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[142]  中つ巻(神功皇后3)

2016.12.29(thu) [143] 中つ巻(神功皇后4) 

於是 息長帶日賣命於倭還上之時
因疑人心一具喪船御子載其喪船
先令言漏之御子既崩
如此上幸之時 香坂王忍熊王聞而
思將待取進出於斗賀野爲宇氣比獦也

於是(ここに)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)[於]倭(やまと)に還(かへ)り上(のぼ)りましし[之]時、
人の心に疑(うたが)ゆるが因(ゆゑ)に、喪船(もふね)を一具(ひとそなへ)して御子其の喪船に載(の)らさしめまして、
先に言(こと)漏(も)ら令(し)めまさく[之]御子(みこ)既に崩(ほうず、かみあがりませり)ともらしめませり。
此の如くして上り幸(いでま)しし[之]時、香坂王(かごさかのみこ)忍熊王(おしぐまのみこ)こを聞きて[而]
[将]待ちて取らむと思ひて、[於]斗賀野(とがの)に進み出(い)でて宇気比獦(うけひがり)為(す)[也]。


爾香坂王騰坐歷木而
是大怒猪出堀其歷木卽咋食其香坂王
其弟忍熊王不畏其態
興軍待向之時赴喪船將攻空船

爾(ここに)、香坂王歴木(くぬぎ)に騰(のぼ)り坐(を)りて[而]、
是(これ)大(おほき)に怒(いか)れる猪(ゐ)出(い)でて其の歴木を堀りて、即ち其の香坂王を咋(く)ひ食(は)めり。
其の弟(おと)忍熊王其の態(さま)を不畏(おそりず)して、
軍(いくさ)を興(おこ)して待ち向ひし[之]時、喪船赴(おもぶ)けて[将]空船(むなふね)を攻(う)たむとす。


爾自其喪船下軍相戰
此時忍熊王 以難波吉師部之祖伊佐比宿禰爲將軍
太子御方者 以丸邇臣之祖難波根子建振熊命爲將軍
故追退到山代之時 還立各不退相戰

爾(ここに)、其の喪船(もふね)自(よ)り軍(いくさ)を下(おろ)して相(あひ)戦ふ。
此の時忍熊王、難波吉師部(なにはきしべ)之(の)祖(おや)伊佐比宿祢(いさひのすくね)を以(も)ちて将軍(いくさのかみ)と為(す)。
太子(ひつぎのみこ)の御方(みかた)者(は)、丸邇臣(わにのおみ)の祖、難波根子建振熊命(なにはねこたけふるくまのみこと)を将軍と為(し)たまふ。
故(かれ)追ひ退(しりぞ)きて山代(やましろ)に到りし[之]時、還(かへ)り立ちて各(おのもおのも)不退(ひかず)して相(あひ)戦ふ。


 ここに、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)が 倭に帰り上られた時、 反乱を考えている人がいるのではと疑い、葬船を仕立てて御子をその船に載せなさりまして、 予め御子は既に崩じてしまったとの噂を漏らさせました。
 このようにして上られた時、香坂王(かごさかのみこ)忍熊王(おしくまのみこ)はこれを聞き、 待ちかまえて討ち取ろうと考え、斗賀野(とがの)に進出して誓狩(うけいがり)を行いました。 そして、香坂王は櫟(くぬぎ)に登っていたところ、 何と大いに怒った猪が現れ、その櫟の根元を堀って倒し、ただちに香坂王に食いついて食べてしまいました。
 その弟の忍熊王はその様子を見ても畏れることなく、 軍勢を起こして待ちうけていたところに葬船が到着し、偽りの葬船を攻めようとしました。 すると、その葬船から兵を降ろして戦闘が起りました。
 この時忍熊王は難波吉師部(なにわきしべ)の先祖、伊佐比宿祢(いざいのすくね)を将軍としました。
 皇太子の側は、丸邇臣(わにのおみ)祖(おや)難波根子建振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)を将軍とされました。 そして逃げる敵を山代(やましろ)まで追いつめたところで敵は反撃に転じ、互いに退くことない激戦となりました。


…(古訓) うたかひ。
もる(漏る)…[自]ラ四 漏る。
香坂(かごさか)忍熊(おしぐま)第138回参照。
とがの…現代地名に大阪府北区兎我野(とがの)町。
…[動] 狩りをする。=猟。
うけひがり…[名] 〈丙本-神功〉祈_狩【宇介比加利】〔うけひかり〕
…[名] (古訓) すかた。さま。 
歴木…〈倭名類聚抄〉「本草云舉樹【和名久沼木】〔くぬき〕日本紀私記云歴木」。
をり(坐り、居り)…[自]ラ変。とどまっている。すわる。(万)4264 船上波 床 ふねのうへは とこにをるごと
…[名] (古訓) くぬき。くひせ。 
もふね(喪船)…[名] 棺を載せる葬送の船。
…(古訓) そら。むなし。
むな(空)… 空虚なさま。
…(古訓) うつ。せむ。
かた(方)…[名] 対をなす一組の中の一方。
かへりたつ(還立)…[自]タ四 ひきかえす。

【斗賀野】
前5世紀ごろ
 書紀では、菟餓野。 綱敷天神社公式ページの「兎我野町」に詳細な考察がある。 それによると、梅田の一帯が兎我野と呼ばれたが、現在の兎我野町は復古地名である。 現在の兎我野町の位置は、上町台地の北。縄文時代は、当時の河内湾に南から突き出た半島の先端部にあたる (第96回【旧河内湾】)。 奈良時代には平原になっていた。
 武庫郡都賀川とする説もあるが、仁徳天皇紀三十八年七月条の「天皇與皇后居高臺而避暑 時毎夜自菟餓野有聞鹿鳴〔天皇と皇后は高台にいて避暑したとき、毎夜兎我野から鹿の鳴くを聞く〕という記事があるから、 上町台地から鹿の声が聞こえるぐらいの距離ということになる。
 
【赴喪船】
 語順から見るとは他動詞〔下二段、おもむかせる〕で、主語「息長帯日売命」が隠れているが、実質的な主語は喪船である。

【是大怒猪出】
 は初出だから、は指示語ではない。そのまま「これ」と訓み、聞き手に驚きを誘導するものと見られる。

【攻空船】
 「攻空船」は、「攻めかかった船は、実は死者の棺は載っていない偽りの喪船であった」を、極めて簡潔に表現する。 この「空船」を仕立てたのは、わざと隙を見せて、反乱の意図をもつ者を焙り出そうという戦略であると言える。 「一具〔ひとそなへ〕という言葉にも「作為をこらした」ニュアンスが漂う。
 しかし書紀は、この策略については話を盛って面白くしたものと判断したようである。 書紀の編者は喪船というのなら、まずは仲哀天皇の遺体の船として登場すべきべきだと考えた。 さらに、忍熊王らは誉田別皇子の即位を妨害するために決起したものであるとの説明を加えている。 それは確かに筋が通っているが、記に比べると随分生真面目であると言える。

【丸邇臣の祖難波根子建振熊命】
 丸邇(わに)氏は、大和国添上郡の和邇に発祥し、その後全国展開したと見られることを崇神天皇段で論じた (第114回【和邇氏後継諸氏の展開との相似】)。
 そして、和爾氏から派生した氏族に伝わる系図を、孝昭天皇段で見た (第105回【和邇(和珥)氏】)。
 もともと独立した氏族であったが、後継氏族の多くは天武天皇から朝臣姓を賜り、朝廷を構成する官僚となる。
 この難波根子建振熊命は、 〈姓氏家系大辞典〉所引の駿河浅間大社大宮司家に伝わる系図(第105回)では、 孝昭天皇の皇子天足彦押人命から数えて8世の孫に位置づけられている。 その父の大難波宿祢命とともに「難波」の号がつくから、この地の伝説上の人物として登場している。

【難波吉師部之祖伊佐比宿祢】
 吉師は、新羅の官位制度の「吉士〔길사 [kiɾsa]、17階級中14位〕に由来すると言われる。 応神天皇段にも、百済から来日した「阿知吉師」「和邇吉師」の名が見える。
 上代の日本では、〈時代別上代姓の一つとして朝鮮出身の下級官吏に用いられている〈/時代別上代〉。
 ここでは「吉師部」だから、吉師の号をもった渡来人を祖とする一族が「部」となったものであろう。 「部」は皇族の誰かに仕える集団、あるいは職能集団として存在した。 続紀天平六年〔734〕三月丙子条に「摂津職奏吉師部楽」とあることから、もともと吉師部は歌舞を担う職業部で、 そのスタイルを真似た歌舞が吉師部楽と呼ばれるようになったと考えることができる。
《書紀の吉師祖五十狭茅宿祢》
 一方、書紀では「吉師祖五十狭茅宿祢」であり、「難波」が取れている。 そして「犬上君祖倉見別〔いぬかみのきみのおや くらみわけ〕という人物と共に将軍となり、東国の兵を糾合している。 犬上郡(近江国)は東国に隣接している。同様にここの吉師も東国または東国に接する地域の吉師を指すはずである。 少し探すと、吉師は難波を初めとしていくつかの地域にあり、一番東は9世紀に武蔵国男衾(おぶすま)郡に「壬生吉志福正」という名の人物がいた。 しかし、これ以上の吉師の探求は、今後の課題としてひとまず棚上げしたい。

【追退到山代之時還立各不退相戦】
 退とは主語が異なる。 正確には「太子追忍熊王、忍熊王退而到山代之時還立、太子与忍熊王不退相戦」と理解すべきであろう。 古事記の本来の姿は語り聞かせのための台本であるから、 読み聞かせの場においては「おひ」はその前の文から同じ主語だから、前文から続けて声高に、そして声のトーンを落として「しりぞき」と読めば主語の転換は伝わるだろう。 厳密に訓むべき場合は、主語や目的語を補って「忍熊王を追ひて、忍熊王退きて山代に到りて…」などと訓めばよいように思われる。

【山代】
 書紀ではこの山代〔山城国〕菟道とする。 大和国にも宇知郡があるが、山城国の宇治郡であろう。 書紀では犬上君の祖の倉見別が将軍であるから、本拠地に近いところに撤退したことになる。
 宇治の伝説を見ると、山城国風土記逸文に「軽嶋明御宇天皇之子宇治若郎子〔応神天皇の子、うぢのわきいらつこ〕 が、この地に居所を置いたという話があるが、忍熊王の話は見あたらない。
 とは言え、宇治はかつて忍熊王が治めた国で、征服後に応神天皇が皇子を配置したという筋書きは、一応成り立つ。

【御方】
 は尊敬の接頭語。そしては、相手方に対する「こちら方」の意味であるが、 既に現代語の「味方」と同じ「自分の仲間」という意味を帯びつつあると見られる。 「みかた」の語源は御方で、「味方・身方は当て字」〈学研新漢和辞典〉とされる。

【神功皇后の上陸地】
 神功皇后の上陸に関して記に書かれた記事は、倭〔飛鳥・纏向方面〕に海路帰還したことと、忍熊王が山代国〔=山城国〕に 移って迎撃の体制をとったことだけである。上陸地がどこであったかには触れていない。
 しかし、神功皇后紀には紀伊水門で皇子を降ろして難波〔おそらく難波の津〕を目指し、務古水門〔武庫湊〕に漂着したと書いてある。 記でも敵味方両方の将軍の名に「難波」が入っていることが、難波から上陸したことを示唆する。 難波は、上町台地の北部にあたる(後述)。
 神功皇后が難波から上陸したことが、記紀の共通認識になっていたことは、間違いないであろう。 神功皇后紀で、皇后が立ち寄ったとされる難波津、紀伊湊、武庫湊は、 何れも西国との海上交通の拠点である。小竹宮(御坊市)も、かつて弥生時代の交流の記憶が残る地と思われる。 その各の土地に女王の渡来伝説があり、書紀はそのすべてを拾い上げて物語を組み立てた可能性がある。
 神功皇后紀は、その素材として使えそうな伝説を底引き網漁のようにして集め、それらをすべて組み込んだ印象を受ける。

【書紀-移于穴門豊浦宮】
目次 《移于穴門豊浦宮》
 神功皇后は、穴門〔長門国〕での殯(もがり)を終え、畿内に帰還する。 しかし、麛坂王・忍熊王が逆族となって難波から上陸しようとする皇后を待ち構えていた。 その部分を7段に区切って読む。7段のうち記に対応するのは、で、それ以外は書紀のみに書かれる。
《明年二月》
…「も」または「もがり」。
も(喪)…人の死後、親族が謹慎する期間。
もがり(殯)…喪屋に置くこと。
(みやこ)…神功皇后は磐余(いわれ)の稚桜(わかさくら)宮で崩ずるので、倭を指すことになる。
爰伐新羅之明年春二月、
皇后、領群卿及百寮、移于穴門豐浦宮。
卽收天皇之喪、從海路以向京。
時、麛坂王忍熊王、聞天皇崩亦皇后西征幷皇子新生、
而密謀之曰
「今皇后有子。群臣皆從焉。必共議之立幼主。
吾等何以兄從弟乎。」

爰(ここに)新羅を伐(う)ちたまひし[之]明年(あくるとし)〔仲哀天皇九年の翌年〕春二月(きさらき)、
皇后(おほきさき)、群卿(まへつきみたち)及(と)百寮(もものつかさ)とを領(をさ)め、[于]穴門(あなと)の豊浦宮に移りませり。
即ち天皇(すめらみこと)之(の)喪(も)を収(をさ)めまつりたまひて、海路(うみぢ)従(ゆ)[以ちて]京(みやこ)に向ひませり。
時に麛坂王(かごさかのみこ)忍熊王(おしぐまのみこ)、天皇崩(ほうじ、かむあがりし)て、亦(また)皇后西を征(う)ちて、并(また)皇子(みこ)新たに生(あ)れませりと聞きて、
而(しかるがゆゑに)密(ひそかに)謀(はか)りて[之]曰(まを)さく、
「今皇后に子(みこ)有り。群臣(まへつきみたち)皆(みな)従(したが)ひて[焉]、必ずや共に議(はか)りて[之]幼(をさな)き主(ぬし)を立たさむ。
吾等(われら)何(いか)にか兄(このかみ)を以ちて弟(おと)に従ふや[乎]。」とまをす。

《伐新羅之明年》
 「新羅を伐(う)ちたりし明くる年」。 仲哀天皇は既に崩じたから「仲哀天皇十年」とは書けず、また「神功皇后元年」と決める前だから、 この表現になった。
《偽りの作陵》
…①[形] くわしい。②[動] いつわる。「佯」に当てた用法。〈古訓〉いつはる。
…[動] (古訓) いたる。おもふく。まうつ〔まゐづ〕
…(古訓) おこる。たとふ。
赤石…〈倭名類聚抄〉{播磨国・明石【安加志】郡・明石【安加之】郷〔あかし〕
絚(緪)…弦をぴんと張る。端から端まで行き渡る。 〈甲本〉絙【禾タル】〔わたる〕
…[動] あむ。順序を整えて組み立てる。(古訓) あむ。つらぬ。
…(古訓) ことに。つねに。
犬上君…〈倭名類聚抄〉に{近江国・犬上【以奴加三】郡〔いぬかみのこほり〕
…(古訓) つかふ。よる。
乃詳爲天皇作陵、詣播磨、興山陵於赤石。
仍編船、絚于淡路嶋、運其嶋石而造之。
則毎人令取兵而、待皇后。
於是、犬上君祖倉見別與吉師祖五十狹茅宿禰、共隸于麛坂王、
因以、爲將軍令興東國兵。

乃(すなはち)詳(いつは)りて天皇の為(ため)に陵(みささき)を作りまつり、播磨(はりま)に詣(まゐで)て、[於]赤石に山陵(やまのみささき)を興(おこ)す。
仍(すなはち)船を編(つら)ねて、[于]淡路島(あはぢのしま)に緪(わた)りて、其の嶋の石を運びて[而]之(これ)を造らしむ。
則(すなはち)人毎(ごと)に兵(つはもの)に取ら令(し)めて[而]、皇后を待ちまつる。
於是(ここに)、犬上君(いぬかみのきみ)の祖(おや)倉見別(くらみわけ)与(と)吉師の祖五十狭茅宿祢(いさちのすくね)と、共に[于]麛坂王に隸(つか)へ、
因以(しかるがゆゑに)、将軍(いくさのかみ)と為(せ)しめて、東国(あづま)の兵(つはもの)を興(おこ)さ令(し)めき。

《誓ひ狩》
さずき(仮庪、仮床)…[名] かりに作った床。桟敷(さじき)の古形。 〈丙本〉假庪【佐須゛支仁乎利】〔さずきにをり〕
…[形] (古訓) あやし。あやしふ。
…[動] (古訓) あつまる。
住吉…〈倭名類聚抄〉{摂津国・住吉【須三与之】郡}。{播磨国・明石郡・住吉【須美与之】}。
時、麛坂王・忍熊王、共出菟餓野而祈狩之曰
【祈狩、此云于氣比餓利】
「若有成事、必獲良獸也。」
二王各居假庪、
赤猪忽出之登假庪、咋麛坂王而殺焉。
軍士悉慄也。
忍熊王謂倉見別曰
「是事大怪也。於此不可待敵。」
則引軍更返、屯於住吉。

時に、麛坂王忍熊王、共に菟餓野(とがの)に出(い)でて[而]祈狩(うけひがり)して[之]曰(まを)さく
【祈狩、此(これ)于気比餓利(うけひがり)と云ふ。】
「若し事を成すこと有らば、必ずや良き獣(けだもの)を獲(と)らむ[也]。」とまをす。
二王(ふたみこ)各(おのもおのも)假庪(さずき)に居(を)りて、
赤き猪(ゐ)忽(たちまちに)出(い)で[之]て假庪に登り、麛坂王を咋(くら)ひて[而]殺しき[焉]。
軍士(いくさひと)悉(ことごとく)慄(わなな)けり[也]。
忍熊王倉見別に謂ひて曰はく
「是の事大(おほき)に怪(あや)し[也]。[於]此(ここ)に敵(あた)を待つ不可(べくもあらず)。」
則(すなはち)軍(いくさ)を引きて更に返して、[於]住吉(すみのえ)に屯(あつ)まる。

《皇子の避難》
よこさま(横)…[名] 横の方。
時皇后、聞忍熊王起師以待之、
命武內宿禰、懷皇子横出南海、
泊于紀伊水門。
皇后之船、直指難波。

時に皇后、忍熊王師(いくさ)を起こして[以ちて]待(ま)つ[之]と聞こしめして、
武内宿祢(たけのうちのすくね)に命(おほ)して、皇子(みこ)を懐(むだ)かしめて横(よこさま)に南の海に出(い)だしめて、
[于]紀伊(きい)の水門(みなと)に泊(は)てり。
皇后之船、直(ただ)に難波(なには)を指しませり。

《祀天神地祇》
務古水門…〈釈日本紀巻十一〉務古水門摂州武庫郡也。 〈倭名類聚抄〉{摂津国・武庫【無古】郡・武庫郷〔むこ〕
ちかづく(近づく、近着く)…[他]カ四 接近する。
皇居…〈丙本〉オホサト
おほみや(大宮)…[名] 御殿。皇居。
…「をり」「ゐる」「すう」
…「ゐる」「います」「ます」
みこころ(御心)…[枕] ひろ・ながにかかる。「御心が広い(長い)」ことから。〈時代別上代〉「みこころの」と訓む説もある。
広田国…〈倭名類聚抄〉{摂津国・武庫郡・広田【比呂田】郷}。
活田長峡国…〈丙本〉活_田長_峡【伊久太奈加左】。〈倭名類聚抄〉{ばわ摂津国・八部郡・生田【以久多】郷}。
長田国…〈倭名類聚抄〉{摂津国・八部郡・長田【奈加太】郷}。
大津渟中倉之長峽…〈丙本〉大_津渟_中倉之長峽【宇〔乎?〕保豆乃奴奈加久良乃 奈加乎左】〔う(お)ほつのぬなかくらのなかをさ〕
ゆきく(往来、行来)…[動]カ変 行ったり来たりする。
于時、皇后之船𢌞於海中、以不能進。
更還務古水門而卜之、於是天照大神誨之曰
「我之荒魂、不可近皇居。當居御心廣田國。」
卽以山背根子之女葉山媛、令祭。
亦稚日女尊誨之曰「吾欲居活田長峽國。」
因以海上五十狹茅、令祭。
亦事代主尊誨之曰「祠吾于御心長田國。」
則以葉山媛之弟長媛、令祭。
亦表筒男中筒男底筒男三神誨之曰
「吾和魂、宜居大津渟中倉之長峽。
便因看往來船。」
於是、隨神教以鎭坐焉。
則平得度海。

[于]時に、皇后之船[於]海中(わたなか)に𢌞(めぐ)りて、以ちて不能進(えすすまず)。
更に務古水門(むこのみなと)に還(かへ)りて[而]之(これ)を卜(うらな)ひ、[於]是(これ)天照大神誨(をし)へ[之]て曰(のたまはく)
「我之(わが)荒魂(あらみたま)、皇居(おほみや)に近づく不可(べからず)。当(まさ)に御心(みこころ)広田国(ひろたのくに)に居(を)らしむべし。」とのたまふ。
即ち山背根子(やましろねこ)之女(むすめ)葉山媛(はやまひめ)を以ちて、祭ら令(し)む。
亦(また)稚日女尊(わかひるめのみこと)誨へて[之]曰「吾(われ)活田長峡国(いくたながさのくに、いくたながをのくに)に居らしむことを欲(ねが)ふ。」とのたまふ。
因(しかるがゆゑに)海上五十狭茅(うなかみのいさち)を以ちて、祭ら令む。
亦事代主尊(ことしろぬしのみこと)誨へて[之]曰「吾を[于]御心(みこころ)長田国(ながたのくに)に祠(まつ)れ。」とのたまふ。
則(すなはち)葉山媛之(の)弟(おと)長媛(ながひめ)を以ちて、祭ら令む。
亦表筒男(うはつつのを)中筒男(なかつつのを)底筒男(そこつつのを)三神(みはしらのかみ)誨へて[之]曰
「吾(わが)和魂(にきみたま)、宜(よろし)く大津渟中倉之長峡(おほつのぬなかくらのながさ、おほつのぬなくらのながを)に居らしむべし。
便(すなは)ち因(よ)りて往来(ゆきくる)船を看(み)む。」とのたまふ。
於是(ここに)、神の教(をしへ)に隨(したが)ひて以ちて鎮(しづ)め坐(ま)せり[焉]。
則ち平(たひら)ぎて海(うみ)得(え)度(わた)る。

《居》
 基本的には尊敬語ではない。 従って、尊敬の補助動詞を補って「をります」や「をりたまふ」となりそうだが、 それなら初めから尊敬語の「坐(います)」を使ったであろう。 すると、神であっても中立の「をり」「ゐる」を使う場合があると理解すべきなのだろうか。
 もう少し考えを進めると、それぞれの「」は使役の助動詞「しむ」を伴うと考えられる。 なぜなら、三筒男神は「宜居」と、人に向かって行為を依頼しており、事代主は「〔われを祀れ〕と言うからである。 その「居らしむ」は「祀る」と同じ意味だから、その行為主である人に合わせたものかも知れない。
 なお、四神ごとに「私を~に置いて祭れ」と言う言い方を変えているのは、 文学的な修辞と言える。
《稚日女尊》
 「稚日女尊」の名前は、出征前に神に教えられた中には含まれない。
 「わかひるめ」は「おほひるめ(=天照大神)」と対である。 尊称は「命」ではなく「尊」〔重要神〕だから、天照大神の神格のひとつであろうか。
 この神については、神代紀の一書に「稚日女尊 坐于齋服殿而織神之御服 素戔鳴尊見之則逆剥斑駒 投入之於殿內 稚日女尊乃驚而墮機 以所持梭傷體而神退矣〔稚日女尊が斎服殿で布を織っていたところ、素戔鳴尊が放り込んだ逆剥ぎの斑馬に驚き、シャトルで体を損傷して死んだ〕 とある (第48回)。 記では同じ個所は「天服織女見驚而 於梭衝陰上而死」 〔天服織女は、驚いて陰部をシャトルで衝いて死んだ〕とされ、天照大神の使用人の扱いである。
 稚日女尊は一度死んだが、神であるから何度死んでも神として存在し続けるのである。
《忍熊王軍の撤退》
菟道…〈倭名類聚抄〉{山城国}に{宇治【宇知】郡・宇治郷}{久世郡・宇治郷}。
…[動] 軍隊が駐屯する。形式目的語「之」は、「軍」が動詞であることを示す。
しの(篠、小竹)…[名] 群がって生える背の低い竹。〈時代別上代〉「ササとの違いははっきりしなが、 ササはかなり一定した植物名であり、シノはもっと一般的な名称ではないか。
日高…〈倭名類聚抄〉{紀伊国・日高【比太加】郡}。
小竹宮…〈倭名類聚抄〉で、畿内・紀伊国に地名「しの」は見つからない。 小竹八幡神社に伝承あり。
忍熊王、復引軍、退之到菟道而軍之。
皇后南詣紀伊國、會太子於日高。
以議及群臣、遂欲攻忍熊王、更遷小竹宮。【小竹、此云芝努。】

忍熊王、復(また)軍(いくさ)を引きて、[之]退(しりぞ)きて菟道(うぢ)に到りて[而]軍[之](いくさをあつむ)。
皇后南のかたに紀伊国に詣(おもぶ)き、[於]日高(ひだか)にて太子(ひつぎのみこ)に会ひたまふ。
以ちて議(はか)ること群臣(まへつきみたち)に及び、遂に忍熊王を攻めむと欲(おもほ)して、更に小竹宮(しののみや)に遷(うつ)りたまふ。【小竹、此芝努(しの)と云ふ。】

《小竹の伝説》
とこよゆく(常夜行)…[自]カ四 常なる夜が過ぎ行く。
はふり(祝)…[名] 神職。
あづなひのつみ…[名] 〈時代別上代〉未詳。
推問…罪状を取り調べる。ここでは真相を究明する意か。
…(古訓) ちまた。さと。みち。
…(古訓) かたはら。ほとり。
ふす(伏す)…[自]サ四。[他]サ下二。
…(古訓) あらたむ。かさぬ。さらに。また。
日夜…〈時代別上代〉中国語では「昼夜」であることに対し、国語ではヨルヒルの順序にいうことが多い。
適是時也、晝暗如夜、已經多日、
時人曰、常夜行之也。
皇后問紀直祖豐耳曰「是怪何由矣。」
時有一老父曰「傳聞、如是怪謂阿豆那比之罪也。」
問「何謂也。」
對曰「二社祝者、共合葬歟。」
因以、令推問巷里、有一人曰
「小竹祝與天野祝共爲善友、小竹祝逢病而死之。
天野祝血泣曰『吾也生爲交友、何死之無同穴乎。』
則伏屍側而自死、仍合葬焉。蓋是之乎。」
乃開墓視之、實也。
故更改棺櫬、各異處以埋之。
則日暉爃、日夜有別。
適(まさに)是(この)時[也]、昼暗きこと夜の如くて、已(すでに)多(おほ)き日を経て、
時の人、常夜行(とこよゆく)[之][也]と曰ふ。
皇后紀(きい)の直(あたひ)の祖(おや)豊耳(とよみみ)に問ひ曰(のたまは)く「是の怪(あやしき)や何(いかなる)由(ゆゑ)や[矣]。」とのたまひ、
時に一(ある)老父(おきな)有りて曰(まをさく)「伝へ聞きまつらく、如是(このごとく)怪きは、阿豆那比(あづなひ)之罪と謂(まを)す[也]とききまつる。」とまをして、
問ひたまはく「何(いか)にか謂(ゐ)はゆるや[也]。」ととひたまひ、
対(こた)へて曰(まを)さく「二社(ふたやしろ)の祝(はふり)を者(ば)、共に合(あひ)葬(はぶ)るとなり[歟]。」とまをしき。
因以(しかるをもちて)、巷(ちまた)里(さと)に推問(もとめてと)は令(し)めば、一人有りて曰(まを)さく
「小竹祝(しののはふり)与(と)天野祝(あまののはふり)とは共に善き友と為(な)りて、小竹祝病(やまひ)に逢(あ)ひて[而]死せり[之]。
天野祝血泣(ちのなみだし、いさちり)て曰(まをさく)『吾(あれ)は(也)生きて友と交(まじ)はり為(な)せば、何(いか)にか[之]死して無同穴同(おなじあなにいらじ)や[乎]。』とまをして、
則(すなはち)屍(かばね)の側(かたはら)に伏して[而]自(みずから)死して、仍(すなはち)合(あひ)葬(はぶ)りき[焉]。蓋(けだし)是之乎(これなるや)。」とまをしき。
乃(すなはち)墓(はか)を開(あ)けて之(こ)を視(み)れば、実(まこと)なり[也]。
故(かれ)更(あらた)めて棺櫬(ひとき)を改めて、各(おのもおのも)処(ところ)を異(こと)にして[以ちて][之]埋(うづ)む。
則(すなはち)日(ひ)暉燦(かかや)きて、日夜(よるひる)有別(わかれり)。

《小竹祝・天野祝》
 『釈日本紀』は、天野祝については「先師」による、神名帳の伊都郡・丹生比女社が高野明神であるという説を紹介している。 伊都郡は、紀伊国の北東部である。 小竹祝については「兼方案之當國小竹社不載神名帳也〔兼方(釈日本紀編者)案ずるに当国の小竹社。神名帳に載らず〕とあるから、 小竹八幡神社は少なくとも『釈日本紀』が書かれた鎌倉時代には存在していたことがわかる。
《アヅナヒの罪》
 ある古老は、アヅナヒの罪とは、宗門の異なる神職者を同じ墓に葬ることだと述べる。
 すると、他の宗門のしきたりによる祭祀が自分の近親者の墓前で行われることになるから、 不快かつ不吉なのは確かであろう。
 「昼暗く夜の如し」を、ある現実的に天候不順の比喩ととるか、日食が数日間続く〔その現象は現実にはあり得ない〕という 全くの神話ととるかは、読み手の捉え方次第であろう。
《大意》    は、【地名】の項の図を参照。
 このようにして新羅を征伐した翌年の二月、 皇后は側近と官僚を率い、穴門(あなと)の豊浦宮(とよらのみや)に移られました。 そして、天皇の喪を納め、海路を都に向かいました。
 その時、麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしぐまのみこ)、天皇が崩じ、皇后は西の国を討ち、さらに皇子(みこ)が新たに誕生されたことを聞き、 よって密かに謀りごとをして、 「今、皇后に皇子がいて、側近は皆従い、議論しても年少の主を立てるだろう。 われわれは兄であるのに、どうして弟に従うことができようか。」と話しました。
 そこで詐(いつわ)りの天皇陵を造営しようとして播磨に出かけ、赤石〔明石〕に山陵を作り始めました。 そして船団を編成して淡路島に渡り、その島の石を運ばせて建造しました。 そうやって石運びに従事した人を、運び終えるごとに兵に取り立てて、皇后の到来を待ちました。
 ここに、犬上君の先祖倉見別(くらみわけ)と吉師の先祖五十狭茅宿祢(いさちのすくね)は共に麛坂王に仕え、 その故に将軍に任命して、東国の兵を興させました。
 その時、麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしぐまのみこ)は共に菟餓野(とがの)に出て誓約(うけい)狩りをして、 「もし事が成るなら、必ず良い獣を獲ることができよう。」と申しました。 二人の皇子はおのおのに桟敷(さじき)に座っていたところ、 赤い猪が突然出現して桟敷に上り、麛坂王を食い殺してしまいました。 兵士は悉く戦慄しました。
 忍熊王は倉見別に向かって、 「ことは大いに怪しい。ここで敵を待つべきではない。」と言い、 軍を引き、更に撤退して住吉(すみのえ)に駐屯しました。
 その時、皇后は忍熊王が師団を起こして待っているとお聞ききになり、 武内宿祢(たけのうちのすくね)に命じて、皇子を抱かせて道をそらせて南方の海に向かわせ、 紀伊の湊に停泊させました。 皇后の船は、真っ直ぐ難波を目指しました。
 その時、皇后の船は海の中、波に翻弄されてくるくる回るばかりで、進めなくなりました。 さらに務古水門〔武庫の湊〕まで押し戻されたので、これを占ったところ、天照大神の 「わたしの荒魂(あらみたま)は皇居(おほみや)の近くに置いてはなりません。正しく広田国に居(お)らせるべきです。」という教えがありました。 そこで山背根子(やましろねこ)の娘、葉山媛(はやまひめ)をもって、祭らせました。
 また、稚日女尊(わかひるめのみこと)は「わたしは、活田長峡(いくたながさ、いくたながさ)の国に居らせることを願います。」と教えました。 そこで、海上五十狭茅(うなかみのいさち)をもって、祭らせました。
 また、事代主尊(ことしろぬしのみこと)は「わたしを長田の国に祠りなさい。」と教えました。 そこで、葉山媛の妹、長媛(ながひめ)をもって、祭らせました。
 また、表筒男(うはつつのを)中筒男(なかつつのを)底筒男(そこつつのを)三神(みはしらのかみ)は 「わたしの和魂(にきみたま)を、よろしく大津渟中倉之長峡(おほつのぬなかくらのながさ、おほつのぬなくらのながを)に居らせなさい。 それによって、往来の船を見守りましょう。」と教えました。
 このようにして神の教えに従い、鎮座していただきました。
 すると、海は静まり、容易に渡ることができました。
 忍熊王は再び軍を引き、撤退して菟道〔宇治〕に到着して、軍勢を整えました。
 皇后は南に向かい紀伊国に赴き、日高(ひだか)の国で皇太子に会いました。 そして群臣を交えて軍議を開き、遂に忍熊王を攻めようとの意志を固め、更に小竹(しの)の宮に移動しました。
 その頃は、昼でも夜のように暗く、それが既に何日も続いていました。 当時の人は、「常夜(とこよ)行く」と言ったものでした。
 皇后は紀の直(あたい)の先祖、豊耳(とよみみ)に 「この奇怪なできごとは、何故(なにゆえ)か。」とお尋ねになり、 その時、一人の翁がいて申し上げました。 「伝え聞くところでは、このように奇怪なことは、アヅナイの罪と申します」と。
 そこで「それはどのようなことを言うのか。」と尋ねられると、 「異なる二社の神職を、ともに合葬することです。」とお答えしました。
 そのことにより、巷や里を問い回らせると、ある一人の者がこう申しました。 「小竹祝(しののはふり)と天野祝(あまののはふり)とは共に善き友となり、小竹祝は病に遭って死にました。 天野祝は血泣を流して『わたしは生前は交友していた。それなのに、どうして死しんで同じ墓穴に入らないことがあろうか。』と申して、 そして屍の傍らに伏して自死し、合葬されました。けだし、このことでありましょう。」と。
 そこで、墓を開けてこれをを視てみると、まことにその通りでした。 そして、改めて棺を取り換え、おのおの墓所を別にして埋葬しました。
 すると日が輝き、夜と昼が別れました。


廣田神社 生田神社 長田神社
【広田国・活田長峡国・長田国】
《広田国》
 〈神名帳〉に{摂津国/武庫郡/広田神社【名神大】}。比定社は廣田神社(ひろたじんじゃ、兵庫県西宮市大社町7番7号)。 主祭神は「天照大御神之荒御魂」、別名「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)。 この長い別名は、征韓の前に神から教えられた名前(第140回)である。 はじめは、甲山(現在地の約3km北)にあり、後に御手洗川沿い(現在地の東)、さらに1724年に廣田山(現在地の西)を経て、戦後に現在地に移った。
 朝廷に篤く祀られ、白河朝(11世紀)に、勅祭22社の一となった。 武家からの崇敬も大きく、源頼朝によって元暦元年〔1184〕淡路・広田荘を寄進、豊臣秀頼により慶長九年〔1604〕大規模な改築がなされた。 これは、祭神が神功皇后の軍事行動を加護する神であったことが、武家に尊ばれたことを物語っている。
 さきに天照大神の荒魂について考察したとき、「荒魂は、当然武人が参詣するので、都より軍港に近い方が都合がよいという事情があったかも知れない。」と考えた。   (第43回【墨江之三前大神と神功皇后】)。 この考え方によれば、務古水門は軍港だったことになる。
《活田長峡国》
 〈神名帳〉に{摂津国/八部郡/生田神社【名神大】}。比定社は生田神社(いくたじんじゃ、兵庫県神戸市中央区下山手通1丁目2-1)。 祭神は、稚日女尊。社領「神戸」(かんべ)が、現代地名の神戸(こうべ)の由来とされる。
《長田国》
 誤写か。
(乎=ヲは、オの混用)
 原本は、乎・左を併記か。
 〈神名帳〉{摂津国/八部郡/長田神社【名神大】}。比定社は長田神社(ながたじんじゃ、神戸市長田区長田町3丁目1番1号)。 祭神は、事代主神。尊号「於天事代於虚事代玉籖入彦厳之事代主神」(あめにことしろそらにことしろたまくしいりひこいつのことしろぬしのかみ)は、 やはり、征韓前に教えられた名前である。長田神社に奉斎する神戸(かんべ)もまた、神戸(こうべ)の由来とされる。

【大津渟中倉之長峽】
 右の図のように、丙本はもともと「おほつのぬなかくらのなか」+を・さの併記と思われる。 検索をかけると、一般的には「ぬなかのながを(お)」と訓まれている。
 これは『摂津国風土記』に、 「沼名椋之長岡之前〔ぬなくらのながをかのさき〕 とあることによると思われる(資料[16])。
 記で筒男三神が現れたのは、伊邪那岐命の段で (第43回)、 「其底筒之男命中筒之男命上筒之男命三柱神者墨江之三前大神也」と書かれる。
 書紀で同じ内容を収めたのは、神代上紀「次生海次生川次生山」段一書6の、 「底筒男命中筒男命表筒男命 是即住吉大神矣」である。
 書紀には、「大津渟中倉之長峡」が住吉であるとは明確に書かれていない。 両者が同一であると書くのは、『摂津国風土記』である。 そこには、 「 住吉大神〔中略〕覔可住國時至於沼名椋之長岡之前【前者今神宮南辺其地】乃謂斯實可住之國遂讃稱之云眞住吉々々國〔住吉大神が住もうとして国を探していたら、沼名椋之長岡のさき(岬または先)によい国を見つけて、まことにすみよし=住吉の国と褒め名付けた〕 とある。
《本住吉神社》
 本住吉神社(神戸市東灘区住吉宮町7-1-2)は、兎原郡の式外社。 住吉神社の名を持つ神社は<wikipedia>全国に約600社</wikipedia>あるが、 基本的に住吉大神を勧請したものであろう。 本住吉神社は、起源として神功皇后による務古水門の占いを引き、 その〈由緒〉(兵庫県神社庁のページ)に「貞永二年〔1233〕の文書にも既に書かれているから、大阪住吉大社の本(もと)の神社の意で「本住吉」と往昔より称せられていたものと思われる。」と述べる。
 住吉大社は、〈神名帳〉では「住吉坐神社、大、名神」で住吉郡の項にあるから、平安時代の927年には既に大社として有名になっていたと思われる。 記紀に書かれた時点で、既に住吉郡にあったと考えるのが自然であろう。

【地名】
 両軍の移動を、左の図に示した。麛坂王と忍熊王は、で詐陵を築き、で誓約狩をし、麛坂王は赤猪によって殺される。忍熊王はに移動する。 次に皇后はで皇子を降ろし、を目指すが海が荒れて到達できず、で占いして四社に神を祀る。 そしてに到着し、忍熊王はに撤退する。皇后はで皇子と合流しで軍議を開き、忍熊王を攻めることを決した。
 それぞれの推定地点について調べたことを、以下にまとめる。
《赤石》
 播磨国明石郡に、五色塚古墳が残る(現在は神戸市垂水区4丁目)。同古墳は4世紀後半築造とされ、全長194mは兵庫県最大である。
 「仲哀天皇の偽りの陵」という話が仕立て上げられたくらいだから、書紀編纂期の人々もこの墳丘を見て、天皇クラスの大陵であるという感想を 持ったのであろう。 この<神戸市公式ページ>中段及び上段の葺石は分析の結果、日本書紀の記述通り淡路島から運ばれたもの</同ページ>という。 だとすれば、300年前の「淡路島から石を運ばれた」事実の記憶が書紀編纂期まで保たれていたことになり、 記紀の伝承がどの程度史実を反映しているかを判断するひとつの材料となる。
 被葬者は、一般的にはこの地の豪族と考えられているが、海上交通の要の位置にあるから通行税を徴収して潤っていたと想像される。 あるいは、朝廷の出先機関として関所の役割を担ったのかも知れない。 大和政権に対しては従属的な同盟者というところであろうか。  もしも忍熊王伝説の元になった一定の歴史的事実が存在したとすれば、この氏族がクーデターを起こした可能性もある。 この地域の大型古墳はこれ一基のみであるから、子孫が途絶えたとも考えられる。 
《兎我野》
 別項【斗賀野】
《住吉》
 別項【大津渟中倉之長峽】
《紀伊水門》
 紀の川の河口は、かつては現在の位置より南方にあったことが知られる。例えば、 和歌山河川国道事務所の公式ページ紀の川流域の地形によると、
  古墳時代には、流路は現在の和歌川で、河口は和歌浦(わかのうら)であった。
  11世紀の大洪水のとき、流路は砂丘を貫通して現在の水軒川となり、河口は大浦になった。
  15世紀の末、流路と河口が現在の位置になった。
 という。同ページの図から、現在の流路にを重ねた図を作成し、右に示した。
 当時の流域の<『北島の渡しと川湊 城下町2 ㉕』額田雅裕> 平井は、永承3年〔1048〕の古文書に「平井津」とみえ、国衙(こくが)の収納所があり、紀伊湊の重要な港湾施設であった </同ページ>という。
 また、紀の川の北の、鳴滝遺跡には5世紀前半の倉庫群が発掘され、<和歌山市公式ページ/鳴滝遺跡 一辺が7~10mもの大規模掘立柱建物が7棟、軒を並べて整然と立ち並んでいました。出土遺物の大半が初期須恵器の大甕であり、物資の貯蔵施設で </鳴滝遺跡>あったといい、紀の川は古墳時代から平安時代まで重要な輸送路であったことが分かる。
 万葉集に、和歌浦を詠んだ歌が、  (万)1219 若浦尓 白浪立而 奥風 寒暮者 山跡之所念 わかのうらに しらなみたちて おきつかぜ さむきゆふべは やまとしおもほゆ。 など四首があるから、西国への玄関口として往来が多かったのであろう。
Craft MAP
《難波》
 難波の船着き場を難波津といい、万葉集にも出てくる。 その正確な場所はまだ確定していないが、難波宮や、法円坂遺跡〔五世紀後半の倉庫群遺跡〕 を含む一帯のどこかであろうと思われる (資料[17])。
 難波宮の所在地は、上町台地の北部で大阪城のすぐ南にあたる。 そのうち大極殿跡の周辺は、現在難波宮史跡公園となっている。 孝徳紀の「難波長柄豊碕宮」と聖武朝の難波宮は同じ場所で、考古学ではそれぞれ前期難波宮・後期難波宮と呼ぶ。
 その北の大川が、もともと仁徳天皇紀の「難波の堀江」であったと言われる。
《務古水門》
 務古水門(武庫湊)の位置は、『大日本地名辞書』(吉田東伍;明治後期)には「輸田ワダ兵庫ヒヤウゴ津の旧名なり。」とある。 しかし、輸田泊兵庫津は現在の兵庫市和田岬、即ち武庫郡からは離れた八部(やたべ)郡内なので、疑問である。 〈釈日本紀〉には「務古水門摂州武庫郡也」とあり、 武庫郡の海岸のどこかと考えるのが妥当と思われるが、実際の位置は不明である。 その候補としては武庫川の河口もあり得るが、他に例えば西宮市付近の古地形を見ると、海が陸地に深く進入している(右図)。 この古地形は大阪高低差学会の 調査による。
 この場所はたまたま廣田神社に近いので、例えば図のなどに武庫湊の施設があったかも知れない。 書紀が書かれた時点で廣田神社の祭神が天照大神の荒魂になっていたかどうかは分からないが、 ここが武庫郡の中心部だとすれば、背後の山には神が坐して、入り江に港があるという配置は自然である。
 さらに、《廣田国》の項で考察したように、務古水門は軍港だった可能性がある。ムコに「武庫」の字が宛てられたのは、 軍事基地だったからという説がある〔ただし、武庫(ムコ)は音読みだから、その意味合いを持たせたのは平安時代であろう〕。 だとすれば、図のが軍港で、廣田神社に最高神天照の荒魂が祀られるのは、絶妙の配置と言える。
《菟道》
 別項【山代】
《日高》
 紀伊国風土記から、神功皇后に関する話は見つけられない。 御坊市には堅田遺跡〔和歌山県御坊市湯川町財部〕という弥生時代の環濠集落の遺跡が存在し、広範囲から移入した土器が産出する。 その産地は、豊前・長門・周防・伊予・備前・播磨・和泉・河内・伊勢・三河の他、 朝鮮半島からの渡来集団の手になると思われるものもあるという (御坊市公式ページ-堅田遺跡)。
 だから、ここにも九州北部からやってきた女王の伝説があったのかも知れない。
《小竹宮》

 小竹八幡神社(しのはちまんじんじゃ、御坊市薗642)は、式外社である〔神名帳に、日高郡の社は一社もない〕。 和歌山県神社庁のサイトに掲載された「小竹八幡神社」の由来によると、 「相当の社頭〔ママ。領?〕もあり、壮麗な社殿が存していたが、天正の兵火にかかり古文献、宝物等を焼失」した。
 「由来」には更に、「昔時薗の内紀小竹という所に鎮座ありしを延宝年間今の地に鎮座し、旧地を元宮或いは元八幡という」とある。
 ただ、紀伊水門と小竹との間は相当遠く、これだけ移動する必然性はないから不自然である。 現実性を無視し、由緒のある場所を繋ぎいで物語を構成した印象を受ける。

まとめ
 五色塚古墳は、畿内に向かって明石海峡を通過する船に、 その巨大な姿を見せつけたことであろう。この陵の造営に新羅や隋からの使いに倭政権の 威勢を見せつけようとする狙いがあったことは、十分に考えられる。 とすれば飛鳥時代にも修復が行われたかも知れず、そのとき葺石が淡路島から運ばれたとすれば、 書紀の言い伝えも意外に新しい時代の事実に立脚することになる。
 また神功皇后紀のこの段に登場する難波津紀伊湊が畿内の重要な玄関口であったことは、 その貯蔵庫の遺跡や万葉集の歌が示している。 そして武庫湊は軍事拠点だった可能性が高い。堅田遺跡もかつて西日本との関係が深かったかも知れない。 つまり、現在〔=書紀が書かれたとき〕の海上交通の隆盛は、昔に有力な神々と神功皇后の偉大な力が生み出したことを示そうとしたのであろう。 これらのことは記には書かれず、書紀が付け加えたことである。
 さて、記紀ともに書かれたのは、畿内に入るときに今回も敵が待ち受けていたことである。 これもまた、東征伝説であると言える。神武天皇も、浪速の海で難航した。 神武天皇のときと同じ素材を用いた、いわば焼き直しであろうか。
 しかしながら、崇神天皇段で、次々と西方から氏族がやってきて王朝が交代したらしいと論じた (第112回【御諸山の神と天孫族、そして出雲勢力】)。 また、神武天皇段のところでも「渡来民は波状的にやってきたと考えるのが自然」と述べた (第96回まとめ)。
 ここでは、征西を成し遂げて帰還した筋書きに組み込まれてはいるが、実際にはこれもまた、数ある東征の一つかも知れない。


2017.1.7(sat) [144] 中つ巻(神功皇后5) 

爾 建振熊命權而令云
息長帶日賣命者既崩故無可更戰
卽絶弓絃欺陽歸服
於是 其將軍既信詐弭弓藏兵
爾自頂髮中採出設弦【一名云宇佐由豆留】更張追擊
故 逃退逢坂對立亦戰
爾 追迫敗於沙沙那美悉斬其軍
於是 其忍熊王與伊佐比宿禰共被追迫
乘船浮海歌曰

爾(ここに)、建振熊命(たてふるくまのみこと)権(はか)りて[而]令(おほ)して云(まを)さく
「息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)者(は)既に崩(ほうじ、かむあがりし)て、故(かれ)更に戦ふ無可(べくもなし)。」とまをし、
即ち、弓絃(ゆづる)を絶ちて、欺(あざむ)きて帰服(まつろひ)て陽(あざむ)く。
於是(ここに)、其の将軍(いくさのかみ)既に詐(いつはりごと)を信(う)けて、弓を弭(やす)めて兵(つはもの)を蔵(をさ)めり。
爾(ここに)、頂(いただき)の髪の中自(よ)り設弦(まうけのゆづる)【一名(あるな)、宇佐由豆留(うさゆづる)と云ふ】を採り出(い)でて、更(あらためて)張りて追ひ撃ち、
故(かれ)、逢坂(あふさか)に逃げ退(ひ)きて、対(むか)ひ立たして亦(また)戦へり。
爾(ここに)、追ひ迫(せ)めて[於]沙沙那美(ささなみ)に敗(やぶ)りて、悉(ことごと)其の軍(いくさ)を斬る。
於是(ここに)、其の忍熊王(おしくまのみこ)与(と)伊佐比宿祢(いさひのすくね)共に[被]追ひ迫(せま)えて、
船に乗りて海に浮かびて歌(うたよみ)して曰(よみまつら)く、


伊奢阿藝 布流玖麻賀伊多弖 淤波受波 邇本杼理能阿布美能宇美邇 迦豆岐勢那和

いざあぎ ふるくまがいたて おはずは にほどりの あふみのうみに かづきせなわ


卽入海共死也
即ち海に入りて共に死せり[也]。

 ここで、建振熊命(たてふるくまのみこと)は謀(はかりごと)をして、 「息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)は既に崩じて、これ以上戦うことはできない。」と、戦闘の中止を命じました。 そして、弓絃(ゆづる)を切断し、欺きの帰服をしました。
 すると、敵方の将軍は偽り事を信じて、弓を構えるのをやめ、武器を片づけました。 その時、頭髪の中から予備の弓弦を取り出して張り直して追撃しました。 そして、逢坂(おおさか)山に逃げたところで向かい立ち、また戦いとなりました。 建振熊命軍は、追い攻めて沙沙那美(ささなみ)で敵を破り、悉くその軍勢を斬りました。
 そして、その忍熊王(おしくまのみこ)と伊佐比宿祢(いさいのすくね)は共に追い迫られて、 船に乗って海に浮び、歌を詠みました。
――いざ吾君(あぎ) 振熊が痛手負はずは 鳰鳥(にほどり)の 淡海の海に 潜きせなわ
〔我が君よ、相手に振熊命による痛手を負わすことができなかった。この上は淡海に潜ろう。〕
 と。そのまま海に入り、共に死にました。


…[名] ①はかり。②はかりごと。[動] はかる。
…[名] ゆはず〔弦を弓の両端に留める金具〕。(古訓) ゆみはす。 [他] やすめる〔戦いや労役をやめて静まる〕。(古訓) やむ。しつかなり。
まつろふ(帰順ふ)…[自]ハ四 服従する。
いなだき…[名] 頭上。頭髪。
うさゆづる(設弦)…弓弦が切れたときのための予備の弦。
にほどり(カイツブリ)
沙沙那美(ささなみ)…[枕] 琵琶湖南部の地名につく。
あぎ(吾君)…[代名] 親しみをこめた二人称の人称代名詞。「わがきみ」。
にほどり…[名] かいつぶり。〈倭名類聚抄〉鸊鷉【和名迩保】〔にほ〕野鳥小而好没水中也
にほどりの…[枕] 「潜(かづ)く」にかかる。
かづきせなわ…文法は以下の通り。
…[他] 「す」の未然形。 
…[助] 文末で未然形を受けるときは、自分の行動の実現を願う。また相手を勧誘する。
…[助] 文末にあって発言内容に対する確認を表す。

【絶弓絃】
 弓弦を切断して戦闘の意思がないことを示す習慣が、実際に行われたことなのか、 物語における創作かは不明である。

【設弦】
 書紀では「儲弦」と表し、〈時代別上代〉には「ヲサユヅルの古訓もある」とする。 実際に〈丙本〉(吉川弘文館版)を見ると「乎佐由豆流」となっていて、頭注に「諸本作宇佐」とある。 日本紀講筵(第87回)を担った博士は、記の原注「宇佐由豆留」を根拠に「ウサユヅル」と訓んだものと思われる。
 書紀にはその後にも「儲兵」があるが、これをウサユヅルに倣って「ウサツハモノ」とは訓むとは到底考えられない。
 記に戻り、原注を注意して読むと「此云」ではなく「一名云」となっているのは、この他にも注を必要のない訓があることを意味する。 それは、「まうけの弓」〔あるいは「まけの弓」「そなへの弓」かも。何れも予備を意味する〕であろう。
 よって、書紀における「儲弓」「儲兵」は、それぞれ「まうけの弓」「まうけの兵」であったと見るのが合理的である。

【沙沙那美】
 書紀では、「狭々浪栗林」と書かれる。 この地は移動経路から見て、南部琵琶湖エリアにあるはずだが 「ささなみ」は〈倭名類聚抄〉の国郡郷名にはなく、現代地名にも存在しない。 これが、具体的にどこを指すかを探ってみる。

《宣長説》
 宣長は、このように述べる。
師の冠辭考に、近江國志賀郡なる、筱靡サ〃ナミてふ地にて、 其處ソコの大名なる故に、其邊の所には冠らせたるなり
〔賀茂真淵の『冠辞考』に、近江国、志賀郡にある筱靡(ささなみ)という土地で、そこの大名であるので、その辺りの地名の上につく。〕
 『冠辞考』は、枕詞の研究書。「大名」は、ある地方を大まかに指す名前を意味すると見られる。
《近江国風土記》
 近江国風土記逸文に、「細浪(ささなみ)国」がある(角川ソフィア文庫、中村啓信編監修訳注)。曰く。
 細浪國:淺井家記録に 近江國風土記を引云、淡海國者 以淡海爲國號 故一名云細浪國 所以目前向湖上之漣漪也
(注)大津市の三井寺・長柄山付近の小地名であろう。 (引用終わり)
〔淡海(あふみ)国は、淡海を以て国号とし、かれ、ある名に細浪(ささなみ)国と云ふは、目の前の湖の上の漣漪(ささなみ)のゆゑなり〕
 「漣」「漪」は、両方とも「さざなみ」を意味する字である。
《万葉集》
 万葉集には、ささなみのを含む歌が15例ある。一例を挙げる。
0029〔題詞〕過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌〔近江の荒き都を過ぎし時、柿本人麻呂のよみし歌〕
 この長歌の一部を示す。
0029石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 いはばしる あふみのくにの ささなみの おほつのみやに
 その少し前から解釈する。 
〔天の下 知らし召しを天(そら)に満つ倭を置きて 青丹よし平山を越へ いかさまに思ほし召せか 天離る夷には有れど石(いは)走る淡海の国の楽浪の大津宮に 天の下知らし召しける天皇の〕
 天智天皇六年〔667〕、飛鳥から近江に遷都した。柿本人麻呂〔660頃~724〕は、「天皇はなぜこんな田舎に都を置いたのか、その気持ちが計り知れない」と歌う。 天智朝における大津宮の遺構は、近江大津宮錦織遺跡と呼ばれ、 <近江神宮公式ページ昭和49年〔1974〕、錦織二丁目の住宅地で発掘調査が行われ、 大規模な掘立柱建物跡の一部が発見された。続いて昭和53年2月にこの建物跡に連続する柱穴が発掘され、錦織を中心とする地域であったことが確実視されるようになった</同ページ>。
 この歌では「ささなみの」は大津宮への枕詞である。他の14例は、次の通りである(何れも抜粋)。
0030 樂浪之 思賀乃辛碕 ささなみの しがのからさき
0031 左散難弥乃 志我能大和太 一云比良乃 ささなみの しがのおほわだ(ひらのおほわだ)
0032 樂浪乃 故京乎 ささなみの ふるきみやこを
0033 樂浪乃 國都美神乃 浦佐備而 荒有京 見者悲毛 ささなみの くにつみかみの うらさびて あれたるみやこ みればかなしも
0154 神樂浪乃 大山守者 ささなみの おほやまもりは〔天智天皇の崩の際に詠われた、近江の海にまつわる一連の歌の中〕
0206 神樂浪之 志賀左射礼浪 ささなみの しがさざれなみ〔弓削皇子(天智天皇の第九皇子)薨去の歌への反歌〕
0218 樂浪之 志我津子等何 ささなみの しがつのこらが〔吉備津采女が死んだ時柿本朝臣人麻呂が作った歌に付した短歌〕
唐崎神社
0305 樂浪乃 舊都乎 ささなみの ふるきみやこを
1170 佐左浪乃 連庫山尓 ささなみの なみくらやまに
1253 神樂浪之 思我津乃白水郎者 ささなみの しがつのあまは
1398 神樂聲浪乃 四賀津之浦能 ささなみの しがつのうらの
1715 樂浪之 平山風之 海吹者 ささなみの ひらやまかぜの うみふけば
3046 左佐浪之 波越安蹔仁 落小雨 ささなみの なみこすあざに ふるこさめ
3240 樂浪乃 志我能韓埼 ささなみの しがのからさき0030を引用〕
● 唐崎神社(大津市唐崎1-7-1)は、日吉大社の摂社。日吉大社(大津市坂本5丁目1-1)は式内社で、神名帳に{近江国/滋賀郡/日吉神社【名神。大】}
● 連庫山(なみくらやま)の現在地は不明。「雨を呼ぶ山との伝説がいまもあることからして、湖西の霊仙山ではないかと思われます」 という説を見たが、その出典は不明である。霊仙山(りょうせんざん)は、北緯35度10分40.6秒、東経135度52分26.6秒。750.5m。
● 志賀津について。現在の大津港は、近江大津宮錦織遺跡に近い。 琵琶湖には右図のように北部には3つの環流がある。第一環流・第三環流は反時計回りなので上昇流、第二環流は時計回りなので下降流である。
 一方、南部は水深の浅い流出路である (環境省―「琵琶湖の水理現象について」)。 大津港の位置はもともと湾入して水流が弱く、港としての自然条件を満たしていたと思われる。 古代、ここに自然発生した船着き場が志賀津と呼ばれ、そのまま現在の大津港に至ったと想像される。
 ササナミは「細かい波・小さい波」の意味で、常に白波が立つ風景を連想させる言葉として使われている。 ほぼ現代語の「漣(さざなみ)」であろう。
 万葉集に詠われたササナミは「大津宮」「志賀唐崎」「志賀津」「連庫山」への枕詞で、 特定の地名を指すというよりは、琵琶湖南部沿岸の地に冠せて使われたように思われる。 記における「沙沙那美」は、よってこの地域を漠然と指すものとして読むべきであろう。
《大津》
 桓武天皇は、長岡京から平安京に遷都した。 後紀巻三の逸文(『日本紀略』)の延暦十三年〔794〕に、 「近江國滋賀郡古津者 先帝舊都 今接輦下 可追昔號改稱大津〔近江国滋賀郡古津は先帝の旧都なりて、今輦下〔=都〕に接し昔の号(な)を追ひて大津と改称すべし〕とある。
 「なづく」は、万葉集0029の天智天皇の大津宮を復活させるという意味だと思われる。 この詔の前半は、「山代国を改名して山城国にし、遷都した都を平安京と呼べ」である。 「古津」は、その大都平安京に隣接するから、改めて「大津」にすべきだという。 大津、そして古津は、当然港の存在に因む地名である。
《楽浪》
 ササナミに楽浪の字を宛てた理由は、不明である。 神楽(かぐら、略して「楽」)の掛け声ササによるという説も見たが、「神楽」は『現代語古語類語辞典』によれば中古以後の語とされるので、 疑問である。ただ、神楽や田楽の起源になった舞踊を、その掛け声から「ササ」と呼び、「楽」の字を宛てた可能性は捨てきれない。
 中国で言う「楽浪郡」は前漢によって朝鮮半島北部に設置され、平壌(ピョンアン)に郡治〔中央官庁〕を置いた。 その地域から渡来した人々が故郷を懐かしんで名付けたこともありそうだ。弥生時代から楽浪郡と日本海沿岸の交流があったことが知られている (魏志倭人伝をそのまま読む-第12回【南北市糴】)。 楽浪郡の「楽」は「ガク」ではなく「ラク」と発音するから、音楽ではなく「たのしむ・このむ・いやす」の意味である。 その謂れは、「波が打ち寄せるユートピア」あるいは「波静かな海に面する土地」であろうか。 そして、万葉集の編者が朝鮮半島の「楽浪郡」の存在を知らないはずはない。
 ただ、「神楽浪」と書く場合は楽浪郡とは無関係で「神(くす)しき音楽なる漣のところ」という解釈もありうる。
 一方、風土記逸文によれば近江国は、別名細浪国だったというから、好字令 (資料13)に対応するための候補のひとつとして「細浪国」 を好字化した「楽浪国」が挙がったのかも知れない。

【振熊が痛手負はずは鳰鳥の淡海の海に潜きせなわ】
 振熊は負けたはずなのに「痛手負はずは〔=痛手を負わなかったことは〕というのは、読み手を混乱させる。 だが、「痛手負はず」の主語は武内宿祢だとすれば、 「振熊が痛手」は「振熊が武内宿祢に与えた痛手」となって意味が通る。 属格の助詞「」の効力が「痛手負はず」まで及ぶと見ると読み違えることになり、 「痛手」までと見れば正しく読めるのである。 書紀は後者の読み方により、「内の朝臣が くぶつちの 痛手負はずは」に直している。 しかし、書紀がこのように直したのは、元のままでは意味が取りにくいと判断したからだろう。
《他の解釈》
 とは言え、そもそも「Aが痛手負はず」を「Aは痛手を負わなかった」と読むのは、きわめて自然である。 記紀の歌謡は俗間にあった歌を収めたものなので、本来は振熊の勝ちで、その敗者を悼んで詠んだ歌だったのかも知れない。
 また別の解釈として、「私自身は傷を受けず無事であるが、わが軍が負けてしまったのだから生きていても仕方ないと考えた」とする読み方も成り立つ。
《書紀の成立過程》
 書紀がこの歌を修正したことから、古事記を原型として、書紀が潤色したと判断できる。 しかし、こと半島進出前の筒男三神に関しては、書紀が記にそれを載せるように要請したと見た (第140回【此時其三柱大神之御名者顕也】)。
 このことから、記と書紀の間には双方向のコミュニケーションが存在したと言ってよいだろう。

【書紀-令撃忍熊王】
10目次 《令撃忍熊王》

葛野城首…〈倭名類聚抄〉{山城国・葛野【加止乃】群・葛野【加度乃】郷〔かどの〕
…[名] ほこさき(矛先)。(古訓) ほこのさき。ほこ。
…(古訓) いたはる。つとむ。
いたはる(労る)…[他]ラ四 労を厚くねぎらう。
高唱…〈汉典〉①[sing loundly]高声歌唱。②[call loudly for]大声喊叫。 文選〔南北朝=439~589〕。陸機。演連珠五十首之二十三:「臣聞絶節高唱,非凡耳所悲。」
三月丙申朔庚子、
命武內宿禰和珥臣祖武振熊、
率數萬衆、令擊忍熊王。
爰武內宿禰等、選精兵、
從山背出之、至菟道以屯河北。
忍熊王出營、欲戰。
時、有熊之凝者、爲忍熊王軍之先鋒。
熊之凝者、葛野城首之祖也。
【一云、多吳吉師之遠祖也。】
則欲勸己衆、因以、高唱之歌曰、

三月(やよひ)丙申(ひのえさる)を朔(つきたち)として庚子(かのえね)〔五日〕、
武内宿祢(たけのうちのすくね)和珥臣(わにのおみ)の祖(おや)武振熊(たけふるくま)に命(おほ)して、
数万(あまたよろづ)の衆(ともがら)を率(ひきゐ)て、忍熊王(おしくまのみこ)を撃た令(し)む。
爰(ここに)武内宿祢等(ら)、精兵(ときつはもの)を選(えら)ひて、
山背(やましろ)従(ゆ)[之]出(いで)て、菟道(うぢ)に至りて以ちて河(かは)の北に屯(あつ)む。
忍熊王営(いほり)を出でて、[欲]戦はむとす。
時に、熊之凝(くまのこり)とふ者(ひと)有りて、忍熊王の軍(いくさ)之(の)先鋒(ほこのさき)と為(す)。
熊之凝者(は)、葛野城首(かどののきのおびと)之(の)祖(おや)なり[也]。
【一云(あるいはく)、多呉吉師(たごきし)之(の)遠祖(とほつおや)なり[也]。】
則(すなはち)己(おのが)衆(ともがら)を勤(いたは)らむと欲(おも)ひて、因以(しかるがゆゑをもちて)、[之]高唱(ことあげ)して歌(うたよみ)たまはく[曰]、


あらら(粗)…[形動] あら-あら。
つくゆみ(槻弓)…[名] 槻の木で作った弓。
まりや…[名] 矢の一種。詳細不明。
うまひと(君人)…[名] 貴人。
どち(共)…[名] 同士。
いとこ…[名] いとしい人。男女とも人を親しんでいう。
苔奴…〈丙本〉【トト】。「と」。
たまきはる…[枕] うち、命、幾代、吾(わ)、磯にかかる。
 〈時代別上代〉「語義、かかり方不詳。
烏智箇多能 阿邏々麻菟麼邏 摩菟麼邏珥 和多利喩祇氐 菟區喩彌珥 末利椰塢多具陪 宇摩譬等破 于摩譬苔奴知野 伊徒姑播茂 伊徒姑奴池 伊裝阿波那 和例波 多摩岐波屢 于池能阿層餓 波邏濃知波 異佐誤阿例椰 伊裝阿波那 和例波
をちかたの あららまつばら まつばらに わたりゆきて つくゆみに まりやをたぐへ うまひとは うまひとどちの いとこはも いとこどち いざあはな われは たまきはる うちのあそが はらぬちは いさごあれや いざあはな われは


号令…①大声で命令する。②命令。〈現代語古語類語辞典-上代〉がうれい。
椎結…〈丙本〉【加美安介之牟】〔かみあげしむ〕
…(古訓) をさむ。つつむ。くら。かくる。
…(古訓) さそふ。すすむ。あさむく。
…(古訓) つる。ゆみつる。ゆみはり。
…(古訓) ともに。
連和焉…〈丙本〉【宇流波志加良須】〔うるはしからず〕
…(古訓) ととのふ。やはらく。ましふ。
やはらぐ…[自]ガ四 親しくなる。[他]ガ下二 親しませる。
…(古訓) むしろ。ゐる。よる。
…[名] 天下の決まりを定める皇帝の命令。
解刀投於河水…〈丙本〉【加太奈乎奴伊氐加波尓奈介宇豆】〔かたなをぬいてかはになけうつ〕
時武內宿禰、令三軍悉令椎結、
因以號令曰
「各以儲弦藏于髮中、且佩木刀。」
既而乃舉皇后之命、誘忍熊王曰
「吾勿貪天下、唯懷幼王從君王者也、
豈有距戰耶。願共絶弦捨兵、與連和焉。
然、則君王登天業、以安席高枕、
專制萬機。」
則顯令軍中悉斷弦解刀、投於河水。
忍熊王信其誘言、悉令軍衆解兵投河水而斷弦。
爰武內宿禰、令三軍出儲弦更張、
以佩眞刀、度河而進之。
忍熊王知被欺、謂倉見別・五十狹茅宿禰曰
「吾既被欺、今無儲兵、豈可得戰乎。」
曳兵稍退。

時に武内宿祢、三軍(みついくさ)を令(し)て悉(ことごと)令椎結(ついけつせしめ、かみをあげしめ)て、
因以(しかるがゆゑをもちて)号令(おほせごとたまはく)[曰]
「各(おのもおのも)儲弦(まうけのゆづる)を以ちて[于]髮の中に蔵(つつ)め、且(また)木刀(きたち)を佩(は)け。」とおほせごとたまひ、
既(すで)にして[而]乃(すなはち)皇后(おほきさき)之(の)命(おほせごと)を挙げまつり、忍熊王を誘(あざむき、さそひ)て曰(まを)さく
「吾(われ)天下(あめのした)を勿貪(むさぼることなく)て、唯(ただ)幼(をさな)き王(みこ)を懐(むだ)きて君王(きみみこ)に従(まつろ)はめ者(ば)[也]、
豈(あに)距(こばみて)戦(たたか)ふこと有る耶(や)、願(ねがは)くは共(ともに)弦(ゆづる)を絶ち兵(つはもの)を捨(う)ちて、与(とも)に和(やはら)ぎを連(つら)ねむ[焉]。
然(しか)くして、則(すなはち)君王(きみみこ)天業(あまつひつぎ)に登り、以ちて安(やす)く席(ゐ)て高枕(たかまくら)しまして、
専(もはら)万機(よろづのこと)を制(みことのり、をさめ)たまへ。」とのたまひ、
則(すなはち)顕(あきらかに)軍中(いくさひと)をして悉(ことごとく)弦(ゆづる)を断たしめて刀(たち)を解かしめて、[於]河水(かはなか)に投げ令(し)めき。
忍熊王其の誘言(あざむきごと、さそひごと)を信(う)けて、悉(ことごとく)軍衆(いくさひと)をして兵(つはもの)を解かしめて河水(かはなか)に投げしめて[而]弦(ゆづる)を断た令(し)めき。
爰(ここに)武内宿祢、三軍をして儲(まうけ)の弦を出(い)でしめ更(あらためて)張ら令めて、
以ちて真刀(またち)を佩(は)け、河を度(わた)して[而][之]進めり。
忍熊王被欺(あざむかゆ)と知り、倉見別五十狭茅宿祢に謂(のたま)はく[曰]
「吾(われ)既に被欺(あざむかえ)、今儲(まうけ)の兵(つはもの)無くして、豈(あに)可得戦乎(えたたかふや)。」とのたまひて、
兵(つはもの)を曳きて稍(やくやくに)退ぞけり。


くるす(栗栖)…[名] 栗林。各地で地名化したものもある。
武內宿禰、出精兵而追之、
適遇于逢坂以破。故號其處曰逢坂也。
軍衆走之、及于狹々浪栗林而多斬。
於是、血流溢栗林、故惡是事、
至于今其栗林之菓不進御所也。
忍熊王、逃無所入、
則喚五十狹茅宿禰而、歌之曰、

武内宿祢(たけのうちのすくね)、精(とき)兵(つはもの)を出(い)でて[而]之を追ひて、
適(まさに)[于]逢坂(あふさか)に遇(あ)ひて以ちて破る。故(かれ)其処(そこ)を号(なづ)け逢坂と曰ふ[也]。
軍衆(いくさひと)走り之(ゆ)きて、[于]狭々浪(ささなみ)の栗林(くるす)に及(およ)びて[而]多(さは)に斬りき。
於是(ここに)、血流れて栗林に溢(あぶ)れて、故(かれ)是の事を悪(にく)みて、
[于]今に至りて其之(の)栗林之菓(このみ)は御所(おほみやどころ)に不進(すすめず)[也]。
忍熊王、逃げど入(い)る所(ところ)無くて、
則(すなはち)五十狭茅宿祢を喚(め)して[而][之]歌(うたよみ)たまはく[曰]、


くぶつち…[名] 柄頭が槌(つち)状の刀剣。(第99回)
伊裝阿藝 伊佐智須區禰 多摩枳波屢 于知能阿曾餓 勾夫菟智能 伊多氐於破孺破 珥倍廼利能 介豆岐齊奈
いざあき いさちすくね たまきはる うちのあそが くぶつちの いたでおはずは にほどりの かづきせな


(済)…〈倭名類聚抄〉濟【子禮反和名和太利】渡處也〔音セイ、和名わたり。渡るところなり〕
…(古訓) しつむ。
則共沈瀬田濟而死之。
于時、武內宿禰歌之曰、

則(すなは)ち共に瀬田の済(わたり)に沈みて[而][之]死せり。
[于]時に、武内宿祢之(こ)を歌(うたよみ)たまはく[曰]、


…[助] 強調。
いきどほろし(憤ろし)…[形] 憂鬱である。
阿布彌能彌 齊多能和多利珥 伽豆區苔利 梅珥志彌曳泥麼 異枳廼倍呂之茂
あふみのみ せたのわたりに かづくとり めにしみえねば いきどほろしも


さぐる…(万)0741 掻探友 かきさぐれども
…(古訓) かそふ。あまた。あまたたひ。
於是、探其屍而不得也。
然後、數日之出於菟道河、武內宿禰亦歌曰、

於是(ここに)、其の屍(かばね)を探れども[而]不得(えず)[也]。
然後(しかるがのち)、数(あまた)日(ひ)之(ゆ)きて[於]菟道河(うぢのかは)に出(い)でて、武内宿祢亦(また)歌(うたよみ)たまはく[曰]、


倍菟…〈丙本〉【へツ】。<試作万葉仮名一覧> によると、万葉集・記では「菟(つ)」は一例もないが、書紀では「都」44例と「菟」が45例である。
多那伽瀰(たなかみ)…「田+属格の助詞"な"+上」か。 (万)0050 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 あふみのくにの ころもでの たなかみやまの まきさく
とらふ…[他]ハ下ニ。
阿布瀰能瀰 齊多能和多利珥 介豆區苔利 多那伽瀰須疑氐 于泥珥等邏倍菟
あふみのみ せたのわたりに かづくとり たなかみすぎて うぢにとらへつ

《誘・欺》
 ともにアザムクと訓み、あざむかれることに気付くまでは「」、気付いた後は「」と使い分けられている。
 新撰字鏡などの古訓「あざむく」は、実は書紀古訓によるものかも知れない。「誘」を「あざむく」と訓むのは意訳なので、 書紀編纂のときは「誘(さそ)ふ」と訓んでいた可能性がある。
《以佩真刀度河而進之》
 使役動詞は、事実上ここまでかかっている。しかし、いちいち「しむ」をつけて訓読するのは煩雑に過ぎる。 佩・度・進は、他動詞の佩く(下二)・度す(四)・進む(下二)を用いれば、事実上使役の意味をもたせることができる。
《高唱》
 たかうたふという語は、万葉集には存在せず時代別上代にも載らないが、 高飛(たかとぶ)、高知(たかしる)など、「たか-」は名詞、動詞に連結して使われる。 よって漢籍の熟語を訳して「たかうたふ」とすることは可能ではあろうが、安全を期して「ことあげ」して「うたふ」を用いておく。 「ことあげ」は上代語で、意味は「ことばにして言い立てる」である。
《内の朝臣》  この表現は、武内が「」+「」であることを示している。 したがって、タケ-は称号のようなものである (第108回【武内宿祢】)。
 阿曽は、万葉集では「朝臣」を意味することが、次の二首からわかる。 (万)3842は題詞に「平群朝臣嗤〔わらふ〕歌」とあり、相手を「穂積乃阿曽 ほづみのあそ」と呼び、 (万)3843は題詞に「穂積朝臣和歌」とあり、相手を「平群乃阿曽 へぐりのあそ」と呼ぶ。
 この二歌は、平群朝臣と穂積朝臣が、互いに相手を嗤う歌である (資料[18])。
《大意》
 三月五日、 武内宿祢(たけのうちのすくね)は和珥臣(わにのおみ)の先祖、武振熊(たけふるくま)に命じて、 数万の衆を率て、忍熊王(おしくまのみこ)を撃たせました。 その際、武内宿祢らは精兵を選び、 山背(やましろ)から出撃し、菟道(うじ)に至り、菟道川の北に駐屯しました。
 忍熊王は兵営を出て、戦いを開始しようとした。 そして、熊之凝(くまのこり)という者があり、忍熊王の軍の先鋒(せんぽう)としました。 熊之凝は、葛野城首(かどののきのおびと)の先祖です。 【また、多呉吉師(たごきし)の遠祖とも言われます。】
 そして自軍の士気を高めようとして、この歌を高唱しました。
――彼方(をちかた)の 粗ら松原 松原に 渡り行きて 槻弓(つくゆみ)に 鞠矢を副(たぐ)へ 貴人(うまひと)は 貴人共(どち)の 愛子(いとこ)はも 愛子共 いざ遭はな 吾は たまきはる 内の朝臣(あそ)が 腹内(はらぬち)は 砂子(いさご)あれや いざ遭はな 吾は
〔彼方の疎らな松原に渡り行き、弓に矢を並べて、貴人は貴人同士、友は友同士、いざ戦おう、我は。 武内宿祢の腹の中は砂か、いざ戦おう、我は。〕
 その時、武内宿祢は、三軍に命じて悉く髪を結び上げさせて、 「おのおの、予備の弓弦を髮の中に隠し収め、木刀を帯びよ。」と号令しました。
 既に賜った皇后の命を掲げ、忍熊王を誘い、 「私は天下を貪らず、ただ幼き王(みこ)を懐いて貴方様に従うつもりであるからには、、 距戦することなど有ろうか。願わくば共に弓弦を絶ち武器を棄て、ともに和を連ねたい。 かくなる上は、貴方様が天の位に登り、安座高枕され、 専ら万(よろず)の機を制しなされませ。」ともちかけ、 よく見えるようにして、自軍の悉くに弓弦を断たせ、刀を解かせて川の水中に投じさせました。
 忍熊王はその誘言を真に受けて、悉く兵に武器を解かせ川の水中に投げさせ、弓弦を断たせました。
 そのとき、武内宿祢は三軍に予備の弦を出させ、改めて張らせ、 真刀を帯びさせ、河を渡らせて進めました。
 忍熊王は欺かれたことを悟り、倉見別と五十狭茅宿祢に 「私は既に欺かれた。今予備の武器はなく、戦うことなどできようか。」と仰って、 軍勢を引きましたが、退くのに手間取っていました。
 武内宿祢は、精兵を出撃させてこれを追い、 ちょうど逢坂(おおさか)のところで追いついて撃破しました。よってその地は逢坂(あふさか、のちにおおさか)と名付けられました。 軍勢は敗走し、狭々浪(ささなみ)の栗林(くるす)に及んだところで多くが斬られました。 よって、血が流れ栗林に溢れたので、これを嫌い、 今に至ってもその栗林の実は御所に進呈されません。 忍熊王は、逃げても逃げ込める場所が無く、 五十狭茅宿祢を呼び、こう詠みました。
――いざ吾君 五十狭茅宿祢 たまきはる 内の朝臣が くぶつちの 痛手負はずは 鳰鳥(にほどり)の 潜きせな
〔我が君五十狭茅宿祢よ、武内宿祢に痛手を負わせられなかったから、水に沈もう。〕
 そして、二人とも瀬田の渡りに沈み、死にました。 その時、武内宿祢はこのように詠みました。
――淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 目にし見えねば 憤ろしも
〔瀬田の渡りで潜った鳥は見えなくなったから、心が晴れぬ。〕
 そして、その屍を探ったが見つからりませんでした。 その後、何日も過ぎてから、菟道(うじ)川で発見され、武内宿祢はまた詠みました。
――淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 田上(たなかみ)過ぎて 菟道に捕へつ
〔瀬田の渡りで潜った鳥は田上を過ぎて、菟道で捕えた。〕


【地名】
《菟道川》
 琵琶湖から流下する唯一の川が瀬田川である。瀬田川は、京都府に入ると宇治川という名前になる。 忍熊王らは「瀬田の済」で沈み、屍が菟道川(宇治川)で発見されるから、瀬田川を通って流されたことになる。
《逢坂》
 逢坂山の山頂は、京都・大津間の北緯35度0分3.0秒、東経135度50分52.6秒にあり、標高324.7mである。
 以下、逢坂はそこであったと仮定する。
 武内宿祢軍が布陣したのは、菟道川の北である。 忍熊王軍はそこで向かい合った後、逢坂まで逃げたから、自然な経路を考えれば忍熊王軍の布陣はその北側である。 両軍は互いに川に武器を投げ捨てたというからその川を挟んで立ち向かっていたと思われ、その川は必然的に菟道川とは別の川ということになる。 その候補を探すと、山科川が該当する。
《栗林》
 栗林は、上代語で栗栖(くるす)という。各地で地名化したものもある。 滋賀県にも栗栖(滋賀県犬上郡多賀町)があるが、瀬田川からは遠い。
 瀬田川の東には、「大津市栗林町」がある。 この地は、もともと栗太郡の栗林新田で、明治時代に6村が合併して瀬田村となり、 瀬田町を経て1967年に大津市に編入された。  もともとの地名は「栗林新田」なので、江戸時代の干拓地である。 新田には開拓者の名前が付けられることが多いが、栗林新田の名は書紀に因んだものかも知れない。 書紀が書かれた時代には瀬田川の東岸に「栗林」はまだ存在せず、湖の底であった。
 両軍の動きから見て、「栗林」は逢坂から瀬田川までの斜面にあったと見るのが合理的である。 そしてそこは、狭々浪(沙沙奈美)の範囲内であったわけである。
瀬田川栗栖・田上
《瀬田の済》
 「瀬田の」を「対岸への渡り」と見れば、後の瀬田の唐橋のあたりであろうが、記では「淡海の海」に船を出して入水したと書かれるから、 もう少し北で、湖の領域内だと思われる。
《田上》
 現在、田上高原という観光地がある。その一帯の太神山(たなかみやま)、笹間岳(ささまたけ)などを総称して田上山(たなかみやま)と言い、田上地区は瀬田川沿岸まで及ぶ。 その檜が、藤原京造営や東大寺などの寺院のために大量に伐採されたという。(近畿農政局整備部「農の新しい歴史を刻む」〈田上山の伐採〉) なお、滋賀県には他にも長浜市に田上山(たなかみやま)があるが、無関係であろう。

まとめ
 書紀では敵でありながら「いとこどち」〔仲良し同士〕と呼び、また戦いの後は屍が見つかるまで探索を続ける。 だから、敵味方でありながら親近感をもつ関係である。 敵となって滅ぼされた氏族に対する愛着は、いつもは古事記の方に見られることだが、今回は書紀の方に強い。 本来同族であったことを、それだけ強く滲ませる。
 前回、五色塚古墳の後は大型古墳が途絶えたことについて、朝廷に仕えた同地の重要氏族が反乱を起こした可能性を見たが、 その氏族と、楽浪で敗れた氏族が同一だとすれば一応辻褄は合う。書紀では、同じ振熊命が明石郡に陵を造営し、瀬田川で敗れたことになっている。 ただ、もともとは摂津国と楽浪にあった、別々の伝説を繋いで作った話かも知れない。
 さて、「ささなみ」は万葉集にも数多く詠まれるが、地名としてはどこにも残っていない。 この語はおそらく飛鳥時代の歌に、この地の風景を枕詞として詠みこんだのが最初だろう。その後、特定の場所の地名には使われずに過ぎたと思われる。 唯一、国名「ささなみ国」が使われかけたようであるが、最終的には「近つ淡海の国」が定着したのである。


2017.01.16(mon) [145] 中つ巻(神功皇后6) 

故 建內宿禰命率其太子爲將禊而
經歷淡海及若狹國之時 於高志前之角鹿造假宮而坐
爾坐其地伊奢沙和氣大神之命 見於夜夢云以吾名欲易御子之御名
爾言禱白之 恐隨命易奉
亦其神詔 明日之旦應幸於濱獻易名之幣

故(かれ) 建内宿祢命、将禊(みそぎしまさむが)為(ため)に其の太子(ひつぎのみこ)を率(ゐ)て[而]
淡海(あふみ)及(と)若狭(わかさ)との国を経歴之(へし)時、[於]高志前(こしのさき)之(の)角鹿(つぬか)に仮宮(かりみや)を造りて[而]坐(ま)せり。
爾(ここに)其地(そこ)に坐(いま)す伊奢沙和気大神(いざさわけのおほかみ)之(の)命(みこと)、[於]夜(よる)の夢(いめ)に見えて云はく「吾(わ)が名を以ちて御子(みこ)之(の)御名(みな)と易(か)へむと欲(おも)ふ。」といふ。
爾(ここに)言禱(ことほぎ)て白(まをさく)[之]「恐(かしこ)みて命(みこと)の隨(まにま)に易(か)へ奉(まつ)る。」とまをす。
亦(また)其の神詔(のたまはく)「明日之旦(あすのあさ)[於]浜に幸(いでま)して名(な)を易(か)へし[之]幣(みてぐら)を献(たてまつ)る応(べ)し。」とのたまひき。


故其旦幸行于濱之時 毀鼻入鹿魚既依一浦
於是 御子令白于神云於我給御食之魚
故亦稱其御名 號御食津大神
故於今謂氣比大神也
亦其入鹿魚之鼻血臰故 號其浦謂血浦今謂都奴賀也

故(かれ)其の旦(あさ)[于]浜に幸行(いでま)しし[之]時、鼻を毀(こほ)てる入鹿魚(いるか)既(すで)に一(ある)浦に依(よ)す。
於是(ここに) 御子(みこ)[于]神に令白(まをさえ)て云(まをさく)「[於]我(われ)に御食之魚(みけのな)を給(たま)ひき。」とまをして、
故(かれ)亦(また)其の御名を称(とな)へて、御食津大神(みけつおほかみ)と号(なづ)く。
故(かれ)於今(いまに)気比大神(けひのおほかみ)と謂(まを)す[也]。
亦(また)其の入鹿魚(いるか)之鼻の血臰(くさ)き故(ゆゑ)に、其の浦を号(なづ)けて血浦(ちぬら)と謂(まを)して、今に都奴賀(つぬが)と謂す[也]。


 そして、建内宿祢命(たけのうちのすくねのみこと)は、禊していただくために皇太子を連れ、 淡海〔近江〕と若狭の国を経由し、高志の先の角鹿〔敦賀〕に行宮を建てて滞在しました。
 すると、そこにいます伊奢沙和気大神(いざさわけのおおかみ)が、夜の夢に現れて命じられた言葉は「私の名をもって、御子の御名と換えたいと思う。」でした。
 そこで、祝詞をあげ「畏(かしこ)みてお言葉のままにお換えします。」と申しました。 すると神はまた、「明日の朝、浜に幸(いでま)して名を取り換えるための幣(みてぐら)を献(たてまつ)れ。」と仰りました。
 このようにして、その朝、浜に幸(いでま)してみると、鼻に傷を負った海豚が既にある浦に打ち上げられていました。 ここで、御子は神によって予定されたままに、こう申し上げました。「私に御饌(みけ)の魚(な)〔名〕をいただきました。」と。 その言葉はまた、御名を口にしたこととなり、御食津大神(みけつおおかみ)と名付けられました。 そして、今は気比大神(けひのおおかみ)と申します。
 また、その海豚の鼻の血の臭いの故に、その浦を血浦(ちぬら)と申し、今は都奴賀(つぬが)と申します。


…[前] ために。
ため…[名] (万)4222 和藝毛故尓 美勢牟我多米尓 わぎもこに みせむがために。 
…[名・動] みそぎ(する)。(古訓) きよむ。みそき。はらへ。
みそぐ…[自] 水で身を清めて罪・穢れを祓う。
経歴…通り過ぎる。
…(古訓) ふ。へて。ふる。わたる。
…(古訓) ふ。へたり。へて。つたふ。
…(古訓)〈類聚名義抄観智院本〉いかか。いたる。およふ。かへす。つひに。としく。ととのふ。ともにす。
若狭…〈倭名類聚抄〉{若狭【和加佐】国〔わかさ〕
角鹿(つぬか)…〈倭名類聚抄〉{越前国・敦賀【都留我】郡〔つるがのこほり〕
かふ(易ふ)…[他]ハ下二 交換する。
ことほく(言寿く)…[自]カ四 ことばで祝う。ここでは、神に申す前に儀式的に祝詞を唱えることを指すと見られる。
…[助動] まさに~すべし。(当然または確度の高い推定)。
みてくら(幣帛)…[名] ①神前に供えるものの総称。②ぬさ。神を串にさし神前に捧げる祭具。
こほつ(壊つ、毀つ)…[他]タ下二 こわす。「こほる」(下二)に対する他動詞。
ミナミバンドウイルカ
いるか(入鹿)…[名] 哺乳類鯨偶蹄目。
一浦…「あるうら」または「ひとつのうら」。まだ名付けられていないことを示す。
たまふ(賜ふ、給ふ)…[他]ハ四 「与ふ」の尊敬語。与え主をうやまう。
たまふ(賜ふ、給ふ)…[他]ハ下二 「もの受ける」の謙譲語。与え主をうやまう。
…[動・名] におう。におい。字の成り立ちは「死臭」。
…(古訓) くさし。
にほふ…[自]ハ四 赤く色づく。美しくつややかである。芳香がする。

【為将禊】
 には、使役動詞〔令(し)むなど〕の用法がある。その場合ここでは「みそぎせむとせしむ」となるが、回りくどく感じられる。 語順を変えて「将為禊〔禊せしめむとす〕とすれば抵抗はなくなる。
 一方、「」には、動詞「為にする」、前置詞「~の為に」の意味もある。 万葉集には「忘れむがため」「見せむがために」という言い方が出てくる。
――(万)4222 和藝毛故尓 美勢牟我多米尓 母美知等里氐牟 わぎもこに みせむがために もみちとりてむ〔吾妹子に見せむがために黄葉取りてむ〕)。
 したがって、「為将」は「せむがため」かも知れない。 ただ、その場合は後置の連用修飾句となり、「率-太-子為禊」と、やや複雑な訓読になる。 純正漢文ではこの程度は普通だが、 古事記の和風漢文において、このような複雑さがあり得るかという問題がある。
 しかし、「見於夜夢」も後置なので、 この段は後置が支配的だと見ることもできる。

【経歴淡海及若狭国之時】
  《「及」の訓読》
 「」は淡海・若狭を繋ぐ接続詞である。もし接続詞でなければ、 「-歴淡海若狭国之時〔淡海を経歴(へ)て若狭の国に及(いた)りし時〕となり、敦賀郡が若狭国にあったことになる。 だが角鹿を「高志前之角鹿」と書くから、角鹿はやはり越前国であろう。
 淡海に「国」がつかず、若狭だけ「国」がつくのも、淡海と若狭を同列に置くからである。
 ところが、〈時代別上代〉には、「『天狭田オヨビ長田』(神代紀上)のような接続詞的な例も、上代に確証を見ない。」 として、平安時代に成立した「AおよびB」という訓読に疑問を呈している。
 「」が接続詞であることは間違いないから、〈時代別上代〉は、接続詞「および」が存在したことを証明できないと言うのである。 それでは「および」を避けるとすれば、どう訓んだらよいか。 例えば、「」と同じく「~と~と」と訓めば、確実に意味は通る。 しかし、「及」の古訓にトモニスはあるが、はない。 「与」には、トモニス・トの両方があるから、『及』もかつてはと訓まれ、その後平安時代にオヨビと訓むことが優勢となり、 類聚名義抄の鎌倉時代にはは完全に失われたとする想像も可能である。
 そもそも訓読は本質的に翻訳であるから、上代語として通用するのなら、存在が不確かな語を使うよりよいのかもしれない。
《出発点》
 前回、激闘の末大津に到達した。そのまま琵琶湖を船で渡ったと思われる。
 ただし、書紀では一度倭に戻り皇后は摂政となり、磐余を都として若桜宮に座す。 御子は摂政三年に四歳で正式に皇太子となり、笥飯大神に参拝するのは十三年〔十四歳〕になってからである。
国土地理院:ウォッチズを利用。
上ノ塚古墳〔脇袋古墳群〕 ja.wikipedia.org
《敦賀に到る経路》
 畿内から琵琶湖経由で敦賀に至る経路は 「七里半越え」と呼ばれ、現在の国道161号線(西近江路)にあたる(右図の経路)である。
 しかし、竹内宿禰と御子は若狭国を経由した。国境が現在とは違っていて、 七里半越えがかつては若狭国であった可能性も検討したが、 等高線を見ると若狭国と越前国の境界(現在の福井市と美浜町の境界)は、 蠑螺さざえが岳-西方が岳-馬背峠 -旗護はたご山-野坂岳-三国山を通る 明瞭な嶺線となっており、古代から自然地形による国境であったと思われる。
 そこで若狭国を経由するとすれば、現在の303号線に入る。途中にトンネルがあるが、トンネル外の道も繋がっている。 そして脇袋古墳群辺りから27号線に入り、三方五湖・美浜湾を左手に見て関峠を越えて敦賀に達する(右図の経路)。
 脇袋古墳群がある旧上中町は、「わが上中町は、若狭のほぼ中央に位置し、古代より日本海と畿内を結ぶ交通・ 文化の要衝として、また北陸と山陰に通ずる分岐点として、極めて重要な場所でありました。」<上中町〔2005年合併により若狭町〕教育委員会設置の案内板>という。 経路は距離は長いが、古代の歴史的を物語る風景を見ながらの旅は、古事記に相応しいだろう。

【高志前】
 敦賀地方の現代地名に「越岬」は存在しない。気比神宮から一番近い岬は「鴎ケ崎(かもめがさき)」で、 金崎宮〔明治二十三年〔1890〕創建〕の公式ページには、「風光明媚な所で天気がよければ越前海岸を見ることができる。 以前は海中に突出した尾崎であったがまわりが埋め立てられて…」とある。 金ヶ崎城は、南北朝時代と戦国時代の「金ヶ崎の戦い」で有名である。
 気比神宮も、もう少し海岸に近かったと考えられる。気比の松原には、渤海国使(後述)が滞在する松原客館があったとされる。
 高志は越前・加賀・能登・越中・越後という広い地域を指すから、「高志前」は「岬」ではなく、国の入り口を意味する「高志の先」かも知れない。

【角鹿】
《孝霊天皇段》
 孝霊天皇の皇子、日子刺肩別命が「角鹿海値」の祖とする記事が、角鹿の初出である (第107回)。 
《垂仁天皇紀》
 「一曰(あるいはく)」として、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、別名、于斯岐阿利叱智旱岐(うしきありしちかんき)が笥飯浦(けひのうら)から上陸した話がある。 額(ぬか)に角が生えていたので、「つぬが」となったという地名譚が載る。 崇神天皇のときに来日し、垂仁天皇のときに帰国した (垂仁天皇紀)。
《渤海国使》
 渤海国〔698年~926年〕は日本と外交関係があり、使者は日本海を往来し、敦賀にもしばしば使者が上陸した (「敦賀の歴史」―渤海使)。
 気比神宮の『由緒沿革』によれば、「渤海使が相次いで日本海沿岸に来着したので神領の気比の松原を渤海使停宿の処として、天平神護二年〔766〕勅によって松原客館が建設され、これを、気比神宮宮司が検校した」という。
 渤海国使の最初の到来は727年なので、記紀が完成した後のことである。 しかし、日本海沿岸と朝鮮半島との間の往来が弥生時代からあったことは実証されており、 九州北部はもちろん、山陰でも弥生後期(2世紀前半)の田和山遺跡(島根県松江市)出土の石板が楽浪郡のすずりと判明している (魏志倭人伝をそのまま読む-第12回【南北市糴】)。 その範囲は当然敦賀まで及んでいたであろう。
渤海国使の渡航経路
《血浦・角鹿・敦賀》
 血浦は、「ちのうら」が母音融合により「ちぬら」と発音すると思われる。 ただ、これが訛って「角鹿(つぬか)」になったととするのは、やや強引である。 垂仁天皇紀には、上記のように別の地名譚「角+額(ぬか)」が載る。
 「敦賀」は、好字令〔713〕によるものか(資料[13])。 敦賀市の公式ページには、「和銅6年(713)に「敦賀」という字に改められました。」とある。 しかし、713年は好字令が出された年であって、各地はそれから検討を始めて、決定してから報告するわけである。 その決定の知らせは、記紀には間に合わなかったようである。
 なお、「敦」の字を用いたのは、古訓「つらぬ」によったかと思われる。

【イルカ】
 イルカは、縄文時代から食用にされていたようである。 石川県埋蔵文化センターのページには、石川県能登町真脇遺跡に、縄文時代の 「前期末から中期初頭(約5000年前)の層から大量のイルカの骨が出土しています。その数の多さから真脇の縄文人はイルカ漁を行っていたと考えられています。」とある。
 日本国内には、現在でもイルカを食用にする地域がある。

【神の命】
 神に敬称をつけた「神の命」は、万葉集にいくつか見られるが、「すめろぎの神の命」などと呼び、天皇を現人神として敬うときの呼び名が多い。 固有名詞としての神に付けた例は、 (万)0813 多良志比咩可尾能弥許等 たらしひめかみのみこと。 など2例に限定され、いずれも「たらしひめ〔=神功皇后〕である。
 このように、神への敬称として用いられることもあるが、 「伊奢沙和気大神之命」の場合は、神の「おほせごと」を意味すると考えられる。その理由は、
動詞に「」ではなく「」を用いている。これは主語が大神ではなく、「御言」だからである。
御子の返事は「隨命」だから、「命(おほせごと)」を受けている。
 である。 訓読は「おほせごと」でもよいが、「かみのおほせごと」では発音がごつごつした印象を受ける。 「かみのみこと」とした方が柔らかく、また万葉集に使われて馴染みがある。
 (万)0029 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 あめのした しらしめしけむ すめろきの かみのみことの おほみやは。 の「みこと」は、敬称「みこと」に「御言」の字を宛てたようにとれる。 しかし、この歌は題詞に「近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌」とあるように、人麻呂が「この荒れ地が天智天皇が遷都したところだ」 という感慨を詠ったものなので、「神之御言能」は「天智天皇のお言葉によって遷都したところの」の意味にもとれる。
 神または貴人の言葉もまた、「みこと」という。

【献易名之幣】
御子→神 (幣帛を奉納) 神→御子 (品を賜る)

○「応幸於浜献易名之幣」の「応」〔~すべしと相手に促す語〕 は、「幸於浜」〔浜に行く〕と「献易名之幣」〔幣帛を献ず〕に並列にかかる。
○「献」とは人が神に捧げる行為である。※1
○「詔」と「白」の用法から、神が上位で皇子が下位である。
○尊敬語「幸」により御子は神の上位にあるから、 ここでは神から御子への「献幣」である。
○実際に、イルカを御子に献上した。


●幣帛を持参しなかった〔「献名」は、口頭のみである〕 ●イルカが御子に与えられたものなら、御子が同時に「みけ」の名を受けたこととなり、辻褄が合わない。

△「幸」は御子(皇子)への絶対敬語であって、神と御子の上下関係に影響を与えるものではない。 △すべてのことが神が御食神の名を得るために行った工作となり、作為的すぎる。※2
 「幣帛を献(たてまつ)る」とは、人が神に捧げる行為であるが、ここの文脈では神が人に幣帛〔=入鹿〕を与えたことを指すようにも思える。 この項では「」の方向が御子→神神→御子のどちらであるか探りたい。
 この問題について、考えられる論点を整理して、右にまとめた。
 すると、※1に言う通り、「」の 語を人と神を逆転させて使うことは、やはりあり得ないだろう。 また、※2で作為的に過ぎるとされるが、だからと言って避けなければならないことはない。
 「明日之旦応幸於浜献易名之幣」は、
――明日の朝浜に行きなさい。そこでお前が見つけたものを、幣帛(みてぐら)として神に 捧げなさい。それを通して、神は献られる名を知ることになるだろう。
 と読み取ることが可能である。 「易名の幣」は極めて簡略化された言葉ではあるが、御子には伝わったのだろう。 だから、平気で手ぶらで出かけることができたのである。
 そして、ことは神の計画通りに進み、「みけつ神」の名を得ることができた。

【故亦称其御名】
 「於我給御食之魚」の訓読は、「われにみけのなをたまひき」である。 これを耳で聞くと、「於我給御食之名〔われにみけの名をたまひき〕と区別がつかない。 そしてこの言葉によって、神は新しい名を得た。
 ということは、神は最初から「みけつ神」という新しい名前をもらおうとして、毀鼻入鹿を用意していたことになる。 だから、御子の本名が何であろうと、実は関係ないのである。 どうやらこの物語は、ひたすら「魚(な)」と「名(な)」との洒落を狙うものといえる。
《書紀の反応》
 ところが、書紀はただの口実に過ぎない名前の交換を真っ正直に捉え、応神天皇紀の割注で 「それなら、大神の元の名は誉田別神、また応神天皇の元の名は去来紗別尊 であるはずだが、それらの名は見ゆる所無く、詳らかではない」という。
 交換前の名前を裏付ける伝説を探しても、結局探見つからなかったようだ。 だから易名伝説を本文に組み込めなかったことを、割注で報告したのである。
《真意》
 この段は名前交換説話を装っているが、 真意は、「気比大神」が食物神だと示すところにあろう。
 敦賀は海産物の大集約地であったから、それを守護する大神が祀られたのであろう。
 食物神は他にもある。 例えば、須佐之男命が神界を追放されて出会った神が、大気津比売(第51回)である。 また、書紀一書にも大気津比売に類似する話があり、その当事者は月夜見の命で神の名は保食神(うけもちのかみ)である (第44回)。
 さらに、伊勢神宮の外宮には豊受神(とようけのかみ)が祀られている。「」・「うけ」は何れも食物を意味する。

【伊奢沙和気大神】
 「其地」「大神」と言う表現から、伊奢沙和気大神は朝廷勢力が進出する以前から土地の人に祀られていたことを暗示する。 「わけ」原始的姓(かばね)で、垂仁天皇・景行天皇の皇子とその子孫に目立ち、国を「わけあたえた=封じた」意味を込めていると論じた (第116回【派生氏族】)。
 神の名前としては、ウィキペディア「日本の神」にまとめられた神のうち「日本神話の神」とされる356神のうち、「-別」という名の神は11神(約3.1%)でかなり少ない。 庶民の生活から生まれた神ではなく、初期天皇の皇子が二次的に神とされた可能性がある。
 ということは、仲哀天皇は実際に「伊奢沙別命」の別名をもち、気比の地に祀られていたことも考え得る。 それが越前国風土記(後述)に反映した可能性も、ないことはないだろう。
 【故亦称其御名】の項で、名前交換説話は話を盛りあげるためだと考えたが、 神の名前の変更そのものはあったかも知れないのである。

【御子令白于神】
 令白于神は「かみにまをさしむ」と訓む。「しむ」には尊敬の意味もあるが、それが生じるのは平安時代になってからである。 漢字の「」も使役動詞であるから、ここでは完全に「させる」である。 それでは誰が誰に「させた」のかと言えば、神が御子にである。
 つまり、「我にみけの名を給ふ」と聞こえる言葉を言わせたのは、神が予め仕組んだものであることを示すのが「令」であろう。
 これを正しく表す漢文の語順は、「令御子白」である。それによって「みこをしてまをせしむ」と訓読することは可能だろう。
 もし御子を主語にすることに拘るなら、受け身にして「神に白さしめられて」と訓まなければならないが、 残念ながら上代語には、下二段活用の「しむ」に接続する受け身の助動詞が存在しない (第114回【文法】)。
 次善の策として、単純な自発でも「神に」がつけば使役の結果であることは明らかだから、助動詞「」を使って、「まをさゆ」はどうだろうか。
 なお、宣長は「令白」を「御子が武内宿祢に申させた」と解釈する。 確かに、宣命を代弁させた例はある。続紀天平勝宝元年十二月辛酉条で、橘諸兄に代弁させるが、 そこでは「諸兄奉詔白神〔諸兄、詔を奉(たてまつ)りて神に白す〕と、発言者の名を明示している(資料[14])。 さらに、「詔-白」においては相手が自明な場合は省略され、 省略しない場合もほとんど「于」は入れない。「于」があるのは、これを含めて2例だけである。 だから、ここで特に「于神」と書くのは、神が「令」の命令主であることを示しているととるべきではないだろうか。

【風土記-気比神宮】
 この越前国風土記逸文の出典は卜部兼倶〔1435~1511〕による神名帳頭注〔ページ上欄の注〕とされる。曰く。
風土記云 氣比神宮者宇佐同體也 八幡者應神天皇之垂跡 氣比明神 仲哀天皇之鎮座也

風土記に云はく、気比神宮は宇佐と同体にして、八幡は応神天皇の垂跡(すいじやく)にて、気比明神は仲哀天皇之(の)鎮座(ちむざ)なり。

《垂迹》
 垂迹とは仏や菩薩が仮に神の姿となって現れることを意味する。 「明神」号は、<wikipedia>平安時代における記述においては特別に崇敬される神が明神もしくは大明神と呼ばれ、 本地垂迹説の勃興により、これら大明神が仏の化身であると考えられるようになった</wikipedia>という。 本地垂迹説の発生は平安時代以前に遡り、思想体系として整備されたのが鎌倉時代とされる。
 宇佐の八幡大神は、後に「菩薩」になる。 〈神明帳〉〔927年〕には既に、 {豊前国/宇佐郡/八幡大菩薩宇佐宮【名神 大】/比売神社【名神 大】}とある。 それでは「八幡大菩薩」になったのはいつだろうか。なるべく古い文献から探すと、 『新抄格勅符抄』巻十神事諸家封戸「延暦十七年十二月二十一日付官符」がある。
――太政官符 太宰府
 一応納府庫八幡大菩薩封一千四百戸位田百卌町事 〔一つ。府庫に八幡大菩薩の封ずる一千四百戸の位田百四十町を納む応(べ)き事〕
 …官符とは、大宰府が所轄の国に出した公式の命令書。
 この内容について詳しいことは省くが、宇佐八幡宮は、社領で収穫した米の納付がそれまでは免除されていたが、これからは納めよという命令のようだ。 大宰府は、本来いくつかの国のブロックを取り仕切る朝廷の出先機関を意味する (第123回【都督】)。
 続紀の天平勝宝元年(前述)では「八幡大神」であるから(資料[14])、 「八幡大菩薩」と呼ばれるようになったのは、天平勝宝元年〔749〕から延暦十七年〔798〕までの間ということになる。
《漢風諡号》
 応神天皇、仲哀天皇の漢風諡号は、淡海三船による一括撰進〔762~764年頃〕によると考えられている。 出雲国風土記の完成は734年ごろと言われ、越前国風土記もその前後だとすると、時期が合わない。
 恐らく兼倶による風土記の引用は要約で、諡号は兼倶の時代のものを用いたと思われる。
《仲哀天皇》
日本書紀仲哀天皇紀曰二年二月癸未朔戊子幸角鹿即興行宮而居之是謂笥飯宮
同神宮〔ママ〕皇后紀曰十三年春二月丁巳朔甲子命武内宿祢從太子令拜角鹿笥飯太神
同應神天皇紀曰一云初天皇為太子行于越國拜祭角鹿笥飯大神特〔ママ〕大神与太子
 名相易故号大神曰去来紗別神太子名譽田別尊然則可謂大神本名譽田
 別神太子元名去来紗別尊然无所見也未詳
    兼文案之角鹿笥飯大神者仲哀天皇御坐也
 真福寺本の「其神詔明日之旦…」のところに、注釈を書いた短冊の上端を糊付けして貼ってある(右図)。
 その内容は、は仲哀天皇紀の笥飯宮滞在、 (第138回《立気長足姫尊為皇后》)、 は神功皇后紀から(下記)、 応神天皇紀の割注(下記) を引用し、最後に 〔兼文これを案ずるに、角鹿笥飯大神は仲哀天皇の御座(みまし)なり〕と書き添える。 したがって、この注釈は兼文によるものである。 兼文は、釈日本紀を著した卜部兼方の父で、 『古事記裏書』という書を記している。その本文は10枚の袋とじで、 九枚目の後半に「一 笥飯宮事」として、真福寺本の短冊と同じ文が載っている。 そして十枚目に「草薙釼事」があり、最後に「文永十一年二月十四日??兼文注之〔1274年3月23日〕とある。
 『古事記裏書』は、ほぼ短冊と同文であるが、短冊の誤記「神宮皇后」は「神功皇后」に正され、 から「曰一」と「未詳」が脱落している。
 兼文は越前国風土記のことには触れていないので、その存在を知らなかったかも知れない。 しかし、「笥飯大神者仲哀天皇御坐也」という表現は、「気比明神仲哀天皇之鎮座也」と類似するから、 別個に同じ結論に達した。兼文が風土記のことを知っていたが書かなかった。 「風土記」という名称を用いている実は13世紀以後の書で、『古事記裏書』または、真福寺本の短冊を参考にした。 可能性がある。
 だとすれば、漢風諡号は引用者による書き換えではなく、最初からのことになる。
《解釈》
 風土記逸文は、明神と八幡神を「同体」すなわち同じ性格の神と位置づけ「宇佐八幡神は、應神天皇の垂跡」と並べることにより、あたかも仲哀天皇が気比明神であるかのように印象付ける。 もし気比明神が仲哀天皇ならば、誉田別皇子が父である仲哀天皇を気比神宮に拝礼し、誉田別天皇自身は、後に宇佐八幡宮に祀られたということになる。
 しかし、厳密に読むと風土記・兼文ともに「笥飯大神〔宮〕に祀られる」と書くだけで、決して笥飯大神と同一であるとは断定していない。 史実としては、奈良時代初めに別々の神として祀られ、現在もそれが引き継がれている(次項)。
 大明神・八幡神は、平安時代には仏の垂迹と確定されるから、もし、「越前国風土記」が奈良時代の書なら仏の化身としての性格を次第に帯びつつある時期に書かれたことになる。 もし鎌倉時代の書ならば、完全に本地垂迹理論による「垂迹」である。

【気比神宮】
気比神宮――戦災を免れた大鳥居
 〈神名帳〉に{越前国・敦賀郡・気比神社七座【並名神 大】}。 比定社は氣比神宮(福井県敦賀市曙町11-68)。 祭神は、伊奢沙別命(別名御食津大神)、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、日本武尊、玉姫命、竹内宿禰命。 同社の『由緒沿革』には、「文武天皇の大宝二年〔702〕勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉姫命を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して『四社之宮』と称した」とある。
 以下、この七神が〈神名帳〉の「七座」に該当することを前提として述べる。
《祭神-仲哀天皇・日本武尊》
 日本武尊が祭神に加えられているのは、伊吹山に近い敦賀郡もその崇敬の地であったからだろう。 同じく伝説の地である伊勢国において、日本武尊がほとんど祀られていないのとは対照的である (第133回【伊勢の国における倭建命】)。
 書紀は、仲哀天皇が笥飯に行宮を置いたことを書き添えている。 仲哀天皇は倭建命の子で、仲哀紀に父を偲んで白鳥を求める話があるので (【蘆髮蒲見別王】)、 初期の建部(倭建命の後名代)の王であったのではないかと思われる。 建部は、白鳥教団として全国展開したようだ (第134回まとめ)。
 仲哀天皇は、記紀においては筑紫での判断ミスが強調され、評価は低い。 しかし、近江・越前には建部の勢力が強かったために、 中心的な祭神に加えられたのではないかと思われる。
 仲哀天皇は、筑紫で熊襲の制圧を試みて失敗した大王と、近江の建部出身の大王が習合した合成人格ではないかと思われる。
《祭神-神功皇后・応神天皇・武内宿祢》
 神功皇后が伊奢沙別命と同格の祭神になっているから、 7世紀末から高揚した神功皇后崇拝が、筑紫・大阪湾岸に限定されず、全国規模であったことが伺われる。 あるいは、敦賀もまた朝鮮半島との海上交通の拠点であったことを意味すると思われる。
 応神天皇はこの三神を祀る方の立場だから本殿と分けられ、竹内宿祢も神功皇后に仕える立場だからこれも分けられる。 応神天皇は豊前国宇佐の八幡神でもあるから、これまた合成人格かも知れない
《祭神-玉姫命》
 七座の神の中で、玉姫命だけは特異である。 豊玉姫命は、彦火火出見尊の子を身ごもり、南方から海原を渡って到来し、南九州の海岸に上陸して鵜葺草葺不合命(神武天皇の父)を生んだ (第94回)。
 オセアニアに起源をもつ種族が対馬海流に乗ってここにも漂着し、独立した氏族を形成していたのかも知れない。 その神が御食津大神と共に祀られたとも考えられる。
 敦賀は古くから倭国の北の玄関として、 さまざまな種族が渡来する地であったと思われる。 垂仁天皇紀に載る加羅・新羅からの来日の記事にも、それが反映しているようだ (垂仁天皇紀)。

【書紀-拝角鹿笥飯大神】
13目次 《拝角鹿笥飯大神》
十三年春二月丁巳朔甲子、命武內宿禰從太子、令拜角鹿笥飯大神。

〔神功皇后〕 十三年春二月(きさらき)丁巳(ひのとみ)を朔(つきたち)として甲子(きのえね)〔八日〕、武内宿祢に命(おほ)して太子(ひつぎのみこ)を従(したが)はしめて、角鹿笥飯大神(つぬがのけひのおほみかみ)を拝(をろが)ま令(し)む。

《太子》
 既に神功皇后摂政3年に、誉田別皇子を皇太子に定めた。 十三年には、数え年14歳であった。
《大意》
 神功皇后十三年二月八日、武内宿祢に命じてを誉田別皇子を連れ、角鹿笥飯(つぬがのけひ)大神を拝礼させました。


【応神天皇紀】
《「故稱其名謂譽田天皇」への割注》
【一云、初天皇爲太子、行于越國、拜祭角鹿笥飯大神。
時、大神與太子、名相易、故號大神曰去來紗別神、太子名譽田別尊。
然、則可謂大神本名譽田別神、太子元名去來紗別尊。
然無所見也、未詳。】

一云(あるいはく)、初め天皇、太子(ひつぎのみこ)を為(し)て、[于]越国(こしのくに)に行(ゆ)かしめて、角鹿笥飯大神(つぬかのけひのおほかみ)を拝(をろが)み祭らしむ。
時に、大神与(と)太子、名を相(あひ)易(か)へて、故(かれ)大神を号(なづ)け去来紗別神(いざさわけのかみ)と曰ひて、太子を誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名づくといへり。
然(しかるがゆゑに)、[則(すなはち)]大神の本の名は誉田別神(ほむたわけのかみ)といひて、太子の元の名は去来紗別尊(いざさわけのみこと)と謂ふ可(べ)し。
然(しかれども)所見(みゆるところ)無くして[也]、未(いま)だ詳(つまひらか)ならず。

《大意》
 一説に、初めに天皇が皇太子に越の国に行かせ、角鹿笥飯大神(つぬかのけひのおほかみ)を拝み祭らせた。 その時、大神と太子は名を互いに交換した結果、大神は去来紗別神(いざさわけのかみ)と名付けられ、太子は誉田別尊(ほんたわけのみこと)と名づけられたという。 よって、大神の本の名は誉田別神(ほんたわけのかみ)といい、太子の元の名は去来紗別尊(いざさわけのみこと)であるはずである。 しかし、その名はどこにも見えず、いまだ詳らかではない。


まとめ
 神功皇后は都に留まり、品陀和気皇子を禊させるために建内宿祢に託して角鹿に行かせた。 禊と言えば、かつて伊邪那岐命が禊したのは、黄泉の国の穢れを祓うためであった。 それでは品陀和気皇子には、如何なる穢れがあったのか。 それについては何も書かれていない。書紀では禊には触れず、ただ笥飯大神に拝礼したことだけを書く。
 その伊奢沙和気大神には、記紀には何も書いていないが、仲哀天皇をオーバーラップさせる見方がある。
 易名説話についての文法的な検討はかなり細かくなったが、 突き詰めてみて初めて見えてくることがある。 結局、大神は新しい名前を得ることによって、新たな神に生まれ変わろうとしたのである。 そして大陸往来の日本海ルートを加護する。これによって朝鮮半島との交流の展開を支えるのである。 以前の姿が仲哀天皇だったとすれば、白鳥教団との古い繋がりを断ち切ったのかも知れない。
 次に琵琶湖から角鹿に至る行程を想定してみると、途中に古墳群があった。 飛鳥時代の旅人はその風景を見て、感慨に浸ったことであろう。 建内宿祢と皇子の旅そのものはフィクションであるが、当時の人々の旅路が反映しているのだろう。
 さて、神功皇后と皇子は筑紫-摂津-敦賀と、半島との交流の拠点を辿ってその旅を終えた。
 書紀では、神功皇后はこの後磐余の若桜宮に腰を据えて、国を統治する。 書紀は、その姿を魏志の倭の女王に准えることになる。
 一方、記ではこれ以後見るべき業績は書かれない。この違いについては、次回以後に検討していきたい。


2017.01.21(sat) [146] 中つ巻(神功皇后7) 

於是還上坐時 其御祖息長帶日賣命釀待酒以獻
爾其御祖御歌曰

於是(ここに)還上(かへりのぼ)り坐(ませ)し時 其の御祖(みおや)息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)酒(みき)を醸(か)み待(ま)ちて以ちて献(たてまつ)りませり。
爾(ここに)其の御祖御歌曰(みうたよみたまはく)。


許能美岐波 和賀美岐那良受 久志能加美 登許余邇伊麻須 伊波多多須 須久那美迦微能 加牟菩岐 本岐玖琉本斯 登余本岐 本岐母登本斯 麻都理許斯美岐叙 阿佐受袁勢 佐佐

許能美岐波(このみきは) 和賀美岐那良受(わがみきならず) 久志能加美(くしのかみ) 登許余邇伊麻須(とこよにいます) 伊波多多須(いはたたす) 須久那美迦微能(すくなみかみの) 加牟菩岐(かむほき) 本岐玖琉本斯(ほきくるほし) 登余本岐(とよほき) 本岐母登本斯(ほきもとほし) 麻都理許斯美岐叙(まつりこしみきそ) 阿佐受袁勢(あさずをせ) 佐佐(ささ)


如此歌而獻大御酒
爾建內宿禰命 爲御子答歌曰

此の歌(みうた)の如(ごと)くして[而]大御酒(おほみき)を献(たてまつ)ります。
爾(ここに)建内宿祢命(たけのうちのすくねのみこと)、御子(みこ)の為(ため)に答歌(かへしうた)曰(うたよみまをさく)


許能美岐袁 迦美祁牟比登波 曾能都豆美 宇須邇多弖弖 宇多比都都 迦美祁禮迦母 麻比都都 迦美祁禮加母 許能美岐能 美岐能 阿夜邇宇多陀怒斯 佐佐

許能美岐袁(このみきを) 迦美祁牟比登波(かみけむひとは) 曽能都豆美(そのつづみ) 宇須邇多弖弖(うすにたてて) 宇多比都都(うたひつつ) 迦美祁礼迦母(かみけれかも) 麻比都都(まひつつ) 迦美祁礼加母(かみけれかも) 許能美岐能(このみきの) 美岐能(みきの) 阿夜邇宇多陀怒斯(あやにうたたのし) 佐佐(ささ)


此者酒樂之歌也

此者(こは)酒(みき)楽(たのしび)之(の)歌なり(也)。


 そして都に帰還された時、その母君息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)は酒を醸して待以ちて献(たてまつ)りき。 そこで母君は歌詠みされました。
――この神酒(みき)は吾(わが)神酒ならず 奇酒(くし)の司(かみ)  常世に坐す いはたたす少名御神の  神(かむ)祝き祝き狂ほし 豊祝き祝き廻(もとほ)し  奉り来し神酒そ あさず飲(を)せ ささ
 〔この神酒は私は作らず、奇しき酒の司、常世に坐す少名御神が祝ぎ狂い、祝ぎ回り、 進呈され届いた神酒ですのよ。どうぞ飲み干しなさいませ。さあ。〕
 この御歌のごとく、大御酒を献上しました。
 そして、建内宿祢命(たけのうちのすくねのみこと)は、御子に代わって返し歌をお詠みしました。
――この神酒を醸みけむ人は その鼓 臼に立てて  歌ひつつ醸みけれかも 舞ひつつ醸みけれかも  この神酒の 神酒のあやに歌楽し ささ
 〔この神酒を醸した人は、そんなことは多分なかろうが、臼を鼓にして打ち、歌いながら醸したかも。 舞いながら醸したかも。この神酒で、まことに歌を楽しもう。さあ。〕
 これは酒を楽しむ歌です。


みおや(御祖)…[名] 親を尊んでいう。〈時代別上代〉特に、母親を尊んでいう例が多い。
くし…[名] 酒のほめ詞。「奇し酒」の略か。
かみ(守、頭)…[名] 首長。長官。
かみ(神)…[名] 神。
とこよ(常世)…[名] 不老不死の神仙の国。「其少名毘古那神者 度于常世国」(第69回)
いはたたす…[枕] 少名御神(すくなみかみ)にかかる。〈時代別上代〉「宿那彦神像石神社によると石神として考えられたらしい。」〈神名帳〉{能登国/能登郡/宿那彦神像石神社}。
ほく(祝く、祷く、呪く)…[自]カ四 神に祈る。ことほぐ。人をのろう。 
くるほす(狂ほす)…[他]サ四 狂わせる。「くるふ[自]」に対する他動詞。
もとほす(廻す)…[他]サ四 巡らせる。「もとほる[自]」に対する他動詞。
あす…[自・他]サ四 〈時代別上代〉未詳。
あさず…「余さず」か。
をす(食す)…[他]サ四 (尊敬語)飲む。食う。
ささ…[感] はやしことば。
かへしうた(返歌)…[名] ①贈られた歌に答えて詠む歌。②長歌に添えた短歌。
かむ(醸む)…[他]マ四 酒をかもす。かつて米を噛んで酒をつくったことにより、「噛む」から派生。 
けむ…[助動] 連用形接続。過去のことを推し量る。〈時代別上代〉「過去の助動詞キの未然形ケに推量の助動詞ムの接したもの」 ただし、キの未然形「ケ」が古い時代に存在したかどうかは不明。
かも…[助] 文末につけ、体言または連体形を受け、詠嘆・疑問・反語。反語では已然形を受けることも。

【還上坐】
 かへりのぼる、すなわち都に帰ったことを意味する。記では、その所在地は明示されてない。 明示されているのは、仲哀天皇段の冒頭の「帯中日子天皇坐穴門之豊浦宮及筑紫訶志比宮」 だけである(第138回)。
 本来の都は畿内にあったことは、文脈からは分かるのみである。 書紀は、そこを補い、仲哀天皇陵を河内国に造り、神功皇后は磐余の若桜宮に滞在したことを明示する。

【かみけれかも】
 反語が已然形を受ける場合については、 〈時代別上代〉は、「東歌・防人歌では助動詞ムの已然形を受けて~メカモの形をとることがある。」 〈古典基礎語辞典〉(角川学芸出版-大野晋)は、「『めかも』の形で反語の意を表す。『万葉集』では東歌と防人歌にしか使われていない。
 このかみけれかもは、「かも」が「けり」の已然形を受けていると見ざるを得ない。
 書紀が「伽彌鶏梅伽墓(かみけめかも)」としたのは、「けれかも」は通常使わない形だと判断して直したのかも知れない。 「めかも」でも例外的であるが、書紀はこれを万葉集の歌から拾い出したのかも知れない。 とすれば、書紀編纂期に既に万葉集の原型が存在していた可能性があり、興味深い。

【ささ】
 「うたたのし」と歌った直後に「ささ」という掛け声があり、さらに「楽之歌」という説明があるのを見ると、 「ささ」と「楽」は大変近いところにあったように感じられる。後に「神楽」と呼ばれる集いは、確かに飛び交った囃子言葉「ささ」を名称としていたようにも思える。 〈時代別上代〉には「とくに神楽のときに用いることが多い」とあるが、もちろん「神楽=カグラ」という語はまだ存在していない。
 それがカグラになるまでの過程を考えてみると、歌・舞の集いを、その囃子言葉から「ササ」と称した。 その気分は「歌楽し」であったから、ササに「」の字を宛てた。ここまでが上代。 後に神に奉納する「楽」を「神楽」と書き、字から「かんら(く)」と訓むようになり、訛ってカグラとなった。
 なお、地名「楽浪」については、その地の楽浪郡出身者が楽をササと訓むのを知り、 ササナミが「楽浪」と書けることに気付き、喜んでこの字を使うようになった。それが一般化したように思える。
 もちろん、これらの筋書きに確かな根拠があるわけではない。

【酒楽】
《宣長説》
 宣長は、
酒楽は、佐加本賀比サカホガヒと訓むべし、 本賀比ホガヒは、本岐ホギを 延〔のばし〕たる言にて、宮内省式に、大殿祭、此於保登能保加比オホトノホガヒ とある是なり、此に楽字を書〔かけ〕るは、宴楽ウタゲの時にウタふ歌なる故なり」
という。
 〈時代別上代〉は「ほかひひと(乞食者)」の項で「ホカヒヒトは、元来〔…中略…〕『酒ホカヒ之歌』(記神功)のような酒宴を祝福する寿詞をつくり唱えることを業とするものであろう。」 として、宣長説を支持している。ここで「ほかひ」とは「ほかふ」の名詞形で、「ほかふ」は「く」の未然形+動詞語尾「ふ」で、宣長のいう「延ばしたる言」である。 延喜式を確認すると、確かに「其詞曰。宮内省申久。大殿祭此云於保登能保加比。〔用語については、宮内省によれば「大殿祭をオホトノホカヒと訓む」という〕がある。 ただ、このような形で出典を示すのは、宮内省〔みやのうちのつかさ〕内部で使用された限定的な訓みであることを意味する。
《倭名類聚抄》
 〈倭名類聚抄〉二十巻本の巻七「曲調類第四十九」にある曲名には「~楽」も多い。 興味深いのは、「廻杯楽」や「宴飲楽【一云飲酒楽】」の題名が見られることである。 それらがすべて「~ホカヒ」と訓まれたとすれば、最初の曲名「皇帝破陣楽」に訓注「和名~保加比」が付されたであろう。 ところが、曲名の中の「楽」という字に、訓注は全くつけられていないから、平安時代には既に「~ラク」と訓まれていたことになる。
《古訓》
 〈類聚名義抄観智院本〉の古訓は「うつくし。たのしひ。ねかふほす。」で、楽曲名中の訓みには役立たない。
《古事記における「~歌」》
 古事記から「此~歌也」を拾うと、思国歌・片歌・酒楽之歌・本岐歌之片歌・志良宜歌・夷振之上歌・志都歌・天語歌・宇岐歌がすべてである。 この中で訓が明確なのは、片歌〔かたうた〕、本岐歌〔ほぎ=祝ぎ=うた〕、志良宜歌〔しらげ=尻上げ=うた〕、夷振之上歌〔ひなぶりの上げうた〕、志都歌〔し(下?)=つ=うた〕、宇岐歌〔うき=浮き=歌〕で、 機会または曲調を表している。
 思国歌は、「しのふ」「おもふ」とも使用例は数多くあり、「しのふ」の熟語に「しのひ-こと」があり、「おもふ」の熟語に「おもひ-ぐさ(念草)」があることから、 「くにしのびうた」「くにおもひうた」のどちらも間違いではないと思われる。 ただ、〈丙本〉に「思邦歌【久尓須乃比宇太】〔くにすのひうた〕があり、これは上代の一般的な訓が平安時代まで遺ったものと考えてよいだろう。
 天語歌は、現在では一般に「あまかたりうた」と訓まれる。 『世界大百科事典』(Web版)に「伊勢の海部(あま)出身の族長、天語連(あまがたりのむらじ)」の寿歌に由来すると書かれるが、これは雄略天皇段で改めて検討したい。 その『世界大百科事典』では、酒楽之歌を「さかぐらのうた」と訓んでいる。同事典にはその説明はないが、「神楽(かぐら)」からの類推ではないかと思われる。 ただ、「かぐら」自体が上代語ではなく、また「らく→ら」の音韻変化には一定の時間を要するから、上代に「楽=ら」は考えにくい。
《雅楽寮》
 大宝令によって雅楽寮が定められたことにより、宮廷音楽としての雅楽の形が整えられていったととされる。 雅楽寮は〈倭名類聚抄〉に【宇多末比乃豆加佐】とされ、 少なくとも発足当初は、「雅楽」を〔うたまひ〕と訓んだようである。 以後、「~楽」などのレパートリーが充実していき、次第に音読み「~らく」が用いられるようになっていったと思われる。
 したがって、奈良時代初めのまだ「~楽」の楽曲も少なく、雅楽を「うたまひ」と訓んでいる時代に、酒楽を「さからく」と訓んだとは考えにくい。
《書紀》
 久米歌に関しては、神武天皇紀に「凡諸御謠皆謂来目歌」という説明がある。 ところが、ここでは「此両歌謂酒楽歌」などの説明があってもよさそうなのに、全くない。 これは、歌の分類名としての「酒楽歌」は存在しなかったということかも知れない。
《訓み方》
 以上をまとめると、「楽=ほかひ」は特殊な場合に限られる。 「楽=らく、ら」の読みは奈良時代初めはまだ考えにくい。 分類名として、古事記では「くにしのひうた」「ほきうた」など、和語が使われる。 書紀に説明がない以上「酒楽歌」は分類名ではないかも知れない。 である。
 「之」があるから歌の分類名というよりは説明で、直前の歌の末尾の「神酒のあやに歌楽し」を受けた、「神酒楽しびの歌」かも知れない。 仮に何らかの分類名があったとしても、上代人の身になって考えてみれば勝手に存在しない語を見せられるより、まだ「みきたのしびのうた」と訓まれる方が「意味は合っている」として許せるであろう。

【書紀】
14目次 《皇太后宴太子於大殿》
大殿…[名] 宮殿。
…[名] さかずき。酒杯の総称。(古訓) さかつき。[動] さす。酒をすすめて飲ませる。
寿…(古訓) いのち。ことふき。よろこふ。
〔十三年二月丁巳朔〕
癸酉、太子至自角鹿、是日皇太后、宴太子於大殿。
皇太后舉觴以壽于太子、因以歌曰、

〔十三年二月丁巳朔〕
癸酉〔十七日〕、太子(ひつぎのみこ)角鹿(つぬが)自(ゆ)至りて、是の日皇太后(おほきさき)、[於]大殿(おほとの)に太子と宴(うたげ)したまふ。
皇太后(おほきさき)觴(さかつき)を挙げて以ちて[于]太子に寿(ことほ)ぎて、因以(しかるをもちて)歌曰(うたよみたまはく)。

虛能彌企破 和餓彌企那羅儒 區之能伽彌 等虛豫珥伊麻輸 伊破多々須 周玖那彌伽未能 等豫保枳 保枳茂苔陪之 訶武保枳 保枳玖流保之 摩菟利虛辭彌企層 阿佐孺塢齊 佐佐

虚能弥企破(このみきは) 和餓弥企那羅儒(わがみきならず) 区之能伽弥(くしのかみ) 等虚予珥伊麻輸(とこよにいます) 伊破多々須(いはたたす) 周玖那弥伽未能(すくなみかみの) 等予保枳(とよほき) 保枳茂苔陪之(ほきもとほし) 訶武保枳(かむほき) 保枳玖流保之(ほきくるほし) 摩菟利虚辞弥企層(まつりこしみきそ) 阿佐孺塢斉(あさずをせ) 佐佐(ささ)

武內宿禰爲太子答歌之曰、

武内宿祢(たけのうちのすくね)太子の為(ため)に答歌(かへしうた)[之]曰(うたよみまをさく)、

許能彌企塢 伽彌鶏武比等破 曾能菟豆彌 于輸珥多氐々 于多比菟々 伽彌鶏梅伽墓 許能彌企能 阿椰珥 于多娜濃芝作 沙

許能弥企塢(このみきを) 伽弥鶏武比等破(かみけむひとは) 曽能菟豆彌(そのつづみ) 于輸珥多氐々(うすにたてて) 于多比菟々(うたひつつ) 伽弥鶏梅伽墓(かみけめかも) 許能弥企能(このみきの) 阿椰珥(あやに) 于多娜濃芝作(うたたのしさ) 沙(さ)

《作沙》  
 書紀では2つのサの字を変え、「作+沙」としている。これを一般には「作」を前文の続き、「沙」を掛け声と解釈しているようである。 一文字の感嘆詞サは、〈時代別上代〉には載らず、他の古語辞典には載るが文例は『狂言記』(江戸時代)である。 その判断は、なかなか難しい。
《大意》
 〔十三年二月〕十七日、皇太子は角鹿(つぬが)より到着し、この日皇太后は宮殿において太子と宴されました。 皇太后は杯を挙げて太子に言祝ぎ、歌を詠まれました。
――この神酒は 吾が神酒ならず 奇酒の司 常世に坐す いはたたす少名御神の  豊祝き祝き廻し 神祝き祝き狂ほし 奉り来し神酒そ あさず飲せ ささ
 武内宿祢(たけのうちのすくね)は太子に代わって返し歌をお詠みしました。
――この神酒を 醸みけむ人は その鼓 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけめかも この神酒の あやに 歌楽しさ さ


まとめ
 最後の「酒楽之歌」は、そのまま「酒を楽しむ歌である」と付け加えたものとして読めば、自然である。
 ところが「酒楽」という言葉は、特定の曲名または様式名であるかの如き印象を与える。 実際に、倭名類聚抄を見ると、雅楽に「飲酒楽」など似た題名をもつ曲がいくつかあるが、 ここの「酒楽」はやはり「酒を楽しむ」ではないだろうか。 記紀で省かれているのも、そのためだろう。 仮に楽曲名・様式名としての「酒楽」が存在したとすれば、もう少し簡単に訓が見つかるだろうとも思われる。
 さて、記では神功皇后の話はここまでである。 書紀では、この後は倭に腰を落ち着け三韓との外交にあたることになる。


[147]  中つ巻(続仲哀天皇3)