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⇒ [152] 中つ巻(応神天皇5) |
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2017.04.06(thu) [153] 中つ巻(応神天皇6) ▼▲ |
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![]() 以天下讓宇遲能和紀郎子 於是 大山守命者違天皇之命猶欲獲天下 有殺其弟皇子之情竊設兵將攻 爾大雀命聞其兄備兵 卽遣使者令告宇遲能和紀郎子 故(かれ)天皇(すめらみこと)崩(ほうぜし、かむあがりせし)[之]後(のち)、大雀命(おほさざきのみこと)者(は)天皇之(の)命(おほせごと)に従ひて、 以ちて天下(あめのした)宇遅能和紀郎子(うぢのわきのいらつこ)に譲(ゆづ)らゆ。 於是(ここに)、大山守命(おほやまもりのみこと)者(は)天皇之命を違(たが)へ、猶(なほ)天下を獲(と)らむと欲(おも)ひき。 其の弟皇子(おとみこ)を殺さむ[之]情(こころ)有りて、盗(ひそ)かに兵(つはもの)を設(まう)けて将攻(せめむとす)。 爾(ここに)大雀命聞きたまはく、其の兄(このかみ)兵を備ふとききたまひて、即ち使者(つかひ)を遣はして宇遅能和紀郎子に告げ令めませり。 故聞驚 以兵伏河邊 亦其山之上張絁垣立帷幕詐以舍人爲王露坐吳床 百官恭敬往來之狀既如王子之坐所 而更爲其兄王渡河之時具餝船檝者 舂佐那【此二字以音】葛之根 取其汁滑而 塗其船中之簀椅 設蹈應仆 而其王子者 服布衣褌 既爲賤人之形執檝立船 故(かれ)聞かして驚(おどろ)きたまひて、兵(つはもの)を以ちて河辺(かはへ)に伏す。 亦(また)其の山之(の)上に絁垣(きぬかき)を張り帷幕(みあらか)を立てて詐(あざむ)きて、舍人(とねり)を以ちて王(みこ)と為(し)て露(あらは)に呉床(くれとこ)に坐(す)う。 百官(もものつかさ)恭敬(うやま)ひて往来(ゆきく)る[之]状(ありさま)既に王子(みこ)之(の)坐(ましま)す所(ところ)の如し。 而(しかるがごとくして)、更に其の兄王(あにみこ)の河を渡る[之]時に具(そな)ふる飾船(かざりふね)の檝者(かぢとり)と為(な)りて、 佐那【此の二字(ふたじ)音(こゑ)を以ちゐる】葛(さなかづら)之(の)根を舂(つ)きて其の汁(しる)の滑(なめ)を取りて[而]、 其の船中(ふななか)之(の)簀椅(すばし)に塗りて、設(も)し蹈(ふ)まば応仆(たふるべ)くせり。 而(しかるがごとくして)、其の王子者(は)、布(ぬの)の衣(ころも)褌(はかま)を服(き)て、既に賤(いやし)き人之(の)形(かたち)と為(な)りて、檝(かぢ)を執(と)り船に立ちませり。
くれ-(呉)…[接頭] 「中国から伝わった~」。 とこ(床)…[名] 寝床。横たわることができる場所。台の形をしたもの。 くれとこ(呉床)…中国製(または中国風)の王の台座か。 なめ…[名] 〈時代別上代〉なめ~と複合語を作ることがほとんどである。〔取二其ノ汁ノ滑一〕は名詞化した場合で、 現在も、凍って滑る地面や、水あかなど滑らかなものをナメという地方がある。 かぢとり(梶取)…[名] かいを取る人。船頭。〈倭名類聚抄〉「檝師【和名加知止利】」〔かちとり〕。 船中…「ふななか」という語は〈時代別上代〉にはないが、「船」から始まる連語は、「ふなかざり」「ふなびと」「ふなのる」のようにすべて「ふな-」 となっており、「ふねのなか」という訓は考えにくい。 すばし(簀椅)…[名] 〈時代別上代〉船底などに敷く、簀の子状の踏板をいうこともある。 設…[接] もし。 布…[名] 麻などの植物繊維で織った布。絹に比べて荒い。(古訓) ぬの。 かはへ(川辺)…[名] 川のほとり。 ふす(伏す)…[他]サ下二 ふさせる。自動詞「伏す」(四段)の他動詞。 都…[副] すべて。(古訓) ことことく。すへて。みな。つね。 をちこち…[名] あっちこっち ちはやぶる…[自] あらあらしい。(連体形のみ) ちはやぶる…[枕] 宇治にかかる。 し…[副助] 体言、体言に相当する語につく 文は自発・推量の助動詞や、終止形+助詞「も」で締めくくられる。 推量など、確信をもたない文中で使用される。 もこ…[名] ①対する相手。②婿。〈時代別上代〉①は〔この歌と書紀の〕同一歌の二例のみ。②は一般にはムコといったらし〔い〕。 かくる(隠る)…[自]ラ四・ラ下二 〈時代別上代〉すでに下二段活用の例も多く、次の時代につながる。 【帷幕】 〈丙本〉は景行天皇紀の「納帷幕之中」〔宮中に妃を娶る〕を【乎保止〃乃宇知尓末井留】〔おほとと(の?)のうちにまゐる〕と訓む。 つまり帷幕にオホトノ〔大殿〕を宛てている。 同じ個所を〈釈日本紀〉は「帷幕之中【ミアラカノウチニ】」とし、「アラカ」〔天皇の宮〕と訓む。 「帷幕」のもとの意味は、分厚い布のカーテンである。また、戦場で武将たちが合議する場所を指す。 記紀では宮殿を意味する語として使う。 この場面では一時的な宮だから「行宮」(かりみや)ということになる。 原義の「幕で仕切られた場所」を採用した場合は「絁垣」と重複するし、「立てる」とあるからやはり建物だろう。 【設蹈応仆】 設は、「条件を設けたとすれば」から転じて、仮定の接続詞。 「設蹈応仆」は、「もし踏まば、まさに倒れるべし」。ここでは、そのような仕掛けを「設く」意味も兼ねているものと見られる。 【為賤人之形執檝】 この執は動詞としてはたらき、「執レ檝」〔楫を執る〕である。 その前に出てきた「檝者」と 次の「執檝者」は、両方とも「かぢとり」である。 【服布衣褌】 その次に「衣中服レ鎧」があるので服は、動詞「着る」で「服二布衣褌一」と訓む。 布は「植物を材料とする荒い布」を意味し、 それが衣〔=上半身の着衣〕と、褌〔=下半身の着衣〕の生地であることを示ししている。これは「賤しき形」に対応する表現と言える。 【千早振る宇遅の済に 棹取りに早けむ人し 我がもこに来む】 「はやけむ」は、はやし(速い、早い、激しい)の上代の未然形+推量の「む」である。 「棹取りに早けむ人」は、棹取り=梶取が逸って乱暴ことをしやがって、という意味であろうか。 しかし、この歌全体の理解は「もこ」の意味にかかっている。〈時代別上代〉は「相手。仲間」とするが、相手なら「(棹取が)敵になって向かって来てしまうのか」、 仲間なら「味方が、今に来るだろう」となり、意味が正反対になってしまい、全く不確定なままである。 しかし、書紀による手直しがなされていないところを見ると、当時の人には「もこにこむ」のままで通じたのであろう。 《私説》 しかし、相手にしても仲間にしても当たり前のことを述べるだけで、歌としてのインスピレーションに欠けるのが不満である。 ここは「婿」にとらわれることから離れ、「もこに来(く)」は「盲点を突かれる」或いは「ぼおっとしていて油断した」を意味する慣用句だと考えてみたらどうだろうか。 「もこ」といえば、ぼんやりとしていることを「曖昧模糊(あいまいもこ)」というが、上代に「模糊」という語が来ていたとは考えられない。 「も」は「も(方面)」、「こ」は「処」で「あらぬ方向」であろうと一応考えることはできるが、根拠はない。この私説は、残念ながら「こう読みたい」という願望のみによるものである。 【宇遅能和紀郎子】 《播磨国風土記》 〈播磨国風土記〉の「揖保郡大家郷」に、宇遅能和紀郎子が天皇と見られたことを示す文がある。 ――宇治天皇之代 宇治連等遠祖兄太加奈志弟太加奈志二人 請二大田村与冨寺地墾一レ田 〔宇治天皇の御代、宇治連等遠祖、兄太加奈、志弟太加奈志二人、大田村と冨寺地の墾田を請(ねが)ふ〕
由阿『詞林采葉抄』第一「宇治郡」所引の〈山城国風土記〉に、宇遅能和紀郎子の宮が宇治郡にあったと書かれる。 ○宇治 ――山城國風土記曰 謂二宇治一者 軽嶋明宮御宇天皇之子 宇治若郎子 造二桐原日桁宮一 以爲二宮室一 因御名號二宇治一 本名曰二許乃國一矣 〔山城国風土記に曰はく 宇治と謂ふは 軽嶋の明宮(あきらのみや)にしらしめす天皇〔応神〕の御子、宇治若郎子(うぢのわかいらつこ)、 桐原日桁宮(きりはらのひけたのみや)を造りたまひて、以て宮室(みやむろ)として、しかるがゆゑに御名宇治と号(なづ)く。本の名許乃国(このくに)と曰ふ。〕 山城国は、〈国造本紀〉においては、「山城国造」「山背国造」の二国造のみで、しかも山城国は山背国を改名したものと書き添えられている。 このように他の国のようには細分化されず、「許乃国造」の項目もない。 宇治川岸の近くにある宇治神社・宇治上神社は、どちらもかつて桐原日桁宮があった場所とされる。 〈神名帳〉には{宇治郡十座/宇治神社二座【鍬靫】}とあり、 この「二座」が両神社と言われている。
《宇治上神社》 京都府宇治市宇治山田59。 本殿は平安時代後期の造営で、神社建築としては現存最古とされる。 主祭神は、菟道稚郎子命・応神天皇・仁徳天皇で、 <wikipedia>宇治上神社の境内は『山城国風土記』に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え</wikipedia> られている。 《宇治神社》 京都府宇治市宇治山田1。 創建年代不明。 <宇治神社公式サイト> 御由緒: この辺りは応神天皇の離宮(桐原日桁宮)跡でもあり、 皇子の菟道稚郎子命の宮居の跡と伝えられており、 菟道稚郎子命の死後にその神霊を祀ったのが、この神社の始まりです。 主祭神: 菟道稚郎子命 本殿: 本殿は国の重要文化財となっており、三間社流れ造り桧皮葺きの社殿で、鎌倉時代初期の建設であります。 </宇治神社公式サイト> これら二社は江戸時代までは離宮と呼ばれたことが、菟道稚郎子命の宮であったことを示すと言われる。 そこで、「離宮」の出典を探すと〈都名所図会〉に見つかった。 《離宮》 〈都名所図会〉(安永九年)〔1780〕巻之五。「離宮八幡宮」。 ――離宮八幡宮は橋寺の南にあり。 祭る神三座にして、上の社は応神天皇、仁徳天皇、下の杜は兎道の尊を崇め奉る。 【これ平等院の鎮守なり。宇治郷の産沙神とす。神輿三基。例祭は五月八日。】 杈社は、当社の北にあり。離宮の摂社なり。 【離宮と號することは、この地に宇治宮ありしゆゑ自然の称号なり。】 離宮八幡宮は宇治神社・宇治上神社のことで、同書に「橋寺の南」とあるように橋寺(放生院)から南東約330mのところにある。 このように両社は伝統的に、桐原日桁宮跡のところにあったと見做されてきたようである。 《宇治の王》 このように、宇治郡に宇遅能和紀郎子の宮があったとする伝説は、古くからこの地域に定着している。 また、応神天皇の男子王のうち「郎子」の称号をもつのはただ一人で、 他はすべて命・王であるから、この名前には特殊性がある。 よって、宇遅能和紀郎子は記紀以前の時代から、この地の王として伝承されてきたように思われる。 ただ、ここで問題になるのは記紀ともにその母を和珥臣の祖日触使主の女としていることである。 諸族と朝廷との擬制的な姻戚関係を定義する段階で、和珥氏と混線したようだ。 【訶和羅前】
現代地名八幡河原崎がこの伽和羅から繋がっているのかどうかは分からないが、 〈倭名類聚抄〉には{山城国・綴喜【豆々岐】郡・甲作郷}がある。 この「甲作」は「よろひつくりべ」と訓んで、この地で甲作部が鎧作りに勤しんでいたと見るのが順当であろう。 しかし、『八幡市誌』第一巻〔1986〕の索引を見ると、「甲作郷」が五十音順で「かわら」のところに置かれている。 〈時代別上代〉は「『甲』をカワラと訓む説もある」というので、同誌の編者はその立場なのかも知れない。 河原崎は少なくとも木津川沿いにあり、やはり崇神紀の縁の地である楠葉に地理的に近いのは事実である。 崇神天皇紀の「号二其脱レ甲処一曰二伽和羅一」が、 この話を下敷きにしているのは明らかだから、崇神紀の「伽和羅」は応神段の「訶和羅前」である。 また、大山守命は平城山に葬られる〔次回〕が、平城山の佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群は、和爾氏にも関係があるとされる。 このように大山守命は、和珥氏のイメージと重なる。 だとすれば、大山守命は和邇方面から木津川を上り、宇遅能和紀郎子は宇治郡から宇治川を下り、 その合流地点で両軍が激突したことになる。 さらに大雀皇子の本拠地が難波であることを考えれば、菟道稚郎子命と反対方向から淀川を上り、 この地で宇遅能和紀郎子と大山守命を挟み撃ちしたことになり、これはまた随分分かり易い配置である。 【仁徳天皇即位前紀】 仁徳5目次 《大山守皇子有怨》
則(すなはち)[之]謀(はかりごと)して曰はく「我(われ)太子(ひつぎのみこ)を殺して、遂(つひ)に帝(みかど)の位(くらゐ)に登らむ。」といひき。 爰(ここに)大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)、預(あらかじ)め其の謀(はかりごと)を聞きて、 密(ひそかに)太子(みこ)に告げて兵(つはもの)を備へて守ら令(し)めて、時に太子兵を設(まう)けて[之]待てり。 大山守皇子、其の兵を備へしことを不知(しらず)て、 独(ひとり)数百(いくももたり)の兵士(つはもの)を領(ひきゐ)て、夜半(よは)に発(た)ちて[而][之]行(ゆ)けり。
時に太子(みこ)布(ぬの)袍(ころも)を服(き)て楫櫓(かぢ)を取りて、密(ひそかに)度子(わたしもり)を接(つ)ぎて、 以ちて大山守皇子を載せて[而]済(わた)りて、 [于]河(かは)中(なかば)に至りて、度子(わたしもり)に誂(いど)みて船を蹈(ふ)みて[而]傾(かたぶ)けり。 於是(ここに)大山守皇子、河に墮(お)ちて[而]没(しづ)みて、更に浮き[之]流れて歌よみして曰はく、
其の屍(しかばね)求め令(し)むれば、[於]考羅(かうら、かわら)の済(わたり)に泛(うか)べり。 《然後》 「然る」は、その前に大山守皇子が天皇専用の屯田(みた)を不当に占有していたことが露見した事件を受けている (仁徳天皇即位前紀4)。 その結果、「それなら俺が天皇になってやる」という気持ちが一層強まったのである。 この事件は、記には書かれない。 《誂度子蹈船》 言偏(ごんべん)の誂は、物理力ではなく言葉によって「挑む」意味である。 「誂度子蹈船」は、記において大山守が話しかけから船を転覆させられるまでを要約したものである。 それにしても短縮しすぎである。もし古事記のこの部分を読んだことがなければ、正確に読み取ることは難しいだろう。 《遂沈而死焉》 大山守皇子は皇子であるから、「死」ではなく「薨」を用いるべきである。書紀編者によるチェック漏れであろう。 《考羅》 崇神天皇紀では「伽和羅」だから、書紀の中でも統一されていない。 地名「かわら」の音便形として「かうら」も存在したらしい。 「考」を音仮名に用いる例は、記紀、万葉集を通じて皆無で、 〈時代別上代〉や、万葉仮名を扱った諸サイトにもなく、どちらかというと持て余されている印象を受ける。 しかし、このように珍しい字が使われたということは、むしろこの字を使った地名が実在した証拠のようにも思われる。 また、「かわらの崎」の近くの渡りが「かうらのわたり」と呼ばれとしても特に不思議なことではない。 《大意》 その後、大山守皇子(おおやまもりのみこ)は、常々先帝が廃して皇太子に立てなかったことを恨んでいましたが、このことで怨みを重ね、 謀(はかりごと)をして「私は皇太子を殺して、遂には帝位に登ってやる。」と言いました。 大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)は、予めその謀を聞いて、 密かに太子に告げて兵の備えをして守備を固め、その時太子は兵を用意して待ちかまえました。 大山守皇子はその兵を備えを知らず、 独り数百の兵士を率いて、夜半に発って軍を進めました。 夜が明け、菟道(うじ)に行き、河を渡ろうとしました。 その時、太子は粗末な生地の衣で体を包んで梶を取り、密かに渡守(わたしもり)を引き継ぎ、 大山守皇子を乗せて渡り、、 川半ばに至って、皇子が渡守に声に掛けたことをきっかけにして、船を踏み込んで傾けました。 すると大山守皇子は河に落ちて沈み、さらに浮いて流されながら、歌を詠みました。 ――千早人(ちはやびと) 菟道の済(わたり)に 棹取りに 早けむ人し 我がもこに来む けれども、伏兵たちが大量に立ち、岸に着けず、遂に沈んで死にました。 その屍を捜させると、考羅(こうら、かわら)の渡りに浮かんでいました。 まとめ 「山守(やまもり)」は、山に住んでその管理にあたる部で、 一般的な呼び名である。その神もまた山守の神と呼ばれたのであろう。 このように個別の地名から離れ、透明な神の名前をもつ大山守命が、倭の屯田という具体的な場所の係争に関わったというのは、どことなく不自然である。 仁徳天皇即位前期に書かれた屯田の係争は、全く別のところにあった話を作為的に持ってきたものかも知れない。 その目的は、ひとえに書紀が大山守命が反乱を起こす動機を補強するためであろう。 その大山守命は、和珥氏とイメージが重なりつつあったが、 ここでさらに注目すべきは、宇遅能和紀郎子の系図が和珥氏と混線していることである。 これまでに、衝突して敗北した氏族の名前が征服者の名前に転化したと見られる現象が、大吉備津日子命(第107回)と、 丸邇臣の祖日子国夫玖命(第114回)で見られた。 戦闘とは、ある意味敵対する二族の関係が濃厚であったわけだから、伝説として言い伝えられる間に両者の名前が混合するのである。 ここでもその法則を適用すれば、宇遅能和紀郎子の敵対勢力が和珥氏であったことになり、 よって大山守命と和珥氏の重なりはいよいよ大きくなってきた。 ストーリーを大筋として見ると、大雀命と宇遅能和紀郎子は連合して和珥氏と戦い、 その勝利後に今度は大雀命と宇遅能和紀郎子が戦ったように見える。 そのようなことは、合従連衡として普通に起こることである。ただ、書紀が和珥氏の反逆の時期を崇神天皇段に繰り上げたことから見て、 古い時代の話が混合したのかも知れず、まだ不確定である。 ただ、このことから少なくとも「訶和羅前=河原崎」の可能性が随分高まってきたとは言える。 |
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2017.04.08(sat) [154] 中つ巻(応神天皇7) ▼▲ |
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![]() 爾(ここに)其の骨(ほね)を掛け出(い)でし[之]時、弟王(おとみこ)歌よみたまはく[曰] 知波夜比登 宇遲能和多理邇 和多理是邇 多弖流 阿豆佐由美麻由美 伊岐良牟登 許許呂波母閇杼 伊斗良牟登 許許呂波母閇杼 母登幣波 岐美袁淤母比傳 須惠幣波 伊毛袁淤母比傳 伊良那祁久 曾許爾淤母比傳 加那志祁久 許許爾淤母比傳 伊岐良受曾久流 阿豆佐由美麻由美 知波夜比登(ちはやひと) 宇遅能和多理邇(うぢのわたりに) 和多理是邇(わたりぜに) 多弖流(たてる) 阿豆佐由美麻由美(あづさゆみまゆみ) 伊岐良牟登(いきらむと) 許許呂波母閇杼(こころはもへど) 伊斗良牟登(いとらむと) 許許呂波母閇杼(こころはもへど) 母登幣波(もとへは) 岐美袁淤母比伝(きみをおもひで) 須恵幣波(すゑへは) 伊毛袁淤母比伝(いもをおもひで) 伊良那祁久(いらなけく) 曽許爾淤母比伝(そこにおもひで) 加那志祁久(かなしけく) 許許爾淤母比伝(ここにおもひで) 伊岐良受曽久流(いきらずそくる) 阿豆佐由美麻由美(あづさゆみまゆみ) 故其大山守命之骨者葬于那良山也 是大山守命者【土形君弊岐君榛原君等之祖】 故(かれ)其の大山守命(おほやまもりのみこと)之(の)骨者(は)[于]那良山(ならやま)に葬(はぶ)りたまひき[也]。 是の大山守命者(は)【土形君(つちかたのきみ)弊岐君(へきのきみ)榛原君(はりはらのきみ)等(ら)之(の)祖(おや)なり】。 そこで、その屍を掛き出した時、弟王は歌を詠まれました。 ――千早人 宇遅の済(わたり)に 渡り瀬に 立てる 梓弓真弓 い伐(き)らむと 心は思(も)へど い獲らむと 心は思へど 本方(へ)は 君を思ひ出(で) 末(すゑ)方(へ)は 妹(いも)を思ひ出 楚(いら)なけく 其処に思ひ出 悲しけく 此処に思ひ出 い伐らずそ来る 梓弓真弓 そして、その大山守命の屍は那良山(ならやま)に葬りました。 この大山守命は、土形君(つちかたのきみ)、弊岐君(へきのきみ)、榛原君(はりはらのきみ)らの祖です。 まゆみ(真弓、檀)…[名] 弓の美称。檀(まゆみ)の木で作った弓。 まゆみ(檀)…[名] ニシキギ科の落葉樹。 わたりぜ(渡瀬)…[名] 歩いて渡れる瀬。 い…[接頭] 動詞の上につけて、意味を強める。 づ(出)…[自・他]ダ下二 =「いづ」。複合語になったときに「い」が現れない場合が多い。 もとへ(本方)…[名] 本の方。 すゑへ(末方)…[名] 末の方。 いらなし(楚し)…[形]ク 心が痛む。 【千早人宇遅の済に渡り瀬に…】
〈時代別上代〉には、「梓は木質が強靭で、最も愛好された。 槻(つき)、柘(つみ)、檀(まゆみ)などは梓の準用であったことが延喜式の例によって知られる。」と書かれる。 その確認のために〈延喜式〉を見ると、「兵庫寮」の「凡践祚大甞会新造」〔践祚(天皇即位)の大甞会に新たに造るもののリスト〕の項に、 「梓弓一張。長七尺六寸。槻柘檀准此。」〔梓弓……槻・柘・檀、此れに准(なら)ふ〕とある。 《「ま弓」か「檀」か》 〈時代別上代〉は、 「わたりぜ(渡瀬)」の項では「和多理是に立てる梓弓檀」と読む一方、 「あづさゆみ(梓弓)」の項では「阿豆瑳由瀰ま弓」とあり、 同一歌に対して、項目によって解釈が分かれている。 前者は、「梓弓と、木材としての檀(まゆみ)」、後者は「梓弓、即ち優れた弓」という解釈である。 最上の弓である梓弓に、それより劣る木材を書き添えるのは意味がねじれているように思われるので、 両方とも弓として読む方が、納得できる。 散文だとすれば「あずさユミまユミ」という繰り返しに違和感があるが、韻文は言葉のリズムを味わうものだから、これでよいのである。 「うぢのワタリにワタリぜに」という反復と同じことである。 《歌の意味》 ――宇治の渡りの浅瀬を、歩いて渡る。そこに梓の木が立っていた。これで、梓弓のよい弓を作ろう。 だが根元で伐ろうとすると君〔主人〕が思い出され、先の方を伐ろうとすると、妹〔妻・恋人・妹〕が思い出される。 あちこちに辛さ悲しさが溢れ、結局伐採せずに帰ってきた。 根元の力強い太い茎からは立派な主君が、細く可憐な先っぽからは愛しい人が連想されたのである。 元歌は、君と妹(いも)を両方失った哀しみを歌ったものと見られ、この歌を大山守命の葬送に用いている。 ここでは大山守命が矢に当たって死んだことから、「弓」をテーマとした歌が選ばれたと見られる。 大山守命が船から転落した後、「一時共興矢刺而流」とあり(前回)、 戦端を開くと同時に両岸から大量の矢が放たれ、水に浮かんでいる大山守命の体にも流れ矢が刺さって死んだのである。 地名の「宇治の渡り」は、元から歌の中にあったかのも知れないが、ここに収めるために加えたとも考えられる。 【葬二大山守皇子一】 大山皇子が葬られたのは、「那良山」のどの辺りであろうか。 《那羅山墓》 境目谷古墳を、宮内庁は「大山守命那羅山墓」に治定している(奈良県奈良市法蓮町1921)。 しかし、延喜式・五畿内志にはこの「那羅山墓」は見えず、このように定められたのは明治以後であろうと思われる。 この古墳は円墳といわれるが、学術調査はなされていない。 境目谷古墳は〈延喜式〉「諸陵寮」の「佐保山西陵」ではないかともいわれる。そこには、 「佐保山西陵。平城朝太皇大后〔藤原宮子〕藤原氏。在二大和国添上郡一。兆域東西十二町。南北十二町。守戸五烟。」 とある。 佐保山にある黒髪山稲荷神社は、沙本毘売の悲劇の舞台であった (第118回)。 元正天皇陵・元明天皇陵・佐保山南陵(聖武天皇)・佐保山東陵(光明皇后)との位置関係から、 境目谷古墳が「佐保山西陵」だとする推定には妥当性がある。 もし佐保山の諸陵と同時期なら、記紀が成立した頃には境目谷古墳は、まだ存在していない。 《佐紀盾列古墳群》 一方、平城山丘陵の西側には佐紀盾列古墳群があり、その最大の五社神(ごさし)古墳が神功皇后陵とされる。 平安時代の843の時点で、「図録を捜検」することにより神功皇后陵と成務天皇陵との取り違えが判明したとあるから、 記紀が成立した頃に、神功皇后陵の位置は現代の位置に定まったいたようだ (第147回)。
《「平城山」考》 平城山を詠んだ万葉歌の一首に、 (万)3236空見津 倭國 青丹吉 常山越而 山代之 管木之原 血速舊 于遅乃渡 …… 吾者越徃 相坂山遠 そらみつ やまとのくに あをによし ならやまこえて やましろの つつきのはら ちはやぶる うぢのわたり …… われはこえゆく あふさかやまを。 がある。 ここには、「空見つ 倭の国」「青丹よし平城山」「山城の綴喜の原」「千早振る宇治の渡」「逢坂山」の地名が詠み込まれ、 倭から近江に至るまでの長い道が歌われている。 そのうち、平城山を越えた道は、現在のJR関西線が通る辺りではないかと思われる。 万葉集の「平城山」の歌は、大体は平城山丘陵を越える道で詠まれたようだから、「那羅山墓」はその道に近い範囲ではないかと思われる。 道に最も近いのはウワナベ古墳である。しかし、全長が205mもある大王級の古墳なので、敵対して滅ぼされた王としては立派すぎる。 なお、ウワナベ古墳は宮内庁の「宇和奈辺陵墓参考地」で、候補は八田皇子(応神天皇皇女・仁徳天皇皇后)とされる。 《天皇陵以外の陵墓》 ここで、改めて古事記全体から「陵」「葬」の字を拾ってみる。 すると天皇以外の皇族について記された例は、実はかなり少なく、 伊邪那美命、倭建命(一人で三陵)、神功皇后、比婆須比売命(垂仁天皇崩後の皇太后)、そして大山守命、これですべてである。 このうち、伊邪那美命は神代だから別枠で、倭建命・神功皇后は事実上の天皇であるから、陵が築かれて当然である。 比婆須比売命の場合は、後に藤原氏が送り込んだ皇后に、天皇と同等の陵が築かれることの前例のようになっている。 すると、記に大山守命の「葬」が書かれたのはかなり特異で、天皇皇后クラス以外では唯一といってよい。 このことは、もっと注目されるべきであろう。 《実は大古墳か》 大山守命は有力な氏族の祖神で、その墓として伝わる古墳が実在したと見るべきであろう。 むしろそれが有名な大古墳だったからこそ、例外的に取り上げたのかも知れない。 となれば、仮にウワナベ古墳が大山守命の墓であったとしても、決して不思議なことではないのである。 【土形君・弊岐君・榛原君】 《弊岐君》 〈姓氏家系大辞典〉に「応神帝皇子大山守命の後にして、日置部の伴造〔とものみやつこ〕たりしなるべし 蓋し遠江国城飼郡比木郷に在りし君か。」とある。 この日置部については、〈倭名類聚抄〉に{大和国・葛上郡・日置〔ひき〕郷}がある。 「比木郷」は倭名類聚抄にはないが、比木郷が存在し、荘園制が発達した頃に比木荘になったという (御前崎市公式/「御前崎市の概要と沿革」)。 そして、明治22年〔1889〕の町村制成立時にも比木村が存続。現在は御前崎市大字比木。 《土形君・榛原君》 〈姓氏家系大辞典〉によると、土形君は遠江国城飼〔しかふ〕郡土形〔ひぢかた〕郷、榛原君は遠江国榛原郡に起こるとされる。 (第148回【書紀―応神天皇二年】《榛原君》《土形君》)。 【仁徳天皇即位前紀】 仁徳6目次 《時太子視其屍》
《大意》 その時、太子(みこ)はその屍を見て、歌を詠まれました。 ――千早人 宇治の済(わたり)に 渡代(わたりで)に 立てる 梓弓真弓 い伐らむと 心は思(も)へど い獲らむと 心は思へど 本方(もとへ)は 君を思ひ出 末方(すゑへ)は 妹(いも)を思ひ出 楚(いら)なけく 其処に思ひ 悲しけく 此処に思ひ い伐らずそ来る 梓弓真弓 そして、那羅山(ならやま)に葬むられました。 まとめ 大山守皇子は反逆した故に討ち果たされ、不倶戴天の敵であるはずなのに、丁寧に葬り心から死を悼む歌が手向けられる。 ここには例え敵対することがあっても、それはさまざまな事情の故であり、 人の死そのものは惜しまれ、哀悼されるべきだとする心の深さがある。 古事記の根底には、このような人間そのものへ見方の豊かさがあることが、 長い年月を経ても失われなかった所以であろう。 しかし、大山守皇子に対する哀悼・崇敬は平安時代の朝廷には受け継がれていない。 単なる朝敵と見られたようで、延喜式にはその兆域・守戸は定められない。 延喜式には、「凡毎年十二月奉幣諸陵及墓。」〔毎年12月に、陵・墓に幣(みてぐら)を奉納する〕とあるが、 大山守皇子墓には当然これもなく、荒れるにまかされたようだ。 |
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2017.04.17(mon) [155] 中つ巻(応神天皇8) ▼▲ |
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![]() 海人貢大贄 爾兄辭令貢於弟 弟辭令貢於兄 相讓之間 既經多日 如此相讓非一二時 故 海人既疲往還而泣也 故諺曰 海人乎因己物而泣 也 然 宇遲能和紀郎子者早崩 故 大雀命治天下也 於是(ここに)大雀命(おほさざきのみこと)与(と)宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)との二柱(ふたはしら)、各(おのもおのも)天下(あめのした)を譲りし[之]間(ま)、 海人(あま)、大贄(おほにへ)を貢(たてま)つる。 爾(ここに)兄(このかみ)辞(いな)びて[於]弟(おと)に貢(たてまつ)ら令(し)めて、弟辞びて[於]兄に貢ら令めて、相(あひ)譲(ゆづりし)[之]間(ま)、 既に多(おほ)き日を経て、此の如くして相譲りしこと一二時(ひとときふたとき)に非(あら)ず。 故(かれ)、海人既に往還(ゆきかへり)に疲れて[而]泣きき[也]。 故(かれ)諺に曰はく、海人乎(や)己物(おのがもの)に因(よ)りて[而]泣くといふ[也]。 然(しかれども)宇遅能和紀郎子者(は)早く崩(ほうじ、かむあがりし)ませり。 故(かれ)、大雀命天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 こうして大雀命(おおさざきのみこと)と宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)の二人、おのおのが天下を譲っている間に、 海人(あま)が、大贄(おおにえ)を貢上しました。 そして兄は辞して弟に献上させ、弟は辞して兄に献上させ、相譲る間に 既に多くの日を経、このようにして相譲ること一度二度のことではなく、 海人は既に往復に疲れて泣きました。 このことから諺に、「海人や、おのが物によって泣く」と言います。 けれども、宇遅能和紀郎子は早く崩じました。 そして、大雀命は天下を治められました。 おほにへ(苞苴、大贄)…[名] 朝廷や神に貢ぎたてまつる土地の産物。 特に大嘗祭(即位して最初の新嘗祭)のために献上するものを指すことも。 辞…(古訓) まかりまをす。ことは。いなふ。 〈宣命-天平宝字四〉数数辞備申多夫仁依弖 〔しばしばいなビのタブニよりテ〕。 いなぶ…[自]バ上二 辞退する。「いな(否)」を動詞化した語。 【宇遅能和紀郎子の崩】 王子の死は「薨」であり、崩は天皇の死である (第95回【崩】)。 宇遅能和紀郎子は皇子であるから、書紀は菟道稚郎子の死に「薨」を用いている。 しかし、記では「崩」とする。本人は辞退し続け、なおかつ短い期間であったとは言え、 形の上では天皇であったと言えないことはない。 書紀における菟道稚郎子の「自死」は、天皇にならない意思を明確に表現したことになる。 これは天皇の命令の拒否だから、書紀にとっては由々しきことである。 そこで、謙譲の美徳を前面に出すなどして、命令違反を糊塗するために苦労することになった。 記のように、即位を躊躇している間に自然死し、天皇の称号をもって葬られたことにした方が、 楽だっただろうと思う。 【長子相続の時代へ】 しかし、書紀は菟道稚郎子の即位拒否を、敢えてあからさまに書いたのかも知れない。 その鍵になるのは、菟道稚郎子の言葉の中にある「夫昆上而季下聖君而愚臣古今之常典焉」の一文である。 この文は、これからの皇位継承は「兄=聖君、弟=愚臣」と見做すルールで進めると宣言するものである。 これを以って、伝説の時代における末子相続から、現在〔=書紀編纂期〕の長子相続性に切り替えたと明示したともとれる。 【仁徳天皇即位前紀―未即帝位(1)】 仁徳3目次 《太子菟道稚郎子未即帝位》
仍(すなはち)大鷦鷯尊に諮(はかりてい)はく 「夫(それ)天下(あめのした)を君(す)べて[以]万民(よろづのたみ)を治(をさ)む者(は)、之(こ)を蓋(おほ)ふこと天(あめ)の如くして、之を容(い)るること地(つち)の如し。 上(かみ)に驩(よろこぼ)しき心有り以ちて百姓(たみ)を使はば、百姓(たみ)欣然(よろこぼ)しく天下(あめのした)安(やす)からむ[矣]。 今我は[也][之]弟(おとひと)なりて、且(また)文献(ふみ)不足(たらず)て、何(いかに)敢(あへて)位(くらひ)を継嗣(つ)ぎて天業(あまつひつぎ)に登らむや[乎]。
歯(みは)を以ちて且(また)長くして、天下(あめのした)之(の)君(きみ)と為(な)るに足る。 其の先の帝(みかど)我(われ)を立たして太子(ひつぎのみこ)と為(し)たまへど、豈(あに)能才(のうさい、ひととなり)有りや[乎]、唯(ただ)[之]愛(うつくしび)たまはれ者(ば)ならむ[也]。 亦(また)宗廟社稷(くに)に奉(たてまつ)るは重き事にて[也]、僕之(わが)不侫(へつらわざる)ところにて、不足以称(かなふにたらず)。 夫(それ)昆(このかみ)が上(かみ)にして[而]季(おと)が下(しも)なるは、聖(ひじり)の君(きみ)にして[而]愚(おろか)の臣(やつこらま)なるは、古今(いにしへといま)と之(の)常(つね)の典(のり)なり[焉]。 願(ねがはくは)、王(みこ)勿疑(うたがふことなく)して須(かならず)帝位(みかどのくらゐ)に即(つ)きたまへ。 我則(すなはち)臣(おみ)之(の)助(たすけ)を為(な)す耳(のみ)。」
「先(さき)の皇(すめらみこと)謂(のたま)ひしく、皇位(すめらのくらひ)者(は)一日(ひとひ)之不可空(むなしきときあるべからず)とのたまひき。 故(かれ)、預(あらかじめ)明徳(めいとくの、のりをあきらむ)ひとを選べて王(みこ)を立たして弐(つぎ)と為(し)たまふ。 嗣(ひつぎのみこ)を以(も)ちて[之]祚(さきはひ)して、民(たみ)を以(も)ちて[之]授(さづ)けて、 其の寵章(ちようしやう、うつくしみのしるし)を崇(たふと)みて国(くに)於(を)聞か令(し)めしたまへ。 我(われ)不賢(さとからざれども)、豈(あに)先の帝(みかど)之(の)命(おほせごと)を棄(う)てて、輙(すなはち)弟王(おとみこ)之(の)願(ねがひこと)に従はむや[乎]。」といひて、 固く辞(まかりまを)して不承(うけたまはず)して、各(おのもおのも)相(あひ)[之]譲りき。 《以歯且長》 水歯別天皇(反正天皇)は、「御歯長一寸広二分」とされ、歯が長いことが尊ばれていたようである。 この部分に他の天皇や中国皇帝の特徴も、列挙している。 ○「風姿岐嶷」 王への誉め言葉として、幼少から人に抜きんでていると称える。 垂仁天皇紀に「生而有岐㠜之姿」〔生まれながらにして岐㠜の姿有り〕がある(垂仁天皇紀1)。 『芸文類聚』〔624〕「周成王」に「年雖幼稚、岐嶷有素」〔年幼稚といえども、岐嶷素より有り〕、 『列女伝』〔前209〕「明德馬后」に「少有岐嶷之性」〔少(おさなくして)岐嶷之性有り〕などの例がある。 ○「仁孝遠聆」 「遠聆」には特別な誉め言葉としての意味はない。 太平広記〔北宋977-984〕「趙和」に「東鄰不勝其憤。遠聆江陰之善聴訟者。」 〔東隣りは(訴訟に)勝てず憤る。江陰では善い訴訟処理がされると遠く聆(き)く。〕。 「仁孝」については、男大迹王(継体天皇)を礼賛する「男大迹王、性慈仁孝順、可承天緒。」 〔継体天皇、ひととなり慈仁孝順にて、天緒(=帝位)を承くべし〕の言葉がある。 「仁孝」は儒教的な道徳である。 菟道稚郎子「天皇の資質がない」材料として、いくつかの大王の特徴を挙げ、自分にはその何れも備わっていないと主張するのである。 しかし、反正天皇は後の世の人なので、 「歯長」についてはは、時系列を無視した譬えとなっている。 《祚之以嗣・授之以民》 〈全訳漢字海〉(三省堂)には、「以レAB」(AヲもってBス)の構文は、 「時に「以レA」を熟語の後に置くことがあり、「B以レA」の形で、 「BスルニAをもってス」と訓読するとある。 「之以」の形を漢籍に探すと、論語の「道之以政、斉之以刑」があった。 この文の意味は「政治によって導き、刑罰によって制す。」であろう。 また、「之以民」の例としては『逸周書』〔前5~前3世紀〕-「常訓解」に、 「動之以則 發之以文 成之以民 行之以化」 〔則によって動き、文によって発し、民によって成り、化によって行う〕がある。 従って、ここの祚・授は動詞である。 《大意》 その時、太子菟道稚郎子(うじのわかいらつこ)は、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)に位を譲り、未だ帝位に就いていません。 そして大鷦鷯尊に、このように諮られました。 「天下に君臨して万民を統治するということは、蓋(おお)うことは天の如く、容(い)れることは地の如く行うことです。 上に喜ばしい心があって人民を使えば、人民は喜びを感じて天下は安泰です。 今、私は弟であり、また文献も不足し、どうして敢て位を継嗣して天業に登ることができましょうか。 大王(おおきみ)は、風姿岐嶷(きぎょく)〔幼少から賢く〕、仁孝遠聆〔仁・孝が遠くまで聞こえ渡り〕、 また御歯(みは)が長かったりして、はじめて天下の君となるに足るものでございます。 先帝は私を立太子させましたが、その能力はありましょうか。ただ、私を可愛がられただけでございましょう。 また、宗廟社稷(そうびょうしゃしょく)〔国家〕に奉ずるのは重大な事で、私は媚びへつらって国を手に入れようとは思わず、私の能力では適うに足りません。 そもそも兄が上で弟が下、聖(ひじり)の君と愚(おろか)の臣であるのは、今も昔も変わらない法則です。 願わくば、王(みこ)疑うことなく、必ず帝位に就いてください。 私は臣として助ける役割を果たすのみです。」 大鷦鷯尊はそれに、このように答えました。 「先皇は仰りました、皇位は一日の空白もあってはならないと。 よって、予め明徳の人を選んで王を立てて後継ぎとなされました。 継嗣の皇子として得た祚(さいわい)を民に授け、 その寵愛の徴(しるし)を崇敬し、国を治めなさいませ。 私は賢くはありませんが、先帝の命を棄てて弟王(おとうとみこ)の願いに従うことなど、あり得ましょうか。」と答え、 固辞して承わらず、二人がともに譲り合いました。 【仁徳天皇即位前紀―未即帝位(2)】 仁徳7目次 《興宮室於菟道》
猶(なほ)位(くらゐ)を[於]大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)に譲りし由(ゆゑ)に、以ちて久しく皇(すめら)の位(くらゐ)に不即(つかず)。 爰(ここに)皇位(すめらくらひ)[之]空(むさ)してなりて、既に三載(みとせ)を経(ふ)。 時に海人(あま)有りて、鮮魚(あざらけきうを)之(の)苞苴(おほにへ)を齎(も)ちて、[于]菟道宮(うぢのみや)に献(たてまつ)りき[也]。 太子(みこ)海人に令(をし)へて曰(のたまはく)「我(われ)天皇(すめらみこと)に非(あら)ず。」とのたまひて。 乃(すなはち)之(こ)を返(かへ)して難波(なには)に進(すす)め令(し)めたまひき。 大鷦鷯尊亦(また)返したまひ、以ちて菟道に献(たてまつ)ら令(し)む。
更に之(こ)に返(かへ)て、他(ほか)の鮮魚(あざけらきうを)を取りて[而]献(たてまつ)れど[焉]、譲(ゆづ)ること前(さき)の日の如くて、鮮魚亦(また)鯘(くさ)る。 海人(あま)、[於]屢還(しばかへる)に苦しみて、乃(すなはち)鮮魚を棄(う)てて[而]哭(な)きぬ。 故(かれ)諺(ことわざ)に曰はく「海人(あま)有り耶(や)、己(おのが)物に因(よ)りて以ちて泣く。」といふは、其(それ)是之(この)縁(ゆゑ)なり[也]。
「我知る、兄王(あにみこ)之(の)志(こころざし)奪ふ不可(べくもあらず)。豈(あに)久しく[之]生きて、天下(あめのした)を煩(わづ)らはすや[乎]。」といひて、 乃(すなはち)自(みづから)死(こうず、まかる)[焉]。 時に大鷦鷯尊、太子薨(みこのこうを、みこまかると)聞きて以ちて[之]驚きて、 難波(なには)従(ゆ)[之]馳(は)せて、菟道宮(うぢのみや)に到る、爰(ここに)太子(みこ)[之]薨(こうじ、しにまし)て三日(みか)を経(ふ)。
以ちて三(みたび)呼(よ)びて曰はく「我(わが)弟皇子(おとみこ)よ。」といへば、 乃(すなはち)応時(たちまち)にして[而]活きて、自(みづから)起きて以ちて居(う)。 爰(ここに)大鷦鷯尊、太子(みこ)に語りて曰はく 「悲兮(かなしや)、惜兮(をしや)、何(なに)所以(ゆゑ)にか[歟]自(みづから)[之]逝(ゆ)かむや。 若(も)し死なむ者(ひと)と有知(しりたらば)、先(さき)の帝(みかど)何をか我(われ)に謂(のたま)はむや[乎]。」とかたりき。
「天命(あまついのち)にて[也]、誰(たれ)そ能(よく)留(とど)むるや[焉]。 若(も)し天皇(すめら)之(の)御所(おほみや)に有向(むかひたら)ば、具(つぶさに)奏(まを)さく兄王(あにみこ)の[之]聖(ひじり)なりて、且(また)有譲(ゆづりたり)とまをさむ[矣]。 然(しかれども)聖(ひじり)の王(きみ)、我死すと聞こして、以ちて急ぎ遠(とほ)き路(みち)を馳せたまひて、豈(あに)労(ねぎら)ふこと得(え)無(な)かりしや[乎]。」とまをしき。 乃(すなはち)同母妹(いろど)八田皇女(やたのみこ)を進めて曰(まをさく) 「[雖]納采(のうさい)に不足(たらざれど)、僅(わづか)に掖庭(うちつみや)之数(かず)に充てたまへ。」 乃(すなはち)且(また)棺(ひとき)に伏して[而]薨(こうず、まかる)。 於是(ここに)大鷦鷯尊、素服(そふく、しらきぬ)と[之]為(な)りて、哀哭[之](かなしみになくこゑ)を発(はな)ちて、甚(いと)慟(いた)みたまふ。 仍(すなはち)[於]菟道の山の上(へ)に葬(はぶ)りたまふ。 《有》 この段には、「有」が多用される。 そのうち「有讓」は、兄王は聖であり有資格者だから「皇位に譲ることは有り得る」の意味として理屈っぽく読むこともできるが、 完了の「たり」だと思われる〔ただしこれは日本語用法で、漢文としては通用しない〕。 もともと完了の助動詞「たり」は「て+あり」の母音融合で、万葉集には両形が見られる。 この「有讓」は「譲りました」という報告であろう。 「若有向」は、「もし向ふこと有らば」とも訓めるが、まるで後世の漢文訓読調で、上代には合わないように感じられる。 これも完了のタリで「もし向ひたらば」ではないだろうか。反実仮想〔現実に反することを想像〕 のとき、願望を強調するときに完了時制を用いることは、現代語の「もし私があと10年若かったら」などに見られる。 《太子啓兄王》 ここで謙譲語「啓」〔まをす〕がでてくる。これを境に、兄王と太子の上下関係が逆転する。 それまでは弟が太子として兄の上位であった。 しかし、ここから兄王が皇位を継ぐことになるので、弟に対して上位に転ずる。 よって、暗黙の尊敬語を訓読で付加するときは、この変化に対応させなければならない。 なお、次の弟王の言葉に「然聖王聞二我死一」に、逆説の接続詞「然(しかれども)」がつくのは、 「駆けつけてくれたことを労う」という表現は、上位の者から下位に向かって発するものだからである。 兄が上位に立った時点ではこの言葉は失礼に当たり、 現代の礼儀作法でも、部下が上司に向かって「ご苦労さまでした」と言うのは、誤りとされている。 一時的に上下関係を戻して発した言葉だから「しかしながら」が付くのである。 《素服為之発哀哭之甚慟》 素服(白い衣)は通常は僧衣を着ない人、すなわち俗人を意味するようだ。ここの素服も「しろぎぬ」と訓み得るが、 それでも漢籍の「素服」の意味で使ったと思われる。すなわち喪服である。 「為之」の「之」は素服を受ける代名詞と見るのが自然であろう。 哀哭は、「発レ哀」〔哀しみの感情を発する〕と「哭く」〔之は、「哭」が動詞であることを示すための形式目的語〕に分離することも可能である。 しかし、「哀哭」は中国古典では熟語が多い。 これに之がついた「哀哭之」が、『荀子』〔戦国;前5~前3世紀〕―「王霸」にある。 この場合、「之」によって「哭」一字が動詞となるので、 「哀」は「哭」を連用修飾する関係になる(「かなしみになく」)。 「発哀哭之」にそれを適用すると「発」が浮く。しかし「哀哭之」が名詞化して「発」の目的語になったと考えればどうにか説明がつく。 このように考えると「之」がない方がよいが、4文字ずつの「~之・~之」にして視覚的に形を整えたと見られる。 『五畿内志上巻』(次項)の要約では二つ目の「之」を省き、 「素服爲レ之發二哀哭一甚慟」としている。 岩波文庫版の返り点は「大鷦鷯尊素服、爲二之發哀一哭之、甚慟」であるが、 返り点は五畿内志の方が賢明であろう。 《大意》 こうして、菟道(うじ)に宮室を建て、お住みになりました。 相変わらず大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)に位を譲り、久しく皇位に就かれませんでした。 よって、皇位が空白となり、既に三年が経ちました。 或るとき或る海人(あま)が鮮魚の大贄(おおにえ)をお持ちし、菟道の宮に献上しました。 太子(みこ)は海人に「私は天皇ではない。」と教えて これを返し、難波の大鷦鷯尊に進上させました。 大鷦鷯尊もまた返して、菟道の太子に献上させました。 こうして、海人の大贄はその往復の間に腐ってしまいました。 更にこれに替えて、他の鮮魚を獲って献上しましたが、譲り合いは前日と同じことで、鮮魚はまた腐りました。 海人は、何度も返されることに苦しみ、鮮魚を棄てて泣きました。 諺に「海人は、自分のものによって泣く。」というのは、この縁です。 太子は、 「私は、兄王(あにみこ)の志を奪うことができないことは分かっています。長く生きて天下を煩わすことなど、どうしてできましょうや。」と言って、 自死されました。 その時、大鷦鷯尊は、太子が薨じたと聞いて驚き、 難波から駆けつけ、菟道の宮に到着しました。それは、太子が薨じて三日が過ぎていました。 その時、大鷦鷯尊は、胸を叩いてむさぼり泣き、どうしてよいか分からず、髪を解いて屍に跨り、 そして「我が弟(おとうと)皇子よ。」と三回呼ぶと、 突然生き返り、自ら起き上がって座りました。 そこで大鷦鷯尊は、太子に語りかけました。 「悲しや、惜しや、どうして自分で逝ってしまったのか。 もしお前が先に知る人だと知っていらっしゃれば、先帝は私に何というだろうか。」と。 すると、太子は兄王に申しあげました。 「これは天命です。誰がそれを止(とど)めることができましょう。 もし天皇の御所に向かったら、兄王が聖王であること、またお譲りしたことを、つぶさに申し上げます。 とは言え、聖王が私が死んだとお聞きになり、急いで遠路を駆けつけてくださったことを、労わる気持ちがないことなどあり得ません。」と。
「十分な贈り物ではありませんが、少しでも内宮の数の足しにしていただければと思います。」と。 そして再び棺に伏して、薨じました。 そして大鷦鷯尊は、白の喪服となり、哀哭(あいこく)の声を発し、深く悼みなされました。 こうして菟道の山上(やまのえ)に葬むられました。 【菟道山上墓】 反逆の王大山守皇子の墓に関する記の記述が無視されたのとは対照的に、 菟道若郎子は謙譲の美徳が称えられ、墓所が定められている。 〈延喜式諸陵寮〉に「宇治墓 菟道稚郎皇子 在二山城国宇治郡一 兆域東西十二町南北十二町 守戸三烟」とある。 『五畿内志上巻』〔1734〕は「山城志七、宇治郡」に、
現在、菟道稚郎皇子の墓とされるものは、2か所にある。 京都新聞(2007年1月19日) 「莵道稚郎子伝説(宇治市)」)によると、
②の墓碑は朝日山山頂の朝日山観音の近くにあり、記紀の時代にはあり得ないデザインである。近世に地元の人の手で建てられたものと想像される。 五畿内志の「兆瑩」は、滅多に見ない語である。延喜式の「兆域」は陵墓の区域という意味で、「瑩」は玉が放つ光を意味するので、 「兆瑩」は古墳を美化する語であろうと思われる。 よって五畿内志の文は、「興聖寺の隣に古墳があったが、寺を拡張するために削平した」と解釈するのが妥当であろう。 すると、朝日山の頂上は離れすぎである。 まとめ 書紀は、菟道稚郎子から大鷦鷯尊への権力の移行をことさら道徳的に描く。 記でも、菟道稚郎子が即位を辞退し、大鷦鷯尊もまた自分の即位を遠慮するという譲り合いが書かれる。 これらの書き方からは、実際には大鷦鷯尊が武力によって権力奪取した事実を、覆い隠したことが強く疑われる。 想像するに、訶和羅崎の戦いの真実は、大鷦鷯尊が菟道稚郎子を倒したものである。 そこに崇神朝の纏向政権vs和爾族の戦いを再利用して、大山守皇子を共通の敵に仕立て描くことにより、 大鷦鷯尊が覇王※であったことを隠したと考えられる。※…徳でなく、武力で権力を獲得した王。 これはまた、末子相続の文化をもつ王朝から、長子相続の文化をもつ王朝への不連続な交代でもあったかも知れない。 |
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2017.04.30(sun) [156] 中つ巻(応神天皇9) ▼▲ |
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![]() 所以參渡來者新羅國有一沼 名謂阿具奴摩 【自阿下四字以音】 此沼之邊 一賤女晝寢於是日耀如虹 指其陰上 亦有一賤夫 思異其狀 恒伺其女人之行 故是女人 自其晝寢時 妊身生赤玉 爾其所伺賤夫乞取其玉恒裹著腰 又(また)昔、新羅(しらき)の国主(くにぬし)之(の)子有り、名は天之日矛(あめのひほこ)と謂ふ、 是の人参渡来(まゐわたりき)[也]。 参渡来(まゐわたりこ)し所以(ゆゑ)者(は)、新羅の国に一(ある)沼有り、名は阿具奴摩(あぐぬま)と謂ふ 【「阿」自(よ)り下(しもつかた)四字(よじ)音(こゑ)を以ちゐる】。 此の沼之(の)辺(へ)に、一(ある)賤(いやしき)女(をみな)昼寝(ひるね)して、於是(ここに)日(ひ)耀(かかや)くこと虹(にじ)の如(ごと)きて、其の陰(ほと)の上(へ)を指しき。 亦(また)一(ある)賤(いやしき)夫(をとこ)有りて、其の状(さま)異(け)に思ひて、恒(つね)に其の女人(おみな)之(の)行(おこなひ)を伺(うかか)ひて、 故(かれ)、是の女人、其の昼寝せし時自(よ)り妊身(はら)みて、赤玉(あかだま)を生みき。 爾(ここに)其の所伺(うかかはゆる)賤き夫、乞(こひねが)ひて其の玉を取りて恒(つね)に裹(つつ)みて腰に著(つ)けり。 此人營田於山谷之間 故耕人等之飮食負一牛而入山谷之中 遇逢其國主之子天之日矛 爾問其人曰 何汝飮食負牛入山谷 汝必殺食是牛 卽捕其人 將入獄囚 其人答曰 吾非殺牛唯送田人之食耳 然猶不赦 此の人[於]山谷(やまたに)之(の)間(ま)に田を営みたり。 故(かれ)、耕人(たかへすひと)等(ら)之(の)飲食(くらひもの)、一(ひとつ)の牛に負(おほ)せて[而]山谷之中(うち)に入りき。 遇(たまさかに)其の国主之子、天之日矛に逢ひて、 爾(ここに)其の人に問ひて曰はく「何(いかに)か汝(いまし)飲食を牛に負(おほ)して山谷に入る。汝(いまし)必ず殺して是の牛を食(くら)ふべし。」といひて、 即(すなはち)其の人を捕へて[将]獄囚(ひとや)に入れむとす。 其の人答へて曰はく「吾(われ)[非]牛を殺さず、唯(ただ)田の人之(の)食(くらひもの)を送る耳(のみ)」といへども[然]猶(なほ)も不赦(ゆるさず)。 爾解其腰之玉 幣其國主之子 故 赦其賤夫將來其玉置於床邊 卽化美麗孃子仍婚爲嫡妻 爾其孃子 常設種種之珍味恒食其夫 故其國主之子 心奢詈妻 爾(ここに)其の腰之玉を解きて、其の国主之子に幣(まひな)ふ。 故(かれ)、其の賤夫(いやしきをとこ)を赦(ゆる)して、其の玉を将(も)ち来(き)たりて、[於]床辺(とこへ)に置けり。 即(すなはち)美麗(うるはし)き嬢子(をとめこ)と化(な)りて、仍(すなはち)婚(よば)ひて嫡妻(むかひめ)と為(す)。 爾(ここに)其の嬢子(をとめこ)、常(つね)に種種(くさぐさ)之(の)珍味(めづらしきうまきもの)を設(まう)けて恒(つね)に其の夫(つま)に食らはしめき。 故(かれ)其の国主之子、心奢(おご)りて妻を詈(の)れば、
社頭掲示の「神社略記」には、 「延喜式内名神大社にして實に荘厳なる社殿なりしも数度の兵乱により 改装毎に小社となり遂に天正年間織田氏の石山本願寺攻めの兵火に遭い 辛くも難を避けて攝社なる牛頭天王社に移りぬ。現今の社地なり」 と伝える。 『摂津名所図会』〔1798〕には「比売許曽神社」の名で掲載され、末社として「阿遅速雄祠」「牛頭天王祠」などが書かれている。 阿遅速雄は味耜高彦根命だと見られる。 牛頭天王は奈良時代頃から現れる神仏習合による神で、素戔嗚尊と習合している。 明治時代の神仏分離によって、牛頭天王は素戔嗚尊に改められた。 祭神の下照姫は、天稚彦の妻であった。天稚彦は高皇産霊尊に地上を平定してこいと言って遣わされたが、 裏切って敵方につき天からの放った矢で射(い)殺された。下照姫は悲しみに泣き叫んだ。 配祀の味耜高彦根命は天稚彦の友で、またその容姿は天稚彦と瓜二つであった (第74回)。 延喜式に「亦号下照比売」とあるから、延喜式成立の時には既に下照比売命を祀る社が、比売碁曽神社と見做されていたことになる。 【赤留比売命神社】
現地の案内板には、「かつて住吉大社の末社であった由縁で、七月三十一日に行われる同社の例大祭「荒和大祓(あらにこのおおはらい)」に、 当地の七名家(ひちみょうけ)より桔梗の造花を捧げる慣例となっている。〔中略〕大正三年〔1914〕、杭全(くまた)神社境外末社となり今日に至っている。」 などとある。 また、社殿の背後には環濠集落跡が見られるという。 【姫社(ひめこそ)神社】 他の「比売語曽社」として、国前郡の比売語曽社が神武天皇紀に載るが、さらに姫社(ひめこそ)神社が備中国(総社市福谷1423)にある。 現地には「鉄作神姫社神社」と書かれた案内板が立ち、鉄の神と言われている。 豊前国(大分県)―備中国―摂津国のラインは、新羅から難波津に至る海路にあたり、伝説に沿うものとなっている。 【天之日矛】 垂仁天皇紀に「三年春三月、新羅王子、天日槍来帰焉、将来物」とある (【天日槍】)。 このように天日槍は書紀でも新羅の王子であるが、比売語曽社の伝説とは切り離され、 比売語曽社の神を追ってきたのは大加羅国の王子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)となっている。 書紀では直接播磨国に上陸し、但馬国出石郡に定住した。 天日槍の伝説には広がりがあり、播磨国風土記でも数か所に出てくる。詳しくは次回に取り上げる。 まとめ 記では、「比売碁曽社に、阿加流比売神が坐す」と表現される。 書紀でも「童女は、比売語曽社の神となれり」とされ、 共通して「比売碁曽社」(社の名)ではあっても「比売碁曽神」(神の名)ではない。 しかし当時の人が「"比売碁曽"とは社という入れ物の名前ではあるが、神の名前ではない」と区別したとはとても考えられないので、 「比売碁曽社」が「比売碁曽"神"」の社であったのは自明である。 しかし、記は「亦名阿加流比売神」とまでは言わず、書紀は「童女」と表すのみで名は示されない。 そして延喜式では祭神が「下照姫」に置き換わり、赤留比売命神は別の場所に移る。 阿加流比売は「赤留比売」とも書かれるように、赤玉伝説に因む神名であろうが、比売碁曽神とは由来を異とするかも知れない。 結局、記は両神がひょっとしたら別の神かも知れないという含みを残し、書紀は完全に判断を避けたようである。 赤留比売は、もともと比売碁曽神とは別神で、東成郡・住吉郡に広まっていたのではないだろうか。 その「あかる」という名前は、ことによると「明宮」に繋がるものかも知れない。応神天皇紀には、記の「軽嶋の」がつかず、単なる「明宮」と書いている。 書紀では応神天皇が崩じた「大隅宮」は難波に近い。その別説とされる「明宮」も、また難波にあったのではないだろうか。 |
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2017.05.08(mon) [157] 中つ巻(応神天皇10) ▼▲ |
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![]() 娶多遲摩之俣尾之女名前津見 生子多遲摩母呂須玖 此之子多遲摩斐泥 此之子多遲摩比那良岐 此之子多遲麻毛理 次多遲摩比多訶 次淸日子【三柱】 故(かれ)、更に還(かへ)りて多遅摩国(たぢまのくに)に泊(は)てて、即ち其の国に留まりて[而] 多遅摩之(の)俣尾(またを)之(の)女(むすめ)、名は前津見(まへつみ)を娶(めあは)せて、 生(あ)れし子は、多遅摩母呂須玖(たぢまもろすく)にて、 此之子(このこ)は多遅摩斐泥(びね)、 此之子は多遅摩比那良岐(ひならき) 此之子は多遅麻毛理(もり) 次に多遅摩比多訶(ひたか) 次に清日子(きよひこ)なり【三柱(みはしら)】。 此淸日子 娶當摩之咩斐 生子酢鹿之諸男 次妹菅竈/上/由良度美【此四字以音】 故 上云多遲摩比多訶 娶其姪由良度美 生子葛城之高額比賣命 此者息長帶比賣命之御祖 此の清日子(きよひこ)、当摩(たぎま)之(の)咩斐(めひ)を娶(めあ)はせて、 子、酢鹿(すが)之(の)諸男(もろを)、 次に妹(いも)菅竈[上声]由良度美(すがかまゆらどみ)【此の四字(よじ)音(こゑ)を以ちゐる】を生みき。 故(かれ)、上に云ひし多遅摩比多訶、其の姪(めひ)由良度美を娶(めあは)せて、 生(あ)れし子、葛城之高額比売命(かつらきのたかぬかひめのみこと)、 此者(こは)息長帯比売命(おきながたらしひめ)之(の)御祖(みおや)なり。 故 其天之日矛持渡來物者 玉津寶云而珠二貫又振浪比禮 【比禮二字以音下效此】 切浪比禮振風比禮切風比禮又奧津鏡邊津鏡幷八種也 【此者伊豆志之八前大神也】 故(かれ)、其の天之日矛(あめのひほこ)の持ちて渡り来(こ)し物者(は)、 玉津宝(たまつたから)云はく、珠(たま)二貫(ふたつら)、又振浪比礼(なみふるひれ) 【比礼の二字音を以ちゐる。下(しもつかた)此に効(なら)ふ。】、 切浪比礼(なみきるひれ)、振風比礼(かぜふるひれ)、切風比礼(かぜきるひれ)、又奧津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)并(あは)せて八種(やくさ)の而(ごとく)いふ[也]。 【此者(こは)伊豆志(いづし)之(の)八前大神(やまへのおほかみ)なり[也]】。
貫…(古訓) つらぬく。とほる。 つら(連、列、貫)…[助数詞] 連なったものを数える(枚鉄、海藻、緒に巻いた玉、数珠など)。 姪…〈倭名類聚抄〉兄弟之女為姪。【和名米比】〔めひ〕。 嬢…(古訓) をみな。をうなめ。 をみな…(名) 美しい娘。女性一般としての女。 をみなご…「女子(古訓) おむなこ。」 さく(放く、離く)…[他]カ下二 放つ。離す。 みたけ…[名] 身長。 甕…(古訓) みか。 うれつく…[名] 〈時代別上代〉未詳とされながら、文脈から、賭けに負けた者の出す物品の意といわれている。 ふぢ(藤、葛)…[名] マメ科。蔓性の落葉低木。
宿…(万)0074 為當也今夜毛 我獨宿牟 はたやこよひも あがひとりねむ。 襪…[名] 布製のくつした。たび。(古訓) したくつ。 【当摩之咩斐】 当摩は、出身地、もしくはその種族を示す。 當麻寺(たいまでら)で有名な当麻は〈倭名類聚抄〉では{大和国・葛下郡・當麻【多以末】郷}〔たいま〕と訓まれるが、 タイマはタギマの音便だという。 古い発音は、履中天皇段に「自当岐麻道 廻応越幸。」 〔当岐麻(たぎま)道(ぢ)ゆ、廻り越しいでますべし=当岐麻の道経由で、回って越すのがよろしいでしょう〕 に見られる。しかしこと人名に関しては記紀ともに「当麻」であり、好字令〔713年、記は706年〕 (資料13)による地名の変更の結果ではない。 従って、706年以前の時点で、①既にタイマとタギマが併存していた。②人名においては、既に漢字二文字が好まれていた。の二つの可能性が考えられる。 【天之日矛】 《一族の系図》 天之日矛を祖とする一族の系図は、但馬氏が朝廷に提出したものによる可能性がある。 一族の者が重用されるためには、その出自を示す文書が必要であった(高橋氏史の例)。 従って、記が書かれた時代の但馬氏族は、一定の存在感を示していたと考えられる。
これらの名や注記には「但馬」が見えない。 ただ、三宅連が田道間守の末裔であることは、記にも触れられている (垂仁天皇6)。 四氏とも、新羅出身であるという自覚が強いことは注目される。 記の時代には但馬から大和・摂津に移ったとも考えられ、 但馬の地名は一族の由来伝説中に謳われたものと理解することもできる。 《葛城之高額比売》 記の系図は、途中から葛城の高額比売に飛んでいる。 高額比売から息長帯比売命(神功皇后)が生まれたこと自体は、 一族の葛城襲津彦が新羅に渡って活躍することから見て、不自然ではない。 記で但馬一族と葛城高額比売を繋ぐ何らかの理由があるのかも知れないが、それは不明である。 書紀では、この繋がりはないことになっている。 《書紀と記の比較》 記が天之日矛を応神天皇段で取り上げたのは、その段が一連の新羅からの渡来をテーマにする段であるからであろう。 しかし、垂仁天皇段で既に多遅摩毛理(但馬守)が登場した。 また系図から見て神功皇后から数代遡る時期に当たり、よってこの節を「又昔」で書き始め始めた。 書紀はこの話を本来書かれるべき時代、垂仁天皇紀に移している (第121回、垂仁天皇6【多遅摩毛理】)。 ただ、出石郡出石町の袴狭(はかざ)遺跡から秦氏の人名「出石郡秦部牛万呂戸口秦部旅人」が書かれた木簡が出土していることが注目される。 この木簡は、平安時代前半の水田土壌層から出土した(『兵庫県文化財調査報告197-出石郡出石町袴狭遺跡』による)。 記編纂の時代以前から連続して、この地に秦部がいたと思われる。 秦氏の渡来は応神天皇十四年〔癸卯;403〕の弓月君の来帰に由来するとされる (第152回【秦氏】)。 新撰姓氏録の記述から、この来帰は比較的史実に近いと思われ、記はこれを天之日矛と結びつけた可能性がある。 《天之日矛の上陸地》 天之日矛が但馬国に居を構えたことからみれば、上陸地は日本海側とした方が自然である。 この件については、天之日矛の到来の原型は、朝鮮半島と倭国を結ぶ航路が日本海側にあった頃の話ではないかと推定した (応神天皇5まとめ)。 一方で赤留比売の渡来の経路は、瀬戸内海を通って難波に来る5世紀以後の航路に沿っている。 赤留比売を追う天之日矛は、当然のことながら難波への上陸を試みなければならない。 記は、それを難波の済(わたり)の神が妨害した〔海を荒れさせたという意味か〕ためとするが、これは複数の伝説を繋ぐための苦肉の策のように見える。 書紀は、赤留比売を天之日矛と切り離して加羅国の王子、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)に移すことにより、その不都合を免れている (垂仁天皇元年)。 ただ、同時に近江国・若狭国・播磨国宍粟郡・淡路島にも天日槍伝説があったことを、書紀は見出している (垂仁天皇三年)。 書紀は「一云」(あるいわく)と前置きしつつも、播磨を上陸地点とする点に限れば、記を引き継いでいる。 天之日矛伝説の分布はかなり広い地域に及ぶから、赤留比売を追って難波に上陸した伝説も存在していた可能性は高い。 ただ、記は共に天之日矛伝説ではあるが、異種の伝説を一本に繋ごうとしたところに無理があったと思われる。 【天之日矛持渡来物】
「比礼」は、大国主神話では振ると魔力を発揮する布であった (第59回)。 また、人物古墳に見る袈裟状衣も領巾(ひれ)だと考えられている (第113回《裹領巾頭而》)。 万葉集0871に、佐用姫が新羅に渡る任務を受けた恋人との別れを惜しみ、その船の出発を見送るときに、力いっぱい領巾を振ったことを詠んだ歌がある (山上憶良、資料15)。
鏡は記では2枚組で、その名称は宗像大社三社を連想させる (奧津宮・中津宮・辺津宮。第47回)。 それに対して、書紀における名前「日鏡」は、天照大神の御神体のことである (第50回【一書2】 ・第83回)。 この名称の差し替えには、古代出雲の大国主命系の文化から、倭の天照大御神系の文化への転換が感じられ、 記と書紀が拠って立つ位置の違いを反映したものになっている。 また、天照大神の御神体となると、2枚一組の鏡というわけにはいかない。 《出石桙》 8つの宝のうち、出石桙は、天日槍のもともとの姿ではないかと思える。 この桙には、桙そのものが人格神と化して天日槍となると同時に、もとの姿のままで8つの宝の一角を占めるという二重性があるように思える。 この点に関しては、桙を財宝に含めていない記の方が論理的ということになる。 《清彦による献上》
朝廷は、ローカルな氏族が財宝を守り、その謂れとなる独自の祖神を崇拝し続けることを嫌ったと思われる。 【伊豆志之八前大神】 前は、サキともマヘとも訓み得るが、 伊豆志之八前大神の訓みを検索すると、ヤマヘが7件(片仮名・平仮名を併せた数、以下同じ)、 現代仮名遣いのヤマエが17件に対して、ヤサキは0件である。 比較するために住吉の「三前大神」を調べると、ミサキが47件、ミマヘが27件、ミマエが30件で両者は拮抗している。 ヤサキという訓みがない理由は分からないが、 強いて言えば、「三前」の場合は「御崎(=岬)」の通用を含むからであろうか。 〈神名帳〉に{但馬国/出石郡/伊豆志坐神社八座【並名神大】}。 比定社は出石神社(兵庫県豊岡市出石町宮内99)。
兵庫県神社庁公式ページによれば、主祭神:出石八前大神、配祀神:天日槍命とされる。 現在は、一社にまとまっているが、〈神名帳〉に「八座」とあるから、八種の宝ごとに一社ずつ建っていたのであろう。 それが「並(な)べて名神大」とあるから、 かつては「鳥居」発掘場所と現出石神社の間の広大な社地に、8大社が分散して置かれていたと想像される。 恐らくは相当の規模であったのであろう。 【伊豆志乙女神】 「この神の女」と書かれるから、八種の宝はまとまって一柱の神をなし、その娘が伊豆志乙女神ということになる。 この神は記に登場する神でありながら、意外なことに公式に祭神とする神社が見つからない。 ただ、いくつかのサイトには「御出石神社」に、日矛神とともに祭神または配祀神として祭られているという記述が見られる。 【御出石神社】 〈神名帳〉に{但馬国/出石郡/御出石神社【名神大】}、 比定社は御出石神社(みいずしじんじゃ、兵庫県豊岡市出石町桐野986)。 兵庫県神社庁公式ページよれば、通称「加茂さん」。主祭神:天日矛神。 【避上下衣服 量身高而釀甕】
《釀甕酒》 『古事記伝』、そして一般的には「~醸甕酒」となっていた。 「甕酒」は酒の種類とも、あるいは単に「甕に入れた酒」とも考え得る。 そのどちらであるかを突き止めるために〈時代別上代〉を見ると、「~酒」は、うまさけ(旨酒)、からきさけ(醇酒)、こさけ(醴酒)、 たむさけ(甜酒)、まちざけ(待酒)、わささざけ(早稲酒?)がすべてである。 また、索引をみても「みか」や「かめ」に「さけ」は続かない。 だから、〈時代別上代〉は、古文献から「甕酒」という表現を見出ださなかったらしい。 そこで改めて真福寺本を見ると、"酒"が脱落していた(右図①)。 「酒」がないままで読んでも意味は通じる。逆に「甕酒」に悩まされることもない。 だから、"酒"抜きである真福寺本が本当の姿だと考えると納得がいく。 もし「酒」を入れて完全な文を作るとすれば「量身高而作甕以醸酒」である。 "酒"一文字だけが入っていた場合は、「量身高而甕醸酒」となるのが自然で、一般に言われる「醸甕酒」とは語順が異なる。 だから、"酒"は後世に書き加えたものではないかと思えるのである。 《避上下衣服》 上下衣服は、はじめは「きぬ・したごろも」と訓むべきかと考えた。しかし、「したごろも」は袴ではなく、下着の意味となる。 ここでは、上=衣(上半身)、下=袴(下半身)の意味だと見られるから、この訓は適当でない。 宣長は「鎮御魂斎戸祭祝詞に、奉御衣波上下備奉弖」があると述べている。 確認すると〈延喜式〉の祝詞の「鎮御魂斎戸祭中宮。春宮斎戸祭亦同。」の項に「奉御衣波上下備奉弖※」がある。 この文は漢文体に、助詞の"波"(ハ)、"弖"(テ)を挿入した形で、宣命体という。 宣命体では、挿入した助詞・送り仮名・助動詞以外は普通に訓読みされるので、「上下」はそのまま「かみしも」と訓まれたと見られる。 ※…たてまつるみころもはかみしもそなへたてまつりて。 「避」(さく)は「脱ぐ」意味だと思われるが、もともと「遠ざける」意味だから脱いだものを投げ飛ばすような語感があり、これが「上下衣服」と組み合わされば、 「上も下も脱ぎ放ってやる」と強い感情を表現する言葉になる。 ところが、ここから次の文「酒を醸して山河の物を供える」との間には随分の飛躍がある。 これには真福寺本の筆写者も戸惑ったようで、 「衣服酒山河之物備神幣縁事」 〔衣服・酒・山河の物を神幣(みてぐら)として供える縁(ゆかり)のこと〕 というメモ書きが、本文と同じ筆跡で書き添えられている(右図②)。 つまり、「衣服と酒・山河の物を並べて供える」という普通の作法に倣うことで、 そのために衣服を脱ぐのだという解釈を示している。 基本的にはその通りであろうが、同時にいきがった気分にあることも否定できない。 つまり弟に向かって、お前が万が一、本当にあの女を得たなら、 私の身長ほど大きな甕に一杯の酒を作り、山河のあらゆる獲物・作物はもちろんのこと、 着物まで脱いで神に供え、素っ裸になってやると言い放つのである。 「うれづく」とは、まさにこのような場合に使う言葉で、 自分が言ったとおりにならなかったときの詫びを、形に表すことを意味すると見られる。 【播磨国風土記】 『播磨国風土記』には、宍禾郡・神前郡の条に、しばしば天日槍命が登場する。 天日槍命は基本的に但馬国出石郡の一族の氏神であるが、その伝承には播磨国まで広がっていたことがわかる。 『但馬国風土記』にも載っているはずであるが、この書は失われている。 因みに「但馬国風土記」なるものが存在するが、偽書とされている。 ただし、平安時代以後の歴史文献としての資料価値があるようである。 《宍禾郡》 宍禾郡は、〈倭名類聚抄〉の{播磨国・完粟【志佐波】郡}〔しさはのこほり〕に対応する。 郡名の「完」の字は、もともと"宍"の誤記だったが、そのまま定着した。
《神前郡》 神前郡は、〈倭名類聚抄〉の{播磨国・神埼【加無佐岐】郡}〔かむさきのこほり〕に対応する。 しかし、その中に「多駞里」は見えない。
天日桙命は、この地を占拠しようとしたが、 最終的には出石に封じ込められた。 それに至るまでに、方々で大国主の命との戦いが展開されたことが、古い言い伝えに残っていたと見られる。 注目されるのは、その時代は書紀に示された垂仁朝からもさらに遡り、大国主命の時代とされることである。 大国主命は、最後は天照大神に屈服したとは言え、その前には出雲から山陰・北陸に遠征して次々と領土に加えた。 天日桙命との戦いは、その過程でこの地の支配権を巡るものと位置付けている。 【天日桙命の渡来】 《渡来の時期》 『播磨国風土記』で葦原志許乎命と戦ったと書かれることについては、在住の一族と渡来族の間の争いを反映したと見られる。 しかし、その時期が倭の天孫族に国を譲る前か後かは、判断が難しい。 風土記の記述自体によれば国譲りの前となるが、 国譲りの後かも知れないとも考え得る理由は、葦原志許乎命への愛着は風土記の時代にも続いているから、葦原志許乎命を在住族の象徴として登場させた可能性があるからである。 何れにしても、応神天皇の5世紀始めころの、百済・新羅から諸族が大量に渡来した時期より大幅に遡るのは確実である。 その理由は、天日桙と但馬一族の名前がすべて倭風であるからである。 そもそも、新羅の建国は365年で、<wikipedia>「新羅」という国号は、503年に正式の国号になった</wikipedia>とされる。 したがって、記が「有新羅国主之子名謂天之日矛」と書いた(前回)のは、完全に記が書かれた時代から呼称を遡らせたものである。 これまでに天孫族が渡来するのと前後して、波状的に西方からの諸族の渡来があったと推定した (第96回まとめ、第116回《物部氏》)。 天日桙一族の渡来も、その流れに沿ったものと考えられる。 《上陸地》 播磨国風土記で宍粟郡が舞台になっていることから見ると、上陸地点は瀬戸内海側の可能性がある。 とすれば、初めに難波への上陸を試みたたが追い返され、播磨に上陸して山越えしてやっと出石に安住の地を見つけたという筋書きも考えられる。 その場合、記の「其渡之神塞以不入」〔済(わたり)の神に妨げられた〕というの記述には一定の信憑性がある。 ただ、だとすれば畿内政権が既に難波をがっちりガードしていた時代だから、葦原志許乎命には噛み合わない。 それに対して、古代の航路によって丹後半島の辺りから上陸し、宍粟郡へは北から進出しようとして戦いが起ったと考えることもできる。 系図では、天之日矛から多遅摩毛理まで4代(平均的には120年)あり、かなり古い時代のことであり、丹後半島説が有利である。 まとめ 平安時代に伊豆志坐神社にあった8社には、8種の宝がそれぞれの祭神とされていたと思われる。 その名前は、概ね書紀によるものであろうが、記における名称が別名として添えられていたこともあるかも知れない。 その祭られ方から見て、但馬氏はもともと8族の連合体であったのではないかと思われる。 そして一族に融合した後も、古くからの習いを引き継いぎ、旧族の神がそれぞれに祭られた。 統合したときにリーダーとなった種族の宝は鉾で、そこに「天日桙神」の御霊が宿っていたとすれば、 八種の宝と天日桙神が統一的に理解できる。 さて、但馬氏自身の由来神話の中に「新羅」の国名が具体的に出てきたとは到底考えられず、 天日桙を新羅の王子としたのは、記の編纂の時であろう。それ以前には「西の国の王子が」程度の表現はあったかも知れない。 そして西の国から赤留比売を追跡して到来した神、難波の上陸を果たせずに播磨に向かった神、それに古代に丹後半島から上陸した但馬8族の神、 この三神が習合したと受け止めるのが妥当であろう。 この天日桙は、出石神社の神として、また播磨国風土記に取り上げられてこの地域に深く浸透しているが、対照的に伊豆志乙女神はほぼ無視されている。 古事記が伊豆志乙女神伝説を取り上げたのは、偏(ひとえ)に物語そのものがもつ面白さによるものだろう。 この地域に残る伝説であったのは確かだろうが、本当に伊豆志八前大神の娘かどうかは、はっきりした伝承がなかったように思われる。 |
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2017.05.11(thu) [158] 中つ巻(応神天皇11) ▼▲ |
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![]() 爾伊豆志袁登賣 思異其花 將來之時 立其孃子之後入其屋卽婚 故 生一子也 爾白其兄曰 吾者得伊豆志袁登賣 於是其兄 慷慨弟之婚 以不償其宇禮豆玖之物 於是(ここに)、其の春山之霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)其の弓矢を以ちて嬢子(をみな)之(の)厠(かはや、かたはら)に繋(か)けき。 爾(ここに)伊豆志袁登売(いづしをとめ)、其の花を異(あやし)と思ひて将(も)ち来(こ)し[之]時、 其の嬢子之(の)後(しりへ)に立ちて其の屋(や)に入りて即(すなはち)婚(あ)ひき。 故(かれ)、一(ひとりの)子を生みき[也]。 爾(ここに)其の兄(このかみ)に白(まをさく)[曰]「吾者(われは)伊豆志袁登売を得(う)。」とまをしき。 於是(ここに)其の兄、弟(おと)之婚(よばひ)を慷慨(いきどほ)りて、以ちて其の宇礼豆玖(うれづく)之(の)物を不償(つぐのはず)。 爾愁白其母之時 御祖答曰 我御世之事能許曾【此二字以音】神習 又宇都志岐青人草習乎不償其物 恨其兄子 乃取其伊豆志河之河嶋一節竹而 作八目之荒籠 取其河石 合鹽而裹其竹葉 爾(ここに)愁(うれ)へて其の母に白(まを)しし[之]時 御祖(みおや)答へまさく[曰] 「我(わが)御世之(みよの)事能(の)許(こ)曽(そ)【此の二字(ふたじ)音(こゑ)を以ちゐる】神習(かむなら)へ、 又、宇都志岐青人草(うつしきあをひとくさ)習はむや[乎]、其の物不償(つぐのはざる)は。」とこたへまして、 其の兄子(このかみ)を恨(うら)みて、乃(すなはち)其の伊豆志河(いづしのかは)之(の)河嶋(かはしま)に一節(ひとふ)の竹を取りて[而]、 八目(やつめ)之(の)荒籠(あらこ)を作りて、其の河の石を取りて塩(しほ)と合はせて[而]其の竹葉に裹(つつ)みて、 令詛言 如此竹葉青如此竹葉萎而青萎 又如此鹽之盈乾而盈乾 又如此石之沈而沈臥 如此令詛 置於烟上 詛言(のろひ)を令(つ)ぐらく 「此の竹葉(たかば)の青(あを)きが如(ごと)、此の竹葉の萎(しぼ)むが如[而]青くして萎め。 又、此の塩之(の)盈乾(みちひ)の如[而]盈乾(みちひ)れ。 又、此の石之(の)沈むが如[而]沈(しづ)み臥(ふ)せ。」と、 如此(かく)詛(のろひ)を令(つ)げて、[於]烟(けぶり)の上(うへ)に置きき。 是以其兄八年之間于萎病枯 故其兄患泣請其御祖者 卽令返其詛戸 於是 其身如本以安平也 【此者神宇禮豆玖之言本者也】 是以(しかるがゆゑをもちて)、其の兄(このかみ)八年之間(やとせのま)[于]萎病(なへやまひ)に枯る。 故(かれ)、其の兄患(わづら)ひ泣きて其の御祖(みおや)に請(ねが)へ者(ば)、即(すなはち)其の詛戸(のろひへ)を令返(かへ)しき。 於是(ここに)、其の身(み)本(もと)の如くなりて、以ちて安(やすらけく)平(たひら)ぎき[也]。 【此者(こは)神宇礼豆玖(かむうれづく)之(の)言(こと)の本(もと)なれ者(ば)なり[也]。】 そして、春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)はその弓矢を女の厠〔の傍の枝〕に懸け〔て、隠れて待ち〕ました。 すると伊豆志袁登売(いずしおとめ)がその花を不思議に思い、手に取って家の中に戻った時、 その乙女の後ろに立ってその家に入り、そのまま結ばれました。 そして、一子が生まれました。 そして、兄に「私は伊豆志袁登売を得ました。」と申しあげました。 すると兄は、弟が結ばれたことに憤慨して、その宇礼豆玖(うれずく)の物を償いません。 そこで弟は憂いて母に申しあげると、 母上はこうお答えになりました。 「わが御世の事は、神に習うものです。 人民が見習うというのに、物の償いをしないとは。」と。 そして、兄を恨み、伊豆志(いずし)川の川島に一本の竹を取り、 八つ目の荒籠(あらこ)を作り、その川の石を取って塩と合わせて其の竹葉に包み、 呪詛しました。 「この竹葉の青さのように、この竹葉の萎(しぼ)みゆくように、青くそして萎め。 また、この塩〔=潮〕の満ち引きのように、満ちてそして引け。 また、この石が沈むように、沈み臥(ふ)せよ。」と、 このように呪詛して、煙の上に置きました。 その結果、兄は八年間、萎病(なえやまい)に身を枯らしました。 そこで、心悩ませ、泣きながら母上にお願いしたところ、呪詛の仕掛けを解きました。 こうして、兄の身体は元通りに復し、平安となりました。 【これは、「神宇礼豆玖(かみうれずく)」という言葉の元となった話です。】 廁・厠…[名] かわや。かたわら。(古訓) かはや。ましはる。 側…(古訓) かたはら。ほとり。 繋…(古訓) つなく。かく。ゆふ。 あやし…[形]シク 霊妙である。不思議である。 あやしぶ…[自]バ上二 いぶかる。 慷慨(こうがい)…①感情が高まって嘆く。②意気盛んなこと。 〈汉典〉①志氣昂揚。②大方而不吝嗇。〔②大らかでけちでない〕 うれたし…[形] 腹立たしい。いまいましい。 〈時代別上代〉「慷二-慨弟之婚一」(記応神)などウレタムと訓ならわされている。 ウレタシからウレタム(四段)の存在が考えられはするが、確例はない。 つぐのふ(償ふ)…[他]ハ四 つぐなう。 ならふ…[他]ハ四 まねをする。まなぶ。 かはしま…[名] 川の中州。 ふ…[助数詞] 結節のあるものを数える。(万)0420 左佐羅能小野之 七相菅 手取持而 ささらのをのの ななふすげ てにとりもちて。 や(八)…①[数詞] 8。②[名] 数の多いことを表す。美称になることが多い。 あらこ(荒籠)…[名] 編み目の粗いかご。 たかは(竹葉)…[名] 竹の葉。 令…(古訓) かなふ。せしむ。つく。めす。をしふ。 つぐ(告ぐ)…[他]ガ下二 つげる。 らく…[接尾] 動詞(上二・下二・カ変・サ変・ナ変の終止形、上一の未然形)・いくつかの助動詞を名詞化する。 「云う」に類する語から引用文を導く。 (万)3303 里人之 吾丹告樂 汝戀 愛妻者~ さとびとの あれにつぐらく 「ながこふる うつくしづまは~。 のろふ…[他]ハ四 呪う。「とこふ」との相違は明確ではない。 とこふ…[他]ハ四 呪う。 如此…(万)如此 かく。 しほひしほみち…「潮干潮満ち」。(万)3891 荒津乃海 之保悲思保美知 時波安礼登 あらつのうみ しほひしほみち ときはあれど。 しほみつ…(万)0121 塩満来奈武 住吉乃 しほみちきなむ すみのえの。 しほひ…(万)0293 塩干乃 三津之海女乃 しほひの みつのあまの。 萎…(古訓) なゆ。しほむ。 なふ…[自]ハ下二 なえる。しびれて感覚がなくなる。 しぼむ…[自]マ四 しおれる。植物が生気を失う。 けぶり…[名] けむり。 とこひど(詛戸)…[名] 〈時代別上代〉未詳。呪詛のことば、あるいは呪詛した品物の意か。 へ乙(竈)…[名] かまど。 へ乙(戸)…[名] 民家。戸籍。かまどをもって民の家を称することに基づくかともいう。 【立其嬢子之後】 春山之霞壮夫が嬢子の家に入るまでは省略が多く意味が取りにくいが、 「立二其孃子之後一」〔嬢子の後ろに立つ〕という文から、嬢子に見つからないようにしていたことが読み取れる。 また、弓矢を「繋二孃子之厠一」〔側に繋けた〕のは、恐らく傍らの木の枝にであろう。 厠は外にあるから、用足しに出てきたときに発見されるようにしたとする解釈も成り立つ。 そして春山之霞壮夫は物陰に隠れ、嬢子が美しい藤の花をつけた弓矢を見つけるのを待っていたのである。 宣長は、「衣袴沓〔くつ〕など、皆藤花になれゝば、身は其レに隠れて見えず、たゞ藤ノ花のみなる如く見ゆる故に」 〔全身藤の花になっているから、人であることに気付かなった〕と解釈している。 ただ、それではその美しさが目を惹き、逆に見つけられ易いように思われる。 【我御世の事のこそ神習】 「神習」は、連語「かむ-ならふ」で、「神を見習う」意味だと思われ、この文は「世の中とは神の行いを真似るものである」という一般法則を述べたものと思われる。 強調の係助詞「こそ」により、連体形で結び「わが御世のことのこそ神習へ」と訓むはずである。 【令詛言】 令は、①使役動詞(せしむ)。②普通動詞(告ぐ)。が考えられるが、他に登場人物がいないから②であろう。 詛言は「のろひごと」または「のろひ」か。 「のろひごと」は『宇治拾遺物語』10巻〔13世紀〕に見つかったが、 〈時代別上代〉の見出し語にはなく、上代にこの言い方があったかどうかは微妙である。 同辞典には「のろふ」の名詞形「のろひ」も載っていないが、 そのいずれかが「令」の目的語となっていると考えざるを得ない。 後述するようにもし詛戸(とこひど)が「呪の言葉」を意味するなら、 「詛言」も「とこひど」である可能性もあるが、それならここでも「詛戸」を用いるのが自然であろう。 【如此竹葉青】 万葉集に41例ある「如此」は、すべて「かく」と訓み、既に提示した内容、あるいは暗黙の前提を受けるものである。 しかし、ここの「如此竹葉青」などの場合はそれとは異なり、「此」は竹葉への指示連体詞で、「如二此竹葉青一」 〔この竹葉の青きごと(く)〕と訓むことになる。 【于萎病枯】 この文の区切り方は「萎病」を前置詞「于」の目的語、「枯」を動詞とする以外にはあり得ないので、「萎病に枯る」と訓むのは確実である。 「萎病」は病名または病態を示すと思われるから、「なへ-やまひ」か。 これは上代語として誤りとは思えないが、これ以外に例を見ないので、未知の訓みがあった可能性は排除できない。 《萎病》 「なふ」は、平安時代には「なゆ」になり、竹取物語の一節に 「からうして思ひ起こして弓矢を取りたてむとすれども手に力もなくなりてなえかかりたる中に」 がある。「なへ-やまひ」(なえ-やまひ)はこのような病状だろうか。 上代語には「なよたけ」「なゆたけ」という語があり、剛な竹よりももう少し柔な種類を意味すると見られる。 【葉萎】 万葉集で「萎」が使われた歌を見る。 (万)4122 恵之田毛 麻吉之波多氣毛 安佐其登尓 之保美可礼由苦 うゑしたも まきしはたけも あさごとに しぼみかれゆく。 〔植ゑし田も 蒔きし畠も 朝毎に しぼみ枯れゆく〕 この歌のように、「しぼむ」の実例はあるが、「なふ」を植物に使った例は出てこない。 しかし、類似する「しなゆ」があり、もともと植物に使う語であったようだ。例えば、 (万)0138 夏草乃 思志萎而 なつくさの おもひしなえて。 ただし、ここでは気持ちを表し、「夏草の」は枕詞である。 「なゆ」を植物に使うのは中古以後のようだが、上代でも植物が水分を失って張りをなくす様を「なふ」で表すのは、それほど違和感はないと思われる。 【令返其詛戸】 《令返》 最初の「令」と同様に、ここでも使役の助動詞とは考えにくい。万葉集で「令返」を探すと、 (万)0127 屋戸不借 令還吾曽 やどかさず かへししわれぞ。 がある。 この例では、自動詞=カヘルに対して他動詞=カヘスであることを強調するために「令」をつけたようだ。 本来は使役の助動詞である「令」の転用は興味深いテーマだが、ここでは深入りしない。 ここでは、始めの「令詛言」との対称性を確保するために、解除にも「令」をつけたようだ。 訓みも「令(つ)げる」で揃えたいが、その場合は「詛戸」を打消しの呪文と解釈することが必要になる。 次項で見るように「詛戸」を呪の装置だと解釈する場合は、例示した(万)0127と同じく他動詞の強調に留まる。 《詛戸》 〈延喜式〉には「斎戸祭」の項目があり、「詛戸」は「斎戸」の裏返しだと思われる。 〈時代別上代〉には、「斎瓮」(いはひへ)について、「忌み清めた神聖な瓮(かめ)。その中に御酒を盛り」云々とあり、 「斎戸」は基本的にその借訓であると言いつつ、「いはひへ」が神座(かみくら)と解釈される場合もあると述べる。 〈延喜式〉の「鎮御魂斎戸祭」では、酒・米とともに鰒(アワビ)、堅魚(カツオ)などが供えられ、 仮に火を通したとすればそれに用いる竈もまた、「いはひへ」と呼ばれても不思議ではないと思われる。 詛戸にもどると、これを「詛言」と同じ意味とする解釈もある。しかし、この時まで竹の葉で包んだ石と塩を入れた籠を竈に置き火を絶やさなかったから、 「戸(へ)」は「竈(へ)」の意味であって、呪詛のために組み立てた装置を「詛戸」(のろひへ・とこひへ)と呼んだのかも知れない。 そして、呪の解除に当たってはこの装置を解体することになるから、そのことを「令返」〔元に戻す〕と表現したのではないだろうか。 まとめ 今回出てきた語のうち、令、盈乾、萎病、詛戸の訓は諸資料によって大体見えてはきたが、厳密には未確定である。 さて、この話では多くの神々、そして兄も伊豆志乙女を獲得することができず、唯一弟神が獲得して妬まれる。 これは、大国主神話において最年少の大国主命一人が八上姫に気に入られたときと同じパターンである(第57回)。 山陰という共通の文化圏の中で、各地の民話には相互に影響があるということであろう。 春山之霞壮夫・秋山之下氷壮夫という命名の仕方も微笑ましい。しかし、この面白い話もまた、書紀には収められない。 大国主神話のときと同じように、記は民衆の気持ちに寄り添って面白い話を加えようとするが、書紀は本筋から離れすぎているとして取り除くのである。 |
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⇒ [159] 中つ巻(応神天皇12) |