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⇒ [108] 中つ巻(綏靖天皇~開化天皇7) |
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2015.09.22(tue) [109] 中つ巻(綏靖天皇~開化天皇8)〔開化天皇〕 ▼▲ |
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若倭根子日子大毘毘命 坐春日之伊邪河宮治天下也
此天皇娶旦波之大縣主 名由碁理之女竹野比賣 生御子比古由牟須美命【一柱 此王名以音】 又娶庶母伊迦色許賣命 生御子御眞木入日子印惠命【印惠二字以音】次御眞津比賣命【二柱】 又娶丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹意祁都比賣命【意祁都三字以音】生御子日子坐王【一柱】 又娶葛城之垂見宿禰之女鸇比賣 生御子建豐波豆羅和氣【一柱 自波下五字以音】 此天皇之御子等幷五柱【男王四女王一】 若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおほびびのみこと)、春日(かすか)之(の)伊邪河宮(いざかはのみや)に坐(ま)し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此の天皇(すめらみこと)、旦波(たには)之(の)大県主(おほあがたぬし)、名は由碁理(ゆごり)之女(むすめ)竹野比売(たけのひめ)を娶(めあは)せ、御子(みこ)比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)【此の王(みこ)の名(な)音(こゑ)を以(もち)ゐる。】を生みたまふ。【一柱(ひとはしら)】 又(また)、庶母(ままはは)伊迦〔賀〕色許売命(いかがしこめのみこと)を娶せ、生(あ)れましし御子(みこ)御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにゑのみこと)【印恵の二字(ふたじ)音を以ゐる。】次に御真津比売命(みまつひめのみこと)【二柱(ふたはしら)なり。】 又、丸邇臣(わにのおみ)之祖(みおや)日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)之妹(いも)意祁都比売命(おけつひめのみこと)を娶せ【意祁都の三字音を以ゐる。】、生れましし御子(みこ)日子坐王(ひこいますのみこ)【一柱なり。】 又、葛城之垂見宿祢(かつらぎのたるみのすくね)之女(むすめ)鸇比売(わしひめ)を娶せ、生れましし御子建豊波豆羅和気(たけとよはづらわけ)【波自(よ)り下(しもつかた)五字(いつじ)音を以ゐる。】【一柱なり。】 此の天皇之御子等(ら)并(おほよそ)五柱(いつはしら)【男王(をのみこ)四(よはしら)女王(めのみこ)一(ひとはしら)】なり。 故御眞木入日子印惠命者治天下也 其兄比古由牟須美王之子 大筒木垂根王 次讚岐垂根王【二王 讚岐二字以音】 此二王之女五柱坐也 故(かれ)御真木入日子印恵(みまきいりひこいにゑ)命者(は)天下を治めたまふ[也]。 其の兄比古由牟須美王之(の)子(みこ)は、大筒木垂根王(おほつつきたりねのみこ)、次に讃岐垂根王(さぬきたりねのみこ)【二王(ふたはしらのきみ)。讃岐の二字音を以ゐる。】。 此の二王(ふたはしらのみこ)之(の)女(むすめ)は五柱(いつはしら)坐(い)ます[也]。
此の王(みこ)丹波之遠津臣(たにはのとほつおみ)之女(むすめ)、名は高材比売(たかきひめ)を娶せ、生れましし子(みこ)息長宿祢王(おきながのすくねのみこ)なり。 此の王(みこ)葛城(かつらぎ)之高額比売(たかぬかひめ)を娶せ、生(あ)れましし子(みこ)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、次に虚空津比売命(そらつひめのみこと)、 次に息長日子王(おきながひこのみこ)【此の王(みこ)者(は)吉備(きび)の品遅君(ほむちのきみ)、針間(はりま)の阿宗君(あそのきみ)之祖(みおや)】【三柱なり。】 又、息長宿祢王、河俣稲依毘売(かはまたいなよりびめ)を娶せ、生れましし子(みこ)、大多牟坂王(おほたむさかのみこ)【「多牟」二字音を以ゐる。此者(こは)多遅摩(たぢま)の国造(くにのみやつこ)之祖(みおや)也(なり)。】 上所謂建豐波豆羅和氣王者【道守臣忍海部造御名部造稻羽忍海部丹波之竹野別依網之阿毘古等之祖也】 上(うへ)に謂(まを)しし[所の]建豊波豆羅和気王(たけとよなみはづらわけのみこ)者(は)【道守臣(ちもりのおみ)、忍海部造(おしのみべのみやつこ)、御名部造(みなべのみやつこ)、稲羽(いなば)の忍海部(おしぬみべ)、丹波(たには)之(の)竹野別(たけのわけ)、依網(よさみ)之(の)阿毘古(あびこ)等(ら)之祖(みおや)也(なり)。】 天皇御年陸拾參歲 御陵在伊邪河之坂上也 天皇(すめらみこと)の御年(みとし)陸拾参歳(むそとせあまりみとせ)、御陵(みささき)伊邪河之坂上(いざかはのさかへ)に在り[也]。 若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)は、春日(かすか)の伊邪河宮(いざかわのみや)にいらっしゃり、天下を治められました。 この天皇は、旦波(たんば)の大県主(おおあがたぬし)、名は由碁理(ゆごり)の息女、竹野比売(たけのひめ)を娶り、御子、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)を生みなされました。【一柱です】 また、継母〔父の後妻〕、伊迦〔賀〕色許売命(いかがしこめのみこと)を娶り、御子、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)、次に御真津比売命(みまつひめのみこと)を生みなされました。【二柱です】 また、丸邇臣(まるにおみ)の先祖、日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)の妹、意祁都比売命(おけつひめのみこと)を娶り、御子、日子坐王(ひこいますのみこ)を生みなされました。【一柱です】 また、葛城(かつらぎ)の垂見宿祢(たるみのすくね)の女息女、鸇比売(わしひめ)を娶り、御子、建豊波豆羅和気(たけとよはづらわけ)を生みなされました。【一柱です】 この天皇の御子たちは、併せて五柱です。【男子王四柱、女子王一柱】 故(かれ)御真木入日子印恵(みまきいりひこいにえ)の命(みこと)は天下を治められました。 この兄、比古由牟須美王の御子は、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)、次に讃岐垂根王(さぬきたりねのみこ)【二王です】。 この二柱の王(みこ)の息女は五柱います。 次に、日子坐王(ひこいますのみこ)、山代(やましろ)の荏名津比売(えなつひめ)、またの名は苅幡戸弁(かりはたとべ)を娶り、皇子、大俣王(おほまたのみこ)、次に小俣王(おまたのみこ)、次に志夫美宿祢王(しぶみのすくねのみこ)を生みなされました。【三柱です】 また、近江の御上祝(みかみのほおり)が斎(いつき)する、天之御影神(あめのみかげのかみ)の息女、息長水依比売(おきながのみずよりひめ)を娶り、 子(みこ)丹波(たには)の比古多多須美知能宇斯王(ひこたたすみちのうしのみこ)、 次に水穂真若王(みずほのまわかのみこ)、次に神大根王(かむおおねのみこ)、またの名は八爪入日子王(やつめいりひこのきみ)、次に水穂五百依比売(みずほのいほよりひめ)、次に御井津比売(みいつひめ)を生みなされました。【五柱です】 また、その母の妹、袁祁都比売命(おきつひめのみこと)を娶り、皇子、山代(やましろ)の大筒木真若王(おおつつきまわかのみこ)、次に比古意須王(ひこおすのみこ)、次に伊理泥王(いりねのみこ)を生みなされました。【三柱】 全体で日子坐王の御子は、併せて十一王(みこ)です。 さて、兄、大俣王の御子、曙立王(あけたつのみこ)、次に菟上王(うなかみのみこ)【二柱です】、 この曙立王は、伊勢(いせ)の品遅部君(ほむちべのきみ)、伊勢の佐那造(さなのみやつこ)の祖、 菟上王は、比売陀君(ひめだのきみ)の祖、 次に小俣王は、当麻勾君(たぎまのまがりのきみ)の祖、 次に志夫美宿祢王は、佐佐君(ささのきみ)の祖、 次に沙本毘古王は、日下部連(くさかべのむらじ)、甲斐国造(かびのくにのみやつこ)の祖、 次に袁邪本王は、葛野之別(かどののわけ)、近淡海(ちかつあはみ)の蚊野之別(かやののわけ)の祖、 次に室毘古王は、若狭(わかさ)の耳別(みみわけ)の祖です。 その美知能宇志王(みちのうしのみこ)、丹波(たんば)の河上の摩須郎女(ますのいらつめ)を娶り、御子、比婆須比売命(ひばすひめのみこと)、 次に真砥野比売命(まとのひめのみこと)、次に弟比売命(おとひめのみこと)、次に朝廷別王(みかどわけのきみ)を産みなされました【四柱です】。この朝廷別王は三河の穂別(ほのわけ)の祖です。 この美知能宇斯王の弟、水穂真若王(みづほのまわかのみこ)は、近江の安直(やすのあたい)の祖、 次に神大根王(かむおほねのみこ)は、美濃の国の本巣国造(もとすのくにのみやつこ)、長幡部連(ながはたべのむらじ)の祖です。 次に、山代之大筒木真若王(やましろのおほつつきまわかのみこ)の同腹の弟、伊理泥王の息女、丹波能阿治佐波毘売を娶り、御子、迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)を生みなされました。 この王(みこ)、丹波の遠津臣の息女、名は高材比売を娶り、御子、息長宿祢王(おきながのすくねのみこ)を生みなされました。 この王(みこ)は、葛城(かつらぎ)の高額比売(たかぬかひめ)を娶り、御子、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、次に虚空津比売命(そらつひめのみこと)、 次に息長日子王(おきながひこのみこ)、この王(みこ)は吉備(きび)の品遅君(ほむちのきみ)、針間(はりま)の阿宗(あそ)の君の祖を生みなされました。【三柱です】 また、息長宿祢王、河俣稲依毘売(かはまたいなよりびめ)を娶り、御子、大多牟坂王(おほたむさかのみこ)、この王は但馬の国造(くにのみやつこ)の祖を生みなされました。 上で述べた、建豊波豆羅和気王(たけとよなみはづらわけのみこ)は、道守臣(ちもりのおみ)、忍海部造(おしのみべのみやつこ)、御名部造(みなべのみやつこ)、稲羽(いなば)の忍海部(おしぬみべ)、丹波(たには)之(の)竹野別(たけのわけ)、依網(よさみ)の阿毘古(あびこ)等の祖です。 天皇の御年(みとし)は六十三歳にて、御陵(みささぎ)は伊邪河之坂上(いざかわのさかえ)にあります。 まま-(継)…[接頭] 実の親子、あるいは兄弟関係でないこと。(倭名類聚抄)継父【和名萬々知々】継母【和名萬々波々】 丹波(たには)…[国名] (倭名類聚抄)丹波【太迩波】〔たには〕。 鸇…[名] さしば。はやぶさ。(古訓)はやふさ。たかへ。はしかた。 たかべ…[名] こがも。(新選字鏡)鸇【太加戸】鳧【太加戸】(倭名類聚抄)[爾鳥]【多加閉】 はやぶさ(隼、晨風)…[名] ワシタカ科の猛禽。 【若倭根子日子大毘毘命】 わかやまとねこひこおほびびのみこと。 書紀は「稚日本根子彦大日々天皇(わかやまとねこひこおほひびのすめらみこと)」。 漢風諡号は開化天皇。「若倭根子日子」は、先代の孝元天皇の称号「大倭根子日子」と対になっている。旅館の大女将・若女将と同じ語感がある。 しかし、綏靖天皇から孝元天皇までが所謂「葛城王朝」であったのに対し、開化朝だけは添上郡であるところが異質である。孝元・開化を「大・若」として括ったのは、記で正式名を定めた際に形式を整えたに過ぎない。 日々・毘々のよみはひひ・ひび・びびが考え得る。使用状況を調べるために「稚日本根子彦大日々天皇+"ひひ"」のようにして検索をかけると、「ひび:1400例>びび:996例>ひひ:494例」の順である。 同様にして、若倭根子日子大毘毘命を調べると、「びび:439例>ひひ:194例>ひび:21例」である。日、毘はともに甲音である。ひ甲には、高皇産霊の「霊」がある。 「び甲び甲」だとすれば「み甲み甲」に通じ、綏靖天皇の「ぬなかはみ甲み甲」と共通する。魏志倭人伝で投馬国だけは官の名前に「弥弥(み甲み甲)」がつくという特徴がある。投馬国は出雲国であろうという説があり、私も以前その論証を試みた。 また、ひ甲ひ甲は鳴き声を表す擬声語で、「響く」に通じる。何れにしても、上古の神の名だと思われる。 この類の神名は、天孫族によって制圧された地域氏族の神のものだとする仮説を、孝昭天皇・孝霊天皇のところで立てた。 神武即位前紀には、層富(=添)県の土蜘蛛を制圧した記述がある(第99回)。 よって、「おほびび」も先住族の神であったのではないかと想像する。 書紀には「遷都于春日之地【春日此云箇酒鵝】是謂率川宮【率川此云伊社箇波】。〔春日の地に遷都し、ここに率川の宮という〕」とある。 春日は、(倭名類聚抄)大和国添上【曽不乃加美】郡春日【加須加】〔おほやまとのくに・そふのかみのこほり・かすかのさと〕と載る。 奈良市内を流れる率川は、現在は暗渠化されている。その流路は右図の右図の通りである。資料は、帯谷博明「消えた川の記憶―ならまち率川物語」(『大学的奈良ガイド』2009)を『奈良、水と人のランドスケープ』が引用したもの。 同サイトによると、率川の正式名称は菩提川だが、場所により率川・子守川・伝香川と称されるという。 伊邪河宮の比定地は一般に率川神社とされるが、「四恩院廃寺」という説もある。 《率川神社》 『延喜式』神名帳に、「大和国二百八十六座/添上郡卅七座/率川坐大神神御子神社三座」〔いざがはにますおほみわみこ神社〕。 現率川(いざかわ)神社は、奈良市本子守町18(写真=右=)。祭神は、媛蹈韛五十鈴姫命、狭井大神、玉櫛姫命。 狭井大神は父神、玉櫛姫命は母神と位置付けられている。「狭井大神」とはいかなる神かを探るために狭井神社を調べてみると、同社は三輪山の大神神社の近くにあり、正式名は「狭井坐大神荒魂〔さゐにますおほみわあらみたま〕神社」である。 同社は、大物主の荒魂を祀る(一般に神は、荒魂・和魂という二つの魂をもっている)。 従って、率川神社に祀られている父神は大物主であり、 そもそも神名帳に載る名称からして、「率川に坐ます三輪の神の御子の神社」である。 そして、率川神社は大神(おおみわ)神社の摂社である。境内に、「本社大神神社遥拝所」という石碑が建っている(写真=左=)。
<御由緒>によれば、創建は「推古天皇元年(593)大三輪君白堤が勅命によって」祀ったことによる。 従って、少なくとも推古天皇の時代には「媛蹈韛五十鈴姫=大物主の子」という伝説が存在した。記はこの伝承をそのまま取り入れたが、書紀ではあいまいである。 このように、率川神社は大三輪氏が添上郡春日郷に進出して創建したものなので、「さゐがは」が訛って「いざがは」になった可能性がある。 とすれば、率川と率川神社の命名順序は逆で、同社の近くを流れる川が「率川」になったことになる。 率川の別名「子守川」は神社の別名「子守明神」による。 《四恩院跡》 右はそれを略図にしたもので、四恩院付近を拡大して字起しした。四恩院には十三重の塔があったが、明和4年(1767)に焼失した。その場所には、現在奈良県新公会堂が建っている。 率川からは少し離れているが、一帯の地名が「率川」だった可能性もある。 但し四恩院跡だとすると、よく言われる「欠史八代の陵は、宮の北方にある」という説には反する。 《伊邪河宮の比定地》 各地で明治以後に建立された天皇聖跡碑と同様に、「春日之率川宮趾」の石碑があって不思議はないが、見つからない。有力な比定地とされる率川神社の境内も隈なく探したが、存在しない。 媛たたらいすず姫は大物主神の御子として祀られるが、神武天皇の皇后という立場は御由緒に書かれていない。率川神社が皇統との繋がりを意識しないことと、開化朝跡碑が建たないこととは関係があるかも知れない。 皇統に頓着しない伝統は、飛鳥時代に大三輪一族が管理していた頃からのものだと思われる。 そもそも記が「媛たたらいすず姫が神武天皇の皇后となり、綏靖天皇を生んだ」と書くのは、大三輪氏を朝廷の配下にするための形式に過ぎず、大三輪氏自身にとっての真実ではない。 かくも大三輪氏に遠慮した状態で、率川神社を開化朝の比定社にすれば、喧嘩を売ったことになったしまう。だから、率川宮の比定地にはしなかったのではないかと思われる。 それに比べれば、四恩院(建立は1215年)の土地は、元は上古の祭祀場であったかも知れず、記紀はそこを開化率川宮跡と決めただろうと想像した方がまだ自然である。 【菟上王】 天菩比命を祖とする国造に、上菟上国造・下菟上国造が出てくる( 第47回【天菩比命の子孫】)。 『国造本紀』に、上海上国造・下海上国造があり、菟上は海上の別表記である。 『倭名類聚抄』の{上総国/海上【宇奈加美】郡}の地名が、上菟上・下菟上の地とされる。 菟上王(うなかみのみこ)は、この地名に関係するとみられる。 【妃の出自】 《内色許売―穂積臣》 記の開化天皇前後の系図では、、内色許男命は穂積臣の祖とされ、その妹と娘は孝元・開化両天皇の妃となり、閨閥の家系となっている。 『新撰姓氏録』(以下、姓氏録)で穂積臣を探すと〖左京/神別/天神/穂積朝臣/朝臣/石上同祖/神饒速日命五世孫伊香色雄命之後也 〗 及び〖左京/神別/天神/穂積臣/臣/伊香賀色雄〔の〕男・大水口宿祢之後也 〗がある。 両臣の系図を合成すると「神饒速日命―○―○―○―○―伊香色雄命〔穂積朝臣の祖〕―大水口宿祢〔穂積臣の祖〕」となる。 伊香色雄は一般に「いかしこを」と読まれ、記の内色許男と同一視される。なお「内」は大和国宇智郡、「伊香」は伊賀の地名であろう。 姓氏録では、祖先の神饒速日命は天孫とは別系統なので「神別」に入れられる(後述の日下部の項で詳しく述べる)。 《意祁都比売―丸邇臣》 日子意祁都(おけつ)命・意祁都比売命はヒコヒメとして、丸邇臣の祖とされる。 姓氏録には、丸邇臣はないが、和邇部がある。〖山城国/皇別/和迩部/(姓なし)/小野朝臣同祖/天足彦国押人命六世孫米餅搗大使主命之後/一本〔=或る出典によれば〕彦姥津命三世孫難波宿祢之後也/日本紀漏 〔=日本書紀に記載なし〕〗(他に2臣)。 そして、書紀では姥津(おけつ)命・姥津媛が、和珥臣の遠祖(とおつおや)とされる。従って、丸邇のよみは「わに」であろう。 和邇氏は孝昭天皇を形式上の起点とする大族である(第105回【和邇氏】参照)。 その子、日子坐王(彦坐王、ひこいますのみこ)は17氏の小粒の地方氏族の祖となる。だからすべて和邇氏系と言うわけでもなく、さまざまな系統が混在している。 《竹野比売―丹波の大県主》 「22・丹波の竹野別」の項で詳しく示すように、竹野地域は丹波国にあったが、丹波国の分割後は丹後国に属す。竹野県は後の竹野郡と同じ地域だと見られる。名前「竹野媛」は、出身地による。 上古には国・郡(こほり)・県(あがた)の区別は実質的にはなかったが、<時代別上代>種々の条件によって、国郡と県邑を文辞の上で区別しようと</時代別上代>していた 〔つまり、山・谷を境界とするという地形上の特徴をもつ場合に、県と呼んだらしい〕。なお「県」には天皇の直轄田という意味もあるが、これは後世の用法である。 葛城は、武内宿祢の出身地である。垂見宿祢に姓「宿祢」がつくことも、武内宿祢の同族であることを暗示している。 そのことが、子・建豊波豆羅和気王が道守臣の祖であることに繋がるかも知れない(《道守臣は手違いで…》の項参照)。 『新撰姓氏録』によれば、波多臣・的臣が道守朝臣と同祖で、ともに武内宿祢の子孫であることを、第108回で紹介した。 姓氏録には「『姓氏家系大辞典』は波多矢代宿祢の後」と書いてあるので、記との間で矛盾をなくすには、 葛城の垂見宿祢を波多八代宿祢の子にしなければならない(図朱線)。 しかし、その場合は孝元天皇の皇太子が、孝元天皇の五世または六世の孫を妃に迎えるという不自然なことになる。 それを何とかしようとすれば、姓氏録を修正して垂見宿祢を彦太忍信命の別名とするか、武内宿祢の兄弟にするなどの処置を施さねばならない。 とは言え、道守朝臣のルーツが武内宿祢を代表格とする葛城系氏族団だと考えられていたのは間違いない。 その系図の一端に孝元天皇・開化天皇を絡ませたのは、諸氏族は形式的に天皇の裔を名乗るのが倣いとなったからである。 《山代之荏名津比売(苅幡戸弁)》 やましろの国は、『国造本記』によれば、橿原朝(神武天皇)には「山代」、志賀高穴穗朝(成務天皇)には「山背」と表記し、「山城」になったのは延暦13年(794年)である。 本来「城」の訓は「き」であったが、表記が「山城」になったことことによって初めて「城」に「しろ」という訓が加わった。 「荏名」は倭名類聚抄に{美濃国・恵奈郡}(以下{ }内は倭名類聚抄)、延喜式神名帳に「美濃国/恵奈郡/恵奈神社」。比定社は恵那神社(中津川市)。「荏名津比売」(恵奈の媛)と何らかの関係があるかどうかは不明である。 別名の苅幡戸弁は、「苅幡族の女性首長」を意味する(後述)。苅幡に類似する地名に、{山城国・相楽郡・蟹幡【加無波多】}がある。 蟹は、亀貝類に{蟹【和名加仁】}とあるように当時も「かに」と訓まれたが、「はた」の上代音は[pata]なので訛って[kampata]となったと思われる。また「かりはた」とも訛った可能性がある。 蟹幡郷は井手町の玉川から、木津市の鳴子川までの範囲だとされる(『京都寺社案内』―綺原神社)。地図で見ると、JR奈良線・棚倉駅玉水駅間の辺りである。 『延喜式』神名帳でこの地の社を見ると、「山城国/相楽郡/綺原坐健伊那大比売神社」〔かにはらにますたけいなだひめ神社〕がある。比定社は京都府相楽郡山城町綺田山際16。綺原も蟹幡の転と言われる。 荏名津比売の子が祖となった勢力のうち、比較的比定地としての確度が高い佐那造・比売陀君・当麻勾君・佐佐君を地図(右)に落としてみると、蟹幡郷から進出したことが納得できる位置であると言える。 《沙本の大闇見戸売》
①佐保村について。実際には明治22年までは添上郡にこの村名はなく、同年三村が合併した際に、記紀の伝承からつけられた村名である。現在佐保川、方蓮佐保山などに名が残る。 ②沙本毘子王の謀反。垂仁天皇段・垂仁天皇紀ともに、沙本毘売が垂仁天皇の皇后となった後、沙本毘子によるクーデターの話を載せる。 最後は落城し、沙本毘子・沙本毘売共に死んだ。記にはなかなか面白い話が載っているが、詳しくはその回のところで読む。 ③「建国勝戸売は春日県主の一族に属する。」また「沙本毘子の外戚として謀反に加担したことにより没落し、代わって和邇臣が進出した。」という 件りは、〈大辞典〉著者独自の見解である。 </大辞典の記述について>
《近淡海の御上祝》 倭名類聚抄に{近江国・野洲郡・三上【美加無】}。 『延喜式』神名帳に「近江国一百五十五座/野洲郡九座/御上神社」。比定社は滋賀県野洲市三上838。祭神は、天之御影命(一柱のみ)。 <御由緒>「三上山を神体山として鎮祭されている。 第七代孝霊天皇六年六月十八日に祭神天之御影神が三上山に御降臨になったので、神孫の御上の祝(神主)等は三上山を清浄な神霊の鎮まります 神体山として斎き祭った。」 祝(はふり)…神職。神官。 三上山(標高432m。写真=右)に降りた天之御影神の女、息長水依比売・袁祁都比売命姉妹が日子坐王の妃になった。 天之御影神の裔は、御上の祝として三上山に斎く。日子坐王と息長水依比売の子、水之穂真若王は、安直(野洲の国造が名乗る姓)の祖となった。 《名前に添えられた地名》 息長水依比売・袁祁都比売命の子孫とその妃の名前から地名を負うものを拾うと、葛城1、山代1、丹波4である。 〈大辞典〉は、大筒木真若王が初め山城にいた以外、概ね丹波にいたと述べるが、系図から読み取れる以上のことは書いていない。 この部分の系図は多くの名が登場し繋がりも複雑なので、偽作ではなく一定の実資料が反映した可能性がある。 面白いのは高材比売の父・丹波之遠津臣で、もともとは「丹波の、名前不明の大昔の臣」という意味だった可能性がある。
丹波道主族は、〈大辞典〉によれば、「比古由牟須美命〔書紀には"彦湯産隅命"〕・日子坐王・建豊波豆羅和気王の後継諸氏を総称せる名称也。」 丹波道主は、丹波比古多多須美知能宇斯王、即ち「丹波の彦立たす道の主(うし)のみこ」を簡略化し、代表格としたもの。 「丹波道主族」のよみは、記のよみ方に従えば〔たにはのみちのうしのうがら〕となる。比古由牟須美命以外の2王が23氏族の「祖」とされる。それぞれの氏族の概略を調べた。 《姓(かばね)の種類》 これらの氏族には、多様な姓(かばね)が付されている。 それぞれの姓の、本来定義を調べる。[ ]内は、それぞれの姓のの使用数である。 ・国造(くにのみやつこ)[3]…<時代別上代>大化の改新以前の世襲の地方行政官。その支配範囲は後の国より狭く、おおよそ郡にあたる。 ・直(あたひ)[1]…国造・稲置と同様、地方行政官。〈大辞典〉国造に与えられる姓。 ・部(べ)[1]…姓ではなく、専門の職能をもって伴(官僚)や朝廷・豪族に隷属する一般民衆。 ・造(みやつこ)[1]…主に部を統括する。 ・部造(とものみやつこ)[2]…部を統括する。 ・別(わけ)[5]…国造・稲置と同様の、地方行政官。〈大辞典〉別は皇族地方官の職名で、厳密なる意味に於けるカバネではなく、別にカバネをもつことを常とする。 ・君(きみ)[6]…姓の一。地方の皇別氏族。 ・連(むらじ)[2]…姓の一。皇別に多い臣に対して、神別に多い。 『時代別上代』によると、「伴造(トモノミヤツコ)は部民(トモノヲ)を統括する職名。クニノミヤツコの対。」 つまり、人民を地域で括ったのが「国」、職能で括ったのが「部」である。 部の語源については<時代別上代>制度そのものが百済の部制から採られたものとして、百済の帰化人たちが本国の習慣にならい、字音の「へ」を用い、「部」の字で表したとする説が有力である。</時代別上代> 部は当然集まって住むから、「~部」も自然に地域を表すようになる。近世の城下町で職人を集めて住まわせた「職人町」が、地名になるようなものである。 稲羽之忍海部以外は、すべて統治者として公認された証としての姓がつく。 だから、「~王はAの祖なり」と書かれたところのAは地域・集団を漠然と表すのではなく、特定の家系を直接指していることがわかる。 《地方統治者の姓の"格"》 直・別は、国造とほぼ同義である。それでは部や君の支配域(部民の居住地)の広さはどの程度であろうか。 一例として忍海郡は葛上・葛下両郡にはさまれた狭い郡なので、ほぼ忍海部の居住地と一致すると想像される。 また、比売陀君は天鈿女命を祖とし、朝廷の神事に舞踊を奉納する稗田氏を統率したと思われる。稗田氏の居住地は添上郡稗田村であった。
《参考資料》 資料は凡例の通り。できるだけ原文の画像、あるいは文字データ化した原文資料を利用した。 ただし『姓氏家系大辞典』は大量の原資料を真摯に調べ挙げ、出典を明示し、引用と著者自身の見解の区別を明確にして書いているので、重視した。 また、各社の「御由緒」は一次資料とは言えないが、地域独自の伝承を含む点を重視した。
天武天皇13年には、52臣を朝臣(八色の姓の第二位)に定めたのに続き、50連を宿祢(同じく第三位)に定めた。 しかし、表のうち50宿祢に含まれるのは、日下部連(草壁連)と、忍海部造(凡海連)に過ぎない。 孝元天皇段の臣の多くが朝臣52氏に含まれるのに比べると、開化天皇段の23族は小粒である。 表記法は、基本的に「律令国+氏族名+国造レベルの姓」である。前述のように国造の支配域は郡程度なので、その程度のレベルの地方氏族であることを示している。 その分布を地図に落とすと、当然のことながら畿内中心だが、生みの妃毎に若干の地域的特徴がある。 〈大辞典〉は、「穂別(11)と甲斐国造(7)の姓は、日本武尊に従った氏族に与えられた」という説を提示する。 ここに書かれる他にも同程度の氏族が多数あったと思われるが、とてもすべては書ききれないだろう。 だが記に天皇の裔と書かれれば、大いに権威が高まるはずである。残りは以後に回された。 《道守臣は手違いで紛れ込んだのだろうか》 前項で述べたようにこの段の氏族は小粒だが、その唯一の例外が道守臣である。 朝臣レベルは孝元天皇の段に、宿祢以下は開化天皇の段に置くという割り振りから見れば、道守臣は孝元段で、武内宿祢を祖として書かれるはずである。 道守臣が開化段に紛れ込んだのは手違いだろうか?しかも、これは単純な筆写ミスで起ることではないので、執筆段階の誤りということになる。 しかし、実は意図的にここに置いたのかも知れない。というのは、建豊波豆羅和気王が葛城の垂見宿祢の孫で、道守臣も葛城の武内宿祢系だからである。 建豊波豆羅和気王系は日子坐王系と書き方を変え、根本に道守臣をどんと置き、そこから小粒な五氏が分岐したことを示したのだろう。 《国造本紀の読み方》 本巣郡は、もともと本巣国と呼ばれていた地域が、美濃国制定のときにその一郡として位置づけられたと見られる。 国造本紀では、美濃は三野前国造・三野後国造の二国に分かれていたことになっており、三野前国造は「春日率川朝〔開化天皇〕、皇子彦坐王〔の〕子、八瓜命、定賜国造。」とあり、 古事記では、八瓜日子王が本巣国造だから、研究者は本巣国=三野前国であろうと考え、注記を加えた。 何れにしても、本巣国造の任命は律令国制定より古い時代で、本巣郡の地域はかつては三野前国と呼ばれていたようだ。 前述したように国造の「国」は、後の郡程度の範囲だろうと考えられている。 一方で、同書には「美作国造。諾羅朝〔なら朝、元明天皇〕和銅六年〔713年〕割二備前国一置二美作国一」と律令国制定以後の記事が混ざっている。 仮に「美作国造」が存在したとしても、それは古い職名の残存に過ぎず、和銅六年に新たに「国造」が任命されることは有り得ない(律令制における国の長官は国宰、後に国司である)。 第108回で取り上げた紀伊国造は、国の統治権を失ったものの、宮司を世襲する家に「国造」の名が残る例である。 『国造本紀』にある日付の最終は、弘仁十四年(823年)なので、成立はそれ以後である。 ところで、その日付がある賀我国造の項には興味深いことが書かれている。 「賀我〔かが〕国造。泊瀬朝倉朝〔雄略天皇、5世紀〕御代、三尾君祖、石撞別命四世孫、大兄彦君、定賜国造。 難波朝〔孝徳天皇、650年前後〕御代、隸越前国、嵯峨朝〔嵯峨天皇〕御世、弘仁十四年、割越前国分為加賀国。」 〔賀我国造。雄略天皇の御世、三尾君の祖、石撞別命の四世孫、大兄彦君を定め賜わり、孝徳天皇のとき賀我国は越前国に吸収され、823年に再び分離して加賀国になった。〕 しかし、5世紀に定められた賀我国造は9世紀にできた加賀国への支配権は既に失っていて、単なる家柄に過ぎないのは明らかである。 このように、『国造本紀』はまだ実権を伴う支配者だった時代に「国造」を定めた神話と、国造の「国」が律令国の国郡里制下の国に移行していった歴史を書いた書である。
伊邪河之坂上(いざかはのさかのへ)の陵は、書紀では春日率川坂本陵(かすかのいざかはのさかもとのみささき)。あるいは…坂上陵(…さかのへのみささき)。坂本=坂の下だから、坂上とは正反対である。 ●『延喜式』諸陵寮…春日率川坂上陵。春日率川宮御宇開化天皇。在大和国添上郡。兆域東西五段南北五段。以在京戸十烟。毎年差充令守。〔毎年差し充て守らしむ;1年交代という意味か〕 ※段=反〔面積の単位、近代は約100㎡〕。京戸(きょうこ)…京中の民政に当たったのが左右の京職で,これにより編戸造籍された住民を京戸という。 烟…荘園や寺社領の田を農家の戸数で数える助数詞か。『宇佐大鏡』に「御封田六百四十烟」の表現がある。 ●『五畿内志』…春日率川阪上陵【開化天皇○在二南部林小路町一】 古墳としては「念仏寺古墳」と言い、市街地にある。 前方部の近くまで江戸時代には墓地であった。『奈良新聞』2008年12月12日付によると、宮内庁の発掘で考古学者の見学を許可し、同月11日午後、約30分間研究者らが立ち入った。 「昭和五十年〔1975〕の鳥居の建て替え工事で江戸時代の骨つぼや棺が出土。今回も同じ場所を発掘し、同時期の骨つぼの破片や寛永通宝。貴人にかざす傘をかたどった五世紀頃の蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)の破片が一点出土したというが、公開されなかったという。」 全長105mで周濠(ただし空堀)があり、一応前方後円墳と言われているが、天皇陵墓として宮内庁管理下にあるので学術調査は行われていない。 地名から見て、この古墳が伊邪河之坂上陵(記)、春日率川坂上陵(書紀)であろう。この地の現在の地名は油阪で、中世には符坂(ふさか)庄と言った(「奈良県」の古代地名辞典より)。 地形図によって等高線を見ると、陵の基準面の標高は約65m。坂の勾配は27分の1(270進むと10m上る)で、東北東に向かって上る。陵の長軸方向が、傾斜の向きと直交している。 書紀には坂本・坂上と2通りに書かれるが、陵を西から見れば坂上、東から見れば坂本にあるから、どちらも間違いではない。 【書紀】 第九目次 《開化天皇》
母(はは)欝色謎命(うつしこ〔め〕のみこと)と曰(い)ひたまひ、穂積臣(ほつみのおみ)の遠祖(とほつおや)欝色雄命(うつしこをのみこと)之(の)妹(いろど)也(なり)。 天皇、大日本根子彦国牽天皇廿二年(はたとせあまりふたとせ)春正月(むつき)を以ち、皇太子(ひつぎのみこ)に立為(たたせたまふ)、年(みとし)は十六(とちあまりむつ)。 五十七年(いそとせあまりななとせ)秋九月(ながつき)、大日本根子彦国牽天皇崩(ほうず、かむあがりす)。 冬十一月(しもつき)辛未(かのとひつじ)を朔(つきたち)とし壬午(みづのえうま)のひ〔12日〕、太子(ひつぎのみこ)天皇の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。 元年(はじめのとし)春正月(むつき)庚午(かのえうま)朔癸酉(みづのととり)〔4日〕、皇后(おほきさき)を尊(たふと)び皇太后(おほみさき)と曰(とな)ふ。 冬十月(かみなつき)丙申(ひのえさる)朔戊申(つちのえさる)〔13日〕、[于]春日之地(ところ)に都を遷して【春日、此箇酒鵝(かすが)と云ふ。】、 是(こ)を率川宮【率川、此伊社箇波(いざかは)と云ふ。】と謂ふ。是の年は[也]、太歳(たいさい、おほとし)甲申(きのえさる)。 五年(いつとせ)春二月(きさらぎ)丁未(ひのとひつじ)朔壬子(みづのえね)〔6日〕、大日本根子彦国牽天皇を[于]剣池嶋上(つるぎのいけのしまのへ)の陵(みささぎ)に葬(はぶ)りたまふ。 六年(むとせ)春正月(むつき)辛丑(かのとうし)朔甲寅(きのえとら)〔14日〕、伊香色謎(いかしこ〔め〕)の命を立たし皇后(おほきさき)と為(し)たまふ。【是庶母也。】 后(おほきさき)、御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにゑ)の天皇を生みたまふ。 先是(このさき)、天皇、丹波(たには)の竹野媛(たかのひめ)を納(めあは)せ妃(きさき)と為(し)、彦湯産隅(ひこゆむすみ)の命【亦の名は彦蔣簀(ひここもす)の命】を生みたまふ。 次に妃和珥(わに)の臣の遠祖(とほつおや)姥津命(おけつのみこと)之(の)妹(いも)姥津媛(おけつひめ)を娶せ、彦坐王(ひこいますのみこ)を生みたまふ。 廿八年(はたとせあまりやとせ)春正月(むつき)癸巳(みづのとみ)朔丁酉(ひのととり)〔5日〕、御間城入彦(みまきいりひこ)の尊を立たし皇太子(ひつぎのみこ)と為(す)、年(よはひ)は十九(とちあまりここのつ)。 六十年(むそとせ)夏四月(うづき)丙辰(ひのえたつ)朔甲子(きのえね)〔9日〕、天皇崩。 冬十月(かみなつき)癸丑(みづのとうし)朔乙卯(きのとう)〔3日〕、[于]春日(かすが)の率川(いざかは)の坂本(さかもと)の陵(みささぎ)に葬りたまふ。【一云(あるいはく)、坂上陵(さかのへのみささぎ)。時に年(みとし)は百十五(ももちあまりとちあまりいつつ)。】 《暦》 7回の朔日のうち、神武天皇で仮定した計算上の暦から、五年春二月丁未朔のところで不一致を生じた(参照)。 同月朔日は、計算上丙子である。その前後は4年12月=戊申、同閏12月=丁丑、5年1月=丁未、同2月=丙子、同3月=丙午となっている。 丁未と丙子は30日もずれているので、計算上の誤差ではない。草稿では「正月」だったのが、決定稿の段階で誤って「二月」と筆写されたのかも知れないが、確かなことは分らない。 《丹波道主族の扱い》 書紀では、ここまで皇子を祖とする諸族の紹介はばっさりと削除されている。開化天皇紀でもすべて省かれている。 その理由として、①諸族の祖は、記の記載によることとする。②失われた書紀別巻の系図にまとめた。の2通りが考えられる。 ②であろうと考えていたが、例外的に孝霊天皇紀の稚武彦命、孝元天皇の大彦命に祖とする諸族の記載があり、これらは記を補足していると見られるので、①かも知れない。 【欠史八代の都と末裔氏族】
和風諡号のタイプは、「みみ・びび」を出雲系と見做した。「地祇系」は先住氏族の神名という意味で、実際の天皇の位置づけはもちろん天神である。 《葛城王朝・春日王朝》 欠史八代を概観したとき(第102回)、八代は同時期に並立していたものを、直列に接続して系図を合成したとする仮説を示した。 その後、細かく検討を加えた時点で言えることは、先住の独立氏族は高市郡3、葛上郡2、添上郡1。これらを征圧した天孫系王朝が、高市郡・葛上郡各1と見られる。 添上郡春日の開化朝は、続く崇神朝または垂仁朝によって倒されるのであろう。「先住族の神」vs「押人・国来る」という名前の組み合わせが、闘争の歴史を物語る。 全8王朝が同時に存在したわけではなく、少なくとも第6代(押人)は第5代よりは後・第8代(国来る)は第7代よりは後という順序は存在するが、その点を除けば多くの王朝の存在が時期的に重なっていたと想像される。 《諸族の分岐》 王たちは、数多くの氏族の祖に位置づけられる。それらは、多氏・吉備氏・和邇氏・葛城系諸氏という有力な氏族と、国造級の地方氏族に大別される。 興味深いのは、大族の中にも、和邇氏のように独自の系図をもつ結束の強い族もあれば、多氏のように実際には繋がりはないが、形だけ同祖とされた族もあることである。 特に多氏については、筆者の太安万侶が自分の出身族を大きく見せようとした気配がある。 《諸族の系図を繋ぐ意義》 各氏族の系図の出発点を、何れかの天皇に置くことは重要である。もしそれをせねば、朝廷に仕える氏族は単なる寄せ集めになってしまい、統制が取れないだろう。 欠史八代を設定した目的の一つは、天皇からの系図と接点のない氏族に、接点を提供することだと考えられる。 だから、この部分に事跡は不要である。 それでは系図の接続は、氏族側からの要望か、朝廷からの要求か。 恐らく中小氏族は前者で、大族は後者である。率川神社の項では、祭神を見ると祀主の大三輪氏は独立心が強く、神武天皇との関係などどこ吹く風であった。 また、いくつかの有力氏族は、天孫の裔であることを拒否する。物部氏は、天孫に先だって降りた饒速日命を祖とする。大伴連の祖・道臣は、瓊瓊杵尊の伴緒〔=天孫を助ける友〕として降臨に随伴した形をとる。 それに対して、国造レベルの氏族は進んで天皇の裔になれるように、希望したと思われる。欠史八代の最期の開化天皇段に大量に載ったのは、執筆中に掲載を希望する族が増えたためではないかと思われる。 《都と諸族の本願》 各代天皇の都と派生氏族の本願との間に、直接の関連はない。皇子(=王)は、都からどれだけ離れていても、その地に移動して祖となったことにすればよいから、差支えない。 実際には都の場所との関係は気にせず、大小の氏族を適宜グループ化して各代に割り振ることにしたようだ。 さて、全体を俯瞰すると大族の本願と各王朝の都は、どちらも葛城から高市郡、あるいは和邇・春日に分布し、同じ地域に重なる。 実は、王朝と大族は同じ歴史的存在であり、そこに異なる光を当てることにより、異なるものとして伝説化されたものではないかと考えるものである。 《想定される物語》 その立場から、欠史八代の段の解釈を試みる。例えば、綏靖天皇は「沼河耳」の名が示すように、高志の血を受け継ぐ出雲系で、紀伊国を経て葛城国にやってきて王朝を建てた。その系列は綏靖天皇―考昭天皇―武内宿祢と繋がる。その一族は天孫側から押してきた孝安天皇と戦い敗れたが、その後は宿祢として朝廷に忠実に仕える。 一方、北部戦線では開化天皇は和邇氏の一派を率いていた。一族の狭穂彦王が垂仁天皇と激しく戦う場面もあったが持ちこたえ、やがて和邇氏は各地に勢力を広げる。 これらの筋書きはまだ大雑把であるが、ある地域にあった都の場所との関係は気に王朝が、その地の氏族と一体の存在であったと仮定すると、随分見通しがよくなるように思われる。 まとめ しかし、だからと言って「祖の家系が天孫から繋がる」箇所までが事実であるわけではない。各氏族の先祖は、形而上の世界〔現実から離れた、思惟による世界〕にある。 ただし、各氏族独自の系図や本願の伝統は尊重されたと思われる。そうでなければ、古事記の系図はとても受け入れられなかっただろう。 ある皇子を出発点にすることを、その氏族が受け入れれば話は簡単である。しかし、その氏族が自らの祖を棄てることに拒否感を示す場合は、右図に示したテクニックを用い、「娶A女B毘売生子R王【此王XY之祖也】」と書き、天孫の系図と絡ませる。 典型例として沙本毘古王の場合、A=春日建国勝戸売、B毘売=沙本之大闇見戸売、R王=日子坐王―沙本毘古王、X=日下部連、Y=甲斐国造である。 氏族側も、記で祖が決められたとしても単なる形式として割り切っていた節があり、その例が率川神社のところで述べた大三輪氏である。 また、熊野大社の祭神リストで、神武天皇の滞在が無視されていることに触れた(第97回【熊野信仰の特質】)。 太安万侶としては、天武天皇の氏族統合の方針を守り苦心して系図を切り貼りしたが、実際のところは氏族はしばしば面従腹背で、時には平気で氏族同士が争ったり、反乱を起こしたりするわけである。 さらに、有力な氏族の中には前述した物部氏や大伴氏のように、天孫の系図に形式的に入ることすら、正面から嫌った例もある。 なお、歴代王朝が葛城・添上に置かれたのは、有力氏族がこの地域を本願としたことによると思われる。 系図は複雑だが、大局的に見て王朝と氏族はもともと一体であった。 さて、ここまでの考察から、各「王朝」を単調な直線状に繋いだ系図は形而上のものである。従ってそれぞれの都・陵とされるものは基本的にフィクションである。 書紀では、更にもっともらしく日付までが創作された。明治以来、人々が都・陵の場所を「発見」することに熱中し、その結果各地に建てられた聖跡碑を見るにつけ複雑な気持ちになる。 |
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2015.10.10(sat) [110] 中つ巻(崇神天皇1) ▼▲ |
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御眞木入日子印惠命坐師木水垣宮治天下也
此天皇娶木國造名荒河刀辨之女【刀辨二字以音】遠津年魚目目微比賣生御子豐木入日子命 次豐鉏入日賣命【二柱】 御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにゑのみこと)、師木水垣宮(しきみづがきのみや)に坐(ま)し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此の天皇(すめらみこと)、木国造(きのくにのみやつこ)、名は荒河刀弁(あらかはとべ)之(の)女(むすめ)【刀弁の二字(ふたじ)音(こゑ)を以(もち)ゐる。】遠津年魚目目微比売(とほつあゆめまくはしひめ)を娶(めあは)せ、生(あ)れましし御子(みこ)豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)、 次に豊鉏入日売命(とよすきいりひめのみこと)【二柱(ふたはしら)なり。】 又娶尾張連之祖意富阿麻比賣生御子大入杵命 次八坂之入日子命 次沼名木之入日賣命 次十市之入日賣命【四柱】 又、尾張連(をはりむらじ)之祖(みおや)意富阿麻比売(おほあまひめ)を娶し、生(あ)れましし御子(みこ)大入杵命(おほいりきのみこと)、 次に八坂之入日子命(やさかのいりひこのみこと)、 次に沼名木之入日売命(ぬなきのいりひめのみこと)、 次に十市之入日売命(とほちのいりひめのみこと)【四柱なり。】 又娶大毘古命之女御眞津比賣命生御子伊玖米入日子伊沙知命【伊玖米伊沙知六字以音】 次伊邪能眞若命【自伊至能以音】 次國片比賣命 次千千都久和【此三字以音】比賣命 次伊賀比賣命 次倭日子命【六柱】 又、大毘古命(おほびこ)之女(むすめ)御真津比売命(みまつひめのみこと)を娶せ、生(あ)れましし御子(みこ)、伊玖米入日子伊沙知命(いくめいりひこいさちのみこと)【「伊玖米伊沙知」の六字音を以(もち)ゐる。】、 次に伊邪能真若命【伊自り能至(まで)音を以ゐる。】(いざのまわかのみこと)、 次に国片比売命(くにかたひめのみこと)、 次に千千都久和【此の三字音を以ゐる。】比売命(ちちつくわひめのみこと)、 次に伊賀比売命(いがひめのみこと)、 次に倭日子命(やまとひこのみこと)【六(む)柱なり。】 此天皇之御子等幷十二柱男王七女王五也 此の天皇之御子(みこ)等(ら)并(おほよそ)十二柱(とはしらあまりふたはしら)、男王(をのこのみこ)七(ななはしら)女王(めのこのみこ)五(いつはしら)也(なり)。 故伊久米伊理毘古伊佐知命者治天下也 次豐木入日子命者【上毛野君下毛野君等之祖也】 妹豐鉏比賣命【拜祭伊勢大神之宮也】 次大入杵命者【能登臣之祖也】 次倭日子命此王之時始而於陵立人垣 故(かれ)伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)者(は)天下を治めたまふ[也]。 次に豊木入日子(とよきいりひこ)命者(は)【上毛野君(かみつけののきみ)下毛野君(しもつけののきみ)等(ら)之祖(みおや)也(なり)】。 妹(いも)、豊鉏〔入〕比売(とよすきいりひめ)命【伊勢大神(いせのおほみかみ)之宮を拝(をろが)み祭(まつ)りたまふ[也]】。 次に大入杵(おほいりき)命者(は)【能登臣(のとのおみ)之祖(みおや)也(なり)】。 次に倭日子命、此の王(みこ)之時、始而(はじめて)[於]陵(みささき)に人垣(ひとがき)を立たせたまふ。 御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)は師木水垣宮(しきのみずがきのみや)にいらっしゃり、天下を治められました。 この天皇は、木国造(きのくにのみやつこ)、名は荒河刀弁(あらかわとべ)の息女、遠津年魚目目微比売(とおつあゆめまくわしひめ)を娶り、御子、豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)、 次に豊鉏入日売命(とよすきいりひめのみこと)を生みなされました。【二柱です。】 また、尾張連(おはりむらじ)の祖、意富阿麻比売(おおあまひめ)を娶り、御子(みこ)、大入杵命(おおいりきのみこと)、 次に八坂之入日子命(やさかのいりひこのみこと)、 次に沼名木之入日売命(ぬなきのいりひめのみこと)、 次に十市之入日売命(とおちのいりひめのみこと)を生みなされました。【四柱です。】 又、大毘古命(おおびこ)の息女、御真津比売命(みまつひめのみこと)を娶り、御子(みこ)、伊玖米入日子伊沙知命(いくめいりひこいさちのみこと)、 次に伊邪能真若命【伊自り能至(まで)音を以ゐる。】(いざのまわかのみこと)、 次に国片比売命(くにかたひめのみこと)、 次に千千都久和【此の三字音を以ゐる。】比売命(ちちつくわひめのみこと)、 次に伊賀比売命(いがひめのみこと)、 次に倭日子命(やまとひこのみこと)を生みなされました。【六柱です。】 この天皇の御子らは、おおよそ十二柱、男子王は七柱、女子王は五柱です。。 そして、伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)は、天下を治められました。 次に豊木入日子(とよきいりひこ)の命は、上毛野君(かみつけののきみ)、下毛野君(しもつけののきみ)らの祖です。 妹の豊鉏入比売(とよすきいりひめ)の命は、伊勢大神(いせのおおみかみ)の宮を拝み祭られました。 次に大入杵(おほいりき)の命は、能登の臣の祖です。 次に倭日子の命、この王(みこ)の時、初めて陵に人垣を立たせられました。 【御真木入日子印恵命】 みまきいりひこいにゑのみこと。書紀は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにゑのすめらみこと)。 漢風諡は、崇神天皇。 「まき」の語源は「優れた木材」で、後に植物名「槇」となる。「いにゑ」は「稲植」であろうか。とすれば森林や農耕に関わる神の名ということになるが、想像の域を出ない。 【師木水垣宮】
比定地が一般に「志貴御県坐神社」とされるのは、『大和志』(享保19年=1734)に由来する。 <『大和志』城上郡【古蹟】> 瑞籬宮【在二三輪村東南志紀御縣神社西一崇神天皇選二於磯城一是謂二瑞籬宮一】 『延喜式』神名帳に、〖大和国二百八十六座/城上郡卅五座/志貴御県坐神社〗、比定社は志貴御県坐神社(奈良県桜井市金屋896)。 「御県」社は、 神名帳に〖御県尓坐皇神等乃前尓白久〔=添富〕・高市・葛木・十市・志貴・山辺。〗〔御県に坐す皇神すめかみら乃すなはち(6県)の前にあり〕とある通り、 6県の県の中心神社として設置されたものの一つと見られる。 御県坐神社は大神神社に近く、恐らく磯城県の中心地にあったのだろう。 「崇神天皇磯城瑞籬宮趾」の石碑(大正4年=1915年建立)は境内に建っているが、『大和志』では当社の西としている。 このように、御県神社の西の大和川沿いの一帯が都だとする推定には、頷けるものがある。 さて、先代までの葛城や春日から、ここに遷都していることは重要である。崇神天皇陵も柳本古墳群(式上郡)の巨大古墳である行燈山古墳に比定されている。 崇神朝の所在地については、同陵の項で考察する。 【尾張連】 これまでに出て来た尾張連の祖は一人ではなく、奥津余曽(孝昭天皇段)、意富那毘(孝元天皇段)、意富阿麻比売(崇神天皇段)がいる。 「尾張」と言えば東海道の尾張国だが、少なくとも崇神天皇の時代以前は葛城国の氏族と見るのが妥当である。 その根拠は次の通りである。 ①神武天皇紀に、高尾張邑が葛城邑に改名したと書かれる。 ②地名「をはり」は、その時代ごとに、支配域の境界(終わり)を意味する可能性がある(第105回)。 ③孝元段では、皇子が娶った尾張連の祖の妹の名が「葛城之高千那毘売」である(第108回系図)。 ④ここまで閨閥の本願とされた地は磯城、十市、春日、紀伊国で、基本的に大和国内または隣接地域である。 『倭名類聚抄』には、尾張【乎波里】〔後の尾張国〕、信濃国/水内郡/尾張【乎波利倍】、美作国/邑久郡/尾張【乎八利】がある。 これらは尾張族の進出地かも知れないが、時々の辺境を「をはり」と呼んだ可能性もある。 以前、尾張国熱田に草薙の剣を祭ったのは、大和政権膨張の過程のある時期に、東国に進出する最前線であったからではないかと考察した(第53回【草薙の剣の不思議な旅】)。 その頃は東の終わりが尾張国で、西の終わりが美作国だったのだろうか。 《姓氏家系大辞典》 この件に関して、『姓氏家系大辞典』(以下〈大辞典〉)はどう見ているのだろうか。 著者太田亮氏は、『先代旧事本紀』は江戸時代に偽作だと断じられたが、その後一定の価値が認められるようになったと述べ、 特に尾張氏の系図については「信拠するに足るもの尠〔すくな〕からざるを信ず」と述べる。 ただし、旧事紀が天火明命と饒速日命を同一視していることについては 「饒速日命は天神、火明命は天孫なり、断然別人とすべし。」としている。若干説明を補うと、天火明命は日向三代(神武天皇への直系)の初代瓊瓊杵の兄(記)または、二代目彦火火出見尊の弟(書紀本文)である(第87回)。 一方、饒速日命は天孫系列の外にあり、瓊瓊杵とは無関係に天降りした。 太田氏は諸資料を突合し、尾張氏の系図をまとめ上げた(右図上;〈大辞典〉の系図を浄書)。それを見ると葛城の名を負う人に囲まれているから、崇神帝の頃までの尾張氏が葛城にいたのは決定的だとする。 その後、倭得玉彦の子・弟彦や崇神帝の子・八坂入彦命が美濃の国に移ったことについては根拠を示すが、 尾張国造に繋がる根拠は見つけられなかったようである。 《尾張国造は別系統か》 尾張国造が葛城尾張氏との繋がる資料がないのは、「存在したが、失われた」のではなく、実は存在しないとも考えられる。 本当は、全く無関係な二氏族ではないだろうか。 となれば、前項②の「大和政権が時々の境界域を"をはり"と呼んだ」という仮説が生きてくるのである。 【千千都久和比売】 書紀では「千々衝倭姫」。 記では「都久和【此三字以音】」により、「ちちつくわひめ」は確定している。 神武天皇即位前紀の「怡奘過【過音倭】」〔"過"の音、ワ〕により書紀では「倭」を音仮名ワに用いるから、書紀でも「ちちつくわひめ」はあり得る。 しかし、次の倭彦命(記は倭日子)は明らかに「やまとひこ」なので、記の「千千都久和比売」がなければ、必ず「ちちつくやまとひめ」になるはずだ。 試にネットで検索したら「千々衝倭姫+"ちちつくやまとひめ"」で17件、「千々衝倭姫+"ちちつくわひめ"」で1件ヒットした。 但し、このページのアップ後は両者が1件づつ増えるであろう。 記の「つくわ」は、「格助詞つ+くわ」とも思われるが、上代語に「くわ」という語は見当たらない。桑は"くは"、妙し(細し)は"くはし"である。 よって「つく(付、着、就)+輪」かと思われる。「倭国」の"倭(わ)"を意味するとすれば「倭(やまと)」への置き換えは妥当であるが、記紀には日本人自身が「やまとのくに」の意味で「わ」を用いた例はない。
遠津年魚目目微比売を妃として生んだ子・豊木入日子命は、上毛野君・下毛野君の祖とされる。 また、意富阿麻比売を妃として生んだ子・大入杵命は、能登臣の祖とされる。 上野国・下野国は、古くは毛野(けの)だったのが分割され上毛野(かみつけの)・下毛野(しもつけの)となり、国郡里制を制定する際、それらの名称の漢字二文字化に伴い「毛」を省いたものである。
国造本記に言う「東方十二国」が具体的にどの国を指すかは不明だが、常陸国・上総国・下総国・武蔵国・相模国などを含む関東一円かと思われる。 おそらくもともとはその全体が「けの」と呼ばれ、そこから次第に各国が独立していったのではないかと想像される。 魏志倭人伝には、邪馬台国「以南」の遠絶の傍国として21の国名が挙げられ、それらはほぼ所在地不明である。 国名に「●野国」は多く、傍国に多く現れる「奴」の字は、古い国名に含まれる「ぬ」に相当するものであろう(魏志倭人伝;第26回参照)。 中国の中古音にはエ母音がないので、ケはキと書かれたかも知れない。そのひとつ「鬼奴国」は「紀の国」のことかも知れないが、「紀伊国」とも書かれるようにキを伸ばして発音されたことから考えると、 もともと「の」は入っていなかっただろう。傍国の一つに「鬼国」もある ので、鬼国=紀国、鬼奴国=毛野国だった可能性がある。それだけ存在感のある特別の地域が、魏志倭人伝の時代(3世紀後半)から東国にあったとも考えられる。 【上毛野君・百尊の逸話】 新撰姓氏録の編者は、雄略天皇紀九年の話に興味を持ち引用したと思われる。 【雄略天皇紀-九年七月】 雄略天皇23目次 《河内国言》
書首は史〔ふみひと、書類を掌る人〕部の首〔おびと、統率者〕の姓と思われる。
顔延之『赭白馬賦』に「欻聳擢以鴻驚、時濩略而龍翥」なる文があった。書紀は、この表現をそのまま借用したと見られる。 「異體峯生・殊相逸發」は対句で、「異体」も「殊相」も「ことすがた」と訓むと思われる。
⑥ 驄馬は後を追うが怠足で、もう追いつくことはできなかった。 ⑦ その駿馬に騎乗していた者は、伯孫が欲するところを知り、停まり馬を交換し、互いに辞して別れた。 ⑧ 伯孫は駿馬を得て甚だ歓び、驟〔はやがけ〕して厩(うまや)に入れ、鞍を解き秣(かいば)を与え、眠らせた。 ⑨ 翌朝、赤駿は、土馬になっていた。伯孫は何が起こったかといぶかり、誉田陵に戻り探した。 すると、(交換前の)驄馬が土馬の間にあったので、(赤駿が変わった)土馬と取り換えた。 〈国語辞典〉では「どば(土馬)…[名] 儀式用の飾り物の馬。」だが、〈時代別上代〉では「はにま(土馬)…[名] 埴(はに)で作った馬。」である。 この逸話から応仁天皇陵には馬形埴輪が並べられ、それを土馬と呼んだことがわかる。 初期古墳には円筒形埴輪が並べられたが、中期古墳では人物・動物・家形の埴輪が現れる。 《田辺史》 上毛野君と田辺史の関係について、〈大辞典〉は「此の氏・伯孫と云ひ、徳孫など云うによりて、帰化族なる事明白なれど、後世毛野氏と密接なる関係を結び、その系を冒し、遂に上毛野君姓を冒す。 蓋し上毛野君の部曲なるべし。」〔もともと帰化族だったが、毛野氏の部曲〔かきべ、豪族の私有民〕として食い込み、遂に上毛野君の姓を名乗るようになった〕という見方をしている。 【伊勢大神】 豊鉏比賣命【拝祭伊勢大神之宮也】すなわち、豊鉏比売を伊勢に送って天照大御神を斎(いつき)させた。 同様に垂仁天皇段でも、異母の女兄弟を派遣する。 斎王制度は、歴史的には天武天皇が大来皇女に伊勢神宮に派遣したことに始まる。 その記事は、天武天皇紀下巻:二年四月「欲遣侍大来皇女于天照太神宮」〔大来皇女を天照おほみかみの宮に遣はさむとしたまふ〕以下に書かれる。 伊勢大神とは、天照大御神のことだから、大神の訓みはおほみかみであろう。 本来「あの伊勢にいらっしゃる大御神」だったのが次第に固有名詞になったと考えられる。 固有名詞になった時代が古ければ「伊勢つ大神」、新しければ「伊勢の大神」と訓むのだろう。 そのどちらであるを調べるために、万葉集における「伊勢」を見ると、全部で11例あり「0081伊勢をとめ」以外はすべて「伊勢の」として使われる。また万葉集には「伊勢大神」の表現はない。 従って属格の助詞は、基本的に「の」が使われた。伊勢神宮の国家レベルの社への格上げは天武天皇の時期だから、「伊勢大神」の呼称もそれ以後だと思われる。 だから、伊勢大神の訓みは「伊勢のおほみかみ」であろう。 崇神天皇・垂仁天皇による「斎王の派遣」の記事は、斎王制度が初期朝廷以来の伝統の継承であると見せる。 しかし、ありふれた社に過ぎなかった伊勢神宮に本殿を造営し、格上げしたのは天武天皇である。それに伴って斎王制度も開始されたと思われるから、崇神・垂仁時代の「斎王」の話は、権威づけのための伝統を創作であろう。 【陵立人垣】 「陵に人の垣を立たす」は、倭彦命の死に伴う殉葬を意味するものである。 この件は書紀では次代の垂仁天皇紀に移され、話が膨らむ。 殉死について魏志倭人伝には、卑弥呼の冢に「徇葬者奴婢百餘人」とある。 垂仁天皇紀では、倭彦命の陵に生き埋めにした近習の泣き声に数日悩まされた垂仁天皇が、殉死の習慣を改めさせ埴輪を用いるようになったとされる。 実際には、人物埴輪は円筒形埴輪から発展し、古墳時代中期に用いられるようになったもので、殉死を禁ずる云々は伝説だと考えられている。 ただ薄葬令が殉死の禁止を含むのは、相変わらず殉死の習慣が残っていたからである。 その禁止を徹底するために、垂仁天皇紀では埴輪の由来譚に絡め、ことさらに殉死を悲惨に描いたと考えることができる。 16目次《垂仁天皇紀に見る倭彦命への殉葬と埴輪の由来(1)》
18目次《埴輪の由来(2)》
《壱佰人》 直観的に「ももたり」と訓めるが、「百人(ももたり)」で検索すると、近代の短歌(九条武子「ももたりのわれにそしりの…」)のみで、古文には用例が見つからない。 「~人」の訓を調べると、万葉集は「ひとり」「ふたり」のみでそれ以上の人数は出てこない。枕草子の「三四人」は一般に「みたりよたり」と訓まれている。一方「佰」には「百人一組の隊」の意味もある。 また、万葉集に「ももつしま(3367 母毛豆思麻)」(多くの島)という語がある。つは格助詞とも、助数詞ともとれる。これを援用すれば「壱百人」の訓みは「ももつびと」となる。 何れにしても「壱佰人」は、人数が百人というより、「百人規模の職能集団一組」だと思われる。 《孝徳天皇紀》 大化二年(646年)三月癸亥朔、甲申(22日)に、葬・陵の全体的な簡素化を命じた中に、人馬の殉死を禁ずる項目がある。 凡人死亡之時、若經自殉・或絞人殉及强殉亡人之馬・或爲亡人藏寶於墓・或爲亡人斷髮刺股而誄、如此舊俗一皆悉斷 凡(おほよそ)人死亡せし時、若し経(つねにし)て自ら殉じ、或(ある)は人を絞め殉じさせ、及び亡き人の馬に殉を強ひ、或は亡き人の蔵宝を墓に為し、或は亡き人を断髪・刺股して誅し〔=死体を罰して傷める行為〕、此の如き旧俗は一皆悉く断て。 文脈から見て、当時は大王の葬儀に伴う制度としての殉死は既になく、時に私的に行われた殉死を禁じたものと読める。 《古墳への殉葬はあったか》 古代中国の殷墟から、奴隷を殉死させたと見られる人骨が発掘されていると言うが、わが国の 古墳から殉葬と見られる大量の人骨が見つかった例は、見つけることはできなかった。 魏志倭人伝については、卑弥呼の前方後円墳を「冢」(円形墓)と描写していることを考え併せると、「徇葬者奴婢百餘人」は風聞か、あるいは 古代中国・朝鮮の習慣から類推したに過ぎないようにも思われる。詳細は略すが、距離の単位が「x里」から「水行・陸行x日」に変わったところで、以後は魏国の使者が足を踏み入れるのが稀な地域となり、その風俗・習慣は倭人からの聞き書きが中心だと思われる。 ただ古今東西を問わず、慕っていた主君に私的に殉ずることがあったのは事実である。 また、古墳時代に一部氏族に殉葬があったことまでは否定しきれない。 大化2年に禁止令が出たのは事実として殉死があったからだし、江戸時代の武家諸法度にも殉死の禁止が明記されている(天和令;綱吉の時代)。近代にも、乃木大将が明治天皇に殉じた例がある。 一つだけ確かなことは、飛鳥時代の我が国の文化は、殉死を抑制する方向を向いていたことである。 《「人垣」という表現》 多数の人形埴輪が出土した古墳の例として、今城塚古墳(6世紀、大阪府高槻市郡家新町)がある。 「埴輪祭祀区」と呼ばれる区域から家、動物、巫女、力士、武人などの埴輪が多数出土した。復元展示(写真)を参考にすると、人形埴輪を並べた様子は「人垣」と形容され得ると思われる。 そして、古代には埴輪ではなく、生きた人を並べて殉死させたとする伝説を載せたのだろう。垂仁紀では、それに枝葉を加えて物語に仕立てたわけである。 《土師臣・土師部》 上記の垂仁天皇紀の続きを読む。
つまり土師部は野見宿祢の功績により、土師臣の姓と土地を賜わった。そして野見宿祢を始祖とする土師連は、天皇の喪葬を掌る氏族となった。 それでは「臣」と「連」はどのような関係なのだろうか? 〈大辞典〉の説明を見たが、そこには土師連は「土師氏の連姓を賜へる者也。」と述べるのみであった。 臣・連の語源は、臣=美称「大御(おほみ)」、連=「邑(むら)の主(じ)」だと言われるが、飛鳥時代になればどちらも朝廷の官僚で、実質的な違いはないように思われる。 野見宿祢を祖とする一族は2つに分かれ、土師臣は埴輪や副葬品の製造者、土師連は喪葬の司祭という、それぞれの役割を担ったのであろう。 ただ、その役割分担から天皇家との密接度の違いが見える。喪葬を直接掌る連は密接で、副葬品の製造・提供する臣はやや疎遠である。 従って、土師臣のうち朝廷にいつも出仕していたグループが、葬祭に関わるうちに次第に有力な地位を得て、土師連の姓を賜わったのかも知れない。
1目次《御間城入彥五十瓊殖天皇》
母、伊香色謎命(いかしこめのみこと)と曰(い)ひたまひ、物部氏(もののべのうじ)の遠祖(とほつおや)大綜麻杵(おほへそき)之女(むすめ)也(なり)。 天皇年(みとし)十九歳(ととせあまりここのとせ)、[立たして]皇太子(ひつぎのみこ)と為(な)りたまふ。 識性(うまれながらにして)聡敏(さと)く、幼(をさなくして)雄略(すぐれたるはかりごと)を好み、既に壮(さかり)にして寛博(こころひろく)謹慎(つつしみ)、神(あまつかみ)祇(くにつかみ)を崇重(たふと)び、恒に経綸(あめのしたをさめたまふ)天業之(あまつひつぎの)心有り[焉]。 六十年(むそとせ)夏四月(うづき)、稚日本根子彦大日々天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 元年(はじめのとし)春正月(むつき)壬午(みづのえうま)を朔(つきたち)とし甲午(きのえうま)、皇太子天皇の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。皇后(おほみさき)を尊(たふと)び皇太后(おほきさき〔さきのおほきさき?〕)と曰(たた)ふ。 二月(きさらぎ)辛亥(かのとゐ)朔丙寅(ひのえとら)、御間城姫(みまきひめ)を[立たし]皇后(おほみさき)と為(し)たまふ。 先是(このさき)、后(おほみさき)、活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)、彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)、国方姫命(くにかたひめのみこと)、千々衝倭姫(ちちくやまとひめ、ちちつくわひめ)命、倭彦命(やまとひこのみこと)・五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)を生みたまふ。 又、紀伊の国の荒河戸畔(あらかはとべ)の女(むすめ)遠津年魚眼眼妙媛(とほつあゆまくはしひめ)【一云(あるいはく)、大海宿祢(おほあまのすくね)の女(むすめ)八坂振天某辺(やさかふるあまいろへ)】を妃(めあは)せ、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を生みたまふ。 次に尾張(をはり)の大海媛(おほあまひめ)を妃(めあは)せ、八坂入彦命(やさか〔の〕いりひこのみこと)、淳名城入姫命(ぬなき〔の〕いりひめのみこと)、十市瓊入姫命(とほちにいりひめのみこと)を生みたまふ。 是の年[也]、太歳(おほとし)甲申(きのえさる)。 三年秋九月(ながつき)、[於]磯城に都を遷し、是を瑞籬宮(みづかきのみや)と謂(まを)す。 《識性聡敏…天業之心焉》 各天皇毎に捧げられる儀礼的な礼賛文ではあるが、漢籍の難解な語は控えめで「生まれながらにして⇒幼くして⇒壮年にして⇒常に(一生を通して)」という意味の流れがあるので、和文として読むべきであろう。 なお、この礼賛文を第3代~9代は欠き、綏靖天皇以来である。 《綜麻》 <時代別上代>へそ(綜麻)[名]…紡いだ糸を細長い球状に巻いたもの。「大綜麻杵」は、姓氏録の「大閉蘇杵命」に照らして、「綜麻」の字を確かにヘソと訓める。</同辞典> そこで『新撰姓氏録』を確認すると、確かに〖左京/神別/天神/大宅首/首/大閇蘇杵命孫建新川命之後〗とある。 (「閇」は、「閉」の異体字) 《暦》 崇神天皇紀で朔日は、全部で22回ある。そのうち計算上の暦とは、5回の不一致を生じた(参照)。 そのうち2回は、暦定数の微調整で消すことができるが、他の代に波及するので難しい。他の2回はそれぞれ1か月のずれがある。残る一回は七年(庚寅)十一月丁卯で、ここには複雑な問題がありそうだが、後の回に論ずる。 《即位の詔》 続けて、自ら即位するにあたって臣下に詔を発した。 2目次《御間城入彥五十瓊殖天皇》
〔我が身一人、孤立していることがあろうか〕
〔今、皇統を受け継ぎ、人民を愛育する。それではどうやって皇祖の跡を継ぎ、その幸を永久に保つか?〕
〔その答えは、群卿・百僚よ、お前らが忠貞を尽くし、朕と共に天下を安んずる、これをしなければならないのだ。〕 まとめ 神武天皇段から開化天皇段まで、しばしば有力氏族が登場し全国に勢力を広げた。それは、多氏系・和邇系・吉備系・武内宿祢系・丹羽道主系などがあり、全国の多くの地域に進出した。 そして崇神天皇段では、これまで広大な空白だった毛野の地域が埋められた。 繰り返し述べているように、皇子を諸氏の祖と位置づけるのは形式に過ぎないが、諸氏の登場の順番は、歴史を一定程度反映しているかも知れない。 毛野が他の地域より遅れて登場したことは、氏族の統合が畿内から東国に向けて進んだことを表すと思われる。 能登国の登場も遅いから、やはり統合が遅れたことになる。奈良時代に、能登国が独立⇒統合⇒分離という複雑な経過を辿るのは、能登半島に追い詰められた独立志向の氏族が、しばしば緊張状態を生んだためかも知れない。 毛野・能登への進出を終えた段階で、空白地域として残るのは、南九州の薩摩・大隅・日向、四国の土佐・阿波、それに出雲、紀伊である。この配置は極めて興味深い。 出雲国は古く大国主の国譲りのときに倭と連合した。阿波国・淡路国は伊邪那岐・伊耶那美以来の伝統地域である。だからそれらの地に、新興氏族はいない。 その対極にあるのが九州南部で、奈良時代初めまで朝廷の支配を拒んでいる(第87回【隼人】)。紀伊国も神武天皇の上陸の事実を認めないなどの、独自性がある(第97回【熊野信仰の特質】)。土佐もその仲間かも知れない。 この太平洋岸一帯が、卑弥呼に服従しなかった狗奴国ではないかと想像する。狗奴国の官「狗古智卑狗」は「きくちひこ」で、熊本県菊池の王だとする説もある。 さて、埴輪は初期(3世紀中葉~後葉)の円筒形埴輪⇒中期(4世紀前葉~5世紀前葉)の形象埴輪⇒後期(5世紀中葉~6世紀中葉)の人物・動物埴輪へと変遷する。 最後の古墳の造営は記紀編纂期の数十年前である。人物埴輪が円筒形から発展した結果であることなど、記紀編者は当然知る由もない。 当時の人々が埴輪を見て考えることは、現代人が初めて埴輪を見たときと同じで「昔は人間を殉葬していたが、その代わりに埴輪を立てるようになった」と想像したのは当然である。 ところで土師部が埴輪を造っていた時代は、記紀編纂期から見れば大昔のことである。しかし書紀が、土師連がその伝統を基に、天皇の喪葬を掌っていると書くのは、理解できる。 また、土師部の埴輪製造が、飛鳥時代には副葬品の製作に移行したことも、あり得そうなことである。だから崇神天皇紀の「鍛地」という語は、金属加工の部民の邑を意味すると考え得るのである。 |
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⇒ [111] 上つ巻(崇神天皇2) |