| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
⇒ [115] 中つ巻(崇神天皇6) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2016.02.04(thu) [116] 中つ巻(垂仁天皇1) ▼▲ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伊久米伊理毘古伊佐知命 坐師木玉垣宮治天下也
此天皇娶沙本毘古命之妹佐波遲比賣命 生御子 品牟都和氣命【一柱】 又娶旦波比古多多須美知宇斯王之女 氷羽州比賣命 生御子 印色之入日子命【印色二字以音】 次大帶日子淤斯呂和氣命【自淤至氣五字以音】 次大中津日子命 次倭比賣命 次若木入日子命【五柱】 又娶其氷羽州比賣命之弟 沼羽田之入毘賣命 生御子 沼帶別命 次伊賀帶日子命【二柱】 伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)は師木(しき)の玉垣宮(たまかきのみや)に坐(ま)し、天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此の天皇(すめらみこと)沙本毘古命(さほびこのみこと)之(の)妹(いも)佐波遅比売命(さはぢひめのみこと)を娶(めあは)せたまひ、 生(あ)れましし御子(みこ)、品牟都和気命(ほむつわけのみこと)【一柱(ひとはしら)なり。】 又、旦波比古多多須美知宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)之女(むすめ)氷羽州比売命(ひばすひめのみこと)を娶(めあは)せたまひ、 生れましし御子(みこ)、印色之入日子命(いにしきのいりひこのみこと)【印色の二字(ふたじ)、音(こゑ)を以(もち)ゐる。】、 次に大帯日子淤斯呂和気命(おほたらしひこおしろわけのみこと)【淤自(より)気至(まで)五字(いつじ)音を以ゐる。】、 次に大中津日子命(おほなかつひこのみこと)、 次に倭比売命(やまとひめのみこと)、 次に若木入日子命(わかきいりひこのみこと)【五柱(いつはしら)なり。】 又、其の氷羽州比売命之弟(おと)、沼羽田之入毘売命(ぬばたのいりびめのみこと)を娶せたまひ、 生れましし御子、沼帯別命(ぬたらしわけのみこと)、 次に伊賀帯日子命(いがたらしひこのみこと)【二柱(ふたはしら)なり。】
又娶其沼羽田之入日賣命之弟 阿邪美能伊理毘賣命【此女王名以音】
この天皇は、沙本毘古命(さほびこのみこと)の妹、佐波遅比売命(さはじひめのみこと)を娶られ、 御子、品牟都和気命(ほむつわけのみこと)を生みなされました。【一柱】 また、旦波(たんば)の比古多多須美知宇斯王(ひこたたすみちのうしのみこ)の娘、氷羽州比売命(ひばすひめのみこと)を娶られ、 御子、印色之入日子命(いにしきのいりひこのみこと)、 大帯日子淤斯呂和気命(おおたらしひこおしろわけのみこと)、 大中津日子命(おほなかつひこのみこと)、 倭比売命(やまとひめのみこと)、 若木入日子命(わかきいりひこのみこと)を生みなされました。【五柱】 また、その氷羽州比売命の妹、沼羽田之入毘売命(ぬばたのいりびめのみこと)を娶られ、 御子、沼帯別命(ぬたらしわけのみこと)、 伊賀帯日子命(いがたらしひこのみこと)を生みなされました。【二柱】 また、その沼羽田之入日売命の妹、阿邪美能伊理毘売命(あざみのいりびめのみこと)を娶られ、 御子、伊許婆夜和気命(いこばやわけのみこと)、 阿邪美都比売命(あざみつひめのみこと)を生みなされました。【二柱】 また、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘、迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)を娶られ、 御子、袁邪弁王(おざべのみこ)を生みなされました。【一柱】 また、山代(やましろ)の大国之淵(おおくにのふち)の娘、苅羽田刀弁(かりはたとべ)を娶られ、 御子、落別王(おつわけのみこ)、 五十日帯日子王(いかたらしひこのみこ)、 伊登志別王(いとしわけのみこ)を生みなされました。【三柱】 また、その大国之淵の娘、弟苅羽田刀弁(おとかりはたとべ)を娶られ、 御子、石衝別王(いわつくわけのみこ)、 石衝毘売命(いわつくびめのみこと)またの名は布多遅能伊理毘売命(ふたじのいりびめのみこと)を生みなされました。【二柱】 全部でこの天皇の御子は、十六王です。【男王十三柱。女王三柱。】 そのうち、大帯日子淤斯呂和気命(おおたらしひこおしろわけのみこと)は天下を治められました。 【身長は一丈二寸、脛の長さは四尺一寸です。】 次に印色入日子命は、茅渟(ちぬ)池、狭山(さやま)池、日下(くさか)の高津(たかつ)池を作りました。 また、鳥取(ととり)の河上の宮にいらっしゃり、作横刀(たち)壱仟口(ちくち)を作ら令(し)め、是(これ)石上(いそのかみ)の神宮(かむみや)に奉納(をさめまつり)、 即ち其の宮に坐し、河上部(かわかみべ)を定められました。 次に大中津日子命は、 山辺別(やまのへのわけ)、三枝別(さいぐさのわけ)、稲木別(いなきのわけ)、阿太別(あだのわけ)、尾張の国の三野別(みののわけ)、 吉備の石无別(いわなすのわけ)、許呂母別(ころものわけ)、高巣鹿別(たかすかのわけ)、飛鳥君(あすかのきみ)、牟礼別(むれのわけ)らの祖です。 次に倭比売命は、伊勢の大神宮を拝み祭られました。 次に伊許婆夜和気王は、沙本(さほ)の穴太部之別(あなほべのわけ)の祖です。 次に阿邪美都比売命は、稲瀬毘古王(いなせびこのきみ)に嫁がれました。 次に落別王は、小槻山君(おつきのやまのきみ)、三河の衣君(ころものきみ)の祖です。 次に五十日帯日子王は、春日山君(かすがやまのきみ)、高志の池君(いけのきみ)、春日部君(かすかべのきみ)の祖です。 次に伊登志和気王は、子が無いため、子の代(しろ)として伊登志部(いとしべ)を定められました。 次に石衝別王は、羽咋君(はくいのきみ)、三尾君(みおのきみ)の祖です。 次に布多遅能伊理毘売命は、倭建命(やまとたけるのみこと)の后になられました。 うし(大人)…[名] 尊称。 みたけ(身丈)…[名] 身長。〈私記丙本〉景行天皇 身_長〔みたけ〕。 つゑ(丈)…[助数詞] 10尺。明治時代1丈(じょう)は、約3.03m。 さか(尺)…[助数詞] 明治時代は曲尺は33分の10m(約30.3cm)。 鯨尺は曲尺の4分の5倍。 き(寸)…[助数詞] 10分の1尺。明治時代は約3.03cm。 はぎ(脛)…[名] すね。膝より下、くるぶしより上。 とつぐ(嫁ぐ、適ぐ)…[自]ガ四 結婚する。 【師木玉垣宮】 書紀によれば「更都於纏向、是謂珠城宮」。 崇神朝も纏向にあり、崇神朝の皇居「みづがき」と「たまがき」が類似しているところも注目される。 いつもの「遷都」でなく、「更都」だから、「更」は「かさね」かも知れない。 書紀全体では「遷都」が21例・「更都」が2例で、更都の他の一例は垂仁天皇が景行天皇に変わるときである。 垂仁天皇紀から、皇子・皇女を生む部分を抜き出す。 ○立狹穗姬爲皇后。生譽津別命。 狭穂姫(さほひめ)を立たし、誉津別命(ほむつわけのみこと)を生みたまふ。 ○皇后日葉酢媛命、生三男二女、第一曰五十瓊敷入彥命、第二曰大足彥尊、第三曰大中姬命、第四曰倭姬命、第五曰稚城瓊入彥命。 日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)を皇后(おほきさき)とし、三男(みはしらのをのみこ)と二女(ふたはしらのめのみこ)を生みたまふ。第一曰(だいいちにいはく、ひとついはく)五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)、 第二(だいに、ふたつ)曰大足彦尊(おほたらしひこのみこと)、第三(だいさむ、みつ)曰大中姫命(おほなかつひめのみこと)、第四(だいし、よつ)曰倭姫命、第五(だいご、いつつ)曰稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)。 ○妃渟葉田瓊入媛、生鐸石別命與膽香足姬命。 渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ)を妃(きさき)とし、鐸石別命(ぬてしわけのみこと)与(と)胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)を生みたまふ。 ○次妃薊瓊入媛、生池速別命、稚淺津姬命。 次に薊瓊入媛(あざみにいりひめ)を妃とし、池速別命(いけはやわけのみこと)、稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと)を生みたまふ。 ○喚綺戸邊納于後宮、生磐衝別命。 綺戸辺(かむはたとへ)を喚(め)し[于]後宮(うちつみや)に納(をさめたまひ)、磐衝別命(いはつくわけのみこと)を生みたまふ。 ○娶山背苅幡戸邊、生三男、第一曰祖別命、第二曰五十日足彥命、第三曰膽武別命。 山背(やましろ)の苅幡戸辺(かりはたとべ)を娶(めあは)し、三男(みはしらのみこ)を生みたまふ。第一曰祖別命(おほぢわけ〔みをやわけ〕のみこと)、第二曰五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)、第三曰胆武別命(いたけるわけのみこと)。 《綺戸辺》 綺戸辺:〈丙本〉綺戸邊姿形美麗【以牟波太部〟加保与志】。以は加の誤写であろう。「止」も脱落している。 〈甲本〉荕綺戸畔【スチカ尓ハタトヘ】。「筋」がどこから来たかは不明。 かにはた、かむはた(綺)は、織物の一種。一説に緯糸に色糸を用い縞を表した幅の狭い織物。地名に{山城国・相楽郡・蟹幡【加無波多】}がある。 もともとカニハタだったものが音便でカンバタ(kambata)となり、これをカムハタと表記したと思われる。 なお、文献で「ン」が使われた最古の例は1058年の『法華経』だと言う(新潮文庫『ん―日本語最後の謎に挑む』山田謡司)。 「かにはた姫」は恐らく地名による人名で、記の「かりはた姫」は訛りであろう。 《第一》 「一」の音読み「いち」は、上代から使われていた。〈時代別上代〉によれば、(万)2480路邊 壹師花 灼然 みちのべの いちしのはなの いちしろく。の例は、音読み「いち」があったことを示している。 書紀のスタッフは、漢籍の語には音読みを用いていたと思われるので、官僚の間でも「第一」を「だいいち」と読む習慣があったと見るのが自然である。 「二」以後の読みについては、双六を詠んだ面白い和歌がある。(万)3827一二之目 耳不有 五六三 四佐倍有来 雙六乃佐叡 いちにのめ のみにはあらず ごろくさむ しさへありけり すぐろくのさえ。 〔さえ=賽〕では「ひとつ、ふたつ、みつ…」では語呂が悪い。また、一二五六三四の順になっているのも五七五七七に乗せるためだから、呉音が使われていたのは確実である。
右は、正倉院宝物の「双六頭(すごろくとう)」。盤双六で使用されたとされる。 双六については、持統天皇紀の3年(689)に「禁断雙六」という記事がある。 その前の、天武天皇紀14年(685)9月には「喚王卿等於殿前以令博戯」〔王卿等を殿前に喚(め)し博戯せしむ〕とある。 恐らく天武天皇を先頭に双六という博戯に耽る風潮を后は苦々しく思い、持統天皇になった機会に禁止してしまったのだろう。 従って遅くとも7世紀末には双六が存在し、使われていた賽の目は、しばしば音読みされていたことになる。 《祖別命》 祖別の訓みについては、ネットでは、「おほぢわけ」「みおやわけ」が拮抗している。 前者は、記の「おちわけ」と類似する。後者は『釈日本紀』(13世紀末)巻四には、「祖別命【ヲヤワケノ】」が見えので、古事記が忘れられていた時期(12~17世紀?)に、訓み習わされてきたのかも知れない。 「祖」はオヤが正しいが、藤原定家(1162~1241)は、「オ」「ヲ」を高低アクセントを基準にして使い分けしていた(お=平声、ヲ=上声)と言う(田辺佳代論文)。 定家によって、従来のオ・ヲの区別は断ち切られたことになる。 定家に限らず一般的な習慣になりつつあったとすれば、私記に見られるオ・ヲの混合は、鎌倉時代に筆写された時点で改竄されたことを意味する。 〈新撰姓氏録〉では、〖小槻臣/垂仁天皇皇子於知別命之後也〗〔おちわけ〕である。 【御身長・御脛長】
奈良時代の一尺(さか)を示すのが、正倉院宝物の紅牙撥縷尺(こうげばちるのしゃく)である。 正倉院北倉に、紅牙撥縷尺2点と緑牙撥縷尺2点があり、中倉紅牙撥縷尺4点がある。 表の装飾画によって1寸ごとに区切られるが、1分の目盛がないので儀式用だと考えられている。 長さは29.8cm~30.7cm、平均30.1cmなので、1尺(曲尺)の長さは明治時代までほとんど変わっていない。 また、白牙尺は、実用である。 なお、曲尺の1.25倍にあたる鯨尺も使われた。 曲尺を適用すれば、垂仁天皇は身長は約3.09m、脛長だけで約1.24mというとんでもない大男である。 「一丈二寸」は不自然なので、「一丈二尺」の筆写ミスだとすれば、更に高く3.6mとなる。 「一丈」だけなら大男の比喩としてあり得るが、端数がつき、さらに脛長4尺2寸まで示されるとリアルな値ということになるので、理解不能である。 おそらく何らかの伝説があり、その数値だけを割注として書き添えたのであろう。 【旦波比古多多須美知宇斯王の女】
書紀の表記は「丹波道主王」、四道将軍の一人で丹波国を攻略した(第113回)。 垂仁紀では、五女王のうち帰されたのは一人で、竹野媛である。 記では開化段系図、垂仁段系図、沙本毘売の遺言、遺言による入内の四か所に分かれて載っているが、それぞれに相違がある。 まず、遺言では二女王とする。結果的に四女王が入内するが、そのうち二人が容姿が劣るとして帰された。 ところが系図では三女王が妃となる。女王の名前については、長女の氷羽州比売こそ何とか一致するが、それ以外は一定しない。
美知宇斯王の女の入内は、箇所ごとに異なるソースを用いたようだ。これは、記が民間の伝説を素材にして作られたことの、ひとつの表れだろう。 なお、同じ系統の説話は、木花之佐久夜毘売と石長比売の話にも見られる(第86回【解釈】)。 【迦具夜比売】 竹取物語の「かぐや姫」の名はここから採られたか。 竹取物語に関連する要素としては、迦具夜比売の曽祖母は、丹波出身で竹野比売という。 {丹後国・竹野郡}という地名もある(丹後国は、古事記の時代は丹波国の一部)。竹の霊力がある土地だったのかも知れない。 また、父の名の一部「筒木」と同音の{山城国・綴喜【豆々岐】郡}には、〈延喜式〉「山城国/綴喜郡十四座/月読神社」がある。 これらが竹取物語の中の「竹」「月」に繋がるのではないかと言われる。 【鳥取】 印色入日子命の宮が置かれた「鳥取」の地名は、誉津別王に繋がっている。 書紀では誉津別王に言葉を話せるようにさせた功績により、湯河板挙に鳥取造を賜り、鳥取部などが定められた(別項)。 【池】
《狭山池》 狭山池は修復を重ね、現代の狭山池ダムとなっている。遺跡から出土した樋管の年代測定から、推古朝の頃に作られたことが確定している(第115回【依網池】)。 ただ、それ以前に小さな溜池があったことまでは否定されないが、7世紀前半の「造修池の事業を、より上代に遡らせて崇高化させる」(川内眷三氏)と見るのが妥当であろう。 書紀では倭(大和国)の狹城池・迹見池となっている。狭城池は倭国だから、佐紀(さき)丘陵の辺りである(第114回【地名】《〖平城山〗》)。 すると、記の「狭山池」とは一致しない。推古天皇が大工事で作った狭山池であるが、書紀で触れられないのは謎である。 「倭の」は迹見池にもかかるので、迹見池は鳥見山の近辺であろうと思われる。 《血沼池》 書紀は「茅渟池」。泉佐野市の布池、道ノ池とする説もある(泉佐野市立図書館/郷土・行政資料、以下〈泉佐野資料〉)。布池の一部は埋め立てられ、泉佐野市役所が建ったという。 『古事記伝』に、和泉志に「茅渟池=布池」とあると言うので、確認する。 〈五畿内志―和泉志五〉日根郡【山川】に、珍努池【在二野野村西一廣三百三十畝相傳印色入日子命所レ鑿今曰二布池一。 〔野野村の西に在り、広さ三百三十畝。相伝1)に印色入日子命の鑿(ほ)2)る所、今に布池と曰ふ。〕 1) 相伝…代々受け継いで伝える事。「家訓を相伝する」。 2) 鑿…[名] のみ。[動] うがつ(=穿つ)。(古訓)のみ。うかつ。ほる。 《日下の高津池/河内の高石池》
本居宣長は、賀茂真淵が唱えた「高津池は高石池の誤り」「高津は楯津か」という説に対しては、否定的である(右)。 【鳥取之河上宮】 記では鳥取之河上宮に居て、その地に「川上部」(かはかみべ)、つまり印色入日子命に仕える部民を定めた。 しかし、垂仁天皇紀では、石上神宮の奉納した1000口の太刀の名称が川上部である。別名は「あかはだかとも」とされ、 伴(とも)の訓に合わせたためか、伝統的に「かはかみのとも」と訓む。川上部が作った太刀だから、太刀の名も「川上部」なのであろう。 川上宮の場所は、書紀では「茅渟」の「菟砥」とされる。とすれば、「鳥取」は〈倭名類聚抄〉和泉国/日根【比禰】郡/鳥取【止々利】である。 江戸時代の中鳥取村は合併により、明治22年に東鳥取村になった。現在は阪南市に和泉鳥取という地名が残る。 阪和線和泉鳥取駅の西1kmには、菟砥川がある。 〈延喜式〉神名帳に「日根郡十座」があるが、そのうちどれかが「川上宮」かも知れないが、特定しがたい。 「日根郡十座」の一社に男神社(おのじんじゃ)があることが、興味深い。男神社は、神武天皇の兄、彦五瀬命の戦死に因む神社である(参照―第96回)。 【石上神宮】 印色入日子命が太刀1000口を奉納した石上神宮は、これまでも由緒ある剣が奉納されている。 八岐大蛇を切った剣:「其断蛇剣、号曰蛇之麁正、此今在石上也」一書2(第53回)。 神武天皇に高倉下が献上した横刀:「此刀名云二佐士布都神一亦名云二甕布都神一亦名云二布都御魂一此刀者坐二石上神宮一也」 書紀の表現は「韴霊【赴屠能瀰哆磨】」 (第97回)。 地名に〈倭名類聚抄〉大和国・山辺郡・石上【伊曽乃加美】〔いそのかみ〕郷がある。
「石上坐布都御魂神社」の名の由来となった「韴霊(ふつのみたま)」の剣については、明治7年(1874)に石上神宮の禁足地から、多数の菅玉などと共に発掘された一口の剣の報告がある。 『石上神宮宝物誌』(石上神宮編/1980復刊、以下〈宝物誌〉)によれば、発掘に当たった菅政友大宮司は報告書の中で 「折損し候(そうら)ふ所もこれ無く、其の他刀剣様の物一切これ無く候ふ間(あひだ)、伝説の如くこの剣韴霊なること疑ふべきにあらねば、取り敢へず仮に神庫へ鎮安仕置き候」 として、発掘した剣は韴霊であると断定しているが、これは無論大宮司の主観である。 しかし、発掘場所は「高さ2尺8寸〔84.8cm〕長径3間半〔6.4m〕余の封土が存在し中央に太さ2尺5寸のカナメが樹てる箇所」で、発掘すると一尺程度の石で方形の区画を造り瓦を敷き詰めてあったと言う。 そこに置かれていたのがこの剣であるから、秘宝であったことは疑いない。 剣の写生図によれば、長さ2尺8寸6分0厘〔28.67cm〕の内反(うちぞり)環頭太刀で、大陸・朝鮮半島の影響を強く受けたものとされる。
《御由緒》 石上神宮の〈御由緒〉によれば、饒速日命は「天璽十種瑞宝」を持って天降りしたという(石上神宮公式サイト)。 神宝は「瀛津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、足玉(たるたま)、死返玉(まかるがへしのたま)、道返玉(ちがへしのたま)、蛇比礼(へみのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品物比礼(くさぐさのもののひれ)」 とされ、比礼には大国主大神が須佐之男命を訪れた話の影響が見られる。また道返玉や八握剣は、伊邪那岐命が黄泉の国を訪れた話を連想させる。 《太刀1000口の奉納》 太刀1000口は、垂仁紀の「一云(あるいはく)」によれば初めに忍坂邑に置き、後に石上神宮に移した。忍坂は、押坂山口神社(奈良県桜井市)の辺りと見られる(第99回【忍坂】)。 想起されるのは、メスリ山古墳に大量の兵器が副葬されていた事実である(第115回)。 同古墳は押坂山口神社に近い。 垂仁紀には、物部連らが石上神宮を管理したとあるので、物部氏の祖は兵器の製造に携わっていたと考えることができる。一般的にも、物部氏は<wikipedia>元々兵器を製造・管理を主に管掌していた</wikipedia>と言われる。 鳥見山王朝において、物部氏が製造した兵器が忍坂邑の兵器庫に収蔵され、後に纏向王朝に遷ったとき、石上神宮に移されたのかも知れない。 因みに同書は、垂仁天皇紀の「神庫のために梯を造る」などの文から、「当時の神庫は梯を以て昇降する所謂高倉であり、正倉院その他上古の倉庫の形式と同一であったことを知り得ら」ると述べる。 現在の神庫は<石上神宮の歩き方>嘉永4年(1851)に再建され明治45年(1912)に現在地に移築された</同ページ>ものだが、高床式・校倉造の伝統を引き継いでいる。 《物部氏》 〈姓氏家系大辞典〉は、物部氏は 「神別〔地祇系〕第一の大族」で、太田亮氏の「研究範囲内に於いては、筑後平原と考へられ」、 「神武天皇御東征以前、饒速日命は其の部族を率ゐて、大和に移れり。その道筋については」 「後の物部氏の分布より見れば、筑後川を遡りて、九州の東岸に出で、四国の北岸を縫いて、畿内地方に達し、河内、或いは熊野より大和に入りしものと考へらる。」と述べる。 本稿では、これまでに、「三輪山西から纏向一帯には次々と西方から氏族がやってきて王朝が交代した」と考えた(第112回【御諸山の神と天孫族、そして出雲勢力】) また、饒速日命が天孫に先んじて畿内に降りたことは、「渡来民は波状的にやってきたと考えるのが自然で、その一部は畿内に向かい、青垣山でも民族の交代があったと想像される。『以前にその地に天降りした者がある』という塩土老翁の話は、それを反映したように思われる。」 と論じた(第96回まとめ)。 この「神武東征は、諸族が波状的に西から移動してきたことのひとつである」とする立場は、太田亮氏の考察にも共通するものがある。 【阿邪美都比売命】 阿邪美都比売命は稲瀬毘古王に嫁いだと言う。では、稲瀬毘古王とは誰であろうか。 景行天皇紀では、水歯郎媛(みづはのいらつめ)の間に稲背入彦皇子を生む。この皇子の名が対応するが、記には出てこない。 【布多遅能伊理毘売】 布多遅能伊理毘売は、倭建命(やまとたけるのみこと)に嫁ぐ。倭建命は景行天皇の皇子である。 【伊登志和気王】 《伊(登志)部》 古事記伝では、 「諸本ハ登志二字を脱し、部ノの字を部に誤リて、伊都と作り」とあるので、 宣長が見た写本は、どれも「伊都」だったらしい。真福寺本も「伊都」だったとするが、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの真福寺本(京都印書館/1945)では、「因无子而爲伊子代定伊部」である(右図)。 この写本には、「為」の次にもう一つ「伊」があるが、これは理解不能である。 宣長の引用には余分な「伊」はなく、「登志」を補い「因無子而爲子代定伊(登)(志)部」としている。 〈大辞典〉は、安閑紀に「膽年部」(いとしべ)があるから、「伊部と云ふも伊登部と云ふもあり早くより省略に従ひしものか。」とする。 安閑天皇紀2年5月には「置……婀娜國膽殖屯倉・膽年部屯倉」〔婀娜(あな)の国に胆殖(いゑ)の屯倉(みやけ)・胆年部(いとしべ)の屯倉を置く。〕 「あな」は『国造本記』に吉備穴国造。備後国の安那郡と言われる。ただし倭名類聚抄では{備後国・安那【夜須奈】郡}で〔やすな〕と訓む。 さて、〈大辞典〉「伊部」の項は「伊登志和気王の御子代なるか。されど別に伊登志部なるもの存ずれば、未だ明言しがたし。越前国に伊部郷及び伊部磐座神社あり。」〔{越前国・敦賀【都留我】郡・伊部}『延喜式』越前国/敦賀郡/伊部磐座神社〕 そして越前国や筑前国などに伊部造(いべのみやつこ)を見出しているが、「伊登志部=伊部」か否かの判断はなかなか難しい。 ウェブでどのように原文を引用しているかをカウントする※と、「伊登部」2件、「伊登志部」9件である。このように一般には、伊登志部=伊部と見做されているようである。※…2016年1月26日現在。 《子代》 伊登志和気王は子がないので、伊部を子代(こしろ)にしたとする。 辞書で子代を調べると「皇子のための部民」、「御子がないために代りに設置された部民」の両説がある。 後者は、まさにここの「因無子」に該当する。しかし現実的には子が生きていてこそ、子代=皇子に尽くす部があり得るのだから、一般的な意味は前者である。 ただ、ここの「子代」に限っては、熟語を解体して「子の代わり」と解釈するのが自然である。 つまり、「子無きによりて、子の代(しろ)として伊部を定めたまふ。」と読む。 【派生氏族】
これまで、孝元天皇の孫、武内宿祢系の派生氏族は、朝臣姓クラスの有力氏族であった(第108回)。 また、開化天皇からの派生氏族は、国造・連が中心であった(第109回)。 これらはどちらかと言うと、各氏族が主張する系図の祖を形式的に初期の天皇の皇子とし、権威づけるのが目的かと思われる。 それに対して、この段の派生氏族の姓は古い「別」で、 古墳時代初期の歴史的事実をある程度反映しているようにも思われる。
ここで四道将軍の派遣と垂仁段の派生氏族の配置を併せて見ると、初期大和政権が各地に植民地を設けたようすが浮かび上がってくる。 「部」というのは、そのようにして各地に成立した集団で、それぞれの統治者として皇子を配置したと考えることができる。その皇子の子孫に与えられた姓が「別」で、これはまさに、拡張した領地を「分け与えた」ことを意味する。 部と別が両方入った「沙本穴太部之別」が、部の統率者である「別」の立場を示している。 ここで思い浮かぶのは、魏志倭人伝で対馬国・壱岐国・奴国・不弥国の副官とされた「卑奴母離」〔ひなもり〕である。 越後国の{越後国・頸城郡・夷守【比奈毛里】}は、夷(異民族)に接する縁辺地の「守」という意味を直接的に表している。 また、比奈守神社(岐阜県岐阜市茜部本郷2丁目67番地の1)は式内社(『延喜式』美濃国卅九座/厚見郡三座/比奈守神社)である。 「ひなもり」は、3世紀後半に国境地帯に置かれた可能性が高い(魏志倭人伝をそのまま読む第6回)。 さらに、尾張は時代ごとに国が終てる「をはり」を意味し、西の端と見られるのが{備前国・邑久【於保久】郡・尾張【乎八利】}である(第105回《尾張連》)。 熱田神宮に置かれた草薙の剣は、もともとは国境の守護神であった見られる。 初期大和政権(4世紀前半)は、山陽道は備後国、東海道は三河国、北陸道は越後国あたりまで進出し、各地に部を設け別を任命し、縁辺部に夷守を置き、「おはり」の地と呼ばれた。 よって、崇神段で豊木入日子命を上毛・下毛を与えたとはいうが、その地域の領有が現実化したのは、もう少し後の話だろう。 また、魏志倭人伝を考え合わせると、山陰道については古代出雲王国の支配域を引き継ぐ形で北九州から対馬まで勢力が及んでいたと想像される。 古墳時代初期の実質的な勢力圏の実証的な目安として、纏向遺跡の搬入土器の出身地割合を見ると、<wikipedia>伊勢・東海49%、北陸・山陰17%、河内10%、吉備7%、近江5%、関東5%、播磨3%、西部瀬戸内海3%、紀伊1%</wikipedia>となっている。 【斎宮】 崇神天皇段には「皇女、豊鉏入日売命【拜祭伊勢大神之宮也】」、 垂仁天皇段には「皇女、倭比売命【拜祭伊勢大神之宮也】」とあり、斎王の習慣を崇神朝まで遡らせている。 それに対して書紀では、垂仁紀で初めて「祠立於伊勢国。因興斎宮于五十鈴川上、是謂磯宮」〔祠を伊勢国に立て、因りて五十鈴川上に斎宮を興し、これを磯の宮という。〕とあり、 すでに伊勢神宮近くに斎宮が設置されたことを明示する。 歴史上最初の斎王は、天武天皇による大来皇女の派遣と見られる。 天武天皇紀では、「斎宮」は泊瀬(磯城郡)にあり、大来皇女が伊勢神宮に出かける前に身を浄めた宮である。 後世、斎王のための御所として斎宮寮が設置されが、正式に「斎宮寮」の名が用いられたのは718年のことだと言う。 斎宮寮跡は三重県多気郡明和町大字斎宮にあり、内宮までの直線距離は約13kmである。 ところが、天武朝の斎宮は伊勢神宮に赴く前に身を浄める宮という位置づけである。伊勢神宮近くに常駐する宮としての「斎宮」はその後にできた。 従って、垂仁紀の「斎宮」は飛鳥時代末の感覚によるもので、神宮に近接した斎王の御所である。垂仁紀では天武天皇を飛び越えて、フィクションとして斎王制度の起源譚を書いたものである。 【倭建命】 倭建命(やまとたけるのみこと)は、景行天皇の皇子である。 【部】 《部とは》 いくつかの辞書・事典の説明からまとめると、部とは次のようなものである。 部(べ)の語源は、5世紀頃から百済から帰化した職能集団が、本国の呼称を持ち込んだものと考えられている。 それ以前は、官僚が職務を分担したグループを「伴(とも)」と言った。〔殿部(とのもり)、史部(ふびと)など〕そこから民衆を組織した職能集団に発展したころ、 呼称が「部(べ)」となった。〔楯(たてぬい)部、土師部、服部など〕 また、皇族の私有民である名代・子代も部と呼ばれた。 やがて、朝廷に服属するようになった有力豪族が従えた民衆の集団(民部)も、部と呼ばれるようになった。 それらには氏の名が冠せられる。〔中臣部・曽我部〕 制度としては大化の改新(大化2年;646)で廃止されたが、一部の職業部はなお存続した。 以上が定説であるが、本稿は【派生氏族】で論じたように、これらのうち名代・子代は、朝廷勢力が全国に支配域を広げていく過程で、 植民地として設置したものであろうと推定するものである。 《大化の改新の詔》 全部で4条のうち、「其一」(第一条)で部の廃止が命じられる(孝徳天皇紀)。即ち、 罷二昔在天皇等所立子代之民・処々屯倉・及別臣連伴造国造村首所有部曲之民・処々田荘一。 〔昔より在りし天皇らの立たせし子代の民、処々の屯倉(みやけ)及び、別・臣・連・伴造・国造・村首の有(をさ)む部曲(かき)の民、処々の田荘(たどころ)を罷(や)む。〕 全体として、各地の豪族が民衆を囲い込んで私有するしくみを廃した。それではそれぞれの長はどうやって食を得るかということになるが、 その次に「仍(すなはち)賜二食封大夫以上一、各有レ差。」などと書かれる。つまり、大夫(一定クラス以上の官僚)は、格に応じて食封(=封戸;一定数の公民)が与えられる。 また、国造は制度そのものがなくなり、新たに「其二」(第二条)で国司・郡司が定められた。国の形を天皇・皇族・豪族の私的な支配構造の集合体から、中央集権に改めたわけである。 しかし、職能集団の部の方には触れられていないから、どうやらそのまま残っている。ただ、その管轄は新たに定められた官職に付け替えられたのだろう。 なお、「郡」は古くは「評」と呼ばれた。その切り換えの時期については、木簡の研究によって、700年までは「評」、701年から「郡」であることが確定した。 だから、大化二年の時点では「評司」であった。確かに書紀が完成した720年には「郡」である。従って、書紀は時間を遡って「郡司」を用いたわけである。 《部曲》 改新の詔の其の一に挙げられた部曲(かき)の順番は、天皇に近い順である。つまり、 天皇・皇族の子代⇒別⇒臣⇒連⇒伴造⇒国造⇒村首。子代の統治者は初代は皇子であるが、代を重ねるうちに朝廷と縁遠くなっていく。 そして皇子の血を受け継ぐ家系が、「別」と呼ばれたのであろう。これは【派生氏族】の項で述べた通りである。 臣・連は、基本的に血縁関係のない氏族が天皇の許に馳せ参じた存在であることを、呼び名が物語っている。 臣(しん)はもともと召使い・奴隷の意味で、家来を意味する。連(つらぬ)は、主君のもとに連なって存在する。 この臣・連以下、中央→地方、広い行政範囲→狭い範囲の順に、格が下がっていくと見られる。 このようにして、出発点でこそ行政の一画を担い、一定の秩序があったが、結局はどれも私的な派閥や地方権力と化していたから、まとめて廃されたのであろう。 かきという呼び方や、曲の字に、公をまげた私的な存在であるとする意識が感じ取れる。
2目次《垂仁天皇即位》
冬十月(かむなづき)癸卯(みづのとう)朔癸丑(みづのとうし)〔11日〕※、御間城(みまき)天皇を[於]山辺道上陵(やまのへのみちへのみささき)に葬(はぶ)りたまふ。 十一月(しもつき)壬申(みづのえさる)朔癸酉(みづのととり)〔2日〕、皇后(おほきさき)を尊(たふと)び皇太后(おほみさき)と曰(よ)びまつる。是の年[也]、太歳(たいさい、ふととし)壬辰(みづのえたつ)。
后(おほきさき)誉津別命(ほむつわけのみこと)を生みたまひ、生(うまれながらにして)[而]天皇之(こ)を愛(あはれ)み、常に左右(もとこ)に在り、壮(さかり)に及びて[而]不言(こといはず)。 冬十月、都[於]纏向(まきむく)に都を更(かさ)ね、是珠城宮(たまきのみや)と謂ふ[也]。 《大意》 元年春1月2日、皇太子は天皇に即位しました。 10月11日、御間城(みまき)天皇山辺道上(やまのべのみちえ)の陵(みささき)に葬りました。 11月2日、皇后を尊び皇太后としました。この年の太歳、壬辰。 2年春2月9日、狭穂姫を皇后に立てました。 皇后は誉津別命(ほむつわけのみこと)を生みなされ、生まれながらにして天皇は愛(いと)しみ、常に身辺に置きましたが、成長しても言葉を発しませんでした。 10月、都を改めて纏向に定め、これを珠城宮(たまきみや)と言います。 【書記―天照大御神】 12▲目次 《天照大御神》
爰(ここに)倭姫命、大神(おほみかみ)を鎮坐(しづめまさむ)[之]処(ところ)を求(ま)ぎて[而]菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に詣(い)き【篠、此(これ)佐佐(ささ)と云ふ】、更に[之]還(かへ)り近江(ちかつあふみ)の国に入(い)り、東(ひむがし)に美濃を廻(めぐ)り、伊勢の国に到りし時、 天照大神、倭姫命に誨(をし)へ曰(のたまはく)「是神風(かむかぜ)の伊勢の国、則(すなはち)常世(とこよ)之(の)浪(なみ)重(しき)浪(なみ)帰(よする)国にて[也]、傍国(かたくに)の可怜(うまし)国也(なり)。是の国に欲居(すまむ)。」 故(かれ)、大神(おほみかみ)の教への隨(まにまに)、其の祠(やしろ)を[於]伊勢の国に立たし、因りて、[于]五十鈴(いすず)の川上(かはかみ)に斎宮(いつきのみや)を興(た)て、是磯宮(いそのみや)と謂ひ、[則]天照大神の始め天(あめ)自(ゆ)降之(おりましし)処(ところ)也(なり)。
是以(こをもち)、倭姫命、[以]天照大神を[於]磯城(しき)の厳橿(いつかし)之(の)本(もと)に鎮(しづ)め坐(ま)せて[而]祠(まつ)る[之]。 然る後(のち)、神(おほみかみ)の誨(をしへ)の隨(まにまに)、丁巳(ひのとみ)年〔垂仁天皇26年〕冬十月甲子(きのえね)〔?/甲午なら18日〕を取り、[于]伊勢国の渡遇(わたらひ)の宮に遷(うつ)しまつる。 《丁巳年冬十月甲子》 元年が太歳壬辰とされるところからカウントすると、丁巳年は26年となる。 本サイトの計算では、その年の10月は丁丑朔である。その場合、甲子は48日という有り得ない日付になる。 それでは、計算上の暦は合わないのかと思って出雲の神宝の段を見ると、それがその直前の「26年8月朔戊寅」は計算上の日付とちゃんと合っている。 ことによると誤写かも知れないので、類似する文字を探すと「甲午」がある。これなら18日となり、存在しうる日付になる(参考[D])。では、様々なウェブサイトで「原文」として引用された中ではどうなっているかと言うと、すべて「甲子」なので、もし筆写における誤写だとすれば相当初期の段階で起ったことになる。 《伊勢の大御神》 崇神紀では、天照大御神は禍の神であったので、皇居の拝所に篤く祀っていたのを半ば野外に放り出すようにして、神籬(ひもろぎ)に祀った。 ところが、天照大神は現在伊勢渡会の大神宮に祀られている。その間を埋めるために、この段が必要なのである。 合わせて、これを斎宮制度の起源譚としている。 なお「一曰」における御杖とは、天照大御神の移動の際に使っていただくために、垂仁天皇が捧げたものである。補助する人を譬えたもの。 《大意》 〔25年〕3月10日、天照大神は豊鋤入姫(とよすきいりひめ)の命から離れ、倭姫(やまとひめ)の命に託されました。 ここに倭姫命は、大御神に鎮坐していただく所を求めて菟田(うだ)の篠幡(ささはた)を詣で、再び戻って近江の国に入り、東に美濃をめぐり、伊勢の国に来た時、 天照大神、倭姫命にこう告げられました。「ここは神風(かむかぜ)の伊勢の国、常世の浪(なみ)しき浪(なみ)寄する国にて、かたくにの美(うま)し)国です。是の国に居たいものです。」 よって、大御神の教えのままにその社を伊勢の国に立て、それにより、五十鈴の川上に斎宮を興し、これを磯宮(いそのみや)と言います。この地は天照大神が始めに天より降りました所です。 ある言われによれば、天皇は倭姫命を御杖(みつえ)として、天照大神に捧げられました。 これを以って、倭姫命は天照大神を磯城(しき)の厳橿(いつかし)の本に鎮坐していただき、祭りました。 然る後に、大御神の教えに随い、丁巳年〔垂仁天皇26年〕10月18日を期して、伊勢国の度会(わたらい)の宮にお遷ししました。 【書紀(垂仁天皇紀)―立太子・苅幡戸辺】 17▲目次 《立太子第一》
「汝等(いましたち)、各(おのもおのも)情(こころ)の願之(ねがふ)物(もの)を言ひたまへ[也]。」とのたまひ、 兄(このかみ)の王(みこ)諮(まをさく)「欲得弓矢(ゆみやをえむとおもひまつる)。」とまをし、 弟(おとと)の王諮「欲得皇位(ひつぎのくらひをえむとおもひまつる)。」とまをす。 於是(ここに)、天皇詔(のたまはく)[之][曰]「各(おのもおのも)宜(よろしく)隨情(こころのまにまに)なしたまへ。」とのたまひ、 則(すなはち)弓矢を五十瓊敷命に賜(たまは)り、仍(すなはち)大足彦尊に詔(みことのりしたまはく)[曰]「汝(いまし)必ず朕位(わがくらひ)を継ぐべし。」とのりたまひき。 《埴輪第二》 <略> 19▲目次 《山背苅幡戸邊》
時に左右(もとこひと)奏言(ことまをさく)[之]「此の国に佳(よき)人有り。綺戸辺(かにはたとべ)と曰(まを)し、姿形(かたち)美麗(うるはし)、山背(やましろ)の大国不遅(おほくにのふぢ)之女(むすめ)也(なり)。」 天皇、於茲(ここに)、矛(ほこ)を執(と)り祈[之](うけひし)曰(のたまはく)「必ず其の佳き人に遇(あ)はば、道路(みち)に瑞(みづ)を見たまはむ。」とのたまふ。 [比][于]行宮(かりみや)に至るころかも、大亀(おほかめ)河中(かはなか)に出で、天皇矛を挙げ亀を刺せば、忽(たちまちに)化(かは)りて白き石(いは)と為(な)りぬ。 左右(もとこひと)に謂(のたまはく)[曰]「此の物に因りて[而]推[之](おしはかれば)、必ず験(しるし)有らむ[乎]。」とのたまふ。 仍(すなはち)綺戸辺(かにはたとべ)を喚(め)し[于]後宮に納めたまひ、磐衝別(いはつきわけ)の命を産みたまひ、是(これ)三尾(みを)の君の始めの祖也(なり)。 是の先、山背の苅幡戸辺(かりはたとべ)を娶(めあは)せ、三男(みはしらのをのみこ)、第一曰(だいいちにいはく、ひとつ)祖別(おほぢわけ、みおやわけ)の命、第二に曰く(だいににいはく、ふたつ)五十日足彦(いかたらしひこ)の命、第三に曰く(だいさむにいはく、みつ)胆武別(いたけるわけ)の命を生みたまふ。 五十日足彦命、是(これ)子(みこ)は石田君之始祖(はじめのおや)なり[也]。 《弟による皇位継承》 兄を差し置いて弟が皇位を継承する話は類型通りだが、この類型が出てくる度に話が簡略になっている。 かつては兄は弟に反逆して自滅するパターンだったが、だんだんと従順になる。 《磐衝別命》 磐衝別命の命名譚として、天皇が亀を衝いて岩となった伝説を添えている。 どこかの磐座信仰と結びついているかも知れない。一説によると、松尾大社の奥の磐座は大亀に似ているという。 《石田君》
30年正月6日、天皇は五十瓊敷(いにしき)の命・大足彦(おほたらしひこ)の尊に 「お前たちが、それぞれ心に願うものを申してみよ。」と仰りました。 兄皇子は「弓矢を得たいと望みます。」と申し上げ、 弟皇子は「皇位を得たいと望みます。」と申し上げました。 ここに、天皇はこう「それぞれ心のままにせよ。」と命じ、 すなわち弓矢を五十瓊敷命に賜わり、大足彦尊には「お前が必ず朕の位を継げ。」と詔しました。 〔中略〕 34年3月2日、天皇は山城にいでましました。 時に、側近はこう奏上しました。「この国によき人がいます。綺戸辺(かにはたとべ)と申し、姿形うるわしく、山城の大国不遅(おおくにのふじ)の娘です。」 天皇、ここに矛を執り願い事をし、「必ずその佳き人に遇えるのならば、行く道に瑞祥を見ることだろう。」と仰りました。 行宮(かりみや)に至るころでしょうか、大きな亀が川の中に出現し、天皇が矛を挙げ亀を刺したところ、忽ちに姿を変え、白い石となりました。 側近に「この出来事によって推し量れば、必ず験(しるし)が現れるであろう。」と仰りました。 このようにして、綺戸辺(かにはたとべ)を召喚し、後宮に納められ、磐衝別命を生みなされました。この皇子が三尾君の始祖です。 この以前に、山城の苅幡戸辺を娶り、三人の皇子、第一に祖別(おおじわけ、みおやわけ)の命、第二に五十日足彦(いかたらしひこ)の命、第三に胆武別(いたけるわけ)の命を生みなされました。 五十日足彦命の御子は、石田君の始祖です。 【書紀(垂仁天皇紀)―五十瓊敷命】 20▲目次 《遣二五十瓊敷命一作池》
冬十月(かむなづき)、倭(やまと)の狭城池(さきのいけ)及び迹見池(とみのいけ)を作らしむ。 是の歳(とし)、諸(もろもろ)の国に多(さはに)池(いけ)溝(みぞ)を開(ひら)か令(し)め、八百(やほ)を[之]数(かぞ)へ、 以(もちて)農(なりはひ)に事を為すは、因是(このゆゑ)に、百姓(みたみ、おほみたから)富み寛(ゆたか)となり天下(あめのした)大(おほきに)平(たひらぐ)[也]。 21▲目次 《立太子第二》
22▲目次 《作剣一千口》
因(よりて)其の剣を名(なづ)け、川上部(かはかみのとも)と謂ひ、亦の名は裸伴【裸伴、此れ阿箇播娜我等母(あかはだがとも)と云ふ。】と曰ひ、[于]石上(いそのかみ)の神宮(かむみや)に蔵(をさ)む[也]。 是後(こののち)、五十瓊敷命に命(みこと)し、石上の神宮之(の)神宝(かむだから)を主(つかさど)ら俾(し)む。
是の時、楯部(たてぬひべ)・倭文部(しとりべ)・神弓削部(かむゆげべ)・神矢作部(かむやはぎべ)・大穴磯部(おほあなしべ)・泊橿部(はつかしべ)・玉作部(たまつくりべ、たますりべ)・ 神刑部(かむおさかべ)・日置部(ひおきべ)・大刀佩部(たちはきべ)、并(あは)せて十箇(とつ)品部(しなのとも)を、五十瓊敷の皇子に賜(たま)ふ。 其の一千口(ちくち)の大刀(たち)者(は)、[于]忍坂邑(おさかのむら)に蔵(をさ)む。 然(しかれども)後(のち)に、忍坂(おさか)従(より)之(これ)を移し、[于]石上の神宮に蔵む。 是の時、神の乞(あたへし)[之]言(こと)にいはく「春日(かすか)の臣(おみ)の族(うがら)、名は市河(いちかは)をして、治(をさ)め令(し)め。」とあたふ。 因(よりて)命(みこと)を以ち市河に治め令(し)むる、是(これ)今の物部(もののべ)の首(おびと)之(の)始めの祖(おや)也(なり)。 《大穴磯部》 《刑部》 「刑部」のよみには、おさか・おさかべ・おさべ・ぎょうぶ・けいぶ、等がある。 漢籍の刑部(けいぶ)は、隋の時代に成立した中央官庁のひとつである。「ぎょうぶ」は呉音。 〈倭名類聚抄〉『官名第五十一』には{刑部省【宇多倍多々須都加佐】}。 これは「訴へ立たす司」と考えられるので、「うたへ」は「訴へ」であって「うた部」ではない。 地名としては、〈倭名類聚抄〉に「刑部」が16か所あり、いくつかは{伊勢国・三重郡・刑部【於佐加倍】}、即ち「おさかべ」の訓が付される。 書紀にはもう一つの起源譚がある。それは、允恭天皇2年「立二忍坂大中姫一為二皇后一、是日、為二皇后一定二刑部一」とされ、 「おさかべ」が地名「忍坂」に由来することが示される。 従って、最初に忍坂(おさか、おしさか)に「おさか部」が成立し「刑部(けいぶ)」の仕事をしたから「刑部」を宛てた。後に職能集団としての機能は形骸化し、部族として各地に散ったと見るのが妥当である。 各地で何通りかの表記があったかも知れないが、好字令(地名の二文字化、713年)により、どこもこの字を宛てたと想像される。 忍坂は、押坂山口坐神社の辺りとされる(第119回)。 なお〈丙本〉にある「遠左加倍」の「ヲ」は、鎌倉時代以後の混用によるものと見られる(前述)。 《日置部》 もともと{大和国・葛上郡・日置郷}に居住したか。倭名類聚抄・原注・私記には訓がないので、もともと常識的な訓「ひおき」であったのだろう。 その職務は不明であるが、原始的な暦は決められた枠に一日一個ずつの石を置いたと想像されるから、それに由来するか。だから、暦を掌っていたのかのかも知れない。あるいは、単に地名か。 《泊橿部》 泊(はつ)は、初瀬か。前述《天照大神》の項に、「以天照大神鎮坐於磯城厳橿之本」とあるから、初瀬の地で神籬に神を祀ったことに由来するかも知れない。 『延喜式』に「山城国/乙訓郡/羽束師坐高御産日神社」〔はづかしにますたかみむすび神社〕がある。 《その他の部》 「倭文(しつ)」は倭の織物。それに対して、漢(あや)などからの外来の織物は「あや(綾・文)」。 中臣部は、起源は中臣氏の部民であったのだろうが、〈新撰姓氏録〉には、多くの中臣系の朝臣・連と並んで中臣部がある。 記紀のころには、「大」をつけ得るような独立氏族となっていたのだろう。 《品部》 平安時代の古訓にでは、垂仁天皇紀の「品部」は「とものみやつこ」、孝徳天皇紀の「品部」は「しなしなのとものを」と訓まれた。 しかしここでは、部の統括者たる「みやつこ」は不適切で、「とものを」あるいは「とも」と訓むべきである。 「しなじな」は、古語辞典には『源氏物語』(1008年ごろ)〈帚木〉の文例「そのしなじなやいかに」が載るが、上代にはあっただろうか。 〈時代別上代〉に「しなじな」はないが、「くさぐさ」はあるので、「しなじな」もあるいは可能かも知れない。 しかし「十箇」は「品」ではなく「品部」にかかるので、切り離した「品」だけを複数にするのは適切ではない。 《市河》
《大意》 35年9月、五十瓊敷(いにしき)の命を河内(かわち)の国に遣わし、 高石池・茅渟池を作らせ、 10月、倭(やまと)の狭城池(さきのいけ)及び迹見池(とみのいけ)を作らせました。 この年、諸国に多くの池、用水を開かせ、その数は八百を数え、 こうして農業政策を行なったところ、百姓は富み豊かとなり天下大平となりました。 37年正月一日、大足彦尊(おおたらしひこのみこと)を立太子させ、皇太子にしました。 39年10月、五十瓊敷の命は、茅渟(ちぬ)の菟砥(うど)の川上の宮に入り、剣一千口を作りました。 よってその剣の名は川上部と言い、またの名は裸伴(あかはだがとも)と言い、石上(いそのかみ)神宮に収蔵しました。 その後、五十瓊敷命に命じ、石上神宮の神宝の主としました。 〖別伝では、五十瓊敷の皇子、茅渟の菟砥の河上にいらっしゃり、鍛冶、その名は河上部を召喚し太刀一千口を作らせました。 この時、楯部(たてぬいべ)・倭文部(しとりべ)・神弓削部(かむゆげべ)・神矢作部(かむやはぎべ)・大穴磯部(おおあなしべ)・泊橿部(はつかしべ)・玉作部(たまつくりべ、たますりべ)・ 神刑部(かむおさかべ)・日置部(ひおきべ)・大刀佩部(たちはきべ)、併せて十の品部(しなべ)を、五十瓊敷の皇子に賜わりました。 一千口の太刀は、忍坂邑(おさかむら)に収蔵し、 その後、忍坂よりこれを移して、石上神宮に収蔵しました。 この時、神から与えられた言葉、「春日臣の一族、名は市河(いちかわ)に、治めさせよ。」 によって、市河に治めさせました。これが今の物部(もののべ)の首(おびと)の始祖です。〗 【書記(垂仁天皇紀)―石上神宮】 23▲目次 《石上神宮》
「我(あれ)老(お)いたれば[也]、神宝(かむだから)を不能掌(つかさどることあたはず)。今自(よ)り[以]後(のち)、必ず汝(な)が主(つかさど)るべし[焉]。」とのたまふ。 大中姫の命辞(いな)びて曰(まをさく)「吾(あれ)手弱(たよはき)女人(をみな)にしあれば[也]、何(いかに)や天(あめ)の神庫(ほくら)に能(よく)登(のぼらむ)[耶]。」【神庫、此れ保玖羅(ほくら)と云ふ。】とまをす。 五十瓊敷の命曰(のたまはく)「神庫(ほくら)雖高(たかしといへど)、我(あれ)能(よく)神庫の為(ため)に梯(はし)を造らむ。豈(あに)庫(ほくら)に登ること煩(わずら)はむ乎(や)。」 故(かれ)、諺(ことわざ)に曰(いはく)「天之(あめの)神庫(ほくら)も[之に]梯(はしたて)を樹(た)てる隨(まにまに)」此(これ)其の縁(よし)也。
故、物部連等、[于]今に至り石上の神宝を治(をさ)む、是(これ)其の縁(よし)也(なり)。
則(すなはち)甕襲の家に犬(いぬ)有り、名は足往(あゆき)と曰ふ。 是の犬、山の獣(けもの)、名は牟士那(むじな)を咋(く)ひて[而]之(こ)を殺し、則(すなはち)獣の腹に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)有り。 因以(しかるがゆゑに)之(こ)を献(まつ)る。是の玉、今は石上の神宮に有り[也]。 《桑田村》 《大意》 87年2月5日、五十瓊敷(いにしき)の命は、妹の大中姫(おおなかつひめ)に 「私は老いたので、神宝を掌ることができません。今より後は、是非お前が掌ってほしい。」と仰りました。 大中姫の命は辞退し「私はた弱き女(おみな)です。どうして天(あめ)の神庫(ほくら)に登ることができましょう。」と申し上げました。 五十瓊敷の命は、「神庫は高いといえども、私は神庫のために梯子を作ってあげることができます。どうして神庫に登ることが大変でありましょうや。」と仰りました。 さて、諺に「天の神庫も梯子を立て次第」と言うは、これがその所以です。 けれども、結局大中姫の命は、物部十千根(もののべのとちね)の大連(おおむらじ)に授けて管理させました。 以上、物部連等が今に至り石上の神宝を管理するのは、これがその所以であります。 昔丹波(たんば)の国の桑田の村に、甕襲(みかそ)いう名の人がおりました。 そして甕襲の家に、名を足往(あゆき)という犬がおりました。 この犬が、ムジナという山獣に食いついて殺したところ、獣の腹に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)ありました。 その故に、これを献上しました。是の玉は、今は石上の神宮にあります。 まとめ 神代、神武天皇・そして欠史8代を経て、地上の天皇の時代になった。 しかし、神話はまだ終わらない。 崇神段では、農業生産の安定を図るための貯水池の築造は、国の根幹事業であることが示された。 また、調(みつき、=物品による納税)についても書かれた。崇神紀ではさらに、戸籍・船舶の建造も開始される。 垂仁段・垂仁紀では、引き続き池の築造と溝の掘削、そして斎宮制度、品部についても書かれる。 これらの事業の開始は実際には後世のことである。 これらは国の根幹をなす崇高な事業だから、その起源を「初国知ろしめす」時に置くのである。これもまた、神話である。 神は地上に降りて天皇となったが、神話はそれだけでは終わらず、国の骨格となる仕組みの起源を神話として示す作業がまだ残っていたのである。 さて垂仁段の物語としての内容は、沙本(さほ)毘古・沙本毘売の反乱と、品牟都和気(ほむつわけ)の逸話だけである。 佐保地域の反乱は、地理的に見て崇神段に書かれた和泉川の戦いに連続しており、その前段であるように思われる。 垂仁段は、東海・北陸・吉備・丹波への進出に伴い、各地に名代・子代を設置していく経過を反映している。 しかしここは、基本的に多数の氏族の名前を挙げるのが目的である。欠史八代の表示が、諸族の形而上の起源を定義するのを目的としたのと同様である。 垂仁天皇はまだ初期王朝の大王たちの集合人格に含まれ、諸族の系図を示すための段落として設定されたように思える。 《石上神宮と物部氏》 書紀の、ムジナの腹から八尺瓊勾玉が出てきた話は興味深い。 もともと同神宮の神宝は、布都御魂という太刀である。また饒速日命が天降りのとき持ってきた宝には、瀛(おき)津鏡・辺津鏡が含まれている。 これらは言わば物部流の三種の神器であり、物部族は天孫族の相似形である。その他、東征した渡来族には阿曇族、東征はしないが渡来した宗像氏もあり、 各氏族の間には同一民族としての一定の同質性が生まれた。その上で物部族は、三種の神器の由来について、天孫族とは別の神話を仕立てていたわけである。 物部氏の祖先が東遷して畿内に来たとき、まず鳥見山周辺に住んだ。地名「とみ」に因んだ名は、長髄彦(登美毘古)、鳥見邑、鳥見屋媛、霊鵄がある (第99回―金色霊鵄、長髄彦との交渉)。 神武即位前紀には、鐃速日命は「是物部氏之遠祖也」とちゃんと書いてある。 はじめに太刀1000口を置いたとされる忍坂(押坂山口神社の地)は、鳥見山の近くであった。そして、そこは鳥見山古墳群の地である。 だから、初期の物部氏一族はこの地で、一時は外山王朝を打ち立てることに成功し、2代続いた大王は桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳に葬られたと考え得る(第115回)。 その後、纏向王朝に敗れたが、生き延びた勢力は朝廷に服属し、石上神宮の地に移ったのであろう。 記紀の立場では物部氏はあくまでも朝廷に仕える品部であって、鳥見山王朝の時代を描くことはしない。 だから、鳥見山の二つの大王級古墳の埋葬者は不明なのである。 しかし、外山王朝の埋葬地などを記紀に書くのは危険過ぎる。もし書けば、物部氏〔記紀編纂期には石上氏になっていた〕に政権奪取の動機を与えてしまうからである。 2016.02.25(thu) [117] 中つ巻(垂仁天皇2) ▼▲
此天皇以沙本毘賣爲后之時
| 沙本毘賣命之兄沙本毘古王問其伊呂妹曰 孰愛夫與兄歟 答曰愛兄 爾沙本毘古王謀曰 汝寔思愛我者將吾與汝治天下 而 卽作八鹽折之紐小刀 授其妹曰 以此小刀刺殺天皇之寢 故天皇不知其之謀而 枕其后之御膝爲御寢坐也 爾其后以紐小刀爲刺其天皇之御頸 三度擧 而不忍哀情不能刺頸而 泣淚落溢於御面 此(こ)の天皇(すめらみこと)沙本毘売(さほびめ)を以(も)ちて后(おほきさき)と為之(したまひし)時、 沙本毘売の命(みこと)之(の)兄(あに)沙本毘古王(さほびこのみこ)其(その)伊呂妹(いろど)に問(と)はく[曰]「孰愛夫与兄歟(つまといろせと、いずれをやうつくしみせむ)。」ととひ、 答曰(こたはく)「兄(いろせ)を愛(うつくし)みしまつる。」とこたふ。 爾(かれ)沙本毘古の王(みこ)謀(はか)りて曰(い)はく「汝(いまし)寔(まことに)我(われ)を愛(あはれ)と思は者(ば)、[将]吾(あれ)与(と)汝(なれ)天下(あめのした)を治(をさ)めたまはむ。」といひて[而]、 [即ち]八塩折(やしほをり)之(の)紐小刀(ひもかたな)を作り其の妹(いも)に授(さづ)け曰(いはく)「此(この)小刀(かたな)を以ゐて、天皇之寝(ね)たまふところを刺し殺せ。」といひぬ。 故(かれ)天皇、其(そ)之(の)謀(はかりごと)を不知(しらず)して[而]其(それ)后(おほきさき)之(の)御膝(みひざ)を枕(ま)ぎ、御寝(みね)を為坐(します)[也]。 爾(かれ)其(それ)后(おほみかど)、紐小刀を以ゐて其(それ)天皇之御頸(みくび)を為刺(ささむとし)、三度(みたび)挙(あ)げ、 而(しかれども)哀(かなしき)情(こころ)を不忍(しのびず)、不能刺頸(みくびをさすことあたはず)して[而]、泣涙(なみたしながれ)[於]御面(みおもて)に落ち溢(あぶ)る。 乃天皇驚起 問其后曰 吾見異夢 從沙本方暴雨零來急沾吾面 又錦色小蛇纒繞我頸 如此之夢是有何表也 爾其后以爲不應爭 卽白天皇言 妾兄沙本毘古王問妾曰 孰愛夫與兄 是不勝面問故妾答曰愛兄歟 爾誂妾曰 吾與汝共治天下故當殺天皇云而 作八鹽折之紐小刀授妾 是以欲刺御頸 雖三度擧哀情忽起不得刺頸而 泣淚落沾於御面必有是表焉 爾天皇詔之吾殆見欺乎 乃(すなはち)天皇驚起(おどろき)たまひ、其(それ)后に問ひたまはく[曰] 「吾(われ)異(あやしき)夢(いめ)を見たり。沙本(さほ)の方(かた)従(ゆ)暴雨(むらさめ、はやさめ)零(ふり)来(き)、急(はや)も吾(わが)面(みおもて)沾(ぬ)れぬ。 又(また)錦色(にしきいろ)の小蛇(をへみ)我が頸(みくび)に纒繞(まつは)る。 如此之夢(かくのごときいめ)是(これ)有何表也(なにをやあらはしたる)。」ととひたまふ。 爾(かれ)其(その)后(おほみさき)不応争(あらそふべくもあらず)と以為(おもひ)、 [即ち]天皇に白(まをして)言(いはく) 「妾(わが)兄(いろせ)沙本毘古(さほびこ)の王(みこ)妾(われ)に問ひて曰(まをさ)く『孰愛夫与兄(つまといろせ、いずれやをし)。』とまをす。 是(これ)、不勝面(おもかたざる)問(とひ)なるが故(ゆゑ)に、妾(われ)答へ曰(まを)さく『愛兄歟(いろせをやをす)』とまをしき。 爾(かれ)妾(われ)に誂(いど)みて曰(まをさ)く『吾与汝(われといまし)共に天下(あめのした)を治(をさ)めむ故(ため)天皇を当殺(ころしまつるべし)。』と云(まを)して[而] 八塩折(やしほをり)之紐小刀(ひもかたな)を作り妾(われ)に授く。 是(こを)以(もちゐて)御頸(みくび)を欲刺(ささむとし)、雖三度挙(みたびあげども)哀(かな)しき情(こころ)忽(たちまち)に起こり、不得刺頸(みくびをえささずして)[而]、泣涙(なみたしながれ)[於]御面(みおもて)に落ち沾らしまつる。必ず有是表(このあらはれなり)や[焉]」とまをす。 爾(かれ)天皇詔[之](のたまはく)「吾(われ)殆(ほとほと)見欺乎(あざむかれや)。」とのたまふ。
この天皇は、沙本毘売(さほびめ)を以って皇后となされたとき、
沙本毘売の命の兄、沙本毘古王(さほびこのみこ)は妹に、
「お前は、夫と兄のどちらを愛すか。」と問いました。
佐波遅比売が沙本毘売であることは、開化天皇段で「沙本毘売命亦名佐波遅比売」と明示されている。 系図の父方は、形式的に天皇を祖とさせるためであり、母方の春日建国勝戸売を祖とする方が古い伝承に近いと思われる。 その名前は和邇氏の系図には出てこないが、地域的に和邇氏の祖の一族に含まれると想像される。 【孰愛夫与兄】 愛の訓を求めようとすると、近い意味の上代語はいくつかあるが、ここに相応しい語は見つけにくい。その検討の前に、まずは漢字の「愛」の意味を確認しよう。
1 はし…かわいらしい。(万)0220 愛伎妻等者 はしきつまらは。 2 うつくし…可愛い。子に対して、また夫婦間の肉親的な感情。(万)0438 愛 人之纒而師 うつくしき ひとのまきてし。 3 うるはし…気高く美しい。(万)0543 愛夫者 うるはしづまは。 4 めづ…(万)0543 愛能盛尓 めでのさかりに。 5 あはれむ、あはれぶ(憐、怜、籠)…可愛く思う。あわれに思う。 6 かなし(悲、哀、憐)…悲しい。心をうたれる。いとしい。 7 をし(惜、愛)…惜しい。心残りである。いとしい。〈基礎語〉万葉集では、人をいとおしむ用例はない。 8 こふ(恋)…〈上代語〉思い慕う。眼前にないものに心惹かれることを言う。乞ふに通ずる。 上代語は、表出する感情によって、さまざまな愛がある。 〈現古〉によれば、早くも中古語に「愛す」が出現する。〈古訓〉※はない。これは、和語では一本化されないまま、漢語の「愛」の方が一般的になったことを示している。 ここで挙げたそれぞれの和語から、「愛」のタイプを分類すると、 ●相手を下位に置く…1・2・4・5 ●相手を上位に置く…3 ●自分の心の痛みを伴う…5・6・7 ●自分の近くにいてほしい…5(籠)・7・8 このうち、万葉集には1・2・3・4があるが、 それらは場面ごとに湧き出ててきた感情そのものであって、愛するという自己の意思を表す語は見つけられない。 だから、「孰愛夫与兄」は、むしろ現代語で「夫と兄のいずれを愛するか」と読む方が、原意に合っている。 それでも、万葉集からここに当てはまる「肉親への愛」を選ぶとすれば「うつくし」である。 その用例を見ると、妻子に対しては、(万)0800 父母乎 美礼婆多布斗斯 妻子美礼婆 米具斯宇都久志 ちちははを みればたふとし めこみれば めぐしうつくし。 恋人に対しては、(万)0438 愛 人之纒而師 敷細之 吾手枕乎 うつくしき ひとのまきてし しきたへの わがたまくらを〔まく=共に枕する〕。 などの例がある。 「うつくし」をそのまま使って訓読すると、「夫と兄といずれをやうつくし」となるが、「格助詞(を)+形容詞終止形」の構文は据わりが悪い。万葉集を見ても格助詞としての「を」は、基本的に動詞を導いている※※。 そこで「うつくし」を動詞化した例を探すと、防人歌に(万)4422 和我世奈乎 都久之倍夜里弖 宇都久之美 我が夫を筑紫は遣りて愛しみ。が見つかる。これは動詞「うつくしむ」の連用形のように見えるが、 実は「形容詞語幹+接尾語み」は形容詞の名詞化で、後続の文の原因を表したりする。「形容詞+み」を動詞化するには、さらにサ変の「す」をつける。 以上から、この文中では動詞形、「うつくしみす」が適当である。 書紀に於いては、中古から現れる「愛す」を、既に中国語に精通した草稿執筆者が用いていたと想定し、音読みを用いる方法もある。 ※〈古訓〉…『学研新漢和大字典』が『新撰字鏡』『倭名類聚抄』『類聚名義抄』から収集したもの。 ※※「を」…(万)0006 風乎時自見 かぜをときじみ。は、形容詞「ときじ」〔時を選ばず〕の「語幹+み」による名詞形を導く。 「ときじむ」という動詞がないのは確かだが、「み」は動詞の連用形のみの不完全な活用と受け止められる場合があるようだ。 【驚起】 古語の「おどろく」の意味は、辞書では「①目を覚ます。②驚く。」とされる。 〈上代語〉を含むいくつかの古語辞典は②→①の順に並べられる。 「おどろく」の意味の時代による変遷を知るために〈現古〉で「目覚める」を見ると、「上代…起く。中古…驚く。覚(さ)む。近代…目覚め。」となっている。 これだけを見ると、「おどろく」は、②「びっくりする」が上代から一貫していて、中古のみ①「目覚める」が付加されたように見えるが、 もう少し深く実相に迫るために、実例にあたってみよう。 源氏物語では、「あながちに人目おどろくばかり思されしも」(桐壷)は②、 「うしろめたう思ひつつ寝ければ、ふとおどろきぬ」(空蝉)は①である。 一方、書紀では「天吾明旦入汝櫛笥而居。願無驚吾形。」〔櫛笥の中に入っている私の姿を見て驚くな〕(崇神天皇紀)など多数あるが、すべて②である。 だからと言って、上代はすべて②であったと即断してはいけない。書紀の土台は漢文なので、「おどろく」の意味が漢籍の「驚」〔この字に「目を覚ます」意味はない〕に限定されるのは当然である。 実際、万葉集の(万)0741 夢之相者 苦有家里 覺而 掻探友 手二毛不所觸者 いめのあひは くるしかりけり おどろきて かきさぐれども てにもふれねば。の場合、 目を覚ますので、 ①である。 「驚起」は、目覚める意味の「おどろく」を「おどろ・おく」と作ったのであろう。 垂仁紀ではこの「驚起」に「寤」が宛てられるから、 書紀の筆者は「驚起」を「おどろき」と訓んだ上で、その意味を「目覚める」と理解したのは確実である。つまり、上代でも「おどろく」を「目を覚ます」意味に用いることがあったことが分かる。 従って書紀の「寤」もまた、「おどろく」と訓み得る。 【語句の解釈】 《是不勝面問故》 かつて天照大御神は、天孫の天降りに立ちはだかる猿田毘古神を服従させるために、 天宇受売(あめのうずめ)を「面勝神(おもかつかみ)」として派遣した(第82回)。 その場面では、面勝神を「怖気づかずに睨み返す目力(めぢから)の持ち主」と解釈した。 ここでは勝・面が逆転しているから、「面に勝てず」と訓まれたかも知れないが、やはり目力の意味であろう。 沙本毘古の目に「勿論兄を選ぶよな。」という有無を言わせぬものがあったので、「兄を選ぶ」と答えざるを得なかったのである。 文法的には、是は繋辞「~なり」を含み、主格補語が「問ひ」(問う行為)、「不勝面」は「問ひ」への修飾節である。 このように形成された「是、おも勝たざる問ひなり」が体言化して形式名詞「故」を連体修飾し、「是、おも勝たざる問ひなるが故に」となる。 《而・然》 もともと而は、順接にも逆接にも使う。然も同様である。 古事記の而は通常は接続助詞「て」と訓まれる。万葉集では、「而」が1200例以上あるが、そのうち「て」でないものは、僅か数例である。 ただ、ここの「而不忍哀情」は、 明確な逆接なので、「しかれども」と訓むことは可能だと思われる。 書紀では、今まで読んだところでは、「然」は基本的に逆接に使われているようだ。 《以為不応争》 上代の「争ふ」は「①抗う。②張り合う」。ここでは①の意味で、 隠さずありのままを話そうと思ったのである。 《必有是表》 宣長は、この「表」を「しるし〔験〕」と訓む。験は、(万)0996 御民吾 生有験在 みたみわれ いけるしるしあり。のように、「生きている"甲斐"(=験)があった」のような使い方をする。 あるいは、「兆」(きざし)の意味もある。もともとは動詞「しるす」に由来し、「象徴的な痕跡を残す」意味である。 ここでは、睡眠中に外部から受けた刺激が、この夢に「表われた」のだから「あらはれ」がよいのではないか。「表」の〈古訓〉は「あらはす。あらはる。まうす。」などで、「しるす」はない。 《欺》 上代語には「たばかる」〔接頭語た+謀る〕もあるが、〈古訓〉には含まれない。 逆に〈古訓〉の「たぶろかす」〔「たぶる」から派生?〕は『時代別上代』にはない。 「あざむく」は、時代別上代・〈古訓〉・万葉集すべてにある。
【暴雨零来】 まだ晴れているとき、遠くに積乱雲がありその下の降雨域の先端を観察できることがある。 垂仁天皇紀によれば、このとき天皇は来目に滞在したことになっている。来目は、倭名類聚抄に{大和国・高市郡・久米}。 式内社の久米御縣神社は現在の橿原市久米町、畝傍山のすぐ南にある。天皇がその場所で見た夢は、真北にある佐保山の辺りに積乱雲の下の雨の先端が見え、自分のいるところに近づいてきたというものであった。 「暴雨」は書紀では大雨となっているが、何れも通常のにわか雨程度のものだと思われる。 【従沙本方暴雨零来】 この文によって、沙本毘古・沙本毘売の名が、沙本(佐保)の地名に因むものであることが確定する。 《平城山丘陵》
続紀・延喜式での「佐保山」は、奈保山の南、佐保川の北の範囲である(詳細は「佐保山南陵」)。 【書紀(垂仁天皇紀)】 5目次 《狭穂彦王之謀叛第一》
因(よ)りて皇后之(の)燕居(えむきよ、きさきのみや)を伺(うかか)ひて[而]語(かた)らく[之][曰]「汝(いまし)は孰愛兄与夫焉(いろせとつまと、いずれをやあいせむ〔うつくしみせむ〕)。」とかたり、 於是(ここに)、皇后(おほきさき)不知所問之意趣(とひしおもはくをしらず)、輙(すなはち)対(こたへ)曰(まをしく)「愛兄也(いろせをあい〔うつくしみ〕しまつる)。」とまをす。 則(すなはち)皇后に誂(いど)み曰(いはく) 「夫(それ)、以色(いろをもちゐて)人に事(つか)へば、色(いろ)衰(おとろ)へたらば緩(ひめ)を寵(あはれ)まむ。 今天下(あめのした)には多(さは)に佳(かほよ)き人あり、各(おのもおのも)逓進(たがひ)に寵(あはれみ)を求(こ)ひ、豈(あに)永く色を得(え)恃(たの)む乎(や)。 是以(こをもちて)冀(こひねがはくは)、吾(われ)鴻祚(こうそ、あまつひつぎ)に登(つき、のぼり)、必ず汝(いまし)与(と)天下(あめのした)を照臨(おしてらむ)、則(すなはち)高枕(たかまくら)して[而]永(なが)に百年(ももとせ)を終(を)はる、亦(また)不快乎(こころよからずや)。願(ねがはくは)我が為(ため)に天皇を弑(ころ)しまつりたまへ。」といひ、 仍(すなはち)匕首(ひもかたな)を取り、皇后(おほきさき)に授け曰(いはく) 「是(この)匕首を[于]裀(ころも)の中に佩(は)き、天皇之(の)寝(みね)に当(むか)ひ、廼(すなはち)頸(みくび)を刺して[而]弑(ころしまつれ)焉。」といひ、 皇后於是(ここに)、心裏兢戦(うらにおそれ)、不知所如(しくところをしらず)、然(しかれども)兄(あに)王(みこ)之(の)志(こころざし)を視(み)るに、便(たやすく)不可得諫(いさむことうべからず)。 故(かれ)其の匕首を受け、独(ひとり)所蔵(をさむるところ)無く、以(もちて)衣(ころも)の中に著(は)けり。 遂(つひ)にも諫兄之情(いろせをいさむるこころ)の有りけり歟(や)。
於是(ここに)、皇后(おほきさき)、既(すで)に无成事(ことなさざりしにして)[而]空(むなしく)思ひたまわく、[之]「兄王(あにみこ)の所謀(はかりごと)や適(まさに)是の時也(なり)。」とおもひたまひ、 [即ち]眼涙(なみた)流(ながれ)[之]て帝面(みおもて)に落ち、天皇則(すなはち)寤(さ)め[之]て、皇后に語りたまはく[曰] 「朕(われ)今日(けふ)夢(いめをみたまふ)[矣]。錦色(にしきいろ)の小蛇(をへみ)、[于]朕(わが)頸(みくび)に繞(まとは)り、復(また)大雨(おほあめ、はやさめ、ひさめ)狭穂(さほ)従(よ)り発(お)こり[而][之]来(き)て面(みおもて)を濡(ぬ)らす。是(こ)は何(なに)の祥(きざし)なる也(や)。」とかたりたまひ、 皇后、則(すなはち)謀(はかりごと)不得匿(えかくさず)と知りて[而]、悚恐(かしこまり)て伏地(つちにふせ)、曲(つまひらか)に兄王(あにみこ)之(の)反状(そむくさま)を上げ、因以(しかるがゆゑに)奏(まをさく)[曰] 「妾(われ)、兄王之志(こころざし)に違(たが)ふこと不能(あたはず)、亦(また)天皇之恩(めぐみ)にも不得背(えそむかず)。言(こと)を告(つ)げば則(すなわち)兄王(あにみこ)を亡(な)きものにせむ、不言(いはざらば)則ち社稷(しやしよく、くに)を傾(かたぶ)けむ。 是(こ)を以ち、一(あるは)則(すなはち)懼(おそれ)を以ちて、一(あるは)則ち悲(かなしみ)を以ちて、俯(ふ)し仰(あふ)ぎて喉咽(むせ)ひ、進退(しじま)ひて[而]血泣(ちのなみだし、いさちり)、日(ひる)に夜(よる)に懐(こころ)悒(うれ)ひ、無所訴言(うたふることばもなし)。 唯(ただ)今日(けふ)のみは[也]、天皇妾(わが)膝(ひざ)を枕(ま)ぎて[而]寝(ね)たまひ[之]、於是(ここに)、妾(われ)一(ひとつ)思(おもはく)[矣]、『若(も)し狂(たぶるる)婦(をみな)有りて兄(いろせ)の志(こころざし)を成(な)さむとせ者(ば)、適(まさ)に是の時に遇(あ)ひ、不労(いたはらずして)[以]成功(ことならむ)乎(や)。』とおもひまつりき。 茲(ここに)意(こころ)未(いまだ)竟(を)へず、眼涕(なみだ)自(おのづから)流れ、[則ち]袖(そで)を挙げ涕を拭(のご)ひ、袖従(より)溢[之](あぶれ)て帝面(みおもて)を沾(ぬ)らしたり。 故(かれ)今日(けふ)の夢(いめ)は[也]、必ず是の事の応(こたへ)にて[焉]、錦色(にしきいろ)の小蛇(おへみ)は[則(すなはち)]妾(われ)に授(さづけらる)匕首(ひもかたな)也(なり)、大雨忽(たちまち)に発(お)きたることは[則]妾(わが)眼涙(なみだ)也(なり)。」とまをす。 天皇皇后に謂(のたまはく)[曰]「是(これ)汝(なが)罪に非(あらず)[也]。」とのたまふ。 《皇后母兄狭穂彦王》 記で、速須佐之男は「天照大御神之伊呂勢」とあり、母を同じくする兄・弟ともに「いろせ」と言う(第53回)。 〈丙本〉は「兄【波良加良】〔はらから〕」とあるが、これは恐らく不完全な筆写で、「はらがらのこのかみ」であろう。 しかし、垂仁段では沙本毘売は伊呂妹〔いろど〕なので、書紀執筆の8世紀初頭は、母兄は「いろせ」と訓んだのではないかと想像される。倭名類聚抄は10世紀の書である。 《當天皇之寢》 『釈日本紀』(1300年ごろ)の十七巻では、「当天皇之寝」を「天皇のみ寝ますとき」と訓む。 また同書は、「願爲我弑天皇」「當天皇之寢廼刺頸而弑焉」を「御読不レ可レ読之」〔みよみによむべからず〕とし、 天皇の御前で朗読するときは、この部分は不読とするように指示しているのが興味深い。 例え物語の中の言葉でも、不穏な語句を声に出すことは憚られたようである。 《錦色小蛇》
それでは飛鳥時代に遡り、古事記では何を指して「錦色小蛇」と呼んだのだろうか。こちらは小型の錦蛇(をろち)ではなく、紐刀(短刀)程度の大きさで、錦模様のある蛇と見るのが自然である。 もし、飛鳥時代に錦蛇=大蛇が定着していたとすれば、「錦色小蛇」ではなく「小錦蛇」と書くはずである。 なお、錦の語源は「二色」だと思われる。「に」・「しき」ともに呉音なので、この語の流入はことによると古墳時代まで遡る知れない。 《之》 ●寤之語皇后。●后来之濡面。 ●寝之於是。●溢之沾帝面。 以上4箇所の之は、接続詞而に置き換え得るので、 伝統的に「て」と訓まれる。 しかし、文法では「動詞A+之+動詞B」の形の中の「之」は接続詞では有り得ず、確実にAの目的語である。 これらをそのまま「天皇、これを覚(さ)む」や「皇后これを来」と訓むとおかしな日本語だが、「之」は形式目的語として、単に動詞Aが動詞であることを示す機能がある。 その「之」を用いれば「VOVO」の並びとなり、2つの節であることがはっきりする。その意味では、実質的に接続詞としてはたらくとも言える。 文法的な位置づけとしては、本来の漢文における代名詞と見て置き字とするか、日本語限定用法による接続詞として割り切るかのどちらかである。 何れにしても、訓読では「て」を入れると読みやすい。 《血泣》 血泣を逆転させた「泣血」は、涙を出し尽くして血の涙が出るほど泣くこと。 逆転しない「血泣」は、『黄帝内経』(前475頃)「素問」の巻に集中して使われ、「寒気客於脈中、則血泣脈急」 〔寒気脈中に客※せば、則ち血泣(けつきゅう)し脈急す〕などの例がある。※…「客」とは、邪気が体に入り込むこと。 この"血泣"は古代の医学用語で、何らかの血液の状態を指すと見られる。 しかし、ここでは医学用語であるわけはないので、「泣血」と同じであろう。 訓読のしかたは、〈丙本〉に「血泣【以奈津比】」とある。〈時代別上代〉には「いなつび」があるが、米粒の意味である。 「以」は「知」の誤写で、本当は「ちなつび」(血粒)と訓んだのかも知れない。「泣」は「粒」と似ているが、「ちなつび」も辞書にはない。現在、一般には「いさつ」だとされているが、その場合は「奈」と「比」が誤写ということになる。 また「いさつ」は上一段の「いさちる」(=激しく泣く)を、特別に上二段に活用する。つまり「いさつ」に辿り着くためには、誤写判定2件と例外的な活用が必要である。これは強引であろう。 ただ、丙本とは無関係に「いさちる」と意訳する分には、問題はない。 《既无成事而空思》 すなわち、とうとう兄を諌めることができなかった。しかしチャンスが巡って来たので虚しい気持ちで殺そうと考えるに至った。 このように、「成事」=「諌兄の成功」と解釈したが、「成事」そのものは重い表現である。 『釈日本紀』巻十二では、コトヲトケタマフコト〔事を遂げ給ふこと〕との訓が示され、「刺殺天皇」を意味すると解釈される。この解釈も当然あり得る。 しかし、その場合文の理解が難しくなるが、2通り挙げる。 別解①:「結果的に天皇を刺し殺すことは実行されなかったから虚しいことではあったが、殺そうと考えた」とすれば、一応筋は通る。 その場合「既に事成さざりき。しかるがゆゑに空(そらごと)に思ひたまはく」のように訓読することになる。 しかし、確実にこのように読み取るのは難しい。 純正漢文で疑問の余地なく書くなら、「皇后雖以為殺天皇遂不得成之」であろうか。 別解②:「これまで、既に事を遂げなかったが、ここで殺すチャンスが巡ってきたと虚しく思った」。 何か不自然な文章であるが、この読み方が一般的であろう。 不自然な文になった理由:後になって、皇后が関与した程度を弱めようとして書き加えた気配がある。つまり、一旦出来上がった文章に「既无成事而空」を挿入したのである。 そうやって別解①の内容を加え、未遂だから情状を酌量せよと主張する。 《言い回しの特徴》 天皇を殺そうとするのは重罪であるが、書紀では記の「不レ忍二哀情一」を大幅に拡張し、兄と天皇の板挟みになって逡巡する様子を詳しく描く。 皇后は犠牲者として描く。 これは、考え得るだけの理屈と演技を駆使して罪の軽減を望む態度を皮肉っているとも読める。 そして、遂には天皇に「お前の罪ではない」と言わせた。 しかし、もともと皇后をなるべく貶めないのが、書紀の立場であろう。 穿った見方をすれば、奈良時代に閨閥として次々と皇后を送り込む藤原氏への批判と取られることを避けたのかも知れない。 この皇后への評価の仕方は、訓読において尊敬表現(「たまふ」など)の有無にまで影響する。 《大意》 四年九月二十三日、皇后の同腹の兄、狭穂彦王(さほひこのみこ)は、謀反を起こし社稷を危ぶませようとし、 よって皇后の燕居(えんきょ)を訪れ、「お前は兄と夫のどちらを愛しているか。」と語りました。 皇后はその問いの裏にある意図を知らぬまま、「兄上を愛していますわ。」と答えました。 すると、皇后にこのように言って唆(そそのか)しました。 「今は、まだ若く色によって相手にされているが、やがて色が衰えれば、より若い姫を寵(かこ)つだろう。 今、天下には美女が数多くいて、次から次へと寵われることを求めている。だからいつまでもお前の美貌は頼りにはならない。 それ故にどうだ、私と鴻祚(天の位)に登り、絶対にお前と共に天下に君臨すれば。そうやって枕を高くして永らく過ごし、人生を終えるというのも快いことではないか。ここはひとつ、私のために天皇を弑逆してくれたまえ。」と言い、 匕首(あいくち)を手に取り、皇后に授けて言いました。 「この匕首を懐に忍ばせ、天皇が寝たところで、御頸を刺して命をいただけ。」と。 このようなわけで、皇后は内心戦々兢々(せんせんきょうきょう)となるも、為すすべを知らず、けれども兄王(あにみこ)の決意の固さを見れば、諫めることは容易くありませんでした。 そこで、その匕首を受け取り、自分一人の隠し場所もなく、仕方なく衣の中に忍ばせていました。 最後まで兄を諫めようとする気持ちはあったのですが。 五年十月一日、天皇は来目(くめ)に行幸し、高宮に居ます時、皇后の膝を枕にして昼寝されていました。 ここに、皇后は、とうとう兄を諌めることができなかったので、虚しい気持ちで「兄王(あにみこ)の謀(はかりごと)を実らせるのは、まさにこの時だ。」と思ったのですが、 眼から涙が流れて御面(みおもて)に落ち、そのために天皇は目覚め、皇后にこう語りました。 「朕は、今日こんな夢を見た。錦色の小さな蛇が、朕の御頸に纏(まと)わりつき、また、にわか雨が狭穂(さほ)の方で降り始め、ここまで来て御面を濡らした。これは何の兆しであろうか。」と。 皇后はそこで、謀はもう隠しておけないことを知り、畏まって地に伏せ、詳らかに兄王の背く様を上げ、よってこのように申し上げました。 「わらわは、兄王の志に逆らうことはできず、また天皇の恩寵に背くこともできませぬ。事実を申し上げれば兄王を亡くすでしょう。申し上げなければ社稷を傾けるでしょう。 なので、あるいは恐しさ、あるいは悲しみのため、地に伏せ天を仰ぎ咽び泣き、行きつ戻りつして血の涙を流し、日夜に心憂え、それを訴えることもできませんでした。 ただ今日だけは、天皇がわらわに膝枕して寝なさり、ここにわらわは一思いしました。『もし狂った女が兄の志を為そうとすれば、まさに今、その時が来た。労せず成功するだろう。』と。 しかし心は未だ定まらず、涙が自然に流れ、袖を挙げて涙を拭い、袖から溢れて御面を濡らしたのです。 ですから、今日の夢はこのことによる結果に間違いなく、錦色の小蛇は、即ちわらわに授けられた匕首、にわか雨が突然降ったのは、即ちわらわの涙なのです。」と申し上げました。 天皇は皇后に「これはお前の罪ではないぞ。」と告げられました。 まとめ 《語釈》 「孰愛」の「愛」は、記紀や万葉集のどの訓を用いても、語調がしっくりこない。結局選択を問う文では形容詞のままでは無理で、動詞にする必要があったのだ。 また「驚く」は、上代に「驚いて目覚める」意味でも使うようになり、中古には単に「目覚める」まで広がり、その後「目覚める」意味は消滅したらしい。 《沙本(佐保)》 佐保は沙本毘売の出身地である。佐保を含む平城山は万葉集や書紀にしばしば登場し、佐紀丘陵には佐紀盾列古墳群がある。 佐紀盾列古墳群の年代は「大型古墳編年表」(白石太一郎)によると、柳本古墳群〔3世紀後半~4世紀前半〕と、百舌鳥古墳群(和泉)・古市古墳群(河内)〔4世紀末~5世紀〕 の間である。大王級の前方後円墳もあり、4世紀後半には佐紀丘陵の近くに王朝があったと考え得る。 一方、佐保丘陵の天皇・皇后陵は奈良時代で、ここが平城京の北東方向であることが注目される。 北東方向は鬼門とされ、平城京の鬼門に比叡山延暦寺、江戸城の鬼門に寛永寺が建てられた。 古墳時代以来、蝦夷を制圧していった歴史があるので、それも北東を鬼門とすることに関係するかも知れない。 また佐保丘陵は、和邇氏の支配地であった。前回、佐保地域の戦闘は崇神段に書かれた和泉川の戦いの、前段だろうと考えた。 和邇氏は崇神・垂仁朝の時期に征圧され、それが激戦であったが故に特別に神聖な地域として、長く記憶に留められたのだろう。 それもあり、また鬼門として平城京の陵所にされたと想像される。 佐保山は、北陸道・東海道から東国に進出する原点でもあったので、この地の戦いは纏向政権の重要な出来事である。 《書紀との共通点と相違点》 今回の部分において書紀は記と概ね同内容だが、狭穂姫の罪を軽減する方向に書き換えているところが目を惹く。 藤原不比等が娘の藤原宮子を天皇夫人として送り込んだのが697年、書紀の完成は720年である。 宮子が狭穂姫の件を読んで自分への嫌味と受け取り、傷ついたので、編者が表現を緩和したというようなことがあれば面白いが、 想像の域を出ない。 2016.03.05(sat) [118] 中つ巻(垂仁天皇3) ▼▲
乃興軍擊沙本毘古王之時 其王作稻城以待戰
|
此時沙本毘賣命不得忍其兄 自後門逃出而納其之稻城 此時其后妊身 於是天皇不忍其后懷妊及愛重至于三年 故廻其軍不急攻迫 如此逗留之間其所妊之御子既產 故出其御子置稻城外 令白天皇若此御子矣天皇之御子所思看者可治賜 於是天皇詔雖怨其兄猶不得忍愛其后 故卽有得后之心 乃(すなはち)軍(いくさ)を興(おこ)し、沙本毘古王を撃ちし[之]時、其の王(きみ)稲城(いなき)を作り以(も)ちて戦(いくさ)を待てり。 此の時沙本毘売命其の兄を不得忍(えしのばず)、後門(しりつかど)自(よ)り逃げ出(い)でて[而]其之(その)稲城に納まり、此の時其の后(きさき)妊身(はらみ)たり。 於是(ここに)天皇其の后(きさき)懐妊(はらみたり)、及(および)愛(いつくしみ)重(かさぬるところ)[于]三年(みとせ)に至りしことを不忍(しのび)ず、故(かれ)其の軍(いくさ)を廻(めぐ)らせ不急攻迫(すみやかにせめず)。 此の如く逗留(とどま)りし[之]間(ま)、其の所妊(はらみし)[之]御子(みこ)既に産まれたまふ。 故(かれ)其の御子を出(い)で稲城(いなき)の外(と)に置き、天皇(すめらみこと)に令白(まをさしむらく)「若し此の御子をば[矣]天皇(すめらみこと)之(の)御子(みこ)と所思看者(おほしめさば)可治賜(をさめたまふべし)」とまをさしむ。 於是(ここに)天皇詔(のたまはく)「[雖]其の兄(このかみ)を怨(うら)むれども、猶(なほ)其の后(きさき)を愛(うつくしみすること)不得忍(えしのびじ)」とのたまふ。 故(かれ)[即]后(きさき)之心を有得(えたり)。 是以選聚軍士中力士輕捷而宣者 取其御子之時乃掠取其母王 或髮或手當隨取獲而掬以控出 爾其后豫知其情 悉剃其髮以髮覆其頭 亦腐玉緖三重纒手 且以酒腐御衣如全衣服 如此設備而抱其御子刺出城外 爾其力士等取其御子卽握其御祖 爾握其御髮者御髮自落 握其御手者玉緖且絶 握其御衣者御衣便破 是以取獲其御子不得其御祖 故其軍士等還來奏言 御髮自落御衣易破亦所纒御手玉緖便絶 故不獲御祖取得御子 爾天皇悔恨而惡作玉人等皆奪其地 故諺曰不得地玉作也 是以(こをもち)軍士(つはもの)を聚(あつ)めし中より力士(ちからひと)・軽捷(ときつはもの)を選(え)りて[而]宣(のたまひしこと)者(は)、 「其の御子を取らむとせし(之)時、[乃(すなはち)]其の母王(ははみこ)を掠取(かすめとらへ)、 或(あるは)髪或(あるは)手に当(あた)る隨(まにまに)取獲(え)て[而]掬(にぎ)り、以ちて控(ひ)き出(い)でよ」とのたまひき。 爾(しかれども)其(その)后(きさき)予(あらかじめ)其の情(こころ)を知り、 悉(ことごとく)其の髪(かみ)を剃り、髪を以ちて其の頭を覆(おほ)ひ、 亦(また)腐(くさ)れる玉緖(たまのを)を三重(みへ)手に纒(まつ)ひ、 且(かつ)酒(さけ)を以(も)ちて腐らしむ御衣(みころも)の如(ごとく)し、全(またく)衣服(きものをつけり)。 此(かく)の如く設備(そなへ)して[而]其の御子を抱(むだ)き城(き)の外(と)に刺し出(い)で、 爾(しかるごとくし)其の力士(ちからひと)等(ら)其の御子を取り即ち其の御祖(みおや)を握(つか)まむとす。 爾(しかれども)其の御髪(みかみ)を握(つか)め者(ば)御髪自(おのづから)落ち、其の御手(みて)を握め者(ば)玉緖(たまのを)且(かつは)絶(た)え、其の御衣(みころも)を握め者(ば)御衣便(たやすく)破る。 是以(ここに)其の御子を取獲(え)、其の御祖を不得(えず)。 故(かれ)其の軍士(つはもの)等(ら)還(かへ)り来て言(こと)を奏(まを)さく、 「御髪自ら落ち、御衣易(たやす)く破れ、亦(また)御手に所纒(まつひし)玉緖便(たやす)く絶え、故(かれ)御祖を不獲(えず)、御子を取得(う)。」とまをしき。 爾(しかるがゆゑに)天皇悔恨(く)いて[而]玉を悪しく作りたる人等(ら)、皆(みな)其の地(ところ)を奪はる。故(かれ)諺(ことわざ)に曰(まを)さく「不得地玉作(ところをえぬたまつくり〔たますり〕)[也]。」とまをす。
亦天皇命詔其后言 凡子名必母名何稱是子之御名
いなき(稲城)…[名] 戦争の際、稲束を高く積み重ねて、矢などを防ぐのに用いたもの。
稲穂や籾を俵にして積み重ねたものとする説もある。
まず、この文の状況を見るとと、皇后は籠城していて、天皇は包囲軍を見渡すやぐらの上だろう。従って、この対話は使者を通してのものである。 だから詔は、使者に伝えさせた。 ならば、命は「命(おほせこと)す」〔任務を負わす〕である。 しかし、「命詔其后」と書くと、派遣された使者が詔を発することになってしまうので、「天皇の詔をひたすらに伝達する」表現にしなければならない。だから「言」が必要なのである。 「言」は名詞「こと」だが、意味を明確化するために、「つてこと(伝言)」と訓み※、「御」をつける。〔もちろんみことでも構わない〕 そして「詔其后」〔V+O〕が「みつてごと」を連体修飾するとすれば、これで文章として成立した。即ち、
三つ目の「又問」は、使者を通していることは最早明らかだから、一層簡略化したもの。 ※…(万)4214 玉桙之 道来人之 傳言尓 吾尓語良久 たまほこの みちくるひとの つてことに われにかたらく。 【黒髪山】 黒髪山を歌った歌が万葉集に二首ある。 1241 黒玉之 玄髪山乎 朝越而 山下露尓 沾来鴨 ぬばたまの くろかみやまを あさこえて やましたつゆに ぬれにけるかも。 2456 烏玉 黒髪山 山草 小雨零敷 益〃所思 ぬばたまの くろかみやまの やますげに こさめふりしき しくしくおもほゆ。 黒髪山は、奈保地域にあったとされる。 この地域には、黒髪山稲荷神社がある(奈良県奈良市奈良阪町)。 稲荷神は、もともとは渡来氏族の秦氏が祀った神で、文献の初見は和銅四年(711)という。 沙本毘売の伝説は強い印象を与えるので、黒髪山の名とともにこの地域に古くから伝わってきたと思われる。 《黒髪山稲荷神社》 黒髪山稲荷神社は、標高約110mの小高い丘の上にある。西側には2006年に閉園したドリームランドが、取り壊されることなく残っている(2016年2月現在)。 入口の鳥居をくぐると赤色に塗られた多数の鳥居が並ぶのは、稲荷の標準形である。 その奥に一対の狐像があり、雨ざらしにしないためであろう、簡素な社殿に納められている。恐らくは近現代の作であろうが、雄狐像は巻物を咥えて宝珠を押さえ、雌狐像は子狐を抱いている。 狐が親子像になっているものはいくつかあるようだが、『稲荷の狐のバリエーション』によれば東日本に多く、同ページに紹介された例では子狐を背負っている。 黒髪山稲荷の赤ん坊を愛おしく懐に抱く姿は、佐保姫伝説に因んだものであろう。 伊邪那岐命が迦具土の頸を斬ったとき、流れ出た血から出現した神のうちの一柱に、 闇淤加美(くらおかみ甲)の神がいた(第38回)。髪の甲乙は「かみ甲」、淤はオで、連続する母音は融合する。 もともと「くらおかみ」の神があり、後にその名前から佐保毘売の黒髪伝説が生まれたのかも知れない。 闇淤加美の登場場面は伊邪那岐・伊邪那美神話だから、もともとは出雲系あるいは淡路系の神か。それが奈保山にも伝わってきていて、この神を祀る氏族を垂仁天皇軍が打ち破ったことになる。 後の時代になって(8世紀以後)稲荷信仰が伝わり、在地の佐保毘売神と習合したのだろう。 狐像の前にミニチュアの狐像がいくつも奉納されているところに、地域のお稲荷さんとして大切に祭られていることが察せられる。 【書紀】 6目次 《狭穂彦王之謀叛第一》
時に狭穂彦、師(いくさ)を興(おこ)し之(こ)を距(ふせ)き、忽(たちまちに)稲(いね)を積み城(き)を作り、其(それ)堅(かた)かりて破る不可(べからざ)れば、此(これ)稲城(いなき)と謂(まを)し[也]、月を踰(す)ぐれど不降(おちず)。 於是(ここに)、皇后(おほきさき)之(こ)を悲(かなし)びて曰(まをしたまは)く 「吾(われ)雖皇后(おほきさきなれど)、既に兄王(このかみのきみ)のもとに亡(に)ぐ。何以面目(いかなるかほをやもちて)、天下(あめのした)に莅(のぞ)まむ[耶]。」とまをしたまふ。 則(すなはち)王子(みこ)誉津別命(ほむつわけのみこと)を抱(むだ)きて[而][於]兄王の稲城(いなき)に入(い)りたまふ[之]。 天皇(すめらみこと)更(さら)に軍衆(つはものども)を益(ま)し、悉(ことごとく)其の城(き)を囲(かく)み、[即ち]城(き)の中に勅(みことのり)し曰(のたまはく)「急(すみやかに)出(い)でたまへ、皇后(おほみさき)与(と)皇子(みこ)とよ。」とのたまふ。 然(しかれども)不出(いでたまはず)[矣]。 則ち将軍(いくさのかみ)八綱田、火(ほ)を放ち其の城を焚(や)き、於焉(ここに)、皇后皇子(みこ)を懐抱(むだ)か令(し)め、城(き)の上を踰(こ)えて[而]出(い)づ[之]。 因(しかるがゆゑに)[以]請(ねがひごと)を奏(まを)したまはく[曰]、 「妾(われ)始(はじめ)に兄(このかみ)の城(き)に逃げ入(い)りし所以(ゆゑ)は、若(もし)や妾(わが)子(みこ)に因(よ)り兄の罪免(まぬか)るること有らばと。 しかれども今は不得免(えまぬかれじ)、乃(すなはち)妾(われに)罪有るを知る。何(いかにや)得面縛(しりへでにえしばらるる)、自経(みづからわなきて)[而]死(し)にしまつる耳(のみ)。 唯(ただ)妾(われ)[雖]死にせめども[之]、敢(あへて)天皇之恩(めぐみ)を勿忘(わすれまつらじ)。 願(ねがはくは)妾(わが)所掌(つかさどりし)后宮(きさきのみや)之(の)事、宜(よろしく)好(よ)き仇(とも)に授けたまへ。 其(それ)丹波(たには)の国に五(いつたりの)婦人(をみな)有(あ)り、志(こころざし)並(なべて)貞潔(きよ)く、是(これ)丹波(たには)の道主王(みちのうしのみこ)之(の)女(むすめ)也(なり)。 【道主王者(は)、稚日本根子太日々天皇(わかやまとねこおほひひのすめらみこと)之孫(むまご)、彦坐王(ひこいますのみこ)の子(みこ)也(なり)。一云(あるいはく)、彦湯産隅王(ひこゆむすみのみこ)之子(みこ)也。】 当(まさ)に掖庭(きさきのみや)に納(をさ)めたまひ、以ちて后宮(きさきのみや)之数(かず)を盈(み)てたまふべし。」とまをしたまふ。 天皇こを聴(き)きいれたまふ[矣]。 時に火(ほ)興(おこ)り城(き)崩(くづ)れ、軍衆(つはものども)悉(ことごとく)走り、狭穂彦与(と)妹(いも)と共に[于]城(き)の中に死にせり。 天皇、於是(ここに)、将軍(いくさのかみ)八綱田之功(いさを)を美(うるはしみ)したまひて、其の名を号(なづ)け倭日向武日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなた)と謂(い)ふ[也]。 《既亡兄王》 岩波文庫版は「兄王を亡(うしな)ふ」と訓むが、兄王はこの時点ではまだ死んでいない。 同書は兄王を「いろせのおほきみ」と訓むので、「既に天下を治める可能性はなくなった」という意味かも知れないが、読者が「亡ふ」をそのように理解するのは困難である。 この文は「私は天皇から逃げて兄王に身を寄せた」と読むべきであろう。 《倭日向武日向彦八綱田》 やつなたは「八つの鉈(なた)」で、上毛野君下毛野君等の祖豊城入彦命が、八廻弄槍(やたびほこゆけ)を舞ったことに因むか (第110回・第115回【書紀(2)】)。 『新撰姓氏録』に〖登美首/首/佐代公同祖/豊城入彦命男倭日向建日向八綱田命之後也 〗 とあり、「崇神天皇―豊城入彦命―倭日向建日向八綱田命」の系図を示す。崇神天皇紀と垂仁天皇紀を合成すればこうなる。 「倭日向武日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなた)」の「倭」は活躍した地域、「武」はこれまでの例から反乱軍もしくは制圧軍の武力を表す。 「日向」は神武天皇即位前紀で、朝廷軍が日向の向きから賊軍を討ち取った話に因む称号であろう。 《令懐抱皇子》 漢熟語「懐抱」は、ここでは当然乳幼児を抱く意味である。懐(むだ)く+抱(むだ)くだから、その抱き方はとても優しく、主語は母であろうと思わせる。 しかし「令」は、侍従に抱かせたことを意味する。確かに子を抱えて城壁を乗り越えて相手方の使者に渡す行為は、皇后自らがすることではない。 だから、懐抱と令の間には意味の衝突がある。 想像するに、当初は書紀でも、子を渡した隙に母をも奪おうとする筋書きを継承していた。 それを変更し、侍従に託すことにして「令」を追加したが、母のイメージが強い「懐抱」から「懐」を削ることまでは、思いが及ばなかったのだろう。 《丹波の道主王》 原注の系図
崇神天皇紀では「丹波道主命遣丹波」と書き、四道将軍の一人として丹波攻略に送り込んだ。 (第113回【書紀】)。 丹波道主命のルーツを開化天皇とし、丹波国を攻略させたと描くのは神話的な操作であり、 実際には丹波の在地豪族であり、朝廷に仕えつつ閨閥として中央権力に食い込んだということであろう。 《大意》 直ちに近辺の兵卒を進発させ、上毛野(かみつけの)の君の遠祖、八綱田(やつなた)に命じ、狭穂彦を攻撃させました。 その時狭穂彦は、軍を動員してこれを防ぎ、たちまち稲束を積んで城を作り、それは堅牢で破られることなく、これを稲城(いなき)と言い、一か月を過ぎても落ちませんでした。 ここに、皇后はこれを悲しみ、仰りました。 「私は皇后ですが、既に兄王(あにぎみ)のもとに逃げこみました。いかなる顔をもって天下に臨めましょうや。」と。 そして御子、誉津別命(ほむつわけのみこと)を抱いて、兄王の稲城(いなき)に入られました。 天皇は更に軍勢を増し、その城をことごとく囲み、城中に勅しました。「すみやかに出よ、皇后と皇子よ。」 しかし、出て来ませんでした。 そこで将軍八綱田は火を放って城を焼き、よって皇后は皇子を抱かせ、城壁の上越しに出しました。 そして、願いを奏上しました。 「私は、初めは、兄の城に逃げ入った理由は、もしや私の御子によって兄が罪を免れることがあればと考えたからでした。 しかし今となれば免れることはできず、私にも罪有りと分かりました。どうして後ろ手に縛られましょう。私は自ら縊死いたすのみです。 ただ、私は死にますが、敢て天皇の恩を決して忘れません。 願わくば、私が掌った後宮の事は、私の好き友に授けてください。 それは、丹波の国に五婦人あり、志は並べて貞潔で、丹波の道主王(みちのうしのみこ)の娘です。 【道主王は、稚日本根子太日日(わかやまとねこおほひひ)天皇の孫にあたり、彦坐王(ひこいますのみこ)の御子です。あるいは、彦湯産隅王(ひこゆむすみのみこ)の御子とも言われます。】 まさに掖庭〔後宮〕に納められ、后宮の数を満たしなさいませ。」と。 天皇はこれを聞き容れられました。 時に火が起り、城は崩れ、軍衆は悉く走り去り、狭穂彦と妹は共に城中で死にました。 天皇は、ここに将軍八綱田の功を称賛され、倭日向武日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなた)の名を与えられました。 まとめ 書紀では、佐保毘売伝説の一番面白い場面を削除した。とは言え、狭穂姫は捕えられて屈辱を受けるよりも、自分の意志による死を選んだと書くので、 物語の基調は変わっていない。 だが、髪を全部剃り衣服がボロボロに破れる姿は、皇后としてあまりにみすぼらしいと考えたのであろう。 しかし、削除の理由はそれだけではないかも知れない。 というのは、朝廷軍に対してあらゆる手段を動員して抵抗する佐保毘売の姿に、庶民は深い同情の念を抱くからである。 そこには戦争ともなれば巻き込まれて殺される、人民の悲しみと怒りが重ねあわされ、増幅させる危険性をこの物語は孕んでいる。それを、支配者側の官僚が敏感に感じ取ったからではないだろうか。 そもそも「闇龗神(くらおかみのかみ)」の名前に因んで佐保毘売伝説が生まれたとすれば、朝廷軍による激しい攻撃によって制圧された屈辱の記憶が、この話を生み出す要因になったかも知れない。 つまり、ある時に籠城の果てに火を放たれて死亡した姫がいて、姫を奉っていた人民の深い悲しみからその美しい黒髪にまつわる伝説が生まれたのであろう。ただし、これは全くの想像である。 ただ、それくらい朝廷が手を焼く重大な反乱が起こったのであり、その激しさは将軍八綱田に特別な称号を授与したことに現れている。 さて、丹波道主は朝廷の友軍として北側から攻め、佐保彦を挟撃したのではないだろうか。 その勝利の結果、存在感を増した丹波道主は妃を次々と朝廷に送り込み、政の中枢に参入したと、暗黙のうちに述べているように読める。 一方、奈良時代に閨閥として朝廷に皇后を送り込んだ藤原氏の先例として、丹波道主を描いたとも受け止めることができる。 ⇒ [119] 中つ巻(垂仁天皇4) |