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⇒ [136] 中つ巻(続景行天皇4) |
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2016.10.01(sat) [137] 中つ巻(成務天皇1) ▼▲ |
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若帶日子天皇坐近淡海之志賀高穴穗宮 治天下也
此天皇娶穗積臣等之祖建忍山垂根之女名弟財郎女 生御子和訶奴氣王【一柱】 若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)近淡海之(の)志賀の高穴穂宮(たかあなほのみや)に坐(ま)し、天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此の天皇、穂積臣(ほづみのおみ)等(ら)之祖(おや)建忍山垂根(たけおしやまたりね)之女(むすめ)、名は弟財郎女(おとたからのいらつめ)を娶(めあは)せ、 御子和訶奴気王(わかぬけのみこ)を生みたまふ。【一柱】 故 建內宿禰爲大臣 定賜大國小國之國造 亦定賜國國之堺及大縣小縣之縣主也 天皇御年玖拾伍歲【乙卯年三月十五日崩也】 御陵在沙紀之多他那美也 故(かれ)、建内宿祢(たけのうちのすくね)を大臣(おほまへつきみ)と為(し)たまひ、 大国(おほくに)小国(をぐに)之(の)国造(くにのみやつこ)を定め賜(たまは)り、亦(また)国国之堺(さかひ)及び大県(おほあがた)小県(をあがた)之県主(あがたぬし)を定め賜ふ[也]。 天皇の御年(みとし)九十五歳(くそとせあまりいつとせ)【乙卯年(きのとうのとし)三月(やよひ)十五日(とうかあまりいつか)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)也】にて、 御陵(みささき)は沙紀(さき)之(の)多他那美(たたなみ)に在り[也]。 若帯日子(わかたらしひこ)天皇は、近江の国、志賀の高穴穂宮(たかあなほのみや)にいて、、天下を治められました。 この天皇は、穂積(ほずみ)の臣らの祖であった建忍山垂根(たけおしやまたりね)の娘、名前は弟財郎女(おとたからのいらつめ)を娶られ、 御子、和訶奴気王(わかぬけのみこ)を生みなされました。 そして、建内宿祢(たけのうちのすくね)を大臣(おおまへつきみ)とされ、 大小の国の国造(くにのみやつこ)を任命され、また国々の境界と大小の県の県主(あがたぬし)を任命されました。 天皇の享年は九十五歳、乙卯(きのとう)年三月十五日に崩御され、 陵は沙紀(さき)のたたなみにあります。 【大臣】 〈倭名類聚抄〉「職員令云左右大臣【於保伊萬宇智岐美】」〔おほいまうちきみ〕。 また、太政大臣は「【於保萬豆利古止乃於保萬豆岐美】」〔おほまつりことのおほまつきみ〕。 これらから、大臣は「まへつきみ」が訛った「いまうちきみ」「まつきみ」に、上位を意味する「おほ」がついたものである。 〈時代別上代〉は、おほまへつきみ、おほみ; 「おほみ」は、大連とともに朝廷の最上部にあって政事を統括した。 普通字のままにオホオミと訓まれているが、上代語としては約音化してオホミとなることが一般的であった。 竹内宿祢が大臣の最初とは史実として考えられないが、葛城・平群など大抵の大臣の家の祖が竹内宿祢であることは注目される。〈/時代別上代〉という。 成務天皇段ではどちらで訓むべきか、判断は難しいが、臣(おみ)・連(むらじ)には氏族の私的に臣従という語感があるのに対して、「おほまへつきみ」は朝廷の正式の職名である。 ここでは国造の任命と並べて書かれるので、朝廷の公的な組織が整備されていく過程を表す文だと捉えて、「おほまへつきみ」が適当であるように思われる。
【乙卯年三月十五日崩】 第43回で、崩御年の表記を抜き出した。 宋書との対応から、仁徳天皇崩の丁卯年が427年、そこから允恭天皇崩の甲午年=454年までは妥当だと考えられる(倭の五王)。 そこから遡ると、成務天皇の乙卯年は355年だろうと推定される。 記の崩年月日が最初からあったのか、あるいは後世の書き加えかは、重要な問題である。 書紀の日付は干支表記であるから、一見鎌倉時代以後のようにも見える。 しかし、書紀の干支表記は、漢書など中国の史書を真似たものである。書紀は必ず朔日の干支を書き添えるが、これは中国の文献にはないことで、 日本では日付の干支表記に馴染みが薄かったことを示している。干支による表記方は続紀にも受け継がれ、読み手に無駄な労力を強いることが続く。 一方〈木簡データベース〉 で見ると、藤原宮の「乙未年八月十一日」〔藤原宮出土だから695年か〕、 藤原宮跡大極殿院北方の「甲申年七月三日」〔同じく684年;右図〕に見るように、飛鳥時代の日付は数字であった。 記の崩年表記は「干支年+数字月+数字日」で、飛鳥時代の木簡と同じであるから、 「何らかの記録にあった数字日が、記にそのまま写された」と考えることに、何の不都合もない。 書紀の日付は元嘉暦を遡らせて定めた作為的なもので、原資料にリアルな日付があったとしても消滅しているから、 実際の記録に一致する可能性があるのは、記の年月日の方である。
【若帯日子天皇】 漢風諡号は成務天皇。この「わかたらし」のうち、 「たらし」は称号で、「ひこ」は原始的姓(かばね)だから、名前の餡子がない。 これは、この直前(第136回)に先代の「大帯日子淤斯呂和気天皇」を略して「大帯日子」と書いたことを受けたと思われる。 オホ-ワカの対応は、現代語の「大女将-若女将」と同じである。 類似する孝元天皇-開化天皇の場合は「大倭根子日子国玖琉命-若倭根子日子大毘毘命」であるから、「わかたらしひこ」にも本当は続きがありそうである。 しかし、書紀でも訂正されず、そのまま正式名として定着した。天皇名は厳格なものとして扱われたようである。 <wikipedia要約>称号タラシは、7世紀前半の舒明・皇極両天皇のものであるから、12~14代のタラシは後世の造作となり、成務天皇の実在性に疑問が出されている</wikipedia> と言われるが、実在した人物に後世に称号を加えることもあると思われる。 また<wikipedia>旧辞部分の記事は、他の天皇のそれに比して極端に文量が少なく、史実性には疑いが持たれている</wikipedia>とも言われる。 しかし、逆に現実に記録があったからこそ、特に見るべき伝説がなくても落とせなかったとする見方もできる。 崩年月日の記載には、それだけ重いものがあるように思える。 それでは、同じく崩年月(戊寅年十二月)がある崇神天皇の場合は、どう解釈したらよいのだろうか。 崇神天皇は、初期の数代の大王の集合人格であると考えた。 そのうち、崩年月の記録があった一人に、他の大王の神話を織り込んで構成したのであろう。 【近淡海之志賀高穴穂宮】 第136回《高穂穴宮》で考察したように、一時的にでかけて行宮を置いたことはあったかも知れないが、都であったとは考えられない。 近江国には上位30位に入る巨大前方後円墳がないことも、それを裏付けている。 王朝は恐らく佐紀古墳群に移っていくから、陵は佐紀古墳群のどれかで、宮殿はその近くにあったと考えるのが妥当であろう。 書紀では、遷都は景行天皇が行ったとされ、成務天皇が主導した事績が一つ減らされている。 ひとつの可能性としては、倭建命の残存勢力を討ちにいくような軍事活動とは、成務天皇は無縁であったと言いたいのかも知れないが、 本当のところは分からない。 【御陵】
そのすぐ隣に寄り添うように佐紀陵山古墳があり、これは垂仁天皇妃の日葉酢媛陵とされる。 とすれば、佐紀石塚山古墳を垂仁天皇陵にした方が自然であるが、 垂仁天皇陵は、南方に一つだけ孤立した宝来山古墳である(第121回)。 また、日葉酢媛に天皇並みの権力を持った時期があったかどうかは分からないし、 佐紀古墳群の中の五社神古墳に治定された神功皇后は、ほぼ架空の人物である。 このように、宮内庁による個々の陵の治定は疑問だらけである。しかし、佐紀古墳群の中に、この地域に移った王朝の代々の大王の陵があること自体は確かだと思われる。 【業績】 《国郡里制の確立まで》 国郡里制は、大宝律令〔701〕で制定されたとされるが、実質的に天武朝から整備されつつあったと言われる。 国境・郡境の画定は基本的にはその期間に行われたと見られ、それを上代に遡らせて成務天皇の業績としたものである。 律令国以前の「国」の配置は、国造本紀(先代旧事本紀〔9世紀〕第十巻)に見られる。 そこに挙げられた全国造135のうち、実に63国造が「志賀穴穂朝」〔成務天皇〕に任じられたと書かれる。 その規模は、後の律令国の「郡」程度から、律令国の「国」全域に対応するものまで様々である。、 その中で上総国の国造が細分化されているのが注目される(景行天皇2【安房国・上総国】)。 これは、初期の国造の「国」の規模を反映していると見られる。 最初は小さな部族が狭い範囲を「国」と称して、順番に国造として認められていったが、 次第に統合され、国郡里制の国の規模に近づいていったのであろう。 だから、成務朝のときに一斉に国郡の網をかけたことはあり得ず、順次国造の任命・統合による再任命が進んだ考えるのが自然であろう。 《国造の承認》 それでは、古墳時代以後、国土全域はどのように掌握されたのであろうか。 魏志倭人伝に「収租賦有邸閣」〔租を収め、倉に納める〕とあるから、卑弥呼の時代には、少なくとも邪馬台国や北九州の役所には租税のための住民台帳が存在したはずである。 また、帯方郡からの文書は、北九州の一大率から都の卑弥呼の元に誤りなく「伝二-送文書一」とあるから、木簡または紙による文書によって行政は進められたであろう。 時代が下り、稲荷山古墳出土鉄剣の銘文と、江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町)鉄刀の銘文を対照することにより、 少なくとも5世紀末には、熊本県から埼玉県の範囲が雄略天皇の支配下にあったことが実証されたと考えられている 〔雄略天皇段の崩年=己巳年は、489年だと考えられる〕。 景行朝・成務朝の4世紀の後半には、すでに西は薩摩・大隅を除く九州、東は東北南部まで領土としただろうと見てきたから、 その統治行為として、絶えず各国の監督を怠らなかったのは当然だと思われる。 もちろん、成務朝の時期に精密な地図などはあり得ないが、それでも国造の国ごとに街道、国衙、県邑、国造名、人口等をまとめ、境界の山・河なども記入した書類は存在したと想像される。 景行朝に領土を東国に大きく広げたから、このころ国造の承認・境界の画定が集中的に行われたことは考えられる。もちろん、まだ境界線は漠然としたものであっただろうが。 《神話的な表現》 神話としては、景行天皇のときに全国に大量の皇子を送り、成務天皇のときに境界を確定したとする。 成務天皇は大小の国の国造を任命して境界を定め、大小の県(あがた)の県主を任命した。 史実としては前述のように、天武朝で本格的に整備された。 それを、形式的に成務天皇の代に一気に行ったと表現した。 書紀はそれを踏襲し、成務天皇五年の九月に行ったことになっている。国と郡には造長、県と邑には稲置を置いたとする。 今更「長(おさ)」という古代の呼称を改めて決めたとは思えないから、「国に造、郡に長」ではなく造長=みやつこであろう。 また、県主は記においては、よく娘を天皇が娶らせる氏族として登場したが、書紀は「稲置」とされている。 どちらも最初は役職名であったが、飛鳥時代の頃までに、代々役職を担った氏族の姓に転じている。 垂仁紀・崇神紀では、国家経営の土台は農業用水のための池の開削と納税制度であることが示された。 国郡境の画定と首長の任命は、それらと並び国の実質を構成する。 川内眷三氏は池の開削について、「5~6世紀の造修池の事業を、より上代に遡らせて崇高化した」と述べた (【依網池】)。 ここでも同じように、国郡の行政制度の確立を成務朝に遡らせて崇高化したものと見られる。 【皇位の継承】 ここで初めて実子相続が崩れる。この問題は、仲哀天皇の即位のところで論ずる。 【書紀】 22目次 《稚足彦天皇》
母(はは)皇后(おほきさき)八坂入姫命(やさかいりひめのみこと)と曰ひたまひ、八坂入彦皇子(やさかいりひこのみこ)之(の)女(むすめ)也(なり)。 大足彦天皇四十六年(よそとせあまりむとせ)、立たして太子(ひつぎのみこ)と為(な)りたまふ、年(よはひ)二十四(はたちあまりよつ)。 六十年(むそとせ)冬十一月(しもつき)、大足彦天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
二年(ふたとせ)冬十一月(しもつき)癸酉(みづのととり)朔壬午(みづのえうま)〔十日〕、大足彦天皇を[於]倭国(やまとのくに)之(の)山辺道上(やまのべのみちのへ)の陵(みささき)に葬(はぶ)りたまふ。 皇后(おほきさき)を尊(たふと)みて皇太后(おほきさき)と曰(い)ひたまふ。
初めに天皇与(と)武内宿祢と同(おや)じ日に生まれたまひ[之]、故(から)[有]異(こと)に寵(め)でたり[焉]。 四年(よとせ)春二月(きさらき)丙寅(ひのえとら)の朔(つきたち)、詔(のたまはく)[之曰]
膺籙受図(こうろくをうけて、あまつしるしをうけて)、 洽天(あめにかなひて)順人(ひとにしたがひて)、 撥賊(あたををさめて)反正(まさにかへして)、 徳(のり)覆燾(おほふこと)侔(ひとしく)して、 道(みち)造化(ざうくわ)に協(かな)ふ。
莫不王臣(きみのおみならざることのなくして)、 稟気(のりをさづかり)懐霊(みたまになつきて)、 何(いかに)非得処(うるところあらずや)。 今朕(われ)嗣践宝祚(すめろきのくらゐをつぎ)、 夙夜(よるひる)に兢惕(おそ)りまつる。
不悛野心(あらきこころをあらためず)。 是(これ)、国郡(くに・こほり)に君長(ひとごのかみ)無くて、 県邑(あがた・むら)に首渠(ひとごのかみ)無かりけれ者(ば)なり[焉]。 自今以後(いまよりのち)、国郡に長(をさ)を立てて、県邑に首(おびと)を置け。 即ち国之幹了者(をさをさしきひと)を取り当てて、其の国郡之首長(ひとごのかみ)を任(おほ)せて、 是(これ)中区(なかつくに)之(の)蕃屏(はむへい、かきのまもり)と為さしめよ[也]。」とのたまふ。
以ちて国郡に造長(みやつこ)を立て、県邑に稲置(いなき)を置き、 並(な)めて楯矛(たてほこ)を賜り[以ちて]表(しるし)と為(し)たまふ。 則(すなは)ち山河(やまかは)を隔(へだ)てて[而]国県を分かち、阡陌(たたさのみち・よこさのみち)の隨(まにまに)して[以ちて]邑里(むら・さと)を定めたまふ。 因(しかるがゆゑに)[以ちて]、東西(ひむがし・にし)を日縦(ひたたさ、ひのたて)と為(し)、南北(みなみ・きた)を日横(ひよこさ、ひのよこ)と為(す)。 山陽(やまのみなみ)を影面(かげも)と曰ひ、山陰(やまのきた)を背面(そとも)と曰ふ。 是(これ)を以ちて、百姓(おほみたから)安(やすらけく)居(す)みて、天下(あめのした)に事無(な)し[焉]。
《暦計算モデルとの比較》 計算モデルとの不一致は一か所、「三年正月癸酉朔」が計算では壬寅になり、29日のずれがある((続々)日付に元嘉暦を適用する試み)。 《大意》 稚足彦(わかたらしひこ)〔成務〕天皇は、大足彦忍代別(おほたらしひこおししろわけ)〔景行〕天皇の第四子です。 母(はは)である皇后、名前は八坂入姫命(やさかいりひめのみこと)は、八坂入彦皇子(やさかいりひこのみこ)の娘です。 大足彦天皇の四十六年に立太子されました、齢二十四です。 六十年十一月、大足彦天皇は崩御されました。 元年正月五日、皇太子は即位しました、この年は太歳辛未です。 二年十一月十日、大足彦天皇を倭の国の山辺道上(やまのべのみちのえ)の陵に葬られました。 皇后を皇太后とされました。 三年正月七日、武内宿祢(たけのうちのすくね)を大臣に登用されました。 以前に天皇と武内宿祢とが同日に生まれたので、特に寵愛されました。 四年二月一日、即位の詔を発せられました。 「朕の先皇大足彦天皇は、 聡明神武にて、 膺籙(こうろく)の図(しるし)を受け、天に適い、人に順い、賊を撥(はら)い正しきに返し、徳は等しく空を覆い、道は造化に適った。 是(これ)により、普天率土(ふてんそつど)〔=天地〕に、天の王の臣でないなどということはあり得ず、 稟気懐霊(ひんきかいれい)である〔=神霊の徳を授かった身である〕朕が、どうして皇位を受けないことがあろうか。 今、朕は践祚し、怖れながら、早朝より深夜まで務めるものである。 ところが、人民は蠢動し野心を改めようとしない。 これは、国郡に長(おさ)がおらず、県邑(けんゆう)に主がいないからである。 今より後、国郡に長(おさ)を立て、県邑に首(おびと)を置け。 即ち、国の長に相応しい人を取り当て、その国郡の首長に任じて、 国の隅々までを守らせよ。」と。 五年九月、諸国に命じ、 国郡に造(みやつこ)を立て、県邑に稲置(いなき)を置き、 揃って楯矛(たてほこ)を賜り、徴(しるし)とされました。 そして山・河を境界として国・県を分け、縦横に通る道によって邑・里を定めました。 そのために、東西を日の縦とし、南北を日の横とし、 山陽を影面(かげも)と呼び、山陰を背面(そとも)と呼びことになりました。 これにより、人民は安らかに暮らし、天下は無事となりました。 四十八年三月一日、甥の足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を立て、皇太子(ひつぎのみこ)とされました。 六十年六月十一日、天皇は崩御されました。時に齢一百七歳でした。 【稟気懐霊】 岩波文庫版に「『宋書謝霊運伝論』に見える句」とある。同論の著者は沈約〔441~513〕で、『宋書』列伝第27〈謝霊運伝〉についての評論の形をとるが、 実質的には「古代から宋に至る文学変遷の歴史と、作者沈約の創作論である声調譜和の主張とがその内容になっている」 〔河合安氏にが引用した興膳宏氏の論文の一節の孫引き〕。 『宋書謝霊運伝論』の原文から関係個所を抜粋すると、 史臣曰「民稟二天地之霊一、含二五常之徳一〔…中略…〕 稟レ気懐レ霊。理無二或異一。 然則歌詠所レ興。宜下自二生民一始上也。」 〔史臣(=歴史担当の役人)曰く「民、天地の霊を稟(さづ=授)かり、五常(人が守るべき5つの教え)の徳を含み、… 気を稟け霊を懐く。理或いは異なる無し。然らば則(すなは)ち歌詠みの興す所。宜しく生民より始まるべし。」〕 その前後を含めた部分の現代語訳は、 「人聞は天地の霊をうけ、仁・義・礼・智・信の五常の徳をもち、剛と柔とを使い分け、喜びや怒りの感情をもって いる。いったいに感情が心の中で動けば、それが歌となって表現される。そのことは風・賦・比・興・雅・煩の六義 や国風・大雅・小雅・頒の四始などの詩のよりどころであって、詩歌をさかんにさせる。虞・夏以前には残された文 章は存在しないけれども、人間性は変わらないはずだ。とすれば、歌は人類とともに存在してきたはずである。」 (河合 安氏「沈約『宋書』の史論(三)」P.16~19) とある。この訳文のアンダーラインの部分が「民稟天地之霊」に対応する。 成務天皇紀における引用は原文全体の主張とは無関係で、断片的な字句の借用である。 だからと言って、漢字六文字なら何でもよいのではなく「天地の霊から仁・義・礼・智・信の五徳を授かり」という意味を理解した上で用いているのである。 この部分は、正しくは「すべての民と同様に、私も神霊から徳を授かっている。 よって、皇位を受け継ぐのを躊躇う理由があろうか(何非得処)。」と読まねばならない。 しかし、いやしくも皇位を継承しようとする者が、一般庶民の基準で判断するのでは力強さに欠ける印象を受ける。 丙本による「よろづのもの(万物)」という訓読は、この語を理解しようとする意欲を欠くものに映る。 【成務天皇の人物像】 この存在感の薄い天皇の即位の詔に、見るべき内容はないだろうと予想したが、詳細に検討してみると意外にも成務天皇の人としての姿が浮かび上がる。 そこには、自らが即位することに、はじめは自信を持てなかった様子が読み取れる。 「莫レ不二王臣一」即ち「王たる天の意志には、臣として従わざるを得ない。」と、妙に消極的である。 躊躇した末に、前項の「稟気懐霊」を引用し、私にも天賦の徳が人並みに備わっているから即位する資格があるのだと、自らを納得させている。 この自信のなさは何だろうか。 結局、先代が武力で支配地を広げた実力は自分にはないが、代わりに領内の行政機構や法を整備することによって先代の目指した国を造ることを誓うのである。 これは家康から将軍を継いだ、秀忠を連想させる。 中国人スタッフは、成務天皇の業績〔=行政機構の整備〕を、この視点をもって意義付けたのである。 即位を躊躇させたもう一つの要素として、倭建命を差し置いて自分が天皇になったことへの負い目もあろう。 〈丙本〉は、その要となる箇所を気にとめず、適当な訓読で済まして通過する。やはり、平安時代の訓読は絶対とは言えないだろう。 【東西為日縦・南北為日横・山陽曰影面・山陰曰背面】 この部分の理解は困難である。国郡の境界画定に続けて書いてあるから、少なくとも地理に関することだろう。 参考になるのが、万葉集の「藤原宮御井歌」である。
しかし、中国では、〈周礼·天官·冢宰体国経野疏〉「南北之道謂之経、東西之道謂之緯」のように、戦国時代〔前403~前221〕から一貫して南北が経、東西が緯であった。 中国から学んだ倭国の天文学・暦学の学者の間では、日縦が経、日横が緯を意味するのは初歩的なことだったと思われる。 その影響によって、ここに「東西」「南北」の語が出てきたのであろう。 これら二種類の「日縦・日横」が頭の中で分離してなかったから、変なことになった。 背面・影面を書くなら、「東為日縦・西為日横」でなければならないし、「東西為日縦・南北為日横」と書くのなら、背面・影面は要らない。 なお、藤原宮御井歌の詠者も、天文学用語の俗説的な誤解に陥っていたのかも知れない。 天文にかかわる役所としては、〈倭名類聚抄〉に「陰陽寮【於牟夜宇乃豆加佐】」〔おむやうのつかさ〕が、 飛鳥時代に天武天皇によって設置された。陰陽道は占いとして知られるが、天体観測による科学的な暦の整備と、占いは一体であった。 卑弥呼の時代まで遡ると、魏志倭人伝への裴松之の注に「魏略曰 其俗不レ知二正歳四節一但計二春耕秋収一為二年紀一」 〔庶民は正規の暦を知らず、ただ春の耕作と秋の収穫のサイクルをもって一年とするのみであると、『魏略』に書いてある〕とあるように、暦は一般化していなかった。 <wikipedia>本格的な暦学の伝来は推古天皇12年〔602〕の百済僧・観勒の来日による。従って日本の暦道の起源はここに求められる</wikipedia>という。 時間(暦)・空間(地理)の支配は、国の統治の根幹をなすもので、陰陽寮を設置する以前から行われた。 その営みを成務帝の時代に遡らせて、神話化したと思われる。 天文・暦法には高度な専門知識が必要だが、書紀編者の頭脳は理科系ではなかったから、その内容を十分理解しないまま、藤原宮御井歌的な方位と混同して書いたものと思われる。 言いたいことは、国内の地理の正確な理解が進んだということだろう。 参考のために、これを調べる間に見つけたいくつかの説を挙げておく。 《七道紹介説》 東西を結ぶ東海道・東山道を日縦、南北を結ぶ北陸道を日横、山陽道を日影、山陰道を背面と表現し、七道を定めたという意味であるとする。 例えば東海道が「ひたてのみち」だったとすると、常陸国の「ひたち」が関係あるかもしれない。 ただ、万葉集にも時代別上代にも「ひのたてのみち」などの語はなく、残された西海道・南海道はどうするのかとういう疑問も残る。 《経線・緯線説》 ただ経線・緯線の語源から考えると成務天皇紀の説明は誤りで、正しくは「東西を日横といい、南北を日縦という。」とすべきである。 《太陽の動き》 「日縦」とは太陽が進む向きで東西、「日横」はそれに直交する向きで南北。書紀の執筆者もそのように考えた可能性もあるが、俗説である。 前述したように、天文・暦学者の間ではとっくに経が南北で緯が東西として理解されていたはずである。また、日縦は太陽が縦に上るから東とする俗説もある。 《「かげも・そともの説明」説》 若狭湾には、観光船による「蘇洞門(そとも)めぐり」があり、<wikipedia>古くは「外面」あるいは「背面」と書いて「そとも」と呼ばれていた</wikipedia>という。 従って、この文は局地的な地名「そとも」「かげも」の謂れを説明したものともとれる。 まとめ 歴史的事実としては、おそらく佐紀古墳群を墓地とした王朝の、初代の大王であっただろうということだけである。 実在性が議論になっているが、実在した印象を受ける。 遷都の原因として何らかの歴史的事件があり、その陰に倭建命が遺した一族の策動もありそうだが、その実体は何も見えない。 わずかに、志賀高穴穂に出かけたところに、何かあったのではないかと想像させる。 記は、それには触れず、先代が大きく広げた領土を維持するため、必要な仕組みを整えたことを業績に挙げる。 書紀はそれを拡張して、皇位を継承するにあたっての心理を洞察し、記で書かれた行政の充実をもう少し詳しく述べる。 その中の「東西為日縦」以下の部分の解釈が、議論を呼んでいる。 本稿が検討して得た仮説は、天文と暦に携わっている学者の言葉を聞きかじり、筆者本人もよく理解しないまま不完全な形で書いたらしいというものである。 |
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2016.10.12(wed) [138] 中つ巻(仲哀天皇1) ▼▲ |
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帶中日子天皇坐穴門之豐浦宮及筑紫訶志比宮 治天下也
此天皇娶大江王之女大中津比賣命 生御子香坂王忍熊王【二柱】 又娶息長帶比賣命【是大后】 生御子品夜和氣命 次大鞆和氣命亦名品陀和氣命【二柱】 此太子之御名所以負大鞆和氣命者初所生時如鞆宍生御腕故著其御名 是以知坐腹中定國也 此之御世定淡道之屯家也 帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)穴門(あなと)之(の)豊浦宮(とよらのみや)及(と)筑紫(つくし)の訶志比宮(かしひのみや)とに坐(ま)して天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此の天皇、大江王(おほえのみこ)之女(むすめ)大中津比売命(おほなかつひめのみこと)を娶(めあは)せ、御子(みこ)香坂王(かごさかのみこ)忍熊王(おしぐまのみこ)を生みたまふ【二柱(ふたはしら)】。 又、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)を娶せ【是(こ)は大后(おほきさき)なり】、御子品夜和気命(ほむやわけのみこと)、次に大鞆和気命(おほともわけのみこと)、亦(また)の名は品陀和気命(ほむたわけのみこと)を生みたまふ【二柱】。 此の太子(ひつぎのみこ)之御名(みな)の大鞆和気命を負(おほ)す所以(ゆゑ)者(は)、初めに所生(あれましし)時、鞆(とも)の如き宍(しし)御(み)腕(ただむき)生(お)ひし故(ゆゑ)に、其の御名(みな)を著(つ)けたまはり。 是(こ)を以ちて、腹(はら)の中に坐(ま)して国を定めたまふと知れり[也]。 此之(この)御世(みよ)に、淡道(あはち)之屯家(みやけ)を定めたまふ[也]。 帯中日子(たらしなかつひこ)天皇〔仲哀天皇〕は、穴門(あなと)の豊浦宮(とよらのみや)及び筑紫(つくし)の訶志比宮(かしひのみや)にいらっしゃり、天下を治められました。 此の天皇は、大江王(おおえのみこ)の娘、大中津比売命(おおなかつひめのみこと)を娶り、御子、香坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしぐまのみこ)を生みなされました。 また、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)〔神功皇后〕を娶り【この人は皇后です】、御子品夜和気命(ほむやわけのみこと)、次に大鞆和気命(おおともわけのみこと)、またの名は品陀和気命(ほむたわけのみこと)を生みなされました。 この皇太子が、御名、大鞆和気命をに負われる理由は、始めに生まれたとき、鞆(とも)のような肉が御腕についていた故に、その御名を付けられました。 これにより、胎内にいらっしゃったときから、国を定める人であると知られました。 この御世に、淡道(あわじ)の屯家(みやけ)を定められました。 香坂王…〈甲本仲哀〉麛_坂【カコサカ】。〈丙本仲哀〉麛_坂【加古〟左加】。 忍熊王…〈丙本仲哀〉忍熊【乎之久〟末】〔おしぐま;「お」を乎(を)とするのは鎌倉時代の混用〕。 所以…(古訓) このゆへに。ゆへ。 腕…〈倭名類聚抄〉腕【和名太々無岐一云宇天】〔たたむき、うて〕(古訓) たふさ。 ただむき…[名]〈時代別上代〉ひじから手首までの部分。肩から肘までをカヒナというのに対する語。 おふ(生ふ)…[自]ハ上二 生ずる。 さだむ…[他]マ下二 (万)0199 久堅能 天都御門乎 懼母 定賜而 ひさかたの あまつみかどを かしこくも さだめたまひて。 淡路…〈倭名類聚抄〉{淡路【阿波知】国}〔あはち〕。 みやけ(屯倉)…[名] 朝廷の領地から収穫した穀類を貯蔵する倉。またその領地や領民。
【帯中日子天皇】 帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)は、書紀では足仲彦天皇。 「たらし」は称号、「なかつ」の「つ」は属格の古い格助詞。 漢風諡号は「仲哀天皇(ちうあいてんわう)」。 【息長帯比売命】 皇后息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)は、 書紀では気長足姫尊。尊(みこと)は、天皇レベルの尊称。 〈丙本〉には【遠岐奈加乃太良志比莬乃美古止】〔おきなかのたらしひめのみこと〕。 漢風諡号「神功皇后(しんこうくわうごう)」がある。書紀では開化天皇(第九代)のひ孫とされるが、記には出自は示されていない。 【豊浦宮・訶志比宮】
{長門【奈加度】国・豊浦【止与良国府】郡}〔ながとのくに・とよらのこほり;国府が置かれる〕 {筑前【筑紫乃三知乃久知】国・糟屋【加須也】郡・香椎【加須比】郷} 〔つくしのみちのくちのくに・かすやのこほり・かすひのさと〕 仲哀天皇は突然畿内から離れ、遠隔地の長門国・筑前国に移る。 しかし、陵が河内国の恵賀之長江であることから見て、最初に宮があったのはやはり畿内で、豊浦宮・訶志比宮は行宮(あんぐう、かりのみや)かも知れない。 ならば、畿内の宮はどこか。まず書紀から、その前後の天皇の宮はどうなっているかをを見てみよう。 崇神天皇〔第十代〕は「遷都於磯城」し、 垂仁天皇〔十一代〕・景行天皇〔十二代〕は「更都於纏向」、景行天皇の晩年3年間は「居二近江国志賀高穴穂宮一」。 成務天皇〔十三代〕は明示されない。 応神天皇〔十五代〕は 「幸二吉野宮一」 「幸二難波一、居二於大隅宮一」 「移居二於葉田葦守宮一」〔葦守八幡宮;岡山県岡山市北区〕 「明宮」(記では軽)のように、転々とする。 仁徳天皇〔十六代〕は「都トス二難波ヲ一」。 記に戻ると、応神天皇が「軽嶋之明宮」、仁徳天皇が「難波之高津宮」である。 なお、軽は大和国高市郡、高津宮は摂津国である。 こうして見ると、初期天皇の宮は基本的に、大和国あるいは摂津国にあったことが確認できる。 書紀における仲哀天皇は最初の宮には触れぬまま、二年三月に「巡二-狩南国一」を開始し、 紀伊国徳勒津宮を経て穴門国豊浦津に到り、「宮室を興し」て豊浦宮と名付ける。 その後八年正月に、筑紫に幸し、伊覩県〔いとのあがた〕を経て、 灘県の橿日宮〔かしひのみや〕に到る。橿日宮は、訶志比宮の別字である。 「いと」は、{筑前国・怡土【以止】郡}〔いとのこほり〕で現在の糸島市の一部、魏志倭人伝の伊都国の比定地として有名である。 このように、紀伊国の徳勒津(別項)・穴門国〔長門国〕を経由して筑紫国に行ったと書くのだから、出発点が畿内であったことは自明である。 その具体的な所在地は、成務天皇に続けて近江国、あるいは成務天皇陵のある倭国や、仲哀天皇陵が築かれた河内などが想定し得るが、記紀ともに明示されない。 《忌宮神社》 忌宮神社は、〈延喜式神名帳〉に{長門国五座/豊浦郡五座/忌宮神社}とあり、その伝統を 忌宮神社〔いみのみやじんじゃ、山口県下関市長府宮の内町1-18〕が受け継いでいる。 公式ページの「由緒」によれば、 「皇后は武内宿禰に命じて海路より穴門に遷されたという殯斂の地が神社の南方500メートルの丘にあり、 天皇の神霊を鎮守した御社を行宮にちなんで豊浦宮と称し、 くだって聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して忌宮と称し、 さらに応神天皇をお祀りして豊明宮と称する三殿別立の神社でございましたが、 中世の火災により豊浦宮、豊明宮が焼失し、忌宮に合祀したと伝えられ」るという。 聖武天皇の在位は大宝元年〔701〕~天平勝宝8年〔756〕である。 神功皇后の名前〔息長帯比売皇太后〕と業績は、書紀によって初めて定式化されたのは明らかだから、 地元に宮殿を置いた神功皇后を称える風潮の中で、豊浦宮が創建されたものと想像される。 《香椎宮》 香椎宮(かしいぐう、福岡市東区香椎4-16-1)は式外社だが、 〈続日本紀〉には天平九年〔737〕に「香椎宮」の名前を見る。 「天平九年夏四月乙巳朔。遣使於伊勢神宮。大神社。筑紫住吉。八幡二社及香椎宮。奉幣、以告新羅無礼之状。」 〔伊勢神宮・大神神社・筑紫住吉神社(式内社)・八幡二社とともに、香椎宮に奉幣し、新羅の無礼のさまを報告した〕とある。 遡って万葉集に、「香椎廟」が出てくる。 (万)0957 〔神亀五年※〕冬十一月 大宰官人等 奉二-拝香椎廟一訖 退帰之時 馬駐二于香椎浦一 各述懐作歌 〔神亀5年(728)11月、香椎廟に奉拝した帰りに香椎浦で馬を停め、大伴旅人など三氏が一首ずつ詠んだ歌〕なる注記がある。 ※ 0920の注記「神亀二年」、0950の注記「五年」によりこの年が確定する。 同宮の〈御由緒〉には、「神功皇后躬ら祠を建て、仲哀天皇の神霊を祀給うたのが起源」とされるが、これは伝説である。 その後、「神功皇后の宮は元正天皇の養老七年〔723〕に皇后御自身の御神託により、朝廷が九州に詔して社殿の造営を創め聖武天皇の神亀元年〔724〕に竣工した」。 よって香椎廟の創建は書紀成立〔720〕から数年以内であることは確実である。 かつては「現在の古宮に仲哀天皇・現在の本殿の地に神功皇后をお祭りしていた」という。 香椎宮は、訶志比宮〔書紀は橿日宮〕に通づると見てよい。 《創建の年代》 以上から、両宮とも書紀が書かれてから初めて、書紀を根拠にして創建されたものと思われる。 それでは記紀以前から地元で、何等かの言い伝えがあったのか? それは不明である。 ただ、両宮が建てられた場所が、弥生時代以来の聖地であったことは十分に考えられる。
1目次 《足仲彦天皇》
母(みはは)、皇后(おほきさき)は[曰]両道入姫命(ふたちいりひめのみこと)、活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)之女(むすめ)也(なり)。 天皇の容姿(みすがた)端正(うるはし)くて、身長(みたけ)十尺(とをさか)なり。 稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)四十八年(よとせあまりやとせ)、立たして太子(ひつぎのみこ)と為(し)たまふ。【時に年(よはひ)三十一(みそちあまりひとつ)。】 稚足彦天皇に男(みこ)無くして、故(かれ)立たして嗣(みづぎ)と為(し)たまふ。 六十年(むそとせ)、天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 明年(あくるとし)秋九月(ながつき)壬辰(みづのえたつ)を朔(つきたち)として丁酉(ひのととり)のひ〔六日〕、[于]倭(やまと)の国の狭城盾列(さきたたなみ)の陵(みささき)に葬(はぶ)りたまふ。【盾列、此(これ)を多々那美(たたなみ)と云ふ。】 元年(はじめのとし)春正月(むつき)庚寅(かのえとら)朔庚子(かのえね)〔十一日〕、太子即天皇位。 秋九月丙戌(ひのえいぬ)朔、母(みはは)皇后(おほきさき)を尊(たふと)みて[曰]皇太后(おほきさき)としたまふ。 《天皇無男故立爲嗣》 成務天皇の皇子は記では二人いたが、書紀ではいなかったことにされる。 日本武尊との権力闘争を想起させる要素を、なるべく消したかったと思われる。 《大意》 足仲彦(たらしなかつひこ)天皇〔仲哀天皇〕は、日本武尊(やまとたけるみこと)の第二子です。 御母、皇后の両道入姫命(ふたちいりひめのみこと)は、活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)〔垂仁天皇〕の息女です。 天皇は容姿端正にて、身長十尺です。 稚足彦(わかたらしひこ)天皇〔成務天皇〕四十八年、立太子されました【その時、三十一歳】。 稚足彦天皇に男子がないため、嗣子とされたのです。 六十年、天皇は崩御されました。 明年九月六日、倭(やまと)の国の狭城盾列(さきたたなみ)の陵(みささき)に葬むられました。 元年正月十一日、皇太子は天皇に即位されました。 九月一日、御母の皇后を尊び、皇太后と称せられました。 3目次 《立気長足姫尊為皇后》
二年(ふたとせ)春正月(むつき)甲寅(きのえとら)朔甲子(きのえね)〔十一日〕、気長足姫尊を立たして皇后と為(し)たまふ。 是に先だち、叔父彦人大兄(ひこひとおほえ)之女(むすめ)大中姫(おほなかつひめ)を娶せ妃(きさき)と為(ひ)たまひ、麛坂皇子(かごさかのみこ)、忍熊皇子(おしくまのみこ)を生みたまふ。 次に、来熊田(くくまた)の造(みやつこ)の祖(おや)大酒主(おほさかぬし)之女(むすめ)弟媛(おとひめ)を娶せ、誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生みたまふ。 二月(きさらき)癸未(みづのえひつじ)朔戊子(つちのえね)〔七日〕、角鹿(つぬか)に幸(いでま)して、[即ち]行宮(かりのみや)を興(た)てて[而]之(これ)に居(ましま)す、是(これ)笥飯宮(けひのみや)と謂(い)ふ。 即月(このつき)、淡路(あはち)の屯倉(みやけ)を定めたまふ。
〈神名帳〉に{越前国/敦賀郡/気比神社}がある。 比定社は気比神宮(けひじんぐう、福井県敦賀市曙町11-68)。 気比は、朝鮮半島と倭国を結ぶ海上交通の拠点の一つなので、 神功皇后紀のテーマである三韓外交に因んで登場したと思われる。 後に建内宿祢が皇太子を連れて行った話(記紀共にある)の中に、 気比大神がでてくるので、詳しくはそこで取り上げる。 《大意》 この年は、太歳壬申(じんしん)でした。 二年正月十一日、気長足姫尊を立てて皇后とされました。 これに先だち、叔父の彦人大兄(ひこひとおほえ)の娘、大中姫(おおなかつひめ)を娶り、妃とされ、麛坂皇子(かごさかのみこ)、忍熊皇子(おしくまのみこ)を生みなされました。 次に、来熊田(くくまた)の造(みやつこ)の先祖、大酒主(おおさかぬし)の娘、弟媛(おとひめ)を娶り、誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生みなされました。 二月七日、角鹿(つぬか)に幸(いでま)して、行宮を建てて住まわれました。これを笥飯宮(けひのみや)といいます。 同じ月、淡路の屯倉(みやけ)を定められました。
【書紀―神功皇后】 神功1目次 《気長足姫尊》
母は[曰]葛城高顙媛(かつらぎのたかぬかひめ)。 足仲彦(たらしなかつひこ)の天皇二年、立たして皇后と為たまふ。 幼(をさな)くして[而]聡明(そうめい、あきらかにして)叡智(えいち、さとくして)、貌容(すがた)壮麗(さうれい、〔おのこのごとく〕うるはし)。父王(ちちぎみ)こを異(あや)しびけり[焉]。 《大意》 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、稚日本根子彦大日々天皇(わかやまとねこひこおほびびのすめらみこと)〔開化天皇〕の曽孫、気長宿祢王(おきながのすくねのみこ)の娘にして、 母は葛城高顙媛(かつらぎのたかぬかひめ)。 足仲彦(たらしなかつひこ)天皇〔仲哀天皇〕二年に、皇后となされました。 幼くして聡明で叡智にすぐれ、容貌には男っぽい麗しさがあり、父君は戸惑いました。 【書紀―巡狩南国】 4目次 《天皇巡狩南国》
於是(ここに)、皇后(きさき)及び百寮(もものつかさ)を留めて[而]二三(ふたりみたり)の卿大夫(まへつきみたち)及び官人(つかさびと)数百(いくももたり)を従駕(したがへ)て[而]軽行(かるゆき)して[之]、 紀伊の国に至りて[而][于]徳勒津宮(ところつのみや)に居(ましま)す。 当(まさ)に是の時、熊襲(くまそ)[之]叛(そむ)きて不朝貢(みつきまつらず)、天皇於是(ここに)、熊襲の国を将討(うたむとし)、[則(すなはち)]徳勒津自(よ)り[之]発(た)たし、海に浮かびて(みふねにのりて)[而]穴門に幸(いでま)す。
且(また)皇后(おほきさき)、角鹿(つぬか)従(よ)り発(た)たして[而]行之(いでまし)、渟田門に到りて、[於]船の上に食(みけをを)す。 時に、海鯽魚(ちに)多(さは)に船の傍(ほとり)に聚(あつ)まり、皇后酒(みき)を以ちて鯽魚(ちに)に灑(そそ)き、鯽魚即ち醉(ゑ)ひて[而][之]浮きぬ。 時に、海人(あま)多(さは)に其の魚(いを)を獲(と)りて[而]歓(よろこ)びて曰(まを)さく「聖(ひじり)の王(きみ)の所賞之(ほめたまひし)魚(いを)ぞ[焉]。」とまをす。 故(しかるがゆゑに)其の処(ところ)之(の)魚、[于]六月(みなづき)に至りて常に傾(かたぶ)き浮くこと醉(ゑ)ふが如し、其(それ)是之(この)縁(よし)也(なり)。 秋七月辛亥朔乙卯、皇后泊豐浦津。
是の日、皇后如意珠(によいじゆ)を[於]海中(わたなか)に得(う)。 九月(ながつき)、宮室(みやむろ)を[于]穴門(あなと)に興(おこ)して[而][之]居(ましま)し、是(これ)穴門の豊浦の宮と謂ふ。 《留皇后及百寮而從駕二三卿大夫及官人數百而輕行之》
この問題の多い「官人数百」さえなければ、皇后・百僚(もものつかさ)は残留させ、「二三卿大夫」のみ同行させた「軽行」だったことが、ごく自然に読める。 それでも身の回りの世話をする侍従がついているのは明らかだから、 「及官人数百」は文意を理解しない者が行った無用な書き足しとしか思えない。 《海鯽魚》 第91回【赤海鯽魚】の項で、 「瀬戸内海側では、茅渟が単純語で赤茅渟が複合語、日本海側では鯛が単純語で黒鯛が複合語である」 と考察した。豊浦津は瀬戸内海側で、かつ「赤」の字がないから、「海鯽魚」がチヌであるのは明らかである。 しかし、神功皇后が海に酒をまいたら魚が酔って浮かんだという場面には、確かに鯛の方が絵になるから、タヒと訓もうとする気持ちは理解できる。 【徳勒津】 『紀伊国名所図会』〔1812〕巻之一之上に徳勒津などを示した図版(図右下)がある。 ただ、図の中に徳勒津の名はなく、本文にも説明がない。 しかし『紀伊続風土記』には、徳勒津についての詳しい記述がある。 紀伊続風土記は、紀州藩が仁井田好古〔にいだこうこ。1770~1848。幕末の紀州藩の藩士・儒学者〕を総裁として文化三年〔1806〕に編纂を開始し、 天保十年〔1839〕に完成を見た。 同書巻六「名草郡地形変遷図并記」に、名草郡の古代の地形から、記の「彦五瀬命男建し給ふ因て男水門の号すといへり」の男水門の位置を示す(図左上)。 また、仲哀天皇紀の徳勒津について「これ徳勒津の河浜津渡の地なること知へし〔しるべし〕 其宮の旧跡今神宮上郷新在家村にあり」とあり、河浜の津に由来すると推定する。 また名草郡神宮郷に属した新在家村について、次のように書く。 「旧宮新在家といふ宮郷の中新在家の義なるへし 後宮を畧して称せり呼名徳勒津 【国造家〔=日前宮・国懸宮の宮司家〕建徳二年〔1371〕旧記所津とあり又解津と書す今村中の旧家得津を氏とするものあり】」 〔旧宮新在家という。宮郷の中新在家の意味であろう。後に宮を略して称した。古名徳勒津。〕 旧跡の徳勒津については、このように書く。 「祭神仲哀天皇【神功皇后・応神天皇】合祭 村の北二町〔一町=109m〕ほどにあり土人八幡宮と称すこれ古徳勒津ノ宮の旧趾なり 仲哀天皇の留り坐し行宮の趾なるを以て 祠を建て御神霊を祀るなり田地の字に得津といへる地は宮より東四町許にあり今社の傍に碑を建て其事を表す」 〔現在土地の人が言う八幡宮は古徳勒津宮の旧跡で、仲哀天皇の行宮の跡に祠を建てて祀ったもの。東400mほどに得津字がある。 このたび八幡宮の傍らに碑を建て、そのことを表す。〕、 続けて、仁井田好古撰文による「徳勒津宮遺址碑」(天保3年〔1832〕)の碑文全文が収められている。 このように『紀伊続風土記』によって、『紀伊国名所図会』の八幡宮は徳勒津宮跡であることが分かる。天王森を挟んで遠方に「有本村」が見えるので、 図右上に照らして、新在家村から北を見て書いた図であるようだ。 徳勒津宮遺址碑は、いくつかのブログの探訪記によれば、和歌山県和歌山市新在家163付近の私有地にある。 現在は碑だけが残り、八幡宮は存在しない。 《徳勒津の地》 江戸時代なら復古地名ということもあり得るが、さすがに室町時代の「所津」なる記録は、かつての徳勒津がそこにあったことを示すものであろう。 さて、天孫と共に鏡が降ろされた日前宮(第49回【一書1】、 第108回【木国造之祖】)までは南に約2kmである。 出雲系の伊太祁曽三神、 神武天皇東征の途上、五瀬命が戦死して葬られた竈山神社(第96回)なども、名草郡にある。 種類が異なる神話が名草郡に密集するのは、謎である(同《紀伊国の謎》)が、 そこにさらに仲哀天皇紀の徳勒津宮が加わったことになる。 【書紀―幸筑紫】 5目次 《興二宮室于穴門豊浦宮一》
筑紫に幸(いでま)す。 時に岡(をか)の県主(あがたぬし)の祖(おや)熊鰐(くまわに)、天皇之車駕(いでまし)と聞きまつり、 予め五百枝賢木(いほえのさかき)を抜き取りて、 [以ちて]九尋(ここのひろ)の船之舳(へ)に立たして[而]、 上枝(ほつえ)に白銅鏡(ますみのかがみ)を掛け、 中枝(なかつえ)に十握(とつか)の剣(つるぎ)を掛け、 下枝(しづえ)に八尺瓊(やさかに)を掛けて、 [于]周芳(すはう)の沙麼(さま)之浦に参迎(まゐむか)へて[而] 魚塩地(なしほのところ)を献(まつ)りて、 因以(しかるがゆゑに)奏言(まをさく) 「穴門自(よ)り向津野大済(むかつののおほわたり)に至り東門(ひむがしのと)と為(し)て、 名籠屋大済(なごやのおほわたり)を以ちて西門(にしのと)と為(し)て、 没利島(もとりしま)・阿閉島(あへしま)を限り御筥(みはこ)と為(し)、 柴島(しばしま)を割き御甂(みなべ)【御甂、此(これ)彌那陪(みなべ)と云ふ。】と為(し)、 逆見海(さかみのみ)を以ちて塩地(しほどころ)と為(し)まつる。」とまをす。 既にして[而]海路(うみぢ)を導きまつり、山鹿の岬自(ゆ)[之]廻(めぐ)りて岡(をか)の浦に入りたまふ。
則(すなは)ち熊鰐に問ひたまはく[曰]「朕(わが)聞きまさく、汝(いまし)熊鰐者(は)明(あか)き心有るを以ちて参(ま)ゐ来(く)と聞く。何(なに)ぞ船の不進(すすまざる)か。」ととひたまひ、 熊鰐奏之曰(まをさく)「御船(みふね)の不得進(えすすまぬ)所以(ゆゑ)者(は)、臣(やつかれ)が罪に非ず。 是(これ)浦の口に男女(をかみ・めかみ)二(ふたはしらの)神有り、男神(をかみ)は大倉主(おほくらぬし)と曰(まを)し、女神(めかみ)を菟夫羅媛(つぶらひめ)と曰(まを)す。必ずや是(これ)神之心ならむ[歟]。」とまをす。 天皇則(すなはち)禱祈之(いのり)て、挾杪者(かぢとり)は倭国(やまとのくに)菟田(うだ)の人伊賀彦(いがひこ)を以ちて、祝(はふり)と為(し)て祭ら令(し)めば、[則ち]船進(すすむ)ことを得(う)。 皇后(おほきさき)船を別(わ)かち、洞海(くきのみ)【洞、此れ久岐(くき)と云う。】自(ゆ)[之]入(い)りたまへど、潮(しほ)涸(か)れ不得進(えすすまず)。 時に熊鰐更に[之]還(かへ)りまつり、洞(くき)自(よ)り皇后を迎へ奉(まつ)り、[則(すなは)ち]御船の不進(すすまざる)さまを見て、 [之]惶懼(かしこ)みて、忽(たちまち)に魚沼(いをぬま)・鳥池(とりのいけ)を作りて、悉(ことごと)魚鳥を聚(あつ)めまつりぬ。 皇后、是(ここ)に魚鳥之遊ぶさまを看(め)して[而]忿(いかれる)心稍(やくやく)に解けたまひて、 潮満つるに及び[即ち][于]岡津(をかつ)に泊りませり。
天皇之行(すめらみことのいでまし)ありと聞きまつりて、五百枝(いほつえ)の賢木を抜き取りて、[于]船之舳艫(ふねのふなへ)に立たして、 上枝(ほつえ)に八尺瓊(やさかに)を掛け、中枝(なかつえ)に白銅鏡(ますみのかがみ)を掛け、下枝(しづえ)に十握剣(とつかの)を掛けて、 [于]穴門の引島(ひきしま)に参(まゐ)迎へて[而][之]献(たてまつ)り、因以(しかるがゆゑに)奏言(まをさく) 「臣(やつかれ)の敢(あへ)て是(この)物(もの)らを献(たてまつり)し所以(ゆゑ)者(は)、 天皇(すめらみこと)の、八尺瓊之勾(やさかにのまがり)は[以ちて]曲(まがり)の妙(たへなる)御宇(わがおほきみのあめのした)に如(し)く、 且(かつ)白銅鏡(ますみのかがみ)は[以ちて]分明(あきらけく)山川海原(うなはら)を看(め)し行(いでまし)に如(し)く、 乃(すなは)ち是(この)十握剣(とつかのつるぎ)を提(ひさ)ぐは天下(あめのした)を平(たひら)げたまへばなり[矣]。」とまをす。 天皇即ち五十迹手を美(ほ)め、曰(のたまはく)「伊蘇志(いそし)。」とのたまふ。 故(かれ)、時の人五十迹手之(の)本土(もとのくに)を号(なづ)け伊蘇国(いそのくに)と曰(まを)し、今に伊覩(いと)と謂(まを)す者(は)訛(よこなまり)せしものなり[也]。 己亥(つちのとゐ)〔二十一日〕、儺県(なのあがた)に到り、因以(しかるにゆゑに)橿日宮(かしひのみや)に居(ましま)す。 《抜取五百枝賢木以立船之舳》
それぞれ八尺瓊・鏡・剣という三種の神器と同じ組み合わせを榊に吊るすが、上中下への割り振りは一定しない。 これについての五十迹手による説明が興味深い。 それによれば、勾玉は妙(たえ)なる曲がり〔美術品の唐草模様のようなものか〕のある御世を表し、鏡は天皇が巡幸する山河を明るく照らし、剣は天下を平定したことを表す。 この文は、三種の神器の意義をも説明する。 なお、原文では「曲」が「勾」を受けているのだが、丙本の訓読は「曲」を無視している。 これは「まがる」の否定的な意味を嫌ったためと思われるが、名詞形「まがり」なら単にものの形を表す中立的な語として使うことができる。 《大意》 八年正月四日、 筑紫に行かれました。 その時、岡(おか)の県主(あがたぬし)の先祖、熊鰐(くまわに)は天皇がいらっしゃったと聞き、 予め五百枝(いほえ)の榊を抜き取り、 九尋の船の舳(へ)先に立て、 上枝(ほつえ)に真澄の鏡をかけ、 中枝(なかつえ)に十握(とつか)の剣をかけ、 下枝(しづえ)に八尺瓊(やさかに)をかけて 周芳(すおう)の沙麼(さま)の浦にお迎えし、 魚塩地(なしほのところ)を献上し、 次のように奏言しました。 「穴門(あなと)から向津野(むかつの)の大渡り口に行ったところを東門とし、 名籠屋(なごや)の大渡り口を西門として、 没利島(もとりしま)・阿閉島(あへしま)を境界に「みはこ」、 柴島(しばしま)を境界に「みなべ」として、 逆見(さかみ)の海を塩地(しおどころ)として差し上げます。」と。 そして直ちに海路をお導きし、山鹿の岬から岡の浦に入りられましたが、 湾口に達したところで御船は進むことができなくなりました。 そこで熊鰐に問われました。 「朕が聞くところでは、お前、熊鰐は潔白な心をもって参っておる。それなのにどうして船が進まないのか。」と。 熊鰐奏は申し上げました。 「御船が進まなくなった原因は、私めの罪ではありません。 この浦の入り口に男女二神があり、男神は大倉主(おおくらぬし)と申し、女神は菟夫羅媛(つぶらひめ)と申します。これらの神の御心に違いありません。」と。 天皇が祈られて分かった神の心に従い、舵取りの倭(やまと)の国の菟田(うだ)の人、伊賀彦(いがひこ)を神主に任命してて祭らせたところ、船は進むことができました。 皇后は別の船で、洞海(くきのうみ)から入いられましたが、潮が涸れてやはり進むことができなくなりました。 そこで熊鰐は引き返して、洞海から皇后をお迎えし、御船の進まぬさまを見て 恐れ入り、急いで魚沼と鳥池を作り、ありったけの魚と鳥を集めました。 皇后は、ここで魚と鳥の遊ぶさまを御覧になり、怒りの気持ちは少しずつ解けてゆきました。 そうこうするうちに潮が満ちてきたので再び進み、岡津に停泊されました。 また、筑紫の伊覩(いと)の県主(あがたぬし)の先祖、五十迹手(いとて)は 天皇がいらっしゃったとお聞きし、五百枝の榊を抜き取って船の舳先に立て、 上枝(ほつえ)に八尺瓊(やさかに)をかけ、中枝(なかつえ)に真澄の鏡をかけ、下枝(しずえ)に十握の剣をかけて、 穴門の引島にお迎えして献(たてまつ)り、このように奏言しました。 「臣が敢てこれらの物を献る謂れは、 天皇の、八尺瓊之勾玉は、曲り方も妙なる御世に相応しく、 また真澄の鏡は山川海原を明るく照らし、ご覧にお出になることに相応しく、 そして十握(とつか)の剣を吊り下げるのは、天下を平げられましたことによります。」と。 天皇はそれを聞いて五十迹手を褒め、「いそし。」と仰りました。 このことより、当時の人は五十迹手の出身地を伊蘇(いそ)の国と名付け、現在は伊覩(いと)というのはそれが訛ったものです。 二十一日、儺県(なのあがた)に到着し、このようにして橿日(かしひ)の宮に住まわれました。 【東門と西門の間】 この段には、九州北海岸の様々な海や島の名前が出てくる。様々に推定されているが、 そのうち名籠屋・山鹿・洞海の位置は確実であろう。 その他、没利(もとり)島=六連(むつれ)島も有りそうに思えるが、阿閉嶋・柴嶋については何とも言えない。 ただ、この海域の小島のどれかであるのは確かだろう。 想像するに、漁村では村の間で漁業権を巡り、時に深刻な紛争を生むことは、飛鳥時代にもあったであろう。 その利害を調整して漁獲地を配分することは、行政の重要な役割である。 漁業区の境界を示すためには、沖の小島や岩礁を目印にする他に方法はない。 この境界決めの作業の一部が断片的に書紀に取り込まれ、「○○嶋を限りにして」とか、「○○嶋で割り」 が入ったと思われる。そして各漁業区には名前が必要であり、現代なら「第1区・第2区…」と番号で表すところを、漁民にも分かるように はこ(筥)やなべ(甂)など身近なものの名称をつけたとすれば、理解し得る。 (岩波文庫版の注には「『御筥とす』の意味は不詳」とある)。 この海域の東西の端を「○○を東門とし、○○を西門とする」と表したのである。 地名・島名を地図で見ると、西門=名籠屋崎はさもありなんだが、東門については油谷湾、向野郷は両方とも遠すぎる。 恐らく関門海峡の東の忌宮の南の辺りが「向津野大済」で、現代ではその地名が失われたと考えるのが合理的である。 関門海峡の入り口近くなら、「門(と)」「済(わたり)」の表現も自然である。 なお、他の伝説が混合して、当初の地名が遠隔地のもの置き換わった可能性はある。 さて、この地域は「魚塩地(なしほのところ)」、つまり朝廷の直轄地とされた。 住民には漁区ごとの漁労権を保証しつつ調(みつき)を納めさせるわけだが、直轄地とした背景に書紀が書かれた飛鳥時代~奈良時代の国際情勢があったと想像される (あくまでも、仲哀天皇の時代ではなく、書紀が書かれた時代の話である)。 序文の「列烽重訳之貢」の語句について、「日本としては唐に対抗するために、新羅の朝貢を受ける関係を維持したかった」、 そして「北九州の沿岸には、一定間隔に烽火台を設置して、ことが起こればこれらを赤々と灯す構えを崩さなかった。」と読みとった (第23回)。 もし唐あるいは支配下の高句麗から軍の船団が攻め寄せてくれば、関門海峡周辺は重要な防衛ラインであるから、 この地域を朝廷の直轄地にすることは必須である。 書紀が書かれた時代は、基本的にこの状況が続いていたと思われる。 まとめ 記は筑紫への進出については、単に豊浦宮と訶志比宮の名前を挙げるのみである。 対照的に、書紀では天皇・皇后の旅路のことを詳しく書く。 記があまりに簡潔なので、書紀はその空間を埋めるべく詳細なストーリーを作り上げたように思われる。 逆に記が、もともとあった話の要点しか書かなかったのかも知れない。多分その両方であろう。 仲哀天皇紀のうち、周防国から筑紫に渡ってくると聞き、在地の梟帥(たける)が三種の神器で飾った榊を船に立てて参上し降伏する部分は、景行天皇紀の二番煎じである。 一方関門海峡から洞海湾までの地名がたくさん書かれた部分は、どうやら飛鳥時代の漁村政策や、国際情勢を反映している。 仲哀天皇の死後に展開される神功皇后の神話には、三韓への進出を上代に遡らせる意図がある。 その物語の前段として、まずは天皇が皇后を連れて筑紫に移動する必要があった。 書紀はそこに多くの地名を盛ることによって、信憑性が増すことを狙ったのかも知れない。 ただ、その地名の多くは現代につながるもので実在性があり、決して空想的なものではない。 その他に、海に酒をまいて魚を酔わせたり、洞海湾の入り口で船が難渋したりと、なかなか面白い逸話が盛りこまれているが、 他の多くの話と同じく、様々な伝説を変形して天皇に纏わる話に仕立てた可能性が高い。 景行天皇紀を再利用せざるを得ないことからは、筑紫への移動を史実に見せる材料は限られていたような印象を受ける。 仲哀天皇の役割は、先に世を去ることによって神功皇后の活躍の舞台を提供するところにある。 したがって、書紀が仲哀天皇独自の事績を充実させる努力は、やや方向が違っている。 |
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2016.10.20(thu) [139] 中つ巻(仲哀天皇2) ▼▲ |
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其大后息長帶日賣命者 當時歸神
故 天皇坐筑紫之訶志比宮將擊熊曾國之時 天皇控御琴而 建內宿禰大臣居於沙庭請神之命 於是大后歸神 言教覺詔者 西方有國金銀爲本 目之炎耀種種珍寶多在其國 吾今歸賜其國 其の大后(おほきさき)息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)者(は)、当(その)時神に帰(よ)りたまふ。 故(しかるがゆゑは)、天皇(すめらみこと)筑紫(つくし)之(の)訶志比(かしひ)に宮に坐(ましま)して、[将]熊曽の国を撃たむとせし[之]時、 天皇御琴(みこと)を控(ひ)きて[而]、建内宿祢(たけのうちのすくね)の大臣(おほまへつきみ)[於]沙庭(さには)に居(を)りて神之命(おほせこと)を請ひまつりぬ。 於是(ここに)大后神に帰(よ)りて、言(こと)教(をし)へ覚(さと)して詔(のたま)ひし者(は)、 「西の方(かた)に国有り、金(くがね)銀(しろがね)は本(もとより)と為(し)て、目(め)之(の)炎(ほのほ)のごと耀(かかや)く種種(くさぐさ)の珍(めづら)しき宝(たから)多(さは)に其の国に在り。 吾(われ)今(いま)其の国に帰(よ)せ賜(たま)はむ。」とのたまひき。 爾天皇答白 登高地見西方者不見國土 唯有大海 謂爲詐神而押退御琴不控默坐 爾其神大忿詔 凡茲天下者汝非應知國汝者向一道 於是 建內宿禰大臣白 恐我天皇猶阿蘇婆勢其大御琴【自阿至勢以音】 爾稍取依其御琴而那摩那摩邇【此五字以音】控坐 故 未幾久而不聞御琴之音 卽擧火見者既崩 爾(しかるがゆゑに)天皇答へ白(まを)さく 「高き地(ところ)に登りて西の方を見れ者(ば)国(くに)の土(つち)を不見(みず)、唯(ただ)大海(おほうみ)有るのみ。」とまをし、 詐(いつはり)を為(な)せる神と謂(おも)ひて[而]御琴(みこと)を押し退(しりぞ)け不控(ひかず)して黙坐(もだしませ)り。 爾(しかるがゆゑに)其の神大(おほ)きに忿(いか)り詔(のたまは)く 「凡(おほよそ)茲(この)天下(あめのした)者(は)汝(いまし)が非応知(しらしめさざる)国にて、汝(いまし)者(は)一道(あるみち)に向ふべし」とのたまひて、 於是(ここに)建内宿祢の大臣白(まをさく) 「恐(かしこ)みてまをさく、我が天皇(すめらみこと)、猶(なほ)其の大御琴(おほみこと)を阿蘇婆勢(あそばせ)【阿自(よ)り勢に至り音(こゑ)を以(もちゐ)る。】。」とまをしぬ。 爾(然るがゆゑに)稍(やくやく)其の御琴を取り依(よ)せて[而]那摩那摩邇(なまなまに)【此の五字音を以る。】控(ひ)き坐(ま)せり。 故(かれ)、未(いまだ)幾(いく)久しからずして[而]御琴之音(ね)を不聞(きかず)、即(すなは)ち火(ともしび)を挙げて見まつれ者(ば)既に崩(かむあがり)したまふ。 その皇后、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)は、当時神がかりされました。 そのときとは、天皇は筑紫の国の訶志比(かしい)の宮に滞在し、熊曽の国を撃とうとされていました。 その時、天皇は琴をお弾きになり、建内宿祢の大臣(おおまえつきみ)が沙庭(さにわ)に座り、神の命を求めました。 すると、皇后に神がつき、こう教え諭しました。 「西方に国が有り、その国には金銀はもとより、目に炎のように輝く種々の珍宝が多数ある。 私は今こそ天皇はその国に行かせて進ぜよう。」と。 それに、天皇はこうお答えしました。 「高地に登って西方を見ても、国土は見えず、ただ大海が有るのみである。」と。 そして、この偽物の神めと思われ、琴を押しのけて弾くのをやめ、黙ってしまわれました。 すると、その神は大いに怒って仰りました。 「およそこの天下はお前が治めてはならぬ国である。お前はある道に向かうだろう。」と。 そこで、建内宿祢の大臣が申し上げました。 「恐れながら申し上げます。私の天皇、その大御(おおみ)琴を弾くことを続けなさいませ。」と。 そこで、ようやく琴を手元に引き寄せられ、いやいやお弾きになりました。 すると間もなく御琴の音(ね)が聞こえなくなり、急いで灯を掲げて見ると、既に崩じておられました。 当時…① 現在。② その時代。③ 即時。 帰…(古訓) よる。つく。 よる…[自]ラ四 ある人の意のままになる。もとづく。 さには(審神者)…[名] ①神を降ろして、そのお告げを聞くところ。②神のお告げを承る人。 覚…(古訓) さとる。しる。おもゆ。 本…(古訓) もと。もとより。 目之炎…〈丙本-仲哀天皇紀〉眼炎【米乃加〃也久】〔目の耀く〕 炎…(古訓) あつし。かけろふ。ほのほ。 耀…(古訓) てらす。かかやかす。 大海…〈時代別上代〉の解説:〈倭名類聚抄〉溟渤【和名於保岐宇三】〔おほきうみ〕、 〈播磨国風土記〉「明石群大海黒人」の「大海」を〈倭名類聚抄〉{播磨国・明石郡・邑美【於布美】}〔おふみ〕 と訓むので、「おほうみ」と訓まれているもののうち「いくつかはオホキウミではないかと思われる。」 黙…(古訓) もたす。もたる。 もだ…[名] だまっていること。 もだす…[自]サ四 だまっている。 なまなまに…[副] 通り一遍に。 【帰神】 この帰の意味が「憑(つ)く」であるのは明らかである。 神がかりは、天照大御が天石屋戸に閉じこもったときの、天宇受売命(あめのうずめのみこと)の例がある。 そのとき「為二神懸一」状態になったが、これは神が憑いて踊る姿である (第49回)。 神功皇后はもの静かに言葉を伝えるのみなので、天宇受売命が胸を丸出しにして踊った「かみがかる」は使いにくい。 「帰」の古訓に「つく」があるが、これも神を目的語とするとうまくつながらない。 同じく古訓の「よる」には「ある人の意のままになる」の意味があるから、神が憑く意味に使える。 「よる」の他動詞「よす」も神を身体に呼び込む意味として使えるが、人が進んで神を呼び込むところに違和感がある。 《卑弥呼との関係》 書紀では、魏志を引用することなどにより、神功皇后を卑弥呼に準える意図は明確である。 記はその準備段階にあり、まず魏志倭人伝の「事二鬼道一能惑レ衆」 〔鬼道につかえ、よく衆を惑わす〕に対応させ、シャーマンであったことを 示したと考えられる。 【言教覚】 覚の主な意味は「目覚める」「さとる」だが、「目覚める」はここには合わない。 また〈時代別上代〉を見ると、次のように「をしへさとす」という連語の存在を認めている。①索引で「教諭」の字を宛てている。 ②書紀神武即位前紀の古訓「暁喩(おしへさとす)」を例示する。 また言は、ことむく(言向)、ことほく(言寿)、ことよす(縁言)、ことわざ、ことわりなど、しばしば動詞の上について合成語を作る性質があるから、 ここでも「ことをしへさとす」としても差し支えないと思われる。 【吾今帰賜其国】 「吾今帰賜其国」とは「私は、天皇に西方の国に行くように勧める」という意味。「帰(よ)す」は他動詞で、天皇を連れて行く(寄せる)こと。 「賜る」の主語は神なので、神の自敬表現となる。 ただ、これを天皇への尊敬語ととることも不可能ではない。「お行きなさい。」と勧めたことを、「受け入れてくださること」に敬意を表するという理屈は成り立つ。 しかし、次の段落で「天皇答白」と天皇の側が遜り、神は天皇を「汝」と呼ぶから、神の自敬表現とした方が一貫性が保てる。 【金銀為本目之炎耀種種珍宝】 この文から連想されるのが、魏志倭人伝の記述である。 倭の女王卑弥呼は、景初三年〔同二年説もある〕に、使者難升米を朝鮮半島の帯方郡に送って朝貢した。 それに対して、莫大な回賜が与えられた。 魏皇帝から回賜されたものであるが、直接的には朝鮮半島に置かれた帯方郡から持ち帰ったものである (詳しくは、〈魏志倭人伝をそのまま読む〉74・ 75・ 76)。 その内容は、 ・絳地交龍錦五匹絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹 〔刺繍・彩色した布、ペルシャ絨毯など多数;献貢に回賜する分。〕 ・紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鈆丹各五十斤 〔刺繍・彩色した布・ペルシャ絨毯・絹布、金・刀・銅鏡多数・真珠・鉛丹(顔料);別枠で特に卑弥呼に好物を下賜する。 これを倭国の人に披露して魏国皇帝の友好の気持ちを示せと命じる。〕 これを利用して、あたかも百済・新羅が宝を献上する国であるかの如く描いたと考えられる。 下賜された、金・銅鏡、極彩色の布や絨毯は、確かに「眼に映る炎のように輝く種々の珍宝」である。ただし、銀だけは魏志にない。 書紀は、魏志倭人伝を参考にしたことを別に隠すこともせず、朝貢し上記の回賜を受け取って以来の 使者の交流についての倭人伝の記事を、神功皇后紀の中で引用している。 書紀は魏志に書かれた卑弥呼による統治に対応させるために、 仲哀天皇と応神天皇の間に天皇不在の期間を設け、その間神功皇后が統治することにしたと考えられる。 その方針は、既に記を書くときに定まっていたことが、「神功皇后の神がかり」と「金銀種々珍宝の国」によってわかる。 【謂為詐神】 「謂為詐神」謂と為はともに「思う」意味があるから、「謂為」が熟語「おもへらく」であるようにも思える。 そこで、まず汉典を見ると熟語「謂為」はない。 次に中国古典の中から「謂為」を探すといくつかある。その一つ、『礼記』の〈檀弓下〉を見よう。 孔子謂「為明器者、知喪道矣、備物而不可用也。」 〔明器を作る者は喪道を知り、供え物は使用不可能なものとする。〕。 明器とは、古くから墓に納められていた日用品の土製の模型のことで、それを副葬するのが正しく、本物の日用品を納める風潮は馬鹿げているという趣旨である。 この例では、謂・為は分離している。その他の例を見ても「『~と為す』と謂う」が多い。 「謂為詐神」もやはり分離で、「天皇は『この詐(いつわり)をなせる神め!』と思った」という意味だと思われる。 【凡茲天下者汝非応知国】 「凡茲天下者汝非応知国」は、「おほよそこの天下は、汝が知らしめすべからざる国なり。」と訓読する。 「しらしめす」は、万葉集の中で国を統治する意味で多用され、 (万)0029 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 おほつのみやに あめのした しらしめしけむ すめろきの かみのみことの。 など12例がある。ここの「知国」も「知らしめす国」と訓むと思われる。 漢文で応が助動詞として使われる場合は、当然または推定を意味し、ちょうど日本語の助動詞「べし」にあたる。そこに非がつけば禁止である。 「非応知」は「国」を連体修飾し、主語をつける場合はその前に置くので、「汝非応知国」の語順は漢文として正しい。 【汝者向一道】 向一道そのものは「生涯を一筋に打ち込む」などの誉め言葉にとれるが、ここでは 「お前はお前の道を行け」と突き放す言葉である。 「一道」は、「死に向かう道」と読むと分かり易い が、「一道」が一般的に死を意味するわけではない。 〈汉典〉では「①唯一的方法。②一条通路。③一起、一並。④両詞。」 〔①唯一の方法。②一本の道筋。③同一行動をとること。④助数詞〕 となっていて、日本語の「ひとつの道」とほぼ同じである。 【三韓と熊襲を天秤にかける発想】 「将撃二熊曽国一之時」というように、香椎宮に行った当初の目的は熊襲を撃つことであった。 書紀では仲哀天皇は、記のように神託を聞いたときに即死せず、熊襲に親征した後に死亡する。 熊襲には景行天皇が一度出かけたはずだが、またまた仲哀天皇が再征し、かつ失敗に終わったと書かれる。 このことは、倭国は歴史上薩摩・大隅への出撃を再三試みたが、なかなか征圧できなかったことが、歴史的事実として記紀編纂期の人々の共通認識になっていたことを窺がわせる。 だから熊襲はひとまず放っておいて、先に三韓を占領しようとしたと理解された。 倭国の半島進出が書かれた『宋書夷蛮倭国伝』の時代〔5世紀〕に(倭の五王)、意識してそのような政策判断が行われたかどうかは分からないが、 結果的にはその形になっている。従って、仲哀天皇のとき三韓と熊襲を天秤にかけたという発想は、容易に思いつき得るものである。 【書紀】 6目次 《天皇疑二神言一》
時に神有り、皇后(おほきさき)に託(よ)せて[而]誨(をし)へ曰(のたまはく) 「天皇(すめらみこと)、何(いか)に熊襲之(の)不服(したがはざる)ことを憂(うれ)ふや。 是の膂宍之空国(そししのむなくに)は[也]、豈(あに)足兵(つはもの)を挙あげて伐(う)つことに足る乎(や)。 茲(この)国に愈(まさ)りて[而]宝の有る国、譬(たとへ)ば処女(をとめ)之(の)睩(まよがき、まなこ)の如(ごと)くして、 津に向ふ国有り【睩、此(これ)麻用弭枳(まよかき)と云ふ】。 眼に炎之(ほむらの、ほのほのごとくかがやける)金(くがね)・銀(しろがね)・彩色(いろとりのもの)、多(さは)に其の国に在り、 是(これ)栲衾(たくぶすま)新羅(しらき)の国と謂ふ[焉]。 若(もし)能(よく)吾(われ)を祭ら者(ば)、則(すなはち)曽(さね)刃(やきは)を不血(ちぬらず)、其の国必ず自(おのづから)服(したが)はむとし[矣]、 復(また)熊襲服(したが)はむを為さむ。 其の[之]祭りは、天皇之御(をさめたまふ)船(みふね)及(と)、穴門(あなと)の直(あたひ)践立(ほむたち)の所献之(たてまつりし)水田(みづた)、名は大田(おほた)と、 是等(これら)の物を以ちて幣(みてぐら)と為(す)べし[也]。」とのたまふ。
便(すなはち)高き岳(たけ)に登り、遙(はるか)に大海(おほうみ、たいかい)を望み[之]、曠遠(くわうえむに、ひろくとほく)して[而]国を不見(みず)。 於是(ここに)、天皇神に対(こた)へて曰(まをさく) 「朕(われ)周(あまね)く[之]望みて、海有りて国無く、豈(あに)[於]大虚(おほぞら)に国有る乎(や)。 誰(いづれ)の神か徒(いたづら)に朕(われ)を誘(いざな)ふ。 復(また)我(わが)皇祖(すめろき)諸(もろもろの)天皇(すめらみこと)等(ら)、尽(ことごとく)神(あまつかみ)祇(くにつかみ)を祭りたまひ、豈(あに)遺(のこ)る神有る耶(や)。」とまをす。
「天津(あまつ)水影(みづかげ)の如(ごと)押し伏せて[而]、我(わが)所見(みゆる)国、何(いか)にも国無しと謂ふは、[以ちて]我が言(こと)を誹謗(そし)りぬ。 其の汝(いまし)王(おほきみ)之(の)此の如く言ひて[而]遂(つひ)に不信(うけざれ)者(ば)、汝(いまし)其の国を不得(えず)。 唯(ただ)今皇后始之(はじめて)有胎(はらみたり)て、其の子(みこ)が有獲(えたり)[焉]。」 然(しかれども)天皇猶(なほ)不信(うけまつらざ)りて、[以ちて]強ひて熊襲を撃ち、不得勝(えかたず)して[而][之]還(かへ)りませり。
即(すなはち)神言(かむこと)を不用(もちゐらざり)て[而]早くして崩ず(かむあがる)と知れり。 【一(ある)云はく、天皇親(みづか)ら熊襲を伐ちて、賊(あた)の矢に中(あた)りて[而]崩(ほうず、かむあがる)[也]。】 《如此言而遂不信者》 〈丙本〉如此言而※不信者【古止久乃玉天宇介太末波須波】〔ごとくのたま(ひ)てうけたまはずは〕。※…「遂」は脱落したか。 天皇を非難する文脈中であり、また記で神を天皇の上位に置いていることから見て、天皇への尊敬語の使用には疑問がある。 しかし、それはそれとして、同時に天皇に対する絶対敬語が持ち込まれているともいえる。 《直践立所献之水田》 直(あたひ)は国造・県主の姓である。 神功皇后記に「穴門直之祖踐立」「以二踐立一為下祭二荒魂之一神主上」とあるから、践立は人名である。 書紀独自の内容として目立つのは、「神」が船と供米田の提供を求めているところである。 《大意》 〔八年〕九月五日、側近の者に詔され、議を経て熊襲を討つこととしました。 その時神が現れ、皇后に託して教えを垂れました。 「天皇よ、どうして熊襲が服さないことを憂いているか。この痩せた土地の国は、わざわざ挙兵して征つに足るほどのものか。 この国に増して宝がある国、譬えれば乙女が眉墨を引いたような〔または、乙女の眼(まなこ)のような〕、港の向こうの国がある。 眼に炎に映る金・銀、鮮やかな色のものが、多数その国にあり、これを新羅国という。 もし私を祭ることができれば、特に刃を血で染めることもなく、その国は必ず、自ずから服するであろう。また、熊襲をも服するようにしてやろう。 その祭り方は、天皇の御船、及び穴門(あなと)の直(あたい)、践立(ほむたち)が献上した水田、その名は大田、これらを捧げものとせよ。」と。 天皇は神言をお聞きになり、疑いの心が生まれました。 そこで、高い山岳に登り、遙かに大海を望み、広く遠く国を捜しましたが見えませんでした。 そこで、天皇は神に、このようにお答え申し上げました。 「朕はあまねく望み見たが海はあるが国はない。大空に浮かんだ国があると言うか。 何という神がいたずらに朕を誘っているのか。 私の皇祖、諸々の天皇により神祇はもれなく祭られている。そこから漏れた神などあるものか。」と。 その時、神はまた皇后に託言されました。 「まるで水面に映った虚像のように言いくるめて、私には見える国があたかも存在しないかのように言うとは。私の言葉を誹謗するのだな。 お前という王がそんなことを言い、遂に信じぬのなら、お前はその国を得ることはできない。 ただ、すでに皇后が身ごもっているから、その子が獲ることになろう。」 しかし、天皇はなお信じず、強引に熊襲を撃ちに出かけられましたが、勝利を得ることができないまま帰って来られました。 九年二月五日、天皇は突然身に痛みが走り、翌日崩御されました。御年五十二歳でした。 これは、神言を用いなかったから早世したのだと知られています。 【一説では、天皇が熊襲に親征したとき、敵の矢に当たって崩御されました。】 【処女之睩】
一説には朝鮮半島を沖から見た形を、細い眉に例えたという。 それでは、海から陸は実際にはどのように見えるのだろうか。一例として、愛知県知多半島南端の羽豆岬の展望台からは、志摩半島が見える。羽豆岬からその海岸までの距離は約25km、 朝熊ケ岳(555m)までは約31kmである。 これが「乙女の眉墨」に見えるかどうかは、個人の主観による。 《海から陸地が見える距離》 そもそも地球は球形だから、陸地を海から見ることのできる範囲は限られている。それでは、どのくらい近づいたら見えるようになるのであろうか。 その範囲は、右のようにして計算することができる。 釜山から200kmほど離れた北九州市から見ようとすると、およそ3100mの高さまで登らなければならない。 しかし、筑前国の最高峰は978mだからそんな場所はどこにもなく、仲哀天皇が山に登っても見えないと言ったのは正しい。
《眉墨とする解釈》 原注では「睩」を眉墨と訓めと指示するが、原注は本文と一体ではなく、既にひとつの解釈である (第84回《「爾」の音》)。 ここは、腰を据えて「睩」の用例に当たる必要がある。 「睩」は右の用例から、もともと身体器官としての「眼」を意味することがわかる。これを眉墨と訓むのは、どうしてであろうか。 これについては用例の一つ、『楚辞』〔前475-前221〕〈招䰟〉の「蛾眉曼睩,目騰光些」が注目される。
「王逸注:蛾眉玉白、好目曼澤、時睩睩然視、精光騰馳、驚惑人心也。」 〔くっきりした眉で(=美顔で)珠のように白く、好い眼はみずみずしく、時に視線を巡らし、 澄んだ眼光が走り、人の心を驚き惑わせる〕 書紀の原注は、「睩」を「蛾眉曼睩〔くっきりした眉+好奇心いっぱいの魅力的な目、または切れ長の目〕」の省略形としてとらえ、前半の蛾眉の部分だけを訓に用いたことが分かる。 その結果「睩=眉墨」が独り歩きして、「細い眉毛のように見える陸地」という無意味な解釈を生んだ。海から見る陸は水平な直線状で、湾曲または逆八の字の蛾眉には似つかわしくない。 「睩」のもともとの意味は眼球・瞳だから「まなこ」と訓み、「おとめのまなこの如し」とすれば、宝石への形容語句となって「宝の国」を受けることができ、全く違和感はなくなる。 原注は『楚辞』から「蛾眉曼睩」を見つけることはできたが、文脈に合うかどうかは考慮せぬまま、頭の部分だけを取り出して訓としたのである。 【訓読における絶対敬語の付加】 続紀は事実の簡潔な列記を旨としており、時に 〈大宝元年〔701〕六月壬寅朔〉庚午〔29日〕。太上天皇幸吉野離宮。の「幸」のような尊敬語を慣用的に用いることがあるが、 訓読者がそれ以上絶対敬語を付加すべきでないのは、明らかである。 書紀の古訓では絶対敬語の付加が頻繁に行われるが、「如此言而遂不信者」に丙本が尊敬表現を加えたことは、不適切だと思われる。 この段落では神は天皇を徹底的に卑下している。 ところがそこに天皇への絶対敬語をつけ加えると、 神の怒りが遠慮がちに感じられ、原文の勢いが削がれて生温いものになる。 だから、何でもかんでも絶対敬語を足せばいいというものではない。 訓読は一般的に、 ●原則的に、尊敬表現の追加は不要である。 ●但し、習慣的な省略が明らかな場合や、その方が語調が滑らかになる場合は、上下関係を崩さない範囲で追加することができる。 とするのが適切であろう。 まとめ 書紀は記を読み取るため参考資料と位置付け、記に直接関わる部分を中心に扱ってきたが、 今回「睩」の解釈については思わぬ深入りをすることになった。 この字については中国古典における使用例も少なく、比較的手の届く範囲で調べることができた。 その結果軽々しくは言えないが、原注は『楚辞』に一緒に書いてあった「蛾眉」に引きずられた可能性を知った。 原注と言えども必ずしも絶対的ではないことが分かったのは収穫であった。 これは、以前八咫烏の声「怡奘過」を「いざわ」とした原注への疑問の正当性をも 裏付けるものである( 第99回【書紀:戊午(55)年十一月】《過音倭》・ 第101回【書紀:神武天皇即位後】《葛野主殿県主部》)。 さて、書紀では女帝神功皇后の時代を、魏志の女王卑弥呼の時代に対応させていくが、 記はその原型を見せている。今回は神功皇后が神の言葉の伝達者になるところと、 西の国が金銀などの目に炎の財宝をもたらす国であるところに、それが表れている。 成務天皇に続いて、仲哀天皇にも崩年月日「壬戌年六月十一日」の記載があるから、記録のある大王に当てはめたと考えたい。 しかし、香椎の宮に移って熊襲の征伐を試みたとされる事績は、現存した大王の行ったこととは全く無関係だと考えるべきであろう。 |
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2016.10.30(sun) [140] 中つ巻(神功皇后1) ▼▲ |
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爾驚懼而坐殯宮
更取國之大奴佐而【奴佐二字以音】 種種求生剥逆剥阿離溝埋屎戸上通下通婚馬婚牛婚鷄婚之罪類 爲國之大祓而 亦建內宿禰居於沙庭 請神之命 於是 教覺之狀具如先日 凡此國者坐汝命御腹之御子所知國者也 爾(しかるがゆゑに)驚き懼(をそ)りて[而]、殯(もがり)の宮に坐(ま)して、 更に国之(の)大奴佐(おほぬさ)を取りて[而]【奴佐の二字(ふたじ)音(こゑ)を以(もちゐ)る】、 種種(くさぐさ)に生剥(なまはぎ)、逆剥(さかはぎ)、阿離(あはなち)、溝埋(みぞうめ)、屎戸(くそへ)、上通下通婚(おやこたはけ)、馬婚(むまたはけ)、牛婚(うしたはけ)、鷄婚(とりたはけ)之罪の類(たぐひ)を求め、 国之(の)大祓(おほはらへ)を為(し)て[而]、 亦(また)建内宿祢(たけのうちのすくね)[於]沙庭(さには)に居(を)りて、神之命(おほせこと)を請(こ)ひまつりぬ。 於是(ここに)、教覚(をしへさとしたまはりし)[之]状(さま)、具(つぶさ)には先日(さきのひ)の如くにして、 凡(おほよそ)此の国者(は)、汝命(ながみこと)の御腹(みはら)に坐(ま)す[之]御子(みこ)の所知(しらしめ)る国なれ者(ば)[也]となり。 爾建內宿禰白 恐我大神坐其神腹之御子 何子歟 答詔 男子也 爾具請之 今如此言教之大神者欲知其御名 卽答詔 是 天照大神之御心者 亦 底筒男中筒男上筒男三柱大神者也 【此時其三柱大神之御名者顯也】 今寔思求其國者 於天神地祇亦山神及河海之諸神悉奉幣帛 我之御魂坐于船上而 眞木灰納瓠亦箸及比羅傳【此三字以音】多作 皆皆散浮大海 以可度 爾(しかるがゆゑに)建内宿祢白(まをさく) 「恐(おそ)りてまをさく、我が大神(おほみかみ)、其の神腹(かむはら)に坐(まします)[之]御子(みこ)や、何(いづれ)の子(こ)なる[歟]。」とまをし、 答へて詔(のたま)はく 「男子(おのこ)也(なり)。」とのたまふ。 爾(しかるがゆゑに)具(つぶさ)に請(こ)ひまをさく[之] 「今此の言(こと)の如く教へたまひし[之]大神(おほみかみ)者(は)、欲(ねがはくは)其の御名(みな)を知りまつらむ。」とまをし、 [即ち]答へ詔はく「是(これ)、天照大神(あまてらすおほみかみ)之(の)御心(みこここ)なれ者(ば)、 亦(また)底筒男(そこつつのを)、中筒男(なかつつのを)、上筒男(うはつつのを)三柱(みはしら)の大神(おほみかみ)なれ者(ば)[也]。 【此の時其の三柱の大神之御名者(は)顕(あらは)れり[也]。】 今寔(ここに)其の国を求めむと思(ねが)は者(ば)、[於]天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)亦(また)山の神及び河(かは)海(うみ)之諸(もろもろ)の神に、悉(ことごと)く幣帛(ぬさ)を奉(たてまつ)りて、 我之(わが)御魂(みたま)、[于]船の上(うへ)に坐(ましま)して[而]、真木(まき)の灰(はひ)瓠(ひさこ)に納(をさ)めまつり、亦(また)箸(はし)及び比羅伝(ひらで)【此の三(み)字(じ)音を以ちゐる】多(さは)に作りまつり、 皆皆(みなみな)大海(おほうみ)に散らし浮(う)けて、[以ちて]度(わた)る可(べ)し。」 このようなこととなり、驚き畏れ、殯(もがり)の宮に入られ、 さらに国の大幣(おおぬさ)を取り、 様々な生剥(なまはぎ)、逆剥(さかはぎ)、阿離(あはなち)、溝埋(みぞうめ)、屎戸(くそへ)、親子婚(おやこたわけ)、馬婚(うまたわけ)、牛婚(うしたわけ)、鷄婚(とりたわけ)の罪の類(たぐい)を集め、 国家の大祓(はらい)を行いました。 また、建内宿祢(たけのうちのすくね)を沙庭(さにわ)に置き、神命をいただくことを願いました。 先日神が教え諭された言葉の全部の中には、 「概ねこの国は、貴方様の御腹にいらっしゃいます御子の統治される国である。」という言葉もありました。 そこで、建内宿祢は申し上げました。 「恐れながら我が大御神、その神腹にいらっしゃいます御子は、どちらの子でございましょうか。」と。 すると、「男子である。」と仰りました。 そこで、より詳しく教えていただきたいと願い、申し上げました。 「今この言葉のように教えを給わった大御神とはどなたでございますか。願わくば、その御名を知りたいと存じます。」と。 これに、こうお答えになりました。 「これは、天照大神の御心であり、 また底筒男(そこつつのお)、中筒男(なかつつのお)、上筒男(うわつつのお)の三柱の大御神である。 【この時、その三柱の大御神の御名が明らかになりました。】 今、その国を求めようと思うのなら、天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)、山の神、河海の諸(もろもろ)の神に、すべて幣帛(ぬさ)を奉り、 私の御魂は船の上に祭り、真木の灰を瓢(ひさご)に納め、箸と枚手(ひらで)を大量に作り、 すべて大海に散らして浮かべ、渡るべし。」と。 ぬさ(幣帛)…[名] 幣帛(へいはく)。木綿・麻・紙などでつくる。 うま(馬)…[名]〈倭名類聚抄〉馬【和名無萬】〔むま〕。駿馬【土岐宇萬日本紀私記云須久禮太留宇萬】〔ときうま、すくれたるうま〕。 はらへ(祓)…[名] 神に祈って禍・罪・穢れを除き清めること。「祓ふ」の連用形(名詞形)。 さには…[名] 神を招請する場所。また、招請する人。〈甲本〉為審神者【サニハトス】。 請…(古訓) こふ。ねかふ。 欲…(古訓) おもへらく。せむとす。ねかはくは。 思…(古訓) おもふ。ねかふ。 はひ(灰)…[名] 灰。〈倭名類聚抄〉【波比】火燼滅也〔(はひ)燼滅=燃えてなくなる。〕。 ひさこ(瓠)…[名] ①ユウガオ・ヒョウタンなど。またその果実。②水をくむ器。 〈倭名類聚抄〉杓【瓢付】:杓【和名比佐古】斟レ水器也。瓢【和名奈利比佐古】瓠也。瓠【同】匏也。匏可レ為二飲器一也。 〔杓(瓢を付す):杓(ひさこ)レ水を斟(く)む器。瓢・瓠(なりひさこ)飲む器なるべし。〕 ひらで(葉盤)…[名] 柏の葉を重ねて、竹の串で刺し閉じて平たい皿のように作った食器。 〈倭名類聚抄〉葉手【比良天】〔ひらて〕。 ちらす(散らす)…[他]ラ四 散らす。 うく(浮く)…[他]カ下ニ 浮かべる。 【殯宮】 「殯」とは、遺体を葬る前の一定期間喪屋に置いてとぶらうこと。 〈丙本〉神代上の訓に、「殯歛之處【毛加里乃止古呂】〔もがりのところ〕」がある。 〈時代別上代〉には「喪屋・モガリの語は主として日本書紀古訓に見えるが、後にはない。葬礼の変遷に伴ってこの語も用いられなく立ったものか。」とある。 万葉集(0199~0201)に、柿本人麻呂が高市皇子の薨去を悼む歌を収める。その注 「高市皇子尊一城上〔=磯城上郡の〕殯宮二之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 并二短歌一」に「殯宮」が見える。 従って、記紀編纂時代には、喪屋にとぶらう習慣はまだ現実のものであった。 【天津罪・国津罪】 仲哀天皇の崩を悼んで、種々の罪の類の祓いをする。ここではその罪が列挙される。 その内容は『延喜式』〈祝詞〉と類似する。 「天津罪」は神の世界の罪、「国津罪」は現実社会における罪である。天津罪は、記上巻に須佐之男命の悪行として示される (第48回)。 〈祝詞〉六月晦大祓十二月准之〔六月みそかのおおはらへ、十二月これにならふ〕 の原文のうち、天津罪・国津罪に触れた部分は、
《たはけ》 「たはけ」と言えば、 『信長公記』(太田牛一)の一節の 「此の比、上総介を偏執候て、 聟殿は大だわけにて候と、道三前にて口々に申し候ひき。」 の部分に「たわけ」の語が見られる。 「は→わ」の音韻変化は平安時代に進行したと考えられているので、「たはけ」は安土桃山時代の「たわけ」の起源かも知れない。 「たわけ」の語源は「田分け」で、田畑を兄弟に分割相続させることによって子孫全員が貧しくなる愚かな行為という説明が当時からあったが、これは後付けによる俗説である。 さて、ここでは実際に対象となる罪人を集めてお祓いしたわけではなく、 恐らく、儀式としての大祓のときに用いられる祝詞を、そのまま持ち込んだものと見られる。 書紀はこの部分を、「解罪改過」の一言で済ませている。 祝詞は一種の音楽で、古事記も同じように「声で聞かせる」文学という性格をもつことを示すと思われる。 《馬》 弥生時代に馬の本体とともに倭に伝来したときの馬の発音[ma]に由来し、「無萬(ムマ)」は、子音を伸ばして発音した[m-ma]を文字に書き取ったものと考えられている。 《牛》 牛は、〈倭名類聚抄〉に【宇之】〔うし〕。〈時代別上代〉は、十二支の「丑」について、正倉院文書の戸籍から「宇志麻呂」「牛麻呂」を見出している。このように、牛が古くから「うし」と呼ばれたのは間違いない。 倭国への移入は、牛の形象埴輪の存在により古墳時代と考えられている。語源は「おほ(大)+しし(宍)」ともいわれるが(語源由来辞典)、用途は食肉よりも農作業だったと思われるので、疑問である。 【教覚之状具如先日…】 ここは、前回お告げを受けたのと同じ作法で再びお告げを受けたら「凡此国云々」と聞いたとも読める。 しかし、審神者(さには)が具体的な質問をしないうちから、いきなり「おほよそこの国は…」と言い出すのは不自然である。 改めてこの文の「教覚之状」「具(つぶさに)」「先日」に注目すると、「先日、教え覚されたことを具に(=全部)述べると」という文意が浮かび上がってくる。 「教覚」が前回の表現と同じで、また「動詞+之+体言」の「之」がしばしば完了の助動詞「き」の連体形「し」を表すことも、それを裏付けている。 よって、「先日教え諭されたことの全体を述べれば、その中で御腹の皇子はこの国を治められると言っていた」と読むのが自然である。 《訓読》 しかし、訓読はなかなかむずかしい。「教覚之状」を主語とし、副詞「具(つぶさに)」に、係助詞「は」を足してその後ろ全体を覆う。 そして「如先日」で一旦区切り、「先の日にのたまひし如く」という意味の形容節として扱えば、一応意味の通る和文となる。 《此国とは》 さて、「此国」は、倭、三韓のどちらか。建内宿祢が「それは男子か女子か」と尋ねているのは、天皇は男子であるべきだがどちらだろうか、と気にしているからだろう。 しかし、これはもともと「先日の教覚」の中で言った言葉だから、文脈からみて三韓を指すと見るべきであろう。 これは、書紀の読み方と一致する。 ただ、三韓を治める者が、その前提として天皇であることは当然だから、建内宿祢が天皇としての性別を気にしたとしても特に不自然ではない。 《者也》 宣長は、文末の「者」を「ぞ」と訓む。文末の助詞「ぞ」は断定で、時に繋辞("is"の類)を兼ねる。 ところが、漢文の「者」は「人」という意味以外は、基本的に主格の助詞(現代日本語のは、が)、及び条件節からの接続詞(~なら(れ)ば)である。 文末用法もなくはないが限定的で、語気詞として〈学研新漢和〉は命令、〈三省堂漢字海〉は疑問の用例を僅かに挙げるだけである。 だから、文末の強い断定の助詞として広く使われるとは言えない。 記に時々見られる「A者B者」の形 (68回・89回) では、語尾の「者」が繋辞であるのは明確だが、万葉集では語尾の「なり」「ぞ」に「者」の字を宛てる例は存在しない。 〈新漢和〉の古訓は、あに。は。ひと。みき。もの。ですべてである。 文末の「者」を「なり」「ぞ」と訓読すれば意味が通じるのは確かだが、古事記以外には見つからない。 言い回しのひとつとして、倭語の「~なれば。」を文末に置き、余韻を残す断定として使っていた可能性も否定しきれない。 しかし、この「教覚之状…」の文には「なり」をつけることができる。ここでは言葉の引用をうけるから、「鳴り」を語源とする方の「なり」がつくのは自然である。 しかし「者」に「なり」を宛てるまでは踏み切れないので、「ば」も温存して「なればとなり」と訓んでおく。 【請】 訓に「ねぐ」「ねがふ」「こふ」がある。「ねぐ」「ねがふ」はどちらかというと「祈る」意味であるのに対し、 ここでは直接神に質問しようとしているから、「こふ」が適当であろう。 【沙庭】 沙(さ)は音読みで、沙庭は砂の庭を意味する。この語からは、時代劇の「お白洲」が連想される。白砂は、その場所を神聖化するのである。もっとも初期は、普通の砂利であったと言われる。 音楽は、時代・民族を問わず普遍的に人の心を神の世界に導くものであった。 白砂に琴の音が響く幽玄の中で、神を呼ぶ様子が目に浮かぶ。 沙庭に座り、神に質問する「審神者」もまた、「さには」と呼ばれたようだ。 【底筒男中筒男上筒男三柱の大神】 降りてきた神の自己紹介はややこしい。 ①神は「これは天照大御神の御心である。」と話す。名前を尋ねられてこう答えるのであるから、「私は天照大神である。」という意味であろう。 ②底筒男・中筒男・上筒男三柱であると名乗る。 二人の名を一人が名乗るのは人間界では不合理だが、神が憑くときは複数の神が途中で交代したりするのであろう。 記では天照大神だが、書紀では 「伊勢国・渡会県・五十鈴宮に居(ましま)す、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」と名乗る神がやって来る。 念のためにその五十鈴宮について調べたが、五十鈴宮が天照大神を祀る内宮(皇大神宮)の別名であることは揺らがない。 神の名は長いが、そのうち「榊を撞く」「稜威の御霊」は美称である。 よって、この名前の実質的部分は「向津媛」である。 この「向津」については、前段で三韓を「向津国」と表現していた。「天疎(あまさかる)」は、鄙(辺鄙な土地)にかかる枕詞。 後に船で難波に向かうときには、「天照大神」という名の神が登場するから、 「向津媛」は、天照大神が神功皇后の三韓征伐に同行するときの一時的な名前と見られる。 後に述べるように、長い名前になっているのは、単純に登場を勿体ぶらせるためであろう。 それはそれとして、記から書紀にかけて、天照大御神の役割をより小さくさせようとする傾向が見える。 かつて天孫を天照大御神の孫から、「高皇産霊尊の孫」に再定義した (第81回【なぜ天降りが…変更になったか】 ・第83回【天照と高御産巣日神の関係】)。 ここの書紀にも、比重を筒男三神に移行させようとする思惑が感じられ、天照大御神の役割は、相対的に小さくなっていく。 書紀における最終的な処理を見ると、三神を荒魂と和魂に分かち、前者は住吉神社(下関市)に祭られ、後者は住吉大社(大阪市住吉区)に祭られる。 なお、その経過については、伊邪那岐命禊の段で一度調べた(第43回)。 書紀は、記の「其底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命、三柱神者、墨江之三前大神也」に従った上で、 三韓支配の守護神として長門に祀るために、魂を分割したのである。 【此時其三柱大神之御名者顕也】
第2の説として、作者ではない誰かが「墨江大神の荒御魂」の表現では不満足で、 書紀と同じ表現で「底筒男中筒男上筒男」と書くべきだと考えたということである。そして原文に三大神の名を書き加え、 初めての名前がいきなり出てくるのもまずいので、「ここで(初めて)御名が現われた」という注釈を加えた。 この者は、伊邪那岐命の禊の件を忘れていたのであろう。 《宣長説》 ところで、本居宣長はどのように考えたのだろうか。 宣長は、「師は後人の加へたりと云つれど必ず然も聞えず」 〔師(賀茂真淵)は、後の人の書き加えと言うが、一般にはあまり聞かれない説である〕とし、 「先に命を請〔※〕奉りし時には御名告なく 何神とも知られざれりしを此度問奉りしに依て始めて 如レ此〔かのごとく〕御名告し賜へるを云なるべし」 〔先に命を求めたときは名乗りがなく、この度問うて初めて名乗りがあったことを言う〕。 しかし、天照大神のことを言わず三柱大神のことだけ言うのは、「此ノ度の事に主と坐が故なり」 〔この度の事=三韓征伐の軍神として、主たる役割を担うからである〕 と言う。 ※…ルビのカタカナは原文・ひらがなは引用者。 宣長はこのように述べるが、記においては三神が主導したかどうかははっきりしない。 また、宣長の言う程度のことなら、本文を読むだけでわかることで、わざわざ注記を加える必要はない。 賀茂真淵も「後人の加へたり」と言い、この注記には違和感を感じていたことが分かる。 《第三の説》 ところが、第2の説のように他の人が書記に倣って書き加えたと仮定した場合、矛盾が生じる。 書紀の表記は「上筒男中筒男底筒男」だが、記は「底筒男中筒男上筒男」である。 これは、伊邪那岐命の禊の件の「底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命」と一致している。 だから、「この者が伊邪那岐命の禊のときのことを忘れて注記を加えた」という仮定は成り立たない。 そのように考えると、三大神はやはり記の作者自身が書き加えたのだろう。 それは議論の果てに行われたことで、書き加えた三大神が 確かに本文の一部になったことを示すために、念のためにメモを書き添えた。つまり、 「(これまでは書いていなかったが)三柱大神の名がこの時に出てくる!」と書いて、注意喚起するのである。 そのイメージを右に示す。 清書される時点では無用となるメモであるが、忠実な筆写者はそのまま割注として書き写し、末長く残ることになった。 少なくとも三大神の名を載せるにあたって議論があったことが、 この注釈につながったと思われる。 記と書紀の関係者は連絡を取り合っていたのだろう。 そして、まさに記紀の編集の進行中に、筒男三大神の役割を増大する方向の動きがあったわけである。 【書紀】 2目次 《欲求財宝国》
時に皇后(おほきさき)、天皇神の教(をしへ)に不従(したがはざり)て[而]早くして崩(ほう)ぜしことをを傷(いた)みたまひて、 以為(おもへらく)所祟之(たたりし)神を知り、[欲]財宝(たから)の国を求めむとす。 是以(こをもち)、群臣(まへつきmたち)及び百寮(もものつかさ)に命(おほ)せて、以ちて罪(つみ)を解(はら)へて過(あやまち)を改めしめ、 更に[於]小山田邑(をやまだむら)に斎宮(いはひみや)を造れり。
斎宮(いはひみや)に入(いま)し、親(みづから)神主(かむぬし)と為(な)りたまふ。 則(すなはち)武内宿祢に命(おほ)せて琴を撫(ひ)か令(し)めて、 中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を喚(め)して審神者(さには)と為(し)たまふ。 因以(しかるがゆゑをもちて)千繒高繒(かとりのちくらたかくら)に琴頭尾(ことかみことしり)を置きて[而]、 請(ねが)ひ曰(まを)さく「先の日に天皇に教(をし)へたまひし〔かみ〕者(は)誰(いずれ)の神か[也]、願(ねがはくは)其の名(みな)を欲知(しりまつらむ)。」 [于]七日(なぬか)七夜(ななよ)に逮(いた)りて、[乃(すなはち)]答へ曰(のたまはく) 「神風(かむかぜ)伊勢国(いせのくに)之(の)百伝(ももつたふ)度逢(わたらひ)の県(あがた)之(の)拆鈴(さくすず)五十鈴(いすず)の宮に所居(まします)神、 名(みな)は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)とのりたまふ[焉]。」
答(こた)へて曰(のたま)はく「幡荻(はたすすき)穂(ほ)の出(い)づる吾(われ)は[也]、[於]尾田(をだ)の吾田節(あがたふし)之(の)淡郡(あはのこほり)に所居(まします)神之有(なり)[也]。」とのたまひて、 問ひまをさく「亦(また)有り耶(や)。」とまをせば、 答へて曰はく「於天事代(あめにことしろ)於虚事代(そらにことしろ)玉籤入彦厳之事代主神(たまくしいりひこいつのことしろぬしのかみ)、之(これ)有り[也]。」とのたまひて、 問ひまをさく「亦有耶。」とまをせば、 答へて曰はく「有りや無しや、之(これ)不知(しらず)[焉]。」とのたまふ。 於是(ここに)、審神者(さには)曰(まを)さく 「今不答(こたへず)とも[而]、更(また)後(のち)に言(こと)有らばや[乎]。」とまをせば、 則(すなはち)対(こた)へて曰はく 「[於]日向国(ひむかのくに)の橘小門(たちばなのをど)之(の)水底(みなそこ)に所居(ましまし)て[而]水葉(みなはも、みづのなかの)稚(わかえ)之(に、の)出居(いでませる)神の名は、 表筒男(うはつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神之(これ)有り[也]。」とのたまひて、 問ひまをさく「亦有耶。」とまをせば、 答へて曰はく「有りや無しや之不知(しらず)[焉]。」とのたまひ、遂に且(また)神有りと不言(いはず)[矣]。 時に神語(かむがたり)を得て、教(をしへ)に隨(したが)ひて[而]祭りませり。 《中臣烏賊津使主》 中臣氏は、天児屋命を祖とし、中臣鎌足は大化の改新で活躍し、「藤原氏」を給わる。 藤原不比等〔659-720〕は、娘宮子を文武天皇の妃に送り込み、閨閥として権勢を振う。 天武天皇十年〔681〕三月に、「令レ記二定帝紀及上古諸事一」したのが書記編纂の開始と見られ、 十二人の編集委員の一人として中臣連大嶋が参加している(第50回【注連縄】 )。 中臣氏はここでも、中臣烏賊津使主を審神者(さにわ)として送り込んだ。 記が一回目に神を降ろしたときは、撫琴者=仲哀天皇、審神者=建内宿祢であった。 今回は仲哀天皇は既に亡いから、武内宿祢を撫琴者に回し、中臣烏賊津使主を審神者として、潜り込ませた印象である。 さらに、一回目に仲哀天皇が撫琴者を務めたことは、書紀には書かれなかった。 《千繒高繒》 両サイドに「千繒高繒」を置き、それぞれ琴頭と琴尾を載せる。現代用語では、それぞれの部分は龍頭・龍尾と呼ばれる。 甲本・丙本はその前後にはほとんどの語に訓をつけているが「千繒高繒」だけにはつけないから、 単なる置台として捉え、訓みはあまり気にしなかったと思われる。 類似語としては、千位置戸(ちくらおきと、記神代)、千座置座(ちくらおきくら)がある。 この「くら」はもともと〈時代別上代〉「ものを載せておく場所で、複合語にのみ見られる」。 琴は、神を呼ぶ神聖な楽器であるから、「千」「高」はその載せ台も高貴なものとするための美称であると思われる。 「繒」は、かとり(固織りの絹織物)である。これを用いことを字で示したのであろう。 普通は気にも止めない載せ台に敢えて触れるのは、高級な敷物を見せて、琴の神聖さを強調したと考えられる。 これについて〈釈日本紀〉には「高機織二-出千疋之繒一也。或説。千比々利爾織成之繒也。(中略)帛。」 〔高機※(たかはた)に千疋(ひつ)の繒を織り出づ。ある説に、千(ち)ひひりに織り成りし繒。(中略)〕とある。 ※…機(はた)は織機、またそれで織った布。 岩波文庫版の訓「ちはたたかはた」は、この釈日本紀によるものであるが、 古語辞典にもなく一般的とは言えない。上代の人には意味不明であろう。 しかし、「ちくらたかくら」と訓めば少なくとも「神聖な置台」であることは伝わるであろう。 《筒男三神などの登場》 最初の答えを得るまでに七日七晩もかかり、その後も何度も質問を重ねた末に、少しずつ神が姿を現す。 現れた天照大神、淡郡所居神、筒男三神にはそれぞれ形容語句がつけ、またその名はやたらに長い。 要するに、こうやって勿体ぶった登場をさせた。 最初は長く待たされ、神功皇后は軽く見られている。 しかし、とうとう大神たちを呼び出すことに成功する。 この過程を通して、神功皇后は、大皇后に進化したのである。 《大意》 〔仲哀天皇〕九年二月、足仲彦(たらしなかつひこ)天皇は筑紫の橿日宮(かしいのみや)に崩御されました。 時に、皇后は天皇が神の教えに従わずに早世したことを傷ましく思われ、 考えたのは、祟りの神を知り、自分こそが財宝の国を求めようということです。 そこで、側近の者と官僚に命じて、罪を祓い過ちを改めさせ、 更に小山田邑(おやまだむら)に斎(いつき)の宮を造らされました。 三月一日、皇后は吉日を選び 斎の宮に入られ、自らを神主とし、 武内宿祢に命じて琴を弾かせ、 中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を召き、審神者(さにわ)に任命されました。 そして、繒(かとり、=細密な絹織物)を重ね、それぞれ琴の龍頭と龍尾を置き、 このようにお請(ねが)いました。 「先日に天皇にお教えを給わった神は、何という神でおわせられますか。願わくばその御名を知りたいと存じます。」と。 それから七日七夜に至り、お答えがありました。 「神風(かみかぜ)伊勢の国、百伝(ももつたう)渡会の県(あがた)の、拆鈴(さくすず)五十鈴の宮にいらっしゃる神、 御名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)である。」 もう一度「この神以外に、まだ神は有りますか。」と問うと、お答えがありました。 「幡薄(はたすすき)穂のように出る私こと、尾田(おだ)の吾田節之(あがたふせし)淡郡(あわのこおり)に坐(ます)神である。」と。 さらに「まだおられますか。」と問うと、 「天(あめ)に事代・虚(そら)に事代・玉籤入彦厳之事代主神(たまくしいりひこいつのことしろぬしのかみ)がおられる。」と答えられ、 「まだおられますか。」と問うと、 「有るか無いか、これを知らず。」と答えられました。 そこで、審神者(さにわ)が申しあげました。 「今お答えにならなくても、また後(のち)にお答えいただければ。」と申しあげたところ、 すぐにお答えがありました。 「日向(ひむか)の国、橘小門(たちばなのおど)の水底(みなそこ)にいらっしゃり、水の葉の若さから現れた神の名は、 表筒男(うはつつのお)、中筒男(なかつつのお)、底筒男(そこつつのお)の神である。」と。 「まだおられますか。」と問うと、 「有るか無いか、これを知らず。」とお答えになり、遂にさらに神が有るとは言われなくなりました。 この時に得た神語により、教えに従い神々をお祭りしました。 【尾田吾田節之淡郡所居神】 この神が現れるのはこの場面だけで、どのような神であるかはっきりしない。 第43回で 「『田節』は、答志の古名」説を紹介はしたが、「吾田節」はやはり「田節」ではない。 尾田・吾田・淡郡に当てはまりそうな地名を〈倭名類聚抄〉から拾うと、 {摂津国・武庫郡・雄田【乎多】郷} {備中国・小田【乎太】郡・小田【乎多】郷} {薩摩国・阿多郡・阿多郷}{阿波国・阿波郡}がある。 あまりにもばらばらだから、これらの土地はこの神とは無関係に思えるのだが、様々な場所かの神がまとまって現れたとする考え方もできる。 「郡(こほり)」は国の下の区分だから、比較的広い。「あはのこほり」については、須佐之男命の禊の場面で「小門之阿波岐原」は 本当は日向国ではなく阿波国だろうと推定した(第42回)。 ならば、筒男三神と関係がありそうだから、地名らしきもののうち「淡郡」のみが本当の地名(=阿波郡)かもしれない。 そして前の部分は、 「尾田(小田、小門)の吾が仆せし」など、神話を要約して作られた形容句かも知れない。 あるいは、全体が「小田県伏淡郡坐神(をだあがたふせのあはのこほりにましますかみ)」などの神の名と考えるべきかも知れない。
【小山田斎宮】 小山田斎宮(をやまだいつきのみや)は、 『福岡県神社誌』〔1945〕によれば、 「村社 齋宮 柏屋郡小野村大字小山田字大裏〔現福岡県古賀市小山田346〕 祭神 事代主大神、健布都大神、天照大御神、住吉大神、息長足姫尊」 斎宮の「縁起」から一部を抜粋すると
文中の、「字聖母屋敷の小祠」は、山田村斎宮(福岡県粕屋郡久山町山田(大字)232)である。
「聖母大神」は応神天皇を生んだ神功皇后だと思われる。検索をかけてみると、 太祖神社(福岡県糟屋郡篠栗町若杉1047)にも聖母大神が祀られていることが分かった。 『福岡県神社誌』の太祖神社の項には、 「上古より神德顕著にして上下の尊崇厚き神社なり中古に至り伊弉諾尊を中座とし 右側に八幡大神・聖母大神・寶滿大神を祭り、左側には天照皇大神・志賀大神・住吉大神を祭れり。」 とあるように中古、つまり平安時代になってから聖母大神を祀った。 祭神に住吉大神(=三筒男神)が含まれ、また宝満大神は財宝の国に関係すると思われるので、 これらの祭神の多くは、書紀が書かれた後にその記述に基づいて祀られたと思われる。 前回見たように香椎宮の創建は書記以後であったが、 太祖宮の縁起も、糟屋郡に神功皇后を祀ったのは書紀以後であることを裏付ける。 ここで、太祖宮の祭神のうち「志賀大神」が気にかかる。志賀島は「委奴国王」金印〔後漢書建武中元2年=57年記載の金印と推定〕の出土地である。 魏志倭人伝を見ても、筑前国の地域と朝鮮半島との往来は古代から継続している。 書紀以前から、三韓との交流を描く独自の神話があり、 それが書紀の神功皇后と融合した可能性もある。 逆に記紀の制作過程でも地元の題材を取材し、「石を腰に巻いて出産を遅らせた」話もそうやって拾ったものかも知れない。 【事代主神】 八重事代主神は、鴨都波神社に祀られれている。同社の所在地は、上葛城郡(現在の御所市)で、一説には鴨氏の発祥地であった (第112回【鴨君】)。 またこの地には、天孫族と交流はあるが、別の独自の一族がいた (第105回《鴨都波一号墳》) が、これが鴨氏であるかどうかは分からない。 鴨氏の祖先は出雲系氏族と融合して、共に大物主を祀ったようだ。 その背景に、両者があまてらす族に対して類似した立ち位置にいることの共感があった (第78回【鴨都波神社・高鴨神社】)。 その結果両者の伝説が融合して、記において大国主・事代主命の親子関係が成立したと考えた。 しかし、今回天照族との過去の軋轢は問わない。 神功皇后の三韓への進出はそれだけの大事業で、事代主の大神を祀る大族の協力が不可欠と考えられたと思われる。 《天に事代・空に事代・玉籤入彦厳之事代主神という表現》 「天に事代・空に事代」は基本的に語調を整えるためのもので実質的な意味はないのだろうが、 漠然とした言葉として受け取られたと思われる。 それでは、「ことしろ」は上代の人にどのような語感を与えたのであろうか。 類似の言葉としては、ものしろ(物実)(=ものの材料)がある。 "もの"と"こと"を比較するために食事を例にとると、"もの"は食物で、 "こと"は手に取ってから呑み込むという一連の動作、あるいは毎日の習慣などを意味する。 とすれば「ことしろ」という語は、 様々なものごとの由来、成り立ち、ありさまのような意味で受け止められたと想像される。 「あめに」「そらに」は、飾りことばであろう。 【水葉稚之出居神】 ●〈甲本〉「葉稚之出居神名」が本文から欠落し、訓のみ【波母和加夜尓㘴流神名】〔はもわかやにませるかみのな〕がある。 ●〈丙本〉水葉稚之【美奈波毛呂加也乃】〔みなはもわかやの〕。…「呂」は恐らく「和」の誤写。 延喜式祝詞(出雲国造)から見て、「わかや」は下二段「わかゆ」の連用形(名詞化)「わかえ」の訛りと思われる。 岩波文庫版は甲本・乙本に「か」を補って「わかやか」とするが、意味は同じである。 甲本は「之」を「に」と意訳し、乙本は「の」のままを守る。 「みなはも」は、少なくとも甲本・丙本に共通である。「みな」="み"(水の古形)+"な"(古い属格の助詞)は、「みなもと」「みなと」「みなかみ」「みなそこ」などの熟語として残っている。助詞「も」は特別の感情を伴うので、 「みなはも」という慣用表現が存在したことを伺わせる。しかし、「みなはも」は万葉集・古事記には存在せず、他の文献にも今のところ見つからない。〈時代別上代〉をはじめとして各種古語辞典の項目にもないので、 一般的ではない。本当は「みづのはの」だったのを、平安時代の学者が独断で訓んだ可能性すら感じられる。 意味に戻って考えてみると、「水草の葉の若々しさに出現した神」であるのは間違いない。それなら普通に「みづのは」と訓んでもよいだろう。 さて右図は、『国史大系』第八巻(吉川弘文館)から採った画像から真の姿の復元を試みたものである。同書の序文によれば原文は「延宝六年〔1678〕に佐々宗淳が日野家所蔵の本を転写した」もので、水戸徳川家の「彰考館所蔵本を写真凸版」したものという。 その甲本・丙本は誤写だらけであるが、この部分ではそれが特に顕著である。「小門之水底……底筒男神」など近くに同じ文字があると飛んでしまい、また訓が無関係な場所に行ってしまっている。 おそらく文章を読み取る力のない筆写者によるものであろう(佐々宗淳を非難しているのではない。もっと以前の段階であろう)。 しかし、偽書ならばもっと巧妙に作られたはずである。むしろ原形が破壊された断片の寄せ集めである方が、真の姿が残っていると言える。 まとめ 謎の注釈の解釈については、随分悩まされた。一時は後世の書き加えの可能性が浮かび上がり、 となればすべての部分から書き加えの部分を峻別する必要が生じ、古事記そのものの読み方を変えなければならなくなる。 結局、執筆者自身が書紀に合わせて書き足す過程で残されたメモであろうとする考えに到り、 ことは辛うじて太安万侶存命中におさまっている。ただし、「執筆者によるメモ」説は、まだ可能性の一つに過ぎない。 神功皇后神話の本格的な構築は、書紀の上で行われた。 そして筒男三大神の位置付けについては、記を巻き込んだ議論があった。 当初、軍神として位置づけられた天照大神はもともと伊勢国を中心とする勢力の神で、 荒魂を広田国(兵庫県西宮市広田神社か)に分けるのが精一杯であった。 となると「これも天照大神の功績か」という長門・筑前地域の感情が高まり、書紀編者もそれを無視できなかったのではないか。 実際、三韓征討の守護神の所在地は伊勢よりも長門が相応しい。 神功皇后の親征はフィクションだが、倭国が倭の五王の時代に三韓地域に干渉したこと自体は事実で、その軍勢の中心は長門・筑前であっただろう。 彼らの守護神は、実態として長門国山田邑(下関市住吉神社)の三大神で、記紀編纂時代になっても篤く祀られていたことが、記紀の編集に影響を及ぼしたものと考えられる。 |
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⇒ [141] 中つ巻(神功皇后2) |
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