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[110]  中つ巻(崇神天皇1)

2015.10.22(thu) [111] 中つ巻(崇神天皇2) 

此天皇之御世 伇病多起人民死爲盡
爾天皇愁歎而坐神牀之夜 大物主大神顯於御夢曰
是者我之御心故 以意富多多泥古而令祭我御前者 神氣不起國安平
是以驛使班于四方求謂意富多多泥古人之時 於河內之美努村見得其人貢進

此(こ)の天皇(すめらみこと)之(の)御世(みよ)、伇病(えやみ)多(さは)に起(お)き人民(おほむたから)の死(しに)尽(ことごと)に為(な)りき。
爾(かれ)天皇愁(うれ)へ歎(なげ)きて[而]神牀(かむとこ)に坐(ま)しし[之]夜、大物主大神(おほものぬしのおほかみ)[於]御夢(みいめ)に顕(あらは)れ曰(の)りたまはく、
「是者(こは)我之(わが)御心(みこころ)故(ゆゑ)、意富多多泥古(おほたたねこ)を以(もちゐ)て[而]我が御前(みまへ)を祭ら令(し)め者(ば)神の気(け)不起(たたず)国安(やすらか)に平(たひら)がむ。」とのりたまひき。
是以(こをもち)、駅使(はゆま)[于]四方(よも)に班(あか)ち、意富多多泥古と謂ふ人を求めさせし[之]時、[於]河内(かふち)之美努村(みぬのむら)に其の人を見ゆを得、進め貢(まつ)りき。


爾天皇問賜之 汝者誰子也
答曰 僕者大物主大神娶陶津耳命之女活玉依毘賣生子名櫛御方命之子
飯肩巢見命之子建甕槌命之子 僕意富多多泥古白
於是天皇大歡 以詔之天下平人民榮

爾(かれ)天皇問ひ賜(たま)はく[之] 「汝(いまし)者(は)誰子(たがこ)なるや[也]。」ととひたまひき。
答へ曰(まをさく)「 僕(やつかれ)者(は)大物主の大神が陶津耳命(すえつみみのみこと)の女(むすめ)活玉依毘売(いくたまよりびめ)を娶(めあはせ)生(う)みし子、
名は櫛御方命(くしみかたのみこと)之子、飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)之子、建甕槌命(たけみかつちのみこと)之子、僕(やつかれ)意富多多泥古と白(まを)す。」とまをしき。
於是(ここに)天皇大(おほ)きに歓び、以(も)ちて之(これ)を詔(みことのり)したまへば、天下(あめのした)平(たひ)らぎ人民(おほみたから)栄(さか)ふ。


卽以意富多多泥古命爲神主而 於御諸山拜祭意富美和之大神前
又仰伊迦賀色許男命作天之八十毘羅訶【此三字以音也】 定奉天神地祇之社
又於宇陀墨坂神祭赤色楯矛 又於大坂神祭黑色楯矛
又於坂之御尾神及河瀬神 悉無遺忘以奉幣帛也
因此而 伇氣悉息國家安平也

即(すなは)ち「意富多多泥古命を以(もちゐ)神主(かむぬし)と為(し)て[而][於]御諸山(みもろやま)に意富美和(おほみわ)之大神(おほかみ)の前(みまへ)を拝(おろが)み祭らしめ、
又、伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に仰(おほ)せて天之八十毘羅訶(あめのやそびらか)【此の三字(みじ)音(こゑ)を以ちゐる[也]。】を作らしめ、天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)之社(やしろ)に奉(まつ)らしむを定め、
又、[於]宇陀(うだ)の墨坂の神に赤色(あかいろ)の楯矛(たてほこ)を祭り、 又[於]大坂神(おほさかのかみ)に黒色(くろいろ)の楯矛を祭り、
又、[於]坂(さか)之御尾(みを)の神及(およ)び河の瀬の神、悉(ことごと)遺忘(わす)るること無く以て幣帛(みてくら)を奉(まつ)れ。」とみことのりしたまひき[也]。
此に因りて[而] 伇気(ときのけ)悉(ことごと)く息(や)み、国家(くに)安(やすらか)に平(たひら)げり[也]。


 この天皇の御世、疫病が多く起こり、人民の死が日常となりました。
 そのため、天皇は憂い嘆き、神床に横になっていらっしゃった夜、大物主の大神が御夢に顕れ、このように告げました。
 「これは、わが御心の故であるから、意富多多泥古(おおたたねこ)を用いて、わが御前を祭らせれば、神の気は発たず国は平安となるであろう。」と告げました。
 そこで、早馬の使いを四方に分け、意富多多泥古という人を探索させたところ、河内(かわち)の美努(みの)村でその人を発見することができ、奏上つかまつりました。
 そこで、天皇は「お前は、どういう者か。」と尋ねられました。
 お答え申し上げるに、「 私めは大物主大神(おおものぬしのおおかみ)陶津耳命(すえつみみのみこと)之女(むすめ)活玉依毘売(いくたまよりびめ)を娶って生んだ子、 その名は櫛御方命(くしみかたのみこと)の子、飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)の子、建甕槌命(たけみかつちのみこと)の子が、私め意富多多泥古と申します。」と。
 ここに天皇大いに歓び、よってこのように詔されたところ、天下は平安となり、人民は栄えました。
 即ち「意富多多泥古命を用いて神主とし、御諸山(みもろやま)に大美和の大神の御前を拝祭させ、 また伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に命じて天(あめ)の八十平瓮(やそびらか)を作らせ、天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)の社(やしろ)を定め、 また宇陀(うだ)の墨坂の神に赤色の楯矛を祭り、 また大坂の神に黒色の楯矛を祭り、 また坂の峰の神及び河の瀬の神にも、すべて忘れ無いようにして、幣帛(みてくら)を祀れ。」と。
 これによって、 疫病は悉く終息し、国家に平安となりました。


人民…(古訓)おほたから。おほむたから。ひとくさ。
…〈国際電脳漢字及異体字知識庫〉「役」的古文。〈汉典〉古同"役"。
疫病…悪性の流行病。
えやみ(疫病)…(倭名類聚抄){疫 説文云疫【音役衣夜美一云度岐乃介〔音エキ、えやみ、ある曰くときのけ〕】民皆病也}
疾疫…〈日本紀私記丙本〉エヤミ
しに(死)…[名] 死。しぬの名詞形。
…(古訓)つくす。ことことく。
愁歎…〈汉典〉亦作"愁嘆"。憂愁嘆息。
神牀…牀は寝台。日本では床(とこ)。「神床」を検索すると神棚に奏上する「神棚拝詞」という祝詞に出てくる。その冒頭が「此の神床(かむどこ)に坐す 掛けまくも畏き 天照大御神…」である。 夢を見て大物主のお告げを聞いたというのだから、「牀」は寝床である。その寝室は、立派な神棚を備えた拝礼の場所だったと思われる。 普段の寝室が、そのような造りだったのか。あるいは神の間というような、特別な寝室があったのだろうか。
神気…『時代別上代』には"かみ(神)"の項に用例「かみのけ」を挙げる。
…(古訓)おく。たつ。
おく…[自]カ上二 目をさまして起き上がる。
たつ…[自]タ四 立つ。たっている。おこる(風、波、霞など自然現象の出現についていう)。 
たひらぐ(平ぐ)…[自]ガ四。[他]ガ下二。
駅使(えきし)…宿継ぎの馬を使って、各地へ公用の文書や物品を運搬・配達する使者。
はゆま…[名] 早馬。
…[他] わかつ。(古訓)あかつ。わく。わかる。
ひらか(平瓮)…[名] 土で作った平たい容器。やそ・ひらかが続くことにより濁音化して「やそびらか」となったと思われる。
おほす(負す)…[他]サ下二 命令を負わせる。転じて言いつけるの敬体として用いる。
さだむ(定む)…[他]マ下ニ 決定する。
遺忘…〈汉典〉忘記、忘却。
わする(忘る)…[他]ラ四 忘れようとして忘れる。[自]ラ下二 自然に記憶が薄れて忘れる。
みてぐら(幣、幣帛)…[名] ①神に捧げ供えるものの総称。②布や紙を切ったりたたんだりして串に刺し、神前に捧げる祭具の一。
…(古訓)ととむ。やむ。やすむ。
これ…[代] 近称。①話し手に近い対象を指示する。②<時代別上代>漠然とした事柄を指す。トイフに類する語が後に連なって用いられる。

【いくつかの語句の訓】
《天之八十平瓮》
 「天之」は「あまつ-」「あまの-」「あめの-」があり得る。「あま」「つ」が古い形。
《赤色・黒色》
 あかいろくろいろ。 <時代別上代>  「あか」は単独の用例はなく「あか-かがち(赤酸醤)」など、複合して使われる。「くろ」は「くろ-し」の語幹で、複合語中に使われる。</時代別上代>
 「-いろ」の用例は、(万)2786 翼酢色乃 赤裳之為形 はねずいろの あかものすがた。など。「はねず」は桃色よりやや濃い紅色。

【駅使】
 『時代別上代』によれば、(うまや)は、大化の改新に始まる駅伝制度の中核施設。大宝令によれば三十里(約16km)毎に一駅を置き、人馬を継いで宿・食を給じた。 急使が用いたのは早馬(はゆま、はいま)という。 <時代別上代>書紀古訓にはハイマの形も見える。これらのハイマは急使の乗る早馬で、必ずしも駅馬に限らない。</時代別上代>

【大物主神・御諸山・大美和の大神】
 崇神朝における信仰の中心は、御諸山である。かつて御諸山の神は、大国主の前に現れた。
 大国主命が国の経営に悩んでいたとき、海から現れた神がいた。協力していい国を作ろうと言うので、どうやって?と聞いたところ、 「吾者 伊都岐奉 于倭之青垣東山上〔吾をば、倭[の国]の青垣の東の山に斎(いつき)まつれ〕と答えた。 そして、「此者 坐御諸山上神也〔こは、御諸山の上に坐す神なり〕という説明がつく。
 書紀では、是時素戔嗚尊自天而降到於出雲国簸之川上の段一書6に、
「吾是汝之幸魂奇魂也。」「吾欲住於日本国之三諸山。」故、即営宮彼処、使就而居、此大三輪之神也。
〔「私はお前の幸魂(さきたま)・奇魂(くしたま)である。私は大和の国の御諸山で祀られたい。」よって、そこに宮を営み、祭らせた。これが大三輪の神である。〕
と書かれる(第68回)。 書紀では大国主命は自分の魂と対話し、魂は三室山に祀られ大物主となる。 同じ一書6の初めには、大物主は大国主と同一であると言い切っている (第55回)。古事記では同一神とはしない。この問題は第68回で論じた。

【河内の美努村】
 「美努」という地名の名残だと思われるのが、御野県主神社(みのあがたぬしじんじゃ、大阪府八尾市上之島町南1-70)である。 『延喜式』神名帳に「河内国一百十三座/若江郡廿二座/御野県主神社二座」が載る。
 書紀では「茅渟県陶邑」(ちぬあがたのすえむら)としている。 茅渟は、和泉国沿岸の大阪湾が血沼の海と呼ばれ(第96回)、和泉国の沿岸辺りの古地名である。 和泉国の茅渟神社(大阪府泉南市樽井5丁目11-9)は、同社のホームページによれば創建は平安時代である。 なお、茅渟県の正確な範囲は不明である。
 「陶邑」の名を残すのは、江戸時代の西陶邑・東陶邑で、当時の大島郡に属し、現在の堺市の一部(第104回《血沼の別》参照)。 この地には、陶邑窯址群と呼ばれる須恵器生産地跡がある。陶邑全体では5~10世紀の須恵器窯址約500基が検出された(『日本大百科全書』)。 「須恵器」は、それまでの日本の土器とは異なり、ろくろと登り窯を用いて製造したもので、5世紀頃に百済から伝わったと考えられている。 陶邑窯址群が存在することにより、ここが茅渟県陶邑であったのは確実である。
 一般に美努村は陶邑と同じ地域と言われるが、「河内の」と書かれる以上は御野県主神社の近辺と思われ、陶邑とはやや離れている。 ただ、記にも大物主が娶ったのは陶津耳命の娘とあり、そこに陶邑との繋がりがある。 大田田根子の発祥伝説は、河内国から和泉国一帯に存在したのではないかと思われる。

【宇陀墨坂・大坂】
 墨坂は神武天皇即位前の激戦地で、第99回で考証した。 現在の墨坂神社(奈良県宇陀市榛原萩原字天野)は、創祀は文安6年(1449)。神名帳にはないので、 平安時代には廃されていたことになる。ただ創祀は江戸時代の古代信仰復古運動以前のことだから、現地では奈良時代から語り継がれてきたのだろう。
 神名帳の墨坂神社は、信濃国高井郡にある。宇陀の氏族が信濃国まで展開した可能性はある。
 「大坂」については、延喜式神名帳の「大和国二百八十六座/葛下郡十八座/大坂山口神社」 だと考えられている(比定社は、奈良県香芝市逢坂5-831)。 この地は、和邇氏系の大阪臣の本願だと見られる(第105回)
 両地とも崇神天皇の都三輪山麓から離れ、墨坂は神武天皇の初期の激戦地で、大坂は葛城王朝の西の境である。 この範囲はこれまでの記紀の舞台となり、その東西の端にあたる。これが初期の倭国であろう。 その両端に赤色楯矛、黒色楯矛を祭ることによって国の安寧を願ったのである。

【「天皇大歓以詔之」以下の文章構成】
《天下平人民栄》
 「天下平人民栄」は、語順から見て「平」は自動詞なので「天下は平ぎ、人民は栄ゆ」と読むべきである。
《文章の順序性》
 「天下平らぎ、人民栄ゆ」で目的は果たした。ところがその次の「御諸山・墨坂・大坂・悉く峰川に祭る」は「天下平人民栄」以前に行ったことである。
 一見順序が逆だが、実は詔の中身を後ろにまとめて書いたのである。 つまり、文の構成は「次の詔を発したことによって、国は平ぎ人民は栄えた。即ち『(詔の内容)』」である。 それを裏付けるのは「無遺忘」(忘れずに~せよ)という言葉で、これは詔の中にあるのが相応しい。
《訓読の留意点》
 ここの訓読では、「詔したまひき」を再読した。古事記は本質的に物語を口唱するための台本であるから、実際に読む場合は随時このような補足がなされただろう。
 出雲国風土記の書法では、「詔」は引用文の前後に、二重に置かれる(第63回)。これが当時の口唱の習慣と見られる。なおこれには、引用部分を明確に示すための引用符のような役割もある。
《「之」の訓読》
 漢文では、ある字が動詞であることを示するために、形式目的語として「」をつけることがある。
 「詔之」や「謂之」の"之"は、にそれに倣ったものと考えられ、置き字とされる。 多くの場合それでよいと思われるが、この場合のように後述の文への指示語として用いる例があることに、留意せねばならない。
 それから考えると、書紀の「歌之曰『…』」の「之」は『…』を指すのだろう。つまり「これを歌詠みし、曰く『…』」である。

【伊迦賀色許男命】
 伊迦賀色許売命は、孝元・開化の二代の天皇の妃である。名前から見て、伊迦賀色許男命はその兄である。
 書紀では、伊香色雄は使物部連の祖としている。その妹と見られる伊香色謎命も、物部氏の遠つ祖、大綜麻杵の子とされる。 しかし、記では伊迦賀色許売命は、穂積臣の祖である内色許男命の子である。
 記では、邇芸速日命が物部連・穂積連・采臣の祖。書紀では饒速日命物部は物部氏の遠祖。書紀編纂期には、石上麻呂(物部から改む)が左大臣であった(第19回)。

【〔書紀〕倭迹々日百襲姫の登場】
 倭迹々日百襲姫は、孝霊天皇段で夜麻登登母母曽毘売命の名で出てくるが、物語に登場するのは書紀だけである(第107回)。 崇神天皇段で、天皇が疫病の流行に心を痛め、夢で神の言葉を聞く場面が、書紀では迹々日百襲姫が介在する形になっている。
あきらけし(明)…[形] あきらかである。
つく(著く、附く、託く)…神や物がのり移る。
…(古訓)さかひ。かきる。

是時、神明憑倭迹々日百襲姬命曰「天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。」 天皇問曰「教如此者誰神也。」答曰「我是倭國域內所居神、名爲大物主神。」

是時、神明(かみ、ひるめ)倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)に憑(つ)き曰(の)らさく 「天皇、何(いか)に国之不治(くにのをさまらず)を憂(うれ)ふか[也]。若し能(よ)く我を敬ひ祭ら者(ば)、必ずや[当]自(おのづから)平(たひら)がむ[矣]。」
天皇問ひたまはく[曰]「此の如(ごと)教(をし)へたまふ者(は)誰が神や[也]。」ととひたまひき。答へたまはく[曰]「我是れ倭(おほやまと)の国域(くにさかひ)の内に居(いま)す[所の]神にて、名は大物主神(おほものぬしのかみ)と為(まを)したまふ。」とこたへたまひき。

 この通りにしたが結果ははかばかしくないので、天皇は再び神に聞く。 しかし2回目の問い合わせは百襲姫を通さずに、夢の中で直接神に聞いている。  だから倭迹々日百襲姫命の介在は、中途半端である。 ただ、今後も姫は2場面で登場する。その登場の意味については、後に考察する。
《神明憑》
 「」を副詞として、「神明らけく憑く」と訓むことは可能である。 しかし、『釈日本紀』巻第二には、音よみではあるが、「アラハス神明之憑談シムメイノヒヨウダムヲ」(返り点・読み仮名も原書)があるので、 鎌倉時代末期には「神明」が熟語として捉えられていたことが分かる。「神明」の現代的な意味は、
神明…①神の、すべてを見通す全能のはたらき。②すんだ心。
 である。平安時代まで遡ると、 〈日本紀私記甲本〉カミ明-憑アカリ 、〈私記丙本〉神-明於牟加美〔おむかみ〕がある。 甲本は、「明らけく憑く;=人に憑いて顕れる」という意味を込めて「あける」と訓んだようである。
 このように私記の解釈は揺れている。私記に挙がること自体、当時の一般的な日本語にはなかったことを意味する。 更に遡り、万葉集には「神明」の語は出てこない。
 しかし、〈汉典〉で調べると「神明」は中国古典の易経・史記・淮南子・荀子などに使われ、それらの中の文例について 「天地間一切心霊的総称」、「太陽神」、「明智如神」、「謂人的精神などと訳している(返り点筆者)。 従って、中国古典では「神明」は名詞として使われたことを、漢籍に精通した書紀の原著者が知っていたのは確実である。それならば「神明」で区切って、神の美称と見るべきであろう。となれば〈丙本〉の「おむかみ」は「御神(おんかみ)」である。〈甲本〉の「かみ、あかり」は残念ながら中国古典の知識がなかったということである。
 なお〈丙本〉の「おむかみ」を「おほむかみ」とすると、「大御神」になってしまう。これでは意味が変わってしまうので、あくまで「おむかみ」を通さなければならない。
 これらを踏まえると一番無難なのは、単に「かみ」と訓んでおくことである。しかし『史記』封禅書の「神明、日也。」を用いて「ひるめ〔日の女神〕と訓むのも面白い。 日女は、多くの場合に天照大御神を指す。原著者は、実はそのつもりで書いたのかも知れない。
 なお鎌倉時代以後、「神明」は天照大神を意味する語として広まり、全国に無数の「神明社」が現存する。

【書紀】
《疫病の流行》
…[接] かつ。[形] 重なるように多くあるさま。(古訓)みな。かつかつ。なむなむとす。 
さすらふ(流離)…[自]ハ下二 よるべなくまよう。さすらう。
晨興夕惕…『太平御覧』唐德宗孝に「晨興夕惕」
晨興…〈汉典〉早起。
夕惕…〈汉典〉謂至夜晩仍懐憂懼、工作不懈。〔懼=恐、懈=怠〕
笠縫邑…比定地の候補は、秦楽寺(真言律宗、奈良県磯城郡田原本町秦庄267)の境内の小祠・笠縫神社など。
磯堅城…伝統的な訓は「しかたき」。直訳すれば玩弄な石の城だが、固有名詞あるいは枕詞と見られる。
神籬(ひもろき)…神の座として立てる樹。
五年、國內多疾疫、民有死亡者、且大半矣。
六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之。是以、晨興夕惕、請罪神祇。
先是、天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安。
故、以天照大神、託豐鍬入姬命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。【神籬、此云比莽呂岐。】
亦以日本大國魂神、託渟名城入姬命令祭、然渟名城入姬、髮落體痩而不能祭。

五年(いつとせ)、国内(くにのうち)に疾疫(えやみ)多(さは)に、民(あをひとくさ)に死亡(しぬる)者(もの)有り、且(かつ)大半(おほよそ)なりぬ[矣]。
六年(むとせ)、百姓(おほみたから)流離(さすらへ)、或(あるは)背叛(そむく)もの有り、其の勢(いきほひ)徳(のり)を以ち治(をさ)むこと難(かた)し[之]。是以(こをもち)、晨興夕惕(あさなゆふなにおこたらず)、請罪神祇(あまつかみくにつかみにつみをこふ)。
先是(このさき)、天照大神(あまてらすおほみかみ)・倭大国魂〔神〕(やまとおほくにたまのかみ)二神(ふたかみ)、[於]天皇(すめろぎ)の大殿(おほとの)之内に並(な)め祭りたり。然れども其の神の勢(いきほひ)を畏(かしこ)み、共に住むこと不安(やすからず)。
故(かれ)、天照大神を以ちて、豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)に託(あづ)け、於倭(やまと)の笠縫(かさぬひ)の邑(むら)に祭り、仍(すなは)ち磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろき)を立たす。【神籬、此れ比莽呂岐(ひもろき)と云ふ。】
亦(また)日本大国魂神を以ちて、渟名城入姫命(ぬなきいりひめ)に託け祭り令(し)め、然(しかれども)渟名城入姫、髮落ち体(み)痩せ、而(しかるがゆゑに)祭ること不能(あたはず)。

《天皇の嘆き》
鴻基…帝王の大事業の基礎。〈私記丙本〉では「師木津日月〔磯城朝(神武天皇)の月日〕と、思い切った意訳をする。
…(古訓)いよいよ。
聖業…〈汉典〉謂帝王之業。
王風…〈汉典〉王者的教化。〈私記丙本〉岐美乃之利〔きみのしり〕
…[助] 並列・順接・逆接。
あまた(数)…[副] 数多く。はなはだしく。
神亀…甲を焼いてそのひび割れで吉凶を占う。(万)0050 圖負留 神龜毛 あやおへる くすしきかめも。
 〈私記丙本〉宇良倍〔うらへ;=うらない〕
神浅茅原…「茅原」は、三輪山の西。南東に狭井神社・大神神社、北東に箸墓古墳。
七年春二月丁丑朔辛卯詔曰
「昔我が皇祖、大啓鴻基。其後、聖業逾高、王風轉盛。
不意今當朕世數有災害、恐朝無善政、
取咎於神祇耶、蓋命神龜以極致災之所由也。」
於是、天皇乃幸于神淺茅原、而會八十萬神、以卜問之。

七年(ななとせ)春二月(きさらぎ)丁丑(ひのとうし)を朔(つきたち)とする辛卯(かのとう)のひ〔15日〕、詔(のりたまはく)[曰]
「昔(むかし)我が皇祖(すめらおや)、大(おほきに)鴻基(こうき、すめろきのはじめ)を啓(ひら)けり。其の後(のち)、聖業(せいげふ、たふときわざ)逾(いよいよ)高(たか)なせど、王風(わうふう、きみのをしへ)盛(さかり)を転(まろ)ぶ。
不意(おもはざりしことに)今[当]朕世(わがよ)に数(あまた)災害(わざはひ)有(あ)るべく、朝(みかど)の善政(よきまつりごと)無(あらざる)を恐(おそ)り、
[於]神(あまつかみ)祇(くにつかみ)に咎(とが)を取らる耶(や)、蓋(けだし)神亀(くすしきかめ、うらへ)に命(おほせごと)し以(も)ちて災(わざはひ)之(の)所由(ゆゑ)を極致(きは)むる[也]。」
於是(ここに)、天皇乃(すなは)ち[于]神浅茅原(かむあさちはら)に幸(いでま)し、而(しかくして)八十万(やそよろづ)の神を会(あつ)め、以ちて卜問(うらとひ)したまふ[之]。

《倭迹々日百襲姫》 ⇒別項
是時、神明憑倭迹々日百襲姬命曰「天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。」
天皇問曰「教如此者誰神也。」答曰「我是倭國域內所居神、名爲大物主神。」

《再び神問いする》
ゆかはあむ(沐浴)…[自]マ上二 水を浴びて身を斎みきよめる。
ものいみ(物忌)…[名] 祭事などのために、一定期間飲食や言語を慎み、沐浴すること。
潔浄…きよらかにする。
…(古訓)こひねかはくは。ねかふ。のそむ。
…(古訓)ことことくにす。つくす。をはる。
…(古訓)たつ。さたむ。
時、得神語隨教祭祀、然猶於事無驗。
天皇、乃沐浴齋戒、潔淨殿內而祈之曰
「朕、禮神尚未盡耶、何不享之甚也。冀亦夢裏教之、以畢神恩。」
是夜夢、有一貴人、對立殿戸、自稱大物主神曰
「天皇、勿復爲愁。國之不治、是吾意也。
若以吾兒大田々根子令祭吾者、則立平矣。亦有海外之國、自當歸伏。」

時に、神語(かむがたり)を得、教(おしへ)に隨(したが)ひ祭祀(まつ)りたまひ、然(しかれども)猶(なほ)[於]事(こと)に
〔=特に〕験(しるし)無し。
天皇、乃ち沐浴(ゆかはあみ)斎戒(ものいみ)し、殿(との)の内(うち)を潔浄(きよ)めたまひて[而]祈(いの)り[之]曰(のりたまはく)
「朕(われ)、神を礼(うやま)ひ尚(なほ)未(いま)だ尽くさざる耶(や)、何(いか)にか不享(うけざる)こと[之]甚(はなはだしき)[也]。冀(こひねがはくは)亦(また)夢裏(いめうら)に教(をし)へ[之]、以ちて神の恩(めぐみ)を畢(つ)くしたまへ。」
〔私の敬神はまだ不十分か、どうして神の恵みを全く受けられないのか。夢に出て教えてほしい。そして恵みを尽くしてほしい。〕
是の夜の夢に、一(ある)貴(たふとき)人有り、殿戸(とのと)に対(むか)ひ立ち、自(みづから)大物主の神と称(なの)り曰(のりたまはく)、
「天皇、勿復為愁(またうれへなすことなかれ)。国之(の)不治(をさまらざる)こと、是(これ)吾(あが)意(こころ)なり[也]。
若し吾(あ)が児(こ)大田々根子(おほたたねこ)を以(もちゐ)て吾(われ)を祭ら令(し)め者(ば)、則(すなは)ち立平(たひらかにさだまらむ)[矣]。亦(また)海に外之国(とつくに)有れど、自(おのづから)[当]帰伏(まつろ)ふべし。」
――海外之国
 神功皇后紀では三韓からの朝貢に触れ、欽明天皇紀に任那日本府(みまなにほんふ)が書かれるように、書紀には三韓は日本への朝貢国であるべきだとする歴史観がある。「海外之国」はその観点に立つ言葉で、早くも崇神天皇紀で言及される。 しかし、まだ畿内の安定も覚束ない時期の言及には、違和感がある。
《大田田根子の探索》
大水口…〈私記丙本〉乎保美久知〔おほみくち〕
…(古訓)ゆめ。いめみしに。
…(古訓)ことは。
諸王卿…〈私記丙本〉於保君達〔おほきむだち〕
きむだち(君王)…〈時代別上代〉書紀古訓で諸王(王家の一族)をキムダチと訓む。〈/時代別上代〉
 後の公達(きんだち)。
もろとも(諸友)…もろもろの伴部。
八十諸部…〈私記丙本〉也曽毛呂止毛乃毛乃〔やそもろとものもの〕
栄楽…人の身が栄えて楽しむ。
…(古訓)よし。
秋八月癸卯朔己酉、
倭迹速神淺茅原目妙姬・穗積臣遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君、
三人共同夢而奏言
「昨夜夢之、有一貴人誨曰
『以大田々根子命爲祭大物主大神之主、
亦以市磯長尾市爲祭倭大國魂神主、必天下太平矣。』」
天皇、得夢辭、益歡於心、布告天下、求大田々根子、卽於茅渟縣陶邑得大田々根子而貢之。
天皇、卽親臨于神淺茅原、會諸王卿及八十諸部、而問大田々根子曰「汝其誰子。」
對曰「父曰大物主大神、母曰活玉依媛、陶津耳之女、亦云奇日方天日方武茅渟祇之女也。」
天皇曰「朕當榮樂。」

秋八月(はつき)癸卯(みづのとう)朔己酉(つちのととり)〔7日〕
倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかむあさちはらまくはしひめ)・穂積臣(ほづみのおみ)の遠祖(とほつおや)大水口宿祢(おほみくちのすくね)・伊勢麻績君(いせのをみのきみ)、
三人(みたり)共(とも)に同(おや)じ夢(いめみ)して[而]奏言(ことをまをさく)
「昨夜(きのふのよ)夢(いめみし)[之]、一(ある)貴(たふとき)人有り、誨(をし)へ曰(のたまはく)
『大田々根子命(おほたたねこのみこと)を以(もちゐ)大物主大神を祭る[之]主(かむぬし)と為(し)、
亦市磯長尾市(いちそのながをち)を以(もちゐ)て倭大國魂神を祭る主(かむぬし)と為(せ)ば、必ず天下(あめのした)太く平(たひら)がむ[矣]。』とのたまひき。」とまをしき。
天皇、夢(いめ)の辞(ことば)を得、[於]心に益(ますます)歓び、天下(あめのした)に布告(つ)げ、大田々根子を求め、即ち[於]茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえのむら)に大田々根子を得て[而]之(これ)を貢(まつ)る。
天皇、即ち親(みづから)[于]神浅茅原に臨み、諸(もろもろ)の王卿(きみたち)及(および)八十(やそ)諸部(もろとも)を会(あつ)めたまひ、而(しかくして)大田々根子に問ひたまはく[曰]「汝(いまし)は其(それ)誰子(たがこ)なるや。」ととひたまひき。
対(こたへ)曰(まをさく)「父は大物主大神と曰(まを)し、母は活玉依媛(いくたまよりひめ)と曰(まを)し、陶津耳(すえつみみ)之女(むすめ)、亦云(いはく)奇日方天日方武茅渟祇(くしひかたあまつひかたたけちぬつみ)之女なり[也]。」とまをしき。
天皇曰(のたまはく)「朕(われ)[当]栄(さかえ)楽(たのしび)すべし」とのたまひき。

――「諸王卿」の訓
 古訓〈丙本〉のオホキミは、「王(ワウ)+卿(キミ)」ではなく、王(オホキミ)に卿(キミ)を併せたものと見られる。 キンダチという語は、平安時代には生まれていたようだ。「オホキムダチ」は、オホキミとキムダチを合成した造語と思われる。 「キム」はミの撥音便ンをムで表したと見られる。飛鳥時代、王や卿をまとめて「キミタチ」と呼んだのが、「公達」の語源だと推定される。
《物部連祖・伊香色雄》
班物者…〈私記丙本〉毛乃安加津比止〔ものあかつひと〕
神班物者…神への供え物を判別する人。
便…(古訓)うるはし。すなはち。たやすく。わきまふ。
…(古訓)あたし。ほか。
あたし(他)…[形] 他の。<時代別上代>形容詞語幹の連体用法のようなものが大部分。
おほせこと(命)…天皇のお言葉。おほみこと。みことのり。
乃卜使物部連祖伊香色雄爲神班物者、吉之。
又卜便祭他神、不吉。
十一月丁卯朔己卯、
命伊香色雄而以物部八十手所作祭神之物。
卽以大田々根子爲祭大物主大神之主、又以長尾市爲祭倭大國魂神之主。
然後、卜祭他神、吉焉。
乃(すなは)ち物部連(もののべのむらじ)の祖(みおや)伊香色雄(いかしこを)を使(し)て神班物者(かむものあかつひと)と為(す)を卜(うらな)へば、吉(よし)[之]。
又便(たやすく)他(あたし)神を祭ることを卜へば、不吉(よからず)。
十一月(しもつき)丁卯(ひのえう)朔己卯(つちのとう)〔13日〕、
伊香色雄に命(みこと)して[而]物部(もののふ)八十手(やそて)[所]作(つく)りし神を祭之物(まつるもの)を以(もちゑ)る。
即ち大田々根子を以(もちゐ)て大物主大神を祭る[之]主(かむぬし)と為(し)、又長尾市を以て祭倭大国魂神を祭る[之]主(かむぬし)と為(す)。
然後(しかるのち)、他(あたし)神を祭ることを卜へば、吉(よし)[焉]。
――読み取りにおける問題
 この部分は読み取りにくい。
 「班物者」は、日本紀私記により「ものあかつひと〔「あかつ」=わける〕と訓まれる。 この語は各社の古語辞典には載らないので、一般性は認められていないようだ。
 この語は、記の「定奉天神地祇之社」(諸社に祭る人に定める)という役割の別表現である。 「神への供え物の適否を判別する人」の資格試験に通った話をもって、姓(かばね)「物部」の由来譚としている。
 「他の神を祭ることの是非を占ってみたら不吉。」という文。
 普通は「( )が吉。他の神を祭るは不吉。」なる文章において、( )に入るのは、「~という神を祭ること」だと予想されるが、 実際には「伊香色雄の、供え物判別人としての資格」が入っている。このずれが、読者を釈然としない気持ちにさせる原因である。
 「十一月丁卯朔。」 この朔日は、暦から5日のずれがあり、また月の前につける「冬」がないところが通例と異なる。(参考資料)
 岩波文庫版は「八十平瓮」である。諸写本では「八十手所」となっているが、これでは文が成り立たないとして書き換えたものである。岩波文庫版は、手書きすると字形が似ているので筆写者が誤読したと言う。 しかし、「以物部八十平瓮作祭神之物」に直しても「物部の八十平瓮を以ち神を祭る物を作り」となり、依然として意味が通らない。 もし修正するなら「所手」を入れ替え、「以物部八十手作所祭神之物」(物部八十手を以ち神を祭らむ物を作らしむ)がよいと思う。
 一方『時代別上代』は誤写説を採らず、「…而以物部八十手所作祭神之物」と返り点を打つ。 〔…て、物部(もののふ)の八十手(やそて)により作らるる祭神の物を以(もちゐ)る〕―読み下しは引用者。 つまり同辞典は「」を動詞とすることによって、文法問題(=而の後の節に動詞がない)を解決した。「以」は多くの場合前置詞句(with~)を構成し、長い文の中心動詞にはあまり使われない。
 夢で見た神の言葉の実行した。
 2神をきちんと祭ったら、連動して他の神も鎮まった。
 原文からA・C・Dを取り除くと読みやすくなる。A・C・Dは、物部氏の祖の功を書いた部分である。 B・Dには、いつもの""の代わりに""を使うという特徴がある(但し、誤りではない)ので、初期の草稿と異なる筆者が書き加えた可能性がある。 恐らく(物部改め)石上麻呂が影響力を発揮し、 物部氏の格上げのために書き加えさせたと想像されるが、読みにくく、ここで指摘したような問題もあり、文章の出来はあまりよくない。
《疫病の終息》
…(古訓)やうやく。〈時代別上代〉ヤウヤクやヤウヤウの元の形と見られる神楽歌の「哉求哉久ヤクヤク」によってヤクヤクと訓む。
…(古訓)しつかなり。ととのふ。
五穀…(古訓)いつつのたなつもの。
たなつもの、いつくさのたなつもの…[名] 五穀(稲・粟・稗・麦・豆)。
百姓…[名] 人民。
おほみたから…[名] 人民。
…(古訓) にきはふ。ゆたかなり。
…〈日本紀私記〉神酒美岐乎左々介氐〔みきをささげて〕
ささぐ(指挙ぐ)…手に持ち高くさしあげる。献上する。
便別祭八十萬群神。
仍定天社・國社及神地・神戸。
於是、疫病始息、國內漸謐、五穀既成、百姓饒之。
八年夏四月庚子朔乙卯、以高橋邑人活日、爲大神之掌酒。【掌酒、此云佐介弭苔。】
冬十二月丙申朔乙卯、天皇、以大田々根子令祭大神。是日、活日、自舉神酒、獻天皇。仍歌之曰、

便(すなはち)八十万(やそよろづ)の群神(むれかみ)を別け祭る。
仍(すなはち)天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)及(および)神地(かむところ)・神戸(かむべ)を定む。
於是(ここに)、疫病(えやみ)始めて息(や)み、国の内漸(やくやく)謐(しづま)り、五穀(いつくさのたなつもの)既(すで)に成り、百姓(おほみたから)饒(ゆたかなり)[之]。
八年(やとせ)夏四月(うづき)庚子(かのえね)朔乙卯(きのとう)〔16日〕、高橋邑(たかはしのむら)の人活日(いくめ)を以(もちゐ)て、大神(おほかみ)之掌酒(さかひと)と為(す)。【掌酒、云佐介弭苔(さかひと)と云ふ。】
冬十二月(しはす)丙申(ひのえさる)朔乙卯(きのとう)〔20日〕、天皇、大田々根子を以(もちゐ)て祭大神(おほみかみ)を祭り令(し)めたまふ。是の日、活日、自(みづから)神酒(みき)を挙(ささ)げ、天皇に献(まつ)る。仍(すなはち)歌(うたよみ)し[之]曰(うたはく)、

〈1〉この御酒は 我が御酒ならず 日本成す 大物主の 醸みし御酒 幾久 幾久
かむ(醸む)…酒をかもす。酒はもと歯で米をかみ砕いて作ったことによる。
いくひさ…囃し言葉。幾世久しくの誉め言葉から。ここでは、活日(いくひ)の名にかける。
〈1〉 許能瀰枳破 和餓瀰枳那羅孺 椰磨等那殊 於朋望能農之能 介瀰之瀰枳 伊句臂佐 伊久臂佐
かむみや(神宮)…[名] 神宮。
…(音仮名)ミ。ビ。
このみきは わがみきならず やまとなす おほものぬしの かみしみき いくひさ いくひさ

如此歌之、宴于神宮。卽宴竟之、諸大夫等歌之曰、
此(かく)の如く歌(うたよみ)し[之]、[于]神宮(かむみや)にて宴(うたげ)す。即ち宴を竟(を)へ[之]、諸(もろもろ)大夫(ますらを)等(ら)歌(うたよみ)し[之]曰(うたはく)、

〈2〉味酒 三輪の殿の 朝戸にも 出でて行かな 三輪の殿戸を
味酒…[枕] 美酒(みわ)と同訓のみわにかかる。
あさと(朝戸)…[名] 朝、開ける戸。
…[助] 文末にあって未然形につく場合は、希望を表す。 〔三輪の殿の、朝の戸から出かけてください〕
〈2〉 宇磨佐開 瀰和能等能々 阿佐妬珥毛 伊弟氐由介那 瀰和能等能渡塢
うまさけ みわのとのの あさとにも いでてゆかな みわのとのとを 

於茲、天皇歌之曰、

於茲(ここに)、天皇歌(うたよみ)し[之]曰(うたはく)、

〈3〉味酒 三輪の殿の 朝戸にも 推し開かね 三輪の殿戸を
…[助] 文末にあって動詞・助動詞の未然形を受け、他者の行動の実現を希望する意を表す。
〔三輪の殿の、朝の戸を押し開いてください〕
〈3〉   宇磨佐階 瀰和能等能々 阿佐妬珥毛 於辭寐羅箇禰 瀰和能等能渡烏
うまさけ みわのとのの あさとにも おしびらかね みわのとのとを

《墨坂の赤の楯鉾、大坂に黒の楯鉾を祭る》
卽開神宮門而幸行之。
所謂大田々根子、今三輪君等之始祖也。
九年春三月甲子朔戊寅、天皇、夢有神人誨之曰
「以赤盾八枚・赤矛八竿、祠墨坂神。亦以黑盾八枚・黑矛八竿、祠大坂神。」
四月甲午朔己酉、依夢之教、祭墨坂神・大坂神。

即ち神宮の門(と)を開(あ)けて[而]幸行(いでます)[之]。
所謂(いはゆる)大田々根子、今の三輪君(みわのきみ)等(ら)之(の)始めの祖(みおや)なり也(なり)。
九年(ここのとし)春三月(やよい)甲子(きのえね)朔戊寅(つちのえとら)〔15日〕、天皇、夢(いめ)に神の人有り誨(をし)へ[之]曰(の)らさく
「赤盾(あかたて)八枚(やひら)・赤矛(あかほこ)八竿(やさを)を以(もち)ゐて、墨坂(すみさか)の神を祠れ。亦黒盾(くろたて)八枚・黒矛八竿を以ゐ、大坂(おほさか)の神を祠れ。」
四月(うづき)甲午(きのえうま)朔己酉(つちのととり)〔16日〕、夢(いめ)之教(をしへ)に依り、墨坂の神・大坂の神を祭りたまふ。

――三輪君
 次回、「神君」の項で述べる。

【〔書紀〕天照大神・倭大国魂神】
《天照大神》
 倭(やまと)の笠縫邑に磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)を立て、天照大神を祭った。 秦楽寺(じんらくじ、奈良県磯城郡田原本町秦庄267)の境内に「笠縫神社」があるから、その辺りかと言われている。 ただ、境内社とは本社のミニチュアを他の社の敷地内に祭るものであるから、どこかに笠縫神社の本社があったと考える方が自然である。 笠縫邑には神籬が置かれたのみだが、後に社殿が建った可能性はある。 笠縫邑の候補地には諸説あり、その一つは檜原(ひばら)神社である(大西源一氏、1957年)。
 さて、笠縫邑を天照大神を伊勢神宮以前に、正式に祀った場所だとする見方がある。 しかし書紀の神代では、天照大神を祭ったとされるの宮は伊勢神宮だけである。笠縫邑の宮が伊勢神宮の前身なら、それなりに立派な社が建ち、それが廃れたとしても天照大神を祭神とする社が何らかの形で残るはずである。 ところが、式上郡・式下郡・山辺郡は神明社(天照大神を祭った社)の空白地帯なのである。そもそも笠縫邑には神籬を置くのみで、祀り方はささやかであった。
 それ以上に、大物主を最上位に置く崇神紀の中では、天照大神は下位の禍の神に過ぎない(まとめ参照)。 天照大神の権威を貶める文脈の中の記述をもって、伊勢神宮の前身と位置付けることはできない。
《磯堅城》
 日本紀私記に「磯堅城」はないので、「しかたき」は普通の単語だったのだろう。 秦楽寺は式上郡に含まれるから磯堅城は地名で、磯城の古呼かも知れない。
 『古語拾遺』(807年)には「仍就於倭笠縫邑、殊立磯城神籬、奉遷天照大神及草薙劍。〔すなはち、倭笠縫邑にいき、ことに磯城神籬を立て、天照大神及び草薙剣をまつり遷す。〕とある。
 草薙の剣が加えられているところは、三種の神器継承の重要性が増した時代の潤色であろう。それ以外は書紀を出典とすると思われるので、ここの「磯城」は「しかたき」と訓まれた可能性がある。
 ところが、稲荷山古墳出土鉄剣は「しかたき=古地名」説を否定する。同鉄剣には漢字が象眼されている。その年は「辛亥」と刻まれ、一般に471年と推定されている。ここに「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時〔わかたける大王(=雄略天皇)の寺、斯鬼の宮に在りし時。寺とは、雑用を司る役所のこと。〕とあるので、遅くとも5世紀後半には地名は「しき」であった。 だから、磯城を磯堅城と同一視するのは、古語拾遺の著者の独自見解である。
 結局磯城という地名とは無関係に、「しかたき」あるいは「しかたきの」という枕詞があったと考えざるを得ない。
《倭大国魂神》
 一書6によれば、大国玉神・顕国玉神は、大国主神・大物主神と同一神とされる(第55回)。 『延喜式』神名帳には、「国玉神社」に類する名称の神社は各地に10数社あり、もともとそれぞれの国の土着神だと思われる。
 神名帳には、〖大和国二百八十六座/山辺郡十三座/大和坐大国魂神社三座〗〔やまとにますおほくにたま神社〕があり、これが「倭大国魂神」の名に最も近い。 比定社は、山辺郡にある大和神社(奈良県天理市新泉町星山306)で、祭神は日本大国魂大神、八千戈大神、御年大神の三神で、それぞれを祭る3つの社が並ぶ。
 日本大国魂大神を祭った顛末は、垂仁記にも再録されている。
――因以、命渟名城稚姫命、定神地於穴磯邑、祠於大市長岡岬。然、是渟名城稚姫命、既身體悉痩弱、以不能祭。
〔渟名城稚姫命に命じ、穴磯邑を神のところに定め、大市の長岡岬に祀らせた。しかるに、この渟名城稚姫命は結局前身が痩せ衰え、祭ることができなくなった。〕
 つまり、渟名城稚姫に倭大国魂神を祀らせた場所は穴磯邑の大市長岡岬であった。しかしその比定地には、諸説がある。ただ各説とも、後に現在の大和神社の位置に遷ったとする。
 大市郷は、倭名類聚抄に{城上郡/大市【於保以知おほいち}とあり、崇神紀には箸墓の場所とも書かれる。 「岡岬」は、(万)4408 美知尓出立 乎可乃佐伎 みちにいでたち をかのさき。のように、丘の先端部を意味する。「なが」は「長し」の語幹で、空間的な長さを示す。 それは箸墓古墳から東に見える山麓であろうが、三輪山は山全体が聖域だから避けることにすると、その北側に丘の先端がある(×印)。ちょうど、近くに穴師坐兵主神社(あなしにますひょうず神社)があり、現在の地名は大字穴師である。 この辺りが穴磯(あなし)邑だったとすれば辻褄が合う。
 書紀の記述をまともに読めば、倭大国魂神は最初に箸墓の東の穴師の丘に祀られ、後に大和神社に遷ったものと見るのが自然であろう。

【「所謂」の研究】
 漢文訓読体が確立して以来現代まで「いはゆる(いわゆる)」と訓まれる。
 それでは、記紀の時代まで遡っても「いはゆる」と訓まれたのだろうか。まず、平安時代の古訓を調べる。
所謂…(古訓)いはゆる。 (※ 学研『新漢和大辞典』による。出典『類聚名義抄』の図書寮本は1081~1100年頃成立。 原本を書写・増補した観智院本は鎌倉時代中期。平安時代末期の漢字の発音、訓がわかる。)
 助動詞「」(下二)は動詞の未然形に接続し、受身・可能・自発。即ち、いはゆる=いふの未然形+ゆの連体形。
 さらに万葉集まで遡ってみる。
の連体形…(万)0866 波漏〃〃尓 於忘方由流可母 はろはろに おもはゆるかも
いふの未然形…(万)0160 福路庭 入澄不言八面 ふくろには いるといはずやも
 これらから、記紀編纂期の文法に「いはゆる」が適合していることが確認できる。

まとめ
 崇神天皇は国の経営を始めた途端に、疫病の流行に悩まされる。それを克服したのは、御諸山の大物主を中心にすべての神々への崇神の念を持って、深く祭ることであった。 書紀の崇神紀では、その話を骨格として、いくつかの脚色が施される。
 その第一は、大物主が登場する前に、災禍をもたらす神々を描いた。あの天照大神さえ恐ろしい神として振る舞ったから、天皇の近くにはとても置いておけなかったのである。
 第二に、神の言葉の媒介者として倭迹々日百襲姫が登場する。そして、百襲姫に憑いた神は天照大神であることまで匂わす。
 第三に、天津神の代表を天照大神とするなら、地祇(くにつかみ)の代表を倭大国魂神として位置づけ、先住の神々の存在を高める。
 第四に、物部氏の祖の活躍場面を書き加える。ところが残念なことに、追記者の文章力は弱かった。
 大和朝廷の草創期の宗教的基礎は、御諸山の神への尊崇の念であった。それが民族の記憶に深く刻み付けられたからこそ、崇神段・崇神紀に御諸山の神がこのように重く描かれたのである。 しかし崇神紀では、大物主を持ち上げようとする余り、天照大神までも下位の神々に含めるという勇み足を冒した。 これがもし勇み足でなければ、大国主命の和魂(にぎたま)・幸魂(さきたま)が地祇を糾合して逆襲し、力関係が逆転したことになる。 これを、越からの旧渡来民=出雲系と、南太平洋から上陸した新渡来民=天照系の間の、古代の勢力争いの名残りと見れば、また興味深いものがある。
 もう一つ興味深いのは、記では無視された百襲姫が、書紀ではあからさまに登場している理由は何かということである。 言うまでもなく倭迹々日百襲姫には、倭の女王卑弥呼の姿が投影されている。この見方は、ほぼ共通理解になっている。 しかし卑弥呼の存在を匂わせることは、天皇の日嗣の絶対性に対してマイナスに作用する。 記から書紀への教義の発展に於いて、神武天皇紀では天皇支配の絶対化が深まったが、崇神天皇では逆に、その権威を損なう危険に近づいてしまっている。 これの意味については次回、百襲姫の伝説を読み進んだところで考えてみたい。
 さて、「神明」を廻る解釈の変遷は面白い。「神明」が、漢籍の太陽神の意味で使われるようになったのは、鎌倉時代以後のようだ。 平安時代の日本紀私記は、その認識に達していない。時代が近いだけで、信頼度が高いとは言えない一つの例である。 これまで平安時代起源の伝統訓に無批判に従う危うさを直感していたが、直観を裏付ける例がここにあった。


2015.11.12(thu) [112] 中つ巻(崇神天皇3) 

此謂意富多多泥古人 所以知神子者
上所云活玉依毘賣其容姿端正
於是有神壯夫其形姿威儀 於時無比
夜半之時儵忽到來
故相感共婚共住之間 未經幾時其美人妊身
爾父母恠其妊身之事問其女曰 汝者自妊 无夫何由妊身乎
答曰 有麗美壯夫不知其姓名 毎夕到來共住之間自然懷妊

此の意富多多泥古(おほたたねこ)と謂(まを)す人の、神の子と知る所以(ゆゑ)者(は)、
上(うへ)に所云(いはゆる)活玉依毘売(いくたまよりびめ)、其の容姿(すがた)端正(うるはし)、
於是(ここに)神(くすしき)壮夫(ますらを)有り、其の形姿(すがた)威儀(かしこし) [於]時に無比(くらぶべきもなし)。
夜半(よは)之(の)時儵忽(たちまちに)到り来(く)。
故(かれ)相(あひ)感(かな)ひ共に婚(よば)ひ共に住之(すみし)間(ま)、未(いまだ)幾時(いくとき)を経ず其の美人(くはしめ)妊身(はら)めり。
爾(かれ)父母(ちちはは)其の妊身之(はらみし)事を恠(あやし)び、其の女(むすめ)に問はさく[曰]「汝(な)者(は)自(みづから)妊(はら)めり。夫(つま)无(な)く何由(なにゆゑ)に妊身(はらめり)乎(や)。」ととはしき。
答へ曰(まを)さく「麗美(うるはし)壮夫(ますらを)有り、其の姓名(な)を不知(しらず)、毎夕(ゆふへごと)に到り来(き)、共に住之(すみし)間(ま)自然(おのづから)懐妊(はら)みたり。」とこたへき。


是以其父母欲知其人
誨其女曰 以赤土散床前以閇蘇【此二字以音】紡麻貫針刺其衣襴
故如教而旦時見者 所著針麻者自戸之鉤穴控通而出 唯遺麻者三勾耳
爾卽知自鉤穴出之狀而從糸尋行者 至美和山而留神社
故知其神子
故因其麻之三勾遺而名其地謂美和也
此意富多多泥古命者【神君鴨君之祖】

是以(こをもち)其の父母(ちちはは)其の人を欲知(しらむとす)。
其の女(むすめ)に誨(をし)へらく[曰]「赤(あか)土(はに)を[以ちゐ]床前(とこのさき)に散らし、閇蘇(へそ)【此の二字(ふたじ)音を以ちてす。】紡麻(をみ)を以ち針に貫(とほ)し其の衣(ころも)の襴(すそ)に刺したまへ。」とをしへぬ。
故(かれ)教(をしへ)の如くして[而]旦時(あくるとき)に見れ者(ば)、所著針(はりをつけたる)麻(をみ)者(は)戸(と)之(の)鉤穴(かぎあな)自(よ)り控(ひ)き通(とほ)りて[而]出(い)づ。唯(ただ)遺(のこ)れる麻(をみ)者(は)三勾(みわ)耳(のみ)。
爾即(すなは)ち鉤穴(かぎあな)自り出之(いでし)状(さま)を知らむとして[而]従糸(いとゆ)尋ね行け者(ば)、美和の山に至りて[而]神の社(やしろ)に留(とま)りぬ。
故(ゆゑ)、其の神の子なるを知りぬ。
故(かれ)、其の麻(をみ)之三勾(みわ)遺(のこ)れるに因りて[而]其の地(ところ)を名づけ美和(みわ)と謂(まを)す[也]。
此の意富多多泥古(おほたたねこ)の命(みこと)者(は)【神君(みわのきみ)、鴨君(かものきみ)之祖(みおや)】なり。

 この意富多多泥古(おおたたねこ)という人が、神の子だと知られたわけは、
 前に述べた活玉依毘売(いくたまよりびめ)は、その容姿端正でありまして、 そこに不思議なほど立派な男性がおり、その姿は威儀があり当時に比類なく、 夜半に忽然とやって来ました。
 そこで互いに心に適い、二人共に求婚し共に過ごしたところ、未だ幾時を経ずしてその美女は身籠りました。
 そのため、父母はその妊娠を不審に思い、その娘にこのように問いました。「お前は一人で孕んだが、夫もいないのにどうやって身籠ったの。」と。 その答えは、「麗しい男性が、その姓名は知りませんが、毎夕やって来て、共に過ごしたところ、自然に懐妊しましたのよ。」でした。
 そこで父母は、その人[の正体]を知りたいと思い、 娘にこのように教えました。 「赤土を床の前に散らし、麻糸の巻束の一端を針に通し、その衣の裾に刺しなさい。」と。
 そこで、教えられた通りにして翌朝見ると、針をつけた麻糸は戸のかぎ穴から引き通して出ていました。残された麻糸は、ただの三輪(みわ)のみでした。
 そこで、かぎ穴から出た糸の行方を知ろうと、糸に沿って尋ねて行くと、美和の山に至り神社に留まっていました故に、 それが神の子であったことを知ったのでございます。
 このように、その麻糸が三輪残されたことによりその地を名づけ、美和(みわ)と申します。
 この意富多多泥古命(おおたたねこのみこと)は神君(みわのきみ)、鴨君(かものきみ)の祖です。


大神神社大鳥居
大神神社拝殿
ゆゑ(故、所以)…[名] 原因。理由。
…(古訓)うつくし。うるはし。
うるはし…[形] 容姿が端麗・端正である。
威儀…威厳があり、その行動が正しく礼儀にかなっていること。
…(古訓)かしこし。いかめし。
…(古訓)かたち。すかた。のり。
(しゅく)…(古訓)たちまち。
儵忽(しゅくこつ)…①あらわれたり消えたりするのが素早いさま。②いなずま。
たちまちに(忽、忽然)…[副] 動作がきわめて短時間に行われる。突然予期しない形で起こる。
(来)…[自] 来る。行く。[補動] ①状態が次第に強まる。②動作状態が出現する。③動作状態が現在まで継続する。
…(古訓)いたむ。かなふ。ほむ。
かなふ…[自]ハ四 (万)0008 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜 つきまてば しほもかなひぬ いまはこぎでな。
はらむ(胎)…[自]ラ四 みごもる。
…(古訓)あやしぶ。
…[動] ない。(古訓)なし。なけん。
なにゆゑ(何故)…[名] (万)2977 何故可 不思将有 なにゆゑか おもはずあらむ
ごと(毎)…[名] (万)0199 野毎 著而有火之 のごとに つきてあるひの
へそ(綜麻)…[名] つむいだ麻糸を細長い球状に巻いたもの。
…(古訓)つむく。
うむ(続む)…[他]マ四 麻や苧を細く裂き、つなぎ合わせてよる。
(麻、苧)…[名] 麻。麻糸。
をみ…[名] 麻を績(う)むこと。
…[名] (古訓)はり。
…(古訓)すそ。
とほす(通す、達す)…[他]サ四 通らせる。
(輪、曲、勾)…①[名] 輪。わがめたもの。②[助数詞] わがねたものを数えるときに用いる。
神社…(万)0558 千磐破 神之社尓 ちはやぶる かみのやしろ

【以赤土散床前】
 床前は、「とこのへ」「とこのべ」かも知れない。万葉集では「2957 床辺不離 とこのべさらず」のように、 「床辺」が一例あり、また万葉仮名で「とこのへ(べ)」が数例ある。ただ、「」の古訓には「さき」「まへ」があるが「へ」はないので、素直に「とこのまへ」が妥当かと思われる。
 赤土を散らした目的は、麻糸が目立たないように紛らせるためだろう。文脈から見て、床(とこ)と出口の間の床(ゆか)一面に、麻糸と色が似た赤土を散らしたと見られる。

【鉤穴】
Photo by (c)Tomo.Yun
 「戸之鉤穴」と表現され、糸が通るのだから、戸に開けた鍵穴に違いない。
 鉤は、鍵、かぎ型の金具などを指す。古代の鍵の例としては、正倉院御物に正倉院古鑰(こやく)があり、その形から海老錠と呼ばれる。 最古の海老錠は、650年頃羽曳野市から発掘された。 写真はそれよりは新しいが、平城京跡出土の海老錠である。 海老錠は基本的に南京錠である。南京錠では扉にかぎ穴を開けることはないから、この伝説の「鉤」は海老錠ではない。
 万葉集を検索すると、「櫃にかぎ刺し」という歌がある。 (万)3816 家尓有之 櫃尓鏁刺 蔵而師 戀乃奴之 束見懸而 いへにありし ひつにかぎさし をさめてし こひのやつこの つかみかかりて
 櫃は大きな箱で、米を入れるのが米櫃である。 櫃にカギ刺して自分の恋心を封じたつもりなのに、この野郎、わしを襲って来やがるという面白い歌である。
 櫃のカギから類推すれば、戸締りのために穴に差す鍵があったと思われる。
 男に繋いだ糸がかぎ穴を通り、家の中にその一端があるということは、最初に衣に針を刺す時、戸の中から外に向かって紐を穴を通し、家の中に回して裾に刺したことになる。 これはなかなか手間がかかるが、糸が戸の鉤穴を通る景色は物語に趣を添えるためなので、余り追求するのも野暮である。

【其麻之三勾遺】
 初めは麻糸が、長く巻いてあった。それが引き出され、残ったのは最後の三巻きだけであった。 この話から、「へそ」とは糸を巻いて束ねたもの、「」は助数詞で「わ」と訓んだことが確定する。 語順により、「遺」は自動詞である。 この話は「みわ」の地名の由来を述べる。地名由来譚は、一般的に後付である。

【構文】
 所以知神子者〔神の子と知るゆゑは〕の目的語は、「……至美和山而留神社故〔……美和の山に至りて、神のやしろに留まる故〕までである。 締めくくりの「」は、形式名詞「ゆゑ」として、主語の「所以は」を受けるべきである。
 この部分の後半には「者」(接続詞「ば」、係助詞「は」)が多く、話し言葉っぽく物語の心地よさがある。 「衣襴」は、基本的に漢熟語は分割せずに意訳するので「すそ」だけで充分であるが、ここでは話し言葉として語調を和らげ「ころものすそ」と訓んだ方がよいと感じられる。

【神君】
《大神朝臣》
 〈新撰姓氏録〉には、大神(おほみわ)朝臣として収録される。
まほ…[名・形動] よく整っているさま。
曽不、曽無…いっこうに~ない。
 〖大和国/神別/地祇/大神朝臣/朝臣/ 素佐能雄命六世孫大国主之後也。初大国主神娶三島溝杭耳之女玉櫛姫。 夜未曙去。来曽不昼到。於是玉櫛姫績苧係衣、至明随苧尋覓、経於茅渟県陶邑、 直指大和国真穂御諸山。還視苧遣、唯有三縈。因之号姓大三縈〗
〔素佐能雄命の六世の孫大国主之後也。初めて大国主神、三島溝杭耳の女(むすめ)玉櫛姫を娶る。 夜(よる)未だ曙(あ)けぬときに去(い)ぬ。来(く)れども曽(かつ)て昼に到ら不(ず)。於是(ここに)玉櫛姫績苧(をみ)を衣(ころも)に係(つ)け、明くるに至り苧(をみ)に随ひ尋ね覓(もと)めば、 於茅渟県(ちぬのあがた)陶邑(すえのむら)経(ゆ)、直(ただ)大和の国の真穂(まほ)御諸の山を指す。還(かへ)りて視れば苧(をみ)遣(のこ)り、唯(ただ)三縈(みわ)有り。之に因り姓を大三縈(おほみわ)と号(なづ)く。〕
 姓氏録では、大物主神を大国主神と躊躇なく同一視している。 糸をつけて住処を知ろうとした伝説は印象的なためか、姓氏録にも書き添えられた。 ただし、娘は活玉依毘売(陶津耳命の娘、大田田根子の祖)から、玉櫛姫に置き換えている。
 ところが、記紀では玉櫛姫の女は神武天皇が娶り、綏靖天皇を生む(第100回 target="_blank") から、神君の祖とするのは誤りに近い。 また、麻糸が茅渟県陶邑を経由するのは大田田根子に因んだと思われるが、あまりに遠距離である。 このように、姓氏録の大神朝臣に付された由来は、あまり上質ではない。
《大三輪君》
 大三輪君は、神武天皇紀13年の「凡五十二氏賜姓曰朝臣」の筆頭に書かれる。 大三輪君は、三輪君の美称が定着したものと見られる。 〈氏姓家系大辞典〉は「凡そ奈良朝頃までは大三輪、三輪、混用するを以って、明白に三輪後に大三輪となりたりとは云い難けれど、極めて古へ〔いにしへ〕は単に三輪と云ひしが如し。 大凡〔おほよそ〕続紀〔=続日本紀〕以後は殆ど大神の字を用ひたり。」とする。  第109回《率川神社》の御由緒で見たように、 推古天皇元年(593)大三輪君白堤は、率川神社を創建した。祭神は媛蹈韛五十鈴姫命、その父・狭井大神(=大物主神)、母・玉櫛姫命の三神である。 媛蹈韛五十鈴姫命の出生は、記や書紀本文・一書で一定しないが、大国主の子または孫であることは共通している。姫は神武天皇の皇后となり、綏靖天皇を生む。 だから、崇神天皇も大物主の血を受け継いではいるが、もっぱら大物主からの繋がりが強調されるのは大田田根子で、大神神社を創建して大三輪氏の祖となる。
 この「創建」は神話で、考古学的には御諸山の神は、縄文時代から尊崇されていたと思われる。
 また、この地方の豪族に大田田根子の名があったことも充分考えられる。
『大神神社』〔第三版〕
学生社
磐座―wikipedia.org

【大神神社】
 延喜式神名帳に「大和国二百八十六座/城上郡四十五座/大神大物主神社【名神大】」。
 大神神社は本殿がなく、拝殿と三輪山の境界の三ッ鳥居を通して御神体である三輪山を拝む形になっている。 三輪山には、磐座神社の磐座とは別に、中山和敬著『大神神社』(学生社2013=写真、以下〈中山氏〉と表記)の分布図によれば、三輪山全体で26個の磐座を数えるが、これらは典型的なものに過ぎず実際にはもっと多いという。 磐座は社の時代以前の祭祀場とされる。  〈中山氏〉によれば、この磐座群から「昭和30年代の工事の折にめずらしい子持ち勾玉や、多数の土器破片などが発見されたことからも、驚くべき大量の埋蔵品がいまだに眠っていることは確かである」という。 さらに〈中山氏〉は、「おそらく縄文後期から弥生文化時代、三輪山麓に住みついた人たちが三輪山を信奉してきた大神おおみわ族であったことは間違いなく、起源は古く、かつ相当長期間にわたったものであることが、今日考古学的に証明されている」と述べる。
 大神神社にはもともと社殿がなく、三ツ鳥居のみであったと言われる。
 『大三輪三社鎮座次第』(嘉禄2年=1226年)に「当社古来無宝倉唯有三箇鳥居而已〔当社古来宝倉(ほくら;倭名類聚抄「保久良」)無く、唯三箇鳥居(みつとりゐ)有るのみ〕。 しかし「ほくら(祠=ほこら)無し」と言うのは、俄かには信じられない。というのは、同書で続く「奥津磐座大物主命 中津磐座大己貴命 辺津磐座少彦名命」には、少彦名命の辺津磐座以外具体性がないからである(次項参照)。
檜原神社 大神神社三ツ鳥居と瑞籬(模式図)
 実際には、神名帳にみょう神大社(特に格の高い神を祭る)と記載され、規模から考えて立派な建造物があったと捉えるのが自然である。 活玉依毘売伝説では、大物主神につけた糸が「かみのやしろ」まで続くと書かれたのは、現実に神の宮があったからである。 さらに、前回の歌謡に「三輪の殿の 朝戸にも 推し開かね 三輪の殿戸を」と歌われるのを見ると、宴席が開かれたのは戸のついた建物の中である。 従って、記紀編纂期には社が存在した。ただし、神が坐す「神殿」ではなくあくまで「拝殿」だったのだろう。 それは、神殿をもたず、三輪山そのものを御神体とした古代からの伝統が、今日まで続いていると考えられているからである。
 鎌倉時代には荒廃して、社が本当に失われていた可能性はある。その後、文保元年(1317年)、文禄2年(1593年)に「大神社造営」の記録がある(〈中山氏〉年表)。
 『大三輪三社鎮座次第』は文献調査が殆どで現地調査によると思われる部分は乏しく、実際の状態かどうかは怪しいが、「三箇鳥居」だけは、「普通の鳥居が3体」ではなく実際の三ツ鳥居を指したと思われる。三ツ鳥居は全国の三輪系の社に引き継がれ、大神神社特有の鳥居として鎌倉時代にも有名だったと考えられるからである。 現在の大神神社の三ツ鳥居は、〈中山氏〉によれば明治16年着工・同17年(1884年)竣工で、拝殿と神域の境界をなす瑞垣と一体化している。その基本的な形は、当然従来を引き継いだと思われる。 その模式図と、檜原神社の三ツ鳥居の写真をに示す。
 この経過を見れば、神名帳の大神大物主神社から現在の大神神社まで、連続性があるのは明らかである。
《大三輪三社鎮座次第》
 大三輪三社鎮座次第は『群書類従巻第十八』に収められ、嘉禄丙戌之歳仲冬十九日〔嘉禄2年(1226)11月19日〕の日付がある。 室町時代の校訂者による奥付(貞和二年=1346年12月1日付)に「日本紀、旧事本紀、古語拾遺、延喜式、令義解等ヲ引テ勘作〔勘案して作成〕スル。」とある。そして校訂者は出典を探す努力を払い、見付けたものを本文の各所に書き添えている。 「奥津磐座大物神名帳主命 中津磐座大己貴命旧辞本紀古語拾遺 辺津磐座社伝彦名命」には、大物主命に「神名帳」、大己貴命に「旧辞本紀・古語拾遺」、少彦名命に「社伝」の添え書きがある。 辺津磐座の少彦名命については社伝に由来がある(後述)。 大物主については、神名帳には「奥津磐座」の記載がないので出典は不明である。
 大三輪三社鎮座次第の多くの部分は書紀を中心とする引用であるが、社伝による独自の内容もある。それは次の3箇所である。
 麻糸伝説
 校訂者は「旧事有相違」と書き添える。即ち「旧辞本紀による。一部相違あり」。 
 大物主旧事有相違神乗天羽車大鷲而、覓妻下‐行於茅渟縣陶邑。 彼處大陶祇女活玉依媛、容姿端正。 〔大物主神は「天羽車大鷲」に乗って、妻を求めて茅渟県陶邑に降りる。そこに大陶神の女玉依媛がいた。〕
まへつきみ…天皇の御前に伺候する高官侍臣。
 天羽車大鷲(あまはくるまのおほわし)は、乗り物あるいは鳥の大鷲、同時に神であろう。 この部分は、出雲の海岸で大国主の前に現れた神が、御諸山に行くところを埋める記述である。 そして天孫に先だって「饒速日命乘天磐船而翔行太虛也、睨是鄕而降之〔饒速日命は天磐船に乗り大空を飛び、この郷に目をつけて降りた〕 (第101回・神武天皇即位後〈4〉)ところに類似している。  活玉依媛は陶邑に住んでいたと明記される。 この続きは概ね記と同じであるが、大物主につけた糸は茅渟山を経て吉野山に入り、御室山に至る。 生まれた子、櫛日方命(くしひかたのみこと)は神武天皇によって申食国政大夫(おすくにのまつりごとまをすまへつきみ)に任命され、 賀茂君、大三輪君の遠祖である。
 倭大物主櫛瓺玉命
 大初 延喜式己命之和魂、取-託八咫鏡、名曰倭大物主櫛瓺玉命
 〔おほしはじめ、己(おのれ)の命の和魂(にぎたま)、八咫鏡に取り託し、名は倭大物主櫛瓺玉命(やまとおほものぬしくしみかたまのみこと)と曰ふ。〕
 これは、『延喜式』から引用したもの。社伝ではここに独自の内容、次のが付け加えられる。
  この時期を「腋上池心宮御宇天皇御世〔孝昭天皇の御世〕とする。孝昭天皇は欠史八代なので、記紀には事跡はない。
  三輪山に瑞籬(みづかき)を造らせ、吉足日命に命じて大己貴命(=大国主命)・大物主命を崇斎させる。
である。 瑞籬は、崇神天皇が朝廷を置いた師木の水垣宮(書紀では磯城の瑞籬宮)に通ずる(第110回)。 また、三ツ鳥居を通って建てられている現在の「瑞籬」は、この記述に基づく名称であろう。
 少彦名命(第69回参照)
 社伝余甕栗宮御宇天皇〔22代・清寧天皇〕のとき、皇子ができないので祈祷すると、宮能売(みやのめ、=巫女)に神が憑き、 「心配するな。天津日嗣が絶えることがあろうか。上古吾与少彦名命戮力一心、所以経-営天下。 其所以而今少彦名命来-臨吾辺津磐座。与吾及和魂共能可敬祭 〔上古、吾(われ)と少彦名命、力をあわせ心ひとつに、もって天下を経営す。 その所を以ちて今、少彦名命、わが辺津磐座に来臨す。吾及び和魂(にぎたま)と、共に能(よ)く敬祭すべし〕……」 是起-立磐座、崇-祭少彦名命
 常世の国に去ったはずの少彦名命だが、社伝によれば三輪山までやってきた。「」は、文脈から大国主命(大己貴神)を指す。 そして、吾(大己貴神)・少彦名命・和魂(大物主神)の三神を共に敬い祭れという。 「和魂」は書紀の「幸魂・奇魂」を受けた語である。
 清寧天皇は雄略天皇の子である。皇子ができないことを案じて神に尋ね云々ということであるが、結局皇子はできなかった。
《三ツ鳥居の謎》
三連の茅の輪茅の輪
 三ツ鳥居のユニークな形はどのようにして生まれたのだろうか。
 各地の神社では、毎年6月に茅の輪くぐりという民俗行事が行われる。この茅の輪が大神神社では、榊・杉・松の3連になっている。 これが、「三輪」の名によるのは明らかである。直観的には、茅の輪の形が3連鳥居に発展したようにも思える。
 それを探るために茅の輪くぐりの由来を調べると、<wikipedia要約>宮中の大祓(おほはらへ)が大宝律令(701)に宮中の行事として定められた。 そこから穢れを祓う行事として、6月、12月に行う習慣が民間に広まった。その後応仁の乱(1467)で廃絶し、本格的な復活は明治以後だという。</wikipedia>
 もともとは茅の輪を腰や首につけたとされ、その起源は<wikipedia> 『釈日本紀』の逸文『備後国風土記』の蘇民将来伝説に、武塔神から授かった茅の輪を腰につけたところ災厄から免れた</wikipedia>とあると言う。
 茅の輪による厄除けの起源は古いが、大神神社の三連の茅の輪は、明治以後と見るのが穏当であろう。 しかし奈良時代にも茅の輪の連結と同じ感覚で、鳥居を三連にしたように思われる。
 主祭神は、神学的には同一神に落ち着いていた大己貴神と大物主神を敢えて分離し、さらに少彦名命を常世の国から呼び戻すという力技を使って、三神にする。 これも「輪」なるが故かと思わせる。その影響は支社の率川神社にも及び、やはり三神を祭る。 三神を並べて祭るのは一般的で、これまで宗像大社、住吉大社、伊太祁曽神社、率川神社にそれぞれ三神の例を見た。奇数を重んじる陰陽思想の影響もあるかも知れない。 キリスト教でも神は父・子・聖霊の三位からなるので、三神構造を尊ぶ心理は大脳皮質の先天的な機能まで遡るかも知れない。
 大神神社は、この三神志向を三輪山の名がさらに増幅し、鳥居の形まで変えたわけである。
《酒の祭礼》
官幣…[名] 天神祇官から支給される幣(みてぐら)。社格が一定以上であることを示す。
さきくさ<三枝>…[名] 植物名。山百合、ミツマタなど諸説があり、確定していない。
 『大三輪三社鎮座次第』の「祭礼之事」の項に、4月・12月の卯の日の祭りについて、 社伝官幣三枝華、飾神酒甕。以八十平瓫之。」 〔官幣有り、三枝(さきくさ)の華(はな)を以ち、神酒(みわ)の甕(みか)を飾る。八十平瓫(やそびらか)を以ち之を祭る。〕とある。
 大神神社は、酒との関わりが深く、それが前回の天皇の歌にも表れている。 〈中山氏〉によれば、山の神遺跡出土の数多くの土器の中に、堅臼、固杵、匏(ひさご)、柄杓、箕、案の模造土製品があり、これらは醸酒に関係するという。
 現在は、11月14日に「醸造安全祈願祭」が行われ、醸造安全の赤い御幣と酒屋のシンボル「しるしの杉玉」が全国の酒造家・醸造元に授与される(大神神社公式ホームページ)。

【出雲系氏族の移民】
 第69回【大物主とは何者か】で、 「国譲りの後は 人の交流が盛んになり、その結果大和地方に移った出雲出身者は、大物主を自分の神として大切に祀ったと想像される。それ故に、出雲勢力側もこの話を大国主の話に加えたのである」と論じた。 と論じた。葛下郡・式下郡の出土物に、移民の事実を推察させる例があった。
――国学院大学 研究集会「古代三輪山の祭祀と神祇信仰」シンポジューム(2007年12月2日)の発言より。
 〈奈良盆地出土の出雲系土器〉(橋本裕行氏) 奈良盆地では近年の発掘調査で古墳時代の遺跡から山陰系の土器が多数発見されている。葛城市の太田遺跡や天理市の乙木・佐保庄遺跡からは、鼓形器台を中心とした出雲系の土器が数百個体出土した。
 
【鴨君】
 鴨君の発祥の地は、葛上郡(現在の御所市)と言われ、高鴨神社、鴨都波(かもつば)神社がある。
《高鴨神社》
 〈神名帳〉によれば「大和国二百八十六座/葛上郡十七座大十二座小五座/高鴨阿治須岐託彦根命神社四座」とある。 主祭神は、阿治須岐高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)で、記の大国主段には 「阿遅須枳高日子命が、今、祀られている迦毛(かも)大御神である」とされる(第68回)。 記の系図では大国主命と須佐之男命の女の間の子である。出雲国風土記にも、大国主の子で「坐葛城賀茂社」と記される。
《鴨都波神社》

改号
  コ
 〈神名帳〉大和国二百八十六座/葛上郡十七座大十二座小五座/鴨都波八重事代主命神社二座
 延喜式を電子データ化したサイトには、「貞改号コ鴨都波八重事代主命神社」とするものがある。その元になったのは『国史大系』(吉川弘文館)と見られる。 『国史大系:第三次』26巻・延喜式には、右のような四角囲みが「鴨都波」の上にある。これは 同書が参照した原本の標注(=頭注)を四角で囲んだものである。「」は出典の「金剛寺本」の略。貞観年間(859~877)に改名があったことを意味すると見られる。
 主祭神の事代主神は、記の大国主命の国譲りの場面に登場する。
 大国主命は国の明け渡しを求められ、「私目が申し上げることはできません。我が子、八重言代主(やへことしろぬし)の神が申し上げるでしょう。」 と答えている(第78回【八重事代主神】【鴨都波神社・高鴨神社】)。
 鴨都波神社周辺には鴨都波遺跡があり、高床建物の柱列、柵列、木器、土器、石器が出土し、弥生時代中期の拠点集落である。 また、鴨都波一号墳は、弥生時代式の方形周溝墓に前方後円墳の埋葬様式という独特のものである(第105回)。 さらに、掖上博多山上陵(孝昭天皇陵)がごく近くにある。
《鴨都波地域の諸族》
 このように鴨君は、鴨都波地域の弥生時代の古族に由来すると考えられている。 同時にこの地は、武内宿祢系の諸族の本願であり、孝昭・孝安両朝の所在地でもある。 鴨君、孝昭・孝安両朝、武内宿祢の諸族は、事実上一体であったと思われる。
 ところが、ここに2つの謎がある。 一つは鴨君の祭神、阿治須岐高日子根命・事代主神が、出雲神話(出雲国風土記、記・国譲りの段)に出てくること。 もう一つは鴨君と三輪君が、共通の祖とされていることである。このようになった経過を調べてみた。
《姓氏家系大辞典》
 姓氏家系大辞典の「三輪氏」の項から抜粋する。
――「三輪族は大和平原の東部を占めて、三輪社を擁し、鴨族は此の平原の西部を領して、鴨神を奉斎せしにて、両者はこれを同一と見るは能はざれば也。〔=同一と見ることはできない〕
――(大田田根子は三輪君の)「中興の祖にして、その後姻戚関係により、此の命の子孫・鴨氏をぎ、子孫二流となりて大いに栄ゆ。
――「書紀が加茂君、大三輪君を共に大三輪神の後とするは、大田田根子以後のことと云ふなり。
――「此の崇神朝以後の事実を以って、太古に及ぼし、両氏ともに大物主の神裔と云ひ、更に事代主命の後と誤るに至る。
 つまり、三輪族・鴨族はもともとは全くの別族であったが、崇神朝以後に婚姻関係で結びついた。記紀では時代を逆行させ、「太古から同族」であったかのように話を仕立てたとするのが、同辞典の見解である。
《出雲系氏族との関係》
 鴨君の勢力は、もともと葛上郡にいた。 そこに、出雲勢力の一部が畿内に移入して鴨族と合流した。
 本稿では大国主勢力は出雲戦線で、鴨族は葛城戦線で天孫族と戦っていたが、両族とも天孫族に服属した。 その後出雲勢力の一部が三輪山に遷ったとき、互いの歴史の類似から親近感から連合し、それに伴い神話が融合して記に収録されたと推測した(第78回)。
 天孫族が鴨族を、いつどのように制圧したのかを推定するのは難しいが、鴨都波一号墳に独自の墓制があり(第105回)、 孝安天皇に「くにおしひと」の名がある(第106回)ことから、古墳時代最初期(3世紀後半)にこの地域が征圧されたのではないかと考えられる。
 〔ただし、その後の検討により、征圧の主体は三輪族・天孫族連合体の可能性がでてきた。―まとめ参照〕
 鴨君の神のうち、阿治須岐高日子根命は出雲国風土記で立ち入って言及されるのに対し、事代主神は記で出雲から「遠隔地にいる」とされる。 すると、もともとの鴨族は事代主神を斎し、出雲の移民は阿治須岐高日子根命を連れてきたと思われる。
 その後の神族との連合は、次の項で整理して述べる。

【出雲族の畿内への進出】
 出雲族はまた、大国主の幸魂・奇魂と共に三輪山麓にも到来したと見られる。ここでは鴨君との連合も併せて、順序を整理してみる。
 鴨族は、もともと鴨都波神社の地域に集落を作っていた。その神は、後にいう事代主神である。
 出雲の移民は最初に高鴨神社の地域に到来し、鴨族と融合した。出雲からやってきたのは阿治須岐高日子根命で、融合して成立した鴨君の神として共有された。
 さらに出雲の移民の一部は三輪山麓に移り、三輪族と融合した。ここで大国主の幸魂・奇魂は御諸山の神と習合して大物主神となり、大神君によって祀られる。
 ともに出雲の移民を受け入れて形成された鴨君と大神君は、親戚関係と結び、祖を共有するに至った。
 このような筋書きを想定することができる。
 は紀伊国にも近いので、出雲移民の一部は伊太祁曽三神と共に、このルートを通って紀伊国に到来した。
 さて、出雲からの移民のルートであるが、「魏志倭人伝をそのまま読む」において、 魏国の使者は出雲国から沿岸沿いに「水行十日」で青谷上寺地遺跡の辺りに達し、 そこから智頭街道を通って「陸行一月」で畿内に達したと想定した(魏志倭人伝をそのまま読む第24回)。 3世紀頃は、これが出雲と畿内を繋ぐ主要な交通路で、人や物が活発に移動したと想像される。 この古街道から河内国を経て葛上郡に入り、一部は宇智郡から紀ノ川沿いに下って紀伊国名草郡に達したのではないだろうか。
 さらに、天孫族が畿内に達する前から、この経路で出雲族が行き来していたとすれば、 山陽側を東征してきた天孫族とは、茅渟に上陸したところで経路が交差するので、激戦の地となる。 これが神武天皇即位前紀に反映したのかも知れない。 そして、出雲と天孫族が和解した後は、友好的な移民となる。

【「みわ」が最高神だった時代】
 みわに「」の字が宛てられていることは、注目に値する。 言うまでもなく、「神」の基本的な訓は「かみ」である。
 〈姓氏家系大辞典〉によれば、「みわ」の表記は初期には「神」「三輪」が混在したが、後に「神」に統一されていったという。 また〈時代別上代〉は「三輪の地の大物主神の神威が大きく、神といえば三輪の神が思い起こされるようになったので、ミワに神があてられるようになったのであろうか。」とする。 恐らく、前期古墳の時代(300年前後)は、「みわ」は「神」そのものだったのであろう。
 そして崇神段は、みわが最高神であった事実を認めている。 それは崇神紀にも引き継がれ、さらに天照大神に言及した結果、大物主・天照の上下関係に逆転を生じたことに、前回触れた。
 書紀が三輪神を大国主神と同一神とした理由は、ここにもあったかも知れない。 天照大神を上回る威を放ち得る神は、国つ神の最高位たる大国主神以外には考えられないからである。
 第69回【大物主とは何者か】で論じたように、記の段階では三輪神は大国主とは別神で、海の彼方から訪れた渡来神であった。 御諸山の神を大国主に一体化させるために、大国主に向って渡来神が「私はお前の幸魂・奇魂だ」と告げる場面を挿入した。この処理は苦しいものであるから、神学における形而上的な同一化かと思われた。 しかし前項のように、実際に出雲族の移民があった思われるので、彼らが持ち込んだ神が御諸山の神と習合したのは事実だと思われる。
 さて、みわを最高神とする時代があったことは、民族の記憶に深く刻み込まれていた。だから、もしそれを古事記が否定するなら、古事記そのものが受け入れられなかったであろう。 民族の記憶が400年以上保持され得ることは、神武天皇即位前紀の激戦に描かれた、河内湾の古い地形のところで指摘した(第96回【旧河内湾】)。
 このように崇神段に民族の記憶が正当に反映されたとするなら、そこからもう一つ演繹されるのは、崇神天皇の実在である。 よって、当時の大王(おおきみ)の統治下で、御諸山への信仰を基盤にした国が存在したとする骨格は、事実と見られる。 ただし、その個々の事跡については全くのフィクションか、大きくデフォルメされたものであることは、言うまでもない。

〔書記〕倭迹々日百襲姫】
 活玉依毘売の伝説は、書紀では倭迹々日百襲姫の死に変形される。いつも夜来て朝までに帰ったしまうから、その正体を知りたいと思うところまでは同じだが、 その後の展開は大きく変わっている。
分明…〈汉典〉 〔語釈〕清楚(明白)状。〔文例〕此七月望日之事也、汝在九原、当分明紀之。―清・袁枚《祭妹文》
〔この7月15日の事、汝九原にあり、分明(=明白)にこれ紀(しる)さるべし。〕

…(古訓)やうやく。しはらく。
あくるあした(明旦)…(万)3769 欲流見之君乎 安久流安之多 安波受麻尓之弖 よるみしきみを あくるあした あはずまにして。
…[動] まみえる。(古訓)まみゆ。みる。
灼然…〈汉典〉明白、清楚。
くしげ(匣)…くしを入れる箱。化粧品を入れる、蓋のついた箱。
是後、倭迹々日百襲姬命、爲大物主神之妻。
然其神常晝不見而夜來矣、倭迹々姬命語夫曰
「君常晝不見者、分明不得視其尊顏。
願暫留之、明旦仰欲覲美麗之威儀。」
大神對曰「言理灼然。吾明旦入汝櫛笥而居。願無驚吾形。」

是後(こののち)、倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、大物主神(おほものぬしのかみ)之妻(つま)と為(な)りぬ。
然(しかれども)其の神常(つねに)昼に不見(みえず)して[而]夜に来(き)[矣]、倭迹々姫命夫(つま)に語(かた)り曰(まをさく)
「君(きみ)常に昼に不見(みえざる)者(は)、分明(あきらけく)其の尊(たふとき)顏(かほ)を不得視(えみず)。
願(ねがはくは)暫(やくやく)之(ここ)に留(とどま)りて、明旦(あくるあした)仰(あふ)ぎて美麗之(うるはしき)威儀(すがた)に覲(まみゆ)を欲り。」とまをしき。
大神(おほみかみ)対(こた)へ曰(のたまはく)「言(こと)の理(ことはり)灼然(あきらかなり)。吾(われ)明旦(あくるあした)汝(なが)櫛笥(くしげ)に入(い)りて[而]居(をらむ、まさむ)。願はくは吾が形(すがた)に驚くこと無かれ。」とのたまひき。

…訓に「う」(ワ上二、連用形ゐ)、「をり」(ラ変)がある。大御神であるから自敬表現「ます」も可能か。
小蛇…「おろち」ではなく、普通のサイズの蛇であることを示すために「小」がついていると見られる。
長大…「小蛇」が「長大」では、奇異である。ここでは「ながさ」と訓むと思われる。
したびも…[名] 下裳などに付けてあるひも。(万)2973 言下紐之 所解日有米也 わがしたびもの とくるひあらめや
〈私記丙本〉衣紐【之太比毛したひも
…(古訓)ここに。
こと(殊、異、別)…[名] ことなっていること。「心裏密異」の文脈では「あやしぶ」と意訳することが可能である。
さけぶ…[自]バ四 (万)1740 立走 叨袖振 たちばしり さけびそでふり
〔浦島の子が、玉手箱の煙が上がったときの反応〕
…(古訓)ふむ。
大虚…おおぞら。
…(万)0410 後雖悔 のちにくゆとも0219 今叙悔 いまぞくやしき
つきう(急居)…[自]ワ上二 急にすわる。しりもちをつく。
爰倭迹々姬命、心裏密異之、待明以見櫛笥、
遂有美麗小蛇有、其長大如衣紐、則驚之叫啼時
大神有恥、忽化人形、謂其妻曰
「汝不忍令羞吾。吾還令羞汝。」
仍踐大虛、登于御諸山。
爰倭迹々姬命、仰見而悔之急居【急居、此云菟岐于】。則箸撞陰而薨。

爰(ここに)倭迹々姫命、心裏(うらに)密(ひそかに)之(こ)を異(あやしび、こととし)、明くるを待ち以ちて櫛笥を見ば、
遂(つひ)に美麗(うるはしき)小蛇(をへみ、へみ)有り、其の長大(ながさ)衣紐(したびも)の如し、則(すなはち)驚[之](おどろき)叫啼(さけび)し時、
大神(おほみかみ)有恥(はぢたり)、忽(たちまちに)人の形(すがた)に化(な)り、其の妻に謂(の)らく[曰]、
「汝(なれ)吾(あれ)を令羞(はづかしむる)を不忍(しのばず)。吾汝を還(かへり)令羞(はづかしめ)む。」とのり、
仍(すなは)ち大虚(おほぞら)を践(ふ)み、[于]御諸山(みもろやま)に登りぬ。
爰(ここに)倭迹々姫命、仰(あふぎ)見て[而][之を]悔い急居(つきう)【急居、此菟岐于(つきう)と云ふ。】。則(すなは)ち箸陰(ほと)を撞(つ)きて[而]薨(こうす、しす)。


たごし(手逓伝)…[名] 手から手に伝えて運ぶこと。
…(古訓)くひす。つく。
くびすくひひす…[名] かかと。倭名類聚抄{踵 【和名久比須くひす俗云岐比須きひす
かつ(勝つ)…[補動]タ下二 連用形に接続し、~できるの意を表す。
乃葬於大市。
故時人號其墓謂箸墓也。是墓者、日也人作、夜也神作。
故運大坂山石而造、則自山至于墓、人民相踵、以手遞傳而運焉。
時人歌之曰、
飫朋佐介珥 菟藝廼煩例屢 伊辭務邏塢 多誤辭珥固佐縻 固辭介氐務介茂

乃(すなは)ち[於]大市(おほいち)に葬(はぶ)る。
故(かれ)時の人其の墓を号(なづ)け箸墓と謂ふ[也]。是の墓者(は)、日(ひる)は[也]人作り、夜(よる)は[也]神作る。
故(かれ)大坂の山の石を運びて[而]造り、則(すなはち)山自(ゆ)[于]墓に至り、人民(ひとあをくさ)相(あひ)踵(つ)き、以手逓伝(たごし)を以ちて[而]運(はこ)ぶ[焉]。
時の人歌(うたよみし)[之]曰(うたはく)、
おほさかに つぎのぼれる いしむらを たごしにこさば こしかてむかも

〔 迹々日百襲姫命は大物主神の妻となりましたが、その神は昼に姿を見せなかったので、夫に言いました。
「あなたは昼にいないので、ご尊顔がはっきり見えませんわ。 できることなら、しばらくここに留まり、麗しいお姿を見せていただけませんか。」
大御神の答えは、
「それは尤もなことです。それでは明朝、櫛笥の中に入って置きましょう。私の姿を見て驚かないようにね。」
 姫は、密かに不審なものを感じつつ、夜が明けるのを待ち、櫛笥を見ると、 美しい蛇があり、それは袴の紐ほどの長さで、驚いて叫んだので、 大御神は恥をかかされ、たちまち人の姿となり、妻に告げました。
「お前は私を辱めたから、逆に私がお前を辱めてやる」
と言い、大空を飛ぶようにして、御諸山を上りました。
 迹々日百襲姫命はそれを仰ぎ見て尻餅をついた拍子に、箸が陰部を突いて死にました。
 そのようにして、大市に葬られました。時の人はその墓を箸墓と名付けました。 その墓は昼は人が作り、夜は神が作りました。 人々は手渡しで石を運んだので、このように歌いました。〕
大坂に 継ぎ登れる 石群を 手逓伝に越さば 越しかてむかも
《大意》
 大坂の山の登山道には、次々と石が続く。その石を継ぎながら登っていく。 そして、採取した石を手逓伝に(並んだ人づてに)運べば、越すことができるだろう。
《私記丙本》
 私記丙本は「介氐務」が抜けている。次に丙本の原文を示す(フリガナも原文)。
朋佐介珥菟藝カニツキ辞務邏塢シムラヲ誤辞珥固佐縻コシニコサハ辞介茂シカモ
 「廼」を「価」に似た珍しい字に置き換え、「か」と訓んでいる。
 「介氐務」がないのは、異本が存在したか、誤写か、あるいは意図的に取り除いたのかは判らない。 「かつ」の未然形+「む」という言い方は、平安時代には違和感があったのかも知れない。
《「こしかてむ」の文法》
 こしかてむ="越す"の連用形+"かつ"の未然形+推量の助動詞""。「かつ」は否定語を伴って不可能の意味に使うことが多いが、 ここでは「困難だが、なんとかやり遂げられるだろう」という意味。
 しかし、「かて」の後が否定語でないと極めて不自然だとすれば、「か」を係助詞とする別解があり得る。
 こしかてむ="越す"の連用形+疑問・反語の係助詞""+完了の助動詞""の未然形+推量の助動詞""。 が疑問詞を伴わないときは「〈時代別上代〉連用文節に接してそれを疑問点として指示する」とある。問題はこし-つが文節に分けられるかどうかであるが、 〈古典基礎語辞典〉によれば、は「棄(う)つ」から転じたものなので、「連用形+動詞」に準じて文節を分け、を挿入することもあるのではないかと思われる。意味は「やり遂げられようか」(疑問または反語)。

【倭迹々日百襲姫は卑弥呼か】
 神の言葉を仲介役としての、倭迹々日百襲姫と崇神天皇の関係には、 魏志倭人伝の 「一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國〔卑弥呼、鬼道に仕え衆をよく惑はし、……男弟が有り、国を佐治(=統治を補佐)す。〕 が反映しているとする説がある。
 ところが倭人伝では、諸王によって共立された女王が倭国を一定期間統治したが、子はなく、まず男子王、次に宗女(親戚の子)壱与が継いだとしている。これでは、天皇の系列のどこにも当てはまらない。 このように倭人伝の内容は記紀の基本を崩しかねず、そんな危うさに繋がることを、わざわざ書紀に書き加えるものだろうかという疑問を、前回提示した。
 実は書紀の執筆者は、既に魏志倭人伝の内容に精通していた。 それは、神功皇后紀の原注に、魏志倭人伝の引用があることから判る。
 書紀の著者には中国人が加わっていたという説もあるくらいで、書紀を倭人伝に関連付ける動機があったと思われる。 崇神段には没年の太歳が戊寅年と書かれる。第43回で 検討したように、もともとこの年は318年であった。これは卑弥呼の没年(正始8年=247年以後)の約70年後である。
 ももその名は百歳からきているのかも知れない。「年已長大(年すでに長大なり)」と書かれる。 「ももそ」は「おそ」が百から連なったと考えることができ、「遅姫」(高齢となった姫)の意味かも知れない。
 また、箸墓古墳の後円部の直径は155mある。倭人伝では、卑弥呼の墓は「大作冢径百餘歩」漢代の長さの単位は1尺=23.0303cm。1歩=6尺だから、100歩=138.5mに相当 (魏志倭人伝をそのまま読む第83回)。「百余歩」だからプラス数mか。よって、大きさは類似している。
 箸墓を取り上げているのは、これが卑弥呼の墓の候補であるとする認識があったからとも思われる。
 さらに、前回「神明」に天照大神の意味があることに触れた。卑弥呼は魏の鏡百枚を所望し、黒塚古墳には大量に三角縁神獣鏡が副葬されている。 「鬼道」とは太陽神を中心とした宗教で、卑弥呼の死後は自身が太陽神と一体化した可能性がある。その意味で天照大神と卑弥呼は繋がっている。
 以上、神の言葉を天皇に伝えた姫が存在した。崇神天皇の没年が卑弥呼の時代に近い。「ももそ姫」に「年齢100歳」の意味が込められたかも知れない。 卑弥呼の墓に大きさが近い箸墓古墳を取り上げ、この地の「紐を三輪残す」神話を変形させて繋げた。太陽神と卑弥呼に密接な関係がある。 を見た。前述のように「倭迹々日百襲姫と崇神天皇に、卑弥呼と弟の関係が伺われる」ことは広く指摘されているが、 実は、書紀の執筆者は、倭迹々日百襲姫に卑弥呼を意識的に投影させたのであろう。
 これは、卑弥呼を書紀に結びつける試みの一つであった。 卑弥呼を投影したと見られる登場人物には、他にも神功皇后がある(第43回)。こちらは実際の統治者であり三韓から朝貢も受けており、人物像は卑弥呼に近い。 恐らく、複数の著者が書紀の執筆に関わり、それぞれの箇所で結びつけようとしたのであろう。 著者が、中国人、日本人の何れだったとしても三国志など中国の歴史書に造詣が深く、何らかの形で関連付けようとしたのである。 ただ、倭の古代女王の実在まで踏み込むと、天皇による継承と相いれない。
 それを封じるために、陰(ほと)に箸を刺して死ぬという表現によって生殖を否定し、大王の血統へは繋げなかった。 これは、天照大神の例と併せて第48回まとめで論じた。 対照的に神功皇后の場合は中哀天皇の皇后になって子に血を繋ぎ、天皇の日嗣の一つのピースとなる。しかし、この場合は倭人伝の「無夫婿」は無視される。 百襲姫・神功皇后のどちらを卑弥呼に当てはめるのが適切かという議論が著者間にあったかも知れないが、何れも直接のモデルではなく、類似性を匂わせた程度だから両方ともそのままにされたのだろう。
《名前に秘められた意味》
 「やまと」は地名。 「とひ」は記にはなく、書紀だけに挿入された部分。「飛び」とする解説が多いのだが「問ひ」かも知れない。シャーマンとして神の意思を問うたか。 「もも」は(も)または(甲乙不明)。「」は。あるいは「おそ」()かも知れない。
 想像を逞しくすれば、女王共立に絡めて、倭と問ひ(倭の地に来て王になってくれないかと問い)、百-遅(長生きした)姫。 これでは余りにも都合よすぎる感があるが、が3つも並ぶから、少なくとも2つ目の「と」が助詞である可能性は高い。

【記紀に投影する卑弥呼の影】
 結局、卑弥呼を連想させる書紀の記述は、恣意的に付け加えたものである。それでは、本当の意味で記が卑弥呼を反映した箇所はあるのだろうか。
 箸墓は、大きい方から11番目の巨大前方後円墳で、堂々たる大王クラスである。倭迹々日百襲姫が尻餅をついたときに箸が突き刺さって云々という話は、「はしはか」の名への後付なのは確実である。 ただ、「はし」はもともと「愛し」かも知れず、また書紀が倭迹々日百襲姫の墓としたのは、住民の間で太古から女性の墓だと言い伝えられて来たからだろう。 そして崇神朝がその地にあったと書かれること自体が、初期大和政権を女王が統治していたことを暗示する。
 また、第107回で触れたように、吉備の楯築墳丘墓から箸墓古墳などの初期古墳への連続性がある。 また倭迹々日百襲姫、記では夜麻登登母母曽毘売命(やまととももそびめのみこと)が、吉備系と見られる。 そして吉備国出身のカリスマ、倭迹々日百襲姫を招き、統一政権の女王として共立したという筋書きが想定される述べた。
 よって卑弥呼の影を見るとすれば、吉備からやって来た女王がこの地で大王クラスの陵墓に葬られたと見えること自体にである。

【御諸山の神と天孫族、そして出雲勢力】
 開始期の大和政権は三輪山の神と密接な関係があるが、姓氏録では大三輪氏を神別とするなど地祇と位置付け、天孫族とはあくまでも一線を画している。
 三輪山麓には、縄文時代から既に纏向政権に育つ萌芽があったかも知れない。そこから一直線に国が形成されてきたのであれば、話は簡単である。 しかし、経過は単純ではない。大物主神は、これほど初期王朝に絡んでいるのに、頑なに国津神のままとされる。 それに重ねて、出雲から大物主の魂が飛んできたり、天孫族が東征してきたりした。
 そして「あまつかみ」と「くにつかみ」の二分法は、強固である。 いわば、纏向政権の神は一元的ではなく異種の最高神が共存している。その根源にある事情を考えてみよう。
 まず、複数の大御神が集まってくるときには、のような法則が成り立つと考えられる。
 民族が移民すれば、その神が共にやってくる。
 氏族が融合するときは、それぞれが持ち寄った神が共有される。
 官製神話であっても、民族の記憶(民衆に浸透した伝承)の主要部分は否定されない。
 の例として、饒速日命は天磐船に乗って(書紀)、大物主神は天羽車大鷲に乗って(大神神社社殿)空から降りてくる。 このように人間は地上を歩いてやって来るが、神は空を飛び新しい地で降りる。とすれば、天孫降臨も天孫族が渡来民であることを物語るであろう。
 は、前項で、鴨族と出雲族・大三輪族との融合にその典型例を見た。
 により、崇神天皇が天孫であるにも拘わらず、その時代には大物主を最高神とした事実を正直に書く。
 つまりは、三輪山西から纏向一帯(以後、「やまと地域」)には次々と西方から氏族がやってきて王朝が交代した。 しかし、先住族は決して根絶やしにはされず、政権を支える豪族として存続する。だから、それぞれの神が神話に残るのである。
 もっぱら西方から諸族がやって来たのは、しばしば百越、あるいは南洋から九州に上陸して東方に移動し、畿内に溜まったのであろう。 春秋時代人・前漢時代人と弥生人は、DNAが酷似したという調査結果もある(魏志倭人伝をそのまま読む第32回)。 「甑島(=越来島)」「奄美(=アマ見)」などの地名は、その名残ではないかと思われる。
 また、弥生時代後期から古墳時代前期の纏向の地には、九州から関東、そして日本海側から土器が流入し、 その内訳は伊勢・東海49%、北陸・山陰17%、河内10%などとなっている(同上―第61回)。 このように、3世紀、やまと地域は全国から物そして人が集中する、いわば首都であった。そして時に有力集団が来て戦いとなり、王朝が交代したわけである。
 それでも先住族が滅ぼされなかったのは、農業生産力が高い豊かな土地で、全国から大量の物資が流入する交通の要衝だったからであろう。それが複数氏族の共存を可能にしたわけである。
《天孫族と崇神天皇》
 天孫族は、西方からやまと地域にやって来た。そのルーツはこれまで見て来たように、阿蘇地方の先住族とメラネシアからの渡来族が融合した一族と考えられる。 なおメラネシア系の一部は南九州に残留し、隼人となる。天孫族は、崇神天皇の頃には大三輪族と融合していたと見るのが自然である。
 一方、崇神天皇はこれまでの検討により、出雲氏または鴨氏に属すと見るのが自然で、事実上地祇系である。 さらには天孫族・出雲族・鴨族・吉備族に共立されて初代大王になった可能性まであり、そうなれば、本当は崇神天皇が卑弥呼であったことになる。 ただし、女王の墓は箸墓古墳とされるので、山辺道勾之岡上陵が浮いてしまうという問題がある。 これは、やまと地域で古墳時代初期を起点とする民衆の伝承が、飛鳥時代の陵の比定にどの程度反映したかという評価の問題になり、なかなか判断が難しい。
 あるいは、天孫族はこの時期には三輪族と融合していたとは言え、まだ三輪族の目下であって、大王を三輪族が出すことを承認したこともあり得る。
 あるいは、第109回で示した系図操作法を適用すれば、母方の祖が真実の祖だから、 記では穂積臣の祖、書紀では物部氏遠祖の大綜麻杵おほへそき命である。何れも饒速日にぎはやひ命が祖である。 纏向政権は次々に到来した諸族の連合政権だから、これもあってよい。
 初期の天皇は時々の王朝の大王であり、実際には王朝の交代により血縁関係はしばしば断絶したと考えられる。 その後飛鳥時代になると、もう天孫族による支配が確立していた。その正統性を保証する根拠として、天津神からの日嗣が連綿として繋がっていることが、絶対的に必要である。 そのため、天照大御神―日向三代―神武天皇―欠史八代―崇神天皇―…―今上天皇という形而上の系図を設定したのである。
 その結果、天孫族を正当に継承しているはずの崇神天皇が、地祇を最高神として信奉するという捻れを生じたのであった。

まとめ
 本稿では、大国主と大物主の同一性については当初は懐疑的であったが、実際に出雲から畿内への移民があったとすれば、大国主の幸魂・奇魂が飛んできたこともあり得る。 もちろん、移民元は山陰・日本海に限らないだろうが、こと出雲系氏族については、纏向政権を支える有力な勢力になったと思われる。
 出雲・畿内の交流路は、神武東征の上陸地点と交差する。茅渟海から上陸しようとした神武天皇に立ちはだかった勢力の中心は、書紀によれば饒速日命であった。 しかし、これまでに饒速日命と大物主神に類似性を見出だしている(第96回まとめ)。 その類似性は、大神神社社伝に描かれた到来の描き方によって強まった。 記紀では崇神天皇の母方の祖は饒速日命であり、これが大物主と重なるのなら、崇神天皇の真の祖先は大物主系ということになる。 すると、天津神勢力と地祇系勢力(出雲系・葛城系連合)との決戦場は茅渟で、和解して成立した政権の大王は、まず地祇系から立てられたという、すっきりした筋書きになる。
 とすれば、天孫族が完全に主導権を握るのは、もう少し後ということになる。 神話では、天照大御神が大国主命に国譲りさせたのは神代であるが、現実の力関係としては、古墳時代前半までかけて緩やかに権力の移行が行われた可能性がある。  ただし、出雲本国を含め、統合そのものは3世紀に実現している。 「3世紀に入るころから、福岡周辺では西日本各地の土器が見られるように」なったという(魏志倭人伝をそのまま読む第61回)。 統合後、年月は要したが最終的に天孫族が支配権を握った。それが神代における大国主の国譲り神話として表現されたと読むこともできる。
 しかし、「高御産巣日神・天照大御神が何度も地上の制圧を試みた」話のもとになった事実は、2世紀以前と見られるので、日本海王国への侵攻自体は東征の間から繰り返していたのだろう。 このように考えて来ると、天鳥船神・建御雷神が伊那佐の浜で、大国主神と談判した神話(第78回)の成立時期が知りたいところである。 この神話が作られた時期に、天孫族の主導権が確立したことになる。
 さて、崇神天皇=卑弥呼の男弟説は、書紀の著者が匂わせたものだと思われるので、特に取り合うべきものでもないだろう。 卑弥呼による統治は、実質的に崇神天皇自身に投影されていると見るのが合理的である。ただし、前述したように、陵がひとつ浮いてしまうという問題がある。
 また、吉備族出身のカリスマ・卑弥呼が纏向に移動したとしても、広い意味で地祇勢力に含められるものである。


2015.11.28(sat) [113] 中つ巻(崇神天皇4) 

又此之御世 大毘古命者遣高志道 其子建沼河別命者遣東方十二道而
令和平其麻都漏波奴【自麻下五字以音】人等。
又日子坐王者遣旦波國 令殺玖賀耳之御笠【此人名者也玖賀二字以音】
故大毘古命罷往於高志國之時 服腰裳少女立山代之幣羅坂而歌曰

又、此之(この)御世(みよ) 大毘古命(おほびこのみこと)を者(ば)高志道(こしのみち)に遣はし、其の子建沼河別命(たけぬなかはわけのみこと)を者(ば)東(ひむがし)の方(かた)十二道(とつあまりふたつのみち)に遣はして[而]
其の麻都漏波奴(まつろはぬ)【麻自(よ)り下(しも)つかた五字(いつじ)音(こゑ)を以ちてす。】人(ひと)等(ら)を和平(やは)さ令(し)む。
又、日子坐王(ひこいますのみこ)を者(ば)旦波国(たにはのくに)に遣はし、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)【此(これ)人の名(なれ)者(ば)[也]。玖賀の二字(ふたじ)音を以ちてす。】殺さ令む。
故(かれ)、大毘古命[於]高志国(こしのくに)に罷(まかり)往(ゆき)し[之]時、腰裳(こしも)を服(き)たる少女(をとめ)山代(やましろのくに)之(の)幣羅(へら)の坂に立ちて[而]歌(うたよみ)し曰(うたはく)、


美麻紀伊理毘古波夜 美麻紀伊理毘古波夜 意能賀袁袁 奴須美斯勢牟登 斯理都斗用 伊由岐多賀比 麻幣都斗用 伊由岐多賀比 宇迦迦波久 斯良爾登 美麻紀伊理毘古波夜

みまきいりひこはや みまきいりひこはや おのがをを ぬすみしせむと しりつとよ いゆきたがひ まへつとよ いゆきたがひ うかかはく しらねと みまきいりひこはや


於是大毘古命思恠 返馬問其少女曰汝所謂之言何言
爾少女答曰 吾勿言唯爲詠歌耳 卽不見其所如而忽失
故大毘古命更還參上 請於天皇時
天皇答詔之 此者爲在山代國我之庶兄建波邇安王 起邪心之表耳【波邇二字以音】伯父興軍宜行

於是(ここに)大毘古命思恠(あやしび)、馬を返し其の少女(をとめ)に問はく[曰]汝(なが)謂(いはむとせし)[之][所の]言(こと)何をか言(まをす)。」ととひき。
爾(かれ)、少女答(こたふらく)[曰]「吾(あれ)勿言(いふことなく)唯(ただ)詠歌(うたよみ)為(す)耳(のみ)」とこたへ、即ち其所(そのところ)不見(みえざる)如(ごとくして)[而]忽(たちまちに)失せぬ。
故(かれ)、大毘古命更(さら)に還(かへり)参上(まゐのぼり)、[於]天皇(すめらみこと)に請(こひ)まをしし時、
天皇答(こたへ)詔(みことのり)したまはく[之]「此者(こは)、為(おもへらく)山代(やましろ)の国に在る我之(わが)庶兄(ままあに)建波邇安王(たてはにやすのみこ)の邪(よこさま)なる心を起こしし[之]表(あらはれ)耳(のみ)。【波邇の二字、音を以ちてす。】伯父(をぢ)や、軍(いくさ)を興(おこ)し宜(よろしく)行(いゆきたまへ)。」とのりたまふ。


 またこの御世に、大毘古命(おおびこのみこと)を越の道に派遣し、その子建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)を東方十二道に派遣し、 帰順しない者たちを平定させました。
 また、日子坐王(ひこいますのみこ)を丹波の国に派遣し、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺させました。
 さて、大毘古命がそこを辞し越の国に出かけたとき、腰裳(こしも)を着た少女が山城の国のへら坂に立っており、この歌を詠みました。
 御真木入日子はや 御真木入日子はや 己がを 窃み死せむと しりつ戸よ い行き違ひ まへつ戸よ い行き違ひ うかかはく 知らにと 御真木入日子はや
《大意》
 御真木入日子よ、御真木入日子よ、己が命を盗んで死なせようと、後ろの戸、前の戸を行き違い〔たまたま出会えずにいるが〕、窺ってるぞ、知ってるか、御真木入日子よ。

 これを大毘古命は怪しみ、馬をとって返し、その少女に「お前の言葉は、何を言おうとしているのか。」と問いました。
 これに少女は、「私は言葉では申さず、ただ歌詠みするだけです。」と答え、間もなくその場所に見えないと思ったら、忽然と姿を消していました。
 そこで大毘古命は更に帰り参上し、天皇にこのことをお伝えし、その意味をお尋ねした時、 天皇はそれに答え、このように詔(みことのり)されました。
「これは、山城の国に滞在する私の庶兄、建波邇安王(たてはにやすのみこ)が邪心を起こしたことを表すとしか思えません。伯父上、軍を興し宜くお出かけください。」と。


やはす(和す、平す)…[他]サ四 討ち平らげる。
まつろふ(帰順ふ)…[自]ハ四 服従する。
まかる(退る、罷る)…[自]ラ四 退出する。
…(古訓)よそふ。きる。つく。
こしも(腰裳)…[名] 腰にまとう裳。〈時代別上代〉具体的にどのようなものであったかは不明。 
(緒)…[名] ①緒。②「~のを」は比喩的に長く継ぐもの。③ ②から命。
伯父…[名] 倭名類聚抄{伯父 釈名云父之兄曰世父曰伯父曰世睿【和名乎知】〔釈名に云はく父の兄、曰く世父、曰く伯父、曰く世睿、和名をぢ〕
うかかふ…[自]ハ四 ひそかにのぞきみる。
しらにと…「に」は「ず」の連用形。知る・勝つ(下二)・飽くだけにつく特殊用法(それぞれ知らに・勝てに・飽かに)。
庶兄…(古訓) ままあに。
…[名] (古訓)よこさま。よこしま。

【「此者為在山代国我之庶兄建波邇安王起邪心之表耳」の文法】
 この文は複雑だが、骨格は「此者為+〈目的語〉+のみ」。「(は)」は主題を示す係助詞。「(のみ)」は限定・強調。 漢籍の「」は文末専用の助詞で、「~に他ならぬ。」の意味。漢文訓読が確立する前の時代、万葉集では「のみ」に「耳」を宛てるが、ほとんどは文中の「のみ」として利用している。
 少数の文末用法でも、例えば
(万)2382打日刺 宮道人 雖滿行 吾念公 正一人 うちひさす みやぢをひとは みちゆけど あがもふきみは ただひとりのみ。
のように、文章全体ではなく体言を受けている。
 「起邪心之表耳」も「」によって、「[所]起邪心」は「」を連体修飾する関係だから、「」は動詞〔あらはす〕ではなく、体言〔あらはれ〕である。 従って、「邪心を起こしたる表れのみ。」と訓む。邪心を起こしたのは「我之庶兄建波邇安王」で、従属節中の主語だから、助詞「」をつける。 「」は文全体の動詞である。これを「なす」と訓んで「こは~のみをなす」でもよいが、いかにも語調が堅く、古事記の趣に欠ける。
 ここは、「おもへらく」が自然である。「おもへり」(おもふ+完了の助動詞"")は万葉集に多数あり、未然・連用・終止・連体・已然形がそろっている。 漢文で「おもへらく」と訓読されるのは「以為」であるが、「」単独でもあり得る。 〈漢字海〉には「おもう」が語釈の一つとして明示され、文例に「たれ汝多知乎〔誰が、あなたが知識の多い者だと思うか〕を付す。 古訓には「心サシ〔=志〕」がある。以上から訓読は、
 此者こはおもへラク山代国我之庶兄・建波邇安王コシシ邪心之表のみ 〔これ(=少女の歌)は、思うに山城国に在る私の庶兄・建波邇安王が邪心を起こしたことを表すのみである。〕

【大毘古命・日子坐王】
 大毘古命…孝元天皇(8代)の皇子。その子は建沼河別命(阿部臣等の祖)(第108回)。
 日子坐王…開化天皇(9代)の皇子(第109回)。書紀では、その子・丹波道主に代わっている。

【玖賀耳之御笠】
 『丹後風土記残欠』(丹後国風土記の逸文)に陸耳御笠の記載がある。
郡合伍所/伽佐郡 本字笠〔郡(こほり)合はせ伍所/伽佐郡(かさのこほり)、もとの字は笠〕
 伽佐郡・甲岩(かぶといわ)の項に、日子坐王が陸耳御笠を征伐した記事がある。
当于御間城入彦五十瓊殖天皇御代、当国青葉山中有土蜘曰陸耳御笠者而其状賊人民。
故日子坐王奉詔来而伐之。則到丹後国与若狭国之境、鳴動以顕光耀忽然有厳石。
形貌甚似金甲因名之将軍之甲岩也。亦其地号鳴生矣。
※1
〔当(まさに)御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにゑ)の天皇(すめらみこと)の御代(みよ)に、当国(このくに)の青葉山(あをばやま)の中(なか)に土蜘(つちくも)、陸耳御笠(くがみみのみかさ)と曰ふ者有りて、其の状(わざ)人民(おほみたから)を賊(そこな)ふ。 故(かれ)、日子坐王(ひこいますのみこ)詔(みことのり)を奉(うけたまは)り来たりて之を伐ちき。則(すなは)ち丹後(たにはのみちのしり)の国と若狭(わかさ)の国の境(さかひ)に到り、鳴動(とよ)み以(もちて)光耀(ひかり)を顕(あらは)し忽然(たちまち)厳石(いつくしきいは)有り。 形貌(かたち)甚(はなはだ)金甲(かなかぶと※2)に似、因りて之(こ)を将軍之甲岩(いくさのかみのかぶとのいは)と名づく。また其の地(ところ)を鳴生(なりふ)と号(なづ)く。〕※3
 ※1 原文は、『元初の最高神と大和朝廷の元始』(海部穀定著、桜風社)に掲載されたもの。同書は、高皇産霊・天照以前に、最高神として豊受神があったという説を掲げた書。
 ※2 かぶとは、頭にかぶる兜。「甲」はもともと鎧(よろい)の意味で、日本古来の誤用。甲冑の甲と冑を取り違えたものである。
 ※3 読み下しは、本サイトによる。
 征伐軍として遣わされたのは書紀の丹波道主ではなく日子坐王なので、記の方に一致している。 「兜山」が京丹後市久美浜町にあり、鐘型の溶岩円頂丘。標高192m。この記事は、昭和新山のような突然の熔岩ドームの出現を描写していると読める。 しかし、風土記では丹後・若狭の境とされるので、場所が一致しない。この噴火が元になって伝説ができて広まり、たまたまこの地域でも一つの岩に、甲岩の名が付いた……ということだろうか。 「鳴生」については、丹後・若狭、すなわち現在の京都・福井の府県境近くに、字成生(なりう)があり、若狭湾に成生岬が突き出している。
 倭名類聚抄には「丹後国【太邇波乃美知乃之利】」〔たにはのみちのしりのくに〕の五郡のひとつとして「加佐郡」が記載される。 丹後国は、713年に丹波国から分けられた(第109回―22丹波の竹野別)。 従って、加佐郡は記編纂の時代はまだ丹波国の一郡である。
 玖賀耳の「みみ」は、これまでも古い出雲系の姓(かばね)だろうと考えてきた(第100回まとめ)。 丹後国も山陰なので、古代の大国出雲の文化圏の中にあったと思われる。

【建波邇安王】
 建波邇安王については、孝元天皇段(8代)に建波邇夜須毘売を娶って生んだ皇子が、建波邇夜須毘古とされる。建波邇夜須毘古は、実際には崇神天皇の庶兄(ままあに)ではなく「をぢ」である。 庶兄を「をぢ」と訓むのはさすがに無理なので、「庶兄」は誤りであろう。
 この誤りは、上古天皇系図が最終段階まで揺れていて、類縁関係の誤りが見落とされたためかと思われる。 同種の誤りと見られるのは、書紀の「崇神天皇の姑」(後述)と、御真津比売が二重に出てくるところ(次項)である。
《御真津比売》
 孝元天皇段には「生御子大毘古命」、崇神天皇(10代)段に「娶大毘古命之女御真津比売命」とある。 一方、開化天皇(9代)段に「娶庶母伊迦色許賣命、生…次御真津比売命」とある。 つまり、開化天皇の姪(兄大彦命の子、図の)、子()の二通りに書かれる。 このままだと同名の別人とするしかないが、恐らく同一人物を2か所に出してしまったことの、確認漏れである。
 なお、書紀では垂仁天皇(11代)紀の「大彦命之女」の一か所のみである。

【高志道】
 平安京の時代以後は、東海道の起点が三条大橋で、瀬田付近で東山道が分岐する。 そして、高志道は東山道から米原付近で分岐したようである。
 倭の地から平城京へは、藤原京から北に向かう上つ道・中つ道・下つ道がある。 大神神社から北へ、上つ道あるいは山の辺の道を進むと、書紀で謎の少女に出会った和邇を通る。 そして山城の国に入り、東山道に入るまでのどこかに、へら坂(書紀では平坂)があるはずである。
 大毘古命はその場所で少女の謎の歌を聞き、一旦倭の瑞籬宮に引きかえすことになる。

《拡大図》
【幣羅(へら)の坂】
 それでは、幣羅の坂はどこか。
 次回、大毘古は伊豆美という地で、和訶羅河を挟んで建波邇安王と対峙する。
 その訓みを同じくする「」が、続日本紀に「泉橋」として出てくる。
《泉津(現木津川市)》
 『続日本紀』〈天平十七年〔745〕五月戊午朔、癸亥〔6日〕〉「車駕到恭仁京泉橋。于時、百姓、遥望車駕、拝謁道左、共称万歳。是日、到恭仁宮。〔車駕、恭仁京の泉橋に到る。時に、百姓(=人民)、車駕を遥かに望み、道の左より拝謁し、共に万歳を称ふ。是の日、恭仁宮に到る。〕
 …もちろん、明治時代以後の万歳三唱とは無関係。文脈からは、天皇を称える声と読める。(資料)
 恭仁京(くにのみやこ)は、天平十二年(740)聖武天皇が造営を試みた新しい京で、現在の木津川市の辺りである。平城京から一度は遷都したが、743年造営が中止される。 その地の寿宝寺(704年建立、京都府京田辺市三山木塔ノ島20)が度重なる木津川の氾濫によって、移転を繰り返したとされるので、 造営途上の京に洪水が襲い、放棄されたのではないかと想像する。 泉津は川が直角に曲がる位置にあるから、どう見ても氾濫原である。
 「泉橋」については、行基が初めて泉河に橋をかけた(740または741)。恭仁京造営時には3本の橋が架けられたという。
 さて、「上津道・中津道・下津道」は、岩井照芳氏の新説において、泉津まで延長した幹線の名称である。 従来上ツ道・中ツ道・下ツ道は平城京と橿原方面を結ぶ幹線とされてきたが、それが泉津(木津川の湾曲部の港)まで伸びていたと、氏は言う。
 木津川市教育委員会の発表によれば、泉津の上津遺跡(木津川市木津宮ノ裏)から倉庫跡、長首のつぼ約20個分、かめ3個分などが発掘された。水銀朱の付着した須恵器、人名の一部とみられる「足」と記された墨書土器もあったという (2009年9月16日発表、『京都新聞』など)。
 泉津は物流の拠点で、岩井説によればここで水揚げされた物資が藤原京まで運ばれた。
《幣羅坂神社》
 上津道沿い、泉大橋の手前に、幣羅坂神社(木津川市市坂幣羅坂100)がある。祭神は天津少女命(または天津乙女命)、大毘古命など。御由緒は不明だが、この神社の名と祭神が、古事記から来たのは間違いない。社殿は昭和55年(1980)に新たに造営された。 その場所は坂で地名にも「坂」がつき、 決戦場となった泉津の手前なので、ここが幣羅坂であることは納得できる。
 この場所は記紀の時代から継続して、「へらさか」と伝承されてきたようにも思えるが、油断はできない。 隣接する安養寺は、天平8年(736)、行基開基と伝わる。同名の寺は全国に多数ある。 幣羅坂神社にも鐘楼があり、神仏習合の形態である。もともとあった社に、近世以後に復古社名がついたのかも知れない。

【東方十二道】
 「東方十二国」が〈国造本記〉にある(第110回1上毛野君)。 この地域は、崇神天皇段で、皇子・豊木入日子が上毛野君(上野国)・下毛野国(下野国)の祖とされた。 〈国造本紀〉では、豊木入日子の孫・彦狭島命がまず東方十二国を治めた後、後の上野国の国造に封じられる。 「孝元天皇―大毘古命―建沼河別命」の建沼河別命が東方諸国を攻略したことと、「崇神天皇―豊木入日子―○―彦狭島命」の彦狭島命 が上野国の初代国造になったことの関係は、今のところよく分からない。
 ところで、東方十二国とはどの地域か。 まず東国に該当すると思われる国を、倭名類聚抄から拾うと、
東山国:出羽国、陸奥(みちのおく)、下野、上野。
東海国:常陸、下総、上総、安房、武蔵、相模、甲斐、伊豆、駿河、遠江。
がある。
 印をつけたうち、常陸国は、645年成立。当初の国名は日高見国と言われる。 常陸国は蝦夷を押し退ける形で北に勢力を拡げ、654年に北部を分離して陸奥国が成立し、東山道に属すことになった。 また、越後国の一部が分離し、陸奥国の一部と併せて、出羽国が712年に成立した。
 古墳時代の大和勢力の東方進出については、第71回で論じた。 これらの国々から、比較的成立が新しい陸奥国と出羽国を除くと、ちょうど12国になる。 また、この12国は738年「駿河国正税帳」などで推定される防人徴兵国(Wikipediaによる)と重なるので、この範囲を「東方十二道」と見做すことができる。
東山国:近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽
 一方、〈国造本紀〉で彦狭島命が平定したとする「東方十二国」に関して、景行天皇紀の「東山道十五国の都督〔ブロックの統括〕を拝した」とある。 建沼河別命の東征と、豊木入日子命の話を同根のものと考えると、東方十二国は東山道と考えた方がよい。
 律令国で数えると、出羽国はまだ存在しないので7国となり、不足する。そこで国造で数えると、国造本紀に載る国造のうち、後の律令国の近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野に属する9国造と、 常陸国の道口岐閉国造、そして陸奥国南部のどれか2国造を併せると12国造となる。「東方」なので近江・美濃は入らず、代わりに陸奥国から幾つか加わるかも知れないが、大体この辺りと見ることができる。

【書紀】
…(古訓) おとろふ。ほろふ。
正朔…(汉典) ①農暦正月一日。②古代改朝換代時新立帝王頒行的新暦法、後亦泛指暦法。
 〔古代、改朝・換代の時、新たに立ちし帝王の頒行せし新暦法。後に亦泛(あまね)く暦法を指す。〕
王化…(汉典) 天子的得化。
在於教化也…〈丙本〉【於之倍於毛不久爾安利】〔おしへおもぶくにあり〕
おもぶく、おもむく…[他]下二 ある方向へむかわせる。
未習王化耳…〈丙本〉【以末太君乃乎毛牟知乎奈良波左良牟良久乃見】
〔いまだ君のをもむちをならはざらむらくのみ〕をもむち:「おもむき」の変か。
…(古訓)かさぬ。ことことくす。すてに。[前]「既A又B」などの形で、AだけでなくBも。
山背…山城国。(倭名類聚抄)畿内国/山城【夜万之呂やましろ】。
 〈国造本紀〉山背国造/延暦十三年〔794〕山背山城
…(古訓)かたはら。ほとり。
十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰
「導民之本、在於教化也。今既禮神祇、災害皆耗。
然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」
九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、丹波道主命遣丹波。
因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。
壬子、大彥命、到於和珥坂上、時有少女、歌之曰、
一云、大彥命到山背平坂、時道側有童女歌之曰、
十年秋七月(ふみづき)丙戌(ひのえいぬ)朔己酉(つちのととり)〔24日〕、群卿(まへつきみたち)に詔(みことのり)し曰(のたまはく)、
「民(あをひとくさ)を導(みちび)く[之]本(もと)、[於]教化(をしへ)に[也]在り。今既に神(あまつかみ)祇(くにつかみ)を礼(うやま)ひ、災害(わざはひ)皆(みな)耗(おとろ)ふ。
然(しかれども)遠荒(ひな)の人(ひと)等(ら)、猶(なほ)正朔(ことわり)を不受(うけず)、是(これ)未(いまだ)王化(きみのめぐみ)を習はざれば耳(のみ)。其(それ)群卿を選(えら)ひ、[于]四方(よも)に遣(つか)はし、朕(わが)憲(のり)を令知(しらしめむ)。」とのらす。
九月(ながつき)丙戌(ひのえいぬ)朔甲午(きのえうま)〔9日〕、以(もちて)大彦命(おほひこのみこと)を北陸(くぬがのみち)に遣はし、武渟川別(たけぬなかはわけ)を東海(うみつみち)に遣はし、吉備津彦(きびつひこ)を西道(にしのみち)に遣はし、丹波道主命(たにはのみちぬしのにこと)を丹波(たにはのみち)に遣はす。
因以(しかるがゆゑに)詔(みことのり)し[之]曰(のたまはく)「若(もし)有不受教(をしへをうけざることあら)者(ば)、乃(すなは)ち兵(いくさ)を挙げ之(こ)を伐(う)つべし。」とのらし、既(かさねて)[而]共に印綬(しるし)を授(さづ)け将軍(いくさのかみ)と為(し)たまふ。
壬子(みづのえね)のひ〔27日〕、大彦命、[於]和珥坂の上(へ)に到り、時に少女(をとめ)有り、歌(うたよみし)[之]曰(うたはく)、
一云(あるいはく)、大彦命山背(やましろのくに)の平坂(ひらさか)に到り、時に道(みち)の側(ほとり)に童女有り歌[之]曰、

 十年七月二十四日、公達に詔しました。
「導民の元は教化にある。今、既に神祇を敬い、災害は消滅した。 ところが、辺境の人は猶、世の理を受けず、未だに王化せずにいる。そこで公達より選りすぐり四方に遣わし、朕の憲を知らしめよう。」
 九月九日、よって大彦命(おおひこのみこと)を北陸に派遣し、武渟川別(たけぬなかわのわけ)を東海に派遣し、 吉備津彦(きびつひこ)を西海道に派遣し、丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)を丹波の国に派遣するものとし、 「もし教えを承けなければ、兵を挙げ征伐せよ。」と詔しました。重ねて印綬を授け、将軍に任じました。
 二十七日、大彦命は和珥坂の上に到ったとき、少女がいて歌詠みしました。
 一説には大彦命が山城の国の平坂に到ったとき、道の傍に少女がいて歌詠みしました。

瀰磨紀異利寐胡播揶 飫迺餓烏塢 志齊務苔 農殊末句志羅珥 比賣那素寐殊望

みまきいりびこはや おのがをを しせむと ぬすまくしらね ひめなそびすも
御間城入彦はや 己がを 死せむと 窃まく知らね 姫遊びすも
…[接尾] 四段動詞、ラ変の未然形につき、動詞を名詞化する。
…[助] 話し手の願望を表す。「~してほしい」。
ぬすまくしらね〔盗むことを知りなさい〕
ひめなそび…「ひめの-あそび」の母音融合か。 (万)2173 芽子之遊将為 はぎのあそびせむ〔(こどもが)萩で遊ぶこと〕 との類似から、男性の「姫遊び」と解釈されている。
一云 一云(あるいはく)、
於朋耆妬庸利 于介伽卑氐 許呂佐務苔 須羅句塢志羅珥 比賣那素寐須望

おほきとより うかかひて ころさむと すらくをしらね ひめなそびすも
大き戸より 窺ひて 殺さむと 為らくを知らね 姫遊びすも
らく…[接尾] 機能は「く」と同じ。上二・下二・カ変・サ変の動詞、それらと活用が似る助動詞につく。

【北陸・東海・西道】
 〈丙本(崇神天皇)〉には、「北_陸【久呂加乃美知】 東_海【宇美津美知】」。
 五畿七道は、律令国制定時に定着した地方名である。倭名類聚抄には 「畿内国・東海国・東山国・北陸国・山陰国・山陽国・南海国・西海国」と広域名を示し、各々に所属する国名のリストを載せる。 倭名類聚抄には、広域名の和名は添えられておらず、日本紀私記や万葉集を手掛かりにする他はない。 平安時代後期には、すでに「とうかいだう」などの音よみが使われたと想像される。
《東海道(うみつみち)・東山道(やまのみち)・北陸道(くぬかのみち)》
 これらは街道名が広域名に転じたものと見られる。 もともとは、うみつみち〔=海の道〕くぬかのみち〔=陸の道、"くるか"とも〕やまのみちに方角をつけて、漢字表記にしたものである。 〈丙本〉にこれらを載せたのは、平安時代から見ても復古的な訓だったからであろう。逆に西道が丙本にないのは、「にしのみち」という常識的な訓だったからに違いない。
くぬかのみちの語源》
 北陸のくぬかあるいはくるかという呼び名は、古代出雲勢力が抱いた印象に由来するのではないか。 当時の交通は日本海側の海路が中心で、若狭湾を進む船から見ると立山連峰が威容を誇って迫って来るので、その地を特に「陸(くぬが)」と呼んだと想像される。 このように実際には地続きなのに、別の土地のような印象をもった記憶が、書紀の「国生み神話」で越を別島扱いしたことにも反映しているかと思われる(第35回【紀との違い】)。
《山陽道(かげとものみち)・山陰道(そとものみち)》
 〈成務天皇紀〉に「山陽曰影面、山陰曰背面」。これは、山陽道・山陰道を説明しているように見えるが、そうでもない。
 影面背面の訓については、万葉集が参考になる。
 (万)0052 耳為之 青菅山者 背友乃 みみなしの あをすがやまは そともの吉野乃山者 影友乃 よしののやまは かげともの。 耳成山は北方、吉野山は南方だから、ある地域の北側が「そとも」、南側が「かげとも」であることが分かる。
 〈成務天皇紀〉は地方名の説明ではなく、「国郡・県邑を設置した」という文脈中にあるので、地域を限定せず太平洋側を「山陽」と書き「かげとも」と訓み、日本海側を「山陰」と書き「そとも」と訓むことにしたという文である。 ただその後、事実上中国地方限定の名称になっていったようだ。
 なお〈甲本〉では成務天皇の項で、影面【カケヲモ】、背面【ソトモ】と訓をつける。「モ」の右にさらに「ト」と書いてあるが、理解し難い。
《西海道(にしのみち)・南海道(みなみのみち)》
 原形の「西道」に、訓みはそのままでを入れ、東海道と対にしたと見られる。南海道も同様であろう。

【授印綬為将軍】
《印綬》  印綬は(ひも)。中国では授与する印の材質と綬の色で、諸侯・官僚の階級を示した(魏志倭人伝をそのまま読む(72))。 中国古典には、「授印綬」「為将軍」の語句がそれぞれ大量にあるが、印綬をもって将軍の地位を与えたと読み取れる例はない。 ただし、将軍""を仮す例はある。
 『魏書』〈六、袁紹傳〉「其將呂曠・呂翔叛尚歸太祖,譚復陰刻將軍印假曠・翔。
 〔其の将呂曠・呂翔、叛(そむ)き太祖に帰し、譚()、復(ふたたび)将軍印を陰刻し、曠・翔に仮す。〕※…袁譚(人名)は青州の刺史(地方長官)。
 「授印綬為将軍」は漢籍の借用であるが、もともと「将軍」は印綬の対象となる官位の外にあった。 上古の日本では綬がついていたかどうかは別とし、将軍にも何らかの印を授ける制度はあったかもしれない。あるいは、「印綬を授く」は言葉の彩のようなもので単に「公的な任命」を意味するだけかも知れない。
《将軍の訓》
 「将軍」は書紀ではここが初出で、以後大量に使われる。古事記では中哀天皇段、仁徳天皇段のみに出てくる。 『倭名類聚抄』を見ると、
長官 署曰首、近衛府曰大将、兵衛衛門等四府曰督、内侍司曰尚侍、大宰府曰帥、鎮守府曰将軍、国曰守、郡曰大領、家曰令【已上皆加美】
とある。つまり、長官に類するものは部署ごとに表記が異なるが、訓みはすべてかみである。 ただ鎮守将軍なら「鎮守のかみ」で判るが、「将軍」のみのときは「かみ」では伝わらないので「いくさのかみ」だと想像される(鎮守府のよみは、資料[02]参照)。
 なお、神=カミ、上=カミなので、「薩摩守」(さつまのかみ)などの「かみ」の語源は「上」だと考えられている。

【吉備津彦・丹波道主】
 吉備津彦…孝安天皇が倭国香媛(蠅井呂泥)を娶って生んだ子(第107回)。
 丹波道主…丹波比古多多須美知能宇斯王。開化天皇の皇子、日子坐王の子 (第109回)。
 吉備津彦が吉備国に向かったのは、第7代孝霊天皇段の 「大吉備津日子命與若建吉備津日子命二柱相副而……言向和吉備國也」 を、ここに移したものである。また本稿では、同じ文から播磨国から氷川を加古川と見做して、氷上郡に向かって登る道を丹波道と解釈した。 (第107回)。

【書紀〔続き〕】
於是、大彥命異之、
問童女曰「汝言何辭。」
對曰「勿言也、唯歌耳。」
乃重詠先歌、忽不見矣。
大彥乃還而具以狀奏。
於是、天皇姑倭迹々日百襲姬命、聰明叡智、能識未然、
乃知其歌怪、言于天皇
「是武埴安彥將謀反之表者也。
吾聞『武埴安彥之妻吾田媛、密來之、取倭香山土、
裹領巾頭而祈曰是倭國之物實、乃反之。』【物實、此云望能志呂。】
是以、知有事焉。非早圖、必後之。」
於是、更留諸將軍而議之。

叡智…〈百度百科〉近義詞:明智。①古時臣下対君王、后妃等所用的敬詞。
〔②古代、臣下から君王・后妃等に対して用いる敬詞〕
=英知(すぐれた知恵)。
くくむ(裹む)…[他]マ四 くるむ。〔ここでは二重目的語をとる〕
領巾…〈汉典〉① handkerchief;scarf ③古時指婦女的披巾。
…(古訓)かしら。かふへ。
かしら…(万)4346知〃波〃我 可之良加伎奈弖 ちちははが かしらかきなで
かうべ…(倭名類聚抄)首/和名【加宇倍かうべ】、頭/和名【賀之良かしら】。
ひれ(領巾)…(万)0285 栲領巾乃 懸巻欲寸 妹名乎 たくひれの かけまくほしき いもがなを
そむく(背く)…[他]カ四 背反する。万葉集は、目的語の格助詞は「を」。後世はほとんど「に」。
…[動] おくれる。
於是(ここに)、大彦命(おほひこのみこと)、異之(こをこととおもひ)、
童女(をとめ)に問(とはく)[曰]「汝(な)は何(いかなる)辞(こと)や言(まを)す。」ととふに、
対(こたふらく)[曰]「勿言也(ことをまをすことなし)、唯(ただ)歌(うたふ)耳(のみ)。」とこたへ、
乃(すなはち)重ねて先(さき)の歌を詠(うた)ひ、忽(たちまち)不見(みえず)[矣]。
大彦乃(すなはち)還(かへ)りて[而]具(つぶさに)[以]状(さま)を奏(まを)しき。
於是(ここに)、天皇(すめらみこと)の姑(おほをば)倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、聡明(あきらけく)叡智(さとく)、能(よく)未(いまだ)然(しからざる)ことを識(し)り、
乃(すなはち)其の歌の怪(あや)しかることを知り、[于]天皇に言(まを)さく、
「是(これ)武埴安彦(たけはにやすひこ)将謀反(そむかむ)こと之[の」表(あらはれ)なれ者(ば)也(や)。
吾(あれ)聞(き)かく『武埴安彦之(の)妻(つま)吾田媛(あたひめ)、密(ひそかに)之(ここ)に来(き)、倭(やまとのくに)の香山(かぐやま)の土(はに)を取り、
領巾(ひれ)に頭(かしら)を裹(くく)みて[而]祈(ね)ぎ曰(まを)さく是(こは)倭国(やまとのくに)之(の)物実(ものさね)ぞとまをし、乃(すなはち)之(これ)を反(かへ)しし。』ときく。【物実、此(こ)を望能志呂(ものしろ)と云ふ。】
是以(こをもちて)、事有るを知りつ[焉]。非早図(はやくはからざらば)、必ず後[之](おく)るべし。」とまをす。
於是(ここに)、更(さら)に諸将軍(いくさのかみたち)を留(とど)めて[而]之(これ)を議(はか)らしむ。

 そこで、大彦命(おおひこのみこと)は、これを異なことと思い、 童女に「お前は、何を申しておるのか」と聞くと、 「言葉では申しません。ただ歌っているだけです。」と答え、もう一度その歌を歌い、すぐに見えなくなりました。
 大彦命は直ちに帰り、つぶさにその様子を奏上しました。
 そこに、天皇の大伯母、倭迹々日百襲姫命は、聡明で英知があり、まだ知られていないことを知る能力がありました。 そして、その歌の怪しさに知り、天皇に申し上げました。
「これは、武埴安彦(たけはにやすひこ)が謀反しようとしていることを表しています。 私が聞くに、『武埴安彦の妻、吾田媛が密かにやって来て、倭の天香具山の埴土を取り、 覆い布で頭を包み、これは倭の国の物の元なるぞと言って祈り、戻している』と聞きます。 少女の歌により、事が起こることを知りました。早く計らねば、必ず手遅れとなるでしょう。」と。
 そこで、さらに将軍たちを留めて、その戦略を話し合わせました。


【武埴安彦】
 孝元天皇(8代)と埴安媛の間の皇子。記と異なり、崇神天皇との血縁関係は書いていない。 書紀では、妻吾田媛が登場し、その名が「あた」(敵、怨み)を匂わしている。

【倭迹々日百襲姫命】
《倭迹々日百襲姫命の関与》
 記では、崇神天皇自身が謎を読み解くことができた。しかし、 書紀では倭迹々日百襲姫命の知力によって、初めて解ったことになっている。
 前回、意図的に百襲姫-崇神天皇の関係に、卑弥呼-男弟の関係を匂わせたと論じたが、この場面もそのひとつであろう。 天皇を讃えるのと同じように、百襲姫への讃辞を綴ることも、古代女王を連想させる仕掛けの一つと言えよう。
 それにしても、このように聡明な倭迹々日百襲姫命であるが、こと死に方だけは情けないものがある。
《崇神天皇の「姑」とは》
 祖母 爾雅云父之妣為王母九族図云祖母【於波】
〔『爾雅』では父の妣(=母)を王母とし、『九族図』では祖母とする。和名オバ。〕
 祖姑 爾雅云王父之姉妹為王姑【於保於波】
〔『爾雅』には王父の姉妹を王姑とする。和名オホオバ。〕
 従祖父 爾雅云父世父叔父為従祖父【於保乎知】
〔『爾雅』には父の世父(=伯父)・叔父を従祖父とする。和名オホヲヂ〕
※ 伯父の和名は【乎知】〔ヲヂ〕、伯母の和名は【乎波】〔ヲバ〕である。 従祖父(オホヲヂ)は、父の伯父・叔父=祖父の兄弟であることから見て、祖父の姉妹=祖姑は、於保波(オホバ)が正しいと思われる。
 姑には、夫の母(しゅうとめ)のほかに、父方のおば(父の姉妹)の意味もある。 しかし書紀によれば、百襲姫は崇神天皇の祖父の姉妹である。なぜ「姑」と書かれたのかを調べるために、まず倭名類聚抄を見る()。  それによると「王父=祖父」かつ「王姑=祖父の姉妹」なので、祖父の姉妹は「祖姑」と書くことができ、和名は「おほをば」である。 そこで、ここの「姑」はひとまず「おほをば」と訓むべきだろうか。
 しかし、誤って「をば」と書かれたのかも知れない。 【建波邇安王】の項で述べたように、系図の検討は記紀編纂の最終段階まで続き、訂正すべき箇所が見落とされたかも知れないからである。
 あまり意味のある作業とは思えないが、仮に倭迹々日百襲姫=姑(オバ)、武埴安彦=庶兄(ママアニ)が成り立つように系図の修正を試みると、右図のようになる。 これだと、武埴安彦を開化天皇の子とするのはそんなに問題はないが、孝霊天皇と孝元天皇は庶兄弟となるので、あまり望ましい形ではない。 とは言え、記紀の編纂の過程でいくつかの系図案の検討がなされていたのかも知れない。
《倭迹々日百襲姫命を祭神とする神社》
 倭迹々日百襲姫命を祭神とするのは、讃岐国の式内社に2社ある。
 田村神社(香川県高松市一宮町286)は、 〈神名帳〉讃岐国廿四座/香川郡一座/田村神社、名神、大。 祭神は、倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命(吉備津彦命)など。もともと大宝年間(701~704)に開基された一宮寺と一体で、延宝7年(1679)に分離された。
 水主みず神社(香川県東かがわ市水主1418)は、 宝亀年間(770~781)創建。〈神名帳〉讃岐国/苅田郡六座/水主神社。 祭神は倭迹々日百襲姫命。
 岡山神社(岡山県岡山市北区石関町2-33)は、貞観年間(859-877)の創建と伝わる。 祭神は、大吉備津彦命、倭迹々日百襲姫命など。
 このように、備前国では、大吉備津彦命と共に地元の神となっている。また、瀬戸内海を挟んで隣接する讃岐国(香川県)には渡来神話がある。 しかし、大神神社など大和国の諸社の祭神には見当たらない。 従って、崇神天皇を助ける存在としての倭迹々日百襲姫命の伝説は、倭地域においては民衆的な基盤を持たなかったと言える。 前回述べた、書紀の著者により恣意的な書き加えを行った可能性が、更に強まった。

【吾田媛の潜入】
《領巾(ひれ)》
 人物古墳には、女性が図のようにして布を纏ったものがある。 この衣は袈裟状衣と呼ばれ、布を袈裟のような形にゆるやかにはおり右肩で結んだもので、胴を巻いて留めるための紐が縫い付けてあったようである。 この紐は本来は胴を一巻きするが、埴輪では製作の都合で途切れていると思われる。
 『埴輪を知ると古代日本人が見えてくる』(塚田良道著、洋泉社/歴史新書/2015)の中ではこの袈裟状衣が肩巾(ひれ)だと見て、天武天皇十一年の記述に注目している。
 天武天皇紀〈十一年三月甲午朔、辛酉〉 膳夫采女等之手繦肩巾【肩巾此云比例】並服 〔膳夫(かしはで;調理人)・采女(うねめ;御膳などに奉仕する女官)らの手繦(たすき)・肩巾【肩巾、これヒレと云ふ】並(なべて)服(き)ること莫(な)かれ。〕
 塚田氏は、この文に旧来の倭の風習を廃し儀式を一新したい天武天皇の狙いを見ている。また、埴輪の袈裟状衣は采女の肩巾を模したものと考えている。
 領巾は、須佐之男命―大国主命神話の一場面にも出てくる (第59回)。
其妻須勢理毘賣命以蛇比礼授其夫云其蛇将咋以此比礼三挙打撥〔須佐之男命が大国主命に、寝室として蛇室に案内された際、妻は蛇(へみ)ヒレを夫に授け、 蛇が食いつこうとしたとき、このヒレを3回振り上げて打ち払えと教える。〕
 肩巾は采女が給仕するときのユニフォーム、または衛生目的の衣であろうが、 同じような形状の衣を、魔よけのためにも使ったことが分かる。
 吾田媛は領巾を頭を覆い隠すために使い、天香具山に忍び込んだ。この場面では、袈裟がけではなく、 漢籍の領巾の原意であるスカーフの方が状況に合っている。恐らく上体にさまざまな方法で纏う布の、全般をヒレと読んだのであろう。
 埴輪(女性)の復元模型―今城塚古墳
 袈裟状衣※
※Webサイト 『古代女性を飾った装身具』掲載の写真を元にしてイラストを作成しました。
《裹領巾頭而》
 〈丙本〉は、領_巾_頭比礼乃波之爾ツゝ美氐 〔ひれのはしにつつみて〕即ち、頭を「端」と解釈している。 しかし、頭を隠すと読んだ方が意味が明瞭なので、二重目的語と見るべきであろう。但し、純正漢文では「AでBを裹(つつ)む」は二重目的語ではなく、「以A裹B」と表す。
 文例:〈呉書十九・諸葛恪伝〉「恪果以葦席裹其身而篾束其腰、投之於此岡〔恪(=諸葛恪)、果たして葦席(葦のむしろ)にその身(=恪の死体)を裹み、篾(竹の皮)でその腰を束ね、この岡に投ず。〕 諸葛恪は慢心のため恨まれ、死後はこのような扱いを受けた。この後諸葛恪の元部下達が、遺体を回収して埋葬した。
 この文例を見れば、正統漢文なら「以領巾裹頭而」とすべき所を、日本語用法で書いたことが分かる。
 丙本のように「領巾の頭」と読めば、文法的には正しい。頭の古訓には「ほとり」「かみ」もある。 しかし、「頭」は街頭など目立つ場所、あるいは矛頭など先端に特徴があるものに使い、単なる「布の端」に使うのは苦しい。
 仮に丙本のままに読むと、吾田媛は右肩の結び目を解き、肩巾の端に埴土を包み呪いをかけた後 埴土を戻し、端を結び直して去る。この動作はいかにも不自然だし、女性なら肩巾の土汚れは嫌うであろう。 それよりは、布で頭を覆って呪文を唱える方がエレガントである。 着衣に対する女性の感覚は現代と変わらないと思われるから、「頭を包む」と読むのが妥当であろう。
《呪詛》
 「こは倭の国の物実(ものしろ)ぞ」という言葉だけではどこが呪詛なのか分からないが、 実際にはこれに「請ひ願はくは、みまきいりびこの御世を潰えさせ給へ」に類する言葉が続くのだろう。読者にはもう伝わっているから、続ける必要はない。 武埴安彦の妻はこうして天香具山に忍び入り、密かに土を取り呪いを込めて戻す。 天皇がこの土で作った八十瓮を用いて神事を行えば、必ず不幸が起こるであろう。
 この話は「武安彦」の名から連想して作られたものと思われるが、なかなか面白い。

まとめ
《泉津という場所》
 上津遺跡について調べると、泉津が木津川を通して西日本と結ぶ水運の拠点であったことが浮かび上がってくる。 この道は山城・近江や北陸方面と結ぶ重要な交通路でもある。 この地を言うことを聞かない豪族が占拠すれば、畿内の北半分や北陸道との間の、人や物の繋がりが断たれてしまう。 だから彼らは討たざるを得ず、その激戦は重要な事件として記憶されたと思われる。
《書記の記述》
 大国主命宅の蛇室のところで出てきた「比礼」とはどのようなものであったか。文字だけではイメージが湧かないが、 埴輪の袈裟状衣を見れば、上半身にふわりと羽織る衣類であることが見えてくる。 その形は袈裟状とは限らなかったと思われる。〈時代別上代〉は、『続日本後記』嘉祥二年「天つ女の…毘礼(ひれ)衣着て」を挙げ、天女の羽衣の呼び名に「ひれ」を見ている。
 書紀では、少女の歌の謎解きに、倭迹々日百襲姫を介在させている。しかし、大神神社には摂社・末社を含め、倭迹々日百襲姫が祭神になっていないところが注目される。 ここでも、倭迹々日百襲姫を活躍させる書紀の特異性が際立つ。民衆レベルの伝承の観点で見ると、むしろ讃岐の国で祭神とされているのが興味深い。
《東西への進出》
 神武天皇から欠史八代までは、基本的に大和国の範囲の平定に留まった。崇神天皇になるとようやく攻略範囲が広まり、西は吉備、北は北陸、東は東国に及ぶ。 ただ、一応平定したとしてもまだ情勢は不安定で、倭建命が再び各地で戦わなければならない。


[114]  中つ巻(崇神天皇5)