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⇒ [162] 下つ巻(仁徳天皇2) |
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2017.07.07(fri) [163] 下つ巻(仁徳天皇3) ▼▲ |
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又伇秦人作茨田堤及茨田三宅
又作丸邇池依網池 又掘難波之堀江而通海 又掘小椅江 又定墨江之津 又(また)秦人(はたびと)に伇(えたち)せしめまして茨田堤(まむたのつつみ)及(と)茨田三宅(まむたのみやけ)とを作りたまひき。 又丸邇池(わにいけ)依網池(よさみいけ)を作りたまひき。 又難波(なには)之(の)堀江(ほりえ)を掘りたまひて[而]海(うみ)に通(とほ)しき。 又小椅江(をばしのえ)を掘りたまひき。 又墨江(すみのえ)之(の)津を定めたまひき。 また、秦人(はたびと)に賦役させ、茨田堤(まむたのつつみ)と茨田三宅(まむたのみやけ)とを作られました。 また、丸邇池(わにいけ)、依網池(よさみいけ)を作られました。 また、難波の堀江を掘られ、海に通しました。 また、小椅江(おはしのえ)を掘られました。 また、墨江(すみのえ)の津を定められました。 伇…[動] 使役する。派遣してはたらかせる。 え、えたち(役)…[名] 公用の賦役。 茨田…〈倭名類聚抄〉{河内国・茨田【万牟多】郡・茨田郷}〔まむた〕。 みやけ(屯倉)…[名] 御田から収穫した穀類の貯蔵庫。またその耕地・農民。 ほりえ(堀江)…[名] 掘割。 【尊敬表現】 歴史的事象の客観的な記述には「たまふ」をつける必要はなく、またその方が読みやすい。 しかし、この部分が前段の「御世」から繋がっていることを考えると、「たまふ」で受けるのが妥当か。 【秦人】 〈姓氏家系大辞典〉によれば「ハダビト:秦氏の族人にて、秦部と云ふと殆ど同じ」。 秦氏については、第152回【秦氏】でその全体像を見た。 〈姓氏録〉〖秦人/太秦公宿祢同祖 秦公酒之後也〗〖秦人/秦忌寸同祖 弓月王之後也〗から見て、 秦氏の族であろう。しかし、太秦を頂点として再結集した族は一律に「秦忌寸」となったから、 「秦人」は再結集から取り残された族の氏であろう。 【茨田堤】 伝茨田堤は、大阪府門真市宮野町、式内堤根神社の隣にある。 《茨田堤伝承地》
また、「堤根神社が鎮座することから、『茨田堤』の遺構と推定され」ている。 《堤根神社》 〈延喜式〉に{河内国/茨田郡【五社並小】/堤根神社}。堤根神社(大阪府門真市宮野町8-34)に比定される。 社内掲示には、 「河内湖周辺を水害から守るため、仁徳天皇の命により茨田宿根が旧淀川(古川)に日本最古の堤防、茨田堤を築く。 この堤を守るため、茨田氏の先祖彦八井耳命(神武天皇の皇子)を守護神として奉祀したのが神社の起源である」 とある。 神武天皇段には「日子八井命者 【茨田連手嶋連之祖】」と書かれる(第101回)。 なお、門真市大字稗島422にも「堤根神社」があるが、こちらはもともと江戸時代に「山王宮」と呼ばれた神社が、 明治41年〔1908〕に<wikipedia>式内社を名乗ることで、当時盛んに行われていた神社合祀を免れようとしたもの</wikipedia>と考えられている。 《続日本紀》 『続日本紀』には、8世紀(奈良時代)後半に「茨田の堤」が3回出てくる。
●宝亀元年〔七七〇〕七月辛酉朔 ○壬午〔二十二日〕。修二志紀渋川茨田等堤一。単功二三万余人一。 〈倭名類聚抄〉{河内国・渋川【之不加波】郡/志紀【之岐】郡}。 〔志紀(しき)渋川(しぶかは)茨田等の堤を修(をさ)む。単(ひとへに)三万余人(みよろずあまり)に功(いさみ)あり。 ●宝亀三年〔七七二〕八月 ○是月 自二朔日一雨。加以二大風一 河内国茨田堤六処渋川堤十一処志紀郡五処並決。 宝亀三年八月一日は、ユリウス暦の772年9月2日。時期から見て、台風である可能性は十分ある。渋川郡・志紀郡で決壊した堤防は、平野川または久宝寺川(現長瀬川)か。 《太閤以北の堤とする説》 茨田堤の比定地について、詳細に研究した論文がある(『歴史地理学』第220(46-4)号:「茨田堤」の比定地について。上遠野浩一)。 その核心は次の通りである。「」内は原文からの引用。
その実際の位置については、香里園の平安時代の条理に注目し、もともとは茨田屯倉であったと見做しているようである。 その茨田屯倉を三方から囲む部分の堤が、茨田堤であるとする。 図の左は、茨田郡の範囲である。図の右は論文の掲載図に示された位置を、国土地理院の陰影図に記入したものである。 同論文では、古川はかつて寝屋川に接続していたと見ている。 《茨田堤の比定地》 伝茨田堤は鎌倉時代(13世紀)の遺跡であることが明らかになった。しかし、その畔の堤根神社は延喜式〔927年成立〕に記載されている。 それでは、それ以前にここに堤は存在しなかったのであろうか。 堤も存在せずしばしば河川の流路が変わるような土地に、「堤根」という名の神社が存在したとはとても考えられないから、 近くに堤があったことは確実である。 その古い堤は「伝茨田堤」と同じところにあったが、鎌倉時代の再度の築堤によって遺跡が失われたのかも知れないし、 やや離れた流路に平安時代の堤跡が隠れているかも知れない。 次に、続紀では各堤の所在地を郡ごとに記述しているから、「茨田堤」を「淀川流域の堤の総称」とすることには根拠がある。 それに対して上遠野論文は「総称」説を否定し、茨田堤を「茨田屯倉」に限定するが、両説は実は互いに他を排除するものではない。 仮に、最初はごく狭い範囲の堤の名称であったとしても、 以後築堤されたものを含め、平安時代には「茨田郡という地域にある堤」の意味で使われるようになったことは、あり得るからである。 記紀が書かれた時代には、南側の古川流域〔当時の淀川の主流〕にも堤が存在していて、太閤の北を含めた全体が「茨田の堤」と呼ばれていたとするのが穏当であろう。 それでは、築堤はいつのことだろうか。現実的に考えれば、築堤はしばしばの決壊-修復を含め、間断なく行われたはずである。 そもそも書紀の強頚・衫子の伝説そのものが、"既に存在していた堤"の決壊を修復する話である。 各地の堤の起源を遡れば古墳時代はもちろん、一部は弥生時代まで及ぶかも知れない。 しかし古代の堤の起源は、使用した工具などの遺物、農地開拓の痕跡を知る地質調査、 穀倉の遺跡などを含め、考古学的なアプローチによらなければ知ることができない。 【茨田連】 茨田連は神武天皇の皇子、神八井耳命の子孫で「意富臣」に包含される (第101回【日子八井命・神八井耳命の末裔】)。 継体天皇紀元年三月条に「茨田連小望」という名前があり、 天武天皇紀十三年十二月条に「…茨田連…五十氏賜レ姓曰二宿祢一」とあり、 新たに定められた八色の姓の制度下の宿祢姓を賜る。 〈新撰姓氏録〉に〖皇別/茨田宿祢/多朝臣同祖 彦八井耳命之後也 男野現宿祢 仁徳天皇御代造茨田堤〗。 別氏として、〖茨田連〗なども掲載されている。 〈続日本紀〉には、聖武天皇の天平十七年〔745〕~廃帝の天平宝字六年〔762〕の期間に、茨田宿祢弓束(ゆづか)、茨田宿祢枚麻呂、茨田宿祢枚野の名が見える。 【堀江】 (万)4459 蘆苅尓 保利江許具奈流 可治能於等波 於保美也比等能 未奈伎久麻泥尓 あしかりに ほりえこぐなる かぢのおとは おほみやひとの みなきくまでに。 〔葦刈りに堀江漕ぐなる 楫の音は 大宮人の皆聞くまでに〕 「堀江」は、万葉集に15例あり、しばしば楫音(かぢおと)を伴う。船人が漕ぐ櫓と船体がこすれる音は、風流であった。 次の歌には、直接「難波の堀江」が出てくる。
「難波の堀江」は、有名なところであったことがわかる。 【難波の堀江】
現在の大川は川幅が広く、その大きなカーブからも自然河川にしか見えない(右-写真)。 「堀江」が掘られたと思われる5~7世紀には、この川が影も形もなかったというのは、俄かには信じられない。 そこで、大川説はひとまず横に置くことにする。 《難波之堀江-記》 「え(江)」は「枝(え)」に通じ、海・川からの分岐で陸地を貫通しない地形を指す。 ただ、最初に掘られた時点では「江」でも、二次工事によって貫通した後に当初の「江」の名称を残すことはあり得る。 堀江という熟語となると、「人工的に掘って水を引き込んだ溝」の意味になる。 ここで考慮すべきは、法円坂遺跡で見つかった巨大高床倉庫群である。この遺跡は、5世紀後半とされている(難波宮跡公園;復元模型前の掲示板)。 「堀江」は西国から届く物資の運搬経路として倉庫群まで引き込まれたと思われるから、右図のCD、あるいはFGとするのが自然である。 《堀江-書紀》 ところが、書紀は「掘一宮北之郊原二、引二南水一以入二西海一」とある。 これをそのまま読むと、運河は南から流れてくる川と大阪湾を結ぶ。 そこで、寝屋川は当時は大川とは繋がらず、北に向きを変えて淀川に注いでいたと仮定し、 平野川との合流地点と大川を繋ぐABが難波の堀江であるとするのが素直な読みである。 しかし、法円坂遺跡の存在を考慮すると、 「高津宮」は、後の難波宮の付近であったと考えられる(資料[17])。 どう考えても、「難波の堀江」はここまで引き込まれていなければならない。 記紀それぞれから導かれる推定位置を両立させるためには、次の2案が考えられる。 ① 初めに掘られた堀江は、FGまたはCDでこれを記は「通レ海」と書いた。 その後にDEを延長して平野川の水を引きこんで大阪湾まで通したことを、書紀は「引南水以入西海」と書いた。 ただ、この経路は「掘二宮北之郊原一」〔郊原は都の外の原〕と書くにしては宮に近すぎる。 ② 「難波の堀江」は複数の運河を指すとする。可能性が高いのはABとEGの組み合わせである。 ②だとすると、Gからさらに運河網があったかも知れない。 この時期は既に、伝仁徳天皇陵(大仙陵古墳)のような巨大陵を築造する経済力があったのだから、高津宮周辺に大きな都市があったと想像し得る。 ただ、書紀が「堀江」の名称をABと見られるものに限定にしていることが気にかかる。堀江は一般名詞なので、 この限定は書紀執筆者による特殊な見解のようにも思われる。 しかし、記によれば「小椅江」も同じく「掘」られたものだが、こちらは「小椅の堀江」とは書かず「難波の堀江」と区別している。 従って、「堀江」は本当に固有名詞だったかも知れない。 以上、堀江の位置についてでき得る限りの推定を試みたが、これ以上の確かさを求めるためには発掘調査を待つしかない。 【丸邇池】 丸邇池(書紀では和珥池)は、和爾の「広大寺池」と言われている。 ただし、和爾氏発祥の地で最大の古い池だからという以外には、決定的な根拠はないようである (第114回)。 推古天皇紀二十一年十一月条には、「作二掖上池、畝傍池、和珥池一」とあり、記録は仁徳天皇紀とダブっている。 また、推古天皇紀の「置二大道一」(後述)についても、 仁徳天皇紀十四年条の「作二大道一置二於京中一、自二南門一直指之至二丹比邑一」とダブる。 さらに依網池についても、推古天皇紀十五年七月条に「河内国作二戸苅池、依網池一」 があるので、仁徳天皇紀に書かれた土木工事すべてが、実は推古朝〔593~628〕の事業のようにも思える。 しかし、法円坂遺跡の倉庫群の年代は5世紀とされるので、少なくとも堀の一部は仁徳朝の工事であろう。 【依網池】 依網池については、崇神天皇段で詳しく述べた(第115回)。 築造の第Ⅰ期は仁徳朝、第Ⅱ期は推古天皇朝だと考えられている。 難波の大道が非常に近くを通るところが、注目される。 【猪甘・小橋】
〈大辞典〉は、 「猪飼(ヰカヒ):又猪養とも猪甘ともあり、 其名称は猪飼部とて猪を飼養するを職業とせし人民より起こる。 この猪と云ふは山野に住む山猪ならずした家猪即ち豚を指す。 猪甘部:摂津の猪甘部 此国東成郡に猪甘なる地名あり。」 と書く。 《小橋》 「小橋(小椅)」については、現代地名ではJR環状線鶴橋駅の北に「小橋(おばせ)」と「東小橋」がある。 古い時代の地名については「つるのはし跡」に顕彰碑があり(後述)、その横に江戸時代の古地図が掲示されている。 国土地理院のページによる陰影図から、かつての平野川の流路を見ることができる。 古地図に書かれた村と、平野川の江戸時代の想定流路から、猪飼野村、小橋村などの位置を大体知ることができる。 現地の案内板によると、昭和十五年〔1940〕に解体する前の橋の位置は顕彰碑の南側の道で、橋の方向は東西である。 同案内板には、「つるのはし」という名前の由来は「江戸時代の地誌『摂陽群談(節用軍団)』に 『むかし、この辺りに鶴が多く群れ集まったためという』と記されています」と記されている。 書紀編纂期から江戸時代までの長い期間には、当然幾度も橋の架け替えがあったはずだから書紀で「為レ橋」と述べられた橋が、そのままつるのはしに繋がるとは断定できない。 その「小橋」が架かっていたと言われる平野川は大和川の分流で、現在は淀川にそそいでいる。大和川はもともと北向きに流れて河内湖に注いでいたが、 宝永元年〔1703〕に付け替え工事が行われて現在の流路になった。 それによって、平野川の流量は減ったという。 《大道》 書紀には、京(みやこ)を起点として丹比邑に向かう大道を置いたとある。 仁徳天皇の「難波高津宮」は、前期難波宮(天武天皇朝)付近と思われる。 「大道」については、推古天皇紀二十一年条に「自二難波一至レ京置二大道一」 と書かれる。 「難波大道」の遺構は、昭和55年〔1980〕堺市北区常磐町 〔河内国丹北郡・摂津国住吉郡・和泉国大島郡が接するあたり〕 で発見され、大和川今池遺跡と呼ばれる (現地説明会(2008.5.24)資料)。 道幅は17m、方向は南北である。
さて、難波大道の経路を見れば難波大道を通すことと、猪飼津の橋とは無関係である。 原文でも、2文の間に「是歳」が挟まれて別のことになっている。 《小橋の真相》 それでは実際の「小橋」とは何であろうか。猪甘"津"という古名※は、猪甘が河内湖に面していたことを示唆する。 ※…『五畿内志下』摂津国之三、東生郡に「猪飼野【野旧作レ津】」〔「野」旧く津に作る〕とある。 また、記の「掘二小椅江一」と併せて考えると、 猪飼津の海岸から西向きに運河を堀ったと読むのが最も合理的である。 そこに船着き場を設置し、平野川経由で大和に向かう拠点としたと思われる。 書紀を厳密に読むと「小椅」は地名である。「為二橋於猪甘津一」と書くのは、 書紀編纂期には既に橋は実在しなかったが、「昔は橋があったから」からと想像して書いたに過ぎないとも読める。 記に「為橋」が書かれないのも、このように考えれば納得できる。 古墳時代の「橋」は専ら浮き橋、あるいは飛び石であったと思われるから、それより奥には舟は進められない。 以上から考え得る筋書きは、①小橋村または猪飼野村の位置にはかつて西向きの入り江があり、橋が渡されていたことから「小橋」の地名が生まれた。 ②仁徳朝には既に橋はなく、江を掘削して船を通りやすくして津とした。 ③書紀は①を仁徳朝のこととして書いた。である。 別の読み方としては、仁徳朝にも橋は作られたが実はそれは桟橋で、物資の集積地として栄えたことを述べたものとする。 なお、猪飼津を起点とする航路としては、河内湖(草香江)に出て、 短絡路の堀江を通って大阪湾に出るコースも考えられる。 結局「つるのはし」が「小橋」と関係づけられるのは、書紀を読んだ後世の人が、平野川の小橋・猪飼野にかかる橋を見て、 これが書紀のいう「小橋」であると解釈したためかも知れない。 【つるのはし】
同公園の掲示板によると、江戸時代は全長20間(36.4m)、幅7尺五寸(2.3m)の板橋であった。 明治7年〔1874〕、欄干付きで長さ12.7m、幅1.8mの石橋となった。 その後、新平野川が大正12年〔1923〕に開削され、旧川筋も昭和十五年〔1940〕に埋め立てられ、つるのはしは廃橋となった。 昭和27年〔1952〕にこの場所に記念碑を建て、また当時の親柱4本を保存した。 それぞれの親柱には「鶴乃橋」「つるのはし」、そして変体仮名の「つるのはし」(写真中央)が刻まれている。 掲示板の説明によれば、仁徳天皇紀に書かれた「小橋」を「上町台地にある高津の宮から」分岐した官道に、 「河内・大和方面への交通路をひらくために橋がかけられた」とする。
ただ、「難波の大道」は大和への交通路であるが、直接東に向かわず、まず南下して丹比郡に向かっている。 猪飼野の古名「猪飼津」は、ある時期までは河内湖沿岸であったことを示す。 猪飼野から東に大和方面に向かおうとすると、河内湖は縮小しつつあるとは言え、多くの川を横切ることになり、 また多くが湿地帯で通行は困難だったと思われる。 そんな土地に向かって橋を渡すよりは、平野川・大和川を船で行く方がよほど合理的である。 陸路をとる場合は、「大道」のようにまず上町大地を南に進み、丹比郡に達してから東に曲がるである。 よって、記にいう小椅、書紀にいう小橋が平野川を横切る橋であったとは考えにくい。 《小橋の真相》の項で、記紀編纂期には橋自体が存在しなかった可能性を述べた通りである。 【墨江之津】 雄略天皇紀十四年正月条に、「身狭村主青等、共二呉国使一、将二呉所レ献手末才伎漢織呉織及衣縫兄媛弟媛等一、泊二於住吉津一。」 〔身狭(むさ)の村主(すぐり)青(あを)等、呉(くれ)の国の使(つかひ)と共に、呉の献(たてまつ)りし手末(たなすゑ)の才伎(てひと)漢織(あやはとり)呉織(くれはとり)及(と)衣縫(きぬぬひ)の兄媛(えひめ)弟媛(おとひめ)等を将(ひきゐ)て、住吉の津に泊(は)つ。〕 とあり、「呉の国使」が上陸した。 その次の文で一行を「呉客(くれのまらひと)」と呼ぶところを見れば、 あるいは外国使節を迎える賓館もあったかも知れない。ただ、難波宮の研究の進展※とは対照的に、住吉津に焦点を絞った研究は乏しい。 ※…例えば「東アジアにおける難波宮と古代難波の国際的性格に関する総合研究」 (2010年3月 財団法人 大阪市文化協会) 住吉大社の池は、かつてあった細江川の入り江の残存であるとも想像され、 この地の氏族は住吉大神を祀り、西日本あるいは三韓と交易していたのではないかと思われる。 〈新撰姓氏録〉には〖摂津国/神別/天孫/津守宿祢/尾張宿祢同祖 火明命八世孫大御日足尼之後也〗などがある。 この津守氏について〈姓氏家系大辞典〉は、「上古以来の大姓」で「宗族は摂津住吉神社〔住吉大社のこと〕の神主家」、そして 「津守」について「津を守るの意にして、此の氏人は、当社に奉仕すると共に、津を守り、又遠く海外に使する者の多きは、皆此処(ここ)に因(いん)を発する也。」 と述べる。 【書紀―十一年】 14目次 《決横源而通海》
「今朕(われ)是の国を視(め)せ者(ば)、郊沢(のさは)曠遠(ひろくとほく)て[而]田圃(たのも)少乏(すくなし)、 且(また)河水(かはのみづ)横(よこしま)に逝(ゆ)きて、以ちて流れの末(すゑ)不駃(はしらず)。 聊(しまら)霖雨(ながめ)に逢へば、海潮(うしほ)逆上(さかのぼ)りて[而]、 巷里(ちまたさと)船に乗りて、道路(みち)の亦(また)泥(こひぢ)おほふ。 故(かれ)、群臣(まへつきみたち)や、共に之(こ)を視(み)よ。 横(よこし)の源(みなもと)を決(ひら)きて[而]海に通(とほ)して逆流(さかながれ)を塞(ふた)ぎて、以ちて田(た)と宅(いへ)とを全(また)くせよ。」とのたまひき。
因以(しかるをもちて)、其の水を号(なづ)けて堀江(ほりえ)と曰(い)ふ。 又(また)[将]北の河之(の)澇(おほみづ)を防(ふせ)かむとして、以ちて茨田(まむた)の堤(つつみ)を築(つ)きき。
時に天皇(すめらみこと)夢(いめみ)したまひて、神有りて[之]誨(をし)へ曰(のたまはく)、 「武蔵(むさし)の人強頚(こはくび)、河内(かふち)の人茨田連(まむたのむらじ)衫子【衫子、此、莒呂母能古(ころものこ)と云ふ】 二人、以ちて[於]河伯(かはのかみ)に祭らば、必ず塞(ふた)ぐこと獲(え)む。」とのたまふ。 則(すなはち)二人を覓(ま)ぎて[而]之(こ)を得(う)。因以(しかるをもちて)、[于]河神(かはのかみ)に祷(ほ)きたまひき。
唯(ただ)衫子(ころもこ)、全(また)き匏(ひさこ)両箇(ふたつ)を取りて、[于]塞(ふた)ぎ難き水に臨みて、 乃(すははち)両箇(ふたつ)の匏を取りて、[於]水中(みづのうち)に投げて、[之]請(こひねがひ)て曰(まを)さく 「河の神、[之]祟りて以ちて吾(われ)を幣(みてぐら)と為す。是(こ)を以ちて、今吾(われ)来たり[也]。 必ず[欲]我を得むとせ者(ば)、是の匏を沈めて[而]泛(うか)べ不令(しめざれ)。 則(すなは)ち吾(われ)真(まこと)の神と知りて、親(みづから)水中(みづのうち)に入(い)らむ。 若し匏(ひさこ)得(え)不沈(しずまざ)ら者(ば)、自(おのづから)偽(いつはり)の神と知られむ。何(いかに)か徒(いたづらに)吾が身亡(ほろ)ぶや。」
匏、浪(なみ)の上(うへ)を転(まろ)びて[而]不沈(しずまず)て、則(すなはち)潝々(きふきふ、たちまちに)汎(ただよ)ひて、以ちて遠(とほ)く流る。 是を以ちて衫子、雖不死(しにせざれど)[而]其の堤且(また)成れり[也]。 是(これ)衫子之(の)幹(ひととなり)に因りて、其の身(み)非亡(ほろぼさざ)る耳(のみ)。 故(かれ)時の人、其の両処(ふたところ)を号(なづ)けて強頚の断間(たえま)、衫子の断間(たえま)と曰ふ[也]。 是の歳、新羅の人朝貢(みかどををろがみてみつきたてまつり)、則(すなはち)[於]是の役(え)に労(つと)めき。 《茨田連衫子》 【茨田連】の項で見たように、茨田連は天武朝のとき宿祢を賜り、続紀にも3か所に名前がある。 このことは茨田氏は奈良時代になっても一定の勢力を保って朝廷に仕えていたことを示し、また先祖の伝説が載るのは、この氏族が重視されたことの現れといえる。 堤の修復のために、強頚は人柱として自らの命を捧げたが、衫子は「雖レ不レ死而其堤且成也」という信念の持ち主であり、 神に向かって一歩も引かず「お前が真の神だというなら、この瓢(ひさご)を沈めて見せよ」と挑発する。 案の定、神との勝負に勝ち、人柱を捧げることなしに偉業を成し遂げた。このように、衫子は根拠のない迷信に脅えず、正面から困難に立ち向かうタイプの人であった。 この態度が、恐らくは堤の管理を担った茨田一族の心構えとして、代々伝えられたのだろう。 現場で堤を守るのは、合理的思考と土木技術の蓄積・改良がすべてであり、 人柱を供えることなどには何の意味もないのである。 この伝説が生まれた背景には、かつて瓢を用いた何らかの工法によって堤を締め切った事実があり、それが伝説化した可能性がある。 《是因衫子之幹其身非亡耳》 幹は伝統訓では「いさみ」と訓まれる。 「その身亡ぼさず」は、衫子が命を失わなかったことを指す。 「是因」は「これによって」ではなく、「是」を代名詞+繋辞〔これは~である〕、 「因」を「衫子之幹」を目的語とする前置詞と位置づけることによって、この文は「衫子の幹(人柄、才能)によって、その命を失わなかったと言うことに尽きる」という意味であることが明確になる。 ここでは「幹」は"才覚"の意味で使われており、功績を意味する「いさみ」とは意味がずれている。 なかなかぴったり合う倭語がないが、「いさみ」よりは「ひととなり」の方がまだ近いかもしれない。 《新羅人》 書紀には茨田堤の工事に新羅からの渡来人が関わっていると書かれるが、記の「秦人」とは出身国が異なっている。 半島からはさまざまな技術・文化が到来したが、土木技術もその一つであった。 《大意》 十一年四月十七日、群臣(まえつきみたち)に仰りました。 「今朕がこの国を見れば、郊外に野沢が遥か遠くまで広がって田は少なく、 河の水は横に逃げてしまい、流れはその先まで及ばない。 しばしば長雨に逢い海潮は逆上り、 里の人は船に乗らざるを得ず、道路は泥に覆われている。 群臣よ、共にこの有様を見よ。 横流れの源を開いて海に導き、逆流を防いで田や家屋を守れ。」と。 十月、宮の北側の郊外の野原を堀り、南から水を引いて西の海に入れました。 このようにして掘った水路を、堀江と名付けました。 また、北方の河の大水を防ぐために、茨田(まむた)の堤(つつみ)を築きました。 この時、二か所の堤の現場が決壊して塞ぐのが困難になっていました。 その時、天皇(すめらみこと)は夢に神が表れ、教えを告げました。 「武蔵の人強頚(こわくび)、河内の人茨田連(まむたのむらじ)衫子(ころものこ)の 二人を以って河伯(かはく)〔河の神〕を祭れば、必ず塞ぐことができるであろう。」と。 直ちに二人を捜して見つけました。そして、河の神に祈祷させました。 この時、強頚は、泣き悲しみながら水に入って死に、その堤は塞ぎました。 ただ、衫子は、熟した瓢(ひさご)〔瓢箪〕を二個取って塞ぎ難い水に臨み、 その匏を取って水中に投げ、このように神に願いました。 「河の神は祟りの神となって、私をを捧げものにしようとされている。そのために、今私はここに来た。 もし私を得ようとするなら、この瓢を沈めて決して浮かばないようにして見せよ。 それならお前を真の神と認めて、自ら水中に入ろう。 もし瓢を沈められなければ、自ら偽りの神であることを示すこととなる。どうして徒(いたずら)に私の身を亡ぼすことがあろうか。」と。 すると、突然旋風(つむじかぜ)がおこり、匏を水中に引き込みました。 匏は波の上を転げて沈むこともなく、そのまま急流に漂い遥か彼方まで流れ去りました。 このようにして、衫子は死ななかったにも関わらず、その堤も築くことができました。 これは一重に衫子の才覚によって、その身を亡ぼさなかったものと言えます。 そのことから、当時の人はその二か所を、強頚の断間(たえま)、衫子の断間と名付けました。 この年、新羅の人が朝貢し、この役(え)を務めました。 【書紀―十三年~十四年】 16目次 《始立茨田屯倉》
冬十月(かむなづき)、和珥池(わにいけ)を造る。 是の月、横野の堤を築(つ)く。
是の歳、大道(おほみち)を作りて[於]京(みやこ)の中に置きて、南(みなみ)の門(かど)自(よ)り直(ひた)[之]指(さ)して丹比邑(たぢひむら)に至る。 又大溝(おほみぞ)を[於]感玖(こむく)に掘りて、乃(すなはち)石河(いしかは)の水(みづ)を引きて[而]、 上鈴鹿(かみつすずか)と、下鈴鹿(しもつすずか)と、上豊浦(かみつとよら)と、下豊浦(しもつとよら)と四処(よところ)の郊原(のはら)を潤(うる)ほして、 以ちて[之]墾(は)りて四万余頃(よよろづしろあまり)之(の)田を得(う)。 故(かれ)、其処(そこ)の百姓(ひとくさ)、[之]寛饒(ゆたかとなりて)、凶年(あしきとし、ききむ)之(の)患(わづらひ)無し。 《大意》 十三年九月、始めて茨田(まむた)の屯倉(みやけ)を立て、よって舂米部(つきしねべ)を定めました。 十月、和珥池(わにいけ)を造りました。 是の月、横野の堤を築きました。 十四年十一月、橋を猪甘津(いかいつ)に架け、その地を小橋(おばし)と名付けました。 この年、大道を作りました。それは都の中に置き、南門から直線上に丹比邑(たじひむら)に至ります。 また、大溝(おおみぞ)を感玖(こむく)に掘り、石河(いしかわ)の水を引き、 上鈴鹿(かみつすずか)、下鈴鹿(しもつすずか)、上豊浦(かみつとよら)、下豊浦(しもつとよら)の四箇所の郊外の原を潤し、 開墾して四万代(しろ)あまりの田を得ました。 その結果、その地の農民は豊かになり、凶年となる心配がなくなりました。 【横野堤】 〈延喜式〉に{河内国/渋川郡六座【並小】/横野神社}がある。 その旧跡(大阪府大阪市生野区巽西3-9)は、通称印地宮の池の小祠と言われ、明治40年に八幡宮に合祀し、巽神社に改称した。所在地は大阪府大阪市生野区巽南3ー17ー19。 「横野堤」は、横野神社跡の位置からみて、平野川の旧流域の堤であったと思われる。 この堤は〈続日本紀〉宝亀三年条にいう「渋川堤」の一部かも知れない。 【感玖大溝】 《感玖》 石川と感玖(かむく)は、〈倭名類聚抄〉の{河内国・石川【以之加波】〔いしかは〕郡・紺口郷}に相当すると考えられている。 この郡には石川が流れる。倭名類聚抄に紺口のよみは示されていないが、「かんく」または「こんく」とよまれている(「む」は「ん」という仮名文字がなかった時代の表記)。 音読みであるところが気になるが、応神天皇の皇女の高目郎女(澇來田皇女)のよみを検討したとき、紺口郷を見た (第148回【高目郎女】)。 また〈神名帳〉に、{河内国/石川郡/咸古神社}。 比定社は咸古神社(かんこじんじゃ、大阪府富田林市龍泉886)。龍泉寺の鎮守社(神仏習合において、寺を守護する神社。立場が逆転する場合、神社を守護する寺は神宮寺) であったが、<wikipedia>明治の神仏分離により、明治の神仏分離により、龍泉寺より分けられ、式内・咸古神社に比定されて分けられた</wikipedia>という。
『大日本地名辞書』(吉田東伍、明治40年〔1907〕)は、 「咸古神社は龍泉寺にありと云ふは頗(すこぶる)疑はし龍泉寺は今東条村に属し、紺口郷の別郷佐備の域内ならずや」 〔咸古神社は龍泉寺ではなく、紺口郷の別の佐備郷ではないか〕と述べ、龍泉寺の鎮守社に比定することに懐疑的である。 同書は「中村に寛弘寺あり即紺口寺なり。紺口県主〔あがたぬし〕あり即此地を本居とする。」 「按〔あん〕ずるに紺口県は石川錦部二群に渉る。」「又南は赤坂村に接す。」とある。 《豊浦・鈴鹿》 豊浦は、〈倭名類聚抄〉に{河内国・河内郡・豊浦郷}がある。 近鉄奈良線の枚岡駅と額田駅の間の、豊浦町・東豊浦町と推定されている。 ただ、石川郡から豊浦郷までの遠距離に水路を引いたとは、全く考えられない。 なお、この「鈴鹿」が伊勢国の鈴鹿ではないのは明らかである。 《市古大溝》 古市大溝は、〈羽曳野市公式-古市大溝〉によれば、 「古市古墳群内を通る巨大な水路で、昭和39年〔1964〕に航空写真を観察していた秋山日出雄(あきやまひでお)氏によって発見され」たもので、 「掘削時期が6世紀後半ごろであれば」「運河説となり、7世紀であれば灌漑用水路」と考えられるという。 一時はこれが「感玖の大溝」であるとも考えられたようであるが、紺口郡とは方向が逆である。 《感玖大溝の比定地》 〈論文〉から、要点をかい摘んで示す(「」内は、〈論文〉からの引用)。
※…領域の境界にかかるマスは、すべて0.5マスとして集計する。 条里の向きから見て、周辺の平安時代に比べて特に古い地域である点は納得できる。 しかし紺口は咸古神社まで含む広い地域であるのに対して、カンコ田はごく狭い地域であるところに違和感がある。 ただ、④が先駆的に開拓された地域だとすれば、ここが限定的に「紺口の田」と呼ばれたこともあるかも知れない。 まとめ 仁徳朝の土木事業は推古朝の事績を遡らせた面もあろうが、多くの部分は仁徳朝の現実であったと考えられる。 それを裏付けるのは、次の三点である。 第一に、堤・水路・道路の位置は未だ確定しきれない部分も残るが、全体として東成郡、多治比郡、茨田郡などに分布しているのは明らかである。 第二に、仁徳陵など巨大陵の築陵は、治水と用水の確保による農業の安定化や、それを支える渡来族に持ち込んだ技術によって土地の生産力が格段に向上し、併せて半島との交易によりこの地に富が蓄積したことを示す。 第三に、皇子を各地の氏族の許に寄せる大王の持ち回り制が終了して都が難波に固定したのは、この地域の豊かさが、もはや他の地域を凌駕するものとなったからである。 特に第二の点については、農民が豊かになった現実が仁徳天皇の仁政神話を生んだと思われる。 また、茨田堤の物語も治水事業の一つの象徴である。 第三の点については、前回述べた通りである。 また第一の点については、いくつかの論文を参照した。 それらは条理遺構などによって、確実な位置を求めようとするものであった。 今回の対象の字数は僅かであるが、できるだけ俗説や孫引きに引き摺られずに直接原論文や資料に依拠しようとすると、 なかなか歯ごたえのある部分であった。 少なくとも、このような諸論文の研究が研究として成立すること自体が、大まかに見て実在性を示すと言える。 |
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2017.07.16(sun) [164] 下つ巻(仁徳天皇4) ▼▲ |
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於是天皇 登高山見四方之國
詔之 於國中烟不發國皆貧窮 故 自今至三年 悉除人民之課伇 於是(ここに)天皇(すめらみこと)、高き山に登りて四方(よも)之(の)国を見(め)して、 [之]詔(のたま)ひしく 「[於]国の中(うち)に烟(けぶり)不発(たたず)て、国皆(あまねく)貧窮(まづ)し。 故(かれ)、今自(よ)り三年(みとせ)に至りて、悉(ことごとく)人民(たみ)之(の)課伇(えつき)を除(の)けたまはむ。」とのたまひき。 是以 大殿破壞悉雖雨漏都勿脩理 以椷受其漏雨遷避于不漏處 後見國中 於國滿烟 故爲人民富今科課伇 是以百姓之榮 不苦伇使 故 稱其御世謂聖帝世也 是(こ)を以ちて、大殿(おほとの)破壊(こほ)ち悉(つく)して、[雖]雨(あめ)漏(も)れども都(すべて)脩理(をさ)むること勿(な)くて、 椷(はこ)を以ちて其の漏れたる雨を受けて、[于]不漏(もれざる)処(ところ)に遷(うつ)り避けたまひき。 後(のち)に国の中(うち)を見(め)せば、 [於]国に烟(けぶり)満つ。 故(かれ)人民(たみ)富めりと為(おもほ)して、今課伇(えつき)を科(おほ)す。 是(これ)百姓(おほみたから)之(の)栄(さか)ゆることを以ちて、伇(え)使(つかひ)に不苦(くるしまず)。 故(かれ)、其の御世(みよ)を称(たた)へて聖帝(ひじりのみかど)の世(みよ)と謂ふ[也]。 さて、天皇(すめらみこと)は、高い山に登って四方の国を御覧になり、 勅(みことのり)されました。 「国中に煙起たず、国は皆貧窮している。 よって、今自から三年に至るまで、悉く人民の課役を除くこととする。」と。 これにより宮殿は破壊し尽くして、雨漏りしても全く修理脩理せず、 箱にその漏れた雨を受け、雨漏りのない所に移って避けました。 その後に国中を見ると、 国は煙が満ちました。 よって、人民は豊かになったと考え、ここで課役を科しました。 百姓の栄えたことによって、課役にも苦しまなくなりました。 よって、その御世を称え、聖帝(ひじりのみかど)の御世と呼ばれます。 皆…(古訓) みな。あまねし。 悉…(古訓) ことことく。つくす。 えつき(課役)…[名] 公役と調税。 都…[副] すべて。(古訓) すへて。ことことく。つね。 〈時代別上代〉否定辞の上にくる「都」は一般にカツテ~ナシと訓むが、点本にはスベテ~ナシと訓むものが多い。
はこ…[名] 箱。 ため…[名] 目的を表す。〈時代別上代〉理由を表すタメの使い方は上代には見られない。</同辞典> したがって、「人民が富を得たから」という意味のために「得たために」と訓読することはできない。 くるしむ…[自]マ四 「くるし」が接尾語ミを得て名詞化し、さらに「くるしみ」を連用形として活用する。 たたふ(称ふ)…[他]ハ下ニ ほめる。ほめていう。 【人民】 人民の訓は、第115回などでも検討した。 〈倭名類聚抄〉は、 「日本紀云人民【和名比止久佐】一云【於保太加良】」〔「ひとくさ」、或いは「おほたから」〕、 「宇都志伎青人草」(第40回)。 書紀神代一書に「顕見蒼生」〔うつせみのあをひとくさ〕(第69回)。 崇神天皇紀十二年条に「〈丙本〉衆庶【御_宝也】」〔おほむたから〕(第115回)。 〈類聚名義抄観智院本〉に「オホムタカラ」がある。 『仮名日本紀』〔鎌倉時代?〕も「衆庶」に「おほむたから」を用い、完全に伝統として定着している。 今日では、風土記を含め「人民」「百姓」を広範にオホムタカラ・オホミタカラと訓む。 一方、「たみ」という語も確かに存在した。 (万)0050 散和久御民毛 さわくみたみも。 (万)2645 立民乃 息時無 たつたみの やすむときなく。 「大御宝」という訓みを直接に裏付ける材料は、 記にも書記にも存在しない。遡れるのは、どうやら〈丙本〉までである。 「おほみ」自体は、記に「大御酒〔おほみき〕」「大御饗〔おほみあへ〕」「大御琴〔おほみこと〕」などがあり、万葉集にも(万)0038 大御食尓。があるから、 記紀編纂期に天皇所有の宝を「大御宝」と呼んでいたことは間違いない。 その上で民(たみ)への謝意を表す比喩として「大御宝」を用いたとしても、全く不自然ではない。 だから、既に記紀成立直後から、それらを声にして読み上げたとき、しばしば「オホミタカラ」を用いることがあり、 その習慣を受けて〈丙本〉に記され、以後「人民」そのものの訓として定着したと考えることは可能である。 記紀成立当時の感覚に従えば、万葉歌を考慮して基本的に「たみ」、文脈によって「おほみたから」を併用するのが妥当だと思われる。 【苦】 仁徳天皇記四年三月条に「以息百姓之苦」があり、苦の伝統訓は「たしなみ」であるから、 それに合わせれば記の「不レ苦」も「たしなまず」となる。 形容詞「たしなし」の語源は、「足しにならない」即ち「不満足」ではないかと想像される。 それでは「くるし」は使われなかったのだろうか。否、「くるし」は上代に普通に存在した。 万葉集では49例あり、内訳は「苦」が32例、万葉仮名(「久流思」など)が9例、 「辛苦」が4例、「不安」が3例、「病」が1例である。反面、苦しむ様子を「たしなし」「たしなみ」で表した例は皆無であった。 したがって、上代に「苦」を「くるし」と訓むのが普通だったのは明らかである。 それは記紀においても、例外ではないだろう。 それにも拘わらず「苦」に「たしなむ」を宛てたのは、平安の訓読研究博士が意図的に行ったものと考えられる。 ここで注目されるのは〈時代別上代〉の解説で、そこには「形容詞から派生した動詞はおおむねバ行上二段活用で、 マ行四段は極めて少ない。したがってタシナムも語形としては新しいと考えられる」とあり、 タシナムがそんなに古くまでは遡らないことを示唆している。 クルシから派生したクルシムについても同じことが言えるのではないかと思うが、 こちらは(万)2006 見者苦弥 みればくるしみ。など、 上代にマ行の実例がある。 『徒然草』〔鎌倉時代〕では、「たしなむ」はすでに「愛好する」意味になっているから、 「苦しむ」意味の「たしなむ」は、書紀訓読研究が衰えると共に消失したようである。 平安時代の訓読は、「苦」を「くるしむ」と訓むことを意図的に避けたように感じられる。 というのは、人民の「くるしみ」を直視すれば、朝廷支配の国家体制の基盤の問題まで行きつくからである。 豪華な宮殿も貴族の華美な暮らしも、それを支えるのは人民に課する租税である。 その過剰な取り立てが時に「くるしみ」の原因となることを気にして、「くるしむ」という直接的な表現を薄めようとする意識がはたらいたのではないか。その結果、 人生で味わう酸い・甘いを意味する「たしなみ」を用い、人の様々な体験の一つとして暗示する形にしたとは考えられないだろうか。 【書紀―四年~七年四月】 11目次 《烟気不起於域中》
「朕(われ)高台(たかどの)に登りて以ちて遠(とほ)く望之(のぞ)めば、烟気(けぶり)[於]域中(くにのうち)に不起(たたず)。 以為(おもほせらく)、百姓(おほみたから)既に貧(まづ)しくて[而]家(いへ)に炊(かし)く者(ひと)無しとおもほせり。 朕(われ)聞(き)こしめさく、古(いにしへ)に聖(ひじり)の王(きみ)之(の)世(みよ)、 人々(ひとたち)詠徳之音(えいとくのこゑ、みのりをほむるこゑ)を誦(うた)ひ、毎(つねに)家(いへ)に康哉之歌(こうざいのうた、やすしとうたふうた)有りときこしめす。 今朕(われ)億兆(よろづのたみ)に臨(のぞ)みて、[於]茲(ここ)に三年(みとせ)、 頌音(ほむるこゑ)不聆(きこえず)、炊烟(かしくけぶり)転疎(うとくなり)て、 即(すなはち)、五穀(いつくさのたなつもの)不登(みのらざり)て百姓(おほみたから)窮乏(まづし)と知りたまふ[也]。 封畿(うちつくに)之(の)内(うち)、尚(なほ)有不給(たらずてあれ)者(ば)、況乎(いはむや)畿外諸国(とつくにぐに)をや[耶]。」とのりたまひき。
「今自(よ)り[以]後(のち)[于]三年(みとせ)に至りて、 悉(みな)課役(えつき)を除(の)きて、以ちて百姓(おほみたから)之(の)苦(くるしみ)を息(やす)めむ。」とのたまひき。 是日(このひ)[之]始(はじ)めて、 黼衣(ほい、おほみそ)絓履(くわいり、おほみくつ)、不弊(そこなはざる)は尽くして、不更為(さらにつくらず)[也]、 温飯(をむはむ、あたたけきおほひ)煖羹(だむかう、おほみあつもの)、不酸鯘(さむだいせざら、くさらざら)ば不易(かへず)[也]、 心を削(けづ)り志(こころざし)を約(つつ)みて、以ちて事(こと)に従(したが)ひて乎(や、あらかじめ)無為(あへてなさず)。
茅茨(かやうばら)壊(こほ)れて[以]不葺(ふかず)、 風雨(かぜあめ)隙(ひま)に入りて[而]衣(ころも)被(ふすま)を沾(ぬ)らして、 星辰(ほし)壊(こほ)れるより漏れて[而]床蓐(ねどこ)に露(つゆ)おく。 是の後(のち)、風雨時に順(したが)ひて、五穀(いつくさのたなつもの)豊穣(みのりゆたかなり)て、 三稔(みとせ)之(の)間(ま)、百姓(おほみたから)富寛(ゆたか)になりて、 頌徳(ほむるこゑ)既に満ちて、炊烟(かしくけぶり)亦(また)繁(しげ)し。
天皇(すめらみこと)、台(たかどの)の上(うへ)に居(ま)して[而]遠(とほく)[之]望(のぞ)めば、烟気(けぶり)多(さはに)起(た)ちき。 是の日、皇后(おほきさき)に語りまして曰(のたまはく) 「朕(われ)既に富(ゆたかなり)て[矣]、更に愁(うれへ)無し[焉]。」とのたまひて、 皇后(おほきさき)対(こた)へて諮(まを)さく 「何(いかにか)富(ゆたか)なりと謂(のたま)ふや[矣]。」とまをす。 天皇曰(のたまはく) 「烟気(けぶり)国に満てば、百姓(おほみたから)自(おのづから)富(ゆたか)なり[歟]。」とのたまひて、 皇后且(また)言(まを)さく 「宮垣(みやかき)壊(こほ)れて[而]不得脩(えをさめず)て、殿屋(とのや)[之]破れて衣(ころも)被(ふすま)露(つゆ)おきき、何(いかにか)富(ゆたか)なりと謂(のたま)ふや[乎]。」とまをす。
「其(それ)天(あめ)之(の)立たせる君(きみ)是(これ)百姓(おほみたから)の為(ため)なりて、然(しか)るは則(すなはち)君(きみ)百姓を以ちて本(もと)と為(す)。 是(こ)を以ちて、古(いにしへ)の聖(ひじり)の王(きみ)者(は)、一人(ひとり)飢(うゑ)寒(こ)えたらば、[之]顧(かへりみ)て身(みづから)責む。 今百姓[之]貧(まづ)しければ則(すなはち)朕(われ)貧し[也]、百姓[之]富(ゆたかな)らば則朕富(ゆたか)なり[也]。 未(いまだ)之[有]百姓(おほみたから)[之]富(ゆたか)たらざれば、君(おほきみ)貧(まづ)しや[矣]。」とのたまふ。 《詠徳之音》 「誦詠徳之音」は、下の「有二康哉之歌一」との対応から、 「誦二詠徳之音一」と訓むべきである。 〈百度百科〉が引用する「咏徳之声」と同じと思われる。「咏」(声を長く引いて歌う)は「詠(よ)む」に通じ、「音(こゑ)」は「声」に通ずる。 《康哉之歌》 『三国志』魏書文帝紀注「戎役未息於外、士民未安於内、耳未聞康哉之歌」 〔外には戦役終息せず、内には士族・庶民安楽でなく、耳に未だ康哉之歌の歌聞かず〕 がある。 《況乎~耶》 この文字列は歎異抄〔1300年頃〕の有名な一節「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」を彷彿させる。 「いはむや~をや」は「況」の漢文訓読体で、この特徴的な言い回しが上代に見られることが注目される。 和語としての「いはむや」の成り立ちは、「言ふ」の未然形+推量・意志の「む」+疑問(反語)の助詞「や」で、 「言うまでもない」の反語表現である。 《未之有》 「」と「あり」に挟まれた"之"は、文法的位置づけが難しい。 しかし、中国古典を見ると「未之+動詞」は数多く見られる。 一例として『論語』-「里人」の、「我未レ見二力不レ足者一。蓋有之矣,我未之見也」を挙げる。 これは「私は未だ力の足らざる者を見ない。あるかも知れないが、私は未だ見たことがない。」という意味なので、 「之」は「力不足者」を受ける。このように、「未レ有レ之」を「未之有」と書く習慣があったことがわかる。 だとしても「未之有百姓富之君貧矣」は目的語が重複するので釈然としないが、「未百姓富之。未之有君貧矣」が合体したと見るべきであろう。 《大意》 四年二月六日、群臣(まえつきみたち)にこのように仰りました。 「朕は高台に登って遠くを望むんだが、煙が国中のどこからも昇らなかった。 思うに、人々は既に貧しく、家で炊飯する人はいない。 朕が聞くところでは、古(いにしえ)の聖王の世、 人々は詠徳(えいとく)の歌〔ほめる歌〕を歌い、どの家からも康哉(こうざい)の歌〔やすらぎの歌〕が聞こえたという。 今、朕が万民を臨み見ると、三年間 詠徳の歌、康哉の歌声は聞こえず、炊飯の煙も疎らとなった。 だから、五穀実らず人々は窮乏していると知った。 畿内がなお給されないなら、況(いわん)や畿外をや。」と。 三月二十一日、勅を発せられました。いわく、 「今より以後三年間は、 悉く課役を除き、人民(おんたから)の苦しみを緩和する。」と。 是の日から始めて、 黼衣(ほい)や絓履(かいり)〔御服や御くつ〕は、破れない限り着尽くして作り直さず、 温飯(おんぱん)や煖羹(だんこう)〔御飯や御あつもの〕は、腐らない限り残さず、 削心約志(さくしんやくし)に努め〔欲望を押さえ〕、事は成り行きに任せて決して無理なことをなされませんでした。 それにより、宮垣が崩れても作り直さず、 茅葺の屋根が破損しても葺き替えず、 風雨が隙間に入って衣類や寝具を濡らし、 星の光が壊れた箇所から漏れ入り、寝床には露が降りました。 その後、天候は順調となり五穀は豊かに実り、 三回の収穫を経て人々は豊かになり、 詠徳の歌、康哉の歌声は既に満ちて、炊飯の煙は再び繁しくなりました。 七年四月一日、 天皇(すめらみこと)が高殿の上に登って遠くを望まれると、煙は多く昇っていました。 この日、皇后(おおきさき)に、 「私は、既に豊かになったことで、更に憂いはなくなった。」と語りました。 それに対して皇后は 「どうして、豊かになったなどと言えるのですか。」と申しあげました。 天皇は、 「煙が国に満ちているのだから、人々は自ずから豊かである。」と仰りました。 皇后は、重ねて 「宮垣が壊れても修理できず、宮殿は破損し、衣服も布団も露が降り、そのどこが豊かだと言えるのですか。」と申しあげました。 天皇は、こうおっしゃりました。 「そもそも天が立てた君主は人民のためにあり、これは即ち、君主は人民を基盤にすることです。 これによって、古(いにしえ)の聖王は、人民が一人でも飢え凍えていれば、顧て自らを責めたという。 今でも人民が貧しければ朕は貧しく、人民が豊かなら朕は豊かなのだ。 未だ人民は豊かではないのだから、君主は貧しい。」と。 【書紀―七年九月~十年】 13目次 《課役並免既経三年》
「課役(えつき)並(な)べて免(まぬが)れて既(すで)に三年(みとせ)を経て、 因此(このゆゑ)を以ちて、宮殿(みやとの)朽(くち)壊(こほ)りて府庫(みかどのくら)已(すで)に空(むな)しきに、今黔首(あをひとくさ)富饒(ゆたか)なりて[而]不拾遺(ひりひのこさず)。 是(こ)を以ちて、里(さと)に鰥(やもを)寡(やもめ)たち無くて、家(いへ)に余りたる儲(まうけ)有り。 若しも当(まさ)に此の時、貢税調(みつきたてまつ)りて以ちて宮室を脩理(をさめ)まつること非(あらざ)ら者(ば)、懼之(おそるらく)は、其(それ)[于]天(あめ)に罪を獲(え)む[乎]。」とまをしき。 然(しかれども)猶(なほ)忍之(しのびて)不聴(ゆるしたまはず)[矣]。
於是(ここに)、百姓(おほみたから)之(の)不領(をさめざり)て[而]老(おきなひと)を扶(たす)け幼(をさなきひと)を携(たづさ)へて、 材(き)を運(はこ)びて簣(こ)を負(お)ひて、日夜(よるひる)を不問(とはず)、力を竭(つ)くして作ること競(あらそ)ふ。 是以(こをもちて)、未(いまだ)幾時(いくとき)を経ずして[而]宮室悉(ことことく)成りき。 故(かれ)、[於]今に聖帝(ひじりのみかど)と称(たた)ふ[也]。 《鰥寡》 持統天皇紀四年正月条に「鰥寡孤獨篤癃貧不レ能二自存一者 賜二レ稻 蠲レ服二調役一。」 〔鰥寡・孤独(孤児)・篤癃※・貧など自立困難者に稲を支給し、税を免除した〕という記事がある。 ※…癃:〈汉典〉旧指二年老衰弱多病一。 ここの「鰥寡」は、これらの生活困窮者全般の代表として表したものと見られる。 《大意》 〔七年〕九月、諸国は悉く請い願いました。 「課役をすべて免れ、既に三年を経て、 その故をもって、宮殿は朽ち壊れ、府庫は既に空となり、今人民は豊かになり取り残された者もおりません。 そして、里に困窮者もいなくなり、家には余るほどの蓄えがあります。 もしまさにこの時、税を貢がず宮殿を修理することがなければ、天に罪を受けることを恐れます。」と。 しかし、猶忍んで、言うことを聴かれませんでした。 十年十月、やっと課役を科して、宮殿を建造しました。 このとき、人民は誰にも命令されずに、老を助け、幼の手を携え、 木材を運びて竹かごを負い、日夜を問わず、力を尽くして競って作りました。 それにより、未だ大した時も要さずに、宮殿はすべて完成しました。 このようにして、今に聖帝と称えられます。 【黼衣絓履】 「黼衣絓履」などのあまり見ない語句については、太平御覧〔11世紀頃〕所引の『六韜』(りくとう)に、そのままの言葉がある。 『六韜』は古くから伝わる戦略書で、戦国時代〔前403~前221〕の成立と見られる。
また、⑤⑥については、「茅茨不レ剪采椽不レ削」 〔ぼうしきらずさいてんけずらず〕という故事成語がある。 その出典を探すと、韓非子〔戦国;前475~前221〕に次の文があった。
仁徳天皇紀は、このうち④⑤⑥⑩を元年正月条、 ⑦⑨⑪を四年三月条で用いている。 《群書治要など》 『六韜』はまた、『群書治要』にも収められている。 『群書治要』は唐代初期の書。<wikipedia>春秋戦国時代より晋代に及ぶ67種の典籍から、治世の上で参考にすべき文言を抜き書き</wikipedia>
ところが、「奇怪~聴」の部分は、『群書治要』では3文に膨らんでいる。 その部分を群書治要の編者が勝手に付け加えたことはあり得ないから、 群書治要は太平御覧のものとは別系統の本を用いたのであろう。 『七書』(武経七書)とは朱服〔1048~〕が選んだ7種の兵書―孫子、呉子、司馬法、尉繚子、三略、六韜、李衛公問対を指す。 該当箇所は「六韜巻第一・文韜」の「盈虚第二」にある。出典は、京都大学附属図書館所蔵谷村文庫「七書」(江戸時代初期か)。 同書は、⑦⑧⑨を「鹿裘禦寒。布衣掩形。糲粱之飯。藜藿之羹。」 〔鹿裘で寒さをふせぎ、布衣で体を覆い、糲粱を飯とし、藜藿を羹(あつもの)とする〕 に置き換えた形になっている。 これらの全体を見れば、『六韜』は古くから有名な書であったことは確かで、さまざまに手を加えられながら伝わってきた様子が伺われる。 《黼衣などの訓読》 以上から、黼衣・絓履・温飯・煖羹は基本的に天皇のための衣・履物・飯・羹のことである。 伝統訓はそれらに「おほみ」〔大御;二重の美称〕をつけ、「おほみそ・おほみくつ・おほもの・おほみあつもの」としたものである。 このうち「飯」については、形式名詞「もの」となっているところが気になるが、 〈時代別上代〉によるとオホモノは食物を指す語で、「ほかにオモノという語形が古訓類に多く見える。 平安時代の仮名文学にもオモノという形で見える。」という。 これらの語について執筆スタッフ自身は音読みまたは、 万葉レベルの素朴な和語を、便宜的に用いていたのではないかと想像される。 ただ、【人民】の項で述べたように、「おほみ-」は記紀編纂期には既に存在していたから、彼らも「おほみくつ」などと訓んでいた可能性はある。 まとめ 仁徳天皇の仁政は記で語り尽くしていて書記はそれを膨らませたに過ぎず、 多くの部分が蛇足のように思える。ただ、後に問題人物となる皇后の自分勝手さが、伏線として加えられている。 また『六韜』の一部を使っている点は興味深く、朝廷の書庫に中国の古典が豊富に並んでいる様子が目に浮かぶ。 さて、前段では難波、河内の地域が治水と灌漑によって、農業生産力を高めたことが示された。 本段でも農民が豊かになったと描かれるところが、前段から繋がっていると言える。 また、前回にも述べたように、この土地の生産能力が他の地域を凌駕したことにより都が難波に固定され、 中央集権が強まった。 別の面から見ると、仁徳天皇が道徳的に描かれるのは、江戸時代における「神君家康公」の道徳性の強調と類似する。 家康の質素倹約の強調は、農民を搾取する体制による言い訳のように思われ、仁徳天皇紀にも同じような意図を感じる。 仁徳朝の前にもミニ戦国時代があり、動乱を収拾して新しい世を開いた始祖として、 その治世の道徳性を称える伝説が生まれ、それが長く残り記紀まで維持されたように思われる。 |
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2017.07.19(wed) [165] 下つ巻(仁徳天皇5) ▼▲ |
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其太后石之日賣命甚多嫉妬
故 天皇所使之妾者不得臨宮中 言立者足母阿賀迦邇嫉妬【自母下五字以音】 其(そ)の太后(おほきさき)石之日売命(いしのひめのみこと)甚多(はなはだ)嫉妬(ねた)みたまひき。 故(かれ)、天皇(すめらみこと)の所使[之](つかはしし)妾(をむなめ)者(は)宮中(うちつみや)に[不]得(え)臨(のぞ)まず。 言立(ことた)て者(ば)足(あし)母(も)阿賀迦邇(あがかに)嫉妬(ねた)みき。【「母」自(より)下(しもつかた)五字(いつじ)音(こゑ)を以(もちゐ)る。】 爾 天皇聞看吉備海部直之女名黑日賣其容姿端正 喚上而使也 然 畏其太后之嫉逃下本國 天皇坐高臺望瞻其黑日賣之船出浮海 以歌曰 爾(ここに)、天皇吉備(きび)の海部直(あまべのあたひ)之(の)女(むすめ)名は黒日売(くろひめ)、其の容姿(かほ)端正(きらきらし)と聞看(きこしめ)して、 喚上(めさ)げて[而]使(つかは)す[也]。 然(しかれども)、其の太后之(の)嫉(ねたみ)を畏(おそ)りて本国(もとのくに)へ逃げ下(くだ)りき。 天皇、高台(たかどの)に坐(ま)して、其の黒日売之(の)船出(い)でて海に浮けるを望み瞻(め)して、 以ちて歌曰(みうたよみたまはく)。 淤岐幣邇波 袁夫泥都羅羅玖 久漏邪夜能 摩佐豆古和藝毛 玖邇幣玖陀良須 淤岐幣邇波(おきへには) 袁夫泥都羅羅玖(をぶねつららく) 久漏邪夜能(くろざやの) 摩佐豆古和芸毛(まさつこわぎも) 玖邇幣玖陀良須(くにへくだらす) 故 太后聞是之御歌大忿 遣人於大浦追下而自步追去 於是 天皇戀其黑日賣 欺太后曰 欲見淡道嶋 而 幸行之時坐淡道嶋 遙望歌曰 故(かれ)太后是之(この)御歌を聞こして大(おほきに)忿(いか)りて、 人を[於]大浦(おほうら)に遣(つか)はして、追ひ下して[而]自歩(かちより)追ひ去(ゆ)かしめき。 於是(ここに)、天皇其の黒日売を恋ひて太后を欺(あざむ)きて曰(のたまはく)、 「淡道嶋(あはぢしま)を欲見(みまくほりたまふ)。」 とのたまひて[而]、幸行之(いでましし)時、淡道嶋(あはぢしま)に坐して遙(はるか)望みて歌曰(みうたよみたまはく)。 淤志弖流夜 那爾波能佐岐用 伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遲摩佐能 志麻母美由 佐氣都志摩美由 淤志弖流夜(おしてるや) 那爾波能佐岐用(なにはのさきよ) 伊伝多知弖(いでたちて) 和賀久邇美礼婆(わがくにみれば) 阿波志摩(あはしま) 淤能碁呂志摩(おのころしま) 阿遅摩佐能(あぢまさの) 志麻母美由(しまもみゆ) 佐気都志摩美由(さけつしまみゆ) 皇后、石之日売命(いしのひめのみこと)は、とても嫉妬深い人でした。 そして、天皇(すめらみこと)が呼び寄せた女性は、宮中に来ることができませんでした。 事を起こそうとすると、足で蹴って嫉妬心を表しました。 そこに、天皇は吉備の海部直(あまべのあたい)の、名を黒日売(くろひめ)という娘は、その容姿端麗とお聞きになり、 召し上げて来させました。 ところが、皇后の妬みを恐れて、本国へ逃げ帰りました。 天皇は高殿に昇られ、黒日売の船が出航し、海に浮かぶのを遥かに御覧になり、 御歌を詠まれました。 ――沖辺には 小舟(をぶね)連ららく 黒ざやの まさつこ我妹(わぎも) 国へ下らす すると皇后この御歌を聞かれて大いに怒り、 人を大浦に派遣して追って降ろさせ、追って徒歩で去らせました。 そのとき、天皇は黒日売が恋しく、皇后を欺き、 「私は淡路島を見に行きたい」 と仰ってお出かけになり、淡路島に到着されたときに遙かを望んで御歌を詠まれました。 ――押し照るや 難波の前(さき)由(よ) 出で発ちて 吾が国見れば 阿波島 淤能碁呂(おのころ)島 蒲葵(あぢまさ)の 島も見ゆ さけつ島見ゆ 甚多…(万)1370 甚多毛 不零雨故 はなはだも ふらぬあめゆゑ。 ねたむ(妬む)…[他]マ四 そねむ。〈時代別上代〉特に愛情の上で嫉妬するのを指すことが多い。 うはなりねたみ…[名] うはなり(後妻)を妬むこと。 つかはす(遣はす、使はす)…[他]サ四 ①人を派遣する。②為さしめる。 妾…[名] ①正妻以外の夫人。②身分の高い人の身辺の世話をする女。(古訓) をむなめ。こなみ。 うちつみや…[名] 後宮。 ことだつ…[他]タ下二 取り立てて言う、行う。(万)4094 大皇乃 敝尓許曽死米 可敝里見波 勢自等許等太弖 おほきみの へにこそしなめ かへりみは せじとことだて。 あがく…[自]カ四 搔くように足を動かす。(万)1041 赤駒 足何久激 あかごまの あがくたぎちに。 端正…(万)1738 須軽娘子之 其姿之 端正尓 すがるをとめの そのかほの きらきらしきに。 下…[動] (古訓) いたる。おる。まかる。古訓〔類聚名義抄など〕には「くだる」がないが、歌謡を参照すると「くだる」と訓んだと思われる。 かち(歩)…[名] 徒歩。〈時代別上代〉「助詞ヨリを伴うことが多い。」万葉集を見ると「かちより」は、 (万)3314 人都末乃 馬従行尓 己夫之 歩従行者 ひとづまの うまよりゆくに おのづまし かちよりゆけば。など、3例ある。 よ…[助] より。「より」「ゆ」と同じ。 【嫉妬】 『仮名日本紀』(国文学研究資料館/電子資料館)には、舒明天皇即位前期に「嫉妬」がある。 この振り仮名が鎌倉時代に遡るか、後世に書き足されたものかは不明である。 「うはなりうち※」の風習が江戸時代の文献に面白おかしく取り上げられているので、「うはなり」が一般的な語として江戸時代にも存在していたことがわかる。 だから、「うはなりねたみ」の振り仮名は、江戸時代に加えられたものかも知れない。 ※…離縁した前妻が仲間の女性と共に、箒などを持って新家庭に押しかける儀式的な風習。 但し、「うはなり」は上代は第2・第3…夫人のことだが、江戸時代には前妻と別れた後に娶る妻を意味する。 うはなりは神武天皇段・紀の歌謡にも出てくるから、上代語であることは間違いない(第98回)。 ただ「うはなりねたみ」という言い方が、上代に存在した確証が得られない。この言葉そのものは、上代の人にも理解可能ではあろう。 しかし文脈上は「ねたみ」だけで十分なので、そうした方が安全である。 【吉備海部直】 吉備海部直(きびのあまべのあたひ)について 〈姓氏家系大辞典〉は、 「此の氏は吉備より起り、更に紀伊にも殖民として、其の地に於いても、多数の海部を領せしにて、 紀伊の吉備の名も、此の氏より起りしものと考えらる」、 また、「海部直が其の地の国造たりしは、角鹿海直が角鹿国造を、 明石海直が明石国造を称せしが如く、其の例尠からず。」と述べる。 そこで〈国造本紀〉に載る吉備の国造と、地域との対応を調べると表のようになる。
しかし、国造本紀の国造の多くが、〈応神天皇二十二年条〉で御友別一族が封じられた地域と重なり (応神天皇紀【二十二年~二十八年】)、 かつそこに書かれた兄媛の話が、黒日売の話をなぞっているところを見れば、書紀執筆者が記の吉備海部直は吉備国にいたと読んでいたことは確実である。 同じ〈応神天皇二十二年条〉のところで述べたように、御友別一族の伝承の発掘は書紀で初めて行われたと見られ、 記ではそれに至る以前の漠然とした認識に基づくと見られる。 よって、「吉備海部直」なる名称は、紀伊海部が吉備出身を自称していることにより、そこから遡って想定したのであろう。 【歌謡―おきへには をぶねつららく】
〈時代別上代〉などでは、「つららく」を四段動詞と考えている。万葉歌でこの歌謡に一番近い形は、次の歌に見える。 (万)3267 安麻能乎等女波 小船乘 都良〃尓宇家里 あまのをとめは をぶねのり つららにうけり。 〔海人の乙女は小舟乗り、連ららに浮けり〕。 この歌の中にある、いわゆる形容動詞「つららなり」の体言部分「つらら」は形容詞の語幹になり得、「つららし」の存在が想定される。 その連用形が「つららく」であると理解するのが自然であるように思える。 《まさつこ》 「まさつこ(まさづこ)」とそれにかかる枕詞「くろざやの」は、共に意味不詳とされている。 この歌は太后を激怒させたから、「まさつこ」は黒日売への深い愛情を表す語であろう。 すでに「わぎも」(わが妹)だけでも、怒らせるのに十分ではあるが、それに輪をかけた親愛の語であろうと思われる。 例えば「正つ子」(=すぐれた、まっとうな娘)であろうか。〈時代別上代〉は、一説に「真+さつ〔幸(さち)の交替形〕+子」があることを紹介する。 〈古語林〉(大修館)は「美児」の字を宛てる。 《くろざやの》 サヤは太刀を収める鞘であるから、もともと「またち(真太刀)」に係り、そこから「ま」で始まる語全般に広がったと考えるもできるが、 他に用例がないので何とも言えない。また、「黒日売」の名の由来と何等かの関係があるかも知れない。 《くだらす》 未然形+四段スは、上代の軽い尊敬語である。 《大意》 沖の方に船を連ね、愛しい人が国に帰っていくよ。 【遣人於大浦追下而自步追去】 《自歩》 宣長は「自レ歩とは、舟より行は容易きを、歩〔かち〕より行〔ゆか〕しめて苦しめ給ふなり」と述べる。 《追去》 (万)0545 吾背子之 跡履求 追去者 わがせこが あとふみもとめ おひゆかば。 によれば、「追去」の訓は、「おひゆく」である。 使者は、大浦で黒日売の船に追いついて下船させる。 (宣長は「追下は黑日賣の船に在るを、逐て陸へ下ろすなり」と述べる。) 続く「而自歩追去」の意味は理解しにくいが、おそらく使者が監視人として黒日売の後ろについて歩き、 姫が時々足を止めて未練たっぷりに振り返ったときに、 「こら、さっさと国に行かんかい!」と叱りつけて追い立てる様を述べたものかと思われる。 《大浦》 「大浦」は各地に自然発生し得る地名である。ただ、〈倭名類聚抄〉には一か所も見えない。 ここでは「遣人於大浦追下」、即ち太后が人を遣わして「大浦」で下ろしたのであるから、 吉備に至るまでの区間、即ち摂津または播磨の浦ということになるが、特定は困難である。 【歌謡―おしてるや なにはのさきよ】
枕言葉「おしてるや」は、難波にかかる。 この語については、 (万)0977 直超乃 此徑尓弖師 押照哉 難波乃海跡 名附家良思蒙 ただこえの このみちにてし おしてるや なにはのうみと なづけけらしも。という歌があり、 〈時代別上代〉は「生駒山から難波の海に日が照っているのを見て、「押照るや難波の海」といったのであって、 万葉人のこの枕詞への一つの解釈を示すものである。」と述べる。 つまり、万葉歌人にとっても枕詞の原意は必ずしも伝承されてこなかったことが分かり、興味深い。 《阿波嶋・淤能碁呂嶋》 淤能碁呂(おのころ)嶋は、伊邪那岐命・伊邪那美命伝説の島であった(第33回)。 阿波(あは)嶋は、島生みで2番目に生まれるが、「子の例に入れず」とされる(第35回)。 これ以後に生んだ島に関しては実在の島として特定できるのに対して、阿波嶋・淤能碁呂嶋は判断が難しい。 阿波嶋については、「沫と消えた島」とも、「阿波国の島」即ち現実の四国そのものとも考え得る。 しかし、歌の「我が国見れば」とは、風景を見て神話を思い浮かべたという意味であって、現存する島のことではないと読むこともできる。 《あぢまさ》 品牟都和気王(垂仁天皇の皇子)が出雲大神に参拝した帰路、檳榔(あぢまさ)の長穂宮に立ち寄った伝説を想起したものかも知れない (第120回【檳榔之長穂宮】参照)。 《さけつ島》 さけつしまは、一般に「先つ島」と解釈されている。それを認めた上で、 神話を振り返る歌としての文脈で見れば、「先」は空間的な「先」ではなく、 時間的な「先」即ち「昔の伝説上の島」として自然に読める。 上代語では、時間軸上の矢印としてのサキは例外なく過去を指している。 《大意》 難波の岬から海に出発して私の国を見ると、阿波嶋、淤能碁呂嶋、さらには檳榔(あぢまさ)の島も…。 そんな伝説の島々が目に浮かぶ。 まとめ 応神天皇紀二十二年条の兄媛の話は、黒日売を下敷きにして作られたと見られる。 両者は媛が故郷に帰る船の出航を高殿から見送るところや、後から天皇が追いかけて瀬戸内海の島々の歌を詠むところが共通する。 応神天皇が難波から離れた大隅宮に住みながら、難波津から出る船を高殿から見送るという不自然さも、これでその事情が納得できる。 第162回で述べたように、 これはもともと応神天皇と仁徳天皇の間に存在して、吉備の造山古墳に葬られた大王に関する話だと見られる。 その事績は記では仁徳天皇段、書紀では応神天皇紀に紛れ込んでいる。 さて、黒日売は吉備氏族出身である。物語では、黒日売を娶ることを石之日売命が妨害するのは、個人の資質としての嫉妬深さの故ということになっている。 しかし、皇子を婿に迎え入れた氏族長には、その婿に帝位を継承させて影響力を発揮しようとする野望がある。 だから、大王持ち回り制において葛城氏族と吉備氏族とはライバル関係だから、 それが太后と妃との間の軋轢として表現されたように思われる。 氏族間の対立という歴史的事実が、太后の嫉妬の伝説に反映したのだろう。 ただし大王持ち回り制は仁徳朝で解消しているので、ここではもう少し遡った時代の話が混入したことになる。 その点に関しては、書記ではこの話を応神朝に繰り上げたから、少し史実に近づいたと言えなくもない。 |
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2017.07.24(mon) [166] 下つ巻(仁徳天皇6) ▼▲ |
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乃 自其嶋傳而幸行吉備國
爾 黑日賣令大坐其國之山方地而獻大御飯 於是 爲煮大御羹採其地之菘菜時 天皇到坐其孃子之採菘處 歌曰 乃(すなはち)、其の嶋自(よ)転(めぐ)りて[而]吉備国(きびのくに)に幸行(いでま)しき。 爾(ここに)、黒日売(くろひめ)其の国之(の)山方(やまがた)の地(ところ)に令大坐(おほましまさし)めて[而]大御飯(おほみけ)を献(たてまつ)る。 於是(ここに) 大御羹(おほみあつもの)を煮(に)る為(ために)其の地(ところ)之(の)菘菜(あをな)を採りし時、 天皇(すめらみこと)其の嬢子(をとめ)之(の)菘(あをな)を採りたる処(ところ)に到り坐(ま)して 歌曰(みうたよみたまはく) 夜麻賀多邇 麻祁流阿袁那母 岐備比登登 等母邇斯都米婆 多怒斯久母阿流迦 夜麻賀多邇(やまがたに) 麻祁流阿袁那母(まけるあをなも) 岐備比登登(きびひとと) 等母邇斯都米婆(ともにしつめば) 多怒斯久母阿流迦(たのしくもあるか) 天皇上幸之時 黑日賣獻御歌曰 天皇上幸之(のぼりましし)時、黒日売御歌(みうたよみ)献(まつらく)[曰] 夜麻登幣邇 爾斯布岐阿宜弖 玖毛婆那禮 曾岐袁理登母 和禮和須禮米夜 夜麻登幣邇(やまとへに) 爾斯布岐阿宜弖(にしふきあげて) 玖毛婆那礼(くもはなれ) 曽岐袁理登母(そきをりとも) 和礼和須礼米夜(われわすれめや) 又歌曰 又(また)歌曰(みうたよみまつらく) 夜麻登幣邇 由玖波多賀都麻 許母理豆能 志多用波閇都都 由久波多賀都麻 夜麻登幣邇(やまとへに) 由玖波多賀都麻(ゆくはたがつま) 許母理豆能(こもりづの) 志多用波閇都都(したよはへつつ) 由久波多賀都麻(ゆくはたがつま) こうして、その島を巡り、吉備の国にいでましました。 そのとき、黒日売(くろひめ)はその国の山方(やまがた)の地においで頂きまして、お食事を献上しました。 そして、み羹(あつもの)を煮て料理するためにその場所の青菜を採っていたとき、 天皇が、その乙女〔黒日売〕が青菜を採っているところにおいでになり、 御歌を詠まれました。 ――山県に 蒔ける青菜も 吉備人と 共にし摘めば 楽しくもあるか 天皇が都にお上りになるとき、黒日売は御歌をお詠み申しあげました。 ――倭辺(やまとへ)に 西風(にし)吹き上げて 雲離(はな)れ 退(そ)き坐(を)りとも 吾(われ)忘れめや また御歌をお詠み申し上げました。 ――倭辺に 行くは誰(た)が夫(つま) 隠(こも)りづの 下(した)由(よ)這へつつ 行くは誰が夫 おほまします(大坐坐)…[動]サ四 敬語動詞マシマスにさらに尊敬の接頭辞オホを加えたもの。 〈時代別上代〉オホ、タカなどの形容詞語幹などは、いわゆる体言をも用言をも等しく修飾する。 にる(煮る)…[他]ラ上一 水に浸し、火にかけて熱を通す。 あがた(県)…[名] ① 耕作地を山・川などの自然地形によって区切ったひとつの区画。後に郡(こほり)。 ② 天皇が食する野菜などを育てる皇室の直轄地。 やまがた(山県)…[名] 山の県。 やまがた(山県)…[地名] 〈倭名類聚抄〉 {安藝国・山縣【夜萬加多】郡・山縣郷}{下総国・埴生郡・山方郷} {出羽国・最上郡・山方郷}{美濃国・山縣【夜末加太】郡} 転…(古訓) うつる。はこふ。まろふ。めくる。 菘…[名] 野菜の名。白菜の一種。(古訓) たかな。こほね。 菘菜・菘…ここでは歌謡により、阿袁那(あをな)と訓むか。 にし(西)…[名] ①方角の一つ。西。②西風。西から東に向かって吹く風。 そく(退く)…[自]カ四 離れる。 こもりづ…[名] 山中で木や草に隠れた見えにくい場所。〈時代別上代〉コモリドの転化か。 こもりづの…[枕] 下(した)にかかる。 はふ(這ふ)…[他]ハ下二(下二段活用の「はふ」は他動詞。) ① 広げさせる。② 恋心を相手に及ぼす。 【献御歌曰】 天皇の歌詠みは尊敬語を用い、「御歌詠みたまはく」あるいは「御歌詠みたまひていはく」と表現する。 それに対して黒日売からの歌は、その対称形になるはずである。 ここではそれを「献御歌曰」、すなわち「御歌を詠みまつらく」「御歌を詠みまつりていはく」と表すことを示す。 即ち、歌そのものは天皇に献上する歌であるから、この場合も「御」をつけ、 行為としての歌詠みは遜ったものとして、補助動詞「献(まつ)る」をつける。 次からは簡略化して「歌曰」と書くが、訓みは1回目と同じであろう。 【歌意】
吉備(備前・備中・備後)に山県の地名は見えないが、自然地名としてあらゆる地域で発生し得ると思われるので、地名かも知れない。 しかし、ここでは特定の地名とするより、「とある山中の直轄耕作地」と読む方が自然である。 この「あがた」は、造山古墳に葬られた大王の所有であったように思える (【隠された部分】の項及び、第162回参照。)。 《まけ甲る》 "る"は完了の助動詞"り"の連体形で、「青菜」を連体修飾する。 上代特殊仮名遣いにおいて、四段活用の已然形は乙類、命令形は甲類である。 従って、一般説「りは上代においては命令形につく」に合致する。 《ともにし》 副助詞「し」は〈時代別上代〉は「従属節中に用いられる場合は」 「体言(あるいはそれに助詞のついた音節)を受けるときは、排他的にそれを特立する意味を生ずる。」 と解説する。これが言語の専門家の書いたものかと思えるほど難解な文章だが、 要するに、「"し"がついた語を特に際立たせる」という意味か。 この歌に当てはめれば、「二人で共に行うからこそ、青菜を摘む作業は楽しいのだ」となる。 《もあるか》 終助詞「か」は、体言または連体形を受ける。 「か」は①疑問で、そこから②反語、または③自問的な詠嘆が派生する。ここでは③に該当する。
「推量の助動詞"む"の已然形"め"+助詞"や"」は、反語となる。
直接的に読めば、歌意は「倭に帰ったあなたは、体を這わせて恋する女性の許に忍び込もうとするのでしょうね。 でも誰の夫かといえば、私の夫ですのよ」であろう。 だが〈時代別上代〉の語釈②のように、身体ではなく「心を這わせる」すなわち「夫が自らの心情を及ぼす」とする読みもあり得る。 いずれにしても、下二段活用の「這ふ」は他動詞だから、「自らの心あるいは体をして、這はさしむ」という構文になっている。 「心を及ぼす」と解釈した場合、その主語は黒日売だとする見方もあるかも知れないが、 「~つつ」は「行く」に直結するから、その主語は両方とも「夫」である。 【隠された部分】 この段では、仁徳天皇が吉備に行き、黒日売に会って帰るだけである。 あまりにそっけないので、本当はその滞在中に重要な事柄があった可能性が浮かぶ。 その失われたピースは、応神天皇紀二十二年条にある。 そのとき、応神天皇は葉田(はだ)の葦守宮(あしもりのみや)に滞在し、 御友別一族を備前・備中の国造レベルのサイズの領地に封じた。これについては 応神天皇紀14で、 実は隠蔽された大王の事績ではないかと論じた。 《想定し得る史実》 実際には応神天皇(書紀)または仁徳天皇(記)が足を運んだのではなく、皇子を派遣したのではないかと思われる。 御友別一族は族長の娘を、皇子に嫁がせた。媛は、先に吉備に帰って皇子を待つことになった。 これは、大王持ち回り説に添った考えである。 皇子は海路、島々の景色を歌に詠みながら吉備に向かう。 そして吉備で即位し、崩御後は造山古墳に葬られた。 記紀はその王朝のことを書かないが、仁徳天皇即位前に山守皇子のクーデター失敗や、 天皇空位の期間(または、宇治雅郎子の短期間の在位)など、不安定な状況にあったことだけは書かれている。 《史実から記紀への反映》 それでも書紀は、御友別一族への柵封を書いている。 ところが記には、それすらもない。草稿段階には何かがあったが、削除された気配がある。 書き残すと都合が悪いことがあったのだろうが、その真相は不明である。
吉備王朝の記録は公式には抹消されたが、その痕跡が記の本段、および応神天皇紀二十二年条として残ったと見ることができる。 まとめ 吉備には、楯築(たてつき)弥生墳丘墓があり(2世紀後半~3世紀前半)、これ自体は前方後円墳ではないが、 その特殊器台・特殊壺の様式には箸墓古墳に繋がる特徴があるという。 そして、諸国王によって女王として共立された卑弥呼は、この地の出身だとする説があることを述べた (孝霊天皇段)。 応神天皇紀二十二年条、そして前回から今回にかけて検討した吉備王朝があったとすれば、仁徳天皇前の4世紀後半と見込まれ、 楯築弥生墳丘墓からは高々200年に及ばないから、吉備氏族が有力氏族としてそのまま勢力を維持してきた可能性は十分ある。 だから、4世紀の大王持ち回り制における大王の推戴が、吉備氏族にも一度ぐらいはあってもおかしくないのでは、と思われるのである。 |
⇒ [167] 下つ巻(仁徳天皇7) |