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⇒ [121] 中つ巻(垂仁天皇6) |
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2016.05.08(sun) [122] 中つ巻(景行天皇1) ▼▲ |
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大帶日子淤斯呂和氣天皇坐纒向之日代宮 治天下也
此天皇娶吉備臣等之祖若建吉備津日子之女名針間之伊那毘能大郎女 生御子櫛角別王 次大碓命 次小碓命亦名倭男具那命【具那二字以音】 次倭根子命 次神櫛王【五柱】 大帯日子淤斯呂和気天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)、纒向之日代宮(まきむくのひしろのみや)に坐(ま)し、天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此の天皇、吉備臣(きびのおみ)等(ら)之祖(おや)若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)之(の)女(むすめ)、名は針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおほいらつめ)を娶(めあは)せ、 生(あ)れましし御子、櫛角別王(くしつのわけのみこ)、 次に大碓命(おほうすのみこと)、 次に小碓命(をうすのみこと)、亦の名は倭男具那命(やまとをぐなのみこと)【「具那」の二字(にじ)音(こゑ)を以(もち)ゐる。】、 次に倭根子命(やまとねこのみこと)、 次に神櫛王(かむくしのみこ)を生みたまふ【五柱(いつはしら)なり】。 又娶八尺入日子命之女八坂之入日賣命 生御子若帶日子命 次五百木之入日子命 次押別命 次五百木之入日賣命 又妾之子 豐戸別王 次沼代郎女 又妾之子 沼名木郎女 次香余理比賣命 次若木之入日子王 次吉備之兄日子王 次高木比賣命 次弟比賣命 又(また)八尺入日子命(やさかのいりひこのみこと)之女(むすめ)、八坂之入日売命(やさかのいりひめのみこと)を娶せ、 生れましし御子、若帯日子命(わかたらしひこのみこと)、 次に五百木之入日子命(いほきのいりひこのみこと)、 次に押別命(おしわけのみこと)、 次に五百木之入日売命(いほきのいりひめのみこと)、 又妾(をむなめ)之子(みこ)、豊戸別王(とよとわけのみこ)、 次に沼代郎女(ぬましろのいらつめ)、 又妾之子、沼名木郎女(ぬなきのいらつめ)、 次に香余理比売命(かぐよりひめのみこと)、 次に若木之入日子王(わかきのいりひこのみこ)、 次に吉備之兄日子王(きびのえひこのみこ)、 次に高木比売命(たかきひめのみこと)、 次に弟比売命(おとひめのみこと)なり。
又娶日向之美波迦斯毘賣
於是天皇 聞看定三野國造之祖大根王之女名兄比賣弟比賣二孃子其容姿麗美而
妾…をむなめ 郎姫…〈書紀〉【郎姫、此云異羅菟咩】〔いらつめ〕 いらつめ…[名] 女性を敬愛する呼び名。 さかべ(酒部)…[名] 〈デジタル大辞泉〉酒の醸造を担当した部民。 曽孫…〈倭名類聚抄〉「曽孫【和名比々古】」。 いつはる(偽る、詐る)…[自・他]ラ四 いつわる。 令…(万)0388 暮去者 塩乎令満 明去者 塩乎令干 ゆふされば しほをみたしめ あけされば しほをひしめ。 (万)0199 日之目毛不令見 ひのめもみせず。 おのれ(己)…[代] 再帰代名詞。自身。おの-れ。 -れ…[接尾] 代名詞について体言性を強める。こ-れ。そ-れ。いづ-れ。わ-れ。…etc. 嬢…(古訓)をみな。はは。 恒…(古訓)つねに。ひさし。 経…(古訓)ふ。へて。つねにして。をさむ。 ながむ…[他]マ下二 (中古)しばらく物思いに沈んでいる。眺める。(上古)用例は連用形のみ。 惚…(古訓) いきとほる。 【若建吉備津日子】 第7代、孝霊天皇の皇子 (第107回)。 大吉備津日子と共に吉備国を制圧し、吉備下道臣の祖とされる。景行天皇段では「吉備臣の祖」とされる。 【大根王】 開化天皇の皇子、神大根王と同一人物と思われる。開化天皇段では三野〔美濃〕国の本巣国造と、長幡部連(ながはたべのむらじ)の祖とされている (第109回)。 【恒令経長眼】 「経」の辞書的な意味には、[動]治める、経る、頸をくくる。[副]すでに。がある。 ここでは、副詞「恒」と助動詞「令」があるから、動詞であるのは確実である。
天皇は、一目見て偽物だと見抜いたが、それでも性格さえよければと思いってしばらく手元に置いて観察し、結局気に入らず妃にすることはなかった。 「亦」に「やはり妃に迎えるのは無理だ」という気持ちが表れている。 一目で見破られるくらいだから、大碓命はその辺りにいた娘を適当に捕えてよこしたのであろう。 この大碓王のふざけた行動に、天皇は「この野郎!」と惚(いきどお)ったのであった。 【派生氏族】
〈倭名類聚抄〉では、おほたの郷は、{武蔵国・埼玉群・大田【於保太】}はじめ、 出羽、常陸、上野、下総、阿房、武蔵、信濃、遠江(2箇所)、美濃(2箇所)、 紀伊、播磨、備後、讃岐、筑後、日向にある。これらのうち「太田」が二か所、残りは「大田」である。 この他現代地名に、島根県大田(おおだ)や、愛知県の太田川などがある。 タ(田)は一音節の基礎語彙である。田に関連する一音節語には、ア(畦道)、ヒ(導水管)もあり、これらは稲作が始まった弥生時代まで遡ると思われる。 そのうち、良田もしくは首長所有の田を誉める「おほた」という呼び名は、多くの地でそれぞれ独立して始まったと考えるのが自然である。 【牟宜都君】 《甲類のゲと乙類のゲ》 〈倭名類聚抄〉では{美濃国武芸【牟介】郡}の二文字目は、介〔ケ甲〕である。 〈大辞典〉によると、ムゲツには様々な字があてられている。 それらに甲乙をつけて示すと、 牟宜乙都、身毛乙津、牟義乙都、武芸甲津、牟下甲都となり、一定しない。 〈倭名類聚抄〉の訓注【牟介】は平安時代だから、すでに甲乙の区別が失われていたように思える。 しかし〈大辞典〉に牟下の実例として、大宝二年の牟布里戸籍に「牟下津部安倍」の名がある。 大宝二年〔702〕にはまだ甲乙の区別があるから、宜(げ乙)と下(げ甲)の違いを免れることはできず、依然として問題が残る。 《牟義国造》 〈大辞典〉には、牟義国造は「国造本紀には見えざれど、上宮記に『牟義国造、名は伊自良君の女子久留比売命、云々』と載せたれば、当時一国たりしや明白ならん。」とする。 『上宮記』は記紀以前の歴史書で、推古朝まで遡る可能性もあると言われる。 その逸文が残ると言うので確認してみると、『釈日本紀』巻十三・述義九の、 「第十七 男大迹天皇」に「上宮記曰、一云、…娶二牟義国造名伊自良君女子名久留比売命一生児汙斯王」があった。 【酒部】 《酒の文化》 崇神天皇段に書かれた大神神社は、酒との関わりが深かった (第112回【大神神社】《酒の祭礼》) 万葉集にも酒にまつわる歌は多い。 遡って魏志倭人伝にも「会同坐起父子男女無別人性嗜酒 」「喪主哭泣他人就歌舞飲酒」とある。 このように、古くから貴賤の別なく飲酒を伴う宴が盛んであった。 したがって、酒作りも弥生時代以来、どこでも盛んに行われていたことであろう。 《酒部》 酒部は、もともと酒造の技を代々伝承する職業部で、大宝律令後は造酒司の指揮下に入った。 その訓は「さかべ」かと思われるが、念のために調べてみたい。 まず酒を意味する上代語には、さけ・き・みきがある。 〈倭名類聚抄〉には「造酒司【佐希乃司】」。司は「つかさ」(主水司【毛比止里乃豆加佐】など)。 音仮名"希"は記紀・万葉集にはない。しかし〈時代別上代〉によれば、推古期遺文・正倉院文書に希〔け乙〕がある。 従って、造酒司は「さけのつかさ」である。 「さけ」の連語化の音韻変化「さか」は、〈倭名類聚抄〉に{酒蟻【佐加技散々】}{酒膏【佐賀阿布良】}、 〈時代別上代〉には、さかびと(掌酒)、さかどの(酒殿)、さかぶね(酒船)、さかな(肴)、さかほかひ(酒楽)、さかや(酒屋)など、ありふれている。 したがって酒部の訓は「さかへ」であろう。 《地名として》 酒部は地名に、無数に残っていそうに思える。ところが〈倭名類聚抄〉に「さかへ」「さかべ」は皆無で、「おほた」とは極端な対照をなす。 『苗字由来net』を見ると、酒部姓は全国で470人ほどでかなり少数である。同サイトの解説には「宮内省の造酒司より起こる。徳島藩にみられる。」とある。 改めて考えてみると、農村ならどこでも酒を造ったから、専門の職能集団は不要である。しかし、特別に優良な酒を造る讃岐国の一族のみは朝廷に取り立てられ、それが酒部となったのではないかと思われる。 だから、酒部氏はもともと限られた地域の氏族だったのである。 《讃岐の酒部氏》 〈大辞典〉は讃岐国の「鵜足郡造田村天川神社の旧記に 『神櫛別命の遠裔にて益甲黒麻呂と云ふ者あり。那珂郡神野郷に住す、云々。此の女・能く酒を醸れり。その味甘美にして、斟ども尽くる事なく、且つ病を治す。 孝謙帝に奏して酌を献るに、帝・大いに賞したまひ、勅ありて酒部の姓を賜はり。酒部黒麻呂と名のりて、神野里郷の戸長と称す』」と述べる。 そして{讃岐【佐奴岐】国・鵜足【宇多利】郡・長尾【奈加乎】郷}に造田村〔現仲多度郡まんのう町〕。天川神社は式外社として現存する(香川県仲多度郡まんのう町造田3431)。 このうち、那珂郡は〈倭名類聚抄〉に{讃岐国・那珂郡}。神野郷は〈神名帳〉に{那珂郡二座/神野神社}がある。 以上から、讃岐の酒部氏には確実な実在性がある。 《酒部公》 『新撰姓氏録』に酒部公の由来が載る。 〖右京/皇別/酒部公/公/同皇子三世孫足彦大兄王之後也。大鷦鷯天皇之御代、従韓国参来人、兄曽々保利、弟曽々保利二人。 天皇勅有何才。皆有造酒之才。令造御酒。於是賜麻呂号酒看都子。賜山鹿比咩号酒看都女。因以酒看都為氏〗 〔同皇子(=大足彦忍代別天皇皇子五十香彦命【亦名神櫛別命】)三世孫足彦大兄王の後。 大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の御代、韓国(新羅、百済)より人参来、兄曽々保利、弟曽々保利二人。 天皇「いかなる才(技能)有るか」と勅し、皆(二人とも)造酒の才有り、御酒(みき)を作らしむ。 ここに麻呂に号・酒看都子(さかみつこ)を賜り、山鹿比咩に号・酒看都女(さかみつめ)を賜わる。ゆゑを以て酒看都を氏と為す。〕 姓氏録では神櫛命に「別」がつくところと、亦の名が示されるところが記紀と相違する。 麻呂・山鹿比咩(やまがひめ)は、それぞれ兄曽々保利、弟曽々保利の日本名か。〔古くは妹も「弟」と表した〕 この記事は、仁徳天皇の御世に、酒造りの才能をもつ兄妹が来日して酒部が起り、 神櫛別王の三代孫、足彦大兄王(たらしひこおほえのみこ)は酒部の主となり、姓「公」を賜ったと読める。 この酒部公が、讃岐国の酒部氏であることは間違いないだろう。 ただ、酒造技術が朝鮮半島由来というのは考えにくい。 <wikipedia>日本酒は米麹(バラ麹)であり、日本にマッコリのような麦麹を用いた酒が存在した記録がない以上、朝鮮半島起源説は成り立たない</wikipedia>という。 製鉄・織物・漢字などさまざまな技術を持って帰化した集団がいたのは確かなので、「酒造の才をもって帰化した」話は、そこから連想して作り出された神話であろう。 【所録廿一王不入記五十九王】 《八十王》 景行天皇は大量八十王を生み、それぞれが各地の国造等の祖となる。 これは、次の成務天皇の「定賜大国小国之国造亦定賜国国之堺及大県小県之県主也」 と併せて、分国統治のしくみを確立したことを意味する。 《銀王》 景行天皇と訶具漏比売との間に、大枝王(大江王)が生まれた。 訶具漏比売はまた、景行天皇の玄孫でもある(景行天皇―倭建命―若建王―須売伊呂大中日子王―訶具漏比売命)。 銀王(しろがねのみこ)は大枝王の異母妹で、大枝王の父は景行天皇だから、銀王の父は景行天皇ということになる。 銀王は女王だが、名前は女性らしくない。また、「所録」21王には含まれない。 《書紀》 書紀の所録は22名(一云、プラス1名)だが、その中には記と共通する名前と共に、独自の名前がある。 《先代旧辞本紀》 『先代旧事本紀』〔平安時代初期、9世紀前半〕には全部で81王とされ、大碓命など6名を「皇子」と呼び、他の75子と区別している。 そのうち男子王50子の名前を全部挙げるが、女子王の名前は載せていない。 『先代旧辞本紀』は基本的には記紀をまとめたものだが、 物部氏の独自の伝承を含み、一部推古朝の時代の書法が見られるという (資料1〔06〕)。 【太子】 〈汉典〉太子…已確定継承帝位或王位的帝王的児子〔すでに帝位或いは王位継承が確定した帝王の児子〕。 書紀の「太子」はまさにこれで、疑う余地はない。 ところが、景行天皇段では、太子が三人いて、皇子以上・皇太子未満を意味している。 それでは、それを表し得る訓みは何か。 それを探るために、書紀で三皇子の扱いを見ると、こうなっている。 「然除日本武尊・稚足彦天皇・五百城入彦皇子外七十余子、皆封国郡、各如其国。」 〔然るに、日本武尊・稚足彦天皇・五百城入彦皇子を除き、ほかの七十余子は皆国・郡に封じ、おのおのその国に行かしむ。〕 つまり書紀では「国郡に封じられなかった三人の皇子」という表現を用いることによって、この問題を回避している。 それでは、そもそも飛鳥時代の終わりごろの倭国では、「太子」の意味はどのように捉えられていたのだろうか。 《漢籍の太子》 〈汉典〉、『大漢和辞典』から、それぞれの太子の解説を読む(右表)。
『大漢和辞典』〔初版1960〕は世界最大の漢和辞典で、諸橋轍次が生涯を捧げて心血を注いで作り上げた。 本稿はしばしば〈汉典〉を引用しているが、 『大漢和辞典』<wikipedia>修訂版刊行〔1984-1986〕の際には、漢字の本家たる中国の政府からも500セットの一括発注を受けたという</wikipedia> ので、〈汉典〉〔創立2004年〕の資料には『大漢和辞典』も含まれると想像される。 それはともかくとして、周代以来「太子」、そして漢代には「皇太子」という語が倭に流入し、その意味が「次代の天皇の位が約束された嫡子」と理解されていたのは間違いないだろう。 ただし、中国では周代以来、長子継承だが、初期の天皇は弟が相続する。 《日本書紀の太子》 書紀の平安時代の伝統訓は、「ひつぎのみこ」である。〈丙本〉には「太子【日豆支乃美己】〔ひつきのみこ〕」とある。 「ひつぎ」を万葉集に見ると、皇位を「あまのひつぎ」と表現する。すなわち天孫の血統の継承を意味する。 (万)4094 須賣呂伎能 神乃美許等能 御代可佐祢 天乃日嗣等 之良志久流 すめろきの かみのみことの みよかさね あまのひつぎと しらしくる。 (万)4089 安麻乃日継登 あまのひつぎと。 だから、皇太子あるいは太子を「ひつぎのみこ」と訓むのは飛鳥時代でも妥当である。 しかし当時既に、漢字の「太子」は「タイシ」と音読みするのが標準だったかも知れない。 当時の文書は、もともと少数のエリートだけが読解できたものだから、むしろタイシの可能性の方が高い。 だから、書紀で「タイシ」と訓むことに妥当性がある。 ところが古事記の場合は、もともと民衆に語り聞かせるための台本なので タイシと言っても伝わらないから、万葉集と同じく「あまのひつぎのみこ」などと訓まれたのであろう。 《古事記における太子》 宣長は、 「抑〔そもそ〕も上ツ御代々々に、日嗣皇子と申せるは、 皇子たちの中に取分て尊崇めて、殊なるさまに、定め賜へるものにて、其は必ずしも、 一柱とは限らず、或は二柱三柱も、坐シことなり」。 そして、その範囲は皇后の長男と「殊なる由ある皇子」で、皇位はそのうちの一人が継ぐと述べる。 しかし同じ古事記でも、仲哀天皇段以降は、一人に限定され、明らかに漢籍の「太子」(=皇太子)の意味である。 だから景行天皇段では、その本来の意味は十分承知の上で、ここだけ三人を「太子」にしている。 きっと、本来天皇になるのは、倭建命が天皇になるはずであったという強い気持ちがあったのだろう。 とすると、3人目の五百木之入日子命は一体何だろう。 「太子」が全く本来の太子の意味で使われたのなら、倭建命が亡くなった後に改めて五百木之入日子命皇太子となり、さらに五百木之入日子命も夭折したしまい、次に若帯日子命が太子になったということになる。もっとも、その物語は書かれてないが。 しかし、記の「此三王負太子之名」は、やはり三皇子とも生きている間に、揃って太子にしたと読むのが自然である。 太子が二人だと対立関係があったのではと余計な勘ぐりをされてしまうが、三名にすればその意味を皇太子候補者のプールに下げることができる。 だから崇神段に限って「太子」の意味を広げ、倭建命の立場を相対化したと取るのが穏当である。 しかし、書紀は「太子」の意味の変更を取り消した。 書紀の中国人スタッフは、「太子」の重い意味を、簡単に変えてはいけないものだと言って止めさせたのだろう。 とはいえ、倭建命の立場は天皇にぎりぎりまで近づいていた。だから次の天皇は倭建命の御子が継いで、継承のラインを戻し、 また書紀には日本武命ではなく、日本武尊と書かれるのである。 おそらく、記が完成間近になるまで、倭建命は天皇だったのだろう。 だが、最終的には倭建命は天皇にならず、英雄のまま死ぬこととなった。 確かにその方が悲劇性が際立つのだが、この問題については倭建命を読んでからさらに検討したい。 《太子の訓》 このように、倭建命 ≒ (本来の)太子だから、訓みは「ひつぎのみこ」でよい。 太子が意味が広げたのなら、「ひつぎのみこ」の意味を、連動して広げればよい。 【国造・和気・稲置・県主】 《国造》 国造(くにのみやつこ)時代の「国」は律令国以前のもので、郡程度の地域と言われる。 古い時代の「国」は、逆に分割前の広域を指すこともある。例えば、火国(肥前・肥後)がある。 しかし、火国造というときは、火国には阿蘇国造もいるので火国全体の統治者ではない。 国造は郡程度の地域の首長を意味し、事実上豪族がその地を治め、形式的に中央によって任命される形をとったと思われる。 律令国成立後は、そのまま新制度の郡司になったり、名目として家柄となって残る。 特に紀伊国造は、日前神宮・國懸神宮の宮司の家柄となり、現代まで継承されている(第108回【木国造之祖】)。 《別》 朝廷は各地に御名代を置いて皇子を宛て、その子孫が首長の家系となった(第116回【派生氏族】)。 そこに「領地を分け与える」意味が感じられる。 ただ、実際には国の割譲を意味することもあり、〈新撰姓氏録〉「佐伯直」に、国を分割して与え「別」の姓を賜った例がある(別項)。 《稲置》 語源は穀倉の管理官だろうと考えられているが、やはり地方首長を意味する。 《県主》 田畑を開墾したとき、峰などの自然地形によって生まれた区画が県(あがた)だったと言われる。 実質的に郡(こほり)との区別はない。 県主(あがたぬし)は、国造より古いと考えられている(第102回【県主】) 欠史八代で天皇の后が県主の女とされるところに、その古さが伺われる。 《職責と姓》 国造・和気・稲置・県主の語源はそれぞれ異なるが、いずれも郡程度の行政単位の長を意味し、事実上違いはない。 何れもはじめは官職名であったものが、豪族の私的な格を示す姓(かばね)に変質していく。 形式としては国の機構における地方組織の管理者だが、任命された氏族は、独立権力に育つのである。 職責から姓への変質は、その反映であろう。 魏志倭人伝を見ると、魏は激しく抵抗する半島南部を制圧した後、帯方郡の太守を短期間で交代させるようにした。 これも、地方行政官を放置すれば、必ず独立権力に成長するからである。 【書紀における皇子の裔】
〈姓氏録〉〖右京/皇別/佐伯直/直/景行天皇皇子稲背入彦命之後也 /男・御諸別命。稚足彦天皇【謚成務。】御代。中分針間国給之。仍号針間別。 男・阿良都命【一名伊許自別。】 誉田天皇為定国堺。車駕巡幸。到針間国神崎郡瓦村東崗上。 于時青菜葉自崗辺川流下。天皇詔応川上有人也。仍差伊許自別命往問。 即答曰。己等是日本武尊平東夷時。所俘蝦夷之後也。 散遣於針間。阿藝。阿波。讃岐。伊豫等国。仍居此氏也。【後改為佐伯】 伊許自別命以状復奏。天皇詔曰。宜汝為君治之。 即賜氏針間別佐伯直。【佐伯者所謂氏姓也。直者謂君也。】 尓後至庚午年。脱落針間別三字。偏為佐伯直 〗 〔(その男子)御諸別命。成務天皇の御代、針間国を中分して(真ん中で分けて)賜わった。(その男子)阿良都命(をあらみこと)、 一名伊許自別(いこじのわけ)を、針間別と号す。 誉田天皇(応神天皇)が国境を定めるために巡幸し、播磨国神崎郡瓦村の東の丘の上に至ったとき、 青菜の葉が丘沿いの川を流れ下った。天皇は川上に人がいるに違いないと仰り、伊許自別命を差し向け、聞きに行かせた。 その答は「我らは日本武尊が東夷を平定したとき、俘虜となった蝦夷の子孫である。 針間、安芸、阿波、讃岐、伊予などに散って残り、ここに住むようになった氏である【後に、改めて佐伯になる。】」 伊許自別命がそのように報告すると、お前が治めよと仰り、「針間別佐伯直」という氏を賜った。 【佐伯は氏姓。直(あたひ)は「君」の意味】。その後庚午年に、針間別3字が脱落し、佐伯直のみとなる。〕 なお、応神天皇の在位中の庚午年は、歴史としては西暦370年に相当すると考えられ(第43回【神功皇后の時代】)、 書紀による在位期間(270~312)の間では310年となる。 ただ、ここでは「庚午年籍」〔天智天皇九年に作成した戸籍〕の670年のことであろう。 東国から移民した一族が、瀬戸内海沿岸一体に分布したことを伺わせる記述は興味深い。 防人が故郷に戻らず、この辺りに住み着いたということがあったのかも知れない。 《武国凝別皇子》 〈大辞典〉伊予の豪族。〔中略〕中古に於ても、郡領として栄えしを知るべし。 此の御村別は、従来当国に和気郡あれば、其の地に拠りし古豪と考へられしが、最近、 大倉粂馬氏は此の氏の神野郡(後の新居郡)地方の古豪族なるを発表され、式内伊曽乃神社の祭神は、 武国凝別皇子也と断定せられたり。〈/大辞典〉 『和気系図』には「貞観八年〔866〕改為和気公」とある。〈大辞典〉の注記に 「この系図は承和初年〔834〕の作とあるにも拘らず、貞観以後の記事のあるのは、後の追記で、 墨色を異としている」とある。 〈大辞典〉新居郡内に和気系図に示せる所の人名と一致せる所の地名の多きを見て、 始祖武国凝別命の封ぜられ給へる伊予御村別の所在地が、今の新居郡地方を含めること推知すべきなり。</大辞典> <wikipedia>円珍〔平安時代の天台宗の僧、814~891〕は、後継の讃岐和気公の系統</Wikipedia>とされる。
02目次 《纏向日代宮-1》
【一云(あるいはく)、稲日稚郎姫(いなびわかいらつめ)。「郎姫」此(これ)異羅菟咩(いらつめ)と云ふ。】皇后(おほきさき)と為(し)たまふ。 后(おほきさき)二(ふたはしらの)男(をのみこ)、第一(だいいち)に曰(いは)く大碓皇子(おほうすのみこ)、第二(だいに)に曰く小碓尊(をうすのみこと)を生みたまふ。 【一書云(あるふみにいはく)、皇后三男(みはしらのをのみこ)を生みたまふ。其の第三(だいさむ)に曰く稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)。】 其の大碓皇子、小碓尊、一日(ひとひ)に胞(はら)を同(おや)じくして[而]双生(ふたごにうまれ)、 天皇(すめらみこと)[之を]異(あやし)び、[則ち][於]碓(うす)に誥(たけ)び、故因(しかるがゆゑに)其の二(ふた)王(みこ)を号(なづ)け曰(いはく)大碓(おほうす)小碓(をうす)といふ[也]。 是(これ)小碓尊、亦の名は日本童男(やまとをぐな)【「童男」、此烏具奈(をぐな)と云ふ】、亦(また)曰(いはく)日本武尊(やまとたけるのみこと)にて、 幼(をさな)くして雄略(ゆうりやく、たけきはかりこと)之(の)気(け)有り、壮(たけき)に及び容貌(すがた)魁偉(くわいゐ、おほにつよく)、身長(みたけ)一丈(ひとつゑ)にて、力(ちから)能(よく)扛鼎(かうていす、かなへをあぐ)[焉]。
屋主忍男武雄心命(やぬしおしをたけをこころのみこと)【一云(あるいはく)武猪心(たけゐこころ)】を遣はして祭ら令(し)む。 爰(ここに)屋主忍男武雄心命、之(これ)に詣(まゐ)り[于]阿備柏原(あびのかしはら)に居(を)りて[而]神祇を祭祀(まつ)り、 [仍(すなは)ち]住むこと九年(ここのとせ)、[則ち]紀直(きのあたひ)の遠祖(とほつおや)菟道彦(うぢひこ)之(の)女(むすめ)影媛(かげひめ)を娶(めあは)せ、武内宿祢(たけのうちのすくね)を生む。 岩波文庫版は、「胞(え)は胎児を蔽う肉膜」〔羊膜〕として、生物学的な構造にこだわっているが、 上代は一般に「はらむ」に「胎」の字をあてているので、単純に「同じはら」と読めばよいだろう。 《車駕》 四年二月条に「聞乗輿車駕」があるから、ここの車駕は「行幸」と読まないと意味が通じない。従って、丙本の古訓「みゆき」は適切である。 「行幸」を漢籍の表現を借りて表しただけだから、景行天皇の時代に実際に馬が引く車駕があったかどうかは全く問題にならない。 「みゆき」は万葉集にある。 ――(万)0543 天皇之 行幸乃随意 おほきみの みゆきのまにま。 一方、万葉集には「いでまし」も多く使われる。 ――(万)0230 天皇之 神之御子之 御駕之 すめろきの かみのみこの いでましの。 《阿備の柏原》 阿備の柏原は、武内宿祢の一族の居住地だったという。 この地の八幡神社(和歌山市相坂671)は、『和歌山県神社本庁』が引用した社伝由来記に、 「応和元年〔961〕如月〔二月〕初卯未明、神託ありて宇佐より天降る」とあるが、さらに古い時代から存在したと言われる。 当社の南東770mに、「宿祢誕生之井」と武内神社がある(和歌山市松原87)。
湖沼の鉄バクテリア産物による製鉄について、実証実験を行った論文がある(『古代製鉄原料としての渇鉄鉱の可能性』山内裕子)。 それによると「湖沼鉄の一種のリモナイトの製鉄実験を繰り返して軟鉄の析出に成功し、鉄鏃、刀子の製作も実証された。」 という。 《古代の製鉄》 定説では、国内の製鉄が始まったのは6世紀前半で、生産地は中国地方であった (第53回【鉄、銅の産地】、 第53回【草那芸剣】)。 しかし、大和国忍海郡(葛城市)や、近江国高島郡(高島市)でも製鉄の可能性が論じられている (葛城市第109回19忍海部造、 第77回【天尾羽張の神】、 近江国高島郡第105回都怒山臣《角山君》)。 湖沼鉄による製鉄が古墳時代に畿内にもあり、一定の生産量があったとすれば、記紀神話の背景を為す事実として注目される。 《武内宿祢》 書紀では孝元天皇の曽孫にあたる。武内宿祢は何代かの天皇にわたって仕え、超長寿である (第108回【建内宿祢】)。 当然抽象的な人格であるが、古墳時代に「宿禰」を姓とする有力な氏族が実在した可能性は高いと思われる。 《纏向日代宮-2》
左右(もとこ)言(こと)奏(まをさく)[之]「茲国(このくに)に佳(よ)き人有り、弟媛(おとひめ)と曰ひ、容姿(すがた)端正(うるは)しく、八坂入彦皇子(やさかいりひこのみこ)之(の)女(むすめ)也(なり)。」とまをす。 天皇(すめらみこと)、妃(きさき)と得(え)為(な)さむと欲(おも)ひ、弟媛之(の)家(いへ)に幸(いでま)す。 弟媛、輿(みこし)に乗りし車駕(いでま)ししを聞き、[則(すなは)ち]竹の林に隠る。 於是(ここに)天皇、弟媛を至ら令(し)めむと権(はかりごと)をして[而][于]泳宮(くくりのみや)に[之]居(ま)して【「泳宮」、此(これ)区玖利能彌揶(くくりのみや)と云ふ】、 鯉魚(こひ)を池に浮かべ、朝夕(あさよひ)に臨(のぞ)み視(め)して[而]戯(たはぶれ)遊(あそば)す。 時に弟媛、[欲]其の鯉魚(こひ)を見て遊ばむとして[而]密(ひそか)に来(き)て池に臨み、天皇[則(すなは)ち]留(とどま)りたまひて[而][之]通(とほ)る。 爰(ここに)弟媛以為(おもへらく)、 夫婦(をひとめ)之(の)道(みち)古今(いにしへいまに、こきむ)達(とほ)る則(のり)也(なり)、然(しかれども)吾(あれ)に於(お)きて[而]不便(たやすからず)とおもへり、 則(すなはち)天皇に請(ねがひ)曰(まをさく) 「妾(われ)、性(ひととなり)交接(まぐはひ)之(の)道を不欲(ほりせず)、 今皇命(すめらみこと)之威(いきほひ)に不勝(かてず)、暫(しまらく)帷幕(とばり、いばく)之中に納(をさ)まり、 然(しかれども)意(おもひ)所不快(こころよからず)にて、亦(また)形姿(かたち)穢陋(きたなし)、久之(ひさしく)[於]掖庭(えきてい、きさきのみや)に陪(つかふる)ことに不堪(たへまつらじ)。 唯(ただ)妾(わが)姉(あね)有り、名は八坂入媛(やさかいりひめ)と曰(まを)し、容姿麗美(かほよく)、志(こころざし)亦貞潔(きよし)。宜(よろしく)後宮(きさきのみや)に納(をさ)めたまへ。」とまをす。 《聞乗輿車駕則隠竹林》 「輿に乗って」という描写があるから、誰かの知らせを聞いたのではなく、 直接天皇の一行が近づいてきた物音を聞いたのであろう。 天皇は一計を案じて、池に鯉を放し、弟姫が興味をもって見に来るのを隠れて待ち、姫が来たところで会おうとしたのである。 《性不欲交接之道》 夫婦の道・性・欲・交接と生々しい語句が並ぶ。このうち「性」は「ひととなり」と訓み、一応は性格・性質を意味する。 表現は露骨であるが、〈釈日本紀巻十七〉では、特に【御読不レ可レ読之】とはせず、天皇の前でも読まれ得ることになっている。 この部分を文学として読めば、天皇は好みのタイプではないので、性行為が体質に合わないと言って婉曲に断り、代わりに姉を差し出したと読める。 天皇の計略が功を奏して顔を合わさざるを得なくなったが、あきらめずに巧みに言い逃れたのである。 《纏向日代宮-3》
七(ななはしら)の男(をのみこ)、六(むはしら)の女(ひめみこ)、第一(だいいち)に曰(いはく)稚足彦天皇(わかたらしひこすめらみこと)、第二(に)に曰く五百城入彦皇子(いほきいりひこのみこ)、第三(さむ)に曰く忍之別皇子(おしのわけのみこ)、 第四(し)に曰く稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)、第五(ご)に曰く大酢別皇子(おほすわけのみこ)、第六(りく)に曰く渟熨斗皇女(ぬのしのひめみこ)、 第七(しち)に曰く渟名城皇女(ぬなきのひめみこ)、第八(はち)に曰く五百城入姫皇女(いほきいりひめのひめみこ)、第九(きう)に曰く麛依姫皇女(かごよりひめのひめみこ)、 第十(じふ)に曰く五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)、第十一(じふいち)に曰く吉備兄彦皇子(きびのえひこのみこ)、第十二(じふに)に曰く高城入姫皇女(たかきいりひめのひめみこ)、 第十三(じふさむ)に曰く弟姫皇女(おとひめのひめみこ)を生みたまふ。 又三尾氏磐城別(みをのうじのいはきわけ)之妹(いも)水歯郎媛(みづはのいらつめ)を妃(きさき)とし、五百野皇女を生みたまひ、 次に五十河媛(いかはひめ)を妃とし、神櫛皇子(かむくしのみこ)、つぎに稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)を生みたまひ、 其の兄(あに)神櫛皇子、是(これ)讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)之始祖(はじめのおや)[也]にて、弟(おとと)稲背入彦皇子、是播磨別(はりまわけ)之始祖(はじめのおや)也(なり)。 次に阿倍氏木事(あべのうじのこごと)之女(むすめ)高田媛(たかたひめ)を妃とし、武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ)を生みたまひ、是伊予国(いよのくに)の御村別(みむらわけ)之始祖(はじめのおや)也(なり)。 次に日向髪長大田根(ひむかのかみながおほたね)を妃とし、日向襲津彦皇子(ひむかのそつひこのみこ)を生みたまひ、是阿牟君(あむのきみ)之始祖(はじめのおや)也。 次に襲武媛(そのたけひめ)を妃とし、国乳別皇子(くにちわけのみこ)与(と)国背別皇子(くにせわけのみこ)と、一云(あるいはく)宮道別皇子(みやちわけのみこ)と豊戸別皇子(とよとわけのみこ)とを生みたまひ、 其の兄国乳別皇子、是水沼別(みぬまわけ)之始祖にて[也]、弟豊戸別皇子、是火国別(ひのくにのわけ)之始祖也(なり)。
然(しかれども)日本武尊(やまとたけるのみこと)稚足彦天皇(わかたらしひこすめらみこと)五百城入彦皇子(いほきいりひこのみこ)を除(のぞ)き、外(ほか)の七十余子(ななそみこあまり)、皆(みな)国(くに)郡(こほり)を封(わけ、ほうじ)、各(おのもおのも)其の国に如(ゆ)きまつる。 故(かれ)、当(まさに)今時(いまのよ)に謂ふ諸(もろもろの)国之別(わけ)者(は)、[即ち]其の別けられし王(みこ)之(の)苗裔(べうえい、みあなすゑ)なりけり[焉]。 是の月、天皇、美濃国造(みののくににみやつこ)、名は神骨(かむほね)之女(むすめ)、兄(あに)の名は兄遠子(えとほこ)、弟(おと)の名は弟遠子(おととほこ)、並びて有国色(かほよしなる)と聞き、 則(すなは)ち大碓命を遣はし、其の婦女(をとめ)ら之(の)容姿(かたち)を察(つまひらか)にせ使(し)む。 時に大碓命、便(すなは)ち密(ひそか)に通(とほ)りて[而]不復命(かへりごとまをしたまはず)。 由是(しかるがゆゑに)、大碓命を恨(み)たまふ。 冬十一月(しもつき)庚辰(かのえたつ)の朔(つきたち)、輿に乗り美濃自(よ)り還(かへ)りたまふ。則(すなはち)[於]纏向(まきむく)に都を更(かさ)ね、是(これ)日代宮(ひしろのみや)と謂ふ。 《封》 「封(ほう)」とは、もともとは周代に天子が諸侯に領地を与え、その統治を認めた関係に由来する。 古事記には「封」は使われず、 書紀のみが「封」を借りて、朝廷と氏族の関係を比喩的に表わしたものである。 古墳時代は各氏族は一定の独立性を持って領地を支配し、姓を授与されたところに「封」との類似がある。 だが、大化の改新〔646〕の詔では氏族による私的支配の集合体から脱して、中央集権体制への志向を明確にした。だから、既に「封」は否定されるべき形態である。 とは言え、奈良時代になっても有力氏族が残存していたのは事実なので、それぞれの始祖は天皇に封じられたものとして押さえておく必要が あった。 「封」は書紀の中だけの用語であるから、対応する和語を見つけるのはなかなか難かしいが、 記では一定の支配地域を与えられた氏族を「わけ」と表現しているから、「封」は「わく」と訓むのが意味に合っている。 《あなすゑ》 岩波文庫版の継体天皇紀などによる注記と、時代別上代の『播磨国風土記』に基づく解説から、それぞれの出典を探した。 まず『釈日本紀』〔13世紀末〕巻十七・第十五には、継体天皇紀・元年正月条の「枝孫」に「ミアナスエ」という訓を示している。 この訓は鎌倉時代である。 遡って、『播磨国風土記』(霊亀元年〔715〕ごろ)には、〈美嚢郡〉に次の歌がある。 「青々垣々山投坐市邊之天皇御足末奴津良麻」 〔青垣(あをがき)青垣(あをがき)山の大和に坐(ま)しし市辺(いちのへ)の 天皇(すめらみこと)の御足末(みあなすゑ)奴津[奴僕](やつこ)らま〕 らまは、「ようなもの」を意味を加える接尾語である。 つまり「天皇の末裔の、我らのごとき者」と言って謙遜している。 そもそも「足先」からして、末裔を足のつま先のようなものだと卑下している。 「足末」は、もともとは比喩だったのかも知れないが、鎌倉時代まで残ったくらいだから、早くから普通名詞として定着したと思われる。 《便》 〈汉典〉に「便密」の項目はないので、熟語ではない。2字は別々で、便:「安易に」の意味を込めた接続詞と、密:「密かに」を表す副詞である。 漢字なら父の指示を「たやすく」裏切った意味が伝わる。その意を盛り込もうとして「たやすくひそかにとほりて」と訓むと、現代語ならOKなのだが、上代語ではこのように二つの連用修飾語を重ねることはしない。 「たやすくあざむきてひそかにとほり」なら可能だが、原文を「便欺之密通」まで変形することになるから、相当意訳することになる。 《大意》 二年三月三日、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ) 【あるいは、稲日稚郎姫(いなびわかいらつめ)と言います。】を、皇后にされました。 皇后は二人の男子、第一に大碓皇子(おおうすのみこ)、第二に小碓尊(おうすのみこと)を生みなされました。 【ある書には、皇后は三人の男子を生まれました。その第三は稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)です。】 大碓皇子と小碓尊は、同時に同じ胎(はら)から双子で生まれ、 天皇はこれを異とし、碓(うす)向かって叫んだので、その二王を大碓・小碓と言いなされます。 この小碓尊のまたの名は日本童男(やまとおぐな)、また日本武尊(やまとたけるのみこと)と言いなされ、 幼くして雄略の気があり、壮年となれば容貌魁偉(かいい)にして、身長は一丈、力は扛鼎(こうてい、鼎を上げるほど強い)でありました。 三年二月一日、紀伊国(きいのくに)に行幸し、神祇たちを祭祀したいと思われ、占ってみましたが不吉となったので行幸は中止し、 屋主忍男武雄心命(やぬしおしをたけをこころのみこと)【あるいは、武猪心(たけいこころ)とも】を遣わして祭らせました。 ここに屋主忍男武雄心命はそこへ行き、阿備(あび)の柏原(かしはら)に居を定め、神祇を祭祀し 住むこと九年、紀直(きのあたい)の遠祖、菟道彦(うじひこ)の娘、影媛(かげひめ)を娶り、武内宿祢(たけのうちのすくね)を生みました。 四年二月十一日、天皇は美濃に行幸しました。 側近たちが奏上するには、「この国に佳き人がおり、名を弟媛(おとひめ)と言い、容姿端正で、八坂入彦皇子(やさかいりひこのみこ)の娘です。」と。 天皇は、妃にすることができればと欲し、弟媛の家にいでましました。 弟媛は、輿(みこし)に乗っていでます音が聞こえ、竹林に隠れました。 そこで天皇は、弟媛を来させようとして一計を案じ、泳宮(くくりのみや)に滞在され、 鯉を池に泳がせ、朝に夕に見に来て、戯れられました。 時に弟媛、その鯉を見て遊ぼうと思い、密かにやって来きて池に近づいたところ、天皇が留まって待ち伏せなされ、計略は成功しました。 そこで弟媛が思うに、 夫婦の道は、昔も今も変わらず〔することは決まっており〕、けれども私には簡単に行うことはできないと思い、 天皇にお願い申し上げました。 「妾(わらわ)は、体質として夜の営みが苦手です。 今、帝の威に逆らうことはできませんから、しばらく、に納まることとなりましょう。 けれども、心の不快なままで、また容姿も見苦しく、長く帷幕〔いばく、寝室〕に納まることには耐えられないでしょう。 ただ、妾の姉がおりまして、名は八坂入媛(やさかいりひめ)と申し、容姿は麗美、心持もまた貞潔です。よろしければ後宮にお納めくださいませ。」と申し上げたのです。 天皇はこれを聴き入れられて八坂入媛を喚して妃にされ、 七男と六女、第一に稚足彦天皇(わかたらしひこすめらみこと)、第二に五百城入彦皇子(いほきいりひこのみこ)、第三に忍之別皇子(おしのわけのみこ)、 第四に稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)、第五に大酢別皇子(おおすわけのみこ)、第六に渟熨斗皇女(ぬのしのひめみこ)、 第七に渟名城皇女(ぬなきのひめみこ)、第八に五百城入姫皇女(いほきいりひめのひめみこ)、第九に麛依姫皇女(かごよりひめのひめみこ)、 第十に五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)、第十一に吉備兄彦皇子(きびのえひこのみこ)、第十二に高城入姫皇女(たかきいりひめのひめみこ)、 第十三に弟姫皇女(おとひめのひめみこ)を生みなされました。 また、三尾氏磐城別(みおのうじのいわきわけ)の妹水歯郎媛(みずはのいらつめ)を妃とし、五百野皇女を生みなされました。 次に五十河媛(いかわひめ)を妃とし、神櫛皇子(かむくしのみこ)、つぎに稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)を生みなされました。 その兄の神櫛皇子は、讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)の始祖、弟の稲背入彦皇子は、播磨別(はりまわけ)の始祖です。 次に阿倍氏木事(あべのうじのこごと)の娘、高田媛(たかたひめ)を妃として、武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ)を生みなされ、これは伊予国(いよのくに)の御村別(みむらわけ)の始祖です。 次に日向髪長大田根(ひむかのかみながおほたね)を妃とし、日向襲津彦皇子(ひむかのそつひこのみこ)を生みなされ、これは阿牟君(あむのきみ)の始祖です。 次に襲武媛(そのたけひめ)を妃とし、国乳別皇子(くにちわけのみこ)と国背別皇子(くにせわけのみこ)、他の説では宮道別皇子(みやちわけのみこ)と豊戸別皇子(とよとわけのみこ)を生みなされ、 その兄の国乳別皇子は水沼別(みぬまわけ)の始祖、弟の豊戸別皇子は火国別(ひのくにのわけ)の始祖です。 以上、天皇の男子と女子、前後合わせて八十子は、 日本武尊(やまとたけるのみこと)、稚足彦(わかたらしひこ)天皇、五百城入彦皇子(いほきいりひこのみこ)を除き、他の七十余子は皆国郡を封じ、それぞれの国に行きました。 このように、まさに今現在言われる諸国の別(わけ)は、その別けられた王(みこ)の苗裔(びょうえい)です。 この月、天皇は美濃国造(みののくににみやつこ)、名前を神骨(かむほね)という人の娘、姉の名は兄遠子(えとおこ)、妹の名は弟遠子(おととおこ)という、そろって美貌の姉妹がいると聞き、 大碓命を遣わし、その容姿を観察するよう命じました。 ところが大碓命は、けじめなく密かに通じ、復命しませんでした。 よって、大碓命を恨まれました。 十一月一日、輿に乗り美濃より帰還されました。そして纏向を前代のまま改めて都とし、これを日代宮(ひしろのみや)と言います。 【書紀(4)】 書紀では、景行天皇が親征したことに伴い、日向国でも御子を生む。 04目次 《豊国別皇子》
因以(しかるがゆゑをもちて)[於]高屋宮に居(まします)こと已(すでに)六年(むとせ)也(にて)、 於是(ここに)其の国に佳人(よきひと)有り、御刀媛(みはかしひめ)【御刀、此(これ)彌波迦志(みはかし)と云ふ】と曰ひ、[則ち]召して妃と為(し)、 豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生みたまふ。是(これ)日向国造(ひむかのくにのみやつこ)之始祖(はじめのおや)也(なり)。 《襲国》 襲国は、〈倭名類聚抄〉{大隅国・囎唹郡}〔小牧古墳群・役所塚・横瀬古墳;古墳マップ〕 従って、大和政権による熊襲制圧の、東岸からの侵攻口は志布志湾であったろうと想像される。 《高屋宮》 高屋神社が宮崎県に2社あり、共に式外社である。所在地は(ア)宮崎県西都市大字岩爪2600、(イ)宮崎県宮崎市村角町橘尊1975。 アは景行天皇を主祭神とするが、イの祭神は彦火火出見尊(山幸彦)が中心で、神代の日向三代のものである。 アの御由緒には、「日向國子湯縣たる高屋村日陽山に高屋乃宮を斎祭る」、そして高屋行宮は「現黒貫寺境内」と書かれている。 子湯県については、〈倭名類聚抄〉に{日向【比宇加】国・児湯【古由】郡}がある。児湯郡は、現西都市の全域を含む。 黒貫寺(くろぬきでら、宮崎県西都市岩爪2050)は、真言宗智山派。高屋神社とは、国道325号を挟んで向かい合う。 黒木造りの御所が黒貫の語源と言われる。 《記との比較》 記には景行天皇の親征はなく、豊国別皇子だけがでてくる。 記は親征伝説を知っていたが書かず、ただ豊国別皇子を日向に封じた部分だけを書いたのだろうか。 あるいは、もともと景行親征伝説は存在せず、書紀が創作したもので、その一場面に記の豊国別皇子を取り込んだのだろうか。 興味深いところである。 《大意》 十三年五月、ことごとく襲国を平げられました。 こうして、高屋宮での滞在は、既に6年となりました。 ここにその国に美しい人がおり、名を御刀媛といい召して妃とし、 豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生みなされました。これが日向国造(ひゅうがのくにのみやつこ)の始祖です。 【書紀(10)】 大碓命は、記と異なり早期に殺されることはなく、生き長らえる。 10目次 《書紀(封大碓命)》
秋七月(ふみづき)癸未(みづのとひつじ)を朔(つきたち)として戊戌(つちのえいぬ)のひ〔十六日〕、天皇(すめらみこと)群卿(まへつきみたち)に詔(の)たまはく[曰] 「今東国(あづま)不安(やすからず)、暴神(あらぶるかみ)多(さは)に起(た)ち、亦(また)蝦夷(えみし)悉(ここごと)に叛(そむ)き、屢(しばしば)人民(たみ)を略(かす)む。誰人(たれ)を遣はし、以ちて其の乱(みだ)れを平(たひら)ぐや。」とのたまふ。 群臣(まへつきみたち)皆(みな)誰(たれ)を遣はすかを不知(しらず)[也]。 日本武尊(やまとたけるのみこと)奏言(まをさく)「臣(やつかれ)則(すなはち)先(さき)に西征(せいせい、にしにうつ)を労(いたは)りき。是の役(え)必ず大碓皇子(おほうすのみこ)之(の)事(こと)なり[矣]。」 時に大碓皇子[之に]愕然(おびえ)、草の中に逃げ隠る。 則(すなは)ち使者(つかひ)を遣はし召し来(こ)しめ、爰(ここに)天皇責め曰(のたまはく)「汝(いまし)不欲(のぞまざり)[矣]、豈(あに)強(し)ひて遣(つかはす)耶(や)。何(いかに)未(いまだ)賊(あた)に対(むか)はず、以ちて予め懼(おそること)甚(はなはだし)や[焉]。」 此(これ)に因(よ)り、遂(つひ)に美濃に封(わけ、ほうじ)、[仍(すなは)ち]封(わけ、ほうじ)られし地(くに)に如(ゆ)きたまひ、是(これ)身毛津君(むげつのきみ)守君(もりのきみ)、凡(おほよそ)二族(ふたうがら)之始祖(はじめのおや)也(なり)。 《大碓皇子》 記では、小碓命は征西にでかける前、既に大碓命を薦(こも)に包んで棄てた。 大碓命はその前、存命中に景行天皇に納める予定の姉妹を横取りし、その間に生まれた子が美濃で宇泥須和毛と牟宜都君の祖になった。 書紀では記と異なり、生きながらえて美濃に封じられ、自ら身毛津君・守君の祖となる。 日本武尊は征西から帰った早々に征東を命じられ、渋々出かけた。その物語の流れに絡めて、 大碓皇子は日本武尊に「今度はお前の番だろう」と言われた瞬間に、跳び上がってその場を逃げ出したという筋書きにしたのである。 その罰として僻地に追放されたのだが、所領が与えられたところは大甘である。 おそらく守公・牟義公自身の由来譚では大碓皇子が祖だったので、書紀はそれを考慮して大碓皇子自身が美濃に行ったことにしたのだろう。 書紀では、景行天皇に納める予定の姉妹を横取りした話の続きがなくなり、この話を入れる意味を失っている。 《大意》 四十年六月、東夷の多くが叛乱を起こし、辺境は騷動となりました。 七月十六日、天皇は側近に詔されました。 「今東国は不穏で、荒ぶる神が数多く起ち、また蝦夷はことごとく叛乱を起こし、しばしば人民から略奪する。誰を遣わしてその乱を平げたらよいか。」と。 側近の者は皆、誰を遣わしたらよいか分かりませんでした。 日本武尊は奏上しました。「臣(しん)は、先日西征に労力を使いました。この役は、絶対に大碓皇子が行うべき事であります。」と。 すると、大碓皇子は愕然とし、草叢の中に逃げ隠れました。 天皇は直ちに使者を遣わし、召し来させ、ここに天皇は責め、申し渡しました。 「お前が望まぬことなら、どうして強いて遣わすことがあろう。しかし、未だ敵に向かう前からこれほど甚だしく怖がるとは、何たることか。」 これにより遂に美濃に封じ、封地に行かされました。これが身毛津君(むげつのきみ)、守君(もりのきみ)、二族の始祖であります。 まとめ 崇神朝以後、神祇の崇敬、租税、灌漑工事などが開始された。 景行朝から成務朝にかけては、それぞれの国郡に国造を定め、境界を確定させる。 景行段の「77」という数は概念的なものだが、「皇子に別けられた」国は、大雑把に国造本紀ぐらいの広さであったことがわかる。 国造本紀に、国造の多くは「志賀高穴穂朝=成務天皇の御代に定められた」と書かれることも、それを裏付けている。 国造あるいは、それに相当する別・稲置・県主は、全部は書かれない。 記紀に「所録」された皇子の配置は、美濃国周辺、伊予国周辺、及び九州で、 東国が全く出てこないことが特徴的である。 これは畿内から全国制覇していく途上の、ある時点での勢力圏を示すのかも知れない。 くぐい追跡経路と合わせて見ると、 尾張と美濃が東の端になっているのが目立つ。〔右図、⇒第119回【白鳥の追跡】〕 「所録」の皇子は九州にはいくつかあるから、東国の制圧は西国より遅れたようである。 |
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2016.05.24(tue) [123] 中つ巻(景行天皇2) ▼▲ |
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此之御世定田部
又定東之淡水門 又定膳之大伴部 又定倭屯家 又作坂手池卽竹植其堤也 此之(この)御世(みよ)田部(たべ)を定む。 又、東(あづま)之(の)淡(あは)の水門(みなと)を定む。 又、膳之大伴部(かしはでのおほともべ)を定む。 又、倭(やまと)の屯家(みやけ)を定む。 又、坂手池(さかでのいけ)を作り、即ち其の堤に竹植(う)う[也]。 この御世に、田部を定めました。 また、東の淡〔安房〕を港を定めました。 また、膳(かしわで)の大伴部(おおともべ)を定めました。 また、坂手池を作り、その堤に竹を植えました。 たべ(田部)…屯倉に付属する部民。地名に残る〈倭名類聚抄〉{長門国・豊浦郡・田部【多倍】郷} みやけ(屯家)…[名] 諸国にあった天皇の御料地の収穫物を納めておく倉。転じて朝廷の直轄領。 【東の淡】 『国造本紀』に粟国造がある。これは四国の阿波国である。それでは、「東の淡」はどこであろうか。 景行天皇紀五十三年条を見ると、対応する箇所は「上総国に到り、海路より淡水門に到る」と表現される。 そこまでは伊勢から「転二-入東海一」と、海路を取ったと読め、 さらに磐鹿六鴈(いわかむつかり)の逸話が載っている。 同じ話を膨らませたものが、高橋氏文の逸文に載っている。高橋氏文は延暦十一年〔792〕に成立した文書で なかなか興味深い内容を含むので、訓読と分析を加えて資料として付した (資料[07])。 そこには、磐鹿六鴈がカツオとウムギを調理するとき、武蔵国造の祖と、秩父国造の祖の助力を得たとする。これらの国は安房国・上総国に近い。 また、上総国安房大神を御食都神として祭ったとされ、安房国には、式内社・安房坐神社がある。 さらに、安房神社のご由緒には阿波国に住んでいた忌部氏が、黒潮に乗って安房の地に渡ってきたとある。 ここまで材料が揃えば、記の「東の淡」が西の阿波国と対比して、房総半島の安房地域を指すことは明白である。 《定水門(みなとを定む)》 朝廷は、磐鹿六鴈を皇子と同格とし、膳の大伴部与えて大抜擢した。 その結果、安房の港は、中央との往来の窓口として公的な性格を帯びて栄える。 それが記の「水門を定む」という言葉の意味であろう。 書紀より後は、天皇自身がこの地に足を運んだ筋書きになっているが、 これは安房への進出を崇高化させるための脚色であろう。 歴史的な事実としては、後に述べるように纏向政権はまず海路で房総半島の先端に達し、 東国に進出するための橋頭堡にしたと思われる。それが 磐鹿六鴈の物語として表現される。また、その過程を六文字に要約したのが「定東之淡水門」である。 【膳之大伴部】 大伴部の由来については、高橋氏文に 「日堅日横陰面〔=全国〕の諸国人を割き移(うつし)て大伴部と号(なづけ)て賜二於磐鹿六獦一。」 とある。 また「纏向朝より癸亥の年に始めて膳臣姓を賜る」とある。書紀では、景行天皇元年は辛未なので、癸亥は景行天皇53年に該当する。 書紀では、53年条に「美二六鴈臣之功一而賜二膳大伴部一」とあり、年は一致している。 高橋氏文に従えば、膳[之]大伴部は「膳臣の下に置かれた大伴部」の意味となる。 それに従えば、記の文は「六鴈に仕える膳之大伴部を定めた」、書紀の文は「六鴈の功績を誉め、六鴈に膳大伴部を与えた」という意味になる。 だから、この文は大伴部という姓(かばね)を与えたのではなく、仕える集団を与えたことを意味する。
【倭屯倉・田部】 「定倭屯家」は、「大和国に屯倉を定めた」ではなく、 「倭=中央政権」の直轄田を全国に設置したと読むべきであろう。 想起されるのが、魏志倭人伝の「大倭」である。そこに、諸国の交易を「使大倭監之」〔大倭を遣わして監視する〕という文がある。 諸国間の交流が同盟に成長すると、叛乱の芽となるからである。 恐らく、現地の住民は、中央から監視に訪れた官吏を、「大倭」と呼んで敬遠していたのであろう 〔「大倭」は、「おほやまと」を訳して書いたものと想像される〕。 同じ感覚で、各地の百姓は朝廷の直轄田を「倭の屯倉」と呼んだのであろう。 屯倉に集落を作り、耕作に勤しんでいた田部は、特権意識をひけらかしていたと想像される。 現地の百姓は、彼らを敬遠して「あの倭(やまと)の田部は…」などと話していたのだろう。 書紀はその「倭」に込められた意味を理解し、「令下諸国興二上田部屯倉一」と書いたのである。 直轄田であれ、農民からの納税であれ、地方から中央への米の輸送は間違いなく行われたはずである。 その物質的根拠を、木簡に見ることができる。右に、その一例を挙げる。 この木簡は飛鳥時代に美濃国産の米が、荷札をつけて飛鳥まで運ばれた事実を実証する。 それ以前の古墳時代には、全国から土器が大和平野に流入していた。 農業生産力の向上と大和平野の中枢機能の発達に伴い、遠隔地からの米の移入も徐々に行われるようになっていったと思われる。 《運搬手段》 中央への米の運搬経路には、陸路と海路が考えられる。当時の水運について、 <東京油問屋史> 船による輸送は、荘園時代までは古代以来の単材到船、すなわち丸木舟が使われていた。 平安時代、中国、四国、九州からは、瀬戸内海の海運によって、多量の米を送った。</東京油問屋史> という解説がある。 このうち「丸木舟」の件については、宝塚一号墳(5世紀初頭、三重県松坂市)から出土した 船形古墳(上図)の例があり、実際には弥生時代から準構造船※が存在した。 ※準構造船…刳船(くりぶね、=丸木舟)の両舷に舷側板を取り付けて深さを増し、積載量と耐航(たいこう)性を増やしたもの。 【坂手池】 現代地名に、奈良県磯城郡田原本町阪手(大字)がある。 古事記が書かれたとき、この池は景行天皇の御世に作られたという伝説が残っていたのかも知れない。 崇神段で述べたように、造池は農業生産力を確保する事業であり、国の統治の基盤である (第115回【依網池】・まとめ)。 堤に植えたとされる竹は頑丈な地下茎を張り巡らせるから、堤を強化するためであろう。 古代の堤防と竹をキーワードにして検索すると、次のような例がある。 ●橿原市の旧大字名に「竹田」、古来大和では川堤が決壊しそうなところに竹を植えて強化した (奈良県の古代地名辞典)。 ●堤防に、「竹藪や木を植えて流路を補強する仕組みをつくりました」 (鳥取県建設技術センター・治水)。 坂手池は依網池・磐余池と同じダムで、堤を強化するために堤に竹を植えたか。あるいは、河川の堤に竹を植えた、別の話が混合したものか。 【安房国・上総国】
ただ、他の地域に比べて、国造が細分化されていることは一つの特徴なので、注目される。 豪族の支配域がまだ狭かった古い時代に、朝廷から国造の地位を賜ったことを示すかも知れないからである。 7世紀半ばから次第に律令国が定められ、広く「ふさの国」と呼ばれた地域の南半分が上総国(かみつふさのくに)になった。 その時は、安房地域はまだ上総国に含まれていた。 〈続日本紀〉文武四年〔700〕二月乙酉〔辛巳朔5日〕 。上総国司請下安房郡大少領連任二上父子兄弟一。許レ之。 この時点では、安房郡は上総国の下にあることが分かる。 〈続日本紀〉養老二年〔718〕五月乙未〔甲午朔2日〕 割二上総国之平群。安房。朝夷。長狭四郡一。置二安房国一。 このとき、上総国の一部が分離して安房国となった。 書紀の成立は720年だから、この分割は書紀には反映されない。 従って、 「至二上総国一従二海路一渡二淡水門一」 で言うところの上総国は、安房郡を含む。だから、天皇行幸船が太平洋から直接安房に到着したとする読み方は可能である。 《上総国の発生期古墳》 ところが、前方後円墳が東海道沿いに伝搬してきたとすれば、上総国に達した頃※は中期の様式のはずである。 ※…5世紀後半には、武蔵国までは確実に倭政権の勢力圏内にあった(第71回【葦原中国の東方への進出】)。 ところが、実際にはいきなり発生期の前方後円墳が出現する。 それが、神門5号墳である(市原市惣社5丁目5番地1、3世紀中旬)。続けて、次の前期古墳がある。 ●今富塚山古墳…市原市今富字本郷713-2。前方後円墳。4世紀初。110m。姉崎天神山古墳に先行。 ●姉崎天神山古墳…市原市姉崎2489 前方後円墳。4世紀中。119m。
《安房坐神社》 高橋氏文に、「上総国安房大神を御食都神として祭る」とある。 これは、書紀が時代的制約から安房郡が上総国に属すとしていたのを、高橋氏文が継承したもので、 「安房大神」と言うからには、安房大神は安房国安房郡にあると考えるのが自然である。 安房国の式内社には、〈神名帳〉{安房国/安房郡/安房坐神社【名神大】}がある。 比定社は、安房神社(千葉県館山市大神宮589)。房総半島の先端部にある。 しかし、同社の御由緒に磐鹿六鴈のことが全く無視されている (資料[07]【安房】)。 ただ、御由緒には、 「神武天皇の御命令を受けられた天富命は」「肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れて 海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸」したと書かれていることが注目される。 それが天富命であろうが景行天皇であろうが、 伊勢方面から海路で到来したこと自体は共通している。 《淡水門の立地条件》
中国から渡海した船の着地港は、古くから薩摩半島南西の坊津であった。坊津は右図の泊浦・坊浦でリアス式海岸になっていて、波が静かで水深があり港に適している。 房総半島はリアス式海岸とは言えないが、それでもその西岸のいくつかの入り江に漁港がある。 特に半島先端の安房神社の近くには、現在の富崎漁港がある。 安房郡の式内社には、他に{安房国/安房郡/天比理乃咩命神社【大。元名洲神】}があり、洲宮神社、洲崎神社が論社とされる。 よって、淡水門(あはのみなと)は、富崎漁港、あるいは館山港の辺りかと想像される。 《多氏の子孫の分布》 さらに注目されるのは、国造本紀にない長狭国造が、早くも神武天皇のときに多氏の子孫として安房国に達することである 第101回)。 神武天皇の皇子神八井耳命は、「多氏」というグループに属する諸族の祖となるが、 そのうち「国造」の姓をもつ氏族は、伊余国造、科野国造、長狭国造、常道仲国造、常道仲国造である。 その配置を見ると、陸路の東海道をスキップして直接安房国に上陸し、更に東岸を常陸国、陸奥国へ向かうラインが見える。 なお、科野国造については、日本武尊は陸奥から反転して信濃国を制圧したことになっている。 一方、陸路では尾張国までにとどまる。 ここから、大和勢力による東国への進出は、陸から東海道沿いに制圧する前に、 既に海路で安房から上陸していた可能性が見えてくる。 このように、「房総半島橋頭堡説」を仮定することによって、景行天皇段・景行天皇紀・高橋氏文・国造本紀・神武天皇段・神門5号墳・安房神社御由緒が一本の糸で結ばれるのである。 面白いのは、書紀自身はそれでも「冀欲レ巡二-狩小碓王所レ平之国一」として、 陸路による「順次制圧説」をとっていることである。 【書紀(20)】 20目次 《東国行幸》
秋七月(ふみづき)癸卯(みづのとう)朔己酉(きのととり)〔七日〕、八坂入媛命を立て皇后(おほきさき)と為(し)たまふ。
《居》 居は基本的に「居(を)り」または「居(す)う=据う」であるが、ここでは「来る」の尊敬語で「ます」「います」と訓むと思われる。 《居伊勢也》 漢文で、文の途中の「也」は、「~は、」と取り立てて示す語感を生む。やはり取り立てて示す「是」もあるので、不読とせず「や」と訓むことができる。 《東国行幸(続き)》
是(これ)豊城命(とよきのみこと)之(の)孫(ひこ)也(なり)。 然(しかれども)、春日(かすか)の穴咋邑(あなくひむら)に到り、病(やまひ)に臥(ふ)して[而]薨之(こうず、みまかりたまふ)。 是の時、東国(あづま)の百姓(ひとくさ)、其の王(みこ)の不至(いたらざること)を悲び、窃(ひそか)に王の尸(しかばね)を盗み、[於]上野国(かみつけのくに)に葬(はぶ)りまつる。
「汝(な)が父(ちち)彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)、任所(まかせらるるところ)に不得向(えむかはず)して[而]早(はや)薨(みまかる)。故(かれ)、汝(いまし)は専(もはら)東国(あづま)を領(をさ)めよ。」とのたまふ。 是(こ)を以ちて、御諸別王、天皇の命(おほせこと)を承(う)けたまはり且(かつ)父の業(なりはひ)を欲成(なさむとし)、則(すなはち)行(おこなひ)之(これ)を治(をさ)め、早(すみやかに)善(よき)政(まつりごと)を得(う)。
即ち兵(いくさ)を挙げて[而]撃つに[焉]、時に蝦夷(えみし)の首帥(ひとごのかみ、たける)足振辺(あしふりべ)、大羽振辺(おほはふりべ)、遠津闇男辺(とほつくらをべ)等、叩頭(ぬかつ)きて[而]来(き)[之]、 頓首(ぬかづ)き罪を受けまつり、尽(ことごとく)其の地(くに)を献(まつ)る。因(しかるがゆゑ)を以ち、降(したが)ふ者を免(まぬが)れしめて[而]不服(しかがはざるもの)を誅(ころ)して、是(これ)を以ち東(あづま)は久しく[之]無事(ことなし、たひらがる)[焉]。 由是(このよしにより)、其の子孫(はつこ)、[於]今に東国(あづま)に在り。
冬十月(かむなづき)、諸国(もろくに)に田部(たべ)屯倉(みやけ)を興(おこ)さ令(し)む。 〈倭名類聚抄〉に{大和国・添上郡・春日郡}。また、〈神名帳〉に{大和国/添上郡/穴吹神社}がある。 比定社は、穴栗神社(奈良県奈良市古市町677)。五畿内志には「穴次神社」となっている。 穴栗神社の紹介ページをいくつか見たところでは、穴次・穴咋・穴吹は、何れも穴栗神社の別名である。 しかし、どのようにして別名が生まれたかを、確実に説明する資料はまだ見つけられない。 ただ、次・吹・咋は草書体の誤読、栗(クリ)は咋(クヒ)の訛りとする程度は容易に想像できる。 穴栗神社の位置は、纏向から東山道に入るにはまず上ツ道を通って北上するので、その途上とは言えるが、まだ東山道は遥か彼方である。 書紀では彦狭嶋王は亡骸となって上毛国に行くが、国造本紀では、存命中に赴任する。 《蝦夷の首帥の名前》 景行天皇紀に「東夷の日高見国に、椎結文身し勇悍な人がいて、総じて蝦夷と言う」という報告があり、 これがアイヌ民族を指すと言われている。 そこから、蝦夷の首帥の「~ふりへ」の名前をアイヌ語の語彙から説明しようとする発想が生まれる。 そこで、明治以来の男性アイヌの個人名をみると、その接尾語は-ainu、-kur、-no、-ukなどであり (『アイヌ人の男性の個人名』)、 -heはない。 三人目の遠津闇男(とほつくらを)は明らかに和語である。 接尾語の「へ甲」も「とべ甲」に類する和語と思われるから、三人とも和語による名前だと見るのが妥当である。 上代から現代までの変化を考慮に入れたとしても、アイヌ語の語彙から説明しようとする試みに、見込みはなさそうである。 しかし、わざわざその子孫が残ると書くところを見ると、アイヌがその風俗習慣を維持したまま、倭人と平和的に住み分ける地域が飛鳥時代の東国にあったと読むこともできる。 《大意》 五十二年五月四日、皇后播磨太郎姫(はりまのおおいらつめ)は薨(こう)じました。 七月七日、八坂入媛命を立て皇后とされました。 五十三年八月一日、天皇は側近に、 「朕、真子が思い出されてならない。これが止むのはいつの日か。願わくば、小碓王(おうすのみこ)〔日本武尊〕が平定した国を国を巡りたいものだ。」と仰りました。 この月、輿に乗り伊勢に出(い)でまし、東の海道に転じました。 十月、上総国(かずさのくに)に到着し、海路を淡(あわ)〔安房〕の港まで渡りました。 この時、覚賀鳥(かくかどり)の声をお聞きになり、その鳥の姿を見たいと思われ、姿を求めて海に出でますと、白蛤(うむぎ)を見つけて獲りました。 ここに、膳臣(かしわでのおみ)の遠祖、名は磐鹿六鴈(いわかむつかり)が、蒲を以って襷(たすき)とし、白蛤を膾にして進上しました。 そこで、六鴈臣(むつかりのおみ)の功を褒め、膳(かしわで)の大伴部(おおともべ)を賜わりました。 十二月、東国より帰還し、伊勢に滞在され、これを綺宮(かにはたのみや)と申します。 五十四年九月十九日、伊勢より倭の国にお帰りになり、纏向(まきむく)の宮に着かれました。 五十五年二月五日、彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)を、東山道十五国の大宰府に拝命されました。これは豊城命(とよきのみこと)の孫です。 しかし、春日郷の穴咋邑に到着したところで、病に伏して薨(こう)じました。 この時、東国の民は、彦狭嶋王が来れなくなったことを悲み、王の屍を窃盗し、上野国(かみつけのくに)に葬りました。 五十六年八月、その御子たち、各国に別けられた王たちに詔を発しました。 「お前たちの父、彦狭嶋王は、任地に向かうことができず、早くも薨じた。よって、お前たちはそれぞれ別けられた東の国を治めよ」と。 これを以って、別けられた王たちは天皇の詔を承け、かつ父の目指した統治を実現しようとし、それぞれに励み国を治め、速やかに善政を敷くことができました。 その頃、蝦夷(えみし)が騒動を起こしました。 直ちに挙兵して攻撃したところ、蝦夷の首魁、足振辺(あしふりべ)、大羽振辺(おおはふりべ)、遠津闇男辺(とおつくらをべ)らは首(こうべ)を垂れてやって来て、 頓首(とんしゅ)して罪をお受けし、洗いざらいその土地を献上しました。その故に、降伏するもの者は罪を免じ、服さない者を誅殺して、東国は長く平和になりました。 その結果、彼らの子孫は今も東国におります。 五十七年九月、坂手池(つくてのいけ)を造り、その堤の上に竹を植えました。 十月、諸国に命じて田部(たべ)と屯倉(みやけ)を興させました。
【都督】 辞書には、都督(ととく)は「大宰府の唐名」とある。それでは、漢籍における都督とは何か。 〈汉典〉職官名。漢末始有此称。三国時置都督諸州軍事、或領刺史、以大都督及都督中外諸軍権位最重。 〔漢末からこの名称が現れる。三国時代は諸州の軍事を監督、或いは刺史(州を監視するために派遣した)のこと。〕 一方、大宰府を調べると、 〈倭名類聚抄〉大宰府【於保美古止毛知乃豆加佐】〔おほみこともちのつかさ〕。 この語の一部「みこともち」は「勅持」、即ち「朝廷の詔勅を持って来る」官職で国司のこと。 大化の改新以後、国造を廃して国司を置かれたが、これは中央集権化を推進する〔各地の氏族の連合体から脱して、朝廷を絶対化する〕流れの中にある。 「おほみこともちのつかさ」は複数の国をブロックとして、国司の上に置かれる。 大宝律令以後の大宰府は、九州に置かれ大陸との外交を担当する政府機関だが、もともとの「大宰府」は九州に限らない。 このように、「都督」はもともとの「おほみこともち」を表現している。 天皇礼賛文などに見られる漢籍の語は、書紀の原文作成者が恰好をつけて生硬なまま使ったものだから、無理に和語に直さず音読みするのがよいと、 しばしば述べてきたところである。しかし、この「都督」の場合は和語として確定していた語に漢字を宛てたのが明らかだから、訓読みである。 なお、ここでは都督が東山道「15国」を統括するとされるが、実際には「おほみこともちのつかさ」はこの時代には存在せず、 擬制として上代に遡らせたものである。 【東山道】 東山道に属する律令国の数は8国だが、『国造本紀』には21国がある。 このうち、道口岐閉国造は常陸国の中で、後に東海道に移る。また、出羽国はもともと越後国の一部が分離した国で、その後陸奥国から2郡が移って加わる。 出羽国が成立した和銅五年〔712〕には、既に国造の任命はないが、国造本紀には「出羽国造」の項目がある。 『国造本紀』には、奈良時代以後に成立した国もいくつか書かれている。
ある時期、例えば7世紀初めごろに、実際に東山道の国造15国とする記録があった可能性はある。 《陸奥国内の郡制の変化》 〈倭名類聚抄〉では、白河郡についてもその一部が高野郡となり、高野郡はさらに大沼郡・河沼郡に分かれたとされる。 しかし、項目としての大沼郡は書かれ、河沼郡は書かれない。これも、注記のみが後世に書き足されたのであろう。 ところで、注記にある「しのぶ国」「しらかは国」という表現には、かつての「国造時代の国」もまた国として、平安時代まで根強く意識されていたことを伺わせる。 このように、国造時代の「国」と、律令国制定後の「国」の違いが、十分理解されない傾向があったようである。 だから、国造本紀に律令国成立後に起こった国の分割が紛れ込んだのであろう。 《幻の東山道大宰府》 東山道大宰府が置かれたとすれば、上毛国であろうか。記に豊木入日子命が「上毛野君下毛野君等之祖」と書かれ(第110回)、 『国造本紀』上毛国造には「豊城入彦命〔の〕孫〔である〕彦狭島命、初治二-平東方十二国一、為レ封」とあり、 さらに、書紀に彦狭島命を「葬二於上野国一」とされる(前述)からである。 ただ【都督】の項で述べた通り、この時期の東山道大宰府は擬制である。 書紀には父が赴任できなかった結果「御諸別王、承二天皇命一且欲レ成二父業一」 〔それぞれの国ごとに、父の果たせなかった業を継げと命じた〕ということになり、結局各国ばらばらのままである。 なお、「東方十二道」という表現は崇神天皇段にもあった (第113回)。 神沼河別命〔八代の孝元天皇―大毘古命―神沼河別命〕が東方十二道を制圧したとあり、その回では東海道を含めた防人派遣国を想定したが、 この話も豊木入日子命の東征と同系統と考えれば、崇神天皇段の「東方十二道」も東山道諸国と考えるのが妥当である。 同段の「はじめに東方十二道を一括して治めた」記述が、 「始めに東山道に大宰府を設置し、彦狭島命にまとめて統治させようとして果たせず、その御子に分割統治させた」話に発展したと見られる。 まとめ 倭政権が、既に弥生時代末から畿内から海路安房に上陸して、東国に進出していたとする仮定は魅力的である。 本稿では文献の比較による推定に留まるが、確実な結論を得るためには物質的根拠が必要である。 その手段としては、古墳の形態や出土物の比較研究や、 DNA分析によって諸族の移動のルートと時期を探る方法が考えられる。 さらには、日向三代のところで見たように天孫族のルーツの半分はオセアニアだから、伝統的航海術を引き継いでいるかも知れない。 古墳時代は、予想外に海上交通中心であったのではないだろうか。 当時の船と航海術を再現して、伊勢~安房を航行してみる実証実験も面白そうである。 今回は、古事記をわずか37文字しか読み進められなかったが、大和政権が行った東国進出に新しい視点を 提供してくれる部分であった。「東之淡水門」のたった五文字が、予想外の展開を生んだのである。 書紀では、景行天皇が日本武尊の事績を自分の目で見たいがために、船で房総半島に船で渡った と書くが、もちろん創作である。それに比べれば、記の「定二東之淡水門一」という簡潔な一文の方がずっとリアルである。 後世の有様を上代に持ち込んで潤色した日本書紀に比べ、古事記の方が歴史伝承に誠実だという 印象は、読み進むにつれて強まっていく。 |
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2016.06.04(sat) [124] 中つ巻(景行天皇3) ▼▲ |
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天皇詔小碓命
何汝兄於朝夕之大御食不參出來 專汝泥疑教覺【泥疑二字以音下效此】 如此詔 以後至于五日猶不參出 爾天皇問賜小碓命 何汝兄久不參出 若有未誨乎 答白 既爲泥疑也 天皇(すめらみこと)小碓命(をうすのみこと)に詔(の)たまはく 「何(なに)ゆゑに汝(なが)兄(このかみ)[於]朝夕之(あさよひの)大御食(おほみけ)にや不参出来(まゐでこぬ)。 専(もはら)汝(なむち)泥疑(ねぎ)教(をし)へ覚(さと)したまへ。【泥疑の二字(ふたじ)音(こゑ)を以(もち)ゐる。下(しも)つかた此に効(なら)ふ。】」と 此の如く詔たまひ、 以後(のち)[于]五日(いつか)に至り猶(なほ)不参出(まゐでず)。 爾(ここに)天皇小碓命に問ひ賜はく、 「何ゆゑに汝が兄や久しく不参出(まゐでず)。若(もしや)[有]未だ誨(をし)へざる乎(か)。」ととひたまひ、 答へ白(まを)さく「既(すで)に泥疑(ねぎ)為(し)まつりき[也]。」とまをしき。 又詔 如何泥疑之 答白 朝署入廁之時 待捕搤批而 引闕其枝裹薦投棄 於是天皇惶其御子之建荒之情而 詔之 西方有熊曾建二人 是不伏无禮人等 故取其人等 而遣 又(また)詔たまはく「如何(いかに)泥疑(ねぎ)しまつりしか[之]」とのたまひ、 答へ白さく「朝(あした)署(つかさ)につき廁(かはや)に入(い)りし[之]時、待ちて捕へ搤(しば)りて批(う)ちて[而] 其の枝(え)を引き闕(か)け薦(こも)に裹(つつ)み投げ棄(う)つ。」とまをす。 於是(ここに)天皇其の御子(みこ)之(の)建(たけ)びて荒(あら)ぶる[之]情(こころ)を惶(おそ)りまして [而]詔たまはく[之]、 「西方(にしのかた)に熊曽建(くまそたける)二人(ふたり)有り、 是(これ)不伏(くだらざりて)无礼(ゐやなき)人等(ら)なるが 故(ゆゑ)に其の人等(ら)を取りたまへ」とのたまひて[而]遣はす。 天皇は小碓命(おうすのみこと)に、 「どうして、お前の兄は朝夕の大御食(おおみけ)に参らぬのだ。 お前が労いつつ、教えて分からせよ。」と、 このように仰りましたが、 以後五日に及び、尚参りません。 そこで、天皇は小碓命に、 「お前の兄は相変わらず参らぬが、とうなっているのだ。もしかして、まだ教えていないのか。」と仰り、 それに「既に労いました。」とお答えしたので、 重ねて「どのように労ったのだ。」と仰りました。 それに対して「朝、執務所に来て廁に入ったところを、待ちかまえて捕えて押さえつけて殴り、 手足をもぎ薦(こも)に包んで投げ棄てておきました。」とお答え申し上げました。 そのため、天皇は御子の猛り荒ぶる心を恐ろしく思い、 詔(みことのり)され「西方に熊曽建(くまそたける)二人がおり、 これが服従せず、礼を欠く奴らである。 故に、その者どもを撃ち取れ。」と命じて遣わされました。 まゐづ(参出)…[自]ダ下二 参上する。 ねぐ(労ぐ)…[他]ガ上二 ねぎらう。〈時代別上代〉連用形の例ばかりで、そのギが乙類であるから、上二段活用であろう。 覚…(古訓) おもふ。さとる。 乎…(古訓) や。かな。か。 署…[動] ①人や職務を(網のように)配置する。②職務を代行する。③しるす。「署名」[名] 役所。役職。 (古訓) つかさ。おく。あみ。しるす。 厠…[名] ①かわや。②かたわら。 搤(やく)…[動] しめる。(古訓) くひる。しはむ。はさむ。〈汉典〉熟語「縊批」・「搤批」ともに見出し語にない。 しばる(縛る)…[他]ラ四 ①力を入れて押さえつける。②なわなどでしばる。 批…[動] ①うつ。②上司が部下が作成した文書を判定する。(古訓) うつ。ひきひらく。 え(枝)…[名] ①えだ。②手足。「肢」に通ず。 闕…[動] 欠く。過つ。[名] 宮殿の門。眉間。(古訓) あやまつ。かく。ほる。 かく(欠く、闕く)…[自]カ下ニ 欠ける。[他]カ四 欠く。〈時代別上代〉『新撰字鏡』に他動詞で四段に活用した例=劓【ハナカク】〔刑罰の一種〕があるが、上代の確例はない。 ゐやなし、うやなし(無礼)…[形] 無礼だ。 【解釈】 《於朝夕之大御食》 「於朝夕之大御食」は「朝夕(あさよひ)の大御食(おほみけ)に」と全く自然に訓めるが、 気になるのは、「朝夕」の万葉集の用例はすべて、副詞用法の「あさよひに」であることである。 また、景行天皇紀四年二月条の「鯉魚浮池、朝夕臨視」も、「あさよひに」である。 しかし、この文脈で「之」を「の」と訓むことに全く無理はないので、「あさよひの」という言い方もあったと考えざるを得ない。 《有未誨乎》 「いまだをしえざる」(連体形)+「や」(疑問の係助詞)。助動詞「ず」の「ざり」系列活用(ざら、ざり、ざる、ざれ)は、もともと「ず-あり」の短縮形であることを反映した書法。 純正漢文として訓読すると、動詞句「未誨」が体言化して「有」の目的語になり「未だ誨へざること有りや」となる。これでも上代語として通ずるが、いかにも訓読調である。 《搤批而引闕其枝》 「縛此而引懸其技」(これを縛りて技をかけ)の誤読ではないかと思われたが、 真福寺本を見ると「此」ではなく「批」、「技」ではなく「枝」は明瞭である。 また、「闕(か)く」の意味は、「懸」ではなく「欠」であるから、「技をかける」ではない。 「枝」は「肢」に通用するが、手足を「闕く」=もぎ取るまでの乱暴は考えにくい。 もし「闕」が「懸」の借訓だとすれば、 「抑えつけて殴り、枝に引き上げて吊るした」と読むこともできる。 ただ、「其枝」の「其」は、大碓命を指すと見るのが順当である。和語の「え」にもまた、四肢の意味場ある。 さらに「薦で包み」は、手足を折ってばらばらにしたものを薦(むしろ)で包んでまとめたとも読め、 仮にその意味なら、その残虐さは際立っている。 《建荒之情》 「暴虐」などの、漢熟語なら意訳すればよいが、建(たける、たけぶ)・荒(あらぶ)はもともと和語だったものに字を宛てたものなので、一字ずつ分離して訓まなければならない。 ここで「建荒之情」は「建之情(たけぶここる)」、「荒之情(あらぶるこころ)」を併せたものであることは明らかである。 それなら、つないで「建ぶ荒ぶる情」と訓読するとどうなるか。 現代語なら「美しき青きドナウ」のように連体形を重ねることに抵抗はない。しかし、万葉集にはこのような形は見えない。 それでは万葉集では二重修飾はどうしているのかというと、次の例がある。 (万)0711 鴨鳥之 遊此池尓 木葉落而 浮心 吾不念國 かもとりの あそぶこのいけに このはおちて うきたるこころ わがおもはなくに。 この歌では「木の葉が落ち、そして浮く」が比喩として「心」を形容するわけだが、その形は「動詞①の連用形+て(接続助詞)+動詞②の連体形※」である。 つまり、複数の動詞による連体修飾は、連用形を「て」を挟んで並べた後、最後の動詞のみを連体形にする。 ※…厳密には「うきたる」は、「うく」の連用形+助動詞「たり」の連体形。 よって「建荒之情」はこの形を用いて、「建びて荒ぶる情」と訓むのが安全である。 【大碓命】 書紀では生き延びるのは、美濃の身毛津君・守君の間に、我らの始祖は大碓命であるという説が次第に広まり、 本人は行けなかったが遺子が美濃に行ったとする言い繕いが、通用しなくなってきたからだろう。 【書紀では天皇親征】 これから、小碓命を熊襲征伐に向かわせるだが、書紀ではその前に景行天皇が親征する(景行天皇紀)。 やはり、国の領土を広げるという重要な事業には天皇自身が向かわなければならないのだ。しかし、それでは日本武尊の出陣は二番煎じとなるので、物語の鮮烈さは損なわれる。 文学としては、記の方にこそ心を打つものがある。 【書紀】 07目次 《日本武尊西征》
冬十月(かむなづき)丁酉(ひのととり)を朔(つきたち)とし己酉(つちのととり)〔十三日〕、日本武尊(やまとたけるのみこと)を遣はし熊襲を令撃(うたしむ)、時に年(よはひ)十六(とつあまりむつ)。 於是(ここに)日本武尊曰(のたまはく)「吾(われ)、善(よ)き射者(いるひと)を得、欲与行(あづかりてゆかむとおも)ひたまふ。其(それ)何処(いづく)にや善き射者有らむ[焉]。」とのたまひ、 或者(あるひと)啓(まをさく)[之曰]「美濃の国に善き射者有り、弟彦公(おとひこのきみ)と曰(まを)す。」とまをしき。 於是(ここに)日本武尊、葛城(かつらき)の人宮戸彦(みやとひこ)を遣はし、弟彦公を喚(め)さしめます。 故(かれ)、弟彦公、便(すなはち)石占横立(いしうらのよこたち)及び尾張(をはり)の田子(たご)之(の)稲置(いなき)、乳近(ちぢか)之(の)稲置を率(ひき)ゐて[而]来(き)まつり、 [則(すはなち)]日本武尊に従ひて[而]行きまつる[之]。 《善射者》 「射者」の上代語があるだろうと想像される。候補としては「射手(いて)」があるが、 古語辞典で「射手」の出典とされる『太平記』は14世紀である。 日本紀私記などに「射者」の訓は見つからなかったので、無難な訓を宛てるしかない。「ゆみひと」は自然であるが、「弓者」ではないので躊躇される。 そのまま「射る者(ひと)」と訓んだとしても、少なくとも誤りではないだろう。 《大意》 〔二十七年〕八月、熊襲(くまそ)が再び背き、辺境を侵して止むことがありません。 十月十三日、日本武尊(やまとたけるのみこと)を遣わし熊襲を撃たせました。十六歳の時のことです。 その時、日本武尊は「私は、優れた射手を得て、連れていきたいと思う。どこかに優れた射手はおらぬか。」と仰り、 それに対してある人が、「美濃の国に優れた射手がおり、弟彦公(おとひこのきみ)と申します。」と申し上げました。 そこで日本武尊は、葛城の人、宮戸彦(みやとひこ)を遣わし、弟彦公を召喚されました。 その結果、弟彦公は、石占横立(いしうらのよこたち)、尾張の田子(たご)の稲置(いなき)、乳近(ちぢか)之(の)稲置を率いて到来し、 日本武尊に従って出発しました。 まとめ 倭建命は英雄であるが、記においては終始悪意を持って描かれていることを、見逃すことはできない。 一体、倭建命とは何者なのか。記による悪意は、真相は反朝廷勢力の王であったことを示唆しているように思える。 だとすれば、地方豪族から出た英雄が国の縁辺部から制覇し、遂に王朝が交替したのか。或いは反乱軍の王として、最後に殺されたか。 倭建命の子〔帯中津日子命〕が天皇〔第14代仲哀天皇〕を継ぐところを見れば、王朝が交替したのかも知れない。しかし、ならばなぜ記紀は敗れた王朝の、天照大神を起源とする正当性を書き募るのか。 倭建命の出身氏族に伝わる神話を描けばよいではないか。 逆に、殺されたのなら、なぜその子が皇位に即くことができたのか。 このように大きな謎が立ちはだかるが、今回は問題提起に留め、さらに読み進んだところで検討したい。 何れにしても、倭建命は天皇になりかけていた。 皇太子の一人とされたのは、やはり倭建命自身が天皇を志向したからであろう。 第122回《古事記における太子》において、 「太子が二人だと対立関係があったのではと余計な勘ぐりをされてしまう」と書いたが、勘ぐりではなく、実際に対立関係にあったのだ。 さて、「引闕其枝」を大碓命の手足を折ったと読むか、あるいは単に木の枝にぶら下げたと読むかによって、倭建命の残虐さの印象は大きく変わる。 その悪意の描き方が、倭建命の立ち位置を探る糸口となるから、この箇所の読み方は重要である。 |
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⇒ [125] 中つ巻(倭建命1) |