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⇒ [158] 中つ巻(応神天皇11) |
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2017.05.20(sat) [159] 中つ巻(応神天皇12) ▼▲ |
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又此品陀天皇之御子若野毛二俣王
娶其母弟百師木伊呂辨亦名弟日賣眞若比賣命 生子大郎子亦名意富富杼王 次忍坂之大中津比賣命 次田井之中比賣 次田宮之中比賣 次藤原之琴節郎女 次取/上/賣王 次沙禰王【七王】 又、此(こ)の品陀天皇(ほむたのすめらみこと)之(の)御子(みこ)若野毛二俣王(わかのけふたまたのみこ)、 其(そ)の母の弟(おと)百師木伊呂弁(ももしきいろべ)、亦(また)の名は弟日売真若比売命(おとひめまわかひめのみこと)を娶(めあは)せまして、 子(こ)大郎子(おほのいらつこ)、亦の名意富富杼王(おほほどのみこ)、 次に忍坂之大中津比売命(おさかのおほなかつひめのみこと)、 次に田井之中比売(たゐのなかつひめ)、 次に田宮之中比売(たみやのなかつひめ)、 次に藤原之琴節郎女(ふぢはらのことふしのいらつめ)、 次に取〈上声〉売王(とりめのみこ)、 次に沙禰王(さねのみこ)を生みましき。【七はしらの王(みこ)】 故意富富杼王者 【三國君波多君息長〔君〕坂〔田〕君酒人君 山道君筑紫之米多君布勢君等之祖也】 故(かれ)、意富富杼王者(は)、 【三国君(みくにのきみ)、波多君(はたのきみ)、息〔長〕君(おきながのきみ)、坂〔田〕君(さかたのきみ)、酒人君(さかひとのきみ)、 山道君(やまぢのきみ)、筑紫之米多君(つくしのめたのきみ)、布勢君(ふせのきみ)等(たち)之(の)祖(おや)なり[也]】。 又根鳥王娶庶妹三腹郎女 生子中日子王 次伊和嶋王【二柱】 又堅石王之子者久奴王也 又、根鳥王(ねとりのみこ)、庶妹(ままいも)三腹郎女(みはらのいらつめ)を娶(めあは)せまして、 子(こ)中日子王(なかつひこのみこ)、 次に伊和嶋王(いわしまのみこ)を生みましき【二柱】。 又、堅石王(かたしわのみこ)之子者(は)久奴王(くぬのみこ)なり[也]。 また、この品陀(ほむた)天皇の御子、若野毛二俣王(わかのけふたまたのみこ)は、 その母の妹、百師木伊呂弁(ももしきいろべ)、別名弟日売真若比売命(おとひめまわかひめのみこと)を娶り、 子、大郎子(おほのいらつこ)、別名意富富杼王(おおほどのみこ)、 次に忍坂之大中津比売命(おさかのおおなかつひめのみこと)、 次に田井之中比売(たいのなかつひめ)、 次に田宮之中比売(たみやのなかつひめ)、 次に藤原之琴節郎女(ふじわらのことふしのいらつめ)、 次に取売王(とりめのみこ)、 次に沙禰王(さねのみこ)の七子を生みました。 そして、意富富杼王は、 三国君(みくにのきみ)、波多君(はたのきみ)、息長君(おきながのきみ)、坂田君(さかたのきみ)、酒人君(さかひとのきみ)、 山道君(やまじのきみ)、筑紫之米多君(つくしのめたのきみ)、布勢君(ふせのきみ)等の祖です。 また、根鳥王(ねとりのみこ)は、異母妹の三腹郎女(みはらのいらつめ)を娶り、 中日子王(なかつひこのみこ)、 次に伊和嶋王(いわしまのみこ)の二子を生みました。 また、堅石王(かたしわのみこ)の子は、久奴王(くぬのみこ)です。 【名前に見る地名】 《百師木》 「ももしきの」は、「大宮」にかかる枕詞。〈時代別上代〉藤原宮址などに見られるように、 宮殿や井戸の周辺の道路や排水溝など、多くの石を用いてつきかためたところがある。 《意富・大》 〈倭名類聚抄〉{大和国・十市郡・飯〔飫?〕富郷} (第101回【日子八井命・神八井耳命の末裔】)。 《忍坂》 押坂山口坐神社の辺りは古くから忍坂と呼ばれた(第99回【忍坂】)。 《田井》 〈倭名類聚抄〉{伊勢国・奄芸【阿武義】郡・田井【多井】} {河内国・志紀郡・田井郷}。 〈姓氏家系大辞典〉「志紀村大字に田井存す。古代田井氏の起りし地にて、その東弓削村に延喜式内弓削神社あり。 物部氏の氏神布都霊〔ふつのみたま〕を祀る。」 《田宮》 〈倭名類聚抄〉{河内国・交野郡・田宮郷}。 〈姓氏録〉にはなく、〈姓氏家系大辞典〉でも、上代には見いだせない。 《藤原》 藤原氏の始祖は中臣鎌足〔614~669〕で、天智天皇八年〔669〕十月丙午朔庚申〔十五日〕に「授二大織冠与大臣位一 仍賜レ姓為二藤原氏一」、そして 翌日の辛酉に薨じた。 一方、持統天皇のとき藤原京に遷都した〔694年〕。ただし、「藤原京」は後世の呼び名で、 持統天皇紀に見えるのは「藤原宮」である。 都を築いた土地が藤の原と呼ばれていたか、或いは持統天皇が都の完成を喜び、美しい藤の花に譬えて命名したかのどちらかであろう。 藤原氏におもねるためという説も見たが、持統天皇にはもう少しプライドがあったのではないかと思える。 古事記に「藤原」が見えるのは、藤原之琴節郎女が唯一である。藤原氏成立後の人物名を遡らせた可能性もないとは言えないが、 応神朝の記事であるから後の藤原氏とは無関係で、単に地名そのもの、またはそこに住んでいた小族の氏と受け取るのが順当であろう。
現在では、「野」の発音は基本的にノ甲であったことが確定している (第148回)。 例外は、東国方言のヌである。 ここでは「若野毛二俣王」であるが、応神段の最初では「若沼毛二俣王」であった。 書紀は「稚野毛二派皇子」で、〈姓氏録-息長真人〉(後述)には、「稚渟毛二俣王」が見られる。 沼・渟をノと発音する例は確認されていないので、二通りあったことは確実である。 これを真っ直ぐに受け止めれば、同じ人物に対してワカノ甲ケフタマタノミコとワカヌケフタマタノミコという揺れが存在したということである。 これは、その時代に現実に存在した幅を反映したものであろう。 古事記は複数の伝承をソースとして集め、辻褄を合わせるための調整は当然行ったが、 それ以外は比較的原型に近いまま収めた性格の書であったから、 原伝説の呼び名がそのまま入ったと考えられる。 【真福寺本の読み取り】
さて、 天武天皇紀十三年十月一日に「八色の姓」を制定し、同日まず真人十三氏を定めた。曰く、
ところが、依然として「山道君」の"道"だけが不思議な位置に飛び、また"坂"が一字浮いている。 天武十三年十月条には「坂田公」もあるので、その"田"が脱落しているのは確実である。 古事記伝でも、"田"のみを補って「坂田酒人君」としている。しかし、天武紀・姓氏録(後述)から見て、「坂田公・酒人公」が正しいだろう。 よって原型は「三國君波多君息長君坂田君酒人君山道君筑紫之末多君布勢君等之祖也」で、 ここから筆写を繰り返す間に誤りが発生したと考えられる。 それでは、どのようにして誤られたのであろうか。これは完全にパズルであるが、 これの解として真福寺本の前に筆写が4度行われたとすると説明可能であることが分かった。 原形:まず、原型ではたまたま割注全体が本文一行の中に納まり、割注の切断はなかった。 1:割注の途中で本文レベルの改行が発生した。しかし割注レベルの折り返しは割注の最後まで行わない(左図B)。 このときに、息長君の「君」が脱落した。割注折り返し点にたまたま「君」が来たのでうっかり落としたと思われる。 2:この筆写では、改行位置が変わった。坂田君の"田"は圧縮されて「君」と融合したと見られる。 3:この筆写では、紙の下端まで達したところで「道」が「山」の下に入らなくなった。このときだけは、本文レベルの改行位置で 割注も折り返すと見做され(左図A)、"道"は"布"の上になった。 また、割注の左の行の中心線よりも右寄りに書かれた。 4:再び改行位置が変わった。しかし、このとき誤って「道」を右の行にあると読み取ってしまい、 かつ新しい改行位置は「道」の下になった。 それが真福寺本かも知れないが、真福寺本はかなり慎重に筆写されたことが伺われるので、それ以前の筆写のときかも知れない。 実際の誤りの過程はこの推定通りとは限らないが、誤写を具体的に説明し得る方法が少なくとも一つ存在し、 かつ復元された氏族名は、どれも書紀・姓氏録の複数個所に出てくるから、最初にこれらの氏族名が書かれていたことは間違いないことになる。 【他の写本】 奈良女子大学/阪本龍門文庫善本電子画像集がネットに画像公開している『氏庸本』には、 「三國君波多君息長坂君酒人君山道/君筑紫之末多君布勢君等之祖也」 とあり、①「山道君」は分解していない。②明確に「末多」と書かれる。という特徴がある。 『氏庸本』は、末尾に「寛永十五歳次戊寅九月日」〔ママ、1638年〕と記入され、猪熊本の兄弟本からの筆写と推定されている。 猪熊本の系統は、前項2の段階の写本から分岐したと思われる。 他の箇所については、真福寺本の「醸甕」を「醸甕酒」としている。 さらに各種の写本から比較検討したいところであるが、まだネットに公開されていない資料の閲覧に漕ぎつけるまでには相当の努力を要するようである。 何れ、閲覧できたときに検討を再開したい。 【若野毛二俣王からの派生氏族】 天武天皇紀で真人を賜った諸氏のうち、坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山道公は、若野毛二俣王の裔と共通する。 このように、この箇所は天武天皇十三年との繋がりが深い。これらは、どのような氏族であったのだろうか。
姓氏録では坂田真人・酒人真人・山道真人は息長真人と同祖とされるので、何れも近江国坂田郡が発祥地かと思われる。 三国真人は、越前国坂井郡の三国国造地域発祥とされるが、継体天皇との繋がりから坂田・酒人と同じグループに括られている。 一方、布勢氏は阿倍氏から分かれたと見られるが、恐らく坂田郡を通過した。 記はここで、坂田郡、もしくは同郡から越前・越中に進出した族である 三国君・息長君・坂田君・酒人君・山道君・布勢君を、一つに束ねたように思われる。 さらに、その共通の祖先として波多君を位置づけたのかも知れない。 残るは筑紫の米多君のみであるが、これも恐らく息長君系であろうということになる。 しかし、一氏だけ遠隔地に移った事情は分からない。強いて言えば、息長帯比売命(神功皇后)は筑紫国にもしっかりと足跡を残しているのだが…。
真福寺本の「筑紫の●多」は、"末"・"米"のどちらにも読めそうである(図:右端)。 その判別のための一つの指標として、縦線のどの辺りを横線(「末」は下の方の横線)が切るかに注目した。 例えば神功皇后の「"末"羅縣」と、倭建命の「夜都"米"佐須」に注目すると、横線の上に出る部分の割合(図の〈a/b〉)は"米"の方が大きい。 そして「筑紫の"●"多」は、〈a/b〉が大きい。 そこで真福寺本全体からすべての末・米を取り出して、〈a/b〉を測定した。 これらの、「米」であるはずの箇所に、一部「末」が混合していた。これは、仁徳天皇段の歌謡と履中天皇段の歌謡に集中している。 何かの理由があるかも知れないが、ここでは深入りしない。 なお、「米」のはずであっても、あきらかに"末"の字形であるものは"末"として測定した。 その結果、"末":平均=40.0%、標準偏差=2.95ポイント。"米":平均=41.9%、標準偏差=3.53ポイント。 グラフは、正規分布であると仮定したときのものである。〈a/b〉が43%より大きい確率は、"末"が15%、"米"が38%となる。 これに一画目に筆を入れた向きも加味すると、比較的「米」が有利である。 【「坂田王朝」が並立か】 《景行天皇段との共通性》 応神段の最後に、一人の皇子からの裔の展開が示される。これは、景行天皇段における倭建命と類似する。 景行天皇を継いだ成務天皇は継嗣を残さず、倭建命の子、仲哀天皇が即位して新しい系統が始まった (第135回)。 応神天皇の場合は直系の天皇がしばらく続くが、武烈天皇で途絶える。 そして、若野毛二俣王の四代孫が即位して継体天皇となる。ここでも、いずれ途絶える王朝のために皇子からの別の系統を予言しておくものと言える。 《疑似的な天皇書法》 若野毛二俣王の子、意富富杼王が諸族の祖となる構図は、 若野毛二俣王が形式的には天皇の位置にあると言える。 ここから、史実としては南北朝期のような王朝の並立があった可能性が浮かび上がる。 仮に若野毛二俣王創始の王朝を坂田王朝と名付けると、継体天皇に至って坂田王朝が正当な王朝に復帰するわけである。 このように王朝並立を仮定すると、数々の謎が解ける。 第一に、仁徳天皇即位前の兄弟間の戦闘があり、本来継ぐはずだった宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子)が即位できず、 また仁徳天皇即位の前に長い天皇不在の期間があった (第155回)。 ここには次の大王の座を巡っての激しい戦いがあったことを示唆し、史実ではこの後王朝が並立したであろうと思われる。 宇遅能和紀郎子に「崩」が使われたのは、一時坂田王朝側の天皇と位置づけたことの残存かも知れない。 第二に、応神天皇から継体天皇の間は、「品太天皇五世之孫」(記)、「誉田天皇五世孫」(書紀)という同じ言い回しが使われ、その間の系図が見えない。 これは、坂田王朝が一定の地域を統治した事実を意図的に伏せようとしたように見える。 第三に、三国公・酒人公・坂田公の出発点を、書紀は継体天皇に付け替えたことである。 これは、稚野毛二派皇子がもう一人の大王として立っていた痕跡を、さらに徹底して消そうとしたと解釈できる。 稚野毛二派皇子から継体天皇まで続いた坂田王朝の実在感に繋がる要素は、とにかくすべて潰さなければならなかった。 これはまた、〈姓氏家系大辞典〉が示した疑問への答えである。 第四に、書紀では稚野毛二派皇子から始まる系図は完全に削除した。 これも坂田王朝の影を消すものである。 第五に、記では大山守皇子が皇子でありながら陵が記述され、大王級の古墳があったと推定されることである (第154回【葬大山守皇子】)。 物語上では大山守皇子の陵とされるが、宇遅能和紀郎子の陵が転化したかも知れない。 《系列一元化への操作》 このように、記紀ともに天皇の世が一元的に続いたことにして坂田王朝の影を極力消したが、それでも記にはいくつかの痕跡が残っている。 仮に坂田王朝が存在したとすれば、若野毛二俣王は菟道稚郎子と同一人物か、あるいは子で、 都は五世の間に宇治⇒坂田郡⇒越前と移ったと想定される。また、その道筋は皇太子時代の誉田別命の北陸への移動経路に反映したのかも知れない。 ただし、倭の五王の時代に倭を代表する政権として宋・梁と外交関係を維持したのは、仁徳天皇などの難波王朝であった。 まとめ 天武天皇が八色の姓を定め、まず最高姓の真人を賜ったうちの多くがその息長公系であったことは、注目に値する。 もちろん、直接的には壬申の乱の時に大海人皇子を盛り立てた功績に報いたのであろう。 しかし、息長公系氏族は、継体天皇を立てた時代から継続して、有力な勢力として朝廷に仕えてきたものと思われる。 更に継体天皇以前から、近江~越中に確固たる勢力が存在し、代々の大王を押し立てて継体天皇に至ったことは想像に難くない。 ところが、書紀においては稚野毛二派皇子から継体天皇までの間、息長公系氏族が存在しなかったことにされたのである。 それは、代々の天皇の系列はあくまでも純粋な単線であって、その途中に分岐・合流があってはならないからである。 皮肉にも書紀が行ったこの操作こそが、近江~越中にもう一つの朝廷と言い得るほどの勢力があったことを、確実視させるものとなった。 この息長君勢力の姿は、割注に書かれた諸族の正確な読み取りの追求の過程で、輪郭がはっきりしてきた。 この割注は諸本による不一致が大きいことにより、古事記の写本の系統を知る上でよい手掛かりになる部分でもある。 今回の部分は、継体天皇に至る近江勢力を隠蔽した様子が見え、かつ写本系列の研究に資するという、 なかなか重要な段であると言える。 |
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2017.06.03(sat) [160] 中つ巻(応神天皇13) ▼▲ |
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凡此品陀天皇御年壹佰參拾歲
【甲午年九月九日崩】 御陵在川內惠賀之裳伏岡也 凡(おほよそ)此の品陀天皇(ほむたのすめらみこと)御年(みとし)壹佰参拾歳(ももとせあまりみそとせ) 【甲午(きのえうま)の年九月(ながつき)九日(ここのか)崩(ほうず、かむあがりたまふ)。】、 御陵(みささき)川内(かふち)の恵賀之裳伏岡(ゑがのもふしのをか)に在り[也]。
およそこのようにして、品陀(ほむた)天皇は、百三十歳で、 甲午年九月九日に崩じました。 陵(みささぎ)は、恵賀之裳伏岡(えがのもふしのおか)にあります。 川内…〈倭名類聚抄〉{河内【加不知】国}〔かふち〕。 【川内恵賀之裳伏岡】 考古学名誉田御廟古墳が、恵賀之裳伏岡の応神天皇陵に相当すると考えられている。 誉田御廟古墳は古市古墳群に属している (第134回【河内国之志幾】)。 その墳丘長は425mで、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵、同486m)に次ぐ全国第二位の巨大前方後円墳である。 《延喜式―諸陵寮》 恵我藻伏崗陵:軽嶋明宮御宇応神天皇。在二河内国志紀郡一。兆域東西五町南北五町。陵戸二烟守戸三烟。
恵我長野北陵:遠飛鳥宮御宇允恭天皇。在二河内国志紀郡一。 すべて「志紀郡」とされることや、恵我・長野という地名の範囲については以下で詳しく検討する。 《五畿内志》 五畿内志〔河内志は1733年献上〕では、古市郡誉田村の陵を応神天皇陵とし、「式属二志紀郡一」〔延喜式によれば志紀郡に属す〕と書き添える。 誉田村がかつて志紀郡に属したことは、後述するように〈神名帳〉で当宗神社が「志紀郡」にあることによって確定する。 また、丹南郡岡村の陵を仲哀天皇陵、志紀郡沢田村の陵を允恭天皇としている。 ――河内国古市郡【陵墓】 「恵我藻伏山岡陵:應神天皇○在二譽田村一式屬二志紀郡一 陵畔有二冢七一曰馬冢曰鞍冢曰圓冢曰登久理冢曰久弖冢陵東有二馬鬣封一 俗傳武内宿禰墓又有二御榊冢一傳曰當宗神社社司阿部有遠墓 日本紀曰 雄畧天皇秋七月河内國言〔以下伯孫伝説の引用〕」 〔=誉田村にあり、延喜式では志紀郡に属す。周囲に七冢があり、その名は馬冢、鞍冢、 円冢、登久理冢、久弖、馬鬣封(俗伝竹内宿祢墓)、御榊冢(当宗神社社司阿部の遠墓有りと伝わる)。日本書紀・雄略天皇7月条に「河内国に言う…」〕 幕末時点での郡の境界によれば、誉田村は古市郡に属していて、 五畿内志が言う「恵我藻伏山岡陵」が誉田村の大古墳(考古学名:誉田御廟古墳)であることを、疑う余地はない。 文久の修復は元治元年〔1864〕五月~二年二月に実施された。――『「文久の修陵」と年貢地』(外池昇)による。 「馬鬣封」とは、〈汉典〉「馬鬣封:墳墓形状像馬鬣的封土。」〔馬の鬣(たてがみ)を象って土を盛った墳墓〕である。 ――河内国丹南郡【陵墓】
岡村は、明治22年〔1889〕に藤井寺村・野中村と合併して長野村となった。 「岡ミサンザイ古墳」は、地名による命名だから、「岡村」は現在の岡1・2丁目より広かったことになる。 五畿内志の「惠我長野西陵」は、宮内庁治定の「仲哀天皇 惠我長野西陵」(岡ミサンザイ古墳)にあたると思われる。 仲哀天皇陵の文久の修陵は、元治元年〔1864〕五月~二年二月に実施された。 ――河内国志紀郡【陵墓】 「惠我長野北陵:允恭天皇○在二澤田村一 陵畔冢十三其七在二澤田村一三在二道明寺村一餘在二古室村管内一」 道明寺村は、明治22年の町村制施行以前は北条村・国府村・船橋村・大井村・道明寺村の五村であった。 また、澤田村は、同じく澤田村・古室村・林村の三村で、 何れも現在の町名として残っている。 現在の沢田町にあるのは仲津山古墳で、宮内庁が「允恭天皇陵 惠我長野北陵」と治定した市の山古墳は、沢田村の外である。 ただ、江戸時代の澤田村は市の山古墳まで含んでいたとすれば、五畿内志が市の山古墳を允恭天皇陵としたのかも知れない。 文久の修陵では、市の山古墳の方を允恭天皇陵として修陵を実施した〔元治元年5~10月〕。 《恵賀》 「恵賀」(恵我)とはどの地域であろうか。 現代地名を見ると「恵我之庄」と「南恵我之庄」が、羽曳野市西部にある。 そして、その北に接する松原市に、昭和30年〔1955〕まで存続した「恵我村」があった。 恵我村は、明治22年〔1889〕、丹北郡の五村が合併して成立したものである。 両地域については、 <松原市公式ページ―歴史ウォーク24> 〔松原〕市域恵我地区や羽曳野市恵我之荘地区は、平安時代には荘園の発達に伴い会賀荘あるいは会賀牧とよばれる後院領であったようです。 会賀荘の名が現れる最も古い史料は、京都の醍醐寺に残る文書で、長保6年〔1004〕3月1日の日付をもっています。 そこには、9世紀前半に嵯峨天皇の後院であった冷泉院の所領として会賀荘が成立したことを記しています。 〔中略〕会賀荘は代々、上皇や法皇に伝えられてい</歴史ウォーク24>ったとされる。 崇峻即位前紀には、「河内国言 於餌香川原有被斬人…」の中に川名「ヱガ川」がある。 恵我村・得我之庄という地名は、それらに由来すると見られる。 現在の松原市域の旧恵我村や羽曳野市の「恵我之荘」の範囲で見るべき古墳は大塚山古墳のみなので、 古い時代には「恵我」地域は古市古墳群まで広がっていたと考えざるを得ない。 《長野》
そこで〈倭名類聚抄〉を見ると、{河内国・志紀郡・長野郷}がある。 明治22年には、藤井寺村、野中村、岡村が統合して長野村となった。 この丹南郡長野村が、平安時代の志紀郡長野郷の地域に該当すると見られる。 従って、允恭陵と仲哀陵の長野はこの地域で、 誉田八幡宮にかつて建っていた神宮寺「長野山護国寺」(後述)の山号から見て、応神陵も「長野」に含まれたと見られる。 〈倭名類聚抄〉により、平安時代にはこれら三陵がすべて志紀郡に属したことが確定する。 記に見られる江・枝は、ともにエ乙である。 同じ地域に、「ナガノ乙ノ甲」「ナガノ乙エ乙」があったのだろう。 《裳伏岡》 万葉集に、「0625 為妹 吾漁有 藻臥束鮒 いもがため わがすなどれる もふしつかふな」がある。 「もふしつかふな」は、藻の間に潜むひとつか(体長が指4本の幅)のフナを意味する。 地名「藻伏の丘」は何らかの故事に由来するものか。あるいは「喪伏し」〔死者を悼み、地に伏して哀しむ〕の意味かも知れないが、確かなことは分からない。 「もふしのをか」という地名が他にないか調べているが、今のところ見つからない。 「もふせ」という訓も考え得るが、下二段の「ふす」は他動詞で「伏させる」意味となる。 ここでは万葉歌と、「喪伏す」が語源である可能性から、自動詞の四段活用により「もふし」としておく。 《蓬蔂丘誉田陵》 雄略天皇紀九年条には、「於蓬蔂丘譽田陵下【蓬蔂、此云伊致寐姑】〔いちびこ〕、逢下騎一赤駿二者上」 と書かれる 第110回【上毛野君・百尊の逸話】)。 伯孫は、嫁がせた娘が出産したという知らせを聞き、娘の家を訪れた。その帰りの話である。 その冒頭に「飛鳥戸郡人・田邊史伯孫女者、古市郡人・書首加龍之妻也」と書いてあるから、 伯孫は古市郡から飛鳥戸郡に向かって馬を走らせていたことになる。
飛鳥戸については、〈倭名類聚抄〉{河内郡・安宿【安須加倍】郡}〔あすかへ〕という地名がある。 〈神名帳〉には{河内郡/安宿郡/飛鳥戸神社【名神大・月次新甞】}、比定社「飛鳥戸神社」(大阪府羽曳野市飛鳥1023)がある。 飛鳥戸神社と古市古墳群を繋ぐ道としては、古代から竹ノ内街道があった (第134回【大和国白鳥陵―書紀】)。 伯孫の娘の家は、古市郡の北の端としないと辻褄が合わない。 竹ノ内街道が南寄りを通っていた場合は墓山古墳である可能性もあるが、 景色としては誉田御廟古墳の方が雄大である。 「イチビコの丘」という表現からは、その周囲一帯か、 あるいは墳丘自体にイチゴが自生していたことが想像される。 近畿地方で自生するイチゴの固有種を検索すると、ミヤマモミジイチゴ(バラ科キイチゴ属)などが見つかる。 《誉田陵の起源》 現在も誉田御廟陵の周辺は、誉田という地名である。江戸時代には「誉田村」が存在した。 これは「ホムダ陵」から地名化したとも考えられるが、 応神天皇は品陀(ホムダ)真若王の三姉妹を娶っているので、もともと地名ホムタがあったと思われる (第148回)。 従って雄略天皇紀の「誉田陵」はこの地の古墳で、それが住民の記憶にずっと引き継がれ、現代の誉田御廟陵に至ったと考えてよいように思われる。 そして、誉田陵の伝承を基盤として、陵に向かって誉田八幡宮が修造された(詳細は後述)。 「ホムタワケノオホキミ」なる人物は実在したのだろう。ただし、書かれた事績の主としての信憑性は薄く、さまざまな伝説の受け皿として用いられたと見られる。 《北陵・西陵》 〈延喜式-諸陵寮〉は、誉田御廟古墳を基準として「西」「北」を名に付して区別したようである。 これまで述べてきた通り、誉田御廟古墳がホムタノオホキミの陵であることは確実である。 しかし、岡ミサンザイ古墳については考古学的に五世紀末とされるので、仲哀天皇陵とするのは不自然で、実際には倭の五王の一人ではないかと言われる。 また、市ノ山古墳も5世紀末とされ、こちらは允恭天皇との間に極端な齟齬はないが、何とも言えない。
【二ツ塚古墳】 二ツ塚古墳は誉田御廟古墳の東に位置し、 周濠のある前方後円墳で墳丘長110mとされる。 誉田御廟古墳の周濠は二ツ塚古墳に沿って内側に窪み、以前から存在したであろう二ツ塚古墳を尊重する体裁になっている。 もし高木之入日売命など3姉妹を嫁がせた舅、品陀真若王の墳墓ならばこのように扱われただろうと思われる。 即ち、第148回で論じたように御子品陀和気命がこの地を御名代として賜り、土地の豪族品陀真若王に迎えられた。 やがて、品陀和気命は天下を治める大王の地位を受けることになり、 それに相応しい規模の大陵が品陀真若王の墳墓の隣に築かれたが、 舅への尊敬の念を失わず決してその墳墓を損なわないようにしたというわけである。 【誉田八幡宮】
しかし、こと誉田八幡宮に限ってはその正面の陵の埋葬者との関わりが、特別に緊密であると感じられる。 現在の誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)は、<wikioedia>永承六年〔1051〕の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から1町〔当時108m〕ほど南の現在地に遷座した</wikipedia>ものという。 《縁起》 誉田宗廟縁起図によると、 「譽田宗廟の社壇は欽明天皇の勅定によりて應神天皇の御廟前にはしめて 寶殿をつくり給ふ其時の社壇は南むき欽明天皇二十年己卯〔559〕二月十五日に八幡大菩薩をあらたに勧請し給なり」という。 誉田宗廟縁起図は、1433年〔鎌倉時代〕に将軍足利義教が奉納したものであまりにも時代が遠く、 「559年勧請」に真実性はないと思われる。 しかし、豊前国の宇佐八幡宮にやはり「欽明天皇の571年に宇佐の地に示顕」なる伝説があり、 社伝に神亀二年〔725〕創建と伝え、続紀の初見は737年である。この頃神功皇后への称賛ムードの盛り上がりの中で宇美八幡宮なども建立されたと考えられる (第142回《宇佐神宮》)。 その頃、肝心の応神天皇陵を臨む位置に、八幡宮が造営されたと考えても決して不自然ではない。 《式外社》 しかし、宇佐八幡宮が式内社(〈延喜式神名帳〉記載)であるのに対して、〈神名帳〉{古市郡}に、誉田八幡宮はない。 ただ、その付近に 〈神名帳〉{河内国/志紀郡/当宗神社三座【並大 月次新甞】}がある。三座が「並べて大」と書くからには、かつての「当宗神社」には三棟の大社殿があったはずだが、 明治四十年〔1907〕に誉田八幡宮に合祀され、現在は境内社の小祠として残るのみである。 その案内板に「その旧地は、放生川(碓井川)と東高野街道(京街道)との交差点の北東に八平方メートルほど残存している。」とある。 「当宗神社三座」のうち二座は、当宗忌寸(まさむねいみき〈姓氏録〉)の祖神と誉田天皇であったという想像も可能である。 《誉田神の崇拝》 誉田八幡宮が正式に八幡宮と呼ばれるようになったのは恐らく前記の永承六年〔1051〕であろうが、 少なくともそれ以前から地名はホムタであり、その地のミササギが神体として崇拝されてきたと思われる。 その規模の巨大さが与えるインパクトは、祖神ホムタノオホキミが葬られた伝承を長年維持させることに資したのであろう。 そして、その祭祀のために設けた神籬が、後の当宗神社・誉田八幡宮に繋がっていったことは、想像に難くない。 そのように考えると、記が成立した時点〔706年〕で誉田御廟古墳が、品陀天皇陵とされていた可能性はかなり濃厚であると考えられる。 興味深いのは、その位置が陵の南にあることで、前方後円墳の正面は後円部とされていたことを意味するかも知れない。 【甲午年】 《応神朝の実年代を探る》
ここで書紀における応神天皇・仲哀天皇の紀年を〈三国史記〉(百済本紀)と照合すると、応神崩が430年、仲哀崩が321年に相当する。 しかし、書紀における神功皇后紀・応神天皇紀の年代には二重性があり、摂政元年の辛巳年は三国史記に合わせれば322年、 魏志に合わせれば202年である。後者における仲哀天皇の崩年は、201年となる (神功皇后紀6【時系列の複合】)。 次に記に話を移す。応神天皇の崩年を394年とすれば、御年130歳を差し引いて265年に神功皇后から生まれたことになる。 そして神功皇后の御年は100歳とされる。仲哀天皇の崩年を干支二回り分遡らせると242年となる。 記には神功皇后が摂政となった年は書いてないが、書紀に倣って仲哀天皇の崩の翌年、20歳で摂政になったとすれば生まれ年は224年、応神天皇を生んだのが42歳、 崩年は321年、そして翌322年に応神天皇が58歳で即位するという筋書きが成り立つ。 以上から、崩年を繰り上げる操作が、次の二つのステージに分けて行われたことが浮かびあがる。 ステージⅠ:記における操作。仲哀天皇までの崩年を干支二回り繰り上げ、また応神天皇の生年を仲哀天皇崩の23年後に繰り上げて神功皇后を挿入する。その結果応神天皇の御年を130歳となる。 ステージⅡ:書紀における操作。摂政元年を記の243年頃から『魏志』との整合を図るために、さらに202年まで繰り上げる。 その結果、仲哀天皇の崩も201年に繰り上がる。 また、百済との国際関係に関しては、202年から干支2回り後の322年を適用する。 《記紀の太歳表記》
書紀最終巻、持統天皇までくれば年紀に疑いはなくなるので、そこから代々遡っていくと、 神功皇后摂政就任年は、紀の日付は西暦202年となり、魏志に対応している。 よって、〈三国史記〉(百済本紀)※から引用した代々の百済王即位年は、 120年繰り上げた位置に書きこまれたことになる。 次に、書紀の即位年および確定した西暦と、記の崩年との太歳表記と比較する。その結果、
② 遡って、允恭天皇(第19代)、雄略天皇(第21代)、継体天皇(第26代)については、数年のずれに留まる。 しかし、允恭天皇以前は大きな差がある。 允恭天皇以後の時期になると、記紀は概ね一致している。 また、各天皇の在位期間も常識の範囲内に収まり、さらに宋書・梁書ともかみ合うので、 この時期には史実に近いものになったと考えられる。 前項で述べたように、記は仲哀天皇以前を干支二回り繰り上げ、 神功皇后を挿入すると共に応神天皇の即位を繰り上げた(前項「ステージⅠ」)。 書紀では魏志と噛み合わせるために、仲哀天皇をさらに繰り上げる必要が生まれ、仁徳天皇と允恭天皇の在位年数を大幅に伸ばして調整した(「ステージⅡ」)。 すると、〈三国史記-百済本紀〉※の引用はステージⅡの後に行ったと考えられる。 それは、①三国史記の年をステージⅠに連動して繰り上げ、 ②ステージⅡの結果動いた神功・応神の紀年に当てはめる。という手順で行われたことになる。 ※…正確には、「『三国史記』百済本記とほぼ同じ内容を収め、記紀編纂の時代に存在していた逸書」。 【和邇吉師】 ステージⅠ以前の応神天皇の在位期間は、西暦362年~394年である。 ここで、応神段の百済からの馬の献上・鏡の献上・和邇吉師の渡来に注目する。 ● 百済が倭に「貢二馬二匹一」とあり、三国史記368年に「遣二-使新羅一送二良馬二匹一。」がある。 ● 七枝刀の銘文「太和四年」が369年である可能性がある。書紀は神功皇后記に回している。 ● 三国史記に、375年までに中国から漢字がもたらされた記事がある。書紀は、15年〔405〕に王仁が訪れたとする。 (第152回)。 これらの日付は、応神天皇の本来の在位期間の中にあり、七枝刀の献上は銘文の日付に合わせて神功皇后に移し、 王仁の来訪は応神天皇の事績のまま、時期をやや移動したと思われる。 これらから、この3つの事柄は応神天皇のときの実際の記録が用いられた可能性がある。 【葉田葦守宮】
しかし、一時的に応神天皇がここに都を置いたとは考えにくく、 あくまでも中央の応神天皇のところに御友別が出仕したものと考えた。 しかし、ある大王が吉備国に都を置き、それが応神天皇に投影されたと考えることも可能である。 この勢力が地方豪族に留まったか、国家レベルの政権が都を置いたかを判別する目安は、古墳の規模であろう。 ところが、この地には造山古墳(つくりやまこふん)という全国第四位の巨大前方後円墳(墳丘長360m)が存在する。 築造は5世紀前半と推定され、その近くに葦守八幡宮があることから、俄然大王の姿が浮かび上がってくる。 御友別一族が分かち合った地名は倭名類聚抄の郡名に繋がるので、極端に古い時代ではないと想像され、 造山古墳の時期だとするのも不可能ではないように思われる。 造山古墳に国家レベルの大王が葬られたとすると、一時吉備王朝が存在したことになる。 応神天皇の前後の辺りに矛盾なく入れようとすると、 ①この大王の崩年が記の仲哀天皇の崩年として用いられた。 ②応神天皇と仁徳天皇の間の天皇不在期は実は激動の時代で、 一定期間吉備の大王が権力を握った。の二通りが考えられるが、想像の域を出ない。 《オホキミを戴いた地方豪族》 地方氏族が皇子を婿に迎え、その皇子が天皇に即位するという形態が、これで誉田と吉備の二例で確認できた。 これを朝廷側から見れば、皇子に「御名代を賜」り、地方氏族から「妃を娶(めあは)す」という表現になる。 この観点をもって改めてこれまでを眺めると、垂仁天皇が丹波比古多多須美知能宇斯王から三姉妹を娶ったのも同じ形態である (第116回)。 そして丹後半島にも大王級の大前方後円墳、網野銚子山古墳(墳丘長198m)がある。 ここから、地方の大氏族が皇子を迎え、持ち回りで天皇〔当時の名称はオホキミ〕を立てることが一般的な形であったことが見えてくる。 ただ、代替わりの度に氏族同士が大戦争を起こしていては、大古墳を築造できるような政治的安定は得られないから、 氏族は基本的に連合を形成し、相談あるいは政治的な力関係の下に次代のオホキミを決めたと思われる。 しかし、こうして推戴したオホキミは国の主の血統を引き継ぐことを要し、厳然たる宗教権威を備えていたことは確実である。 そうでなければ、氏族連合の維持は不可能であろう。 その期間は4世紀の垂仁天皇から応仁天皇までの時期で、実際には数代が存在し、 そのうち一部崩年の記録が残り、その355年、362年、394年が成務天皇・仲哀天皇・応神天皇に用いられたと思われる。 景行天皇の皇太子が倭建命・若帯日子命(成務天皇)・五百木之入日子命から絞り切れないところからは、それぞれを迎え入れて押し立てようとする勢力の争いが伺われる。 また、垂仁天皇陵、墳丘長227mの大古墳が孤立して存在するという謎(第121回)も、 この地域の氏族に皇子として迎えられた大王のことが取り入れられていると考えると理解できそうである。 【書紀―応神天皇四十一年】 19目次 《天皇崩》
時に年(よはひ)一百一十歳(ももとせあまりとをとせ)。 【一云(あるいはく)、[于]大隅宮(おほすみのみや)に崩。】 《明宮・大隅宮》 記では「軽嶋明宮」であったが、応神天皇紀には「軽嶋」がつかず、単に「明宮」である (第148回)。 また、別説の「大隅宮」は河内湖北岸とされる。これは、実際には上町台地の難波宮のところではないかと考えた (応神天皇紀3《大隅宮》)。 さらに、「明宮」については「赤留比売命神社」が存在するので、住吉郡の地名かも知れないと考えた(第156回【赤留比売命神社】)。 こうして見ると書紀のこの部分は、記がいう大和国高市郡の「軽」を否定する意図があったとも考えられる。 そもそも、河内郡にも軽里という地名があり、古市古墳群にある。「軽嶋」は実はこちらであったのかも知れない。 さらに「赤留日売神」を祭る地域が、住吉郡東域から古市郡まで広がっていたと考えることも可能である。 《陵の記述がない問題》 誉田御廟山古墳は、全古墳中第二位の規模を誇る。 にもかかわらず、書紀には応神天皇陵造営の記載を欠く。 雄略天皇紀では「蔂丘誉田陵」が実物大の馬型埴輪を並べ、大陵として描かれているから、書紀編纂期に陵が所在不明になっていたはずはない。 次代の仁徳天皇紀には応神天皇を葬った記事はないが、菟道若郎子を菟道山上墓に葬った記事はある。 これを見ると、菟道若郎子は実際には一定期間天皇に即位し、その立場で先代の応神天皇を葬ったのかも知れない。 記紀の公式見解では、菟道若郎子は謙譲の美徳を発揮して即位しなかったことになっているから、先皇を葬った事実があったとしても書けないのは確かである。 大陵の応神天皇陵を築くことができたのだから、そのとき天皇または皇太子は安定的に存在していたはずである。 もっともこれが寿陵※であったとすれば、話は別である。 ※…天子が、生前に作っておく自分の墓。 《大意》 四十一年二月十五日、明宮(あかるのみや)にて、天皇は崩じました。 時に百十歳でした。 【あるいは、大隅宮(おおすみのみや)で崩じたとも言われます。】 【仁徳天皇即位前紀―応神天皇崩】 仁徳2目次 《応神天皇崩》
《大意》 四十一年二月、誉田(ほんだ)天皇は崩じました。 まとめ 応神天皇は、生まれる前から天皇になることを予定されたので胎中天皇と呼ばれ、神功皇后から筑紫で生まれた。 そして大和国軽嶋の豊明宮に坐し、品陀真若王の三姉妹を娶り、近江国に御幸し、吉野宮にも御幸し、 難波の宮殿から兄媛(えひめ)を帰省させ、吉備国の葉田葦守宮に御幸し、難波または明宮で崩じ、河内国古市の誉田陵に葬られた。 その御世には百済など朝鮮半島から多くの人々が帰化し、さまざまな技術・工芸や文化をもたらした。 後に豊後国の宇佐で八幡神となり、全国に勧請された。 このように応神天皇伝説は、記紀ともに各地にバラバラに存在する伝説を並べただけという印象で、一貫する足取りが浮かんでこない。 その一つとして、筑紫に聖母伝説がある。 これについては、かつてこの地にいたある氏族の女王が、渡海して帰国後に男子を出生した伝説が神功皇后に重なったのではないかと推測した。 また、高市郡軽に坐した古代王や、吉備の御友別が仕えた大王も別人で、それらがすべて応神天皇という一人の人格に収斂したのではないかと思えるのである。 ホムタノオホキミという名は、皇子時代に御名代とした地名に由来すると思われること、 そして和邇吉師の件などが史実と考え得ること(前述)から、実在性が強く感じられる。 その他の事績には他の時代のものが含まれたとしても、ホムタの名を被せた伝説に変形したのは、 それだけ強い支配力を、広範囲に及ぼしていたことの反映かと思われる。 このうち八幡神については、奈良時代初期から朝廷が多大な財政支援を奉られたことへの感謝を表すために、 応神天皇神であるというお墨付きを与えたのではないかと想像される(資料14)。 応神天皇が偉大な存在であったからこそ、そのお墨付きには絶大な有難味があったのだろう。 このように応神天皇は西方は筑紫まで知られ、その支配を及ぼしていたようだ。それでは東方はどうであろうか。 雄略天皇の時代になれば、有名な稲荷山古墳出土鉄剣(第137回)によって勢力圏が関東まで及んだことが実証されているが、 応神天皇については、まだ何とも言えない。 |
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2021.05.20(thu) [160z] 下つ巻(巻首) ▼▲ |
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古事記下巻
起大雀皇盡豐御食炊屋比賣命 凡十九天皇
大雀皇〔帝〕(おほさざきのみかど)より起(た)たし、豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)に尽(を)ふ、 凡(おほよそ)十九(とはしらあまりここのはしら)の天皇(すめらみこと)。 尽…[動] (古訓) つきぬ。つくす。をはる。 【真福寺本】 真福寺本には、「帝盡」がない。 氏庸本には「帝」はなく「尽」があり、また「凡十 天皇」とあり、 「九」の位置が一字分空白になっている。岩波『日本古典文学大系』〔1958〕によると、 前田本・猪熊本・寛永本は氏庸本と同様である。空白にしたのは、数が合わないからであろう(下述)。 宣長は、この注そのものを削除している。 【皇帝】 序文の「大雀皇帝以下 小治田大宮以前為二下巻一」と同内容である。 「皇帝」は「序」とこの巻首のみに見られる表記で、本文中には見られない。 『史記』では、「秦始皇帝」が最初の皇帝である。記における「皇帝」は、中国語の表現を用いたものである。 古事記「序」は本文が完成し、清書する前に古事記全体の内容を概観して紹介するための文として作成されたと見られる。 下巻巻首も同様で、下巻を推古段で終えた後に書いたものであろう。 【尽豊御食炊屋比売命】 物語としての古事記は、袁祁王・意富祁王兄弟まででほぼ終了している。 以後は、天皇の皇子皇女・宮・陵のみのリストが、形式的に舒明天皇まで続くのみである。 それは、[古事記の精読を終えて]《皇祖》の項で述べたように、 高天原の神からの血筋が今上天皇まで繋がっていること示す責任が、記にはあったからである。 舒明天皇まで繋がれば、それ以後の家系は明白だからこれで十分と判断されたわけである。 【凡十九天皇】 「凡十九天皇」とあるが、大雀天皇〔仁徳〕は第十六代、豊御食炊屋比売命〔推古〕は第三十三代で、実際には「十八天皇」である。 ここまで見たように、下巻巻首が書かれたのは下巻の本文が確定した後だと思われるから、恐らくは数え間違いであろう。 ただ、清寧天皇崩の後、袁祁王が即位〔顕宗天皇〕する前に国政を担った飯豊皇女がいる。 《はじめは"飯豊天皇"か》 記では「忍海郎女亦名飯豊王。坐二葛城忍海之高木角刺宮一V也」とあり、Vに「治天下」の三文字を加えるだけで天皇となる (第212回)。 書紀は「於忍海角刺宮臨朝秉政。自称二忍海飯豊青尊一。」(顕宗即位前-清寧五)。 「秉政」は国の政を稲の束のように握ることである。また、尊称として「命」ではなく「尊」が用いられ、「十一月。飯豊青尊崩。葬葛城埴口丘陵。」、即ちその死は「薨」ではなく「崩」、 また「墓」にではなく「陵」に葬られる。 初期の草稿では「忍海飯豊青天皇。〔多少の礼賛文を挟んで〕於忍海角刺宮即天皇位。」のようになっていた可能性がある。 「崩」「陵」の使用は、その名残ではないかだろうか。 記紀が飯豊皇女を天皇リストから外したのは、比較的遅い時期かも知れない。 古事記も「治天下」を抹消したが、巻首の「凡十九天皇」のところまで配慮が及ばなかった可能性がある。 まとめ 下巻の後半には次々と天皇の名前が挙がるから、筆写のとき誤って脱落することを避けるためにカウント用に天皇の柱数を載せたのかも知れない。神代段の神生みや、皇子皇女の柱数を書き添えたのも同じ理由かと思われる。 ただ時々実数と異なるのは、数え間違え、あるいは後になって中身を書き換えたためかも知れない。 一方「凡十九天皇」が、一時は記紀によって飯豊皇女が「飯豊天皇」とされたことの反映だとすれば、 播磨出身の一族〔飯豊皇女・顕宗天皇・仁賢天皇・武烈天皇・手白香皇女〕の王朝を、 一定程度強化することとなろう。 飯豊皇女が強力なリーダーシップを発揮して始めは自らを、続けて一族を順に大王として中央政界に送り込んだと考えられることは、大変興味をそそる。 なお、袁祁王・意富祁王の父「市辺押盤皇子」にも「於二市辺宮一治二天下一天万国万押磐尊」の表現があり、 天皇に数えられていた可能性が残る(第214回)。 |
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2017.06.10(sat) [161] 下つ巻(仁徳天皇1) ▼▲ |
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大雀命坐難波之高津宮治天下也
此天皇娶葛城之曾都毘古之女石之日賣命【大后】 生御子大江之伊邪本和氣命 次墨江之中津王 次蝮之水齒別命 次男淺津間若子宿禰命【四柱】 大雀命(おほさざきのみこと)、難波之高津宮(なにはのたかつのみや)に坐(ま)して天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此(この)天皇(すめらみこと)葛城之曽都毘古(そつひこ)之(の)女(むすめ)石之日売命(いはのひめのみこと)【大后(おほきさき)】を娶(めあは)せたまひて、 [生]御子(みこ)大江之伊邪本和気命(おほえのいざほわけのみこと)、 次に墨江之中津王(すみのえのなかつみこ)、 次に蝮之水歯別命(たぢひのみづはわけのみこと)、 次に男浅津間若子宿祢命(をあさつまわかこのすくねのみこと)をうみたまふ【四柱】。 又娶上云日向之諸縣君牛諸之女髮長比賣 生御子波多毘能大郎子【自波下四字以音下效此】亦名大日下王 次波多毘能若郎女亦名長日比賣命亦名若日下部命【二柱】 又上(かみへ)に云ひし日向之諸県(ひむかのもらかた)の君(きみ)牛諸(うしもろ)之(の)女(むすめ)髪長比売(かみながひめ)を娶せたまひて、 [生]御子(みこ)波多毘能大郎子(はたびのおほいらつこ)【「波」自(よ)り下(しも)つかた四字(よじ)以音(こゑ)を以ちゐる。下(しもつかた)此に効(なら)ふ。】亦(また)の名は大日下王(おほくさかのみこ)、 次に波多毘能若郎女(はたびのわかいらつめ)、亦の名は長日比売命(ながひひめのみこと)、亦の名は若日下部命(わかくさかべのみこと)をうみたまふ【二柱】。 又娶庶妹八田若郎女 又娶庶妹宇遲能若郎女 此之【二柱無御子也】 凡此大雀天皇之御子等幷六王【男王五柱女王一柱】 故伊邪本和氣命者治天下也 次蝮之水齒別命亦治天下 次男淺津間若子宿禰命亦治天下也 又庶妹(ままいも)八田若郎女(やたのわかいらつめ)を娶せたまふ。 又庶妹宇遅能若郎女(うぢのわかいらつめ)を娶せたまふ。 此之(この)【二柱(ふたはしら)に、御子(みこ)無し[也]】。 凡(おほよそ)此の大雀天皇之(の)御子等(たち)并(あは)せて六王(むみこ)【男王(みこ)五柱(いつはしら)女王(ひめみこ)一柱(ひとはしら)】。 故(かれ)、伊邪本和気命者(は)天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 次に蝮之水歯別命、亦(また)天下を治めたまふ[也]。 次に男浅津間若子宿祢命、亦天下を治めたまふ[也]。
大雀命(おおさざきのみこと)は、難波の高津宮(たかつのみや)にいらっしゃいまして、天下を治められました。 この天皇(すめらみこと)は葛城之曽都毘古(かつらぎのそつひこ)の娘、石之日売命(いわのひめのみこと)【皇后】を娶られ、 御子、大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけのみこと)、 次に墨江之中津王(すみのえのなかつみこ)、 次に蝮之水歯別命(たじいのみずはわけのみこと)、 次に男浅津間若子宿祢命(おあさつまわかこのすくねのみこと)を生みなされました【四柱】。 また、上で述べた日向之諸県(ひむかのもらかた)の君、牛諸(うしもろ)の娘、髪長比売(かみながひめ)を娶られ、 御子、波多毘能大郎子(はたびのおおいらつこ)、別名は大日下王(おおくさかのみこ)、 次に波多毘能若郎女(はたびのわかいらつめ)、別名は長日比売命(ながひめのみこと)、別名は若日下部命(わかくさかべのみこと)を生みなされました【二柱】。 また、庶妹(ままいも)八田若郎女(やたのわかいらつめ)を娶られました。 また、庶妹宇遅能若郎女(うぢのわかいらつめ)を娶られました。 この二柱に、御子はありません。 このように、この大雀天皇の御子等は併せて六王【男王五柱、女王一柱】です。 そして、伊邪本和気命は天下を治められ、 次に蝮之水歯別命もまた、天下を治められ、 次に男浅津間若子宿祢命もまた、天下を治められました。
日下(くさか)…現代地名に東大阪市日下町。河内国河内郡にあたる (第96回《孔舎衛坂》)。 【高津宮】 難波之高津宮は現在の高津宮(こうづぐう)付近、あるいは難波宮の近くとも言われる (資料[17]、第143回【斗賀野】)。 高津宮の現在地は、大阪市中央区高津1丁目1番29号。〈御由緒〉によれば、仁徳天皇の 「御仁政を慕い平安期の初期清和天皇の貞観八年〔866〕勅命によって旧都の遺跡を探索して社地を定め社殿を築いてお祭りしたのを創始といたします。〔中略〕 正親町天皇の天正十一年〔1583〕豊臣秀吉が大阪城の築城に際し比売古曽社の現在地に御遷座になって今日に及」ぶ。 ここで触れられている「比売古曽社」は現在高津宮の境内摂社で、東成区東小橋3丁目の「比売許曽神社」とともに比売碁曽社の論社となっている (第156回【比売碁曽社】)。 「秀吉が大阪城築城に際し云々」というからには、創建時は現在地よりも大阪城に近いところにあったはずである。 《高津》 現在高津宮を、一般には「たかつのみや」と訓む場合が多い。しかし、「つ」を古い属格の格助詞と見れば「たかつみや」である。 「高+格助詞ツ」は、〈延喜式-祝詞〉に「高津神乃災。高津鳥乃災。」(六月晦大祓)が見られるから、「高つ宮」もありそうにも思える。 だが、万葉集に「津」〔=船着き場〕としての「高津」を詠んだ歌がある。 (万)0292 久方乃 天之探女之 石船乃 泊師高津者 淺尓家留香裳 ひさかたの あまのさぐめが いはふねの はてしたかつは あせにけるかも。 天之探女(あまのさぐめ)は下級の神で、「地上の様子を探る」任務を表す名であり、記の表記は「天佐具売」である (第73回)。 記では地に降りた天若日子と一緒にいたことはわかるが、それ以上のことは書かれていない。 同じ題材は、摂津国風土記に取り上げられている。
地名「高津」は各地で自然発生したと見られ、 〈倭名類聚抄〉{越後国・頚城郡・高津【多加都】郷}{丹波国・何鹿郡・高津郷}がある。 難波の高津は、難波津の別名かも知れないし、難波津とは別の津かも知れない。 ただ、三十八年条で高台(恐らく高津宮の高殿)で菟餓野の鹿の声が聞こえたのだから、後の難波宮付近であろう。 ならば、高津が仮に難波津と別の場所だったとしても、そんなに離れてはいないだろう。 何れにしても「高津」が船着き場に由来することは明白なので、「タカツノミヤ」と訓むべきということになる。 【石之日売命】 父の葛城曽都彦は、神功皇后のとき新羅に渡って戦い、住民を連れ帰ったりしている (神功皇后紀3)。 【皇子の名】 大江(大兄)、中津王(仲皇子)は、長男・次男を意味する。 墨江(住之江)は地名、浅津間も〈倭名類聚抄〉に{近江国・坂田郡・浅妻【安佐都末】郷}〔あさづま〕がある。 蝮も下で見るように、{摂津国・丹比郡}などとの関連が伺われる。 これらがそれぞれの御名代、あるいは住んだ宮の場所を表す可能性もあるが、実際のところは分からない。 「波多」は氏族名または地名である。しかし「波多毘」となると、〈新撰姓氏録〉にも〈姓氏家系大辞典〉にもない。 「毘…」はどうやら、毘古の古を郎子(いらつこ)、毘売の売を郎女(いらつめ)に置き換えることによって、親愛の情または敬意を増したものと見られる。 ということは、「毘」とコ・メとの結合は緩い。もともと「ヒ甲」(またはビ甲)がもっていた意味が意識されている〔日または霊?〕としか考えられない。 【髪長比売】
【長日比売命】 真福寺本では「長目比売命」である。「若日下部命」と書体を比べれば、 「目」であることは明らかであるが、どちらかに決めるだけの材料を欠く。 【蝮】 「蝮之水歯別命」の"蝮"は一般に「たぢひ」と訓まれる。その根拠を調べる。 まず、「蝮」の基本的な訓を見る。(古訓)には、のつち。はみ。たつ。また〈倭名類聚抄〉【蝮和名波美】〔はみ〕。 ここには「たぢひ」は見いだせない。一方、「蝮」の字の氏族は存在する。 〈新撰姓氏録〉〖大和国/神別/蝮王部首/火明命孫天五百原命之後也〗。「火明命」は日向三代の初代瓊瓊杵の子(書紀)、または兄(記)である (第87回)。 〈姓氏家系大辞典〉でタヂヒ氏を見ると、
〈出雲国風土記〉に、「意宇郡 教昊寺有山国郷〔中略〕教昊僧之所造也【散位大初位下蝮首猪之祖也】」があった。 そして〈時代別上代〉には「蝮をタヂヒと訓むのは『多遅比瑞歯別天皇』との比較から言える。」とある。 結局は反正天皇紀に「多遅比瑞歯別天皇」と表記されることが、「蝮」をタヂヒと訓む最も確実な根拠とされるようである。 地名としては、〈倭名類聚抄〉{河内国・丹比【太知比為丹南為丹北】郡}〔たちひ。丹南・丹北となる〕がある。 前回見たように、丹南郡は「長野」の一部がかかり、郡内に仲哀天皇陵があり、応神天皇陵にも近い。
【書紀―元年】 8目次 《大鷦鷯尊即天皇位》
皇后(おほきさき)を尊(たふと)びて皇太后(おほみさき)と曰ひたまふ。 難波(なには)に都(みやこ)して、是(これ)高津宮(たかつのみや)と謂ひたまふ。 即ち宮垣(みやかき)室屋(むろや)を弗堊色(ぬらず)[也]、 桷梁柱楹(むねはしら)を弗藻飾(かざらず)也、 茅茨之蓋(かやうばらのおほひ)弗割斉(ととのへず)也、 此の不以私曲之(わたくしのよこしまにもちゐざる)故(ゆゑ)は、耕績之(たかへしてをさめむ)時に留(とど)むれ者(ば)なり[也]。 《宮垣室屋…》 この部分以下は、四年条の「宮垣崩而不レ造、茅茨壊以不レ葺」などの部分の要約を、予め示すものである。 七年条にも、「宮垣壊而不レ得レ脩、殿屋破之衣被レ露」 〔宮垣が壊れたの修理せず、屋根が破れ露に衣が濡れる〕ままにするのは何故かと、皇后が聞いたのに対して、 天皇は「未之レ有二百姓富一之君貧矣」 〔未だ人民が富を得るに至らないから、君主も貧しくあるのだ〕と答えている。 したがって、この仁徳天皇の姿勢から見て「此不以私曲之故、留二耕績之時一者也」とは、 「私の利益を我慢するのは、民が収穫を上げる時を待っているからである」という意味だと読み取れる。 《割斉》 文脈から、「割斉」は茅葺の屋根を改修するという意味で使われているのは明らかである。 しかし、「割斉」という熟語は、〈汉典〉には載っていない。 ただ〈中国哲学書電子化計画〉を検索すると「割斉」はしばしば出てくる。 その一例を挙げると、 史記〔前109-前91;司馬遷〕-齊太公世: 「田常弑三簡公二于徐州一。田常乃立二簡公弟驁一、是為二平公一、平公即レ位、田常相レ之、専二斉之政一、割二斉安平以東一為二田氏一封レ邑。」 〔田常、徐州に簡公を弑す。 田常乃ち簡公の弟驁を立てて是平公とし、平公即位す。田常これを相け、斉の政を専し、 斉の安平以東を割き田氏をして邑を封ぜしむ。〕 即ち、田常は簡公を殺し、その弟驁を即位させて平公を名乗らせた。田常は名目は補佐役であるが、事実上は斉の政を欲しいままにした。 形式的には平公が斉の安平以東の地域を割き、田常を封ずる形をとった。 <wikipedia>によると、田斉は紀元前386年に田常が姜姓呂氏の斉(姜斉または呂斉)を滅ぼして新たに立てた国である。 国名は「齊」であるが、歴史上複数存在するのを区別するために「田氏の齊=田齊」と呼ばれる。 従ってこの文中の「割斉」は「斉の領土を分割する」を意味するが、検索したその他の漢籍文献にある「割斉」も、すべてこの意味である。 「斉」には「ととのえる」意味があるので、この一文字だけで充分なのであるが、書紀は形式を整えるために動詞を二文字化して「割斉」とした。 ところが、漢籍には改修するという意味の熟語「割齊」はないから、これは書紀による造語であると言える。 《大意》 元年正月三日、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)は天皇(すめらみこと)に即位しました。 皇后は、尊称皇太后となられました。 難波(なにわ)を都とし、これを高津宮(たかつみや)と言います。 そして宮の垣、室屋を塗色せず、 棟、柱を装飾せず、 屋根を茅葺のまま修繕せず、 このように私曲に用いない理由は、農民の耕作が実績を上げる時まで留めていたからです。
10目次 《立磐之媛命為皇后》
皇后(おほきさき)[生]大兄去来穂別天皇(おほえのいざほわけのすめらみこと)、 住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)、 瑞歯別天皇(みづはわけのすめらみこと)、 雄朝津間稚子宿祢天皇(をあさつまわかこのすくねのすめらみこと)をうみたまふ。 又(また)日向髪長媛(ひむかのかみながひめ)を妃(きさき)としたまひて、 [生]大草香皇子(おほくさかのみこ)、 幡梭皇女(はたひのひめみこ)をうみたまふ。 《大意》 二年三月八日、磐之媛命(いわのひめのみこと)を皇后に立てました。 皇后は大兄去来穂別(おおえのいざほわけ)天皇、 住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)、 瑞歯別(みずはわけ)天皇、 雄朝津間稚子宿祢(おあさつまわかこのすくね)天皇を生みなされました。 また、日向髪長媛(ひむかのかみながひめ)を妃とされ、 大草香皇子(おおくさかのみこ)、 幡梭皇女(はたひのひめみこ)を生みなされました。 まとめ 宋書・梁書に出てくる倭の五王の系図は、 第17代履中天皇から第21代雄略天皇までの系図と類似し、 時期も記に書かれた崩年と重なるので、仁徳天皇の存在は史実にかなり近づいていると思われる (倭の五王)。 これまで見てきたように、応神天皇と仁徳天皇の間にはミニ戦国時代があったと思われ、 仁徳天皇によって事実上難波王朝が創始されたと見られる。 巨大な応神天皇陵は、仁徳天皇がその遺徳をしのんで築陵したと考えるのが自然ではあるが、 書紀においては「応神天皇を葬った」記述がどこにもなく、仁徳天皇が直接築いたのは宇治雅郎子墓であるところが気にかかる。 応神天皇陵は寿陵か、あるいは宇治雅郎子大王による築陵かもしれない。 後者だとすれば、宇治雅郎子は父である応神天皇を非常に崇敬していたのであろう。 しかし、巨大な誉田陵を築くために庶民の生活をひどく圧迫したので、反感を持たれて打倒されたという筋書きも成り立つ。 すると、仁徳天皇の仁政が非常に強調されるのは、前代の大王の暴政の故であろう。 宇治雅郎子の謙譲の美徳が強調されるのは、実相を糊塗するためかも知れない。 前代は宇治雅郎子以外に吉備王朝なども考えられるが、何れにしてもその暴政の大王の存在は記紀では抹消され、 わずかに空位の期間があったという記述に、その痕跡を残している。 |
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2017.06.18(sun) [162] 下つ巻(仁徳天皇2) ▼▲ |
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此天皇之御世 爲大后石之日賣命之御名代定葛城部
亦 爲太子伊邪本和氣命之御名代定壬生部 亦 爲水齒別命之御名代定蝮部 亦 爲大日下王之御名代定大日下部 爲若日下部王之御名代定若日下部 此の天皇(すめらみこと)之(の)御世(みよ)、大后(おほきさき)石之日売命(いはのひめのみこと)之(の)御名代(みなしろ)の為(ため)に葛城部(かつらきべ)を定めたまひき。 亦(また)、太子(ひつぎのみこ)伊邪本和気命(いざほわけのみこと)之(の)御名代(みなしろ)の為に壬生部(みぶべ)を定めたまひき。 亦、水歯別命(みづはわけのみこと)之御名代の為に蝮部(たぢひべ)を定めたまひき。 亦、大日下王(おほくさかのみこ)之御名代の為に大日下部(おほくさかべ)を定めたまひて、 若日下部王(わかくさかべのみこ)之御名代の為に若日下部(わかくさかべ)を定めたまひき。 この天皇(すめらみこと)の御世、皇后石之日売命(いわのひめのみこと)の御名代(みなしろ)として、葛城部(かつらきべ)を定められました。 また、皇太子伊邪本和気命(いざほわけのみこと)の御名代として、壬生部(みぶべ)を定められました。 また、水歯別命(みずはわけのみこと)の御名代として、蝮部(たぢひべ)を定められました。 また、大日下王(おおくさかのみこ)の御名代として大日下部(おおくさかべ)を定められ、 若日下部王(わかくさかべのみこ)の御名代として若日下部(わかくさかべ)を定められました。 さだむ(定む)…[他]マ下二 決める。(万)4098 多不刀久母 左太米多麻敝流 美与之努能 許乃於保美夜尓 たふとくも さだめたまへる みよしのの このおほみやに。 為…①[動] なす。なる。②[前] ために。(古訓)ために。 【葛城部】 《葛城氏》
波多臣、巨勢臣、石川朝臣が何れも朝臣〔第二位〕を賜ったのに対して葛城は忌寸〔第四位〕で、 「葛城直」はその地名を負った中小氏族の、一つであったように思われる。 一方、〈新撰姓氏録〉(以下〈姓氏録〉)には「葛城朝臣」がある。 曰く〖皇別/葛城朝臣/葛城襲津彦命之後也/日本紀 続日本紀 官符 改姓並合〗。 とは言うものの、書紀にも続日本紀にも「葛城朝臣」は見えないから、少なくとも「朝臣」については、日本〔書〕紀・続日本紀で「姓を改むること、並めて合ふ」とは言い難い。 なお、「官符」は文献としては大宰府が発行した「太政官符」が残っている(第145回)が、一般的に上から下への命令書を指すらしい。 〈姓氏録〉には他に〖摂津国/未定雑姓/葛城直〗があるが 姓が「直」のままだから、中央で連・忌寸姓を賜る前に分派が摂津国に移ったものだろうと思われる。 仁徳天皇紀・雄略天皇紀を見ると、葛城氏は妃を送り込んだ有力閨閥のようにも見えるが、 氏族としての実態は明瞭ではない。もともとは葛上郡に住んだ人々のゆるやかな集まりが、まとめて「葛城」族と呼ばれ、 波多、巨勢、曽我各氏の母体となった印象を受ける。 《葛城部》 そのためか、〈氏姓家系大辞典〉(以下、〈大辞典〉)にも 「此の部民は初め葛城氏の管理せしものならんも、此の氏亡びて此の部も亦衰ふ。 よりて他の御名代、御子代の如く多からず。」と書かれる。 【壬生部】 《壬生》 〈大辞典〉は、 「職業部の一也。壬生はミブと訓ず。又ニフとも云ひ、丹生の字を宛つ、 又生部、壬部等に作る」とし、 皇極天皇紀に「更悉聚上宮乳部之民【乳部、此云美父。】役使塋垗所。」 〔上宮乳部の民をみな集め、墓所を作らせた〕 とあることから、壬生は「乳部の意にて、皇子御養育に仕え奉る人々、及び其の封民を壬生部と云ふ」という。 《壬生部》 〈大辞典〉は「壬生部」について、次のように考察する。 「壬生部は各皇子に存す。多くは一時的にて、その職を完せる後は其の名を失ふ。 されど時には御名代部としして、其の皇子薨去後も、皇子養育に与りし人々、 及び其の封民を以って、一の品部を組織し、其の皇子の御名を負ふ。」 〔壬生(乳部)は、それぞれの皇子の養育のために一時的に設けられ、その役割を終えれば消滅する。 しかし、時には皇子が薨去した後もそのメンバーと封民が一種の品部となり、 御名代部として存続する〕 「例へば蝮壬生部は水歯別命の壬生部の後にて、上宮乳部は上宮太子の壬生部として仕へし人の子孫也。」 なお、壬生部が出てくるのは伊邪本和気命が唯一で、その他には書紀に壬生部(推古天皇紀)・上宮乳部(皇極天皇紀)があるのみである。 従って、「時には御名代部として存続」に該当する例は僅かである。 《伊邪本和気命の壬生部》 各地に、多数の壬生部が分布し、〈大辞典〉は摂津国、大和国を含む各地に地名「壬生庄」を見出している※。 仁徳天皇は難波に宮を置き、履中天皇(去来穂別天皇)は「磐余稚桜宮」で即位するから、 摂津国・大和国のどちらかかも知れない。 ※…現在文献に当たっているが、安芸国以外はまだ確認できていない。 【蝮部】 〈大辞典〉は、「此の多治比部、即ち蝮部には、襷の多治比部、靱の多治比部、及び蝮の壬部の三あり」とし、 蝮部(多治比部)はこの三部の総称とする。 《襷多治比部》 襷多治比部(たすきのたぢひべ)は、〈姓氏録〉に、 〖河内国/神別/天孫/襷多治比宿祢/火明命十一世孫、殿諸足尼命之後也、 男、兄男庶。其心如レ女故賜レ襷為一御膳部一。 次、弟男庶。其心勇健其力足レ制一十千軍衆一、故賜レ靱号二四十千健彦一因負二姓靱負一〗 〔殿諸足尼命(とのもろすくねのみこと)の男(子)、 兄男庶(えをもろ)、その心女の如くて襷(たすき)を賜はりて、御膳部(かしはで)となる。 弟男庶(おとをもろ)、その心勇健にて、その力、十千軍衆(とをちのいくさびと)を制(をさ)むに足りて、 故(かれ)靱(ゆき)を賜はりて、四十千健彦(よそちのたけひこ)を号(なの)りて、因りて姓(かばね)靱負(ゆけひ)を負ふ。〕 とある。女性的で細やかな兄は欅姓を賜り御膳部(かしわで)に任じられ、勇猛な弟は靱負姓を賜った。 それはどの天皇の御宇のことかは不明であるが、「御名代」として 《靱負多治比部》 〈大辞典〉には「反正帝の御名代部として残れる靱負部也。」とあるが、それ以上のことは書いていない。 〈新撰姓氏録〉に「靱負多治比」の項はないが、「襷多治比部」の記事によれば襷多治比宿祢と横並びで靱負多治比があったから、記載漏れでなければ早期に廃れたのであろう。 《蝮壬部》 〈大辞典〉は「蝮壬部」を河内、山城、大和、備前、伊予、尾張、遠江に見出し、そのうち河内の蝮壬部を本貫としている。 なお、記、姓氏録に出てくる名称はタジヒベ(蝮部、丹比部)である。 《蝮部》 反正天皇紀には、淡路宮で生まれたときに、「於是有レ井曰二瑞井一、則汲之洗二太子一、時多遅花有二于井中一、因為二太子名一也。」 〔ここに井あり、瑞井と曰ふ、則ちこを汲みて太子を洗ひまつりて、時に多遅の花ありて、しかるがゆゑに太子の名となりき〕という話がある。
書紀・〈姓氏録〉には、このようにタヂヒ(イタドリ〈たで科〉の古名)の花によるという命名譚があるが、これは伝説であって実際には御名代の置かれた地名と見るのが順当である。 襷多治比部・靱負多治比部とは御殿宿祢男の子を祖とする共通性があるが、 両部には丹比部とは異なる由来伝説があり、水歯別命の御名代という位置づけは見えてこない。 反正天皇紀の誕生譚は、乳部に相応しい伝説なので、 「蝮部」は水歯別命の乳部が残存し、多治比に居所を賜ったものと考えるのが順当であろう。 また、〈姓氏録〉の記事から見て、この部は諸国に勢力を分散していたと思われる。 襷多治比部・靱負多治比部も多治比郡にあったが、蝮壬部と棲み分けていたのだろう。 【大日下部】 〈大辞典〉は、 大日下皇子は根使主(ねのおみ)の讒言によって殺され、大日下部の封民は「皇子の御妹若日下皇子に移り、 単に日下部と云ふ」、そして 河内郡の日下〔現東大阪市日下町〕に居住したと見ている。 安康天皇紀元年二月条には、 「天皇信二根使主之讒言一、則大怒之、起レ兵、圍二大草香皇子之家一而殺之」、 また、若日下皇子〔草香幡梭姫皇女、雄略天皇后〕が大草香部を所有した根拠として、『雄略天皇紀』十四年四月条、殺した根使主の子孫の処理を示している。曰く、 「天皇命二有司一、二二-分子孫一、一分為二大草香部民一以封二皇后一、一分賜二茅渟県主一為二負嚢者一。」 〔天皇、有司(つかさ)に命(おほ)せたまひて、子孫(はつこ)を二分(ふたきだ)して、一分(ひときだ)は大草香部の民として以て皇后に封(たまは)りて、一分は茅渟県主(あがたぬし)に賜りて負嚢者(ふくろおひひと)※とす〕 ※…「ふくろかつぎひと」という訓も見るが、「かつぐ」は中世以後の語なので上代語としては不適切である。 〈大辞典〉は、根使主が日根({和泉国・日根郡})に稲城を築いて抵抗したこと、そして地名日部郷({和泉国・大鳥郡・日部【久佐部】郷})から、 若日下皇子が継承した大日下部を「和泉の大日下部」としている。 【若日下部】 〈大辞典〉の説明によれば、実際には大日下皇子の死により、大日下部が丸ごと若日下皇女に移った。 記は「若日下部」と呼ぶが、この呼び名は一般的ではなかったようだ。 記は修辞法として文を対称にすることを優先し、事実を粉飾したと見られる。 【為二水歯別之御名代一定二蝮部一】 「為水歯別之御名代」は、「水歯別の御名代として」とも「水歯別の御名代のために」とも訓めるが、 「として」は、後世の漢文訓読体風だが、上代にも存在する。また万葉集に「ために」の例は多い。 《~として》 ●(万)3467 於久夜麻能 真木乃伊多度乎 等杼登之弖 和我比良可武尓 伊利伎弖奈左祢 おくやまの まきのいたどを とどとして わがひらかむに いりきてなさね 〔奥山の槙の板戸をとどとして 吾が開く開かむに 入り来てなさね〕。 「とどとす」の「とど」は擬声語で、「とんとんとする」意味〔=叩く〕である。 しかし、この歌の「す」は具体的な動作を示し、対象を吊り下げるための「として」ではない。 また、「として」ならば「而」が入るのではないかと思われる。 《ために》 ●(万)0534 為吾 妹毛事無 為妹 吾毛事無久 あがために いももことなく いもがため われもことなく。 〔私のために妻が罪を問われることなく、妻のために私が罪を問われることもなく〕 左注によると作者の安貴王は、八上の采女と姦通したことにより、「不敬之罪」を受けた。采女は本郷に還されたが、安貴王はなお采女への抑えきれない思いを歌う。 ここでは体言に直接繋がり、原因・理由を示す。 ●(万)0332 吾命毛 常有奴可 昔見之 象小河乎 行見為 わがいのちも つねにもあらぬか むかしみし きさのをがはを ゆきてみむため。 〔私が変わらぬ命を願うのは、昔見たさきの小川に行って、もう一度見たいがためである〕 ここでは用言の連体形を受け、目的を示す。 ●(万)1429 嫺嬬等之 頭挿乃多米尓 遊士之 蘰之多米等 敷座流 國乃波多弖尓 開尓鷄類 櫻花能 丹穂日波母安奈尓 をとめらが かざしのために みやびをの かづらのためと しきませる くにのはたてに さきにける さくらのはなの にほひはもあなに。 〔かざし=髪挿し。みやびを=風流を味わう男。かづら=髪に挿す飾り。しきませる=天皇が統治される。あな=感嘆詞。はたて=果て。〕 この例では体言を受け、桜の花の用途を示す。 以上から、「ため」は原因・理由・目的・用途・手段・「恩恵または被害をもたらす主体」などを示す形式名詞である。 従って、現代の「ため」とほぼ同じ感覚の語である。 《書紀との比較》 書紀で対応する部分には「為皇后定葛城部」とあり、これが「皇后のために葛城部を定めたまひき」と訓まれたのは明らかである。 よって、当時は記のこの部分を「ために」と訓むのが普通で、書紀編者もそう訓んだと思われる。 ただその場合、「御名代」が領地・部民を指すとするとやや不自然なので、「御名に相当するもの」という抽象的な意味だと思われる。
【石之日売】 石之日売の出身地は葛城であるが、実際には前述したように、波多氏につながる勢力かも知れないし、曽我氏に繋がる勢力かも知れない。 何れにしても、室宮山古墳という巨大古墳の存在は注目される。 それは、中央から迎えた皇子が即位した大王陵であるとも考え得る。 さらに室宮山古墳のように、畿内の古墳群から外れて孤立的に存在するいくつかの巨大前方後円墳の位置づけを、総合的に考えてみたい。 右表は、それに該当する古墳をリストアップしたものである。 本来は地方氏族が築いた前方後円墳の規模は、大王陵より小さいはずである。 その例として百済の前方後円墳を見ると、最大サイズは海南長鼓山古墳(全羅南道海南郡北日面方山里)の76mである。
応神天皇段で、各地の氏族が大王の皇子を迎え、 持ち回りで全国レベルの大王として推戴し、一代限りの都になる体制を想定した (第148回《品陀真若王》)。 誉田陵は、代々のホムタ氏族の首長陵の中で突出して大きく、しかも先祖の陵を壊さない注意深さが見えるから、 誉田天皇一代だけが大王を兼ねたと見ることができる。 これと同じことが、これらの古墳でも考えられないだろうか。 《宝来山古墳・五色塚古墳・造山古墳》 宝来山古墳は、集合人格としての垂仁天皇に含まれた未知の大王の陵かも知れない。 五色塚古墳は神功皇后記に「偽陵」としての記載がある (神功皇后紀9)。 造山古墳についてはごく近いところに葉田葦守宮がある (応神天皇紀14)。 これらは、もともと存在した大王の記録の断片ではないだろうか。 それらが、記紀に於いては集合人格としての応神天皇や垂仁天皇に吸収されているわけである。 《太田天神山古墳・女狭穂塚古墳》
それに結びつきそうなのは、崇神天皇段に「豊木入日子命者【上毛野君下毛野君等之祖也】」とある (第110回)。 また、景行天皇紀四十八年に「天皇勅豊城命・活目尊、 謂二子曰 兄則一片向東 当治東国。弟是悉臨四方 宜継朕位。」 (第115回崇神天皇四十八年)、 同じく五十五年に「以彦狭嶋王 拝東山道十五国都督 是豊城命之孫也。」とある 景行天皇紀五十五年。 女狭穂塚古墳を含む西都原古墳群は、大和政権による南九州征圧の過程における、日向灘側の拠点であったと考えられる。 集合人格「倭建命」のうちの一人による熊襲征伐にも、対応するかも知れない。 しかし毛国・日向国は、畿内からはあまりにも遠いから大王の都になったことはあり得ず、 強力な地方政権があったと見るべきである。しかし、この場合も中央から皇子を迎えて権力基盤を強めたことは、十分考えられる。 《神明山古墳・網野銚子山古墳》 丹後国は、和銅6年〔713〕に丹波国から分離して成立した。したがって、記の時代はまだ丹波国の一部である。 丹後半島のニ古墳については、丹波比古多多須美知能宇志王 (第109回)に関係があると思われる。 丹波比古多多須美知能宇志王は、娘三人を垂仁天皇に嫁がせている (第116回)。 ある大王の皇子がこの地に迎え入れられて大王となり、その大王は集合人格としての垂仁天皇に含まれる可能性がある。 ただ、同規模の古墳が複数あるから、2代続いたとも考えられ、皇子のままで地方政権の王として存在した可能性もある。 しかし、記紀に「天皇の妃にした」書かれたことから見れば、一人の大王の記録であったと考えるのが妥当である。 すると、ここでは大王が二代続いたか、或いはその皇子は大王の位を返上した後も、独自の勢力を維持していたのかも知れない。 《河内大塚山古墳》 河内大塚山古墳は末期の前方後円墳なので、天皇陵であろう。 《4~5世紀の大王持ち回り制》 以上から第10代崇神天皇から第16代仁徳天皇の期間に、何人かの隠された大王がいたと考えるのが妥当である。 実在性が高まった後の第17代履中天皇から第21代雄略天皇までは記では57年間ほどで、 一代平均11.4年となり、それぞれの期間に巨大陵を築くことが可能だったことになる。 遡って崇神天皇の即位を西暦300年頃として、仁徳天皇が崩じた427年までを11.4年で割ると、 約11代となる。 そこで、行燈山古墳(崇神天皇陵)、渋谷向山古墳(景行天皇陵)、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)、五社神古墳(神功皇后陵)に、 表※印の五古墳を加えた9古墳が、この時期の大王陵だとしてみる。 なお、これ以外にも応神天皇と仁徳天皇の間に、1~2の陵の存在が考えられる。 それは、応神天皇段・同紀で大山守命が「平城山に葬られた」と書かれ(第154回)、 仁徳天皇即位前期で、菟道稚郎皇子の墓に言及されるからである(仁徳天皇7)。 前者は佐紀盾列古墳群のどれかと見られ、後者は宇治の朝日山で興聖寺を建てるために削平された古墳が、有力な候補である。 このようにして実際には大王は9代以上存在したが、記によって崇神~応神の6代に集約されたと考えてみたらどうであろうか。 【書紀―七年八月】 12目次 《定壬生部葛城部》
秋八月己巳朔丁丑〔九日〕、 大兄去来穂別皇子(おほえのいざほわけのみこ)の為(ため)に、壬生部(みぶべ)を定めたまひき。 亦(また)皇后の為に、葛城部(かつらきべ)を定めたまひき。 《大意》 〔七年〕 八月九日、 大兄去来穂別皇子(おおえのいざほわけのみこ)の為に、壬生部(みぶべ)を定められました。 また、皇后の為に、葛城部(かつらきべ)を定められました。 まとめ ここで、石之日売は「甚多嫉妬」と書かれる(次々回)ことの意味を考えてみたい。 そこから浮かび上がるのが、室宮山古墳はもともと仁徳天皇のために用意されたものではないかとする仮説である。 言うまでもなく仁徳天皇は実際には「毛受之耳原」 (もづのみみはら、現大阪府堺市)に葬られた。 これまでに、誉田皇子は誉田の在地氏族に婿として迎えられ、氏族連合体の共同の意志として大王に推戴されたと論じた。 葛城氏も、同じように婿として迎え入れた大雀皇子が即位し、この地を都とするはずであった。 そのつもりで、寿陵として巨大陵を築き始めた。 なお、前述のように葛城地域の支族の実像は不明瞭であるが、便宜的に「葛城氏」の名称を用いる。 しかし、仁徳天皇は葛城氏を裏切って難波に都を置いた。 仮にこの筋書き通りだとすれば、仁徳天皇の代をもって各氏族による大王持ち回り制は終了し、都はしばらく難波に固定される。 この氏族持ち回り制の拒絶が、石之日売の激しい嫉妬の物語として表現されたとすれば理解しやすい。 その背景としては、神功皇后紀から応神天皇紀にかけて朝鮮半島との交流と技術・人の移入が描かれ、 また難波津が海運の窓口であったことがある。 当然難波には富が集積し、その地を都とする朝廷は勢力を強め、政治の実権は氏族の連合体から中央に集約されたはずである。 従って、もはや地方氏族の支えを得るための配慮は不要である。 石之日売の感情は、置き去りにされた地方氏族のものなのである。 それでは、納めるべき主を失った室宮山古墳はどうなったか。 それは、そのまま石之日売の陵となったと考えるのが最も自然である。 その埋葬に集まった人々の気持ちは、いかなるものだっただろうか。 |
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⇒ [164] 下つ巻(仁徳天皇3) |
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