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⇒ [113] 中つ巻(崇神天皇4) |
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2015.12.14(mon) [114] 中つ巻(崇神天皇5) ▼▲ |
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![]() 於是到山代之和訶羅河時 其建波邇安王興軍待遮 各中挾河而對立相挑 故號其地謂伊杼美【今謂伊豆美也】 即ち丸邇臣(わにのおみ)之(の)祖(おや)日子国夫玖命(ひこくにふくのみこと)を副(そ)へて[而]遣(つかは)しし時、即ち[於]丸邇坂(わにさか)に忌瓮(いはひへ)を居(す)ゑて[而]罷(まか)り往(ゆ)く。 於是(ここに)、山代(やましろのくに)之(の)和訶羅河(わからのかは)に到りし時、其れ建波邇安王(たてはにやすのみこ)軍(いくさ)を興(おこ)し待ち遮(さ)へぬるぞ。 各(おのがおのが)中(なか)に河(かは)を挟みて[而]対(むか)ひ立ち相(あひ)挑(いど)みし故(ゆゑ)、其の地(ところ)を号(なづ)け伊杼美(いどみ)と謂(まを)す【今に伊豆美(いづみ)と謂す[也]。】。 爾日子國夫玖命乞云 其廂人先忌矢可彈 爾其建波爾安王雖射不得中 於是國夫玖命彈矢者 卽射建波爾安王而死 故其軍悉破而逃散 爾(かれ)、日子国夫玖命乞(こ)ひ云(いはく)「其の廂(をちかた)の人先に忌矢(いはひや)を可弾(ひくべし)」といひ、 爾(しかるして)其の建波爾安王雖射(いれども)不得中(えあてず)。 於是(ここに)国夫玖命の弾(ひ)きし矢者(は)、即ち建波爾安王を射て[而]死す。 故(かれ)、其の軍(いくさ)悉(ことごとく)破れて[而]逃げ散る。 爾追迫其逃軍到久須婆之度時 皆被迫窘而屎出懸於褌故 號其地謂屎褌【今者謂久須婆】 又遮其逃軍以斬者如鵜浮於河 故號其河謂鵜河也 亦斬波布理其軍士故 號其地謂波布理曾能【自波下五字以音】 如此平訖 參上覆奏 爾(かれ)、其の逃ぐる軍(いくさ)を追ひ迫り久須婆之度(くすばのわたし)に到りし時、皆(みな)被迫窘(きはまり)て[而]屎(くそ)を[於]褌(はかま)に出で懸(かか)りし故(ゆゑ)に、 其の地(ところ)を号(なづ)け屎褌(くそばかま)と謂(まを)し【今者(いまは)久須婆(くすば)と謂(まを)す。】、 又(また)、其の逃ぐる軍(いくさ)を遮(さ)へ、以(もちて)斬(き)れ者(ば)、鵜の如(ごと)[於]河(かは)に浮きし故(ゆゑ)に、 其の河を号け鵜河(うのかは)と謂(まを)す[也]。 亦(また)其の軍士(つはものども)を斬り波布理(はふり)し故(ゆゑ)に、 其の地を号け、波布理曽能(はふりその)と謂(まを)す【「波」自り下(しもつかた)五字(いつじ)音(こゑ)を以(もちゐ)る。】。 如此(このごと)平(たひら)げ訖(を)へ、参上(まゐのぼり)覆奏(かへりことまをす)。 故大毘古命者隨先命而罷行高志國 爾自東方所遣建沼河別與其父大毘古共往遇于相津故 其地謂相津也 是以各和平所遣之國政而覆奏 故(かれ)、大毘古命者(は)先(さき)の命(みことのり)の隨(ままにして)[而]高志国(こしのくに)に罷行(まかりゆき)ぬ。 爾(かれ)東方(あづま)自(ゆ)[所]遣(つかは)しし建沼河別(たけぬまかはわけ)与(と)其の父(ちち)大毘古(おほびこ)、共に往(ゆ)き[于]相津(あひづ) に遇(あ)ひし故(ゆゑ)、 其の地を相津と謂(まを)す[也]。 是以(ここに)、各(おのがおのが)[所]遣(つかはしし)[之]国(くに)の政(まつりごと)を和平(やは)して[而]覆奏(かへりことまをす)。 即ち丸邇臣(わにのおみ)の祖、日子国夫玖命(ひこくにふくのみこと)を副官として遣わし、丸邇坂(まるにさか)に忌瓮(いはいへ)を据えて、退出して出かけました。 ここに、山城国の和訶羅(わから)川に到った時、いよいよ建波邇安王(たてはにやすのみこ)は軍兵を興して待ち受け、進路を遮りました。 各々、間に川を挟み向い立ち、相挑んだので、その地を「いどみ」と名付けました【今は「いづみ」と言います】。 さて、日子国夫玖命は「そちら側の人、先に忌みつつしむ矢を引き撃ちなさい」と促し、 言われた通りに、建波爾安王が射ましたが、当りませんでした。 そして、国夫玖命の引き撃った矢は、建波爾安王を射て死なせました。 よって、その軍兵は悉く敗れて逃げ、散り散りになりました。 そして、その逃亡する軍を追い迫り、樟葉(くすば)の渡しに到ると、皆追い詰められて屎を褌に出し掛けたので、 その地を屎褌(くそばかま)と名付けました。今は樟葉と言います。 また、その逃げる残兵を遮り斬ると、鵜の如く川面に浮いたので、 その川を鵜川と名付けました。 また、その軍兵を斬り屠(ほふ)り、 その地を「はふりその」と名付けました。 かくの如く平げ終え、参上し復命しました。 そこで、大毘古命は以前の詔に従い罷り、高志国に向かいました。 そして、東国方面に遣わした建沼河別(たけぬまかわわけ)とその父大毘古(おおびこ)は、共に行き、相津(あいづ) で遇ったので、 その地を会津と言います。 ここに、各々が遣わされた国の政(まつりごと)を治めて、復命しました。 まかる(退る、罷る)…[自]ラ四 退出する。 さふ(禁ふ、障ふ)…[他]ハ下二 さえぎる。妨げる。 廂…[名] 母屋の両わきにある部屋。〈日本語用法〉ひさし。(古訓)かた。ひさし。〈古事記の独自用法〉かた(=方)。 かた(方)…[名] 方向。〈応神天皇段〉伏隠河辺之兵彼廂此廂一時共興矢刺〔川辺に伏せ隠したる兵(つはもの)を、彼廂此廂(をちかたにこちかたに;向こう岸とこちら岸で)、一時(ひととき)に共に興(た)たせ矢刺し〕 をちかた(彼方)…[名] 向こうの方。(万)3299 波都世乃加波乃 乎知可多尓 伊母良波多〃志 己乃加多尓 和礼波多知弖 はつせのかはの をちかたに いもらはたたし このかたに われはたちて 〔初瀬川の彼方に妹等は立たし此方に吾は立ちて〕。 弾…(古訓)ひく。はしく。つるうち。〔つるうち…「ゆみうるうち(空弾弓弦)」は、弦の音だけで敵を欺き、油断に乗じて射ること〕 迫…(古訓)せまる。 窘…[動] くるしむ。くるしめる。外を取り巻かれ、動きがとれなくなるさま。(古訓)きはまぬ。こもる。ふさく。 まゐのぼる(参上)…[自]ラ四 参上する。 かへりことまをす…復命する。(万)4364 還事 奏日尓 かへりこと まをさむひに。 隨…(古訓)ままに。したかふ。 あづま(東方)…[名] ①東の方。②東国。(万)3194 東方重坂乎 今日可越覧 あづまのさかを けふかこゆらむ。 (万)0199 鷄之鳴 吾妻乃國之 御軍士乎 とりがなく あづまのくにの みいくさを。 あひづ…〈倭名類聚抄〉陸奥国/会津【阿比豆】郡。 政…(古訓)まつりこと。 【文法】 《被迫窘》 「迫」はせまる、「窘」は押し込めて身動きさせなくする意味。建波邇安王軍は川岸に追い詰められて逃げ場を失い、恐怖のあまり脱糞する。 中国古典(『中国哲学書電子化計画』内の検索結果)に「迫窘」は数例あり、その一つ〈漢書〉列伝から「諸葛豊」を見る。 「諸葛豊」に、許章が関与した不祥事を追及するために諸葛豊が許章を捕えようとした部分がある。その中の、次の文章に「迫窘」がある。 「豊駐車挙節詔章曰「下」欲収之。章迫窘、馳車去、豊追之。」 〔豊は(章の)車を止め、節(地位を証明する割符)を掲げ「下りよ」と命じ、捕えようとした。章は迫窘し、車を走らせて逃げた。豊はこれを追った。〕 つまり、迫窘は追い詰められ困った様子を表す。 和風漢文の「被」は、受け身の助動詞る・らるに対応する。「る」は四段・ラ変・ナ変動詞の未然形に、「らる」はそれ以外の未然形につく。 迫窘を「せむ」と訓めば、「せむ」は下二段だから、被迫窘は「せめらる」となる。 ところが、奈良時代までは「る」より「ゆ」を使った方が多いという。 同様に「らる」の古い形は「らゆ」だが、〈時代別上代〉によれば、文献に残る「らゆ」の用例は寝(ぬ)のみだという。 これでは、安易に「せめらえ」は使えない。なら「せめられ」はどうかというと、「らる」は完全に平安時代以後だという。 従って、奈良時代以前の「寝」以外の下二段動詞に、安全につけられる受け身の助動詞はない。 ただ動詞「せまる」がある。これは上代語では自動詞で、どちらかというと迫られている自分の身の状態を表す。 結局、上代語の「せまる」=現代語の「せめられる」だから、「被迫窘」は「せまる」と訓んでおくのが安全である。 あるいは、「きはむ」(他動詞下二、「押し詰める」)を自動詞にした「きはまる」も意味に合っている。 《斬波布理其軍士故》 「屠(ほふる)」がここでは万葉仮名表記により、連用形(屠り)であることがわかる。 よって、文章は終止せずに「し」(完了の「き」の連体形)を挟み、「故」に接続することを暗示する。 従って、それまでの一連の地名譚は、何れも接続詞「故(かれ)」ではなく、形式名詞「故(ゆゑ)」であろう。 「故」が専ら「かれ」と訓まれる根源は、『釈日本紀』にある。 釈日本紀巻十六 秘訓一「故。カレ。 一部之内皆以カレ止可レ讀之。」 〔一部※の内、皆以ってカレと読むべし。〕※一部=全巻。 【丸邇臣之祖日子国夫玖命】
また『神撰姓氏録』では和邇部は、「皇別・姓なし・天足彦国押人命の三世孫」であった。 天武天皇13年には、和邇氏から派生した諸族が軒並み朝臣姓を与えられたのに対して、肝心の本家には与えられないのはどうしたことだろうか。 そこで改めて見ると、姓氏録に出てくる和邇は、「和邇部」〔姓なし〕が3件と和爾部宿祢が1件である。これは何れも「部」がつくので、もともと和邇臣の部民だったのであろう。彼らを統率した和邇臣本体は、姓氏録をまとめる時点では既に絶えていたのである。 和邇臣が天武天皇の時にはもう消滅していたとすれば、天武天皇13年の朝臣授与のところで名が上がらないのは当然である。従って、記は今は途絶えたが歴史上存在した臣として「丸邇臣」に言及したのである。
【地名】 泉津の戦闘に登場する地名を拾う。 記:丸邇坂・和訶羅河・伊豆美・波布理曽能・久須婆・鵜河。 〖書紀〗:和珥武鍬坂・輪韓河・泉河・羽振苑・那羅山・大坂・訶和羅前・樟葉・我君。 〈倭名類聚抄〉山城国/相楽郡に、水泉【以豆美】〔いづみ〕、祝園【波布曽乃】〔はふその〕の郷が記載されている。 現在、木津川の上流から下流に向かう順に泉大橋(京都府木津川市)、祝園(ほうその、京都府精華町)、八幡河原崎(京都府八幡市)、合流後の淀川に楠葉(大阪府枚方市)という地名がある。 《伊豆美〖泉河〗〈水泉〉》 「泉」については、続日本紀に泉橋が書かれて以来現代の泉大橋に到るまで、少なくとも橋の名前として継続している(前回【幣羅(へら)の坂】)。 《波布理曽能〖羽振苑〗〈祝園〉》 泉橋の北、木津川の西岸に祝園神社(ほうその神社)がある。 〈延喜式神名帳〉山城国一百廿二座/相楽郡六座/祝園神社 大 月次 新甞。 比定社は、祝園神社(京都府相楽郡精華町大字祝園小字柞ノ森18)。 同神社には正月の申の日、武埴安彦の霊を鎮める「いごもり祭」が伝わる。 祭2日目の夜には暗闇の中で大松明に点火し、最終日の3日目には、南北から竹引きを行う。南北対抗で争うところに戦いの残像が見える。 地名は、記の時代(飛鳥時代)の「はふりその」から、平安中期に「り」が脱落して「はふその」になった。「はふ」から「ほう」への音韻変化は法則通りだから、地名は現代まで連続していると思われる。 《〖我君〗》 万葉集の(万)0822 和何則能尓 宇米能波奈知流 わがそのに うめのはなちる。などから、一般に吾・我が名詞にかかるときは「わが」である。 また、きみ(君)もごく一般的な語だから、通常「わがきみ」である。しかし、地名には「わがきみ」は聞かれない。 一方、「わき」「あき」なら地名らしい地名なので、「わがきみ」と同じ意味の語で「わき(あき)」はないかと思って調べた。 すると、記の中哀天皇段に、忍熊王と伊佐比宿祢が建振熊命の攻撃を受けて二人の乗る船が沈む時に詠んだ歌があった。 ――伊奢阿芸 布流玖麻賀 伊多弖淤波受波 邇本杼理能 阿布美能宇美邇 迦豆岐勢那和 ―いざあき ふるくまが いたでをはずは にほどりの あふみのうみに かづきせなわ 〔いざ吾君 振熊が 痛手負はずは にほ鳥の 近江の湖に 潜きせなわ〕※文末のわは確認を表す助詞。 この「あぎ」は二人称の人称代名詞である。また、〈デジタル大字源〉の「わぎみ」の項に、文例「―は何者ぞ、名のれ聞かう」(平家物語)を示す。「わぎみ」は「が」が脱落している。 これらから、「我君」をわき・わぎと訓むことはあり得る。 また、この歌の前に二人が追い詰められたことを「被追迫」と書く。 この表現は、樟葉に追い詰められたときの「被迫窘」とほぼ同じである。 どちらも遂に逃げ場を失い、そのときに発する声だから、「我君」の訓みは「あぎ」に類すると思われる。 なお、「わ(あ)き」か「わ(あ)ぎ」のどちらかと言えば、脱落した「が」の残滓による濁音であろう。 この近辺の地名にわき(あき)がないか探すと、木津川を挟み祝園神社の対岸に「わき神社」があった。 〈神名帳〉山城国一百廿二座/相楽郡六座/和伎坐天乃夫支売神社 大 月次 新嘗。 比定社は、和伎座天乃夫岐売神社〔わきにますあめのふきみ神社〕(京都府木津川市山城町平尾里屋敷69-1)。 ただしこれは復古名で、明治16年(1883)までは「涌出宮(わきでのみや)」と呼ばれていたという。同社にも居籠祭(いごもり祭)がある。 こちらは2月に行われ、大松明と御田植祭などがある。 《久須婆〖樟葉〗》 泉、祝園は近代の復古地名ではなく継続性があるので、「くすば」も古来から継続するかも知れない。 ただ、木津川→淀川の川沿いとは言え、泉津・祝園のエリアから離れているので、より近い所にも別の樟葉があったかも知れない。 《丸邇坂〖和珥武鍬坂〗》 現在の和邇町は天理市の北部。和爾坐赤阪比古神社がある。 〈神名帳〉大和国二百八十六座/添上郡卅七座/和尓坐赤坂比古神社。 神武即位前紀に「和珥坂下、有居勢祝」とあり、これを誅した場所である(第99回<19>)。 《鵜河》 鵜の生息する川はすべて鵜川と呼ばれる得るから、無数にあると思われる。 正式名になっているものは〈Wikipedia〉によれば、新潟県、滋賀県、愛媛県、熊本県にあり、 地名「鵜川」は秋田県、新潟県、石川県、滋賀県にある。 和訶羅河の戦場に一番近いのは、亀岡市の「鵜ノ川」である。鵜ノ川は淀川の支流の桂川に注いでいる。近くにトロッコ鉄道で有名な保津峡がある。 楠葉から淀川を越え、さらに山地に分け入ったところなので、記の鵜河とするには遠すぎるように思われる。 泉津近辺で、木津川に流れ込む中小河川のひとつが鵜河と呼ばれたと考える方が自然である。 ただ、注目されるのは鵜ノ川の「ノ」である。 記紀の時代の川名は基本的に「~のかは」だから、古い呼び名が継承されている可能性もある。 もし亀岡市の鵜ノ川なら、戦闘地域は大きく広がる。 《〖那羅山〗》 平城山は、万葉集では12首に登場し、平山、楢山、奈良山、常山と表記される。 那羅山が現在の平城山であることを疑う余地はない。 平城山丘陵は奈良市と木津川市の間にあり、海抜100m程度。 その西部は佐紀丘陵と呼ばれ、その南斜面には、佐紀盾列古墳群がある。 また、東部は佐保丘陵と呼ばれる。 《〖大坂〗》 書紀では、吾田媛の率いる軍勢は大坂から都を目指して攻め込む。 大坂山口神社については第111回参照。 《〖訶和羅前〗》 この「訶和羅前(かわらさき)」が後世の「河原崎」だとすれば、この文字が宛てられたのはカハハラがカワラになった時代より後ということになる。 しかし、「カハ+ハラ」は実は飛鳥時代以前に、〔kɑɸɑɸɑrɑ〕→〔kɑɯɸɑrɑ〕→〔kɑwɑrɑ〕の変化が完了して一語となったかも知れない。 このように言えるのは、擬声語と言われる「伽和羅」は、実際には「河原」で起こった事件に絡むからである(後述)。 一般に唇音退化の現象は平安時代中期とされているが、ある2語が合成語となり、その中間音の唇の動きが忙しければ、どの時代でも起り得るのではないか。 そのように成立した「かわら」は「かは・はら」の短縮であるという観念は時代を超えて続き、以後ずっと「河原」または「川原」の字が宛てられたと思われる。 カワラサキもありふれた地名で、もともと木津川の屈折部である和泉津の北側がカワラサキだったかも知れない。 《和訶羅河〖輪韓河・挑河・泉河〗》 これが木津川の古名であることは、崇神紀の「改号其河曰挑河、今謂泉河訛也」(後述)からわかる。 泉津は平安時代になると、木材の港として「泉木津」「木津」と呼ばれるようになった。 それに伴い泉川も木津川となる。 なお、川名の「わから」と岬名の「かわら」は、一方から他方が転じたものかも知れない。 《近接地と遠隔地があること》 ここまで見てきたように、樟葉・河原崎・鵜川については戦場から随分離れている。 その理由は、実際に戦場が広かったのかも知れないが、本当は狭い地域の出来事が 広く拡散して、各地で言い伝えられたとも考えられる。 一般に強い印象を与える話は、複数の地に伝説を生む。例えば 天孫降臨の伝説は各地にあるし、徐福の伝来地は膨大な数に上る(参考サイト)。 何れにしても、彦国葺対武埴安彦の戦争も、口承が多くの人の間に残った大事件だったわけである。 それだけのインパクトを与えたということは、この戦が歴史上の事実として存在したのではないかと思わせる。 戦死者が葬られた場所は、祟りを畏れいつしか信仰の地となり、やがて祝園神社が創建されたという想像もそんなに無理ではあるまい。 【和邇氏後継諸氏の展開との相似】
しかし、記紀によれば和邇氏の祖の彦国葺命(日子国夫玖命)は大彦の副官として反乱軍と戦ったから、 和邇氏は三輪山政権の一員である。とすれば、和邇氏は北方へ進出し、それぞれの地で先住の土蜘蛛と置き換わって支族を創始したことになる。 だが、和邇氏の本家が絶えた〔【丸邇臣之祖日子国夫玖命】の項参照〕のだから、和邇氏は追放された側という印象である。 だとすれば和珥坂で戦端が開かれるはずなので、木津川を挟んで対峙云々と書く記紀と相違する。 その折り合いをつけるために、和邇族は政権の敵と味方に二分されていたと考えてみる。最初、和邇族の祖先は大豪族として木津川の南北に広がっていたとする。 そのうち、木津川以南の「和邇族(南)」は神武紀で「居勢祝」と表され、三輪山政権に敗れて服属した。 その後、和邇族(南)は和邇族(北)蜂起の情報を掴み、三輪山政権に伝えた。これが謎の少女の歌詠みの話を生んだ。 そして、和邇族(南)は三輪山軍に加わり、和邇族(北)と木津川を挟んで対峙し、三輪山軍が勝利してさらに北方へ進撃を続けた。追放された和邇族(北)は山城国・近江国に分散したが、なお存続して各地の氏族として名を残す。 一方和邇族(南)もいくつかの後継支族を残したが、基本的に三輪山政権に吸収された。残ったのは伝説上の祖、日子国夫玖(彦国葺)命の名前のみである。 ところで和珥臣の祖はもともと、考昭天皇の皇子、天押帯日子命(天足彦押人命)のはずだが、すでに遠く霞み、改めて彦国葺命が祖となっている。 和珥臣の祖はまだいて、中哀天皇段に「丸邇臣之祖・難波根子建振熊命〔なにはねこたけふるくまのみこと〕為二将軍一」が出てくる。 駿河浅間大社の系図のうち少なくとも初めの数代は、伝説の祖を繋いで作られたものであろう。 和邇族二分説は、神武即位前紀、孝昭天皇段、神武天皇段・紀を通して、和邇族が大きな一つの氏族として存在していたという考え方によるものである。 分裂前の和邇族はもともと渡来氏族で、応神天皇紀で改めて王仁(わに)として描かれたものかも知れないが、この検討は後の回に送る。 【和爾遺跡】 和爾地域に、三輪山政権とは一線を画する遺構・遺物は検出されていないだろうか。 奈良県橿原考古学研究所の発表を見ると、第19次調査(2005年発表)では、350~500基の古墳が想定される大古墳群の存在が明らかになった。 だが、古墳群が形成されたのは、この地域の和邇氏が大和政権に融合した後のことではないだろうか。 和邇氏独自の文化を探るには、時代を遡ることが必要である。古墳時代前期より古い時代については、第14・15次調査報告(2002年発表)があった。 まず、弥生時代末から古墳時代初頭には、大量の土器と銅鏃が出土し、特に銅鏃は「近畿地方の同時期の集落では出土するのが稀な遺物である」という。 また、古墳時代前期の主な遺構は、方形周溝墓であるという。御所市の鴨都波1号墳では、前方後円墳のタイプの副葬品と方形周溝墓という墓形の間のギャップが注目されたが(第105回《鴨都波一号墳》)、 和爾地域では独自性はどうであろうか。また、和邇氏の祖先は木津川以北の地域まで広がっていたと想定した。その地域についても、調査報告を探して調べてみたい。 【書紀(1)】 13目次《大彦与和彦国葺向山背撃埴安彦》
夫(をとこ)山背(やましろ)従(ゆ)、婦(をみな)大坂(おほさか)従、共に入(い)り帝京(みやこ)を欲襲(おそはむとす)。 時に天皇(すめらみこと)、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)を遣はし、吾田媛之(の)師(いくさ)を撃ち、 即ち[於]大坂を遮(さ)へ、皆大(おほき)に破り[之]、吾田媛を殺し、悉(ことごとく)其の軍卒(いくさびと)を斬る。 復(また)大彦与(と)和珥臣(わにおみ)の遠祖(とほつおや)彦国葺(ひこくにふく)を遣はし、山背(やましろ)に向(むか)ひ埴安彦を撃つ。 爰(ここに)[以]忌瓮(いはひへ)を[於]和珥武鐰坂上(わにのたけすきさかのへ)に鎮坐(すう)。 則(すなは)ち精兵(えりすぐれたるいくさびと)を率(ひきゐ)、那羅山(ならのやま)に進み登りて[而]軍(いくさ)す[之]。 時に官軍(すめらみくさ)屯聚(あつまりて)[而]草木(くさき)を蹢跙(ふみならし)、因以(しかるがゆゑに)其の山を号(なづ)け那羅山(ならのやま)と曰ふ。【蹢跙、此、布瀰那羅須(ふみならす)と云ふ。】 更に那羅山を避(さ)りて[而]輪韓河(わからのかは)を進到(すすめたり)、埴安彦与(と)河を挟み屯(あつめ)[之]、各(おのがおのが)相(あひ)挑(いど)みき[焉]。 故(かれ)時の人其の河を改め号(なづ)け挑河(いどみのかは)と曰ひ、今に謂(いはく)泉河(いづみのかは)と訛(よこなまり)す[也]。 〔 間もなく、武埴安彦(たけはにやすひこ)と妻、吾田媛(あたひめ)は反逆を謀り、軍を興し忽く攻め来、各々道を分け、 夫は山城より、妻は大坂より共に入り、都を襲おうとしました。 そこで、天皇は五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)を遣わし、吾田媛の軍を攻撃し 大坂で食い止め、皆大いに破り吾田媛を殺し、悉くその兵を斬りました。 また、大彦と和珥臣の遠祖である彦国葺(ひこくにふく)を遣わし、山城に埴安彦を向い撃ちました。 そこで忌瓮(いわいへ)を和珥武鍬(わにたけすき)坂の上に鎮座しました。 そして、精兵を率い、平城山に進み登って、戦いました。 その時、官軍は集まって、草木を踏み鳴らしたので、その山を名付けて、平城山と言います。 更に平城山を去り、輪韓川(わからかわ)に到着し、埴安彦と川を挟み集結し、各々相挑みました。 よって、時の人はその河の名を改め挑川(いどみかわ)と呼び、現在は、訛って泉川(いずみかわ)と言います。〕
対(こた)はく[曰]「汝(いまし)天(あめ)に逆(さか)へ道無(あづきな)く、王室(みかど)を欲傾(かたぶけむとす)、 故(かれ)義(よき)兵(いくさびと)を挙げ、汝(なが)逆(さかふる)を欲討(うたむとす)、是(これ)天皇(すめらみこと)之(の)命(みこと)なり[也]。」とこたふ。 於是(ここに)、各(おのもおのも)先(さき)に射(いる)を争ふ。武埴安彦(たけはにやすひこ)先(さき)に彦国葺を討(う)てども、不得中(えあてず)。 後(のち)に彦国葺、埴安彦を射、胸(むなさか)に中(あ)てて[而]殺しぬ[焉]。 其の軍衆(いくさども)脅(おび)え退(ひ)き、則(すなはち)[於]河の北に追ひ破りて[而]、首(くび)を斬ること過半(なかばをこえ)、屍骨(ほね)多(さは)に溢(あぶ)れ、故(かれ)其の処(ところ)を号(なづ)け、羽振苑(はふりその)と曰ふ。 亦(また)其の卒怖れ走り、屎(くそ)[于]褌(はかま)に漏れ、乃(すなは)ち甲(よろひ)を脱きて[而]逃げ[之]、不得免(のがれじ)を知り、叩頭(のまく)[曰]「我君(わき)。」とのみき。 故(かれ)時の人、其の甲を脱ぎし処(ところ)を号け伽和羅(かわら)と曰ひ、褌(はかま)に屎(くそ)せし処を屎褌(くそはかま)と曰ひ、今に謂はく樟葉(くすは)に訛(よこなまり)す[也]。 又、叩頭(のみ)し[之]処を号け、我君(わき)と曰ふ。【叩頭、此れ迺務(のむ)と云ふ。】 〔 埴安彦はこれを遠望し、彦国葺に「どうして、お前は軍を興して来たか。」と問いました。 彦国葺はそれに答えて「お前は天に逆らい無道で、王室を覆そうとしている。 だから、義兵を挙げ、お前の反逆を討とうとする、これが天皇の命である。」と言いました。 ここに、各々が先に射ようと争い、武埴安彦が先に彦国葺を撃ったが、当てられませんでした。 後に彦国葺が埴安彦を射て、胸に当たり殺しました。 その兵たちは脅えて退き、川を北に追い破り、首を斬ること過半に及び死体の骨が大量に溢れたので、その場所を「はふりその」と言います。 また兵たちは怖え走り、糞が袴に漏れ、鎧を脱いで逃げ、逃れられないと知り、額(ぬか)ずき「我が君。」と言いました。 よって、時の人はその鎧を脱いだ処をその鳴る音によりかわらと名付け、袴に糞をした処を「くそはかま」と言い、今は訛って樟葉(くすは)になりました。 また、額ずいた処を我君と名付けました。〕 《叩頭曰我君》 近代の訓読体なら「のみて曰(いは)く我君と。」と訓むところだが、上代は「のみて我君といふ。」などが考えられる。 書紀における「曰」は、しばしば引用文の指示文字として、不読とされるようなので「我君とのむ。」、或いはク語法によって「のまく我君。」か。 ここでは、「叩頭」の訓注が終止形(のむ)で示されることが注目される。 動詞の活用について、体系だった研究が始まるのは江戸時代だが、動詞の活用自体は、奈良時代初期の学者にも感覚的に理解されていたと思われる。 《号其脱甲処曰伽和羅》 鎧を脱いだ場所だから、地名が「かわら」とする。しかし、これだけでは意味が分からない。 〈時代別上代〉は「かわら」を擬声語とし、応神天皇段から文例を挙げる。その部分の前から詳しく見てみよう。 皇子の大雀命(後の仁徳天皇)は、あるとき兄大山守命の叛意を知り、大雀命は船に細工を施し船頭に変装し、その船に兄を載せて沈め、両岸の伏兵に矢を射かけさせた。それに続く文が 「以鉤探其沈処者、繋其衣中甲而、訶和羅鳴、故号其地謂訶和羅前也。」 〔鉤(かぎ)をもち其の沈みし処を探すは、其の衣の中に甲(よろひ)を繋(つな)ぎて、訶和羅(かわら)鳴り、故(かれ)其の地を号け訶和羅前(かわらのさき)と謂ふ〕 である。 この故事に因み、訶和羅崎で沈んだものを探すときは、衣の中に鎧をつける習慣が生まれ、 衣の中の甲(よろい)が「かわら」(擬声語)と鳴ることから、その地は「かわら崎」と名付けられたとする。 「号其脱甲処曰伽和羅」はこの話を下敷きにしたものなので、応神天皇段を知らなければ理解することができない。 【書紀(2)】 《倭迹々日百襲姫の神話》 続いて、倭迹々日百襲姫が大物主の妻となり、不慮の死を遂げ葬られるまでを描く(第113回)。 【書紀(3)】 16目次《四道将軍以平戎夷之状奏》
「今、反者(かたぶけむとせしものをば)悉(ことごと)伏せ誅(ころ)し、畿内(うちつくに)に無事(ことあらず)。唯(ただ)海外(とつくに)の荒俗(あらきさま)、騒動(さやぎ)て未止(いまだやまざり)。其(それ)四道(よつみち)の将軍(いくさのかみ)等(ら)、今急(すみやかに)発之(たつべし)。」とのりたまふ。 丙子(ひのえね)のひ〔22日〕、将軍(いくさのかみ)等(ら)共に路(みち)に発(た)てり。 十一年(ととせあまりひととせ)夏四月(うづき)壬子(みづのえね)を朔(つきたち)とし己卯(つちのとう)〔28日〕、四道(よみち)の将軍(いくさのきみ)、[以]戎夷(えみし)を平(たひら)げし[之]状(さま)を奏(まをしまつる)[焉]。 是の歳、異俗(けなるものども)多(さはに)帰(まつろ)ひ、国内(くにのうち)安寧(やすまれり)。 〔 十月一日、群臣に詔を発し、このように告げました。 「今や謀反を起こした者は悉く屈服させまた殺し、畿内は無事となった。ただその外側は秩序が乱れ、騒動が未だ止まない。よって四道将軍は、速やかに発て。」と。 二十二日、将軍らはそれぞれの方面に発ちました。 十一年四月二十八日、四道の将軍は、戎夷(えびす)を平定した様を奏上しました。 この年、異勢力は多く帰順し、国内安寧となりました。〕 《異俗多帰》 「異俗多帰」の字面からは、文化が中央と同化したとも読めるが、実際には言葉の違いも万葉集の東国方言程度で、文化が全く異質。 ここでは、「戎夷を平ぐ」と同じ意味であろう。「帰」はここでは「帰順」の意味と考えられる。 戎夷や異俗は、単に敵であることを強調するための表現である。「戎夷」は、中国の辺境の未開民族を意味する表現「東夷・西戎・南蛮・北狄」を取り入れたものである。 ここでは、「皆帰」ではなく「多帰」であるところが注目される。 広範な外国(とつくに)の平定は、順調には進まなかったはずだが、書きっぷりが簡潔すぎる。 この後、日本武尊が改めて征伐に向かうから、四道将軍の派遣ではまだ完全な平定は得られなかったと性格付けたのであろう。 「安寧」は国の完全な統治ではなく、たまたまに争いが収まっていたことを意味するに過ぎないということであろうか。 《海外》 崇神天皇紀に「海外」という語が出てくる。これが五畿(山城、大和、河内、和泉、摂津)の外を指すことは明らかだが、 陸続きの土地を海外と表現するのはまことに不自然である。 これがもし神功皇后紀の中なら、うちつくに=倭国、とつくに=三韓を意味することになり、「海外」の使用は適切である。この表現法を、崇神紀にも流用したことになる。 実際に神功皇后紀に出てくる語は「海西諸韓」「平定海西」の「海西」であるが、「海外」と同じ意味である。 中国人スタッフに文脈抜きで「とつくに」はどう書くのかと聞いたところ、「海外」を提示されたのでそのまま書いたのかも知れない。
ただ、別の解釈として、北陸・東海へ向かったのは海上交通が中心だった時代の名残とも考えられる。 古代出雲の時代は、北陸は海の向こうの「くぬが」であり、その記憶により国生みの際、秋津嶋と別の陸地として扱ったことを前回指摘した。 東海道は、沿岸を船で東国に向かうから、「うみつみち」であったのだろう。実際、船型埴輪(写真)が唯一完全な形で見つかった、宝塚一号墳は松坂市(伊勢の国)にあり、この地の豪族は船を伊勢湾・三河湾に漕ぎ出していったと考えられている。 しかし、書紀は随所に漢熟語を装飾的表現に用いるなど、全体に中国人スタッフの深い関与があるので、「海外」中国人提示説の方が現実的である。 まとめ 神武即位前紀では、和珥坂の下にいた居勢祝(こせのはふり)を誅した。 ここには、和邇氏の遠い祖先〔と思しき勢力〕を土蜘蛛と呼び、強い悪意が感じられる。以後、和邇氏の祖は三輪山政権に服従したとは書かれるが、 少なくとも、木津川以北の和邇氏〔地理的に不一致だが、便宜上この名称を用いた〕は政権と激しく戦ったと考えざるを得ない。 前述したように、地名譚に取り上げられた場所の配置が、現実の戦争として自然だからである。 ただ、この戦いが起こる以前には一定の共存関係があったとすれば、記紀の言うように謀叛となる。 このようにしてもともとの和邇氏の本体は粉砕され、散り散りになった裔が各地で氏族を興し、 天武天皇の時代になって、やっと朝臣として政権を支えるようになったと解釈できるのである。 これは、政権の重要な基礎である出雲勢力について、神代には極めて悪意のある書き方がされていることを彷彿させる。 共通するのは、かつては天孫族に敵対した勢力を、記紀の時代には固く統合して国をまとめようとしていることである。 だから、記紀で彦国葺命や難波根子建振熊命を和邇氏の祖とし、朝廷に味方したと書いた部分は作為で、本当は敵だったのかも知れない。 しかし、和邇氏の祖を味方の如く描いて称賛することにより、現在の旧和邇氏系の諸氏族を、政権の支配下にしっかり束ねようとする意図が見える。 |
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2016.01.12(tue) [115] 中つ巻(崇神天皇6) ▼▲ |
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![]() 於是、初令貢男弓端之調、女手末之調。 故稱其御世、謂所知初國之御眞木天皇也。 又是之御世、作依網池、亦作輕之酒折池也。 爾(かれ)天下(あめのした)太平(おほきにたひらぎ)、人民(あをひとくさ)富み栄ゆ。 於是(ここに)、初(はじめて)男(をのこ)の弓端之調(ゆはすのみつき)、女(をみな)の手末之調(たなすゑのみつき)を貢(まつ)ら令(し)む。 故(かれ)其の御世(みよ)を称(たた)へ、所知初国之(はつくにしろしめす)御真木(みまき)天皇(すめらみこと)[也]と謂(まを)す。 又(また)是之(この)御世、依網池(よさみいけ)を作り、亦(また)軽之酒折池(さかをりいけ)を作りたまふ[也]。 天皇御歲、壹佰陸拾捌歲。 戊寅年十二月崩。 御陵在山邊道勾之岡上也。 天皇御歳(みとし)、壱佰陸拾捌〔一百六十八〕歳(ももとせあまりむそとしあまりやとせ)。 戊寅(つちのえとら)の年十二月(しはす)崩(かむあがりたまふ)。 御陵(みささき)山辺道勾之岡上(やまのへのみちのまがりのおかのへ)に在り[也]。 このようにして天下は太平となり、人民は富み栄えました。 このとき初めて、男子に弓端之調(ゆはすのみつぎ)、女子に手末之調(たなすえのみつき)を貢がせました。 そして、その御世を称え、初国知ろしめす御真木(みまき)天皇と呼ばれました。 またこの御世に、依網池(よさみいけ)を作り、また軽の地に酒折池(さかおりいけ)を作られました。 天皇の御歳168歳。 戊寅年十二月に崩御し、 御陵は山辺道(やまのべのみち)の勾の岡(まがりのおか)の上にあります。 みつき(御調)…人民が朝廷に奉る物品。 【弓端之調・手末之調】 書紀では、「男之弭調・女之手末調」と表記され、丙本の古訓は次の通りである。 〈日本紀私記丙本〉弭調【由美波須乃美津岐】〔ゆみはすのみつき〕。手_末_調_也【太末須江乃美ツ支】〔たますえのみつき〕。 書紀「素戔鳴尊之爲行也甚無状」の段の一書2の訓注に、 「手端吉棄、此云二多那須衞能餘之岐羅毗一」〔たなすゑのよしきらひ〕」がある (第11回【一書2】)。 一般に書紀の訓注は、厳密な検討の結果と見られる。それに対して、丙本の「たますえ」は訛りだろうか。あるいは、私記は講義のための私的メモなので「奈」の書き間違えかも知れない。 筆写に伴う過誤説もある。 「弭」は、神武即位前紀に「弓之弭」が出てきた(第99回<14>)。 古訓や万葉集を照合すると読み方は一定せず「ゆみはず」「ゆみのはず」「ゆみのゆはず」「ゆはず」という表現が有り得る。丙本では清音だが、訛りと思われる。 「手末(たなすゑ)」は、「手の先」を意味する。「た」は「て」の変。「な」は属格をつくる助詞で、「の」「が」「つ」に類するが、特定の連語に限られる。 「調」は、物納による税を意味する。「ゆはずの調」は弓矢による獲物、「たなすゑの調」は織った布を意味するとされる。各種の調を象徴的に表したと見られる。 【所知初國之御眞木天皇】
【依網池】 《河内国南部の自然条件》 <大阪狭山市ホームページ―狭山池ガイド> 雨が比較的少ないこの地方では、農業に必要な水を確保するために、古代からたくさんのため池がつくられてきました。大阪府内には、今でも約1万1000のため池がある </狭山池ガイド> とあるように、河内国南部では農業用水が不足し、古代から数多くの溜池が作られた。その事情は、崇神紀(後述)にも 「今河内狭山埴田水少、是以、其国百姓怠二於農事一。其多開二池溝一、以寛〔ゆたかにす〕二民業一。」 と書かれる通りである。 そして、垂仁天皇段では「印色入日子命者〔は〕作二血沼池一又作二狭山池一」 とされ、狭山池に言及する。 《狭山池》 狭山池は、古墳時代に作られ、修復が繰り返されて現代の狭山池ダムに至る。 『狭山池 埋蔵文化財編(1998年)』によれば、 発掘した樋管はコウヤマキの丸太をくり貫いて作られ、 年輪年代測定法により、伐採した年は616年であることが確定した。 狭山池が作られたのはそれより後だから7世紀前半である。
依網池は現存しないが、狭山池より古いとされる。大阪市住吉区にその遺跡が確認されている。 依網の地については、開化天皇の皇子、建豊波豆羅和気王が依網之阿毘古の祖とされ、式内社の大依羅神社がある(第109回)。 記・仁徳天皇段には難波之堀江を海に通じさせる工事などと共に「作二丸邇池依網池一」と書かれる。 また、推古天皇紀15年(606)7月に「河内国作二戸苅池依網池一」と書かれる。 『復原研究にみる古代依網池の開削』(川内眷三)〔四天王寺大学紀要第59号;2015〕によると、依網池は発掘調査などで7世紀には存在したことが確認される。 そして「崇神朝(3~4世紀)の築造は疑わしいが、仁徳朝(5世紀)の頃に造られ、推古朝(7世紀初頭)に修築したのではないか」、 「狭山池より相当早い5世紀初頭~中期」に建造され、崇神段・紀は 「5~6世紀初頭頃にみられた造修池の事業を、より上代に遡らせて崇高化させる」ものという見解を示している。 航空写真の上に、同論文による狭山池の位置を示したのが右図である。 同論文の推定では、Ⅰ期は仁徳朝、Ⅱ期は推古朝、Ⅲ期は行基である。 依網池跡は、大和川が貫いている。 大和川はもともと柏原から北に曲がり、河内湖、後に淀川に注いでいた。 江戸時代の1704年に流路付け替え工事が行われ、堺から大阪湾に注ぐようになり、 依網池には付け替えられた大和川が通り、消滅した。 【軽之酒折池】 「軽之酒折池」を、書紀では「作苅坂池反折池」〔かるさかいけ・さかをりいけ〕の2池に分割している。 「軽」の地は、懿徳天皇の回で詳しく調べた(第104回【軽】)。 《軽池》 応神天皇紀十一年に「作二剣池軽池鹿垣池厩坂池一」とある。
〈紀皇女御歌一首〉 0390 軽池之 汭廻徃転留 鴨尚尓 玉藻乃於丹 独宿名久二 かるのいけの うらみゆきみる かもすらに たまものうへに ひとりねなくに。 しかし、応神紀の書き方を見れば、軽池と剣池は別物である。 また、鹿垣池の鹿垣(ししがき、猪垣とも)は、害獣の侵入を防ぐために農地と山の間に築いた垣で、西日本を中心に各地に作られたとされる。鹿垣池の近くに鹿垣があったのだろうが、その具体的な場所は今のところ分かっていない。 さらに、厩坂池の厩坂という地名は、応仁天皇紀十五年に、百済王から貢された2匹の馬の厩を設けたことに因むとされる。 欽明天皇紀十二年には、伊予から戻り「廐坂宮」に居(ましま)すとある。厩坂は大軽町の古地名とも言われるが、実際はどうであろうか。鹿垣と共に欽明天皇段の回で改めて調べたい。 一方応神天皇段には「作剣池」、また渡来した新羅人を建内宿祢が率いて堤を築かせ、「百済池」を作ったとある。 ※ 軽池として伝承される池は、丸山古墳と剣池の中間点付近にある(推古11《高市池》)。〈2022.8.2追記〉 《市師池》 垂仁天皇段には、「作二二俣小舟〔ふたまたのをぶね〕一而持上来以浮二倭之市師池軽池一」とある。 履中天皇紀三年に「泛両枝船于磐余市磯池」〔両枝船(ふたまたふね)を磐余市磯池に泛(う)かべ〕とあり、 遡って同二年に「作二磐余池一」がある。 この段だけ見れば磐余市磯池は磐余池と同一と取れるが、 記・書紀を混合すると垂仁天皇段のときに存在した市磯池(市師池)と、履中天皇の時代に作られた磐余池とは別物になる。 全くの想像であるが、まず市師池が作られ、後に大規模ダム・磐余池の中に吸収され、元々の池の辺りが磐余市磯池と呼ばれたのかも知れない。 《池はどこにあったか》
酒折池は、書紀では苅坂池・反折池と複数の池になっているので、実在性はどうであろうか。 記紀の時代に既に存在せず、伝説が残るだけだったのかも知れない。 軽池は、万葉集に歌われるから、実在したのは確かで景色がよかったのだろう。 現在軽の地にある池は剣池であるが、剣池と軽池とは別々の場面に出てくるので、剣池は軽池ではない。 酒折池が後に応神天皇朝に拡張され、軽池となったのかも知れないが、想像に過ぎない。 なお、推古朝の依網池の拡張では築堤が約1kmに及ぶなど、いくつかの「池」の造成は高い技術で作られた大事業である。 【山辺道勾之岡上】
同じく「山邊道上」とされる景行天皇陵と、江戸時代まではとり違えられていた。 記で景行天皇陵は、「御陵在二山辺之道上一」とある。違いは「勾之岡」の有無である。 書紀では、「倭国之(やまとのくにの)山辺道上陵」で、崇神天皇陵と全く同表現である。 延喜式には、 山辺道上陵 磯城瑞籬宮御宇崇神天皇。在大和国城上郡。兆域東西二町。南北二町。守戸一烟。 山辺道上陵 纏向日代宮御宇景行天皇。在大和国城上郡。兆域東西二町。南北二町。陵戸一烟。 〔兆域…墓地。一町…約109m。一烟(へ)…戸とも。戸数または窯の数を数える。〕 とあり、全く区別がつかない。 『天皇陵の謎』(矢澤高太郎著)によれば、それが交換されて現在の割り当てになったのは慶応元年(1865)で、 その背景には谷森善臣の説があるという。谷森は、行燈山は「地形他よりいと高くて、岡ノ方ともいひつべければ」 〔=岡の上とも言えるから〕崇神陵で、向山は岡の上ではないから景行陵だとする。 以上から記では、行燈山古墳=崇神天皇陵、渋谷向山古墳=景行天皇陵であるのは間違いないだろう。 ただ、崇神天皇が歴史的事実として、記が認定した「崇神天皇陵」に葬られたかと言えば、話はまた別である。 【初期古墳】
大和神社と山辺の道の間の古墳郡は、大和神社の名に因み大和(おおやまと)古墳群という。 そのうち西殿塚古墳(図の4)は、手白香皇女(たしらかのみこ、継体天皇の皇后)陵とされているが、実際は崇神天皇陵より古いと考えられている。 柳本古墳群は、崇神天皇陵(6)・景行天皇陵(7)を含む。 纏向(まきむく)古墳群は、箸墓古墳(1)の他、帆立貝型と呼ばれる出現期の前方後円墳が5基ある。 図の(A)は、2009年の発掘で明らかになった、大型建物群の位置である。この地の政権初期の中心施設ではないかと言われている。 《崇神天皇陵》 実際に崇神天皇が存在したと思われる時期と、行灯山古墳の築造時期を比べてみたい。 まず、崇神天皇には崩年の太歳(干支)表記がある。神宮皇后紀の編年を検討したとき、記に記載のある太歳を調べて、西暦を推定した(第43回)。 右の表はその一部である。 前提として、記の太歳表記は古代からの何らかの意味のある伝承によると仮定し、 宋書の倭の五王の年代が、応神~雄略に噛み合っていて、その間の平均的な在位期間がそれ以前にも適用されるとする。 すると、崇神天皇の没年は318年ぐらいになる。 《出現期の大王クラスの古墳》 ところが、纏向・柳本・鳥見山の各古墳群に、古墳出現期~初期の、大王クラスの大きさを誇る前方後円墳が6基もある。 まず、その6基及び、それらと年代が近い代表的な前方後円墳について、概略を見る。
古墳の造営時期の研究が進むにつれ、崇神天皇の頃までの大王クラスの前方後円墳に、纏向・柳本・大和古墳群に3基、鳥見山古墳群に2基が該当することが分かってきた。 崇神天皇陵以前に五基も大王陵があることは、多くの研究者や古代史愛好者を困惑させている。 当然、天皇の系列から外れた王のものという考えもあるが、大王陵とローカルな豪族の王の陵が、同規模ということは有り得ないだろう。 やはり、崇神天皇以前に記紀に名前が上がらない大王が4王いたと受け取るのが、自然ではないだろうか。 崇神天皇は、318年に164歳で崩じたとある。仮に即位を30~40歳とすると約180年が崇神天皇の在位期間である。 そこで、5代の大王が存在し、崇神天皇は、「卑弥呼⇒A⇒B⇒壱与⇒崇神陵の主」の五代の王の合成人格だと仮定してみる。 その妥当性を考える前提として、大王級古墳の建造に要する年数が重要である。 古墳の造営については、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)についての大林組の試算があり、1日あたりの最大動員人数を2000人とすると、造営に要する期間15年8か月という。 例えば、箸墓古墳の体積は、およそ大仙陵古墳の(275÷486)2×(30÷36)≒27%なので、同じ条件だとすれば5年前後か。
鳥見山古墳群の桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳は、纏向・柳本両古墳群からやや離れているから、地方豪族が独自に築いたという説もあるが、 数千人を動員して数年かかる事業を行う王朝・豪族が近傍に共存するとは、想像しにくい。 動員の実態を探る資料として、茶臼山古墳北の城島(しきしま)遺跡がある。同遺跡からは鋤・鍬などの土木用具と山陰・北陸・東海・畿内の土器が出土し、古墳造営のために全国から集められた人夫の飯場と考える説がある。 だから五基の古墳はすべて、中央政権が造営したものであろう。 卑弥呼の崩年は、魏志倭人伝の記述から崩年は248年前後とされる。卑弥呼を最初の大王とすると、後の4人の統治期間は248年~318年となる。 一代平均、17.5年である。 これなら、それぞれ初めの5年を、前代の大王の古墳造営期間に宛てたと考えることは可能であろう。 記で太歳表記のある、13代成務天皇(崩年推定355年)~19代允恭天皇(同454年)を6で割れば、平均在位期間は16.5年であることからも、17.5年は妥当である。 《想定される王朝の継承》 次の仮定を満たし得る王朝史を思い切りよく描いてみる。
その後、鳥見山朝初代王は崩じ、2代目が継ぎ、桜井茶臼山古墳を造営した。 ところが、間もなく纏向勢力と鳥見山勢力が対立し、内乱状態になる。 その際、纏向勢力は初代王陵の鏡の魔力を封じるため、三角縁獣神鏡を徹底的に粉砕した。 265年ごろ、鳥見山王2代目は殺され、諸族は再び13歳〔魏志倭人伝による〕の壱与を擁立した。 壱与は教団一族に卑弥呼の死後数年して生まれ、卑弥呼の生まれ変わりと信じられていたとする。 中国は魏から既に晋に移行していたが、壱与は266年に朝貢の使者を送り、バックアップを得ようとした。
このようにして、王朝は再び纏向に還る。 この筋書きから想定される崩年は、卑弥呼=248年、 鳥見山朝初代=256年前後、 鳥見山朝二代=265年、 壱与=290年前後、 もともとの崇神=318年となる。 この筋書きは、中国歴史書とは噛み合い得るが、桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳を現在の定説より30~40年遡らせなければならない。 ただ4世紀初頭だとすると、崇神崩年の318年に間に合わせるには10数年の間に3代の大王が立ち、2陵を築く慌ただしさがある。 また桜井茶臼山古墳には円筒埴輪がないので、一度確立した円筒埴輪を失うという退行が不自然である。 さらに、桜井茶臼山古墳から景初四年記銘三角縁神獣鏡の破片が出土しているという事実がある(「景初四年」は実在せず、正始元年(240)にあたる)。 畿内の古墳だから、景初四年鏡の製造から造営までの期間は短いのではないか。 従って、4世紀初頭という通説より古いかも知れない。 なお、メスリ山古墳の祭壇の円筒埴輪列は、桜井茶臼山古墳の丸太列柵の発展形と見られるので、桜井茶臼山古墳よりも後の造営である。 ※…鳥見山王朝は、現時点(2016年1月12日)で本サイトによる造語である。
メスリ山古墳の円筒埴輪祭壇は、当然崇神天皇陵に引き継がれているはずであるが、江戸時代の修陵によってその痕跡は失われたかも知れない。 宮内庁実測図を見ると、西殿塚古墳は、方形祭壇は後円部、前方部の両方にある。箸墓古墳では、不明瞭である。 前方部を比べると、箸墓・西殿塚は撥型に開き、類似している。崇神陵も同様だが、やや細い。 それらに比べて、桜井茶臼山・メスリ山の前方部は、ほぼ長方形で細長く(柄鏡型)、明らかに別系統である。 一方、箸墓古墳は、楯築墳丘墓(弥生時代後期、2世紀後半~3世紀前半)の特殊器台・特殊壺を引き継ぎ、円筒埴輪も見つかっている(第107回)。 ところが、桜井茶臼山古墳には円筒埴輪がない。 だから、鳥見山王朝を立てた氏族は纏向王朝とは別の文化を持ち、古墳の大きさだけを真似た。 それがメスリ山古墳になると円筒埴輪列が現れたのは、文化の融合が進んだ結果だと考えることができる。 《記紀への部分的な反映》 ① 初期政権の中心施設と見られる纏向の大型建物跡(A)・箸墓古墳・大神神社を含む一帯が、崇神段・崇神紀の初期の舞台であることは、確実である。 ② 神武即位前紀で長髄彦と戦った場所が鳥見邑、また記では長髄彦は登美毘古の名で登場した(第99回〈14〉)。 ここに、鳥見山王朝が打倒された事件が反映しているのかも知れない。 地元では、茶臼山古墳は饒速日の命、あるいは長髄彦の墓と伝えられているという。それに、符合しているのが興味深い。 ③ 崇神朝の重大事件として、建波邇安王の反乱があった(第113回)。 反乱の地域は北部であるが、政権が不安定な時期で南部でも同時に戦いの火の手が上がったかも知れない。 反面、東国の制圧の部分は具体性を欠くので、景行天皇の代に日本武尊が制圧した伝説が繰り上がって混合したと見られる。 ④ 『魏志倭人伝をそのまま読む』(第86回)の中では、壱与〔台与とも〕の使者の派遣は、司馬懿が皇族を鄴に軟禁していたころと考えたのだが、 今回はそれを修正して、西晋に移行した直後の266年、初代皇帝司馬炎のときとする。 『魏志』によれば張政は壱与に朝貢を促し、朝貢使と共に帰国した。張政は19年間に渡って軍事顧問として纏向勢力を助けてきたことになる。 《晋書に見る朝貢の記録》 壱与による朝貢の時期を、検討してみる。 晋書では、倭国との関係を示す記事は少ないが、次の朝貢の記録がある。 A帝紀第一:〔240〕魏正始元年春正月、東倭重譯納貢。 〔「重訳」は、二重通訳が必要なほどの遠隔国の意味。魏書では正始元年に印綬と贈り物を受け取り、返礼の使者を送っている。〕 B帝紀第三:(泰始)二年〔266〕…十一月己卯、倭人来献方物。 〔方物は、地方の特産物。〕 C帝紀第十:(義熙)九年〔413〕…是歳、高句麗、倭國及西南夷銅頭大師並献方物。 〔宋書には、高句麗の朝貢のみ。「西南夷」は中国古代に今の四川省南部から雲南・貴州両省を中心に居住していた非漢民族の総称。「銅頭大師」(人名)は興味深い名だが、研究は別の機会に送る。〕 Aは、卑弥呼の時代である。Bが鳥見山王朝によるとすると、 桜井茶臼山4世紀初頭説には合うが、上で述べたように古墳の特徴の退行が気になる。 一方、壱与朝貢B説の弱点は、張政の滞在期間が長すぎることである。 しかし、張政は卑弥呼の死後帰国し、壱与の頃に再び来た可能性もある。 《纏向王朝》 崇神天皇は、卑弥呼―壱与―崇神陵の主の三代からなる「纏向王朝」を表す集合人格と考えることができる。 鳥見山王朝の存在には一切触れられていない。しかし、崇神段では、「疫病の時代―三輪山大神の確立―反乱の制圧―安定した治世の開始」の4段階から構成され、 途中に戦乱があったことだけは示唆する。 この期間の大王の交代がリアルに書かれなかった理由は想像するしかないが、一番考えられるのは、やはり記録がないことであろう。崇神朝から記紀編纂期までの300年の間に伝承は次第に変形し、やがて一人の大王に集約された。 その間に、卑弥呼は太陽神と一体となり「日女(ひるめ)」として、民族の記憶に刻まれただろうということは以前に述べた。 つまり卑弥呼伝説は、崇神天皇の初期と、天照大神に分裂したのである。 別説として、卑弥呼は諸国の王が共立した吉備出身の女王であり、壱与もまた同じ教団の一員だから、自前の王ではないという意識が強かったかも知れない(第107回まとめ)。 だから、天照・大物主連合が自ら立てた最初の大王、崇神天皇が一人で全部やったことにしたのである。 さらに別説としては、編集中の書紀では卑弥呼が魏皇帝から豪華な回賜があったことを利用し、三韓から貢献を受ける神功皇后に擬す大方針があり、 記もそれに従ったかも知れない(第43回)。つまり卑弥呼を神功皇后に回すために、承知のうえで崇神時代から引き抜いたのである。 【書紀(1)】
詔(みことのり)したまはく「朕(われ)初(はじめて)天位(あまつひつぎ)を承(う)け、宗廟(そうべう、くに)保(も)るを獲(う)。明(あかる)に[所]蔽(かくる)有り、徳(あつみ、のり)綏(やすみ)不能(あたはず)、 是以(こをもち)、陰陽(いむやう)謬錯(たがへ)、寒(さむみ)暑(あつみ)の失序(つぎてうしなひ)、疫病(えやみ)多(さはに)起(おこ)りて、百姓(みたみ、おほみたから)災(わざはひ)を蒙(かがふ)る。 然(しかれども)今罪(つみ)を解(はら)へ過(とが)を改め、敦(あつく)神(あまつかみ)祇(くにつかみ)を礼(うやま)ひ、亦(また)教(をしへ)を垂(た)れて[而]荒俗(あらきひと)を緩(ゆる)へ、兵(いくさ)を挙げ以ちて不服(まつろはぬひと)を討つ。 是以(こをもち)、官(つかさ)に廃(すたる)事(こと)無く、下(しも)に逸(のがるる)民(たみ)無く、教化(をしへ)を流行(ひろめ)、衆庶(あをひとくさ)業(なりはひ)を楽しび、異(け)なる俗(ならひ)の重訳(をさ)来たり、海外(とつくに)既に帰化(まつろふ)。 宜(よろしく)此の時に当たりて、更に人民(あをひとくさ)を校(かぞ)へ、長幼(このかみとおと)之(の)次第(つぎて)、及び役(え)課(おほす)[之]先後(つぎて)を知ら令(し)めたまへ[焉]。」とのりたまふ。
是以(こをもち)、天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)共に和(やはし)享(う)けて[而]風雨(かぜあめ)時に順(したが)ひ、百(もも)穀(たなつもの)成るに用(よ)り、家(いへ)給(たり)人(ひと)足(たり)、天下(あめのした)大(おほきに)平(たひらぐ)[矣]。 故(かれ)御肇国(はつくにしろしめす)天皇(すめらみこと)と称謂(たたへまつる)[也]。
今海辺(うみへ)之(の)民(あをひとくさ)、由無船(ふねなきゆゑ)、[以]歩運(かちゆき)甚(いと)苦(くる)し。其(それ)[令]諸(もろもろの)国におほみことし、俾造船舶(ふねをつくらしむ)。」とのりたまふ。 冬十月(かみなつき)、始めて船舶(ふね)を造る。 《大意》 12年3月11日、 詔(みことのり)し、「朕は初めて天位を承け、国家の宗廟を守護することとなった。ところが明るさは蔽(さえぎ)られ、徳は綏靖〔やすらぎ〕を与え得ず、 それ故、陰陽は錯謬(さくびゅう)し、寒暑の順序を失い疫病が頻発し、百姓は災を蒙(こうむ)った。 然るに、今は罪を払い咎(とが)を改め、敦く神祇(じんぎ)を敬い、また教えを垂れて荒れた人どもを和し、挙兵して服従せぬ者どもを討った。 是をもち、官に廃絶する事なく、下々に逃亡する民なく、教えを広め、庶民は生業(なりわい)に満足を得、異国の訳使が渡来し海外は既に帰順した。 宜く、この時に当たり更に民を数え、長幼の区別及び、課役の仕組みを理解させよ。」と告げました。 9月16日、初めて民を数え、更に調〔物納〕・役〔労役〕を科し、これを男子の弓端(ゆみはず)の御調(みつき)・女子の手末(たなすえ)の御調と言います。 このようにして、天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)は共に人々を和らげ、また人々からの祀りを受け入れ、天候は季節に順じ穀物は豊かに実り、よって国家も人民も満ち足り天下は太平となりました。 よって、崇神天皇は御肇国(はつくにしろしめす)天皇と称えられました。 17年7月1日、詔し、「船は天下の要諦である。 今、海辺の民は船がないので、まことに苦労して徒歩で移動している。そこで諸国に詔し、船舶を建造させる。」と告げました。 10月、始めて船舶を建造しました。 《陰陽謬錯、寒暑失序》 〈丙本〉の陰_陽【冬夏】。の解釈では、「寒暑失序」はほぼ同文反復となる。しかし、もう少し根源的な「自然の秩序〔=陰陽〕の狂い」が「寒暑失序」という現象を生み出したと読みたいところである。 ところが、抽象的な「陰陽」を表す和語が見つからない。しかし、天武天皇紀に「陰陽師」「陰陽寮」があるから、記紀編纂期には音読み「いむやう」あるいは「おむやう」(呉音)でも通用しただろう。 《人民・青人草・御宝》
《校人民》 「校」には絞首刑の意味もあるから刑罰の始めとも取れるが、穏当ではない。 「校」には、また「数を計り調べる」意味があり、納税制度を定める文脈中にあるから、戸籍の整備を「人民を数ふ」と表現したか。 「校(かぞ)ふ」とする用例を中国古典から探すと、『論語』の「孟子・滕文公上」に「貢者校数歳之中以為常。」〔貢は数歳の中に校(かぞ)ふるを以って常とす〕、 つまり、「不作の年は無理に納税させず、税は数年間の平均で計算すべきである」という文があった。 《秋九月甲辰朔己丑》 このままだと9月46日という、有り得ない日付になる。本サイトで行っている計算では甲戌朔となっており、これが正しいと見られる((続)日付に元嘉暦を適用する試み[D]) 《異俗重訳来、海外既歸化》 実際には、四道将軍の派遣先の吉備、丹後、東国を帰順させたことを意味する。 それを、中華思想において周辺国を四夷(文明の遅れた野蛮な国)と位置付ける表現に擬えたものである。 もともとは二重の通訳が必要なほど、文化が全く異なる遠い国を意味し、しかも「海外」とある。 その事情については、《「海外」の解釈》の項で改めて考察する。 《天神地祇共和享》 「享」は供え物や祈りを素直に受け入れるという意味がある。「享受」など。 天神は地祇は共に民を和らげ、また民が祀ることを喜んで受け入れるという意味。 想起されるのは、天照大神は崇神天皇即位の頃は禍の神だったことで、皇居に祀ることも敬遠された程である。 この段で、三輪の神(大国主の和魂)と天照大御神の和解が、遂に神学として定式化された。 【書紀(2)】
「汝(いまし)等(ら)二子(ふたりみこ)慈愛(いつくしみ)共に斉(いつ)き、曷(いかに)為嗣(ひつぎせむ)かを不知(しらず)。各(おのがおのが)夢に宜(よ)り、朕(われ)以ちて[之]夢占(いめうら)したまはむ。」とのりたまふ。 二皇子(ふたりみこ)、於是(ここに)命(おほせこと)を被(おほ)せて、淨沐(ゆかはあみ)て[而]祈り寐(い)ね、各(おのおの)夢を得(う)[也]。 会明(あくるにあひ)、兄(あに)豊城の命、夢辞(いめこと)を[以ち][于]天皇に奏(まを)さく[曰]、 「自(われ)御諸山(みもろやま)に登り、東(ひむがし)に向ひて[而]八廻(やたび、やめぐり)弄槍(ほこゆけ、ほことり)し、八廻(同前)撃刀(たちかけ)す。」とまをしき。 弟(おと)活目の尊、夢辞を[以ち]奏(まを)さく[言]「自(われ)御諸山(みもろやま)之(の)嶺(みね)に登り、四方(よも)に縄絚(なは)はり、粟食ふ雀(すすめ)を逐(お)ふ。」 則(すなはち)天皇夢(いめ)に相(あ)はせ、二子に謂(の)りたまはく[曰]、「兄則(すなはち)一片(ひとかた)東(ひむがし)に向ひ、当治東国(あづまををさむべし)。弟是(これ)悉(ことごと)四方(よも)に臨み、宜(よろしく)朕(わが)位(くらゐ)を継ぎたまへ。」とのりたまふ。
豊城の命に[以]東国(あづま)を治(をさ)め令(し)む、是(これ)上毛野君(かみつけのきみ)・下毛野君(しもつけのきみ)之(の)始めの祖(おや)也(なり)。 《大意》 48年1月10日、天皇は豊城命(とよきのみこと)・活目尊(いくめのみこと)に勅(みことのり)しました。 「お前たち二人の子を愛し、本当に二人ともに慈しんでいて、どちらに皇太子にしたらよいか分からない。各々が見た夢により、朕は夢占して決めようと思う。」 二人の皇子(みこ)は、この命を受け、沐浴して身を浄め、祈り寝たところ、各々の夢を得ました。 翌朝を迎え、兄豊城の命は、夢のことをこのように天皇に奏上しました。 「私は御諸山に登り、東を向き八廻(やめぐり)弄槍(ほことり)し、八廻撃刀(たちかけ)していました。」 弟活目の尊は、夢のことをこのように奏上しました。 「私は御諸山の嶺に登り、四方(よも)に縄を張り、粟を食う雀を追い払っていました。」 そこで天皇は夢に合わせ、二子に告げました。「兄はひたすら東に向い、東国を治むべし。弟は悉く四方(よも)に向け君臨し、私の位を継ぎなされませ。」 4月19日、活目尊を皇太子に立てました。 豊城の命には東国を治めさせ、ここに上毛野君(かみつけのきみ)・下毛野君(しもつけのきみ)の始祖となりました。 《弄槍》 「弄槍」については神武天皇紀で詳しく検討した (第98回【握横刀之手上弟(矛)由気矢刺】)。 私記に「ほこゆけ」の訓があるが、倭名類聚抄の「ほことり」の方が一般的であると思われる。弄槍は、倭名類聚抄で雑芸部に分類され、「八たび」に「八廻」の字が使われるから槍を持つ舞であろう。 「やたび」という訓は平安時代の解釈で、本来「やめぐり」かも知れない。 夢の中で、槍を手に山上にいて東国に向かい演武する姿が想像される。現代の黒田節のようなものであろうか。また太刀に持ち替えて次の演武をする。 《東国への配慮》 豊城入彦命を上毛野君・下毛野君の始祖とするのは、記を踏襲している(第110回)。 本来②段だけで十分なはずだが、わざわざ①段を挿入するのは、 始祖が円満に東国に行くと決めたことを示し、上毛野君・下毛野君の恭順を促すためと思われる。 【書紀(3)】
「武日照命(たけひなてるのみこと)【一云(あるいはく)武夷鳥(たけひなとり)、又云(いはく)天夷鳥(あまひなとり)】従天(あまゆ)神宝(かむだから)を将(もち)来(き)たり、[于]出雲の大神(おほみかみ)の宮に蔵(をさ)む。是(これ)欲見(みまくほり)[焉]。」とのりたまふ。 則(すなはち)矢田部造(やたべのみやつこ)の遠祖(とほつおや)武諸隅(たけもろすみ)【一書云(あるふみにいはく)、一(ある)名は大母隅(おほもすみ)[也]】を遣(つかは)して[而]使献(まつらしむ)。 当(まさに)是(この)時、出雲の臣(おみ)之(の)遠祖(とほつおや)出雲の振根(ふるね)、[于]神宝を主(つかさど)り、是(これ)筑紫(つくし)の国に往(ゆ)きて[而]不遇(あはざ)りき[矣]。 其の弟(おと)飯入根(いひいりね)、則(すなはち)皇命(おほみこと)を被(おほ)せて、以ちて神宝を弟甘美韓日狭(うましからひさ)与(と)子(こ)鸕濡渟(うかつかね)に付(あづ)けて[而]貢上(たてまつ)りき。 既(すで)にして[而]出雲の振根、筑紫(つくし)従(ゆ)還(かへり)[之]来たり、神宝の[于]朝廷(みかど)に献(まつ)りしと聞き、其の弟(おと)飯入根を責むらく[曰]、 「数日当待(しばまつべし)。何をか恐るる[之]乎(や)、輙(たやすく)神宝を許すは。」とせむ。 是以(こをもち)、既に年月(としつき)を経(へ)、猶(なほ)恨忿(いかり)懐(こころにし)、殺弟之(おとをころさむとす)志(こころざし)有り、仍(すなはち)弟を欺き曰(いはく)、 「頃(このころ)者(は)、[於]止屋淵(やむやのふち)に生菨(あざさ)多(さはに)あり。願(ねがはくは)共に行き欲見(みまくほり)。」といひぬ。 則(すなはち)兄(あに)に隨(したが)ひて[而][之]往く。 先是(このさき)、兄窃(ひそかに)木刀(きたち)を作り、形(かたち)真刀(またち)に似す。当時(そのとき)自(みづから)之(これ)を佩(は)き、弟真刀を佩き、共に淵頭(ふちかみ)に到り、 兄、弟に謂(いはく)[曰]「淵(ふち)の水清冷(すがし)、願(ねがはくは)[欲]共に游沐(みかはあみ)せむ。」といひ、 弟兄の言(こと)に従い、各(おのおの)佩(はける)刀(たち)を解き、淵の辺(へ)に置き、[於]水中(みづなか)に沐(みかはあみ)す。 乃(すなはち)兄先(さき)に陸(くが)に上(のぼ)り、弟(おとが)真刀を取り自ら佩き、後(のち)に弟驚(おどろ)きて[而]兄の木刀(きたち)を取り、 共に相(あひ)撃ち[矣]、弟木刀を不得抜(えぬかず)、兄弟飯入根を撃ちて[而][之]殺しき。 故(かれ)時の人之を歌(うたよみ)し曰(うたはく)、
則(すなは)ち吉備津彦(きびつひこ)与(と)武渟河別(たけぬなかわけ)を遣はし、[以ちて]出雲の振根(ふるね)を誅(ころ)しき。 故(かれ)出雲の臣(おみ)等(ら)、是(この)事を畏れ、大神(おほみかみ)を不祭(まつらず)して[而]間(ま)有りし時、 丹波(たには)のくにの氷上(ひかみ)の人、名は氷香戸辺(ひかとべ)、[于]皇太子(ひつぎのみこ)活目尊(いくめのみこと)に啓(まを)さく[曰]、 「己(おのが)子、小児(わらは)[有]なりて[而]、自然(おのづから)言之(これいはく) 『玉菨(たまも)鎮石(しづし)。出雲の人の祭れる真種(またね、まくさ)之(の)甘美(うまし)鏡(かがみ)。 押し羽振(はふ)る、甘美(うまし)御神(みかみ)、底宝(そこたから)御宝主(みたからぬし)。 山河(やまかは)之(の)水泳(みくくる)御魂(みたま)。静挂(しづかく)甘美(うまし)御神、底宝御宝主』といふ[也]。【菨、此れ毛(も)と云ふ。】 是(これ)小児(わらは)之(の)言(こと)に似るに非(あら)ず。若(もしや)託言(よせこと)有(ならむ)乎(や)。」とまをしき。 於是(ここに)、皇太子(ひつぎのみこ)[于]天皇(すめらみこと)に奏(まを)し、則(すなはち)之(これ)勅(みことのり)し、使祭(まつらしめ)たまふ。 《大意》 60年7月14日、群臣に詔しました。 「武日照命(たけひなてるのみこと)【または武夷鳥(たけひなとり)、天夷鳥(あまひなとり)とも】は、天より神宝を持って降りて来て、出雲の大御神の宮に収蔵した。これを見たいものだ。」と。 そこで矢田部造(やたべのみやつこ)の遠祖、武諸隅(たけもろすみ)【ある書によれば、一名大母隅(おおもすみ)とも】を遣わして、献上させました。 ちょうどこの時、出雲の臣の遠祖の出雲の振根(ふるね)が神宝を掌っていたのですが、筑紫の国に出かけていて、会えませんでした。 そこで弟の飯入根(いいいりね)が詔を受け、神宝を弟の甘美韓日狭(うましからひさ)とその子、鸕濡渟(うかつかね)に持たせて貢上しました。 遅れて出雲の振根が筑紫から帰還しましたが、神宝が朝廷に献上されたと聞き、弟の飯入根をこう言って責めました。 「数日が待てないのか。何を恐れるか、容易(たやす)く神宝を許すとは。」 それ以来、既に年月を経ても、猶(なお)怒りが心に残り、弟を殺そうとする意志があったので弟を欺き言いました。 「この頃は、止屋淵(やむやのふち)にあさざが多く咲いている。一緒に見に行かないか。」と。 そこで兄について行きました。
そして、兄が先に陸に上り、弟の真刀を取り自ら佩き、それを見た弟は驚いて兄の木刀を取り、 共に相手に打ちかかりましたが、弟は木刀を抜くことができず、兄は弟の飯入根を打ち殺しました。 そこで時の人は、このことをこう歌いました。
「我が子はまだ幼子ですが、自然に口から出た言葉がこれです。 『玉藻鎮石(しづし)。出雲の人の祭れる真種(またね、まくさ)の美(うま)し鏡。 おしはふり、美し御神、底宝(そこたから)御宝主(みたからぬし)。 山河の水泳(みくくる)御魂(みたま)。しづかく美し御神、底宝御宝主。』 これは、こどもの言葉ではありません。もしやご託宣では。」 そこで、皇太子は天皇に奏上し、天皇はただちに勅(みことのり)し、祭らせました。 《曲奏》 朝廷に恭順の意を示した弟を殺したことにより、兄は叛意を公然と示した。 しかし、甘美韓日狭にとっては長兄のしたことだから、「朝廷に刃向かいました」と直接的な言葉で報告するのは忍びなかった。 だから、事実の経過を淡々と伝えるにとどめたのである。 《託言の解釈》 「はふる」の意味ははっきりしないが、おそらく「おしはふる」は「砕いて散らす」意味である(次項参照)。 神宝の鏡を砕き川に破棄したが、川底に御宝主の神が鎮座しているぞと歌ったものと見られる。 万葉集131の「羽振る」については鳥が飛ぶとする解釈もあるが、借訓で「風が荒い」意味かも知れない。少なくとも接頭語「押し」は「羽ばたく」には相応しくない。 「真種之甘美鏡」は、『釈日本紀』によれば、「謂ニ甘美韓日狭一也。真草者。真の胤也。言ニ出雲氏一也。」 〔甘美韓日狭を謂う。真種は「真(しん)の胤(たね)」、出雲氏を言う。〕つまり、「真正の出雲氏の祖であるところの甘美韓日狭」の意味である。 これはこじつけの類だが一応伝統として尊重し、「まくさ」ではなく「またね」を訓として受け入れることにする。 タネもクサも実質同じだが、タネ=受精卵のように組織を生成する出発点、クサ=ものを作る材料が本来の意味。 「真種の鏡」は「神聖な材料から作られた鏡」の方が意味が通るので、「まくさ」ではないかと思う。 「うまし」は同書の説とは逆に、物語をまとめるときにこの話に引っかけて「韓日狭」の名に「甘美」を足したように思える。 因みに『釈日本紀』によれば、「葉振」は、葉は根と相通ずるから「振根」のことだそうである。 《出雲による支配域》 弥生時代には古代出雲王国が、九州北部から北陸まで支配したと想像されている。 振根が筑紫に出かけたり、氷香戸辺が丹波の国から来たりするから、崇神朝の時代でも、九州から山陰の日本海側の範囲に、なお影響力があったのかも知れない。 《神宝=銅鐸説》 この出雲の秘宝は、銅鐸を意味すると考えられている。銅鐸は弥生時代から古墳時代に移ったときに忽然と姿を消し、銅鏡の時代になる。 銅鐸の意図的な破壊を裏付ける実証研究があり、『研究成果報告書』(平成25年度、福永伸哉氏)によれば、「銅鐸破砕が人為的な加熱による意図的行為の結果であったことを示しており、古墳時代成立に先立って、『弥生青銅器の意義の喪失』という価値観の大転換が進行したと理解できる」 という。銅鐸と古代出雲との関わりについては、島根県の加茂岩倉遺跡(現在の雲南市)からは銅鐸39個が出土した (『魏志倭人伝をそのまま読む』第23回)。 古墳時代の初期政権は、国の政策としてそれまでの銅鐸を用いる儀式を廃し、銅鐸はすべて破棄するよう命じられたと考えられる。 しかし出雲にはなお神宝として、銅鐸を秘蔵しているだろうと疑われたことが背景となり、このような神話が生まれたと考えられる。子供の歌は、銅鐸が破砕されて川底に廃棄されたことを歌ったと思われる。 ただ、川底に棄てられたのは「鏡」となっている。書紀に収める際、「銅鐸」を意味する語の使用が憚られたので、鏡に置き換えたのだろう。なお、当時の銅鐸の和名はどこにも残っていない。 《出雲振根の逸話が意味するもの》 出雲振根の逸話がここに出てくるのは、唐突な印象を受けるが、ここに置かれるには理由がある。 出雲の臣は振根を誅した朝廷を慮って大御神を祀るのをやめていたが、改めて祀ることにしたというのが、この段の主題である。 これすなわち、大国主神の復権を意味する。だから、朝廷が三輪山の大神を祀った話の流れの中に、軌を一として盛り込まれたのである。 かつて大国主神は、自らを大神殿に祀ることを条件に、統治権を明け渡した。 このようにして、朝廷は精神世界の王として大国主を位置づけた。 だからこの段は、国譲り神話の別表現である。 【書紀(4)】
詔(みことのり)したまはく[曰]「農(なりはひ)、天下(あめのした)之(の)大本(おほもと)也(や)、民(あをひとくさ)の恃(たの)む所にて、以ちて生く[也]。 今河内(かふち)のくにの狭山(さやま)の埴田(はにた)の水少なかりて、是(こ)を以ちて、其の国の百姓(みたみ、おほみたから)[於]農事(なりはひ)を怠(おこた)る。 其(それ)多(さはに)池溝(うなて)を開き、以ちて民(みたみ)の業(なりはひ)を寛(ゆたか)にせむ。」 冬十月(かみなづき)、依網池(よさみいけ)を造る。十一月(しもづき)、苅坂池(かりさかいけ)、反折池(さかをりいけ)を作る。 【一云(あるいはく)、天皇桑間(くはま)の宮に居(を)り、是の三池を造りたまふ[也]。】
明年(あくるとし)秋八月(はつき)甲辰(きのえたつ)を朔とし甲寅(きのえとら)のひ〔11日〕、[于]山辺道上陵(やまのへのみちのへのみささき)に葬(はぶ)る。 《大意》 62年7月2日、このように詔しました。 「営農は、天下の大本にて、民の生存のための頼みである。 今、河内の国の狭山(さやま)の田の水利が悪く、そのためにその国の百姓は営農が十分にできない。 そこで充分に用水を引き、民の営農を寛(ゆたか)にさせたい。」 10月に依網池(よさみいけ)を作り、11月に苅坂池(かりさかいけ)、反折池(さかおりいけ)を作りました。【別説では、天皇は桑間(くわま)の宮に居て、この三池を造りました。】 65年7月、任那(みまな)の国は蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わし、令朝貢(みつきまつらしむ)[也]。 任那(みまな)者(は)、筑紫国(つくしのくに)去(より)2000余里、北に海を隔て鶏林(けいりん)〔=新羅〕の西南に在ります。 天皇は、践祚(せんそ)68年12月5日に崩じました。時に御年120歳でした。 翌年8月11日、山辺道上陵(やまのへのみちのへのみささき)に葬むられました。 《鶏林》 新羅の国号「鶏林」の由来が、『三国史記』の「脱解尼師今」に書かれる。 脱解尼師今〔탈해 이사금、タレ・イサグム〕は、 <wikipedia>新羅の第4代の王(在位:57年―80年)であり、姓は昔(ソク)、名は脱解(タレ)。新羅の王族3姓(朴・昔・金)のうちの昔氏始祖。</wikipedia> 〈『三国史記』巻第一 新羅本紀第一 脱解尼師今〉原文
任那国は4世紀に始まり、6世紀半ばまで存在したと見られる(宋書夷蛮倭国伝をそのまま読む)。 任那を加羅と同一とする説もあるが、 『宋書』〔488年成立〕-「巻九十七 列伝第五十七 夷蛮」を見ると、 「自称二使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭國王一。」 のように倭は、倭王を倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓の6か国を治める安東大将軍の号を望んだ。 それに対して宋は、 「(元嘉)二十八年〔451〕、加二使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東将軍一。」 として、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の6か国の安東将軍に任じた。 このように、加羅・任那はそれぞれ独立した国として数えられている。 『南斉書』〔537以前成立〕には、古老の話として、加羅・任那は新羅の南端に"並び"存在したとある。「並び」だから、2か国である。 加羅・任那は、共に6世紀半ばまでに新羅に吸収された。 《「海外」の解釈》 崇神紀の最後になって突然、任那が登場する。任那は正真正銘の「海外」である。しかし、これまでは地続きの土地が「海外」と書かれていた。 朝廷が戦った相手は、実際には山城国の一族、そして吉備・丹波・北陸・東国であった。 ところが、特に儀礼的な礼賛文の中では征圧した相手を「海外」と表現している。 「海外」については以前、中国人スタッフとのコミュニケーションの問題と解釈した(第114回《海外》)。 しかし実際にはそれにとどまらず、崇神天皇とは無関係の、神功皇后以後に朝鮮半島との関係を描いた表現が持ち込まれたと考えざるを得ない。 崇神天皇紀の文のうち、「有海外之国、自当帰伏」「唯海外荒俗、騒動未止」「異俗重訳来、海外既帰化」は、草稿ができた段階にはまだなかったが、そこに文脈に捉われずに言葉の彩として書き足されたのであろう。 これには、依網池の項の「より上代に遡らせて崇高化させる」姿勢と共通するものがある。 まとめ 「国知ろしめす」の内容として、租税制度の確立と、水利事業を挙げているのは興味深い。 記紀には簡単に「池を作る」と書かれるに過ぎないが、磐余池・狭山池・磐余池の発掘調査から、実際には国の基幹的大工事を意味するから、決して軽視できない。 書紀ではさらに、租税の基礎としての戸籍と水運を挙げている。 それらを成し遂げてこそ初めて、国を治めたと言えるのである。 さて、初めて実在が見込まれる天皇の陵として、崇神天皇陵が登場する。 ただ、この時代の大王陵は複数あり、崇神天皇一人が複数の代の大王をまとめて描いているのかも知れない。 そこで試しに、纏向王朝と鳥見山王朝からなる王朝史を組み立ててみたが、本当のところはとても判らない。 しかし、将来的に出現期の前方後円墳を綿密に調査すれば、ある程度見えてくるのではないだろうか。 一方、書紀には出雲の神宝をめぐる逸話があり、それをを見ると大国主を祀る国への直接的な圧迫が現実にあったと思われる。 両者の弥生時代後期からの対立は、銅鐸の破棄という物質的記録を残していると言える。 以前、出雲―三輪の移動路と天孫族の東遷経路が交差して衝突したことを、天孫族―出雲対立の重要な要素だと見た (第112回【出雲族の畿内への進出】)。 しかしそれだけではなく、出雲地域における古代出雲―天孫族との直接戦闘もまた、現実の出来事だったのであろう。 その後両者は和解したが、出雲から移民した一部勢力が纏向政権を成立させ、天孫族はその支配下に置かれたり、 一時的に鳥見山王朝に支配権が移ったりして、複雑な経過を辿ったと見られる。 |
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⇒ [116] 中つ巻(垂仁天皇1) |