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⇒ [132] 中つ巻(倭建命8) |
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2016.08.27(sat) [133] 中つ巻(倭建命9) ▼▲ |
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自其地幸到三重村之時
亦詔之吾足如三重勾而甚疲 故號其地謂三重 其地(そこ)自(よ)り、三重(みへ)村に幸到(いでました)る[之]時、 亦(また)詔[之](のたまはく)「吾(あ)が足三重の如(ごと)く勾(まが)りて[而]甚(いと)疲れぬ。」とのたまひ、 故(かれ)其地(そこ)を号(なづ)け三重と謂(まを)す。 自其幸行而到能煩野之時 思國以歌曰 夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯 其の幸(いでまし)自(よ)り行きまして[而]能煩野(のぼの)に到りませし[之]時、 国を思ひ以ちて歌(うたよみたまはく)[曰]、 夜麻登波(やまとは) 久爾能麻本呂婆(くにのまほろば) 多多那豆久(たたなづく) 阿袁加岐(あをかき) 夜麻碁母礼流(やまごもれる) 夜麻登志宇流波斯(やまとしうるはし) 又歌曰 伊能知能 麻多祁牟比登波 多多美許母 幣具理能夜麻能 久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古 此歌者思國歌也 又歌(うたよみたまはく)[曰]、 伊能知能(いのちの) 麻多祁牟比登波(またけむひとは) 多多美許母(たたみこも) 幣具理能夜麻能(へぐりのやまの) 久麻加志賀波袁(くまかしかはを) 宇受爾佐勢(うずにさせ) 曽能古(そのこ) 此の歌者(は)思国歌(くにしのひうた)也(なり)。 又歌曰 波斯祁夜斯 和岐幣能迦多用 久毛韋多知久母 此者片歌也 又歌(うたよみたまはく)[曰]、 波斯祁夜斯(はしけやし) 和岐幣能迦多用(わぎへのかたよ) 久毛韋多知久母(くもゐたちくも) 此者(こは)片歌(かたうた)也(なり)。 此時御病甚急 爾御歌曰 袁登賣能 登許能辨爾 和賀淤岐斯 都流岐能多知 曾能多知波夜 此の時、御病(みやまひ)甚(はななだ)急(にはかになりませり)。 爾(ここに)御歌(みうたよみたまはく)[曰] 袁登売能(をとめの) 登許能弁爾(とこのへに) 和賀淤岐斯(わがおきし) 都流岐能多知(つるぎのたち) 曽能多知波夜(そのたちはや) 歌竟卽崩 爾貢上驛使 と歌ひ竟(を)へ、即ち崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 爾(かれ)駅使(はゆまつかひ)を貢上(たてまつりあぐ)。 そこから、三重(みへ)村に到着された時に また、「私の足は三重の如く曲がり、とても疲れた。」と仰り、 よって、その場所は三重と名付けられました。 そしてさらに行かれ、能煩野(のぼの)に到着された時、 国を思い、歌を詠まれました。 ――倭は国のまほろば たたなづく 青垣山籠れる 倭し麗し また、詠まれました。 ――命の全けむ人は 畳薦 平群の山の 熊樫皮を 髻華(うず)に挿せ その子 これらの歌は、国偲ひ歌と言います。 また、歌を詠まれました。 ――はしけやし 我家(わぎへ)の方よ 雲居騰ち来も これは、片歌です。 この時、御病気は重篤となられました。 ここに、御歌を訓まれました。 ――少女(をとめ)の床の辺に 我が置きし 剣の太刀 その太刀はや と歌を詠み終え、間もなく崩御されました。 そして、駅使を朝廷に送りました。 まほら…真+秀(穂に通じ、ひいでる)+接尾語「ら」。 まほろば・まほらま…[名] すぐれてよいところ。「まほら」+間(ま)〔空間、隙間〕か。 たたなづく…[枕] 山が重なる意味で、青垣・青垣山にかかる。 たたみこも…[枕] 積み重なる意味で、へ(重)の音、重(かさ)ぬにかかる。 くにしのひうた(思国歌)…[名] ある歌の形式とか、儀式に伴う歌などと言われるが、不詳。 くま-…[接頭] 動植物につけて「大きな」。あるいは「りっぱな」。 うず(髻華)…[名] 頭髪の飾り。枝葉、花、金銀の細工など。 はしけやし・はしきやし…いとおしい。我が家、妹を慣用的に形容する。 かたうた(片歌)…[名] 五・七・七の三句体の歌。記紀歌謡に見られるが、万葉集にはない。連歌の発句か。 急…(古訓) すみやか。とし。はげし。 にはかに…[副] 急に。病気に用いられたときは危篤状態をいう。 貢…(古訓) たてまつる。 【歌】 ① 倭は国のまほろば たたなづく 青垣山籠れる 倭し麗し 大和盆地の四周の山は青垣山と呼ばれ、その美しさが称えられる。記には、出雲の海から大物主が出現したところを初めとして、しばしば登場する。 ② 命の全けむ人は 畳薦 平群の山の 熊樫皮を 髻華(うず)に挿せ その子 「またけむ」は「またけ」(「またし」の上代の未然形)+推量の助動詞「む」と説明されている。 平群の山で髪を飾って遊ぶ子には、命を全うできるだろうと歌い、今にも尽きようとしている自分の命と対比している。 この「全けむ」を、書紀は「真(まそ)けむ」に替える。 長く生きるより正しく生きよというのは、朝廷のためには命を惜しむなという教えであろうか。 ③ はしけやし 我家(わぎへ)の方よ 雲居騰ち来も 我が家の方向に立ちのぼる雲は、こちらに向かって来るようだと歌う。 書紀では三歌を ③①②の順に連結して、景行天皇の日向国親征に移している (景行天皇紀)。 ④ 少女(をとめ)の床の辺に 我が置きし 剣の太刀 その太刀はや 最期は、美夜受比売のところに置いてきた太刀に思いを馳せる。 あの太刀を持ってきていれば、こんなことにはならなかったのにという。思いは痛切である。 書紀はこの歌を使わず、代わりに「私は、東国を見事に平定しました。 天皇に、直接報告できないことだけが残念です」という言葉を遺す。
【三重郡】 〈神明帳〉に{伊勢国二百五十三座/三重郡六座/【並小】〔何れも小社〕 /江田神社 加富神社 神前神社 小許曾神社 足見田神社 椿岸神社}とある。 それぞれ、同名の神社が現存する。各社ついて、その要点を記す。 1 江田神社(えだじんじゃ。三重県四日市市西坂部町3655)。祭神は五十功彦命(いことひこのみこと)。 日本武尊は、近くの御足洗池にて足を洗い、弟、五十功彦命のもとを訪れたと伝えられる。 五十功彦命の名は、『先代旧辞本記』([06])。日本武尊に従軍したという。 2 加富神社(かふじんじゃ。三重県四日市市山田町2187)。主祭神は天饒速日命。多様な神が合祀されるが、五男三女神・素盞嗚尊・豊受大神・天照など素盞嗚尊の天からの追放に関わる神が目立つ。 天饒速日命を主祭神とするのは、この地に物部氏の一族が住んでいたことを示すか。 3 神前神社(かんざきじんじゃ。三重県四日市市高角507)。祭神は天照大御神。配祀建速須佐之男命。江戸時代は「牛頭天王」。
5 足見田神社(あしみだじんじゃ。三重県四日市市水沢町708)。祭神は志那都比古命・志那都比売命など。 同社碑文によると、葦見田郷〔倭名類聚抄に{三重郡/葦田【安之美多】}〕の総鎮守として式内社に列せられ、鎌倉時代以後は武家が信仰。 秀吉の時代に寺領の多くを没収され、江戸時代に再興されたという。 現在、同社は足見田は「足三重田」であると自認している。 『古事記伝』に「倭建命を祭ると云伝へたり」と書くから、伝承が宣長以前からあったことは確かである。 6 椿岸神社(つばききしじんじゃ。三重県四日市市智積町684)の御由緒には、垂仁天皇の時代に倭姫命がご神託により、 社殿を造営して猿田毘古大神を祀ったとされる。 他に、瓊々杵尊、天宇受売命などが祭神とされ、邇邇芸命の天降りが主題となっている。 6A 椿大神社(つばきおおかみやしろ。三重県鈴鹿市山本町1871)の別宮にも、椿岸神社(主祭神は天之鈿女命)がある。 【猿田彦神社】
なお、記では、佐那那県は手力男の行き先である (第83回)。 「五十鈴川上」を素直に読めば、狭長田は現在の内宮の近辺であり、実際にその位置に猿田彦神社が存在する(三重県伊勢市宇治蒲田2-1-10)。 同社の由緒によれば、猿田彦大神の裔である大田命が倭姫にこの地を勧めて内宮を創建し、その神職となった大田命が邸内に猿田彦神を祭ったのが起源であるという。 一方、椿大神社は御由緒に「倭姫命の御神託により、磯津(鈴鹿川)の川上、高山(入道ヶ嶽)短山(椿ヶ嶽)の麓に『椿(道別)大神の社』〔道別(ちわき)⇒"つばき"〕を奉斎することになった」とし、猿田彦「大本宮」を自称する。 入道ケ岳は鈴鹿山系に属し、906m。鈴鹿川の上流は亀山市なので、この点には無理がある。 記の筋書きに沿うのは猿田彦神社であるが、記以前から「さるたひこ」の伝承が、鈴鹿山系の広い地域に分布していたとも考えることができる。 よって、猿田彦神社・椿大神社のどちらかが正しいと一概に決めることはできない。 【足見田神社】 『神名帳考証』は、足見田=足三重田説に同意し、祭神は日本武尊であると主張する。 それに対して、『勢陽五鈴遺響』〔1833年完成〕は「祭神倭建命ト臆断ノ牽強ナル」として否定する。 倭建命が実際に足見田神社の祭神であったかどうかは、微妙である。「あしみへ」のうち「あしみ」の三文字が一致するから、足見田が「足三重」由来ではないかという発想は、 どの時代でも容易に生まれ得るからである。 そもそも「激しい疲労のために足が三重に曲った」というが、もともと足が足首と膝の2つの関節により三重に曲がるのは正常である。 まあ、曲ったまま伸ばせなくなったという意味かも知れないが、この表現は三重の地名譚のために、記執筆のときに作られたものであろう。 だから「あし+みへ+た」という地名は、記が成立した8世紀以後にならないと生まれ得ない。 しかも、そこから短期間のうちに「へ」が脱落しなければならない。 一方和名類聚抄にある「葦田郷」〔あしみたのさと〕は、古くからこの一帯の地名だったと考えるのが穏当である。 だから、「あしみだ=あしみへだ」は俗説で、従って倭建命祭神説も俗説であろう。
その点、刑部郷の足洗池伝説は、「みへ」が出てこない分、古事記以前に遡る可能性が残る。 【江田神社・御足洗池】 倭建命との関わりが言われる江田神社と、御足洗池を見る。 《江田神社》 所在地の西酒部村については、〈倭名類聚抄〉に{伊勢国・三重郡・刑部【於佐加倍】郷}とあり、西坂部村・東坂部村に繋がっている。 祭神の五十功彦命は、『先代旧辞本記』に景行天皇の八十一子の中に名前があり、伊勢刑部君・三川三保君の祖と書かれる 資料[06]先代旧事本紀)。 これは、刑部郷で五十功彦命を祭ることと符合する。 江田神社の案内坂によると、刑部造〔おさかべのみやつこ〕が代々神社を守護した。 古くは奥宮・中宮・下宮からなり、奥宮には七堂伽藍を備えた大寺があったが、天正三年〔1575〕織田信長配下の滝川一益によってすべて焼失させられた。 その後、江田神社は下宮の地に移され、明治41年〔1908〕の神社合祀(一村一社化)により、 6社が合祀された。合祀されたのは、仁徳天皇・天照大神・応神天皇・天武天皇・建速須佐之男命・大山祇〔おおやまつみ〕命である。 なお、刑部神社もこのとき合祀されたが、昭和5年に元の東坂部町に復祀された。 現在の御厨刑部神社(みくりやおさかべじんじゃ。東坂部町518番地)、 祭神は、大山祇命・天照大神・天武天皇。「御厨」がつくのは、「伊勢神宮に対し神饌料を上納していた神社であったのであろう」と案内板に書かれている。 《三重御足洗池之碑》
碑文は、独自の伝承「倭建命は郡坂部村の足洗と称する御池で御足を洗い、大弟五十功彦命を訪れた」を含む。 現在の碑の場所に、直径2m程度の小さな池の石組が造られている。 《碑文》
①山﨑直胤〔やまさ(〝)きなおたね、1852~1918〕。第四代官選三重県知事。 以下は不明瞭な文字。 ③移…文脈から「幸」「至」「到」も入りうるが、字形から「移」。(右図a) ⑦斯…「斤」(おの)は明瞭。文意から「斯」。(b) ⑦葢…皿の上に交差する斜線が見える。葢は蓋(けだし)の異体字。 類似するのは、「盞」(さかずき)、「盋」(「鉢」の異体字)。(c) ⑧邈…辶は明瞭。文意から「邈」か。(d) ⑨舊…文意から「舊(旧)」だろうが、冠は「亠」に見える。(e) ⑨變…「陵谷之変」(りょうこくのへん)は、陵が谷に変わり、谷が陵に変わるような激しい変化。(f) 以下は読み取れるが、あまり使われない字。 ①藂…叢(むらがる、あつまる)の異体字。 ⑨堙…ふさぐ。うめる。 ⑪秊…「年」の異体字。「季」とは別字。(g) 読み下しを試みる。 倭建命東征の帰路、胆吹山(いぶきやま)に騰(のぼ)り妖神に祟らるる為にして 艱歩(かんぽ)して尾張に帰らむとし、便(すなは)ち伊勢の尾津前(をづのさき)に移りたまひ、 その地より幸(いでま)し詔(のたまはく)「吾が足三重の如く勾(まが)りて甚だ疲れり」とのたまひし 故(ゆゑ)に此の地を号(なづ)けて謂く三重と云ふ。本郡の坂部村に足洗御池と称するところ有れば、 清水湧き出でて四時〔=四季〕に涸れず。 相伝に、〔倭建〕命御足を洗い、于斯(ここに)蓋し因りて大弟五十功彦命(いことひこのみこと)の在りしところを訪(たづ)ねたり。 上古邈(はるか)なり矣(や)、然(しか)るに諸史を徴(もと)め其の旧跡を藉(か)り 灼(あきらか)なる乎(か)。晰(あきらか)なる也(や)、後の世に陵谷の変ありて堙没(いんぼつ)に還らむ、 是(これ)懼(おそ)れ謹しみ其の由(よし)を記し刻みし石なり。 「灼乎晰也」はなかなか分かりにくい。 「古書・史跡によって明らかになったかも知れない(A)が、これからも明らかであり続けるかどうかは(B)、後世に陵谷之変もあろうから、石に刻んで残すものである。」 という文のAが「灼乎」で、Bが「晰也」であろうか。 《三重郡における倭建伝説》 古墳時代に朝廷の統治機構の中で役割を担った「刑部」が、血縁集団の氏族に転じ、 その一部がこの地に定着して刑部郷となったと想定される。案内板に従えば刑部氏が代々江田神社の宮司を務め、祖神として五十功彦命を祭っていた。 一方、日本武尊が清水によって小康を得た伝説は、ここにも伝播していたと考えてよいだろう。 ただ、清水を飲む話が、この地では足洗いに転化する。 「三重」の地名命名譚は、書紀をの創作であろうが、 足を痛めてこの地にやってきた英雄伝説は存在していたと想像される。とすれば「杖衝坂」を三重郡とするのも自然である。 杖衝坂伝説も広がりがあり、記は海津市のものを採用したのかも知れない。 これまでも、向い火伝説は相模国・駿河国、白鹿伝説は足柄峠・信濃坂という地域の広がりを見た。 五十功彦命と倭建命はもともとは無関係であったが、 書紀が成立した後に二人が兄弟にされたのではないかと思われる。 【伊勢の国における倭建命】 式内社全体を見ると、猿田彦神は三重郡でも優勢である。 猿田彦神・天之鈿女命を祭れば、天照大御神もまた祭神となるのは当然であろう。 対照的に、 式内社六社のうち、日本武尊との関わりを見せるのは、江田神社と足見田神社に過ぎない。 ここには、景行天皇に疎んじられて非業の死を遂げたという、倭建命の立場が影響しているように思える。 書紀が景行天皇が日本武尊を称え、その死を悼んだといくら書き募っても、本当の関係は読み取られてしまうのである。 そして、一般的に社の御由緒は政権による保護を得るために、朝廷本流とのつながりを重んじるのである。 【能煩野】 『延喜式』諸陵寮に、「能襃野墓日本武尊。在伊勢国鈴鹿郡。兆域東西二町南北二町。守戸三烟。」 と書かれるが、「能褒野墓」の所在地は不明である。明治12年〔1879〕、内務省によって能褒野王塚古墳(三重県亀山市田村町字女ヶ坂)が能褒野墓に治定された。 能褒野王塚古墳の傍に、能褒野神社(三重県亀山市田村町女ケ坂1409)があるが、創建は明治17年〔1884〕である。 その一帯が「能褒野」であると言われるが、次回に詳しく考察する。 【崩】 皇子の死は「薨」である。 (第95回【薨】)。 一例として、万葉集0163の注に「大津皇子薨之後」がある。 しかし、日本武尊には、記紀ともに天皇のための「崩」が用いられている。 【書紀】 16目次 《崩于能褒野》
則(すなはち)所俘(とりこにせし)蝦夷(えみし)等(ら)を以(も)ちて、[於]神宮(かむむや)に献(たてまつ)る。 因(しかるがゆゑに)吉備の武彦(たけひこ)を遣(つかは)し、[於]天皇(すめらみこと)に奏[之](まをさしめまさく)[曰]、
則(すなは)ち神恩(みたまのふゆ)を被(お)ひて、皇威(すめらいつ)を頼(たの)みて、 而(しかるがゆゑに)、叛者(そむくひと)罪に伏し、荒ぶる神自(みづから)調(ととのほ)る。 是を以ちて、巻甲戢戈(けむこうしふくわして、よろひをまきほこををさめて)、 愷悌(がいてい、やはらぎ)に還[之](かへ)る。 冀(こひねがはくは)曷日(いつか)曷時(いつか)天朝(あまつみかど)に復命(かへりごとまをさ)む。
是以(こをもちて)、独(ひとり)曠野(あらの)に臥(ふ)して、無誰語之(たれにかたることもなし)。 豈(あに)身の亡(ほ)ろぶことを惜(を)しむや、唯(ただ)不面(あはざる)ことを愁(うれ)へるのみ。」
[于]能褒野(のぼの)に崩(ほうず、かむあがりしたまふ)、時に年(よはひ)三十(みそとせ)。 《則以二所俘蝦夷等一献二於神宮一》 則以は熟語ではない。例えば『文王世子』の「則以二其喪服之精粗一為レ序」〔則ち其の喪服の精粗を以って序と為す〕。に見られるように、則と以は常に分離している。 所俘蝦夷は、東国で捕えて日本武尊の一行に加えた蝦夷である。 曰く「俘二其首帥一而令従レ身」 (第130回【書紀】)。 関連して〈姓氏録〉の「佐伯直」の項に、「己等是日本武尊平二東夷一時ノ所俘蝦夷之後也」の記事がある (第122回【書紀における皇子の裔】)。 神宮は固有名詞で、伊勢神宮を指す。所俘蝦夷を貢物として神宮に供えることによって、病からの恢復を祈願する。 捕虜とは言え能力に応じてスタッフとして参加していたこともあるかと想像されるが、貢物にされたから立場は所有物である。 この例から、魏志倭人伝の「奴婢」は、戦争の敗者が勝者の私有物となったものかと思われる。 《隙駟》 〈学研新漢和〉は熟語「駟過隙」について、「月日の経過の速いこと。〈故事〉四頭立ての馬車が戸の隙間を通り過ぎる」と解説している。 〈汉典〉は熟語「隙駟」について、その出典を示す。
《大意》 能褒野(のぼの)に到り、痛みが甚しくなってきました。 そこで、捕虜とした蝦夷を、伊勢神宮に献上されました。 このようにして、吉備の武彦(たけひこ)を遣わし、天皇にこれを奏上しました。 「私は、朝廷の命を受け、東夷に遠征し、 神恩を負い、皇威に頼み、 その故に、背く人は罪に伏させ、荒ぶる神は自ら従いました。 そして、戦を終え平和に戻りました。 請い願わくば、いつか、いつか帰朝して復命申し上げたいのです。 しかし、天命すべて尽き、光陰の如くして止めることができず、 ここに独り荒野に臥し、誰に報告することもできません。 身が滅ぶことは恐れませんが、ただ再び会えないことだけが残念でございます。」 と託し終え、 能褒野(のぼの)にて崩御されました。時に御年三十歳でした。 まとめ 北勢地域は、猿田彦神、天鈿女命、天照大神の土地である。 倭建命は、江戸時代までは忘れられていたようだ。明治になってから、舘通因がこの地における倭建命に再び光を当てた。 その後宮内省は能褒野墓を治定し、地元の気運が高まって能褒野神社が創建された。 このように舘通因が日本武尊を積極的にアピールしたのは確かだが、彼がこの地の伝承を偽造したとは思えないから、足荒池の伝承は実際に存在していたわけである。 そして、足を痛めていたとする言い伝えが、この地の杖衝坂にもつながったのであろう。 さて、記には倭建命の人間らしい感情が見えるのに対して、書紀では景行天皇への恭順の姿勢が一貫している。 その中で注目されるのは、記の歌謡の「命の全けむ」を「命の正けむ」に替えた点である。 書紀は「命の全けむ」(命を全うしようとする)という言葉から、個人の幸福を優先する心を敏感に嗅ぎ取ったのではないか。 天皇を戴く国の仕組みの中では、個人を押し殺して「正しく」生きるべきである。だから「命の正けむ」でなければならない。 しかし、先の大戦では時の政府がこの考え方を一般国民に強いた結果、恐るべき民族の悲劇を招いた。 国の伝統は大切であるが、単なる復古主義では歴史という資産の正しい継承とは言えない。 |
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2016.09.14(wed) [134] 中つ巻(倭建命10) ▼▲ |
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於是坐倭后等及御子等諸下到而作御陵
卽匍匐廻其地之那豆岐田【自那下三字以音】而 哭爲歌曰 那豆岐能多能 伊那賀良邇 伊那賀良爾 波比母登富呂布 登許呂豆良 於是(ここに)倭(やまと)に坐(ましま)す后(きさき)等(ら)及び御子(みこ)等(ら)の諸(もろもろ)下到(くだりたりて)[而]御陵(みささき)を作りまし、 即ち其の地(ところ)之(の)那豆岐(なつき)の田【那自(よ)り下(しもつかた)三字(さむじ)音(こゑ)を以ゐる】を匍匐(はひ)廻(もとほ)りて[而] 哭(な)きませしことを歌と為(し)て曰(うたよみたまはく) 那豆岐能多能(なづきのたの) 伊那賀良邇(いながらに) 伊那賀良爾(いながらに) 波比母登富呂布(はひもとほろふ) 登許呂豆良(ところづら) 於是化八尋白智鳥 翔天而向濱飛行【智字以音】 爾其后及御子等於其小竹之苅杙 雖足䠊破忘其痛以哭追 此時歌曰 阿佐士怒波良 許斯那豆牟 蘇良波由賀受 阿斯用由久那 於是(ここに)八尋(やひろ)の白智鳥(しろちどり)と化(な)りて、翔天(あまかけり)て[而]浜に向けて飛び行く【智の字音を以ゐる】。 爾(ここに)其の后及び御子等[於]其の小竹(しの)之(の)苅杙(かりくひ)に、 [雖]足(あし)䠊破(きれやぶれ)ど、其の痛(いたみ)を忘れて[以ちて]哭(な)き追ひませり。 此の時歌曰(うたよみたまはく)、 阿佐士怒波良(あさじのはら) 許斯那豆牟(こしなづむ) 蘇良波由賀受(そらはゆかず) 阿斯用由久那(あしよゆくな) 又入其海鹽而那豆美【此三字以音】行時 歌曰 宇美賀由氣婆 許斯那豆牟 意富迦波良能 宇惠具佐 宇美賀波伊佐用布 又其の海塩(うしほ)に入りて[而]那豆美【此三字以音】(なづみ)行く時、 歌曰(うたよみたまはく)、 宇美賀由気婆(うみがゆけば) 許斯那豆牟(こしなづむ) 意富迦波良能(おほかはらの) 宇恵具佐(うゑぐさ) 宇美賀波伊佐用布(うみがはいさよふ) 又飛 居其礒之時 歌曰 波麻都知登理 波麻用波由迦受 伊蘇豆多布 是四歌者皆歌其御葬也 故至今其歌者歌天皇之大御葬也 又飛びて、其の礒に居(を)りし[之]時、 歌曰 波麻都知登理(はまつちどり) 波麻用波由迦受(はまよはゆかず) 伊蘇豆多布(いそづたふ) 是の四歌(ようた)者(は)皆其の御葬(みはぶり)を歌へり[也]。 故(かれ)今に至り其の歌者(は)天皇(すめらみこと)之大御葬(おほみはぶり)に歌よみまつる[也]。
ここで注目すべきは、白鳥と千鳥の混在である。漢籍の「白鳥」が和名「くぐひ」に対応することは十分知られていたはずである。 倭名類聚抄は地名「白鳥」に「之呂止利」を宛てている(後述)から、 志幾郡(書紀では旧市邑)の陵は、最初から「しろとりのみささき」と呼ばれた可能性が高い。 記では「白智鳥」であるが、歌の選択を見ると それがチドリかククヒかは気に留めない鷹揚さを示す。 一方、書紀の「白鳥」は、一般の受け止め方通りククヒであろう。 書紀は、記の歌謡を基本的に継承している。 継承しない場合には何らかの理由がある。この場合は白鳥を千鳥とするのが書紀に合わないところが、理由のひとつではないかと思われる。 古代、死者の魂は鳥になって天に上るとされたという仮説が、現在一般的に言われている。 その鳥の種類は特に決まっていなかったのであろうが、その鳥は白色が相応しい。 倭建命の魂もまた、白い鳥になって飛び立ったのであろう。 古代の葬に鳥葬文化が影響した可能性は、第75回で探ったが、 その時点では何の影響も見いだせなかった。しかし、飛ぶ鳥が死者の魂を天に運ぶという発想は自然である。 倭建命は、遂に地上の天皇になることはなかったが、はるか大空で永遠に君臨するのである。 【坐倭后等及御子等諸下到】 「(所)坐倭」は「后等及御子等」を連体修飾する。ここで注目されるのは、 伊勢国能煩野に陵を造って葬ったことが、倭建命の一族による私事になっていることである。 本来ならば、必ず「天皇遣○○使于能煩野作陵」であろう。 これでは、景行天皇と倭建命との対立が、抜き差しならないものであったことが丸わかりである。 それに対して書紀は、日本武尊の陵の造営に「詔二群卿一命二百寮一」、即ち朝廷の諸卿、官僚を総動員したとされ、 これまた極端である。葬儀を一族任せにして自らは全く関与しなかった景行天皇の冷淡さを、書紀はひたすら打ち消すのである。 【伊勢国能褒野陵】 《作御陵》 「作二御陵一」と書いているが、 「葬る」とは書いていない。白智鳥に化して翔んでいったから、埋葬できなかったのである。 書紀はこの部分を、陵に「葬った」後に白鳥となって飛び立った。そして棺を調べたら、衣服だけが残っていたと付け加えているが、 これは蛇足である。白鳥への化身が架空の話であることは誰しも分かっているから、棺を開いてみたらも蛻(もぬけ)の殻だったなどと、妙な現実感を持ち込むのは野暮であろう。 しかし、書紀のこの記述は不意に新約聖書を連想させる。イエスを葬った墓からイエスの死体が消え、「亜麻布だけがそこにあった」(ルカ伝24-12)。 もしかしてシルクロードの交易を通して新約聖書の内容がたまたま伝わり、書紀がその影響を受けたことが全くないと言い切れるだろうか。 《陵と墓》
延喜式「諸陵寮」では 能襃野墓 日本武尊 在伊勢国鈴鹿郡 兆域東西二町南北二町 守戸三烟」とあり、 こちらは基準を 厳格に適用して墓とされるが、陵のリストのすぐ次に置くことにより、陵に準じたことを示唆する。 諸陵寮にあるから、10世紀前半には「能襃野墓」と呼ばれる墳墓の類が実在していたのは確かである。 《能煩野なる地名》 記に能煩野、書紀では能褒野と表記される「のぼの」は、近現代の村名、字名などには見つけられず、復古地名にも使われていない。 ただ、「野登山(ののぼやま)」が関係すると言われる。「の乙ぼる」「の乙ぼす」は上代語にあるので、 「上り野」の意味で「の乙ぼの甲」なる地名があり、その野を登り切った先にあるのが「の甲の乙ぼの山」 だと理解することができる。 《比定地》 三重県鈴鹿市上田町には、白鳥塚一号墳(全長80m)がある。帆立貝型古墳で、七基からなる「白鳥塚古墳群」の主墳である。 本居宣長はこれを能褒野陵の第一候補としつつ、丁子塚の可能性もあるとする。
<wikipedia>明治9年〔1876〕教部省は白鳥塚をヤマトタケル陵墓と治定したが、明治12年〔1879〕に宮内省はそれを覆し、丁子塚〔ちょうじづか〕(現亀山市)を治定した</wikipedia> という。丁子塚は、別名能褒野王塚古墳、墳丘長90mの前方後円墳で、4世紀末と推定されている。 能褒野陵に治定された後、日本武尊を崇敬しようとする機運が地元に高まり、 明治28年〔1895〕に、陵の隣に能褒野神社(三重県亀山市田村町1409)が創建された。
もしこの地で白鳥陵が深く記憶に刻まれているのであれば、いくつかの神社の祭神となっていることが期待される。 鈴鹿郡の式内社を見るとは{鈴鹿郡十九座 並小}とあり、現在の同名神社の主な祭神を挙げる。 その中で、唯一日本武尊を祭神とするのが長瀬神社である。 同社には「当社の本殿奥にある塚は武備塚といいます。江戸時代尊王論の風潮とともに、日本武尊の稜の探索が始められた時、この塚を亀山藩(藩主・板倉勝澄)が、尊の稜と定めました。」 と掲示され、倭建命を祭神と定めたのも江戸時代ではないかと思われる。 それを除けば、概ね猿田比古神、伊勢の大神、記の神生みにまつわる神々が祭神である。 延喜式諸陵寮に能褒野墓が載るので、10世紀前半には確実に存在していたが、やがて忘れられて地名「のぼの」も消滅し、郡内の神社からも伝承は姿を消した。 ところが、後述するように地名の白鳥と式内の白鳥神社は、むしろ遠く離れた常陸・讃岐・越中に残る。 ということは、倭建命の後裔は鈴鹿郡を去り東国・北陸・瀬戸内海周辺に散り、能褒野の地は彼らの記憶中のみのものとなった。 入れ替わって鈴鹿郡に定住した一族は、天照大神や猿田彦大神を信奉したのである。
【河内国之志幾】
宮内庁によって治定されている「白鳥陵」は、考古学名「軽里大塚古墳」(大阪市羽曳野市軽里三丁目)。5世紀後半の大型の前方後円墳で、墳丘長190mは 大王クラスで、時期は景行天皇の時代よりずっと後である。 ここで特徴的なことは、記には「作御陵鎮坐」とあり「葬る」とは書いていないことである。鎮座とは神を招いて祀ることであり、名前こそ陵であるが、実質は祭祀場である。 墳丘を築いて「陵」と名付けたとしても、神社の範疇に属する。延喜式には記述がないのも、これが大王・后・皇子の陵とは性格が異なるからである。 書紀は、本体がないから冠衣を葬ったとして「陵」扱いするが、これは記の趣旨を受け継がないものである。 それよりもさらに記のニュアンスを理解しないのは、実際には大王のものと見られる前方後円墳を「白鳥陵」に治定した宮内庁である。 【大和国白鳥陵―書紀】 《琴弾原》 書紀では記の二陵に加え、大和国「琴弾原」にも白鳥が飛来し、白鳥陵が作られた。 それでは「琴弾原」は、どこであろうか。 〈倭名類聚抄〉の大和国に類似の地名はない。現代地名で「琴」がつく地名も奈良県にはなく、復古地名にも使われていない。 そこで五畿内志(『日本輿地通志畿内部』)の「巻第十六大和国之六葛上郡」を見ると、「山川」の部に「琴引原」がある。曰く
613年には當麻町と堺市を結ぶ「竹内街道」が史上初の官道として作られた。飛鳥の朝廷と難波港を結ぶ大道で、遣隋使・遣唐使の返使が通ったという。現在の国道166号線で、「竹ノ内街道」と呼ばれる。 允恭天皇の時代はそれより遡るが、720年完成の書紀は時間を超越してこの道を想定したかも知れない。 すると琴引坂は、竹内峠となる。その傍の二上山から大和三山を撮影した写真が、いくつかのサイトに紹介されている。 ただ、葛城山近くの水越峠が琴引坂である可能性もある(後述)。 《白鳥陵の比定地》 宮内庁は、倭の白鳥陵を奈良県御所市冨田(大字)の丘陵に治定している。 『五畿内志』に「白鳥陵」の項目がある。 白鳥陵【倭建命○在富田村一今稱二天王山一大宝元年八月震二倭建之命二墓遣レ使 祭レ之益田池碑銘曰右白鳥陵即此】 〔富田村にあり、今天王山と称す。大宝元年(701)8月、倭建命の墓が震え、使者を遣わしてこれを祭る。『益田池碑銘』曰く「右は白鳥陵となす」、すなわちこれ。〕 『続日本紀』によれば、「大宝二年〔702〕八月丙申朔癸卯〔8日〕震倭建命墓。遣使祭之。」 益田池は、<wikipedia>弘仁13年(822)に、高取川に堤防を築いて水の流れをせき止めて作られた巨大な灌漑用の貯水池。 堤防は現在の鳥屋橋北から鳥坂神社まで長さ約200メートル、幅30メートル、高さは8メートル</wikipedia>。 堤防の一部、長さ55mほどが、益田池児童公園(奈良県橿原市白橿町1-10)に残っている。 《益田池碑銘》
そのうち、『五畿内志』に引用された部分はもともと 「爾乃池之爲状也左龍寺右鳥陵大墓南聳畝傍北峙」 である。『五畿内志』は、ここの「鳥陵」が「白鳥陵」であると断じている。 その妥当について、踏み込んで検討したい。 ●畝傍北峙 「畝傍山、北に峙(そばだ)つ」ようすは、右の写真に見える。撮影地点は、懿徳(いとく)天皇の「軽曲峡宮跡」(第104回参照)辺りで、益田池(推定)の南端にあたる。 ●大墓南聳 「大墓、南に聳(そば)ゆ」つまり、大墓と名付けられた古墳が南にあったはずである。候補としては、益田池の南西の欽明天皇陵(全長140m)がある。 現在の周濠は江戸時代にはなく、文久の修陵によって作為的に掘られた。 大きさは見瀬丸山古墳の方が上回る(318m)が、その位置は絶対に益田池の「南」とは言えない。 ●左龍寺 左・右は堤の上で池を見て立った向きで、左が東、右が西である。 「龍寺」とは岡寺の別名、龍蓋寺の略であろうか。 岡寺は、益田池堤から直線距離で約4kmだが、地形図で調べると手前の峰に隠れて見えない。 標高は益田池堤の上が80m、岡寺は180m。 両社を結ぶ直線上の北緯34.4756度・東経135.8103度、明日香村川原(図+A)に標高約195mの峰がある。 その峰は甘樫丘の続きで、すぐ南に弁天社が建つ。 龍寺が岡寺だとすれば、「左龍寺」の意味は「左隣は龍寺である」ではなく、「左に進めば龍寺に到る」という意味になる。 ただ「為伏〔なすありさまは〕」となっているので、隣接しているようにも思える。 左隣にあるのは、軽寺跡である。軽寺は飛鳥時代の大伽藍であるが、空海の時代に残っていたかどうかは不明で、仮にあったとしても「龍寺」と呼ばれたかどうか分からない。 ●右鳥陵 地形図で調べると、「日本武尊白鳥陵」は、標高約113mである。 益田池堤跡まで直線で結ぶと、北緯34.4713度、東経135.7749度に標高約120mの峰(図+B)が遮る (奈良県高市郡高取町と同北越智町の境界、威徳天神神社の南東200m)。 だから、これも「右方は(白)鳥陵である」という意味になる。 「右」が「右隣」を意味するなら、候補として宣化天皇陵がある(考古学名鳥屋ミサンザイ古墳、130m)。 宣化天皇陵の正式名は「身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのへのみささき)」である。 桃花鳥坂神社が後に鳥坂神社となったことから見て、花鳥坂上陵も鳥陵と呼ばれたかも知れない。 その場合、「鳥陵」が白鳥陵を指すとは言えない。 つり合いから考えて、「左隣に軽寺」なら「右隣に宣化天皇陵」、「左方に岡寺」ならば「右方に白鳥陵」であろう。 このように、『益田池碑銘』の「鳥陵」が白鳥陵であるとは、なかなか断定しづらい。 《当麻寺周辺》 琴引坂が竹内街道が琴引坂で、白鳥陵が富田村だとすると、「琴引」は葛上郡・葛下郡全体を占めることになる。 こんなに広いのに、琴引きという地名が残っていないことが不思議である。 竹内街道は武内峠を越えると羽曳野市となり、ここには古市村の白鳥陵がある。 だから、竹内峠の東西に同一の白鳥陵伝説が広がってたと考えれば、 「琴引」は竹内峠登り口、当麻寺周辺の限定的な地名かも知れない。 しかし当麻寺近辺には、当麻寺本堂下古墳や屋敷山古墳などの古墳が存在するが、 白鳥の名がついたものはなく、白鳥陵をここに求める動きはなかったようである。 《水越街道》 一方、御所市と富田林市を結ぶ水越街道という道もあり(現在の国道309号線)、葛城山と金剛山の間の水越峠を越える。 竹内街道が作られるまでは、水越街道が飛鳥と堺を結ぶ主要路だったのかも知れない。 葛城山や金剛山の山頂からも、大和平野が一望できる。 新羅の使者は帰りに水越峠からどちらかの山に登り、畝傍山・耳成山の見納めとしたのかも知れない。 奈良時代・平安時代に書紀が読まれたころは、まだ水越峠を琴引坂と呼び、富田村の辺りの 古来の祭祀の地が、日本武尊白鳥陵と信じられていたとも考えられる。 どちらかと言えば水越峠の方が「琴弾」が狭い範囲に収まるから、竹内峠よりは見込みがあるかも知れない。 【全国の白鳥古墳・白鳥神社】 《白鳥古墳》 「白鳥」の名の古墳は各地にある。ウィキペディアには、次の「白鳥古墳」が載っている。 白鳥古墳(前方後円墳)…愛知県名古屋市熱田区 白鳥塚古墳(前方後円墳)・白鳥古墳群(円墳)…愛知県名古屋市守山区志段味古墳群 白鳥塚古墳(帆立貝型)…三重県鈴鹿市 白鳥塚古墳(円墳または方墳)…兵庫県宝塚市 白鳥塚古墳(はくちょうづかこふん)…兵庫県宝塚市 白鳥古墳…広島県東広島市 白鳥古墳…山口県熊毛郡平生町 これらの中には、後世に名付けられたものもあると想像される。 《白鳥神社》
地名としては、倭名類聚抄に二郷、{常陸国・鹿島郡・白鳥郷}、{讃岐国・大内郡・白鳥【之呂止利】}がある。 式内社は一社{越中国/婦負郡/白鳥神社}のみである。 現在の白鳥神社を、ヤフー・ロコで検索すると60社でほぼ全国に及び、一位愛知県16社、二位宮城県の9社が突出する。 一例として東郷町の白鳥神社(愛知県愛知郡東郷町大字諸輪字中市151)を見る。その御由緒にはもともと諸輪大明神と呼ばれ、 東郷町藤浅間神社の紹介サイトによれば「弘仁13年〔822〕編纂の日本霊異記に既に地名が出ている事や隣接する諸輪古墳とも関係があると考えられる事より延喜年間以前の創建と考えられる」とされる。 つまり「諸輪古墳に先祖を埋葬した一族の古い神社だった」と考えられているようだ。 その正式名が白鳥神社になったのは、明治5年〔1872〕だという。 恐らく、ある時期に日本武尊信仰が習合したのであろう。 一方、香川県白鳥神社(香川県東かがわ市松原69)のように古い謂れをもつ社もある。ご由緒によれば、倭建命の御子、仲哀天皇のとき神籬(ひもろぎ)を設け封戸を与えたのに由来するという。 香川県と言えば、『新撰姓氏録』の佐伯直は、日本武尊東征の「所俘蝦夷」の子孫で、 播磨・安芸・阿波・讃岐・伊予に散遣されたという記述がある(第122回)。倭名類聚抄にも讃岐国に白鳥がある。 これらから、白鳥神社は倭建命を祖神に戴く一族の祭祀場に起源をもつものと、既存の神社が平安時代以後に白鳥伝説が習合したものがあると考えられる。 白鳥神社が宮城県に多いのは、東征を描いた書紀の影響だと思われる。 また、愛知県では特に東三河に多く、信濃か東山道を通って熱田に到ったとされる経路が、この地に伝説を広げたと思われる。 このように書紀の影響は大きいが、逆に書紀もそれ以前に現存した現地の伝承を相当取り入れていると思われる。 よって、①各地に独自の白鳥信仰・ヤマトタケル信仰による社伝があった。 ②書紀が書かれた結果、社伝は書紀の内容に沿ったものに改められた。という、二層構造が考えられる。 一方、岐阜・長野・富山・石川の各県については、誉津別命のくぐひ伝説によるかも知れない。 しかし、逆にくぐひ伝説そのものが、倭建命白鳥飛来伝説から派生したようにも思える。 《白鳥古墳(熱田)》 尾張国の人は、白鳥になっても一度は宮簀媛に帰ってきてほしいと思っただろう。 だから、この地にも白鳥古墳が存在することになった。日本武尊にとって重要な地なのだが、書紀にも取り上げられない。 熱田神宮には宮簀媛の摂社・末社がいくつがあるのに対し、「白鳥社」を名乗る摂社・末社がないところが注目される。 ただ、日本武尊の名は、一応神宮本体の相殿神に加えられている。 白鳥神は、三河一帯に普及しながら、東郷町で足止めされる。 ここに、忠実な景行天皇派であった尾張氏と、悲劇の英雄日本武尊を惜しむ民衆との温度差が見える。 《白鳥を神とする原始信仰》 岐阜県以北の「白鳥神社」は、白鳥の渡りの経路に沿っているようにも見える(第119回【白鳥の追跡(補足)】)。 白鳥自体が、その優美な姿からもとから神であっただろう。 また、鳥は死者の魂を天を運ぶものとされたとも想像される。 そこに、倭建命や誉津別命のくぐひが習合し、現在の全国各地の「白鳥陵」「白鳥神社」に到ったのかも知れない。 《一族の全国展開の可能性》 このように、倭建+白鳥「伝説」が各地に拡散したと考えられる一方、讃岐国の佐伯直が日本武尊の所俘蝦夷を祖とする記事が気にかかる。 大物主が出雲から畿内にやってきた話のところで、一族が地を歩いて移動するとき、神は空を飛んで移動するという法則を想定した。 各地で白鳥が舞い降りた伝説は、倭建命を祖とする一族が各地に展開したことを示唆する。 そのうち記は、河内国の例を取り上げ、書紀はそれに加えて大和国葛上郡の例を取り上げたのである。 《白鳥信仰の性格》 以上を整理すると、白鳥信仰の展開については次の3つの可能性がある。 ① 自然信仰の一種としての白鳥信仰が、各地で独立に発生した。 ② 倭建命白鳥伝説のみが各地に伝播して神社が建ち、時には塚が定められた。 ③ 倭建命一族の子孫が各地に散り、それぞれの土地の適当な古墳を白鳥塚と定めて祖を祀った。 【書紀】 17目次 《日本武尊化白鳥》
寝(いね)ど不安席(やすまらず)食(くらへど)不甘味(あじはひなく)て、 昼夜(よるひる)喉咽(むせ)ひて、泣き悲しびて摽擗(むねうち)たまふ。 因以(しかるがゆゑに)、大(おほ)歎(なげき)して[之]曰(のたまはく) 「我子(あがみこ)小碓王(をうすのみこ)、昔熊襲叛(そむきし)[之]日(ひ)、未だ総角(あげまき)に及ばず、 久しく征伐(たたかひ)に煩(わづら)ひき。 既(すで)にして[而]恒(つね)に左右(もとこ)在(あ)れど、朕(われ)を補(たす)くに不及(およばざ)りき。
愛(かなし)びを忍(しの)びて[以ちて]賊境(あたのさか)に入らしめたまふ。 一日(ひとひ)に之(これ)無不顧(かへりみざることなく)、是(こ)を以ちて、朝夕(あさなゆふなに)進退(しじま)ひ、還(かへ)らむ日を待(ま)ち佇(わ)びたまひき。 何(いかなる)禍(とが)か[兮]、何罪(つみ)か[兮]、不意(おもはざりし)[之]間(ま)に、倏(たちまち)に我が子(みこ)を亡(うしな)ひき。 自今以後(いまよりのち)、誰人(たれ)と与(とも)に[之]、経綸鴻業(くにをつく)らむ耶(や)。」とのたまふ。 即ち群卿(まへつきみ)に詔(のたま)ひ百寮(もものつかさ)に命(おほ)せて、[仍(すなはち)][於]伊勢の国の能褒野(のぼの)の陵(みささき)に葬(はぶ)らしめませり。
倭国(やまとのくに)を指して[而]飛び之(ゆ)けり。 群臣(まへつきみ)等(たち)、因以(しかるがゆゑに)、其の棺櫬(ひとき)を開きて[而][之を]視(み)れば、 衣(ころも)空(むな)しく留(とど)まりて[而]、屍骨(ほね)之(これ)無きを明(し)りぬ。 於是(ここに)、使者(つかひ)を遺はして白鳥を追ひ尋ねしめたまへば、則(すなはち)[於]倭の琴弾原(ことひきはら)に停(と)まり、 [仍(すなは)ち][於]其処(そこ)に陵(みささき)を造りけり[焉]。
故(かれ)、時の人是の三(み)陵(みささき)を号(なづ)け、白鳥の陵と曰(い)ふ。 然(しかれども)遂に高く天(あま)に翔び上(のぼ)れば、徒(ただ)衣冠(いかむ、きぬかがふり)を葬(はぶ)りき。
是の歳(とし)は[也]、天皇践祚(せむそ、そをふみ、ひつぎのくらひにつき)四十三年(よそとせあまりみとせ)[焉]。 《寝不安席食不甘味》 この表現は漢籍から取られたものだが、儀礼句ではなく 「ショックで安眠できず、食物の味も分からない」という意味をもち文脈の一部になっているから 音読みではなく、和訳すべきである。 なお、「席」の原義は寝るとき・座るときに敷く「むしろ」である。 《詔群卿命百寮》 「百寮(官僚たち)に命じよ」と諸卿(側近)に詔したととも取れる。しかし、そのようなややこしい複合構造というより、 「詔二-命卿命与百寮一」〔諸侯と官僚に命ずる〕を「詔二群卿一、命二百寮一」に分割し、 (漢文としての)体裁を整えたものであろう。 従って、訓読は「まへつきみともものつかさとにおほしたまひ、~しむ」でもよい。 《倭と日本》 「倭国(やまとのくに)」は、倭名類聚抄の「大和国」、現在の奈良県に相当する。 書紀は、国号としての「やまと」には「日本」を宛てる。 ところが、「おおやまとねこひこふとにのすめらみこと」などの天皇名につついては、倭地域の「やまと」に起源をもつにかかわらず、書紀は「大日本根子彦太瓊天皇」など と表現して国号に結びつける。倭建命は、朝廷が派遣した征討軍の名称「やまと」が起源だが(後述)、やはり「日本武尊」に置き換える。 一方で、垂仁天皇紀で、天照大神を伊勢渡会の宮に遷すときに随行させたやまと姫は「倭姫命」のままである。 本来倭姫命は、倭建命の親族としての名前だが、連動して「日本姫」にはならない。 書紀は名前に含まれる「倭」について、「尊」がつくような尊い名では、その由来に関係なく「日本」に置き換えたことがわかる。 《武部》 武部は、「たけべ」または「たけるべ」。 〈姓氏録〉には、〖皇別/建部公/公/犬上朝臣同祖/日本武尊之後也/続日本紀合〗。 『続日本紀』を見ると、天平二十年〔748〕に「建部公豊足」に「正六位上」が授与される。 また、天平宝字八年〔764〕に「建部公人上」の名。 天平神護二年〔766〕には「建部公伊賀麻呂賜姓朝臣」とあり、「朝臣」の姓を賜る。 そのため、延暦三年〔784〕には「建部朝臣人上」となっている。 《景行天皇の嘆き》 記には、景行天皇が倭建命の死を悲しんだという記述は、全くなく、逆に葬儀を一族任せにして 自らは関与しない冷淡さ(前述)を見せる。 書紀はそれを取り繕うかのように、言葉を尽くして天皇が悲しむ姿を描いている。 これは、天皇が東征を命じたとき、不満をもつ倭建命をなだめようとして、 ほめ言葉を連ねたことの繰り返しである。 しかし隠せば隠すほど、両者の確執は明らかになる。 《大意》 天皇はこれをお聞きになり、睡眠は安眠できず、食事は味わえず、 昼も夜も嗚咽し、胸を叩いて泣き悲しまれました。 このようにして大嘆きして、仰りました。 「我が御子小碓王(おうすのみこ)は、昔熊襲が背いた日、まだ幼い歳であったが 長い間征伐に煩わされた。 従臣がいるにはいたが、朕を補佐するには力不足であった。 ところが東夷が騒動を起こし、討ちに派遣しようにも適任者がなく、 愛しさを我慢して小碓王を辺境の敵地に入らせた。 一日たりとも御子のことを考えない日はなく、朝夕に行ったり来たりして帰還する日を待っていたのである。 ところが、如何なる罪を犯したというのか、不意にして突然我が子を失ってしまった。 これからは、誰の助力を得て経綸鴻業〔国造り〕をしたらよいのか。」と。 そして、諸卿に詔を発し、官僚たちに命じて伊勢国の能褒野(のぼの)に陵(みささぎ)を築き、葬られました。 その時、日本武尊は白鳥(しろとり)と化し、陵から出て 倭(やまと)の国を目指して飛び去りました。 そこで、群臣たちが棺を開いて見たところ、 衣だけが虚しく残り、屍骨はなくなっているのが明らかになりました。 そこで、使者を派遣して白鳥を追い、行方を探索させたところ、、倭の琴弾原(ことひきはら)に留まっていたので、 そこに陵を造りました。 白鳥さら更に飛び河内(かわち)に至り、旧市邑(ふるいちむら)に留まったので、またその場所に陵を作りました。 よって、時の人はこの三陵を白鳥の陵と名付けました。 けれども、最後は天高く翔び上って去ったので、ただ衣冠だけを葬りました。 そして、日本武尊の功名を録すために、武部(たけべ)を定めました。 この年は、天皇の践祚四十三年でありました。 【倭建命なる名】 「やまと」については、魏志倭人伝に注目すべき記述がある。 ――収租賦 有邸閣 國國有市交易 有無 使大倭監之 「邸閣」はここでは租賦として集めた米穀の貯蔵庫を指すと見られる。 税として米穀を集めて貯蔵し、国々には市があり交易が行われるなど、「有無」(その類のこと全般)に対して「大倭」を派遣して監察する。 私はかつてこの部分を「国々が勝手に交易を深めて連携し、中央に立ち向かうことを警戒した」と読んだが、現時点では「有無」を「etc.」の意味だと考えている。 即ち、少なくとも北九州では畿内政権による遠隔支配が確立し、 監察のために中央から派遣された官吏は、現地では俗に「やまと」、あるいは美称「おほやまと」と呼ばれていたようである。 倭は中国側の呼称であるが、「やまと」に「倭」の字を宛てたのは、おそらく日本人自身で、この部分は魏国の取材者もそれを受けた このように既に3世紀の時点で地方は、朝廷や朝廷から派遣された官吏を「やまと」と呼んだ可能性がある。 沖縄では、現代でも本土を「やまと」と呼ぶが、そこに同じような感覚が伺える。 第132回のまとめで、大国主命に付けられた各地の別名が尊重されているのに対し、倭建命の呼称は各地で一致していることについて、 実際に各地で「やまとたける」と呼ばれたことを意味するのではないかと考えた。 中央から見て、地方の武力で抵抗する勢力を「たける」と呼ぶが、地方から見れば、中央から武力で襲ってくる勢力もまた「たける」である。 熊襲建が小碓王に倭建の名を献上した話(第126回)に、それが表れている。 だから征討軍が攻めてくれば、全国共通で「ヤマトのタケルがきた」と言ったのである。 このように「ヤマトタケル」とは、もともと被征服者が中央政権を指す言葉だったが、征服する側も使うようになり、 やがて神話化して一人の人格に集約されたとき、その名を負ったのであろう。 倭建命の物語の本質を一言で表せば、畿内政権が東国を制圧したという歴史的事実である。 【倭建命とは何者か】 以前に「一体、倭建命とは何者なのか」と提起した(第124回)が、現時点での考えをまとめておきたい。 景行天皇と倭建命の軋轢は、朝廷内の亀裂とみられる。決して反朝廷勢力の王ではない。 倭建命に対する民衆の同情は記にも色濃く滲んでいるが、これが判官びいきというものであろう。 判官びいきをヒントにして、景行天皇を頼朝、倭建命を義経に例えてみると、物語の性質が見えてくる。 この物語の背景として、敗北の地が伊吹山であったことから、壬申の乱で大海人皇子に敗北した大友皇子に準え たものとする説がある。その側面もあろうが、 東国に領土拡張した景行朝において、倭建命伝説の材料となる事実が実在したのではないかと感じられる。 倭建命の物語の大筋を見れば、草薙の剣を置いていったことは尾張氏に裏切られたことを意味し、伊吹山で政敵に敗れたと読める。 伊吹山は朝廷の勢力圏だから、土着の敵に敗北したのではなく、政権内の争いであった。 しかし、倭建命にかかわる表現は、死は「崩」、墓は「陵」、記では「太子」となっている。 さらに書紀では「命」でなく「尊」で、常陸国風土記には「倭建天皇」が出てくる。 記紀の表現において天皇と同等に扱われるのは、草稿段階では一時的に天皇とされたかも知れないし、倭建命が遂に天皇になれなかったことを惜しむ民衆の感情が反映したとも考えられる。 何れにしても、倭建命はあと一歩で天皇になるところを、 景行天皇―成務天皇ラインによって暗殺されたと見るのが妥当であろう。 しかし、成務天皇は皇太子を残さず、次代の仲哀天皇は倭建命の子である。 だから、倭建の一族は依然として力を維持し、遂に成務天皇から権力を奪い取ったのであろう。 まとめ 記紀共に、尾張国の白鳥古墳には触れない。もし白鳥が熱田に飛来したならば、宮簀媛が陵を作ったはずである。 それが書かれないのは、尾張氏が倭建命を裏切り、朝廷による暗殺に加担した後ろめたさがあるからだと考えられる。 これまで述べてきたように、草薙の剣を置いていかせ、宮簀媛が倭建命の子を産まないことは、尾張氏が倭建命を拒絶したことを表していた。 さて、これまでに、 ① 「やまとたける」は、もともと朝廷が派遣した征討軍に対して、地方勢力側が呼んだ名である。 ② 倭建命はその実力ゆえに、景行天皇に疎んじられ、最後は暗殺される。 ③ 倭建命を祖とする一族は全国展開し、各地に白鳥信仰を残す。 という事柄を読み取ることができた。 このばらばらの事柄を、統一的に理解するにはどうしたらよいのだろうか。 まず、①は征討軍といっても近代の組織的な軍隊とは異なり氏族の連合体で、 一部は征服地に残留し現地に同化して③となった。 また、征討軍の将軍は一人とは限らないが、そのうち倭建命が東山道を帰還するまでに軍勢が膨らみ、 独立勢力に変質していた。それを脅威に感じた朝廷は、尾張勢力の助力を得て揖斐川の辺りで倭建命を暗殺した。 その歴史が②で、草薙の剣を失ったことは実は尾張氏が朝廷に与して官軍となり、日本武尊が賊軍に堕ちたことの象徴である。 鈴鹿郡で倭建命を失った一族は、葛上郡、さらに志幾郡・古市郡を経て各地に落ち延び、これも③となった。 記が「志幾に陵を作り鎮坐した」という表現は、移った先の各地で白鳥神を祀った歴史を反映したものと思われる。 伊勢国では、倭建命が本当は賊軍であったという記憶が残っており、殊更にその痕跡を消すために天照大神を前面に出した。 依然として日本武尊には根強い支持があり、奈良時代になお残存する各地の反朝廷勢力の神に祀りあげられる可能性があった。 書紀は、それを防ぐために、日本武尊は景行天皇に恭順していて、天皇が日本武尊を愛しんだことを過剰なほど繰り返したのである。 |
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2016.09.24(sat) [135] 中つ巻(倭建命11) ▼▲ |
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凡此倭建命平國廻行之時
久米直之祖名七拳脛恒爲膳夫 以從仕奉也 凡(おほよそ)此の倭建命(やまとたけるのみこと)国を平(たひら)げて廻(めぐ)り行きし[之]時、 久米直(くめのあたひ)之(の)祖(おや)、名は七拳脛(ななつかはぎ)を恒に膳夫(かしはで)と為(し)たまひて、[以ちて]従(したが)ひ仕(つか)へ奉(まつ)る[也]。 此倭建命娶伊玖米天皇之女布多遲能伊理毘賣命 【自布下八字以音】 生御子 帶中津日子命【一柱】 又娶其入海弟橘比賣命生御子 若建王【一柱】 又娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女布多遲比賣 生御子 稻依別王【一柱】 此の倭建命(やまとたけるのみこと)、伊玖米(いくめ)天皇(すめらみこと)之女(むすめ)布多遅能伊理毘売命(ふたぢのいりびめのみこと) 【布自(よ)り下(しもつかた)八字(やじ)音(こゑ)を以(も)ちゐる】を娶(めあは)せ、 御子(みこ)帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)を生みたまひ【一(ひと)柱】、 又、其(その)海に入りし弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)を娶せ、御子若建王(わかたけるのみこ)を生みたまひ【一柱】、 又、近淡海(ちかつあふみ)之安国造(やすのくにのみやつこ)之祖(おや)意富多牟和気(おほたむわけ)之女(むすめ)布多遅比売(ふたちひめ)を娶せ、 御子稲依別王(いなよりわけのみこ)を生みたまひ【一柱】、 又娶吉備臣建日子之妹大吉備建比賣生御子 建貝兒王【一柱】 又娶山代之玖玖麻毛理比賣生御子 足鏡別王【一柱】 又一妻之子 息長田別王 凡是倭建命之御子等幷六柱 又、吉備臣(きびのおみ)建日子(たけひこ)之妹(いも)大吉備建比売(おほきびたけひめ)を娶せ、御子建貝児王(たけかひこのみこ)を生みたまひ【一柱】、 又、山代(やましろ)之(の)玖玖麻毛理比売(くくまもりひめ)を娶せ、御子足鏡別王(あしかがみわけのみこ)を生みたまひ【一柱】、 又、一(ある)妻之子(みこ)は、息長田別王(おきながたわけのみこ)、 凡(おほよそ)是(これ)倭建命之御子等(ら)并(あは)せて六柱(むはしら)なり。 故 帶中津日子命者治天下也 次稻依別王者【犬上君建部君等之祖】 次建貝兒王者【讚岐綾君伊勢之別登袁之別麻佐首宮首之別等之祖】 足鏡別王者【鎌倉之別小津石代之別漁田之別之祖也】 故(かれ)、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)者(は)天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 次に、稲依別王(いなよりわけのみこ)者(は)【犬上君(いぬかみのきみ)、建部君(たけるべのきみ)等(ら)之(の)祖(おや)】、 次に、建貝児王(たけかひこのみこ)者(は)【讃岐(さぬき)の綾君(あやのきみ)、伊勢之別(いせのわけ)、登袁之別(とをのわけ)、麻佐首(まさのおびと)宮首之別(みやのおびとのわけ)等(ら)之祖(おや)】、 つぎに、足鏡別王(あしかがみわけのみこ)者(は)【鎌倉之別(かまくらのわけ)、小津(をづ)の石代之別(いはしろのわけ)漁田之別(すなたのわけ)之(の)祖(おや)也(なり)】。
書紀では、景行天皇紀四十年十月条、東征に出発するとき、 吉備武彦・大伴武日連を随行させ、さらに「以二七掬脛一為二膳夫一」とされる (第128回《日本武尊東征》)。 《久米直》 「久米直」は、『新撰姓氏録』に二氏ある。 〖左京/神別/天神/久米直/直/高御魂命八世孫味耳命之後也〗 〖右京/神別/天神/久米直/直/神魂命八世孫味日命之後也〗 『姓氏家系大辞典』(以後〈大辞典〉)は、〈国造本紀〉「久味国造:神魂尊十三世孫、伊与主ヲ命ス」 によって、右京の方が正しいと述べている。 遡って邇邇芸(ににぎ)命の天降りのとき、天津久米命・天忍日命の二人が随行した。 天津久米命は「久米直等之祖」である (第84回)。 記には天津久米命・天忍日命が突然登場するので、この2神が地祇として待ち構えていたように読める。 しかし、姓氏録ではこの二神は天神で、高御魂命または神魂命の子孫とするので、 事前に降りて邇邇芸命を待っていたとする解釈が定着しているようである。 また書紀では、天忍日命が久米命を従属させた関係が繰り返し示される (第98回【大伴連・久米直】)。 そのためだろうか、書紀の「七掬脛」には「久米直の祖」という肩書がない。 《七拳脛》 七拳脛は、尾張国の氷川神社と関係がある。 『日本の苗字七千傑』によれば、七掬脛命は大久米命の七世孫。 そして大久米命の子、八雍命は氷上神社神主「来目氏」の祖とある。 この家系について〈大辞典〉は、熱田宮旧記の中に 「来目、社家、来目長稲系図。 (元祖)天槵津大来目〔あめのくしつのおほくめ〕―久米直七拳脛〔くめのあたひの-〕(大来目十世)。 (久米直七拳脛は久米八甕と父子とも云ひ、或いは兄弟とも云ふ) 来目長(氷上宮の社務元祖。これにより霊社を祭り、長社と号す)」〔抜粋〕を見出している。 【近淡海の安国造・意富多牟和気】 〈倭名類聚抄〉{近江【知加津阿不三〔ちかつあふみ〕】国・野洲郡}。 〈国造本紀〉淡海国造。志賀高穴穂朝〔成務天皇〕御世、彦坐王三世孫大陀牟夜別、定二-賜国造一。 彦坐王〔ひこいますのみこ〕は第九代開化天皇の御子。大陀牟夜別〔おほたむやわけ〕は記の「おほたむわけ」に対応する。 【香坂王忍熊王】 仲哀天皇段に、「娶大江王之女・大中津比売命、生御子、香坂王、忍熊王。」とある。 香坂王・忍熊王は息長帯比売命(神功皇后)への反乱を試みた。 【大枝王・銀王】 系図を書き出してみると、景行天皇が自身の四世の孫(迦具漏比売命)を娶り、さらにその間に生まれた子(大枝王)が景行天皇の子(銀王)を娶る という奇妙なことになっている。 どうも景行天皇の皇子について別系統の言い伝えがあり、それらを合成した結果のようにも思われるが、合理的に理解することは、不可能である。 なお、女性名「銀王」は異例である。「しろがねのみこ」と発音するとしても「銀皇女」などと表記すべきであろう。 その母名も示されず、不思議な存在である。 【派生氏族】
建部君は、〈続紀〉にしばしば登場する。 ・天平二十年〔748〕「建部公豊足」 ・天平宝字八年〔764〕「建部公人上」 ・天平神護二年〔766〕「近江国志賀団大毅少初位上建部公伊賀麻呂賜姓朝臣」〔志賀団は、志賀に置かれた軍組織〕 ・神護景雲二年〔768〕「信濃国更級郡人建部大垣。為人恭順。事親有孝。〔ひととなり恭順、親につかへ孝あり〕免其田租終身。」 天平神譲二年の「近江国志賀」と、〈姓氏録〉の「犬上朝臣同祖」を合わせて考えると、この「建部」の所在地は近江国であろう。 また、〈旧事本紀〉には武部君・近江建部君・尾張國丹羽建部君があげられているから、一族は大勢力で、子孫は各地に広がったようである。 《讃岐綾君》 讃岐綾君について、〈続紀〉に興味深い話が載っている。
書紀にはさらに、武卵王(たけかひこのみこ、建貝児王)の弟に十城別王がいて、「伊予別君」の祖とされる。 伊予国は讃岐国の隣なので、讃岐綾君から分離して「伊予の"別"君」となったと見られる。 綾公のいた讃岐は、所俘蝦夷の地でもあり(景行天皇紀5)、綾君の支配下にあったと思われる。 《宮首》 〈旧事本紀〉が宮首を「宮道」にした理由は分からないが、少なくとも9世紀の時点では「宮首」の存在は不明になっていたのであろう。 首(おびと)は、稲荷山古墳出土鉄剣に「世々為杖刀人首」〔代々「杖刀人首」となり〕とあるように、 少なくとも5世紀には職業部の統率者の姓として存在した。「宮首」は早くも平安時代までに否定されたとは言え、 古事記が一般には失われてしまった記憶を残している可能性を、簡単には放棄したくない。。 確かに「坐・座」、「至・到」など部首を取り除いても同じ意味をもつ字はある。しかし、それを一般化して「首」が「道」に通用するとは絶対に言えない。 《漁田之別》
〈大辞典〉は、「漁田」もふきたと訓んでいるから、揮田君と同一視していることになる。揮…「ふく」(振り回す)。 「ふきた」は現代地名に唯一「茨城県八千代町大字蕗田」があり、たまたま香取神社の所在地にあたるが、倭名類聚抄にも江戸時代の村名にも「ふきた」はない。 〈大辞典〉には「漁田(ふきた):景行段に~と見ゆ」、「揮田(ふきた):〔旧辞本紀の〕天皇本紀成務帝条に~と見ゆ」とするのみで、 それ以上詳しいことは書いていない。 念のために〈大辞典〉で「すなだ」を見ると、「沙田史〔すなだのふみと〕:百済族なり。」 「沙田:下野国河内郡に砂田村ありて~」とあるのみである。 漁田之別が〈旧事本紀〉で「揮田君」〔ふきたのきみ〕となったことから見て、早くも平安時代に地名「漁田」は不明になっていたのだろう。 漁田を「ふきた」と訓む合理的な根拠はないが、学研『新漢和』に難読語として挙げられるから、一定の浸透は見られる。 その源は、まさに〈旧辞本紀〉が「漁田」「揮田」を同一視した辺りにあろう。 《石代之別》 陸奥国の一部が「磐代(いはしろ)」国になったことがあるが、その成立は明治元年〔1868〕である。 しかし、倭名類聚抄で陸奥国にあるのは{磐城【伊波岐】郡}〔いはき〕である。記紀の時代に「磐城」が「いはしろ」と訓まれたことはあり得ない。 〈時代別上代〉によれば、「山背国」(やましろのくに、背は「うしろ」の意味)の表記を延暦十三年〔794〕に「山城国」に改めた。 そのときに初めて「城」が「しろ」と訓まれるようになったという。 それに対して紀伊国日高郡の岩代は万葉集の時代から存在したが、そこにいたのがこの「石代之別」であるかどうかは分からない。 小津については、桑名郡尾津に倭建命の剣忘れ伝説が残るから、建部が存在したとも考えられる。 ここでも石代の別・漁田の別の所在地は不明確である。讃岐綾君と同じく階層構造で、 「小津の石代之別と漁田之別」、すなわち小津から分離した小集団が、磐代と漁田に移ったことを意味するのかも知れない。 《建部との関係》
それぞれの姓(かばね)「君」「公」「別」は、「建部」を率いる氏族のものである。 部は擬制的な国家形態を備え、王にあたる「公・君・別」と、人民にあたる「部民」という階層構造があったと考えられる。 部はときに一部が分離独立することがあり、「別(わけ)」はそのときの姓であろう。 これまで見てきたように、建部の本拠地は、近江国と讃岐国である。さらに、鎌倉郡も倭建命伝説の舞台の足柄峠・三浦半島・相模国大沼に近い。 小津(尾津)も剣忘れ伝説の舞台である。鎌倉・尾津にも建部がいたから、その地に伝説が伝えられたとも考えられる。 讃岐方面の建部は、東国から連れて来られた俘虜を含むと思われる。 これまでの考察では、東国征討軍の将軍が東国を制圧して帰還したときには、東国人を含む大勢力となっており、朝廷は脅威を感じて将軍を暗殺した。 その仮説に従えば、倭建命死去の後、親族に率いられて各地に散った建部には、基本的に東国人が含まれていたことになる。 そして、恐らくそれぞれの定住地で白鳥塚を定め、白鳥神社を建てたのであろう。 【書紀】 19目次 《日本武尊之御子》
稲依別王(いなよりわけのみこ)、次に足仲彦天皇(たらしなかつひこすめらみこと)、次に布忍入姫命(ぬのおしいりひめ)、次に稚武王(わかたけるのみこ)を生みたまふ。 其の兄(このかみ)稲依別王、是(これ)犬上君(いぬかみのきみ)、武部君(たけるべのきみ)、凡(おほよそ)二族(ふたやから)之(の)始祖(はじめのおや)也(なり)。 又(また)吉備武彦(きびのたけひこ)之女(むすめ)吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ)を妃としたまひ、武卵王(たけかひこのみこ)与(と)十城別王(とをきわけのみこ)とを生みたまふ。 其の兄(このかみ)武卵王は、[是]讃岐綾君(さぬきのあやのきみ)之(の)始祖(はじめのおや)にて[也]、 弟(おと)十城別王(とつきわけのみこ)は、[是]伊予別君(いよわけのきみ)之始祖也(なり)。 次に穂積氏(ほづみのうぢ)の忍山宿祢(おしやまのすくね)之女(むすめ)弟橘媛(おとたちばなひめ)を妃としたまひ、稚武彦王(わかたけひこのみこ)を生みたまふ。 足仲彦天皇を第二子としたのは、初期の天皇継承の原則に合わせたものであろう。 弟橘媛の子は、記の若建王が書紀では稚武彦王になるが、稚武王の名はそのまま両道入姫皇女の子に移されて残るという、ややこしいことになっている。 《派生氏族》 記を継承するのは、犬上君・建部君・讃岐綾君の三氏である。「別」レベルが省かれたのは、恐らく弱小だったり不明になっていたりしたのであろう。 ここからも、「別」が氏族の分岐集団を率いる姓であったことが推察される。 記にないが追加されたのが「伊予別」で、〈大辞典〉の「伊勢之別は、伊豫之別の誤写説」を裏付けるものになっている。 考え得るのは、①最初は記に「伊豫之別」とあり、書紀がそれを継承した。誤写は後世のことである。 ②記は最初から「伊勢之別」で、書紀はそれを訂正しようとする意図により「別」のうち唯一「伊豫之別」を書いた。 のどちらかである。 《大意》 初めに日本武尊(やまとたけるのみこと)、両道入姫皇女(ふたちいりひめのみこ)を娶り妃とされ、 稲依別王(いなよりわけのみこ)、次に足仲彦天皇(たらしなかつひこすめらみこと)、次に布忍入姫命(ぬのおしいりひめ)、次に稚武王(わかたけるのみこ)を生みなされました。 このうち兄の稲依別王は、犬上君(いぬかみのきみ)、武部君(たけるべのきみ)、併せて二族の始祖です。 また、吉備武彦(きびのたけひこ)の娘、吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ)を妃とされ、武卵王(たけかひこのみこ)と十城別王(とおきわけのみこ)とを生みなされました。 その兄の武卵王は、讃岐綾君(さぬきのあやのきみ)の始祖で、 弟の十城別王は、伊予別君(いよわけのきみ)の始祖です。 次に穂積氏の忍山宿祢(おしやまのすくね)の娘、弟橘媛(おとたちばなひめ)を妃とされ、稚武彦王(わかたけひこのみこ)を生みなされました。 【先代旧事本紀】
また、〈旧事本紀〉は尾張国丹羽郡にも建部を見出している。 稲依別王の建部君は、犬上君と隣接するから近江国で、 稚武王の「近江武部君」と重複している。 稚武彦王命の武部君は記の石代別に対応すると見られるから、伊勢国かその周辺であろう。 〈旧事本紀〉は書紀が棄てた「別」を「君」として再び採用しているが、地名の表記を平安時代のものに直したようである。 そのうち「小津」を「尾津」とするのは妥当であるが、 「宮首」を「宮道」にした根拠を知りたいところである。 また鎌倉が、それほど一般的ではない竈口に変えられたのは、逆行するように感じられる。 なお、記の「別」はすべてが「君」に変えられたことにより、枝分かれの様子が見えなくなっている。 まとめ この段を特に設けたのは、建部の子孫が現実に全国各地に存在していたからだと思われる。 建部を率いた氏族については、書紀では主要なものに限定し、取るに足らない勢力だったり、既に確認できなくなっていたものは省いたのであろう。 一方記に収められた公・別は、すべて飛鳥時代末の時点で現実に存在していたか、少なくとも言い伝えが残っていたと想像される。 また、建部が各地に広がったこと、各地に白鳥飛来神話とともに白鳥陵・白鳥塚が存在すること、 所俘蝦夷が西国に分散したことは、一体として受け止めるべきであろう。 ここで思い浮かぶのは、墓からキリストの遺体が消え、使徒がその復活を確信して伝道に立ち上がったことと、陵から遺体が消えて白鳥となって飛び去り、それを追って全国に展開する建部の姿との 不思議な相似である。 建部も、ひとつの教団だったのかも知れない。さらには、足仲彦天皇から始まる新しい天皇の系列を生みだす力があったのかも知れない。 ならば、ヤマトタケルは何故天皇ではなかったのかという疑問が、改めて沸いてくる。 やはり、古墳時代初期に一人の英雄が朝廷への反逆者として振る舞った記憶が支配層の人々の心に深く突き刺さり、飛鳥時代になってもそれが影を落としていたとしか考えられないのである。 |
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2016.09.26(mon) [136] 中つ巻(続景行天皇4) ▼▲ |
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此大帶日子天皇之御年壹佰參拾漆歲
御陵在山邊之道上也 此の大帯日子天皇(おほたらしひこすめらみこと)之(の)御年(みとし)壹佰参拾漆歳(ももとせあまりみそとせあまりななとせ)にて、 御陵(みささき)は山辺之道上(やまのへのみちのへ)に在り[也]。 この大帯日子(おおたらしひこ)天皇〔景行天皇〕の御年は百三十七歳にて、 御陵は山辺之道上(やまのべのみちのえ)にあります。 【山辺道上陵】 《崇神天皇陵と景行天皇陵》
どちらが正しいか、記紀の記述からは判別できない。出土した埴輪によれば、行燈山古墳の方がやや古いという。 《日代宮》
纏向日代宮跡の伝承地は、穴師坐兵主神社〔あなしますひょうずじんじゃ、奈良県桜井市穴師1065〕の西、約400mにあり、 他の古代天皇の古跡と同様に石碑が立っている〔奈良県桜井市穴師447付近〕。 『五畿内志』〈大和国之十二・式上郡〉【古蹟】の項に、 日代宮【在二穴師村北一 景行天皇更都二於纏向一是謂二日代宮一】とある。 景行天皇陵との位置関係を見れば、記では崩御するまで日代宮にいたと見るのが自然であるが、 書紀では、崩御の3年前に近江国滋賀郡高穴穂宮に遷都する(後述)。 【書紀】 21目次 《大足彦忍代別天皇崩》
六十年(むそとせ)冬十一月(しもつき)乙酉(きのととり)朔辛卯(かのとう)〔七日〕、天皇(すめらみこと)[於]高穴穂宮に崩(ほうず、かむあがりしたまふ)、時に年(みとし)一百六歳(ももとせあまりむとせ)。 《高穴穂宮》 高穴穂神社は式外社で、大津市穴太(あのう)一丁目3-1。 書紀では、なぜか成務天皇即位の3年前に、高穴穂宮に遷都する。 次代の成務天皇も、そのまま志賀高穴穂宮を都としたのであるが、陵は沙紀之多他那美〔佐紀は大和国・山城国の境界の丘陵〕である。 関連して、仲哀天皇の皇居は穴門〔長門国〕豊浦宮と筑紫訶志比宮で、畿内から遠いが、陵は 河内国の恵賀の長江で畿内である。少なくとも陵の方が実際の都に近いところにあると思われるから、遠隔地の「宮」はもともとは行宮であったものが、伝承を重ねる間に皇居に変わったのかも知れない。 その前提のもとで、景行天皇または成務天皇が一時的に近江国滋賀郡に幸した理由を想像すると、 倭建命亡き後、遺された建部はまだ強力であったから、その拠点である近江国に圧力をかけに行ったのかも知れない。 《陵》 成務天皇紀元年に 「葬二大足彦天皇於倭國之山邊道上陵一」とあり、記の記述を継承している。 《暦の試算》 計算モデルとのずれは、成務天皇紀に全部で29ある朔日のうち、閏月付近における一か月のずれが2回、その他一日のずれが3回である。 不一致の出現率は、前代までと大体同じである((続々)日付に元嘉暦を適用する試み)。 《大意》 五十八年二月十一日、近江国に移られて志賀に三年間住まわれ、そのところを高穴穂(たかあなほ)宮と申します。 六十年十一月七日、天皇は高穴穂宮にて崩御されました。時に享年百六歳でした。 まとめ 最期は景行天皇に話を戻し、倭建命伝説は景行天皇段に挿入された形をとる。 崇神天皇は数代の大王の集合人格だと考えたが、垂仁・景行両天皇もまだその範囲内であろう。 従って、崇神・垂仁・景行の三代天皇と、現実に存在した大王たちとの間に一対一対応は成立しない。 しかし、この大王たちの中には、間違いなく巨大前方後円墳である行燈山古墳・渋谷向山古墳の埋葬者がいたことであろう。 この期間に中央権力として纏向政権が存在し、東国の筑後平野・仙台平野ラインまで領土を広げたこと自体は歴史的事実だと思われる。 そして、纏向政権末期には大王と、東国を制圧して帰還した将軍との間で政権内の亀裂が生じ、恐らく動乱を経て佐紀古墳群の地に政権が移ったと想像される。 |
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⇒ [137] 中つ巻(成務天皇1) |