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⇒ [150] 中つ巻(応神天皇3) |
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2017.03.17(fri) [151] 中つ巻(応神天皇4) ▼▲ |
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天皇聞看日向國諸縣君之女 名髮長比賣 其顏容麗美
將使而喚上之時 其太子大雀命見其孃子泊于難波津而 感其姿容之端正 卽誂告建內宿禰大臣 是自日向喚上之髮長比賣者 請白天皇之大御所而 令賜於吾 爾建內宿禰大臣請大命者 天皇卽以髮長比賣賜于其御子 所賜狀者天皇聞看豐明之日 於髮長比賣令握大御酒柏賜其太子 爾御歌曰 天皇(すめらみこと)、日向国(ひむかのくに)の諸県(もらかた)の君(きみ)之(の)女(むすめ)、名は髪長比売(かみながひめ)、其の顏容(かほかたち)麗美(うるは)しと聞看(きこしめ)して、 使(つかひ)を将(も)ちゐて[而]喚(め)し上げし[之]時、其の太子(みこ)大雀命(おほさざきのみこと)其の嬢子(をとめ)が[于]難波津(なにはのつ)に泊(とま)れるを見(め)して[而]、 其の姿容(すがたかたち)之(の)端正(うるはし)みに感(かな)ひて、[即ち]建内宿祢(たけのうちのすくね)の大臣(おほまへつきみ)に誂(あとら)へて告(の)りたまはく、 「是(こ)の日向自(よ)り喚上(めさ)げし[之]髪長比売者(は)、請(ねがは)くは天皇之(の)大御所(おほみところ)に白(まを)して[而]、[於]吾(あれ)に賜(たま)ひ令(し)めたまへ。」とのりたまふ。 爾(ここに)建内宿祢の大臣(おほまへつきみ)大命(おほみこと)を請(ねが)ひまつれ者(ば)、天皇即ち髪長比売を以ちて[于]其の御子に賜ひき。 所賜(たまはりし)状(さま)者(は)、天皇豊明(とよあきらのみや)にて聞こし看(め)しし[之]日、[於]髪長比売に大御酒(おほみき)の柏(かしは)を握ら令(し)まして其の太子(みこ)に賜(たま)ひき。 爾(ここに)御歌曰(みうたよみたまはく)。 伊邪古杼母 怒毘流都美邇 比流都美邇 和賀由久美知能 迦具波斯 波那多知婆那波 本都延波 登理韋賀良斯 志豆延波 比登登理賀良斯 美都具理能 那迦都延能 本都毛理 阿加良袁登賣袁 伊邪佐佐婆 余良斯那 伊邪古杼母(いざこども) 怒毘流都美邇(のびるつみに) 比流都美邇(ひるつみに) 和賀由久美知能(わがゆくみちの) 迦具波斯(かぐはし) 波那多知婆那波(はなたちばなは) 本都延波(ほつえは) 登理韋賀良斯(とりゐからし) 志豆延波(しづえは) 比登登理賀良斯(ひととりからし) 美都具理能(みつぐりの) 那迦都延能(なかつえの) 本都毛理(ほつもり) 阿加良袁登売袁(あからをとめを) 伊邪佐佐婆(いざささば) 余良斯那(よらしな) 又御歌曰 又(また)御歌(みうた)よみたまはく[曰]
きこしめす…[他]サ四 ①「聞く」の二重尊敬語。②「統治する」の尊敬語。 きこす(令聞す)…[他]サ四 「聞く」の尊敬語。 めす(見す、召す、食す)…[他]サ四 ①「見る」の尊敬語。②統治する。③呼び寄せる。④尊敬の補助動詞。 とまる(泊る)…[自]ラ四 〈時代別上代〉この語の名詞形トマリは船の泊る場所をいうのに、舟が泊る意にはハツを用いて、トマルを用いた例を見ない。 誂…[動] いどむ。〈日本語〉あつらえる(注文して作らせる)。(古訓)あつらふ。こしらふ。 あとらふ…[他]ハ下ニ 相手にすすめる。さそう。 大臣…おほまへつきみ(【大臣】)。 にぎる(握る)…[他]ラ四 にぎる。(万)4465 波自由美乎 多尓藝利母多之 はじゆみを たにぎりもたし。 かしは(柏)…[名] ①ブナ科の落葉中高木。②飲食器として用いられた木の葉。 のびる(野蒜)…[名] ヒガンバナ科ネギ亜科。食用になる。 かぐはし…[形] においがよい。 ほつもり…〈時代別上代〉未詳。難解の語。 からす(枯らす)…[他]サ四 「枯る」の他動詞。 あから…[形動] 赤みをおびて美しく輝く。〈時代別上代〉アカには赤(アカ)の意と明(アカ)の意が含まれている。それがアカラ~の複合語においては著しく赤にかたよる。 な…[助] 文末の「な」は、①活用語の終止形に接し詠嘆を表す。②動詞の終止形に接して禁止を表す。 みづたまる…[枕] 池にかかる。 依網池…推古天皇十五年〔606〕。現在の大阪市住吉区(第115回【依網池】)。 ゐ(井)…[名] 地面を縦に掘る井戸のほか、流水を堰き止めるなどして水を得る構造物も「ゐ」という。 ゐぐひ…堰に並べて打つ杙(くい)。 栻…木で作った星座表。(古訓) ゐくひ。 ゐぐひうち…ゐぐひを打つ人。 に…[助] 動詞の未然形について文末にあるとき、他者の行動の実現を希望する意を表す。 ぬなは(蓴)…[名] ジュンサイ(蓴菜)。スイレン科ジュンサイ属。 くる(絡る)…[他]ラ四 たぐる。細長いものを引いて手元に寄せる。 し…[副助] 係助詞ゾなどが後ろについて、話し手の不確実だとする判断を示す。 いや-…[接頭] いよいよ。程度が大きいことを表す。 をこ…[名] 愚かなこと。 みちのしり(道後)…[名] 都に遠いところ。 〈倭名類聚抄〉{越前【古之乃三知乃久知】}{越後【古之乃三知乃之利】} 〔越のみちのくち・みちのしり〕のように、分割した国の呼び名にもなっている。 瞻…[他]マ上一 みる。 ふゆ…〈時代別上代〉未詳。「本つるぎすゑふゆ」は難解の句で、定説を見ない。 から(幹、柄)…[名] 幹、柄。(万)2759 穂蓼古幹 採生之 實成左右二 ほたでふるから つみおほし みになるまでに。 よくす(横臼)…[名] またはよこ-うす。横に広いうす。 伎…[名] わざ。(古訓) わさ。 わざ…[名] 技芸。 ふ(生)…[名] 草木が生い茂る場所。現代語の「芝生」。また、ものを産する場所。 うまらに(美らに)…[副] うまく。快く。ウマシの語幹+ラ。 うまし(味し、可美し)…[形]ク ①味がよい。②美しい。 きこす(令聞す)…[自]サ四 尊敬語。言う。飲食する。 をす(食す)…[自]サ四 尊敬語。飲食する。着る。統治する。 まろがち…はやしことば。「麻呂〔男子の愛称、一人称代名詞〕が父」か。 【日向国諸県郡】 〈倭名類聚抄〉に{日向【比宇加】国・諸県【牟良加多】郡}〔ひうかのくに・むらかたのこほり〕。 「日向」がもともとは「ひむか」と発音されていたのは、「ひむかふ(日向かふ)」「ひむかし(東)」の語から明らかである。 平安時代には既に、ウ音便により「ひうか」となっていたことになる。 県(縣)は、濁音の「あがた」とされている。〈時代別上代〉は、神名帳の「県社」{出雲国/出雲郡/県神社}と出雲風土記の出雲郡「阿我多社」の対応から濁音と判断している。 しかし、倭名類聚抄のムラカタが「モロ-アカタ」から転じたのは明らかだから、清音の「あかた」もあったと思われる。 清音になったのは、地方語としての特性かもしれない。現代の訓み「モロカタ」も、カは清音である。 逆に、濁音の方が出雲の地方語である可能性もある。 出雲国は言語的には島となっており、東北地方の言葉との共通性が指摘されている(第54回【八地名「出雲」】)。 【天皇聞看豊明之日】 《聞看》 この部分は、「天皇聞看於豊明宮之日」の省略形と思われる。 「聞し召す」は天皇の行為全般を指す尊敬語であるが、ここでは原意の「聞く」に近く「大雀皇子の願いを聞いた」或いは 「願いを聞き入れた」ことを意味する。 このことから、書紀における天皇の「聴」の古訓は「ゆるす」であるが、 「ききたまふ」「きこしめす」と訓んでも、全く差支えはないだろうと思われる。 《豊明》 「豊明」は応神天皇段冒頭の「軽島之明宮」と同じだと思われる (第148回)。 『摂津国風土記』逸文の「軽嶋豊阿伎羅宮」から、「明宮」は「とよあきらのみや」であろうと思われるが、 記紀ともに訓注がなく、記には「明宮」「豊明」という表記の揺れがあることから、抵抗なしにこの語を使ったことが分かる。当時の人々に、この宮の存在がよく知られていたからだろうと思われる。 大雀皇子は、自分が髪長姫を娶る許可を得るために、都まで武内宿祢を派遣している。 だから、豊明宮は難波津から離れていて、馬を走らせて宮に向かう武内宿祢の姿が目に浮かぶ。 記における豊明宮は、やはり軽にあったのだろう。 【賜・所賜・被賜】
受け身は尊敬に転ずるので、上位が主語のまま「たまふ」の尊敬の程度を深めた「たまはる」もある。 この場合も下位の立場に立てば「たまはる」から、尊敬と受け身の両面をもつ語とも言える。 この成り立ちから考えて、「賜」に受け身の助動詞「被」を加えた「被賜」も「たまはる」と訓むはずである。 ただ視覚言語として見ると「被」の字は取り立てて受け身を強調する効果があり、「有り難くも賜った」という、感謝の強調が感じられる。 一方、「賜」の連体修飾形「所賜」も受け身の意味をもち、「たまはりし」などと訓読される。 【歌の解釈】 《いざ子ども》
そこで、〈時代別上代〉で意味不明とされる「ほつもり」を「穂積り」として、橘の枝に密集する花穂だと解釈してみる。 なお、「本都毛理」の「毛」は「も甲」だが、「積もる」の「も」は甲乙が確定していない。 白い橘の花を頬の「赤い」乙女の髪に挿せば色が引き立つ。また「さす」を「占有する」に拡張せず、原意の「挿す」意味のままで済むから合理的である。 一方、書紀は「ほつもり」を「ふほこもる」〔蕾が膨らむ意味か〕に変えている。 この書紀における語句の変更が記の歌の解釈にも影響を及ぼし、「ほつもり」を真っ直ぐ「穂積り」と読む目を曇らせてしまったように思える。 なお、「三者から中を取る」発想は、前回の歌で初土(はつに)でも終土(しはに)でもなく中土(なかつに)を選んだことと共通する。 何れも、応神天皇の妃の三姉妹のうち、真ん中の子が産んだ大雀命が皇位を継いだことと関係があるかも知れない。 《水溜る》
「はへけく」についても、別項のように「はへけ」は形容詞「はへし」〔一帯に這っている〕の未然形と見られ、 ク語法によって名詞となっている。これも「知らに」の目的語である。 この歌は横取りされたことへの非難と悔しさに満ちているが、基本的には親愛の情を表す戯言であろう。 依網池は、崇神天皇段で触れた(第115回《依網池》)。 依網池は推古天皇紀15年〔606〕とされるから、元の歌はそれ以後に詠まれたものであろう。 もしかすると池の一部を仕切って私物化される事件があり、非難して詠んだ歌かも知れない。 なお、「川俣江の菱殻の」は歌枕として、歌を雅にするために挿入したものかも知れない。 《雷の如》
「道の後」と表すのは、日向国が遠隔の地だからである。 この歌を前後関係なしに読めば、「女神のように美しい乙女が日向国にいると噂に聞いたが…」という歌である。 実際にこの解釈も見る。 しかしこの歌の前後を考慮すると、「応神天皇の怒りの雷鳴が遠くに聞こえるが、構わずに乙女を抱いてやれ」と読める。 神が起こす恐ろしい自然現象である「雷」も、また「かみ」という。 書紀に「独対二髪長媛一歌」、即ち天皇と別れた後に詠ったとあることも、 この解釈を裏付ける。 「古波陀(古波儾)」は諸県郡の地名だと言われるが、その比定地をうまく特定できた例は今のところ見つからない。 〈倭名類聚抄〉で「~ダ」を探すと、「飛騨」を除いて、ほぼ「田」である。「田」の訓には【多】【太】がある。 「飛騨」が【比太】であることから見て、【多】=タ、【太】=ダかも知れないが、即断はできない。 もし「コハダ」が地名ならば、もっとそれらしい字を用いるのではないかと思える。 音仮名のために「儾」のような珍しい字を使うのは、書紀の特徴である。 もし地名でないとすれば、乙女を「枕く」歌だから「コ肌」という肌かも知れないが、それにしても依然として「コ」の意味が分からない。 また、〈時代別上代〉によれば、「の」を挟まない「地名+ヲトメ」は、 伊勢をとめ・いづしをとめ・出雲をとめ・橿原をとめ・香取をとめ・泊瀬をとめ・播磨をとめが見られ、かなり一般的である。 よってコハダはやはり地名だが、書紀の時代にはすでに消滅していたから、 発音表記になったと受け止めるのが妥当かも知れない。 《争はず》
《品陀の日の御子》
フユはさらに「冬木」を導き、葉の落ちた幹(素幹)が立ち、葉をつけた低い木は風にサヤサヤと葉音を立てる光景を描く。 こう読めば言葉としては一応成り立つのであるが、太刀と冬樹との関係や、 すっかり葉を落としているのに、サヤサヤと葉音をたてるところが釈然としない。 そこで思い切って解釈を変え、元・末を空間から時間の意味に変えてみる。 すると、この歌は 「大雀命が佩刀されている太刀は、将来の幸である。 冬の木は葉が落ち、下から育つ若木が葉音を鳴らす。」と読め、 この歌のテーマが実は世代交代にあることが、一気に見えてくる。 即ち「素幹」となった老木は品陀別命(応神天皇)を、 その足元に育ち若葉をサヤサヤと鳴らす木は、大雀命を暗示しているのである。 そして「元剣末ゆき」は、太刀の魂(ふゆ)が皇子に皇位をもたらすという意味にとれる。 また、その前途洋々たる皇子こそが髪長姫を娶るのに相応しいことになり、 これによってこの段のテーマに繋がるのである。 書紀がこの歌を省いた理由は、単に難解だったに過ぎないことかも知れない。 しかし、この歌からはクーデターを誘発しかねない不穏さも読み取れるので、書紀がそれに気付いていたと考えることもできる。 《檮の生に》
ただし、この歌は吉野の国栖が醸造するときの作業歌だから、「麻呂」は歌詞としての皇子の一人称かも知れないし、親愛を込めた皇子への呼称かも知れないから、 一人称の助動詞とは確定しない。 次に、「聞し召す(きこしめす)」は「統治する」の尊敬語である。 「きこしもちをす」も「聞し召す」と同じ発想で組み立てられているが、 この歌が詠まれた時点では、なお「飲食なさる」意味が残っていたと思われる。 〈倭名類聚抄〉には「造酒司【佐希乃司】」〔さけのつかさ〕があり、飛鳥浄御原令〔689年施行〕によって設置されたものとされる。 そして、<wikipedia>造酒司の建物は、酒を醸造する甕がならんだ酒殿(さけどの)、精米をおこなう舎である臼殿(うすどの)、麹を造るための麹室(こうじむろ)の計三宇という配置であった</wikipedia>という。 このように、甕・臼・麹室が酒造りのためのセットであるから、横臼はその工程のうちの精米に用いられたと見られる。 【はへけくしらに】 《「け」を「き」の未然形と見る説》 上代の助詞「ク」は、動詞・助動詞・形容詞の未然形につき、名詞化する。 完了の助動詞「き」については、例外的に連用形に接続して「しく」となる。 しかし、それとは別に「はへけく」は完了の助動詞「き」の「上代の未然形け」+「く」だとする解釈も見る。 そこで、ひとまず「はへけく」は動詞の連用形+「けく」と見て、その類例を、万葉集から探す。 《万葉集》
次に、上代の未然形に接尾語「く」を付けた、いわゆる「ク用法」が多数ある。 形容詞の未然形は、「~く」「~しく」であるが、上代には「~け」「~しけ」という形もある。 一例を挙げると、 (万)0199 諸人 見或麻俤尓 引放 箭之繁計久 大雪乃 乱而来礼 もろひとの みまとふまでに ひきはなつ やのしげけく おほゆきの みだれてきたれ 〔諸人が見惑うまでに、引き放つ矢が密集したように、大雪よ、乱れ来い〕 がある。 これは事実上「繁し如く」の意味であるが、形式的には「繁しけく〔=繁きこと〕」という体言で停止している。 助詞「も」がついた形も多い。一例を挙げると、 (万)0904 安志家口毛 与家久母見武登 あしけくも よけくもみむと。 〔悪いことも、良いことも見るであろうと〕。 他に、たまたま「明く」の連用形が「来」と繋がった「あけくれば」があるが、これは対象外である。 以上から万葉集においてク用法によって生じた「けく」は、例外なく形容詞からの接続である。 なお、初めに述べた「き」の未然形に「け」もあったという解釈は、ごく限られた場合に過ぎないので、 ここでは「はへけく」を万葉集の延長線上にあるものとして考えたい。 《動詞と同根の形容詞が存在する例》
それを探るために、動詞がどのように形容詞に転ずるかを見る。 同根の動詞・形容詞の組と見られる例に、「しげ(繁・茂)」がある。 これは語根「しげ」から、動詞「しげる」と形容詞「しげし」が派生している。 同じ様にして「はへ」から、動詞・形容詞の組が派生したかも知れない。 なお、上代特殊仮遣いの甲乙の確認も必要であるが、 それを考慮してもなお、語根「はへ乙」〔連用形と同型〕から、動詞「はふ」と形容詞「はへし」が想定し得る。 「延へし」という形容詞がもし存在するなら、植物などが地面を這っている様子を表す語であろう (「生えし」とは異なる。その終止形は「生ゆ」である)。 ただ、動詞化には、語根に動詞語尾「る」を付ける方式と、語根自体を連用形として最後の文字を活用語尾とする方式がある。「しげる」と「はふ」はその点において相違している。 後者に該当し、なおかつ形容詞・動詞の両形を備えた語に「こひ」がある。 「こふ」は上二段ではあるが、「こふ・こひし」の組は「はふ・はへし」の組と類似している。 以上のように推論すると、かつては『はへし』なる形容詞が存在したが、 万葉集には登場せず記紀にのみ現れ、それ以後は絶滅したと判断するのが、最も合理的である。 ただ、もともとこの形容詞は存在せず、詩文における自由な表現の結果とも考えうる。 例えそうであったとしても、一定の法則内には収まると考えられ、 そのルールに沿って創造的に形容詞化されたものと言えよう。 【さしけくしらに】 「はへけくしらに」と音韻を合わせた「さしけくしらに」が、 書紀のみにある。 「さし」については、形容詞「狭(さ)し」が存在する。しかし、「狭し」はク活用だから、ク語法は 「さけく」でなければならない。シク活用も存在したと見るか、動詞サス(指す・刺す)の 名詞形サシにシをつけて形容詞化した「さしし」と見るかのどちらかである。 記では、「井杭打ち(ゐぐひうち)が刺(さ)しける」となっており、 連体形によって体言となって「知る」の目的語になる。 書紀では間に「川俣江の菱殻が」があるが、 その前の「ゐぐひつく(井杭衝く)」から繋がっていると思われ、「刺す」と同根の形容詞のク用法である可能性が濃厚である。 そのパターンは、前項と同様である。 もし、形容詞「刺しし」が存在するとすれば、杭が刺さっている様子を形容するものと思われる。 もちろん、前項「はへし」と同様に、詩文における創造的な形容詞化とも考え得る。 【書紀―応神天皇十一年~十三年】 9目次 《日向国有嬢子名髪長媛》
是の歳、有(ある)人(ひと)の奏之曰(まをさく) 「日向国(ひむかのくに)に嬢子(をとめ)有り、名は髮長媛(かみながひめ)、 即ち諸県君(もろがたのきみ)牛諸井(うしもろゐ)之(の)女(むすめ)にて[也]、是(これ)国色之秀(うるはしみくににひいづる)者(ひと)なり。」とまをす。 天皇(すめらみこと)之(こ)を悦(よろこ)びて、心の裏(うら)に覓(もと)めむと欲(ねが)ひませり。
秋九月(なかつき)の中(なかば)、髪長媛日向(ひむか)自(よ)り至りて、便(すなはち)[於]桑津邑(くはつむら)に安(やすらか)に置けり。 爰(ここに)皇子(みこ)大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)、髪長媛を見るに及びて、 其の形(すがた)之(の)美麗(うるはしみ)に感(こころかな)ひて、常に恋(こひしかる)情(こころ)有り。 於是(ここに)天皇、大鷦鷯尊の髪長媛に感(こころかなへり)と知りて[而]欲配(めあはせむとす)。 是以(こをもちて)、天皇[于]後宮(うちつみや)にて宴(うたげ)たまひし[之]日、始めて髪長媛を喚(め)して、 因以(しかるがゆゑをもちて)、[於]宴席に上げ坐(ま)して、時に大鷦鷯尊を撝(さしまね)きまして、以ちて髪長媛を指(さしまね)きまして、 乃(すなはち)歌之曰(みうたよみたまはく)。
波那多智麼那(はなたちばな) 辞豆曳羅波(しづえらは) 比等未那等利(ひとみなとり) 保菟曳波(ほつえは) 等利委餓羅辞(とりゐがらし) 瀰菟遇利能(みつぐりの) 那伽菟曳能(なかつえの) 府保語茂利(ふほごもり) 阿伽例蘆塢等咩(あかれるをとめ) 伊奘佐伽麼曳那(いざさかばえな)
報歌曰(かへしうたよみたまはく)。
伽破摩多曳能(かはまたえの) 比辞餓羅能(ひしがらの) 佐辞鶏区辞羅珥(さしけくしらに) 阿餓許居呂辞(あがこころし) 伊夜于古珥辞氐(いやうこにして)
《大意》 〔十一年〕 この年、ある人が、 「日向の国に乙女がいて、その名前は髮長媛(かみながひめ)ともうし、 諸県(もろがた)の君、牛諸井(うしもろい)の娘にございまして、これが国中に秀でた美しい人です。」と奏上しました。 天皇はこれを喜び、心の裏側で求めたいと思っていました。 十三年三月、天皇は専使を遣わし、髪長媛を召されました。 九月半ばに、髪長媛は日向から到着し、桑津邑にくつろいで滞在しました。 そして、皇子大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)が、髪長媛を見るに及び、 その姿の美しさは心に適い、いつも恋する気持ちでした。 そこで天皇は、大鷦鷯尊の髪長媛に心を奪われたことを知り、娶らせることにしました。 このようにして、天皇は後宮にて宴を催した日に、初めて髪長媛を召し出し、 宴席に上げられ、時を見て大鷦鷯尊を差し招き、さらに髪長媛を差し招き、 歌を詠まれました。 ――いざ我君(あぎ) 野に蒜摘みに 蒜摘みに 我が行く道に 香(かぐ)はし 花橘の 下枝(しづえ)等は 人皆獲り 上枝(ほつえ)は 鳥居枯(が)らし 三つ栗の 中枝(なかつえ)の ふほ籠(ごも)り あかれる乙女 いざ栄(さかば)えな ここに、大鷦鷯尊は御歌をいただいて、それにより髪長媛を賜ることができたことを知り、大喜びして 返歌を詠まれました。 ――水溜まる 依網の池に 沼縄(ぬなは)繰り 延(は)へけく知らに 堰杙(ゐぐひ)つく 川俣江の 菱殻(ひしがら)の 差すしけく知らに 吾(あ)が子居ろし いやうこして 大鷦鷯尊は、髪長媛ととうとう交わることができ、一人で懇ろに髪長媛に向かって御歌を詠まれました。 ――道の後(しり) こはだ乙女 雷(かみ)の如(ごと) 聞こえしかど 相枕枕(ま)く また、歌を詠まれました。 ――道の後 こはだ乙女 争はず 寝及(し)く惜しぞ 愛(うるはしみ)思(も)ふ 《一云》
日向(ひむか)の諸県(もらかた)の君、牛(うし)、[于]朝庭(みかど)に仕(つか)へ、年既(すで)に[之]耆耈(お)いて不能仕(えつかへまつらず)て、 仍(すなはち)仕(つか)へ致(いた)して[於]本土(もとつくに)に退(まか)りて、則(すなは)ち己(おのが)女(むすめ)髪長媛(かみながひめ)を貢(たてまつ)り上げき。 始めに播磨(はりま)に至り、時に天皇(すめらみこと)淡路嶋(あはぢのしま)に幸(いでま)して[而][之]猟(かり)遊(あそ)ばす。 於是(ここに)天皇西を[之]望みたまへば、数十(あまた)麋鹿(おほしか)、海に浮きて[之]来たりて、 便(すなは)ち[于]播磨(はりま)の鹿子(かこ)の水門(みなと)に入(い)りき。
「其(それ)何(いか)に麋鹿(おほしか)[也]、巨(おほき)海に泛(うかび)て多(さは)に来たるや。」とのたまふ。 爰(ここに)左右(もとこ)共に視(み)て[而]奇(あやし)びて、則(すはなち)使(つかひ)を遣(つか)はして察(み)令(し)めて、使(つかひ)者至見(いたりてみれば)、 皆(みな)人(ひと)にて[也]、唯(ただ)角(つの)鹿(か)の皮(かは)をを著(つ)けるを以ちて衣服(ころも)と為(せ)し耳(のみ)。 問ひたまはく[曰]「誰人也(いましやたれなる)。」ととひたまへば、
故(かれ)己(おのが)女(むすめ)髮長媛を以ちて[而]貢上(たてまつりあげむとしまつる)[矣]。」とまをしき。 天皇之(こ)を悦(よろこ)びて、即ち喚して従御船(みふめ)に従は令(し)めたまふ。 是を以(も)ちて、時の人其(そ)の著きし岸(きし)之(の)処(ところ)を号(なづ)けて鹿子(かこ)の水門(みなと)と曰(い)ふ[也]。 凡(おほよそ)水手(かこ)を鹿子(かこ)と曰(い)ふは、蓋(けだし)[于]是の時に始めて起こりき[也]。】 《唯以著角鹿皮為衣服耳》 このままだと、「唯以レ著二角・鹿皮一為二衣服一耳」 〔ただ、角と鹿の皮を着けることを以って衣服とする〕と訓むことなるが、不自然である。 本来は、「鹿角皮」とするか、あるいは「以」を鹿皮の前に移して 「著角以鹿皮為衣服」〔角を付け、鹿皮を以って衣服とす〕であるべきだと思われる。 原稿作成のどこかの段階において、筆写者が地名「角鹿」の影響を受けて誤写したということは、なかったのだろうか。 《日向諸県君牛》 麋鹿が大挙して浮かんでいたが、よく見たら諸県君の牛(人名)が鹿の皮を着て頭に角をつけた格好をしていたという、 きわめて幻想的な話である。現地の伝説を紹介したものであろう。 名前の「牛」は、本文では「牛諸井」である。「うし」は「大人(うし)〔=ぬし〕」で、「牛」は借訓であろう。 もう少し想像すると、古墳時代に大陸から牛がやってきた頃、牛は「大人」の占有物であり、その権力を象徴したことが「牛=うし」の語源なのかも知れない。 《大意》 【ある言い伝えによれば、 日向(ひゅうが)の諸県(もろかた)の君、牛(うし)は朝庭に仕えてきましたが、既に年老いて仕えることができなくなり、 出仕を終えて本国に罷り、自らの娘である髪長媛を貢上しました。 まず播磨に至り、ちょうどその時、天皇は淡路島に出でまして猟りをされていました。 そして天皇が西を御覧になると、数十の大鹿が海に浮かんでやって来て、 播磨の鹿子水門(かこのみなと)に入りました。 天皇は側近に仰りました。 「そこを見よ。大鹿が広い海に浮かんでいる。なぜこんなに多くの大鹿が来るのか。」と。 側近は共に見て怪訝に思い、使者を遣って調べさせました。使者が到着して見ると、 大鹿に見えたものは実は皆人で、ただ鹿の角をつけ、皮を衣にしただけでした。 「お前は誰か」と問われると、 「臣は諸県の君、牛と申し、年老いて出仕を終えましたが、拝朝することが忘れられず、 臣の娘、髮長媛を貢上させるところです。」と答えました。 天皇はこれを喜び、召されて媛を御船に載せ、伴わせました。 この出来事から、当時の人はその到着した岸の場所を鹿子水門(かこのみなと)と名付けました。 水手を一般に「かこ」と訓むのは、この時に始まったことです。】 【書紀―応神天皇十九年】 12目次 《国樔人来朝》
時に国樔(くにす、くず)の人来朝之(みかどにまゐりきてをろがみまつ)る。 因(しかるがゆゑに)醴酒(こさけ)を以ちて[于]天皇(すめらみこと)に献(たてまつ)りて[而] 歌之曰(うたよみまつらく)。
今国樔(くにす)、土毛(くにつもの)を献(たてまつ)りし[之]日、 歌ひ訖(を)へて即ち口を撃ちて仰ぎ咲ふ者(は)、蓋(けだし)上古(いにしへ)之(の)遺(のこ)りたる則(のり)なり[也]。 夫(それ)国樔者(は)、其の為人(ひととなり)甚(いと)淳朴(すなほ)にて[也]、 毎(つね)に山の菓(このみ)を捕りて食(くら)ひ、亦(また)蝦蟆(かへる)を煮(に)て上味(うましもの)と為(し)て、名を毛瀰(もみ)と曰(い)ふ。
峯(みね)嶮(さが)しく谷深くして、道路(みち)狭巘(せまくたかし)。 故(かれ)[雖][於]京(みやこ)に不遠(とほからざ)れど、本(もとより)朝来(みかどにまゐりきてをろがみまつること)希(まれ)なり。 然(しかれども)此れ自(より)[之]後(のち)は、屢(しばしば)参(まゐ)り赴(おもぶ)きて、以ちて土毛(くにつもの)を献(たてま)つる。 其の土毛者(は)、栗(くり)菌(たけ)[及]と年魚(あゆ)との[之]類(たぐひ)なり[焉]。 《吉野宮》 応神朝の「吉野宮」はこれを遡らせた伝説上のものであるが、この地に古くから集落が存在していたのも確かである。 《国栖》 国栖(くにす、くず)は、神武天皇が吉野に幸(いでま)したとき、岩を押し分けて登場した石押分之子の子孫とされる(第98回【井氷鹿・石押分之子】)。 ここでは土着の一族として、その風俗が紹介されている。この一族は後に、大嘗祭に「国栖奏」を奏上する。 「国樔村」(くずむら)は明治22年〔1889〕に14村が合併して発足した村で、復古地名と見られる。現在は吉野町の一部。 その一帯は磐余・軽・纏向あたりから見て南東方向で、そんなに遠くない山地だから、ここの説明と合う。 地理的に見て、国栖の一行は紀ノ川を下って吉野宮に来朝したことになる。 《大意》 十九年十月一日、吉野宮にいらっしゃいました。 その時、国栖(くにす)の人が来朝しました。 そして醴酒(こさけ)を天皇(すめらみこと)に献上して、 歌詠みしました。 ――檮(かし)の生(ふ)に 横臼(よくす)を作り 横臼に 醸(か)める大御酒 美(うま)らに 聞こし以ち食(を)せ 磨呂が父(ち) このように歌い終えるとすぐに、口を打って上を向いて笑いました。 今、国栖が国の産物をを献上しに訪れた日に、 歌い終えてすぐ口を打ち、上を向いて笑うのは、おそらく上古から遺る作法です。 国栖という一族は、その人となりは大変素直で、 常に山の木の実を取って食べ、また蛙を煮て味わいよくして、その名を「もみ」といいます。 その土地は、都から東南方向の、山を隔てた吉野川の川上に居て、 山険しく谷深く、道は狭く山を上り下りします。 よって、都からそれほど遠くないとはいえ、元々は来朝は希でした。 しかし、この来朝から後はしばしば来朝し、産物を献上します。 その産物は、栗、茸や鮎の類です。 まとめ 応神天皇が日向国から召した妃の一人に、日向之泉長日売がいる。 髪長日売との関係は分からないが、もともと日向国から妃を迎えたのは同一の伝説であって、 それが応神天皇と仁徳天皇の、両方に取り入れられたようにも思われる。 さて、品陀別天皇が召し上げた髪長媛を、結果的に大雀命が横取りした。 史実として両者に政治的な確執が存在し、それが妃の取り合いの話に投影された気配が感じられる。 後の話に、品陀別天皇は宇遅能和紀郎子に天下を譲ったが、 天皇の死後は皇太子が辞退して大雀皇子に即位を勧め、なかなか次期天皇が決まらなかったとされる。 実際には皇位を禅譲された宇遅能和紀郎子から、大雀皇子がクーデターによって権力を奪取したのではないだろうか。 大雀皇子が髪長媛を頂く許可を得るときに、離れた都まで武内宿祢を走らせる場面がある。 ここにも品陀天皇と間の心理距離が、物理距離に反映しているように思える。 さて、この段には六首の歌が含まれているが、これまでになく難解な語句が多く、その解明のために万葉集全歌を検索するなど、かなり深入りすることになった。 その結果、特に「品陀の日の御子」の歌には、大雀皇子に皇位奪取を目指す強い意志があることが明らかになった。 これもまた、大雀皇子によるクーデター説を裏付けるものである。 このように歌を厳密に検討することによって、秘められた真相が浮かび上がってくることもあるのだから、歌謡は決しておろそかにできない。 また、書紀が放棄した歌謡は要注意であることが、ここでも示される。 |
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2017.03.27(mon) [152] 中つ巻(応神天皇5) ▼▲ |
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此之御世 定賜海部山部山守部伊勢部也
亦作劒池 亦新羅人參渡來 是以建內宿禰命引率爲渡之堤池而 作百濟池 亦百濟國主照古王 以牡馬壹疋牝馬壹疋付阿知吉師以貢上 【此阿知吉師者阿直史等之祖】 此之(この)御世(みよ) 海部(あま)山部(やまべ)山守部(やまもりべ)伊勢部(いせべ)を定め賜はる[也]。 亦(また)剣池(つるぎいけ)を作る。 亦新羅(しらき)の人参渡来(まゐわたりく)。 是(こ)を以ちて建内宿祢命(たけのうちすくねのみこと)引き率(ゐ)て渡之堤(わたせしつつみ)をもちて池と為(し)て[而]、百済池(くたらいけ)を作る。 亦百済(くだら)の国主(こくしゆ)照古王(せうかわう)、牡馬(をま)壱疋(ひとつ)牝馬(めま)壱疋(ひとつ)を以ちて阿知吉師(あちきし)に付(そ)へて以ちて貢上(たてまつりあぐ)。 【此の阿知吉師者(は)阿直史(あちのふみひと)等(ら)之(の)祖(おや)なり】。 亦貢上横刀及大鏡 又科賜百濟國 若有賢人者貢上 故受命以貢上人名和邇吉師 卽論語十卷千字文一卷幷十一卷付是人卽貢進 【此和邇吉師者文首等祖】 又貢上手人韓鍛名卓素亦吳服西素二人也 亦横刀(たち)及(と)大鏡(おほかがみ)とを貢り上ぐ。 又百済の国に科(おほ)せ賜(たまは)く「若し賢(さかし)人有ら者(ば)貢り上げたまへ。」とおほせたまふ。 故(かれ)命(おほせこと)を受けまつり、以ちて人、名は和邇吉師(わにきし)を貢り上げて、 即ち論語(ろむご)十巻(とをまき)千字文(せむじもむ)一巻(ひとまき)并(あは)せて十一巻(とをあまりひとまき)是の人に付けて、即ち貢り進む。 【此の和邇吉師者(は)文(ふみひと)の首(おびと)等(ら)の祖(おや)】。 又手人(てひと)、韓(から)の鍛(かぬち)、名は卓素(たくそ)、亦(また)呉服(くれはとり)、なは西素(さいそ)、二人(ふたり)を貢り上ぐ[也]。 又秦造之祖漢直之祖及知釀酒人 名仁番亦名須須許理等 參渡來也 故是須須許理 釀大御酒以獻 於是天皇 宇羅宜是所獻之大御酒而【宇羅下三字以音】 御歌曰 又秦造(はたのみやつこ)之(の)祖(おや)、漢直(あやのあたひ)之(の)祖(おや)、及(また)醸(かむ)を知れる酒人(さかびと)名は仁番(にほ)亦の名は須須許理(すすこり)等(ら)、参(まゐ)渡り来(く)[也]。 故(かれ)是の須須許理、大御酒(おほみけ)を醸(か)みて以ちて献(たてまつ)りき。 於是(ここに)天皇(すめらみこと)、是の所献(たてまつりし)[之]大御酒(おほみけ)を宇羅宜(うらげ)て[而]【「宇羅宜」の三字(みじ)音(こゑ)を以ちゐる】 御歌曰(みうたよみたまはく)
須須許理賀 迦美斯美岐邇 和禮惠比邇祁理 許登那具志 惠具志爾 和禮惠比邇祁理
宣長の引用文では「渡」が「役」、「而」が「者」となっていて、 「引率為レ役二之堤池一者 【ヒキヰテツゝミイケニエダゝセゾ】」と訓む。そして、 「為レ役之は、延陀多世弖(エダタセテ)と訓べし、延陀知(エダチ)は役立(エダチ)なり、 延(エ)は充(アテ)の約(ツゞマ)りたる言か、〔中略〕処々の堤を築き、池を掘らせなどせらるるなり」という解釈を示している。 宣長の引用本と真福寺本との字の相違については、何も触れていない。 《為役之堤池》 現在一般には、宣長説から「役」を取り入れて「引率為役之堤池而」とされる。「役」は「労役」を意味する。 しかし、「役之堤池」は、全く不可解な構文である。まず、"之"が「の」を表すとした場合、「役の堤と池」は意味をなさない。 「役」を動詞とした場合も、目的語「堤池」の前に"之"を挟むことは絶対にない。 「役」がもし正しいとすれば、考えられる唯一の可能性は「"堤池之役"の誤写」である。 《真福寺本》 そこで、もし「渡之」が「堤」を連体修飾するとすれば、 「渡せし堤をもって池となす」〔=川に堤を渡して堰き止め、ダム池にする〕となり、実に合理的に読むことができる (左図)。 実際に、「池を作る」が堤を築く工事である例は、 磐余池(第99回)・依網池(第115回)・益田池(第134回) があり、それらは発掘調査によって実証されている。 そして、接続詞「而」により、「為渡之堤池」は百済池を作る工事の方法を示す文となる。 このように、発掘調査などを経た現在の到達点から見れば、真福寺本の「渡」の方が適切であるのは明らかである。 【百済池】 まず「百済寺」が奈良県北葛城郡広陵町にあり、そこに大字百済という地名が残る。従来は、ここが舒明天皇紀にいう「百済大寺」跡だと言われていた。
舒明天皇紀11年〔639〕に「造二-作大宮及大寺一。則以二百済川側一為宮処一」とあるのが百済大寺で、 さらに同年12月に「於百済川側建二九重塔一」とある。 後に672年に高市郡に移転し677年に大官大寺に改称、そして716年に平城京に移転して大安寺になった。 《百済川》 現在の百済川はここではなく、広陵町を流れる曽我川の別名である。 吉備池廃寺が百済大寺だとすると、現在の「米川」が百済川と呼ばれていたのではないかと言われる。 一方大阪府にも百済川があるが、摂津国百済郡の地名に伴うもので、この「百済郡」は670年に善光王が「百済国王(くたらのこきし)氏」を難波で創始したことによる (第141回)。 応神天皇段の「百済」は、当然欽明天皇の宮処の方である。 さて、「百済池を新羅人が作った」というのは話がねじれているが、百済・新羅がかなり同一視されていたか、 地名としての「百済」が定着していたかのどちらかである。 百済大寺が吉備池廃寺だとすれば、当時の百済は磐余池とかなり近いことになるので、百済池は磐余池の別名である可能性もあり得る。 記紀には飛鳥時代のできごとと同じことが、上代にダブって入っている例は珍しくない。 《渡来人》 九重塔の建造にあたっては、当然中国や新羅・百済の技術者、職人の助力を得たものと考えられる。 彼らは一定期間百済大寺の周囲に居住していたはずであり、それが地名になったことはあり得る。 磐余池にも渡来した技術者の関わりが考えられ、その別名が「百済池」であったことへの一定の根拠になり得る。 《韓人池》
【百済大寺】 吉備池廃寺が百済大寺と見做すことができるポイントは、塔の基壇の大きさが九重の塔に見合うことと、 遺跡の年代が欽明朝と合致することである。 『吉備池廃寺発掘調査報告』の中からそれを端的に述べた部分を、抜粋して示す。 天武天皇紀2年〔673〕12月「拝造高市大寺司【今大官大寺】」即ちこの時までに高市郡に移転しているので、 ①で基壇に7世紀前半の土器、塔の心柱を抜き取った跡から7世紀後半の土器が出土したことは、書紀に書かれた建造・移転の時期と噛み合う。 元薬師寺の東塔は、西ノ京の薬師寺とほぼ同じ規模であったとされる。そして法隆寺五重塔と比べても、 ②の吉備池廃寺の基壇跡のサイズは九重塔に見合うものである。 【貢上牡馬一疋牝馬一疋付阿知吉師】 《百済王貢良馬二匹》 ・近肖古王 二十三年〔戊辰;368〕「春三月丁巳朔 日有二食之一。遣二-使新羅一送二良馬二匹一。」 ・毗有王 八年〔甲戌;434〕「春二月 遣二-使新羅一送二良馬二匹一。」 一方、倭に対しては馬の献上はないが、この時期に相互遣使がある (神功皇后[09-06]【三国史記-百済本紀】)。 ・腆攴王 五年〔己酉;409〕「倭國遣使 送夜明珠 王優禮待之」 ・腆攴王 十四年〔戊午;418〕「夏 遣使倭國 送白綿十匹」 良馬一対の献上は国家の友好の表現で、20世紀中国のパンダ外交のようなものなので、 基本的には記録されるべき性格のものであろう。 だが、倭に対する献上の記事はない。 《阿知吉師》 書紀では二十年〔己未;419〕九月条に、 「倭漢直祖阿知使主其子都加使主、並率二己之黨類十七縣一而來歸焉。」 〔倭漢直の祖、阿知使主とその子都加使主は、並べて己の党類十七県を率いて来帰した〕とある。 そこでは同時に、中国古典に精通した人物として描かれている。 《馬の輸入》 記紀に、百済が倭に「貢二馬二匹一」とあるのは、 実際には創作の可能性がある。 しかし、だからと言って馬が来なかったわけではない。 神功皇后段に「新羅国者定二御馬甘一百済国者定二渡屯家一」とある (第141回)。 百済ではなく新羅を御馬飼とするところは辻褄が合わないが、新羅・百済を混同したか、あるいは新羅からも馬の輸入があったのかも知れない。 書紀には「厩坂」の地名譚まで話が発展しているから、 馬の輸入自体は現実だと考えられる。 記紀はその端緒として、「百済が新羅に良馬二匹を送った」という記述を利用して、象徴的に表現したように思われる。 【和邇吉師】 書紀では「王仁」が、応神天皇十六年〔乙巳〕に到来した。乙巳年は、神功皇后晩年以後は事実上405年に相当する (神功皇后紀5【時系列の複合】)。 『三国史記』―百済本紀には、その前の近肖古王三十年〔乙亥;375〕に、中国から漢字がもたらされた記事がある。
この話は、倭に和邇が来た話の相似形である。中国の周辺国が漢字を受け入れたことにまつわり、 同じ発想の伝説が生まれたところが興味深い。 《論語十巻》 『論語』は、孔子と初期の弟子の言葉をまとめた書で、全二十巻からなる。 前十巻を「上論」、後十巻を「下論」と呼ぶこともあるというから、 記の「論語十巻」が孔子の『論語』そのものを指すのは間違いないだろう。 《千字文》 千字文は、<wikipedia>南朝・梁〔502-549〕の武帝が、文章家として有名な文官の周興嗣〔470–521〕に文章を作らせたもの</wikipedia>という。 4文字を一組とし、250組からなる詩であり、書の手本や教育に使われたという。 書紀で王仁が訪れたとされる405年よりも、100年以上後の書である。 『千字文』の伝来自体は事実だが、王仁の名は象徴として用いられたことになる。 《実際の漢字の流入》 「辛亥年七月〔定説は471年〕」と刻まれた金錯銘鉄剣が存在する。 また『宋書』によれば、425年以降倭使が文書を持って訪れ、高度な漢文による上奏文が残っている。 さすがに一般国民のレベルへの普及は僅かであろうが、5世紀の時点で地方豪族の首長レベルが漢字を使いこなす官僚を抱えていたのは間違いない。 魏志倭人伝では、地方監察のために畿内政権から派遣された役人を「大倭」と表記する。 これは「おほやまと」を倭人自身が「大倭」と書き表したものを、中国人が記録したものと考察した (魏志倭人伝をそのまま読む(56))。 また、2世紀前半の田和山遺跡(島根県松江市)に楽浪郡のすずりが見つかっていたというから、 当時から字を書く文化が少なくとも一部には存在した (魏志倭人伝をそのまま読む(12))。 史部は、その祖が文献をもって来日し、それまでは我が国に字は皆無であったと伝えるのは、 祖を偉大化するために当然であろう。 だが、実際には中国との交流が存在すれば、その初期から連続的に漢字の流入あり、 多数の若者の中には容易に漢字を使いこなす才能をもった者が現れ、 官僚に抜擢されたのはむしろ当然である。 とは言えそれでは足らず、書記の仕事を担う人材として渡来人を求めたであろうし、 字を学ぶための漢籍の輸入も隋書の頃から積極的に行われたと思われる。 その起点の象徴として、王仁の伝説があるわけである。 《和邇氏との関わり》 大和国添上郡和邇を本貫とする「和邇氏」と「和邇吉師」との関係は気になる。 和邇氏は山城国に移り、後継諸族が広く展開する (第105回【和邇(和珥)氏】) また、崇神朝に日子国夫玖命軍に敗北して、残存勢力が各地に散った可能性も見た (第114回【和邇氏後継諸氏の展開との相似】)。 雄略朝には、和珥氏の支族、春日和珥臣深目が登場する。 和邇氏は実際には崇神朝より新しい時代の渡来族であり、そこからいくつかの史部を生み出したことが、 和邇吉師の名に反映したという考え方もできなくはない。 しかし、和邇の地は渡来民の居住地である葛上郡・高市郡とは離れ、 和邇氏と史部との結びつきも全く見えてこないので、ひとまず無関係としておく。 【貢上横刀及大鏡】 これは百済からの献上品であるから、七支刀・七子鏡に対応する記述だと思われる (神功皇后紀6)。 書紀では神功皇后記にもっていったのは、 銘文の日付「太和四年」を己巳年〔369〕と見做したためかも知れない。 【呉服】 応神三十九年条〔戊辰;428〕は、記に書かれた「呉服西素」を深堀りしている。 その中では、呉王が四人の呉(くれ)の工女(はとりめ)を与えたことになっている。 三国時代の呉(ご)は222年成立、280年滅亡。呉は長江より南だったので、高句麗経由では相当の遠距離である。 また、二回り前の戊辰年でも308年で、全く時空を超越した旅となる。 したがって書紀の「呉王」は架空の存在で、呉は漠然と中国方面を指す語となる。 とは言え、呉の時代に伝来した織物の技法が存在したわけである。 江戸時代には、「呉服(ごふく)」は絹織物全般を指し、現代ではさらに和服全体を意味する言葉になっている。 【秦造之祖・漢直之祖・及知醸酒人】 書紀との対応は、秦造(はたのみやつこ)を弓月君、漢直(あやのあたひ)が倭漢直の祖の阿知使主とする。 秦造・漢直・知醸酒人の詳細は、別項で述べる。 《秦造之祖・漢直之祖》 書紀十四年条において、弓月王は各地の人民を伴って来帰しようとするが、新羅の妨害により加羅で足止めされている。 新撰姓氏録でも、秦氏は大挙して帰化した。 雄略天皇が実在したことは、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣によって確定している。 雄略朝のときに秦氏の再編が行われて、朝廷で重要な位置を占めるようになったことも、概ね史実であろうと思われる。 倭漢直については、秦氏ほどの規模ではないがやはり一族で帰化し、いくつかの諸蕃に分かれて存続したと思われる。 記では、秦造之祖・漢直之祖、そして知醸酒人まで、須須許理一人に集約されているように読める。 もし別の人物ならば、それぞれに名前を書くのではないだろうか。 到来した氏族は多種であったはずだが、皆葛城郡・高市郡に住んでいた〔或いは住まわされていた?〕ので、記はこれらを外来の一族として一括りしたように感じられる。 書紀スタッフが立ち入って調べた結果、秦忌寸と漢直がそれぞれ別の祖先を祀る異質の族だと判明したのではないだろうか。 《知醸酒人》 その一方で、書紀が全く触れていないのが「知醸酒人」である。 書紀の調査では、高市郡・葛城郡の渡来人に、酒造の須須許理の一族は見つからなかったのかも知れない。 それでは、記は何を材料にして「知醸酒人」を導いたのだろうか。 可能性としては、雄略天皇紀に登場する秦造の"酒"公(後述)が関係あるかも知れない。 自由に想像すると、酒公が雄略天皇に仕えたとき、一族が醸した美酒によって接待し、 天皇がそれを大変気に入ったことから「酒公」と呼ばれるようになったという筋書きも考えられる。 少なくとも応神天皇段では、天皇は須須許理が醸した酒を、大変喜んでいる。 しかし、そんなに面白い話があれば必ず書紀に載るのではないかと思われるので、依然として謎である。 【秦氏】 《新撰姓氏録》 山城国秦忌寸の項を見ると、その一族は全体で18,670人に達する大勢力であった。 また、秦氏発祥と見られる姓氏は、28氏に上る。 それぞれの氏に書かれる祖を組み合わせるとと、概ね右のような系図が見えてくる。 しかし、弓月王は始皇帝の四世の孫とされるが、始皇帝が在位した期間は前246~前221年だから、 始皇帝の子から弓月王までの四代を600年以上に引き延ばしており、「始皇帝の四世孫」は完全に神話である。 秦氏の酒公には一族を束ねる中心として、特に「太秦公宿祢」(うつまさのきみのすくね)の号を賜った。 それまでの経過については、山城を本貫とする秦忌寸と、左京を本貫とする太秦公宿祢のところで述べられている。 内容は前者の方が詳しいが、文意は後者の方が明瞭である。ただ、後者の系図は正確に読み取れない。 次に両者の原文を掲げ、それぞれを読み下す。
【書紀-雄略十五年】 雄略天皇紀十五年条に、姓氏録に対応する記事がある。 雄略天皇31目次 《秦民分散臣連等》
由是(このゆゑに)秦造(はたのみやつこ)酒(さけ)、甚(いと)憂(うれへゆ)と以為(おも)ひて[而][於]天皇に仕へまつる。 天皇之(これ)を愛寵(うつくしみ)したまひて、詔(みことのり)して秦の民を聚(あつ)めたまひて、[於]秦の酒の公(きみ)に公(きみ)を賜る。 仍(すなはち)百八十(ももちあまりやそち)の種(くさぐさ)に勝(まさる)ひとを領率(ひきゐ)て、奉献(たてまつ)りし庸調(みつき)の絹縑(きぬかとり)、朝庭(みかど)に充ち積もりて、因(しかるがゆゑに)姓(かばね)を賜(たまは)りて禹豆麻佐(うつまさ)と曰ふ。 【一云(あるいはく)「禹豆母利麻佐(うつもりまさ)」といひて、皆(ことごとく)盈(み)ち積もりし[之]貌(かたち)なり[也]。】 《大意》 十五年、秦(はた)の民は、臣や連に分散し、それぞれが勝手に使い走りさせ、秦造(はたのみやつこ)に委ねませんでした。 そこで、秦造の酒(さけ)は、これを大変憂うべきことと思い、天皇にお仕えしました。 天皇は秦造を寵愛し、詔を発して秦の民を集め、秦の酒の公(きみ)に公(きみ)を賜りました。 そして、数多くの部をまとめて率い、献上した貢物の絹縑(きぬかとり)を朝庭に積み上げ、よって「うつまさ」という姓を賜りました。 【この言葉は「うつもりまさ」ということで、全部を積み上げた様子を表します。】 《秦造》 酒は天皇に真摯に仕えることにより覚えめでたく、 遂に天皇の詔を得ることに成功した。前項で「再編成を行うためには、かなりの政治力を要する」と考えたことが、ここに現れている。 実際の作業は、専使を派遣して一人ひとり登録して地域ごとに集合させ、その長を定めて来朝させるなどの、地道な作業が続いたと想像される。 《松尾大社》 松尾大社は、秦忌寸都理(とり)が大宝元年〔701〕に磐座から祭神を移して創始したという (第70回【松尾大社】)。 〈延喜式〉に{山城国/葛野郡/松尾神社二坐【並名神大/月次/相甞新甞】}、 祭神の大山咋神は、上賀茂神社の祭神賀茂別雷大神とも同一神とされ、ここに秦氏との接点がある。 《随書》 隋書〔656年成立〕巻八十一「列伝四十六東夷」に、「秦王国」が見える。 遣隋使の二回目の派遣(大業三年)の翌年〔608〕、裴世清を帰使として派遣したところである。いわく、 「經都斯麻國 乃在大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲 疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」 〔都斯麻(対馬)国を経て 乃(すなはち)大海中に在り。又東に一支(壱岐)国に至り、又竹斯(筑紫)国に至り、又東に秦王国に至る。其の人華夏※1に同じくして 、 夷洲※2と以為(おも)へど疑はれ明らかにすること能(あた)はず。 又十余国を経て海岸〔難波津〕に達す。 竹斯国自(よ)り以東、皆倭に附庸〔中国以外の国に従うこと〕す。〕 つまり、筑紫国の東に「秦王国」があり、その人は中国出身であると自称し、夷洲の出身かもないが、確かなことは分からないという。※3 倭名類聚抄の波多(後述)から強いて選ぶとすれば出雲国飯石郡となるが、何とも言えない。 しかし隋から来た使者がわざわざ特記するからには、秦の末裔を自称する一族が、実際にどこかには住んでいたのである。 ※1…中国人が、自らの国を誇って言う呼び名。 ※2…三国志に出てくる地名。〈維基百科〉有不少学者拠古文献臨海水土志指其為台湾、但也有人猜想是指今天的日本、琉球群島甚至南洋島嶼。 〔少なからぬ学者は古文献『臨海水土志』によりそれを指して台湾とする。但しある人はこれを疑い、今日の日本、琉球群島、甚だしくは南洋諸島に至るを指す〕〈/維基百科〉 ※3…一般には「其人同於華夏以為夷洲疑不能明也」は、「倭人には華夏のような高級な文化があり、なぜ夷洲(野蛮な国)と思われているのか分からない」と読まれている。 しかし、普通に読めば「其人」は「秦王国之人」で、ここに倭人を主語とする一節が挿入されているとは考えにくい。 《「波多」との関係》 記によれば、建内宿祢の子に波多八代宿祢がいて、波多臣の祖となる (第108回波多八代宿祢)。 これらの「波多」族の本貫は高市郡波多郷と見るのが順当である。 この地は、弓月王が帰化して、最初に定住した掖上とほど近いので、 秦氏と同一、または関係が深いのではないかと思わせる。 また、波多国造の名「天韓襲命」に"韓"の字があること、松尾大社の大山咋神が記大国主の段に、 韓神・曽富理神と並べて置かれること、 また、葛城郡には襲津彦の南郷遺跡群も近いこと。 これらのことから、初期においては秦氏は一連の渡来民の一族として、同じ地域にいたのかも知れない。 【漢直】 直(あたひ)は、県主(あがたぬし)、忌置(いみき)と同様に地方行政官の名称だったものが、姓となったと考えられている。 続日本紀の宝亀四年〔773〕に、「費」と「直」に訂正してほしいという申し出をした者が、 庚午年籍〔670〕では費だからという理由で断られた事例がある (資料[18]【続日本紀】)。 よって奈良時代末には、先祖の権威を示すには「直」でなくてはならず、費では納得できなかったことが分かる。 書紀では、阿知使主を倭漢直の祖とする。この「倭」は大和国を指す。 〈姓氏家系大辞典〉は、 「始め漢武帝の朝鮮国を滅ぼして其の地に四郡を置く※1や、漢人の其の地に移住する者尠〔すくな〕からざりき。 其の後高句麗、百済等、勃興して此等の地を併〔あは〕すや、降りて此等の国に仕ふるものもありしが、更に東遷して我が国に帰化したるもの前後頗〔すこぶ〕る多し。これが我が国の漢氏にして」、 そのうち「楽浪の王氏は河内」「帯方の漢氏は大和を根拠」とし、前者を西漢人、後者を東漢人と記し、 「古訓前者はこれをカフチノアヤ、後者はヤマトノアヤと註せり」と述べる。 したがって、倭漢は漢族のうち大和国に定住した一族で、「やまとのあや」と訓む。 漢をあやと訓むのは、彼らが持ち込んだ綾織(あやおり)に因るものか。 万葉集に詠まれた (万)1273 馬乗衣 雜豆臈 漢女乎座而 縫衣叙 うまのりごろも さひづらふ※2 あやめをすゑて ぬへるころもぞ を見ると、「綾織女」は「漢の工女」を兼ねており、「綾」と「漢」は意識の中で一体であったことが分かる。 しかし〈新撰姓氏録〉には、直接「漢」「倭漢」「東漢」を名乗る氏は見られない。 漢出身で大和国を本貫とする氏としては、真神宿祢・豊岡連・桑原直などが見られる。 漢直については、秦造のように統合する動きがなく自然の分散に任せたので、氏の名称がバラバラになったのかも知れない。 ※1…前漢の武帝は衛氏朝鮮を滅ぼし、前108年に楽浪郡・真番郡・臨屯郡、前107年に玄菟郡を設置した。 205年、楽浪郡の南部を分離して、帯方郡とした。 ※2…「さひづらふ」は、「漢」への枕詞。外国語が鳥のさえずりのように聞こえるところから。 【知醸酒人】 須須許理は、「曽々保利」と同一であろう。「造酒之才」も「知醸酒人」と同じ意味である。 この「知醸酒人」を、宣長は「知レ醸レ酒人」〔酒を醸むを知る人〕と訓む。 しかし「酒人(さかびと)」という語が厳然として存在するので、それに「知醸」〔かむことをしる〕をつけて「外来の醸造法という新風を吹き込んだ」"酒人"と訓むべきであろう。 【大坂】 崇神天皇段に、宇陀墨坂神に赤色楯矛を祭り、大坂神に黒色楯矛を祭ったとする記事がある。 そのうち大坂神社は、式内社「大坂山口神社」(奈良県香芝市)とされている (第111回【宇陀墨坂・大坂】)。 「大坂山口神社」(香芝市穴虫1499-1、西にある方)と、「大坂山口神社」(奈良県香芝市逢坂5丁目)のそれぞれが、式内社であると自認している。 大和国と河内国を繋ぐ道には、二上山の南の竹内峠を越える竹内道と、北の穴虫峠を超える大阪道があった。 神武天皇即位前紀の、壬申の乱のところで「大坂」の地名が出てくる。 【書紀―五年】 4目次 《定海人及山守部》
冬十月(かむなつき)、伊豆国に科(おほ)せて船を造ら令む。長さ十丈(とをたけ)。 船既に[之]成りて、[于]海に浮け試(み)れば、便(すなは)ち軽く泛(う)きて疾(と)く行くは馳(は)せる如(ごと)し。 故(かれ)其の船を名(なづ)けて枯野(からの)と曰(い)ふ。 【船軽くて疾(と)きに由(よ)りて「枯野」と名(なづ)くは、是(これ)義(よし)に違(たが)へり[焉]。若しや軽野(かるの)と謂ひて、後(のち)の人訛(よこなま)れるか[歟]。】 《天皇幸近江国》
《枯野》 枯野という船の話は、三十一年条に続く。 《大意》 五年八月十三日、諸国に命じて、海人(あま)及び山守部(やまもりべ)とを定めさせました。 十月、伊豆の国に課して、造船を造らせました。長さ十丈〔30m〕でした。 船が完成し、海に浮かべてみると、軽く浮き速く行き陸地を走るようでした。 そこで、その船を枯野(からの)と名付けました。 【船が身軽に疾走することによって「枯野」と名付けるのは、理屈に合わない。もしかすると、軽野(かるの)と言ったのを、後の人が訛ったか。】 六年二月、 天皇は近江国にお出かけになり、菟道(うじ)の野の上に到着し、御歌を詠まれました。 ――千葉の葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ 【書紀―七年】 6目次 《諸韓人等作池》
時に武内宿祢(たけのうちのすくね)に命(おほ)せて、諸(もろもろ)の韓人(からひと)等(ら)を領(をさ)め池を作らしめて、因以(しかるがゆゑをもちて)、池を名(なづ)け韓人池(からひといけ)と号(なづ)く。 《大意》 七年九月、高麗人、百済人、任那人、新羅人、押しなべて来朝しました。 そして、武内宿祢(たけのうちのすくね)に命じて、韓人たち皆を率いて池を作らせました。よって、池は韓人池(からひといけ)と名付けられました。 【書紀―十一年十月】 8目次 《作剣池》
《大意》 十一年十月、剣池、軽池、鹿垣池、厩坂池を作りました。 【書紀―十四年~十六年二月】 10目次 《百済王貢縫衣工女》
是(これ)今の来目衣縫(くめのきぬぬひ)之(の)始祖(はじめのおや)なり[也]。 是の歳、弓月君(ゆづきのきみ)百済自(よ)り来帰(らいくゐしまつり、まゐき)て、因以(しかるがゆゑをもちて)奏[之曰](まをさく) 「臣(やつかれ)、己(おのが)国之(の)人夫(つかひひと)百二十県(ももちあまりはたちのこほり)を領(をさ)めて[而]帰化(きかしまつる、まゐく)。 然(しかれども)新羅(しらき)の人之(の)拒(こば)めるに因(よ)りて、皆加羅(から)の国に留(とどま)る。」とまをしき。 爰(ここに)葛城襲津彦(かつらきのそつひこ)を遣(つかは)して[而]弓月之(の)人夫(つかひひと)[於]加羅に召(め)さしむ。 然(しかれども)、三年(みとせ)を経て[而]襲津彦不来(きたらず)[焉]。 《百済王貢良馬二匹》
即ち[於]軽坂上(かるさかのへ)の厩(うまや)に養(か)ひて、因以(しかるがゆゑをもちて)、阿直岐を以ちて飼(うまかひ)を掌(つかさど)ら令(し)めき。 故(かれ)其の馬を養ひし[之]処(ところ)を号(なづ)け厩坂(うまやのさか)と曰ふ[也]。 阿直岐、亦(また)能(よ)く経典(けいてむ)を読みて、即ち太子(ひつぎのみこ)菟道稚郎子(うぢのわかいらつこ)師(しにしまつる、つかへまつる)[焉]。 於是(ここに)天皇(すめらみこと)阿直岐に問ひて曰(のたま)はく「汝(いまし)に勝(まさ)る如き博士(はかせ)、亦(また)有りや[耶]。」とのたまひ、 対曰(こたへまをさく)「王仁(わに)有れ者(ば)、是(これ)秀(ひい)づ[也]。」とまをす。 時に上毛野君(かみつけののきみ)の祖(おや)荒田別(あらたわけ)巫別(かむなきわけ)を[於]百済に遣(つか)はして、仍(すなは)ち王仁を徴(め)したまひき[也]。 其の阿直岐者(は)、阿直岐史(あちきのふひと)之(の)始祖(はじめのおや)なり[也]。
則(すなわち)太子(ひつぎのみこ)菟道稚郎子(うぢのわかいらつこ)、師之(しにしまつり、つかへまつり)て、諸(もろもろ)の典籍(てむせき、ふみ)を[於]王仁に習ひて、莫不通達(とほさざるなし)。 所謂(いはゆる)王仁者(は)、是(これ)書首(ふみひとべのおびと)等(ら)之始祖(はじめのおや)なり[也]。 《大意》 十四年二月(きさらき)、百済王は衣縫女(きぬぬいめ)を貢上し、その名を真毛津(まけつ)といい、 今の来目衣縫(くめのきぬぬい)の始祖です。 この年、弓月君(ゆづきのきみ)が百済から帰化し、奏上しました。 「臣は、私の国の人民を、百二十県から率いて帰化しようとしました。 ところが、新羅人が拒むので、皆加羅の国に留まっております。」と。 そこで、葛城襲津彦(かつらきのそつひこ)を遣わして弓月に従う人民を連れてくるために、加羅に向かいました。 けれども、三年を経て襲津彦は帰りませんでした。 十五年八月六日、百済王は阿直伎(あちき)を遣わして、良馬二匹を献上しました。 そこで軽坂の上の厩(うまや)で飼い、阿直岐に馬飼を掌らせました。 そこで、その馬を養った場所を、厩坂(うまやのさか)と名付けました。 阿直岐は、また経典を読みこなすことができ、皇太子の菟道稚郎子(うじのわかいらつこ)が師事しました。 そこで、天皇(すめらみこと)が、阿直岐に「お前と同程度かそれ以上の博士は、他にいないか。」と問われたところ、 「王仁(わに)という者がおり、この者は優秀です。」とお答えしました。 そこで、すぐに上毛野君(かみつけののきみ)の先祖、荒田別(あらたわけ)と巫別(かんなぎわけ)を百済に遣わして、王仁を召しました。 この阿直岐という者は、阿直岐史(あちきのふひと)の始祖です。 十六年二月、王仁がやって来ました。 ただちに皇太子菟道稚郎子が師事し、諸典籍を王仁に習ったところ、精通するところとなりました。 ここで述べた王仁は、史(ふひと)部の首(おびと)らの始祖です。 【書紀―十六年八月】 11目次 《百済阿花王薨》
是の歳、百済(くたら)の阿花王(あかわう)薨(こうず、しす)。 天皇(すめらみこと)、直支王(ときわう)を召(め)して、謂(のたまはく)[之曰]「汝(いまし)[於]国に返(かへ)りて、以ちて位(くらゐ)を嗣(つ)げ。」とのたまふ。 仍(すなはち)且(また)東韓(とうかむ)之(の)地(ところ)を賜(たま)はりて[而][之]遣はす。 【東韓者(は)、甘羅城(かむらのさし)、高難城(かうなむのさし)、爾林城(にりむのさし)是(これなり)[也]。】
仍(すなはち)精兵(ときつはもの)を授(さづ)けて詔(のたまはく)[之曰] 「襲津彦(そつひこ)久[之](ひさしくして)不還(かへらずて)、必ずや新羅之(の)拒(こばめる)に由(よ)りて[而][之]滞(とどこほ)らむ。 汝等(いましら)急ぎ[之]往(ゆ)きて新羅を撃ちて、其の道路(みち)を披(ひら)け。」とのたまふ。 於是(ここに)木菟宿祢等、精兵を進めて、[于]新羅之境(さかひ)に莅(のぞ)みて、 新羅王(しらきわう)、[之]愕(おどろ)きて其の罪に服(したが)へり。 乃(すなはち)弓月(ゆつき)之(の)人夫(つかひひと)を率(ひきゐ)て、襲津彦与(と)共に来たり[焉]。 《十六年》 応神天皇十六年は、乙巳年〔405〕。 『三国史記』の「乙巳〔405〕:阿莘王薨腆攴王即位 元年」に対応する。 腆攴王子は、阿莘王六年〔丁酉397;応神天皇八年〕以来、倭国の質とされていた。 応神天皇紀八年には、「百済記云」として「遣二王子直支于天朝一」と書かれる。 そして、乙巳年〔阿莘王十四年〕に阿莘王が薨じ、 以後、仲弟〔=第二子〕訓解が摂政に就任⇒李弟〔=第四子〕碟禮が皇位を簒奪⇒ 国人が碟禮を殺して遂に腆攴王を王に迎えるという経過を辿る (神功皇后紀6【皇太后崩】【三国史記-百済本紀】)。 《東韓》 甘羅城、高難城、爾林城のうち、「爾林」が清寧天皇紀三年に出てくる。 そこでは紀生磐宿祢が任那に渡り、高麗と通じ三韓の西部の王になろうとして、百済の適莫爾解を「爾林」で殺した。 原注に「爾林、高麗地也」とある。甘羅、高難は、応神天皇紀以外には出てこない。 これらの場所がどこにあるかを探る試みはいくつか見られるが、決定的なものはない。 大雑把には、「東韓」は百済の東側の隣接地域を指すと見られる。 文脈からは、東韓はそれまで倭が支配していたが、 直支王を帰国させるにあたって、手土産として直支王に賜ったと読める。 《実聖尼師今四年》 乙巳年〔405〕は、新羅国では実聖尼師今四年にあたる。 『三国史記』では、同元年に倭国と誼を通じ、先代の奈勿王の子、未斯欣を質に送る。 それが四年になると一転して「春四月。倭兵来二-攻明活城一 不レ克而帰」〔倭軍は明活城を攻めるが、勝てずに帰る〕とあり、 更に再戦も起こる。 このように、この年に倭国が攻め入ったことだけは軌を一にするが、弓月王の動きについては何も書かれていない。 ただ、「弓月王を祖とする」伝説をもつ漢出身の一族が倭に来帰したこと自体は、新撰姓氏録から見て確実だと思われる。 《大意》 是の歳、百済の阿花王が薨じました。 天皇(すめらみこと)は、直支(とき)王を召して、「お前は国に帰り、位を嗣ぎなさい。」と仰りました。 そしてまた、東韓の地を賜り、遣わしました。 【東韓とは、甘羅(かんら)城、高難(こうなん)城、爾林(にりん)城です。】 八月(はつき)、平群木菟(へぐりのつく)の宿祢・的戸田(いくはのとだ)の宿祢を加羅に遣わし、 精兵を授けて詔されました。 「襲津彦(そつひこ)は久しく帰還しない。それは、必ずや新羅が拒む故に滞っているのであろう。 お前たちは急ぎ行き、新羅を撃ち、その道を開けよ。」と。 ここに木菟宿祢らは精兵を進めて新羅の国境に臨み、 新羅王は、驚愕してその罪に服しました。 こうして、弓月(ゆつき)は仕える民を率いて、襲津彦と共にやって来ました。 【書紀―二十年】 13目次 《漢直祖阿知使主》
並びて己之(おのが)党類(うがら)十七県(とをちあまりななつのこほり)を率(ひき)ゐて[而]来帰(らいくゐす、まゐりく)[焉]。 《大意》 二十年九月、倭漢直(やまとのあやのあたい)の先祖、阿知使主(あちのおみ)はその子都加使主(つかのおみ)と二人で、自らの一党十七県を率いて、帰化しました。 【書紀―三十七年】 16目次 《求縫工女》
爰(ここに)阿知使主等(ら)、高麗(こま)の国に渡り、[于]呉に欲達(とほらむとす)。 則(すなはち)高麗に至りて、更に道路(みち)を不知(しらず)て、[於]高麗に知道者(みちしるべ)を乞(こひねが)ひき。 高麗王(こまわう)、乃(すなはち)久礼波(くれは)久礼志(くれし)二人(ふたり)を副(そ)へて導者(みちしるべ)と為(し)て、是(これ)に由(よ)りて呉に得(え)通(とほ)る。 呉王(くれわう)於是(ここに)、工女(ぬひめ)兄媛(えひめ)弟媛(おとひめ)呉織(くれはとり)穴織(あなはとり)四(よたり)の婦女(をみな)を与(あた)ふ。
爰(ここに)新斉都媛、七(ななたり)の婦女(をみな)を率(ひきゐ)て[而]来帰(らいくゐしまつる、まゐく)[焉]。 《率七婦女》 兄媛・弟媛・呉織・穴織に、道案内した久礼波・久礼志も加え〔この二人も女子だったのだろう〕、新斉都媛自身も含めると七名になる。 従って「七人の婦女を」率いたのではなく、「自らを含む七人の集団」をリーダーとして率いたのであろう。 《大意》 三十七年二月一日、阿知使主と都加使主を呉(くれ)に遣わして、衣縫女を求めさせました。 そこで、阿知使主らは高麗(こま)の国に渡り、そこを通って呉に行こうとしました。 このようにして高麗に至りましたが、それ以上道が分からず、高麗に道案内人を求めました。 高麗王は、そこで久礼波(くれは)久礼志(くれし)の二人を付き添わせて道案内させ、これによって呉に着くことができました。 呉王は、そこで縫女(ぬいめ)として兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)四人の女性を与えました。 三十九年二月、百済の直支王は、その妹、新斉都媛(しせつひめ)を遣わし、仕えさせました。 そして、新斉都媛は七人の婦女の代表として、皆を率いて帰化しました。 【書紀―崩後】 20目次 《阿知使主等自呉至筑紫》
是の月、阿知使主(あちのおみ)等(ら)呉(くれ)自(よ)り筑紫(つくし)に至りて、 時に胸形大神(むなかたのおほみかみ)工女(ぬひめ)等(ら)を有乞(こひたり)て、故(かれ)兄媛(えひめ)を以ちて[於]胸形大神に奉(たてまつ)りき。 是(これ)則(すなはち)今筑紫国に在る御使君之祖(おや)なり[也]。 既にして(而)其の三(みたり)の婦女(をみな)を率ゐて、津国(つのくに)に至りて[于]武庫(むこ)に及びて 而(しかれども)、天皇[之]崩(ほうじて、かむあがりして)、不及(およばず)。 即ち[于]大鷦鷯尊に献(たてまつ)る、 是の女人(をみな)等(ら)之後(のち)、今は呉(くれ)の衣縫(きぬぬひ)、蚊屋(かや)の衣縫是(これ)なり[也]。 《胸形大神》 呉織の衣縫4名が筑紫国に上陸すると、 大社から是非この地に留まり、呉織の織り手として胸形大社に仕えてほしいと要請された。 そこで、4人のうち兄媛が筑紫に留まり、残りの弟媛・呉織・穴織の三人で都に向かったが、 武庫郡まできたところで応神天皇が崩じ、仁徳天皇に仕えることになった。 《御使君》
〔逃げ出した使用人を、捜しに遣った者も戻らず、気入彦命に追跡を命じると参河国で捕え、連れ帰ったので天皇は喜び、「御使連」の姓を賜った〕 「気入彦命」に近い名前としては、景行天皇段に五百木之入日子命・若木之入日子王の名がある (第122回)。 〈姓氏家系大辞典〉は「後に朝臣姓を賜ふ。三河の古豪族也。」駿河・讃岐の御使連もその「族なり」とする。 応神紀の「御使君」の由来とは全く異なるのであるが、それとの関連は、特に書いていない。 《津国》 欽明天皇三年条に「幸二于津国有間温湯一」〔有馬温泉に行幸した〕とあるように、 津国は摂津国のことである。書紀では「摂津国」は十か所、「津国」は二か所にある。 摂津国は天武天皇のとき首都機能の一部を担う特別の国となり、摂津職が置かれた。 その後、平安遷都の前年〔793〕に副都は廃止され、摂津国は国司を置く普通の国になった (資料19―摂津職と摂津国)。 書紀成立の720年の時点では、①この国は難波津に因んで「津の国」と呼ばれ、②摂津職が存在していた時期に当たり、別名「摂津の国」と呼ばれた。 ということになる。 《呉衣縫》 雄略天皇紀十四年条に、 「身狹村主靑等共吳國使、將吳所獻手末才伎、漢織、吳織及衣縫、兄媛、弟媛等、泊於住吉津。」 〔身狭村主の青ら、呉国の使いとともに、呉から献られし手末才伎(たなすゑのてひと)〔手先の職人〕漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)と、衣縫(きぬぬひ)の兄媛・弟媛とをひきゐて、住吉の津に泊まりき。〕 とあり、応神天皇段と同じ名前が別のストーリーに登場する。 5世紀初めころ、数多くの機織りの職人が倭国に到来し、それに伴いさまざまな伝説が生まれたのであろう。 なお、青は、雄略天皇によってしばしば呉に派遣された (第108回《牟佐坐神社》)。 《蚊屋衣縫》 地名「蚊屋」は、〈倭名類聚抄〉に{伯耆国・会見郡・蚊屋郷}{備中国・賀夜郡}{但馬国・気田軍・賀陽〔かや〕郷}が見られる。 蚊屋衣縫について〈姓氏家系大辞典〉は、「職業部の一にして、備中国〔伯耆国の誤り?〕蚊屋にありし衣縫部なり。」と簡単に書くだけなので、 そこから派生した氏族は見いだせなかったようである。 《大意》 〔四十一年崩の後〕 この月、阿知使主(あちのおみ)らは呉から筑紫に至りました。 その時、胸形大神宮は縫女(ぬいめ)を望み、そこで兄媛(えひめ)を胸形大神に奉納しました。 これが、今筑紫国に存在する御使君の祖です。 このようにして、三人の婦女を率いて摂津国津国に至り、武庫についたところで 天皇は崩じて、間に合いませんでした。 そこで、大鷦鷯尊に献上しました。 この女性たちの後は、現在の呉の衣縫女(きぬぬいめ)、蚊屋(かや)の衣縫女がこれです。 まとめ 渡来人が持ち込んだ「はた(機)」「あや(綾)」は倭人の興味を惹き、それぞれの氏族、秦・漢の呼び名になったように思われる。 同様に「くれ(呉)」も、何らかの織り方かも知れないが、滅亡した国=「暮れの国」も考え得るから何とも言えない。 応神段で渡来人が持ち込んだもの、あるいは技術は、池、馬、横刀、大鏡、論語・千字文、漢鍛、呉服、秦(機)、漢(綾)、醸酒が挙げられ、多岐にわたっている。 倭と大陸との人と物の交流が、間断なく続いていたのは当然である。 それが、5世紀に入って一気に盛んになったのであろう。 記では、漢の祖と秦の祖をまとめて述べるなどして、出自をそれほど区別した書き方をしていない。 それが書記になると、始祖の名前や起源を個別に述べ、その内容は新撰姓氏録にも繋がっている。 記紀編纂の頃から、それぞれの氏族の内部でその由来の調査・研究〔実際には、かなり創作や粉飾を伴うものであろうが〕が進行しつつあったのだろう。 それは、朝廷で役職を与えるにあたって、どのレベルが相応しいかを審議するために、出身氏族に関する詳細な身上書が必要が必要とされたからだと思われる。 そのひとつとして、『高橋氏文』が残っているわけである (高橋氏文)。 さて、渡来人の最初の居住地は、記のイメージ通り、諸族が葛上郡・高市郡に集中していたようである。 ところが、葛上郡は同時に欠史八代の王朝の地であり、竹内宿祢の出身地でもある。 だから、極端に言えば天孫族のルーツは半島系の渡来人ではないかとも思えてくる。 しかし、葛城王朝の時代と、渡来人が織物・土木の技術や漢字などの文化を伴ってやってきた時代とは、 記紀が述べる通り、時間差があったと見るのが穏当であろう。 |
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⇒ [153] 中つ巻(応神天皇6) |