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[166]  下つ巻(仁徳天皇6)

2017.08.05(sat) [167] 下つ巻(仁徳天皇7) 

自此後時 太后爲將豐樂而
於採御綱柏幸行木國之間
天皇婚八田若郎女

此の後(のち)の時自(よ)り、太后(おほきさき)将豊楽(ゆたかにたのしびせむ)と為(おもほ)して[而]、
[於]御綱柏(みつなかしは)を採らむがために木国(きのくに)に幸行(いでまし)し[之]間(ま)に、
天皇(すめらみこと)八田若郎女(やたのわかいらつめ)を婚(よばひ)たまひき。


於是 太后御綱柏積盈御船還幸之時
所駈使於水取司吉備國兒嶋之仕丁
是退己國
於難波之大渡遇所後倉人女之船
乃語云
天皇者
此日婚八田若郎女而晝夜戲遊
若太后不聞看此事乎 靜遊幸行

於是(ここに)、太后の御綱柏(みつなかしは)の積盈(みてる)御船(みふね)還幸(かへりまし)し[之]時、
[於]水取司(もひとりのつかさ)に所駈使(はゆまにつかはえし)吉備国(きびのくに)の児嶋(こじま)之(の)仕丁(つかへのよほろ)、
是(これ)己(おのが)国に退(そ)きて、
[於]難波(なには)之(の)大渡(おほわたり)に[所]後(おく)れたる倉人女(くらびとめ)之(の)船に遇(あ)ひて、
乃(すなはち)語りて云ひしく、
「天皇(すめらみこと)者(は)
此日(このころ)八田若郎女(やたのわかいらつめ)を婚(よば)ひて[而]昼夜(よるひる)戯(たはぶ)れ遊ばす。
若(もしや)太后(おほきさき)此の事を不聞看(きこしめさざ)りや[乎]、静(しづか)に幸行(いでま)し遊ばすは。」といひき。


爾其倉人女聞此語言 卽追近御船
白之狀具如仕丁之言
於是太后大恨怒
載其御船之御綱柏者悉投棄於海
故號其地謂御津前也

爾(ここに)其の倉人女此の語り言(ごと)を聞きて、即ち御(み)船に追ひ近づき、
白之状(まをししさま)具(つぶさに)仕丁(つかへのよほろ)之(の)言(こと)の如(ごと)くして、
於是(ここに)太后(おほきさき)大(おほ)きに恨(うら)み怒りて、
其の御船に載(つ)みし[之]御綱柏を者(ば)悉(ことごとく)[於]海に投棄(なげう)ちき。
故(かれ)其の地(ところ)を号(なづ)けて御津前(みつのさき)と謂ふ[也]。


卽不入坐宮而引避其御船
泝於堀江 隨河而上幸山代
此時歌曰

即ち宮に不入坐(いりまさず)して[而]其の御船を引き避けて、
[於]堀江を泝(さかのぼ)りて、河の隨(まにまに)ゆきて[而]山代(やましろ)に上幸(のぼりましき)。
此の時歌曰(みうたよみたまはく)。


都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 迦波能煩理
 和賀能煩禮婆 迦波能倍邇 淤斐陀弖流
 佐斯夫袁 佐斯夫能紀 斯賀斯多邇 淤斐陀弖流
 波毘呂 由都麻都婆岐 斯賀波那能 弖理伊麻斯
 芝賀波能 比呂理伊麻須波 淤富岐美呂迦母

都芸泥布夜(つぎねふや) 夜麻志呂賀波袁(やましろがはを) 迦波能煩理(かはのぼり)
 和賀能煩礼婆(わがのぼれば) 迦波能倍邇(かはのへに) 淤斐陀弖流(おひたてる)
 佐斯夫袁(さしぶを) 佐斯夫能紀(さしぶのき) 斯賀斯多邇(しがしたに) 淤斐陀弖流(おひたてる)
 波毘呂(はびろ) 由都麻都婆岐(ゆつまつばき) 斯賀波那能(しがはなの) 弖理伊麻斯(てりいまし)
 芝賀波能(しがはの) 比呂理伊麻須波(ひろりいますは) 淤富岐美呂迦母(おほきみろかも)


卽自山代廻到坐那良山口歌曰

即ち山代自(よ)廻(めぐ)りて那良山(ならやま)の口に到り坐(ま)して、歌曰(みうたよみたまはく)。


都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 美夜能煩理
 和賀能煩禮婆 阿袁邇余志 那良袁須疑
 袁陀弖 夜麻登袁須疑 和賀美賀本斯久邇波
 迦豆良紀多迦美夜 和藝幣能阿多理

都芸泥布夜(つぎねふや) 夜麻志呂賀波袁(やましろがはを) 美夜能煩理(みやのぼり)
 和賀能煩礼婆(わがのぼれば) 阿袁邇余志(あをによし) 那良袁須疑(ならをすぎ)
 袁陀弖(をだて) 夜麻登袁須疑(やまとをすぎ) 和賀美賀本斯久邇波(わがみがほしくには)
 迦豆良紀多迦美夜(かづらきたかみや) 和芸幣能阿多理(わぎへのあたり)


如此歌而還
暫入坐筒木韓人名奴理能美之家也

此の歌(みうた)の如くして[而]還(かへ)りたまひて、
暫(しまらく)筒木(つつき)の韓人(からひと)、名は奴理能美(ぬりのみ)之(の)家(いへ)に入坐(いりま)しき[也]。


天皇聞看其太后自山代上幸而
使舍人名謂鳥山人送御歌曰

天皇其の太后山代自(よ)上幸(のぼりましき)と聞看(きこしめ)して[而]、
舎人(とねり)、名は鳥山(とりやま)と謂ふ人を使(つか)はして御歌(みうた)を送らしめて曰(よみたまはく)。


夜麻斯呂邇 伊斯祁登理夜麻 伊斯祁伊斯祁
 阿賀波斯豆麻邇 伊斯岐阿波牟加母

夜麻斯呂邇(やましろに) 伊斯祁登理夜麻(いしけとりやま) 伊斯祁伊斯祁(いしけいしけ)
 阿賀波斯豆麻邇(あがはしつまに) 伊斯岐阿波牟加母(いしきあはむかも)


 この時から後、皇后は豊かに楽しもうと思われ、 みつな柏(かしわ)を採りに紀国に行かれた間に、 天皇は八田若郎女(やたのわかいらつめ)と結婚されました。
 そして、皇后のみつな柏を満載した御船が帰られた時、 水取司(もひとりのつかさ)によって駈使(はゆまづかい)を命じられた吉備国の児嶋(こじま)の仕丁(しちょう)〔徴用された者〕 は自分の国に帰る途中、 難波の大渡(おおわたり)で御船を追走する倉人女(くらびとめ)の船に遭遇し、 こう語りました。
 「天皇(すめらみこと)は、 八田若郎女(やたのいらつめ)と結婚し、昼も夜も戯れ遊ばしています。 もしかしたら、皇后はこの事が耳に入っておられないのでは。平穏に行かれ遊ばせますので。」と。
 そこでその倉人女はこの語り言を聞き、直ちに御船に追い近づいて 申しあげたことは、つぶさに仕丁の言葉の通りでした。
 すると皇后は大いに恨んで怒り、 その御船に載んでいた御綱柏を、ことごとく海に投げ棄てました。
 その故に、その地は御津前(みつのさき)と名付けられました。
 そして宮にお付けにならずに御船を返して離れ、 堀江を遡って、山代に向かって川を上られました。 この時御歌を詠まれました。
――つぎねふや 山代川(がは)を 川(かは)上り 吾(わ)が上れば 川の辺に 生(お)ひ立てる 烏草樹(さしぶ)を 烏草樹の木 其(し)が下に 生ひ立てる 葉広(はびろ) 斎(ゆ)つ真椿(まつばき) 其が花の 照り坐(いま)し 其が葉の 広り坐すは 天皇(おほきみ)ろかも
 そして、山代から回って、那良山(ならやま)口に到着され、御歌を詠まれました。
――つぎねふや 山代川を 宮上り
吾が上れば 青丹吉(あをによし) 那良を過ぎ 小楯(をだて) 倭(やまと)を過ぎ 吾が見が欲し土(くに)は 葛城(かづらき)高宮 吾家(わぎへ)の辺り
 此の御歌のようにして帰られ、 しばらく筒木(つつき)〔綴喜〕の韓人(からひと)、名は奴理能美(ぬりのみ)という人の家に入られました。
 天皇は皇后が山代方面に上られたとお聞きになり、 舎人(とねり)、名は鳥山(とりやま)という人を使いとしてこの御歌を送られました。
――山代に い及(し)け鳥山 い及けい及け 吾(あ)が愛(は)し妻に い及き遇はむかも


豊楽…物資が豊富で、人民が生活を楽しむ。
ために…目的を表す構文の例:(万)4222 和藝毛故尓 美勢牟我多米尓 母美知等里氐牟 わぎもこに みせむがために もみちとりてむ〔私の可愛い妹(いも)のために、紅葉を採ってしまおう。〕
みつなかしは…[名] 先が3つに割れた大きな木の葉。「みつのかしは」とも。
はゆま…[名] 早馬。街道の各駅に置かれた。急使の意味でも用いる。
仕丁…使用人。律令制においては、一郷(50戸)ごとに二人を任期3年で徴用し、労働にあたらせたとされる。「よほろ」「つかへのよほろ」と訓む。
よほろ…[名] 膝の裏。足を曲げると閉じる部分。〈倭名類聚抄〉「膕【和名与保呂】」。 労働において足を曲げ伸ばしすることから、「仕丁」の訓に転じたとされる。
もひとり…水を掌る。
もひとりのつかさ(水取司)…[名] 〈倭名類聚抄〉主水司【毛比止里乃豆加佐】
…(古訓) をくらす。をくれたり。
おくる(後る)…[自]下二 時間的・空間的に後になることをいう。
くらびと(倉人)…[名] 平安時代初めに官職「くらうど」(蔵人)。
にょくらうど(女蔵人)…[名] (平安) 宮中に仕える下級の女官。
くらびとめ(倉女)…[名] 後世の「女蔵人」に通ずる語と思われる。
つぎねふや…[枕] 山城(山背)にかかる。
…[動] さかのぼる。(古訓) うかふ。さかのほる。
おふ(生ふ)…[自]ハ上ニ〔連用形オヒ 生える。
さしぶ…[名] 〈倭名類聚抄〉烏草樹【佐之天〔夫?〕乃紀】
しが(中称の代名詞)+(格助詞)。=「その」。
しく(及く)…[他]カ四 及ぶ。
をだて(小楯)…[枕] 倭(大和)にかかる。〈時代別上代狭義のヤマトの地形を、楯を並べた形と見立てたものか
わぎへわが-いへ(吾が家)の母音融合。

【御綱柏】
カクレミノクズ
 "かしは"は植物名であるが、食事のときに皿として用いる葉も意味する。 「みつな」は一般的に「三つな」〔"な"は属格の格助詞。"みつのかしは"の形もある〕と言われる。 「みつなは」に当てはまる形の葉をもつ植物を探すと、一枚の葉に深い切れ込みがあるカクレミノや、 3枚の小葉からなる複葉のクズが見つかった。
 しかし、この形をした葉に料理を盛っても、率直な感想としてそんなに美味しそうではない。 あるいは、「三つ」ではなく、むしろ神事の用具の呼び名につく「(いつ)~」の同類の「みつ(御稜威?)」ではないかと思う。

【所駈使於水取司吉備国児嶋之仕丁】
 ""は、動詞を連体修飾形にし、さらにしばしば受け身にする。 ここでは「所駈使」〔駈使させたところの〕が、仕丁〔使用人〕にかかる。 「」は英語の"by"と同じはたらきをし、即ち「水取司」が命令者である。「吉備国児嶋之」は仕丁の出身地を示す。
 即ち、「水取司によって駈使に任命された吉備国の児嶋の仕丁」である。 《水取司》
主神司【以豆岐乃美夜乃加美官】〔いつきのみやのかみのつかさ〕
斎院司【以豆岐乃院乃官】〔いつきのゐむのつかさ〕
隼人司【波夜比止乃豆加佐】〔はやひとのつかさ〕
囚獄司【比止夜乃官】〔ひとやのつかさ〕
織部司【於里倍豆加佐】〔おりべつかさ〕
正親司【於保岐無太知乃司】〔おほきむたちのつかさ〕
内膳司【宇知乃加之波天乃司】〔うちのかしはでのつかさ〕
造酒司【佐希乃司】〔さけのつかさ〕
主水司【毛比止里乃豆加佐】〔もひとりのつかさ〕
東市司【比牟加之乃以知乃官】〔ひむかしのいちのつかさ〕
西市司【爾之乃以知乃官】〔にしのいちのつかさ〕
鋳銭司【樹漸乃司】〔じゆせむのつかさ〕
 〈倭名類聚抄〉は、「官名」の章に「職員令云」として、官・省・台・職・坊・寮・司・監・署・府・局を挙げる。 そのうち「」については、右表の通りである。『職員令』は、養老律令〔757〕の「令」に含まれ、大宝律令〔701〕では「官員令」に相当する。 大宝律令で初めて定められた官名が記に反映したとは考えにくいので、それ以前から「主水司」といわれる役職があったと思われる。 古い言い方「もひとり」が用いられるのも、恐らくそれを裏付ける。 
 「もひ」は、〈倭名類聚抄〉「瓦器類【瓦器一云陶器】」の項に、 「盌【烏菅反。字亦作椀。弁色立成云末里俗云毛比】小盂也〔発音ワン、また椀に作る。『弁色立成』に"まり"と云ひ、俗に"もひ"と云ふ。小盂=小鉢(食器)〕と書かれる。 モヒで水を汲む作業から、「もひとり(水取)」の名称ができたと思われる。後世には訛って、「もんど(主水)」となる。
《吉備国児島》
 〈倭名類聚抄〉に{備前国・兒島【古之末】郡・兒島【古之萬】郷}。
 吉備児島は、記において伊邪那岐命・伊邪那美命が9番目に生んだ島とされるので、重要な島として位置付けられていたことがわかる (第36回)。 本州と陸続きになったのは、江戸時代という。
 仕丁の出身地が特に書かれるのは、任務を終えて帰郷する船が倉人女の船とすれ違ったことを明確にするためであろう。

【八田郎女】
 八田若郎女は、宇遅能和紀郎子の同腹の妹である(第148回)。 菟道稚郎子皇子(宇遅能和紀郎子)は、仁徳天皇に八田皇女を納めるよう願って息を引き取った(仁徳天皇即位前紀)。
 二人の祖父日触使主命は和珥氏の系図で和邇日子押人命から七代目に位置づけられている。 菟道稚郎子皇子の一族は、その名前から宇治を本拠にしていたと思われ、八田若郎女もその一員で、 一族の後々までの存続のために、仁徳天皇を頼ったと考えられる。

【仕丁】
 『令義解』〔833〕巻三「賦役令」に「よほろ」に関する記述があるので、その一部を取り出す。 『令義解』には養老律令の原文に、平安時代に割注が加えたものであるが、 その割注部分の内容は必ずしも適切ではないので、取り除いて原文を直接解釈する。
 「凡正丁歳役十日 若須庸者布二丈六尺〔おほよそ正丁の歳役は十日。 もし庸を収むを須(もちゐ)むとせば、布二丈六尺。〕
 …ここでは恐らく労役の代用として納める税を意味する。
 続く部分の全面的な解読はなかなか困難であるが、その中で次の文が興味深い。
 「其丁赴役之日 長官親自点検 并閲衣粮周備然後発遣〔その丁(よほろ)役に赴(おもぶ)く日、長官(ちやうくわむ)親自(みづから)点検(てむけむ)し、 并(あは)せて衣(ころも)粮(かて)を閲(えら)ひて周(あまねく)備へ、然る後に発(おく)り遣(や)れ。〕
 …この「丁」に「令義解」編者による訓「ヨホロ」が振られている。

【仕丁の帰路】
 ここでの仕丁(よほろ)は、水取司の下で皇后一行の先遣隊として送られ、行宮や御食などを手配した。
 紀伊から難波までは陸路も可能だから、原義通りで「駈使」したかも知れないが、仕丁は農民から徴したものであるから普通は難しいと思われる。 少なくとも故郷に帰るときは船でないと、海を行く御船の様子を伺ったり、後続船の倉人女に出会うことはできない。
 仕丁は、皇后の帰京を迎え入れる準備を整えたところでお役御免となり、帰郷の旅路につく。 そして難波を発つ前に、天皇が皇后不在の隙に八田若郎女を娶ったことを知った。
 ところが、その帰路ですれ違った御船を見ると、特に大騒ぎしている様子もなく平穏に難波に向かっていた。 そこで、後続の侍従の船とすれ違ったときに、乗っていた倉人女に、 「天皇は八田若郎女を娶って昼も夜も宴会に明け暮れているが、皇后はそれをご存知ないのでないか。御船は静かだったからなあ。」 と話した。倉人女は、すわ一大事とばかりに漕ぎ手を急かせて御船に追いつき、皇后にご注進したのであった。
 この部分は、物語として面白い。 しかし書紀ではこのように楽しめる箇所は削除され、「時皇后到難波済、聞天皇合二上八田皇女而大恨之」と簡潔に書く。
 
【白之状具如仕丁之言】
 書紀では、時に動詞の形式目的語「」と真の目的語(ここでは)が重複することがあるが、 記ではこのような重複は見られない。ここでは「(まをす)」を連体形にして「」を修飾すると見る方が、記には合うだろう。 また、「」(つぶさに)は副詞で、「」(ごとくす)が動詞であると見られる。

【宮と堀江】
《宮》
 これまで見てきたように、記紀で想定されてた高津宮(仁徳天皇の居所)の位置は、孝徳天皇の前期難波宮と重なっている。 そのすぐ近くの倉庫群「方円坂遺跡」まで水路が引き込まれていて、そこが難波津であろうと推定した。
 この段でも皇后の御船が「入坐而引-避其御船〔宮に入らず、御船を引き避ける〕 とあり、こう書かれたのは難波津が難波宮にかなり近い位置まで引き込まれていたからであろう。 書紀が「大津」という美称を用いるのは、まさに宮殿直結の津だからである。
御船推定経路
《堀江》
 「於堀江、隨河而上-幸山代〔堀江を遡り、川のままに山代に行く〕 とあるので、堀江は難波から宇治川に向かうライン上にあると考えられる。現在は大阪湾に注ぐ川は淀川であるが、当時は茨田堤の伝承がある古川も主要な流路だったと考えられる。 草香江(河内湖)の面積が、当時どの程度まで縮小していたかは分からないが、堀江-草香江-古川-寝屋川-淀川が御船のコースであったと推定される。 従って、堀江は難波宮の北側郊外を東西方向に掘削され、法円坂遺跡に向かってはそこから南向きに水路が引き込まれていたと考えるのが妥当であろう。 図左下に示したのは、その概念図である。
 この段の皇后の行動が史実として存在したかどうかは明かではないが、 記紀の執筆者や当時の読者の頭の中には、このような地理観が定着していたと思われる。
《御津岬》
 万葉歌に、「みつのさき」が詠まれる。
――(万)1453 難波方 三津埼従 大舶尓 二梶繁貫 なにはがた みつのさきより おほぶねに まかぢしじぬき
「二梶」とは、左右対称の楫を備えた大型船を指す。「難波方」(難波潟)は、上町台地の西海岸に広がっていた干潟とされる。 「みつのさき」はその海岸のどこかであるが、 「三津寺」(大阪府大阪市中央区心斎橋筋2丁目7-12)にその地名を残すという説がある。
 堀江が掘られるまでは、ここが難波への上陸地であったことが「御津」の名の謂れかも知れない。 少なくとも難波津と御津は異なる場所でないと、本段の話は成り立たない。
《葉済(かしはのわたり)》
 書紀では、この話は葉済(かしはのわたり)に移されている。 これは「みつのかしは」を地名譚に結びつけるにあたって、 ミツカシハのどちらを選ぶかという問題である。 ただ、書紀でも、「」(堀江)を遡ったと書かれているから、葉済が現代地名の「柏」が同じところだとすると遠回りである。
 また皇后が御綱柏を投げ捨てた現場は、御津であった方が話として面白い。 これ見よがしにぶちまけるには、宮に近い方が効果的だからである。

【小盾倭】
 「袁陀弖」は、〈釈日本紀〉巻二十五「和歌三」に「小楯也。言倭之国如小楯也。〔倭の国の小楯立つ如きを言ふ〕と注釈される。ここでいうヤマトは式下郡の西部、現天理市の大和神社の一帯とされる。

【筒木】
筒城宮址碑 ja.wikipedia.org

 山城国の地名に〈倭名類聚抄〉{山城国・綴喜【豆々岐】郡・綴喜【豆々木】郷}がある。
 皇后は葛上郡に向かい、 渡来人の居住区も葛上郡に集中する。「筒木韓人」というからには「筒木」は山城の綴喜ではなく、葛上郡の地名ではないかと思える。
 しかし、書紀はこの後「更還山背」、即ち倭から再び山背に戻ったと書き、つまり綴喜郡だと解釈している。
 歌の中の「みがほしきくに」は、「見が欲しき郷」である。この形は、 (万)0382 儕立乃 見杲石山跡 神代従 人之言嗣 なみたちの みがほしやまと かむよより ひとのいひつぎ〔並び立つ見たい山だと、神代から人は言い継ぐ〕のように多くの例があり、格助詞「が」と共にしばしば形容詞の「語幹の連体修飾用法」を用いる。
 だから、故郷を懐かしんで「葛城の高宮の我が家の辺りが見えたらなあ」という気持ちを述べたに過ぎず、 葛城まで行ったということではない。
 また次の段(次回)に「口日売仕-奉太后〔太后に仕へまつる〕と書かれた付人、 口日売(くちひめ)が詠んだ歌に、 「夜麻志呂能 都都紀能美夜邇 母能麻袁須〔山代のつつきの宮にもの白す〕 とあるので、筒木が「山城国の綴喜」であるのは確定的である。
 「筒城宮」は、第26代継体天皇の宮としても登場する。皇后は「筒城岡の南」(書紀)の地に、宮室を興した。 「筒城宮」の伝承地は同志社大学京丹後キャンパス(京都府京田辺市多々羅都谷1-3)にあり、構内に「筒城宮址碑」が建っている。

【歌意】
つぎねふや 山代がはかは上り のぼれば 川のてる 烏草樹さしぶを 烏草樹の木 が下に 生ひ樹てる 葉広はびろ 真椿まつばき 其が花の 照りいまし 其が葉の 広り坐すは 天皇おほきみろかも
〔山代川を私が上れば川辺に烏草樹(さしぶ)の木が生え、その木の下に咲く高貴な椿の花は、天皇の姿なのかも〕
《しが》
 ""は、指示代名詞「」と同じとされる。 「そ」は「それ」「その」など現代にも残るのに対して、 「し」は絶滅した。「その」とはいうが「そが」とはいわないから、「そ」の方が「し」より新しいのであろう。
《つぎねふや》
 枕詞"つぎねふ"・"つぎねふや"は、地名やましろ(山代、山城、山背)にかかり、〈時代別上代〉によれば「万葉には少なく、すでに原義不明となっていた」という。 (万)3314 次峰経 山背道乎 つぎねふ やましろぢを。は、〈同〉「次々に続いた峰を経て行くという意味に解する新しい解釈であろう」と推定している。
《山代川》
 山代川という呼び名は、奈良時代以後途絶えたと見られる。筒城宮の位置から見て、木津川の古名であろうと推定される。
《さしぶ》
シャシャンボ ja.wikipedia.org
 辞書によって、見解は異なる。
 〈時代別上代〉「させぼ」。シャクナゲ科の常緑灌木。
 〈大辞林〉シャシャンボの古名。シャシャンボは、ツバキ科スノキ属は常緑の低木または高木。
《ろかも》
 「」は助詞または接尾辞で、感情を強く表すと考えた (仁徳天皇紀4)。
 椿は「葉広」「広り坐す」「斎つ」「」「照り坐す」と幾重にも美化され、確実に天皇を比喩するものと言える。 したがって、「ろかも」は天皇を尊ぶ感情の高まりを表すものである。
《文脈中の意味》
 以上から、この歌の主題が天皇への崇敬にあることは、明白である。 しかし、話の流れの中では手放しの崇敬には違和感があるから、歌の裏には隠された感情がある。 これは本質的には自由な解釈の範疇に属するものであろうが、次の3通りの心理を想定し得る。
 少々の軋轢があっても、心の底にある崇敬の念は揺らがない。
 天皇を独占することを諦め、正妻の座を山城出身の八田若郎女に明け渡し、その王朝の繁栄を祝福する。
 八田若郎女一族を亡ぼしてこの地を必ず手中に収め、自らの王朝の繁栄を願う。
 太后の行動から判断すれば、一度はに傾くが、思い直してとなったように思われる。 古事記の作者は、この歌の裏に秘められた心理を必ず意識していたはずである。
つぎねふや 山代川を 宮のぼが上れば 青丹吉あをによし 那良を過ぎ 小楯をだて やまとを過ぎ 吾が見が欲しくに葛城かづらき高宮 吾家わぎへの辺り
〔山代川を、飛鳥宮に向かう。平城山を過ぎ、倭を過ぎ、私が見たい里は葛城の高宮の我が家の辺り。〕
《宮上り》
 「宮上る」とは、都に向かうことである。鄙から都へは「上り」、逆向きは「下る」。 国や郡を分割する場合も、毛国が分かれた「上野」(かみつけ)・「下野」(しもつけ)の例のように、都に近い方が「上」である。 仁徳天皇の都は難波だが、それでも本当の都は潜在的に飛鳥なのである。
 天武天皇紀に「留守司」という役職がでてくる。これは、 「天智天皇は飛鳥京から近江大津京に遷都したが、飛鳥京は、本来の都が留守にされているという考え方により、留守司が置かれていた。」ということである (第12回)。
《和賀能煩礼婆》
 太后は、一度は飛鳥宮に向かう。それでは、太后が引き返したのはどの地点であろうか。 「和賀能煩礼婆〔わがのぼれば〕と、「のぼる」が已然形になっているので、倭(景行天皇陵などの地)辺りまで、実際に足を運んだという文である。 これがもし未然形「能煩羅婆(のぼらば)」だとすれば、「倭まで行ったとしたら」と想像するに留まる。
《葛城高宮》
 神功皇后五年に葛城襲津彦が新羅人を連れ帰り、葛上郡の高宮邑など4邑に住まわせた (神功皇后紀3《高宮邑》)。 高宮邑の位置には諸説あるが、何れも決定的ではない。
 神功皇后紀のところで、襲津彦の都の中心地から離れた葛上郡の縁辺部で、高宮廃寺跡の辺りかと想定した。
《太后の足取り》
檞橋…葉済(かしはのわたり)の伝承地。
三津寺…三津岬の比定地説がある。
法円坂遺跡…難波津の倉庫跡。
筒城宮跡…継体天皇の宮の伝承地。
倭地域…天理市の大和神社付近。
高宮廃寺…西佐味近く。
 倭に向かう経路は、木津川を上り、平城山からは陸路、下ツ道または山の辺の道である。 そこで、故郷の葛城を思い出して歌詠みする。
 倭地域まで来たときに、故郷の生家を「見たくなった」ということは、実際には葛城までは行かなかったのである。 即ち、倭まで来たところで山代に引き返したということである。
 すなわち、故郷に向かうのをやめて山城に引き返して綴喜に宮室を建てる。
 この行き来には不自然さがあるので、複数の伝承の混合の産物かとも思われたが、よく考えてみると必ずしもそうとは言えない。 太后は一度は都を去って故郷に帰ろうとしたが、大和路を行く間に思い直して山代に戻るという心境の変化があったのだろう。 心は揺れ動いたが、結局は八田若郎女の欲しいままにはさせないとする決意に至り、 筒木宮を拠点として宇治の一族を潰しにかかったと読み取れる。
山代に いけ鳥山 い及けい及け し妻に い及き遇はむかも
〔山代に追いかけろ、鳥山。追いかけ追いかけして、私の愛する妻に追いつき遭えるかも。〕
《いしけ
 「い」は接頭語で、動詞の前について語気を添える。
 上代特殊仮名遣いでは、四段活用の已然形エ段乙類命令形エ段甲類である。 したがって「しけ」は、「及く」(及ぶ)の命令形と見られる。
《鳥山》
 鳥山は人名であるが、逃げた皇后を捕まえることを「山で鳥を捕まえる」ことに比喩し、それを名前に込めたとも言える。

【書紀―三十年九月】
19目次 《皇后遊行紀国》
うかかふ…[他]ハ四 ひそかにのぞきみる。様子をさぐる。
卅年秋九月乙卯朔乙丑、
皇后遊行紀國、到熊野岬、
卽取其處之御綱葉【葉、此云箇始婆】而還。
於是天皇、伺皇后不在而娶八田皇女、納於宮中。

三十年(みそとせ)秋九月(ながつき)乙卯(きのとう)を朔(つきたち)として乙丑(きのとうし)〔十一日〕
皇后(おほきさき)紀の国に遊行(みゆきあそば)して、熊野の岬(さき)に到りて、
即ち其処(そこ)之(の)御綱葉(みつなかしは)【葉、此(これ)箇始婆(かしは)と云ふ】取りて[而]還(かへ)りたまひき。
於是(ここに)天皇(すめらみこと)、皇后の不在(あらざる)を伺(うかか)ひて[而]八田皇女(やたのひめみこ)を娶(めあは)せ、[於]宮中(うちつみや)に納(をさ)めたまひき。

ちらす(令散す)…[他]サ四 散らす。
時皇后到難波濟、聞天皇合八田皇女而大恨之、
則其所採御綱葉投於海而不著岸。
故時人號散葉之海曰葉濟也。

時に皇后難波済(なにはのわたり)に到り、天皇八田皇女を合(みあはす)と聞(きこしめ)して[而]大(おほ)きに[之]恨(うら)みて、
則(すなは)ち其の[所]採りし御綱葉(みつなかしは)を[於]海に投げたまひて[而]岸に不著(つけず)。
故(かれ)時の人葉(かしは)を散らしし[之]海を号(なづ)けて葉済(かしはのわたし)と曰ふ[也]。

爰天皇、不知皇后忿不著岸、
親幸大津待皇后之船而歌曰、

爰(ここに)天皇、皇后忿りて岸に不著(つかざる)を不知(しらず)して、
親(みづから)大津(おほつ)に幸(いでま)して皇后之(の)船(みふね)を待ちて[而]歌曰(みうたよみたまはく)。

すずふね…[名] 鈴のついた船か。
那珥波譬苔 須儒赴泥苔羅齊 許辭那豆瀰 曾能赴尼苔羅齊 於朋瀰赴泥苔禮
那珥波譬苔(なにはひと) 須儒赴泥苔羅斉(すずふねとらせ) 許辞那豆瀰(こしなづみ) 曽能赴尼苔羅斉(そのふねとらせ) 於朋瀰赴泥苔礼(おほみふねとれ)

とねり(舍人)…[名] 天皇・皇族に近侍し雑役にあたる官。
時皇后、不泊于大津、
更引之泝江、自山背廻而向倭。
明日、天皇遣舍人鳥山令還皇后、
乃歌之曰、

時に皇后、[于]大津(おほつ)に不泊(はてず)して、
更に[之]引きて江(え)を泝(さかのぼ)りて、山背(やましろ)自(ゆ)廻(めぐ)りて[而]倭(やまと)に向ひたまひき。
明日(あくるひ)、天皇舎人(とねり)鳥山(とりやま)を遣(つかは)して皇后を還(かへ)ら令(し)めまして、
乃(すなはち)歌之曰(みうたよみたまはく)。

夜莽之呂珥 伊辭鶏苔利夜莽 伊辭鶏之鶏 阿餓茂赴菟摩珥 伊辭枳阿波牟伽茂

夜莽之呂珥(やましろに) 伊辞鶏苔利夜莽(いしけとりやま) 伊辞鶏之鶏(いしけしけ) 阿餓茂赴菟摩珥(あがもふつまに) 伊辞枳阿波牟伽茂(いしきあはむかも)

皇后、不還猶行之、至山背河而歌曰。

皇后、不還(かへらず)して猶(なほ)[之]行(ゆ)きて、山背河(やましろがは)に至りて[而]歌曰(みうたよみたまはく)。

やそ(八十)…①[数詞] 八十。②[名] 多数。
菟藝泥赴 揶莽之呂餓波烏 箇破能朋利
 涴餓能朋例麼 箇波區莽珥 多知瑳介踰屢
 毛々多羅儒 揶素麼能紀破 於朋耆瀰呂介茂

菟芸泥赴(つぎねふ) 揶莽之呂餓波烏(やましろがはを) 箇破能朋利(かはのほり)
 涴餓能朋例麼(わがのほれば) 箇波区莽珥(かはくまに) 多知瑳介踰屢(たちさかゆる)
 毛々多羅儒(ももたらず) 揶素麼能紀破(やそばのきは) 於朋耆瀰呂介茂(おほきみろかも)

卽越那羅山、望葛城歌之曰、

即ち那羅(なら)山を越えて、葛城(かづらき)を望みて歌之曰(みうたよみたまはく)、

菟藝泥赴 揶莽之呂餓波烏 瀰揶能朋利 和餓能朋例麼 阿烏珥豫辭
 儺羅烏輸疑 烏陀氐 夜莽苔烏輸疑 和餓瀰餓朋辭區珥波
 箇豆羅紀多伽瀰揶 和藝弊能阿多利

菟芸泥赴(つぎねふ) 揶莽之呂餓波烏(やましろがはを) 瀰揶能朋利(みやのほり) 和餓能朋例麼(わがのほれば) 阿烏珥予辞(あをによし)
 儺羅烏輸疑(ならをすぎ) 烏陀氐(をだて) 夜莽苔烏輸疑(やまとをすぎ) 和餓瀰餓朋辞区珥波(わがみがほしくには)
 箇豆羅紀多伽瀰揶(かづらきたかみや) 和芸弊能阿多利(わぎへのあたり)

更還山背、興宮室於筒城岡南而居之。

更に山背に還(かへ)りて、宮室を[於]筒城岡(つつきのをか)の南に興(た)てて[而][之]居(いま)しき。

《かしはのわたり》
 葉済(かしはのわたり)については、大阪市西淀川区野里1丁目20-14に「かしわの橋 野里の渡し跡」の石碑がある(右図)。日本武尊が征西の帰路、わたりの神を鎮めたところである 第126回
《大意》
 三十年九月十一日、 皇后は紀の国に御幸遊ばして、熊野の岬に到り、 そこの御綱葉(みつなかしわ)を取って帰りなされました。
 そこで天皇(すめらみこと)が、皇后の不在を伺い、八田皇女(やたのひめみこ)を娶り、後宮に納められました。
 そして、皇后は難波の渡りに到り、天皇が八田皇女を娶ったと聞かれ大いに恨み、 その採った御綱葉を海に投げなされて、岸に着けませんでした。 故に、当時の人は、かしわを散らした海を葉済(かしわのわたし)と名付けました。
 その時、天皇は皇后が怒って岸に着けなかったことを知らず、 自ら大津に出でまして、皇后の御船を待って歌を詠まれました。
――難波人 鈴船取らせ 腰泥(なづ)み その船取らせ 大御(おほみ)船取れ
 その時皇后は、大津に船を着けず、 更に船を引いて江〔堀江〕を遡り、山背(やましろ)から回って倭(やまと)に向かわれました。
 翌日、天皇は舎人(とねり)の鳥山(とりやま)を派遣して皇后を帰らせようとして、 御歌を詠まれました。
――山背(やましろ)に い及(し)け鳥山 い及け及け 吾(あ)が思(も)ふ妻に い及き遭はむかも
 皇后は帰らず、なお行って山背川に至りて、御歌を詠まれました。
――つぎねふ 山背川を 川上り 吾(わ)が上れば 川隈(くま)に 樹(た)ち栄ゆる 百足(ももた)らず 八十葉(やそば)の木は 天皇(おほきみ)ろかも
 即ち那羅(なら)山を越え、葛城(かづらき)を望んで御歌を詠まれました。
――つぎねふ 山背川を 宮上り 吾(わ)が上れば 青丹吉(あをによし) 那羅(なら)を過ぎ 小楯(をだて) 日本(やまと)を過ぎ 吾(わ)が見が欲し国は 葛城(かづらき)高宮 我ぎ家(わぎへ)の辺り 箇豆羅紀多伽瀰揶(かづらきたかみや) 和芸弊能阿多利(わぎへのあたり)
 更に山背に戻り、宮室を筒城岡(つつきのおか)の南に興して滞在されました。


【歌意(書紀)】
難波人 鈴船取らせ 腰なづみ その船取らせ 大御おほみ船取れ
〔難波の人は、鈴船を取りなさいませ。腰がとられてもその船を取りなさいませ。大御船を取ってしまえ。〕
《鈴船》
 上代の鈴の例としては、早馬が鳴らす鈴(駅鈴)がある。 船につけた例は、他にはあまり見ない。
《とらす》
 上代の四段活用の動詞語尾「」は、軽い尊敬を表すとされる。この歌では最初の2つにつき、3つ目にはつかない。 双方が使われたのは、語調に変化をつけるためであろう。
山背に いけ鳥山 い及け及け ふ妻に い及き遭はむかも
〔追え鳥山。私が思う妻に追いつけ、会えるかも。〕
《思ふ》
 記の類歌の「はしつま」が「もふつま」に置き換えられている。
つぎねふ 山背川を 川上り が上れば 川くまに 樹ち栄ゆる 百足らず 八十葉の木は 天皇おほきみろかも
〔山背川を上れば、川の曲がる隅に立つ立派な木。この木は天皇かも。〕
《百足らず八十葉の木》
 記の「真椿」に比べて地味になっている。皇后の感情から見て、手放しの賛美は行き過ぎだと考えたのかも知れない。 枕詞は基本的に中立だが、時に実質的な意味の一部を担うこともあったようである。 「ももたらず」については、これまでにも論じた (第79回)。 特に、大国主命の「百不足八十坰手隠」については、 国土の百のうち八十を天つ日嗣のために差し出すが、残りの二十は自らの国(出雲国)として鎮座するという実質的な意味を見た (第61回)。
 「百足らず八十葉」にも、皇后の感情が暗示されていると見るべきであろう。
つぎねふ 山背川を 宮上り 吾が上れば 青丹吉 那羅を過ぎ 小楯 日本やまとを過ぎ 吾が見が欲し国は 葛城高宮 吾ぎの辺り
〔山背川を都に上り、奈羅を過ぎ、倭も過ぎ、私が見たい国は葛城高宮の我が家の辺り〕
《能朋例麼》
 この歌は記のこの段の第二歌と同一である。 「能朋例麼」の"朋"が濁音であることは明らかである。
 書紀は、この歌の前に「那羅山」して 倭地域まで来て、この歌を詠んだ後に 「更還山背〔更に(=再び)山背に還る〕と述べるから、 倭地域まで足を運んだと明確に判断している。

まとめ
 宮室は、単なる住居ではなく、政治における拠点と見るべきであろう。 とすれば、皇后は一定の独立権力をもって筒木宮に滞在したことになる。 ここで思い起こされるのは、藤原氏の時代である。延喜式諸陵寮を見ると、藤原氏から送り込まれた妃は、 天皇陵と同等の陵が築陵されている。例えば、佐保山南陵(聖武天皇)・佐保山東陵(光明皇后)がある(資料[03])。
 この段で、皇后に天皇と同等の尊敬表現が用いられていることも、その独自権力を示唆する。 ことによると、古墳時代にもしばしば見られたことなのかも知れない。 もしそうだとすれば、天皇陵の比定にまで影響を及ぼすことになり、大変なことになる。
 さて、嫉妬の鬼となった皇后の物語には、葛城氏と菟道稚郎子皇子後継一族の間の抗争が反映しているのであろう。 しかし、難波の朝廷は土木事業によって土地の生産力を高め、渡来民や交易によって産業を発展させて自らの富を着々と蓄え、 地方氏族の勢力争いに左右されない体質になりつつある。



2017.08.10(thu) [168] 下つ巻(仁徳天皇8) 

又續遣丸邇臣口子而歌曰
又(また)、続(つ)ぎて丸邇臣(わにのおみ)口子(くちこ)を遣(つかは)して[而]歌曰(みうたよませまさく)。


美母呂能 曾能多迦紀那流 意富韋古賀波良
 意富韋古賀 波良邇阿流 岐毛牟加布
 許許呂袁陀邇迦 阿比淤母波受阿良牟

美母呂能(みもろの) 曽能多迦紀那流(そのたかきなる) 意富韋古賀波良(おほゐこがはら)
 意富韋古賀(おほゐこが) 波良邇阿流(はらにある) 岐毛牟加布(きもむかふ)
 許許呂袁陀邇迦(こころをだにか) 阿比淤母波受阿良牟(あひおもはずあらむ)


又歌曰

又、歌曰(みうたよませまさく)


都藝泥布 夜麻志呂賣能 許久波母知
 宇知斯淤富泥 泥士漏能 斯漏多陀牟岐
 麻迦受祁婆許曾 斯良受登母伊波米

都芸泥布(つぎねふ) 夜麻志呂売能(やましろめの) 許久波母知(こくはもち)
 宇知斯淤富泥(うちしおほね) 泥士漏能(ねじろの) 斯漏多陀牟岐(しろただむき)
 麻迦受祁婆許曽(まかずけばこそ) 斯良受登母伊波米(しらずともいはめ)


故 是口子臣白此御歌之時大雨
爾不避其雨
參伏前殿戸者 違出後戸
參伏後殿戸者 違出前戸
爾匍匐進赴跪于庭中時 水潦至腰
其臣服著紅紐青摺衣
故 水潦拂紅紐青皆變紅色

故(かれ)、是(この)口子臣(くちこのおみ)此の御歌(みうた)を白(まをし)し[之]時、大雨(むらさめ)ふり、
爾(ここに)其(そ)の雨を不避(まぬかれず)して、
前(まへ)の殿戸(とのと)に参伏(まゐふ)せ者(ば)、違(たが)へて後戸(しりつと)ゆ出(いでま)しき。
後(しり)の殿戸に参伏せ者(ば) 違へて前戸(まへつと)ゆ出しき。
爾(ここに)、[于]庭中(にはなか)を匍匐(は)ひ進みて赴(おもぶ)き跪(ひざまづ)きし時、水潦(にはたづみ)腰に至りて、
其の臣服(ころも)に、紅(くれなゐ)の紐(ひも)青(あを)の摺衣(すりごろも)を著(つ)けき。
故(かれ)、水潦(たづみ)紅の紐を払(ひら)きて青(あを)皆紅色に変はりき。


爾 口子臣之妹口日賣仕奉太后
故是口日賣歌曰

爾(ここに)、口子臣(くちこのおみ)之(の)妹(いも)口日売(くちひめ)太后(おほきさき)に仕へ奉(まつ)る。
故(かれ)是(この)口日売歌曰(みうたよみまつらく)。


夜麻志呂能 都都紀能美夜邇 母能麻袁須
 阿賀勢能岐美波 那美多具麻志母

夜麻志呂能(やましろの) 都都紀能美夜邇(つつきのみやに) 母能麻袁須(ものまをす)
 阿賀勢能岐美波(あがせのきみは) 那美多具麻志母(なみたぐましも)


爾太后問其所由之時答白 僕之兄口子臣也

爾(ここに)太后(おほきさき)其の所由(ゆゑ)を問ひたまひし[之]時、答へ白(まを)ししく「僕(やつかれ)之(の)兄(あに)口子臣(くちこのおみ)なり[也]。」とまをしき。


 また、続けて丸邇臣(わにのおみ)口子(くちこ)を遣わして、御歌を託されました。
――三諸の その高城(たかき)なる 大(おほ)猪子(ゐこ)が原 大猪子が 腹にある 肝向かふ 心をだにか 相(あひ)思はず有らむ
又、御歌を託されました。
――つぎねふ 山代女(め)の 木鍬(こくは)持ち 打ちし大根(おほね) 根白(ねじろ)の 白腕(しろただむき) 枕(ま)かずけばこそ 知らずとも云はめ
 さて、この口子臣(くちこのおみ)がこれらの御歌を申しあげた時、大雨でした。 そして、その雨を避けようともせず、 前の殿戸(とのと)で伏拝すれば、〔皇后は〕違って後ろの戸に出られました。 後ろの殿戸で伏拝すれば、違って前の戸に出られました。
 そのとき、庭の中を這って進み、赴いて跪(ひざまず)いた時、庭に漬かった水に腰までつかりました。 その臣の正装は、紅の紐を青の摺衣(すりごろも)に巻いたものでした。 よって、庭に漬かった水により、紅が紐から広がり、青が皆紅色に変わりました。
 その時、口子臣の妹、口日売(くちひめ)が皇后にお仕えしておりました。 そして、この口日売は歌をお詠み申しあげました。
――山代の 筒木の宮に もの白(まを)す 我兄(あがせ)の君は 涙(なみた)ぐましも
 そして、皇后がその所以(ゆえ)を問われましたとき、「僕(やつかれ)の兄は、口子臣でございます。」と申しあげました。


…(古訓) つく。つらぬ。
みもろ…[名] 神の降りるところ。神籬など。
たかき…[名] 土地の高いところに構えたとりで。
ゐこ(猪子)…[名] 猪。「-こ」は基本的に愛称。
はら…[名] 原。
はら…[名] 腹。
きも…[名] 肝。肝臓または内臓全般。
きもむかふ…[枕] 心に係る。心臓の肝臓に対する位置から。
だに…[助] 体言、体言+"を"などに下接し、「せめて~だけでも」の意を表す。
つぎねふ…[枕] 地名「山代」にかかる。
こくは(木鍬)…[名] 木製の鍬(くわ)。
ねじろ(根白)…[名] 水にさらすなどして、白くなった根。
ねじろの…[枕] "ただむき"〔肱から手首までの部分〕にかかる。
まく…[他] 枕を共にする。
…(古訓) さる。のかる。まぬかる。 
まゐふす(参伏す)…「伏す」の謙譲語。
とのと(殿戸)…[名] 御殿の入り口。
たがふ(違ふ)…[他]ハ四 相違する。食い違う。
しりつと(後門)…後ろの入り口。しり+つ(格助詞)+と
まへつと(前門)…前の入り口。
…[名] 庭にたまった水。(古訓) にはたつみ。
にはたづみ(庭潦)…[名] 驟雨などにより庭にたまった水。
たづみ…[名] あふれ流れる水の意とされる。
にはなか(庭中)…[名] 庭の中央。(万)4350 尓波奈加能 阿須波乃可美尓 古志波佐之 にはなかの あすはのかみに こしばさし
臣服…臣下として服従する。ここでは臣の公式の着衣に誤用。
…(古訓) くれなゐ。
くれなゐ…[名] ① ベニバナ。② あざやかな赤色。〈時代別上代〉紅染は、紅の花から灰汁で色素を溶かし出して、酢で発色定着させる方法で行った。
すりごろも(摺衣)…[名] 植物をすりつけ、染め出した衣服。
…(古訓) はらふ。うこく。うつ。ひらく。
なみたぐまし…[形]シク 涙ぐましい。

【大雨】
〈倭名類聚抄〉に、関連語を見る。
 暴雨暴雨【和名無良左女】〔むらさめ〕
 霈、大雨也。音沛。日本私記云火雨【和名比左女】雨氷【同上】今按俗云【比布留】
 〔霈、大雨。音(おん)ハイ。日本紀私記に火雨(ひさめ)という。雨氷(ひさめ)も同じ。今あんずるに、一般に「ひふる」という。〕
 万葉集には、
 (万)2160 庭草尓 村雨落而 蟋蟀之 鳴音聞者 秋付尓家里 にはくさに むらさめふりて こほろぎの なくこゑきけば あきづきにけり。などがある。
 「むらさめ」は、密集するさま「むら」によって、本格的な降雨の意味か。これが豪雨まで含むかどうかは分からない。 万葉集には「大雪」はあるが、「大雨」がないところが興味深い。 〈時代別上代〉にも「おほあめ」という見出し語はないから、本当に用例がないのであろう。
《動詞を欠く問題》
 「」に動詞を補い、「雨零(あめふる)」と訓むことは、全く正当である。 あるいは「」を動詞と位置づけ、「大雨あり」と訓むことも可能である。 万葉集では「あめふる」が普通、かつ雅である。

【匍匐進赴跪于庭中時】
 匍匐・進・赴・跪と、4語の動詞が並ぶが、「于庭中〔庭の中を〕はそのすべてにかかる。 すなわち、水浸しの中を這い、進み、向かい、ひざまずいた。

【臣服著紅紐青摺衣】
《摺衣》
 摺衣(すりごろも)は白地に山藍や、露草などを利用して摺り込んでつくった衣服。草木花鳥の文様を模ったとも言われる。 万葉集に、多く歌われる。
 (万)1166 古尓 有監人之 覓乍 衣丹揩牟 真野之榛原 いにしへに ありけむひとの もとめつつ きぬにすりけむ まののはりはら〔古に有りけむ人の求めつつ 衣に摺りけむ 真野の榛原〕
 (万)1361 墨吉之 淺澤小野之 垣津幡 衣尓揩著 将衣日不知毛 すみのえの あささはをのの かきつはた きぬにすりつけ きむひしらずも〔住之江の浅沢小野のカキツバタ 衣に摺りつけ着む日知らずも〕
 (万)2621 摺衣 著有跡夢見津 寤者 孰人之 言可将繁 すりごろも けりといめにみつ うつつには いづれのひとの ことかしげけむ〔摺衣 著(け)りと夢見つ 現には いずくの人の 言か繁けむ〕
 <古代染織>というサイトには「古代は麻糸の織物が主体で、染色については草木の汁液や花などで摺染(スリゾメ)していた。 しかし、応神・仁徳帝の時代に秦氏が帰化することにより、織の技術とともに染の技術が伝来、進歩し、飛鳥・天平時代に入って草木染の染色技術は益々発達した。 多分に、この時代に草木の色素を摺染するだけでなく、中国・朝鮮から明礬(ミョウバン)や硫酸鉄などを使用する、いわゆる媒染(バイセン)の技術が伝来し、衣服はよりカラフルになったと考えられる。 美しく染め上げられた衣服をまとうのは、つねに高貴の象徴であった。」とある。
《青》
 「」はblueとは限らず、緑など広い範囲の色を含む。
《臣服》
 ここでは、臣として御座に臨むときの正装を意味すると見られる。 雨に濡れて紐の染料が移り、高貴な衣が台無しになったことを、強く印象づける書き方になっている。
《払》
 「払」は、「塵をはらふ」の「はらふ」の他、左右に「ひらく」ときにも使うようである。 ここでは、紐の紅色が両側の布地に染みていくことを、「ひらく」と表現したのであろう。

【那美多具麻志】
 宮殿の前の戸から入ったら、太后は後ろの戸で迎えようとしていたので、後ろの戸に向かった。 今度は太后は前の戸に回っていた。その間、大雨で水浸しの庭を拝礼の姿勢のまま這って移動するのだから、その様子は滑稽で残酷である。
 太后に仕えていた妹はそれを見て涙ぐみ、 兄が使者であることを知らない太后に、やむを得ず歌を詠んで訴えた。 古事記が物語を面白く仕立てる技は相変わらず巧みで、このような表現が書紀で省かれることも、また通例通りである。

【太后の反応】
 口日売が口子臣の妹であることを知ったときの太后の反応は、記では省かれている。 それを敢えて書くなら、書紀のように「使者に最低限の対応はするが、答えは相変わらず否である」となる。 しかし、これでは面白くもなんともない。
 かと言ってこれ以外の反応も考えられないので、太后が「あなたがあの使者の妹だったの?」 と驚いたところで余韻を残して終わり、あとは書かないことにした記の判断は妥当であろう。

【歌意】
三諸の その高なる 大猪子が原 大猪子が 腹にある 肝向かふ 心をだにか 相思はず有らむ
〔心だけでも互いに通え合えないか〕
《大猪子が原》
 地名を広い範囲から探すと、上山天満天神社(滋賀県東近江市猪子町15)の拝殿掲示『鎮守天神宮記』に地名「猪子里」がある。 境内社に岩船神社があり、その付近に5~6世紀の古墳群(8基)があるという。
 その他、京都府豊岡市日髙町猪子垣、茨城県牛久市猪子町が見つかった。 猪が出没する原であれば、どこにでも付き得る地名であろう。
 三諸については、当然三諸山(三輪山)が考えられるが、三諸山・高城・猪がセットになった歌が万葉集にないことが気にかかる。 記紀では三輪山は神の居所であり、現在の風景を見ても城(き)とは無縁であるように思える。
 「城」が目立つのは、むしろ出雲国風土記である 第63回《楯縫郡》《杵築郷》。 また大国主神話に赤猪が登場したから第57回、 大猪子・高城・三諸がセットになっていたのは出雲の風景かも知れない。
《肝向かふ》
 「三諸~肝向かふ」全体が、「心」への枕詞のようなはたらきをする。
《心》
 「肝向かふ」は、もとも心臓と肝臓との位置関係から成立した枕詞である。 従って、この時代から心臓は心が宿る臓器であると考えられていたことがわかり、興味深い。 中国の漢字においても、心臓はこころであった。英語の"heart"など、同じ語に心臓とこころという二重の意味がある言語は多い。
つぎねふ 山代木鍬こくは持ち 打ちし大 根白の 白ただむき かずけばこそ 知らずとも云はめ
〔枕をともにすることがなくなれば、もう知らないと言うのか〕
《まかずけば》
 「」は、理解が難しい。
 まず、「」(く)の已然形または未然形だとしてみる。 しかし、下二段活用の已然形はエ段乙類なので、これは否定される。
 別のアプローチとして、完了の助動詞「き」には形容詞との近親性があり、 さらに形容詞の上代の未然形に「~け」があった (第151回【はへけくしらに】)。
 未然形の語尾「」の甲乙を調べると、「(万)1471 戀之家婆 こひし」があり、 「まかずば」と一致するので、「"き"の未然形」説には一定の妥当性があると思われる。 〈時代別上代〉はこれについて、 「未然形としてセ・ケの存在を考えることもできる。(中略)『枕かずば』」 と、あくまでひとつの可能性として控えめに述べている。
 「け」が未然形だとすれば、この条件節は「順接の恒常条件」に相当する。 ※…現実の事柄から離れて、一般法則として語ること。
山代の 筒木の宮に ものまを我兄あがせの君は 涙ぐましも
《ものまをす》
 「ものまをす」は「ものいふ」(言葉を話す)の謙譲語。 太后は、この歌を聞いてもなお事情を察することができず、妹は重ねて直接「あれは私の兄です」と言わざるを得なかった。 太后は、とことん人でなしで鈍感な人物として描かれている。

【書紀―三十年十月】
20目次 《遣口持臣喚皇后》
…(古訓) まうす。あふ。まみゆ。
まみゆ…[他]ヤ下二 会見する。
冬十月甲申朔、遣的臣祖口持臣喚皇后。
【一云、和珥臣祖口子臣。】
爰口持臣、至筒城宮、
雖謁皇后、而默之不答。

冬十月(かむなづき)甲申(きのえさる)の朔(つきたち)、的臣(いくはのおみ)の祖(おや)口持(くちもち)の臣(おみ)を遣(つかは)して皇后(おほきさき)を喚(め)したまふ。
【一云(あるいはく)、和珥臣(わにおみ)の祖口子臣(くちこおみ)。】
爰(ここに)口持臣、筒城宮(つつきのみや)に至りて、
[雖]皇后に謁(まみ)えど、而(しかくして)[之]黙(もだ)して不答(こたへたまはず)。

…[動] うるおす。(古訓) ぬらす。うるほす。
時口持臣沾雪雨、
以經日夜伏于皇后殿前而不避。
於是、口持臣之妹國依媛、仕于皇后、
適是時、侍皇后之側。
見其兄沾雨而流涕之歌曰。

時に口持臣雪雨(ゆきあめ)に沾れて、、
以ちて日夜(よるひる)を経て[于]皇后(おほきさき)の殿(との)の前(まへ)に伏(ふ)して[而]不避(まぬかれず)。
於是(ここに)、口持臣之(の)妹(いも)国依媛(くによりひめ)、[于]皇后に、仕(つか)へまつりて、
適(まさに)是の時、皇后之(の)側(かたはら)に侍(はべ)り。
其の兄(あに)雨に沾(ぬ)るるを見て[而]涕(なみた)流(なが)るる[之]歌(みうた)曰(よみまつらく)。

揶莽辭呂能 菟々紀能瀰揶珥 茂能莽烏輸
 和餓齊烏瀰例麼 那瀰多遇摩辭茂

揶莽辞呂能(やましろの) 菟々紀能瀰揶珥(つつきのみやに) 茂能莽烏輸(ものまをす)
 和餓斉烏瀰例麼(わがせをみれば) 那瀰多遇摩辞茂(なみたぐましも)

時皇后謂國依媛曰
「何爾泣之。」
對言
「今伏庭請謁者、妾兄也。
沾雨不避、猶伏將謁。是以、泣悲耳。」
時皇后謂之曰
「告汝兄令速還、吾遂不返焉。」
口持則返之、復奏于天皇。

時に皇后国依媛に謂(のたまはく)[曰]、
「何(いかにか)爾(いまし)泣くや[之]。」とのたまひて、
対(こた)へて言(まを)さく、
「今庭に伏して謁(まみえむ)と請(ねが)ふ者(は)、妾兄(わがせ)なり[也]。
雨に沾るるを不避(まぬがれず)て、猶(なほ)伏して将謁(まみえむとす)。是(こ)を以ちて、泣き悲しぶ耳(のみ)。」とまをす。
時に皇后謂之(のたまはく)[曰]、
「汝兄(ながせ)に告(の)りて速(すみやか)に還(かへ)ら令めむ、吾(われ)遂(つひ)に不返(かへらず)[焉]と。」とのたまふ。
口持則(すなはち)[之]返りまつりて、[于]天皇(すめらみこと)に復奏(かへりごとまを)しき。

《大意》
 十月一日、的臣(いくはのおみ)の祖、口持(くちもち)の臣を遣わして皇后を喚されました。 【ある言い伝えでは、和珥臣(わにおみ)の祖口子臣(くちこおみ)。】
 口持臣は、筒城宮(つつきのみや)に到着し、 皇后に謁見たまわりましたが、これまでの経過により沈黙してお答えはありませんでした。
 そして、口持臣は雪雨に濡れ、 昼夜を経て皇后の御殿の前に伏して避けませんでした。 その時、口持臣の妹、国依媛(くによりひめ)が皇后にお仕えし、 まさにこの時、皇后の側に侍っておりました。 その兄が雨に濡れるのを見て、涙を流して歌を詠みました。
――山城の 筒城の宮に もの申(まを)す 我兄(わがせ)を見れば 涕(なみた)ぐましも
 その時、皇后は国依媛に仰りました。 「お前は、どうして泣くのですか。」と。
 その質問に、 「今、庭に伏して謁見を願っている者は、私の兄です。 雨に濡れるのも避けず、なお伏して謁見を求めております。このことを、泣き悲しんでいるのでございます。」と答えました。
 その時皇后は、 「お前の兄に命じて、速やかに帰らせましょう、わらわは決して帰りませんとの回答を託します。」と仰りました。
 口持は直ちに帰り、天皇に復奏しました。


まとめ
 ひとつのエピソードが、戯画的に描かれた部分である。この個所も、読み聞かせに集まった民衆を喜ばせたことだろう。
 前回述べたように「宮」は山城国の筒城宮である。政治的な意味合いとしては太后が宮殿を構えること自体に、一定の独自権力が伺われる。



2017.08.14(mon) [169] 下つ巻(仁徳天皇9) 

於是 口子臣亦其妹口比賣及奴理能美
三人議而令奏天皇云

於是(ここに)口子臣(くちこおみ)、亦(また)其の妹(いも)口比売(くちひめ)と、[及]奴理能美(ぬりのみ)と、
三人(みたり)議(はか)りて[而]天皇(すめらみこと)に奏(まを)さ令(し)めて云(まを)さく、


太后幸行所以者奴理能美之所養虫
一度爲匐虫一度爲鼓一度爲飛鳥
有變三色之奇虫
看行此虫而入坐耳 更無異心

「太后(おほきさき)の幸行(いでましし)所以(ゆゑ)者(は)奴理能美之(の)[所]養(か)へる虫(むし)、
一度(ひとたび)は匐(はふ)虫と為(な)りて一度は鼓と為りて一度は飛ぶ鳥と為りて、
三色(みくさ)に変はる[之]奇(くし)虫(むし)有り。
此の虫を看(め)し行きて[而]入り坐(ま)しき耳(のみ)、更に異(け)し心無し。」とまをす。


如此奏時 天皇詔
然者吾思奇異故欲見行

如此(かく)奏(まを)しし時、天皇詔(のたまはく)、
「然者(しからば)吾(われ)奇異(あやし)と思(おもほ)す故(ゆゑ)欲見行(みにゆかむとおもほす)。」とのたまふ。


自大宮上幸行入坐奴理能美之家時
其奴理能美己所養之三種虫獻於太后
爾天皇御立其太后所坐殿戸
歌曰

大宮(おほみや)自(ゆ)上り幸行(いでま)して奴理能美(ぬりのみ)之(の)家(いへ)に入坐(いりまし)し時、
其の奴理能美己(おのが)所養之(かひし)三種(みくさ)の虫を[於]太后(おほきさき)に献(たてま)つりて、
爾(ここに)天皇、其の太后(おほきさき)の所坐(まします)殿(との)の戸(と)に御立(みたたし)したまひて、
歌曰(みうたよみたまはく)。


都藝泥布 夜麻斯呂賣能 許久波母知
 宇知斯意富泥 佐和佐和爾 那賀伊幣勢許曾
 宇知和多須 夜賀波延那須 岐伊理麻韋久禮

都芸泥布(つぎねふ) 夜麻斯呂売能(やましろめの) 許久波母知(こくはもち)
 宇知斯意富泥(うちしおほね) 佐和佐和爾(さわさわに) 那賀伊幣勢許曽(ながいへせこそ)
 宇知和多須(うちわたす) 夜賀波延那須(やがはえなす) 岐伊理麻韋久礼(きいりまゐくれ)


此天皇與大后所歌之六歌者志都歌之歌返也

此の天皇与(と)大后とに所歌(みうたよみたまはえし)[之]六歌(むうた)者(は)志都歌(しつうた)之(の)歌返(うたひかへし)なり[也]。


 そこで、口子臣(くちこおみ)、そして妹の口比売(くちひめ)、奴理能美(ぬりのみ)の 三人は、相談して天皇(すめらみこと)に奏上させました。
 「皇后が行幸された理由は、奴理能美の飼っている虫に、 一度は這う虫となり、一度は鼓となり、一度は飛ぶ鳥となり、 三通りに変わる不思議な虫がいます。 この虫を御覧になりたくて出かけ、奴理能美の家に入られただけで、そのほかに異心はございません。」と。
 このように奏上すると、天皇は仰りました。
 「そういうことなら、私は不思議なことだと思うので、見たいと思う。」と。
 大宮から川を上り、奴理能美の家にお入りになった時、 その奴理能美は自分が飼っていた三つの姿の虫を皇后に献上し、 こうして天皇は、皇后の宮殿入り口に立たれ、 御歌を詠まれました。
――つぎねふ 山代女(め)の 木鍬(こくは)持ち 打ちし大根(おほね) さわさわに 汝(な)が云へせこそ 打ち渡す 弥(や)が栄(はえ)なす 来入り参来(まゐく)れ
 この天皇と皇后の詠われた六歌は志津歌の歌い返しです。

ウスタビガ
老齢幼虫 ja.wikipedia.org
蛹(繭)
成虫-♀頭部 ja.wikipedia.org

…[動] はらばう。(古訓) はらはひゆく。
はふむし(匍虫)…〈雄略天皇紀四年八月歌謡〉婀枳豆波野倶譬 波賦武志謀〔あきつはのくひ はふむしも〕
くし(奇し)…[形]シク 不思議である。くしみたま(奇魂)など、しばしば語幹による連体修飾がなされる。
さわさわに…[副] 騒がしく。
やがはえ…[名] 〈時代別上代〉未詳。木の生い茂るさまをいうか。
しつうた…[名] 〈時代別上代〉歌曲の名。あるいは下=ツ=歌で、全体の調子を下げて歌うものか。
うたひかへし(歌返)…[名] 一曲を歌い終えてから、それと対になる歌を歌い返すこと。

【変三色之奇虫】
 「三色之奇虫」とは完全変態する昆虫のことで、 「匐虫」が幼虫、「」が蛹、「飛鳥」が成虫であることは明らかである。 繭の形が鼓に近い蛾を探したところ、ウスタビガを見つけた(写真)が、 他にももっと相応しい蛾がいるだろう。「珍しい」を「美しい」と取れば、蝶の方がよいが、蝶のサナギは繭を作らないので「鼓型」には合わなさそうである。
 養蚕は当時身近だったから、「三色(みくさ)に変わる」こと自体は特に珍しくなかったはずである。 だから、変態することそのものではなく、それぞれの時期の姿がとても珍しい虫だということかも知れない。
 なお、家主のヌリノミは韓人とされるが、登場人物の名前がしばしば物語の内容に結ぶつくことから考えると、 ある種のガを指す名前であったとしても不思議ではない。

【志都歌の歌返】
 場面が改まった「自此後時太后爲将豊楽」(第167回)以来、天皇・皇后が詠んだ歌は、次の六首である。
(太后)つぎねふや 山代川を 川上り 吾が上れば 川の辺へに 生ひ樹てる 烏草樹を 烏草樹の木 其が下に 生ひ樹てる 葉広 斎つ真椿 其が花の 照り坐し 其が葉の 広り坐すは 天皇ろかも
(太后)つぎねふや 山代川を 宮上り 吾が上れば 青丹吉 那良を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 吾が見が欲し土は 葛城高宮 吾家の辺り
(天皇)山代に い及け鳥山 い及けい及け 吾が愛はし妻に い及き遇はむかも
(天皇)三諸の その高城なる 大猪子が原 大猪子が 腹にある 肝向かふ 心をだにか 相思はず有らむ
(天皇)つぎねふ 山代女の 木鍬持ち 打ちし大根 根白の 白腕 枕かずけばこそ 知らずとも云はめ
(天皇)つぎねふ 山代女の 木鍬持ち 打ちし大根 さわさわに 汝が云へせこそ 打ち渡す 弥が栄なす 来入り参来れ
 他にの間に口日売が詠んだ一首があるが、それを除いた六首が「天皇与大后所歌六歌」にあたると見られる。 しかし、この六首は対話を構成しないから、ここで言う「歌ひ返し」とは場面とは無関係に、歌自体の相互関係を述べたようだ。
 このうち、の二組は前半部分が共通だから、 それぞれが「歌ひ返し」かと思わせる。 ところが、はこの定義に当てはまらない。特には、文学性のない戯れ歌の類で異質である。
 むしろ、を除き地名「山代」がよみ込まれていることに注目すれば、
志都歌」は、この地域発祥の歌の形式(特徴あるメロディーなど)である。
歌ひ返し」とは地域の人々が集う賑やかな歌詠みの会を指し、 その中で本来の「歌ひ返し」を含むさまざまな歌遊びがなされた。
 ということかも知れない。
《太后の表記》
 真福寺本では、仁徳天皇段の最初の割注で「大后」を用いたのを最後に、ずっと「太后」であったが、 ここで「大后」に戻った。この区別に実質的な意味はないと思われるが、一応真福寺本のままにしておく。

【歌意】
つぎねふ 山代鍬持ち 打ちし大根おほね さわさわに が云へせこそ 打ち渡す はえなす 来入りまゐ来れ
〔お前が山代の地を耕し、騒がしく話したからこそ、豊かな田畑の広がる栄ある地に私はやって来た。さあ、お前は私の許に参るのだよ〕
《いへせこそ》
 「いへせ」の理解が難しいが、このままの形で書紀にも収められているから正当な表現であったと思われる。
 上代は、助詞「こそ」は已然形につく。とすれば、「」は上代の尊敬の動詞語尾「」の已然形である。 「」は未然形につくから、 「いふ+す」は「いはせ」でなければならない。
 そこで「す」の已然形「せ」説をひとまず諦め、他の可能性を求めると体言「家-背」が考えられるが、屋根の棟(むね)を「いへせ」と表現する例は、万葉集にも諸辞典にもない。
 よって、再び「云ふ」+「す」に戻ることにする。 「」の前の「云う」が「云へ」になる仕組みを何とか見つけ出すために、次の3説を考えた。
 已然形「せ」につられて、「いふ」も何となく已然形になった。
 「いふ」は四段活用とされるが、古くは下二段活用もあった。
 上一段「みる」「きる」が尊敬語「めす」「けす」になる音韻変化に、類似する現象が「いふ」にも起こった。
 それぞれを、上代特殊仮名遣いの甲乙によって検証してみる。
 では、四段活用の已然形はエ段乙類のはずだから、「いへ」は当てはまらない。
 については、下二段活用の未然形を調べると「(万)3938 登吉佐氣受 ときさけ」 など、エ段乙類なので、「いへ」は下二段活用の未然形ではない。
 よって残るはのみとなったが、 興味深いことに、上代の未然形に「エ段甲類」が意外に広く存在する。
※1…例えば、「みる」の未然形は、 「(万)0862 多麻志末乎 美受弖夜 たましまを ずてや。」で、 尊敬の動詞語尾「す」がつく形は、「(万)3736 於毛保之賣須奈 おもほしすな。
※2…<wikipedia>によれば、カ変が特別なのは「『来る』が不規則になるのは日常的によく使われる語だからであり、使用頻度の高い語は歴史的に文法や音韻規則が変化していっても、それに従って形態を変化させることが嫌われることが多い」 からだと説明される。サ変でも同じことが言えるとすれば、未然形「せ」は古い形の残存である。現代になって「し」が現れるのは、変化が遅れてやって来たことを示すか。
 ●形容詞の、上代の未然形「~け」。
 ●助動詞「」の古い未然形「」。
 ●上一段動詞の尊敬語化「みる→め」「きる→け※1
 ●サ変の未然形「」(甲乙の区別なし)※2
 これらに加え、四段動詞の古い形にもエ段甲類の未然形があったとすれば、統一的な理解が可能になる。
 よって、ひとまず「みる」の尊敬語「」(四段)に類似する関係として、 「いふ」の尊敬語「いへ」(四段)が一時期存在したと考えておく。 その後、「いふ」の尊敬語として「のたまふ(のりたまふ、のたぶ)」が一般的になったために、「いへす」は早期に消失したのかも知れない。
《やがはえ》
 「はえ」は「栄(は)ゆ」の連用形とされる。 〈時代別上代〉は、「上代に栄(ハ)ユの例は見えない」が、「はやす」(ほめそやす)は「栄(ハ)ユに対する他動詞である」と述べる。 この語は、「(万)4111 伊夜佐加波延尓 いやさかはえに」にも通ずると思われる。「や」は「いや〔=いよいよ〕と同じである。
やが」は、を名詞扱いして格助詞「が」で繋いだようにも見えるが、万葉集には「やが」「いやが」の例はない。
《きいり》
 カ変の連用形「」の甲乙を万葉歌で調べると、 「(万)3357 可須美為流 布時能夜麻備尓 和我伎奈婆 かすみゐる ふじのやまびに わがなば。」 のように、甲類である。したがって「伊理」を「来入り」と読むことに不都合はない。
《来入り参来れ》
 この歌は、助詞「こそ」を受けて、已然形「まゐくれ」で結ぶ。
 「来入る」は「中に入る」、「参来る」は「(遜って)出てくる」という意味だから主語が切り替わり、「来入る」の主語は天皇、 「参来る」の主語は皇后だと読むべきであろう。かく読めば、この歌は物語の文脈に位置づけられた歌となる。

【書紀―三十年十一月】
21目次 《天皇浮江幸山背》
桑枝…[名] 桑の枝。「このえ(木枝)」という語に倣って「の」を挟み、「くはのえ」と訓むか。
沿…(古訓) したかふ。なかれ。
十一月甲寅朔庚申、天皇浮江幸山背。
時桑枝沿水而流之。
天皇視桑枝歌之曰、

十一月(しもつき)甲寅(きのえとら)を朔(つきたち)として庚申(かのえさる)〔七日〕、天皇(すめらみこと)浮江(えにみふねにのりたまひて)山背(やましろ)に幸(いでます)。
時に桑枝(くはのえ)水(みづ)に沿(したが)ひて[而][之]流れり。
天皇桑枝を視(め)して歌之曰(みうたよみたまはく)、

つのさはふ…[枕] 磐(いは)などにかかる。
おほろかに…[副] おろそかに。なおざりに。
(木、樹)…[名] 樹木。
(令聞す)…[他]サ四 (尊敬語)①いう。②飲食する。
うら(裏)…[名] ① 裏。② 心。
ましじ…[助動]シク 終止形につき、否定の推量。平安期以後は「まじ」。
よろほふ…[自] 寄り道しながら進む。
菟怒瑳破赴 以破能臂謎餓 飫朋呂伽珥
 枳許瑳怒 于羅遇破能紀 豫屢麻志士枳
 箇破能區莽愚莽 豫呂朋譬喩玖伽茂 于羅愚破能紀

菟怒瑳破赴(つのさはふ) 以破能臂謎餓(いはのひめが) 飫朋呂伽珥(おほろかに)
 枳許瑳怒(きさぬ) 于羅遇破能紀(うらぐはのき) 予屢麻志士枳(よるましじき)
 箇破能区莽愚莽(かはのくまぐま) 予呂朋譬喩玖伽茂(よろほひゆくかも) 于羅愚破能紀(うらぐはのき)

…(古訓) いたる。おもふく。まうつ。
まわへる(参合)…「まゐ-あへる」の母音融合と見られる。
…(古訓) きく。むへなふ。
明日、乘輿詣于筒城宮、
喚皇后、皇后不肯參見。
時天皇歌曰、

明日(あくるひ)、輿(こし)に乗りて[于]筒城宮(つつきのみや)に詣(おもぶ)きて、
皇后(おほきさき)を喚(め)したまへど、皇后参見(まみゆること)を不肯(きかず)。
時に天皇歌曰(みうたよみたまはく)、

菟藝埿赴 揶摩之呂謎能 許久波茂知
 于智辭於朋泥 佐和佐和珥 儺餓伊弊齊虛曾
 于知和多須 椰餓波曳儺須 企以利摩韋區例

菟芸埿赴(つぎねふ) 揶摩之呂謎能(やましろめの) 許久波茂知(こくはもち)
 于智辞於朋泥(うちしおほね) 佐和佐和珥(さわさわに) 儺餓伊弊斉虚曽(ながいへせこそ)
 于知和多須(うちわたす) 椰餓波曳儺須(やがはえなす) 企以利摩韋区例(きいりまゐくれ)

亦歌曰。

亦(また)歌曰(みうたよみたまはく)。

菟藝埿赴 夜莽之呂謎能 許玖波茂知
 于智辞於朋泥 泥士漏能 辭漏多娜武枳
 摩箇儒鶏麼虛曾 辭羅儒等茂伊波梅

菟芸埿赴(つげねふ) 夜莽之呂謎能(やましろめの) 許玖波茂知(こくはもち)
 于智辞於朋泥(うちしおほね) 泥士漏能(ねしろの) 辞漏多娜武枳(しろただむき)
 摩箇儒鶏麼虚曽(まかずけばこそ) 辞羅儒等茂伊波梅(しらずともいはめ)

まみゆ(見ゆ)…[他]ヤ下二 対面する。まともに相対する。
時皇后令奏言
「陛下納八田皇女爲妃、其不欲副皇女而爲后。」
遂不奉見、乃車駕還宮。
天皇於是、恨皇后大忿、而猶有戀思。

時に皇后言(こと)奏(まを)さ令(し)めまさく、
「陛下(おほきみ)八田皇女(やたのひめみこ)を納(めあは)せて妃(きさき)と為(し)たまふ、其の皇女(ひめみこ)を副(そ)へて[而]后(きさき)と為(な)ること不欲(ねがはず)。」とまをさしめまして、
遂(つひ)に不奉見(まみえまつりたまはざりて)、乃(すなはち)車駕(みかど)宮に還(かへ)りたまひき。
天皇於是(ここに)、皇后を恨みて大(おほ)きに忿(いか)りたまひて、而(しかれども)猶(なほ)有恋思(こひおもほしたり)。

《奉見》
 「見」は「まみゆ」であろう。謙譲語「奉」は天皇への謙譲である。しかし、その行為者である皇后には、尊敬語を用いなければならない。 従って「まみゆ+まつる+たまふ=まみえまつりたまふ。」と訓むことになる。
《大意》
 十一月七日、天皇(すめらみこと)は堀江から船に乗り、山背(やましろ)に出かけられました。
 その時、桑の枝が水の流れるままに流れて来ました。 天皇は、桑の枝を御覧になり、御歌を詠まれました。
――つのさはふ 磐之媛(いはのひめ)が 凡(おほろ)かに 令聞(きこ)さぬ 裏桑(うらぐは)の木 寄るましじき 川の隅々(くまぐま) 寄ろほひ行くかも 裏桑の木
 翌日、輿にお乗りになり、筒城宮(つつきのみや)のところまで行かれ、 皇后を召されましたが、皇后は参見に応じませんでした。
 その時、天皇は御歌を詠まれました。
――つぎねふ 山背女の 木鍬(こくは)持ち 打ちし大根(おほね) さわさわに 汝が云へせこそ 打ち渡す 弥(や)が栄(はえ)なす 来入り参来れ
 また御歌を詠まれました。
――つぎねふ 山背女の 木鍬持ち 打ちし大根 根白の 白腕(しろただむき) 枕(かずけばこそ) 知らずとも云はめ
 その時、皇后は申しあげるお言葉を託されました。 「大君は八田皇女(やたのひめみこ)を納めて妃となさるようですが、皇女の隣で私が后でいることは願いません。」と。
 遂に会見はかなわず、帝の一行は宮殿にお帰りになりました。 天皇は皇后を恨みひどく怒りましたが、尚も恋しく思われていました。


【歌意―書紀】
 ・第二歌は、記の今回[169]第一歌と同一。
 ・第三歌は、記の前回[168]第二歌と同一。
つのさはふ 磐之媛が おほろかに 令聞きこさぬ 浦桑うらぐはの木 寄るましじき 川の隅々くまぐま 寄ろほひ行くかも 浦桑の木
〔磐之媛がおろそかにして、相手にされない桑の木。そこには寄れず、川のあちこちに寄りながら行くか、桑の木よ。〕
《よるましじき
 岩波文庫版の校異によれば、いくつかの写本には「士(じ)」がない。 が、もしこれが「よるましき」だった場合は、理解が難しくなる。
 シク活用の連体形は、-しきである ((万)4315 仁保比与呂之伎 にほひよろしき)。 したがって、「ましじ」は否定推量の助動詞である。
 なお、『釈日本紀』巻二十五でも「予屢麻志士枳ヨルマシシキ【不寄也】」〔寄るべくもあらず〕と解釈されている。
《うらぐは》
 茎や枝の先端部分を意味する「末(うら)」を桑に付ける言い方があったと言われる。 これとは別に「うら」は心を意味するから、「磐之媛の心を示す桑の木」とも思われるが、 連濁があるので、植物名「うらぐは」が確立していたと捉えるのが穏当であろう。
 『釈日本紀』巻二十五には 「桑木也。私記曰。昔指桑為宇良久羽。 故欲怨由此語乎。〔桑の木也。私記に曰ふ。「昔桑を指してウラクハとす。」故(かれ)怨みの由(よし)を読まむとし天(て)この語有りや。〕
 すなわち、『釈日本紀』は「日本紀私記にウラクハは桑の古名とある。ここでは、怨む気持ちを詠もうとしてこの語を用いたか」 として、「うらぐは」の「うら」に内心の怨みを重ねたと見ている。
《おほろかに》
 「おほろかに」とは、「細かいところは気に留めず、大まかに」という意味である。ここでは、
大らかに」と肯定的に読めば、「凡かに令聞さぬ」=「大らかな気分で聞きいれてくれない」。
おろそかに」と否定的に読めば、「凡かに令聞さぬ」=「頼み事をおろそかにして、取り合ってくれない」。
 となる。否定辞「」は、では「おほろかにきこす」を受け、は「きこす」のみを受ける。
 現代の感覚ではが自然である。
 しかし、万葉歌の 「(万)0974 大夫之 去跡云道曽 凡可尓 念而行勿 大夫之伴 ますらをの ゆくといふみちぞ おほろかに おもひてゆくな ますらをのとも。」 〔勇者が行く道だぞ。おろそかに思って行くな、伴する者よ〕 では、であることは明らかである。
 このように上代に「おおらか」の意は確認できないのに対して、「おろそか」には確例があるので、安全をとるならであろう。
 この歌は、川の岩に寄ろうして寄れずに漂う桑の枝を、面会を拒否された自分に重ねている。

【記紀の相違点】
 仁徳天皇は前回は使者を送って帰京を促したが、今回は自ら船に乗って迎えに行く。 これは、書紀も記と同じである。しかし、出かけ方が大幅に異なる。
 記は、側近が一計を案じて、大后が筒木宮にいる理由は、単に口子臣の奇し虫を見たくなったからだと言い繕い、天皇が出かけるハードルを下げている。 それに対して書紀は、天皇は皇后が帰らない理由は分かっていて、自らの意志で出かけている。
《選ばれた歌》
 記は山代女の農作業に纏わる歌を土台にした歌を用いる。 それに対して書紀は、物語の主を流れに漂う桑の枝に譬えた歌を用いている。

まとめ
 記紀歌謡の文法には、万葉集にも見られない形がしばしば見られる。 それは、編者がこれは歴史書であるという意識を持って、より古い歌を意図的に採用したためではないかと思われる。 だから、飛鳥時代後期よりもさらに古い時代の言語の変遷を探る資料として、正面から追求する価値があると思われる。
 さてこの段に関しては、書紀はこれを大きく書き換え、奇し虫伝説は抹消される。
 ここで、記にあって書紀に収められなかった例を振り返ると、代表的なものとして因幡の白兎伝説で挙げられる。 その理由は、 「大穴牟遅が出雲の国の外でうろうろしていることが原因のようである」と考えた (第58回まとめ)。 つまり、書紀は大国主命がかつて支配した広大な日本海王国の存在を黙殺するのに伴い、 出雲国外でに残る足跡を極力排除したのである。越の沼河比売伝説を除いた理由も、同じである。
 しかし、奇し虫伝説を外したことについては、そのような政治的な意図は見えてこない。 仁徳天皇は、既に大后の拒絶の意思は十分に承知していたはずだから、 今さら臣下があれこれ言い繕っても、通用しないだろう。 だから、この部分を取り除く判断は合理的と言える。
 記においては、大后が怒って宮殿に帰らなかったことを、天皇は知らなかったことにはなっている。 しかし、その前に大后の嫉妬深さは十分に描かれているから、口子臣が行った偽りの報告を信じたとする筋書きにはやはり無理がある。 結局は、面白い話を入れて読者を喜ばせることを優先したと考えざるを得ない。
 また、天皇によって派遣された使者が、その復命の内容を偽ることなど許されないので、 このことからして書紀には相応しくない。いわば記の大らかな態度を、書紀は厳しく咎めているのである。



2017.08.25(fri) [170] 下つ巻(仁徳天皇10) 

天皇戀八田若郎女賜遣御歌
其歌曰

天皇(すめらみこと)八田若郎女(やたのわかいらつめ)を恋(こ)ひて御歌(みうた)を遣(つかは)し賜(たま)ふ。
其のみ歌に曰(よみたま)はく。


夜多能 比登母登須宜波 古母多受
 多知迦阿禮那牟 阿多良須賀波良 許登袁許曾
 須宜波良登伊波米 阿多良須賀志賣

夜多能(やたの) 比登母登須宜波(ひともとすげは) 古母多受(こもたず)
 多知迦阿礼那牟(たちかあれなむ) 阿多良須賀波良(あたらすがはら) 許登袁許曽(ことをこそ)
 須宜波良登伊波米(すげはらといはめ) 阿多良須賀志売(あたらすがしめ)


爾 八田若郎女答歌曰

爾(ここに) 八田若郎女答歌(かへしうた)曰(よみまをさく)


夜多能 比登母登須宜波 比登理袁理登母
 意富岐彌斯 與斯登岐許佐婆 比登理袁理登母

夜多能(やたの) 比登母登須宜波(ひともとすげは) 比登理袁理登母(ひとりをりとも)
 意富岐彌斯(おほきみし) 与斯登岐許佐婆(よしとさば) 比登理袁理登母(ひとりをりとも)


故 爲八田若郎女之御名代定八田部也

故(かれ)、八田若郎女之(の)御名代(みなしろ)の為(ため)に八田部(やたべ)を定めたまふ[也]。


 天皇(すめらみこと)は、八田若郎女(やたのわかいらつめ)を恋しく思われ、御歌を使者に託して送られました。 その御歌は。
――八田の 一本(ひともと)菅(すげ)は 子持たず 立ちか荒れなむ あたら菅原(すがはら) 言をこそ 菅原(すげはら)と言はめ あたら清(すが)し女(め)
 そこで、八田若郎女は返し歌をお詠みもうしあげました。
――八田の 一本菅(すげ)は 独り居りとも 大君(おほきみ)し 宜(よ)しと聞こさば 独り居りとも
 そして、八田若郎女の御名代(みなしろ)として、八田部(やたべ)を定められました。

あたら…[形動] もったいない。おしまれる。
ある(荒る)…[自]ラ下二 荒れる。
…[助動]ナ変 連用形を受け、完了を表す。さらに「む」を伴うときは(「なむ」)、確信。
すげ(菅)…[名] カヤツリグサ科。笠や蓑をつくる幾種類かの植物。
すが-…[名] スゲが連語をつくるときの、交替形。
(聞こす)…[他]サ四 (尊敬語) お聞きになる。おっしゃる。 (万)2805 君之所聞者 きみしきこさば

【八田部】
神戸市(赤) 兵庫区(桃) 八部郡(緑) 八部郷(黒)
 国土地理院 ウォッちずに加筆。
 八部郷は、 〈大日本地名辞書〉に「八部郷:務古水門にして後の輸田泊兵庫津なり。」とある。 ただし、「務古水門」とした部分は恐らく誤りである (第143回《務古水門》)。
 輸田泊(わだのとまり)は、大輸田泊(おおわだのとまり)ともいう。
 明治12年〔1879〕神戸町・兵庫津・坂本村の区域をもって神戸区が発足した。 区域は、現在の神戸市中央区と、兵庫区の南半部を併せた部分である。 以上から「八部郷」の位置は、兵庫区の南半部に絞られる。そこに八田部がいたのではないかと、想像し得る。 〈姓氏家系大辞典〉は、大和、摂津、山城、河内など多くの国に「八田部」を見出し、摂津については 「思ふに当時帝都が難波にありたる頃なれば、当郡を以つて皇后の湯沐〔ゆかはあみ〕邑となし給ひ、 後御名代部として後世に残りたるか。」と推定する。即ち、八田若郎女の温泉保養した場所が、後に御名代部と呼ばれるようになったのだろうと太田亮氏は想像した。
《矢田部造》
 〈姓氏家系大辞典〉は、矢田部造について 「物部氏の族にして、矢田部の総領的的伴造家也。」と述べる。 これは天孫本紀に基づくもので、同書では八田皇女の出自が記紀と異なっている。 天孫本紀については、別項を起こして詳しく検討する。

【歌意】
八田の 一本ひともとすげは 子持たず 立ちか荒れなむ あたらすが原 言をこそ すげ原と言はめ あたらすが
〔八田の一本のスゲが、子も持たずに荒れ野に立っているか。あたら(こんなところに置くには惜しい)スガ原に、 いや正しい言葉ではスゲ原に、あたら清々しい女性よ。〕
《須賀波良・須宜波良》
 あなたは清(すが)しい女性だから、その原っぱを思わず「須賀波良(スガ原)」と言ってしまった。正しくは「須宜波良(スゲ原)」なのに、 ということであろう。記の時代でも「すげはら」は 「すがはら」になりがちだったのだろうが、当時はそれが誤りだとされていたことがわかる。 いつの世でも教養ある人は言葉の誤用を指摘するが、結局使う人が大勢になれば標準になるのである。
《八田》
 八田若郎女は「八田の荒れた菅原に一人立っている」と詠う。そもそも「賜御歌〔使者を立てて、八田若郎女に届けさせる〕とあるから、 高津宮ではなく、八田の地にいたと読むのが自然である。 その結果、皇子を生むチャンスもあまりなかったのだろう。
《子持たず》
 仁徳天皇段の最初の部分に、 「庶妹八田若郎女。又娶庶妹宇遅能若郎女。此之二柱無御子」 と書かれていることに対応する。
八田の 一本すげは 独り居りとも 大君し 宜しと聞こさば 独り居りとも
〔独りでいるのは寂しいのですが、天皇がそれが良いのだと、もし仰るのなら一人でいましょう〕
《大君し》
 「大君」の下の副助詞「」は、〈古典基礎語辞典〉(大野晋)によれば、「不確実・不確定であるとする話し手の判断を表す。もしや…でも。」。 ここでは「聞こさば」の仮定の度合いを強める。
《聞こさば》
 未然形接続助詞」は仮定条件なので、「もし~と仰ることがあれば」の意味となる。 「お前は一人でいた方がよい」などとは言ってほしくないというのが、本心なのであろう。

【天孫本紀】
 『先代旧事本紀』の巻五、天孫本紀に八田部の由来の別伝がある。 序文を除く部分の成立は800年代初頭かと思われ、 「股肱」「奉斎」「供奉」「誕生」は、それぞれ「ここう」「ほうさい」「ぐぶ」「たむじやう」と訓まれたかも知れないが、判断は難しい。 また、分注は恐らく後世に加えられたものであろうから、「記紀」は、「ききをあんずるに」とよむと思われる。 が、ひとまずすべてを上代語で訓読した。
『先代旧事本紀』 巻第五
〈神武天皇二年〉
天皇定功行賞。詔宇摩志麻治命曰「〔中略〕…先授神靈之劍。崇報不世之勵。今配股肱之職。永傳不貳之美。…〔中略〕
〔中略〕
十世孫。物部印葉連公【多遲麻大連之子】。此連公輕嶋豐明宮御宇天皇御世【應神】拜為大連。奉神宮
妹 物部山無媛連公。此連公 輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃
誕生。太子莵道稚郎皇子。
 次矢田皇女【按記紀。菟道稚郎與矢田雌鳥母者 和珥日觸使主之女宮主宅媛也。與此紀異矣】。
 次雌皇女。
 其矢田皇女者 難波高津宮御宇天皇【仁德】立為皇后
弟物部伊與連公。
弟物部小神連公。已上二人同朝御世 並為侍臣供奉。
弟物部大別連公【印葉連公以下至此。皆多遲麻大連子也】。
 此連公難波高津宮御宇天皇御世【仁德】詔為侍臣。奉神宮
輕嶋豐明宮御宇天皇〔應神〕太子 莵遲稚郎子同腹妹矢田皇女。難波高津宮御宇天皇〔仁德〕立為皇后
 而不生皇子之時。詔侍臣大別連公為皇子代后號為氏。使氏造改賜矢田部連公姓


 天皇すめらみこといさみを定めてたまものさづけたまふ。 宇摩志麻治命うましまぢのみことのたまはく 「〔中略〕…先づ神霊みたまのふゆの剣を授けて、たかく世にあらざる励みに報いむ。今股肱之職まへつきみてて、永く不貳之ふたつなきほまれを伝へたまはむ。…〔中略〕」とのたまふ。
〔中略〕
十世孫とうよのひこ物部印葉連公もののべのいなばのむらじのきみ多遅麻大連たじまのおほむらじの子】。 此の連公、軽嶋豊明宮御宇かるしまとよあかるのみやにしろしめす天皇【応神】おろがみて大連おほむらじたまはりて、神宮かむみやいつまつる。
いも物部山無媛もののべのやまなしひめの連公。この連公は、軽嶋豊明宮御宇天皇立たして皇妃おほきさきと為たまひ、
誕生あれまししみこは太子ひつぎのみこ莵道稚郎皇子うぢわかいらつこのみこ
 次に矢田皇女やたのひめみこふることふみにほむぎに、菟道稚郎矢田雌鳥とのははは、和珥日觸使主わにのひふれのおみむすめ宮主宅媛みやぬしやかひめとぞおさふる。この紀〔天孫本紀〕ことしまなり】。
 次に〔鳥〕皇女めとりのひめみこ
 其の矢田皇女は、難波高津宮御宇なにはのたかつみやにしろしめす天皇【仁徳】立たして皇后おほきさきと為たまふ。
おと物部伊与もののべのいよの連公。
弟物部小神をかみの連公。已上うへつかた二人同朝御世おやじきみかどのみよ、並べて侍臣まへつきみりて供奉ともなひまつる
弟物部大別おほわけ連公【印葉連公以下此よりしもつかたこに至り、皆多遅麻大連の子なり】。
 此の連公、難波高津宮御宇天皇の御世【仁徳】おほせごとしたまひて侍臣と為りて、斎神宮に斎き奉る。
軽嶋豊明宮御宇天皇〔応神〕の太子、莵遅稚郎子の同腹妹いろも矢田皇女、難波高津宮御宇天皇〔仁徳〕立たして皇后とたまふ。
 しかれども不生皇子之みこあれまさざりし時、侍臣まへつきみ大別連公におほせごとしたまひて、皇子代みこしろために、きさきみなうじて、氏造うじのみやつこ使めて、改めて矢田部連公のかばねを賜る。
〔神武天皇は物部氏の祖、宇摩志麻治をほめ、股肱の臣に配して末永き栄誉とした。(中略)
 十世孫、物部印葉(もののべのいなば)の連公(むらじのきみ)【多遅麻大連〔九世孫〕の子】は応神天皇の御世に大連(おおむらじ)を拝命して〔伊勢〕神宮に奉斎(ほうさい)する。 妹の物部山無媛(やまなしひめ)の連公は、応神天皇の妃となり、生まれたのは、 太子(ひつぎのみこ)莵道稚郎皇子。 次に矢田皇女【記紀とは出生が異なる】。 次に雌皇女。 その矢田皇女は、仁徳天皇の皇后。
 物部山無媛の弟の物部伊与連公・物部小神(をがみ)連公は仁徳天皇の御代に侍臣になり、供奉(ぐふ)。 その弟の物部大別(おほわけ)連公【印葉連公以下ここまで皆、多遅麻(たじま)大連の子】で、 仁徳天皇の御代に侍臣となり、神宮に奉斎する。
 応神天皇の太子、莵道稚郎皇子の同腹の妹の矢田皇女は皇后となるが、 皇子が生まれず、侍臣の大別連公に詔(みことのり)し、皇后の御名を氏(うじ)とした皇子代(みこしろ)を設け、 大別連公を氏造(うじのみやつこ、筆頭者)として、改めて矢田部連公の姓を賜る。〕
 天孫本紀では、矢田皇女を、物部氏の十代孫である印葉連公の妹山無媛が応神天皇の妃に納められて生んだ子とし、 八田部の始祖を印葉連公の弟、大別連公とする。
 は、記紀の書き換えである。は記紀で触れないことへの書き加えではあるが、物部氏当主の弟が八田部の始祖となり得るのは、 矢田皇女との血縁関係があってこそである。 
 従って、この部分は物部氏が天皇の外戚として、存在感を示すための記述の一環と言える。 『先代旧辞本紀』が物部氏自身の手によるか、少なくともその強い影響下で書かれた書であるのは確実である。
《皇子代》
 〈時代別上代〉には、御子代は「天皇・皇后・皇子などに子がないときに、代わりにその御名を後世に伝えるために、その名をつけた部民といわれる。」とある。 八田皇女の実在性や、『天孫本紀』の婚姻関係が事実であるかどうかは別にして、 「御子代」が皇子を欠くときに作られるものであることを、ここでも示している。 しかし、皇子代の役割は「皇后の名を名目的に負うため」に留まらない。 というのは、『天孫本紀』は八田部を、事実上物部氏内の一派として描いているからである。 物部氏の血を引く矢田皇女は、入内した後も相変わらず領地領民を私有している。 后の死後はそれを皇子が継承するが、「生子なき」ときは親族から「氏造」を定めて継承させる〔養子のようなものである〕。 このように、皇子を欠くとき皇后を送り出した氏族が、皇子が継ぐべき部民を代わりに引き継ぐことが、「皇子代」の本当の意味であろうと思われる。
《矢田部の氏造》
 〈姓氏家系大辞典〉は、応神天皇が山無媛を皇妃として「矢田皇女…を誕生し給ふ」「 と見ゆれど、書記とは合はず。されど山無媛は兎道稚郎子、矢田皇女等の壬生〔養育係〕か、 或は御祖母などなるを誤りしにて、此の皇女と全く関係なきにはあらざるべく、 その弟の大別連が此の部の伴造となりたるは其の縁故によると考へらる。〔山無媛は母ではないが矢田皇女の養育に関わったから、血縁の大別連が矢田部造になったと考えられる〕と述べ、 記紀との両立を図っている。
 矢田部創設のいきさつについての真相は不明であるが、少なくとも矢田部造は現実に物部の伴造〔物部に仕える一族〕であったのは確実である。 天孫本紀は、先祖の伝説の部分は粉飾できたとしても、現在〔=執筆時点〕の氏族たちの有様まで事実を曲げることはできないはずである。

【八田若郎女のモデル】
 莵道稚郎皇子は妹八田若郎女を納めるよう、大雀命に遺言した (仁徳天皇紀7)。 莵道稚郎皇子の宮は山城国宇治にあったから、八田若郎女はその地の氏族の娘であろうと考えた (第167回《太后の足取り》まとめ)。
 一方、矢田部の本拠地が八部郡にあったことも、恐らく事実である。
 これを両立させるには、記の「八田若郎女之御名代八田部」に戻ればよい。 つまり、八田若郎女は宇治出身かも知れないが妃になるとその繋がりが断たれ、新たに矢田部の勢力が与えられたとする。
 しかし、宇治の莵道稚郎皇子の妹と、八部郷の矢田部の娘は別人として存在し、伝説上同一人物になったということも十分あり得る。
 一方、八田若郎女はやはり矢田部の祖先の娘で、その本貫は宇治だったが石之日売勢力に追放された結果、八部郷に移ったという筋書きも成り立ち得る。 この筋書きは、記紀と天孫本紀を唯一包含し得るものである。

まとめ
 書記では、八田皇女は磐之媛の薨の後、皇后となった(仁徳天皇紀5)。 しかしそれにとらわれずに記の歌謡を自然体で読めば、八田若郎女は最後まで後宮に入ることができなかった。 次の段(次回)で女鳥王が発する言葉、「大后之強、不-賜八田若郎女〔大后が強すぎて八田若郎女は妃に納められなかった〕からもそれは明らかである。
 従って、書紀で八田皇女を皇后にしたのは、記を書き換えたということである。 そして書記は八田皇女とともに、雄伴郡(後の八部郡)の鹿伝説も持ってきたようである。 このように伝説の舞台が移し替えられたものだと考えると、 菟餓野が西成郡と八部郡の二か所にあるという謎が解ける。
 さて、天孫本紀は、八田若郎女の出自に大石を投げ込んだ。 矢田皇女については記紀との齟齬は否めないが、大きく見れば、諸族が外戚としての権力を確立しようとする動きのひとつである。 仁徳天皇段においては、諸族の間の競い合いが特に目立つ。 仁徳天皇段のテーマは、諸族による大王持ち回り制から脱して朝廷自身の権力を強化することであったから、 外戚の地位を狙う競い合いは、消滅の過程に咲いたあだ花と言える。



2017.08.30(wed) [171] 下つ巻(仁徳天皇11) 

天皇以其弟速總別王爲媒而
乞庶妹女鳥王
爾 女鳥王語速總別王曰
因大后之強不治賜八田若郎女
故思不仕奉吾爲汝命之妻
卽相婚 是以速總別王不復奏

天皇(すめらみこと)、其の弟(おと)速総別王(はやふさわけのみこ)を以ちて媒(なかだち)と為(し)たまひて[而]
庶妹(ままいも)女鳥王(めどりのみこ)を乞(こ)ひたまふ。
爾(ここに)、女鳥王速総別王に語りて曰(い)はく、
「大后(おほきさき)之(の)強(こは)きに因りて、八田若郎女(やたのわかいらつめ)を不治賜(をさめたまはず)。
故(かれ)思へらく不仕奉(つかへまつらず)とおもへりて、吾(われ)汝命(ながみこと)之(の)妻と為らむ。」といひて、
即ち相(あひ)婚(よば)ひて、是以(こをもちて)速総別王不復奏(かへりごとまをさず)。


爾 天皇直幸女鳥王之所坐而
坐其殿戸之閾上
於是 女鳥王坐機而織服
爾天皇歌曰

爾(ここに)、天皇、女鳥王之(の)坐(いま)す所(ところ)に直(ひた)幸(いでま)して[而]、
其の殿戸(とのと)之(の)閾(しきみ)の上(へ)に坐(ましま)しき。
於是(ここに)女鳥王機(はた)に坐(いま)して[而]織服(はたをおり)て、
爾(ここに)天皇歌曰(みうたよみたまはく)。


賣杼理能 和賀意富岐美能 淤呂須波多 他賀多泥呂迦母

売杼理能(めどりの) 和賀意富岐美能(わがおほきみの) 淤呂須波多(おろすはた) 他賀多泥呂迦母(たがたねろかも)


女鳥王答歌曰

女鳥王、答歌曰(かへしうたよみまつらく)。


多迦由久夜 波夜夫佐和氣能 美淤須比賀泥

多迦由久夜(たかゆくや) 波夜夫佐和気能(はやぶさわけの) 美淤須比賀泥(みおすひがね)


故 天皇知其情還入於宮
此時 其夫速總別王到來之時
其妻女鳥王歌曰

故(かれ)、天皇其の情(こころ)を知りたまひて、[於]宮に還(かへ)り入りましき。
此の時、其の夫(つま)速総別王の到来之(こし)時、
其の妻女鳥王歌曰(うたよみしていはく)。


比婆理波 阿米邇迦氣流 多迦由玖夜 波夜夫佐和氣 佐邪岐登良佐泥

比婆理波(ひばりは) 阿米邇迦気流(あめにかける) 多迦由玖夜(たかゆくや) 波夜夫佐和気(はやぶさわけ) 佐邪岐登良佐泥(さざきとらさね)


天皇聞此歌卽興軍欲殺
爾速總別王女鳥王共逃退而騰于倉椅山
於是 速總別王歌曰

天皇此の歌を聞こして即ち軍(いくさ)を興(おこ)して殺さむと欲(おもほ)しき。
爾(ここに)、速総別王と女鳥王と共に逃げ退(そ)きて[而][于]倉椅山(くらはしやま)に騰(のぼ)りき。
於是(ここに)、速総別王歌曰(うたよみしていはく)


波斯多弖能 久良波斯夜麻袁 佐賀志美登
 伊波迦伎加泥弖 和賀弖登良須母
波斯多弖能(はしたての) 久良波斯夜麻袁(くらはしやまを) 佐賀志美登(さがしみと)
 伊波迦伎加泥弖(いはかきかねて) 和賀弖登良須母(わがてとらすも)


又歌曰

又、歌曰(うたよみしていはく)


波斯多弖能 久良波斯夜麻波 佐賀斯祁杼
 伊毛登能煩禮波 佐賀斯玖母阿良受

波斯多弖能(はしたての) 久良波斯夜麻波(くらはしやまは) 佐賀斯祁杼(さがしけど)
 伊毛登能煩礼波(いもとのぼれば) 佐賀斯玖母阿良受(さがしくもあらず)


故 自其地逃亡到宇陀之蘇邇時 御軍追到而殺也

故(かれ)、其の地(ところ)自(よ)り逃亡(に)げて、宇陀(うだ)之(の)蘇邇(そに)に到りし時、御軍(みいくさ)追ひ到りて[而]殺しき[也]。


 天皇(すめらみこと)は、弟の速総別王(はやふさわけのみこ)を媒(なかだち)とされ、 腹違いの妹、女鳥王(めどりのみこ)を求められました。
 すると、女鳥王は速総別王に語りました。
「皇后の頑強さによって、八田若郎女(やたのわかいらつめ)は納められませんでした。 よって、とてもお仕えできないと思うので、私はあなたの妻になりますわ。」と。 そのまま互いに求婚し、そのために速総別王は復命しませんでした。
 そこで、天皇は女鳥王之の居所に直接お出ましになり、 その宮殿の戸の敷居を跨がれました。
 その時、女鳥王は機のところにいて機織りをしていたので、 天皇は御歌を詠まれました。
――女鳥の 吾(あ)が大王の 織ろす機(はた) 誰が料(たね)ろかも
 女鳥王は、返し歌をお詠みました。
――高往くや 隼別(わけ)の 御衣裾(みおすひ)が料(ね)
 こうして、天皇はその心を知られ、宮に帰られました。。
 この時、その夫速総別王が来ました。〔そこで様子をご覧になっていると〕その時、 妻女鳥王は歌を詠みました。
――雲雀は 天(あめ)に駆ける 高往くや 隼別 雀(さざき)獲らさね
 天皇はこの歌を聞き、軍を起こして殺そうと思われました。
 よって、速総別王と女鳥王は共に逃げ退き、倉椅山(くらはしやま)に登りました。 そして、速総別王は歌を詠みました。
――梯立(はしたて)の 倉椅山を 険(さが)しみと 磐懸きかねて 吾(わ)が手取らすも
 また、歌を詠みました。
――梯立の 倉椅山は 険しけど 妹(いも)と登れば 険しくも非(あら)ず
 こうしてその地より逃亡して、宇陀(うだ)の蘇邇(そに)に到った時に、皇軍が追いついて殺しました。


なかだち(媒)…[名] 仲介人。特に結婚の仲立ち。
しきみ(閾)…[名] しきい。戸をはめる木。
こはし…[形]ク かたい。頑強だ。(万)2425 山科 強田山 やましなの こはたのやまを
とのと(殿戸)…[名] 殿の戸。〈崇神紀八年瀰和能等能渡塢 みわのとのとを〔三輪の殿戸を〕
織服…(万)1233 織機上乎 おるはたのうへを
たかゆく…[自] 高く飛んで行く。
たかゆくや…[枕] 隼にかかる。
おすひ…[名] 衣類。後世の打掛の、ようなもの。
がね…[接尾] ~の材料。~の候補者。〈時代別上代〉上代には他に例を見ないが、平安時代には蟹ガネ・后ガネなど、候補者の意に用いられている。
到来…(万)3257 何時到来 いつきまさむと
…[助] 未然形を受け、他者の行動の実現を希望する意をあらわす。
はしたての…[枕] 地名倉橋山、倉橋川にかかる。
倉橋…現代地名に奈良県桜井市倉橋(大字)。
さがし(険し)…[形] けわしい。
かく(懸く)…[他]カ四・下二 かける。ひっかける。張り渡す。後に四段活用は使われなくなる。
蘇邇…現代地名に、宇陀郡曽爾(そに)村。

【歌意】
女鳥の が大王の 織ろすはた 誰がたねろかも
〔女鳥よ、お前の機織りは「吾が大王」が命じたはずなのに、今織っている生地は一体誰のためのものか〕
《たね》
 たねは、現代に大根やコンニャクを「おでんのタネ」と呼ぶことに通ずる。ここでは、衣類に仕立てるための生地。
《ろかも》
 ろかもは、仁徳天皇段の歌謡で多用されているが、これまでのところ多くが疑念や悪意を秘めて使われている。
《織ろす》
 織ろす=「織る」の未然形「織ら」の音韻変化"織ろ"+上代の軽い尊敬の動詞語尾(四段)"す"。である。 その行為者「吾が大王」は、天皇自身。または天皇が「大君」と呼んで敬う女鳥王。となるが、 どちらも意味が通らない。従って、ここの動詞語尾「す」は使役であると解釈せざるを得ない。
 〈時代別上代〉は、「ヌラス・トヨモス等は四段に活用したと認められるものであるが、万葉で『令湿(ヌラス)』『令動(トヨモス)』のように表記されていることが注意され、 語尾スは他動詞ないしは使役動詞を構成すると認められる」(抜粋)と述べ、上代の四段の動詞語尾「す」が使役を表す場合があることを認めている。
 そして「女鳥の吾が大王の織ろす機」は、 「女鳥が『吾が大王』と呼ぶお方に命じられて行っている機織り」と解釈することができる。 文脈から見て、この解釈が妥当であろう。
 記紀歌謡は、世間で歌われていた歌謡を、文脈に合わせて部分修正したものと考えられる。 試しに、この歌の原型歌には「女鳥の」がなかったものと仮定してみると、 「私がお仕えしている女主人(=大君)が今お織りになっているのは、誰が着るためのものかしら」という少女の心情を歌った歌として成立し得る。
 これに「女鳥の」を付け足して意味が変換できたのだから、当時の言語感覚は「"織ろす"が使役として受け止め得る」状況にあったと言える。
高往くや 隼わけの 御衣裾おすひ
〔速総別にお着せするための生地ですわ〕
《たかゆくや》
 たかゆくやは、多くの辞書が枕詞とするが、〈時代別上代〉だけは「枕詞的に使用されたもの」と微妙である。 何れにしても「高往くや」が付くことによって鳥の「はやぶさ」のイメージが強まり、あからさまに人物を指すことからやや逃れられる。
《がね》
 は、前歌の「たね」にあたる語だとすれば、「」は格助詞〔=の〕である。 その「~するためのもの」という意味によって、「」は「」に通ずるかも知れない。
雲雀は 天に駆ける 高往くや 隼別 さざき獲らさね
〔速総別に、さざきを獲ってほしいわ〕
《獲らさね》
 獲らさね="獲る"の未然形+軽い尊敬""の未然形+助詞""。
 未然形につく文末の助詞「」は、他者の行為を願望する。
《はやぶさわけ》
 はやぶさわけには「わけ」がつくから、あからさまに人物を指している。鳥としての暗喩もせず、随分攻撃的である。
梯立の 倉椅山を さがしみと 磐懸きかねて 吾が手取らすも
〔険しいと言って岩に手を懸けかねている私の、手を取ってくださるのね〕
《倉椅山》
 現代地名に、奈良県桜井市倉橋(大字)がある。 倉椅山は万葉歌にも詠まれる、由緒のある山である。 また、曽爾谷、そして伊勢神宮〔書記による〕に向かう経路としても自然なので、恐らくこの場所であろう。
《かぬ》
 かぬは、下二段活用の補助動詞。「~することを躊躇する」意。
梯立の 倉椅山は 険しけど 妹と登れば 険しくも非ず
〔険しい山だが、お前と登れば険しくもない〕
《険しけど》
 接続詞""は已然形を受け、逆説。「けはし」は上代の形容詞の已然形である。

【倉椅山】
 江戸時代の倉橋村は、1889年の町村制で多武峰村の一部になり、地名は大字倉橋として残った。 現在は奈良県桜井市倉橋(大字)で、JR桜井駅付近から県道37号桜井吉野線を3kmほど南方に進んだ辺り。 大字の南側の境界は標高462mの山頂に及ぶ。
 『五畿内志』巻十五、十市郡には、
・「倉梯山【倉梯村上方。峯名小倉。 貞観十一年秋七月。十市郡椋橋山河岸崩裂高二丈深一丈二尺。 其中有鏡一面広一尺七寸採而献之。】。」 〔倉梯村上方。峰の名は小倉。八六九年七月。椋橋山の河岸崩裂、高さ6m深さ3.6m。その中に直径51cmの鏡。取り出して献上。〕
・「音羽山【音羽村上方山高望之如蓋…】。」 〔音羽村の上方、山高くこれを望めば蓋(ふた)の如く…〕
 とある。
 万葉集に、倉椅山を詠んだ歌が二首ある。
(万)0290 椋橋乃 山乎高可 夜隠尓 出来月乃 光乏 くらはしの やまをたかみか よごもりに いでくるつきの ひかりともしき
 聖林寺(奈良県桜井市下692)の石段の下にこの歌の歌碑が置かれている。「よごもり(夜隠)」は、真夜中。 「椋橋の山」は通説では音羽山とされるが、五畿内志では「倉梯山」と「音羽山」は別の山である。 なお、月が真夜中に東から登ってくるのは、下弦以後である。
(万)1282 橋立 倉椅山 立白雲 見欲 我為苗 立白雲 はしたての くらはしやまに たてるしらくも みまくほり わがするなへに たてるしらくも
 この歌には枕詞「はしたての」がついている。「倉椅山に白雲が立つ。私の田の苗が青々と育ったときにこの雲をもう一度見たいものだ」のような意味か。
 崇峻天皇陵の近くを流れる現在の「寺川」が、旧名倉橋川だという。 地形図を見ると、崇峻天皇陵の南、標高462mの山が倉椅山で、五畿内志の「椋橋山河岸」は倉橋川と山頂の間の岸と見るのが自然ではないかと思われる。

現代の大字名:長野 掛 小長尾 今井  葛 伊賀見 太良路 塩井
【蘇邇】
 〈大日本地名辞書〉によれば、「室生村の東に在り、渓水北流して伊賀国に向ふ曽爾谷と云ふ、 今曽爾御杖の二村に分る。
 『五畿内志巻第二十一』〔1736〕(宇陀郡)を見ると、 【村里】の項に、 「長野。カケ【旧名小野】。長尾。今井。カツラ。伊賀【属邑六】。 太郎。塩井。【長野已下八村漆部郷今呼曽爾ソニ〔長野以下八村、漆部郷(ぬるべのさと)。今に曽爾谷と呼ぶ。〕とある。
 また【山川】の項に、「曽爾川 【源出勢州界大野山中大野渓塩井香合カウバコ渓 会于土屋原流至二上桃股桃股川曽爾谷諸村伊賀見伊州〔源は伊勢国との境、大野山中より出で、大野渓と曰ふ。塩井香合(かうばこ)山等と渓(たに)を聚(あつ)め、土屋原を流れ桃股と会ふは、 桃股川と曰ふ。曽爾谷諸村を経て伊賀見に到り、伊賀国に入る。〕 とある。
 この文は、現在の青蓮寺川の流路を正確に表しており、当時は青蓮寺川を曽爾川と呼んだことがわかる。 即ち、曽爾川は桃俣川と合流して曽爾谷八村を流れる。
 宇陀郡曽爾(そに)村は、1889年の町村制により、「曽爾谷」八村が統合して発足した。 古い村名は、現在の大字としてかなり近い形で残っている。 五畿内志にあるように、〈倭名類聚抄〉{大和国・宇陀郡・漆部【奴利倍】郷〔ぬりべのさと〕の区域と言われる。
 なお、〈大日本地名辞書〉が「曽爾谷が御杖村に及ぶ」とするのは、五畿内志からは読み取れない。 同書は務古水門の比定でも妥当性を欠いていたので、参照に当たっては注意が必要である。

【女鳥】
 訓は、「売杼理」〔めどり〕。書紀も同じく「謎廼利」〔めどり〕で、どちらも連濁する。 〈倭名類聚抄〉は、鳥【土里】、雄:【乎土里】、雌:【米止利】で甲乙が一定しない。 平安時代には上代特殊仮名遣いが既に失われたことがわかる。

【書紀―四十年二月(1)】
23目次 《納雌鳥皇女欲爲妃》
かとり(縑)…[名] こまやかに織った布地。
卌年春二月、納雌鳥皇女欲爲妃、
以隼別皇子爲媒。
時隼別皇子密親娶而久之不復命。
於是、天皇不知有夫而親臨雌鳥皇女之殿。
時爲皇女織縑女人等歌之曰、

四十年(よそとせ)春二月(きさらぎ)、雌鳥皇女(めどりのひめみこ)を納(をさ)めて妃(きさき)と為(な)さむと欲(おもほ)して、
隼別皇子(はやぶさのみこ)を以ちて媒(なかだち)と為(し)たまふ。
時に隼別皇子密(ひそか)に親(みづか)ら娶(めあは)せて[而][之]久しくありて不復命(かへしごとまをさず)。
於是(ここに)、天皇(すめらみこと)夫(つま)有りしことを不知(しらざ)りて[而]親(みづから)雌鳥皇女之(の)殿(との)に臨(のぞ)みたまふ。
時に皇女(ひめみこ)の為(ため)に縑(かとり)織(お)る女人(をむなめ)等(ら)歌(うたよみ)して[之]曰はく。

ひさかたの…[枕] 天(あめ)などにかかる。
かなばた…[名] 金属製の機(はた)。
比佐箇多能 阿梅箇儺麼多 謎廼利餓
 於瑠箇儺麼多 波揶步佐和氣能 瀰於須譬鵝泥

比佐箇多能(ひさかたの) 阿梅箇儺麼多(あめかなばた) 謎廼利餓(めどりが)
 於瑠箇儺麼多(おるかなばた) 波揶歩佐和気能(はやぶささわけの) 瀰於須譬鵝泥(みおすひがね)

…(古訓) おもし。かさぬ。たふとふ。〈現代語古語類語辞典〉[上代]おもんず。うやまふ。たふとむ。
…(古訓) あつし。あつくす。
友于(ゆうう)…兄弟が仲良くすること。孔子所引『書経』の「友于兄弟」の略。
…(古訓) のり。よし。
…(古訓) しはらくありて。にはかに。
…(古訓) なかれ。なし。
まくらく(枕く)…[他]カ四 枕にする。
…①[動] かつ。戦いに勝利する。②[形] はやい。(古訓) かつ。すくる。とし。
爰天皇知隼別皇子密婚而恨之、
然重皇后之言、亦敦友于之義而忍之勿罪。
俄而、隼別皇子、枕皇女之膝以臥、
乃語之曰「孰捷鷦鷯與隼焉。」
曰「隼捷也。」
乃皇子曰「是我所先也。」
天皇聞是言、更亦起恨。
時隼別皇子之舍人等歌曰、

爰(ここに)天皇、隼別皇子密(ひそか)に婚(よば)ひしことを知りて[而]之(こ)を恨(うら)みたまひて、
然(しかれども)皇后(おほきさき)之(の)言(こと)を重(たふと)びて、亦(また)友于(いうう、このかみおと)之(の)義(よし)を敦(あつ)くして[而]之(こ)を忍びて罪勿(な)し。
俄(にはか)に[而]、隼別皇子、皇女之(の)膝(ひざ)を枕(まくら)きて、以ちて臥(ふ)して、
乃(すなはち)語(かた)らく[之曰]「鷦鷯(さざき)与(と)隼(はやぶさ)と、孰(いづれ)そ捷(すぐ)るるや[焉]。」とかたりて、
曰(こたへていはく)「隼や捷るる[也]。」といひき。
乃(すなはち)皇子曰「是(これ)我先なる所なり[也]。」
天皇是の言(こと)を聞きたまひて、更に亦恨み起れり。
時に隼別皇子之舍人(とねり)等(たち)歌よみして曰はく、

いつく(斎く)…[他]カ四 清浄に祀り仕える。四段活用の連用形はイ段甲類。
破夜步佐波 阿梅珥能朋利 等弭箇慨梨
 伊菟岐餓宇倍能 娑弉岐等羅佐泥

破夜歩佐波(はやぶさは) 阿梅珥能朋利(あめにのぼり) 等弭箇慨梨(とびかけり)
 伊菟岐餓宇倍能(いつきがうへの) 娑弉岐等羅佐泥(さざきとらさね)

勃然…むっとして顔色を変えるさま。
…(古訓) いさむ。にはかに。
…(古訓) ひそかに。わたくし。
…[動・名] (「」の異体字) ①[動]生贄の血をもって鋳物の隙間を埋める。②[名] すきま。きず。 〈汉典〉①玉的裂縫〔玉のひび〕。②嫌隙;感情上的裂縫。
…[動] ①容器の中などに納める。②自分のものとして取り込む。
…訓「ところ」の例:(万)1005 百師紀能 大宮所 ももしきの おほみやところ
天皇聞是歌而勃然大怒之曰
「朕以私恨、不欲失親、忍之也。
何舋矣私事將及于社稷。」
則欲殺隼別皇子。
時皇子率雌鳥皇女、欲納伊勢神宮而馳。
於是、天皇聞隼別皇子逃走、
卽遣吉備品遲部雄鯽・播磨佐伯直阿俄能胡曰
「追之所逮卽殺。」

天皇是(こ)の歌を聞きたまひて[而]勃然(にはかに)大(おほ)きに之(こ)を怒りて曰(のたま)はく、
「朕(われ)私の恨みを以ちて、親(ちかきひと)を失(う)すこと不欲(のぞまず)て、之(こ)を忍びき[也]。
何(いかなる)舋(きず)や[矣]、私事(わたくしごと)の[于]社稷(くに)に将及(およばむとする)は。」とのたまひて、
則(すなはち)隼別皇子(はやぶさわけのみこ)を殺さむと欲(おも)ひき。
時に皇子雌鳥皇女を率(ひきゐ)て、伊勢の神宮(かむみや)を欲納(をさめむとして)[而]馳(は)す。
於是(ここに)、天皇隼別皇子逃走(にぐ)と聞きたまひて、
即(すなはち)吉備品遅部(きびのほむぢべ)の雄鯽(をふな)播磨佐伯直(はりまのさへきのあたひ)の阿俄能胡(あがのこ)を遣(つかは)して曰(のたまはく)、
「[之]追ひて逮(とら)へし所にて即ち殺せ。」とのたまふ。

…(古訓) つゆ。あらはす。
足玉手玉…(万)2065 足玉母 手珠毛由良尓 あしだまも ただまもゆらに
爰皇后奏言
「雌鳥皇女、寔當重罪。
然其殺之日、不欲露皇女身。」
乃因勅雄鯽等「莫取皇女所齎之足玉手玉。」
雄鯽等、追之至菟田、迫於素珥山。
時隱草中僅得兔、急走而越山、
於是、皇子歌曰。

爰(ここに)皇后言(こと)を奏(まを)してのたまはく、
「雌鳥皇女、寔(これ)重き罪に当つ。
然(しかれども)其の殺之(ころせし)日、皇女の身を露(あらは)すことを不欲(のぞまず)。」とのたまひ、
乃(すなはち)因りて雄鯽等に勅(おほせごと)してのたまはく「莫(な)取りそ、皇女の所齎之(もたらしし)足玉(あしだま)手玉(ただま)をば。」とのたまふ。
雄鯽等、[之(こ)を]追ひて菟田(うだ)に至りて、[於]素珥山(そにやま)に迫りき。
時に草中に隠れて僅(わづか)に得(え)兔(まぬが)れて、急(すみやか)に走りて[而]山を越えて、
於是(ここに)、皇子歌(みうたよみ)曰(たま)はく。

やすむしろ…[名] すわり心地のよい座。
むしろ(筵)…[名] 藺草や藁などを編んで作った敷物。
破始多氐能 佐餓始枳揶摩茂 和藝毛古等
 赴駄利古喩例麼 揶須武志呂箇茂

破始多氐能(はしたての) 佐餓始枳揶摩茂(さがしきやまも) 和芸毛古等(わぎもこと)
 赴駄利古喩例麼(ふたりこゆれば) 揶須武志呂箇茂(やすむしろかも)

…[名] 植物名。こも。
…(古訓) すみやか。はけし。
爰雄鯽等知兔、以急追及于伊勢蔣代野而殺之。
爰(ここに)雄鯽等知兔(まぬかる)と知りて、以ちて急(すみやか)に追ひて[于]伊勢の蔣代野(こもしろのの)に及びて[而][之]殺しき。

《吉備品遅部》
 垂仁天皇段に、 品牟都和気命(ほむつわけのみこと)が出雲大神の参拝にでかける途上、「毎到坐地定品遅部也」〔立ち寄る地ごとに品遅部を定めた〕 と書かれる (第120回)。 したがって、品牟都和気命が吉備に設けた御名代ということになる。
《播磨佐伯直》
 これまでしばしば述べた (仁徳天皇紀5《佐伯部》)。 勇猛さで知られる部だから、ここでも武人として取り立てられたのであろう。
《爰皇后奏言》
 皇后の言葉は次の段で阿俄能胡が、雌鳥皇女の宝を横領したことの罪を問うことへの伏線である。
 ここでは、「皇后奏言〔曰〕雌鳥皇女寔當重罪然其殺之日不皇女身。乃因勅雄鯽等〔曰〕莫取皇女所齎之足玉手玉」 のように「曰」が省かれている。 他の個所の会話文には、ほとんど「曰」が用いられるので、この箇所は完成後の、作者以外よる書き足しが疑われる。 次の「雄鯽等…」との間に接続詞がないのは、「雄鯽等」の個所にに挿入されたことを示すのかも知れない。
 他にも挿入が疑われるのが、「重皇后之言亦」である。本来なら、その言葉の内容が具体的に書かれたものと思われる。
 もしこれらの加筆があったとすれば、それは確実に八田皇女の存在感を強める方向に作用している。 これは、古事記→日本書紀→天孫本紀の流れにおいて、物部氏の重みを増す過程で起ったことと考えられる。
 因みに、記では次の段(次回)に至っても、依然として石之日売が皇后なのである。
《伊勢神宮》
 隼別皇子は伊勢神宮に向かうが、皇子と伊勢神宮との間に、何らかの関係はあるのだろうか。 その母を送り込んだ桜井田部連は、〈倭名類聚抄〉{河内国・河内郡・桜井郷}の田部だと考えられる (第148回《桜井田部連》)。 〈姓氏家系大辞典〉は、桜井田部連を「河内郡桜井屯倉に使役せし田部、並びに其の伴造家の裔なり。」そして 「応神妃を出したる程なれば、甚だ有勢の氏なりしや明白」としているが、 伊勢神宮との関わりは特に見えてこない。
 「伊勢神宮」は、雌鳥皇女を仕えさせることによって、神宮による保護を得ようとした。 神宮に立て籠もって敵を迎え撃とうとした。の両方に取れるが、隼別皇子の性質に謙虚さは見られないからであろう。
 『天孫本紀』(前回)では、物部氏の第十代当主印葉連公が神宮を奉斎し、妹の山無媛は雌鳥皇子の母であるから、 その縁を頼ったと考えられなくもない。
《逃走の行程》
 さて、逃走の行程を見ると、書紀の 「雄鯽等追之。至菟田。迫於素珥山」 に書かれた「菟田」の「素珥山」は、記の「宇陀」の「蘇邇」にあたると思われる。 それに記の「倉椅(倉橋)」も含め、概ね畿内から伊勢神宮へ向かう経路と言える。

《大意》
 四十年春二月、雌鳥皇女(めどりのひめみこ)を納めて妃にしたいと望み、 隼別皇子(はやぶさのみこ)を媒酌人に立てました。
 すると隼別皇子は密かに自ら娶って、なかなか帰りませんでした。
 そこで、天皇(すめらみこと)はすでに夫があると知らず、自ら雌鳥皇女の宮殿に往かれました。 その時、皇女のために機織りを務める女性たちが、歌を詠みました。
――久方の 天(あめ)金機(かなばた) 雌鳥(めどり)が 織る金機 隼別の 御衣裾(みおすひ)が料(ね)
 よって天皇は、隼別皇子が密かに結婚したことを知ってこれを恨まれ、 しかしながら皇后の言葉を重んじて、また友于(ゆうう)の〔兄弟仲良くする〕義を敦くして、忍んで罪となされませんでした。
 不意に隼別皇子は、皇女の膝枕に横になり、 「鷦鷯と隼、どちらが勝つか。」と語ると、 「隼が勝ちますわ。」と答えました。 皇子は、「これは、私が先ということだね。」と言いました。
 天皇はこの言葉を聞かれ、更に恨みが湧きました。
 その時、隼別皇子の舍人(とねり)たちは歌を詠みました。
――隼は 天(あめ)に昇り 翔び駆けり 斎(いつき)が上の 鷦鷯(さざき)獲らさね
 天皇はこの歌を聞かれ、勃然と大怒りして仰いました。
「朕、私事の恨みによって、親しい人をを失うことは望まず、我慢してきた。 ところが何という傷をつけるか、私事が国に及ぶとは。」と。
 そして隼別皇子を殺そうと思われました。 その時、皇子は雌鳥皇女を率い、伊勢の神宮を拠点として収めようとして走りました。 天皇は隼別皇子が逃走したと聞かれ、 吉備品遅部(きびのほんぢべ)の雄鯽(おふな)と播磨佐伯直(はりまのさえきのあたい)の阿俄能胡(あがのこ)を派遣して、 「追って捕えた所で、ただちに殺せ。」と仰りました。
 その時皇后が、 「雌鳥皇女は、重罪に値するが、 殺したときに、皇女の身を露わ〔丸裸〕にすることは望まない。」と奏上されました。 よって、雄鯽たちに勅命を与えました。「皇女が持っている足飾り、腕飾りの宝石は決して奪ってはいけない。」と。
 雄鯽たちは、追跡して菟田(うだ)に至り、素珥山(そにやま)に迫りました。 その時、草中に隠れて僅かに兔れ得て、急いで走り山を越えたところで、 皇子は御歌を詠まれました。
――梯立の 険(さが)しき山も 吾妹子(わぎもこ)と 二人越ゆれば 安蓆かも
 雄鯽たちは彼らが免れたと知り、急いで追跡し、伊勢の蔣代野(こもしろのの)で追いつき、殺しました。


【歌意―書紀】
久方の 天金機あめかなばた 雌鳥が 織る金機 隼別の 御衣裾みおすひ
〔雌鳥が織るのは、隼別が着る布地〕
《雌鳥》
 機織りしていたのは織女だが、歌では雌鳥が主語になっている。 記では女鳥王自らが織り、天皇に直接対応したが、書記は使用人が織っている方が自然だと考えられたのであろう。 しかし歌には、変更前の筋書きが残ったものと見られる。  
隼は 天に昇り 翔び駆けり いつきが上の 鷦鷯さざき獲らさね
〔飛ぶ隼は斎の宮の上の、雀を獲ってしまえ〕
《いつき》
 万葉集では「斎く」の名詞形「いつき」は、次の例がほぼ唯一である。 「(万)0199 渡會乃 齋宮従 神風尓 わたらひの いつきのみやゆ かむかぜに。」 「渡会の斎の宮」とは、伊勢神宮のことである。
 書紀では、伊勢神宮に天皇の名代として派遣する皇女は、「斎宮」で身を清める。 隼別皇子はこの後伊勢神宮に向かうので、 この歌は「いつきのみや=伊勢神宮で鷦鷯を迎え討ってやる」意思の表明ともとれる。
梯立の 険(さが)しき山も 吾妹子わぎもこと 二人越ゆれば 安蓆やすむしろかも
〔険しい山も、二人で越えれば座り心地のよいところかも〕

【蔣代野】
 曽爾村から伊勢神宮までの経路として考えられるのは、一志郡飯高郡飯野郡多気郡度会郡である。 まず、倭名類聚抄でこれらの郡を調べるが、該当しそうな郷名はない。 多少近いのが{飯野郡・漕代【古以之呂】郡}だが、もともとは「渭代(いて)郷」だったと言われるから、関係があるとは言いにくい。
 『大日本地名辞書』にも、それらしいものは見つけられない。
《めおと塚》
 津市白山町北家城(きたいえき)にある「めおと塚」(円墳とされる)は、隼別皇子・雌鳥皇女の墓だとする言い伝えがある。 ここから北に約3km離れた「八対野」が蔣代野だと伝わる。 めおと塚の位置は、右図の通りである。
 『角川日本地名大辞典』は、「はったいの 八対野」の項に、 「古くは茗荷のおい茂った野という意味の蓴代野(はくたいの)と称していたが(八ツ山神社明細書)、 訛言して「ハツタイノ」となったという。その蓴代野は隼別皇子と雌鳥皇女によって捕らえられた蔣代野(こもしろの)のことで、 2人はそこで殺されて廬杵河〔いほきがわ;現在の雲出川(くもずがわ)〕のほとりに埋められ、それが北家城(きたいえき)のめおと塚古墳であると伝えられる。」とある。
 めおと塚古墳を発掘した記事が、『大阪朝日新聞』昭和2年〔1927〕1月28日にあるという (『白山町の伝説』)。
《位置》
 倉椅蘇邇がほぼ比定できることから見て、蔣代も書紀が書かれた時点で実在していたのは確実である。 それは、曽爾と伊勢神宮を結ぶ道のどこかであろう。
 ところが、北家城は、伊勢神宮に向かうにしては方向違いである。 それでも、この一帯には隼別皇子・雌鳥皇女伝説、あるいはその類型が広がっていたということだろう。 そして、この地に既に存在したヒコ・ヒメの逃亡伝説を材料として、書紀に取り入れられた可能性はある。
 ただ、現在の伝説は書紀の内容が現地にフィードバックされたものであろう。

まとめ
 天皇と皇子たちの名前を見れば、この話は隼と雀が雌鳥を巡って争う三角関係である。 もともと皇室で起こった事件が、寓話となって語り継がれたのかも知れない。 大雀命という名前自体に、このような寓話を誘発する要因があると言える。
 物語自体は、個人レベルの揉め事に過ぎない。ただ、征討のために名だたる将軍を任命したり、事柄を「社稷を傷つける」〔=国そのものにひびが入る〕と表現したり、 さらには伊勢神宮での籠城を示唆したりして、あまりあからさまにしないが、それぞれの勢力間の戦闘が存在したことを示唆する。
 さて、宇陀が物語の舞台になるのは、崇神天皇以来久しぶりである。 それより以前、神武天皇のときには宇陀が激戦の地となった。
 仁徳天皇段の舞台は難波・宇治が中心である。しかし、隼別皇子の話は軽の都を起点にした方が自然に思える。 というのは、応神天皇の「軽嶋明宮」には、軽に都を置いた太古の天皇の御世が紛れ込んだ気配があり (第148回まとめ)、ここでもそれがあり得そうだからである。
 このように考えると、この段の話は古い時代、まだ倭に政権があった頃の事件のように思われる。



[172]  下つ巻(仁徳天皇12)