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⇒ [124] 中つ巻(景行天皇3) |
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2016.06.18(sat) [125] 中つ巻(倭建命1) ▼▲ |
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當此之時其御髮結額也
爾小碓命 給其姨倭比賣命之御衣御裳 以劒納于御懷而幸行 当(まさ)に此之(この)時、其の御髪(みかみ)額(ぬかがみ)に結ひたまひ[也] 爾(ここに)小碓命(をうすのみこと)、其の姨(をば)倭比売命(やまとひめのみこと)之(の)御衣(みきぬ)御裳(みも)を給はりませりて、 [以]剣(つるぎ)を于御懐(みふつくろ)に納(をさ)めて[而]幸行(いでま)しき。 故 到于熊曾建之家見者於其家邊軍圍三重作室以居 於是 言動爲御室樂設備食物 故遊行其傍待其樂日 爾臨其樂日 如童女之髮梳垂其結御髮服其姨之御衣御裳 既成童女之姿 交立女人之中入坐其室內 故(かれ)、[于]熊曽建の家に到りて見(め)せ者(ば)、[於]其の家の辺(ほとり)に軍(いくさ)三重(みへ)に囲み室(むろ)を作り以ちて居(を)り。 於是(ここに)御室(みむろ)の楽(うたげ)の為(ため)に食物(みつけもの)を設備(まう)けまつらむとする言(こと)動(ふるまひ)あり、故(かれ)其の傍(ほとり)に遊び行(ある)きて其の楽の日を待ちたまふ。 爾(しかるごとくして)其の楽の日に臨み、童女(をとめ)之(の)髪(かみ)梳(けづ)りて垂(た)るるが如く、其れ御髮を結ひ其の姨之(の)御衣(みころも)御裳(みも)を服(め)し、 既に童女之姿(すがた)と成りて、女人之中に交(まじ)り立たして其の室の内(うち)に入坐(ましま)す。 爾熊曾建兄弟二人 見感其孃子坐於己中而盛樂 故臨其酣時 自懷出劒 取熊曾之衣衿 以劒自其胸刺通之時 其弟建見畏逃出 乃追 至其室之椅本取其背皮劒自尻刺通 爾(ここに)熊曽建(くまそたける)兄弟(はらから)二人、其の嬢子(をみな)に見感(かなひ)[於]己(おの)が中(あひだ)に坐(す)ゑて[而]盛(さかりに)楽(たのしび)、 故(かれ)其の酣(たけなは)に臨みし時、懐(ふつくろ)自(よ)り剣を出で、〔兄(え)〕熊曽之(の)衣(ころも)の衿(くび)を取り、 [以]剣を其の胸自り刺し通(とほ)したまひし[之]時、其の弟建(おとたける)見畏(かしこま)り逃げ出づ。 乃(すなは)ち追ひたまひ、其の室之(の)椅本(はしのもと)に至りて其の背の皮(かは)を取り、剣(つるぎ)尻(しり)自り刺し通(とほ)りき。 その時、その前髪を額を出して結いなされ、 小碓命(おうすのみこと)は、叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)の御衣(みころも)と御裳(みも)を頂き、 剣(つるぎ)を懐に納めて出かけられました。 そして熊曽建の家に到着してご覧になったところ、その家の近くに軍勢で三重に囲み室(むろ)を作り、そこにいました。 ここに、御室(みむろ)の宴のためにお食事をご用意しようと話す動きが見えました。そこで、その傍らであちこち歩き、その宴の日をお待ちになりました。 このようにして宴の日に臨み、乙女が髪を梳(くしけず)り垂らした如くに御髮を結い、叔母の御衣・御裳を召され、 初めから乙女であったかのような姿となり、女人の中に混じって立たれ、その室の内に入いられました。 すると、熊曽建(くまそたける)兄弟二人はその女性を見て心に適い、二人の間に座らせて楽しく盛り上がりました。 そして、宴が酣(たけなわ)に達した時、懐から剣を出し、兄熊曽建(えくまそたける)の衣の袖を掴み、 剣をその胸から刺し通し、弟熊襲建は恐怖を感じて逃げ出しました。 それを追い、室の階段を降りたところで、背中の皮を掴み、剣を尻から突き通しました。 ぬかがみ(額髪)…[名] ひたいのところで髪を束ねて結う髪型。 (万)2496 肥人 額髪結在 染木綿 こまひとの ぬかがみゆへる しめゆふの。
ふつくろ、ふつころ(懐)…[名] 懐。 幸行…(万)0295 我王之 幸行處 わごおほきみの いでましところ。(万)1293 注「幸行二於山村一之時歌二首」。 動静…(古訓)ふるまひ。 楽…(古訓) うつくしふ。たのしひ。 たのしび…[自]バ四[名] 「たのしぶ」の名詞形(連用形)。 うたげ(宴)…[名] 酒宴。宴会。 みけつもの(御膳)…天皇の食膳に奉る食物。 くらひもの(飲食、食)…[名] 飲食物。 嬢…(古訓) をみな。をむなめ。 たけなは(酣)…[形動] たけなわ。 中…(古訓) あひた。 衿…(古訓) ひきおひ〔引き帯〕。衣ノくひ〔くび〕。 くび(衿)…[名] 着物のえり。 椅…[名] ①木の名。イイギリ。②「椅子」(いす)の「椅」。③椅几(いき)は脇息(きょうそく)。 〈古訓〉あしとる。うるしのき〔漆〕。えた〔枝〕。きり〔桐〕。 【給其姨倭比売命之御衣御裳】 《倭比売》
《姨》
倭比売は父の妹だから、本来は倭建命の「叔母」である。姨もヲバと訓んだことから転用されたのだろう。 このことから逆に、ここの「姨」がヲバと訓まれたことが確定する。 《給》 おばの倭比売命に対する謙譲語として、倭建命は衣・裳を「給わる」。一方でその髪を「御髪」と書くように、倭建命も尊敬語を用いられるべき存在である。 従って、倭建命がおばに遜って「給わる」行為に、さらに倭建命自身に対する尊敬表現を加えなければならない。 従って「給はり賜ふ」などと訓読することになる。
熊襲の地名を伺わせるのは、記では景行天皇の言葉の中の「西方熊曽建二人」のみである。 書紀では、景行天皇による肥後国を中心とする巡狩のところに具体的な地名があり、熊襲地域の位置は明確である (景行天皇紀《日向国》)。 「熊」が、〈倭名類聚抄〉{肥後【比乃美知乃之利】国・球麻【久万】郡}〔ひのみちのしりのくに・くまのこほり〕、 「曽」が、〈倭名類聚抄〉{大隅【於保須美】国・囎唹【曽於】郡}〔おほすみのくに・そおのこほり〕 の地名につながっている。「熊襲」は、大体肥後国・日向国の南部から大隅国・薩摩国北部の地域で、 長らく朝廷の支配を拒んだ一族であろうと考えられている。畿内式古墳の分布を見ると、西都原古墳群、 志布志湾沿岸の古墳群、阿久根付近に見られるが、朝廷勢力のそれ以上奥までの進出は古墳時代の終わりまでなかったと見ることができる。このことは、これまでもしばしば述べてきた。 記では、地名・族名を表す「熊曽」の「タケル」をそのまま頭領の名前にしている。 書紀では、取石鹿文(とりしかや)、別名川上梟帥(かはかみのたける)とする。接尾語「-鹿文(かや)」は、景行天皇親征で登場したこの地方の梟帥(たける=反逆勢力の頭領)に共通する。 「川上」はローカルな地名による俗称に由来するか。いずれも、この地方の古い伝承にある名前を宛てたものであろう。 【於其家辺軍囲三重作室】 元の家の近くに、警護を厳重にした室を新築したと読める。 「室」という表現から、土壁の建物が想像される。また、<wikipedia>漆喰の製法が古墳期に大陸側から渡来し、古墳(高松塚古墳壁画等)などにも使われている とされるから、漆喰で塗り固めた「室」もあり得る。 【尊敬表現】 御や幸など、本来天皇のための尊敬語の使用が目立つ。倭建命が、時に天皇と扱われた気配は確かにある。 『常陸国風土記』の信太郡の段に「古老曰倭武天皇巡幸海辺」という文があることは注目されてよい。 また尊敬語を明示することによって、他の部分に比べ、より口承文学風に訓めと指示しているともとれる。 【待其楽日】 書記が「宴」に置き換えているように、「楽」が宴を意味することは確かである。しかし、これを「うたげ」と訓むのか、 あるいはそのまま「たのしび」と訓むのだろうか。 万葉集を見ると、 (万)0262 雪驪 朝樂毛 ゆきにさわける あしたたのしも。 この歌は、雪の音(同時に吹いていた強風による音か)を楽しんでいる。 万葉集では「楽」は「たのし」であって、「うたげ」と訓む例は見られない。 「たのしび」が宴を意味する語かどうかも、判断し難い。
(万)4266 豊宴 見為今日者 とよのあかり めすけふのひは。 このように、訓は、アカリ。 〈時代別上代〉「トヨノアカリは複合語。宴の意味でアカリが単独に用いられることはない。」 歌は一例のみだが、注には「宴」あるいは「宴歌」が大量に使われ、宴がウタゲの意味で広く使われていたことは間違いない。 また、「讌」という字があり、この古訓や〈時代別上代〉の挙げる用例を見れば、「うたげ」という語は存在したようだ。 結局「楽」を何と読んだか、本当のことは分からないが、 「楽」に「うたげ」を宛てて読んだ文は、少なくとも間違った上代語ではない。 〈時代別上代〉には「待其楽日」は「宴」の用例に採用されないが、幾つかの学習用古語辞典(ベネッセなど) は倭建命の「その宴を待ちたまひき」が文例とされる。前者は上代において「楽」を「うたげ」と訓んだ確証がないからであり、 後者は本居宣長による訓読そのものが、古語辞典のカバーする領域の中にあるからであろう。 宣長は顕宗天皇紀を引用し、 「天皇次起為二室寿一曰ク云云、 手掌摎亮、拍上賜吾常世等」 とある是なり、酒を飲楽みて、手を拍上るより云ふ名なり」と述べ、 「うたげ」の語源は「うちあげ」ではないかと推測し、〈時代別上代〉もそれを支持している。 【言動為御室楽設備食物】 この文が「室で宴を催すために、飲食の準備をする動きがあり」を意味することはよく分かる。しかし、どのように訓読したらよいのだろう。 《言動》 「動静」の古訓、フルマヒが使用できる。言(コト)はつけてもつけなくてもよいだろう。 《御》 熊襲建の室に「御」がつくはずがない。 接頭語の「御~」以外に動詞として、「進める」「迎える」「(馬を)御す」「防御する」の意味があるが、このうち「すすめる」も「むかえる」は貴人を相手する語で、尊敬を含む。 朝廷から見て尊敬語はありえないが、熊襲建の仕え人の立場なら「御室」はありうる。 《食物》 食物は、尊敬語なら「みけつもの」、普通語なら「くらひもの」である。 《熊襲建の仕え人の言動か》 このように「御」が持つ尊敬のニュアンスは、なかなか消せない。宣長は「新」の誤写とするが、ひとまず「御」のままで考える。 とすれば、仕え人が宴の準備に当たる場面に倭建命が遭遇し、彼らが交わす会話を聞こえてきたまま書いたと理解せざるを得ない。 その会話の中なら、「食物」も「みけつもの」となる。宴の食事を準備する(設二-備食物一)作業そのものが主人に奉る行為だから、尊敬語が話されるのは自然である。 《宣長説》 宣長は、「御」を「新」の誤写とし、このように訓む。
しかし、「ニヒムロウタゲ」は、甲本・丙本・釈日本紀にはない。 一方岩波文庫版には「古写本の古訓。文意によってニイムロの語を加えたものであろう。」とある。 宣長が言うように室は新築であるから、「新室楽」がその祝宴を指すとするのは自然である。 しかし「新」の方が誤写で、書紀の写本のひとつがたまたまそれに引きずられたとも考え得るから、簡単には決められない。 ひとつの可能性としては、もともとこの部分は古くからの口承文芸に由来し、 話者によって「にひむろのうたげ」「みむろのうたげ」の両方があったのかも知れない。 それなら記の「御室宴」と、書紀の伝統訓の「新室宴」が両立し得る。 安易に「誤写」と断ずるのは避けるべきであろう。 【如童女之髮梳垂其結御髮】 「如二童女一結二其髮一」だけで十分に意味は通るから冗長であるが、その冗長なことに意味がある。 聴衆は話者の言葉からまず、童女が髪けずり、両側に前髪を垂らす姿を想像して楽しみ、美少年がそのように装う様子に引き付けられる。 ここに、口承文芸を引き継ぐ書紀の一面が表れている。 「其」は、「童女之髮梳垂」が一つの塊であることを示す区切りで、「髪くしけずりたらす」が主語「童女」の動詞である。 接続助詞「て(而)」でもよい箇所だが、「其(それ)」という音声が、雅を生むのである。 《宣長による訓読》 宣長は、「如下童二-女-之 髪上梳-垂 其結 御髪一」と返り点をつけ、 「其の結(ゆ)はせる御髪を童女(をとめ)の髪の如(ごと)梳(けづ)り垂れ」と読み下そうとしたと見られる。 〔但し、この返り点は不完全で、このままだと「梳垂」を最初に読むことになってしまう。宣長の意図通りにするには、 「如中童二-女-之-髪上梳下-垂其結御髪一」 とする。〕 宣長は「倭建命は結っていた髪を解き、少女の髪のように梳り垂した」と読んだ。 「結御髪」の三文字は普通、「結二御髪一」〔御髪を結ふ〕だが、宣長の訓読「結ひたまひし御髪」は、決して誤りではない。「其」がつくことも、それを強める。 〔なお、連体修飾関係を確実に示すには「所結御髪」「所結之御髪」とする〕 このように「結ったところの」を認めた上でなお、「結った髪を梳(くしけず)り垂らす」は舌足らずである。 もしそれを文意とするのなら、きちんと「解く」を入れ、「解二其結之御髪一而如二童女之髪一梳垂」 〔その結はせし御髪を解きたまひて童女之髪の如く梳り垂らしたまふ〕 と書くのではないだろうか。 この文を素直に見れば「結ふ」が中心動詞として直感され、「結御髪」が主節で「如~梳垂」が従属節だと感じられる。 「其結御髪」を、省略された「解く」の目的語として大きく前方に返すのは、理屈ではあり得ても現実的ではない。 ここは順番に読み進め、まず「童女が髪を梳き垂らす」姿を想像させ、それに準えて髪を結ったと読むのが自然である。「結ふ」は、この場合前髪を左右に垂らしつつ、髪の上部を結ぶと解釈する。 しかし、それでも引っかかるのが「其」である。いつもなら、確かに「御髪」にかかる。「其結之御髮」の「之」一文字があれば、宣長説が確定しただろう。 「其」については、漢文では文の途中に入れて語気詞として使われることがあり、和語でも〈時代別上代〉によれば、「それ」の一つの用法に「感動詞的に句頭・句中・句末を問わず用いられる。ほとんど指示する内容を持たない」がある。 そこで改めて「其」の使い方を見ると、古事記の「其」は、やはり大部分が連体詞「その」である。 それ以外の使い方の例としては、 ●「出二塩盈珠一而令レ溺其愁請者出二塩乾珠一而救」〔潮満珠を出でて〔兄を〕溺し、「其」愁ひて請はば、潮干珠を出でて救ひたまへ〕(海幸彦山幸彦の段=第93回)。 がある。この例では、接続詞「その時」、あるいは「愁ふ」の目的語「それを」とも見做せるが、「それ」という発声に「してやったり」という感情を伴う。 わずかでもこのような用法があるという事実が、「其」が御髪への連体詞とは限らないことへの裏付けとなる。 とは言え、結論は決め難い。そこで改めて文脈に戻ってみると、倭建命は最初に室を盗み見る場面で既に「額髪」して女装をしている。 ここでは、いよいよ宴が開始するので、改めて髪型・服装を整えるのである。 ならばここは、少女が髪を梳り、垂らした魅力的な姿を最大限イメージし、倭建命が髪を完璧に結ってその姿に仕上げたと読んでこそ、美少女に化けた倭建命のあやしい美しさが読者に伝わるであろう。 一般に訓読に迷う場合の最後の選択は、どちらがより文学としての豊かさを持つかに依るべきである。 【室内】 宣長は、神功皇后紀の歌の「波邏濃知【腹ノ内】」に倣って「室内」を「ムロヌチ」と訓む。これは、「ノ-ウチ」の母音融合である。 しかし、(万)0210 二人吾宿之 枕付 嬬屋之内尓 ふたりわがねし まくらづく つまやのうちに、 万葉仮名でも(万)3957 佐保乃宇知乃 さほのうちの。 の例があり、「ノ-ウチ」が必ず融合するとは限らない。 【見感其嬢子】 現代の感覚なら「その嬢子を見て感(かな)ひ」と訓むように思えるが、もしその意味なら「見其嬢子而感之」と書くと思われる。 因幡の素兎ででてきた「見欺」は受け身〔欺かれる〕で、和語の「る」(受け身、自発)に漢文の受け身の助動詞「見」を宛てたものである。 感(かな)ふの活用には下二と四段がある。上代には下二を受ける助動詞「らる」はまだないので、「る」「ゆ」を使うには四段しかない。 下二のカナフは意図的に適合させる意味〔現代語は「適える」〕。四段のカナフは何もしなくとも「適っている」状態を表すので、既に自発の意味を含んでいる。 だから、「見感」は四段のカナフと訓むのが適当となる。 この「見」の用法は古事記特有のもので、万葉集では「所念」(おもほゆ)の「所」が類似する。 書紀では、「被欺」が5例あり、記の「見欺」に相当する。それぞれ別個に受け身・自発の助動詞の表し方を定めたことがわかる。 結果的にはどの方法も定着せず、奈良時代末期には宣明体から仮名文字に向かう。 【見畏】 「おそる」は上代は上二で、四段は確実ではない。上二のままでも自発を含むのでここでは特に「見」をつけたのであろう。 あるいは「畏=かしこむ」に対して、「見畏=かしこまる」かも知れない。しかし「かしこまる」は貴人・神に対して振る舞いをつつしむ意味に変化していく。 弟建が逃げたのは、単純に恐怖による反応である。しかし、その直後に小碓命を畏怖し「建」の称号を献上することになるので、 逃げる間に生理的な恐怖が、畏怖の念に変質したとも考えられる。この時代の「かしこまる」の意味が、恐怖から畏怖への過渡期にあったとすれば、相応しい言葉かも知れない。 【椅本】
梯子の用例を探すと、 崇神天皇紀の「神庫雖高我能為神庫造梯」〔神庫(ほくら)高けれど、我よく神庫に梯(はし)を造らしむ〕がある (垂仁天皇紀《磯上神宮》)。 このように、高床式の建物には梯子が懸けられた。 「室」は天然の窟屋や、壁を塗りこめられた家や部屋を指すとされ、その入り口に梯子を必要とする高床式かどうかは一概には言えないが、 弟熊襲建が室から逃げ出し、梯子を駆け降りたところで背中の皮を掴まれたとすれば、文意は通る。 【取背皮剣…】 宣長は「皮」を「以」の誤写というが、兄には「取二衣衿一」なので、弟には「取二背皮一」の方が対応がよい。 どちらも、逃げようとする相手の衣服または体の一部を、ぎりぎりのところで掴んだと表現している。 【書紀】 08目次 《到於熊襲国》
因以(しかるがゆゑに)、其の消息(ありさま)及(および)地(つち)の形(ありさま)之嶮(さがしき)易(やすき)を伺ひたまふ。 時に、熊襲に魁帥者(たける)有り、名は取石鹿文(とりしかや)、亦(また)川上梟帥(かはかみのたける)と曰ひ、悉(ことごとく)親族(うがら)を集めて[而]欲宴(うたげせむとす)。 於是(ここに)日本武尊(やまとたけるのみこと)、髪を解き童女(をとめ)の姿(すがた)に作り、 以(もちて)密(ひそかに)川上梟帥之宴を伺ひし時、仍(すなはち)剣(つるぎ)を裀(ころも)の裏(うら)に佩(は)かし、[於]川上梟帥之宴の室(むろ)に入(い)りたまひ、女人(をみな)之中に居(います)。 川上梟帥、其の童女之容姿(すがた)に感(かな)ひ、[則(すなはち)]携手(たづさは)り席(しきゐ)を同じくし、坏(さかづき)を挙げ飲ま令めて[而]戯(たはぶれ)弄(まさぐる)。 于時(ときに)更深(ふ)けて[也]人(ひと)闌(たけなは)に、川上梟帥且(また)酒を被(お)ふ。於是(ここに)日本武尊、裀の中之(の)剣を抽(ぬ)きて、川上梟帥之(の)胸を刺したまひき。 《嶮易》 和語の「さがし〔けわしい〕」「やすし」を並べたものである。 漢籍にもこの熟語を「険しさの大小」の意味に用いた例がある。 〈中国哲学書電子化計画〉『通典』〔801〕食貨六・賦税下。「諸租、准州土収穫早晩、斟量路程嶮易遠近」 〔租(穀物による納税)は、州によって収穫時期に早い遅いがある。運搬の路程の嶮易・遠近によって納める分量を斟酌(=考慮)する〕 但し、『通典』は書紀完成後の書だから、書紀がこれを参考にしたわけではない。 丙本は「地形の嶮易を伺った」を、その調査をした結果の「急峻で上り難いことを知った」に置き換えて訓む。これは大幅な意訳である。 《更深人闌》 記に、「臨其酣時」〔そのたけなはにのぞみしとき〕があるから、「闌」は、丙本がいうような「失す」ではなく「たけなは」であろう。 ただ、「人」の理解が難しい。 更深に人がくっついた慣用句があるかも知れないと思い、 「更深人」を検索したところ、『全唐詩』(清代に編纂)巻871に「毎到更深人静後」〔夜更け、人静まった後にいつも〕など2例がある。 「更深人闌」は慣用句として見出せず、ここでは「更深、人闌」の二文だと考えられるから、「人」は「闌」の主語で、 宴の参加者の意味かと思われる。丙本では、夜が更け宴席から一人去り、二人去りして寂しくなったと読んでいる。 「たけなは」は宴の盛りだが、「盛りを過ぎた」意味もある。「人闌」は人が減り始めた様子であろう。 だからと言って「失す」では宴は、「たけなは」を通り越して終了してしまう。 《大意》 〔二十七年〕十二月、熊襲(くまそ)の国に到りました。 そして、その情勢や地形の険易をうかがいました。 その時、熊襲に魁帥(たける)がおり、名は取石鹿文(とりしかや)、別名川上梟帥(かわかみのたける)といい、ことごとく同族を集めて宴を開こうとしました。 ここに日本武尊(やまとたけるのみこと)は、髪を解き童女の姿になり、 密かに川上梟帥の宴を伺い、剣を裀(みごろ)の裏に佩(は)け、川上梟帥の宴の室屋に入いられ、女人たちの中に紛れ込みました。 川上梟帥は、その童女の姿が気に入り、手を携え席を同じくし、杯を挙げ飲ませ戯れまさぐりました。 やがて夜が更け宴もたけなわとなり、川上梟帥はさらに酒を浴びました。ここで日本武尊は、裀の中の剣を抜き、川上梟帥の胸を刺しなされました。 まとめ 宣長の訓読には、しばしば生々しい内容を常識的な言葉に萎(しぼ)ませているように思われる。 また、字をしばしば誤写とする。 しかし、誤写で片づけることは極力避けたい。可能性を最大限に広げ意味を見つけるべきではないかと考えるものである。 倭建命は、兄を残酷に殺したかと思えば、少女にも変装し得る細身の美少年であり、その人物像はなかなか興味深い。 今回はかなり細かいところまで検討したが、漢字を文字単位に解(ほぐ)して用法を漢籍に求めつつ、上代の文法を細かく吟味して意味を確定する作業は、 このような人物であるからこそ重要だと思われる。 ところで、熊襲建は記では兄弟だが、書紀では一人である。 書紀では、土蜘蛛は常に兄弟で登場してきたことから考えて、この点は記の方が一般的である。 しかし、童女を兄弟の間に置いて「弄ぶ」場面は、若くてきれいなコンパニオンがやってきて有り難いという程度のことになってしまい、物足りない。 やはり熊襲建は一人で、童女を自分の許に納めようとして殺されるという、どろどろした筋書きの方がしっくり来る。 このままだと、童女の獲得を巡って兄弟の殺し合いになる予感もあるが、そこまで発展する前に二人とも殺される。 兄弟であるが故の話の深まりを欠くことと、兄熊襲建の「兄」が脱落しているのを併せて見ると、原作の口承文芸では一人だけだったのかも知れない。 しかし、記は土蜘蛛の梟帥は兄弟だとするパターンに合わせたように思われる。 そのためか、兄についての物語を欠く。 書紀は、ここに限り話の流れをよくするために、一人に戻したとみられる。 |
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2016.06.24(fri) [126] 中つ巻(倭建命2) ▼▲ |
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爾其熊曾建白言
莫動其刀僕有白言 爾暫許押伏 於是白言汝命者誰 爾(ここに)其の〔弟〕熊曽建(くまそたける)白(まをさく)[言] 「其の刀(たち)莫(な)動かしたまひそ。僕(やつかれ)に白(まをしまつらむ)言(こと)有り。」とまをし、 爾(かれ)暫(しまらく)許したまひて押し伏せ、 於是(ここに)白(まをさく)[言]「汝命(ながみこと)者(は)誰(た)ぞ」とまをし、 爾詔 吾者坐纒向之日代宮所知大八嶋國 大帶日子淤斯呂和氣天皇之御子 名倭男具那王者也 意禮熊曾建二人不伏無禮聞看而 取殺意禮詔而遣 爾(かれ)詔(のたまは)く 「吾(われ)者(は)纒向(まきむく)之(の)日代宮(ひしろのみや)に坐(ましま)して大八嶋国(おほやしまのくに)を所知(しろしめす) 大帯日子淤斯呂和気天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)之(の)御子(みこ)にして、 名は倭男具那王(やまとをぐなのみこ)なれ者(ば)也、 意礼(おれ)熊曽建(くまそたける)の二人(ふたり)不伏(くだらざりて)無礼(ゐやなし)と聞看(きこしめ)して[而] 取りて意礼を殺せと詔(のたま)ひて[而]遣はしき」とのたまふ。 爾其熊曾建白 信然也 於西方除吾二人無建強人 然於大倭國 益吾二人而建男者坐祁理 是以 吾獻御名 自今以後 應稱倭建御子 是事白訖 卽如熟苽振折而殺也 爾(ここに)其の熊曽建白(まをさく) 「信(う)くや然(しか)に[也]。 [於]西方(にしのくに)に吾(われら)二人を除き建(たけくして)強(こは)き人無し。 然(しかれども)[於]大倭国(おほやまとの国)に吾(われら)二人に益(ま)して[而]建(たけ)き男(をのこ)者(は)坐(ま)し祁理(けり)。 是(こを)以ちて吾(われ)御名(みな)を献(まつ)らむ。 今自(よ)り以後(のち)、応(まさに)倭建御子(やまとたけるのみこ)と称(なづ)けたまふべし。」と 是の事(ごと)白(まを)し訖(を)へ、 即(すなは)ち熟(にき)苽(まこも)の振り折(を)らゆ如(ごと)くして[而]殺(ころ)したまひき[也]。 故 自其時稱御名謂倭建命 然而還上之時 山神河神及穴戸神皆言向和而參上 故(かれ)、其の時自り御名を称(なづ)け倭建命と謂ひたまふ。 然(しかるごとくして)[而]還上之(かへりのぼりし)時、 山の神、河(かは)の神、及び穴戸(あなと)の神皆言向(ことむ)け和(やは)して[而]参上(まゐのぼ)りたまふ。 そして、その弟熊曽建(おとくまそたける)は申し上げました。 「どうか、その太刀を動かされませんように。私めに、申し上げることがございます。」と。 そこで、しばらく暫く許され、そのまま抑え込んだところ、 「あなた様はどなたであらせられますか。」と申し上げました。 よって答えられますに 「吾(われ)は、纒向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)にましまして、大八州(おおやしま)の国を知らしめす 大帯日子淤斯呂和気(おおたらしひこおしろわけ)天皇の御子にして、 名は倭男具那王(やまとをぐなのみこ)である。 貴様ら、熊曽建(くまそたける)の二人は服従せず無礼と聞こしめして、 貴様らを捕えて殺せと詔され、遣わされたものである。」と答えられました。 そこで、弟熊曽建はこう申し上げました。 「承知いたしました、確かに。 西の国に我ら二人を除き、勇猛な人はございませんでした。 しかし、大倭(おおやまと)の国に我ら二人に増して勇猛な男がいらっしゃいました。 これをもって、私めは、御名を献上いたしまる。 今より以後、倭建御子(やまとたけるのみこ)と名乗ってくださいませ。」と、 このように申し上げ終えたところで、 ただちに柔らかな真菰の如く、太刀を振り降ろして真っ二つに折り、殺されました。 このようにして、その時より御名を称し、倭建命といわれます。 このようにして帰還される途上、 山の神、川の神、そして穴戸(あなと)の神をすべて征圧し、参上されました。 な(莫、勿)…[副] 禁止の意。下に連用形(カ変・サ変は未然形)+そ。 強…(古訓) つよし。こはし。(万)2425 山科 強田山 やましなの こはたのやまを。 応…まさに~すべし。(古訓) あふ。かなふ。 当…(古訓) まさに。~すへし。 将…(古訓) まさに~せむとす。 称…(古訓) かなふ。なつく。 熟…(古訓) にる。なる。 苽、菰…[名] まこも。 まこも(真薦)…[名] こも。イネ科。葉を筵・畳・枕の材料とする。 (万)2703 真薦苅 大野川原之 まこもかる おほのがはらの。 【莫動其刀】 「な動かし給ひそ。」、つまり刺した刀を動かさないよう懇願する。それを受け入れ、書紀では「留レ剣待之」〔剣を留めて待つ〕。 つまり、背中の皮をつまんで捕まえ、尻に剣を突き刺したところで、申し上げたいことがあるから剣を一旦止めてくれと頼む。 すると、倭建命はそれを聞き入れ、空いている方の手で弟建の肩を抑え込む。 弟建は、刀が刺さった状態で申し上げる。尻に刀が刺さっただけではまだ致命傷でなく、会話は可能である。御名が献上された直後、刀を尻から抜いて袈裟掛けに斬ったのであろう。 描写は具体的で細かい。 【所知大八嶋国】 「知らしめす」「知ろしめす」は、天皇による国の統治を称えていう動詞。〈時代別上代〉は「知らしめすの方が一般的」とする。 万葉集には、柿本人麻呂〔660頃~724〕の歌がある。 (万)0167 天照 日女之命 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 あまてらす ひるめのみこと あめをば しらしめせと あしはらの みづほのくにを あめつちの よりあひのきはみ しらしめす かみのみことと。 記では叙述文では「治天下」、会話文の中では「所知」に統一されている。 少なくとも、歌や会話で賛美する感情を伴って声に出すときは「しろしめす」「しらす」が用いられた。 「治」は基本的にヲサムと訓み、万葉集では「をさむ」は「平定する」、「をさめたまふ」は「統治する」意味である。 よって、記の「治天下」は「あめのしたををさめたまふ」が妥当であろう。 【熟】
「熟」してなった実は食用になるが、現代に食用とするのは、アメリカ産のマコモだという。 一方、「あら」の対義語「にき」〔柔らかい〕にも、「熟」の字が使われる。 (万)0008 熟田津尓 船乗世武登 にきたつに ふなのりせむと。 【如二熟苽振折一】 「如」の目的語は「熟苽」ではなく、「熟苽振折」までだと思われる。「熟苽(O)-振折(V)」の語順は出雲風土記式であるが、 記にも時折見られる。また受け身文として、S-Vと解釈することもできる。 「於西方除二吾二人一無二建強人一」と豪語した割には、 「やわらかな真菰を振り折る」ほど簡単に殺されたと皮肉っている。 一方、この哀れな姿の描写には無常観もあり、古事記の文学としての奥行きが感じられる。 【建】 「建(たける)」は、もともと勇猛な敵への呼称である。それがまた、征圧する側にも転化したことがわかる話である。 ただ、味方であってもその勇猛さがどこか敬遠される面が、この呼称には含まれていると感じさせるものがある。 【穴神】 書紀では「従二海路一還レ倭到二吉備一以渡二穴海一。其処有二悪神一則殺之。」と書き、 帰路、吉備の穴海にいた悪神を殺したと解釈している。「穴」の地名は備後国に残る。 〈国造本紀〉吉備穴国造。纏向日代朝〔景行天皇〕御世 和邇臣同祖彦 訓服命〔くにふくのみこと〕孫 八千足尼 定賜国造。 阿那臣、和邇臣の系図については第105回参照。 〈倭名類聚抄〉に{備後国・安那【夜須奈】郡}〔やすなのこほり〕があるが、もともと「あな」と呼ばれたと思われる。 《穴海》
孝昭天皇や国造本紀に関係事項が載るように古い歴史をもつから、地元の由緒ある神が祀られてきたのであろう。 〈国造本紀〉には吉備中県国造・吉備穴国造・吉備品治国造の順に並び、 備中国・安那郡・品治郡の並び順に一致するから、「穴」に地名に繋がるのは備後国の穴海であろう。
ただ、書紀の「以渡二穴海一」が気にかかる。 「渡」には、一方通行で通り抜けるイメージがある。 備後の穴海は盲腸状で一方通行ができないのに対して、吉備児島と本土との間は通り抜けることができる。 神武東征径路にある 「吉備国高嶋宮」もこの辺りと考えられている(第96回)。 また国生みの段でも、吉備児島は大八州(おおやしま)の次に生まれる。小さな島であるが歴史上重要な存在であったことがわかる。 このように、穴海の候補は備後・備前とも重要な地である。 記と書紀で、異なる場所を指した可能性もある。 【山神河神及穴戸神皆言向和】 書紀は、記の「山神河神及穴戸神皆言向和」を翻訳し、 「吉備穴済神及難波柏済神…並為禍害之藪…悉殺其悪神並開水陸之径」 〔吉備の穴のわたりの神・難波の柏のわたりの神…禍の藪(障害)をなし…悪神を殺し水陸の道を開く〕 と書く。ただし書紀では、さらに難波の柏の渡りの悪神を追加している。 記では「河神」を和したのだから、書紀の「水陸」の「水」は海ではなく河ということになる。 さて、山陽道に巣食う土蜘蛛を撃退しながら帰ってきたとも読めるが、それでは熊襲に向かう往路では抵抗を受けなかったのだろうか。 山・川・藪・径という語に注目すると、むしろ治水工事・道路工事によって山陽路を整備しながら帰ってきたと読める。 であれば、悪神とは自然災害を招く禍の神のことである。 山神河神とは別に、穴戸神もある。書紀による解釈から見て、穴は穴海である。戸は、〈時代別上代〉「河口や海の両岸が迫って門のようになっている地形」だから、外海と穴海の間の水路である。 つまり、内陸の山河と、海の穴戸を「及」によって並列しているわけである。 「穴戸」も、潮の干満によって流れが激しいから、航路・港を整備したのかも知れない。 しかし、「言向和(ことむけてやはす)」なる表現はやはり土蜘蛛勢力相手かとも思わせ、なかなか決定しがたい。 【書紀】 09目次 《還奏》
「且(しまらく)[之]待ちたまへ、吾(やつかれ)に所言(まをすこと)有り。」とまをし、 時に日本武尊(やまとたけるのみこと)、剣(つるぎ)を留(とど)め[之]待ちたまふ。 川上梟帥啓(まをさく)[之曰]「汝尊(ながみこと)や誰人(たれ)なる[也]。」とまをし、 対[曰](こたへたまはく)「吾(われ)是(これ)大足彦天皇(おほたらしひこのすめらみこと)之(の)子(みこ)にて[也]、日本童男(やまとをぐな)と名づけたまふ[也]。」とのたまふ。
「吾(われ)是(これ)国の中之(の)強力(こは)き者(ひと)にて[也]、是(こ)を以ちて、当時(そのかみ)の諸(もろもろ)の人ども、我之(わが)威力(いきほひ)に不勝(かたず)して[而]不従(したがはざる)者無し。 吾、多(さは)に武力〔者〕(たけきひと)に遇へど[矣]、未(いまだ)皇子(みこ)に若(し)く者有らざり。 是(こ)を以ちて、賤賊(いやしきうがら)陋(いやし)き口を以ちて尊(たふと)き号(みな)を奉(たてまつ)らむとす。若(もしや)聴(ゆる)したまふ乎(か)。」とまをし、 曰(のたまはく)「聴(ゆるしたまふ)[之]。」とのたまふ。 即ち、啓(まをさく)[曰]「今自(よ)り以後(のち)、皇子(みこ)を号(なづ)け応(まさに)倭建皇子(やまとたけるのみこ)と称(なづ)けたまふべし。」と 言(まを)し訖(を)へ、乃(すなはち)胸を通(とほ)して[而]殺したまひき[之]。 故(かれ)[于]今に至り、日本武尊と称(なづく)[曰]は、是ぞ其の縁(よし)也(なる)。
既(すで)にして[而]、海路(うみぢ)従(ゆ)倭(やまと)に還(かへ)り、吉備に到り、以(もちて)穴海(あなのうみ)を渡りたまひき。 其処(そこ)に悪しき神有り、[則(すなは)ち][之]殺したまふ。 亦(また)比(このころ)難波(なには)に至り、柏済(かしはのわたり)之(の)悪しき神を殺したまふ。【済、此(これ)和多利(わたり)と云ふ。】
「臣(やつかれ)天皇(すめらみこと)之(の)神霊(みたまのふゆ)に頼(よ)りて、以(もちて)兵(いくさ)一挙(ひとあげ)し、 熊襲(くまそ)之(の)魁帥者(たける)を頓(ひた)誅(ころ)し、悉(ことごと)其の国を平らぐ。 是以(こをもちて)、西洲(にしのくに)既(すで)に謐(しづ)かなりて、百姓(おほみたから)に事無し。 唯(ただ)、吉備穴済神(きびのあなのわたりのかみ)及難波柏済神(なにはのかしはのわたりのかみ)、皆(みな)害(そこな)ふ心有り、 以(もちて)毒気(いたきけ)を放ち、路(みち)の人を令苦(くるしめ)、並(ならびに)禍害(わざはひ)之藪(やぶ)を為す。 故(かれ)、悉(ことごと)其の悪しき神を殺し、並びに水(みづ)陸(くが)之径(みち)を開きまつれり。」とまをしたまひき。 天皇(すめらみこと)於是(ここに)、日本武(やまとたける)之功(いさみ)を美(ほ)めて[而]異(こと)に愛(め)でたまふ。 《悉斬其黨類無餘噍》 丙本が「餘噍」を「余りたるもの」と訓むのは、「噍」を持て余したからであろう。 漢籍に「噍類」〔=生物、生ける者〕という熟語があり、党・類が重複しているから、 「悉斬其黨無餘噍類」の誤写かも知れない。 《海路》 うみぢ…(万)0366 勇魚取 海路尓出而 いさなとり うみぢにいでて。 うみつぢ…(万)1781 海津路乃 名木名六時毛 渡七六 うみつぢの なぎなむときも わたらなむ。 このように、「うみぢ」「うみつぢ」は、一般的な語である。 類似の「うみつみち」は「東海道」の古訓で、伊賀国から常陸国までの太平洋岸の律令国十五国を意味する。 《難波柏済》
現代地名に「柏原」があるが、神武東征のときに渡った難波の岬とは距離が隔たっている。
橋の名についた地名「かしわ」は仁徳天皇紀に由来する。 仁徳天皇紀三十年条:皇后磐之媛命が、紀伊国へ出かけて採った御綱葉(みつなかしは)を土産に持ってきた。 「時皇后到二難波濟一、聞下天皇合二上八田皇女一而大恨之、則其所レ採御綱葉投二於海而不著岸一、故時人号二散レ葉之海一曰二葉済一也。」 ところが、磐之媛命が「難波濟」まで来たところで八田皇女を納めたことを知り、嫉妬に怒った磐之媛命は御綱葉を海に投げ捨てた。 地元では、野里の渡しがその「柏の渡し」だと伝わり、西淀川区柏里なる町名の由来となっている。 《大意》 いまだ死ぬに及ばず、川上梟帥(かわかみのたける)は頭を垂れて申し上げました。 「暫くお待ちください。私めに申し上げることがございます。」と。 その時、日本武尊(やまとたけるのみこと)は、剣を止めてお待ちになりました。 川上梟帥は「あなた様はどなたでございますか。」とお尋ね申し上げ、 それに答えて「私は大足彦(おおたらしひこ)天皇の皇子にて、名を日本童男(やまとおぐな)と言い給う。」と答えられました。 川上梟帥は、また申し上げました。 「私は、国中の強力な者にて、当時の人々は皆私の威力に勝てず、従わない人はおりませんでした。 私は、多くの武力の者に遭遇しましたが、未だ皇子以上の人はおりません。 これを以って、賤族の卑しい口を以って尊号を奉ろうと存じます。これを許していただけますでしょうか。」と。 それに「許し給う。」と答えられました。 そこで、「今から以後、皇子の号を、倭建皇子(やまとたけるのみこ)と称してくださいませ。」と 申し終えたところで、胸を突き通して殺しました。 さて、今に至り日本武尊と称されるのは、その由縁によります。 その後、弟彦(おとひこ)らを遣わし、悉くその一党を斬り、生き残った者はいませんでした。 事を終え、海路から倭に還りましたが、吉備に到ったところで、穴海(あなのうみ)を渡られました。 そこに悪神がおり、殺しました。 また、この頃難波(なにわ)に至り、柏済(かしわのわたり)の悪神を殺しました。 二十八年二月一日、日本武尊は熊襲を平げた様子をこのように報告なされました。 「臣、天皇の威光のご加護により一戦を挙げ、 熊襲の首魁を一気に殺し、悉くその国を平定しました。 これを以ちまして、西洲(にしのくに)は静謐となり、人民は無事となりました。 しかし、吉備穴済(きびのあなのわたり)の神と、難波柏済(なにわのかしわのわたり)の神に、両者とも害心があり、 毒気を放ち、道沿いの人を苦しめ、そろって災禍の藪に陥れました。 そこで、悉くその悪神を殺し、水陸の道を開きました。」と。 天皇はここに日本武尊の功を褒め、特別に可愛がりなされました。 まとめ 書紀には、日本武尊の功を褒め特別に愛でたとあり、またその死を知り、惜しんで嘆く。 それに対して、記では倭建命と景行天皇の間の感情の行き違いを隠そうとはしない。 書紀は、それをことさら打ち消そうとしている。天皇中心の世界観のバイブルとも言える日本書紀において、 ともに国の領土を確立した二人が対立したかの如き記述を、そのままにしておくことはできないと考えたのであろう。 とは言え、倭建が熊曽建から引き継いだ「建」に含まれる、朝廷への反抗を示唆する陰りを、やはり拭い去ることはできない。 さて、倭建命の自己紹介に見る天皇の称号「坐纒向之日代宮所知大八嶋国」が注目される。 記の会話文で「所知」が使われるのは確かであるが、ここではさらに、宮殿の所在地を天皇の称号に用いている。 この表現法は国造本紀に使用されるので、後世の加筆かも知れないと考えた。 しかし、記序文に「飛鳥清原大宮御大八洲天皇御世」〔=天武天皇〕があるから、 序文を偽作としない限りは、後世の加筆とは言えない。だが、この表現法は序文を除けばこの一か所だけなので、 なお疑問は残る。 なお、この二例の比較から、序文の「御」は「しらしめす」または「しろしめす」と訓むべきだということになる。 |
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2016.06.26(sun) [127] 中つ巻(倭建命3) ▼▲ |
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卽入坐出雲國 欲殺其出雲建而到卽結友
故竊以赤檮作詐刀爲御佩 共沐肥河 爾倭建命自河先上 取佩出雲建之解置横刀而詔爲易刀 故後 出雲建自河上而佩倭建命之詐刀 即ち出雲国(いづものくに)に入坐(いりまし)、其の出雲建(いづもたける)を欲殺(ころさむとし)て[而]到り即(すなは)ち友と結びたまふ。 故窃(ひそか)に赤檮(あかかし)を以ちて詐(いつはり)の刀(たち)を作りて御佩(みはかし)為(し)、共に肥河(ひのかは)に沐(ゆかはあみ)す。 爾倭建命、河(かは)自(よ)り先づ上がりて、出雲建之(の)解き置きし横刀を取り佩(は)かして[而]のたまはく、「刀(たち)を易(か)ふを為(な)さむ」と詔(の)たまふ。 故(しかるがゆへに)後(のち)、出雲建、河自り上がりて[而]倭建命之詐(いつはり)の刀を佩(は)く。 於是倭建命誂云伊奢合刀 爾各拔其刀之時出雲建不得拔詐刀 卽倭建命拔其刀而打殺出雲建 爾御歌曰 於是(ここに)倭建命誂(いど)みのたまはく「伊奢(いざ)刀(たち)を合はさむ」と云(のたま)ひ、 爾(ここに)各(おのもおのも)其の刀(たち)を抜かむとせし[之]時、出雲建、詐の刀を不得抜(えぬかず)。 即ち倭建命、其の刀(たち)を抜きて[而]出雲建を打ち殺したまへり。 爾(かれ)御歌曰(みうたよみたまはく) 夜都米佐須 伊豆毛多祁流賀 波祁流多知 都豆良佐波麻岐 佐味那志爾阿波禮 やつめさす いづもたけるが はけるたち つづらさはまき さみなしにあはれ 故如此撥治 參上覆奏 故(かれ)此の如(ごと)に撥(はら)ひ治(をさ)めたまひ、参上(まゐのぼ)り覆奏(かへりごとまを)したまふ。 その直後、出雲(いずも)の国にお入りになり、その地の出雲建(いずもたける)を殺すために、到着してまず友の関係を結びました。 そして、密かに赤樫を以って詐刀(さくとう)を作って帯刀し、二人で共に肥川(ひのかわ)で沐浴しました。 ここに倭建命は、川から先に上がり、出雲建が解き置いた太刀を自分の腰に帯び、「太刀を交換しよう。」と仰りました。 このような次第で、後に川から上がった出雲建は、倭建命の詐刀を帯びました。 ここに、倭建命は挑発され「いざ、太刀を合わせよう」とおっしゃり、 そして互いにその太刀を抜こうとした時、出雲建は、詐刀なので抜くことができません。 倭建命は、自分の太刀を抜いて、出雲建を打ち殺しました。 そして、この歌を詠まれました。 やつめさす 出雲建が 佩る太刀 蘿多巻き さ身無しに あはれ 《大意》 出雲建が腰に帯びた太刀。鬘を巻き飾っても刀身なしとは、あわれなことよ。 このようにしてその国を平定し、朝廷に参上して復命なされました。 む…[助動] 推量。〈古典基礎語辞典〉複数の動作につくと、話し手の勧誘を表す。 撥…[動] おさめる。(古訓)おさふ。はらふ。 かふ(易ふ)…[他]ハ下二 交換する。 やつめさす…[枕] 出雲にかかる。 【入坐】 「いでまし」と訓んでも全く問題はないだろうが、「いでまし」は本来「出坐」なので、 その対義語として「いりまし」という語があったとしても不思議ではない。 【赤檮】
<wikipedia>カシ(樫、橿、櫧)とは、ブナ科の常緑高木の一群の総称である。 なお、アカガシ亜属(subgen.Cyclobalanopsis)をコナラ属から独立させアカガシ属(Cyclobalanopsis)として扱う場合もある。 〈花と緑の図鑑-カシの仲間〉 アカガシ:全体的な印象はアラカシに似ています。葉の鋸歯がないのが特徴。 〈時代別上代〉の見出し語に、シロカシはあるがアカカシはない。しかし、白檮がシラカシまたはカシであるから、赤檮がアカカシであることに疑問の余地はない。 【肥河】 須佐之男命が降り立ったのが、肥河であった (第52回)。 出雲国の代表的な川として、しばしば伝説の舞台になったわけである。 【歌】 《やつめさす》 〈時代別上代〉は「ヤツメは八=藻で多くの藻、サスは勢いよく伸びる意、そこから厳藻にかかるか。 八藻サスと解するのは、崇神紀60年に「玉菨鎮石、出雲人祭ル」とあって、 玉菨シヅシが出雲にかかっている例による。 」というが、川底の藻が石につくのは、植物が「勢いよく伸びる」とは、随分趣が異なるので、受け入れ難い。 《崇神紀の歌》 枕詞だけを置き換えた歌が、崇神紀にある。 (第115回【書紀(3)】)。 八雲立つ 出雲猛が 佩る太刀 蘿多巻き さ身無しに あはれ 【崇神天皇紀】 詐刀に密かに交換してだまし討ちにする話は、崇神天皇紀60年7月条にもある。 そこでは、出雲振根が弟の飯入根を欺き、詐刀を持たせる。 恐らく出雲国にあった伝説を素材として、記紀がそれぞれ利用できる場面で使ったことが分かる。「出雲猛が佩る太刀」の歌も、伝説と一体であろう。 記では、倭建命のいきさつ抜きで、いきなり出雲に行く。 確かに読者が喜ぶような話だから、倭建命による東西征圧の一環として、ここに加えたのだろう。 これが倭建命と出雲建による私闘などではなく、国の制圧を象徴するものであることは、復命の前に「如此撥治」〔このように平定した〕と書いていることから明らかである。 しかし書紀では、出雲との対立は、既に崇神朝のときに解決している。 崇神紀では、三輪山の大神の復権に軌を一にして、出雲大神の復権も実現しているが、 その前に出雲国を弾圧する部分がある。出雲振根は、出雲の秘宝を差し出せという朝廷の命令に逆らっていたが、その話の中に詐刀伝説をうまく組み込みことができた。 書紀では、景行朝のときは出雲国の反抗は既に解決済みなので、日本武尊の派遣は行う必要はない。 それでもこの素材を利用しないのも勿体ないので、他に利用できる箇所を見つけたと見られる。 まとめ 記は頭の中で、倭建命は全国を漏れなく平定したと決めたのである。 だから、出雲国にも、崇神天皇が大神を祀る前の時代まで時空を超えて、征圧しにいったのである。 これは、記による倭建命の業績の絶対化のひとつの表れである。 反面、景行天皇の手に負えない人物として描く。 それに対して書紀は、日本武尊の業績を景行天皇の補助として相対化するが、景行天皇は日本武尊を心から愛しんでいる。 記では、倭建命の振る舞いは決して行儀のよいものではない。 それを隠そうとしないのは、民衆の間では心をさらけ出す悲劇の英雄に、人気があったからであろう。 想起されるのは、神武即位前、戦死した五瀬命にまつわる「遺跡」が伝説の地に散在していることである (第96回〈14〉・《山城水門》)。 それに対して神武天皇は、明治以後の事実上の官製運動による聖跡碑ばかりである。 |
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2016.07.02(sat) [128] 中つ巻(倭建命4) ▼▲ |
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爾天皇亦頻詔倭建命
言向和平東方十二道之荒夫琉神及摩都樓波奴人等而 副吉備臣等之祖 名御鉏友耳建日子而遣之時 給比比羅木之八尋矛【比比羅三字以音】 故受命罷行之時 參入伊勢大御神宮拜神朝廷 爾(ここに)天皇(すめらみこと)亦(また)頻(すみやかに)倭建命(やまとたけるのみこと)に詔(のたまはく) 「東(あづま)の方(かた)十二道(とあまりふたみち)之(の)荒夫琉(あらぶる)神及び摩都樓波奴(まつろはぬ)人(ひと)等(ども)を言向(ことむ)け和平(やは)せ。」とのたまひて[而] 吉備臣(きびのおみ)等(ら)之(の)祖(おや)、名は御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)を副(そ)へて[而]遣之(つかはせし)時、 比比羅木(ひひらぎ)之(の)八尋(やひろ)の矛(ほこ)を給ふ【比比羅の三字(さむじ)音(こゑ)を以(もちゐ)る】。 故(かれ)命(おほせこと)を受け罷行之(まかりゆきし)時、伊勢の大御神宮(おほみかむみや)に参入(まゐい)り神(かむ)朝廷(みかど)を拝(おろが)みぬ。 卽白其姨倭比賣命者 天皇既所以思吾死乎 何擊遣西方之惡人等而 返參上來之間 未經幾時不賜軍衆 今更平遣東方十二道之惡人等 因此思惟 猶所思看吾既死焉 即ち其の姨(をば)倭比売命(やまとひめのみこと)に白(まを)したまふ者(は) 「天皇既に吾(われ)死すべしと思ひし所以(ゆゑ)乎(か)。 何(いかに)西方(にしのかた)之(の)悪しき人等(ども)に撃(う)ち遣(つか)はして[而] 返(かへ)り参上(まゐのぼ)りて来之(こし)間(ま)、 未(いまだ)幾時(いくとき)を経ずして軍衆(つはものども)を不賜(たまはらず)して、 今更に東の方の十二道之悪しき人等を平(たひら)げ遣はすか。 此(こ)に因(よ)り思へらく、猶(なほ)吾(われ)既に死すべしと所思看(おもほしめす)と惟(おも)へり[焉]。」とまをしたまふ。 患泣罷時 倭比賣命賜草那藝劒【那藝二字以音】 亦賜御囊而詔 若有急事解茲囊口 患(わづらひ)泣(な)きて罷(まか)る時、倭比売命草那芸剣(くさなぎのつるぎ)【那芸二字、音を以ゐる】を賜はり、 亦(また)御囊(みふくろ)を賜(たまは)りて[而]詔(のたまはく)「若(も)し急事(はやこと)有らば茲(この)囊の口を解きたまへ。」とのたまふ。 故到尾張國 入坐尾張國造之祖美夜受比賣之家 乃雖思將婚 亦思還上之時將婚期定而 幸于東國悉言向和平山河荒神及不伏人等 故(かれ)尾張(をはり)の国に到り、尾張の国造(くにのみやつこ)之(の)祖(おや)美夜受比売(みやずひめ)之(の)家に入り坐(ま)し、 乃(すなはち)[雖]将婚(めあはさむ)と思へど、亦(また)思還(かへ)り上(のぼ)らむ[之]時を将婚(めあはさむ)期(とき)に定めて[而] [于]東国(あづま)に幸(いでま)し悉(ことごと)山河(やまかは)の荒(あらぶる)神及び不伏(まつろはぬ)人等(ども)を言向(ことむ)け和平(やは)したまふ。 ここに、天皇は再び休む間もなく、倭建命(やまとたけるのみこと)にこう命じられました。 「東方十二道の荒ぶる神及びまつろわぬ人どもを服従させ、平定せよ。」と。 そして、吉備の臣の祖、名は御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)を配下につけて派遣し、 柊(ひいらぎ)の八尋(やひろ)の矛(ほこ)を給わりました。 このようにして勅を受けて退出し、出発して、天照大御神を祭る伊勢の大神宮に参内し、神廟に参拝しました。 そして天照大御神を斎く叔母、倭比売命(やまとひめのみこと)このように告白されました。 「天皇はもう、私が死んでもよいと思ったからであろうか。 どうして、西方の悪人どもを撃ちに遣わして帰還し参上して以来、 未だ幾時も経ずして軍勢も与えられず、 今さらに東方十二道の悪人どもを平げに遣わすのか。 このことから考えて、やはり私はもう死んでもよいと思えてしまうのです。」と話し、 思い煩い、泣いて退出しようとする時、倭比売命は草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を賜わり、 また御袋を賜わり、 「もし緊急の事があれば、この袋の口を解きなさいませ。」と仰りました。 そして、尾張の国に到り、尾張の国造(くにのみやつこ)の祖、美夜受比売(みやずひめ)の家に入りなされ、 美夜受比売を気に入り、結婚しようと思いましたが、思い直して、帰還する時を結婚する時期と定めて、 東国に出でまし、ことごとく山川の荒ぶる神及びまつろわぬ人どもを服従させ、平定なされました。
等…(古訓) ら。とも。ともから。 ひひらぎ(杠谷樹)…[名] ひいらぎ。モクセイ科モクセイ属の常緑小高木。 葉に触れるととげによって痛む(ひひらく)ことから名付けられたという。 ひろ(尋)…[助数詞] 両腕を横に広げたときの指先から指先まで。 所以…(古訓) このゆへに。ゆへ。 -つかはす…[他] 補助動詞的な用法がある。 〈後紀〉大同二年〔807〕九月癸巳〔9日〕 今詔久弓射都可波須事波本與利正月乃行事奈利。 〔今詔はく、弓射つかはすことは、本より正月の行事なり。〕 所思看…万葉集的な用字法。(万)0162 何方尓 所念食可 いかさまに おもほしめせか。 惟…(古訓) おもふ。 急…(古訓) すさむ。すみやか。とし。はけし。 急事…(万)2459 急事 はやことなさば。この例は「速い」意味。ここでは「はやこと」の訓に「緊急時」の意味を盛るしかない。 期…(古訓) とき。 【荒神及不伏人等】 景行天皇の言葉の中に「荒夫琉神及摩都樓波奴人等」〔荒ぶる神及びまつろはぬ人等〕があり、これが「荒神及不伏人等」の訓を示している。 【神朝廷】 「朝廷」の訓「みかど」を神廟の意味で用いたか。「みかど」は①御門⇒②宮殿⇒③朝廷⇒④帝のように意味が拡大する。 ここでは、意味は天照大御神を祭る荘厳な廟として②、表記に③を用いたと思われる。 【不賜軍衆】 征西で疲弊した軍に代えて、新しい軍勢を与えられなかったという意味であろう。 【吾(既)死】 さすがに、命令形「死ね」ではないだろう。推量の助動詞「可(べし)」が隠されていて、 「死ぬかもしれないがそれでもよい」意味だと思われる。倭建命は天皇の意志をそのように推し量り、その不満と悲しみを倭姫に打ち明けたのである。 【天皇による回答】 記に書かれた倭建命の疑念に対して、天皇は書紀の中で回答する。 景行天皇紀では、言葉を尽くして日本武尊を説得している。
一方、書紀では日本武尊は本音を隠して、
【美夜受比売】 東征の帰路に再び美夜受比売の許に立ち寄るので、そこで詳しく見る。 【書紀】 11目次 《日本武尊東征》
「熊襲(くまそ)既に平(たひらぎ、たひらげ)、未(いまだ)幾年(いくとせ)を経ず、今更に東夷(あづまえみし)叛(そむ)く[之]。 何日(いつか)[于]大平(たひらか)に逮(およ)ぶや[矣]。臣(やつかれ)雖労[之](つかれども)、頓(ひた)其の乱(みだれ)を平げむ。」とまうしたまふ。 則(すなは)ち天皇(すめらみこと)斧鉞(ふゑつ、まさかり)を持ちて、[以ちて]日本武尊に授けて曰(のたまはく)、
村に之(これ)長(をさ)無く、邑(むら)に之(これ)首(おびと)勿(な)く、各(をのもをもの)封堺(さかひ)を貪(むさぼ)り、並(ならびて)相(たがひに)盗略(ぬすみ)あふ。 亦(また)山に邪(よこしまな)神有り、郊(さと)に姦(みだりかはしき)鬼(おに)有り、衢(ちまた)を遮(さ)へ俓(みち)を塞(ふた)ぎ、多(さはに)人を令苦(くるしめしむ)。 其の東夷之中、蝦夷(えびす)是(これ)尤(もとも)強(つよ)くして[焉]、男(をとこ)女(をみな)交(まじ)り居(を)り、父子(ちちこ)別つこと無く、 冬は則(すなは)ち穴に宿(ね)、夏は則ち樔(す)に住み、毛を衣(ころも)として血を飲み、昆弟(はらから)相(あひ)疑ひ、 山を登るは飛ぶ禽(とり)の如く、草(くさ)を行(ゆ)くは走る獣(けだもの)の如し。 恩(めぐみ)を承(う)かば則ち忘れ、怨(うらみ)を見ば必ず報ふ、是(こ)を以ちて、箭(や)を頭髻(もとどり)に蔵(をさ)め、刀(たち)を衣(ころも)の中に佩(は)く。 或(あるは)党類(ともがら)を聚(あつ)め、而(しかくして)辺堺(さかひ)を犯(をか)して、或は農桑(なりはひ)を伺(うかが)ひて、以ちて人民(おほみたから)を略(をか)しつ。 撃たば則ち草に隠(かく)り、追はば則ち山に入(い)り、故(かれ)往古以来(いにしかたより)、未だ王化(きみのおもむけ)に染まずときく。
猛(たけ)ること雷電(いなびかり)の如くして、所向(むかふ)は前(さき)に無(な)くして、所攻(せむる)は必ず勝ちたまふ。 即ち知りたまはく[之]、形(かたち)は則ち我子(わがみこ)にて、実(み)は則ち神の人なるとしりたまふ。 寔(まこと)に是(これ)、天(あま)朕(われ)不叡(さとからざること)を愍(うれ)へて且(また)国不平(たひらがぬ)ことなり。 経綸天業(けいりむてむげふ〔あめのしたをしろしめすあまつひつぎ〕)となり、宗廟(そうべう〔くに〕)を不絶(たやさざら)令(し)めたまへ[乎]。 亦(また)是(この)天下(あめのした)は則ち汝(いましが)天下也(なり)て、是の位(くらゐ)は則ち汝が位也(なり)。 願(ねがはくは)深謀(しむぼう〔はかりごとふかくして〕)遠慮(ゑむりよして〔とほくおもひはかりて〕)、姦(みだりかはしき)を探り変(かはり)を伺(うかか)ひ、 之(こ)を示すに威(いかし)きを以(もちゐ)て、之を懐(なつ)くに徳(のり)を以ゐて、 兵甲(つはもの)を不煩(わづらはさず)、自(みづから)臣隸(つかふるひと)になさ令(し)めたまへ。 即ち言(こと)を巧(たくみ)にし、而(しかくして)暴(あらふる)神を調(ととの)へ、武(たけ)を振(ふ)き、以(もちて)姦(みだりかはしき)鬼を攘(はら)へたまへ。」とのたまふ。
未(いまだ)浹辰(せふしむ、とうかあまりふつか)を経ずして、賊(あた)の首(ひとごのかみ)を罪に伏す。 今亦(また)神(あまつかみ)祗(くにつかみ)之(の)霊(みたまのふゆ)を頼み天皇(すめらみこと)之(の)威(いかしき)を借り、往(ゆ)きて其の境(さかひ)に臨み、[以]徳(のり)を示して教(をし)へ、 猶(なほ)有不服(まつろはざらば)即ち兵(いくさ)を挙げて撃ちまつらむ。」とまをしたまひ、
天皇、則(すなは)ち吉備武彦(きびのたけひこ)与(と)大伴武日連(おほとものたけひのむらじ)とに命(おほせこと)し、日本武尊に従は令(し)む。 亦(また)[以]七掬脛(ななつかはぎ)を膳夫(かしはで)と為(し)たまふ。
戊午(つちのえうま)〔七日〕、道を抂(ま)げ伊勢の神宮(かむみや)を拝(おろが)み、仍(すなはち)[于]倭媛命(やまとひめのみこと)に辞(まかりまをしたまはく)[曰] 「今天皇之命(おほせこと)を被(お)ひて[而]東(あづま)に征(ゆ)き諸(もろもろ)の叛(そむ)く者(もの)を将誅(ころさむとす)。故(かれ)辞(まかりまをす)[之]。」とまをしたまふ。 於是(ここに)、倭媛命草薙剣(くさなぎのつるぎ)を取りて、日本武尊に授(さづ)け曰(のたまはく) 「慎之(つつしむべし)。莫(な)怠(おこたりたまひそ)[也]。」とのたまふ。 《大意》 ここに日本武尊(やまとたけるのみこと)は、雄叫びを上げて申し上げなされました。 「熊襲(くまそ)を既に平定し未だ日が浅いのに、今、さらに東夷が叛乱を起こした。 太平になるのはいつの日か。臣、疲れてはいるが一心にその乱を平定いたしましょう。」と。 そして天皇は斧鉞(ふえつ)〔まさかり〕を持ち、日本武尊に授けて命じられました。 「朕(ちん)聞くに、東夷は性質は暴強、凌犯を旨とし、 村々を治める長(おさ)はおらず、それぞれが境界を奪い、互いに盗みを重ねている。 また山には邪神が、里には姦鬼がいて、巷を遮り道を塞ぎ、多くの人を苦しめている。 その東夷のうち、蝦夷(えびす)が最も強力で、男女は交じり、父子も別れず、 冬は穴に眠り、夏は樹上の小屋に住み、毛衣を着て血を飲み、兄弟は互いに疑い、 山は飛ぶ鳥のように登り、草原は獣のように走る。 恩恵を受ければ忘れ、怨みを見れば必ず報復する。このように暮らし、矢を髻(もとどり)に隠し、刀を衣の中に隠す。 或いは徒党を組んで境界を犯し、或いは農作物を伺い、人民を略奪する。 攻めれば草に隠れ、追えば山に入り。このように往古以来、未だ王化に染まらぬと聞く。 今朕が貴方を見れば、身体は身長が高く、容姿は端正で、力は鼎(かなえ)を上げることができ、 猛々しいことは稲妻の如く、向かうところ敵なく、攻めれば必ず勝つ。 即ち、形は我が子だが、実は神の人であると知った。 本当の事を言えば、天は朕の叡(さと)からざることを憂え、また国は平定できていない。 あなたが、経綸天業を継ぎ〔皇太子となり〕、宗廟〔国〕を絶やさぬようにせよ。 この天下は貴方の天下で、その地位〔天皇〕は貴方の地位である。 願わくば、深謀遠慮して、姦を探り変を伺い、 権威を示し、徳をもって懐かせ、 兵甲を煩わさず、自ずから臣隸〔臣従〕するようにせよ。 そして言葉巧みに荒ぶる神を調略し、武力を振るい姦鬼を掃え。」と命じられました。 ここに、日本武尊は斧鉞(ふえつ)を受けられ、よって再拝〔丁寧にお辞儀〕して奏上しました。 「かつて西征した年に、恩頼(みたまのふゆ)を頼み、三尺(みさか)の剣(つるぎ)を携帯し、熊襲の国を撃ち、 未だ浹辰(しょうしん)〔十二日間〕を経ず、敵の首魁を罪に服させました。 今また神祗の神霊(みたまのふゆ)を頼み、天皇の威を借り、出かけて辺境に臨み、徳を示して教え、 なお服さなければ兵を挙げて撃ちます。」と奏上され、 重ねて再拝しました。 天皇は、吉備武彦(きびのたけひこ)と大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)に命じ、日本武尊に従わせました。 また、七掬脛(ななつかはぎ)を膳夫(かしわで)とされました。 十月二日、日本武尊は出発し、旅路につきました。 七日、寄り道して伊勢神宮に参拝し、倭媛命(やまとひめのみこと)に別れのあいさつをされました。 「今天皇の命を負い、東征し、もろもろの反逆者を征圧しに参りますゆえ、別れのあいさつを申し上げます。」と。 そこで、倭媛命は草薙剣(くさなぎのつるぎ)を手に取り日本武尊に授けて 「慎しんで、怠ることのありませんように。」と仰りました。 【書紀の「蝦夷」とは】 書紀によれば、東夷は、各村を統治する者が不在で略奪し放題である。その中で、特に「蝦夷」という一族は、動物に近い原始的な生活をしているという。 この記述には、依然一部に残る竪穴式住居、山伏、南方の樹上住居、山間のマタギのような像が混合している。 なお「箭蔵二頭髻一」は、髻を後頭部から垂直に立てた「椎髻」には 矢を隠しているだろうと揶揄したようにも読めるが、後述する『通典』(唐の時代)に「挿二箭於首一」〔「首」=頭〕とあるので、実際に束ねた髪に矢を挿していたという意味かも知れない。 後述するように、これらは斉明天皇紀に描かれた蝦夷国の風俗を取り入れたもので、景行天皇紀に書かれていることをもって、関東にアイヌがいた根拠にはならない。 アイヌは、最も南下したときも、南限は仙台平野-越後平野のラインだったとされる。また、倭人とは基本的に交易を通して共存していた。 「東夷」とは、もともと中華思想により、文明が進んだ地域の周辺の異民族を 東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)・南蛮(なんばん)と呼んだことに由来する。 それが倭国に伝わり、畿内が中原となり、東国が東夷となった。東夷は、中央政権が征圧する前の東国の諸族の総称であり、特定の民族や種族を指すわけではない。 ただし、その中にはアイヌも含むだろう。 《中国古典の「蝦夷」》 〈中国哲学書電子化計画〉を検索すると、『通典』〔唐、801〕の「辺防」の「蝦夷国」が唯一の例である。これは、「朝鮮 濊 馬韓 辰韓 弁辰 百済 新羅 倭 夫餘 蝦夷」として実在した諸国と共に挙げられている。 そして、蝦夷国については、
確かに陸奥から男女二名を連れて行ったが、朝貢の使者ではなく唐の皇帝に見せただけである。 しかし、書紀引用の『難波吉士男人書』(後述)には、遣隋使に同行した蝦夷が「白鹿皮一、弓三、箭八十を天子〔第三代皇帝高宗〕に献上した」とある。 〈中国哲学書電子化計画〉の検索では、他に「蝦夷」は使われていないから、もともと中国にあった語ではない。 明らかに、倭国においてひとつの地域または種族につけられた名称である。 《斉明天皇紀》 『通典』によれば、「蝦夷国」は659年当時の倭国の属国であるが、書紀にも「蝦夷国」がちゃんと出てくる。 斉明天皇紀五年〔659〕3月条に「甘檮丘東之川上、造二須彌山一而饗二陸奧与越トノ蝦夷一」 同じ月「遣阿倍臣率二船師一百八十艘一討二蝦夷国一。」〔船で行き蝦夷国を討った〕とあり、 蝦夷から人を呼んで宴席を設けておいて、同じ月に蝦夷を攻め入るのは分かりにくいが、もともと蝦夷国内で政権派と反政権派が対立していたのであろう。 反体制側の悪行を訴え出陣を請うために朝廷を訪れた一行を、篤く接待したわけである。
斉明天皇紀の記述から、「蝦夷国」が現在の秋田・能代・津軽のあたりに実在したと思われる。現在の羊蹄山の別名が「しりべし山」であるが、 平安時代以前に北海道に「蝦夷郡」があったとは考えられないので、後世になってから、書紀に因んで北海道の山にこの名が付けられたのであろう。 アイヌ人自身による羊蹄山の呼び名は、<wikipedia>マッカリヌプリもしくはマチネシリ</wikipedia>だと言う。 なお、ここで出てくるイブリサヘ、シシリコ、シシヘリ、ウホナの名は、アイヌ由来とも言われる。秋田・能代の辺りならアイヌがいたであろう。 さて「蝦夷国」という国名は、東北地方が広く蝦夷と呼ばれていたからだろうが、 逆にかつて強大な「蝦夷国」が存在していたので、後世東北方面を広く呼ぶ呼称として残ったとも考えられる。 斉明天皇紀によれば、この地域が征圧された結果、出羽国・陸奥国に吸収されて国名を失ったことになる。 景行天皇紀で「東夷のうち、特に蝦夷は」という書き方がされたのは、習俗の中身は別として、広い地域の「東夷」の中に、かつて国として蝦夷国が存在したという事実を反映したものかも知れない。 【遣唐使随行者による記録】 斉明天皇紀五年七月条に、遣唐使に随行した官吏による報告文『伊吉連博徳書(いきのむらじひろとこのふみ)』『難波吉士男人書(なにはのきしのをびとのふみ)』が引用されている。 《伊吉連博徳書》
遣唐使の一行は東京で皇帝と面会した。「東京」は歴史上さまざまな場所に存在したが、隋唐時代は首都を長安に置いたので、かつての伝統ある首都洛陽を東京と呼んだという。 皇帝の質問に対する遣唐使吉祥連の回答をまとめると、次のようになる。 「蝦夷国は倭国の東北(うしとら)にあり、蝦夷には三種族があり、遠い方から順に、 都加留〔津軽〕、麁蝦夷〔あらえみし〕、熟蝦夷〔にきえみし〕と言う。 このうち熟蝦夷は、倭国の朝廷に毎年入貢する。 蝦夷国には五穀はなく、食肉して生きる。家屋は建てず、深山の樹木の本に住む。」 皇帝は、蝦夷の顔・身体の異極理〔異(こと)に理(すじめ;入れ墨か)を極む〕を見て喜び怪しみ、 使者は遠来辛苦したから宿所に戻れ、また改めて会見しようと言った。 ここで述べられた蝦夷の習慣は、景行天皇紀の「衣毛飲血」「冬則宿穴夏則住樔」に類似するので、伊吉連博徳書が出典かも知れない。 また、黥面文身の習慣は、武内宿祢による日高見国視察の報告と共通する(景行天皇紀3)。 しかし、唐皇帝が蝦夷国の住居の様子にまで興味を持つのは不自然なので、書紀における蝦夷のイメージに合わせて、 伊吉連博徳書に加筆した可能性もある。 ただ、皇帝の言葉の中とはいえ蝦夷に「国」をつけ、「毎歳入貢本国之朝」と書いている。 『斉明天皇紀』本文には「遂置二郡領一而帰」として、蝦夷国が消滅したかのように書いているが、 存続して外交関係を維持していたのが真相であることを示している。 それをさらに裏付けるように、続紀〔797成立〕には、 文武元年〔697〕十月壬午条「陸奥蝦夷貢二方物一。」と書かれる。 方物とは朝貢の品のことで、少なくとも697年までは蝦夷国は属国として存在している。 《難波吉士男人書》
《遣唐使が蝦夷を伴った理由》 壮麗な宮殿において、倭の使者が謁見して朝貢する儀式を見せるのが目的であろう。 倭国は国際舞台に立つエリートであることを蝦夷国に見せつけることにより、倭国の足元にも及ばない存在であると思わせようとしたと見られる。 まとめ 7世紀ごろ、東北北部にアイヌの「蝦夷国」が存在し、倭国の属国になっていたのは間違いないだろう。 アイヌそのものは北海道まで分布し、その南端の集団が「蝦夷国」として倭国と交易していたものと思われる。 『伊吉連博徳書』では彼らの特徴として、穀物はなく肉食で、家屋を建てず、入れ墨をしているというが、 弥生時代の稲作は津軽平野まで確認されており、住居は<wikipedia-川口遺跡>天塩川(北海道北部)沿いに、続縄文時代から擦文時代直後にかけての竪穴式住居跡230基が分布している</wikipedia>と 言うから、偏見を含んでいると思われる。 景行天皇紀では、その蝦夷国の姿を時空を超えて景行朝の関東地方まで引っ張ってきて、未開民族の土地として描いているに過ぎない。 そこに歴史的事実は存在しない。 それに対して、記では東国の制圧後に「悉言二‐向荒夫琉蝦夷等一」 として「蝦夷」の文字があるが、書紀のように斉明天皇朝の「蝦夷国」を連想させる内容は伴わず、 東国の不服従の諸族を一般的に表す語として使われている。 さて、記で何といっても重要なのは、倭建命の心を暗雲となって覆う景行天皇への疑念である。 その後焼津で危機を迎えたとき、倭姫命の心遣いによって救われ、 最後は伊吹山での悲劇を迎えるが、最初に東征を命じられたときの不安がすべての伏線となって、物語の深みを増している。 書紀のように、日本武尊が健全な心で東国に向かい、景行天皇も一貫して日本武尊を深く愛しみ、 その死を知って大いに嘆いたという筋書きでは、平板で面白みはない。 古事記が民衆の心に寄り添うものであるのに対して、日本書紀は官製の歴史書であるという 性格の違いが、ここによく表れている。中央政権の官僚は、民衆が悲劇の英雄を好む心理に体制批判を感じ取って、本能的に嫌うのである。 |
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2016.07.09(sat) [129] 中つ巻(倭建命5) ▼▲ |
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故爾到相武國之時其國造詐白
於此野中有大沼 住是沼中之神甚道速振神也 於是 看行其神入坐其野 爾其國造火著其野 故爾(しかるがゆゑに)相武国(さがむのくに)に到[之](いたりましし)時、其の国造(くにのみやつこ)詐(あざむきて)白(まをさく) 「[於]此の野中(のなか)に大沼(おほぬ)有り、是の沼(ぬま)中に住む[之]神、甚(いた)く道速振(ちはやぶる)神也(なり)。」とまをしき。 於是(ここに)其の神を看(め)しつつ行(ゆ)き其の野(の)に入(い)り坐(ま)せり。 爾(ここに)其の国造其の野に火(ほ)著(つ)けき。 故知見欺而 解開其姨倭比賣命之所給囊口而見者 火打有其裏 於是先以其御刀苅撥草 以其火打而打出火著向火而燒退還出 皆切滅其國造等 卽著火燒故於今謂燒遺也 故(かれ)見欺(あざむかゆ)と知りたまひて[而] 其の姨(をば)倭比売命(やまとひめのみこと)之(が)所給(たまはりし)嚢(ふくろ)の口を解き開きて[而]見れ者(ば)、火打(ひうち)其の裏に有り。 於是(ここに)先づ其の御刀(みはかし)を以ちて草を苅り撥ね、 其の火打を以ちて[而]火を打ち出(い)で向火(むかひび)を著(つ)けて[而]焼きて、退(しりぞ)き還(かへ)り出(い)で、 皆(あまねく)其の国造等(ども)を切り滅(ほろぼ)したまふ。 即ち火を著け焼きし故(ゆゑ)に、[於]今に焼遺(やきすつ、やくつ)と謂(まを)す[也]。 自其入幸 渡走水海之時 其渡神興浪廻船不得進渡 爾其后名弟橘比賣命白之 妾易御子而入海中 御子者所遣之政遂應覆奏 將入海時 以菅疊八重皮疊八重絁疊八重敷于波上而 下坐其上 其の入幸(いりいでまし)自(ゆ)、 走水(はしりみず)の海を渡(わた)りし[之]時、其の渡(わたり)の神浪(なみ)を興(おこし)て船を廻(めぐ)らせ、不得進渡(えすすみわたらず)。 爾(ここに)其の后(きさき)名は弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)の白(まをさく)[之] 「妾(われ)御子(みこ)に易(かは)りて[而]海中(わたなか)に入(い)りまつらむ。御子者(は)所遣之(つかはされし)政(まつりごと)を遂(と)げ、応覆奏(かへりごとまをしたまふべし)。」とまをす。 将入海(うみにいらむとせし)時、菅(すげ)畳(たたみ)八重(やへ)、皮(かは)畳八重、絁(あしきぬ)畳八重を以ちて[于]波の上(うへ)に敷きて[而]、 其の上に下(お)り坐(ま)せり。
《大沼・小沼》 記の本文に「大沼」、歌謡に「小沼(をぬ)」がある。 神奈川県の地名としては、「小沼(こぬま)」というバス停が、相模原市南区相模大野一丁目にある。隣接した地名は「大沼」で、大沼神社(式外社、神奈川県相模原市南区東大沼2-10-5)がある。 この地は、高座(こうざ)郡=〈倭名類聚抄〉{相模国・高座【太加久良】郡}〔たかくら〕の北部(旧大野村)で、 1941年に大字となった。この地域には、小沼・菖蒲沼・鹿沼などの大小の沼が散在していたという。 記の編纂時代にも「大沼」「小沼」などの呼び名があったことは、十分考えられる。 【向かい火の効果】 まず、自分の周囲の草を薙ぐ。そして、手前からも火を点ければ、火の勢いは増しながらも奥に向かって燃え広がり、手前から順に燃えつきていく。 何もしなければ、火はどんどん大きくなりながら自分に近づいてくる。 だから「向かい火」は、最大燃焼域を自分の位置から遠ざける効果があると考えられる。 分類上は、「除去消火法」〔可燃物を取り除く〕の一種ということになる。 〈時代別上代〉は、「むかひび」を一般名詞として認め、「自分の周囲を焼き払うことにより、焼けてくる火に対して、かえって安全となる」として、 効果のある手段だという見方をしている。また、同辞典がいうように、源氏物語で比喩として使われていることは、これが一般的な名詞であったことの裏付けとなる。 ただ、この手段が本当に有効かどうかを検証するには、実証実験が必要である。また、山火事が人里に迫ったときなどに、実際に用いられた記録はあるのだろうか。 最初から「火をもって火を制す」という、逆説表現による比喩であったような気もする。 【焼津】 《真福寺本》 《益頭郡》 〈倭名類聚抄〉に{駿河国・益頭【末志豆】郡・益頭【万之都】郷}〔ましづのこほり・ましづのさと〕。 もともとの焼津〔やきつ〕に「益頭」〔やくづ〕の字が宛てられ、やがて読みが「ましづ」に変わったとされる。 『倭名類聚抄』は930年代の編纂、古事記は712年成立だから、その間200年の変化ということになる。 類似の例としては、備後国安那郡〔あな郡?→やすな郡〕があった。 現在の「焼津市」の名称に繋がるのは、慶応年間~明治4年頃の資料『旧高旧領取調帳』に存在した「焼津村」である。 しかし、神名帳に{駿河国廿二座/益頭郡四座/焼津神社}とあるから、焼津が益頭郡の中にあったのは間違いない。 なお、比定社とされる焼津神社(静岡県焼津市焼津2丁目7-2)は、江戸時代まで「入江大明神社」であった。 《焼津辺》 また、ウィキペディアに万葉集に焼津があるというので調べると、「春日蔵首老歌一首」として、 (万)0284 焼津邊 吾去鹿齒 駿河奈流 阿倍乃市道尓 相之兒等羽裳 やきつへに わがゆきしかば するがなる あべのいちぢに あひしこらはも。があった。 「するがなる」は枕詞ではなく、〈倭名類聚抄〉に{駿河国・阿部郡}が存在するので、「焼津の浜に向かう途中、駿河国にある阿部郡で」の意味である。 焼津辺も駿河国内と見るのが妥当であろう。 春日蔵首老については、 『続紀』の大宝元年〔七〇一〕三月壬辰〔十九〕に、「令僧弁紀還俗。代度一人。賜姓春日倉首、名老。授追大壱。」 〔僧、弁紀を還俗させる。一代限りの姓「春日倉首」、名「老」を賜る。「追大壱」(冠位四十八階の上から32位)を授く。〕 とあるから、701年頃には既に焼津が存在したことがわかる。 《記では相模国》 記では、相模国に焼津があったことになっている。実際の位置関係に反するので、頭を抱えるところである。その解釈としてすぐに思い浮かぶのは、次の2説である。
①については、倭名類聚抄の相模国の郡・郷に「やき」「やく」で始まる地名はない。 ②については、相武国造はむしろ相模国より狭く、駿河まで相武であったことを示す資料は見つからない。 このように、何れも裏付けとなる確かな材料は見つからない。 注目されるのは、記〔712年〕から間がない書紀〔720年〕では直ちに駿河国と書いていることである。 『延喜式』神名帳ではの焼津神社は駿河国益頭郡にあるから、 書紀は記の記述にとらわれず、当時すでに明白であった「駿河国の焼津」に代えたと思われる。 思うに「焼き殺されそうになったが、向い火の知恵により窮地を脱した」という伝説は大変面白いので、 相模から駿河までの広域に広まっていたと想像される。 その地域のうち、強力な敵の本拠地が相模国だったから、記はその物語の舞台を「相武国」にしたと考えられる。 一方、「焼津」の地名譚もすでに定着していたから、これも無視することができなかった。 結果的に、現実の相武国とは無関係に、記における「相武国」は伝説分布域全体を含む広域の国となってしまった。 書紀は、焼津が実際にあった場所に合わせて「駿河国」に修正したと考えられる。 相模まで広まっていた伝説の舞台が、焼津に固定されていったのは、その地名の故であろう。 【走水】 《走水神社》
走水小学校近くには「御所ケ崎」がある。<横須賀市公式ページ-御所ケ崎・走水番所跡> 日本武尊が東征のおり、宿所とされたという説話から御所ケ崎の名があり、また背後の山に旗を立てたので旗山崎ともいい、 幕末期に台場が築かれた </同ページ>という。 さらに、走水神社『御由緒』には、「弟橘媛命が御入水されてから数日して海岸に櫛が流れ着きました。 村人たちはその櫛を日本武尊と弟橘媛命の御所があった御所が崎に社を建て、櫛を納め橘神社としましたが、明治18年〔1885〕に御所が崎が軍用地になったため、橘神社は走水神社の境内に移され、明治42年〔1909〕に走水神社に合祀されまし」 たとある。 走水神社の創建は不明だが、『御由緒』によれば「日本武尊は自分の冠を村人に与え、村人はこの冠を石櫃に納め土中に埋めその上に社を建てた」とする言い伝えがある。 このように、三浦半島の走水神社周辺は日本武尊と弟橘媛命の伝説の地になっている。 《地名の由来》 「豊富な地下水が湧き出るのが地名の起源」と言われる(日本大百科全書(ニッポニカ))。 調べてみると、走水神社手水舎の傍らに立て札があり、 「この水は深さ三十米より湧き出ているミネラルを含んでいる真水です。その昔走水 は宿場町として栄え船に積む飲料水に利用されていました。富士山より永い歳月を掛けて この辺一帯に湧き出ていると云はれています。平成十一年一月 走水氏子会」と書かれている。 自然な解釈としては、まずはじめに湧き水による「はしりみづ」の地名があり、後に「弟橘媛の入水によって静まった海を、走るように船が進んだ」という書紀の伝説に結びついたのであろう。 記ではまだ、「走水」の地名を倭建命の伝説には結びつけるには至っていない。 【歌の解釈】
記紀の歌謡は、多くは一般に流布していた歌から場面に合うものを用いているが、この歌に関しては、 向かい火伝説の原型に直結しているように思われる。 書紀は物語の舞台を相模から駿河に移したため、この歌を使うことができなくなったと思われる。 【書紀】 12目次 《草薙剣》
「是の野(の)は[也]、糜鹿(びろう、おほしか)甚(いと)多(おほ)きにて、気(いき)は朝霧(あさぎり)の如くして、足は茂る林の如し。臨(のぞ)みて[而][応]狩りたまふべし。」とまをしき。 日本武尊其の言(こと)を信(う)けて、野中(のなか)に入(い)りて[而]獣(けだもの)を覓(ま)ぎたまふ。 賊(あた)に王(みこ)を殺さむとする[之]情(こころ)有り【王は、日本武尊を謂(い)ふ[也]。】、火を放(はな)ちて其の野(の)を焼く。 王、被欺(あざむかゆる)を知り、則(すなはち)燧(ひきり)出(い)でし火を以ちて之(これ)向(むか)ひ焼きて[而]得(え)免(まぬか)る。 一云(あるいはく)、王(みこ)の所佩(みはかし)の剣(つるぎ)叢雲(むらくも)を、自(みづから)抽(ぬ)きて[之]、王之(の)傍(ほとり)の草を薙(な)ぎ攘(はら)ひけり。 是(こ)に因(よ)りて得(え)免(まぬかれし)故(ゆゑ)に、其の剣を号(なづ)けて草薙(くさなぎ)と曰(い)ふ[也]【叢雲、此(こ)を茂羅玖毛(むらくも)と云ふ。】。 王曰(のたまはく)「殆(ほとほと)被欺(あざむかゆ)。」とのたまふ。 則(すなはち)悉(ことごと)其の賊(あた)の衆(ともがら)を焚(や)きて[而]滅(ほろぼ)しし[之]故(ゆゑ)に、其の処を号(なづ)けて焼津(やきつ)と曰ふ。
乃(すなはち)[于]海中(わたなか)に至りて、暴風(あからしまかぜ)忽(たちまちに)起(おこ)り、王(みこ)の船漂蕩(さまよ)ひて[而]不可渡(えわたらず)。 時に、従王之(みこにしたがひし)妾(をむなめ)、弟橘媛(おとたちばなひめ)[と曰ふ]有り、穂積氏忍山宿祢(ほづみのうじのおしやまのすくね)之女(むすめ)なりて[也]、王に啓(まをさく)[曰]、 「今風起き浪(なみ)泌(し)みて、王の船欲沈(しづめむとす)は、是必ず海神(わたつみ)の心なり[也]。願(ねがはくは)賤(いやし)き妾之(わが)身(み)、王之命を贖(つくの)ひて[而]海に入らむ。」と 言(こと)まをし訖(を)へて、乃(すなはち)瀾(なみ)を披(ひら)きて入れり[之]。 暴風即ち止(や)み、船岸に著(つ)くを得(う)。故(かれ)時の人其の海を号(なづ)け、馳水(はしりみづ)と曰ふ[也]。 《高言》 三浦半島と房総半島の間の浦賀水道は小さな海だから、跳び越えてやろうと軽口を叩いた。 日本武尊は時々ことを甘く見て、痛い目を見ることがあった。案の定急激に暴風となり、弟橘媛が犠牲になった。 《焼津の地名譚》 書紀では、敵に逆襲をかけ悉く焼き殺したことを、地名の謂れとする。 記では、倭建命が向い火によって難を免れた事件そのものをもって、謂れとしたと読むのが自然である。 敵を焼き殺した動機は、焼き殺されそうになったことへの復讐であるから、 同じようなものではある。 《大意》 この年、日本武尊(やまとたけるのみこと)は最初に駿河に到着しました。 その土地の敵が偽りの服従をし、欺いて申し上げました。 「この野は、麋鹿(びろう)が大変多く、吐く息は朝霧のように漂い、足は茂る林のようにして立っております。その現場に臨んで狩ってくださいませ。」と。 日本武尊その言葉を信じ、野の中に入り獣を捜しました。 敵には御子を殺す意志があり【ここで御子とは、日本武尊のことです。】、火を放ってその野を焼きました。 御子は、欺かれたことを知り、火鑚(き)りして出した火によって、向かい火を燃やして、免れることができました。 ある言い伝えでは、皇子の帯刀した叢雲(むらくも)の剣を自ら抜いて、皇子の周辺の草を薙ぎ攘いました。 これによって免れ得た故に、その剣は草薙(くさなぎ)と名付けられました。 御子は「もう少しで欺かれるところであった。」と仰りました。 このように、悉くその敵衆を焼き滅した故に、其の場所は焼津(やきつ)と名付けられました。 次に相摸を進み上総に行こうとされ、海を見て「これは小さな海に過ぎない。跳び越えて渡れるぞ。」と高言されました。 このようにして海の真ん中に来たところで、暴風が急に起り、皇子の船は漂流して渡ることができませんでした。 その時、皇子に従っていた側室、弟橘媛(おとたちばなひめ)がいました。穂積氏忍山宿祢(ほずみのうじのおしやまのすくね)の息女で、皇子に申し上げました。 「今風が起り波が浸水し、御子の船が沈もうとしているのは、必ず海神(わたつみ)の心です。願わくば、私の卑しい身をもって、皇子の命に替えて海に入りとうございます。」と 言い終えると同時に、波を分けて入水しました。 直後に暴風は止み、船は着岸することができました。よって当時の人はその海を、馳水(はしりみず)と名付けました。 【麋鹿】 《麋》
『説文解字』〔西暦100〕に「麋:鹿属。从鹿米声。麋冬至解其角。」 〔鹿の属。鹿により、音は「米」。麋は冬至の頃、その角を落とす。〕 〈倭名類聚抄〉には、「四声字苑云麋【音眉漢語抄云於保之加】似鹿而大毛不斑以冬至解角者也」 〔四声字苑に云ふ「麋」【音「ビ」。『漢語抄』に「おほしか」と云ふ】鹿に似て大、毛は斑(まだら)なく、冬至を以て角を解くものなり〕 とある。〈倭名類聚抄〉が引用した『揚氏漢語抄』は、養老年間〔717~724〕には存在していたと見られている。 《麋鹿》 「麋鹿」(びろう)は「麋と鹿」のことであるが、「下品で卑しい」たとえとしても使われる。 〈汉典〉で『麋鹿』は、①麋与鹿二獣的合称。②動物名。偶蹄目鹿科。角甚長似鹿、尾似馬、蹄似牛、頸似駱駝。 〔パーツは似るがその何れの動物とも異なるので、"四不像"という。〕 このように、「麋鹿」には「麋と鹿の総称」と、「麋」単独の、二通りの意味がある。 従って、「麋鹿」も、単体の「麋」または「麋と鹿」ということになる。 《訓》 「オホジカ」という訓は、平安期の書紀の訓読研究で初めて決まったものかと思ったが、 『揚氏漢語抄』が既に720年以前に存在したようなので、「おほじか」という訓は書紀の完成期以前からあったと考えてよい。 まとめ 弟橘比売の遺した歌を読むと、相模国の小沼(おぬ)の辺りに向かい火伝説の原型があり、記はこの伝説を採用したようである。 前述したようにこの伝説はその周辺地域まで広がっていたが、書紀成立後はその舞台を焼津に特化されていったのであろう。 駿河国に伝わるバージョンでは麋鹿が住む野原の話になっていたので、書紀はこちらに差し替えたと想像される。 倭建命の東征では、経路に沿って各地の伝説を採用し、物語を綴っていく。 その最初の関門は、相模国、あるいは駿河国であった。 これは、東征に陸路をとるとき、駿河・相模の地にはまだ難敵がいたことを示唆する。海路をとって安房の植民地化が先行したという考えは、以前に述べた通りである。 次の走水もまた、東海道から上総国への渡り口として、交通の要所であったと思われる。 このようによく知られた地名が、しばしば物語の舞台になる。 |
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⇒ [130] 中つ巻(倭建命6) |