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[171]  下つ巻(仁徳天皇11)

2017.09.05(tue) [172] 下つ巻(仁徳天皇12) 

其將軍山部大楯連取其女鳥王所纒御手之玉釼而
與己妻
此時之後 將爲豐樂之時 氏氏之女等皆朝參
爾大楯連之妻 以其王之玉釼纒于己手而參赴

其(そ)の将軍(いくさのかみ)山部大楯連(やまべのおほたてむらじ)、其の女鳥王(めとりのみこ)の御手(みて)に所纒(まつひし)[之]玉釼(たまくしろ)を取りて[而]
己妻(おのづま)に与へつ。
此の時之(の)後(のち)、[将]豊楽(うたげ)を為(な)さむとせし[之]時、氏々(うぢうぢ)之(の)女(をむなめ)等(たち)皆(みな)朝参(みかどまゐりす)。
爾(ここに)大楯連之妻、其の王(みこ)之(の)玉釼を以ちて[于]己(おのが)手に纒ひて[而]参(まゐ)赴(おもぶ)けり。


於是大后石日賣命自取大御酒柏
賜諸氏々之女等
爾大后見知其玉釼 不賜御酒柏 乃引退

於是(ここに)大后(おほきさき)石日売命(いしのひめのみこと)自(みづか)ら大御酒(おほみき)柏(かしは)を取りたまひて、
諸(もろもろ)氏々之女等(たち)に賜りき。
爾(ここに)大后、其の玉釼を見(み)知りたまへりて、御酒柏を不賜(たまはらざ)りて乃(すなはち)引き退(そ)きたまひて、


召出其夫大楯連以詔之
其王等 因无禮而退賜 是者無異事耳
夫 之奴乎 所纒己君之御手玉釼
於膚熅剥持來卽與己妻
乃給死刑也

其の夫(つま)大楯連を召し出(い)でて、以ちて[之]詔(のたまはく)、
「其の王(みこ)等(ら)、无礼(ゐやなき)に因りて[而]退(そ)け賜りき。是者(こは)異(け)なる事無(な)き耳(のみ)。
夫(そもそも)、之(この)奴(やつこ)乎(や)、己(おのが)君(きみ)之(の)御手に所纒(まつひし)玉釼を、
[於]膚(はだ)の熅(あたたけし)に剥ぎて持ち来たりて、即(すなはち)己妻(おのづま)に与へき。」とのたまひて、
乃(すなはち)死刑(しするつみ)を給(たまは)りき[也]。


 将軍に任じた山部大楯連(やまべのおおたてむらじ)は、女鳥王(めとりのみこ)の御手に付けていた玉釧(たまくしろ)を奪い、 自分の妻に与えました。
 後日、宴を開くことになり、諸氏の妻や娘たちが、みな朝参しました。 そのとき、大楯連の妻は女鳥王の玉釧で自らの手を飾って参上しました。
 そして皇后、石日売命(いしのひめのみこと)は自ら大御酒(おおみき)を盃に注いで、 諸氏の女たちに賜りました。
 そのとき、大后はその見覚えのある玉釧を見とがめて、御酒を賜るのを止めて退席され、 その夫の大楯連を召し出し、こう告げられました。
 「王(みこ)たちが礼を欠いたから追放させた、そのことには何の問題もない。 それがである。こ奴め、お前は自分の主君の御手にお着けになっていた玉釧を、 まだ肌にぬくもりの残るのに剥ぎとって持ち帰り、自分の妻に与えたのだ。」と。
 そして、死刑を給りました。


将軍…いくさのかみ(第113回《将軍の訓》、資料[02]参照)。
かしは…[名] 食器として用いる葉。
まつふ(纏ふ)…[他]ハ四 まとう。しばる。
玉釼…真福寺本による。岩波書店『日本古典文学大系』版(底本:享和三年『訂正古訓古事記』)は「珠釧」。
くしろ(釧)…[名] 手首、あるいは肱につける装身具。貝殻、碧玉、金銀、ガラスなどの製品。
…(古訓) あたふ。
あたふ…[他]ハ下二 与える。(万)0210 若兒乃 乞泣毎 取與 物之無者 みどりこの こひなくごとに とりあたふる ものしなければ 〔乞ひ鳴く毎に取り与ふる物し無ければ〕
おのづま(己妻)…(万)1165 己妻喚 おのづまよぶも
みかどまゐりす…朝廷+"参る"の名詞形+サ変語尾。
おのが…(万)0946 莫告藻之 己名惜三 なのりその おのがなをしみ。
まゐおもむく…参赴く。
ひきそく…引き退く。
そく…[自]カ四 離れる。遠のく。 
そく…[他]カ下二 とりのぞく。
…(万)3329 夫君 きみ
そもそも…[接] 文頭に置き、「本来あるべき姿に立ち戻れば」を意味する。
やつこ(奴)…[名] やつ。人やものをいやしみ罵っていう語。
…〈百度百科〉本義〔原義〕:鬱煙、不火焔的燃焼而産-生出来的許多〔かなり多くの〕、多用于形容詞。釈義〔派生した意味〕:暖和;温暖。
…〈百度百科〉基本字義同“煴”。
あたたけし…[形]ク あたたかい。
…(古訓) しぬ。ころす。
しす…[他]サ下二 殺す。
…(古訓) つみ。
つみ(罪)…[名] その行為の報いとして課せられる罰を意味することもある。

【山部大楯連】
 これまでに出てきた「山部」は、応神天皇の「御世、定-賜海部山部山守部伊勢部」である (第152回)。
 書紀には、後に顕宗天皇元年に、来目部の小楯が「山部連」の姓を賜ったとあるが、直接的な関連はないと見られる。

【玉釼と玉釧】
 岩波書店『日本古典文学大系』版によると、「」は「訂正古訓古事記」のみで、 猪熊本(室町時代)は「〔かんざし〕、真福寺本(南北朝)は「」である。 「訂正古訓古事記」は、古事記伝の研究も取り入れた江戸時代の本であるというので、一定の解釈を含むことになる。
 くしろは、腕に巻く飾りである。万葉歌を見ると、
・(万)1766 吾妹兒者 久志呂尓有奈武 左手乃 吾奥手二 纒而去麻師乎 わぎもこは くしろにあらなむ ひだりての あがおくのてに まきていなましを 〔愛しい人はくしろになって欲しい。そうすれば左手に大切に巻いて連れていけるだろうに〕に、仮名表記されている。また、
・(万)1792 玉釧 手尓取持而 たまくしろ てにとりもちて。この歌は、「くしろ」に「」を当てている。
・(万)0041 釼著 手節乃埼二 くしろつく たふしのさきに
・(万)2865 玉釼 巻宿妹母 たまくしろ まきぬるいもも。 これら二首は、腕に着けた「くしろ」に「」を当てている。
 これらを見れば真福寺本の「玉釼」は、そのままで「たまくしろ」と訓むことに特に問題もなく、 敢えて「玉釧」に直す必要はないと言える。

【豊楽】
 漢熟語「豊楽」の意味は「〈汉典〉物質豊富、人民安楽。〔物質が豊かで、人民が生活を楽しむ〕である。 しかし、ここでは「」を指していことは疑いない。

【大后】
 書紀では既に八田皇女に代わっているが、記では石之日売が大后のままである。

【大御酒柏】
 「」はもともと葉を食器として用いたもののことであるが、食器そのものの意味もあったと思われる。 〈時代別上代〉も、「カシハデ〔膳夫〕という語の存在は、カシハの語自体にすでに食器の意のあったことを傍証している」と述べる。
 しかし、神聖な儀式では古式に則り本物の葉を用いたともありそうである。この段では陶器の盃に、 皇后が御酒を授ける高貴な盃という意味を込めて「」の語を用いたか。或いは、伝説に相応しく本物の「葉」の器として描いたか。

【見知其玉釼】
 「見知其玉釼」の訓読は、次の二通りが考えられる。
-知其玉釼」即ち「その玉釧を見(め)して知りたまへりて」。
知其玉釼」即ち「知りたまへるその玉釼を見(め)して
 が考えられる。 は「見已所知之其玉釼」から、""を省略したと見るものである。
 ①②以外として、宣長がそう訓んで現代語にもある「見知る」はどうであろうか。 すなわち、
その玉釼を見知りたまひて
 と訓む。 「見知る」からは、「()以前に見たことがある」玉釼を「()今再び見る」という二重の意味を感じ取ることができる。 万葉集を調べると、「吾(わご)大王」への枕詞「やすみしし」に、しばしば「安見知之」が宛てられるので、 「見(み)」と「知る」の直結に違和感はないと見られる。 それに対してのみ、のみしか表現できない。

【「引退」の行為者】
 「引退」は、「大楯連妻が『出ていきなさい』と言われて退出する」とも読めそうであるが、 直ちに「出其夫」に繋がるから、大后自らが退席したと取るのが自然であろう。
 大后は、疑わしい玉釼を見つけたので、大御酒を賜ることを途中でやめて退出し、女の夫を推問したのである。

【其王等因礼而退賜。是者無異事耳】
 「其王等」とは、速総別王と女鳥王を指し、「〔ゐやなし〕は彼らが天皇を裏切った行動を指す。従って「退賜」は、「天皇が追放した」という意味である。 従って「是者無異事」の訳は、「大楯連が命令に従って彼らを殺したことは当然である」となる。
 すぐ上に宴会場からの「引退」があるから紛らわしいが、 文章を書くときすぐ前に使った字を、無意識のうちに繰り返すことはありがちである。 この「退」もそれで、実は「逐」あるいは「殺」のことだと思えば、意味ははっきりする。 ことによると、元は「遂」だったのが早い時期の筆写で誤って「退」になったのかも知れない。 しかし、「退」でも十分意味が通るから、誤写か否かの判定は不可能である。

【夫之奴乎】
 「奴乎」が「この野郎が」と罵っていることは明白であるが、 その前の、「夫之」はなんだろうか。
 前後に「妻」に対する「夫」として使われているから、 「この夫の野郎が」にも見える。
 しかし、「」は、文を改めるときに文頭に付ける助詞として使われ、「それ」と訓読する。 ここでは、前文で「大楯連が命令に従って彼らを殺したことは当然である」と言った上で、「いけないのは~である」を導くために「そもそも」と挟むのが「夫」で、 「」は「奴」につく「此の」であろう。 即ち、「夫所纒己君之御手玉釼…」が本来の文で、「之奴乎」がその途中に挟まっている。

【死刑】
《死》
 「死()」は音読みである。訓とされながら上代以前に流入した音としては、「うま(馬)」、「かき(垣)」、「くに(国)」などが指摘されている。 おそらくは死="シ"も早期に流入して、「命を終える」意味も理解されていたと想像される。 そして、ナ変動詞の「いぬ」と融合して自動詞「しぬ」になり、他動詞「し-す」の語幹になったと見られる。 しかし、上代には名詞としての「し」は一時姿を消したようで、名詞形は「しに」となる。例えば、「(万)0897 死波不知 しにはしらず。」がある。
《死刑》
 「死刑」は、「五刑」の一つとして隋代〔581~618〕に定式化された。この語は間もなく倭にも流入したはずだから、 記は早速これを取り入れたと見られる。だから当時は、意外にも「シケイ」とよんでいたのかも知れない。
 しかし、古事記の読み聞かせに集まった村人は、当然「シケイとはなにぞや」と質問するから、 それに対して「そは、ころすつみぞ」(他にしぬるつみしにのつみしすべきつみ)などと説明したと想像される。 漢籍語の訓読とは、本質的にはこのようなことだから、漢籍語の訓は複数あり得る。
 とは言え、「死刑」という語には特にインパクトがあるから、音読み「シケイ」が浸透するのにそれほど時間はかからなかったと想像される。 倭語の「つみ」には、宗教・道徳おける精神的な"罪"も、法制度による物理的な"刑罰"も含むので、意味が確定するのは前後関係〔この場合「給はる」という語〕によってである。 しかし「ケイ」ならば単独で意味が確定するから音読が普及するのは必然的で、倭語によるあれこれの言い換えは過渡的であった。
 但し、外来語とは逆に「倭語を書く手段として、特定の方式によって漢字を用いた」場合は話は別で、本来の倭語が存在する。 和風漢文を構成する言葉には、この2種類が混在することに留意しなければならない。

【書記―四十年二月(2)】
24目次 《時雄鯽等探皇女之玉》
…(古訓) さくる。とる。
時雄鯽等、探皇女之玉、自裳中得之、
乃以二王屍埋于廬杵河邊而復命。
皇后令問雄鯽等曰「若見皇女之玉乎。」
對言「不見也。」

時に雄鯽(をぶな)等(ら)、皇女(ひめみこ)之(の)玉を探(さぐ)りて、自(みづから)の裳(も)の中(うち)に之(こ)を得(え)て、
乃(すなはち)二王(ふたみこ)の屍(かばね)を以ちて[于]廬杵(いほき)の河の辺(へ)に埋めまつりて[而]復命(かへりごとまをしき)。
皇后(おほきさき)雄鯽等(ら)に問は令(し)めて曰(い)はく「若(もしや)皇女(ひめみこ)之(の)玉を見きや[乎]。」ととはしめて、
対(こた)へて言(まをさく)「不見(みまつらず)[也]。」とまをす。

命婦…〈汉典〉 [a woman in ancient China who was given a title or rank by the emperor]
 古時被-予封号的婦女、一般為官員的母親、妻子
〔古代、封号を与えられた婦女。一般に官僚の母親・妻子〕
是歲、當新嘗之月、
以宴會日、賜酒於內外命婦等。
於是、近江山君稚守山妻與采女磐坂媛、
二女之手有纏良珠。

是の歳(とし)、新嘗(にひなへ)之(の)月に当たりて、
宴会(うたげ)の日を以ちて、[於]内外(うちそと)の命婦(つかさのつまむすめ)等(たち)に酒(みき)を賜りき。
於是(ここに)、近江(ちかつあふみ)の山の君稚守山(わかもりやま)の妻与(と)采女(うねめ)磐坂媛(いはさかひめ)、
二(ふたりの)女(をむなめ)之(の)手に良き珠(たま)纏(まつ)ひて有り。

すでに…[副] ①すでに。②すっかり。~し尽くす。
…罪人をとことんまできわめて取り調べる。
 (古訓) きはむ。つくす。とふ。
きはむ…[他]マ下二 極限までつきつめる。
皇后、見其珠既似雌鳥皇女之珠、
則疑之、命有司推問其玉所得之由。
對言「佐伯直阿俄能胡妻之玉也。」
仍推鞫阿俄能胡、
對曰「誅皇女之日、探而取之。」

皇后、其の珠既(すでに、ことごと)雌鳥皇女(めとりのひめみこ)之(の)珠に似るを見(め)して、
則(すなはち)之(こ)を疑ひて、有司(つかさ)に命(おほ)せて、其の玉を所得之(えし)由(よし)を推問(とはしめば、すいもむして)、
対(こた)へて言(まを)さく「佐伯(さへき)の直(あたひ)阿俄能胡(あがのこ)の妻之(の)玉なり[也]。」とまをす。
仍(すなはち)阿俄能胡を推鞫(きはめれば、すいきくして)、
対へて曰(まをさく)「皇女を誅(ころ)せし[之]日、探りて[而]之(こ)を取りき。」とまをす。

…(古訓) あかふ。つくのふ。
あかふ…[他]ハ四 物を代償として罪や苦難を逃れる。
つくのふ…[他]ハ四 賠償する。
(代)…[名] 代金。
たまで(玉代)…[名] 命の代わりになるもの。魂(たま)+代(て)。
卽將殺阿俄能胡。
於是阿俄能胡、乃獻己之私地、請贖死。
故納其地赦死罪、是以、號其地曰玉代。

即ち[将]阿俄能胡を殺さむとしたまふ。
於是(ここに)阿俄能胡、乃(すなはち)己之(おのが)私(わたくし)せし地(ところ)を献(たてまつ)りて、死(しに)を贖(あか)ひまつらむと請(ねが)ひき。
故(かれ)其の地(ところ)を納(をさ)めて死(し)する罪を赦(ゆる)したまひて、是(こ)を以ちて、其の地(ところ)を号(なづ)けて、玉代(たまで)と曰ふ。

《近江山君稚守山》
 「近江山君」は、近江国小槻山君(小月山君)と同一かと思われる。 小月君は、垂仁天皇の皇子落別王を祖とする(第116回)。
《品遅部雄鯽と佐伯直阿俄能胡》 
 「雄鯽等」が雌鳥皇女の宝を持ち帰ったと書くが、罪に問われたのは阿俄能胡のみである。 これは、推問で挙げられた名前が、「阿俄能胡」だけだったからである。 雄鯽夫妻は用心深く、足がつくような真似をしなかったか、さもなければ推門に対して雄鯽の名を伏せたかの、どちらかである。
 前者なら阿俄能胡は間抜けで、後者なら阿俄能胡だけを犯人しておけば丸く収まるという暗黙の合意が、取り調べ側・調べられる側の双方にあったと見られる。 何れにしても、佐伯ならばさもあらんと、当時の人々に思われていたようだ。 佐伯部はさらに、賂によって死刑を免れるような人物として描かれる。 逆に雄鯽は罪に問われないから、「品遅部」は高貴な家柄だったのかも知れない。
 なお、「阿俄能胡」即ち「アガノ」は、「吾が乃子」と同じ発音なので、 私利私欲を表す人物名だと思われる。
《大意》
 時に雄鯽(おぶな)たちは、皇女の玉を探り、自らの裳(も)の中に収め、 二人の王の屍を廬杵(いおき)川の川辺に埋めて復命しました。
 皇后は雄鯽たちに 「もしや、皇女の玉を見なかったか。」と質問させたところ、 「見ませんでした。」と答えました。
 この年、新嘗(にいなめ)の月となり、 宴会の日に、内外の官僚の妻・娘を集めて御酒を振る舞われました。 そのとき、近江の山の君稚守山(わかもりやま)の妻と采女の磐坂媛(いわさかひめ)の 二人の女の手に良い珠を纏っていました。
 皇后は、この珠が本当に雌鳥皇女(めとりのひめみこ)の珠と似ているのを見て、 これを疑い、担当官に命じて、その珠を手に入れた経緯をを推問させたところ、 「佐伯の直(あたい)、阿俄能胡(あがのこ)の妻の珠です。」と答えました。 そこで、阿俄能胡を推鞫(すいきく)したところ、 「皇女を殺した日、探ってこれを奪いました。」と答えました。
 ただちに阿俄能胡を殺そうとしましたが、 阿俄能胡は、その私有する土地を献上して、死に変えて贖(あがな)いたいと願い出ました。 そこでその土地を納めて死罪を赦免し、このことによりその土地は、玉代(たまで)と名付けられました。


【廬杵河】
《家城》
 古事記伝は 「廬杵河は、谷川氏云、今の一志家城川なるべし、 河口と云〔いふ〕も此川の口なりと云〔いへ〕り、家城川は、雲出クモヅ川の上〔かみ〕にて、川を隔て北家城村、南家城村とてあり、 川口と云は其方なり、北家城村の辺に、石を畳〔たたみ〕て造れる窟ありて、 里人夫婦メウトイハヤと云〔いへ〕り、 是〔これ〕〔この〕ニ王の御墓なるべし、」 として、家城〔いへき〕と廬杵〔いほき〕を同一視している。
 しかし、上代特殊仮名遣いでは「家城(いへき)」「廬杵(いほき)」の不一致があり、これらが仮に同一だとすれば「家城」の表記が用いられるようになったのは、甲乙の区別が消滅した平安時代以後となる。 なお、家は「いへ」であるが、「家城」が平安時代の字だから、これも当てにならない。
《日置》
 〈倭名類聚抄〉で壹志〔一志〕郡・飯野郡・飯高郡・多氣郡・度會〔度会〕の範囲から、類似する郷を探したところ、 {伊勢國・壹志郡・日置【比於木】郡}があった。日置村は、町村制〔1889年〕で高岡村の一部となった。 現代地名の「三重県津市一志町日置」が江戸時代の日置村に当たると見られる。
 この地もまた、雲出川に近い。 「置き」は「置く」(四段)の連用形だから「おき」だが、「比置木」は「ひおき」である。 従って、〈倭名類聚抄〉の訓注は、平安時代のものである。
 『日置氏の研究』(前川明久)において、 古事記伝から「モト弊伎ならむには、日置と書こといかなる由にかあらむ、 又弊伎を正しとせば、比於伎とあるは、文字に就てやや後のさかしら訓にやあらむ」を引用した上で、 「宣長の仮説はむしろ逆で、ヒオキ(ギ)がヘキ(ギ)に転訛したのであろうと考える。」と述べる。
 どちらにしても、日置が弊伎(ヘ)であったとすれば、「イヘキ」「イホキ」と類似するが、 これらの起源が同一であるかどうか、判断は難しい。
《イヘキの広がり》
 もし、判断材料が「家城」の一か所だけならば、「廬杵」とは偶然の一致に過ぎないかも知れない。 しかし、ヘキイヘキが同一だとすれば、一志郡の北部、雲出川流域の広い範囲の地名となり、この川がイヘキ川(イホキ川)であった可能性は俄然高まる。 ニ皇子の逃走伝説も、実際にこの地の伝説だったのかも知れないということになる。
 ただこの場合は、伊勢神宮に向かうには、雲出川を河口まで下ってから海岸沿いに進むコースになり、かなり回り道である。船を用いたのだろうか。

【玉代】
 姫路市に、地名「玉出」がある。この地の大年神社(姫路市玉手3丁目328)について「兵庫県神社庁」のサイトに、 「創始は仁徳天皇の御年40年(352)のことになる。」とあり、 この神社を阿俄能胡の伝説と関連付けている。
 さらに「玉代村今玉手と書す、当国第一の旧知なり、仁徳40年記に見えたり、とある。(事始経歴考) 所在地を「字〔あざ〕玉台」と称するのは、村名起因の古蹟のことを示しており、祭神も最古より鎮座されていたものと考えられる。」と述べる。 つまり、「玉代村」は「たまでむら」と訓まれていた。
 そして、「古くより住民たちは「玉」は「貝」を意味し、昔この地では貝がたくさんとれたようだと語り継がれてきた。 この玉手の西側に苫編という町があり、その山の中腹に貝塚があることから、正しい見解だと思われる。 」 とある。このように「玉は貝を意味する」と述べていることは、釧(くしろ)が〈時代別上代〉「古くは貝殻を用いて真ん中に穴をあけて作った」とされることを考え合わせると興味深い。
 なお、大年神社は年の神を祀る神社で、姫路市周辺にも多数ある。
《玉代と書紀》
 「玉手」は、〈倭名類聚抄〉{播磨国・餝磨郡}にあり、 佐伯直の発祥伝説に出てくる「神崎郡」の下流にあたる(第122回《播磨別(佐伯直)》)。 なお、〈新撰姓氏録〉の「神崎郡」は、〈倭名類聚抄〉には「神城郡」、〈播磨国風土記〉逸文には「神前郡」である。 『大日本地名辞書』には「神崎(カンザキ)郡:郡神東(ジントウ)、神西(ジンサイ)の二郡に分ちし地なり、明治二十九年〔1896〕、之を復す」とある。
 地名「玉代」は、単に語呂の合う地名を拾ったに過ぎないように見える。 しかし、玉手の住民の言い伝えを見ると、古代にはこの地で貝殻を美しい腕飾りに加工していたかも知れないことも、関係がありそうに思える。 つまり、当時の「珠釧」には、時に玉代の産出物のイメージが重なっていたために、 自然に「玉代」が絡んだのではないか。 玉釧を不法に得た罪を償うために、玉釧を産出する土地を献上したとすれば、辻褄が合うのである。

まとめ
 記では、書紀のように漢籍の語を生硬なまま用いることはほとんどないが、 この段では珍しく「死刑」という語が出てきた。 この語が倭語に組み込まれていく過程について簡単に検討したが、同様なさまざまの語が出てくるたびに、検討が必要となろう。
 さて、書記は玉釧掠め取りの罪を、佐伯直阿俄能胡一人に負わせた。佐伯は勇猛ではあるが、粗野なイメージを負わせている。 書記は、日本武尊本人を表立って非難することはしないが、東国から連れ帰った佐伯を貶めることによって間接的に責めているように思われる。 記では「山部大楯連」という、あまり出自が知られない人物が将軍であるが、書紀はこの意図を以って人物を差し替えたように感じられる。



2017.09.12(tue) [173] 下つ巻(仁徳天皇13) 

亦一時天皇爲將豐樂而
幸行日女嶋之時 於其嶋鴈生卵
爾召建內宿禰命 以歌問鴈生卵之狀
其歌曰

亦(また)一時(あるとき)天皇(すめらみこと)[将]豊楽(たのしび)せむと為(し)て[而]、
日女嶋(ひめしま)に幸行(いでま)しし[之]時、[於]其の嶋にて鴈(かり)卵(こ)生みて、
爾(ここに)建内宿祢命(たけのうちすくねのみこと)を召したまひて、歌(みうた)を以ちて鴈の生卵(こう)みし[之]状(かたち)を問ひたまひき。
其の歌(みうた)の曰(い)はく。


多麻岐波流 宇知能阿曾 那許曾波 余能那賀比登
 蘇良美都 夜麻登能久邇爾 加理古牟登岐久夜

多麻岐波流(たまきはる) 宇知能阿曽(うちのあそ) 那許曽波(なこそは) 余能那賀比登(よのながひと)
 蘇良美都(そらみつ) 夜麻登能久邇爾(やまとのくにに) 加理古牟登岐久夜(かりこむときくや)


於是建內宿禰 以歌語白

於是(ここに)建内宿祢、歌を以ちて語り白(まを)さく。


多迦比迦流 比能美古 宇倍[志]許曾 斗比多麻閇
 麻許曾邇 斗比多麻閇 阿禮許曾波 余能那賀比登
 蘇良美都 夜麻登能久邇爾 加理古牟登 伊麻陀岐加受

多迦比迦流(たかひかる) 比能美古(ひのみこ) 宇倍[志]許曽(うべこそ) 斗比多麻閇(とひたまへ)
 麻許曽邇(まこそに) 斗比多麻閇(とひたまへ) 阿礼許曽波(あれこそは) 余能那賀比登(よのながひと)
 蘇良美都(そらみつ) 夜麻登能久邇爾(やまとのくにに) 加理古牟登(かりこむと) 伊麻陀岐加受(いまだきかず)


如此白而 被給御琴歌曰

如此(かく)白(まを)して[而] 御琴(みこと)ひき被給(たまは)りて、歌(みうた)曰(よみまつらく)。


那賀美古夜 都毘邇余斯良牟登 加理波古牟良斯

那賀美古夜(ながみこや) 都毘邇余斯良牟登(つひによしらむと) 加理波古牟良斯(かりはこむらし)


【此者本岐歌之片歌也】

【此者(こは)本岐歌(ほきうた)之(の)片歌(かたうた)なり[也]。】


 また或る時、天皇(すめらみこと)は楽しみを求め、 日女嶋(ひめしま)に行幸された時、その嶋では鴈が卵を生むとお聞きになりました。 そこで、建内宿祢命(たけのうちすくねのみこと)を召され、歌によって鴈が卵を生む様子をお尋ねになりました。
 その歌は。
――たまきはる 内の朝臣(あそ) 汝(な)こそは 世の長人(ながひと) そらみつ 倭の国に 雁卵産(こむ)と聞くや
 それに、建内宿祢、歌に語り申しあげました。
――高光る 日の御子 諾(うべ)こそ 問ひ給へ 真(ま)こそに 問ひ給へ 吾(あれ)こそは 世の長人 そらみつ 倭の国に 雁卵生(む)と 未だ聞かず
このように申して、御琴を弾いて下さり、歌詠み申しあげました。
――汝(な)が御子や 遂によ知らむと 雁は卵産らし
【これは、祝歌(ほきうた)の片歌(かたうた)です。】


…〈倭名類聚抄〉鴻雁:大曰鴻。小曰鴨。【和名加利】
かり(雁)…カモ科ガン亜科のうち、カモより大きくハクチョウより小さい一群の総称。
…[名] (古訓) かたち。
たまきはる…[枕]〈時代別上代〉語義・かかり方、未詳。
こむ…[名+自] 「こ(卵)-うむ(産む)」の母音融合。
たかひかる…[枕] 空高く光るの意味で、日にかかる。
ひのみこ(日御子)…[名] 天皇・皇子などに対する尊称。
うべ(諾)…[副] なるほど。下の句の内容に同意を与える。

【歌意】
たまきはる 内の朝臣あそ こそは 世のなが人 そらみつ やまとの国に 雁卵産こむと聞くや
〔長生きしている建内宿祢、この国で雁が卵を産むと聞いたことはあるか〕
《たまきはる》
 枕詞「たまきはる」は、 〈古典基礎語辞典〉は「タマは魂・玉・霊、キハルは刻む、または、極まる意で、 『命』『現(うつ)』などにかかる。また、そのウチから『心』、同音の地名『内』『宇智』に…かかるという。」と述べる。
 〈時代別上代〉の見解では、「霊極る」なる解釈は万葉になって現れ、新たな解釈を与えたものとする。 それでは、それ以前はどうだったかと言うと、「『玉切る』などと説かれるが決定しがたい」という。
《世の長人》
 記では建内宿祢のもともとの活動期間は50年間程度、 書記では、武内宿祢の活動期間は439年間以上と見積もった (第108回)。
 第160回で検討したように、
 しかし、記においては応神天皇の即位以前を120年遡らせていると見られることを考慮し、 政務天皇が崩御年は235年、仲哀天皇はその年に即位し、建内宿祢が大臣として仕え始めたとする。 仁徳天皇の崩御年を432年とすると、仲哀天皇・神功皇后・仁徳に仕えた期間は197年間となる。 建内宿祢が雁の産卵を質問された年は、その197年間の末期であるから、相当の「世の長人」であることは間違いない。
 書紀の場合は、仲哀天皇即位が192年、仁徳天皇50年は362年になるから、 仕え始めてから170年目ということになる。
高光る 日の御子 うべこそ 問ひ給へ こそに 問ひ給へ あれこそは 世の長人 そらみつ やまとの国に 雁卵生こむと 未だ聞かず
〔帝がお聞きになりたいのはもっともですが、この国で雁が卵を産むとは未だに聞いたことがございません〕
《うべこそ(うべしこそ)》
 真福寺本では「宇倍許曾」であるが、猪熊本などでは「宇倍志許曾」で、こちらが標準とされている。 「うべ」は副詞であるから「す(為)」で受けるべきだとする考えも分からないではないが、 「うべ問ひ給ふ」に「こそ」が挿入される形に、特に問題はないと思われる。 むしろ「ひのみこうべしこそ」の9文字では七五調が崩れ過ぎることを思うと、8文字の方がまだ程度が軽い。
 「こそ-已然形」(この場合は、「諾こそ問ひ賜へ」)の係り結びは、続く節に対してしばしば逆説となる。 すなわち、「帝がそうお尋ねになられることはもっともだと存じますが」と相手の気持ちを配慮しながらも、 「私の長い人生を通して、そのようなものは未だ見たことがありません」とはっきり否定する。
が御子や 遂に[よ]知らむと 雁は卵産らし
〔御子は遂に知ってしまわれたようですな、雁が卵を産んだらしいことを〕
《歌意》
 一時は間違った報告を信じてしまった御子を皮肉って、節をつけて歌う。一種の戯れ歌。 帝は自ら琴で伴奏して、繰り返し賑やかに歌ったのであろう。
《汝が御子》
 「汝が御子」は「あなたの子供」以外に考えられないが、この場に帝の母がいたとも思えない。 事実から離れて歌として歌ったものであろう。
 この物語が、本来は神功皇后と誉田別皇子のものではないかと思われる所以である。
《つひに[よ]》
 「都毘邇斯良牟登」の""(よ)は、 猪熊本などには見られない。もし誤写でないとすれば「」に類似する間投助詞で、詠嘆となる。 琴の伴奏がつく賑やかな歌なので、あってもよいように思われる。
国東半島と姫島(右上)
NASA;ja.wikipedia.org
《祝歌の片歌》
 この状況から、「ほぎ歌の片歌」とは、祝いの宴席で賑やかに歌う、断片的な歌詞の歌であるという意味が見えてくる。

【日女嶋】
 「姫島」はいずれも小さな島であるが、愛知県田原市、福岡県糸島市、五島列島福江島近く、大分県国東半島の北にある。 また、現在は島ではないが、大阪市西淀川区に「姫島」がある。
《姫島》
 『古事記伝』は、伊邪那美命が12番目に産んだ「女島」について 「女島は、シマなるを、日字の 脱たるなり、此は今筑前の海中玄海ゲムカイガ島と、肥前の名児屋〔名護屋〕との、間の〔中略〕 【また豊後国直入郡の東北の海にも姫島あれども此は其には非じ。】」と述べる。 すなわち、宣長説ではで、は違うとする。しかし、現在の通説はである。 ただ、「女島」の伝統訓が「ひめしま」となっているのは、宣長説によると思われる (第35回)。
 国生みの島のうち、淡路島、小豆島、吉備児島は瀬戸内海にあるから、 「女島」も瀬戸内海で、の可能性はある。
 仁徳天皇段の日女島についても、瀬戸内海の姫島である可能性もあるが、仁徳天皇はほぼ難波で活動し、西国に行幸した記述はない。 そこから考えれば、日女島はかつて大阪湾に浮かんでいて、現在は淀川の岸の地名となった姫島と考えるのが妥当である。
 ただ前項「祝歌の片歌」で述べたように、もともと神功皇后にあるべき話だとすれば、 国東半島の姫島でも案外自然である。仁徳天皇紀五十三年条は本来神功皇后記の話である可能性があることを考えると、 本段も、もともと神功皇后段の内容かも知れない。
 一方、書紀の「茨田堤」と距離が近いのは、当時の大阪湾の「姫島」である。 あるいは、書紀は記の「日女島」が遂に特定できなかったから、茨田堤に場所を移した可能性もある。

【雁】
 (カリ、ガン)の、代表的な種を見る。
真雁雁行
 マガンはシベリアで繁殖し、秋になると幼鳥を伴って家族単位で日本に飛来する。 日本へは冬鳥として石川県・宮城県・新潟県に飛来する(参考ページ)。
 カリガネは、<wikipedia>ツンドラや森林ツンドラ境界線の地表に巣を作り、5-6月に1回に3-8個(平均5個)の卵を産む</wikipedia>。
 また、オオヒシクイは、<wikipedia>夏季にシベリア東部で繁殖し、冬季になると中国や日本へ南下する</wikipedia>。

【被給御琴歌曰】
 第三歌を詠んだのは天皇と建内宿祢のどちらかであるかが見分けにくいが、 尊敬語「御琴」と受身形「被給」によって、 建内宿祢が、天皇に御琴を演奏していただいたと識別される。 つまり、歌を詠んだのは建内宿祢である。

【書記―五十年】
26目次 《河內人奏言於茨田堤鴈産之》
五十年春三月壬辰朔丙申、河內人奏言
「於茨田堤、鴈産之。」
卽日、遣使令視、
曰「既實也。」
天皇於是、歌以問武內宿禰曰、

五十年(いとせ)春三月(やよひ)壬辰(みづのえたつ)を朔(つきたち)として丙申(ひのえさる)〔二十九日〕、河内(かふち)の人奏(まを)さく、
「[於]茨田(まむた)の堤(つつみ)に、鴈(かり)[之]産(こう)みき。」と言(まを)す。
即日(そのひ)、使(つかひ)を遣(つかは)して視(み)令(し)めて、
曰(まを)ししく「既にして実(まこと)なり[也]。」とまをしき。
天皇於是(ここに)、歌(みうたよみ)たまひ以ちて武内宿祢(たけのうちのすくね)に問ひたまはく[曰]、

あきづしま…[枕] ヤマトにかかる。〈時代別上代〉そのヤマトのさす範囲は日本の国、大和の国のように、広狭ともに例がある。
多莽耆破屢 宇知能阿曾 儺虛曾破 豫能等保臂等
 儺虛曾波 區珥能那餓臂等 阿耆豆辭莽
 揶莽等能區珥々 箇利古武等 儺波企箇輸揶

多莽耆破屢(たまきはる) 宇知能阿曽(うちのあそ) 儺虚曽破(なこそは) 予能等保臂等(よのとほひと)
 儺虚曽波(なこそは) 区珥能那餓臂等(くにのながひと) 阿耆豆辞莽(あきづしま)
 揶莽等能区珥々(やまとのくにに) 箇利古武等(かりこむと) 儺波企箇輸揶(なはきかすや)

武內宿禰答歌曰、

武内宿祢答歌(かへしうた)曰(よみまつらく)。

やすみしし…[枕] 天皇にかかる。「八隅知し」と書いて「国の隅々まで知ろしめす」、また、「安見知之」と書いて「国を安らかに治める」意味を表す。
夜輸瀰始之 和我於朋枳瀰波 于陪儺于陪儺 和例烏斗波輸儺
 阿企菟辭摩 揶莽等能倶珥々 箇利古武等 和例破枳箇儒

夜輸瀰始之(やすみしし) 和我於朋枳瀰波(わがおほきみは) 于陪儺于陪儺(うべなうべな) 和例烏斗波輸儺(われをとはすな)  阿企菟辞摩(あきづしま) 揶莽等能倶珥々(やまとのくにに) 箇利古武等(かりこむと) 和例破枳箇儒(はれはきかず)

《大意》
 五十年三月二十九日、河内(かふち)の人が、 「茨田(まむた)の堤に、鴈が卵を産みました。」と奏上しました。
 即日、使者を派遣させて確認させたところ、 「全くまことでございます。」と報告しました。
 天皇はそこで、この御歌を詠まれて武内宿祢(たけのうちのすくね)に質問されました。
――たまきはる 内の朝臣(あそ) 汝(な)こそは 世の遠人(とほひと) 汝こそは 国の長人(ながひと) 秋津洲(あきづしま) 日本(やまと)の国に 雁卵産(こむ)と 汝は聞かすや
 武内宿祢は、返歌をお詠みしました。
――安見知し 吾(わ)が大君は 諾(うべ)な諾な 吾(われ)を問はすな 秋津洲 日本の国に 雁卵産と 吾は聞かず


【歌意ー書記】
たまきはる 内の朝臣あそ こそは 世の遠人とほひと 汝こそは 国の長人ながひと 秋津洲あきづしま 日本やまとの国に 雁卵産こむと 汝は聞かすや
〔長生きの人である建内宿祢よ、お前はこの国で雁が卵を産むと聞いたことはあるか。〕
安見知し が大君は うべな諾な われを問はすな 秋津洲 日本の国に 雁卵産と 吾は聞かず
〔天皇がお聞きになりたいのはもっともだが、私に聞いてくださるな。この国で雁が卵を産むとは聞いたことがない。〕
《表現》
 記の類歌にある「日の御子」「汝が御子」を「我が大王」に変えるなど、より直接的に表現して曖昧さを取り除こうとする傾向が見られる。

まとめ
 雁が北の国で産み育てた幼鳥を連れて渡ってくることを、当時の人は十分に知っていたはずである。 従って、国内で産卵したなどと言われるのは、何かの間違えだとする建内宿祢の答は、極めて常識的である。
 仁徳天皇段にこの話を収めたことに意味があるとすれば、不確かな噂を安易に信じるなという警告とも、 土木事業によって民に物質的な豊かさをもたらした、仁徳朝の治世のリアリズムの一つ表現とも受け止め得るが、どちらも十分な説明とは言い難い。
 仮にそのような側面があったにしても、基本的にはこのような伝説が存在し、単純にそれが面白い話だから収めたのだろう。
 なお第三歌を見ると、もともとは神功皇后・誉田別皇子・建内宿祢の話として存在した気配がある。 書記では、そのような可能性を排除する形に整理している。日女嶋を茨田堤に変えたのも、そのためかと思われる。