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⇒ [129] 中つ巻(倭建命5) |
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2016.07.23(sat) [130] 中つ巻(倭建命6) ▼▲ |
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自其入幸
悉言向荒夫琉蝦夷等 亦平和山河荒神等而 還上幸時 到足柄之坂本 於食御粮處 其坂神化白鹿而來立 爾卽以其咋遺之蒜片端 待打者中其目乃打殺也 其の入幸(いりまし)自(よ)り、 悉(ことごと)荒夫琉(あらぶる)蝦夷(えみし)等(ども)を言向(ことむ)け、亦(また)山河(やまかは)の荒ぶる神等(どもを)平和(やは)して[而] 還(かへ)り上り幸(いでま)しし時、足柄(あしがら)之坂本(さかもと)に到りて、 [於]御粮(みけ)を食(を)したまふ処(ところ)に、其の坂の神、白鹿(しろきしか)と化(な)りて[而]来(き)立(た)ち、 爾(ここに)即ち其の咋(く)ひ遺(のこ)しし[之]蒜(ひる)の片端(かたはし)を以(も)ちて待ち打て者(ば)、其の目に中(あた)りて乃(すなは)ち打ち殺したまふ[也]。 故 登立其坂三歎詔云 阿豆麻波夜【自阿下五字以音也】 故 號其國謂阿豆麻也 卽自其國越出甲斐坐酒折宮之時 故(かれ)、其の坂に登り立たして三(みたび)歎(なげ)きて詔(のたまはく)[云]「阿豆麻波夜(あづまはや)【阿自(よ)り下(しもつかた)五字(ごじ)音(こゑ)を以(もちゐ)る[也]。】」とのたまふ。 故(かれ)、其の国を号(なづ)けて阿豆麻(あづま)と謂(まを)す[也]。 即ち其の国自(よ)り甲斐(かび)に越し出(い)でて、酒折宮(さかをりのみや)に坐(ましま)しし[之]時、 歌曰 邇比婆理 都久波袁須疑弖 伊久用加泥都流 爾其御火燒之老人 續御歌以歌曰 迦賀那倍弖 用邇波許許能用 比邇波登袁加袁 是以譽其老人卽給東國造也 歌(うたよみ)たまはく[曰]、 邇比婆理(にひばり) 都久波袁須疑弖(つくばをすぎて) 伊久用加泥都流(いくよかねつる) 爾(ここに)其の御火焼(みひたき)之老人(おきな)、御歌に続けて[以ちて]歌よみまつらく[曰] 迦賀那倍弖(かがなべて) 用邇波許許能用(よにはここのよ) 比邇波登袁加袁(ひにはとをかを) 是(こ)を以ちて其の老人を誉めたまひ、即ち東(あづま)の国造(くにのみやつこ)を給る[也]。 その地に入り、 悉く荒ぶる蝦夷(えみし)どもを従わせ、また山河の荒ぶる神どもを平定し、 都に帰る途中で足柄(あしがら)峠の坂に到着し、 食事されているところに、その坂の神が白鹿に化けてやって来て、前に立ちました。 そこで、食べ残しの蒜(ひる)の端を持ち、待ち構えて叩くと、その目に命中して打ち殺しなされました。 そして、その坂に登って立たれ、三度(みたび)「吾妻はや」と歎かれました。 よって、その国は「あずま」と名付けられました。 そして、その国から国境を腰し甲斐の国に出られ、酒折宮(さかおりのみや)に滞在されたとき、 この歌を詠まれました。 新治(にひばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる 《大意》新治(にいばり)、筑波を過ぎて、幾夜寝たことか。 すると、御火焚(みひたき)を務めていた老夫が、御歌に続けて詠んで差し上げました。 日々(かが)並(な)べて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を 《大意》日々を重ね、夜は九晩、昼は十日を。 これによりその老夫を誉められ、東(あずま)の国造(くにのみやつこ)を給りました。 いります(入り座す)…(万)3230 朝宮 仕奉而 吉野部登 入座見者 古所念 あさみやに つかへまつりて よしのへと いりますみれば いにしへおもほゆ。 〔吉野の離宮に元正天皇がお入りになるのを見て、古を思う〕の例から、いでます(出座、幸)と対をなすと思われる。 足柄…〈倭名類聚抄〉{相模国・(足上【足辛乃加美】郡)・足下【准上】郡・足柄【阿之加良】郷}〔あしのしものこほり・あしからのさと〕。 近代の「足柄村」は明治41年〔1908〕発足、現在の小田原市の北西部。 蒜…(古訓) おほひる。ひる。 きたつ(来立つ)…[自]タ四 やって来て、そこに立つ。 にひばり(新治)…[名] 新たに土地などを開くこと。また、その田。 〈倭名類聚抄〉{常陸国・新治【爾比波里】郡・新治郷}〔にひはりのこほり・~のさと〕。『国造本紀』に「新治国造」が見える。 つくば(筑波)…〈倭名類聚抄〉{常陸国・筑波【豆久波】郡・筑波郷}〔つくばのこほり・~のさと〕。『国造本紀』に「筑波国造」が見える。 ほやけ(火焼)…[名] 火事。 ひたき(火炬)…〈時代別上代〉「助鋪【ヒタキヤ】」(名義抄)や、「火たきやの火たく衛士」(更級日記)など平安時代には例が見え、延喜式にも「秉燭」「火炬」の例が見える。 書紀の「秉燭者」に対応。 かかなぶ…[自]バ下二 日数を重ねる。「日日並ぶ」の意。 甲斐国…〈倭名類聚抄〉{甲斐【賀比】国}。 【荒夫琉蝦夷】 書紀は「荒夫琉蝦夷」の一文を拡張し、陸奥国の蝦夷(えびす)を制圧したかのように書いている。 日本武尊に東征を命じたとき、東夷の中の「蝦夷」を区別して特別に文化が異なる民族と描いている。 これについては、「(斉明天皇朝に存在したアイヌの)蝦夷国の姿を、時空を超えて景行朝の関東地方近くまで引っ張ってきて、未開民族の土地として描いているに過ぎない。」 (第29回《倭建命東征》・まとめ)と書いた。 それに比べると記の記述は抑制的で、「蝦夷(えみし)」と漠然と書くだけなので、 陸奥国南部の朝廷に従わない倭人を意味する。 倭建命が到達地の北限については、多賀神社(名取市)に独自の日本武尊伝説が見える(後述)。 また、石巻市に日高見神社がある(後述)ので、「蝦夷境」は仙台平野の辺りというのが、記紀の時代の認識であろう。 アイヌが最も南下したのが4世紀で、南限は仙台平野と言われるので、そのころ接触した記憶が伝説となって残っている可能性はある。 また、書紀では蝦夷を攻め滅ぼさず、「免二其罪一」、「俘二其首帥一而令レ従レ身」 と書くところが注目される。斉明天皇のとき、南部のアイヌとは交易があり、遣唐使に同行させるなど一定の友好関係があったことが、ここにも反映しているのかも知れない。 【足柄】 《足柄峠》 足柄峠は、静岡県駿東郡小山町竹之下。 かつて「延暦21年〔802〕には富士山の大噴火があり砕石が足柄道を閉鎖したが、翌年復旧した。 平安時代の物語、紀行、和歌などを見ると、ほとんどが足柄道を越えた記録である。 平安時代末期には、湯坂道を通って箱根越えする旅人が増え、鎌倉時代の主なルートとなった。 後に、江戸幕府が慶長9年〔1604〕に東海道を開き、経路は箱根峠越えとなった」 (箱根全山/箱根の見どころ)という。 従って、古事記の時代の東国は足柄峠を越えた向こうであった。 《書紀における経路変更》 書紀では、足柄峠通過には触れない。その代わりに、酒折宮から武蔵(むさし)・上野(かみつけの)を通り 碓氷峠から信濃国に入る。 そして、白鹿を撃退する話を信濃入国後に持っていくとともに、「あづまはや」と叫ぶ場所を酒折宮通過後の碓氷峠に移している。 その理由はよく分からないが、書紀では上野国を東国の中心地と扱っていることに関係があるかも知れない。 例えば、「東山道十五国都督」(第123回《東国行幸》【都督】)を、上毛国を置こうとした。 また、記紀ともに崇神天皇の皇子、活目の尊を「上毛野君・下毛野君の祖」としている (第110回・ 第115回【書紀(2)】)。 従って、東国全体を見渡す場所は、上毛国に向かう碓氷峠がふさわしいと考えたと解釈することができる。 【阿豆麻】 「あつまつ」という古語がある。 〈倭名類聚抄〉(二十巻本) 「辺鄙 文選西京賦云蚩眩辺鄙訓【阿豆万豆】蚩眩【阿佐無岐加々夜加須】」 〔辺鄙…文選の西京賦に「蚩眩辺鄙」と云ひ、訓は【あつまつ】。蚩眩は【あさむきかかやかす】。〕。 『文選』は、南朝の梁〔502~557〕で、先秦から梁代までの詩文辞賦を撰録する。 『西京賦』は、張衡〔ちょうこう、後漢の科学者。78~139〕が西の都、長安を書いた書。 辺鄙の古訓は、〈名義抄〉にも「あつまつ、あつまと、あつまひと」がある。 「あつまつ」の語尾のツは、ヒトが訛ったものか。倭名類聚抄には、アツマツが「微賤類」の項に人民・舟子・奴僕などとともに収められていることが、 「人」であることを実証する。 「あづま」は東国のことだが、もともとは清音アツマで辺鄙(へんぴ)な地域を意味したと見られる。 記紀で「弟橘姫を偲んで『あつまはや』〔わが妻よ〕と叫んだ」という由来譚は後付けで、実際の語源とは無関係である。 とは言え、これまで東国の語は再三出てきたのに、ここで初めて地名由来譚が出てくるのは、東国の制圧は倭建命こそが立役者であったことを示している。 また東国または東の訓がアヅマであることが、ここで初めて確定する。 《東国造》 王(みこ)の歌の続きを見事に詠んだ「御火焼」の老夫は、東国造に任ぜられた。 「東国造」は国造本紀には見えないが、記では足柄峠の東に「あづま国」という国があった。 その規模は国造が治める「国」であるから、その規模は相模国の一部であろう。 書紀は、「号二山東〔碓氷峠より東〕諸国一曰二吾嬬国一也。」、 つまり、東方の諸国の総称とする。当然「国造」が定められるべき国とは言えないから、書紀では「国造」の語は消えた。 記は、箱根の山より東が一般的に「あづま」と呼ばれたことから、「あづま国という国がこの地に存在した」という架空の物語を作り上げたと見るのが妥当か。 しかし、古事記に収容された話には、古来の伝承という種が多少なりともあるものだとすれば、 相模国の一部地域に「あづま国がかつて存在した」と伝わっていたことになる。 【御火焼】 ここでは、「ひやけ」(火事)ではなく、天皇(ここでは倭建命)に仕える火の管理役である。恐らく灯火のことであろうが、調理用の火かも知れない。 書紀は「挙レ燭」〔ともしびを挙ぐ〕とし、灯火と解釈している。 「ひたき」は、〈倭名類聚抄〉に「火爐【比多岐ヒタキ】火爐、火所レ居也」とある。 「灯火器」の項目の中に竈や灯台などとともに挙げられるから、「ひたき」は火を置く場所を一般的に指す語と思われる。 「ひたきや」は、〈倭名類聚抄〉「助鋪 【和名古夜】一云【比太岐夜】如衛士屋也」 とあり、「火焚屋」が衛士の詰め所一般を意味する語に転じたようだ。 〈時代別上代〉の見出し語には、「たく(焚)」はあるが「ひたき(火焚)」がない。前者は万葉集に用例があるのに対し、後者は上代の文献に発見できなかったからであろう。 《書紀の「秉燭」》 一方、同辞典の見出し語には「ひともしひと」がある。これは、書紀の古訓が、上代語として確実に存在したと判断したからであろう。 しかし、同辞典は、平安時代になると「ひたき」が使われ、延喜式の中の「令衛士進秉燭」と「火炬小子四人」は、何れも「ひたき」の例としている。 朝廷の役職名の「ひたき・ひたきひと」は倭名類聚抄にあるから確実で、その語は上代以来の「ひたく」に繋がるものである。 丙本は「有秉燭者」を「ひともして」と訓む。これは「者」を接続助詞「ば」と位置づけ「火ともすこと有れば」と読んだ上で、平易な表現に直したものと思われる。 そこから派生して、「秉燭者」「秉燭人」が共に「ひともしひと」になったと想像される。 以上から、 ① もともと動詞「ひたく」は存在した。 ② 記は「ひたく人=ひたき」に「火焼」の字を宛てた。 ③ 役職「秉燭(ひたき)」が存在したので、書紀原文作者は記の「ひたき」そのまま用い、「秉燭」の字を宛てた。 ④ 後に書紀訓読研究家の議論の間に、独自の解釈により「秉燭人」を「ひともしひと」と訓まれるようになった。 という経過が考えられる。 【酒折宮】 《神名帳》 延喜式神名帳は、甲斐国山梨郡に神部神社、物部神社など九座を載せるが、酒折宮の記載はない。 《甲斐国志》 『甲斐国志』(文化11年〔1814〕)巻之五十六に、酒折宮の記事がある。
《備前国の酒折宮》 清和天皇の貞観年中〔860〕創建。当初の名称は岡山明神または坂下明神。 池田輝政の万治年間〔1658~1661〕には、酒折宮。明治15年〔1882〕、岡山神社に改称。 《甲州道中分間延絵図》 17世紀中ごろに、五街道を初めとする各地の道中図が作られた。そのうち甲州街道の分は9巻の巻物で『甲州道中分間延絵図』と呼ばれる。 右図は、第6巻「石和 甲府」の一部で「坂折村」付近(左)と、酒折宮付近の拡大(右)を示す (出典:「東京美術」社1986年刊行の復刻版。解説つき)。 また、同解説には「月見山」について、「酒折宮の旧跡といわれる古天神の東に続く山である。西方の東光寺辺から眺めると凹字状の形を示して、 満月の上る時は鏡台のようであることから鏡台山の名で呼ばれている」などとある。 《遺跡》 月見山の中腹の不老園塚古墳は、2010年9月に山梨学院大学考古学研究会による発掘調査が行われた。 『山梨学院ニュースファイル』によれば、 「調査の結果、古墳時代の土師器(はじき)と見られる土器片などが出土、この古墳は古墳時代後期7世紀頃に作られた無袖の横穴式石室を持つ円墳、甲府北山筋の氏族長クラスの墳墓と推定。 墳丘は高さが2m、直径は10m。」 「古墳のある酒折御室山(通称月見山)は、南方から見るとピラミッド形に見え、古代の神奈備型山岳信仰と結びつく磐座(いわくら)と云われている巨石が尾根上に3か所存在する。」 とある。 《古い信仰の地》 このように月見山は、纏向の三諸山に肩を並べる「酒折の御室山」で、古くから神奈備型信仰があったと考えられている。 恐らく記紀の時代にはすでに「さかをり」の地名があり、ここを倭建命の行宮に定めたのではないかと想像される。 《酒折宮の比定地》
しかし次の項で述べるように、連歌が確立された鎌倉時代から、酒折宮の存在が意識されていた。 平安時代から鎌倉時代の間に酒折宮の位置が不明になることは、さすがにないだろう。 これが、記紀が書かれた時代の「酒折宮」の位置がそのまま現代に到っているのではないかと考える由縁である。 【連歌】 《記紀の歌の性格》 記は「続二御歌一以歌曰」として、翁が詠んだのは一つの歌の続きであると述べる。 書紀も「続二王歌之末一而歌曰」として、「歌の末に継ぎ足された」ことを説明する。 つまり、二人がかりで一つの歌を完成させたものであることを、念入りに説明している。 書紀は、王(みこ)が詠んだ未完成の歌にどう答えたらよいものかと側近が皆戸惑っていたとき、 たまたま灯火の係の者が、王の意図を察して見事に歌の続きを詠んで完成させたので、王は大いに喜んだ場面を描く。 これは記紀編纂記に、すでに連歌のような楽しみ方が存在したことを示唆している。 《連歌の発展》 『莬玖波集』(つくばしゅう)は、1356年に成立した連歌集である。 「つくば」は言うまでもなく、倭建命と老夫の問答歌の歌いだしで、 少なくとも室町時代には、これが連歌の由来として意識されていたことを示す。 短連歌〔上の句五七七と、下の句七七を二人で詠んで完結する〕は、古今和歌集〔905〕に既に含まれ、 院政時代〔12世紀〕ごろまで流行したという。そして長連歌〔七七からさらに次の五七五を繋げ、延々と連結されたもの〕に移行し、 鎌倉時代〔1185ごろ~〕には100句を基準とする形式が整えられたという。 連歌の別名を「筑波の道」といい、『現代語古語類語辞典』(芹生公男)はこれを「中世」(鎌倉時代以後)の語としている。 【書紀】 13目次 《至甲斐国》
時に、大鏡(おほかがみ)を[於]王(みこ)の船に懸(か)け、海路(うみつぢ)従(ゆ)[於]葦浦(あしのうら)に廻(めぐ)りて、玉浦(たまのうら)を横渡(よこわた)りて、蝦夷の境(さかひ)に至りたまひき。 蝦夷(えびす)の賊首(ひとこのかみ、たける)、嶋津神(しまつかみ)・国津神(くにつかみ)等(ら)、[於]竹水門(たかのみなと)に屯(あつま)りて[而]欲距(ふせかむとす)。 然(しかれども)遙かに王の船を視(み)て、予(あらかじめ)其の威勢(いきほひ)を怖(おそ)りて[而]心(こころ)の裏(うら)に之(これ)不可勝(えかたぬ)と知りて、悉(ことごと)弓矢を捨てて、 望み拝(おろ)がみて[之]曰(まをさく)「君の容(すがた)を仰視(あふぎみ)て、[於]人倫(ひととなり)に秀(ひづ)。若(もしや)神[之]なる乎(か)。姓(かばね)名(みな)を知(し)らむと欲(ねが)ひまつる。」とまをし、 王(みこ)対(こたへたまはく)[之曰]「吾(われ)是(これ)現人神(あらひとがみ)之子(みこ)なり[也]。」とこたへたまふ。
仍(すなはち)面縛(しりへでにしばらえて)罪に服(したが)ひし故(ゆゑ)に、其の罪を免(まぬか)る。因以(しかるがゆゑをもちて)、其の首帥(ひとこのかみ、たける)を俘(とりこ)として[而]身を従は令(し)む[也]。 蝦夷(えびす)既に平(たひら)ぎ、日高見(ひだかみ)の国自(よ)り[之]還(かへ)りて、西南(ひつじさる)に常陸(ひたち)を歴(めぐ)り、甲斐(かび)の国に至り、[于]酒折宮(さかをりのみや)に居(ま)せり。 時に燭(ともしび)を挙(あ)げて[而]食(みけ)を進めらえ、是の夜(よ)、歌[之](うたよみ)を以ちて侍者(さぶらひひと)に問ひたまはく[曰]、 珥比麼利(にひばり) 菟玖波塢須擬氐(つくはをすぎて) 異玖用伽禰菟流(いくよかねつる) 諸(もろもろの)侍者(さぶらひひと)不能答言(えこたへまをさず)。 時に秉燭者(ひたきひと)有り、王(みこ)の歌(みうた)之(の)末(すゑ)に続けて[而]歌(うたよみ)曰(まを)さく、 伽餓奈倍氐(かがなべて) 用珥波虚々能用(よにはここのよ) 比珥波苔塢伽塢(ひにはとをかを) 即ち秉燭人(ひたきひと)之(の)聡(さと)しみを美(ほ)めて[而]敦(あつ)く賞(たまもの)をさづけたまふ。 則(すなはち)是の宮に居(いま)して、靫部(ゆけべ)を以ちて大伴連(おほとものむらじ)之遠祖(とほつおや)武日(たけひ)に賜(たまは)る[也]。
則(すなはち)甲斐の自(よ)り北に、武蔵(むさし)・上野(かみつけの)を転歴(めぐ)り、西に[于]碓日(うすひ)の坂に逮(いた)る。 時に日本武尊、毎(つねに)弟橘媛(おとたちばなひめ)を顧(かへりみる)[之]情(こころ)有り、 故(かれ)、碓日嶺(うすひのみね)に登りて[而]東南(たつみ)に[之を]望みて、三(みたび)歎(なげ)きて曰(のたまはく)「吾嬬者耶(あづまはや)【嬬、此を菟摩(つま)と云ふ】。」とのたまふ。 故因(しかるがゆゑに)、山の東(ひむがし)の諸(もろもろの)国を号(なづ)けて、吾嬬国(あづまのくに)と曰ふ[也]。 於是(ここに)道を分かち、吉備武彦(きびのたけひこ)を[於]越の国に遣はし、其の地(つち)の形(ありさま)の嶮(さがしき)か易(やすき)か、及(および)人民(たみ)の順不(したがふかしたがはざるか)を監察(み)令(し)む。 《葦浦・玉浦》
なお、九十九里浜の古名が「玉浦」であるのは確かだが、その場合、葦浦に「吉浦村」を宛てなければならない。 葦浦=吉浦村〔現在は鴨川市の江見吉浦〕説は、吉田東伍『大日本地名辞書』による(右)。 「葦」は「悪し」に通ずることを嫌い、しばしば「よし」に代えられる。 吉浦・九十九里浜説は、「多加」(次項)と離れすぎているので、適切ではないとする意見はネット上に多い。 確かに「横二‐渡玉浦一至二蝦夷境一」は、 上陸地まで玉浦の沿岸に沿って航行したと読むのが自然である。だとすれば、玉浦は高水門まで続いていたはずだから、九十九里浜ではない。 《高水門》 式内社に多加神社・多珂神社が見え、仙台市から南相馬市の範囲の太平洋岸に「たか」の地名があった可能性は高い。 ◎〈神名帳〉{陸奥国/宮城郡/多賀神社}。比定社は多賀神社(宮城県多賀城市高崎1-14)。 <Wikipedia>陸奥国司や開拓民が崇敬していた近江国の多賀大社を遷祀したものが起源</Wikipedia>とされるので、創建は書紀が書かれた後かも知れない。 ◎〈神名帳〉{陸奥国/名取郡/多加神社}。論社は多賀神社(宮城県仙台市太白区富沢3-15-1)と、多賀神社(宮城県名取市高柳字下西50)の二社がある。 多賀神社(仙台市太白区)の社伝には、「景行天皇40年、日本武尊東征のときに創祀」したとされる。 多賀神社(名取市)の社伝に「景行天皇28年、日本武尊東征のときに勧請。日本武尊は長旅にて、重い病にかかり柳の生い茂るこの温暖な地で病気平癒の祈願をし無事に治癒し大和に凱旋した」とある。 書紀成立後に成立した伝説なら、もう少し書紀に近い内容になるように思える。 この地で思い病にかかったり、快癒して帰還したという部分には独自性があり、書紀以前の倭建命伝説の原型を反映した可能性があり、興味深い。 ◎〈神名帳〉{陸奥国/行方郡/多珂神社【名神・大】}。論社は、福島県南相馬市原町区高城ノ内112。 社伝に、日本武尊は「陸奥に下り各地に転戦し給い軍を太田川のほとりに進められ戦勝祈願のために大明神川原(大明神橋の名も今に残る)の近く玉形山に神殿を創建し給ふ。」とある。 《日高見国》 式内社に日高見神社がある。〈神名帳〉{陸奥国/桃生郡/日高見神社}。比定社は日高見神社(宮城県石巻市桃生町太田字拾貫壱番73)。 祭神に日本武尊、武内宿祢尊が含まれるので、書紀が書かれた後に命名された可能性もある。 武内宿祢は崇神天皇朝のとき諸国を視察し、日高見国の存在を報告した(景行天皇紀3)。 《大意》 ここに日本武尊は上総(かみつふさ)の国から転回し、陸奧(みちのく)の国に入いられました。 その時、大鏡(おおかがみ)を皇子の船に掲げ、海路を葦浦(あしのうら)に巡り、玉浦(たまのうら)を横断して蝦夷の国境に達しました。 蝦夷(えびす)の首魁、嶋つ神・国つ神らは、竹水門(たかのみなと)に集結し、防ごうとしました。 しかし、皇子の船を遥かに見て、はじめからその威勢を怖れ、内心勝つのは無理だと悟り、弓矢を全部捨て、 面会し拝礼の上「貴方様の姿を仰ぎ見たところ、人となりに秀でておられます。もしや神であられましょうか。御名をお教えいただけますでしょうか。」と申し上げました。 皇子は「我は、現人神(あらひとがみ)の皇子なるぞ。」と答えられました。 ここに、蝦夷らは悉く慄(おのの)き、袴や裳を波の上に開いて置き、自ら皇子の船をお助けして着岸させました。 そして後ろ手に縛られて罪に服した故に、その罪を減じられました。このようにして、首魁を捕虜として従身させました。 蝦夷を平定し終え、日高見(ひだかみ)の国から帰路につき、南西方向に常陸(ひたち)の国を巡り、甲斐(かい)の国に至り、酒折宮(さかおりのみや)に滞在されました。 その時、燭台を灯して食事を進められ、この夜、歌詠みによって側近に問われました。 ――新治(にひばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる 側近の者は、誰一人それにお答え申し上げることができませんでした。 その時、秉燭人(ひたきびと)が、皇子の歌の末に続けて歌詠み申し上げました。 ――日々(かが)並(な)べて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を これによって、秉燭人の機転を褒め、厚く褒美を授けられました。 そしてこの宮に滞在された間に、靫部(ゆけべ)を、大伴連(おおとものむらじ)の遠祖、武日(たけひ)に賜りました。 ここに、日本武尊は、「蝦夷の首魁は、皆其の罪に服した。しかし、信濃(しなの)の国、越(こし)の国は頑で、未だに従おうとしない。」と仰りました。 そして甲斐から北に、武蔵(むさし)の国・上野(かみつけの)国を巡り、西に転じて碓氷(うすひ)の坂に到着しました。 ところで、日本武尊は常に弟橘媛(おとたちばなひめ)を顧みる心情がありました。 そこで、碓氷の嶺に登って南東の方向を望み、三度(みたび)「吾妻(あづま)はや」と歎かれました。 よって、碓氷の山より東方の諸国は吾妻国(あずまのくに)と名付けられました。 そして、道を分けて吉備武彦(きびのたけひこ)を越の国に遣わし、その地形の険しさの程度、そして人民が従うか否かを監察させました。 まとめ 日本武尊が蝦夷境に向かうときも、海路をとっている。 神武天皇は東征の折、瀬戸内海を航行し、景行天皇は伊勢国から安房国まで海路をとった。 上総国に出現期の前方後円墳があることから、纏向政権の時代は海路で橋頭堡を築き、植民地を広げていったことが、書紀の記述に反映したのではないかと推定した。 常陸国・陸奥国南部の太平洋岸においても、船団を派遣して海から領土を広げていった記憶が、日本武尊の物語に結実したのではないかと考えられる。 蝦夷は、景行天皇の時代はまだ仙台平野までの倭人を指し、書紀のようにアイヌを登場させるのはまだ早いと思われる。 火たきひと・火ともしひとについては、細かいところまで検討した。720年の成立から平安時代の訓読研究を経て、書紀自体が変質したと見るべきであろう。 訓読研究の過程を推定することは、字句の解釈に留まらず書紀そのものの歴史的な変質を探るために重要な作業である。 記の「吾妻国」の実態は謎のままである。ただ、少なくとも「東国」とは足柄峠を越えた向こう側であるという感覚が、当時一般的だったのだろう。 この感覚は、箱根の関で入り鉄砲と出女を警戒した江戸時代でも変わらない。 東西交通は海路も、碓氷峠越えもあったのだろうが、往来が最も多い中心経路が足柄峠越えだったということだろう。 火焚人が倭建命の歌を継いで歌った話は書紀もほぼ踏襲し、歌そのものは記紀で完全に一致している。 恐らく酒折宮にまつわる有名な伝説であった。奈良時代初期にすで始まっていた連歌にまつわる神話として、面白がられていたのであろう。 |
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2016.08.07(sun) [131] 中つ巻(倭建命7) ▼▲ |
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自其國越科野國乃言向科野之坂神而還來尾張國
入坐先日所期美夜受比賣之許 於是獻大御食之時 其美夜受比賣捧大御酒盞以獻 爾美夜受比賣其於意須比之襴【意須比三字以音】著月經 故見其月經御歌曰 其の国自(よ)り科野(しなの)の国に越(こ)へ乃(すなはち)科野之坂の神を言向(ことむ)けて[而]尾張国に還(かへ)り来たまふ。 先(さき)の日に美夜受比売(みやずひめ)に期(ちぎ)りせし[所の][之]許(ところ)に入(い)り坐(ま)す。 於是(ここに)大御食(おほみけ)を献(たてまつ)りし[之]時、其の美夜受比売大御酒盞(おほみさかづき)を捧(ささ)げ以ちて献(たてまつ)りき。 爾(ここに)美夜受比売其(それ)[於]意須比(おすひ)之襴(すそ)に【意須比の三字(さむじ)音(こゑ)を以(もちゐ)る】月経(ぐえつけい、つきごと)の著(つ)けり。 故(かれ)其の月経を見(め)して御歌(みうたよみたまはく)[曰] 比佐迦多能 阿米能迦具夜麻 斗迦麻邇 佐和多流久毘 比波煩曾 多和夜賀比那袁 麻迦牟登波 阿禮波須禮杼 佐泥牟登波 阿禮波意母閇杼 那賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多知邇祁理 比佐迦多能(ひさかたの) 阿米能迦具夜麻(あめのかぐやま) 斗迦麻邇(とかまに) 佐和多流久毘(さわたるくび) 比波煩曽(ひはぼそ) 多和夜賀比那袁(たわやがひなを) 麻迦牟登波(まかむとは) 阿礼波須礼杼(あれはすれど) 佐泥牟登波(さねむとは) 阿礼波意母閉杼(あれはおもへど) 那賀祁勢流(ながけせる) 意須比能須蘇爾(おすひのすそに) 都紀多知邇祁理(つきたちにけり) 爾美夜受比賣答御歌曰 爾(ここに)美夜受比売答御歌(かへしうたよみたまはく)[曰] 多迦比迦流 比能美古 夜須美斯志 和賀意富岐美 阿良多麻能 登斯賀岐布禮婆 阿良多麻能 都紀波岐閇由久 宇倍那宇倍那宇倍那 岐美麻知賀多爾 和賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多多那牟余 多迦比迦流(たかひかる) 比能美古(ひのみこ) 夜須美斯志(やすみしし) 和賀意富岐美(わがおほきみ) 阿良多麻能(あらたまの) 登斯賀岐布礼婆(としがきふれば) 阿良多麻能(あらたまの) 都紀波岐閉由久(ときはきへゆく) 宇倍那宇倍那宇倍那(うべなうべなうべな) 岐美麻知賀多爾(きみまちがたに) 和賀祁勢流(わがけせる) 意須比能須蘇爾(おすひのすそに) 都紀多多那牟余(つきたたなむよ) 故爾御合而 以其御刀之草那藝劒置其美夜受比賣之許而 取伊服岐能山之神幸行 故爾(しかるがゆゑに)御合(みあ)はせて[而] [以]其の御刀之(みはかしし)草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を其の美夜受比売之許(ところ)に置きて[而] 伊服岐能山(いふきのやま)之神(かみ)を取らむと幸行(いでま)しき。
その国から科野(しなの)の国の国境を越え、科野の坂の神を征圧して、尾張の国に帰還なされ、
以前に美夜受比売(みやずひめ)と婚約した家に入られました。
《科野の坂》 <wikipedia>神坂峠は、古代には信濃坂と呼称され、東山道はこの急峻な峠を越えて伊奈方面に抜ける形になっていた。 その険しい道程から東山道第一の難所として知られ、荒ぶる神の坐す峠として「神の御坂」と呼ばれた。</wikipedia>という。 ここでは敵である人間を征伐するのとは趣を異とし、通行の難所の悪神を撃退して住民に益をもたらす。信濃国は、纏向政権の安定的な支配域なのだろう。 《書紀における信濃国巡幸》 長野県は、<wikipedia>日本の屋根と呼ばれ、県境に標高2000~3000m級の高山が連なり、内部にも山岳が重なりあう急峻で複雑な地形である。</wikipedia>と言われる。 書紀は、わざわざ遠回りをして碓氷峠から信濃国に入り、山岳地帯の厳しさを思い切り体験する話が加えられている。その割には具体的な地名や敵対する氏族名は一つもなく、風土記のようになっている。 【御刀之】 「みはかし」は、「はかす」〔はくの未然形+尊敬の助動詞す〕の名詞形にさらに尊敬の接頭辞「み-」をつけたもので、貴人の刀を意味する。 枕詞「みはかしを」は、(万)3289 御佩乎 劔池之 蓮葉尓 みはかしを つるぎのいけの はちすばに。に使われている。 ここでは、動詞「はく(帯く、佩く)」に戻した用法と見られる。 「これまで帯びていた」という連体修飾語に、あの草薙の剣を置いていって大丈夫かという危惧が感じられる。 【歌の解釈】 「くび」は鳥の一種で、鵠(くくひ、白鳥)と同じと考えられている。倭名類聚抄に「くくひ」はあるが、「くび」はない。 しかし、少女の白くて細い腕を形容する文脈中だから、白鳥という解釈は妥当であろう。 「とかま」は、万葉集にはなく、古語辞典にはこの歌と、祝詞「彼方の繁木がもとを焼鎌の敏鎌(とがま)もちてうち掃ふ事の如く」という文例が載っている。 ここでは一応、香久山の前を鋭く一直線に横切る様子が、山を鎌で切り取るようであったと解釈しておく。「かまなり」(やかましい)という語もあるが「かまに」とすると、「と」がうまく解釈できない。 返歌の「たかひかる~わがおほきみ」は、皇子を称える常套句である。 柿本人麻呂が軽皇子に随行したときの歌に、(万)0045 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 やすみしし わごおほきみ たかてらす ひのみこ かむながら かむさびせすと(以下略)。がある。 「やすみししわごおほきみ」もあるのは、ゆくゆくは天皇になる人であるからであろう。 「うべなうべな」は普通2回であるが、真福寺本では3回繰り返されている。 「きみまちがたに」の「まち」は連用形であるから、「かた」は「かたし(難し)」の語幹用法であろう。 これによって「待つことに耐えられぬ。早く会いたい」という思いを発露する。 【月經】 この段の「おすひの裾に著(つ)く」という表現から、「月経」が現代と同じ意味であることは確実である。 念のために中国語を調べると、唐代以前の中国の用例は見つけられないが、 現代の中国語では、〈汉典〉に「生殖細胞発育成熟的女子周期性的子宮内膜脱落出血」とされ、日本語の月経と同じ意味である。 歌の中では、これを「月たつ」〔月が改まる〕、「月たたなむ」〔月が経過する〕に掛けているが、 古事記作者は、歌の中の「つき」を、月経と解釈したことが分かる。 『現代語古語類語辞典』は「つき」を月経を意味する上代語と認めているが、これは記のこの部分を根拠とすると思われる。 しかし、〈時代別上代〉では「つき」の項にこの意味を含めることを見送っている。 平安期以後には「つきのさはり」という語がある。上代においても、この語か類似する語が存在し、この歌ではたまたまそれを端折って「つき」としたに過ぎないとも考えられる。 それでは、記の「月経」は実際にどう訓むべきか。これは、なかなかの難問である。 諸橋『大漢和辞典』は、その同義語に「経水、経行、月役、月事、月信、天癸」を挙げている。 熱田神宮縁起〔後述。以後〈縁起〉と表記〕には「月水」が用いられているので、訓読みした「つき(の)みづ」があったかも知れないが、想像に過ぎない。 それでは月事から「つきこと」はどうであろうか。この語が存在した証拠はないが、飛鳥時代の人が「おすひのすそにつきことのつけり」 と聞けば、「月の事」と理解するであろう。最低限、上代の人に通じる語であれば訓として許されるだろう。
また、返歌の「としふ」「ときふゆく」は「経」の訓を意識していると思われ、「月経」の訓読み「つきふ」(動詞)が和語としても存在した可能性はある。その名詞形「つきへ」は妥当な訓みだと思われるが、 用例がないので想像にすぎず、もし存在しなかった場合上代の人に聞かせても伝わらないだろうから採用できない。 宣長はこれを「さはりのもの」と訓むが、近代の感覚のように思われる。 書紀はこの歌の掲載を見送っっている。これは、書紀に載せるには芳しくないと判断したからであろう。 書紀は文意の「日数が経過し、月が改まる」だけを採用して、「淹留踰月」〔しまらくとどまること月を越ゆ〕と書く。 一方、〈縁起〉は歌を省かない。しかし、「意須比能須蘇爾都紀」の部分を「意須比乃宇閉爾阿佐都紀乃其止久都紀」〔おすひのうへにあさつきのごとくつき〕として、 「朝月の如く」を挿入している。これは雅な表現を加えることにより、生々しさを緩和しようとしたのではないかと思われる。 満月は日の出のころ西の空に沈み、赤っぽくなる。これは朝日・夕日と同じ現象で、太陽や月が地平線に近づくと光が大気中を進む距離が長くなり、波長の短い成分が散乱して波長の長い成分(赤色)の割合が増すからである。 衣裾(おすひ)に丸くついた染みを、そのように見たのであろう。 【故爾】 故と爾を重ねて、強い順接の接続詞を形成する。ここでは前後の2文を強く結合するから、 月経中の性交と読める。 これは恐らく禁忌であっただろう。それを犯してしまったことは、草薙の剣を置いて出かけたことと共に倭建命の後の不幸の布石となる。 【草那芸剣置其美夜受比売之許】
用を足しに出た話にも「置き忘れ」が共通するから、 記紀以前の伝承が変形して、〈縁起〉の要素として取り入れられた可能性がある。 また、〈縁起〉は書紀を十分読み込み矛盾しないよう周到に書くのだが、「宮簀媛」に従わず「宮酢媛」の表記を譲らないのは、当地に独自の古文書が存在したからではないだろうか。 従って、〈縁起〉の拡張部分が、すべて平安時代における創作であるとは言い切れない。 《氷上姉子神社》 〈縁起〉には、記の歌と返歌に加え、「また歌詠みたまはく」として、当地の地名を読み込んだ載せている。 鳴海浦を見遣れば遠し火高路にこの夕潮に渡らへむかを 年魚市潟火上姉子は我来むと床去るらむやあはれ姉子は 火上姉子神社は、式内社である。〈神名帳〉{尾張国/愛智郡/火上姉子神社}。 比定社は「氷上姉子神社」(名古屋市緑区大高町氷上山(字))で、熱田神宮境外摂社となっている。 〈御由緒〉には「仲衷天皇4年に建稲種公・宮簀媛の館跡(現在の境内末社「元宮」)に創建。持統天皇4年〔690〕現地へ遷す。」とある。 元宮は、西に氷上山を上っていき、氷上姉子神社から直線距離で南西約300mのところにある。 「館跡」は、もちろん後世の想像であろうが、石碑に「倭武天皇妃/尾張國造之祖/宮簀媛命宅趾」 とあるのが興味深い。碑文には「熱田神宮宮司從五位角田忠行謹書」と署名されている。角田忠行〔1834~1918〕は、明治維新後の1880年に熱田神宮大宮司になった。 「宮簀媛」は書紀の用字、「尾張国造之祖」は記(第128回)、 「倭武天皇」なる表現は『常陸国風土記』のものである。熱田神宮宮司が書いたにも拘わらず何れも〈縁起〉によらないのはどうしたことだろうか。 「氷上」「大高」は、火災をきっかけに「火上」「火高」から改められたものと言われる。 ただ、一般的に古い神名や地名に宛てた漢字は定まっていないから、火災以前にも「氷上」がなかったとは言い切れない。
神名帳に{尾張国/愛智郡/熱田神社【名神・大】}。現在の熱田神宮は、名古屋市熱田区神宮一丁目一番一号。 倭名類聚抄に{尾張国・愛智郡・厚田郷}。 神代紀、「素戔鳴尊」の一書2に、草薙剣は、 「此今在尾張国吾湯市村、即熱田祝部所掌之神是也」(第53回)とある。 国造本紀には「志賀高穴穂朝〔成務天皇〕以天別天火明命十世孫小止與命,定賜國造」 近くの断夫山古墳(愛知県名古屋市熱田区旗屋町)は大型の前方後円墳〔全長151m〕で、古墳時代後期〔6世紀前半〕と見られている。 尾張氏の首長墓と見られている。その尾張氏の古代の祭祀場が後の熱田神宮に繋がることは、容易に想像し得る。 《火上姉子と美夜受比売》 「あねこ」の「こ」は親愛を表す接尾語で、「卑弥呼」(ひめ+こ)に通じると見られる。卑弥呼と同様に一般名詞「あね」に「こ」をつけた俗称で呼ばれていたものが、 固有名詞になっていったのだろう。 記〔712〕では美夜受比売自身が「尾張国造之祖」だから、「ひかみあねこ」はもともと古代の女性首長とされた。 それが書紀〔720〕では「尾張氏之女」に格下げとなり、国造本紀〔9世紀〕では小止与命が初代国造となって名前が消える。 ただ、「みやずひめ」と「ひかみあねこ」は、本当に同一人物であろうか。 みやずひめの由来を推定すると、熱田の宮の前の中州=「みやす(宮洲)」に因んだかも知れない。だから、「ひかみ邑のあねこ」に対して「あつた邑のみやずひめ」という、ローカルな神がそれぞれ祀られていたと考えることもできる。 しかし、「あねこ」に地名「ひかみ」がつくことが注目される。名前に出身地をつけるのは、広い範囲の崇拝者によると考えられる。 だから、火上姉子は「尾張国造之祖」美夜受比売と同一人物としてであったと考えた方が、やはり自然である。 古代には、女王が氏族を統率することは一般的であったとも考えられている。 草薙の剣の伝説には、一般的に族長が宝剣を祭るところに原型があったのかも知れない。そして、火上氏族が大切に祭っていた剣を、 拠点を熱田に移るときに剣を持って行った。そして愛智郡ないし尾張国全体の支配権を得て、首長墓として白鳥古墳や断夫山古墳が熱田の地に残されたという筋書きが考えられる。 【書紀】 14目次 《尾張宮簀媛》
是の国は(也)、山高くして谷幽(ふか)くして、翠嶺(みどりのやま、すいれい)万(よろづ)に重(かさ)なりて、 人杖(つゑ)に倚(よ)れども升(のぼ)り難(かた)くして、巌(いはほ)嶮(さがし)くして磴(いしばし)を紆(めぐ)りて、 長き峯(みね)千(ち)ぢを数へて、馬(うま)頓轡(とどま)りて[而]不進(すすまず)。 然(しかれども)日本武尊、烟(けぶり)を披(ひら)き霧を凌(しの)ぎて、遙(はるか)に大山(おほやま)を俓(わた)りたまふ。 既にして[于]峯に逮(いた)りて[而][之]飢(う)ゑ、[於]山の中に食(を)す。 山の神、王(みこ)を令苦(くるしめ)むとして、[以(も)ちて]白鹿(しろきしか)と化(な)りて、[於]王(みこ)の前(まへ)に立てり。 王之(こ)を異(あや)しびて、一箇(ひとつ)の蒜(ひる)を以ちて白鹿を弾ちて、[則(すなは)ち]眼に中(あ)てて[而][之]殺したまひき。
時に白狗(しろいぬ)自(おのづから)来(き)、王(みこ)を導かむとせし[之]状(さま)有り、 狗(いぬ)に隨ひて[而][之]行(ゆ)けば、美濃(みの)に得(え)出(い)づ。 吉備武彦(きびのたけひこ)、越(こし)自(よ)り出(い)でて[而]之(ここ)に遇(あ)ひたまふ。 先是(このさき)、信濃の坂を度(わた)る者(ひと)、多(さは)に神気(かむけ)を得、以(も)ちて瘼臥(やまひにふせり)。 但し白鹿を殺せし従(よ)り[之]後、是の山を踰(こ)へむとせし者(ひと)、 蒜を嚼(か)み人及び牛(うし)馬(うま)に塗れば、自(おのづから)神気に不中(あたらず)[也]。
即ち尾張氏之女(むすめ)宮簀媛(みやずひめ)を娶(めあは)して[而]、淹留(しまらとどまること)月を踰(こ)ゆ。 於是(ここに)、近江(ちかつあふみ)の五十葺山(いふきやま)に荒(あら)ぶる神有りと聞きたまひ、 即ち剣を解(と)かして[於]宮簀媛の家に置きて[而]徒(かち)より行(ゆ)きたまふ[之]。 《蒜》 ひる(蒜)は現在のノビル、あるいは、より広くユリ科多年草のネギやニンニクの仲間を指す。食用になる。 記では食べ残しの蒜を投げつけたとあるから、書紀でも空腹に耐えきれず野生の蒜を食べたのであろう。 但しその場所は、記の足柄峠から神坂峠に移し、住民に蒜の効果を教えたことをもって、 記の「言向科野之坂神」を具体化している。 蒜がニンニクだとすれば、峠越えに要する体力を得るために食べれば効果はありそうだが、皮膚に塗るのはどうであろうか。 道に迷って白犬に導かれた話も含め、 この地方に伝わる伝承も盛り込んだようである。 《吉備武彦との合流》 吉備武彦のルートは、北陸道を通って近江国に出て、後の鳥居本宿(琵琶湖の東)あたりから東山道を下ってきたと見られる。 〈縁起〉では、日本武尊は内々神社を通るから、合流地点は美濃国内の東山道上であろう。 《大意》 そして、日本武尊(やまとたけるのみこと)は、信濃に進まれました。 この国は、山高く谷深く、翠嶺(すいれい)を多く重ね、 人は杖に頼っても上り難く、巌は険しく石段を廻り、 長大な峰は数多く、馬を留め、進むことができません。 しかし、日本武尊は靄(もや)を開き、霧を押し分けて、遙か広大な山地を渡られました。 とうとう峰に達して空腹を覚え、山中の野草を食されました。 山の神は、皇子を苦しめようとして白鹿の姿となり、皇子の前に現れました。 皇子はこれを異に思い、一本の蒜(ひる)を白鹿に撃ったところ眼に当たり、殺しました。 ところが、気がつくと道を失い、下山口が分からなくなりました。 その時、白い犬が出現し、皇子を案内しようとする様子が見えたので、 犬に従って行くと、美濃の国に出ることができました。 吉備武彦(きびのたけひこ)は、越の国から出て、ここで遭いました。。 以前は信濃の坂を越える人の多くが神の気に犯され、病み伏すものでした。 しかし白鹿を殺した後は、是の山を越えようとするときは、 蒜を噛み人や牛馬の体に塗れば、自然に神気にあたることがなくなりました。 日本武尊は、更に尾張に帰還されました。 ここで尾張氏の娘、宮簀媛(みやずひめ)を娶り、しばらく留まりひと月を越えました。 そして、近江の国の伊吹山に荒ぶる神が有ると聞かれ、 剣を解いて宮簀媛の家に置いて、徒歩で出発されました。 【熱田神宮縁起】 『尾張国熱田太神宮縁記』の写本が遺されている。記紀にない記述を読むとともに、成立時期を探りたい。 《神剣》
《所以者何也》
書紀の割注の、尊と命の使い分け、草薙・雄誥の訓は、もっと前の最初にこの語がでてきたところにあったものだが、必要に応じて書き加え、いきなり〈縁起〉を訓む人への配慮を示す。 また「焼津【今謂二益頭郡訛一也】」(第129回参照)、 「高言【高言、此言二挙言一】」は 書紀にはなく、〈縁起〉作者の親切心によって加えられたものである。 《建稲種公》 はじめに、日本武尊が東征を命じられ、伊勢にいる倭姫命に別れの挨拶に行くところまで書紀の通りに書く。 ただし、火打石を渡した件は記によっている。
東征の前に宮酢媛と出会ったところは、記に従っている。
《進入信濃》 書紀の原文を全面的に使用する中で、表現を改めた箇所もある。 信濃国の、「山高谷幽翠嶺萬重人倚杖難升巖嶮磴紆長峯數千馬頓轡而不進。然日本武尊披烟凌霧遙俓大山。 既逮于峯而飢之食於山中。山神令苦王以化白鹿立於王前。」は、次のように書き替えられている。
〈中国哲学書電子化計画〉で検索すると、『後漢書』〔南北朝;420~455〕には、ずばり「沙漠之北、蔥領之西、冒耏之類、跋涉懸度、陵践阻絶」がある。 〔蔥領(そうれい)=パミール高原。冒耏(ぼうじ)=西域の人。陵践(りょせん)=侵し踏みにじる。阻絶(そぜつ)=はばまれて行けないこと〕とある。 『通典』〔唐代、801〕―「渴槃陀」〔国名〕には、「懸度山」の由来を「懸度者石山也。谿谷不通以繩索相引而度。」〔渓谷は通れず、綱を懸けて引き度(わた)る〕ことによると説明する。 また『芸文類聚』〔唐代、624〕―「会稽諸山」に、会稽山の南の委山は「壁立干雲、有懸度之險、升者累梯、然後至焉」〔雲に壁立ちし、懸度の険があり、上るにはたびたび梯子をかけ、然る後に山頂に到る〕。 以上から、「懸度」とは、形容詞または一般名詞としてロープを渡して通行するような険しい山を意味し、固有名詞としてはパミール地方に存在した山の名であることがわかる。 山椒は、ここでは「山頂」を意味する。 「欲悩王」〔王を悩ませむとす〕は、書紀より分かり易い。 《稲種命との合流》
《酒折宮》 酒折宮を出発するときに、稲種公と宮酢媛の家で落ち合うことを約束した件が挿入されている。
ところが、稲種公が水死した知らせが届く。
「内津社」の割注に「現在の名前は天神である」とされるから、この割注が加えられたのは早くても10世紀半ばである。 しかし、「今称天神」のみが後世に挿入された可能性もある。 篠城邑については、明治39年〔1906〕に東春日井郡の五村が合併して「篠木村」発足。 これは復古地名で、内津村が春日井市の北東端の尾張国境近くであるのに対して、篠木村は春日井市中部になってしまっている。 《神剣を置いて発つ》 まず、宮簀媛と交換した二首の歌に、鳴海の地と火上姉子神社に関する歌が追加されている。
――年魚市潟火上姉子は我来むと床去るらむやあはれ姉子は この二首は、五七五七七の和歌である。 成海神社(愛知県名古屋市緑区鳴海町乙子山85)は、 〈御由緒〉によれば 「天武天皇の朱鳥元年〔689〕熱田神宮神劍飛鳥の都より御遷座の時の創祀」という。 創建時は、現在の位置から南南西約600m城跡公園の辺りにあり、室町時代に鳴海城の築城により現在の位置に遷されたという。 氷上姉子神社の存在は、御由緒の最後に書かれる。この歌はまだ「氷上」になる前に詠まれたと思われるので、「火上」を用いた。
後に、日本武尊は「私は京に帰るが必ずお前を迎えに来る。それまでこの剣を置いていくから宝として、私の代わりに床の守り神にせよ。」と言いました。 側近の大伴建日は、慌てて「剣を置いていくなど、とんでもないことです。伊吹山に荒ぶる神がいると先ほど報告がありました。 この剣の威なしにどうやって荒ぶる神の害を防げましょう。」と諫めました。 しかし、日本武尊は「欲しいままに、その荒ぶる神を足蹴にして殺してやる。」と言い放ち、 とうとう剣を置いて伊吹山に出かけました。 《熱田社》 神剣を祀る社を創建して、宮酢媛の許から遷す。
《氷上姉子天神》 次に、書紀から草薙の剣にまつわる素戔嗚の八岐大蛇退治の話、天智天皇のとき盗まれたことを拾い上げている。 次に、氷上姉御神社と稲種公の家系を書く。
全文ではなくこの段落のみが、後世に書き足されたふしがある。 例えば「尾張國造乎止與命之子」は、本来本文中にあるべきと思われるが、この段落になって初めて出てくる。 これは、国造本紀の時代〔9世紀末までに成立か〕に「尾張国造乎止与命」が定式化された後になってから、稲種公・宮酢媛兄妹を乎止与命の子として位置づけたように思われる。 文書すべてが偽書だとすると、藤原村椙の名前まで引っ張り出し、縁起作成の経過を細かく記したのがすべて捏造となるが、そこまでやる必要性はどこにあるのだろうか。 また、「神剣」が、この段落だけ「剣神」になっている。 だから、〈縁起〉は9世紀の原文を踏襲しつつ、この段落が付け足されたものと考えたい。 それでは、この段落はいつ頃追加されたか。 延喜式〔927年成立〕神明帳では「火上姉子神社」だから、それよりはしばらく後である。 「姉子天神」の呼称に見られる天神信仰は、延長八年〔930〕の落雷事件で菅原道真の祟りを恐れたことから盛んになる。 「天神」自体はもともと「あまつかみ」であるが、各地の神社の名称に「~天神」が流行るようになったのはこの時期からだと思われる。 ただ「あねこ」なる神名自体は他に例を見ないから、記紀以前からの古い伝統をもつように思われる。 むしろ、〈縁起〉の初期バージョンに「ひかみあねこ」を歌う歌があったことから逆に氷上姉子神社が有名になり、 後になって、同社の記述が〈縁起〉に追加されたのかも知れない。それが、筆写の日付の「延久元年〔1069〕」であろう。 その後、さらに1382年以後の筆写において、この段落の「火上」を「氷上」に直したのであろう。 あるいは、古くは神や地名の漢字表記は一定しないから、火災以前でも「氷上」の表記が併存していたのかも知れない。 《作成時期》 後書きに、原文と筆写の経過が記録される。
また「書写」に関わったとされる右大臣基房は、藤原基房(通称松殿基房、関白・太政大臣)だと思われるが、右大臣の期間は応保元年〔1161〕~長寛二年〔1164〕で、「延久元年」とは全く合わない。 一方、員信については、藤原季範〔1090~1155(Wikipediaによる)〕が、員職の養子となって熱田神宮大宮司となる。そして、その員職の父が員信である。 (尾張氏系図)。 員信の方は、「延久元年」に現実味がある。 前項「凡奉祀剣神於此国者総縁…」の段落をB、 その前までをAとする。 Bは、1069年の「筆写」の際加えられた部分と思われるが、それ以後かも知れない。 一方、Aの中にも後世の書き加えかと思わせる部分がある。 内津神社の割注は「天神」の名から見て、早くても10世紀である。 また「近習(ちかぢふ)」は、『現代語古語類語辞典』によれば中世〔鎌倉時代以後〕の語とされる。 従って、Aも後世の加筆を含む、あるいは 全文が鎌倉時代の作ではないかとまで思えてくる。 しかし「近習」をよく調べると、中国語としては古く前五世紀から確認され、「跋渉懸度」とともに、むしろ著者が中国古典に精通していたことを示すものである。 改めて、AとBとで表記が異なる字句を見ると、熱田社<>熱田明神、神剣<>剣神、比加彌阿禰古<>氷上姉子天神、〔記載なし〕<>「火明命十一代之孫尾張國造乎止与命之子」 がある。890年頃に藤原村椙が実在したことも合わせて考えると、 Aの少なくとも原型は、本当に9世紀末に書かれたのではないかと思わせる。 一見鎌倉時代に見える内津神社の割注も、 「社今称天神」の五文字だけが、後に書き加えられたと考えることが可能である。というのは、写本によって「社今称天神」が「其地号内津」の前にあるものと後にあるものがある※。 これは、行間に小さい字で書き加えられた「社今称天神」を、各筆写者が、それぞれ独自に挿入位置を判断したためと推定される。 ※…「 「尾張國熱田太神宮縁記」校訂文及び校異一覧」99ページによる。 以上から、ひとまずAは、「熱田社」の名が出てくる書紀完成の720年から、「熱田神宮」が載る延喜式完成の927年の間に書かれたものと判断しておきたい。但し「社今称天神」の五文字は除く。 なお、Aにあって記紀にない内容のうち、「宮酢媛」という表記、「ひかみあねこ」伝説、稲種公の存在、桑の木に置き忘た剣が光るところ、熱田の地名譚は 記紀以前からのローカルな伝承によるものと思える。 それに対して、神剣を置いていく様子を描く場面と、神剣を遷す合議の場面は記紀成立後の粉飾のように感じられる。 まとめ 『尾張國熱田太神宮縁記』は、書紀が記から取り除いた部分も最大限拾い上げ、独自神話を加えつつ辻褄が合うように注意深く合成している。 書紀の表現については、分かり易くなるように改められた箇所もあり、作者は中国古典にも精通している。 文体は、高橋氏文のように宣命体が混合することもなく、漢文体に統一されている。 ところが、段落Bだけは、後世の付け加えが無神経に並べられた印象である。 これがAと同一作者によるものなら、社名の不一致には注意を払い「火上神社者今謂氷上明神」などと丁寧に、また本文中に書くはずである。 原文の書かれた時代が重要なのは、〈縁起〉の独自部分が記紀の前から存在した神話に由来するものか、全くの後世の創作なのかの判断に関わるからである。 さて、信濃坂は旅人の難所であり悪さをする神が居着いているが、記はそれがどのような神で、いかにして撃退したかは書いていない。 蒜で白鹿をやっつけた話は、記は足柄峠で使ってしまったから、他の話が必要である。書紀も、独自の言い伝えを見つけ出すことができなかったようである。 倭建命は、美夜受比売との間には子を残していない。〔月経中に交わったとされるのは、子ができなかったのを示すためか?〕 大国主命が沼河比売を娶ったことは、高志の国の支配権を得ることの表現であった。 「国造の祖」美夜受比売も、もともとは沼河比売のような女王だったのだろう。 倭建命は美夜受比売と結ばれはしたが、この地域の支配者にはなれず、間もなく悲劇的な死を迎える。 結局、尾張氏には受け入れられなかったのかも知れない。その地の古墳が「白鳥古墳」と呼ばれて民衆の英雄になるのは、後の時代のことであろう。 |
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2016.08.18(thu) [132] 中つ巻(倭建命8) ▼▲ |
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於是詔 茲山神者徒手直取 而
騰其山之時 白猪逢于山邊其大如牛 爾爲言擧而詔 是化白猪者其神之使者 雖今不殺還時將殺 而 騰坐 於是(ここに)詔(のたまはく)「茲(この)山の神者(は)徒手(むなで)にて直(ただ)に取らむ。」とのたまひて[而] 其の山に騰[之](のぼりし)時、白猪(しろゐ)と[于]山辺(やまへ)に逢ひ、其の大(おほ)なるは牛の如し。 爾(ここに)言挙(ことあげ)為(し)て[而]詔(のたまはく)、 「是の白猪と化(なりし)者(は)其の神之使者(つかひ)ならむ。雖今不殺(いまころさざれども)還(かへ)る時に[将]殺さむ」とのたまひて[而] 騰(のぼ)り坐(ま)せり。 於是零大氷雨打惑倭建命 【此化白猪者非其神之使者當其神之正身 因言擧 見惑也】 故還下坐之到玉倉部之淸泉 以息坐之時御心稍寤 故號其淸泉謂居寤淸泉也 於是(ここに)大(おほ)氷雨(ひさめ)零(ふ)り倭建命(やまとたけるのみこと)を打ち惑(まと)はす。 【此の白猪と化(な)りし者(は)其の神之使者(つかひ)に非ず、[当]其の神之正(まさ)しき身(み)なるべし。 言挙(ことあげ)せし因(ゆゑ)に見惑(まとはえり)[也]。】 故(かれ)還下坐之(かへりおりまし)て、玉倉部(たまくらへ)之清泉(いづみ、しみづ)に到ります。 以ちて息坐之(やすみませし)時、御心(みこころ)稍(やくやく)寤(さ)めたまひ、 故(かれ)其の清泉を号(なづ)けて、居寤(ゐざめの)清泉(いづみ、しみづ)と謂(まを)す[也]。 自其處發到當藝野上之時 詔者 吾心恒念自虛翔行 然今吾足不得步成當藝當藝斯形 【自當下六字以音】 故號其地謂當藝也 其処(そこ)自(よ)り発(た)ち当芸(たぎ)の野に到り上之(のぼりませし)時、詔(のたまひし)者(は) 「吾(あ)が心恒(つね)に虚(そら)自(ゆ)翔び行かむと念(おも)ひき。然(しかれども)今吾が足不得歩(えあゆまず)当芸当芸斯玖(たぎたぎしく)成りぬ 【「当」自(よ)り下(しもつかた)六字(ろくじ)音(こゑ)を以(も)ちゐる。】。」とのたまひ、 故(かれ)其の地(ところ)を号(なづ)けて当芸(たぎ)と謂(まを)す[也]。
自其地差少幸行
べし…[助動] 確信のある推測。当然。可能。勧誘。 零…[動] (古訓)おつ。ふる。 因…(古訓) ゆへ。よし。 稍…すこし。やや。やうやく。 差少…「些少」に通ずるか。 些々…(古訓) すこしはかり。 あせを…囃子言葉。「吾兄(あせ)を」が語源とされる。 【白猪】 ここでは、神が白猪の姿をして表れる。足柄峠(書紀では信濃峠)では、坂神が白鹿の姿で現れた。 遺伝子の欠損によりメラニンの合成ができない個体をアルビノといい、体毛、皮膚が白色で、眼は赤くなる。 敵の目によく目立ち、紫外線への防御ができず、視覚障害が伴うので 自然界での生存は難しく、稀に出現した場合はしばしば神聖視される。 【成當藝當藝斯形】 「当麻」という地名には、当麻寺で有名な{大和国・葛下郡・当麻【多以末】}〔たいま〕もある。「たぎたぎし」にこの地名が結び付けられていることから見て、古くは「たぎま」と呼ばれたことが分かる。 「多以末」は、そのイ音便である。 【倭建命の足取り】 倭建命の径路は揖斐川の西岸を大垣と桑名を結ぶ国道258号線に沿い、記紀編纂期に存在した古街道を反映していると思われる。 右図の海岸線は、弥生時代の推定である岐阜県古代史辞典多藝郡による)。 書紀には「尾津浜」が出てくるから、少なくとも尾津付近は、弥生時代の海岸線からそんなに変化はないと思われる。 【居寤淸泉】 《清泉の訓み》 (万)0158 山清水 酌尓雖行 道之白鳴 やましみづ くみにゆかめど みちのしらなく。にある通り、「しみづ」という語は確かに存在した。「しみづ」は「すみづ」ともいう。 現在は「居醒の清水」と呼ばれ、早くから「しみづ」と訓み習わされてきたと思われる。 書紀は「泉」としている。「泉」の訓を万葉集から拾うと、固有名詞「泉川」〔後の木津川〕を含め、ほぼ「いづみ」である。 従って書紀の原文作者は、記の「清泉」を「いづみ」と訓んだはずである。しかし、記の公表時から「しみづ(すみづ)」という訓もあり得たことも考えられ、 どちらとも決め難い。 《玉倉部之清泉》 玉倉部邑という地名は、天武天皇紀(上)の壬申の乱のところで出てくる。曰く「近江放精兵忽衝玉倉部邑」〔近江に精兵を放ち、忽(たちまちに)玉倉部邑を衝く〕。 玉倉部之清泉は、岐阜県不破郡関ヶ原町大字玉にあり、関ケ原鍾乳洞の入り口から20mほどのところから湧出する。 傍らに「日本武尊舊跡〔旧跡〕」と刻んだ碑が立っている。
確かなことは言えないが、見る限り湧水量は次項の「居醒の清水」に比べて圧倒的に少ない。 また、町による解説の立て札の内容は記紀によるもので、居醒(次項)のような、独自の伝承がこの地域にあった気配はない。 しかし、日本武尊の移動経路と照らし合わせると、この場所で覚醒して養老山脈の東側を南下するようにした方が合理的である。 玉倉部の地名は、職業部「玉倉部」に因むはずである。名前から見て、もともとは宝石の管理にかかわった部のように思えるが、それ以上は今のところ分からない。
居醒の清水は、加茂神社(米原市米原市醒井58)の階段の登り口付近から湧出する。 水量は豊富で地蔵川の源流となり、天野川に合流している。 天野川の一部が伏流してきたか、或いは東側の山の地下水脈かも知れない。 加茂神社登り階段の近くに掲示板が立ち、その伝説が墨書されている。
もともと英雄神による大蛇退治の伝説が美濃周辺にあり、大谷田神社では素戔嗚尊神話と、醒ヶ井地域では日本武尊神話と習合したと思われる。 記では山の神が化けた白猪を、書紀が大蛇に置き換えた理由は謎であったが、この地域に根強い大蛇退治伝説が、 書紀の段階で取り入れられたように思われる。 もっとも、書紀では大蛇を甘く見てひどい目に遭う。現地の伝説では、大蛇を見事切り伏せるが、それでもひどい目に遭う。 この若干辻褄が合わないところが、伝説が習合した痕跡かと思われる。 湧出口の近くには、蟹石と名付けられた石があり、これにも伝説がある。また水源の上に加茂神社がある他、湧き水が流れる川沿いに寺がいくつもあり、この一帯は古代から祭祀の地であったと想像される。これは、玉倉部の清水にはない特質である。 湧水にまつわる伝説も、こちらの方に独自性がある。 従って、倭建命の移動経路としては不自然であるが、日本武尊覚醒の清水として最も有名になったのはこちらである。 なお、伊吹山から能褒野までにある湧き水には、すべて日本武尊の覚醒伝説が生まれ得ると思われる。 【当芸】 〈倭名類聚抄〉に{美濃国・多藝【多岐】郡}。 《多岐神社》
本体の祭神は倉稲魂神(うかのみかたのかみ)、素盞嗚命、大市比咩(おおいちひめ)。 境内摂社に天照大御神、豊受姫神、木花開耶毘売命(このはなさくやひめのみこと)、美濃大神、藤代大神が祀られている。 記において、須佐之男命は神大市比売との間に宇迦之御魂神を生むから、その影響が見える。 ところが、御由緒にも祭神にも、日本武尊伝説の影が見えないことが興味深い。 記紀以来、日本武尊伝説はこの地方にも広まっていただろうと想像されるが、本社には持ち込まれれず、由緒を守る運営がなされてきたことが分かる。 《白鳥神社》 岐阜県養老郡養老町桜井479番地。 岐阜県神社庁のページには「創祀不詳。里人曰く、『境内に一井戸あり。其の水質甘美にして味櫻の如し。』 日本武尊伊吹山より御還りの砌〔みぎり〕、此処にて休息したまひ、此の水を飲みて賞味したまひしより里人尊霊を奉祀し、里名を櫻井と名づく」とある。 こちらは、日本武尊伝説が流入し「居醒の清水」の影響を受けている。
大悲閣(大菩提寺)に「日本武尊史跡 当芸野」の石碑が建つ(岐阜県養老町養老1193)。「当芸」は新字体が用いられているから、最近のものである。 【杖衝坂】 《杖衝坂》 杖衝坂(つえつきざか)は、三重県四日市市采女にある東海道の坂。三重県四日市市釆女町3464。 松尾芭蕉がこの坂で落馬したらしく、「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」と詠んでいる。 しかし、倭建命の行程を見るとこの位置は不自然である。 もしここが書紀で言うところの杖衝坂ならば、ここは三重郡なので、既に通過した多岐までこれから一往復することになる。 「杖つき坂」は、急な坂道ならどこにでもあり得る名前である。 東海道の途中だから人々に広く知られ、その名が書紀に出てくれば、その地と見做されるのは当然であろう。 しかし、本来の位置である多芸郡と尾津の間にもきっと伝承地があるはずである。そう思って捜してみると、果たして海津市のページに「杖突坂」が見つかった。 《杖突坂》 「杖つき坂」は、海津市教育委員会によって紹介されている (海津市/地域遺産(歴史))。 所在地は、岐阜県海津市南濃町上野河戸515付近の、ため池の畔である。 間口2m、高さ数m、斜面長は10数m程度の何の変哲もない坂で、石碑と看板がなければ絶対に気付かれない。 近くに行基寺に向かう道があり、長い坂となっており、この方が「杖突坂」に相応しい。 この地域に杖突坂があると漠然と言われていたところに、何かをきっかけとしてここが特定されたと考えるのが自然である。
この坂は四日市の杖衝坂に比べてずっと地味であるが、所在地としては倭建命の移動経路に合っている。 【尾津】 《尾津の浜》 〈倭名類聚抄〉に、{伊勢国・桑名郡・尾津【乎都】郷}。 式内社に尾津神社があり、その比定社が確定すれば、尾津郷の範囲が明らかになる。 そこで〈神名帳〉を見ると{伊勢国/桑名郡/尾津神社二座}がある。論社として、 ・尾津神社(三重県桑名市多度町戸津499) ・尾津神社(三重県桑名市多度町小山1915) ・尾津神社(草薙神社とも。三重県桑名市多度町御衣野2222) がある。 大字小山の小字名に「尾津浜」などがあるという。 現代の住居表示には小字は省かれることが多いが、土地公示価格一覧表に「多度町小山字尾津平」 「多度町戸津字尾津森」が見つかった。 とは言え、国道258号線を南下して来ると、多度山の麓がすぐ近くまで迫って見える地点があり(右図)、この辺りが「尾」と呼ばれたことが納得される。 峰を意味する古語に「を」があるが、その語源は峰の端の「尾」の形であろうと思えてくるような地形である。 だとすれば、その先端に開かれた古代の船着き場が「尾津」になるのは自然である。 また、河口の両岸が迫って門のようになっている地形を「と(戸)」と言うが、「戸津」はまさにそれに該当する。だから、トヅはヲヅの訛りだと簡単に決めつけない方がいいかも知れない。 『特選神名牒』(次項)は、13世紀の過去帳に「尾津郷戸津村」なる表記を発見しており、それが本物なら尾津郷が戸津村を包含する地域であったことが確定する。 さらに「小山(をやま)」は、多度川を挟んで多度山と反対側にある低い山を指したのかも知れない。 小山は『新撰姓氏録』にある「小山連」の一部がこの地にいて、それが起源だとする説もあるが、各地で自然地形から生まれ得る地名でもある。 《特選神名牒》 『特選神名牒』は、延喜式神名帳に記載された各社について詳しく調べた書である。明治九年〔1876〕成立、大正十四年〔1925〕刊行 (資料10[尾張神社二坐])。 まず、御衣野(みその)村の八剣社〔草薙神社〕は、かつての野代郡の中なので当てはまらないと断じている。 戸津の尾津神社については、50年前に八幡社に小さな尾津神社を併設したものが、人々を惑わしているので、『北勢古志』に尾津神社でないと論じられ、 さらに戸津村は新開の地なので、式内社があるはずがないと述べる。 小山の尾津神社については「尾津郷内の小山村の、小山の麓に尾津宮があり、倭建命・足鏡別命を祭神とし、訛ってごうつの宮と呼んだ」とされる。
地名「小山」については、「もと多度の大山に対へたる名なるべく尾津は小山の尾津にて海上尾張に直〔ただ〕にむかひしが 漸開行けむ地勢古のさま見るが如しと云り」 〔小山は、大山なる多度山に対する名であろう。尾津の「を」は小山の「を」で、ここから海路で直接尾張に向かったのであろう。 今は陸地だが、平地に向けて次第に広がっていく地形から、古(いにしえ)の様子が想像される〕という。 しかし、戸津について最初に「尾津を訛りたること明らかなり」と書きながら、最後に自らそれを否定する材料を載せている。 いわく、古い過去帳に「尾津郷戸津村住人」が「正応三年三月十七日」〔1290年4月27日〕に去世した記事があり、 円正寺の山号「尾津山」が訛って「とつ」「とうつ」になったのは、それ以後であるとする。 そして「そもそも尾津は十一ケ村に冠すべし」〔尾津郷は、11村を包含した地域である〕と書いているから、 この部分の趣旨は「はじめから尾津(おづ)郷の一村として戸津(とつ)村が存在し、山号『尾津山』が訛ったのは、別の話である」であると思われる。 《尾津神社(戸津)》 境内に、「式内 尾津神社」と刻まれた石碑が建っているが、摂社「尾津稲荷大神」の赤い鳥居の方が目立つ。 『特選神名牒』(前項)には、「もともとこの社は八幡社であって50年前に小社を造り尾津神社として合祀したもの」とある。 江戸時代に復古的に式内社が再現されたのであろう。かと言って、延喜式の時代にこの近辺に尾津神社があったことを否定するものでもない。
《尾津神社(小山)》 「延喜式内 尾津神社」の石碑がある。 『特選神名牒』には、「祭神倭建命足鏡別命」とある。 《草薙神社》 御衣野の草薙神社は尾津神社の論社とされ、 昭和16年〔1941〕8月16日に「三重県指定文化財 史蹟 日本武尊尾津前御遺跡」に定められた。 肱江川より南の、江戸時代の野代村の辺りが野代郷と見られる。〈倭名類聚抄〉に{伊勢国・桑名郡・能代【乃之呂】郷}〔のしろのさと〕がある。 『特選神名牒』も、草薙神社は野代郷にあるので尾津神社ではないとしつつ、 野代の浜が尾津浜と同一視されていたことを示す歌 「伊勢島やみぞのの濱の松か枝に年経て立る大刀もかしこし」を『夫木和歌抄』〔ふぼくわかしょう、1310〕に見出している。
登り口に鳥居があり、その右側に「日本武尊御遺蹟尾津﨑」という石碑がある。鳥居の左にも石碑があり、「史蹟 日本武尊尾津前御遺跡 三重縣」とある。 階段を上ると拝殿があり、その右側に小祠がある。その前に立て札があり、「倭建命太刀掛松ト伝説セル松樹ノ枯損セルヲ覆蓋〔ふくがい〕ヲ設け古来より大切ニ保存シアルモノナリ」とある。 中には枯れた幹があるが、記紀以前の時代のものと見るには無理がある。 幹は二股に分かれているので、直感的にはもともと連理木として崇拝されていたものが、 後に剣置き忘れ記念物に転化したように感じられる。 神名帳の尾津神社には当てはまらないが、 実際に登ってみると、多度町の二社に比べて古代の神聖な雰囲気が感じられ、日本武尊の事蹟地に定めたくなる気持ちは分かる。 【書紀】 15目次 《胆吹山》
爰(ここに)日本武尊(やまとたけるのみこと)、主(あるじ)の神の蛇(をろち)と化(な)りしことを不知(しらずして)[之]謂(のたまはく) 「是(これ)大蛇(をろち)必ず荒ぶる神之(の)使(つかひ)也(なり)。 既(すで)に主神を得(え)殺したらめば、其の使(つかひ)者(は)豈(あに)求むるに足らむ乎(や)。」とのたまひて、 因(ゆゑに)蛇を跨(またこ)えて猶(なほ)行(ゆ)きませり。
復(また)可行之(ゆくべき)路(みち)無くして、[乃(すなは)ち]捷遑(うらもとなくして)其の跋渉(ゆきわた)る所(ところ)を不知(しらず)。 然(しかれども)霧の強(かぎり)を凌(しの)ぎて、行方(ゆくへ)僅(わづ)かに得(え)出(いで)、猶(なを)意(こころ)を失ふこと醉(ゑ)ふが如し。 因(よ)りて山の下之(の)泉(いづみ)の側(ほとり)に居(ゐ)まして、乃(すなは)ち其の水を飲みて[而]醒[之](さ)めませり。 故(かれ)其の泉を号(なづ)け、居醒泉(ゐさめのいづみ)と曰ふ[也]。 日本武尊於是(ここに)、始め痛む身(み)有り、 然(しかれども)稍(やくやく)起き[之]、[於]尾張(をはり)に還(かへ)りませり。
昔(むかし)日本武尊、東(あづま)に向ひし[之]歳(とし)、尾津の浜に停(とど)まりて[而]食(みけ)を進む。 是の時、一(ひとさを)の剣(つるぎ)を解(と)きて[於]松の下に置きたまひ、遂(つひ)に忘れて[而]去(い)にます。 今[於]此(ここ)に至り、是の剣猶(なほ)存(のこりてあ)り、故(かれ)歌(うたよみたまはく)[曰]、
比等菟麻菟(ひとつまつ) 比苔珥阿利勢麼(ひとにありせば) 岐農岐勢摩之塢(きぬきせましを) 多知波開摩之塢(たちはけましを) 《捷遑》 この「捷遑」は〈汉典〉に項目なし、『中国哲学書電子化計画』に用例はなく、謎の語である。私記、『釈日本紀』にも訓や説明が全くない。 「遑」は文意に合うが、「捷」(すばやくする)は合わない。 ところが、神武天皇即位前紀にほぼ同文の「無復可行之路、乃棲遑不知其所跋渉」がある 第97回。 従って、神武即位前紀から再利用した際、「棲」を「捷」とする筆写ミスが発生したことが分かる。 《凌霧強行方僅得出》 「凌霧強行」は「霧を凌ぎ強行し」と読みたくなるが、そのまま読み進めると「方」は副詞(まさに)だから、「僅」は動詞(わづかなり)になる。 ところが、次の「得出」は「僅」の目的語ではなく、助動詞+動詞である。すると副詞の「方(まさ)に」「僅かに」が二重になり、漢文として違和感がある。 そこで「強」の古訓を見ると、「限り」「極み」がある。 だから「霧強」を「きりのきはみ」あるいは「きりきはまるを」として「凌ぐ」の目的語とすることができる。 すると「霧の極みをしのぎ、行方〔進むべき方向〕を僅かに見出すことができた」として、意味の通る訳出をすることができる。 しかし、それならなら紛らわしくないように「凌霧極」または「凌深霧」が望ましいところである。 《因居山下之泉側》 「気が付くと山の下の泉のほとりにいた」という意味であろう。 「居」は、地名「居醒」に掛けているから、「ゐ」と訓まねばならない。敬語「ます」をつけると「ゐます」となるが、これは「坐(いま)す」とは異なるが、 たまたま同じ意味になる。 《解一剣》 松の木に懸けて忘れた剣は、草薙の剣とは別の剣としないと理屈が合わないから、複数帯びた剣のうちのひとつ、「一剣」と表すのである。問題は、助数詞が見つからないことである。 中古語になると、『平家物語』8「征夷将軍院宣」に「白う作つたる太刀一振、滋籐の弓、野矢添へて賜ぶ。」とあり、「ひとふり」が使用される。 上代語では、矛が「ひとさを」である。「さを」は、細長いもの全般に使われる。それでは、剣はどうかと言えば、微妙である。 岩波文庫版はオールマイティーの助数詞「つ」を用いて、この問題を回避している。 《大意》 胆吹山(いぶきのやま)に至り、山の神は大蛇(おろち)と化して道を遮りました。 その時、日本武尊(やまとたけるのみこと)は、主神が大蛇と化したことを知らず、 「この大蛇は荒ぶる神の使いに違いない。 主神を殺してしまうから、その使いを相手にすることもなかろう。」と仰り、 大蛇を跨いで、そのまま行きなされました。 その時、山の神が興した雲が氷雨を降らせ、峯に霧をかけ谷を曇らせました。 また、行くべき道を見失い、心もとなく行き渡れませんでした。 けれども、霧の極みを凌ぎ、方向を何とか見つけ出したが、なお意識が薄れ醉ったような有様でした。 そのようにしていたところ、山の下の泉のほとりに居て、その水を飲むと、意識が醒めました。 そこで、その泉は、居醒泉(いさめのいずみ)と呼ばれるようになりました。 日本武尊はこのようにして、始めは体の痛みが残っていましたが、 徐々に起き上がることができ、尾張に還りました。 そして、宮簀媛(みやずひめ)の家に寄らず伊勢に移り、尾津(おづ)に到りました。 昔、日本武尊が東国に向かった年に、尾津の浜に滞在して食事なされました。 この時、一振りの剣(つるぎ)を解いて松の下に置き、そのまま行ってしまわれました。 今、再びこの場所に至り、この剣がなおあったので、歌を詠まれました。 ――尾張に 直に向へる 一つ松あわれ 一つ松 人に有りせば 衣着せましを 太刀佩けましを まとめ 居寤清泉(玉倉部)・当芸野・杖衝坂・尾津前という地名に関しては、それぞれ複数個所に伝説が残り、この地域における日本武尊の存在感は特別である。 記から書紀への変更点が、醒ヶ井地域にあったヤマトタケルvs大蛇伝説に由来するとすれば、伝説の原型が記紀以前に存在したことになる。 各地の日本武尊伝説は、記紀から派生したものが多いと思われるが、逆に各地の原型伝説が記紀の材料になったことも確実である。 他にも、置き忘れた一剣が松の枝に残っていた話は、宮簀媛の許に剣を置いて出かけた話の変種「置き忘れ」伝説から派生したものであろう。 民衆はヤマトタケルの悲劇を心から悲しみ、慰めるために「ほら、ここにちゃんと残っていたよ」と言ってあげたかったのである。 それが記紀に反映したのだから、「剣を置いて伊吹山に出かけた」伝説は、確実に記の前の時代に存在していたと言える。 伊吹山から能褒野までの各地に、ヤマトタケルの伝説が存在する。 それらは、記の作者が頭の中で描いた伊吹山―能褒野ラインが出発点ではなく、それ以前から各地に原型が存在したわけである。 ここで注目すべきは、全国どこでもヤマトタケルの名が統一されていることである。 対照的なのが、大国主命である。大国主は、出雲ではオホナムチ、高志ではヤチホコ、三輪山ではオホモノヌシの名で活動した。 記紀ではそれぞれの名を受け入れた上で、同一神の別名として辻褄を合わせる。これは、各地の民衆に親しまれた名を尊重しなければ、 彼らに受け入られないからである。それに従えば、倭建命は、全国に存在した原型伝説の段階で、既にヤマトタケルの名前だったことになる。 これは、未解決の大問題=景行天皇―倭建命関係を解明するための鍵のひとつである。これについてはしかるべきときに、論を展開したい。 もうひとつ、本来ならミヤズヒメのところに戻り、今度は草薙剣を携えて伊吹山の神を退治しに出かけなければならない。 それをしなかった、あるいはできなかった。 これに纏わる書紀の「不入宮簀媛之家」の一文は、何かを隠している。恐らく景行天皇―尾張氏―日本武尊の関係に関わることであろう。 |
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⇒ [133] 中つ巻(倭建命9) |