢進御調八十一艘」は仁徳朝のことで、允恭朝の新羅の医師の来倭という別の話が混合したと見ることができる。 書紀はこの「八十一艘」を神功皇后紀の「八十艘」に移したので、医師の来倭の話を切り離したと思われる。 《神功皇后紀に移された「八十艘船」》 仲哀天皇九年〔庚辰〕十月に、「新羅王波沙寐錦、即以二微叱己知波珍干岐一為レ質。 仍齎二金銀彩色及綾羅縑絹一載二于八十艘船一、令レ従二官軍一。」 〔微叱己知波珍干岐(みしこちはちんかんき)を質に送り、財宝を八十隻の船に積載してもたらした〕 (神功皇后紀6)。 さらに、微叱己知波珍干岐が新羅に逃げ帰ったことも書かれる。 神功皇后五年〔乙酉〕「載微叱旱岐、令レ逃二於新羅一」 (神功皇后紀12)。 この庚辰年、乙酉年は、それぞれ200年、205年に相当し、『三国史記』からは大幅に繰り上げられている。 【書紀―即位前】 2目次 《瑞歯別天皇崩》
爰(ここに)群卿(まへつきみたち)[之]議(はか)りて曰(いひしく) 「方(まさ)に今、大鷦鷯(おほさざき)の天皇之(の)子(みこ)、雄朝津間稚子宿祢皇子(をあさづまわくごのすくねのみこ)与(と)大草香皇子(おほくさかのみこ)とましまして、 然(しかれども)雄朝津間稚子宿祢皇子、長(このかみ)之(の)仁孝(まこと)あり。」といひき。 即(すなはち)吉(よ)き曰を選(え)りて、天皇(すめらみこと)之(の)璽(みしるし)を跪(ひざまづ)きて上(たてまつ)りき。 雄朝津間稚子宿祢皇子、謝(いな)びて曰(のたまはく)。
且(また)我既(すで)に[欲]病(やまひ)を除(のぞ)かむとして、独(ひとり)言(こと)奏(まをす)こと非(あら)ずして[而]破るる身を密(かく)して病(やまひ)を治(をさ)めむとすれど、猶(なほ)勿差(いえず)。 是の由(ゆゑ)に、先(さき)の皇(すめらみこと)[之]責めたまひて曰(のたまひしく) 『汝(いまし)、[雖]病(やまひ)を患(わずら)へども、縦(ほしきまにまに)身を破りて不孝(おやにまことならざること)、孰(いづれなれども)於茲(ここに)甚(はなはだ)し[矣]。 其(それ)長く[之]生くとも、遂(つひ)に業(みわざ)を継ぐことを不得(えず)。』とのたまひき。
夫(それ)天下(あめのした)者(は)大(おほき)器(うつはもの)にて[也]、帝位(みかどのくらひ)者(は)鴻業(おほきわざ)なり[也]、 且(また)民(おほみたから)之(の)父母(ちちはは)斯(それ)聖(ひじり)の賢之(さかし)職(つかさ)を則(のり)として、豈(あに)下愚(おろかひと)にや[之]任(まか)する[乎]。 更に賢(さかし)王(みこ)を選(え)りて宜(よろし)く立たすべし[矣]、寡人(われ)[弗]敢(あへて)当(あた)らじ。」とのたまふ。
「夫(それ)帝(みかど)の位(くらゐ)不可以久曠(もちてひさしくむなしからじ)、天命(あまつおほせごと)不可以謙距(もちてつつしみてこばまじ)。 今大王(おほきみ)留(とどま)りたまはらむ時、逆衆(そむくやから)不正(よこしま)に位(くらゐ)を号(なの)らむ、臣(やつかれ)等(ら)百姓(おほみたから)の望み絶ゆることを恐る[也]。 願(ねがはくは)大王(おほきみ)[雖]労(わづらひ)たまへども猶(なほ)天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまへ。」とまをす。
「宗廟社稷(くに、すめらおほもと、そうべう)を奉るは重き事也(なり)。寡人(われ)篤く疾(やま)ひて、称(なのり)を以(もちゐ)るに不足(たらず)。」とのたまひて、 猶(なほ)辞(いな)びて[而]不聴(ゆるさず)。 於是(ここに)、群臣(まへつきみたち)皆固く請(ねが)ひて曰(まを)ししく 「臣(やつかれら)伏して[之]計(はか)りまつりしく、大王(おほきみ)皇祖(すめらみおや)の宗廟(おほもと)を奉(たてまつ)りたまふは、最(もとも)宜(よろしき)称(なのり)なり。 [雖]天下(あめのした)の万民(よろづたみ)といへども、皆宜(むべなり)と以為(おも)ひまつらむとはかりまつりき。願(ねがはくは)大王(おほきみ)之(こ)を聴(ゆる)したまへ。」とまをしき。 《不天久離》 「不天」について、『太平御覧』「攻圍上」〔980頃〕所引『左伝』に「孤實不天【不為天所佑】」〔天によって助けられない〕という注がある。 これに従えば天は病の恢復をもたらさず、「久離」はその恩恵を長く得られていないことを意味すると見られる。 《破身》 〈汉典〉によれば"破身"は「指二青年女子或男子第一次性交一」とあるが、ここではその意味ではない。 〈中国哲学書電子化計画〉で用例を探しても、「家破身未亡」〔家破れ、身未だ亡びず〕(白居易)など、熟語ではなく二文がたまたま接したものばかりである。 従って、ここの「破身」は全くの倭語で、病気ではあるが、自分勝手に体を損なったものとして責任を問うニュアンスで使われる。 そして初めは破身を押し隠し、後には反正天皇から「お前は自分勝手に身を破ったのだから、天皇は継げない」と言い渡される。 《大意》 瑞歯別天皇五年正月、瑞歯別天皇(みずはわけのすめらみこと)は崩じました。 そこで、群卿(まえつきみたち)は議を開き、 「今、大鷦鷯(おおさざき)天皇の皇子に、雄朝津間稚子宿祢皇子(おあさずまわくごのすくねのみこ)と大草香皇子(おおくさかのみこ)がいらっしゃるが、 雄朝津間稚子宿祢皇子の方が兄であり、仁孝あり〔長幼の秩序に適う〕。」ということになりました。 そこで吉曰を選び、天皇の璽〔神器〕を跪上(きじょう)しました。 雄朝津間稚子宿祢皇子は、謝して仰りました。 「私は天の恵みから久しく離れ、篤病を患い歩行もできない。 また、私は既に病を除こうとして、独りで言葉を奏上することなく、自らの責任で体を壊したことを秘して病を治そうとしたが、なお癒えない。 それ故に、先皇は私にこう言ってお責めになった。 『お前は病を患っていると言うが、勝手に病気になった不孝は、何れにしても甚だしい。 仮に長生きしたとしても、最後まで天皇の業を継ぐことはない。』と。 また、我が兄、二柱の天皇は、私を愚か者と軽んじておられていたことは、群卿(まえつきみたち)も共に知る所である。 天下は大器にて、帝位は鴻業〔こうぎょう、偉大な行い〕であり、 また民の父母は聖賢の職にこそ則(のっと)るのであり、下愚の人に任すことがあろうか。 更に賢王を選んで立てるべきであり、寡人〔かじん=わたし;王が遜っていう語〕が敢て受けるべきではない。」と。 群臣(まえつきみたち)は再び拝して申し上げました。 「帝位は久しく空位にすべからず、天命は辞退すべからざるものです。 今、大王(おおきみ)このまま留まっていらっしゃれば、逆族が不正に皇位を自称し、臣一同、百姓の望みが絶えることを恐れます。 願わくば、大王にご苦労をかけますが、なお天皇に即位してくださいますように。」と。 雄朝津間稚子宿祢皇子は、 「宗廟社稷〔そうびょうしゃしょく;=国家〕を奉ることは重き事である。寡人は篤病であり、その称号を受けるには足らない。」と仰り、 なお辞して聴き入れません。 そこで、群臣(まえつきみたち)は皆で固く要請し、 「臣一同、伏して議をもって、大王が皇祖の宗廟を奉(たてまつ)っていただくことが、最も宜しき人への称号であり、 天下万民といえども、皆宜しくとお思いしていると決しました。願わくば、これをお聴き入れくださいませ。」と申しあげました。 【書紀―元年】 3目次 《妃忍坂大中姫命》
妃(きさき)忍坂大中姫命(おしさかのおほなかつひめのみこと)、群臣(まへつきみたち)之(の)憂(うれ)へ吟(さまよ)ふことを苦しみて[而]親(みづから)手(みて)を洗ふ水を執(と)りて[于]皇子(みこ)の前に進(まゐ)りて、 仍(すなはち)[之]啓(まを)ししく[曰]、 「大王(おほきみ)辞(いな)びて[而]位(くらゐ)に不即(つきたまはず)して、位(みくらゐ)[之]空(むなし)くなりて既に年月(としつき)を経(ふ)。 群臣(まへつきみたち)百寮(もものつかさ)、之(こ)を愁(うれ)へて所為(せむ)ことを不知(しらず)。願(ねがはく)は大王(おほきみ)群(もろもろ)の望みの強きに従ひたまひて、帝(みかど)の位(くらゐ)に即(つ)きたまへ。」とまをしき。
於是(ここに)、大中姫命(おほなかつひめのみこと)[之]惶(かしこま)りて、 退(ひ)くことを不知(しらず)して[而][之]侍(はべ)りて、四五剋(よときいつとき)を経(へ)て、当(まさ)に[于]此の時、季冬(しはす)之(の)節(ころ)の風ふきて、亦(また)烈(いと)寒かりて、 大中姫の所捧(ささげたる)鋺(かなまり)の水(みづ)溢(あふ)れて[而]腕(ただむき)凝(こほ)りて、寒きことに不堪(たへず)して以ちて将(まさ)に死なむとす。
「位(くらゐ)を嗣(つぐ)ことは重き事にて、輙(ほしきまにまに)就(つ)くことを不得(えず)。 是(こ)を以ちて、於今(いまにいたりて)不従(したがはず)。 然(しかれども)今群臣(まへつきみたち)之(の)請(ねがひ)、事(こと)の理(ことわり)灼然(あきらけく)して、何(いか)にか謝(いな)ぶることを遂ぐ耶(や)。」とのたまふ。 爰(ここに)大中姫命仰(あふ)ぎ歓(よろこ)びて、則(すなはち)群卿に謂(のたま)はく[曰] 「皇子[将]群臣之(の)請(ねがひ)を聴(ゆる)したまひて、今当(まさ)に天皇(すめらみこと)の璽符(みしるし、みしるしのふみた)を上(たてまつ)るべし。」とのたまふ。
皇子曰「群卿(まへつきみたち)共に天下の為に寡人(われ)に請(ねが)ふ、寡人何(いか)に敢(あ)へて辞(いなぶこと)遂(とげ)むや。」 乃(すなはち)帝(みかど)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。是の年[也]、太歳(おほとし、たいさい)壬子(みづのえね)。 《所捧鋺水溢而腕凝》 「ささぐ」は「差し-上ぐ」の母音融合。持ち上げたまま保つ意味。 「水溢る」は、寒風が鋺(かなまり)の水を吹き散らす意味か。 だとすれば、「腕」は「かひな」(臂、上腕部)ではなく、「ただむき」(肘から手首までの部分)であろう。 ただ、寒さに震えて差し上げた鋺から水がこぼれたという意味なら、「かひな」まで冷たい水が伝うことはあり得る。 「凝」は物理的に氷がつくほどではなく、「身も凍る冷たさ」のような比喩であるのは当然であろう。 《大意》 元年十二月、 妃忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと)、群臣(まえつきみたち)が憂え嘆くことを苦しみ、ご自身で御手洗いの水を持ち、皇子の前に進み出て 申しあげました。 「大王(おおきみ)は即位することを辞されて皇位が空席となり、既に年月を経ました。 群臣(まえつきみたち)、百寮(もものつかさ)はこれを憂えてどうしたらよいか分からずにいます。願わくば、大王、皆さんの望みがこれだけ強いことに応えて帝位におつきください。」と。 けれども皇子は、聴き入れようとせず、背中を向けたままでいらっしゃり、言葉はありませんでした。 そのために、大中姫命は怖くなり、 退去することもできず側に控えたまま、四五刻が過ぎました〔一刻(とき)はおよそ15分〕。まさにこの時期は、十二月の季節の風が吹き、また烈寒で、 大中姫が捧げ持った鋺〔かなまり、金属製の椀〕の水がこぼれて腕が凍り、寒さに耐えられず死にそうになりました。 皇子は〔姫が倒れる音を聞き〕振り返って驚き、すぐさま助け起こして仰りました。 「嗣位は重いことで、安易には受けられない。 だから、今までは従わなかった。 けれども、今となれば群臣の要請は事理灼然〔しゃくぜん;=明らか〕にして、どうして最後まで辞することがあろうか。」と。 これにより、大中姫命は天を仰いで歓び、直ちに群卿に 「皇子は群臣の要請を聴き入れました。今すぐに天皇の璽符(じふ)を奉りなさい。」と告げられました。 すると群臣は大喜びして、即日天皇の璽符を捧げて、再び拝して奉りました。 皇子は、「群卿(まえつきみたち)が共に天下の為に私に要請したこと、私はどうして敢えて最後まで辞することがあろうか。」と。 このようにして帝位に即位されました。この年は、太歳壬子(みずのえね)でした。 【書紀―三年】 6目次 《医至自新羅》
秋八月(はつき)、医新羅自(よ)り至りて、則(すなはち)天皇(すめらみこと)の病(みやまひ)を治(をさ)めまつら令(し)めて、未(いまだ)幾時(いくとき)を経ずして病(みやまひ)已(すでに)差(い)えり[也]。 天皇之(こ)を歓びて、厚く医を賞(ほ)めて以ちて[于]国に帰(かへ)しき。 《大意》 三年正月一日、使者を派遣して、良い医師を新羅に求めさせました。 八月、医師が新羅より訪れ、天皇(すめらみこと)の御病(みやまい)を治療させたところ、そんなに期間を要すこともなく、御病から回復されました。 天皇はこれを歓び、医師に厚い恩賞を与えて帰国させました。 まとめ 允恭天皇が即位するまでの経過は記の記述で十分だが、書紀はあまり意味があるとも思えない言葉で水増した如しである。 特に即位前紀は、書紀による創作という印象が強い。 ただ元年条については、津野媛を皇后として嫁がせた大宅臣の、伝承に基づく可能性が感じられる。 これまでに見た高橋氏文、 天孫本紀、 古語拾遺にはそれぞれの祖先の功績を誇る話が満載で、 大宅臣が同様の文書を提出していたとしても不思議はないからである。 古事記も下巻後半になると簡略化に向かっていて、津野媛の伝説は採用しなかったのかも知れない。 さて、允恭天皇が病弱で、新羅の医術によって回復したと書かれる部分は注目される。 これまで、多くの先進技術は百済からもたらされた。新羅とは国家レベルでは不仲であるが、 半島から一族が自由に来帰したり、倭兵が勝手に住民を連れ帰ったりしているから、新羅から医師が訪れたこと自体は不思議ではない。 ただ、記紀ともに”国家関係が安定していたから医師が派遣された”如くに描きたいのである。 優れた医師の来倭によって先進医術がもたらされたことを象徴するエピソードとして、允恭天皇の治療の話を作りあげたのか、 実際に元になる史実があったかについては何とも言えない。 ただ、進んだ土木技術があったことには百舌鳥古墳群という物質的な裏付けがあり、 仁徳段・紀に書かれた堤や運河の工事は信じてもよいと思われるので、新羅の医師が允恭天皇の病気を治したことも案外史実かも知れない。 |
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⇒ [186] 下つ巻(允恭天皇3) |