| |||||||||||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||||||||||
⇒ [171] 下つ巻(仁徳天皇11) |
|||||||||||||||||||||||||||||
2017.09.05(tue) [172] 下つ巻(仁徳天皇12) ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||
其將軍山部大楯連取其女鳥王所纒御手之玉釼而
與己妻 此時之後 將爲豐樂之時 氏氏之女等皆朝參 爾大楯連之妻 以其王之玉釼纒于己手而參赴 其(そ)の将軍(いくさのかみ)山部大楯連(やまべのおほたてむらじ)、其の女鳥王(めとりのみこ)の御手(みて)に所纒(まつひし)[之]玉釼(たまくしろ)を取りて[而] 己妻(おのづま)に与へつ。 此の時之(の)後(のち)、[将]豊楽(うたげ)を為(な)さむとせし[之]時、氏々(うぢうぢ)之(の)女(をむなめ)等(たち)皆(みな)朝参(みかどまゐりす)。 爾(ここに)大楯連之妻、其の王(みこ)之(の)玉釼を以ちて[于]己(おのが)手に纒ひて[而]参(まゐ)赴(おもぶ)けり。 於是大后石日賣命自取大御酒柏 賜諸氏々之女等 爾大后見知其玉釼 不賜御酒柏 乃引退 於是(ここに)大后(おほきさき)石日売命(いしのひめのみこと)自(みづか)ら大御酒(おほみき)柏(かしは)を取りたまひて、 諸(もろもろ)氏々之女等(たち)に賜りき。 爾(ここに)大后、其の玉釼を見(み)知りたまへりて、御酒柏を不賜(たまはらざ)りて乃(すなはち)引き退(そ)きたまひて、 召出其夫大楯連以詔之 其王等 因无禮而退賜 是者無異事耳 夫 之奴乎 所纒己君之御手玉釼 於膚熅剥持來卽與己妻 乃給死刑也 其の夫(つま)大楯連を召し出(い)でて、以ちて[之]詔(のたまはく)、 「其の王(みこ)等(ら)、无礼(ゐやなき)に因りて[而]退(そ)け賜りき。是者(こは)異(け)なる事無(な)き耳(のみ)。 夫(そもそも)、之(この)奴(やつこ)乎(や)、己(おのが)君(きみ)之(の)御手に所纒(まつひし)玉釼を、 [於]膚(はだ)の熅(あたたけし)に剥ぎて持ち来たりて、即(すなはち)己妻(おのづま)に与へき。」とのたまひて、 乃(すなはち)死刑(しするつみ)を給(たまは)りき[也]。 将軍に任じた山部大楯連(やまべのおおたてむらじ)は、女鳥王(めとりのみこ)の御手に付けていた玉釧(たまくしろ)を奪い、 自分の妻に与えました。 後日、宴を開くことになり、諸氏の妻や娘たちが、みな朝参しました。 そのとき、大楯連の妻は女鳥王の玉釧で自らの手を飾って参上しました。 そして皇后、石日売命(いしのひめのみこと)は自ら大御酒(おおみき)を盃に注いで、 諸氏の女たちに賜りました。 そのとき、大后はその見覚えのある玉釧を見とがめて、御酒を賜るのを止めて退席され、 その夫の大楯連を召し出し、こう告げられました。 「王(みこ)たちが礼を欠いたから追放させた、そのことには何の問題もない。 それがである。こ奴め、お前は自分の主君の御手にお着けになっていた玉釧を、 まだ肌にぬくもりの残るのに剥ぎとって持ち帰り、自分の妻に与えたのだ。」と。 そして、死刑を給りました。 将軍…いくさのかみ(第113回《将軍の訓》、資料[02]参照)。 かしは…[名] 食器として用いる葉。 まつふ(纏ふ)…[他]ハ四 まとう。しばる。 玉釼…真福寺本による。岩波書店『日本古典文学大系』版(底本:享和三年『訂正古訓古事記』)は「珠釧」。 くしろ(釧)…[名] 手首、あるいは肱につける装身具。貝殻、碧玉、金銀、ガラスなどの製品。 与…(古訓) あたふ。 あたふ…[他]ハ下二 与える。(万)0210 若兒乃 乞泣毎 取與 物之無者 みどりこの こひなくごとに とりあたふる ものしなければ 〔乞ひ鳴く毎に取り与ふる物し無ければ〕。 おのづま(己妻)…(万)1165 己妻喚 おのづまよぶも。 みかどまゐりす…朝廷+"参る"の名詞形+サ変語尾。 おのが…(万)0946 莫告藻之 己名惜三 なのりその おのがなをしみ。 まゐおもむく…参赴く。 ひきそく…引き退く。 そく…[自]カ四 離れる。遠のく。 そく…[他]カ下二 とりのぞく。 夫…(万)3329 夫君 きみ。 そもそも…[接] 文頭に置き、「本来あるべき姿に立ち戻れば」を意味する。 やつこ(奴)…[名] やつ。人やものをいやしみ罵っていう語。 煴…〈百度百科〉本義〔原義〕:鬱煙、不レ見二火焔一的燃焼而産二-生出来的許多〔かなり多くの〕烟一、多用二于形容詞一。釈義〔派生した意味〕:暖和;温暖。 熅…〈百度百科〉基本字義同レ“煴”。 あたたけし…[形]ク あたたかい。 死…(古訓) しぬ。ころす。 しす…[他]サ下二 殺す。 刑…(古訓) つみ。 つみ(罪)…[名] その行為の報いとして課せられる罰を意味することもある。 【山部大楯連】 これまでに出てきた「山部」は、応神天皇の「御世、定一-賜海部山部山守部伊勢部二也」である (第152回)。 書紀には、後に顕宗天皇元年に、来目部の小楯が「山部連」の姓を賜ったとあるが、直接的な関連はないと見られる。 【玉釼と玉釧】 岩波書店『日本古典文学大系』版によると、「釧」は「訂正古訓古事記」のみで、 猪熊本(室町時代)は「釵」〔かんざし〕、真福寺本(南北朝)は「釼」である。 「訂正古訓古事記」は、古事記伝の研究も取り入れた江戸時代の本であるというので、一定の解釈を含むことになる。 くしろは、腕に巻く飾りである。万葉歌を見ると、 ・(万)1766 吾妹兒者 久志呂尓有奈武 左手乃 吾奥手二 纒而去麻師乎 わぎもこは くしろにあらなむ ひだりての あがおくのてに まきていなましを 〔愛しい人はくしろになって欲しい。そうすれば左手に大切に巻いて連れていけるだろうに〕に、仮名表記されている。また、 ・(万)1792 玉釧 手尓取持而 たまくしろ てにとりもちて。この歌は、「くしろ」に「釧」を当てている。 ・(万)0041 釼著 手節乃埼二 くしろつく たふしのさきに。 ・(万)2865 玉釼 巻宿妹母 たまくしろ まきぬるいもも。 これら二首は、腕に着けた「くしろ」に「釼」を当てている。 これらを見れば真福寺本の「玉釼」は、そのままで「たまくしろ」と訓むことに特に問題もなく、 敢えて「玉釧」に直す必要はないと言える。 【豊楽】 漢熟語「豊楽」の意味は「〈汉典〉物質豊富、人民安楽。」〔物質が豊かで、人民が生活を楽しむ〕である。 しかし、ここでは「宴」を指していことは疑いない。 【大后】 書紀では既に八田皇女に代わっているが、記では石之日売が大后のままである。 【大御酒柏】 「柏」はもともと葉を食器として用いたもののことであるが、食器そのものの意味もあったと思われる。 〈時代別上代〉も、「カシハデ〔膳夫〕という語の存在は、カシハの語自体にすでに食器の意のあったことを傍証している」と述べる。 しかし、神聖な儀式では古式に則り本物の葉を用いたともありそうである。この段では陶器の盃に、 皇后が御酒を授ける高貴な盃という意味を込めて「柏」の語を用いたか。或いは、伝説に相応しく本物の「葉」の器として描いたか。 【見知其玉釼】 「見知其玉釼」の訓読は、次の二通りが考えられる。 ①「見二-知其玉釼一」即ち「その玉釧を見(め)して知りたまへりて」。 ②「見二知其玉釼一」即ち「知りたまへるその玉釼を見(め)して」 が考えられる。 ②は「見已所知之其玉釼」から、"所"を省略したと見るものである。 ①②以外として、宣長がそう訓んで現代語にもある「見知る」はどうであろうか。 すなわち、 ③「その玉釼を見知りたまひて」 と訓む。 「見知る」からは、「(A)以前に見たことがある」玉釼を「(B)今再び見る」という二重の意味を感じ取ることができる。 万葉集を調べると、「吾(わご)大王」への枕詞「やすみしし」に、しばしば「安見知之」が宛てられるので、 「見(み)」と「知る」の直結に違和感はないと見られる。 それに対して①はAのみ、②はBのみしか表現できない。 【「引退」の行為者】 「引退」は、「大楯連妻が『出ていきなさい』と言われて退出する」とも読めそうであるが、 直ちに「召二出其夫一」に繋がるから、大后自らが退席したと取るのが自然であろう。 大后は、疑わしい玉釼を見つけたので、大御酒を賜ることを途中でやめて退出し、女の夫を推問したのである。 【其王等因レ无レ礼而退賜。是者無二異事一耳】 「其王等」とは、速総別王と女鳥王を指し、「无レ礼」〔ゐやなし〕は彼らが天皇を裏切った行動を指す。従って「退賜」は、「天皇が追放した」という意味である。 従って「是者無二異事一」の訳は、「大楯連が命令に従って彼らを殺したことは当然である」となる。 すぐ上に宴会場からの「引退」があるから紛らわしいが、 文章を書くときすぐ前に使った字を、無意識のうちに繰り返すことはありがちである。 この「退」もそれで、実は「逐」あるいは「殺」のことだと思えば、意味ははっきりする。 ことによると、元は「遂」だったのが早い時期の筆写で誤って「退」になったのかも知れない。 しかし、「退」でも十分意味が通るから、誤写か否かの判定は不可能である。 【夫之奴乎】 「奴乎」が「この野郎が」と罵っていることは明白であるが、 その前の、「夫之」はなんだろうか。 前後に「妻」に対する「夫」として使われているから、 「この夫の野郎が」にも見える。 しかし、「夫」は、文を改めるときに文頭に付ける助詞として使われ、「それ」と訓読する。 ここでは、前文で「大楯連が命令に従って彼らを殺したことは当然である」と言った上で、「いけないのは~である」を導くために「そもそも」と挟むのが「夫」で、 「之」は「奴」につく「此の」であろう。 即ち、「夫所纒己君之御手玉釼…」が本来の文で、「之奴乎」がその途中に挟まっている。 【死刑】 《死》 「死(し)」は音読みである。訓とされながら上代以前に流入した音としては、「うま(馬)」、「かき(垣)」、「くに(国)」などが指摘されている。 おそらくは死="シ"も早期に流入して、「命を終える」意味も理解されていたと想像される。 そして、ナ変動詞の「いぬ」と融合して自動詞「しぬ」になり、他動詞「し-す」の語幹になったと見られる。 しかし、上代には名詞としての「し」は一時姿を消したようで、名詞形は「しに」となる。例えば、「(万)0897 死波不知 しにはしらず。」がある。 《死刑》 「死刑」は、「五刑」の一つとして隋代〔581~618〕に定式化された。この語は間もなく倭にも流入したはずだから、 記は早速これを取り入れたと見られる。だから当時は、意外にも「シケイ」とよんでいたのかも知れない。 しかし、古事記の読み聞かせに集まった村人は、当然「シケイとはなにぞや」と質問するから、 それに対して「そは、ころすつみぞ」(他にしぬるつみ、しにのつみ、しすべきつみ)などと説明したと想像される。 漢籍語の訓読とは、本質的にはこのようなことだから、漢籍語の訓は複数あり得る。 とは言え、「死刑」という語には特にインパクトがあるから、音読み「シケイ」が浸透するのにそれほど時間はかからなかったと想像される。 倭語の「つみ」には、宗教・道徳おける精神的な"罪"も、法制度による物理的な"刑罰"も含むので、意味が確定するのは前後関係〔この場合「給はる」という語〕によってである。 しかし「ケイ」ならば単独で意味が確定するから音読が普及するのは必然的で、倭語によるあれこれの言い換えは過渡的であった。 但し、外来語とは逆に「倭語を書く手段として、特定の方式によって漢字を用いた」場合は話は別で、本来の倭語が存在する。 和風漢文を構成する言葉には、この2種類が混在することに留意しなければならない。 【書紀―四十年二月(2)】 24目次 《時雄鯽等探皇女之玉》
乃(すなはち)二王(ふたみこ)の屍(かばね)を以ちて[于]廬杵(いほき)の河の辺(へ)に埋めまつりて[而]復命(かへりごとまをしき)。 皇后(おほきさき)雄鯽等(ら)に問は令(し)めて曰(い)はく「若(もしや)皇女(ひめみこ)之(の)玉を見きや[乎]。」ととはしめて、 対(こた)へて言(まをさく)「不見(みまつらず)[也]。」とまをす。
宴会(うたげ)の日を以ちて、[於]内外(うちそと)の命婦(つかさのつまむすめ)等(たち)に酒(みき)を賜りき。 於是(ここに)、近江(ちかつあふみ)の山の君稚守山(わかもりやま)の妻与(と)采女(うねめ)磐坂媛(いはさかひめ)、 二(ふたりの)女(をむなめ)之(の)手に良き珠(たま)纏(まつ)ひて有り。
則(すなはち)之(こ)を疑ひて、有司(つかさ)に命(おほ)せて、其の玉を所得之(えし)由(よし)を推問(とはしめば、すいもむして)、 対(こた)へて言(まを)さく「佐伯(さへき)の直(あたひ)阿俄能胡(あがのこ)の妻之(の)玉なり[也]。」とまをす。 仍(すなはち)阿俄能胡を推鞫(きはめれば、すいきくして)、 対へて曰(まをさく)「皇女を誅(ころ)せし[之]日、探りて[而]之(こ)を取りき。」とまをす。
於是(ここに)阿俄能胡、乃(すなはち)己之(おのが)私(わたくし)せし地(ところ)を献(たてまつ)りて、死(しに)を贖(あか)ひまつらむと請(ねが)ひき。 故(かれ)其の地(ところ)を納(をさ)めて死(し)する罪を赦(ゆる)したまひて、是(こ)を以ちて、其の地(ところ)を号(なづ)けて、玉代(たまで)と曰ふ。 《近江山君稚守山》 「近江山君」は、近江国の小槻山君(小月山君)と同一かと思われる。 小月君は、垂仁天皇の皇子落別王を祖とする(第116回)。 《品遅部雄鯽と佐伯直阿俄能胡》 「雄鯽等」が雌鳥皇女の宝を持ち帰ったと書くが、罪に問われたのは阿俄能胡のみである。 これは、推問で挙げられた名前が、「阿俄能胡」だけだったからである。 雄鯽夫妻は用心深く、足がつくような真似をしなかったか、さもなければ推門に対して雄鯽の名を伏せたかの、どちらかである。 前者なら阿俄能胡は間抜けで、後者なら阿俄能胡だけを犯人しておけば丸く収まるという暗黙の合意が、取り調べ側・調べられる側の双方にあったと見られる。 何れにしても、佐伯ならばさもあらんと、当時の人々に思われていたようだ。 佐伯部はさらに、賂によって死刑を免れるような人物として描かれる。 逆に雄鯽は罪に問われないから、「品遅部」は高貴な家柄だったのかも知れない。 なお、「阿俄能胡」即ち「アガノ乙コ甲」は、「吾が乃子」と同じ発音なので、 私利私欲を表す人物名だと思われる。 《大意》 時に雄鯽(おぶな)たちは、皇女の玉を探り、自らの裳(も)の中に収め、 二人の王の屍を廬杵(いおき)川の川辺に埋めて復命しました。 皇后は雄鯽たちに 「もしや、皇女の玉を見なかったか。」と質問させたところ、 「見ませんでした。」と答えました。 この年、新嘗(にいなめ)の月となり、 宴会の日に、内外の官僚の妻・娘を集めて御酒を振る舞われました。 そのとき、近江の山の君稚守山(わかもりやま)の妻と采女の磐坂媛(いわさかひめ)の 二人の女の手に良い珠を纏っていました。 皇后は、この珠が本当に雌鳥皇女(めとりのひめみこ)の珠と似ているのを見て、 これを疑い、担当官に命じて、その珠を手に入れた経緯をを推問させたところ、 「佐伯の直(あたい)、阿俄能胡(あがのこ)の妻の珠です。」と答えました。 そこで、阿俄能胡を推鞫(すいきく)したところ、 「皇女を殺した日、探ってこれを奪いました。」と答えました。 ただちに阿俄能胡を殺そうとしましたが、 阿俄能胡は、その私有する土地を献上して、死に変えて贖(あがな)いたいと願い出ました。 そこでその土地を納めて死罪を赦免し、このことによりその土地は、玉代(たまで)と名付けられました。 【廬杵河】 古事記伝は 「廬杵河は、谷川氏云、今の一志ノ家城川なるべし、 河口と云〔いふ〕も此川の口なりと云〔いへ〕り、家城川は、雲出川の上〔かみ〕にて、川を隔て北家城村、南家城村とてあり、 川口と云は其ノ東ノ方なり、北家城村の辺に、石を畳〔たたみ〕て造れる窟ありて、 里人夫婦窟と云〔いへ〕り、 是〔これ〕此〔この〕ニ王の御墓なるべし、」 として、家城〔いへき〕と廬杵〔いほき〕を同一視している。 しかし、上代特殊仮名遣いでは「家城(いへき乙)」「廬杵(いほき甲)」の不一致があり、これらが仮に同一だとすれば「家城」の表記が用いられるようになったのは、甲乙の区別が消滅した平安時代以後となる。 なお、家は「いへ甲」であるが、「家城」が平安時代の字だから、これも当てにならない。 《日置》 〈倭名類聚抄〉で壹志〔一志〕郡・飯野郡・飯高郡・多氣郡・度會〔度会〕郡の範囲から、類似する郷を探したところ、 {伊勢國・壹志郡・日置【比於木】郡}があった。日置村は、町村制〔1889年〕で高岡村の一部となった。 現代地名の「三重県津市一志町日置」が江戸時代の日置村に当たると見られる。 この地もまた、雲出川に近い。 「置き」は「置く」(四段)の連用形だから「おき甲」だが、「比置木」は「ひおき乙」である。 従って、〈倭名類聚抄〉の訓注は、平安時代のものである。 『日置氏の研究』(前川明久)において、 古事記伝から「元弊伎ならむには、日置と書クこといかなる由にかあらむ、 又弊伎を正しとせば、比於伎とあるは、文字に就てやや後のさかしら訓ミにやあらむ」を引用した上で、 「宣長の仮説はむしろ逆で、ヒオキ(ギ)がヘキ(ギ)に転訛したのであろうと考える。」と述べる。 どちらにしても、日置が弊伎(ヘ甲キ甲)であったとすれば、「イヘキ甲」「イホキ甲」と類似するが、 これらの起源が同一であるかどうか、判断は難しい。 《イヘキの広がり》 もし、判断材料が「家城」の一か所だけならば、「廬杵」とは偶然の一致に過ぎないかも知れない。 しかし、ヘキとイヘキが同一だとすれば、一志郡の北部、雲出川流域の広い範囲の地名となり、この川がイヘキ川(イホキ川)であった可能性は俄然高まる。 ニ皇子の逃走伝説も、実際にこの地の伝説だったのかも知れないということになる。 ただこの場合は、伊勢神宮に向かうには、雲出川を河口まで下ってから海岸沿いに進むコースになり、かなり回り道である。船を用いたのだろうか。 【玉代】 姫路市に、地名「玉出」がある。この地の大年神社(姫路市玉手3丁目328)について「兵庫県神社庁」のサイトに、 「創始は仁徳天皇の御年40年(352)のことになる。」とあり、 この神社を阿俄能胡の伝説と関連付けている。 さらに「玉代村今玉手と書す、当国第一の旧知なり、仁徳40年記に見えたり、とある。(事始経歴考) 所在地を「字〔あざ〕玉台」と称するのは、村名起因の古蹟のことを示しており、祭神も最古より鎮座されていたものと考えられる。」と述べる。 つまり、「玉代村」は「たまでむら」と訓まれていた。 そして、「古くより住民たちは「玉」は「貝」を意味し、昔この地では貝がたくさんとれたようだと語り継がれてきた。 この玉手の西側に苫編という町があり、その山の中腹に貝塚があることから、正しい見解だと思われる。 」 とある。このように「玉は貝を意味する」と述べていることは、釧(くしろ)が〈時代別上代〉「古くは貝殻を用いて真ん中に穴をあけて作った」とされることを考え合わせると興味深い。 なお、大年神社は年の神を祀る神社で、姫路市周辺にも多数ある。 《玉代と書紀》 地名「玉代」は、単に語呂の合う地名を拾ったに過ぎないように見える。 しかし、玉手の住民の言い伝えを見ると、古代にはこの地で貝殻を美しい腕飾りに加工していたかも知れないことも、関係がありそうに思える。 つまり、当時の「珠釧」には、時に玉代の産出物のイメージが重なっていたために、 自然に「玉代」が絡んだのではないか。 玉釧を不法に得た罪を償うために、玉釧を産出する土地を献上したとすれば、辻褄が合うのである。 まとめ 記では、書紀のように漢籍の語を生硬なまま用いることはほとんどないが、 この段では珍しく「死刑」という語が出てきた。 この語が倭語に組み込まれていく過程について簡単に検討したが、同様なさまざまの語が出てくるたびに、検討が必要となろう。 さて、書紀は玉釧掠め取りの罪を、佐伯直阿俄能胡一人に負わせた。佐伯は勇猛ではあるが、粗野なイメージを負わせている。 書紀は、日本武尊本人を表立って非難することはしないが、東国から連れ帰った佐伯を貶めることによって間接的に責めているように思われる。 記では「山部大楯連」という、あまり出自が知られない人物が将軍であるが、書紀はこの意図を以って人物を差し替えたように感じられる。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
2017.09.12(tue) [173] 下つ巻(仁徳天皇13) ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||
亦一時天皇爲將豐樂而
幸行日女嶋之時 於其嶋鴈生卵 爾召建內宿禰命 以歌問鴈生卵之狀 其歌曰 亦(また)一時(あるとき)天皇(すめらみこと)[将]豊楽(たのしび)せむと為(し)て[而]、 日女嶋(ひめしま)に幸行(いでま)しし[之]時、[於]其の嶋にて鴈(かり)卵(こ)生みて、 爾(ここに)建内宿祢命(たけのうちすくねのみこと)を召したまひて、歌(みうた)を以ちて鴈の生卵(こう)みし[之]状(かたち)を問ひたまひき。 其の歌(みうた)の曰(い)はく。 多麻岐波流 宇知能阿曾 那許曾波 余能那賀比登 蘇良美都 夜麻登能久邇爾 加理古牟登岐久夜 多麻岐波流(たまきはる) 宇知能阿曽(うちのあそ) 那許曽波(なこそは) 余能那賀比登(よのながひと) 蘇良美都(そらみつ) 夜麻登能久邇爾(やまとのくにに) 加理古牟登岐久夜(かりこむときくや) 於是建內宿禰 以歌語白 於是(ここに)建内宿祢、歌を以ちて語り白(まを)さく。 多迦比迦流 比能美古 宇倍[志]許曾 斗比多麻閇 麻許曾邇 斗比多麻閇 阿禮許曾波 余能那賀比登 蘇良美都 夜麻登能久邇爾 加理古牟登 伊麻陀岐加受 多迦比迦流(たかひかる) 比能美古(ひのみこ) 宇倍[志]許曽(うべこそ) 斗比多麻閇(とひたまへ) 麻許曽邇(まこそに) 斗比多麻閇(とひたまへ) 阿礼許曽波(あれこそは) 余能那賀比登(よのながひと) 蘇良美都(そらみつ) 夜麻登能久邇爾(やまとのくにに) 加理古牟登(かりこむと) 伊麻陀岐加受(いまだきかず) 如此白而 被給御琴歌曰 如此(かく)白(まを)して[而] 御琴(みこと)ひき被給(たまは)りて、歌(みうた)曰(よみまつらく)。 那賀美古夜 都毘邇余斯良牟登 加理波古牟良斯 那賀美古夜(ながみこや) 都毘邇余斯良牟登(つひによしらむと) 加理波古牟良斯(かりはこむらし) 【此者本岐歌之片歌也】 【此者(こは)本岐歌(ほきうた)之(の)片歌(かたうた)なり[也]。】 また或る時、天皇(すめらみこと)は楽しみを求め、 日女嶋(ひめしま)に行幸された時、その嶋では鴈が卵を生むとお聞きになりました。 そこで、建内宿祢命(たけのうちすくねのみこと)を召され、歌によって鴈が卵を生む様子をお尋ねになりました。 その歌は。 ――たまきはる 内の朝臣(あそ) 汝(な)こそは 世の長人(ながひと) そらみつ 倭の国に 雁卵産(こむ)と聞くや それに、建内宿祢、歌に語り申しあげました。 ――高光る 日の御子 諾(うべ)こそ 問ひ給へ 真(ま)こそに 問ひ給へ 吾(あれ)こそは 世の長人 そらみつ 倭の国に 雁卵生(む)と 未だ聞かず このように申して、御琴を弾いて下さり、歌詠み申しあげました。 ――汝(な)が御子や 遂によ知らむと 雁は卵産らし 【これは、祝歌(ほきうた)の片歌(かたうた)です。】 雁…〈倭名類聚抄〉鴻雁:大曰レ鴻。小曰レ鴨。【和名加利】 かり(雁)…カモ科ガン亜科のうち、カモより大きくハクチョウより小さい一群の総称。 状…[名] (古訓) かたち。 たまきはる…[枕]〈時代別上代〉語義・かかり方、未詳。 こむ…[名+自] 「こ(卵)-うむ(産む)」の母音融合。 たかひかる…[枕] 空高く光るの意味で、日にかかる。 ひのみこ(日御子)…[名] 天皇・皇子などに対する尊称。 うべ(諾)…[副] なるほど。下の句の内容に同意を与える。 【歌意】
枕詞「たまきはる」は、 〈古典基礎語辞典〉は「タマは魂・玉・霊、キハルは刻む、または、極まる意で、 『命』『現(うつ)』などにかかる。また、そのウチから『心』、同音の地名『内』『宇智』に…かかるという。」と述べる。 〈時代別上代〉の見解では、「霊極る」なる解釈は万葉になって現れ、新たな解釈を与えたものとする。 それでは、それ以前はどうだったかと言うと、「『玉切る』などと説かれるが決定しがたい」という。 《世の長人》 記では建内宿祢のもともとの活動期間は50年間程度、 書紀では、武内宿祢の活動期間は439年間以上と見積もった (第108回)。 第160回で検討したように、 しかし、記においては応神天皇の即位以前を120年遡らせていると見られることを考慮し、 政務天皇が崩御年は235年、仲哀天皇はその年に即位し、建内宿祢が大臣として仕え始めたとする。 仁徳天皇の崩御年を432年とすると、仲哀天皇・神功皇后・仁徳に仕えた期間は197年間となる。 建内宿祢が雁の産卵を質問された年は、その197年間の末期であるから、相当の「世の長人」であることは間違いない。 書紀の場合は、仲哀天皇即位が192年、仁徳天皇50年は362年になるから、 仕え始めてから170年目ということになる。
真福寺本では「宇倍許曾」であるが、猪熊本などでは「宇倍志許曾」で、こちらが標準とされている。 「うべ」は副詞であるから「す(為)」で受けるべきだとする考えも分からないではないが、 「うべ問ひ給ふ」に「こそ」が挿入される形に、特に問題はないと思われる。 むしろ「ひのみこうべしこそ」の9文字では七五調が崩れ過ぎることを思うと、8文字の方がまだ程度が軽い。 「こそ-已然形」(この場合は、「諾こそ問ひ賜へ」)の係り結びは、続く節に対してしばしば逆説となる。 すなわち、「帝がそうお尋ねになられることはもっともだと存じますが」と相手の気持ちを配慮しながらも、 「私の長い人生を通して、そのようなものは未だ見たことがありません」とはっきり否定する。
一時は間違った報告を信じてしまった御子を皮肉って、節をつけて歌う。一種の戯れ歌。 帝は自ら琴で伴奏して、繰り返し賑やかに歌ったのであろう。 《汝が御子》 「汝が御子」は「あなたの子供」以外に考えられないが、この場に帝の母がいたとも思えない。 事実から離れて歌として歌ったものであろう。 この物語が、本来は神功皇后と誉田別皇子のものではないかと思われる所以である。 《つひに[よ]》 「都毘邇余斯良牟登」の"余"(よ乙)は、 猪熊本などには見られない。もし誤写でないとすれば「や」に類似する間投助詞で、詠嘆となる。 琴の伴奏がつく賑やかな歌なので、あってもよいように思われる。
この状況から、「ほぎ歌の片歌」とは、祝いの宴席で賑やかに歌う、断片的な歌詞の歌であるという意味が見えてくる。 【日女嶋】 「姫島」はいずれも小さな島であるが、愛知県田原市、福岡県糸島市、五島列島福江島近く、大分県国東半島の北にある。 また、現在は島ではないが、大阪市西淀川区に「姫島」がある。 《姫島》 『古事記伝』は、伊邪那美命が12番目に産んだ「女島」について 「女島は、日女島なるを、日ノ字の 脱たるなり、此は今筑前の海中玄海島と、肥前の名児屋〔名護屋〕との、間の〔中略〕 【また豊後ノ国直入ノ郡の東北の海にも姫島あれども此は其には非じ。】」と述べる。 すなわち、宣長説では図の2で、3は違うとする。しかし、現在の通説は3である。 ただ、「女島」の伝統訓が「ひめしま」となっているのは、宣長説によると思われる (第35回)。 国生みの島のうち、淡路島、小豆島、吉備児島は瀬戸内海にあるから、 「女島」も瀬戸内海で、3の可能性はある。 仁徳天皇段の日女島についても、瀬戸内海の姫島である可能性もあるが、仁徳天皇はほぼ難波で活動し、西国に行幸した記述はない。 そこから考えれば、日女島はかつて大阪湾に浮かんでいて、現在は淀川の岸の地名となった姫島と考えるのが妥当である。 ただ前項「祝歌の片歌」で述べたように、もともと神功皇后にあるべき話だとすれば、 国東半島の姫島でも案外自然である。仁徳天皇紀五十三年条は本来神功皇后記の話である可能性があることを考えると、 本段も、もともと神功皇后段の内容かも知れない。 一方、書紀の「茨田堤」と距離が近いのは、当時の大阪湾の「姫島」である。 あるいは、書紀は記の「日女島」が遂に特定できなかったから、茨田堤に場所を移した可能性もある。 【雁】 雁(カリ、ガン)の、代表的な種を見る。
カリガネは、<wikipedia>ツンドラや森林ツンドラ境界線の地表に巣を作り、5-6月に1回に3-8個(平均5個)の卵を産む</wikipedia>。 また、オオヒシクイは、<wikipedia>夏季にシベリア東部で繁殖し、冬季になると中国や日本へ南下する</wikipedia>。 【被給御琴歌曰】 第三歌を詠んだのは天皇と建内宿祢のどちらかであるかが見分けにくいが、 尊敬語「御琴」と受身形「被給」によって、 建内宿祢が、天皇に御琴を演奏していただいたと識別される。 つまり、歌を詠んだのは建内宿祢である。 【書紀―五十年】 26目次 《河內人奏言於茨田堤鴈産之》
「[於]茨田(まむた)の堤(つつみ)に、鴈(かり)[之]産(こう)みき。」と言(まを)す。 即日(そのひ)、使(つかひ)を遣(つかは)して視(み)令(し)めて、 曰(まを)ししく「既にして実(まこと)なり[也]。」とまをしき。 天皇於是(ここに)、歌(みうたよみ)たまひ以ちて武内宿祢(たけのうちのすくね)に問ひたまはく[曰]、
儺虚曽波(なこそは) 区珥能那餓臂等(くにのながひと) 阿耆豆辞莽(あきづしま) 揶莽等能区珥々(やまとのくにに) 箇利古武等(かりこむと) 儺波企箇輸揶(なはきかすや)
《大意》 五十年三月二十九日、河内(かふち)の人が、 「茨田(まむた)の堤に、鴈が卵を産みました。」と奏上しました。 即日、使者を派遣させて確認させたところ、 「全くまことでございます。」と報告しました。 天皇はそこで、この御歌を詠まれて武内宿祢(たけのうちのすくね)に質問されました。 ――たまきはる 内の朝臣(あそ) 汝(な)こそは 世の遠人(とほひと) 汝こそは 国の長人(ながひと) 秋津洲(あきづしま) 日本(やまと)の国に 雁卵産(こむ)と 汝は聞かすや 武内宿祢は、返歌をお詠みしました。 ――安見知し 吾(わ)が大君は 諾(うべ)な諾な 吾(われ)を問はすな 秋津洲 日本の国に 雁卵産と 吾は聞かず 【歌意-書紀】
記の類歌にある「日の御子」「汝が御子」を「我が大王」に変えるなど、より直接的に表現して曖昧さを取り除こうとする傾向が見られる。 まとめ 雁が北の国で産み育てた幼鳥を連れて渡ってくることを、当時の人は十分に知っていたはずである。 従って、国内で産卵したなどと言われるのは、何かの間違えだとする建内宿祢の答は、極めて常識的である。 仁徳天皇段にこの話を収めたことに意味があるとすれば、不確かな噂を安易に信じるなという警告とも、 土木事業によって民に物質的な豊かさをもたらした、仁徳朝の治世のリアリズムの一つ表現とも受け止め得るが、どちらも十分な説明とは言い難い。 仮にそのような側面があったにしても、基本的にはこのような伝説が存在し、単純にそれが面白い話だから収めたのだろう。 なお第三歌を見ると、もともとは神功皇后・誉田別皇子・建内宿祢の話として存在した気配がある。 書紀では、そのような可能性を排除する形に整理している。日女嶋を茨田堤に変えたのも、そのためかと思われる。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
2017.10.03(tue) [174] 下つ巻(仁徳天皇14) ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||
此之御世 免寸河之西有一高樹
其樹之影 當旦日者逮淡道嶋 當夕日者越高安山 故切是樹以作船甚捷行之船也 時號其船謂枯野 此之(この)御世(みよ)、免寸(とき)の河(かは)之(の)西に一(ひともとの)高き樹(き)有り。 其の樹之影、旦日(あさひ)に当たれ者(ば)淡道嶋(あはぢのしま)に逮(いた)りて、 夕日(ゆふひ)に当たれ者(ば)高安の山を越ゆ。 故(かれ)是の樹を切りて、以ちて作りし船、甚(いと)捷(と)く行きし[之]船なり[也]。 時に其の船を号(なづ)けて枯野(からの)と謂ふ。 故以是船 旦夕酌淡道嶋之寒泉獻大御水也 茲船破壞 以燒鹽 取其燒遺木作琴其音響七里 爾歌曰 故(かれ)是の船を以ちて、旦夕(あさなゆふなに)淡道嶋(あはぢしま)之(の)寒泉(しみづ)を酌(く)みて大御水(おほみみづ)を献(たてまつ)りき[也]。 茲(ここに)船破壊(こぼ)れて、以ちて塩(しほ)を焼けり。 其の焼け遺(のこ)りし木を取りて、琴を作りて、其の音(ね)七里(ななさと)に響く。 爾(ここに)歌(みうたよみたまはく)[曰] 加良怒袁 志本爾夜岐 斯賀阿麻理 許登爾都久理 賀岐比久夜 由良能斗能 斗那賀能伊久理爾 布禮多都 那豆能紀能 佐夜佐夜 加良怒袁(からの甲を) 志本爾夜岐(しほにやき) 斯賀阿麻理(しがあまり) 許登爾都久理(ことにつくり) 賀岐比久夜(かきひくや) 由良能斗能(ゆらのとの) 斗那賀能伊久理爾(となかのいくりに) 布礼多都(ふれたつ) 那豆能紀能(なづのきの) 佐夜佐夜(さやさや) 此者志都歌之歌返也 此者(こは)志都歌(しつうた)之(の)歌返(うたひかへし)也(なり)。 この御世、免寸(とき)河の西に一本の高い樹がありました。 その樹の影は、朝日に当たれば淡道嶋に至り、 夕日に当たれば高安の山を越えました。 そして、この樹を切って作った船は、まことに素早く行く船でした。 そこでその船を枯野(からの)と名付けました。 そしてこの船を用いて、朝夕淡道嶋の清水を酌み、大御水(おおみみず)として献上しました。 そのうちに船は壊れ、その材によって塩を焼きました。 その焼け残った木を取り、琴を作ったところ、その音は七里に響きました。 そこで、御歌をお詠みになりました。 ――枯野(からの)を 塩に焼き 其(し)が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門(と)の 門中(となか)の海石(いくり)に 触れ立つ 水浸(なづ)の木の さやさや これは、志都歌(しつうた)の歌い返しです。 くむ(汲む、汲む)…[他]マ四 (万)0158 山清水 酌尓雖行 やましみづ くみにゆかめど。 (万)3260 小治田之 年魚道之水乎 間無曽 人者挹云 をはりだの あゆぢのみづを まなくぞ ひとはくむといふ。 寒…(古訓) すすし。ひやかに。 すずし…[形]シク すずしい。さわやかな。 捷…(古訓) すみやかなり。とし。 免寸河の流れていたところに、等乃伎(とのぎ)神社があるとする説を見る。 等乃伎神社(大阪府高石市取石2丁目14-48)は、 式内社{和泉国六十二座/大鳥郡廿四座/等乃伎神社【鍬靫】}の比定社である。 "寸"、"伎"はともに甲類なので、「免寸」と「等乃伎」に、一定の近親性はある。 ただし、その近くには「免寸河」が流れている必要がある。 現在、等乃伎神社のすぐ南に二級河川芦田川が流れているが、川幅は狭く流路も短いので飛鳥時代にあったかどうかは疑問である。 また、この川は記に名を残すほどの大河川とも思えない。 どこかにもっと大きな河「免寸川」があり、その畔にあった「等乃伎神社」が移転してきたのかも知れない。 ただ、現在の等乃伎神社の位置でも「朝日の影は淡路島方向に、夕日の影は高安山方向に伸びる」 条件に当てはまるので、移転する前の位置も現在地とそんなに離れていないのかも知れない。 《日没時の影の向き》 等乃伎神社から見て高安山は真東にはないので、日没時に影が伸びる方向ではないのではないかという疑問が起こる。 ただ、秋分の日には太陽は真西に沈むが、冬至には日没の位置が真西よりも南に移動する。 そのとき影の伸びる向きは、北東方向となる。それは具体的にどの向きであろうか。
すると、「sin θ=cos α-sin α cot β」の関係が成り立つ。 ここで「β=90°-(その地点の緯度)」である。等乃伎神社の緯度は大体34.5°の場合は、β=55.5°となる。 そして、冬至の南中高度は「α=β-23.4°=32.1°」である。 この値を使って計算すると、「θ=28.8°」が得られる。従って、 影が伸びる向きは真東から北へ28.8°である。 等乃伎神社から高安山の方向は、真東から北へ30.7°である。 従って、冬至の前後には、日没に近づくと影が高安山に向かう期間がある。 だが、その時期には逆に日の出のときの影は、淡路島から北に外れるから、日の出・日の入りの影の向きの記述は、一日の中では両立しない。 《日の出・日没の影の長さ》 影が高安山を越えるためには、木の高さが520m以上であることが必要であるが、現実にはあり得ない (資料23)。 この木も山の上だとすればあり得るが、等乃伎神社付近の標高は高いところでも49mに過ぎない。 ただ520mには及ばずとも現実に高い木があり、朝夕に長い影を落としていて、伝説として誇張された可能性はある。 《他の候補地》 影の向きの記述だけからストレートに読むと、免寸河は高安山と淡路島を東西方向に結ぶ直線上にあるはずである。 その直線は、ちょうど大和川を通っている。 ならば免寸川は大和川かと言うと、それはあり得ない。 なぜなら現在の大和川の流路は、江戸時代に新たに掘削されたものだからである (第115回《依網池》、 第163回《大道》付図)。 飛鳥時代に確実に存在した川というなら、墨江之津から墨江大社への水路である細江川の方がまだ見込みがある (第163回【墨江之津】)。 【高安山】 高安山(たかやすやま)は、大阪平野と奈良盆地を隔てる生駒山地に属する。標高488m。 〈属日本紀〉に、高安山に関する記述がある。
《烽》 記の序文に、「列烽重譯之貢」がある(第23回)。 「重譯之貢」は実質的に「三韓地域は日本に朝貢する国であった」という意味である。 「列烽」は三韓外交の軍事的側面として、九州からの情報伝達のために、山頂の狼煙設備を連ねたという意味である。 烽台の設置についての記述が、「軍防令」にある。 「軍防令」は、『養老令』〔757〕あるいは『大宝令』〔701〕に含まれる。 これらの「令」自体は失われたが、令義解(令本文に割注を加えた解説書)〔833〕によって概ね復元し得るものである。 「置烽」については、人員配置などを含めて詳しく書かれているが、冒頭部分だけを示す。
すなわち、「40里ごとに烽を置き、山が離れている場合でも必ず平地に置け。ただし、そして見通しが利けば40里に限らない。 昼夜を問わず待機して烽火が上がるかどうかを見続けよ。烽火が必要になったら昼は煙を上げ、夜は火を焚け。 送った先の烽火が反応しなければ、徒歩ででかけて伝え理由を知り、その地の担当の役人に報告せよ」という。 《高見烽・春日烽》 高見烽を、「天照山」に比定する論文がある (大阪文化財研究所のサイト内; 〈難波京の防衛システム-細工谷・宰相山遺跡から考えた難波羅城と難波烽-〉黒田慶一)。 同論文は、 「天照山は江戸時代から近代に至るまで、堂島の米相場を東海地方に報せる「旗振山」であったことはよく知られている。滝川氏も天照山が高見烽であろうことは度々指摘された。 この土塁が何時築造されたかはわからないが、頂上部に約5m四方の方形の石組とその西に4m×20mの作業場と思われる平坦地がある。 この石組が何時のものかは不詳だが、高見烽は当地を除いて他に候補地はない。」と述べる。 同論文は、烽火について考古学からアプローチしたものである。 天照山は、生駒山南、308号線北にあり、標高510m。 一方、春日烽については、春日大社一帯が「飛火野」と呼ばれるが、 その地は烽に適する場所ではなく、平安時代になってから観念的に「飛火野」が春日野と同一視されるようになったという (「奈良歴史漫歩No.63 春日烽と飛火野伝説」)。 「春日烽」の本当の場所は、明らかではない。 安寧天皇の皇子、和知都美命(わちつみのみこと)は、淡路島の御井の宮に住んだ (第103回)。 「御井神社」は、淡路島にはない。式内社「御井神社」は{大和国/宇陀郡}{美濃国/多芸郡}{美濃国/各務郡}{丹波国/養父郡}{丹波国/気多郡}{出雲国/島根郡}{出雲国/出雲郡}に見られ、 いずれも古代、湧き水に坐した神に由来すると想像される。 淡路島にも名水は多いが、そのうち淡路市佐野小井の「御井」(おい)と名付けられた湧き水が、地元では「淡道嶋之寒泉」に結び付けられている (『御井の清水と名水珈琲・兵庫名水情報』)。 「御」を「お」と訓むのは、平安時代にマ行・バ行の前に限定的に使われたのが初めで、鎌倉時代に一般的になる(大修館書店〈古語林〉による)。 従って、「御井」は地名「をゐ」(小井)に後世の人が字を当てたものだと見られる。ただ「をゐ」そのものは湧き水に由来すると想像される。 この泉が、記の著者によって「淡道嶋之寒泉」だと意識されていた場所と一致するかどうかは、分からない。 淡路島は、近年銅鐸7口が発見されるなど、 弥生時代には西方から伝わった文化が集積し、伊邪那岐・伊邪那美など古い伝説の発祥の地であろうと見られている(第102回まとめ)。 ところが書紀の時代には既に辺境で山谷が入り組み、草叢に野生動物が棲息する地と描写されている(応神天皇紀14《淡路島》)。 すると、淡路島に一定の人口があった頃は「寒泉」には神が坐して崇拝されていたが、 その後その地域には人が住まなくなり、遂に「御井(みゐ)神社」は建たず伝説のみが残ったということかも知れない。 【枯野】 上代は、「枯木」を「からき」と訓む。動詞「枯る」は、〈時代別上代〉「複合語を作るとき、カラということがあったらしい」とされる。 ここで「枯野」を「からの」と訓むことも、歌の「加良怒」から明らかである。 それでは、なぜこれが船の名前なのか。 書紀は、応仁天皇紀五年条で、 「由二船軽疾一名二枯野一、是義違焉。若謂二軽野一、後人訛歟。」 〔軽く走るから「からの」というのは意味が違う。「かるの」を後の人が訛ったか〕として悩んでいる。 記の書き方からは、海上を疾走する船と枯野を結び付ける、何らかの故事があったようにも読める。 【由良能斗能】 『真福寺本』では「由良勝計能」となっている(右図)。 他の写本では、「古事記伝」所引本と、猪熊本系の氏庸本〔寛永年間〕は共に「由良能斗能」である。 また応神天皇紀三十一年条にある同一歌は「由羅能斗能」である (応仁天皇紀4)。 念のために「勝計能」の妥当性を検証すると、万葉集で「勝」は、音仮名による用例はなく、「~しがちである」意味、または釈訓で「かつ」。「かて」。「かね」(不勝)。 〈漢字海〉によると切韻は「書證去」〔シヨウ〕だから、万葉仮名として用いるとすれば「し」または「しよ」であろうが、どの辞書・ウェブサイトにも音仮名「勝」はない。よって、真福寺本以外に用例はないらしい。 一方「計」については、音仮名「ケ甲」が認められている。 従って、少なくとも「勝」は誤写である。「能」を「勝」に、 「計」を「斗」に見誤ったと見えないことはないが、だからといってもとが「能斗」であったとは限らない。 結局は不明なのであるが、書紀に同一歌が収められたのは記と同じ時期だから、記の歌も本来「能斗」であったと判断して差し支えないであろう。 【いくり】 「いくり」については、応神天皇紀三十一年条で考察した (応仁天皇紀4《いくり》) ことに、ここで少し補足する。 「(万)0933 淡路乃 野嶋之海子乃 海底 奥津伊久利二 鰒珠 左盤尓潜出 あはぢの のしまのあまの わたのそこ おきついくりに あはびたま さはにかづきで。」を見ると、 海女(海人)が海底に潜水して、鮑玉を多数採るのだから、「沖ついくり」とは、「沖の海底の岩場」であろう。 地名「(万)3952 伊久里能母里 いくりのもり」 は地名で、伊久礼神社(三条市)、越中国砺波郡石栗庄などに比定される。 〈時代別上代〉によれば、「和名抄に『涅久利、水中黒土也』とあるのも、このクリと関係があろう。 〔中略〕日本海岸の広い区域にわたって海中の隠れ岩をクリといい、〔中略〕また、イクリという地名も福井県西部にあるという。」という。 ここで引用された〈倭名類聚抄〉の原文は「涅:唐韻云二水中黒土一也。奴結反〔中国の発音表記〕。【久利】」である。 【歌意】
同条では、「しがあまり」を燃えずに残った船材と解釈している。 【志津歌之歌返】 かつて、仁徳天皇と石之日売命との間でやり取りされた6歌が「志津歌之歌返」とされた (第169回【志津歌之歌返】)。 しかしこの段では一首のみであるから、「歌返」を歌のやり取りをする遊びと解釈することには無理がある。 両者とも「志津歌」に「歌返」がくっついているから、"志津歌之歌返"とは「既成の歌を下敷きにして〔="し(下)つ歌"として〕、 部分的に言葉を変えた歌を返すもの」という意味だと考えることもできる。 これは、いわゆる「返し歌」とは意味が異なるから、区別して「歌返」としたのだろう。 仁徳天皇・石之日売命の六歌のうち、第一歌と第二歌、そして第五歌と第六歌が対になっていて、そこに「はじめの歌を下敷きとして用いた」性格が見える。 とすれば、「枯野を塩に焼き」の歌も、その下敷きにした歌がどこかにあったはずである。 率直に言って、「空中に琴の音が広がる」と「海底の海藻が揺れる」は木に竹を接いだ印象を受けた。 その原因が、既成の歌〔"しつうた"〕の前半を他の言葉で置き換えたところにあると考えれば、納得がいくのである。 まとめ 「枯野」を建造し、長年使った後に燃やす話は、書紀では応神天皇紀に移されている (応神天皇五年; 応神天皇三十一年)。 五年条では、船の名前「枯野(からの)」の解釈に苦しんでいる。 ならば名前を変えてしまえばよいと思うのだが、 それができなかったのは、この話が有名な伝説として、歌と共に世の中に定着していたからであろうと想像される。 書紀では、枯野の建造地は伊豆国に移されている。 また、巨木を切り倒した部分は分離されて、仁徳天皇紀六十二年条で大井川に引かかった巨木で船を作る話に変形されている。 枯野の物語の舞台は、書紀では遠江及び伊豆まで広がっているが、記では仁徳天皇段の舞台である大阪湾周辺に留まるのである。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
2017.10.08(mon) [175] 下つ巻(仁徳天皇15) ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||
此天皇御年捌拾參歲
【丁卯年八月十五日崩也】 御陵在毛受之耳【上】原也 此の天皇(すめらみこと)の御年(みとし)、捌拾参〔八十三〕歳(やそとせあまりみとせ)。 【丁卯年(ひのとうのとし)八月(はつき)十五日(とうかあまりいつか)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)[也]。】 御陵(みささき)毛受(もず)之(の)耳(みみ)【上〔うはつこゑ〕】原(はら)に在り[也]。 この天皇(すめらみこと)の御年は八十三歳、 丁卯年八月十五日に崩じました。 陵は、百舌鳥の耳原にあります。 真福寺本では、「御陵毛受云【德耳】元【中上原也】」と読める(右図) 〔参考のため、序文の「德」「元」の書体も示す〕。 訓みは「みささきは『のりみみ』といひて、もと『なかつうははら』」などが考えられる。 この「徳耳」に注目した研究は、今のところ見つけられない。「徳」を古い地名に用いた例はあまり見ないので、誤写かも知れない。 「上」はここでは「上声」の指示ではなく「上原」となっている。 「中」は延喜式の「百舌鳥耳原"中"陵」と関係があるかも知れないが、それ以上のことは分からない。 【丁卯年八月十五日】 仮に丁卯年が427年だとすると、仁徳天皇の崩、履中天皇の崩〔壬申;432〕、反正天皇の崩〔丁丑;437〕、允恭天皇の崩〔甲午;454〕 が宋書の倭の五王の時期に重なり、賛が仁徳天皇だった可能性もある (倭の五王)。 さて記では仁徳天皇の崩は83歳で、応神天皇段の「甲午年九月九日崩」が394年だとすると即位は50歳以後となり、随分遅い。 かと言って応神崩が干支一回り前の334年だとすると、仁徳天皇はまだ生まれていない。 「丁卯年八月十五日崩也」は、岩波書店『日本古典文学大系』によれば、 前田家本・猪熊本・寛永版本では本文に組み込まれ、割注は真福寺本のみだという。 しかし原本は割注形式であり、「仁徳天皇八十三歳」のみだったところに、 崩年月日が挿入された可能性がある。 というのは、「八十三歳」は、既に記において仁徳天皇の即位年の過去への引き延ばしが始まっていたことを示すと見られる。 ところが、その方向性とは無関係に、後になって何らかの他の記録に基づく崩年月日が書き込まれたと思われるからである。 【毛受之耳原】 「百舌鳥(毛受)」という地名が和泉国大鳥郡に属することについては、 仁徳天皇紀四十三年条で考察した (仁徳天皇紀6【百舌鳥野】)。 〈延喜式〉〔927〕「諸陵寮」では、仁徳天皇陵・履中天皇陵・反正天皇陵は次のようになっている。
ただし、田出井山古墳は南北の向きであるが、兆域は東西に長いところが気にかかる。 《書紀による比定》 仮に宮内庁の指定が延喜式を正しく解釈したものであっても、そもそも延喜式自体が書紀を元にした推定である。 さらには、百舌鳥原にあった大型古墳の何れかを仁徳・履中・反正に比定したこと自体が記紀の解釈である。 書紀の記述の分量と業績の順に、大型の古墳から割り振ったのかも知れない。 すなわち、「仁徳天皇のモデルの大王の真の墳墓⇒記紀による比定⇒延喜式による治定⇒宮内庁による指定」 と、三段階の推定を重ねたものである。もし田出井山古墳が6世紀のものだったとすれば、既に延喜式編纂の段階における見当違いなのかも知れない。 ただ、仁徳天皇紀に築陵の開始が崩御の20年前と書かれていることは、注目すべきである (仁徳天皇紀9)。 このことからは、書紀でも築造に長い年月をかけた巨大陵とイメージされていたように思われる。 だから、書紀が書かれる前に、百舌鳥原の最大の墳丘が仁徳天皇陵であるという言い伝えが存在したかも知れないのである。 《巨大陵であった場合》 しかし、以前、応神天皇の巨大陵の造営による人民の生活の圧迫が政変を生んだので、 それと対比して仁徳天皇の仁政が強調されたのではないかと考察した。 その仁徳天皇が、人民に多大な負担を与える巨大な陵を築いたとすれば、根本的な矛盾がある。 《考古学的知見》 伝応神天皇陵・伝仁徳天皇陵からは馬型埴輪が出土している。「古くは馬匹文化の登場は一般的に六世紀代と考えられてきた」 (『古代天皇陵の謎を追う』大塚初重)ことにより、大仙陵古墳は仁徳天皇陵ではないと考えられてきたという。 しかし、馬匹文化は「現在では四世紀後半から五世紀初頭にまで年代が引き上げられてきている」(同前)から 「応神陵と仁徳陵は、五世紀における大王陵として認識しなければならない」(同前)という。 【書紀―八十七年】 30目次 《天皇崩》
冬十月(かむなづき)癸未(みぢのとひつじ)朔己丑(つちのとうし)〔七日〕、[于]百舌鳥野(もづの)の陵(みささき)に葬(はぶ)りまつる。 《大意》 八十七年正月十六日、天皇は崩御されました。 十月七日、百舌鳥野の陵に葬りました。 まとめ 仁政が特筆される仁徳天皇が、巨大陵の築陵によって農民を苦しめたのは疑問があると論じた。 とは言え、仁徳朝においては、堤防の修築、農地の開拓のための土木工事が大規模に行われており、 その結果農民の生活水準が向上したことが仁政伝説となったと考えた。 その延長線上で考えれば、誰も見たことのない規模の築陵は、それを通して土木技術のさらなる向上を狙いとした事業だったのかも知れない。 これは、単に施工技術だけではなく、運輸手段や人の組織を含む総合的な営みであり、 治水などの大工事のための事業体として機能するものでもある。 このように偉大な業績を成し遂げたと見られるが、実際には仁徳天皇紀の多くの部分を占めるのは皇后の嫉妬である。 仁徳段の初めの方で論じたように(第162回まとめ)、 難波を中心とする土地の生産力が向上した結果、 大王持ち回り制が終了して皇后の期待を裏切ったわけだから、 嫉妬による軋轢も全く関係ないわけではない。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
2017.10.12(thu) [176] 下つ巻(履中天皇1) ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||
子伊邪本和氣命 坐伊波禮之若櫻宮治天下也
此天皇 娶葛城之曾都毘古之子葦田宿禰之女名黑比賣命 生御子 市邊之忍齒王 次御馬王 次妹青海郎女亦名飯豐郎女【三柱】 子(みこ)伊邪本和気命(いざほわけのみこと)、伊波礼(いはれ)之(の)若桜宮(わかさくらのみや)に坐(ましま)して天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此の天皇、葛城之曽都毘古(かつらきのそつひこ)之(の)子(こ)葦田宿祢(あしだのすくね)之(の)女(むすめ)、名は黒比売命(くろひめのみこと)を娶(めあは)せて、 [生]御子(みこ)市辺之忍歯王(いちのへのおしはのみこ)、 次に御馬王(みまのみこ)、 次に妹(いも)青海郎女(あをみのいらつめ)亦名(またのな)飯豊郎女(いひとよのいらつめ)を生みたまふ【三柱(みはしら)】。 本坐難波宮之時 坐大嘗而爲豐明之時 於大御酒宇良宜而大御寢也 爾其弟墨江中王欲取天皇 以火著大殿 於是 倭漢直之祖阿知直盜出而乘御馬令幸於倭 本(もと)難波宮(なにはのみや)に坐(ましま)しし[之]時、大嘗(おほにへ)に坐(ま)して[而]豊明(とよのあかり)為(し)たまひし[之]時、[於]大御酒(おほみけ)に宇良宜(うらぎ)て[而]大御寝(おほみね)したまふ[也]。 爾(ここに)其の弟(おと)墨江中王(すみえのなかつみこ)[欲]天皇(すめらみこと)を取らむとして、以ちて火(ほ)を大殿(おほとの)に著(つ)けき。 於是(ここに)倭漢(やまとのあや)の直(あたひ)之(の)祖(おや)阿知(あち)の直(あたひ)盗(ぬす)み出(い)でて[而]御馬(みま)に乗せまつりて[於]倭(やまと)に幸(いでま)し令(し)めまつりき。 市辺之忍歯王…〈甲本〉市邊押羽【イチノヘノヲシハ】。 盗…(古訓) ぬすむ。ひそかに。 皇子、伊邪本和気命(いざほわけのみこと)は、伊波礼(いわれ)若桜宮(わかさくらのみや)にいらっしゃいまして天下を治められました。 この天皇は、葛城之曽都毘古(かつらきのそつひこ)の子、葦田宿祢(あしだのすくね)の娘、名は黒比売命(くろひめのみこと)を娶り、 御子、市辺之忍歯王(いちのへのおしはのみこ)、 次に御馬王(みまのみこ)、 次に妹、青海郎女(あおみのいらつめ)、別名飯豊郎女(いいとよのいらつめ)を生みなされました。 以前、難波宮(なにわのみや)にいらっしゃったとき、大嘗(おおにえ)の宴で御酒を楽しまれ、深い眠りについておられました。 そのとき、弟の墨江中王(すみえのなかつみこ)は天皇の地位を奪おうとして、御殿に火を着けました。 そこで倭漢(やまとのあや)の直(あたい)の先祖、阿知(あち)の直(あたい)は密かに運び出し、御馬に乗せて倭(やまと)にお出でいただきました。 【倭漢直之祖阿知直】 書紀では「漢直祖阿知使主」と書かれる。 阿知直は、 応神天皇二十年 に「倭漢直祖阿知使主其子都加使主、 並率己之党類十七県而来帰焉。」〔阿知使主は子と共に一族を率いて来帰した〕とあり、渡来系氏族である。 もともとは、漢武帝のとき漢から朝鮮半島に移った一族の末裔と言われる (第152回【漢直】)。 「直」は地方行政官なる役職が、後に姓になったものである。 もともとは、〈時代別上代〉「匹敵するものの意(=価;あたひ)から、天皇の代わりに地方を治める者の意になった」とされる。 【若櫻宮】 若櫻宮については、神功皇后記で考察した (神功皇后摂政三年《若櫻宮》)。 宮跡と言われる「稚櫻神社」は磐余(いわれ)池、東池尻・池之内遺跡の近傍にある(奈良県桜井市池之内(大字)1000)。 稚櫻神社の北東1300mにも「若櫻神社」(奈良県桜井市谷(大字)344)がある。 こちらが、神名帳{大和国/城上郡/若桜神社}の比定社とされている。 しかし、稚櫻神社の方も石碑に「式内稚櫻神社」とあり、吾こそは式内社だと主張している。 これについて「稚櫻神社の所在地は城上郡ではなく十市郡だから、延喜式の若櫻神社とは言えない」という論を見たので、 式上・十市両郡の範囲を調べてみたところ「稚櫻神社」ばかりか、「若櫻神社」もまた十市郡であった。 《五畿内志》 それでは、江戸時代にはどうだったか。『五畿内志』を見ると、次のように記載される。 ●十市郡【神廟】「若櫻神社【在二櫻井谷邑一今穪二白山権現一】」 〔櫻井谷邑に在り。今白山権現と称す〕。 ●十市郡【古蹟】「稚櫻宮【池内村 神功皇后三年春正月都二磐余一 是謂二稚櫻宮一 履中天皇元年復都二于此一】」 〔池内村。神功皇后三年春正月、磐余に都し、これ稚櫻宮といふ。履中天皇元年またこれを都とす〕。 このように、既に江戸時代には両社とも十市郡に属していた。なお『五畿内志』は、若櫻神社=式内社、稚櫻宮=神功・履中の古跡と見做している。 延喜式の頃は、両郡の境界線はもっと南にあったのだろうが、それが「稚桜」の北か南かは今のところ判断し難い。 《百舌鳥耳原陵》
この見方を貫けば、磐余若桜宮に坐したとされるのは単に物語の上であって、実際には難波の宮にいたことになる。 ところが履中天皇段をもう少し読み進めると、伊邪本和気命は中王(なかつみこ)の軍勢の攻撃を受け、当岐麻道を通って倭に逃れて磐余の若桜宮で即位した。 また、履中天皇紀三年条には、「磐余市磯池」に船を浮かべて宴を楽しんだ記事がある。 このように若桜宮での生活として描かれていることを、すべてフィクションであると決めつけるのは躊躇される。 ひとつの考え方としては、首都機能の主要部分を難波に残したままで、古都の磐余に別宮を置いたこともあり得る。 《難波が副都とされた歴史》 後世には、難波が副都として機能した記録がある。天武天皇は飛鳥浄御原宮に営んだが、「難波大蔵省」が同時期に存在して失火した記事がある (資料[17]【前期難波宮】)。 また、延暦十三年〔793〕まで難波に副都が置かれ、平安遷都のときに廃止された (資料[19])。 同様に副都が難波に置くことが、履中天皇のときにもあったのかも知れない。 この問題については、今後も検討を継続したい。 【書紀―即位前1】 1目次 《去来穂別天皇》
母(はは)磐之媛命(いはのひめのみこと)と曰ひて、葛城襲津彦(かつらきそつひこ)の女(むすめ)なり[也]。 大鷦鷯天皇三十一年(みそとせあまりひととせ)春正月(むつき)、立たして皇太子(ひつぎのみこ)に為(な)したまふ。【時に年(よはひ)十五(とをちあまりいつつ)。】
太子、諒闇(りようあむ、もがり)自(よ)り[之]出でて、未(いまだ)尊位(たふときくらゐ)に即(つ)かざりし[之]間(ま)、 羽田矢代宿祢(はたのやしろのすくね)之(の)女(むすめ)黒媛(くろひめ)を以ちて妃(きさき)と為(せむ)と欲(おもほ)しき。 納采(なふさい、あたふるもの)既(すで)に訖(を)へて、住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)を遣(つか)はして[而]吉日(よきひ)を告(つ)げしめき。 時に仲皇子(なかつみこ)太子(ひつぎのみこ)の名(みな)を冒(をか)して、以ちて黒媛を姦(たば)けり。 是の夜、仲皇子、手鈴(てすず)を[於]黒媛之家(いへ)に忘れて[而]帰(かへ)りき[焉]。
乃(すなはち)室(ねや)に入りて帳(とばり)を開きて[於]玉床(たまとこ)に居(ま)して、 時に床頭(とこかみ)に鈴の音(ね)有りて、太子之(こ)を異(あやし)びて黒媛に問ひて曰(のたまはく) 「何(いかなる)鈴か[也]。」とのたまひて、 対(こた)へ曰(まを)ししく、 「昨夜(きそ)に之(これ)太子の所齎(もたらしし)鈴に非(あら)ず乎(や)、何(なに)ゆゑ更(さら)に妾(われ)に問ひたまふか。」とまをしき。 太子、自(おのづから)仲皇子名(みな)を冒(をか)して、以ちて黒媛を姦(たば)けるを知りて、則(すなはち)[之]黙(もだ)して避(さ)けき[也]。
時に、平群木菟宿祢(へぐりのつくのすくね)、物部大前宿祢(もののべのおほまへのすくね)、漢直(あやのあたひ)の祖(おや)阿知使主(あちのおみ)、三人(みたり)[於]太子に啓(まを)して、 太子不信(うけたまはず)。【一云(あるいはく)、太子酔(ゑ)ひて以ちて不起(おきたまはず)。】 故(かれ)、三人太子を扶(たす)けて、馬(みま)に乗ら令(し)めて[而][之]逃(のが)れしめまつる。【一云「大前宿祢、太子を抱(むだ)きまつりて[而]馬に乗りき。」】 仲皇子、太子不在(あらざる)ことを不知(しらず)て[而]、太子の宮を焚(や)きて、夜(よ)を通(とほ)して火(ほ)不滅(けず)。 《黒媛》 《手鈴》 装身具として、手首に着けた鈴が想定される。 「て(手)」には、「た」の形もある。 「てすず」「たすず」「たなすず」ともに、各種古語辞典の見出し語にないから、用例は乏しいと思われる。 「て-」の熟語には「てをの(手斧)」「てみづ(手水)」などがある。一方「た-」は「たなすゑ(手末)」「たなごごろ(掌)」「たもと(手本)」などがあるが、比較的固定化している。 《昨夜》 「きそ」は、「こよひ」と並べて使われることが多い。(万)0781 昨夜者令還 今夜左倍 吾乎還莫 きぞはかへしつ こよひさへ われをかへすな。 単独に用いる場合は「夜」を重ねることがある。(万)0519 昨夜雨尓 きそのよのあめに。 《平群木菟宿祢》 《物部大前宿祢》 〈天孫本紀〉によれば、物部氏の始祖「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(饒速日命;にぎはやひのみこと)。 から始まる複雑な家系が収められていて、「大前宿祢」は十一世孫に位置づけられている。 「孫【十一世】物部大前宿禰連公【冰連等祖。麥入宿禰之子】。此連公。石上穴穗宮御宇天皇御世【安康】。元為二大連一。次為二宿禰一。奉二-齋神宮一。」 その関係部分を右図に示す。 《大意》 去来穂別(いざほわけ)の天皇(すめらみこと)は、大鷦鷯(おおさざき)天皇の皇太子です。 母は磐之媛命(いわのひめのみこと)と言い、葛城襲津彦(かつらきそつひこ)の娘です。 大鷦鷯天皇三十一年正月、立太子されました【時に十五歳】。 八十七年正月、大鷦鷯天皇が崩(ほう)じました。 太子は、諒闇(りようあん)〔喪〕を終え、まだ尊位に即(つ)かれぬ間に、 羽田矢代宿祢(はたのやしろのすくね)の娘、黒媛(くろひめ)を妃になされようとしました。 納采(のうさい)を既に終え、住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)を遣わされ、吉日(よきひ)を告げさせました。 その時、仲皇子(なかつみこ)は太子の名を語って、黒媛を姦淫しました。 この夜、仲皇子は手鈴を黒媛の家に忘れて帰りました。 あくる日の夜、太子は、仲皇子自らがやって来て姦淫したことを知らず、 寝屋に入って帳(とばり)を開き、玉床にいらっしゃいました。 その時、枕元で鈴の音がなり、太子はこれを不審に思い、黒媛に 「これはいかなる鈴か。」とお聞きになりました。 その問いに、 「昨夜、太子がいらっしゃったときに持ってきた鈴ではございませんか。今更どうして私にお聞きになるのですか。」とお答えしました。 太子は、自ずから仲皇子が名を語って、黒媛を姦淫したことを知り、そのまま黙って、問いただすことを避けました。 そして仲皇子は、事件となることを恐れ、太子を殺そうとして密かに兵を起こし、太子の宮を囲みました。 その時、平群木菟宿祢(へぐりのつくのすくね)、物部大前宿祢(もののべのおおまえのすくね)、漢直(あやのあたひ)の先祖阿知使主(あちのおみ)の三人は太子に申しあげましたが、 太子は信じませんでした。【別伝では、太子酔って寝入っていて起きませんでした。】 そこで、三人は太子の体を抱えて御馬に乗せて逃しました。【別伝では、大前宿祢が太子を抱えて馬に乗りました。」】 仲皇子は、太子の不在を知らずに太子の宮を焼き、夜通し火は消えませんでした。 【書紀―元年】 6目次 《即位於磐余稚桜宮》
夏四月辛巳(かのとみ)を朔(つきたち)として丁酉(ひのととり)〔十七日〕、阿雲連(あづみのむらじ)の浜子(はまこ)を召(め)したまひて、詔(おほせごとのりたまはく)[之曰]、 「汝(いまし)、仲皇子(なかつみこ)与(と)共に謀逆(そむ)きて、[将]国家(くに)を傾(かたぶ)けむとせしこと、罪(つみ)[于]死(しに)に当(あた)る。 然(しかれども)、大(おほき)恩(めぐみ)を垂れたまひて[而]死(しに)を免(ゆる)して墨(めさきのつみ)を科(おほ)す。」 即日(そのひ)[之]黥(めさき)せしめて、此(こ)に因(よ)りて、時の人阿曇目(あづみめ)と曰ふ。 亦、浜子に従ひし野嶋海人(のじまのあま)等(ら)之罪を免(ゆる)して、[於]倭(やまと)の蔣代(こもしろ)の屯倉(みやけ)に役(えた)てき。
妃(おほきさき)、磐坂市辺押羽皇子(いはさかのいちのへのおしはのみこ)、御馬皇子(みまのみこ)、青海皇女(あをみのひめみこ)【一(ある)曰はく、飯豊皇女(いひとよのひめみこ)】を生みたまふ。 次に、幡梭皇女(はたひのひめみこ)を妃(きさき)として、中磯皇女(なかしのひめみこ)を生みたまふ。 是の年は[也]、太歳(たいさい、おほとし)庚子(かのえね)。 《野嶋海人》 応仁天皇紀三年条に、阿曇連大浜宿祢が各地の海人を統率するようになった記事がある (第43回【阿曇連:応神天皇】、 応仁天皇紀【三年】)。 従って、野嶋海人も阿曇連の支配下にあったものと思われる。地名「野島」は全国に多数あり、 自然地名と思われる。ここでは淡路島の「野島」である(次回-履中天皇紀2)。 元年二月一日、皇太子は磐余稚桜宮(いはれのわかさくらのみや)で即位されました。 四月十七日、阿雲連(あずみのむらじ)の浜子(はまこ)を徴され、詔を言い渡しました。 「お前は、仲皇子と共に謀逆し、国家を傾けようとしたこと、死罪に相当する。 しかし、大恩を垂れて死を免じて墨刑〔入れ墨の罪〕を科す。」と。 その日顔に入れ墨し、これによって当時の人は阿曇目(あずみめ)と言いました。 また、浜子に従った野嶋の海人(あま)らの罪は免じ、倭(やまと)の蔣代(こもしろ)の屯倉(みやけ)に労役を課しました。 七月四日、葦田(あしだ)の宿祢之女黒媛を皇妃とされました。 妃は、磐坂市辺押羽皇子(いわさかのいちのへのおしはのみこ)、御馬皇子(みまのみこ)、青海皇女(あおみのひめみこ)【別名、飯豊皇女(いいとよのひめみこ)】を生みなされました。 次に、幡梭皇女(はたひのひめみこ)を妃に納め、中磯皇女(なかしのひめみこ)を生みなされました。 この年は、太歳庚子(かのえね)です。 【科墨】 「墨罪」は、周代の五刑の一つ。『周礼』に、次の件がある。 〈周礼〉(前300~前100)「秋官司寇」
墨刑の訳語として「額刻む罪」が造語されたと思われる。〈時代別上代〉は、ここの「墨」に「ひたひきざむつみ」の訓を載せつつも、 「万葉では『額』の字はすべてヌカと訓まれ」「万葉・記紀その他、ヒタヒの確実な例はない」と述べる。 「ひたひ」は『竹取物語』にはあるので、平安時代初期の古訓か。 【新羅・百済・宋との関わり】 履中天皇紀では、朝鮮半島などとの軍事行動・外交活動には触れられていない。 しかし、この時期の対外関係については、 ・好太王碑文に記録された倭の朝鮮半島南部への侵攻は、391~406年。 ・宋書・梁書に描かれた倭と宋の間の外交交渉の期間は、420~480年頃。 ・三国史記-新羅本紀では、新羅に繰り返し侵攻した期間は345~500年。 が挙げられる (倭の五王、神功皇后紀6など)。 まとめ 履中天皇の前後は、朝鮮半島南部に侵攻したり宋と外交交渉を行ったりした。 ところが、履中天皇紀には軍事行動や外交活動が欠落している。 神功皇后紀が晩年に収められた外交活動は、4世紀後半から5世紀初頭のことで、履中天皇の時代より少し早い。 しかし履中天皇が若桜宮に坐して行なった外交活動は、丸ごと神功皇后紀に吸収された印象を受ける。 このことから、神功皇后が若桜宮に坐したと書かれたことが、逆に履中天皇が若桜宮にいたことの確実性を示すのではないかと思われる。 さて、記では墨江中王は単純に皇位を奪おうとしたと描き、書紀にある仲皇子の淫らな行動を記は書かなかった。 記はこのような話を嫌ったのかも知れない。あるいは完成を急いで詳細を省いたとも考えられる。 だとすれば、なぜ急いだのであろうか。これもまた、ひとつの研究テーマである。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
2017.10.20(fri) [177] 下つ巻(履中天皇2) ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||
故到于多遲比野而寤詔
此間者何處 爾阿知直白 墨江中王火著大殿故率逃於倭 爾天皇歌曰 故(かれ)[于]多遅比野(たぢひの)に到りて[而]寤(さ)めたまひて詔(のたまひしく) 「此(こ)の間(ま)者(は)何処(いづく)か」とのたまひき。 爾(ここに)阿知直(あちのあたひ)白(まをししく) 「墨江中王(すみのえのなかつみこ)大殿(おほとの)に火著(ひつけ)せし故(ゆゑ)に、[於]率(ひき)ゐまつりて倭(やまと)に逃(のが)れつ。」とまをしき。 爾(ここに)天皇(すめらみこと)歌曰(みうたよみたまはく)。 多遲比怒邇 泥牟登斯理勢婆 多都碁母々 々知弖許麻志母能 泥牟登斯理勢婆 多遅比怒邇(たぢひのに) 泥牟登斯理勢婆(ねむとしりせば) 多都碁母々(たつごもも) 母知弖許麻志母能(もちてこましもの) 泥牟登斯理勢婆(ねむとしりせば) 到於波邇賦坂望見難波宮其火猶炳 爾天皇亦歌曰 [於]波邇賦坂(はにふざか)に到りて難波宮(なにはのみや)を望み見れば其の火猶(なほ)炳(て)りつ。 爾(ここに)天皇亦(また)歌曰。 波邇布邪迦 和賀多知美禮婆 迦藝漏肥能 毛由流伊幣牟良 都麻賀伊幣能阿多理 波邇布邪迦(はにふざか) 和賀多知美礼婆(わがたちみれば) 迦芸漏肥能(かぎろひの) 毛由流伊幣牟良(もゆるいへむら) 都麻賀伊幣能阿多理(つまがいへのあたり) 故到幸大坂山口之時遇一女人 其女人白之 持兵人等多塞茲山 自當岐麻道廻應越幸 爾天皇歌曰 故(かれ)大坂(おほさか)の山口に到り幸(いでま)しし[之]時、一(ひとりの)女人(おみな)に遇(あ)ひて、 其の女人白[之](まをししく) 「兵(つはもの)を持てる人等(ら)多(さは)に茲(この)山を塞(ふた)ぐ。 当岐麻道(たぎまぢ)自(ゆ)廻(めぐ)りて越え幸(いでま)す応(べ)し。」とまをしき。 爾(ここに)天皇歌曰。 淤富佐迦邇 阿布夜袁登賣袁 美知斗閇婆 多陀邇波能良受 當藝麻知袁能流 淤富佐迦邇(おほさかに) 阿布夜袁登賣袁(あふやをとめを) 美知斗閇婆(みちとへば) 多陀邇波能良受(ただにはのらず) 当芸麻知袁能流(たぎまちをのる) 故上幸坐石上神宮也 故(かれ)上幸(のぼりまし)て石上(いそのかみ)の神宮(かむみや)に坐(ましま)す[也]。 たつこも(立薦)…[名] 風を防ぐために立てる、薦製品。 炳…[自]ラ四 (古訓) あきらかに。てらす。てる。ともす。 かぎろひ…[名] かげろう。〈時代別上代〉「カギルヒ〔かぎる(=ちらちら光る)火〕が母音転化を起こした」もの。 かぎろひの…[枕] 春、心燃ゆにかかる。 ただ…[副] 直接に。移動を表す動詞を修飾することが多い。 そして、多遅比野(たじひの)に到着したところで、目を覚まされ、 「ここは、一体どこか。」と仰りました。 すると阿知直(あちのあたい)は、 「墨江中王(すみのえのなかつみこ)が宮殿に火を着けたので、お連れして倭に向かって逃げました。」と申しあげました。 そこで、天皇(すめらみこと)は御歌を詠まれました。 ――丹比(たぢひ)野に 寝むと知りせば 立薦(たつこも)も 持ちて来ましもの 寝むと知りせば 埴生坂(はにふざか)に到り、難波の宮を望み見ると、その火はなお照り輝いていました。 そこで、天皇はまた御歌を詠まれました。 ――埴生坂(はにふざか) 吾が立ち見れば 陽炎(かぎろひ)の 燃ゆる家群(いへむら) 妻が家の辺り こうして大坂の山口に到着されたとき、一人の女性に遭遇し、 その人が申し上げるには、 「武装した人たちが、多数この山を塞いでいます。 当麻路(たじまじ)経由に回り道して越えていかれるのがよろしいかと存じます。」と申し上げました。 そこで、天皇は御歌を詠まれました。 ――大坂に 遇ふや乙女を 路問へば 直(ただ)には乗らず 当麻(たぎま)路(ち)を乗る こうして、倭に上り石上(いそのかみ)神宮に滞在されました。 【多遅比怒】 履中天皇〔即位前〕は難波宮を逃れ、まずは真っ直ぐ南に向かって丹比野に達した。 仁徳天皇紀十四年条に、「作大道置於京中、自南門直指之至丹比邑。」と書かれた (第163回《大道》、仁徳天皇紀16)。 難波大道の今池遺跡自体は7世紀のものである。だから、記紀が書かれた時代の道路に基づいて物語が創作されたのかも知れない。 しかし、7世紀に大道として整備される以前に、同じような道筋で古い街道が存在したことはあり得、 そこを通った伝説が古くから存在していたことも十分に考えられる。
羽曳野市には、かつて「埴生村」が存在した。埴生村は、明治22年〔1889〕町村制によって、それまでの伊賀村、向野村、埴生野新田、野々上村の地域に成立したものである。 伊賀・向野・埴生野・野々上は、いずれも現代地名に残る。 少なくとも1889年には、この地域が埴生に該当すると考えられていたわけである。 古くは、仁賢天皇紀に「葬二埴生坂本陵一」がある。 現在は宮内庁によって、ボケ山古墳が埴生坂本陵として治定されている。 ただし、『五畿内志』には「埴生坂本陵【仁賢天皇○在二黒山村管内一】」とされ、 該当するのは黒姫山古墳(堺市美原区黒山)である。 ボケ山を推す論には、<wikipedia>河内の学僧覚峰は現陵に擬定し、ボケ山の「ボケ」を「オケ(億計)」の誤りと考証した</wikipedia>例がある 〔億計天皇は仁賢天皇の和風諡〕。 地形図を見ると、旧埴生村はなだらかな丘陵となっていて、最高点は標高73.4mで、その一帯が埴生野と呼ばれたと思われる。 標高50m・40mの等高線を見ると、埴生村内の丹比道付近は、南に高く西・北・東に低い斜面になっている。 国土交通省のページで陰影図を見ても、野々上からボケ山古墳までは下り坂になっており「埴生坂本陵」の名称には合っている。 一方の黒姫山古墳は、埴生村とは離れている。 なお、埴生村内の丹比道のうち、伊賀(図左のX)付近を「埴生坂」として紹介しているサイトがあった (「埴生」)。 【持兵人】 「兵人」は「つはもの」なので、「持兵人」は「持」は「以」に当てたように思える。 しかし、「持兵人等多塞茲山」と同じ内容の文が書記にもあり、「執兵者多満山中」と書く。 「執兵者」は「兵(=武器)を執(と)る者(ひと)」であるから、書紀は「持兵人」を「兵を持つ人」と解釈したことが分かる。 【山口】 「大坂の山口」の名を負う「大坂山口神社」が、大和国側からの登り口にある。 ここでは河内国側から山を越えようとしているのだから、 山口神社ではなく西側の登り口(図のア)を指すと思われる。 平面図を見ると当麻道の方が距離が短く大阪路の方が遠回りに見えるが、当麻道の方は急峻であったと思われる。 それを確認するために、国土地理院の地形図から標高をとり、グラフを作成した なお、当時の道筋は具体的には残っていないが、概ね川沿いの経路を想定した。 このグラフを見ると、 「自二当岐麻道一廻応二越幸一」 の「廻」は、普通に使われる道から別の道に「回る」ことを意味する。 また「越幸」は、「竹内峠越えの道を行く」を意味することがよく分かる。 この話の内容は伝説かも知れないが、地形と街道そのものには現実的な根拠がある。 【石上神宮】 石上神宮は、書紀では「石上振神宮」という名前である。 「振神宮」の名は配神のひとつ「布留御魂大神」に通ずるものである。所在地の「布留町」もこれに因むと考えられる。 「ふる」は「布都(ふつ)」と同根であろう。 石上神宮は古くは物部氏が管理した武器庫でもあり、墨江中王を迎え撃つ軍事拠点にしたと思われる (第116回【石上神宮】)。 【歌意】
"せ"は、完了の助動詞"き"の未然形。"せば~まし"で、反実仮想 〔事実として既に確定したことに対して、仮にそうでなければと想像する〕。 《真福寺本》 真福寺本では、次のようになっている。 「多遲比怒邇泥牟登斯理勢婆多都碁母々知母許弖麻志乎能泥牟登斯理勢婆」(右図)。 「立薦持ちもこてましをの」 の「をの」は「斧」に一致するが、ここには合わない。「母能」の誤写であろう。 小さな字の「弖」は、後から補ったものと思われる。 「知母許弖)」〔ちもこて〕のままでは理解不可能なので、 やはり「もちてこ」の誤写であろう。 ただ、同音符号が「母」に戻っていることが気にかかる。何か理由がありそうだが、 それが何であるかはまだ分からない。
「いへむら」は「家・村」というよりは、家が集まっている(むらがる)様子を表すと見られる。 ただ、もともと「村」の語源は「群」だから意味を「村」と取ってもそれほどの違いはない。 《かぎろひの》 この歌の「かぎろひ」は、①光がゆらめいて見える様子を表したものか、②枕詞として添えられたものか、微妙である。 〈時代別上代〉は、②の枕詞としては「春」「心燃ゆ」に限定し、 この歌のように実際にものが燃えているときは①に入れている。
「乗る」には、「道の上を行く」意味もある。 【書紀―即位前2】 2目次 《到河内国埴生坂》
難波(なには)を顧(かへりみ)て望めば、火光(ひのひかり)を見(め)して[而]大(おほきに)驚きて、則(すなはち)急(すみやかに)[之]馳(は)せり。 大坂(おほさか)自(ゆ)倭(やまと)に向(むか)ひて、[于]飛鳥山(あすかやま)に至りて[於]山口(やまぐち)に少女(をとめ)に遇(あ)ひて、 問(とひたまひしく)[之曰] 「此の山に人有り乎(や)。」ととひたまひき。
「兵(つはもの)執(と)れる者(ひと)多(さはに)山中(やまなか)に満てり、宜(よろしく)廻(めぐ)りて当摩(たぢま)径(みち)自(ゆ)[之]踰(こ)えたまえ。」とまをしき。 太子於是(ここに)以為(おもほ)せらく、少女(をとめ)の言(こと)を聆(き)かむとおもをして[而]難(かた)きを得(え)免(まぬか)る。 則(すなはち)歌(みうたよみたまはく)[之曰]。
哆駄珥破能邏孺(ただにはのらず) 哆𡺸摩知烏能流(たぎまちをのる)
当(たぎの)県(あがた)の兵(つはもの)を発(おこ)して身(みづから)に従(したが)は令(し)めて、龍田山(たつたやま)自(ゆ)[之]踰(こ)へり。 時に数十人(あまたひと、すうじふのひと)有りて、兵(つはもの)を執(と)りて追ひ来(きた)りて、太子之(こ)を遠(とほく)望みて曰(のたまはく)、 「其(それ)彼(その)来(こしひと)者(は)誰人(たれ)ぞ[也]。何(いか)なるひとが歩(あゆ)み行(ゆ)くか、[之]急(には)し。若(もしや)賊人(あた)か[乎]。」とのたまふ。 因(よ)りて山中に隠(かく)りて[而]之を待ちて、近づけば則(すなはち)一人(ひとり)を遣(つかは)して問はしめて曰ひしく、 「曷人(たれ)ぞ。且(また)何処(いづく)へ往(ゆ)くか[矣]。」といひき。
「淡路(あはぢ)の野嶋之海人(あま)[也]、阿曇連浜(あづみのむらじはま)【一云(あるいはく)阿曇連黒友(くろとも)。】 仲皇子(なかつみこ)の為(ため)に、太子を追は令めき。」といひき。 於是(ここに)、伏兵(かくりたるつはもの)出(い)でて之を囲みて、悉(ことごと)得(え)捕(とら)ふ。 当(まさに)是の時、倭直(やまとのあたひ)の吾子籠(あこご)、素(もとより)仲皇子(なかつみこ)と好(よしび)をむすびて、預(あらかじめ)其の謀(はかりこと)を知りて、 密(ひそかに)精兵数百(ときつはものすうひやくを、ときつはものをあまた)[於]攪食栗林(かきはみのくるす)に聚(あつ)めて、仲皇子の為(ため)に[将]太子を拒(ふせ)がむとす。
兵衆(つはものども)多(おほく)塞(ふた)ぎて、不得進行(えすすまず)。 乃(すなはち)使者(つかひ)を遣(つかは)して、問はしめたまひて曰ひしく、 「誰人也(たれぞ)。」といひき。 対(こたへ)て曰(まを)さく、 「倭直(やまとのあたひ)吾子籠(あごこ)也(なり)。」とまをしき。 便(すなはち)還(かへ)りて使者(つかひ)に問ひて曰(まを)さく、 「誰(た)が使(つかひ)ぞ[焉]。」とまをせば、 曰ひしく、 「皇太子(ひつぎのみこ)之(の)使(つかひ)なり。」 といひき。
「伝へ聞くに、皇太子に非常之事(つねならざること)有り。[将]備(まうけ)の兵(いくさ)を以ちて助けむとおもひまつりて、之を待ちまつりき。」 然(しかれども)太子其の心を疑ひて[欲]殺(ころ)さむとしたまひて、 則(すなはち)吾子籠[之]愕(おどろ)きて、己(おの)が妹(いも)日之媛(ひのひめ)を献(たてまつ)りて、仍(すなはち)死罪(しにのつみ)を赦(ゆる)したまへと請(ねが)ひまつりき。 乃(すなはち)[之]免(ゆる)したまひて、其の倭直等(ら)采女(うねめ)を貢(みつ)ぐこと、蓋(けだし)[于]此の時に始まれり[歟]。 太子便(すなはち)[於]石上振神宮(いそのかみのふるかみみや)に居(ましま)す。 《龍田山》 龍田山は信貴山以南、大和川以北の山地の総称とされる。現在龍田山という山はないが、 その山麓と思しきところに「龍田神社」(奈良県生駒郡斑鳩町龍田1丁目5-3)がある。 また、龍田山を横切って現在の関西本線・国道25号線が通っているところが竜田道だったと考えられている。 当岐麻道で当県〔たぎまのあがた;当麻郷〕に出たことろで軍勢を整え、大阪道を途中まで引き返し、懼坂(かしこざか)道経由で竜田道に入る経路が想定される(図)。 そして北の横大路を通って石上神宮に向かったことになる。 書紀の時代〔720年成立〕にはまだ平城京に遷都して間がない (続日本紀-和銅三年〔710〕三月壬子朔辛酉〔十日〕「始遷二都于平城一。」)ので、 「北の横大路」は、都の建造のための重要な輸送路であったと思われる。 《倭直》 ここまでの、倭直への言及を見ると、 神武天皇紀で椎根津彦を倭直の始祖とする(第96回)。 また垂仁天皇紀では、「倭直祖長尾市」また、「大倭直祖長尾市」が活躍する。 仮に「倭直」が治めた範囲は、狭義の大和地域に相当したと仮定する。「倭」は大和神社の辺りと見られているが、さらに 〈倭名類聚抄〉に{大和国・城下郡・大和【於保夜末止】郷}〔おほやまと〕がある。 〈五畿内志〉「大和国之十三-城下郡」では、「【郷名】大和【已廃存二海知村一】」 〔すでに廃れたるも、海知村にありき〕と見做している。海知村は、現代地名「天理市海知町」に繋がる。 《攪食栗林》
太子が北の横大路を通ったとすれば、攪食が「薑」だとすると不自然で、 むしろ倭直の大和郷に吾子籠軍が集結したと見た方がよい。 だから、攪食は本当は大和郷にあったのかも知れない。 ただ、他にも可能性がある。吾子籠軍が攪食栗林に集結した部分は、もともと記の「南の横大路を経由」 の話に付随したものかも知れないからである。 《憚二其軍衆多在一》 この「其軍衆多在」の「其軍」を、皇太子軍として読んでみる。 すると、皇太子の移動中に急を聞いて駆けつけた兵によって軍勢は膨れあがり、 吾子籠を凌駕する勢力になっていたことになる。「憚」を、吾子籠がその巨大な軍勢を恐れて畏まったととれば合理的である。 その可能性を検証するために、「其軍衆」が何を受けているかを精査する。 この文の前方にある「軍衆」を抜き出すと、 ア「聚二精兵数百一」イ「不レ知二兵衆多塞一」ウ「兵衆多塞」 の三か所があり、すべて吾子籠の軍勢を指している。アイウとこの文との間に「太子之軍」は出てこないから、 「其軍衆=吾子籠の軍衆」以外には考えられないことがわかる。 従ってこの文の意味は、吾子籠は大軍を構えながらも、いざ皇太子がやって来た途端に戦う意欲を喪失したということである。 そして「憚」とは、太子の前面に自分の私兵を大量に布陣させてしまったことは、とても恐れ多いことだと詫びているのである。 これは、太子の権威にひれ伏したとする以外に考えようがない。 吾子籠は一時は仲皇子への加勢に動いたが、結局は腰が据わっていなかったのである。 《大意》 太子は河内国(かふちのくに)の埴生坂(はにふざか)に到着したところで目覚め、 難波(なにわ)を振り返って眺め、火が照らす様子を見て大いに驚き、移動を急ぎました。 大坂から倭に向かい、飛鳥山に到着すると、その登り口で少女に遇い、 「この山に人はいるか。」と問われました。 少女は質問に答えて 「武装した人が、山の中に多数満ちています。回って当摩(たぎま)道を通って山越えするのがよろしいと存じます。」と申しあげました。 太子はそこで、少女の言うことを聞こうと思われ、そして困難を免れることができました。 そして、御歌を詠まれました。 ――大坂に 遇ふや乙女を 道問へば 直(ただ)には乗らず 当摩路(たぎまち)を乗る すぐにまた、とって返します。 当県(たぎのあがた)の軍勢を起こして自身に従わせ、龍田山を越えました。 その時、数十人の人が、武器を持って追いかけてきました。太子はこれを遠くから望み見て 「ほら、あのやってくる者は誰か。何のために歩き行くか、ことは緊急だ。もしや敵かも。」と仰りました。 よって、山中に隠れてこれを待ちて、近づいたところで一人を遣って、尋ねさせました。 「あなたは誰で、どこへ行くのですか。」と。 それに、 「淡路の野嶋の海人(あま)、阿曇連浜(あづみのむらじはま)【別伝では、阿曇連黒友(くろとも)】と申し、 仲皇子(なかつみこ)のために、太子を追えと命令されています。」と答えました。 そこで、伏兵が飛び出して囲み、ことごとく捕らえることができました。 まさにこの時、倭直(やまとのあたい)の吾子籠(あこご)はもともと仲皇子(なかつみこ)と誼を結び予めその謀反を知っていて、 密かに精兵数百を攪食栗林(かきはみのくるす)に集め、仲皇子のために太子と戦おうとしていました。 その時太子は、軍勢が塞いでいることを知らず、山を出て数里進んだところで、 大量の軍衆が道を塞ぎ、進むことができなくなりました。 そこで、使者を遣わして 「誰の軍勢か。」と質問させました。 それに対して、 「倭直(やまとのあたひ)吾子籠(あごこ)である。」と答え、 「誰の使いか。」と問い返されたので、 「皇太子の使いである。」 と言いました。 すると吾子籠は、その軍衆が多数いることを憚り、使者にこう申し上げました。 「伝え聞くところでは、皇太子に常ならざることがあると。そこで予備の軍勢をもってお助けしようと考え、お待ちしていました。」 しかし、太子はその心を疑い、殺そうとされたので、 吾子籠は驚愕して、自分の妹、日之媛(ひのひめ)を献上して、死罪を赦されますようにお願いしました。 その結果、赦免されました。代々の倭直が采女を貢ぐのは、けだしこれが始まりです。 太子はこのようにして、石上振(いそのかみのふる)神宮に到着しました。 まとめ 履中天皇即位前紀においては、当麻道の登り口からZ字型の経路を通って石上神宮に達する。 この経路の不自然なところは、せっかく当麻道を越えて倭国に逃れたのに、また危険な河内国に近づくことである。 この不自然さは、竜田道・北の横大路経由で石上神宮に向かった別伝があり、それと本伝とを合成して一本の話にした結果ではないかと思われる。 記では当麻道を出た後はそのまま横大路を東に進み、上ツ道を通って石上神宮に向かったと読める。 古事記が書かれた時点では都は飛鳥京にあり、横大路は記の執筆者にとっても身近な道であるのに対して、 「北の横大路」の辺りは恐らくはまだ荒れ地であっただろう。 難波から石上神宮に向かうルートとしては、当然横大路がイメージされていたはずである。 このような記紀における移動経路の不一致は、平城京遷都の進展と関係があるのではないかと思われる。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
2017.10.26(thu) [178] 下つ巻(履中天皇3) ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||
於是 其伊呂弟水齒別命參赴令謁
爾天皇令詔 吾疑汝命若與墨江中王同心乎 故不相言 答白 僕者無穢邪心 亦不同墨江中王 於是(ここに)、其(そ)の伊呂弟(いろど)水歯別命(みづはわけのみこと)参赴(まゐおもぶ)きて令謁(まみえしめまつ)りき。 爾(ここに)天皇(すめらみこと)令詔(のりことつたへしめまさく)、 「吾(われ)、汝命(ながみこと)若(もしや)墨江中王(すみえのなかつみこ)与(と)心同(おな)じき乎(を)疑ふ。 故(かれ)不相言(あひかたりたまはじ)。」とつたへしめまして、 答(こた)へて白(まを)ししく、 「僕(やつかれ)者(は)穢(きたなき)邪(よこしま)の心無くて、亦(また)墨江中王と不同(おなじからず)。」とまをしき。 亦令詔 然者今還下而殺墨江中王而上來 彼時吾必相言 故卽還下難波 欺所近習墨江中王之隼人名曾婆加理云 若汝從吾言者吾爲天皇 汝作大臣治天下那何 曾婆訶理答白 隨命 亦(また)令詔(のりことつたへしめまししく)、 「然者(しからば)今還(かへ)り下(くだ)りて[而]墨江中王を殺して[而]上(のぼ)り来(こ)よ。 彼時(そのとき)は、吾必ず相言(あひかたらは)む。」とつたへしめましき。 故(かれ)、即(すなはち)難波(なには)に還(かへ)り下りて、 墨江中王の[所]近習(そばにつか)へし[之]隼人(はやと)、名は曽婆加理(そばかり)を欺(あざむ)きて云(いは)く、 「若(もし)汝(いまし)吾言(わがこと)に従(したが)は者(ば)、吾(われ)天皇(すめらみこと)に為(な)りて、汝(いまし)を大臣(おほまへつきみ)に作(な)して、天下(あめのした)を治(をさ)めむ。那何(いか)に。」といへば、 曽婆訶理答へて白ししく 「隨命(おほせごとのまにまに)。」とまをしき。 いろど…[名] 同母の弟・妹。 しむ(令む)…[助動]下二 使役。未然形接続。〈時代別上代〉敬語の助動詞としての用法は、上代には、まだその確例を見ない。 謁…[動] 身分の高い人にあう。(古訓) まうす。こふ。ねがふ。まみゆ。 彼…(古訓) かれ。そこ。それ。 そして、その母を同じくする弟、水歯別命(みづはわけのみこと)が参上し、お会いしようとしました。 すると、天皇(すめらみこと)はこうお伝えされました。 「私は、お前がことによると墨江中王(すみえのなかつみこ)と心を同じくしているのではないかと疑っている。 よって会って話すことはできない。」と。 それに答えて、 「私めには汚い邪心は無く、また墨江中王と同じような人ではない。」と申しあげました。 また、このように伝えさせました。 「そのように言うのなら、今から帰り下って、墨江中王を殺したら再び倭に上れ。 その時にこそ、私は必ず会って話そう。」と。 そこで、直ちに難波に帰り下り、 墨江中王の近習の隼人(はやと)、名は曽婆加理(そばかり)に偽りの言葉を話しました。 「もし、お前が私の言葉に従うなら、私は天皇となり、お前を大臣(おおまえつきみ)にして、天下を治める。どうする。」と。 曽婆訶理は 「仰せの通りにいたします。」と申しあげました。
「令」は「しむ」または「しめたまふ」で、謁見していただく天皇への尊敬であろうと思われた。 しかし、〈時代別上代〉は「敬語の助動詞としての用法は、上代には、まだその確例をみない。」という。 〈古典基礎語辞典〉も、「上代の例はすべて……使役の意を表」すという。 「謁」のもとの意味は、〈新漢和〉によれば「身分の高い人をおしとどめて訴える」とされ、 主に低い側を立場の者が「お会いしていただく」意味の語である。 「令」が本来の使役の助動詞だとすれば、 「天皇との謁見を取り計らってくれるように、お付きの人に要請した」意味であろう。 結局「謁見が可能かどうかは自ら決めることではなく、相手の意志に委ねる」のだから、事実上の謙譲表現と言ってよい。 【令詔】
書紀では、同じことを「伝告」と表している。"告"は「告(の)る=宣る」で、それを「伝える」。 書紀も、記の「令詔」を「詔を伝達する」と理解したと見られる。 【下・上】 倭から難波へは「下」り、難波から大和へは「上」る。 仁徳天皇が都として定め、難波は都市として発展していたと考えられるが、それでも本来の都は倭であるという意識は強かったと思われる。 【曽婆訶理】 曽婆訶理(そばかり)は、墨江中王の側近の隼人である。 隼人は南九州出身の種族で、「火酢芹命苗裔、諸隼人等、至今不離天皇宮墻之傍、代吠狗而奉事者矣。」 〔ほすせりの命の末裔は隼人の諸族で、今は天皇の宮の周囲を番犬のように警備する〕とあるように、 都の警備などを務めた (第93回【一書2】)。 「吠える犬の代わり」などと表現されるように、隼人は基本的に差別的に扱われる。 曽婆訶理は履中天皇段では水歯別命に唆され、恩賞に目が眩み主君を裏切る。 そして、最期は水歯別命に信用されずに殺されるような人物として描かれている。 書紀では、刺領巾(さしひれ)に置き換えられるが、 やはり仲皇子の「近習隼人」とされる(次回)。 【書紀―即位前3】 3目次 《瑞齒別皇子知太子不在》
然(しかれども)太子弟王(おとみこ)之(の)心を疑ひて[而]不喚(よびたまはず)。 時に瑞歯別皇子、令謁(まみえしめまつりて)曰(まをししく)、 「僕(やつかれ)黒(きたなき)心無くて、唯(ただ)太子の不在(いまさざること)を愁(うれ)へて[而]参赴(まゐおもぶ)きし耳(のみ)。」とまをしき。
「我、仲皇子(なかつみこ)之(の)逆(さかしま)を畏(おそ)りて、独(ひとり)避(さか)りて[於]此(ここ)に至れば、 何(いかに)か且(また)汝(いまし)を疑ふに非(あら)ず耶(や)。 其の仲皇子之(これ)在りて、独(ひとり)猶(なほ)我が病(やまひ)を為(な)す。 遂(つひに)[欲]除(のぞ)かむとす。故(かれ)汝(いまし)寔(まこと)異(よこしまな)心勿(な)からば、更に難波(なには)に返(かへ)りて[而]仲皇子を殺せ。 然後(しかるのち)、乃(すなは)ち見(まみ)えたまはむ[焉]。」とのりたまひて、
「大人(うし)何(いかに)憂(うれふ)ること之(の)甚(はなはだし)きや[也]。 今仲皇子道(みち)無くて、群臣(まへつきみたち)及(と)百姓(おほみたから)と共に[之]悪(にく)み怨(うら)みて、 復(また)其の門下人(つかひひと)皆叛(そむ)きて賊(あた)と為(な)りて、独(ひとり)[之]居(を)りて、無与誰議(たれそとはかることなきや)。 臣(やつかれ)、[雖]其の逆(さかしま)を知れど、未だ太子の命(おほせこと)を受けまつらざりて[之]、故(かれ)独(ひとり)慷慨(いきどほる)[之]耳(のみ)。
唯(ただ)独(ひとり)[之]懼(おそる)は、仲皇子を殺(し)すること既(つく)して、猶(なほ)且(また)臣(やつかれ)を疑(うたが)ひたまはむや[歟]。 冀(こひねがはくは)、忠直(まこと)を見(め)して得たまは者(ば)、臣(やつかれ)之(の)不欺(あざむかざる)ことを明(あき)らめたまはむことこそ欲(のぞ)みまつれ。」とまをしき。
爰(ここに)瑞歯別皇子[之]歎(なげ)きて曰ひしく 「今太子与(と)仲皇子と、並(な)べて兄(このかみ)なり[也]。誰(たれ)か従(したが)はむや[矣]、誰か乖(そむ)かむや[矣]。 然(しかれども)、道無きを亡(ほろぼ)して道有るに就(つ)く、其(それ)誰(たれ)か我(われ)を疑ふや。」といひき。 則(すなは)ち[于]難波に詣(ゆ)きて、仲皇子之(の)消息(ゆくへ)を伺(うかが)ふ。 《亡無道就有道》 仮名日本書紀は「あぢきなきをほろぼして道あるにつかば」と訓む。 「無道=あぢきなし」は、崇神天皇紀における〈丙本〉の訓を準用したものと思われる。 しかしこれでは漢字表記の無道・有道の対応が、和訳では無視されたことになる。 「みち」には上代から「人倫の道」という意味もあるので、「無道」を「みちなし」と訓んでも、何ら不都合はない。 《既殺仲皇子……臣之不欺》 この部分は純正の漢文で、簡潔な書法が用いられる。 ●「既レ殺二仲皇子一猶且疑レ臣歟」 ここの「既」は、"をふ"(終、竟)の意味で使われている。 「且」は「再び」を意味する。 ●「冀見一-得忠直二者」 「冀」は副詞。 「見得」は"得見"を和習で逆転ものかと思えたが、 調べて見るとれっきとした漢熟語で、「見て確かめる」という意味である。 ここの「見得」は、動詞句「得二忠直一」を目的語にとる。 「忠直」については、『仮名日本紀』は「忠直者」を「たゝしきひと」〔正しき人〕と訓むが、 「忠直」は漢熟語で、「まこと」などと訳し、 「者」は順接の接続詞〔~ば〕と見るべきである。 和訳の際、未然形(みば;仮定条件)、已然形(みれば;確定条件)のどちらに当たるかは、文脈で判断する。ここでは未然形であろう。 ●「欲レ明二臣之不欺一」の 「欲」は、動詞句「明二臣之不欺」を目的語に取る。 《並兄》 「このかみ甲」は"長子"の他に、一般的な「兄」の意味でも使われる。 二人とも瑞歯別皇子と同腹であるから「いろえ」「いろせ」という訓みも考えられるが、ここでは長幼の序に通ずる「子の上(かみ甲)」が適切か。 《大意》 このとき、瑞歯別皇子(みづはわけのみこ)は、太子が難波に不在だと知り、尋ねて追ってきました。 けれども太子は弟王(おとうとみこ)の心を疑って喚び寄せませんでした。 その時、瑞歯別皇子は、謁見をお願いして申し上げました。 「私目には汚れた心はなく、ただ太子がいらっしゃらないことを心配して参上しただけでございます。」と。 すると、太子は弟王に次のお言葉を伝えさせました。 「私は、仲皇子(なかつみこ)の反逆を恐れて、独り避けてここにやって来た。 どうして、またお前のことも疑わずいられようか。 その仲皇子がいて、その一人が依然として私の悩みである。 遂に除こうと思う。よって、お前が本当に異心がなければ、もう一度難波に帰って仲皇子を殺せ。 然る後に、面会しよう。」と。 瑞歯別皇子は、太子に申し上げました。 「貴方様は、どうしてそんなに心配されているのですか。 今仲皇子は道理がなく、臣たちも人民も共に憎み怨んでいます。 仲皇子の使用人は皆背いて敵となり、私は独りで誰とも相談できずにいました。 私は、その反逆を知りましたが、未だ太子の命をお受けせず、よって独りで悶々とするのみでした。 今既に命を受けましたからには、仲皇子を殺すことに困難などありましょうか。 ks ただ、私が一人恐れるのは、既に仲皇子を殺したのちに、なお私を疑われるのではないかということです。 ここに冀(こいねが)いますのは、私の忠直を目の当たりにすることにより、私が欺かないことが明らかにしてほしいことです。」と申しあげました。 太子は、木菟宿祢(つくのすくね)を副えて遣わしました。 このとき、瑞歯別皇子はこう嘆きました。 「今、太子と仲皇子は並んで兄である。誰に従い、誰に背くか。 とは言え、道理無きを亡ぼし、道理有るに加勢する、このことによって誰が私を疑うことがあろう。」と。 このようにして難波に行き、仲皇子の消息を伺いました。 【書紀における瑞歯別皇子の行動の合理化】 書紀は、瑞歯別皇子の悩みに字数を割いている。 まず、瑞歯別皇子が今まで攻撃に出なかったのは、「未レ受二太子命一」だからと、 言い訳している。 さらに、いよいよ仲皇子を攻めるときには、自分が不道徳の誹りを受けないように、伏線を敷く。 ●「見得忠直者…」として、仲皇子を討つことに個人的な野心はさらさらないことを強調する。 ●「君臣の義」と「長幼の序」の二律背反については、兄殺しは不忠であるが、それより無道の罪を成敗する方が優先すると論建てする。 その後の経過を見ると、瑞歯別皇子は仲皇子に仕えていた刺領巾〔さしひれ;人名〕を篭絡して仲皇子を殺させた。そして、 「刺領巾、為人殺二己君一。其為レ我雖有大功、於己君無レ慈之甚矣。」 〔刺領巾、ひととなり己が君を殺す。それ我がために大功有れど、己が君に慈しみ無きこと甚し〕と言って刺領巾を殺す。 つまり暗殺させてしまえば、大功はあるが主君を裏切るような奴は信用できないと言って殺してしまう(次々回)。 同じ理屈を適用すれば、瑞歯別皇子は仲皇子を殺した後は、自らが殺されることになる。 瑞歯別皇子にはそれが分かっているから、自分がしようとしていることは私利私欲ではなく、あくまでも忠義だとアピールする。 それでも万が一自分の兄殺しの罪に問われたときは、自分は関与しなかったと言い張るために予め刺領巾を殺して口封じしておく。 幾重にも用心深い。 その甲斐あってか、瑞歯別皇子は後に即位して反正天皇となった。 【天皇記・国記】 瑞歯別皇子のひととなりが古い文献がに載っていれば、知りたいところである。そこで記紀以前の文献を調べると、『天皇記』『国記』が存在したが焼失したとする記事が書紀にある。 ●推古天皇二十八年〔620〕是歳 「是歳、皇太子嶋大臣共議之、録二天皇記及国記、臣連伴造国造百八十部并公民等本記一。」 〔この歳、皇太子と嶋大臣と共に議り、天皇記より及びて、国記、臣、連、伴造、国造、百八十部、公民等本記をあはせて録(をさ)む〕 ●皇極天皇四年〔645〕六月丁酉朔 「己酉〔十三日〕、蘇我臣蝦夷等臨レ誅、悉焼二天皇記国記珍宝一。船史恵尺、即疾取二所焼国記一、而奉二-献中大兄一」 〔蘇我臣蝦夷、誅(う)たるるに臨みて、ことごとく天皇記・国記・珍宝を焼く。船史恵尺(ふねのふみとゑさか)、焼ける国記を疾(と)く取りて中大兄に奉献(たてまつ)りき〕 つまり、乙巳の変〔中大兄皇子、中臣鎌足らが蘇我氏を討った事件〕のとき、『天皇記』『国記』は燃やされた。 常識的に考えれば中大兄皇子・中臣鎌足にとっては蘇我氏の正当性が書かれた書が残っていると不都合なので、保管していた蘇我蝦夷の邸宅を襲って燃やしたのが真相だろうと想像される。 従って船史恵尺によって「焼かれる寸前にこれを救出しました」と奏上して届けられた『国記』を見て、中大兄皇子は余計なことをしやがってと思いながら手元に収め、後から人知れず燃やしたのであろう。 だから、絶対に残っていないはずである。この問題については、後日詳細に検討する。 なお、「天皇」の称号の始まりは天武天皇のころと言われているので、『天皇記』は書紀が後から用いた名称であることになる。 まとめ 瑞歯別皇子は言葉を尽くして叛意のないことを強調するが、 そのことから逆に、仲皇子と共謀していた疑いが濃厚となる。 それを取り繕ったのは、書紀の一般的な姿勢として天皇の悪行を隠蔽したことの一環であろうか。 しかし、瑞歯別皇子は実際に術策を尽くして大王の位に即いた人物であったかも知れず、 その史実が記録あるいは伝説に残っていて、それが記紀にこのような形で反映された可能性がある。 その真相に迫るためには記紀以前の古文書を参照したいところだが、多くは意図的に焚書されて残っていないと思われる。 |
|||||||||||||||||||||||||||||
⇒ [179] 下つ巻(履中天皇4) |