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[140]  中つ巻(神功皇后1)

2016.11.23(wed) [141] 中つ巻(神功皇后2) 

故 備如教覺整軍雙船
度幸之時 海原之魚不問大小悉負御船而渡
爾 順風大起 御船從浪
故 其御船之波瀾押騰新羅之國 既到半國

故(かれ)備(つぶさに)教へ覚(さと)されし如くして、軍(いくさ)を整へ船を双(なら)べて、
度(わた)り幸(いでま)せむとせし[之]時、海原(うなはら)之(の)魚(ゐを)大小(おほきすこしき)を不問(とはず)て悉く御船(みふね)を負(お)ひて[而]渡しまつる。
爾(ここに)順風(おひかぜ)大きに起(た)ち、御船浪(なみ)に従(したが)へり。
故(かれ)其の御船之(の)波瀾(なみ)新羅之国(しらきのくに)に押し騰(あ)げて、既に半国(くになかば)に到る。


於是其國王畏惶奏言
自今以後隨天皇命而爲御馬甘
毎年雙船不乾船腹不乾柂檝
共與天地無退仕奉
故是以新羅國者定御馬甘百濟國者定渡屯家

於是(ここに)其の国王(くにきみ)畏惶(おそりかしこみ)て奏言(まをさく)
「今自(よ)り以後(のち)天皇(すめらみこと)の命(おほせこと)に隨(したが)ひて[而]御馬甘(みまかひ)と為(な)り、
年毎(ごと)に船を双(なら)べて、船腹(ふなはら)を不乾(かわかしめず)柂檝(かぢ)を不乾(かわかしめずして)
共に天地(あめつち)に与(あづ)かりて、無退(そかず)仕(つか)へ奉(まつ)らむ。」とまをす。
故(かれ)是(これ)を以ちて、新羅国者(は)御馬甘(みまかひ)と定めて、百済国(くだらのくに)者(は)渡屯家(わたりのみやけ)と定めましき。


爾以其御杖衝立新羅國主之門
卽以墨江大神之荒御魂爲國守神而祭鎭還渡也

爾(ここに)其の御杖(みつゑ)を以ちて新羅の国主(くにぬし)之(の)門(かど)に衝(つ)き立たしたまふ。
即ち墨江大神之(の)荒御魂(あらみたま)を以ちて国守神(くにもりのかみ)と為(し)て[而]祭り鎮めて還(かへ)り渡りぬ[也]。


 さて、実際に神の教えに通りに、軍を整え船を連ねて 渡海されようとしたところ、海原の魚は大小を問わず、ことごとく御船(みふね)を背中に負って運びました。 その時順風が大きく起こり、御船は波に流されました。 こうして、御船を運ぶ波は新羅(しらぎ)の国に押し上げ、とうとう国の半ばまで達しました。
 そこで、その国王は怖れ畏(かしこ)みて、奏上しました。
 「今より以後、天皇の命に従い、御馬飼(みまかい)となり、 毎年、船を連ねて、船腹を乾かさず、梶も乾かさず、 日本国と共に天地のことに関与し、退くことなく仕え奉ります。」と。
 このようにして、新羅国を御馬飼と定め、百済(くだら)国は渡(わたり)の屯倉(みやけ)と定めました。
 そして、御杖(みつえ)を新羅国主の門前に突き立てました。
 そして墨江の大神の荒御魂(あらみたま)を国守(くにもり)の神として祀り、鎮座して海路帰還しました。


…[副] ことごとく。つぶさに。(古訓) ことことく。つふさに。ともに。
…(古訓) ふたつ。ならふ。
おほき(大)…[形動] 〈時代別上代〉「接頭語的に体言に接するものが大半を占める。
すこしき(小)…[名・形動] 小さいこと。少し。
わたす(渡す)…[他]サ四 「わたる」に対する他動詞。
順風…進もうとする方向に吹く風。
…波がしらを横に連ねた波。
波瀾…波。
かわく(乾く)…[自] 乾く。

【到半国】
 「到半国」の直前に「其御船之波瀾押騰新羅之国〔その御船の波は、御船を新羅国に押し上げ〕があるから、 この文の主語は、御船である。この半国は、何を意味するのか。
 もし語順を変えて「到国半」ならば「国のなかばに到る」と訓むことができる。 また「半到国」なら、「半」を副詞として「なかば国に到る」と訓める。 しかし「半国」とする場合の、正確な読み方は何であろう。
 書紀では、同じ内容を「船潮浪遠逮国中〔みふね、潮浪に随へ、遠く国中(くになかば)に逮(いた)る〕とするから、「国半」と訓んだことが分かる。 仮に「班半国」〔国の半分を分け取る〕という文を作ってみると、「くになかばをわかつ」と訓読できるから、 「半国」は「くになかば」と訓んでも大丈夫だろう。
 次に進もう。「くになかば」とは、文字通り全土の中央であろうか。それとも海岸からやや離れた「内陸」程度の意味であろうか。
 敢えて現実的に読めば、たまたま台風が襲来して、その高潮が国の内陸部まで運んだと読める。 一方、現実的な解釈は必要なく、夢想として受け取ればよいという立場もあるだろう。 これをどう受け取るかは、結局読み手次第であろう。
 なお、書紀はこれを「国を凌ぐ」ような巨大な高潮か、津波が襲ったと読んでいる(後述)。

【神話的表現】
 魚たちが挙って船を背中に載せて運んだり、波の勢いで陸地の真ん中まで船が来てしまういう表現からは、 古事記らしいおおらかさが感じられる。 この神代に戻ったような表現は、神功皇后の三韓親征が遠い昔話であり、完全にフィクションであると暗示しているようにも受け取れる。
 併せて、肝心の新羅に滞在した部分の字数が少ないこと、戦闘場面や具体的な地名が出てこないところにも、この一節が神話であると感じられる。

【国王・国主】
真福寺本
 宣長は「国主は許爾伎志コニキシとも許伎志コキシとも訓べし」として、その根拠として書紀古訓を挙げている。
 確かに書紀の古訓では、に「こきし」を当てるが、後に述べる(【新羅王】の項)ように奈良時代末に成立した「百済王」の呼称「くだらのこんきし」(次項)が、平安時代になってから 古訓を導いたと考えられる。これを古事記まで遡らせる必然性はない。
 しかし細かく見ると、一般名詞としては「國王」で、固有名詞とのきに「新羅國主」である(右図)。 コンキシは「国主」が現地で訛ったと見ることができ、記の作者もそれを感じ取って「国主」と書いた可能性がある。
 ならば、「国主」は「コキシ」と訓むべきであろうか。それは否である。 なぜなら、コンキシを「国主」と書き表した時点で訛りとして解決され、既に現地読みは要請されていないからである。 それでも現地読みを求めるのなら、音注をつけたはずである。 よって倭語で訓読する立場なら、「国主」を翻訳して「くにぬし」と訓めばよい。

【新羅国・百済国】
 新羅国は、かつての辰韓と大体重なる地域に356年に成立し、935年まで存続した。
 また百済国と、新羅に吸収された任那国については、〈宋書をそのまま読む〉からここに要約する。
 まず任那国は、加羅国の隣に4世紀から6世紀半ばまで存在したと思われる。
 次に百済国は、魏志の時代(3世紀前半)にはまだ存在していない。 好太王碑文によれば391年に倭国軍が百済に乗り込み、百済軍が抵抗に立ち上がった。 400年代に入り高句麗が百済地域を攻撃し、 倭との間で百済・新羅の争奪戦が繰り広げられた。
 『宋書』によれば、宋は451年までに、百済を除く半島半部への倭国の支配を認めた。 その後、宋・梁による牽制を無視して南西岸から倭軍を上陸させ、百済を蚕食して植民地としていった。
 書紀は、神功皇后を魏志の時代に置くが、当時の半島南部は馬韓・弁韓・辰韓である。 皇后上陸神話は、5世紀の新羅・百済への進出を投影したものと言える。 筒男三神のところ(前回)で考察したように、 神功皇后の創作は書紀執筆団主導で行われ、 記側はどちらかと言えば受け身だったと感じられる。記は、むしろこれが史実としない立場で書いているような印象を受ける。

【百済の訓み】
 〈倭名類聚抄〉に、{摂津国・百濟【久太良】郡〔くたら〕がある。 百済郡については、天智天皇紀三年三月条に「百済王善光王等 居于難波」とある。百済国は660年に滅亡し、 直後に再興を期して倭国も援軍を送るが663年に白村江の戦いにおいて大敗した。 帰る国を失った善光らは倭国の氏族となり、持統朝に百済王〔くだらのこんきし〕なる氏族名を賜った。その居住地が、「百済郡」という地名になったとされる。
 当時、国名ペクチェの別名に「くたら」が存在したのか、倭人が何らかの謂れによって彼らを「くたら」と呼んだのかは分からない。 ただ、これが名称として定着したということは、少なくとも「くたら」と呼ばれることについて、彼ら自身の抵抗感はなかったのではないかと思われる。
 なお、〈釈日本紀巻二十〉に「百済王善光王【クタラクノオホキミセン  ワウ】」の古訓がある。 これは、百済がクタラクと訓まれたことを示すのかも知れないが、「百済来の大王」という称号が記憶されていたとも解釈し得る。

【渡屯家】
 宣長は、 「師の和多能美夜気ワタノミヤケと訓れたる宜し海をワタりゆく彼方オチカタに在るを以てワタとは云なり」 という。 〈時代別上代〉によれば、「朝鮮半島の官府・屯倉ミヤケ。書紀では「官家」と表記。」という。
 「」は「屯家」を連体修飾し、倭国の官署を設置して三韓との外交を担当させたことを意味すると思われる。 「わたの」という訓読は、「海外の」を意味すると読んだものと思われる。
 記では、百済国を馬と馬使いの供給先、新羅国を倭国の半島外交の拠点として、その役割を大雑把に描き分けている。 もちろん史実としては、半島との関係はこんなに単純なものではない。
 書紀では、「官家」は新羅国に限らず、朝廷の出先機関として各国に置かれたとする。 この「官家」については、【定内官家屯倉】の項で詳しく検討する。

【墨江大神之荒御魂】
 書紀では、神功皇后の帰国後に話を移し、 「軍神表筒男中筒男底筒男三神誨皇后曰我荒魂令於穴門山田邑〔軍に従ひし神、表筒男、中筒男、底筒男の三神皇后に誨(をし)へて曰(のたまは)く、 我が荒魂(あらみたま)穴門山田邑に祭ら令め〕と述べる。
 筒男三神の荒魂を祭った長門国山田邑の神社の比定社は、住吉神社(下関市)。
 記でも墨江大神を長門国に祀った と読もうと試みたが、やはり新羅国の王宮近くに建てたとする以外には読みようがなかった。 書紀には、新羅国に神社を建てた話は全く出て来ないから、三神の荒魂(あらみたま)の宮の場所は記と異なると言わざるを得ない。
 恐らく飛鳥時代から軍神、あるいは海運を護る神を祭る宮が長門郡山田邑に実際に存在し、書紀はその現実に合わせたものであろう。 三韓地域には、居留地の倭人が私的に設けた神社を除けば、 大神宮と言えるほどの規模のものは存在しなかったのだろう。
《国守神》
 〈時代別上代〉には、職名として防人、島守、関守、玉守、時守、主殿(とのもり)、野守、夷守、道守、山守、渡守 を収めている。「国守」がないのは記を除けば使用例がないからだからだろうが、「くにもり」と訓み、文字通りの意味であることは疑いない。 この神は筒男三神であるから、守る対象が新羅国であるはずはなく、倭国を守る神であるのは当然である。

【書紀-出航前】
目次 《招荒魂為軍先鋒》
…(古訓) ねる。
-がたし(難し)…[接尾] 形容詞活用。動詞の連用形に接続する。
…(古訓) あきらかにす。みる。
絚〔緪〕…[動] はる。わたる。(古訓) のふ。
…(古訓) めくらす。おひしむ。はく。
かへりごとまをす(返言申)…[他]サ四 復命する。
〈丙本〉
西海【尓志乃美知】〔にしのみち〕
西_北有山帯雲横絙【乾方レル山雲居志氐横志末和太礼利】
〔乾(いぬゐ)方に当(あた)れる山雲居(ゐ)にして横しまにわたれり〕
海人烏摩呂【安末乃乎加末呂】〔あまのをかまろ〕
秋九月庚午朔己卯、令諸國集船舶練兵甲。
時軍卒難集、皇后曰「必神心焉。」
則立大三輪社以奉刀矛矣、軍衆自聚。
於是、使吾瓮海人烏摩呂出於西海令察有國耶、
還曰「國不見也。」
又遣磯鹿海人名草而令視、
數日還之曰「西北有山、帶雲横絚。蓋有國乎。」
〔足仲彦天皇九年〕秋九月(ながつき)庚午(かのえうま)を朔(つきたち)として己卯(つちのとう)のひ〔十日〕、諸(もろもろ)の国に令(おほせこと)し、船舶(ふね)を集めて兵甲(つはもの)を練らしむ。
時に軍卒(つはもの)集まり難くて、皇后(おほきさき)曰(のたま)はく「必神心焉。」とのたまひ、
則(すなはち)大三輪(おほみわ)の社(やしろ)を立たして[以ちて]刀(たち)矛(ほこ)を奉(たてまつ)れば[矣]、軍衆(つはものら)自ら聚(あつ)まる。
於是(ここに)、吾瓮海人烏摩呂(あへのあまのをまろ)をして[於]西海(にしのみち)に出(い)で使(し)めて、有国耶(くにありや)と察(み)さ令(し)めば、
還(かへ)りごと曰(まを)さく「国不見(みえまつらず)[也]。」とまをしき。
又(また)磯鹿海人名草(しかのあまのなぐさ)を遣(つかは)して[而]視(み)令(し)めて、
数日(しまらくして)[之]還(かへ)りまつりて曰(かへりごとまを)さく「西北(いぬゐ)に山有り、雲を帯(めぐ)らせて横しまに絚(わた)る。蓋(けだし)国有り乎(や)。」とまをす。

斧鉞第128回《日本武尊東征》参照。
かね(鐘)…[名] (万)0607 皆人乎 宿与殿者 打礼杼 みなひとを ねよとのかねは うつなれど
…(古訓) つつみ。
つづみ(鼓)…[名] 打楽器。
ふし(節)…[名] 竹の節、体の関節のような部分。上代、既に音楽の拍子も表したか。
…[名] はた。鮮やかな色の鳥の羽をつけたはたじるし。
…(古訓) ふところにす。
内顧(ないこ)…①回顧。②関心顧慮家室之事。〔自分の家庭のことばかりに関心を持って顧みて慮る〕
…(古訓) たきかすむ。
(勿)…[助] 「な+連用形(サ変・カ変は未然形)+そ」の形で禁止を表す。
…(古訓) あなつる。かるし。
かろし…〈時代別上代〉「語幹〔かる〕が地名や人名に用いられている以外、用例はまれである。
…(古訓) きく。ゆるす。
…(古訓) かかむ。まけて。
〈丙本〉
無_節【伊太女奈久】〔いためなく〕…「節」には「板目」の意味がある。
所_虜【止利古八奈牟】〔とりこやなにむ〕【止良礼奈牟】〔とられなむ〕
勿_輕【奈安奈豆利曽】〔なあなづりそ〕
敵_強-而_無_屈【乎保 志止毛奈安奈豆利曽】〔おほしともなあなづりそ〕。 「乎(を)→お」は、鎌倉時代の混用。 「おほし(強)と言えども侮るな」では意味が通じないから、誤写により前文と混合したと思われる。
爰卜吉日而臨發、有日。
時皇后親執斧鉞、令三軍曰
「金鼓無節、旌旗錯亂、則士卒不整。
貪財多欲懷私內顧、必爲敵所虜。
其、敵少而勿輕敵强而無屈。
則、姧暴勿聽自服勿殺。
遂、戰勝者必有賞背走者自有罪。」

爰(ここに)吉(よ)き日を卜(うらな)ひて[而]発(おこ)すに臨(のぞ)み、よき日有り。
時に皇后親(みづから)執斧鉞(ふゑつをとり、まさかりをとり、いくさのかみとなり)、三軍(みいくさ)に令(おほせこと)たまはく[曰]
「金(かね、=鐘)鼓(つつみ)節(ふし)無くて、旌旗(はた)錯乱(みだ)れて、[則(すなはち)]士卒(つはもの)不整(ととのほらず)。
財(たから)を貪(むさぼ)りて多(さはに)欲懐(ふところにせむとし)て私(ひそかに)内顧(うちのかへりみ)せば、必ずや為敵所虜(あたにとらはることとならむ)。
其(そ)は、敵(あた)少(すくな)くとも[而]勿(な)軽(あなづ)りそ、敵強くとも[而]無(な)屈(ま)けそ。
則(すなはち)、姦(みだりに)暴(をかしたるもの)勿(な)聴(ゆる)しそ、自(みづから)服(まつろふもの)勿(な)殺(ころ)しそ。
遂(つひ)に、戦ひて勝てる者(ひと)必ず賞(たまもの)有らむ、背(そむ)きて走(にげたる)者(ひと)自(をのづから)罪有らむ。」とおほせことたまふ。

よさみのあびこ(依網吾彦)…摂津国住吉郡の大依羅神社に縁のある氏族(第109回)。
…(古訓) さしはさむ。
…(古訓) さしまねく。まねく。をしふ。
まねく…〈時代別上代〉上代には確例が乏しい。
〈丙本〉
拜_礼【井夜比太末布】〔いやひたまふ〕。「いやふ」は「いはふ(斎ふ)」の誤写あるいは、訛りと思われる。
以 依_網 吾_彦_男【与左美乃比安比古乎】〔よさみのひあひこを〕。一つ目の「比」は誤写であろう。
既而神有誨曰
「和魂服王身而守壽命、荒魂爲先鋒而導師船。」
【和魂、此云珥岐瀰多摩。荒魂、此云阿邏瀰多摩。】
卽得神教而拜禮之、因以依網吾彥男垂見、爲祭神主。
于時也、適當皇后之開胎、皇后則取石插腰而祈之曰
「事竟還日、産於茲土。」
其石今在于伊都縣道邊。
既而則撝荒魂、爲軍先鋒、請和魂、爲王船鎭。

既にして[而]神(かみ)の有誨(をしへたまへらく)[曰]
「和魂(にきみたま)王身(きみのみ)に服(つ)きて[而]寿命(いのち)を守りて、荒魂(あらみたま)先鋒(さきだち)と為(な)りて[而]師(いくさ)船(ふね)を導きたまはむ。」とのたまひき
【和魂、此(これ)珥岐瀰多摩(にきみたま)と云ふ。荒魂、此阿邏瀰多摩(あらみたま)と云ふ。】。
即ち神の教へを得て[而][之]拝礼(おろがみゐやまひて)、因(しかるがゆゑに)依網吾彦男垂見(よさみのあびこをたるみ)を以ちて、祭神主(かむまつりのぬし)と為(し)たまふ。
于時也(ときに)、[適当]まさに皇后之開胎(はらみはじめ)にあたり、皇后[則(すなはち)]石(いし)を取り腰に挿(さしはさ)みて[而][之]祈(ね)ぎて曰(まをしまさく)
「事竟(を)へて還(かへ)りたらむ日、[於]茲(この)土(くに)にて産ませたまへ。」とまをしましき。
其の石、今は[于]伊都県(いとのあがた)の道辺(みちのへ)に在り。
既にいひしごとくして[而][則(すなはち)]荒魂(あらみたま)を撝(まね)き、軍(いくさ)の先鋒(さきだち)と為(し)て、和魂(にきみたま)に請(ねが)ひ、王(きみ)の船の鎮(しづめ)と為(し)まつる。

《数日還之曰、西北有山…》
 吾瓮海人烏摩呂は陸地を見つけることができなかったが、 磯鹿海人名草は数日を要したが、見つけることができた。 二人ともあま(海人)だから、漁業に従事する氏族であったと思われる。
 地理的に考えて、名草は対馬の北まで船で出かけて確認したことになる。 そのために数日を要すであろうから、辻褄は合う。 「磯鹿」は志賀島(しかのしま)に通じるから、飛鳥時代にも対馬海峡を往来する氏族が存在し、その拠点が志賀島であったと思われる。
《還曰と還之曰》
 「」は実質的に接続詞「」と同じだが、形式目的語の機能は失っていないと考えられる。 従って、「還曰」ならば「かへりごとまをさく」だが、「還之曰」は、一度「還りて」と区切った方がよいと思われる。 しかし、命を受けた出張後の復命は欠かせないから、この場合「曰」一文字を「かへりごとまをさく」と訓むべきだと考える。 「かへりて、かへりごとまをさく」という重複は、特に問題ないと思われる。
 …「これを」という意味はないが、直前が動詞であることを示す。
《其敵少而勿軽敵強而無屈》
 「」が「敵」への指示詞だとすると、対句の形式が整わないので、文全体にかかると見るべきであろう。 係助詞「は」を用いて「そは」と訓読すれば文末まで包含でき、この「其」の意を表すことができる。
 この文は後世のような訓読「敵少くして軽んずなかれ、敵強くして屈するなかれ」の方が分かり易い。
 「」を二文目に「」とするのは、対句の習慣である。この「無」も「勿」だと思って訓めばよい (第3回など【対句構造】を参照)。 これに倣えば次も「勿聴-無殺」になるはずであるが、徹底されていない。
 「くっす」はまだ上代にはない。しかし、ぴたっと合う上代語は見つけにくい。「屈」の古訓「まけて」が「曲げて」だとすれば、真っ直ぐなものを物理的に変形させることである。 敵に敗れれば味方は真っ直ぐを貫けない。また、濁点のない「負けて」ならそのまま意味が通る。 「負く」は、もともと「曲ぐ」と同根かも知れない。
 次の文の「則」、その次の「遂」も一文目の「其」と同様に、接続詞または副詞として切り離すべきである。
《其石今在于伊都県道辺
 鎮懐石八幡宮が、旧怡土(いと)郡に存在する(福岡県糸島市二丈深江2310番地2)。 同社〈御由緒〉には、「皇后はこの神石を祈願の地、子負ヶ原丘上に納めて長く祀られたのである。 その後この宮の前を行き来する者は下馬したり、ひざまづいて拝んだと万葉集にも書き残されているが、 この頃からこの 神石を皇子産石(みこうみいし)とも鎮懐石とも呼ぶようになったと言われている。」 とある。ここに言う万葉集の歌は(万)0813のことで、その注に「筑前国怡土郡深江村子負原」を所在地とし、 「玆両石-著御袖之中-為鎮懐。実是御裳中矣。所以行人敬-拝此石〔ここに両(ふたつの)石を用いて御袖の中に挿し著け、懐を鎮めむと以為(おも)ひたまひき。実(まこと)に是(これ)御裳の中にあり。ゆゑに行く人この石を敬ひ拝みまつる。〕 とある。
 詳しくは次回に再び取り上げる。
《既而則撝荒魂…》
 この文は「和魂服王身而…」の部分と重複している。推敲の過程で置き換えられたはずの文が、誤って残ったのかも知れない。
《大意》
 〔仲哀天皇九年〕九月十日、諸国に命じ、船舶を集めて兵甲の訓練をさせました。 その時は軍卒の集まりが悪く、皇后は「神の心に頼ることが必要である。」と仰り、 大三輪神社の社(やしろ)を新造して太刀・矛を奉納したところ、軍衆は自然に集まりました。
 ここに、吾瓮海人烏摩呂(あへのあまのおまろ)を西海道〔九州〕に呼び出し、国があるかと観察させたところ、 「国は見えませんでした」と復命しました
 再び、磯鹿海人名草(しかのあまのなぐさ)を派遣して観察させると、 数日して戻り、「北西方向に山が有り、雲が山を巻いて横に広がっています。国があると思われます。」と復命しました。
 そこで吉日を占って出発に臨んだところ、よい日がありました。 その時、皇后は自ら斧鉞(ふえつ)を取って将軍となり、三軍に詔されました。
 「鐘太鼓の拍子も揃わず、旗幟は乱れ、士卒はまとまらない。 財宝を貪ってがめつく懐に入れようとし、自分の家のことばかりを考えていれば、間違いなく敵に囚われるであろう。 敵が少くとも侮ってはならぬ、敵が強くとも屈してはならぬ。 そして、みだりに暴虐をはたらく者は許してはならず、自ら服従する者は殺してはならない。 ことを終え、戦い勝利した者は必ず褒美が与えられ、敗れ去った者は当然罪を受けるであろう。」と。
 既に神が教えられたことは、
 「和魂(にきみたま)は王の身に著いて命を守り、荒魂(あらみたま)は先鋒と為って軍船を導き賜る。」でした。 その教えを得て拝み祀り、そのために依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)を、祭神の主になされました。
 その時まさに、皇后の懐胎が始まっていたので、皇后は石を取って腰に挿しはさみ、こう祈りました。
 「事を終えて帰ってきたときに、この地で産ませてください。」と。 その石は、現在、伊都県(いとのあがた)の道の傍らにあります。
 既に述べたように、荒魂を差し招いて、軍の先鋒になっていただき、和魂に請い王船に鎮座していただきました。


【大三輪社】
〈福岡県神社誌〉
県社 大己貴神社 朝倉郡美和村大字弥永字大神屋敷
・弘仁辛卯〔二年、811〕「再建」
・文明三年〔1471〕「先規に復せられご造営」
・天文・天正年間〔16世紀〕に二度の兵火 
・正保2年〔1645〕・貞享四年〔1687〕再建
・御社領往古は三十六町
 ※…明治29年〔1896〕に上座郡・下座郡・夜須郡を統合。
 大己貴神社(福岡県朝倉郡筑前町弥永697-3)が〈神名帳〉{筑前国十九座/夜須郡一座【小】/於保奈牟智神社} の比定社とされる。 この大三輪社については、筑前国風土記逸文が釈日本紀に引用されている。 〈釈日本紀-巻十一〉
 筑前国風土記曰気長足姫尊欲新羅-理軍士発行之間道中逃亡占-求其由即有祟神名曰大三輪神 所以樹此神社遂平新羅 〔気長足姫尊、征新羅を征たむとして軍士(つはもの)を整理(ととの)へて発(た)ち行きし間(ま)、 道中(みちなかば)に逃げ亡(う)せり。其の由(よし)を占ひ求めたれば、即ち祟れる神有り、名は大三輪(おほみわ)の神と曰(まを)す、 所以(ゆゑに)此の神社(かむやしろ)を樹(た)たして、遂に新羅を平げたまふ。〕
 『福岡県神社誌』から「由緒」の要点を、右にまとめる。 延喜式では小社とされるが、たびたび勅命による修造があり、36町(約36ha;東京ドーム4.7個)に及ぶ社領を有したとの伝承があるから、 有力な社として維持されてきたことが分かる。
 大己貴神(=大国主神)は、倭の三諸山に行って大物主神となったことから、「大三輪社」と「於保奈牟智神社」が同一と見られたのは、当然であろう。 九州北部は、古代日本海王国以来の出雲文化圏に属するので、出雲国風土記の「所造天下大穴持命」に基づく名称が標準だったのであろう。
 一方、複数のサイトに地元の愛称は「おんがさま」とあり、旧地名「字大神屋敷」から見ても、別称「おほみわ」もまた古いものだと思われる。 筑前国風土記の、大神神(おほみわのかみ)は祟りの神で、篤く祀ることによって事態が好転したというのは、崇神天皇紀と同じモチーフである。 大神神の言い伝えが、この地域まで広がっていたとも考えられる。
 ただ、大己貴神社の位置は内陸で、神功皇后の主な舞台である海岸の香椎宮・小山田斎宮とは隔たっていることが気にかかる。 「大己貴」にしろ「大神」にしろ、この地の言い伝えを神功皇后紀にまつわる逸話の一つとして取り入れたと思われる。

【貪財多欲懐私内顧】
 貪財多欲懐私内顧の「得た宝の私物化に血眼になっている」という文意は明らかである。 こんなことをしていたら「必為敵所虜〔必ず敵に捕まってしまうぞ〕というわけである。 神功皇后は軍勢の不足を嘆き、神に祈って兵を募ったが、いざ集めて見ると半島の財宝目当に私利私欲で集まった者ばかりで、全く統制がとれていない。 ただし、この文の文法的理解は難しい。
《文法》
 まず、貪財多欲懐私内顧に区切ってみる。  が「〔たからをむさぼる〕であるのは明らかである。 しかしBCは、文字を見れば意味は分かるが、文法に適うように区切るのが難しい。 は「多欲」までなら、取りあえず「多(さは)に欲(ほ)りす」と訓むことができる。
 最後の内顧」は、「家のことを第一に考える」という意味の熟語である。
 残るは、「懐私」であるが、このままでは 「懐私」(=個人のことを個人の懐に入れる)という意味不明の文になる。感覚的には「私的に懐に入れる」のように見えるが、 その場合の語順は「私懐」でなければならない。
 だから、「私※1」を「懐」から切り離すべきである。すると、副詞「私(こそこそと)」として動詞「内顧」を連用修飾することができる。
 その場合の区切り方は、さらに二通り考えられ「貪財・多欲懐・私内顧」、 または「貪財多・欲懐・私内顧」となる。 どちらも「欲」は動詞「欲(ほ)りす」ではなく、 助動詞として、「せむとす」と訓読する。
 それぞれ「多」の役割※2は、
:名詞化された主述構造「貪財」への熟語になる。つまり「財を貪ること多し」。
:副詞として「欲懐」を連用修飾し、「多(さは)に懐(ふところにせ)むとす」。
 である。
 
日本書紀における「多」の用法
連体修飾既経〔既に多年を経(ふ)。〕(応神天皇紀)
名詞化遣使弔并送贈〔使(つかひ)を弔に遣はし、并(あはせて)多くを送贈す。〕(孝徳天皇紀)
述語其徒衆甚〔その徒衆甚(はなはだ)多し。〕(景行天皇紀)
存在文国内疾疫〔国内に疾疫多し。〕(崇神天皇紀)
副詞屍骨〔屍骨(しかばね)多(さは)に溢る。〕(崇神天皇紀)
固有名詞爰将軍臣品治遮之〔ここに将軍(いくさのかみ)多臣品治(おほのおみのしなはる)遮りて。〕(天武天皇紀上)
音仮名伊破々須周玖那彌伽未能〔いはたたす少名御神〕(神功皇后記)※…枕詞。
 書紀全文を調べると、のように主述構造を名詞化して「多し」を述語にする場合は、ほとんどに「所」または「者」がついている。 所・者を省略するのは、一例のみである※3。 この例は、次が「複有」なので「多」で文が終わるのは明らかである。 もし「多/欲」を区切るのなら之または而を挟むであろう。 したがって、ほとんどであろうと思われる。
 以上をまとめると、
 リテむとしふところにせひそかに内顧ないこ
となる。
 ※1…「」は、もともと動詞〔私する=勝手にする、私物化する〕あるいは名詞〔私事、秘密〕が中心だと思われる。 そこから形容詞〔個人的な〕、 副詞〔こそこそと〕が派生する。
 ※2…書紀全文から「」の用法をすべて調べたところ、音仮名タと固有名詞以外は、形容詞と副詞にほぼ二分された。その内訳を上のに示す。
 ※3…孝徳天皇紀:妬斯夫婦使祓除多〔妬(ねた)みて斯(ここに)夫婦(をひとめ)祓除(はらへ)せ使(し)むこと多し〕夫婦+使祓除」が「多し」の主語。

【書紀-親征】
目次 《到新羅》
和珥津…現在の鰐浦(対馬島の北端)と考えられている。<対馬全カタログ-鰐浦江戸時代にも朝鮮への渡航地として賑わ</対馬全>ったとされる。
飛廉…〈丙本〉飛_廉【加世乃神ミ】〔かぜのかみ〕〈甲本〉飛廉┌風神〈汉典〉風神。 〈学研新漢和〉(ヒレン) 風の神。風の古代音[plɪəm]を二音節であらわしたことば。
陽侯…〈丙本〉陽_侯【宇美乃神】〔うみのかみ〕〈甲本〉陽侯┌海神 〈汉典〉伝説中的水神。能興風作浪、造-成災害。幼学瓊林。卷四。地輿類「水神曰馮夷,又曰陽侯。」
おふを…[名] 大魚。おふ-いをの略。
大風…〈倭名類聚抄〉大風【於保加世】〔おほかぜ〕
帆舶…〈甲本〉【ホツム】〈丙本〉【保豆牟】
つむ(舶)…[名] 大きな船。
新羅王…「王」は伝統的に「こきし」と訓む。〈釈日本紀-巻第十七第六〉任那王【ミマナノコキシ】。新羅王子【シラキノコキシノコ】
戦慄(せんりつ)…=戦栗。こわがって震えあがること。〈丙本-綏靖〉戦慄【不留比扵乃〃久】〔ふるひをののく〕ヲ→扵(オ)は、鎌倉時代の混用。
をののく・わななく…[自]ク四 恐怖で体がわなわなと震えること。
…[動] おく。あるものの上に重ねておく。(古訓) おく。
厝身無所…〈丙本〉厝身無所【世牟須〝倍奈久】〔せむすべなく;=何もできず〕。意訳であろう。
建国…〈現代語古語類語辞典〉[上代]けんこく。
以来…(古訓) このかた。
かた(方)…[名] 方向。〈時代別上代〉時間的な方向を示す用い方は、発達が不十分で、確例が少ない。
天運…〈丙本〉【世乃加支利】〔世のかぎり〕
…(古訓) うつす。めくる。
…(古訓) つくす。つきぬ。
〈かぢ〉
…〈康熙字典〉本作櫓。詳櫓字註
櫓楫(ろしゅう)…舟をこぐ櫓とかい。〈甲本〉櫨楫【カチノエ】〈丙本〉櫨_楫【加良加知】〔からかち〕
…=艪
艪・艣…[名] ろ。こいで船を進ませる太い棒。
かい(楫)…[名] ふなばたにかけて船を漕ぐもの。〈時代別上代〉母音の連続が極端に避けられた上代語にあって、御頭以外にあ行音が現れるのは珍しい。
かぢ…[名] ろ。かい。今にいう舵とは別もの。
からかぢ…[名] 外国風のかい。(=韓梶)(万)3555 可良加治乃。〈時代別上代〉唯一例。柄楫、すなわち長いかいと見る説もある。
冬十月己亥朔辛丑、從和珥津發之。
時飛廉起風陽侯舉浪、海中大魚悉浮扶船。
則大風順吹帆舶隨波、不勞㯭楫便到新羅。
時、隨船潮浪遠逮國中、卽知天神地祇悉助歟。
新羅王於是戰々慄々、厝身無所
則集諸人曰
「新羅之建國以來、未嘗聞海水凌國。
若天運盡之、國爲海乎。」

〔足仲彦天皇九年〕冬十月(かみなづき)己亥(つちのとゐ)を朔(つきたち)として辛丑(かのとうし)のひ〔三日〕、和珥津(わにつ)従(ゆ)[之]発(た)ちたまふ。
時に、飛廉(かぜのかみ)風を起こして、陽侯(うみのかみ)浪(なみ)を挙げて、海中(わたなか)の大魚(おふを)悉(ことごと)く浮きて船を扶(たす)く。
則(すなはち)大風(おほかぜ)順(おひかぜに)吹きて帆舶(ほつむ)波に隨(したが)ひて、㯭楫(かぢ)を不労(わづらはずし)て便(たやす)く新羅に到れり。
時に、船を潮浪に隨(したが)へて遠(とほ)く国中(くにのなかば)に逮(いた)りて、[即ち]天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)悉(ことごと)助けたまふことを知れり[歟]。
新羅(しらき)の王(きみ)於是(ここに)戦々慄々(ふるひおののき、せむせむりつりつし)、身を厝(お)くに無所(ところなし)。
則(すなはち)諸(もろもろの)人を集めて曰(まをさく)
「新羅之(の)建国(けむこく、くにのはじめ)以来(よりこのかた)、未(いまだ)嘗(かつて)海水(うしほ)国を凌(しの)ぐことを聞かず。
若し天運(あめのめぐり)之(これ)尽くさば、国海と為(な)らむ乎(や)。」とまをす。

耀…(古訓) かかやかす。てらす。
…[名] 鮮やかな色の鳥の羽をつけたはたじるし。
旌旗…色鮮やかな旗。
…[動] つづみをうつ。鼓動。鼓舞。(古訓) たたく。うつ。
鼓吸(こすい)…①つづみをうち、笛を吹く。②ふるいたたせる。 〈丙本〉【豆〃美宇知不江不久】〔鼓打ち笛吹く〕
非常…(古訓) あやふし。はなはたし。めつらし。
…(古訓) おのれ。つちのと。
…(古訓) ほろふ。けす。
ほろぼす…[他]サ四 (万)3724 也伎保呂煩散牟 安米能火毛我母 やきほろぼさむ あめのひもがも
失志…〈丙本〉失志【心迷】〔こころまとふ〕
…(古訓) こころさし。こころ。
…[動] おそれる。
乃今…〈丙本〉いまし。〔=たった今。シは強調の助詞〕
…[動] 肯定する。(古訓)あきらかなり。
素旆而…〈丙本〉【志呂支波太安介天】〔しろきはたあげて;=白き旗上げて〕
しらはた(白旗)…[名] 降伏帰順を表す。
…(古訓) きる。つく。
素組以…〈丙本〉【志呂支豆奈之天】〔しろきつなして;=白き綱して〕
…[名] くみひも。(古訓) くみ。ほころひ。
つな…(万)3300 曽朋舟尓 綱取繋 そほぶねに つなとりかけ
面縛第118回参照。
…[動] ①封建(諸侯を封ず)。②墓に封ず。③書物を密封する。(古訓) かたむ。しるす。とつ〔綴づ〕
図籍…土地の図面と、人民や財貨・穀物に関することをしるした帳簿。 〈汉典〉①[atlas;land charts and census registers]。地図戸籍。②図書文籍。
…[動] えがく。「はかる」は「度(はか)る」に当てた仮借用法の訓。(古訓) はかる。うつる。しるす。
…戸籍。(古訓) ふた(゙)。
…〈倭名類聚抄〉【不美太】〔ふみた〕。
是言未訖間船師滿海、
旌旗耀日鼓吹起聲山川悉振。
新羅王遙望以爲、非常之兵將滅己國。
讋焉失志、乃今醒之曰
「吾聞、東有神國謂日本。亦有聖王謂天皇。
必其國之神兵也。豈可舉兵以距乎。」
卽素旆而自服素組以面縛、
封圖籍降於王船之前。

是の言(こと)未(いまだ)訖(をへ)ざりし間(ま)、船師(ふないくさ)海に満ち、
旌旗(はた、せいき)日(ひ)に耀(かがや)きて鼓吹(つづみうちふえふきて、こすい)起(た)てる聲(おと)に、山川悉(ことごと)く振るふ。
新羅の王遙(はるか)に望み以為(おもへらく)、非常之(はなはだしき)兵(つはもの)己(おの)が国を将滅(ほろぼさむとす)とおもへり。
讋(おそ)りて[焉]志(こころ)失(うし)なひて、乃今(いまし)に[之]醒めて曰(まを)さく
「吾(われ)聞けらく、東(ひむがし)に神の国有りて日本(やまと)と謂ふ。亦(また)聖(ひじり)の王(きみ)有り、天皇(すめらみこと)と謂ふ。
其の国之(の)神兵(かむつはもの)なるは必(あきらかなり)[也]。豈(あに)[可]兵(つはもの)を挙げて[以ちて]距(ふせ)くべく乎(や)。」とまをす。
即ち素旆(しらはた)あげて[而]自(みづから)素組(しらつな)を服(つ)けて[以ちて]面縛(しりへでにしばりて)、
図籍(ゑふみた)を封(と)ぢて[於]王(きみ)の船之前(みまへ)に降(くだ)りまつる。

ぬかつく…〈倭名類聚抄〉叩頭虫【沼加豆木無之】〔ぬかつきむし〕
くみす(与す)…[他]サ四 仲間になる。
飼部…〈丙本〉伏_馬_飼_部【志太加比氐美馬加比太良牟】〔したがひてみまかひたらむ〕。
船柂…(万)0935 船梶雄名三 ふねかぢをなみ
…(古訓) たてまつる。すすむ。
はるあき(春秋)…[名] 一年中をさしたり、さらに永遠の意をあらわしたりする。 〈時代別上代〉漢語「春秋」の影響もある。
…(古訓) くし。けつる。〈時代別上代〉「馬刷ムマノクシ、ムマハタケ」(名義抄)。
…(古訓) むち。むちうつ。
ちかふ(誓ふ)…[他]ハ四 神仏にかけて、ある事実の実行を約束する。
…(古訓) のそく。さる。おく。
阿利那礼河…〈釈日本紀-巻十一〉私記曰。師説。新羅国之河名也。〈-巻十七〉【アリナレカハ】
星辰…〈汉典〉星的通称。〈丙本〉【安末豆加波保志】〔あまつかはほし;天つ川星〕 岩波文庫版は神代紀下から、天香香背男の別名「天津甕星」(あまつみかほし)を宛てる。
…[名] ①宮中に参内して天子にお目にかかる。朝見。②天子が政するところ。朝廷。
…(古訓) すたる。すつ。やむ。
すたる(廃る)…[自]ラ下ニ 不要になる。
因以、叩頭之曰
「從今以後、長與乾坤、伏爲飼部。
其不乾船柂而春秋獻馬梳及馬鞭、
復不煩海遠以毎年貢男女之調。」
則重誓之曰
「非東日更出西、
且除阿利那禮河返以之逆流及河石昇爲星辰而、
殊闕春秋之朝、怠廢梳鞭之貢、
天神地祇共討焉。」
時或曰「欲誅新羅王。」

因以(しかるがゆゑをもちて)、[之]叩頭(ぬかつ)きて曰(まをさく)
「今従(よ)り以後(のち)、長(なが)く乾坤(あめのした)に与(くみ)して、伏(ふ)して飼部(みまかひ)と為(な)りまつらむ。
其(それ)船柂(ふねかぢ)を不乾(ほさず)して[而]春秋(はるあき)に馬梳(むまのくし)及び馬鞭(むまのむち)を献(たてまつ)りて、
復(また)海遠(をち)を不煩(わづらはず)して[以ちて]毎年(としごと)に男(をのこ)女(めのこ)之(の)調(みつき)を貢(みつきたてまつらむ)。」とまをす。
則(すなは)ち重(さらに)[之]誓(ちか)ひて曰(まをさく)
「東(ひむがし)に日非(あら)ず更に西に出でて、
且(また)阿利那礼河(ありなれかは)返(かへ)りて[之を]以ちて逆(さかしま)に流れて及び河の石(いし)昇りて星辰(ほし)と為(な)ることを除(お)きて[而]、
殊(こと)に春秋之(の)朝(みかどにをろがみ)を闕(か)けて、怠りて梳鞭(むまのくしむち)之(の)貢(みつきたてまつり)を廃(や)まば、
天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)共に〔われを〕討(う)たむ[焉]。」とまをす。
時に或(あるもの)曰(まをさく)「新羅の王を欲誅(ころさむ)。」とまをす。

…(古訓) よし。さかゆ。
さきはふ…[他]ハ下ニ 幸あらしめる。
不祥…〈丙本〉【左加奈之】〔さがなし〕
さが(祥)…[名] ①生まれもっての性質。②前兆。
…(古訓) かたむ。とつ。
重宝…〈汉典〉貴重的珍宝。
…(古訓) たふとふ。
府庫…〈汉典〉国家儲蔵財物的処所。
重宝府庫…〈丙本〉【太加良乃美久良】〔たからのみくら〕
於是、皇后曰
「初承神教、將授金銀之國。
又號令三軍曰『勿殺自服。』
今既獲財國、亦人自降服。殺之不祥。」
乃解其縛爲飼部。
遂入其國中、封重寶府庫、收圖籍文書。
卽以皇后所杖矛樹於新羅王門、爲後葉之印、
故其矛今猶樹于新羅王之門也。

於是(ここに)、皇后曰(のたまはく)
「初(はじめ)に神の教(をし)へを承(うけたまは)り、将(まさに)金(くがね)銀(しろかね)之国を授(さづ)けたまはむとす。
又(また)三軍(みいくさ)に号令(おほせごと)曰(のたまはく)『自ら服(まつろふもの)勿(な)殺しそ』とのたまひき。
今既に財(たから)の国を獲(え)、亦人自(みづか)ら降服(まつろ)ひき。之(これ)殺すこと不祥(さがな)し。」とのたまひ、
乃(すなは)ち其の縛(しば)りを解きて飼部(みまかひ)に為(し)たまふ。
遂に其の国の中(うち)に入り、重(たふと)き宝を府庫(くにのくら)に封(かた)め、図籍(ゑふみた)文書(ふみ)のたぐひを収(をさ)めり。
即ち皇后の所杖(つゑつきし)矛(みほこ)を以ちて[於]新羅の王の門(かど)に樹(た)たして、後葉(のちのよ)之印(しるし)と為(し)たまひて、
故(かれ)其の矛(みほこ)今に猶(なほ)[于]新羅の王之門に樹(た)てり[也]。

波沙寐錦…〈丙本〉【波左キム?〔はさぎなむ〕
微叱己知波珍干岐…〈丙本〉【美志己知波止利加支】〔みしこちはとりか(ん)き〕 〈甲本〉微叱己知波珍干岐波仁干岐〔―はにかんき〕 〈釈日本紀巻十七〉微叱己知【ミシコカチ/ミシコチ】【人名】。波珍干岐【ハトリウキ/ハトリカムキ】【冠名】。
干岐(かんき)…新羅国の臣に相当か。垂仁天皇紀1参照。
…(古訓) むかへり。しろ。
むかはり(質)…[名] 人質。「む(身、ミの変)+代はり」。
…[動] もたらす。(古訓) もつ。
およぶ(及ぶ)…〈時代別上代〉「及び」のような接続詞的な例も、上代に確例を見ない。
…[名] 模様を織り出している絹織物。
…[名] 目がすけたうすい絹織物。(古訓) うすもの。
綾羅(りょうら)…あやぎぬと、うすぎぬ。
綾羅縑絹…〈丙本〉綾_羅【安也】縑_絹【岐奴】〔あや・きぬ〕
官軍…天子・政府側の軍隊。
みいくさ(御軍、皇師)…[名] 天皇の軍隊。(万)0199 吾妻乃國之 御軍士乎 喚賜而 あづまのくにの みいくさを めしたまひて
日本国…〈丙本〉「于日_本_国【和加美加止爾太手末豆流】〔我が帝に奉る〕」は意訳。
軍勢…人数や勢力からみた軍隊の勢い。
いほり(営)…〈丙本〉来于營外【伊保利乃保加爾末宇支】〔いほりのほかにまうき;営の外に参(まゐ)来〕。
いほりそこ…[名] 兵営。
…(古訓) たしかに。まうす。
…[名] まだ教化されてない未開人。えびす。また「外国の」。
うちつみやけ(内官家)…[名] また、官家(みやけ)。書紀では、「みやけ」が三韓地域の官府を意味する場合、「官家」の字を用いている。 〈丙本〉内_官_家【宇知豆美也介】〔うちつみやけ〕
からくに(韓)…欽明天皇紀の歌謡に、「柯羅倶爾能 基能陪儞陀致底〔からくにの きのへにたちて;韓国の城の上に立ちて〕
爰新羅王波沙寐錦、卽以微叱己知波珍干岐爲質、
仍齎金銀彩色及綾羅縑絹、載于八十艘船、令從官軍。
是以、新羅王常以八十船之調貢于日本國、其是之緣也。
於是、高麗百濟二國王、聞新羅收圖籍降於日本國、
密令伺其軍勢則知不可勝、自來于營外叩頭而款曰
「從今以後、永稱西蕃、不絶朝貢。」
故因以、定內官家屯倉。是所謂之三韓也。
皇后從新羅還之。

爰(ここに)新羅の王(きみ)波沙寐錦(はさむきむ)、即ち[以]微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかむき)を質(むかはり)と為(し)、
仍(すなは)ち金(くがね)銀(しろがね)彩色(いろとりのもの)より綾(あや)羅(うすもの)縑(かとり)の絹に及ぶを齎(も)ちて、[于]八十艘(やそふな)の船に載(の)せ、官軍(みいくさ)に従(したが)は令(し)む。
是以(このゆゑをもちて)、新羅の王常に八十(やそふなの)船之調(みつき)を以ちて[于]日本国(やまとのくに)に貢(みつきたてまつる)、其(それ)是(こ)之(の)縁(よし)也(なり)。
於是(ここに)、高麗(こま)百済(くだら)二(ふたつの)国の王(きみ)、新羅図籍(ゑふみた)を収(をさ)めて[於]日本国に降(まつろ)ひきと聞きて、
密(ひそかに)其の軍勢(いくさのいきほひ)を伺(うかが)は令(し)めて、[則(すなは)ち]不可勝(かたじ)と知りて、自(みづから)[于]営(いほりそこ)の外(と)に来たりて叩頭(ぬかづ)きて[而]款(たしか)に曰(まを)さく
「今従(よ)り以後(のち)、永く西蕃(にしのえみし)を称(なの)りて、朝貢(みかどにをろがみてみつきたてまつり)を不絶(たえさず)。」とまをす。
故因以(しかるがゆゑをもちて)、内官家(うちつみやけ)屯倉(みやけ)を定む。是(これ)所謂之(いはゆる)三韓(みつからくに、さむかむ)也(なり)。
皇后、新羅従(よ)り[之]還(かへ)りぬ。

《㯭楫》
 〈丙本〉はカラカヂと訓むが、用例は少なく、 〈時代別上代〉は万葉集の「からかぢ」を唯一例とする(丙本は例に入っていない)。 万葉集にはかいが4例、かぢが64例あるので「からかぢ」は特別の梶であったことがわかる。
 「不労㯭楫便到新羅」とは、船が順調に進む様子を「かぢに苦労することもなく、たやすく」と形容するのだから、 敢えて「唐のかぢ」でなくてもよい。
 なお、否定文で「かぢさをもなくて」が2例、「さをかぢもなくて」が1例あることから、竿と梶は区別されている。 さを(竿)は船に固定されてない棒(パドル)であろうから、かぢは船の縁を支点とする櫂(船尾に一本)、車櫂(両舷につけたオール)と考えられる。
《船師満海》
 この段は、 高潮が国の中央部まで神功皇后の船を運ぶ。新羅国王は高潮を恐れる。日本軍の船団が海いっぱいに姿を現す。 という構成である。
 つまり、船の到来は2回ある。は、「旌旗(せいき)は陽光を浴びて耀(かがや)き、鼓吹(こすい)の響きは山河を揺るがす」のだから、 神功皇后が載る「王船」は当然その司令船であったはずである。新羅王は、その前に額ずき降伏する。その場所は船着き場のはずだ。
 一方、の船は神威によって大魚・追い風・高潮に助けられて陸地の真ん中まで運ばれるから、ここにも神功皇后が載っていた。 このように、二通りの到来の仕方が混在している。恐らく、まずは記と同じ内容のを書き始めたが、 潤色してまで進んだところで、いつの間にかと辻褄が合わなくなった。 結局、原稿のチェックが不十分だったのである。
《闕春秋之朝・廃梳鞭之貢》
 は、詩文的な言い回しにおいて、熟語「朝貢」を分割したと見られる。 しかし、春秋は時を表し、梳鞭は品を表すから、それぞれ朝・貢のもともとの意味に対応していることも確かである。 訓読する場合、この分割を的確に表す工夫が必要となる。
 そこで、続紀から参考になりそうな表現を探すと、天平勝宝四年条に次の一文があった。 「天平勝宝四年〔752〕六月己丑〔丙子朔十四日〕新羅王子金泰廉等拝朝并貢調。
 ここでは、朝貢のことを「拝朝并貢調」と表している。 これを倭語で訓む場合は「みかどにをろがみて、かつ、みつきたてまつる」となると思われる。 これを使えば、 「春秋の朝(みかどにをろがみ)を闕(か)く」「梳鞭の貢(みつきたてまつり)を廃(や)む。」 と訓読することができる。
 一般的な訓である「朝=ゐや、貢=みつき」は、朝貢そのものを表しきれない。
 続紀を見れば、「朝貢」は、その原義に基づいて朝・貢を組み合わせて理解するのが、朝廷による正式な捉え方と言える。 従って、〈丙本-崇神〉の「朝貢也」への訓「美津支太氐末ツル」は不完全である。
《不祥》
 「さがなし」は、平安時代には性格が悪いという意味になったが、上代の「さが」には「性(さが)」のほかに「兆し」の意味もある。
 例:(万)0604 劔大刀 身尓取副常 夢見津 何如之恠曽毛 君尓相為 つるぎたち みにとりそふと いめにみつ なにのさがぞも きみにあはむため〔身支度する夢を見た。これは何の兆しか。きっと君に会うということだ。〕
 「不祥」とは、「よくない兆し」。つまり、降伏した敵を殺すような道に外れた行為は、きっと禍を招くだろうと言うのである。
《波沙寐錦》
 波沙寐錦(はさむきん)は、『三国史記』婆娑尼師今(ばさにしきん、<wikipedia>新羅の第5代の王(在位:80年-112年)</wikipedia>) のことではないかと言われている。
《金銀彩色及綾羅縑絹》
 以前、神の教え覚(さと)した言葉に、「金銀為本目之炎耀種種珍宝」(記)、「眼炎之金銀彩色」(書紀) があった(第139回)。 それが、ここで現実化した。今回は様々な種類の絹織物が示されるので、魏志に書かれた魏皇帝からの回賜のリストに、より近づいた。
《大意》
 〔仲哀天皇九年〕十月三日、和珥(わに)津より発たれました。
 その時、飛廉(ヒレン、=風神)は風を起こし、陽侯(ヨウコウ、=海神)は波を上げ、海中の大魚はことごとく浮き上がり、船を助けました。 そして、大風が順風に吹き、帆船は波の押すままに、梶を漕ぐ苦労もなく容易く新羅に到りました。 その時、船を高潮によって遠く国の真ん中まで運び、このようにして天神地祇がこぞって助けられたことが知られました。
 新羅王は、これに戦慄を覚え、身の置き所もありませんでした。 そこで、人々を集めて言いました。
 「新羅建国以来、未だかつて海水が国土を覆ったとは聞いたことがない。 もし天運が尽きれば、国は海となるであろう。」と。
 この言葉を言い終わらないうちに、軍の船団が海に満ち、 旌旗(せいき、華やかな旗)は陽光に輝き、鼓吹(こすい、打楽器・管楽器)の音は、山川のすべてを震わせました。 新羅王は、これを遙かに眺め、非常なる兵が自らの国を滅ぼそうとしていると思いました。 その恐ろしさに失神してしまいましたが、間もなく目覚めて言いました。
 「私が聞くところでは、東に神の国があり、日本(やまと)という。また、聖王が有り、その名を天皇という。 軍勢はその国の神の兵であるのは明らかである。どうやって、わが兵を挙げて防ぐことができようか。」と。 直ちに白旗をあげ、自ら白縄をつけて後ろ手に縛り、 国の地図と戸籍を綴り合せて持参し、王船の前に降伏しました。
 このようにして、額づき申しあげました。
 「今より以後、長く乾坤(けんこん、=天下)をともに戴き、服従して馬飼部(みまかい)となります。 それ、船の梶の乾くことなく、春秋に馬梳(うまくし)と馬鞭(うまむち)を献上し、 また海遠を苦にもせず毎年、男女の御調(みつき)を貢ぎます。」と。
 さらに重ねて、次のように誓いました。
 「東に太陽がなくなり、更に西から出て、 また、阿利那礼河(ありなれかわ)が反転して水が逆流し、川の石が天に昇って星になることを除き、 ことに春秋の朝(拝朝)を欠き、怠けて馬の梳鞭(くしむち)の貢(貢調)が止めば、 天神地祇が共に討つ。」と。
 その時、ある者が「新羅王を殺そう。」と言いました。
 それに対して、皇后は仰りました。
 「初めに神の教えを承り、まさに金銀の国を授けられようとしています。 また、三軍に『自ら降伏する者を殺してはならぬ』と号令しました。 今、既に宝の国を獲得し、またその国の人は自ら降服しました。これを殺せば、きっとよくないことが起こるでしょう。」と。
 そして、その縛った縄を解き、馬飼部(みまかい)とされました。 遂に国内に入り、重宝を府庫に封じ、国の地図と戸籍、文書を収受しました。
 その後、皇后が杖としていた御矛(みほこ)を新羅の王宮の門前に立て、後葉(=後世)の印とし、 その御矛は今なお新羅の王宮の門前に立っています。
 そして新羅王、波沙寐錦(はさむきん)は、微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質とし、 金・銀・彩色のものをはじめ、綾織、羅織、縑(かとり)の絹に及ぶものをもたらし、八十艘(そう)の船に載せ、官軍船に従いました。 そして、新羅王は常に八十船の御調を日本国(やまとのくに)に献貢しますが、それがこの由縁です。
 この時、高麗(こま)百済(くだら)二国の王は、新羅が地図・戸籍を収めて日本国に降伏したと聞き、 密かにその軍勢を探らせた結果、勝てないと知り、自ら宿営地のの外に来て、額づいて誼を通じようとして、 「今から以後、長く西蕃を称して、朝貢を絶やしません。」と申しあげました。 このような経過により、内官家(うちつみやけ)を定めました。これが所謂三韓(さんかん)です。
 皇后は、新羅より帰還しました。


【封図籍】
 役所が管理している戸籍類や地図を密封して渡すということは、その土地の支配権を占領者に明け渡すことを意味する。 〈丙本〉には、封圖籍【志留志部〟不太〟乎由比加太女氐】〔しるしべふだをゆひかためて〕とある。 「べふだ」はここでは、戸籍の意味である。 〈時代別上代〉フミ=イタがフミタとなり、 その第二音節が撥音化してフムダ、さらにフダとなったものであろう (fumiita→fumita→fumta→fũda→fuda)。 フダの形をいわゆる音便化のほとんど 起こっていない奈良時代まで遡らせることができるかどうか疑問である。 書紀の古訓ヘフムダは、=フミタの意味である。 〈/時代別上代〉
 つまり、上代の「ふみた」の平安時代に「ふだ」になった。
 「ゆひかためる」は「結ひ固める」つまり、綴り合せて製本することで、 丙本は「」の意味を正しく理解していることが分かる。
 一方「」の 意味については、『学研新漢和』が「はかる」を「図を描く」から派生したと見るのに対し、 『漢字海』は「考える」意味の「はかる」を最初に載せている。 このように見解は分かれるが、熟語の図籍については、両辞書とも、さらに汉典も「①領土の地図と戸籍。②図書。」である。
 古訓の「しるす」については、絵を描くというより印をつける意味である。 か よって「図籍」は、古訓では狭く「戸籍」と見るが、中国では広く「地図と戸籍」を意味する。 書紀の草稿作成時には、中国寄りの意味で捉えていたことは明白である。

【新羅王】
《こきし》
 「王」の古訓は「こきし」である。その訓みの確例は、〈釈日本紀〉にある。
 『日本語千夜一夜』によれば、周書に言う百済王の俗称「鞬吉支」に対応するという。 確認すると、『周書』〔636、全五十巻〕巻四十九 列伝第四十一(高麗・百済など)に、
 「百濟者其先蓋馬韓之屬國夫餘之別種〔百済は、その先は蓋し馬韓に属せし国にて、夫余の別種なり〕
 「王姓夫餘氏號於羅瑕民呼為鞬吉支〔王の姓は夫余氏、号は於羅瑕(おらか)、民は鞬吉支と呼び為す〕
と書いてある。
 …南北朝時代の王朝〔556~581〕。国号は「周」であるが、前11~前3世紀の周王朝と区別して「北周」と呼ばれる。
 「鞬」は、漢音ケン、呉音コン。「支」は漢音・呉音ともにシ※※である。
 ※※…万葉仮名で「支」がキであるのは、技・岐・伎から見て、非常に古い時代に「支」が流入したときの発音はキだったと思われるからである。
 『魏略』〔3世紀後半か〕には、イキ島について「南度海至一支國〔南に海にわたり、一支国に至る〕とある。
 したがって、「鞬吉支」の発音はおそらく「こんきし」である。 「こんきし」は、「国主」の訛りかも知れない。「国」の呉音はコク[kok]で、「主」の呉音はスである。 [ŋ]と[k]は調音部位が同じなので、[kok]→[koŋk]はあり得る。
 この「こんきし」を「こにきし」「こきし」と書くのは、平安時代にはまだ文字「ん」がなかったからである。 当時は「ん」を表すために「む」「に」「い」を用いたり、飛ばされたりした。
 なお、書紀は「新羅国主」を「新羅王」に直している。 書紀は、記が「こんきし」を「国主」と理解した可能性に気付かなかったか、気付いていたとすれば受け継がなかったことになる。 従って、書紀成立の720年の時点では、「こきし」の呼称は用いられなかったと見られる。
《百済王》
 氏族、百済王は、持統朝のときに創始された。百済国は唐の攻撃によって、基本的に660年に滅亡した。 来日していた王族は本国を失ったので、日本国の一氏族になったと考えられる。
 持統天皇七年〔696〕に、「以正広参贈百済王善光」とある(「正広参」は官位、後の養老令では正五位上に相当)。 恐らく「百済王」=「くだらのこにきし」なる呼称がこの頃から宮中や各氏族に広まり、それが書紀訓読研究者にも影響を与えたのであろう。 また、「百済王」氏の人が書紀の「百済王」を読めば、間違いなく「くだらのこにきし」だと主張したと思われる。 さらに、新羅「王」、任那「王」まで「こにきし」の訓が広げられたと想像される。
 なお、『周書』には、高句麗・新羅には「こんきし」はない。 宣長はこれに関して、百済以外は 「今書紀を考るにもコニキシまたはコキシと訓を附」と指摘している。 ただ、「然れど此は百済王にカギれる穪そ有けむ 今しばらく百濟王の號をとりよむるなり〔しかし、これは百済王に限った称だろうか。今しばらく百済王の号を取って訓むことにする〕とする。
 さて『周書』にいう百済のコンキシは、恐らく日本の「みかど」などに相当する現地の国民による呼称で、かつ百済限定であろう。
《書紀原文における新羅王》
 文全体のバランスの観点で見ることも重要である。また新羅王の言葉の内容は全く日本(やまと)の発想である。 宣誓文にある「天神地祇」は、もともと天照大御神と大国主命を筆頭とする日本の神である。 このように王の言葉、あるいは物語全体が日本風なのに、単に「王」の訓のみを現地風〔だと日本人が信じる〕にするのは中途半端である。
 原文作成の段階に遡って考えると、音読みの「新羅王(しむらわう)」「百濟王(はくさいわう)」が使用されたはずだから、訓は当然「きみ」であった。 もし、当初から「こきし」のような特別の訓みがされたのなら、必ず原注がついたはずである。 従って、原点に立ち戻って「しらきのきみ」「くたらのきみ」と訓読すればよいのである。 ましてや「こきし」を遡って古事記に用いる必要は全くない。
 これまでに度々述べてきたように、成立時の「日本書紀」と、古訓が加えられた「日本書紀」とは別物である。

【定内官家屯倉】
 岩波文庫版:第3巻の補注によると、みやけとは要するに朝廷の直轄領「屯倉(みやけ)」が意味を広げ、 朝鮮半島諸国を指すという。
 それでは、書紀では三韓の「みやけ」をどのような意味で用いているのだろうか。一例として、継体天皇紀二十三年条を見る。
――夏四月壬午朔戊子、任那王己能末多干岐、來朝【言己能末多者、蓋阿利斯等也】、 啓大伴大連金村曰「夫海表諸蕃、自胎中天皇置內官家、不棄本土、因封其地、 良有以也。今新羅、違元所賜封限、數越境以來侵。請、奏天皇、救助臣國。」
 〔任那王、己能末多干岐(このまたかんき)が来朝し、大伴金村に訴えるに 「海外の諸藩は、胎中天皇(神功皇后が生んだ応神天皇)以来内官家を置き、 私どもの国を見捨てず、封じられた境界は妥当です。今新羅は、その封じられた境界を守らず、 何度も越境して侵入しました。天皇に私めの国をお助けくださるようお願いします。」〕
 継体天皇紀では神功皇后が「内官家屯倉」ことを、 「胎中天皇内官家」と表現している。 「国」を丸ごと「内官家」と呼ぶのなら「内官家」と書くはずだが、「内官家」という以上「(役所としての)内官家を設置した」意味である。
 だから内官家とは三韓の諸蕃(=各国)に置かれた、日本の朝廷の出先の役所である(次項参照)。 その支配力は、大使館より強力で、総督府には及ばない。大使館は対等な国家間に置かれ、総督府は植民地の統治機構として置かれる。
 すると、漢字の表現「内官家」は、「〔本国の朝廷〕の出先の「〔つかさ=官僚〕の「〔官署〕として理解できる。 そして、よみは国内で各地に置かれた朝廷による監督官署「みやけ」を拡張したようだ。 なお、「みやけ」はもともと納税米の倉庫の意味だが、中央政権の出先機関や直轄領に意味が広がった。
 以上から、「内官家屯倉」なる表記は、表記の変更の途中経過を表していると思われる。 つまり、草稿作成の途中で漢字表記を屯倉から内官家に修正することになり、ここの「屯倉」は棒線などで消したはずだが、清書者はそれも書いてしまったというような経過が想像される。 類似した例を、神武天皇即位後の《葛野主殿県主部》(第101回〈2〉)に見た。
《宋書-倭国上奏文》
 倭国の出先機関を三韓地域の各国に置いたことを、史実として示すと思われるのが、『宋書』に載る倭国の上奏文〔478〕である (【宋書など】)。
 曰く「窃自仮開府儀同三司、其余咸各仮授、以勤忠節。〔窃(ひそ)かに申し上げます。開府の儀を仮していただいたもの自(よ)り同じ三司(3つの司)を、 その余の国にも咸(みな)各(おのおのに)仮授していただければ、以って忠節を勤めます。〕
 この文は、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓にすでに置かれていた出先機関(「内官家」)を「その余」=百済にも置かせてほしいと要望する ものである。倭国はそれ以前から、百済を勢力圏に加えたいとして交渉を重ね、宋は拒否し続けていた。

【微叱己知波珍干岐】
 新羅から倭国に人質が送られる記事が、三国史記にある。
 實聖尼師今は、5世紀初めの新羅の王。
 『三國史記卷第三』新羅本紀第三 實聖尼師今。
 「奈勿薨其子幼少國人立實聖繼位」…奈勿王が薨じ、その子は幼少だったので国の人は実聖に位を継がせた。
 …朝鮮半島諸国は、中国の冊封国という位置づけに甘んじていたので、その君主は「王」で、 その死は皇帝クラスの「崩」ではなく、諸侯クラスの「薨」である。
 「元年 三月 與倭國通好 以奈勿王子未斯欣爲質」 …元年〔402〕三月。倭国と好みを通じ、奈勿王の子、未斯欣を質とした。
 その後、四年〔406〕からは、一転して倭国の度重なる侵攻を受ける(4年、6年、7年)。
 好太王碑文には、永楽十四年〔404〕倭不軌侵入帯方〔軌(のり)に外れて、帯方郡に侵入〕、 同十六年〔406〕までに「刺倭寇、潰敗斬殺無数」とあるから、倭軍がさかんに侵攻した時期は一致している。
 微叱己知(みしきち)は、未斯欣(みしき)の名に通ずるので、 新羅本紀の記述(または倭国側の記録)を、神功皇后紀に取り入れたものと見られる。

【西蕃】
 もともとは、中原を文化の中心地であるとする中華思想により、周辺国を未開の地と見る呼び名が「」である。 西蕃は、中国から見て西にあるチベット地方を指した。
 日本(やまと)の政権も中国を模して、葦原中津国を中原として朝鮮半島を西蕃と呼んだ。 〈時代別上代〉には、「日本書紀の古訓では「蕃」「蕃国」「蕃人」などにトナリの語を冠して訓む。 これは近隣の外国・外国人の意。」とある。しかし、乙本・丙本・釈日本紀には「西蕃」の訓はなく、何れかの訓点本によるものである。
 平安期の「にしのとなり」という訓は、政治的な理由によって「蕃」本来の意味を薄めたものと察せられる。
 書紀における「西蕃」は、三韓の王が皆降伏して今後は朝貢を欠かさないと誓う文脈で使われるので、 「未開の周辺国は先進国の倭に従属すべし」という思想を伴った語である。
 したがって、少なくとも書紀が編集された時点では「えみし(夷)」の意味で書かれたのは明白である。 そして東夷と西蕃を対称としたのであろう。 実際『続紀』を見ると、「新羅による貢調」が698~770年の間の10回に及ぶ。 ところが面白いのは、『続紀』の宝亀五年〔774〕3月4日の記事である。
 その日、新羅国から使者金三玄が大宰府を訪れたが、使者が託されたのは新羅王の「請修旧好毎相聘問」という親書と、「国信物」であった。 対応した紀弘純らは、これまでの「」を対等の関係を表す「」に変え、「」を「国信」に変えたのはどういうことかと詰問した。 三玄はそれに対して、宰相が代替わりして方針が変わり、自分は朝貢使ではなくただの使者として派遣されただけだ。それ以上のことは知らないなどと言い訳をした。 天皇はこれに怒り「新羅元来称臣貢調、古今所知。 而不旧章、妄作新意、調称信物朝為修好。 以昔准今。殊無礼数。宜給渡海料早速放還。〔新羅は元来臣を称し貢調したのは、古今周知のことである。 しかるに古いきまりに従わず、勝手に「調」を「進物」とし、「朝」を「修好」にするとは。昔通りに戻せ。 まったく無礼にもほどがある。渡海料をやってさっさと国に帰せ。〕と言った。
 この話は、日本(やまと)は新羅が自国への朝貢国だと思っていたが、既に奈良時代には実態として対等であったことを示す (新羅国使金三玄の来朝)。
 そのような情勢を受け、平安時代の訓読研究者にも「三韓を蕃(えみし)扱いするのは独りよがりで時代に合わない」という心理を生み、 その結果「西の隣」と読むようになったと考えられる。

まとめ
 倭国は、もともとは「新羅・百済皆以倭為大国、〔献〕多珍物、並敬仰之」(随書)と書かれるような、 朝鮮半島に対する優越した地位を保っていた。 ところが、6世紀半ばには唐が半島に進出して百済を滅ぼした。 倭は、百済の再興を支援する形で半島への支配力を取り戻そうとしたが、白村江の戦いに敗れて半島から撤退した。 書紀の編纂時期はその後にあたり、かつて倭国が半島に権益をもち、三韓が倭国に遜っていた時代の記憶はまだ生々しかった。 従って、書紀は半島への影響力の喪失を惜しみ、半島は本来倭のものであるべきだとする強い意識のもとに書かれたことになる。
 それが昔のよき時代へのノスタルジーなのか、いつかは再征をと本気で目指していたのかは分からないが、 三韓地域が潜在的には倭国の支配下にあるとの信念を固めるために、その根拠として神功皇后の虚像を作り上げたと言える。
 ところが、奈良時代になると、日本は新羅と横並びで唐と交易する国となり、半島への支配はもう昔話になる。 774年の日本への朝貢使の廃止は現実に合わせただけであり、当時の光仁天皇が怒って見せても何もできないのである。
 9世紀は、日本・新羅の外交関係はなくなり、新羅の海賊がしばしば対馬・九州を襲ったようである。 それでも、日本が軍事力で侵攻することはもうなかった。 新羅が日本への朝貢国であったなど全くの昔話で、再征して半島での権益を取り戻そうという意欲もとっくに失われている。 そんな時期に行われた書紀の訓読研究では、「西蕃」をただ「西のとなり」と呼ぶ感覚だったのだろう。
 しかし、神功皇后の虚像は日本人の意識の奥深くに結実して残り、以後の長い歴史に影響を及ぼしたことを直視しなければならない。 16世紀には、豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った。ただ、それが神功皇后記に直ちに触発されたものとまでは言えないだろう。彼の目的はあくまでも明の占領であり、 朝鮮にはそのための道案内をせよという立場である。しかし、朝鮮のことをはなから臣下だと思いこむ意識の根底に、 日本書紀に始まる伝統的な朝鮮観があったと考えられる。
 明治になると、西郷隆盛らよって征韓論が起こり、明治43年〔1910〕には遂に韓国併合が現実になった。 日本国による統治の実体については様々な議論があるが、「朝鮮各地に官幣神社がつくられた」ことだけを取っても、否応なしに精神の内面に及ぶ日本国の支配下に組み込こまれたことを意味する。
 このように、政治家や軍人が平然と他国民を抑圧することができた根源を探っていくと、神功皇后の三韓征伐神話にいきつくのである。この神話は、日本歴史における毒薬であった。 その作用は今なお残り、時に一部の人の間に湧き上がる情けない差別意識にも無関係ではない。 三韓征伐神話の慢性的作用という観点から歴史を洗いなおすことは、この国の現在と将来のために避けることのできない課題である。
 さて、記は神功皇后紀の熱さとは無縁である。 前回取り上げたように、書記執筆団の要請を受けて書き加えられたと思われる部分はあるが、記における三韓征伐の部分の記述は素っ気ないもので、 他愛のない神話に過ぎないとの印象を与えるものになっている。古事記の側はごく冷静であった。


2016.12.14(wed) [142] 中つ巻(神功皇后3) 

故其政未竟之間 其懷妊臨產
卽爲鎭御腹取石以纒御裳之腰而
渡筑紫國其御子者阿禮坐【阿禮二字以音】
故 號其御子生地謂宇美也
亦所纒其御裳之石者 在筑紫國之伊斗村也

故(かれ)其の政(まつりごと)未(いまだ)竟之(を)へざりし間(ま)、其の懐妊(はらみ)産(うみがつき)に臨(のぞ)みて、
即ち御腹(みはら)を為鎮(しづめたまはむがため)に石(みいし)を取りて、以ちて御裳(みも)之(の)腰に纒(まつ)ひまして[而]
筑紫国(つくしのくに)にかへり渡りまして、其の御子者(は)阿礼(あれ)坐(ま)せり【阿礼の二字(ふたじ)音(こゑ)を以ちゐる。】。
故(かれ)其の御子の生(う)まれましし地(ところ)を号(なづ)けて宇美(うみ)と謂(まを)す[也]。
亦(また)其の御裳に所纒(まつはえ)し[之]石(みいし)者(は)、筑紫国之(の)伊斗村(いとむら)に在り[也]。


亦到坐筑紫末羅縣之玉嶋里而
御食其河邊之時當四月之上旬
爾坐其河中之礒拔取御裳之糸
以飯粒爲餌釣其河之年魚
【其河名謂小河亦其礒名謂勝門比賣也】
故四月上旬之時女人拔裳糸
以粒爲餌釣年魚至于今不絶也

亦(また)筑紫の末羅県(まつらがた)之(の)玉嶋里(たましまのさと)に到り坐(ま)して[而]
其の河辺(かはへ)にて御食(みけをすすめ)し[之]時、四月(うづき)之(の)上旬(じやうじゆむ、かみのとをか)に当たりて、
爾(ここに)其の河中(かはなか)之磯(いし)に坐(いま)して御裳(みも)之糸を抜き取りたまひて、
飯(いひ)粒(つび)を以(も)ちゐて餌(ゑ)と為(し)て、其の河之年魚(あゆ)を釣りたまひき。
【其の河の名は小河(をのかは)と謂(まを)す。亦其の磯(みいし)の名は勝門比売(かつとひめ)と謂す。[也]】
故(かれ)四月上旬之(の)時、女人(をむなめ)裳の糸を抜きて、
粒(いひつび)を以ちゐて餌(ゑ)と為(し)て釣年魚(あゆつりする)こと、[于]今に至りて不絶(たえず)[也]。


 さて、その政(まつりごと)が未だ終わらないうちに、その懐妊が産み月を迎え、 御腹を鎮めるために石を取り、御裳(みも)の腰に縛り付け、 海路筑紫国に帰り、その御子がお生まれになりました。
 よってその御子の生まれた地は、宇美(うみ)と名付けられました。 また、その御裳に縛り付けられた石は、筑紫国の伊斗(いと)村にあります。
 また、筑紫の末羅県(まつらがた)の玉嶋の里に到り、 その川辺にて食事されました。時は四月上旬に当たり、 その川の中の磯石の上に載られ、御裳の糸を抜き取られ、 飯粒を用いて餌とし、その川の年魚(あゆ)を釣りなされました。 【その河の名は小川(おのかわ)と言います。またその磯石の名は勝門比売(かつとひめ)と言います。】
 それにより、四月上旬頃、女性が裳の糸を抜き、 飯粒を餌に用いて年魚釣りをすることが、今も絶えません。


…〈乙本〉孕月【宇美加津岐】〔うみがつき〕産期【古宇牟止支】〔こうむとき〕。 
…[名] 形式名詞として目的を表す。(万)0334 故去之里乎 忘之為 ふりにしさとを わすれむがため
まつふ(纏ふ)…[他]ハ四 まとう。しばる。
末羅県…〈倭名類聚抄〉{肥前国・松浦【万豆良】郡〔まつら〕。 (万)0868 麻都良我多 佐欲比賣能故何 まつらがた さよひめのこが。 のように、「まつらがた」と言い習わされている (資料15)。
いひ(飯)…[名] 飯。
つび(粒)…[名] 粒。
いそ(磯)…[名] ①石。②岩石の多い波打ち際。〈時代別上代〉実例によれば、①②のどちらにも解される場合が多い。
上旬…〈丙本-神功〉「上旬【加美乃止布加】」〔かみのとふか〕。〈現代語古語類語辞典-上代〉じゃうじゅん。

【懐妊臨産】
 その後、「御腹」めようとするから、 「臨産」とは「生まれそうになった」或いは「産み月を迎えた」という意味になる。
《書紀の「開胎」》
 なお、書紀には「適当皇后之開胎」とある(前回《招荒魂為軍先鋒》)。 この文脈にあれば、「開胎」は直感的に「はらをひらく」即ち「出産」の意味だろうと思わせる。 実際、〈丙本〉には「開胎【宇牟加豆支】〔うむかつき;=産むが月〕とある。
 ところが「開胎」という熟語は我が国の漢和辞典にはないし、汉典にもない。 さらに、〈中国哲学書電子化計画〉の検索によっても使用例は皆無である。 だから、もともとはこのような熟語は存在しない。 書紀は、独自の造語によって記の「臨産」と同じ意味を表わそうとしたとしか、考えられない。

【四月上旬】
 〈丙本〉で「上旬」につけられた訓「かみのとふか」は、即ち「上の十日」という説明的なもので、 もとから倭語にあったものとは思えない。 上代人には1か月を10日ごとに区切る概念はなく、 外来語「旬」にともに、初めて取り入れられたように思われる。 したがって、音読みするのが適当であろう。

【宇美】
 伝説の地「宇美」には、神功皇后親子を祀る宇美八幡宮がある。
  《宇美八幡宮》
 宇美八幡宮は式外社で、所在地は、福岡県糟屋郡宇美町宇美1丁目1番1号である。 『福岡県神社誌』には「宇美神社」の社名で、次のように書かれている。
宇美八幡宮
<県社 宇美神社 【粕屋郡宇美町大字宇美字本村】>
祭神
 品田別天皇〔応神天皇〕、息長足姫命〔神功皇后〕、玉依姫命、住吉三柱神、伊弉諾命
由緒(抜粋):
 「此時三韓は帰服すと雖(いへども)、 筑紫には尚異なる心を挿む人もやあらんと、産舎の四辺に八つの幡を建て兵士をして守らしむ。 後世八幡大神と称するは此故なりとかや。
 「実にも宇美邑は八幡大神降誕の霊地なればとて、敏達天皇の御宇に宮柱太敷建てゝ神功皇后と八幡大神とを祭らせ給ふ。【年月不詳】 後世に至りて五座となる。【年月不詳】 古は朝廷より下万民迄殊に尊崇在りし故、封戸神田も多く寄附せられ、
 また、周辺に次の謂れのある場所がある。
 槐(あんじゅ)の木…その枝に取りすがって分娩。
 湯蓋の森…産湯をつかった楠。
 湯方殿…産湯の官女。今末社。
 エナガワ…胞衣(えな)〔=胎盤〕をすすいだ川。
 箱崎…胞衣を箱に入れ葦津の浦に納め、その上に松を植えて標(しるし)としたところ。
 同社の創建については、『古代九州物語』(伊藤 久-シニアネット久留米)によると、 宇美宮別当71世留守良勝が 書いた1652年の書、『傳子孫書』に、「敏達天皇3年〔574〕甲午筑紫蚊田邑 始宮柱建給う」とあるという。
《八幡神》
 上記福岡県神社誌に「応神天皇の産舎の四辺に八つの幡を立てて守った」とあることは、 <wikipedia>八幡神は応神天皇と同一とされる</wikipedia>ことの由来を示すか。
 しかし、宇佐神宮(大分県宇佐市大字南宇佐2859)の「由緒」に 「御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に 初めて宇佐の地に ご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、 新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。 これが宇佐神宮の創建です。」とあり、こちらが総本宮であるとする。 「産舎の四辺に八つの幡」は宇美神社だけの主張かもしれない。
 続紀での「八幡」の初出は、天平9年〔737〕である(第138回《香椎宮》)。 「遣使於伊勢神宮。大神社。筑紫住吉。八幡二社及香椎宮。奉幣、以告新羅無礼之状。」である。 このように「無礼のさま」を告げたのは、<wikipedia>遣新羅大使の阿倍継麻呂が外交使節としての礼遇を受けられなかったらし</wikipedia>いことによるとされる。 「八幡二社」は宇佐神宮と宇美神社であろうと思われる。 
 ここで、宇佐神宮に話を移す。
《宇佐神宮》
 続紀が次に宇佐大神に言及するのは、天平勝宝元年〔749〕である。
 それによると、その年の12月27日、「宇佐郡の八幡大神」から祢宜尼(ねぎに)大神杜女(おほみわのもりめ)らを迎え、 大仏の前で盛大な会(え)を催した。
 時は同年10月24日に大仏の鋳造を終えたところであるが、まだ完成ではない。
 会において、天皇が橘諸兄は宣命を代読させた。その中に、
豊前国宇佐郡坐広幡八幡大神申賜〔豊前国宇佐郡にいます広幡の八幡大神に申したまへ;=申し上げまして という言葉がある(資料14)。
 その結果、「必ず作り上げよう」という八幡大神の勅を頂き、そのおかげで大仏が出来上がりつつあることへの礼を述べている。 大神杜女は、天皇専用の紫輿に載って登場するほどの厚遇を受けるので、 宇佐神宮からは相当大きな建立への援助があったと想像される。
《八幡神の起源》
 八幡神の起源は応神天皇とは別にあり、後に習合したものであるとも言われる。 ただ、宇佐神宮創立の725年は香椎の宮創立の724年と相前後しており、 神功皇后への称賛ムードの盛り上がりと同時期である。 このことから少なくともこの時期には、八幡神は応神天皇と同一と考えられていたと思われる。

【御裳之石】
 神功皇后が出産が迫った御腹を鎮めるために懐にした石は、「筑紫國之伊斗村」る。 書紀には「其石今在于伊都県道辺」る(前回)。
《万葉集―鎮懐石歌》
 万葉集第五巻の0813に、鎮懐石を詠んだ歌がある。 作者名は万葉集そのものの中にはないが、 『第五巻目録』に「山上臣憶良詠鎮懐石歌一首并短謌」とあることによって、作者は山上憶良と考えられている。
 その題詞に、鎮懐石についての詳細な記録がある。まず、全文を読む。
…[動] ①おちる。②こぼつ。  (古訓) おつ。こほつ。やふる。
(ダ)…[名] 細長い円形。
とりのこ(鷄子)…[名] 鶏卵。
筑前國怡土郡深江村子負原 臨海丘上有二石 
大者長一尺二寸六分 圍一尺八寸六分 重十八斤五兩 
小者長一尺一寸 圍一尺八寸 重十六斤十兩 
並皆堕圓状如鷄子 其美好者不可勝論 所謂俓尺璧是也 
或云 此二石者肥前國彼杵郡平敷之石 當占而取之 去深江驛家二十許里 近在路頭 
公私徃来 莫不下馬跪拜 古老相傳曰 
徃者息長足日女命征討新羅國之時 用玆兩石挿著御袖之中以為鎮懐 實是御裳中矣 
所以行人敬拜此石 乃作歌曰
筑前(つくしのみちのくち)の国の怡土郡(いとのこほり)の深江村の子負原(こふのはら)、海に臨み丘上(をかのへ)に二つの石有り。
大(おほき)は長(ながさ)一尺二寸六分(ひとさかあまりふたきあまりむきだ、37.8cm)、
囲(いだき)一尺八寸六分(55.8cm)、
重(おもみ)十八斤五両(とはかりあまりやはかりあまりいつころ、12.5kgか)。
小(すこしき)は長一尺一寸(33cm)、囲一尺八寸(54cm)、重十六斤十両(11.3kgか)。 
並(な)べて皆堕円(こぼれるまろの、ながきまろの)状(さま)鷄子(とりのこ)の如し、その美好(うつくしみ)は論(はか)るに勝てず〔論ずるに及ばず〕、所謂(いはゆる)尺(さか)俓(わた)る璧(たま)是なり。
ある云はく、この二石は肥前(ひのみちのさき)の国の彼杵郡(そのきのこほり)に平敷(ひらしき)の石、占はむとして之を取りて、深江の駅家より去(さ)かりて二十許里(はたさとあまり)、路頭(みちのかみ)に近く在り。
公(おほやけ)に私(わたくし)に徃来(ゆきき)して、馬を下り跪(ひざまづ)きて拝(おが)まざることなし。古老(おきな)相(あひ)伝へて〔相伝=言い伝え〕曰はく、
徃(いにしへ)は息長足日女命(おきながたらしひめのみこと)新羅国を征討(う)ちし時、玆(この)両石(ふたいし)を用ひて御袖(みそで)の中に挿し著(つ)けて懐(ふところ)を鎮めむと以為(おもひ)たまひて、実(まこと)是(これ)御裳(みも)の中にあり。
所以(ゆゑ)に行く人此の石を敬(うやま)ひ拝(おろが)みて、乃(すなはち)歌を作(つく)りて曰はく。
 長さ「一尺=ほぼ30cm」については、正倉院宝物に紅牙撥縷尺が現存する(第116回【御身長・御脛長】)。

 斤・両は質量の単位。 漢代の一両は、14.167g。 隋代は漢代の一両(少称両)の3倍の42.5g(大称両)とされる※1。 なお、1斤=16両である。以上から計算すると、18斤5両は小称両で4.15kg、大称両で12.45kg。
 少称両・大称両のどちらであるかを判定するために、試しに密度を求めてみる。
石の形を楕円体〔体積V=(4/3)πabc〕と仮定し、 大きい方の石について計算する。
 a=長さ37.8cm÷2=18.9cm。断面を正円とすれば、b=c=周囲55.8cm÷2π=8.88cm。 従ってV=6240cm
 密度は、小称両で0.665g/cm、大称両で2.00g/cm。 白色の岩石として代表的な花崗岩の密度は、通常2.5~2.8g/cmである。 この計算では、断面が正円(b=c)としたが、楕円とすれば扁平になるほど体積は減少し、密度は大きくなる。 標準的な密度2.7g/cmになるときの長径・短径を求めると、 b(長径)=12.15cm、c(短径)=4.800cm としたときに、周囲は55.8cm※2、体積4620cm、密度は2.70g/cmとなり、 すべての数値を測定値に一致させることができる。
 倭国の分銅の質量の誤差や、花崗岩の密度によってこれらの値が変わることを考慮しても、 この「両」が、大称両であることは動かないだろう。 なお、同様に小さい方の石の 寸法を求めると、a=16.5cm、b=13.64cm、c=4.439cmとなる。
 ※1 <wikipedia>所引の『計量史研究』第26巻2号(2004)、小泉袈裟勝『歴史の中の単位』。
 ※2 『Ke!san-楕円の面積』使用。
 堕円は、「こぼ(毀)てる円」としか読みようがないが、「其美好者不可勝論〔その美しさは論ずるまでもない〕との形容と相いれない。 「堕円状如鷄子」という書き表し方は、実際にはこれが「楕円」であることを強く示唆する。
 測定は、長さは1分〔3mm〕、質量は一両〔42.5g〕単位で精密に行われているから、 実測者には数学的知識があり、その形を「楕円」と記録した可能性は大きい。 従って、「堕円」は「楕円」に音を当てたか、誤写であろう。 漢字のはもとより幾何学図形の名称だが、直接対応する上代語が存在せず、 筆写者には馴染みのない字だったのかも知れない。
 これらの石が標準的な花崗岩でできた楕円体だと仮定して、右のような計算によって数値の現実性を調べた。 この計算によって、
 質量の単位には大称両である。
 最太部の断面は、大きい方の石が長径12.2cm(四寸一分)、短径4.8cm(一寸六分)。 小さい方の石が長径13.6cm(四寸五分)、短径=4.4cm(一寸五分)。
 という結果が得られた。
 計算によって得られた数値は現実的であるから、題詞の数値はいい加減なものではない。
 鎮懐石がこのように綿密に調べられたということは、人々に強い関心を持たれていたことの表れであろう。 現代においても、歴史的な遺物を調べるときはその各部の寸法や重量を精密に測定して記録することは当然行われる。それと同じことである。 これは、奈良時代に神功皇后への崇敬が高揚していたことの一つの現れだと思われる。
――(万)0813〈長歌〉
可既麻久波 阿夜尓可斯故斯 多良志比咩 可尾能弥許等 可良久尓遠 武氣多比良宜弖 弥許〃呂遠 斯豆迷多麻布等 伊刀良斯弖 伊波比多麻比斯 麻多麻奈須 布多都能伊斯乎 世人尓 斯咩斯多麻比弖 余呂豆余尓 伊比都具可祢等 和多能曽許 意枳都布可延乃 宇奈可美乃 故布乃波良尓 美弖豆可良 意可志多麻比弖 可武奈何良 可武佐備伊麻須 久志美多麻 伊麻能遠都豆尓 多布刀伎呂可儛 かけまくは…懸くの未然形+む(意志)の未然形+く(上代の接尾語;未然形につけて名詞化する)+は(係助詞)。  「心にかけようとすることは~」の語感がある。前置きの定型句か。
あやに…[副] 霊妙に。
足日女神の命…神功皇后を神と呼ぶのは当然だろう。しかし、「神の御言」に従って、ともとれる。
向け…従わせて。「言向け」と同じ。
い取らして…い(接頭語;実質的な意味はない)+とるの未然形+す(上代の助動詞;軽い尊敬、四段)の連用形+て(接続助詞)
沖つ深江…「沖の深い江」を地名「深江村」に掛けている。
置かしたまひて…置くの連用形+二重敬語。
神ながら 神さび…神意のままに、神らしく振る舞い。
をつつ…うつつ(現)と同じと言われる。
尊(たふと)きろかむ…「形容詞の連体形+ろかも」の「ろ」は間投助詞であるが、接尾語のように使われ「かも」(詠嘆・疑問など)に繋ぐ。 「かむ」は用例が少なく、「かも」の東国方言と言われるが、作者の山上憶良は大和国の人である。
かけまくは あやにかしこし たらしひめ かみのみこと からくにを むけたひらげて みこころを しづめたまふと いとらして いはひたまひし またまなす ふたつのいしを よのひとに しめしたまひて よろづよに いひつぐがねと わたのそこ おきつふかえの うなかみの こふのはらに みてづから おかしたまひて かむながら かむさびいます くしみたま いまのをつつに たふときろかむ
懸けまくは あやに畏し 足日女 神の命 韓国を 向け平げて 御心を 鎮め賜ふと い取らして 斎ひ給ひし 真玉なす 二つの石を 世の人に 示し賜ひて 万世に 言ひ継ぐがねと 海の底 沖つ深江の 海上の 子負の原に 御手づから 置かし給ひて 神ながら 神さびいます 奇し御霊 今のをつつ〔現〕に 尊きろかむ
 「御手づから」「今の現に」という表現に、 「神功皇后がご自分の手で置かれた石が現実にそこにある!」という驚きと感動が表れている。
――(万)0814〈短歌〉
阿米都知能 等母尓比佐斯久 伊比都夏等 許能久斯美多麻 志可志家良斯母 しかしけらしも…けらしは助動詞。過去から継続する事実に対する、確実性のある推量。
 「しかす」は、一般的には「敷く」の未然形+軽い尊敬「す」(四段)と解釈されている。 上代は、使役の「す」(下二)はまだ発生していないとされる。
あめつちの ともにひさしく いひつげと このくしみたま しかしけらしも
天地の 共に久しく 言ひ継げと この奇し御魂 敷かしけらしも
 「敷く」には「遍(あまね)く及ぼす」という意味がある。 「天地に皆で長く言い継げと、この不思議な御魂のことが広められてきた」という意味か。
――(万)0814左注:
右事傳言 那珂郡伊知郷蓑嶋人建部牛麻呂是也
右の事伝へし言、那珂郡の伊知郷の蓑嶋の人、建部牛麻呂、是也。
右の事を伝えた言葉は、那珂郡の伊知郷の蓑嶋の人、建部牛麻呂である。
 〈倭名類聚抄〉に{筑前国・那珂郡}があるが、そこに伊知郷の名はない。 一般には、倭名類聚抄以前に失われた郷名と考えられている。 福岡県福岡市博多区にある現代地名「美野島」が蓑嶋だとされ、旧那珂郡に属する。
 建部牛麻呂の「建(たける)部」とは日本武尊に因む氏族なので、出身は東国かも知れない。 (万)0813で見た「かむ」は、彼が口にした東国訛りを、そのまま歌に入れたとも想像される。
《釈日本紀-筑紫風土記》
 釈日本紀巻十一 述義七「皇后取石挿」の項に、筑紫風土記、筑前国風土記の逸文が載る。
――筑紫風土記曰
逸都縣子饗原有石兩顆 一者片長一尺二寸周一尺八寸 一者長一尺一寸周一尺八寸
色白而鞭圓如磨成 俗傳云 息長足比賣命欲伐新羅 閲軍之際懐妊漸動 時取兩石挿著裙腰
遂襲新羅 凱旋之日至芋湄野太子誕生
有此囙縁曰芋湄野【謂產爲芋湄者 風俗言詞耳】
俗間婦人忽然娠動裙腰挿石厭令延時 蓋由此乎
…むち。(古訓) むち。こはし。つよし。
妊動・娠動…ここでは「産気づく」を意味すると見られる。
…(古訓) さしはさむ。
…(古訓) ところ。ならひ。
俗間(ぞくかん)…①卑しい世間。②俗界。
…①あきる。②おさえる(壓=圧)。
逸都県(いとあがた)の子饗原(こふのはら)に石両顆(ふたつ)有り、一(ひとつ)は片長(かたなが)一尺二寸(ひとさくあまりふたき)周(めぐり)一尺八寸(ひとさくあまりやき)、一(ひとつ)は長さ一尺一寸周一尺八寸。
色白くして鞭円(こはきまろにして、ながきまろにして)磨(みが)き成りし如し。俗(ならひ)に伝へて云はく、息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)新羅を伐(う)たむとして、
軍(いくさ)を閲(み)たまひし際(きはみ)に懐妊(はら)みて漸(やくやく)動きて、時に両石(ふたいし)を取りて裙(みも)の腰(こし)に挿(さしはさ)み著(つ)けたまふ。
遂に新羅を襲(おそ)ひて、凱旋(かちてかへ)りましし日、芋湄野(うみの)に至りて太子(ひつぎのみこ)誕生(あれま)せり。
此の因縁(ゆゑ)有りて芋湄野と曰ふ【産を謂ひて芋湄と為(な)すは、風俗(ならひ)にて詞(ことば)を言ふ耳(のみ)】。
俗間(よの)婦人(をむなめ)忽然(たちまちに)娠(はらみ)て動けば、裙の腰に石を挿(さしはさ)みて厭(お)して時を延(の)ばしむ、 蓋(けだし)此に由(よ)りけり。
 各国の風土記は、和銅六年〔713〕の勅によって作成が命じられたものである(資料13)。 そこには「諸国郡郷名着好字」とあり、国郡郷制下での新たな地名の制定を求めている。 それに応えたのが風土記であるから、出雲国風土記は完全に「郡」であり、他の国の逸文でも基本的に「郡」が用いられている。 だから、「伊都郡」を「逸都県」になっているところが注目される。
 となると、「筑紫風土記」は「筑前国風土記」とは別の書であろうか。 だが、引用するとき一字一句厳密に書き写すとは限らず、引用者が「筑紫国」や「県」という呼び方の方に馴染んでいれば、あまりこだわらずに適当に書き換えてしまうことも起こるだろう。 だから、一概には決め難い。
 ひとまず「筑紫風土記」が「筑前国風土記」とは別の書であると考えてみると、 〈国造本紀〉には、筑志国は志賀高穴穂朝(成務天皇)のとき田道命が「筑志国造」に任じられ、「今筑前筑後」と書かれる。
 したがって、『筑紫風土記』は律令国成立前の時代のことを書いた書ということになる。 続紀の他の箇所から『筑紫風土記』の引用を探すと、巻十二-仁徳天皇紀「御網葉」にある。 また、巻十七-継体天皇紀「筑紫国造磐井」に「筑後国風土記曰」があるが、 筑後国の上妻郡が、文中では「上妻縣」になっているので、これも実は『筑紫風土記』なのかも知れない。
 石の大きさの値は万葉集の「注」に近いので、奈良時代になってから書かれた書ではないかと思われる。 ただ、これが土地の婦人が急に産気づいたときには石を腰に挿めて、一定時間持ちこたえようとする〔実際の効果は不明だが〕ことの由来と書かれたところが注目される。 この土地には、女神が石で押さえて出産を押さえたという神話があったのかも知れず、それが神功皇后神話に組み込まれたということも考え得る。
《釈日本紀-筑前国風土記》
――筑前国風土記曰
登時…すぐさま。
…[名・副] 以前。(古訓)さき。
…(古訓) かなへり。
怡土郡兒饗野【在郡西】此野之西有白石二顆 【一顆長一尺二寸大一尺重卌一斤 一顆長一尺一寸大一尺重卌九斤】
曩者氣長足姫尊欲征新羅 至於此村御身有姙忽當誕生 登時取此二顆石挿於御腰
祈曰 朕欲定西堺來著此野 所姙皇子若此神者凱旋之後誕生其可 遂定西堺還來卽產也
所謂譽田天皇是也 時人号其石曰皇子產石 今訛謂兒饗石
怡土郡(いとのこほり)児饗野(こふの)【郡の西に在り】此の野の西に白き石二顆(ふたつ)有り。 【一顆(ひとつ)は長一尺二寸大一尺重四十一斤。一顆は長一尺一寸大一尺重四十九斤。】
曩(さき)には気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)新羅を征たむとし、於此の村に至りて御身(おほみ)姙(はら)みたりて忽(たちまちに)当(まさに)誕生(あ)れますべければ、登時(すみやかに)此の二顆(ふたつ)の石を取りて御腰(みこし)に挿(さしはさ)みませり。
祈(うけひ)して曰(のたま)はく「朕(われ)西の堺(さかひ)を定めむと欲(ねが)ひて此の野に来(き)著(つ)きて、所姙(はらみし)皇子(みこ)若(もし)此(これ)神ならば凱旋(かちてかへり)し後(のち)に誕生(あ)れまさむこと其(それ)可(かなは)む」とのたまふ。遂に西の堺を定め還(かへ)り来(き)まして、即(すなはち)産(あ)れましき。
所謂(いはゆる)誉田天皇(ほむたのすめらみこと)是(これ)なり。時の人其の石を号(なづ)けて皇子産石(みこうみのいし)と曰(まを)し、今訛(よこなま)りて児饗石(こふいし)と謂(まを)す。
 小さい石の質量は49斤とされる。万葉集「題詞」の十六斤十両を、小称両に換算すると 49斤14両となり、辻褄が合う。だが、大きい石は、「題詞」の十八斤五両は、小称両で54斤15両となって合わない。 ただ、「四十一斤」では寸法が大きいのに質量が小さいので、 誤写とすれば一応説明がつくが、真相は不明である。
 また、「大一尺」の解釈も難しい。「周」ではないから、差し渡し寸法(一番太い位置の長径の二倍)かも知れない。 試算では、断面の楕円の長径12.15cmが得られているので、2倍すると24.3cm=8寸1分となり、 ごくアバウトに言えば「一尺」と言えないこともない。なお、1尺が正確な値だとすれば、万葉集「注」の「周囲1尺8寸(6分)」とは両立しない。
《鎮懐石の形状》
 古事記鎮懐石歌の題詞の数値は、一定の本物らしさがあった。 それに対して両風土記の値には辻褄が合わないところもあるが、 大雑把に見れば題詞の値に近い。
 2つの石は長さ30数cm、幅20数cm、厚さ約10cmのやや扁平な楕円体なので、 妊婦の腹の前と後ろにあて、帯できつく縛るイメージが思い浮かぶ。 すると、書紀の「取石插腰」は「二つの石で前後から腰をさし挟む」と解釈すれば意味が通る。
《鎮懐石の効能》
 石が鶏卵状であったので、命を生む形として霊力を感じさせたのだろう。
 神功皇后紀には石で押さえたときの日付は直接書いてないが、仲哀天皇9年の9月10日から10月3日の間のいつかである。 そして出産が同年12月14日なので、3か月程度伸ばしたことになる。 時期を伸ばしたこと自体は、妊娠7か月で早産の危機を迎えたと考えれば、それほど突飛なことではない。
 しかし、11~12kgと言えば2歳児の平均体重に相当し、これを2個結わえ付け続けるのはきつい。 むしろ、逆に出産を促進しそうである。 しかし筋力はつくので、もし正常妊娠ならば出産を軽くする効果はあるだろう。 もともと民間の安産祈願の習慣だったものが、早産止めに転化した可能性はある。
 重い石を抱えて出産を止めることの不自然さについて、『太宰管内志』〔1841〕所引の筑前国風土記逸文に 「月神誨曰以此神石腹 皇后乃依神石腹心体忽平安也 今其石在筑前伊覩県道辺〔月神は、この神石を以って撫でるべしと教え、皇后はこの神石によって腹・胸を撫でると、たちまち安らいだ〕 とあり、不合理を緩和しているところが興味深い。
 
【筑紫末羅縣之玉嶋里】
 倭名類聚抄では、松浦(まつら)郡は肥前国に属する。 書紀では「火前国松浦県玉嶋里」であり記とは不一致であるが、筑紫「」とは書いていないから、漠然とこの地方を指したと見られる。 筑紫は、九州全域を指す語でもある。 伊邪那岐・伊邪那美による国生みのところで、筑紫国・豊国・肥国・熊曽国の四面からなる島を筑紫島と呼んだ。 (第35回)。
 魏志倭人伝の「末盧国」の地名がそのまま「松浦」になったのは間違いないだろう(『魏志倭人伝をそのまま読む-13回』) このように歴史ある土地であるからさまざまな伝説が生まれ、朝鮮半島との交流にまつわるものも多いと思われる。
《玉嶋里》
 倭名類聚抄の{肥前国・松浦郡}に「玉嶋郷」はない。松浦郡は五島列島全域を含む広い郡であるが、同書に載っているのは4郷という少なさである。 だから倭名類聚抄がすべての郡を捕捉しきれていないとも考えられるが、確かなことは言えない。
 現代地名「玉島」については、1889年に東松浦郡の7村が合併して大村となり、1896年に「玉島村」に改名した。しかし、恐らく伝説に因んだ復古地名であろう。 その後、1956年に合併して浜崎玉島町となり、2005年にさらに合併して唐津市の一部になる。
《玉島神社》
 玉島神社は式外車で、所在地は、佐賀県唐津市浜玉町南山2396。
 社頭掲示「玉島神社御由緒」によると
一、ご祭神及び祭神(抜粋)
 「神功皇后」 
 「紫石に降り立ち給ひ天神地祇に外征の事を祈り若し事成らば年魚之を飲めと 金の素針を河中に投じ給ふに忽ちかかれり
二、創建年代(抜粋)
 「人皇二十八代宣化天皇御宇〔536~539〕
 「別録縁起に人皇三十代欽明二十四年〔582〕
 とされる。 古くから神功皇后の垂綸石伝説と結びついた神社であると見られるが、これ以上の情報は得られていない。
 なお、玉島神社の南東1.4kmにも「玉嶌神社」がある。

【勝門比売】
 神功皇后が、その上に立って鮎を釣った伝承のある岩に付けられた愛称である。 おそらく、勝門比売は神功皇后の別名であり、皇后が立った石が「勝門比売の石」と呼ばれるうちに、いつしか石の名前に転じたのだろう。
 しかし、書紀にはこの名前は出てこない。 その理由は、「勝門比売」は「港に凱旋した姫」を意味するからであろう。 書紀では三韓への出発前の占うものとしてアユ釣りの話を移したから、 凱旋したときの名を使うことができなくなったのである。
 この呼び名から分かることは、昔女王がいて、外国で勝利を収めて港に帰ってきたいう伝説が、 古事記が書かれる以前から民衆の間に存在していたらしいことである。
《垂綸石》
 「万葉垂綸石公園」に、「垂綸石」なるものが置かれている。 掲示板(平成二十一年〔2009〕三月・唐津市)に、「この石は垂綸石(御立たしの石とか紫台石)といわれ、古典である記紀、万葉集、風土記等にも記されている」とある。 「垂綸」とは「綸(いと)を垂れる」、即ち釣りのこと。
《山上憶良の歌》
 万葉集に、垂綸石に立つ足日女を題材にした歌がある。 「憶良誠惶頓首謹啓 憶良聞 方岳諸侯都督刺史 並依典法巡行部下察其風俗 意内多端口外難出 謹以三首之鄙歌 欲寫五蔵之欝結 其歌曰」 という題詞のある三首の歌のうち、二首目。
 筑前国に国守として赴任した山上憶良はその題詞の中で、労を惜しむ役人への 怒りを爆発させている (資料15)。 この歌の左注に、天平二年七月十一日〔730年8月28日〕の日付がある。
――(万)0869 多良志比賣 可尾能美許等能 奈都良須等 美多〃志世利斯 伊志遠多礼美吉 一云阿由都流等
 たらしひめ かみのみことの なつらすと みたたしせりし いしをたれみき あるいわく あゆつると
 〔足日女神の命の魚釣らすと(または「年魚釣ると」) 御立たしせりし石を誰見き〕
【末盧国・不弥国の地】
魏志倭人伝の諸国の推定地:
…末盧国。…伊都国。…奴国。…不弥国。
●は遺跡の所在地(「福岡県の遺跡一覧」他による)
 「魏志倭人伝」には、末盧国・伊都国・奴国・不弥国の四つの国の名前がある (「魏志倭人伝をそのまま読む」第13回以後)。 このうち末盧国は松浦郡、伊都国は怡土郡であると考えられている。 奴国は、那珂川沿いであろうと言われている。不弥国は倭人伝の行程や、遺跡から見て香椎宮に近い。 「ふみ」が「うみ」に転じたとも言われるが、宇美八幡宮の宇美町は離れている。 2011年当時は、私は不弥国=宇美説に懐疑的であった(「魏志倭人伝をそのまま読む」第22回)
 ただ宇美町は南端とは言え、香椎宮と同じ粕屋郡に属しており、 古くからその地形によって自然発生した境界が、後の郡境に引き継がれたと見れば、粕屋郡全体が「不弥」だった可能性もある。
 注目されるのは、この地域が神功皇后と、その胎内で天皇を予約された応神天皇の伝説の地域と重なっていることである。 魏志倭人伝の記述がこの地域の地理と合致しているのは、魏に情報がよく伝わっていたからで、 当時の朝鮮半島の帯方郡との交流が活発だったことを物語っている。 倭人伝では最初の上陸地が末盧国であるように、唐津湾付近に倭国への入り口の港あったと見られる。 そして、この辺りが神功皇后の渡海伝説の地である。
 さらに遡って、後漢の時代の「漢委奴国王」の金印が志賀島で発見されたように、 伝統的に筑前地域の王族と半島と交流が続いていた。
 だから神功皇后伝説は、その交流から生まれた様々な伝説に起源をもつと考えられる。 半島に行き来した歴史の中から佐用姫の伝説が生まれたわけであるが、 鎮懐石や垂綸石の伝説もここで生まれたのであろう。
《女王伝説の背景》
 仲哀九年三月丙申条に、山門県の土蜘蛛〔服従しない土着勢力〕の田油津媛を誅す話がある。 この部族は女王を戴いていた。
 かつて、景行天皇が親征したときも、豊前国山間部の土蜘蛛の酋長は神夏磯媛、 豊後国大分郡の酋長は速津媛で、共に女性であった。 古代、大国主命が越を征服したときは、その地の支配者は女王の沼河比売であった。 古墳時代になり、中央は男子大王の時代になったが、九州北部ではまだ女王が部族を率いることが多かったことの反映かも知れない。 筑前・肥前地域でも時に部族を率いる女王が立ち、その女王に纏わる伝説として、石を抱いて出産を遅らせたり、川の石の上に立って鮎を釣ったりする話 が残ったのかもしれない。
 また、卑弥呼は伊都国の一大率を通して魏との外交を行っていた。 女王から魏(直接的には帯方郡)への品々を託された使者の行列がこの地に到着し、一大率が世話をして船を出す。 また、帯方郡からの文書や品々は、一旦一大率が預かり開封して確認した上で、改めて使者を立てて邪馬台国に送ったと魏志倭人伝に書いてある。 この地域の人民は、卑弥呼の使者が頻繁に渡海する様子を目の当たりにしていたから、 それが女王が自ら渡海した伝説を生んだ可能性もある。
 ※ または「一人の大率」。
《神功皇后伝説二段階成立説》
 前回考察したように、神功皇后伝説はかつて半島を支配していた時代を懐かしみ、あるいは再征を期して 8世紀に初めに作り上げられたものである。しかし、それは全くの白紙からの創作ではなく、 それ以前からこの地域で語られていた伝説を素材として組み立てられたと考えられる。だから、伝説中の地名と魏志倭人伝の地名が噛み合うのである。
 まず第一段階として書紀以前に語り継がれてきた「原女王渡海伝説」が存在した。 第二段階として「原女王渡海伝説」を素材として、国際情勢の切迫により国民意識を高めることを狙って神功皇后伝説を定式化した。 以上の二段構造があると考えられる。
 第二段階の作成にあたっては、 歴史的事実である倭の五王の時代の半島への進出に対して、その原点として位置づける。 時期を魏志倭人伝に描かれた女王卑弥呼の時代に合わせる。
 という操作がなされた。ただ、にはもともと無理があり、話の中身は魏志倭人伝とは大きく遊離したものになっている。

【年魚】
 〈倭名類聚抄〉から「鮎」の項を見る。曰く、
 「本草云鮧魚【上音夷】蘇敬注云一名鮎魚【上音奴兼反和名安由楊氏漢語抄云銀口魚又云細鱗魚】
 〔『本草』に鮧魚と云ふ。【上の字の音(こゑ)はイ】蘇敬の注に一名鮎魚と云ふ。 【上の字の音はネン。和名あゆ。『楊氏漢語抄』に銀口魚と云ふ。また銀鱗魚と云ふ。】〕
本草…『新修本草』。唐代に高宗〔在位649~683〕が蘇敬らに書かせた。
楊氏漢語抄…奈良時代の成立といわれる。倭名類聚抄などに逸文が残る。
奴兼反…「」は、発音表記であることを示す印で、一文字目の子音と二文字目の母音以下を組み合わせる方法で字の発音を示す。 この場合「u+kennen」である。
天然アユの遡上

 アユには「」が宛てられるが、中国語のはともにナマズで、日本ではアユに転じた。 倭名類聚抄の成立は承平年間〔931~938〕で、その時代には「鮎」はもうアユであったことになる。 「鮎」がいつからアユを指すようになったかは不明であるが、記紀では年魚・銀鱗魚と表記されるから、それよりは後であろう。 俗に、神功皇后が占いに用いたことから「鮎」がアユとなったといわれる。
 アユの生活史は、秋に河口で産卵。付加した稚魚は川を下り河口から数Km以内の海中で成長。 翌年4~5月ごろ、体長5~10cmで川を遡上。主に石についた珪藻や藍藻を食す。秋に川を下り産卵行動。
 したがって、「四月上旬」は遡上する時期に当たるので、伝説の場所は比較的下流ということになる。 実際に飯粒で釣れるかどうかは疑問であるが、伝説であるから敢えて問題にすることでもないだろう。
 この話は、もともとはこの地の伝説で、後に神功皇后記の素材として用いられたと思われる。

【書紀-応神天皇を出産】
目次 《生誉田天皇》
〔仲哀天皇九年〕十二月戊戌朔辛亥、
生譽田天皇於筑紫。
故時人號其産處曰宇瀰也。

〔仲哀天皇九年〕十二月(しはす)戊戌(つちのえいぬ)を朔(つきたち)とし辛亥(かのとゐ)のひ〔十四日〕、
[於]筑紫(つくし)にて誉田天皇(ほむたすめらみこと;応神天皇)を生みたまふ。
故(かれ)、時の人其の産みましし処(ところ)を号(なづ)けて宇瀰(うみ)と曰(い)ふ[也]。

《大意》
〔仲哀天皇九年〕十二月十四日、  筑紫(つくし)にて誉田天皇(応神天皇)を生みなされました。 そこで、時の人はその産みなされたところを名付け、宇瀰(うみ)といいます。

【書紀-撃熊襲国】
目次 《令撃熊襲国》
浹辰…十二日間。十二支一巡の意(第14回)。
…掠の代用字として使う。略奪(掠奪)、侵略(侵掠)など。
…(古訓) かすむ。うはふ。むあう。
…〈倭名類聚抄〉鵰鷲:鵰【音凋和名於保和之鷲古和之】〔鵰【音チョウ、和名おほわし、鷲=こわし】〕
のとり…〈倭名類聚抄〉{肥前国・高来郡・野鳥【乃止利】}〔のとり〕。〈延喜式〉「前国駅馬~野鳥各五疋」。 また、現代地名に福岡県朝倉市秋月野鳥。(筑前国夜須郡)。
〔九年三月〕 然後、遣吉備臣祖鴨別、令擊熊襲國、
未經浹辰而自服焉。
且荷持田村【荷持、此云能登利】有羽白熊鷲者、
其爲人强健、亦身有翼、能飛以高翔。
是以、不從皇命。毎略盜人民。

〔九年三月壬申朔〕
然後(しかるがのち)、吉備臣(きびのおみ)の祖(おや)鴨別(かものわけ)を遣(つか)はし、熊襲(くまそ)の国を撃(う)た令(し)め、
未(いまだ)浹辰(とをかあまりふつか)を経ずして[而]自(みづから)服(まつろ)ひき[焉]。
且(また)荷持田村(のとりたむら)【荷持、此能登利(のとり)と云ふ。】に羽白熊鷲(はしろくまわし)有れ者(ば)、
其の為人(ひととなり)強(こは)くして健(たけ)くして、亦(また)身に翼有りて、能(え)飛びて以ちて高く翔ぶ。
是以(こをもちて)、皇命(すめらがおほせごと)に不従(したがはず)。毎(つね)に人民(ひとくさ)より略盜(うば)ふ。

松峡宮…松峡(まつお)八幡宮が伝承地とされる。福岡県朝倉郡筑前町栗田605。 〈丙本〉【末豆乃 乃美也】
飄風…〈丙本〉【豆牟志加世】〔つむじかぜ〕。(古訓) つむしかせ。
御笠…〈倭名類聚抄〉{筑前国・御笠郡・御笠郷}。現代地名に「福岡県太宰府市御笠」。
層増岐野…〈丙本〉【曽々支乃】〔そそきの〕。現代地名には見いだせない。 朝倉市秋月野鳥・松峡八幡宮・太宰府市御笠の各地点を結ぶ三角形の中のどこかということになる。
(やす)…夜須郡と見られる。
戊子、皇后、欲擊熊鷲而
自橿日宮遷于松峽宮。
時、飄風忽起、御笠墮風。
故時人號其處曰御笠也。
辛卯、至層増岐野、
卽舉兵擊羽白熊鷲而滅之。
謂左右曰
「取得熊鷲、我心則安。」
故號其處曰安也。

戊子(つちのえね)〔十七日〕、皇后(おほきさき)、熊鷲を欲撃(うたむとのぞ)みて[而]、
橿日宮自(よ)り[于]松峡宮(まつをのみや)に遷(うつ)りませり。
時に、飄風(つむじかぜ)忽(たちまち)に起(お)こりて、御笠(みかさ)風に墮ちぬ。
故(かれ)時の人其処(そこ)を号(なづ)け御笠と曰(い)ふ[也]。
辛卯(かのとう)〔二十日〕、層増岐野(そそきの)に至りて、
[即ち]兵(つはもの)を挙(あ)げて羽白熊鷲を撃ちたまひて[而]之(こ)を滅(ほろ)ぼす。
左右(もとこ)に謂(のたま)はく[曰]
「熊鷲を取り得(う)、我が心[則]安し。」とのたまふ。
故(かれ)其処(そこ)を号(なづ)けて安(やす)と曰(い)ふ[也]。

山門県…〈倭名類聚抄〉{筑後国・山門郡・山門郷}。現在の福岡県柳川市・みやま市にあたり、有明海の北東。 九州説による邪馬台国候補地に挙げられることもあるが、「倭=夜麻登」に対して、「山門」で、トの甲乙が異なる。
田油津媛…丙本【太油津比女】〔たゆつひめ〕
…(古訓) あふら。
丙申、轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛。
時、田油津媛之兄夏羽、興軍而迎來。
然聞其妹被誅而逃之。

丙申(ひのえさる)〔25日〕、転(めぐ)りて山門県(やまとのあがた)に至りて、[則(すなはち)]土蜘蛛(つちぐも)田油津媛(たぶらつひめ)を誅(ころ)しませり。
時に、田油津媛之(の)兄(このかみ)夏羽(なつは)、軍(いくさ)を興(おこ)して[而]迎へ来(く)。
然(しかれども)其の妹(いも)被誅(ころされり)と聞きて[而]逃ぐ[之]。

火前国…〈倭名類聚抄〉{肥前【比乃三知乃久知】国}〔ひのみちのくち〕。
…[名] いと。(古訓) いとまつふ。ぬふ。よる。
…[名] つりいと。「つりのを(釣りの緒)」。(古訓) つらぬを。
…(古訓) ねがふ。こふ。古訓に「うけひ」はない。
…[代] 秦の始皇帝の後は、天子のみが用いる一人称の代名詞。
細鱗魚…[名] アユ。
夏四月壬寅朔甲辰、
北到火前國松浦縣而進食於玉嶋里小河之側。
於是、皇后勾針爲鉤、
取粒爲餌、抽取裳縷爲緡、
登河中石上而投鉤祈之曰
「朕、西欲求財國。若有成事者、河魚飲鉤。」
因以舉竿、乃獲細鱗魚。

夏四月(うづき)壬寅(みづのえとら)を朔(つきたち)として甲辰(きのえたつ)のひ〔三日〕
北のかた火前国(ひのみちのくちのくに)の松浦県(まつらのあがた)に到りて[而][於]玉嶋里(たましまのさと)の小河(をがは)之(の)側(ほとり)にて食(みけ)を進めたまひき。
於是(ここに)、皇后針を勾(ま)げて鉤(つりはり)と為(し)て、
粒(いひつび)を取りて餌(ゑ)と為(し)て、裳(も)の縷(いと)を抽(ぬ)き取りて緡(つりのを)と為(し)たまひて、
河中(かはなか)の石の上(へ)に登りて[而]鉤を投げて祈(こ)ひ[之]曰(まをしたまはく)
「朕(われ)、西に財(たから)の国を求めむと欲(ねが)ふ。若し成る事有ら者(ば)、河(かは)の魚(いを)に鉤(つりはり)を飲ませたまへ。」とまをしたまひき。
因以(しかるをもちて)竿(さを)を挙ぐれば、乃(すなはち)細鱗魚(あゆ)を獲(う)。

めづらし…[形]シク 珍しい。
ごとに…[副] いつも~する度に。動詞・助動詞の連体形に接して用いられる。
時皇后曰
「希見物也。【希見、此云梅豆邏志】」
故時人號其處曰梅豆羅國、今謂松浦訛焉。
是以、其國女人毎當四月上旬、
以鉤投河中捕年魚、於今不絶、
唯男夫雖釣、以不能獲魚。

時に皇后曰(のたま)はく
「希見(めづらし)物(もの)なる也(や)。【希見、此、梅豆邏志(めづらし)と云う。】」とのたまふ。
故(かれ)時の人其処(そこ)を号(なづ)け、梅豆羅の国と曰(まを)す、今松浦と謂ふは、訛(よこなまり)たり[焉]。
是以(こをもちて)、其の国の女人(をみな)四月(うづき)の上旬(じやうじゆむ、かみのとをか)に当たる毎(ごと)に、
[以]鉤(つりはり)を河中(かはなか)に投げて年魚(あゆ)を捕ること、[於]今に不絶(たへず)、
唯(ただ)男夫(をのこ)雖釣(つれど)、[以ちて]不能獲魚(えいをとらず)。

《吉備臣》
 神話上は孝霊天皇の皇子を起源とし、豊前〔国東〕国造の国前臣、角鹿〔敦賀〕国造の角鹿海直、五百原君〔駿河国廬原いほはら郡〕などを派生する (第107回【吉備系の氏族】)。
 応神天皇紀には「吉備臣祖御友別」の名がある。雄略天皇紀では「吉備臣小梨」などの名があり、以後「祖」が取れる。 <wikipedia>には、雄略朝に「数度にわたる反乱鎮圧の名目で勢力を削がれた」との説を記す。
《令撃熊襲国》
 神功皇后は神託によって、熊襲を放置して半島遠征を選択したはずだったから、 ここで半島遠征の前に熊襲国を討ち、しかも簡単に制圧したと書くのは辻褄が合わない。 このように簡単に済ませられることなら、仲哀天皇も崩じずに済んだはずである。
 また、熊襲は景行天皇の時に征圧したことになっているのに、不思議なことに、ここでまた制圧している。 実のところは、今回も征圧できなかったのであろう。
《松峡八幡宮》
 〈福岡県神社誌〉の「松峡八幡宮」を見る。
――郷社 松峡八幡宮 朝倉郡美輪村大字栗田字宮の前
 「社伝に曰村上天皇天徳四年〔960〕八月二十四日左大臣藤原重近と言ふ人初て此社を建立あり
 「八幡本紀〔江戸中期〕曰松峡宮の旧跡は夜須郡栗田村にあり。宮所紀に曰松峡宮は在筑前国夜須郡栗田村
 松峡八幡宮が栗田村にあるのに旧跡が栗田村と書く意味が分からないが、よく調べてみると、 栗田村・森山村など6村〔江戸時代〕が、合併して栗田村〔1889〕になり、さらに大三輪村と合併して三輪村〔1908〕になるという経過を辿っている。 江戸時代に八幡本紀が書かれた時点では、松峡八幡宮は栗田村の外にあったということである。
 なお地名「栗田」については、〈倭名類聚抄〉に{筑前国・夜須郡・栗田郷}がある。
《朕》
 一人称に「朕」を用いるので、神功皇后はすでに天皇と同格である。
《有羽白熊鷲者・有成事者》
 書紀では、を接続詞「」に用いることは少ないが、この二文に使用されている。
《希見此云梅豆邏志》
 訓注は、「めづらし」となっているが、ここでは「物」にかかるのに、 連体形(めづらしき)ではない。一見すると終止形が連体形の役割を担っているように見えるが、 シク活用の形容詞は、その終止形が丸ごと語幹であり、 語幹の連体修飾用法と説明されている。同様の例に「うまし国」がある。
 なお、「かつてはメヅラであった」は事実に反し、魏志倭人伝の時代からマツラである。
《毎当四月上旬》
 「毎日」を「毎日」(日ごとに)と訓読するのに倣い、 「ごと」を表す「毎」が先頭に置かれたと見られる。
《大意》
〔九年三月〕
 その後、吉備臣(きびのおみ)の先祖、鴨別(かものわけ)を派遣して熊襲国を攻撃させ、 十二日を経ず自ら降伏しました。
 また、荷持田村(のとりたむら)に羽白熊鷲(はしろくまわし)がおり、 その人となりは強健で、さらに体には翼がついていて飛ぶことができ、高く翔んでいました。 そして、勅に従わずいつも人民から掠奪していました。
 十七日、皇后は、熊鷲を討とうと思い立ち、 橿日宮(かしいのみや)から松峡宮(まつおのみや)に移りました。 その時、つむじ風が突然に起こり、御笠が風に飛ばされて落ちました。 そこで当時の人はその場所を御笠と名付けました。
 二十日、層増岐野(そそきの)に至り、 挙兵して羽白熊鷲を撃ち、その一族を滅ぼし、 側近の者に 「熊鷲をやっつけることができて、私は心やすしよ。」と仰りました。 よって、そこは安(やす)と名付けられました。
 二十五日、転じて山門県(やまとのあがた)に至り、土蜘蛛(つちぐも)の田油津媛(たぶらつひめ)を殺しました。 その時、田油津媛の兄、夏羽が軍勢を興して迎えに来ました。 しかし、妹がすでに殺されたと聞いて逃走しました。
 四月三日、 北に火前国〔肥前国〕の松浦県(まつらのあがた)に到り、玉嶋里(たましまのさと)の小川の畔でお食事されました。 そして皇后は針を曲げて釣り針にして、 飯粒を取って餌にして、お召し物の糸を抜き取って釣り糸とされ、 川の中の石の上に登って釣り針を投げて、このように誓約(うけい)されました。 「朕は西に宝の国を求めたいと願います。もし成功するようでしたら、川の魚に釣り針を飲ませてください。」と。 このように祈って竿を挙げると、たちまち細鱗魚(あゆ)が獲れました。 その時、皇后は 「珍し物であることよ。」と仰りました。 そこで当時の人は、その地を「めずらの国」と名付けました。今松浦(まつら)というのは、それが訛ったものです。
 それ以来、その国の女子は毎年四月上旬になると、 釣り針を川の中に投げて年魚(あゆ)を捕るようになり、それは今も絶えません。 ただ男子が釣っても、魚を獲ることはできません。


【記にはない三話】
 羽白熊鷲は、名前だけではなく肉体の造りも鳥人である。だから、この部分は全くの神話である。 なお、「くま」はある動物の仲間のうち大型のものを表したり〔クマタカ、クマバチなど〕、美称にするための接頭語である。 この話では倭名類聚抄で御笠郡とされる地域も夜須郡に含まれている。夜須郡から御笠郡が分離する前の古い時代に起源をもつのかも知れない。
 書紀では、吉備臣祖鴨別、羽白熊鷲、田油津媛の三話により、外征の行き掛けの駄賃のように、 土地の反抗勢力を一掃したことになっている。 これらは神功皇后紀の素材にするためにこの地方で蒐集した いくつかの伝説を、そのまま接ぎあわせた印象を受ける。
 吉備臣祖鴨別は本筋と辻褄が合わず、鳥人羽白熊鷲は荒唐無稽に過ぎ、 どの話も外征とは関係がないので、 ここからさらに推敲を重ねれば棄てられる運命にあったかも知れない。

まとめ
 万葉集題詞に書かれた鎮懐石の寸法の検討は細かいところまで入り込んでしまったように見えるが、 重要な意味がある。 もし記録された値が現実的なものであることが確認できれば、実測値が記録された可能性が増し、 当時の人々がこの遺物を極めて貴重なものと考えていたことが知れるからである。 香椎宮の造営などと共に、奈良時代前半に神功皇后への崇敬が高まったことの現れであると言える。
 遡って、三韓の百済地域には5世紀後半から6世紀前半に前方後円墳が存在した(「倭の五王」【倭-百済関係】)、 その地には、筑前・肥前地域のの部族が軍事力を用いて進出し、植民したと考えられる。 これと土蜘蛛の女性リーダー説を組み合わせると、ある部族の女王が実際に渡海した可能性がある。 そして、ことを終えた女王が現地を部下に任せて帰国したとき「勝門姫(かつとひめ)」と呼ばれたのかも知れない。 古事記が「原女王渡海伝説」により近いということは、十分に考えられる。
 さて、奈良時代に入り神功皇后記が整えられたのは、防人さきもりへの教育が必要だとする事情もあったかも知れない。 東国から徴兵された防人にとって、その任務は全く気の進まないもので、不平不満が渦巻いていたであろう。 彼らに国防への意欲をもたせるためには、精神教育が不可欠である。 その教育の内容は、半島は古来我が国のものであり、時期が来たら再征も辞さないという朝廷の決意を示し、 与えられた任務に誇りを持たせることであった。そのための教科書として、 神功皇后記が活用されたと想像される。
 ところで、原女王渡海伝説から神功皇后即位前紀に至る神話の形成過程は、九州北部と半島の間の伝統的な深い関わりを示している。 このことが、後に邪馬台国九州説を生んだ一つの要因であろう。
 ※…大宝律令〔701〕に始まる。当初は東国から徴兵され、養老律令〔757〕以後は九州からの徴兵になる。


[143]  中つ巻(神功皇后4)