古事記をそのまま読む サイト内検索
《トップ》 目次など 《関連ページ》 魏志倭人伝をそのまま読む

[108]  中つ巻(綏靖天皇~開化天皇7)

2015.09.22(tue) [109] 中つ巻(綏靖天皇~開化天皇8)〔開化天皇〕 
若倭根子日子大毘毘命 坐春日之伊邪河宮治天下也
此天皇娶旦波之大縣主 名由碁理之女竹野比賣 生御子比古由牟須美命【一柱 此王名以音】
又娶庶母伊迦色許賣命 生御子御眞木入日子印惠命【印惠二字以音】次御眞津比賣命【二柱】
又娶丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹意祁都比賣命【意祁都三字以音】生御子日子坐王【一柱】
又娶葛城之垂見宿禰之女鸇比賣 生御子建豐波豆羅和氣【一柱 自波下五字以音】
此天皇之御子等幷五柱【男王四女王一】

若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおほびびのみこと)、春日(かすか)之(の)伊邪河宮(いざかはのみや)に坐(ま)し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。
此の天皇(すめらみこと)、旦波(たには)之(の)大県主(おほあがたぬし)、名は由碁理(ゆごり)之女(むすめ)竹野比売(たけのひめ)を娶(めあは)せ、御子(みこ)比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)【此の王(みこ)の名(な)音(こゑ)を以(もち)ゐる。】を生みたまふ。【一柱(ひとはしら)】
又(また)、庶母(ままはは)伊迦〔賀〕色許売命(いかがしこめのみこと)を娶せ、生(あ)れましし御子(みこ)御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにゑのみこと)【印恵の二字(ふたじ)音を以ゐる。】次に御真津比売命(みまつひめのみこと)【二柱(ふたはしら)なり。】
又、丸邇臣(わにのおみ)之祖(みおや)日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)之妹(いも)意祁都比売命(おけつひめのみこと)を娶せ【意祁都の三字音を以ゐる。】、生れましし御子(みこ)日子坐王(ひこいますのみこ)【一柱なり。】
又、葛城之垂見宿祢(かつらぎのたるみのすくね)之女(むすめ)鸇比売(わしひめ)を娶せ、生れましし御子建豊波豆羅和気(たけとよはづらわけ)【波自(よ)り下(しもつかた)五字(いつじ)音を以ゐる。】【一柱なり。】
此の天皇之御子等(ら)并(おほよそ)五柱(いつはしら)【男王(をのみこ)四(よはしら)女王(めのみこ)一(ひとはしら)】なり。


故御眞木入日子印惠命者治天下也
其兄比古由牟須美王之子 大筒木垂根王 次讚岐垂根王【二王 讚岐二字以音】
此二王之女五柱坐也

故(かれ)御真木入日子印恵(みまきいりひこいにゑ)命者(は)天下を治めたまふ[也]。
其の兄比古由牟須美王之(の)子(みこ)は、大筒木垂根王(おほつつきたりねのみこ)、次に讃岐垂根王(さぬきたりねのみこ)【二王(ふたはしらのきみ)。讃岐の二字音を以ゐる。】。
此の二王(ふたはしらのみこ)之(の)女(むすめ)は五柱(いつはしら)坐(い)ます[也]。


次日子坐王娶山代之荏名津比賣亦名苅幡戸辨【此一字以音】 生子大俣王次小俣王 次志夫美宿禰王【三柱】
又娶春日建國勝戸賣之女名沙本之大闇見戸賣 生子沙本毘古王 次袁邪本王
次沙本毘賣命亦名佐波遲比賣【此沙本毘賣命者爲伊久米天皇之后 自沙本毘古以下三王名皆以音】次室毘古王【四柱】
又娶近淡海之御上祝以伊都玖【此三字以音】天之御影神之女息長水依比賣
生子丹波比古多多須美知能宇斯王【此王名以音】
次水之穗眞若王 次神大根王亦名八瓜入日子王 次水穗五百依比賣 次御井津比賣【五柱】
又娶其母弟 袁祁都比賣命 生子山代之大筒木眞若王 次比古意須王 次伊理泥王【三柱 此二王名以音】
凡日子坐王之子幷十一王

次に、日子坐王(ひこいますのみこ)、山代(やましろ)之荏名津比売(えなつひめ)、亦の名は苅幡戸弁(かりはたとべ)【此の一字音を以ゐる】を娶せ、生(あ)れましし子(みこ)大俣王(おほまたのみこ)、次に小俣王(をまたのみこ)、次に志夫美宿祢王(しぶみのすくねのみこ)【三柱(みはしら)なり。】
又、春日(かすか)の建国勝戸売(たけくにかつとめ)之女(むすめ)名は沙本(さほ)之(の)大闇見戸売(おほくらみとめ)を娶せ、生れましし子(みこ)沙本毘古王(さほびこのみこ)、次に袁邪本王(をざほのみこ)、
次に沙本毘売命(さほびめのみこと)、亦の名は佐波遅比売(さはちひめ)【此の沙本毘売命者(は)伊久米(いくめ)の天皇(すめらみこと)之后(おほきさき)に為(な)りたまふ。「沙本毘古」自(よ)り以下(しもつかた)三王(みはしらのみこ)の名は皆(みな)音(こゑ)を以ゐる。】、次に室毘古王(むろびこのみこ)【四柱(よはしら)なり。】
又、近淡海(ちかつあふみ)之(の)御上祝(みかみのはふり)を以(もちゐ)て伊都玖(いつく)【此の三字音を以ゐる。】天之御影神(あめのみかげのかみ)之女(むすめ)息長(おきなが)の水依比売(みづよりひめ)を娶せ、
生れましし子(みこ)丹波(たには)の比古多多須美知能宇斯王(ひこたたすみちのうしのみこ)【此の王(みこ)の名、音を以ゐる。】、
次に水之穂真若王(みづのほのまわかのみこ、みづほの―)、次に神大根王(かむおほねのみこ)、亦の名は八爪入日子王(やつめいりひこのきみ)、次に水穂五百依比売(みづほのいほよりひめ)、次に御井津比売(みゐつひめ)【五柱(いつはしら)なり。】
又、其の母の弟(おと)〔=妹〕、袁祁都比売命(をきつひめのみこと)を娶せ、生れましし子(みこ)山代(やましろ)之大筒木真若王(おほつつきまわかのみこ)、次に比古意須王(ひこおすのみこ)、次に伊理泥王(いりねのみこ)【三柱なり。此の二(ふたはしらの)王(みこ)の名、音を以ゐる。】
凡(おほよそ)日子坐王之子(みこ)并(あはせて)十一王(とはしらあまりひとはしらのみこ)あり。


故 兄大俣王之子 曙立王 次菟上王【二柱】
此曙立王者【伊勢之品遲部君伊勢之佐那造之祖】
菟上王者【比賣陀君之祖】次小俣王者【當麻勾君之祖】
次志夫美宿禰王者【佐佐君之祖也】
次沙本毘古王者【日下部連甲斐國造之祖】
次袁邪本王者【葛野之別近淡海蚊野之別祖也】
次室毘古王者【若狹之耳別之祖】

故(かれ)、兄(このかみ)大俣王之子(みこ)曙立王(あけたつのみこ)、次に菟上王(うなかみのみこ)【二柱】、
此の曙立王者(は)【伊勢(いせ)之品遅部君(ほむちべのきみ)、伊勢之佐那造(さなのみやつこ)之祖(みおや)】、
菟上王者(は)【比売陀君(ひめだのきみ)之祖】、
次に小俣王者【当麻勾君(たぎまのまがりのきみ)之祖】、
次に志夫美宿祢王者【佐佐君(ささのきみ)之祖[也]】、
次に沙本毘古王者【日下部連(くさかべのむらじ)、甲斐国造(かびのくにのみやつこ)之祖】、
次に袁邪本王者【葛野之別(かどののわけ)、近淡海(ちかつあはみ)の蚊野之別(かやののわけ)の祖[也]】、
次に室毘古王者【若狭(わかさ)之耳別(みみわけ)之祖】なり。


其美知能宇志王娶丹波之河上之摩須郎女 生子比婆須比賣命 次眞砥野比賣命 次弟比賣命 次朝廷別王【四柱 此朝廷別王者三川之穗別之祖】
此美知能宇斯王之弟水穗眞若王者【近淡海之安直之祖】
次神大根王者【三野國之本巢國造長幡部連之祖】

其の美知能宇志王(みちのうしのみこ)、丹波(たには)之河上(かはかみ)之摩須郎女(ますのいらつめ)を娶せ、生(あ)れましし子(みこ)、比婆須比売命(ひばすひめのみこと)、
次に、真砥野比売命(まとのひめのみこと)、次に弟比売命(おとひめのみこと)、次に朝廷別王(みかどわけのきみ)【四柱(よはしら)なり。此の朝廷別王者(は)三川(みかは)之穂別(ほのわけ)之祖(みおや)。】
此の美知能宇斯王之弟(おとと)水穂真若王(みづほのまわかのみこ)者【近淡海(ちかあふみ)之安直(やすのあたひ)之祖】、
次に、神大根王(かむおほねのみこ)者【三野国(みののくに)之本巣国造(もとすのくにのみやつこ)、長幡部連(ながはたべのむらじ)之祖なり】。


次山代之大筒木眞若王娶同母弟伊理泥王之女丹波能阿治佐波毘賣 生子迦邇米雷王【迦邇米三字以音】
此王娶丹波之遠津臣之女名高材比賣 生子息長宿禰王
此王娶葛城之高額比賣 生子息長帶比賣命 次虛空津比賣命
次息長日子王【三柱 此王者吉備品遲君針間阿宗君之祖】
又息長宿禰王娶河俣稻依毘賣 生子大多牟坂王【多牟二字以音 此者多遲摩國造之祖也】

次に山代之大筒木真若王(やましろのおほつつきまわかのみこ)の同母弟(いろど)伊理泥王之女(むすめ)丹波能阿治佐波毘売(たにはのあぢさはびめ)を娶(めあは)せ、生(あ)れましし子(みこ)迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)【「迦邇米」の三字、音を以ゐる。】なり。
此の王(みこ)丹波之遠津臣(たにはのとほつおみ)之女(むすめ)、名は高材比売(たかきひめ)を娶せ、生れましし子(みこ)息長宿祢王(おきながのすくねのみこ)なり。
此の王(みこ)葛城(かつらぎ)之高額比売(たかぬかひめ)を娶せ、生(あ)れましし子(みこ)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、次に虚空津比売命(そらつひめのみこと)、
次に息長日子王(おきながひこのみこ)【此の王(みこ)者(は)吉備(きび)の品遅君(ほむちのきみ)、針間(はりま)の阿宗君(あそのきみ)之祖(みおや)】【三柱なり。】
又、息長宿祢王、河俣稲依毘売(かはまたいなよりびめ)を娶せ、生れましし子(みこ)、大多牟坂王(おほたむさかのみこ)【「多牟」二字音を以ゐる。此者(こは)多遅摩(たぢま)の国造(くにのみやつこ)之祖(みおや)也(なり)。】


上所謂建豐波豆羅和氣王者【道守臣忍海部造御名部造稻羽忍海部丹波之竹野別依網之阿毘古等之祖也】

上(うへ)に謂(まを)しし[所の]建豊波豆羅和気王(たけとよなみはづらわけのみこ)者(は)【道守臣(ちもりのおみ)、忍海部造(おしのみべのみやつこ)、御名部造(みなべのみやつこ)、稲羽(いなば)の忍海部(おしぬみべ)、丹波(たには)之(の)竹野別(たけのわけ)、依網(よさみ)之(の)阿毘古(あびこ)等(ら)之祖(みおや)也(なり)。】


天皇御年陸拾參歲 御陵在伊邪河之坂上也

天皇(すめらみこと)の御年(みとし)陸拾参歳(むそとせあまりみとせ)、御陵(みささき)伊邪河之坂上(いざかはのさかへ)に在り[也]。


 若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)は、春日(かすか)の伊邪河宮(いざかわのみや)にいらっしゃり、天下を治められました。
 この天皇は、旦波(たんば)の大県主(おおあがたぬし)、名は由碁理(ゆごり)の息女、竹野比売(たけのひめ)を娶り、御子、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)を生みなされました。【一柱です】
 また、継母〔父の後妻〕、伊迦〔賀〕色許売命(いかがしこめのみこと)を娶り、御子、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)、次に御真津比売命(みまつひめのみこと)を生みなされました。【二柱です】
 また、丸邇臣(まるにおみ)の先祖、日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)の妹、意祁都比売命(おけつひめのみこと)を娶り、御子、日子坐王(ひこいますのみこ)を生みなされました。【一柱です】
 また、葛城(かつらぎ)の垂見宿祢(たるみのすくね)の女息女、鸇比売(わしひめ)を娶り、御子、建豊波豆羅和気(たけとよはづらわけ)を生みなされました。【一柱です】
 この天皇の御子たちは、併せて五柱です。【男子王四柱、女子王一柱】
 故(かれ)御真木入日子印恵(みまきいりひこいにえ)の命(みこと)は天下を治められました。
 この兄、比古由牟須美王の御子は、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)、次に讃岐垂根王(さぬきたりねのみこ)【二王です】。
 この二柱の王(みこ)の息女は五柱います。
 次に、日子坐王(ひこいますのみこ)、山代(やましろ)の荏名津比売(えなつひめ)、またの名は苅幡戸弁(かりはたとべ)を娶り、皇子、大俣王(おほまたのみこ)、次に小俣王(おまたのみこ)、次に志夫美宿祢王(しぶみのすくねのみこ)を生みなされました。【三柱です】
 また、春日(かすが)の建国勝戸売(たけくにかつとめ)の息女、名は沙本(さほ)の大闇見戸売(おおくらみとめ)を娶り、子(みこ)沙本毘古王(さほびこのみこ)、次に袁邪本王(おざほのみこ)、 次に沙本毘売命(さほびめのみこと)、またの名は佐波遅比売(さわちひめ)【この沙本毘売命は、伊久米(いくめ)天皇の皇后になられました。】、次に室毘古王(むろびこのみこ)を生みなされました。【四柱です】
 また、近江の御上祝(みかみのほおり)が斎(いつき)する、天之御影神(あめのみかげのかみ)の息女、息長水依比売(おきながのみずよりひめ)を娶り、 子(みこ)丹波(たには)の比古多多須美知能宇斯王(ひこたたすみちのうしのみこ)、 次に水穂真若王(みずほのまわかのみこ)、次に神大根王(かむおおねのみこ)、またの名は八爪入日子王(やつめいりひこのきみ)、次に水穂五百依比売(みずほのいほよりひめ)、次に御井津比売(みいつひめ)を生みなされました。【五柱です】
 また、その母の妹、袁祁都比売命(おきつひめのみこと)を娶り、皇子、山代(やましろ)の大筒木真若王(おおつつきまわかのみこ)、次に比古意須王(ひこおすのみこ)、次に伊理泥王(いりねのみこ)を生みなされました。【三柱】
 全体で日子坐王の御子は、併せて十一王(みこ)です。
 さて、兄、大俣王の御子、曙立王(あけたつのみこ)、次に菟上王(うなかみのみこ)【二柱です】、 この曙立王は、伊勢(いせ)の品遅部君(ほむちべのきみ)、伊勢の佐那造(さなのみやつこ)の祖、 菟上王は、比売陀君(ひめだのきみ)の祖、 次に小俣王は、当麻勾君(たぎまのまがりのきみ)の祖、 次に志夫美宿祢王は、佐佐君(ささのきみ)の祖、 次に沙本毘古王は、日下部連(くさかべのむらじ)、甲斐国造(かびのくにのみやつこ)の祖、 次に袁邪本王は、葛野之別(かどののわけ)、近淡海(ちかつあはみ)の蚊野之別(かやののわけ)の祖、 次に室毘古王は、若狭(わかさ)の耳別(みみわけ)の祖です。
 その美知能宇志王(みちのうしのみこ)、丹波(たんば)の河上の摩須郎女(ますのいらつめ)を娶り、御子、比婆須比売命(ひばすひめのみこと)、 次に真砥野比売命(まとのひめのみこと)、次に弟比売命(おとひめのみこと)、次に朝廷別王(みかどわけのきみ)を産みなされました【四柱です】。この朝廷別王は三河の穂別(ほのわけ)の祖です。
 この美知能宇斯王の弟、水穂真若王(みづほのまわかのみこ)は、近江の安直(やすのあたい)の祖、 次に神大根王(かむおほねのみこ)は、美濃の国の本巣国造(もとすのくにのみやつこ)、長幡部連(ながはたべのむらじ)の祖です。
 次に、山代之大筒木真若王(やましろのおほつつきまわかのみこ)の同腹の弟、伊理泥王の息女、丹波能阿治佐波毘売を娶り、御子、迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)を生みなされました。
 この王(みこ)、丹波の遠津臣の息女、名は高材比売を娶り、御子、息長宿祢王(おきながのすくねのみこ)を生みなされました。
 この王(みこ)は、葛城(かつらぎ)の高額比売(たかぬかひめ)を娶り、御子、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、次に虚空津比売命(そらつひめのみこと)、 次に息長日子王(おきながひこのみこ)、この王(みこ)は吉備(きび)の品遅君(ほむちのきみ)、針間(はりま)の阿宗(あそ)の君の祖を生みなされました。【三柱です】
 また、息長宿祢王、河俣稲依毘売(かはまたいなよりびめ)を娶り、御子、大多牟坂王(おほたむさかのみこ)、この王は但馬の国造(くにのみやつこ)の祖を生みなされました。
 上で述べた、建豊波豆羅和気王(たけとよなみはづらわけのみこ)は、道守臣(ちもりのおみ)、忍海部造(おしのみべのみやつこ)、御名部造(みなべのみやつこ)、稲羽(いなば)の忍海部(おしぬみべ)、丹波(たには)之(の)竹野別(たけのわけ)、依網(よさみ)の阿毘古(あびこ)等の祖です。
 天皇の御年(みとし)は六十三歳にて、御陵(みささぎ)は伊邪河之坂上(いざかわのさかえ)にあります。


まま-(継)…[接頭] 実の親子、あるいは兄弟関係でないこと。(倭名類聚抄)継父【和名萬々知々】継母【和名萬々波々】
丹波(たには)…[国名] (倭名類聚抄)丹波【太迩波】〔たには〕。
…[名] さしば。はやぶさ。(古訓)はやふさ。たかへ。はしかた。
たかべ…[名] こがも。(新選字鏡)鸇【太加戸たかべ】鳧【太加戸】(倭名類聚抄)[爾鳥]【多加閉】
はやぶさ(隼、晨風)…[名] ワシタカ科の猛禽。

【若倭根子日子大毘毘命】
 わかやまとねこひこおほびびのみこと。 書紀は「稚日本根子彦大日々天皇(わかやまとねこひこおほひびのすめらみこと)」。 漢風諡号は開化天皇。「若倭根子日子」は、先代の孝元天皇の称号「大倭根子日子」と対になっている。旅館の大女将・若女将と同じ語感がある。 しかし、綏靖天皇から孝元天皇までが所謂「葛城王朝」であったのに対し、開化朝だけは添上郡であるところが異質である。孝元・開化を「大・若」として括ったのは、記で正式名を定めた際に形式を整えたに過ぎない。
 日々・毘々のよみはひひ・ひび・びびが考え得る。使用状況を調べるために「稚日本根子彦大日々天皇+"ひひ"」のようにして検索をかけると、「ひび:1400例>びび:996例>ひひ:494例」の順である。 同様にして、若倭根子日子大毘毘命を調べると、「びび:439例>ひひ:194例>ひび:21例」である。日、毘はともに甲音である。ひには、高皇産霊みむすびの「霊」がある。 「び」だとすれば「み」に通じ、綏靖天皇の「ぬなかはみ」と共通する。魏志倭人伝で投馬国だけは官の名前に「弥弥(み)」がつくという特徴がある。投馬国は出雲国であろうという説があり、私も以前その論証を試みた。 また、ひは鳴き声を表す擬声語で、「響く」に通じる。何れにしても、上古の神の名だと思われる。
 この類の神名は、天孫族によって制圧された地域氏族の神のものだとする仮説を、孝昭天皇・孝霊天皇のところで立てた。 神武即位前紀には、層富(=添)県の土蜘蛛を制圧した記述がある(第99回)。 よって、「おほびび」も先住族の神であったのではないかと想像する。

【春日之伊邪河宮】
 書紀には「遷都于春日之地【春日此云箇酒鵝かすが】是謂率川宮【率川此云伊社箇波いさかは〔春日の地に遷都し、ここに率川の宮という〕」とある。
 春日は、(倭名類聚抄)大和国添上【曽不乃加美】郡春日【加須加】〔おほやまとのくに・そふのかみのこほり・かすかのさと〕と載る。 奈良市内を流れる率川は、現在は暗渠化されている。その流路は右図の右図の通りである。資料は、帯谷博明「消えた川の記憶―ならまち率川物語」(『大学的奈良ガイド』2009)を『奈良、水と人のランドスケープ』が引用したもの。 同サイトによると、率川の正式名称は菩提川だが、場所により率川・子守川・伝香川と称されるという。 伊邪河宮の比定地は一般に率川神社とされるが、「四恩院廃寺」という説もある。
《率川神社》
 『延喜式』神名帳に、「大和国二百八十六座/添上郡卅七座/率川坐大神神御子神社三座〔いざがはにますおほみわみこ神社〕。 現率川(いざかわ)神社は、奈良市本子守町18(写真==)。祭神は、媛蹈韛五十鈴姫命、狭井大神、玉櫛姫命。 狭井大神は父神、玉櫛姫命は母神と位置付けられている。「狭井大神」とはいかなる神かを探るために狭井神社を調べてみると、同社は三輪山の大神神社の近くにあり、正式名は「狭井坐大神荒魂〔さゐにますおほみわあらみたま〕神社」である。 同社は、大物主の荒魂を祀る(一般に神は、荒魂・和魂という二つの魂をもっている)。
 従って、率川神社に祀られている父神は大物主であり、 そもそも神名帳に載る名称からして、「率川に坐ます三輪の神の御子の神社」である。 そして、率川神社は大神(おおみわ)神社の摂社である。境内に、「本社大神神社遥拝所」という石碑が建っている(写真==)。
本社大神神社遥拝所三祭神率川神社
 さて、記紀ともに媛蹈韛五十鈴姫命は神武天皇の正妃とする(第99回参照)。母は玉櫛媛。 父は、記では三輪の大物主神だが、書紀では事代主神としつつ、異説を併記する(第100回)。 率川神社における祀り方は、記に合致する。 神名帳の時代から「三座」は、媛・父・母だった可能性が高い(写真==)。
 <御由緒>によれば、創建は「推古天皇元年(593)大三輪君白堤が勅命によって」祀ったことによる。 従って、少なくとも推古天皇の時代には「媛蹈韛五十鈴姫=大物主の子」という伝説が存在した。記はこの伝承をそのまま取り入れたが、書紀ではあいまいである。
 このように、率川神社は大三輪氏が添上郡春日郷に進出して創建したものなので、「さゐがは」が訛って「いざがは」になった可能性がある。 とすれば、率川と率川神社の命名順序は逆で、同社の近くを流れる川が「率川」になったことになる。 率川の別名「子守川」は神社の別名「子守明神」による。
《四恩院跡》
 もう一つの比定地は四恩院廃寺付近である。その所在地を調べたところ、「春日神社境内図」(江戸時代)が見つかった。 同図は、奈良県立図書情報館のトップ→「まほろばデジタルライブラリー」から、検索ワード"春日大社境内図"によって見ることができる。 同図は春日大社を東を上にして描いたものである。
 はそれを略図にしたもので、四恩院付近を拡大して字起しした。四恩院には十三重の塔があったが、明和4年(1767)に焼失した。その場所には、現在奈良県新公会堂が建っている。 率川からは少し離れているが、一帯の地名が「率川」だった可能性もある。 但し四恩院跡だとすると、よく言われる「欠史八代の陵は、宮の北方にある」という説には反する。
《伊邪河宮の比定地》
 各地で明治以後に建立された天皇聖跡碑と同様に、「春日之率川宮趾」の石碑があって不思議はないが、見つからない。有力な比定地とされる率川神社の境内も隈なく探したが、存在しない。
 媛たたらいすず姫は大物主神の御子として祀られるが、神武天皇の皇后という立場は御由緒に書かれていない。率川神社が皇統との繋がりを意識しないことと、開化朝跡碑が建たないこととは関係があるかも知れない。 皇統に頓着しない伝統は、飛鳥時代に大三輪一族が管理していた頃からのものだと思われる。 そもそも記が「媛たたらいすず姫が神武天皇の皇后となり、綏靖天皇を生んだ」と書くのは、大三輪氏を朝廷の配下にするための形式に過ぎず、大三輪氏自身にとっての真実ではない。 かくも大三輪氏に遠慮した状態で、率川神社を開化朝の比定社にすれば、喧嘩を売ったことになったしまう。だから、率川宮の比定地にはしなかったのではないかと思われる。
 それに比べれば、四恩院(建立は1215年)の土地は、元は上古の祭祀場であったかも知れず、記紀はそこを開化率川宮跡と決めただろうと想像した方がまだ自然である。

【菟上王】
 天菩比命を祖とする国造に、上菟上国造・下菟上国造が出てくる( 第47回【天菩比命の子孫】)。 『国造本紀』に、上海上国造下海上国造があり、菟上は海上の別表記である。 『倭名類聚抄』の{上総国/海上【宇奈加美うなかみ】郡}の地名が、上菟上・下菟上の地とされる。
 菟上王(うなかみのみこ)は、この地名に関係するとみられる。

【妃の出自】
《内色許売―穂積臣》
 記の開化天皇前後の系図では、、内色許男命は穂積臣の祖とされ、その妹と娘は孝元・開化両天皇の妃となり、閨閥の家系となっている。
 『新撰姓氏録』(以下、姓氏録)で穂積臣を探すと〖左京/神別/天神/穂積朝臣/朝臣/石上同祖/神饒速日命五世孫伊香色雄命之後也 〗 及び〖左京/神別/天神/穂積臣/臣/伊香賀色雄〔の〕男・大水口宿祢之後也 〗がある。 両臣の系図を合成すると「神饒速日命―○―○―○―○―伊香色雄命〔穂積朝臣の祖〕―大水口宿祢〔穂積臣の祖〕」となる。 伊香色雄は一般に「いかしこを」と読まれ、記の内色許男と同一視される。なお「内」は大和国宇智郡、「伊香」は伊賀の地名であろう。 姓氏録では、祖先の神饒速日命は天孫とは別系統なので「神別」に入れられる(後述の日下部の項で詳しく述べる)。
《意祁都比売―丸邇臣》
 日子意祁都(おけつ)命・意祁都比売命はヒコヒメとして、丸邇臣の祖とされる。
 姓氏録には、丸邇臣はないが、和邇部がある。〖山城国/皇別/和迩部/(姓なし)/小野朝臣同祖/天足彦国押人命六世孫米餅搗大使主命之後/一本〔=或る出典によれば〕彦姥津命三世孫難波宿祢之後也/日本紀漏 〔=日本書紀に記載なし〕(他に2臣)。
 そして、書紀では姥津(おけつ)命・姥津媛が、和珥臣の遠祖(とおつおや)とされる。従って、丸邇のよみは「わに」であろう。 和邇氏は孝昭天皇を形式上の起点とする大族である(第105回【和邇氏】参照)。 その子、日子坐王(彦坐王、ひこいますのみこ)は17氏の小粒の地方氏族の祖となる。だからすべて和邇氏系と言うわけでもなく、さまざまな系統が混在している。
《竹野比売―丹波の大県主》
 「22・丹波の竹野別」の項で詳しく示すように、竹野地域は丹波国にあったが、丹波国の分割後は丹後国に属す。竹野県は後の竹野郡と同じ地域だと見られる。名前「竹野媛」は、出身地による。 上古には国・郡(こほり)・県(あがた)の区別は実質的にはなかったが、<時代別上代種々の条件によって、国郡と県邑を文辞の上で区別しようと</時代別上代>していた 〔つまり、山・谷を境界とするという地形上の特徴をもつ場合に、県と呼んだらしい〕。なお「県」には天皇の直轄田という意味もあるが、これは後世の用法である。
《鸇比売―葛城の垂見宿祢》
 葛城は、武内宿祢の出身地である。垂見宿祢に姓「宿祢」がつくことも、武内宿祢の同族であることを暗示している。 そのことが、子・建豊波豆羅和気王が道守臣の祖であることに繋がるかも知れない(《道守臣は手違いで…》の項参照)。 『新撰姓氏録』によれば、波多臣・的臣が道守朝臣と同祖で、ともに武内宿祢の子孫であることを、第108回で紹介した。
 姓氏録には「『姓氏家系大辞典』は波多矢代宿祢の後」と書いてあるので、記との間で矛盾をなくすには、 葛城の垂見宿祢を波多八代宿祢の子にしなければならない(朱線)。 しかし、その場合は孝元天皇の皇太子が、孝元天皇の五世または六世の孫を妃に迎えるという不自然なことになる。 それを何とかしようとすれば、姓氏録を修正して垂見宿祢を彦太忍信命の別名とするか、武内宿祢の兄弟にするなどの処置を施さねばならない。
 とは言え、道守朝臣のルーツが武内宿祢を代表格とする葛城系氏族団だと考えられていたのは間違いない。 その系図の一端に孝元天皇・開化天皇を絡ませたのは、諸氏族は形式的に天皇の裔を名乗るのが倣いとなったからである。

【日子坐王妃たちの出自】
《山代之荏名津比売(苅幡戸弁)》
 やましろの国は、『国造本記』によれば、橿原朝(神武天皇)には「山代」、志賀高穴穗朝(成務天皇)には「山背」と表記し、「山城」になったのは延暦13年(794年)である。 本来「城」の訓は「き」であったが、表記が「山城」になったことことによって初めて「城」に「しろ」という訓が加わった。
 「荏名」は倭名類聚抄に{美濃国・恵奈郡}(以下{ }内は倭名類聚抄)、延喜式神名帳に「美濃国/恵奈郡/恵奈神社」。比定社は恵那神社(中津川市)。「荏名津比売」(恵奈の媛)と何らかの関係があるかどうかは不明である。
 別名の苅幡戸弁は、「苅幡族の女性首長」を意味する(後述)。苅幡に類似する地名に、{山城国・相楽郡・蟹幡【加無波多】}がある。 は、亀貝類に{蟹【和名加仁】}とあるように当時も「かに」と訓まれたが、「はた」の上代音は[pata]なので訛って[kampata]となったと思われる。また「かりはた」とも訛った可能性がある。 蟹幡郷は井手町の玉川から、木津市の鳴子川までの範囲だとされる(『京都寺社案内』―綺原神社)。地図で見ると、JR奈良線・棚倉駅玉水駅間の辺りである。 『延喜式』神名帳でこの地の社を見ると、「山城国/相楽郡/綺原坐健伊那大比売神社〔かにはらにますたけいなだひめ神社〕がある。比定社は京都府相楽郡山城町綺田山際16。綺原も蟹幡の転と言われる。
 荏名津比売の子が祖となった勢力のうち、比較的比定地としての確度が高い佐那造・比売陀君・当麻勾君・佐佐君を地図()に落としてみると、蟹幡郷から進出したことが納得できる位置であると言える。
《沙本の大闇見戸売》
〈姓氏家系大辞典〉
 佐保 サホ 大和国添上郡に佐保邑あり、古書・狭穂、或は沙本に作る。 開化天皇の皇子彦坐命は春日建国勝戸売の女・大闇見戸売を妃とし、狭穂彦王[沙本毘子王]、 室彦王、狭穂媛王[沙本毘売命]を生み奉う。媛王は垂仁天皇の皇后に立ち給ひしが、御兄狭穂彦・天位を 覬覦〔きゆ;=身分不相応なことを望む〕して、此の家衰え…
 春日県主 〔孝霊天皇などの〕后后を出せし程の氏なれば、相当の盛族と考へらる。…春日建国勝戸売の如きは、此の県主家の人か、或は関係深き人ならんと考へらる。 而して沙本毘古の謀反の際、此の氏は其の外戚たるより、之に加担して滅亡し、其の所領は、和珥臣に移り、 和珥臣より春日臣を起せしものと考へらる。
<大辞典の記述について>
佐保村について。実際には明治22年までは添上郡にこの村名はなく、同年三村が合併した際に、記紀の伝承からつけられた村名である。現在佐保川、方蓮佐保山などに名が残る。
沙本毘子王の謀反。垂仁天皇段・垂仁天皇紀ともに、沙本毘売が垂仁天皇の皇后となった後、沙本毘子によるクーデターの話を載せる。 最後は落城し、沙本毘子・沙本毘売共に死んだ。記にはなかなか面白い話が載っているが、詳しくはその回のところで読む。
建国勝戸売は春日県主の一族に属する。」また「沙本毘子の外戚として謀反に加担したことにより没落し、代わって和邇臣が進出した。」という 件りは、〈大辞典〉著者独自の見解である。
</大辞典の記述について>
三上山(滋賀県野洲市)
 建国勝戸売―大闇見戸売と、「~とめ」が二代続く。「とめ」がつく名には、石凝姥(いしころどめ)の例がある。音韻が似る「とべ」は一族の女性首長を意味し、神武天皇即位前紀の名草戸畔・丹敷戸畔・新城戸畔はその例とされる。 このうち新城戸畔がいたのは層富県(「層富」は後の「添」)で、春日の辺りであるから、女性首長を世襲する一族が続いていたとも考えられる。
《近淡海の御上祝》
 倭名類聚抄に{近江国・野洲郡・三上【美加無みかむ】}。 『延喜式』神名帳に「近江国一百五十五座/野洲郡九座/御上神社」。比定社は滋賀県野洲市三上838。祭神は、天之御影命(一柱のみ)。
 <御由緒>「三上山を神体山として鎮祭されている。 第七代孝霊天皇六年六月十八日に祭神天之御影神が三上山に御降臨になったので、神孫の御上の祝(神主)等は三上山を清浄な神霊の鎮まります 神体山として斎き祭った。
 (はふり)…神職。神官。
 三上山(標高432m。写真=)に降りた天之御影神の女、息長水依比売・袁祁都比売命姉妹が日子坐王の妃になった。 天之御影神の裔は、御上の祝として三上山に斎く。日子坐王と息長水依比売の子、水之穂真若王は、安直(野洲の国造が名乗る姓)の祖となった。
《名前に添えられた地名》
 息長水依比売・袁祁都比売命の子孫とその妃の名前から地名を負うものを拾うと、葛城1、山代1、丹波4である。 〈大辞典〉は、大筒木真若王が初め山城にいた以外、概ね丹波にいたと述べるが、系図から読み取れる以上のことは書いていない。
 この部分の系図は多くの名が登場し繋がりも複雑なので、偽作ではなく一定の実資料が反映した可能性がある。 面白いのは高材比売の父・丹波之遠津臣で、もともとは「丹波の、名前不明の大昔の臣」という意味だった可能性がある。

丹 波 道 主 族 一 覧
日子坐王  (+荏名津比売) ┬大俣王之─────┬曙立王 伊勢之品遅部君
伊勢之佐那造
└菟上王 比売陀君
├小俣王者 当麻勾君
└志夫美宿祢王 佐佐君
 (+大闇見戸売) ┬沙本毘古王 日下部連
甲斐国造
├袁邪本王 葛野之別
近淡海之蚊野之別
└室毘古王 若狭之耳別
 (+息長の水依比売) ┬丹波比古多多須
│ 美知能宇志王
│ └朝廷別王 三川之穂別
├水穂真若王 近淡海之安直
└神大根王 三野国之本巣国造
長幡部連
 (+袁祁都比売命) ―山代之大筒木真若王
     └迦邇米雷王
          └息長宿祢王
(+葛城の高額比売)├息長日子王吉備之品遅君
針間之阿宗君
(+河俣稲依毘売) └大多牟坂王多遅摩之国造
 
建豊波豆羅和気王 道守臣
忍海部造
御名部造
稲羽之忍海部
丹波之竹野別
依網之阿毘古
【丹波道主族】
 丹波道主族は、〈大辞典〉によれば、「比古由牟須美命〔書紀には"彦湯産隅命"〕・日子坐王・建豊波豆羅和気王の後継諸氏を総称せる名称也。」 丹波道主は、丹波比古多多須美知能宇斯王、即ち「丹波の彦立たす道の主(うし)のみこ」を簡略化し、代表格としたもの。 「丹波道主族」のよみは、記のよみ方に従えば〔たにはのみちのうしのうがら〕となる。比古由牟須美命以外の2王が23氏族の「祖」とされる。それぞれの氏族の概略を調べた。
《姓(かばね)の種類》
 これらの氏族には、多様な姓(かばね)が付されている。 それぞれの姓の、本来定義を調べる。[ ]内は、それぞれの姓のの使用数である。
国造(くにのみやつこ)[]…<時代別上代>大化の改新以前の世襲の地方行政官。その支配範囲は後の国より狭く、おおよそ郡にあたる。
(あたひ)[]…国造・稲置と同様、地方行政官。〈大辞典〉国造に与えられる姓。
(べ)[]…姓ではなく、専門の職能をもって伴(官僚)や朝廷・豪族に隷属する一般民衆。
(みやつこ)[]…主に部を統括する。
部造(とものみやつこ)[]…部を統括する。
(わけ)[]…国造・稲置と同様の、地方行政官。〈大辞典〉別は皇族地方官の職名で、厳密なる意味に於けるカバネではなく、べつにカバネをもつことを常とする。
(きみ)[]…姓の一。地方の皇別氏族。
(むらじ)[]…姓の一。皇別に多い臣に対して、神別に多い。
 『時代別上代』によると、「伴造(トモノミヤツコ)は部民(トモノヲ)を統括する職名。クニノミヤツコの対。」 つまり、人民を地域で括ったのが「国」、職能で括ったのが「部」である。 部の語源については<時代別上代>制度そのものが百済の部制から採られたものとして、百済の帰化人たちが本国の習慣にならい、字音の「へ」を用い、「部」の字で表したとする説が有力である。</時代別上代>
 部は当然集まって住むから、「~部」も自然に地域を表すようになる。近世の城下町で職人を集めて住まわせた「職人町」が、地名になるようなものである。
 稲羽之忍海部以外は、すべて統治者として公認された証としての姓がつく。 だから、「~王はの祖なり」と書かれたところのは地域・集団を漠然と表すのではなく、特定の家系を直接指していることがわかる。
《地方統治者の姓の"格"》
 直・別は、国造とほぼ同義である。それでは部や君の支配域(部民の居住地)の広さはどの程度であろうか。
 一例として忍海郡は葛上・葛下両郡にはさまれた狭い郡なので、ほぼ忍海部の居住地と一致すると想像される。 また、比売陀君は天鈿女命を祖とし、朝廷の神事に舞踊を奉納する稗田氏を統率したと思われる。稗田氏の居住地は添上郡稗田村であった。
凡 例
{国・郡・郷}『倭名類聚抄』 931-938年。
〖本願/種別/氏族名/姓/同祖/始祖/記事〗『新撰姓氏録』 815年編纂。
『国造本紀』『先代旧事本紀』巻10。平安時代の9世紀成立。序文の「聖徳太子・蘇我馬子著」は偽り。
『延喜式』『延喜式』神名帳(巻9・巻10)完成は927年。
〈大辞典〉『姓氏家系大辞典』(太田亮 著) 初版1938年。
<御由緒>現在、それぞれの社が公表している由来、社伝など。
 従って、部や君については小ぶりの国造と同程度か、それより狭い支配域だったと考えてよいだろう。 以上から、これら23氏族は様々な姓を持つが、道守臣を除いては国造程度か、それ以下のレベルだと考えられる。
《参考資料》
 資料は凡例の通り。できるだけ原文の画像、あるいは文字データ化した原文資料を利用した。 ただし『姓氏家系大辞典』は大量の原資料を真摯に調べ挙げ、出典を明示し、引用と著者自身の見解の区別を明確にして書いているので、重視した。 また、各社の「御由緒」は一次資料とは言えないが、地域独自の伝承を含む点を重視した。
伊勢の品遅部君{伊勢国}  品遅部は、垂仁天皇皇子誉津別命(ほむつわけのみこと)の御名代(みなしろ=皇子や妃を記念して設けた部民)。 崇神天皇紀には、誉津別命は「譽津別王、是生年既卅、髯鬚八掬、猶泣如兒、常不言、何由矣。〔既に三十歳になるのに、子どものように泣き続け言葉を話さない。どうしたものか〕と言って衆知を集めると、天湯河板挙(あめのゆかたな)がいい考えがありますと言う。 そして天湯河板挙が鵠(くくひ、=白鳥)を獲ってきて献上したところ、話せるようになったという逸話がある。(「髯鬚八掬(ひげやつか)」は、素戔嗚尊に因んだ比喩、第63回■三津郷■参照) 天湯河板挙はその功により鳥取造の姓を賜り、またこのとき鳥取部・鳥養部・誉津部(前二者は職能部、後者は御名代)が定められた。
 記(垂仁天皇の段)では、品牟都和気命(ほむつわけのみこと)は「八拳鬚至于心前〔八拳髭が心前に至っ〕」ても言葉が話せなかった。 ある日、空を飛ぶ白鳥の声を聞き片言(「阿芸登比〔あぎとひ〕」)を発したので、これはということで白鳥を獲って来させた。 しかしその効果はなく、結局夢のお告げにより、曙立王・菟上王を出雲大神に参らせることになった。 その往路、滞在した土地ごとに品遅部を設置した(「毎到坐地定品遅部」)とされる(詳しくはその回で)。 〈大辞典〉は、品遅部のあった国として、大和・伊賀・越前・越中・但馬・因幡・出雲・播磨・備後・安芸を挙げている。
 伊勢国品遅部の比定地は不明である。一説には、『播磨国風土記』に、播磨国賀毛郡に「三重里」と「品遅部村」が続けて書かれている。 播磨国賀茂郡三重郷に残る「筍を食べた女の足が三重に折れた」伝説には水銀中毒が疑われ、誉津別命が「言葉を話せなかった」伝説にもこの地の水銀中毒が影響した。伊勢国三重郡も水銀の産地である。 だから伊勢国三重郡の近くにも品遅部村があったのないかではと言うのであるが、あまり論理的ではない。
伊勢の佐那造{伊勢国・度会郡、多気郡} 『延喜式』「多気郡五十二坐並〔なべて〕小/佐那神社二座。」「小社九十八座在多気・度会両郡/佐那社二座。
 邇邇芸命が天降りしたとき、鏡を天照大神の御神体として五十鈴宮に降ろし、近くの佐那々の県に手力男神が祀られた(第83回「手力男神者坐佐那那県」)。 佐那造は佐那神社の神戸を統率したと、想像される。
 〈大辞典〉佐那県より起る。此の県名は早く滅し、わづかに多気郡に佐那神社を残せり。〈/大辞典〉現在の佐那神社は、三重県多気郡多気町仁田156。
比売陀君  履中天皇の段に「於若櫻部臣等、賜若櫻部名、又比賣陀君等、賜姓謂比賣陀之君也。」という文がある。 この文は意味が取りにくいが、〔若櫻部臣の一族に「若櫻部」の名を与え、比売陀君は比売陀君のまま姓(かばね)として認定した〕という意味だと思われる。なお「之」はあってもなくても読みは同じである。
 『延喜式』に「大和国二百八十六座/添上郡丗七座/売太神社」。賣太(めた)神社は、奈良県大和郡山市稗田町。 主祀神は天鈿女命・稗田阿礼、副祀神は猿田彦命で、天孫降臨に関わりが深い。稗田氏は天鈿女命を祖とする猿女君のことで、稗田阿礼は太安万侶の許で記の編纂に携わった(第85回【書紀における猿女君】・第19回)。 但し、祭神の決定は明治以後である。
当麻勾君『栗東歴史民俗博物館』のページによれば、1999年栗東市重利遺跡出土の木簡「乙酉年四月一日召■大夫勾連渚■謀賜〔天武天皇14年=685、ある人物に賜る物品をどうするか、勾連渚を召して相談した。〕について、「栗東の下鈎・上鈎の地名は勾連と関わりがありそう。また安閑天皇は、大倭国の勾の金橋(奈良県橿原市)に宮を置いたが、即位前は勾大兄皇子と呼ばれ、近江の国との繋がりを示す。安閑朝には、勾舎人部や勾靫部が置かれた」(要約)とある。 以上から、勾連の同族が{大和国葛下郡当麻【多以末たいま】}にいて、当麻の勾君と呼ばれたと推定される。
佐佐君  『延喜式』に「伊賀国廿五座/阿拝郡九座/佐々神社。」(三重県伊賀市音羽618;関西本線伊賀上野駅北4km)
 <御由緒>「近江国界〔隣接する近江国との国境〕篠嶽〔笹ケ岳〕に鎮座していたのを文録年中に現在の地に遷す。」
 『延喜式』にまた、「丹波国七十一座/多紀郡九座/佐々婆神社。」(兵庫県篠山市畑宮377)
 <御由緒>「崇神天皇の御代丹波国平定し給へる日子坐王の長子佐佐君の祖神志夫美宿弥一族の奉齋せられたる社である。」 は、後世に記に拠って作られたと思われる。
 〈大辞典〉は阿拝郡の佐々神社説を採る。
日下部連  神武天皇が戦った孔舎衛坂は、現在の東大阪市日下町にある。そこが日下部の発祥の地か、各地にある居住地のひとつであったかは分からない。
 記(仁徳天皇の段)に、「大日下王おほくさかのみこ之御名代、定大日下部、為わか日下部王之御名代、定若日下部
 〈大辞典〉もと仁徳天皇の大日下王、若日下王の為に設けたる御名代部より発達し、後に天下の大姓になれる。又日下部とも草壁とも記す。〈/大辞典〉
 仁徳天皇の段には、両日下王の名に因んで日下部を定めたと書いているが、実際には日下なる地名、日下部なる部はそれ以前から存在し、その一部が御名代部になったと見るのが妥当である。
 なお記序文に、姓「くさか」の表記は既に定着した「日下」を用いるという説明がある(第27回)。
 天武天皇十三年制定の五十の宿祢の一つに「草壁連」がある。これは次のが該当し、は平安遷都に伴いから分岐したと見られる。
 新撰姓氏録:〖山城国/皇別/日下部宿祢/宿祢/開化天皇皇子彦坐命之後也〗 〖摂津国/皇別/日下部宿祢/宿祢/出自開化天皇皇子彦坐命也〗 〖河内国/皇別/日下部連/連/彦坐命子狭穂彦命之後也〗 〖和泉国/皇別/日下部首/首/日下部宿祢同祖/彦坐命之後也〗 〖摂津国/神別/天孫/日下部/(姓なし)/阿多御手犬養同祖/火闌降命之後也〗 〖河内国/神別/天神/日下部/(姓なし)/神饒速日命孫比古由支命之後也〗
 孔舎衛坂があるのはABCDの祖は、記に一致する。BCDに分かれるのは、Bへの「宿祢」授与以前である。は火闌降命(ほほすそりのみこと、=海幸彦)、は饒速日命(にぎはやひのみこと、天孫の前に天降り)と、異なる祖を掲げる。 特にEFは天孫と対立関係であった点が興味深い。そのためこれらは皇別ではなく、神別である。 始祖を異にする氏の並立は、日下部氏が記成立以前から既に畿内に分布していたことを示している。
甲斐国造 『国造本記』「甲裴国造。纏向日代朝世〔景行天皇〕、狭穂彦王三世孫、臣知津彦公、此子、塩海足尼、定賜国造。
 〈大辞典〉は、丹波の氏族が日本武尊の東征に従った後、甲斐国造の地位を賜ったという説を載せる(⑪三河の穂別の項参照)。
 『山梨県史、通史編1』には「大原遺跡出土の墨書土器『日下』一宮町教育委員会」の項目がある。沙本毘古王の下の裔として括られているから、甲斐国造も日下部連の一族であろう。
葛野之別{山城国・葛野郡・葛野【加度乃かどの】}〖左京/神別/天神/葛野連/連/速日命六世孫伊香我色乎命之後也〗
 葛野郡は現在の京都市の一部。『延喜式』「葛野郡廿座/葛野坐月読神社〔かとのにますつきよみの〕(京都府京都市西京区松室山添)。 新撰姓氏録では饒速日命系とされる。饒速日命は、天孫降臨の前に降りた神。
 〈大辞典〉山城の鴨氏の族との間に密接なる縁故ありしものと考へらる。〈/大辞典〉
近淡海の蚊野之別 {近江【知加津阿不三ちかつあふみ】国愛智【依知えち】郡蚊野}  幕末には、近江国愛知郡に、蚊野外村・上蚊野村・北蚊野村があった(現愛荘町)。
 〈大辞典〉蚊野 カノ カヤ:弘仁二年〔811〕付け文書に「蚊野公」を含む名前があるので、「此の別(わけ)の姓は公姓なりし」〔=実在の姓であった〕。
10若狭の耳別 {若狭国・三方郡・彌美}。『延喜式』「三方郡十九座/弥美神社」。現彌美(みみ)神社は、福井県美浜町宮代7。 〈大辞典〉にも、これ以上の知見はない。
11三川の穂別 穂に関する文献資料には、<国造本記>穂国造。泊瀨朝倉朝〔雄略天皇〕、以生江臣祖、葛城襲津彦命四世孫、菟上足尼、定賜国造。 木簡「三川穂評穂里穂ア佐」。 天孫本紀(『先代旧事本紀』第5巻)に「物部胆咋宿祢、…三川穂国造美己止〔みかど〕直の妹伊佐姫を妾と為して…」(〈大辞典〉の引用による)がある。 「評」は「郡」の古い呼び名。大宝律令(701年)によって「郡」に改称されたことが、多くの木簡によって確定している。穂評は、{参河国宝飯郡}の辺りだろうと考えられている。 『国造本記』には、律令国制定後の国の分割と、神話の時代の国造の任命など、新旧が混在している(別項)。 〈大辞典〉穂国は後に韻を添えて宝飫〔ほお〕、更に宝飯に作る。東三河の総称で、稲穂の瑞々しい眺めから来たと思う。穂別の祖・朝廷別王は親族の婚姻によって日本武尊と結び、東征に従ったと思われる。〈/大辞典〉 なお、日本武尊との婚姻関係は記紀には見えず、この説は吉備武彦、尾張氏建稲種の例からの類推である。
 現在「穂の国」という呼称は、三河地方の観光に利用されている。穂の「国」は、国郡里制(国―郡―里の階層をなす)以前の「くに」で、郡程度の範囲である。
12近淡海の安直 {近江国野洲郡}〔やすのこほり〕。現在の滋賀県野洲市及び守山市のあたり。
 『国造本紀』「淡海国造。志賀高穴穂朝〔成務天皇〕御世、彦坐王三世孫・大陀牟夜別、定賜国造。古事記云、近淡海知安国造之祖、意富多牟和気〔おほたむわけ〕。国造考云、恐淡上脱近字、国上脱安字。〔恐らく淡の上に近の字が脱落し、国の上に安の字が脱落している〕
 「国造考云」は、国造本紀考による注釈。『国造本紀考』は、栗田寛が著した国造本紀の研究書(文久元年=1861)である。 原書には大陀牟夜別が定められたのは「淡海国造」とあるが、古事記によれば「安国造」が正しいと述べる。 引用された「近淡海知安国造之祖…」は、景行天皇の段、倭建命の婚姻のところにある。 古事記の2か所の記述(開化天皇の段・景行天皇の段)と国造本紀を合成すると、系図は「彦(日子)座王―水穂真若王―○―大陀牟夜別」となる。
13三野国の本巣国造 『国造本記』「三野前国造。春日率川朝〔開化天皇〕、皇子彦坐王子八瓜命、定賜国造。〔以下は後世に書き加えられた注釈〕三野今美濃。分前後為二国…古事記日子坐王子―神大根王、亦名八瓜入日子王。三野国・本巣国造之祖。
 倭名類聚抄には{美濃国・本巣郡}と書かれ、本巣は美濃国の一郡である。また、『続日本紀』では最初から「三野」ではなく「美濃」の表記が使われるので、この地域が本巣「国」と呼ばれたのは律令国制定以前だと思われる。
14長幡部連 一般には「三野国の本巣国」が長幡部連に係るとされている。その理由は、 常陸国風土記の「長幡部之社」にある。それによると、綺日女命(かけはたひめ)は天孫降臨に随伴した後、日向→美濃→久慈と遷ってきた。
 『常陸国風土記』久慈郡の項、読み下し文(岩波文庫版による): 「郡の東七里、太田の郷に、長幡部の社あり。古老曰く、珠売美萬すめみま〔天孫=瓊瓊杵尊〕天より降りましし時、御服みけしを織らむ為、従い降りし神、綺日女命と名づく。 本、筑紫国の日向の二神峰〔=二上峯〕より三野の国の引津根の丘に至る。後、美麻貴みまき天皇〔崇神天皇〕の世に及び、長幡部の遠祖とほつおや多弖命たてのみこと三野より避り、 久慈に遷り…
 『延喜式』に「常陸国廿八座/久慈郡七座/長幡部神社」。(茨城県常陸太田市幡町539)
15吉備の品遅君  「伊勢の品遅部君」の項参照。品遅部は最初から複数の国に設けられたか、子孫が各地に進出したかのどちらかだが、垂仁天皇の段の記述によれば、前者である。
 {備後国・品治【保牟知ほむち】郡} 現広島県福山市。〈大辞典〉品治国造。品治国とは、後の備後国品治郡付近の地也。此の国は蓋し品治郡の部民類の発達せしもの。
 『国造本紀』「吉備品治国造。志賀高穴穂朝〔成務天皇〕、多遅麻君同祖―若角城命三世孫―大船足尼、定賜国造。和名抄云、備後国品治郡。古事記云、息長日子王、吉備品遅君之祖。按此王息長宿祢子与但遅麻国造同祖也。〔案ずるに、此の皇子息長宿祢子は但遅麻国造の同祖にあずかる。〕
16針間の阿宗君  『延喜式』「播磨国五十座/保郡七座/阿宗神社」(兵庫県たつの市誉田町広山)
 〈大辞典〉阿蘇は、又阿宗、安蘇…に作る。阿蘇国は後の肥後阿蘇郡の地なり。備中国賀夜郡に阿宗郷。アソの地名は諸国に猶ほ多し。〈/大辞典〉
 播磨国+阿蘇君で検索をかけたら、能の演目「高砂」という意外な項目が見つかった。高砂は、九州阿蘇の宮の神官が播磨の国の高砂にやってきて、 その松の美しい景色の中に老夫婦がやって来て物語が始まる。阿宗神社と高砂神社の距離は15km程度である。 「アソ」はもともとポリネシア語由来という説があり(第101回《磯輪上秀真国の別解》 )、弥生時代以前、火山の煙立つ地域がそれぞれ「アソ」と呼ばれた。 それとは別に、後の古墳時代に、肥後国の阿蘇氏族が全国展開したと考えられる。阿宗神社の地はその系統に属すると思われ、その古い記憶が謡曲高砂の筋書きに反映したのかも知れない。
 なお、阿蘇族が天孫族と共に東征した可能性も見た(多氏の全国分布―第101回【日子八井命・神八井耳命の末裔】 参照)。
17多遅摩の国造 『国造本紀』「但遅麻国造。志賀高穴穗朝御世、竹野君同祖、彦坐王五世孫、船穂足尼、定賜国造。今但馬国。古事記云、大多牟坂王、多遅摩国造之祖也。〔以後、後世の注釈〕按〔案ずるに〕大多牟坂王息長宿禰王彦坐王孫也。
 記の系図では、大多牟坂王は彦坐王の4世孫である。国造本紀では船穂足尼は彦坐王の5世孫とされるので、両者を合成すれば「…大多牟坂王―船穂足尼」になる。従って注釈は「大多牟坂王―船穂足尼は彦坐王の孫なり」と書くつもりが、誤まったと思われる。
 但馬国には、竹別(項22参照)の支配地があり、多遅摩の国造の実際の支配地はそれ以外のどこかだと思われるが、詳しいことは分からない。
18道守臣 天武天皇十三年に取り立てられた五十二朝臣の一臣。〖河内国/皇別/道守朝臣/朝臣/波多朝臣同祖/武内宿祢男八多八代宿祢之後也〗 本来なら、孝元天皇の段で波多八代宿祢が「波多臣・道守臣らの祖」と書かれるべきだが、何故かここに紛れ込んでいる。
 〈大辞典〉は、道守臣(〖右京/皇別/道守臣/臣/道守朝臣同祖/豊葉頬別命之後也 〗)を「道守朝臣」から分離し、道守臣だけは開化天皇の裔(本段)で、かつ婚姻関係により「道守」をおかしたものとする 〔AがBの女を娶ることにより、Bの姓氏を名乗ること〕。 ただ、道守臣は道守朝臣と同祖だとされるのに、ここまで峻別するのは無理があり、この説は苦しい。
19忍海部造 新選姓氏録は〖河内国/皇別/忍海部/開化天皇皇子比古由牟須美命之後也〗として、建豊波豆羅和気王から付け替えている。
 忍海郡{大和国・忍海【於之乃美おしのみ】郡} には、渡来人の製鉄の職能集団「忍海部」があったとされる。「部造」は、部を統率する役職だと思われる。 〈大辞典〉履中天皇皇女飯豊青皇女(いひとよあをのひめみこ)は、別名忍海郎女いらつめ。記紀に明記はないが、忍海部が皇女の御名代として置かれたと思われる。〈/大辞典〉  また〈大辞典〉は「忍海漢人 オシノミノアヤヒト:最初大和国忍海の地に置きし漢人にして、忍海部の一種ならんか〔=一種であろうか〕と考へらる。」として、 渡来系の部を忍海部一般の一部分として区別している。なお、漢(あや)は中国からの帰化人を意味する。
20御名部造  〈大辞典〉御名部とは御名代部に同じ。即ちこの氏は御名代部の伴造*1〔とものみやつこ〕たりし氏なるが、何天皇の御名代部か詳らかならず。
 *1…伴造は、部民(とものを、=職業部の構成員)を統率する役職。
21稲羽の忍海部  大和国忍海郡の渡来人による製鉄の職能集団が各地に広がり、それぞれの土地で「忍海部」と呼ばれたと見られる。(『忍海部造』など) 〈大辞典〉は、大和、河内、但馬、播磨、因幡、下総、近江、備前に忍海部を見出している。 また〈大辞典〉は「カバネのなきは如何なる理由によりてか。」と疑問を投げかけている。 確かに「部」は集団そのものを意味するに過ぎず、姓になり得るのは「部造」〔=部の統率者〕である。
22丹波の竹野別 {丹波【太迩波たには】国}また、{丹後【太迩波乃美知乃之利のみちのしり】国・竹野郡・竹野}
 和銅6年(713)、丹波郡から北部五郡を分離し、丹後国とした。 『続日本紀』和銅六年四月に「丹波国ヨリ加佐・与佐・丹波・竹野・熊野五郡、始メテ丹後国」(返り点、送り仮名は筆者) なお、時を同じくして備前国から美作国を、日向国から大隅国をそれぞれ分離している。 記の完成は712年だから丹波国分割前である。書紀の完成は720年だから分割後だが、書き換えが間に合わなかったか、昔の話だとして丹波国のままにしたと思われる。
 『延喜式』(927年成立)には「丹後国六十五座 大七座 小五十八座/竹野郡十四座 大一座小十三座/竹野神社 大」とあるので、続日本紀と合う (竹野神社の比定社は、京都府京丹後市丹後町宮小字宮谷245)。
 なお、丹後国の竹野の他に「多遅麻之竹別」が但馬国美含郡にあり、懿徳天王の皇子・当芸志比古を祖とする(第104回)。
 〈大辞典〉竹別は、但馬の古族。隣国丹波にも竹野郡竹野郷があり、太古・但馬より丹後に亘り竹という大地名があったろう。開化紀に竹の媛、〔記〕開化段にある竹比売は、この裔孫であろう。〈/大辞典〉 このように〈大辞典〉は、丹波の竹別が開化天皇以前から存在していたと言うが、それは記の記述「開化天皇の子・建豊波豆羅和気は丹波の竹野別の祖」を無視しているように読める。 好意的に解釈すれば、「竹」という地域は太古からあったが、「別」という姓が与えられたのが建豊波豆羅和気の時ということであろうか。
23依網の阿毘古  {参河【三加波みかは】国・碧海【阿乎美あをみ】郡・依網【与佐美よさみ】}、{河内国・丹北郡・依羅【与佐美】}、 {摂津国・住吉郡・大羅【於保与佐美おほよさみ】}
 表記が一致するのは三河国の「依網」である。三河国の碧海郡にあったかつての「依佐美(よさみ)村」は、現在の刈谷市高須町山ノ田のところである。
 一方〈時代別上代〉によれば、我孫子(あびこ)は大化の改新以前の姓で、畿内やその周辺の氏族に与えられた。元来は官職名か。我孫子伊賀万呂(正倉院御物銘識)、大野我孫子麻呂(続日本紀神護景雲三年)など。とあり、 表記も「羅」は「あみ」なので、「網」と実質的な違いはない。だから和泉国の方かも知れない。
 さらに、大依羅神社が、大阪府大阪市住吉区庭井2丁目18-16にある。 『延喜式』に「摂津国七十五座/住吉郡廿二座/大依羅神社四座」。
 <御由緒>「建豊波豆羅和気王を主神として住吉三神を合せ祀る…神功皇后征韓の砌〔みぎ〕り依羅我彦男垂見を主神として拝祀せしめ給ふ。 …往時神域の規模の広大なりし事は今に至るも二ノ宮、四ノ宮、酒造田、宮添等の小字名の存するを見ても明らか」なり。</御由緒>
 依羅我彦のは格助詞の「」で、「よさみ族の英雄」のような意味。 御由緒によれば垂見は依羅我彦の子であるが、記では「葛城の垂見宿祢」は、建豊波豆羅和気王の祖父である。
 住吉三神(底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命)は、神功皇后が征韓に出発するときに住吉神社に祀った(第42回【墨江之三前大神と神功皇后】参照)。
 近くに我孫子町がある。大依羅神社があるのは摂津国だが河内国丹北郡に近いので、依羅氏はその一帯の氏族であったことだろう。
《開化天皇段で派生した氏族の格》
 天武天皇13年には、52臣を朝臣(八色の姓の第二位)に定めたのに続き、50連を宿祢(同じく第三位)に定めた。 しかし、表のうち50宿祢に含まれるのは、日下部連(草壁連)と、忍海部造(凡海連)に過ぎない。 孝元天皇段の臣の多くが朝臣52氏に含まれるのに比べると、開化天皇段の23族は小粒である。
 表記法は、基本的に「律令国+氏族名+国造レベルの姓」である。前述のように国造の支配域は郡程度なので、その程度のレベルの地方氏族であることを示している。
 その分布を地図に落とすと、当然のことながら畿内中心だが、生みの妃毎に若干の地域的特徴がある。 〈大辞典〉は、「穂別(11)と甲斐国造(7)の姓は、日本武尊に従った氏族に与えられた」という説を提示する。
 ここに書かれる他にも同程度の氏族が多数あったと思われるが、とてもすべては書ききれないだろう。 だが記に天皇の裔と書かれれば、大いに権威が高まるはずである。残りは以後に回された。
《道守臣は手違いで紛れ込んだのだろうか》
 前項で述べたようにこの段の氏族は小粒だが、その唯一の例外が道守臣である。
 朝臣レベルは孝元天皇の段に、宿祢以下は開化天皇の段に置くという割り振りから見れば、道守臣は孝元段で、武内宿祢を祖として書かれるはずである。 道守臣が開化段に紛れ込んだのは手違いだろうか?しかも、これは単純な筆写ミスで起ることではないので、執筆段階の誤りということになる。
 しかし、実は意図的にここに置いたのかも知れない。というのは、建豊波豆羅和気王が葛城の垂見宿祢の孫で、道守臣も葛城の武内宿祢系だからである。 建豊波豆羅和気王系は日子坐王系と書き方を変え、根本に道守臣をどんと置き、そこから小粒な五氏が分岐したことを示したのだろう。
《国造本紀の読み方》
 本巣郡は、もともと本巣国と呼ばれていた地域が、美濃国制定のときにその一郡として位置づけられたと見られる。 国造本紀では、美濃は三野前国造・三野後国造の二国に分かれていたことになっており、三野前国造は「春日率川朝〔開化天皇〕皇子彦坐王〔の〕子、八瓜命、定賜国造。」とあり、 古事記では、八瓜日子王が本巣国造だから、研究者は本巣国=三野前国であろうと考え、注記を加えた。 何れにしても、本巣国造の任命は律令国制定より古い時代で、本巣郡の地域はかつては三野前国と呼ばれていたようだ。
 前述したように国造の「国」は、後の郡程度の範囲だろうと考えられている。
 一方で、同書には「美作国造。諾羅朝〔なら朝、元明天皇〕和銅六年〔713年〕備前国美作国」と律令国制定以後の記事が混ざっている。 仮に「美作国造」が存在したとしても、それは古い職名の残存に過ぎず、和銅六年に新たに「国造」が任命されることは有り得ない(律令制における国の長官は国宰、後に国司である)。 第108回で取り上げた紀伊国造は、国の統治権を失ったものの、宮司を世襲する家に「国造」の名が残る例である。
 『国造本紀』にある日付の最終は、弘仁十四年(823年)なので、成立はそれ以後である。
 ところで、その日付がある賀我国造の項には興味深いことが書かれている。 「賀我〔かが〕国造。泊瀬朝倉朝〔雄略天皇、5世紀〕御代、三尾君祖、石撞別命四世孫、大兄彦君、定賜国造。 難波朝〔孝徳天皇、650年前後〕御代、隸越前国、嵯峨朝〔嵯峨天皇〕御世、弘仁十四年、割越前国分為加賀国。〔賀我国造。雄略天皇の御世、三尾君の祖、石撞別命の四世孫、大兄彦君を定め賜わり、孝徳天皇のとき賀我国は越前国に吸収され、823年に再び分離して加賀国になった。〕 しかし、5世紀に定められた賀我国造は9世紀にできた加賀国への支配権は既に失っていて、単なる家柄に過ぎないのは明らかである。
 このように、『国造本紀』はまだ実権を伴う支配者だった時代に「国造」を定めた神話と、国造の「国」が律令国の国郡里制下の国に移行していった歴史を書いた書である。

国土地理院航空写真
【伊邪河之坂上の陵】
 伊邪河之坂上(いざかはのさかのへ)の陵は、書紀では春日率川坂本陵(かすかのいざかはのさかもとのみささき)。あるいは…坂上陵(…さかのへのみささき)。坂本=坂の下だから、坂上とは正反対である。
●『延喜式』諸陵寮…春日率川坂上陵。春日率川宮御宇開化天皇。在大和国添上郡。兆域東西五段南北五段。以在京戸十烟。毎年差充令守。〔毎年差し充て守らしむ;1年交代という意味か〕
 ※=反〔面積の単位、近代は約100㎡〕。京戸(きょうこ)…京中の民政に当たったのが左右の京職で,これにより編戸造籍された住民を京戸という。 …荘園や寺社領の田を農家の戸数で数える助数詞か。『宇佐大鏡』に「御封田六百四十烟」の表現がある。
●『五畿内志』…春日イサ川阪上陵【開化天皇○在南部林小路町
 古墳としては「念仏寺古墳」と言い、市街地にある。 前方部の近くまで江戸時代には墓地であった。『奈良新聞』2008年12月12日付によると、宮内庁の発掘で考古学者の見学を許可し、同月11日午後、約30分間研究者らが立ち入った。 「昭和五十年〔1975〕の鳥居の建て替え工事で江戸時代の骨つぼや棺が出土。今回も同じ場所を発掘し、同時期の骨つぼの破片や寛永通宝。貴人にかざす傘をかたどった五世紀頃の蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)の破片が一点出土したというが、公開されなかったという。
 全長105mで周濠(ただし空堀)があり、一応前方後円墳と言われているが、天皇陵墓として宮内庁管理下にあるので学術調査は行われていない。 地名から見て、この古墳が伊邪河之坂上陵(記)、春日率川坂上陵(書紀)であろう。この地の現在の地名は油阪で、中世には符坂(ふさか)庄と言った(「奈良県」の古代地名辞典より)。 地形図によって等高線を見ると、陵の基準面の標高は約65m。坂の勾配は27分の1(270進むと10m上る)で、東北東に向かって上る。陵の長軸方向が、傾斜の向きと直交している。 書紀には坂本・坂上と2通りに書かれるが、陵を西から見れば坂上、東から見れば坂本にあるから、どちらも間違いではない。

【書紀】
第九目次 《開化天皇》
稚日本根子彥大日々天皇、大日本根子彥國牽天皇第二子也。
母曰欝色謎命、穗積臣達祖欝色雄命之妹也。
天皇、以大日本根子彥國牽天皇廿二年春正月、立爲皇太子、年十六。
五十七年秋九月、大日本根子彥國牽天皇崩。
冬十一月辛未朔壬午、太子卽天皇位。
元年春正月庚午朔癸酉、尊皇后曰皇太后。
冬十月丙申朔戊申、遷都于春日之地【春日、此云箇酒鵝】、
是謂率川宮。【率川、此云伊社箇波】。是年也、太歲甲申。
五年春二月丁未朔壬子、葬大日本根子彥國牽天皇于劒池嶋上陵。
六年春正月辛丑朔甲寅、立伊香色謎命爲皇后。【是庶母也。】
后生御間城入彥五十瓊殖天皇。
先是、天皇、納丹波竹野媛爲妃、生彥湯産隅命【亦名彥蔣簀命】。
次妃和珥臣遠祖姥津命之妹姥津媛、生彥坐王。
廿八年春正月癸巳朔丁酉、立御間城入彥尊、爲皇太子、年十九。
六十年夏四月丙辰朔甲子、天皇崩。
冬十月癸丑朔乙卯、葬于春日率川坂本陵。【一云、坂上陵。時年百十五。】
稚日本根子彦大日々(わかやまとねこひこおほひび)の天皇(すめらみこと)、大日本根子彦国牽(おほやまとねこひこくにくる)天皇の第二子(ふたはしらめのみこ)也(なり)。
母(はは)欝色謎命(うつしこ〔め〕のみこと)と曰(い)ひたまひ、穂積臣(ほつみのおみ)の遠祖(とほつおや)欝色雄命(うつしこをのみこと)之(の)妹(いろど)也(なり)。
天皇、大日本根子彦国牽天皇廿二年(はたとせあまりふたとせ)春正月(むつき)を以ち、皇太子(ひつぎのみこ)に立為(たたせたまふ)、年(みとし)は十六(とちあまりむつ)。
五十七年(いそとせあまりななとせ)秋九月(ながつき)、大日本根子彦国牽天皇崩(ほうず、かむあがりす)。
冬十一月(しもつき)辛未(かのとひつじ)を朔(つきたち)とし壬午(みづのえうま)のひ〔12日〕、太子(ひつぎのみこ)天皇の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。
元年(はじめのとし)春正月(むつき)庚午(かのえうま)朔癸酉(みづのととり)〔4日〕、皇后(おほきさき)を尊(たふと)び皇太后(おほみさき)と曰(とな)ふ。
冬十月(かみなつき)丙申(ひのえさる)朔戊申(つちのえさる)〔13日〕、[于]春日之地(ところ)に都を遷して【春日、此箇酒鵝(かすが)と云ふ。】、
是(こ)を率川宮【率川、此伊社箇波(いざかは)と云ふ。】と謂ふ。是の年は[也]、太歳(たいさい、おほとし)甲申(きのえさる)。
五年(いつとせ)春二月(きさらぎ)丁未(ひのとひつじ)朔壬子(みづのえね)〔6日〕、大日本根子彦国牽天皇を[于]剣池嶋上(つるぎのいけのしまのへ)の陵(みささぎ)に葬(はぶ)りたまふ。
六年(むとせ)春正月(むつき)辛丑(かのとうし)朔甲寅(きのえとら)〔14日〕、伊香色謎(いかしこ〔め〕)の命を立たし皇后(おほきさき)と為(し)たまふ。【是庶母也。】
后(おほきさき)、御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにゑ)の天皇を生みたまふ。
先是(このさき)、天皇、丹波(たには)の竹野媛(たかのひめ)を納(めあは)せ妃(きさき)と為(し)、彦湯産隅(ひこゆむすみ)の命【亦の名は彦蔣簀(ひここもす)の命】を生みたまふ。
次に妃和珥(わに)の臣の遠祖(とほつおや)姥津命(おけつのみこと)之(の)妹(いも)姥津媛(おけつひめ)を娶せ、彦坐王(ひこいますのみこ)を生みたまふ。
廿八年(はたとせあまりやとせ)春正月(むつき)癸巳(みづのとみ)朔丁酉(ひのととり)〔5日〕、御間城入彦(みまきいりひこ)の尊を立たし皇太子(ひつぎのみこ)と為(す)、年(よはひ)は十九(とちあまりここのつ)。
六十年(むそとせ)夏四月(うづき)丙辰(ひのえたつ)朔甲子(きのえね)〔9日〕、天皇崩。
冬十月(かみなつき)癸丑(みづのとうし)朔乙卯(きのとう)〔3日〕、[于]春日(かすが)の率川(いざかは)の坂本(さかもと)の陵(みささぎ)に葬りたまふ。【一云(あるいはく)、坂上陵(さかのへのみささぎ)。時に年(みとし)は百十五(ももちあまりとちあまりいつつ)。】

《暦》
 7回の朔日のうち、神武天皇で仮定した計算上の暦から、五年春二月丁未朔のところで不一致を生じた(参照)。 同月朔日は、計算上丙子である。その前後は4年12月=戊申、同閏12月=丁丑、5年1月=丁未、同2月=丙子、同3月=丙午となっている。 丁未と丙子は30日もずれているので、計算上の誤差ではない。草稿では「正月」だったのが、決定稿の段階で誤って「二月」と筆写されたのかも知れないが、確かなことは分らない。
《丹波道主族の扱い》
 書紀では、ここまで皇子を祖とする諸族の紹介はばっさりと削除されている。開化天皇紀でもすべて省かれている。 その理由として、諸族の祖は、記の記載によることとする。失われた書紀別巻の系図にまとめた。の2通りが考えられる。 であろうと考えていたが、例外的に孝霊天皇紀の稚武彦命、孝元天皇の大彦命に祖とする諸族の記載があり、これらは記を補足していると見られるので、かも知れない。

【欠史八代の都と末裔氏族】
漢風
諡号
和風諡号のタイプ派生氏族
天孫系出雲系地祇系[王]末裔(本願)
神武やまといはれひこ高市郡(畝傍山または掖上)[神八井耳命]多氏(十市郡飯富郷)系21氏
綏靖ぬなかはみみ葛上郡なし
安寧たまてみ高市郡[師木津日子命]〈国造級3氏〉
懿徳すきとも高市郡・軽[当芸志比古]〈国造級3氏〉
孝昭かゑしね葛上郡・掖上[天押帯日子命]和邇氏(添上郡)系16氏
孝安おしひと葛上郡・室なし
孝霊ふとに式下郡・黒田[日子刺肩別命ら]吉備(吉備国)系8氏
孝元くにくる高市郡・軽[比古布都押之信命ら]建内宿祢(葛上郡)系30氏
開化おほびび添上郡・春日[日子坐王ら]〈国造級23氏〉
 歴代天皇の都と、皇太子以外の皇子(王、多くは兄)を祖とする氏族を概観する。
 和風諡号のタイプは、「みみ・びび」を出雲系と見做した。「地祇系」は先住氏族の神名という意味で、実際の天皇の位置づけはもちろん天神である。
《葛城王朝・春日王朝》
 欠史八代を概観したとき(第102回)、八代は同時期に並立していたものを、直列に接続して系図を合成したとする仮説を示した。
 その後、細かく検討を加えた時点で言えることは、先住の独立氏族は高市郡3、葛上郡2、添上郡1。これらを征圧した天孫系王朝が、高市郡・葛上郡各1と見られる。 添上郡春日の開化朝は、続く崇神朝または垂仁朝によって倒されるのであろう。「先住族の神vs押人・国来る」という名前の組み合わせが、闘争の歴史を物語る。 全8王朝が同時に存在したわけではなく、少なくとも第6代(押人)は第5代よりは後・第8代(国来る)は第7代よりは後という順序は存在するが、その点を除けば多くの王朝の存在が時期的に重なっていたと想像される。
《諸族の分岐》
 王たちは、数多くの氏族の祖に位置づけられる。それらは、多氏・吉備氏・和邇氏・葛城系諸氏という有力な氏族と、国造級の地方氏族に大別される。 興味深いのは、大族の中にも、和邇氏のように独自の系図をもつ結束の強い族もあれば、多氏のように実際には繋がりはないが、形だけ同祖とされた族もあることである。 特に多氏については、筆者の太安万侶が自分の出身族を大きく見せようとした気配がある。
《諸族の系図を繋ぐ意義》
 各氏族の系図の出発点を、何れかの天皇に置くことは重要である。もしそれをせねば、朝廷に仕える氏族は単なる寄せ集めになってしまい、統制が取れないだろう。 欠史八代を設定した目的の一つは、天皇からの系図と接点のない氏族に、接点を提供することだと考えられる。 だから、この部分に事跡は不要である。
 それでは系図の接続は、氏族側からの要望か、朝廷からの要求か。 恐らく中小氏族は前者で、大族は後者である。率川神社の項では、祭神を見ると祀主の大三輪氏は独立心が強く、神武天皇との関係などどこ吹く風であった。 また、いくつかの有力氏族は、天孫の裔であることを拒否する。物部氏は、天孫に先だって降りた饒速日命を祖とする。大伴連の祖・道臣は、瓊瓊杵尊の伴緒とものを〔=天孫を助ける友〕として降臨に随伴した形をとる。
 それに対して、国造レベルの氏族は進んで天皇の裔になれるように、希望したと思われる。欠史八代の最期の開化天皇段に大量に載ったのは、執筆中に掲載を希望する族が増えたためではないかと思われる。
《都と諸族の本願》
 各代天皇の都と派生氏族の本願との間に、直接の関連はない。皇子(=王)は、都からどれだけ離れていても、その地に移動して祖となったことにすればよいから、差支えない。 実際には都の場所との関係は気にせず、大小の氏族を適宜グループ化して各代に割り振ることにしたようだ。
 さて、全体を俯瞰すると大族の本願と各王朝の都は、どちらも葛城から高市郡、あるいは和邇・春日に分布し、同じ地域に重なる。 実は、王朝と大族は同じ歴史的存在であり、そこに異なる光を当てることにより、異なるものとして伝説化されたものではないかと考えるものである。
《想定される物語》
 その立場から、欠史八代の段の解釈を試みる。例えば、綏靖天皇は「沼河耳」の名が示すように、高志の血を受け継ぐ出雲系で、紀伊国を経て葛城国にやってきて王朝を建てた。その系列は綏靖天皇―考昭天皇―武内宿祢と繋がる。その一族は天孫側から押してきた孝安天皇と戦い敗れたが、その後は宿祢として朝廷に忠実に仕える。 一方、北部戦線では開化天皇は和邇氏の一派を率いていた。一族の狭穂彦王が垂仁天皇と激しく戦う場面もあったが持ちこたえ、やがて和邇氏は各地に勢力を広げる。 これらの筋書きはまだ大雑把であるが、ある地域にあった都の場所との関係は気に王朝が、その地の氏族と一体の存在であったと仮定すると、随分見通しがよくなるように思われる。

まとめ
 ここまで、大小の多くの氏族が天孫の裔として位置づけられた。登場した氏族について詳しく調べた 結果、基本的にすべての氏の実在性を確信するに至った。彼らは、記紀の時代に実際に活躍していた氏族なのである。
 しかし、だからと言って「祖の家系が天孫から繋がる」箇所までが事実であるわけではない。各氏族の先祖は、形而上の世界〔現実から離れた、思惟による世界〕にある。 ただし、各氏族独自の系図や本願の伝統は尊重されたと思われる。そうでなければ、古事記の系図はとても受け入れられなかっただろう。
 ある皇子を出発点にすることを、その氏族が受け入れれば話は簡単である。しかし、その氏族が自らの祖を棄てることに拒否感を示す場合は、右図に示したテクニックを用い、「娶A女B毘売生子R王【此王XY之祖也】」と書き、天孫の系図と絡ませる。 典型例として沙本毘古王の場合、A=春日建国勝戸売、B毘売=沙本之大闇見戸売、R王=日子坐王―沙本毘古王、X=日下部連、Y=甲斐国造である。
 氏族側も、記で祖が決められたとしても単なる形式として割り切っていた節があり、その例が率川神社のところで述べた大三輪氏である。 また、熊野大社の祭神リストで、神武天皇の滞在が無視されていることに触れた(第97回【熊野信仰の特質】)。 太安万侶としては、天武天皇の氏族統合の方針を守り苦心して系図を切り貼りしたが、実際のところは氏族はしばしば面従腹背で、時には平気で氏族同士が争ったり、反乱を起こしたりするわけである。
 さらに、有力な氏族の中には前述した物部氏や大伴氏のように、天孫の系図に形式的に入ることすら、正面から嫌った例もある。
 なお、歴代王朝が葛城・添上に置かれたのは、有力氏族がこの地域を本願としたことによると思われる。 系図は複雑だが、大局的に見て王朝と氏族はもともと一体であった。
 さて、ここまでの考察から、各「王朝」を単調な直線状に繋いだ系図は形而上のものである。従ってそれぞれの都・陵とされるものは基本的にフィクションである。 書紀では、更にもっともらしく日付までが創作された。明治以来、人々が都・陵の場所を「発見」することに熱中し、その結果各地に建てられた聖跡碑を見るにつけ複雑な気持ちになる。
 

2015.10.10(sat) [110] 中つ巻(崇神天皇1) 
御眞木入日子印惠命坐師木水垣宮治天下也
此天皇娶木國造名荒河刀辨之女【刀辨二字以音】遠津年魚目目微比賣生御子豐木入日子命
次豐鉏入日賣命【二柱】

御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにゑのみこと)、師木水垣宮(しきみづがきのみや)に坐(ま)し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。
此の天皇(すめらみこと)、木国造(きのくにのみやつこ)、名は荒河刀弁(あらかはとべ)之(の)女(むすめ)【刀弁の二字(ふたじ)音(こゑ)を以(もち)ゐる。】遠津年魚目目微比売(とほつあゆめまくはしひめ)を娶(めあは)せ、生(あ)れましし御子(みこ)豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)、
次に豊鉏入日売命(とよすきいりひめのみこと)【二柱(ふたはしら)なり。】


又娶尾張連之祖意富阿麻比賣生御子大入杵命
次八坂之入日子命
次沼名木之入日賣命
次十市之入日賣命【四柱】

又、尾張連(をはりむらじ)之祖(みおや)意富阿麻比売(おほあまひめ)を娶し、生(あ)れましし御子(みこ)大入杵命(おほいりきのみこと)、
次に八坂之入日子命(やさかのいりひこのみこと)、
次に沼名木之入日売命(ぬなきのいりひめのみこと)、
次に十市之入日売命(とほちのいりひめのみこと)【四柱なり。】


又娶大毘古命之女御眞津比賣命生御子伊玖米入日子伊沙知命【伊玖米伊沙知六字以音】
次伊邪能眞若命【自伊至能以音】
次國片比賣命
次千千都久和【此三字以音】比賣命
次伊賀比賣命
次倭日子命【六柱】

又、大毘古命(おほびこ)之女(むすめ)御真津比売命(みまつひめのみこと)を娶せ、生(あ)れましし御子(みこ)、伊玖米入日子伊沙知命(いくめいりひこいさちのみこと)【「伊玖米伊沙知」の六字音を以(もち)ゐる。】、
次に伊邪能真若命【伊自り能至(まで)音を以ゐる。】(いざのまわかのみこと)、
次に国片比売命(くにかたひめのみこと)、
次に千千都久和【此の三字音を以ゐる。】比売命(ちちつくわひめのみこと)、
次に伊賀比売命(いがひめのみこと)、
次に倭日子命(やまとひこのみこと)【六(む)柱なり。】


此天皇之御子等幷十二柱男王七女王五也

此の天皇之御子(みこ)等(ら)并(おほよそ)十二柱(とはしらあまりふたはしら)、男王(をのこのみこ)七(ななはしら)女王(めのこのみこ)五(いつはしら)也(なり)。


故伊久米伊理毘古伊佐知命者治天下也
次豐木入日子命者【上毛野君下毛野君等之祖也】
妹豐鉏比賣命【拜祭伊勢大神之宮也】
次大入杵命者【能登臣之祖也】
次倭日子命此王之時始而於陵立人垣

故(かれ)伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)者(は)天下を治めたまふ[也]。
次に豊木入日子(とよきいりひこ)命者(は)【上毛野君(かみつけののきみ)下毛野君(しもつけののきみ)等(ら)之祖(みおや)也(なり)】。
妹(いも)、豊鉏〔入〕比売(とよすきいりひめ)命【伊勢大神(いせのおほみかみ)之宮を拝(をろが)み祭(まつ)りたまふ[也]】。
次に大入杵(おほいりき)命者(は)【能登臣(のとのおみ)之祖(みおや)也(なり)】。
次に倭日子命、此の王(みこ)之時、始而(はじめて)[於]陵(みささき)に人垣(ひとがき)を立たせたまふ。


 御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)は師木水垣宮(しきのみずがきのみや)にいらっしゃり、天下を治められました。
 この天皇は、木国造(きのくにのみやつこ)、名は荒河刀弁(あらかわとべ)の息女、遠津年魚目目微比売(とおつあゆめまくわしひめ)を娶り、御子、豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)、 次に豊鉏入日売命(とよすきいりひめのみこと)を生みなされました。【二柱です。】
 また、尾張連(おはりむらじ)の祖、意富阿麻比売(おおあまひめ)を娶り、御子(みこ)、大入杵命(おおいりきのみこと)、 次に八坂之入日子命(やさかのいりひこのみこと)、 次に沼名木之入日売命(ぬなきのいりひめのみこと)、 次に十市之入日売命(とおちのいりひめのみこと)を生みなされました。【四柱です。】
 又、大毘古命(おおびこ)の息女、御真津比売命(みまつひめのみこと)を娶り、御子(みこ)、伊玖米入日子伊沙知命(いくめいりひこいさちのみこと)、 次に伊邪能真若命【伊自り能至(まで)音を以ゐる。】(いざのまわかのみこと)、 次に国片比売命(くにかたひめのみこと)、 次に千千都久和【此の三字音を以ゐる。】比売命(ちちつくわひめのみこと)、 次に伊賀比売命(いがひめのみこと)、 次に倭日子命(やまとひこのみこと)を生みなされました。【六柱です。】
 この天皇の御子らは、おおよそ十二柱、男子王は七柱、女子王は五柱です。。
 そして、伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)は、天下を治められました。
 次に豊木入日子(とよきいりひこ)の命は、上毛野君(かみつけののきみ)、下毛野君(しもつけののきみ)らの祖です。
 妹の豊鉏入比売(とよすきいりひめ)の命は、伊勢大神(いせのおおみかみ)の宮を拝み祭られました。
 次に大入杵(おほいりき)の命は、能登の臣の祖です。
 次に倭日子の命、この王(みこ)の時、初めて陵に人垣を立たせられました。


【御真木入日子印恵命】
 みまきいりひこいにゑのみこと。書紀は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにゑのすめらみこと)。 漢風諡は、崇神天皇。
 「まき」の語源は「優れた木材」で、後に植物名「槇」となる。「いにゑ」は「稲植」であろうか。とすれば森林や農耕に関わる神の名ということになるが、想像の域を出ない。

【師木水垣宮】
志貴御県坐神社
 書紀では、磯城瑞籬宮。水→瑞、垣→籬。 籬も「かき」である。部首から推定すれば、もともと垣=土塀、籬=竹矢来のような形状のものと思われる。
 比定地が一般に「志貴御県坐神社」とされるのは、『大和志』(享保19年=1734)に由来する。
<『大和志』城上郡【古蹟】> 瑞籬ミヅカキ宮【在三輪村東南志紀御縣神社西崇神天皇選於磯城是謂瑞籬宮
 『延喜式』神名帳に、〖大和国二百八十六座/城上郡卅五座/志貴御県坐神社〗、比定社は志貴御県坐神社(奈良県桜井市金屋896)。
 「御県」社は、 神名帳に〖御県尓坐皇神等乃前尓白久〔=添富〕・高市・葛木・十市・志貴・山辺。〗〔御県にいま皇神すめかみすなはち(6県)のみまへにあり〕とある通り、 6あがたの県の中心神社として設置されたものの一つと見られる。 御県坐神社は大神おほみわ神社に近く、恐らく磯城県の中心地にあったのだろう。 「崇神天皇磯城瑞籬宮趾」の石碑(大正4年=1915年建立)は境内に建っているが、『大和志』では当社の西としている。 このように、御県神社の西の大和川沿いの一帯が都だとする推定には、頷けるものがある。
 さて、先代までの葛城や春日から、ここに遷都していることは重要である。崇神天皇陵も柳本古墳群(式上郡)の巨大古墳である行燈山古墳に比定されている。 崇神朝の所在地については、同陵の項で考察する。

【尾張連】
 これまでに出て来た尾張連の祖は一人ではなく、奥津余曽(孝昭天皇段)、意富那毘(孝元天皇段)、意富阿麻比売(崇神天皇段)がいる。 「尾張」と言えば東海道の尾張国だが、少なくとも崇神天皇の時代以前は葛城国の氏族と見るのが妥当である。 その根拠は次の通りである。
神武天皇紀に、高尾張邑が葛城邑に改名したと書かれる。
地名「をはり」は、その時代ごとに、支配域の境界(終わり)を意味する可能性がある(第105回)。
孝元段では、皇子が娶った尾張連の祖の妹の名が「葛城之高千那毘売」である(第108回系図)。
ここまで閨閥の本願とされた地は磯城、十市、春日、紀伊国で、基本的に大和国内または隣接地域である。
 『倭名類聚抄』には、尾張【乎波里をはり〔後の尾張国〕信濃国/水内郡/尾張【乎波利倍をはりへ美作国/邑久郡/尾張【乎八利をはりがある。 これらは尾張族の進出地かも知れないが、時々の辺境を「をはり」と呼んだ可能性もある。
 以前、尾張国熱田に草薙の剣を祭ったのは、大和政権膨張の過程のある時期に、東国に進出する最前線であったからではないかと考察した(第53回【草薙の剣の不思議な旅】)。 その頃は東の終わりが尾張国で、西の終わりが美作国だったのだろうか。
《姓氏家系大辞典》
 この件に関して、『姓氏家系大辞典』(以下〈大辞典〉)はどう見ているのだろうか。
 著者太田亮氏は、『先代旧事本紀』は江戸時代に偽作だと断じられたが、その後一定の価値が認められるようになったと述べ、 特に尾張氏の系図については「信拠するに足るもの尠〔すくな〕からざるを信ず」と述べる。 ただし、旧事紀が天火明命と饒速日命を同一視していることについては 「饒速日命は天神、火明命は天孫なり、断然別人とすべし。」としている。若干説明を補うと、天火明命は日向三代(神武天皇への直系)の初代瓊瓊杵の兄(記)または、二代目彦火火出見尊の弟(書紀本文)である(第87回)。 一方、饒速日命は天孫系列の外にあり、瓊瓊杵とは無関係に天降りした。
 太田氏は諸資料を突合し、尾張氏の系図をまとめ上げた(右図上;〈大辞典〉の系図を浄書)。それを見ると葛城の名を負う人に囲まれているから、崇神帝の頃までの尾張氏が葛城にいたのは決定的だとする。
 その後、倭得玉彦の子・弟彦や崇神帝の子・八坂入彦命が美濃の国に移ったことについては根拠を示すが、 尾張国造に繋がる根拠は見つけられなかったようである。
 〈国造本記〉には「尾張国造 志賀高穴穂朝〔成務天皇〕、以天別天火明命十世孫・小止与〔をとよ〕命、定賜國造。」とある。〈大辞典〉は、乎止与〔をとよ〕は「熱田縁記に火明命十一代の孫尾張国造・乎止与、国造本紀に尾張国造、天別火明命十世孫小止与命」とあると述べる。 そして、葛城の尾張氏の系図の建田青から何代目か後が乎止与で、時期は八坂入彦命が美濃へ行った頃と推定(右図下)しつつ、「この説甚だ薄弱なりと感ずれど、他によるべきものなければ致し方なし」と弱気を見せる。
《尾張国造は別系統か》
 尾張国造が葛城尾張氏との繋がる資料がないのは、「存在したが、失われた」のではなく、実は存在しないとも考えられる。 本当は、全く無関係な二氏族ではないだろうか。 となれば、前項の「大和政権が時々の境界域を"をはり"と呼んだ」という仮説が生きてくるのである。

【千千都久和比売】
 書紀では「千々衝倭姫」。
 記では「都久和【此三字以音】」により、「ちちつくわひめ」は確定している。 神武天皇即位前紀の「怡奘過【過音倭】〔"過"の音、ワ〕により書紀では「倭」を音仮名ワに用いるから、書紀でも「ちちつくわひめ」はあり得る。 しかし、次の倭彦命(記は倭日子)は明らかに「やまとひこ」なので、記の「千千都久和比売」がなければ、必ず「ちちつくやまとひめ」になるはずだ。 試にネットで検索したら「千々衝倭姫+"ちちつくやまとひめ"」で17件、「千々衝倭姫+"ちちつくわひめ"」で1件ヒットした。 但し、このページのアップ後は両者が1件づつ増えるであろう。
 記の「つくわ」は、「格助詞つ+くわ」とも思われるが、上代語に「くわ」という語は見当たらない。桑は"くは"、妙し(細し)は"くはし"である。 よって「つく(付、着、就)+輪」かと思われる。「倭国」の"倭(わ)"を意味するとすれば「倭(やまと)」への置き換えは妥当であるが、記紀には日本人自身が「やまとのくに」の意味で「わ」を用いた例はない。

凡 例 (詳細)
{国・郡・郷}『倭名類聚抄』
〖本願/種別/氏族名/姓/同祖/始祖/記事〗『新撰姓氏録』
『国造本紀』『先代旧事本紀』巻10。
『延喜式』『延喜式』神名帳(巻9・巻10)
〈大辞典〉『姓氏家系大辞典』
【派生氏族】
 遠津年魚目目微比売を妃として生んだ子・豊木入日子命は、上毛野君下毛野君の祖とされる。 また、意富阿麻比売を妃として生んだ子・大入杵命は、能登臣の祖とされる。
 上野国・下野国は、古くは毛野(けの)だったのが分割され上毛野(かみつけの)・下毛野(しもつけの)となり、国郡里制を制定する際、それらの名称の漢字二文字化に伴い「毛」を省いたものである。
上毛野君  {上野【加三豆介乃】}上野(かみつけの、こうずけ)の国は現在の群馬県。
 『国造本記』上毛野國造 瑞籬朝、皇子豊城入彦命孫、彦狭島命、初治平東方十二國、為封。今上野國。
 〔かみつけのくにのみやつこ、崇神天皇の皇子・豊木入彦命の孫、彦狭島命、初めて東方十二国を治平し、封ず。今は上野国。〕
 〖左京/皇別/上毛野朝臣/下毛野朝臣同祖/豊城入彦命五世孫多奇波世君之後也/ 大泊瀬幼武天皇[謚雄略。]御世、努賀君男百尊、為阿女産向聟家犯夜而帰。於応神天皇御陵辺、逢騎馬人相共話語、換馬而別。明日看所換馬、是土馬也。因負姓陵辺君。百尊男徳尊、孫斯羅、 謚皇極御世、賜河内山下田。以解文書、為田辺史。宝字称徳孝謙皇帝天平勝宝二年、改賜上毛野公。今上弘仁元年、改賜朝臣姓〗
 〔雄略天皇の御世、努賀君の男〔子〕百尊は、娘の出産を祝うために婿の家に向かい、夜を犯して帰る。応神天皇陵のそばで騎馬の人と逢い共に語らい、馬を交換して別れた。あくる日、交換した馬を見たら土馬〔馬形の埴輪〕であった。故に姓(かばね)陵辺君(みささきへのきみ)を負う。 皇極天皇の御代、河内の山に下田を賜る。もって文書を解き、田辺史(たなべのふひと)と為す。宝字称徳孝謙皇帝〔斜体が天皇名。=称徳天皇〕の天平勝宝二年(750年)、上毛野公に改姓。今上天皇〔=嵯峨天皇〕の弘仁元年(810年)、朝臣姓を賜る。〕
 犯夜…(百度百科)違禁夜行。〔実際には「夜行の禁を違える」と言うよりは、「通常は避けたい夜行を、敢えて冒す」意味が一般的だと思われる。〕
 田辺史は、天平3年(731)に唐の薬学書「新修本草」を書写した。(旧仁和寺本・巻15奥書、<文化遺産オンライン>より)。  田辺史百尊(たなべのふひとはくそん)の逸話は興味深いので、別項を起こす。
下毛野君  {下野【之毛豆介野】}下野(しもつけの)の国は現在の栃木県。 〖左京/皇別/下毛野朝臣/朝臣/崇神天皇皇子豊城入彦命之後也 〗
『国造本紀』下毛野國造 難波高津朝〔仁徳天皇〕御世、元毛野国分為上下、豊城命四世孫奈良別、初定賜國造。
 <天武天皇紀・十三年>「五十二氏賜姓曰朝臣」に下毛野君を含む。
 〈大辞典〉「下野:(下毛野)は中古に至り、下野の二字とし、万葉集に之母都家努〔しもつけぬ〕」。「下毛野:下毛野国より起る。上古以来屈指の大族也」とし、上総・奥州に勢力を広げたという。
能登臣  {能登【霊亀二年割越中国置之】〔霊亀二年(716)越中国を割きこれを置く〕}{能登国 能登郡}
 『国造本紀』 能等国造。志賀高穴穗朝〔成務天皇〕御世、活目帝皇子・大入来命―孫・彦狭島命、定賜国造。
 記と不一致なので、付された注記に曰く「活目當作御間城。〔活目(崇神天皇)、御間城(開化天皇)に作るべし〕
 〈大辞典〉には、能登国は国郡制定の際越前に属し、その後分離→越中国に併合→分離の経過を辿ったとある。この記述は、続日本紀によって確認できる。 〈続日本紀〉にその詳しい経過がある。
 養老二年〔718〕五月甲午朔…乙未〔2日〕。割越前国羽咋・能登・鳳至・珠洲四郡、始置能登国
 天平十三年〔741〕十二月丁丑朔…丙戌〔10日〕能登国、あはス越中国
 天平宝字元年〔757〕五月戊申朔…乙卯〔8日〕能登・安房・和泉らノ国、よリふるキニ分立。
 能登国の分立の年は、続日本紀のと倭名類聚抄との間に2年のずれがある。また、その後の統合・再分割は、倭名類聚抄には触れられていない。
 〈大辞典〉は、「能登臣 能登国造家の氏姓なるべし。古事記、崇神段に『大入杵命は、能登臣の祖也』と見ゆ」として、 記に拠り、能登の国造の家名が「能登臣」であるとしている。
《両毛野》
 国造本紀・新撰姓氏録を合成すると右図のようになる。その内容は、崇神天皇段に沿ったものである。
 国造本記に言う「東方十二国」が具体的にどの国を指すかは不明だが、常陸国・上総国・下総国・武蔵国・相模国などを含む関東一円かと思われる。 おそらくもともとはその全体が「けの」と呼ばれ、そこから次第に各国が独立していったのではないかと想像される。
 魏志倭人伝には、邪馬台国「以南」の遠絶の傍国として21の国名が挙げられ、それらはほぼ所在地不明である。 国名に「●野国」は多く、傍国に多く現れる「」の字は、古い国名に含まれる「」に相当するものであろう(魏志倭人伝;第26回参照)。 中国の中古音にはエ母音がないので、ケはキと書かれたかも知れない。そのひとつ「鬼奴国」は「紀の国」のことかも知れないが、「紀伊国」とも書かれるようにキを伸ばして発音されたことから考えると、 もともと「の」は入っていなかっただろう。傍国の一つに「鬼国」もある ので、鬼国=紀国、鬼奴国=毛野国だった可能性がある。それだけ存在感のある特別の地域が、魏志倭人伝の時代(3世紀後半)から東国にあったとも考えられる。

【上毛野君・百尊の逸話】
 新撰姓氏録の編者は、雄略天皇紀九年の話に興味を持ち引用したと思われる。

【雄略天皇紀-九年七月】
雄略天皇23目次 《河内国言》
秋七月壬辰朔、河内國言
「飛鳥戸郡人・田邊史伯孫女者、古市郡人・書首加龍之妻也。
伯孫、聞女産兒、往賀聟家而月夜還、於蓬蔂丘譽田陵下
【蓬蔂、此云伊致寐姑】、逢騎赤駿者。
其馬時濩略而龍翥、欻聳擢而鴻驚、異體峯生、殊相逸發。
伯孫、就視而心欲之、乃鞭所乘驄馬、
齊頭並轡、爾乃、赤駿超攄絶於埃塵、驅騖迅於滅沒。
於是、驄馬後而怠足、不可復追。
其乗駿者、知伯孫所欲、仍停換馬、相辭取別。
伯孫、得駿甚歡、驟而入廐、解鞍秣馬眠之。
其明旦、赤駿變爲土馬。伯孫心異之、還覓譽田陵、
乃見驄馬在於土馬之間、取代而置所換土馬也。」
秋七月(ふみづき)壬辰(みづのえたつ)の朔(つきたち)、河内(かふち)の国言(まを)さく。
「飛鳥戸郡(あすかべのこほり)の人、田辺史(たなべのふみと)伯孫(はくそむ)の女(むすめ)は、古市郡(ふるいちのこほり)の人、書首(ふみのおびと)加龍(かりう)の妻なり。
伯孫、女児を産みきと聞きて、聟(むこ)の家に往き賀(よろこ)びて月の夜に還りて、蓬蔂(いちひこ)の丘誉田(ほむた)の陵(みささき)の下(もと)、赤駿(あかうま)の騎(の)りてある者(ひと)に逢(あ)ひき。
其の馬、時に濩略(もごよひて)龍翥(たつのごとくとびて)、欻(たちまち)聳擢(ぬきいでて)鴻驚(おほきにおどろきて)、異体(ことすがた)峰生(みねのごとたちて)、殊相(ことすがた)逸発(すぐれひいづ)。
伯孫、就(つ)き視(みて)て心に之(こ)を欲(のぞ)みて、乃(すなはち)乗らえし驄馬(あをうま)に鞭(むちう)ちて、
頭(かしら)を斉(な)めて轡(くつばみ)を並(な)めて、爾(ここに)乃(すなはち)、赤駿(あかうま)超攄(おもひはかりしをこえて)絶於埃塵(ただちりをのこして)、駆騖迅於滅没(かけてきゆ)。
ここに、驄馬後(おく)れて足を怠りて、復(また)追ふべくもなし。
其の乗駿者(うまのり)、伯孫の所欲(のぞみたること)を知りて、仍(すなはち)停(と)めて馬を換へて、相(あひ)辞(こといひ)て取り別れり。
伯孫、駿(ときうま)を得て甚(いと)歓びて、驟(は)せて入厩(うまや)に入れて、鞍を解きて馬に秣(まくさや)りて眠(ねぶ)りき。
其の明旦(あくるあした)、赤駿変はりて土馬(はにま)と為(な)りき。伯孫心に之(こ)を異(あやし)みて、還(かへ)りて誉田陵を覓(ま)ぎて、乃(すなはち)驄馬土馬の間(ま)に在るを見て、取り代へて所換(かへさるる)土馬を置きき。」とまをす。
《大意》
馬形埴輪 (東京国立博物館)
 〔河内国〕飛鳥戸郡(あすかべのこほり)の人、田辺史(たなべのふひと)・伯孫(はくそん)の女(むすめ)は〔河内国〕古市郡の人、書首(ふみのおびと)加龍(かりゆう)の妻であった。
 書首は史〔ふみひと、書類を掌る人〕部の首〔おびと、統率者〕の姓と思われる。
いちびこ(蓬蔂)…いちごの古語。 誉田陵…応神天皇陵。 駿馬(しゅんめ)…(古訓)すくれたるうま。ときうま。
 伯孫は娘が子を生んだと聞き、婿の家に祝賀に行き、月の夜に帰る。蓬蔂(いちびこ)の丘の誉田(ほむた)の陵(みささぎ)の下で、赤駿(赤い駿馬)に騎乗する者に逢った。
逸發…〈汉典〉神情超逸而容光煥發〔神の心は並はずれ、隙間から漏れ出る光が輝く〕。 (煥發=光り輝く、奮い起こす。) 濩略…伝統訓「もごやか」(〈仮名日本紀〉など)。 〈百度百科〉龍行貌。濩、通「蠖」…(古訓) とかけ。をきむし。 龍翥…〈汉典〉龍疾飛 …〈汉典〉忽然。迅速。 聳擢…〈汉典〉高聳突出。(聳…そびえる) 鴻惊(鴻驚)…〈汉典〉形容疾奔
 その馬は、走りは迅速で抜きんでて優れていた。
 顔延之『赭白馬賦』に「欻聳擢以鴻驚、時濩略而龍翥」なる文があった。書紀は、この表現をそのまま借用したと見られる。
 「異體峯生・殊相逸發」は対句で、「異体」も「殊相」も「ことすがた」と訓むと思われる。
…あしげ。青黒と白色の混ざった毛色の馬。(古訓)あをうま。(万)3327 大分青馬之 鳴立鶴 あしげのうまの いばえたてつる。
 伯孫は間近に見て、心からこれを欲した。そこで乗っていた驄(あしげ)馬に鞭を入れた。
…(古訓)いふ。おもひはかる。…(汉典)奔馳。 馳騖(ちぶ)…馬を走らせること。…[名]ことば。[動]挨拶を述べて去る。
 頭を揃え、轡(くつわ)を並べると、赤駿は不意に塵埃を巻上げ走りだし、瞬く間に見えなくなった。
 驄馬は後を追うが怠足で、もう追いつくことはできなかった。
 その駿馬に騎乗していた者は、伯孫が欲するところを知り、停まり馬を交換し、互いに辞して別れた。
 伯孫は駿馬を得て甚だ歓び、驟〔はやがけ〕して厩(うまや)に入れ、鞍を解き秣(かいば)を与え、眠らせた。
 翌朝、赤駿は、土馬になっていた。伯孫は何が起こったかといぶかり、誉田陵に戻り探した。 すると、(交換前の)驄馬が土馬の間にあったので、(赤駿が変わった)土馬と取り換えた。
 〈国語辞典〉では「どば(土馬)…[名] 儀式用の飾り物の馬。」だが、〈時代別上代〉では「はにま(土馬)…[名] 埴(はに)で作った馬。」である。
 この逸話から応仁天皇陵には馬形埴輪が並べられ、それを土馬と呼んだことがわかる。 初期古墳には円筒形埴輪が並べられたが、中期古墳では人物・動物・家形の埴輪が現れる。
《田辺史》
 上毛野君と田辺史の関係について、〈大辞典〉は「此の氏・伯孫と云ひ、徳孫など云うによりて、帰化族なる事明白なれど、後世毛野氏と密接なる関係を結び、その系を冒し、遂に上毛野君姓を冒す。 蓋し上毛野君の部曲なるべし。〔もともと帰化族だったが、毛野氏の部曲〔かきべ、豪族の私有民〕として食い込み、遂に上毛野君の姓を名乗るようになった〕という見方をしている。

【伊勢大神】
 豊鉏比賣命【拝祭伊勢大神之宮也】すなわち、豊鉏比売を伊勢に送って天照大御神を斎(いつき)させた。 同様に垂仁天皇段でも、異母の女兄弟を派遣する。
 斎王制度は、歴史的には天武天皇が大来皇女に伊勢神宮に派遣したことに始まる。 その記事は、天武天皇紀下巻:二年四月「欲遣侍大来皇女于天照太神宮〔大来皇女を天照おほみかみの宮に遣はさむとしたまふ〕以下に書かれる。
 伊勢大神とは、天照大御神のことだから、大神の訓みはおほみかみであろう。 本来「あの伊勢にいらっしゃる大御神」だったのが次第に固有名詞になったと考えられる。 固有名詞になった時代が古ければ「伊勢大神」、新しければ「伊勢大神」と訓むのだろう。
 そのどちらであるを調べるために、万葉集における「伊勢」を見ると、全部で11例あり「0081伊勢をとめ」以外はすべて「伊勢の」として使われる。また万葉集には「伊勢大神」の表現はない。 従って属格の助詞は、基本的に「の」が使われた。伊勢神宮の国家レベルの社への格上げは天武天皇の時期だから、「伊勢大神」の呼称もそれ以後だと思われる。 だから、伊勢大神の訓みは「伊勢のおほみかみ」であろう。
 崇神天皇・垂仁天皇による「斎王の派遣」の記事は、斎王制度が初期朝廷以来の伝統の継承であると見せる。 しかし、ありふれた社に過ぎなかった伊勢神宮に本殿を造営し、格上げしたのは天武天皇である。それに伴って斎王制度も開始されたと思われるから、崇神・垂仁時代の「斎王」の話は、権威づけのための伝統を創作であろう。

【陵立人垣】
 「陵に人の垣を立たす」は、倭彦命の死に伴う殉葬を意味するものである。 この件は書紀では次代の垂仁天皇紀に移され、話が膨らむ。
 殉死について魏志倭人伝には、卑弥呼の冢に「徇葬者奴婢百餘人」とある。
 垂仁天皇紀では、倭彦命の陵に生き埋めにした近習の泣き声に数日悩まされた垂仁天皇が、殉死の習慣を改めさせ埴輪を用いるようになったとされる。 実際には、人物埴輪は円筒形埴輪から発展し、古墳時代中期に用いられるようになったもので、殉死を禁ずる云々は伝説だと考えられている。
 ただ薄葬令が殉死の禁止を含むのは、相変わらず殉死の習慣が残っていたからである。 その禁止を徹底するために、垂仁天皇紀では埴輪の由来譚に絡め、ことさらに殉死を悲惨に描いたと考えることができる。
16目次《垂仁天皇紀に見る倭彦命への殉葬と埴輪の由来(1)》
身狹(むさ)…身狹は牟佐むさ邑。第108回【軽之境原宮】《牟佐坐神社》参照。
桃花鳥坂(つきさか)第102回「桃花鳥田丘(つきたのをか)陵」参照。
廿八年冬十月丙寅朔庚午、天皇母弟倭彥命薨。十一月丙申朔丁酉、葬倭彥命于身狹桃花鳥坂。
二十八年十月五日、天皇(すめらみこと)の母弟(いろど)倭彦命薨(こう)ず。十一月二日、倭彦命を身狹(むさ)の桃花鳥坂(つきさか)に葬(はぶ)りたまふ。
於是、集近習者、悉生而埋立於陵域、數日不死、晝夜泣吟、遂死而爛臰之、犬烏聚噉焉。
ここに、近きに習ふ者を集め、悉く生きて於陵(みささぎ)の域(ところ)に埋め立たし、日(ひ)を数(かぞ)へ死(し)せず、昼に夜に泣吟(な)き、遂に死して爛臰(くさ)り、犬烏聚(あつ)まり噉(くら)ひき。
天皇聞此の泣吟之声、心有悲傷。
天皇此の泣吟之(なく)声(こゑ)を聞きたまひ、心悲しび傷(いた)めたり。
詔群卿曰「夫以生所愛令殉亡者、是甚傷矣。其雖古風之、非良何從。自今以後、議之止殉。」
群卿(まへつきみたち)に詔(みことのり)し「夫(それ)生けるを以ち愛(め)で亡者(なきもの)に殉(したが)は令(し)む、是(これ)甚(いと)傷(いたは)しきことなり。其(それ)古(いにしへ)の風(をしへ)なれども、非良(よろしからざること)に何従(いかにかよらむ) 〔古来からの教えであっても、良くないことに従ってよいのか〕 。自今以後(いまよりのち)、殉(したがひてしする)を止むを議(はか)れ。」と曰(の)りたまひき。
18目次《埴輪の由来(2)》
卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命【一云、日葉酢根命也】薨。
三十二年七月六日、皇后(おほきさき)日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)薨(こう)ず。
臨葬有日焉、天皇詔群卿曰「従死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。」
葬(はぶ)りたる日に臨み、天皇群卿に詔し「従ひ死す道(ことはり)、前(さき)にべくもあらずと知らしめしき。今、此れ葬りを行ふは、いかにせむや。」と曰(の)たまひき。
於是、野見宿禰進曰「夫君王陵墓、埋立生人、是不良也、豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。」
是(ここ)に、野見宿祢(のみのすくね)進め曰(まを)さく「夫(それ)君王(きみ)の陵墓(みささぎ)に、生ける人を埋め立たす、是(これ)不良(よからず)。豈(あに)後葉(のちのよ)に、え伝えむや〔後世にこのまま伝えることができようか〕。願はくは、今便(よろし)き事を議りて奏(こたへまつら)む〔これから相談してお答え申し上げます〕。」とまをしき。
めさぐ(喚上ぐ・召上ぐ)…[他]ガ下二 宮中に呼び寄せる。「召し上ぐ」の短縮。
更易…〈汉典〉改変、改換。
たてもの(立物)…〈時代別上代〉埴輪の異名。
則遣使者、喚上出雲國之土部壹佰人自領、土部等、取埴以造作人・馬及種種物形、
則(すはな)ち使者(つかひ)を遣(つかは)し、出雲国(いづものくに)の土部(はにしへ)壱百人(ももつびと、ももたり)を自らの領(くに)に喚上(めさ)げ、土部(はにしべ)等(ら)、埴(はに)を取り以(もちゐ)て人・馬及(と)種種(くさぐさ)の物(もの)形(がた)を造作(つく)り、
獻于天皇曰「自今以後、以是土物更易生人樹於陵墓、爲後葉之法則。」
天皇に献(たてまつ)り曰(まをさ)く「自今以後(いまよりのち)、是の土物(はにもの)を以ちゐ、生ける人に更易(か)へ陵墓(みささぎ)に樹(た)たせ、後葉(のちのよ)の法則(ことはり)と為(な)さむ。」とまをしき。
天皇、於是大喜之、詔野見宿禰曰「汝之便議、寔洽朕心。」則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。
天皇、是に大きに喜び、野見宿祢に詔し「汝之(いましが)便議(よろしきはかりごと)、寔(まこと)朕(わが)心(こころ)に洽(あまね)し
〔=充分にかなう〕。」と曰たまひ、則(すなは)ち其の土物、始めて日葉酢媛命の墓(みささぎ)に立たせたまひき。
仍號是土物謂埴輪、亦名立物也。
仍(すなは)ち是の土物を号(なづ)け埴輪(はにわ)と謂(よ)び、亦の名は立物(たてもの)也(なり)。
《壱佰人》
 直観的に「ももたり」と訓めるが、「百人(ももたり)」で検索すると、近代の短歌(九条武子「ももたりのわれにそしりの…」)のみで、古文には用例が見つからない。 「~人」の訓を調べると、万葉集は「ひとり」「ふたり」のみでそれ以上の人数は出てこない。枕草子の「三四人」は一般に「みたりよたり」と訓まれている。一方「佰」には「百人一組の隊」の意味もある。 また、万葉集に「ももつしま(3367 母毛豆思麻)」(多くの島)という語がある。は格助詞とも、助数詞ともとれる。これを援用すれば「壱百人」の訓みは「ももつびと」となる。
 何れにしても「壱佰人」は、人数が百人というより、「百人規模の職能集団一組」だと思われる。
《孝徳天皇紀》
 大化二年(646年)三月癸亥朔、甲申(22日)に、葬・陵の全体的な簡素化を命じた中に、人馬の殉死を禁ずる項目がある。
凡人死亡之時、若經自殉・或絞人殉及强殉亡人之馬・或爲亡人藏寶於墓・或爲亡人斷髮刺股而誄、如此舊俗一皆悉斷
凡(おほよそ)人死亡せし時、若し経(つねにし)て自ら殉じ、或(ある)は人を絞め殉じさせ、及び亡き人の馬に殉を強ひ、或は亡き人の蔵宝を墓に為し、或は亡き人を断髪・刺股して誅し〔=死体を罰して傷める行為〕、此の如き旧俗は一皆悉く断て。
 文脈から見て、当時は大王の葬儀に伴う制度としての殉死は既になく、時に私的に行われた殉死を禁じたものと読める。
《古墳への殉葬はあったか》
 古代中国の殷墟から、奴隷を殉死させたと見られる人骨が発掘されていると言うが、わが国の 古墳から殉葬と見られる大量の人骨が見つかった例は、見つけることはできなかった。 魏志倭人伝については、卑弥呼の前方後円墳を「ちょう」(円形墓)と描写していることを考え併せると、「徇葬者奴婢百餘人」は風聞か、あるいは 古代中国・朝鮮の習慣から類推したに過ぎないようにも思われる。詳細は略すが、距離の単位が「x里」から「水行・陸行x日」に変わったところで、以後は魏国の使者が足を踏み入れるのが稀な地域となり、その風俗・習慣は倭人からの聞き書きが中心だと思われる。
 世界史を見ると一族を殉葬した王朝は実際にあったが、その一方で人が過去の歴史に目を向ける場合、センセーショナルな殉死を半ば期待する心理がはたらくことにも留意しなければならない。 記紀編纂期の人々が古代王朝を描くときも、例外ではなかっただろう。 人柱の生き埋めに代えて埴輪を用いるようになったとする説は、そうやって生まれた俗説であろう。 記紀に記述があるからと言って、制度としての大量殉死が古代にあったことを立証するものではない。
 ただ古今東西を問わず、慕っていた主君に私的に殉ずることがあったのは事実である。 また、古墳時代に一部氏族に殉葬があったことまでは否定しきれない。 大化2年に禁止令が出たのは事実として殉死があったからだし、江戸時代の武家諸法度にも殉死の禁止が明記されている(天和令;綱吉の時代)。近代にも、乃木大将が明治天皇に殉じた例がある。
 一つだけ確かなことは、飛鳥時代の我が国の文化は、殉死を抑制する方向を向いていたことである。
《「人垣」という表現》
 多数の人形埴輪が出土した古墳の例として、今城塚古墳(6世紀、大阪府高槻市郡家新町)がある。 「埴輪祭祀区」と呼ばれる区域から家、動物、巫女、力士、武人などの埴輪が多数出土した。復元展示(写真)を参考にすると、人形埴輪を並べた様子は「人垣」と形容され得ると思われる。 そして、古代には埴輪ではなく、生きた人を並べて殉死させたとする伝説を載せたのだろう。垂仁紀では、それに枝葉を加えて物語に仕立てたわけである。
《土師臣・土師部》
 上記の垂仁天皇紀の続きを読む。
土部・土部職・土部臣・土部連
 …倭名類聚抄に{中宮職【奈加乃美夜乃豆加佐なかのみやのつかさ】}など。
 土部…土師〔はにし、はじ〕+部〔べ〕。
 土部臣…〈大辞典〉は土師臣と同じと見ているので、特に明示されないが「はにしのおみ(はじのおみ)」と訓んでいるようである。土部連(土師連)も同様。
所謂…(古訓)いはゆる。
鍛地…熟語として調べると〈汉典〉項目なし。〈中国哲学書電子化計画〉ヒットせず。〈倭名類聚抄〉なし。『新漢和大辞典』項目なし。 従って特定の意味をもつ熟語としては存在しないので、一字ずつ分けて「かぬちのところ」などと訓み得る。伝統的な訓みは「かたしところ」。 埴輪の製造地という解釈も見られるが、に金属を鍛える以外の意味はない。金属製品を含む、副葬品全般の製造を担うようになったのかも知れない。
仍下令曰「自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。」
仍(すなは)ち令(みことのり)を下(おろ)し「自今以後(いまよりのち)、陵墓(みささぎ)に必(かならず)是の土物(はにもの)を樹(た)て、人を無傷(いたむるなかれ)[焉]。」と曰(の)りたまひき。
天皇、厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地、卽任土部職、因改本姓謂土部臣。
天皇、野見の宿祢之(の)功(いさを)を厚く賞(ほ)め、亦(また)鍛(かぬち?)の地(ところ)を賜り、即ち土部職(はにしのつかさ)を任(まか)せ、因(よ)りて本(もと)の姓(かばね)を改め、土部臣(はにしのおみ)と謂(なづ)けたまひき。
是土部連等、主天皇喪葬之緣也。所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也。
是(これ)土部連(はにしのむらじ)等(ら)、天皇の喪葬(はぶり)を主(つかさど)る[之]縁(よし)也(なり)
〔これが土部連が天皇の喪葬の主となった由来である〕。 所謂(いはゆる)野見宿祢、是(これ)土部連等(ら)之(の)始めの祖(みおや)也(なり)。
 つまり土師部は野見宿祢の功績により、土師臣の姓と土地を賜わった。そして野見宿祢を始祖とする土師連は、天皇の喪葬を掌る氏族となった。 それでは「臣」と「連」はどのような関係なのだろうか? 〈大辞典〉の説明を見たが、そこには土師連は「土師氏の連姓を賜へる者也。」と述べるのみであった。
 臣・連の語源は、臣=美称「大御(おほみ)」、連=「邑(むら)の主(じ)」だと言われるが、飛鳥時代になればどちらも朝廷の官僚で、実質的な違いはないように思われる。 野見宿祢を祖とする一族は2つに分かれ、土師臣は埴輪や副葬品の製造者、土師連は喪葬の司祭という、それぞれの役割を担ったのであろう。
 ただ、その役割分担から天皇家との密接度の違いが見える。喪葬を直接掌る連は密接で、副葬品の製造・提供する臣はやや疎遠である。 従って、土師臣のうち朝廷にいつも出仕していたグループが、葬祭に関わるうちに次第に有力な地位を得て、土師連の姓を賜わったのかも知れない。

崇神天皇紀
即位前~三年
四年
五年~六年
七年二月(一)
七年二月(二)
七年二月(三)
七年八月(一)
七年八月(二)~十一月(一)
七年十一月(二)~八年(一)
10八年(二)~九年
11十年七月~九月(一)
12十年九月(二)
13十年九月(三)
14十年九月(四)
15十年九月(五)
16十年十月~十一年
17十二年~十七年
18四十八年
19六十年
20六十二年~六十八年
【書紀】
目次《御間城入彥五十瓊殖天皇》
識性…〈汉典〉審察事物、判別是非的稟性。〔ものごとを詳しく調べる、是非を判別する天賦の性質〕
聡敏…かしこくて物わかりがはやい。
さとし(聡し)…[形]ク 物事に敏感で、理解や判断が早く、すぐれている。
雄略…〈汉典〉非凡的謀略。
…(古訓)さかり。たけし。をほきなり。
…(古訓)なたむ。ひろし。ゆたかなり。
つつしむ(慎む)…[自]マ四 つつしむ。用心する。
崇重…〈汉典〉①猶尊貴、高貴。②尊重、重視。③古代書信末祝頌対方的用詞。〔古代の手紙の結び。「敬具」のようなもの〕
経綸…天下をおさめること。
あまつひつぎ(宝祚、天基、天業)…皇位。天つ日嗣。
御間城入彥五十瓊殖天皇、稚日本根子彥大日々天皇第二子也。
母曰伊香色謎命、物部氏遠祖大綜麻杵之女也。
天皇年十九歲、立爲皇太子。
識性聰敏、幼好雄略。既壯寛博謹愼、崇重神祇、恆有經綸天業之心焉。
六十年夏四月、稚日本根子彥大日々天皇崩。
元年春正月壬午朔甲午、皇太子卽天皇位。尊皇后曰皇太后。
二月辛亥朔丙寅、立御間城姬爲皇后。
先是、后生活目入彥五十狹茅天皇・彥五十狹茅命・國方姬命・千々衝倭姬命・倭彥命・五十日鶴彥命。
又、妃紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛【一云、大海宿禰女八坂振天某邊】、生豐城入彥命・豐鍬入姬命。
次、妃尾張大海媛、生八坂入彥命・淳名城入姬命・十市瓊入姬命。
是年也、太歲甲申。
三年秋九月、遷都於磯城、是謂瑞籬宮。
御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにゑのすめらみこと)、稚日本根子彦大日々天皇(わかやまとねこひこおほひびのすめらみこと)の第二子(ふたはしらめのみこ)也(なり)。
母、伊香色謎命(いかしこめのみこと)と曰(い)ひたまひ、物部氏(もののべのうじ)の遠祖(とほつおや)大綜麻杵(おほへそき)之女(むすめ)也(なり)。
天皇年(みとし)十九歳(ととせあまりここのとせ)、[立たして]皇太子(ひつぎのみこ)と為(な)りたまふ。
識性(うまれながらにして)聡敏(さと)く、幼(をさなくして)雄略(すぐれたるはかりごと)を好み、既に壮(さかり)にして寛博(こころひろく)謹慎(つつしみ)、神(あまつかみ)祇(くにつかみ)を崇重(たふと)び、恒に経綸(あめのしたをさめたまふ)天業之(あまつひつぎの)心有り[焉]。
六十年(むそとせ)夏四月(うづき)、稚日本根子彦大日々天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
元年(はじめのとし)春正月(むつき)壬午(みづのえうま)を朔(つきたち)とし甲午(きのえうま)、皇太子天皇の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。皇后(おほみさき)を尊(たふと)び皇太后(おほきさき〔さきのおほきさき?〕)と曰(たた)ふ。
二月(きさらぎ)辛亥(かのとゐ)朔丙寅(ひのえとら)、御間城姫(みまきひめ)を[立たし]皇后(おほみさき)と為(し)たまふ。
先是(このさき)、后(おほみさき)、活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)、彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)、国方姫命(くにかたひめのみこと)、千々衝倭姫(ちちくやまとひめ、ちちつくわひめ)命、倭彦命(やまとひこのみこと)・五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)を生みたまふ。
又、紀伊の国の荒河戸畔(あらかはとべ)の女(むすめ)遠津年魚眼眼妙媛(とほつあゆまくはしひめ)【一云(あるいはく)、大海宿祢(おほあまのすくね)の女(むすめ)八坂振天某辺(やさかふるあまいろへ)】を妃(めあは)せ、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を生みたまふ。
次に尾張(をはり)の大海媛(おほあまひめ)を妃(めあは)せ、八坂入彦命(やさか〔の〕いりひこのみこと)、淳名城入姫命(ぬなき〔の〕いりひめのみこと)、十市瓊入姫命(とほちにいりひめのみこと)を生みたまふ。
是の年[也]、太歳(おほとし)甲申(きのえさる)。
三年秋九月(ながつき)、[於]磯城に都を遷し、是を瑞籬宮(みづかきのみや)と謂(まを)す。

《識性聡敏…天業之心焉》
 各天皇毎に捧げられる儀礼的な礼賛文ではあるが、漢籍の難解な語は控えめで「生まれながらにして幼くして壮年にして常に(一生を通して)」という意味の流れがあるので、和文として読むべきであろう。 なお、この礼賛文を第3代~9代は欠き、綏靖天皇以来である。
《綜麻》
 <時代別上代>へそ(綜麻)[名]…紡いだ糸を細長い球状に巻いたもの。「大綜麻杵」は、姓氏録の「大閉蘇杵命」に照らして、「綜麻」の字を確かにヘソと訓める。</同辞典>
 そこで『新撰姓氏録』を確認すると、確かに〖左京/神別/天神/大宅首/首/大閇蘇杵命孫建新川命之後〗とある。 (「閇」は、「閉」の異体字)
《暦》
 崇神天皇紀で朔日は、全部で22回ある。そのうち計算上の暦とは、5回の不一致を生じた(参照)。 そのうち2回は、暦定数の微調整で消すことができるが、他の代に波及するので難しい。他の2回はそれぞれ1か月のずれがある。残る一回は七年(庚寅)十一月丁卯で、ここには複雑な問題がありそうだが、後の回に論ずる。
《即位の詔》
 続けて、自ら即位するにあたって臣下に詔を発した。
目次《御間城入彥五十瓊殖天皇》
司牧…〈汉典〉管理。統治。
所以…(古訓)このゆへに。ゆへ。
…(古訓)これ。ねかはくは。
宸極…天子の位。天子のいるところ。
…(古訓)あく。ひらく。
玄功…〈汉典〉猶神功〔神功の如し〕、謂宇宙自然之功
至徳…道徳の、最上のもの。
…(古訓)いのち。さいはひ。めくる。めくらす。
黎元(黎民)…あさぐろく日焼けした顔の民。
…(古訓)はくくむ。
はぐくむ(羽裹む)…羽で包む。親鳥が雛を養育する。
聿遵…先人の教え・規則を受け継いで、先人に従う。
…[動] (古訓)きはむ。きはまる。
…[名] 初代の人が切り拓いて、後世に伝えた国の福運。(古訓)さいはひ。
…(倭名類聚抄){図書寮【不美乃豆加佐ふみのつかさ】}など。
…[動] つきる。つくす。(古訓)つく。
…(古訓)おさふ。ととむ。さたむ。やすし。
四年冬十月庚申朔壬午、詔曰「惟我皇祖諸天皇等、光臨宸極者、豈爲一身乎。
四年冬十月庚申(かのえ)朔壬午(うま)
〔23日〕、詔(みことのり)し[曰]「惟(これ)我(わが)皇祖(すめろき)諸(もろもろの)天皇(すめらみこと)等(ら)、宸極(すめろきのくらゐ)に光臨(のぞみたまふ)者(は)、豈(あに)為一身乎(ただひとりみなるや)。
〔我が身一人、孤立していることがあろうか〕
蓋所以司牧人神、經綸天下。故能世闡玄功、時流至德。
蓋(けだし)所以(このゆへに)人神(ひとかみ)を司牧(をさめたまひ)、天下(あめのした)を経綸(をさめたまふ)。故(かれ)能(よ)く世は玄功(ぐえんく、かみのいさをし)を闡(ひら)き、時は至徳(しとく、よきのり)に流る。
今朕奉承大運、愛育黎元、何當聿遵皇祖之跡、永保無窮之祚。
今朕(われ)大(おほ)き運(めぐ)りを奉承(うけまつりたまひ)、黎元(れいぐえん、あをひとくさ)を愛育(はぐく)み、何(いかに)[当]皇祖(すめろき)之跡(あと)に聿遵(したが)ひ、永く無窮之(きはまらざる)祚(さきはひ)を保たむ。
〔今、皇統を受け継ぎ、人民を愛育する。それではどうやって皇祖の跡を継ぎ、その幸を永久に保つか?〕
其群卿百僚、竭爾忠貞、共安天下、不亦可乎。」
其(それ)群(むら)卿(きみ)百僚(ももつかさ)、爾(な)が忠貞(ちうてい、まこと)を竭(つ)くし、共に天下(あめのした)を安(おさ)ふること、不亦可乎(またべからざるや)。」とのりたまひき。
〔その答えは、群卿・百僚よ、お前らが忠貞を尽くし、朕と共に天下を安んずる、これをしなければならないのだ。〕

まとめ
 神武天皇段から開化天皇段まで、しばしば有力氏族が登場し全国に勢力を広げた。それは、多氏系・和邇系・吉備系・武内宿祢系・丹羽道主系などがあり、全国の多くの地域に進出した。 そして崇神天皇段では、これまで広大な空白だった毛野の地域が埋められた。
 繰り返し述べているように、皇子を諸氏の祖と位置づけるのは形式に過ぎないが、諸氏の登場の順番は、歴史を一定程度反映しているかも知れない。 毛野が他の地域より遅れて登場したことは、氏族の統合が畿内から東国に向けて進んだことを表すと思われる。
 能登国の登場も遅いから、やはり統合が遅れたことになる。奈良時代に、能登国が独立⇒統合⇒分離という複雑な経過を辿るのは、能登半島に追い詰められた独立志向の氏族が、しばしば緊張状態を生んだためかも知れない。
 毛野・能登への進出を終えた段階で、空白地域として残るのは、南九州の薩摩・大隅・日向、四国の土佐・阿波、それに出雲、紀伊である。この配置は極めて興味深い。 出雲国は古く大国主の国譲りのときに倭と連合した。阿波国・淡路国は伊邪那岐・伊耶那美以来の伝統地域である。だからそれらの地に、新興氏族はいない。 その対極にあるのが九州南部で、奈良時代初めまで朝廷の支配を拒んでいる(第87回【隼人】)。紀伊国も神武天皇の上陸の事実を認めないなどの、独自性がある(第97回【熊野信仰の特質】)。土佐もその仲間かも知れない。
 この太平洋岸一帯が、卑弥呼に服従しなかった狗奴国ではないかと想像する。狗奴国の官「狗古智卑狗」は「きくちひこ」で、熊本県菊池の王だとする説もある。
 さて、埴輪は初期(3世紀中葉~後葉)の円筒形埴輪⇒中期(4世紀前葉~5世紀前葉)の形象埴輪⇒後期(5世紀中葉~6世紀中葉)の人物・動物埴輪へと変遷する。 最後の古墳の造営は記紀編纂期の数十年前である。人物埴輪が円筒形から発展した結果であることなど、記紀編者は当然知る由もない。 当時の人々が埴輪を見て考えることは、現代人が初めて埴輪を見たときと同じで「昔は人間を殉葬していたが、その代わりに埴輪を立てるようになった」と想像したのは当然である。
 ところで土師部が埴輪を造っていた時代は、記紀編纂期から見れば大昔のことである。しかし書紀が、土師連がその伝統を基に、天皇の喪葬を掌っていると書くのは、理解できる。 また、土師部の埴輪製造が、飛鳥時代には副葬品の製作に移行したことも、あり得そうなことである。だから崇神天皇紀の「鍛地」という語は、金属加工の部民の邑を意味すると考え得るのである。


[111]  上つ巻(崇神天皇2)