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⇒ [146] 中つ巻(神功皇后7) |
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2017.02.16(thu) [147] 中つ巻(続仲哀天皇3) ▼▲ |
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凡帶中津日子天皇之御年伍拾貳歲
【壬戌年六月十一日崩也】 御陵在河內惠賀之長江也 【皇后御年一百歳崩葬于狹城楯列陵也】 凡(おほよそ)帯中津日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)之(の)御年(みとし)五十二歳(いそとせあまりふたとせ) 【壬戌(みづのえいぬ)の年六月(みなづき)十一日(とうかあまりひとひ)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)[也]。】、 御陵(みささき)河内(かふち)の恵賀之長江(ゑがのながえ)に在り[也]。 【皇后(おほきさき)の御年(みとし)一百歳(ももとせ)に崩(ほうじ、かむあがりし)[于]狭城(さき)の楯列(たたなみ)の陵(みささき)に葬(はぶ)りまつる[也]。】 凡(おほよそ)帯中津日子(たらしなかつひこ)天皇〔仲哀天皇〕は御年五十二歳 【壬戌(みづのえいぬ)年六月十一日に崩じました。】、 御陵は河内国の恵賀之長江(えがのながえ)にあります。 【皇后は御年百歳で崩じ、狭城(さき)の楯列陵(たたなみのみささぎ)に葬むられました。】 狭城楯列陵…〈丙本〉狭城盾列陵【左岐乃 太ゝ奈美乃美左〃岐】〔さきの たたなみのみささき〕。
記によれば、允恭天皇陵も「河内之恵賀長枝」にある(書紀では「河内長野原陵」)。 宮内庁は、古市古墳群にある242mの前方後円墳を、 仲哀天皇陵(「恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)」)に治定している。 所在地は大阪府藤井寺市藤井寺4丁目で、考古学名は岡ミサンザイ古墳である。 岡ミサンザイ古墳は、<羽曳野市公式ページ>によれば、 「墳丘と外堤から出土した埴輪は共通の特徴をもち、窖窯で焼成された製品で、円筒埴輪のほか盾等の形象埴輪が出土しています。 築造年代は、埴輪の特徴から5世紀後葉から末頃に比定され、市野山古墳(允恭陵)よりも新しくボケ山古墳(仁賢陵)よりも古い様相をうかがうことができます。」という。 《上原仲哀天皇御廟》 一方『河内鑑名所記』〔三田浄久著。1679〕巻二、「上原仲哀天皇御廟」の項に次の文と、図版がある。 「○上原仲哀天皇十四代御廟 社、拝殿、石段、石の鳥居有。社僧有。観音堂ハ普門寺と号ス、正観音御長三尺運慶ノ作。」
ここを仲哀天皇陵とする説は『河内志』〔1735〕以降には見られなくなり、 「元治元年〔1864〕5月から翌年2月にかけて岡ミサンザイ古墳(現藤井寺市) を仲哀天皇陵として修陵している」 ことにより決定的になったという (尾谷雅比古『陵墓伝承地の変遷と明治期の古墳保存行政』-桃山学院大学人間科学No.36)。 【狭城盾列陵】 延喜式〔927〕には、「狭城盾列池上陵 磐余稚桜宮御宇神功皇后 在二大和国添下郡一 兆域東西二町南北二町 守戸五烟」とある。 現在、宮内庁によって五社神(ごさし)古墳が「佐紀楯列池上陵」(さきたたなみのいけのえのみささぎ)とされている。 狭城盾列古墳群には、佐紀石塚山古墳(「佐紀楯列池後陵」、成務天皇陵)もある (第137回【御陵】)。 《続日本後記の記録》 続日本後記〔869〕に、神功皇后陵・成務天皇陵の取り違えが分かって訂正したという記録があるというので、調べてみた。 それによると疑問を感じて図録を捜検したら、北にあるのが神功皇后陵で、南が成務天皇陵であった。 これまでは口伝により南を神功皇后陵として、その祟りがあったときは虚しく成務天皇陵にお詫びをしてきた。 最近の神功皇后による祟りの原因は、弓剣を誤って政務天皇陵に奉納したことにあり、奉納し直したということが書かれている。 和風諡号が併記されることから、845年の時点でもまだ漢風諡号が完全には定着していなかったことが分かる。 そして、神功皇后が大神として成務天皇を大きく優っており、天変地異のようなことがあれば祟りとして恐れられたことが分かり、 きわめて興味深い。一度奉納された弓剣を取り上げられた成務天皇こそ、好い面の皮である。 また「捜二-検図録一」と書かれるから、当時陵墓を治定した文書が存在したことになる。
《記における扱い》 記では仲哀天皇崩の次に、割注となっている。 「亦底筒男中筒男上筒男三柱大神者也」と同じく、記がひとまず完成した後に書き加えたもののように思われる (第140回)。 【佐紀盾列古墳群・古市古墳群】 記紀における天皇と陵の対応は、複数の大王の伝承が混合していると考られ、個々の記述は信用できるものではない。 しかしこれらを全体として見れば、佐紀王朝から古市王朝への移行という大きな流れを反映していると考えられる。 そのうち、佐紀は和爾氏の縁の地でもあり、改めて初期朝廷と和爾氏との関わりが注目される。 【仲哀天皇の崩年】 記では、仲哀天皇の崩は壬戌年とされる。仁徳天皇から雄略天皇までの時期が宋書における倭の五王 (賛・珍・済・興・武)に重なると考えられば、仁徳天皇崩の丁卯年は、427年に相当する 倭の五王【倭の五王と天皇の関係】)。 そこから逆にたどると、仲哀天皇が崩じた壬戌年は362年となる。 一方、書紀では崩は庚辰年とされ、神功皇后紀所引の魏志を基準として200年、三国史記を基準にすれば320年である。 ただ、書紀の初期天皇の編年は大幅に加工されているので、資料的な価値はない。 書かれた崩年の干支が史実を反映している可能性については、記の方がまだ見込みがある。 記では仲哀天皇の事績はほぼ皆無であるが、 現実に存在した一人の大王の崩年の記録を、仲哀天皇に宛てた可能性はあるだろう。 仲哀天皇架空説も見られるが、それが全くの空想なのか、実在した人物に異なる生涯をはめ込んだかで意味は異なるから、 少なくとも、後者であったのではないかと思える。 【書紀-葬仲哀天皇】 11目次 《葬天皇於河内国長野陵》
冬十月(かみなづき)癸亥(みづのとゐ)を朔(つきたち)として甲子(きのえね)〔七日〕、群臣(まへつきみたち)皇后(おほきさき)を尊(たふと)びて皇太后(おほきさき)と曰(まを)す。 是の年[也]、太歳(おほとし、たいさい)辛巳(かのとみ)、則(すなはち)摂政(せつしやう、まつりことふさねをさむ)元年(はじめのとし)と為(す)。 二年(ふたとせ)冬十一月(しもつき)丁亥(ひのとゐ)朔甲午(きのえうま)〔八日〕、天皇(すめらみこと)を[於]河内国(かふちのくに)の長野陵(ながののみささき)に葬(はぶ)りまつる。 《大意》 〔仲哀天皇九年の翌年〕 十月七日、側近は皇后を皇太后と尊称しました。 この年太歳(たいさい)辛巳(しんし、かのとみ)、摂政元年としました。 二年十一月八日、天皇を河内国の長野陵に埋葬しました。 【書紀-皇太后崩】 20目次 《皇太后崩》
【時に年(みとし)一百歳(ももとせ)。】 冬十月戊午(つちのえうま)朔壬申(みづのえさる)〔十五日〕、狭城盾列陵(さきのたたなみのみささき)に葬(はぶ)りまつる。 是の日、皇太后(おほきさき)を追尊(ついそむし、おひたふとび)て、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と曰(なづ)けまつる。 是の年[也]、太歳(おほとし、たいさい)己丑(つちのとうし)。 《大意》 六十九年四月十七日、皇太后は稚桜宮(わかさくらのみや)で崩じました 【その時、御年百歳でした。】 十月十五日、狭城盾列陵に埋葬しました。 この日、皇太后を追尊して、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と定めました。 この年は、太歳己丑(きちゅう)でした。 【神功皇后紀の形成】 神功皇后紀がどのように構成されているか、その全体を眺めてみよう。 《構成及び記紀における相違点》 神功皇后紀における事績は、右記の通りである。このうち太字が記と共通する。
《勝門比売》 まずは、神功皇后が鮎釣りをした場所である「勝門比売」の名称を見る。 「勝門比売」は、岩石が転がっていた川を指すというが、その由来は渡海して勝利して帰ってきた姫自身の別名であろう。 それが現地の古い伝説と見られる点が注目される。 三国史記の新羅本紀には、倭人が古くから何度も渡海して襲ったことが書かれる。 特に古い時期については、朝廷軍を組織的に派遣したというよりは、筑紫地域の豪族が単独で繰り返し襲撃した印象を受ける。 その族長はしばしば女性であり、その意味で女王の渡海は現実に存在したと考えられる (第142回)。 それらを材料にして、まず記において女王渡海伝説が形成された③④⑤。 その主な動機は、もちろん白村江の戦いで半島から日本の勢力が一掃されたことを悔しがり、本来は倭国の支配下にある地域であったことを確認して自尊心を満たすためである。 なお、石を抱いて出産を遅らせる話も、もともと渡海伝説とは別に、現地に伝わっていた古い神話だと思われる。 記紀で初めて登場する話なら、風土記や万葉集にあるような地域に根付いた話にはなっていないだろう。 この段階では、たらし姫による半島征圧は完全な神話であった。 《書紀における伝説の蒐集》 書紀も、記で形成された内容を出発点にした。しかし、そこに兵の心得を盛り込んでおり、 防人として東国から徴兵されてきた者への教科書として使用したと思われる。 ところが書紀は、神功皇后の実在化を図る。まずは、筑前国を中心に女性王の伝説を捜し出した。 それらを全部載せたと思われ(②)、そこには現実的な土木工事があったり、神話的な鳥人が登場したりして雑多である (【自欲征西】、 令撃熊襲国)。 《倭の五王の時代を素材化》 素材の蒐集の範囲は、百済・新羅の歴史書に及ぶ。そこには、具体的な地名と年の干支表記が載っていた。 特に百済とは誼を通じた期間が長く存在したので、それを倭への朝貢国として描く素材にした。 さらに神功皇后の時代の現実性に結び付けようとして、干支年も書き込んだのである。 この時点では、まだ記における仲哀天皇の崩年362年を前提にして、それに合う範囲の日付の話を拾い出した可能性もある。 《魏志倭人伝の素材化》 一方、魏志においては魏との交流が描かれ、目もくらむ宝の数々がもたらされた。 恐らく題材の収集を命じられた下級官僚のレベルでは、百済・新羅を魏国と素朴に同一視して、「美女之睩而金銀多之眼炎国」と捉えたと思われる。 これが、前項の百済交流の時代との大幅なずれという、深刻な問題を生むことになる。本来なら、どちらか一方を捨てるのが誠実な態度であろう。 書紀の編集スタッフは、両者の干支表記が同じであったとしても、それが同一の時代でないことは、十分理解していたと思われる。 従って、干支表記の共通性を手がかりとした時代の移動は、意図的に行ったことだと考えられる。 魏志の年代を捨てられなかったのは、 卑弥呼の時代を書紀でも女王支配の時代にしなければならないという、強いプレッシャーがあったためと思われる。 一方で倭の五王の時代も捨てられなかったのは、「神功皇后が実在した」裏付けが喉から手が出るほど欲しかったためと思われる。 《天照大神の荒魂など》 既に現実に有名な社として参拝者を集めていた廣田・生田・長田の三社と住吉大社についても、 神功皇后が祀らせたものとして、神功皇后を権威づける材料とした (第143回【広田国・活田長峡国・長田国】)。 《引用資料が物語ること》 魏志において卑弥呼は実在した人物であった。 書紀においてもしばしば資料の出典を明示することによって、神功皇后の実在性を見せようとしたが、 資料を取捨選択する決断ができなかったことにより結果的に矛盾だらけとなった。 ただ、資料の実在性にこだわった結果、任那国が消えてしまったことは皮肉である。 「任那」という名の小国が一定期間実在したのは確かだが、 それが倭国の出先として特別の役割を担う国ではなかったということになる。 まとめ 神功皇后紀には全く異なる時代が混在し、記述の一貫性も保てていない。 それらの雑多な要素をブラックホールのように吸い込んでしまう「神功皇后」とは一体誰であろうか。 それ突き詰めていくと、結局卑弥呼にたどり着く。 その残像は、飛鳥時代末になっても人々の記憶に残っていた。 それが神功皇后に投影され、過去のあらゆる朝鮮半島との関わりの中心にいるのが、 人々の気持ちに合うことだったのである。 かつて、難升米と都市牛利に面会したとき、明帝(=曹叡)※は、 「皆装封付難升米牛利還到録受悉可以示汝国中人使知国家哀汝故鄭重賜汝好物也」 〔皆装封して付難升米・牛利に託し、これを記録せよ。そしてあなたの国中の人に、 魏の皇帝があなたを愛しんでいることを示せ。そのためにこれほど丁寧にあなたが喜ぶものを賜るのである〕 という言葉を託して、膨大な宝物を賜った。 ※…もしくは後継した幼帝曹芳を後見した司馬懿。 現実に大量の三角縁神獣鏡が移入し、さらに複製されて諸国の王に配布された。 華麗な布は今日には残っていないが、これも恐らく繰り返し移入して広まったのであろう。 こうして魏皇帝の言葉は現実化し、それとともに卑弥呼の統治した時代が神話化して後世まで残ったと思われる。 一般の人々には、中国と朝鮮の間にそんなに明確な区別はなく、 西の国は宝物を倭国にもたらしたというイメージが、長く残ったのである。 その下地があったからこそ、女王神功皇后が 百済新羅との外交のあらゆる場面に登場することが、自然なこととして受け止められたのではないだろうか。 当時すでに魏志倭人伝も知られていたが、 単に倭の女王の時代に合わせるために書紀のある時期を神功皇后に割り振ったというだけでは、説明しきれないものがある。 ところが、古事記は神功皇后に種々の話を脈絡なく盛り込んで肥大化させていくことを、嫌っていたように見える。 記は代々の天皇を描くものとする原則を守り、神功皇后神話についても仲哀天皇紀におけるエピソードとしての位置づけを崩していない。 書紀編集側から、古事記にも更に書き加えるよう要請された気配があるが、 結果的に受け入れたのは住吉三大神の書き足しと、最後の神功皇后陵の二か所だけである。 記も魏志の「倭の女王」のことは当然知っていて、仲哀天皇の干支を遡らせて間を開けようとする発想もあったかも知れない。 しかし、その崩年362年の干支を二回り繰り上げて242年にしてもまだ足らないので、記ではまだその構想は熟していない。 ただ、記は卑弥呼を基本的に天照大神に重ねて、あくまでも歴史は天皇が中心であるという原則を守っている。 なお神功皇后が天皇でない理由は、記が設定した枠組みを忠実に守ったためであろう。 しかし、書紀における神功皇后は事実上天皇を凌駕し、逆の意味で天皇の枠から外れていると言える。 |
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2017.02.28(tue) [148] 中つ巻(応神天皇1) ▼▲ |
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品陀和氣命坐輕嶋之明宮治天下也
此天皇娶品陀眞若王【品陀二字以音】之女三柱女王 一名高木之入日賣命 次中日賣命 次弟日賣命 【此女王等之父品陀眞若王者 五百木之入日子命娶尾張連之祖建伊那陀宿禰之女志理都紀斗賣 生子者也】 品陀和気命(ほむたわけのみこと)軽嶋(かるしま)之(の)明宮(あきらのみや)に坐(ま)して天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此の天皇(すめらみこと)品陀真若王(ほむたわかのみこ)【品陀の二字(ふたじ)音(こゑ)を以(も)ちゐる。】之(の)女(むすめ)なる三柱(みはしら)の女王(ひめみこ)を娶(めあは)せたまひて、 一(ひとり)の名(みな)は高木之入日売命(たかきのひりひめのみこと)、 次に中日売命(なかつひめのみこと)、 次に弟日売命(おとひめのみこと)。 【此の女王等(ら)之(の)父(ちち)品陀真若王(ほむたまわかのみこ)者(は)、 五百木之入日子命(いほきのいりひこのみこと)が尾張連(おはりむらじ)之(の)祖(おや)建伊那陀宿祢(たけいなだすくね)之(の)女(むすめ)志理都紀斗売(しりつきとめ)を娶せて 生(あれま)しし子(みこ)なれ者(ば)[也]。】 故 高木之入日賣之子額田大中日子命 次大山守命 次伊奢之眞若命【伊奢二字以音】 次妹大原郎女 次高目郎女【五柱】 中日賣命之御子木之荒田郎女 次大雀命 次根鳥命【三柱】 弟日賣命之御子阿倍郎女 次阿具知能【此四字以音】三腹郎女 次木之菟野郎女 次三野郎女【五柱】 故(かれ)、高木之入日売(たかきのいりひめ)之(の)子(みこ)は額田大中日子命(ぬかたのおほなかつひこのみこと)、 次に大山守命(おほやまもりのみこと)、 次に伊奢之真若命(いざのまわかのみこと)【伊奢の二字音(こゑ)を以ちゐる】、 次に妹大原郎女(いもおほはらのいらつめ)、 次に高目郎女(こむくのいらつめ)の【五柱(いつはしら)】、 中日売命(なかつひめのみこと)之(の)御子は木之荒田郎女(きのあらたのいらつめ)、 次に大雀命(おほさざきのみこと)、 次に根鳥命(ねとりのみこと)の【三柱(みはしら)】、 弟日売命(おとひめのみこと)之(の)御子(みこ)は阿倍郎女(あべのいらつめ)、 次に阿具知能(あぐちの)【此の四字音を以ちゐる。】三腹郎女(みはらのいらつめ)、 次に木之菟野郎女(きのうののいらつめ)、 次に三野郎女(みののいらつめ)の【五〔四〕柱】。
御子大羽江王(おほはえのみこ)、 次に小羽江王(をはえのみこ)、 次に幡日之若郎女(はたひのわかいらつめ)を生みませり【三柱】。 又、迦具漏比売(かぐろひめ)を娶せたまひて、 御子川原田郎女(かははらだのいらつめ)、 次に玉郎女(たまのいらつめ)、 次に忍坂大中比売(おしさかのおほなかつひめ)、 次に登富志郎女(とほしのいらつめ)、 次に迦多遅王を生みませり【五柱】。 又、葛城之野伊呂売【此の三字音を以ちゐる。】(かつらきのののいろめ)を娶せたまひて、 御子伊奢能麻和迦王(いざのまわかのみこ)を生みませり【一柱】。 此天皇之御子等幷廿六王 【男王十一女王十五】 此中 大雀命者治天下也 此の天皇之御子等(たち)并(あはせ)て二十六王(はたはしらあまりむはしらのみこ) 【男王(みこ)は十一(とをはしらあまりひとはしら)、女王(ひめみこ)は十五(とをはしらあまりいつはしら)】。 此の中の大雀命者(は)天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 品陀和気命(ほむたわけのみこと)〔応神天皇〕は、軽嶋(かるしま)の明宮(あきらのみや)にいて天下を治められました。 この天皇は品陀真若王(ほむたわかのみこ)の娘である三人の御子を娶られ、 その御名は、一人目に高木之入日売命(たかきのひりひめのみこと)、 次に中日売命(なかつひめのみこと)、 次に弟日売命(おとひめのみこと)です。 【此の御子たちの父である品陀真若王(ほむたまわかのみこ)は、 五百木之入日子命(いほきのいりひこのみこと)が尾張連(おわりむらじ)の先祖の建伊那陀宿祢(たけいなだすくね)の娘である志理都紀斗売(しりつきとめ)を娶り、 生まれた子です。】 さて、高木之入日売の御子は、額田大中日子命(ぬかたのおおなかつひこのみこと)、 次に大山守命(おおやまもりのみこと)、 次に伊奢之真若命(いざのまわかのみこと)、 次に妹大原郎女(いもおおはらのいらつめ)、 次に高目郎女(こむくのいらつめ)の五名です。 中日売命の御子は、木之荒田郎女(きのあらたのいらつめ)、 次に大雀命(おおさざきのみこと)、 次に根鳥命(ねとりのみこと)の三名です。 弟日売命の御子は、阿倍郎女(あべのいらつめ)、 次に阿具知能三腹郎女(あぐちのみはらのいらつめ)、 次に木之菟野郎女(きいのうののいらつめ)、 次に三野郎女(みののいらつめ)の四名です。 また、丸邇(わに)の比布礼能意富美(ひふれのおおみ)の娘、名は宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)を娶られ、 御子宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)、 次に妹、八田若郎女(やたのわかいらつめ)、 次に女鳥王(めどりのみこ)の三名を生みなされました。 また、その矢河枝比売の妹、袁那弁郎女(おなべのいらつめ)を娶られ、 御子宇遅之若郎女(うじのわかいらつめ)の一名を生みなされました。 また、咋俣長日子王(くいまたながひこのみこ)の娘息長真若中比売(おきながのまわかなかつひめ)を娶られ、 御子若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)の一名を生みなされました。 また、桜井田部連(さくらいのたべのむらじ)の先祖、嶋垂根(しまたりね)の娘糸井比売(いといひめ)を娶られ、 御子速総別命(はやぶさわけのみこと)の一名を生みなされました。 この天皇の御子は、合計二十六王 【男王十一、女王十五】で、 この中の大雀命者は、天下を治められました。 明…(古訓) あきらかなり。あく。あらはす。ひかる。みる。 品陀和記命…〈丙本〉誉_田【保牟太】〔ほむた〕。 雀…〈倭名類聚抄〉雀【和名須〃米】〔すすめ〕。〈倭名類聚抄〉鷦鷯【佐々木】。 さざき(雀、鷦鷯)…[名] みそさざい。〈時代別上代〉サザキと雀は異なった鳥であるが、「雀」の字をサザキにも通わせもちいたのである。第二音節には清濁両形があった。 根鳥命…〈丙本〉根_鳥 皇_子【祢止里乃美古】〔ねとりのみこ〕。 宮主矢河枝比売…〈丙本〉宅_媛【也古比女】〔やこひめ、頭注に「別本に也古を也加」〕。 袁那弁郎女…袁〔を〕。〈丙本〉小甂【乎〝太 倍】〔をだへ〕。 若沼毛二俣王…〈丙本〉河_派【加波末太】〔かはまた〕。
大羽江王…〈丙本〉太葉枝 〔おほはこそみこ〕。 【軽嶋明宮】 書紀は明宮を最初ではなく、最後の四十一年条のところで「崩二于明宮一」と書く。さらに「一云、崩二于難波大隅宮一」と併記する。 《明宮の訓み》 摂津国風土記の逸文に、「軽嶋豊阿伎羅宮御宇天皇世」 〔かるしまの とよあきらのみやの あめのしたしろしめし すめらみことの みよに〕 と書いてある。「とよ-」は、美称の接頭語。 この逸文の出典は『万葉集注釈』(巻二・二二八)所引の摂津国風土記「比売嶋松原」で、 内容は、応仁天皇段の「昔有新羅国主之子名謂天之日矛」段に出てくる話とほぼ同じである (全文は、その回〔第154回の予定〕で取り上げる)。 書紀でも垂仁天皇紀元年条の一書2に類似の話がある(【蘇那曷叱智の帰国】)。 したがって、摂津国風土記の話は書紀よりも記に合致している。 《五畿内志》 『五畿内志』〔1734年〕巻二十四「高市郡【古跡】」には、 「豊明宮 【應神天皇元年遷二都於輕地一 是謂二豐明宮一有二古歌一 已上三宮三瀬大哥留之地】」と書かれる。 「已上〔=以上〕三宮」とは豊明宮と、その前に書かれた曲峡宮〔懿徳天皇〕・境原宮〔孝元天皇〕を指す。 「三瀬大哥留」は、概ね現在の見瀬町と大軽町に当たると見られる (軽曲峡宮跡伝承地:第104回【軽之境岡】、 孝元天皇軽境原宮跡:第108回【軽之堺原宮】)。 現在、法輪寺(奈良県橿原市大軽町373)の北側の春日神社に「應神天皇輕島豐明宮趾」の石碑が建っている。 裏面には「大正四年十一月 奈良縣教育會建之」〔1915年11月 奈良県教育会之を建ず〕とある。 軽は、飛鳥時代には市が立つなど物流の拠点で、また大伽藍をそなえた軽寺跡が発見されている (第104回【軽】)。 軽寺の金堂と講堂の土壇は、法輪寺の境内にあるという (橿原市公式ページ/〈軽寺跡〉)。 《歌碑》 石碑の隣に歌碑があり、 「作者不詳/天飛ぶや 軽の社の 斎槻 幾代まであらむ隠妻そも/小清水卓二書」と刻まれている。 揮毫した小清水卓二〔1897-1980、植物生理生態学者〕の著書の一つに「万葉植物」がある。 〈Wikipedia〉によれば、氏が初めて「万葉植物」を題名に含む論文を発表したのは1941年だから、歌碑の設置はそれよりは後であるうと思われる。 この歌は、万葉集巻十一の2526である。
とすると、この歌は『五畿内志』にいう「豊明宮の古歌」には当てはまらず、この歌碑は本来は軽樹村坐神社にあるべきものだということになる。 さらに、万葉集の「軽」を検索すると、他に「軽の宮」を詠んだ歌はなく、「軽」は二首に「軽の路」が出てくるのみである〔0207・0543〕。 《軽嶋》
表層地質図(右図)を見ると、花崗岩の場所と礫・砂が堆積した場所がある。 花崗岩はもともと山で、その山肌が削られた礫・砂が流水で運ばれ、湖底や氾濫原で堆積する。 丸山古墳の本体の場所はちょうど花崗岩の範囲で、 古墳そのものは盛り土と葺石であるから多分その下が花崗岩だと判定したのではないかと思う。 だとすれば、丸山古墳の場所はもともと山で、周囲が湖または広い川だったときは、島だったことになる。 軽寺が建った時には既にその場所は陸地になっていたから、周囲が湖または川だったのはそれよりはるかに昔のことである。 とすれば、その島〔軽嶋?〕は豊明宮跡の石碑がある法輪寺とは離れている。 しかし、湖または川が埋まったあとは「軽嶋」が地名として残り、その範囲は軽寺の辺りまで及んでいた可能性もある。 現在の奈良盆地は、古くは海進して全体が「大和湖」と呼ばれる湖であったと言われる。 海進が最大になったのは現在から6,000年前とされる。軽地域は、大和湖の南端であったようだが、 日本列島の住民の間にシマという言葉が生まれた頃、ここが湖の中だったか否かは全くの未知数である。 【高目郎女】 高目は、一般的にコムクと訓まれる。しかし、高城入姫の第五子が「澇来田」(こむくだ)であるからというだけでは根拠が薄い。 そこで、その真相を探るために、まず万葉集で「高」「目」の訓みを調べる。 万葉集では、高をコと音読みするのは、高麗(こま)に限られる〔3例〕。他は訓読みで、大部分が「たか」〔170例〕、例外的に「たけ」〔3例〕、そして「高山(かぐやま)」〔2例〕がある。 一方、目は万葉集に大量にあるが、ほとんどが身体器官の「目」(メ)あるいはその借訓で〔242例〕で、例外は右の4例である。
宣長は、「高目ノ郎女は、此ノ御名師〔賀茂真淵〕の許牟久と訓〔よま〕れたるに從ふべし、和名抄に河内國石川郡紺口郷あり、 神名帳に咸古神社もある此なり」と述べる。 確かに、神名帳には{河内国/石川郡九座/咸古神社}がある〔比定社は咸古(かんこ)神社〕。 ただ、紺口・咸古のムは「ン」を表す文字がなかった時代に、[ŋ]を表したものだから、澇[komu]のムとは異なる。 とは言え、例えば「高麗来」(こまく)が訛って「こむく」になったものを、「高目」と書いたとも考えられる。 現代地名には「高目」は見つからず、また苗字の「高目」もごく僅かなので、古来、地名や氏族名に「高目」はなかったと思われる。 一方、コムク・コムクタも倭名類聚抄にないが、現代地名の小向(こむかい)・小向野(こむくの)などは「コムク」との関連性を感じさせる。 よって、コムクに一時的に「高目」という字が宛てられ、それがすぐに「澇来」に置き換えられたことはあったかも知れない。 なお、書紀で「こむくた」としたのは、もともと「こむ」は「田」の意味を含むが、さらに「田」を重ねたものではないかと思われる。 【名前に含まれる地名・氏族名】 《品陀真若王》 品陀真若王が 天皇に三姉妹を嫁がせたのは、垂仁天皇に娘たちを嫁がせた旦波比古多多須美知宇斯王を想起させる (第116回【旦波比古多多須美知宇斯王の女】)。 ここでは、品陀真若王一族が娘三人を嫁がせた閨閥であったことになる。
応神天皇陵については、雄略天皇紀九年条に「百尊」の逸話がある (第110回【上毛野君・百尊の逸話】)。 百尊が、嫁いで古市郡に住んでいた娘が生んだ孫の顔を見に行った帰りに、馬で「蓬蔂(いちびこ)の丘の誉田(ほむた)の陵(みささき)」を通ったときの話である。 これは昔から存在していた伝説を、書紀に収録したものと思われる。 だから、この大陵は誉田大王の陵であると、古くから言い伝えられてきたのである。 誉田大王を葬った一族の子孫が、書紀の時代まで連続的に誉田村に居住していた可能性もないとは言えない。 《額田大中日子命》
《妹大原郎女》
荒田郎女が住んだ「荒田」も和泉であろうか。書紀では「荒田皇女」と書く。 《阿倍郎女》
《阿具知能三腹郎女》
《木之菟野郎女》
《三野郎女》 美濃国は、三野とも書かれた。開化天皇段に「三野国の本巣国造」 (第109回)。 地名「みの」は他にも各地にあった 第103回【三野】)。 《丸邇之比布礼能意富美》 駿河浅間大社所蔵の系図によると、日觸使主命は難波根子建振熊命の子で、米餅搗大臣命(たがねつきおほみのみこと)の兄弟である (第105回【和邇氏】)。 書紀では「和珥臣祖日觸使主」で、「和珥臣等始祖」とされる天足彦国押人から数えて8世の孫となっている。 《宮主矢河枝比賣》 「宮主」「矢河」「宅」という氏族名は見られない。 《八田若郎女》
地名のヤタは、美田あるいは王の居所や神殿の美称だったのかも知れない。三種の神器に八咫鏡・八咫瓊勾玉があるからである。 妹八田若郎女(矢田皇女)がどのヤタにいた媛であるかは分からない。 ただ、他の皇子・皇女の名前の地名に、淡路国・紀伊国・山城国などが見られるので、その辺りかも知れない。 書紀では「矢田皇女」。 《宇遅能和紀郎子・宇遅之若郎女》
《桜井田部連》 桜井という地名は、各地にある。
安閑天皇は各地に屯倉を設け、そのうち桜井屯倉を妃の香々有媛(かがりひめ)の所有とした。 「与毎国田部」とは、その周辺国から一定数の農民を供出させて田部を構成したと読める。 大伴金村は、同時に小墾田屯倉〔大和国〕・難波屯倉〔摂津国〕の設置を奏上しているから、桜井屯倉は河内国河内郡の桜井郷とするのが自然である。 桜井田部連は桜井田部を司る家系を意味するから、書紀の「桜井田部連男鉏」は時代を遡った人物である。 また、記の「桜井田部連之祖嶋垂根」という書き方なら、桜井田部連に伝わる伝説上の始祖ということになる。 《日向之泉比売》
《忍坂大中比売》
《川原田郎女・玉郎女・登富志郎女・迦多遅王》 迦具漏比売の生んだ五王のうちこの4王については、地名にも姓氏にも関連するものを見出すことができない。 【記紀の比較】
《記における皇子の集計》 応神天皇段の終わりの方で、皇子の一人と見られる堅石王という名前が突然出てくるが、ひとまず除外しておく。 高木之入日売の妹である弟比売が生んだ皇子は、割注に【五柱】とあるが実際には4柱である。 阿具知能三腹郎女が割注で分断されているから、誤って二柱に数えたのかも知れない。 合計の女王十五柱は数が合う。なお「女鳥王」はこの時点では性別が確実ではないが、 後に仁徳天皇段に「乞庶妹女鳥王」の記述があるので、女王である(第171回)。 一方、男王十一柱となっているが、実際には12柱ある。 疑問なのは伊奢能麻和迦王で、これは明らかに伊奢之真若命と重複しているが、母の名前は異なる。 「伊奢之真若命」を母の名を訂正して書き加えたときに消したはずの「伊奢之真若命」が、手違いで残ったのかも知れない。 とすれば「十一王」の一応の説明はつくが、単なる数え間違えかも知れない。 割注として示された柱数の合計は28柱である。「伊奢之真若命」を抹消せずに清書した原稿に基づいて個別の柱数を数え、弟比売の子の数を誤り、 本文の二十六王と合わないままである。 《書紀における皇子の集計》 書紀の方も、皇子10柱、皇女9柱で「男女并廿王」にはならない。 可能性としては、書紀が伊奢能麻和迦王の重複に気付いて削除したときに「廿王」を直さなかったことが考えられる。 《記・書紀の間の相違点》 書紀は、「伊奢能麻和迦王」、迦具漏比賣の五子(次項)、そして三野郎女・幡日之若郎女を削除している。 それ以外は一対一対応が成り立つ。上述したように、それが「高目郎女」を「こむくのいらつめ」と訓む一つの根拠になる。 《迦具漏比賣》 全く同名の「迦具漏比賣」が、景行天皇の四世孫で景行天皇の夫人として存在する (第135回【大枝王・銀王】)。 「迦具漏比売」にはこのようなややこしさがあり、皇子の重要度も低いから書紀としては無視することにしたと思われる。 【書紀―応神天皇二年】 2目次 《立仲姫為皇后》
后(のち)に荒田皇女(あらたのみこ)大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)根鳥皇子(ねとりのみこ)を生みませり。 是の先、天皇皇后の姉(あね)高城入姫(たかきいりひめ)を以ちて妃(きさき)に為(し)たまひて、 額田大中彦皇子(ぬかたのおほなかつひこのみこ)大山守皇子(おほやまもりのみこ)去来真稚皇子(いざのまわかのみこ)大原皇女(おほはらのみこ)澇来田皇女(こむきたのみこ)を生みませり。 又皇后(おほきさき)の弟(おと)、弟姫(おとひめ)を妃としたまひて、 阿倍皇女(あへのみこ)淡路御原皇女(あはぢのみはらのみこ)紀之菟野皇女(きのうののみこ)を生みませり。
菟道稚郎子皇子(うぢのわかいらつこのみこ、うぢのわけいらつこのみこ)矢田皇女(やたのみこ)雌鳥皇女(めどりのひめみこ)を生みませり。 次に宅媛(やかひめ)之弟(おと)小甂【小甂、此(これ)烏(う、を)儺(な)謎(め、べ)と云ふ】媛(をなべひめ)を妃にしたまひて、 菟道稚郎姫皇女(うぢのわかいらつめのみこ)を生みませり。 次に河派仲彦(かはまたなかつひこ)の女(むすめ)弟媛(おとひめ)を妃としたまひて、 稚野毛二派皇子(わかのけふたまたのみこ)【派、此(これ)摩多(また)と云ふ】を生みませり。 次に桜井田部連男鉏(さくらゐのたべのむらじをさひ)之(の)妹(いも)糸媛(いとひめ)を妃としたまひて、 隼総別皇子(はやぶさわけのみこ)を生みませり。 次に日向泉長媛(ひむかのいづみのながひめ)を妃としたまひて、 大葉枝皇子(おほはえのみこ)小葉枝皇子(をはえのみこ)を生みませり。
根鳥皇子、是(これ)大田君(おほたきみ)之(の)始祖(はじめのおや)なり[也]。 大山守皇子、 是(これ)土形君(つちかたのきみ)榛原君(はりはらのきみ)凡(おほよそ)二族(ふたやから)之(の)始祖(はじめのおや)なり[也]。 去来真稚皇子(いざまわかのみこ)、是深河別(ふかかはのわけ)之始祖なり[也]。 皇子・皇女ともにみこと訓む。また、ひめみこという語も確かに存在していたから、 現在固有名詞につくときは「~のひめみこ」と訓むのが一般的である。 たとえば「"但馬皇女"+"たじまのひめみこ"」で検索すると474件ヒットするのに対して、「"但馬皇女"+"たじまのみこ"」では3件のみである。 けれども、現在でも同じ「あなた」を、男性は「貴方」、女性は「貴女」と書き分けたりするので、 「但馬皇女」と書いて「たぢまのみこ」と訓むことは自然であり、あり得たのではないかと思われる。 《宮主宅媛》 宅媛は、記の「矢河枝比賣(やかはえひめ)」と丙本の「やこ(か)ひめ」によって、「やかひめ」と訓まれているようである。 〈学研新漢和〉は「宅」の〈名乗〉(名前に使われる訓)のひとつに「やか」を挙げている。 《大田君》
《榛原君》
一方〈大辞典〉は、宇陀の榛原ではなく遠江国の榛原君とする。 だとすれば、土形君と同じ地方である。 榛は植物名「ハリ」。(万)1166 衣丹揩牟 真野之榛原 きぬにすりけむ まののはりはら。などがある。 地名の榛原は、倭名類聚抄・私記丙本ではハイハラなので、平安時代までに音韻変化が進んでいたと思われる。 《土形君》
訓みは、〈倭名類聚抄〉ではヒヂカタ、〈丙本〉ではツチカタである。 ヒヂは水分を含んだ泥という意味で、「土」はツチともヒヂとも訓む。 ヒヂカタとは別に、平安時代に現実に「ツチカタのきみ」を名乗る一族がいて、丙本はそれによったかも知れないので判断は難しい。 《深川別》
〈大辞典〉は、深川神社の地を深川別に結び付けている。京都市右京区に「福王子神社」があり、 掲出の御由緒によれば、応仁の乱で焼失した深川神社を寛永二年〔1644〕に再興した社だという。 《大意》 二年三月三日、仲姫を皇后とされ、 後に荒田皇女(あらたのみこ)、大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)、根鳥皇子(ねとりのみこ)を生みなされました。 この先、天皇は皇后の姉、高城入姫(たかきいりひめ)を妃とされ、 額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)、大山守皇子(おおやまもりのみこ)、去来真稚皇子(いざのまわかのみこ)、大原皇女(おおはらのみこ)、澇来田皇女(こむきたのみこ)を生みなされました。 また、皇后の妹、弟姫(おとひめ)を妃とされ、 阿倍皇女(あへのみこ)、淡路御原皇女(あはじのみはらのみこ)、紀之菟野皇女(きいのうののみこ)を生みなされました。 次に和珥臣(わにおみ)の先祖、日觸使主(ひふれのおみ)の娘、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)を妃にされ、 菟道稚郎子皇子(うじのわかいらつこのみこ、うぢのわけいらつこのみこ)、矢田皇女(やたのみこ)、雌鳥皇女(めどりのひめみこ)を生みなされました。 次に宅媛(やかひめ)之弟(おと)小甂媛(をなべひめ)を妃とされ、 菟道稚郎姫皇女(うじのわかいらつめのみこ)を生みなされました。 次に河派仲彦(かわまたなかつひこ)の娘、弟媛(おとひめ)を妃とされ、 稚野毛二派皇子(わかのけふたまたのみこ)を生みなされました。 次に桜井田部連男鉏(さくらいのたべのむらじおさひ)の妹、糸媛(いとひめ)を妃とされ、 隼総別皇子(はやぶさわけのみこ)を生みなされました。 次に日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)を妃とされ、 大葉枝皇子(おおはえのみこ)、小葉枝皇子(おはえのみこ)を生みなされました。 全体としてこの天皇は、男女合わせて二十名の皇子を生みなされました。 根鳥皇子は、大田君(おおたきみ)の始祖(はじめのおや)です。 大山守皇子は、 土形君(つちかたのきみ)・榛原君(はりはらのきみ)の二族の始祖です。 去来真稚皇子(いざまわかのみこ)は、是深河別(ふかかわのわけ)の始祖です。 まとめ 品陀和気命は、誉田の地を都とした大王をモデルにした可能性が高いように感じられる。 それは、この地の地付きの豪族から妃を娶った気配が見えるからである。 その皇子とされる仁徳天皇以下、難波王朝の大王が倭の五王として南朝宋と交流する。 そうだとすれば、軽で都を開いたのは不思議である。 書紀は単に「明宮」と称して「軽」を書かず、さらに別説を併記して極力「軽」に触れないようにしていると感じられる。 当時の人も、首を傾けざるを得なかったのだろう。 ここで改めて軽を見ると、懿徳天皇・孝元天皇の宮も置かれた伝説的な地である。 品陀和気天皇には、どうやらこの地の古代王朝の王が紛れ込んでいる。 難波王朝も古代であるが、軽にはさらに極々古い王朝の伝説が残っていたと見られる。 その古さは、ことによるとこの地が湖の中の「軽嶋」であった頃という程の古さか。弥生時代以前に遡る、史実の片鱗を見せているのかも知れない。 なお、品陀和気命が神功皇后を母とするのは、全く形而上の血縁関係である。 もう一つ、応神天皇は八幡神でもあり、その発祥の地は豊前国の宇佐八幡宮である。 この地方の伝説の王を兼ねていることも、また注目すべきことである。 品陀和気命は歴史的には古市郡の辺りに都を置き、朝鮮半島に積極的な進出を始めた大王であろうが、 神話としては時代と空間を超越した伝説の王でもある。 |
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2017.03.05(sun) [149] 中つ巻(応神天皇2) ▼▲ |
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於是天皇 問大山守命與大雀命詔
汝等者 孰愛兄子與弟子 【天皇所以發是問者 宇遲能和紀郎子有令治天下之心也】 爾大山守命白 愛兄子 次大雀命 知天皇所問賜之大御情而白 兄子者既成人是無悒 弟子者未成人是愛 於是(ここに)天皇(すめらみこと)、大山守命(おほやまもりのみこと)与(と)大雀命(おほさざきのみこと)とに問ひ詔(のたまはく) 「汝(いまし)等(ら)者(は)、兄子(あにみこ)与(と)弟子(おとみこ)と孰(いづく)をや愛(うつくしみ)する」とのたまふ 【天皇の是の問(とひ)を発(はな)ちたまひし所以(ゆゑ)者(は)、 宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)をして天下(あめのした)を治(をさ)めまさ令(し)む[之]心有ればなり[也]。】。 爾(ここに)大山守命白(まをさく)「兄子を愛(うつくしみ)す」とまをす。 次に大雀命、天皇の[所]問ひ賜ひし[之]大御情(おほみこころ)を知りて[而]白さく、 「兄子者(は)既に人と成りて是(これ)悒(うれ)へること無くて、弟子者未(いまだ)人と成らずて是愛(うつくしみ)す。」とまをす。 爾天皇詔 佐邪岐阿藝之言【自佐至藝五字以音】如我所思 卽詔別者 大山守命爲山海之政 大雀命執食國之政以白賜 宇遲能和紀郎子所知天津日繼也 故 大雀命者勿違天皇之命也 爾(ここに)天皇詔(のたまはく) 「佐邪岐(さざき)、阿芸(あぎ)之(の)言(こと)【佐自(よ)り芸に至る五(いつ)字(じ)音(こゑ)を以(もち)ゐる】我が所思(おもほゆる)が如(ごと)し。」とのたまひて、 即ち詔別(のりわけ)たまへる者(は)、 「大山守命は山海(やまうみ)之(の)政(まつりごと)を為(な)せ。大雀命は食国(をすくに)之政を執(と)りて以ちて白(まを)し賜(たま)へ。 宇遅能和紀郎子こそ所知(しらしける)天津日継(あまつひつぎ)なれ[也]。」とのりわけたまへり。 故(かれ)、大雀命者(は)天皇之命(おほせごと)に違(たが)ふこと勿(なし)[也]。 そして天皇(すめらみこと)は、大山守命(おおやまもりのみこと)と大雀命(おおさざきのみこと)に問われました。 「お前たちは、兄皇子と弟皇子のどちらを愛(いつく)しむか。」と。 【天皇がこの問を発せられた理由は、 宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)に、天下を統治させようする気持ちがあったことです。】 そこで、大山守命は「兄子を愛しむ。」と申しあげました。 次に大雀命は、天皇が問われたお気持ちを知って申しあげました。 「兄皇子は既に成人して、何も心配することはございません。弟皇子は未だ成人していない故、愛しむのです。」と。 その答を聞き、天皇は 「雀(さざき)よ、お前の言葉は私が思う所である。」と仰り、 それぞれに命じられました。 「大山守命は山と海の政(まつりごと)をせよ。大雀命は国の統治の政を執行し、奏上して差し上げよ。 宇遅能和紀郎子こそは、代々統治してきた皇統を継ぐ皇子である。」と。 そして、大雀命は天皇の命(めい)を違(たが)えることはありませんでした。 おとこ(弟子)…[名] 末の子。 発…(古訓) いたす。おこる。はなつ。 はなつ(放つ)…[他]タ四 放す。おしやる。 悒…[動] うれえる。(古訓)いたみ。なけく。いきとほる。 憂…(古訓) いたはる。うれふ。 なげく…[自]カ四 悲しむ。嘆いてため息をつく。 あぎ(我君)…[代] 二人称。親しみを込めて呼ぶ。 執…(古訓)とる。まもる。 をすくに(食国)…[名] おさめている国。 【愛】 「愛」の訓については、垂仁天皇段で「愛」に通ずるさまざまな和語について調べた (第117回【孰愛夫与兄】)。 そのうち、兄に対しては「うるはし」〔気高く美しい〕が該当する。 弟に対しては「はし」「うつくし」「めづ」「あわれぶ」〔いずれも可愛い〕が該当する。 「可愛がる」ニュアンスが強い語は、兄に対しては使いにくい。 上下関係抜きで中立的に「大切に思う」感情を表す語を選ぶのは難しいが、 優位感が一番薄いのは、「うつくし」であろうか。 年齢の上下に関係なく、大人びてしっかりした人格を基準に選ぶのなら「うるはし」も可能かも知れない。 【兄弟の順序】 妃は複数いるから、皇子が書いてある順序と実際に生まれた順序とは一般に一致しない。 しかし、取りあえず書かれた順のままで男子王だけを抜き出すと、 「額田大中日子命-大山守命-伊奢之真若命-大雀命-根鳥命-宇遅能和紀郎子-若沼毛二俣王-速総別命- 大羽江王-小羽江王-迦多遲王-伊奢能麻和迦王」となる。 このうち、宇遅能和紀郎子は大山守命・大雀命の後にあるから、 書かれた順がそのまま生まれた順を示しているのだろう。 すると、兄は額田大中日子命一人である。弟は七人いるが、事実上は宇遅能和紀郎子一人を指している。
この語が、「個別に~を命ずる」意味で使われているのは明らかである。 直感的に「のりわけ」と訓めるが、万葉集にも〈時代別上代〉にも「のりわけ」はない。そこで、「~わけ」という結合語を万葉集に探すと、いくつかの例がある(右)。 このように、「かな2文字の名詞・接頭語・動詞の連用形+わけ」は、様々な語を形成し得る。 「詔別」を「のりわけ」と訓んだとしても、それに類するものとして自然に受け止められるはずである。 【白賜】 たまふは貴人の行為への尊敬語をつくる。 一方、貴人に対して自らの行為を遜るときは基本的に「まつる」であるが、「たまふ」を用いる場合もある。 ここではそれに相当する。 【所知天津日継】 所知は、多くは「天下所知食」〔あめのした しらしめす〕の形で天皇を連体修飾する。
《「知らしめす」の成り立ち》
しかし万葉集の時代まで遡ると、音仮名によって「しらしめす」であったことが確定している。
「知らしめす」は「シラスの連用形+尊敬の補助動詞メス」で成り立っていることが分かる。 これが、天皇の統治を意味するときは、その前に「天下」「国」「天」「高」がつくのが基本である。 〈丙本〉には神武天皇の称号「始馭天下之天皇【波津久美志呂志女須〃部良美己止】」〔はつくみしろしめすすべらみこと〕がある。 「久美」は誤写であろうが、「しらしめす」が平安時代には「しろしめす」に移行していたことがわかる。 【大山守命為山海之政…】 山海の政は、次の段に「定二-賜海部山部山守部伊勢部一也」とあり、これらの部の統率者を意味すると思われる。 執二食国之政一以白賜は、「政務を執行し、天皇に奏上する」役割である。 これは、〈倭名類聚抄〉の「太政大臣【於保万豆利古止乃於保万豆岐美】」〔おほまつりことのおほまつきみ〕にあてはまる。 所知天津日継は、前項の通りである。 【佐邪岐】 大雀命の"雀"が「ささき」ではなく「さざき」と濁ることが、「邪」によって確定する。 また、名前や氏の上につける「大」は一般に美称をつくる接頭語であることが確認できる。 【書紀―応神天皇四十年正月八日】 17目次 《天皇問之曰汝等者愛子耶》
問之曰(とひてのたまはく)「汝(いまし)等(ら)者(は)、子(みこ)を愛(うつくしみ)するや[耶]。」とのたまひ、 対(こたへ)て言(まをさく)「甚(いと)愛(うつくしみ)しまつる[也]。」とまをす。 亦(また)問之(とひたまはく)「長(このかみ)与(と)少(をさなき)、孰(いづく)を尤(またける)か[焉]。」とのたまひ、 大山守命対(こたへ)て言く「[于]長子(このかみ)に不逮(およぶはあらず)。」とまをしき。
時に大鷦鷯尊、預(あらかじめ)天皇之(の)色(いろ)を察(み)て、 以ちて対へて言く「長(このかみ)者(は)、多(さは)に寒暑(さむきあつき、とし)を経(へ)て、既に為成人(なるひととな)りて、更に悒(うれ)へること無し[矣]。 唯(ただ)少子(をさなきこ)者(は)、未(いまだ)其の成不(なれるかいなか)知らず。是を以ちて、少子(をさなきこ)甚(いと)憐(うつくし)[之]。」とまをし、 天皇大(おほ)きに悦びて曰(のたまはく)「汝(いまし)の言(ことば)寔(これ)朕之心(わがみこころ)に合ふ。」とのたまひき。
然(しかれども)二(ふたはしら)の皇子(みこ)之(の)意(こころ)を欲知(しらむとほり)、故(かれ)是の問(とひ)を発(はな)ちき。 是を以ちて、大山守命之(の)対言(こたへごと)を不悦(よろこばざり)[也]。 《大意》 四十年正月八日、天皇は大山守命(おほやまもりのみこと)大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)を召し、 「お前たちは、私の皇子たちを愛(いつく)しむか。」とお聞きになり、 「それはもう、大いに愛しみます。」とお答えしました。 また、「長幼のどちらを、最も愛しむか。」とお聞きになり、 大山守命は「長子に及ぶ子はおりません。」とお答えしました。 すると、天皇の顔に不快さが表れ、 大鷦鷯尊は予め天皇の表情から察して、 こうお答えしました。 「長子は多くの年月を経て既に成人となり、更に憂えることはございません。 ただ、幼少の子は、まだどのように成長するかも分からず、これをもって幼少の子が大変愛おしく思います。」と。 天皇は大いに喜び、「お前の言葉こそが朕の御心に合う。」と仰りました。 この時天皇は、ずっと菟道稚郎子(うじのわかいらつこ)を皇太子にしようとする気持ちがありました。 けれども、二人の皇子の考えを知ることを望み、このような問いを発せられたのです。 それゆえ、大山守命が答えた言葉を喜びませんでした。 【書紀―四十年正月二十四日】 18目次 《立菟道稚郎子為嗣》
甲子(きのえね)〔二十四日〕、菟道稚郎子(うぢのわかいらつこ)を立たして嗣(ひつぎのみこ)と為(し)たまふ。 即日(そのひ)、大山守命に任(おほ)せて山川林野を掌(つかさど)ら令(し)めまして、 大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)を以ちて太子(ひつぎのみこ)の[之]輔(たすけ)と為(ならし)めまして、国の事を知(し)らしめ令(し)めませり。 《為太子輔之》 「之」は事実上接続詞「而」の代わりに多用されるが、 本来は直前の語(ここでは"輔")が動詞であることを確定するための、形式目的語である。 ここでは動詞句「輔之」〔たすく〕をさらに名詞化して、「たすけ」と訓むことになる。 「以A為B」は「AをBにする」という構文で、 ここではA=大鷦鷯尊、B=太子輔之〔太子のたすけ〕である。 《大意》 〔四十年正月〕 二十四日、菟道稚郎子(うじのわかいらつこ)を立たして皇太子とされました。 同じ日に、大山守命を任命して山川、林野を掌らせ、 大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)を皇太子の補佐として、国を統治させました。 まとめ 今回、大雀命の方が天皇に評価されて重要な地位を約束されるから、大山守命には不満が残る。 これが、後に反乱を起こすことへの伏線になっている。 一方、大雀命は天皇の真意を見抜いたように洞察力に優れ、行動も慎重であった。 後に宇遅能和紀郎子と皇位を譲り合い、しばらく空位が続く。 |
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2017.03.10(fri) [150] 中つ巻(応神天皇3) ▼▲ |
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一時 天皇越幸近淡海國之時 御立宇遲野上望葛野歌曰
一時(あるとき)、天皇(すめらみこと)近淡海国(ちかつあふみのくに)に越え幸(いでま)しし[之]時、宇遅野上(うぢのののへ)に御立(みたたし)して葛野(かつの)を望みまして歌(みうたよみたまはく)[曰]、 知婆能 加豆怒袁美禮婆 毛毛知陀流 夜邇波母美由 久爾能富母美由 知婆能(ちばの) 加豆怒袁美礼婆(かつのをみれば) 毛毛知陀流(ももちだる) 夜邇波母美由(やにはもみゆ) 久爾能富母美由(くにのほもみゆ) 故到坐木幡村之時 麗美孃子遇其道衢 爾天皇問其孃子曰 汝者誰子 答白 丸邇之比布禮能意富美之女名宮主矢河枝比賣 天皇卽詔其孃子 吾明日還幸之時入坐汝家 故(かれ)木幡村(こはたむら)に到り坐(ま)しし[之]時、麗美(うるはしき)嬢子(をとめこ)と其の道衢(ちまた)に遇(あ)ひて、 爾(ここに)天皇其の嬢子に問ひたまはく[曰]「汝(いまし)者(は)誰(た)が子(こ)か。」ととひたまひて、 答(こた)へ白(まを)さく「丸邇之比布礼能意富美(わにのひれのおほみ)之(の)女(むすめ)名は宮主矢河枝比売(みやぬしやかえひめ)とまをす」とまをしき。 天皇即ち其の嬢子に詔(のたま)はく「吾(われ)明日(あした)還(かへ)り幸(いでま)しし[之]時に汝(なが)家(いへ)に入り坐(ま)さむ」とのたまふ。 故 矢河枝比賣委曲語其父 於是父答曰 是者天皇坐那理【此二字以音】恐之我子仕奉 云而 嚴餝其家候待者明日入坐 故獻大御饗之時 其女矢河枝比賣命 令取大御酒盞而獻 於是天皇 任令取其大御酒盞而御歌曰 故(かれ)、矢河枝比売委曲(つばらかに)其の父(ちち)に語りて、 於是(ここに)父答へて曰はく「是者(こは)天皇(すめらみこと)の坐(ま)す那(な)理(り)【此の二(ふた)字(じ)音(こゑ)を以(もちゐ)る】。[之]恐(かしこ)まりて我が子(むすめ)仕(つか)へ奉(たてまつ)らむ。」と 云(い)ひて[而]、其の家に厳(いつの)餝(かざり)して候待(さもら)へ者(ば)、明日(あくるひ)に入り坐せり。 故(かれ)大御饗(おほみあへ)献(まつ)りし[之]時、其の女(むすめ)矢河枝比売の命(みこと)、大御酒盞(おほみさかづき)を取ら令(し)めて[而]献(たてまつ)りき。 於是(ここに)天皇、其の大御酒盞を取ら令(し)めまつらゆる任(まにま)に[而]御歌(みうたよみたまはく)[曰] 許能迦邇夜 伊豆久能迦邇 毛毛豆多布 都奴賀能迦邇 余許佐良布 伊豆久邇伊多流 伊知遲志麻 美志麻邇斗岐 美本杼理能 迦豆伎伊岐豆岐 志那陀由布 佐佐那美遲袁 酒久酒久登 和賀伊麻勢婆夜 許波多能美知邇 阿波志斯袁登賣 宇斯呂傳波 袁陀弖呂迦母 波那美波 志比比斯那須 伊知韋能 和邇佐能邇袁 波都邇波 波陀阿可良氣美 志波邇波 邇具漏岐由惠 美都具理能 曾能那迦都爾袁 加夫都久 麻肥邇波阿弖受 麻用賀岐 許邇加岐多禮 阿波志斯袁美那 迦母賀登 和賀美斯古良 迦久母賀登 阿賀美斯古邇 宇多多氣陀邇 牟迦比袁流迦母 伊蘇比袁流迦母 許能迦邇夜(このかにや) 伊豆久能迦邇(いづくのかに) 毛毛豆多布(ももつたふ) 都奴賀能迦邇(つぬがのかに) 余許佐良布(よこさらふ) 伊豆久邇伊多流(いづくにいたる) 伊知遅志麻(いちぢしま) 美志麻邇斗岐(みしまにとき) 美本杼理能(みほどりの) 迦豆伎伊岐豆岐(かづきいきづき) 志那陀由布(しなだゆふ) 佐佐那美遅袁(ささなみぢを) 酒久酒久登(すくすくと) 和賀伊麻勢婆夜(わがいませばや) 許波多能美知邇(こはたのみちに) 阿波志斯袁登売(あはししをとめ) 宇斯呂伝波(うしろでは) 袁陀弖呂迦母(をだてろかも) 波那美波(はなみは) 志比比斯那須(しひひしなす) 伊知〔比〕韋能(いち〔ひ〕ゐの) 和邇佐能邇袁(わにさのにを) 波都邇波(はつには) 波陀阿可良気美(はだあからけみ) 志波邇波(しはには) 邇具漏岐由恵(にぐろきゆゑ) 美都具理能(みつぐりの) 曽能那迦都爾袁(そのなかつにを) 加夫都久(かぶつく) 麻肥邇波阿弖受(まひにはあてず) 麻用賀岐(まよがき) 許邇加岐多礼(こにかきたれ) 阿波志斯袁美那(あはししをみな) 迦母賀登(かもがと) 和賀美斯古良(わがみしこら) 迦久母賀登(かくもがと) 阿賀美斯古邇(あがみしこに) 宇多多気陀邇(うたたけだに) 牟迦比袁流迦母(むかひをるかも) 伊蘇比袁流迦母(いそひをるかも)
如此御合生御子 宇遲能和紀【自宇下五字以音】郎子也
葛野…〈倭名類聚抄〉{山城国・葛野郡}。 ももちだる…[自]ラ四 満ち足りている。 やには…[名] 人里。 ほ(穂)…[名] 秀でたもの。外形的に飛び出て目立つもの。 かたる(語る)…[他]ラ四 物事を語り聞かす。〈時代別上代〉聞き手を意識して一まとまりの内容を話しかける場合によく使われ、ノルやツグと異なる。 いつ-…[接頭] 「いつ-」「いつの-」の形で体言に続く用法のみ。神聖な。荘厳な。 とく(着く)…[自]カ四 「着(つ)く」の音韻変化 (第85回【3御魂の名称】、 第95回【加毛度久斯麻邇】)。 ももづたふ(百伝ふ)…[枕] 角鹿、渡会などにかかる。〈時代別上代〉かかり方未詳。 よこさらふ(横去らふ)…[自]ハ四 横に移動する。横+去るの未然形+動詞語尾「ふ」(継続・反復の意を加える)。蟹は横に歩く。 しなだゆふ…[枕] 楽浪路(ささなみぢ)にかかる。意味不明。 すくすくと…[副] どんどん。諸本は「須久須久」 て…[名] 方面。 うしろで…[名] 後姿。 おだて(小楯)…[名] 「を-」は接頭語で、小さい、あるいはかわいいものとして親しみをこめる。 ろかも…[助] 「ろ」は、体言や形容詞の連体形と、助詞「かも」の間に挟む。 はなみ…[名] 歯並び。 いちひゐ…壹比韋臣。「櫟比」とも。大和国添上郡に和爾町に隣接して櫟本村がある (第105回)。 みつぐりの…[枕] 「中」にかかる。三栗は、中に栗の実3個が入ったいが。 に(土、丹)…[名] 土。また、赤色の硫化水銀などを含む土から「丹」が派生したという。 かぶ(頭)…[名] あたまを意味するか。 かぶつく…〈時代別上代〉未詳。火力の強いことを意味するか。 まよがき(黛)…[名] 眉墨で眉を描くこと。 もが…[助] 文末にあって、ある状態の実現を希望する。体言などのほか、副詞「かく」「か」(このように)を受けることがある。 うたたけだに…〈時代別上代〉未詳。 いそふ(争ふ)…[他]ハ四 先を争う。 【木幡村】 《道衢》 応神天皇は、山城国から境界を越えて近江国に入った。その経路は宇治郡からで、宇遅野上に登ったときに葛野郡(ただののこほり)の方を望み見て歌を詠んだ。 一方、乙女は角鹿(敦賀)方面から楽浪道(ささなみぢ)を南下して、木幡村(こはたむら)の巷で二人は出会う。 楽浪の位置については、建振熊命が忍熊王らを追ったところで考察した (第144回)。 宇治郡から大津方面にでる道は、東海道(国道一号線)が逢坂を回り込んでおり、この経路は古代からのものだろうと考えられる。 一方「この蟹や」の歌にでてくる「楽浪道」は、現在の国道161号線の旧道にあたると考えられる。 両道の「道衢」(ちまた、道のまた)にあたる現在の逢坂一丁目付近が木幡村となる(図右)。 《許波多神社》 一方、宇治郡には許波多神社がある。式内社で、〈神名帳〉に{山城国/宇治郡/許波多神社三座【並名神大月次新甞】}。 比定社は、許波多神社(こはたじんじゃ、京都府宇治市五ヶ庄古川13、図左:A)、許波多神社(こはたじんじゃ、京都府宇治市木幡東中1、図左:B)の二社がある。 五ヶ庄の許波多神社は、社伝によれば祭神は瓊々杵尊・天忍穂耳尊・神武天皇、孝徳天皇大化元年〔645〕創建。 「明治九年〔1876〕柳山境内地が、陸軍火薬庫用地に上地仰付けられ旧園屋村の神社御旅所だった現在地に移転。柳神社を現名称に復した」という。 『釈日本紀巻第八』「正哉勝々速日天忍穂耳尊」に「山城風土記曰 宇治郡木幡社【祇社】名天忍穂長根命」。 応神天皇段で、「近江国に入る」コースからは外れているが、宇治郡の一帯に「木幡」という地名にまつわる伝承が広まっていた可能性を伺わせる。 【怒】 「加豆怒」が「葛野」であることは明らかだから、「怒」はノ甲と訓まれている。 〈時代別上代〉ヌと甲類ノとの音価の差、およびこれを表記する漢字の原音についてはかなり微妙な問題があり、 特に「奴」は、ヌと甲類のノに共用されていたかと思われるふしもある〈/時代別上代〉とされる。 〈古典基礎語辞典〉には、「江戸時代には「野」はヌととよむのが古語であるとされていた。それは、 『奴由伎(野行き)』〔(万)3978〕という例があり、〔中略〕「努」「怒」「弩」も中国の韻書によると奴と同音なので」 書紀の「阿婆努(浅野)」もアサヌとよむなど、「野」は一般にヌとよむのが正しいと見られたからからだという。 そして「しかし、橋本進吉の上代特殊仮名遣いの研究〔1917に論文発表〕によって、〔中略〕野はノ(甲類)に属することが知られたので〔中略〕ノとよむようになった。」と述べる。 「奴」については、万葉集・記は全部ヌで、書紀ではヌとノ甲があるというのが共通理解になっている。 一例を挙げると、地名「吉野」は明らかにヨシノであるが、(万)4099で「吉野宮」に「余思努乃美夜」が宛てられている。 (万)0036 吉野乃國之 花散相 よしののくにの はなぢらふ。 (万)4099 和期於保伎美 余思努乃美夜乎 わごおほきみ よしののみやを。 【こは~なり】 「なり」の由来には、①推定伝聞の「鳴り」と、②「に有り」の母音結合の二種類があり、これらが統合されて繋辞の「なり」になった。 ここでは「こは」とともに、「そんなことを聞くとは」という驚きの感情表現であり、①の伝聞の色合いが濃い。 「なり」の音仮名表現「那理」は、すでに上巻に「那理【此二字以音下效此】」と示されている (第70回)。 この「下效此」はまだ有効であるはずだが、ここでは敢えて音注を加えることにより特別に感情を込めた表現であることを強調している。 【意味不明な語句】 《いちぢ島・み島》 現在、琵琶湖にある島の名称は、竹生島、多景島、沖島である。 このうち、竹生島には式内社「都久夫須麻神社」〔つくぶすま神社〕がある。 この名称は竹生島が訛ったものだから「ちくぶしま」の名は相当古く、いちぢ島をその古名と見るのはむずかしい。 一般に、いちぢ島・み島とも不明とされている。 《わにさ》 宣長はわにさを「和邇坂」と解釈して、次のように述べる。
《かぶつく》 かぶつくについては、〈時代別上代〉は「火力の強いことを意味するか。」と推察する。「頭着く」=炎の先端(頭)が火の上に置いた加熱対象物に達する様子か。 しかし、前の文から続けて、赤と黒の中間の色合いの土を顔に塗ると読んだ方が自然に思える。ただ「かぶ」(頭)を顔の意味で使うかどうかは分からない。 《しは》 宣長は、しはにについては、次のように述べる。
《うたたけだに》 うたたけだにを分解してそれぞれの意味を見る。「うた」は副詞的に「何となく」の意。「うたた」は副詞「いよいよ~」で、「転盛(うたたさかる)」など。 「うたげ」は「宴」。「たけし」は勇猛。「だに」は最小限を留保する譲歩で、「せめてこのくらいは」。 しかし「うたたけだに」全体について決定的な解釈はなく、意味は確定していない。 【歌の解釈】 《この迦邇は》 「横さらふ」という歩き方をするから、「迦邇」が蟹であることは確実である。 前半は、接待の料理に出てきた蟹を見て、敦賀の蟹を歌う。 飛鳥時代から蟹は北陸の特産物であったらことが伺え、興味深い。 楽浪(ささなみ)から敦賀までの物流経路を神功皇后段で見たが、 ここでもその経路を想起させる (第145回【経歴淡海及若狭国之時】)。 獲れた蟹は特産物として朝廷に献上されたと思われる。しかし、敦賀から都までは数日はかかるだろうから、 何らかの調理をしたものを運んだのであろう。 《楽浪道をすくすくと、我が坐せばや、木幡の道に逢はしし乙女》 はるばる海をやってきた蟹は、少女に姿を変えてすくすと楽浪の道を歩み、 「我が坐す」木幡村の道で出逢った。「坐す」「逢はす」は自敬表現。 《後姿は小楯(をだて)ろかも、歯並みは椎菱なす》 後姿を譬えた「をだて」とは、小さく愛らしい盾であろうか。 歯並びを椎・菱という木の実を並べたものと表すのは、とても素朴に感じられる。 《櫟井の和邇さの土を》 ここから、急に難解になる。 ● ハツニ・シハニについて。辰砂を含む「初土」とは、最上級の土で、 黒色をした「終土(しはに)」は、最低クラスの土という意味か。あるいは、単なる語呂合わせであろうか。 どちらにしても、その中間の土を用いたということである。 ● もがは願望を表す助詞で、時に副詞「斯(か)く」を伴うことがあるというから、「かもが」「かくもが」は「このようにあってほしい」という意味となる。 ● わが見し子らは、この歌の後に「この如く生(あ)れましし御子は」とあるから、この乙女との間に生まれてくる子を指すと思われる。 「見し」のしは完了の助動詞きの連体形であるが、これは未来の中の出来事における完了である。現代語で「将来生まれて来た子供は」というのと同じである。 以上の検討により、意味は通らないがひとまず直訳してみる。 ――「和邇さ」の土の、赤膚の初土(はつに)でもない、黒い終土(しはに)でもない、その中間の色合いの土を頭につける。直接火を当てずに眉墨で眉を書く。 乙女よ、そのようにあれ。生まれて来た子も、そのようにあれ。 生まれて来た子は「うたたけだに」競うだろう。 これを次のように解釈してみたが、適切であるかどうかは分からない。 ――乙女の膚は赤過ぎず黒過ぎず、ちょうどよい埴土を塗ったような色である。 眉は黛を引いたようにくっきりして、膚は火を通す前の野菜のようにみずみずしい。 乙女にも、生まれてくる子どもにも、私はその姿を望む。母子はその姿を競い合い、きっとにぎやかな家庭になることだろう。 《再び「うたたけだに」》 この解釈では「うたたてだに」は、「賑やかに」とする。 もし「たけ」が「武」である場合は、「対ひ居る」「争ひ居る」は敵と勇猛に戦う子に育てという意味になる。 ただ、前につけられた「うた」(何となく)は、「猛々しく」とは合わない。 やはり、丸ごとの「うたたてだに」が、何らかの意味をもつ語として存在していたとしか思えない。 【書紀―応神天皇六年】 5目次 《天皇幸近江国》
《大意》 六年二月、 天皇は近江国にお出かけになり、菟道(うじ)の野の上に到着し、御歌を詠まれました。 ――千葉の葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ まとめ 応神天皇の都は、河内国であった。近江に巡幸することが不自然とまでは言い切れないが、 成務天皇、あるいは仲哀天皇のところに入るべき話が紛れ込んだのかも知れない。 さて、「この蟹や」の歌は、前半は随分分かり易いのに後半は難解だから、もともとは前後半が別々の歌として存在していたのかも知れない。 後半部分には、意味不明の語がいくつもある。 記の歌謡は基本的に書紀にも収められているが、この歌は例外的に収められていない歌の一つである。 書紀編纂の時代にして、既に意味不明な箇所が解決されなかったから採用を躊躇い、 さらに実質的な内容も「宮主宅媛に出会って御子を生んだ」以上のことはないから、 省略することに決めたのかも知れない。 意味不明の語は文字が残る以前の、極めて古い語であった可能性がある。 例えば、「しは」は古墳時代には「終わり」の意味で普通に使われていたが、次第に「をふ」に置き換えられた。 そして万葉集の最古の歌が詠まれた時には、既に「しは」は絶滅していて派生語の「しはす」のみが僅かに残っていた…という筋書きが考え得る。 そう考えると、「縛(しば)る」「しまる(締まる、閉まる、絞まる)」も元を正せば「しは」の派生語かも知れない。 |
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⇒ [151] 中つ巻(応神天皇4) |